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越前・若狭の歴史地震・津波 ∼年表と史料

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越前・若狭の歴史地震・津波 ∼年表と史料
敦賀論叢(敦賀短期大学紀要)第27号 抜刷
2013年 3 月 1 日発行
越前・若狭の歴史地震・津波
∼年表と史料
外 岡 慎一郎
越前・若狭の歴史地震・津波
∼年表と史料
外 岡 慎一郎
はじめに
いま、自分たちが住んでいる地域を襲った自然災害はどれほどあったのか。
あったとしたら、それはいつ、どのように地域住民の生存を脅かしたのか。そし
て、災害ののち、地域はどのように再生していったのか。
いま、もっとも関心の高いテーマのひとつである。しかし、こうした問いに
しっかりと応えられる文献は少ない。1980年代を中心に自治体史編纂ブームが
あり、『敦賀市史』や『福井県史』などもそのブームのなかで編纂された。自治
体史としては高い評価も受けている。しかし、これらも自然災害史の研究にはほ
とんど役に立たない。むしろ、20世紀前半期に「郡誌」などのかたちで編纂され
た文献に、自然災害史への配慮がみられるが、現在の歴史学研究の水準からみる
と、史料の収集・選択や理解に再検討を要する場合が多く、掲載された情報をそ
のまま利用することは躊躇される。
そこで求められるのが、今後の災害への対応といった実践的用途にも堪えられ
る自然災害史データ・ベースの構築である。本稿は初動的作業の一環として、江
戸時代(∼1868年)までに越前・若狭地域(福井県域)に災害をもたらした歴
史地震・津波の総覧を年表と主要史料の紹介によって実現するものである。
なお、歴史地震・津波とは、文献史料によって確認、推定復元が可能な地震・
津波をいう。文献によって研究可能な時代を「歴史時代」、文献史料の存在しない
時代を「先史時代」というのに倣った表現で、先史地震・津波という領域もある。
初動的作業の属性で、データの脱落があることを虞れる。また、今後の史料発
見によって追加すべき地震・津波もあるかもしれない。これらは当面筆者の課題
となるが、もとより引き継がれ、研究者の協働により価値の高まる作業である。
読者には、本稿の批判的検証とともに、データの充実をお願いしたい。
ところで本誌は、1986年 4 月に敦賀女子短期大学として「嶺南の地に学の灯
ともした」(校歌)大学の最後の『敦賀論叢』となる。しかし、学問は不滅であ
る。むしろ『敦賀論叢』に掲載された諸論考を含め、四半世紀を越えて地域社会
(31)31
とともに歩んだ大学の評価はこれから定まっていくはずである。
筆者にとって歴史地震・津波研究は2011.3.11以後に構築した研究の新地平であ
る。しかし、地域史研究という立場からすれば、本稿はこれまで本誌に掲載して
きた諸論考と変わるところはない。大学という地域史研究の拠点を失うことを無
念としつつも、まずは今後への道標を築いておきたい。
1.10 世紀以前の地震・津波
本論では、適宜、時代を切って年表と関係史料を提示し解説を加えていきたい。
史料の捜索にあたっては『大日本史料』『大日本地震史料』『新収日本地震史料』
『
「日本の歴史地震史料」拾遺』
(8冊、1998∼2012)を基本文献とし、自治体
史の史(資)料編その他を利用した。また、Web 公開されている「[古代・中世]
地震・噴火史料データ・ベース(β版)」(静岡大学防災総合センター)には、関
係史料の検索と史料原文の閲覧に便宜を得た。引用についても特に注記しない限
り、これらに拠っている。
なお、史料掲載については、史料が一点のみで短文である場合に限り表のなか
に史料を掲載し、史料が長文、あるいは複数確認されている場合は「別掲」と表
記し、別掲載とした。引用は適宜追込み、改行を」で示す場合がある。
また、備考欄に【総覧】とあるのは、『最新版日本被害地震総覧』(宇佐美龍夫
編、2003年)が載せる当該地震情報、【史料】は、越前・若狭地域の被災を考え
る場合に参考となる他地域の史料を地名により掲げ、必要に応じて史料を紹介す
るものである。
(表1)越前・若狭の地震・津波災害Ⅰ
年代
和暦 / 西暦
越前・若狭に関する記録
備 考
年号 年 月 日
3 26 (参考)
丹後・丹波地震
701/5/8 〔続日本紀ほか〕
(別掲)
(参考)
斉衡 2
2
丹後国田井浦正楽寺が地震で倒壊
855/
〔普門山正楽寺縁起〕
(別掲)
1
3
大宝 1
天暦 1
8
947/
若狭羽賀寺泥中に埋まる
〔羽賀寺縁起〕
(別掲)
【総覧】
項目あり、震央データなし
【総覧】
項目あり、震央データなし
【史料】京都・奈良(別掲)
【総覧】なし
地震・津波という事項に限らず、10世紀以前の歴史情報はその多くを官撰国史、
すなわち国家事業として編纂された国家の「正史」
(
『日本書紀』以下 6編、「六
国史」と総称)や、原則これに準拠した『類聚国史』『日本紀略』などの編纂史
料によらざるを得ない。これら「正史」の編纂には、多く地方発の行政文書等も
32(32)
参照されたはずであるが、これら文書の原本・写本は伝存しない。そして、その
結果、地方の情報は基本的に僅少かつ断片的にしか得られないことになる。情報
の収集・集積・保存能力における首都(圏)と地方との差異が激しいのがこの時
代の特徴でもある。
表1−1
〔続日本紀〕
(大宝元年)三月己亥(26日)丹波国地震三日
〔丹後風土記残欠〕(原漢文)凡海郷は(中略)四面皆海に属す壹之大島なり、
其れ凡海と称する所以なり、(中略)□□□(大)寳元年三月己亥、地震三
日已まずして、此郷一夜にして蒼□□□海、漸く纔に郷中の高山二峯と立神
岩と海上に出づ、今常世島と号し、また俗に男島・女島と称す、(以下略)
〔縁城寺年代記〕辛丑大寳元年、三月廿一日紀年、三月大地震三日熄マズ、加
佐郡大半滄海トナル、
丹波国が丹波・丹後に分離するのは713年であるから、『続日本紀』の記事を
素直に読めば丹後地域を含む領域に地震があったと解することができる。ただ、
『続日本紀』は797年の成立であり、その段階での行政区分にしたがって記事が
書かれた可能性も否定できない。ちなみに、越前・若狭地域での地震記録はない。
江戸時代の成立とされる『丹後風土記残欠』
『縁城寺年代記』には、加佐郡凡
海郷がこの地震によって沈降して海中に没し、わずかに高山の山頂部が海上に島
(現在の冠島・沓島)としてのこったという伝承が載せられている。これらの記
事が典拠とされ、かつてこの地震の震央が若狭湾西部海域にもとめられたことも
あった(宇佐美龍夫1975)。その場合、少なくとも若狭湾沿岸地域を中心とした
地域に津波を含む甚大な被災があったことが推定されるため、注目されてきた地
震である。
しかし、
『丹後風土記残欠』『縁城寺年代記』の史料的価値への疑義を前提に地
質調査を実施した萩原尊禮らの研究によって、凡海郷沈降説は否定され、地震評
価も丹波国内に震央をもつ局発地震に修正されている(『古地震』1982年)。
表1−2
〔普門山正楽寺縁起〕
(前略)若州日引浦普門山正楽寺は、本は丹後田井村
別所にあり。古老相伝へて曰く、在昔天平年中行基菩薩遊化此地の頃、人
告げて曰く、山中に不思議なる巨材あり、若し伐らんと欲する者有らば、
則ち或は本心を失い、或いは異形類来たりて種々の障を作す、菩薩其の霊
木を知る、尋ねて山中に到る、其地平担にして崖無し、人を離るる里にし
(33)33
て閑宇なり、是において其の樹をもって自ら御長四尺七寸聖観世音尊像を
彫る、尚余材をもって阿弥陀・薬師等許多の仏像を造る、(中略)数多の
寺院不日にして大伽藍と成る、然るに纔か暦百余年、斉衡二年域中大地震、
此時山崩れ地裂けて伽藍を破却す、是において諸堂・寺院併て当地に転移
す(以下略)
永享三年 亥三月 密乗沙門霊諦欽誌
普門山正楽寺は現在福井県高浜町日引にある。上記縁起によれば、奈良時代の
僧行基の開創で、もともと丹後国田井浦にあり、斉衡2(855)年の地震により
損壊したのを機に現在地に移転したという。別の伝によれば、寺の再興は寛平元
(889)年、のちに中興開山と仰がれることになる寛広法師によるともいう(『高
浜町誌』
)
。
(
『東
故地とされる田井浦は、文永2(1265)年11月注進の「若狭国惣田数帳」
寺百合文書』ユ12)に「被押領丹後国志楽庄畢」と記載される。これは、この時
点ですでに隣国丹後の志楽荘の実質的支配に属していて、若狭国の土地台帳には
名義のみをのこす存在であったことを示している。上記縁起は永享3(1431)年
の成立であるから、再び田井浦が若狭国に属することはなく(現在も京都府舞鶴
市内)、ここでも「丹後国田井村」と記されたのである。ただ、近隣荘園に「押
領」されるという事態からも理解されるように、日引と田井は山嶺と岬を介して
近接する集落でもあった。
さて、斉衡2年の地震については、『日本文徳天皇実録』に、4 月2日、5月
10日、同11日の地震記事に続いて、同23日「東大寺奏言、毘盧舎那大佛頭自
落在地」とある。のちに鴨長明が『方丈記』に記したことで著名な、東大寺大仏
の頭が落ちたという地震はこれで、余震と思しき地震記事が 6月20日、25日、
8月1日、2日、25日にある。
『日本文徳天皇実録』は平安京における見聞が主体であるから、東大寺大仏が被
災した地震と正楽寺損壊の地震が同じである可能性は、むしろ低いのかもしれな
い。正楽寺に決定的な損壊をもたらす地震であれば、震央はむしろ若狭に近いと
ころに求められる可能性もあり、そうであれば、平安京では軽微に感じられた可
能性もある。まずは、正楽寺損壊の地震がこれらに含まれている可能性を考慮し
て、参考までに書き留めておきたい。
表1−3
〔羽賀寺縁起〕
(前略)開闢より二百卅余歳、天暦元年丁未八月下旬、
(中略)
青龍谷より出て海中に入る。大雨盆を傾け山襞にそそぎ、谷を埋め、堂閣
翻然として悉く泥中に没せり(以下略、大永 4/1524 年頃成立)
都司嘉宣1980に採録された史料であるが、羽賀寺(現:福井県小浜市)の伽
34(34)
藍が泥中に埋没したのはおそらく大雨による大規模な土砂崩れによるものであろ
う。ちなみに、天暦元年の地震記事としては、
『日本紀略』2月3日条に「申刻地
震」、4 月 6日条に「地震三箇度」などとあるが、日時が合わない。なお、ここ
にも登場する龍は地震・噴火を含む気象災害を差配する至高神とされていた(保
立道久2012A)。
2.11 ∼ 16 世紀の地震・津波
「正史」編纂が断念され、公家・寺社や武家の日記・記録類が事実上の公記録
としての意義を有していくのが10・11世紀以降の情勢である。公家・寺社・武
家はそれぞれに荘園領主、地域権力としての顔も同時に持っていたから、荘園支
配等を通じて地方の情報が記録・文書として首都圏に集積されるとともに、地域
情報がそのまま在地の武家・寺社によって保存・蓄積されることになる。
(表 2)越前・若狭の地震・津波災害Ⅱ
和暦 / 西暦
越前・若狭に関する記録
年号 年 月 日
4
元暦 2
7
1185/8/13
9 (参考)
近畿∼山陰地域地震
〔山槐記ほか〕
(別掲)
備 考
【総覧】
震央:35.0 N 135.8 E
(京都市山科区)
M 7.4
5
天福 2 1 27(参考)
【総覧】なし
北陸∼京都地域地震
(別掲)
1234/2/26 〔加賀・白山宮荘厳講中記録〕
6
正中 2 10 21 敦賀・若狭地震
気比社倒壊し荒地山崩れる
〔気比宮社記ほか〕
(別掲)
1325/12/5
【総覧】
震央:35.6 N 136.1 E
(敦賀市疋田)
M 6.5
(参考)
【総覧】なし
明徳 2 10 16 美濃北西部・京都地震
〔美濃・長滝寺荘厳講執事帳〕
7
【史料】
「明徳弐年辛未、大飢渇(中略)地震 京都(別掲)
1391/11/12 夜昼三十日動」
寛正2(1461) 年2月、遠敷郡今富荘百(参考)
姓等が、文安年間(1444-49)
の地震の【総覧】
文安
のち遠敷郡太良荘半済代官が敷設し 文安 6/4/12(1449.5.13)
8
た埋樋により田地に損害ありと訴え、 震央:35.0 N 135.75 E
相論となる
(京都市下京区)
M 5.75-6.5
1444-1449 〔東寺百合文書ハ 326〕(別掲)
9
天文 13 11
【高浜町誌】若狭地震
1544/
10
天文 15 10
(原史料、関係史料未検出)
【河野村誌】大地震、杉津山崩れ
1546/
(35)35
天正 13 11 29 越前・若狭地震
11
〔兼見記ほか〕別掲
1586/1/18
【総覧】
(天正地震)
震央:36.0 N 136.9 E
(郡山市高鷲町ひるがの)
M 7.8
表2−4
(中略)午剋地震、五十年已来未覚悟、
(中
〔山槐記〕
(元暦2年7月)九日、
略)法勝寺九重塔頽落、(中略)阿弥陀堂并金堂之東西廻廓、鐘楼、常行
堂之廻廓、南大門西門三字(宇)、北門一宇、皆顛例(倒)、無一宇全、門
築垣皆壊、南北面少々相残云々、遣人令見之処、申旨如此、
(中略)後聞、宇
治橋皆以顛倒、干時渡之人十餘人乗橋入水、其中一人溺死云々、又聞、
近江湖水流北、水減自岸或四五段、或三四段、于後日如元満岸云々、同国
田三丁地裂為淵云々、又自美濃伯耆等国来之輩曰、非殊之大動、又後日聞、
京中築垣東西殊壊、南北面頗残云々、(以下略)
〔玉葉〕
(元暦2年7月)九日、
(中略)午刻大地震、古来雖有大地動事、未
聞損亡人家之例、仍暫不騒之間、舍屋忽欲壊崩、仍余女房等ヲ令乗車、大
将同之引立庭中、余独候仏前、(中略)如伝聞者、京中之人家、多以顛倒、
(中略)法勝寺九重塔心柱雖不倒、瓦已下皆震剥、如無成云々、大地所々
破烈(裂)
、水出如涌云々、(以下略)
〔吉記〕
(元暦2年7月)九日、
(中略)午剋大地震、洛中可然之家築垣皆頽、
舍屋或顛倒、或傾倚、被打襲死去者多聞、永祚之風、貞観之旱、只聞其名、
安元回禄猶有免所、於今度也(地)震者無不遇殃之人、(以下略)
〔愚管抄〕
(前略)元暦二年七月九日午時バカリナノメナラヌ大地震アリキ、
古キ堂ノマロバヌナシ、所々ノツイガキクヅレヌナシ、スコシモヨハキ家
ノヤブレヌモナシ、山ノ根本中堂以下ユガマヌ所ナシ、事モナノメナラズ
龍王動トゾ申シ、平相國龍ニナリテフリタルト世ニハ申キ、(後略)
〔方丈記〕(前略)また、同じころかとよ、おびたゝしく大地震ふること侍
りき、そのさまよのつねならず、山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸を
ひたせり、土裂けて水湧き出で、巖割れて谷にまろび入る、なぎさ漕ぐ船
は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす、都のほとりには、
在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず、或はくづれ、或はたふれぬ、
塵灰たちのぼりて盛りなる煙の如し、地の動き、家のやぶるゝ音、雷にこ
とならず、家の内にをれば忽にひしげなんとす、走り出づれば地割れ裂く、
羽なければ空をも飛ぶべからず、龍ならばや雲にも乗らむ、恐れのなかに
恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覺え侍りしか、
(中略)むかし
齊衡のころとか、大地震ふりて、東大寺の佛の御首落ちなど、いみじき事
36(36)
どもはべりけれど、なほこの度には如かずとぞ、(後略)
この地震については上記以外の史料も多い。上記史料にもそれぞれ関連記事が
続くが、越前・若狭の被災を推定する情報として重要とおもわれる部分を抄出し
た。
『山槐記』は中山忠親(当時、権大納言)、『玉葉』は九条兼実(当時、右大
臣)
、『吉記』は吉田経房(当時、権中納言)の日記である。
王権鎮護の象徴である法勝寺九重塔の損壊は公家衆にとっては一大事であり、
この地震を記録した日記・記録にほぼ例外なくみえる。地震の規模も尋常ではな
かったようで、
「五十年已来未覚悟」
「古来雖有大地動事、未聞損亡人家之例」
「ナ
ノメナラヌ大地震」
「そのさまよのつねならず」などの表現がおどり、『吉記』に
「貞観之旱」
(貞観11/869
至っては、
「永祚之風」
(永祚元 /989年8月13日の大風)
年の旱魃)はその名を聞くばかりで詳細を知らず、「安元之回禄(大火)」でも被
災しなかった地域があるが、今度の地震は例外なくすべての人びとを襲ったとの
悲痛なおもいを記している。
ただ、ここで注目しておきたいのは、『山槐記』が琵琶湖の湖水が北流して、
琵琶湖南部地域では干上がったと記していることである。湖水は琵琶湖北部地域
へ津波のように押し寄せたであろう。近年発掘調査がおこなわれた塩津港遺跡で
はこの地震による「琵琶湖津波」の可能性も指摘されている(横田洋三2011、濱
。
修2012)
震央を共有する後掲表 4 −55と同様に越前・若狭地域にかかる地震記事は未
見である。しかし、『山槐記』は、「自美濃伯耆等国来之輩曰、非殊之大動」と記
している。
「美濃や伯耆からやってきた人の言では、たいして揺れなかった」との
意である。これを、美濃および伯耆以遠では被災がなかったという証言と解すれ
ば、因幡・但馬・丹後・若狭・越前などでは被災があった可能性を裏返しに読み
取ることも可能である(保立道久2012B)。
なお表 4 −55と連結して、越前・若狭地域での被災を推定しないのであれば、
地震伝播のメカニズムという視点で興味深い。長々と史料を紹介し、参考として
載せた理由である。
表2−5
〔白山宮荘厳講中記録〕天福二年<甲 / 午>正月廿七日丙戌亥時、大地震
金翅鳥動至畢、次日廿八日九度震了、京都三日震云々 ※< / >=割注
『白山宮荘厳講中記録』(『白山史料集』上巻、日本海文化叢書 4、1979年、収
載)は、加賀国白山比
神社の荘厳講中の記録である。内容は恒例行事としての
(37)37
荘厳講の実施記録というより神社及び周辺の諸事・雑事を年次ごとに記した記録
である。それぞれ簡潔ながら、承元3(1209)年から弘治元(1555)年までの記
事がある。
上記史料は加賀で体感した地震と京都から届いた地震情報を結びつけて理解し
た記事と読める。もし、その理解のように加賀と京都で同じ地震を体感している
とすれば、地震記録こそのこされていないものの、越前・若狭地域にも影響があっ
た可能性が高い。参考として掲げておく。
なお、史料にみえる「金翅鳥」は迦楼羅神の異称で、龍神や火神などとともに
地震を起こす神とされ、室町時代の辞書『塵添
嚢鈔』では夜中から明け方にか
けての地震を起こすという(黒田日出男2003)。この地震も発生は「亥時」(22
時頃)である。
表2−6
〔気比宮社記〕気比社神官等連署注進状(嘉暦元 /1326年5月日、原漢文)
注進す、当神殿舎屋功程事、
(中略)抑、去(正中2)十一月(十月)廿一
日子刻地辰(震)、前代未聞之珍事、而して宮社殿屋悉く顛倒破壊せしめ、
州郡民屋の損亡挙げて算え難し、(以下略)
〔花園院日記〕(正中2年10月)廿一日、戊戌、晴、今夜亥剋大地震、良
久不休、其後連々小動不知数、子剋許又大震、及丑終又大動、其間小動大
略無隙、泰世・範春等進占文、十月動有五十五日兵乱之文、尤可恐歟、
〔道平公記抄出〕廿二日 今(去)夜地震、根本中堂常灯消了、
廿五日、地震以外珍事也、荒地中山壊云々、
〔竹 生 島 勧 進 状〕
(原 漢 文)
(前 略)去 年 十 月 乙、夜 三 更、大 地 之 震 動 有
り、當所之滅亡致す、堂舎塔廟、一宇として全うする無し、(後略)正中
三年三月日 勸進沙門 素達
この地震の震央は敦賀市疋田に推定されており、敦賀断層∼柳ケ瀬断層∼関ヶ
原断層の活動に因る地震である可能性が指摘されている(【総覧】)。上記のよう
に、気比社社殿が悉く倒壊したこと、敦賀郡内の民屋が数多く被災し生活基盤に
重大な損害をあたえたこと、荒地中山が崩落したことなど、震央直近の敦賀地域
の被災記録も多い。
『気比宮社記』は宝暦11(1761)に気比社神官の平松周家が青蓮院門跡の命に
より撰進した記録で、現在は原本が失われている文書・記録類をしばしば引用・
参照し成文している。上記引用部は、地震後の再建を期して作成され朝廷におく
られた被害報告書の冒頭部である。
38(38)
『花園院日記』では陰陽家(土御門泰世・範春)が「兵乱」を占じたことが記
される。この前年には後醍醐院による倒幕計画が発覚して関係者が処罰される
「正中の変」が起こっている。自然災害、とくに地震と政変が結びつくケースは
多い。陰陽師の占文が現実味を帯びて受け取られたもの無理はない。
竹生島の被災については、上記再建勧進状のほかにも『熊野年代記』などにも
触れられており、ここでは竹生島が半分水没したと記録されている。
表2−7
表に掲載したのは、白山系寺院である長滝寺(現:岐阜県郡上市白鳥町)の
『荘厳講執事帳』
(『白山史料集』下巻、日本海文化叢書5、1987年、収載)で、
月番の荘厳講執事名簿といえる内容である。余白に各記主が見聞した世事が書き
留められており、地域社会の動向をも知り得る史料となっている。
明徳2(1391)年分の余白に「明徳弐年辛未、大飢渇(中略)地震夜昼三十日
動」と地震記事がある。地震発生の時日を知り得ないが、同年の地震記事として
は次のものがあるので参考までに紹介しておく。
〔康富記〕文安 6(1449)年 4 月13日条
大地震近例 明徳二年十月十六日
〔明徳記〕十月十六日、午刻ニ大地振オビタダシクシテ、路次往反ノ輩モ歩
ム事ヲ得ズ、家内安座ノ人々モ肝魂モ消計、爰ニ陰陽頭土御門ノ三位有世
御所ヘ馳参テ申ケルコソ怖シケレ、今日ノ大地振(震)ハ金翅鳥動ニシテ
慎ミ以外也、天文道の差ス処ハ、世ニ逆臣出テ国務ヲ望ムニ依テ七十五日
ノ内ノ大兵乱タルヘシ、但、一日ノ落居ナルヘシ、一旦ハ御難儀有ト云ト
モ始終ハ御吉事トソ勘ヘ申ケル、
『康富記』は室町時代の官人(外記)中原康富の日記。次項表2−8で紹介す
る文安 6年 4 月の地震をうけて、大規模地震の近例を調査し記した部分にあた
る。地震の実在を認定するという点では重要な史料である。
『明徳記』は、この地震の後に惹起したいわゆる「明徳の乱」を題材とする軍
記物語で、引用部は、地震の発生と、これをうけて陰陽頭土御門有世が将軍に告
げた占いの内容が紹介される部分である。
「逆臣」が政権奪取をもくろみ、75日
のうちに「兵乱」が起こるが、「一旦ハ御難儀」となるものの最終的には「御吉
事」となると、地震を読み解いた有世の占い(「勘ヘ」)通り、事実上一日の合戦
で山名一族(「逆臣」)は大敗し、将軍足利義満が勝利を得ていく。予定調和を先
導する役割を物語のなかで果たしているのが引用部でもある。「午時」(正午頃)
(39)39
の地震を「今日ノ大地振(震)ハ金翅鳥動ニシテ」と解したところは前掲『塵添
嚢鈔』の説とは異なるが、地震と政変というテーマで興味深い事例である。
さて、
「明徳の乱」に先立つこの地震が美濃でも体感されたとすれば、やはり
越前・若狭地域への影響も想定すべきだろう。また、史料の不在を影響の不在と
理解すれば、これまた震央探索に若干の情報を提供することになろう。
表2−8
〔東寺百合文書〕ハ326 東寺雑掌申状案(寛正2/1461年 6月日)
東寺雑掌申、当寺領若狭国太良庄埋樋事、今富庄御百姓等違乱無理之間事、
右、彼申詞云、
(中略)
一、山内以当座配立、伏井埋之間、田地少々出来云々、此事曽非今案配
立、其故者、当庄下水元者、流入今富之大井仁之処、去文安年中大地震
之時、依大山崩懸、件大塘高成之間、依太良庄水無行方、若干田地不作
之間、伏井埋下涓水、田地如元作之、如今富申状者、自往古為大沼之処、
山内以当時之料簡、伏井埋、始而田畠出現云々、自昔為作毛之在所之条、
古帳明鏡也、又地震以前現作之条、於近所
国中、無其隠者哉、(以下略)
相論の詳細にはここでは立ち入らず、要件を表2にとどめ、あくまで太良荘側
の主張ながら、
「去文安年中大地震」によって山崩れによって塘が高まり排水(
「下
水」)が「今富之大井」(今富荘の大きな水路)に流れなくなったために「伏井」
(埋樋)を造った(=生産地復興)という部分に注目したい。
なお、「去文安年中大地震」の候補は複数ある。表2に参考として示した文安
6年 4 月12日の地震に関しては以下の史料がある。
〔康富記〕文安 6年 4 月
十日、戌尅許大地震、許大地震<及両三度 / 有声>、近来之大動也、夜半
許又地震両三度也、
十二日壬戌、晴、辰剋大地震、其後小動連々不休、終日動搖不知其数矣、
(中略、土御門有盛の占文略す)
十三日癸亥、陰、晩雨下、今日猶連々地震、(中略)同十二日大地震之故、
(中略)嵯峨清凉寺之釈迦仏顛倒給、同五大尊内軍陀利一尊顛倒給<御手
突 / 折云々>、其外東山西山在々所々大地裂破云々、若狹海道小野長坂之
辺、山岸等崩懸、荷負馬多斃死、人亦数多被打殺云々、五六十老者、未
知是程地動之由申之云々、(中略)
40(40)
〔武家年代記裏書〕
四十(文安 6年 4 月10日)夜、大地震、同十一、亦大地震、地裂山崩、
京中所々築地無残所、其後連日無止、而及十二月、
文安年中の地震としては規模が最も大きかったと考えられるが、あくまで京都
の情報であるから、太良荘被災の地震が京都では軽微な地震であった可能性を排
除できない。ただ、京都から丹波・若狭に通う途次にある小野・長坂で山崩れが
あって人馬が斃死したという記事に注目しておきたい。
表 2 − 9・10
ともに自治体史(誌)に掲載された情報であるが、いまだ地震情報を載せた原
史料に接し得ていない。情報そのものの検証とともに今後の課題とする。
表 2 − 11
これまで「天正地震」による被災としてひとくくりにされてきた地震史料が、
単独の地震(震央)ですべて説明できないことがほぼ明らかになってきている
(松浦律子2011・2012、外岡2012)。越前・若狭地域の被災史料群についても、
表2に示した養老断層を震央とする「天正地震」によるものであるかどうか未詳
な領域があり、とくに津波については養老断層震央説では説明できないから、史
料の再評価をおこないながら「天正地震」に前後して複数の地震が生じていたこ
とを想定すべきであろう。
〔兼見卿記〕
(天正13年11月)廿九日、乙丑、子刻大地震、屋宅既ユリ壊
躰也、暫時不止、地妖凶事如何、
卅日、丙寅、昨夜地動神壇石懸多分崩、(中略)
廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越
州浦辺、波ヲ打上、在家悉押流、人死事不知数云々、江州・勢州以外人死
云々、
(以下略)
(12月)十七日、癸未、越州佐竹出羽守書状到来、云、妹今度大地震私
宅壊落死去、青女兄弟也、 ※「越州」はこの場合越前、佐竹は故丹羽長秀の扶持を受けていた。
〔フロイス、1586年10月17日付、インド管区長ヴァリニャーノ宛書簡〕
(前略)若狭国(reyno de Vacasa)には海の近くに長浜(Nagafama)と称す
るたいへん大きな別の町があって多数の人と商品が行き交っていたが、数
日間震動したのち(depois de tremer alguns dias)、町全体が恐ろしいことに
(41)41
山と思われるほどの大きな波浪(onda do mar tao grande)に覆われてしまっ
た。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡
に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。(中略)伊勢
国では他にも大きな地震があって(outros terremotos grandes)、驚くべき破
壊があった。
(以下略)
〔顕如上人貝塚御座所日記〕
(天正13年11月)廿九日、夜四半時大地震、
十二月四日、(中略)追而、天正十三十一月廿九日夜大地震ニ、京都三十
三間ノ堂ノ仏イツレモ倒給ト云々、(中略)近江・越前・加賀別而大地震、
〔長滝寺荘厳講記録〕于時天正十三年乙酉十一月廿九日亥子刻ニ大地震初候
而、十二月廿五日迄、夜昼ユリ申候、(中略)江州左保山・長ハマ・尾州
河内・越州北荘・ツルカ(敦賀)、日本国中在々所々及滅亡候、(以下略)
〔四宮神社棟札銘〕丹後国加佐郡河守(旧大江町、現在は京都府福知山市)
(表)天正十三年乙酉十一月四日宮立同十二月十三日宮遷時之、
(中略)
十一月廿九日子時大地震動、
外岡2012ですでに紹介した史料の再掲である。天正13年11月29日におそら
くは養老断層を震源とする地震で越前・若狭地域に地震災害があったことは上記
史料によって疑いない。津波については、フロイス書簡に、
「数日間震動したの
ち」「伊勢国では他にも大きな地震があって」という表現があることに注目して、
「天正地震」に前後して若狭湾津波や伊勢国での多重(?)被災があった可能性
を念頭に今後追究していきたい。
3.17 世紀(元禄期含む)の地震・津波
(表 3)越前・若狭の地震・津波災害Ⅲ
和暦 / 西暦
越前・若狭に関する記録
年号 年 月 日
12
寛永 16 11
越前地震
〔家乗略ほか〕
(別掲)
1639/
備 考
【総覧】
震央:36.1 N 136.2 E
(福井市黒丸町)
M 6.0
(参考)
【総覧】
寛永 17 10 10 加賀大聖寺地震
震央:36.3 N 136.2 E
13
〔政隣記〕
(福井県あわら市沖合日本海)
「十月十日、大聖寺大地震、民家悉破
M 6.5
1640/11/23 損、人馬死る事夥し」
14
4 27 越前地震
〔国事叢記〕
「四月二十七日大地震」
1648/6/18
慶安 1
42(42)
15
若狭地震
2 27〔酒井家編年史料 / 御自分日記〕
「廿七日戊午、朝之内小雨、辰刻属霽、
未刻地震」
(3月)十二日卯中刻地震」
1659/4/18 「
万治 2
若狭地震
寛文 1 11〔酒井 / 御自分日記〕
16
「十一日(中略)亥ノ中刻地震」
「
(1
0月)四日卯ノ中刻地震」
(1
1月)朔日(中略)申ノ中刻地震少」
1661/10/4 「
17
寛大 2
5
1 若狭地震
〔橋詰久幸文書ほか〕
(別掲)
1662/6/16
【総覧】
(寛文近江・若狭地震)
震央:35.2 N 135.95 E
(大津市木戸沖琵琶湖)
M 7.25-7.6
若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
寛文 3 8 22「廿二日(中略)申ノ刻少地震」
18
「
(9月)八日酉中刻地震少」
「
(10月)廿日(中略)辰刻少地震」
「(11月)廿日巳ノ刻地震少」
(12月)六日戌ノ下刻地震強」
(∼1
3日)
1663/9/22 「
若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
寛文 4 1 14「十四日巳ノ下刻地震」
19
「
(2月)十八日夜中少地震」
(∼2
6日)
「(3月)十六日巳ノ中刻地震」
(∼2
8日)
「
(4月)四日午ノ刻地震」
(5月)四日酉ノ中刻地震」
1664/2/10 「
20
7 26 若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
1666/8/26 「廿六日地震少」
寛文 6
若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
寛文 7 1 23「廿三日(中略)未ノ刻少地震」
21
「
(閏2月)三日(中略)戌刻地震」
「
(3月)十一日(中略)戌下刻地震」
(4月)廿五日(中略)地震」
1667/6/16 「
22
23
6 6 越前地震
〔片聾記・続片聾記〕
1667/7/26 「六月六日、亥の刻地震」
寛文 7
若狭地震
7 29〔酒井 / 御自分日記〕
「廿九日(中略)未ノ中刻地震少」
(8月)十三日(中略)酉ノ下刻地震」
1668/9/5 「
寛文 8
若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
寛文 9 1 9 「九日、曇、未下刻地震」
24
「
(4月)四日戌中刻地震少」
「
(6月)二日巳下刻少地震」
(∼ 21 日)
(8月)十一日未ノ下刻地震少」
1669/2/9 「
(43)43
大坂津波
8 23〔敦賀・本勝寺歴譜〕
大坂津波の史料未見
「寛文十庚戌八月廿三日、大坂大津波
1670/10/6 ニ溺死スル者不知数」
寛文 10 11 3 若狭地震
26
〔酒井 / 御自分日記〕
1670/12/15 「三日霽、辰ノ上刻地震」
若狭地震
寛文 11 1 18〔酒井 / 御自分日記〕
27
「十八日卯上刻地震、申刻地震」
「
(2月)十日辰下刻地震」
(8月)二日卯ノ下刻地震」
1671/2/27 「
25
寛文 10
28
寛文 12 11 21 若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
1673/1/8 「廿一日戌上刻地震」
29
寛文 13 6 15 若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
1673/7/28 「十五日晴、午下刻聊地震」
30
延宝 2 11 19 若狭地震
〔酒井 / 御自分日記〕
1674/10/6 「十九日(中略)辰ノ刻両度地震」
若狭地震
6 15〔酒井 / 御自分日記〕
31
「十五日晴、巳ノ下刻地震」
1675/8/6 「
(8月)五日(中略)酉中刻地震」
(参考)
延宝 7 7 14 丹後東部地域地震
32
〔舞鶴市・田村家文書 / 瀧洞歴世誌〕
1679/8/20 「七月十四日大地震」
延宝 3
若狭地震
天和 3 17〔高浜・市瀬家文書 / 吉坂年代記〕
33
「同(天和)三年寅ノ正月、浦和田エ鯨上
ル、閏五月十七日・同廿二三四日大地
1683/7/11 震」
34
元禄 4 12 30 越前地震
〔三国・久末重松文書 / 世事覚之帳〕
1692/2/1 「同(元禄 4)
年大晦日 夕食時地しん」
越前地震
〔越藩略史〕
「十一月、地震あり、伝称す、是より後、
1701/
海に大口魚多しと」
(参考)
【総覧】
元禄 16 12 22 丹後地震
36
項目あり、震央データなし
〔瀧洞歴世誌〕
(元禄地震・11/23 と一連か)
1704/1/28 「夜子刻地震、其時江戸大地震」
35
元禄 13 11
近世幕藩体制の趣旨は地方分権にある。したがって、藩の記録などのほか、村
庄屋や町年寄など民間の行政実務者らによって作成された用留、覚帳、日記など
の史料や寺社の記録、個人の著作や備忘録などから、比較的小規模の地震を含む
多様な自然災害情報を得られるようになる。史料の伝存率では、時代が下るほど
条件が良いことはいうまでもないが、情報の広がりという点では、大きな災害の
44(44)
情報が比較的短時に他地へ伝播し、記録されたのもこの時代の特徴である。
表 3 − 12
〔家乗略〕寛永十七年正月十六日、去年卯霜月、越前ニ大地震ゆり候て、北
之庄の城損申候ニ付、(以下、修造にかかる、略す)
〔加賀・菅家見聞集〕十一月廿七日大地震、
〔京都・鹿苑日録〕(寛永16年11月)廿七日申刻時分地震、
結城秀康の入部後、天下普請で北之庄城が完成したのは慶長11(1606)年頃の
ことであるが(
『福井市史』通史編・近世)
、表3に示したように直下地震によっ
て損壊したようだ。地震の詳細や、損壊の程度などについて知る史料は未見であ
る。
表 3 − 17
いわゆる寛文近江・若狭地震である。関係史料は多数あるので、ここでは越前・
若狭地域の被災の具体像が得られる史料を掲載する。
〔敦賀・橋詰久幸文書〕(寛文2年)5月10日・久助書状(長右衛門あて)
此間者久敷其元より便無之候、去朔日昼時分より大地しん行、爰元家蔵三百
余つふれ申候、然共貴殿家中御無事御座候間、可御心易候、(以下略)
〔橋詰久幸文書〕
(寛文2年)5月10日・七里吉兵衛書状(樽屋善兵衛あて)
任幸便一書致啓上候、然者、今度大地震爰元大分家蔵損申候、其元大分之様
ニ承申候、貴様何事無御座候哉、家蔵損不申候哉、無心元奉存候、私共何事
無御座候、
(以下略)
〔敦賀・沢本弥太夫文書〕寛文弐歳霜月廿七日田尻村寅御年貢免相状
(前略)弐拾弐石弐斗 地震田二度植大豆小豆植候引、
〔小浜・酒井家編年史料 / 御自分日記〕寛文二年五月、朔日、(中略)巳之下刻
大地震、御城中所所櫓・多門塀石垣・鉄砲蔵、其外家中侍屋敷、町屋至迄及
破損、
(以下略)
〔越前世譜〕 一、五月晦日、御国許地震<去る / 朔日>にて御城御門舛形石
垣・勝見口冠木門等破損に付御修復被成度旨御伺被成候処、如元御普請被成
候様御奉書来、
(以下略)
〔美浜・浄妙寺記録〕五月一日大地震、村家多分毀レタリ、当寺モ本堂・庫裏
共ニツブレタリ、(以下略)
〔美濃・長滝寺荘厳講執事帳〕同(寛文2年)五月朔日朝四つノ時、大地震半
(45)45
時計、但茶之水過半ユリコホス也、其後同十七日迄毎日夜ニ五十七度、自其
二日置・三日置ニ八月迄震動スル也(中略)越前ツルガ家数三百軒余滅亡、
死人多、其外北国七ケ国ノ内不残浜方破損、(以下略)
〔島原松平家文書 / 雑書〕若狭小浜城所々破損、入海中ゆり上平地と成故に水
支へ湖と成(中略)敦賀民屋四百八拾軒崩、死人多し、
〔舞鶴市瀧ケ宇呂・田村家文書 / 瀧洞歴世誌〕五月一日大地震、
〔かなめいし〕
(浅井了意 /1612-1691、寛文2年執筆、愛媛大学古典叢刊)
(中巻三)北国がたハ、若狭朽木のわたり、越前敦賀の津まで大にゆり損じ、
それより北ハ、福井北の庄わたりハすこしにてしずまりぬ、加賀にハ、能美
の郡小松の庄ハ地しんハゆらで、四月廿九日大雨ふり(以下略)
(中巻四)敦賀の津ハ、海のおもてしほわきあがり、くらやミのごとくにな
り、どうどうと鳴りはためく、町家の諸人すハや四海浪のうちて、只今敦賀
ハ底の水くづとなるぞやといふほどこそありけれ、磯並に立つづけたる家ど
も、土蔵ともにめきめきゆらゆらとして、かたはしより打たをれけれバ、親
ハ子をわすれ、兄はおとゝをしらず、われさきにとにげ出つゝはしらんとす
るに、あしもたまらず打たをれ、又おきあがりはふはふにげて、笥飯明神瓜
割の水のほとりにつどひあつまる、( 以下略 ) 〔拾椎雑話〕
(木崎窓 /1688-1766、宝暦7/1757刊、福井県郷土誌懇談会刊)
(天変廿一)寛文二年寅五月朔…四つ時大に鳴動し地震甚強く、人々肝をけ
し、何の弁もなく、世は滅するとなきさけひ、老を助け幼を引すり街道の場
中に出す。念仏、妙法思ひ思ひに唱へ、生ける心地はなかりし、大ゆり二時
はかりにて、小ゆりは間もなく止事なし、地は所々割れひびれ、所により大
われは下より泥を吹上げ申に付、戸板を持出、外に畳を敷居たり。晩景漸々
鎮りて海の汐大に引けれは、やかて津波打まくると、いつくともなく云出て
諸方さわきたち、後瀬山・高成寺・常高寺・西福寺山へおもひおもひに逃走
る、此時金銀家財打捨置けり、日を経てもうせたるものなしとそ、右の躰に
て街道に小屋をかけて暮らしける人々、気をへらし心をついやし、折から
取々異説ありて恐れし、就中、むくりこくりと云鬼とも世を取に来て如斯と
云、又大きなる入道坊ン、色紙短冊をうりにありくへし、取あひ申間敷と云、
はうはう見たように沙汰申、弥恐れをなし、諸人死を極て歎ぬ、同十五日の
夜五つ時大地震有、五月中は日夜五三度つゝはよほとの地震止す、三十日過
てよふよふ小屋をはなるゝ、此節窪田何某と申老人、津波は東南の海には有、
北海には有ことなしと申により、聞者少し安堵いたせしと也、地震初てゆり
出す時、大蔵小路・安良町辺に荷付馬多くつなき置、家根より石落、是に驚
きおのれと綱を切、かけはなれ出、此さわき甚し、突抜町に壱人屋根石の落
46(46)
るにあたり怪我有、川端町の末に家六軒立並て有、此六軒残らす一度に潰れ、
老人壱人死す、此外子細なし、
上記史料では、さしあたり敦賀の被災と津波警戒を記した内容に注目したい。
敦賀の被災は町家・蔵の倒壊である。『橋詰久幸文書』と『長滝寺荘厳講記録』
『島原松平文書』が 480という。寛文3(1663)年の敦賀町の
の数字が300余、
戸数2903、人口15,101人というデータがあるから(『寛文雑記』、戸数・人口と
もに江戸時代のピークと推定される)、被災は全体の10%程度と推し量ることが
できる。「死人多し」を敦賀での死者に限定して理解する場合にも一定の死者数推
定根拠になるかもしれない。
また、敦賀では海の異変が生じ、地震に逃げ惑う人びとに津波の恐怖が追い打
ちをかけた様子が『かなめいし』に記されている。津波警戒については『拾椎雑
話』にも記事があり、小浜でも大きく潮が引き津波を恐れた人びとが高所へ逃げ
る様子が描かれている。若狭湾沿岸地域に居住した人びとの「津波の記憶」が前
提にあると理解した場合、表2−11の「天正地震」に前後して襲来した可能性
のある津波との連関が考量される。
なお、
『拾椎雑話』の引く「窪田某」(詳細未詳)の「津波は東南の海には有、
北海には有ことなし」の説は卓見に属する。おそらくは経験則を基礎とした人び
との避難行動とは別に、こうした地方知識人の存在と言説が人心の安定化に一応
の効果を上げていることは確認しておきたい。
その他、表3に載せた地震で比較的大規模と想像されるのが32・33である。
それぞれに継続した史料収集が必要である。
25は敦賀の法華宗本勝寺にのこされた記録にみえる大坂の津波情報である。
本勝寺は京都本能寺の末寺で、同歴譜から、相互に人事交流を含め行き来があっ
たことが知られる。京・大坂の情報も多い。ただ、寛文10年8月の大坂津波を
示す史料は未見で、錯簡や誤記があるかもしれない。後考にまつ。
32・36の典拠史料として掲げ、また、すでに18でも引用した『瀧洞歴世誌』
は、舞鶴市滝ケ宇呂・田村家の家伝史料で、初代利盛(寛永12/1635年)から11
代利隆(明治37/1904 年)まで約270年にわたり田辺藩中におこった出来事を
中心に、天体の記録から洪水・飢饉・地震まで天変地異の記述が多く見られる史
料である(西村正芳2011)。
33『吉坂年代記』は、市瀬家(和田村庄屋)当主が書き継いだ記録で、寛文
4(1664) 年から文化7(1810) 年の記事、23の久末家(新保浦の廻船商、大庄屋)
の『世事覚之帳』も貞享 2(1685) 年から 享保 6(1721) 年までの記事がそれぞれあ
る。
(47)47
一方、酒井家当主の『御自分日記』や、福井藩士の著作で「史書」に分類され
る『片聾記』(伊藤作右衛門、元文2/1737自序)、『片聾記』の遺漏を増補した
(井上翼章、天明
『続片聾記』(山崎英常、慶応2/1866最終自序)、『越藩史略』
元 /1871)なども、継続的に多く災害情報を載せている。
4.18 世紀の地震・津波
(表 4)越前・若狭の地震・津波災害Ⅳ
和暦 / 西暦
越前・若狭に関する記録
年号 年 月 日
37
宝永 2
備 考
9 15 越前地震
〔越藩史略〕
「是夜地震」
1705/11/1
宝永 4 10 4 越前・若狭地震
38
〔高木藤太夫文書ほか〕
(別掲)
1707/10/28
39
【総覧】
(宝永地震)
震央:33.2 N 135.9 E
(和歌山県潮岬沖合太平洋)
M 8.4
8 18 越前地震
〔越藩史略〕
「地震」
1711/9/30 (松平吉品葬礼の項)
正徳 1
正徳 4 12 27 越前地震
40
〔国事叢記ほか〕
(別掲)
1715/2/1
【総覧】
震央:35.4 N 136.6 E
(岐阜県安八郡神戸町)
M 6.5-7.0
(参考)
41
42
43
44
1 24 丹後地震
〔瀧洞歴世誌〕
「正月廿四日未ノ時大地シン、夜亥時
1720/3/20 大雷電」
享保 5
3 4 越前地震
〔鯖江藩日記〕
1726/4/5 「四日、曇、朝五時過震動」
享保 11
1 2 越前地震
〔橘宗賢年中日録〕
1735/2/7 「二日(中略)朝寅ノ比少ク地震」
享保 20
越前地震
7 26〔橘宗賢年中日録〕
「廿六日ノ夜亥ノ刻地震」
「
(1
0月)三日未ノ刻地震」
(閏1
0月)十八日卯ノ刻前地震」
1737/8/22 「
元文 2
越前地震
45
9 〔橘宗賢年中日録〕
【史料】
「九日天気能、朝辰ノ刻少地震」
7月彦根
「
(9月)十一日天気能、夜亥ノ尅地震」
(∼28日)
1739/8/13 元文 4
48(48)
7
越前地震
〔橘宗賢年中日録〕
【史料】
元文 5 4 25「廿五日(中略)昼ノ八ツ過地震」
46
4月京都・大坂
「
(6月)廿七日(中略)朝辰ノ剋ノ時分
6月大坂・彦根
地震強キコト稀近年」
1740/5/20 「(9月)十三日(中略)至暁少地震」
47
寛保 1
7 19 若狭湾に津波到達
〔柴田一男文書ほか〕
(別掲)
1741/8/28
48
【総覧】
震央:41.6 N 139.4 E
(北海道渡島大島北方日本海)
M 6.9?
越前地震
8 21 〔橘宗賢年中日録〕
「廿一日(中略)夜戌ノ剋過ノ比地震」
1741/9/30 「晦日(中略)今夜亥ノ剋過地震」
寛保 1
越前地震
〔橘宗賢年中日録〕
十六日(中略)
今日朝辰ノ剋、浄慶寺ノ
寛保 2 2 16 一乗義景<抹消 / 英林>ノ塚鳴動ス、
同日ノ夜亥ノ剋時分地震」
49
「
(7月)十五日今夜四ツ過ノ比少地震」
(∼1
8日)
「
(9月)三日夜地震」
(∼4日)
(1
2月)七日亥ノ剋少地震」
1742/3/22 「
50
51
52
53
54
55
56
57
越前地震
2 21〔橘宗賢年中日録〕
【史料】
「廿一日明六ツ過ニ地震少しゆる」
5月彦根
1743/3/16 「
(5月)十日昼過七ツ時地震」
延享 1 8 19 越前地震
〔橘宗賢年中日録〕
1744/3/8 「十九日(中略)七ツ時少地震」
延享 2 1 30 越前地震
【史料】
〔橘宗賢年中日録〕
彦根
1745/3/2 「廿九日、夜明大ニ地震」
越前地震
【総覧】
項目あり
延享 3 3 24
〔橘宗賢年中日録〕
【史料】
1746/5/14 「廿四日陰天、戌剋地震」
江戸・日光・京都など
若狭地震?
【総覧】
延享 4 12 27【三方郡誌】
「地震」
なし、史料に疑義呈す
【福井県の気象】
「若狭三郡にわたり地【史料】
1748/1/27 震、死者 615 人」
伊勢・加賀・彦根(別掲)
寛保 3
【総覧】
2 29(参考)
震央:35.0 N 135.8 E
畿内・加賀・越中・越後・信濃・因幡で
(京都市山科区)
地震(越前・若狭にかかる史料未検出)
1751/3/26
M 5.5-6.0
寛延 4
6 30 越前地震
〔越藩史略〕
「酉ノ刻より中夜迄地震ふること七次」
1757/8/14
宝暦 7
越前地震
安永 1 12 20〔越前町梅浦・岡田健彦文書 / 日記〕
「十二月十九日夜八 / 丑ノ刻ニヲイテ
1773/1/2
大イニ地震動ス」
(49)49
58
59
60
61
62
63
64
65
越前地震
安永 2 12 11〔岡田健彦文書 / 日記〕
【総覧】
「十二月十一日夜亥ノ刻口ニ地震動 項目あり、震央データなし
1774/1/22 ス」
8 16 越前地震
〔岡田健彦文書 / 日記〕
1775/9/10 「八月十六日未ノ下刻少シ地震動ス」
安永 4
越前地震
3 31〔岡田健彦文書 / 日記〕
「三月戌十一日子ノ刻時分少ク地震
1776/4/28 ス」
【総覧】
安永 7 10 7 越前地震
震央:34.0 N 136.0 E
〔岡田健彦文書 / 日記〕
(三重県熊野市神川町)
「十月七日未上刻地震動ス」
1778/11/25
M6?
天明 2 7 25 若狭地震
〔酒井 / 栗原家文書・栗原春次覚書〕
1782/9/2 「同年七月十五日、余程之地震四度」
敦賀地震
天明 3 7 7 〔敦賀・本勝寺歴譜〕
天明3年4月∼浅間山噴火
「
(天明3年)七月七日、自酉尅至翌日
1783/8/4
大地震動ス、信州浅間焼動気也」
寛政 2 9 4 越前地震
〔鯖江藩日記〕
1790/10/11 「四日、晴、今朝六時過地震有之」
越前地震
【史料】
寛政 2 10 1 〔鯖江藩日記〕
飛騨丹生川・加賀川北・鳥取・摂
「十月小朔日、晴、今暁丑上刻地震有
津池田・京都など(9/ 晦-10/1)
1790/11/7 之」
安永 5
(参考)
丹後・若狭地震
【総覧】
寛政 4 3 1 〔瀧洞歴世誌〕
(島原大変)
66
「七日間若狭大地震、九州九ヶ国並 4/1 震央:32.8 N 130.3 E
に天草共に大割れ人馬死す」
(島原市有明町付近)
M 6.4
1792/4/21
表 4 − 38
〔敦賀・高木藤太夫文書 / 樫曲村年代記〕
宝永四亥年十月四日大地震、郡中ニ人ハ不損候、同時大坂ニ津浪打人多ク死、
〔本勝寺歴譜〕
同暦(宝暦 4 年)十月四日午尅大地震、五畿内・南海・東海道、殊ニ摂州・
紀州・三州・遠州震フ事勝于余国、就中大坂人家潰レ船破レ橋砕テ而死ル者
其数不可勝計矣、
〔美浜・奥村勇文書 / 地頭之覚〕宝永四年亥年(中略)十月四日ニ大地震ニ而
大坂ツなミ打入一万余死候、
〔三国・久末重松文書 / 世事覚之帳〕
宝永四年亥十月四日大地震、大坂・四国・紀州津浪ニて人多ク死ス、家等も
50(50)
大分つふれ申候、東海道筋村々家ながらつぶれ申候、江戸より東ハさのミい
らず、加賀より北もさのミゆらす、三十日程毎日少宛ゆり申候、
〔大野・花倉家文書 / 公私諸用留〕十月四日ニ□□共地震(以下略)
〔拾椎雑話〕午下剋大地震ゆり出、諸人驚き街道へはしり出ける、小半時斗に
相止、屋根より石の落事なし、水物はだぶつきこほれ、此時裏町に松本町・
須崎町へ抜る小路中程小家二軒潰れ、此外破損なし、大ゆりの後小ゆりは
度々、二三日の間も折々有、其頃打続き天気はれ、汐も一二町程は度々引ぬ、
〔続片聾記〕御国大地震、
〔瀧洞歴世誌〕十月四日、大々地震、少有テ五百目鉄砲如打天二十斗鳴、此時
大坂津波、凡数万人死ス、五十日余、昼夜共小地震不絶、
いわゆる「宝永地震」で、震央は潮岬沖合。太平洋側に巨大津波を含む大きな
被災をもたらしたことはよく知られている。しかし、上記史料にみえるように丹
後から越前・若狭・加賀に至る地域にあっても「大地震」との体感があり、人的
被害こそ記録されてはいないものの、家屋の被災は一程度あり、また引き潮を観
測しているようである。
表 4 − 40
〔福井・国事叢記〕十二月廿七日子刻、北国筋大地震
〔名古屋・鸚鵡籠中記〕(尾張藩御畳奉行・朝日文左衛門重章の日記)
今夜電間光り天近しと云々、深更乾より鳴来て、地震、八年先のよりあたま
から強して短し、ゆり仕廻ければ八つの鐘聞ゆ、夜明迄二度ゆる、(中略)
加賀のいせ参りの咄し、廿七日の夜、越前の福井にとまりしに、夥敷鳴動、
屋もよ程くづれ、町々外へ出て夜明し、旅人ははたごくわず、湯漬にて立し
と云々、加越大地震と云々、(以下略)
地震ののち、加賀から来た伊勢参りの一行は福井でこの地震に遭遇したらし
い。家が崩れるほどの地震で、町人たちは外へ避難して夜明かしし、旅人は旅籠
での食事を取らずに(?)湯漬けをかき込んで早々に出立した模様である。
「北
国筋大地震」の中身がこのようなかたちでわかるのも、江戸時代における「情報
化」の一端というべきである。なお、40については、大垣城を大破させるなど
美濃・尾張・伊賀などに被災史料がのこされている。
表 4 − 47
〔敦賀・柴田一男文書 / 年々跡書帳〕寛保元辛酉何七月十九日、当地大塩こみ、
(51)51
赤川よりこみ抔、筑屋敷ノ裏をさかの(遡)ほり、海上波もさしてあれすニ
塩さす也、此時本松前・江指ニて死人三千余、舟七十余破損之由、松前ハ
[七月]十九日と廿四日両日大津波故、右之ことし、本松前家廿七軒流レ、
本松前と江指との間之浦々村ニより一軒一人も不残も有之、又ハ一村ニ二三
人も残り、家も一二軒も残り候事、其上大嶋と申山十三日より焼出し、
[廿三
日迄]今ニ火とまり不申候て、江指なともくらく、本松前通路も絶申処ニ右
之大津浪、松前ニてハ人心ちも無之段申来候、委細書付も候へ共、いまたう
つし不申候よし、此七月十九日ニハ丹後田部・小浜辺も同し事、若浦々同
断、のとの輪島と大津波のよし、大変といふへき事也、※[ ]は挿入部
〔河野・右近純一文書 / 金相寺過去帳〕寛保元年七月廿九日朝五ツ時松前江差
大津波(中略)当処ナドシホノ指引上下スル事六七尺、下浦ハ壱尺弐尺ホド
指引申、昼ノ九ツ時ニ処ル、未曾有ト云々、
〔拾椎雑話〕十九日午下剋、小浜町浦急に汐込あり、凡二十間余、しはらくあ
りて引、是まてケ様の汐込例なし、人々不審をなす、
(以下、松前情報、略す)
〔瀧洞歴世誌〕十九日、大入村近所四五ケ村津波打
〔舞鶴・金村家文書〕寛保元年酉ノ七月十九日、小橋村・野原村高浪痛、八拾
軒内弐拾軒ハ潰家、(中略)世間ニたとへ申様ニハ津波と申候、俄ニ出来申
し浪差而大風も吹不申ニ出来申波に而候、
渡島大島の火山活動による地震・津波は江差・松前地域から東北地方北部日本
海沿岸地域に多大な被災をもたらした。津波は輪島でも激しく、さらに若狭湾や
山陰地方にまで及んだことが確認されている。ここには、関係史料のうち河野・
敦賀・小浜・
「若(州)浦々」・舞鶴(「大入」は大丹生であろう)といった若
狭湾沿岸地域に押し寄せた津波について記している史料を掲げた。地震を体感し
ないままに津波が寄せるという事態を、「海上波もさしてあれすニ塩さす也」「是
まてケ様の汐込例なし」「未曾有」と表している。敦賀の場合、「筑屋敷」(現在
の三島町)あたりまで津波が川を遡ったようであるが、人的・物的被害の様相に
触れていない。また河野でも「六七尺」などとあるから、浸水程度の軽微な被災
であった可能性が高い。
また、
『年々跡書帳』『拾椎雑話』ともに時差をもって得た松前からの情報に接
し、実像を理解していく経緯が示される点は歴史情報学の要件といえる。
表 4 − 54
〔伊勢・外宮子良館日記〕十二月廿七日、朝地震、
〔金沢・変異日記〕十二月廿八日、巳下刻余程之地震、
52(52)
表 4 − 55
〔金沢・変異日記〕二月廿九日未刻金沢地震、京ハ大地震、
55は、表2− 4 と同じ地点に震央が推定され、同様に越前・若狭地域の被災
の有無が確認されていない地震である。ただ、平安時代末期の4と異なり、55の
場合は江戸時代中期の地震であるため、史料の数も多く、また畿内から東は信濃・
越中・越後、西は因幡に至る地域で被災が確認されている。4 理解へのフィード
バックも含め、地震伝播の問題を考える素材として貴重なのかもしれない。
63は浅間山噴火、66は雲仙岳噴火(「島原大変」)にともなう地震の余波とも
考えられる地震記事である。ともに遠方の火山性地震であるから、震源を異にす
る地震を、後聞した火山噴火と結びつけて記主が理解し、書き留めた可能性を排
除できないが、まずは原史料の表現を尊重しておきたい。
その他の地震はそれぞれ比較的孤立した史料(地震記事)が多い。「大地震」
などと記すものもあるが、地震の詳細を知り得ない。ただ、前節でも触れたが、
『橘宗賢年中日録』
『岡田健彦文書 / 日記』『鯖江藩日記』のように、継続的に記
録される史料があることによって、軽微な地震についても情報が得られているこ
とも確かである。
5.19世紀(明治以前)の地震・津波
歴史史料一般で確認されることであるが、地震史料においても19世紀にはい
ると格段に増加する。大規模地震も続発しているが、それ以上に、地域で作成・
保存される情報の質量が確かなものになることが最大の要因である。したがっ
て、調査という点では、地域の人材が主体となった調査・研究が必須の項目とな
る。
(表 5)越前・若狭の地震・津波災害Ⅴ
和暦 / 西暦
年号 年 月 日
67
68
享和 2
3
1802/4/6
越前・若狭に関する記録
備 考
4 若狭地震
〔雲の浜見聞録〕
(別掲)
享和 2 10 23 越前地震
〔三国湊御用留帳ほか〕
(別掲)
1802/11/18
文化 9 12 18 若狭地震
69
(別掲)
1813/1/20 〔古川嘉雄文書ほか〕
【総覧】
震央:35.2 N 136.5 E
(三重県いなべ市藤原町)
M 6.5-7.0
【史料】
京都
(53)53
70
文化 12
1 21(参考)
丹後地震
〔宮津歳仲日記〕
(別掲)
1815/3/1
71
72
文政 2
6 12 敦賀・若狭地震
〔古川嘉雄文書ほか〕
(別掲)
1819/8/2
文政 13
7
天保 4 4
【総覧】
震央:35.2 N 136.3 E
(滋賀県犬上郡多賀町)
M 7.3
2 敦賀・若狭地震
〔古川嘉雄文書ほか〕
(別掲)
【総覧】
震央:35.1 N 135.6 E
(京都府南丹市八木町)
M 6.5
9 越前・若狭地震
〔古川嘉雄文書ほか〕
(別掲)
【総覧】
震央:35.5 N 136.6 E
(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
M 6.5
【史料】
美濃・近江・加賀など
1830/8/19
73
【総覧】
震央:36.4 N 136.5 E
(石川県小松市軽海町)
M 6.0
【史料】
糸魚川・小松・京都など
1833/5/27
【総覧】
震央:38.9 N 139.25 E
(山形県酒田市沖合日本海)
M 7.5
74
天保 4 10 26 若狭湾に津波到達
〔古川嘉雄文書ほか〕
(別掲)
1833/12/7
75
若狭地震
天保 8 11 9 〔当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書
留日記〕
1837/12/6 「同十一月九日夜九ツ時小地震ゆる」
76
弘化 4
3 24 越前地震
〔続片聾記〕
(別掲)
1847/5/8
77
78
嘉永 7
6 15 越前・若狭地震
〔西村弘明文書ほか〕
(別掲)
1854/7/9
嘉永 7 11 5 越前地震
〔西村弘明文書ほか〕
(別掲)
1854/12/24
79
【総覧】
(善光寺地震)
震央:36.7 N 138.2 E
(長野市坂中)
M 7.4
【総覧】
震央:34.75 N 136.0 E
(京都府相楽郡南山城村)
M 8.4
【総覧】
(安政東海地震)
震央:34.0 N E137.8 E
(静岡県浜松市・磐田市沖合)
M 8.4
(安政南海地震)
震央:33.0 N 135.0 E
(和歌山県潮岬南西沖合)
M 8.4
【総覧】
2 1 若狭地震
震央:36.35 N 136.9 E
〔当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書
(富山県南砺市成出)
留日記ほか〕
(別掲)
M6
1855/3/18
安政 2
54(54)
80
安政 5
2 26 越前地震
〔大野町用留ほか〕
(別掲)
1858/4/9
81
【総覧】
(飛越地震)
震央:36.4 N 137.2 E
(岐阜県飛騨市宮川町)
M 7.3-7.6
若狭地震
【総覧】
1 29〔当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書 震央:35.0 N 134.8 E
留日記〕
(兵庫県神崎郡市川町)
1865/2/24 「丑正月廿九日暁七ツ時中地震ゆる」M 6
元治 2
表 5 − 67
〔雲の浜聞見録〕
(天文)地震は稀なり、七月十八日着してより其年(享和元)
は一度もなし、翌年三月四日暁七つ頃初めて地震す、其後も四月十七日夜五
つ時地しん、四月八日朝二度有しよし、予は不知、地震は東海のごとく潮の
満干なければ少しといえり、当国潮の満干なしと聞くとも少は有とみへた
り、
『雲の浜聞見録』は、江戸において召し抱えられた藤林誠政が享和元(1801)
年から翌年にかけて、小浜藩主酒井忠貫に従って小浜を訪れた折の見聞をまとめ
た博物誌というべき作品である(『福井県史』通史編・近世1)。分析的な記述で
みずから体験した享和2年の地震を記している。
表 5 − 68
〔鯖江藩日記〕廿三日、曇、暁七ツ時過地震
〔三国湊御用留帳〕十月廿三日暁七ツ時分之比大地震、近年無御座地震ニ候、
昼時より雨ニ相成申候、
地震データは表5の通りで、畿内から因幡・尾張・加賀・近江・美濃・飛騨に
も地震記録がある。被災程度は軽微と考えられるが、近年にない激しい揺れで
あったことも確認される。
表 5 − 69
〔小浜・古川嘉雄文書 / 永代記録控〕十二月十八日戌下刻鳴動シ地震ス、依之
大雪ト評有、十五日夜四ツ時、近年覚無之余程之地震有之、十九日暮方ニも
又少々之地震在之、十七日より雪降、
〔京都・鴨脚家文書 / 秀豊日記案〕十八日、晴、亥上刻地震、
『永代記録控』
を記した古川家の当主の関心は大雪の前兆としての地震にあると
(55)55
も読める史料である。近年記憶しないほどの地震との評を記しているが、これも
大雪の程度と関係しての記述かもしれない。地震による被災は無いか、軽微な程
度と推定しておく。
表 5 − 70
〔宮津歳仲日記〕
(宮津・丸田屋庄助の日記)
文化十二年乙亥正月廿一日夜五つ半時より四ツ時迄地志んゆり、家めきゝゝ
ゆる、五つ時半時々大ゆり、四つ時は小ゆり□□近年大地志ん也、
この地震についての越前・若狭地域の史料は未見であるが、震央が加賀であり、
宮津でも体感した記録があるので参考までに掲げた。
表 5 − 71
〔小浜・山岸惟誠記 / 文暦三〕
同十二日、今申刻大地震、御城内別格之儀は無之候得共、瓦落候家諸々有之、
作事屋より会所迄之道割レ其余泥吹出候様之家も有之趣不怪義ナリ、
〔古川嘉雄文書 / 諸事覚日記〕六月十二日未下刻、近年無之大地震、す先町、
川先町、御家中所々地面三五寸程割ル、土橋両詰割候ニ付、十四日山往来ニ
難儀、此震越後より北無異、越前より山陽山陰甚シ、畿内東海道上方江州別
テ甚タ人死有之、
〔小浜・団家旧蔵文書 / 当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書留日記〕
同六月十二日昼八ツ半時大地震ニ而所々方々蔵の壁われ申候、家之破損夥敷
事也、其外江州大溝辺より向八幡辺夥敷痛候よし、(愛宕社再建の件略す)
〔熊川区有文書 / 御用日記〕文政8年2月日・土蔵再建願書
乍恐奉願口上之覚」一、私所持之土蔵壱ヶ所御座候処、下地古蔵ニテ、其上
文政卯年大地震二而及大破、無拠此度破損取繕仕度奉存候(以下略)
〔酒井家編年史料 / 須田家文書〕常式無之替事
珍敷事凡六十年計留
同(文政2年)六月十二日大地震、御国にてハ珍敷事也、
〔酒井 / 世久津(田井)武長家文書・永代日記〕十二日八ツ時ニ大地ニテ家潰
レ倉痛、手前新田モ一面弐寸計ユリコム、
〔酒井 / 三方郡大野家文書〕文政三年庚辰七月廿五日・土蔵建替願書
「卯夏(文政2年夏)大地震に土蔵崩れる」という
〔旧名田庄村・吉岡徳右衛門家文書 / 日用宝〕文政二卯六月十二日大地震、
〔宿浦区有文書 / 在所永代帳〕一当六月十二日昼八ッ時大地震ニテ村中大騒、
誠ニ前代未聞之事ニ御座候、当地何之障りも無之候得共、敦賀表ハ大破ニて
56(56)
家なとも早々潰候由、
〔岩本区有文書 / 岩本村寄合記録〕六月十二日七ツ前大地震、当国ニ而ハ敦賀
郡余程之事、南条郡も西南ニより候所ハ相応ニ強ク、其余ハ格別之義無之候、
(以下略)
〔大野・花倉家文書 / 日記〕十二日(中略)八ッ時大地震、
〔宮津歳仲日記〕文政二年酉六月十二日夕方七つ時より大地震ゆり、実ニ近年
地志んなり、
(以下略)
いわゆる「文政近江地震」で、関係史料は質量ともに豊かである(石橋克彦
2011)
。上記史料のうち、
『山岸惟誠日記 / 文暦』は小浜藩士山岸家当主の日記で、
惟誠は伴信友の名で知られる山岸惟徳の甥になる。地震規模は、城は「別格之儀」
がなかったが、民屋や土蔵が倒壊し、土橋が損壊して祭礼行事に支障をきたし、
地盤沈下(
「ユリコム」)が生じたことなどから推定できる。また、地域的には南
条郡西南部から敦賀郡、若狭地域に大きな被害をもたらしたようである。
表 5 − 72
〔古川嘉雄文書 / 諸事覚日記〕六(七)月二日申中刻地震、夜中追々少宛ノ事
ニテ三日鎮り無事、此時京・伏見・亀山甚敷、二日申より夜中追々三日辰巳
刻迄ゆり、崩家多ク死人有之、
〔山岸惟誠記 / 文暦四〕同二日、七ツ時分強地震、其後も少ツヽ毎度震、(中
略)同八日、二日之地震小浜も同様之由、
〔吉岡徳右衛門家文書 / 日用宝〕文政十三庚子年七月二日大地震、之より同年
極月迄日々地震あり申候、
〔高浜・清常孫兵衛文書 / 永代萬記書〕文政十三年七月三(二)日京都落中落
外大地震、京都のそうどう大方ならず、(中略)当国茂三日七ツ時ニ大地震
ニ候得共、何之痛も無之候、(以下略)
〔本勝寺歴譜〕天保寅ノ年[欠損]同七月二日前大未聞大地震也、
〔民基々郡散〕大坂の町人扇や十兵衛書状
当月二日七時より京都大地震ニ而、翌三日夕方迄ゆり通し(中略)大坂も右
之地震の響にて二日七時の地震ニ候へとも家蔵の損し候程の事ハ無御座候、
(中略)若狭・丹波の間阿尾郡とか申所七ケ村、山津なみニ而崩れ申候由、
右之趣向ヒの亭主より承り候儘申上候、(以下略)
この地震では家屋倒壊による死者もあったようである。山岸惟誠は敦賀に居た
ようだ。
「天保寅年」は元年と13年があるが、7月2日の地震ということで『本
(57)57
勝寺歴譜』の記事をここにおいた。『民基々郡散』はミキキグサと訓む。これに
引かれた大坂の商人の書状に「阿尾郡とか申所」とあるのは若狭国青郷(高浜町
内)の事と理解してよいだろう。ただ、「何之痛」もないという史料もあり、避
難を必要としたり、日常生活に直ちに影響を及ぼすような被災はなかったようで
ある。
表 5 − 73
〔続片聾記〕四月九日地震にて所々破損多し、
〔古川嘉雄文書 / 諸事覚日記〕四月九日巳刻地震、此時美濃地甚敷人死多、
〔山岸惟誠記 / 文暦五〕同九日、昼過強地震其後も少宛毎々震、
〔美浜・加茂徳左衛門文書 / 日記〕九日(中略)昼九つ時ニ大きな地志ん入候、
又々少々間致候而ハ又々壱つ入候、八ツ時時分に又々壱つ入候、
〔鯖江・西福寺文書 / 日記帳〕一、天保四年四月ミノ根尾谷筋大地震之事、一、
天保四巳年四月九日九ツ時、当所近来無之大地震、(以下略)
この地震については、美濃・近江・加賀・伊勢・奈良・京都・大坂・江戸など
でも記録がある。上記史料では地震発生時刻にやや異同があるが、越前・若狭地
域の被災の程度は大きいものではなかったことが確認できる。
表 5 − 74
〔小浜・古川嘉雄文書 / 諸事覚日記〕十月廿六日暁丑上刻地震、明ケ辰刻沖よ
り汐込ニテ川迄差込、此時能州輪嶋津濤ニテ三百軒流レ、人死四人斗、
日本海北部沖に震央を有する地震で、津波被害が沿岸地域にもたらされた。上
記史料にも輪島の被災が載せられているが、実際はこれを大きく上回る死者数・
被害家屋数を記録した史料が『加賀藩史料』等に載せられている。津波は若狭湾
にも達し、川を遡ったようである。被害記録はない。隠岐島で床上浸水規模の被
害もあった(
『村上重子文書』
『新修島根県史』史料編2)。ちなみに、地震を体感
した丑刻から津波到達の辰刻までは約 6時間である。
表 5 − 76
〔続片聾記〕同廿四日夜四ツ時大地震、明方迄度々ゆり申候而、同日信州屋代
宿
善光寺門前牟礼宿、野尻宿、柏原等大地震に而潰家夥敷、死人・怪我人
数多有之、(以下略)
〔小浜・古河家文書 / 分合記〕二十四日(中略)亥時地震、
(∼5月、地震記事)
58(58)
いわゆる「善光寺地震」で、福井でも揺れがあったことが確認できる。すでに
江戸時代の「情報化」も進化を著しくしていたとおもわれ、18世紀後半期からは、
浅間山噴火やこの善光寺地震などの聞書が福井県内旧家の史料に散見されるよう
になる。すでに掲載した諸史料にもみられたことであるが、記主が体感した地震
についても、おそらくは後聞に属する情報を加えて実録的な記載をのこすという
スタイルが定着してきていることもわかる。『続片聾記』のような「史書」に属
する作品であればそうした態度は鮮明である。
表 5 − 77
〔敦賀・西村弘明文書 / 諸事留〕嘉永七甲寅六月十四日夜八ツ時大地震ニテ大
津潰家三百五十軒斗、尾花川辺大破、加賀蔵同断、勢州四日市大破出火、桑
名辺迄宿々村々大破、京・大坂ハ少々損シ申候へ共、格別之義ハ無之、小
浜・敦賀格別破損無之、大和内乗印(大乗院)大破、(以下略)
〔小浜・高橋豊彦家文書〕六月十四日夜七ツ時大地シン、
〔古川嘉雄文書 / 日記〕十五日(中略)今暁八ツ半前地震、先年京都大地震之
時当地ニ震と同等候、(以下、25日まで地震記事あり)
〔当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書留日記〕(小浜・井筒屋勘右衛門の記録)
六月十三日八ツ時小地震ゆる、
同十四日夜七ツ時ニ大地震ゆる、不残目を
明ケ瀬戸・加戸へ逃去候、(中略)十五日暁六ツ時過ニ又々大地震ゆり、五
ツ時迄ニ五ツ斗もゆり申候、(以下、7月まで継続して地震記事あり)
〔今庄・島崎文四郎文書 / 年代録見聞録〕十四日夜八ツ時大地震ふるう(中略)
去ル天保元年之大地震以来、(中略)同十五日朝六ツ時、同六ツ半時と弐ツ
ゆる、是小也、
(以下略) ※「天保元年之大地震」=表5−72
〔宿浦区有文書〕寅六月十五日暁七ツ時より地震ゆり出す、余程之間ゆり、明
方迄ニ五ツ斗ゆり、二三日之間少サ成地震折々、(以下略)
〔丹生郡大森村・大森英世文書 / 雑記〕六月十四日(中略)一此夜八ツ時、大
シ地震、暁方迄五回程、六月十五日 ( 中略)一小地震、昼寝時、
〔三国・大門町記録〕同七年寅夜八ツ時大地震、江州・伊賀・伊勢其外東海道
辺大イタミ、当所ハ無事乍珍敷大地震ニ而、八十才之人も覚へぬ地震と申事
ニ御座候、
(以下略)
〔大野・野尻源右衛門文書 / 諸用留〕六月十五日朝七ツ時大地震ニ而世上諸人
驚入候、
(中略)当国抔も府中より福井町ハ大野より強く候由承り候、
〔大野・鈴木善左衛門文書 / 六番記録〕六月十三日朝五ツ時より福井町大火、
塩町より火出、夫より南田原町賀加口御門之町迄焼抜、(中略)十四日夜大
地震、十五日大雨、夫より殊之外不順之季作ニ而、且出水ニ而、(以下略)
(59)59
〔勝山・松屋文書 / 萬記録〕六月十六日、夜九ツ半時大地震、(以下略)
〔山口家譜〕六月十四日暁八ツ時過大地震、夫より追々少々ツヽゆり申候、京
都諸国とも同様、(閏7月まで地震記事あり、略す)
〔内外見聞日録〕六月十四日、晴、今晩八半時頃地震細長シ、
〔続片聾記〕六月十五日、時夜八ツ時頃地震、別而大津辺損所有之由、
〔嘉永七年大地震記(嘉永七年甲寅年六月十四日夜大地震勢州四日市調書上)〕
(前略)当月十四日の夜八ツ時より大地震、明方迄少々宛数知れず、十五日
朝五ツ時亦候大地震にて十六日暮方迄に左の通、一南都にて大小七十三度、
(中略)一越前福井七十五度、(中略)一越前福井、十三日五ツ時、塩町か
ぢ町より出火、大風にて九十九橋より二百町計り、寺院百ケ所計り焼失、其
後十四日夜大地震にて田畑泥海に相成候て、(以下略)」〕
この地震は最大被災地に由来して「伊賀上野地震」と呼ばれる。地震規模は
「珍敷大地震ニ而、八十才之人も覚へぬ地震」ではあったが、そう記した三国も
「無事」であり、小浜・敦賀も「格別破損無之」と記録されている。福井は大火
に続いて地震(
「七十五度」)があり、大雨が続いたようである。ただ、藩の対応
として大火については幕府へ届を出しているが、地震被災については触れていな
。
い(
『越前松平家家譜』、福井県立文書館資料叢書 6)
表 5 − 78
〔敦賀・西村弘明文書 / 諸事留〕同年(嘉永7)霜月大地震、霜月三日冬到
(至)ニテ、三日夕方より四日朝江雪四尺降積り、朝五ツ半時大地震、爰許
ニ而も家内之者不残海道迄出申候位、門柱其時少々ワレ申候、追々雪積り五
尺餘ニ相成、其日七ツ時分大地震、夫より日々地震止ミ不申候、十七八日頃
迄心なし折々有之候、疋田村ニ而も外小家掛置過し居候趣、
敦賀御陣屋大破損<中門潰レ / 屏重門>、四屋敷之内、西御奉(行脱カ)所
所指物落而、常器類不残損ル、川端タハ高塀堤内ハ壁落、御代官南屋敷書
院潰レ、北も損有之、御長屋高塀倒、新田稲荷前元〆御手代寺井丈二宅半潰
レ宅替、御かそ(衙署?)入口ニ馬喰有之潰レ、祖父母両人下ニ成ル、祖父
速死、牛二疋下ニ成候へ共無難ノ由、真願寺本堂ユカミ椽側屋根五寸斗ハナ
レル、庫裏ハ壁惣落、中村与八右衛門座敷・雑蔵潰レ、打它弁次郎座敷露家
破損、其外町中破損無之家蔵ハ無之由、(原史料写真を参考に校訂)
〔当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書留日記〕十一月四日五ツ時ニ大地震ゆり、
夫より昼中ニ四ツ五ツもゆり、今晩もゆり申候、又々同五日夕七ツ時半ニ大
地震ゆり申候、当夏同様之地震ニ而、皆々瀬戸・門戸へ逃去候、蔵抔少々
60(60)
ツヽ痛申候、
(中略)右ニ付町中大キニ騒キ四社様へ参詣致候也、(以下、安
政2年9月までの地震記事、略)
〔小浜・師岡家文書 / 覚書〕十一月四日朝五ツ時大地震、夫より毎日久敷少々
ツヽユスル」同十七日暁八ツ時分より大風、御家中内所々
木折レ或ハたを
れる、町家ニ而新家二三軒も潰レ候由、右両変ニ付、御長屋大破ニ相成、表
高幣屋根破損、
(以下略)
〔堤・岡本喜左衛門文書 / 永代記録〕一、十一月四日五ツ時大地震□□五六日
七日八日九日十日、大小十五六度いり候得共、当地何之障り無之、小浜御屋
敷所々高塀抔倒損ス、ツルカ家家廿軒斗も潰レ候、(以下大坂等の被災、略)
〔丹生郡大森村・大森英世文書 / 雑記〕十一月四日、五ツ半時大地震ニ付家中
之もの内より出ル、十一月五日大地震、十一月六日地震、十一月七日地震、
十一月九日天気よし、夜四ツ半時地震、
〔宿浦区有文書 / 覚〕寅十一月四日朝四ツ時より大地震ゆり出す、余程之間也、
道歩行ニ障り候得共四丁余も歩行いたし候程ゆり申候、夫より日々之事ニ而
大キニ当惑いたし、翌春へ掛ても数度有之候、
〔鯖江・乗誓寺過去帳〕(定政啓之『近世の戸口下村』収載)
十一月四日五ツ半トキ大地震、同五日七ツ半大地震、夫より二十日時分マデ
昼夜折々有之、東国駿遠大地震大津波ニテ村タヘノ処モ有ル由、尚又大坂辺
ハ五日七ツ半時ヨリ大津波ニテ橋十余オチ、大船馳込人多ク死ストイウ、
〔鯖江・間部家文書〕十一月九日、一、此比度々地震之処、福井表者別而強相
震、
(以下略)
〔三国・大門区有文書 / 記録〕十一月四日朝四ツ時大地震、大坂大津波、阿波
之国大津波之由、東海道筋大イタミのよし、
〔旧芦原町・大連彦兵衛家文書 / 御用留〕一、大地震、十一月四日朝古今未曽
有、再五日昼七ッ半時前のことし、此時□□□おみな・羽祢・おます西大小
屋・蔵潰、其外痛所数多、(中略)夫より折々地震不止、
〔福井・小島家文書 / 嘉永七年十二月九日・大地震ニ付御手当頂戴帳〕
(本文
略)
〔大野・野尻源右衛門文書 / 諸用留〕一、十一月四日朝五ッ半時大地震ニ而、
世上諸人驚皆々家内ニ居兼、外江出申候、夫より日三四度、夜中同断、翌五
日も昼之内両三度、暮方ニ大分震申候而、夜中四ツ明又々ふり出し、是も三
四度、又其翌朝少震ふり申候、当日天気空ニ而諸人安心申候、此間内日和悪
敷、雪降ル中に度々の地震ニ而、諸人驚申候所故、当六日之日天気よろしき
候て静り候も偏ニ仏神之加護と奉存候、」一、地震静り候様存候処、七日ニ
至り朝少ゆり、日之内静ニ而、夕方六ツ過迄又ゆり、八日朝も少しゆり候へ
(61)61
共次第ニ度数もへり、ゆりも少しニ而、何ソ仕事して居る時は志れ不申、十
二月廿日朝迄折々ゆり四十五日之間ゆり申候、
(中略)大野町ニ而は同町亀屋
茂左衛門土蔵二ツ壁落申候、
〔大野・鈴木喜左衛門文書 / 六番記録〕一、十一月四日朝五ッ時過、小地震よ
り段々ゆり強く相成、皆々内より逃出申候、下拙は南大戸口ニ居候て中柱之
動くを見居候、中柱上之所ニ而壱尺動き候様ニ相成候、段々ゆり強候故いろ
りの火をけし申候、下拙儀は雷ニは恐しく候得共地震ニ恐れ不申故、落着居
候心持ニ候所、余り長くゆり候故、余程恐れ候証拠ニハ、右火を消ニ水杓ニ
而四五杯かけ候へ共不消、其中ニ思付の水盥ニ而水を汲、一はいにて消申候、
凡四半時斗も強ゆり候様ニ覚申候、夫より小ゆり折々いたし、翌五日はん七
ツ時過迄中位のゆり度々、此時も皆々内より欠出申候、夫より折々ゆり候故、
夜分は六疊間を茶間ニ皆々臥居□□を、敷雨戸を明け、はき物を回し置、灯
ちん・燵抔を傍二置、臥居候、六はん斗迯用意致寝申候、大体大野中皆々内
方迯出申候、潰家ハ壱軒も無之候、当家之家壁大分割申候、大橋向は少強く
様子、惣して沼田地面はゆり強く候様子也、
」十一月中毎日毎夜ゆりけ度申
候、諸国地震之次第」一、福井大分強く、焼小屋抔、或ハよハき家十五六軒
も潰れ、御家中塀所々倒申候、依之藤助遣申候、」一酒弐升 跡部幸八郎へ」
一、福札拾匁四分 西善寺へ」一、丸岡ハ大野より強様子候得共潰家無之」
一、勝山は大野よりゆるく様子」一、府中・鯖江・三国辺何れとも丸岡位之
様」一、大聖寺ハ大分強く、潰家も有之候由、夫より賀加之方ハ至てゆるく
様子」
(以下略)
〔越前松平家家譜〕一、十一月廿六日、去四日・五日御国許大地震ニ付、御用
番松平伊賀守殿御用御頼、御老中阿部伊勢守殿江左之通届書被指出之、
越前国去四日巳刻前稀成大地震有之、翌五日申刻過又々強相震、其後引続
度々相震今以相鎮不申、右地震ニ而城内外破損処出来、其外家中
町家、領
分郷中潰家・半潰破損所夥敷、死人・怪我人等有之、委細之儀者相知不申、
此段先御届申候、以上」十一月七日 松平越前守
〔越前松平家家譜〕一、十二月廿三日、先達而御国表強地震ニ付、今日巨細届
書御聞番を以、御老中阿部伊勢守殿・御用番松平和泉守殿江左之通被指出之
越前国去月四日巳ノ刻前稀成大地震有之、翌五日申ノ刻過又々強相震、其後
も引続度々相震、右地震ニ而城内外、家中
町家、領分郷中潰家・破損夥敷、
死人・怪我人等有之候段先御届申、追々為取調候処家毎ニ損所出来不申者無
之、大破二相成候分左之通御座候、
一、本城建物瓦
門
壁落、其外処々大損し」一、三重・二重櫓之壁落」一、多
渡櫓所々壁落」一、城内建物
62(62)
番所々家根瓦落或傾、大破五ヶ所」一、
城廻り塀倒レ三拾七間半」一、二ノ丸門渡櫓壁落、傾三ヶ所」一、二ノ丸内
建物壁落、大傾三ヶ所」一、同所土蔵壁落、大傾六ヶ所」一、郭内廻り塀倒、
傾、壁落等九拾間」一、三ノ丸東照宮御社
一、御灯籠倒六基」一、三ノ丸住居向
御霊屋向家根瓦落、処々壁落」
火ノ見大傾、所々壁落」一、同所門
大傾、壁落」一、三ノ郭門渡櫓傾、壁落大破二ヶ所」一、外郭門渡櫓傾、壁
落大破二ヶ所」一、米藏大傾、壁落大破七ヶ所」一、同所門傾、大破壱ヶ所」
一、焔硝蔵壁落、傾壱ヶ所」一、勘定所向建物処々壁落大破」一、同所土蔵
壁落、大破五ヶ所」一、作事役所向大破」一、同所土蔵壁落、大破壱ヶ所」
一、材木役所 小屋大破」一、侍屋敷半潰レ弐拾五軒」一、同断大傾三拾三
軒」一、侍以下屋鋪半潰レ四拾軒」一、同断大傾拾五軒」一、西本願寺掛所
小屋潰レ弐ヶ所」一、東本願寺懸所小屋潰レ同断」一、寺院家根瓦落或壁落、
傾二拾二ヶ寺」一、山伏家潰レ壱軒」一、町家潰レ三拾軒」一、同半潰レ百
弐拾五軒」一、土蔵潰レ六ヶ所」一、同半潰レ拾弐ケ所」一、在家潰レ百拾
弐軒」一、同半潰レ弐百拾五軒」一、土蔵潰レ五ケ所」一、同半潰レ拾五ケ
所」一、小屋潰レ三拾三軒」一、宮潰レ壱ケ所」一、怪我人弐拾人」一、死
人四人」一、斃牛馬無之」一、処ニ寄地割候処茂有之」右之通御座候、此段
御届申候、以上」十二月九日 松平越前守
〔続片聾記〕十一月四日朝四ッ時前大地震、翌五日又々餘程之地震、其後引積
(続)き地震之儀は数日之事、
潰家」一、土蔵壱ヶ所、家壱軒 木田町組」一、小家壱ヶ所 本町組」一、
家壱軒、仮家壱軒、土蔵指掛弐ヶ所 京町組」一、家壱軒、小屋五ヶ所、土
蔵廊下壱ヶ所 上呉服町組」一、家壱軒、土蔵壱ケ所、小屋壱ヶ所、廊下壱ヶ
所 一乗町組」一、家二軒、土蔵壱ヶ所、小屋四ケ所 宝町組」一、家二軒、
小屋三ヶ所、土蔵指掛壱ヶ所、廊下壱ヶ所 下呉服町組」一、家壱軒 松本
地方」一、家壱軒、土蔵壱ヶ所 木田地方」一、家壱軒、小屋弐ヶ所 三ツ
橋地方」一、土蔵壱ヶ所 畑方」此余御城廻り御家中も所々大損じ所有之、
一、潰家拾三軒、半潰四拾三軒 上領」一、同家三百七拾五軒、半潰家百五
拾壱軒、宮拾三ケ所、死人七人、怪我人九人 中領」一、 下領」一、 金津」
潰家之者には籾壱俵被下、半潰之者には籾半俵被下、
一、大坂表も五日大地震、四日よりは強候由に而大損所数多有之、其上大津
波に而天保山崩、難船夥、溺死等も多有之由、京都は少々軽く、江戸表も夫
程には無之由、東海道筋大損所出来候由、遠州荒井御関所も津波に而取行候
由、日向山之方は大雪大雷風之由、豆州下田は大津波に而七歩通り家居海中
え取行候由、駿州九(久)能大地震大津波之由、其外大地震大津波等諸国有
之、死人等も数多有之由、
(63)63
〔嘉永聞観史・下〕
(前略)若狭・越前・加賀・能登・越中等の国々地震の上、
海中洪波の気少しあり、(以下略)
嘉永から安政への改元はこれらの地震の後であるが、一般には改元後の年号用
いて「安政東海・南海地震」と呼ばれている。ともに震央は太平洋にあるが、上
記史料にみえるように越前・若狭地域での物的被害は甚大であった。敦賀では「御
陣屋」
(旧敦賀城、江戸時代は敦賀奉行所や藩主来訪の折の休息施設があった)
が大破、敦賀町で被災しなかった町家はないとも伝える。福井城および城下町、
在方でも大きな被害が出たようである。家が潰れた者には籾一俵、半潰れの者に
は籾半俵支給という救済措置や地震手当もみえる。
表 5 − 79
〔当所珍事・御触・大飢饉・仕法立書留日記〕一、安政弐乙卯年二月一日八ツ
時ニ中地志ん弐ツゆる」一、同三月五日昼七ツ半時、小地しんゆる□夜五ツ
時小地しんゆる、
(以下、9月までの地震記事、略)
〔旧芦原町・大連彦兵衛家文書 / 御用留〕一、二月朔日彼岸入、昼八時地震ゆ
り申候、
〔野尻源右衛門文書 / 諸用留〕
(安政2年正月)七日朝七種之粥御祝、同日夕六ッ
時過地震有之候」一、正月十七日晴天ニ而、四ッ時地震ゆり候、弥後日和
空可有之候」一、二月朔日昼八ツ時地震ゆり、又引続少地震ゆり、又後ニ大
地震ゆり、又其後ニ少ゆり申候、
表 5 − 80
〔大野町用留抜粋〕
安政五年午年二月廿六日、一、今朝八ツ時過大地震ニテ驚候所、又七ツ時ハ
又々強く震、皆々外ニ遁出申候、乍去格別損も無之候得共、四番下付木屋藤
右衛門去暮焼残り柱木ハ切懸有之、家潰れ申候、其外土蔵大破四ケ所、右之
外銘々土蔵ハ町在共不残ひびり参り申候、夫より十日余りも日々少し宛震申
候、御家中・町方共前に地震小屋を立懸け、夜分は多く小屋に泊申候、
同廿九日、一、地震の損所相調べ書付差出候様被仰渡、左之通り書上申候、
地震にて損候分」一、葛屋壱軒皆潰、但怪我人ハ無之候、」一土蔵大破四ヶ
所」一山王社少々裂申候、神前拝石<壱尺ニ五尺計>之石五寸程去申候、右
之外家・土蔵痛数多御座候、以上、」午二月 町年寄
〔大野・斎藤寿々子文書 / 御用記〕
二月廿六日暁八ツ時大地震ニ有之、家内之者共皆々相さわき候所、又候暁七
64(64)
ツ時大地震ゆり申候、少々宛之地震者虚空鳴り出候而、数多振申候、右ニ付
町方道並明地又川之上板を敷、仮小屋いたし候而止宿いたし候、手前出店庭
ニ仮小屋いたし置候得共、泊り不申候、
〔大野・野尻源右衛門家文書 / 諸用留〕二月廿五日夜ニ入、明方八ッ時大地震
ニ而諸人薮ニ入候、廿六日夜より二日之間外ニ小屋掛ノ上寝泊り申候、夫よ
り三月七日頃迄、日二三度位宛地震れ申候、
〔大野・柳逎社御神庫保管土井家文書 / 天変地異ニ関スル綴〕安政五午年二月
廿六日」一、今朝八ツ時過大地震ニテ驚ノ所、又七ツ時ハ又々強く震、皆々
外ニ遁出申候、乍去損も無之候得共、四番下付木屋藤太夫去暮焼残り柱等ハ
切懸有之家潰れ申候、其外土蔵大破四ケ所、右之外銘々土蔵ハ町在共不残ひ
びり参り申候、夫より十日余も日々少々宛震申候、御家中町方共別に地震小
屋を懸け夜分ハ多く小屋に泊申候、」同廿九日、地震の損所相調べ、書付差
出候様被仰渡、左之通書上申候」地震二て損候分」一、葛家 壱軒 皆潰、
但怪我人は無之候、」一、土蔵 大破 四ヶ所」一、山王社 少々裂申候、
神前拝殿<壱尺□ / 五尺斗>之石五寸柱居去申候、」右之外家・土蔵痛数多御
座候 以上」午二月」町年寄
〔勝山・松屋文書 / 萬記録〕安政五午年二月廿五日」夜九ッ半時より大地震、
当所ニて前代未聞之地震也、乍去潰家は無之、傾き損し等は数多之事、壁落
石垣崩れ等も夥敷事ニ候、夫故町郷共皆々野陣取、夜分家之下ニ臥し候者は
一人も無之候、其后も日々揺り動かし、漸三月十日過より少々隠ニ相成候得
共、盆前中ハ時々動揺いたし、長さ跡ゆりにて困り入申候、右之節丸岡・金
津・大聖寺辺は格別強く、潰家夥敷有之候、猶又越中より飛騨境は殊ニ大変、
立山之麓崩れて七ケ村斗も無跡形埋まり候趣、(以下略)
〔春江・久保文苗文書〕安政五年午十二月・調達金半方御断ニ付規定書
(前略)近来臨時吉凶之物入打続、年々見詰外之入用夥敷相嵩候上、当春未曾
有之大地震ニ而、城中城外之壊破は御見聞之通ニ付(以下略)
〔福井・福山正人文書 / 記録帳〕安政五午二月廿五日夜九ツ時大地志ん、廿六
日八ツ時又壱ゆり、廿七日暮六ツ時二つゆり、廿九日夜小三ゆり、
〔今庄・島崎文四郎文書 / 天保五∼明治七年代録見聞録〕二月廿五日夜八ッ時
大地しんゆる、但し去る寅十一月よりハ少し小し」同夜七ッ時また壱ッゆる、
前ニ同し、此前後ニ四ッ斗も少宛ハゆる也、(中略)去ル廿五日地震ニて加
州大聖寺・当国金津・丸岡等大ニ痛候由、家も所々崩候由、又越中立山所々
痛ミ、
〔有馬家世譜(丸岡邑編)〕
(有馬家文書刊行会)
一、安政五年戊午二月二十六日暁丸岡大地震、自丑刻至卯刻迄、御城大破、
(65)65
城郭一円、郷町とも悉く損す、」一、同年三月三日、御用番久世大和守広周
へ地震御届書一通、城郭及び領分民家に至る迄皆潰れ、半潰れ破損所夥しく
の旨、先ず御達使に相成る、(以下略)
〔山口家譜〕二月廿五日夜九ツ時過大地震、近年よりまた強ク別而跡のゆりハ
大地をゆり上候様之事也、人心地有之者無之、皆々一夜表へ罷出夜を明し申
候、
(中略)
別而飛騨之国より越中境ハ大地ゆりくすれ人死沢山之由 ( 以下略 )
〔越前松平家家譜〕一、三月四日、御国表地震ニ付、御用番久世大和守殿御用
御頼、御老中松平伊賀守殿江左之通先ツ届被指出之」拙者領分越前国去月廿
六日暁九半時頃余程強地震有之、城廻り処々損所出来、地割候ケ処も有之、
其外侍屋敷・寺社・町在之内破損所多、怪我人等も有之趣御座候、委細之儀
ハ相知不申候へ共、此段先御届申候、以上」三月四日 松平越前守
〔越前松平家家譜〕一、同日(3月22日)去月廿六日御国大地震ニ付、破損
所之届書、御用番久世大和守殿御用御頼、御老中松平伊賀守殿江左之通被指
出之、
」拙者領分越前国去月廿六日暁九半時頃余程強地震有之、城廻り損所有
之、城下地割候処も有之、其外侍屋敷・寺社・町在之内破損所多、怪我人
等も有之趣ニ付先達而御届申、追而相糺候処破損処左之通御座候、」城廻り」
一、本丸・三丸内建物処々壁・瓦落、或邪ミ損ス」一、櫓二ケ所邪ミ、其外
櫓々門々 渡り櫓・多門等処々壁・瓦・棟石等落損ス」一、土蔵瓦・壁落、
或割レ損シ拾二ケ所」一、役所向
番所等所々瓦・壁・棟石落、邪ミ損ス」
一、塀廻り十四間斗倒、其外処々瓦・壁・棟石等落損、或ゆかみ損ス」一、
本丸外堀縁石垣長サ幅二間半孕出ス」一、同所辺石垣高サ五尺・幅三尺斗孕
出ス」一、三ノ丸内石垣小々孕出ス」一、同所囲塀下石垣高サ六尺・長サ二
間半斗大損シ」一、同所辺石垣長サ三間・高サ五尺余崩落」一、外郭門脇石
垣高サ六尺・幅二間斗崩落」一、下馬門前堀縁長サ四間・幅二尺五寸斗大割、
城下」一、潰土蔵一ケ所」一、山弐拾間余割ル」右之外侍屋敷・町家
等破損
地割候場所処々御座候、」領分在々」一、潰家拾七軒」一、半潰家
八拾壱軒」一、潰土蔵六ヶ所」一、山崩九拾四ヶ所」右之外地割水砂等吹出
場所処々御座候、
」一、男女怪我無之」一、斃牛馬無之」右之通申越候、此
段御届申候、以上、
」三月廿一日 松平越前守
〔続片聾記〕同廿五日夜八つ時前、余程之地震、夫より打続、明方迄数遍有之
候得共、強きは二、三遍、右に付堂形
中の馬場辺国枝藤兵衛前少々地破れ、
砂水出、其余少々之損じ所有之、大聖寺、丸岡等は甚敷よし、潰家数多、飛
州辺は大変之由、高山より三リ(里)斗先迄は通行も出来侯処、夫より先は
山崩れ通行不相成候由、つの川と申所廿一軒有之村一村尽く山の下に相成、
皆死亡致し候由、其外五軒七軒位之小村も右同様之処も有之様子、或は五拾
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軒村に而七拾人余死失有之、又百軒斗之処に而拾壹軒潰れ、四人即死之処も
有之、川中へ山崩れ神通川水付之由、是は大石に而塞り侯故之由、右に付湖
水如く物三ヶ所出来、大き成は長六丁位巾四丁半斗之様子、跡二つ之湖水も
右に引つづき侯位之よし、百拾餘人一度に火葬に致し侯と申事、
右之大変に而、民家寺院之無難成は一軒も無之処、村々鎮守之神社は損不申、
山々崩れ落る先々低き所は、社有之所杯は、社之辺を除け高き方へ押行侯様
に相成、是は実に不思儀成儀と出役人申聞有之事、
〔小浜・古河家文書 / 日記〕廿五日(中略)夜九過地震、八ツ過地震、間ニハ
少震三度」廿六日(中略)朝五ッ前小震二度、夕雨天又地震、
〔宮津山王社日記〕二月大、廿六日、曇、七ツ時半頃大地震、先老人も不知大
震也、男山石鳥居損、溝尻村甚損、間人、竹野浜甚、当所に而も地割候所有
之候(以下略)
〔青森鰺ヶ沢・永宝日記〕去月二十五日より二十七日迄加賀国大地震ニ而、家
潰レ人多ク死候由、当国ハ更ニ地震無御座候、
「飛越地震」などと呼ばれる地震で、とくに飛騨・越中に甚大な被害をもたら
したとされる。福井でも福井城および城下、在方に損害が生じたことが上記史料
から知られる。
『続片聾記』の「大聖寺、丸岡等は甚敷よし」、あるいは『永宝日
記』の記事から、福井よりも震央に近い丸岡や加賀国内の被害がより深刻であっ
たようだ。敦賀以西の被災記録は未見であるが、宮津の地震が「老人も不知大震
也」とあるから、地震による一定度の被災はあったものと想像される。
おわりに
雑駁な史料紹介の内容となった。紹介し得た史料もほとんどは刊本で読むこと
ができる史料であり、独自に発見し、あるいは原本等によって刊本史料の補正を
おこない得た史料は少ない。刊本史料のボリュームを考えると、不注意による見
落としも免れないかもしれない。
ただ、おそらくはそのような欠陥を含む本稿が、なお一定の存在意義を持つと
すれば、越前・若狭地域の過去の地震・津波災害をまがりなりにも一覧できる場
を構築したことにもとめられるとおもう。今後、筆者自身も追究の手を休めない
が、さらに衆知を集めて本稿の遺漏を補い、錯誤を改めていくことを望みたい。
ところで、本稿の所期の目的は旱魃や洪水などの気象災害も含めたデータ・
ベース構築にあった。しかし、現状では中世(∼1600年)までの史料収集にと
どまり、江戸時代の史料についてはその質量の豊かさに呆然とするばかりで、一
覧の作成さえ躊躇される状況である。衆知を集めることができるのであれば、こ
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ちらにも、というおもいもある。
さて、こうして過去の地震・津波を一覧にしてみると、まずは件数の少なさ、
記録される人身被害の軽微さに驚くばかりである。地震・津波はあったが史料が
のこっていないケースは少なからずあるとおもわれる。しかし、自然災害といっ
ても、昔の人びとにとっては生活の一部であり、ある意味生活のリズムであった
かもしれない。したがって、記録され、記憶される災害はそのなかでも、異様で、
特別な災害ということなのである。多くの人命・財産が奪われるほどの大災害で
あれば、まずはなんらかの史料が確認されるであろう。その意味では、越前・若
狭地域はこれまで格段に恵まれてきたといえる。
ただ、江戸時代までには存在しなかったさまざまな物件が現在の地上にはあ
る。高速で走る電車や自動車、高層化する建造物、発電所や工場、密集する人家、
土地の履歴を考慮せずに建てられた住宅地など、あたりまえの自然災害さえ異様
で、特別なものにしてしまう要素が身近にあるのが今日である。紹介した史料に
は、地震を感じた人びとが家の倒壊を恐れて外に小屋掛けし、藪に入って地震が
収まるのを待つ様子も描かれていた。今日、そのような避難は可能だろうか。身
近に藪も見当たらない。
過去の被災の程度は、自然災害の程度とともに、人の数、モノの数にも比例す
る。多くの人が住み、多くのモノを持てば、その分リスクも抱えることになるこ
とも、忘れるわけにはいかないだろう。
次に、現在最も警戒されている太平洋東南海域を震源とする巨大地震が越前・
若狭地域にもたらす影響である。上述のように、太平洋東南海域を震源とする
「宝永地震」
(表 4 −38)、「安政東海・南海地震」(表5−78)は、敦賀をはじ
め越前・若狭地域にも建造物の損壊等、大きな被害をもたらしている。「対岸の火
事」では済まされない事情があることが、本稿の調査で再確認されたことになる。
たしかに人的被害はほぼ僅少であったようであるが、これらの時代とは格段の
差で多くのモノを持ちすぎてしまっている今日、人災を含め、むしろ人的被害の
可能性は宝永や安政の時代より高まっているのではないかともおもう。
温故知新という言葉は人口に膾炙しているかもしれない。しかしその語義を実
践することは案外困難なことである。昨日の誤りを顧みることより、明日の冒険
に期待するほうが多分楽しいからである。
しかし、きわめて残酷なことに、過去の時間と無縁に現在も未来も存立し得な
い。歴史研究の究極の目標は、それぞれのテーマに即して、その時間軸を明らか
にすることだと考えている。
敦賀の時間軸を明らかにする筆者の試みは以下のようなものであった。
中世の敦賀津に生きた人びとの自立と自律を究明することで、今日の「依存」
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を照射してみた。敦賀ブランドの存在を「敦賀屋」という屋号に見出す作業にも、
敦賀がかつて有した進取性・創造性の再発見という目標があった。そして、敦賀
人にとって「気比さん」は精神的支柱であり、知の源泉でもあったことを再認識
すれば、「国家神道」後の疎遠を問うことになるとおもった。しかし、過去の輝
きは今日の影を際立たせるばかりであったかもしれない。大谷吉継の定評たる
「義」が今日の敦賀にあるのかも確かめたかったが、所詮吉継も敦賀人には「旅
の人」だったらしい。旅を住処として、あとを濁さず立ち去った松尾芭蕉の人気
が衰えないのも、移住者を「旅の人」と呼び、これに独特の眼差しを注ぐ敦賀人
気質と無縁ではないのかもしれない。
『敦賀論叢』を通じて営んだ地域貢献は前稿に続く地震・津波研究を以て終了
する。筆者にとっても、四半世紀を超える弱小大学での経験と研究蓄積は貴重な
財産である。この転機を生かして、研究者として、人間として、さらなる充実を
遂げたい。
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(参考文献)
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濱 修「地震考古学の発展に向けて」
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松浦律子「天正地震に関する欧州史料の素性と確実な内容」
(『地震』65-1、2012年)
横田洋三「塩津港遺跡に見る琵琶湖の水位変動」
(『琵琶湖と地域文化- 林博通先生退官記念論集』2011年)
外岡慎一郎「天正地震と越前・若狭」(『敦賀論叢』26、2012年)
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