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山城地域の調査成果 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター

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山城地域の調査成果 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター
第 117 回 埋蔵文化財セミナー資料
山城地域の調査成果
ー都の造営とその後ー
1. 恭仁宮跡の調査成果−大極殿院と朝堂院を中心に−
藤井 整
P 1 ~ P10
2. 長岡京と古墳−都造りと古墳の扱いについて−
山本輝雄
P11 ~ P22
3. 平安時代後期の居館の調査−長岡京市下海印寺遺跡の調査−
岡﨑研一
P23 ~ P29
期 日:平成 23 年3月5日 ( 土 )
場 所:長岡京市産業文化会館 大会議室
主催 京 都 府 教 育 委 員 会
長 岡 京 市 教 育 委 員 会
財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター
1
京埋セミナー資料 No.117 − 359
恭仁宮跡の調査成果
− 大極殿院と朝堂院を中心に −
京都府教育委員会
副主査 藤井 整
1. はじめに
えんりゃく
京 都 府 に は、 古 代 に 3 つ の 都 が 存 在 し ま し た。 お よ そ 1200 年 前 の延 暦 13(794) 年 に
へいあんきょう
は、 京 都 市 の 中 心 部 に 平 安 京 が 造 ら れ ま し た。 平 安 京 に 都 が 遷 る 10 年 前 の 延 暦 3(784)
ながおかきょう
年には、 向日市・長岡京市・京都市・大山崎町にかけて長 岡京が造られました。 さらにそ
くにきょう
の 45 年 程 前 の 天 平 12(740) 年 に、 木 津 川 市 に 造 ら れ た の が、 恭 仁 京 で す。 聖 武 天 皇 に
より造られた恭仁京は、 3つの中では最も古い奈良時代の都です。
恭仁京の中心、 恭仁宮には、 天皇が暮らし、 様々な儀式などが執り行われた内裏、 政務
だいごくでん
ちょうどういん
かんが
や国家の儀式が行われた大 極殿や朝 堂院、 さらには官人が仕事を行った役所 (官 衙) など
国の中でも最も重要な施設が造られていました。しかし、そのわずか4年後の天平 16(744)
なにわのみや
年には、 都は大阪市の難 波宮へと移り、 さらにその後再び奈良の平城京へと戻されること
と な り ま し た。 恭 仁 京 は 国 の 首 都 と し て の 役 目 を 終 え た 後、 天 平 18(746) 年 に は、 そ
やましろ こ く ぶ ん じ
の中心部が山 背国 分寺へと造り替えられました。
くにきゅう
2. 恭 仁宮跡とは?
恭 仁 宮 跡 で は、 昭 和 48 年 度 か ら 京 都 府 教 育 委 員 会 が、 そ し て 昭 和 61 年 度 か ら は 旧 加
茂 町 教 育 委 員 会 (平 成 19 年 度 か ら は 木 津 川 市 教 育 委 員 会) と 京 都 府 教 育 委 員 会 が 分 担 し
て発掘調査を行っています。 これまでに分かったことは、 以下のとおりです。(第1図)。
○大極殿院地区
大極殿院は、 天皇が儀式を行うための大極殿がある、 都の最も重要な地区です。 大極殿
は、 宮のシンボルといえる最も大きな建物で、 聖武天皇によっていろいろな儀式などが行
われました。 大極殿は、 宮の中心から少し北側に造られており、 高さ1m以上の大きな土
壇が、 現在も恭仁小学校の北に残っています。
大 極 殿 は こ の 上 に 築 か れ た 東 西 が 約 45m、 南 北 が 約 20m も あ る 大 き な 建 物 で し た。 柱
2
第1図 恭仁宮跡全体図及び平成 22 年度調査対象地位置図 (1 / 4,000)
3
そせき
そせきたてもの
を大きな石材 (礎 石) の上に立てる礎 石建物で、 今も土壇に礎石が残されています。 中で
も、 西北隅と西南隅の礎石は、 当時のままの位置にあることが、 これまでの調査により分
かっています。
しょくにほんぎ
恭 仁 宮 の 大 極 殿 と、 そ の 周 囲 に 巡 ら さ れ た 回 廊 に つ い て は、『続 日 本 紀』 天 平 15 年 12
月 26 日 の 条 に、「 平 城 の 大 極 殿 并 に 歩 廊 を 壊 ち て 遷 し 造 る 」 と 記 さ れ て い ま す。 平 城 宮
跡と恭仁宮跡での継続的な発掘調査によって、 平城宮跡の大極殿と回廊と全く同じ規模の
ものが恭仁宮跡でも見つかりました。 このことによって、
『 続日本紀』 の記載が史実であっ
たことがわかりました。
ま た、 大 極 殿 の 東 北 で は 東 西 約 43m、 南 北 約 12m も あ る 大 き な 掘 立 柱 建 物 も 見 つ か っ
ています。
○内裏地区
だいり
内 裏は、 天皇が住む場所ですが、 恭仁宮跡では、 大極殿の北側に、 東西に2つ並ぶ塀で
囲まれた区画が造られていることが分かっています。 このような在り方は、 他の都では見
ら れ な い 恭 仁 宮 だ け の も の で す。 こ の 区 画 を そ れ ぞ れ 「 内 裏 西 地 区 」・「 内 裏 東 地 区 」 と
呼 ん で い ま す。「内 裏 西 地 区」 は 周 り を 全 て 板 塀 (掘 立 柱 塀) で 囲 ん で お り、 広 さ は 東 西
が 約 98m、 南 北 が 約 128m で し た。「内 裏 東 地 区」 は 東・ 西・ 南 の 三 方 を 土 塀 (築 地 塀)、
北側を板塀(掘立柱塀)で囲んでいました。 広さは東西が約 109m、南北が約 139m で、
「内
裏西地区」 より一回り大きく造られていました。
○朝堂院・朝集殿院地区
ちょうしゅうでんいん
朝堂院は、 貴族や役人が儀式などのために出仕するところ、 そして朝 集殿院は、 朝堂院
に入る前に彼らが集まるところで、 周囲を板塀 (掘立柱塀) で囲んでいたことが分かって
います。 出入り口となる門跡 (朝集殿院南門) も見つかっています。 区画の内側に建てら
れていた建物跡 (朝堂や朝集殿) は、 未だ見つかっていません。
みやおおがき
○宮 大垣
恭 仁 宮 跡 の 宮 城 部 分 は、 東 西 に 約 560m、 南 北 に 約 750m の 大 き さ で、 周 り を 高 い 土 塀
つ い じ
(築 地 塀) で 囲 ん で い た こ と が 分 か っ て い ま す。 宮 城 へ の 出 入 り 口 と な る 門 は、 い く つ か
設けられていたと考えられますが、 これまでの調査では、 東南隅付近に造られた東面南門
のみが見つかっています。
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第2図 平成 22 年度トレンチ配置図 (1 / 2,000)
3. 平成 22 年度の調査で分かったこと (第2図)
5
3. 平成 22 年度の調査で分かったこと (第2図)
平 成 22 年 度 調 査 は、 ① 「大 極 殿 院 地 区」 で、 大 極 殿 院 と 朝 堂 院 の 境 と な っ て い る と 考
えられる段差の性格を明らかにする、 ② 「朝堂院地区」 の中で、 朝堂院西辺区画を検出す
るとともに、 朝堂の建物についても検出することを目的として実施しました。
○大極殿院地区の調査 (第3図)
「大 極 殿 院 地 区」 で は、 こ れ ま で に 大 極 殿 や 後 殿、 そ れ を 取 り 囲 む 大 極 殿 院 回 廊 に つ い
て の 調 査 を 進 め て き ま し た。 こ の う ち、 大 極 殿 院 回 廊 に つ い て は、 平 成 18 年 度 調 査 で 北
辺と西辺が見つかっており、その東西が 480 尺(約 142 m=当時の一尺は約 30cm ですので、
柱間の距離はその倍数) であることがわかっていましたが、 南辺は確認されておらず、 南
北の正確な長さは不明でした。
大極殿院の南北規模を推定する手がかりの一つとなっていたのが、 現在も恭仁小学校の
校 門 付 近 に 残 る 地 形 上 の 段 差 で し た。 調 査 の 結 果、 小 学 校 の グ ラ ウ ン ド を 40cm ほ ど 掘 削
したところで、 鎌倉時代以前に盛られた1m以上の高さの盛土層を確認しました。 限られ
た範囲内の観察ですが、 段差は全て盛土で造成されていることがわかりました。 非常に大
きな造成作業ですので、 この段差が恭仁宮の造営に際して実施された可能性が高いと考え
ら れ ま す。 こ の 段 差 の 端 は、 大 極 殿 院 の 北 面 回 廊 の 中 心 か ら 395 尺 (約 117 m) 南 の 位
置にあることが明らかになりました。 後述する朝堂院トレンチの成果とあわせ、 大極殿院
の構造を考える上で非常に重要な成果となりました。
○朝堂院地区の調査 (第4図)
朝堂院地区では、平成 20、21 年度の調査によって、朝堂院の南西隅を区画する板塀 (掘
立柱塀) を確認し、 南辺区画 (SA 0901) と西辺区画 (SA 0902) の位置が確定し、 東
西 390 尺 (約 116 m) の 規 模 で あ る こ と が わ か り ま し た。 今 年 度 は、 朝 堂 院 の 区 画 が ど
こまで北へ延びるのか確認するために調査を行いました。
調 査 の 結 果、 昨 年 度 確 認 し た 朝 堂 院 の 南 西 隅 か ら 北 へ 420 尺 (約 125 m) の 位 置 で 柱
穴 S P 103 を 確 認 し ま し た。 朝 堂 院 の 区 画 施 設 で あ る 掘 立 柱 は 10 尺 等 間 で 並 ん で い る こ
と が わ か っ て い ま す の で、 門 な ど の 施 設 が な け れ ば、 南 か ら 42 本 目 の 柱 の 位 置 に あ た り
ます。
こ の 柱 穴 か ら さ ら に 60 尺 北 側 で 柱 穴 S P 206 が 見 つ か り ま し た。 こ の 2 本 の 間 に あ っ
たはずの柱穴は、 恭仁宮の後にこの地に建てられた国分寺の溝や築地などの造成によって
失われたのか、 今回の調査では、 見つかりませんでした。
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第3図 大極殿院トレンチ平・断面図 (1 / 20)
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第4図 朝堂院とレンチ検出遺構配置図 (1 / 200)
8
今 回 の 調 査 で 興 味 深 い 点 は、 こ の 柱 穴 が S P 206 を 最 後 に そ れ よ り 北 側 で は 見 つ か ら
なかったことです。
ま た、 朝 堂 院 西 辺 区 画 S A 0902 と 直 交 す る 形 で、 東 西 に 約 4.5 m (15.5 尺) 離 れ て 並
ぶ 2 基 の 柱 穴 S P 201 と S P 202 を 検 出 し ま し た。 こ れ ら の 柱 穴 は、 深 さ 約 5cm 程 度 の
浅 く 不 整 形 な 柱 穴 で、 平 成 19 年 度 の 調 査 で 確 認 さ れ た 大 極 殿 院 回 廊 の 礎 石 を 据 え る た め
に掘られた穴と形状がよく似ています。 このため、 大極殿院回廊の北西隅から東へ4本目
と5本目の柱穴との距離や角度を確認したところ、 ちょうど対になる位置に、 今回の柱穴
S P 201 と S P 202 が 位 置 し て い る こ と が わ か り ま し た。 位 置 や 形 状 か ら、 こ の 2 基 の
柱穴は、 大極殿院の南面回廊の柱穴である可能性が高いと考えられます。
4. まとめ
今回の調査では、 大極殿院側も、 朝堂院側もそれぞれ柱穴2基しか見つかりませんでし
た が、 S P 201 と S P 202 が そ れ ぞ れ 大 極 殿 院 北 面 回 廊 の 柱 と 対 に な る 位 置 に あ る こ と、
S P 103 と S P 206 が 朝 堂 院 の 南 端 か ら そ れ ぞ れ 42 本 目 と 48 本 目 の 柱 に あ た る 位 置 に
あることが重要で、 これらの柱穴が、 大極殿院の南辺と朝堂院の西辺の接点である可能性
があると考えられます。
こ の 成 果 か ら、 新 た な 復 元 案 と し て、 大 極 殿 院 が 東 西 480 尺、 南 北 580 尺 の 規 模 で 設
計された可能性が想定できるようになりました (第5図)。
恭仁宮の大極殿院については、 平城宮の大極殿と大極殿院回廊の一部を解体して恭仁宮
へ 運 ん だ と い う 記 載 が、『続 日 本 紀』 に 残 さ れ て お り、 大 極 殿 は そ の 記 載 の と お り、 平 城
宮からそのまま移築されたことが発掘調査でも確認されています。
大極殿院回廊についても、 平城宮跡の調査で確認された回廊の柱間の広さなどが恭仁宮
のそれと同じであることが、 すでに確認されています。 平城宮の回廊については、 少なく
と も 2160 尺 分 が 解 体 さ れ て い る こ と が、 発 掘 調 査 で 確 認 さ れ て い た の で す が、 今 回 の 調
査 で は、 そ れ に ほ ぼ 相 当 す る 2120 尺 分 の 長 さ の 回 廊 が、 恭 仁 宮 で 築 か れ て い た 可 能 性 が
あることもわかりました。
また、 新たな復元案によれば、 大極殿の中心から回廊の北までと、 南までの距離の比率
が、 平城宮の中央区大極殿院とほぼ同じとなることも分かり、 恭仁宮の大極殿院が、 これ
を手本としていた可能性があることもわかりました。
昨年度の調査において、 朝堂院と朝集殿院の区画のあり方が、 平城宮の東区と似ている
こ と も わ か っ て い ま す の で、 恭 仁 宮 の 設 計 は、 平 城 宮 の 中 央 区 大 極 殿 院 と、 東 区 朝 堂 院・
朝集殿院の区画の様相を併せ持つ設計であった可能性があることもわかりました。
9
第5図 恭仁宮跡検出遺構復元想定図 (1/ 2,000)
10
ただし、 今回の調査だけでは確定に至らない、 いくつかの問題も残されました。 今回の
復 元 案 で は、 大 極 殿 院 が 南 北 に 長 い 580 尺 の 設 計 で あ っ た こ と に な り ま す。 大 極 殿 院 が
南北に長くなると、 実際に役人が政務をとったと考えられる朝堂院の規模が非常に狭くな
ります。 昨年度の調査によって、 朝堂院の東西幅が非常に狭いことが確認されているだけ
でなく、 朝集殿院の南北長も従来の想定より長くなることがわかっています。 今回の成果
により、朝堂院の南北長が、さらに狭くなってしまうというのが問題として残ります。『続
かんじん
日 本 紀』 に は 天 平 16(744) 年 の 正 月 元 旦 に 朝 堂 に 官 人 を 集 め た と い う 記 載 が あ り ま す。
朝 堂 は 平 城 宮 で は 12 堂、 難 波 宮 で は 8 堂 が 配 置 さ れ て い た こ と が わ か っ て い ま す が、 恭
仁 宮 の 場 合 は 何 堂 が 配 置 さ れ て い た の か、 今 後 の 調 査 で 明 ら か に し て い く 必 要 が あ り ま
す。
今年度の調査では、 残念ながら、 見つかった遺構が少なく、 遺存状況も良好ではなかっ
たため、 確証を得ることは出来ませんでしたが、 今後の調査の手がかりとなる重要な成果
を得ることができました。 今後の調査をさらに進めることにより、 恭仁宮の正確な規模が
明らかになると、 他の宮との設計思想の違いや、 どの宮を手本として設計したのか、 大極
殿院や朝堂院の性格や機能は何かなど、 多くの議論を具体的に検討することが可能となり
ます。 恭仁宮では、 まだまだ分からないことが沢山あります。 今後の調査に期待が持たれ
ます。
最後に、 調査に参加された方々や、 お世話になった方々に深く感謝申し上げます。
11
京埋セミナー資料 No.117 − 360
長岡京と古墳
−都造りと古墳の扱いについて−
長岡京市教育委員会
主任専門員 山本輝雄
1. はじめに
ながおかきょう
長 岡京をはじめとする都城の造営にあたって、 その計画地内に古墳の存在することが大
きな障害になったであろうことは、 容易に想像できます。 その第一の理由として考えられ
ふんきゅう
しゅうごう
しゅうこう
るのは、 古墳が墳 丘や周 濠 (周 溝) などを有する凹凸の顕著な構造物であることから、 そ
れを整地しようとすれば、 墳丘の削平や周濠 (周溝) の埋め立てなどといった造成工事が
不可欠で、 ただでさえ大規模な土木工事を要する都城の造営にあたり、 大きな負担増をも
そうそうりょう
こうとじょう
たらすからです。 第二は、 喪 葬令の皇 都条によると、 都城内において埋葬行為の禁止が規
ふじょうかん
定 さ れ て い ま す が (史 料 1)、 こ れ は ケ ガ レ な ど に 対 す る 不 浄 感 を 意 識 し て い た こ と が 大
きな要因になっていたと考えられますので、 この点からすれば、 死者を葬った古墳が都城
内に存在すること自体、 禁忌すべきものであったと想像できます。
そうした都城と古墳の関係について、 長岡京を中心に都城内で確認されている古墳の実
りつりょうこっか
態を例示し、 律 令国家が都城を造営する際に古墳をどのように扱ったのかについて考えて
みたいと思います。
2. 長岡京と古墳
(1) 長岡宮内の古墳
長 岡 宮 の 造 営 に あ た っ て は、 谷 地 形 を 埋 設 す る な ど 大 規 模 な 土 木 工 事 に よ っ て ひ な 壇
状 の 造 成 が 行 わ れ て い た こ と が 明 ら か に な っ て い ま す。 発 掘 調 査 で は、 造 成 土 層 か ら
はにわへん
埴 輪片が出土している他、 山畑古墳群、 大極殿古墳、 中ノ段古墳、 山開古墳などといった
まいぼつこふん
埋 没古墳が確認されていますが、 いずれも比較的規模の小さな古墳であるという特徴があ
ります。
ちょうどういん
おとくにぐんが
そのうち、 朝 堂院地区の下層で確認された山畑古墳群は、 乙 訓郡衙の可能性が指摘され
ている奈良時代の遺構群を構築する際に破壊されたと推察されていますが、 周溝の埋土に
12
長岡京期の遺物を含む中ノ段古墳や、 墳丘上に長岡京期の溝が存在する山開古墳は、 長岡
宮の造成工事によって破壊されたものと考えられています。
(2) 長岡京内の古墳
長岡京内では、 恵解山古墳や今里大塚古墳、 井ノ内稲荷塚古墳、 神足古墳など多くの古
墳が現存する他、 今里車塚古墳や塚本古墳、 開田古墳群などといった埋没古墳が発掘調査
によって確認されています。
ぜんぽうこうえんふん
こ う え ん ぶ
ま ず、 井 ノ 内 稲 荷 塚 古 墳 は 全 長 約 46 m の 前 方 後 円 墳 で、 後 円 部 に 設 け ら れ た
よこあなしきせきしつ
横 穴式石室の上部の石材が抜き取られていましたが、 その抜き取り跡から長岡京期の遺物
が 出 土 し て い る こ と か ら、 長 岡 京 造 営 の 際 に 石 材 を 持 ち 去 っ た こ と が 推 察 さ れ て い ま す。
ぼ く し ょ ど き
ぼくしょじんめんどき
は じ き つ ぼ
長 岡 京 期 の 遺 物 の 中 で、「功 食」 と 記 さ れ た 墨 書 土 器 や 墨 書 人 面 土 器 タ イ プ の 土 師 器 壺 B
ようえきろうどう
こようろうどう
が 出 土 し て い る 点 は 注 目 さ れ ま す。「功 食」 と は、 徭 役 労 働 や 雇 傭 労 働 に 対 し て 与 え ら れ
る 食 糧 の こ と で、 お そ ら く 石 室 破 壊 に 伴 う 労 力 に 対 し て 支 払 わ れ た も の と 考 え ら れ ま す。
さいしよう
また、 土師器壺 B は、 いわゆる祭 祀用の土器で、 何らかの祭祀が行われたことを示唆して
います。 こうした建築部材としての石材を取得する目的で埋葬施設が破壊されている事例
は、 今 里 大 塚 古 墳 や 京 域 外 の 丘 陵 裾 に 所 在 す る 走 田 9 号 墳 で も 認 め ら れ て い て、 今 里 大
ど
ば
塚 古 墳 で は 祭 祀 用 と 考 え ら れ る 土 師 器 壺 B と 壺 C の 他 に 土 馬、 ミ ニ チ ュ ア カ マ ド が、 ま
ちんこん
た 走 田 9 号 墳 で も 土 師 器 壺 B が 出 土 し て い る の で、 石 室 の 破 壊 に 際 し て、 鎮 魂 な い し は
はらえ
祓 など何がしかの祭祀を行っていた可能性が濃厚と考えられます。
塚 本 古 墳 は、 昭 和 56(1981) 年 の 立 会 調 査 で そ の 存 在 が 確 認 さ れ た 埋 没 古 墳 で、 全 長
は に わ
す
え
き
約 30 m の 規 模 を 有 す る 前 方 後 円 墳 に 復 元 さ れ、 周 壕 内 か ら は 各 種 の 埴 輪 や 須 恵 器 な ど が
ろくじょうじょうかんこうじ
まとまって出土しています。 最近の調査で、 周濠を埋め立てた後に六 条条間小路の南側溝
ほったてばしらたてもの
が敷設されていること、 周濠を埋め立てた後に掘 立柱建物を建築していることなどが明ら
かになりました。 こうしたことから、 長岡京の造営によって墳丘の削平と周濠の埋設の行
わ れ た こ と は 確 実 視 さ れ ま す が、 墳 丘 の す べ て が 削 平 さ れ た わ け で は な さ そ う で す。「東
塚 本」「西 塚 本」 と い う 小 字 名 が 残 っ て い る こ と、 現 在 の 道 路 が あ た か も 古 墳 を 迂 回 す る
ように曲がっていることなどがその理由で、 墳丘のいくらかは残存していた可能性が濃厚
と考えられます。 このような周濠の埋設と墳丘が部分的に破壊された事例は、 今里車塚古
墳においても認めることができます。
ほうふん
開田古墳群は、 古墳時代中期から後期にかけて築造された小規模な方 墳を主体とする古
墳 群 で、 昭 和 20 年 代 か ら 古 墳 の 存 在 は 知 ら れ て い ま し た が、 平 成 3(1992) 年 の 調 査 で
8 基 の 埋 没 古 墳 ( 方 墳 ) が、 さ ら に 平 成 20(2008) 年・ 平 成 22(2010) 年 の 調 査 で も
計6基の埋没古墳 (方墳) が新たに発掘されるなどの成果が得られました。 その結果、 周
13
溝の最上層からは、 埴輪片とともに長岡京期の遺物が出土し、 その上面から長岡京期の掘
立柱建物や溝などの遺構が掘り込まれていることが明らかになったので、 長岡京の造営に
よって古墳が完璧に破壊されていることを再確認することできました。
うきょう
しぼう
ちなみに、 右 京の四 坊にあたる井ノ内稲荷塚古墳や井ノ内車塚古墳、 長法寺七ツ塚古墳
くじょう
群、 お よ び 右 京 の 九 条 に 位 置 す る 境 野 1 号 墳 な ど は、 長 岡 京 の 造 営 が 及 ん で い な か っ た
範囲に所在している可能性も考えておく必要があります。
3. 他の都城の事例
(1) 難波宮の事例
こうとく
なにわながらとよさきのみや
なにわのみや
は く ち
孝 徳 天 皇 が 造 営 し た 難 波 長 柄 豊 崎 宮 (前 期 難 波 宮) で は、 白 雉 元 (650) 年、 宮 地 に 入
る丘墓 (古墳) が破壊された人、 もしくは移住させられた人に対して物を賜うという記事
に ほ ん し ょ き
が 『日 本書紀』 にみえることから、 宮の造営工事によって古墳破壊の行われたことが知ら
れます (史料 4)。
これまでの発掘調査で埋没古墳が確認された事例はありませんが、 宮の造営に伴う整地
とうかん
み わ だ ま
層から埴輪や陶 棺の破片などの他、 三 輪玉などの遺物が各所で出土しているので、 史料に
あるように、 宮の造営に際していくつかの古墳が破壊された可能性が濃厚です。
なにわきょう
な お、 難 波 京 が あ っ た か 否 か は 未 確 定 で す が、 難 波 宮 か ら 約 5km 南 の 桑 津 遺 跡 か ら 埴
輪片がまとまって出土しており、 難波遷都に伴う開発行為による古墳の破壊が進められた
のではないかと考えられています。
(2) 藤原京の事例
じ と う
ふじわらきょう
ぞうきょうし
しかばね
持 統 7(693) 年 2 月、 藤 原 京 の 造 京 司 に 対 し て、 京 の 造 営 で 屍 を 掘 り 出 し た 場 合 に は
みことのり
収めよという 詔 が出されています (史料 5)。 この記事によって、藤原京の造営に際して、
ふんぼ
かいそう
墳 墓の破壊と改 葬の行われたことを知ることができます。
ふじわらきゅう
しょうえんぷん
まず藤 原宮においては、 朝堂院の下層において数基の埋没古墳 (小 円墳) が発掘されて
いる他、 宮内の各所から埴輪片が出土しており、 埴輪の諸特徴などからみて、 時期の異な
るいくつかの古墳を破壊して宮の造営をおこなった可能性が考えられています。
すいぜい
藤原京では、 右京域にあたる畝傍山麓に四条塚穴古墳 (綏 靖天皇陵) やスイセン塚古墳
など現在でも残存する古墳が少数知られている反面、 四条古墳群や四条シナノ古墳群、 日
高山古墳群や日高山横穴群、 それに下明寺古墳群など京の造営に伴い削平を受け、 破壊さ
れたと考えられる埋没古墳(方墳が中心)が京の各所で多数確認されています。 そのうち、
すじゃくおおじ
おうけつ
朱 雀大路上にあたる日高山横穴群では、発掘された 4 基の横 穴に改葬された痕跡が確認さ
りょうぼ
じんむりょう
れ て い ま す。 ま た、 四 条 塚 穴 古 墳 の 場 合 の よ う に、『記』『紀』 に 記 さ れ た 陵 墓 (神 武 陵)
14
し そ お う ぼ
として仮託し、 古墳を始 祖王墓に転用するため意図的に残したのではないかと橿原考古学
研究所研究所の今尾文昭氏が指摘されていることは、 興味深いことです。
(3) 平城京の事例
へいじょうきょう
わ ど う
平 城 京 造 営 の 際 も、 藤 原 京 の 場 合 と 同 様 に、 和 銅 2(709) 年 10 月、 京 の 造 営 で 墳 墓
を破壊した場合には遺骸をそそまま放置せずに埋め戻し、 酒をそそいで死者の霊魂を慰め
ちょく
ぞうへいじょうきょうし
ほ う き
よ と い う 勅 が 造 平 城 京 司 に 対 し て 出 さ れ て い ま す (史 料 6)。 ま た宝 亀 11(780) 年 に は、
寺院の造営に際して、 墳墓を破壊してその中から石材を採集して用いているが、 その行為
が死者の霊魂を侵して驚かせるだけでなく、 子孫をも憂い傷ませることになるから、 今後
きんれい
行 っ て は な ら な い と い う 禁 令 が 出 さ れ て い る (史 料 7・8) こ と は 注 意 す べ き で す。 こ の
禁令が出された背景には、 墳墓の破壊行為が多発していたこと、 また当時の人々が古墳に
さうきょう
しき
石材の埋没していたことを熟知していたことを示しています。 さらに、 左 右京 (職 ) に対
していることから、 平城京内に所在する古墳がその対象になっていたことを教えてくれま
す。
へいじょうきゅう
はにわかん
さ て、 平 城 宮 で は、 一 辺 10 m 前 後 の 方 墳 や 埴 輪 棺 な ど の 埋 没 古 墳 は も と よ り、 市 庭 古
へいぜい
墳 ( 平 城 天 皇 陵 ) や 神 明 野 古 墳 な ど 100 m を 超 過 す る 大 規 模 な 前 方 後 円 墳 に 至 る ま で、
かなりの数量の古墳が破壊されていることが確認されています。 市庭古墳の場合、 宮内に
ぜんぽうぶ
こうえんぶ
入る前 方部のみが完全に削平を受けていた他、 残された後 円部の周濠部分が苑池にされて
いたことは、 古墳の再利用を検討する上に注目されます。
次 に、 平 城 京 で は、 宝 来 山 古 墳 (垂 仁 天 皇 陵) や 念 仏 寺 山 古 墳 (開 化 天 皇 陵)、 大 安 寺
杉 山 古 墳、 大 安 寺 墓 山 古 墳 な ど と い っ た 大 型 の 前 方 後 円 墳 が 現 在 も 墳 丘 を と ど め て お り、
破壊を免れていることがわかります。 そのうち、 大安寺杉山古墳の場合は、 前方部の一部
がよう
が整地土に利用され、 前方部の傾斜面を利用して瓦 窯が造営されています。 一方、 木取山
古 墳 な ど 100 m ク ラ ス の 前 方 後 円 墳 を は じ め、 六 条 野 々 宮 古 墳 の よ う な 小 規 模 な 古 墳 に
至るまで京の造営で破壊されたと考えられる埋没古墳が発掘されています。
しょうりんえん
この他、 京域外においては、 宮の北に位置する松 林苑では、 苑内に塩塚古墳や猫塚古墳
つきやま
えんち
などの前方後円墳を取り込み、 築 山など苑 池を構成する施設として墳丘の改変が行われた
ず と う
可 能 性 が 指 摘 さ れ て い ま す。 ま た、 東 大 寺 の 南 方 に 位 置 す る 頭 塔 で は、 発 掘 調 査 の 結 果、
古墳 (頭塔下古墳) の墳丘と横穴式石室の上部を破壊して造立されていることが明らかに
なっています。
(4) 恭仁宮の事例
ほうふん
えんぷん
ど こ う ぼ
宮内の各所からは、一辺(径)10 m前後の方 墳や円 墳、土 壙墓などが発掘されているので、
かなりの小規模墳が宮の造営によって破壊されている可能性が推察されます。 そのうち考
15
す え き つ ぼ
古 墳 は、 径 約 17 m の 円 墳 で す が、 周 溝 内 に 須 恵 器 壺 A が 埋 め 置 か れ た 状 態 で 出 土 し て い
ちんこん
ぢちん
ることから、 宮の造営で古墳が破壊された際に、 鎮 魂あるいは地 鎮などの祭祀が行われた
可能性を示唆するものとして注目されます。
(6) 平安京の事例
へいあんきゅう
きょう
平 安宮、 京 では、 これまでに数多くの発掘、 試掘、 立会調査が実施されていますが、 埋
うきょうはちじょうにぼうじゅうにちょう
没古墳が確認された事例は、 右 京八条二坊十二町での試掘調査おいて埴輪を伴う古墳 (梅
小路古墳) のわずか1例しかなく、 よくわかっていないのが実態です。
4. まとめ
ま ず、 文 献 史 料 に よ る と、 藤 原 京 や 平 城 京 の 造 営 に よ っ て 古 墳 が 破 壊 さ れ た 場 合 に は、
遺 骸 を 丁 寧 に 改 葬 し た り、 霊 魂 を 慰 め る な ど の 祭 祀 が 行 わ れ た こ と を 知 る こ と が で き ま
とじょう
す。 記録としては残っていませんが、 おそらく他の都 城においても同様の処置がとられた
に相違ないでしょう。
次に、 都城内で確認されている古墳の実態を検討すると、 残された古墳と破壊された古
墳に分けられ、 後者はさらに墳丘が完全に破壊された事例、 部分的に破壊された事例、 そ
して埋葬施設のみが破壊された事例などに細分することができそうです。
墳 丘 が 残 さ れ た 理 由 の 回 答 を 持 ち 合 わ せ て い ま せ ん が、 偶 然 に 残 っ た と 考 え る よ り は、
むしろ意図的に残された可能性が濃厚と考えるべきでしょう。 先にもふれましたが、 たと
えば藤原京内に所在する四条塚山古墳が、『記』『紀』 に記された陵墓 (神武陵) として仮
託し、 古墳を始祖王墓に転用するため意図的に残したのではないかとの今尾氏の指摘は興
味深いことです。 この観点からすると、 平城京での宝来山古墳も単に規模が大きいという
理由だけでなく、 同様な理由で残されたのかもしれません。
また、 破壊された古墳の内、 墳丘が完全に破壊された事例は、 都城の中枢である宮内に
お い て 顕 著 で あ る こ と を 指 摘 で き ま す。 平 城 宮 の 神 明 野 古 墳 の よ う に、 全 長 が 147 m も
ある大型前方後円墳の墳丘がすべて削平されていることなど、 おそらく古墳の規模の大小
に関わらず、 ほぼ完全に破壊することによって宮の造営を貫徹しようとした意図をうかが
い知ることができます。
こ れ に 対 し て、 京 内 に 所 在 す る 古 墳 は、 部 分 的 な 破 壊 や 手 を 加 え て い な い と 考 え ら れ
る 事 例 も あ り、 宮 内 の よ う に 完 全 に 破 壊 さ れ た 事 例 は 必 ず し も 多 く な い よ う で す。 特 に、
じょうぼうろ
条 坊路に位置する古墳であっても、 墳丘を完全に破壊していない事例があることは興味深
いことです。 また、 墳丘や周濠が庭園の築山や池に改修されている事例、 窯跡が築造され
ている事例などは、 墳丘を再利用していることを知る上に重要な情報になります。
16
この他、 長岡京に限定されますが、 古墳から石材の取得という行為が行われたことを示
す事例や、 その際に鎮魂やケガレを祓うなどの祭祀が行われたと推察できる資料が出土し
ていることも、 当時の思想を検討する上に重要なことと考えられます。
[参考文献]
奥村清一郎 「長岡京の造営によって破壊された古墳」『長岡京古文化論叢』 Ⅰ (1986 年)
辻川哲郎 「加茂盆地における古墳時代 町内出土古墳時代資料の基礎的検討 (1)」『加茂
町史編さん資料調査報告 資料研究』 第2号 (1996 年)
奈良市埋蔵文化財センター 『第 24 回平城京展 古墳の残像』(2006 年)
寺井誠「孝徳期難波遷都に伴う古墳の破壊」
『大阪歴史博物館研究紀要』第6号(2007 年)
今尾文昭 『律令期陵墓の成立と都城』(2008 年)
史料1 『令義解』 喪葬令皇都条
「凡皇都謂。 天子所居也。 及道路謂。 公行之道路皆是。 側近。 並不得葬埋。」
史料2 『令義解』 喪葬令先皇陵条
「凡先皇陵。 置陵戸令守。 非陵戸守戸。 十年一替。 兆域内。 不得葬埋及耕牧樵採。」
史料3 『賊盗律』 発塚条
「凡発塚者。 従三年。 発撤即坐。 己開棺槨者。 遠流。 発而未撤者。 徒二年。 其塚先穿。
及未殯。 而盗屍柩者。 徒一年半。 盗衣服者。 減一等。 器物者以盗論。」
史料4 『日本書紀』 白雉一 (650) 年十月条
「為入宮地所壊丘墓及被遷人者。 賜物各有差。」
史料5 『日本書紀』 持統七 (693) 年二月十日条
「詔造京司衣縫王等収所掘尸。」
史料6 『続日本紀』 和銅二 (709) 年十月十一日条
「勅造平城京司。 若彼墳隴。 見発掘者。 随即埋歛。 勿使露棄。 普加祭酹。 以慰幽魂。」
史料7 『続日本紀』 寶亀十一 (780) 年十二月四日条
「 勅 左 右 京。 今 聞。 造 寺 悉 壊 墳 墓。 採 用 其 石。 非 唯 侵 驚 鬼 神。 實 亦 憂 傷 子 孫。 自 今 以 後。
宜加禁断。 ……」
史料8 『類聚三代格』 寶亀十一 (780) 年十二月四日条
「右 被 内 大 臣 宣 称 奉 勅 如 聞。 造 寺 悉 壊 墳 墓。 採 用 其 石。 非 唯 及 苦 鬼 神。 實 亦 到 憂 子 孫。 宜
布告天下儘令禁制。 自今以後。 莫令更然。」
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京埋セミナー資料 No.117 − 361
平安時代後期の居館の調査
−長岡京市下海印寺遺跡の調査から −
財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター
専門調査員 岡﨑研一
1. はじめに
調査は、 京都第二外環状道路建設に先立って実施してきました。 調査地は、 長岡京市下
海印寺西条に所在し、長岡京跡の南西部 ( 右京七条四坊十一・十二町 ) にあたります。また、
小泉川左岸の段丘上に広がる下海印寺遺跡 ( 縄文時代~中世にかけての集落跡 ) の南端に
も位置します。
平成 21・22 年度に発掘調査を実施しました。 調査面積は、 約 5,000㎡です。 その結果、
たてあなしきじゅうきょあとぐん
古墳時代初頭頃と後期の竪 穴式住居跡群、 長岡京期の溝、 平安時代後期の屋敷跡、 中世前
ほったてばしらたてものあとぐん
半の掘 立柱建物跡群、 近世前期の溝などを検出することができました。 今回は、 これらの
遺 構 群 の 中 で 平 安 時 代 後 期 (11 世 紀 末 ~ 12 世 紀 初 頭 ) に 築 か れ た、 在 地 の 有 力 者 の 屋 敷
地について報告します。
2. 検出遺構
や し き ち
堀 S D 50・111・266 正 方 位 を 意 識 し て 築 か れ た 屋 敷 地 の 堀 跡 で す。 方 形 に 区 画 さ れ
た 範 囲 の 内、 西 辺 の 大 半 ( S D 50・111) と 南 辺 ( S D 266・50) 及 び 東 辺 の 南 半 部 を
ほり
画 す る 堀 (S D 50) を 検 出 し ま し た。 検 出 し た 堀 は、「コ」 字 状 に 巡 り、 調 査 地 北 側 隣 接
地に延びます。
ぎゃくだいけい
西 辺 に つ い て は、 幅 約 6.5 m、 深 さ 1.5 前 後 を 測 り、 断 面 逆 台 形 を し て い ま す。 東 側 斜
ほうけいくかく
面 中 位 に は わ ず か な テ ラ ス 部 が 認 め ら れ ま し た。 方 形 区 画 南 西 コ ー ナ ー 部 か ら 北 方 25 m
どばし
の所に土 橋が築かれていました。 土橋を築くにあたり、 北西コーナー付近から土橋南側ま
あんきょ
で排水施設としての暗 渠が設けられていました。
南 辺 に つ い て は、 幅 約 5.2 m、 深 さ 1.7 m 前 後 を 測 り、 断 面 逆 台 形 を し て い ま す。 方 形
区 画 の 南 西 コ ー ナ ー 部 か ら 南 東 コ ー ナ ー 部 ま で 確 認 で き、 一 辺 約 50 m を 測 り ま す。 こ れ
か ら、 一 辺 50 m 四 方 の 区 画 が 想 定 す る と、 J 地 区 北 側 に 北 辺 の 堀 が あ る こ と が 予 想 さ れ
24
ます。
東辺については、 方形区画を意識する形で堀の落ち込みが認められましたが、 堀の深部
は北東方向に外れていきます。 この位置は、 ちょうど東へ向かって下がっていく傾斜変換
点にあたり、 東側の平野部を見下ろすことのできる好立地に位置すると言えます。
土 橋 S X 133 西 辺 中 央 (南 西 コ ー ナ ー か ら 北 方 25 m 付 近) に 築 か れ て い ま し た。 土
橋 の 幅 は、4.0 m を 測 り ま す。 土 橋 の 下 部 に は、 堀 内 の 水 を 北 か ら 南 へ 流 す よ う に 暗 渠 排
水用の石組み溝が組まれていました。
へいあと
塀 S A 389・388・362・64 方 形 に 巡 ら せ た 堀 の 内 側 に 設 け ら れ た 塀 跡 で す。 西 辺 に は
S A 389・388 が、 南 辺 に は S A 362・64 が、 東 辺 に は S A 64 が 配 置 さ れ て い ま し た。
東 辺 と 西 辺 を 画 す る 塀 跡 間 は 約 40 m を 測 り ま す。 一 本 柱 列 に 板 材 を 組 み 合 わ せ た 板 塀 が
想 定 さ れ ま す。 土 橋 東 側 で は 塀 は 約 6.0 m 途 切 れ て い ま し た。 こ の 位 置 が 外 部 と の 出 入 り
口にあたり、 門があった可能性があります。
掘 立 柱 建 物 跡 S B 414・08 塀 に よ っ て 画 さ れ た 40 m 四 方 内 に、 堀 や 塀 に 平 行 し て 配
置された2棟の建物跡を検出しました。
掘 立 柱 建 物 跡 S B 414 は、 2 間 (4.6 m) × 5 間 (9.0 m) を 測 る、 南 北 棟 の 建 物 で す。
はしらほりかた
土 橋 を 渡 っ た す ぐ 右 手 に 建 て ら れ て い ま し た。 柱 掘 形 は、 一 辺 0.7 m を 測 り、 直 径 0.3 m
の太い柱が使用されていました。
掘立柱建物跡SB 08 は、4間(9.0 m)×5間(10.4 m)を測る、東西棟の大型建物です。
屋敷地の東南の奥近くに位置し、 主要な建物の1つであると考えられます。 建物2棟の配
置関係から、 方形区画北東部にも同規模程度の建物が想定されます。
3. まとめ
今 回 の 調 査 で 検 出 し た 遺 構 か ら、 三 辺 も し く は 四 辺 を 大 き な 堀 で 囲 ま れ た、 一 辺 50 m
四方の区画の屋敷地が想定でき、 その内の半分強の面積を調査することができました。 堀
が き わ ん
は じ き さ ら
の 最 下 層 か ら 瓦 器 椀 や 土 師 器 皿 が 出 土 し、 そ の 年 代 か ら 11 世 紀 末 ~ 12 世 紀 初 頭 頃 に 築
かれたことがわかりました。 区画内の施設としては、 土橋、 塀や掘立柱建物跡が設けられ
ていました。
西辺中央に土橋が設けられ、 大型の建物が南東隅に築かれています。 東側の堀の形状な
どから、 方形区画北西側に当時の集落が展開しており、 出入り口として土橋が設けられて
いたと考えられます。
おとくにぐんじょうり
ごじょうしちり
さん
つぼ
今回検出した区画は、 乙 訓郡条里の五 条七里、 三 の坪 北東部にあたり、 このような条里
ち
わ
ひとつぼ
地 割 り に 沿 っ て 築 か れ た と 思 わ れ ま す。50 m 四 方 と い う 区 画 は 一 坪 の 四 分 の 一 に あ た り
25
ます。
かいいんじ
ま た 長 岡 京 市 奥 海 印 寺 あ た り に は 851 年 に 建 立 さ れ た と す る 海 印 寺 が あ り、 平 安 時 代
たっちゅう
と ば り き ゅ う
には十の塔 頭があったとされています。 今回見つかった遺構は、 平安京郊外に鳥 羽離宮が
営まれた時期にもちかく、 時代の変革期に出現した屋敷跡といえます。 その造営には、 海
印 寺 と の 存 在 が 深 く 関 わ る も の と 考 え ら れ ま す が、 そ の 成 立 背 景 は 現 状 で は わ か り ま せ
ん。
右京第 21・27・753・
830 次・井ノ内遺跡
右京第 638・750・
781 次・神足遺跡
右京第 970・1007 次
・下海印寺遺跡
0
第 1 図 遺 跡 位 置 図
1000m
26
右京第970・1007次・下海印寺遺跡
方丸地区
尾流地区
F地区
西条地区
E地区
J地区
I地区
長岡第四中学校
H地区
阿弥陀寺
A~G地区
上内田地区
0
100m
第2図 下海印寺遺跡(西条地区)調査地区配置図
Y=-28,860
右京第852次
調査地
Y=-28,840
右京第957次調査地
西条-1地区
Y=-28,820
Y=-28,800
X=-120,300
右京第1007次調査地
J地区
右京第957次調査地
西条-2地区
右京第957次調査地
C地区
右京第970次調査地
E地区
X=-120,320
右京第1007次調査地
I地区
X=-120,340
SP46
G地区
右京第970次調査地
A地区
池
X=-120,360
右京第1007次調査地
H地区
右京第970次調査地
D地区
X=-120,380
0
40m
第3図 下海印寺遺跡(西条地区)遺構配置図
右京第957次調査地
B地区
右京第970・1007次・下海印寺遺跡
Y=-28,820
Y=-28,780
Y=-28,800
X=-120,300
堀SD50
右京第1007次調査地
J地区
塀SA389
右京第957次調査地
C地区
X=-120,320
4m
右京第1007次調査地
I地区
土橋
SX133
50m
SB414
25m
堀
SD111
X=-120,340
SB08
塀SA64
塀SA388
堀SD50
SP46
塀SA362
堀SD266
堀SD50
池
右京第1007次調査地
H地区
右京第970次調査地 0
D地区
50m
第4図 方形区画平面図
柵列
土橋
掘立柱建物跡
柵列
堀SD111
柵列
掘立柱建物跡
堀SD50
方形区画全景(上空から:昨年度撮影の合成写真)
X=-120,360
20m
27
28
佐山遺跡
佐山遺跡
木津川
0
1000m
第5図 佐山遺跡位置図
Y=-22,680
Y=-22,700
Y=-22,660
Y=-22,700
(八条)
A-1地区
四坪
Y=-22,660
X=-124,620
)
SD63
三坪
SD67
九(里
SD65
X=-124,460
X=-124,500
X=-124,640
SD14
三十四坪
X=-124,540
三十三坪
SB1
B-2地区
X=-124,660
SB2
SD206
SD203
X=-124,580
SD5
X=-124,680
SD381
SD382
八(里
X=-124,620
X=-124,700
SB1151
)
二十八坪
二十七坪
B-1地区
SB1
X=-124,660
SB2
SB1153
SE1007
SE1009
SD11
X=-124,720
SE1008
SD7
SD1145
X=-124,700
SB1151
X=-124,740
SB1153
B-2地区
SD1147
SD1145 SD1149
SD1172
SD1200
X=-124,740
SD1150
0
第6図 条里関連遺構図
50m
0
第7図 佐山遺跡方形区画平面図
50m
右京第753・830次・井ノ内遺跡
右京第638・750次・781次・神足遺跡
Y=-27,320
Y=-27,340
29
SD10
右京第750次調査地
右京第638次調査地
SD06
右京第753次調査地
SD15
Y=-28,440
SA02
SB11
X=-117,620
SD02
SD2731
SD01
X=-119,860
右京第781次
南4トレンチ
水道管
SD01
右京第21・27次調査地
SK273
X=-117,640
X=-119,880
SK272
右京第781次
南5トレンチ
SD05
X=-119,900
コンクリート基礎
SX231
右京第781次
南6トレンチ
SD01
X=-117,660
右京第781次
南7トレンチ
右京第781次
南8トレンチ
SD01
X=-119,920
SD01
右京第781次
南9トレンチ
SD250
X=-117,680
右京第830次調査地
Eトレンチ
0
X=-119,940
10m
右京第781次
南10トレンチ
第8図 井ノ内遺跡遺構平面図
X=-119,960
SD02
0
20m
第9図 神足遺跡遺構平面図
( 財 ) 京都府埋蔵文化財調査研究センターの現地説明会や埋蔵文化
財 セ ミ ナ ー な ど は、 下 記 の ホ ー ム ペ ー ジ で も ご 案 内 し て い ま す。
http://www.kyotofu-maibun.or.jp
( 財 ) 京都府埋蔵文化財調査研究センター
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Tel
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