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パスカル・ボニゼール著 『盲目の視野: 映画についての
Kobe University Repository : Kernel Title パスカル・ボニゼール著『盲目の視野 : 映画についての 試論』(Pascal Bonitzer, Le champ aveugle-Essais sur le cinema, Cahiers du cinema Gallimard, 1982, 148p.) Author(s) 松谷, 容作 Citation 美学芸術学論集,1:66-75 Issue date 2005-03 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002311 Create Date: 2017-03-31 6 6 美学芸術学論集 創刊号 神戸大学芸術学研究室 2 005年 【 書評】パスカル . ボニゼ-ル著 『盲 目の 視 野 -映画 についての試 論』 依然 として有効 な問題 を私 た ちに投 げか けて くるか らだ。 2ボ二ゼールの紹介 ( Pa s c lBo a m it z er , Lec hampav eu gl eEs s a l おs u rl e c i n e / ma , Cahi e r sduc i n6 maGau i ma rd ,1 982,1 4 8p. ) 『盲 目の視野』についての紹介 を始める 前に、著者であるボニゼ-ルの紹介 を簡単 に行いたい。 1は じめに 946 年にフランスのパ ボニゼ-ルは、1 リで生まれ る。パ リ第 11大学において哲 本稿は、パスカル ・ボニゼ-ル著 『盲 目 969 年 にカ 学 を学び、政治運動 を経て、1 の 視 野 一映 画 につい ての試論 ( ras c a l イエ ・デ ュ ・ シネマ誌に参加す る。 それ Boni t z e r ,Lechamp aveugleEs s al ' ssL L rl e c l he ' ma,Ca hi er sdu c n6ma Gal i l i mar d, 以降、20年間、ボニゼ-ルはこの映画批評 雑誌 を拠点 として、批評活動を行 うことに 1 982,1 48p. ) 』( 1 ) の書評である。『盲 目の視 なる。同時期にこの雑誌で活躍 した批評家 野』は、ボニゼ-ルの評論活動の主要な場 には、ジャン=ルイ ・コモ リやセル ジュ ・ であったカイェ ・デュ ・シネマ誌に、1 970 ダネ-な どがいる。 コモ リや ダネ-が社会 年代か ら 80年代にかけて掲載 された彼の と映画の関係 を問題に し 「 画面の奥行」を 評論の一部に、加筆、修正が加 えられた も 論 じたのに対 して、ボニゼ-ル は映画その の と、未発表の評論がま とめ られた評論集 もの、また映画 と他の芸術 との差異を問題 である。 にし 「 画面外」を論 じた。両者の関心の違 本稿には 2つの試みがある。第 1の試み いは、カイエ ・デュ ・シネマ誌におけるボ は、『盲 目の視野』に収められた 7つの評 ニゼ-ル の特異性 を表 してい るよ うに思 論か ら、それ らを繋ぎ合わせ る何 らかの糸 われ る。 を読み取 り、この評論集 におけるボニゼ- ボニゼ-ルは、カイエ ・デュ ・シネマ誌 ルの狙いを明 らかにすることである。そ し に多 くの評論や作品批評 を発表す るが、そ て第 2の試みは、この評論集 の現代的意義 の多 くが 『視線 と声一映画についての試論』 を示す ことである。 とい うの もこの評論集 ( 1 976) 、『盲 目の視野』、『 歪形す るフレーム は、発表か ら 2 0年以上 も経過 しているに 1 985 )とい う 3つ ー絵画と映画の比較考察』( もかかわ らず、現在の映画理論に対 しても の評論集 に再録 されている。またそれ以外 のボニゼ-ルの著作 としては、エ リック ・ ( 1 )『 盲目の視野』は、現在、第2版まで出版されてい ロメール の作品に独 自の解釈 を展開 した るが、本稿では初版を扱うことにする。初版と第2版 は内容面に関して違いはない。しかし初版には写真が 挿入されているのに対して、第2版ではそれが削除さ れている。また初版の副題が 「 映画についての試論 ( Es s al 盲sz ul ec 血e ' md」であるのに対し、第2版では 「 映画のリアリズムについての試論( Es s a l ss u pl e z l e ' a l t ' s meauc l ' ne ' md」となっているO副題の側面から 見ると、第2版は、初版に比べて、著作の狙いがより 明らかになったように思われる。 1 991 ) 、映画にお 『ェ リック ・ロメール』( ける脚本の性質について述べた 『シナ リオ の練習』( ジャン=クロー ド・カ リエール と の共著 、1 990 ) 、 自らの脚本 を著作に した 1 999) 、 『ロベール には無関係 -シナリオ』( さらにはイ ンタ ビュアー として参加 した 『私 自身の影で一撮影 日誌とパスカル ・ボニ 6 7 ゼ-ルとの対話』( カ トリーヌ ・ドゥヌーブ に関わっているが、彼の理論体系を概観出 著、2 0 04 ) 等がある( 2 ) 。 来る著作は、単独で発表 した 『 視線 と声』、 ボニゼ-ルは、以上のような批評活動 と 『 盲 目の視野』、『 歪形するフレーム』であ 平行 して、映画脚本家 としてのキャ リアを ろ う。3つの著作は全て、1 97 0年代か ら 97 6年にルネ ・ スター トさせてもいる。1 -ルは、アン ドレ ・テシネやラウール ・ル 80年代にかけて発表 されたボニゼ-ルの 評論に基づいている。それ故、発刊時期は それぞれ異なるが、そこでのボニゼ-ルの イス等、様々な監督の作品の脚本を担当す 映画に対す る視座はほぼ一貫 している。 し ることになる。中でもジャック ・リヴェッ か しそれぞれの著作において議論 され る トとの関係は強 く、『 地に堕ちた愛』( 1 9 8 4) 問題に関 して言 うと、『盲 目の視野』 は他 で初めて脚本を担当 して以来、最新作 『 M 視線 と声』 の 2つの著作 と区別 される。『 の物語』( 2 0 0 4)に至るまで、殆 ど全ての は、画面 と声の関係か ら明 らかになる画面 作品の脚本を担当している。 さらにボニゼ 外の機能について論 じ、『歪形す るフ レー 9 9 6年に 『アンコール』 を発表 -ルは、1 ム』は、絵画 と映画の関係をフレー ミング し、映画監督 としてのキャリアもスター ト とい う観点か ら探求 し、そこか ら引き出さ 9 9 9年には第 2作 目とな させ る。そ して 1 れる画面外の性質を論 じている。 これ ら 2 る 『ロベール とは無関係』を発表 している ( 3 ) 0 つの著作はアプローチこそ異なるが、共に ア リオ作品の脚本を担当して以来、ボニゼ 以上の ように、ボニゼ-ル は、批評家、 画面外の特質そのものを問題 に してい る とい う点で一致 してい る。それ に対 して 脚本家、そ して監督 とい う様々な立場から 『 盲 目の視野』では、2つの著作で議論の 映画に深 く関わ り、現在 も関わ り続けてい 中心 となった画面外の観点、さらにはシ ョ る。では、映画を様々な側面か ら見てきた ッ ト理解の観点を用いて、映画 と実在の関 ボニゼ-ルが、『 盲 目の視野』では映画に 係が論 じられる。そこでは、従来の映画理 ついて どの よ うな議論 を展開 しているの 論、特にアン ドレ ・バザンの映画理論 にお か次章で見てい くことにす る。 ける映画 と実在 の関係 についての理解 の 3 『盲 目の視野』の紹介 仕方を再考す ること、つま り映画の存在論 的意義の問い直 しが試み られる。以上のこ とか ら、『盲 目の視野』は、ボニゼ-ルの (1)著作の位置 と構成 まず、ボニゼ-ルの著作における 『 盲目 の視野』の位置について見てい こう。 先述の通 り、ボニゼ-ルは幾つかの著作 C Z )ボニゼ-ルの著作及び関連著作について、資料 の 「 パ スカル .ボニゼ-ル略歴」 も参考に していただき たい。 ( : ち )ボニゼ-ルの脚本担 当作品及び監督作晶について は、資料の 「 パスカル ・ボニゼ-ル略歴」 も参考に し ていただきたい。 著作の中でも、彼の映画理論体系が最 も明 確 に現れた著作 として位置づ け られ るだ ろ う。 この よ うに位置づ け られ る 『盲 目の視 野』は、7つの評論で構成 されている。各々 Qu' e st c e の表題 は、 「 シ ョッ トとは何か( D. 9J、「ビデオの表面( Las u r f ac e qu' u DPl a t ql d e ' o ) 」、 「ヒッチ コック的サスペ ンス( Le su s pe ns eAJ ' t c hc o c kl ' e n) 」、「 糸巻 きまたは: 迷宮そ して顔貌 についての問 い( Bo b l he s ou /1 el a毎 血t he e tl a que st l l o n du 6 8 T q ' s a ge )」、 「盲 目 の 視 野 ( La c ha mp 」、 「 実在の断片( Le smwc e az Mde av e u gl e ) ' t e ) 」そ して 「 情動の体系( Sy s t i me l az l e ' a l l i ) 」である。 これ らの表題は、 de se ' mo t l ' o D. 修正が加えられているために、こうしたオ カイエ ・ デ ュ・シネマ誌 に掲載 されたオ リ て られ る。つま り、ボニゼ-ルは 『盲 目の ジナルのもの とは異なる。 しか し著作には 視野』を評論集 としてではなく 1つの著作 オ リジナルの表題は記 されていない。 さら として見な していた とい う推測である。こ リジナルの評論 と『盲 目の視野』の評論は、 部分的な類似 しか見出す ことが出来ない。 こ うした多 くの修正か らある推測が立 に、「 糸巻きまたは: 迷宮そ して顔貌につい の推測か ら、そ して事実、7つの評論全体 1 979) を除き、6 つの評論の初 ての問い」( に亘って一貫す るボニゼ-ルの主張か ら、 出時期もまた記 されていない。これ らのこ 本稿では 『 盲 目の視野』を 1つの著作 と見 とに関 して、カイエ ・デュ ・シネマ誌を調 な し、ボニゼ-ルの議論を見てい くことに 977 べると、 例えば「 シ ョッ トとは何か」は 1 す る。その議論は内容か ら 3つのグループ 年に発表 された 「 ここに-シ ョッ トの観念 に分けることができる。第 1は問題提起部、 I-LBDO t l ' o ndepl a l "i と映画の主体(Volc 第 2は不安の探求の部、つま り映画におけ l es u j e tdu血 e ' ma ) 」と 「 2つの視線( Lee deu xl l e ga Z l ds ) 」を合わせて修正 したもの( 4 ) 、 る不安の感情についての議論の部、第 3は 結論部である。そ して 7つの評論はそれぞ 「 糸巻 きまたは: 迷宮そ して顔貌 について れ、「 シ ョットとは何か」、「 ビデオの表面」 の問い」は 1 979年の 「 部分的 ヴィジ ョン が第 1部に、「ヒッチコック的サスペ ンス」、 ( LaI 7 ' s l ' o npa z ・ t l ' e l l e ) 」を修正 したもの(5)、 また 「 情動の体系」は 1 97 8年の 「 偶像 と 「 糸巻 きまたは: 迷宮そ して顔貌 について Le gd l ' eu xe tl e squ a z : ks ) 」を修正 クオーク( したものである( 6 ) 。 しか し、非常に多 くの 実 の問い」 、「 盲 目の視野」が第 2部に、「 在の断片」 、「 情動の体系」が第 3部に振 り 分けられ ることができる。次節では 『 盲目 の視野』の議論の流れをこれ ら 3つのグル 4 )VoI C I Lan o t 7 0 md up l a ne t l es u j e td uc I De / ma ,Cahl e r 8 ( duc m6ma,no273,J anVl e r】 茎 Vr ie r1 977,pp. 51 8. 及 び Le sd e u xz l e gat l d s ,Cahi er sduc m6ma,no275, avr i11 977, ppA 046. ( 5 )LB T滋 l ' o npa z i l ' e l l e ,Cahl er Sduc n6 i ma,no3 01 , J ul n1 979,pp. 3541. ( G )Le gdT e L L Xe tl e squ a z , ks ;Ca be r sduc i n6 ma,no 295,d6c embI ・ e1 978,pp. 59. また、本文中に記 した評論以外で、オ リジナルの表 題及び初出時期について確認できたものは、次の とお りである。 「 ヒッチコック的サスペンス」は先述の 「 ここに一 ショットの考えと映画の主体」を修正 したもの。そ して 「 盲 目の視野」は 「 暴力 と優位性( t kl e DC ee tl Bt e ' mh' t e ' , ープに分けてみていきたい。 ( 2)議論の流れ ① 問児提起 (「ショッ トとは何か」、rビデ オの表面」) 『 盲 目の視野』を 1つの著作 として捉え ようとす る場合、「 シ ョッ トとは何か」、「 ビ デオの表面」は、著作全体の問題提起部 と して位置づけられ る。 「 シ ョットとは何か」において、ボニゼ Cahi e r sduc n6 i ma,no31 9, j anv ie r1 981 , pp. 2734. ) 」 と「 美 しい手法 - ジャン- クロー ド・ギギュエ( Le sb e l l e s -ルは、ショッ ト理解の歴史的変遷 を辿 り、 J e a l r Cl au d eGL L l gUe L ,Ca lue r sduc n6ma,no i ma nl ' d z es- 時間の単位や距離の単位( カ ッ トの繋 ぎ目 45. ) 」を合わせて、修正 290・ 291 , j ui l l e t ao dt1 97 8,p. したもの なお、管見では、「 ビデオの表面」と 「 実在の断片」 のオ リジナルの評論 を確認す ることができなかったO 。 6 9 か ら抽 出 された持続時間や対象 とカメラ つ、現代映画に対するバザン理論の射程を との間の距離) に基づ くシ ョッ トの慣習的 明 らかに し、さらに、そこに収ま りきらな な分類や理解に対 して異議を唱える。なぜ い現代映画の特異性 を新 たな言葉 で語 っ な ら、このようなシ ョッ トの捉え方を基礎 ていこうとする。そ こでボニゼ-ルが注 目 に置き、現代映画を解釈す ることは困難で す るのは、映画における不安 とい う感情で あるからだ。現代映画では、カメラは自在 あ り、その表現である。 に動き、その画面は様々に加工 され る。そ ( のためカメラと対象の距離や カ ッ トの繋 ② 不安の探求 「ヒッチコック的サスペン ぎ 目を測定す ることは殆 ど不可能である。 ス」、「 糸巻 きまたは: 迷宮そ して顔貌につ よって現代映画 を解釈す るために新 しい いての問い」、「 盲 目の視野 」) シ ョッ トの捉え方が必要 となる。そこでボ ニゼ-ルは、ジャン=リュック ・ゴダール 「ヒッチ コック的サスペ ンス」、「 糸巻き の言葉を参照 しなが ら、ショッ トを諸々の または: 迷宮そ して顔貌についての問い」、 単位 としてではなく、諸々の抽象概念で覆 「 盲 目の視野」でボニゼ-ルは、映画にお われ る以前の様相 として、つま り単なる 1 ける不安 とい う感情 とその表現について つのイ メージ-映像 として考 えることを 議論する。特に不安を生 じさせ る表現につ 提起する。こうしたシ ョッ ト理解の見直 し いての議論に注意を払いつつ、これ らの議 は、結局のところ、慣習的なシ ョッ ト理解 論を通 じて、ボニゼ-ルが明 らかに しよう に基づいた これ までの映画理論 を見直す とす ることを見てい くことにす る。 ことに繋がってい く。 「 シ ョッ トとは何か」 「ヒッチコック的サスペ ンス」でボニゼ においてボニゼ-ル は この見直 しの必要 -ルは、まずアルフレッ ド・ヒッチコック 性 を訴える。そ してボニゼ-ルが 『 盲 目の の作品で構築 され るサスペ ンスの特質に 視野』で試みることは、まさに従来の映画 ついて議論 し、そ してそこに現れる不安の 理論、とりわけバザン理論の見直 しの作業 感情に注 目していく。ボニゼ-ルによれば、 である。直後の 「ビデオの表面」 とい う評 ヒッチコックのサスペンスの特質は、その 論において、バザンが論 じなかった( あるい は年代的に論 じることが出来なかった) 、イ 独特な構築方法から生まれ る。一般的なサ スペ ンス( ボニゼ-ルの言葉 を用いるな ら メー ジ-映像の変形 を最 も根本的な機能 とするビデオの映像 と、それ とは全 く異な ばグ リフィス的サスペンス) が 2 つの緊迫 した状況が交互に対置 され ることによっ る機能 を持つ映画の映像 との比較 を行 う て構築 され るのに対 し、ヒッチコックのサ ボニゼ-ルの議論の姿勢は、バザン理論を スペ ンスは、平穏 な 日常 的状 況 に斑 点 再検討す ることの重要性 を明確化 してい ( t ac he ) っま り犯罪を挿入 し、状況の秩序の 調和を乱す ことにより構築 され る。このよ うな観点か ら、ボニゼ-ルはヒッチコック るように見える( 7 ) 。「 ビデオの表面」以降の 評論において、ボニゼ-ルは、従来の映画 理論、特にバザンの映画理論を再検討 しつ の代表作の 1つである 『 裏窓』( 1 954 ) を見 事に解釈する。作品冒頭 において、主人公 t T )そ してまた著作全体において、バザンの死後に発表 は、向かいの建物の真っ暗になった部屋の されたアルフ レッ ド・ヒッチ コックや ゴダールの作品 窓に、赤 く光る点を見つける。 この点、つ 等 を積極的 に参照す るボニゼ-ルの姿勢 について も 同 じことが言えるだろ う。 ま り斑点は犯罪 と一致す る。 とい うのも、 7 0 その赤い斑点は、先程妻を殺害 したばか り 迷宮の関係の表現を文学に見出 し、それを のその部屋 の主が吸 う煙草の火種である 2つに分類する。一方は、ホル- ・ルイス ・ か らだOまるで水の入ったコップに墨を 1 ボル-スの 『アステ リオ-ンの家』の ミノ 滴た らすかのよ うに、赤い斑点によって、 タウロス( 8 ) のような、消去 された顔貌か ら 平穏な状況の調和は乱れ、状況は錯綜す る。 産まれ る不安 と迷宮であ り、他方は、フラ 主人公 は 自らを取 り巻 く状況 に疑惑の 目 ンツ ・カフカの 『父の気がか り』のオ ドラ を向けることになる。 デ クとい う糸巻 き( bo bi ne ) ( 9 ) の よ うな、不 こ うした独 自の方法で構築 され た ヒッ 可解 な様相か ら産まれ る不安 と迷宮であ チコック的サスペンスは、観客の視線や注 94 0年代以降のハ リウッ ドで流行 し る。1 意 を絶 えず引 くもの として一般的 に理解 たス リラー映画は、姿を現 さない人物のナ される、サプライズに近接 した性質を帯び レーシ ョンにより物語を展開 させ、前者 と る。そ して さらにヒッチコック的サスペン 類似 した表現を達成 した。そ して後者の表 スは、この性質を拡張 し、観客の視線 を登 現 を ヒッチ コック、オー ソン ・ウェルズ、 場人物の視線 と一致するにまで至 らせ、両 フ リッツ ・ラングが達成 した とボニゼ-ル 者の視線 を出来事に向けさせ るのであるO は考える。これ らの中でボニゼ-ルは特に ボニゼ-ルによれば、出来事や不調和な錯 ヒッチ コックの表現に注 目す る。例 えば 綜 した状況に向け られた この よ うな視線 1 9 6 0 ) や『 鳥』( 1 9 63 ) における、 『サイ コ』( は、疑惑や恐怖 を、謎や不安を産み出すの 攻撃を受け、傷つけられ、血まみれになる である。 顔貌。それ らは形を歪められ不可解なもの 以上のようにボニゼ-ルは、ヒッチ コッ にな り、そこに不安や迷宮が産み出される ク作品にお ける不安の感情の現出方法 に ことになる。顔貌、不安、迷宮の関係に関 ついて議論 してきた。そ して 「 糸巻きまた は: 迷宮そ して顔貌についての問い」でボニ わるこれ ら 2つの表現には、最終的に、何 らかの出 口が見出 され るとい うことが共 ゼ-ルは、不安または謎に議論の焦点を合 通 している。そ こでは顔貌が回復 され るか、 わせ、ヒッチコックの作品はもちろんのこ または新たな顔貌が見出され る。 と、他の監督の作品や文学作品における不 しか しこれ らの表現 とは別の タイプの 安や謎、とりわけ顔貌か ら産出 され るそれ について議論 していく。その議論の冒頭で、 表現がある。ボニゼ-ル は、イ ングマー ル ・ベルイマン、 ミケランジェロ ・アン ト ボニゼ-ルは、 「 あ らゆる迷宮は、顔貌 に ニオ一二の作品を引き合いに出 し、それを 関わる不安 と謎 を含んでいる」( p. 73 )と述 べる。つま り、私たちは、顔貌 とい う個体 説明す る。そこでもまた顔貌が消去 される の同一性 を保障するものが消去 した り、不 宮にはもはや出口がなく、それは虚無にま 安定な状態になった時、不安や謎 を覚え、 で至 り、不安を含めたあ らゆる感情 も消え 疑問の迷宮に陥るのである。そ して、こう 去 ることになる。 こうした、顔貌、不安、 した謎や不安 を解決 し解消す るためには、 迷宮の関係の様々な種類の表現は、結局の ことによって迷宮が生 じる。 しか しその迷 迷宮の出口を見出さなければならない。つ ま り顔貌 を回復するか、新 しい顔貌を見出 ( 8 )ホル- ・ルイス・ボJ レ -ス 『 不死の人』 、土岐恒二 さなければな らない。 訳、 白水社 、1 9 6 8年 、p p. 1 03-1 2 2参照o L n )フランツ ・カフカ 『カフカ短編集』、池内紀編訳、 ボニゼ-ルは、このような顔貌、不安、 岩波文庫 、1 97 8年 、p p. 1 0 3-1 05参照O 71 ところ、作品の表現の独 自性 と一致す るこ 諸々の事物の関係が明 らかにす るよ うに、 とになる。つま り映画作品における表現 と 切 り返 しシ ョッ トの画面は、私たちの欲求 は、顔貌や迷宮を探求することであ り、監 の流れを再現 し、因果関係を構築す る。つ 督たちは、作品の うちでそれぞれ独 自の探 ま り、切 り返 しシ ョッ トは、欲求に基づい 求方法を作 り上げ、明示す るのである。 た私たちの 日常的知覚を再現 し、画面内の このように顔貌、不安、迷宮について議 論するボニゼ-ルだが、続 く『 盲 目の視野』 諸々の対象 を因果的に繋 ぎ合わせ るのだ。 次に、切 り返 しシ ョッ トにおける不安は、 では顔貌を離れ、不安 と映画技法の関係に 盲 目の画面、言い換 えるならば画面外にお 議論を移 してい く。そこでは切 り返 しシ ョ いて構築 され る。 ボニゼ-ル は、 ロベー ッ トによって表現 され る不安の感情が議 ル ・プ レッソン、ジャン=クロー ド・ギギ 論 される。ボニゼ-ルはまず、溝 口健二の ュェ、そ してラウール ・ルイスを参照 しな 1 954) における 2人の主人公 『 近松物語』( が ら、この画面外についての議論を展開す を参照する。作品の主人公である大経師内 る。その議論の中心に据 えられ るものは、 匠の手代の男 と内匠の妻は、各々に課せ ら 声に よって構築 され る画面外の空間であ れた無実の罪か ら逃走 し、心中を図ろ うと る。前述の監督達は、切 り返 しショッ トと する。この 2人が生み出す愛の形に、ボニ 画面外か ら発せ られ るオ フの声 を同時に ゼ-ルは、不安になることと欲す ることの 用いることにより、観客に、画面内が部分 二重構造を見出す。潔 白で無垢な心を持つ 的なヴィジ ョンに過ぎず、その外に盲 目の 2人が、不義の愛を成立 させ る時、一方で、 画面が存在することを認識 させ る。つま り 2人は、その愛のために死-向かわなけれ ばならない。また他方で、その時 2人は、 オフの空間が認識 されるのである。 しか し その愛によって、自らの潔 白さや無垢 さを じてこない。不安が生 じるためには、オフ 正当化する 1つの意味を見出す。観客は 2 空間を認識 させ る声の主の姿が問題 とな オフ空間が認識 されただけでは、不安は生 人の愛を観 る時、死-向か うとい う不安 と る。声の主は、その声によって盲 目の画面、 意味を作 り出す とい う欲求を同時 に喚起 すなわちオフ空間での存在が確認 される。 す るのである。 しか しその姿は、盲 目の画面にあるが故に 映画における切 り返 しショッ トは、フレ 認識することは出来ない。この主の顔貌は ームの機能や声の機能 と相まって、このよ 消去 されているのだ。前の評論において議 うな不安 と欲求の二重構造 を表現す ると 論 されたように、顔貌が消去 される時生 じ ボニゼ-ルは理解す る。切 り返 しシ ョッ ト てくるもの、それは不安であ り迷宮である。 における欲求は、視覚的画面、言い換 える つま り画面の外から発せ られる声は、盲 目 な らば画面内において構築 される。クレシ の画面を存在 させ る と同時に不安 を生 じ ョフ効果(10 ) におけるモ ジュー ヒンの顔 と させ るのである。 このように して、切 り返 しシ ョッ トは、フレームや声の機能 と相ま ( 川)レフ・クレシ ョフが 1 92 0年代にロシアの国立映画 学校で行ったモンタージュの実験。 クレシ ョフは、モ って、欲求 と不安を同時に表現するとボニ ゼ-ルは理解す る 。 ジュー ヒンとい う俳優の無表情な顔の クローズア ッ プの映像に、湯気が立っ料理の皿、墓、そ して ソファ ーにたたずむ若い女性の映像を挿入 し、繋 ぎ合わせたO 空腹、悲 しみ、そ しで性欲を表現 したモジュー ヒンの そ うして出来た映像を観客に見せた時、観客は、顔で 演技 を褒め称えた とい う。 72 以上見てきたように、ボニゼ-ルは、映 較か ら、両者の立場の違いが、全て映画 と 画において生 じる不安の感情 について注 実在 に関す る両者の捉 え方 の相違 に由来 目し、それをヒッチコック作品のサスペン す ることをみる。映画が観客に対 して印象 ス構造、顔貌 と迷宮、見えるものと見えな 付 ける、映画の実在が、エイゼ ンシュタイ い ものまたは画面 と画面外の関係 の観点 ンにとって重要であるのに対 して、バザン で議論 してきた。この議論において中心的 にとって重要なものは、映画 と実在の相対 な存在であったのは ヒッチ コック作品で 関係である。 この相対関係 とは、映画が実 ある。バザンがほとんど評価を与えなかっ 在 に触れ、そ こから何 らかのものを受け取 た ヒッチ コック作品を議論の中心に据え、 り、そ して映画がその何 らかのものを感覚 バザ ンが捉 えきれ なかった ヒッチ コック 可能 な連続体 として実在 に送 り返す とい 作品にお ける不安の感情の表現 を明 らか うダイナ ミックな関係である。 さらにこの にし、それに対 し大きな評価 を与えること 関係が継続することによって、映画は進化 により(ll ) 、ボニゼ-ルはバザン理論の限界 論的に発展 してい くとバザンは考える。 こ を徐々に明 らかに してきたよ うに見える。 の考えとはつま り、バザンの言 う 「 映画的 そ して 「 実在の断片」 と 「 情動の体系」に l ' 6 vo l ut ion du l angag e 言 語 の進 化 ( おいて、ボニゼ-ルは、議論の中心をヒッ チコック作品か らゴダール作品- と移 し、 c n6mat i og r aphi que ) 」である。 こうしたバザンの考えにとって、画面 と そ こにお ける画面 と画面外の関係 に注 目 画面外の関係か ら生 じる 2つの ヴィジ ョン する。そ してそこか ら、ボニゼ-ルは、バ とい う考 え方が不可欠にな る とボニゼ- ザ ン理論 の中枢 を担 う映画 と実在 の関係 ルは指摘する。その 2つのヴィジ ョンとは、 についての解釈に対 して、見直 しを計るの 部分的 ヴィジ ョンと固定 された ヴィジ ョ である。 ンである。前者は、画面外を隠す とい うフ レームの機能か ら生 じ、画面内が、常にそ ③ バザン理論の射程 (「 実在の断片」、「 情 動の体系」) れ よ りも大 きな規模 をもつ画面外の一部 で しかないことを意味する。そ して後者は、 映画の観客の状況か ら生 じる。映画の観客 「 実在の断片」においてボニゼ-ルは、 は、半ば強制的にスクリーンの前に置かれ、 映画 と実在 の関係 についてのバザ ン理論 彼 らの 目は画面に固定され る。固定 された を再考す る。ボニゼ-ルは、映画技法( モン ヴィジ ョンとはこ うした映画のシステム タージュ、画面の奥行) に対 して異なる立場 に由来す る観客の ヴィジ ョンなのであるO にい るバザ ン とエイゼ ンシュタイ ンの比 ではなぜ これ ら2つの考え方が不可欠 とな るのか。先述の通 りバザンは、映画は実在 か ら受け取った何 らかのものを、つま り日 lその成果 として、 特に「 ヒッチコック的サスペンス」 ( l) はスラヴォイ ・ジジェクのヒッチコック及びラカン研 究に大きな影響を与えたoジジェクはこの評論が彼の 常では認識不可能な事物の運動や神秘を、 感覚可能 な もの として私た ちに提示す る 監修する 『ヒッチコックによるラカン』の概括的、理 ことができると考える。そ して映画はこの 論的枠組み となったと述べている( スラヴォイ ・ジジェ 機能を達成す るために、実在 に対 し受動的 ク監修『ヒッチコックによるラカン-映画的欲望の経済』、 でなければならない。この受動的 とい う言 露崎俊和他訳、 トレグィル、1 994年 、p. 1 4及び p. 1 5 原註 参照) 0 葉は、実在を無作為に受け入れ ることを意 7 3 味するのではなく、実在 を徹底 して受 け入 表現か ら遠 ざかった り、物語 を語 ることを れ るとい う能動的な演 出を行 うこ とを意 望 まな くなった とい う理 由でそ こか ら離 味す る。まさにこの演出に部分的 ヴィジ ョ れていった。 「 情動の体系」において、ボ ンと固定 され た ヴィジ ョン とい う考 えが ニゼ-ル はこ うした観客の行動の原因で 反映 され る。映画が実在 を限定 した、固定 ある現代映画の新 しい表現 を明 らかに し した ヴィジ ョンで眺め、その ヴィジ ョンを つつ、その表現に対するバザン理論の可能 感覚可能なもの として送 り返す こと、この 性 を示 してい く 。 ことはバザ ンの考 える映画 と実在 の関係 まずボニゼ-ルは、物語 と情動の関係 を を成立させ るために、重要な位置を占める。 共生的関係 と見な し、両者の関係 を明 らか ボニゼ-ルが 2つの考えを不可欠な もの と に した上で、特に情動の表現に注 目し、そ 見なすのは、この意味においてである。 の歴史的変遷を辿ってい く。そこで参照 さ しか し、バザンの映画 と実在 の関係 につ れ る情動は、映画の誕生以来表 されてきた、 いての考えは、現代映画、特にゴダール作 恐怖、笑い、そ して悲 しみ とい う典型的な 品に対応す ることはで きない とボニゼ- タイプの情動である。ボニゼ-ルによれば、 ルは語 る。 とい うのも、演出により、実在 既 に リュ ミエール兄弟の作品(12)において をその透明な媒体で ある映像 を用 いて提 恐怖 と笑いの表現を見ることができ、また 示す るバザン的映画 とは異な り、ゴダール デ ビッ ド・ウオーク ・グ リフィスの作品(13) 作品を代表 とす る現代映画は、傷つけ られ において悲 しみの表現 を見 ることができ たイメージ-映像の組成、ビデオな どの現 る。 こういった情動の表現において、シ ョ 代的技術、脱中心的な音、またシ ョッ トに ッ トとシ ョッ トの等級 は重要な役割 を果 おける色や奥行の様 々な働 き等 によって、 た し、それ らは情動 と直接的に結び付 くこ 多様 なイメー ジ-映像 とそれ らの関係 を とになる。例えば、クローズア ップは恐怖、 産み出す ことを目的 としているか らだ。つ ミ ドルシ ョッ トは悲 しみ、ロングシ ョッ ト ま り、現代映画の諸々のイメージ-映像は、 は笑い とい う様に、ショッ トの等級はシ ョ 実在 を暴 き出す実在 の透 明な媒体 ではな ッ トサイズ とそのシ ョッ トが表現す る情 く、それ ら自身の関係 によって、非実在的 な新たなイ メージ-映像 を産み 出す ので 動の種類 を同時に示すのだ。つま りシ ョッ トは情動を再現する、もっと言えばシ ョッ ある。 トは「 青動そのものとなる。そ して、こうし 実在 との関係 を断ち、非実在的なイ メー たシ ョッ トを有機的にモ ンター ジュす る ジ-映像を産出する現代映画によって、映 画 と実在 の関係 につ いてのバザ ン的 な見 ことによって、現代映画以前の映画は、有 機的な情動を、つま り典型的なタイプの情 方は見直 しを迫 られ、そ して同時に、進化 動を再現するのである。それに対 して、現 論的な映画の発展 とい う見方 も見直 しを 代映画における情動の表現方法は、それ以 迫 られる。 しか しこのことは、映画 と実在 前の映画 とは異なったものになる。なぜな の関係 についてのバザ ン的な解釈 か ら映 画や観客を解放することに繋が り、映画の 自由な表現や観客の 自由な見方 を可能 に (1 2) 具体的には、恐怖が 『シオタ駅に到着す る列車』 ( 1 897) であ り、そ して笑いが 『 水をかけられた水撒 き す るのである。 しか し現代映画がよ り自由 人』 ( 1 895) である。 な表現を探求すればす る程、観客は、情動 ( I) ; i ここでボニゼ-ルは具体的な作品を例に出 してい ない。 7 4 ら現代映画におけるシ ョッ トは、情動を再 置かれ、現代映画に対す るバザン理論の射 現す るのではなく、単なる 1つのイメージ 程が検討 された。 ここでの議論 の帰結 は -映像 となるか らだ。この種のショッ トに 『盲 目の視野』全体におけるボニゼ-ルの よって構築 され るものは、有機的な関係で 帰結でもある。その帰結 とは、私たちにと はな く、イメージ-映像同士の多種多様な って感覚不能な実在 を暴 き出す ことを映 関係である。そ してこの関係か ら産出され 画の 目的 と見なすバザン理論は、非実在的 るものは、典型的なタイプの情動の再現で なイ メージ-映像 を産 出す る現代映画 に はなく、他の如何なる情動 とも同一視 され 対 し応答することは出来ないが、映画が実 ない、新たな映画的情動である。 在の完全な断片ではなく、常に何 らかの作 ボニゼ-ルは、この情動表現の変化の根 為 をそ こに加 えてい ることを示す現代映 本的要因を、映画 と私たちの身体の関係の 画の姿勢に対 しては、応 じることが出来る 変化の うちにみる。映画作品は人間的身体 とい うことだ。よって現代映画に対 して私 か ら逃れ られない。ショッ トによって構築 たちは、映画が実在の完全な断片ではない された作品が どんなに人間的身体 を越 え ことを念頭に置きなが ら、実在 との関わ り ようとしても、ショッ トと作品を実現する ではなく、現代映画が産み出す非実在的な カメラの うちに人間的身体または人間的 イ メー ジ-映像その ものの関係 を見てい 尺度が常に付 きまとうか らだ。この人間的 かなければならないのである。 身体 とい う言葉が意味す るものは、カメラ その ものの構造に既 に組み込まれて しま 4終わりに っている、身体を基準 とした私たちの 日常 的知覚である。つま り映画には常に私たち の 日常的知覚が付 きま とっているのだ。 これまで見てきた 『 盲 目の視野』の議論 現代映画以前の映画は、この映画の性質 を現在において取 り上げる意義を、最後に 2つ示す ことにす る。 か ら映画を 日常的知覚または実在 の再現 第 1に、画面の奥行の観点に集中 し、行 と見なそ うとしてきた。 よってシ ョッ トも き詰ま り状態にな りつつある、現在の映画 情動の再現 と見なされることになる。 しか 理論 における映画 と実在 の関係 の解釈方 し現代映画、特にゴダールの作品は、映画 法に対 して、画面外の観点か らバザン理論 と私たちの身体の関係 を認めなが らも、映 の見直 しを図るボニゼ-ルの議論は、そこ 画 に必然的に含 まれ る何 らかの作為 を強 に新たな可能性 を開 くとい う側面で、現在 調 しなが ら、映画が 日常的知覚や実在の完 において注 目に値す る。そ して第 2に、現 全な再現ではないことを示すのである。 こ 在 の映画理論 に対 して興味深 い問題 を提 の現代映画が強調す る作為に、バザンの実 起す るとい う側面で、ボニゼ-ルの議論は 在 に対す る演 出 とい う考 え方は応答す る 現在 においても注 目しなければならない。 ことが出来るとボニゼ-ルは考える。両者 『盲 目の視野』におけるボニゼ-ルの議論 は、映画が実在の完全な断片ではなく、常 を眺めると、バザン理論がネオ レア リズム に何 らかの演 出ない し作為 を実在 に加 え の到来 と共に確立 したように、ボニゼ-ル ているとい うことで一致す るのである。 の理論 もヌーベル ・バーグ、特にゴダール さて 「 実在の断片」 と 「 情動の体系」に の作品と共に確立 し、それに応 じるために おいて、映画 と実在の関係が議論の中心に バザン理論の再考を試みた様に見える。で 7 5 は私たちは現在の諸作品に応 じて、どのよ うな理論 を形成するのか、そ してそれ らに 応 じるために どの よ うにバザ ン理論やボ ニゼ-ル理論を改編 していくのか、こうし た問題 を私たちに突 きつ けるとい う点で ボニゼ-ル の議論 は現在で も積極的な意 義をもつのである。 ( まったにようさく ・神戸大学博士課程) 7 6 パ ス カ ル ・ボ ニ ゼ - ル 略 歴 ( 1 ) 関の作品は原題 をそのまま記す。 *0内は監督名 である。 著作 ( 共著、シナ リオを含む) 1 9 7 6 e… ( ルネ ・ア リオ) ∝e t u ・ e tmo n鮎 r *邦訳 の あ る ものは [ ] 内にそれ を記す。 1 9 7 6 Le脚 e th 血 一触 t J 血n 見打・ k血 軸 G6 Ⅰ 滋r a kd n 出血I S l f I 翌 1 97 9 ブロンテ姉妹 ( アン ドレ ・テシネ) 1 9 8 3 他 he ur( バ/ レヾ・シュロデール、バーベ ット・シュ ロ-ダ1 1 bc h a mpaT j e癖 一触 速見β ・ J T e血 あ喝 Ca l血r Bd u dr inl aG姐血はd 1 93 5 地 1 恥 一 月邪 tZ Dee td近 場 軸 Mo i ,Pi e nt tRi v 釜r e ,a ya n t6g o r g emam占 r t ! ,ma l 地に堕ちた愛 ( ジャック ・リグェッ ト) fAi t k n8d er E曲 1 勝 嵐( ジャック ・リグェット) ヒ 較考察』 梅軒 1 郵 ie L ud ec nme( アン ドレ ・テシネ) [『 歪形するフレーム-絵画と軌 訳、 勤琶甑 1 9 S E I 年] 1 販 1 990 E3 C 肋 e ぢfk l t k l nSd er Em ikt 1 鰐7 e SI L nnM n t B( アン ドレ ・テシネ) 1 99 0 J ea n・ C n a ud eCanj b r ee t触 1 減 彼女たちの舞台 ( ジャック ・リヴェッ ト) 1 ㈱ ボワ ・ノワール魅惑の館 ( ジャック ・ドレ1 1 9 9 1 Nute t J O ur( シャンタル ・アケルマ>) 1 9 9 1 美 しき薄い女 ( ジャック ・リグェッ ト) 1 邦 ジャンヌ ( ジャック ・リグェット) 1 9 % 私の好きな季節 ( アン ドレ・テシネ) 1 9 E B パ リでかくれんぼ ( ジャック ・リヴェッ ト) 1 減 ix T ) i sⅥ e se tune紀 u lemo l t( ラウール ・ルイス) 1 9E X; 夜の子供たち ( アン ドレ ・テシネ) 1 9 9 7 ( 詣n6 lo a ied g ' nC u 血me( ラウ-ル ・ルイス) 1 95 6 Sretd施 nf j e( ジャック ・リヴェッ ト) 抑 ルムンバの叫び ( ラウJ L ,.ペ ック) ) I BCも Ⅰ I l a t B fk h t x 洲 Ma no f t heCmwds( ジョン ・ルポフ) Cat h: r il eI kI ℃uVe , Al t m血e( あmc 1 me ^ me- LZit7m f X X ) 1 恋ごころ ( ジャック ・リベ ット) 虚 血u7 嘩狩&L mb由 誹 I M の物語 ( ジャック .リヴェッ ト) 軸 1 999 励 1Boni z e E& et t B t e血 FW s z u肋 一物 Pe 血 b d ) 叫 uedeb Ca hj e 曙d uqI 滋ma その他の関連著作 1 9 7 6 S. M. Ei E eT de n, i 血an j h d鮎 L eng 血Ht ;血 d uu r 牒ep a rh d ae t血aT lSdm i 血 e cp z 66KX td e t z P朋ml Rm i tZe ちU血 lG6r ir a kd 混血血Ⅰ 鳩 1 9 9 1 胞 nbt x ) nd ePad 放) nit Ze n放 血 deRw r I 御 地, HbI血 d eBa lz a c , ム2C h e f e dZ z , ul グehxrm 7 U 3 HNu 一 成エ ル ク曲 L才B 2 以k L 概 L L T 7血 a肥 ,B は琵/ 地 鹿 亡如 伽 ぬ fkh t k) r BS仙女 ; ゴールデン・ エイティーズ ( シャンタル ・ アケルマンう ec シナ リオ参加作品 監督作品 *作品 タイ トルは 日本公開時の もので あ り、日本末公 1 9E B アンコール 1 999 ロベールには無関係 ( 1 )この資料 は 『歪形す るフ レー ム「絵画と映画の比較考察』 の付録 資料 を参考 に して作成 した( パ スカル ・ボニセ ール 『歪形す るフ レームー絵画と映画の比較考察』、梅本洋 99 9年 、p. 1 65参考) 0 一訳 、勤草書房 、1