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本稿は、『東南アジア―歴史と文化―』第34号(2005年5月) pp.40~79に掲載され たものを再編集して、富士ゼロックス小林節太郎記念基金助成金報告書として提出 したものである。 日本占領期ビルマにおける ミャウンミャ事件とカレン ― シュウェトゥンチャをめぐる民族的経験について ― 東京大学大学院 / 総合文化研究科 池田 一人 富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金 小林フェローシップ 2002 年度研究助成論文 謝 辞 本稿のもととなる研究を行うにあたり、富士ゼロックス小林節太郎記念基金より、また東京外国語 大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究プロジェクト『日本占領期(1942-45)ビルマに関する総 合的歴史研究』を通してトヨタ財団より助成いただいた。ここに記して感謝の意を表したい。 2006年10月 池田 一人 目 次 ページ まえがき ................................................................................ 1 第1章: ミャウンミャ事件とその後 ......................................................... 3 第1節: 事件の背景 ..................................................................... 3 第2節: ミャウンミャ事件 ............................................................... 5 第3節: 日本占領下 ..................................................................... 6 第2章: さまざまなカレンの経験 .......................................................... 10 第1節: バプティスト・スゴー ........................................................... 10 第2節: 仏教徒ポー .................................................................... 12 第3章: シュウェトゥンチャ .............................................................. 16 第1節: 仏教徒ポーとしてのシュウェトゥンチャ .......................................... 16 第2節: 越境するシュウェトゥンチャ .................................................... 17 第3節: カレン・ナショナリストとしてのシュウェトゥンチャ ............................... 18 あとがき ............................................................................... 20 註 ..................................................................................... 22 参考文献 ............................................................................... 27 まえがき 1942年3月より6月半ばまでの間、すなわち日本軍とビルマ独立義勇軍(BIA)のビルマ進攻に伴い、 英国が植民地ビルマより撤退し日本軍がビルマ全土に軍政を発布するまでの権力の空白期間に、史上 初めてカレンとビルマ人1)のあいだに大規模な民族衝突が起こった。ビルマ語でいう「カイン=バマー・ アディガヨン」(カレン=ビルマ紛争)である。この紛争は、狭義にはこの時期に起こった東部山岳地 域のパプン事件と西部デルタ地方のミャウンミャ事件のふたつを指すが、広義にはこれらの事件を発 端とし日本占領期を通じて嵩じたカレン=ビルマ民族間の緊張・対立・衝突全般が含まれる。本稿の課題 は、このカレン=ビルマ紛争のうち、とくにミャウンミャ事件がカレンにとってどのような意味を持っ ていたのかを解明することにある。 この事件に関する研究は、ギーヨウの論文[Guyot 1978]をのぞいては、いくつかの研究書で言及 程度[Cady 1957: 442-444, Smith 1999: 62-63など]しか見あたらない。ギーヨウは日本占領期ビル マの政治過程を主題とした博士論文[Guyot 1966]執筆のための調査途次に、この事件の存在を知る に至ったようである。事件の原因を事件前までのデルタの民族関係史において把握することを意図の うえ、衝突のエスカレーションの過程を描くことを課題としており、現在では閲覧が極めて困難になっ た国軍資料館の資料をふんだんに利用して実証的に事件の全体像と細部を再構成したことは評価に値 する。しかし、この論文の最後に導き出されるのは、英国植民地下の民族関係の「ねじれ」と1942年3 月から6月に生じた統治権力の空白が事件を惹起させた[Guyot 1978: 233]というしごく月並みな結 論である。「これ以前にカレン=ビルマ間の暴動や襲撃事件はなかった」[同: 191]という認識を示し ながらも、当の「ビルマ」や「カレン」なる集団そして両者の関係性に与えた影響や意義については 検討の俎上に上ることはない。このような視座の欠如は、カレンに関しては、19世紀半ば以降の当地 におけるキリスト教宣教師の活動をとおして1942年の衝突の前にはすでに、カレンなる集団性が凝集 性の高い完成されたものとしてあった、という前史の理解の仕方に由来している。2)だが、以下に述べ るように、そのようにカレンという自覚を深めた人々は主にキリスト教徒であって、他の仏教徒カレ ンは異なった自己イメージをもっていた。 さて、ミャウンミャ事件の意義を考えることは、ひとつに従来のビルマのカレン研究におけるひと つの大きな断絶を、そしてふたつめには多民族国家ビルマにおける民族状況の創出とそれを前提とし た民族政治史を考えることにつながる。後者に関しては稿を改めることにして、ここではカレン研究 における断絶、つまり植民地期ビルマのカレンに関しては主として民族論の客体として、そして独立 後の国民国家体制下のカレンに関しては民族運動の主体として描かれてきて、そのふたつのカレン像 の接面が整合的に説明されず放置されてきたことを出発点としよう。 第一に、植民地時代のカレンが語られるとき、それは主に民族誌や民族論の客体としての「カレン」 が記述の対象となってきた[例えば Marshall 1922, Lewis 1924]。その下位にスゴー(Sgaw)とポー (Pwo)をはじめとして20以上の言語的サブグループを内包し現在カレンと総称される人々は、そもそ も文字体系・宗教・社会関係などを長らく共有しなかった多様な次元の人々の集まりであった。18-19世 紀に伝説的なポー仏僧により東部ポー文字が生みだされ、19世紀初めに米バプティスト派の宣教師に よりスゴー文字と西部ポー文字3)が考案されてのち、植民地的近代の到来に伴って植民地内の諸要素と の相互作用のもと広範な想像力を喚起され、従来からの地縁血縁に加え、言語・文字・宗教の諸レベル ― 1 ― のおのおの規模の小さい共同体が重複・交錯する複雑多様な「内部」状況が生み出された。内実はとう てい「ひとつ」のものとして観察できなくとも、その一方で、カレンが「ひとつの民族」として社会的 に認知もされるというパラドクシカルな状況も現出した。すなわち複雑多様な現実を抱えながら、カ レンと呼ばれる民族の外郭が実在するもののように語られ、 「ひとつのカレン」が言説として生産・再 生産されていた。そして、その言説の担い手はおもに、植民地官僚やキリスト教宣教師、キリスト教 化されたカレンと民族主義的な運動に関与したビルマ民族であった。 このように複雑な民族状況を呈していたカレンの中で、観察者によっておもに注目され言及されて きたのはキリスト教徒スゴー・カレンに関してであり、その背景には宣教師の残した報告書や民族誌 という豊富な史料があった。4)しかし、カレンの範疇に加えられていた当の仏教徒ポーやスゴー、そし てカソリック・ポーとスゴー、カレンニー、パオ、パダウン、タウングー東方のタンダウン地区に居 住するカレン語系諸集団など諸々の人々についての研究は僅少で、まして各々の人々のもつ多様なカ レン意識についての比較研究はなされていない。キリスト教徒スゴーの「カレン」についての議論が、 さしたる検討もなしにカレン全体に適用されてきた、というのが実情であろう。 ところが、第二に、ビルマの独立以降のカレンという民族をめぐる問題性は「カレン」を民族運動 の主体として主に民族問題の視点から語られることになる[Silverstein 1966, Smith 1999, 池田 2000 など]。独立交渉期には諸民族的少数派5)がこぞって実質的な政治運動あるいは反政府武装闘争を開始 したが、その多くは現在に至るまで命脈を保ちビルマにおける民族問題の一方の当事者であり続けて いる。彼ら多くにとって、運動開始の動機は独立交渉期の政治展開にあった。わけてもカレンの動向 は、独立ビルマの基本的枠組みを憲法として具体化させる政治過程において最大の問題となった。カ レンを名乗る政治勢力が次々と名乗りをあげ、47年6月に諸勢力の糾合は一時的な成功を見るものの、 独立を迎える頃には四分五裂し最大の主流派であるカレン民族同盟(KNU)は武装闘争に入っている[池 田 2000]。この政治運動と武装闘争に参加したカレンにはバプティスト派スゴーやポーをはじめ、カ レン人口の多数派を占める仏教徒ポーとスゴー、そしてパオやカレンニーなども含まれていた。 しかし、バプティスト・スゴーはまだしも、仏教徒ポーをはじめ他のカレンを名乗るひとびとがいか に自らを「カレンの」民族運動に接合させていったのか、これまでまったく説明されてこなかった。 つまり、このような民族運動の主体としての「カレン」は、民族論的にみれば、民族運動としての主 体性をいつどのようにどの程度に獲得したかが不明瞭な存在である。 本稿は、このような民族論の客体としての「カレン」と民族運動の主体としての「カレン」の結節 点のひとつを、ミャウンミャ事件をめぐる歴史空間の中に位置づける試みである。民族として措定さ れてきた客体としてのカレンのうち、とくに仏教徒ポーが主体的にカレンの民族運動に参画しえた歴 史的条件がミャウンミャ事件の中に見出しうるのではないか、というのが本稿の基本的な仮説である。 以下ではまず、事件の背景と経過、その後の日本占領下におけるカレン=ビルマ関係を瞥見する。そ のうえでミャウンミャ事件を経験したカレンがそもそもどのような人々であったのかを、とくにバプ ティスト・スゴーと仏教徒ポーを中心に検討する。そして個々のグループを横断してカレンという集団 性を感得させた側面、とくにシュウェトゥンチャという仏教徒ポー・カレン人の中にひとびとが見た 「カレン」について考察し、ミャウンミャ事件がカレン意識の形成に与えた影響を評価する。 ― 2 ― 第1章: ミャウンミャ事件とその後 第1節: 事件の背景 イラワディ管区は北よりヘンザダ・バセイン・マウービン・ミャウンミャ・ピャーポンの5県より構成 され、全人口の16%が居住するビルマにおいてはもっとも人口稠密な地域のひとつである。管区人口 の72%がビルマ民族、そして19%がカレンとされていたが[1931 Census]、ミャウンミャ事件の発生 域ではビルマとカレンの民族人口が伯仲するかカレンが上回る。しかしエインメやワケマ、ミャウン ミャなどの都市部ではビルマ人口が例外なく大きい。イラワディ管区には英領ビルマの全カレン人口 の3分の1が居住し、とくに事件が起こった地域がもっともカレン人口が濃密で、宗教宗派と言語グルー プがモザイク状に交錯しており、下ビルマ一帯にひろがるカレン人居住地域の中でももっとも複雑多 様な様相を呈した地域のひとつである。 デルタのカレン人とビルマ人の間が植民地後期、どのようであったかというのは不明な点が多い。 事件の背景には植民地下での当地の社会経済的要因あったことが当然予想されるが、そのような証拠 は見つかっていない。ギーヨウは、1910年代よりデルタにおいて進行した大地主による農地の寡占化 と農民の没落と窮乏という社会経済的軋轢が、 「階級という軸」よりは「民族という軸」に沿って爆発 を起こしたのがミャウンミャ事件であったとする[Guyot 1978: 193]。しかし、階級的問題が民族的 対立に転化したことをファーニヴァル(J.S. Furnivall)の複合社会論とエスニシティ論を援用して 説明している箇所は、いかにも無理がある。6)ただ、ビルマ民族の知識人やウンターヌ結社7)の活動に 参加したビルマ農民を中心に、政庁協力民族としてのカレンというイメージは温存されていた。また 1930年代はじめのビルマ農民大反乱の際に、その鎮圧に植民地軍や非正規のカレン部隊が動員され、 これがビルマ語日刊紙に取り上げられて反カレン的な雰囲気は醸成されたことも注目に値する。それ でも、これだけの規模、激しさと性急さをもって事件が拡大したことを考えると、ミャウンミャ事件 でのカレン=ビルマ衝突はむしろ唐突の感がある。どのようなメカニズムのもとに起こったのであろ うか。 ビルマへの日本軍侵攻はタキン党のナショナリストたち足がかりに行われた。日本軍特務機関の南 機関によって訓練指導されたタキン党の「30人の志士」を母体に、41年12月ビルマ独立義勇軍(BIA) がバンコクで旗揚げされ、翌1月には4つの隊に分かれて入緬している。イラワディ・デルタに真っ先に 入ったのは水上支隊と通称される部隊であり、3月5日にはデルタ東部のデーダイェに上陸している。 しかし、この隊の本体は北へ退却する英軍を日本軍本隊とともに追撃するためデルタ東辺をかすめて 北上し、デルタ中央部には進出していない。バンコク出立時には15名ほどでしかなかった水上支隊は、 各地のビルマ民族のおもに若者を吸収し北進する直前のマウービンあたりでは500人ほどの部隊と なっていたが、このうち第一大隊が「9日までにミャウンミャ、モーラミャインジュン、ワケマに派遣」 され各地のシンパと接触し、のち支隊に再合流したという[緑川 1998: 201]。このようなことからデ ルタに実際に展開したBIAやタキンというのは、おそらく、水上支隊のデルタ進出に呼応した地元の自 称BIA・タキン勢力であった。彼らはデルタ南部を東西に繋げるマウービン=ワケマ=ミャウンミャと いうラインを最初に確保し、西部のミャウンミャをデルタ支配の拠点とした。 デルタ地方は日本軍の進軍経路上に位置していなかったために、42年3月の英国の退却から日本軍に よる軍政発布までの3ヶ月間、つまりミャウンミャ事件の期間全般を通して、BIA/タキン勢力が日本軍 ― 3 ― の介入を受けずに専権的に支配権を確立しえた例外的な地域であった。英人退避によって地方行政府 の不在になった各都市には、日本軍とBIAの進出に伴って「治安維持会」や「臨時市政府」などが暫定 的に設立されたが[太田 1967: 71]、判明している下ビルマの28のこれら暫定行政体のうち14はイラ ワディ管区内にあり[Guyot 1966: 153-158]、ほとんどが20代の大学生などの若者がタキンやBIAを自 称して行政権を握っていた。 衝突の直接的な原因としては、にわかづくりで激増したBIA兵士のために武器が決定的に不足8)して おり、その武器を保有していると見られたカレンからの徴収過程において大規模な衝突に発展したと するのが通説である。たしかにこのころ、植民地軍ビルマ・ライフル大隊に所属していたカレン兵がデ ルタの村々に帰還し始めていた。しかし彼等が武器を持ち帰った、あるいは退却する英植民地政府が カレンに大量の武器を残したとする可能性については疑問が残る。9)それにタキンとBIAが武器徴収の ためにカレン村に向かったというのは、実際に彼らに武器が不足していたということ以前に、彼らの デルタ支配確立に際してカレンを脅威とみなす認識が先んじてあったとも解釈できる。そのような認 識の根拠となった親英的なカレンはカレン内部においては少数派であったが、タキン・BIAはこれをカ レン全体に適用した。 タキンらがカレン対ビルマ民族という構図をここに導入したということは、本稿の主題に関わる重 要な点である。例えばデルタのタキンの官報である「ミッワーチュンボー・ダディンジン」(デルタ ニュース)10)には以下のような記述が見られる。 「彼ら(英国植民地主義者)はカイン(Kayin)をキリスト教に改宗させ、ビルマ人(Bama) とは異なる新年を祝うことを許し、カイン文字を与えた。これよりあと彼らはビルマ人と 切り離されることになった。このように英国は分割統治を導入し、あたかも一株の竹がて んでばらばらに伸びるかのように「彼等の側=我々の側」という人種(的区別)をビルマに 土着の人々(Bama Taing Yin Tha)の中につくりだした。そして我々は今、ビルマ(Bama Pyi) にかつてない規模の人種紛争を経験しているのだ。 」[MD 4/18] タキンらがこのような構図をもって事態に臨んだことに関連して、ふたつの指摘をすべきであろう。 第一に、バモオは当時の「人種狂」なる時代的な雰囲気に言及し「日本が白人勢力を追い出したアジ ア地域に突然起こった民族意識」をビルマにもあてはめ、英国対ビルマ人、日本人対ビルマ人という 構図を描く[バーモウ 1973: 212]。バモオのこの認識は1968年に出版された自伝によるものであるが、 そのような「人種狂」の雰囲気は当時の行政文書にも横溢しているおり、デルタニュースの記事から は「我々バマーが英国を追い出したのである」というタキンたちの強い自負が見て取れる。そしてそ こに見える「バマー」(Bama)というビルマ語の単語は、往々にして「ビルマ国民」と「ビルマ民族」 を区別しない。バモオの指摘した構図は内側にも向かい、ビルマ民族対カレン民族の間でも作用した。 第二に、事件初期の段階で、ミャウンミャに避難したビルマ民族の農民は5月初めに集会を開き「サー ピュウ」すなわちキリスト教徒カレンを非難し、わざわざ断りを入れて「タヨウッ」(中国人)、「カ ラー」 (インド人)とともに仏教徒カレンを指す「サーメイ」を非難の対象からはずしていることであ る[DSMHRI DR4029]。11)つまり、農村の隣人たるビルマ農民はカレンの多様性を彼らなりの仕方で把 握し区別していたが、このような区別はタキンたちの圧倒的な衝動と力の前にかき消えていった。 ― 4 ― 事件はこれ以後カレン対ビルマという図式で進行し、事件に関するビルマ側のアカウントそして数 少ないカレン側の証言もすべて、このような図式によって記録され記憶されている。事件の概要も以 下にそのような図式でまずは見てみたい。 第2節: ミャウンミャ事件 カレンとビルマの衝突が実際にどこから始まったのかは不明である。4月1日から武器徴収が始まっ たとの記述[Myaungmya Township History Editorial Committee 1982: 21]もあるが、同3日にはす でにエインメ郡境に程近いミャウンミャ郡北部での戦闘報告書がBIA側に残されており、武器を徴収に 行ったというよりも、あたかも叛乱カレンを鎮圧に出動した記録である[DSMHRI DR4029]。このよう なことから、おそらくデルタを支配下に組み入れて、行政体制を整えているのと同時に3月半ばころか らカレンへの武器徴収をすでに始め次第に衝突に発展していた[Morrison 1947: 187]、とみてよかろ う。 次第に衝突に発展していった過程で、最初に紛争が激化したのはエインメ郡であり、この地区は他 にもましてカレン人口、とくに仏教徒ポーが濃密でビルマ人口を上回っていた。ここでの衝突は、タ グンダイン村村長のポー・カレン仏教徒シュウェトゥンチャ(Mahn Shwe Tun Kya)の動向と重なりを もちつつ現地では語り継がれている。はじめは彼とインド人の小競り合い、あるいはタキンとインド 人の対立が、タキン対カレン・インド人という図式に発展したと語られる[Mahn HH, Nga Sy, U HKな ど] 。こうして4月半ばまでには、シュウェトゥンチャを頭目としたカレン勢力とBIAの戦闘がエインメ 郡各地を席巻し[MD 4/11,18]、ミャウンミャ市には1600人以上のビルマ難民が流入を始め、タキン・BIA 側も「かつてない規模の民族紛争」と断定するレベルまで発展していた[MD 4/11]。一連の動向の中 でシュウェトゥンチャはエインメのカレン指導者になってゆき、急速に超能力を備えたカレンの英雄 として伝説化してゆく。応酬戦の過程で多くの村が焼かれ、最終的にエインメ郡では58のカレン村が [NAD10/1/34]、そしておそらくそれ以上のビルマ村が焼かれることになる。 こうして4月中にはビルマ難民はビルマ人口の優勢な都市部へ、カレンとインド人は農村部に築いた 自前の砦へと流れていくという傾向が定着した。ミャウンミャ市はBIA・タキンが拠点としており最も 多いビルマ人が難を逃れてきた町であった。ミャウンミャ市のビルマ人口が膨張する一方、そのカレ ン人居住区であるシュウェダーゴン地区とカソリック宣教師地区のカレンは孤立して行った。このよ うな緊張状態のなか、バセインのカレン指導者の一人でありキリスト教徒スゴーであったサンポー ティン(Saw San Po Thin)が、5月26日に戦前の内閣の法務大臣も勤めたペータ(Saw Pe Tha)とそ の家族、そして他のカレン人をシュウェダーゴンから救い出す計画を実行に移した。しかし計画は事 前に漏洩しており失敗し、二つの地区はビルマ側に襲撃された。シュウェダーゴンでは52人、宣教師 地区では140人のカレンが殺害され、残りのカレンはミャウンミャ刑務所に収監、ビルマ村焼き討ちの 報が入るたびに日によっては20人ずつ処刑されたという。彼らは日本軍がミャウンミャ入りした6月14 日に解放されている。[Morrison 1947: 188-189, バーモウ 1973: 204-211, Thakin Lwin 1969: 126-8, Myaungmya Catholic Church ?: 29-32, The Burma News No.15-17, Naw Pu, Saw Jo, Saw KKなど] 一方、シュウェダーゴン事件の当日、バセイン近くで南機関員の木俣豊治12)が殺害された。彼の死 の報に接して激昂した南機関機関長の鈴木大佐は、5月31日BIAのボ・チョウゾウ(Bo Kyaw Zaw)をし てワケマ南方のカナゾーゴンとターヤーゴンのカレン村2村を攻撃焼却させた[Maung Maung 1969: ― 5 ― 121-2, Mahn aW, Mahn Bnなど] 。13)ポーの住むカナゾーゴンはデルタで最大のカソリック村で380人の 死者を出したという証言があるが[Mahn eL]、バプティスト・ポーのターヤーゴンの死者は不明である [Mahn eP, Mahn Ke, Mahn Ko]。この事件の後、応酬戦は前にもまして「おおっぴら」になったとい う[バーモウ 1973: 204]。 一連の事態収束には、バプティスト・カレンの間で語られているところによると、ウ・マンソウブウ (U Mahn Saw Bu)14)の役割が大きかったという。彼はワケマとミャウンミャの間の村サカンジーの有 力者であったが、シュウェダーゴンとカナゾーゴンの襲撃後の6月1日、ボ・モウジョウこと鈴木大佐に 命がけで掛け合って事態収拾を図ったとされる[Saw Moo Khu 1962: 50-59]。その結果、翌2日午後二 時にサカンジー村落区トーカロー村で1500人のカレンとインド人が集められ鈴木大佐が演説を行うこ とになった。彼はカレンに投降を呼びかけて、応じなければ「カナゾーゴンとターヤーゴンの村のよ うになる」[MD 6/6]と脅している。こののちすぐに事態が収束したわけではなく、6月5日前後にはワ ケマ郡シュウェラウン南方のカレン村12カ村がBIAと地元では信じられている部隊に焼かれた。このう ちニャウングー村落区サーピュウズ村では8人のアングリカン・シスターの殺害を記念する碑が残って いる。事件は6月半ばの日本軍によるデルタ進出とともに沈静化している。 被害実態の全容を記した文書は残されていないが、範囲としてはエインメ・ワケマ・ミャウンミャ の三郡を中心としたミャウンミャ県北部四郡とそれに北接する他県五郡(図1参照)で実際に衝突あ り、村の焼き討ちと死者と難民が出た。全体で死者がどれほど出たのかは、信徒の記録を丹念につけ ているカソリック[例えばU Tun Way 2004]以外では不明で、終戦直後にサンC.ポーが指摘したとこ ろによると「ミャウンミャ、ワケマ、パンタノウと他の場所で」「1840人」のカレンが殺されたという [OIOC M4/3023]。15)おそらく死者は総数で5000人には届かないものと推測される。1942年7月の報告 書にミャウンミャ県でカレン村117カ村の焼失村リストがのこるが、同報告書に言及のある「ビルマ村 180カ村以上」は推定値であろうと思われ、実際の調査は行われていないようである[NAD 10/1/34]。 しかし現地調査でこのリストに含まれない多くの村も焼き討ちが確認されている。県北部三郡にある 約470村落区の2000程度の村のうち、15~30%程度が襲撃によって一部あるいは全部の家屋を失ってい ると推計される。この騒乱の結果、ミャウンミャをはじめとしてワケマ、ピャーポン、マウービン、 バセインなど近郷の都市にビルマ人は難民となって逃れた。7月初頭にミャウンミャ市に17,000~ 18,000人のビルマ民族難民いたという[MD 7/4]。カレン難民合わせて人口の半分以上は流民化してい たと考えられ、エインメ郡はさらに流民化率が高かったと推測される。 第3節: 日本占領下 ミャウンミャ事件と東部のパプン事件の後、中央政府と日本軍、そしてタキンとカレンの指導者た ちはどのような対応をしたのであろうか。そしてミャウンミャ事件の規模と影響はどの程度であった と評価できるのか。 6月4日、上ビルマのメイミョウで、ビルマ統治法下で最初の首相を務めたバモオが長官に任命され 臨時行政府が発足した。南機関とBIAは解散、8月にはBIAはビルマ防衛軍(Burma Defense Army: BDA) に再編され、時を同じくしてデルタのBIA・タキン暫定行政府も解体されたようである。16)バモオ政府 はデルタと東部の事件で悪化したカレン=ビルマ関係の改善に乗り出す。バモオは8月にカレン指導者 と会見し、紛争で被害を受けた人々の救済策と両民族関係改善のための機構構想を協議、この結果と ― 6 ― してカレン=ビルマ和解委員会(Karen-Burman Reconciliation Committee)が年内に設立されている [NAD 10/1/34]。43年3月には中央カレン民族組織(Baho Kayin Amyotha Apwe)が、サンC.ポーを委 員長に各地のカレン代表10人を委員として政府の後押しで発足した。この中には、バプティスト・ス ゴーの政治家や有力者とともに、事件前はデルタの一介のポー仏教徒村の村長でしかなかったシュ ウェトゥンチャも名を連ねている[Bama Khit 1943 3/28、太田 1967: 262-263など] 。 図 1 イラワディ管区とミャウンミャ事件の発生域 出典: 著者作成 ― 7 ― しかし結局のところ、日本軍当局と中央政府との間で微妙な位置に立たされたカレン組織に対する 中央政府による懐柔[Cady 1958: 450]という思惑と、戦時下の名目的な民族糾合政策が本音の部分 では優先され、以上のような中央政府によるカレン指導者を通した事件の後処理は表面的なものに終 始し、事件の真相究明と根本的解決は試みられなかった。このような表面的処理の痕跡は、ビルマ語 日刊紙においてカレンとビルマ民族の和解を演出するプロパガンダ色の強い記事が、日本占領期を通 して頻繁に発表されたことに端的に見て取れる[参考文献掲載 Myanma Alin, Bama Khit各号] 。だが、 エインメを訪れたワケマのビルマ人僧侶が衝突の再発しそうな現地のカレン=ビルマ民族関係を憂慮 して、新聞記事のウソを中央政府に告発した42年11月21日付の手紙が残されている。[NAD 10/1/34] 実際、事件収束直後からエインメ郡はシュウェトゥンチャを頭目とした「カレン解放区」の様相を 呈していたらしい。事件から逃れて9月に当地に戻ってきたビルマ農民は、近くのユワティッ村でシュ ウェトゥンチャのグループが被災民にビルマ・カレンの区別なく米を配給していたと証言し、彼らは おっかなびっくりで米を受け取りに出かけたという[U HKなど]。このような被災民救援活動は、本来 は地方行政府が担当する職務であったがビルマ人官吏は当地では思うように活動できず、かといって シュウェトゥンチャもラングーン政府の方針に逆らってビルマ農民を無碍に扱うこともできなかった、 ということであろう。また、12月にこの地域にカレン人有力者を伴ってどうにか土地調査で入れた官 吏が、 「ビルマ人である自分がこの地域で土地調査をするのは命懸けで、この給料で命を落としたくな い」と中央政府に苦言を呈した報告書も残っている[NAD 10/1/76]。だが、シュウェトゥンチャのグ ループの派手な行動は日本軍憲兵隊の耳目に達し、43年1月にエインメで起きた「『カレン』人ノ大暴 動」[南西・軍政68:44]が憲兵隊に鎮圧されたのちには、このような「解放区」もやがて勢いを失って いった。憲兵隊はこの頃から、エインメをはじめ各地農村部に住み込み情報収集をして「犯罪分子」 の摘発をしていた[U eG, U Fc, U Fvなど]が、日本軍当局にとってのカレン=ビルマ民族問題はこの ような治安維持事項として以上の意味を持ち得なかった。 日本占領下のビルマ、とくに42年前半の治安状況は記録の残る植民地時代以降で最悪であり、ギー ヨウの推計では40年ごろと比較して殺人件数で7倍、強盗件数で50倍の悪化を見た。(表1参照)また、 42年8月から43年4月までの犯罪件数11,924件のうち殺人は2,093件、強盗窃盗は9,831件であるが、県 別に見れば第一にミャウンミャ事件の起こったイラワディ管区と同様にカレンが居住するペグー管区、 次いで残りのカレン居住県のあるテナセリム管区とほかの上ビルマ諸県の順に発生件数が多い。(表2 参照)この報告書によれば、デルタと東部のモールメインやタトンにおける治安の悪化はカレンとビ ルマ民族間の民族紛争によるものであった[Financial and Economic Annual 1943: 52]。また、デル タ地域の地方行政府文書には、カレン=ビルマ間の民族憎悪がないまぜになったこの時期の犯罪捜査記 録が数多く残されている[NAD 1/15/D/3848, D/3852, 10/1/76, /81, /122など]。このように、カレ ン=ビルマ紛争が日本占領下のビルマ社会に与えた影響は甚大であった。 ― 8 ― 表 1 殺人及び強盗件数割合 年 (人口100万人当り)➀ 殺人件数の割合 強盗件数の割合 1896-1900② 24.8 9.5 1926-1930② 59.7 31.9 73 41 Est.500+ Est.2000+ Aug 1942-Apr 1943③ 141 571 Jan-Mar 1947④ 180 1260 c.1940③ Feb-Jun 1942 ① 総人口は1940年に1660万人、1942年に1640万人、1947年に1800万人と推定。1年以下の期間については12ヶ 月に換算して計算。 ② George Harvey, British Rule in Burma, 1824-1942 (London: Faber and Faber, 1946), p.40. ③ Burma, Burma during the Japanese Occupation, Vol.II, p.40. ④ George Appleton, "Burma Two Years after Liberation," International Affairs, Vol.XXIII, No.4. (October, 1947), p.513. 出典: Dorothy H. Guyot. 1966, p.152. 表 2 県別の殺人及び強盗件数 (1942年8月~1943年4月) 殺人及び強盗 件数の合計 イラワディ管区の県 ペグー管区 と テナセリム管区の県 1000件以上 ミャウンミャ、ピャーポン ペグー 750-1000件 マウービン、ヘンザダ タラワディ 500-750件 バセイン インセイン、ハンタワディ 250-500件 100-250件 他管区の県 タトン、モールメイン、 カタ、シュウェボウ、ミンジャン、 タウングー サガイン、イェナンジャウン ラングーン プローム、ピンマナ、モンユワ、 マンダレー 50-100件 メルグイ、タヴォイ タイェッミョウ、メイッティーラ、 チャウセ、チャウッピュウ 出典: Financial and Economic Annual of Burma, July 1943. pp.51-52. ― 9 ― 第2章: さまざまなカレンの経験 事件に関する記述は以上のように、すべてカレン対ビルマ民族という図式に則って記録され、記憶 されてきた。このような図式化がなされていたことは、植民地社会の基本的構成要素としての民族が 観念としては成立していたことの反映である。だからといって、そのように分類された人々にとって、 「カレン」という集団性が均質なリアリティをもって成立していたわけではなかった。では、これら の人々に共有されていたのは「カレン」の何であり、共有されていなかったのは「カレン」の何であっ たのか。 そもそも「カレン」とは英語での他称である。それでも植民地期のカレンそして他の人々のあいだ では、その広がりと質を英語で「カレン」とラベリングしたような想像力が、この英語名称に無縁で あったカレンたちをも捉えて、カレンとして指示される広がりをひとつのカテゴリーとして分節する 営みが進行していた。そこでは、濃淡とばらつき、離合集散を孕みつつも、具体的な集団としての「あ のカイン」と「このカイン」「そのプアカニョウ」「あのプローン」が結びつき、そして抽象的な「カ イン」や「プアカニョウ」「プローン」「カレン」がひとつのカテゴリーとして総体では収斂し、認知 されようとしていた。同時にカテゴリーとしての「カレン」の内容は、ある特定の形象をもってして 時とともに満たされ、更新されていった。20世紀前半、このカテゴリーに属すると自覚する少なから ぬ人々の間で、「カレン」の構成要素とされる歴史・文化・神話などの具体的内容が自己イメージとし てそれぞれに特定され、より精緻化され、より自明なものとして受容されはじめていた。 このラベリング=範疇化=構成要素の精緻化という一連の機構は、名乗りと名付けの相互作用のな かにおいて機能し、実際には一体の過程として腑分けが難しいものであろう。そして、このプロセス は、均質なリアリティのある「カレン」成立の保証とはならない。むしろ、その結果表出される自己 イメージの質と濃淡には、宗教宗派と言語によって規定された集団別に傾向があった。それは、カレ ンという表象が生み出され再生産される様式が、それらの集団に個別に備わっていた宗教や宗派の機 能、社会組織、諸儀礼、教育などのあり方に依存していたからである。このようにして区別されるカ レン内の集団には、仏教徒ポーとスゴー、バプティスト・スゴーとポー、カソリック・ポーとスゴー、 アングリカン・ポーとスゴー、ビャマーゾウ・スゴーなどがあるだろう。(表3参照)そして、その集団 固有の宗教的社会的営為と結びついて、カレンという表象がもっとも頻繁かつ濃厚に再生産されてい た集団がバプティスト派のスゴーであり、もっとも希薄であったのが仏教徒ポーであった。 以下ではこのバプティスト・スゴーと仏教徒ポーを中心に、かれらがミャウンミャ事件以前に、どの ような集団的特徴と自己イメージを持っていたか、そしてそのイメージはどのような仕組みをとおし て再生産されていたのか、そしてビルマ民族との関係をどのように捉え、おのおのにとってミャウン ミャ事件は具体的にどのような出来事を中心に記憶されているのかを検討する。 第1節: バプティスト・スゴー バプティスト派のスゴー・カレンは、ビルマにおけるクリスチャンの、場合によってはカレンの代名 詞となるほどに社会的な存在感のある人々である。全カレン人口のうち4分の3以上を占める仏教徒に 対して、ポーや他のカレンと合わせてもバプティストは12%強と統計上は少数派であるのだが、17)カ レンを標榜し、それに関する出版などの表象経路のヘゲモニーをカレン「内部」で握ってきた人々の ― 10 ― 大部分がバプティスト・スゴーの知識人であったために、外部に「カレンといえばキリスト教徒」とい う印象をつくりだしてきた。 表 3 イラワディ管区県別のカレン宗教宗派人口 カレン イラワディ 管区全体 % 仏教徒-サブグループ キリスト教徒-サブグループ 全体 スゴー 443058 69866 271163 1605 70715 26325 100.00% 15.77% 61.20% 0.36% 15.96% 129114 10105 79755 4 100.00% 7.83% 61.77% 60189 29623 100.00% ポー 他 スゴー ポー 他 キリスト教徒-宗派 アングリカン バプティスト メソディスト カソリック 他 370 1861 81353 3 14188 5 5.94% 0.08% 0.42% 18.36% 0.001% 3.20% 0.001% 28857 9750 1 143 35117 0 3348 0 0.003% 22.35% 7.55% 0.001% 0.11% 27.20% 0.00% 2.59% 0.00% 15524 105 12221 2108 2 152 9788 0 4391 0 49.22% 25.79% 0.17% 20.30% 3.50% 0.003% 0.25% 16.26% 0.00% 7.30% 0.00% 118425 2153 91244 616 14138 8866 95 869 18509 0 3716 5 100.00% 1.82% 77.05% 0.52% 11.94% 7.49% 0.08% 0.73% 15.63% 0.00% 3.14% 0.004% 113758 19295 80256 0 9032 4834 0 677 10766 0 2423 0 100.00% 16.96% 70.55% 0.00% 7.94% 4.25% 0.00% 0.60% 9.46% 0.00% 2.13% 0.00% 21572 8690 4384 878 6467 767 272 20 7173 3 310 0 100.00% 40.28% 20.32% 4.07% 29.98% 3.56% 1.26% 0.09% 33.25% 0.014% 1.44% 0.00% バセイン県 % ヘンザダ県 % ミャウンミャ県 % マウービン県 % ピャーポン県 % * 非仏教徒非キリスト教徒は省略。キリスト教徒の宗派-言語サブグループ別のデータはない。 出典: 1931 Census of India そもそも、ビルマにおけるバプティスト宣教は、大規模には東部ビルマのスゴーを嚆矢として言語 グループ別に始められた。英国が下ビルマ全域を併合する前の1840年代にはデルタのバセインにもス ゴーとポーへの宣教拠点が置かれるが、その前後にはスゴー文字とポー文字が米人宣教師によって考 案され、米国の宣教本部より経済的に自立した活動を通して強固な教会組織のネットワークが構築さ れてきた。宗教のみならず文字共同体としての紐帯も加わり、それを物理的に支える組織の裏打ちに よって、共同体としての一体性は高まっていたといえる。加えてバプティスト・スゴーは植民地政府と も良好な関係を築き、おそらくは英人植民地官僚の好意的な支援のもとに、1881年にはビルマ民族よ りも四半世紀も早くに民族団体が設立された[Smeaton 1887]。とくにデルタのバプティスト・スゴー のコミュニティは、カレンの指導的な人々を輩出し、ビルマにおけるバプティストの主要な拠点のひ とつと見られてきた。18)また植民地政府も、国勢調査や言語調査などの社会調査をつうじてカレンを 民族として認定し、バプティスト側もそれを積極的に引き受けてきたが、かといって、植民地行政府 の諸ポストがカレンに優遇して割り当てられたわけでもなかった。19) バプティスト・スゴーの植民地期における自画像は、ソオ・アウンフラによってスゴー語で書かれた 『プアカニョウの歴史』[Saw Aung Hla 1939]20)というカレン民族の歴史書にうかがうことができる。 そこには、仏教徒であるビルマ人やモン人の圧迫に抗ってこの地域に独自の言語・文字・文化・宗教・王 ― 11 ― 統を保持してきたプアカニョウという歴史観が表明されている。そして、プアカニョウの語の「ニョ ウ」には「羊」の原義があること、もとはBC2234年にバビロニアを出立した失われたイスラエルの民 でありビルマ領域に最初に入ってきた最古の先住民族であること、もともと単神論的な信仰を持ちビ ルマ人やモン人によって仏教を強制されてきたが、キリスト教の伝道により本来の信仰を取り戻した こと、などが述べられている。ソオ・アウンフラの記述は多くを19世紀の宣教師や植民地官僚、そして 彼に先行するスゴー知識人の著作に依拠しており、それとともに、後述する1929年と1931年に出版さ れた仏教徒カレンによる歴史書の記述を仏教的色彩を排除したうえで取り込んでいる。 このような民族観とその典拠となったようなカレンに関する諸種の知識は、この集団から輩出され た政治家や弁護士、医師、教師、牧師など、層の厚い知識人らによって、バプティストの密なネット ワーク組織を介して都市部から農村部へ、あるいはある地域から他の地域へともたらされ、カレン意 識の平準化が進んでいた。1940年当時、デルタのバセイン宣教区内には172にのぼるスゴー教会(ポー 教会は87)、164校ものバプティスト系スゴー語学校(ポー語学校は4校)があり21)、各々がネットワー クの節目として、そして「カレン」を再生産する場として機能していた。ソオ・アウンフラの書物は出 版直後からバプティスト・スゴーのあいだで反響を呼び、このような各地の宣教師学校で歴史の教材と して採用されたという[Saw iS]。 さて、ビルマ側にとっては「植民地統治者側の民族」なるイメージは、19世紀にすでに見られると ころとなっていた。既述のように、1920年代にはウンターヌ結社の設立をとおして農村部にすそ野を 広げたビルマ民族主義運動は、カレンを政庁協力民族とみなしていた。また1930年代のビルマ農民大 叛乱に際しては、植民地軍のビルマ・ライフル大隊のカレン中隊が鎮圧に派遣され、ビルマ語諸紙に批 判的に取り上げられ、このような印象を知識人に限らず一般の農民を含めたビルマ民族側にさらにふ かく刻み込んだ。ミャウンミャ事件のビルマ側当事者であったタキンやBIAもこのようなイメージを継 承していた人々であった。他方、バプティスト・スゴーもまた、「暴虐の主としてのビルマ民族」なる イメージを涵養し[例えばTheodore Than Bya 1904]、ビルマ民族と対抗的なかたちで自己規定をして きた。このように、植民地時代のビルマ民族に対抗的なカレンという民族表象は、英植民地政府、米 人宣教師、バプティスト・カレンやビルマ民族の協同作業をとおしてつくられてきたといえる。 デルタのバプティスト・スゴーにとってミャウンミャ事件は、いわば「暴虐の主としてのビルマ民族」 の再確認であった。彼らはデルタのカレン人口の10%強を占め、多くはバセイン県に集住する。ミャ ウンミャ県ではミャウンミャ市内外とバセイン県境に近いところに集中してみられるが、東行してマ ウービン県やピャーポン県に到るまでバプティスト・スゴー村はあまりない。デルタにおいても他の地 域においても、あるいは事件を直接体験していてもそうでなくても、バプティスト・スゴー古老から聞 かれる日本占領期の記憶はおもに、ミャウンミャ市シュウェダーゴン地区のバプティストの虐殺と刑 務所への収監、そしてウ・マンソウブウの英雄的な働きである。事件後のバプティスト側史料に頻繁に 現れるカレン・ナショナリストとしてのシュウェトゥンチャは、長い年月を経て、事件の発生域近くの バプティスト古老以外からは忘れ去られようとしている。 第2節: 仏教徒ポー 先述のとおり、仏教徒はカレンと呼ばれる人々のなかでは多数派であり、カレン人口に占める割合 はイラワディ管区内で仏教徒ポーが6割、事件核心域であるミャウンミャ県北部のカレンのうち8~9割 ― 12 ― を占める仏教徒のほとんどがポーとなっている。 植民地期に仏教徒カレンは社会的発言経路をほとんどもたず、そのために彼らの存在形態をうかが い知る史料はバプティスト・カレンに比して極端に少ない。よって、そもそも「仏教徒カレン」なる社 会集団あは存在しなかったのではという当然の疑義も生じるが、希薄であるにせよ少なくもとその意 識は存在した点を本稿では重要視したい。例えば19世紀には、東部のパアン地方で東ポーカレン語に よる仏典が多く書かれて現在まで残されている[U Hpoun Myint 1975]。また、東部の仏教徒カレンの あいだからは、ソオ・アウンフラに影響を与えたカレン史の書物も書かれている。ウ・ピンニャによる ビルマ語の『カイン王統史』[U Pyinnya 1929]である。 この本では伝統的な王統記の形式にのっとり世界の起源を仏教的世界観から書き起こし、閻浮堤(ザ ブーデイッ)における101の民族、つまりルーミョウの中にカインを位置づける。カインはシャン・カ イン、ミャンマ・カイン、モン・カインの3種に分かれ、おのおのシャン、ミャンマ、モンに起源があり、 遡及すればビルマにおける諸ルーミョウは単一の「ビャマ」 (ブラフマン、梵天)ルーミョウに行き着 くとさる。これら3種のカインのうち最も記述を割くのは、モン・カインの2つの王統に関してである。 それによれば、2つの王統はともにモン人の王国であるトゥワナブーミの王から王権を授かって開闢さ れたとされる。釈尊のタトン巡幸とカインの聖山ズウェカビン来臨などのエピソードを交えて、この 二つの王統の歴史が詳細に記されており、モン王統に近しい、始原より仏教世界に組み入れられた存 在としてのカインが描かれている。 これに対して、ラングーン在住のウ・ソオによってビルマ語で書かれ1931年に出版された『クゥイン 大王統記』[U Saw 1931]に表現されている「カレン」は、ラングーン以西の仏教徒カレンのありよう を表現しているように思われる。ウ・ソオはカインの名称の起源がインド古代の王の名にあり、そのた めにビルマ語ではカイン(Kayin)ではなくクゥイン(Kuyin)という名称が正式であるとする。そし てビルマのすべての民はインドのコーリアと呼ばれる人々に直接的な起源があり、このコーリアがビ ルマ領域に入ってきたのちにピュウ、カンヤン、テッという3つの古代ビルマの民族に分化し、カンヤ ンがクゥインの祖となったとする。このような図式をもってウ・ソオが証明しようとするのは、やはり、 クゥインがパーリ仏教世界に始原より組み入れられ、ビルマやモン民族と親和的で、正統な仏の教え の信奉者であるということにある。しかし全般的に見て、ウ・ピンニャの内容豊かな著書に比して具体 的様相にいたる説明に乏しく、クゥインの遠い祖先であるというインド古代の民とその周辺の歴史に ついて冗長な説明が続き、クゥイン自身の歴史に到ることはまれである。このような歴史観の検討か ら導き出されるのは、この具体性に欠けたクゥインの歴史のあり方こそが、実はウ・ソオが背景とした 仏教徒カレンの姿ではなかったかという推測である。ウ・ピンニャの背景とした東部の仏教徒カレンは その歴史記述に際して、身近にある「権威ある」仏教伝統を有するモン王国との関係という記述資源 を活用できた。しかし、西部の仏教徒カレンにはそれがなかった。22) そもそもポーは東西で意思疎通が困難なほどの方言差があり、東ポーの仏教徒が早くから独自の文 字を持っていたのに対して西ポーの仏教徒にはそれがなく、すでに西ポー語を話せなくなっている村 も多かった。このために西ポーの仏教徒はいよいよ、近隣のビルマ仏教徒と彼我を隔てるすべを失っ ていた。23)もちろん、こういった仏教徒西ポーのなかにも、デルタに点在したバプティスト派の宣教 師学校に受け入れられた人々、あるいは植民地軍のカレン部隊に参加した人々など、いわばカレン意 識を養成する民族の「巡礼」に参加しえた人々は、たしかにいた。また、植民地議会のカレン選挙区 ― 13 ― 代表として選出されたマウービンのトゥンイン(Mahn Tun Yin)24)などの仏教徒ポーもいたし、1939 年にはバプティスト・スゴーの助けを借り、仏教徒のカレンを糾合してビルマ・カレン民族協会(Burma Karen National Association: BKNA)が設立されており、バセイン県とミャウンミャ県をふくむ下ビ ルマ7県に22の支部があった。25)しかし、仏教徒の西ポーのあいだにはカレンという言説が堅固に反復 再生産される宗教儀礼や社会的仕組み・場がなく、総体としてはこの地の仏教徒ポーのカレン意識はバ プティスト・スゴーはもちろんのこと、東部の仏教徒ポーとも比べても希薄であったといえる。このよ うな推測を補強しうる史料が残されている。 表 4 ミャウンミャ県エインメ郡の民族人口 村落区 村 戸数 総人口 ビルマ 他の カレン 中国人 105 1931年 国勢調査① ? 17455 % 77369 42959 28827 970 3860 753 100.00% 55.52% 37.26% 1.25% 4.99% 0.97% "nainggan tha" (nationals) 2003. 7/21 政府内部文書 2003? 102 ② 31922 % 102 ③ 郡庁データ 480 % 505 31922 他 インド人 土着民族 "nainggangya tha" (foreigners) 205997 103031 95109 7735 25 94 3 100.00% 50.02% 46.17% 3.75% 0.01% 0.05% 0.001% 209858 93881 106109 9705 163 100.00% 44.74% 50.56% 4.62% 0.08% *「中国人」「インド人」「他」の分類基準は1931年と2003年で異なる。 出典: ①1931 Census, ② einmêmyô deithà sainya ahkye'ale' myâ 2003, ③エインメ郡庁舎 内掲示板から書き取り 独立交渉期にバプティスト・スゴー中心の政治団体が、1931年の国勢調査においてはビルマ人の調査 官によって、ビルマ民族の仏教徒(Burman Buddhist)を示す「BB」という表記のもと多くの仏教徒カ レンが仏教徒ビルマ人のカテゴリーに編入され、総計としてカレン人口が少なく見積もられたと主張 する[例えば、PRO FO643/66/51GSO, FO643/56/1Q1など]。実際にミャウンミャ県エインメ郡では、表 4に見られるように現在の人口比からすると1931年統計のカレンの人口は不自然に少ない。1931年より 現在に到るまで、この地方ではカレン人口を減少させるような社会的政治的な変動要因は働いたもの の、26)その逆の要因は見当たらない。とすれば、1931年当時、この土地の仏教徒カレンは「BB」と記 載される、あるいはそう自己申告するほどにビルマ化していたと解釈することも可能である。27) このように、カレン意識が希薄なミャウンミャ県北部の仏教徒ポーにとって、ミャウンミャ事件と は、第一義的にシュウェトゥンチャというひとりの仏教徒ポーの存在が中心に添えられた出来事で あった。このシュウェトゥンチャを通して彼らは「カレン」 (カイン、プローン)という広がりを実感 し、何よりもビルマ民族に対抗的なカレンという、従来の仏教徒ポーにはほとんど無縁であった経験 をした。そしてタキンとBIA側がカレン対ビルマという構図を持ってこの衝突に臨み、その結果もっと ― 14 ― も被害を受けたグループが仏教徒ポーとなった。 上記のバプティスト・スゴーと仏教徒ポーのほかにも、たとえばカソリックのポーとスゴーの共同体 が異なった経験の位相をもってミャウンミャ事件を記憶している。彼らからの聞き取り調査では、カ ソリックのポーとスゴーにとってミャウンミャ事件とは即、ミャウンミャ市のカソリック地区での虐 殺事件とカナゾーゴンの焼き討ちを意味する。彼らはデルタにおいてはポーとスゴーを合わせても 14,000人余りで、同じクリスチャンでありながらバプティストとは画然とした共同体を形成していた。 デルタでのカソリック宣教は、本格的には1840年代にミャウンミャにおいてフランス人やイタリア人 司祭によって開始されたが、ここでの信徒の大部分がポーあるいはスゴーであったにもかかわらず、 一貫してビルマ語によって教会活動は営まれてきて、バプティスト・スゴーほどには「カレン」を強く 感じさせる環境にはなかった。28) このように、ここで取り上げられない他のカレン29)も含めた全体のなかで、ある一角には確固とし た組織を持って、往々にして反ビルマ的なカレンに関する表象が絶えず再生産される機構を持つ共同 体があった。他方には、カレンとしてのネットワークをほとんどもたずに、彼らの持つ親ビルマ民族 的なカレン表象も一因となって仏教徒ビルマ民族の隣接共同体に溶け込み同化しそうになりながらも、 かろうじてカレンなる意識を保持していた人々もあった。そこには濃淡があり、観念内容の異なる、 多様なカレンが個々別々に存在していた。 したがって、植民地下でカレンを自称するもののあいだでは、同じ言葉を話し親族には仏教徒もキ リスト教徒もいるという日常感覚の延長上に「カレン」(カイン、プアカニョウ、プローン)というカ テゴリーがあるという意識、その限りではほとんど「カレン」という名辞しか共有されていなかった といってよかろう。その多様な「カレン」の観念内容は共有されず、またその相違が問われることも、 問われて論争化するような場も共有されていなかった。ところが1942年3月、襲撃と殺戮の応酬をとお して突如として「カレン」は可視化し、衝撃的な事件性をともなって、そして集団間のかきねを横断 して「カレン」が経験された。別言すれば、カレン意識の諸要素のうち共有されるものの中に、「名」 とともに「経験」という次元が加わった。 このようにしてこれら多様なカレン意識をもった諸カレンは、のちにミャウンミャ事件と総称され ることになる個々の出来事におのおのの仕方で遭遇し、そこに織り込まれたカレン対ビルマ民族とい う構図に不可避的に対面していった。その対面の先端部分では、どんなにそれぞれの異なる観念内容 をもった「カレン」― 端的に言えば「ビルマ民族に敵対的なカレン」や「ビルマ民族に親和的なカレ ン」― が存在していたとしても、そのような差異は無視され、「カレンである」という一言のもとに 殺され、殺すような衝動と力と論理が働いていた。 ― 15 ― 第3章: シュウェトゥンチャ 植民地時代、それぞれの程度で自らをカレンと認識していた人々は、ミャウンミャ事件におけるビ ルマ民族との対立をとおしてカレンという自覚を深めることになった。 たとえば、ミャウンミャ市西方の農村に住み、のちにプーチャイッブワの熱心な信徒となる仏教徒 ポーの女性は、自らが「タライン・カイン」(ビルマ語でのポー・カレンの別称)であるためにビルマ人 に殺される危険を感じて、日本占領下には村に帰らなかったという[Nga Ki]。また、パンタノウ市の 南に住む仏教徒ポーであった男性は、「カレンであったために父親を目前で殺された」。村を流れる川 では、興奮したビルマ人の若者が「タキンミョウヘイッ ドバマー カインミョウヘイッ トウザヤー(わ れらはタキン<主人>である、我らビルマ人!お前らは下人だ、カレン人!) 」と間断なく叫びつつ小 舟で行きつ戻りつしていた。この経験ゆえに彼は戦後、バプティスト・スゴーの女性と結婚したときか ら「自分はバプティスト・スゴーになった」と回想する[Saw Tz]。 ここでは、シュウェトゥンチャというひとりの仏教徒ポーの存在をとおして人々が「カレン」を感 知した過程について光を当てたい。上述のようにミャウンミャ事件は、ある部分では自らのコミュニ ティでの出来事を中心に記憶されてきたが、同時にそれは「カレンが」経験した出来事でもあった。 そしてシュウェトゥンチャは、このようなカレンの経験を縦貫する象徴であった。 第1節: 仏教徒ポーとしてのシュウェトゥンチャ シュウェトゥンチャは、エインメ郡のほぼ中央に位置する仏教徒ポーの村、タグンダイン村に生ま れた。父親はこの村のダヂー(村長)、英植民地政府より双身銃の保持を許された「アトゥー(特別)」 ダヂーであったが、シュウェトゥンチャが17,8歳のころ死去した。周囲の強い要望でシュウェトゥン チャは父の死後すぐにダヂーに就任したという。兄弟姉妹が6人おり彼自身は3番目で3度の結婚を経て、 事件当時20代後半から30代はじめ30)であったろうと思われる[Nga Sy, Mahn pK] 。 事件直前、彼は自分の娘に色目を使った隣村のインド人の若者と諍いをおこして相手を殺してし まったという。警察署のあるエインメ郡南部のルーガウンジュン(Lugaunggyun)に連行された(ある いは自首した)が、折同じくして日本軍の侵攻がありすでに当地の警察は機能していなかった。シュ ウェトゥンチャはそのままワケマに逃れ、ポーカレン僧のウ・サンディマ(U Sandhimaあるいはウ・ヤー リーU Yali)のもとに身を隠す。ここで彼は全身に弾除けの呪文を刺青として彫ってもらい、タキン 党員となったという[Mahn HH, Nga Sy, U Hoなど]。現地ポーの古老は、村に帰ってきたシュウェトゥ ンチャがタキンの腕章をしているのを目撃している[Mahn HH]。 こののち、事件はカレン対ビルマ民族という様相を急速に帯びはじめる。シュウェトゥンチャはタ キンであることをやめ、この地域の仏教徒ポーの頭目となり、積極的にタキン・BIAとの戦いを指導し てゆく。彼のグループが襲撃し焼いたというビルマ村は近隣のユワティッ、ウェージー、パヤージー ゴン、ルーガウンジュン、タイェッコン、ミッマナーイなど知られるだけでエインメ郡とワケマ郡の 20以上の村々に及んでいる[Mahn sWほか]。ミャウンミャ市のタキン官報にも、すでに4月半ばには上 記ユワティッなどをシュウェトゥンチャが襲撃しはじめて、それらに対してBIAが「カイン叛徒の掃討」 を目的に出兵している様が報じられている[MD 4/18, 25, 5/9, 6/6など]。 さらにシュウェトゥンチャは、周囲の仏教徒ポーの目には、ビルマ語で言うところの「ウェイザー」 ― 16 ― あるいは「ルースワンガウン」すなわち超能力を備えた人物、そしてカレンの英雄として映じてゆく ことになる。事件初期の段階から人々は彼を「チャートゥンチャ(虎のトゥンチャ)」と呼び始め、水 の上を歩く、弾がよける、虎のように高く飛翔する、馬上では姿が見えなくなる、などのイメージを もって語られるようになった[Nga Ki, U HK, U Ci, U Ai, Nga Syなど] 。そしてついには、仏教的意 匠をまとった仏教徒ポー・カレンの英雄として、仏教徒ポーによってビルマ語の歌に歌いこまれてゆく [Nga Sy]。 われらカインの預言が成就した くにの繁栄を築かん 多くがポン(徳)とカン(運)を備えて名を馳せた たからかに謳え 邦邑あまねく知らしめん ひとが食さぬうちに ひとりのおひとが清貧の僧の暮らしをしている いまおひとかたも格別に現れた 仏法僧伽が萎れないよう ウ・サンディマのご威力お力添えで 預言は成就しシュウェトゥンチャがやってきた31) このようにシュウェトゥンチャの周囲の仏教徒ポーは、仏教的イディオムをもって彼の中に仏教徒 カレンの英雄という像を見出したのであった。 第2節: 越境するシュウェトゥンチャ 事件当初は仏教徒ポー・カレンとして同胞を率い、また彼に対する期待も比較的狭い周囲の仏教徒 ポーの域内にとどまっていたらしいが、衝突の進展とともにその外側、とくにバプティスト・スゴーの 領域へと自ら踏み出していったようである。この事件以前にもバプティストとのかかわりがあったか どうかは確認できるすべがないが、すくなくともこの事件により、より明確なカレン意識をもってシュ ウェトゥンチャはバプティスト・スゴーに接触していったものと想像される。 モリソンの著書には、シュウェトゥンチャが、5月26日のシュウェダーゴン事件の前に、先にも触れ たバプティスト・スゴーの指導者サンポーティンと会合を持った様子が描かれている。会合はバセイン 北方のサンポーティンの妻の出身バプティスト・スゴー村で行われ[Saw Cn]、シュウェトゥンチャは この村の小さな教会に「賛美歌の歓待」をもって迎えられ、ふたりはシュウェダーゴンのカレン救出 について話し合ったという[Morrison 1947: 192]。 また事件後にシュウェトゥンチャは、バモオの後押しで設立されたカレン=ビルマ和解委員会のカレ ン側代表11人のひとりとして選ばれている。この組織はサンC.ポーを筆頭に、東西のバプティスト・ス ゴーとポーが8人のほか、仏教徒はパオ人のウ・フラペ(U Hla Pe)32)らふたりとシュウェトゥンチャ が含まれているのみであった。当時の行政文書には、 「本来ならばビルマ人の血に手を汚したシュウェ トゥンチャはこの委員に相応しくないが、カレンへの影響力を考えるとやむをえない」 [NAD 10/1/34] とのビルマ人官吏の意見が記されている。シュウェトゥンチャは委員会の委員としてパプン事件のの ちに険悪となったカレン=ビルマ民族関係の修復のため、乞われて東部への演説旅行にも出ている。カ ― 17 ― レン=ビルマ和解委員会が中央カレン民族組織に衣替えされたときにもシュウェトゥンチャは名を連 ねている。このような全国レベルでの活動をとおして、シュウェトゥンチャが「カレン」としての自 覚を深めていったことは想像に難くない。 バモオ政府へのカレンとしての協力とともに、シュウェトゥンチャは秘かに連合軍側のスパイ活動 にも、バプティスト・カレンとの密接な連携のもと協力をしていた。ビルマ・ライフル大隊のバプティ スト・スゴーの兵士としてインドに退却する英軍の一団の中にいたSaw nBは、44年3月1日にエインメ市 西方5マイルの地点に工作員として落下傘降下した。地元の協力者に先導されて身を隠したが、同13日 に、Saw nBのような連合軍スパイに対する、「地下協力組織の地元ガウンサウン(指導者)」としての シュウェトゥンチャに会っている。このときシュウェトゥンチャは、すでに4~6人の「パラシューティ スト」にビルマ潜入の手を貸していたという。このような連合軍の工作活動が海外につながりをもつ バプティストのネットワークを介して行われていただろうことを考えれば、シュウェトゥンチャがす でにビルマのバプティスト・コミュニティと密接な関係にあったことがうかがわれる。33)Saw nBと地元 協力者は日本軍の追跡に追い詰められ、5月19日にはパテインの憲兵隊本部拘置所に収監された。何日 もたたずにシュウェトゥンチャも同じ拘置所に入れられたという。シュウェトゥンチャはイラワディ 管区北部のヘンザダで日本軍に処刑されたとも、ヤンゴン近くの川辺で銃剣により刺し殺されたとも 言われている[U Ho, Saw nB, Mahn HHなど] 。 第3節: カレン・ナショナリストとしてのシュウェトゥンチャ このようなカレン=ビルマ和解委員会と中央カレン民族組織での活動、そしてバプティスト・スゴー との連携関係をとおして、シュウェトゥンチャはカレン・ナショナリストとして人々の記憶にとどまり、 そしてバプティストやカソリックによって同胞視されてゆく。 戦後間もない1947年に出版されたモリソンの著書には、シュウェトゥンチャがサンポーティンと比 肩されるカレンの英雄として描かれている。モリソン自身はもちろん事件を体験したわけではなく、 英将校として戦後まもなくに赴任してきたビルマで、シーグリム大尉(Capt. Seagrim)34)の伝記を書 くために主にバプティスト・スゴーに取材してカレンに同情的な立場から事件を再構成している。つま り、この著書にあられるカレンの英雄としてのシュウェトゥンチャは、当時のバプティスト・スゴーの 持っていたイメージである。 突然に姿をくらましたシュウェトゥンチャに対して、バプティスト・スゴーは八方手を尽くして彼の 行方を捜している。タグンダイン村北方の仏教徒ポーの村ジョーゴンでは、シュウェトゥンチャの消 息に関する有力情報に1,000チャットの懸賞金が支払われるという張り紙が張り出されたという[Mahn HH]。また46年1月に創刊されたカレン青年組織(KYO)の月刊誌にも、『シュウェトゥンチャ』という タイトルで小さな記事が掲載され、行方を知るものへの情報提供を呼びかけている[DSMHRI DR3038 Taing Yintha Magazine: 6]。バプティスト・スゴーにとって貴重な同胞としてのシュウェトゥンチャ 像が見て取れよう。 シュウェトゥンチャはまた、カソリック・ポーにとってもカレンの救世主であった。同じ西ポーとは いえシュウェトゥンチャは生前、カナゾーゴンを訪れたことも、彼らとなんらかの交渉があったとの 形跡もない。しかしこの村のカソリック・ポーはカナゾーゴンの焼き討ちを記念する歌にシュウェトゥ ンチャを歌いこんでいる[Mahn eLよりの私信]。35) ― 18 ― verse 1 : The British have left, And the Japanese have not yet arrived. During this intermediate period, the Burmese swagger and lord it over the country, People were made to address them as "Master". Chorus : Whatever the weapons we had (fire-arms), were demanded from us, And because of the weapons we had to put up resistance. The Burmese called themselves "Master" And we Karens we called ourselves Royal "King". Verse 2 : (entirely forgotten by Mahn eL) Verse 3 : Shwe Tun Kya rose up, Together with his followers: Thereupon the Burmese had to pray to their God. The Japanese arrived and tried to cool the situation. And this is how the fight between the Burmese and the Karens stopped. Chorus : (as above) このように、シュウェトゥンチャなる人物像は当初、仏教徒ポーの範囲内にとどまっていたが、や がてバプティスト・スゴーやカソリックの領域へと越境し、カレンを自称する人々は彼のなかにカレ ン・ナショナリストのひとつのかたちを見出していった。あるいは、シュウェトゥンチャという媒介項 を経てひとびとはカレンという経験を共有していった、といえるだろう。そしてこの経験によって、 カレン意識は従前になく凝集性を高めていった。 ― 19 ― あとがき 植民地時代よりさまざまな葛藤を孕みつつ形成されてきたカレン意識は、おもに外部からの名付け の過程により措定されてきたが、名乗りの過程としては、おもにバプティスト・スゴーの知識人らが主 体となっていたのみの限定的な運動であった。このような過程におけるミャウンミャ事件のカレンに とっての歴史的意義は、イラワディ・デルタというビルマでも有数の多様なカレンが居住する地域にお いて、カレンと外側から括られてきた人々に、そして共有するものはその名のみでしかなかった人々 に、はじめてカレンとしての主体的な経験を与え、共有させたことにある。この経験をもってして、 それまで言説上のカレン=ビルマ間の対立関係とは無縁であったカレンたちも、より大きな政治的意味 合いを含有する「カレン」という範疇に自らを接合させていった。本稿ではその経験共有の契機を、 シュウェトゥンチャというひとりの仏教徒ポーをとおして検討してきた。では、ミャウンミャ事件に おいて否応なくカレンと名付けられた仏教徒ポーが一様にカレンという名乗りを上げたかといえば、 そう断定するのも早計であろう。本稿を締めくくるにあたり、ここでカレン意識形成過程におけるミャ ウンミャ事件の歴史的意義と考えられるものの限界も評価せねばならない。 第一にミャウンミャ事件は、イラワディ・デルタ地方という総カレン人口の3分の1が居住する地域に 起こったとはいえ、その事件をすべてのカレンが共有したわけではなかった。バプティスト・スゴーの ようなネットワークが確立していた人々の間では、事件はすみやかに他地域にも伝わり、それを伝え 聞いた人々はこの事件を自らのものとした。36)このような過程はラングーンやタウングー、モールメ インのバプティスト・カレンのコミュニティで起こったであろう。東部におけるパプン事件でも、同様 の効果がもたらされたと考えられるが、現在においても外国人入域制限地域であるために研究調査は 困難であり、この点の精査は今後の課題として残される。また、さらなる課題として、カレンと名付 けられた一角に大きな人口を有する東部の仏教徒ポーのあいだで、ミャウンミャ事件とパプン事件、 すなわちカイン=バマー・アディガヨンがどのように受容され、記憶されているかの点も追究される必 要もある。 第二に、ミャウンミャ事件に立ち会ったカレンは、カレンであるという経験は共有したものの、お のおのに持つ「カレン」という民族の観念の内容まで共有したわけではなかった。その観念内容が実 は互いに異なるという現実に、カレンを自称する人々が直面したのは独立交渉期のことである。それ まで民族の郷土とされるような土地を持たなかったカレンが、独立ビルマ内にそのような土地を設立 しようと政治的な民族運動が開始された。そこにはバプティストはもちろん、仏教徒の東西ポー、カ ソリック、そしてパオやカレンニーをも巻き込んだカレンの郷土―往々にしてa separate stateと行 政文書には表現されている―をめぐる政治が展開した。そして、独立ビルマ策定を主導するビルマ民 族主体の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)に対してカレンとしての統一的要求を提示するために、 多様なカレンが糾合され、額をつき合わせて、どのようなカレンの郷土が独立ビルマ内に実現される べきか、われわれはビルマ民族といかなる関係を持つべきか、そもそもわれわれはどのような人々な のか、カレンとは一体誰なのか、と議論にいたったとき、そこには絶望的とも思える懸隔が各々のカ レンの間に横たわっていたのである[池田 2000]。 第三に、ミャウンミャ事件はカレンの間で対抗的なビルマ民族観のみを促進したわけでもなかった。 こののちカレンという民族範疇のみならずその観念内容の多様性が意識され始めたとすれば、ビルマ ― 20 ― 民族との関係性もより明確に意識されることになった。ミャウンミャ事件(あるいはカイン=バマー・ アディガヨン)のゆえにカレンはビルマ民族と共存できぬと、49年以降カレン民族同盟(KNU)の主導 する反政府武装闘争に参加していった人々がいるのと同様に、まったく同じミャウンミャ事件(カイ ン=バマー・アディガヨン)を理由にビルマ民族との混住という現実を直視すべきと、独立交渉期に AFPFLに親和的な関係を築いていったKYOに参加したような人々もいた。 以上のような限定はあるが総体的に見て、民族の観念内容ではなくその民族に関する経験を共有し たことにより、カレンなる自覚はビルマにおいて拡大した。49年以降現在にいたるまで、バプティス ト・スゴーによって主導されるカレンの反政府武装闘争に多くの仏教徒カレンが参加していることは、 戦後に連なる一連のカレン=ビルマ紛争の最初の衝突であったミャウンミャ事件、そしてカイン=バ マー・アディガヨンという出来事を埒外においては説明できないであろう。 ― 21 ― 註 1) 必要に応じてビルマ語でのカレンの他称「カイン」、ポー語での自称「プローン」、スゴー語での自 称「プアカニョウ」も使用し、ビルマ民族に関しては適宜「ビルマ民族」 、「ビルマ人」 、「ビルマ」、 あるいはビルマ語自称の「バマー」「ミャンマー」などを使用する。 2) 植民地時代に「カレンが外国人の宗教を受容したために英人は意識的にカレンを優遇した、とビル マ民族は信じた」[Guyot 1978: 201]と分析して後、ギーヨウのカレンをめぐる民族論は突然に単 純化する。直前までは区別して論じていたポーとスゴー、キリスト教徒と仏教徒というカレン内の 区分はいつのまにか溶解して、ここで述べられるビルマ民族が「信じた」ところの「カレン」を前 提として、ひとつの確固とした「カレン」がミャウンミャ事件において明確にビルマ民族に対立し たように論ずることとなる。 3) 当初は東部ポー方言のためにつくられたが広がらず、現在では西部ポーの間におもに使われている。 4) 植民地時代のビルマにおける「カレン」の本格的な研究は、じつは戦後あまり行われてこなかった。 戦後のカレン研究は、参与観察が許されたタイ北部のカレンを対象におもに人類学者によって行わ れ、そういった研究の中で植民地期ビルマのカレンに関する状況が断片的に引用されてきた。なお、 タイにおけるカレン民族意識の研究については、[Keyes 1979]という金字塔がある。他方で近年、 宣教師史料に依拠しながらも、キリスト教と植民地支配のもたらしたカレンの「民族化」とは別様 の、カレンの民族化の様相を解き明かそうという試みもなされている。[速水 2004]は、もっぱら キリスト教布教の客体として扱われてきたカレンを、キリスト教を受容してきた側の主体的な論理 を重視して捉えなおし、「国家の枠の中で存続を許されながらも、必ずしも国家に対峙するのでは なく、既存のネットワークを基盤に新しい社会秩序と共同体を模索するような運動が、この[タイ・ ビルマ]国境域で繰り広げられてきた」 [同 239]ことを主題としている。速水は自己の議論を主 に19世紀中葉のタイ・ビルマ国境域に限定しており、そこでは、タイのカレン研究で頻用される低 地国家権力と山地社会の関係性のなかに「カレン」を位置づけるという説明枠組みが継承されてい る。だが、 「カレン」が顕在する領域がひろく平地社会にもわたっていて、「ビルマ」や他の集団性 と混住するビルマではこの構図が必ずしも妥当せず、速水の指摘した境域( 「森の回廊」)の「カレ ン」と平地社会の「カレン」、さらに「ビルマ」などがどのように関わりあっていたかを解明する 研究が待たれる。本稿で筆者(池田)が主張するカレン研究における「断絶」とは、植民地期のカ レン像と独立以後のカレン像の間のそれであるが、速水の試みは植民地期のキリスト教布教の客体 という一元的なカレン像自体への異議申し立てとして、カレンのみならずビルマにおける民族状況 の出現に関して示唆的な論点を多く含んでいる。 5) 1931年国勢調査によれば34.3% 6) そもそもデルタのカレンについて、民族的論理に基づいた経済活動の単位と実績、そしてそれに立 脚した民族的分業が成立していたとは、とうてい言えない。それ以前に、硬い外郭をもつカレンな る社会的実体を前提にしていることにギーヨウの分析の陥穽がある。 ― 22 ― 7) 通常、ビルマ民族運動の開始は1906年のYMBA(青年仏教徒連盟)設立に求められる。1920年代以降 には、いわゆる政治僧(political pongyis)の活動を介して農村部に運動がすそ野を広げたが、 この際に設立された多くの末端組織をウンターヌ結社と総称した。詳しくは[伊野 1998: 98-121] 参照。 8) 3月22日には秘匿してある武器を提出するようにという命令がだされた[MD: 3/28]。 9) 植民地後期、英植民地軍には3つのビルマ・ライフル大隊(Burma Rifles: 各800~1000人規模)が あり、各大隊はカレン2個中隊、カチンとチン各1個中隊の計4個中隊(各100~200人程度)を含ん でいた。開戦当初第一大隊はシャン州ケントゥン、第二はマグウェ、第三はタヴォイに配備され、 2月15日シンガポール陥落後第二は早々とインドへ撤退、残る二つの大隊も日本軍との戦闘に敗退 した。ギーヨウは彼らが武器を持ち帰ったことには疑問をさしはさまず、5月1日時点のカレン側と BIA側の武器所有状況を図表化している[Guyot 1978: 220]。だが、ギーヨウが根拠にしたBIA側記 録については注意深い資料批判が必要である。筆者は第一大隊からのひとりと第三大隊からのふた りからインタビューを行ったが、ともに身一つで命からがら逃げ帰っており武器を持ち帰る余裕は なかったし、そもそもデルタでのカレン=ビルマ関係の悪化を予想していなかった[Saw aN, Mahn uD, Saw nJ]。 10) 日本軍政の正式発布までにタキンが行政権を握り官報まで発行した地域は、デルタのみであった [Guyot 1978: 208]。 11) 現在でも現地では慣用的にビルマ語で使われ、字義通りにはsa hpyuは「白い文字」を意味し、仏 教徒カレンのsa mê(黒い文字) 、ときにはカソリック・カレンのsa ni(赤い文字)と区別される。 おそらく、ミャウンミャに避難して集会を開いたビルマ農民は、シュウェトゥンチャの勢力範囲外 から、あるいはその勢力伸張前にエインメ周辺から逃れてきたものと思われる。 12) 鈴木は、守るに易い地形を知ってデルタを「独立発祥の地たらしめん」として、最も信頼する部下 の木俣をこの地に派遣していたという[緑川 1998: 178-9]。この時期、木俣はデルタに残ってい た数少ない日本人だったと思われる。 13) 鈴木は木俣がバセイン北東のバーガイェで殺害されたことを知らず、親英分子と目されていたカレ ンに責任を帰して、当時戦闘たけなわであったミャウンミャ県ワケマ郡内で、さしたる理由もなく このふたつのカレン村を選んだらしい。この一件に見られるように、南機関の対カレン認識は後の 日本軍政当局のそれ[例えば南西-軍政68: 44]と同様に「親英的」[例えば緑川1998: 178]とい うことであり、治安問題としては注意を要するが基本的にはタキン側に対応さしむるべき「人種問 題」であった。 14) 彼の本来の名前はBuであるが、出身のスゴーの敬称Sawと、ポーとビルマ人からも尊敬を受けてい たとして、ポーの敬称Mahnとビルマの敬称Uを添えてこう呼ばれている。 15) 焼失村がカレン側より多いところを見ると、死者はカレン側よりビルマ側のほうが多かったかもし れないが、逆にカレン側の死者がビルマ人優勢の都市部で多かった事実を考えると、そうでなかっ た可能性もある。 16) デルタニュース(「MD」 )も7月18日号を最後に残されていない。 ― 23 ― 17) スゴーだけでは8.5%ほど。ちなみに全ビルマ人口に占めるキリスト教徒の割合は2.26%、全キリ スト教徒人口に占めるカレンの割合は66.1%、全カレン人口に占めるキリスト教徒の割合は15.99% などとなっている。 [1931 Census] 18) 1828年にカレンで最初に入信したコタビュ(Ko Tha Byu)や「カレンの父」と呼ばれるサンC.ポー、 そして後の反政府武装闘争の指導者であるバウジー(Saw Ba U Gyi)も、デルタの出身である。 19) このようなイメージは存在するが、植民地行政府の巨大なピラミッド型官僚機構におけるカレンの プレゼンスはきわめて小さい。例えば1941年において、教育分野で現地人の副視学官(Deputy Inspector of Schools)73人のうち12人、林業分野で最下級官職(gazetted rank)の現地人メン バー6分の1がカレンであったのみであった。[James F. Guyot 1966: 381]たしかに植民地期末期 に植民地軍におけるカレンのプレゼンスは相対的に高かったが、これは、英国から見たビルマ人の 戦闘能力の相対的低さとビルマ民族主義の高揚への恐れから、英国がビルマ人を植民地軍に多数派 として組み入れることを嫌った結果である。一般に言われるようにカレンを「えこひいき」したと いう評価は当てはまらないであろう。 20) ソオ・アウンフラはビルマ中東部のタウングー出身であるが10代半ばにラングーンに出てほぼ一生 涯をこの地で過ごし、この書はデルタの首府バセインのバプティスト系出版社から1939年に発刊さ れている。 21) ちなみに同じ統計には、イラワディ管区のヘンザダ宣教区にスゴー語学校89校、マウービンにポー 語学校2校、ペグー管区のタラワディにスゴー語学校59校、カレンニー州のロイコウにスゴー語学 校10校、東部ビルマのシュウェヂンにスゴー語学校44校、タウングーにブウェ語学校30校とパク語 学校36校、南部ビルマのタヴォイにスゴー語学校69校があったことが記録されている[ABFMS 1941: 95-97]。バセイン県とミャウンミャ県を統括していたバセイン宣教区のスゴー・コミュニティの規 模が分かるであろう。 22) 現在でも、カレン仏教の本拠地は東部のパアン地方に存し西部デルタは「カレン仏教文化が果てん とする土地柄」[Sayadaw Pt]というように見られている。 23) 仏教徒東ポーにとっては、ビルマ民族と対抗しうる大伝統を保持するモン仏教が近接して存在して きて、そのためにビルマ民族やその仏教を相対化しうる三者関係(あるいはパオやシャンも含めて 多項関係)を築いてきた、とも言えるかもしれない。20世紀初頭のデルタにおいてはすでに、モン 文化の存在は地名にそのよすがを残すだけであった。 24) 彼は1960年代に、ウ・ソオの『クゥイン大王統記』を底本に仏教徒の見地からカレン史の著書を出 版している。 [Mahn Tun Yin 1960?] ― 24 ― 25) スミスや他の研究書にも「仏教徒(Buddhist)カレン民族組織」と誤って引用されている。僧侶の ウ・パンナウンタ(U Pannawuntha)を議長に、ミャウンミャ事件で殺害されたソオ・ペータが尽力 して設立された[PRO FO 643/66/4, FO 643/71/138GSOなど]。ウ・パンナウンタはタトン県出身で ミャウンミャ事件当時にはラングーンの僧院におり、タキンらに知己を持っていたという。その関 係から事件なかばにビルマ=カレン間の調停役に担ぎ出されたが、ミャウンミャには個人的つなが りを持っておらずに大きな役割を果たせなかった。彼も「平地カレンとは(自身の出身地方の)カ レン語によってよりはビルマ語を使ったほうが意思疎通をしやすかったので、自身をビルマ化した 部外者と感じていた」という[Guyot 1978: 223]。BKNAの本部は、ラングーンのカレン人地区とし て知られているカマーダイン地区(現在のチーミンダイン地区)のウ・ルーニー通りにあった。こ のごく小さい通りには、中央カレン民族組織(KCO)やその後身のカレン民族同盟(KNU)、そして カレン青年組織(KYO)の本部も置かれ、往時、「カレン民族主義の中心地」の様相を呈していた。 26) ミャウンミャ事件のほか、独立後の内戦期にデルタがカレンの反政府武装勢力の活動域になり政府 軍の激しい攻撃対象となったこと、そして1970年代半ばに政府軍によってこの勢力駆逐のために 「四断作戦」が遂行されたことなど、いずれもカレン人口を減少に押し下げる要因はあった。 27) 調査官にはビルマ民族が多かったことを考えると、あるいは調査以前に恣意的に仏教徒ポーが「BB」 に編入されていた可能性もあり、ビルマにおけるセンサス過程に関する本格的な研究のない現段階 では以上のような分析は推測に留まる。ビルマ人調査官にとっては、キリスト教徒カレンよりも仏 教徒カレンの人口の数字的操作のほうが、より容易であったことは言えそうである。 28) またビルマ全体においても信徒の大半は言語グループ上、カレン系の人々である。バプティストの 発明であるスゴー文字とポー文字は使われていない。 29) バプティスト・ポーはバプティスト・スゴーと宗派を一にするが、別組織を形成する。ミャウンミャ 県では仏教徒ポーの地域にその村が散見され、カナゾーゴンと同日にBIAによって襲撃されたター ヤーゴンもバプティスト・ポーの村である。また人口こそ少ないが、ワケマ郡東部のシュウェラウ ン地区で12カ村まとめて焼かれた村々はアングリカン・ポーであった。ほかにも、仏教徒スゴーが バセイン県東部を中心に、19世紀にタウングーでポーパイッサン(Po Paik San)によって開闢さ れたスゴー特有の宗教であるミッター・ビャマゾウ(Mitta Byamazoe)の村がパンタノウ南部に、 そして1950年代にプーチャイッブワ(Hpu Kyaik Pwa)を開祖として未来仏を信仰することになる 仏教徒ポーの一団がミャウンミャ市の南部と西部にあった。 30) モリソンは30歳代初め[Morrison 1947: 190.]、ギーヨウは35歳前後[Guyot 1978: 218]、Mahn sW は自分(1911年生まれ)より若く20歳代のようだったとする。シュウェトゥンチャの娘と若い頃同 居していたNga Sy(1930年頃生まれ)は自分より16~7歳年上だったという。 31) 歌の内容から事件のさなかに、あるいは事件後まもなくにつくられたと思われる。 32) 東部のタトン出身の戦前からの植民地議会議員で、独立交渉期には設立当初のカレン民族同盟 (KNU)の副議長を務め、のちにはパオ独自の民族運動を指導することになる。 ― 25 ― 33) サンポーティンも連合軍に協力して憲兵隊に逮捕されている。しかし彼はアウンサンとの個人的な 信頼関係からのちに、よりタキンに近い立場で活動を行い、独立交渉期には親AFPFLのカレン組織 であるカレン青年組織(KYO)のリーダーのひとりとなっている。 [Tekkatoe Sein Tin 1969, 池田 2000] 34) 日本占領期もビルマにとどまり、東部山岳地帯で地元のカレンを組織して抗日地下活動を行い、程 なくして日本軍に捕縛され処刑された。 35) 西ポー語にて歌われていたが、ご本人は西ポー文字を書けないので英訳してもらった。西ポー語か ら英語に翻訳したものなので、日本語に重訳せずにそのまま掲載する。Mahn eLはカナゾーゴン出 身であり、元カソリック大司教として優れた英語・独語・仏語・イタリア語そしてもちろんビルマ語 の全般的な能力を備えるが、母語の西ポー語は書けない。 36) 独立交渉期から内戦期にかけてKNUの指導者の一人であったソオ・タディン(Saw Tha Din)はモー ルメイン出身でこの事件の頃ラングーンにいた。彼は以下のように証言している。「いったい誰が カレンにビルマ人を信用せよといえるのか。戦争の最中に起こったあのような・・・あんなにも多く の人々を殺し屠り、あんなにも多くのカレンの村人を略奪したあのような出来事のあとに。こんな こと全ての後に、いったい誰が本気で私たちにラングーン政府を信用せよといえるのか。」 [Smith 1991: 62] ― 26 ― 参考文献 <ミャンマー国軍博物館歴史研究所(DSMHRI)所蔵史料> DR4029 kayin bama ayêi pa'the'thô asîyinkanza [カレン=ビルマ問題に関する報告書] DR4035 kayin bama ayêi hnîn pa'the'ywèi shwehtûnca htanthòu myâunmyà siyinzù ou'hcou'yêiahpwè ì pê sa [カレン=ビルマ問題に関連してシュウェトゥンチャへミャウンミャ県行 政府が送った手紙] DR541 bouse'yaun ì ceinyace'. myanma hnîn Kayin lumyôumyâ ta'û hnîn ta'û lumyôuhcîn sei'wûn kwêhlyin ayêiyumihpi'câun hpyapoun siyinzù tawunhkan ì ceinyace' [ボ・セッヤウン の広報。ミャンマー=カレン民族各人に関しての民族対立に際して解決を図らんとするピャーポン 県行政府担当部署の広報] DR532 molamyaincwûn myòne myebouncân. [モールメインジュン郡の地図] DR1200 si'wunjî boujou'aunghsân ì lumyôuyêi pa'the'ywèi lai'nayan kayinamyôthâ yêboapâun dôuhtan pê sa [陸軍大臣アウンサン将軍が民族問題に関連して演説のためにカレン人将兵のもと に送った手紙] DR1218 kayinmyâ myi'wàcwûnbodwin thâuncânhmù hnîn pa'the'thô samyâ hnîn hci'ciyêi pwèisî câun pathôu sa [カレン人によるデルタでの叛乱に関連した書類及び和解に関連した書類] <ミャンマー国立公文書局(NAD)所蔵史料> 10/1/34 "Deputation relating to unity and fraternity among Burmans and Karens and reports on the working of refugees relief committee, Myaungmya." (1942; Home Secretary's Office, General Branch; No.40HD42; 54pp.) 1/15(D)/3848 "Karen Affairs." (1943; Office of the District Commissioner, Pyapon, General Branch; No.2P-3; 7pp.) 1/15(D)/3852 "bama kùyin hci'ciyêi"[ビルマ=カレンの和解について] (1943; Office of the District Commissioner, Pyapon, General Branch; No.2P-8; 23pp.) 10/1/76 "Karen Activities" (1943; Home Secretary's Office, Police Dept.; No.37HB43; 48pp.) 10/1/81 " Reports from D.C.s and D.S.P.S. Rangoon: Min. of Home Affairs Jan. 1942 Rangoon: Min. of Home Affairs 1942." (1943; Home Secretary's Office; No.25HD43; 131pp) 10/1/122 "lu'la'thô bamapyi ou'hcou'yêidwin nipun si'hpe'htanàhmà winyau'swe'hpe'hcîn" [独立 ビルマ政府に日本軍当局より差し出された書類] (1943; Home Secretary's Office; 170pp.) <防衛庁戦史部所蔵史料> 南西・軍政・68/69/70/71 「緬甸軍政史抜粋其一~四」 南西・緬甸・43または南西・緬甸・563 「南機関外史」 ― 27 ― <大英図書館オリエンタル・インド省コレクション(OIOC)所蔵史料> M/4/3023 "The Humble Memorial of the Karens of Burma to His Britannic Majesty's Secretary of State for Burma. <dated 26-9-45>" M/4/3023 "Press Release: Karen National Union for Reuter. (Forwarded by R.W.D. Fowler to J.P. Gibson, Burma Office, 25 June 1947.<25 June 1947>" <英国国立公文書館(PRO:現TNA)所蔵史料> FO 643/66/51GSO "1945-1947 Future of Karens, with Daily Intelligence Summaries relating to their Affairs (3 files)" FO 643/56/1Q1 "Reconstruction: Prospects of the Karens and their goodwill mission to the United Kingdom. (2 files)" <米国バプティスト歴史協会(ABHS)所蔵史料> American Baptist Foreign Mission Society. Annual Report "Along Kingdom Highway" 1941. The Burma News. Evacuee No.15. 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