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ビネガーシンドロームに関する一考察 ~加水分解
映画フィルムの修復現場から(2) 「ビネガーシンドロームに関する一考察 スィ~ ~加水分解=加酢分解?~」 大坪 秀夫 映画フィルムの修復にはデュープネガやプリントな と思う。 どの複製を作るだけでなく,原版のフィルム状態を検 燃えやすく,自然発火しやすいナイトレートフィル 査する作業も含まれている。検査の内容はフィルムの ム(硝酸セルロース)に代わり登場したトリアセテー 種類(サイズ,カラー,ベース等々)を調べる他,劣 トフィルム(酢酸セルロース)は,保存性においても 化状態(キズ,カビ,加水分解,カーリング等々)な ナイトレートフィルムよりも長期保存が可能であると ども詳細に記録する。IMAGICA ウェストには長年に 思われてきた。しかし,近年, 「加水分解(ビネガー 渡ってアーカイヴ機関や映画会社からこのような検査 シンドローム)」と呼ばれる劣化現象が猛威を振るい, の依頼が多く,そのような業界の動きは近年ますます 映画保存に関する重要な問題として浮上してきた。 活発になってきた。これはフィルムの寿命が永久的に 1991 年,Kodak 社は,この劣化を化学反応と高温多 あるのではなく,何らかの形で劣化していくというこ 湿という環境が誘因となって引き起こされる加水分解 とがフィルムを保存する者の間で常識となったことを が原因と発表した。 (参考資料:NFC ニューズレター 表している。今回はそのようなフィルム検査から,映 15 号『ビネガーシンドロ−ムとは何か』) しかし, 画フィルムの劣化について見えてきたことを述べたい 加水分解の発生メカニズムは未だ具体的には発表され グラフ 1 おおつぼひでお ㈱ IMAGICA ウェスト フィルム事業部 26 映画テレビ技術 2007/8(660) ても異なっている。このことは原因が一つではなく, いくつもの原因が重なり合って,初めて加水分解が起 こりうる事を表している。 グラフ 2 は検査した予告編の本数に対する加水分解 した原版の割合を表している。予告編のデータを使用 したのは,原版である画・音・タイトルがほぼ同じ条 件下で保管されているからである。つまり,同一の缶 に 3 種の原版が入れられていること,大きさが同じで ある事,同一時期に保管されていることがその理由で グラフ 2 ある。これを見ても分かるとおり,画原版に対して音 原版やタイトル原版が圧倒的に加水分解の割合が高く なっている。 グラフ 3 は特報の本数に対する加水分解した原版の 割合を表している。予告編と同じ保管方法である特報 の各種原版についても同様の傾向にあることがわか る。 次に,写真 1 は加水分解した原板を上から見たもの であるが,中心部分,つまり巻芯側ほど加水分解が進 み劣化が進行している。この様な原版は他にも多く見 られる。また,この写真ほどの劣化はなくても,中心 グラフ 3 部分ほど進んでいるというのは,加水分解の一つの傾 向である。たまに外側ほど劣化が進んだものを見るこ ておらず,様々な説があるが,どれも今一説得に欠け とがあるが,その場合リーダー部分を差し替えてあっ る様に思われる。これから述べる私なりの考えは,約 たり,大きい巻芯であったりする。これは,原版保管 10 年間に及ぶ劇映画のオリジナル原版約 400 作品の の途中で焼付け作業か何かで巻き返しを行っているか フィルム検査を行ってきた現物の直視と,そこから得 らである。今現在使用している大きい巻芯は,1970 られた各種データに基づいて解析を試みたものであ 年頃より以前は存在していなかった。そして,エマル る。 ジョン面(乳剤面)を外側にして巻くことをエマルジ グラフ 1 は,その検査した作品のうち,1950 年代 ョン巻きと言うが,またの名をネガ巻きと言って,正 ∼ 1960 年代製作作品(トリアセテートフィルム)を しいネガの巻き方と言われている。検査した全ての作 年度別に区分けし,その中で加水分解している作品数 品も,このようにエマルジョン巻きに巻かれたものだ を示している。必ずしも年代が古いから発生するとは った。さて,この様に巻芯側を中心に加水分解が進行 限らず,同一作品でも巻数によって加水分解している することを考えれば,その巻芯に原因の一部があるの ものや,そうでないものがあり,画・音・原版によっ ではないかと思われる。事実,そのような説も存在し 写真 1 映画テレビ技術 2007/8(660) 写真 2 27 図1 エマルジョン巻きに巻かれたフィルムを真横方向から見た とするとベース側に対して乳剤側が引っ張られている。巻 きが小さい程,引っ張られる力が強くなる。いわゆる同じ 距離であるべきベース面とエマルジョン面をむりやり円に してアウトコースとインコースを作るようなものである。 ている。 写真 2 の巻芯は検査の際にフィルムが巻かれていた ものの一部であるが,縮んで変形していることが見て 取れる。私が関わった 16 mm 作品についてはほとん ど全てがリールに巻かれていたが,加水分解してい た。したがって,巻芯を原因の一つとする説は,否定 されねばならない。 巻芯に近い内側から加水分解が進行しているという ことは,最も外部環境からの影響を受けにくい位置か 写真 3 ら進行が始まっているということでもある。このこと は,空気中の水分を吸収して加水分解を引き起こすと する説も否定しなければならない。なぜなら,最も空 気と接触しやすいのは巻かれたフィルムの一番外側で あり,外側から加水分解が始まると考えられるからで ある。では,巻かれたフィルムの内側(巻芯側)と外 側では,フィルムにどのような違いがあるのだろう か。フィルムは,図 1 のようにフィルムベースとその 上に塗布された乳剤とで成り立っている。乳剤はゼラ チンに色素や銀粒子を混合した形で構成され,フィル ムは弧を描いて巻かれている。 写真 4 エマルジョン巻きに巻かれたフィルムを真横方向か ら見たとするとベース側に対して乳剤側が引っ張られ ている。巻きが小さい程,引っ張られる力が強くな る。いわゆる同じ距離であるべきベース面とエマルジ ョン面をむりやり円にしてアウトコースとインコース を作っている。 また,フィルムを巻芯に巻く時,巻芯側ほど強い張 力で巻かれ,更にその外側に巻かれたフィルムの圧力 を受けることになる。この様に巻かれたフィルムが内 側から加水分解を引き起こすのは,外部環境からの直 接的な影響からではなく,フィルム自身からの変化に 28 写真 5 映画テレビ技術 2007/8(660) よる影響によって引き起こされると考える方が妥当で 1.加水分解が発生しやすい原版は,タイトルや音 はないだろうか。もちろん,外部の温度や湿度によっ (クリアデンシティー)原版で,画原版はカラー・ てフィルムの収縮や膨張が起こり,そのことがフィル ムに圧力をかけているということも考えられる。 写真 3 は,ビーカーの中に酢酸をしみ込ませたティ ッシュの容器を置き,強く巻いたフィルムを入れてふ たをし,どの様に変化するかを観察したものである。 白黒に関わらずなり難い。 2.加水分解は巻芯に近い部分で発生し,外に向か って進行していく。 3.酢酸による影響は深刻で,加水分解と同様のダ メージを与える。 48 時間後には,写真 4 のように巻かれたフィルム ここで問題視されなければならないのが現像処理中 の内部(巻芯側)まで酢酸の影響を受けて,フィルム の定着液である。つまり,「残留ハイポによる加水分 ベースが加水分解の症状を引き起こしている。同時に 解起源説」である。もちろんこの説だけでなく冒頭で 行った硝酸によるテスト(写真 5)からは,これらの 述べたようにいくつもの原因が重なり合って初めて加 臭気は,巻かれた外側の最も空気に触れやすいフィル 水分解が発生すると思われる。当時のフィルム(現在 ムの先端からフィルムエッヂ,パーフォレーションの は白黒ポジ,白黒ネガ)は,ネガ,ポジ,白黒,カラ 中を通ってフィルムの内部に浸透していくことが観察 ーを問わずすべて硬膜処理がされておらず,現像工程 できた。もし仮に巻芯近くのフィルム内部でこの臭気 の定着液でこの処理が行われていた。 が発生したら今回のテストの逆方向に広がっていき, 表は現在の白黒定着液の処方で,主薬のチオ硫酸ア 一旦フィルムの外に出た臭気は今回のテストと同様, ンモニウムに変わるまでは,チオ硫酸ナトリウムが使 外側から内側へ広がっていくことになる。実際の加水 われていたが,そのほかの薬品は今と変わっていな 分解は,フィルム自身の自己触媒作用によってどんど い。ここにあるカリ明バンが硬膜剤で,この硬膜効果 ん加速されていくことは,各種文献によっても明らか を上げる為には,pH(水素イオン濃度)を 4 ∼ 5 に にされている。 保つ必要がある。そこで pH を下げる為に氷酢酸が使 今回のテストは,90%氷酢酸を使用しているが,実 われてきた。これらの定着成分が充分な洗浄にも関わ 際のビネガーシンドロームはごく薄い酢酸ガス(酸性 らず,乳剤の中に閉じ込められたとしたらどうなるだ ガス)によって長時間かけて起こり,そしてある時期 ろうか。また,今までの検査結果のデータから最も残 (濃度)からは加速して進行していくものと思われる。 留しやすいフィルムが,タイトル(ハイコンポジ)や 以上の観察や各種データから分かったことをまとめて サウンドネガであるとしたら。巻芯に近い場所で強く みると, 巻かれ,乳剤面が引っ張られて乳剤からの蒸散がしや すい状態になり,温度・湿度による膨張や収縮といっ 表:定着液使用薬品 チオ硫酸アンモニウム(又はチオ硫酸ナトリウム) たフィルム自身の圧力が乳剤を押し付けて………,残 留ハイポの酢酸ガス(酸性ガス)が発生しても決して 不思議ではない。一般的に,化学反応は密閉状態と圧 無水亜硫酸ナトリウム 力によって促進される。エマルジョン面から出た残留 90%氷酢酸 ハイポの酢酸ガスが一巻き外側のベース面に作用して 硼酸 カリ明礬 加水分解を引き起こし,そのベース面の加水分解から 新たに酢酸を発生させるというメカニズムが,加水分 解の始まりではないかと考えている。 図2 映画テレビ技術 2007/8(660) 29 図 2 は原版の構成である。TOP・END のリーダー る。 部分に現像済みのハイコンポジやサウンドネガフィル 以上,私が長年取り組んできた現物直視とデータか ムが使用されている。そして,この END リーダー部 ら成る解析である。このことを確認するためには更に 分に加水分解が多く見られる。このハイコンポジやサ 長い歳月と化学的根拠に基づいて実証させることが必 ウンドネガフィルムの使用量(長さ)が,結果として 要である。いずれにしろ,加水分解によって失われて 画の原版に加水分解が少ないことと関係していると考 いく貴重な文化遺産であるフィルムを守り,そして加 えられる。そのため,TOP・END のリーダー部にハ 水分解を発生させない取り組みの参考になれば幸いで イコンポジやサウンドネガフィルムを使用しなけれ ある。 ば,加水分解の起こる可能性は減少すると確信してい 30 映画テレビ技術 2007/8(660)