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福音のヒント 四旬節第 3 主日 (2007/3/11 ルカ 13・1‐9)

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福音のヒント 四旬節第 3 主日 (2007/3/11 ルカ 13・1‐9)
福音のヒント
四旬節第 3 主日
(2007/3/11
ルカ 13・1‐9)
教会暦と聖書の流れ
四旬節の第 3∼第 5 主日のミサの福音は年によって雰囲気が違います。A 年は洗礼志願
者のための伝統的な 3 つの箇所が読まれます(ヨハネ 4,9,11 章)。B 年にはより直接的にイ
エスの死と復活に関連する福音書の箇所が読まれています。これに対して、今年 C 年は「回
心と罪のゆるし」がテーマになっているようです。
ルカ 12・35∼13・9 では回心の呼びかけが続いていますが、きょうの箇所はルカ福音書
だけに伝えられている話です。
福音のヒント
(1) 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混
ぜた」と言いますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、
あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえをささげようとし
ていたところをローマ軍によって殺害された、という事件
を表しているようです。「シロアムの塔が倒れて死んだあ
の十八人」も実際の出来事を指しているようです。古代エ
ルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、そ
の出口にシロアムの池(ヨハネ9・7参照)がありました。そ
の塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったよ
うです。どちらも当時のユダヤ人にとってショッキングな
出来事だったはずです。当時は「人の不幸はその人の罪の
結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を
見て、
「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけるのはひどいことです。イエ
スはそういう考えに組しません。
「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決
してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。
ほとんど同じ表現が二度繰り返されていて、強調されています。それは、悲惨な出来事を
自分たちへの呼びかけ、警告として受け取ることを求めていると言えるでしょう。さまざ
まな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
(2)
「皆同じように滅びる」は「滅び」は、ガリラヤ人やシロアム事故の犠牲者の滅
びと同じレベルの話ではなく、終末の裁きにおける滅びの意味だと考えられます。ただし、
悲惨な出来事が人類一般の罪の結果であるという考えは否定されていないのかもしれませ
ん。また、ルカにとってこの「滅び」は、もしかしたら紀元70年に実際に起こったローマ
軍によるエルサレムの町と神殿の破壊をも意味していたのかもしれません。だとすれば、
その破滅が起こったのは、ユダヤ人全体の罪の結果だということになるでしょうか。
(3)
6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。いちじくの木をぶどう園
に植えることは一般的に行なわれていたことのようです。
「実を結ばない木」は洗礼者ヨハ
ネの説教にも現れた表現です。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。…良い実を結ばない木は
みな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3・8,9)。
このたとえ話で、ぶどう園の主人とは誰のことでしょうか。園丁とは誰のことでしょう
か。
「主人」を「父である神」、
「園丁」を「イエス」と考えることもできるかもしれません
が、ルカ福音書はそこまで考えてはいないようです。来年もまた実がならなかったらこの
いちじくの木はどうなるのだろう、ということも気になりますが、そこにもこの話のポイ
ントはないようです。このたとえ話のポイントは、
「来年まで待つ」ということそのものだ
と考えるべきでしょう。ここでは、神の忍耐やいつくしみよりも、今が回心の最後のチャ
ンスだということが強調されているのです。
(4) 「滅びる」や「切り倒す」というような裁きのイメージをわたしたちはどう受け
取ったらよいのでしょうか。イエスが示した神はいつくしみ深い父でした。人が誰も滅び
ることなく、すべての人が生きることを望まれ、罪びとにゆるしを与える方でした。しか
し、イエスのメッセージの中には、厳しく人に回心を迫る面もありました。それを今のわ
たしたちが、自分たちの生き方への問いかけとして、まともに受け取ることは大切です。
この「神の裁き」を考えるとき、ヨハネ福音書に大切な箇所があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人
も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くた
めではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じ
ない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たの
に、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになってい
る」(ヨハネ3・16-19)。
ここでは、神が裁きを行なうというよりも、光に背を向け、闇の中にとどまる人は自ら
裁きを招いている、ということになります。聖書によれば、人は神によって生かされてい
るものであり、神とのつながりを失えば滅びるしかない存在です。ですから、神から離れ
た生き方をしている人間は神によって罰せられるというよりも、その生き方そのものが滅
びに至るものなのだと言ってもよいのでしょう。
(5)
「さまざまな悲惨な出来事はわたしたちにとって回心のチャンス」であり、「今
がその最後のチャンス」なのだというメッセージをわたしたちはどう受け取ればよいでし
ょうか。現代社会は、人間の科学技術が高度に発展し、人間の力が万能だと錯覚し、結局
のところ経済万能になっているような面があります。そこで起こっているさまざまな問題
を考えたとき、何かしら思い当たることがあるのではないでしょうか。わたしたちにとっ
て、
「今回心する」
「回心にふさわしい実を結ぶ」ということはどういうことなのでしょう。
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