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鉄穴流しが遺した里山の景観と天井川の今昔

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鉄穴流しが遺した里山の景観と天井川の今昔
島根県立安来高等学校
島 根 県 立
2013年(平成25年)8月1日(木)
東日本大震災
被災地とつながる
私たちの生活
〒692-0031 島根県安来市佐久保町115
TEL:(0854)22-2840 FAX:(0854)22-3612
安来高校新聞部
がんばろう日本!!
つながろう日本!!
か ん な
鉄穴流しが遺した里山の景観と天井川の今昔
SINCE 1901 113年 目の安 高
<目
次
(1)
>
表紙
安来市と主要河川の位置
序に代えて
発表者
塩谷 錬 ︵2年︶
門脇 秀一︵2年︶
1
2
3
3
4
4
島 根県 の東 端に 位置 する 安来 市
は「 安来 節と ハガ ネの 町」 とし て
知ら れま す。 その 安来 節に 欠か せ
ない 「ド ジョ ウ掬 い」 は、 たた ら
製鉄 (鉄 穴流 し) が起 源と の説 が
あり ます 。明 治初か めの
古写 真に は
ないけ
「(鉧を冷やす)鉄池で土に混じっ
た鉄 をザ ルで ふる い分 ける 所作 が
踊りの元」と説明があります。
(2)
5
鉄穴流しが起源?
「ドジョウ掬い」のルーツ
(3)
8
島根県安来市
安来節とハガネの 町
からやって来まし た
つながろう安高!!
河床上昇をもたらした鉄穴流し
鉄穴流しが遺した景観
天井川としての飯梨川・伯太川
① 莫大な土砂流出と堆積
② 伯太川の若狭土手
鉄穴残丘の見える里山の景観と鉄穴流しによる新田開発
① 金屋子神社と比田・布部地区
随所にたたら場跡と鉄穴残丘︵里山の景観︶
② 荒島地区の卜藏新田
③ 飯梨川河口の川違え︵江戸時代の河道と土手︶
天井川の今
流砂激減による河床低下の実態
① 斐伊川の例
1 .﹁伊萱床止﹂直下で4mの河床低下
2 .砂の堆積が消えた﹁中の段﹂
3 .﹁一文上り﹂から﹁一文下り﹂へ
② 飯梨川・伯太川の例
.広瀬町富田橋付近
.橋脚基礎部分の露出
.樹木の繁茂/河川内環境の悪化
.河床低下の課題
安来市の
マスコットキャラクター
あらエッサくん
)
1
2
3
4
結びにかえて
参考資料
郷土研究部門
大会
祭 (長 崎
化
文
合
等 学校 総
す。
回全 国高
7
3
表資料で
第
、
発
た
は
し
紙
布
本
で配
部門大会
郷土研究
きびしく 高く 美しく
11
↓緑の小島のような鉄穴残丘が点在する安来市西比田地区。た た
ら製鉄が盛んだった中国山地沿いでは、鉄穴流しの跡地や鉄穴 流
しの手法を用いた新田開発により、なだらかな傾斜の棚田(カ ン
ナ田)の中に鉄穴残丘が点在する独特な里山景観を造りあげま し
た。
(写真は安来市提供)
↓安来高校の対岸からのぞむ伯太 川。天井川でありながら、現
在では流砂の激減によって河川内 の流路が固定し、その河床の
深掘れが進んで旧河床面からの落 差が大きくなっています(写
真の矢印の幅)。天井川の現在は 、実は河床低下が問題となり
つつあるのをご存じですか。
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
鉄穴流しが盛んだった安来市南郊では、鉄穴残丘の雑木林・田園風景(カンナ田)が残り、人の手を加えながら里山の生活が生き続けています。
1
安来市と主要河川の位置
地図Ⅰ
地図Ⅱ
安来市中心部
荒島地区
島根県
伯太(母里)地区
2
1
広瀬地区
布部地区
比田地区
広島県
山口県
雲南市伊萱/床止め直下での河床低下が著しい。9頁
2
雲南 市木次 町/斐 伊川は この中 心部か ら天井
川となって土手が高くなる。9頁
雲南市 中の段/以 前の斐伊川は 、河川勾 配が緩やか
になる この付近か ら砂の堆積が 顕著だっ たが、流砂
の激減により、今は堆砂は見られない.9頁
奥出雲 町大呂/昭 和52年に復 活した全国 唯一の「日
刀保た たら」が現 役操業。す ぐ近くに「 羽内谷鉱山
鉄穴流し本場跡」がある。斐伊川の源流が近い。3頁
雲南市吉田町菅谷/江戸 時代の常設屋内炉である「 高
殿(たかどの)」が全国で一箇所ここに残る。11頁
4
5
飯梨川
2
伯太川
1
4
奥出雲町
「斐伊川水系の流域及び河川の概要」
(平成21年、国土交通省河川局)に加筆
地図Ⅲ(安来市北部の航空写真)
安来港
1
旧
河
床跡
→
安来市を流れる天井川
斐伊川
5
1
3
中国地方
3
2
2
鳥取県米子市
中海
中海 1
国道9号線 3
JR山陰本線
4
山陰
自動
車道
安来高校
6
1
2
大塚町 7
2
5
8
1
伯太町母里地区
航空写真の丸数字
比田地区・仁多郡奥出雲町方面へ
山 城
月 田
広
富
瀬
町
中
心
部
1
①
②
③
④
卜藏新田 7頁
飯梨川河口の旧河道 8頁
飯梨川の川違えの起点 8頁
島根県企業局東部事務所 11頁
⑤
⑥
⑦
⑧
安来市広瀬町富田橋 4頁
安来高校の横を流れる伯太川 1頁
安来市大塚町 大塚両大神社 5頁
伯太町母里
2
航空写真は安来市提供
飯梨 川 も伯 太 川も 山 間
渓 流を 経 た後 、 平野 部 の
入 り口 に あた る この 航 空
写 真の 南 端付 近 から 天 井
川となりました。
下の地図Ⅲ︵航空写真︶の範囲
安
安来市比田地区
伯太川
鳥取県
市
来
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
か
ん
な
鉄穴流しが遺した里山の景観と天井川の今昔
いいなし
はくた
安来市の飯梨川・伯太川流域を中心に
天井川
序にかえて (天井川とは)
天井川の形成過程 ︵滋賀県HP参照︶
たら製鉄とは、炉の中で砂鉄と木炭を交互に3日3晩
約70時間燃やし続けて鉄塊を作ることですが、中国
川は低 い所を 自由に 流路を 変えな
がら流れていた。
地方のたたら製鉄は江戸時代に全国の鉄生産の8割
を占めるほどでした。中国山地一体が良質な砂鉄を
大雨ご とに 川は あふ れ、 自然 堤防 を
含む花崗岩地帯だったためです。花崗岩の山肌を崩
つくっていった(自然理由)。
してその土砂を水で流し、沈殿した砂鉄を採取する
手法が、本日の主題にかかわる「鉄穴流し」です。
斐伊川 や飯 梨川で は鉄 穴流 しによ る
土砂中の砂鉄分は1%程度しかありません。不要な
土砂流出で河床が上昇(人工理由)。
99%の土砂は河川に流して下流へと下り、河川勾配
が緩やかになる中流域から土砂の堆積、河床の上昇
が顕著となり、天井川になったのです。
耕地が冠水しないよう人力で堤防(土
手)を高くし、これを繰り返した。
この「鉄穴流し」は、屋外での「野だたら」から
室内常設炉を使用する「永代たたら(その施設を
しかし、
高殿という)」に移った江戸時代に盛んとなり、輸
今 天井川では……
入鉄鉱石に押されて炉の火が消える大正時代まで続
きました(鉄穴流しの一部は昭和47年まで継続)。
「天井川」をご存知ですか。周囲の人家(天井)
下の写真は、安来市の南隣に位置する奥出雲町竹
より高い所に水の流れがある河川のことです。堤防
崎の「羽内谷鉱山鉄穴流し本場」の跡です。今では
は人家からは見上げるほど高くなり、堤防上の多く
全国で唯一たたら製鉄が行われている「日刀保たた
は道路となっています。安来市を南北に流れる飯梨
ら」の近くです。「本場」とは、たたら製鉄の原料
川や伯太川を含め、中国山地沿いの奥出雲を源流と
となる砂鉄を採取した「鉄穴流し」の最終工程の場
する斐伊川水系には、周囲の土地や家屋より河床の
で、ここは水質汚濁防止法によって昭和47年に廃止
高い天井川が見られます。天井川となった第一の理
されるまで続いた最後の本場です。本場としては全
由は、たたら製鉄のために行われた鉄穴流しです。
国で唯一、ほぼ完全な形で保存管理された貴重な産
か ん な な が し 業遺産でもあります。鉄穴流しは大量の濁水を流す
ため、稲作に支障を与えぬよう秋の彼岸から翌年春
の彼岸までに限って行われ、この本場でも操業を停
アニメ映画「もののけ姫」は奥出雲のたたら場を
止するまで1日2∼4tの砂鉄を採取していました。
参考に作られたそうです。この作品にも登場するた
農家にとっては冬場の貴重な収入源でした。
た かどの
は な い だ に
ほ ん ば
に っ と う ほ
河床上昇をもたらした鉄穴流し
← 2人の 間が 大池の 木樋 。
写真右側を流れる谷川を下っ
て きた土 砂は 第1出 切の 奥
か ら本場 に流 れ込み 、底 に
た まった 砂鉄 は徐々 に純 度
を高めました。
羽内谷鉱山鉄穴流し本場跡の現地案内図(仁多郡奥出雲町竹崎)
■比重選鉱による砂鉄採取
この本場では、約1km上流で砂鉄を含 んだ山土を掘り
起こし、谷 へ流し込み ました。 途中で石や ゴミを取り 除
き、谷川( 写真の右側 の小万歳 川)を流れ た土砂は本 場
へ流れ着き 、ここで砂 鉄を精選 しました。 本場は図の よ
うに出切(だしきり)、大池・中池・乙池・樋の大きく5つ
の行程に分 かれ、流れ てきた土 砂をまず出 切へ導き、 途
中「足水」と呼ぶきれいな水を加え、攪拌しながら大池・
中池・乙 池・樋へと 順に流しま した。比重 の重い砂 鉄は
底に沈殿 して次第に 純度が高く なり、最後 の樋にた まる
段階で、 砂鉄分は90%程度にな りました。 このよう に、
重さの違 うことを利 用して鉱物 を選り分け ることを 、比
重選鉱と言います。
3
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
鉄穴流しが遺した景観
なお、たたら製鉄が消えた大正時代に鉄穴流し
も途絶えると、土砂流出は激減し、後述する通り、
以後は現在に至るまで天井川の河床低下が続いて
います。写真の現在の富田橋の下は、河川敷を大
型車が楽々通る状況です。それはまた、以前の鉄
穴流しによる土砂流出が、いかに莫大なものであっ
たかを裏付けるものです。
いったい、どれほどの土砂が流出したのかを探
るため、以下の資料を参考に紹介します。
(1)天井川としての飯梨川・伯太川
① 莫大な土砂流出と堆積
安来市南部から中海に向かって流れる飯梨川や
伯太川は、特に江戸時代から河床上昇が顕著とな
り、周囲の土地や家屋より河床が高い天井川とな
りました。その一番の原因は、鉄穴流しによって
莫大な土砂が上流から流出したことにあります。
河床上昇により土手は順次嵩上げされ、町並みか
ら土手を見上げる景観が生まれました。それは、
流れが緩やかになる平野部の入り口、飯梨川では
広瀬町中心部、伯太川では伯太町母里付近(2頁地
図Ⅲの⑧)から顕著となりました。
下の写真はいずれも飯梨川中流、戦国大名尼子
氏の月山富田城下、広瀬町の富田橋付近です。写
真上段は鉄穴流しが途絶える頃の大正時代の写真
で、小さく見える板橋の高さは現在の富田橋(写
真下段右)の高さと変わらず、板橋から川面には
手が届きそうです。山際まで砂に覆われているこ
とが分かります。カメラ位置の背後に城下町広瀬
の中心部があり、洪水時には土手を超えた濁流が
町並みを襲いました。1666年の大洪水では広瀬の
町並みが呑み込まれ、当時の町並みは現在の飯梨
川の川底に眠っています。
<参考資料>
か さ
と
1.宝暦年間の出雲地方の鉄山・鉄穴数
神門郡
飯石郡
仁多郡
大原郡
だ
鉄山
3
37
81
13
134 ヶ 所
鉄穴
39
18 3
6
2 28 ヶ 所
2.「1701∼1920年におけるたたら製鉄
による掘り崩し土砂量と鉄生産高(錬鉄換算)」
(出典:『岡山県史』)
安芸国
備後国
備中国
美作国
播磨国
石見国
出雲国
伯耆国
合 計
土 砂 量 (百 万㎥)
?)
5
36 6
10 6
91
43
39 4
25 1
25 2
1,5 08
鉄生 産高( 万t)
1
66
19
16
7
67
45
45
2 66
月山のふもと、大正時代の広瀬町の富田橋付近
このような資料の数字を見ても、実際にはその
莫大な量を実感できないため、他の資料からイメー
ジしやすい表現を拾いました。
↓出典『もっと知りたいしまねの歴史』島根県教委
●一説 によれば、 斐伊川流 域では2.2億㎥(東 京ドー
ム約177杯分)の土砂が流出したと言われています。
↓出典:鳥取県日野郡(奥日野)の観光パンフレット
●14∼15トン
たたら操業一代(ひとよ)に 必要な砂鉄の重量。土砂
に含まれる砂鉄が1%採取で きるとすると、鉄穴流し
ではその100倍、直径5mのタンク に高さ7∼7.5m分の
土砂を流したことに。
●米子市総面積×1.9m
安来市や奥出雲町に隣接す る鳥取県日野郡の鉄穴流
しで流 出した廃砂 は2億5千万立法 ㎥と推定 され(福岡
教育大学 /赤 木祥彦氏 )、 現米子市 の総面積 、133平方
キロメートルに土砂が1.9メートル堆積した勘定。
月山向かい側の左岸の見上
げるほどの高さの土手。
なお、上の<参考資料>2.からも分かるように、
たたら製鉄は中国山地沿いを中心に広く営まれた
ものであり、近年では鳥取県や岡山県でも急速に
現在の富田橋付近
4
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
研究が進んでいます。島根・鳥取県境の日野郡の
鉄師:近藤家の文書が公開され、たたら製鉄の実
態解明に新たな資料を提供しています。
② 伯太川の若狭土手 ―
(2) 鉄穴残丘の見える里山の景観と
鉄穴流しによる新田開発
ところで、一見すれば自然破壊とも言える?鉄
穴流しによる土砂の流出・堆積はそのまま耕地開
発にも利用され、中国地方では中山間地の盆地や
下流の平野部の地形形成につながった例が数多く
あります。「天井川」の形成だけが鉄穴流しが遺
した景観ではないのです。地元の安来平野はもち
ろん、松江や斐伊川流域の平野の形成は、いずれ
もが鉄穴流しの影響を受けたものなのです。また、
島根県西部の石見地方で顕著な例としては矢上盆
地(写真)が知られます。元来は起伏に富んだ地
形が、鉄穴流しによっ
てその8割が平坦地と
なって耕地化したとの
報告があります。
ゲゲゲの女房の庭先 ―
写真は安来市大塚町︵2頁の地図Ⅲの⑦︶の大塚両大神社。神社が建つ低い石垣面が江戸
時代の若狭土手の高さ。明治時代に嵩上げされた現在の土手の上は県道が走り、その反対側
を伯太川が流れています︵神社のすぐ近くに本校OGの﹁ゲゲゲの女房﹂の実家があります︶。
江戸時 代の絵図では伯太川土 手(若狭土
手)の上 に神社が立っているこ とから、こ
のラインが昔の土手の高さと思われます。
石見の矢上盆地
<参考文献>
中国地方における鉄穴流し による地系変化について
は、山口大学教育学部の貞方 昇教授の『中国地方にお
ける鉄穴(かんな)流しによる地形環境変貌』(渓水社、
1996)に詳述してあります。 また、徳山大学総合研究
所『紀要』に掲載された「中国地 方の地形環境1∼4」
(大竹義則:徳山大学教授、林正久:島根大学教授、20
06∼2010)は、データベース 化されて一昨年から同研
究所のHPで公開され、鉄穴 流しの跡や後述する鉄穴
安来高校の横も流れる伯太川は、山間渓流を経
て河川勾配が小さくなる伯太町母里付近から河床
上昇が著しかった。
1634年、若狭国小浜藩から松江藩に移った京極
忠高は、一代限り僅か3年余りの松江藩主でした
が、藩内各地の治水事業に尽力したことで知られ、
斐伊川の木次土手と武志土手、そして伯太川の土
手はいずれも京極若狭守忠高が築堤したことによ
り「若狭土手」と呼ばれています。
上の写真の建物は、伯太川の若狭土手沿いにあ
る大塚両大神社。神社のすぐ背後に見えるのが現
在の土手で、その上を県道が走ります。『大塚ふ
るさと史話』を刊行された地元の足立耕さん(94)
に聞くと、「もともと神社は土手の上に建てられ
ていましたが、鉄穴流しで河床の上昇が続いたの
で、明治34(1901)年に土手を神社後方の位置で
嵩上げしました。」とのことです。江戸時代だけ
でなく、鉄穴流しが続いていた明治期も河床と土
手の上昇が続きました。
残丘も紹介してあります。
以下、校区の安来市全域で鉄穴流し跡や鉄穴流
しの手法を用いた新田開発等の歴史、これによっ
て形成された独特な里山の景観をたどります。
わ かさのかみ
① 金屋子神社と比田・布部地区
随所にたたら場跡と鉄穴残丘
わ か さ
風土記時代には仁多郡とされた安来市比田地区
は、隣接する仁多郡奥出雲町や鳥取県日野郡と同
様にたたら製鉄の盛んな地域でした。西比田には
か な や ご
中国地方だけで1,300の分祀を持つという金屋子神
社の総社が鎮座します。
鉄の神様として知られる金屋子神社のある比田
地区では、川や田畑から「カナクソ」と呼ばれる
くず鉄や鉧(けら)が多数見つかっており、本殿
に続く参道には、地元の田んぼから出土した鉧が
複数置かれています(次頁写真)。
りょうだい
5
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
←西 比田の 金屋子 神社に
は、 地元の 水田か ら掘り
出さ れた鉧 ︵ケラ ︶が奉
納さ れ、参 道沿い で見る
こと ができ ます。 安来市
内で はこの ほか、 和鋼博
物館 や旧布 部公民 館前等
でも見ることができます。
飯石郡飯南町(野萱)
仁多郡奥出雲町(大馬木)
↑この 写真は 飯南町 野萱の 鉄
穴残丘 の近く で見ら れる天 空
の走り (水路 )。元 は普通 に
山裾を 流れ、 鉄穴流 しに利 用
されて いまし た。井 手とし て
現役利 用され ていま すが、 林
道工事 によっ てこの ような 姿
になりました。
↑松江 市宍道町( 田根)。奥 出雲地方だ けでなく、 宍道湖に
近いこのような地域でもたたら製鉄があった証拠です。
たたら
場跡の見
つけ方
鉄穴残丘(東比田地区の比田温泉の向かい)
←奥 出雲町に近い 安来市南部の 比田地区もほ 場整備が進み 、昔からの姿そ のままの棚田 ︵カンナ
田︶ の景観は減少 しています。上 写真の水田の 手前は稲刈り 後の 月だ というのに、 かなり水に
浸っ ています。地 元の方の話に よれば、右手 の高い位置に 、以前は深い湿 地状の田んぼ があった
ため だそうです。 鉄穴流しによ る砂地が地中 深く堆積して 、水が浮きやす い場所だった のです。
また 、上の写真の カメラ位置の 背後にあるの が中の写真の 斜面です。よく 見ると斜面全 体が黒っ
ぽい ﹁カナクソ﹂ で覆われてい ます。﹁カナ クソ﹂はたた ら製鉄の際に排 出される不純 物で磁石
には つきませんが 、斜面の上に たたら場があ った証拠です 。鉧を冷やすた めの鉄池︵か ないけ︶
らしき窪地も確認しました。
また、比田地区やその北隣の布部地区では、鉄
かんなざんきゅう
穴流しが行われていたことを示す「鉄穴残丘」を
あちらこちらで目にできます。「鉄穴残丘」とは、
堅くて崩せなかった部分が突起状の小山として残っ
たものです。鉄穴流しが盛んだった地域、例えば
奥出雲町や鳥取県日野郡、広島県北部の中国山地
沿いでは各地で容易に見ることができます。周囲
の地形とは明らかに違う陸の孤島的姿が特徴です。
利用に困ったのか、墓地として利用されている所
も少なくありませんが、多くは雑木林となって里
山の景観の一部となっています。大きさは大小さ
まざまですが、比田地区(表紙写真)や矢上盆地
(前頁写真)から分かるように、まるで鎮守の森
が多数点在するような景観です。
次の写真は、東比田に残る鉄穴残丘の例ですが、
残丘と残丘の頂点を結ぶ写真のラインから下にあっ
た土砂が鉄穴流しで流出したわけです。その量が
いかに莫大であったかが想像できます。
これまで、何気なく目にしていた里山の風景に、
鉄穴残丘の多くが雑木林の姿で溶け込んでいるこ
とを今回の調査で知ることができました。将来、
たたら製鉄関連遺産を世界遺産に登録申請する際
には、この里山景観の保全も条件となることは間
違いないでしょう。
飯石郡飯南町(佐見)
10
↑→ 写真 の斜面 を覆 うカ
ナク ソ。 この上 にた たら
場があった証し。
↑東比田の 比田温泉付 近。この写 真左側に写 る鉄
穴残丘の裏側斜面が右の囲み記事の写真。
次に、フィールドワークで探し歩いた各地の鉄
穴残丘の幾つかを次に紹介します。
6
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
次の2枚の写真では、雑木が繁る前と後の鉄穴残
丘の姿を見比べることができます。
←広島県庄原 市比和町三河内︵みつがいち︶の鉄穴残丘の
今昔。︵写真上は庄原市立比和自然博物館提供︶
ませんが、現代の安来市荒島地区の皆さんにとっ
ては、江戸時代末期に稲の新品種を作った広田亀
治と並ぶ郷土の誉れ。地元では顕彰の機運が盛り
ぼ く ら
上がり、2000年にはト藏孫三郎顕彰の会がま
ぼ く ら
とめた下の資料集『ト藏孫三郎』が刊行されまし
た(その表紙写真に写るのがト蔵新田)。
参考に、安来市の南隣に位置する仁多郡奥出雲
町大馬木の「大原新田」を紹介します。映画「砂
の器」の冬景色にも利用され、こちらも日本の棚
田百選にも選ばれた「大原新田」は、江戸時代の
鉄穴流しの跡地を鉄師の絲原家が棚田として再生
させた場所です。実にエコな土地リサイクルです。
一見すると、最近のほ場整備による新田のように
も見えますが、何と江戸時代から変わらぬ姿を遺
す36枚のカンナ田です。農作業中の方に聞くと、
「見た目は綺麗ですが、古いので水漏れがひどく
て困っています。」とのこと。いろんな意味で、
保存の難しさも感じました。
② 荒島のト蔵新田
JR安来駅から一つ西隣の荒島駅の南西にひろ
ぼ く ら
がる田園は、ここにあった日白池をト藏孫三郎(1
696∼1745)が鉄穴流しの手法で土砂を流し、16年
間かけて埋め立てて造りだされました。3町7反(3
ぼ く ら
万7千平方メートル)の「ト藏新田」です。砂鉄採
取よりも新田開発を主眼とした事例の典型的姿と
して知られます。
ぼ く ら
絲原・櫻井・田部の御三家につぐ鉄師のト藏家
は現奥出雲町竹崎にありました。現在は作庭300年
の庭園が地元の皆さんによって保存されています。
ぼ く ら
ト藏孫三郎は本家の跡継ぎを弟に譲り、享保期
ぼ く ら
に現在のJR荒島駅の南西に広がるト藏新田(2頁
地図Ⅲの①)の開発に人生を捧げました。県の名
水百選に選ばれる高清水神社付近から水路を通す
鉄穴流しの技法で開発した田園が今も広がります。
何故この地に来往し定住したのかは明確ではあり
江戸時代のカンナ田の姿を残す大原新田(奥出雲町大馬木)
か わたがえ
③ 飯梨川河口の川違え
( 江戸時代の河道と土手 )
国道9号線の赤江大橋付近からまっすぐ北東へ
延びる住宅街と道路は、江戸時代末期までの旧河
道の一部です(次頁写真)。地図や航空写真を見
ると、旧河道域がその上流側からほぼ直線的に中
海に注ぐのに対し、現在の飯梨川の河道は国道9
号線と交わる地点から「くの字」状に折れ曲がっ
た方向にあることが良く分かります。畑地の多い
旧河道は、意図的な川違え(流路変更)による新
田開発によって生まれました。今も、高さ1mを
超える堤防状の地形が僅かに残っています。
山口大学教育学部の貞方昇教授は『たたら製鉄
により作り変えられた中国地方の山地と平野』の
中で、次のように説明されています。「河口部に
まで流された土砂は州を作って、デルタなどを拡
大させることとなり、そこが新田開発の対象地と
↑現地に復元された木樋。
← 顕彰資 料集 『ト藏 孫三郎 』。
表 紙写真 のト 藏新田 はJR 荒島
駅 の南西 に位 置し、 写真下 の位
置 をJR 山陰 本線と 国道9 号線
が走ります。
7
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
飯梨川河口のデルタ(新旧河道)、2頁の航空写真とは南北逆方向から見た写真
(安来市教育委員会提供写真をもとに作成)
江戸初
→幕末期までの旧河道
期まで
の旧河
道↑
←写真上は、国道9号線赤江大橋の東端近くから撮った飯梨川の旧
河道域。写真奥が中海方面。旧河道域は住宅街や砂地の畑となり、
果樹栽培も盛んです。この道路沿いに、わずかに旧土手の跡が残っ
ています︵写真下の右側、4人の新聞部員が立っている所︶。
沿岸流や波浪によって打ち寄せられ、弓ヶ浜砂州
の幅を太くした。瀬戸内側の高梁川でも、もとよ
り遠浅の海を一層浅くして、干拓を容易にした。」
(3) 天井川の今
流砂激減による河床低下の実態
斐伊川水系の特に天井川となった河川流域の治
水史は水と土砂との戦いであり、『斐伊川水系の
流域及び河川の概要(平成14年、国土交通省河川
局)』によれば、「宍道湖流入点付近においては、
土砂堆積により河床が上昇しており、現在でも平
均5∼8万m3/年(平成2年∼11年)の維持掘削
を行っている。」とのこと。しかし、今日の斐伊
川水系の天井川では、特に中流域では堆積よりも
浸食傾向が進んでいる実態は、一般市民には案外
認識されていないのではないでしょうか。
現在も維持掘削を行うのは下流部のことで、タ
タラ製鉄の火が消えて以降、鉄穴流しよる土砂流
出と堆積は大幅に減ることとなりました。また、
国交省河川局が平成14年に発表した『斐伊 川水系の
流域及び 河川の 概要』によると、「昭和25年度から
土砂生産域から下流域への流送土砂量を減らす目
的で直轄砂防事業に着手し、砂防堰堤が整備され
た。」とのこと。河道域には河床維持を目的とし
た床止も整備され、砂防堰堤とあわせた工事は昭
和30年代中期に完了しています。
<斐伊川水系の歴史に関する参考文献>
斐伊川およびその沿線の歴史については、戦後ま
もなく刊行された長瀬定市氏の『斐伊川史』(昭和
25年刊)のほか、建設省刊行の『斐伊川改修40年史』
(昭和39年刊)、『 斐伊川誌 』(平成7年刊) 、山
田謙三氏の『あかがわ』(昭和46年刊)、合併前の
旧町村誌等に詳述されています。
また、斐伊川の最近の姿を知る資料としては、国
土交通省河川局の「斐伊川水系の流域及び河川の概
要」(平成14年、平成21年改定)、同省中国地方整
備局の「斐伊川水系河川整備計画」(平成22年)が
インターネット上でダウンロードできます。
① 斐伊川の例
なったのである。たとえば、斐伊川では河口が宍
道湖に向け、約4キロメートル前進した。(鳥取県
の)日野川河口では、いったん沖合いに出た砂が
1.「伊萱床止」直下で4mの河床低下
『斐伊川水系の流域及び河川の概要』(平成14
8
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
年)によれば、「昭和30∼40年代にかけて、高度
経済成長時代の影響を反映した、建設資材として
の砂利採取量が急増したことも相俟って、伊萱床
止(写真下)下流では急激な河床低下が生じたた
め、昭和49年から砂利採取を禁止し現在に至って
いる。」という状況です。床止の直下流では昭和4
5年から平成10年までに、何と約4メートルも河床
が低下したと驚きの実態が報告されています。直
下(川下側)は流路が固定化し、その流路の河床深
掘れによって淵が形成され、こうした傾向が流下
能力の低下や河川管理施設や橋脚、取水施設等の
河川内の施設に影響を与えています。実は程度の
差はあれ、治水事業が進んで砂防ダムの建設が土
砂の流出を激減させた今日、私たちの身の回りの
中小河川でも同じような問題を抱えつつあります。
2.砂の堆積が消えた斐伊川の「中の段」
斐伊川の場合、鉄穴流しが盛んだった時代には
河川勾配が緩やかになる中流域の上熊谷「中の段」
辺りから砂堆積が顕著となり、その2㎞ほど下流の
雲南市木次町中心部から天井川をなしました。斐
伊川の宍道湖東流をもたらした江戸寛永期の大洪
水を背景に、松江藩主京極若狭守忠高がここに築
いた長さ350間の土手は、安来市伯太町の伯太川沿
いと同じく「若狭土手」と呼ばれています。
しかし、現在の「中の段」では砂の堆積を見る
ことはできません。「昭和40年代初め頃には、川
べりの砂浜で水遊びができたと記憶している。」
と地元の方に聞きました。
「 床止(とこどめ)」とは
河床の洗 掘を防いで河川の勾 配(上流から下
流に向かっ ての川底の勾配)を 安定させるため
に、河川を 横断して設けられる 施設。床止めに
落差がある 場合を「落差工」と 呼び、落差がな
い場合を「帯工」と呼びます。
↑斐伊川中流の雲南 市上熊谷の「中の段」地 区。
中央右側に小さく見 えるのが地区の集落。こ の地
区を囲むように蛇行 する斐伊川は、この辺り から
流れが緩やかになり、昔は砂の堆積が顕著でした。
鉄穴流しが途絶えたこ とに加え、昭和30年に は上
流2㎞ほどの所に日登堰堤が建設されたことによっ
て流出土砂が激減。 現在では川べりの砂浜は 全く
見られず、旧河床との落差も著しくなっています。
堆積ではなく侵食が進んでいるのです。
み
と
や
い が や
3.「一文上り」から「一文下り」へ
中の段から2㎞ほど下流の雲南市木次町中心部か
ら斐伊川は天井川の様相を呈し、市街地からは見
上げるほどの高さの土手が続きます。その市街地
の一部に、今もわずかに残るのが次頁最初の写真
の「一文上り」です。山田謙三氏は『あかがわ』
(昭和46年)の中で次のように紹介しています。
「木次町の市街地は低湿な位置を占めているの
で宅地や道路を競って高く上げる習慣を持ってい
る。之は木次だけのことではなく斐伊村里方でも
農家は低湿地を避けて山麓に位置しているし、斐
伊川下流では戸別に築地と称して宅地を高めてい
る。木次の一文上りとは蓄財があれば少しでも宅
地を盛り土したのでこの語が出たのである。…然
るに堤防は次第に完全になり川底は低下するし…
一文上りで上りすぎた家は、今度は一文下り(仮
称)で道路と同じ水準に一致するようになった。」
↑ 雲南市三刀屋町「伊萱 の床止」…写真左 上に見
える床止の直下では、 昭和45年から平成10年ま
での間に約4mも河床が低下しました。
↓ 同じ場所の航空写真( 円内)。河床の深 掘れに
より、淵が形成されていることが分かります。
伊萱床止
下流↓
斐伊川河口から23㎞
↑国土交通省出雲河川事務所提供写真より作成
9
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
今 はほ と んど 姿を 消し た石 段
の﹁ 一文 上 がり ﹂︵ 雲南 市木 次
町の八日市交流センター隣︶。
つつありますが、橋脚の場合は天井川にかぎらず、
砂防ダムの建設によって流砂が激減した河川では
同じような例が数多くあるのが実態です。管轄す
る関係機関だけでなく、地元自治会等でも注視し
ておく必要があるのではないでしょうか。トンネ
ル、護岸、高速道路等々、事故につながりかねな
いコンクリート劣化の心配事例は、確実に増加し
ているのです。
② 飯梨川・伯太川の例
3.樹木の繁茂/河川内環境の悪化
前述の通り、流砂
の激減による流路の
固定化、その流路部
分の河床低下の一方
で、元の河床面には
雑草や、場所によっ
ては樹木が繁茂して
います。洪水時の流
れを阻害する要因と
して樹木の伐採が必要ですが、すべての河川内の
樹木伐採には莫大な経費がかかるため、順番待ち
もあるようです。次の写真は安来市の例ではあり
ませんが、このような事例がそこらじゅうの河川
でみられるのです。
1.広瀬町富田橋付近
4頁の写真でも紹介したとおり、天井川であるに
もかかわらず、今日の飯梨川は河床低下が続いて
います。昔の天井川の土手は、川の外からは見上
げる高さであっても、川の内側から見る土手は高
いものではありませんでしたが、現在では外から
も内からも見上げる高さとなり、その分、土手の
強度不足が心配されるようになってきたのです。
↑手 前が大正時代 と同じ河床の 高さ。現在の 河床面
との 落差は著しく 、河川内の水 辺から見る土 手も見
上げるほど高くなりました。
↑松江市宍 道町の来 待川。除 草する前 と後の同 じ
場所。こう した中小 河川でも 流路の固 定化、深 掘
れが進み、旧河床に雑草や樹木が繁茂しています。
2.橋脚基礎部分の露出
4.河床低下の課題
飯梨川の河床低下は昭
和43年竣工の布部ダムの
建設で拍車がかかり、河
口から約4㎞上流にある
県企業局東部事務所付近
では、このわずか45年間
で河床が3m近くも低下
しました。堤防(土手)の高さは基本的に変わら
ないものの、天井川と言いながら河床は確実に低
下を続けているのです。それは堤防法尻の強度不
足につながるため、以前とは違う治水対策も必要
になってくることでしょう。
写真は安来高校と大塚町の中間点付近の伯太川
にかかる橋です。本来は河床の下に埋まっている
はずの橋脚の基礎部分が露わになっています。さ
まざまなコンクリート建造物の劣化が問題視され
10
めざせ世界遺産登録 ∼たたら製鉄(鉄穴流し)関連遺産と里山景観 ∼
これも確認は困難になりつつあります。全国で唯
一、江戸時代の屋内常設炉(永代たたら)が残る
す が や
「菅谷高殿」(雲南市吉田町)近くで、通常の観光
コースにはない石組の水路跡を案内してもらいま
した(写真)。高殿施設職員の吉田利江さんによ
ると、「山の奥には無数に水路が巡っているはず
ですが、この(写真の)水路も実は数十㎝埋まっ
ています。掘ってみたいものの、許可なく勝手に
掘るわけにはいきません。今のところは教育委員
会の発掘の予定もありません。」とのことでした。
雑草や樹木が茂り、現地での確認が年々難しくなっ
てきているのを実感しました。それは安来市にお
いても同様です。このような場所をすべて保存す
る必要はありませんが、里山の景観に溶け込んだ
鉄穴残丘とともに、「観光用にわかり易い形で見
せる工夫」も必要ではないでしょうか。
今回の一連の取材・研究を通じて、天井川の河
床低下の問題も確認することができました。一般
市民の方にはあまり認識されていないのではない
でしょうか。これまでの取材・調査結果から問題
点を整理すると、
1. 河床低下による土手の強度不足
2. コンクリート橋脚基礎部分の露出によって
その劣化が進行
3. 旧河床面での樹木の繁茂が、洪水時の流水
の妨げとなる危険性拡大。
4. 関連して、周辺海域への土砂流出(堆積)
の激減によって、漁業資源への影響拡大か?
最後の点については確たる証拠のない憶測でし
かありませんが、宍道湖や中海での砂の堆積が少
なくなっているとの報告を聞いたことがあります。
日本一の漁獲量を誇った宍道湖のシジミが激減し
ている理由の一つに、堆砂の減少も考えられるよ
うな気がします。関係機関の今後の科学的研究を
待ちたいと思います。余談になりますが、瀬戸内
海の漁獲高が激減しているとのニュースを聞きま
した。海がきれいになり過ぎているとの。山陽側
では岡山県や広島県の北部でもたたら製鉄が盛ん
だった分、瀬戸内海に流れ出る流砂は同じように
激減しています。ここでも漁獲量激減との関連が
考えられるような気がします。
◇◇◇◇◇
周辺市町では、たたら製鉄関連遺産の世界遺産
登録に向けた動きが徐々に表れてきましたが、地
元市民の反応は「そんなに凄いものなの?」と言
う受け止め方が一般的ではないでしょうか。安来
節とドジョウ掬いの地元で私たち安来高校新聞部
は、「たたら製鉄及び鉄穴流し関連遺産とその文
化的景観」を世界遺産に登録すべく、石見銀山遺
跡に続く2匹目のドジョウを狙う機運を盛り上げ
たいと思います。
島根県企業局東部事務所西側の飯梨川
(河口から約4㎞上流、2頁地図Ⅲの④)
45年間で河床が3m近くも低下
上の2人が立つ 面は、上流に布部ダムが竣工し た
45年前の飯梨川の河床。現在は河 床が3m近く下 が
り 、さらにその下2mの集水埋管から取る伏流水 の
水質への影響も心配されるようになってきました。
崩れそ
うな旧河
床面
安来高 校のすぐ 西側を 流れる伯 太川も 、旧河 床
面との落差が崖のようになっています。
結びにかえて
たたら製 鉄のた
め の鉄穴流 しや、
大 量の木炭 を確保
す るための 森林伐
採 は一見す ると凄
ま じい環境 破壊に
写 ったかも しれま
せ んが、た たら操
業 の延長線 上にエ
コ な新田開 発を結
び付け、先人は豊かな恵みと里山の景観を創りだ
してくれました。
旧広瀬町教育委員会が平成6年に刊行した『ふる
さと広瀬』には、たたら製鉄と鉄穴流し関連遺構
調査の結果が、次頁の通り詳細な地図で報告して
あります。ただ、現在ではその確認が困難になり
つつあります。たたら場であったことを証明する
カナクソ(たたら製鉄の際に流れ出す不純物。ノ
ロ、鉄滓とも呼ぶ)も雑草や樹木に覆われて同様
に確認が難しくなっています。
鉄穴流しの水路(『走り』と言う)は井手として
現役利用されている例が多いと予想されますが、
11
参考文献・資料
『中国地方における鉄穴(かんな)流しによる地形環境変貌』貞方昇(山口大学教育学部教授)著、渓水社1996
徳山大学総合研究所『紀要』掲載「中国地方の地形環境1∼4」(大竹義則:徳山大学教授、林正久:島根大学教授、2006∼2010)
『顕彰資料集 卜藏孫三郎』卜藏孫三郎顕彰の会、2000
『斐伊川史』長瀬定市著、昭和25年
『斐伊川改修40年史』建設省、昭和39年
『斐伊川誌』平成7年
『あかがわ』山田謙三著、昭和46年
『斐伊川水系の流域及び河川の概要』国土交通省河川局、平成14年、平成21年改定
『斐伊川水系河川整備計』国土交通省中国地方整備局、平成22年
『ふるさと読本 もっと知りたい 島根の歴史』島根県教育委員会、2012
合併前の各旧町村誌
主な視察・取材先
安来市
和鋼博物館
島根県企業局東部事務所
金屋子神社、同神話民俗館
大塚両大神社
布部ダム
市内 荒島・大 塚・西 比田
東比田・広瀬 各地区 他
奥出雲町
雲南市
日刀保たたら
羽内谷鉱山本場跡
糸原記念館
可部屋集成館
奥出雲たたらと刀剣館
大原新田
鉄の歴史博物館
菅谷高殿周辺
鳥取県
広島県
木次町市街地一文上がり
木次町上熊谷中の段地区
三刀屋町伊萱床止め
尾原ダム
日野郡日野町、日南町
吾妻山
庄原市比和町三河内地区
庄原市立比和自然博物館
参 考
「日刀保たたら」での取材
2013.2.1
『ふるさと広瀬』(1996、旧
広瀬町教育委員会作成)掲載
炉を解体して取り出された鉧
この地図作成 にも尽力された 横山茂人
先生(93才) には、ご自宅周辺 の西比田
地区を案内していただきました(写真)。
ありがとうございました。
12
奥 出雲町大 呂の日刀 保たた
らで は、今シ ーズンも 1月か
ら2 月上旬に かけて計 3回の
操業があった。一代︵ひとよ︶
と呼 ばれる1 回の操業 は3昼
夜約 時間 。その間、 砂鉄
トン 木炭 トンが炉 の中で燃
12
た
か ど の
10
ヤ
金屋子神社
(安来市西比田)
第11回 たたら操業の季節 ∼取材魂を燃やしてこの日を待っていた∼
けら
30
タ
ノ オ ロ チ
日刀 保た たら では 、県 内外 で
一昼夜程度のミニたたらを行い、
伝 統の 技を 一般 市民 にも 紹介 し
て いる 。写 真は 、昨 年度 月に
市 内の 和鋼 博物 館で 行わ れた ミ
ニ たた らで 炉に 風を 送る 天秤 鞴
︵ てん びん ふい ご︶ に挑 戦し た
物 理・ 化学 部員 。映 画﹁ もの の
け 姫﹂ の中 では 女性 たち が鞴 を
踏 んで いた が、 それ は現 実離 れ
の 描写 。男 でも 大変 な重 労働 だ
と分かった。
年に復活した全国で一箇所のたたら製鉄現役操業の地です。
マ
各地でミニたたらも
し た。 今シー ズン2 度目 の操
業、2月1日の午後3時です。
わずか 分間ではありますが、
神 事と も言え るよう な操 業の
一 部始 終を見 逃さぬ よう 、交
代でビデオカメラを構えます。
見 学者 が予想 以上に 多く 、場
所 を移 動して の撮影 が難 しい
で すが 頑張り ます。 砂鉄 ・木
炭 をく べる一 瞬は炎 がよ り大
き く舞 い上が り、生 き物 のよ
う にも 感じら れます 。ま るで
八 岐大 蛇が降 臨した かの よう
な 迫力 です。 見えな い炉 の底
けら
で は鉧 が大き くなっ てい るは
ず です が、昔 の人は どう やっ
30
← 日本刀の原料となる玉鋼を全国の刀工に提供するのが仁多郡奥出雲町大呂の﹁日刀保たたら﹂。日立金属安来工場の協力で昭和
→取 材最後は
分かけた鉧
出しの場面。
ハガネの町/安来から待ちに待った取材へ
オ ロ チ
70
やさ れ、玉鋼 を含む各 トン
の鉧 ︿ケラと 呼ぶ鉄塊 ﹀が作
り出される。
放 送部は今 回、夏の コンテ
スト に出品す る番組制 作を目
的と して、田 邊優希さ ん︵2
年︶ と佐藤光 弘さん︵ 1年︶
の二 人が許可 を取って 操業現
場を 取材した 。高校生 が高殿
と呼 ばれる現 場に入る のは極
めて珍しいことだ。
︿こ れより現 在進行形 、過去
形入 り混じっ た現場か らの中
継です。﹀
︱ 取材1日目 2(/1 )︱
たかどの
今 、炉があ る高殿に 入りま
3.5
てそ んな状況を 推測したので
しょ うか。不思 議です。神秘
です。感動です。
︱ 取材2日目 2(/2 )︱
朝 4時半に引 率の先生の車
で安 来を出発し 、比田、亀嵩
経由 で到着しま した。まもな
くクライマックスを迎えます。
6時 から燃え盛 る炉の解体が
始ま りました。 大変な熱さで
す。 作業に当た っている方は
とん でもない熱 さとの闘いで
しょ う。見逃す まいと、見学
者も身を乗り出していますが、
顔が焼けそうです。
分ほどで解 体が終わりま
けら
した 。炉の底で 生まれた鉧が
初め て私たちの 前に姿を現し
まし た。もちろ ん近づくこと
もできないほど真っ赤です。
9 時になりま した。まだま
けら
だ熱 い鉧ですが 、人力で高殿
の外 に出す﹁ケ ラ出し﹂が最
後の 取材場面と なりました。
丸太 の上を少し ずつ転がして
外に 出します。 木はすぐに燃
え上 がりますが 、時間をかけ
て無事作業が完了しました。
10
13
今回の取材申請に対し 、﹁日刀
保 たた ら ﹂を 運 営す る 財団 法 人
・
・
・
﹁日本美術刀剣保存協会﹂︵東京︶
より快諾いただきました 。紙上を
借りてお礼申し上げます。
30
放送部
日刀保たたら(奥出雲町大呂)
つながろう YASUGI
52
そ の 調査 結果 を 、8 月に 開 催
され る 全国 高等 学 校総 合文 化 祭
長崎 大 会﹁ 郷土 研 究部 門﹂ で 発
表し 、 同部 門コ ン テス ト日 本 一
をめざす ︵言って しまった ︶。
!!
3昼 夜 70時 間 、 砂 鉄 1 0ト ン ・ 木 炭 12 ト ン で 3.5ト ン の 鉧 を 生 産
↑ ビデ オカ メ
ラ を 手 に 取 材 に 残っ た 場所 だ。 鉄 穴流 しで 作
する放送部員。 ら れた 棚 田︵ カン ナ 田︶ の中 に
残 る残 丘 は、 私た ち 高校 生で も
たたら本体の取材は放送部にまかせて
比 較的 容 易に 確認 で きる 。奥 出
わ れ てい た。 砂 鉄分 を含 む 風化 雲 町に 隣 接し 、鉄 の 神様 の本 社
新聞部は今
日 本 刀 し た 花崗 岩︵ 真 砂土 とい う ︶と、 ﹁金屋 子神社﹂が鎮座す る市内
の 原 料 と こ れ を流 す水 路 があ れば ど こで 比田地区が分かりやすい。
なる 玉 鋼を 生産 する 製 鉄技 法 を も 可 能だ った 。 各地 で広 範 に行
とは 言っても、今日で は昔の
﹁た た ら製 鉄﹂ とい う 。中 国 山 われたものである。
たたら 場や鉄穴流しの場 所、そ
地一 帯 は砂 鉄分 を豊 富 に含 む 花
の水路 ︵走りという︶を 知る人
崗岩 地 帯で 、砂 鉄を 原 料と す る 全国大会では鉄穴残丘や
は、各 地元でも古老や一 部の研
﹁た た ら製 鉄﹂ によ り 、江 戸 時 天井川の今日的課題を紹介
究者以外では少ないだろう。
代に は 全国 8割 の鉄 生 産を 誇 っ
新聞 部はこの1年間、 大正期
︵予定︶ までの 鉄穴流しで天井川 と化し
た。 奥 出雲 地方 はそ の 一つ の 中
心地 で あり 、そ の積 出 港の 役 割
そ うし た痕 跡 を残 すの が 、各 た安来 市の飯梨川・伯太 川を取
も担 っ た安 来は 安来 節 に歌 わ れ 地 に 今も 残る ﹁ 鉄穴 残丘 ︵ カン 材し、 今日では堆積より も浸食
る﹁ 安 来千 軒﹂ の繁 栄 を誇 っ た。 ナ ざ んき ゅう ︶ ﹂だ 。昨 年 9月 への対 策が必要という現 代的課
﹁ た たら ﹂と 言え ば 奥出 雲 町 発 行 の本 紙号 外 ﹁安 ら来 の 里/ 題を指 摘しつつ、たたら の原料
から 雲 南市 にか けて の 専売 特 許 水 物 語﹂ でも 紹 介し た通 り 、周 砂鉄を 供給した鉄穴流し が、ふ
のよ う なイ メー ジを 抱 く人 も 多 囲 よ り硬 くて 鉄 穴流 しで は 流し るさと の里山の景観を育 んでき
いが 、 中国 山地 沿い で は広 く 行 き れ なか った 箇 所が 小島 の よう た歴史を紹介してきた。
(上 )東 比田、 (下 )広島 県庄 原市三 河内
(みつがいち)の列島状の鉄穴残丘。
和鋼博物館
(安来市安来町)
本シリーズでは、地域に 支えられ地
域とともに歩む安高の姿を伝えます。
シ リー ズ
2013年(平成25年)3月2日(土)
安 来 高 新 聞
(9)第173号
新聞 部が地元の天井川を調 査研究するきっかけと なった学校新聞の記事 。美術部が地元の依頼 を受けて制作した紙 芝
居『若狭土手を造った京極忠高』を紹介する記事。この話題を取材するうちに、調査の裾野が広がっていった。
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参考資料
※ 研究発表のべースにした昨年9月の号外特集『安ら来の里/水物語』(実物はA3判1枚両面カラー印刷)。
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