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山口市指定文化財概要 建造物 (PDF形式:872KB)
山口市指定文化財概要 ~ 建造物 ~ ★文化財名またはページ番号をクリックすると、説明ページへ移動します 名 称 れいこういんごじゅうしょうとう 霊 光 院 五重 小 塔 いつくしまじんじゃたほうとう 厳 島 神 社 多宝塔 の だ じんじゃのうがくどうおよびふぞくしつ 野田 神 社 能楽堂 及び附属室 とうせんじ ず し 東仙寺厨子 わになきはちまんぐうほんでん はいでんつけたりきゅうでんつけたりむなふだ 鰐 鳴 八 幡 宮 本 殿・ 拝 殿 附 宮 殿 附 棟 札 とよとみひでよし く よ う と う 豊 臣 秀 吉 供養塔 あしかがよしてるなど く よ う と う 足 利 義 輝 等 供養塔 とうしゅんじしょうろうもん 洞春 寺 鐘 楼 門 やまぐちだいじんぐうおごおりようはいしょ ほんでん ちゅうもん しんもん 山 口 大神宮小郡遙拝所 本 殿 中 門 神門 しょうはちまんぐうにの と り い 正 八 幡 宮 二 ノ鳥居 せきぞうこうしんとう 石 造 庚申塔 はな お はちまんぐうしもしんでん へいでん はいでん 花 尾八 幡 宮 下 神 殿 幣 殿 拝 殿 ほ うこうじ せきぞうじゅうさんじゅうとう 法光寺 石 造 十 三 重 塔 みはら ふ ど う いたひ 三原の不動板碑 ふくごういん ごりんとう 福 厳 院 の五輪塔 かめやま ほうきょういんとう 亀 山 の宝 篋 印 塔 所在地 ページ 名田島 2 宮島町 2 野田 3 仁保中郷 3 上小鯖 4 天花 5 天花 5 水の上町 6 小郡下郷 6 秋穂西 7 秋穂西 7 徳地島地 8 徳地鯖河内 8 阿東徳佐上 9 阿東地福上 9 阿東徳佐上 10 名 称 れいこういんごじゅうしょうとう 霊 光 院 五重 小 塔 指 定 日 平成 2 年 6 月 22 日 所 在 地 山口市名田島 3483 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 霊光院 二本松バス停から北東へ徒歩約 12 分 あり 要 この五重小塔は、霊光院の開山堂といわれる小堂の中に置かれて けやき いた高さ約 2.8m、総 欅 造りの塔である。寺伝によると、この塔の由来 は次のとおりである。 なりひろ 文政 5 年(1822)長州藩主毛利斉熈が防府天満宮の境内に五重塔建立を計画した。斉熈から家 なりもと 督を継いだ斉元もその志を継ぎ建立工事を進めた。しかし、天保 2 年(1831)の百姓一揆により工 まつや き え も ん 事は中断するに至った。塔の建立を命じられた大工は、宮市に住む松屋喜右衛門という棟梁であ ひながた った。喜右衛門は建立の命を受けると、20 分の 1 の塔雛型 を造った。建立工事の中断後、喜右 ていしゅう 衛門はこの雛型を日頃帰依している常栄寺の諦 洲 和尚に贈った。隠居し、霊光院に住んでいた 諦洲和尚は、小塔の寄進を喜び、塔の台石の中に 53,000 体の戒者の位牌を納め供養塔とした。 しゅんぷうろう 防府天満宮では、建立工事の中止後、その材料で現在残っている春 風 楼 を造った。 なおこの五重小塔は平成 3 年に地蔵院に移された。 名 称 いつくしまじんじゃたほうとう 厳 島 神 社 多宝塔 指 定 日 平成 2 年 6 月 22 日 所 在 地 山口市宮島町 1 番 1 号 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 宮島町町内会 宮島町バス停から北東へ徒歩約 3 分 あり 要 この多宝塔は、厳島神社の宝殿として造営された、高さ 1.3mの ひのき けたゆき はりま 檜 造りの塔である。構造は二層で、下層は桁 行一間、梁間一間、 上層は 12 本の丸柱で構成される円形の建物である。一般的には下層に軒があるが、この宝殿は こうらん まわりぶち 軒に当たる部分を上層の高欄付き 廻 縁 に置き換える珍しい手法を採用している。製作年代は、 建築手法から上層は室町時代中頃、下層はそれより若干新しくなるものと思われる。厳島神社 は、応永 13 年(1406)大内盛見が安芸国宮島から勧請して、現在の県庁の地に祀っていた。元治 元年(1864)社地が藩主の居館になったことにより、この地に移された。 →目次に戻る 2 名 称 の だ じんじゃのうがくどうおよびふぞくしつ 野田 神 社 能 楽 堂 及び 附 属 室 指 定 日 平成 3 年 4 月 22 日 所 在 地 山口市天花 1 丁目 1 番 2 号 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 野田神社 野田学園前バス停から東へ徒 歩約 4 分 あり 要 もとあきら べっかく この能楽堂は、昭和 11 年に明治維新 70 年記念事業として、長州藩主末裔の毛利元 昭 が別格 かんぺいしゃ 官 弊社・野田神社に新築寄付したもので、その設計・監理は社寺建築設計・小林建築事務所によ るものである。 ひのき 総 檜 造りで、橋掛、鏡の間及び楽屋、控の間を構えている。建築面積は約 238 ㎡で、規模の点 からしても本格的な能楽堂である。全国的にみても能楽堂は数が少なく、とりわけ西日本では 10 棟に満たない。その中でもこの能楽堂は、規模、質ともに一流の能楽堂であると思われる。 当初の建築場所は、現在地より西の野田学園運動場内であったが、平成 3 年(1991)に現在地 に移築され、補修が行われた。 名 称 とうせんじ ず し 東 仙 寺 厨子 指 定 日 平成 4 年 7 月 20 日 所 在 地 山口市仁保中郷 1865 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 東仙寺世話坂本集落 井開田交差点から国道 376 号を 徳地方向へ約 2 ㎞ なし 要 この厨子は、東仙寺境内の観音堂に安置されており、高さ約 2.2m けやき けたゆき はりま い り も や づくりひらいり ほんがわらがたいたぶき で 欅 と杉材によって造られている。構造は桁 行一間、梁間二間入母屋 造平入 、本 瓦 形 板 葺 である。創建は明応 8 年(1499)12 月 28 日、作者は大工孫左衛門や長寿寺および乗福寺大工と 書かれた墨書が内背面および両側面に残っている。建築手法から大内時代の様式を十分発揮し ときょう は ふ た 15 世紀末の極めて優秀な建造物といえる。ただし、台輪から上、斗栱、軒、破風などは 18 世紀 の造り替えのものであるが、大内時代の形式を伝えている。東仙寺は慶雲元年(704)僧行基によ って創建されたと伝えられている。本尊は十一面観音菩薩坐像である。像高 81cm、檜材の寄せ 木造りで、南北朝時代の作と思われる。大内氏の帰依が厚く、当時は伽藍も完備していたようで ある。明応初年に全焼し、明応 8 年に再建、貞亨 2 年(1685)に改築されている。 →目次に戻る 3 名 称 わになきはちまんぐうほんでん はいでん つけたりきゅうでん つけたりむなふだ 鰐 鳴 八 幡 宮 本 殿・拝 殿 指 定 日 平成 6 年 7 月 22 日 所 在 地 山口市上小鯖 583 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 附 宮 殿 附 棟 札 鰐鳴八幡宮 県道山口・防府線中村橋交差 点から防府方向へ約 1.4 ㎞ あり 要 鰐鳴八幡宮の神霊は、平安時代の中頃に大分 県の宇佐八幡宮から勧請したと伝えられている。神霊を宇佐に迎えに行っての帰途、山口湾から 椹野川を遡り、山口の鰐石に上陸したとき、ここまで従い来ていた鰐が別れを惜しんで鳴いたとい ぼうちょうふうど ちゅうしん あん う故事によって鰐鳴八幡宮という。当社は領主の崇敬が篤く『防長風土 注 進 案 』に文安 5 年 (1448)大内教弘、永禄 3 年(1560)毛利隆元、永禄 10 年(1567)毛利輝元などの社領安堵状がみ え、また明治維新まで御除地高 2 石を充てられていた。 こうはいつきさんげんしゃながれづく 〈本殿〉向拝付 三 間 社 流 造 りで、屋根は鉄板葺きである。建立時期は、明治 28 年(1895)の取調 書の中に「貞享 3 年(1686)9 月改造」と有り、また細部様式からしても時代的に差し支えないものと 思われる。 〈拝殿〉楼門形式の拝殿で、正面に向唐破風を付し、出組斗栱、二軒の軒廻りは山口地方独特の 様式である。建立時期は、上層の背面中備に打ち付けられている棟札から寛政 3 年(1791)9 月 6 日であることがわかる。 →目次に戻る 4 名 とよとみひでよしくようとう 称 豊 臣 秀 吉 供養塔 指 定 日 平成 15 年 3 月 18 日 所 在 地 山口市天花 953 番地 所有者・管理者 俊龍寺 ア ク セ ス 五重塔入口バス停から北へ徒歩約 10 分 駐 車 場 概 あり 要 ぎょうかいがん この供養塔は、凝 灰 岩 製の五輪塔で、石組の基壇の上に二段の基壇石を置き、その上に積 まれている。高さは 142cm である。 けんじゅいん 慶長 3 年(1598)豊臣秀吉の死没に際し、毛利輝元が家臣柳澤元政に命じて、山口の献 珠院を 位牌所とし、供養塔を建立させたのがこの五輪塔といわれる。水輪の正面に「国泰寺殿雲山」、地 輪に「俊龍大居士台霊」と彫られている。水輪の背面に「 豊国大明神」、地輪の右側に「慶長三 年八月十八日」、左側に「防州山口俊龍山献珠院安置」、後方側に「柳澤監物元政造立」とある。 この豊臣秀吉供養塔は、歴史上著名人の石塔であるというばかりでなく、石造美術としても、桃 山時代の形式をよく伝えている。特に法名の他、建立年月日や建立者名もあり、秀吉の死没と同 時代に建立された供養塔が完全な形で残っている例は、全国的にみて他にないと思われる。位 置は後世少し移動させたという。 名 称 あしかがよしてるなど く よ う と う 足 利 義 輝 等 供養塔 指 定 日 平成 15 年 3 月 18 日 所 在 地 山口市天花 953 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 俊龍寺 五重塔入口バス停から北へ 徒歩約 10 分 あり 要 むほうとう この供養塔は、安山岩製の無縫塔で、石組の基壇の上に二段の基壇石を置き、その上に積ま れている。三基とも同じ形式で、いずれも高さは 113cm である。 慶長 2 年(1597)は、足利義輝及びその母の 33 回忌に当たったので、毛利輝元は柳澤元政にそ の法会の執行を命じた。柳澤はもと足利幕府に仕えていたが、当時は輝元に仕官しており、 こうのみね けん じゅいん 高 嶺 の城番として山口に居住していた。この頃、柳澤はこの地に献 珠院を再興した。義輝及び その母の命日は 5 月 19 日であるが、2 ヶ月早く 3 月 19 日に御取越の法会を献珠院で行った。こ の 5 ヶ月後の 8 月 28 日に、最後の足利将軍であった義昭が没した。そのため義昭の法会を当寺 で行い、義輝、義輝の母、義昭 3 人の供養塔を造立した。足利氏関係のもので、法名、年月など を彫って正確に供養名がわかるものは、全国的にみても俊龍寺の供養塔のみと考えられ、死没と ほぼ同時代に造立された将軍の供養塔として、また無縫塔の安土桃山時代末の形式を知る史料 として貴重である。 →目次に戻る 5 名 称 とうしゅんじしょうろうもん 洞春 寺 鐘 楼 門 指 定 日 平成 20 年 3 月 24 日 所 在 地 山口市水の上町 5 番 27 号 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 洞春寺 木町バス停から西へ 徒歩約 3 分 あり 要 けたゆき はりま 下層は通り抜けの門、上層は鐘楼で大梁に梵鐘が掛かっている。下層は桁 行1 間、梁間2 間、 かえるまた 上層は桁行 1 間、梁間 1 間である。各頭貫の中央部上に斗なし 蟇 股があり、「一に三つ星」の毛 利の家紋が彫られている。 洞春寺は毛利元就の菩提寺で、元亀 3 年(1572)に安芸国吉田に創建されたが後に広島に移 り、毛利氏の防長移封に伴い山口へ、慶長 11 年(1606)に萩に移った。幕末には毛利氏の山口移 鎮に伴い再び山口に移った。現在の洞春寺の建物は、江戸時代には常栄寺であった。この常栄 寺は宝永 7 年(1710)と文化 11 年(1814)に焼失している。 鐘楼門の年代は正確には不明だが、手法や材の磨減、腐朽の状態から見て、文化の火災後 の建物ではなく、宝永の火災後、江戸時代中期の建築と思われる。現在市内にはこの形式の江 戸時代の鐘楼門が他になく、貴重な建造物である。 名 称 やまぐちだいじんぐうおごおりようはいしょ ほんでん ちゅうもん しんもん 山 口 大神宮小郡遙拝所 本 殿 中 門 神門 指 定 日 平成 5 年 3 月 3 日 所 在 地 山口市小郡下郷 710 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 山口市 栄山バス停から西へ 徒歩約 8 分 あり 要 山口大神宮の遙拝所として藩の命令によって 元治元年 11 月に創建された。その際、社地として山林 5 反歩を古林新右衛門が寄進した。大内 時代に伊勢から勧請された山口大神宮は、西のお伊勢様として近郷や隣国・九州からの参拝者 が絶えなかったが、幕末になって攘夷実行にあたった長州藩は、他国人が山口に入ることを禁止 し、小郡に遙拝所を建て参拝者の便をはかって外宮を小郡に、内宮を大道に設けた。 祭日は 5 月 1 日で、花角刀や農機具の露店で賑わいを見せていたが、近年消滅した。山口大神 宮の案内所として当時、山陽道本筋であった津市角に大灯籠があり、そばに鐘楼があった。道路 拡張工事によって鐘楼は解体され、大灯籠は遙拝所下の参道筋に移転されている。 →目次に戻る 6 名 称 しょうはちまんぐうにのとりい 正 八 幡 宮 二 ノ鳥居 指 定 日 昭和 54 年 6 月 4 日 所 在 地 山口市秋穂西 337 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 正八幡宮 宮の前バス停から東へ徒歩約 1 分 あり 要 かこうがん 正八幡宮境内にあり、花崗岩製である。八幡鳥居形式で笠 石にわずかなそりがある。石柱の左右に陰刻銘があり、それ によると寛文 2 年(1662)の作で県下でも古い鳥居の一つである。秋穂浦の有富七兵衛が多額の 寄附をし、秋穂二島両郷の惣氏子が協力して浄財を出し、労力を奉仕して建てたものである。当 時の小郡宰判大官東条九郎石衛門尉就賢と、秋穂の圧屋茂兵衛、利兵衛の両名の名も刻ま れ、また宮司職・菩提寺(現在の禅光院)の宥重という名もある。 また「国家安全と庄内豊饒」を祈って建てたと記され、 庄内とは秋穂庄内で、秋穂二島全体を 指す。 名 称 せきぞうこうしんとう 石造庚申塔 指 定 日 平成 10 年 3 月 24 日 所 在 地 山口市秋穂西 337 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 こうしん 正八幡宮 宮の前バス停から東へ徒歩約 1 分 あり 要 さんし 「庚申」の夜は「 三 ちゅう 虫 」が寝た体から出て天帝にその人の罪過 を告げる。そのためこの夜は「庚申講」として仲間が集まり、夜通し昔 話や世間話などをして夜を明かす。 この庚申塔は花崗岩製の笠があり、台石の上に立つ。塔身の正面を舟形に彫りくぼめ、邪鬼を しょうめん こんごうぞう うすにくぼり 踏まえた青 面 金剛像を薄肉彫する。 上方に日月、下方に三猿、雌雄の鶏が彫られている。石像の右端に「元禄五庚申年華摘各中 逆修」、左端に「七月吉祥日、本願内田正左衛門」とある。総高 160cm、塔身正面幅 55.5cm、側面 幅 26cm、高さ 125cm である。 県下最古の刻銘元禄 5 年(1692)がある「庚申塔」で、貴重な民俗資料である。 →目次に戻る 7 名 称 はな お はちまんぐうしもしんでん へいでん はいでん 花 尾八 幡 宮 下 神 殿 幣 殿 拝 殿 指 定 日 昭和 33 年 11 月 3 日 所 在 地 山口市徳地島地 354 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 花尾八幡宮 宮の前バス停から南西へ 徒歩約 8 分 あり 要 花尾八幡宮は、和銅 4 年(711)豊前国宇佐八幡宮を勧請し上徳地城見山(上村大町)に創建した ことにはじまる。その後、毛利元就が社領を寄進するなど尊祟し、天正 3 年(1575)には毛利輝元 が神託により今の地に新たに社殿を造営し遷座した。 毛利綱広は寛文 10 年(1670)社殿を造替し延宝 2 年(1674)には二の鳥居を寄進している。その 後天明元年(1781)には毛利重就が社殿の造替をするなど代々毛利家の尊崇が篤く、また上徳地 12 ヶ村の総鎮守として崇敬篤く今日に至っている。 昭和 35 年に腐朽した柱の下部などの補修以外は天明時代のままである。楼門と拝殿、本殿、 よくろう ながれづく きりつまづくり 翼廊が連なり、本殿は 流 造 りで向拝まで囲い、切妻造 の拝殿に渡屋根で繋ぎ、さらに正面に楼 おうぎ た る き から は ふ 門、左右に翼廊を対称に配し、楼門部軒先は 扇 垂木に、正面を唐破風とするなど貴重な建造様 式を残している。 名 称 ほうこうじせきぞうじゅうさんじゅうとう 法光寺 石 造 十 三 重 塔 指 定 日 昭和 63 年 4 月 22 日 所 在 地 山口市徳地鯖河内 1444 番地 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 法光寺 市立串小学校から西へ徒歩約 3 分 あり 要 しゅんじょうぼう ちょうげん しょうにん この十三重塔は、 俊 乗 房 重 源 上 人 が東大寺再建用材をこ の地に求めた際「天下泰平、国家鎮護、杣事業の安全」を祈願し 大般若経の一字一石の写経を埋めて塔を建てたと伝えられている。この塔は鎌倉時代後期のも のと思われる。 →目次に戻る 8 名 称 みはら の ふどういたひ 三原の不動板碑 指 定 日 昭和 60 年 3 月 25 日 所 在 地 山口市阿東徳佐 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 JR 船平山駅から東へ約 2.5 ㎞ なし 要 徳佐三原の市道脇に、山斜面へ倒れた形で安置されている。 (石祠の後方)農地圃場整備の際、薮の中で発見されてここに運 ぎょうかいがん ばれた。凝 灰 岩 の自然石で一面を削って刻字してあるが、風雨に晒されたためか面が荒れ、刻 ぼん じ い た ひ 字が薄くなった。高さは約 160 ㎝、中央部の巾約 66 ㎝、厚さ約 15 ㎝の梵 字板碑で山形 2 条線な どはない。平底彫にカーンマーン(不動明王の種子)と彫ってあるが、一部上にはね上がっていて 異様である。南北朝時代のものといわれるが、年号や願文などはない。 名 称 ふくごういん ごりんとう 福 厳 院 の五 輪 塔 指 定 日 昭和 60 年 3 月 25 日 所 在 地 山口市阿東徳佐 所有者・管理者 ア ク セ ス 駐 車 場 概 福厳院 地福駅から徒歩約 15 分 あり 要 この五輪塔は総高約 95cm、安山岩でできており、形もよく整 っている。地輪に「賢珍大徳」、「至徳元甲子八月七日」(1384)と 刻まれている。大徳は高僧の敬称で、至徳は北朝の年号で南北朝時代の末期である。五輪塔は 塔全体が本尊として抽象化したもので、漢字などは刻まないものが多いが、この塔のように僧名、 年月日などが刻まれてあるのは異例である。この五輪塔は山田橋の西北、沖田にあったが、福 厳院の裏山に移された後、昭和 50 年頃現在の場所に移された。 →目次に戻る 9 名 称 かめやま ほうきょういんとう 亀 山の 宝 篋 印 塔 指 定 日 昭和 60 年 3 月 25 日 所 在 地 山口市阿東徳佐 所有者・管理者 亀山八幡宮(徳佐上八幡宮) ア ク セ ス JR 船平山駅から東へ約 2 ㎞ 駐 車 場 概 あり 要 ぎょうかいがん 亀山八幡宮参道脇の墓地に安置されている。 凝 灰 岩 で出来 き そ れんべん ており、総高 181 ㎝の塔でかなり大型である。基礎 蓮 弁 の形が 美しく、全体の形がよく整っている。基礎正面に「応永二年 願主性因 二月十八日」と銘があり、 こんごう かいごぶつ しほうぶつ 塔身に金剛界五仏の四方仏が種子(梵字)で刻されている。 年号のあるものは珍しく、県下でもかなり古いものである。 →目次に戻る 10