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私の学生時代は、 パブル真っ盛り であった。 そんななか、 とても面白 く

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私の学生時代は、 パブル真っ盛り であった。 そんななか、 とても面白 く
『日本風景論』
私が当時、西武の土地開発と同様
に興味をもったのは、全国に流布し
た明治天皇の御真影が、じつは写真
瀞
薄褥縫盈
著者兼発行者:志賀重昂
発行所1政教社
明治27年初版発行
挿画1雪湖樋畑
ではなくて、キョソーネというイタ
リア人画家が描いた明治天皇の肖像
画を複写したものであったことであ
った。この、ちょっと日本語っぽい
名前はその後もよく覚えている。西
郷隆盛の肖像を描いたことでも有名
だ。上野の西郷さんの銅像はこのキ
ョソーネが描いた肖像をもとに高村
光雲がつくったものだという。いず
れにせよ、ご本尊の実体とはほぼ無
『ミカドの肖像』
しての田園都市が、どのように挫折
関係に、イメージが大量複製され、
私の学生時代は、バブル真っ盛り
していったのかが、綿密につづられ
大日本帝国の記号として力を発揮し
であった。そんななか、とても面白
ていた。学生の頃、この2冊が流行
ていくという部分が、おそらくこの
く読んだ本がある。猪瀬直樹の『ミ
っていたおかげで、電鉄系の大企業
本のかなめの部分だろう。さらに猪
カドの肖像』*1と『土地の神話』*2だ。
が日本において(とくに東京で)ど
瀬は、御真影の流布と並んで、日本
『ミカドの肖像』は昭和61年に発刊
のように郊外を耕していったのかと
的な風景というシンボルなり記号な
された。タイトル通り、天皇制を主
いう大筋を理解することができた。
りを、大量複製という時代の技術に
題としたものであった。当時、パル
『ミカドの肖像』は、3部で構成さ
乗っかって流布せしめたのが、志賀
コやプリンスホテルといった場所
れている。天皇制は、真ん中が空虚
重昂という人の著した『日本風景論』
が、われわれ学生たちに憧れられて
であることを特徴としており、それ
という書物であったという。
いた。『ミカドの肖像』では、その
は、東京の真ん中の皇居が空虚であ
憧れのプリンスホテルの成り立ちの
ることと同じ構図だ、ということを
ベストセラー『日本風景論』
舞台裏が、日本における天皇制の考
テーマとしていた。第1部では西武
猪瀬は、今も銭湯の壁画に残る「富
察とともに描かれていて、土地とブ
の土地開発を通して、第2部では日
士」「松」「青い海原」といった風景
ランドというものの関係を考えさせ
本人はほとんど知らないけれど西洋
のシンボル群の源が、明治中期のベ
られた。
では有名なオペレッタ「ミカド」を
ストセラー『日本風景論』であった
その後、『ミカドの肖像』の続編
通して、第3部では明治天皇の御真
とし、「富士山を日本のシンボルと
として、昭和63年(1988)に『土地
影を通して、天皇制というものが実
して措定したところに新しさがあっ
の神話』が発刊された。これは、田
体としてではなく、シンボルとして、
た」としている。また、『日本風景論』
園都市を主題にしたものであった。
記号として、いろんな力を現実に発
は日本山岳界のバイブルとしてもて
主として東急がとりあげられ、イギ
揮するのだ。という事実を、膨大な
はやされたこともあり、大ベストセ
リスから輸入しようとした理想郷と
資料を駆使して論じている。
ラーとなった。明治27年に初版が刷
5「家とまちなみ職〉
しげたか
られて以来、明治36年の第15版まで
ないことを説いた。こうしたことか
常にわが物として領すれども人
次々と版を重ねた。しかも、版を変
ら、重昂は、国粋主義者としての活
言わず
えるごとに版画の表紙が毎回変わっ
動を始めていくのだが、『日本風景
つまり、望地万物の風景の麗しさ
ていった。
論』もぞうした背景で、富士山・桜・
を感じることこそ、まさに限りのな
短期間に売れた『日本風景論』で
松といった強烈な国粋的風景を、日
い楽しみであり、お金で買わなくて
あったが、明治末からは流行らなく
本独自の風景と位置づけつつ、それ
もよく、いくら楽しんでも尽きるこ
なった。そして昭和2年に、岩波文
ら風景を実体験するための登山を奨
とはない。それぞれの人が自分のも
庫に収録された。古典としての殿堂
励したのであった、というのがこれ
のだと主張しあっても、そこでいさ
入りである。明治期の『日本風景論』
までこの本について述べられてきた
かいが起きる心配もない。というの
は、版を重ねるごとに大幅に加筆さ
ことであった。
である。
確かに、そもそも風景というもの
れていったが、岩波文庫版は、定本
ともいえる第15版をもとにしている
限りなき楽しみ
は、それを楽しむ心持ちさえあれば、
*3。ただ、図版が適当に割愛され
表紙は版を重ねるごとに変わった
誰と争う必要もなく、楽しめる。つ
ているとこが惜しまれる。その後、
が、裏表紙には一貫して貝原益軒の
まり、風景とはそれぞれの個人が、
昭和51年には講談社学術文庫*4に
「限りなき楽しみ」というエッセイ
占有することなく楽しめるもので、
収録され、翌昭和52年には飯塚書房
が掲げられていた(図1)。そこには
それは限りないものであるというこ
から、装丁もそのままに初版本の復
こんなことが書いてある。
とだ。風景を愛でる心持ちの相対主
刻が行われた。その際、志賀重昂の
天地万物の景色のうるわしきを
義を説いているといってもいい。
子息で地学研究家の志賀冨士男、日
感ずれば其のたのしみ限なし
『日本風景論』は猪瀬が述べるよ
本山岳協会理事の山崎安治、そして
この楽朝夕目の前にみちみちて
うに、日本の風景を国粋主義的にシ
猪瀬直樹による解題が1冊に編まれ
余あり
ンボライズする役割を果たしただろ
ている。その解題を見ると、重昂が
これをたのしむ人は則山水月花
うこと、別の言葉で言えば、日本風
息子に冨士男と名づけたことに国粋
の主となりて人に乞いもとむる
景の絶対性の確立を図ろうとしたこ
的風景論者の一徹さを感じる。また、
に及ばず
とに疑いはないが、本稿では、その
近代登山の扇動者が重昂であり、日
財もて買うにあらざれば一銭を
一方で益軒先生のような日本風景の
本山岳界の祖であることを山崎は
も費さず
相対性をも、同時に説いているので
縷々解説している。そして猪瀬が、
心にまかせてほしきままに用う
はないかということを述べたいの
『ミカドの肖像』のもととなる『週
れども尽きず
だ。
刊ポスト』への連載(昭和60−61年)
のほぼ10年前には『日本風景品』に
関心を寄せていたことがわかる。
重昂は幕末の文久3年(1863)の
生まれで、クラーク博士で有名な札
幌農大を卒業した後、長野で教員を
やったりしたのち、明治19年(1886)、
海軍練習艦「筑波」に便乗した。そ
して、南洋諸島を見聞し、翌年には
丸善から『南洋時事』を発刊しでい
る。ダーウィンを尊敬していた重昂
は、南洋の島々が白人に征服され「自
然淘汰」される場面を目撃し、今後
の日本が地理的に見て英国のように
「貿易製造国」とならなければなら
図1:『日本風景論』裏表紙:貝原益軒「限りなき楽しみ」(初版より)
家とまちなみ 57〈2008,3>
53
解題:『日本風景論』
であるという論調になっていく。
ゆうゆう
の三々8を。
『日本風景論』は、次のような章
そして、以下のように、日本風景
さ
(九)鮭捕り網を斜陽に曝らす石狩
立てとなっている。
の「絶特なる」要素として、(一)
ナマ
しょうしゃ てっとう
川村の晩、奥州馨りの熱唱、雪の如
一 緒論
瀟洒、(二)美、(三)跣宕の3種を
二 日本には気候、海流の多変多様
解説するが、この部分は初版にはな
なる事
く、再版から加筆されたものであっ
得たり’屯田村(北海道)の灯火三四
由日本には水蒸気の多量なる事
た。以下、それらを見てみよう(カ
点。
忌 日本には火山岩の多々なる事
タカナルビは原文ルビ)。
1しゅうちく:すらりと長く伸びた竹
2ろうだい:高い建物
3らんすい:山に立つもやの緑色
4そなれまつ:幹や枝が磯の地面に傾い
て生えている松
5こうしん:川の中流
附録 登山の気風を興作すべし
五 日本には水流の浸食激烈なる事
「瀟洒」
六日本の文人、詞客、画師、彫刻
(一)脩竹1三竿、詩人の家、梅花旧
寒、風懐の高士に寄面す
株、高士の宅、是れ欧米諸国に在り
七日本風景の保護
八 亜細亜大陸の壷鐙 日本の地学
家に寄諭す
九 雑感 花鳥、風月、山川、湖海
の詞画に就て
第五章までが、日本の気候風土の
解説と、そこから生じる日本独特の
風景への賛美である。第四章と第五
章の問には「附録」として登山を奨
(二)一声の幸手知る何の処ぞ、澱
(十)夜雪初めて縛れ、分明に認め
6なんと:奈良
7きゃくしゃ:宿屋
8ゆうゆう:鹿の鳴き声
重昂はこのように、日本にしかな
ガハ ととう
川の羽越新緑流れんとす。
おう せいあ
さそうな風景を詠んだ文を並べるこ
(三)芭蕉庵外、一身の緑浄、青蛙
とにより、瀟洒なる日本の風景の特
よ
雨を喚び来る。
徴を表そうとした。ここで注目した
カモガハ ろうだい
(四)一雨空を洗いて髭東の楼台2い
いのは、上記の引用文中に下線を引
よいよ高く、東山の幽翠3滴れんとし、
いた部分である。「詩人の家」「高士
眉の如きの新月、山の側面に懸る。
の宅」「芭蕉庵」「楼台」「古駅」「賎
シヅ トマヤ
(五)須磨の古駅、賎が苫屋の塩焼
ま ソナレマツ
く煙一縷、方さに磯馴松4の問より
あ
励する箇所が挿入されている。基本
て絶えて看る能わざるの景物。
ほととぎす ヨド
き萩花の問に起る。
は
が苫屋」「宮城」「寒砧萬戸」「客舎」
「石狩川村」「屯田村」いった建築物
的には、この第五章までが全体の並
麗がる。
や建築物群が、たった10の説明文の
数の9割近くを占めており、この本
むせ
(六)鈴虫声は咽ぶ萩花の路、風は
中に11も出現している。
の趣旨は第五章までで尽くされると
清し宮城野外の秋。
猪瀬直樹が本書をとりあげるとき
いってよいだろう。第六章以降は、
それぞれ短い文量で、地理学的観点
以外の観点から、日本の風景の独自
かんちん
(七)老雁一声、寒砧萬戸、多摩の
あたかも
江心5恰も秋月の白きを看る。
士山」、「海」、などといった自然物
(八)南都6の客舎7、聴き得たり鹿鳴
であり、特に山という自然物から見
性と絶対性を謳いあげている。
このように、主として理学・地理
学的観点から日本の風景を論じてい
くのだが、その論じ方の基礎となる
ものの見方が、「一 緒論」に示さ
れている。その冒頭で、重昂は幕末
ばんけい
の漢学者、大槻磐渓の「江山洵美是
吾郷⊥を引いているが、これが益軒
先生につながる本書のコンセプトと
いってもまい。人間誰しも、自分の
故郷の川や山の風景をまことに美し
いと思うものだ。といったような意
味だろう。しかし次第に、日本の風
景は決して西洋や中国にひけをとら
ない、世界に確たる素晴らしいもの
図2:宍道湖の風景(第6版より)
54
P家とまちなみ57〈200a3>
に着目したのは、「松」、「旭日」、「富
ハイマツ
たる這松22は、雪の如き花蕊岩の上
平線上に突兀30す。芙蓉万傍31、月中
って欲しいために奨励された登山で
に面心23し、翠は白に抹し、白は翠
に高き処。嶽影太平洋上に倒映する
あった。しかしながら、日本風両論
を証す。
処。
に登場する、シーンとしての風景は、
9きんしゅう:錦と刺繍をほどこした美
しい織物
10らんきょう:京都嵐山の麓の大堰川の
山峡
llやしょく:夜の景色、夜景
12いっすい:一筋の流れ
13ぐんりょう:群がる山の峰峰
(六)北海道の沿岸、路左幾百尺の
る風景のすばらしさを多くの人に知
上記したような建築という人工物が
自然に溶け込んだ姿として語られて
いる。さらに、建築物から出てくる
煙や明かりさえも、風景として語ら
れている。そして、本書のいたると
ころにちりばめられる挿絵にも、自
然と人間の営みが融合した風景画が
掲げられる(図2)。
「美」
瀟洒の次は、「美」について語ら
れる。
りよくよう
(一)一命は煙の如く画の如く名古
とじこ その
14りょうじょう:曲がり巡る
15かんぶつ:灌仏会(かんぶつえ)の略。
4月8日お釈迦様の誕生を祝う法会。
16りらく:まがき。竹や芝などを編んで
つくった生け垣。
17かぼす:辞書には「かぼす」とあるが、
原著には「ダイダイ」のルビがある。
18しじょう:枝
19さんさ:三つに分かれること
20えい:檀(えい)とは、柱のこと。家
屋を数える単位でもあり、家屋一こ組
一橦という。
21えいはつ:光や色彩が写りあうこと
22はいまつ:五葉松の一種
23ほふく:腹這いになること
屋城中を凄め、楼閣高低其問に隠見
重昂はこのように日本の日をあげ
す。
つらうが、ここでもいくつかの場面
(二)桃山(山城)の落花、乱点し
し
て紅雨の如く、地に布きて錦繍9に
に、人工物が溶け込んでいることが
わかる。
色11朦朧。
(四)川中島四郡、菜花麦苗、黄緑
チ クマ
繍錯、千曲の一水12其間に屈折し、
こうずけ
むる処。
(八)阿蘇の峯韻33、側に二二の噴煙
空を衝きて蒸上し、前に直径七里あ
る旧火口外輪の連山堤防の如くに囲
旧するを目三分に看、三内二二して
平林田曉謎、村落山々茄煙火東西に
起り、耕鋤36駄馬穏約37の間に在り。
タルマイ
(九)樽前(肝振)の嶽腹、二二な
る赤褐色の溶岩相錯列し、噴火後、
ニとこと
高樹は乾皮亀裂し、枝葉悉く去り
て骨立38辣時39する処、一片の欠月40
惨憺に照らし来る。
シャシ コ タン
(十)捨子古記(千島)の満島積雪
沸騰す。
てっとう
めいこう
そして、いよいよ「(三)朕宕」
が出てくる。践は「つまずく」、宕
は「大きな岩、勝手気まま」の意。
つまり、朕宕とは、常道を外れ勝手
平線上に品品14す。
気ままに振る舞うさま、といった意
シラウオ
(七)立山(越中)の絶頂、百余の
山嶽を下鰍し、一斉に双眸32中に収
「朕宕」
上野、信濃の群嶺13、濃淡高下、地
(五)二州橋下、春潮雨を帯び、
臨み、言下怒濤沸騰、飛噴逆上す。
鎧々41最高点より一・條の噴煙斜めに
似。
かす
(三)嵐峡10の桜雲、微月を掠め、夜
石壁哨立して天を挿み、路右断崖に
味らしい。なんだか暴れた感じであ
(十一)日本海上、雲霧冥合、其上
ほうせん
より鳥海上の三角形なる峯尖忽焉42
と露わる。
ナルト
(十二)雷雨鳴門(阿波)の上を過ぎ、
二色は警士の如く、渦流は人立43す。
しゅうう
(十三)燦雨一過、太平洋上、四望
ごうびょう
鰭残漁網に上る。
る。
浩瀞、虹半ば消えて、紅色、黄丹色、
(六)灌仏15の人は帰る国分寺の外、
びぼう
(一)那須の広野、一望微荘、松樹
こんこん
或いは三或いは五自証高聾2制す。
る処に湧く。
ツ ツ ジ
ー群の少女山冠閾花を髪に挿みて過
ぐ。
タケノコイワ
(二)万頃25の太平洋面、筍岩(本
黄色の彩雲、渡々として天、水に託
(十四)最上川の上流、飛泉“二二、
じゅりつ
(七)桜島(薩摩)の円錐的火山、
文説明省略)哨起26し、雪浪決れに
め
簾落16其腰脚を環ぐり、緑竹之れを
アホウドリ
三富し、一隻の信天翁双翼を張りて
(十五)仰ぎて大川の天上より三つ
ダイダイ
ユズ
キンカン
囲み、其間柑、柚、臭榿17、金橘、
岩頂に停立す。
るを看、傭して奔雷を地下に聴く、
ザボン
山彙の直言18相田接し、煙草の畦圃
(三)ブランド薬師の古堂(信濃)、
高低三差19す。
高巌絶壁の上に在り、危歌墜ちんと
(八)肥後の山間、傭して谷を下鰍
す。
す、深さ数百尺、内に人家数檀20、
空翠映発21し、一抹の炊煙、鶏声、
(四)雁寒雲を渡り、匹馬四白川関外
いなな
の血色28に噺く。
画幅と共に起る。
(五)秋高く、気清く、天長へに繊
(九)駒ヶ岳(信濃)の峯頭、翠然
雲29なく、富士の高峯、武蔵野の地
一瞬十里、毛髪為に竪立す。
是れ那智の爆布。
まんぼう こうこう
(十六)二二皆な梅、月色言々、他
に些の一・物を看ず。
24こうしょう:高くそびえる
25ばんけい:地面や水面が広いようす
26しょうき:けわしく立ち上がる
27ひつば:一匹の馬
28ぎょうしょく:夜明けの景色
29せんうん:細長い雲
家とまちなみ 57〈2008.3>
55
30とっこつ:他に抜きん出て高いようす
31ばんじん:非常に高く、または深いこ
と
32そうぼう:両眼
33ほうてん:山の峯や頂
34でんちゅう:田のあぜや、田地のこと
35ぞくぞく:群がるようす
36こうじょ:田などをすくこと
3赤いんやく:ぼんやりしてほのかなさま
38こつりつ:やせ衰えて骨が現れること
39しょうじ:じっと立ちすくむようす
4識しづき:欠けた月
41がいがい:雪や霜が明るく白いようす
42こつえん:たちまち
43ひとだち:人だかりがすること
図4:台南の風景(第6版より)
貿易風、蒸発、凝結、光線、分子と
44ひせん:瀧
いった、おそらく明治期に西洋知識
面白いことに、ここではほとんど
の輸入とともに広まった無骨で生硬
人工物が登場しない。阿蘇の外輪山
な言葉がちりばめられる。科学チッ
から見える数軒の家々だけである。
クな言葉に出くわすと、その言葉を
その他は、自然の荒々しい姿が主と
繰り返すだけで、そのからくりはよ
して描かれている。
くわからないものの、何だかその概
第二章以降
念を理解したつもりになってしまう
このように、重昂は日本風景を総
が、そうした素人の心理をうまく突
論として第一章で論じているが、そ
いているようだ。今でいえば、よく
れに続く第二章、第三章では、日本
わからないカタカナを弄するのに近
を取り巻く海や南北に細長い国土、
いかもしれない。
流れの急な川などが独特の気候をも
そして、本書が登山界のバイブル
たらし、多種多様な動植物を産じる
とされる理由が、第四章と五章にあ
ことを述べる。
る。日本国中の山々の解説が詳しく
ここで気になるのは、重昂の言葉
述べられるのである。これを読んで
士(開聞岳)のように呼ぶことを提
遣いである。第一章では江戸の知識
日本の黎明期の山岳人は山登りその
唱し、あまっさえ、富士山よりも高
人たちに揉まれつつ、長年かけて発
ものを目的としはじめたらしい。こ
い台湾の峯玉山を台湾富士、中国の
酵してきた言葉が駆使されて、日本
れら解説の最初に出てくるのが「日
泰山を山東富士と命名している。こ
風景のすばらしさを謳い上げている
本の火山「名山」の標準」として登
れは、日本の東アジアの植民地化と
が、第二章以降になると、とたんに
場する富士山である(図3)。
軌を一にしている。だから挿絵にも
「自然科学用語」が多用されるよう
富士山を最高峰とした山々の序列
さりげなく台湾の風景が入ったり
になる。熱帯、温帯、赤道、海流、
化の中で、日本各地の名山を薩摩富
(図4)、辛くもロシアに奪われずに
図5:カモイコタン(北海道)(第6版より)
響
戸
〆
すんだ開拓途上の地、北海道を力強
騨
十
灘
くはしる機i関車(図5)が日本風景と
園
ワ
戸
帖
笥
障
口
甲
り
潮愛
蝉
嶋
して描かれていたりするのだろう。
柳
挿絵が訴える日本風景
少なくとも、重昂が引用した貝原
三市
㌔
渓の「江山洵美貌吾郷」には、風景
を愛でる心持が個人個人に属してい
三列
劉
山姻
緒
臨膏
£
家とまちなみ57〈20083>
鴬
拶
島
壽
刷
尉胃
ア
竃
慣
“
州
図3:日本の国の火山
56
11
一
詩
離籍.
糟
、
∵
益軒の「限りなき楽しみ」や大槻磐
7
ることを前提とし、その心持ちがい
わば相対的であるところに、ある種
画ツ 匡
灘1襲∠
qご
ピ遷
サユ
孟 愛)帽,_
レ
lU認ゆl11、1、1』 葡
^慧譲響塑
@ 其
、荏嶢露に洗ぼろ。△族花︵夕顔︶棚の夕凍ミ最も滴爽。
諸種皆な熟す。
図6 理想上の日本 美なる哉(かな)国土(第6版より)
r細細准野入家。酒潟何須讃思茶。喚舞園丁風露底。一盤紅
里
に や わ ら ん 輪 に
.
翼
桑
ナ
て
や
ぜ
ん
芭 蕉
り炉へはかしてくれけり腰の鎌 蒼 耳や限りに鳴く。△綿、花圃
幽く。△業裁︵ノウゼンカ 嘱
)、
瓜
。 藤弾竹外 ・
割西
一過、積暑セ溌ひ去りて入
ヤ錦や曳く。△百日紅、 ﹄
⋮畏きも入に可なり。
[欝銃臭根鉾口鎚・ 1 戯、
桃
ず。 ゆふ距ちのくもに外 ︸
末−・レ2てすくしくのころ松 μ
灘
遵
一大根ぽヒ旬よゆ播種す。 ;
帆蕎饗に中旬より播種す。三 ・
.レ
の季節。繍夏の海一浦つくのあらし哉
、“.“
鵬藤
1……一…纏騰琶撫繕
@ @ @ @ @ 虹
図7七月、八月の日本の風景(第6版より)
慎み深い味わいがあったのに対し、
えているところにあるのだろう。い
明治近代の西洋列強諸国からの侮蔑
まだに日本の風景は多元的にしか論
と侵略の恐れの中から日本国を立ち
じることはできないのだから。
上げ、日清戦争に勝利したばかりの
日本の青年、志賀重昂の風景論は、
(注記)
あくまでも絶対的であった。だから
年(『猪瀬直樹著作集5』)2002年再録)
図6のような図が強調される。
*1猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館1986
*2猪瀬直樹『土地の神話』小学館1988年
このように、重昂が書いた文章自
録)
体は国粋色豊:かだったが、一方で、
*3岩波文庫版『日本風景論』近藤信行校訂、
1995年
ほとんどの挿絵は江戸的な挿絵であ
った。後年の版の最後に付録的に差
し挟まれた、一月から十二月までの、
いわば日本風景歳時記のようなペー
ジには、第一章で述べたような貝原
益軒、大槻磐渓の江戸のテイストが
復活しているし、そこにも、自然と
一体化した建築が風景として挿入さ
れている(図7)。
『日本風景論』の魅力は、こうし
たアンビバレントな風景の価値を伝
し 『、
(『猪瀬直樹著作集6』小学館)2002年再
…
蟹. ,
慧
閉
1 ズ’
’ 冥 ノ
適 ‘
糞
し罵
大月敏雄(おおつき・としお)
東京理科大学工学部建築学科・准
教授。1967年福岡県八女市生まれ。
東京大学大学院博士課程終了後、横
浜国立大学助手を経て現職。同潤会
アパートの住みこなしや、アジアの
スラムのまちづくりなどを中心に、
住宅地の生成過程と運営過程につい
て勉強している。著書髄『集合住宅
の時間』(王国社)など
家とまちなみ 57〈20083>
57
Fly UP