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米穀検査制度の史的展開過程

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米穀検査制度の史的展開過程
l
米穀検査制度の史的展開過程
一一殖産興業政策および食糧政策との関連を中心に一一
玉
真之介
1
. 課題と視角
2
. 明治農政の展開と同業組合検査
(
1
) 貢米制度の廃止と米質の粗悪化
(
2
) 殖産興業政策の展開と同業組合準
則
(
3
) 同業組合検査とその限界
(
補
〕
米券倉庫について
1
.
3
. 食糧政策の成立と県営検査
(
1
) 米穀市場の近代化と県営検査
(
2
) 食糧政策の成立と県営検査
(
3
) 県営検査と小作人保護奨励施策
(
4
) 米穀検査をめぐる小作争議と小作
慣行
4
. 小 括
課題と視角
米穀検査が市場制度として制度化されてゆく歴史的道筋を,わが国の食糧政
策との関連において考察すること,これが本稿の基本的課題である。そしてこ
のような課題の設定は,以下のような 2つの視点に立脚している。
その第 1は,米穀検査の食糧政策との関連に係わる視点である。いうまでも
なく農産物は,自然を利用した有機生産物であるがゆえに,品質格差が大きく
斉一性を欠いている。このことは,計画的,画一的生産が可能で,初めから商
品として生産される工業製品と農産物との大きな違いであり,このために農産
物が商品化されるに際しては,一定のランクをもった規格への選別と一定の品
質規準に基づく格付けが要請されることになる。農産物検査制度は,いわばそ
うした農産物の商品としての標準化を保障する制度的機構であって,それゆえ
単に取引を円滑,容易にするといった流通過程上の効能にとどまらず,農産物
の品質の向上という生産過程に対しでも重要な役割を果たすものとされる C1。
)
つまり,検査というフィノレターが農産物に課されることによって,農業生産自
2
農業総合研究第4
0巻 第 2号
体が商品流通に見合うものへと標準化されていくということである。
問題はここにある。すなわち,わが国のように外からの圧力に促迫されて資
本主義の諸制度が移植され,国民経済の資本主義的編成が強まる中でも,農業
は依然として小経営を基幹とする非資本主義的形態のまま商業化をとげてきた
場合には,食糧の生産量ばかりでなく販売・流通といった市場構造の発展もま
た産業人口=消費人口の不均等な拡大に対して立ち遅れてゆかざるを得ない。
その対策が米のような国民の主要食糧の場合には,食糧政策上の重要課題とな
ると共に,そこで米穀検査の制度化も,それが米穀市場の発展に資する意味に
おいて,食糧政策上無視できない位置を占めると考えられるのである。米穀検
査の制度化を食糧政策との関連で捉えようとするのは,そのような意味におい
てであるけ〉。
これに対して第 2には,米穀検査の市場制度としての側面に関する視点であ
る。この点は,これまでの研究史の反省とも深く係わっている (3)。すなわち,
米穀検査も明治末の県営検査の段階に至れば,行政が市場流通の一部に直接介
入して,罰則をもって商品売買の一部に規制を行なうという意味で
1つの市
場制度である。しかしそこでの制度的強制は,また商品交換のより円滑な発展
を目的とするものであった。
しかるに,これまでの研究ではこの検査の「強制」の意味が,文字通り地主
の利益擁護のための小作人取り締りと捉えられてきたといっていい (4)。それは,
確かに戦前の日本農業が物納小作料形態をとる地主小作関係を稲作において広
範に展開させていたことからいって,検査の強制によって生ずる負担は小作人
に,利益は地主に帰属しかねず,実際県営検査の開始が初期小作争議の導火線
となったことからいっても,上述のような県営検査に対する評価は決して根拠
のないものではなかった。しかし,そこでは地方庁が地主の利益のみで動くと
いった安易な前提があることを今問わないとしても,県営検査が曲りなりにも
国民経済の商品経済的発展に対応する市場経済的機能を要請された市場制度で
ある点への考慮が希薄であったように思われる。
つまり,一般的にいっても,それが商品経済の進展に伴って取引の円滑化や
米穀検査制度の史的展開過程
3
品位の向上といった機能を発揮しつつ,商品経済社会の制度として社会的に定
着してゆくためには,それが存続しうる国民経済的「合理性」が必要なだけで
なしそれによる利益もある程度まで社会的に均窪するものでなければならな
いはずで、ある。しかも,それがすでに述べたように「売買の自由」という資本
主義の市場原則を一部制限するものであるからには,その制度化を正当づける
根拠として,特定の利害を超越する「公共性」ないし「中立性」といった性格
が要求されると共に,またその一定の制度的保障も求められるものと考えられ
るのである。
もちろん,それは検査制度が実態的にも公共的,中立的なものとして機能し
たと言おうとするのではない。そうではなく,ある程度のそうした認知が社会
的に得られることが,その制度としての社会的定着の条件になる点を捉えるこ
とによって,むしろこの名分と実態に生じるギャップを市場制度の性格と機
能,およびその動態的変化を分析する上での鍵として重視しようというのであ
守
Q
。
以上のような視点に立つならば,これまで専ら「地主的なもの」とされてき
た県営検査の性格も,日本資本主義の成立とその産業的発展に伴う米穀市場の
発展,ならびに日露戦後の独占段階移行期に初発的に登場してくる食糧政策と
の関連で検討し直されねばならないしまた昭和恐慌期の激しい産米改良競争
の中で提起きれてくる国営検査が,結局食糧管理法に伴う統制品の収納検査と
してしか達成されなかったことの意味も,改めて問題にされねばならないであ
ろう (5)。
本稿はそのような課題意識と視角に立って,とりあえずは明治維新から日露
戦争後の県営検査の普及までを対象に考察するものとしたい。それ以降の展開
はまた続稿において果すものとする (6)。
注(
1
) もちろん工業製品であっても,国が製品の標準を定め,取引を門滑,合理化する
といったことは行なわれている。ただそれも生産行程が一定の規準を満たすかどう
かが問題となるのであって,製品を行政が在接検査するというようなものではない
(例えば工業標準化法。日本農林規格は原料が農産物であるために中間的〕。また輸
入防疫検査や輸出品検査はそれぞれが独自の目的をもっo
4
農業総合研究第4
0巻 第 2号
(
2
) 同 じ 農 産 物 で あ っ て も , 穀 物 等 の 主 要 食 糧 品 と 原 料 農 産 物 , あ る L、は育果物等で
は検査のあり方が違うが,行政的に制度化されていったのは米をはじめとする穀物
である。その意味で以上のような視点はあくまで,米穀を中心とする主要食糧農産
物を念頭においての話である。
(
3
) 米穀検査それ自体を対象とした研究は決して多いといえないが,様々の問題との
関 連 で 米 穀 検 査 制 度 の 検 討 を 行 な っ た も の は 少 な く な L、。まず,その歴史と概要に
関 す る 最 も ま と ま っ た も の と し て は , 児 玉 完 次 郎 『 穀 物 検 査 事 業 の 研 究 H西 ケ 原 刊
行 会 , 昭 和 4年),と「農産物検査に関する行政 J(農林大臣官房総務課『農林行政
史 』 第 2巻 , 農 林 協 会 , 昭 和
3
5年〉があり,
資料的価値が大きい。これに対し,
その社会経済的意義を検討したものとしては,小野武夫『農村!!e.j](現代文明史講
7年 ) の 第 7章 「 農 産 物 商 品 化 と 穀 物 検 査 制 度 j,
座 第 9巻 , 東 洋 経 済 新 報 社 , 昭 和 1
榎勇「北海道における農産物公営検査実施の社会・経済的意義j(
1
1
農業総合研究」
第 1
7巻 第 3号 , 昭 和 39年 〕 が あ る 。 更 に そ れ を よ り 農 政 に 引 き つ け て 検 討 し た も
の と し て は , 農 業 発 達 史 調 査 会 編 『 日 本 農 業 発 達 史 』 第 5巻(中央公論社,昭和 3
0
年 〉 の 第 7章 「 農 政 及 び 農 会 」 が あ り , ま た 小 作 争 議 と の 関 連 で は , 田 中 学 「 日 本
7巻 第 3 ・4号 , 昭 和
に お け る 農 民 運 動 の 発 生 過 程 j (立正大学『経済学年報』第 1
43年 〉 が 詳 し い 検 討 を 行 な っ て い る
しかし,米穀検査制度の研究史で最も重要なのは,やはり銘柄競争との関連でそ
れの考察を行なったものであり,それには馬場昭「東北産米における銘柄と産米改
良 J(協同組合経営研究所『協同組合研究月報j]N
o.102,昭和
析 , 守 田 志 郎 『 米 の 百 年H 御 茶 の 水 書 房 , 昭 和
3
7年 〉 の 宮 城 県 の 分
4
1年〉の鳥取県の分析等があり,
更に米穀市場の史的展開を踏まえつつ,各所でそれに重要な考察を加えた持田恵三
『米穀市場の展開過程j] (東大出版会,昭和 45年 〉 が , 最 も 注 目 す べ き も の と し て
あ る 。 本 稿 も そ れ に 多 く を 負 っ て L、ると共に,ある意味ではその継承を意図してい
る
。
(
4
)
そ の 代 表 例 が 前 掲 『 日 本 農 業 発 達 史 』 の 以 下 の よ う な 評 価 で あ る o ["ところで,
この時期に何故に地主は法令の力一産米検査法規を要求せねばならなくなったの
か。純粋封建権力としての領主に代って半封建的勢力として高率な物納小作料を徴
しつつ農民に君臨した地主勢力は殊に日露戦後農村への商品生産の発展,高度に発
達した資本の勢力の伸長,米穀取引市場の拡充に応じて自己の力を再編強化しなけ
ればならなかった。小作米を増徴し,これが販売者として,その商品価値を高める
こと,それが小作の負担においておこなわれた。そのためには法令のカを借りると
3
7
7頁〉。これは若干極端か
と も に 地 主 組 合 を 結 成 し て こ れ に 当 る 必 要 が あ っ た J(
もしれないが,多かれ少なかれ「地主的」と Lづ 評 価 が 一 般 的 で あ る こ と は 否 め な
L。
、
(
5
) だからと L、って,検査制度が日本に独特なものであると L、うのでは決してない。
米穀検査制度の史的展開過程
5
事実アメりカにおいても,当初の自治的なものから ;
'
1
'
1営検査,国営検査と L、う推移
をたどる点ではわが国と同様であり, しかもアメロカでは穀物が輸出品でもあった
がために,その制度化は日本に先んじているのである。清水正「米国の穀物検査制
度について J(Ii食糧管理月報』第 4巻第 l号,昭和 27年〉を参照。
(
6
) 従来米穀検査は格付けや価格変動との関連で定期先物市場に触れることもあった
が,政策との関連に重点をおいたため本稿ではそれに触れていな L、。この点は,む
しろその意味が重要となる第 l次大戦後をあっかう続稿で触れることとしたい。
2
.
明治農政の展開と同業組合検査
(1) 貫米制度の廃止と米質の粗悪化
7
3
) から開始される
米穀検査の歴史で最初に問題となるのは,明治 6年(18
地租改正である。というのも,それによってそれまでの貢米制度が廃止され,
地租の納入も金納とされたことを契機として,米質,乾燥,調整は悪化し,俵
装,容量も区々となるという粗悪米の氾濫が全国各地で起こってきたからであ
る。各府県の米穀検査事業の沿革も,すべてがこの時の自県米の品質低下,市
場評価の下落から説き起こされているといっても過言ではない。このことは裏
を返せば幕藩体制期にはかなり厳格な「米穀検査」の機構があり,各藩ごとに
は米穀の品質改善や俵装,容量の統ーもなされていたことを物語っている。
実際IT'近江米同業組合記念誌」には,
藩政期の年貢米納入の様子が以下の
ように描かれている。
「幕政時代米納の法たるや,自作小作を聞はず,年貢米は挙て庄屋の宅に
運搬し,庄屋,年寄,組頭等立会の上,米主は其面前にて一俵づっ桝取役
の前に運び,其俵を聞きて米を出し検閲を請ふ,桝取役は其内一握りを黒
塗の角盆に盛り之を組頭の前に差出す,組頭は先づ其二,三粒を噛み砕き
三日以上の乾燥なることを認め,且つ籾及折米,屑米等の有無を検閲し其
上年寄,庄屋と之を順次検閲し,確かに正味十六貫以上なるを認めたる上
にて年貢米たることを許可す。若し乾燥不足又はー握中に於て,籾八粒以
上折米,屑米等も八粒以上づつあるを認むれば,更に精製を申付くるを作
6
農 業 総 合 研 究 第 40巻 第 2号
法とす(l)J
このように,乾燥や整粒歩合が規格化されている点は興味深いが,それはこ
うして一旦納入された年貢米が藩主や藩士の手によって商品化され,それが国
銘柄を形成しつつ流通するだけの米穀市場と問屋組織が徳川時代にすでに成立
をみせていたからであった (2)。それゆえ各藩も,藩財政に直結するものとし
て,銘柄競争のため過酷な年貢米の「検査」を領民に強制していたのである。
この結果として,藩政期の米質や俵装は余米として商品化されるものを含めて
品質が保たれていたといわれる。しかし,そうしたものであるがゆえに,そこ
での年貢米「検査」を近代的な意味での米穀検査の濫鵠とするわけにはゆかな
い。何といっても年貢米の収納は商品交換ではなく, I
検査」の履行自体が封
建制下の経済外的強制に基づくものだったからである。地租改正を契機とする
米質の悪化も,一方ではこのような永き経済外的強制から解き放されて,自由
な商品化対応が許されたことの結果であった (3)。
しかし,そうした粗悪米の氾濫が一気に,しかも全国的に生じるに至った要
因については,上記の理由に加えて更に以下の 3点 を 付 け 加 え る こ と が で き
る
。
すなわち,第 1には,西南戦争(明治 1
0年
, 1
8
7
7
) を前後してエスカレー
トするインフレーションであ
D,それを主導した高米価が質を問わない「弊
風」を一般化させるものであったこと。第 2には,地租の金納制に伴って米の
商品化の主体がかつての藩主や藩士よりも零細な個々の小農民となり,その結
果として農村に群小の小商人が族生してきたこと。粗悪米はこうした仲質的小
商人によって意図的に製造されることも少なくなかったのであるく的。そして
第 3には,米質の粗悪化を行政的に取り締ることが新政権には出来なかったと
いうこと。この点では,宮域県の例が象徴的でありかっ重要である。すなわ
ち,宮城県ではかつて江戸において「本石米」の声価を博した宮城県産米が貢
米制度の廃止と同時に粗悪化し,遂に東京米穀取引所受渡米格付けから外され
る状況におよんで,明治 1
1年(18
7
8
)県令松平正直が粗悪米取締規則を制定し
て,地方庁自らが移出米の検査を開始する。ところが,それが着々と成果を挙
7
米穀検査制度の史的展開過程
げつつあった明治 1
4年(18
8
1
),この年設立された農商務省の注意で廃止され
てしまうのである〈り。
4年の政変によって当初の直接的殖産興
これは直接的には,いわゆる明治 1
業政策から民業非干渉政策へと勧業政策の一大旋回を見た結果であったが(6),
基本的にはそうした行政による直接的取締りが,私的所有と売買自由の商品経
済社会を移植・育成するという明治の改革の方向に逆行するものだったからで
ある。それゆえ,明治政府による粗悪米に対する対策も,それ自体を直接対象
とするものではなく,あくまで殖産興業政策の一環としての在来産業振興策に
おいて展開されることになるのである。
注(
1
) 木村奥治『近江米同業組合記念誌j](大津,近江米同業組合,昭和 8年),
2頁。
(
2
) 鈴木直二『増補江戸に於ける米取引の研究~ (柏書房,昭和 40年〕を参照。
(
3
) 代表例として京都府の場合を掲げる。「本府産米は維新前藩政時代に於ては貢米
の制度極めて厳密に行はれたるを以て品質・乾燥・調製・容量及俵装等完全なるも
のなりしも明治維新後貢米制度廃止せられ一般租税は金納に改められるに依り当業
者は積年の困窮を免がれむとし品質の善惑を問はず徒らに収量の多きを望むの結果
米種は漸次退化し且乾燥調製等年を逐ふて粗雑となり又俵装に於ても甚しく粗悪に
して二重俵は何時しか一重俵となり運搬取扱中に脱漏多く夏期の貯蔵に堪へず虫害
少 か ら ず 商 品 と し て 統 ー を 欠 き 市 場 に 於 て 声 価 を 失 墜 す る に 至 る J(児玉,前掲書,
1
0
1頁
〉
。
(
4
) この点野村岩夫『仙台藩農業史研究.] ( 仙 台 , 無 一 文 館 書 庖 , 昭 和 7年〉には,
宮城県の状況が次のように述べられている。「殊に,中揚と称する好商は,此の機
に乗じて浮利に着目し,各郡村に入っては東奔西走,米穀を買出して一朝の利を獲
得せんと欲し,粗雑異種の混合は勿論故らに籾,枇を混じ,甚しきに至っては水を
i
種き所謂アヒル米と称する不正米を生ずるに至らしめ,農家も亦ま干商 ι相 謀 っ て 之
を為すものもあり,当時農商相呼応して本県産米の品位をして著しく失墜せしめ
た J(
7
8頁〉。
(
5
) ["……・・,爾来農家も精良米の撲出に努め,商人亦漸く購買に注意するに至った
結果,不精擦米は僅十中三,四に過ぎず,又枇,籾,砂上,混入の不正米のま口きも
殆ど其の跡を絶つに至った。然るに翌十四年九月に至り,農商務省からの注意もあ
り,粗惑米取締規則は之を廃止し,爾来各郡町村当業者をして,共進精良米仕立方
申合規貝Ijを中心に自治的に改良せしむるの方針を執るに至ったのである J(同上,
8
7頁)。またその結果は, ["効果挙らず,益々芦価を墜し,再び旧に復するに至っ
た J(同上, 8
7頁〕のであった。
8
農業総合研究第 40巻第 2号
(
6
) r
しかし明治十四年農商務省が設置され,政府の勧業方針の一大旋回を見るに及
ぴ,かかる地方官憲の米穀製方に対する検束は禁止され,一時復活を見た米穀に対
する公的検束は廃絶した。 ここに於て公的検束に代るものが必要となった J(池田
美代二「日清戦争前後に於ける農会運銑同 J [
1
1帝国農会報』第 2
8巻第 7号,昭和
1
3年
, 1
2
1頁 J
)。
(2) 殖産興業政策の展開と同業組合準則
こうして,明治政府による最初の粗悪米対策となるのは,明治 1
7年(18
8
4
)
の同業組合準則であった。明治農政はすでに明治 1
4年(18
8
1
)の農商務省設置
以降松方デフレの中で,間接的な指導奨励を柱とするものへ転換していた。そ
れゆえ,この準則もそうした枠組みの中で全国各地の在来産業全般に起こって
きた農談会,共進会といった老農を中心とする物産改良の動きを恒常的な組織
に編成し,またそれを指導してきた各府県の勧業政策に根拠を与えるものとし
て布達されたものであった(1
。
)
こうして,第 l表に見られるように,各府県もまた同様な同業組合準則を公
8年(18
8
5
)の奈良県「米改良組合規約準則」をはじ
示するだけでなく,明治 1
めとして,西日本を中心に十数県にも及ぶ府県で直接,米を対象とした組合の
準則が公示されることになったのである o こうした準則では,地区内の同業者
3
/
4以上の同査で組合を設立し,
設立されれば、地区内の同業者ほ組合に加入せ
ねばならないとされてはいたが,罰則・強制規定はなく,あくまで「自治的」
形式のものであった。ただしこの場合の同業者とは,
r
此準則中同業者トアル
ハ田園ヲ所有シテ米戎ハ其代金ヲ収得シ又ノ、田園ヲ耕作シテ米ヲ収穫スルモノ
及ピ米ヲ仲買又ハ販売スルモノヲ総称ス (2)J という防長米改良組合準則に示
されるように,その多くは郡または農区ごとに地主,耕作者,商人のすべてを
含むものであった。
このことは, í 同業組合の設立」が『興業意見~ (明治 1
7年
, 1
8
8
4
)の重要方
針であったことからいっても,前田正名の在来産業組織化の路線に沿って,農
工商を一体とした直接輸移出の組織が意図されていたからであると言っていい。
それゆえ,各府県の改良組合準則では,林遠里の改良米作法に基づいた細詳な
米穀検査官j
度の史的展開過程
9
第 l表 各 府 県 に お け る 同 業 組 合 準 則 等 の 公 示 状 況
森
青
手城田形島葉潟山井
岩宮秋山福千新富福
野岡知重質都阪良山取根山鳥
長静愛三滋京大奈和鳥島岡広山
歌
明治 2
3年 米 作 改 良 組 合 及 米 商 組 合 設 置 法 , 米 商 組 合 準 則 1
8年 同 業 組 合
準則,津軽産米輸出ニ関スノレ訓令, 1
8年 津 軽 5郡米穀商組合規則準案.
2
9年米穀商組合規則.
1
8年米商組合規約主義則,同業組合規約準案町
23-26年輸出米穀商組合規則.
2
1年同業組合準則, 2
5年長事改良組合準則.
1
7年同業組合準貝1
.
1
7年同業組合準則, 2
2年農業組合規約準則, 2
5年同附則.
1
8年同業組合準則, 2
1年米穀改良組合準買1
.
7年農事改良組合準則.
2
0年輸出米検査規則, 2
1
8年改良組合設置規定, 1
9年米改良準則, 2
0年製米改良組合規約, 2
1年
輸出米検査規則.
1
8年同業組合準則.
1
7年同組合準則, 2
8年米穀改良組合規則.
1
9年 米 質 改 良 組 合 規 約 案
1
8年精撰米組合準貝1
1
,1
9年糟撰米規約.
2
0年米質改良業合取締規則, 2
3年同左に小作者奨励を加える.
1
8年同業組合準則.
1
8年同業組合準則.
1
8米改良組合規約準則, 2
8年大和米改良取締規則.
2
3年農業組合準則.
2
0年稲米改良組合準則, 2コ年同業組合準貝1], 2
2年 稲 改 良 組 合 取 締 所
20年米穀改良組合準則.
22-22年米性質改良組合規約.
2
1年輸出米検査規則, 2
5年産米改良組合準貝リ.
ロ
香川・愛媛
福 岡
佐 賀
大 分
1
7年 同 業 組 合 準 則 1
9年 米 撰 俵 製 改 良 諭 達 1
9年米穀商人組合, 田 園 耕
作人組合設置方, 2
0年米商組合取締所規約, 輸 出 米 検 査 所 2
1年 防 長 米
6年防長米改良組合取締規貝1
.
改良組合準則,同取締所規約, 2
1
8年勧業上の論告, 2
6年稲作改良補助費.
1
9年輸出米検査準則, 2
0年農業組合設置手続, 2
1年輸出米検査規則.
2
1年改良米取締規則, 2
1年輸出米取締規則, 2
8年輸出米検査規IlU
.
1
8年同業組合準則, 2
6年米穀改良組合取締規則, 2
7年豊前輸出米検査所.
注. 日 本 農 業 発 達 史 調 査 会 編 『 日 本 農 業 発 達 史 』 第 5巻(中央公論社, 昭 和 3
0年 ) 4
8
頁 の 第 1:表に,児玉完次郎『穀物検査事業の研究1 (西ケ原刊行会, 昭 和 4年〕から
若干の補充をして作成.
10
農業総合研究第4
0巻 第 2号
耕作法が指示されており,その中の一部分として販売米の検査も組合事業に位
置づけられていたのであった (3)。
このように,明治 2
0年代に地方庁によって組織化がめざされた米改良組合
とは,地主,耕作者,商人を含み,生産方法の改良にかなりの重点を置いたも
のであった。しかし,実はこうした特徴の故に耕作法の改善に無視できない成
果を挙げながらも (4L 滋賀県と山口県の場合を除いて他のほとんどが数年を
経ずして跡絶えてしまう根拠も内包されていたのである。そのことは,むしろ
後々まで活動を続ける滋賀県の米質改良組合の成功の要因から逆説的に明らか
になる。
すなわち,滋賀県においても「明治八年地租改正の結果現物納付が金納制と
なり,比間米商人の乗ずる庭となりて,生産者は唯だ手数を省き粒悪米と錐も
多収ならんことを欲し」て,かつて名声を博した近江米も「江川│の掃き寄せ
米」の汚名にまみれるに至った。これに対し県当局も試作場の設置や農談会の
開催,また明治 1
7年(18
8
4
)には勧業委員の設置等を行なったが,それにもま
して各郡内の「有力者 Jが事態を大いに憂えて「連日各郡に遊説して与論の喚
起」に努め,あるいは行政に建議し,商人を組織するなどの運動があって,明
治2
0年(18
8
7
)滋賀県米質改良組合取締規則の制定を見るに至った。しかもそ
の問,小作人の不満はもちろん,特に「農村を駆け廻る米仲買人が一部の農民
を煽動して反対的行動」をとるなどしていたために,
r
相当制裁を加える規則
の制定」が要請され,こうして,滋賀県は全国でも例外的に制裁規定をもった
「取締規制」として発布され,組合は設立 3 ヵ年にしてその効果顕著となり,
事業は軌道にのってゆくことになるリ)。
このように,滋賀県の場合には制裁規定があったことを特徴とするが,それ
は利害の対立する小作人や商人をもあくまで包み込んで地域利益を追求したい
わゆる「有力者」の名望家的,指導的活動があって (6〉,はじめてそうした制
裁をも含む地方庁の指導,後援をも可能となったというべきであろう。つまり
「農界有力者の唱導と県当局の共鳴尽力(7)Jの下に,生産農家および地主,
商人までもが組織化されていったところに,滋賀県の米質改良組合が米穀検査
米穀検査制度の史的展開過程
11
で近江米の市場声価を上げてゆく主要な根拠があったと考えられるのである。
そして,そこでのリーダーとして決定的な役割を果たしていた「有力者」と
は,いわゆる老農や豪農といわれた手作り地主層であったと考えていいだろ
う。それだからこそ,松方デフレが解消しはじめる明治 20年 頃 よ り , そ う し
た手作り地主層の寄生化が急速に進展してゆくことが,他の府県において改良
組合の活動が行きづまる基底的な要因であったと考えられる。利害の対立する
小作人,地主,商人のすべてを「自治的」な形で組織化してゆくには,かなり
の指導性が要求され,
しかも商品経済の発展が社会的分業を進めてゆけばゆく
ほど,それはむずかしくなってゆく。
そうした結果として,明治政府の政策自体も大きく転換されたことが,明治
20年代に改良組合の活動がほとんど消えてしまうより直接的な原因であった。
横井時敬によれば,それは以下の如くである。
「農商務省設立当時は同業組合の設置奨励に全力を傾注するが如き観があ
った。而かも民間に自ら事を為さしむるという方法とは不似合に,各組合
の設立認可権をば農商務省に於て之を収め,市も之れには農工商歩調をー
にするの必要ありとし,各局課の会議を以て認可を与へることとしたので,
明治二十二年省内に之れに対する反対的異論が起った。即ち農工商の如き
全く事業の異れるものが,画一的規定に拠ることは不可能である。斯かる
制度は畢寛その助長発達を阻害し,延いては産業貿易の萎微衰頚を来たす
虞れありといふのである。依って暫時その認可を見合せることとなったが
為めに,事務の渋滞甚だしく,結局各局に於て認可することに決したが,
実は組合制度そのものに機意たるものがある為めと謂はなければならない
ので,其後組合は多くは萎微不振に陥り,遂に後日他の同業組合法の制定
に至るまで寧ろ放任の状態になったのである (8)J (傍点一一玉)
つまり,松方デフレの中で地方の在来産業を農工商一体として組織化し,そ
れによって輸出を振興しようとした前田正名的な殖産興業の路線が,紡績業に
代表される移植産業の導入・定着にようやく目処が立ち,商品経済が進展しは
じめた明治 20年代はじめとなると,むしろ分業の進展を阻害するものとして
1
2
農業総合研究第4
0巻 第 2号
政策的に放棄されるに至ったということである(的。実際,明治 2
1年(18
8
8
)
民業非子渉主義者の井上馨が農商大臣となると同時に,農学会に対して「農業
振興方針」に関する諮問がなされ,それが『輿農論策.11(明治 24年
, 1
8
9
1
)と
なって,改良組合は放棄されて農事改良に対する行政は系統農会の設立へ向か
つて動き出すことになる (10)。こうして前田正名が『農事調査』の最中に農商
務省を追われたちょうど明治 23年頃,改良組合による粗悪米対策も頓座する
こととなったのである。
注(
1
) 上 山 和 雄 「 農 商 務 省 の 設 立 と そ の 政 策 展 開 J(
1
1
社会経済史学」第 4
1巻 第 3号,
0年),同「前田正名と農商務省 J(
1
1日本歴史J]N
o
.
3
4
3, 昭 和 5
1年)。
昭和 5
(
2
) 防 長 米 同 業 組 合 『 防 長 米 国 業 組 合 三 十 年 史 H 山口,防長米同業組合,大正 8年),
3
4頁 。 防 長 米 改 良 組 合 は , 明 治 1
9年(18
8
6
)に 一 旦 組 織 さ れ た 地 主 , 生 産 者 の 米
撰俵製組合と商人の米商組合とが「其団結を二にして到底事業運用の全きを望むへ
からず J(向上〉として明治
2
1年(18
8
8
)の防長米改良組合準貝J
Iによって合併せられ,
各 農 区 ご と に 1組合が組織されたものである。
(
3
) そ の 各 県 ご と の 内 容 は , 前 掲 『 臼 本 農 業 発 達 史 』 第 5巻 , 第 4章 「 明 治 期 に お け
る官府の稲作指導」に詳しい。一例を挙げれば「鳥取県は一八八七年稲米改良組合
準則を定め,林遠塁の農法を約定実行することを指示したが,これによって設立を
見 た 各 組 合 は 八 九 年 連 合 し て 取 締 所 を 設 け 産 米 の 検 査 に 当 っ た J(
5
6頁〕。
(
4
)
r
第 三 国 内 国 勧 業 博 覧 会 審 査 報 告 抄 J(
1
1大 日 本 農 会 報 』 第 1
2
2号 , 明 治 2
4年〕
には次のようにある。「近年各地一斉に米質改良の必要を感じ,或は改良組合を設
け て 厳 に 検 査i
去を施し或は教師を聴して稲種精選法を行ひ或は耕種法を改めて労費
を省〈等農家が其全力を米穀改良に用ひたるの効果は歴然たり
J(55頁〉。またそ
れには次のような但書きのある点も,次節との関連で注目すべきであろう。「今回
改良の米多〈本会に現出したるは其原由ずる所なきに非すと雛外国輸出の関係は大
に 之 を 促 し た る も の と 謂 ふ へ し J(
5
6頁〉。
(
5
)
以上の滋賀県米質改良組合についての記述と引用は,前掲『近江米同業組合記念
誌
J
]
,
4- 8頁 よ り 。 ま た 同 様 な 点 は 防 長 米 改 良 組 合 に つ い て も 確 認 さ れ , こ ち ら
2
6年(18
9
3
)に 準 則 を 取 締 規 則 に 改 め て , 罰 金 等 の 規 定 を 加 え て い る ( 前 掲
5
0頁〉。なお,両者の設立時の組合員構成を示せば,
3,5
5
1人 (95.0%) 商 業 1
,8
2
4人 (
2
.4~の農商兼業 1 , 971 人 (2.5
滋賀が農業 7
%),商業家族麗人 3
7人 (
0
.
0?の,計 7
7,3
8
3人 (100%),山口が地主〔自作を含む
2,5
7
3人 (72.3%), 小 作 3
0,8
9
7人 (24.1%), 米 商 4
,
4
8
8人 (
3
.
5
耕地所有者) 9
は明治
『防長米間業組合三十年史J],
?の計
1
2
7,9
5
8人(10
0?めとなっており,
共通の特徴であった。
商業者に対する農業者の圧倒的優位が
米穀検査制度の史的展開過程
1
3
(
6
) 例えば,それは以下のようなことを意味する。「由来各部落に於ける米穀検査員
及関係役員は一面産米の改良統ーを図りて売買及小作料授受の便宜と価格の向上に
貢献するばかりでなし古来の庄屋に等しい職務を行ふものであって,換言すれば
直接生産者と地主との間に介在して円満なる協調を図り,凶作に当っては減額率の
決定斡旋や稲種の選択にまで奔走努力すると L、ふ次第で,単に俵米検査を行ふとい
う簡単なことではない。j(前掲『近江米向業組合記念誌~,
(
7
) 同上,
6頁
)
。
1
3
4頁
。
(
8
) 三宅雄二郎監修『新日本史』第 2巻「農業篇 J(検井時敬稿, 高朝報社,大正 1
5
年
)
, 1
,
419-20頁
。
(
9
) そのような殖産興業政策をめぐる路線対立については,次のようなものを参照。
長幸男「明治前・中期の小営業 J(J II 島・松田編『国民経済の諸類型~,岩波書庖,
昭和 4
3年),同「ナショナリズムと『産業』運動 J(長・住谷編『近代日本経済思
想史
u 有斐閣,昭和 44年),有泉貞夫 r興業意見』の成立 J(
1
1史学雑誌』第 7
8
編第 10 号,昭和 44 年),祖国修『前田正名~
(古川弘文館,昭和 4
8年
)
。
同) 武田勉「全国農事会略史 J(武田勉繍『中央農事報 J第 1
2巻,索引,日本経済評
4年
〉
。
論社,昭和 5
(3) 開 業 組 合 検 査 と そ の 限 界
明治
3
0年(18
9
7
)重 要 輸 出 品 同 業 組 合 法 が 制 定 さ れ , 更 に そ れ を 輸 出 品 に と
どめず物産一般に拡大した重要物産同業組合法が明治
33年 ( 19
0
0
)に 制 定 さ れ
た。これはかつての準則が強制力を欠いていたことがその不振の原因として反
省され,地区内同業者 4
/
5以 上 の 賛 成 が あ れ ば 全 員 の 加 入 を 強 制 で き る と し た
点に画期性がある。そしてこのように,明治政府によって再び開業組合政策が
展開されるのは,在来物産の輸出が日清戦争(明治 2
7, 2
8年
,
1
8
9
4, 9
5
)後
のわが国の貿易構造の中で更に重要な意味を帯びつつあったからである。すな
わち,確かにこの頃綿糸や綿織物の輸出は急増するが,それは後進諸国向けで
あれ結局「在来産業の発展としての輸出向け商品の拡大が外貨獲得をささ
え,それが輸入を可能にするという関係において日本の産業革命の進展が保障
されたのである(l)J
。同業組合はこうした在来産業の組織母体となるものであ
った (2)。
実際,米ですらも,明治 2
0年 代 に は
8
0万石, 8
0
0万 円 ( 明 治 2
9年
, 1
8
9
6
)
1
4
農業総合研究第4
0巻 第 2号
近くがヨーロッパ・アジアに輸出され,一貫して輸出超過であった。そしてこ
うした輸出米がその長い輸送距離と時聞からして,とりわけ乾燥や俵装等の厳
格な製品の確保が要求されるものであったことはいうまでもない。その意味
で,同業組合法の制定はこうした輸出米産地の要望に見合うものだったのであ
る
。
こうして,第 2表のように,改良組合の活動を継続してきた滋賀県と山口県
1年 (
1
8
9
8
)に最も早く近江米同業組合,防長米同業組合へとそれぞれ
が明治 3
改組したのに続いては,九州から山陰,近畿にかけての輸出米産地 (3)で県一
円を区域とする同業組合が組織され,同時に輸出米,移出米の検査も開始され
ることになったのである。
しかし,これらの同業組合による検査は改良組合を継承した近江米を除い
て,検査用語でいう移出検査であった。移出検査とはいうまでもなく,一旦産
地問屋の手に集められた米が船積みされる時点で,品質,容量, f.表装等を検査
するものである O その意味でそれは,容量や俵装といった流通上での標準化は
確保されるものの,検査のもう一方の機能,いわゆる産米改良に対する効力は
はじめから限定されたものだったのである。
表の組織主体に示されるように,
そしてそれは,これら同業組合が第 2
I
主
として米穀商,運送業者及移出を為す地主にて組織せられ生産者たる農家を網
羅せざる (4)J ものであったからである。つまりそれはあくまで生産者を含む
改良組合的方向が頓座した上に立つものだったのであり,またここに同業組合
検査の基本的問題点もあったのである。
それでもともかくそれが一定の展開を見せたのは,輸出米はいうに及ばず,
移出米についても当時が汽船を中心とするいわゆる中継地的市場構造であった
がゆえに,県内の移出米が一旦集積移出地である港へ集中される構造をとって
いたからである(り。したがって,未だ容量や俵装の標準化に焦点があった当
時とすれば,移輸出米がかならずそこを通過するというかぎり,移出検査も一
応のチェック機能を果たすものだったのである。
しかし,それは県内流通米に及びえなかったことはもちろん,輸移出量の増
同業組合名
県
|批年 I~ 域|検吋
組 問
:
l
吉
野
│
備
滋賀
近江米同業組合
明 31
県 一 円 生産・移出 生 産 者 ・ 地 主 ・ 商 人
昭 5
山口
防長米同業組合
明 31
県 一 円 生産・移出 生産者・地主・商人
I
f
f
1
4
防長米改良組合を継承
熊本
肥後米輸出同業組合
明 31
県一円
移 出 キ 商人・地主
明 44
肥後米券倉庫を並設
郡食会による生産検査
滋賀県米質改良組合を継承
宮崎県米穀商同業組合
明 32
県一円
移出
商人
明 44
肥前米移出同業組合
明 33
県一円
移出
商人・地主・運輸業者
大6
明 33販 売 米 取 締 規 則
奈良
大和米輸出同業組合
明 34
県一円
移出
商人・運輸業者
大4
郡農会による生産検査
鳥取
因イ白米輸出同業組合
明 35
県一円
移出
地主・商人
明 44
米券倉庫あり
島恨
出雲米輸出同業組合
明 37
県一円
移出
地主・商人
明 40
福島
〆
,
会津米同業組合
明 38 一 市 4郡
移出
商人
大7
相馬米同業組合
明 42
君Z
移出
商人
大7
京都
船井郡米穀同業組合
明 44
君Z
移出
商人
大4
南桑米同業組合
明 44
郡
移出
商人
大4
41n4qoaA苛
注
児玉,前掲書より作成.
* の 肥 後 米 輸 出 同 業 組 合 は 明 治 41年より生産検査を開始.
大 Eに 入 っ て 福 島 左 京 都 は 更 に 郡 単 位 の 同 業 組 合 が 作 ら れ る が , は ぶ い た .
なお,北海道には雑穀検査を行なった北海道雑穀同業組合連合会があった.
ゆ宵掛用慈州連漏一 δ河雲洞羽山田間
宮崎
佐賀
(
-
考
、
‘
、
ト
u
1
6
農業総合研究第4
0巻 第 2号
大と共に進む品質分散の増大,現実的には低品質米(乾燥,調整,俵装といっ
た製品としての意味で〉の増大に対処し得えないものであった。つまり,それ
はある程度までの商人の流通費用の範囲内で開俵,再俵装し得たものの,生産
部面での改良が進まない限り限界があり,商人や地主の負担の増大につながる
8百万石であったわが国の米
ものであった(的。実際,明治 21-25年平均で 3
の消費量は,明治 35-40年平均では 4
8百万石と,この 1
5年間に l千 万 石 増
大しているが(7),それに対応する流通量の増大も,次の「米穀俵造粗悪の実
況」という「中央農事報』の記事に象徴されるように,改めて粗悪米を社会的
に問題化させつつあったのである。
「殊に評中『改良の方法を設けたるも更に実行の跡なし」の如きは独り肥
後米の俵造に止まらず一般農界には猶ほ此種の批評を下すべき者決して砂
なからざるべし,地方農会は当時草創時代なるを以て俄かに万全は望むべ
からざるもかかる改良事業は農会当然業務として切々実行せられんことを
望む (8)J
ここにあるように明治農政によって新たに農事改良の指導機構として位置づ
けられたのは,明治 2
0年代後半の運動を通じて明治 3
2年(18
9
9
) の農会法に
よって制度化された系統農会であった。 当時すでに農会は,
2, 郡
府県農会 4
農会 5
0
0余,町村農会 8
,
0
0
0有余の組織を有していたのである。つまり同業組
合検査が移出検査にとどまることを穴埋めするものとして,郡農会等が生産改
良とともに生産検査を行なうことが上からは奨励されることとなったのであっ
た
。
しかし,そうした要請にもかかわらず,郡農会が生産検査を行なった例は,
奈良県と宮崎県に確認される程度で (9〕,同業組合検査以上に普及しなかった。
それはやはり,日清戦後の産業革命の進行と共に,米価が騰貴し,また小作料
も安定化することによって土地所有の経済的利益が増大して,農会活動の中核
となるべき手作り地主層が農事改良よりも土地兼併と寄生化を強めていったこ
との結果であった CIO)。
「大地主豪農の如きは今日の農事改良なるものには全く冷淡或は却で農事改
米穀検査制度の史的展開過程
1
7
良の事を忌み嫌ひ農会の如きは余計の入費のみ掛るものと心得居るもの多
し(11)Jと,系統農会の実質上の中央組織,全国農事会幹事長玉利喜造が農事
0年代
大会毎に地主の寄生化を批判し,農事への関心喚起を訴えたが,明治 3
を通じて系統農会の活動不振は覆うべくもなく,農会無用論が唱えられる情況
だったのである (12)。
明治 3
4年(19
0
1
)を画期とする短冊形苗代設置に代表される地方庁による警
察機構をも動員した強権的な農事指導(=いわゆるサーベル農政〉も,また明
治3
6年(19
0
3
)それらを公認し更に促進する意味をもった政府にはよる 1
4項
目の農会への諭達も (13〉,結局のところ地主の寄生化によって間接的指導奨励
政策の中核が消失し,行政が自ら介入してゆかざるを得なくなったことの結果
であった。それは,そうした上からの農事改良を更に市場と結びつけるという
意味で,地方庁自らが米の生産検査に乗り出す一歩手前の状況にほかならなか
ったのである。
以上,この章を簡単にまとめれば米穀検査の最初の要請は,明治政府が封建
的諸制限の撤廃の一環として行なった貢米制度の廃止と米の自由売買の過程に
おいて,粗悪米の氾濫として生じてきたものであった。しかしそれを直接的,
行政的に取り締ることは,自由売買を原則とする商品経済社会の建設という明
治政府の方針に反する。こうして,まずそれは在来産業の組織化をめざす殖産
興業政策の一環として,米質改良組合という形態をとって展開されたのが,明
治2
0年代の特質であった。それゆえこの改良組合は,単に「自治的」なもの
だっただけではなく,地主,小作,商人を地域ぐるみで組織化し,中でも手作
り地主層の指導的活動に期待するものであった。しかしそれは松方デフレ以降
の,日本の産業革命が軌道に乗る以前の政策基調であって,そのため改良組合
の活動も耕作法の改善に一定の効果を示しつつも,一方では手作り地主の寄生
化によって,他方では殖産興業政策自体がより自由放任の方向へ転換すること
によって,滋賀県と山口県を除いては,充分な展開を見ることはなかったので
ある。
1
8
農業総合研究第4
0巻 第 2号
こうして,明治 30年(1897)の同業組合法以降,九州・中国の輸出米産地に
おいては,同業組合検査が展開されることにはなるが,それは米穀商および運
送業者を中心とする移輸出港での移出検査であって,産米改良に対する効果は
不十分なものだった。そのため,それを補完するものとして,農会による生産
検査も奨励されたが,産業革命の進展によって地主の寄生化が一段と進んでい
た明治 30年代には,それも普及し得なかったのである。その一方で米穀市場
は急激に膨張し,そこでの産地聞の市場競争も強まっていた。市場の制度化を
意味する県営検査も,そうした市場競争の中で登場してくるのである。
注(
1
) 陣 峻 衆 三 編 『 日 本 農 業 史1(有斐閣,昭和 56年 ) 第 2章 「 日 本 資 本 主 義 確 立 期 J
,
(牛山敬二稿), 6
4頁。
(
2
) そうした積極的位置づけを同業組合に与えるものとして,以下を参照。上山和維
3巻 第 9号 , 昭 和
「 明 治 前 期 に お け る 同 業 者 組 織 化 政 策 の 展 開 J([j'史学雑誌』第 8
49年),竹内庵「明治期同業組合の一考察 J([j'社会経済史学』第 4
2巻 第 5号,昭和
5
2年 ) , 同 「 在 来 産 業 再 編 成 期 に お け る 同 業 組 合 J(神戸大学大学院研究会『六甲
5巻 第 3号 , 昭 和 5
3年).上川芳実「同業組合準則改良運動の研究」
台論集』第 2
0巻 第 4号 , 昭 和 5
6年 ) , 藤 田 貞 一 郎 『 近 代 日 本 同 業 組 合
([j'大阪大学経済学』第 3
序 説 J(園際連合大学,昭和
5
6年〉。
(
3
) 1
海外諸国に向けて多量に輸出する米質は,中国の長防,九州の肥後,筑前,豊
前をもって第ーとし,備前,播磨,摂津,讃岐,安芸等を第二とし,伊予,伊勢,
美濃,大和,河内等を第三とす。 J(酒勾常明『米作新論1C
農文協『明治農書全集』
第 1巻 稲 作 , 農 文 協 , 昭 和 5
8年所収], 1
8
0頁〉。
(
4
) 児玉,前掲書, 1
2
7頁。肥前米移出同業組合に関する記述。
(
5
) 中 継 地 的 市 場 構 造 に つ い て は , 持 田 , 前 掲 書 , 第 1編 第 2章を参照。
(
6
) 宮 城 県 の 例 に つ い て , 中 村 吉 治 編 『 宮 城 県 農 民 運 動 史1(日本評論社,昭和 4
3
年). 196-197頁の安孫子麟稿を参照。
(
7
) 持田,前掲書, 5
2頁 の 第 1
・7表を参照。
(
8
) 全 国 農 事 会 『 中 央 農 事 報 』 第 2号 ( 明 治 2
8年), 4
3頁 。 同 様 に 粗 悪 米 と 農 会 に
よるその矯正を問題とした記事としては,
1
産 米 の 矯 弊 主 改 良 に 就 て J(同第 2
0号
,
明治 3
4年), 1
最 近 十 年 間 に 於 け る 米 質 変 遷 の 状 況 村 口 同 J(同第 3
0, 3
1, 3
3号
,
5年〕参照。
明治 3
(
9
) 小野,前掲稿, 527-528頁 。 ま た 奈 良 県 と 宮 崎 県 に つ い て は , 児 玉 , 前 掲 書 ,
1
0
6,1
3
3頁。
(
1
0
) それは農会の設立が,それまでの農会運動を換骨奪胎した形で上から組織された
米穀検査制度の史釣展開過程
1
9
ものであることと無関係ではない。この点,栗原百寿『農業団体に生きた人々』
(IF著作集 V~ ,東京,校倉書房,昭和 54 年所収〕を参照。
(
1
1
)
r
第八回全国食事大会に於ける玉利幹事長演説の要領 J(
I
F中央農事報』第 9号
,
明治
3
3年) 8頁。
阿武田,前掲稿,
17-18頁。
(
1
司以上の強権的農事指導および長会への諭達については,前掲『日本農業発達史』
第 5巻,第 2編第 4章を参照。
(
補
〉
米券倉庫について
ところで,以上の展開をある意味で裏書きしながら,また他面では例外をな
すものに酒田米穀取引所附属山居倉庫に代表される米券倉庫がある。
米券倉庫は,単に預かるものが米であるということだけでは決しでなく,入
庫に際して米穀検査を行ない,一定品質に達しない米の入庫を拒否する規約を
持つ点において,通常の倉庫とは基本的に異なる。つまりそれは,地方産米の
改良という「公益的意義」を持ち,それゆえ純粋たる営利機関とは異なる性格
を持つといわれる(1)。実際,山居倉庫の場合も,貢米制度廃止後に「荘内米
ノ声価大ニ低落セルヲ以テ三郡ノ有志相謀リ荘内米改良法及預ケ方申合規則ヲ
設ケ(2)
J たのにはじまっており,当初の本間家から,明治 26年(1893) に旧
藩主酒井家へ経営が移ったのも,酒井家が地方の信望家であったためであれ
その後の経営もかならずしも酒井家の営利のためとはいえない(的。むしろそ
れは,かつて酒井藩が年貢米の納入を藩庁倉庫に一括してなさしめ,藩士への
禄米は倉出指図証券である米札をもってした結果が,米札は有価証券のごとく
流通し,荘内米の銘柄としての確立に大きく寄与した(4)という経験に基づい
ており,倉庫を媒介することによって銘柄の確立を目指すものだったというこ
とができる。事実,山居倉庫の場合は入庫に際して品位等級,容量等を検査す
るだけでなく,それらを倉庫内で開俵,混米し,更に一層の標準化された山居
倉庫米を製造することによって倉庫銘柄が確立され,また米預証券=米券も一
定の標準化された米の価値を体現する有価証券として流通したのであった(5)。
しかし,こうした米券倉庫が明治 3
0年代に強固な基礎を築きえたのは,そ
2
0
農 業 総 合 研 究 第 40巻 第 2号
の利用者が産地商人だけでなく,本間家をはじめとする地主層であり,しかも
あたかも藩政期のように小作米の納入は倉庫の入庫切符をもってする慣行がと
られたことによる。つまりそれによって倉庫での検査は小作米の改良に役立つ
と共に,地主は居ながらにして良質の小作米を取得することが出来たからであ
る(6)0
このように米券倉庫は,地主層の寄生化にも適合し,小作米の改良と結びつ
0年 代 に む し ろ 基 礎
くものであったところに,同業組合検査と異なって明治 3
を固める根拠があった。しかし,そのことは決して米券倉庫が全国へ普及して
ゆくことを意味せず,藩政期に年貢米を藩庁倉庫に収めるという経験をもった
鳥取,熊本(7〉,秋田,広島といった県に限られるものであった。つまり,あ
くまでそれは藩政期の慣行を前提としたものとして理解されねばならないので
ある。
注(
1
) 農商務省農務局『穀物ノ販売組織ニ関スノレ調査JJ(農務黍纂第十八号,明治 4
4年
)
,
2頁。
(
2
) 株式会社沼田米穀取引所『酒田米券倉庫由来及現況J(大正 9年
)
,
4頁
。
(
3
) それら山居倉庫の歴史的展開ならびに性格については,小山孫二郎「大地主と庄
内米の流通 J(日本農業発達史調査会編『日本農業発達史』別巻上,中央公論社,
昭 和 33年〉に詳しい。
(
4
)
山形県産米改良協会連合会「山形県米穀流通経済史 H 昭 和 3
3年),
1
4
1
5頁。
(
5
) 向上,第 5章米券倉庫を参照。
(
6
) 前掲『穀物ノ販売組織=関スノレ調査』は,米券倉庫の効果の 1っとして「小作米
取立上ノ利益,地主ハ倉庫ヲ利用シ米券ニ依りテ手数ト費用トヲ要セス小作米ヲ集
ムノレヲ得へ P 又米種等級ユ応シテ賞罰ヲ行ヒ門満ユ小作米ノ受授ヲ了スノレヲ得へ
シJ(6頁〉とある。
(
7
) 肥後米同業組合什属の肥後ぅ!と券倉庫については,持団,前掲書, 1
2
9頁 以 下 を 参
照。
3
. 食糧政策の成立と県営検査
(1) 米穀市場の近代化と県営検査
4年(19
0
1
)の大分県を鳴矢として,第 3表のように米穀県営検査が全国
明治 3
2
1
米穀検査制度の史的展開過程
第 3表米穀道府県営検査の実施状況
企
北 海 道
森
青
岩
呂
,
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8
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1
1・(
1
) 高 知 , 長 崎 . 静 岡 , 長 野 , 東 京 . 山 梨 お よ び 滋 賀 . 山 口 の 県 営 検 査 は 昭 和 4年以降.
(
2
) 0は移出検査,企(ま生産検査,⑪は l
吋業組合による移出検査,ただし滋賀,山口の
I
巾J
~棋は同業組合による生産,移出検査.
2
2
農業総合研究第
4
0巻 第 2号
に普及してゆくことになる。このように,地方庁が県の事業として米穀検査を
強制するに至る直接的背景は,すでに述べたように「自治的」な形での米質改
越えて二十六年四月
良が立ち行かなくなったからである。大分県の場合も, 1
米穀改良組合取締規則を発布し該規則に拠らしめたるも数組合を除くの外取締
上寛厳宜しきを得ず為に改良の実蹟遅々たるを免れざりき。惑に於て県農会長
及各郡米改良組合長等より県を区域とする強力かっ統一ある米穀改良機関設置
の建議を見るに至る(1)Jとある。
県当局に
同じく明治 40年(1907) に県営検査を開始する香川県の場合も, 1
於ても既に明治三十五年に重要物産同業組合法による改良組合を施設せしむる
ため百方勧誘に努めたるも当業者の之を迎ふる事冷淡にして終に成立するに至
らず,爾来選種栽培籾の乾燥等各項に渉り極力奨励し益々産業の改善を絶叫せ
しも依然其の効果を収むるに至らざりき (2)J とある。
しかし,県当局に県営検査に踏み切らせるより基底的な誘因は,明治 30年
代の米穀市場の発達とその結果としての市場競争の激化にほかならなかった。
大分県が全国で最初にそれに踏み切るのも,大分を取り巻く熊本,宮崎,佐賀
が相継いで同業組合検査を開始し,大分のみ一人取り残される状況にあったか
らである。すでに近江米,防長米は同業組合検査でかなりの成果を挙げてお
り,しかも明治 3
0年代に入つての米穀輸出の減少と(3),一方での圏内市場の
,山陰の輸出米産地の米を関西市場へ向か
拡大は,防長米をはじめとして九州1
わせていた。
こうして大分県に続いたのは岡山県であったが,重要なのは生産・移出の複
式検査をとる県営検査が市場競争に抜群の効果を現わしたということである。
「岡山県備前米は過去数年前に於ては防長米より下ること甚だしく摂津
米,藩州米に比するも尚ほ遜色あるを免がれざりしが米穀検査開始以来大
に面目を改め現に去る三十六年には防長米に比し平均一円内外の差額あり
しに昨三十八年度には平均三十七八銭内外の差額となり既に播州米を一蹴
J
して摂津米の累を摩せんとするに至れりと云ふ付 )
この衝撃は実に大きく,実際香川県は「産米検査ノ効果ニ於テ隣県岡山ノ実
23
米穀検査制度の史的展開過程
第 4表深川倉庫蔵入高の推移(外国米を除く)
〔単位:千俵〉
│地廻米│東海道米│北陸米│三陸米│両羽米│九州関西米(総蔵入
明 治 20-24年平均
25-29 平均
8
1
1
2
9
1
724
.0
)
31
(
11
.1
) (27.7) (
205
2
8
1
(7.9) (10.8) (
1l
.5
)
497
439
539
3
8
1
423
298
.6
)(
(16.4) (
1
7
.
0
)
1 (20.9) (
11
14.8) (19.3)
一 2,
614
一 (100)
一 2,
576
一 (100)
ー 2
,
283
30-34 平均
397
1
5
8
764
(6.9) (33.4) (17.4)
590
1
4
5
228
(6.4) (
10.0) (25.9)
35-39 平均
479
1
4
9
537
19
.
5
)
: (
17.4)
(5.4) (
,162
1
7
3
258 1
4
2
.1
)
(6.3) (9.3) (
40-44 平均
1
4
5
(3.9)
248 224 3,
9
1
333 2,
764
ヲ (100)
5
9
.7) (
5
.〕
(2.4) (8.9) (
2
2
3
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499
(
5
.
9
)
; (13.3)
(100)
1 2,
759
一 (100)
注(
1
) 東 京 廻 米 問 屋 組 合 『 東 京 廻 米 問 屋 組 合 深 川 正 米 市 場 五 十 年 史H 昭 和 1
2年),
268-270頁より.
(
2
) 明 治 40-44年平均の数字が,東京での総消費量の約 7割といわれている.
例ヲ見ルニ岡県ニ在テハ明治三十六年ヨリ之ヲ施行セシカ翌三十七年ニ於テ己
ニ一石ニ付金六拾銭ノ価格ヲ昇騰スルヲ得タリ何テ試ニ之ヲ本県ニ於ケル県外
輸出米約五十万石ニ積算セハ其額実ニ参拾万円トナルへシ (5)J と い う 試 算 に
基づいて県営検査に踏み切る。こうしてすでに米穀検査は, ['県下経済の消長」
に直結する行政的課題となりつつあったのである。
ところで,そうした市場競争は当初,輸出米産地の多い西日本でより激烈で
あったことはいうまでもない。同業組合検査の地域的分布がそれを象徴してい
る。しかし 30年代も半ばとなると,その競争は次のように東日本へと拡張さ
れることになる。
「因に肥後米は其品種以上の如く変遷異動せる為め,従前其得意市場とせ
る阪神の販路を縮少せるか,之れに反し東京市場に向ては販路を拡め九州│
米の主位を占むるに至り,前途其形勢を増長するものの如くなれり
(6)J
これは,輸出との関連で早期に標準化を示していた九州産米も,そもそも米
質において優る畿内,瀬戸内の産米改良によって関西市場を追われ,東京市場
へと進出していったことを示している。それは第 4表に示されるように,実に
すざましい勢いであり,これによって東海道・北陸・東北の米作地帯は多大の
影響を被ることになる。関西市場を追われたとは L、ぇ,俵装,容量の統一の程
2
4
農業総合研究第4
0巻第 2号
度に加えて硬質米である九州産米に,未だ粗悪米の域を出ない東北・北陸の軟
質米は敵ではなかった。 30年代末より,東北・北陸の諸県を矢継ぎ早に県営
検査に向かわせたものは,この九州産米の東京市場への殴り込み的な進出であ
った。
宮城県を例とすれば,
r
然るに明治三七年十月に及び同年の産米は秋場不良
の結果米質の粗悪殊に甚しくのって東京米穀取引所に於ては本県米を愈々其受
渡米格付中より除外すべく内議熱せる旨の悲報突如として伝はりたれば蕗に端
なくも一大恐慌を呼び県下の識者は斎しく憂慮、措く能はず(7)J となり,ここ
に「急拠予算を編成して通常県会に提案せらるる運びと (8)J なる。
東北・北陸の諸県が西日本の知く初めから生産,移出の複式検査ではなく,
移出検査だけでスタートするのも,そうした急迫状況への応急的性格として理
解していいだろう。
こうして,市場競争に促迫されつつ米穀県営検査は全国に普及してゆくこと
になったが、重要なことは,こうした市場競争の過程が同時に米穀市場の構造
変化の過程でもあり,それがまた米穀検査の一層の普及と整備・拡充を要求す
るものでもあったという点である。すなわち,明治中期の米穀市場は内陸にお
いては河川,遠距離輸送は汽船による海路という輸送手段に条件づけられて,
ブロック的地回り市場と全国的隔地市場が二重性をもって存在し,両者が大河
川港の中継地市場で結び合わされる,いわゆる中継地的市場構造を形作ってい
た。しかし,それは明治 30年頃の成立と同時に,船に換わる革命的輸送手段
としての鉄道の発達によって解体してゆく。何よりも日清・日露の 2つの戦争
0年(19
0
7
)にはそうした理由
は軍事的理由からも鉄道の発達を促進し,明治 4
から鉄道は固有化される。そしてそれがまた運賃の統一と低廉化をもたらし,
米輸送の船舶から鉄道への移行は明治末にほぼ大勢を決するのである (9)
こうした鉄道の発達に伴って新たに東京,大阪の 2つの巨大市場を中心とす
る東西の中央都市市場が形成されてくるが,そうした市場構造の変化は当然
に,商取引形態にも大きな影響を及ぼすものだった。すなわち,かつては中継
地市場の産地問屋による消費地問屋への委託販売形態が主体であったが,鉄道
米穀検査制度の史的展開過程
2
5
の発達はしだいに着駅中心の卸問屋による買付け取引を発展させ,第 l次大戦
後に完成する未着米の銘柄取引へ向かつて変化してゆく
(
1
0
)。しかし,そうし
た商取引が一般化されるためにも,各産地において商品としての米の銘柄等級
を確立するための県営検査の普及が要請されていたのである。
ともかく,鉄道の発達は,米の移出地を県内の各駅に分散させ,かつてのよ
うに移出港で移出米の大部分の検査を行なうことを不可能にした。産地間競争
が強まる中でそれに対処してゆく方向は,県営による生産検査以外にはなかっ
たのである。
注(
1
) 児玉,前掲書, 130頁。
(
2
) 香川県穀物検査所『香川県穀物検査廿五周年記念誌 H 高 松 市 , 昭 和 8年
)
,
1-
2頁。
(
3
)
米穀輸出は,明治
3
0年代へ入ってしだし、に減少し,明治 3
3年(19
0
0
)以 降 完 全
な輸入超過に転ずる。
(
4
)
Ii大日本農会報』第
2
9
7号 ( 明 治 3
9年 3月), 2
2頁。
(
5
) 前掲「香川県穀物検査廿五周年記念誌d],
(
6
)
Ii中央農事報』第 3
0号 ( 明 治
1頁
。
3
5年), 3
3頁。
(
7
)
(
8
) 荒谷道太郎編『宮城県米穀商同業組合治革~ (仙台,宮城県米穀商同業組合,
4年
)
,
大正 1
3頁。
(
9
) 以上の明治期の米穀市場の構造,ならびに鉄道の発達を通じての米穀市場の構造
変化=近代化の詑述は,持団,前掲書,第 1編による o
同以上についても,持田,前掲書,第 l編および第 2編を参照。
(2)
食糧政策の成立と県営検査
0年(19
0
7
)に深川米穀問屋が中心となって第 l回全国米穀業者大会が
明治 4
聞かれ, I
速に米穀の検査法を制定施行すること」との決議がなされた(1)
の
も,以上のような米穀市場の変化に基づくものであった。しかし同じ頃,また
別の角度からも米穀検査の法制化は要求されつつあったのである。
9年(19
0
6
)第 2
2帝国議会で可決された「穀物
すなわち,その前年の明治 3
検査に関する建議案」には,以下のように述べられていた。
「本邦生産ノ穀物ハ概シテ乾燥不良,調整粗雑,容量区々,俵装亦完全ナ
ラザルヲ以テタダニ売買取引上不便不利ナルノミナラズ脱粒,虫蝕,腐敗
2
6
農業総合研究第
4
0巻 第 2号
等ノタメ毎歳国家ノ損失ニ帰スルモノ実ニ驚クベキ巨額ニ達シ近ク外国産
ノ米麦大豆等ノ輸入ヲ増加シ正貨流出ノ一大原因ヲナス,今コレヲ匡救セ
ムトスルモ彼ノ重要物産同業組合法等ノ能ク其目的ヲ達シ得ベキエアラズ,
故ニ各府県ヲシテ此ノ目的ヲ達セムガタメソノ地方ノ情況ニ於テ速ニ穀物
検査ノ準則ニ関スノレ法律案ヲ提出セラレムコトヲ望ム,右建議ス (2)J
つまり,ここで問題とされているのは取引上の不便よりむしろ,国民経済的
見地から見た流通過程における減耗である。それは,都市での米穀消費の急激
な増大が,それまで地回り用,自給用だった乾燥,俵装不完全な米まで全国流
通に引き込むことによって,相当な量に達していたのであろう。しかし,ここ
で重要なのはそれが正貨流出のー要因とされていることである。
というのも,この正貨流出の阻止は,力に余るロシアとの戦争によって増大
した内外債の償還と,復讐戦をおそれでの軍備増強に努めねばならなかった日
本資本主義にとっては,日露戦後経営最大の課題にほかならなかった。そのこ
とが第 5表のように明治 3
3年(19
0
0
)頃より輸入超過が恒常化し,日露戦後に
は常時 2
0
0万石を越えるに至っていた外米輸入に対する対策を重大化させ,
じさせるものであったことは,こ
「サーベル農政」といわれた増産政策を積極f
れまでも言われてきた通りである∞。しかし,そうした消費量の増大が都市に
おける産業人口の増大の結果であったこ左は,それに対する米の増産も単なる
量的な増産にとどまらず,遠距離輸送や保管に耐えうる商品として標準化され
た米の増産でなければならなかったのである。
こうして明治 4
3年(19
1
0
)には,検査を行なう県や同業組合,また米問屋等
〉
を集めて農商務省による第 l回米穀改良に関する協議会が開催されるが (4,
そこでの農商大臣の訓示もまさに以下のようなものであった。
「近時農業の発達に伴ひ米の生産も年と共に著しく増加しつつありと難も
尚現時の状態に於て約二百万石内外の供給不足を見る是れを以て今後米穀
生産の改良奨励を促すと共に収穫後に於ける腐敗虫害及脱漏等に因る米穀
の減損を防ぐは独り農家の経済上に於て忽にすべからざるのみならず亦国
家経済上官民の大に留意せざるべからざる所なるを信ず(5)J
(傍点一一玉〉
米穀検査制度の史的展開過程
27
第 5表 米 穀 需 給 表 ( 米 穀 年 度 〉
内
地 生 産 額I
│~輸f
移^
入~
額 l
輸
移出額│
│
総額 I
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千石
1
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千石
千石
38,
1
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4
1,
1
3
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1
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27
267
3
7,
1
,
359
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834
38,
1
0
1
明治 25年
0.938
28
859
4
1,
774
874
4
1,
759
29
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39,
557
622
(
一)
1
(ー) 65
0.923
1
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0.947
30
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0
5
1
2,
758
1
,
293
37,
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0.882
3
1
039
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5,
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5,
1
0
0
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1
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0.885
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389
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1
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1
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33
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39,
1
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1
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,
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1
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6
ヲ3
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5,
2
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2
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5,
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5,
5
1,
974
3
8
430
5
1,
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5,
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3
8
1
5,
56,
8
1
1
1
.214
39
1
7
3
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3,
5
3
1
259
3,
272
4
1,
445
0.876
40
46,
303
3,
250
274
976
2,
49,
278
1
.030
4
1
1
5
1
3,
255
2,
8ヲ6
5
1,
948
1
.078
42
4
3
49,
052
5
1,
934
438
52,
2,
528
1
,
757
379
5
9
1
2,
1
4
9
1
,162
54,
083
53,
604
1
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0
8
1
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44
46,
633
2,
933
2,
4
9
1
49,
1
2
5
0.980
45
5
1,
712
911
2,
2,
6
1
1
322
54,
1
.068
30C
注(
1
) 持 田 恵 三 「 食 樋 政 策 の 成 立 過 程 件 J(
1
1農 業 総 合 研 究 』 第 B巻 第 2号 , 昭 和 29年),
203頁より.
(
2
) 原資料は農林省米穀部『米穀要覧1IC昭和 8年).
それゆえまた同時に,県営検査を農商務大臣の認可制とする一方,手数料の
徴収に根拠を与える省令「重要物産ノ検査手数料ニ関スル件 J と,検査業務一
般に関する次官通牒「重要物産ノ検査ニ関スル件」がこの年に発せられる (6)。
各府県の県営検査,殊に生産検査はこの省令を受けて開始されたと言える。事
実,第 3表に立ち戻るならば,明治 43年以前の県営生産検査は 8県にとどまに
この年から大正 4年(1915)までの 6年間に,それは一気に 25県にまで増加す
るのである。
更にまたこの明治 43年 (1910) は,生産調査会が設置され,
r
主要穀物ノ増
28
農 業 総 合 研 究 第 40巻 第 2号
収及改良ニ関スル件」の諮問がなされた年でもあった。この諮問の背景には,
すでに述べた日露戦後農政の課題があったことはいうまでもないが,ここで
は
,
r
明治 7
0年における米穀需給の推定」という国民食糧の長期見通しが初め
て検討されたという意味で,わが国の食糧政策史上メモリアルなものであっ
た(打。そしてここでもまた,国民食糧確保のための基本方策として,耕地整
理や開墾,栽培法の改善と共に第 3 として,
協議され,
r
品質及取引上ノ改良其ノ他」が
r
穀物ノ品質及取引上ノ改良ニ関シテハ既往ノ方針ヲ続行 (8)j する
ことが確認されたのである。
わが国における食糧政策は,この生産調査会の答申を受け,大正元年(19
1
2
)
の第 3
0議会における外米輸入関税存続,植民地米移入税廃止をもって明確に
「植民地を含めての『食糧の独立~ =自給政策(9)
j として成立を見た。それ
は明治 4
0年(19
0
7
)恐慌を背景に起こってくる初期社会主義運動や,戦争準備,
正貨流出阻止等々といった様々な国家的課題に基づいていたが, ともかくそこ
では生産調査会答申に基づく内地米の増大及び品質・取引の改良を 1つの課題
としていたのであり,県営検査の普及もその一部分をなしていたのである。明
治末に県営検査が普及することの意味は,この点を離れては評価しえないであ
ろう。
しかし,それにもかかわらず,その農商務省、による県営検査の普及は法律に
よるのではなく,省令と行政指導によるものであった点もまた見逃されてはな
らない。石黒忠篤はそれを以下のように回顧している。
「この省令ではいけないから,国の法律を出してくれという要求がありま
したが,これは中々やかましく,省令自体が憲法違反だという議論であり
ます。何故ならば自分の作ったものを売るために,検査をして,それで等
級づけられて,そのために価格が決められ等外のものは売れないというこ
とは,所有権の制限ということになって,自由を束縛する,こういう議論
で,これは非常にやかましく,農産課関係のやかましい法律論になった事
件であります (10)j
つまり,曲りなりにも資本主義的経済体制をとる以上,売買の自由に抵触す
米穀検査制度の史的展開過程
2
9
る検査の強制を法律という国家規範とすることはできず (11), そ れ は あ く ま で
行政指導として,しかも県という小宇宙における,
i
公共の利益」の達成とい
う名分の下に諸利害が調整されることによって,県を中心として進められるこ
とになったのである(問。そしてこのように,県経済の利益という点に大義名
分が置かれて県営検査が普及されたところにこそ,後の激しい産地問競争の過
程で県営検査が問題となってくる根拠があった。それはともかく,このような
「公共性」を名分とするものであった以上,県営検査がある特定の個人や階層
に利する不公正なものであっては,それが制度として定着し,効果を挙げるこ
とを期待すべくもない (13)。 つ ま り 検 査 は あ く ま で 市 場 取 引 か ら 独 立 し た 第 三
者的な「中立機関」たることが求められざるをえないのである。
しかし,実際上の生産検査の強制は,改良の負担は小作人に,改良の利益は
地主に帰属するものとなることは,まさに誰の目にも明らかであった。しかし
時はあたかも,戊申詔書く明治 4
1年
, 1
9
0
8
)が発布され,国家が一丸となっ
て臥薪嘗胆し,不況を耐え忍ぶことが課題とされていた。その意味でも,地主
小作聞に紛争の種を播き,農村秩序を奈乱させるようなことは,絶対避けねば
ならない。ここに地主小作問題が県営検査の普及における最大の矛盾と困難を
形作ることになったのである。
日本食糧協会繍『大日本米穀会史J)(日本食糧協会,昭和 33年
)
, 1頁,および
1
7
1頁。このほか決議では鉄道運賃率の一定化,貨車の配給,斗桝の形,材料の統
注(
1
)
一,俵装改良,ー俵容量の四斗への統一,等々が提起きれており,裏返せばそれら
が未だ区々バラバラだったことを示している。
(
2
) 大日本帝国議会誌刊行会編『大日本帝国議会誌』第 6巻く三省堂,昭和 3年
)
,
1
,
053頁。またその委員会審議では, 1
政府委員も大体に同意を表しました J(
1
, 095
頁〕とある。
(
3
)
以上のような日露戦後の日本資本主義の課題から見た農政の展開については,
r
農林水産省百年
『農林水産省百年史』編纂委員会練『農林水産省百年史』上巻Cl
4年〉の第 2章第 7節「日露戦後経営と農政 J(持田恵三稿〉を
史』刊行会,昭和 5
参照。
(
4
)
その協議事項については,児玉,前掲書, 1附 録 J 1- 4頁。しかしその焦点は
当然次のように,商品としての米の最低規準の統ーであった。「別項米穀改良会議
の議題に上りたる米穀の検査は産米改良上最も必要なるものなるを以て之れを検査
農業総合研究第 4
0巻 第 2号
30
統一に関し協議を重ねたる結果,第一米の乾燥調整を善良にし,異種混合を止めし
むる事,第二俵装を堅固にして且つ之を一定ならしむる事,第三容量を一定する
事,第四品位にIllfiひ等級を区lJ
j
lし 米 の 品 位 を 改 善する事としたれば右に基き各県連
W東 京 経 済 雑 誌 』 第 61巻 1538号 , 明 治 43
絡 を 取 り 検 査 の 統 一 を 図 る 筈 な る J(
年
)
, 2
6頁。
(
5
)
W
大日本長会報』第 3
4
6号 ( 明 治 43年 5月
)
,
(
6
) 日本食糧協会編
42頁。
r
戦 前 に お け る 歴 代 内 閣 の 米 穀 食 糧 行 政 ←l
llC昭和 5
2年),
142-
1
4
4頁。
(
7
)
前掲『農林水産省百年史~,持田恵三稿を参照。
(
8
) 太田嘉作『明治大正昭和米価政策史Jj(図書刊行会,昭和 52年), 206頁。
(
9
) 持 回 恵 三 「 食 糧 政 策 の 成 立 過 程 付 J(
W農業総合研究』第 8巻 第 2号,昭和 29年),
2
4
4頁 。 も ち ろ ん , 米 騒 動 を 契 機 と し て , 食 糧 問 題 が 体 制 安 定 と 直 結 し , 米 穀 法
E
l
l年
, 1
9
2
2
) の よ う な 市 場 制 度 が 作 ら れ て ゆ く 第 1次 大 戦 後 の 食 糧 政 策 に 比
(大 I
較すれば,成立といってもこの期の食糧政策は未だプリミティプではあったが,そ
れは世界資本主義の帝国主義段階への移行に対応するものであり,その方向性が以
後も堅持されてゆくと Lづ 意 味 で は 成 立 と い っ て よ い も の で あ っ た 。
前 掲 『 日 本 農 業 発 達 史 』 第 5巻
, 3
6
1頁。なおその原典は,
(
則
r
石 黒 忠 篤 講 演J(
W農
産課三八会五十年詑念行事録』所収〉とされている。
(
1
到
すでに明治
3
8年 の 第 21帝 国 議 会 で は , 政 府 が 提 出 し た 検 査 の 強 制 条 項 を 含 む
「生糸検査法案」が,各方面から私権侵害の糾弾を受け,否決されていたのであっ
W
東京経済雑誌』第 5
3巻 第 1
3
2
3号 , 明 治 39年), 34
た。「生糸検査法案に就て JC
-36頁を参照。
岡
山形県では,国の生産調査会に呼応して山形県生産調査会を作りをとで産米検
査を以下のように県経済の問題と位置づけている。「本県産米ノ、乾燥不良,調製粗
雑ナノレヲ以テ掲耗リ歩合,貯蔵中ノ減米量及砕米甚タ多ク其ノ損害十数万石ニ達シ
俵造不良ノ結果ニ由ノレ漏米ノ量二三万石ニ及フへシ故ニ産米検査ノ方法=依リテ是
等ノ改善ヲ計ラハ前者ニ於テ八万余右後者二於テ二万石余ヲ利スノレノミナラス同時
ユ耳主主│ノ便ヲ得輸出米ノ価格ヲ高メ得ノレヲ以テ左ノ京日夕百四十一万六千六百五十円
ノ利益ヲ得へシ J(山形県『山形県生産調査Jj,印刷年不明,山形県県史編纂室所
蔵〉。
仰) すなわち,先に引用した米穀改良に関する協議会の農商務大臣の訓示は続けて,
「然りと雄ども米穀富士良の事業たる本邦経済上並に社会上関係する所甚大なるもの
あ る を 以 て 之 が 経 営 の 方 針 は 常 に 公 明 正 大 苛 も 目 前 の 致 誉 褒l
乏に迷ふことなく大局
に 鑑 み て 根 本 を 誤 る こ と な か ら ん こ と を 望 む J(傍点一一玉,前掲『大日本長会報』
4
6号
, 4
2頁〕と述べている。
第3
米穀検査制度の史的展開過程
3
1
(3) 県営検査と小作人保護奨励施策
事実,先の生産調査会の答申書においては,品質および取引上の改良の冒頭
に
i
小作人奨励方法ノ実施Jとして以下のごとく述べられていた。
「元来我国ノ小作料ノ、米ノ容量ニ依リ定ラレル習慣ナルヲ以テ改良事業ノ
実施ニ伴ヒ地主ニ納付スル小作米ノ品位ヲ高メント欲セハ之ニ伴フ容量ノ
減少品質ノ改善労費ノ増加等ニ関シ地主ニ於テ奨励米ノ交付其ノ他小作人
奨励ニ関スル相当ノ方法ヲ設ケシムルノ必要アリ故ニ将来一層此点ニ意ヲ
注キ深ク地方ノ実況ニ鑑ミ地主小作人間ノ調和ヲ保チ殊ニ産米検査ヲ行フ
場合ニハ必ス小作人奨励ノ方法ヲ設ケシメ以テ乾燥調整方法ノ進歩ト穀物
検査事業ノ普及ヲ図ランコトヲ期ス(l)J
そしてまた,それを受けた農商務省による「答申書提出後における主要穀物
J でも,農商務省側の対応が以下のように述
の増収及び改良に関する施設け )
べられている。
「米穀検査施行に伴ふ地主,小作人聞に於ける利益の分配に就ては常に注
意を怠らず明治四十三年府県検査所長会議に於ては本省大臣より特に此点
に関し訓示を与へ其後詳細注意する所ありたり且つ本省より米穀検査事業
監督の為め当該官使を府県に派遣する場合には是等の点に付き特に留意せ
しめ尚地方当局者に対し其都度注意を与へつつあり而して各検査施行地の
実際を見るに地主,小作人間の調和円満なるにあらざれは到底良好の成績
を挙げ難きを以て地方長官も亦特に此の点に関し意を用いつつあり,尚新
に検査を開始せむとする府県に対しては地主,小作人間の調和を計り且利
益の分配を公平ならしむるの計画を定めしめ而して後始めて認可を与へる
の方針を採りつつあり
J (傍点一一玉)
(3)
それでは具体的に,地方当局によってなされた地主小作間の利益公平を計る
施設は何かといえば,それは地主を地主会に組織し,そこで小作人保護奨励方
法,すなわち産米検査の等級に対応する奨励米の給付その他を協定せしめるこ
とでほぼ全国共通していた。いくつか事例として上げれば以下のごとくである。
「地主ノ小作人ニ対スル保護奨励ニ関シテハ米穀検査施行ニ先チ郡市長ニ
32
農 業 総 合 研 究 第 40巻 第 2号
諮問シ地主会々則準則ト共ニ小作者保護奨励規程準則ヲ一定シ努メテ小作
者ノ奨励率ヲ一途ニ出テシメム...・ ・
.
.J(茨城県)
H
「本県ノ、大正五年度産米検査ノ実施ニ伴ヒ小作人保護奨励準則ヲ発布シ地
主及郡地主会ヲ督励シ之カ実行ヲ期シッ、アリ J(青森県)
「本県ニ於テハ米穀検査事業開始ト同時ニ地主会規約準則ヲ配布シ之カ組
織ヲ奨励セシニ村ノ多クハ此方法ニ準シ夫々土地ノ事情ヲ参酌シテ村ニ適
当ナル地主会ヲ設置シ同会ノ主催又ハ村農会ト聯合主催ニテ小作米品評会
ヲ開キ米ノ等級ニ依リ賞品ヲ給与ン特ニ改良ノ成績顕著ナルモノニ対シテ
ノ、表彰スル等両者間ノ融和ヲ図リッ、ァリ J(鹿児島県 )
C4)
この地主会の奨励は,地主の不耕作化,寄生化が進んだ明治 3
0年代に初め
て提起され,日露戦後の地方改良運動にも位置づけられるが,それは明らかに
地主を農事改良主体に引き戻すことを意図したものであり,したがって対抗的
性質のものではなく農事の改良,ノj
、作人の保護奨励,地主相互の親睦等を目的
とするものであったくり。しかし第 6表でも明らかなように,その組織化は遅
第 6表地区別に見た地主組合の設立数
明 川 前 │ 明 21-40
明 41-大 1
I大 2- 6 I大 7-10
20
北海道
:j~
関
東
ヒ
オ
陸
2
東山・東海
2
3
丘
畿
2
3
中
国
2
四
国
** 6
* 2
4
j
+
1
九
言
十
*
* 8
本**110
4
東
3
*
* 36
*
9
4
62
*** 32
32
ホ
**
7
*
本
ネ
2
1
キ
3
*
****12
507
*
* 9
* 7
* 1
3
1
9
9
26
* 30
24
* 33
29
1
2
4
1
5
2
1
235
1
3
0
注(1) 農商務省農務課『本邦ニ於ケノレ農業団体ニ関スノレ調査~ (大正 1
3年
)
, 74-78
頁.
(
3
) 本 は そ の 期 間 に 県 営 検 査 を 開 始 し た 県 の 数 を 示 し て お り , 第 3表 と 対 応 す る . な
お,生産,移出検査の施行年が異なる場合は,生産検査施行年をとった.
(
2
) 関 東 が 異 常 に 多 い の は , 茨 城 県 に 規 定 さ れ る も の で あ り , 明 治 41-大 正 i年 閣 の
茨 城 l県 で 238に達する.
米穀検査制度の史的展開過程
3
3
々としたものであり,明治 4
1年(19
0
8
)以降,米穀県営検査の普及と並行して,
小作人奨励施設としてはじめて組織化が進むのである (6)。 し か も , 東 日 本 に
多いといった地域性と共に県ごとにも数の差が大きく,そこからもその組織化
には県の方針が強く作用していたことがうかがわれるのである。
とはいえ,県営検査の施行が県当局によって,一方的になされたものでは
なく,かなり慎重な手続きを踏む形で実施に移されていることも,注目される
必要がある。全国初の大分県の場合も「県に於ても重要取引市場を調査し或は
県下の主なる実業家を招集し勧業諮問会を開きて意見を徴する等種々調査考
究(7)j
されているが,こうした諮問会の開催はほぼどこの県の場合にも共通
している。
そして中でも地主小作聞の利益の分配には,一番の神経が使われている。山
形県を例にとれば, ["県が移出米検査の実施にあたって,最も意を注いだのは
地主対小作人の融和についてであって (8)j,県営検査開始の前年にあたる明治
4
3年(19
1
0
) に,県は所有地価 1万円以上の地主,農業篤志家を招集して諮問
会を開催し,知事が直接訓示して「移出米検査が成功するか否かは,実に地主
の協力の如何によるものであるとし,この検査の施行によって最も利益を受け
るのは地主であるから,地主ば小作人に対し,相当の奨励策を講ずるよう要
請 (9)j している。その上で県は地主会を柱とする具体的な小作人保護奨励策
を樹て,その当否を県農会に諮問し,県農会の支持決議を受けて,それを「小
作人保護奨励の告諭 j,["小作人保護奨励の訓令」として発布する。米穀輸出検
4年(19
1
1
)であるが,同時に「検査施行ニ関スル
査規則が発布されたのは翌 4
告諭」を発し,そこでも当業者は「一層業務ニ精励シテ産米ノ改良ヲ図リ,県
下福利ノ増進ニ努ムベク,特ニ地主及小作人ノ、互ニ相和衷協同シ,又地主ハ小
作人保護奨励ニ関スル客年告諭第二号ノ趣旨ヲ実践スルコトニ努ムベシ (10)j
と結ぼれている。しかしそれでもまだ十分に実行されていないと見て,県は翌
大正元年(19
1
2
)内務部長名を以って,検査実施地の各郡市長に対し,検査によ
0銭
って生ずる利益と経費を計算の上 1等米 2
2等米 1
2銭
3等米 5銭(俵
装材料全部地主負担の場合〉とまで明示して, ["本年新穀出廻後御部内地主ニ
34
農 業 総 合 研 究 第 40巻第 2号
於 テ 受 検 ノ 際 ハ 其 ノ 利 益 ヲ 適 当 ニ 小 作 人 ニ モ 分 配 相 成 様 十 分 御 菅 使 相 成 度 (11)J
指示しているのである。
このことから見ても,農商務省だけでなく地方庁もまた米穀県営検査の施行
が,地主小作間の紛争となり農村秩序が動揺することを極力回避しようとして
いたことは明らかであろう。もちろん,それはすでに寄生化してしまった地主
を再び、温情主義的な施策で捉えようとする点で,矛盾を内蔵するものであった。
実 際 , 明 治 44年(19
1
1
)に 帝 国 農 会 が 行 な っ た 「 町 村 農 会 の 活 動 不 振 の 理 由 に
関する調査」を見れば,その理由の第
1は
,
r
大地主往々冷淡なること J
,第4
に 「 地 主 が 往 々 小 作 人 の 利 益 保 護 に 努 め ざ る も の あ る こ と 」 と さ れ て お り 〈 12
,
〉
地主会の任意の申し合わせで奨励米の補給等がどの程度一般になされたもので
あったかは疑問である。それゆえにこそ,西日本を中心に,米穀検査施行を原
因とする小作争議が発生してくるのである。
注(
1
) 本文は太田,前掲書, 206-2日8頁。なお下線部分は,特別委員会の審議中に原
案に付け加わったところで,その付加の理由を特別委員長曾我祐準は次のように述
べている。「之は,小作人として良い米を収めしむるようにするには,それを償う
ところの相当の費用を弁ずる,即に,小作人を奨励する法を設けなければならぬと
いう事が最も主なる趣意で,此の修正を致しました。J(日本食糧協会,前掲書,
108 頁 o 原典は『生産調査会録事~
(
2
),
1
1
2
0頁
)
。
(
2
) IT'帝国長会報』第 2巻第 1
2号〔大正元年 1
2月
)
, 22-26頁
。
(
3
) 向上, 2
6頁
。
(
4
)
宮城県内務部『小作人保護奨励ニ関スノレ施設事例~
同資料によれば,ほとんどの県が,
(大正 6年
)
, 1
0,1
3,7
0頁
。
r
地主会会則」ゃ「地主会規約 Jを県自らが作
り,公示している。
(
5
) 宮崎隆次「大正デモクラシ一期の農村と政党付 J(IT'国家学会雑誌』第 93巻第
7・8号,昭和 5
5年
)
, 3
5-36頁
。
(
6
) 農商務省農務局『本邦ニ於ケノレ農業団体ニ関スノレ調査~ (大正
1
3年〉には以下の
ようにある。「地主団体ノ大部分ノ、主トシテ農業ノ改良発達,農村ノ改善及米穀検
査ノ施行ヲ便宜ナラシムノレノ目的ヲ以テ設立セラレタノレモノニシテ従ツテ其/発達
ノ、小作人団体ノ夫ニ比シテ古 F小作問題勃発以前即チ明治四十一年ヨリ大正六年ニ
至ノレ問エ顕著ナノレヲ見ノレナり
J(1頁)。
(
7
) 児玉,前掲書, 1
3
0頁
。
(
8
)
(
9
) 山形県産米改良協会連合会『山形県米穀流通経済史Jl(昭和 3
3年
)
, 1
3
7頁
。
米穀検査制度の史的展開過程
35
仰) 同上, 1
5
4頁。
担)
1 同上, 1
9
1頁 。 そ こ で の 利 益 主 経 費 の 計 算 と は ,
ま ず 利 益 は 検 査 後 l石当たり
80銭から l円 高 価 と な っ た こ と に 基 づ き 俵 に つ き 少 額 に 見 積 っ て 25銭(乱)とし,
b
), 俵 装 賃 銭 お よ び 検 査 料 8銭 (
c
), 合 計 1
5銭 3厘
一 方 経 費 は 俵 材 料 費 を 7銭 3厘 (
b
X
c
)す べ て を 負 担 す る 場 合 , 乙 , 地 主 が (
c
)の
但)とする。これに基づき,甲,地主が (
1
0銭 , 乙 約 1
7銭 と し て , こ れ を 地
3等 米 奨 励 金 を 5銭と 1
0銭 と 計 算 し て い る 。
みを負担する場合に分け,差引純利益は,甲約
主小作間で折半することによって
乙のつ方が分配率がよ L、のは, そ の 形 態 を 奨 励 す る 意 と も 読 め る 。 よ っ て 結 果 は
l等米
20銭
甲
2等 米
3等 米
1
2銭
5銭
1
0銭
な お , そ れ に は 更 に , 他 府 県 で の 実 施 例 が 第 7表のような形で付記されている。
乙
25銭
1
8銭
前掲『山形県米穀流通経済史.1, 190-194頁。
第 7表 奨 励 米 の 実 施 例 ( 大 E 元年, 1
9
1
2年〕
県
名
米の種類
呑
)
1
1
合格米
福
井
乙合格米
乙合格下
兵
庫
合格米
章
太
田
l俵 当 り 奨 励 額
米 2升
実行歩合
100%
甲合格米
l升 5合 又 は 1
0銭
1升 又 は 5銭
富
一等米
山
上合格米
一等米
二等米
1
0銭
岡
)
1
1
山
│
l升 又 は 1
2銭│
65%
30%
3升 5合
3升
四等米
2升 5合
2升
五等米
l升 5合
三等米
鹿児島
右
ヲ5%
l升
二等米
l
∞%
100%
一等米
5升
二等米
40%
三等米
3升
2升
合格米
2升
96%
注 . 山 形 県 産 米 改 良 協 会 連 合 会 『 山 形 県 米 穀 流 通 経 済 史H 昭 和 3
3年),
193-194頁.
3
6
(
1
2
)
(4)
農業総合研究第4
0巻 第 2号
[j"帝国食会報』第
1巻 第 1
1号 ( 明 治 4
4年), 8頁
米穀検査をめぐ~小作争議と小作慣行
以上のことから,米穀検査をめぐる小作争議は,まずは小作人の負担増に対
する奨励米をめぐって発生することになった。岡山県は県営検査施行が農商務
省が検査行政に本格的に乗り出すよりもかなり早かったこともあって,最も初
本県ニ於テハ明治三十六年米穀検査ヲ
期の事例を提供している。すなわち, i
実施シ,産米及俵装ノ改良ヲ図レル結果,小作人ノ労費増加セルニ鑑ミ,一般
地主ハ奨励金穀ヲ給与セリト難モ,地方ニヨリ地主ニヨリテハ,従来ノ小作料
ノ低廉ナルヲ口実トシ,全ク給与セザ Iレアリ,給与スルモ其額極メテ少キアリ,
為メニ之が支給又ハ増額ヲ要求スル問題ノ、,屡々発生シ,恰モ米穀検査ノ実施
ノ、地主小作両者ノ利害ニ関シ,適好ナル紛争ノ口実ヲ与へタル感アリ(1)Jと
。
0年(19
0
7
) 小田郡大井村大字西大戸部落と明治 4
4年
具体的には,明治 4
(
1911)小田郡小田村での費用増加に対する小作料減額ないし奨励米給与を要
求する争議が報告されており,前者は双方相譲らず,小作人は土地返還同盟を
作り,地主もまた労働者を雇って自作しようとして衝突し,刑事問題にまでな
っている。ただ,前者は互譲協定にて,後者は玄米 l
石につき
5升の奨励米の
支給で比較的早期に結着を見ている (2)。
兵庫県でもそうした紛争は「毎年収穫時期ニ於テ始終惹起スル状況(3)Jと
あるが,これらは結局,地主と小作の関係は人格的関係も含めて,郡レベルで
あってもー率に捉えがたいものであったことが第 1である。第 2には本当に公
平な奨励米の量率も客観的に計算されうるものではなかったからである。実際,
地主と小作の間では全く利害が対立するのであるから,奨励米の量率も力関係
に左右され易く,それがぶつかるときには容易に結着を見ない。こうして「協
定を当事者のみに任すことは種々の弊害を生ずる虞あるを以て此所に直接利害
関係を有せざる第三者を介在せしめて其の調停付 )
J が行なわれることになる。
0年(19
0
7
)福井県南条郡湯尾村湯尾で発生した奨励米を要求する争議
明治 4
郡長及警察署長カ仲裁ノ労ヲ採リ結局地主カ全要求ヲ容ルルコトニ依リ
も
, i
米穀検査制度の史的展開過程
テ解決セリ
(5)J
37
とある。また明治 4
4年 (
1
9
1
1
) に広島県産品郡常金丸村で起
きた奨励米をめぐる小作争議も,経過は若干複雑だが,
r
草ニ於テ内田村長ノ、
右協定ノ事項ヲ小作人及地主ニ示シタノレ処両者共村長ノ仲裁条件ニ異議ナク賛
成シ紛争全ク終決ヲ告ケタリ
(6)J
とある。
しかし,このことは決して奨励米の実現によって,地主小作間で米穀検査に
よる負担と利益の公平が計られたことを意味するものではない。事実,児支完
次郎の厳密なる試算によれば (7), 3等米でいってもそれは 1石につき 5升な
ければならないが,金丸村の場合は 2等米で 1升 5合
1等米でやっと 3升に
過ぎない。しかも 4等
2升 5合の罰米をとら
5等の場合にはそれぞれ 1升
れるといったものなのである〈的。それゆえ「本紛争以来ノト作人ノ、自己ノ正当ナ
ル利益主張ヲナスコトヲ怠ラス地主ニ向テ奨励米ノ増加ヲ要求セリリ )
J とい
う状態が続き,その結果また「以来村長内田氏ノサ也主ノ意見ヲ重スルト同時ニ
小作人ノ要求ヲモヨク容レ極力之カ協調ニ努メ奨励米ノ如キモ可成小作人側ノ
利益ナノレ様ニ改正ヲナシ今日ニ於テハ地主小作人間ニテ紛争ヲ見ルコトナシ唯
一部地主ハ村長カ極端ニ小作人ヲ擁護スルモノナリトナシ面白ク恩ハサルモノ
アリ卜言フ(!O)J
。
奨励米とはこのように決して客観的なものではなし利害対立を紛争化させ
ないためのものであり,
r
仲裁者Jの行動もそこに規定された秩序維持的なも
のであったといわねばならない。ともかく,こうした上からと下からの双方相
まって,奨励米の給与という新しい小作慣行が米穀検査と共に形成されたので
ある。すなわち,大正元年 (
1
9
1
2
)の小作慣行調査は,
r
産米検査カ小作慣行ニ
及ホセル影響」として,以下の 4点在指摘している。
(
1
) 小作米品質ノ標準定レルコト
(
2
) 従来区々ナリシー俵ノ容量及俵装ノ方法一定セルコト
(
3
)
r
口米 Jr
込米Jr
サシ米」等ノ慣行無キニ至リタルコト
(
4
) 米製俵改良ノ報償トシテ多クノ地方ニ於テハ小作米ノ検査等級ニ応シ奨
励米又ハ奨励金ヲ交付スル新慣行起リタルコト (11)
更に,大正 1
0年(19
2
1
)の小作慣行調査で・も,第 8表のように極めて詳細な
38
農 業 総 合 研 究 第 40巻第 2号
第 B表奨励米交付および罰米徴収地主割合(大正 1
0年小作慣行調査〉
〈単位:%)
|強制任|奨励米交|罰米徴収
道府県│意の別│付地主割合│地主割合
大部分
大部分
罰米徴収
道府県│意の別│付地主割合│地主割畠
~rt:::t,~
l
宝
日
青森
群馬
強
強
強
任
強
半強
強
強
千葉
E
強
90
20
O
愛媛
90
40
福岡
88
35
佐賀
三重
強
強
強
強
強
強
強
99
滋賀
5
虫
80
京都
強
97
手
火
回
山形
福島
茨城
栃木
神奈川
新潟
石川
福井
岐阜
愛知
】
i大 阪
北海道
宮城
強制任|奨励米交i
5
皇
82
4
欠記載
兵庫
強
9C
22
和歌山
E
査
35
O
82
鳥取
65
65
1
0
0
島根
岡山
広島
山口
徳島
香川
(
移
〕
(
移
〉
強
任
1
0
0
O
55
3
97
77
87
95
45
1
0
0
60
E
喧
E
温
95
極メテ稀
O
極メテ稀
25
稀
ヲ0
1
0
殆ト全部
1
0
長崎
稀
熊本
強
強
強
任
(
移
〕
(
移
〉
大分
車
日
27
O
宮崎
虫
日
66
52
鹿児島
強
30
1
0
3
90
1
1861
i
ヲ5
O
1
0
65
O
1
8
2
85
20
60
30
注(
1
) 強制j任意別欄で(移〕とあるのは,移出検査のみで生産検査なしを意味する.
(
2
)
県営検査が施行されていない県,および記載欠落の埼玉,富山,奈良を除<.
(
3
) 農地制度資料集成編纂委員会「農地制度資料集成』第 l巻(御茶の水書房,昭和
45年
)
, 465-472頁.
調査が行なわれ,
i
小作米ノ納入ニ関シテ地主カ検査スルノ手数ヲ省キ得タル
モノ(北海道,大阪,兵庫,群馬,千葉,愛知,秋田,石川,山口,徳島,福岡,
r
熊 本)
J 従来徴収シ居リタル込米ノ類ヲ廃止スルニ至リシモノ(大阪,愛媛,
兵庫,愛知,滋賀,三重,岐阜,島根,茨城,青森ニ其例アリ〕等アリテ一般
的ニハ小作米ノ容量及ビ品質等ニ就キテノ地主,小作者間ノ紛議ヲ防キ其ノ統
ーヲ見ルニ至レリ
J(傍点一一玉)と指摘されている。まさに,奨励米がどの
程度本来的意味での負担と利益の公平な分配になったかは別として,地主小作
人間の利害対立を紛争化させない程度までの調整作用を果たしているのである。
更に,これまで脱漏を見越して慣行化されていた込米の廃止は小作料減額を
米穀検査制度の史的展開過程
3
9
も意味するものであった。このため「大阪,愛媛(以上一般的),並京都,新潟,
三重,滋賀,岐阜,岩手,島根,岡山,徳島,香川,大分(以上一少部分)ノ諸
府県 (12)Jにおいては, i
込米ノ廃止ヲ考慮シテ奨励米ノ分量ヲ定メタル (13)J
という妥協的対応がなされているが,他の府県は両者は無関係に決められ,そ
のために新潟,岐阜等ではこの込米をめぐって大きな争議が発生している。新
潟ではこの込米をめぐって小作人協会が設立され,その活動が後まで継続され
てゆくことになるし〈 1
4
h また岐阜でも生産検査開始の大正 6年(1917)以降,
込米撤廃闘争が第 1次大戦後の小作争議に連続してゆくのである(15)。そして
それは明らかに地主側が「込米ヲ廃止スレハ次ニノ、小作料ノ減免ヲ要求スルニ
至ル (16)Jことを恐れ強く抵抗したからである。しかしそれにもかかわらず,
込米は撤廃の方向へ向かつてゆくのである。
このように見ても,県営検査の普及は奨励米という新しい小作慣行を創り出
し,検査をめぐる地主小作聞の利害対立を調整していっただけではなく,地方
によって区々であった小作慣行自体をも商品経済の進展に一定程度見合うもの
へと全国的に平準化させてゆく作用も果たしたのであった。そしてそうした関
係が作り出されてゆくことによって,米穀県営検査も 1つの市場制度として社
会的に定着してゆくことが出来たのである。
もちろん,一旦寄生化した地主を再び温情的たらしめよう左しでもそれは無
理であり,地主会の活動は大正中期ともなれば全国的に「有名無実ノ状態 (17)J
となり,また i
(奨励米補給米ノ交付アルモ未タ充分ニ之ヲ補ハス)小作人カ
小作料ノ減額ヲ要求スルニ至レル地方」も常にあった。そのような意味でも,
米穀検査をめぐる地主小作聞の利害の調整は,常に再調整を必要なものとして,
行政の前に突きつけられていたものということができる。
3年
そしてそうであったがゆえに,米穀商から早期に提起され (18),明治 4
(
19
1
0
) の米穀改良に関する協議会でも論議された(19)玄 米 の 重 量 取 引 と そ の
ための重量検査は実施に移しようのないものであった。なぜならそれが合理的
であることは自明であっても,その実施は容量をもってする小作料の納入に大
変革をもたらし,更に広範な紛争の種を播くことになってしまうからである。
農業総合研究第4
0巻 第 2号
40
重量取引と重量検査はその後も問題となり続けるが,それが達成されるのは,
第 2次 大 戦 下 の 国 営 検 査 に お い て で あ っ た 。
注(
1
) 岡 山 県 内 務 部 『 小 作 争 議 ノ 沿 革 及 現 況 1(大正
(
2
) 向上,
1
3年), 4頁。
3- 4頁。
(
3
) 農商務省農務局『小作争議ニ関見ノレ調査
其 ノ ーH 大 正 1
1年
)
, 24頁。
(
4
) 児玉,前掲書, 436頁。
其 ノ ー1, 2
2
5頁。
(
5
) 前掲, 1:"小作争議ユ関スノレ調査
(
6
) 同上, 336頁。
(
7
) 児玉,前掲書, 428-436頁 。 こ れ は き わ め て 厳 密 な る も の だ が , そ の 分 仮 定 も
多 く , ど の 程 度 の 妥 当 性 を も つ か は わ か ら な L、。奨励米とはそのように地域や生産
条件等々で千差万別の因子を総合したものだったのである。
(
8
) 前掲,
w
小作争議ニ関スノレ調査 其 ノ ー1,335頁。
(
9
) 同上, 3
3
7頁。
(
1
同 向上3 なお,この事例は,田中学,前掲稿が詳しく分析している。田中氏はその
性 格 と し て , 小 作 慣 行 や 小 作 料 そ の も の を 変 更 し よ う と Lづ積極的なものではなく,
負担増大をはねかえすことを自的とした防衛的,自然発生的なものであったこと。
比較的早期に結着を見ているが,ともかく一定の成果を獲得したことで,小作人の
権利意識が著しく助長されたこと
O
また特に県当局が奨励米給与を勧告していたこ
160-170頁)。
とが,小作農に大義名分を与えたこと等を指摘している (
(
1
1
) 農 地 制 度 資 料 集 成 編 纂 委 員 会 『 農 地 制 度 資 料 集 成 』 第 1巻 ( 御 茶 の 水 書 房 , 昭 和
4
5年), 1
3
6頁。
(
1
2
)
(
1
3
) 向上, 473頁。
凶) この点についても,田中,前掲稿に分析がある。
164-170頁を参照。
この岐阜県における込米撤廃闘争については,最近の研究として,森武麿編『近
(
聞
0年 〉 第 1章を参照。
代 農 民 運 動 と 支 配 体 制 1, (柏書房,昭和 6
回
向上
1
9頁 。 な お そ の 原 典 は , 農 商 務 事 務 次 官 小 平 権 一 『 岐 阜 県 下 ニ 於 ケ ノ レ 小
0年)である。
作紛争ニ関スノレ調査復命書 H 大 正 1
(
17
)
r
本県ニ於テハ明治四十年穀物検査規則発布ノ当時小作奨励米ヲ一定スノレノ要 7
り各郡地主会ヲ設置セシカ当時目的ヲ達成シ現今ニテハ有名無実ノ状態ナり
小作争議ニ関スノレ調査
掲
, 1
J(前
其 ノ ー1, 3
61頁〉。また大正中期には,小作争議が激
しくなって,以下のように地主会を奨励すること自体ができなくなり,地主小作双
方を含む協調組合の奨励へと政策はシフトしてゆく。「従来本県当局ハ地主会ノ設
立ヲ奨励セシモ現今ノ趨勢ヨリ観察スノレトキハ斯タノ主日夕地主会等ト称スノレ対抗的
[ママ]
ノモノヲ作ノレハ宜シカラサノレヲ以テ将来ハ斯"/如キ名サヘセ避ケ地主小作人ノ混
合組合ヲ作ノレコト
J(向上,
230頁).
米穀検査制度の史的展開過程
4
1
なお,協調会『最近の社会運動.J](協調会,昭和 5年)3
7
8頁以下も参照。
側容量は手加減しだいで量自に多少を生じ,検査にあたっても関俵を必要として煩
わしきことこのよもなかった。そのため大日本米穀会は早くも明治 4
2年(19
0
9
)の
大会で重量取引を主張し,以後一貫して運動を続けてゆく(前掲, Ii大日本米穀会
見
.
1
1
, 21頁
〉
。
r
米穀重量取引ノ利害及若シ重量取引ヲ利トセハ其
ノ実施方法」がある(児玉,前掲書, r
付録 j, 2頁〕。また生産調査会答申書にも,
桝量受渡
「漸次実績ヲ挙タル為ニ適宜誘導ノ方法ヲ鶏セソトス」主 L、う項目に, r
(
1
司 この協議会の協議項白には,
ヲ重量受渡ェ改ムノレコト」があった(太田,前掲書, 208頁
〕
。
4
. 小 括
大 正 4年(19
15) に農商務省、は第 2回米穀改良に関する協議会を開催する。
当時すでに「府県又は同業組合の事業として米穀の検査を行うもの三十二府県
の多きに達し,旧態を一新する」に至っていた。しかし,前年に始まった第 1
次大戦は,消費制限にまで至ったドイツの例を待つまでもなく, [""本邦国民の
最大食糧品たる」米の生産が, [""一朝有事に際しては国家の持久力とも密接な
る関係を有すること」を改めて政府に痛感させ,なお「一層米穀生産の改良発
達を図ると同時に,収穫後に於ける腐敗,虫害及脱漏等に依る減損を防止し,
食糧品の充実を計る(1)j 必要を要求していたのである。
そしてそれは,県営という形で普及した米穀検査をより強固に定着化させる
ということにほかならない (2)。それゆえここでも特に注意すべきこととして,
「補償米の交付 Jについて農務局長は次のように述べていたのである。
「米穀改良事業に依って生ずる利益を地主及小作者聞に公平に分配せしむ
るは,本事業の施行上一日も忽にすべからざる事項たり,此の点に関して
は各地方共相当注意せらるることを疑わずと雄,今後一層の注意あらんこ
とを望むり )
j
更に, [""産米の声価を博せむが為検査員に於て品質を偏重し,経済上有利な
る品種を排斥するが如き弊なきゃ(4)
J ともあり,検査があくまで増産という
国家の食糧政策からはずれることのないよう注意を行なっているのである。
4
2
農業総合研究第4
0巻第 2号
さて,第 2章で見たように,明治中期までの米穀検査は明治 20年 代 の 改 良
0年代の同業組合にしでもあくまで「自治的」性格のもので
組合にしても, 3
あった。それは最初に米穀検査を要請したものが,貢米制度の廃止の結果起こ
ってきた粗悪米の氾濫だったという意味で,行政が検査を行なうことは,封建
的諸制限を撤廃し,自由な商品流通を原則とする資本主義社会を建設するとい
う明治政府の政策に逆行するものとして忌避されたからである。しかし,米質
の粗悪化,市場声価の下落は,地域の経済にとって重大な影響を与えるもので
あった。それゆえ,政府の殖産興業政策を受けつつ,名望家的な手作り地主層
の指導的活動に依拠する形で地方庁が推進しようとしたのが改良組合だったの
である。しかし,商品経済の発展は手作り地主層の寄生化を進め,また殖産興
業政策をもより自由放任的に転換させることによって,滋賀県と山口県を除い
0年 以 降 は , 米 商
ては改良組合による検査は定着することはなかった。明治 3
人による同業組合検査が米輸出産地で展開を見たが,これは生産者を含むもの
でないという意味で産米改良の面で始めから限界をもつものだったのである。
一方で明治 3
0年代に米の消費量は急激に増大し,それに伴って流通量も増
大しただけではなく,市場における産地聞の競争も激しくなっていった。米穀
県営検査は,直接的にはこうした競争の進展に県の勧業行政が応えようとした
ものであった。しかもその効果が市場価格の上昇となって歴然と現われること
によって,他の府県にも対応を迫るものだったのである。しかし,それが市場
制度としての根拠と規準をもって普及されてゆくのは,
3(
19
1
0
) 年の
明治 4
農商務省令以降のことであった。それは県営検査の普及が,流通過程上での減
耗を削減することによって,正貨流出の一大要因となりつつあった外米輸入の
縮減に貢献するものと位置づけられたからであった。つまり,県営検査は,植
民地を含めた帝国内自給化という形でこの頃成立を見せる食糧政策の一環とし
て普及されることになったのである。
このような意味において,県営検査の歴史的性格を従来のように,地方庁が
地主の利害に立って推進したものとすることはできない。なぜなら,それがそ
のまま施行されれば小作人には負担増を,地主には利益をもたらすことは誰の
米穀検査制度の史的展開過程
43
目にも明らかであって,それは「徒に農民の恨を招くのみにして,其の効果を
収むること能わざる (5)J ことも,これまた自明だったからである。こうして
奨励米を柱とする小作人保護奨励が政府によっても,地方庁によっても,県営
検査実施のための条件として地主に対して指導されていったのであった。もち
ろん,地主のカが未だ強い当時にあっては,米穀検査の結果が相対的に地主有
利に作用したで、あろうことは充分考えられる。またそれだからこそ,米穀検査
をめぐる小作争議も発生してきたのであった。しかし,地方当局はこれまで言
われてきたように,それを権力的に弾圧したのではなく,むしろ奨励米という
新しい小作慣行をより徹底させ,またその量率を地主小作間で紛争が起きない
程度にまで調整することによって (6),その市場制度としての「公共性」と
「中立性」を確保していったのであった。そうであったからこそ,県営検査は
市場制度として社会的に定着することもでき,乾燥,俵装改良をはじめとする
産米改良と流通減耗の削減,取引の円滑化といった市場経済的機能を発揮し,
そのことによって国家的,体制的利害に立つ食糧政策の一翼を担うこともでき
たのである。
ただし,県営検査はそのような国家的意義のものであったにもかかわらず,
政府が直接法律によって制度化したものではなく,あくまで各道府県が自県経
済の利益を大義名分として,県単位で制度化されていったものであった。それ
はこの段階でも未だ「自由売買」という市場原則が,政府が直接前面に出るこ
とを許さなかったからである。しかし,ここに次の段階における問題が亭まれ
ていた。なぜなら県営検査が食糧政策に沿って機能してゆくためには,その
検査内容が統一化の方向へ向かうものでなければならない。実際,大正末まで
はその方向で整備が進み,それが第 1次大戦後の米穀市場における東西二大ブ
ロック化の下での銘柄等級制の確立の物質的条件となったのであった。しかし
銘柄等級制の確立は,銘柄競争を促し,とりわけ植民地米の進出が,各県を単
位とする産米改良競争を蛾烈なものとして県営検査は各県の産米改良と製品差
別化のための手段として再び統一性を失ってゆくだけでなく,自虐的なまでの
厳格化を進めることになる。一方,米穀統制のための市場の制度化と組織化を
4
4
農業総合研究第
4
0巻 第 2号
進めつつあった政府にとっては,銘柄競争は米穀統制を乱すものとして,銘柄
整理が緊急課題となり,ここに国営検査が政策プランに登場することになるの
である。しかるに,結局のところそれが戦時統制の一環としての食糧管理制度
の一部分に,統制品の収納検査としてしか達成されなかったのはなぜか,その
解明が続稿の課題となるだろう。
注(
1
) 以上の引用は,協議会における道家農務局長開会の辞(日本食糧協会
げる歴代内閣の米穀・食糧政策口.11,昭和 5
3年
,
r
戦前にお
3
4
8頁)。
(
2
) 事実この段階では未だ県営検査は完全に定着したものとはいえなかった。例えば,
福岡県の場合は,明治
4
4年 (
1
9
1
1
)に施行されるが, ["生産検査は実施間際に於て
検査の程度峻酷に失するなきゃの疑慢を懐く反対的団体醸成し j, 実 施 は 築 上 , 京
都の 2郡のみで他は延期され,
r
大正二年三瀦郡の一部に生産検査を開始し其の成
績亦良好にして殆んど前者を凌ぐの好結果を得。次いで大 E 三年遠賀・糸島二郡及
鞍手・糟屋・三瀦各郡の一部に施行したる所再び反対団起り実行困難に陥りたるも
能〈其の効果を指摘して誤解を除去し大正五年更に鞍手郡の残郡及嘉穂田川糟屋各
郡の一部に施行し爾来年々拡張して大正十一年に歪り県下全部に検査を施行するに
至る j (児玉,前掲書, 1
2
5頁〉。
(
3
) 日本食糧協会,前掲書口, 3
4
9頁。
(
4
) Ii帝国農会報』第 5巻 第 3号
, 1
2
4頁。
(
5
) 第 2回米穀改良に関する協議会における河野農商大臣の訓示(日本食糧協会,前
掲書白,
3
5
1頁)。
(
6
) ただし,この段階の地主小作聞の調整は小作権を強化しようと Lづ方向よりも,
地主を再び小作人の保護者に引き戻そうと L、う逆向きの介入であったと Lづ意味で,
第 1次大戦後とは基本的に段階が異なる。柳田国男ば,以下のようにその点を批判
して小作料金納骨却を提起したのである。「全体,地主が人に農業をさせて置きながら,
改良の必要を唱へるのは手前勝手の話で,小作人と休戚を共にするやうな昔風の地
主ならば兎も角も,所調不在主義の地主が之を説くに至っては不条理の言たるを免
れません。要するに小作料米納の慣習の下に米質改良策が効を奏せないのは当然で
あります。故に恐ろしい法令の力を借りるのです j
(柳田国男『時代ト農政I
J[Ii明治
大正農政経済名著集
〔付記〕
5.11,食文協,昭和 5
1年所収, 3
4
7頁 J
)。
本稿は,著者が日:本学術振興会特別研究員として,農業総合研究所において
行なった研究の成果である(編集委員会〉。
1
3
3
〔 要 旨7
米穀検査制度の史的展開過程
一一殖産興業政策および食糧政策との関連を中心に一一
玉 真 之 介
米穀検査制度は重要な農産物市場制度の lつであるが,これまでは専らその地主的性
格が強調されるにとどまりつの市場制度としての歴史的展開が問題にされることは
なかった。しかしそれを市場制度と捉えるならば,その制度化を規定づけるものとして
食糧政策との関連が明確にされねばならないと共に,それが制度として安定的に定着す
る根拠も明らかにされる必要がある。本稿はこうした視角から,まずは明治維新から日
露戦後の米穀県営検査の普及までを対象として,その制度化の過程を考察した。
0年代までの米穀検査は,米質改良組合ないし米穀同業組合による
明治 20年代から 3
検査と特徴づけられる。これは地租改正による貫米制度の廃止によって起こってきた粗
悪米の氾濫に対して,殖産興業政策を背景に展開された「自治的」な対応であった。そ
れは自由な商品流通を原則とする資本主義建設を目的とした明治政府が,再び制度的規
制の主体となることはできなかったからである。しかし,そこで「自治的」対応の担い
手として期待された手作り地主層は,資本主義的国民経済の成立と並行して地域農業の
指導者たる地位から寄生地主へと転化していった。ここに米質改良組合の不充分な展開
と,更には同業組合検査が米商人中心の移出検査にとどまらざるを得ない理由があった。
移出検査にとどまるかぎり,生産過程での産米改良は部分的なものにとどまる。これ
が米穀市場の発展とそこでの市場競争の展開の中で各県を県営検査に踏み切らせた主要
な要因であった。 しかし, 明治 3
0年代の産業人口の増大は日本を米の輸出国から輸入
国へ転換させ,それが日露戦後「正貨流出の一大原因」となるに至って,流通減耗の解
消のために県営検査の普及は,食糧政策に位置づけられることになったのである。
しかし,米穀検査の強制は寄生化した地主に利益をもたらす反面,小作人には負担を
増加させ,小作争議の原因となって農村秩序を動揺させる可能性があった。そのために
は,米穀県営検査の普及は同時に小作人保護奨励をも政策課題として登場させ,奨励米
の交付という新しい小作慣行が上から普及されていった。もちろんその過程で,小作争
議も発生したが,地方当局はこれまで言われていたように,それを権力的に弾圧したの
ではなく,その都度奨励米の量率を紛争が生じない程度に調整し,その結果として県営
検査はいわば「公共的」・「中立的」なものとして制度的に定着されていったのである。
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