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第4章 考察 - 東海大学文学部

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第4章 考察 - 東海大学文学部
第4章 考察
第1節 西表島西部の村落と環境からみた網取遺跡 1. はじめに
安斎英介
4ヵ年度にわたる網取遺跡の調査では、集落域や<貝塚地区>などと併行して水田域にも焦点をあてた。その
理由は、網取村の居住が集落背後に広がる湿地帯での水田耕作を目的に寄り集まったことに始まる、との内容の
記載が『わが故郷アントゥリ』に認められるからである(山田 1986:p.82)。このような記憶ないし伝承の存在は、
水田耕作が村の成立に関わるキーワードであることを示唆すると同時に、生業形態が遺跡の立地に深くかかわる
可能性をも想起させる。
こうした前提認識にもとづき、本稿では網取集落周辺の村落と環境との相互作用についての検討を行う。具体
的には、網取村の親村であった慶田城村を中心に、周辺遺跡の分布や立地環境の分析を行い、考古学的研究成果
を考慮しつつ、環境と生業活動との関係についての復元モデルを提示する。その上で、いつ・どのような経緯を
経て網取遺跡が選ばれ、村立てに至ったのかという社会的背景への考察を試みたい。さらにこのモデルと密接に
関わるマラリアの問題を取り上げ、生業形態と環境との関わりについて考えることにする。
2.網取周辺遺跡の立地環境
第 1 章第 1 節で紹介したとおり、西表島西部地域には現在までに 29 遺跡が確認されている。それらの報告書・
報告論文の集成を行い表 4-1(節末に提示)を作成した。この表にもとづき、本地域一帯の遺跡の分布と立地環
境についての分析を行う。なお時期区分について本稿では、Ⅰ期からⅣ期の時期区分を使用することを断ってお
く。これらは金武正紀らによる八重山考古学編年(金武 1994)の先史時代 ( 下田原期 ) がⅠ期、先史時代(無
応する。
(1)遺跡の平面分布の時期的な推移
まず遺跡地点の時期的な平面分布の推移について検討を行う。表 4-1 のⅡ期、Ⅲ期、Ⅳ期について、遺跡の分
(1)
布を表したものが図 4-1 である 。この図より、Ⅱ期には西表島西部の北部の海岸地域に集中的な分布を示して
いることが分かる。またⅢ期には祖納半島を中心に、東は船浦遺跡、西は成屋遺跡までの範囲にわたって分布し
ており、Ⅱ期と比較して相対的に広域な分布となる。そしてⅣ期にはさらに分布域が広がり、西表島西部の海岸
線のほぼ全域にわたって遺跡が点在している状況が確認できる。
網取遺跡が図上に登場するⅣ期の分布を、元禄年間の 1702 年に描かれた『元禄琉球国絵図』(吉田 1977)に
記された村落地点と突きあわせて比較してみると、
「浦内村」は浦内部落内遺跡と、
「たから村」は多嘉良遺跡と、
「ほ
し立村」
は星立部落内遺跡と、
「入表村」
は上村遺跡と、
「ふなうけ村」は船浮遺跡と、
「あみとり村」は網取遺跡と、
「か
の川村」は鹿川遺跡とそれぞれ対応する。したがってⅣ期の具体的状況については、考古学的手法とは別に文献
(2)
資料からの検討が可能である 。
ここで確認した分布状況の背景を、次に行う遺跡の立地環境の分析によって明らかにしてみたい。
(2)遺跡の立地環境と生業活動
次に遺跡の立地環境が時期的にどのような変遷を示すのかを検討する。それにあたって、遺跡の立地する環境
を大きく 3 つのタイプに分類し、時期ごとの推移をあらわすグラフを作成した(図 4-2)。以下、石灰岩丘陵や
台地に立地する遺跡を 1 類、海岸低地や低砂丘地の遺跡を 2 類、山の急な斜面に立地する遺跡を 3 類と仮称する。
205
第四章
土器期)がⅡ期、歴 ( 原 ) 史時代 ( 新里村期・中森期 ) がⅢ期、歴 ( 原 ) 史時代 ( パナリ期 ) がⅣ期にそれぞれ対
G.N
Ⅱ期
Ⅲ期
Ⅳ期
第四章
● Ⅱ期の遺跡
▲ Ⅲ期の遺跡
■ Ⅳ期の遺跡
0 5.0km
図 4-1 西表西部地域の遺跡分布の推移
図 4-2 のグラフをみると、時期ごとに顕著な特徴があらわれていることがわかる。以下、このような特徴がもつ
意味について、生業活動との関わりという観点から考えてみることにする。
① Ⅱ期の遺跡の立地環境 この時期の特徴は、7 遺跡のすべてが 2 類、つまり海岸低地・低砂丘地に立地する
ことである。宮古・八重山諸島では、この時期の遺跡のほとんどが同様に海岸に近い砂丘に立地していることが
指摘されており(安里 1993,大濱 1999,金武 2003)、貝類や魚類の遺存体が大量に発掘されていることや、リュ
ウキュウイノシシ等が出土すること、また農業の痕跡が発見されていないことから、この時期の生業活動は狩猟
採集を基本としていたと考えられている(金武 2003)。また、この時代の遺跡からは、土器が検出されず、シャ
コガイ製の貝斧が使用されていたことが大きな特徴であると考えられている(安里 1993,金武 2003)。西表島
206
西部では、発掘が行われた船浦貝塚や上原貝塚で
は上記の特徴と同様な様相を示し、同期の遺跡で
遺跡数
あると考えられる。これらの遺跡で貝塚が確認さ
れているように、この時期には眼前に広がるサン
ゴ礁のリーフ内の魚貝類が食生活において重要な
役割を果たしていたと考えられ、海岸の砂丘に遺
跡が立地する傾向はこのような状況を反映してい
ると思われる。
また、この時期の遺跡からは、焼石が大量に検
平均標高(m)
10
50
8
40
6
30
4
20
2
10
石灰岩丘陵
・台地(1類)
海岸低地
・低砂丘地(2類)
山の斜面(3類)
1.0
0.8
0.6
0.4
0.2
0.0
出されることも特徴の一つであり、アース・オー
ブン(地炉)やストーン・ボイリングなどといっ
た調理方法が用いられたと考えられている(金城
0
Ⅱ期
Ⅲ期
Ⅳ期
0
図 4-2 西表西部地域の遺跡立地 ( 時期別 )
ほか 1994, 金武 2003)
。西表島西部においても塩田遺跡やカーダ川河口貝塚などでは焼石が大量に発見されて
いるが、これらの遺跡は未発掘であり、当該期の遺跡であると断定することはできない。この点に関連して島袋
綾野氏は、近世以降の通耕時に利用された仮屋的位置づけの場所には、人工遺物が残らず食糧残滓だけが遺存す
ることで無土器時代遺跡と誤認される可能性があると指摘しており(島袋 2005)、Ⅱ期の遺跡についてはその
分布や性格について今後検討が必要であろう。
② Ⅲ期の遺跡の立地環境 この時期には、1 類である石灰岩丘陵や台地に 5 遺跡が形成され、2 類(海岸低地・
低砂丘地)にも 4 遺跡が形成されている。つまりⅢ期の遺跡はその立地環境から、1 類に分類される船浦遺跡・
浦内フチュクル遺跡・上村遺跡・慶来慶田城遺跡と2類に分類される旧ヒナイ部落遺跡・トゥドゥマリ浜遺跡・
マヤマ遺跡・成屋遺跡の2つのタイプに分類できる。
1 類のなかで発掘調査が行われているのは上村遺跡、慶来慶田城遺跡の二遺跡のみである。これら二遺跡につ
船浦遺跡と浦内遺跡においては、ともに類須恵器の採集報告がある(沖縄大学沖縄学生文化協会 1970,豊見山
1994)
。類須恵器は、11 ∼ 13 世紀の間に鹿児島県徳之島のカムイヤキ古窯跡群で生産されたもので、貿易陶
磁器の大量流入に伴って、次第に姿を消していく中世陶器である(池田 2005)。八重山諸島の遺跡においても、
波照間島の大泊浜貝塚(金武ほか 1986)や石垣島のビロースク遺跡(金武ほか 1983)からの出土報告がある
ように、Ⅱ期からⅢ期の初めにかけての遺跡より出土している。また、浦内フチュクル遺跡からは 13 世紀末∼
14 世紀中に位置づけられる白磁ビロースクタイプの碗が採集されており、口碑伝承もないことを根拠に古い時
期の遺跡であろうとされている(豊見山 1994)。上記の遺物の年代観からは、1類の遺跡の形成が 13 世紀末か
ら 14 世紀の中頃にまで遡る可能性が考えられる。また 2 類の遺跡のうち発掘調査が行われたトゥドゥマリ浜遺
跡と成屋遺跡の形成年代については、いずれも 15 世紀∼ 16 世紀と考えられており(竹富町教育委員会 2003,
三上ほか 1987)
、Ⅲ期の遺跡については1類と 2 類の間で形成年代に差がある可能性を指摘できる。
次にこの時期の遺跡の立地環境について、生業活動との関係から考察してみる。Ⅲ期には、石垣島のビロース
ク遺跡のⅡ層で 13 世紀の中国陶磁器とともに、炭化米や炭化麦、また、穂つみ具と考えられるクロチョウガイ
製の貝製品が出土しており、この時期には八重山諸島ではすでに農耕が行われていたと考えられているが(金武
ほか 1983,金武 2003)
、Ⅲ期の西表島西部地域の遺跡からは、農耕に関係する遺構や、イネやアワ等の植物遺
存体は確認されていない。しかし、
『李朝実録』所収の「成宗大王実録」に記された 1477 年の漂流した済州島
(3)
漁民の見聞録中に西表島における稲作や粟作に関する記載が散見されることから(李 1972) 、この時期には
イネやアワなどの穀物栽培を伴う農耕が行なわれていたと考えることができる。ここでは、このような農耕の存
207
第四章
いてはすでに第 1 章第 1 節において出土遺物による年代観を紹介ているので、他の遺跡について概略を述べると、
在を 15 世紀末以前に想定しうるのかについて、農業経営において最も重要な土壌に着目しその存在について考
えてみたい。
西表島西部地域の土壌は大きく分類して、国頭マージ・島尻マージ・水田土壌(海成沖積土壌)と呼ばれる三
つに分類することができ、面積の 90%以上を強酸性で肥料分が少なく、保肥力が低い国頭マージが占める(八
重山農業改良普及所 1981)
。次に、
島尻マージは石灰岩の風化土壌であり西表島西部では石灰岩丘陵や台地付近、
つまりⅢ期の 1 類の遺跡が立地する環境の周辺にのみわずかに分布している。この島尻マージ土壌は、国頭マー
ジよりも肥沃な土壌でありアルカリ性に富むことから、ムギやアワの栽培に適しているとされる(安里 1998)
。
またその基岩である石灰岩の性質上から透水性が高いことから(宜保・宮城 1977)、焼畑経営に適当な土壌で
ある。つまり、Ⅲ期の 1 類の段階でこのような場所を選択的に利用していたのであれば、それは当時すでに焼
(4)
畑経営によるムギやアワ、もしくは陸稲などの焼畑作物を栽培していた可能性が考えられるのである 。
それに対して、Ⅲ期の 2 類の遺跡は、水田土壌に隣接して立地している。水田土壌は海岸に面した沖積地に
みられる砂質土であり、沖縄では「カニク」などと呼ばれる(八重山農業改良普及所 1981)。先述した「成宗
大王実録」の記載からは、当時この地域では稲作が粟作に比べ卓越し、また村落全体で相当な量を生産していた
(3)
ことがうかがえる 。また同記録には、波照間島、新城島、黒島といった島々には水田がなく稲米は西表島と交
易して入手しているという記載もみることができる(李 1972:pp.458-486)。上記の島々(波照間島・新城島・
黒島)は、島全体がサンゴ石灰岩で形成されているために水田耕作に不適当な島々であることから、西表島に稲
米を求めたのであろう。以上のことからは、15 世紀の後半には西表島での水稲農耕が活発に行われており、他
島からの需要に応じられるほどの生産量をもっていたことがうかがえる。つまり、このような社会的背景を考え
ると、Ⅲ期 2 類の遺跡の立地については、水田の開墾と継続的に維持する必要性をその背景として考えること
ができるのではなかろうか。そして、この傾向は後続するⅣ期により顕著にあらわれることになる。
③ Ⅳ期の遺跡の立地環境 Ⅳ期の遺跡の立地環境は、1 類が 4 遺跡、2 類が 9 遺跡、そして 3 類(山の斜面に
立地する遺跡)が 2 遺跡である。
第四章
Ⅳ期の遺跡の立地環境の特徴として、次の二点をあげることができる。まず一点目は、2 類の占める割合が高
いことである。Ⅳ期における 2 類の遺跡の立地環境の特徴は、網取遺跡と同様に水田耕作が可能な後背湿地を
持つことが多いことで、このことは、17 世紀代に米の収穫高を基準とする幕藩体制下に薩摩藩を介して組み込
まれたことによって、水田の開墾が必然化されたうえ、水田耕作を維持する必要性が生じた近世の八重山社会の
状況を反映しているものと考えられる。そして二点目は、Ⅱ期・Ⅲ期にみられない 3 類の遺跡が登場すること
である。3 類の遺跡は、鹿川遺跡と崎山遺跡の 2 遺跡であるが、これらはいずれも崎山半島に位置する。鹿川村
の形成についての詳細は不明であるが、崎山遺跡の村立てについては、西表島の西北部に村落がなく異国船の監
視と難破船救助のために村落の創立が必要であったことや、良港があること、また波照間島の人口調整などといっ
た政治的な理由から 1755 年に創立されたとされる(川平 1990)。3 類が出現する経緯については、このような
政治的な要因を考える必要があろう。
(3)遺跡の立地傾向からみた生業活動の復元モデル
以上、現在までの考古学的成果を考慮しつつ、遺跡の立地環境の分析をもとに、その生業活動についての予察
を行ってきたが、
それらをまとめたものが表 4-2 である。この表をもとに、いくつかの所見を総合し小結としたい。
まずⅡ期であるが、この時期の遺跡においては農耕の証拠がなく、貝塚の形成などからは活発な海産資源利用
を行う狩猟採集を基本とした生業活動が想定できる。この時期の遺跡は、海岸砂丘へ分布する傾向が認められる
が、その要因については上記のような生業活動を想定した場合、合理的な解釈が可能である。また、その分布範
囲は中野西崎から船浦湾までの海岸線に集中がみられることから、西表島北部から鳩間島の間に広がるサンゴ礁
域を主な漁場として、この周辺一帯をベースに狩猟採集を主とした生業活動が営まれていたと考えられる。しか
208
表 4-2 西表島西部地域の遺跡の立地環境からみた生業活動の復元モデル
暦年代
時期
主な遺跡立地 [ 土壌 ]
(世紀) Ⅱ期 Ⅲ期 Ⅳ期
4
∼
11
海浜砂丘
12
主な生業活動
狩猟採集が主体
主な遺跡の形成時期
上原貝塚・中野西崎貝塚
船浦貝塚
?
13
14
15
石灰岩丘陵・台地
[ 島尻マージ ]
焼畑を主体とした農耕
が行われる
上村遺跡・慶来慶田城遺跡
トゥドゥマリ浜遺跡
農耕へ移行
16
海浜砂丘・海岸低地
18
船浦遺跡・浦内遺跡
旧ヒナイ部落遺跡
?
稲作・畑作の複合的な
17
浦内フチュクル遺跡
成屋遺跡
船浮遺跡
[ 水田土壌地に隣接 ]
網取遺跡・鹿川遺跡
または
山の斜面等
・マヤマ原遺跡
納税の為に水田耕作の
割合が増加
崎山遺跡
第四章
19
し、先述したように無土器遺跡の分布や性格については、不明な点が多く今後検討を要する。
Ⅱ期の終末からⅢ期の初めまで西表島西部地域では遺跡が確認されておらず、その間の様相については推定
することができないが、おそらく 13 世紀末から 14 世紀にかけては、遺跡がⅡ期のように海浜砂丘上ではなく、
石灰岩地質の丘陵や台地、半島上の比較的高所に形成される傾向がみられる。これらの地点の周辺には焼畑に適
したアルカリ性土壌地があり、このような場所を選択的に利用していたのであれば、焼畑経営によるムギやアワ、
もしくは陸稲やイモ類などの焼畑作物を栽培していた可能性がある。また、15 世紀から 16 世紀にかけての水
田土壌地に隣接する海浜砂丘や海岸低地に遺跡が立地する傾向は、「成宗大王実録」の記載を参考にすると、水
田の開墾と継続的に維持する必要性をその背景として考えることができる。そして少なくとも 15 世紀末の段階
では、同記録に記されているような、水稲耕作や家畜飼育を伴う複合的な農耕形態が形成されていたのであろう。
その後、水田土壌地付近への遺跡の形成がより顕著になることから、水田の開墾とその維持・管理体制の強化が
進行したと考えられる。恐らくこの状況から、薩摩侵入後の琉球王府によって 17 世紀に施行された米を基本と
した租税制度に組み込まれるその過程で、遺跡の分布域が拡大傾向を示すとともに、崎山半島への居住を伴う持
(5)
続的な居住が開始されたのではないだろうか 。
そして、18 世紀以降には、王府による寄百姓政策によって人口調整や村の管理の為といった政治的な要因か
ら強制的に村立てが行われるようになり、上原村や崎山村といった村々が創立されることとなる。その結果、西
209
表島西部地域における海岸線のほぼ全域に村が点在するかたちになり、各地で水田耕作や牧場経営による家畜の
飼育が行われるようになったのであろう。
以上が、遺跡の立地環境の分析をもとに作成した環境と生業活動との関係についての復元モデルである。しか
し、このモデルは採集遺物などの年代観などを参考にした予察にすぎず、今後の調査成果によって訂正されるべ
き部分を多分に含んでいることを断っておかねばならない。
3.西表島西部における水田耕作とマラリア
次に西表島西部とマラリアの関係について考える。ここでマラリアの問題を取り上げるのには以下の理由があ
る。すなわち八重山諸島におけるマラリアの起源については、1530(亨禄 3)年頃に西表島西部仲良川の 「 ハ
ナリミジュ 」 にオランダ船が漂着したのが始まりであるという口碑があり(西表防遏班 1936,西郷 1941,仲
(6)
松 1942,吉野 1946,那根 1971) 、近世の八重山諸島においては、マラリアの無病地であったサンゴ石灰岩
で形成された竹富島や鳩間島に居住地を置き、水田耕作のためにマラリア有病地に通う「遠距離通耕」が存在し
ていたことが報告されていることから(仲松 1942,浮田 1974)、村落の形成についてマラリアが大きく影響し
ている可能性が考えられるからである。本節では、前節までにおこなった遺跡の立地環境の分析結果を参考に、
水田耕作とマラリアの関係性について考察を行う。
(1)マラリア起源説の概要
まずこのマラリア起源説について検討を行う。この説については、1936(昭和 11)年に西表島防遏班が発行
した『西表島概況』
(西表防遏班 1936)中の記載が詳しく以下に抜粋する。
而して紀元二一九一年天文年間、今を去る約四百四年頃 「 オランダ船 」 本島近き 「 パナリミジュウ 」 今の
内離島と外離島との間、即ち仲良港の入口に漂流せしことあり。
当時の役人首里大屋子慶来城用尊氏は、三反帆を漕ぎ出し 「 オランダ船 」 に行きしに手真似、足真似を以
第四章
て漸く漂着の理由を知り、如何にも気の毒に思ひ帰宅後、野菜や肴、薪木等を送り、更に又牛六頭、白米三
石を与へたるに 「 オランダ人 」 も其の厚意に感謝し其の欲する処を尋ねしに慶田城氏は 「 オランダ船 」 に飼
養せる牝、牡、二匹の犬を所望せり、依て 「 オランダ人 」 は喜びて之を与へたり。用尊氏等之を持ち帰り飼
ひたり。之が八重山に於ける犬の始まりなりと伝う。
而して此の 「 オランダ船 」 渡来後漸次 「 マラリア 」 発生し今を去る百三十一年頃、即ち我が天命六年頃よ
り猖獗を極め多くの人命を奪ひ次第に人口減じ遂に廃村等も続出せる模様なり。
抑当地の如き絶海の孤島たる交通不便の土地が始めて外来船(恐らく南洋の 「 マラリア 」 地帯を経由せる)
と交通し其の当時保有者の乗込み居りて夫れより感染せしものならんと推測せらる。
上記の記載を吟味すると、
前半部(第一・二段落)の 「 オランダ船 」 が「ハナリミジュ」に漂着するくだりは、
『慶
来慶田城由来記』
(石垣市総務部市史編纂室 1991:p.5)にあるオランダ船漂着の逸話の記載とほぼ内容が一致す
ることから、上記文書を典拠として引用した可能性がある。しかし、第三段落のマラリア発生のエピソードにつ
いては、
『慶来慶田城由来記』に該当する記載はなく、その出典が不明であるが、後半部の 「 天命六年頃 」(1786
年頃)の前後の時期から『球陽』や『八重山島年来記』などの文書資料に 「 疫癘 」・「 瘟疫 」・「 時疫 」 といった
疫病に関する記載が頻繁に見られることから(波照間 1989)、こういった諸文献の記載からは上記の起源説に
記されたような状況を肯定的に捉えることができる。しかしいずれにしても 「 此の『オランダ船』渡来後漸次『マ
ラリア』発生し……」 の部分については、その典拠が明確でなく口碑伝承によるものか推測によるものかは判然
としない。
210
そして第四段落は、マラリアの具体的な感染源についての記載であるが、「 推測せらる 」 という記載がみられ
ることから、西表島防遏班の推測によるものである。
上記の西表島防遏班の他に、「 ハナリミジュ侵入説 」 について触れたものとして、1941(昭和 16)年の西郷
親盛、1942(昭和 17)年の仲松彌秀、1946(昭和 21)年の吉野高善、1971(昭和 46)年の那根武のものが
ある。これらは、いずれも 「 記録ニ依レバ……」(西郷 1941)、「 口碑に依ると……」(仲松 1942)、「 口碑に依
れば……」(吉野 1941)
、
「 西表島の慶来慶田城の由来記や伝説によると……」(那根 1971)という前置きに続き、
西表島防遏班の記載より簡略化されてはいるが、いずれもほぼ同様の見解が提示されている。これらの記載につ
いても具体的な出典は示されておらず、西表島防遏班が発行した『西表島概況』の記載の引用である可能性があ
る。以上のことから、「 ハナリミジュ侵入説 」 については以下のように捉えられる。
「 此の『オランダ船』渡来後漸次『マラリア』発生し 」 というオランダ船の漂着とマラリア発生の時期的な関
係については、口碑によるものであることも考えられ、歴史的な事実を反映している可能性を否定できない。し
かし、「 其の当時保有者の乗込み居りて夫れより感染せし 」 というマラリアの具体的な感染源については、西表
島防遏班による推測であると考えられる。
(2)「 ハナリミジュ侵入説 」 に対する解釈とその検討
八重山の撲滅事業に従事した医学博士の大濱信賢は、著書『八重山のマラリア撲滅』において 「 マラリアの
種類には三種類ありますが、その中の一種は先ずこの漂流船が持って来たと仮定しましょう。それでは他の二種
類は誰が持って来たかという問題が起って来て、収拾が付かなくなるのであります。」(大濱 1968:p.229)と
述べ 「 ハナリミジュ侵入説 」 によるマラリア起源を否定し、牧野清も『新八重山歴史』においてこの論説を支持
している(牧野 1972)
。
大濱による指摘の通り、1531 年頃のオランダの漂着船によって三種のマラリアが一度にもたらされたとは考
えづらく、この反論は適当であると思われる。しかし、仲松彌秀による 「 三日熱、四日熱は其れ以前から存在
したと思われるが、此の 2 種は左まで人類に災害を興へることが少いので、人口の減少を招く事もなかったが、
こるのである 」(仲松 1942:p.64)といった想定に立てば、オランダ船によってもたらされたのが熱帯熱マラリ
アであった場合に(他の二種は別途移入)
、大濱の主張と 「 ハナリミジュ侵入説 」 は矛盾しない。
また、大濱が行った指摘は、西表島防遏班が推測したマラリアの伝播経路に対する反論であり、「 此の『オラ
ンダ船』渡来後漸次『マラリア』発生し……」 というオランダ船とマラリア発生の時期的な関係について否定し
うるものではない。
上記のような伝播時期や伝播経路に関する論争を踏まえて、次にこの問題についての考察を試みる。
(3)遺跡の立地環境から想定したマラリア起源説
ここでは、先に行った遺跡の立地環境の分析から、マラリア起源説について考えてみる。前述したように、Ⅲ
期の遺跡の立地環境には 2 つのパターンがあり、15 世紀から 16 世紀を画期として 2 類(海岸低地・低砂丘地)
に遺跡が立地する傾向がある。これは、
「成宗大王実録」の記載を参考にすると、水田の開墾と継続的に維持す
る必要性をその背景として考えることができるという想定を行った。
ここで、
この 2 類(海岸低地・低砂丘地)へのおそらくは居住を伴った進出が、前項であげたマラリア被害の「発
生」を引き起こしたのではないかという仮説を提示する。八重山諸島のマラリアは、ハマダラカ蚊によって媒介
されていた伝染病であり、この蚊は山から出る清らかな湧水や渓流に繁殖する。また、水田も山の近くの水が得
られるところに開かれており、こういった山があり水があり水田のある場所がマラリアの有病地であったことは
すでに多くの研究で明らかにされている(宮島 1921,千葉 1972,浮田 1974)。近世期より明治期まで賦課さ
れていた人頭税や、1730 年代以降に具志頭親方蔡温によって行われた農地開拓政策は、結果としてこのような
211
第四章
和蘭船によって感染したのは熱帯マラリアであったが為に、其れ以後になって人口減少を来たしたとの疑問も起
マラリア有病地に人々を押しやることになった。こういった状況がマラリア被害の蔓延をもたらし、農村社会の
慢性的な疲弊状況を生み出したことで、幾つもの村が廃村へ至ったとされる(千葉 1972)。更に、水田開発を
含む灌漑施設の整備を伴う稲作開発自体が、
マラリアを伝播するハマダラ蚊の増殖に都合のよい環境を生み出し、
従来マラリア被害の見られなかった土地に新たにマラリアを流行させ、あるいは従来の状態を悪化させている例
が、インドやスーダン、スリランカなど多くのマラリア有病地を有する地域で報告されている(内山 1996)。
こうした事例を勘案すると、西表島において 15 世紀から 16 世紀にかけて起こる後背湿地をもつ海岸低地や
低砂丘地への居住を伴う進出自体が、マラリアの被害の顕在化を引き起こし、それが「発生」という捉えられ方
をされたという想定は成り立たないであろうか。しかしこのような想定を行った場合、オランダ船の漂着前にマ
ラリアが存在したことになり、それ以前にマラリア被害が顕在化しなかった理由の説明が必要になる。この点に
ついて、遺跡の立地する地点の環境的特性とマラリアを媒介するハマダラ蚊の習性から考えてみる。
西表島西部地域においてⅢ期の 2 類の遺跡が形成される以前には、1 類(石灰岩丘陵・台地)に遺跡が立地す
る。このような地点は、石灰岩を基岩とする石灰岩の性質上から透水性が高く(宜保・宮城 1977)、その為に
地表面にハマダラ蚊の繁殖地となりうる水田域や沼地の形成には不向きな環境である。実際に、サンゴ石灰岩で
形成されている竹富島や鳩間島などはマラリアの無病地である。八重山諸島においてはそういった環境差を利用
した無病地に居住地を置き水田耕作の為に有病地に通う 「 遠距離通耕 」 が存在していたことはすでに述べた。ま
た、ハマダラ蚊は夜行性であり、夕方から夜にかけて吸血する習性があることにより、マラリアには夕方から夜
間にかけて感染する可能性が高い。八重山諸島では、日帰り耕作が可能でない場合、耕作小屋を設ける場合があ
るが、このような宿泊を伴う耕作者にマラリア患者が多いという報告(羽鳥 1919,仲松 1942)は、このこと
を裏づけている。
つまりⅢ期の 1 類のような立地に居住地を置いていた場合には、仮に水稲農耕が盛んに行われていたとしても、
マラリア無病地の環境から有病地の環境へ通っていた上記の 「 遠距離通耕 」 と同様の関係が成り立っていた可能
性があり、マラリア被害が顕在化しなかった可能性が考えられるのである。
第四章
(4)小結
前項までに、八重山のマラリア起源説の一つである 「 ハナリミジュ侵入説 」 に対して検証と考察を試みた。そ
の上で、既存のマラリア起源説に対する本論の位置づけをあらわしたのが図 4-3 である。本節では、結論として
これまで行った考察を総合して、「 ハナリミジュ侵入説 」 の解釈について一つの予察を提示し、小結としたい。
まず、「 ハナリミジュ侵入説 」 に対してであるが、まずその伝播経路については、西表島防遏班の推論であり、
大濱信賢の反論により成り立たない可能性が高い。しかし、この時に移入されたのが熱帯熱マラリアであった為
に、その後被害が顕在化したという仲松彌秀の想定に基づいた場合には、ハナリミジュ侵入説を否定することが
できない。そして、
オランダ船による伝播経路を否定した場合にも、「 此の『オランダ船』渡来後漸次『マラリア』
発生し……」 というくだりについては歴史的事実である可能性が否定しきれないことは先にも述べた。その場
合は、「 オランダ船渡来後 」 の時期に、「 漸次マラリアが発生する 」 ための 「 別の要因 」 があったと考えられる。
その要因としては、Ⅲ期の 2 類(海岸低地・低砂丘地)への、恐らく居住を伴う本格的な進出が主な要因では
ないかという推察を行った。このことにより、一日中マラリアの有病地に身をおくことになり、マラリア被害が
飛躍的に増大したことで、それ以降が 「 発生 」 という捉え方をされたのではないだろうか。
内離島への遺跡地点の形成は、祖納半島周辺域における耕地の飽和状態を示している可能性が考えられ、その
後の耕地開拓に伴い耕地の分布範囲の拡大が起こっていった可能性がある。耕地範囲の拡大は、居住地と耕地間
の距離の拡大を伴い、泊りがけの耕作の増加も伴い得る。こういった開拓の拡大傾向と、徐々にマラリアの有病
地環境に生活の舞台が推移していく過程がおそらく、「 漸次『マラリア』発生し 」 という部分を反映しているの
ではないであろうか。そして 17 世紀以降には、人頭税の賦課や寄百姓によってマラリア有病地への耕作や居住
212
暦年代 (世紀)
西表島防遏班による
マラリア起源説の記載
主な遺跡立地
[土壌]
西表島防遏班
(1936)
?
13
1530(嘉靖9)年頃 ハナリミジュにオランダ船が
漂着
16
17
18
本論
?
?
石灰岩丘陵・
台地
[島尻マージ]
14
15
仲松彌秀
(1942)
1786(天命6)年頃より
猖獗を極め多くの人命が
奪われる
?
移入
海浜砂丘・海岸
低地
[水田土壌地に
隣接]
または
山の斜面等
被
害
が
発
生
移入
少
数
だ
っ
た
被
害
が
拡
大
少
数
だ
っ
た
被
害
が
拡
大
19
三日熱マラリア・四日熱マラリアの被害
熱帯熱マラリアの被害
マラリア被害に関する想定
図 4-3 マラリア起源説における本論の位置づけ
に人口減じ遂に廃村等も続出せる模様なり 」 といった状況に陥っていったと考えられる。
「 ハナリミジュ侵入説 」 の 「 此の『オランダ船』渡来後漸次『マラリア』発生し……」 という口碑が歴史的事
実であったと仮定した場合、以上の予察が可能であると考える。
4.まとめ
以上、2 項で周辺遺跡の分布や立地環境の分析から、環境と生業活動の関係についての復元モデルを提示した。
また、3 項ではこのモデルと密接に関わるマラリアの問題を取り上げ、生業形態と環境との関わりについて考察
を行った。最後にここでは、上記のモデルを参考に、網取遺跡の形成について考えてみたい。
網取周辺の遺跡の分布から網取遺跡をみてみると、2 項で述べたように、Ⅲ期からⅣ期にかけて遺跡地点が崎
山半島に至っている。Ⅲ期の 2 類の段階で内離島へ成屋遺跡が形成され、その後Ⅳ期にかけて崎山半島へ遺跡
が形成されることから、恐らくⅢ期の 2 類の段階以降に、祖納半島周辺域から西方への耕作地の拡大が起こっ
ていったと考えられる。そしてその過程で、網取集落の後背湿地も水田としての利用が行われるようになった可
能性がある。少なくとも 17 世紀中頃には『宮古・八重山両島絵図帳』(下地 1973)に船浮村・網取村・鹿川村
の存在が記されていることから、この地に「村」が存在していたと考えられるが、発掘調査の成果からはこの時
期における本格的な居住の痕跡は見いだせず、その「村」としての実態については更なる調査が必要である。
網取遺跡は、典型的な 2 類に属する海岸砂丘上に立地し、遺跡の東側後方には水田耕作が行われたと考えら
れる後背湿地が広がる。
遺跡の立地環境と本論で想定を行った周辺遺跡の展開を考えると、
『わが故郷アントゥリ』
213
第四章
が強いられるようになり、「 今を去る百三十一年頃、即ち我が天命六年頃より猖獗を極め多くの人命を奪ひ次第
(山田 1986)に記載された水田耕作を目的に慶田城村の配下の村人達があちこちから入り乱れて網取の水田耕
作にあたっていたという状態は整合性を持って受け止めることができる。水田耕作の開始時期やその実態につい
て考える上でも、本調査における水田域の調査成果は興味深い。今後、村落における居住の形態と時期の追究と
ともに、水田耕作の実態の解明を進めることで、集落形成に関する具体的な実態が明らかになるであろう。より
広い視点で西表島への水稲農耕の技術的な伝播時期や経路、そしてその定着する過程を追求することも今後の重
要な研究課題である。本論で予察を行ったⅢ期の 1 類から 2 類への遺跡の立地環境の変化とその背景を考える
上で、こうした作業は必須だと考えるからである。
また、網取集落においてもマラリアが深刻な陰を落としていたことが、『わが故郷アントゥリ』(山田 1986)
に書かれている。そのような環境は近世初頭にまで、あるいはさらに以前の中世段階にまでさかのぼるのであろ
うか。ここで展開したマラリア起源説に対する想定は、水稲農耕農耕が広域的に導入される以前における数種の
マラリアの存在ないし他地域からの移入を前提にしており、もし他地域からの移入であるならば、その伝播時期
や経路などの問題も今後の研究課題となる。
本論で遺跡の立地環境と生業活動との関係性を通して見えてきたのは、島の環境とそこに暮らした人々、そし
てそれらに媒介される形で展開した生業活動の関係性である。本論では、その関係性について一つのモデルを提
示した。しかし、このモデルを八重山全体に適用することは不可能であろう。というのは、八重山諸島には山が
ちで水が比較的豊かな高島と、山も川もない隆起サンゴ礁でできた低島が混在するからである。「成宗大王実録」
(7)
などに記載された島々の交流は、各島間の自然環境の差異に起因していると考えられる 。そして「遠距離通耕」
やマラリアの問題もまた、自然環境と人々の活動の相互作用が生み出した産物であると考えられる。この地域に
おける人々の文化や生活を考える上では、人々と環境との相互作用の解明という本プロジェクトの基本方針が有
効であり、今後の研究の上においても重要な視点であることを強く感じる。
【註】
第四章
(1)西表島西部ではⅠ期に比定できる遺跡は確認されていない。
(2)同図には、「ふなうけ村」の東側の対岸に「なるや村」の記載がある。
『西表島の民俗』に「成屋村は船浮港の東岸の
ユシタバル、フナリヤに在ったが、……」(星 1981:p.17)との記載があることから、現在この地点において遺跡が発
見されていないが、今後見つかる可能性があると考えられる。尚同絵図中に、記載がない遺跡地点についてはその理由と
して二つのことが考えられる。まず一つは、絵図が製作された 1702 年の時点で村立てされていない場合で、上原村と崎
山村がこれに該当する。『八重山島年来記』(石垣市総務部市史編集室 1999)によると、上原村は 1750 年(乾隆 15)に、
崎山村は 1755 年(乾隆 20)に村立てされたことが記されている。そして、もう一つの理由は村の下位の単位である「小村」
であるために記載がされなかったという可能性が考えられる。1768 年(乾隆 33)に首里王府の名で、八重山の在藩・頭
に布達された『与世山親方規模帳』に以下の記載がある。「……、
且上原村之儀、小村数間遠有百姓等諸公事村小役等致難儀、
……」(石垣市総務部市史編集室 1992:p.52)、上記の記載は、上原は小さな村々が遠く離れていて、百姓らは種々の公
事や村の小役などで難儀しているということをあらわしており、中野遺跡や中野西崎遺跡などはこれらにあたるのではな
いかと考えられる。
(3)伊波普猷は「成宗大王実録」の記載で西表島は「所乃是麼」と記載されており、言語学的にこれが現在の「祖納」集
落の発音をあらわしたものであるとしている(伊波 1938)
。また、同文を和訳した李熙永による記載中の西表島の農耕に
関する部分を以下に引用する(李 1972:p.457)。「(一)
、稲と粟を用う。粟は稲の三分の一に居まる。所収の禾は近居の
閑地に積む。高さは倶に二丈許りなり。同じき里人は一つの処に聚積す。多きものは或は四五十余所に至る。
」
(4)Ⅲ期 1 類の畑作に適した島尻マージ土壌地への遺跡の分布傾向は、15 世紀の祖納半島で粟作に対して稲作が卓越し
ていたとの記載が「成宗大王実録」の記載中あるように、必ずしも、農耕形態における畑作の比重の高さを顕すものでは
ない。船浦遺跡・浦内遺跡・浦内フチュクル遺跡・上村遺跡・慶来慶田城遺跡といった遺跡地点の付近にも、水田適地で
214
ある湿地帯があり、畑作・稲作の双方を行う複合的な農耕形態を有していた可能性がある。沖縄本島のグスク時代の遺跡
の立地傾向から安里進は、石灰岩台地の縁に遺跡の立地が集中する傾向を、自然災害に見舞われても壊滅的な打撃を受け
ない為の 「 保険 」 として、意図的に複合農耕体制をとった為であるという推定をしており(安里 1998)
、西表島西部地域
のⅢ期の 1 類の遺跡分布の様相からは、安里の推定を肯定的に捉える事ができる。
(5)崎山半島には、遺跡としては未確認であるが近世以前の古村落として「ピサド村」
、「マイムト村」、「ウービラ村」と
いう村々の伝承がある(安渓 1977,星 1980・1982)。これらの村々の伝承の存在から、近世以前にすでに人々がこの地
に居住地を求めていた可能性がある。しかし、これらの村については本格的な調査がされておらず詳細が不明である。
(6)西表島の西部、祖納・白浜と外離島・内離島の間の海域を方音でパナリミジュという(石垣市史総務部市史編集室
1991)。
(7)八重山諸島における高島と低島の交流については、安渓遊地による論考(1988)に詳しい。
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215
第四章
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第四章
217
表 4-1 西表島北・西部の遺跡一覧
遺構・遺物
No.
遺跡名
種別
時期
立地
1 船浦遺跡
散布地
Ⅲ期
石灰岩丘陵
10
石垣
2 船浦貝塚
貝塚
Ⅱ期
低湿地
2-3
3 船浦スラ所跡
標高 (m)
遺構
石器
貝製品(※ 2)
貝塚
石斧・推石・凹石
貝斧・有孔製品
炉跡・石列遺構
砥石
有孔製品
有孔製品
造船所跡
Ⅳ期
海岸低地
1-5
4 旧ヒナイ部落遺跡
散布地
Ⅲ期
海岸低地
2-10
5 塩田遺跡(貝塚)
貝塚
Ⅱ期
低砂丘地
2-3
6 上原貝塚
貝塚
Ⅱ期
低砂丘地
2-3
7 上原宇那利遺跡
散布地
Ⅳ期
丘陵台地
15-20
8 上原部落内遺跡
集落跡
Ⅳ期
海岸低地
2-3
9 カーダ川河口貝塚
散布地
Ⅱ期
海岸砂丘
2-3
10 中野貝塚
散布地
Ⅱ期
低砂丘地
5
11 中野遺跡
散布地
Ⅳ期
丘陵台地
8
12 中野西崎貝塚
散布地
Ⅱ期
低砂丘地
5
●
貝斧
13 中野西崎遺跡
集落跡
Ⅳ期
低砂丘地
2-5
磨石
貝斧・利器
14 ウナリ崎遺跡
散布地
Ⅳ期
丘陵台地
20
15 浦内遺跡
集落跡
Ⅲ期
丘陵台地
20-30
16 浦内フチュクル遺跡
散布地
Ⅲ期
丘陵上
30
17 浦内部落内遺跡
集落跡
Ⅳ期
低砂丘地
5
18 トゥドゥマリ浜遺跡
集落跡
Ⅲ期
低砂丘地
5
19 カトゥラ貝塚
推石
貝塚
石斧
貝斧・利器・
有孔製品
貝斧・有孔製品
利器
貝塚
利器
石斧・凹石
古墓
有孔製品
凹石
有孔製品
第四章
貝塚
Ⅱ期 ( ※ 1)
低砂丘地
-1
20 多嘉良遺跡
集落跡
Ⅳ期
海岸低地
5-15
貝塚
凹石
21 星立部落内遺跡
集落跡
Ⅳ期
海岸低地
2-3
22 上村遺跡
集落跡
Ⅲ期・Ⅳ期
丘陵地
20-30
炉跡・石積
凹石・石皿・砥石
有孔製品
23 慶来慶田城遺跡
集落跡
Ⅲ期・Ⅳ期
丘陵地
20-30
石積・石組遺構
石斧・凹石・砥石・硯
有孔製品
24 マヤマ原遺跡
散布地
Ⅲ期
海岸低地
2-5
25 成屋遺跡
集落跡
Ⅲ期
低砂丘地
2
溝状遺構・古墓
●
有孔製品
26 船浮遺跡
集落跡
Ⅳ期
海岸低地
2-3
27 網取遺跡
集落跡
Ⅳ期
海岸低地
2-3
28 鹿川遺跡
集落跡
Ⅳ期
山の斜面
2-90
屋敷跡・石垣・墓地
29 崎山遺跡
集落跡
Ⅳ期
山の斜面
2-100
屋敷跡・石垣・墓地
屋敷跡・石垣・墓地
石斧・石臼
※ 1 時期について詳細は不明 ※ 2 貝斧はシャコガイ製,利器はスイジガイ製 【出典】
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県教育委員会
218
遺構・遺物
陶磁器
土器
外国陶磁器
●
近世陶磁器
青磁・白磁・南蛮
その他
須恵器
焼石・鉄片
●
青磁・染付
●
●
沖縄・八重山・伊万里
鉄製製品
調査形態
文献
表面調査 1・3・6・10
発掘調査 1・2・3・5・6・13
発掘調査 9
表面調査 1・6
焼石
表面調査 1・2・3・6・13
発掘調査 1・2・3・6・13
●
●
●
●
●
沖縄
表面調査 6
焼石
表面調査 2・3・6・11・13
焼石
表面調査 6・13
表面調査 3・6・13
●
●
●
●
●
●
表面調査 2・3・6・13
表面調査 6・11
●
青磁・白磁・南蛮
●
青磁・白磁
●
南蛮
●
青磁・白磁
表面調査 6
表面調査 1・6
須恵器
表面調査 2・3・6・11
表面調査 10
沖縄
表面調査 2・3
発掘調査 15
パナリ焼
焼石
発掘調査 14
●
青磁・白磁・南蛮
沖縄
表面調査 1・2・3・6
●
青磁・染付
沖縄
表面調査 1・2・3・6
●(パナリ焼含む) 青磁・白磁・染付・南蛮
沖縄・八重山・伊万里 鉄製品・勾玉 発掘調査 2・3・6・8・10
●(パナリ焼含む) 青磁・白磁・染付・南蛮
沖縄・八重山・伊万里
●
●
青磁・白磁・染付・南蛮
●
鉄製品・瓦
●
発掘調査 12
表面調査 2・3・6
発掘調査 6・7
●
パナリ焼
●
沖縄・伊万里
パナリ焼
白磁・染付
沖縄・八重山・伊万里
●
第四章
●
表面調査 3・6
発掘調査 1・3・6・16
鉄製品
発掘調査 3 ・ 4・6
表面調査
6
10. 豊見山禎 1994「西表島」,『ぐすく グスク分布調査報告書(Ⅲ)‒ 八重山諸島』,p66-77, 沖縄県教育委員会
11. 岸本義彦ほか 1995「西表島中野西崎貝塚から発見されたシャコガイ製貝斧」,『文化課紀要』, 第 11 号 ,p.41-60,
沖縄県教育庁文化課
12. 金城亀信ほか 1997『慶来慶田城遺跡 重要遺跡確認調査』, 沖縄県文化財調査報告書第 131 集 , 沖縄県教育委員会
13. 大濱永亘 1999『八重山の考古学』, 先島文化研究所
14. 北條芳隆 2003『西表島カトゥラ貝塚発掘調査実績報告書』, 東海大学総合研究機構プロジェクト「宮古・八重山地域
の総合的研究」考古学班
15. 竹富町教育委員会 2003「建設予定地に埋蔵文化財」,『沖縄タイムス(夕刊)』2003 年 12 月 16 日 , 沖縄タイムス
社
16. 北條芳隆 2004『網取集落の考古学的調査成果と今後の研究戦略』, 東海大学文学部網取遺跡調査団
219
第2節 網取遺跡における海産資源の利用
−先史貝塚と近世貝塚の調査成果から−
1.はじめに
名島弥生
東海大学では 2002 年度から 2005 年度にかけて、東海大学総合研究機構プロジェクト「宮古・八重山地域の
総合的研究」の一環として、西表島西部に位置する網取遺跡において発掘調査をおこなった。調査の結果、本遺
跡には 5 世紀頃の先史時代後期に位置づけられる貝塚と 17 ∼ 19 世紀頃の近世貝塚が、一部重複して存在して
いることが明らかとなった。本稿では両貝塚の調査成果にもとづき、本遺跡における海産資源の利用について検
討する。
2. 貝塚の概要
貝塚の位置、出土状況等については既に第 2 章第 2 ∼ 6 節で詳述しているので、ここでは概要を述べるにと
どめる。
(1)貝塚の位置と出土状況
網取遺跡は、西表島の西部崎山半島の網取湾沿いに位置している(図 4-4)。文献史料によれば、18 世紀以降
集落が営まれていたが、1971 年には廃村となり現在は村跡が残っている。旧集落は網取湾に面する浜堤上、標
高約 3m のところに位置し、その後背に広がる沖積低地には水田が営まれていた。周辺海域にはサンゴ礁が発達
している。貝塚は、旧集落後背の浜堤から水田側に向かってゆるやかに傾斜する地点に位置している。発掘調査
の結果、貝塚は浜堤の方向に沿って東西に設置した F2、J2、J-J1-D2、D1、D と、その南東側に続く K1、K2
トレンチで検出された。
第四章
F2、J2、J-J1-D2、D1 トレンチでは、2 層(Ⅱ a 層)と 3 層から多数の貝類が出土した。にぶい黄褐色で粘
土質の 2 層は、東西にほぼ水平に堆積し、1 ㎡あたり約 100 ∼ 350 点ほどの貝類が出土している。しかし出土
状況はまばらであり、明瞭な貝集中群は確認されていない。他方、旧浜堤(4 層)の直上に位置し、にぶい黄褐
色の砂質層である 3 層は、1 ㎡あたり約 100 ∼ 170 点の貝類が出土しており、サラサバテイやラクダガイなど
の大型貝類からなる貝集積遺構が 2 ヵ所で確認されている。
F2、J2、J-J1-D2、D1 トレンチの南東側に位置する K1、K2 トレンチにおいては、旧浜堤(4 層)の直上に、
暗褐色ないし黒褐色の土層(Ⅱ、Ⅲ層)が確認された。K2 トレンチⅡ、Ⅲ層では、1 ㎡あたり 700 点以上とい
う夥しい量の貝類が検出され、他の 4 トレンチとは著しく様相を異にする。D1 トレンチと K2 トレンチの間に
位置する D トレンチでは、D1 トレンチから続く 3 層の上に、K2 トレンチⅡ、Ⅲ層に類似するⅡ b 層が堆積し
ている状況が確認された。また D1 トレンチから続く 2 層は、Ⅱ b 層のやや上部に堆積していることも確認され
た。従って本貝塚は、性質を異にする 3 つの貝塚が D トレンチ付近において重複しているものと考えられる(図
2-157)
。
(2)貝塚の時期
多量の貝を含む K2 トレンチⅡ、
Ⅲ層では、
主に 18 ∼ 19 世紀に位置づけられる陶磁器類が 13 点出土している。
Ⅱ層出土の中国徳花窯産小椀 (18 世紀末∼ 19 世紀中葉 ) は、3 点から成る接合資料である(図 2-24,2)
。D ト
レンチでは、Ⅱb層から 18 ∼ 19 世紀頃の琉球陶器片が 2 点、Ⅱb層最下部から 17 世紀中頃に比定される肥
前系磁器片が 1 点出土している。一方で F2 トレンチから D トレンチまで続く 2 層(Ⅱ a 層)からは、17 世紀
前後の湧田焼などの陶磁器片や、パナリ焼など近世以降の遺物が多数含まれている。放射性炭素年代では、K2
220
トレンチⅡ層下部のイノシシ骨(Sus.sp)で BP130
30 年(補正年代)、D1 トレンチ 2b 層で B.P.290
40 年(補
正年代)となり、暦年代に換算するとそれぞれ 19 世紀頃と 17 世紀頃となった(図 4-5)。以上の結果から、K2
トレンチⅡ、Ⅲ層、D トレンチⅡb層、および D1 トレンチから F2 トレンチへと続く 2 層は、17 世紀末∼ 19
世紀に属する近世貝塚であると考えられる。
一方で、F2 トレンチから D トレンチまで続く 3 層では、人工遺物は極めて少ない。放射性炭素年代測定結果
では、F2 トレンチ 3 層貝集中群から得られたイノシシ骨(Sus.sp)で BP1590
トレンチ 3 層出土のイノシシ骨(Sus.sp)で BP1620
シ骨(Sus.sp)で BP1540
40 年(補正年代)、J-J1-D2
40 年(補正年代)、D トレンチ 4 層上面出土のイノシ
40(補正年代)が得られている。これらは暦年代に換算すると、いずれも 5 世紀
代に相当する(図 4-5)
。以上の結果から、F2 トレンチから D トレンチまでの範囲に認められる 3 層は、先史時
代後期に相当する 5 世紀代に属するものと考えられる。
3.貝塚出土貝類、魚類の様相
本貝塚は、土層の堆積状況や人工遺物の出土状況、陸獣骨類の放射性炭素年代測定の結果から、5 世紀頃を中
心とする先史時代貝塚と、17 世紀末∼ 19 世紀頃の近世貝塚が、D トレンチ付近において重複していると考え
られる。両貝塚出土資料の特色については、既に第 2 章第 6 節で詳述した。本項ではその概要をまとめ、先史
時代後期と近世における海産資源利用の特色について検討する。
(1)貝類
上述したように、先史貝塚と近世貝塚では貝類の出土密度が、著しく異なっている(図 2-158・159)。先史
貝塚では、大型貝の集積が認められるものの、その密度は約 100 ∼ 170 点にとどまっている。他方、近世貝塚
では中心部分と考えられる D トレンチⅡ b 層、K2 トレンチⅡ層では、約 700 ∼ 770 点と極めて高密度で、夥
しい量の貝類が出土している。また F2 トレンチから D1 トレンチの 2 層においても、貝類の出土状態はまばら
であっても、約 100 ∼ 350 点ほどでやはり先史貝塚より高い。
ドリマスオ科、カラマツガイ科などの小型貝種が比較的多数をしめている(図 2-164 ∼ 167)。近世貝塚では高
密度の K2、D トレンチにおいてはオオベッコウガサが、やや密度の低い F2 ∼ D1 トレンチにおいてはチドリ
マスオ科が圧倒的多数をしめており、密度同様、組成についても層序による差異が認められる。先史貝塚と近世
貝塚における大型貝から小型貝へという変化は、貝類のサイズ組成からも確認できる(表 2-18・20)。各計測値
の平均値で比較すると、ヒメシャコガイ、シラナミガイ、サラサバテイは、いずれの貝種においても、先史時代
から近世にかけて小型化している。
以上の結果から、先史時代後期においては、サラサバテイなどの中・大型の貝種を中心とした採取がおこなわ
れ、近世においてはオオベッコウガサやチドリマスオ科などの小型貝類の積極的な採取がなされていたと考えら
れる。出土量、
密度に認められる差異は、
本遺跡に滞在する期間や、利用人口の差として理解できる可能性がある。
(2)魚類
F2 トレンチ 3 層と K2 トレンチⅡ層は、2.5mm と 5mm メッシュのフルイを使用し、土壌の水洗選別作業を
おこなった。魚類については、両トレンチの分析結果を基準として検討する。なお水洗選別は、現在分析が終
了しているのが 5mm メッシュ資料のみであり、2.5mm メッシュ採取資料については未分析であるため、今後、
分析結果に若干の変動がある可能性はある。
F2 トレンチ 3 層からは魚類 765 点、獣類 354 点、総数 1119 点(186.5 点 / ㎡)、K2 トレンチⅡ層からは魚
類 532 点、獣類 116 点、総数 648 点(144 点 / ㎡)の動物骨が出土している(表 4-3、図 4-7)。貝類は近世貝
塚の方が圧倒的に多かったのに対し、魚類、獣類は減少している。ただし著しく減少しているのはイノシシ類で
221
第四章
貝種組成は、先史貝塚ではサラサバテイなどの中・大型貝種がやや多く、近世貝塚ではオオベッコウガサ、チ
あり、魚類については総じて約 70 ∼ 80%以上と高い割合をしめている。魚類は両層ともに、体長 15 ∼ 20cm
ほどと考えられる小型のブダイ科が主体をしめている。ただし F2 トレンチでは大型のハタ科、フエフキダイ属、
アジ科が比較的多数をしめている。他方、K2 トレンチⅡ層では大型のハタ科、フエフキダイ科魚類は減少し、
小型のニザダイ科やフエフキダイ科、モンガラカワハギ科、ハリセンボン科などが増加している(表 4-4、図
4-6)
。
貝類同様、魚類についても大型から小型へという若干の変化が認められる。魚類の利用は、先史時代後期と近
世のいずれにおいても、小型のブダイ科を中心とする。しかし先史時代には、ハタ科やアジ科などの比較的大型
の魚種も捕獲していたのに対し、近世以降はニザダイ科やハリセンボン科など、小型魚種のより積極的な捕獲が
なされていたと考えられる。
4. 網取遺跡周辺における現在の海産資源利用
表 4-5 は、網取遺跡周辺における現在の海産資源利用について、旧網取集落住民からの聞き取り調査の結果と、
旧集落住民による民俗誌(山田 1986,山田 1992)に基づきまとめたものである。本項ではこれに基づき、本
遺跡出土の主な貝種、魚種の現在の採取場所、採取方法を検討し、本遺跡における海産資源の利用について考察
するうえで参照資料としたい。なお聞き取り調査は、旧集落住民である男性 2 名に 1 回ずつ実施した。民俗語
(1)
彙の採取にあたっては、認識人類学や生態人類学で広く用いられているエリシテーション法を使用した 。
先史貝塚、近世貝塚を通じて出土割合の高いシャコガイ科ヒメシャコガイは、「ギーラー」と呼ばれ、集落前
面に位置するサンゴ礁「マイピー」で主に採取されていたようである(図 4-4)。マイピーは潮が引いてもあま
り干上がらないが、ギーラーは潮がさほど引かなくても深さが膝小僧くらいになれば採取することができ、周年
食べることができたという。
「イーグン」と呼ばれる銛状の道具を、貝と礁の間に突っ込んで採取するため、多
(2)
くの場合、殻は割れてしまうという。殻は捨てて中身だけを持って帰ることもあったようだ 。
先史貝塚で比較的多いサラサバテイは、サンゴ礁「ピー」の切り立ったところ(礁縁)や、テーブルサンゴの
第四章
下などにいるため、潜って捕獲することが多かったという。しかし農業を営んでいる人が、潜水して採るという
ことはあまりなかったようである。また大潮のときは、集落北西の広大なサンゴ礁「ウーピー」に舟で行き、歩
いて採取することもあったという。
近世貝塚で著しく増加しているオオベッコウガサは「カッテー」と呼ばれ、干潮時には海岸の岩場にくっつい
ているのを採取したという。集落周辺では西側の「ユシキバラ」「ヌチカ」や、東側の「ガンパラ」の海岸で採
取したようである。また大潮のときには、崎山や鹿川の漁場の方が大きいものがたくさん採れるので、山を越え
て採取しに行くこともあったという。貝と石の間に鉈の刃部を入れて岩から剥がして採取する。年中採取するこ
とができ、直火で焼くと身がはずれ、それを小さく刻んで食すのが良いという。また殻は、パパイヤやキュウリ
の種を掻き出すのにちょうど良いという。
魚類で最も多く出土しているブダイ科は「イラブチ」と呼ばれ、礁原上でおこなう小規模の追い込み網漁「巻
き網」で捕獲していたという。巻き網は潮が引きかけていくとき、礁原上で深さが膝小僧くらいのときに、3 ∼
5 人でおこなう。5 人でおこなう場合の手順は、次の通りである。
(3)
1 刻みタバコ(の葉を海面に浮かせて)で、潮の流れをみんなで確認する 。
2 1 人が石(礁原もしく一段高くなっている岩場)の上に立って群れを確認する。
3 2 人は網を持ち、
石(礁原もしくは岩場)の上に乗っている 1 人の指導(誘導)によって動く。指導(誘
導)するときには、木の枝を用い、それをふって合図とする。網を持っている人間は、沖のほうから群
れを取り囲んでいく。このとき、残りの 2 人は石(礁原)の上にいる。
4 石(礁原もしくは岩場)の上の 1 人が合図したら、石(礁原)の上の 2 人も追い込んでいく。さらに
222
網を持つ 2 人も一気に網を巻く。
この漁は枝サンゴなどのあるところでは網がひっかかるので、「リーフがコンクリートのようになっている」
ところでないとできない。このため網取集落の面する海域では、
「ウーピー」以外ではできない。崎山や鹿川では、
崎山集落に面する
「ナーピー」
や、
「ウビラ石」
などのある南側の漁場でおこなうという。巻き網漁ではこのほか、
「シ
チュー」
(イスズミ科)
、
「ツノマル」
(テングハギ)、「エーグァー」(アイゴ科)、「トゥガジャー」(ニザダイ科の
一種)などが主に捕獲される。
「ツノマル」や「トゥガジャー」は、近世貝塚で増加しているニザダイ科の一種
である。
先史貝塚で比較的多数をしめている大型のハタ科やフエフキダイ属は、主に釣り漁で捕獲されている。ハタ科
は「ニーバイ」と呼ばれ、満潮時に深い漁場で舟釣りによって捕獲していたという。潮が引くと「魚がさがって
しまう」ため、あまり捕獲できないといわれる。フエフキダイ属は、「ムールン」、「フチナギ」などと呼ばれ、
釣り漁でなければ捕獲できないという。網にかかることもないわけではないが、普通はかからないといわれる。
同様のことは奄美大島小湊集落における聞き取り調査でも聞かれ、ハタ科やフエフキダイ属は主に夜間の舟釣り
漁で捕獲されている(名島 2001)
。
5. 文献史料にみる近世の海産資源利用
近世については、文献史料に当時の海産資源の利用状況をうかがわせる記載がいくつか見受けられる。本項で
はその一部を紹介し、考察の参照資料としたい。
18 世紀頃の『参遣状』によれば、当時の人々は農耕にあまり熱心ではなく、半農半漁的な生活を送っていた
様子がうかがえる(石垣市史編纂室 1995)
。史料 4-1 は、康煕四十三年(1704)の百姓の暮らしに対する取締
り事項を示したものである。それによれば、
「人々が耕作地に小屋を作っておくと、魚鰍いさり用に解体して盗
む者がある」と記されている。
「いさり」とは、夜間に潮がひく際に松明をたいて、サンゴ礁原上や海岸などで
魚介類や海草などを採取する活動を示したものと考えられる。また「村の百姓たちは、魚取り用に木垣をつくり
入れない者が多い」とある。
「魚取り用の木垣」とは、かつて石垣島をはじめ八重山の島々に多く見られた魚垣
のことであろう。喜舎場(1977)によれば、魚垣は「カキィ」と呼ばれ、海岸を囲う形で半円状の石垣を作り、
潮の干満によって中に入って出られなくなった魚を捕獲するというものである。ここで示されているものは、木
と網を使って同様の仕掛けを作ったものと推察される。上記のような記載を見れば、人々は田畑を耕しながら、
潮の干満、
天候などに応じて、
積極的に海へ出て行き、沿岸で採取できる様々な資源を利用していたと考えられる。
ところで、近世の人々は海産資源を自家消費するだけでなく、上納品としても利用していたと考えられる。当
時、税金は主に上納米と上納布で納められていた。しかし 18 世紀∼ 19 世紀頃の『公事帳』(『規模帳』)、『八
重山嶋諸物代付帳』には、様々な海産物の交換価値が「代夫○○人」と記されており、代納品として活用されて
いたことがわかる(史料 4-2)
(黒島 1997・1999)。島袋綾野氏は、八重山諸島の近世遺跡において、浅瀬や河
口域の貝類が主体をしめ大型貝類が少ない例について、一部大型貝類が高い交換価値を持ち、上納品などとして
外部へ持ち出された可能性を指摘している(島袋 2005)。本遺跡においても、大型のサラサバテイは近世貝塚
において極めて少なくなっており、代納品として外部に搬出された可能性も十分に考えられる。
ただし大型貝類の交換価値は、捕獲や輸送に労力を要するにもかかわらず、他に比べて割りの良いものとは言
いがたい。上納される貝類には、身だけで納められるものと、身と殻の両方で納められるもの、殻だけで納めら
(4)
れるものがある。史料 4-2(1769 年布達)によれば、「高尻」(サラサバテイ) は、殻のみの場合、六十斤で
一人となっており、身と殻の両方の場合、五十個で一人となっている。これに対し「平貝」の醤油漬けは、一升
で夫役十二人五分とされている。代納品として認められているものは、必ずしも大型の貝類ばかりではなく、
「月
223
第四章
網を張って、潮時のころには垣の上によじのぼって魚を取っており、無駄なことに手間を費やして農事に念を
(5)
夜みな」
「てらさ」
「はまくり」
「平貝」 など様々で、身だけの場合は醤油漬けや味噌漬けで納められるものもある。
上納品としての海産物については、集落単位の納税状況と各品目の交換価値を照らし合わせ、労力や輸送コスト
などを鑑みたうえで評価していく必要がある。
6.網取遺跡における海産資源利用
以上、貝塚出土の貝類、魚類、獣類の分析結果と、それらにかんする網取遺跡周辺における現在の採取場所、
採取方法、そして文献史料に残る近世八重山における海産資源の利用状況について述べた。本項ではこれらの情
報に基づき、本遺跡における海産資源の利用について考察する。
先史時代後期(5 世紀頃)においては、サラサバテイなどの中・大型貝類が比較的多く、大型貝類の集積遺構
が検出されている。ヒメシャコガイ、シラナミガイ、サラサバテイなどのサイズも、近世貝塚にくらべて大きい。
サラサバテイは特に殻径 90 ∼ 130mm の大型個体が多いが、旧集落住民からの聞き取り調査によれば、これら
はサンゴ礁の礁縁やテーブルサンゴの下などにおり、主に潜水漁によって捕獲されていた。また大潮のときは、
集落北西の広大なサンゴ礁「ウーピー」まで舟で行き、礁原上を歩いて採取することもあったという。シャコガ
イ科のなかで最も多いヒメシャコガイは、
「ギーラー」と呼ばれ、集落東側に位置するサンゴ礁「マイピー」で
主に採取されていた。マイピーでは、潮がさほど引かないときであっても、深さが膝小僧くらいになれば、周年、
シャコガイ科を採取することができたという。
魚類は小型のブダイ科を主体としながらも、大型のハタ科やフエフキダイ属、アジ科などを多く含んでいる。
小型のブダイ科は、主に礁原上でおこなう小規模の追い込み網漁、巻き網漁で捕獲される。一方、大型のハタ科
やフエフキダイ属は、主にサンゴ礁の礁縁∼礁斜面で釣り漁によって捕獲される(名島 2001)。聞き取り調査
によれば、ハタ科は「ニーバイ」と呼ばれ、満潮時に深い漁場で舟釣りによって捕獲していたという。以上のこ
とから、貝類、魚類ともに主にサンゴ礁を利用して捕獲されているが、特に礁原から礁縁付近において、潜水漁
や釣り漁によって、大型のものが積極的に捕獲されていた可能性が高いと考えられる。
第四章
近世(17 ∼ 19 世紀)においては、小型種を含む大量の貝類が密集して出土しており、サラサバテイやシャ
コガイ科なども先史貝塚より小型の資料が多い。小型貝のなかでも特に多いオオベッコウガサは、「カッテー」
と呼ばれ、主に海岸の岩場にくっついており、干潮時には容易に採取できる貝である。網取集落周辺では、西側
の「ユシキバラ」
、
「ヌチカ」の周辺や、東側の「ガンパラ」などで採取できる。魚類は先史貝塚で多かった大型
魚が減り、小型のフエフキダイ科やニザダイ科、モンガラカワハギ科、ハリセンボン科が増加する。ニザダイ科
は小型のブダイ科とともに、主に干潮時に礁原上でおこなう小規模の追い込み網漁、巻き網漁で捕獲されている。
モンガラカワハギ科やハリセンボン科については、同地域における民俗情報はないが、奄美大島の事例によれば
干出した礁原上で採取しやすい魚種である(名島 2001)。文献史料においても、潮の干満に合わせた沿岸での
漁撈活動は、生活の主体を農耕に置きながらも、積極的におこなわれていた様子がうかがえる。近世においては、
先史時代同様、貝類、魚類とも主にサンゴ礁において捕獲されているが、先史時代にくらべ比較的手近な漁場で
ある礁原や岩場での採取活動が、より積極的におこなわれていたと考えられる。一方で、先史時代にくらべ出土
量が極めて少ないサラサバテイのような大型貝類は、その貝殻が夫役の代納品として集落外に搬出された可能性
が考えられる。
7.今後の研究課題
本稿では、網取遺跡における海産資源の利用について、先史時代貝塚と近世貝塚の分析結果をもとに検討して
きた。最後に本プロジェクトの他の調査成果も踏まえて、今後の研究課題について述べたい。
第 1 に先史時代後期の遺跡の利用状況、性格について検討していく必要がある。先史貝塚では、人工遺物や
224
(6)
住居址、炉址など居住の痕跡を示すものは一切確認されていない 。貝塚に限らず他の調査地点、表面採取にお
いてさえもそういったものは全く検出されていない。また年代測定の結果は、おおむね 5 世紀頃にまとまる傾
向にあり、遺跡の存続期間も極めて短かった可能性が高い。このような状況から、本遺跡は居住地として利用さ
れるような拠点的遺跡ではなく、キャンプサイトのような一時的利用の場であった可能性があるのではないかと
考えられる。この問題について検討していくためには、まず同時期の先島諸島先史遺跡との比較研究をおこなう
必要がある。同時期の先島諸島は、土器を持たない無土器文化に相当するが、発掘調査が実施されている他の遺
跡ではシャコガイ製の貝斧や石斧などの人工遺物が出土している。そのような遺跡と比べてどのような特色があ
るのか、遺跡のパターンとして類型化が可能であるかどうか、今後検討していきたい。
一方で太平洋地域との比較研究も、実施していく必要があると考えている。無土器時代の遺跡はいずれも海岸
部の砂丘上もしくは砂浜海岸にいとなまれており、貝塚を形成することが多い。数基の住居址を伴う例もあるが、
炉址や集石遺構のみが検出されることが多い。本プロジェクトの一員である石村氏は、このような遺跡の様相は
南太平洋におけるラピタ期の遺跡に類似していると指摘している(第 4 章第 3 節)。ラピタ期は今から約 3000
年前に位置づけられ、太平洋地域において人々の移動、拡散がおこなわれた時期である。同地域ではそのような
移動生活における生業や、社会システムについて活発な議論がなされている。太平洋地域との比較研究は、これ
まで貝斧や石斧などの遺物レベルでの比較はいくらかおこなわれてきたが、遺跡の様相、景観などを含めた総合
的な検討は実施されていない。太平洋地域における研究成果を参照することは、今後の八重山研究について新し
い視点を得ることにつながると考えられる。
第 2 に近世における海産資源利用の実態について、より詳細に検討していく必要がある。上述したように、
近世では F2 ∼ D1 トレンチに分布する 2 層(Ⅱ a 層)と、そのやや下位に位置する D トレンチⅡ b 層、K2 ト
レンチⅡ・Ⅲ層では、貝種組成、密度が大きく異なっている。層序による差異は、17 世紀∼ 18・19 世紀にお
ける時期的な変化を示している可能性がある。本プロジェクトでは、後背湿地に設置した P トレンチで 17 ∼
18 世紀頃の水田址を検出している。また明確な住居址は確認できていないが、旧集落内に設置した G トレンチ
り徐々に人口が増加し、集落が形成されてきた過程が考えられる。貝塚にみられる海産資源利用の変化は、この
ような集落形成のプロセスと関係しているのかもしれない。
水田開発や定住化のプロセスについては、文献史料から明らかにされることを整理しておく必要がある。『八
重山島年来記』などによれば、1651 年、網取の人口は隣村の舟浮と 2 ヵ村で 38 人と人口が記載されている(史
料 4-3)
(石垣市市史編纂室 1999)
。このことから少なくとも 17 世紀後半には、網取地区の利用が始まっていた
ことは明らかだといえる。ただし人数が正確には把握されず、舟浮とともにカウントされていることから、その
居住人口は極めて少なかったか、もしくは他の集落から通耕をおこなうなどして一時的に利用されていた可能性
が考えられる。18 世紀代になると、1737 年に網取村だけで明確な人数の把握が行われており、小村ながら祖納
村を親村とする 1 集落として成立している状況がうかがえる(史料 4-4)。また 1755 年には、隣の崎山村の村
立てに当たって 62 人出すという記載が見られ、明らかに人口が増加している様相が確認できる。
17 ∼ 18・19 世紀における集落の形成過程と海産資源利用の変化について検討していくためには、近世貝塚
の中心をあらためて発掘し、層序による連続的変化が確認できるのか検証する必要がある。また同時期の先島諸
島の遺跡との比較研究をおこない、類似した状況が確認できるかどうか、検討しなければならない。このほか水
田址や住居址、
墓域などを含めた網取集落全体のより詳細な考古学的調査を実施していく必要もある。その上で、
考古学的調査結果と文献史料、民俗誌資料を総合し、検討していかなくてはならない。
本稿を作成するにあたり、島袋綾野氏(石垣市市史編纂室)、得能壽美氏(石垣市立八重山博物館)には八重
225
第四章
で 19 世紀頃の配石遺構を検出している。これらの調査結果から 17 ∼ 19 世紀頃の本遺跡では、水田開発が始ま
山史研究にかんして多くの助言を賜った。また出土資料同定作業にあたり、西本豊広先生(国立歴史民俗博物館)
、
山田格先生(国立科学博物館)
、角田恒雄氏(国立科学博物館)には、所蔵資料を参照させていただいた。末筆
ながら心より御礼申し上げます。
【註】
(1)エリシテーションとは、調査者があらかじめ準備した絵や写真などをインフォーマントに見せることにより、それ
に関連した様々な情報を引き出すインタビュー方法である。本方法は、参与観察がしにくく定量的データの採取し難いエ
コトーン環境の生業研究において、少なからぬ成果が期待できるものとして注目されている方法である(飯田・名和 2005)。
(2)筆者が奄美大島で実見した例では、通常のイーグン(奄美大島では「トゥギャ」と呼ばれることもある)より小型の、
手銛などを貝と礁の間に突っ込み、ときには金槌なども用いながら、梃子を利用して貝を抉り取っていた。小型の手銛や
金槌などは、イーグン同様、潮干狩りに出かける際、通常、持っていく道具である(野本 1995)。ギーラー採りは、こ
れら手持ちの道具を使って、梃子を利用して採取されたようである。
(3)手順の説明は、インフォーマントの表現をそのまま使用して記述した。
( )内は筆者による補足である。
(4)「さざい」、「高尻」の貝種比定は、得能壽美氏(石垣市立八重山博物館)のご教示による。
(5)「みな」は貝の総称なので、「○○みな」と記載されているものは貝類の一種と考えられる。「てらさ」は琉球列島の
他の地域で「ティラジャ」「テラジャ」と呼ばれることの多いマガキガイであると考えられる。
「平貝」は何に比定できる
か現在のところ不明である。大田(1990)は「タイラギ(ハボウキガイ科)
」の可能性を指摘しているが、現在沖縄に生
息するハボウキガイ科に食用種はない(久保・黒住 1995)
。形態を表現した呼び名であるとすれば、オオベッコウガサ
などのようなカサガイ類を指示している可能性も考えられる。
(6)J-J1-D2、J2 トレンチ 3 層では、10 点前後のパナリ焼破片が検出されているが、これらは全て 3 層上部から出土し
ており、本来 2 層に帰属するものと考えられる。これら 2 層からの流れ込みと考えられる資料を除き、先史時代後期に相
当すると考えられる人工遺物は全く出土していない。
第四章
【参考文献】
飯田卓・名和純 2005「奄美大島北部、笠利湾における貝類知識―エリシテーション・データをとおした人 - 自然関係の
記述」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 123 集 pp153-183
石垣市市史編纂室 1995『参遣状抜書』上・下巻 石垣市史叢書 8・9
石垣市市史編纂室 1999『八重山島年来記』石垣市史叢書 13
大田 静男 1990「石垣島イノーの生物見聞記」『民俗文化』2 号 pp335-350 近畿大学民俗学研究所紀要
喜舎場 永珣 1977「八重山における旧来の漁業」『八重山民俗誌』上巻・民俗篇 pp50-78 沖縄タイムス社
久保弘文・黒住耐ニ 1995 『沖縄の海の貝・陸の貝』
黒島 為一 1997「『公事帳』(『規模帳』)」『石垣市立八重山博物館紀要』第 14・15 号合併号 pp72-105
黒島 為一 1999「『八重山嶋諸物代付帳』」『石垣市立八重山博物館紀要』第 16・17 号合併号 pp86-101
島袋 綾野 2005「近世琉球における「村」と「遺跡」−八重山近世村跡に関する一考察−」
『廣友会誌』
創刊号 pp35-52
名島 弥生 2001「サンゴ礁の漁場の利用−奄美大島小湊湾南側の事例から−」
『民族考古』5 号 pp51 - 67
野本 寛一 1995「サンゴ礁 豊饒の海庭」『海岸環境民俗論』pp45-104 白水社
山田 武男 1986 『わが故郷アントゥリ―西表・網取村の民俗と古謡―』安渓遊地,安渓貴子編 ひるぎ社
山田 雪子 1992 『西表島に生きる―おばあちゃんの自然生活誌―』安渓遊地,安渓貴子編 ひるぎ社
226
干立
祖納
ウーピー
外離島
白浜
0
内離島
網取
マイピー
舟浮
崎山
ユシキバラ
ヌチカ
5km
ガンパラ
鹿川
0
図 4-4
5km
網取遺跡周辺の海岸
Calobrated Age Ranges
D-D1Ⅱb 層
J2・3 層
第四章
K2Ⅱ層
18 ∼ 19 世紀
Labcode001
16 ∼ 17 世紀
Labcode001
5 世紀
Labcode001
D-D1・3 層 Labcode001
F2・3a,3b 層
Labcode001
200
400
600
800
1000
1200
1400
1600
1800
2000
cal AD
1σ
2σ
図 4-5 イノシシ類 (Sus.sp)C14 較年代一覧
227
表 4-3 F2・K2 トレンチ出土動物種 (NISP)
動物種
ウミガメ科
ジュゴン
イルカ類
リュウキュウイノシシ
ヘビ類
ウシ
イヌ
鳥類
カメ類
海獣類?
獣・未同定
獣・同定不可
魚類
合計
F2 トレ 3 層
34
6
表 4-4 F2・K2 トレンチ出土動物種 (MNI)
K2 トレⅡ層
9
1
28
15
149
28
1
1
21
2
14
100
765
1119
5
56
532
648
魚種
F2 トレⅢ層
ブダイ科
25
ベラ科
2
ハタ科
5
フエフキダイ属
5
メイチダイ属
2
ヨコシマクロダイ
2
フエフキダイ科(属不明)
フエダイ属
1
コショウダイ亜科
1
ニザダイ科
4
ハリセンボン科
2
モンガラカワハギ科
3
ウツボ科
1
ミナミクロダイ
アジ科
5
ダツ科
1
マグロ属
サバ科?
1
サメ・エイ類
合計
60
K2 トレⅡ層
16
1
3
1
2
4
1
1
4
5
3
1
1
2
45
図 4-6 F2・K2 トレンチ出土魚種組成 (%MNI)
K2/Ⅱ層
N=45
第四章
F2/3層
N=60
0%
ブダイ科
コショウダイ亜科
サバ科?
10%
20%
30%
ベラ科
ハタ科
ニザダイ科
ハリセンボン科
サメ・エイ類
40%
フエフキダイ属
モンガラカワハギ科
50%
60%
メイチダイ属
ウツボ科
70%
ヨコシマクロダイ
ミナミクロダイ
80%
90%
フエフキダイ科(属不明)
アジ科
ダツ科
100%
フエダイ属
マグロ属
図 4-7 F2・K2 トレンチ動物骨出土量・組成 (NISP)
K2/Ⅱ層
N=648
F2/3層
N=1119
0
228
200
400
600
800
1000
1200
ウミガメ科
ジュゴン
イルカ類
リュウキュウイノシシ
ヘビ類
鳥類
カメ類
海獣類?
獣・未同定
獣・同定不可
ウシ
イヌ
魚類
方言名
Nerita (Linnerita) polita
Nerita (Theliostyla) albicilla ウシノパイアンピター
Lambis lambis
Lambis truncata sebae
ニシキアマオブネ
アマオブネガイ
クモガイ
ラクダガイ
Balistidae
Serranidae
モンガラカワハギ科
ハタ科
ニーバイ
フクリピャー
エーグァー
ノコギリダイ
Gnathodentex aureolineatus ムチイュ
フチナギ
Siganus
アイゴ属
クスク
トゥガジャー
フエフキダイ属の一種 Lethrinus sp.
Acanthurus sp.
クロハギ属の一種
ムールン
Acanthurus sp.
クロハギ属の一種
ツノマル
シチュー
グチィユ
イラブチ
ギゾー
ギーラー
スーギーラー
フエフキダイ属の一種 Lethrinus sp.
Naso unicornis
テングハギ
ブダイ科
Scarus.gen.indet
Scaridae
ヒルギシジミ
Kyphosidae
Gelonia erosa
ヒメシャコガイ
イスズミ科
Tridacna crocea
シャゴウ
ブダイ科の一種
Hippopus hippopus
イモガイ科
ドーミナ
Conidae
マガキガイ
?
Lambis (Harpago) chiragra
Strombus (Doxander)
ユリミナ
luhuanus
スイジガイ
ヤドゥンマリャー
ヤドゥンマリャー
ツキアンピター
アンピター
Neritidae
アマオブネガイ科
?
Tectus niloticus
チチパヤー
カッテー
フチマ
サラサバテイ
Patelloida saccharina
Cellana grata
ウノアシ
オオベッコウガサ
学名
Acanthopleura japonica
貝種 / 魚種(和名)
ヒザラガイ
ウーピー
枝サンゴの中にいる小さい魚。群れをなす。
イソフエフキなど丸っぽい形態のもの。
ムネアカクチビのような形態のもの。
深みのところにいる。
トゥガジャーに似ているが、小さい。
クスクに似ているが、大きい。
角のある大きなイラブチ。
マングローブの中にいる。
石にくっついている。
石にくっついていない。
ユシキバラ付近
水路。
(ウーピー南側付近)
ウーピー
ウーピー
ウーピー
ウーピー
マイピー,ヌチカ
1 年に 1 回、ウルズンの頃(旧 4 ∼ 5 月頃)
、砂地
水路の西側 , ユシキバラの手前
の広がっているところに集まる。
水路の西側あたり
草の生えたところにいる。
(ユシキバラ沖?)
「ピー」(礁原∼礁縁)に生息。角が 5 本ある。
「ピー」(礁原∼礁縁)に生息。
藻の生えているところに生息。
マイピー
日中は砂に潜っているが、月の出る晩に出てくる。 サバザキ
殻口部分がひらべったく牛の足(パイ)のようだ
からそう呼ぶ。
主な捕獲場所
ユシキバラ,ヌチカ,ガンパラ
ユシキバラ,ヌチカ,ガンパラ
「ピー」の切り立ったところ(礁縁)やテーブルサ
ウーピー
ンゴの下に生息。
岩場にくっついている。
岩場にくっついている。
生態・形態にかんする特色
表 4-5 網取地区における漁撈民俗
第四章
229
捕獲方法
食し方・味
その他使用方法
汁物。にがい。
汁物にすると甘くておいしい。
急須
魔よけ
ボタンの材料
干潮時に釣り。箱メガネ使用。
釣り漁
釣り漁
満潮時に舟釣り
釣り
ニンガイに使用。
肝を砕いて焼いて刺身醤油に入れて
食べるとうまい。昔はあまりたべな
かった。
トゥガジャーよりおいしくないが、
くさくない。
干潮時に巻き網 崎山方面でも実施 クスクよりおいしいが、くさい。
干潮時に巻き網 崎山方面でも実施
干潮時に巻き網 崎山方面でも実施
干潮時に巻き網 崎山方面でも実施
採取。
1 年に 1 回集まってきたところを採 ゆでる。殻口から出ている爪を引っ ニンガイ(願い)するとき
取
張って身を取り出し、食す。
にお供えの一種として使用
ゆでて、殻を割って身を取り出し、
干潮時に採取
食す。
舟の上から竿をいれて挟んだところ
を採取。
干潮時、深さが膝小僧くらいのとき
に採取。 さほど潮が引かなくても採
取できる。
大潮のとき舟でわたって採取。
深さが膝小僧あたりのところで採
取。
月夜にたくさん出てくるのを採取
潜水漁もしくは、大潮のときに舟で
渡って採取。
干潮時に採取。大潮のときは崎山方
灰と一緒に炊くと甘くておいしい。
面まで採取しにいくことあり。
干潮時に採取。大潮のときは崎山方 直火で焼いて身を取り、小さく刻ん
パパイヤなどの種掻き
面まで採取しにいくことあり。
で食べるとうまい。
史料4 1
覚
一、 諸人作場所ニ小屋作置候処、魚鰍いさり用ニ解盗候故迷惑仕由候間、堅申付候事
一、 村々百姓中魚取用ニ人夫拾弐、三人入、長丗弐、三尋之木垣之上ニ負揚り魚取候付、
徒ニ隙を尽耕作不念仕候者多有之候間、法度被申付度由大地六ヶ村世持人・作当
被申出候付、各致詮議為引捨、堅法度申付候事
﹃参遣状抜書﹄上巻より抜粋
史料4 2
一、さじい高尻之から六拾斤同壱人
一、平かい 物壱升同拾弐人五分
一、諸貝雑漬壱斤半同壱人
一、海老はらミ漬物壱斤同壱人
同壱人
一、屋久かい三ツ
一、高尻五拾ヲ 同壱人
一、月夜ミな壱桝 同壱人
一、てらさ五拾ヲ
同壱人
一、はまくり弐桝ヲ 同壱人
﹃公事帳﹄︵﹃規模帳﹄︶より抜粋
第四章
史料4 3
同
辛
卯
一、八重山島頭数五千弐百三拾五人
内
石垣
弐ヶ村頭数五百五拾六人
那蔵
︵中略︶
ふなけ
二ヶ村頭数三拾八人
あみとり
同二十乙亥
一、崎山村新建、網取村六十弐人、鹿川村□九拾三人、波照間村しか口弐百八十人、祖納
□十人、〆四百五十九人ニ而村建被仰付候
﹃八重山島年来記﹄より抜粋
史料4 4
乾
隆
二
年
丁巳
一
、
慶
田
城
石垣□拾壱里、舟路
内
︶
︵中略 男女四拾九人
網取村
祖納村□南方三里三拾弐町四拾八間、舟路
村廻三町四拾間
﹃参遣状抜書﹄下巻より抜粋
230
第3節「網取貝塚人」はどのような人々であったか?
―海洋資源とヒトの生活史―
石村 智
1. はじめに
わたしたち東海大学の本プロジェクトによって、網取集落には近世以前にもヒトの居住があり、それは 5 世
紀ころにほぼ限定されるということがわかった。かれらはシャコガイやサラサバテイといった大型貝類を採取し、
貝塚を残していったが、石器などの道具や住居の址といった生活の痕跡をまったく残していかなかった。仮にか
れらを「網取貝塚人」と呼ぼう。しかしかれらはまったく謎の人々としかいいようがない。
しかしかれらがただひとつこの地に遺していった足跡である貝塚、そのありかた・構造から、かれらの人とな
りについて探っていきたいと思う。
2. 大型貝類を集積する意味
「網取貝塚人」は貝塚しか残さなかったが、その貝塚はかなりユニークなものである。まず、シャコガイやサ
ラサバテイ、ラクダガイといった大型の貝類が顕著である。そして、F2 トレンチや D1 トレンチでみたような、
大型貝類ばかりを集積したかのような廃棄パターンをしめしていることである。
大型の貝類はいずれも食用に適したもので、これらが食料資源であり、その残滓であることはまちがいない。
しかも、肉量の多いものを選択的に採取している様子がうかがい知れる。たとえばニシキウズガイ科のサラサバ
テイおよびギンタカハマは、サンゴ礁の浅いところで海草をたべて生活しているが、サラサバテイの大型の個体
(殻長 30 ∼ 90 mm のもの)はしばしば水深 20 m ほどのところに棲息している(Abbott and Dance 2000)
。
これらの捕獲には潜水漁がおこなわれた可能性が高い。
家の庭のかざりとして、あるいは灰皿として利用されており、先史時代には貝斧や漁網錘、容器などに利用され
ている。こうしたものが、F2 トレンチのようになんらかの意図をおもわせる配置をしめすことは注目すべきで
ある。これは、単に貝塚が食糧残滓の廃棄の場であるだけでなく、なんらかの儀礼や象徴行為の場でもあった可
能性があるからだ(第1章第 2 節、F2 トレンチの報告文を参照)。
不思議なことに、貝塚からは生活にかかわる痕跡がほとんどみつかっていない。たとえば火をおこした痕跡で
ある炭化物や、
「網取貝塚人」
がもちいたと考えられる石器や貝製品などの人工遺物がまったくともなっていない。
住居の址も不明である。通常、貝塚は日常生活によって生じたゴミを廃棄する場所なので、なにかしらの生活の
香りが感じられるものである。しかしこの貝塚は、まったく生活感のない、特異な貝塚といえよう。
こうした事実を重ねあわせると、網取遺跡の貝塚の特殊性があきらかになる。つまり、特定の大型貝類ばかり
を、場合によっては意図的に配列しながら集積しつつも、ほかの活動の痕跡がいっさい見当たらないのである。
網取遺跡の全体を見渡しても、5 世紀の無土器時代の痕跡は貝塚のほかにはみつかっていない。住居のあとが
別のところにあり未発見である可能性もいなめないが、それにしても表採遺物においてすらなにもみつかってい
ないことからすると、網取遺跡の場はこの不思議な貝塚としてのみ機能していた可能性が高いのだ。もし「網取
貝塚人」の住居がここではなく、どこか別の場所に位置していたと考えるのなら、さしずめ網取遺跡は季節的に
限定して利用された「キャンプサイト」のような場であったとも考えられる。これは近世の「通耕」、すなわち
祖納(慶田城村)を本村としながら、網取を出張耕作の場として利用していたありかたに類似したものである。
そのように考えるなら、この貝塚の特殊性にもひとつの理解があたえられよう。生活の痕跡がないのは、そこ
231
第四章
こうした大型貝類は、食料であることにくわえ、その殻も存在感のあるものだ。現在でも、シャコガイの殻は
に日常的に住んでいなかったからであり、石器などの道具がないのは、そうした道具はすべて本拠地まで持ち帰
られたからと考えられるのだ。
大型貝類ばかりが集中するのは、まさにそうした貝類をターゲットに漁をおこなっ
た場であることをしめしているのだろう。もちろん大型貝類のみならず、ブダイ科・ハタ科・フエフキダイ科・
モンガラカワハギ科などの魚類、F2 トレンチで出土したジュゴン、ウミガメ、リュウキュウイノシシといった
動物もターゲットであっただろう。そして大型貝類や獣骨を集積することは、それらの狩猟・漁労にかんする儀
礼
(収穫祭や感謝祭のようなもの)
の一環であったのかもしれない。さらに、そういった集積は一種のランド・マー
カーの役割をも果たした可能性すらあるだろう。
3. 存続期間が短いこと
つぎに、網取遺跡の貝塚の存続期間について考えてみたい。貝塚からは数点の放射性炭素年代が得られている
が、いずれも 5 世紀ころに収まり、長期間にわたって営まれた可能性は低いと考えられる。
この存続期間の短さも、キャンプサイトとしての網取遺跡の機能とあわせて考えることができる。つまり時期
的にもかなり短い間だけ利用されたと考えられるのだ。
利用が短期でおわった理由としてもっとも想定しやすいのは、資源の枯渇である。ターゲットの大型貝類は、
魚類などにくらべ、とりわけ捕獲圧の影響をこうむりやすい(Wells 1989)。なぜなら、これらの貝種は成長
に時間がかかるし、しばしば群をなして棲息しているので、群棲ごと根こそぎやられてしまうことが多いから
だ。太平洋の他地域では、しばしば捕獲圧が体長の変化に反映することがしめされている(たとえば Swadling
1986)
。これは、大型の個体ばかりが捕獲されるため、より小型の個体へと淘汰されるからである。本遺跡で
は有意な体長変化のデータは確認されていないが、F2 トレンチの「集積遺構」のサラサバテイは、ほかの地点
のものより大型との印象がある。また D トレンチでは、3 層から 2 層にかけて貝類の出土量は増加しているが、
その貝種の内訳をみると、オオベッコウガサやニシキウズ、ムラサキウズといった小型の貝の割合が増加してい
る。このことは、シャコガイやサラサバテイといった大型貝類が減少し、それを補うように小型の貝が捕獲され
第四章
るようになったものと考えられる。
5 世紀以降、近世初頭(17 世紀)にいたるまでの 1,000 年以上のあいだ、網取遺跡には居住をしめす痕跡は
ほとんど残されていない。おそらくは「網取貝塚人」の一時的な居住のあとは、しばらく無人の状態がつづいた
ものと考えられる。つまり、網取遺跡の生活史に
はひとつの断絶が存在したのである。
4.「網取貝塚人」は r 戦略者
このようにみると、
「網取貝塚人」はかなり流
動性の高い人々であったと想定される。大型貝類
やジュゴン、ウミガメ、リュウキュウイノシシと
いった資源を獲得するためだけに限定的に網取遺
跡を利用し、その資源が減少をしめすと、ほとん
どなんの躊躇もなく利用を放棄してしまう、とい
うありかたが見えてくるのだ。なにやら乱暴な資
源の略奪者のようなイメージであり、南洋の楽園
のような環境にマッチした先史時代人という一般
的な理想像からすると好ましくないかもしれな
い。
232
図 4-8 ラピタ人のセトルメントのイメージ図
(Spennemann 1988: 13) 砂丘上に住居をかまえ、その背面には
後背湿地がひろがる。前面にはマングローブ林が展開するが、海
へアクセスする出入口がある。
しかしこのようなヒトの適応のありかたは、けっして珍しいものではない。いまから 3,000 年ほど前に南太
平洋の海洋地域に拡散していったラピタ人についての研究からも、同様のことがしめされている(石村 2005)
。
ラピタ人は、卓越した航海能力をもち、タロイモやヤムイモを栽培する農耕技術や、ブタ・イヌ・ニワトリを
飼育する技術ももつ複合農耕・漁労民であった(図 4-8)。しかしかれらが新しい島に植民して適応する過程に
おいては、農耕よりも狩猟・漁労活動に重点がおかれた。そのため、さまざまな島で鳥類をはじめとする原生種
の絶滅が確認され、貝類の体長変化(減少)も確認されている。セトルメントも、農耕に適した大きな島の平野
部ではなく、海洋資源にアクセスしやすい小島に好んで営まれた。そして島への定着が成功し、人口が増加する
段になってはじめて、生業の中心が狩猟・漁労活動から農耕へシフトしていったと考えられる。
なぜこのようになるかといえば、初期植民の段階では、人口規模も小さく、生産力にも乏しいので、一定の収
穫を得るまでに多くの投資と維持コストを要する農耕が敬遠され、てっとり早く獲得できる天然資源の収奪にむ
かったものと考えられる。人口規模が小さく、人口密度も低い条件下では、仮に一箇所の資源を食い潰したとし
ても、すみやかにそれを放棄して次のニッチへ移動することができる。なぜなら、相対的な天然の資源量が多く
(環境収容力より低いレベルにある)
、
また競合する他集団とのバッティングが少ない(もしくはない)からである。
しかし人口が増加することによって、資源収奪型の生業をそのまま続けていると、天然資源の枯渇をまねき、人
口を支持するのが困難になってくる。また人口密度が増加することで、未開発のニッチをめぐり、集団間の競争
が激しくなってくる。こうなると、これまでのように容易に資源を得ることが困難になり、生業パターンを変化
させて対応することを迫られる。
そうなると今度は農耕のほうが割のいい生産手段となる。人口規模が大きくなると、多くの人間を動員して灌
漑や田畑といったインフラを整備することができるようになり、毎年きまった量の収穫を(以前より)安定して
得ることができるようになる。また、農耕中心の生業になると、以前のように動き回ることは少なくなり、一箇
所に定着して生活するようになる。こうすることで、他集団との抗争を避けることができる。
こうした生業のパターンの変化を、
r 戦略者から K 戦略者への転換という図式でかつてとらえたことがある(石
仮にある無人島にヒトが植民して、そのあ
と人口が増加していった場合、その人口変化
1000
K
のパターンは直線的ではなく、いわゆるロジ
スティック曲線というカーブを描くのが一般
的である(図 4-9)
。最初は右肩上がりに人
口が増えていくのだが、しばらくしてその増
増加しなくなる。この平衡する点が環境収容
力(K)となる。ここで、人口増加のパター
( )
加率はゆるみ、最後には一定の数より人口が
個 800
体
群
密 600
度
N
400
ンには、前半の急激な増加期と、後半の K
点にむかう平衡期の 2 パターンがあり、それ
200
ぞれことなる淘汰がおこなわれると考えられ
る。前半段階では、人口を早く増加させるた
めに人口増加率(r)を高めるという淘汰が
強くはたらき、
後半段階では、
環境収容力(K)
を超えないように人口を安定化させる淘汰が
強くはたらいていると考えられるのだ。この
0
2
4
6
時刻(t)
8
10
12
図 4-9 人口増加モデル ( ロジスティック曲線 )
No=.Rm=1.s=0.001 として K=1000 のとき平衡する個体群増加を表す
モデル (after ベリーマン 19851: 図 2.14)
233
第四章
村 2005)
。これは本来、生物学の生態学でもちいられていた r 淘汰、K 淘汰というモデルを援用したものである。
2 つの淘汰のパターンをそれぞれ r
表 4-6
r 淘汰と K 淘汰の比較 (after Pianka 1970: Table1 一部改変 )
淘汰、K 淘汰とよぶ(表 4-6)
。
このモデルをヒトの適応戦略にあ
気候
てはめて考えた場合、人口増加期に
は r 淘汰に有利な戦略、人口安定期
には K 淘汰に有利な戦略が採用され
ると予測される。前者では、高い移
動性をともなう狩猟採集活動や粗放
死亡率
個体数
ンスが選択され、後者では、集約的
農耕や入会地における資源管理、さ
による人口制限といったことが選択
されることが予測される。これをそ
種間競争
ラピタ人の適応戦略を検討する
と、低い人口密度、高い移動性、狩
い。同様にこのモデルを適用すると、
安定しており、または(あるいはそ
に加えて)不規則に変化する。
れに加えて)規則的に変化する。
破滅的に起こることが多い。方向性
方向性あり。密度に依存する。
変化甚だしく、平衡がなく、通常環
安定しており、平衡状態にあって、
境収容力よりずっと低いレベルにあ
環境収容力の限界に近い高密度。生
り、飽和していない生物群集中にあ
物群集は飽和していて、再侵入なし
る。生態的空白、毎年再侵入がある。
に個体群を保つ。
通常きびしい。
合が多い。
淘汰する形質 1. 早い発育
したい。
はまさに r 戦略者とよぶにふさわし
変化に富み、または(あるいはそれ
種内・ 程度はいろいろだが、おだやかな場
れぞれ r 戦略、K 戦略とよぶことに
猟採集による資源収奪といった側面
K 淘汰
なし。密度に依存しない。
的移動焼畑農耕といったサブシステ
らにはバースコントロールや間引き
r 淘汰
1. ゆっくりした発育
2. 高い内的自然増加率
2. 高い競争能力
3. 早い繁殖
3. ゆっくりした繁殖
4. 小さい体
4. 大きい体
5. 1 回の出産(産卵)で全部の卵を
5. 何回も繁殖する性質
産む性質
生存期間
結果
短い(1 年以下が多い)
長い(1 年以上が多い)
生産力
効率
「網取貝塚人」はまさに r 戦略者であるといえる。移動を繰り返しながら、網取湾周辺の資源を利用する小規模
第四章
な集団、というすがたを想定することができる。こうした「網取貝塚人」のすがたを理解するには、ただ網取遺
跡だけをみるのではなく、当時の無土器時代における八重山諸島の人々のありかたまで射程をひろげなければな
らない。
しかし残念ながら、この 5 世紀ころに相当する先史時代遺跡の数は十分とはいえず、実態の解明には程遠い
のが現状である。おぼろげにわかっていることは、この時期の遺跡は海岸部の砂丘上に営まれることが多く、明
確な住居址をともなわず、貝塚の存在が卓越するということである。遺物としては石斧やシャコガイ製の貝斧が
みとめられる。比較しうる時期の遺跡として、おなじ西表島にある船浦貝塚(3 ∼ 7 世紀)(Pearson 1969)と、
わたしたち東海大学によって調査された西表島のカトゥラ貝塚(7 世紀ころ)をあげることができる。
船浦貝塚は、比較的長期にわたって居住が継続した可能性が放射性炭素年代によってしめされている。貝塚を
構成するのはシャコガイ科やニシキウズガイ科の貝類が多く、網取遺跡の貝塚と類似する。人工遺物として石斧
や貝斧、すり石などの植物加工具がみつかっている。注目すべきは、炉のあととみられる遺構が複数みつかって
いる点である。こうしたことから船浦貝塚は、植物を加工したり、食物を調理したりする場であったことが想定
される。このことは網取の貝塚とくらべると大きな相違点であるが、むしろ一般的な貝塚の様相をしめしている。
つまり船浦貝塚は、人々の生活の拠点のひとつであったと考えられるが、網取遺跡をキャンプサイトとして利用
したひとたちの本拠地であったかどうかはわからない。それでも、住居址のような恒常的な建物の痕跡はみつかっ
ていない。
カトゥラ貝塚は、現在は浦内川の河口部およそ水深 2 m ほどのところに沈んでいるが、かつては陸上にあっ
たものと考えられる。貝塚を構成する貝種は、マングローブに好んで棲むシレナシジミやキバウミニナ、海洋性
234
のシャコガイ、クモガイ、ラクダガイである。浦内川の河口部には広大なマングローブ林が展開しており、そこ
でとれるシレナシジミが重要な食糧資源であったと考えられるが、いっぽうで海洋性のシャコガイも採取してい
たことがわかる。貝塚から出土するシレナシジミは殻長 80 ∼ 90 mm ほどの大型のものが多く、そこまで成長
するには 5 ∼ 8 年ほどかかる(本章第9節、上野らによる報告参照)。大きく肉量のある個体が重点的に採取さ
れていたと考えられ、網取遺跡と同様の傾向をみることができる。つまり、環境への負荷は大きいが、手っとり
早く生産性をえるという資源獲得戦略、すなわち r 戦略に合致するものと考えられる。また、遺跡からは植物加
工具と考えられる凹石がみつかっているが、ほかの人工遺物はみつかっておらず、住居址などの遺構は確認され
なかった。貝塚の堆積も 20 cm ほどと浅く、それほど長期にわたる居住を想定することはできない。
これらの遺跡はいずれも海岸部の砂丘上もしくは砂浜海岸に営まれており、貝塚を形成するが、住居址などの
遺構をともなわないという点で共通している。貝塚を構成する貝種は遺跡ごとに個性があるが、おおむね遺跡周
辺の環境条件を反映したものと考えてさしつかえなかろう。むしろ、その環境にあわせたもっとも効率的な資源
開発が実施されている、と評価することができるだろう。
人工遺物については、石斧や貝斧、植物加工具である磨石や凹石といったものはみつかっているが、いずれも
ポータブルなものか、使い捨てられるような簡便なものにかぎられている。釣針やヤスなどの漁具はみつかって
おらず、宗教的・儀礼的な道具もみつかっていない。こうしてみると、文化的にはその内容ははなはだ貧弱であ
る。しかしこの内容の乏しさは、むしろ集団の定着性の低さを反映している可能性が高い。つまり、移動を頻繁
におこなうため、持ち運びしやすい最小限の装備だけを整えていたとも考えられるのだ。
また、海洋資源におおきく依存し、貝塚からも魚骨が出土するのに、釣針などの漁具が欠如するのも興味深い。
オセアニア地域でも、のちの時代のポリネシア地域では釣針が発達するのに、初期植民のラピタ人の時代には質・
量ともにすぐれない。サンゴ礁のリーフ内での漁労には釣針はさほど重要ではなく、むしろ外洋のカツオやマグ
ロ、
ヒラアジといった魚をとるのに必要なものである。八重山の無土器時代の貝塚からも、ラピタ人の遺跡からも、
出土する魚種のほとんどはブダイ・フエフキダイ・モンガラカワハギといったサンゴ礁性のものばかりで、外洋
らは、身近におり、容易に獲得することのできるこうした魚種ばかりを利用しており、手間のかかる外洋での漁
はおこなわなかったと考えられる。
このように 5 世紀前後の八重山諸島における無土器時代の人々のありかたをみると、定着性が低く、移動性
が高い生活スタイルが想定できる。生活の痕跡はほぼ海岸部にかぎられ、分布もきわめて散在的である。おそら
く集団の規模も、集団の数も、いずれも小規模なものであったと考えられる。こうしたありかたは、まさに r 戦
略者という図式に合致するものである。
ここであげたほかの 2 つの遺跡は、ほんとうに「網取貝塚人」と同じ時代の同じ集団に利用されたものであ
るという保証はない。しかしあえて同時期の遺跡のバリエーションとしてとらえるならば、船浦貝塚は拠点的な
集落、網取遺跡とカトゥラ貝塚は一時的なキャンプサイト、という役割が想定されるだろう。そして当時の人々
は、これらの遺跡を巡回しながら資源を獲得するという生活スタイルをとっていたのかもしれない。
ここで「網取貝塚人」というものを考えたとき、それはあくまでカッコつきの呼び名であり、けっして「過去
の網取村の人々」ということを意味しないだろう。それはただ「網取遺跡の貝塚をのこした人々」という意味で
あり、かれらの本拠地は船浦貝塚のようなどこか別の場所にあったのだろう。そもそも、ひんぱんに移動を繰り
返すかれらにとって、本拠地という発想すらなく、海に浮かぶ船こそがかれらの本拠地であったのかもしれない。
そして網取の地は、かれらによって 5 世紀ころというきわめて短期間のみ利用され、そのあとは放棄され無
人になったと考えられる。そのあとの痕跡がいっさいのこっていないからである。そして近世初頭、17 世紀こ
ろになってふたたび、祖納の人々が通耕のためにこの地を利用しはじめ、網取の村立てにいたったと考えられる
235
第四章
魚の割合はきわめて低い。そもそもサンゴ礁のリーフは、いわば天然のイケスのようなものである。つまりかれ
のである。そして、網取の地を去った「網取貝塚人」の行方はいぜん謎のままである。
【引用文献】
石村 智(2005)「適応としてのラピタ人の拡散戦略」前川和也・岡村秀典編『国家形成の比較研究』260-28 頁 , 学生社
ベリーマン・A・アラン、吉川賢訳 1981『個体群システムの生態学』蒼樹書房
Abbott, R. T. and S. P. Dance (2000) Compendium of Seashells. El Cajon, CA: Odyssey.
Pearson, R. J. (1969) Archaeology of the Ryukyu Islands: a regional chronology from 3000 B.C. to the historic
period. Honolulu: University of Hawaii Press.
Pianka, E. R. (1970) On r- and K-selection. The American Naturalist 104: 592-7.
Spennemann, D. H. R. (1989) Pathways to the Tongan Past. Nuku alofa: Tongan National Centre.
Swadling, P. (1986) Lapita shellfishing: evidence from sites in the Reef/Santa Cruz Group, Southeast Solomons. In A.
Anderson (ed.) Traditional fishing in the Pacific: Ethnographical and Archaeological Papers from the 15th Pacific
Science Congress, pp. 137-148. Honolulu: Pacific Anthropological Records No. 37, Bernice P. Bishop Museum.
Wells, S. M. (1989) Impacts of the precious shell harvest and trade: conservation of rare or fragile resources. In J. F.
Caddy (ed.) Marine Invertebrate Fisheries: Their Assessment and Management, pp. 443-454. John Wiley & Sons.
第四章
236
第 4 節 屋敷林フクギ古木の樹齢と村建年代との関係
仲里長浩・河野裕美
1.はじめに
フクギ
Merr. はオトギリソウ科フクギ属の植物であり、日本・台湾・フィリピン・インド・
スリランカに分布し、主に海岸近くから山地の林にかけての範囲に生育するが、日本での分布域は、奄美大島を
北限とし琉球列島の各島に限定される(佐竹ほか 1989, 加藤 1993, 天野 1989)。特に沖縄県内では集落や御嶽
(1)
周辺の抱護林、あるいは屋敷林としてフクギが植えられており、人との関わりは深い 。
琉球列島に広く生育するフクギは、18 世紀中頃に実施された政策的移植の結果であるとの理解がある一方で、
石垣島および西表島の一部では、野生のものと見られる群落の存在が指摘される(佐竹ほか 1989)ほか、石垣
島のフクギは自生ではないかと主張される(天野 1989)こともあって、起源については明らかになっていない。
ところで、フクギはいつ頃から屋敷林として植えられるようになったのだろうか。詳細不明だとする説(仲間・
菊地 2003)もあるが、古川修文によると、それ以前にはアダンやガジュマルが植えられた屋敷周辺に、16 世紀
頃になって利用価値のある竹や桑とともに高木になるフクギを植えるようになったという。さらに、18 世紀中
頃に、琉球王朝の三司官であった蔡温の林業政策を契機として風水看(フンシーミー)の指導が及んだことで、
集落や御嶽周辺に抱護林の設置が促進されフクギの植樹が奨励されたほか、屋敷周辺にも防風と防火を目的とし
てフクギの植樹が奨励され普及したという(古川 1991)。なお沖縄県内各地の植栽記録のあるフクギのほとん
どが、蔡温の林業政策によるものとされていることは注目されてよい(名護市教育委員会 1997, 本部町教育委
員会 1996, 具志頭村教育委員会 1997, 多良間村教育委員会 1993)。
今回、西表島西端にある網取集落遺跡において、考古学的手法による『網取集落形成過程とその復元』をテー
マとした調査・研究が進められるのに際し、筆者らは集落全体に見られる屋敷区画毎のフクギの太さと分布に注
2.調査方法(植栽年代推定の試み)
現在、私たちが目にする網取集落の屋敷林フクギは、様々な太さの個体で構成されている。これらのフクギに
は、おそらく最初の植栽当時からの生存個体や天然更新した個体、あるいは人為的な追加植栽による個体が含ま
れていると考えられる。一般的に植物の生長は、生育環境(気温・日照・降水量・土壌など)によって個体差が
生ずるが、便宜的に古い時代に植栽された個体ほど太いと仮定して、樹齢と胸高直径との相関を求めるために次
の手法を用いた。まず、沖縄県各地の植栽記録のある個体、例えば蔡温の林業政策によって植林された樹木(沖
縄県教育庁文化課 2003)の毎木調査を行って胸高直径を計測した。そして各地のフクギの中で最大胸高直径の
個体を植栽当時からの生残個体と仮定し、植栽後の経過年を便宜的に『最高齢(以下、樹齢)』とした。これら
の上位古木の樹齢と胸高直径を用いて生長式を求め、網取集落のフクギの樹齢を算出した。同時に村建てなどに
関する記録(石垣市教育委員会 1999, 石垣市 1991, 沖縄県立博物館 2001, 沖縄県教育委員会 1991, 八重山地域
史協議会 2000・2002)がある西表島西部 5 集落(崎山・鹿川・船浮・祖納・干立)についても同様の毎木調査
を実施し、網取集落を含めた 6 集落の古木フクギの胸高直径と村建ての古さとの関係を調査することにした。
3.調査結果と考察
(1)沖縄県内の植栽記録のあるフクギの胸高直径
沖縄県内各地において植栽年の明らかなフクギは6ヵ所(図 4-10)あり、合計 354 本を確認し、胸高直径を
237
第四章
目し、それらの樹齢の推定を通して課題にアプローチした。
計測した。植栽年の古い順に、1613 年に植栽された具志頭村には胸高直径 94cm を最大個体として 185 個体、
1695 年の名護市 6 個体(最大個体 89.4cm)
、1746 年の多良間島では 88 個体(最大個体 81.1cm)、1747 年
の本部町では 15 個体(最大個体 77.0cm)
、1747 年の国頭村では 29 個体(最大個体 74.2cm)、1893 年の城
辺町で 31 個体(最大個体 47.3c m)であった。
本調査の結果から植栽記録が古い場所ほど胸高直径の大きな個体が存在していることが分った。そこで、植栽
記録(樹齢)に対する各地域の直径の分布状況を比較するために各集落の上位 10 個体について分散を算出した
結果、各集落の胸高直径(平均値 SD)は、城辺町 41.6
多良間村 71.8
5.3cm、名護市 73.7
3.5cm、国頭村 51.1
16.6cm、具志頭村 73.2
12.4cm、本部町 63.0
9.0cm、
8.3cm であった(表 4-7 ・ 8、図 4-11)。
表 4-7 ・ 8 と図 4-11 からも分るように、集落毎の上位 10 個体の胸高直径を用いた場合には SD 植に大きな差
が生じた。従って、フクギの植栽年と胸高直径の関係を明らかにするために、上位 2 個体の計測値を用いて適
合する式を求めた。フクギの生長モデルは図 4-12 に示したように指数回帰式 ( 1) に、また生長式は Logistic
式 ( 2) に適合した。
(1)y= 0.2693 x 1.5938 R 2= 0.8709
(2)Lt= 97.37/{1-exp(1.1657-0.00959 t)}
(2)西表島西部6集落のフクギの胸高直径と植栽時期の推定
次に西表島の西部にある鹿川(1911 年廃村)、崎山 (1948 年廃村 ) 、網取 (1971 年廃村、1976 年より東海大
学沖縄地域研究センターとして現在に至る ) 、船浮、祖納、干立の 6 集落(図 4-13)において、フクギの胸高
直径の計測を行った。鹿川集落にはフクギは観られなかったが、その他の集落では、崎山 96 個体、網取 331 個
体、船浮 236 個体,祖納 663 個体,干立 424 個体の合計 1,750 個体のフクギが確認された(表 4-9・10)。
第四章
西表島西部集落で見られた最大胸高直径のフクギの樹齢を指数回帰式および Logistic 生長式から推定すると、
2004 年現在で崎山の最大個体 (50.4cm) の推定樹齢は 121 ∼ 131 年、網取の個体 (67.7cm) は 203 ∼ 217 年、
以下同様に船浮(65.7cm)は 187 ∼ 200 年、祖納 (78.0cm) は 260 ∼ 272 年、干立(72.6cm)は 231 ∼ 245
年となった(表 4-11・14、図 4-14)
。一方で、琉球国絵図史料集第一集・第三集(沖縄県教育委員会文化課
1991・1994)
、石垣市史叢書(石垣市 1991)や八重山古地図展(石垣市 1999)等による各集落の最も古い記
載は、祖納・干立の両集落が 2004 年現在で 527 年前、鹿川・網取の両集落が 394 年前、船浮が 357 年前、崎
山が 249 年前に集落の場所や地名が記録されている。
上記のように西表島の集落の歴史的年代と今回算出されたフクギ樹齢査定の結果では 100 ∼ 200 年近い差が
見られた。このことから、フクギの生育環境や生残率などの要因とともに、集落の形成過程で後からフクギが導
入された可能性も無視できないことがわかった。しかしながら、古い集落ほど大木のフクギが存在する傾向は認
められ、新しい集落の形成に伴なってフクギも植栽されてきたことが推察された。
今回モデル的な樹齢査定も試みたが、胸高直径と樹齢の関係については今後さらに年輪計測法などに基づく詳
細な検証を行う必要があろう。
【註】
(1)現在も残る廃村や古集落に観られるフクギの屋敷林等のある集落景観は、住宅様式や生活様式の変化、あるいは森
林化に伴なって、今後変容し、減少していくことが懸念される。
238
E128
E124
N28
国頭村
本部町
名護市
具志頭村
石垣島
西表島
N24
多良間村
城辺町
沖縄県内 6 ヵ所の調査地
表 4-7
沖縄県内 6 ヵ所の調査地
第四章
図 4-10
地域
城辺町
国頭村
本部町
多良間島
名護市
具志頭村
植栽年
1893
1747
1747
1746
1695
1613
樹齢
111
257
257
260
309
390
n
36
34
20
88
6
185
1
47.3
74.2
77.0
81.1
89.4
94.0
2
44.0
66.0
70.5
79.9
87.9
77.3
3
43.9
56.5
68.0
76.4
79.8
75.9
4
43.5
54.9
67.3
70.4
76.1
74.1
5
43.1
54.0
67.0
70.1
63.1
73.0
6
42.8
47.0
66.4
70.0
45.8
68.6
7
39.3
42.4
57.6
68.3
68.5
8
37.6
41.4
55.6
68.0
67.8
9
37.6
38.1
50.8
67.2
67.0
10
37.0
36.4
49.8
66.9
66.0
239
表 4-8
沖縄県内 6 ヵ所で記録した植栽年の明確なフクギ上位 10 個体の平均・最大・最小・標準偏差 (SD)
城辺町
国頭村
本部町
多良間村
名護市
具志頭村
樹齢 111 年
樹齢 257 年
樹齢 257 年
樹齢 260 年
樹齢 309 年
樹齢 391 年
平均
41.
6
51.
1
63.0
71.8
73.7
73.2
最大
47.
3
74.
2
77.0
81.1
89.4
94.0
最小
37.
0
36.
4
49.8
66.9
45.8
66.0
3.
5
12.
4
9.0
5.3
16.6
8.3
SD
100
胸高直径(cm)
80
多良間島
城辺町
具志頭村
名護市
国頭村
本部町
60
40
20
0
0
100
200
300
400
500
植樹からの年数
第四章
図 4-11
沖縄県内 6 ヵ所で記録した植栽年の明確なフクギ上位 10 個体の分布
1000
植
栽
年
︵
年
︶
1.5938
y = 0.2693x
R2 = 0.8709
具志頭村
500
国頭村・本部町
名護市
多良間村
城辺町
100
0.0
20.0
40.0
60.0
80.0
100.0
胸高直径(cm)
図 4-12
240
沖縄県内各地の植栽年の明らかな上位 2 個体による成長モデル
● :集落
● :廃村後東海大学の施設として利用
東シナ海
● :廃村集落
上海 ●
台北
琉
球
●
列
島
奄美大島
干立
祖納 ●
沖縄島
宮古島
西表島
網取
石垣島
先島諸島
G.N.
船浮
●
●
崎山
●
西表島
●
鹿川 ●
5km
0
図 4-13
表 4-9
調査を行った西表西部 6 集落の位置
西表西部 6 集落のフクギの上位 10 個体の胸高直径 (cm)
鹿川
崎山
船浮
網取
干立
祖納
1610
1755
1647
1610
1477
1477
n
樹齢
0
?
100
?
240
?
335
?
428
?
714
?
1
0
50.4
65.7
67.7
72.6
78.0
2
3
0
0
46.6
44.3
61.0
59.9
65.6
53.4
71.3
69.4
75.8
75.5
4
5
6
0
0
0
44.0
40.4
40.2
57.1
56.9
53.3
53.1
51.6
50.4
65.3
65.0
64.6
70.7
70.1
68.5
7
0
38.5
53.2
49.8
62.7
67.8
8
0
37.5
52.2
48.3
62.4
67.5
9
0
35.0
51.3
47.8
61.1
65.9
10
0
33.2
50.1
47.7
59.9
65.3
表 4-10
第四章
地域
歴史的年代
西表島 6 集落の上位 10 個体のフクギ直径の平均・最大・最小・標準偏差 (SD)
鹿川
394 年
以前
崎山
249 年
網取
394 年
以前
船浮
357 年
以前
干立
527 年
以前
祖納
527 年
以前
平均
0
41.0
53.5
56.1
65.4
70.5
最大
0
50.4
67.7
65.7
72,6
78.0
最小
0
33.2
47.7
50.1
59.9
65.3
SD
0
5.33
7.21
4.98
4.33
4.45
※集落名下の年は集落の存在が記された歴史的な年
241
100
胸高直径(cm)
80
崎山
網取
船浮
祖納
干立
60
40
20
0
0
図 4-14
表 4-11
100
200
300
400
500
600
西表 5 集落の歴史的古さと各集落で確認されたフクギの上位 10 個体の分布
生育曲線の指数回帰式と生長式を用いて算出した西表 5 集落のフクギ上位 2 個体による樹齢算出
地域 直径 (cm) 回帰式 生長式 2 式差
1 2 1 2 平均 ( 年 ) 1 2 平均 ( 年 ) ( 年 )
崎山 50.4 46.6 139.17 122.83 131.01 129 113 121 10.01
網取 67.7 46.6 222.75 211.84 217.30 208 198 203 14.30
船浮 65.7 65.6 212.36 188.66 200.51 198 176 187 13.51
祖納 78.0 61.0 279.16 266.71 272.94 267 253 260 12.94
干立 72.6 71.3 248.99 241.93 245.47 234 227 231 14.96
第四章
y=0.2693直径1.5938 Lt= 97.37/(1-exp(1.1657-0.00959 t))
【参考文献】
天野鉄夫 1989『図鑑琉球列島有用樹木誌』(沖縄出版)沖縄県,470pp.
古川修文 1991「緑と風と赤瓦の家」『住宅建築別冊(41)- 南島・沖縄の建築文化 -』( 株 ) 建築資料研究社,東京都.
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石垣市教育委員会 1999『八重山古地図展 - 手書きによる明治期の村絵図 -』, 石垣市,53pp.
石垣市立八重山博物館 ( 大田静男 )1993「『八重山嶋諸記帳』の植物名について」
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加藤辰巳 1993「オトギリソウ科」『週刊朝日百科』7 巻 , 平凡社,162-168.
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沖縄県石垣市 1991『慶来慶田城由来記』(石垣市史叢書1)沖縄県石垣市 , 90pp.
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沖縄県教育委員会文化課 1992『正保国絵図及び関連史料』
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沖縄県教育委員会文化課 1994『天保国絵図・首里古地図及び関連史料』
(琉球国絵図史料集第三集)沖縄県,171pp.
242
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沖縄県教育委員会 1991『重要遺跡確認調査報告 西表島上村遺跡』( 沖縄県文化財調査報告 第 98 集 ) 沖縄県教育委員会.
239pp.
佐竹義輔・原 寛・亘理俊次・富成忠夫(編)1989「テリハボク科」
『日本の野生植物 木本Ⅰ』平凡社,pp.148-149.
多良間村教育委員会 1993『多良間島の文化財』多良間村,83pp.
八重山地域史協議会 2000『鹿川村の史跡巡見 - 廃村跡をたずねて -』八重山地域史協議会作成資料.77pp,
八重山地域史協議会 2002『網取村の史跡巡見 - 廃村跡をたずねて -』八重山地域史協議会作成資料 .120pp.
* なお本稿の一部は沖縄生物学会 2004 年度大会にてポスター発表した。
第四章
243
第 5 節 屋敷林フクギ古木にみる網取集落の形成過程
河野裕美・仲里長浩
1. はじめに
Merr. は沖縄県の伝統的集落景観を特徴づける要素のひとつであり、前節では植
フクギ
栽記録のある古木の樹齢と胸高直径との相関関係を導き、植栽年代の不明なフクギにたいして、その胸高直径か
ら樹齢を算出する方法を開示した。次に本節では、網取集落跡に現存するフクギの胸高直径からみた分布の偏在
性に着目して、網取集落景観の形成過程復元を試みる。集落内の屋敷林としてのフクギは現在でも多数見られる
ので、ケーススタディの対象として充分な要件を満たしている。
2. 調査地と方法
(1)網取集落の現状
西表島北西部の網取湾に位置する網取集落は(図 4-15)、1610 年の『慶長検地記録』に、おそらく初めて記
載され(図 4-16)
、
当時、
既に集落として存在していたことが分かっているものの、村建ての年代は不明である(八
重山地域協議会 2002)
。集落は 1971 年に廃村になり、361 年以上の歴史を閉じたが、1976 年に竹富町の誘致
によって東海大学沖縄地域研究センター(網取施設)が開設され、研究と教育の拠点として現在に至っている。
集落はサンゴ礁の良く発達した湾口部に面しており、海岸防風林の後背地に屋敷区画が整列し、2004 年現在 24
区画が確認できる(第 1 章参照)
。集落内はかつての家屋などの建築物は見られないものの、屋敷や御嶽を囲う
石垣 ( サンゴ垣 ) があり、フクギ・テリハボク
Blume.
L.・アカギ
などが生育し、かつての集落景観は残されている(巻頭図版 5-2)。
(2)網取集落内の屋敷区画年代推定
網取集落平面図の屋敷区画毎に番号を付し、各々の屋敷区画に植栽されたフクギの位置を記録した上で,全て
第四章
の胸高直径を計測した(図 4-17)
。次に記録された胸高直径を 10cm ごとに区分し、仲里・河野が前節で詳述し
た、植栽記録のある胸高直径 44.0cm から 94.0cm のフクギの大木を用いた次頁の生長式(1)によって樹齢を
推定した。
● :集落
● :廃村後東海大学の施設として利用
東シナ海
● :廃村集落
上海 ●
台北
琉
球
●
列
島
奄美大島
干立
祖納 ●
沖縄島
宮古島
西表島
石垣島
先島諸島
船浮
網取
崎山
●
●
●
西表島
●
鹿川 ●
0
5km
図 4-15
244
網取集落の位置
G.N.
鹿川
崎山
網取
船浮
1477年
1500年
祖納
干立
?
?
済州島民5ヶ月暮らす
?
?
1610年
慶長検地記録
慶長検地記録
1628年
慶田城村として
地図に集落名
石垣市
(1999)
地図に集落名
地図に集落名
地図に集落名
沖縄県教育委員会(1992)
サツマ播所
1651年
人口38人
1706年
八重山地城史協議会
(2002)
西表村に統合
1737年
人口42人
1755年
92人崎山へ→
1761年
人口49人
村創立・人口180人
石垣市(1999)
八重山地城史協議会(2002)
←10人崎山へ
←62人崎山へ
人口382人
1873年
八重山地城史協議会
(2002)
石垣市
(1999)
人口641人
人口48人
人口73人
笹森儀助
(1968)
1897年
1911年
慶田城村として
南蛮船漂着
地図に集落名
1648年
1893年
八重山地城史協議会
(2002)
慶田城村
1640年
1647年
沖縄県教育委員会(1992)
慶長検地記録
西表村
参考文献
地図に記載
廃村・一部網取へ
1948年
1971年
廃村・一部網取へ
廃村・西表及び島外へ
図 4-16
西表 6 集落の村立ての歴史
生長式(1)
Logistic 式 Lt = 97.37 / (1-exp(1.1657-0.00959 t))
そのうえで上位区分の大木の分布に着目し、それらが特定の少数の屋敷区画に存在するのか、あるいは集落全
体の屋敷区画に存在するのか、などを明らかにした。そして集落内のフクギ大木の推定樹齢とそれらの成育する
区画分布によって、現在の網取集落景観の形成過程を検証した。
網取集落では、胸高直径 67.7cm を最大個体として、合計 331 個体のフクギを記録して平面図にプロット
した(図 4-17)
。フクギが植栽されていた区画は 20(屋敷 19、御獄 1)あり、1 区画平均は 17.4 個体であっ
た。胸高直径 10cm 毎の太さ別個体数は、60cm 台 2 個体(図 4-18 区画 l)、50cm 台 4 個体(区画 e,g,l,m)
、
40cm 台 17 個体(区画 d,e,f,g,h,I,k,l,m,n,o,q,r,w)、30cm 台 71 個体(区画 a,b,j,t,x 以外)、20cm 台 98 個体
(区画 b,j,x 以外)
、10cm 台 94 個体(区画 b,j,x 以外)、10cm 未満 46 個体(区画 b,j,x 以外)であった。さらに、
60cm 台のフクギが生育する屋敷は 1 区画で(図 4-18)、50cm 台では4区画(図 4-18)、40cm 台では 11 区画
(図 4-18)
,30cm 台では 17 区画であった(図 4-18)。
4. 考察
網取集落に存在する最大胸高直径 67.7cm と 65.6cm のフクギは、約 220 ∼ 170 年前、つまり 1780 ∼ 1830
年頃に植栽されたと推察される(表 4-12)
。同様に 50cm 台 4 個体は 1830 ∼ 1870 年頃(170 ∼ 130 年前)
、
40cm 台 17 個体は 1870 ∼ 1920 年頃(130 ∼ 80 年前)に植栽されたと推定される。
網取集落で最も太い胸高直径 60cm 台のフクギが生育するのは、海岸から山側にのびた道に沿い、その突き
当たりにある沢筋の旧水源に近い1区画である(図 4-18 区画)。50cm 台のフクギは隣接する 4 区画にあり(図
4-18,m,e,g)
、更にそこを基点として現在の集落形態に広がってきたと推察される。屋敷区画が設けられた時に
フクギが植栽されたと仮定すれば、1780 年代以降に旧水源に近い場所に屋敷が設けられ、1800 年代中頃には
4 区画、そして 1800 年後半から 1900 年代初頭に 13 区画、さらに 17 区画というように急な屋敷区画の増加が
245
第四章
3. 調査結果
●
●
●
k
●
c
●
●
●
●
d
●
●●●
e
●l
●●
●
●●
●
●● ●
● m
井
●
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b
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a
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p
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r
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u
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s
v
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w ●●
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●●●
●
●
●
x
● 40∼49cm
● 30∼39cm
●
●
●●
井
29cm以下
●
●
●
o
●
j
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●
●●
●
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n
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g
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f
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q ●
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i ● ●●
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h
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t
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●
● 50∼59cm
N
G.
●
●●
60∼69cm
0m
200m
図 4-17 網取集落の屋敷区画とフクギの分布
●●
●●
●
●
井
第四章
●●
井
井
井
N
G.
N
G.
0m
200m
4-18a 直径 60cm 台 2 個体のある 1 区画
0m
200m
4-18b 直径 50cm 台 4 個体のある 4 区画
●
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井
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井
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井
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●●●
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●
井
●
N
G.
4-18c 直径 40cm 台 17 個体のある 13 区画
0m
200m
4-18d 直径 30cm 台 71 個体のある 18 区画
図 4-18 網取集落における胸高直径 30 ∼ 60cm 台のフクギの分布
246
●
●
●
●
●●●●
●
●
N
GG. .N
0m
●
●●
●
●●●●●
●●●
●
●
200m
表 4-12
フクギ直径と樹齢の関係
胸高直径 樹齢幅
40cm
50cm
60cm
70cm
80cm
90cm
81 ∼ 130 年
131 ∼ 170 年
171 ∼ 220 年
221 ∼ 280 年
281 ∼ 380 年
381 年 ∼
崎原當貴 (1897)
樹齢 胸高直径幅 51 ∼ 100 年 33 ∼ 43cm
101 ∼ 150 年 44 ∼ 44cm
151 ∼ 200 年 56 ∼ 66cm
201 ∼ 250 年 67 ∼ 75cm
251 ∼ 300 年 75 ∼ 82cm
301 ∼ 350 年 83 ∼ 87cm
351 ∼ 400 年 88 ∼ 91cm
401 年 92cm
笹森儀助 (1894)
第四章
大正年間 (1912 ∼ 1925) の集落
昭和 15(1940) 年頃の集落
図 4-19 古文書等に掲載された古地図に見る網取集落の変遷
(上段:石垣市教育委員会 (1999) より 下段:山田武男 (1986) より)
247
生じたと推察される。
ところで、網取村は 1610 年に既に存在していた記録があるが(図 4-16 参照)、屋敷林の古木フクギの推定植
栽年代が 1780 年以降であることとの 170 年以上の差が生じた。古川修文は、18 世紀中頃に蔡温の林業政策を
契機に集落や御嶽周辺に抱護林が作られ、屋敷周辺にフクギを植えることが奨励されたと指摘している(古川
1991)
。したがって、網取集落には少し遅れて 18 世紀後半に、林業政策によってフクギがもたらされた可能性
がある。しかし、フクギが導入された当時の網取が、すでに現在と同様の区画割が行われていたならば、フクギ
の古木は隣接する限られた 1 ∼ 4 区画だけでなく、もっと多くの区画にも分布しているものと思われる。網取
村の人口は 1651 年に 38 人、1737 年に 49 人という記録があるが、17 世紀から 18 世紀前半までの網取村は、
整理された屋敷の区画割りがなく、あるいはサンゴ垣があるだけで、屋敷林としてフクギが植栽されていない景
観だったのかもしれない。さらに、直径 50cm 台以上の大木が集落の中心であった四つ辻(ミバタ)に偏在す
ることも注目される。単純にいえば、網取村におけるフクギの植栽は、この四つ辻に面する2∼4区画からはじ
まったといえるかもしれない。
一方、胸高直径 40 ∼ 30cm 台のフクギの分布から、屋敷区画数が急増したと推察される 1900 年前後の集落
景観については、笹森儀助(1894)や崎原當貴(1897)、山田(1986)による当時の網取集落図とほぼ同様な
景観を示している(図 4-19)
。また、1917 年に他の場所から移設されたことが明らかな御嶽(山田 1986、図
4-19, 左端の区画)は 2004 年現在で 87 年経過しているが、そこに現存するフクギの最大胸高直径は 28.6cm で、
生長式により算出された推定樹齢は 30 年である。経過年から見れば胸高直径 40cm のフクギがあることになり、
10cm 単位・50 年単位の区分で 1 段階のずれが生じている。区画整理を行った後、サンゴ垣を積み、あるいは
フクギの実生や苗を植栽し、
その後の生残・間引きや初期成長などを考慮すれば、このような結果も想定されよう。
これまで述べてきたように、古木フクギは集落の初期形成とその後の変遷を検証する指標となる可能性が示唆
された。
第四章
【文献】
古川修文 1991「緑と風と赤瓦の家」『住宅建築別冊 41(南島・沖縄の建築文化)
』Pp.178-183.
石垣市教育委員会 1999『八重山古地図展 - 手書きによる明治期の村絵図 - 』石垣市 ,53pp.
仲里長浩・河野裕美 2007「屋敷林フクギ古木の樹齢と村建て年代の関係」(前節)
沖縄県石垣市 1991『慶来慶田城由来記』(石垣市史叢書1)沖縄県石垣市 , 90pp.
沖縄県教育委員会 1991『重要遺跡確認調査報告 西表島上村遺跡』(沖縄県文化財調査報告 第 98 集 ) 沖縄県教育委員会.
239pp.
沖縄県教育委員会文化課,1992.琉球国絵図史料集第一集 正保国絵図及び関連史料.沖縄県,163pp.
八重山地域史協議会,2000.鹿川村の史跡巡見 廃村跡をたずねて,八重山地域史協議会作成資料.77pp,
八重山地域史協議会,2002.網取村の史跡巡見 - 廃村跡をたずねて - .八重山地域史協議会作料 120pp.
山田武男 1986『わが故郷アントゥリ - 西表・網取村の民俗と古謡 - 』ひるぎ社 , 那覇.248pp.
248
第 6 節 通耕と寄百姓からみた近世の西表島西部地域
1.はじめに
千色 出・北條芳隆
山田武男著『わが故郷アントゥリ』( 山田 1986) をひもとくと、近世の網取遺跡を考えるうえで避けては通れ
ない第一のキーワードが「通耕」であることを知る。通耕の場が起点となって村が成立したと読めるからである。
では通耕とはなにか。それは「出作り」とも呼ばれる農耕の一形態のことであり、居住地と耕地とが遠距離に
あって、ときに耕地での逗留をも伴う場合もあるらしい。端的にいえば、村の領域外に生産基盤が置かれた状態
の生産形態を意味するとみてよい。近世八重山地域の各地でみられた現象である。さらに通耕と密接に関わる歴
史事象として寄百姓なる現象ないし事件がたびたび起こったことも知られている。これがふたつめのキーワード
である。つまり近世網取集落の起源やその後の展開過程を考える際には、これらふたつのキーワードがもつ意味
や実態を把握する作業が不可欠なのである。そこで本節では、文字記録に依拠しながら近世八重山地域における
通耕と寄百姓の実相を点検し、これらが網取集落の成立や展開とどう関わったと考えられるのかを検討する。
2. 網取村の起源譚と通耕
(1)村の起源にかんする関連記事
通耕がどのような意味においてキーワードなのか。まずこの点を確認しておく。
『わが故郷アントゥリ』には「網
取村の村建て」( 同書 82 頁 ) という項目が設けられており、そこから要点を抜き出すと次の 7 項目となる。
① 集落中央に「長浜家 ( ナーヤー )」という屋号をもつ家があり、そこが最初の居住地であった。
② ナーヤーの意味は長屋であるが、それは網取に集まってきた人々がこの屋敷のなかに一軒の長屋を建てて住
んだという故事に由来する。
③ 人々が網取に集まった目的は、集落の背後に広がる約 5 町歩の水田耕作のためであった。
⑤ 慶田城村の配下にある村人達があちこちから入り乱れて網取の水田耕作にあたっていた。
⑥ その後「間切時代」
・
「土地整理時代」などの世代わりを経て、人々は自分の屋敷を開いて落ち着き先を探す
ようになった。
⑦ 網取が崎山村に属した以後も、慶来慶田城のいた祖納の上村に住む人々とは永いつきあいを保っていた。
以上の諸項目のうち、項目①と②は、最初の居住地および居住形態にかんする伝承である。項目③は定住化の
前提となった生業活動および耕地開拓にまつわる伝承だといえるだろう。また項目④・⑤・⑦は、村人の出自
ないし系譜にかんする伝承および記憶である。なかでも注目されるのは項目⑤であり、本項目によって、項目①
から項目⑦までのすべての内容は「慶田城村との関係」および「水田耕作の舞台」というふたつのキーワードに
よって有機的に結びつけられる仕儀となっている。残りの項目⑥の「間切時代」とは近世、「土地整理時代」と
は 1899 年の土地整理法施行以降を指し、網取集落への定住化が進展したのはいつか、という年代観にかんする
伝承だとみてよい。ではこれら諸項目の関係や史実性についてはどの程度まで検証可能であろうか。
(2)記載内容の点検
まず古文書類を通じて検証可能な項目④について検索してみると、『慶来慶田城由来記』に「あめ取・鹿川弐ヶ
村之儀、昔慶田城村頭内ニ候処」との記述がみえる ( 石垣市 1991)。したがって項目④の内容は史実であったと
理解される。となると、必然的に項目⑤の内容を支える背景についても、それは慶田城村の領域内での様相、す
なわち村の内部事情に属する事柄を伝えたのだと読み解くことが可能となり、不自然さは見出せないことになる。
したがって通耕の舞台においては、実際に項目⑤が示すような錯綜した事態が生じることもあったとみて差し支
249
第四章
④ 往時の網取村は慶来慶田城の支配する慶田城村に属していた。
えないようである。文脈上の整合性があるという意味において、本項目についても史実性は保証されるとみてよ
いであろう。
次に項目①∼③の内容の具体像を伝える記述が明治期の資料になるが、笹森儀助の『南嶋探験』にみられる。
明治 26 年 7 月 17 日条に「其出張耕作ニ従事スルヤ、山野ニ小屋ヲ作リテ宿ス。̶中略̶故ニ西表ハ誰モ其不
可ヲ知ルト雖トモ、皆暫ク寄宿ヲ為シ、秋ノ熟スルヲ待ツ」( 東 1982) とある。この著名な探検家が見たのは、
鳩間島から西表島への通耕の実態であり、ここに記された情景は項目①から③までの内容と過不足なく対応する
ことがわかる。水田の耕作には出張耕作が珍しくなかったことと、秋の収穫時期までは耕作地付近に仮設小屋を
建て、
長期の寄宿を伴うものであったことを示しているのであり、
「皆暫ク寄宿ヲ為」す場所を網取の「ナーヤー」
にあてはめてみれば、なぜ水田耕作のために長屋に住むことから村の歴史は始まったと語られるのか、を合理的
に説明づけることが可能になる。
すなわち慶田城村から網取へと向けた通耕が起点であったことを項目①から③、
および項目④と⑤は明快に語っているのであり、起源譚としての脈絡は相互に矛盾なく整っているとみることが
できる。項目⑦については、他の諸項目との深い連動性を帯びる内容であるので、諸項目の内容に矛盾がない以
上、その必然性について疑問の余地はないといえよう。
なお網取村の成立に慶田城村が系譜上密接に関わることについての考古学的な検証は、本章第 1 節の安斎考
察論文において開示されており、それは IV 期の段階における崎山半島一帯への拡張という形で把握される。つ
まり生業形態の変化に伴う祖内半島からの居住域ないし活動領域の拡大として崎山半島一帯は把握されるとい
う、ごく大筋の流れによって結びつけられる両村の系譜関係である。文字資料からみれば自明の事柄に属する問
題ではあろうが、考古学の側から系譜関係を証明するのは容易ではなく、今のところは遺跡の立地と土壌環境の
対応関係を基礎とする安斎論文に根拠を委ねるほかないのが実状である。
ではこうした起源譚には史実性があるとしても、それは八重山地域全体のなかでいかなる脈絡をもつ事柄であ
り、いつ頃の出来事だと理解できるのだろうか。次にこの問題を検討する。
第四章
3. 八重山各地域における通耕と寄百姓
では「参遣状抜書」や「八重山島年来記」( 以下「参遣状」、「年来記」とする ) などの古文書に記載されてい
る事例を点検し、八重山の各地域で展開した通耕を整理してみる。さらに通耕と付随して登場する寄百姓につい
ても併せて検討を加える。ただし取り扱う年代幅を限定しておきたい。というのも 1771 年に発生した明和の大
津波を境に八重山地域社会はその相貌を一転しており、一律に理解することは不可能だからである。そのため、
今回の分析は近世の初頭から明和の大津波の直前までを対象とする。このように年代幅を限定した上で全体の動
向を概観すると、通耕および寄百姓は、八重山の各地域間の関係の取り結びかたにおいて類型化が可能であるこ
とがわかる。それはおよそ島ごとを単位として把握することができるのであるが、まず実例を点検しておく。
(1)黒島
「年来記」
には、
1692( 康煕 31) 年に黒島から平得村への寄百姓が行われたとある。黒島の人口 1083 人のうち、
耕作地にいる人 220 人を寄百姓したと記さていることから、寄百姓が行われる以前に、すでに両地を舞台とす
る通耕が行われていたと読み取ることができる。これが通耕と寄百姓にかんするもっとも古い記述である。続い
て 1700( 康煕 39) 年には、
鳩間島へ 60 人を ( 参遣状・年来記 )、1711( 康煕 50) 年に平久保村へ寄百姓している ( 年
来記 )。
「参遣状」の 1730( 雍正 8) 年の項には黒島は人口に対して畠地が狭いため、石垣島 ( 大地 ) に渡り畠作
していると記述があり、いずれ寄百姓すべきとしている。そして 1732( 雍正 10) 年には野底村へ 400 人を寄百
姓している。そこには黒島は人口増加によって食糧が続かず、海路で通耕し畠作をしていると記されている ( 参
遣状・年来記 )。また、同年に桃里村へ石垣島の村々とともに寄百姓したと年来記にはある。
黒島は 1651 年にはすでに 581 人と人口が多く ( 年来記 )、比較的早い段階から人口過多による耕地不足とい
250
う問題に直面していたと考えられる。それらの解消のため 1692 年にはすでに通耕が行われていた。また黒島の
特徴として、石垣島に通耕先で耕作に従事している人々をそのまま定住させる形での寄百姓が行われていた点が
あげられる。また、長距離の通耕が多いことや畠作を目的としていることにも注目される。
(2)新城島
新城島では 1704( 康煕 43) 年に耕作地が狭く定納米も飯米も続かず疲弊していることから、古見村の南 1 里
半の大浦やすらという空き地に通耕したいと申請し、認められている ( 参遣状・年来記 )。新城島の通耕はこの
年から始まると考えられる。その後、1711( 康煕 50) 年に竹富島とともに仲間村へ寄百姓が行われる ( 年来記 )。
この寄百姓にあたっては大浦やすらに通耕していた人々をそのまま寄百姓した可能性が考えられる。1732( 雍正
10) 年には黒島とともに野底村へ 25 人を寄百姓している。「参遣状」の 1737( 乾隆 2) 年の項には通耕し稲作を
しているとの記述があり、1753( 乾隆 18) 年の項でも南風見村の地域内へ通耕し稲作をしているとある。
新城島では 1704 年から西表島東南部への通耕がはじめられ、それが 1753 年以降にまで継続されていると考
えられる。新城島からの寄百姓は、黒島や竹富島など他島の寄百姓に付随した形で小規模に行われている。新城
島では通耕が主体的で、寄百姓は活発に行われないという特徴を認めることができる。また、黒島の通耕とは異
なり、比較的近距離での通耕を行っており、かつ稲作を目的とするものである。
(3)波照間島
波照間島では通耕が行われたという記載はみられない。1713( 康煕 52) 年に白保村へ 300 人余を寄百姓する
のを皮切りに ( 年来記 )、1734( 雍正 12) 年に南風見村へ 400 人余を ( 参遣状・年来記 )、1755( 乾隆 20) 年には
崎山村へ 280 人を寄百姓している ( 年来記 )。波照間島は石原で耕作地に適する土地が少ないうえに人口が増加
しているため、飯米や上納米が続かないと記されている。
波照間島は黒島と同様に 1651 年には 616 人と大きな人口を抱えている ( 年来記 )。波照間島は遠海にあるた
めに通耕ができないため、約 20 年間隔と定期的に 300 ∼ 400 人の大規模な寄百姓を行うことで過剰な人口を
調整していたと考えられる。また、寄百姓の移動先は様々でその傾向性を読み取ることはできない。
竹富島は 1711( 康煕 50) 年に仲間村へ ( 年来記 )、1734( 雍正 12) 年に屋良部村へ 74 人、1753( 乾隆 18) 年
に安良村へ 200 人を寄百姓している ( 参遣状・年来記 )。これらの地域へ通耕を行っていたという記載はみられ
ない。また、波照間島と同様に寄百姓の移動先に特定の傾向性は認められない。通耕の記載がみられるようにな
るのは 1753( 乾隆 18) 年の冨崎への通耕からである ( 参遣状 )。なお本稿の時間設定からは外れるが、津波後の
1771( 乾隆 36) 年に冨崎に 523 人を寄百姓している ( 年来記 )。
(5)小浜島
小浜島では 1732( 雍正 10) 年に西表島の畠作に適したよちんという所へ通耕していて、そこへ寄百姓し高那
村と称するとある ( 参遣状・年来記 )。
これもやはり通耕していた人々をそのまま移住させる形態での寄百姓であっ
たと考えられる。1751( 乾隆 16) 年には嘉弥真島へ通耕しており、小さい島であるため移住は難しいが 5 家族
に仮住まいさせたとある ( 参遣状 )。2 年後の 1753( 乾隆 18) 年にも同様に通耕しているとの記述がある ( 参遣状 )。
小浜島は新城島と同じく通耕先が比較的近距離にあるという点が特徴としてあげられる。しかし、通耕や寄百
姓の記述がみられるようになるのは 1732 年と、他の島よりも遅い。また耕地不足や人口過多になっているとの
記述がみられない。
(6)鳩間島
鳩間島は 1700( 康煕 39) 年に黒島から 60 人が移った結果、人口は 100 人程になり、1703( 同 42) 年に与人・
目差を置き地頭持となっている ( 参遣状・年来記 )。「参遣状」の 1703 年の項の地頭持にしてほしいという申請
のなかで、鳩間島は 200 ∼ 300 人程の耕作地であるが、西表島の島崎、鬚川古村へ往復して田を耕作すること
251
第四章
(4)竹富島
で今後、500 ∼ 600 人に増えても耕地に困ることはないという記述がある。得能壽美氏はこの記述から 1703
年に「すでに鳩間島から西表島への通耕は行われており、通耕は 17 世紀にもあった可能性を示唆している」(得
能 2003,81 頁)としている。しかし、ここからすぐに通耕が行われていたと断ずることはできない。1703 年の
段階では 100 人程の人口であり、鳩間島の耕地でも上記の通りなら十分である。一方で参遣状の 1737( 乾隆 2)
年の項には通耕し稲作しているとの記述があり、1753( 乾隆 18) 年の項でも西表島へ通耕し稲作しているとある。
鳩間島の人口は 1737 年には 381 人、1753 年には 450 人に増えている。このように人口が 300 人を超え、鳩
間島の耕地が不足するようになってはじめて西表島へ通耕するようになったと考える。
(7) 石垣島
石垣島のうち通耕や寄百姓の移動元となる村々は石垣・登野城・平得・大浜・宮良・白保村など石垣島南部地
域である。これらの地域からは 1732 ( 雍正 10) 年の桃里村への 700 800 人の寄百姓をはじめとして、1734( 雍
正 12) 年に安良・冨盛へ 140 人、1737( 雍正 19) 年に名蔵村へ 513 人、1753( 乾隆 18) 年に安良村と桴海村に
100 人ずつと寄百姓が頻繁に行われる ( 参遣状・年来記 )。一村あたり 100 ∼ 200 人の規模で送り出している。
これらの地域では 18 世紀初頭には平得・白保村のように寄百姓の受け入れ側であったが、逆に 1732 年以降
は寄百姓を送る側に転ずる。これらの寄百姓はそれぞれの地域で耕作している人々をそのまま定住させるとい
う形がとられ、移動先はすべて石垣島の北側の地域である。また遠距離の通耕・寄百姓も行われている。ただ、
1753 年以降は通耕の記述がみられず寄百姓のみとなっている。
(8)西表島
西表島から通耕や寄百姓が行われたという記載はまったくみられず、そうした事象の対象地であり続けている。
またそれらは崎山村を除くと、全て西表島東部地域に集中しており、西部地域の動態は不詳である。
4. 通耕および寄百姓の開始とその変質
まず年代的変遷とその過程で生じた変質について述べる。それに際して時期を 3 期に区分した ( 図 4-20,21)。
平久保(∼1702)
■
第四章
平久保(1702∼)
■
祖納
石垣島
与那国島
鳩間
■
川平
仲筋
桴海
■
■
崎枝
■
■
■
■
■
舟浮
与那良
■
石垣
■
平西
■
■
■
■
鹿川
西表島
古見・花城
(三離・大枝)
登野城
小浜
■
白保
大浜 宮良
平得
竹富(玻座間)
地頭持村
保里
■
■
仲間
上地
下地
黒島
■
■
新城島
■
網取
名蔵
■
成屋
■
浦内
多嘉良
西表・慶田城(祖納) 干立
15km
第1期
■
0
波照間
平田
図 4-20
252
各期の寄百姓 (1)
1692
非地頭持村
1700
既存集落を
地頭持化
新村設置
(地頭持)
新村設置
(非地頭持)
1711
※地頭持
…村役人直轄村
1713
村域
新規村域
平久保
■
■
島仲
安良
久志真
祖納
富盛
■
■
■
伊原間
与那国島
石垣島
鳩間
川平
仲筋
崎枝
舟越
桴海
■
■
高良
浦内
野底
■
鬚川
■
■
■
舟浮
■
■
■
桃里
名蔵
■
成屋
石垣
■
網取
屋良部
高那
西表・慶田城(祖納) 干立
小浜
■
西表島
南風見
仲間
保里
上地
東筋
■
鹿川
白保
仲筋
■
■
平西
古見(三離・大枝)
大浜 宮良
平得
登野城
■
竹富
(玻座間)
■
■
与那良
下地
■
黒島
新城島
1732
1734
1737
平田
■
15km
■
0
第2期
波照間
宇保川
祖納
■
安良
■
■
島仲
第四章
平久保
久志真
■
伊原間
与那国島
石垣島
鳩間
川平
仲筋
崎枝
桴海
仲与銘
■
桃里
屋良部
高那
■
■
■
■
名蔵
■
西表(祖納) 干立
舟越
■
■
高良
浦内
野底
■
鬚川
成屋
■
■
舟浮
仲間
保里
上地
東筋
1753
■
南風見
下地
黒島
1755
■
西表島
仲筋
■
鹿川
白保
宮良
■
■
与那良
小浜
平西
古見(三離・大枝)
■
■
崎山
大浜
竹富
(玻座間)
■
■
網取
新城島
1757
新川
1765
石垣
大川
0
波照間
平田
宇保川
登野城
真栄里
1768
居住地を移さないもの
■
15km
■
0
2km
平得
図 4-21
第3期
各期の寄百姓 (2)
253
上記の諸例を比較すると、まずそれぞれの島ごとに通耕や寄百姓の開始時期が異なることがわかる。黒島におけ
る通耕・寄百姓の事例がもっとも古く、17 世紀末となる。続いて、18 世紀初頭に新城島では通耕がはじめられ、
やや遅れて新城・波照間・竹富島から寄百姓が行われるようになる。以上を第 1 期と設定する。そして第 2 期
と設定する 1730 年頃から小浜・石垣島で通耕および寄百姓が行われるようになる。鳩間島の通耕もこの頃から
行われるようになったと考えられる。第 1・2 期ともに、通耕や寄百姓の要因としてもっとも多いのは人口過多
とそれによって引き起こされた耕地不足である。よって、第 1 期と第 2 期の開始差はそれぞれの島ごとに、人
口激増によって環境収容量の臨界に達した時期の違いを反映していると考えられる。加えて八重山の人口は 17
世紀末から激増するが、黒島の通耕・寄百姓の開始時期がちょうどそれに一致する点にも注目される。
このように人口増加とそれによる耕地不足の解消を目的としてはじまった通耕や寄百姓であるが、時を経るご
とにその意図は徐々に変質していく。まず、第 1 期は人口過多とそれによる耕地不足の解消が強く意識されて
いる。加えて、既存の集落に対して寄百姓が行われるという特徴が認められる。ところが第 2 期になると寄百
姓によって新たな村を創設するという変化がみられるようになる。その際には、津口や異国船への警戒、村同士
の距離など行政的な要件が意図されるようになる。そして第 3 期になると、寄百姓の変質がより顕在化してく
るようである。このことを端的に示すのが通耕との遊離であり、1753 年以降は寄百姓に伴う通耕の記述がみら
れなくなる。それまで密接不可分な関係にあったふたつのキーワードはこの段階で切り離されたことを示すので
あろう。さらに、この時期からは居住地を移さず村域のみを変更するという動きが活発化し、各村の村域が細分
化される。行政上の意図の方が際だってくるのである。ただし、新城・小浜島・鳩間島では例外で、それぞれの
通耕の開始から第 3 期まで西表島への通耕を継続している。
5. 通耕と寄百姓にみる諸類型
さて上記のような変遷をたどる通耕と寄百姓であるが、そのあり方についても一定の法則性が認められ、大き
く 3 つの類型に分類することができる ( 図 4-22、表 4-13)。これらの類型はおよそ島ごとを単位として設定でき
第四章
る。まず黒島類型である。この類型は通耕先で耕作に従事する人々をそのままそこに定住させる形で寄百姓を行
う場合が多いという特徴がある。また、その対象となったのはもっぱら石垣島であることも注目される。さらに
この類型の通耕・寄百姓は、長距離型の場合が多い。加えて畠作主体の地域から畠作に適した地域への通耕・寄
百姓が行われるという特徴も認めることができる。第 2 期以降の石垣島南部地域、第 3 期以降の竹富島につい
てもこの類型に含めることが可能である。本類型は第 2 期を特徴づけるものだといえよう。
続いて新城島類型を設定できる。この類型は西表島への通耕を継続的に行うが、寄百姓は活発には行われない。
また、この類型は比較的近距離での通耕を行うという特徴をもつ。加えて西表島への通耕の目的として稲作が意
図されているとみられる。新城島の他には第 2 期以降の鳩間・小浜島もこの類型に含めることができると考え
るが、小浜島の通耕・寄百姓先であるゆちんは畠作に適するとある点でやや異なる。
最後に波照間島類型を設定しうる。この類型には通耕が伴ってはおらず、寄百姓を定期的に実施することで人
口調節を行うという形態である。また、本類型は寄百姓の対象において特定地域への指向性は認められない。竹
表 4-13
類型名
黒島類型
新城島類型
波照間島
類型
254
通耕・寄百姓
の形態
通耕者を
寄百姓
通耕主体
寄百姓は
消極的
寄百姓のみ
通耕・寄百姓の 3 類型
対象地
距離
生業
石垣島
遠距離
西表島
指向性
なし
該当地域
第1期
第2期
畠作
黒島
黒島、石垣島南部
第3期
黒島、石垣島南部、
竹富島
近距離
稲作
新城島
新城島、鳩間島、
小浜島
新城島、鳩間島、
小浜島
遠距離
指向性
なし
波照間島、竹富島
波照間島、竹富島
波照間島
平久保
安良
石垣島
富盛
野底
桴海
仲与銘
桃里
名蔵
冨崎
石垣
登野城
宮良
大浜白保
平得
竹富島
保里
黒島
黒島類型
黒島
鳩間島
鬚川古村
島崎
ゆちん
嘉弥真島
小浜島
南風見
大浦やすら
上地
下地
第四章
新城島類型
新城島
安良
野底
鳩間島
屋良部
冨崎
白保
崎山
南風見
保里
仲間
竹富島
黒島
新城島
0
15km
黒島
波照間島
寄百姓のみ
通耕のみ
通耕の後寄百姓
波照間島類型
図4-22 通耕
・寄百姓の3類型
図 4-22 通耕・寄百姓の
3 類型
255
富島も第 2 期以前はこの類型である。加えて黒島から鳩間島、新城島から野底への寄百姓も本類型に含まれる
だろう。
以上のように、島ごとに通耕や寄百姓の形態は異なっていたことがわかる。これらの類型の差異を生じさせた
要因と考えられる可能性をあげてみる。参遣状の 1737( 乾隆 2) 年の項に石垣島北部の村々は「風気少悪」とさ
れているのに対して、西表島は一律に「風気悪」とされている記述がある。風気とはマラリアを指す。こうした
主な通耕対象地の環境要因の背景に畠作と稲作の違いを想定することができる。本章第 1 節の安斎論文にある
ように、水田開発はマラリアの発生をもたらし、その危険を避けるためのマラリア無病地から有病地への通耕を
新城島類型にあてはめることができる。その一方で黒島類型が通耕の対象とする畠作に適した地域は石垣島南部
が「風気良」
、石垣島北部は「風気少悪」である。そうした地域への通耕は障害となる環境要因がないので、む
しろ寄百姓を積極的に行っていたと考えることができる。このようにみると、生業形態の差が類型の差を生じさ
せたともいえよう。また、上記の第 4 項で述べた時期区分の画期を境に所属する類型が変更される地域があり、
その画期にも類型の差異が生じる要因を求めることができるだろう。
6. 西表島西部の動向と網取村の成立譚
さて、本論の目的である網取村を含む西表島西部であるが、以上のような古文書の分析からは、その動向が掴
めない。記録として把握できるのは、崎山村創設、祖納村から上原村へ番所移転などといった、行政区画の拡大
傾向を示すようになる第 3 期の 1755 年以降である。こうした動きは、それまで祖納を中心に一体性を保ってい
た西表西部を分割する動きでもあり、第 3 期の特徴を如実に表しているとを確認できる。
では、
1755 年以前に通耕や寄百姓の移動先・移動元としての記述がまったく認められないのはなぜであろうか。
他の島々で認められる事例は、それぞれの村域を越えたものであるため古文書に記載されたと考えられる。しか
し西表島西部はすべて西表・慶田城村の村域であり、その内部で実態上は通耕などが行われていたとしても記録
上には現れてこないと考えるのが妥当だろう。このことは冒頭の項目⑤の内容とも合致する。網取村への通耕の
第四章
要因として以上のことからも慶田城村に内在する問題があったと想定することができ、その問題とは項目③の内
容から耕地に関するものとすることができるだろう。その様相は第 1 期に類似している。また項目⑥からは定
住化の過程が漸次的であるように読み取れ、そこに寄百姓といった大がかりな動きを認めることは難しいといえ
るだろう。
それではその通耕の形態はどのようなものであったのであろうか。この地域では『李朝実録』所収の「成宗大
王実録」にあるように 15 世紀代から稲作が行われている。先の諸類型にあてはめてみれば、新城島類型がもっ
とも近い。本類型は稲作地帯への通耕によって特徴づけられる形態だといえ、西表島西部もそれに類似する可能
性も考えられる。今回はこれ以上掘り下げられないが、今後、西表島西部や西表島東部も含めた稲作地帯の動向
についてさらなる検討を加えることにより、網取村成立の実態もよりよく理解できるであろう。
【文献】
新城敏男 1987「近世八重山の新村設置と杣山統制」『琉球・沖縄 - その歴史と日本像』雄山閣
石垣市総務部市史編集室 1995『参遣状抜書 ( 上巻 )』石垣市叢書 8 石垣市
石垣市総務部市史編集室 1995『参遣状抜書 ( 下巻 )』石垣市叢書 9 石垣市
石垣市総務部市史編集室 1999『八重山島年来記』石垣市叢書 13 石垣市
黒島為一 1990「人頭税」『新琉球史 - 近世編 ( 下 )』琉球新報社
得能壽美 2003「近世八重山における通耕と『村』- 鳩間島をモデルタイプに -」
『沖縄文化』第 38 巻 1 号 沖縄文化協会
山田武男 1986『わが故郷アントゥリ - 西表・網取村の民俗と古謡』ひるぎ社
李煕永 1972「朝鮮実録所載の琉球諸島関係資料」『沖縄学の課題』木耳社
256
第7節 近世網取集落の変遷過程
北條芳隆
1. はじめに
4ヵ年度にわたる網取遺跡の発掘調査の結果、この地には古く先史時代の人々の活動の痕跡が刻まれているこ
とを解明するにいたった。しかし遺跡の存続期間としては、その後長期にわたる空白期間を設定せざるをえな
い。古代から中世前期までの間に、
この地がどう利用されていたのかは不明である。もちろん中世後期になると、
いまだ断片的ではあるが、遺物と遺構の両面において人々の活動の痕跡が見え始める。青磁片がそれであり、石
囲み墓が候補として加わる。しかしこれらに依拠して遺跡の存続期間を前倒しに設定できるような状態ではな
い。したがって今のところ網取遺跡の最長存続期間を記録するのは、近世以降現在までの(集落という場合には
1971 年までの)約 400 年間ということになる。この間に、相対的にみれば安定した村落の歴史が刻まれ、先島
地域に固有の伝統も形成されたとみてよい。すなわち網取遺跡の歴史を考える上での一大画期は間違いなく近世
に到来したと言えるのである。だからその始発点はいつ頃のことであり、人々の定着を導いた要因とはなにかを
解明することは、当面の議論の焦点となろう。ここを明らかにすることは、その後の長期存続期間を保証し決定
づけた要因の理解にも結びつくとの予測がたつからである。この点にかんし前節では通耕や寄百姓の問題に焦点
を当てたが、翻って本節では、網取遺跡の形成過程について考古学的な側面からどこまでアプローチできるかを
論じる。
2. 発掘調査によって判明した事項
(1)村の起源伝承と調査区の設定
『わが故郷アントゥリ』には「集落の中央に長浜、屋号をナーヤーという家があった。もっとも早く網取に暮
らし始めたのはこの長浜屋であったという」
(山田 1986,82 頁)とある。また居住の際に不可欠な井戸について「一
バカーの水は毎月一日と一五日に神の水として御花生けに使われる」(同書 ,135 頁)とも述べられている。本
プロジェクトではこれらの記述を考古学的に検証すべく、集落内の発掘調査にあたってナーヤ地区と<クバカー
地区>に複数のトレンチを設定した。
しかしナーヤ地区の発掘調査では、残念ながら近世の遺構は未検出に終わった。現代の撹乱が顕著で、F2 ト
レンチにおける近世の出土遺物には 17 世紀後半代のものが含まれるという事実が判明したにとどまる。<クバ
カー地区>においても同様で、やはり現代の撹乱層が顕著であり、近世の遺構が検出されたのは中心域から外れ
たLトレンチ一箇所にとどまった。要するにピンポイントでの把握を目論んだものの、それは成功しなかったの
である。そのため近世網取遺跡の成立を考える際には、貝塚地区を含む集落域内や水田域の調査結果を総合し、
諸状況を整理するなかから妥当な解釈を導くという手法がもっとも近道であることを痛感した次第である。
(2)検出された近世遺構
そこで、これまでに判明した近世遺構にかんする所見を列挙し、その性格や年代的位置づけを再整理してみる。
内容の明確な遺構は 6 基(うち1基については2時期の遺構の重複)である。
① 配石遺構 G トレンチのⅣ層において扁平な石や珊瑚礫の配石が検出され、その周囲に貝殻や陶磁器類が面
をなして広がる状況が確認された。大型の石材や珊瑚礫の配列は北東から南東にかけて一列に並ぶようにも見受
けられた。住居に関わる遺構だと考えられる。もちろん、これらの配石が建物の礎石構造をなす可能性も否定し
えないが、現在の住居区割りとは軸が触れていることもあって、調査区内の状況だけでは判断不能であった。配
石に近接した場所から出土した比較的残りのよい陶磁器5点の年代は 17 世紀末から 18 世紀前半代のものが3
257
第四章
番古い井戸はクバカーとマイトゥレーヤ(前田原屋)ヌカーラでいずれの井戸も御嶽とつながっている。特にク
点、18 世紀後半から 19 世紀中葉までのものが2点となる。これらを一括資料とみなす場合には、18 世紀後半
代の組み合わせと判断するのが妥当であろうが、年代の古い方の資料のほうが遺存率は高いことをみると、年代
の新しいものを混入とみて遺構の年代を遡せることも可能である。
② 互層状の叩き締め LトレンチではⅡ層からⅧ層までの間が互層状の水平堆積であり、版築状に地盤を固め、
嵩上げを行った人為的堆積であろうと推定された。叩き締められた土壌中には陶磁器の細片が混入しており、す
べて近世陶磁器類であったことから、近世に実施された地盤の改良工事跡であろうと判断できる。その年代は
18 世紀代後半から 19 世紀前半頃に比定される。
③ 溝と土坑 同じくLトレンチにおいて互層状堆積の下層から、Ⅸ層下面を掘り込み面とする小規模な円形土
坑2基と、二股に分岐する溝1基が検出された。土坑の規模は径 30cm 前後、深さ 20cm 程度のものであり、
溝は北東から南西方向に延びて調査区中央部で収束する幅 30cm、深さ 25cm のV字状の溝と、この溝に接して
南北に延びる幅 30 ∼ 50cm、深さ6cm 前後の掘り込みからなる。V字溝の方向はLトレンチの東側に延びる
ナカヌウダチと軸線が一致するので、住居域の道路側に設けられたなんらかの施設の一部である可能性が高い。
溝の埋土中から出土した中国産磁器碗ないし皿の年代は 16 世紀代末頃と推定されるものであった。このことか
ら本遺構の年代は近世の前期にまで遡らせることが可能である。
④ 柱穴 K 1 トレンチⅡ層上面から掘り込まれた 4 基の土坑は柱穴であろうと推定される。このうち土坑1と
土坑4の芯心距離は 1.96m であり、ちょうど1間にあたる。掘立柱建物の基礎部分である。ただし土坑の深さ
をみると土坑1と3、土坑 2 と4がそれぞれ組み合う可能性もあり、構成は不明である。なお土坑1の床面か
らは 18 世紀後半の年代を示す磁器片が出土した。このため遺構の年代についても、その上限は 18 世紀後半代
と考えられる。
⑤ 水田 P 2 トレンチでは上層(3b 層上面)と下層(4a 層上面)に分かれる2面の水田遺構が確認された。
下層の水田面は、炭化物の放射性炭素年代測定の結果にもとづき 17 世紀代のものと推定された。また上層の水
田面は下層水田面を 25cm ∼ 30cm 前後の厚さで覆う細砂(3b 層)の堆積層の上に形成されており、下層の水
第四章
田面が洪水等によって埋没した後に復興された田面であると考えられた。細砂の堆積がごく均質であることをみ
ると、相当広域的な規模に広がる増水と滞水状態を経過した可能性があり、たとえば 1771 年に発生した「明和
の大津波」も、こうした堆積を招く有力な候補である。なお下層水田のさらに下位にある5層からもプラントオ
パールが検出されており、
さらに下層にもう一面の水田層が確認される可能性はある。P 3 トレンチからも上層・
下層の水田面が確認された。
⑥ 貝塚ないし塵穴 K 2 トレンチで検出されたⅡ層・Ⅲ層は、貝殻類や獣骨などの食物残滓の堆積層であり、
遺構の性格としては貝塚ないし塵穴(以下「貝塚」)の埋土だと考えられる。貝殻に混じって近世の陶磁器類・
土器が 15 点出土しており、Ⅱ層出土の磁器には 50cm 前後離れた場所から出土したもの同士の接合関係も認め
られたことから、貝殻類と磁器の共伴関係は疑いない。遺構の年代については、Ⅲ層出土の沖縄産陶器碗が示す
18 世紀後半∼ 19 世紀前半を上限とし、Ⅱ層出土磁器の 19 世紀後半を下限とする年代幅のなかで把握できると
思われる。Ⅱ層出土の獣骨の放射性炭素年代測定結果も 19 世紀前半代との値であることから、年代的位置づけ
に矛盾はない。なおK 2 トレンチの北方約 5m の距離を隔てたところに設定したDトレンチにおいても、K 2
トレンチのⅡ層・Ⅲ層に酷似した近世の堆積層が見つかっており、同様の「貝塚」であると考えられる。遺構の
性格としては同じであるが、問題は両者が同一の遺構であるか否かであり、仮に同一である場合には、さしわた
し 10 m前後の塵穴用の窪みが形成されていたことになる。
(3)集落形成における画期
今列挙した6ヵ所の遺構を年代的位置関係に沿って振り返ってみると、17 世紀代に遡るのが L トレンチのV
字溝とP 2・P 3 トレンチ検出の下層水田であり、18 世紀代に収まるものが G トレンチの配石遺構とK 1 トレ
258
ンチの柱穴、Lトレンチの叩き締め造成土となる。さらに 18 世紀代から 19 世紀代にまで降るものがK 2 トレ
ンチの「貝塚」であり、P 2・P 3 トレンチ検出の上層水田である。
ここから集落の形成過程を考えるとすれば、まず 17 世紀代には後背湿地を利用した水稲農耕が始まっていた
事実を確認しうる。集落域においても同時期に属する居住施設と関連の深い断面V字の溝がある。この溝は母屋
とは直接関わらない居住区画の外周施設だとみなされるので、仮住まい的な住居に付帯する施設というよりは、
むしろ恒久的な住居(ないし屋敷)に付随するものであった可能性がある。この点を根拠にすれば、水稲農耕の
開始と網取遺跡における定住の開始とは、相互に密接な関わりをもつとみなすことが可能である。
ただし年代の判明した6基の遺構のうち5基までが 18 世紀の後半以降に属することは、より一層重要である。
この事実は、定住的な様相が普遍化する時期を照射しており、18 世紀後半に近世網取集落の形成過程における
画期があったことを示唆するものである。さらに本章第5節において河野・仲里論文が提起する、フクギの樹齢
推定と植栽時期復元研究の成果からも、この 18 世紀後半という年代は注視されることになった。ちょうど現存
する最高樹齢のフクギが植栽された年代として推計された値だからである。この一致は偶然ではなかろう。
3. 集落景観の変遷
そこで改めて 18 世紀後半代に照準をあて、フクギの樹齢推定研究の成果をも借用しながら、集落景観の変遷
を概観する。図 4-23 には集落域の各トレンチの状況と胴高直径 50cm 以上のフクギが現生する地点を示してい
る。この図に沿って解説を加える。
(1)18 世紀後半時点における集落景観
まず発掘調査によってこれまでに検出された近世遺構の位置関係をみると、村の中央を貫通するナカヌウダチ
(基幹道路)に面する居住区画内か、ナーヤ地区の南東側一帯に広がる<貝塚地区>に限定される。このうち L
トレンチのV字溝はナカヌウダチに平行することが確認されたので、17 世紀代には既にナカヌウダチが現在と
おなじ軸線上に存在したことの傍証となろう。そしてこの溝は 18 世紀後半以降 19 世紀前半頃までには埋め立
物語る。
またGトレンチ検出の配石列は、古く見積もる場合には 17 世紀末から 18 世紀前半に位置づけられ、新しく
見積もる場合には 18 世紀後半となる。したがって遅くとも 18 世紀後半代には本区画内で住居が営まれていた
といえる。当然その西側に位置するナカヌウダチが通路として利用されていた可能性は高い。さらに網取集落に
おける最高樹齢のフクギ2個体(胸高直径 60cm 代)が現生するのは、ナカヌウダチに面し「オハイヤ」の屋
号で知られる居住区画の浜側縁辺である。この2個体の存在は、18 世紀後半に、ナカヌウダチと四つ辻で交差
する東西方向の路地が開かれていた可能性があることを示している。
以上をまとめると、18 世紀後半の時点では基幹道路のナカヌウダチと、それに四つ辻で交差する東西方向の
路地が存在したことはほぼ確実視され、ナカヌウダチに面した場所が宅地として利用され始めた可能性を指摘で
きる。さらにフクギの胴高直径が 50cm を超える個体の分布状況をみると、四つ辻より山側(南方)に偏在し、
かつ東西路地の山側路肩に偏る傾向が認められる。したがって最初のフクギを植栽する目的は、主に<クバカー
地区>の防風を指向するものであったことは疑いない。この時点における個別居宅の地割り(割り振りや規模)
が、
現在のそれと同様であったのか否かは不明であるが、18 世紀後半の近隣一帯は、四つ辻で交わる2本の路地を
使いながら宅地が点在し、東西路地の山側(南側)に中心域が置かれた可能性がある。
いっぽう<貝塚地区>においても、K 1 トレンチから掘立柱建物跡が検出された。マイトゥレーヤヌカーラ
の近隣にあたる。K 2 トレンチにおける「貝塚」も、この段階には形成され始めたと考えられる。建物跡と塵
穴の近接状態が生じているが、厳密な共存か否かを問うだけの精度ではないので、こうした現象は、この付近が
259
第四章
てられ、本居住区画一帯には地盤の嵩上げ工事が実施された。この時点において居住地の再構築があったことを
I
G.N
H
井
ナカヌウダチ
● O2
G
「ヤンデーヤ」
O1
●
クバカー
O3
配石遺構
●
「オハイヤ」
N
第四章
17世紀後半
造成土
18世紀後半
●
F-O
●
V字溝
17世紀末
∼18世紀前半
ビシリ
F
●
「ナーヤ」
L
F2
M
F3-1
F3-2
F3-3
E
J2
マイトゥレーヌカーラ
J1
J
D2
D
井
F3-4
白ヌキは近世遺物が出土しなかったトレンチ
●
はフクギ
掘立柱建物
18世紀後半
0
図 4-23 網取遺跡における近世遺構の分布
260
近世貝塚
D1
K1
18世紀後半
∼19世紀中頃
C
K2
50m
とりわけ頻繁に利用されたことの反映だとみてよい。つまりこの付近一帯にも主要な居住域があったと理解され
る。
(2)19 世紀代以降の集落景観
以上の事例は、
すべて 18 世紀後半に実在した路地や居住区画についてであったが、以下に示すのはその反対に、
この段階以降に形成されたと考えられる路地や居住区画である。
ナカヌウダチの西側に 1 ブロック隔てて並走する路地の西側に面する居住区画内に設置した2箇所のトレン
チ(H・I トレンチ)のうち、H トレンチからは近世の遺物包含層がまったく検出されず、近・現代の撹乱層お
よび当該時期の遺物が主体を占めた。中・近世遺物が出土した I トレンチにおいても、その土壌は有機物を含ま
ない砂質であった。粘性土壌が主体をなす<貝塚地区>などとは対照的である。このことから、本ブロック全体
が居住域として恒常的に利用されるようになったのは、近・現代のことであった可能性が指摘できる。フクギの
樹齢研究成果を参照すると、これら居住区画の周囲には胸高直径 40cm 代の個体しか現生せず、樹齢の幅は 81
年∼ 130 年、1870 年から 1920 年頃の間に植栽された可能性の高いことを示している。このように考古学的所
見とフクギ樹齢年代研究の所見が一致することをみても、当該地区が恒常的な宅地として利用され始めたのは
19 世紀末以降であった可能性が高く、18 世紀代以前に居住地が営まれていたとしても、現在のような整然とし
た区画に沿う状態ではなかったと思われる。同様に、ナカヌウダチの西側に並走する2本の路地が 18 世紀後半
に存在した可能性についても疑問だといわざるをえない。
なお<貝塚地区>の K2 トレンチにおいて検出された「貝塚」ないし塵穴の場所は、明治 30 年作成の絵図面
をみると、一棟の宅地の東側前面を通り集落から水田地帯へと向かう路地上にあたる。しかし廃棄場としての使
用期間は 19 世紀後半まで続く。したがって本地点一帯は、少なくとも近世後半段階においては廃棄場としての
土地利用が継続していたとみるべきであり、必然的にこの場所に路地が造成されるのは 19 世紀後半以降だと言
わざるをえない。
(3)四つ辻を基準に再編された網取集落
きる。その変遷過程をもっとも如実に表しているのが本章第5節の図 4-18 に示された、フクギの植栽歴とでも
いいうる各居住区画への順次拡大である。その際に地割りの基準をなしたのは2本の路地が交差する四つ辻で
あったと考えられる。しかし起点となった 18 世紀後半の段階では、四つ辻の近隣一帯とは別に<貝塚地区>に
も居住域の中心があった。
「貝塚」の場所をみれば、整然とした区画がこの場所に及んでいた可能性は低い。こ
うした状態をその後は次第に解消する方向へと向かい、四つ辻を中核とした整然たる集落景観が形成されること
になったと理解できるのではあるまいか。
なおこの問題を考える際に手掛かりとなりうるのは井戸の位置である。クバカー・マイトゥレーヌカーラの2
基の井戸が、実際に掘削された年代は不明である。ただし 18 世紀後半代に主要な居住域だったふたつの地域に
それぞれ対応することをみれば、この頃には機能し始めていた可能性を認めてよいであろう。だとすれば、2基
の井戸が現在の居住区画とは対応しない位置にある事実を検討の俎上に乗せることが可能となる。集落に存在し
た井戸は総計6基であったことが知られているが、新しい井戸とされる残りの4基は、すべて現居住区画との対
応関係が規則的である(路地側に面した辺の中央付近に位置する関係にあり、図 4-23 では「ヤンデーヤ」・「ア
ラシクヤ」の2基の井戸の位置を確認できる)ことと好対照をなすからである。要するに2基の古井戸が掘削さ
れた時点の居住区画は、現在のものとは異なっていた可能性を示唆するとみたい。
4.残された課題
考古学的見地からの網取集落形成過程の復元は、現時点では以上が限界である。居住が始まる前段階に通耕の
261
第四章
このようにみてくると、網取集落は 18 世紀後半を起点として現在にいたる景観を次第に整え始めたと理解で
段階を設定しうるか否かについては、いまのところ未解明であるし、17 世紀代の様相についてはほとんど不明
というほかない。ただし 18 世紀の後半がひとつの画期となり、以後の集落変遷過程がたどれることは確かだと
いえよう。この段階までの村の人口については、1651 年の記録に舟浮と網取合わせて 38 人、1737 年の記録に
は網取村 49 人とある。さらに 1753 年の崎山村創設時には 62 人が網取から移されたとある。ただし最後の記
録については、前段階までの推移を考慮すると、所属の移管であったとみるのが妥当であろう。ここから、18
世紀後半代の網取村の人口は 62 人をやや上回る程度であったと考えられ、17 世紀中葉以降、着実な増加であっ
たことが確認できる。以後の人口は崎山・鹿川と一括で記録される関係で 18 世紀後半以降の変化を随時たどる
ことはできないが、少なくとも近世の前半については着実な増加傾向にあったとみてよい。そして、それを支え
た生産基盤の主要な部分は水稲農耕と甘藷栽培に委ねられたと推定される。本節で検討を加えた集落景観の変遷
についても、基本的にはこうした農業生産基盤の安定と、そこからもたらされた人口の増加に沿う形で進行した
ものと理解される。こうした側面からみれば、18 世紀後半は網取集落の歴史における画期であると同時に、ひ
とつの到達点であったということができるかもしれない。
なお人口の推移について付言すると、八重山地域全体を見渡してみても、この段階までの人口増加は顕著であ
り、激増という表現がふさわしいほどの増加をみせている。ところが直後に激変を招く。1771 年に発生した明
和の大津波が原因であり、その後の復興政策が芳しくなかったこともあって八重山地域全体がその後は長期停滞
期を迎える。そして問題は、網取集落が津波後にたどった変化はどのようなものだったかである。今回の検討の
結果提示される暫定的結論は、19 世紀以降も集落景観は整備され続け、現在の景観に近づくことからみて、そ
の途中に衰退傾向を見いだすことはできないというものである。この暫定的な結論がはたして妥当なのか否か、
今後の課題の焦点のひとつはここに求められる。
【参考文献】
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『琉球・沖縄 - その歴史と日本像』雄山閣
第四章
安里 進 1998『グスク・共同体・村 - 沖縄歴史考古学序説 -』榕樹書林
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安渓遊地 1998b「西表島の焼畑 第二部 - 生態的諸条件とその歴史的変遷をめぐって -」
,『沖縄文化』
,第 34 巻第 1 号
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,『季刊民族学』,第 49 号
石垣市総務部市史編纂室(編)1991『石垣市史叢書 1 慶来慶田城由来記・富川親方八重山島諸締帳』石垣市
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石垣市総務部市史編集室(編)1995『石垣市叢書 9 参遣状抜書 ( 下巻 )』石垣市
石垣市総務部市史編集室(編)1999『石垣市叢書 13 八重山島年来記』石垣市
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黒島為一 1990「人頭税」『新琉球史 - 近世編(下)
』琉球新報社
富美山和行 2003『琉球・沖縄史の世界 - 日本の古代史 18-』吉川弘文館
得能壽美 2003「近世八重山における通耕と『村』- 鳩間島をモデルタイプに -」
『沖縄文化』38 巻1号
262
第8節 同位体分析結果からみた先史時代人と近世網取人
北條芳隆・吉田健太
1. 炭素・窒素安定同位体分析にいたる経緯
網取遺跡で 1975 年に発見された改葬人骨は、2004 年度に実施した放射性炭素年代測定の結果、15 ∼ 17 世
紀相当という値が出され、中世末から近世初頭のものと判断された(第5章2節)。また、この測定とともに提
示された炭素同位体比δ 13 Cの値は­ 9‰であることが注目された。この値は日本本土や沖縄の他遺跡出土の人
骨の標準的δ 13 C比から大きく逸脱したもので、その意味するところを解明する必要が生じた。そこで 2005 年
度には、人骨の炭素・窒素安定同位体比測定を目的とした分析を依頼した。依頼先は(株)古環境研究所である。
その結果は、第5章6節に示した通り、サンプル名で 29171 とされた改葬人骨のδ 13 C比は -18.8‰、δ 15 N
比は +9.1‰という再測定結果であった。放射性炭素年代測定の副産物として示された 2004 年度のδ 13 C値か
らは 9.8‰の差が生じており、同一個体間でなぜこれだけ顕著な差異が生じるのかについては今後の課題として
残るものの、この再分析結果は、1回目のような標準的数値からの著しい隔たりを解消したともいえる。
なお改葬人骨とは別に、貝塚地区 D トレンチからは先島先史時代の西暦5世紀代のものと考えられる左大腿
骨が出土しており、この資料(サンプル名は 29172)についても同様に安定同位体比分析を実施した。その結
果はδ 13 C比が -14.1‰、δ 15 N比が +10.9‰であった。これによって、同一遺跡から出土した5世紀代の人骨
(以下貝塚人骨・網取先史時代人と呼ぶ)と、15 ∼ 17 世紀代の人骨(改葬人骨・近世網取人と呼ぶ)の2体に
ついての安定同位体比がえられた訳である。
ところで、このような安定同位体分析は食性分析に用いられることが多い。ではこれら2資料の安定同位体比
分析結果を基礎に、それを食性分析という土俵の上に乗せた場合、どのような所見がえられるのであろうか。本
節ではこの点にかんする若干の考察をおこなう。
(1)人骨の同位体比と周辺食物の同位体比
網取貝塚人骨と同改葬人骨の両者を比較してみると、δ 15 Nの値は 1.8‰の差で、さほど大きくないのに対し、
δ 13 Cの値には 4.7‰の値の開きがある。この差異を生前の食性の問題に置き換えた場合、一般にδ 15 Nの差は、
彼ないし彼女が生前にもっとも頻繁に食料としていた食物自体が、自然界の食物連鎖階梯においてどこに位置し
ていたのかを反映する。またδ 13 Cの差は、食料が陸生資源に偏っていたのか海生資源に偏っていたのかの差
異を反映する。この関係を具体的にみていこう。図 4-24 は、日本本土出土の動植物の炭素・窒素安定同位体分
析結果(赤澤・米田・吉田 1993)に網取改葬人骨と同貝塚人骨を入れ込んだものである。円で囲んだエリアが、
それぞれのジャンルの食物に固有の同位体比の標準値である。植物については C3 植物と C4 植物に分類するこ
とができ、それぞれ固有のエリアを形成する。これら全体は、いわゆる「ヒトが利用していたと想定される食糧
資源の同位体環境」であり、各エリアと人骨の同位体比との相対的距離を測ることによって、食性復元がおこな
われるのである。網取遺跡出土の二人についてみれば、改葬人骨は草食獣の同位対比エリアに近く、いっぽうの
貝塚人骨は海産貝類の同位体比エリアに重なっている。ごく単純化していえば、近世網取人は陸生食料への依存
率が網取先史時代人よりも明らかに高かったし、網取先史時代人のほうは、海産物でも貝類への依存率が相対的
に高かった可能性が指摘できるということになる。ただし具体的に何を食していたかという推定それ自体には原
理的な困難を伴う。たとえば、とある雑食獣の同位体比エリアとヒトの同位対比が重なった場合に、ヒトはその
雑食獣をもっぱら食していたとは到底いえないからである。特に雑食獣自体がヒトと類似した食性であった場合
263
第四章
2. 関連資料の炭素・窒素安定同位体分析
に生じやすいケースだといえよう。
(2)網取における周辺食物同位体データの作成
先の図 4-24 では日本本土の動植物を周辺食物の同位体比として用いた。しかし、網取遺跡から出土した人骨
の同位体分析結果を意味のあるものにしようとする場合には、網取遺跡の周辺に生息する動植物の炭素・窒素安
定同位体比の値を把握しておかなければならない。そこで吉田健太は 2006 年度東海大学文学部卒業論文研究の
一環として西表島の旧網取村(沖縄地域研究センター網取施設)に3ヵ月滞在し、実際に網取在住の人々が食し
ていたと推定される食物の採取をおこなった。海産物のうち貝類については網取貝塚の発掘調査において、先史
時代・近世を通じ出土量の比較的多いものを選んだ。魚類については、網取湾のサンゴ礁内に生息する魚種を選
択した。また植物および陸上動物については、民族誌に食料としての記載のあるものを選択した。たとえば八重
山諸島では海産の貝類と同様に陸産のカタツムリやタニシも食用とされてきた。それらの多くは畑地や水田で容
易に採取することができ、民族誌には陸・海産貝類のなかでカタツムリとタニシが最も多く食べられていたとい
う記述がみられる(野中 1995)
。こうした理由から、カタツムリのなかで最も多く見受けられたヤエヤマヤマ
タニシをサンプルとして採取した。さらに、昔から水・風害や干ばつなどの被害に悩まされてきた沖縄では、た
びたび起こる飢饉に備え「救荒食物」を常備していたとされる(尚 1988)。果実だけでなく、幹や葉の芯が主
食の代用となったパパイヤやコミノクロツグ、集合果のほかに芽なども食されたアダンはその代表的なもので
あったらしい。したがってこれら 3 種もサンプルとして採取した。
ただし大型海獣やリュウキュウイノシシについては吉田の滞在中に試料の入手が不可能であり、断念せざるを
えなかった。
なお採取試料にたいする炭素・窒素安定同位体分析は、古環境研究所の松田隆二氏に依頼した。こうした作業
を実施した結果、貝類 5 種、魚類 5 種、植物 3 種、動物 1 種の計 14 サンプルを用いた周辺食物の炭素・窒素安
定同位体分析値がえられた。結果を表 4-14 に示す。
図 4-25 は、表 4-14 の 14 試料に南川雅男・松井章両氏によるリュウキュウイノシシの炭素・窒素安定同位体
第四章
分析結果(南川・松井 2002)を借用して加えたものである。これによって海産貝類・海産魚類・植物・陸産動物・
リュウキュウイノシシの 5 群のまとまりからなる網取湾の周辺食物安定同位体比分布図が一応完成した。
ところで網取湾周辺動植物の分析値と、先の図 4-24 に示した日本本土動植物の分析値を比較してみると、植
物や陸産動物では近似した値を示すものの、海産貝類・海産魚類では値が異なっており、網取湾周辺の試料のほ
うが全体にδ 13 C比は高く、かつδ 15 N比は低くなっていることに気がつく。それぞれ異なった食物連鎖階梯
における第一段階の生物の炭素・窒素安定同位体比が影響したものと考えられるが、詳細は不明である。ただし
表 4-14 網取周辺で採取した食物の炭素・窒素安定同位体分析結果
NO
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
264
試料名
貝1
貝3
貝5
貝7
貝9
魚1
魚3
魚5
魚7
魚9
陸上植物1
陸上植物3
陸上植物5
陸上動物
科種
ソデボラ科マガキガイ
ヨメガカサガイ科オオベッコウガサ
コウダカカラマツガイ
アマオブネガイ科オオマルアマオブネ
タマキビ
フエフキダイ科ノコギリダイ
スズメダイ科ロクセンスズメダイ
フエダイ科ヨスジフエダイ
ハタ科カンモンハタ
サバ科カツオ
パパイア科パパイア
タコノキ科アダン
ヤシ科コミノクロツグ
ヤエヤマヤマタニシ
δ 13C(‰) δ 15N(‰)
-12.4
7.6
-11.7
5.2
-12.9
4.2
-11.3
4.3
-12.9
6.4
-11.6
11.5
-17.7
9.4
-14.1
11.3
-12.3
9.9
-17.3
8.3
-32.5
2
-25.0
-0.3
-30.1
0.9
-25.9
2.3
shell body
shell body
shell body
shell body
shell body
fish
fish
fish
fish
fish
plant
plant
plant
animal bone
δ15N(‰)
δ15N(‰)
20
20
海獣・大型魚類
15
15
海産魚類
網取採取魚類
10
10
海産貝類
草食獣
5
5
0
網取採取
カタツムリ
リュウキュウ
イノシシ
網取採取貝類
0
網取採取植物
C3植物
C4植物
-5
-5
-35
-30
-25
-20
-15
-10
-5
-35
-30
-25
-20
-15
-10
網取近世改葬人骨
網取貝塚出土人骨
-5
δ13C(‰)
δ13C(‰)
網取近世改葬人骨
網取貝塚出土人骨
リュウキュウイノシシの値は南川・松井2002より引用
周辺食物の値は赤澤・米田・吉田1993より引用
図 4-24 網取出土人骨・本土出土動植物の安定同位体比
図 4-26 網取出土人骨および湾周辺食物安定同位体比
δ15N(‰)
δ15N(‰)
20
20
第四章
15
15
網取採取魚類
網取採取魚類
ノコギリダイ(魚1)
ヨスジフエダイ(魚5)
10
ロクセンスズメダイ
(魚3)
リュウキュウ
イノシシ
10
カンモンハタ(魚7)
カツオ(魚9)
マガキガイ(貝1)
タマキビ(貝9)
オオベッコウガサ(貝3)
5
パパイア
(陸上植物1)
網取採取
カタツムリ
コウダカカラ
オオマルアマオブネ
マツガイ(貝5)
(貝7)
網取採取
カタツムリ
網取採取貝類
ヤエヤマヤマタニシ
(陸上動物)
0
5
リュウキュウ
イノシシ
網取採取貝類
0
コミノクロツグ
(陸上植物5)
アダン
(陸上植物3)
網取採取植物
網取採取植物
-5
-5
-35
-30
-25
-20
-15
-10
-5
δ13C(‰)
網取採取貝類
網取採取魚類
網取採取植物
網取採取 マイマイ
図 4-25 網取湾周辺食物安定同位体比
-35
-30
-25
網取貝塚出土人骨
網取近世改葬人骨
-20
-15
-10
沖 縄 本 島・安 座 間 原 貝 塚( 縄 文 晩 期 )
伊 計 島・仲 原 遺 跡
( 縄文晩期 )
-5
δ13C(‰)
安座間原貝塚の値は高宮・brian・呉屋・松下1999より引用
網取遺跡以外の遺跡の 値は米田2005より引用
図 4-27 先史時代人骨の安定同位体比
265
バハマで採取されたサンゴ礁貝類や魚類についても、全体にδ 13 C比は高く、かつδ 15 N比は低いという傾向
が指摘されている(高宮・Brian・呉屋・松下 1999)ので、類似した背景を負うものなのかもしれない。いず
れにせよ、網取遺跡出土人骨の同位体分析値を有効に活用するためには、現地の周辺食物同位体比を周到に準備
しなければならないことの重要性を実感させられた。 (3)網取人の食性復元
ここまでの作業を基礎に、網取遺跡出土人骨の値を周辺環境食物同位体比と重ね合わせたものが図 4-26 であ
る。その結果、貝塚人骨と改葬人骨は、ともにリュウキュウイノシシの示す値の外周部分に位置し、貝塚人骨は
海産魚類側に偏り、改葬人骨は陸上植物側に偏るという傾向を示すことが判明した。貝塚から実際に出土し、両
網取人によって食されたことが確実なリュウキュウイノシシの同位体値と近似した結果となっているのは、とも
に雑食性哺乳類であるがゆえの宿命であろう。
したがって両網取人を比較したときの食性の差異を検討する際には、リュウキュウイノシシへの依存度を保留
する必要があり、食料獲得活動において海産魚類への依存度が相対的に高かった貝塚人と、陸上植物への依存度
が海産食料への依存度を上回った改葬人という形での把握が妥当だと思われる。そしてそのように理解した場合、
貝塚人について検討すべき事柄は、貝類よりも魚類に近似することの意味であろう。貝塚での夥しい貝類遺存体
の出土数に比べると、意外なほど貝類への依存度は低かったという傾向を示している。
ただし貝類への依存度の低さはエネルギー量の問題からも明らかで、可食部 100g あたりで得られるカロリー
は、魚類の約 100 ∼ 300kcal にたいし貝類は約 30 ∼ 90kcal にすぎない。また、食品全体の重量に占める廃棄
部の割合を示す「廃棄率」は、魚類の大半が 20 ∼ 50%であるのにたいし、貝類には 50 ∼ 75%のものが多く
(文部科学省 2005)
、網取遺跡の貝塚でみられるような重厚な殻をもつ貝種の廃棄率はさらに高いと考えられる。
エネルギー効率が魚類に比べかなり劣る貝類への食料依存度は、実際には見かけの膨大さほどには高くなかった
ことがうかがえる。
次に改葬人について検討すべき事柄は、農業生産物との関係である。改葬人が生きていた中世末期から近世初
第四章
頭という時代は農耕社会であり、西表島西部ではコメ・アワ・キビが生産され、他の島嶼部ではアワ・キビ・ム
ギなどが生産されていた(安渓 1988a・1988b)。さらに 17 世紀初頭の 1605 年には中国から甘藷が伝播して
いる(安渓 1989)
。アワ・キビなどの雑穀類は図 4-24 で示した C4 植物にあたり、コメと甘藷はC3植物にあ
たる。したがってこの場合、改葬人はどちらの植物を食していたのかが問題となる。今回のデータを見る限り、
少なくともC4植物群のアワやキビなどへの依存率が高かった形跡は見出せない。明らかにC3植物への近似傾
向を示しているのであり、
彼が生前に食する機会の多かった可能性のある農業生産物を候補として上げるならば、
それはコメやヤマノイモ、もしくは甘藷等であったといわざるをえないのである。
3. 網取人と近隣遺跡人との比較から
荒削りではあるが、以上の検討作業の結果、網取遺跡における先史時代人と近世人にみる食性の差異について、
ある程度の傾向を把握できた。ではそれぞれの時代において、網取遺跡出土人骨は近隣遺跡出土の人骨と比べた
場合にどのような特徴をもつのであろうか。最後にこの点を検討する。なお沖縄県下における他の遺跡出土人骨
の炭素・窒素安定同位体分析結果については、
高宮広土氏や米田穣氏によって公表されている(高宮・Brian・呉屋・
松下 1999, 米田 2005)ので、それを適宜引用させていただくことにする。
(1)先史時代と近世における対照的な同位体分析値
まず網取貝塚人骨と他の先史時代遺跡人骨とを比較する(図 4-27)。比較の対象とするのは、伊計島・仲原遺
跡と沖縄本島・安座間原貝塚出土の人骨である。ともに縄文晩期に属する試料であるため、網取貝塚人骨とは大
幅な年代の開きがあることを認めざるをえないが、これをみると、網取貝塚人骨を含めた 3 遺跡出土の人骨の
266
δ15N(‰)
20
δ15N(‰)
20
15
15
網取採取魚類
網取採取魚類
10
10
リュウキュウ
イノシシ
5
5
網取採取
カタツムリ
網取採取
カタツムリ
網取採取貝類
リュウキュウ
イノシシ
網取採取貝類
0
0
網取採取植物
網取採取植物
C4植物
-5
-5
-35
-30
-25
-20
-15
-10
網取貝塚出土人骨
石 垣 島 ・ 蔵 元 跡 ( 15∼ 16世 紀 )
網取近世改葬人骨
宮 古 島 ・ 浦 底 遺 跡 ( 14∼ 16世 紀 )
-5
-35
-30
-25
-20
-15
δ13C(‰)
-10
-5
δ13C(‰)
網取貝塚出土人骨
網取近世改葬人骨
沖縄本島・伊祖の拝領墓(近世 )
久 米 島 ・ ヤ ッ チ の ガ マ ( 18世 紀 )
石 垣 島 ・ 野 底 遺 跡 ( 18∼ 19世 紀 )
網取遺跡以外の値は米田2005より引用
網取遺跡以外の遺跡の値は米田2005より引用
図 4-28 近世人骨の安定同位体比
リュウキュウイノシシの値は南川・松井2002より引用
図 4-29 近世後半代人骨の安定同位体比
いのではあるまいか。つまり類似した自然環境のもとで狩猟採集経済を選択する人々が時空を隔てて必然的に示
す食物依存度における類似である。
次に網取改葬人骨と年代の近接した時期(15 ∼ 17 世紀)の他遺跡出土人骨との比較をおこなう。比較資料
としては石垣島・蔵元跡と宮古島・浦底遺跡出土の人骨を挙げた。その結果を示したものが図 4-28 であるが、
ここからは興味深いことに、同じ宮古・八重山地域に所在するにもかかわらず、遺跡ごとに示す値の傾向は明瞭
に異なっており、それぞれ独自の領域をもってまとまるようにみえる。網取改葬人骨についても他遺跡出土人骨
とは異なって孤立した位置にある。一言でいえば地域性が顕在化するのである。先の先史時代における近似した
ありようとは好対照をなす現象である。
(2)近世網取人と近世琉球人の類似
では上記のような現象をどのように理解したらよいのであろうか。その意味を探るために追加の作業をおこな
うことにする。近世後半代の資料を比較対象として取り上げ、網取改葬人骨とを比較してみた(図 4-29)。取り
上げた資料は久米島・ヤッチノガマ(18 世紀代)、沖縄本島・伊祖の拝領墓、石垣島・野底遺跡である。作業結
果から明らかなとおり、網取改葬人骨の同位体比は、これら近世沖縄本島人骨の一部や、18 ∼ 19 世紀代の石
垣人骨との間でひとつのグループを形成する。つまり網取改葬人骨のもつ同位体比は、実は近世後半に顕在化し
てくる様相の先取りとでもいうべき特徴的な位置にあるといえる。当然のことながら、先の図 4-28 で示された
同時時期の先島地域においては、多彩な地域性の一端を担う個別の存在として、多様性のなかに埋没する状態で
あったといえるに違いない。
267
第四章
炭素・窒素安定同位体分析値は、いずれも同じような値を示すことがわかる。この近似には意味があるとみてよ
4. まとめ
以上、炭素・窒素安定同位体分析結果からみた網取先史時代人と近世網取人の特性とその意味について若干の
考察をおこなった。今回の分析では、ヤマノイモ科をはじめとした数種のサンプル採取をおこなうことができな
かったし、なによりも網取遺跡出土のリュウキュウイノシシに対する同位体分析を行っていないという決定的な
欠陥をもつ。提示した見解についても、浅学ゆえの勇み足もあるに違いない。専門的知見からの厳しい批判は覚
悟のうえである。とはいえ、安定同位体分析がいかに魅力的な将来性を有する研究戦略であるのかについて、そ
の重要性を再確認しえたと思う。
【引用・参考文献】
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,
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第四章
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究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書,29-30 頁
文部科学省科学技術学術審議会資源調査分科会(編)2005『五訂増補 日本食品標準成分表』国立印刷局
268
第9節 シレナシジミとキバウミニナの生態分布
上野信平・福岡雅史・河野裕美
1. 緒言
熱帯・亜熱帯の感潮域には、マングローブが良く発達する。日本におけるマングローブ林構成種はメヒル
ギ Kandelia candel 、オヒルギ Brugurier conjugate 、ヤエヤマヒルギ Rhizophora mucronata 、ヒルギダマ
シ Avicennia marina 、ヒルギモドキ Lumnitzera racemosa 、マヤプシキ Sonneratia alba 、ニッパヤシ Nypa
fruticans の 5 科 7 種である。沖縄県西表島浦内川河口にも約 1km² にも及ぶマングローブが生育する。この
浦内川の河口近くの河床に発見されたカトゥラ貝塚から、マングローブ林床に生息するシレナシジミ Geloina
coaxans (写真 17 左)が大量に出土し、古くから食用として利用されてきたことがわかった(第3章4節参
照)
。このシレナシジミは、本邦産シジミ科の中では最大種である。本種に関しては成長と移動(玉城・仲本
1994)
、繁殖戦略(Morton 1985)などの報告があるが生態は不明な点が多く、マングローブ生態系における役
割については十分理解されていない。シレナシジミと同様にカトゥラ貝塚から出土するキバウミニナTerebralia
palustris (写真 17 右)もマングローブに生息するウミニナ類最大の巻貝でインドから西太平洋のマングローブ
域に広く分布するが、日本国内で大きな個体群が生息するのは西表島のみである。特徴として、マングローブ落
葉を摂食すること(西平 1983)が挙げられ、マングローブ域の中でカニ類同様に、初期分解過程に深く関わっ
ている(西平 1988, 仲宗根 2000)
。しかし、キバウミニナの生態には不明な点も多く、マングローブ域におけ
る生態的位置付けを示すには不十分である。キバウミニナの大きさや生態的特徴より、マングローブ生態系にお
0
100mm
殻長
殻幅
殻高
シレナシジミ キバウミニナ
第四章
殻高
殻幅
写真 17 シレナシジミ(左)とキバウミニナ(右)写真
写真 18 (左)底質区分クリーク(中)乾燥域(右)含水域 269
ける役割も大きいと考えられる。
カトゥラ貝塚からは上記のシレナシジミやキバウミニナのマングローブに生息する貝類以外に、シャコガイ、
ラクダガイ、クモガイなどの海産の種も出土しており、カトゥラ貝塚に関わった当時の人々は、マングローブ域
と海域の両域で生活の糧を得ていたことは明らかである。しかし、当時の人々が、これらの貝類をどのように採
集、利用していたのかは不明である。この点を明らかにするには、これら出土する貝類の生態分布を明らかにし、
当時の採集がどのようになされていたのかを検討することが重要である。
そこで本研究では、マングローブ林床で一般的にみられるシレナシジミとキバウミニナの生態分布を明らかに
することを目的とした。
2. 材料と方法
(2)調査域の概略
沖縄県西表島は 24 20 N,123 50 E に位置し、亜熱帯性海洋気候に属する面積約 289 k㎡の島である。本
研究の調査域である西表島の浦内川は全長約 20km、支流も含めて約 39km の沖縄県最大規模の河川である。
河口から約 8km 上流までは勾配が緩やかで、満潮時には海水と淡水の混在する汽水域となり、広大なマング
沖
縄
地
域
研
究
セ
ン
タ
ー
九州
浦内湾
中国
東シナ海
沖縄本島
第四章
カ
ト
ゥ
ラ
貝
塚
西表島
台湾
C
C1
G.N.
13
10
9
浦内川
E2
E
西表島
E3 B3
3
8
5km
7
5
マングローブ
クリーク
調査 Line
6
シレナシジミ調査区
水温計設置地点
シレナシジミ実験調査区
F3
F2
F1
図 4-30 調査地略図
270
C2
C3
11
D
E1
0
浦
内
川
14
12
4
B1
A
浦内橋
1
2
B2
B
0
F
200m
東
海
大
学
図 4-31 シレナシジミの生息状態
ローブ域が形成され、その広さは 87ha と国内最大である(中須賀ら 1974)。
対象としたマングローブ域は浦内川河口から約 2km 上流の湿地帯である。このマングローブの構成樹種はヤ
エヤマヒルギ、オヒルギ、メヒルギの 3 種が主である。潮汐の影響を強く受け、干潮時には水の流れのあるクリー
ク、水が停滞する含水域、地表が乾燥する乾燥域などが出現する(写真 18)
調 査 は 2004 年 4 月 ∼ 2004 年 12 月 に マ ン グ ロ ー ブ 域 で GPS を 使 用 し、6 本 の ク リ ー ク A、B、C、D、
E、F を基準に、計 14 本の調査 Line と、クリークに設置した 12 調査区で実施した(図 4-30)。
① 温度 マングローブ域を流れるクリーク E にデジタル水温計(Stow Away Tidbit Logger、米国 Onset
Computer)を設置し、2004 年 12 月 18 日∼ 2005 年 12 月 20 日まで 1 時間毎に測温した。また、水温計は、
常に干出している地点(気温)
、潮汐により冠水と干出を繰り返す地点(感潮域)、水中(水温)、深さ 10 ㎝の
泥中(泥温)の 4 地点に設置した。
② 地形 マングローブ域に設置した、調査 Line 1,2,3,4,9,10,11,13,14 の 9 本(図 4-30)において、干潮時に
トータルステーション(PTS-510c、旭精密株式会社)を用いて水準測量を行い、地形断面図を作成した。
③ 底質 底質試料は、干潮時にクリーク、含水域、乾燥域の各区分と調査 Line 1,2,3,4 の 50m 間隔の底質を表
層と 5cm 下層から採取した(図 4-30)
。試料は 10%ホルマリンで固定し、実験室で脱塩乾燥後、乾燥重量を測
定し、電気炉(NEW-3C、林電工株式会社)で 550℃、6 時間熱し(佐藤ら、1987)、強熱減量を算出した。また、
ふるいわけ法により、
20 分間篩振盪機で篩別(篩の目合い:2.0,1.0,0.5,0.063,0.038mm)し、粒度分析を行った。
271
第四章
図 4-32 調査域の気温と水温 (2004.12.18 ∼ 2005.12.20) (2)植生調査
調査 Line 1,2,3,4 において 3
3m 方形区を 50m
間隔に設置し、方形区に出現した樹種、本数と胸高直
径を記録した(図 4-30)
。また樹高 2m に満たないも
のは、樹高と根元直径を記録し、胸高直径 2cm 未満
に含めた。
(3)シレナシジミの分布調査と成長量
調査はマングローブ域の 4 本のクリーク B、C、E、
F のそれぞれに 10
10m の 3 調査区を設定し(図
4-30)
、干潮時に底質をクリーク、含水域、乾燥域に
大別して実施した(写真 15)
。調査区全域を約 10cm
図 4-33 シレナシジミの個体数密度
掘り下げ、シレナシジミの個体数とサイズ、生息状態
を水中ノートに記録した。個体サイズは殻長、殻高、
殻幅をノギス(精度 0.05mm)により計測した .
また、シレナシジミの生息状態は殻全体が地表に完
全に露出した状態をタイプⅠ、殻長の 1/2 以上が地
表から露出した状態をタイプⅡ、殻長の 1/2 以上が
地中に潜った状態をタイプⅢ、地中へ完全に潜行した
状態をタイプⅣとした(図 4-31)
。
また、シレナシジミの成長量を明らかにするために、
2004 年 12 月∼ 2005 年 12 月に、クリーク E に設置
した調査区で成長量を計測した。実験に用いたシレ
第四章
ナシジミは、殻長 20 ∼ 120mm 級の個体計 25 個体
(20mm 級 3 個体、30mm 級 2 個体、50mm 級 4 個体、
60mm 級 4 個体、70mm 級 2 個体、80mm 級 3 個体、
90mm 級 3 個体、
100mm 級 2 個体、
110mm 級 1 個体、
120 級 1 個体)を用いた。これらの個体は殻表をペ
イントで標識して個体識別し、3 ヵ月ごとに殻長、殻
高、殻幅を計測した。
図 4-34 シレナシジミの生息状態と底質環境
(4)キバウミニナの分布調査
マングローブ域に設置した調査 Line 1 ∼ 14(図
4-30)において、幅 3m のベルトトランセクト調査
を行った。調査中、出現したキバウミニナは、出現位
置、個体数、サイズを記録した。また、個体サイズは、
殻高と殻幅をノギス(精度 0.05mm)で測定し、殻
高 30mm 以上を成貝とした。
3. 結果
(1)温度
測 温 期 間 の 気 温 は 最 高 が 2005 年 8 月 1 日 の
272
図 4-35 シレナシジミの殻長組成
35.7℃、最低が 2005 年 3 月 7 日の 8.5℃で、また水温は最高が 2005 年 7 月 30 日の 35.2℃、最低が 2005 年
3 月 24 日の 11.8℃であった(図 4-32)
。4 地点で最高温度と最低温度を記録したのは、感潮域で 2005 年 7 月
31 日の 36.7℃と 2005 年 3 月 6 日の 6.9℃であった。また、感潮域は各月とも標準偏差が他の 3 地点と比較し
て大きかった。それに対し、泥温は平均温度が 24.3℃と最も高く、標準偏差も小さく最も安定していた。
(2)シレナシジミの個体数密度
全 12 調査区の総面積 1200 ㎡における底質別の面積はクリークが 347 ㎡、含水域が 392 ㎡、乾燥域が 461
㎡であった。2004 年 7 ∼ 9 月に行った調査の結果、これらの調査区内では計 238 個体のシレナシジミの生息
が確認された。底質別の平均個体数密度(個体数 / ㎡)は含水域で 0.33 と最も高く出現個体数(n =238)の
約 66%、次いでクリークが 0.20 で出現個体数の約 30%、乾燥域が最も低く 0.03 となり出現個体数の約 4% が
出現した(図 4-33)
。
これらの底質別の個体数密度はいずれの底質間でも有意差があり(t 検定、p < 0.05)、含水域がクリークや乾
燥域と比較して高かった。また、これらの底質を考慮せずに 10
10m の方形区(全 12 調査区)でみた個体数
密度(個体数 / ㎡)は、
最も高いところで 0.42、最も低いところで 0.03 であった。平均個体数密度は 0.20 であっ
た。 (3)シレナシジミの生息状態
本調査で出現したシレナシジミ 238 個体の生息状態は、約 62% にあたる 148 個体がタイプⅢと最も多く、次
いて約 21% にあたる 51 個体がタイプⅡ、
約 16% にあたる 37 個体がタイプⅣ、タイプⅠは 2 個体で約 1% であっ
た(図 4-34)
。全個体(n=238)の約 84% が地表に殻の一部を露出させていた。
また、タイプⅢは底質別でみると、クリークに出現した個体(n =72)の約 82%、含水域に出現した個体(n
=156)の約 53%、乾燥域に出現した個体(n =10)の約 60% と、いずれの底質においても最も多く出現した。
(4)シレナシジミの殻長組成と外部形態
分布調査により出現したシレナシジミ 238 個体中、計測可能な 237 個体の殻長は 24 ∼ 133mm であった(図
調査中に確認されたシレナシジミの殻長(x)cm と殻高(y)cm の関係は次式で表された(図 4-36a)。
y=0.8989x (R²=0.9443)
また、殻長(x)cm と殻幅(y)cm の関係は次式で表された(図 4-36b)。
y=0.5829x (R²=0.8695)
R² は共に高く、成長過程における外部形態の変化は小さいことが明らかとなった。
図 4-36(a) シレナシジミの殻長と殻高の関係
図 4-36(b) シレナシジミの殻長と殻幅の関係
273
第四章
4-35)
。モードは 80 ∼ 90mm 級であり、このクラスの個体数は 148 個体と計測個体の約 62% を占めた。また、
図 4-37 シレナシジミの成長量
(5)シレナシジミの成長
シレナシジミの成長量は、小型個体で大きく殻長 20mm 級(n=3)で平均 20.30mm / year で最大となり、
殻 長 30mm 級(n=2) で 16.73mm/year、 殻 長 50mm 級(n=4) で 10.73mm/year、 殻 長 60mm 級(n=4)
で 6.73mm/year であった(図 4-37)
。それに対し、殻長 70mm 級以上(n=12)では 5mm/year 以下となりほ
とんど成長していなかった。また、成長量は夏期に大きく、殻長 20mm 級で 8.48mm(2005 年 7 月 6 日∼ 9
月 29 日)であった。
第四章
(6)キバウミニナの分布と殻高組成
調査 Line の総面積は 8,283m² で、総個体数は 4,655
個体であった。したがって個体数密度は 0.56/m² であっ
た。殻高が計測可能であった 4,638 個体の殻高は 5.0 ∼
150.5mm、モードは 110.0 ∼ 120.0mm 級であった(図
4-38)
。
調査した 14 本の Line のうち Line11 と 14 はキバウミ
ニナが出現しなかったが、その他の 12 本の Line での個
体数密度(個体数 /m²)は Line12 の 0.002 から Line4
の 1.26 の範囲であった。
図 4-38 キバウミニナの総出現個体数の殻高組成
潮汐
キバウミニナの
出現標高
図 4-39 キバウミニナが出現する標高と潮汐変化 (2005 年 8 月∼ 9 月 )
274
また、キバウミニナの出現した最高標高は 62cm
であり、分布調査が行われた 8 ∼ 10 月のうち、9
月に連続して 5 日間、冠水しない期間はあるものの、
その他はほぼ 1 日に 2 度は冠水する環境にある(図
4 ー 39)。また、キバウミニナはクリーク沿いで地
形変化の少ない平坦な地点に集中し、細粒砂以下
(粒径 0.250mm 未満)の粒径が 50%以上の底質上
図 4-40 キバウミニナとオヒルギの個体数密度の関係
に分布していた。クリーク付近では表層の強熱減
量の値が 3.6 ∼ 9.1%と低かった。
キバウミニナの個体数密度(y)とヤエヤマヒルギの個体数密度(x)の関係は R² = 2
10-5 と無相関であっ
たが、オヒルギ(x)は y = -2.5299x+9.8191 で R² = 0.52 と負の相関があった(図 4-40)。
4. 考察
シレナシジミの成長量は、小型個体で大きく殻長 20mm 級で平均 20.30mm/year で、殻長 70mm 級以上で
は 5mm/year 以下であった。西表島船浦産のシレナシジミは、殻長 55mm のシレナシジミで 1 年 3 ヵ月間に
17.0mm、74mm では 8.8mm、81mm では 7.3mm 成長すると報告されている(玉城・仲本 1994)。これらの
値を 12 ヵ月に換算する、
とそれぞれ 12.7、
6.6、5.5mm/year となる。本研究で得られた結果を合わせて考えると、
殻長 50mm までは 15 ∼ 20mm/year 成長し、殻長 50 ∼ 80mm までは 5 ∼ 15mm/year 成長することになる。
したがって、本研究で出現したシレナシジミの殻長モードは 80 ∼ 90mm 級で、このモードに達するまでに 5
∼ 8 年要することになる。
シレナシジミは殻長の 1/2 以上を埋没させて生息する個体が全個体(n=238)の約 62% にあたる 148 個体と
最も多かった。なかでも干潮時に水の流れのあるクリークで殻長の 1/2 以上を埋没させて生息する個体が最も
定である。また、二枚貝の摂餌様式は濾過摂食であり(堀越・菊池 1976)、シレナシジミも沈積デトライタス
を濾過摂食していることを考えれば、泥中に殻長の 1/2 を埋没させて定位することは摂食に有利と考えられる。
また殻長 55mm 以上のシレナシジミは、ばらまき移植から 1 年 3 ヵ月後でもほとんど移動しないことが報告さ
れている(玉城・仲本 1994)
。このことから、シレナシジミは移動により分布を大きく変えることは考えにくい。
そこで底質別のシレナシジミの個体数密度(個体数 / ㎡)をみると、干潮時に水の停滞する含水域で 0.33 と最
も高く、乾燥域で 0.03 と最も低かった。含水域は乾燥域と比べ、潮汐による冠水時間が長く、有機物量も高い。
そしてシレナシジミが濾過摂食者であり、水中に放卵、放精して繁殖する(Morton 1985)ことを考慮すれば、
含水域に生息することがシレナシジミにとって乾燥域に比べて、摂食や繁殖に有利であり、このことが含水域と
乾燥域の個体数密度の差に繋がったと推察される。
貝塚時代の人々にとっても、干潮時に舟でクリークに沿ってマングローブ林に入り、クリーク近くの含水域で
歩きながらシレナシジミを採集することは個体数密度も高いことから、かなり容易であったと推察される。ただ
し、含水域の個体数密度は高いといっても 0.33 個体 /m² にすぎず、殻長 80 ∼ 90mm になるまで 5 ∼ 8 年も
要することを考え合わせれば、採集にあたり、サイズの選択があった可能性も十分考えられる。しかし、80 ∼
90mm 級の個体数が最も多いことから、無差別採集であっても同様の結果となったと考えられ、貝塚から出土
したシレナシジミの精査が必要となる。
キバウミニナの調査区全域での個体数密度は、0.56/m2 であったが、最も高い調査区 150m2(Line4)は
1.26/m2 に達した。全体的な分布はクリーク沿いで標高変化の少ない平坦な環境に多かった。特に Line1,2,3,4
275
第四章
多く出現した。泥温は、気温、水温と比べ変動が小さく、気象変動に対して温度変化少なく生息環境として安
ではこの傾向が顕著であった。このような分布は西表島船浦でも報告されている(西平 1983)。また、キバ
ウミニナの出現位置における表層の粒度組成は粒径が細粒砂以下で構成されていた。オーストラリアのマング
ローブでも同様に細粒砂より小さな粒径の泥底にキバウミニナが生息していることが報告されており(Wells、
1980)
、キバウミニナの分布条件の一つと考えられる。本調査で出現したキバウミニナの殻高のモードは 110.0
∼ 120.0mm でこれ以上の個体は少数であった。キバウミニナは、外唇が肥厚した後は殻高の伸長はほとんどな
いことから浦内川のマングローブでは殻高 120.0mm がほぼ最大の殻高と考えられる。
浦内川のキバウミニナの密度はヤエヤマヒルギの密度と相関は無かったが、オヒルギの密度とは負の相関が
あった。これはオヒルギの気根が膝根であり、キバウミニナの行動を阻害することが原因と考えられる。
すなわち、キバウミニナもクリークに沿ったヤエヤマヒルギの多い平坦な地点に多く、貝塚時代の人々にとっ
てもシレナシジミ同様、採集は容易であったと推察される。ただし、カトゥラ貝塚が再堆積した貝塚であること
を考えれば、カトゥラ貝塚から出土した貝類の組成が食糧としての貝類利用の結果を直接示しているとは考えに
くく、本研究の結果との比較で利用の度合いを検討することはできなかった。
【引用文献】
北條芳隆(2003): 西表島浦内川河口所在カトゥラ貝塚の現況報告 . 東海大学総合研究機構プロジェクト宮古・八重山
地域の総合的研究 , 9pp.
Morton, B(1985): The reproductive strategy of the mangrove bivalve Polymesoda erosa in Hong kong.
Malacological Review, 18, 83-89.
中須賀常雄・大山保表・春木雅寛(1974): マングローブに関する研究Ⅰ . 日本におけるマングローブの分布 . 日本生
態学会誌 , 24(4)237-246.
西平守孝(1983): 西表島船浦のマングローブ湿地におけるキバウミニナ Terebralia palustris(Linne)の分布と個体群
構造および摂食について . 昭和 57 年度西表島水域漁場開発計画調査結果報告書 , 28-36.
西平守孝・土屋誠・久保博之(1988): 仲間川マングローブ湿地における巻貝類の分布とキバウミニナによるマングロー
第四章
ブ葉の分解 . マングローブ生態系の動態と保全に関する基礎研 , 文部省「環境科学」特別研究 , 48-60.
佐藤善徳・捧一夫・木全裕昭(1987): 浅海の底質の強熱減量測定法の改善 . 東海区水産研究所研究報告 , 123, 1-13.
玉城英信・仲本光男(1994): シレナシジミの成長と移動分散 . 平成 6 年度沖縄県水産試験場事業報告書 , 198-200.
Wells, E. F. (1980): A comparative study of distributions of the mudwhelks Terebralia suldata and T. palustris in a
mangrove swamp in Northwestern Auatralia. Malacological Review, 13, 1-5.
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