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日本における人身御供伝説から見た「イサクの奉献」(試論)

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日本における人身御供伝説から見た「イサクの奉献」(試論)
『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
2014 年 7 月発行
日本における人身御供伝説から見た「イサクの奉献」(試論)
山本隆久
はじめに
「イサクの奉献」は、いわゆる人身御供として誤解されやすい。注解書などには、これ
が人身御供とは違うものであることが指摘されている場合も多いが具体的にその違いを明
確にしているものが少なくとも日本語ではまだないようである。したがって誤解が放置さ
れている。「神の幕屋」などの日本的なキリスト教的異端の存在はこの誤解の放置を証明
している。
私たちの生活している日本社会は、欧米のキリスト教国とは違い、神道などの多神教が
支配的である。神道などの多神教が、国家的にかなりの影響力をもっていることは、キリ
スト教伝道を困難にしている要因だが、聖書を理解する上では、好都合である。なぜなら
ば、聖書の編集は、明らかに多神教的な社会背景の中でなされたに違いないからである。
私たちが日本という異教社会の中にいるということは、キリスト教化された社会よりもい
わゆる聖書がまとめられた「生活の座」に類比的に近く、日常的な生活を通して聖書本来
の意図を再発見する可能性を秘めているのではないだろうか。
本小論のきっかけは、礼拝説教準備の中で、日本における人身御供や人柱伝説を調べる
中で出会った明治 16 年 8 月 9 日付で朝日新聞に掲載されたという以下の記事である。
「雨乞いに乙女を人身御供-犠牲代は百円
今時にあるまじき野蛮の話は京都府下乙訓郡奥海印寺村辺にて近日一滴の雨なくまた雨
乞も利かず非常の困迫に陥りしあまりに同村の何某が他の甲乙に語るやうは昔百日の旱魃
ありし時十七八の美女を犠牲にして柳谷の奥山に在る山神の祠に奉りければ忽ち其験あり
て近村大に潤ひたりと聞けり今日其様な犠牲なるべき娘の在れば実に数万人の幸福なりと
いうに同席の某が進出其は最易きことなり当村何某の娘きよ(廿年)は薄命の親子ゆゑ彼
に金百円ほど遣れば直ぐに承諾させて見せるといふにぞ何分貴様に頼むとて其夜は各別れ
夫より某はおきよ親子に説諭すると心能く承諾せしかば村内の者より雨乞入費と称して百
円の金を徴集し之をおきよの親に渡して愈々去三十一日の夜村内の者七名が陰かにおきよ
を伴ひて柳谷の奥山へ登らんとする処を早くも其筋の聞くところとなりて郡吏が出張し
懇々説諭を加へられしを以て犠牲の件は一時中止となりしより先に与へし百円金を取戻さ
んことを掛合へどおきよ親子は一旦貰ふたものをば返す理がないとて之に応ぜず依て去三
日村内より代言に托し該金取戻の勧解願を京都治安裁判所へ持出せりといふは近頃の奇聞
なり=明治 16・8・9」1
この新聞記事は、日本において明治に入ってもなお、人身御供の風習が存在していたこ
とを示す明らかな証拠であるにもかかわらず、今日に至るまで日本の民俗学の主流はこれ
を認めないという不可解な状況がある。本小論は、この不可解な状況の背景を探りつつ、
1
「朝日新聞の記事にみる奇談 珍談 巷談〔明治〕」、東京、朝日新聞社、1997 年,76 頁。
1
『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
2014 年 7 月発行
日本における人身御供の伝承などを概観し、その上で聖書の中の人身御供との関係が論じ
られやすい、イサクの奉献など伝承の意味を再検討するものである。
1.
人身御供について
人身御供とは、人間を神への供え物として捧げる土俗信仰に基づく習俗である2。神に捧
げるという行為は、具体的にはその生贄となる人間が殺されることを意味する。その形態
としては、祭祀として繰り返されるものとしての人身御供、橋や堤や城などの建造物に用
いられる人柱の二つに大別される。またこのほかに、殉死の風習も多神教的な人が死んで
神となるという思想的背景を持ち、人身御供と共通する点があるとされる。人身御供の風
習は、古代において基本的に全世界に存在しており、近代においても一部地域において現
存していた。
1.1. 人身御供を巡る議論
人身御供は、共同体の祭儀であるから、その理解には、議論される社会の時代思想が当
然反映される。江戸時代後期に、大和民族国家としての日本を意識する水戸学や国学の影
響の中で、廃仏毀釈運動が起こり、明治政府に引き継がれる3。「和魂洋才」をもって欧米
列強に対して対等な民族的立場を保持しようとした近代日本にとって、先の朝日新聞記事
のとおり人身御供は日本民族の野蛮性と未開性を示す都合の悪い事象であった。
人身御供に関する最も古いものの一つとされる論文4が 1902 年に発表されているのは、
1873 年にキリスト教が解禁され、1890 年に大日本帝国憲法が施行されて、廃仏毀釈運動が
沈静化してきた社会状況の中で初めて議論することが可能となったことを示唆している。
日本における信教の自由がそれ以前よりも実質的に保障される証しとなった出来事であ
る日英同盟が締結された 1902 年に初期の人身御供に関する論文が発表されたことは偶然で
はないと考えられる。
近代日本における人身御供を巡る議論に影響を与えた二つの大きな出来事がある5。一つ
は、アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、1879 年(明治 12 年)1 月 5 日に
帝国大学の生物学会で、大森貝塚から、食人風習の証拠が見つかった発表したことである。
もう一つは、1925 年(大正 14 年)、1923 年(大正 12 年)関東大震災で被災した皇居の二
重櫓の改修工事中に次々と見つかった 16 体の人柱とおぼしき人骨の発見である。いわゆる
2
日本で出版されている民俗学辞典などには人身御供「生贄として人を生きたまま神に供え
たという伝説」とされており、古代日本において史的事実としての人身御供は否定されて
いる。
3
安丸良夫、「神々の明治維新、―神仏分離と廃仏毀釈―」、岩波新書 103、東京、岩波書
店、1979 年。
4
布施千造、「人柱に関する研究」、『東京人類学会雑誌』第 194 号(1902 年 5 月)所載、
再所載:礫川全次編、「生贄と人柱の民俗学」『歴史民俗学資料叢書 5』、東京、批評社、
1998 年、33-38 頁。
5
六車由実、「神、人を喰らう、―人身御供の民俗学―」、東京、新曜社、2003 年、29 頁。
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『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
2014 年 7 月発行
皇居人柱事件と言われるもので、新聞等で大きく報道され、人身御供を巡る議論が活発化
した。
日本の独立を維持し、思想信条においては欧米列強と対等な立場に立とうとした近代日
本の知識人たちにとってこの二つの出来事は都合の悪い出来事であった。御用学者たちは、
これらの都合の悪い出来事が野蛮国の証明となってしまうと恐れたのである。
1.1.1.
加藤玄智と柳田国男の人身御供を巡る論争
加藤玄智智(1873~1965)は 1911 年 5 月に発表した論文「宗教学と仏教史」6において、
仏教の日本の宗教史における功績について論じた。
「一体儒者だとか国学者だとか云う方からは、仏教が日本の古い信仰特に神道などの上に
単に悪結果のみを与えていた言われておって、この点に於いては、仏教は害はあっても益
はないと云われておりました。」7。このような立場から加藤は人身御供を行うような残虐
であった神道が仏教の影響によってより道徳的なものに変えられてきたことを古事記や今
昔物語の人身御供譚を例証として用いて論じた。これに対して柳田国男(1875~1962)は
同じ年 11 月に「掛神の信仰に就いて」8においていわゆる人身御供譚は小説のようなもので
あり、今昔物語などの人身御供譚も「中世造説」の可能性を指摘した後、「人の肉や血は
何れの時代の思想にても我国では決して御馳走には非ず」9という立場から、仏教思想は本
来貴族の宗教であって、念仏宗教以前には民衆に感化力を持たなかったため、日本の神道
において人身御供が行われていないのは、神道独自の本来的な思想によるものと断じた。
これに対して加藤は、人身御供譚そのものが成立し得る社会性は、人身御供の存在を前提
としているとして、世界的人類学的な視点から、1911 年 12 月~1912 年 1 月に発表された
「本邦供犠思想の発達に及ぼせる仏教の影響を論じて柳田君に質す」10において反論した。
これに対する直接の『仏教史学』における柳田からの反論はない。
しかし、1913 年、柳田国男は高木敏雄(1876~1922)と共に月刊雑誌『郷土研究』を発
行する。ここにおいて高木敏雄は、「人身御供論」11を発表し、比較神話学の方法論などを
用いながら加藤に対して反論している。人身御供譚は、日本の民間伝説のモチーフであっ
て童話が事実とは関係がないのと同じように歴史的事実とは無関係であるとし12、「考古学
6
加藤玄智、「宗教学と仏教史」、『仏教史学』、第 1 編第 2 号、1911 年 5 月、45~57 頁、
初所載。本小論においては、礫川編の前掲書(注4)40~52 頁を参照した。
7
前掲書 40 頁 8~10 行目。
8
柳田国男、「掛神の信仰に就いて」、『仏教史学』、第 1 編第 8 号、1911 年 11 月、1~
14 頁、初所載。本小論においては、礫川編の前掲書(注4)40~52 頁を参照した。
9
前掲書 58 頁 13~14 行目。
10
この加藤の論文は、『仏教史学』加藤玄智「本邦供犠思想の発達に及ぼせる仏教の影響
を論じて柳田君に質す」『仏教史学』、第 1 編第 9 号、1911 年 12 月、1~14 頁、初所載。
本小論においては、礫川編の前掲書(注4)70~102 頁を参照した。
11
高木敏雄著、山田野理夫編、「人身御供論」、東京、宝文館出版、1973 年、9~70 頁。
12
高木、前掲書、10 頁 12 行~14 頁 4 行目
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『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
2014 年 7 月発行
も歴史学も、このことに関してほとんど何等の徴証を提供していないのみならず、たまた
ま発見される伝説はすべて後世の縁起伝説で、その史的評価のすこぶる疑わしいものばか
りである」13として人身御供実在説を否定した。
なお、日本の宗教史における仏教の功績を評価し、人身御供譚実在説に立ち、日本古来
の宗教である神道を批判していた加藤は、この人身御供論争後転向し、1920 年東京帝国大
学神道講座(翌年,神道研究室)創設にあたってその助教授に就任、「国家神道」の理論
的基礎を作ることに貢献した14。
1.1.2.
皇居人柱事件
人身御供が歴史的に実在したかどうかを巡る加藤・柳田論争は、前述の 1913 年以降の柳
田と高木の意見が主導的となり、人身御供譚は(民間)伝説であって史実ではないとされ
鎮静化する。加藤から高木や柳田への新たな反論はその後なされなかった。1922 年に高木
は没する。1925 年 6 月 11 日、関東大震災で被災した皇居の二重櫓を改修工事中に地下から
立ち姿の頭に古銭が一枚づつ載せられた人骨が等間隔で埋められているのが発見された。
6 月 24 日(水)『東京日日新聞』朝刊、『大阪毎日新聞』、『万朝報』、『読売新聞』
などで連日大きく報道された15。地方においてもこれは大きな話題となり、1925 年(大正
14 年)6 月 26 日付の茨城新聞では以下のように報道されている。
「宮城二重櫓地下から
八個の人柱を発掘す―復旧工事の進むに従い此上にも発見される
かも知れぬ
震災の際破壊したる宮城二重櫓は先般来復旧工事中だ。其の地下を掘り起こすと人間の
白骨が数個体現れ其の頭部や肩には古銭をつけてあり其の白骨は殆ど一間隔き位に発見さ
れたので当局も大いに驚いて種々調査中であるがこれは古来伝説にある人柱だといふて大
評判をしている右に付二十四日宮内省では左の如く公表した。
六月十一日発見人骨三個体分、貨銭十六個、赤焼土器(火皿三個)六月十二日発見人
骨一個体分、貨銭六個、六月二十三日発見人骨四個体分、貨銭六個、場所は二重櫓下
盛土の下層自然土中盛土の下二尺乃至三尺の地中にあり櫓西南隅を中心として一つは
其□邊に他は其両邊に各々頭部を北にして殆ど六尺の間隔を保つ其の中或るものは蹲
踞屈葬形を取り又たは湾曲せる横臥の形を為し明瞭に伸展葬の形を有するものらしく
貨銭の種類は宋銭を主とするも土器が赤土を以て製せる極めて厚手の粗製にて口邊は
直径二寸四分底一寸四分5厘あり尚俗にいふ一文銭合計二十八個を得其中六個は藁□
以て連なって居る云々
尚現在発見せるものは以上の通りであるが以上は僅かに二重櫓西南隅の発見であるからこ
13
高木、前掲書、27 頁 8~10 行目。
島薗進、「加藤玄智の宗教学的神道学の形成」、available from
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f16-4.pdf
15
六車、前掲書、37 頁。
14
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2014 年 7 月発行
れが全部改修迄には如何なるものを掘出すか頗る興味ある問題とされて居る尚当局として
は白骨及び掘出し物を一箇所に埋葬させ懇ろなる供養をする位の處て其の他の問題に就い
ては専ら専門学者の研究に委ねんとする模様である。」
この事件は東京帝大教授黒板勝美が宮内省より委託を受けて調査をするが、詳細な調査
は行われず、人骨は築城工事の際に死んだ殉難者で築城工事の埋め功労者として、その気
持ちを尊び、城を守らしめる意味から埋没したものでろうという推測を結論とし調査は終
了した。政府は、人骨を人柱の歴史的証明とする意見を打ち消そうとしたが、世間一般の
要望もあり、当時の知識人たちは活発な議論を展開する。歴史雑誌『中央史壇』で「生類
犠牲研究」(1925 年 8 月特別増大号、第十一巻第二号、通巻 66 号)というタイトルで特集
が組まれたり、講演会が持たれたりしている。
南方熊楠は、「本邦の学者今度の櫓下の白骨一件などにあふとすぐ書籍を調べて書籍に
見えぬから人柱などは全くなかった事などいふがこれは日記に見えぬから吾が子が自分の
子ではないといふに近い」16と詳細な調査をしない御用学者を暗に批判し、「又こんな事が
外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどこの国にもある」
17
と欧州キリスト教国において城や教会に建築においても人柱があった例を紹介している。
加藤玄智らもこの『中央史壇特別増大号』に寄稿しており、ここでは人身御供の実在した
か否かを問うのではなく、人身御供という風習の意義を問う議論へと変化発展している。
柳田国男など日本の民俗学的立場からの皇居の人柱事件に対する南方などの人身御供実在
を支持する人々への反論はなされていない。大正デモクラシーの自由な雰囲気の中で展開
されたこの議論は、昭和に入り国家主義が台頭する中で下火となってゆく。
1925 年、柳田国男は、岡正雄と共に雑誌『民族』を発刊し、ここに「松王健児の物語」
(1927 年 1 月)18、「人柱と松浦佐用媛」(1927 年 3 月)19を発表する。これらの論文において
柳田は日本全国に伝承されている人柱伝説には類型があり、明らかに一つの型から出たら
しい共通の点が多いことなどから、人柱伝説は史実ではなく、それを語って流布する比丘
尼などの旅の語り部の存在を想定し史実ではないことを論証している。
1934 年 9 月に皇居坂下門近くから 5 体の人骨が古銭と共に発見されるという事件が再び
起こるが、もはや大々的に報道されることはなく、人柱であるかどうかの可能性すら言及
されなかった。「治安維持法などによる言論統制によって、皇室の尊厳を傷つけるものと
16
南方熊楠、「人柱の話」、『大阪毎日新聞』、1925(大正 14 年)6 月 30 日、礫川編前掲
書、158 頁 1 段 16 行~2 段 1 行。
17
礫川編、前掲書、158 頁 3 段 9~11 行
18
柳田国男、「松王健児の物語」、『民族』第二巻第二号、1927 年 1 月、岡書院、礫川編
前掲書、249~270 頁。
19
柳田国男、「人柱と松浦佐用媛」、『民族』第二巻第三号、1927 年 3 月、岡書院、礫川編
前掲書、272~295 頁。
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してとらえられかねない不穏当な発言が避けられたためだろうか。」20と六車は戦時体制へ
と突き進む社会状況の影響をその原因として想定している。
1.1.3. 人身御供を巡る論争のまとめ
欧米のオリエンタリズムが植民地における欧米先進国の支配を正当化する学問であった
とザイードが指摘したのと同じ意味で、日本の民俗学は、日本が欧米に対抗して独立を守
る正当性を主張するための学問であったということを明治以後の人身御供を巡る議論は明
らかにしている。その際、人身御供は、未開野蛮の風習であり、そのような風習を持つ民
族は未開民族であり、先進民族によって支配されてしかるべきであるという考えが前提と
なっている。そして、この未開、先進の対立の背景にあるのは、近代日本国家主義のより
どころとなった神道と欧米諸国の宗教であるキリスト教との対立である。
南方は、キリスト教化されたのちにも欧米において日本よりもより残酷な方法で、教会
の建築においてすら人柱などの風習があったことを挙げて、日本に人柱などの人身御供の
風習があったことは何ら恥ずべきことではなく、欧米諸国からの批判は不当であると主張
した21。しかし、この南方の主張は、時代の流れの中でかき消されてゆく。なぜならば、南
方においては、神道とキリスト教は対等のものとなってしまう。八紘一宇を国是とした日
本の帝国主義において神道は日本固有の宗教としてキリスト教に優るものとして暗黙のう
ちに位置付けられていたからである。
戦後から今日にいたる人身御供をめぐる民俗学的な議論は、活発ではなく、研究主題と
しても避けられる傾向にある22。日本各地に存在する人身御供や人柱伝承は、伝説であって
史実ではないことが定説となっている。そして、それをもって、人身御供や人柱の風習は、
日本にはなかったことが示唆され、それ以上に踏み込まないというのが現状である。この
傾向は 2003 年に出版された人身御供についてまとまった考察をしている六車由実の著作に
おいても同様であり、人柱と見られる考古学的出土物や本小論の最初に掲げた人身御供に
関する朝日新聞記事23などは全く取り扱われていない。
人身御供譚が歴史的事実であることは否定されるが、人身御供譚があるということは歴
史的事実として認められ、その犠牲的精神はむしろ評価されて、第二次世界大戦末期の特
攻を行わせる基礎となった24。
2. 人身御供伝承
20
六車前掲書、46 頁 3 行目以下
南方、「人柱の話」、前掲書 158~159 頁。
22
六車前掲書、14 頁 7 行目以降。
23
注1参照
24
冨倉光雄、「武士道にみる献身」、富倉光雄、布川清司、宮田登共著、『献身』「ふぉ
るく叢書 5」、東京、1975 年、弘文堂、160‐165 頁。
21
6
『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
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三浦佑之は、人身御供伝承群を以下のように二つのグループに大別している25。
「その一つのタイプは、おおよそ次のような内容で語られる話型である。ある村の山奥に
恐ろしい魔物が棲んでおり、その魔物は毎年決まって村に住むヲトメ(少女)をイケニエ
として要求してきた。村人たちは魔物を恐れ、その被害から村を守るために魔物の要求通
りにヲトメを捧げていたが、ある時、その村を訪れた若者(宗教者)が魔物を退治するこ
とを約束し、自分がヲトメの代わりにイケニエとなって魔物がやってくるのを待ち受け、
連れていた犬などの援助をえて勇敢に闘い(あるいは宗教者は呪術的な力を発揮して)魔
物を退治し、村人たちを長年の苦しみから解放するのである。宗教者の場合はそうではな
いが、魔物を退治した若者はイケニエから救出したヲトメと幸せな結婚をするという結末
をもつ場合が多い。」26
ペルセウス・英雄神話型ともいうべき類型で、日本では、『古事記』、『日本書紀』の
「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」神話や『今昔物語』の「猿神退治」27などがある。
もう一つのタイプは人柱型である。「イケニエとして神に捧げられてしまった悲劇や犠
牲的精神を称える話型である。いろいろなヴァリエーションをもつが、そのおおよその内
容は次のようなものである。村の中を流れる暴れ川の堤防や橋が洪水のたびに流出して村
人は困っている。あるいは城を築こうとするが難事業で工事が捗らない。困り果てた人び
とは相談の結果(占い師や宗教者の助言によって)、川の神の怒りを鎮めるためにイケニ
エを捧げて橋桁や堤防の底に埋めようということになる。そこで村のために自ら志願した
り、占いに当たったりしたヲトメや村長や通りかかった乞食の親子などが犠牲となって生
き埋めになる。そして、そのお蔭で頑丈な橋や堤防や城を築くことができ、人びとの苦し
みは救われたということである」28。『記紀』の「弟橘比売」入水譚、『日本書紀』の「茨
田の堤」、『神道集』の「長柄の人柱」などがこれであり、各地に昔話として非常に多く
伝承されている。
以上の二つの人身御供伝承に加えて、人身御供と宗教学的に同質の思想に起因する風習
として「殉死」があげられる。これは歴史的事実、事件として起こっており、「魏志倭人
伝」に卑弥呼が死んだ際、多数の殉死者があったこと、『日本書紀』垂仁天皇の時代に殉
葬の禁止や殉死の代わりに埴輪などが作られたことが伝えられている。これらは死んだ主
25
三浦佑之、「イケニエ譚の発生―縄文と弥生のはざまに―」、小松和彦編、『異人・生
贄』、怪異の民俗学⑦、東京、河出書房新社、2001 年、176~205 頁
26
三浦前掲書、178 頁 9 行目以下。
27
:『今昔物語集』巻第二十六 本朝付宿報「美作の国の神、猟師の謀に依りて生贄を止む
る語 第七」、森正人校注、『今昔物語集五』、「新日本古典文学大系 37」、東京、岩波
書店、1996 年、28-33 頁。『今昔物語集』巻第二十六 本朝付宿報「飛騨の国の猿神生贄
を止める語 第八」、森校注前掲書、33-43 頁。
28
同上、179 頁 3 行目以下。
7
『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
2014 年 7 月発行
君に死者の世界で仕えるという多神教的な思想背景を持っている。武家社会になり主君に
対する忠義を表現するものとして殉死の風習が行われた。伊達正宗(1636 年没)の殉死者、
明治天皇崩御に伴う乃木希典の殉死(1912 年 9 月 13 日)が知られている。
以上の人身御供の三つの類型の主なものを具体的に概観する。
2.1. 英雄神話型人身御供譚・「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」神話
日本の英雄神話型人身御供譚として、素戔嗚尊(スサノウノミコト)による八岐大蛇退
治は最古のものであり、『日本書紀』29と『古事記』30の両方に伝承されている。細部の差
異はあるが、話の展開はほぼ同じである。以下に『日本書紀』より引用する。
『日本書紀』神代上 八段(原文)
是時、素戔嗚尊、自天而降到於出雲國簸之川上。時、聞川上有啼哭之聲、故尋聲覓往者、
有一老公與老婆、中間置一少女、撫而哭之。素戔嗚尊問曰「汝等誰也。何爲哭之如此耶。」
對曰「吾是國神、號脚摩乳、我妻號手摩乳、此童女是吾兒也、號奇稻田姬。所以哭者、往
時吾兒有八箇少女、毎年爲八岐大蛇所呑、今此少童且臨被呑、無由脱免。故以哀傷。」素
戔嗚尊勅曰「若然者、汝、當以女奉吾耶。」對曰「隨勅奉矣。」
故、素戔嗚尊、立化奇稻田姬、爲湯津爪櫛、而插於御髻。乃使脚摩乳・手摩乳釀八醞酒、
幷作假庪假庪、此云佐受枳八間、各置一口槽而盛酒以待之也。至期果有大蛇、頭尾各有八
岐、眼如赤酸醤赤酸醤、此云阿箇箇鵝知、松柏生於背上而蔓延於八丘八谷之間。及至得酒、
頭各一槽飲、醉而睡。時、素戔嗚尊、乃拔所帶十握劒、寸斬其蛇。至尾劒刃少缺、故割裂
其尾視之、中有一劒、此所謂草薙劒也。草薙劒、此云倶娑那伎能都留伎。一書曰「本名天
叢雲劒。蓋大蛇所居之上、常有雲氣、故以名歟。至日本武皇子、改名曰草薙劒。」素戔嗚
尊曰「是神劒也、吾何敢私以安乎。」乃上獻於天神也。
(現代語訳)
素戔嗚尊(スサノオノミコト)が自ら天から下って、出雲の簸之川(ヒノカワ)の川上
29
坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注、『日本書紀上』神代上第八段、「日本古
典文学大系 67」、東京、岩波書店、1965 年、121-122 頁。
原文 available from http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_01.html
現代語訳 available from http://nihonsinwa.com/page/725.html
30
青木和夫、石母田正、小林芳規校注、『古事記』「日本思想体系 1」、上巻、東京、岩波
書店、1982 年、55-59 頁。
原文 available from http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_03.html
現代語訳 available from http://nihonsinwa.com/page/724.html,
http://nihonsinwa.com/page/725.html
8
『聖書と神学』第 27 号,73-97 頁,日本聖書神学校キリスト教研究所
2014 年 7 月発行
に降り立ちました。 そのとき、川上に泣く声が聞こえたので、声の方へ行くと、老爺と老
婆がいて、その間に一人の少女を置き、抱いて泣いていた。
素戔嗚尊が 「あなたたちは、誰だ? なぜそのように泣いている?」と尋ねると、。 「わ
たしはこの国神の脚摩乳(アシナヅチ)です。わたしの妻は(テナヅチ)といいます。こ
の少女はわたしたちの子供で、奇稻田姫(クシイナダヒメ)といいます。泣いている理由
ですが、かつて私たちには八人の娘がありました。毎年、八岐大蛇に呑まれてしまい、今、
この少女も呑まれようとしています。免れる方法がありません。それで悲しんでいるので
す」と答えた。素戔嗚尊は「それならば、あなたは、その女をわたしに差し出せますか。」
と言った。脚摩乳は「仰せのままに、差し上げましょう」と答えた。
素戔嗚尊は、奇稻田姫を湯津爪櫛(ユツツマグシ)という櫛に変え、自分の髪に挿した。
脚摩乳と手摩乳に八醞酒(ヤシオリノサケ)を作らせ、 八つの桟敷を作らせ、それぞれの
桟敷に馬の飼葉桶を置いて、そこに酒を注いで待った。
時至ると果たして大蛇が現れ、頭と尾は八本に別れ、目は赤く熟れたホウズキのようで、
松やヒノキが背中に生え、胴体は八つの丘と八つの谷にわたっていた。酒を飲むに至り、
頭はそれぞれの桶を飲み、酔って眠った。 このとき、素戔嗚尊は腰に差していた十握劒(ト
ツカノツルギ)を抜き、その蛇をずたずたに斬った。尾を切った時、剣の歯が少し欠けた
ので、その尾を割って裂くと、中に一本の剣があった。 これが草薙剣(クサナギノツルギ)
である。
草薙剣、これを倶娑那伎能都留伎(クサナギノツルギ)と言う。ある書によると、本名は
天叢雲劒(アメノムラクモノツルギ)と言う。
思うに、大蛇の居るの上には常に雲がある。そのため名付けられたか。日本武皇子の時に
名を草薙剣と呼ばれるようになった。
素戔嗚尊は、「これは神の剣だ。私のものにするわけにはいかない」と言って、天神(ア
マツカミ)に献上した。
素戔嗚尊の八岐大蛇退治において人身御供を要求するのは、邪神もしくは怪物である。
またこの神話において、神々は天照大神や素戔嗚尊、またここに国の神とされている脚摩
乳やその妻手摩乳であって、つまり人間の祖先である。この物語は聖書が持っている天地
の創造主である一神教とは全く違った神概念のもとにあることが前提とされている。この
ような状況は、「今昔物語」の「猿神退治」にも共通しており、邪神、怪物の前に無力な
村人を勇気ある知恵者が救うというパターンである。この意味において、明治期の知識人
が必死で否定しようとした「日本人食人説」は、神話論的に否定することが可能である。
つまり、人身御供が捧げられる神が、人間が神になった神であることは、原則的にないか
らである。民間伝承などには、追儺の祭りなどが、ある一人の人に共同体の厄を負わせて
これを屠るという考えがあり、思想的には食人儀式が想定可能であるが、それは「記紀」
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の神話が持つ思想によって否定排除されたと考えることができよう31。
2.2. 人柱伝承
2.2.1. 「弟橘媛(オトタチバナヒメ)の入水」
人柱伝説の日本の文献における初出は、「記紀」の日本武尊神話に登場する弟橘媛入水
譚である。
『日本書紀』巻第七、景行天皇、(原文)32
亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船
漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、
王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、
船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。
(現代語訳)
また(日本武尊が)相模に進み、上総に行こうと欲し、海を望んで、「これは小さな海
だ。飛び跳ねてでも渡れよう」と高言した。ところが海の中ほどに至ると、暴風がたちま
ち起こって皇子の船は翻弄されて渡ることができなかった。そのとき弟橘媛という皇子に
つき従う妾がいた。穂積氏の忍山宿禰の女である。「いま風が起こり波が荒れて皇子の船
は沈もうとしています。これはきっと海神のしわざです。賎しい私が皇子の身代りに海に
入りましょう」と皇子に言った。そして、言い終るとすぐ波間に入った。暴風はすぐに止
み。船は無事岸に着くことができた。そのため時の人、その海を名づけて、馳水と言う。
『日本書紀』においては、日本武尊の高言が、海神の怒りを招いたとされているが、『古
事記』には、そのような理由は削除されている。古事記偽書説の傍証となる編集と見るこ
とが可能である33。この話はヨナ書を思い起こさせるが、決定的なことは、日本武尊の身代
わりとして弟橘媛が入水することである。ヨナ書においては、神はヨナの不服従のゆえに
嵐を起こし、ヨナ自身もそのことを知って、自分の責任として、彼自身が海に投げ込まれ
る。神に仕える者の責任がヨナ書には明瞭になっている。これに対して、皇子の過ちの身
代わりと弟橘媛はなることができる。ダビデ王のバトシェバとの過ちでは、ダビデ自身は
31
追儺の祭りが人身御供の祭りではなかったかという考察は、宗教学者加藤玄智によって
1925 年に『中央史壇』に発表された「尾張国府宮の直会祭を中心として見たる人身御供及
び人柱」という論文によって指摘されている。礫川編、前掲書(注 4 参照)、237-247 頁。
32
『日本書紀』、巻第七、景行天皇、前掲書、304-305 頁。
原文 available from http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_07.html
現代語訳 available from http://nihonsinwa.com/page/1147.html
『古事記』、中巻(景行)、前掲書、182-183 頁
原文 available from http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_11.html
現代語訳 available from http://nihonsinwa.com/page/540.html
33
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死なず、子供や妻たちが災難に遭う(サム下 11‐12)。また人口調査においても民が疫病
によって苦しめられる(サム下 24)。しかし、神から問われ、叱責されているのはダビデ
自身である。それに対して、日本武尊ト個人の過ちがここでは全く問われていない。この
思想は、第二次世界大戦終了後の天皇の戦争責任に関する問題においても明瞭に反映され
ている。
2.2.2.「茨田の堤(マムタノツツミ)」
『日本書紀』仁徳天皇 11 年 10 月の記事に茨田の堤による治水事業が困難を極め、人柱
を河の神に捧げよという神のお告げの夢を仁徳天皇が見たという話である。『古事記』に
は、渡来人である秦人を用いて茨田の堤が完成したことが記録されているが、この人柱譚
は、全く削除されている。これもまた古事記偽書説を裏付ける傍証の一つと見なされる。
『日本書紀』巻第十一、仁徳天皇(原文)34
冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田
堤、是時、有兩處之築而乃壤之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連
衫子
衫子、此云莒呂母能古。二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱
于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。
唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。
是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、
自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。
是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸
斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。
(現代語訳)
冬十月、宮(難波の高津宮)の北の郊原を掘り、南の川の水を引いて西の海に引き入れ
た。よってその川を「堀江(ホリエ)」と言う。また北の川の洪水を防ぐために、茨田の
堤を築いた。このとき二箇所、築いてもすぐに崩れて塞ぎ難いところがあった。時に仁徳
天皇は夢を見て、「武蔵人の強頸(コワクビ)と河内人の茨田連衫子(マムタノムラジコ
ロモノコ)―衫子は莒呂母能古(コロモノコ)と読む― の二人を河伯(カワノカミ)に祭
れば、必ず塞げる。」と、神が現れて教えた。すぐに二人を探して見つけ出し、河神に祭
った。強頸は泣き悲み、川に没して死に、その堤は完成した。
ただし衫子は全きひょうたんを二つ取り、塞ぐのが困難な川に臨んで、二つのひょうた
んを取り、川の中に投げ入れて、「河神よ!
34
祟りによって、わたしを生贄とした。その
『日本書紀』巻第十一、仁徳天皇十一年冬十月、前掲書 393-395 頁。
原文 available from http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_11.html
現代語訳 available from http://nihonsinwa.com/page/1362.html
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ためにわたしはここに来ている。わたしを得ようと思うならば、このひょうたんを沈めて、
決して浮かばなせるな。それならば、わたしは真の神と知って、自ら川の中に入ろう。も
しも、ひょうたんを沈められなければ、おのずと偽りの神と知る。いかにして、いたずら
に我が身を滅ぼすべきか。」 と、言った。するとつむじ風がたちまち起こり、ひょうたん
を引き入れて川に沈めようとした。しかし、ひょうたんは波の上に転がるばかりで沈まな
かった。それで速やかに浮き揺れながら遠くへと流れていった。これによって衫子は死な
ないでもその堤は完成した。それで衫子の知恵によってその身を滅ぼさずに済んだ。それ
でその時代の人は二箇所のことを名付けて「強頸断間(コワクビノタエマ)」「衫子断間
(コロモノコノタエマ)」と言う。この年、新羅人が朝貢に来た。それでこの役に使役し
た。
難工事に際しての人柱伝説として記録されている最古のものである。しかし、また日本
各地に伝承されている多くの水害や堤防工事に伴う人柱伝説のなかで非常に特異な要素を
持っている。それは強頸は、人柱として殺されてしまうが、衫子は、知恵によって人柱と
ならずに済み、共に堤の決壊箇所が塞がれることである。柳田国男が調査した松浦佐用姫
伝説では、かつて人柱にされたり、呪いを受けて蛇身となった女が、村人に生贄を要求す
るようになり、その人身御供の当番になった家の主人が、京都から佐用姫という身代わり
を買い求める。佐用姫は人身御供となるが、仏教信心が、読経しつつ人身御供となると、
打診となった女は救われ、佐用姫も解放されて故郷へ帰るということになっている35。佐用
姫伝説では、人柱を要求する邪神が仏法というより超越的な力によって制圧されるが茨田
の堤においては、そのような集約点がない。天皇が見た夢に従って、難工事が成し遂げら
れたという点が中心点とも言えるが、非常に不可解な伝承である。犠牲となった強頸は、
「正直者が馬鹿を見る」という言葉を思い起こさせる。人柱を巡る強頸と衫子の二通りの
対応がある伝承の存在は、当時の宗教政治的意味を持っていると考えられる。つまり強頸
の人柱が有効であったということによって土俗の人柱風習を否定しない。同時に日本には
古来より、仁徳天皇の時代に衫子以来、人柱などという慣習が公的には無効であるという
宣言である。そして強頸と衫子の例がしめすように、人柱となって死ぬのは、個人の責任
であって、天皇にその死の責任が帰せられるべきではないということを意図しているので
はないだろうか。人柱となって死ぬ者に対する共同体の責任の回避は、人柱伝説の最も主
要なモチーフである36。
松浦佐用姫伝説のように、「一旦は自発的あるいは受身的に人身御供の身代わりとなっ
た『異人』が、犠牲にならずに解放されるというのは、人身御供譚の定型的な語りである。
35
柳田国男、「人柱と松浦佐用媛」、『民族』第二巻第三号(1927 年 3 月)、礫川前掲書
271‐295 頁。
36
「茨田の堤」の人柱伝承についての論考は、見つからなかった。
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すなわち『異人』は、決して神に食われることがないのである。」37と六車は認識している
が、これは、人柱型の人身御供譚にペルセウス・英雄神話型が合体したものであるとりか
いすべきである。
2.2.3.「長柄(ナガラ)の人柱」
「長柄の人柱」伝説は、「キジも鳴かずば撃たれまい」などの歌と共に現代社会におい
てももっとも人口に膾炙している人柱伝説である。様々なバリエーションがあるが、文字
化された最も古いものは『神道集』に掲載されている「橋姫明神事」である。「神道集は、
仏教理論に導かれて神道教説のようやく盛んになってきた中世前期に、国内の広い範囲に
わたって布教対象を求め、諸社の縁起や祭事の習俗等について説きひろめた唱導僧のため
のテキストとして編まれたものと考えられる。」38
三十九(八)橋姫明神事(原文)39
抑橋姫
申神、日本國内大河・小河橋守神也、而接州長柄橋姫、淀橋姫、宇治橋姫、申、
其數多申、今長柄橋姫事明、自餘橋姫准申、抑人王三十八代帝齊明天王申、皇極天王重祚
給時御名、接州長柄橋懸、人柱被立、其河橋姫成、依之河死人、皆橋姫眷屬成也、其故橋
懸事度重事行、人柱立由内談有折節、浅黄袴膝切、白サイテヲ以縫付着男一人出來、其妻
二三計少者負、斯處雉鳴、人々聞差遶(射取)、此男亦材木上息、此橋人柱、浅黄袴膝切、
白衣端縫付、人柱立程、相違無事行、徒口立程、橋奉行聞之、佐汝外別人有、則取縛、橋
柱被立、其妻女夫別悲、一首歌讀、硯紙乞書、橋柱結付歌、泣泣少者負、身河沈、其歌云、
物ユヘハ父ハナカラノ橋柱ナカスハキシモトラレサラマシ
讀、此女則此橋々姫成、人々哀、橋爪社立、橋姫明神祝也、
(現代語訳)40
三十九 橋姫明神の事
橋姫という神は、日本国内の大きい川、小さい川にかけられた橋を守る神である。だか
ら摂津長柄の橋姫、淀の橋姫、宇治の橋姫など、その数は多いが、今長柄の橋姫の話をし
よう。他の橋姫はそれに準じていただきたい。齊明天皇の御代、摂津の国で長柄の橋がか
けられた時、人柱が立てられた。それがこの川の橋姫となったのである。そのため川で死
ぬ人はみな橋姫の眷属になるという。この橋はこれまでたびたびかけられてけれども、い
つも長続きがしないので、人柱を立てようとこっそり相談していた。ちょうどその折、膝
37
六車前掲書、215 頁 11-13 行。
岡見正雄・高橋喜一校注、(財)神道大系編纂会編、『神道体系 文学編一 神道集』、
東京、1987 年(昭和 63 年)、7 頁。
39
『神道集』巻第七三十八「橋姫明神事」、岡見校注、前掲書、194~195 頁。
40
現代語訳に際しては以下を参照して用いた。一部用いた原文(前掲書)に合わせて訳し
た:貴志正造訳『神道集』、「東洋文庫 94」、東京、1967 年、平凡社、113‐115 頁。
38
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のやぶれを白い布ぎれで縫い付けた、浅黄の袴をはいている一人の男が通りかかった。二、
三歳の幼児を背負ったその妻らしい女もやってきて、その辺で共に休息していた。そこへ、
すぐ近くの野原から雉の鳴き声がした。「それッ」と声を聞きつけ、人々が射て取った。
この男は材木の上に休んでいたが、「この橋の人柱には、浅黄の袴の膝が破れに白い布き
れを縫い付けている人を人柱に立てるならば、間違いなくことは行われるだろう。」とつ
まらぬ差し出口を言った。これを聞いた橋奉行は、「それなら、お前より他の人がいるだ
ろうか。」と言って、直ちに捕えて橋柱に立てた。その妻は夫との別れを悲しんで、歌を
一首詠んで、硯と紙を下さいと願って書きつけ、橋柱に歌を結わえ付け、幼児を背負った
まま泣く泣く川へ身を沈めた。その歌に
物言えば、父は長柄の橋柱、鳴かずば雉もとられざらまし
と読んだ。この女が即ちこの橋の橋姫となったのである。人々は哀れんで、橋の際に社を
立て、橋姫明神として祭ったという。
「白羽の矢が立つ」という言葉は、もともと人身御供となる家の門などに射られた白羽
の矢が語源であるという。人柱伝説において、どのように人柱となる人間が選ばれるかは
一つの大きな要素である。人柱になる人の条件を言った本人が人柱とされるというこの長
柄の人柱伝説と同系の伝説は日本各地にある。これは人柱の犠牲となった人の命の責任を
犠牲者本人に負わせている。高木が、採集した人柱伝説には、村人の困難な状況を見て、
人柱を自ら志願する者、たまたま通りがかった旅の母子が「人柱に使ってくれ」と聞かな
いためやむなく人柱としたとか、人柱を言い出した人が人柱とされるなどがある41。通りが
かりのよそ者を見た一人が「この人を人柱に」と言いだし、皆がそれにつられて群集心理
のように犠牲となるものも高木は挙げているが、その場合は洪水で堤が決壊した緊急状態
である42。全体的に高木が収集した人柱伝説は、民族至上主義的立場から、人柱伝説を自己
犠牲精神の美談として利用できるものが多い。
犠牲者の命の直接の責任を回避し、社を建てて後に祭るということによって、共同体の
良心痛みを緩和することが行われる。犠牲となった者を覚え、神として祭るという特別待
遇を与える。これは共同体自身は悪くないのだという言い訳の論理と言うことができる。
また犠牲者の怨念や恨み、つまり祟りを恐れる不安も大きな原因の一つである。つまり恐
怖が共同体を支配している。したがって逆に、城主や村落共同体の圧力によって本人の意
志に反して人柱とされた場合は城主の家が没落したり、亡霊などが現れるという祟りが語
られる43。
41
高木敏雄、「人柱伝説」、『日本伝説集』、東京、1913 年、武蔵野書院、礫川前掲書、
103‐115 頁。
42
「一言の宮」(埼玉県北葛飾郡)高木前掲書、112‐113 頁
43
人柱伝承において城主自身が誰かを人柱と定めた話では、その祟りによって城主の家系
が早く断絶したという理由譚となっているものがある。例:加藤清正と熊本城について
avairable from http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/08/post_ed0b.html 。
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3. 殉葬と殉死伝承
死者の弔いに際して、その妻や従者を殉葬することは、古代中国にも見られる風習であ
るが、確たる物証がないことを理由に日本の民俗学会などでは、日本に殉葬があったこと
は確認されていないことと長くされてきた。しかし、中国の歴史書『三国志』の「魏志倭
人伝」に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の女王卑弥
呼が死去し塚を築いた際に、100 余人の奴婢が殉葬されたという記録がある。
3.1. 垂仁天皇による殉葬の禁止と埴輪の起源
垂仁天皇は、日本書紀によれば、その在位は、99 年で、宮内庁のホームページによると
西暦では紀元前 29 年 ~紀元後 70 年とされる44。垂仁天皇の歴史的実在性は、それほど確
固たるものではない。殉葬の禁止は垂仁天皇の 28 年である。そしてその 4 年後、垂仁天皇
の 32 年、殉葬者の代替物として埴輪を作ることが野見宿禰(ノミノスクネ)によって提案
される。
*垂仁天皇による殉葬の禁止『日本書紀』巻第六(原文)45
廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花
鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚
噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古
風之、非良何從。自今以後、議之止殉。
(現代語訳)
即位 28 年冬 10 月 5 日。天皇の同母弟の倭彥命(ヤマトヒコノミコト)が亡くなった。
11 月 2 日。倭彦命を身狹(ムサ=大和国高市郡=現在の奈良県橿原市見瀬町)の桃花鳥坂
(ツキサカ)に葬った。ここにおいてそばに仕えていた人々を集め、全員を生きながら、
墓の周りに埋めて立た。数日は死なずに、昼夜も泣き叫んでいた。ついに死んで朽ち腐っ
た。犬やカラスが集まって来て、それらを食べた。天皇はこの泣き叫ぶ声を聞き、悲しく
思った。それで天皇は群臣に仰せになった。「生きているとき恵みを与えたことによって、
死者に殉死させるのは、非常に痛々しいことだ。それが古い慣習だとしても良くないこと
に従う必要はない。今より後は、話し合って殉葬を止めよ」。
*野見宿禰による埴輪の起源:『日本書紀』巻第六(原文)46
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命(一云、日葉酢根命)也薨。臨葬有日焉、天
44
45
46
available from http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/img/keizu-j.pdf
『日本書紀』巻第六 活目入彦五十狹茅天皇(垂仁天皇)、前掲書 272‐273 頁。
『日本書紀』巻第六 活目入彦五十狹茅天皇(垂仁天皇)、前掲書 272‐273 頁。
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皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君
王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出
雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、
以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便
議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍
下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、
卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部
連等之始祖也。
(現代語訳)
即位 32 年秋7月6日。皇后の葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)が亡くなった。 ある伝に
よると、葉酢根命(ヒバスネノミコト)という。葬るまでに日があった。 天皇は群臣に仰
せになった。「死人に従うことは、以前に良くないことを知った。今回の葬儀はどうする
べきか?」。 野見宿禰(ノミノスクネ)は進み出て言った。 「君王の陵墓(ミササギ)
に生きている人を埋めて立てるのは良くないことです。どうして後世に伝えられるでしょ
うか。願わくは、今代わりになることを話し合い申し上げます」と言った。そして直ちに
使者を派遣し、出雲国の土部(ハジベ)100 人を召し出して、自ら土部を使って、埴(ハニ
ツチ)を取り、人や馬など種々の物の形を造って、天皇に献上して言った。「今後、この
土の物を生きた人に替えて、陵墓に立てて、後世の規則としましょう」。天皇は大変喜び、
野見宿禰に仰せになった。「お前の便議は本当に私の心に適ったものだ」。即ちその土物
を初めて日葉酢姫命の墓に立てた。それでこの土物を名付けて『埴輪(ハニワ)』と言い。
または立物(タテモノ)と名付けた。それで仰せになりました。「今後は、陵墓に必ず、
この土物を立て、人を傷つけてはならない」。天皇は野見宿禰を厚く功を賞し、て鍛地(カ
タシトコロ)を与え、土部の職に就かせた。これによって本の姓を改めて土部臣(ハジノ
オミ)と言った。これが土師連(ハジノムラジ)などが天皇の喪葬を司る縁起である。い
わゆる野見宿禰はこの土部連などの始祖である。
垂仁天皇による「殉葬の禁止」と「殉葬の代替物としての埴輪の起源」の間には、二人
の王子のうち、兄が弓矢を望み、弟が皇位を望み、父である垂仁天皇は、両者の願いどお
りにしたという話が挿入されているが、国学的な立場からは、この二つの話は、埴輪と土
師連の起源譚であって、事実は埴輪と土師連であり、殉葬が歴史的事実として存在したこ
との証明にはならないとされてきた47。しかし、殉葬が実際に行われていたことを平林章仁
47
三浦佑之、「殉死と埴輪」、『東北学 』3、山形市、2000 年、東北芸術工科大学東北文化
センター、作品社刊、available from
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/junshi-to-haniwa.htm。
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が、歴史資料や考古学の発掘事例などをもとに確定した48。しかし、この平林の見解が 2000
年に発表されて認められるに至るのは驚くべきことであって、以下に国学思想が歴史事実
の誤認をもたらしたかという顕著な例と言うことができる。
3.2. 薄葬令
『日本書紀』大化 2 年(646 年)3 月 22 日条によれば、孝徳天皇{在位:孝徳天皇元年 6
月 14 日(紀元 645 年 7 月 12 日)~白雉 5 年 10 月 10 日(紀元 654 年 11 月 24 日)}によっ
て大化の改新の後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化
が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている。
『日本書紀』巻二五(原文)49
大化二年三月甲申《廿二》◆甲申。詔曰。…<略>…凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使
收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人
藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。
大化二年(646 年)三月二十二日に、孝徳天皇が仰せになった…<略>…凡そ畿内より、諸
国等に及ぶまで、一所に定めて、埋葬し、汚らわしく処々に散らして埋めてはならない。
おおよそ人が死んだ時に、自ら首を絞めて殉死したり、或いは人の首を絞めて殉死させた
り、無理に死者の馬を殉葬したり、或いは死んだ人のために、宝を墓に納め、或いは死ん
だ人のために、断髪して、股を刺して故人を悼む言葉を言うこと。このような古い習わし
は、すべて止めよ。もし命にそむいて、禁じたことを行うならば、必ずその一族を罰する。
支配者が神的位置づけをされている場合、殉葬は、人身御供として位置づけられる50。古
代日本においては殉葬がもたらす経済的損失の大きさが、その廃止の原因となっている。
武家社会では殉死が行われるが、これは主君への忠誠と愛着を表現する美徳として理解さ
れていた。殉葬は、主君が死者の国で困らないようにという残された共同体の慣習として
行われるが、殉死は、基本的に主君に仕えた従者の個人的な判断と意志による51。武家社会
における殉死においても単に個人の意志で行われるのではなく、社会的に半強制的側面が
あったことが伝えられている。乃木将軍夫妻の殉死の場合、天皇が現人神という位置づけ
にあり、自らを捧げた人身御供的要素がないわけではない。
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平林章仁「殉死 ・ 殉葬 ・ 人身御供」、『三輪山の古代史』、東京、2000 年、白水社。
『日本書紀』巻第二十五、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注、『日本書紀下』
「日本古典文学大系 68」、東京、岩波書店、1979 年、292-295 頁。
原文 available from http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html
50
Hans Wißmann, “Menschenopfer”, RGG4
51
仙台には伊達正宗の死に際する殉死者の数多くの墓がある。
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4. 日本の人身御供伝承から見たイサクの奉献伝承
イサク奉献(創 22:1~19)は、非常に難解な箇所として多くの議論がある。「神はなぜ、
神ご自身の約束に反するようなイサク奉献を命じたのか?」また「なぜ、アブラハムがイ
サクを殺そうとした瞬間に『その子に手を下すな』と止められたのか?」という解決し難
い問題が問われる。「2 節と 12 節は、測り知ることのできない神の意図を表現している。2
節における命令について我々は何もわからないのと同様に、12 節にある解決についても
我々には分からない。なぜ神が初めに息子を捧げるように要求するのか分からないし、な
ぜ神が結局最後にはその要求を取り消すのかも分からない。」52と W・ブルックマンが表現
するとおりである。また、「このイサク奉献といわゆる人身御供譚との類似性を指摘し人
身御供という風習が古代イスラエルにおいてあったことの傍証ではないか」という考えも
ある。
しかし日本の人身御供伝承とイサクの奉献を比較すると大きな違いが明瞭になる。それ
は、日本の人身御供伝承において、「犠牲を捧げよ」と命じた神自身が、犠牲を捧げる段
階になって「その犠牲をささげなくてもよい」とは、決して言わないということである。
いわゆる人身御供譚は、ヤマタノオロチのように、人身御供とされた者を英雄が邪神を退
治して救うというものである。また、人柱伝承などでは、長柄の人柱のように、人身御供
を言い出したものが犠牲として捧げられてしまうとか、人身御供の身代わりになる者が登
場したりとか、あるいは身代わりになった者が読経などの法力で邪神から救われるという
ものはあるが、人身御供を要求している神自身が自らの意志と計画に従ってその要求を撤
回することはない。人間の知恵によって、神が譲歩するというものはあるが、それはその
神の本来の意志ではない。
また「犠牲を捧げよ」という神が天と地を創造され、命を与える神であるということは
ない。災いをもたらす神、実りを与える豊穣神、雨をあたえる竜神などの神々であって、
それらの神々は人間の命を創り出す神ではない。つまり、「イサクを捧げよ」という神の
要求は、「私が与えたものを返せ」という正当なものである。アブラハムが素直に何らの
反論なくこれに従うのは、イサクが神の奇蹟的な力によって与えられたという客観的事実
性に根拠を持っている。
つまり、ここに明瞭にされているのは、人身御供譚の神々とイサク奉献を求める神の本
質的な違いであり、神観の違いである。アブラハムの神は、命を与えることができる生き
ておられる神であることが言われている。神は、私たち人間の知恵を超えた方であり、原
則や法則ではない。人身御供譚に登場する神々が、生贄をささげさせることを決して自ら
放棄することがないのは、これらの神々が人間によって作り出された法則、原則であるか
らだ。「災害によって、多くの人が死んだ。災害の神が人間の命を欲するのだ。ならば前
もって人間の命を差し出せば、災害の神は満足して、災害を起こして、人間の命を取らな
52
W. ブルックマン、向井考史訳『現代聖書注解 創世記』、東京、1986 年、日本基督教
団出版局、321 頁 11 行以下。
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いのではないか?」というような人間の考えに人身御供は基づいている。これは人間の主
観的思考に基づいているため、人間自身がその思考の矛盾に自ら気がつくことはない。
私たち人間は、神をさえ、法則や原則、規則の中に閉じ込めようとする。つまり神はこ
ういうものだと私たちの思考によって決めてしまう。一方に「あなたの子孫を空の星のよ
うに数えられないものとする」という約束があり、この約束に反する「イサクを捧げよ」
という神の命令は、人間においては二律背反の矛盾であるが、この二律背反は、神の計画
の存在を示唆し、救済史が展開される場である。弁証法的救済史ということができよう。
イサク奉献の命令を実行すれば、アブラハムの子孫繁栄の約束は成就されないと考える
のは、考えが私たち人間の思考の中で完結していることを示す。それは私たちの思考を超
えた全能なる神を信じていないことを意味する。そして人間の理性を超えたこの信仰が狂
信とならない理由は、イサク奉献を命じた神が、確かにアブラハムをカルデヤから召し出
し、導き続けてきた神その方であるという事実にある。人間の自分勝手な思い込みではな
く確かにそれを神の声としてアブラハム自身が聞き、アブラハム自身がそれを行うという
事実である。従って「もし少しでも、神が止めるのが少しでも遅れたら、イサクは死んで
しまっていたではないか。なんと危険なことを神はなさるのか。」という非難は、全てを
支配される全能の神を否定するものであって、聖書の証する神に対する信仰の否定が前提
となっている。「神のなさることは、時に適って美しい」という信仰告白において理解さ
れなければならない。そして神でもないのに、我々人間は、人を試みるという傲慢が批判
されなければならない。
神はアブラハムに「あなたの息子イサクを捧げなさい」と命じる。多くの日本の人身御
供譚において神に捧げられる人間は、神から特定の個人として指定されるもの例外的であ
る53。犠牲者の名前が伝承されているのは、彼らが犠牲になったからである。犠牲にならせ
た共同体が彼らの名前をその非業の死のゆえに記憶するのである。イサク奉献を命じた神
は、しかし、イサクの名を知っている。国王に名を知られていることが大きな名誉である
ように、永遠なる神に覚えられているということは、それとは比較にならない大きな喜び
なのだ。つまりここにおいて、人身御供があくまで人間の現世利益に基づくこの世の神で
あって、聖書が語る永遠なる方で、私たち一人一人に個人的に人格的な関係を持つ神では
ないことが明らかにされる。人身御供の神は、犠牲者と人格的な関係性が全くない。
殉葬や殉死においては、神的な位置を占める主君と従者の個人的人格的な関係性がある。
彼らは主君の死後、自らの生きる意味を死に見出す。それは大きな悲しみ哀悼の表現でも
あろう。しかし、聖書が証する神は、いかなる悲しみや絶望の淵においても私たちに希望
と生きる勇気を与える方として位置づけられている。殉葬や殉死は聖書において根本的に
否定されている。人間が神に代わる立場に立つことはないからである。殉教は、殉死では
ない。神は永遠に生きて働いているのだから、私たちは殉死をする必要はない。殉教は、
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「茨田の堤」の強頸と衫子は、天皇の見た夢で指名されているためこの例外にあたるが、
天皇が、事前にそれが誰であるかを知らないという点では同じである。
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この永遠に生きて働いておられる方が本当にいらっしゃるという証であり、私たちには戦
うべき信仰の戦いがあることを示している。武器によらず、愛によって。
おわりに
人身御供譚は人身御供の風習がなくなったということを伝承のスタイルとして持つ。ま
た宗教学的宗教発達論は、多神教から一神教、無秩序な自然崇拝から倫理道徳性を持った
宗教への発達を暗黙の前提としている。このような視点から「イサクの奉献」やその他の
聖書の人身御供に類似している記述が誤解されているのではないだろうか。
聖書においては、古い昔には人身御供の風習があって、人が捧げられたということは書
かれていない。アブラハムの昔から人身御供はなかったということが伝承されているので
ある。割礼についてもこれは人身御供に遡るのではないかというのは宗教発達論的見地か
らの読み込みであって、聖書には一言も人身御供の終焉として割礼は位置づけられていな
い。人身御供は聖書において後代に人間が持ち込んだ悪習であり罪である。エフタの誓い
は、彼が勝手に御前に誓ったのであって、神が要求したのではない(士師 11)。神に誓っ
た言葉の重さのゆえにエフタは、神に娘を捧げざるを得ないのである(士師 11,35)。それ
は繰り返されてはならない悲劇であるから書き記され伝承されているのである。そしてま
た、神に犠牲として捧げられた者が神となることは決してない。
祖先崇拝に基づく神道のような多神教は、現世利益を目的とする。現世利益とは究極の
ところ子孫の繁栄にある。したがって「イサクの奉献」は現世利益の完全な否定であり、
偶像なる神の完全な否定がアブラハムの心の内に確立されたことを意味している。
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