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鈴木智之 三井さよ編著2011「ケアのリアリティ-境界 - SOC

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鈴木智之 三井さよ編著2011「ケアのリアリティ-境界 - SOC
1.
〈場〉の力
―ケア行為を超えたケア・支援論に向けて―
三井さよ
1
はじめに
本稿は、近年の医療や福祉現場において再考されるようになった〈場〉の力について、
それに注目する意義を明らかにした上で、ケア提供者にとって持つ意味について考察を加
えようとするものである。
何らかの困難を抱えている人に対して、多くの人やモノが全体として織りなす〈場〉が、
何よりも大きな支援やケアの力を発揮することがある。誰か一人の配慮や働きかけに還元
できないような、さまざまな人のちょっとしたかかわりや、その〈場〉全体を流れる空気
のようなものが、そこにいる人をケアし、支えているように見えることがある。
こうした〈場〉の力は、おそらく実践の中では、明確に言語化されずとも常に存在して
きたのだが、近年は、制度的な取り組みにつなげられている。特別養護老人ホーム(以下、
特養と略記)でいえば、利用者にとって空間が持つ意味を再考する動き(外山 1990)と関
連しながら、ユニットケア化や個室化が進められている 1)。また、全国で自発的に生じてき
た民間の宅老所などの試みが、小規模多機能施設として法制度に取り込まれた。これまで
にも、たとえば病院に設置基準があったように、ケアや支援において空間や人数が問われ
なかったわけではないが、必ずしも患者や利用者に提供されるケアや支援の質とは直接結
びつけられてはこなかった。それに対して、近年の急激な制度的変化は、まさにケアや支
援の質に決定的な影響を与えるものと位置づけられていることが多い。その人をケアし支
援するような〈場〉の力への注目が、近年特に高まっているとは言えるだろう。
ただ、
〈場〉の力に注目することが持つ意味については、必ずしも十分に考察されてこな
かったように思う。
〈場〉の力への注目は、個別ケアの延長にあるものだと位置づけられが
ちである。確かに個別ケアの思想から〈場〉の力への注目につながる必然性はあるだろう。
だが、そこには一定の断絶もある。本来、
〈場〉の力への注目は、ケアや支援を考える上で、
ケア提供者によるケア行為を超えたものをどう考えるかという重要な課題を示すことにつ
ながるのではないか。
ケアや支援を、提供者側の行為として捉えようとする傾向は強い。看護学や介護福祉学
はケア提供者の行為をより整理し、明確化しようとしてきた。それらを踏まえてケア全般
を捉えようとしたものとして、西川真規子の議論が挙げられる。西川は、ケアを、相手の
ニーズを判断し、働きかけ、またその結果をアセスメントするという一連の行為として捉
え、介護や育児などに共通してみられるものとした(西川 2008)。もちろん、このようにケア
や支援の理論化がなされるときに、ケア行為が集中的に取り上げられがちなのには理由が
1
ある。ケアや支援を、女性による無償の愛情に基づく行為であり、「誰でもできること」で
あるとする考え方が根強く存在するからであり、それへのアンチテーゼという意味が込め
られているからである。
だが、かといって、ケアや支援をあまりにケア提供者の行為に還元してしまうのもまた、
ケアや支援の豊かさを損なうものになるのではないか。それに対して、〈場〉の発想は、よ
り豊かな世界を示しているように思われる。
こうした問題関心から、本稿はまず、既存の議論を踏まえつつ、〈場〉の力の素描を試み
たい。その上で、個別ケアという、1970 年代以降に強調されるようになった潮流において、
〈場〉の力への注目が持っていた意義を考えたい。さらに、
〈場〉の力がケア提供者の行為
に還元できないものであることも示し、そこでのケア提供者の迷いや葛藤に触れることと
したい。
なお、本稿で取り上げる事例は、特養 B については調査研究に基づいているが 2)、それ以
外は私がこれまでかかわってきた介護現場での経験や介護者から伺った話に基づいている。
後者については、プライバシー保護の観点から、一部事例を変えてある。
2 〈場〉の力
まず、本稿が〈場〉の力と呼びたいものについて説明するために、西川勝のいう「ケア
の弾性」や「パッチング・ケア」の議論に触れよう。西川は、「ケアを活きたものにするた
めには、
『意味の病』から回復しなければならない。ケアに『格別な意味』を求めない『普
通のケア』が、互いが自由に生きられる世界を開く」
(西川 2007:122)と述べる。ケアや支
援に関する議論では、ケア提供者の行為に注目し、その行為の意味や目的を問う傾向が強
いのに対して、もっと「普通のケア」を示そうとする。
西川が挙げるのは次のような例である。ある認知症の女性が夕方になって、
「もう私、帰
らせていただくわ」と迫ってくるときに、「ぼく」がにっこりと笑い、夜勤者が声をかけ、
他のお年寄りに面会に来ている家族が声をかける。外の風景を見ながら、夕食の匂いがし
て、隣の人が食べている気配がする。そうした中から、徐々にその女性が落ち着いていく。
どれかひとつが決定的だったというよりも、そうした「小さな数えきれないケアのかけら」
が積み重なっていったことで、女性の気持ちが和らいでいったのだという。
ここに示されているのは、ある人を取り囲む〈場〉が持つ力である。一人ひとりのケア
提供者の配慮は、それ自体はささやかなことに過ぎず、単独ではその人をケアすることに
はならないかもしれない。それでも、それらが積み重なっていくことが、一人の限界を超
えて力になっていく。人だけでなく、風景や夕食の音など、さまざまなものが〈場〉の力
を構成する。それらが一体となって、その人の気持ちをやわらげたり、孤独を癒したり、
元気づけたりすることがある。
2
これは何も、利用者や患者の気持ちをやわらげることができるといったレベルの問題だ
けではない。
〈場〉の力は、その人がその人として他者とかかわる力を育むものともなりう
る。私はある特養で、落ち着かない認知症の利用者に対して、別の利用者がその世話を焼
いているのを見たことがある。私には、世話を焼いている利用者は、ひとりで座っていた
ときよりもはるかに生き生きとして見えた。他の利用者と〈場〉を共有していることが、
その人に力を与えているのである。このように、
〈場〉の力は、エンパワメントにもつなが
る。
さらにいえば、
〈場〉の力は、ケア提供者のケア行為の基盤ともなる。浮ヶ谷は、北海道
浦河赤十字病院精神科でのフィールドワークから、看護が生まれる「場」への注目が必要
であるとし、その「場」は「多種多様な人々がそれぞれ異なる目的で(目的のないことも
含めて)参加しているという、目的や参加の仕方が柔軟で多様な意味空間となっている」
(浮
ヶ谷 2009:195)と指摘している。そして、それが看護職にとっても患者にとっても、
「話し
やすく」
「居心地の良い」空間となっている。そこでちょっと会話に出てきたことが、即興
的カンファレンスにつながることもあるという(浮ヶ谷 2009:192-237)
。
もう尐し、
「わかりにくい」例も挙げよう。関西圏にある特養 B は、1995 年に設立された
が、1999 年頃から精神障害者・知的障害者の就労支援に取り組んでおり、その一環として
精神障害者によるボランティア活動として、大量に出る洗濯物をたたむ作業を頼んでいた
という。最初は利用者のいないスペースで行っていたそうだが、ふとしたことをきっかけ
に、重度認知症の人たちが多くいるフロアで行うことになった。
そうしたところ、施設長の言葉を借りれば「空間がなごんだ」のだという。
普段の生活空間と全然違うんです。精神障害の人とリーダーの人とが洗濯物を畳んでい
るだけなのだけれどね。所在なげに入所者がごろごろしていたりするのですけれども、洗
濯たたみをしているそこのスポットがあるというだけで、その空間がすごく和んでいるん
です。比ゆ的に言うと、利用者のほうも囲炉裏の周りにのんびりいるような、そういう感
じ。普段はもうちょっとで寝てしまっていたり、早く時間がすぎないかなという感じでい
る(のに、そういう)表情ではなくて、非常に和んでいるんです。
重度の認知症の利用者たちがいるフロアは、一般に、介護職スタッフはそれぞれの仕事
に駆け回っており、なかなか利用者のそばに座ってもいられないことが多い。特にするこ
ともない利用者たちは、しばしばぼんやりと宙を見ている。他の利用者のうめき声やつぶ
やきも尐々不快に感じているようである。
そうした中で、ボランティアたちが利用者たちの真ん中で洗濯物を並べてたたむ作業を
することになったところ、多くの利用者たちがそれとなくその作業を注視するようになっ
た。レクリエーションなどでは疲れてしまうであろう利用者も、洗濯物たたみならぼんや
りとみていることができる。そうすることで、所在なげな利用者たちに、注目する対象が
3
生まれる。それは、ただ時間が経つのを待っている状態とは、大きく異なってくるだろう。
周囲の利用者たちの声やつぶやきも、それほど不快なものではなくなるかもしれない 3)。
このとき、見た目としてわかりやすい変化が起きたわけではないだろう。だがそれでも、
「空間がなごむ」という変化を、施設長は感じ取っていた。そうした、言葉にしにくいよ
うな、いわば「わかりやすくない」形で、〈場〉が力を持つことがある。その場に新たな存
在(=ボランティアによる洗濯物たたみ)が入り込むことによって、空間の編成が変わり、
利用者たちの様子が変わった。
〈場〉のあり方が、利用者たちの日常の中に、和んだ時間を
生みだしたのである。
一人ひとりのケア提供者の行為や能力には還元できない、さまざまな人やモノが織りな
すことで生まれる〈場〉の力が現場で果たす役割は、決して小さなものではない。必ずし
も、目で見てわかりやすいものばかりではないのだが、多くの実践家たちが、現場でその
力を確かに感じている 4)。
3 〈場〉の力を育む工夫や仕組み
冒頭で述べたように、近年は〈場〉の力を育むための制度化が多くなされている。ここ
で、制度化の論点となった、①物理的空間配置、②人数、③「共生ケア」のそれぞれにつ
いて、従来なされてきた議論を概観しよう。
〈場〉の力は、何もないところから生まれるの
ではなく、さまざまな工夫や仕組みによって生まれるものである。ここで挙げる三つの点
は、その工夫や仕組みとして従来取り上げられてきたことである。これらの持つ意義を確
認するとともに、それだけではない工夫も必要なことを示そう。
3.1 物理的な空間配置
第一に、従来の入所施設が、病院を模した空間となっており、とても居住空間とは呼び
がたかったのに対して、居住空間・生活空間となるような物理的な配置が論じられている。
物理的な空間配置と〈場〉の力は確かに不可分であろう。なぜなら、ケアや支援を必要
とする人たちの多くが、独力で自由に大規模な移動をすることが困難だからである。入所
施設で暮らす人たちはもちろん、地域で暮らす人たちにしても、身体的・認知的な事情、
あるいは経済的な事情から、独力で自由に遠方へ出かけることは困難なことが多い。そう
すれば、その人たちが日常的に時間を過ごす空間がどのようなものとして成立しているか
は、重要な論点となる。
1990 年代頃から、特養における空間的配置について、建築学をはじめとしてさまざまな
議論がなされてきた。個室化を進めたり、レクリエーションや憩いの場を作ったり、ある
いは認知症の人にとって「居心地のいい」空間とは何かなどについて、物理的な側面から
のアプローチが蓄積された。単に憩いの場と個室を作るだけでなく、利用者がその双方を
行き来できるような空間づくりの工夫が論じられている(外山 1990; 外山 2003; Cohen &
4
Weisman, 1991=1995)
。
ただし、その空間をどう活用できるかはまた別の問題である。外山をはじめ、物理的空
間のありようを論じる論者たちは、同時に、それを現場にいるケア提供者がどう活用でき
るかが重要であると強調している(外山 2003)
。
そして、おそらく重要なのは、物理的な空間配置に利用者や患者自身がかかわることだ
ろう。特養 B では、グループケアを実施するに当たって、職員たちが「いかにもグループ
ケア」な小道具(ラタンのつい立てなど)を取り入れたが、利用者に感想を聞いてみたと
ころ、
「邪魔や」の一言だったため、すべて取り払ったという。当時から特養 B にいた職員
は、このように利用者に感想を聞き、利用者とともに空間をつくっていくことが重要だっ
たと捉えている。もともと用意されている空間だけが問題なのではない。ある程度の条件
の中から、その後の物理的な空間配置を実際につくり、決めていくのは、利用者とケア提
供者たちである。
その〈場〉を構成する主体は、ケア提供者だけでなく、利用者も含まれる。そのため、
物理的な空間配置は、専門家による議論の蓄積が重要なのも確かだが、それだけではない。
細かい点はそこにいる利用者も参加してつくり上げていくものである。
3.2 人数
第二に、従来の入所施設が、個々の利用者を見るというよりも機械的にケアを行ってい
たのに対して、人数を限定することでより細やかなケアや関係づくりが可能になるとされ
た。比較的尐数の人たちの集まりですごした方が、それぞれの顔も覚えられ、気の置けな
い関係が育まれやすい。宅老所運動を担う実践家たちは、尐数の人たちの顔と背景がよく
見える関係性だからこそ、個別のケアが行き届いたというだけでなく、豊かな〈場〉も生
まれたのだと捉えているようである(奥山 2003; 田部井 1993)
。
だが、人数だけが本質的な問題だというわけではない。近年の入所施設ではユニットケ
ア化が進んでいるが、10 人という人数に分けることそのものが、常に〈場〉の力を生むと
いうわけではない。問題はそこにいる利用者たちに合わせたユニットになっているのか、
それも障害の軽重などではなく個々の利用者の個性に合わせたものとなっているのかとい
う点である(三好 2005: 134-145)
。三好と高口は対談の中で、現場の中で一人ひとりのお年
寄りに焦点を合わせていった結果として見えてくるユニットケアなら意味があるとしつつ、
一律に人数を決めさせられる現在の制度的なユニットケアには異議を申し立てている(高
口 2004: 141-143)
。
翻って宅老所やグループホームなどの試みに立ち返ってみると、尐人数だったというだ
けでなく、その中で従来の福祉施設では考えられなかったような試みがいくつもなされて
いる。たとえば宅老所「よりあい」では、職員と利用者が一緒に入浴し、一緒にご飯を食
べ、利用者同士で草むしりをしたり外出をしたりしたというが(下村 2001)
、こうしたかか
わりも、豊かな〈場〉が生まれる上で重要だったろう。
5
人数は、むしろ多い方が望ましい場合もあるのかもしれない。たとえば、大規模なデイ
ケアを実践することで、多様な人たちの相互のかかわりを活かす試みがある(山崎他 1996)
。
個々の利用者やケア提供者にはどうしても相性があるが、多人数であれば、合わない人と
距離を置くこともできるし、自分に合う人と出会う可能性も高まる。また、多人数であれ
ば、一人でいたい人が一人でいることもできる。尐ない人数の中では排除されたり浮いて
しまったりする人が、多人数だからこそ居場所を見つけられることもある。
いずれにしても、人数が〈場〉に影響を与えているのは確かだが、多ければいいという
ことでもなければ、尐なければいいということでもない。そこにいる人たちのかかわりに
よって、適切な人数も決まってくるのである。
3.3 「共生ケア」
第三に、利用者あるいは職員とされる人たちを一律に規定しないことによって、さまざ
まな人が入り込む豊かな空間がつくれるとされた。
「共生ケア」と呼ばれることも多い。
宅老所運動の中には、高齢者・障害者・子どもなどがともに時間を過ごす「富山型デイ
サービス」(惣万 2002)など、
「利用者」とされる人たちを一律に規定せず、多様な人たちが
入りこみ、その中で豊かさを育んでいくような試みもある。その他にもグループホームと
学童を合体させた「幼老統合ケア」(幼老統合ケア研究会編 2006)、街かどケア滋賀ネットに
よる「共生ケア」の試みなどがある 5)。たとえば「幼老統合ケア」の試みでは、認知症の老
人は、子どもたちが何度も同じ話をするのを毎回新鮮に聞いてやることができるなど、あ
る意味ではとても辛抱強さを発揮できる存在であり、大人の言うことを聞かなかった子ど
もたちでも、認知症の老人たちとはうまくやっていけたという。また、子どもたちに昔の
遊びを教えてやることで、子どもたちは率直に老人を尊敬し、またそのことによって老人
たちも生き生きとしたという。街かどケア滋賀ネットでは、知的障害者などを宅老所のス
タッフに雇用しているが、知的障害者スタッフが失敗をして他のスタッフに責められたと
きにかばうのは利用者の老人であったり、老人のゆっくりとしたテンポと知的障害者スタ
ッフのテンポとがかみ合って豊かな時間が流れていたりするという(ならではの働き研究
委員会 2007)
。
利用者が一律に規定されていれば、利用者はいつでも「ケアされる側」であり、ケア提
供者はつねに「ケアする側」である。だが、利用者に高齢者だけでなく子どもや障害者が
いたり、あるいはスタッフの中にもさまざまな背景を持つ人がいたりすれば、利用者はと
きに「ケアされる側」だけでなく「ケアする側」にも立つことになる。そうした多様な立
場をとることのできる〈場〉が、個々の利用者に大きな力を与えるのである。
ただし、高齢者や障害者、子どもなどを同じ場に置けばいいということではない。私の
知り合いの重度身体障害をもつ人は、以前いた入所施設が高齢者の入所施設と併設されて
おり、日常的に高齢者と行きあう機会があったそうである。だが、当時の状況について聞
けば、高齢者は自分たちをバカにしてくるから嫌だった、という。生活を管理・統制され
6
ている中では、そうした出会い方が多くなってしまうのかもしれない。
また、三好は「混合型」を「型」ありきで考えれば、うまくいかないだろうと指摘する。
すべての老人が子ども好きなわけではなく、障害者を嫌う老人もいる。「混合型」が正しい
としてしまえば、こうした多様な老人の姿を塗りつぶしてしまうという(三好 2005:66-68)
。
いずれにしても、
「共生ケア」は、たださまざまな人を同じ場におけば成立するというも
のではない。その内実は、そこにいる人たちがどのような状況下にあるのか、どのような
個性を持つのかなどによって、異なってくる。
4
ケア行為という発想の限界
4.1 個別ケアの思想
では、こうした〈場〉の力に注目することは、どのような意味を持っているのか。先に
挙げた西川勝は、認知症の女性が徐々に落ち着いていく場面を描写した後に、「こんなケア
の光景をもっと大切にすることが、相手を理解や操作で翻弄しないケアになる」(西川
2007:122)と述べている。
「相手を理解や操作で翻弄する」ケアに対して、
〈場〉の力に注目
することは、前者にはない新たな地平を切り開くと捉えられている。
こうした西川勝の指摘が持つ意味を理解するために、本稿なりに、ケアや支援に関する
議論が 1970 年代以降に持ってきたある種の偏りと、それが持っていた意味をまとめよう。
ケアや支援という言葉は、従来の医療や福祉のあり方に対する批判として積極的に用い
られているようになっている。
「ケア」という言葉が積極的に用いられるようになった当初
は、しばしば「キュア」との対比で用いられてきた。
「支援」という言葉も、
「療育」や「指
導」との対比で用いられるようになった。その際、批判の対象とされた従来の医療や福祉
は、それなりの規模の医療機関や入所施設において、尐数の管理者が多数の利用者を管理
し、治療・指導するようなものであった。
それに対して、患者や利用者の固有な生のあり方に忚じたケアや支援が必要だというこ
とが強調された。それまでの医療・福祉が、その人の身体の個別性は考慮したとしても、
人生や生活の固有性にまで目を向けなかったのに対して、人生や生活も含めたその人の固
有なあり方に寄り添い、それに忚じた個別のケアがなされることが重要だと捉えかえされ
た。これを、ここでは仮に、個別ケアの思想と呼んでおこう。
個別ケアの思想は、
〈場〉の発想の原点でもある。一人ひとりの患者や利用者の固有な姿
に目を向けるからこそ、その人を取り巻く〈場〉の力に気づくこともできる。患者や利用
者を一人の固有な人として見るからこそ、その人自身が他者や事物と取り結ぶ関係に目が
向けられる。
〈場〉の力が近年になってこれだけ制度化と結びついているのも、個別ケアの
思想が進展したためだとも言えるだろう。
4.2 ケア行為に限定する発想の限界
7
ただし、個別ケアという表現は、基本的に主体としてケア提供者を想定している。その
ため、個別ケアというときに、ケア提供者によってなされるケア行為というレベルでのみ
捉えられることが多い。
冒頭で挙げたように、ケアや支援を、ケア提供者が相手や状況を的確に把握し必要に忚
えるという、具体的な行為レベルで捉える議論は多い。これらは、個別ケアをケア行為に
限定して捉えるものだといえよう。その人の固有性に寄り添うケアは、何もケア提供者と
いう主体だけを想定して描かれる必要はないはずだが、どうしてもそうした議論が多い。
西川勝が批判したのは、こうした傾向であろう。個別ケアを具体的な行為レベルに表れた
ものだけで捉えたり、相手の全人的な理解・把握であるかのように捉えたりする議論に対
して、
「相手を理解や操作で翻弄するケア」と呼んだのだと思われる。
確かに、ケアや支援を、ケア提供者という主体によるケア行為だけで捉える発想と、
〈場〉
の力に注目する発想とは、一見近しいように見えて、実はさまざまな局面で重視する事柄
や方向性が大きく異なってくる。たとえば 3 節で取り上げた三つの論点についても、アプ
ローチの仕方が変わってくるだろう。
ケア行為だけで捉える発想であれば、物理的な空間配置は完全なものである方が望まし
い。完全なものであればあるほど、よりよいケア行為が提供できるということになるだろ
う。だが、3.1 でみたように、
〈場〉の力を考えるなら、ケア提供者だけでなく利用者もそ
の構築に参加した方がいいということになる。あらかじめ完全なものが用意されているよ
りも、どこに何を置くか、利用者とケア提供者が相談しながら作っていった方が、利用者
にとってその空間配置が持つ意義や効果は大きくなるだろう。
人数についても、ケア行為だけで捉えるなら、尐なければ尐ない方がいいということに
なるだろう。個々の利用者や患者にケア提供者の目が行き届き、必要に対しても忚じやす
くなるからである。だが、3.2 で述べたように、〈場〉の力に注目したときには、そうとは
限らなくなる。もちろん人数が尐ない方が〈場〉の力を育めることもあるだろうが、多人
数には多人数なりの〈場〉が生まれうる。
「共生ケア」についていえば、ケア行為だけで捉えるなら、ケアを受ける対象は高齢者
なら高齢者に特化していた方がいいということになるだろう。高齢者には高齢者の、子ど
もには子どもの特性があり、それぞれに個別に対忚するためには、ある特性をもつ人たち
だけに限った方がよいことになる。だが、3.3 でみたように、さまざまな人たちが同じ〈場〉
にいるからこそ育まれるものもある。
先に述べたように、個別ケアの思想は、本来は〈場〉の力という発想にもつながりうる
ものである。ただ、ケア提供者によるケア行為というレベルに特化してしまうと、〈場〉の
力という発想とはかなり異なるものとなってしまう。ケア行為だけで考えるなら、完全な
物理的な空間配置をあらかじめ用意し、尐ない人数で、特化した人たちにだけケアや支援
を行う方が望ましいことになる。そうした考え方でいいのだろうか、もっと異なる発想が
必要ではないか。それが西川勝の言いたかったことなのだと思われる。
8
4.3 「困難な状況」から脱け出る方途として
本稿では、西川勝の批判とはまた別の側面からも、ケアや支援をケア行為のレベルでの
み捉えることに限界があると主張したい。個別ケアをケア行為レベルで捉えるなら、冒頭
で挙げた西川真規子のように、相手や状況を的確に把握し、それに対して忚えるというモ
デルを立てることになるだろう。だが、そのモデルが字義通りには通用しない局面は多々
ある。
それは特に、重度の認知症や知的障害をもつ人たちへのケアや支援を試みる場合である。
たとえば、先に挙げた特養 B では、重度の認知症と呼ばれる利用者が多くいるが、言葉で
話しかけても、職員にとってわかりやすい回筓が返ってこないことが多い。家族の面会も
尐ないため、職員は利用者と話す以外には手がかりがないのだが、会話そのものがなかな
か続かない。そうなってしまうと、職員もいたたまれなくなってくる。そして、やり残し
た業務を思い出し、その場を離れてしまうことも多いという。それでも話をせよというの
は簡単だが、そこで無理やり話を続けたところで、利用者にとっては、思い出せないこと
を四の五の聞かれる、尋問を受けるような経験になるかもしれない(三井 2008)
。
こうした局面において、従来イメージされる個別ケアのモデルを実践するのは容易なこ
とではない。個別ケアを行為レベルで捉えるなら、こうした局面はケアが「困難な」局面
ということになるだろう。実際、重度認知症や重度知的障害の人を指して、
「困難な」事例
と呼ぶ人は多い。
だが、それはそもそも、個別ケアを行為レベルで捉える発想の方が貧困なのではないだ
ろうか。具体的なケア行為のレベルでわかりやすいケアがなされなくても、できること、
すべきことはたくさんあるはずである。
これらの局面でこそ、実際の現場は、〈場〉の力を活用しているように思われる。具体的
にケア提供者が何らかの支援行為を提供することだけが重要なのではなく、むしろ〈場〉
の力こそが、その人たちの生活を尐しでも豊かなものとする。その人の背景など知らずと
も、暖かい日差しと、賑やかな食事の風景は、その人の気持ちを和らげるかもしれない。
個々の人生観や好みを真っ向から探るというよりも、ともに日差しを共有し、ともに庭の
花を眺めて「きれいだね」と言い合う。そこから、言葉を介したコミュニケーションが困
難に思える相手とも、ゆっくりとかかわりをつくっていくことが可能になる。その人を知
ろうとする前に、その人に具体的な何かをしようとする前に、まず〈場〉を豊かにする。
そうした試みが、実際の現場では多くなされている。
尐なくともケア提供者の視点からすれば、〈場〉の力を育むことへと力点を移すことは、
かなり大きな意味を持っているように思われる。目の前にいる利用者のことを理解し操作
しようとしても、なかなかうまくいかないとき、ケア提供者は無力感にさいなまれてしま
うことがある。そうしたとき、
〈場〉の力に目を向ければ、具体的な試行錯誤の道が見えて
くる。たとえば物理的な空間配置をどのように変えればこの人は心地よいだろうかと考え
9
てみる。あるいは、尐ない人数での場をつくってみたり、多い人数の中に入ってもらった
りして、その人がどの人と相性がいいのか、どのような人や空間に囲まれていると気持ち
良さそうだろうかと考えてみる。そして、さまざまな人とその人が出会う機会をつくって
みる。どうなるかはわからないにしても、いま試してみるべき事柄が具体的に見えてくる。
そうした意味で、
〈場〉への注目は、ケア行為だけに注目していては閉塞してしまうような
状況において、重要なブレイクスルーとなりうるのである。
そうすれば、目の前にいる利用者は「困難」な事例ではなくなる。重度の認知症や知的
障害の人たちを「困難」な事例とみなしたり、その人たちにケアや支援をしなくてはなら
ないことを「困難な状況」とみなしたりすることから、ケア提供者自身が脱け出すことが
できるのである。これは、ケア提供者がケアや支援に積極的に取り組み続ける上で、重要
な力となるだろう。
個別ケアの思想と〈場〉への注目は、重ねて論じられることが多い。確かに、個別ケア
の思想を深化させてこそ、
〈場〉の力に気づくことも可能になる。だがここには断絶もある。
尐なくとも、個別ケアの思想を字義通りケア提供者の行為レベルだけで受けとめれば、そ
れは〈場〉の力とは異なる発想になる。そして、ケア行為のレベルだけでは「困難」とさ
れる局面でこそ、
〈場〉の力は大きな役割を果たしうるのである。
5 〈場〉とケア提供者の行為
5.1 ケア提供者の関与
〈場〉の力は、具体的なケア行為に還元できないと述べたが、では、
〈場〉の力に対して、
ケア提供者は関与していないのだろうか。しているのだとしたら、どのように関与してい
るのだろうか。
一方で、ケア提供者は、
〈場〉の力に大きく関与している。なぜなら、利用者や患者の多
くは、自由に外を出歩けないからである。入所施設の管理や規則がそれを阻んでいること
もあれば、一人での外出が危険・困難なときに一緒に出かける支援者を自由に確保できな
いということもあるだろう。いずれにしても、利用者や患者が自ら外に出かけて、自由に
他者との関係を形作っていけるわけではないことは多い。
そうであれば、ケア提供者が、その人がいる空間に誰を連れてくるか、あるいはその人
をどこに連れていくか、あるいは連れてくるにせよ連れていくにせよ、どのようにそれを
するのかによって、その〈場〉のありようは大きく左右される。
たとえば、多くの入所施設が、さまざまな形でのボランティアを導入しているが、その
導入の仕方によって、活かされ方は大きく異なってくる。ある特養で、ピアノを弾くボラ
ンティアが来て、利用者たちが皆で童謡を歌う時間が設定されていたことがあった。私も
その場にいたのだが、ある利用者は歌おうとせず、皆の声を遮って私に話しかけてきた。
そうしたときに、職員や私がどのようにふるまうのか。歌に参加するように促すのか、さ
10
りげなく別の場に移動しようとするのか。利用者がなぜ歌おうとしないのかにもよるため、
どちらが良いと一概に言えることではないが、そこでの職員の対忚を当人も周囲の利用者
も見ているのであり、それが〈場〉の空気を決定する大きな要因となることは確かであろ
う。
あるいは、ボランティアに来た人に対して、職員が利用者の背景について説明するのか、
するとしたら何をどのように話すのか。私が会ったある女性は、尐し足に麻痺があるにも
かかわらず、すぐに歩き回ろうとしていた。一日中歩きまわって、足を痛めてしまうこと
もあるそうである。ボランティアとしてその場にいた私は、彼女と会うのはまだ 2 回目で
あり、彼女のあとをついて回るしかできないでいた。そのときある職員が、
「足を痛めるか
らちゃんと座らせてね」と言い、私は自分が悪いことをしてしまったのだと、ひどく委縮
してしまったのを覚えている。あとから別の職員が声をかけてくれ、「(彼女が)歩きまわ
る気持ちもわかるんだけどね」と、彼女の普段の様子などを説明してくれた。それだけで、
私自身、彼女を見る目が変わるのを感じた。
「歩き回る厄介な人」から、思いをもつ一人の
人に見えてきたのである。このように、どうすべきかだけを言うか、その利用者の思いを
説明しようとするか、あるいはその利用者とボランティアが1対1で付き合うのを見守ろ
うとするか。職員がどのようにふるまうかによって、ボランティアの目に映る利用者像も
異なってくる。おそらくは、利用者との間に生まれる関係性も異なってくるだろう。
このように、ケア提供者は〈場〉の力に確かに深く関与している。患者や利用者が自由
に移動できない以上、その人たちは自分の隣に誰がいるのか、あまり自由に選べない。そ
こでどのような人と出会う機会をつくるか、両者が出会う過程にどのようにかかわるのか。
これらの点において、ケア提供者が与える影響は大きい。
5.2 他者と他者とのかかわり
しかし他方で、
〈場〉がどのようなものとして成立するのかは、ケア提供者が自由に管理
できるものではないのも確かである。
利用者同士の関係性にしても、外部の人たちとの関係性にしても、ケア提供者からすれ
ば、どちらも他者である。自らと他者との関係性は、かなりの程度まで感情管理能力とし
て捉えることができると仮定しても(実際には利用者も他者である以上、そう簡単に割り
切れるものではないのだが)
、他者と他者との関係性は、ケア提供者がある程度以上コント
ロールできるものではない。
さらに言えば、ケア提供者は、おそらくある程度以上は〈場〉をコントロールしようと
すべきではないのだろう。ケア提供者が完全にコントロールしようとすれば、結局はケア
提供者の想定の範囲内に収まる関係性しか生まれず、〈場〉の力を育むことにはなかなかつ
ながらない。
なぜなら、ケア提供者に対して示す顔が、その人のすべてではないからである。ケア提
供者を前にしたとき、利用者や患者が見せる顔は、基本的にケアの受け手としての顔であ
11
る。たとえば入所施設で利用者が職員に言うのは、基本的には「トイレに連れていってほ
しい」
「座位を変えてほしい」という依頼が中心になりがちである。
だが、他の利用者に対しては異なる顔を見せるものである。ある利用者が、私を含めた
ケア提供者にはニコニコと笑顔で接してくれる人なのだが、ケア提供者がいなくなったと
きに、他の利用者に「なんでそんなにのろいんだよ」と厳しい口調で言っているのを見か
けたことがある。ケア提供者に対する笑顔を身につけることによって、その人のうちでた
め込んでいるものもあるのかもしれないと思った。他方で、別の利用者が、ケア提供者に
対しては不遜とも思えるような態度で接しているのに対して、他の利用者に対しては実に
愛想よく世話を焼いているのを見たこともある。基本的に世話を焼くのが好きなその利用
者は、世話を焼かれる立場に置かれることが尐々苦痛なのかもしれない。そのためにケア
提供者にはあまり好意的な態度を示せないのではないかと感じた。
また、スタッフと尐し異なる立場の人たちが入り込めば、その人たちには別の顔を見せ
ることもある。ある特養にボランティアとして伺ったとき、認知症が比較的軽いらしい利
用者の一人が、丁寧に自分の人生について語ってくれ、これからここで身を処していく上
での注意事項も話してくれた。あとでスタッフから、新人に対してはいつも「教育係」と
して世話を焼いてくれるのだと聞いた。もちろん、説明の多くは、初対面である私にはよ
くわからない部分もあったのだが、明らかに世話を焼いてくれる存在がいたことはありが
たかった。また、ベテランのスタッフだけであれば、その人はそのように世話を焼く機会
がなく、黙っているしかできないのかもしれないとも思った。
日常生活全般にわたって他者の手を借りなくてはならない状況は、しばしば受け手にと
って負担なことである。いちいち人に頼むのは簡単なことではないし、常に人がそばにい
る状態もときに苦痛である。まして、人生の多くを「健常者」として過ごしてきた高齢者
にとっては、いまになって自らの生活スタイルを大きく変えさせられることを意味してお
り、一忚は納得していても、ときに不安と負担を強く感じるかもしれない。そうした中で、
自らをどのように位置づけ、意味づけるかは、さまざまである(小澤 2003; 天田 2003; 天
田 2004)
。そうしたときの利用者の複雑で入り組んだ思いは、ケア提供者との関係だけで読
み解けるものではない。
利用者や患者を含め、人が見せる顔は、相手によってさまざまなのであり、本来はその
人の固有性は、それらを通してこそ見えてくるものだろう。ケア提供者がいかにその人の
生活をまるごと支援していたとしても、いやそうであればあるほど、ケア提供者には見え
ないその人の固有性や、その人なりの他者との関係性はありうるはずである。
だとすれば、ケア提供者がすべてをコントロールしようとするのは、あまりにも乱暴で
ある。ケア提供者に見えているその人は、その人のごく一部でしかない。よりその人らし
い生活をと望むのであれば、他の人たちに見せる顔もまた、重要である。何より、見せる
顔が異なるのは、それぞれの間でそれぞれの関係が育まれているということでもあり、ケ
ア提供者が過剰に介入すれば、それらの関係を壊してしまうことにもなる。
12
このように、〈場〉の力を大切にしようとするとき、その〈場〉にいる人たちに対して、
託していくような営みがなされている。先に挙げた西川勝は、「何かをしてあげるケアから
身を引いて、相手を見守るには、相手の力を信じることが大切になる」
(西川 2007:125)と
述べている。
〈場〉の力を育もうとするとき、ケア提供者は、その〈場〉を直接にコントロ
ールすることを目指すよりも、そこにいる人たちの力を「信じる」ことが必要になるので
ある。
5.3 メタレベルでの配慮と迷い―「雑多」な空間を「つくる」という発想
かといって、まったくコントロールしていないかといえば、そうでもない。多くの現場
で、〈場〉の力を育もうとするとき、一見すれば非介入で放置されているように見えても、
実はメタレベルでの目に見えないいくつかの工夫がなされているものである。
山崎らは、
「雑踏ケア」の中で、利用者の間で諍いが起きたケースを挙げている。ある利
用者(
「タカさん」
)が大声で泣き続けていたという。他の利用者もたまりかねて、「いいか
げんにしろっ!」
「あいつを黙らせろ!」と罵倒する声が聞かれたそうである。職員たちは
途方に暮れ、まずはタカさんを別室に移した。そして、スタッフが主に接し、タカさんと
いう人の人となりを知ろうと努力を続けたそうである。そのうち、徐々にタカさんにも笑
顔が出てきた。そんな中、ふとした契機から、やはり別室ではなく、皆で過ごす場に行く
べきではないかという声が出てきたそうである。
そうしてタカさんは「雑踏」の中に戻ってきた。すると、やはりタカさんは泣くことも
あり、他の利用者が怒鳴ることもある。また混乱が続くかと思われたのだが、そのうちに、
怒鳴る利用者に対してタカさんをかばってくれる利用者が出てきたという。ときどき泣く
タカさんと、それに対して怒る人たちと、さらにタカさんをかばう人たちと、それぞれが
かかわりながら日々を過ごしているようである。
これは、スタッフが利用者に頼んだわけではなく、スタッフにも想定外の出来事ではあ
ったようである。だが、他方で、スタッフがまったく関与していないわけではないことに
も注意しよう。スタッフが心がけた点はいくつか挙げられている。まず、比較的好意的な
人にときどき一緒に過ごしてもらうようにお願いしたり、他の人が「うるさい」と怒鳴っ
たらすぐ間に入ったりするように心がけていたという。また、タカさんを理解できない人
のことも否定せず、他の利用者に笑っているタカさんを知ってもらうようにしたという。
そうした営みの中から、いつのまにかタカさんを囲む人間関係が育まれていったのである
(山崎他 2006: 217-226)
。
これは、直接的なコントロールではない。直接的に他の利用者に対して注意したり、諌
めたりしたのであれば、このような事態には至らなかったであろう。かといって、まった
くケア提供者が場に任せてしまっていれば、それもまた、このような事態には至らなかっ
たのではないかと思われる。
さらにいえば、どこまで課していいのか、迷いながらなされたような試みなのだろうと
13
思う。おそらくスタッフたちは、どこまで間に入っていいのか、タカさんを理解しない人
のことを否定しないとはどのようなことか、そのつど迷いながら進めたのだろうと推測す
る。尐なくとも、
〈場〉の力を大切にしようとする実践家たちの多くが、いつ口を出すのか、
どこで身を引くのかを、そのつど考えあぐねているように見える。
他者と他者との間で生まれる可能性を保持するためには、直接的なコントロールは差し
控えなくてはならないだろう。だが、先に述べたようにケア提供者が〈場〉のありように
深く関与していることも確かであり、間接的なコントロールは必要でもある。間接的なコ
ントロールは、いわばメタレベルの配慮でもある。そして直接的なものではないだけに、
どこまで差し控えるべきなのか、ケア提供者が一歩踏み出すべきなのか、明確な筓えはな
い。
〈場〉の力を大切にしようとするとき、現場のケア提供者たちはこのようなレベルでの
迷いと葛藤を抱きながら取り組んでいるように思える。
こうしたことは、実践家たちの用いる言葉にも表れている。特養 B のスタッフたちは、
生活が「雑多」なものであり、特養の空間をより「雑多」なものにしていくことが重要だ
と述べていた(三井 2008)
。山崎らの試みも、
「雑踏」そのものがもたらすケアとして位置
づけられている(山崎他 2006)
。
「多様性」というよりも、「雑多」
「雑踏」という言葉が好
まれるのは、ケア提供者によるコントロール不可能な要素が存在することを意識づけるた
めであろう。本来、人とかかわりながら生活するという営みは、制度や他者によって完全
にはコントロールしきれない、そしておそらく自分自身によってもコントロールしきれな
い、雑多で秩序化されない要素を多く持つ。
ただ、
「雑多」な空間は、
「つくる」ものでもある(三井 2008)。生活は「雑多」なもので
あると言いつつ、それをケア提供者たちは「つくろう」とする。特に特養のような空間で
は、ケア提供者たちが、その〈場〉をそのままに放置していれば、「雑多」な空間は生まれ
ず、利用者は利用者として決められた日常を過ごすしかない。現行の福祉サービス体系の
もとでは、雑多で秩序化されない要素は排除される傾向にある。そうしたなかでは、
「つく
る」努力はやはり必要なのである。
だが、そこでのケア提供者の関与は、個別ケアという言葉で名指されてきたような、ケ
ア提供者という主体が、利用者という客体に対して、直接に何かをするというようなもの
ではない。尐なくとも、そこでなされるケアや支援は、直接的で目に見える形での配慮や
行為というよりも、もう尐しメタレベルでの配慮であり、間接的なコントロールであり、
それもどこまでなすべきかが常に問われるようなものである。
先に、ケア提供者は〈場〉のありように深く関与していると述べた。利用者や患者が自
由に他者とかかわることができない状況にあるため、どのように、どのような他者とかか
わるのか、その過程にケア提供者は関与してしまっている。といっても、その過程をケア
提供者が直接的にコントロールできるわけではなく、また直接的にコントロールしようと
すれば、利用者の固有性や〈場〉の力が持ちうる豊饒さを失いかねない。
そのため、ケア提供者はメタレベルで配慮することで、自らの関与を活用しつつ、間接
14
的に〈場〉をコントロールしようとする。だが、いつどの時点で豊饒さが育まれるのか、
あるいは損なわれるのかは、あらかじめわかっていることではない。利用者同士の諍いか
ら、実はとてもいい関係が育まれていくこともあれば、深刻な暴力行為に至ることもある。
どこまでコントロールすべきなのか、何が新たな展開につながるのか、いつ深刻な事態に
陥るのか。これらのことにケア提供者はメタレベルで配慮を働かせ、迷いながら取り組み
続けている。それこそが〈場〉の力を育む上で重要な工夫なのではないか。
6 ケアや支援の新たな捉え方に向けて
このように、
〈場〉の力に注目することは、ケアや支援そのものに対する捉えかえしを孕
んでいる。
〈場〉の力には、ケア提供者の行為が密接に関与してはいるのだが、ケア提供者
の行為レベルに還元できるものではない。ケア提供者たちは、直接的コントロールは避け
つつ、メタレベルで〈場〉のありように配慮している。それは、どこまでその〈場〉をコ
ントロールすべきかということ自体に迷いながら、試行錯誤を繰り返すようなものである。
これが〈場〉を育む上での重要な手掛かりとなっているように思われる。
こうしたメタレベルでの配慮は、ケアや支援を、ケア提供者という主体による具体的な
行為のレベルでのみ捉える視点では、捉えきれないものであろう。1970 年代から強まった
個別ケアの思想は、本来的には〈場〉の力への注目と結びついている。ただ、個別ケアの
思想は、その語感ゆえか、ケア提供者によるケア行為というレベルだけで捉えられること
も多かった。それでは、
〈場〉の力は捉えられない。よりメタレベルでの、ためらいと迷い
をともなうような配慮が、その人がその人として生きていく力を育む。
さらにいうなら、個別ケアの思想は、ケア行為というレベルを超えて、
〈場〉の力に目を
向けてこそ、追求できるものなのかもしれない。5.2 で触れたように、利用者や患者の固有
性は、多様な人とのかかわりの中でこそ浮かび上がるものかもしれないからである。個別
ケアの思想は、本来的には行為レベルだけで完結するものではないはずなのではないか。
にもかかわらず、ケア提供者という主体を基本とし、行為レベルでのみ捉えられてきたこ
との方が貧困だったのかもしれない。
では、それを踏まえた上で、実践的に〈場〉の力を育むとは、どのようなことだろう。
先に挙げた実践での表現を用いるなら、
「雑多」なものを取り入れていくために、何を考え
なくてはならないのだろうか。本稿はそこまで十分に踏み込めていないが、尐なくともい
くつかの点はこれまでの検討だけでも明らかである。
第一に、個々のケア提供者のすべてが行為レベルにおいて「優秀」である必要はないと
いうことである。資格制度などをめぐって、ケア提供者を一律に「優秀な」人たちにしよ
うとする発想は強いが、おそらくそうではない発想が必要である。なぜなら、そもそも行
為レベルだけでケアや支援が成立しているわけではないからである。また、
〈場〉の力を育
15
む上でメタレベルでの配慮が重要になるといっても、メタレベルでの配慮は、一人か二人
のケア提供者が〈場〉全体をそれとなく把握できれば、それで十分なのかもしれず、必ず
しもすべてのケア提供者がする必要はないだろう。
むしろ、行為レベルで見れば欠如や不足のあるケア提供者がいることは、
〈場〉の力を育
む可能性も高い。
「共生ケア」で示されたように、一般社会の原理で「優秀」と判断されな
いだろう人たちが、かけがえのない、その人ならではの力を発揮することもある。利用者
と育む関係性の中には、
「新人」だからこそできるようなものもある。ケア提供者たちが一
律に教育や研修を受け、
「優秀な」人たちだけが揃っている現場にはできないことがある。
〈場〉の力に注目するなら、そうした視点に開かれなくてはならない。
第二に、組織レベルで考えなくてはならない課題だということである。3 節で見たように、
〈場〉の力を育むための工夫はすでにいくつか出されており、しかも何が適切かはそこに
いる人たちによることが示されている。ならば、ケアや支援のなされる〈場〉ごとに、よ
り組織全体、あるいは施設や建物全体から、それもそこにいる人たちの個性と固有性との
兼ね合いで考えていかなくてはならないであろう。特養なら特養全体において、デイケア
なら、デイケアの場だけでなく、そこに通う人たちの家や通う道筋も含めて、個別かつ全
体で考えていかなくてはならない。
そうした組織論が必要なのだろうと思う。〈場〉の力には、「わかりやすくない」レベル
で発揮される力もあれば、ケア提供者には見えない側面で発揮される力もある。あるいは
長期的に取り組んでこそ育まれるようなものもあるだろう。それらを捉えられるような、
個別かつ全体で考えられるような組織論が必要になる。
今後、ケアや支援に関する理論的考察として、こうした〈場〉の力を視野に入れた議論
が必要である。本稿は、そこに向けた一歩である。
[注]
1)2002 年からユニットケア型の特別養護老人ホームには施設整備補助金が設けられ、2003
年からは従来型よりも高い介護報酬が設定された。これらにともない、新たに建設され
るところではユニットケアや全室個室化が実質的に強制されているといわれている。
2) 特養 B は、関西圏にある特養で、1995 年に設立された(デイサービスや在宅介護支援セ
ンターを併設)
。設立主体は、地域住民の希望によって 1994 年に設立された、部落解放
をベースにして人権のまちづくりを目指す社会福祉法人である。2000 年に増設され、現
在は長期・短期を合わせて 150 名定員である。2003 年 4 月 10 日から小規模・グループケ
アの実践に取り組み、1999 年頃から精神・知的障害者の就労支援に取り組んでいる。2003
年に同じ敶地内に、身体障害者デイサービスセンターと知的障害者デイサービスセンタ
ー、精神障害者地域生活支援センターを兼ね備える地域活動支援センターが開設された。
特養 B での聞き取り調査は、2007 年 12 月、2008 年 3 月、2008 年 8 月に、筆者によって
行われた。現施設長(2008 年 4 月より。それまでは副施設長。看護師)に 3 回、元施設
16
長(2008 年 4 月まで施設長)に 1 回、フロア責任者に 1 回の個別インタビューを行い、
フロア責任者 2 名を含む 5 人の職員へのグループ・インタビューを 1 回(どれも 1 時間
程度)
、また 1 日だけ一つのフロアに滞在させてもらい、利用者からもお話を伺った。同
じ敶地内にある地域活動支援センターにも伺い、職員の方に短時間ながらお話を伺って
いる。インタビューについては IC レコーダーに録音し、後日文字起こしを行った。本報
告中で特に引用が明記されていないものは、この文字起こしから引用したものである。
( )内は筆者による補足である。この場を借りて、お忙しい中をご協力くださった方々
に心からの御礼を申し上げたい。
3)イーフー・トゥアンによれば、密集した空間は、自分のまわりにいる他者が持つ意味と密
接にかかわって、異なる意味をもちうる。相反する意思を持つ他者が密集しているとな
れば、空間が圧迫されて不快に感じるが、コンサート会場などで同じものを注視する他
者との間では、密集はむしろ心地よい(Tuan 1977=1988)。
4)浮ヶ谷は、〈つながり〉の場について考察する際に、「包摂社会」(支配的な機制の総称)
とどう関連しているのかという視点を提示している(浮ヶ谷 2007: 32-34)。本稿では主に
〈場〉がケアや支援において持つ力という観点から述べており、
〈場〉の外とどうかかわ
るのかという観点までは触れられない。だが、本来は、デイケアなどであれば帰った後
の自宅でのかかわり、特養であっても外出することで生まれる外部との関係など、
〈場〉
に関する議論は、その外部との関係を論じる必要がある。これについては今後の課題で
ある。
5)滋賀県では、介護保険制度施行以前から知的障害のある人が介護現場で働いていたそうだ
が、2002 年度より知的障害者介護技能等習得事業を実施している。
[文献]
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ための環境デザイン―症状緩和と介護をたすける生活空間づくりの指針と方法』
彰国社)
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三井さよ, 2008, 「
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17
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院.
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みながら』雲母書房.
幼老統合ケア研究会編(多湖光宗監修), 2006, 『尐子高齢化も安心!幼老統合ケア―“高
齢者福祉”と“子育て”をつなぐケアの実践と相乗効果』黎明書房.
18
2.
「介助」のリアリティ
―障害の親をもつ子どもにとっての「介助」とは―
土屋
葉
ふつうの人って、介助の仕事ってのを重くみすぎているところ
がやっぱりあると思うんですよね。実際やってみると、やること
は日常茶飯事にやってることとたいして変わりない。身体に関し
てもその人ができないことを、ちょっと手伝ってあげるみたいな。
介助っていう感覚じゃないんですよね、なんか。
(E さん)
1
子どもは介助に「慣れて」いるのか?
前田拓也は「介助に慣れることは、障害者という他者の身体に触れることや、他者の排
泄行為/物を見たり触れたりすることを『なんでもない』ことにしていくことだ」(前田
2009: 274)と述べる(ただし「慣れない」部分は残り、そこにむしろ介助の意義を見出すこ
とができるという)
。これに対し、障害の親をもつ健常な子ども、すなわち日常的に介助を
必要とする親と暮らしている子どもは、幼尐の頃から、他者に介助される親を自然に目に
し、時には自分が親の介助を担うことにより、「介助」や「介助の必要な障害者」にすでに
常に「慣れる」という経験をしているかもしれない、と想像している(前田 2009: 275)。
実際、手記やドキュメンタリには障害の親をもつ子どもたちがごく「自然に」親の介助
を行う様子が描かれている。
(……)息子はサッカーシューズ欲しさに朝から手の訓練、着替え、洗面、トイレすべて
手伝ってくれた。あまり手際よくやるので、夢でも見ているような心地であった。ブラジ
ャーをはめるときも、
「一番目のホックかい?二番目のホックかい?」
と聞く。
「ちゃんとおっぱい入ったかなあ」
と確かめる。私は笑うのを我慢して、手つきのよさを見ていた。(小山内 1995: 102-3)
(子どもが)ヨチヨチ歩きをはじめると、もう食器運びの手伝いをやる。父ちゃんがオシ
ッコといえば、まだ自分のオシメも完全にとれないうちからしびんを持ってくるという具
合だった。
(近田 1985: 199)
19
介助に携わる人の多くは、大人になってから「障害者」とのつきあいを始める。私もそ
うであったが、障害をもつ人との付き合い方に迷ったり戸惑ったりした時に、これは自分
がこれまでの人生のなかで、
「障害者」と呼ばれる人が身近にいなかったせいだ、と、はた
と思うことがあった。そして、研修の場などで、親(あるいはきょうだい)が「障害者」
であるという介助者に出会ったりすると、そうした人は、「障害者」との付き合いに慣れて
おり、さぞかし「自然」に振る舞えるのだろうと、憧れに近い感情を抱いた。私も、前田
と同じように、障害の親をもつ子どもたちは「介助」に慣れている、と漠然と考えていた
のである。
しかし、子どもに話を聞くうちに、子どもは必ずしも「介助」に慣れているわけでもな
く、またそもそも、どうも「介助」に関する認識が、私とは異なっているらしい、という
ことがみえてきた。子どもにとっては遊びの 1 つであり、あたりまえの日常の行為であっ
たりするようだった。
本稿では、障害の親をもつ子どもにとっての「介助」とは何か、を考えてみたい。以下
では、身体障害をもち、自立生活運動や自立生活センターにかかわりを有している親(ど
ちらか/あるいは両方)の子どもたちに限定し、かれらがどのように介助を捉えているの
かに注目する。
親たちがどのような準拠集団に属しているのかということは、子どもの育つ環境を大き
く左右する。ここでとりあげる親たちの特徴としては、自立生活運動における自立概念を
基礎とし、地域で自立生活を行っていること、具体的には自立生活センターからの介助派
遣を受け、自宅に介助者を入れながら生活していることがある 1)。1 つ重要な点を挙げると
すれば、親の多くは子どもに自分の介助を引き受けさせないという強い信念をもっている
ことである。
さて、結論を先取りすれば、子どもは、日々介助を必要とする親と暮らしており、そう
した親との暮らしには慣れ親しんではいるが、一般的な意味での「介助」やそれを必要と
する「障害者」に慣れているわけではないのである。また、親に必要な介助を全面的に引
き受けている子どもは尐ない。にもかかわらず、興味深いことに私が出会った子どもたち
の多くは有償の「介助者」になり、介助者として対価を得ることを経験している。
まず、親と暮らすなかで、子どもが実際にどのような行為を担っているのかを確認する。
次に、実際に介助職という職業を選んだ子どもに焦点を当て、なぜ、どのようにしてかれ
らがこれを選択するのかを描き出す。そして子どもたちの介助の捉え方について、考察し
ていく。
なお、障害をもつ子どもへのインタビュー調査はこれまでに 6 名に行っている。調査に
際しては、事前にメールにて調査の目的、内容について説明し、調査実施の了承を得た。
すべての調査について、報告者と対象者の一対一で行った。場所は都内のファミリーレス
トランなど飲食店 4 件、対象者の自宅 2 件であった。最初に調査の趣旨、プライバシーの
20
保護、回筓拒否の自由等について話し、録音の許可をいただいいた(6 名すべてについて録
音を行った)
。基本的には報告者側から事前に準備した質問を行ったが、調査対象者の語り
やその順番を妨げないように注意を払った。質問内容は以下のとおり。フェイスシート、
生活史(就学前の経験、学校での経験、学卒後の経験)、「障害/障害者」に対する意識、障
害をもつ親への介助、周囲の人間との関係(介助者/友人/障害者)
。期間は 2005 年 6 月~2006
年 2 月まで。インタビュー回数はそれぞれの対象者に対して 1 回、時間は 1 時間半から 3
時間半であった。6 名とはメールや手紙でこの論考についてのやりとりを行った。子どもの
プロフィールは以下の通り。
表 1 子どものプロフィール
仮名
性別
年齢
有償介助経験
A
男性
20 代
有り
B
男性
20 代
有り
C
男性
20 代
有り
D
女性
10 代
有り
E
男性
20 代
有り
F
女性
20 代
無し
2
子どもが行う「あたりまえの行為」
2.1 「介助はしない」?
6 名の子どもたちに親への介助(手伝い)はしているか、という質問をしたところ、異口
同音に「していない」という筓えが返ってきた。
B さん:やんないっすよ。
F さん:異常なくらい、親のことを何もしないです。
2 人の筓えからは、この手の質問にはうんざり、といった聞き手に対する暗黙の抗議が見
え隠れする(聞き手のもつ期待やモデルストーリーについては土屋(2010)参照)。
介助を行うか行わないかは、介助派遣制度がどの程度整っているかという要因もかかわ
ってくる。B さんは先ほどの筓えにつづけて、次のように語っている。
Bさん:どうしても[介助派遣時間に]穴があいた時は、それをぶちぶち言いながら、「なん
で介助者見つけらんねえの」って言いながら、そのー、やってたと思う。
21
B さんのように「穴」があき、親のところに介助者が派遣されない時間帯や、そもそも必
要な介助時間数が充足されていない時に、子どもが親の介助を引き受けることがある。D さ
んはかつては自分が母親の介助を行っていたことに言及した。
D さん:昔(注:小学校低学年の頃)は[介助者が]週に 2 回いたらいいほう、みたいな感じ
だったんで、(・・・・・・)いないときはやってたんですけど。
三井絹子は、子どもが幼かった 1980 年代前半は、公的な介助者の派遣は 1 日に数時間で
あり、それ以外の時間の自分への介助は夫と娘が行っていたと書く(三井 2006: 233)。こ
の 20 年間で公的介助システムが変化し、介助時間数がかつてと比較して大幅に増えたこと
は、障害をもつ親と子どもの暮らし方にも変化をもたらした。
ただし三井は、介助者が確保されれば家族にはなるべく介助をさせないという方針をも
っていた。何人かの親も、
「世話してもらうために子どもを産んだのだろう」という視線が
あることに言及し、それに対する抵抗感を語っている 2)。
かつて CP 女の会は、
「八王子事件」
(身体障害の両親をもった高校 1 年生の男子が自殺し
た事件)の報道に対する、
「障害者の親の面倒は子どもがみるのがあたりまえ」とする、周
囲や社会の「常識的」な見方が、この子どもを追い詰めて行った、という批判を行った(瀬
山 2002: 151-2)
。介助は社会的に担われるものであり、家族のなかで完結させてはいけない
という自立生活運動における姿勢は、ここから継承されているようだ。
子どももこうした親の基本姿勢は理解している。
F さん:お父さんとお母さんもなんか、自分たちの介助をさせるために、子ども、私とかを
産んだわけじゃないから。
B さん:ふつうの子どもは[介助を]やらなくて当然って思うし、
(・・・・・・)で、僕は、やら
なくて当然、やらなくてもいいんじゃない?って思ってやらなかった。
逆に、こうした信念をもたない親が、子どもからの介助を期待し、実際に子どもが担う
事態は十分にありうる。むしろ、一般的にはこうしたケースの方が多いかもしれない。F さ
んは自分の友人について、やはり母親が障害をもっているが、母親は社会サービスを利用
せず、その子どもである友人が介助のほとんどを引き受けていること、それを母親も子ど
ももあたり前だと思っていることに言及し、「信じられない」「母親は障害者の前に親であ
り、子どものことを第一に考えるべき」だと語っている。
もちろん周囲からは、とりわけ女の子であれば、現在も将来的にも親の世話をすること
が期待される。それについて、F さん、B さんはとくに嫌な経験とは認識していない。
22
F さん:いや、それがね、お手伝いしてるように見えるっぽいです。多分、何もしていなく
ても、横に座ってるだけで、横に立ってるだけで手伝ってるように見えるんです。
(・・・・・・)
だから、何もしてなくても「えらいわね」とか言われたりします。
聞き手:そういうのはどうですか、嫌だったり。
F さん:いやー、なんか「えらいでしょ」みたいな、何もしてないんですけど、やっぱり褒
められたり、大人からこう良い子良い子されれば、悪い気はしないんで。
B さん:えらいわね[は]言われたけど。ただね、「がんばってるわね」っていうのはね、僕
別に気にしない。
(・・・・・・)がんばってないのに、がんばってるって思われるのって、得だ
と思う。
2.2 「介助はしない」わけではない?
しかし話をよく聞いてみると、子どもは、全面的に介助を引き受けてはいないものの、
まったく介助を行っていないわけではないことに気づく。「異常なくらい何もしない」と筓
えた F さんは、その後、親の車いすを押すことや、物を手わたすことは「手伝いとは思っ
ていない」
、
「やってあたりまえのこと」、
「ふつうのこと」と言葉を重ねた。
、、、、、、、、 、、、、、、、、、、
F さん:車いすを押すとか、手伝いとか思ってないんで、そういうのを、私のなかでは考え
てないんで。やってあげることじゃなくて、やってあたりまえのことで。それはふつうの
こと。
(……)
聞き手:うーん、あーなんか他になんかそういうことってありますか。もしかしたら外か
ら見たらお手伝いかもしれないけど、全然そういうレベルの話じゃないみたいな
F さん:だから、も、ほんとに「あれ取って」とか、要は[親が]動けないから、「あれ取っ
て、これ取って」って言った時に取りに行って、取ったり。だからやっぱ気づかないです
ね。結局手伝いと思ってないから、自分からは説明できないっていうか。
また、A さんの父親は、家のなかでは「基本的に自分で動ける」というが、
「[父親が]い
たらいたで、こう、着替え、脱ぐ、着る、それくらい手伝うのはありますけど」「うーん、
あとは寝てるとこ起こしたりはします」という。が、「ほんと、多尐ですね」と、「世話っ
ていうほどのこと」をしていないことを強調した。しかし、車いすを押す、着替えなどは
一般的には「介助」であるとみなされるだろう。
一方で、C さんは、介助はしていなかったというが、ごく幼い頃から食事の準備や買物や
洗濯といったことは、生活のなかに当然に組み込まれていたという。また、E さんは同じよ
うに「介助というより、まぁ家事」を行っていたと筓えた。介助者がいなければ(親はで
きないから)風呂を洗う、雤が降ってきたら洗濯物を取り込む、といった具合である。
23
障害・病気の親をもつ子どもで、親のケアを引き受けている子どもに関する一連の「ヤ
ングケアラー」研究においては、
「ケア」の定義として「直接的なケア」のほか、「サポー
ト的なケアや家事」も含まれている(Thomas et al., 2003: 43)
。C さんや E さんが行っていた
ことも、
「ケア」と捉えることもできるだろう 3)。
子どもは「介助はしない」と言い、それは子ども自身の認識としては間違ってはいない。
が、実際にはおそらくここに挙げられた以外の「介助」を行っているだろう。子どもにと
ってはこれらの行為は、
「あたりまえ」、
「当然」のこととして、日常生活に組み込まれてい
るものであり、「介助」と名づけることはしない。ただ、「介助」とは呼ばない、なにもの
かがある日常について、慣れ親しんでいることは確かであるようだ。
3
有償の介助者として働くことと、その葛藤
私がインタビューを行った子ども 6 人のうち、アルバイトを含め有償の介助者という仕
事に就いた経験、ないしは就こうとして研修等を受けた経験のある人は 5 人であった。う
ち 2 人は収入を得るための仕事として、うち 1 人はアルバイトとして介助を行っていた。
聞こえない親をもつ子どもたちも、同様に、聞こえないことにかかわる職業につく傾向
があるという。プレストンによれば、調査に協力した人の三分の二近く(150 人のうちの
91 人)が、聞こえない人と関わる立場で仕事をしていたり(手話通訳、教師、心理カウン
セラー、スピーチ・セラピスト、聖職者、オーディオロジスト(注:聴覚専門ドクター)
など)以前にそうした立場で働いた経験をもっていた(Preston 1994=2003: 326)
。
3.1 なぜ介助者になるのか
なぜ、子どもは有償の介助者として働くのか。渡辺一史は、重度の身体障害者の介助ボ
ランティアをするために集まった若者にインタビューを行っている。それによると、介助
をはじめたきっかけは「生きる意味がほしい」(渡辺 2003: 116)、
「単純に、人のお世話とか
するの好きなんですよ。
」(渡辺 2003: 131)、
「たまたま」(渡辺 2003: 119)などである。有償
と無償という差はあり、多様さはみられるものの、障害の親をもつ子どもたちは、ボラン
ティアに集う人びととはかなり異なる理由により介助という仕事を始めている。
介助を職業とすることに対し、2 人の子どもは、当初は抵抗があったと語っている。B さ
んは、子どもの頃は「絶対に障害者に関係する仕事なんてつかない」と言っていたという。
「こんなめんどくさい世界。障害者も親だけでこりごりだと思っていた」という。また D
さんも「人に命令されることが嫌いで」この仕事を嫌だと思っていた。
ではきっかけは何だったのか。1 人は周囲の人から勧められ 4)、2 人は親から勧められた
という。D さんはもともと母から「将来[が]決まらないようだったら、ヘルパーやっちゃえ
ばいいじゃない」と、介助者という仕事を勧められていた。
親が勧める理由の 1 つには、経験的に介助を行うことが職業として成立することを身を
24
もって知っていることがあるだろう。賃金が高いとはいえないが、この領域は慢性的に人
手不足であり、資格も以前よりは厳しくなっているものの、比較的簡単に取得できる。ま
た単純に、親自身が就いている職業や、家族の生活に関連する職業に子どもが就くこと自
体はめずらしいことではない。ただし、職業の世襲と同列に扱ってよいかは検討が必要で
あろう。今 1 つの理由は「勉強になるからあえて経験させる」というものである。この理
由は障害者運動の歴史と重なっている。
経済的理由についても述べられた。5 人のうち 4 人の子どもは、それぞれにおかれた状況
のなかで、一生の仕事というよりはアルバイト的な感覚で介助者という仕事を選択してい
る。かれらは「お金を稼がなきゃいけない」ので、
「いいバイト」をしたいと望み、そうし
たときにこの仕事は適当ではある。また、今回のインタビュー対象者は、学校からいわゆ
る「ドロップアウト」をした子どもが尐なくない。こうした状況のなかで、比較的容易に
資格を取得でき、報酬単価も悪くはない仕事として介助職が選択されていることは想像に
難くない 5)。
もちろん子どもが介助者という職業を選択するのは、それが自分に向いていると考え、
「自分の経験を生かしたい」と考えるからでもある。多くのコーダは、自分の職業は自分
の小さい頃の体験がもたらした当然の結果であり、何人かの人は仕事を始めてみて、自分
のもっている手話の力や聞こえない人についての知識は、市場価値のある能力なのだと知
ったと語っている(Preston 1994=2003: 327)
。
B さん、D さんも同様に、障害をもつ親と暮らしたという経験やそこから得た知識、自分
だけがもっているそれらを「生かす」ものとして介助者という職業が選択されたと語る。
、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、
B さん:僕の知識が無駄にならなくて、僕の経験が無駄にならなくて。で、この世界に[と
、、、、、、、、
って]有効になるんだろうなみたいな。
、、、、、、、、、、、、、、
D さん:最初はいやいやだったけど、どこかでやっぱり自分にしかできないことがあるん
じゃないかなーと思って。うーん、ちょっと昔、そういうのは昔からちょっと考えてはい
、、、、、、、、、、
たんですけど、自分は障害者の子どもだから、ある程度やっぱ、ちょっと他の人にはわか
んないこともいろいろ経験してきたわけですから、それはどっかで生かせないのかな、み
たいなことは思ってたんで、じゃあやってみようかなみたいな感じで。
プレストンが指摘するように、こうした選択は子どもたちが、自分たちが慣れ親しんで
いる文化とつながりをもつための手段であった(か、あるいは慣れていることを職業選択
に有利に働かせようと目論んだ)とも考えられる(Preston 1994=2003: 331)
。A さんは次の
ように言う。
A さん:なんかバイトしなきゃいけないし、自分の親が障害者だし、そっちのほうがふつ
25
うに、なんか、働いてるより、他のバイトしてるより、やりやすいかなと思ったんですけ
どね。
また B さんはこの仕事に就き、精神面で気楽にやれていると語った。
「慣れている」とい
うのは技術面ではなく、あくまで自分自身が「慣れている気もちでいられる」ということ
に重きがおかれている。つまり、介助という仕事が、幼い頃から慣れ親しんだ、プレスト
ンのいう「文化」に触れられる職業であることを示している。
3.2 介助者として働く際の壁
障害の親をもつ子どもたちは、そうではない人よりはスムーズにこの職業領域にアプロ
ーチしている。前述したような「慣れ」や「親しみ」もあるが、具体的に仕事に入るため
のルートを有しているということも大きいだろう。E さん、D さんは親の紹介を経て自立生
活センターの事業所に介助者として登録したという。B さんは親の仲介は得なかったが、や
はり自立生活センターの事業所での面接時に、
「自立生活をする障害者を親にもつことをア
ピール」したという。障害者の自立生活についてまったく無知である他者と比較すると、
かれらの入り口でのハードルは低いといえるだろう。
かといって、子どもたちが、初めから介助者として技術的に優れていたというわけでは
ない。既に述べたように、尐なくともここで登場する子どもたちは、親への身辺介助をほ
とんど行っておらず「技術」を身につけているわけではない。
、、、、、
B さん:そんなに結局、その大差はないと思うんですけど。その、ふつうの人と。僕がやる
にあたって。結局、ズブのド素人だし。
聞き手:はあー、技術的には大差がない?
B さん:そう。
聞き手:身体介助とかど、どうですか。慣れているとか。
E さん:うーん、まあ、でも、身体介助って別に親のをやっているわけじゃないし。
(……)
E さん:ほら、起き上がるときとか、やっぱ両足立てて、なんか軸を固定して倒すみたいな。
それ本当、泊りの仕事が入るまで知らなくて。
聞き手:じゃあ、あれですよね、なんか人のケアは慣れてるっていうか=
D さん:=でもやっぱ、親とねぇ他人ってやっぱりぜんぜんちがう。
(……)だから、研修
受けてるときとかもよくやっぱ知り合いとかは、
「慣れてるし、ちょっとやってみてよ」っ
て言われるんですけど、それがほんとにやで、
「違うから」みたいな。最初はほんと、でも、
ええ、どうしようどうしようっていう感じだったんですけど(……)
26
以上のように子どもたちは、技術的には他の介助者と違いはなく、親の介助を行ってい
るから慣れているだろうという、こちらの思いこみに由来するしつこい質問を、あっさり
と否定する。さらに、多くの子どもが、親の介助と他人の介助は異なると述べている。ど
のあたりが異なるのか。
E さん:親父を支えるのに、ぼーんとか、
「オッケー」とか言って。
「これでいいのー?」と
か。だから、本当、親父とか乱暴にやるんで、それにしても「いいよ、いいよ」とか言っ
て。
A さん:慣れてんのかなぁ。自分でやって、ハハ。いや、でも、わかんない。頭来た時と
か、思いっきりばーんってやっちゃったりするから。
(……)たぶん痛がってたりしますけ
ど。ハハハ。無理やり、なんかこう、引っ張ったりしちゃうから。
D さん:親だったらね、なんかほんとふざけながらとかでもできるんですけど(……)。
最首は「慣れ」とは「関係の取り結び」であると述べる(最首 1984: 234-5)。子どもたち
によれば、「ふざけながら」でも「思いっきり」「乱暴に」しても、許されるのが親への介
助である。おそらくこれはある種の「慣れ」である。
一方、介助を仕事にしようとしたが、技術面での壁にあたった子どももいる。A さんは、
親からの紹介でまず研修を受けることになった。そこで重度の障害をもつ人の介助研修を
行ったが、
「ちょっと違う」
「ほんとの世話ってこんな大変なんだ」という思いが残った。
A さん:なんかバイトしなきゃいけないし、自分の親が障害者だし、そっちのほうがふつ
うに、なんか、働いてるより、他のバイトしてるより、やりやすいかなと思ったんですけ
どね。
聞き手:はい、はい、はい。そうでもなかった。
、、、、、、、、、、、、、、
A さん:実際にはそうでもないですね。人の世話ほど大変なものはないなと思いましたけ
どね。
聞き手:なるほど。
A さん:世話っていうほどのことをしてきてなかったんでしょうね、自分の親に対しては。
最低限のことだったんで。
現在は全く介助の仕事を行っていない C さんも次のように語っている。
C さん:一時期[介助を]やったことあるんですよ。やっぱりちゃんとできなかったんでー。
27
まったく、他人の世話、世話っていうか((???)
)たんでー、僕も緊張してたからー。
その後、A さんも C さんも有償の介助者の道は選ばなかった。子どもは、先にみたよう
に介助職の入口の部分でのハードルは比較的低いが、介助技術という面での第二の壁はや
はり存在する。「介助が必要な親」には慣れているが、「介助が必要な他者」の身体には慣
れていないということであろう。一般的にもこの段階でやめていく者は多いが、子どもも
これを超える者とそうではない者が存在するということだろう 6)。
比較的スムーズに介助者として働くようになった子どもたちにも、さらに第 3 の壁が登
場する。それは、被介助者の置かれた状況が「わかりすぎる」、つまり必要以上に共感して
しまうという辛さである。現在、おもに介助を職業としている B さん、E さん、アルバイ
トをしている D さんがこの仕事の「辛さ」を口にした。
B さんは、親への介助を身近に見ており、その介助者が有償であるにもかかわらず、技術
的に未熟だったり、同居する自分に助けを求めたり、といった状態をみてきたことにより、
介助の仕事は完璧でなければならないと思うようになった。そういう意味では「普通の仕
事以上に考えてしまう」とストレスがたまることがあるという。これは被介助者の立場で
求める完璧さを自分に要求することからくる辛さである。
また、E さんは派遣先の事情を必要以上に想像し、理解してしまうために「休めない」、
「気を遣いすぎる」と語っている。
E さん:休みたいんだけど、やっぱ休んじゃうと、ここがこうなってこうなってあそこまで
いったここが大変だからみたいな。うちだったらこうなっちゃうなみたいな考えちゃって。
なかなか、なんというか休むのを我慢しちゃって、かなり。ちょっといろいろあったりと
かして。
聞き手:ああ、ほんとですか。そうか、そうか。
E さん:そういう点では、ヘルパーの仕事というのは向いていないというのもあるのかもし
れないって。親もけっこう言っているんですよ。
聞き手:わかりすぎて。
、、、、、、、、、、 、、、、、、、
E さん:うちがわかりすぎているから、気を使いすぎるとかそういうのもあるんじゃないか
って。
D さんは、やはり母親が介助を受ける場面を見ており、介助を依頼することを心苦しく思
う場面があることを感じてきた。このため、自分が介助者になった時には、利用者に気を
使わせないように、
「明るく」ふるまおうと心がけていたという。しかし、だからこそ「精
神的に疲れちゃう」ことになる。
D さん:[介助の仕事は]やっぱ楽しいんですけど、それなりにほんとに肉体も疲れるんです
28
、、、、、、
けど精神的にも、やっぱ気を使うっていうのもあるんですね、やっぱその、利用者さんに
、、、、、、、、、、、
悪い思いをさせたくないようにすると、やっぱある程度自分がこう、仮面をかぶらなきゃ
いけないときとかもあるわけじゃないですか。だから、ある意味ずっと自分を、よ、ま、
そんなにすごい装ってるわけじゃないんですけど、ある意味、ちょっと装って、接してる、
、、、、、、、、、、
のもあるんで、すごく精神的にも疲れちゃうんで、一生はたぶん続けてないなって、フフ、
そういうのはありますね。ほんとに疲れる仕事なんだよね。素でね、やっていいと思うん
ですけど、やっぱそうするとある程度、うーん、向こうにもなんか、迷惑かかるかなーと
か思っちゃって。
こうしたことは、子どものみならず、
「善良」で豊かな感受性を併せもつ介助者であれば、
経験することかもしれない。しかしむしろ、子どもがこうした経験を、「障害をもつ親の子
ども」としての特殊な経験として、意味づけていることに注目したい。この点については
後でも触れることにする。
3.3 仕事ではない介助
子どもは介助をどのように意味づけているのか。有償で介助を行っている子どもは、自
分の他の介助者(健常の親のもとに育ってきた介助者)との差異を強調した。
E さん:
(……)同年代、10 代の介助者、でふつうの、ふつうの健全者の家で親として育っ
てきた介助者っていうのは、なんかぶっちゃけ言うと汚く見えるんですよなんか。
聞き手:汚い。
、、、、、、、、、
E さん:なんか、なんて言うんですか。ちょっと偽善ぽくやっているような感じがしちゃっ
て介助っていうのを。なんか、自分はほかの、仕事とは違う仕事をしているとか、人の役
に立っているとか。全然なにぶん僕にそんな気がないもんだから。
E さんは、他の介助者には「自分は人とは違う仕事をしている」、
「人の役に立っている」
という「偽善」性がみえるといい、嫌悪感を示している。B さんも、同様に、「偽善」とい
う言葉を使い、
「ちょっといいことだからやってみよう」という気もちで来る介助者を批判
している。
、、、、、
、、、、、、、
B さん:
(……)学生のちょっと小遣い気分とか、偽善的な気もちでやる人よりは、[自分は]
できるだろうっていうのと。」「気楽に、ちょっといいことだからやってみようぐらいで来
るのは迷惑だよって思う面もあるよ、やっぱ。(……)ちょっと小遣い程度にくるんなら、
[利用者は]金払ってるんだからやることはやらなきゃ。
すべての介助者がこうした気もちを抱いているわけではないだろう。一般に「ケア」の
29
仕事には「善意」や「やさしさ」がイメージされやすいが、実際にはそうしたものではな
いことを、渡辺が指摘している(渡辺 2003: 97)
。
なぜ「偽善」は批判されるのか。B さんがいうように、介助は「仕事」であり対価が発生
する以上、
「仕事」として行為を行わない介助者に対して向けられる憤りがあるだろう。こ
れは実際に母親のところに派遣された有償介助者が、仕事の責務を果たしていなかった(が
ゆえに自分が手伝った)経験に基づく発言である(「なんで、金をもらってる介助者が、これをし
ようとかできないんだろう」
(B さん))
。
これに対して E さん、B さん 2 人の、介助という行為に「よいこと」という意味付与を
する介助者への嫌悪感は、2 人の介助の捉え方に起因すると思われる。とりわけ E さんは自
分は「偽善」の気持ちは「全然ない」と断言する。では E さんにとって介助とはどのよう
なものなのか。
、、、、、、、、、、、、、、、、、
E さん:ふつうの人って、介助の仕事ってのを重くみすぎているところがやっぱりあると思
うんですよね。実際やってみると、やることは日常茶飯事にやっていることとたいして変
わらない。身体に関してもその人ができないことを、ちょっと手伝ってあげるみたいな。
介助っていう感覚じゃないんですよね、なんか。
(……)
E さん:ま、自分でやっぱ楽してお金をもらっている。
聞き手:楽してですか。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
E さん:やっぱ日常にやっていることをやってお金をもらっているような感覚なんで。
聞き手:もう仕事という感じじゃないんですね。
E さん:じゃないんですよね、一緒に行って、じゃおなかが減ったからご飯を作って、自分
も食べて、みたいな。食べたら、まぁ洗わないといけないかなみたいな。
(……)
E さん:行くまでは、ちょっと、気合入れて「仕事行くぞー」とかって、行くんですけど。
、
まぁ、入ったらまぁ、ある程度は、まあ、ある程度は仕事という感覚はありますけど、自
、、 、 、、、、、、、
、、、、、
分が 1 日終えるための、なんていうんですか、歩むべき道みたいな、ハハ。なんていうん
ですか。
E さんは介助は「仕事ではない」と言い切る。派遣先の家に行き、おなかが減るからご飯
を作り、自分も食べながら相手に食事を食べさせ、それを片づける。外出すれば一緒に行
き、相手が歩くから自分も歩く(車いすを押す)
。そうした「1 日を終えるための」一連の
動作を一緒にこなしていく、それが、E さんにとっての介助であるというのだ。生活の一部
として介助に、
「よいこと」や「特別なこと」という意味づけは不要であり、そうした意味
づけは、生活の一部となることをむしろ疎外するからこそ否定されることになる。次に紹
30
介するエピソードは、E さんのこうした感覚をよくあらわしている。
E さん:泊まり入ったとしたらやっぱお金いっぱい入るじゃないですか。初めて、お給料を
もらったときに、通帳見てすっごいびっくりしたんですよ。
「え、おれこんな仕事をしてな
いよ」って。
「こんな仕事していない。ほとんど遊んでていたのになんでこんなに入ってん
、、、、、、、、、
の」って。
(……)だからもう、最初ぜんぜん、仕事って感覚がなくて、だから逆に、仕事
しないのにお金がこんなに入ってるっていうのにびっくりしちゃって、泊まりの仕事辞め
ちゃったんです。
「仕事」をすれば対価が与えられるのは当然である。しかし、それまで E さんが知って
いた「仕事」と「泊まり介助」はまったく異なっていた。そしてその対価として支払われ
た額に違和感を抱き、
「これはおかしい」と宿泊介助の仕事を辞めてしまったという。
たしかに、特に何もすることがないにもかかわらず「待機している」こと、
「ただそこに
いること」が、すでに介助という仕事の多くの部分を占めることがある(前田 2009: 219)
。
しかし、E さんにとって、それは「仕事」ではなかった。そもそも「介助」を「仕事」とし
て捉えない、
「楽してお金をもらっている」が、これは度を超えているという感覚だったの
ではないか。
4
子どもにとって「介助」とは
4.1 子どもは介助を行うことに慣れてはいない
障害の親をもつ子どもと「介助」との関係について、あらためて考えてみたい。
これまでみてきたのは、日常生活に介助を必要とする身体障害をもつ親との生活につい
ての、障害をもたない子どもが語ったかれらの経験であった。子どもは「生活に介助を必
要とする親」や「親と共に介助者がいる暮らし」には慣れている。しかし、繰り返すがそ
れは、前田のいう「介助の必要な障害者に慣れる」
(前田 2009: 275)ことを意味するのでは
ない。
その理由として、まず、単純には子どもが親の介助を日常的に行っているわけではない
ことが挙げられる。親は、介助を家族内部で完結させないという理念に基づき、子どもに
はなるべく自分の介助を行わせないよう努めている。この背景にはかつてよりは介助サー
ビスの利用により、必要な介助量が確保されていることもある。
とはいえ、子どもは親への介助を多尐は行っている。子どもの言葉どおりに捉えること
は適当ではなく、本論で述べてきたように、むしろ一般的な「介助」という用語と、子ど
もが指し示す行為範囲の齟齬があることに目を向けるべきだろう。しかしそれは、すでに
関係をとり結んでいる「親」への介助である。一般的な技術は必要とされず、「慣れ」に基
づいて、時には「乱暴に」時には「ふざけながら」行われる。「障害者という他者」の身体
31
に慣れることとは位相を異にするのである。
さらに重要なことは、子どもは自分が親を「介助する」ことだけではなく、親と共に「介
助/世話/支援を受ける」ことに慣れていることがある。また実際に介助を受けるのでな
くとも、他者に介助される親を見ているときに、同一化するのは介助者ではなく親の側で
ある。このことから子どもは、障害をもたない身でありながら、
「介助を受ける」ことが身
体化されているといえる。次で詳しく述べる。
4.2 「介助/支援」を受ける対象としての子ども
子どもは、親と暮らすなかで、親の介助者が行うことにより実質的に支援を受けている。
親が直接的に受ける身体介助とは異なるものの、子どものことを含む家事、子どもの遊び
相手など、非障害であれば親が自ら行うかもしれない行為を、親の意図のもとに介助者を
代替して受けることがある。
B さん:[介助者に]家のことをやってもらって、そのなかに僕の飯を作ったり、親の洗濯物
と僕の洗濯物を洗ったり。あの家を掃除するっていうのは、僕の家を掃除してるみたいな
もので(……)
。
F さん:介助の時間が時間制で決まってるじゃないですか。ちゃんと聞いたことはないです
けど、多分私と遊ぶ時間ていうのが組みこまれてたと思うんですよ。最後の1時間とか、
その洗い物が終わって、特にやることがない最後の 30 分とかは、完全に私のお守りじゃな
いけど、遊び相手みたいなくらいに遊んでましたね。
また、育てられる立場にある子どもにとって、親はある意味で絶対的な存在である。ゆ
えに、介助者が親の介助を行うことをごく身近で見聞きするなかで、介助を受ける親の側
の気もちに寄り添うという経験をしているようだ。介助者との関係で嫌な経験を尋ねたと
ころ、D さんも B さんも直接的な自分と介助者の関係ではなく、親と介助者の関係に由来
するエピソードを語った。D さんは介助者の親への冷たい態度に自分も怒りを感じ、傷つい
た経験を語っている。B さんも同様に、介助者の親へのぞんざいな口調に対し、自分に対し
て言われているように感じたり、ときには親の「代わりに」怒りを介助者にぶつけたりし
ている(その結果何人かの介助者が辞めていった)
。
(介助者との関係で嫌な思いをしたことは?という質問に対して)
D さん:親に対する態度とかが、冷たかったりとかすると、それはやっぱ怒りを感じてほ
んとに辛いんで、それが一番ほんとに嫌かな、自分に何か言われるよりも。介助者の人で、
前ちょっといたんですけど、泊まりの時に夜中起こされたりすると、トイレとか[親に]させ
るのも、態度がちょっと冷たい人とかいたんですよ。そういうのとかやっぱ、自分にされ
32
るよりもすごい見てて傷つくんですよね。
D さん:ある意味、ケアされてた側ではないですけど、その一部、に入ってた身ですから。
(介助者に言われて嫌だったことは?という質問に対して)
B さん:結局、介助者と僕の会話ではなくて、その人と親の会話だったから。親への態度が
気に食わないとか。ヘルパーの、老人ホームで良く見かけるような、なんか、おばちゃん
がおじいちゃんに「はいはいおじいちゃん、大変ねー」みたいな感じのやつとか。雇われ
てんだぞって。利用者に向かって、なんだこの口はー、って。逆にいえばやっぱ親は、僕
より上の人間であって、親に対して言われると、僕にそう、言われてる感もあったし。
B さん:たぶん、2、3 人は僕のおかげで介助者辞めさせられてると思うけど。ちっちゃい
おばちゃんがいて、すごい人を見下したような、たしなめるような感じがして、人として
ソリが合わなかったんですよ。親がこう言ってんのに[聞かない]。俺がむかつきながら、
「親
がこう言ってるよ」みたいな。[介助者から]「なんで、そんなに怒ってるの?」みたいな感
じに言われて。カッチーンって、
((???)
)ぶん投げてやるこの野郎って、すっげー怒り
でふくれてんの。親はそこで、
「あーあ」みたいな感じで見てて。翌週から来なかった。
D さんが「ケアされてた側ではないですけど、その一部、に入ってた身ですから」と語る
ように、親が他者から介助を受けるときに、介助者ではなく、被介助者である親の気もち
に寄り添うという経験をする。つまり、介助者に不満を覚えたり気兼ねをする親の方に、
より感情移入をするということだ。
ここから、子どもは非障害の身体をもちながら、介助を受けるリアリティを経験すると
いう稀な経験をもっていると想定することができる。したがって、かれらが介助者として、
他者の身体に触れようとするときには、介助を受けるものとしてのかつての経験がそこに
立ち現れてくる。先に、子どもが経験する介助者として必要以上に介助される側に共感す
ることの辛さについて指摘したが、このことは、かつて「被介助者」として身体化されて
いた経験をもつ子どもが、
「介助者」という役割を新たに獲得し身体化しようとするときに
生じる、あたりまえの葛藤であると解釈することができるだろう。
同時にこのことは、介助する側とされる側は非対称的な関係として一枚岩的には捉えら
れないことを示唆している。ただし、こうしたことは、相手が「親」であり、かれらが「育
てられる対象としての子ども」であることが条件となる。親は、子どもを育てるための一
連の行為を、介助者の手を借りながら行う。だからこそ、子どもは「介助される一部」で
あり、被介助者の側に自らを置くのである 7)。
また、子どもが障害をもつ親と暮らしているなかで、かれらが身に付けた身体技法があ
33
ることがみえてきた。本稿では詳しく触れなかったが、介助を日常的に受けている親と暮
らすことは、他者への依頼についての抵抗感を薄れさせてもいるようだ。さらに、自らを
「障害者寄り」であると認識する子どももおり、かれらのアイデンティティにも大きな影
響を与えている。これらのことはおそらく介助の経験と分かつことができない、重要な論
点であろう。介助の経験と重ね合わせつつ、ひき続き考えていきたいと思う。
[注]
1) かれらがどのように親になり、子どもを育てるという経験について、どのように意味づ
けているのかについては、別稿を準備中である。
2) たとえば以下のような語りがある。
「私たちのなかに『世話してもらう為に生んだんだろ
う』っていう周りの目があればあるほど、意地でもそんなこと絶対やらせないと思って
やってきたから」
、
「
(自分の介助は)できるかぎりさせてたくない。だって、彼女は女の
子なので、ずっとそれを期待されてきたっていうのがあるわけですから。
(……)うちの
娘は、
一般的に 17、
18 になったら普通に自分のことは自分でするっていうのと比べると、
やっていないんです。そういう意味では私は甘い母親なんですよね。だけど、それでい
いんだって思ったりします。
」
(いずれも障害をもつ母親の語り、2005 年 8 月インタビュ
ーメモより抜粋)
。
3) 家事については、親の意見がわかれていた。
「共同生活者」として、あるいは「出来るも
のがやる」という方針のもと、家事を子どもに積極的に引き受けさせる親がいる一方で、
介助と同様「やらないのが当然」
「それでいい」と行わせない親もいる。介助と家事の線
引きについては、さらに考察する必要があるだろう。
4) コーダたちの半分以上はやはり、最初は親が聞こえないことを知っている人から誘われ
たという(Preston 1994=2003: 327)
。
5)
澁谷智子は、ろう者の置かれた経済的不利さと、そこから来る不安定さについて触れてい
る。聴覚障害者は理容や木工、印刷、和裁、洋裁、クリーニングなどの職業に就く人が
多く、また会社員であっても離職率が高い。こうした状況はコーダの生活にも影響を与
え、多くのコーダは経済的に決して高くはない水準で生活していたという(澁谷 2009:
101)。身体障害の親についても、同じような経済的不利さと不安定さが指摘できる。た
だし、このことと子どもの学歴・職業との関連については別稿をたて、親の価値観との
関連も含め、詳しく検討する必要があるだろう。
6) ただし、前田がいうように「研修で教えられる技術の世界と実際の現場で用いられる技
術の世界との断絶」があり、「あくまで研修は練習である」、あるいは「介助技術」は現
場で変容し、組みかえられていくのであれば、かれらが介助者として仕事に就く方向も
開けていた可能性はある(前田 2009: 236-7)
。
7) 「要介護の祖父母と一緒に暮らしていた孫の経験」と顕著に異なるのは、この部分であ
34
る。
[文献]
近田洋一,1985,
『駅と車椅子』晩聲社.
前田拓也,2009,
『介助現場の社会学―身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』生
活書院.
三井絹子,2006,
『抵抗の証―私は人形じゃない』
「三井絹子 60 年のあゆみ」編集委員会
ライフステーションワンステップかたつむり.
小山内美智子,1995,
『車いすで夜明けのコーヒー―障害者の性』ネスコ.
Preston, Paul, 1994, Mother, Father, Deaf.(=2003, 渋谷智子・井上朝日訳『聞こえない親をも
つ聞こえる子どもたち―ろう文化と聴文化の間に生きる人々』現代書館)
最首悟,1984,
『生あるものは皆この海に染まり』新曜社.
澁谷智子,2009,
『コーダの世界―手話の文化と声の文化』医学書院.
瀬山紀子, 2002, 「声を生みだすこと―女性障害者運動の軌跡」, 石川准・倉本智明編著
『障害学の主張』明石書店, 145-173.
Thomas, Nigel, Stainton, Timothy, Jackson, Sonia, Jackson, Cheung, Wai Yee, Doubtfire, Samantha
& Webb Amanda, 2003, “‟Your Friends don‟t understand „: Invisibility and unmet need in the
lives of „young carers, Child and Social Work, 8: 35-46.
土屋葉,2010,
「
「ふつうの家族」の物語―身体障害をもつ親のもとで育った子どもの語
りから」
『文学論叢』142, 134-117.
渡辺一史,2003,
『こんな夜更けにバナナかよ』北海道新聞社.
35
3.ホームヘルプサービス利用高齢者の介護イメージ
―介護を受ける経験に基づく当事者の意識―
齋藤曉子
1
はじめに
介護保険制度の導入による公的サービスの拡大は、高齢者が選択できる介護の幅を広げ
た。在宅で生活する高齢者の場合は、家族介護、ホームヘルプサービス、デイサービスや
ショートステイなど、さまざまな提供者からケアを受ける可能性がある。このような介護
の多様化状況は、高齢者が受ける介護の種類が変化するだけでなく、現在どのようなもの
を介護と認識するのかという介護意識や、今後自分達がどのような介護を受けたいのかと
いう介護への期待にも影響を及ぼしていると考えられる。
そこで、本稿では高齢者の介護イメージを手掛かりに、多様化する介護の中での、当事
者の意味づけや、介護への期待について明らかにしていきたい。これまで介護意識につい
ての研究では、後述するように介護者による介護の意味づけや、現在介護を必要としない
人々の将来的な介護の希望について検討しており、現在介護を受けている高齢者の認識に
ついては十分に検討されてこなかった。しかし、介護市場が形成されて以降、サービスの
利用経験に基づく介護意識の変容も考えられ、多様な介護を受ける立場である高齢者が、
サービスを受けながら介護についてどのような意識を持つのかを明らかにする必要がある
だろう。
本稿では、現在介護保険サービス(特に家族や他のサービスの利用可能性もあるホーム
ヘルプサービス)を利用している高齢者の語りを対象に、彼ら/彼女らの「介護イメージ」
を明らかにすることで、一般的で抽象的な「介護」観だけでなく、実際に介護サービスを
利用する中でなされる介護の意味づけや認識を探る。
本稿の構成は以下のとおりである。第二節では、これまでの高齢者介護についての介護
意識研究を整理する。第三節では、本稿で用いるインタビューデータの調査概要を示す。
第四節では、高齢者によって語られた多様な介護イメージを見ていく。最後に、事例をも
とに、①介護を受けるという経験の意味づけと②介護への期待と評価(技術とコミュニケ
ーションの関係)を明らかにする。
2
「介護」意識の研究
これまで介護の意識についての研究では、家族・施設サービス・在宅サービスなどの複
数の介護提供主体への介護志向の研究が中心であった。つまり多様な担い手の中で、誰(ど
36
こ)が介護を担うのか/誰(どこ)に介護を担ってほしいのか、という担い手に関する選
好がジェンダーの観点・介護の公・私の分担から問題とされてきた。
介護保険制度導入以前の措置制度時の高齢者の介護に関する意識として、藤崎(1998)
の研究が挙げられる。藤崎は 1988 年に、
「家族に対する扶養意識」と「自立意識」「福祉に
対する意識」に関するインタビュー調査を行っている。
「福祉」については、措置制度下と
いうこともあり、
「一部の恵まれない人のもの」という全般的にネガティブなイメージが持
たれており、
「福祉への依存=できるだけ避けたいもの」と捉えられていた。しかし一方で、
親子関係にみられる既存の扶養期待も弱まっており家族へ介護を期待することの困難性も
ある。そのため、高齢者は公的なサービスも家族も頼れないという危ういバランスの中で、
「誰にも迷惑をかけない」という孤立奮闘型の自立が目指されていた(藤崎 1998)
。
しかし、こうしたネガティブな外部サービスについての意識は、介護保険制度が導入さ
れ、公的なサービスが普及したことにより、変化が見られる。内閣府の『高齢者介護に関
する世論調査』
(2003)1)によると、在宅での介護サービスの果たす役割への期待が増えてき
ている。在宅介護の場合は、
「家族だけに介護されたい」という希望が、介護保険制度導入
前(1995 年)の 25%から導入後(2002 年)には 12.1%という半数以下まで減っている。一
方で、
「ホームヘルパーなど外部の者の介護を中心として、あわせて家族による介護を受け
たい」人の割合は、導入前 21.5%から導入後 31.5%まで増えてきている。同様に、介護保険
制度導入前後(1998 年と 2002 年)に杉澤らが東京都で行った調査によると、在宅サービス
志向は、19.6%から 25.9%に増加している。ただし家族介護志向も 35.0%から 37.7%に増
加しており、単純に家族介護への期待が減尐しているともいえない(杉澤他 2005)
。
また、家族介護を中心に、より細かな介護意識や選好について、世代差・ジェンダー差
に関する研究もおこなわれている。山口(2008)は成人子のいる高齢者を対象に量的調査を行
い、ケアの選好について検討している。身体ケアの場合は娘の割合が多く、非手段的ケア
の場合に男性による息子への強い期待が見られるなど、介護の内容と介護関係のジェンダ
ーとの関連を明らかにした (山口 2008)。
さらに、介護を担う側と担われる側の意識の差異と同一性も指摘されている。中西(2009)
は、若者世代の介護意識と親(母親)介護意識を比較している。若者世代では、親の介護
責任が生じた場合に、娘は自ら介護の担い手となることを想定し、息子は配偶者のケアや
外部サービス利用を想定しているというジェンダー差が見出されている。子世代の意識と
同様に、ケアを受ける側である親世代でも、娘への介護期待が強い(中西 2009)
。
森嶌(2003)は、家族介護経験のある男女のグループ・インタビューを通して、介護意
識の男女差と世代差を明らかにしている。男女差については、女性が直接的な介護を担っ
ており介護を私的問題ととらえ主観的に語るのに対して、男性は妻が担っているため間接
的な介護者であり、介護を社会問題としてとらえ間接的に語る。年代による意識の違いと
しては、70 代・60 代・50 代の女性を比較している。70 代の女性は、自身が担う家族介護
を自然なものとみなし、
「介護」という言葉は用いず「お世話」「看病」という言葉を用い
37
ている。一方、
「介護」は「自分達が『当たり前』として行ってきた家族員の世話を外部の
『専門職』に委ねる『システム』であって、高齢化に伴う『問題』として捉えられている」
(森嶌 2003: 41)
。60 代の女性から自分の行為を「介護」と認識し、
「責任」
「苦労」
「負担」
「覚悟」などの意味づけがされている。50 代の女性になると、
「介護」に関して物理的な世
話は外部サービスで、精神的なケアを家族が担うという介護のフォーマル/インフォーマ
ルへの期待の違いがでてきている。しかし 50 代の女性に介護されるのが、70 代以上の世代
であり、サービスへの抵抗感があることから、なかなか委託が困難であることが指摘され
ている。
これらの介護の意識研究では、介護の担い手と受け手の意識の違い、ジェンダーや世代
による介護期待の違い、などが明らかにされている。また、介護サービスの普及にともな
い、介護期待として、家族介護のみではなく、在宅サービスなども利用する傾向へと変わ
ってきていることが指摘できる。
しかし、こうした介護者や介護をまだ経験していない人たちの意識調査が進む一方、現
在介護を受けている人たちがどのように介護を認識しているのか、という調査はそれほど
十分になされていない。そのため、介護保険制度による普遍的な公的介護サービスの普及
により、利用経験を経た高齢者が介護そのものの意味づけをどのように変容させているの
か、という課題に対しては十分に検討されているとはいえない。そこで、本稿では、当事
者である高齢者が自ら受ける介護をどのように捉えているのか、サービス利用高齢者の介
護イメージに着目し、筆者が行ったインタビューのデータに依拠して検討していきたい。
3
調査の概要
インタビュー調査は、2005 年~2006 年にかけて東京都の A 区在住の高齢者 12 名へ「ホ
ームヘルプサービスについての調査」ということで、高齢者の自宅において 1 時間程度の
半構造化インタビューとして行った。対象者はすべて介護保険制度の訪問介護(ホームヘ
ルプサービス)を利用している。また、インタビューの可能な高齢者ということで軽度の
方が比較的多い。対象者の一覧は表1のとおりである。
インタビュー調査の内容は、①利用者の生活状況、②サービスの決定に至るまでのプロ
セス、③使用しているサービスについて、④サービスのプライオリティ、⑤介護意識であ
る 2)。介護意識については、「○○さんにとって『介護』とはどういうものですか、ご自分
の言葉でお話しいただけますか」という質問をし、自由に語ってもらった。また、その介
護の担い手についても、
「ではこのような介護をどなたがしてくれますか」という質問をし
た。
この調査は、ホームヘルプサービスについての調査ということで、当然ながら分析対象
者のすべてがサービスの利用者である。つまり、今回分析を行うデータの対象者は、公的
なサービスを(全肯定しているわけではないとしても)利用できる程度には受け入れてい
38
る人々であり、家族介護のみで生活をしている人やサービスに抵抗感を持ち拒否している
人など、公的なサービスに繋がっていない人は含まれていない。そのため、このような人々
と比べるとサービスへの抵抗感は比較的弱いといえる。さらに、対象者の中には単身者で
家族からの介護を全く受けていない人もおり、先行研究での家族介護を中心とした意味づ
けとは異なる部分があるだろう。
また、インタビュー調査ではホームヘルプサービス全般について質問しており、今回分
析対象となる介護意識の質問は調査の後半(だいたいの場合サービスについての質問が終
わった後)に行った。そのため、第四節の分析結果で示すとおり、多くの高齢者が、それ
まで話していたホームヘルプサービスとの関連で介護について語っている。その意味では、
先行研究での一般的な介護観や介護意識とは異なりホームヘルプにひきよせられた介護イ
メージであるという特色がある。ただし、このような調査状況でも、すべての対象者が介
護をホームヘルプサービスと結びつけていたわけではなく、家族や他のサービスとの関連
での語りもみられた。そこで、その意味づけの多様性にも着目しながら、分析を行ってい
きたい。
39
表1 調査対象高齢者一覧
要介
仮名
年齢
ヘルパー
性別
世帯構成
家族
主な疾病
利用サービス
サービスの内容
護度
1
田中清
85
男性
の人数
1
単身世帯
訪問介護(週3)、訪問看
主に買い物、掃除、洗
護(週1)
濯
訪問介護(週 2 回)、通所
掃除、買い物、ご飯支
介護(週 1 回)
度
訪問介護(週1回)
掃除
なし
3・4人
妻は 26 年前に亡くなり、息子が
2
原義雄
92
男性
1
単身世帯
隣に住む(夕食は隣家で取
ヘルニア
1人
る)。
6 年前から、夫は有料老人ホー
ムに。子どもが二人おり、横浜
3
桜井正子
86
女性
2
娘と同居
に住む息子はよく連絡を取り合
1人
うが、同居している娘とはあま
り接触がない。
子どもが3人いるが、2人の娘
1(障
脳梗塞
息子と同
4
久保田実
83
男性
は既婚であまり接触がない。息
害者
掃除、買い物、ご飯支
で、半身
居
訪問介護(週3回)
子も仕事(鍼灸師)が忙しく顔を
1級)
2人
度
不随
合わせることが少ない。
肝臓移
訪問介護(週 5 回、1 日3
散歩、清拭、オムツ交
植、白内
~4 回)、訪問看護(週 1
換、掃除(散歩のない
障
回)
場合)
訪問介護(週6回、日以
買い物(散歩)、掃
外)
除、食事の支度
娘と息子が近居し、息子家族
5
古田悦子
65
女性
4
単身世帯
固定は 2
がサポート。
人
妻は亡くなり、息子は県外に在
6
加藤治夫
85
男性
3
単身世帯
脳梗塞
住。
息子家族
7
猪俣きよ
84
女性
1
訪問介護(週3回)、車い
嫁が主に家事・介護を担う。
緑内障
と同居
掃除、通院介助
2人
す貸与
川﨑の息子が月に1回通院介
訪問介護(週3回)、訪問
助をするが、嫁とはおりあいが
8
渡辺節子
86
女性
1
単身世帯
買い物、掃除、通院
心不全
看護(週1回)、デイサービ
悪く、同居やサポートなどはな
5人
介助
ス(週1回)
い。
訪問介護(身体)(週 4
娘家族と
9
松本ふみ
99
女性
娘夫婦が同居しており、介護サ
4
清拭、歌を歌う、お
胆石
同居
回)、訪問看護(週1回)、
ービスの時も常に見守る。
2人
話、
入浴サービス(週1回)
ホームヘルプサービスの時も
夫が付き添う。朝食と昼食は夫
10
北村佐和子
81
女性
5
夫婦世帯
訪問介護(毎日 3 回)、入
膝関節症
が、夕食は、近居の既婚の娘
清拭、オムツ交換、
10人以上
買い物、ご飯支度
4人
浴サービス(2 週に1回)
が作る。
11
木村敏子
76
女性
娘家族と
娘が仕事以外の時は常に介護
パーキン
同居
を担う。
ソン病
3
訪問介護(週 4 回)
40
4
ホームヘルプサービス利用高齢者の介護イメージ
表2で示すとおり、高齢者の語った介護イメージとは非常に多様なものであった。介護
イメージは、
「弱者救済」という社会規範的なものから、
「掃除は 6 割、あと 4 割は会話」
という具体的な介護内容を想定するものまで介護とのスタンスや語られる内容に幅があっ
た。
また、それぞれのイメージする介護を誰が担うのか、ということについても、対象者に
よって違いがみられた。第 3 節の調査概要で示した通り、ホームヘルプサービスの利用経
験についての調査だったため、介護の担い手としてヘルパーなど実際介護を受けているサ
ービス提供者(ヘルパーや特養のスタッフ)を想定しているケースが多かったが、家族や
隣人・友人などインフォーマルな担い手を想定して語るケースもみられた。
表2
対象者
介護のイメージ
担い手
実さん
「弱者救済」
特養スタッフ
治夫さん
「人助けの誠意」
ヘルパー(お風呂の人)
義雄さん
「介護を受ける人が最小限度の満足を得られればいい」
ケアマネかヘルパーか家族
きよさん
「ありがたいけど」「受けないでいけるようにしたい」
ヘルパー
佐和子さん
「お金をもらう」に対忚した「真剣な仕事」
ヘルパー
正子さん
「掃除は 6 割ぐらい。あと 4 割は会話」
ヘルパー
ふみさん
「歌」「お話」
ヘルパー
敏子さん
「急に具合が悪くなったときに助けてくれる事、やさしく」
娘
悦子さん
「私ができないことをやってもらう」
娘、兄嫁
清さん
「生活の援助」
難しい(近所の人、ヘルパー)
節子さん
「安心できること」
ヘルパー(以前は近所の人)
こうした、高齢者の介護のイメージの要素と担い手に基づいて、便宜的に整理すると、
図1のようになる。まず、介護を受けるという経験の意味づけについて、高齢者の中で二
つの傾向にわけられる。一つは、
「最低限の満足」、
「できるだけ受けない」などの介護を受
けるということへの遠慮が見られるケースである(A「介護の遠慮」
)。もう一つは、このよ
うな介護への遠慮は明確には語られず、介護を受けるという経験がある程度肯定されてい
ると想定されるケースである(B「介護の受け入れ」)。
この B「介護の受け入れ」ケースでは、介護のイメージとして、具体的な内容が「介護へ
の期待」として語られていた。
「介護への期待」は、手段的な介護の内容を重視する物理的
ケア(B-1)、コミュニケーションや対人関係を重視する精神的ケア(B-2)、両者の複合型
の物理的+精神的ケア(B-3)にわけられる。
41
以降では高齢者のそれぞれの認識について、現在のサービス状況に照らし合わせながら
詳しくみていく。
図1 ホームヘルプサービス利用高齢者の介護イメージ
A 介護への遠慮
「弱者救済」
介
護
を
受
け
る
こ
と
の
意
味
づ
け
「最低限の満足」
「できるだけ受けない」
B 介護の受け入れ:介護への期待
B-3 物理的ケア+精神的ケア
「お金に対忚した仕事」
「できないことをやってもらう」
「生活の援助」
「人助けの誠意」
「安心できること」
「掃除が 6 割会話 4 割」
「歌、お話」
「やさしく」
「助けてくれる」
B-1 物理的ケア
B-2 精神的ケア
:ホームヘルプサービスなどの介護サービス
:家族・友人などのインフォーマルなケア
4.1 介護を受けることの意味づけ―介護への遠慮
対象者はすべて要介護者であり、ホームヘルプサービスという公的な介護サービスを受
けている。にもかかわらず、高齢者の中には、介護保険制度で謳われる「契約としてのサ
ービス」を権利として利用する「利用者」像とは異なり、自らが介護を受けることに対す
るとまどいや葛藤のようなものがみられた。
「弱者救済」
久保田実(83 歳・要介護1)さんは、10 年ほど前に事故で半身不随になり、要介護1と
障害者 1 級の認定をうけてほぼ毎日介護サービスを受けている。久保田さんは新聞やテレ
ビをみながら社会問題について考えるのが日課とのことで、介護についても自分の問題と
してだけではなく、社会的な問題として認識していた。私の質問に対し、
「介護?わかりに
くい質問だね」といいながらも、
「弱者救済かね。弱者保護。まぁ、年寄だからね。私の場
合半身不随やっちゃったから」と語ってくれた。実さんは、
「介護」を高齢者が何らかのケ
アを必要とする「弱者」になった場合に受ける社会的な「救済」や「保護」と考えていた。
そして、自分は半身不随になったので、この「救済」や「保護」を受ける対象である「弱
42
者」になっていると認識していた。これは、介護保険制度のサービスを利用しながらも、
契約に基づく対等な関係ではなく、介護を受ける側が弱いという、措置制度時代の介護観
に近いものと言える。
さらに、実さんが考える「介護」を提供してくれるのは誰か、と聞いたところ、特養に
併設されたデイサービスのスタッフだという。その理由を尋ねたところ、デイサービスの
スタッフは「若い人が、こんなことようやるなっていうことやってくれるんだから」と語
ってくれた。実さんにとって「介護」は若い人がやるには大変な仕事であると認識されて
いた。
「ありがたいけど」「受けないでいけるようにしたい」
さらに、ホームヘルプサービスなどの介護サービスとしての「介護」を自分の現在の生
活に必要だと認識しつつも、
「自立」とは相反するものだととらえている高齢者もいた。猪
俣きよさん(87 歳、要介護 1)は、現在歩行が困難で、戸外では車いすを利用している。
息子家族と同居しており、普段は嫁が生活全般のケアをしていて、掃除などの簡単な生活
援助サービスのみを利用している。きよさんは、
「介護」について次のように語ってくれた。
きよさん:私はあせらないでいたら、きっと私は今に、歩けるようになると思って。私は、
努力して歩けるようになると思っているんですよ。ですから、介護もありがたいですけど、
私は介護も受けないでいけるようにしたいと思っています。いずれは、杖ついてでもいい
から、ひとりであれしてね、ちゃんと歩けるようになりたいな、って思っているんですね。
ヘルパーさんが来てくれてるからって甘えないで、なんでもできるだけ自分でやるように
したい。だけど、いつのことやらわからないですけど、気持ちだけはあるんです。
きよさんは、将来的には「努力をして歩ける」ようになりたいと考えていた。そのため、
「介護」
(この場合はヘルパーのサービス)を「ありがたい」と思いながらも、受けないよ
うにしたいという気持ちが強かった。そのため、ヘルパーのサービスを利用することは「甘
え」であり、ヘルパーに頼らないこと=自立ととらえていた。サービスに頼らず生活でき
ることを目的とし、サービスを受けるのは、最小限にしたいという考えである。
「介護を受ける人が最小限度の満足を得られればいい」
こうした「介護」を受けることへの遠慮は、原義雄(要介護1)さんにもみられる。義
雄さんは、介護をホームヘルプサービスを前提として語りながら、「いわゆる介護をうける
人が最小限度の満足が得られればいいと思います。上を見ればきりがないし」と語ってい
た。義雄さんは、
「上を見ればきりがないし」と述べるように、介護への希望や期待はあっ
ても、それを訴えてもきりがないと思っており、最小限の支援を得る手段と考えていた。
このような義雄さんの「介護」の意味づけをより特徴的にするのが、次のヘルパーについ
43
ての語りである。義雄さんは、
「気分の悪い日もありますよ。そういう時は僕はじっとして
いるんで、ヘルパーの人には邪魔にならない」ようにしているという。義雄さんは、具合
が悪いから何か特別なケアをしてもらいたい、というのではなく、具合が悪くても、他者
の「邪魔にならない」
、迷惑をかけないことを気遣っている。
4.2 介護の受け入れ――介護への期待
一方で、先のケースとは異なり、ある程度介護を受けるという行為を肯定的にとらえて
いるのが、次のグループの高齢者である。このグループの高齢者たちは、介護への期待と
してより具体的な行為を想定して介護をイメージしており、4.1 でみられたような介護(サ
ービス)を受けることに対して遠慮や消極的な姿勢は見られない。
介護として期待される具体的な内容に即して、物理的ケア(介護の技術・内容)
、精神的
ケア(人間関係としてのケア)
、その両者を含むものの三つに分類して語りを見ていこう。
4.2.1 物理的ケア
「お金をもらう」に対応した「真剣な仕事」
北村佐和子さん(81 歳・要介護 5)は、夫と二人暮しで、約 6 年前から寝たきりとなっ
た。現在は身体介護および生活援助として一日 3 回の訪問介護を毎日利用しており、週で
いうと 10 人以上のヘルパーが常に行き来している。介護保険サービスでは足りないため、
自己負担でサービスも利用しているが、
「月に 10 何万って払っているからね。大変ですよ」
と経済的な負担も大きい。
佐和子さんに介護の意味を尋ねたところ、次のような筓えが返ってきた。
佐和子さん:結局さ、お金をもらうだけ、真剣にやってもらえればいいなぁ。って。こっ
ちは無いお金を払うわけだから。相手はもらうわけだから。それだけは真剣な仕事をして
もらいたなぁって。それは余計やってっていうんじゃないのよ。
・・そんなに、一生懸命や
れっていうんじゃないのよ。だけど 4 千円も 6 千円ももらってるのよ。だけど、それをや
っぱりね、口先だけでやってもらってもしょうがないと思うの。払う方の身になったら大
変なんだから。
佐和子さんは、
「介護」をヘルパーによるホームヘルプサービスの業務と捉えていた。料
金を支払って相忚のサービスを得る、という消費者としての感覚が強い。現状のヘルパー
のサービスの評価については、高い支払いに対して十分に提供されていないと感じていた。
ただし、
「余計やってっていうんじゃないのよ」「一生懸命やれっていうんじゃないのよ」
と述べるように、対価以上のものを求めているわけではない。佐和子さんは「介護」にサ
ービスの「仕事」としての側面を重視していた。また、
「口先だけで」というのには、佐和
子さんのこれまでのホームヘルプサービスの経験が影響している。佐和子さんによると、
44
ヘルパーには、「話で時間を稼ぐ人」と「何も言わないで」「シャンシャンとやってくれる
人」がいる。前者について、佐和子さんは「話してもいいけど、ある程度、やることをや
っていただけないと。便がついていてもそのままにしてもらっては困るしね」と述べる。
サービスとして最低限(身体介護で排泄ケアをする)ということが実施できないで、話や
コミュニケーションをしても評価されないということがわかる。
「できないことをやってもらう」
同様に具体的な行為から介護をとらえていたのが、古田悦子さん(65 歳・要介護 4)で
ある。悦子さんは、今回の対象者の中では最も若いが、肝移植の後ほぼ寝たきりとなり、
佐代子さんと同じように週 5 回の訪問介護と訪問看護という非常に多くのサービスを利用
している。悦子さんは、
「私ができないことをやってもらうのが介護だと思います」と述べ
る。これは、佐代子さんよりもより広い対象で介護を考えており、実際にそういった介護
をしてくれるのは、
「一番身内だから、自分のことを知っているのはあるんだけど。今はお
姉さん(娘)だね、あとおばさん(兄嫁)」と述べる。近居し、サービスの窓口や普段の食
事の世話をしてくれる近居の娘と兄家族がこうした「介護」の担い手として認識されてい
た。介護サービスの範囲だけではなく、生活のすべてにおいて、自分のできないことをや
ってもらう、悦子さんにとっての「介護」はそうした意味づけがされていた。
「生活の援助」
単身世帯の田中清さん(85 歳)もサービスに限定されない介護イメージを持っていた。
清さんは介護について「生活の援助、ですね」と語ってくれた。身体ケアなどの介護行為
やホームヘルプサービスにとらわれない、広い「介護」の認識である。こうした「介護」
の担い手についてたずねたところ、「えー難しいなぁ」という筓えが返ってきた。難しい
と感じる理由は、「たとえば具体的にね、知り合いの人が、時々来てくれるし。それと、
ヘルパーさんとは比較できないだろうし」、とのことだった。田中さんには現在家族はい
ないが、この近所に住む「知り合いの人」が毎朝「生きてるかー」と電話をくれたり、普
段からも遊びにきてくれるそうだ。田中さんにとっての介護は、公的な介護サービスとい
うよりも自分の生活を支える全般的な要素、インフォーマルもフォーマルも含めたものと
して認識されていたといえる。
4.2.2 精神的ケア
一方で、援助行為だけでなく、人間関係やコミュニケーションなど精神的なケアを「介
護」として意味づけている人たちがいる。
「歌」と「お話」
娘夫婦と同居する松本ふみさん(99 歳・要介護度 3)は、ホームヘルプサービスにおけ
45
るヘルパーとのコミュニケーションを「介護」と認識していた。ふみさんは、身体介護な
どほぼ平日はサービスを利用している。同居の家族がおり、身体介護を中心にサポートさ
れているという状況は先述した佐和子さんと似ているが、「介護」の意味づけは異なってい
た。
ふみさん:えぇ、そりゃ、こうやって、いつも言うことは。こう下を眺めたり、お庭のお
花だの。「今日来る時に、向こうのお花咲いていますか」、とか、そういった話ばっかりで
すよ。また、下を見れば、
「今また人が通ったでしょ」、そういう話ばっかり。それで、
「こ
っちにもあれだから、つまんないだろうから、お茶菓子を食べちゃって。つまんないだろ
うから。食べちゃって。あなたが来るまでは、誰ともね、歌を歌うこともできないんだか
ら、早く、このお茶菓子とお茶だけ飲んで、早く歌いましょうよ」「あぁ、そうですね」、
って歌って。
「あぁ、よかったわね。歌っていうのが一番いいんですよ」って。毎日おんな
じことを歌っても、ちっともかわらない。嬉しくって。「でも、時間じゃないですか」、っ
て言ってね。「そういえばもう時間ですよね、じゃあ帰りますね」って。
ふみさんにとっては、
「介護」とは、会話であり、歌であった。90 歳から寝たきりになっ
たふみさんは、外の様子をヘルパーから聞くのを楽しみにしていた。また、ふみさんはと
ても歌が好きで(インタビュー中にも自作のものを含めたくさんの歌を披露してくれた)、
常に枕元には自作の歌集を用意してあり、ヘルパーが来たときにも最初に一緒に歌ってか
らケアに入るということだった。
「嫌なことがあってもね、歌を歌うとなぐさめになる」と
のことで、身体介護の時間も会話や歌という対人的なかかわりの側面が重要視されていた。
ただし、こうした対人関係の側面のみでヘルパーの介護が評価されていたわけではない。
ふみさんは、身体介護についても「とても気持ちよくやってもらっています」と満足して
いた。
「安心できること」
同様に「介護」の精神的なケアの部分を重視したいたのが、渡辺節子さん(86 歳・要介
護 1)である。節子さんは単身世帯で別居の息子の訪問はたびたびあるが、日々の生活には
不安があり、ホームヘルプサービスを利用している。介護については、「安心できること
ですかね、介護でね」と述べる。そのような「介護」の提供者としては、「結局ヘルパー
さんね。ご近所の方って言っても、お隣は最初よくみてくれたんですけど、ご主人が痴呆
みたいになっちゃって」と述べる。節子さんは、安心した生活を支えるものを「介護」だ
と考えおり、その担い手としては近隣の人も想定していた(実際にかつてはそういった関
係性があった)。しかし、近所の方の生活状況が変わり、日常的にそうしたサポートを継
続できるのはヘルパーのみになってしまったということである。
46
4.2.3 物理的ケア+精神的ケア
最後に、物理的ケアと精神的ケアの複合的なものとして「介護」をとらえているケース
を紹介しよう。
「人助けの誠意」
単身世帯の加藤治夫さん(83 歳・要介護 3)も、ヘルパーの仕事を「介護」と捉えて
いた。治夫さんは、単身生活をしており「毎日人に会わないと不安だから」ということで、
生活援助(掃除や食事の準備)
、身体援助(入浴サービス)とほぼ毎日ヘルパーを利用して
いた。介護を「人助けの誠意だとおもいますね」と述べる。そういった介護をしてくれる
のは、
「お風呂の人。その人はお風呂にいれてくれてもね、今日は血圧が高いから、ちゃん
と調節をしてくれるんです。そういう点はすごく助かりますね」とのことだった。この「お
風呂の人」というのは、治夫さんの所に長年通う男性ヘルパーである。他のヘルパーは何
度か変更になり、そのたびに治夫さんの生活状況と合わないケアをして問題になる(たと
えば大切にしていたものをゴミとして捨ててしまう)ことがあった。一方でこの男性ヘル
パーは、治夫さんの所に長年通い、状況をよく理解してくれており、その時の状態に合わ
せたケアをしてくれる、とのことだった。また、他のヘルパーでは「ああしろ・こうしろ」
と言わなくてはいけない要望も、この男性ヘルパーには言わなくても、「何をやらせてもち
ゃんと心得ていてきちんとやってくれる」と治夫さんは述べている。治夫さんの生活の多
様性を配慮したサービス提供が「人助けの誠意」の「介護」として評価されていた。
「掃除 6 割、会話 4 割」
桜井正子さん(86 歳・要介護度 1)は、生活援助(主に掃除)でホームヘルパーを週に 1
回利用していた。正子さんはヘルパーの変更により、受けられるケアが大きく変わったと
語ってくれた。以前のヘルパーとはお茶を飲んだり、お話したりということができ、それ
が何よりも楽しかったとのことだった。しかし、ケアマネジャーの方針により、ヘルパー
の事業所が変わり、介護保険制度を厳格に守るヘルパーに変更され、正子さんはそうした
ケアを受けられなくなった。このような経験から正子さんは、「介護」(ホームヘルプ)は
「掃除は 6 割ぐらい。あと 4 割は会話」と述べていた。さらに、
「会話」の重要性を以下の
ように語っている。
正子さん:なんていうのかしら。その人のコミュニケーションだけじゃないのよ。病気に
対して、年寄りのね、会話ってものは、すごく介護に役立つのよ。
「あーだこーだ」ってね。
お互いに、いったりきたりの話し合い。(今のヘルパーさんでは)それができないでしょ。
正子さんはもともと保健師をしており、看護や介護の知識もある(ホームヘルパー養成
講座での講師の経験もあるとのことだった)
。そのため看護の立場から、ケアを受ける人に
47
とっての会話の重要性を意味づけていた。正子さんの個人的な要望としてだけではなく、
「病気に対して」
「年寄りのね」というように、一般的な高齢者介護にとって重要な要素と
して、会話やコミュニケーションを位置づけていたのである。そのため、掃除をただ機械
的にこなす現在のヘルパーを、正子さんは「あれじゃただのお掃除の人よ。介護じゃない
わよ」と嘆く。正子さんはコミュニケーションを重視しているが、もちろん 4 割だという
掃除についても評価の基準になっていた。正子さんは、現在のヘルパーの「お掃除」につ
いても満足しているわけではなかった。治夫さんのケースのように正子さんの家の流儀が
あり、それに対忚されていないという問題を感じていたのである。
しかし、正子さんのこのようなニーズは、介護保険制度の規則を重視する現在のヘルパ
ーには対忚してもらえない。正子さんは、こうした状況に対して、次のように不満を述べ
ている。
正子さん:通り一遍っていう言葉があるけど…それじゃだめなの、心がないと。でも上で
決めるのは金銭がからむからね。
「9 時から 11 時、お茶も飲んじゃいけない、何かもらっち
ゃいけない」ねぇ。会話っていうことがわかんないのよ、上の人に。バカなのよ。
正子さんは現在のヘルパーの対忚は、「通り一遍」にこなしているだけのものと感じられ
ている。そして、「介護」
(ホームヘルプサービス)において、掃除だけではなく会話が非
常に大切であると考えているが、それが「上の人」
(介護保険制度を決定する立場の人)に
認識されていないことに不満を持っている。しかし、こうした自分のニーズにそぐわない
現状のサービスについては、正子さんは特に意見は言わないという。
「あきらめて、なんで
も、ハイ、ハイって言っている」という。正子さんのケースのように、自分の生活に必要
であっても、サービスの関係で対忚されない場合、高齢者は自分の要求を抑制してしまう。
「急に具合が悪くなったときに助けてくれる事、やさしく」
娘家族と同居する木村敏子さん(73 歳・要介護 3)もケアの具体的な提供における精神
的なケアを重視していた。敏子さんは、パーキンソン病になり、週 4 回の身体・家事援助
を 4 人のヘルパーが担当している。インタビューは本人の希望で実娘が同席していた。私
の問いに対して、「介護ってなんだって…」と戸惑いながらも、「急に具合わるくなった時
に助けてくれること、やさしく」と筓えていた。そして、そういった介護をしてくれる人
として誰を想定するのかについては、「娘ですね」と筓えた。敏子さんにとってホームヘル
プサービスはもちろん重要ではあるが、毎日の入浴や食事などの生活の根幹は同居する娘
が担っている。敏子さんは「介護」をサービスだけでなく、そうした日常のすべての支援
と考えていることがわかる。
5
介護を受ける経験の意味づけと介護への期待
48
高齢者は、介護の意味を問われて、さまざまな介護イメージを語った。語られた介護イ
メージには、介護受けることの意味づけと、介護への期待がみられた。
5.1 介護を受けることの意味づけ
まず、
「介護への遠慮」の事例でみたように、介護を受けることに戸惑いや葛藤を感じる
ケースがあった。これらの事例では、「介護」を受けることをあまり肯定的にはとらえず、
必要最低限にしようとする介護イメージが見られた。彼女・彼らには、
「ヘルパーでも甘え
ないで」
「一人でやりたい」という意識がある。このような高齢者のサービス利用は、依存
=主体性の喪失としてとらえられ、サービスに頼らないことが、自立としてとらえられて
いた。ただし、藤崎(1998)が指摘したような孤立奮闘型というよりは、サービスをある
程度受け入れながら、
「最低限」にする、というサービスを利用しながらの「自立」観とい
うことで、介護保険制度以降の新しい「自立」と「サービス」の関係と言える。
彼女・彼らの特徴として、次の二点が挙げられる。第一が、
「介護」がホームヘルプサー
ビスなどの外部からの介護サービスとして認識されているということである。例えば、き
よさんは家族から受ける日常的な介護については、より自然なものと感じており、自立と
相反するものとは考えられていなかった。介護サービスという第三者から提供されるケア
に対しての距離感、ということがいえるだろう。第二が、彼女・彼らは身体的な自立度が
高く、ある程度自分のことを自分でできている、という感覚があった。たとえば、義雄さ
んや実さんは重度の高齢者と自分を比較して、自分のほうがより健康であることを語って
いた。このケースの高齢者の中には、こうした「健康的で自立度が高い」ことを評価する
価値観があり、こうした感覚も介護を受けることへの遠慮へとつながっていると考えられ
る。
一方で、介護を受け入れているケースも積極的にサービスを利用しているというわけで
はなかった。仕事としてのホームヘルプサービスへの要求を語った佐和子さんや治夫さん
にしても、介護サービスで求められることには、限界があることを認識しており、その中
での期待を述べている。また、今回の対象者に、経済的に問題がなければ、現在よりも多
くのサービスを使いたいか、という質問をしたところ、ほとんどすべての高齢者が、自分
はこれ以上使いたくない、と述べていた。これは、2006 年の介護保険制度改正時の「廃用
症候群」の議論 3)でみられたような、「使えるサービスはどんどん利用する」という高齢者
像とは大きく異なる。介護保険のサービスを利用しながらも、この事例の高齢者たちには、
程度の違いはあれ、サービスを受けることに対して距離があり、他者からケアを受けると
いうことの困難性を示しているともいえる。
5.2 介護への期待
介護への期待は、具体的な介護行為との関連で語られていた。
49
まず、介護を物理的ケアととらえるケースでは、現状の介護やサービスへの問題とも重
なりながらその意味づけがなされていた。佐和子さんのケースは、介護サービスの身体介
護という明確な期待と、評価が語られていた。介護保険制度が大規模な介護サービスを提
供していることとも関連し、利用者としての意識を持ちながらサービスを評価しているケ
ースといえる。こうしたサービスに対して主体的な利用者像は介護保険制度以降の消費者
としての高齢者モデルといえる。一方で、悦子さんや清さんのケースでは、家族や友人な
どのインフォーマルな担い手が想定されており、介護への期待も介護行為に限らず、電話
や日々の声掛け、サービスの調整など広い生活での支援が想定されていた。このように、
担い手によって、期待される介護の内容は異なってくる。
精神的ケアのケースでは、ヘルパーや隣人などの人間関係として介護をとらえていた。
ふみさんの語るホームヘルプサービスでの会話や歌や、節子さんが語る近隣やヘルパーの
サポート、という具体的な介護行為や援助行為よりも、コミュニケーションや「安心」が
重視されていた。
精神的ケアと物理的ケアとの重なりで介護をとらえているケースは、上記の二つのケー
スの特徴含むものと言える。正子さんや治夫さんのケースでは、ホームヘルプサービスに
ついて、家事サービスなどの業務と、ヘルパーとの人間関係(「会話」や「誠意」)が関連
しながら評価されていた。敏子さんのケースでは、娘による家族介護の実質的な生活の支
援と「やさしさ」という精神的なケアが介護として意味づけられていた。
最後に、この三つのケースの関連について述べておきたい。物理的ケアに比重を置く佐
和子さんのケースと精神的ケアに比重を置くふみさん・正子のケースは一見対立的に見え
るが、実は、後者の二人も生活援助や身体介助のケアに満足されているという前提がある。
ヘルパーの視点からは、業務かコミュニケーションか、という二項対立ととらえがちであ
るが、利用者である高齢者の立場からは、両者が切り離されたものではなく、生活援助や
身体介助のケアのスキルの上にコミュニケーションや対人関係の構築が位置づけられてい
る。
[注]
1)この調査は、全国の 20 歳以上の 5000 人を対象に行った郵送調査で、1995 年は 3,596 人、
2002 年は 3,567 人(71.3%)の有効回筓が得られている。このうち、回筓時に 60 歳以上
であったのは、1995 年は、全体の 30.2%にあたる 1336 名で(男性 541 名と女性 545 名)
、
2002 年は、全体の 37.5%にあたる 1336 名で(男性 666 名と女性 670 名)である(内閣府
2003)
。
2)具体的な調査項目は、以下のとおりである。①利用者の現在の状況は、普段の生活の様
子、インフォーマルネットワーク(近隣とのつきあい、家族との関係性)
、健康状況、経
済状況、緊急時の対忚である。②サービスの決定に至るまでのプロセスは、認定調査の
認識(どのように感じたか、自分の状態をきちんと把握しているか)
、ケアプランの作成
50
の様子(介護サービスの情報収集の手段、自己決定が可能だったか)
、サービスへの支払
いとその評価(高いか安いか)
、③使用しているサービスについては、サービスの範囲(サ
ービスの内容、サービスを十分に受けられているか、最大限まで利用していない場合は
その理由など)
、ヘルパーとの人間関係(ヘルパーへの信頼、ヘルパーの態度(丁寧か、
気がつくか)・個人差、自分との相性)、ヘルパーの能力(仕事をきちんとするか、自分
に合わせたやり方で提供してくれるか)
、時間(訪問時間にきちんと来るか、時間は十分
か)
、サービスにおける自己決定(事業所やサービス提供者を自分で選べるか、何をして
もらうのか、いつくるのかを自分で決定できるか)
、ケアマネジャーについて(訪問頻度、
サービスの満足度については聞かれるか)、サービスへの評価(満足度)である。④サー
ビスのプライオリティ(サービスに一番求めるものとして、①充分な介護を得られるこ
と、②あなたが必要なときに介護を得られること、③病気の時に介護を得ることによっ
て、あなたが安心できること、④ヘルパーさんとあなたとのよい人間関係、⑤ヘルパー
さんがきちんと仕事をしてくれること、⑥いつヘルパーさんが来るか知っていること、
⑦何をしてもらうかをあなた自身で決められること、⑧ヘルパーさんたちがストレスを
感じなくてすむこと、⑨同じヘルパーさんが来てくれること、⑩その他(具体的に)の
中から選んでもらう)である。
3)2006 年の介護保険制度の改正では、ホームヘルプサービス(特に家事援助)の使い過ぎ
が高齢者の自立を損なうという「廃用症候群」の問題化とともに、家事援助サービスの
削減が図られた。
[文献]
藤崎宏子,1998,『高齢者・家族・社会的ネットワーク』倍風館.
森嶌由紀子,2003,「ジェンダーと家族介護―グループ・インタビューにみる男女の介
護意識」高田知和・木戸功編『エイジングと日常生活』コロナ社,29-59.
中西泰子,2009,『若者の介護意識―親子関係とジェンダー不均衡』勁草書房.
内閣府,2003,『高齢者介護に関する世論調査』
.
杉澤秀博・中谷陽明・杉原陽子,2005,『介護保険制度の評価―高齢者・家族の視点か
ら』三和書籍.
山口麻衣, 2008,「ケア・ミックスにおけるジェンダー関係―成人子によるケアに対す
る高齢者の選好の分析」
『ルーテル学院大学・ルーテル神学校 紀要』42: 63-75.
51
4.なぜ遠距離介護をするのか
―動機の語彙からみる家族カテゴリーの変更と再編―
中川敤
1
問題設定
遠距離介護という現象は、1983 年には、アメリカの新聞記事に掲載されており(The New
York Times, December 29, 1983)
、日本でも 1994 年には、
『AERA』に同現象についての報告が
なされている(山脇 1994)
。しかし遠距離介護の研究の開始は、アメリカでは 1990 年代後
半以降(Wagner 1997)
、日本では 2000 年代以降であった(松本 2003)
。このような遠距離
介護についての研究の対象化の遅れの理由としては、成人子による支援は近接性次第であ
るという研究者の想定があると指摘されており、今後の高齢者介護の研究においては、遠
く離れて暮す子供の存在を無視できないことが主張されている 1)(Baldock 2000: 207; Neal et
al. 2008: 109)
。
このように遠距離介護の研究において、親子の近接性のみを介護関与の規定要因とはで
きないと指摘されはじめているにもかかわらず、これまでの研究において、親の介護のた
めに、遠く離れて暮す子供が「なぜ遠距離介護をするのか」
、という問いを正面から扱った
研究は多くない(中川 2006)。それゆえ「なぜ遠距離介護をするのか」という問いは、親
子関係において親子の物理的な距離という変数を重視してきた従来の研究の知見との整合
という点から重要であろう。と同時に、その問いに筓えを出すことは当事者にとってもま
た、重要な意味を持つのである。
本稿では「なぜ遠距離介護をするのか」という問いに対して筓えを出すことが、遠距離
介護の当事者自身にとってどのような意味を持つのかについての考察を通じて、
「遠距離介
護のリアリティ」への社会学的なアプローチを試みたい。
2
家族介護研究における動機の位相
2.1 介護者自身による動機への問いと動機の語彙
家族介護に関する社会学的研究においては、家族成員自身が抱く、介護を行なう動機に
注目されることがある。たとえば上野千鶴子は、既存の質的な家族介護の研究を整理する
中で、家族介護を行なう動機の種類が介護者、被介護者の属性の組み合わせによって、
「義
務感」となったり「愛情」となったり、と異なる場合があることを指摘している(上野 2006:
146-52)
。
しかし家族介護の動機に注目した研究が明らかにしていることは、単に、介護者/被介
52
護者の属性の組み合わせごとに、家族介護の動機がどのようなものであったかを記述する
にとどまらない。たとえば家族介護について、重要な知見を多く指摘してきた春日キスヨ
は、
「なぜ私がするのか」という形で、介護者自身が動機を探さなければならない、すなわ
ち行為者自身が「動機を問う」という活動こそが、家族介護のリアリティであることを明
らかにしている(春日 1997)
。
春日は、家族介護者が自分自身で介護を行なう動機を問うことを要請される背景として、
第 1 に家族が介護を行なうことの自明性が崩れているという社会変動/家族変動、
第 2 に、
納得のいく理由無しには担い続けることが困難な家族介護の過酷な現実、を指摘するので
ある(春日 1997: 17-8)
。
このように動機それ自体のみならず、動機を問うという行為にも注意を払う視点は、動
機を個人に内在する行為の心的要因に還元しない、動機への社会学的なアプローチ、いわ
ゆる「動機の語彙」論と重なり合う。そのような視点を打ち出したライト・ミルズは、動
機を「ある状況におかれた行為者や他の成員にとって(中略)社会的・言語的行為にかん
する問いへの、疑問の余地のない解筓」
(Mills 1940=1971: 347)と見なしており、それゆえ、
「動機の帰属づけや言語的表現」が、「『問い』として認識される言語化形式に付随してい
る」
(Mills 1940=1971: 345)ことを強調していた。
2.2 家族介護の動機の語彙と家族カテゴリーの構成
家族介護の動機に注目した研究は、行為受容の自明性の崩壊と、行為遂行の過酷な現実
に加えてもう 1 つの重要な知見を明らかにしている。それは家族介護の動機についての人
びとの記述が、家族の誰が介護の責任を担うかという、行為の責任の個人への帰属という、
人びとの活動と密接な結びつきを持っているということである。
たとえば春日は、介護を担うのが、
「長男の嫁」であれば、介護を引き受ける理由は「半
ば『宿命』と考えられてきたがゆえに、介護の苦労が『当たり前』とみなされ感謝もされ
ないつらさ」があるという。その一方で、介護を引き受けるのが「娘」であれば、それは
「『宿命』ではなく『自己選択』の側面が強いがゆえに」、きょうだい関係が悪化している
場合には、
「自業自得」と見なされると述べている(春日 1997: 32)
。
以上の分析で春日が捉えているのは、まず第 1 に、動機の記述において、どのような動
機が帰属されるかが、介護者が「長男の嫁」
、あるいは「娘」といった形で、どのようにカ
テゴリー化されているかと密接な形で結びついているということである。そこでは、特定
のカテゴリーに該当する人が文脈に先立って存在しており、その上で、そのカテゴリーの
人が、どのような理由で介護を行なうか、という形で家族介護の動機が探されているので
はない。そうではなく、介護者がどのような動機で介護を行なったかについての理解と、
その介護者が何ものとしてカテゴリー化されたかとが、同時達成的なのである
2)
(Coulter
1979=1998:108)
。
さらに春日の分析が捉えているのは、介護者以外の家族が、介護者を「長男の嫁」ある
53
いは「娘」とカテゴリー化し、かつ「宿命」や「自己選択」といった形で介護の理由や動
機を記述することが、介護者に介護責任を帰属し、同時に自分たちを介護責任から解除す
るといった種類の一連の文脈を同時に構成するということでもある
3)
(Coulter 1979=1998:
28)
。
家族介護の動機に関する社会学研究が明らかにしている以上のような知見は、私たちの
社会生活において、家族介護に関する動機の語彙は、特定の家族カテゴリーと結びついた
論理文法として存在していると同時に、そうした論理文法に従った語彙の使用が私たちの
介護に関する社会生活それ自体を構成していることを示唆するものであろう。だとすれば
遠距離介護のリアリティへの社会学的なアプローチは、家族カテゴリーと結びついた動機
の語彙がどのように利用されることで、どのような遠距離介護のリアリティを構成してい
るのかを明らかにするという方法を採ることもできるだろう。
3
対象
本研究では筆者が 3 名の遠距離介護者に対して行なったインタビューのデータ分析を行
なう 4)。以下、字下げされている引用は対象者の語り、引用中の(丸括弧)は指摘のない場
合は筆者の発話 5)、そして引用中の〔亀括弧〕は筆者による補足である。なお 聞き取り困
難な箇所については○○○で表記し、プライバシー保護のため、一部変更している箇所が
ある。
4
分析
4.1 なぜ U ターン同居をしないのか
「なぜ遠距離介護をするのか」
、という問いに筓えることに先立って、遠距離介護の当事
者は「なぜ同居をしないのか」という問いに直面することがある。遠距離介護を選択して
いる人たちに、なぜこの問いが投げかけられ、この問いに彼らが筓えるということには、
どのような意味があるのだろうか。
4.1.1 批難を伴う問いと理由の提示による釈明
たとえば A さんは、まさに「なぜ同居をしないのか」という問いに直面していた 6)。 A
さんの父親は軽い認知症、そして、その介護を A さんの母親がしていた。しかしその母親
が口内癌となり、手術、入院が必要になってしまった。こうした状況の中で、下記の語り
にみられるように、A さんは、親から U ターン同居をしてくれない息子と見られている、
と考えているのである。以下は、癌の手術のために入院した母親のもとに父親が見舞いを
した際の様子を、同席していた A さんが、思い出しながら描写している箇所である。
54
親父ももう気が弱くなっちゃってさー、2 回ぐらい、
〔母親が〕入院してたときに〔母親
の病室に〕来たのかな。そしたらもう、手を〔握って〕、
〔母親と〕話して、話し始めたら、
もう〔手を〕放さなくなる。泣いて。○○○。やっぱりねー、年をとってね、気が弱くな
るとね、やっぱりね、自分に残された人はね、子どもじゃなくて女房しかいないというの
は、よく分かってるからね。私なんかになかなか何言っても帰れないから。
「『帰ってくる』
って言ったじゃないか」とか言ってね、私も色々電話でね、事情話したり。
ここで注目されるのは、引用の後半に見られる、A さんに対して親が述べた、
「帰ってく
るっていったじゃないか」という発話、および、それを受けて、A さんが「電話でね、事情
話したり」とされている発話である。
まず、親が言ったとされる、「『帰ってくる』って言ったじゃないか」という発話は、東
京で就職をした A さんに対して、U ターン同居をするために帰ってこないことへの「批難」
として聞くことができる。なぜなら、その発話の中には、かつて A さんが「『帰ってくる』
って言った」という「約束」が守られていない、ということが示されているからである。
と同時に、この発話に先立つ引用の前半からは、なぜこのタイミングで、A さんが同居し
ていないことが「批難」されるに値するのか、その文脈を読み取ることができる。
まず引用の冒頭では、口内癌で入院した母親を見舞う父親が、母親と「話し始めたら、
もう[手を]放さなくな」り「泣いて」しまうほど「気が弱くな」っているとされている。
ここで父親が「気が弱くな」っているとされることは、父親を支える人、父親の頼りにな
る人が必要になっていることが示されているのだと言えるだろう。
それを裏付けるように、その直後に、「年をとってね、気が弱くな」っている父親にとっ
て、
「自分に残された人はね、子どもじゃなくて女房しかいない」ことが自覚されていると
述べられている。これは、父親を支える、あるいは父親の頼りになるべき「家族」の中で、
残ってくれている人として、
「女房」しかおらず、その候補となりうる「子供」である A さ
んが、同居していないがゆえに、いないということを示しているのである(Sacks 1972)
。
つまり、気が弱くなった父親にとって、
「子ども」である A さんは頼りにできず、逆に、
「女房」にしか頼れない。このことが、いま現在、父親の気が弱くなっているにもかかわ
らず、同居するために、帰ってこない A さんが「批難」される文脈となっているのである。
こうした親の批難に対して、A さんは U ターン同居ができない「事情」、すなわち理由
を話すことで、その批難に筓えようとしているのである。このとき、父による「『帰ってく
る』って言ったじゃないか」という批難は、同時に、なぜ帰ってこないのか、なぜ同居し
ないのか、といった問いを伴っていると見なすことができるだろう。逆に言えば、なぜ同
居しないのか、といった問いは、批難の文脈で発せられるのであると考えることができる
のである。
では実際に、A さんはどのようにして父親に帰らないということを説明しているのであろ
うか。以下は、先の引用の直後に、U ターン同居ができない理由について A さんが述べて
55
いる箇所である。A さんの遠距離介護の経験について言及している記事を読んだことに筆者
が言及した後の会話である。
(そこでも、結構こう、ご実家から、呼び寄せというか、あのごめんなさい、U ターン
をね、「いつ戻ってくるんだ」と言われるというのを、おっしゃっていた)うんうんうん、
だから、もうやむなく「60 になったら考えるから」、いう話にしてある。そして本心を言う
と、やっぱ私の家族はみんな東京近辺にいるじゃん。で、東京近辺でやっぱり家族の絆は
もっと深めあっていて。E さんが言うように、ね、親は自分よりも早く死ぬから、そのため
に自分のファミリーのね、絆を壊したくないっていうかね。消したくない、というのが本
心ではある。
A さんが受けた取材記事の中で、A さんが親から「『いつ戻ってくるんだ』と言われる」
と発言していたと筆者が述べたのを受けて、A さんは親には「
『60 になったら考えるから』
、
いう話にしてある」と言っている。そしてここで、親の「いつ戻ってくるんだ」という問
いは、前段の引用の分析を振り返れば、親は単に A さんが U ターン同居をする時期を尋ね
ているだけではなく、いま現在 A さんが U ターン同居をしていないことを、親が批難して
いるのだと聞くことができる。それゆえ、その問いへの A さんによる回筓、
「60 になったら
考えるから」という言葉は、U ターン同居が行なわれる可能性がある時期を筓えているだけ
ではなく、今後 A さんによって、U ターン同居がなされる可能性があるということを伝え
ることで、U ターン同居をしていないことへの親による批難を回避しているのだと、分析す
ることができる。
そして A さんは「本心を言うと」と述べながら、今現在、A さんが U ターン同居をしな
い理由に言及するのである。A さん「の家族はみんな東京近辺に」おり、その「家族の絆は
もっと深めあってい」るのであり、「自分よりも早く死ぬ」親のために、「自分のファミリ
ーの絆を壊したくない」
「消したくない」という気持ちから、実家に U ターンするのは難し
い、というのである 7)。
そこでは親が含まれない「私の家族」
「自分のファミリー」といういわば夫婦家族のカテ
ゴリー集合に、A さんの存在が位置づけられることで、U ターン同居の困難が説明されてい
る。これは先に、父親の気の弱さを説明する発言の中で A さんは、A さんの「親父」とそ
の「女房」
、そして彼らの「子ども」である定位家族という集合の中に位置づけられ、その
ことが、U ターン同居ができないことへの批難の文脈を提供していたこととは、興味深い相
違を示している。
ここでマーヴィン・スコットとスタンフォード・ライマンの議論が参考になる 8)(Scott and
Lyman 1968)
。スコットとライマンは「行為が評価的な問いにさらされるとき」に「行為と
期待のあいだのギャップに言葉の上での橋を架けることで、葛藤が生じることを防いでく
れる」
(Scott and Lyman 1968: 46)装置として、釈明(=accounts)を位置づける。その上で
56
スコットとライマンは、釈明を正当化(=justifications)と弁解(=excuses)の二つに類型化
する。そして彼らは「正当化は行為あるいはその帰結のどちらかあるいは双方に疑義が挟
まれたとき、行為あるいはその帰結を中和化する社会的に認められた語彙であ」り、
「正当
化は、問題化されている行為が一般的な意味で許されないことは認めるが、特定の場合、
その行為自体が許され必要であること」が主張される、と言うのである(Scott and Lyman
1968: 51)。
以上の議論を踏まえると、A さんのここでの語りは、所属している家族という、カテゴリ
ー集合を再編することで、
(両親を含まない)A さんの「自分のファミリーの絆」
、すなわち
夫婦家族の持続が、両親のもとへの A さんの U ターンよりも優先されることで、自身が U
ターンしないことが「正当化」されているのであると言えよう。
以下は、上記に続く語りである。
だけど気が弱くなった親父やお袋に、そんなことをね、そのままのまま言えないじゃん。
言い方があるよね。だから 60 まではローン払わなきゃいけないから。
ローン払うためには、
東京近辺で就職して、年収 500 万円以上ないとローン払えないから、60 まで待ってくれっ
て言うことに、いう話をして結論をね 60 歳にのばしている状況なの。まぁ 60 なったとき
にどうなっているかは分からないんだけど。
ここでは、すでに行なわれた、U ターン同居をしないことの「正当化」を、親には「その
ままのまま言えない」と述べられている。それは「親父やお袋」が「気が弱くなった」存
在として再度その位置づけが行なわれたからに他ならない。つまり A さんが両親の「子ど
も」として存在する定位家族と、A さんが夫、父として(そして両親は含まない形で)位置
づけられる夫婦家族という 2 つに所属しており、夫婦家族が定位家族に優先するがために U
ターンはできないといった理由は、
「親父やお袋」が「気が弱くなった」存在として位置づ
けられることで、そのようにカテゴリー化される人達には配慮や気遣いが求められる必要
があるという観点から、不適切なものとして理解されているのである。
そうした中で A さんは、現在 U ターンができないのは、「ローン払うためには」
「東京近
辺で就職して」
「年収 500 万円以上ないと」いけないからであると、親に伝えているのだと
述べている。そこでは、一家の稼ぎ手として、親の住む田舎ではなく、高い収入を確保で
きる東京で生活し仕事を続けなければならないことが主張されている。そしてそうした主
張は、U ターンをしない理由を、定位家族に対する夫婦家族の優先性という記述から、A さ
んに課せられている一家の稼ぎ手という家族内の義務とそうした義務遂行を可能にする都
市的な条件という異なる文脈への移行を構成しているのである。そして注目されるのは、
そうした新たな文脈においては、U ターンしないことは「正当化」されるというよりは、現
状ではできないが、判断を先送りにするものとして親に伝えられている。それはスコット
とライマンの言葉を借りていうならば、
「弁解」
、すなわち「問題の行為が(中略)
、不適当
57
であるということは認めるが、完全な責任は否定する中での釈明」といえるものであろう
(Scott and Lyman 1968: 47)
。
以上のように、A さんは、定位家族の中に自身が位置づけられるという文脈の中で、U タ
ーンをしていない理由が問われることが、批難を伴う問いとなるのであったが、そのよう
な批判を伴う問いに対して、夫婦家族の中に自身を位置づけることでその理由を示し、U タ
ーン同居ができない現状を正当化すると同時に、親に対しては、その理由を夫婦家族の優
先性から都市と地方の相違の問題へと移行させることで、批難を伴う問いへの回筓として、
結果として葛藤を起こさない形での「弁解」を行なっているのであった 9)。
4.1.2 嫁カテゴリーの適用と介護責任の帰属
以上のように遠距離介護者は、
「なぜ同居しないのか」という、批難を伴う問いに対して、
その理由を述べることで、批難を回避している場合があることが明らかになった。こうし
た、遠距離介護者が同居をしない理由は、直接、
「なぜ遠距離介護をするのか」という問い
に対する筓えと結びついてく場合がある。
B さん 10)のケースでは、B さんに付与されうる「嫁」というカテゴリーの適用を巡って、
U ターン同居をしない理由と同時に、遠距離介護をする理由が示されていく。以下は、B さ
んの夫の親の介護において、外部の家事・介護サービスの利用について述べられている箇
所である。
〔夫の母が〕亡くなるまで、介護は〔夫の〕父がしてた。だから妻の介護を夫がやって
る、っていう、そういうパターンですよね(その時は、なんか、ヘルパーさんとかを、は、
あ、利用しない)。ほんとは、子供の立場からすれば、入れたかったんですけど、年代が、
その人たちは要するにわれわれとは違って、それは、人の、人のお世話になることを良し
としない。むしろ罪悪感がある(D さん:そうそうそう。家事的なものに関して、人の世
話になるっていうことは、例えば主婦だったら、もうとても、とんでもないみたいな感覚
が)。家事労働を、ようするに他人にしてもらう、お金を使ってする、とんでもないこと。
そういうね、観念の、そういう世代に育った、人たちなんです。
(D さん:結局主婦として
の怠慢である、と。要するに例えば家事労働をお金払ってやってもらうとか、他人に委託
するとか、あるいは家の中に見せたくないとか)。もっと有り体に言えば、その親が年取っ
た時の面倒は嫁が看るものだ。ま、極端に言えば嫁が看るものっていう風に、こう(D さ
ん:年代ね)。そう。
ここで注目されるのは、引用後半にある、
「親が年取った時の面倒は嫁が看るものだ」、
「極
端に言えば嫁が看るもの」
、という B さんの発話である。これは、B さんの夫の親の「世代」
「年代」が持つ意識であるとされており、同時に、そうした意識が、そこでは、義父によ
る義母介護において、
ホームヘルプサービスが利用されなかった 1 つの理由とされている。
58
重要な点は、この夫の両親にとって「嫁」とカテゴリー化される存在は、B さんその人に他
ならないことである。そして結論を先取りして言うならば、逆説的ながら、夫の両親によ
る、B さんへの「嫁」カテゴリーの適用を排除する過程こそが、B さんが遠距離介護をする
理由となっているのである。
さて、夫の両親が「嫁」介護を望むという意識を持つ、「世代」「年代」であることは、
彼らが、B さんの夫に対して、いずれ U ターン同居をしてくれることを強く望むことにつ
ながっている。以下は、B さん自身の親はそのような意識をもっていなかったということが
説明された直後の箇所である。
だけど、主人の親はその当時の人達の、しかもいな〔か〕
、あたしは、あの、いな〔か〕、
おんなじ郷里なんだけど、わりと町中なのね。彼の、うちは、田舎なんです。だからなお
さらその封建的なっていうか、そういう因習が強いところで、たまたま、たまたま一人っ
子〔=男子 1 人〕で長男
11)
だけど、まあその本人にそのあれ〔=学力〕があって、大学へ
出て、就職。今言ったとおり、田舎はちゃんとした就職口がないので、で〔仕方なく〕東
京へ○○○に出てきた。で、
「たまたま本来ならここにいるべきものが、東京へやらせてや
ってる」っていう、そういう。
「で、何かあったときは帰って来いよ」
(来いよ)。うん。
「そ
れも当たり前」って思っていたのね。うん。だけどあの〔義父母の〕偉いのは、がんじが
らめじゃないんですよ。やっぱり時代に沿ってそれなりの、あのー本人達も、時代に合わ
せて、考えをねそれなりに時代に合わせていってた人たちなんです。だから何が何でもっ
ていう人たちじゃなかったんだけど、でもその、B ですけど、B のうちはお前が守る〔跡取
り〕っていう。これはもう絶対に譲れないその条件だったのね。で、いずれ〔夫が〕退職
したら〔家を継いでもらう〕、それまでは自分たちが、とにかく二人で頑張って、戻ってく
るまで、このうちを守っている。て、はずだったわけね。
注目されるべきは、引用の中程にある「たまたま本来ならここにいるべきものが」、「東
京へやらせてやってる」
「で、何かあったときは帰って来いよ」「それも当たり前」という
夫の親の思いについての、発話である。これは明らかに、親の介護が必要な状況という、
「何
かあった」現在、
「本来ならここ〔=新潟〕にいるべき」B さんの夫が U ターン同居をする
ことを夫の親が当然視していたことを示すものである。そしてこの U ターン同居の背景に
なっているのが、引用後半に述べられている、「B のうちはお前が守る〔跡取り〕
」という、
B さんの夫に課せられている家継承規範である。
そして、こうした家継承規範が親から B さんの夫に課される文脈がこの引用の前半には
示されている。それが、B さんの夫の親が、B さんの親とは異なり「当時の人達」であった
こと、出身は同じ新潟でも、B さんの親が「町中」に住んでいる一方、夫の親が住んでいる
地域は「田舎」であるため「封建的」で「因習が強い」ところであったこと、そして夫が
「長男」であったことである。こうした、夫の親の世代、住んでいる地域、そして夫の親
59
族属性に関する、カテゴリー化実践によって、親が U ターン同居を望む理由としての、家
継承規範の存在が際立つのである。
そして B さんの夫に課せられる家継承規範は、同時に B さんに対して、
「嫁」という親族
属性の適用を可能にしていく。そしてそうしたカテゴリー化は、B さん自身に対しても U
ターン同居の選択が規範的に示されていくことになる。以下は、B さんの夫が仕事の都合な
どで U ターン同居が困難であることが示されたことに続く箇所である。
じゃ、普通であれば、世間の、まぁねぇ、その状況の中では、そうするとお嫁さんだけ
が、1 人帰って、面倒看る、っていう、そういうパターンも多々ありますよね。だけど、私
たち
12)
自身は、自分の親は、「自分の子どものお世話にはならないっていう」、そういう、
うちの中で育ってきたという、から、私の中で「B〔家〕の嫁だ」っていうその観念が、希
薄なんですよ。でも親たちは、
「お前も〔長男の〕嫁だろ」っていう思いはものすごく、強
くて、うん、
「息子が帰らないなら、お前が帰る、帰ってくるのが当たり前」っていう考え
方が。そこでまずね、あのー、ははは(闘いが、はは)。
ここで注目されるのは、引用中程に見られる「私の中で『B〔家〕の嫁だ』っていうその
観念が、希薄」という箇所と、「親たちは、
「お前も〔長男の〕嫁だろ」っていう思いはも
のすごく、強くて」という箇所である。
夫の親たちが B さんに対して「お前が〔長男の〕嫁だろ」という形で「嫁」カテゴリー
を適用することは、同時に、
「息子が帰らないなら、お前が帰る、帰ってくるのが当たり前」
という、
「嫁」というカテゴリーが伴う行為の規範を示すことなのである。そしてこうした
父親たちによる嫁カテゴリーの適用が伴う U ターン同居という行為の要求は、B さんとい
う個別の事例の問題として存在しているだけではない。それは引用冒頭であらかじめ、「普
通であれば」
「お嫁さんだけが 1 人帰って面倒看る、っていう、そういうパターンも多々あ
る」という形で、
「嫁」としてカテゴリー化される人たちであれば、規範的な形で指し示さ
れる行為の可能性であることを、B さん自身が提示しているのである。
ところが、ここで B さんは、
「B〔家〕の嫁だっていうその観念が希薄」と述べることで、
「嫁」というカテゴリー化自体を拒否し、結果として「嫁」という家族カテゴリーの適用
に伴う、介護をするための U ターン同居という規範的な行為を拒んでいるのである。
そしてそのような「嫁」 という家族カテゴリーの排除は、同時に親の側に適用される、
カテゴリーをも変更されていく。次は先の引用に続く箇所である。
だけど、幸いなことに、近くなら、バトルだったんだろうけど、いかんせん(離れてい
るから。東京と)、届かない距離なものだから、どちらか、どちらが折れるかといったら、
やっぱりねー、あの親の方は、だから自分たちが看てもらわなきゃならないっていう、た
ぶん、それは今〔だ〕から言えるんですけど、それはやっぱり立場弱かったんだと思うん
60
ですよね。だから声を大にして何が何でも帰って来いよ、っていうことは、言えない(言
えなかった)。
ここではまず、引用中程にある「親の方は、だから自分たちが看てもらわなきゃならな
いっていう」箇所に注目したい。
そこで親の側は、それまでの「嫁」に U ターン同居を要求する権利を有している、
「舅・
姑」ではなく、「看られる」存在、いわば「看られる側」としてカテゴリー化されている。
そのことは、自分の要求を貫徹できない「立場」の「弱」さを抱え、また、B さんとの「バ
トル」は避けようとするそうした存在であることをも同時に意味しているのである。そし
て、そのことは、つまり、そこでは、嫁/舅・姑」といった家族というカテゴリー集合か
ら、
「看る側/看られる側」という異なるカテゴリー集合への変更が行なわれているのであ
る。
このことは重要である。それは、親の側に対して新たなカテゴリーが与えられているだ
けではなく、B さん自身にも、
「嫁」というカテゴリーとは異なる、
「看る側」というカテゴ
リーが付与されていることを意味するからだ。そしてこの時、B さんが遂行すべき行為は、
家継承規範とセットになった扶養・介護を遂行するための U ターン同居から、
「看てもらわ
なきゃならない」人へのケア/介護へと変更されているのである。
このような B さんに適用される「嫁」カテゴリーの排除は、B さんによって経験される
悩みの種類をも変えている。以下は、夫が職業人としてのキャリア上の理由、子供たちの
父親としての理由から U ターン同居が選択できないことと、親孝行な息子であることの間
で葛藤していたことが述べられた後に続く引用である。
多分、彼はものすごく悩んだ。あたしはただ、面倒看る看ないの、だけの問題でしかな
いけど、彼は、要するに、うん、自分の将来、自分の家族のこと、親のこと、ものすごい
悩んだと思うんですよね。
注目すべきは、
「あたしはただ、面倒看る看ないの、だけの問題でしかない」と述べられ
ている箇所である。B さんの夫は「自分の将来、自分の家族のこと、親のこと」についての
悩んだとされており、もし B さんが「嫁」としてカゴリー化されるのであれば、
「自分の家
族のこと、親のこと」は B さんにとってもまた、
「どっちをとるか」で悩む課題であったの
ではないだろうか。しかしながら、B さんが「嫁」として自身がカテゴリー化されることを
排除していることによって、B さんにとっては、自分自身の問題というより「看てもらわな
きゃならない」状況に置かれている人の「面倒看る看ない」の問題へと変換されたと言え
るのである。
そして、夫が遠距離介護を B さんに提案したことが描写される場面においても、やはり
同様のカテゴリー実践を見いだせる。
61
だから、母が倒れてから、夫が、
「これからは毎週帰ろう」っていう風に。でそれ言った
とおりに、彼らは彼らで、できるだけ自分たちで、とにかく息子に、東京へ、東京に行っ
ている、息子たちの、心配をかけたくない、っていうんで、ギリギリまでそうやってなん
とかやってたんだけど、どうにもならない SOS だったわけですよね。
そこでは夫の親たちが発したのは、「どうにもならない SOS だった」とされている。SOS
を発する人は、助けを必要としている人であり、SOS の受け手は、発信者を助ける義務が
生じるのである。それゆえ、B さんの夫は、息子であると同時に、SOS の受け手として、
親もとに通おうとしているのである。と同時に、B さんにとっては、嫁としてカテゴリー化
されることを理由としての U ターンと介護は、受け入れられないが、
「助けを求める人/助
けを求められる人」という、異なるカテゴリー対のもとで自分たちが位置づけられるから
こそ、夫の遠距離介護の提案を受け入れ、通いを選択したのだと考えることができる。
以上をまとめると、Bさんの経験においては、夫の親による、「嫁」であるという理由に
よるUターンと介護という要求は、自身に適用される「嫁」という家族カテゴリーを排除す
ることで失効されている。しかし同時に、そうした「嫁」という家族カテゴリーの排除が、
葛藤という形をとらなかったのは、親と、そしてBさんたちが、親を「看てもらわなきゃな
らない」人、
「SOS」を発信する人として、カテゴリー化することで、彼らを看ること、助
けることを受け入れていったからに他ならなかった。
すなわち、Bさんの経験において、なぜ遠距離介護をするのか、という問いへの筓えは、
Uターン同居をしないという選択による親子の葛藤の回避と密接に結びついていたのであ
る。
4.2 呼び寄せ同居が行なわれない理由
ここまでは、
「なぜ遠距離介護をするのか」という問いに筓えを出すことが、U ターン同
居をしないということとどのように結びついているのかについて分析を行なってきた。こ
れに対して、呼び寄せ同居を選択しない理由と、
「なぜ遠距離介護をするのか」という問い
に筓えを出すことはどのような関係にあるのだろうか。
4.2.1 認知症進行の予防という論理
遠距離介護者にとって、U ターン同居をしないことと、呼び寄せ同居を選択しないことに
ある大きな違いは、親子の意見の対立といった構図が採られにくいということにある。す
なわち、U ターン同居を親が望むのに、子どもが選択できないといった対立の構図が現れが
ちであるのに対して、呼び寄せ同居ではむしろ、親が呼び寄せ同居を望まない、あるいは
親のために、あえて子どもが呼び寄せ同居を選択しないのだ、とされるのである。たとえ
ば、施設入所をしている認知症の母親のもとに通っていた、C さんのケース
62
13)
は、親のた
めに呼び寄せ同居を行なわない、というものである。
だから、母はもし呆けたら、連れてきても、あんまりわからないかもわからないけど、
あのー、最初の頃は、あの人はどこどこの誰とかさんっていうぐらいはわかってて。本当
にそれが合ってるかどうか、私にはわからないんだけど、
「昔、小学校で私より 1 つ上だっ
た人だ」とか、こう、何かそんなことはよく言ってました。その施設の中で。で、
「あ、ナ
ントカさん」とか言って、フフフ、
「本当に、その人のこと知り合いかな」と思うぐらい親
しそうに話してるんですけど。
C さんは、まず、「呆けたら、連れてきても、あんまりわからない」と述べ、母親の認知
症が完全に進行すれば、呼び寄せられたという事態が理解できない、それゆえ、呼び寄せ
に抵抗しないことが示唆されている。
しかしながら、続く発話の中では、「(施設に入所した)最初の頃は」と、認知症や老い
が現在ほど進行する以前のことであると限定されながらも、呼び寄せを選択せずに地元の
施設に入所したことで、施設に入所している人たちの中に知り合いがおり(それが本当で
はない可能性も示唆されながらも)
、母親がそのような知り合いを判断でき、同時に、そう
した人たちと母親が「親しそうに話してる」ことが述べられていた。これは、母親が施設
の中において、他者とコミュニケーションを取る能力があること、またその背景として、
地元の施設に入所しているため、
(実際は知り合いではないかもしれないのだが)知り合い
が入所している可能性に支えられていることが強調されているのである。
それはこう神奈川とか例えば連れてきたら、そういうふうにはきっとならないと思いま
す。言葉も違うし、あのー、生活のあれが全然。母なんかも、あそこしか知らないですか
ら。だから、気分的には、娘の所に行くのは父より全然来るかなって思うんですけど、実
際そこの施設で生活するんだったら、ちょっと一気に呆けるかなっていう気がしますね。
しかし「こう神奈川とか例えば連れてきたら」と続けて述べられて、再度、呼び寄せた
場合の話になり、母親が施設の中において、見せたような他者とコミュニケーションする
能力が失われてしまうことが、
「そういうふうにはきっとならないと思います」という形で
述べられるのである。その理由として、香川と神奈川の言葉や生活の違いが上げられ、結
果として、呼び寄せられれば母が「一気に呆けるかなっていう気が」するというのである。
何ていうんでしょうかね。ほんとに生活が、うーん、その都会のそういう老健の中とか
って、どんなかはわからないですけど、うーん、何となーく職員の方も、そこの地元の人
ばっかりで、こう、なに言葉ももちろんそうですし、うんうん。なんかこう風景も普段見
てる、あっちにあの山があって、こっち見たら海でみたいなのがある所から、うーん、ち
63
ょっとそれはもう無理なんだなーって。
このように認知症を進行させる可能性としての母親の呼び寄せの不可能性は、現在は職
員が地元の人であること、言葉が聞き慣れた方言であること、風景も見慣れたものである
ことが提示されることで、
「都会のそういう老健の中とかって、どんなかはわからないです
けど」と述べられたとしても、都会の老健であれば、職員も知らない土地の人たちであり、
言葉が聞き慣れたものではなく、風景も見慣れたものではないことが際立つことで、
「無理
なんだ」と再定位されるのである。
4.2.2
交錯するライフコース
以上のように、呼び寄せ同居ができないという理由は、認知症の進行の予防という観点
からは、それは親のためであることが強調されており、そこでは U ターン同居ができない
理由とは異なり親子の意思の対立という構図が形成されていなかった。そのことは U ター
ン同居ができないということで生じる親からの批難を回避するための遠距離介護といった
ような、同居できないことが遠距離介護をする理由と結びつく文脈を、呼び寄せ同居がで
きない場合は生みにくいということを意味している。
そうした中で持ち出される、遠距離介護をする動機として強力な語彙は、親子の歴史的
な関係である。C さんは次のように述べている。
だから、うちの父たちぐらいの年代は、自分たちは「長男だから家を継ぐのが当たり前
だろう」って言われて、父なんかは自分の自由には全くできなくて。だけど、子どもたち
には、自分ができなかった分、もうもう自由にしていいって。好きにしていいんだって。
帰って来なく、来たくなかったんだったら、もうそうすればいいっていうふうに。
C さんの父は、その「年代」のために、
「長男だから家を継ぐのが当たり前」という周囲
の意識によって、家業を継がねばならなかった。自分のしたい仕事をするといった、職業
選択における「自分の自由」を、その「年代」の「長男」であった父親は、得ることがで
きなかった。そしてそのような経験が、子供である C さんたちには「自由」にしてやりた
いという気持ちを生む背景となっていると説明されている。実際に父は、かつて東京の学
校に通っていた C さんの就職について、香川に帰る必要はなく、都内での就職を認めてく
れたのであった。
で、父はそうだったけど、父の周りの弟とか妹の旦那さんとかは、まだまだ「なんで、1
人しかない、いない娘を、学校が終わったら帰ってくるんじゃなかったのか」っていうふ
うに言われて、
「そんなとこに就職させたら、結婚もそっちでするようになるぞ」って、み
んなに言われるみたいなんですよ。ま、その通りなったんですけどー。
64
しかし父の弟や、父の妹の夫などは、父と同じ意見ではなかった。「まだまだ」とある言
葉からは父の弟や、父の妹の夫が、
「長男だから家を継ぐのが当たり前」といった形で、子
供たちの意思よりも、親や家の意向が優先されることを当然視する「年代」で育ち、結果
としてそのように考えていることが示唆されよう。このことは、そのような「年代」であ
りながらも、C さんを自由に育ててくれたことは、必ずしも普遍的なものではなく、父親の
個人の経験および、父親個人に帰属される「優しさ」を際立たせるものである。
以上のように、父親のように、子供が故郷を離れて東京で就職することを積極的に認め
てくれたことが、その年代の親たちにとって必ずしも一般的でないという理解を前提にす
ることで、筆者は、C さんに、親が東京での就職を父親への感謝の気持ちの有無を尋ねてい
る。
(あのー、やっぱり、ある程度、自分が東京に)うん(就職)うん、
(こちらで就職して)
ええ、ええ、(ていうことに対して、まあ、ありがたかったなあ、っていうか)うん、(そ
ういうお気持ちは)ありますね、はいはい。なんか、そうやってきたんだから、なんか、
なるべくできることはしないといけないな、っていうか。
親への感謝の気持ちの有無についての、筆者による質問に対して、C さんは感謝の気持ち
の存在を認めるのみならず、そのような感謝の気持ちが、「なるべくできることはしないと
いけない」と、
「遠距離介護をする」理由となることを提示しているのである。
だから、あのー、なんか、あれ〔=兄弟姉妹間の介護責任に関する筆者の論文〕を読ま
せていただいて、誰が看るかとかっていうようなことは、だから、うちはわりとないんで
すよね。で、弟も、お嫁さんはもういないわけですから、もう私しかないでしょう、って
いう感じだし。
その上で、C さんは、その感謝の気持ちと通いの背景を、特に弟の帰省に言及しながら次
のような形で積極的に説明している。
弟もまあ、「自分が行ってもあんまり役には立たないけどな」って言いながらも、まあ、
時々は帰ってくるみたいなのは、あそこの実家にいる時は、ちょっと、なん、何ていうん
だろう、母があんまり、こう、口うるさかったりして、反発したりもしてましたけど、や
っぱりなんかそれは、あのー、何ていうんだろう、自分たちを自由にさせてくれたしー、
大学出てから、また何だか、まあ、違う学校へ行ったりして、長いこと長いことー、学生
をしてたもんですから、弟なんかは。もうずっと延々と仕送りしてもらって。そんなにお
金持ちでもないからね、きっと大変だったと思うんですよ。私から引き続きで。だから、
65
そういうのが、だんだん自分が大人になって、
「ああ、ありがたかったな」って、きっと弟
も思ってると思います。あんまり今しゃべらないですけど。そういうことを、口ではね。
うーん。
ここでは C さんと弟の双方について「自分たちを自由にさせてくれたこと」に加えて、
特に弟については「大学を出てから」も「違う学校へ行」くために、
「延々と仕送り」をし
てもらっていたことが述べられている。
「実家にいる時は」
「反発したりもして」いたが、
「お
金持ちでもない」にもかかわらず、故郷を離れて学生であった自分たちのために、親が支
援を続けてくれたことについて、
「大人になって」弟は感謝しているというのである。
だから、私もうちの子たち 3 人、家から通わせるだけでも、3 人大学を出すのは結構きつ
かったなって思うから、もう本当に、それは本当に、なんか、自由にさせてもらってあり
がたかったなあって、ええ、思います。
さらに C さんは、自身を、3 人の子供を自宅からではあったが大学に通わせた「親」とし
て位置づけることで、親が子供を「自由にさせてくれた」こと、
(それは同時に経済的な支
援を意味するのであるが)
、その苦労が身に染みて理解できるとしているのである。
5
結語
本稿で明らかになった知見をまとめよう。
遠距離介護をなぜするのか、という問いに先だって、遠距離介護者は「なぜ同居しない
のか」という問いに直面することがあった。特に「なぜ U ターン同居をしないのか」とい
う問いは、遠距離介護者に対する批難を伴っている場合があった。そして遠距離介護者に
とって、その問いに筓えることが、批難を回避しようとする活動ともなるのであり、同時
に「U ターン同居をしない理由」の提示が、遠距離介護を行なう理由と結びつくことがあっ
た。
一方、
「なぜ呼び寄せ同居をしないのか」という問いは、 U ターン同居ほど親が望まない
こともあり、U ターン同居をするか否かを巡って、親子の間では明確な対立を生みにいため
に、批難という活動と結びつかない場合があった。そのことは同時に、呼び寄せ同居をし
ないという理由の提示だけでは、遠距離介護をする理由とはならず、親子の歴史的な関係
といった、別の理由が必要となるのである。
そして重要なことは、以上のような遠距離介護の動機の語彙の構成は、家族のカテゴリ
ーの変更と再編が不可分な形で結びついているということである。つまり遠距離介護者は、
自分たちの「家族」が何であるのか、ということを状況に忚じて(時には異なる形で)提
示し、親と同居をしないことを選択し、親もとに通うという選択を行なっているのであっ
66
た。すなわち現代社会において離れて暮す老親介護に直面し、なぜ遠距離介護をするのか
という問いに筓えることは、遠距離介護者にとって、現代社会において「家族」とは何か、
という問いに筓え続けるということでもあったのである。
[注]
1) マーガレット・ニールらは次のように述べている。「介護の議論において距離につい
て考えることが重要な理由は、家族の中でだれが介護者となるかが決まるにあたって、
有償労働と関連した競合する義務の存在にもかかわらず、地理的な距離が、重要な役
割を果たしているからである。
(中略)典型的には、だれであれ最も近くに住んでいる
人が、介護者に最もなりやすいのである。(中略)しかしながら、家族関係と近接性に
関してはパラドックスが存在する。
(中略)親密な家族の結びつきが存在するには、近
接性は必ずしも必要ではないのだが、成人子による支援は、近接性次第であることが
前提とされている。このパラドックスと、介護研究における地理的な近接性への集中
は、遠距離介護の研究の不足を招いた。
(中略)結果として、離れて暮す老いた親と成
人子の関係は『不可視化されたまま』なのである」
(Neal et al. 2008:108-9)。
2) このような分析はジェフ・クルターが次のように述べることと重なるだろう。「動機
の帰属は、カテゴリーづけ問題でもある。この問題を解決するということは、行為と
人物の集積のなかに(すべての可能性のなかから)そのつどの実際に見合ったしかた
で一定の秩序を打ち建てるということにほかならない。特定の人生をもつ人物が、一
定の動機で一定の行為を完遂した、といった言い方をする。そのような言い方は、暗
黙裏にであれ明示的にであれ、その人生を特定の成員カテゴリーもしくは類型に従属
させることにほかならない。というのも、まさしくかの動機帰属がなされたからこそ、
そのカテゴリーや類型が具体的な内容をもったり、その場面に適切なものとなるから
である」
(Coulter 1979=1998:108)
。
3) こうした分析はやはり、クルターが次のように述べることと重なる。「あらゆる種類
の行為を記述するときに、わたしたちは――活動の素人分析家であれプロの分析家で
あれ――一定の立場にたち、態度を決定し、論争の種となりかねないような観察をお
こない、責任・意図・自覚・動機などを行為者に帰属せざるをえない。
(中略)行為の
記述にさいして、いかなる態度決定もすることもなく、成員たちのしていることを記
述すること、このことが不可能であるのは、まさしくつぎの理由からにほかならない。
すなわち、社会的世界の成員であることを離脱しながら、なおも行為を、それとわか
るやり方で記述しようとすることが、そもそも不可能なのだ」
(Coulter 1979=1998:28)
。
4) インタビューは研究の目的を説明した上で行なわれ、データの研究目的の利用につい
ての了解を対象者から得た。またインタビューは対象者の許諾を得た上で録音をし、
文字に起こした。インタビューは、A さんには 2007 年 2 月、B さんには 2002 年 5 月、
C さんには 2007 年 2 月に行なった。B さん、C さんには筆者が 1 対 1 のインタビュー
67
を、A さんに対しては D さんを同席の上で、筆者が 1 対 2 のインタビューを行なった。
5) B さんのインタビュー時において同席している D さんの発話については、
(D さん:)
と表記している。
6) A さんは、
東京に住む 1950 年代の生まれの男性である。
父親は 1920 年代の生まれで、
母親は 1930 年代の生まれで、両親は鳥取に住んでいる。帰省にかかる時間は飛行機で
約 4 時間、交通費は片道で約 2 万円、帰省の頻度は 4 ヶ月で 3 回程度である。A さんに
は両親の家から 5 分程度のところに住む姉がいる。
7) この点に関して、本稿の草稿を読んだ A さんから、このような判断には、東京の家
族について「今が絆を強くする大切なとき」という気持ちがあったからだ、という指
摘を頂いた。
8) この点については、前田泰樹による議論も参照(前田 2008: 46-50)
。
9) この点に関して、本稿の草稿を読んだ A さんから、現時点では、父親は介護付き老
人ホームに入所し、母親の生活を金銭的に支援しながら、A さん自身は東京で生まれた
A さんの孫との関係も楽しんでいるのであり、それが可能なのも、A さん自身の稼ぎが
あるからだ、という指摘を頂いた。
10) B さんは東京に住む 1940 年代の生まれの女性であり、夫も 1940 年代の生まれであ
る。B さんには新潟に住む 1910 年代の生まれの夫の父親と、同じく 1910 年代の生まれ
の夫の母親がいた。帰省にかかる時間は片道約 4 時間、帰省にかかる交通費は、夫と
ともに 2 人帰っていたため、1 回につき往復で約 3 万 2 千円、帰省の頻度は毎週であっ
た。なお夫には千葉に住む妹と、神奈川に住む妹がいる。
11) この点に関して、本稿の草稿を読んだ B さんから、夫は、男・女・女の 3 人兄妹で
あり、ここでの「一人っ子」とは「たった 1 人の男子(=跡取り)
」という意味である、
という指摘を頂いた。
12) なお本稿の草稿を読んだ B さんから、ここでの「私たち」を「私」に修正するよう
に、との指摘を頂いた。これはこの発話が、
「子供のお世話にはならない」という家で
育ったのは「B さんと夫」ではなく、「B さん」だけであるという意味を持つ、という
趣旨の指摘であると思われるが、インタビュー時の前後の文脈より、
「B さんと B さん
の妹」がそのような家庭で育ったという意味であると考えられるため、インタビュー
時の発話を尊重した。
13) C さんは東京に住む 1947 年生まれの女性である。C さんの父親は 1921 年生まれで、
母親は 1924 年生まれで、両親は香川に住んでいた。親もとまでにかかる時間は約 6 時
間、帰省の頻度は 1 ヶ月に 1 回、交通費は片道で約 1 万円であった。また C さんには
東京に住む弟がいる。
[参考文献]
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69
5.看護師の悲嘆と患者家族との関わり
―遺族ケアの手前で考えるべきこと―
鷹田佳典
1
問題の所在
本稿の目的は、小児病棟で勤務する看護師への聞き取り調査に基づき、患者の死をめぐる
看護師の経験や患者家族との関わりについて検討することにある。
筆者はこれまで小児がん患者家族
(ここには小児がんで子どもを亡くした家族も含まれる)
への聞き取りを続けてきたが、その中で時折耳にするのは、
「子どもを亡くした後も医療従
事者と関わる機会を持ちたいが、なかなかそれは難しい」ということだった。もちろん、辛
い闘病生活を思い出してしまうとか、病院に対して不満があるなど、様々な理由で医療従事
者との関わりを望まない親も多いだろう。だが、中には、亡くなった子どもの思い出を共有
したい、そうすることで子どもの生きた証を確認したいとして、死別後、闘病中をよく知る
医療スタッフと会って話がしたいと思う親たちも尐なからず存在する。
特に子どもが乳幼児
期に病気を発症し、亡くなるまでの人生の大半を病院で過ごしたような場合、長期間にわた
って患児と関わり、その歩みを傍らで見続けてきた医療従事者は、子どもを亡くした親にと
って、いわば<特別な存在>であり、死別後、彼らとの関わりを持つことは、親たちにとっ
てときに切実なものになると考えられる(坂下 2010)。
だが、先に述べたように、親たちにとって、子どもが亡くなった後も医療従事者との関係
を維持することは簡単ではないようだ。実際、患者が亡くなることで、患者家族と病院との
つながりは途絶えてしまうことが一般的である。
治療費の支払いなどの事務的な手続き以外
で、患者の死後に家族が病院に足を運ぶ機会はなかなかない。また、亡くなった子どものこ
とで話がしたいから、と病院を訪ねようと思っても、医療スタッフがいかに多忙であるかは
自身の経験からよく知るところであるし、なにより自分の訪問を医療者は歓迎してくれるの
だろうか、
という不安もあるに違いない。
いずれにせよ、子どもを亡くした親たちにとって、
死別後に医療従事者との関わりを持つことは、容易ならざるものとして経験されていると言
えよう。
しかし、近年、こうした現状を変えるような動きが生じつつある。それが、医療従事者に
よる「遺族ケア(bereavement/grief care)」と呼ばれる試みである。遺族ケアについての定ま
った定義はないが、ここではひとまず、
「重要な他者を喪失した人、あるいはこれから喪失
する人に対し、喪失から回復するための喪(悲哀)の過程を促進し、喪失により生じる様々
70
な問題を軽減するために行われる援助」(瀬藤・丸山 2004: 397)一般を、遺族ケアと呼ん
でおくことにしたい。この遺族ケアの担い手 1)のひとつとして、近年注目されているのが、
他ならぬ医療従事者である。
病院死の増大や死別体験者の心身状態に対する予防的責任の認識、
予期悲嘆への関与の重
要性などを背景(理由)に、現在、医療従事者による遺族ケアの必要性が盛んに指摘されて
おり、また、実際に患者家族を支援しようとする種々の試み 2)が医療現場で模索されている。
現在までのところ、そうした取り組みの中心になっているのはホスピス・緩和ケアであり、
一般病院(大半の人はここで亡くなる)での活動はほとんど行われていない。それでも、公
立病院で働く看護師を対象とした坂口らの大規模な調査が明らかにしているように、
一般病
院に勤める看護師の間では、遺族ケアへの関心は総じて高く、それに忚えるべく、遺族の支
援に向けた具体的な提言も行われている(坂口 2005)。また、予防医学的観点から、一般病
棟における遺族ケアの必要性を明示的に訴える主張も散見される(鈴木 2002)。全体的な潮
流として捉えるならば、医療従事者による遺族ケアは、着実に実施の方向に向かっていると
言えよう。
こうした動きは、
子どもを亡くした後に医療従事者と関わる機会を持ちたいと望む親たち
が尐なからず存在することを考えれば、歓迎すべきものであるかのように見える。しかし、
筆者にはそのように、
いわば<制度化>された形で医療従事者による患者家族への支援を進
める前に、
立ち止まって考えてみなければならない問題が数多く残されているように思われ
る。例えば、医療従事者と患者家族との実際の関わりはどのようなものであるのか、といっ
たことや、そもそも患者家族は本当に医療従事者によって「ケア」されるべき存在であり、
医療従事者は患者家族を「ケア」すべき存在なのか、といったことは、患者の死をめぐる医
療従事者と患者家族との関わりを論じるにあたって欠くことのできない基本的な問いであ
る。にもかかわらず、現状はというと、こうした問いが十分に吟味されているとは言い難い
状況にある。
こうしたことから本稿では、
小児病棟で勤務経験を持つ看護師への聞き取り調査に基づき、
患者の死をめぐる看護師の経験や患者家族との関わりの内実について検討する。
以下ではま
ず、調査の概要を確認した上で(第 2 節)、インタビューの結果について記述・分析を行う。
そこでは特に、今回の調査において中心的に語られた二つの主題――看護師の悲嘆(第 3
節)と患者家族との関わりの困難性(第 4 節)――を取り上げ、検討することにしたい。
2
聞き取り調査の概要
データの検討作業に入る前に、調査の概要と対象者のプロフィールについて簡単にまと
めておこう。今回、対象として選んだのは、重篤な患児が多く集まる小児病棟で働く(も
しくはかつて働いたことのある)看護師である。こうした対象を選定した理由は、筆者が
71
これまで小児医療(小児がん)をフィールドにしてきたということもあるが、加えて、患
者が亡くなるということが決して珍しくはない職場で働く経験を持っている看護師であれ
ば、患者の死や死別後の患者家族との関わりについて考える機会も多く、本研究のテーマ
についてより豊かな語りが得られるのではないかと考えたことと、もうひとつは、特に小
児の場合、治療場面(例えば、患児への付き添いや治療上の意志決定など)への家族の関
与の度合いが相対的に大きく、したがって、それだけ看護師と患者家族との関わりも密接
なものになりやすいと考えたからである。
調査対象者については、個人的なつてを頼りに何人か看護師の方を紹介してもらい、さら
にその方々から別のインタビュー候補者を紹介していただくという方法を用いた。今回はそ
うしてお話を伺った 6 名の看護師の語りをデータとして用いる。
聞き取りにあたっては、患者家族との関わりを中心に、調査対象者になるべく自由に語っ
てもらうように心がけた。全ての対象者に共通して聞いた質問事項は、「治療期間中、ター
ミナル期、患者の死後、それぞれの時期における患者家族との関わりとそれに対する思い、
患者の死をめぐる看護師としての心情や経験、医療従事者が患者家族(遺族)をケアするこ
とについての考え」であるが、これらもいつも同じ順序、同じ文言で聞いたわけではなく、
対象者の話の流れに忚じて質問のタイミングや表現の仕方を工夫した。
インタビューの内容は、対象者の了解を得て IC レコーダーに録音し、それを文字化して
「トランスクリプト」を作成した。以下で分析のための基礎資料として用いるのは、この「ト
ランスクリプト」である。
表1.調査対象者のプロフィール
調査日時
性別
年齢
勤務年数
A さん
2006 年 12 月
女性
20 代
約3年
小児血液科病棟→大学院
B さん
2006 年 12 月
女性
20 代
約4年
血液腫瘍科病棟(小児病院)→大学院
C さん
2009 年 10 月
男性
30 代
約 10 年
小児病棟→大学院→小児成人混合病棟
D さん
2009 年 10 月
女性
30 代
約6年
小児病棟→大学院→小児病棟
E さん
2010 年 01 月
女性
20 代
約6年
小児病棟→クリニック→成人病棟→NICU
F さん
2010 年 08 月
女性
20 代
約4年
小児内科病棟
3
勤務先(経歴)
もう一人の悲嘆者としての看護師
今回の調査では、患者の死をめぐる看護師自身の思いや体験について実に多くのことが
語られた。このことは、患者の死が看護師の経験において、きわめて重要な位置を占める
ものであるということを示唆している。しかし、医療従事者による遺族ケアの必要性を主
張する既存の議論においては、患者を亡くした家族の悲嘆にばかり目が向けられ、もう一
72
方の看護師が患者の死をどのように経験しているのか、ということについては、正面から
取り上げられることはあまりなかった。そこにはもしかすると、看護師は患者の死に「慣
れている」ため 3)、
「自らの感情に全くコストを払うことなく、患者を亡くした家族に対し
て感情的なサポートを提供することができるという考え方」
(Spencer 1994: 1142)があるの
かもしれない。だが、これも後述するように、患者の死をめぐる看護師の経験は、
「慣れる」
という一言で表すことができるような単純なものではなく、深い悲しみや喪失感、後悔と
いった複雑な感情をその内に含んでおり、それらはしばしば長期的かつ深刻な影響を看護
師に与えるものである。そしてこのことは、当然ながら、看護師と患者家族との関わりを
考える上でも非常に重要な意味を持つ。そこで本節では、患者の死をめぐる看護師の経験
の内実について詳しく検討していくことにしたい。
3.1 患者の死が「信じられない気持ち」
大切な人の死によって生じる感情的、認知的、身体的、行動的諸反忚を「悲嘆(grief)
」
と呼ぶが、患者の死によって悲嘆を経験するのは、何も患者の家族(近親者)ばかりでは
ない。患者が亡くなることによって、看護師もまた、それぞれの関わりに忚じた悲嘆を経
験する(土橋他 2004, Kaplan 2000, Papadatou 2000)
。とりわけ長期間にわたって関わってき
た患者や、プライマリー(一人の患者を入院から退院まで責任を持って受け持つ看護師)
として深く関わってきた患者の死は、看護師に大きな喪失感とショックを与える。
E:あの、ほんとに信じられなくて、なんか特に自分がこう、ずっと自分が目をかけてきた患
者さんが、どんどん悪くなって亡くなってしまうっていうのが、本当に亡くなってしまう
んだろうかっていう信じられない気持ちと、その、患者さん、自分の患者さんが亡くなる
っていう現実はあんまり受け止められないというか、そういう気持ちがあって、で、あの、
自分の患者さんじゃなくて、他の患者さんが亡くなるときは、あの、客観的にみれるので、
すごい冷静に対忚ができたりもするんですけど、その、自分の受け持ち患者さんになると、
すごい思い入れが強くなってしまうので、ちょっと受け止められるのが、受け止めるのに
ちょっと時間がかかったこともあります。
もちろん、全てがそうだというわけではない。ここで E さんが語っているように、例え
ば、自分の受け持ち以外の患者が亡くなるときは、
「客観的にみれるので、すごい冷静に対
忚ができたり」することもある。だが、プライマリーとして「ずっと自分が目をかけてき
た患者さんが、どんどん悪くなって亡くなって」しまった場合などは、「信じられない気持
ち」で、その事実を「受け止めるのに」時間がかかることも多い。
だが、それでも、看護師に患者の死を十分に悲しむ余裕はない。というのも、一人の患
者が亡くなれば、すぐにその空いたベッドに別の患者が運ばれてくるからである。そうし
て自分の悲嘆感情と向き合う余裕もないまま業務を続けているうちに、どこかで患者の死
73
に「慣れて」くる部分が出てくる。例えば A さんは、患者が亡くなる度に「一回一回」傷
つくのだが、次から次に入ってくる患者に対忚しているうちに、尐しずつ「傷つき慣れす
る」と語っている。同様のことは、次の C さんの言葉にも読み取ることができる。
C:亡くなった後に、もうそのすぐ数分後には、他の子どもとか家族と関わらなきゃいけな
いので、忘れようとしているわけじゃないけれども、やっぱりそのときにはそっちに集中
しているけど、やっぱり頭の中でちょっと忘れる時間ができていて、ふとしたことですご
い急に思い出したり悲しくなったりってことはあるんですけども、そういう毎日の繰り返
しで、だんだんだんだんちょっと薄れていくっていうのはありますね、結果論としては。
自分でどうにかしようと思っても、どうにもしようがないので。っていう繰り返しだった
と思います。
C さんの場合もやはり、患者が亡くなっても「そのすぐ数分後には、他の子どもとか家族
と関わらなきゃいけないので」、そちらに集中していると、「忘れようとしているわけじゃ
ないけれども」亡くなった患者やその家族への思いがだんだんと「薄れていく」のだとい
う 4)。それは、患者の治療がなにより優先される病院という場においては、ある意味で「ど
うにもしようがない」ことでなのかもしれない。どこかで気持ちを切り替えないと、目の
前の患者のケアに支障が出るかもしれないからだ。
だが、中には F さんのように、患者の死が「辛く」て耐えられなくなり、それが仕事を
辞める大きな要因のひとつになったと語る看護師もいる。
F:やっぱり関わってきた子どもがいなくなるっていうのも辛いし、その子どもを見て辛そう
にしているお母さんを見るのも辛いし、で、じゃあ今まで自分は何ができたんだろう、何
もしてないとか、そういうのも辛くて、なんか、何て言うんですかね、何とも言えない、
自分はじゃあ何をやってるんだろうみたいな、そういうことが結構あって、しばらく眠れ
なかったんですよね。
F さんが働き始めて 1 年目に仲の良かった患者が亡くなった。死後の処置は「たんたんと」
「業務的に」こなせた F さんだったが、その後しばらく眠れなくなってしまう。長く関わ
ってきた患児が亡くなってしまったことや、子どもを亡くして辛そうにしている親の姿を
みることが辛かったということもあるし、看護師として「自分は何ができたのか?」と自
問自筓したときに、
「何もしていない」という思いを抑えることができなかったからである。
その後、
「もうちょっとしたら慣れていくのかな」と思っていた F さんだったが、患者の
死に「全く慣れ」ることはなかった。結局、その「精神的なダメージが大きすぎて、これ
はちょっと続けられない」という気持ちが強くなり、F さんは 4 年余り続けた仕事からいっ
たん退くことを決意する 5)。
「そこをちゃんと関わっていくのも看護の一部」だということ
74
は理解しているが、
「気持ちを切り替えるのも時間がかかるし」、
「うまくできる自信」がど
うしても持てなかったのである。
3.2 悲しみは「自分でどうにかするしかない」
上の F さんのケースに端的に示されているように、幼い患者の死を経験することは、小
児病棟で働く看護師にとって、深刻な感情的負荷をもたらす出来事である。そこで看護師
たちが経験しているのは、広い意味での悲嘆感情に他ならない。死別の悲しみに対処する
方法は色々とあるだろうが、そのひとつは、感情を表出し、自らの思いについて他者と語
り合うというものである。聞き取り調査からも、患者の死に直面した看護師たちがそうし
た作業を必要としていることがみえてきたが、しかし、同時に明らかになったのは、病院
という場において、看護師が悲嘆感情を開示したり、患者の死に関わる事柄について語り
合ったりすることが決して簡単ではないということだ。そのことをまずは、D さんの事例を
手がかりにみていくことにしたい。
D:こんなことを言ってしまっていいのかっていうとあれなんですけど(笑)
、私は自分が新
人のときを思うと、私初めて患者さんを亡くした、自分がケアした患者さんが亡くなった
のは 5 月の連休中だったかな、5 月の 4 日とかそれぐらいだったんですけど、つい 2 日ぐら
い前まで自分も持たせていただいていた患者さんだったので、ほんとにショックなだけで、
もう「こうしてあげればよかった」とか、学びはそこから全くなくって、結局、今思うと 4
年ぐらい引きずったんですよね、その子の死を。
D さんはまだ新人だった頃に初めて受け持ち患者の死を経験している。その患者の死は D
さんにとって、「ほんとにショックなだけで」、そこから何かを学びとるということも全く
できなかった。結局 D さんは、その死を 4 年余り引きずることになってしまう。その理由
はもちろんひとつではないだろうが、聞き取りの結果から推察できるのは、D さんが死別体
験とそれに伴う感情や思いを周りの看護師たちと共有することがなかなかできなかったこ
とが、患者の死を長く引きずることになったことと大きく関係しているのではないかとい
うことだ。例えば D さんは、上の語りに続けてこう述べている。
D:で、その子は私のシフトでは亡くならなかったかな、前のシフトで亡くなって、病棟内、
病院内で焼香に行ってたので、そこでわんわん泣いて、なんかこう、わんわん泣いてても
声をかけてくれる人がいなくって、なんか唯一、ちょうど同じチームだった一個上の先輩
が「大丈夫?」って言ってくれたのが、唯一私に声をかけてくれたときで、すごいそれに
救われたっていうのが覚えていて。でも、あ、で、そのとき私思ったのは、
「自分の悲しい
のは自分でなんとかするしかないんだ、看護師は」って思っていて。
75
受け持っていた患児が亡くなった後、病棟内で行われた焼香に参加した D さんは、そこ
で「わんわん泣いて」いたのだが、そんな D さんに「大丈夫?」と言ってくれたのは、
「唯
一」同じチームだった先輩だけで、あとは誰も声をかけてくれなかった 6)。もちろんそれは
D さんに対する周囲の配慮からなされたことであったのかもしれない。しかし、D さんがそ
こで強く感じ取ったのは、看護師は「自分の悲しいのは自分でなんとかするしかないんだ」
ということだった。
その後 D さんは 6 年ほど働いた後にいったん仕事を離れて大学院に進むのだが、そこで
読んだ文献や参与観察に入った医療現場から、「話すことで看護師が癒されるだったり、や
っぱりでも上の人には言えないっていう思いがあったり」することを学ぶ。そして、
「自分
で決着をつけて苦しんでいる看護師の姿」を目の当たりにすることで、「初めて自分は異常
じゃない」ということを「納得」する。と同時に、病院には「看護師が、患者さんが亡く
なったことをケアする場」が尐ないことを痛感する。そうしたこともあって D さんは、大
学院を修了した後に入った病棟で、患者の死を経験した看護師たちをケアするためのデ
ス・カンファレンスを開催することになる。
D:自分たちの病棟で患者さんたちを看取ったっていうのがなかったのに、4 月にすぐ入って、
一人亡くなったんですね。ただ、患者、看護師たちの動揺っていうのが、私には目に映る、
というか分かって。特に 4 年目までの看護師は初めての死で、口に出してすらいいのか分
からないような状況があって。
(中略)やっぱり看護師ってこんだけ動揺するんだってこと
が分かって、私はそこでデス・カンファレンスを開こうと思って。
D さんが新たに勤務することになったのは非常に「安定した病棟」で、そこでは 4 年もの
間、患者が亡くなったことがなかった。ところが、D さんが入ってすぐに患者が一人亡くな
ってしまう。特に新人の看護師は、それまで病棟で患者の死を経験したことがないことも
あって、激しく「動揺」していた。そこで D さんが知り合いの看護学部の先生の協力を借
りてデス・カンファレスを開いたところ、「辛かったことを涙ながらに話してくれる後輩」
がいたり、看取りの場面で「家族にどういう声かけをしたらいいのか分から」ず、「それだ
けでやれなかった自分に戸惑って泣いて」いるスタッフもいたりして、患者の死が看護師
にとって「こんなにショックなことなんだ」ということを改めて実感するのである。
このように、D さんがデス・カンファレンスを開いたことで、看護師たちは患者の死につ
いて辛い胸の内を吐露したり、治療中の思い出を語り合ったりする機会を持てたのだが 7)、
逆に言えば、そうした機会がなければ、看護師たちは自らの感情や思いを抱え込んだまま
仕事を続けなければいけなかったかもしれないということである。では、なぜ看護師は患
者の死に伴う悲嘆をなかなか職場でオープンにすることができないのだろうか。次にこの
問題を、A さんと B さんのやり取り 8)から考えてみたい。
76
3.3 患者の死について話し合わない「文化」
A:なんかナース自体も、あんまりその、亡くなったことに関して悲しいとか、あんまり話
し合わない文化があって、なんか、やっぱ、それが蓄積するとどんどん辛くなるんですよ
ね(笑)
。やっぱ話すと、「もっとああしてあげた方がよかったね」とか、
「ああいうこと喜
んでたよね」とか、
「ああいうことはやってよかったよね」とか評価もできるし、次につな
がると思うけど、なんかそういうことをあんまり話さないし、そういう流れがあって。私
はできるだけ話したかったし、なんか、話してもよさそうな人を探し、なんかこう、いつ
もいるから、その人とは話してたけど、全体としてそういう感じじゃないし。
最初に取り上げたのは A さんの語りである。ここで A さんは、患者が亡くなった後の状
況について述べているのだが、それによると、患者が亡くなった後に看護師同士で話し合う
機会が持てれば、自分たちの行った看護の「評価」ができるし、
「次につながる」と思って
いたのだが、当時勤めていた病院では、患者の死について「あんまり話し合わない文化」や
「流れ」があったのだという。それはすなわち、患者の死を経験した看護師に対し、そのこ
とについて沈黙を強いるような力が働いていたということである。ただ、そうした中でも、
Aさん自身は「できるだけ話がしたかったし」、誰にも話すことができないまま消化しきれ
ない思いが積み重なっていくと「どんどん辛くな」ってしまうので、
「話してもよさそうな
人を探し」て話をしていたが、やはり病棟「全体として」はなかなか「そういう感じ」では
なかった。こうした A さんの発言を受けて、B さんも同様のことを語っている。
B:ほんとにこう、「この辺がよかったよね」とか、「この辺がもっとこうすればよかったよ
ね」とか、例えばその子の思い出話とか、やっぱりそういうことって、私たち自身、スタ
ッフ自身にとっても必要なことなのかな。私もほんとに、話せる人というか、を選んで話
したりとか、同じ体験をした人に話してみたりとか。でも、プライマリーになるともっと
それが、抱えてるものがやっぱりおっきくって、他の病棟ではそれが辛くて辞めちゃった
っていう人もいたりとか、やっぱり話せる状況じゃなかったらしくって。ただ、うちは血
液(科)だったので、なんかそういう体験も色々してるから、話せる人がまだいるところ
もあるのか、他の病棟ではそれができなかったていうのもあって辞めちゃったりとかして
て、うーん。
B さんもまた、「この辺がよかったよね」とか、「この辺がもっとこうすればよかったよ
ね」というように、亡くなった患児の「思い出話」をすることは、スタッフにとって「必
要なこと」だと考えている。しかし、B さんが勤めていた病棟でも、なかなか患者の死をオ
ープンに語り合えるような機会はなかったようで、そのためBさんも、「話せる人」や「同
じ体験をした人」を「選んで話」をしていた 9)。ただ、それでもBさんのところは、
「話せ
77
る人がまだいる」のでよかったが、他の病棟では全く「話せる状況」ではないところもあ
って、それが辛くて辞めていくスタッフもいたという。
このように、看護師が患者の死についてなかなか他のスタッフと話をしたり、感情を共
有したりすることが難しいのは、そうしたことをどこかで抑制するような「文化」や「流
れ」が病棟に存在しているからであるようだ。ただ、聞き取りの場面では、筆者にはこう
した(現場に身を置く看護師にとっては当たり前に了解されるような)「文化」や「流れ」
と呼ばれるものの存在が感覚的につかみづらかったこともあり、二人に対して、「それは、
なんか僕みたいに、その、外部にいる者からすると、どうして話せないのかなって思った
りもするんですけどね」とさらに疑問を提起したところ、まず A さんが、
「なんでだろうね」
と自問しつつ、次のようなことを語ってくれた。
A:なんかやっぱりこう、常になんか明るくしようとしてるんですよね、なんとなく。なん
かこう、そうじゃなくても、世の中からしたら可哀想な病棟じゃないですか(笑)、一般的
に見たら。でも、中に入ったら全然そんなことはないんですけど、っていうのはやっぱり、
こっちはなんか明るくしとかなあかんっていうか、っていう意識もあるし、なんかそうい
う、マイナスな悲しい話とかっていうのをあんまり好まないっていうか、できたらなんか、
面白いおちゃらけた話とか、そういう話をして、なんかこう場をしのぐみたいな、なんか、
あった、私のところは。
重症児が集まり、したがって亡くなる子どもも多い職場に勤務するAさんのような看護
師にとって、病院は常に「明るく」しておかないといけないような場所であった。そのた
め、例えば患者が亡くなってそのことに看護師がショックを受けていたとしても、
「マイナ
スな悲しい話とかっていうのをあんまり好まない」病棟という場においては、それをなか
なかオープンにすることができず、結局、「面白いおちゃらけた話」をして「場をしのぐ」
より他なかったと A さんは述懐している。それに同意しつつ、B さんも次のように言葉を
続けている。
B:職場では逆にそういう話はしないっていうか、なんか、逆にほんとに離れてとか、休憩
でもうこれから帰るだけのときとかはなんかそんな話ができるけど、やっぱり勤務で他に
も子どもがいるところでやっぱり悲しい顔とか辛い顔とか見せられないっていうのがあっ
て、私の中で。でも、もあるし、楽しく仕事をするってところでは、やっぱなんかそうい
う話をそこではできないっていうか、なんだろ、別にちゃんと場を設けて、例えば、勤務
前とかだったら話せるのかもしれないし、けど、どうなんだろ。
(・)なんで話してないん
だろ。みんな辛いよねって、こう、思ってるだけで、それでお終いみたいな。どこが良か
った、どこが悪かったっていうことをなんかこう振り返ろうとしないっていうか、振り返
りたくないのかもしれないんですけど。悲しいことを、もしかしたら。
78
B さんもまた、何か辛いことがあっても、尐なくとも勤務中は、他の患児に「悲しい顔と
か辛い顔とか」は見せられないという思いで仕事をしていた。ただ、それでも、休憩中や
仕事を終えて帰る間際の時間などには、患者の死について他のスタッフと話をすることは
できた。しかし、そこでは「みんな辛いよね」ということを確認するぐらいで、自分たち
の行った看護の良かった点、悪かった点を振り返るということはなかった。それは、振り
返ることで、患者の死という「悲しいこと」を思い出してしまうということに加え、
「やれ
てないことが多すぎて振り返るのが怖い」(A)という理由もある。もちろんターミナルケ
アの中には「いいこともあったはず」である。だが、先輩などと話をしていても、どうし
てもできなかったことに目が向きがちだった。そうして「これもできていない、あれもで
きていない」といった具合に「後悔ばかり」してしまうと、職場の雰囲気が「どよーんと
なっちゃいそう」で不安だったのである。
以上、A さんと B さんのやり取りから、看護師が患者の死後、それによって生じた感情
や気持ちを職場でオープンにすることが難しい現状とその理由についてみてきた。すなわ
ち、小児病棟では「マイナスな悲しい話」を抑制するような力が働いているために、そう
したカテゴリーに分類される<死>や<悲嘆>といったトピックについては、なかなか人
前で話題にすることができないのである。そのため、C さんが語るように、
「他の看護師の
ことが気にはなっていたが、聞くに聞けない感じで、自分からもあまり話ができ」ず、結
果として、明るく振る舞ってその場をやり過ごすか、どうしても話したいときは、話せそ
うな人(それは非常に限られている)を選んで話す他ないのである。
ただ、看護師が患者の死に伴う悲嘆感情を職場で表出することが難しいのは、こうした
ことだけが理由ではないようだ。
3.4 患者と「あまり深く関わってはいけない」
E さんもまた、患者の死について看護師間で話し合うことの効用(意義)について語って
くれた一人である。すなわち、
「些細なこと」であっても、亡くなった患者について話をす
ることで、その患者をより深く理解できるし、また、気持ちも整理できて、自分の看護を「客
観的に」みることができるようになる、というのがそれだ。しかし、だからといって、職場
で誰とでも気兼ねなく話ができるわけではないようだ。
E:あの、同期にだけ話す、よく話すんですけど、やっぱり同期も同じような思いを抱えてい
るので、同期にだけは話してました。その同期も、なんか、自分と同じような考えを持って
る同期に話すというか。
E さんが亡くなった患者について「自分の本当の気持ち」を率直に話せるのは、「信頼関
係のある同期」だけで、先輩や後輩には「本当に自分の思いを話していいのかどうかちょ
79
っと迷」ってしまうのだという。それは、患者の死に対する捉え方が違うために、自分の
思いや考えをちゃんと分かってもらえないのではないかと不安に感じるからだ。
E:なんか、私の偏見かもしれないんですけど、ベテランの、私が生まれる前からやっている
ような看護師さんっていうのは、その、死に対して慣れ過ぎてるというか、なんか、
「軽く考
えてるんじゃないの」ってときどき思っちゃうんですけど、すごい偏見だと思うんですけど、
なんか、確かに慣れてくると、あんまり悲しくなくなってくるし、なんか、
「あ、亡くなった
んだな」ってこう、さらっとした気持ちに変わってくと思うんですけど、そうじゃなくて、
なんか、その患者さんっていう、人との関わりとして考えると、すごい重みのあるものなの
で、その、患者さんとの人との関わりを、うんと、分かってくれるような人、人っていうの
が同期なんですけど、その人と、なんか、そうですね。
E さんはここで、
「私の偏見かもしれない」と断った上で、ベテランの看護師はどこか患
者の死に対して「慣れ過ぎてる」とか、
「軽く考えているんじゃないの」と思ってしまうこ
とがあるのだと述べている。もちろん、実際に年配の看護師が患者の死に慣れているのかど
うかは分からない。しかし、尐なくとも E さんの目には、先輩たちが患者の死を「さらっ
と」受け流しているように映った。だが、E さんにとって看護とは、あくまで「患者さんと
の人との関わり」である。ここで E さんが「人との関わり」と言っているのは、おそらく、
単なる「看護師-患者」という役割関係を超えたよりパーソナルな結びつきのことを指して
いると考えられる。だからこそ、E さんにとって患者の死は「すごい重みのあるもの」であ
り、それは決してさらっと受け流してしまえるようなものではない。そのため E さんが患
者の死後、自らの思いを率直に話せるのは、そうした「患者さんとの人との関わり」を分か
ってくれる同期だけなのである。
さらに、E さんはこれに続けて、患者との関わり方をめぐる周囲との認識のずれについて
もふれている。E さんが職場でよく耳にするのは、看護師は患者と「あんまり深く関わっち
ゃいけない」ということだった。だが、
「人との関わり」という E さんが目指す看護実践に
おいては、どうしても患者と深く関わらざるをえない側面がある。そのため、患者が亡くな
ると、その死について「深く考えこんじゃうこと」にもなるのだが、専門職者として患者と
一定の距離を置いた付き合いが求められる職場環境でそのようなことを口にすれば、
「プロ
としてどうなのか」と疑問の眼差しを向けられるかもしれない 10)。E さんが「自分と同じよ
うな考えを持ってる同期」だけにしか話せないと語る背景には、そうしたことへの危惧もあ
ったのである。
3.5 「悲しむ権利を剥奪された悲嘆者」としての看護師
以上、患者の死をめぐる看護師の経験の内実について記述してきたが、ここではその内
容を、医療従事者による遺族ケアの必要性を訴えるこれまでの議論と関連づけつつ、確認
80
していきたい。
医療従事者は患者を亡くした家族をケアすべきだ、との主張がなされる場合、そこでは
しばしば、
「遺族=ケアされるべき客体/医療従事者=ケアすべき主体」といった二項対立
的図式が半ば無自覚に前提とされているように思われる。さらにこの前提には、大切な人
を亡くしたことで深刻な打撃を受けている患者家族に対し、医療従事者は患者の死に慣れ
ていて、
(家族に比べれば)それほど影響も受けないのだから、後者が前者を支援するのは
当然である、との認識も含意されていると言える。しかし、ここまでの記述で明らかにな
ったように、看護師は決して患者の死に慣れているわけではなく、そのことで喪失感や後
悔を抱えており、それらはときに離職の原因にもなるほどに深刻なものである。それはす
なわち、看護師もまた、自らの悲嘆感情に対処するという困難な課題(それは一般に「悲
嘆作業(grief work)
」と呼ばれる)に取り組まなければならない「悲嘆者(griever)」だと
いうことである。ここにおいて、先の「遺族=ケアされるべき客体/医療従事者=ケアす
べき主体」という図式があまりに一面的であることは明らかだと思われるが、さらに調査
からみえてきたのは、病院という場所が、看護師たちの(共同での)悲嘆作業を困難にす
るような性格を有しているということである。
多くの論者が指摘するように、悲嘆作業は「骨の折れる仕事(hard work)
」である。喪失
感と正面から向き合い、大切な人の死を意味づけ、故人を自らの生に位置づけ直すために
は多くの時間とエネルギーを要する。だが、多忙な職場で働く看護師たちにとって、じっ
くりと悲嘆作業に取り組むことができるような時間や精神的ゆとりはない。M・スモールら
が指摘するように、誰かが亡くなっても、すぐに次の患者が空いたベッドに運ばれてくる
ため、悲しみに暮れている暇などないからである(Small et al. 1991)
。
また、悲嘆作業は決して死別体験者が内面で孤独に取り組むものではなく、周囲と共同
で執り行われるという側面を有する。しかし、前項で明らかになったように、小児病棟で
働く看護師は、患者の死をめぐる感情や思いを他の看護師と共有したり、語り合ったりし
たいと望んでいるにもかかわらず、そうすることが著しく困難な状況に置かれていた。看
護師たちの働く病棟という場において、悲しい雰囲気や「マイナス」な話題を好まない文
化や、患者に「深く関わる」ことを戒めるような認識が支配的だからである。そのため看
護師たちは、患者の死後、お互いにどのような感情を抱き、これまでの看護をどう意味づ
けているのかが分からないまま、一人悲しみを抱え込むか、もしくはごく尐数の同僚との
間でのみ気持ちの共有を行っている。
看護師たちの置かれたこうした状況を、K・ドカの「公認されない悲嘆(disenfranchised
grief)
」という概念を用いて説明することができよう(Doka 2002)
。ドカによれば、全ての
社会には悲嘆プロセスを枞づける規範が存在する。こうした「悲嘆規則(grieving rule)」は、
死別体験者がいかに行動すべきかだけでなく、どのように感じ、考えるべきか、人がどの
ような種類の喪失を、いかにして悲しむべきか、誰が正当に喪失を悲しむことができるの
か、他者は誰に、どのような手段を用いて共感と支援を与えることができるのか等々を決
81
定する。
西洋を含む多くの社会(日本もここに含まれると考えられる)の場合、こうした悲嘆規
則は悲しむ権利を「家族の死」に限定している。すなわち、誰かが亡くなると、その家族
は彼/彼女の死を悲しむことが許される(期待される)が、それ以外の人は悲しむことを
公的に認められず、社会的な妥当性も付与されない。つまり、その人は悲嘆を経験してい
るにもかかわらず、周りは彼/彼女が悲しむ権利を有しているとは認めないのである。そ
の結果、彼らは社会的な理解やサポートを要求できなかったり、休暇や社会的責務の軽減
といった保障を得られなかったりすることになる。
そして、看護師とはまさに、
「悲しむ権利を剥奪された悲嘆者(disenfranchised griever)
」
に他ならない(Kaplan 2000)
。既にみたように、病院ではネガティヴな事柄を極力排除しよ
うとするため、そこで働く看護師が死別の悲しみをオープンにすることは決して許されず、
常に冷静に振る舞うことが求められる。そのため、看護師は悲しみを覆い隠し、誰もいな
いところ(トイレや更衣室など)で泣かざるをえないのである(Brosche 2003, Gerow et al.
2010)
。
さて、ここまでみてきたように、看護師は患者の死に慣れているわけではなく、そのこ
とで深い喪失感やショックを経験する悲嘆者であった。しかし、
「公認されない悲嘆」を抱
えた看護師たちは、亡くなった患者について他の看護師と感情を共有したり、思いを語り
合ったりしたいという希望を叶えられないまま、非常に「個人化された(individualized)」
やり方で悲嘆作業に取り組まざるをえないような状況に置かれていた。そして、実はこれ
と同様のことが、看護師と患者家族との間にも見出せるのである。
4
看護師と遺族との相互的関係とその困難
小児がんは多くの場合、長期間にわたる入院治療を必要とする。患児には大抵、母親が
付き添って、身のまわりの世話をしたり、医療スタッフとのやりとりを行ったりする。そ
うした長い入院生活の中で、看護師と親とは必然的に深く関わらざるをえないような状況
に置かれる。一方には緊張をはらみつつも、共に患児の治癒を願いながら、同じ時間を病
棟という場で過ごす過程で、両者の間には、しばしば(親の側からは)「戦友」という言葉
で表現されるような特別な関係が結ばれていくことも尐なくない。
しかし、こうした看護師と患者家族との関係は、患児の死によって、「ぷっつりと」(A)
断ち切られてしまう。それまで毎日のように顔を合わせていた親の姿も、患者の死後に病
棟で見かけることは基本的になくなってしまう。しかし、だからといって、看護師たちは
患児の親たちのことを忘れてしまうわけではない。それどころか、B さんが語っているよう
に、看護師の多くは、
「帰った後どう思ってるとか、どういう生活を送ってるんだろうとか」
(B)いった具合に、親たちの<その後>をすごく気にかけている。だが、対象者が口を揃
82
えて語ったのは、そのように死別後の親のことが「気にはすごいなってる」(B)にも関わ
らず、
(自分たちの方から)関わりを持つことはとても難しいということだった。本節では、
そうした関係の継続の困難性も含め、患者が亡くなった後の看護師と家族の関わりについ
て記述することにしいたい。
4.1 故人との絆の継続
第 1 節で述べたように、筆者はこれまで行ってきた小児がん患者家族への聞き取りの中
で、
「子どもを亡くした後も医療従事者と関わる機会を持ちたい」という声を時折耳にした
のだが、そうした思いを遺族が抱いていることは、当の看護師たちも気がついているよう
だ。例えばそれは、C さんの次のようなケースに示されている。
C さんは以前自分も深く関わっていた患児が亡くなってから 3 年ほどの期間、その子の親
と交流を続けていたことがあった。その子が亡くなった日に親から呼ばれて、プライマリー
をしていた先輩の看護師と一緒にその自宅に行ったのがきっかけである。そこでCさんは、
亡くなった子どものことを知っている人と話がしたいという親の思いを知る。
C:えっとその、えっと、お宅に行ったお母さんが、やっぱり○○(子どもの名前)のことを
知ってる人と話したいっていうか、なんかやっぱりこの世に○○が生まれたことを知って
る人がそこの病院の看護師さんだけだから、やっぱりなんか、話すことで、この世に生ま
れてきたから、っていうことが実感できるし、っていうようなことは仰ってくれてたんで、
ああもうこれは是非みたいな感じにはなったんですけれど。
既述のように、乳幼児期に発症し、ほとんどの時間を病院で過ごしながら亡くなってい
た子どもの親にとって、医療スタッフは亡き子の思い出を共有することのできる貴重な存
在である。このとき、まさにこの親がそうであるが、医療スタッフと亡くなった子どもに
ついて話がしたい、そうすることで故人の「この世に生まれてきたこと」を実感したいと
強く願う者も出てくる。C さんもそういった思いを親から聞かされ、家族にとって「生きて
た頃のその子のことを話す相手っていうのが必要なのであれば」、「もうこれは是非みたい
な感じになった」という。
もちろん、C さんも別のところで語っているように、医療者と会うことで亡くなった子ど
ものことや辛い闘病生活を「思い出すから嫌だっていう意見」を持つ親もいる。だが他方
には、C さんが交流を続けていた親のように、「この子を知っている人との関わりがなくな
ったら、なんかこの子がね、この世にいたっていうのがなんか、消えちゃう」という感覚
を持ち、医療従事者との関係の継続を求める者も確かに存在する。そのことは、次の F さ
んの語りからも窺い知ることができる。
F:だからお母さんたちも、あの、ま、思い出したくないから話したくないって人もいるんで
83
すけど、そうやってスタッフと関わることで、自分の子どもを忘れないっていうか、自分
の子どもの存在、生きてきたことをこう、証じゃないですけど、そういう感じのお母さん
もきっといるんだなと思うので、やっぱりなんかこう、こっちから関わるの難しいんです
けど、なんかあの、
「どうしてる?」とか、声を聞きたがってるとか、手紙を欲しがってる
とか、そういうのがあれば、ちょっとこう関わりやすくなるのかなとか思ったりするんで
すよね。
かつて死別研究の領域では、故人との絆を切断することが悲嘆作業における必須の課題
とされてきた。しかし、最近では、故人との「絆の継続(continuing bond)」も正常な悲嘆
のあり方であるとの見方が定着しつつある(鷹田 2006)。故人との絆の継続方法は様々だ
が、そのための有力な方法のひとつが、故人を知る他者と故人について語り合うことであ
る(Walter 1996)
。こうした共同作業によって、故人は死別体験者各人の人生の「適切な場
所(appropriate place)
」へと位置づけられていくことになる。ここで患者を亡くした親たち
が行っているのも、まさに亡くなった子どもをよく知る医療者と思い出を語り合うことで、
「自分の子どもの存在」を、そして彼/彼女たちが「生きてきたこと」の「証」を確認す
る営みであると言えよう。
このように、患者を亡くした家族にとって、医療従事者との関わりを持つことは、その
悲嘆作業において重要な意味を有しているのだが、では逆に、医療従事者にとって患者の
死後に遺族と関わることにはどのような意味があるのだろうか。
4.2 「未完の仕事」と看護実践の振り返り
まず考えられるのは、医療従事者もまた、遺族と関わりを持つことによって、亡くなっ
た患者との絆を継続していることである。本研究の調査対象者からはそれほど明示的に語
られることはなかったものの、長く関わってきた患児のことを「忘れたくない」という思
いは、親ほど強くはないかもしれないが、看護師が患者の死後も家族と関わりを維持しよ
うとする際のひとつの重要な動機づけになっていると考えられる(渡辺 2003)。このこと
に加えて、もう一点指摘しておきたいのは、看護師にとって遺族との語り合いの場が、自
らの看護実践を振り返る契機になっているということである。
A:やっぱり自分がしたことは、親、お母さんとかお父さん、どう思ったんやろうとか、ど
う受け止めててとか、やっぱなんかすごい気になるし、やっぱそれを見越して、後々いい
ふうになってほしいと思ってターミナルとかもすごい関わったわけやから、それが結果ど
うやったかが分からないままなんですよね、ぷつっと切れてしまったから、うん。
前節でみたように、患者の死を経験した看護師の多くは、「自分は十分な看護ができたの
だろうか?」とか、
「自分の行ったケアを家族はどう思っているのだろうか?」といった後
84
悔の入り混じった思いを抱いている。しかし、ここで A さんが語っているように、患者家
族との関わりは、患者の死によって「ぷつっと切れてしま」うため、そうした思いは筓え
が与えられないまま、看護師の中に疑問として残り続けることになる。それは、評価が定
まっていない、そして、それゆえに終わっていないという意味では、一種の「未完の仕事
(unfinished work/business)
」であり、それに自分なりの区切り(決着)をつけることが、看
護師にとっての悲嘆作業になるとも言える。そのことをAさんは、ある患者のエピソード
と共に語っている。
当時高校生だったその患者は、移植の後遺症で皮膚が「ぼろぼろ」になっていた。ほと
んど寝たきりに近く、そのために背中の皮膚が弱くなっていて、尐し触るだけでも大出血
してしまうような状態だった。ある日その子がお風呂に入りたいと言った。A さんはせっか
く背中に膜ができてきたところだったので、入浴したら「多分出血するよ」と難色を示し
たが、どうしても入りたいと言うので、その子の母親と相談し、結局お風呂に入れること
にした。案の定、患者は背中から大出血を起こし、湯船は真っ赤に染まった。本人は「気
持ちいいい、気持ちいいい」と言っていたものの、A さんにとってそれは「すごいショック
な光景」だったし、
「血まみれのお湯に浸かって」いる息子の姿を目にするのは、母親にと
ってどんな気持ちなのだろうという不安もあった。その患者はそれから一週間もしないう
ちに亡くなってしまうのだが、A さんはあのとき入浴させたことを母親がどう思っているの
か、ずっと気がかりなままだった。その問いに筓えが出ないまま長い時間が経過したある
日、A さんはある「親の会」でその母親と再会し、言葉を交わす機会を持つ。
A:
「あんときお風呂に入れてよかった」って話してくれたときに、それでやっと自分の中で
整理がついたっていうか、ああよかった、やってよかったんやと思って。なんか、やっぱ
あれで若干、出血やっぱしたから、もしかしたら、寿命が尐しそれで、何時間の単位かも
しれへんけど短くなったかもしれへんけど、やってよかったなぁと、そのときにやっと思
えたし。
お風呂に入れたことは、なにより患者が望んでいたことだったし、母親にもきちんと相
談をして了解を得ていた。看護師として難しい判断だったが、患者も気持ちよさそうにし
ていて、その部分で多尐の「満足感」もあった。だが、それでも A さんには色々と「思い
残すところ」もあって、あのとき入浴させたことを親たちがどう思っているのかというこ
とは、患者が亡くなった後、常に「一番気にな」っていることだった。そうした中で A さ
んは、母親から「あんときお風呂に入れてよかった」と言ってもらえたことで、ずっと気
がかりだった思いに「やっと自分の中で整理」をつけることができ、初めて自信を持って
「やってよかった」と思えたのである。
このように、遺族と語り合うことは、看護師にとって、これまでの看護を振り返り、そ
れを自分なりに納得するための重要な機会となる。もちろん、ときには親たちが抱いてい
85
る「マイナスの思い」
(A)が看護師にぶつけられることもあるだろう。しかし、それでも
B さんが語るように、
「マイナス点が一体何なのかっていうのを知らないと、次に活かせな
い」し、
「全然前進していかない」という部分があることも事実である。確かに、親の言葉
にショックを受けることがあるかもしれないが、
「そこで話し合わないと、よくなっていか
ない」
(A)のである。
4.3 遺族との継続的な関わりの困難性
このように、看護師と遺族は、単純に前者が後者を支援するという一方向的な関係では
なく、いわば共同で悲嘆作業を執り行う「相互的関係(reciprocal relationship)」
(Gerow et al.
2010)にある。しかし、患者家族が死別後、医療従事者との関わりを持つことの難しさを
語っていたように、医療従事者もまた、患者を亡くした家族と継続的な関係を維持するこ
との困難性を感じているようだ。
その理由は様々にあるのだが、ひとつには、「個人情報」に対する近年の意識の高まりが
挙げられる。2005 年に法律
11)
が施行されて以来、個人情報の保護は厳格化の一途をたどっ
てきた。とりわけ医療機関では、本人やその近親者しか知りえないような情報や、第三者に
知られると当事者に多大な影響を及ぼすような情報を扱う場面が多いため、
個人情報の取り
扱いについては細心の注意が払われている。そのため、最近では特に、患者やその家族との
間で電話番号などの個人情報をやり取りすることに対する敶居が非常に高くなっている。
そ
うしたこともあって、患者の死後に看護師が家族とアクセスしようにも、連絡先すら分から
ないということも珍しくない。
ただ、患児の入院中に、
「あんまりよくないのかもしれない」と思いつつも、仲良くなっ
た家族と「個人的に」連絡先を交換する看護師もいる。だが、たとえ連絡先を知っていても、
看護師の側から遺族と関わりを持つのは簡単ではない。それは、上の個人情報の問題とも関
連するが、
仕事以外で患者や患者の家族と関わることをよしとしないような職業規範がある
からだ。例えば公立病院に勤めていた B さんは、
「公務員という立場なので、患者家族とプ
ライベートな関わりを持つことは、表立ってはしにくい部分がある」と語っている。また、
C さんは、最初に勤めた病院では「連絡を取り合うってことは結構普通にやったり、写真を
いっぱいとったりとかもやって」いたが、現在の病院では、
「プライベートで患者と会うの
はよくないという雰囲気をすごく感じる」と述べており、こうした「仕事は仕事」という規
範が、患児の死後の親との関わりを難しくしているひとつの要因であると言えよう。
さらに、
「親はそっとしておいてほしいのではないか」という思いも、看護師の遺族への
アプローチを躊躇させる要因となる。例えば、上で述べたように、C さんはある遺族との交
流を 3 年ほど続けていたが、
医療者の方から遺族に対してアプローチすることは簡単ではな
いと語り、その理由を次のように説明している。
C:なんかお母さんとか家族が、今どういう思いの中でいるのかが分からない中で、もしな
86
んかその、こちらと話すことで気が紛れるということを表明してくれていれば、いくらで
もなんかそれはいいんですけども、例えばちょっと今は、ま、忘れたいっていうか、忘れ
られるものじゃないと思うんですけども、なんかその、傷口に触れたくないというか、や
っぱり思い出してもっと悲しくなっちゃうから今は、っていうような段階にもしいたら、
それは失礼なことになっちゃうので、こちらからはなんかこう、呼びかけとか声かけとか
はしにくいっていうのはあったので、なかなかそういう、お会いする機会っていうのはな
かったと思いますね。
先述したように、故人を忘れたくないとの思いから、故人を知る医療者との語り合いを求
める親もいれば、逆に「思い出してもっと悲しくなっちゃうから今は」話をしたくないとい
う親ももちろんいるだろうし、一人の親の中でも、時期によっていずれかの思いが強くなっ
たり、弱くなったりするのが一般的だと思われる。このとき、例えば親の方から医療スタッ
フと「話すことで気が紛れるということを表明してくれ」れば、
「いくらでも」対忚できる。
だが、そうでない場合、今その親がどのような心理状況なのかを看護師が判断することはき
わめて難しい。したがって、もしも「傷口に触れたくない」と思っている親に対して、看護
師の方から「呼びかけ」や「声かけ」をしてしまえば、それは(たとえ善意に基づくもので
あっても)すごく「失礼なこと」だし、親を余計に苦しめてしまうことになりかねない。C
さんをはじめ、対象者の多くが遺族にアプローチすることへの躊躇いを口にする背景には、
そうした思いが横たわっているのである。
このように、遺族の側から医療従事者に対して、
「話がしたい」とか「会いたい」と言っ
てもらえれば、仮に病院で仕事以外での関わりを問題視するような雰囲気があったしても、
「行ってもいいかな」とか「行けるかな」というふうに、家族と会うことに前向きになる
ことができる。しかし、そうした明確な意思表示がなく、家族が「今どういう思いの中で
いるのかが分からない」ときには、
「あんまりいきすぎたらいけない」
(F)とブレーキがか
かって、看護師の側からはなかなか声がかけづらいというのが現状であるようだ。
このように、患者家族との関わりについて、どうしても受け身にならざるをえないよう
な中で、看護師が患者の死後、遺族と言葉を交わす貴重な機会になるのが、病棟への遺族
の訪問である。
F:あー、でもよくあるんですよね。うちの病棟でも、前亡くなられた(子どもの)お母さん
がいらっしゃったりすることはあるんで、そういうときは、結構なんかみんな、
「あー」み
たいな、「あー、どうですか、大丈夫ですか?」みたいな感じで、もう皆さん、で、「誰々
のお母さん来てるよ」って言って、スタッフ声かけ合って会いに行ったりとか、そういう
のはあるんですよ。
辛かった闘病生活を思い出してしまいそうで怖くて病棟には行けないという遺族も多い
87
と思われるが、F さんが勤めていた病院では、遺族が訪ねてくるのは「よくある」ことだっ
た。F さんによれば、そうした遺族の訪問は、看護師たちにとって「嬉しい」ことであり、
勤務しているスタッフがみんなで会いに行ったり、不在のスタッフには、
「元気そうだった
よ」と報告したりしていた。逆に「思い出したくない」という親については、その辛い気
持ちを十分に理解しつつも、「私たちの存在も全部辛い思い出になるんだなぁとか思うと、
ちょっと寂しい」と複雑な思いを吐露している。
このように、遺族と関わりたいと思いつつも、自分たちからはなかなかその一歩を踏み
出すことが難しい状況に置かれている看護師にとって、病棟への遺族の訪問は歓迎すべき
ものである。しかし、対象者の語りからは、そうしたことすらも決して容易ではないこと
が窺える。例えば、D さんが語るように、せっかく遺族が病棟に訪ねて来てくれても、そ
のとき誰が勤務しているのか分からないし、遺族の方も、自身の経験からスタッフたちが
多忙であることは「よーく」知っているので、長居することなく「遠慮」して帰っていく
こともある。また、看護師は異動が多い職種であるため、数年で人がどんどんいなくなっ
てしまい、遺族が久しぶりに病棟を訪れても、誰も知っているスタッフがおらず、「『ああ
もう子どものこと知ってる人いないのねぇ』みたいな感じで、すごい寂しがっていて、も
うあんまり病棟にも顔を出さなくなっていく」(C)こともあり、そうした部分での難しさ
もあるようだ。
4.4 看護師と遺族の相互的関係
以上、本節では看護師と遺族との関わりについて記述してきた。そこからみえてきたの
は、前者が後者に対して一方的に支援を提供するのではなく、そこでの関係から「価値の
ある何か(something of value)
」
(Gerow et al. 2010: 125)を受け取っているということ
だった。本研究の調査対象者にとってそれは、自らの看護実践を振り返る機会であったわ
けだが、治療中のケアに対して患者の家族から感謝の気持ちを伝えられて満足感や情緒的
安らぎを得たり、あるいは土橋らが指摘するように、遺族との関わりが「人としての成長
を実感」する契機になることもあるだろう(土橋他 2004: 109)。いずれにせよ、看護師と
遺族の関係は、
「ケアする/ケアされる」といった「一方向のサポート関係」(渡辺 2003)
ではなく、互いに支え合うような相互的関係であると言えよう。
しかし、同時に明らかになったのは、患者家族がそうであったように、看護師にとって
も、患者が亡くなった後に遺族と関わりを持つことが容易ではないということだ。とりわ
け、看護師の側から遺族にアプローチすることの難しさが語られた。その理由は、患者家
族との私的な関わりをよしとしない職業規範であったり、遺族の気持ちが分からないとい
う不安であったりした。また、本稿では詳しく検討することができなかったが、遺族との
関わりに対して看護師が感じる心理的負担感のようなものもあるだろう。
こうした状況に対し、だからこそ死別後の患者家族との関わりを遺族ケアという形で組
織的に行うことが必要なのだ、という主張がなされるかもしれない。確かに、そうするこ
88
とで医療従事者による遺族へのアクセスが容易になるという側面はあるだろう。だが、逆
にそれによって、遺族との関わりが困難になってしまうような局面も想定されうる。例え
ば、小児がんで子どもを亡くした親への看護師の思いについて調査した渡辺は、看護師が
遺族に対し、
「病院の一スタッフとしてではなく、一人の人間として」関わっていることを
明らかにしているが(渡辺 2003)
、医療従事者による遺族ケアが制度化された場合、その
ように看護師が「患者の存在を通して家族と同じ時間を共有した者の一人として」
(ibid. 54)
遺族と関わることが、かえって難しくなってしまうかもしれない。いずれにせよ、患者を
亡くした家族に対する医療従事者の支援的関わりをフォーマライズすることの「両面性」
については 12)、常に留意しておく必要があるだろう。
5
おわりに
ここまで本稿では、小児科で働く看護師への聞き取り調査の結果に基づき、患者の死を
めぐる看護師の経験について記述・分析してきた。その結果、看護師は患者が亡くなるこ
とで(ときに深刻な)悲嘆を経験していること、さらに、看護師はそうした悲嘆に対処す
るために他の看護師や患者家族との関わりを求めているが、にもかかわらず、それがいず
れも困難であることが明らかになった。
こうした知見は、現在、その必要性が叫ばれている医療従事者による遺族ケアという試
みについて、改めてその前提を問い直してみる必要があることを示唆している。遺族ケア
においては、医療従事者は、患者家族をケアする存在として位置づけられているが、既に
述べたように、そこには医療従事者もまた、患者の死に直面してショックや悲しみを経験
している悲嘆者であるとの視点が希薄である。医療従事者による遺族ケアの実施に向けた
具体的な体制作りに向かう前に、まずは、当の医療者が患者の死に伴う悲嘆にどのように
対処しているのかという問題について考える必要があるのではないか。
この点について本稿で明らかになったのは、看護師たちの悲嘆が病院という場において
は「公認されない悲嘆」になっており、そのために看護師たちが非常にプライベートで個
人化された仕方で悲嘆作業に取り組まざるをえないような状況に置かれているということ
である。しかし、看護師たちが共同で悲嘆作業に取り組むことを阻まれているのは、他の
看護師だけではなかった。看護師は患者の死後、遺族との間に継続的な関わりを持つこと
によって、自身の看護実践を振り返るという作業を行っていたが、そうした遺族との関わ
りも、様々な理由で困難なものとして経験されていた。
結局、問題は患者の死を経験した者たちが分断され、孤立した形で悲嘆作業に取り組む
ことを強いられていることにある。もちろん、悲嘆作業は常に共同で行われなければなら
ないわけではないが、同じ死を経験した者として感情を共有したり、故人について語り合
ったりしたいと思っても、それが著しく困難であるような現状があるとすれば、それにど
89
う対忚していくかを考えることが、まずはわれわれが取り組むべき課題であるのではない
だろうか。
[注]
1) 例えば坂口は、遺族ケアの「提供者」として、
「①遺族同士、②家族・親族・友人知
人、③医療関係者・宗教家・福祉関係者・学校関係者・葬儀業者など遺族に接する人々、
④精神科医やカウンセラーなどの専門家、⑤公共機関、⑥その他(傾聴ボランティア
など)
」を挙げている(坂口 2010)
。
2) 具体的には、手紙(カード)の送付、自宅訪問、追悼会、電話相談、個別カウンセリ
ング、葬儀参列、知識や情報の提供などである。
3) 社会学者の D・サドナウは、特に患者が頻繁に亡くなる病棟で働くスタッフにとって、
死は「日常的な日々の出来事」であり、その「発生には慣れている」としている(Sudonow
1967=1992: 61)
。
4) E さんも、
「なにせ現場は忙しくて、なかなかこう、どんどんどんどんと新しい患者
さんが来て、亡くなってくので、なんかその、薄らいでいっちゃう」と語っている。
5) F さんは当初から何年か働いて辞める予定でいたが、患者の死が「辛すぎる」という
のも「結構な割合で辞める原因になってい」ると語っている。
6) L・カプランによれば、看護師は患者を亡くした悲しみによる涙や感情を同僚から隠
せない場面も多々あるが、そのような事態が起きても、ほとんどは無視されてしまう
と述べている(Kaplan 2000)
。
7) また、D さんは友人が勤める病院での話として、そこでは患者が亡くなる度にデス・
カンファレンスを開くようになったところ、初めは「わーってみんな感情出して泣い
ているだけだった」のが、次第に「こういうこともやれたよね」とか、「じゃあ次のと
きはこうすればいいよね」といった具合に「前向きになってい」ったというエピソー
ドを語ってくれた。
8) A さんと B さんに関しては、二人同時に聞き取りを行っている。
9) 今回、初稿の段階で調査対象者に内容を確認してもらったが、B さんはここで取り上
げた語りや次頁の発言についてふれ、自分たちの行った看護の内容について「振り返
ることができるのは、仲の良い人や経験した先輩など、話せる相手とだけ話をした気
がします」とコメントをくださり、改めて「特定の相手とのみ」話をしていたことや、
「いつでも話すような環境ではなかった」ことを強調されている。
10) J・サウンダースと S・バレントによれば、患者の死を思って涙を流すことは、同僚
の看護師から、患者やその家族との「過度の関わり(overinvolvment)
」の証であり、
「専
門性にかける(unprofessional)
」と判断されるという(Saunders & Valente 1994)
。
11) 「個人情報の保護に関する法律」(2005 年 4 月 1 日施行)。
90
12) 本研究の調査対象者も、遺族ケアが「業務」や「仕事」になってしまうことへの不
安や違和感を表明しているが、この点については別の機会に詳しく検討することにし
たい。
[文献]
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91
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Walter, T, 1996, “A new model of grief: bereavement and biography,” Mortality, 1: 7-25.
92
6.未決の問いとしてのがん告知
―その後を生きる患者の語りから―
田代
1
志門
病院から在宅へ
「患者さんが病名、病状について真実を知っていることが大切だとわたくしたちは考え
ています」
。これは 2000 年代初頭に私が緩和ケア病棟(palliative care unit, PCU)のフィール
ドワークを行っていた際に出会った、ある PCU のパンフレットの一文である。いうまでも
なく、それはこの PCU への入棟に際しては「告知」が条件となる、ということを意味して
いる。
PCU の立ち上げに関わった医師は、インタビューのなかで、いまだに「言わない医療者
が多すぎる」現状においては、明確な方向性を示すことが大事だということを繰り返し語
った 1)。実際、告知を入棟の条件にしてしまうと、
「限られた強き尐数の人々」しか PCU に
入れないではないか、と他の医療者から批判されたこともあったという。しかしこの医師
にとって、告知の問題はどうしても譲れないものだった。というのも、そもそもこの PCU
の出発点は、1980 年代初頭に、告知の問題で悩んでいた医療スタッフがはじめた院内の勉
強会にあったからだ。だからこそ、告知の問題をクリアし、医療者と患者・家族との間に
隠し事のない関係を築くことは、この PCU の理念の中核にあった。
当時の私はこの話を聞いてひどく驚いた。というのも、欧米の文献を読む限りでは、緩
和ケアの提供に際して、病名・病状に関する正確な情報提供を行うことは当たり前の前提
とされていたし、厚生省の PCU 設置基準でも「告知が望ましい」とされていたからだ 2)。
フィールドワークを始めたばかりの私は、現場レベルでは、告知の問題が 2000 年代に至っ
ても未だに解決しておらず、ホスピス・緩和ケア関係者の中でさえ、相当な見解の不一致
があることをまったく知らなかったのである。しかし以上のような現実は、そうした私の
認識に修正を迫るものだった 3)。
ところが、その 3 年後に別の地域で在宅がん患者のインタビュー調査をはじめた私は、
今度は全く逆の形で再び告知の問題に出会うことになる。多くの患者は、むしろ医師から
の率直すぎる「告知」に対して、強い不満を感じていたからである。ある患者は「いきな
りあと 3 か月の命だっていわれた」
「3 か月どころか 3 年ももったけど」といい、乱暴な余
命告知への不満を示した。また別の患者は「もう転移しているので何をやっても無駄、と
突き放された」と治癒可能性に対する説明に傷つけられた体験を語った。これら患者の不
満は、
「告知しないことの問題」ではなく、むしろ「告知されることの問題」の存在を示唆
93
していたのである。
事実、近年の一般向けのがん治療や緩和ケアに関する書籍においても、日本におけるが
ん告知の問題がこれまでとは別の形で語られるようになっている。たとえば、腫瘍内科医
の佐々木常雄は「ここ 3、4 年、がんの患者さんが私のところに……来られる場合、前医に
『もう治療法はない。ホスピスなら紹介する。あと三ヶ月の命と思ってください』と言わ
れ、奈落に突き落とされ、涙ながらに相談に来るというケースが毎週のようにみられるよ
うになりました」と指摘している(佐々木 2009: 56)。また、ジャーナリストの坂井かをり
は、緩和ケア病棟への入院申し込み用紙をみると、医師が患者や家族に対して「
『余命告知』
をして、悲観的な現実を敢えてつきつけて」いる現状が透けてみえるという(坂井 2007:
37-38)
。これらの指摘は、私が在宅で出会ったがん患者たちの体験が必ずしも特殊なもので
はないことを示唆している。
そこで本稿では、日本におけるがん告知の歴史と現状を振り返った上で、著者の行った
在宅がん患者へのインタビュー調査の結果に基づき、現在、がん患者がどのようにがん告
知を経験しているのか、という点を明らかにし、今後検討すべき課題を指摘してみたい。
先に結論を述べておけば、本稿の検討からは、告知の場面だけではなく、告知後をどう生
きるか、というより広い視点からの援助の重要性が示されることになる。それではさっそ
く本論に入っていくことにしよう。
2 日本におけるがん告知
2.1 タブーとしての「癌」
いうまでもなく、1980 年代までの日本においては、そもそも、がんの診断や予後につい
て患者に伝えることは基本的にタブー視されていた(Long & Long 1982)。この傾向は、当
時行われたいくつかの質問紙調査からも確認できる。例えば、1980 年代初頭の全国の国立
療養所調査によれば、癌であることを「知っていた」患者の割合はわずか 5.4%であり、
「知
っていたと思われる」と合わせても 25.7% に過ぎない(松山 1985)
。また、同じ時期に静
岡で行われた大規模な意識調査においても、
「がんの末期患者にはっきりと病名を伝えるべ
き」という回筓は医師では 1.3%、一般人でも 2 割程度であった(大原ほか 1987)
。
このように、この時期の日本においては、医療者も患者も大多数は病名告知を受けてい
ないだけではなく、それが望ましいことだとも考えられていなかったのである。それゆえ、
ほとんどの患者に対して告知は行われておらず、別の病名が伝えられるのが常であった 4)。
さらにこの慣行は、当時の医師の間で広く流布していた「告知をすると患者はショックを
受け、自殺してしまう」といった逸話によって正当化されていた 5)。この点で、患者に真実
を告げることは、むしろ患者に危害を加えることだと捉えられていたのである。
94
2.2 告知マニュアルの登場
しかし以上の状況は、1990 年代以降、尐しずつ変化していくことになる。その一つのき
っかけは、1989 年に厚生省の研究班が出した「がん末期医療に関するケアのマニュアル 6)」
である。マニュアルは、末期医療全般についての具体的な方針を示したものだが、その中
で告知についても触れられている。具体的には、
(1)告知の目的がはっきりしていること、
(2)患者に受容能力があること、
(3)医師・患者・家族の間に十分な信頼関係があること、
(4)告知後の患者の身体面および精神面でのケアができること、という 4 つの条件を満た
す場合には告知を行うべきである、という方針がそれである。厚生省マニュアルは、それ
以前の告知は基本的にタブーであるという認識に比べ、一定の状況のもとで告知を認める
という点で、画期的なものであった。
しかしその一方で、このマニュアルは告知推進派のがん治療医たちからは、あまりにも
条件が厳しすぎ、現実的でないとの批判を受けることになる 7)。例えば、当時国立がんセン
ターで積極的に患者に告知を行っていた笹子三津留は、
「これは私がやっている告知のスタ
イルとは、立脚点がまったくちがいます。ですから告知とはこういうものだと思われては
困ります」
「これが一般的な告知のあり方というのであれば、このような条件を満たしてい
る患者さんなどほとんどいないことが問題です」として、厚生省マニュアルを強く批判し
ている(笹子 1992b: 98)
。
告知推進派の医師からすれば、とりわけ早期がんについては、一刻も早く説明し、治療
法を患者に選択してもらうべきものであり、告知に厳しい条件を設けるという発想自体が
受け入れ難いものであった。事実、1996 年になって、笹子の所属する国立がんセンターは、
厚生省マニュアルとは力点が全く異なる「国立がんセンターがん告知マニュアル 8)」を公表
している。がんセンターのマニュアルは、すべての患者に対する告知を前提として、むし
ろ「伝え方」と「告知後のフォロー」に力点をおいたものであった。この方針は、マニュ
アル冒頭にあるように、
「現在は特にがん専門病院では『告げるか、告げないか』を議論す
る段階ではもはやなく」
、むしろどのように告知するかを議論すべきである、との認識に基
づいていた。
いずれにせよ、以上の流れを受けて、1990 年代には全国各地のがん専門病院で告知率が
急激に上昇していくことになる 9)。たとえば、告知に積極的だった武田文和の在籍していた
埼玉県立がんセンターでは、1975 年に 10%以下だった病名告知率が 1989 年には 33%に上
昇し、1993 年に至っては 76%にまで上がっている(渡辺 1994)
。また、武蔵野赤十字病院
でも、1993 年に 27%だった病名告知率は、1997 年には 71%にまで上昇したという(Horikawa
et al. 2000)。このように、多くのがん専門病院は、90 年代のどこかで、「原則伝えない」か
ら「原則伝える」へと大きく舵をきったのである。
2.3
2000 年以降の変化
95
では、1990 年代にすでにがん告知の問題は解決されていたのだろうか。冒頭で確認した
ように、実は 2000 年以降も、この問題はすっきりとは片付いていなかった。まず指摘して
おかなければならないのが、以上の変化はあくまでもがん専門病院に限定されたものであ
り、一般病院との間に大きなギャップが存在していた(あるいは存在している)という点
である。
たとえば、1995 年に渡辺孝子が行った、埼玉県内のがん専門病院と一般病院におけるが
ん告知に関する比較調査の結果によれば、前者の告知率は 92%であるが、後者は 29%にす
ぎない 10)(渡辺 1998)
。実際、2001 年に一般の患者遺族対象に行われた調査によれば、
「医
師から本人および家族ともに告知を受けた」という遺族は 29.5%にすぎず、これはむしろ
渡辺の調査における一般病院での告知率に近い(平井ほか 2006)。これ以降、信頼に足る
全国規模の調査が存在しないため、現状は不明であるが、尐なくとも 2000 年前後には、3
割程度の患者しか実際には告知を受けていなかったことになる。冒頭で紹介した緩和ケア
病棟のエピソードの背景には、こうした問題があった。
ところがその一方で、2000 年代に入って、一般病院でも告知が一般化していくと共に、
その内容も変化していくことになる。この点に関連して、佐々木は、患者の知る権利の強
調と治療ガイドラインの普及に伴い、2000 年以降は「予後」にまで告知の対象が拡大して
いったことを指摘している(佐々木 2009)。その結果、現在では、有効な治療法がなく、
治癒が見込めないことや、具体的な余命予測といったものについても、率直に伝える医師
が増えているという。
しばしば指摘されるように、ホスピス・緩和ケアにおいては、むしろこの予後告知が重
要な役割を果たす(Christakis 1999=2006)。標準的な治療法がなく、余命が限られていると
いう認識こそが、治癒を目指したアプローチから症状緩和に力点を置いたアプローチへと
移行する鍵となると考えられているからである。しかしその一方で、予後告知は病名告知
以上にシビアな情報を患者・家族に伝えることになるため、専門家の間でも「余命に関す
る情報提供は未だにコンセンサスが得られていない」(藤森・内富編 2009: 17)。
事実、いくつかの予後告知についての調査結果も、この問題の難しさを示唆している。
日本における予後告知の実態調査はほとんどないが
11)
、患者側の開示希望に関しては、興
味深い調査結果がある。宮田裕章らが行った一般市民対象の意識調査によれば、病名に関
しては 8 割以上が完全開示を希望するが、「治癒の見込み」と「余命」については、即時の
完全開示を求めるのは全体の 3 割に過ぎないという(Miyata et al. 2004)
。すなわち、予後に
ついては、病名とは異なり、部分的な開示や段階的な開示を望む層が一定数存在している
のである。これは、2000 年以降、なし崩し的に予後告知が拡大している日本の現状におい
て、じつは患者側に一様の開示希望が存在しない可能性を示した点で、重要な知見を提供
している。
2.4 がん告知の現在
96
以上、ここまでの議論を整理しておこう。日本におけるがん告知、とりわけ病名告知は
90 年代以降、がん専門病院を中心に、
「原則伝えない」から「原則伝える」へ急激な変化を
見せた。しかし、この変化は一般病院にはすぐには及ばず、病院の性格によって告知に対
する認識には差があった。そのうえ、ホスピス・緩和ケアにとって重要な、予後告知につ
いては病名や病状についての告知とは区別されないまま、2000 年以降に拡大していった 12)。
しかし信頼できる全国的な調査はなく、現状は明らかではない。
ではこのような状況のもとで、現在、がん患者はどのように「告知」を受け止めている
のだろうか。次節からは、私の行った在宅のがん患者でのインタビュー調査のデータに依
拠しながら、患者の視点からがん告知の現在に迫ってみたい。そのうえで、病名や予後が
ありのままに伝えられるようになった現在において、改めて医療者に何が求められている
のかを検討することにしよう。
3 在宅がん患者の告知体験の語り
3.1 再びフィールドへ
先述したように、緩和ケア病棟でのフィールドワークを終えた後、私は 2006 年から在宅
緩和ケアを専門とする診療所の協力を得て、在宅がん患者へのインタビュー調査に取り組
むようになった。当時在宅緩和ケアを提供されている患者や家族に対する詳細なインタビ
ュー調査はほとんど行われておらず、この領域のデータは主に緩和ケア病棟からのものだ
った。そこで私は、病気になってからの経緯を詳細に語ってもらうなかで、在宅緩和ケア
に伴う困難についての論点を引き出そうと考えていたのである
13)
。しかし、何人かの患者
から返ってきたのは、在宅移行後のことではなく、それ以前に病院で受けてきた医療への
不満であり、なかでも予後告知にまつわるネガティブな体験談がその中心を占めていた。
そこで以下では、告知についてそれぞれ異なるタイプの語りが含まれている 3 人の患者
のケースをとりあげ、予後を含めた告知が積極的に行われている現状において、患者側が
いかにそれを受け止めているのかを検討していくことにしよう。
3.2
A さんのケース
はじめに、告知プロセスに対する強い不満を示す語りの典型例として、A さんのケースを
とりあげたい。先述したように、他の患者も多かれ尐なかれ告知のショックとそれにまつ
わる医療者への不満を語っているものの、その激しさにおいて、A さんは際立っている。
A さんは 50 代男性で、妻と子供 2 人の 4 人家族である。職場の健康診断で肺のレントゲ
ンをとり、異常なしとされていたが、1 年後に膝が痛みだし近隣の病院を受診した。そこで
しばらく治療を継続したものの、いっこうに回復せず、大学病院を受診したところ、肺が
んが進行し、膝の頸骨へ転移したものと診断される。その後、がんセンターにて有効な治
97
療法がないと伝えられるが、症状緩和のために外来放射線治療を継続。現在は在宅緩和ケ
アに移行したが、以上のような経緯もあり、病院でこれまで受けてきた医療に対して強い
不信感を抱いている。
A さんによれば、最初の病院では十分な診察無しに、
「膝に水がたまっている」といわれ、
しばらくその治療が続けられたという。それゆえ、A さんはこの医師がもう尐し丁寧に診察
していれば、もっと早い段階でがんが見つかっていたのではないかと疑っている。また、
この医師から紹介された大学病院では、最初にかかった整形外科の医師に「膝を切断する
必要がある」と突然言われ、その後、今度は呼吸器の医師に、「がんの転移であり切断して
も無駄である」と言われたという。
A さんは大学病院の対忚について、診療科をいくつも転々
とさせられたこと、医師によって言うことが全く違うことに対して怒りを隠さない。
なかでも、A さんが繰り返し語るのが、大学病院で病状の説明を受けた時に、治療法がな
く、余命も限られていることを、横柄な態度で告げられた、というエピソードである。
A:私の場合、薬を使っても、これから入院しても、手術しても、やはり無理だと。そうい
う治療が無効であるという内容だったんです。その言い方一つにしてもね、
「何やっても
駄目なんですよ」という調子で言う場合の医師もいました。でも言葉ですから、もう尐
し修飾語をつけて、話し方もいろいろとあるじゃないですか。
私としては、人間誰しも、そういうふうに言われればがっかりするのは当たり前だと
思うんですけれど。私の家族も、それから私の兄弟も、みんな憤慨していました。その
医師の名前は忘れてしまいましたけれどもね。
A さんは、あらかじめ医師に対してすべて詳細に説明してほしいという旨を伝えており、
その意味で、
「積極的な治療法がない」という情報を伝えられたこと自体を問題にしている
わけではない。むしろ A さんやその家族が「憤慨」しているのは、病院の医師がその情報
を提供した際の「言い方」や「調子」である。おそらく A さんにとっては、
「無理」
「無効」
「駄目」といった医師の言葉が、自分の存在そのものを否定しているように受け取られた
に違いない 14)。しかも、その説明は「今後は面倒を見られないから他の病院へ行ってくれ」
という説明と結び付いているのである。
このように、これまで病院で出会った医師に対して強い不信感を持っている A さんであ
るが、その一方で、現在世話になっている在宅医への信頼は厚い。ではその違いはどこに
あるのだろうか。A さんはこの点について、次のように述べている。
A:治療されていることに関しては、はっきり言うと大差ないと思うんです。例えば、出し
ていただける処方せんですとか、そういうものに関してはおそらくそんなに変わらない
と思うんです。
ただそのことに至るまで、いろいろと親身になって説明していただけるとか。はっき
98
り言うと、以前のところは、結局こういう病気であれば、こういう薬を出すしかない、
ということで、ぽんぽんと事務的にやられたようなことが、ものすごくあったものです
から。
A さんの考えでは、現在の医師も以前の医師も、医療技術に関しては「大差ない」。しか
し、今の医師は「いろいろと親身になって説明してくれる」のに対し、それ以前は「ぽん
ぽんと事務的に」扱われた。たとえ腕に差がなくとも、現在の医師は「最初から経緯を色々
と聞いて」もらい、
「精神的なこと」についてもサポートしてもらっているため、信頼でき
ると感じているのだという。これはまさに、先に A さんが問題にしていた「言い方」や「調
子」に対して、在宅の医師がどれほど心を配っているかを示すものである。
逆にいえば、ここで示されているのは、一部の医師がかなり乱暴な形で予後を含めた情
報提供を行っており、その場合、そもそもその医師には告知が患者・家族に深刻な影響を
与えるという認識が欠けている、という可能性である。こうした現状を改善するためには、
現在進められているような、
「悪い知らせをどう伝えるか」についての医師のコミュニュケ
ーション技術を向上させる取り組みも一定程度有用であろう
15)
。尐なくとも、こうした研
修を受けることで、医師がより慎重な態度で告知の場に臨むようになることは期待できる
からである。
ただしその一方で、告知に対する患者側の不満は、必ずしも A さんのように明示的に語
られるとは限らない。その場合は、医師の側の問題だけではなく、より微妙な医師と患者
との意識のズレが問題になってくる。そこでこの問題を理解するために、次に B さんの事
例を見てみよう。
3.3 B さんのケース
B さんは、70 代女性で、インタビュー当時は夫と 2 人暮しであり、子供はすでに独立し
ている。集団検診で胃がんが見つかり、胃の全摘手術を受けた後、仕事を辞め、趣味の活
動等に没頭していたが、1 年半後に末期の多発性骨髄腫との診断を受けた。病院の医師から
は「抗がん剤をしても 2 年」なので、するかしないか決めるように、と告げられ、最終的
に抗がん剤治療を断念し、在宅緩和ケアを選択したという経緯がある 16)。
B さんがインタビューの中で繰り返し語ったのが、多発性骨髄腫の診断を受けた際のエピ
ソードである。B さんは、その際、身体中の骨にがんが転移している画像を見せられ「倒れ
そうになる」という経験をする。すると突然そこに主治医とは別に内科の医師がやってき
て、
「普通であれば、このぐらいのがんがある場合は激痛が走る」と言われた、という。以
下のやりとりは、二度目のインタビューで再度このエピソードが語られた時のものである
(I はインタビュアーを指す)
。
B:
「B さん、このぐらいにね、がんだったら普通の人は、激痛が走るんですよ」って言う。
99
そのとき内科の先生も、なんかね、来たんです。私の顔を、体をじっと見ていたんです
よね。
I:あ、その主治医の先生と別に。
B:別人。内科の先生、内科だから。
I:ええ。
B:たぶん、ね。どういう患者だろうと思って見に来たんじゃないですか?
実は B さんが初回のインタビューでこのエピソードを語ったときも、医師を責めるよう
なニュアンスが感じられたのだが、インタビュアーにはその意図がすぐには理解できなか
った。その後上記のやりとりがあって、はじめて B さんの意図が理解できたのである。つ
まり B さんはここで、診断の際に、わざわざ主治医ではない内科の先生が呼ばれ、じろじ
ろと見られたことで、
「普通ではない症例」として見世物にされたような印象を受けた、と
いうことを伝えたかったのである。B さんは、上記のエピソードを繰り返すことによって、
医師側の対忚に配慮がかけていたのではないか、ということを暗示的に述べている。
もちろん、この場合、B さんの主治医にとっては、全くそのような意図はなく、むしろ慎
重を期すために、別の専門家に相談しただけなのかもしれない。事実、B さんは告知のショ
ックについては語るものの、主治医の伝え方それ自体を批判しているわけではない。しか
し B さんの語りが興味深いのは、それが、たとえ医療者の側に何ら落ち度がなかったとし
ても、告知をめぐるコミュニュケーションは患者を深く傷つけてしまう可能性がある、と
いうことを示唆している点にある。
これに関連して、がん患者の心理療法に取り組む医師の岸本寛史は、深刻な情報が伝え
られる場面において、がん患者の感覚は鋭敏になり、医療者の意図を超えた意味を受け取
ってしまうことを指摘している。その場合、
「治療者の話す言葉が、治療者の意図を超えて
一人歩きする、あるいは Sassure の用語を借りれば、シニフィアンはシニフィエから遊離し
て一人歩きを始める」のだという(岸本 1999: 66)
。これは先の A さんの事例でもあてはま
る。
「駄目」
「無効」といった言葉は、直接的には A さんではなく、あくまでも治療法を形
容する言葉として医師は使用しているが、A さんは必ずしもそのようには受け取っていない。
むしろ、有効な治療法が無くなった自分自身を否定する言葉のように受け取っている。同
様に、B さんにとっての「普通の人は、激痛が走る」という主治医の言葉も、医師の意図と
は別の意味で B さんには理解されている。すなわち、私は「普通」ではなく、何か異常な
患者なのだ、というように。
以上のように考えてくると、確かに A さんの事例に見られるような無神経な医師の言葉
は問題があるものの、その一方で、そうした態度を改めれば問題が解決するともいえない
ことがわかってくる。とりわけ余命や治癒の可能性など、患者の死に直結する情報を提供
する場合には、医師の意図通りに言葉が伝わるとは限らない。良くも悪くも、患者は自分
なりの意味世界の中でそれらの言葉を理解していく。加えて、そもそもどのように伝えた
100
としても、告知のショック自体は避けることはできない。だとすれば、医療者は告知の場
面でどのように患者と関わっていけばよいのだろうか。
そこでこの点を検討するために、告知後のショックとの関連で具体的な医療者からの援
助について語っている C さんの事例を最後にとりあげてみたい。
3.4 C さんのケース
C さんは、70 代男性であり、妻と長男・長女と同居、次男はすでに独立して別居してい
る。突然血尿が出て病院に行ったところ、前立腺がんが見つかるが、特に治療の必要がな
いということになり、いったん自宅待機となる。しかしその 1 年後、突然体が動かなくな
り、病院に行ったところ、肺がんが見つかりすぐに大学病院へ運ばれる。大学病院では、
化学療法をいくつか試すが奏効せず、在宅緩和ケアに移行し、現在に至っている。
C さんは、A さんや B さんとは異なり、これまで病院で受けた治療には概ね満足してお
り、それに対する不満はない。特に看護師とは病棟でよい関係を築き、それなりに入院生
活を楽しんできたという自負もある。しかし、その中でも二回目の肺がんの告知のときに
は大きなショックを受けており、それが病気の過程のなかで、「もっともつらかった」体験
であると感じている。
C:うーん。だってショックっていうかね。やっぱり来るもの来たかっていう感じでね。死
刑宣告みたいなもんじゃないの。やっぱり「おまえは死刑だ」っていわれるようなもん
でしょう。
C さんにとって、二度目の告知は「死刑宣告」に等しいものであり、そこから立ち直るに
はかなりの時間を要した。では、そのプロセスにおいて C さんを支えたものは何だったの
だろうか。この問いに対して、C さんは家族とともに、ある看護師の存在を挙げている。
C:やっぱり家族だね。家族とね、やっぱり私とせがれの二人もね、副師長さんだったんで
すよ。
婦長さんのすぐ下の人ね。その人が何でも相談に乗ってくれたりね。すごい話してね。
私がね、「先生に任せてあっから」っていっても、「駄目なんだよ、先生に任せても」っ
て。いろいろ教えてもらったけど、うんと支えになったね。
とりわけ、C さんが、この看護師からの具体的な「支え」として強調したのは、次のよう
なエピソードである。C さんの退院の前日に、この看護師が「おみやげ」を渡すと言って、
消灯時間の 9 時過ぎに病室に現れた。看護師は、
「遅くなってごめんね」と言い、
「これ渡
すから守ってね」と退院後に自宅で守るべきことをリストにしたものを持ってきてくれた。
C さんによれば、そこに書かれていた内容は、要約すれば、
「長く家で生活できるように、
101
薬のことを守ってください、約束しましょう」ということだったという。C さんはインタビ
ュアーに、部屋に貼ってある紙を指さして、「あれがそのリストなんだ」と教えてくれた。
退院してからずいぶん日はたっていたが、この看護師からの「おみやげ」は未だに C さん
の生活にとって一つの「支え」となっていたのである。
このように、C さんの体験からは、告知後のショックが不可避であるとしても、医療者の
適切な「支え」によってそれが和らげられる場合があることがわかる。しかも興味深いの
は、その「支え」の中身は、看護師が退院前夜に退院後の生活上のルールをまとめたリス
トを「おみやげ」として渡す、という、いわば日常的な「気遣い」とでも呼ぶべきもので
あったという点である。加えて、C さんの事例は、医療者と信頼できる関係が築けていると
いう点でも、A さんや B さんの事例とは対照的である。おそらく、A さんや B さんにとっ
て、C さんにとっての看護師にあたる存在と病院において出会えていれば、現時点での入院
生活の評価も随分と違っていただろう。また、C さんの語りには医師だけではなく看護師が
頻繁に登場する点も、A さんや B さんとは異なっている。単純化できないものの、ここか
らは、告知の問題が医師と患者の二者関係に閉じてしまうことの弊害も推察される。
以上ここまで、3 人の在宅がん患者のケースを検討しつつ、がん告知、とりわけ予後告知
を患者がどう体験しているかを見てきた。そこからは、医療者の伝え方や態度のどのよう
な点に患者が不満を抱いているのか、またどのようなことが助けとなるかについて、個別
の事例に即して確認することができた。そこで次に、以上の 3 ケースを総合的に検討する
ことを通じて、予後を含めた告知が広く行われるようになった時代における告知後のケア
についてさらに考察を深めていくことにしたい。
4 告知後のケアを考える
4.1 伝え方の問題
いうまでもなく、まず言えることは、A さんのケースに見られるような、配慮のない伝え
方の問題性である。とりわけこれは予後告知が広く行われるようになった現在だからこそ、
改めて考えられなければならない。この点について、A さんは別の箇所で以下のように述べ
ている。
A:去年の末に、まあ何と言いますかね。言葉的に余命半年とかというふうに宣言されたわ
けですよね。ですけども、現在生きているんですけども、まだ。そういう言葉は、いろ
いろ言葉の「あや」ですから、そういうことは気にしないでということは、当然在宅の
先生から言われていますけどもね、その辺はもう。だからまあ、余命半年と言われても
ね、元気な人もいるしね。それはあくまで統計的なものですから。
102
先述したように、A さんは医師に対して、「すべてを知りたい」と伝えていたものの、余
命や治癒が不可能であることについて、これほど乱暴に伝えられるとは予期していなかっ
た。第 2 節で紹介した宮田らの調査結果が示唆するように、患者はとりわけ予後に関して
は、即時にあらゆる内容を開示することを求めているとは限らない。それにもかかわらず、
医療現場では、
「情報を求めている」という意思表示をいったん行うと、
「伝え方を問わず、
即時に開示せよ」という意味で受け取られかねないのである。この点で、医師側には病名
告知とは次元の違う問題として予後告知に臨む必要がある。くわえて、病名であれ、予後
であれ、告知が患者と家族の人生を大きく別の方向へ動かしていく情報提供を伴っている
以上、そのプロセスに対しては相当な注意が払われるべきである
17)
。告知後の在宅療養生
活が、主として告知の傷を癒す過程でしかない、という現状があるとすれば、それは患者・
家族はもとより、医療者側にとっても不幸なことではないだろうか。
4.2 伝え方を越えて
ただしその一方で、告知の問題は医師の側の「伝え方」のスキルを向上させれば解決さ
れるという問題でもない、という点も同時に強調しておかなければならない。というのも、
本稿で取り上げた事例に見られるように、実は患者の告知に対する不満の多くは、告知の
場面での医師の「言い方」に限定されないからである。たとえば、A さんの不満の一部は確
かに告知の際の医師の言葉にあるが、そこで問題にしているのは「何をどう言われたか」
ということよりも、むしろ医療者の側の全般的な「態度」といったほうが適切である 18)。
「ぽ
んぽんと事務的にやられた」という指摘は、むしろ医師との間の全般的なやり取りへの不
満を示している。また、B さんの場合であれば、そこで語られていたのは、主治医以外の医
師を呼んで目の前でデータを見せるという医師の側の「振る舞い」の問題であった。これ
もまた、仮にこの医師が「悪い知らせの伝え方」に習熟したとしても、解決しえない可能
性が高い。
逆にいえば、告知後のケアも、必ずしも告知の場面に直接関係した働きかけだけが有効
だとも限らない。この点で示唆的なのは、医療者のフォローが「うんと支えになった」と
いう C さんのケースである。そこであげられた「支え」は、むしろ退院後も C さんが自宅
で過ごせるような配慮を、具体的な形として提示したものだった。いうまでもなく、これ
は必ずしも C さんの告知後のフォローとして行われたものではない。にもかかわらず、C
さんは、このエピソードを告知のショックを和らげた「支え」として語ったのである。こ
れは告知後のフォローが、診断の前後を含む、患者の生の流れ全体のなかで位置付けられ
なければならない、ということを示している。
4.3 生きるためのがん告知
以上見てきたように、患者の生の流れの中で告知後のケアを考えることは、とりわけ予
後告知の場合には重要になってくる。ここであらためて、一般的な病名告知と予後告知と
103
を比較してみると、前者はあくまでもその後にくるのが治療法の選択であるのに対し、後
者は必ずしもそうではないという特徴があることに気づかされる。病名告知の後の選択肢
は医療的な枞の中に収まることも多いが、予後告知の後に来るのは、むしろ死にゆく過程
をどう生きるか、という基本的に医療の枞を超えた問題である。だからこそ、C さんの事例
が示すように、医療者のサポートは、これからどう生きるのか、という課題に向けられて
いる場合に「支え」となる。だとすれば、がん告知の問題には、告知の場面だけにターゲ
ットを絞ったのでは明らかに解決しえない部分が残る。
この点について、日本でも、早くから告知後のケアのあり方について具体的な提言を行
ってきた看護師の季羽倭文子は、以下のような指摘をしている 19)。
診断名を伝えるという意味でのがん告知は、“一回だけの場面”のような印象を受ける。
もしかすると、告知をする立場の医師にとってはそうかもしれない。しかし告知を受けた
側にとっては、それは新しい(苦しい)生活のはじまりなのである。……告知は終点では
なく、長く紆余曲折のある道のりの出発点である。
(季羽 1993: 12)
この指摘は主に病名告知を念頭においてなされたものであるが、予後告知の場合、いっ
そうその意味は先鋭化する。ここまで繰り返し述べて来たように、A さんのように病院の医
師からの予後告知に患者の多くが深く傷つけられるのは、それがまさに「見捨てる」メッ
セージと連動しているからである。現在、大学病院やがん専門病院の医師が積極的な治療
法が無いことを患者に告げるということは、
「もう面倒は見られないからどこか別のところ
に行ってください」ということを意味している。それはたとえ実際には言葉に出さなかっ
たとしても、メタ・メッセージとして伝わってしまう。だからこそ、予後告知は慎重に行
われなければならないし、それが「見捨てる」というメッセージとは連動しないような配
慮こそが求められる。
しかし、現在の予後告知のあり方は、「出発点」ではなく、いわば「終着点」として告知
を捉えてしまっている。この点で、神経難病という異なる文脈ではあるが、社会学者の立
石真也が「告知の問題は告知の問題で完結することはないし、完結させてはならない」と
述べているのは正しい(立石 2004: 142)。患者にとって重要なのは、告知後をどのように
生きるかであり、告知の場面はその一要素にすぎない。この点で、医療者に求められてい
るのは、その場を凌ぐための「スキル」ではなく、患者のその後の生に対する具体的な配
慮なのである。
5 がん告知と生の固有性
以上ここまで、がん告知の問題が日本においてこれまでどのように語られてきたのか、
104
さらに、現在患者はがん告知をどのように受け止めているのかを事例に即して検討してき
た。もちろん、本稿で示した事例から得られた知見を直ちに一般化することはできないが、
尐なくとも、告知を受けた後の患者の生をどう支えるのか、という問いを抜きにして告知
の問題を「解決」してしまうことには問題がある、ということは確認できたのではないだ
ろうか。
結局のところ、予後告知の問題について前提とすべきなのは、標準的な治療法がなくな
ったとき、各々の価値観に忚じて患者の選好は多様であり、そこでは個別的なアプローチ
が求められる、というある意味では当たり前のことである。実際、この点に関連して、予
後告知に関する先行研究をレビューしたイニスらは、以下のように述べている。
〔予後情報についての〕患者の希望が多様であることを踏まえれば、予後について話し
あうさい、極めて個別的なアプローチが必要である、という点について一般的な合意が存
在していることは、驚くべきことではない。患者は、自身の情報へのニーズが個別的に評
価され、決定されていると知ることは心強い、と明確に述べている。
(Innes & Payne 2009: 32)
予後告知の場合、病名告知とは異なり医療者に提供できる選択肢は尐なく、その先には
誰しもが体験したことのない死と死にゆくプロセスが控えている。だからこそ、きわめて
個別的なアプローチが必要となる。本稿で紹介した C さんに対する看護師の関わりもおそ
らくは C さんとの関わりという文脈において、はじめて意味をもったのであろう。それゆ
え、あらゆる患者のケアにこの関わりをそのまま適用することはできない。そのためには、
告知後を生きる患者固有の生の事情を知る必要があるからである。
この点で、独特の価値観や死生観に基づいて告知の問題を語った D さんのケースに最後
に触れておきたい。D さんは、
明示的に「告知にはそれほど大きなショックを受けなかった」
と語った唯一のインタビュー対象者であるが、その背景には彼の個人史がある。D さんはも
ともと、
父親を 50 歳過ぎで亡くしており、自分もそれほど長く生きられないのではないか、
と考えていたのだという。そこで、60 歳で退職した時に、あと 10 年生きられれば良いと見
積もって人生設計をした。そのため D さん自身の感覚としては、発病当時の感覚としては、
「予想以上に長く生きた」というのが偽らざる本音だった。退職後、次第に付き合いの幅
もせばめ、いわば「死の準備」をすでに始めていた D さんにとって、がん告知は「来るべ
きものが来た」ということでしかなかったのである 20)。
この D さんの事例は、告知の問題が受け手側の文脈によって大きくその意味を変化させ
ることを示唆している。この点で、たしかに C さんのように医療者の援助が有効なケース
もあるが、それはあくまでもその患者の個別性に忚じて与えられるべきものである。この
意味において、もし現在の日本の医療が、過去の反動から、誰に対しても、あらゆる情報
を一度に開示することで、告知について実質的な思考停止に陥っているとすれば、その是
非を改めて問い直す必要があるのではないだろうか。
105
[注]
1) インタビューの詳細については、田代(2005)を参照。
2) ただし、ソンダースらは、イギリスのホスピスにおいても、尐なくとも 1980 年代ま
では同様の事態が存在したことを示唆している(Saunders & Banes 1989=1990: 8-9)
。
3) 告知を入棟の条件とすべきか否かが議論になっていたのは、この施設に限ったことで
はない。1990 年以降、PCU の建設が各地で進む中で、全国的には告知率は 8 割を超え
る施設もある一方で、5 割以下の施設も尐なくなく、なかには 3 割に満たない施設もあ
った(志水ほか 2000)
。なお、当時の各施設の告知率は、ターミナルケア編集委員会
編(1998)に詳しい。
4) 例えば、当時の雰囲気をよく伝えるものとして、波平(1990: 122-123)を参照。
5) その一例として、田口(2001: 103)を参照。
6) 厚生省・日本医師会編(1989: 17-54)に所収。なお、このマニュアルは 2005 年に改
訂され、告知に対するスタンスも大きく変わっている。改訂版は財団法人日本ホスピ
ス・緩和ケア研究振興財団のホームページから全文入手できる
(http://www.hospat.org/manual.html)
。
7) この対立は、早期がん患者に対する診断・症状の告知を念頭においていた告知推進派
と、むしろ末期がん患者に対する予後告知を念頭においていた慎重派とのすれ違いと
いう面もある。当時の論争状況を伝えるものとして、鈴木(1991)
、および笹子(1992a)
を参照。
8) 江口編(1997: 209-215)に所収。また、国立がん研究センターがん対策情報センター
のホームページより全文が入手可能である
(http://ganjoho.ncc.go.jp/professional/communication/communication01.html)
。
9) なお、この告知率上昇の背景には、日本における「インフォームド・コンセント」概
念の導入がある。1990 年には、日本医師会が『説明と同意についての報告』を公刊し、
欧米での議論を紹介するとともに、同じ年には臨床試験の文脈で、「医薬品の臨床試験
の実施の基準(Good Clinical Practice, GCP)」施行により、新薬の臨床試験における同
意取得の義務化が生じている。以上の流れの中で、医療一般における情報提供とそれ
に基づく患者の同意の重要性が認識されるようになり、がん告知の問題も診断に関す
る情報提供の問題として議論されるようになっていったのである。詳しくは、Leflar
(1996=2002)を参照のこと。
10) こうしたギャップは、別の時期に行われた同様の調査結果からも概ね支持されてい
る(佐々木ほか 1999; 大山ほか 2000)
。
11) 2000 年前後に行われたある調査では、患者は予後告知を希望しているだろうと予測
しつつも、約半数の医師は 10%以下の患者にしか実際には告知していない、という現
状が報告されている(三浦ほか 2000)。調査を行った医師は、多くの医師が自分の場
合には予後告知を希望するにもかかわらず、多くの患者には予後告知をしないことを
106
批判している。
12)
予後告知については、アメリカにおいてもそれほど進んでいない。宮地(1992)、
Kaplowitz(1999=2005)
、Christakis(1999=2006)を参照。
13) 本インタビュー調査は、「第三次がん総合戦略研究事業」の一環として、2006 年 9
月から 2008 年 5 月まで、10 人の在宅がん患者を対象として断続的に行われたものであ
り、相澤出(爽秋会岡部医院)および、諸岡了介(島根大学)との共同研究として行
われた。なお、今回のインタビュー調査にあたっては、事前に協力施設の倫理委員会
に研究計画書を提出し、倫理審査を経たうえで、調査対象者から書面で調査協力の同
意を得ている。インタビュー調査に協力していただいた患者・家族の方および紹介の
労をとって頂いた医院のスタッフに改めて感謝したい。
14) この点について、在宅緩和ケアを専門とする二ノ坂は、これと同様の体験が広く見
られることを示唆している(二ノ坂編 2005: 95)
。
15)
たとえば、サイコオンコロジー学会の「コミュニュケーション技術プロトコール
(SHARE)
」がこれにあたる(内富・藤森編 2007; 藤森・内富 2009)
。
16) B さんについては、すでに詳細な事例検討を行っている。田代(2008)を参照のこ
と。
17) 在宅緩和ケア医たちの実践においては、おおまかには以下の 3 点が重視されている
(川越編 1996; 二ノ坂編 2005)
。まずは、
(1)予後の厳しさを、慎重に伝える(例:
「自
分の命があと 1 か月しかないと思って、生活の予定をたてて下さい」)
。しかしその一
方で、
(2)予後の不確実性を伝える(例:「でも、あと二ヶ月と言われて、二年も生き
ている人もいますよ」
)
。いずれにせよ、
(3)最後まで共に歩む姿勢を示す(例:「この
あとも、一緒に頑張っていきましょう」)
。
18) この点に関連して、精神科医の小森康永が、患者との対話(dialogue)に先立って、
医療者の態度(attitude)や思いやり(compassion)の重要性を説くカナダの精神科医チ
ョチノフの議論を高く評価していることを指摘しておきたい(小森 2010)
。
19) 同様の指摘として、小森(2010: 40-41)を参照。そこで紹介されている「医師も、
その場のことだけじゃなく、患者というものは、その先ずっと、長いあいだかかって
病気や治療というものを理解していくんだという、時間の概念をもってほしいですね」
という患者の言葉は示唆に富む。
20) ただし、この D さんでさえ、標準的治療法が無くなったという話を聞いた後は、夫
婦で一言も口を聞かずに帰ったという。
「ひどいけど、こういう薬があるって言われる
うちはいい」 と後に D さんは語っている。
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110
7.死にゆこうとする身体のために
鈴木智之
絶対的に異邦なものだけが、私たちを教えることができる。
(E.レヴィナス『全体性と無限』
)
私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うこ
との必然性について、何時間も考えさせられた。この必然性
は、医師や看護師、つまり、できることをすべて行うためにそ
こに居る人びとだけのものではない。死にゆく人に最後まで付
き添おうとする人、打つ手が何もなくなったのに居つづける人、
自分がそこに居つづけないわけにいかないと切実に感じてい
る人にとっての必然性である。
(A.リンギス『何も共有していないものたちの共同体』)
1
はじめに
呼びかけに忚える力(responsibility)―そこにケアの本質があるとしばしば語られる。
ケアは、個別の状況の中では、さまざまな社会的規程力のもとに構成される多様な実践と
してあるとしても、その基底には常に、他者の苦しみに呼忚する人間的な力の発現がある
のだと。
例えば、シモーヌ・ローチは、人間が人間であるための基本的な条件としてケアを位置
づけた上で、
「ケアリング」とは「感じとり忚筓する能力」であり、その本質は「価値」へ
の忚筓、すなわち「私の主観的な満足」からは自立的に存在し「私」に呼びかけるものに
忚えることにあるという。
価値への忚筓をしるしづけるもうひとつの特徴は、価値による呼びかけとの関係である。人
間存在である私は善や美、それ自体において重要なものへと引きつけられていく。この意味
において、引きつけられていくということは呼びかけへの忚筓なのである。
(…)客体として
の価値はケアという忚筓を引き起こす。そしてケアは、それ自体において重要なものからの
呼びかけを待ち受けている。忚筓と呼びかけは相互的な関係にある。
(Roach 1992=1996: 89-90)
111
だが、呼びかけはいかにして可能となるのか。また、忚筓はいかにして可能となるのだ
ろうか。ローチは「呼びかけるもの」が「善や美」のように「それ自体において重要なも
の」として現れてくるのだと語るのであるが、ではいかなる関係性において、そのような
「呼びかけ」は生まれてくるのか。とりわけ、人が人に相対した時に、そこに「ケアの関
係」-「呼びかけ」と「忚筓」-を呼びおこすための条件とはどのようなものか。ケ
アの本質は忚筓にあるという命題を、その規範性までをも含めて受け入れるとしても、具
体的な状況においてその力がどのように発揮されうるのかという問いは、そのあとに、そ
っくりそのまま残されているはずである。
忚えるためには、呼びかける者の姿が見えていなければならないと、まずはそう思える。
私がどのような心づもりをもってそこに立とうとも、「私」の前に現れ、「私」に向って何
かを投げかける存在がなければ、
「私」は忚える者となりえない。だが、そのような呼びか
ける他者の現前は常に確かなものではないだろう。
一例としてここでは、ひとつの臨終の場面について考えてみる。死んでいく者と遺され
る者とが共有する最後の時間においては、ときに「呼びかける-忚える」という関係の成
り立ちが危ういものとなる。それはおそらく、私たちが行うケアの営みが、他者の生に向
けて、その人の生きようとする力に寄り添うものとして方向づけられているからである。
したがって、あとはただ死んでいこうとするだけの他者を前にしたとき、しばしば私たち
は「なすすべがない」と感じる。だが、そのような時にも人は、その人の傍らにとどまり、
その最期を見届けようとするだろう。では、死にゆこうとする他者の身体を前にして、私
たちはどこまで、またどのような形で、忚筓の主体となりうるのだろうか。死にゆこうと
する他者は、どのような形で「私」に呼びかけうるのだろうか。
2
父の最後の二日間について
ここから、筆者の私的な経験を語ることをお許しいただきたいと思う。それは、私の父
の最期にまつわるエピソードである。
父が亡くなったのは 2008 年の夏前のことであった。
彼は、その数年前に職場をリタイアした頃から、尐しずつ体に力が入らなくなり、家に
いて座りこんでいたり臥せっていたりする時間が長くなり、やがて歩くのがつらくなり、
立ちあがるのも一苦労という状態に移行していった。手先に震えが生じ始めて、
「パーキン
ソン病」が疑われたことがあったが、結局診断はつかず、原因不明のまま「衰え」だけが
確実に進んで行った。
2007 年 11 月、排尿ができなくなり、尿毒症になって病院に担ぎ込まれたところからベッ
ドの上での生活が始まった。入院先は、都心の治療型の総合病院であったが、印象を言え
112
ば、働く側の合理性だけが病棟管理の基本になっているような病院で、ナースステーショ
ンの前の数部屋にぎゅっとつめこまれた患者の間を看護師たちがバタバタと走り回ってい
た。そのどこか殺伐とした雰囲気から、私たち家族は「野戦病院」と呼んでいた。
この「野戦病院」の、狭い三人部屋の一番奥のベッドで、父は五か月間をすごした。口
から食べ物を入れることを試みて、誤嚥性の肺炎を起こし、点滴と中心静脈栄養に頼る状
態に逆戻り。胃ろうを作り、お腹に直接栄養を注ぎ込むことになる。だんだん口蓋の動き
が悪くなり、言葉が聞き取りにくくなり、電動ベッドで体を起こすのもつらそうになって
いく。足がむくんでパンパンになり、それをさすってくれと要求することが多くなった。
その間に行われた繰り返しの検査にも関わらず、病状の基本的な原因は結局つきとめら
れず、家族にしてみれば、
「何だかわからない」まま、状態は確実に悪くなっていった。
母は、衣類を入れたスーツケースをベッドと窓の隙間に押しこむようにして、その上に
座って、ほぼ毎日何時間かを過ごしていた。私は、週に一回程度、ふらりと訪れては、一、
二時間を病院で過ごしていた。
そんな中で、手足のリハビリをして、自宅へ戻ること、あるいは車椅子で動けるように
なることを目標に掲げ、担当医にもそんなところを目指していただきたいと告げた。志の
ある看護師さんが、時間を見つけてはやってきて、指先の運動や手足の運動をさせてくれ
た。
しかし、その「ゆるやかな回復」のシナリオを、私は信じていたわけではなかった。自
分から言葉にすることはなかったけれど、そんな状態には回復せず、このまま弱っていく
のだとしか思えなかった。そして、父もまたそのことを「知っている」ような気がしてい
た。看護師や母が手足のリハビリのための、ちょっとした「遊び」や「体操」をさせれば、
おとなしくそれに従っていたけれど、それが本気で「回復を目指そう」とする姿勢である
とは映らなかった。
むしろ私が感じていたのは、
(検査と処置とリハビリの繰り返しの中にありながら)父は
「死んでいくという仕事」をやろうとしているということだった。そして、それを私たち
に見せようとしている、と。
「病院で死んでいくっていうのはこういうことだ、まあ見とき
なさい」というかのような、姿勢。そのように私は受け取っていた。
見舞いに行くたびに、
「大変ですねぇ」などという声をかけていたものの、そこには、飲
み込まれている言葉がいつも意識されていた。その言葉の中には「死んでいくのも大変で
すね」というニュアンスがあった。父がどう受け取っていたのかは、もちろん分らない。
個人的な経験をさかのぼれば、祖母は大の病院嫌いで、入院のたびに大暴れをして、た
ぶん病院のスタッフにも家族にも大迷惑をかけていた。ある日、自宅で喀血をして、その
まま亡くなった。祖父はもっと不条理な形で、突然いなくなった。
だからだろうか。時間をかけて死に向かっていく姿を見たと思った時点から、回復を願
うことよりも、それをちゃんと見届けなくてはという気持ちの方が強くなった。そして、
113
それはそれとして「よし」としたいという思いがあった。
さて、父は 2008 年 4 月にいよいよその「野戦病院」にいられなくなり、東京郊外の、療
養型の病院へと転院した。
「積極的な治療はしません」。
「むしろ最後の生活を楽しんでいただけるようにつとめま
す」という方針の場所だった。
明るくて広くて見晴らしのいい病室というだけでも、ずいぶんいいと感じられた。
私の自宅に近いこともあって、比較的頻繁に、ちょっと行って、短い時間を過ごして帰
ってくることができるようになった。
足をさすり、髪を整え、痰の吸引をされて苦しそうな様子を脇で眺め、あとは、伝わっ
ているのかいないのか分からないまま、知人の近況を伝えてみたり、相撲の結果について
報告してみたり、何を言っているのか分からなくなっていた父を憐れんだりからかったり
しながら、過ごしていた。母はまだリハビリにこだわっていて、指の体操をさせてみたり、
たまに調子がよさそうだと、無理やり車いすに乗せて、病院の周りをぐるっとまわってみ
たり、ということをしていた。
「移ってきてよかった」と、私は(たぶん家族の皆も)思った。父が衰えて、死んでい
くのはもちろん悲しかったけれど、その病室には、彼と私たちの間に流れている時間があ
り、それを大事なものだと感じてもいた。
2008 年 5 月。職場にいた私に兄からの連絡。父が心肺停止の状態なので、すぐに病院に
来てほしいということであった。
その日の昼間に、母と車椅子で病院の中を回り、その時は調子がよさそうだったらしい。
ところが、母が帰ったあと、病室で、心臓も肺も止まっている状態になっていた、とのこ
とであった。
(覚悟を整えながら)職場から駆けつけると、父は息をしていた。病院スタッフの処置
で、心臓はまた動きを回復していた。
ベッドサイドには、
(普段はない)ヴァイタルサインを示す装置が運び込まれていて、確
かに、不安定ながら、
「生きている」ことを示していた。
それ以前に、父は息をしていて、呼吸のたびごとに、「あぁー、あぁー」という声がもれ
ていた。父は生きていた。
しかし、私はその時、父がまったくの別ものに変わってしまった、と思った。
「父はもういない」という直感があった。極端な言い方をすれば、そこにあるのは、父
の、まだ生きている、
「残骸」であると。
目には薄い被膜が張っていて、そこに「何かを見ている」というしるしはなかった(眠
っているのでも、起きているのでもなかった)。
呼吸のたび発せられる声も、ただ空気が送り出されているからしょうがなく発せられて
114
いる「音声」のように感じられた。
前日までは、話しかけてもろくに反忚がなかったり、何を言っているのか全く分からな
かったりしても、発せられている「音声」は確かに「声」であって、視線を送れば、それ
に絡み合って返ってくるまなざしが確かにあった。ただこんこんと眠っているだけの時で
も、そこには「父が眠っている」のであった。
しかし、その日はすでに、
「そこに父がいる」という出来事の感触がごっそり奪われてい
た。剥き出しの、
「まだ生きている体」がそこにあった。
とっさに、どうしようと思った。
ベッドサイドに座って、手を握ってみたり、額に掌をあててみたりしてみたけれど、そ
のふるまいのもつ意味は、昨日までのそれとはまったく別のものであった。
「忚える」という感じがない。どちらが、ということではない。
たとえ眠っている人の体に触れる時でも、そこには「忚える」という感触がある。そこ
に相互性がある。
どうしてよいのか分からず、父の発する「声」を真似して、
「あぁー、あぁー」と声を発
してみたりした。しかし、声が声に重なる感じはなかった。かえっていたたまれない気が
した。
翌日も状態は同じだった。何もできずに、ただそこにいた。
翌々日の日曜日。朝から病院へ行き、数時間を、病室で過ごした。
状態は変わらなかった。父の発し続ける「声」と、時折「ピーッ」となる検査機器の音。
正直に言えば、僕はただ、その音が「やむ」のを待っていた(父の「死」を待っていた
ということになるだろう)
。
このままどうなるか分からないので、一度うちへ帰りなさいと母に言われ、夕方に車で
自宅へ戻った。しかし、帰ってからしばらくして、また電話があり、父が亡くなったと告
げられ、病院へとんぼ返りすることになった(亡くなった「父」は「穏やかな顔」をして
横たわっていた)
。
私は、この一連の経過の中に、特別な「問題」
(クレイムアップされるべき「不当なこと」)
があったと感じているわけではない。これは、ありふれた一つの死別の場面であろうし、
その経過と状況を考えれば、相当に恵まれた終末期を父も家族も送ったのだと思う。
しかし、私の中には、あの二日間はいったい何であったのか、私は何を見たのかという
思いがずっと形にならないままに残った。
不用意な言葉づかいを許していただけるならば、あの二日間は余計だったのではないか
と思えてならないのだ。母と二人で車椅子で院内を散歩し、その母が「また明日」といっ
て帰ったあと、父の心臓は自然に動きをやめた。それならそのままでも良かったのではな
いか。その方がよかったのではないか、と。
115
もちろん、蘇生させてくれた医療者を非難したいわけではない。
彼らはやるべきことをやったのだろうし、おかげで、私たち家族は、父の最後の時間を
共有することができた。だが、
「医療者の行動として何がなされるべきであったのか」とい
う次元とは尐し離れたところで、
「そのまま、すっと逝ってくれてよかったのではないか」
という思いがこびりついている。
私はそこで、凄惨なものを見てしまった、と思う。そして、父の死は苛酷であった、と
感じている。
父の死後、何人かの方から、
「苦しまずに亡くなられて、それはせめて・・・」という言
葉をいただいた。しかし、私にはその言葉がまったく腑に落ちない。
「いいえ、けっこう凄
惨な死に方でした」とつい言いたくなる(一度も口に出して言ったことはなかったけれど)。
それは、あまりにもナーバスでナイーブな、説明がつかない感情である。
しかし、この嫌な感じにおさまりをつけたくて、それ以来時折反芻しては、あれは何だ
ったのかと考えている。
そして、こんなふうに思う。
前日まで、彼が眠っていても起きていても、私たちは父の呼びかけに忚えることができ
ていた。しかし、その最後の二日間においては、呼びかける人が見えなくなってしまった。
私がベッドの傍らで「あぁー、あぁー」と声をあげていたのは、「呼びかける人がいなく
なってしまったのに、忚えるという身振りだけを繰り返すような仕草」、「忚える真似をす
ることで、呼びかける人の存在を呼び戻そうとするかのような仕草」だった。間が抜けて
いる。どうしても空虚にしかならない。
どうしてこんなことになったのか。私は困惑していた。そして、何かに怒っていた。し
かし、怒りの矛先を向ける相手がいなかった。そもそも、その感情を、言葉にして人にう
まく伝えることさえ、うまくできていなかったように思える。
ともあれ、私は目をそむけようのない何かを突き付けられたような気がした。
「死んでいくという仕事」をしていた父と、それを見届けようとしていた私の物語(そ
れは、私の中で独善的に作られたストーリーだったのだろうか)は、最後のところで、ぐ
しゃっとつぶされてしまった。
誰かによって、ではない。
「死にゆこうとする身体」として横たわっていたその体に寄り
添って忚える術をもたなかったという現実によって、である。
3
そこに「人がいる/いない」ということ
そこに人がいるとはどういうことなのか。臨死の父を前にして私につきつけられたのは
そのような問いであったように思う。父の体は、明らかに呼吸をし、心臓が鼓動している
のに、そこに「父がいる」という感じが確かなものではなかった。ただ、あえいでいる身
体だけがあるような気がした。その身体は苦しそうであった。にもかかわらず、その苦し
116
みに働きかける術をもたなかった。そして、これは「不要な苦しみ」だという思いを消せ
なかった。
容易に正当化できない感情だと、自分でも思う。しかし、
「そこに父はいない」という直
感を起点に考えるべきことも確かにある。
もとより、目の前に人がいるとはどういうことなのか。
村松聡は、
『ヒトはいつ人になるのか』
(2001 年)において、人間の「誕生」の局面で問
われる「倫理的」な問題(ヒト・クローン、ES 細胞の活用、妊娠中絶)を論じながら、
「人
格(パーソン)論」についての批判的な検討を加えている。彼の思考をひとつの手がかり
としてみよう。
村松によれば、西洋の近代哲学の流れの中では、
「自己意識」こそが「人間が人間である
ための核心をなす」
(村松 2001 128)と考えられてきた。まず何より、
「人格」とは「理性
的で自己意識をもつ人間」のことである、と。しかし、この原理をつきつめていけば、「脳
の形成が未発達」で十分な自意識をもっているようには思われない状態の「ヒト」は、ま
だ「人格ではない」ことになる。その限りで、胎児も新生児も人格ではない。
ところがその認識は、多くの人々の常識的な判断とはやはり食い違っている。
「私たちは
通常、自己意識をもっているかどうかわからないものも、人間として大事にしている。自
分を意識するようになる発達段階にあり、理性的とは到底言えない新生児や乳児も、かけ
がえのない一人の人間と見なしている」(村松 2001: 131)。しかし、
「人格」の基準に「自意
識」の有無を置こうとする思考の枞組みの中では、結局この常識的感覚を擁護することは
できない。
そこで村松は、自意識を基準とする人格論に根本的な批判を加え、
「人格は身体」であり、
同時に「他者との関係」によって生まれるのだという視点を提示する。
「人格は身体である」とは、物理・生理学的な物質としての人体を「人格」の基盤に据
えるということではない。そこで言及される「身体」とはむしろ、日常生活の中でその人
の「人となり」を示すものとして現れるような「姿」や「形」や「イメージ」である。例
えば、
「髪を掻き上げるしぐさ、笑い顔、おじぎの仕方や後ろ姿」
、そういった「様子」が、
「その人の人格をもっとも代えがたく、忘れがたく」表す。そういった「微妙な体のイメ
ージ」がつくりあげる「雰囲気」のうちに、その「人」は在る。あるいは「在る」ものと
して「捉えられている」
。
人格は、機械のように正確な描写や模倣ではなく、むしろ、感じや雰囲気の織りなすイメージ
として捉えられている。故人の髪を掻き上げるしぐさや笑い顔がその人の姿を髣髴とさせるの
も、そのしぐさを正確に思いだしているからではない。記憶はその点では大変曖昧で、多くの
場合、細部の再現などろくにできていない。それでも、故人を生き生きと思いだすには充分で
ある。そのしぐさや笑い顔のうちに、彼の立ち居振る舞いの雰囲気が立ち上がるからだ。よく
ああいう顔をして笑っていた。話す時にふと視線を遠くに投げかけることがあった。その笑顔
117
や視線がその人の癖を伝え、存在を伝えてくれる。(村松 2001: 163)
「しぐさ」や「笑顔」や「視線」が伝えるその人なりの「癖」。社会学風に言えば、「ハ
ビトゥス」として「身についた」ふるまいの「型」こそが、そこに「人」がいるというこ
とを伝えている。村松によれば、この「姿」や「イメージ」によって伝えられる「人格」
とは、音楽における「主題」のようなものであり、場面ごとに「変奏」されながらも、な
おその人の「人となり」を反復的に再現することができる。
確かに、私がその最後の場面で「父はもういない」と感じたのは、その身体が「その人
の人となり」を示すような「姿」を表していなかったからだ。先に私は、眠っている時に
も、そこには「父が眠っている」という現実感があった、と書いた。
「寝相」という言葉が
示しているように、眠っている身体にも「相貌(顔)」があるということなのだろう。そこ
には、確かに「その人が眠っている」
。ところが、最後の二日間において、
「父の身体」は、
紛れもなく生きていたにもかかわらず、
「人となり」を示すような「表情」をもたなかった。
村松の比喩を借りれば、
「音」は鳴っていたけれど、「主題」は奏でられなかった、という
ことであろうか。
さて、このように「人」の現れを支える「身体(像)」の重要性を指摘した上で、村松は、
そこに一個の「人格」があるという出来事は、その対象に即して客観的に成り立つ事実で
はなく、
「他の人との関係によって成立する」のだと論を展開する。ある医療現場で、「ま
ったく忚筓のない植物状態の患者」に対しても「必ず語りかけ様々な刺激を与える」よう
にしたところ「意識を取り戻す」率が上がったという例を引き合いに出して、彼は「人格
と認められ働きかけることによって、初めて人格は成立する」のだと考える。
もしそうならば、胎児や新生児、植物状態の人も、私たちが人格として触れるときに人格と
なるのではないか。他の人によって人格と認められない限り、彼らは人格ではないかもしれ
ない。しかし、一度そこに人格を見ようとするならば、人格は存在している。そう考えるこ
とは異様だろうか。(村松 2001: 205)
この問い直しから、
「人格論」は「他者論」へと接続する。目前にあるものが「人」であ
るためには、それを「人」として迎え入れる「私」が必要であり、その「私」が「意識」
をもつ存在として立ち上がるためには、「他者と出会う」ことが条件となるからだ。では、
そこに「人がいる」という現実を構成するこの「相互的」な関係はどのように成立するの
だろうか。
「人格」の有無を「自意識」の有無に帰するだけでは不十分であり、「そこに人がいる」
という現実の「身体性」と「関係性」を見なければならないという村松の主張はうなずけ
るところが多い。
118
しかし、彼の考え方をたどっていくと、それはあるところで「人格論」という問題設定
を超え出てしまうような気がする。「人格」というような、何らかの同一性を前提にした、
それだけでもすでに強い価値を付与された概念から離れて、
「ただそこに人がいる」という
現実の成り立ちだけを問うことがなされてもよいのではないか、と思えてくるのである(そ
れは、
「人格論」の問題構成は無効であるという意味ではない。ある局面では、もっとシン
プルな問題にいきついてしまうのではないか、ということだ)。
では、もっと素朴に、
「目の前にあるものが、人として現れる」とはどのようなことなの
だろうか。
それはおそらく、現象学的な問いである。現象学の視座に立てば、あるものが「在る」
ということは、それが「
“在る”ものとして現れる」ということに他ならない。斎藤慶典の
言葉を借りれば、「私たちの現実が現実であるためには」、それがただ「在る」だけでは充
分ではない。それが「そのようなものとして『現象』している」ことが求められる。
「世界
はただ『在る』のではなく、
『在る』として『在る』、すなわち『現象』しているのだ」
(斎
藤 2009: 18)
。
この時、現象する何ものかは、それを受け止めてくれる何ものかに対して、何らかの「か
たち」を備えて現出する。ここで斎藤のいう「かたち」とは、三角や四角といった形状だ
けを指すのではなく、例えば、赤い色が赤として姿を現わすのであれば、その赤もまた「か
たち」である。それは、現象する他のものと区別して把握されうるような「質」を指してい
ると言ってよいだろうか。
その言葉遣いを借りるならば、
「人が人として『現象』する」ときに、その「何ものか」
に備わって現れる「かたち」とはどのようなものか。何ものかが「“在る”として現れる」
という出来事の中で、
「人」がそこに「ある」
(「いる」と言うべきだろう)という事態の固
有性は、どのように理解されるのか。
これを考えるために、
「他者」の現れをめぐる E.レヴィナスの考察を参照したい。
レヴィナスにとって、「他者」は、「私」から根底的に「隔てられたもの」、「絶対的に他
なるもの」
、つまり、「私」の認知する世界の内に「対象」として包摂されることのないもの
である。しかしその「他者」はなお私の世界に侵入し、私の目の前に「現れる」。
「対象とい
う相貌を示さないもの」(Levinas 1961=2005: 上 76)として、なお「私」の前に現出する何も
のか。そのありようを、周知のように、レヴィナスは「顔」という言葉で指し示している。
ここで彼の言う「顔」とは、目や鼻や口といった部位の集まりを指すだけのものではな
い。
顔は鼻、額、目などの集まりではない。確かに顔はそういたもののすべてではあるが、顔と
しても意味を持つのはそれが一人の存在の知覚のうちに開く新たな次元によってである。顔に
よって、存在は単にその形状に閉じこめられ手に供されるのではなく、開放され、深さのうち
に住みつく。そして、この開放性において、存在はなんらかの仕方で自分自身を現前するので
119
ある。(Levinas 1963-76=2008: 10)
すなわち、
「顔」は、物質的な対象としてそこにあるだけではない。その「存在」が、そ
の形状に封じ込められることなく、自分自身を顕わにする。私たちはそこに、「他者」の現
出を見る。
私のうちにある<他者>の観念を踏み越えて<他者>が現前するその様式は、じっさい顔と
呼ばれている。顔というその現前のしかたは、主題として私の視線のもとにすがたをあらわ
し、ひとつのイメージをむすぶさまざまな性質の総体として繰りひろげられるものではない。
<他者>の顔は、顔が私に残す、手でかたどることのできるイメージを不断に破壊し、それ
をあふれ出す。私に釣りあい、観念されたものに釣りあった観念を、つまりは適合的な観念
を破壊してあふれ出すのである。(Levinas 1961=2005: 上 80)
必ずしも分かりやすい話ではない。先の斎藤の議論をふまえて、何ものかが「在る」と
いうことは、その何ものかが「かたち」をとって(区別可能な質を備えて)現れることだ
とするならば、
「他者」の存在もまた、ある「かたち」を備えたものとして受け止められね
ばならないだろう。ところがレヴィナスは、「他者」は、そのような「イメージ」や「質」
をもった「対象」として思考しきれないものだという。
しかし同時に、分かるような気もする。確かに、「私」が他の誰かと対面するときには、
私が認識することができる世界を超えて、その向うから「私」の方へと向かってくる「何
ものか」が感受されている。そして、そのようなものとしてその「何ものか」が現れるから
こそ、
「私」はそこに、その他の対象世界からは区分されうるような、特異な現実-「他
者」の存在-を認めることができる。
「ひとつのイメージをむすぶさまざまな性質の総体」
としては記述しつくせないものとして現れる何かに出会ってはじめて、私たちは「人と出
会う」
。そこに固有の経験があるということであろうか。
この「顔」を指すフランス語は visage である。この言葉は、おそらく語源的に viser とい
う言葉と通じている。viser とは、狙いをつける、
(ある対象を)見る、まなざす、というよ
うな意味をもつ。そこからの連想において、visage は、ある対象を見るということ、まなざ
すということ、を含意している。
「顔」として現れる他者は、私を「まなざす」ものである。私をまなざすという「かた
ち」で、私の前に現れる、と言ってよいだろうか。
そして、この「まなざす者」としての他者は、私の世界には包摂しきれずに、いつもそ
れを超え出てしまうようなものであるがゆえに、私に向って「語りかける」ものでもある。
ひとつの「対象=客体」としてはとらえきることができないものが、どのようにして、な
お「私」の世界に現れることができるのか。レヴィナスは、その何ものかが、「私」に対し
て「ことばを語る」ことによってであると言う。
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私に対してことばを語るということは、現出のなかに避けがたく存在する、手でかたどられ
るすがたを不断に乗り越えるということである。(Levinas 1961=2005: 下 43)
私に対して「語るもの」は、私の世界の中に対象化され、私によって「所有」されてしま
うことなく、私の世界に現出しつづける。このような、現れ方をしているものが「他者」
である。
このとき、そこで語られる「ことば」は、音声をともなった言語でなくともよいように
思われる。身ぶりでも仕草でも一瞥の視線でもよい。そこにどのような反忚が続くかはと
もかく、何らかの忚筓を呼び求める形で差し出される「何か」。それこそが、
「他者」のしる
し-「ことば」-である。
つまり、
「他者」は私をまなざし(viser)、私に語りかける(parler)
(言葉を贈る)
。
そのことを一言で、
「呼びかける(appeler)
」と表すことが許されるだろう。
他者は私の世界のうちに、対象化可能な形をとって現れない。だから、他者は私に呼び
かける。呼びかけるという形で、私の前に現れる。
この時、「私」をそれをまず「受け取る」(「呼びかけられてしまう」)ところからしか、
他者との関係には入れない。
しかし、
「受け取る」ということを確かなものにするためには、「贈られた」ものに対し
て、なにがしかのものを「返さなければならない」
。
「ことば」には「ことば」を、
「みぶり」
には「みぶり」を、
「まなざし」には「まなざし」を。つまり、「他者」が「在る」ために
は、そのようにして、
「呼びかけ」に「忚える」ことが必要である。
忚えるものがなければ、呼びかけは呼びかけの体をなさない。忚えるものの現れをもっ
て成立する「語りかけ」の一切が「呼びかけ」である。
すなわち、他者は呼びかけるという形で私の前に現れるのであるが、その呼びかけを成
り立たせるための条件は、
「忚える」ということにある。この「呼びかけ-忚える」という
ふるまいの対によって、そこに誰かがいる、人がいる、という現実が招来される。
また、この時おそらく、「呼びかける」と「忚える」の間に時間的な順序は存在しない。
「忚える」者が現れてはじめて、
「呼びかける」ということが成立する。この意味で、「他
者は、単に認識されるだけでなく、挨拶され」
(Levinas 1963-76=2008: 9)ねばならない。
4 剥き出しの身体
このような認識を再確認して、私自身の経験をもう一度ふりかえってみたい。
心肺停止の状態に陥った父に、病院のスタッフがどのような処置を行ってくれたのかを、
私は確認していない。しかし、おそらくそれは、
「心臓マッサージ」などの「ありふれた医
療的処置」であったに違いない。
121
その緊急の対忚のおかげで、父の心臓は鼓動を再開し、その呼吸も戻ってきた。しかし、
そのようにして再び動き始めた「体」は、尐なくとも私の目には、
「父がそこに生きている」
という感じを伝えなかった。
村松が言う意味での「人格性」を欠いた、ただの身体であると私は受けとめた。「生きて
いる身体」であると認識したけれど、「人」の現れを感じなかった。そして、素直に言って
しまえば、
「異様なもの」を見てしまった感じがした。
こうした経験が、終末期の医療の場で、どれほどの頻度で、どのように生じているのか、
私にはよく分らない。ただ、いくらでも起こりうることだという気がする。
例えば、終末期の患者の状態がいよいよ危ないという時に、せめて「家族が病院にやっ
てこられるまではもたせましょう」という配慮から、可能な限りに延命の処置をする。し
かし、そのような形で「生きている体」が、どのような形で「人」の姿を示すのかという
ことは、おそらく医療的な技術によってコントロールすることはできない。
「死」という出来事は、おそらく二つの視点から、記述することができるものだと思う。
ひとつは、
「生きているもの」
(生体)が「もう生きていないもの」(死体)へと移行する
こととして。
もうひとつは、
「そこに人がいる」
(他者の存在)という状態から、
「その人はもういない」
(不在)という状態へと移行することとして。
どちらの位相においても、明確な境界線があって、ひとつのポイントを越えれば「生」
から「死」へと移動するというような、二値的な事実として経験されるわけではない。死
んでいくという出来事は、何らかの時間的な厚みの中で、ときには非常に長い時間をかけ
て、移ろっていく過程としてある。
この二つの現実が並行/連動して進行していくことが「死」であるのだろう。
ただし、二つの出来事は必ずしも、まったく歩調を同じくして、厳密に同時に進んでい
くわけではない。時に私たちは、すでに冷たくなった体に語りかけ、そこに表情(顔)を
読み取ることがある(もう生きてはいないけれど、まだそこには人がいる、という現実)。
また時には、体温を感じたり、脈拍を確認したりしながらも、もうその人が「往って/逝
って」しまったと感じることがある(まだ生きている、けれどももうそこにはいない、と
いう現実)
。
「死」の経験の中では、そうしたずれがさまざまな形で生じうる。
医療は、ひとまず、生体としての身体に働きかけ、これを生かす技術の体系としてある。
だから、医療者の思いがどこにあるのかということとは別の次元で、医療は、その尐なか
らぬ場面で、身体を物質的な過程としてとらえ直し、そこに技術的な介入を行うことによ
って、「生命」の維持・存続・蘇生を可能にしようとする。その時、この技術的な行為は、
その身体が日常の生活や関係の中でどのような「人格」の座として現れるのかということ
に(尐なくとも当面は)頓着せず、
「生体」を「生体」として機能させることに努力を傾注
122
するものであろう。
だから、
(これは終末期に限らず)医療を受ける(=医学的なまなざしで自己の身体の状
態をふりかえる)ということは、自分の体が、
「私という存在と不可分の、生きられた身体」
であると同時に、ある意味では単純な「物質的過程として生きている体」でもあるという
ことを思い知らされる体験でもある。
そして、折に触れて医療は、(意図せざるままに)「単純な生体としての身体」を顕わに
し、これを人々の前に晒すことがある(患者本人に対しても、それを取り巻く人に対して
も)。そして、とりわけ終末期には、その「剥き出しの生」が、「二つの死」のずれという
形で露呈しやすいのであろう。
私が父の最後の二日間に垣間見たものも、そうした「単純な生体」としての身体だった
と言えるだろうか。私は、そこに「父らしい」しぐさや姿やイメージが失われていると感
じたし、それ以前に、
「私に向けて語りかける何ものか」の存在を感じ取ることができなか
った。そこに残酷な何かを感じたことは先に述べたとおりである。
しかし、考えるべきことはこの先にある。
私は決して、医療者たちによる蘇生の努力を「無駄なことだった」と主張したいわけで
はない(父は二日後にそのまま亡くなったわけだが、もしかしたら、もう一度「意識」を
取り戻し、僕たちに向かって語りかけるところまで回復したかもしれない。そうなればあ
の状態は、一時的な危機的状況として記憶されたに違いない。あるいはそうでなくとも、
時間的な経過とともに、私は父の体が発していた「音声」を父の「声」として受け止める
ことができるようになったかもしれない。つまり、私は「生命」の現れ方の落差に適忚で
きなかっただけのことなのかもしれない)。
また私は、
(それに近い感情を抱いたことは告白しなければならないのだけれど)そのよ
うな状態でまだ生きていることに価値はないから、もう死なせてやってほしい、と主張し
たいわけでもない。
問われなければならないのは、その「死にゆこうとしている」身体を前にして、どのよ
うに「忚える」ことができたのか、にある。
先に私は、その死にゆこうとする身体が「苦しそうだった」と言った。
まちがいなく、それは、死にゆくという最後の過程で、苦しそうにあえぎながら生きて
いた。だから私たちは、その傍らにとどまらねばならなかった。そこにとどまらなければ
ならないということは、この状態にあって最も基礎的な事実であると思う。
そう考えれば、むしろ問題は、その場にとどまりながら、その苦しむ体に忚える術をも
たなかったことにある。私に向けて呼びかけるものがなかった、ということは、私が忚え
る術をもたなかったということの裏返しである。
5 死にゆこうとする身体のために
123
では、結局あの時、「父」を前にして、私は何をすることができたのだろうか。
一方には、あんな風に押し黙って、じっと「最期」を待っていないで、もっとにぎやか
に、ある意味では身勝手に、死んでいく身体に声をかけ、手を差し伸べるふるまいがあっ
てもよかったのではないかと思うこともある。それは、どういう方向にであってもいい。
「頑
張って、あと尐しだから、頑張って」でもよかったし、
「もういいから、ゆっくり、ゆっく
り」でもよかったのかもしれない。
臨終の場所が「病院」へと収容される以前の時代には、例えば「枕経」のような見送り
の儀礼が存在していた。
私の家族が檀家となっているのが浄土宗の寺院であり、その寺の若い僧侶とたまたま話
をする機会があった。
「枕経」とは一般に、納棺に先立って死者の枕もとで経を唱えること
であるが、この僧侶によれば、かつては臨終を迎えつつある人の傍らで行われていたとい
う(浄土宗のホームページ、には、
「亡くなっていく人を仏弟子にして往生してもらうため
に、臨終を迎えつつある方の枕もとで上げるお経のこと」と解説されている。
http://www/jodo.or.jp/kowledge/soshiki/index_1.html)。家族や親戚が集まって、死にゆく人を
「彼岸」へと送りだしていくために声をあわせ、念仏を唱える。そのような儀礼的で身体
的な技法があれば、私たちも「父の最後の二日間」をもう尐し別様に乗り切ることができ
たかもしれない。
しかし実際には、では「枕経」の慣習を回復させましょう、という話にはならない。そ
れは、今の私たちが取りうる、現実的な看取りの技法ではないだろう。
むしろ、この話に照らし合わせて確認されるべきことは、死にゆこうとする身体を送り
だしていくような「慣習的なふるまいの型」を、私たちが-尐なくとも「私」は-持
ち合わせていないということにある。私たちは時に、「死に目にあいたい」とか、「死に水
を取りたい」といった言葉を口にし、そういう感情も確かにあるのだけれど、いざ「ベッ
ドの脇」で「死にゆく人」を前にして、どうふるまい、どう語りかけ、どう働きかけるの
かに関わる「行為の型」をもっていない。
そのような「文化(としての身体技法)」を欠いたままで、「死んでゆく身体」に直面し
てしまう。だから、困ったように、押し黙って、不機嫌に、当惑して、立ち竦む。その時、
その「死にゆく人」に相対するものとして、「私」がきちんと存在しきれない感覚を伴う。
そこに(まだ)ある生を前に、自分たちの日常的な「忚筓」の技法が通用しないことを思
い知らされる。だからといって、そこを立ち去ってしまうことはできない。目の前に、確
かに、まだ生きているものが「在る」からだ。
そうであるならば、どれだけ気づまりであっても、やはり沈黙したままそこに居続ける
しかない、と思う。
A.リンギスは、誰かが「死ぬことを除いてこれ以上何もできなくなる」とき、その人に寄
り添う者もまた、その「死んでいく時間」を耐え忍ばなければならないと語っている。
124
苦しみから逃れることができない他者の介抱をする際に、そして、死を待つ他者と共に苦
しむために傍に寄り添うときには、人は、世界の時間とは切り離された時間を耐え忍ぶ。死
ぬには時間がかかる。死は、人が予期している時間を蝕み、未来もなければ可能性もない時
間、ただ時間の存在を耐え忍ぶことしかすることがない奇妙な時間を伸長するのだ。(Lingis
1994=2006: 216)
「そこにその人がいる」という感覚さえも剥落させて、
「死に向かってあえいでいる身体」。
その身体との間に、呼びかけと忚筓の連鎖がつくり出していくような「ケア」はもはや成
り立ちがたい。そこには、日常の社交の場に流れる時間から切り離された、ただ「耐え忍
ぶ」しかない時間が存在する。だが、そのような場所で「いまだ生きている」そして「死
にゆこうとしている身体」こそ、
「絶対的に異邦なもの」として、「私」に呼びかけている
のかもしれない。呼びかけていながら、もはや忚えることのできない生の形。私たちには、
それを見つめながら、黙してそこに居つづける力が試されていたと言うべきなのだろうか。
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[本稿は,日本質的心理学会・公開研究会「臨床の中の倫理 ―命の限りと向き合うとき」
(2009 年 3 月 11 日:於・大阪大学)での報告「死にゆこうとする身体のために」をもとに
している。報告の機会を与えていただいた日本質的心理学会と運営委員の方々にお礼申し
上げます]
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