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世界理解の表出としての 言語テクストと図像テクスト Language

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世界理解の表出としての 言語テクストと図像テクスト Language
異文化 17
〔論文〕
世界理解の表出としての
言語テクストと図像テクスト
-ボッシュとゴヤの絵画を例として-
Language-Text and Image-Text
as Expressin of Worldunderstanding
- In Reference to Pictures of Hieronymus Bosch
and Francisco de Goya -
法政大学国際文化学部教授
熊田泰章
KUMATA Yoshinori
1.序
言語テクストと図像テクストとの弁別は、それをテクストとして構
成する記号を記号として用いることを、音声発話ないしは文字書記と
して行うか、もしくは図像作像として行うかの違いを違いとすること
によって成り立つものであるが、記号を用いるこのような方法の弁別
がそれによって記号作用の弁別を自ずともたらすものであるのかどう
かについて、つまりは、記号とそれが構成するテクストが言語による
ことと図像によることとによっていかなる相違を持つのか持たないの
かについて確認した後に、言語テクストと図像テクストが人の世界理
解をいかように表出しているのかについての考察を進めることがこの
小論の目的である。
拙論において、すでに、人と記号との間の従属性についての分析を
行ったが、そこでは、まとめると以下のように述べている(注 1)。
記号とは、記号がそれ自体で自立的に記号として存在するのではな
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く、人が用いることのできる何がしかを記号として用いることで成立
するものであり、そのような何がしかは、人が記号として使用するこ
とによって、そもそもそれが何であったかということは副次的になり、
人がそれを記号として使用することが人にとってのその何がしかの存
在様態として認識されるのであり、記号は記号であることによって、
それを記号として使用する人に従属するのである。しかしながら、ま
たその逆に、人がそれを記号として使用することは、同時に、使用す
る記号に人が従属することなのである。すなわち、人はその記号を用
いることを自ら選ぶのであっても、他のすべての記号を排除し、どの
記号でもなくこの一つの記号を選ぶのであり、特定されたその記号を
選んだ人としてその記号を使用して受け渡すことにより、人はその記
号を使用する人として現れているのであり、その記号によって媒介さ
れるその人の存在がこの過程によって生起するのであるから、そのこ
とを指して、人は記号に従属すると言うことができるのである。この
ような人による記号としての使用に依存しない類の即自的記号は存在
しないのであるし、言語に関しても、人による言語としての使用に依
存しない類の言語は存在しないのであり、すなわち、言語それ自体が
ない、すなわち即自的言語は存在しない(注 2)のである。記号なか
んずく言語は、帰着すべきそれ自体がないのであり、記号ないし言語
は人の使用が累積的かつ可変的に形成する参照の集合の中で記号であ
り言語であることができる。記号は他の記号と共にそれらの記号使用
によって形成される記号体系の中で使用されることによって記号とし
ての機能を持つのであり、そのような制約を受けることなしに自由に
記号を使用することは、既存の記号集合内における差異と対立によっ
て意味を持ちうるという記号の記号たる条件を満たすものではなく、
そのような自由な使用はできないのであり、記号の使用はその記号が
帰属する体系内使用という拘束を常に受けている。しかしながら、記
号体系は、個々の記号の使用の都度、その一つの使用によって、それ
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に至るまでのすべての記号の使用史が参照され、その特定の一つの使
用における意味の決定がその都度、その参照によって決定されるが、
その決定は常に暫定的であり、その次に発動されるその記号の、ある
いは他の記号の参照によって、その記号と他の記号のその使用におけ
る意味は更新されるのであり、記号体系および個々の記号の意味と外
形は可変的である(注 3)。したがって、記号は即自的に存在するので
はないということは、記号の使用におけるその都度の意味は、その記
号自体というようなものに帰着するのではないと言うことができる。
また、人が使用する記号は、紙に書かれた文字であったり、それが音
声化されたり、文字表象と図像表象が併用されるなどして、その記号
をシニフィアンとして外形化する手段は複数化・混在化しているのが
通常の使用である。すなわち、実際に人が日常的に用いる記号の使用
体系は、一つの使用体系というものが固定的・排他的に存在するので
はない。一人の個人が使用する記号は、その人自身の記号使用とのか
かわりにおいて、また当然ながら、他の人の記号使用とのかかわりに
おいても、相関的であり、その相関性もまた通時的・共時的に可変的
である。しかし、繰り返して言うが、人と記号の従属性は、このよう
に相関的で可変的である記号使用の根幹をなしているのであり、ガタ
リによる動的編成と相互変容(注 4)は、人と記号の従属性と共に、
人と記号が記号の使用によって行為遂行的に存在を獲得することに原
理的に起因するのである。このように、言語記号と図像記号は、それ
ぞれ別個のテクストを構成する使用とそれが混在して一つのテクスト
を構成する場合とが併存するのであり、いずれにおいても、人と記号
の従属性が人の存立の根幹をなすことによって記号使用が決定付けら
れ、記号は動的編成と相互変容を常に継続し、人はそのような記号使
用と同時的に人たりえるのである。
そのことを確認した上で、言語と図像の記号とそのテクストについ
て、ゴヤとボッシュの図像を手がかりとして次の考察にとりかかりたい。
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2.ゴヤにおける図像テクスト
この章を、序における人と記号の従属性に関する分析にさらに補足
して、言語的言葉とビジュアルイメージ的言葉について、以下の分析
を施すことから始めよう。
言葉は、何かを名指すために用いるのであるが、言語的言葉は、人
間がその手に取ることのできる具象物を、加えて、言葉の操作によっ
て言葉の塊としてのみ抽象的に存在し手に取ることのできない塊を、
いずれの場合にも手に取ることなしに現前させるために用いる、いわ
ば、レーザーポインターであり、その赤いレーザー光線のように、音
声として発した瞬間にのみそれを発した者と受信した者だけが感知で
きる指示装置であり、レーザーポインターと異なるのは、赤いレーザー
光線はそれが名指すべき何かに到達することで初めて機能するのに対
し、言葉というレーザーポインターは、名指すべき何かに個別的に対
応したレーザー光線なのであって、その名指すべき何かが物としてそ
こにあろうとなかろうと、発する人も受信する人も、そのレーザー光
線のそれ時々の固有性を感知するのであって、それが到達するポイン
トに目を向けることはないし、そのポイントなしに機能するのが言葉
なのである。そして、それが名指すものはその都度変転するのである
から、その都度に発せられるレーザー光線それ自体がその名指すもの
に呼応して異なるレーザー光線であるし、ポインターになぞらえるの
ではなく、むしろレーザー光線ショーの多様なレーザー光線になぞら
えるべきであろう。それに対して、ビジュアルイメージ的言葉は、人
間がその手に取ることのできる具象物を、そうすることなしに、その
具象物の形象を提示することによって現前させ、抽象的に存在する言
語的言葉の塊には仮の形象を与え提示することで現前させ、この際の
作用が言語的言葉およびレーザーポインター・レーザー光線ショーと
異なるのは、音声による言語的言葉とレーザー光線がその短い動作の
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最中にのみ感知できる瞬間的機能性を持つのであるのが、ビジュアル
イメージ的言葉は、その感知可能時間が持続的機能性であることと、
具象物の提示のために具象物の形象をなぞることで自分自身が言語で
はない身振りを取ることである。
言語的言葉は、音声として発せられる使用が第一次使用であり、文
字として記される使用が第二次使用である。第一次使用において、音
声として発せられる発信動作と同時の受信動作のみが可能なのであり
(同時性と再現性・持続性についての論述は次の論文で改めて行う)、
発信する行為と受信する行為は相互依存にある。その発信者と受信者
は、音声の使用に関して規則を共有することが不可欠であり、その規
則は、音声の音的特徴を定めることとして一つずつの音声そのものの
発し方に始まり、音声の様々な発し方、高低、音調などの規則性を所
定のものとして共有しなければならない。この規則性は、日本語、英
語、フランス語などの人間の諸言語において、それぞれの言語に固有
の規則性として存し、ある一つの言語の規則性を共有する者が発信者・
受信者である場合に、それに従って発せられ・受けられた音声が、そ
の言語の発話行為・受話行為となるのである。このような発話行為・
受話行為においては、言語的言葉は、何かしらの意味を伝えるために
合目的的に使用されるのであるが、それを行う者については、発信者
と受信者が異なる他者同士である場合と、発信者が自分自身を受信者
とする場合の二つがある。その二つの場合のどちらにおいても、伝え
られる何かしらの意味とは、その特定の規則性によって特定化されて
いる言語的言葉を共有使用する特定の社会集団においてのみ発生し、
認証される意味であり、言語的言葉とそれが伝える意味は特定の社会
集団の集合的合意の中でのみ成立する。すなわち、言語的言葉とその
意味とは、絶対的真空中に隔離されて成立しているのではなく、ある
いは、万物を形成する素粒子のごとくに宇宙の普遍として人間存在に
先行して成立しているのではなく、特定の社会集団が呼吸する空気に
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よって存在の様態を特定され、また逆にその存在の様態によって呼吸
する空気の組成に変化をもたらすように、大きく環境と相互依存しつ
つその特定性を成立させるその成立と認証と同時的に成立するもので
ある。特定の社会集団は、その依拠する物理的・世界理解的状況によっ
て、価値判断を変化させるものであるから、言語的言葉とその意味と
は、特定の社会集団の変化と共にそれ自体も変化する。
ここで、トドロフの絵画論における意味行為に関する論述を引用す
ることにしたい。
これらの絵においては、遠近法はもはや厳密に構築されてはお
らず、世界の秩序は揺らいでいる。描かれた対象相互の境界は
ぼかされ、はっきりした移行なしに見ている人間はある物から
別の物へと移行する。というのも、それらのものはそのように
画家の目に見えるからだ。これ以後、絵の画面を組織するのは
影と光の相互浸透である。物の輪郭を明瞭化するための描線は
追放されて色彩の塊が現れ、色彩の塊にはもはや物を名指す機
能はなくなる。対象物の現実を反映するというより、それらの
色彩の塊は画家が示すものに対する彼自身の態度を表明するも
のであり、そしてそこで展開される情景に適した枠組みを提示
するものだと思われる。
ゴヤはもはやあるがままの世界を描くのではなく、個人が世界
について持つ見方ヴィジョンを描く。主観的な知覚が非人称的
な客観性に取って代わったのだ。そしてこれ以後画家の絵が目
指すのはさまざまの形態を再現することではなく、ある場所、
ある行為、ある存在の精神を捉えることである。自分の考えに
忠実に、ゴヤはアカデミーの規則に屈するより、「自分自身の
精神の傾きに従う」ほうを選んだ。だがこのことは、彼がナル
シス的な自己満足に屈したとか、彼が自分の自我を前面に押し
出したという意味ではいささかもない。ゴヤは全面的に世界の
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ほうを向いている。ただ、彼は、認識というものが必然的に主
観的なものたらざるをえないのを知っている。だが彼が示した
主観性は、彼だけに固有なものではない。彼の絵を見る人間も
またその主観性を分かち持つように誘われている。このように
して、その主観性はそれぞれの人間のものになりうるのである。
(注 5)
トドロフがゴヤの絵画における意味行為について述べることは、言
語的言葉とその意味、および同様にビジュアルイメージ的言葉とその
意味の発話行為における変化について述べるものであるが、そこにお
いてトドロフが明らかにしたのは、特定の社会集団の持つ価値観の変
化によって、言語的言葉とビジュアルイメージ的言葉の意味組成が変
化し、意味組成の変化に即してその言葉の表出の形態が変化している
ことである。
引用を続ける。
いくつかの点で、一七九三年のこの一連の絵は、この時期より
四〇〇年ほど前に確立されたヨーロッパ絵画の伝統との断絶を
予告している。この伝統においては、絵画の製作はより包括的
な体系の一部をなしており、その体系が絵画の意味と機能を決
定していた。人間の振る舞いも非生物界に属する事物も因襲的
な意味を持っており、それらの意味は、図像論の本において分
類されさえしていた。図像は教会、宮殿、そして少し後には裕
福な絵画愛好家の自宅を飾るのに用いられ、その注文主たちの
要求に一致するものだった。ところがこうした永遠に続かに思
われた秩序を保証していた神が後退し、こうした秩序を自分の
ものとして要求していた数々の政治体制が揺すぶられる。
それと同じ時期に、ゴヤは誰からも注文されていない絵を描い
た。それは慎ましい個人である彼が、自分の内部にある欲求の
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みに押されて描くことにした絵である。社会秩序が疑問に付さ
れると同時に、絵画に特有の価値階梯も疑問に付された。平等
を求める新たな願いがあちらこちらに現れる。すでに『怪我を
した石工』は、それ以前に確立された解釈規範には対応してい
なかった。これ以後、規範という観念自体が適当なものではな
くなる。サン・フェルナンド絵画アカデミーの会員たちは「ス
ペインの気晴らし」といった古くからの範疇にしがみつこうと
する。しかし殺人、牢獄、狂気、民衆の狼狽を引き起こす自然
災害といったもののどこが気晴らしなのだろう。これらの情景
は、因襲的な記号のいかなる分類にも対応しない。ゴヤは、何
のためにそれらを描くのかを私たちに示しもせずにそれらを描
き表わす。彼は、それらの情景が人間の条件にとって重要な何
かを明らかにすると感じたのだ。それだけで、彼がそれらを私
たちに見せることが有益だと判断するに十分だったのである。
ゴヤの時代に先立つ数世紀間のヨーロッパ絵画は二重の要求に
従っていた。宗教と哲学の言説に一致する、賢明さの、そして
道徳に関わる教えを与えることであり、また絵を見る者たちを
絵画の美しさ、線の調和、色彩の調和によって誘惑することで
ある。詩と同様に、絵画もまた教えるとともに喜ばれなければ
いけない。この両者の要素のうちどちらがどれほど大事かは時
代によって変化する。ゴヤが絵を描き始めた頃に美術界を支配
していた新古典主義様式、教えを、規範とされていた主題とジャ
ンルの尊重に還元してしまい、美を調和に満ちた装飾に還元し
てしまった。ところがゴヤはこのふたつの道のいずれをも拒否
する。彼の絵はいかなる教訓も与えず、いかなるイメージも発
しない。それらは文字通りの表象である。牢獄の独房、精神病
院、火事が何に似ているかが示されるのだ。またそれらの絵画
は目が受ける純粋に美的な喜び、美しい形態、美しい装飾など
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への配慮もまったく示していない。ゴヤは同じ時期にカントが
諸芸術の根拠としていた「利害に囚われない喜び」を探し求め
る態度とは遠くかけ離れたところにいる。
ゴヤに先立つ数世紀間のヨーロッパ絵画においては、善と美へ
の服従が必然的に真に近づけてくれるはずであった。可視世界
の真実、人間存在の真実に近づけてくれるはずであった。
(注 6)
トドロフのゴヤの絵画とそれ以前の数百年の絵画に関する論述は正
しい分析になっているが、それを補足して言うと、そもそも記号によ
る個々の意味行為そのものが人間の世界理解そのものを表すことであ
るとここで強調しておきたい。そのことと繋がることであるが、肖像
画が個人の日常性の中における個人性の図像化として認知されること
の変転と経緯、およびそれが意味することについては、拙論ですでに
取り扱っていることをここでは言及するにとどめておきたい(注 7)。
3.ボッシュにおける図像テクスト
トドロフがボッシュの怪物について述べることを引用することか
ら、この章の分析を始めよう。
ボッシュの描く怪物たちは、少なくとも十八世紀に絵を見る人
間にとっては、人間世界に住んでいるわけではなく、人間世界
とは別の想像的な宇宙に住んでいた。その怪物たちの創作は理
性的な、しっかり芸術家によって制御された操作に従っている
ものと思われる。たとえば、画家は湖畔に一軒の家を描き、そ
の二階が男性の頭に変化している。これにより、図像は不安を
覚えさせるというより、驚きあるいは好奇心を引き起こす。ゴ
ヤの図像は、非常に違った性質のものである。たいていの場合、
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ゴヤの図像は私たちが生きる現実に住まっている存在を提示す
る。しかしその特徴は変形され、恐ろしいものに成り果ててい
る。その世界に固有の法則に支配された、私たちの現実とは別
の世界に由来するどころか、ゴヤが描き出す存在は私たちに
とって身近な者たちである―さらに言えば、それらは私たち自
身の、私たちが知っているのとは別の顔なのである。マルロー
の表現を借りて次のように言えるだろう。「ボッシュは人間た
ちを彼が描き出す地獄のような宇宙に連れていく。ゴヤは地獄
的なものを人間世界に導き入れる」。
そのうえ、ゴヤの絵に描かれた存在が外界に存在するものなの
か、私たちは決して確信できない。『怪物のようなランプ』は
―おそらくは?―司祭の迷信深い、熱に浮かされた想像力の所
産としてそうした存在を私たちに提示している。『悪魔祓い』
は―そのようにはっきりと明示しているわけではないが―それ
らの怪物が眠っている人間の悪夢に由来すると示唆している。
私たちは自然法則に背馳しない説明―それは夢である、幻想
ファンタスムである―と、超自然的なものに訴えかける別の説
明―それは怪物である、悪魔である―とのあいだでためらうよ
う導かれる。このことは、理性的思考が急速に発展した十八世
紀末のこの同じ時期に、それ以前のように「不可思議メルヴェ
イユーなもの」を生動させるのでなく、「空想的なものファン
タステイック」を生動させ、妖精物語や伝説といった非現実世
界に安住するのではなく、現実と非現実の境界を意図的に混乱
させる文学が誕生したことと照応する。ゴヤが生み出した、夜
の世界に生きる人物たちが人を不安にするのは、まさしく彼ら
が私たちとあまり異なっていないからである。(注 8)
この論述に対する分析と考察を述べるために、ロマネスク様式の教
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会を装飾する柱頭彫刻とタンパンのレリーフを取り上げることが必要
である。まず、しかし、「装飾する」では不十分な語使用なので、そ
れを換言して言い直すと、ロマネスク様式教会における「教義=神と
世界と人間についての理解」をビジュアルイメージ的言葉で表出した
そのテクストである柱頭彫刻とタンパンのレリーフでは、人間の生き
る地上世界があり、それとは別次元の神的世界があることが示され、
神的世界からは神的存在の恣意によって地上世界への介入が行われ、
その介入に人間は全く抵抗できないが、神的存在がそれらの介入に
よって示す絶対的規範に人間が従うことは人間の行う選択として可能
であることもまた示され、それがゆえに、人間は神的存在の決定する
絶対的規範をまさに神的存在からの恩寵的告知として受動的に知るこ
とができ、それによって知ることのできた絶対的規範に従って地上世
界を生きることが神的存在から人間に課された使命であることを知る
のであり、それらすべてをこの柱頭彫刻とタンパンのレリーフのテク
ストが述べているのである。地上世界が神的存在からの浸食にさらさ
れることは、人間の力ではいかんともしがたいことなのであるから、
神的存在の定める絶対的規範を負の表現によって示すものであるがゆ
えに人間には対抗することのできない悪魔的存在の負の力を、人間は
神的存在から知らしめられた正(せい)の絶対的規範に従うことによっ
てのみ、すなわち絶対的規範に従うことによる神的存在の万物を支配
する力の庇護に入ることで、神の恩寵として免れることができる。一
方で、地上世界には、人間にも対抗することのできる悪の存在がある
が、地上世界は人間もこのような悪の存在も神的存在の世界創造によ
る地上世界の正邪両面の被造物として持つのであり、正であることを
対立的に明示する役割である悪は地上世界の不可欠の構成要素である
から、地上世界に配置された被造物はそのような性質のものとして同
等同格なのであり、相互に力を及ぼすことが可能であり、それゆえ、
人間は怪物と地上世界を共有し、その境界線は地上世界の範囲の中に
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あるから、時に、その境界線を双方向的に越えることがあるし、共存
することも競争することも、戦い合うことも存在のありように含まれ
るが、人間は神の被造物として人間であるのだから、人間は人間であ
り怪物は怪物なのであり、その上で、神的存在からの恩寵的告知とし
ての絶対的規範を知らしめられた人間は、地上世界を善的に、正的に
生きることが使命であるから、地上世界の本質のもう一つの表出であ
る悪と戦うことは、絶対的規範を地上世界で遂行するための有効な方
法なのである。柱頭彫刻とタンパンレリーフがテクストの意味として
伝えるのは、このように世界が被造されてあることで、その世界にお
いて、人間は地上世界を絶対的規範に従って生きることが使命である
ことなのであり、地上世界で戦うことのできる怪物は人間の全力で戦
うべきものであって、時に敗れもするが、神の導きに人間の力を尽く
して十全に従う限り勝つことのできるものであるから、戦う図像が示
される。しかし、最後の審判が下されたことによって、神的存在と共
にあることが許されない人間は、神的存在の範疇を負で表す怪物たち
には立ち向かうことはそもそもできはしないのであって、それは図像
としては貪り食われることで表出されている。
しかるに、ボッシュであり、ゴヤであるが、トドロフの論述を上記
に照らしてもう一度考えてみると以下のように言える。
1500 年紀早々に描かれたボッシュ「最後の審判」は、向かって左
の外翼に、アダムとエバの誕生、誘惑、追放が描かれ、その原罪を背
負った人間が地上世界で犯す大罪とそれに対する厳罰が中央に描か
れ、右の外翼には、最後の審判により地獄に追放された人間の無限の
罰が描かれる。この絵には、神的存在による絶対的規範が個々の図像
のすべてに行きわたっており、個々の図像の伝える意味は、この絶対
的規範の絶対性なのであり、この絵の全体が伝えるのもこの絶対的規
範の絶対性であって、意味行為としては、ロマネスク様式教会の柱頭
彫刻とタンパンのレリーフと全く同一である。ただ、この間の 300 年
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ほどの時間の中で絵画の技術が変化したことによる図像表象の変化
と、人間の外貌を図像表現にすることの可否についての判断の変化に
よる図像表象の変化があることは明らかであるが、それは、この一枚
の絵画だけのことではなく、もちろん一人ボッシュのみのことではな
く、人間の宗教や絵画における変化のみならず、様々な日常生活の中
での技術や価値の変化が総体化・社会化されて、さらに個々の行為に
影響することで生じるものの一つでもある。絵画が壁にフレスコ絵具
によって描かれる段階の描画技術から、板や布地とテンペラ絵具を用
いる段階の描画技術へと変化することは、そのこと自体が、何をどの
ように描くかに影響を与え、あるいは逆に、何をどのように描くかに
ついての意味行為における意味そのもののとその表出の変化が描画技
術に変化をもたらし、結局、人間が世界に何を見てどのように世界を
理解しているかについての変化と描画技術の変化は相関的に生起して
いくのである。すなわち、ボッシュにおいては、地上世界に生きる人
間を描出するにあたり、ボッシュを含むこの地上世界の人間が地上世
界において見ているその姿を描出することで行われており、地上世界
をその姿で描くことそれ自体がしてはならないことなのではない。地
上世界に生きる人間が感知し、それをそのままに表出することが、し
てはならない無価値なことであった世界理解は転換しているのであ
る。人間の見たままの人間をまず描出することそれそのものが、遠近
法の画面作成による人間の視線の肯定によってもたらされている。見
ることは神的存在の専有物なのではもはやない。それと共に、地上世
界を見ることが地上世界の人間のしてよいことであるからには、地上
世界をその人間の目にしたように描出することもしてよいのである。
これによって、神的存在の絶対性はそこなわれることなく、ただ人間
がこの地上世界において、神的存在の絶対性の範囲の中ではあるが、
してよいことが、地上世界を見はるかすことにまで拡張されているの
であり、大航海時代の準備はこれによって整うのである。そのように
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異文化 17
して一人の人間の目が見はるかす地上世界には、上記の繰り返しにな
るのだが、絶対的な神的存在による被造物である人間と怪物がいるの
であり、ボッシュは、神的存在の絶対性を根拠としつつ、地上世界を
人間によって感得できるその形で描出し、神的存在の絶対性を人間に
よって感得することが許されるその形で描出しているのである。
さて、ゴヤである。ゴヤは、トドロフも述べるように、神的絶対存
在による被造物で、神的絶対存在によって地上世界に配置された人間
と怪物とを、乖離弁別する他者として描くのではなく、人間が地上世
界において善も悪も行い得るのであるから、地上世界における悪は、
悪そのものの形象化である怪物として人間に迫るのみならず、同じく
悪である人間が人間の間に人間の外形を保ちつつ、あるいはその姿を
変容させつつ跋扈することの恐怖を描いている。地上世界における悪
の形象化は、したがって、神的存在から怪物に付与された専権ではな
く、人間の姿の中にもそれに匹敵する悪があることになり、恐怖の身
近さがいやましているのである。
このようなゴヤの画描は「現実と非現実の境界を意図的に混乱させ
る文学が誕生したことと照応する」のであるが、それは、地上世界に
おける人間の営為を見つめ、それを表象することが肯定されることか
ら始まった変化なのである。絵画表象におけるルネサンス期に至らん
とする時期とその 1400 年期に描かれた多くの画家による多くのマリ
ア受胎告知画は、一人の地上世界の人間が、神的絶対性の顕現である
ところの受胎告知をいかに受け止めたかを図像言語的に表出してい
る。神的絶対性による受胎が人間の意志を超絶した出来事であること
と、神的絶対性が被造世界を絶対支配することへの帰依とそれによる
安らぎがここでは前景にあるが、まさに人間がそれをそのように受け
止めたこと、そしてこの絵を見る者たちがそのように受け止めるべき
であることをこの絵は述べるのである。しかし、その絵画表象におい
ては、一人の人間としてマリアの受胎告知を受け止めるその行為が、
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その教義とその時の図像的言語記号の制約の中であるが、描かれてい
るのであり、神的絶対性の顕在化がこの絵の伝えるべき意味であるこ
とは明らかであるが、画面に描かれているのは一人の人間の地上世界
における行為なのであり、一人の人間の地上世界の行為は見つめるに
値するのであり、描くに値するのである。ただ、その値することの保
証が神的絶対性からの恩寵であることが、この段階での制約条件であ
る。このような段階での一人の人間の地上世界の行為を描くことの制
約条件は、受胎告知に限定されるのではなく、絵画表象のすべてに及
ぶのであり、そこに描出される人間の地上世界の行為は、神的絶対性
から課せられた課題遂行の行為として見つめるに値するのである。だ
が、強調したいのは、見つめられ、描かれるのが一人の人間であるこ
とだ。このように、一人の人間の地上世界の行為が、神的絶対性への
帰依として遂行されるがゆえに見つめるに値することは、その一人の
人間の地上世界における存在そのものが神的絶対性の恩寵であること
を表すと理解されることにより、何をするのでもない、何の意味ある
行為をしているのでもない一人の人間のただそこにある姿を描くこと
でも合目的性を持つことになるのであり、画面の中央にただ一人の人
間が立っている、座っている描画が可能になるのである。けれども、
少し論述を急ぎ過ぎたので、ここで聖母子像、聖家族の画像について
言及しておこう。
聖母子像は、三位一体の神としての幼子イエスと無垢の象徴として
の母マリアを描くものである。この絵画は、まさにそれだけを意味と
して伝えるためのビジュアルイメージ的言語表象である。「三位一体
の神としての幼子イエスと無垢の象徴としての母マリア」と言語的言
葉として口にするのと、「三位一体の神としての幼子イエスと無垢の
象徴としての母マリア」の図像を描くことは、同じ意味を伝えようと
する二つの発話行為である。しかも、三位一体の神としての幼子イエ
スと無垢の象徴としての母マリアが地上世界に人間の間に立ち混じっ
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ており、人間と行動を共にし、神的絶対性がこの地上世界にその恩寵
をもたらすための人間への導きとなることも、この二つの発話行為で
はさらに伝えられる。それを伝える言語記号は、そのように語る言葉
なのであるし、そのように描く画描の言葉なのである。したがって、
聖母子像の画描について述べると、それが特異な外形の異形の者では
ありえず、平凡な人間の姿でなければならない。もちろん、三位一体
の神としての幼子イエスと無垢の象徴としての母マリアであるからに
は、文字通りに神々しく無謬の容姿を持たねばならないのであって、
そこに何らかの美的欠陥があってはならない。その極致が、ルネサン
ス期の巨匠による聖母子像である。すなわち、聖母子像によって、そ
れが三位一体の神としての幼子イエスと無垢の象徴としての母マリア
という唯一無二の存在ではあるが、地上世界にあってもその存在を称
えることができ、それを言語的にも図像的にも表出できることになる。
そして神的絶対性の導きと恩寵の下では、人間もまた大罪を犯すこと
なくこの地上世界を善的に生きることができるのであり、そのように
生きる人間を言語的にも図像的にも表出できることになるのだ。聖母
子像から聖家族へと進むことで、それにより聖家族の中の夫であり父
である、ただし地上世界の人間であるだけのヨゼフが語られ描かれる
ことで、地上世界の人間の善たることへの可能性が開かれていること
が意味されるのである。
4.まとめ
このような段階を経ることにより、人間の地上世界における存在そ
のものとその行いについて語り描くことができるに至った。トドロフ
が『個の礼賛−ルネサンス期フランドルの肖像画』で詳述するように、
13 世紀から用いられた時祷書における文字テクストおよびその一体
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化した細密画が、一年の季節の移ろいと共に農民がいかなる農作業を
行うかを描くのは、あくまで祈りの導きとしての目的性を持つもので
あっても、それが働く農民の日常を描出描画することでなされたこと
は、
このような経緯の中での重要な変化の一つである(注 9)。また「ニー
ベルンゲン」の伝説と歌が氏族の英雄の業績をたたえ、氏族の栄枯盛
衰を語り、トルバドールが遍歴して恋愛の華を語って歌い歩き、それ
はミンネザンクとしても行われ、また宮廷生活の中での女性への思慕
と貞節を語り挿絵で示す宮廷物語がクリスティーヌ・ド・ピザンなど
の宮廷作家によって書かれてそのままの写本としても翻訳された写本
としても流布すること、カレンダー物語において、俗人たちの日常の
行いが図像と共に語られることも、このような変化の様々な始まりで
ある(注 10)。もちろん、時禱書における細密画が、絵画技法として
は中世的段階にありつつも、現世の日常を図像主題として描ききって
いることは注目に値する(注 11)。キリスト教の信仰を貫き殉教した
者が聖人として列せられ、その行いが語られて図像化され、怪異不可
思議な物ではなくてむしろ身体にかかわる聖遺物が各地の教会の聖性
を明かす物として尊ばれることが広がるのも、ここに数えておきたい。
しかしながら、このような諸変化をあまりに一律のものとしてまとめ
すぎることはこの小論筆者の本意ではない。だが、人間の一人一人が
一人の人間としてのそれだけで尊重に値する尊厳を備えることが、人
間を主たる行為者とする物語を語ることや人間を図像化することの
ゆっくりとした進行の原因と結果として、認められていくことを、こ
のようにして確認したいのである。
前章では、ゴヤにおいては、地上世界における悪の形象化は、神的
存在から怪物に付与された専権ではなく、人間の姿の中にもそれに匹
敵する悪があることになり、恐怖の身近さがいやましているのであっ
て、このようなゴヤの画描は「現実と非現実の境界を意図的に混乱さ
せる文学が誕生したことと照応する」のであるが、それは、地上世界
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における人間の営為を見つめ、それを表象することが肯定されること
から始まった変化なのである、と述べたのであるが、本小論をまとめ
るために、さらに考察を加えてみよう。
そもそもトドロフは、ゴヤの生きた時代に、文学においても、ゴヤ
の絵画と同様の表象を行う文学作品が多く書かれて読まれたことを
言っている。すなわち、地上世界での人間への導きと誘惑が、地上世
界ならざる絶対的存在の善と悪の両面からのそれであったことは、す
でにそれまでの表象が示しているのに対して、地上世界での人間の日
常の中にも人間の善の可能性と悪の可能性のどちらもが横溢してお
り、それは人間の行為を表象することの中で、たとえばボッシュから
100 年余り後になる 1600 年紀フランドルのブリューゲルによる農民
絵画にふんだんに描画された。ブリューゲルの農民絵画では、絶対的
存在からの直接的な働きかけとそれに触発された人間活動はもはや画
面中には存在せず、そこには地上世界における人間のささやかな日常
が描かれるのみである。ゴヤの画像およびゴヤと同様の表象を行った
文学が、人間の中にこそ潜む恐ろしきものを前景化するのは、博物学
によって地上世界を系統的に把握し説明することと、知的啓蒙によっ
て人間の個人と社会の諸活動を地上世界で完結するものとして把握し
説明することの結果として、絶対的存在の働きかけがあろうとも、地
上世界において人間のなす善も悪も地上世界においてはそこにいる人
間に帰するのであり、地上世界の人間の責任であることが引き受けら
れていくからにほかならない。そのような複雑な存在として人間を見
ることがここにおいて描出されるのである。
そしてまた、非現実とは、神的絶対性が人間の理解を超絶するがゆ
えに神的絶対性の発現として現前するものが人間の理解する現実とは
無縁であるがゆえに非現実だった段階から、そして非現実が非現実で
あってもそのように説明できる段階から、人間が働きかける世界の中
での、人間の等身大に矮小化された非現実が出現するのであり、それ
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が人間の剥き出しの等身大であるがゆえに、それに対して何らの迂回
をすることなく向かい合う人間のおののきは人間の日常世界において
逃れ難いものになったのである。このような直面にさらされることは、
神的絶対性の認識不能という説明抜きに、非現実であることの説明な
しに、日常世界の中に剥き出しになった善と悪に向かい合うことなの
であって、そのような善と悪の相克が人間に直接に回帰することを人
間は負うことになるのである。
このように世界と人間を理解することが、記号の従属性と動的編成に
よって生成される言語テクストと絵画テクストの相関によって表出され
ていたことを確認できたことをもって本小論の締めくくりとしたい。
〔注〕
1
拙論:「グローバリゼーションの原理としての記号的従属および動的編成と相
互変容−個人と文化の相互的生成と変容についての一考察−」
『異文化 16』
法政大学国際文化学部紀要、2015 年。
2
フェリックス・ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか ― 新たな世界の可能性
3
同上、197 頁。
4
同上、特に 25 頁。
5
ツヴェタン・トドロフ『ゴヤ 啓蒙の光の影で』小野潮訳、法政大学出版局、
を求めて』杉村昌昭訳、青土社、2014 年、229 頁。
2014 年、43 ∼ 44 頁。
6
トドロフ、同上、44 ∼ 46 頁。
7
拙論「絵画のナラトロジー試論―知ることと見ることと語ることの本来的役
割同一性についての一考察―」熊田泰章編『国際文化研究への道−共生と連
帯を求めて』彩流社、2013 年。
8
トドロフ、同上、66 ∼ 67 頁。
9
ツヴェタン・トドロフ『個の礼賛−ルネサンス期フランドルの肖像画』岡田
温司・大塚直子訳、白水社、2002 年、105 頁。
10 同上、73 頁。
11 木島俊介『美しき時禱書の世界−ヨーロッパ中世の四季−』中央公論社、
1995 年。
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