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スポーツ振興等調査特別委員会会議記録

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スポーツ振興等調査特別委員会会議記録
スポーツ振興等調査特別委員会会議記録
スポーツ振興等調査特別委員会委員長
城内 愛彦
1 日時
平成 27 年1月 15 日(木曜日)
午前 10 時4分開会、午前 11 時 47 分散会
2 場所
第4委員会室
3 出席委員
城内愛彦委員長、佐々木朋和副委員長、樋下正信委員、岩崎友一委員、佐々木博委員、
飯澤匡委員、大宮惇幸委員、伊藤勢至委員、名須川晋委員、小野寺好委員、
吉田敬子委員
4 欠席委員
なし
5 事務局職員
今担当書記、伊藤担当書記
6 説明のため出席した者
岩手県カーリング協会 会長 浪岡正行氏
7 一般傍聴者
なし
8 会議に付した事件
(1) 調査
「国体を契機としたスポーツ振興と地域振興」
(2) その他
ア
委員会全国調査について
イ
次回の委員会運営について
9 議事の内容
○城内愛彦委員長 おはようございます。ただいまからスポーツ振興等調査特別委員会を
開会いたします。
これより本日の会議を開きます。本日はお手元に配付しております日程のとおり、「国体
を契機としたスポーツ振興と地域振興」と題しまして、本県のスポーツ振興の現状や課題、
国体を契機として取り組むべきスポーツ振興と地域活性化等に関する調査を行いたいと思
います。
本日は、講師として岩手県カーリング協会会長の浪岡正行様をお招きしておりますので、
御紹介いたします。浪岡様の御略歴につきましては、お手元に配付してある資料のとおり
1
でございます。
浪岡様におかれましては、御多忙のところ、御講演を快くお引き受けいただきまして、
改めて感謝申し上げます。
これから講師にお話をしていただくことといたしますが、後ほど浪岡様を交えて質疑、
意見交換の時間を設けますので、御了承願いたいと思います。
それでは、浪岡様、よろしくお願い申し上げます。
○浪岡正行講師 皆様、おはようございます。本日はこのようなお席にお呼びいただきま
して、まことにありがとうございます。岩手県カーリング協会の会長を務めております浪
岡正行と申します。二戸市福岡、福岡高等学校の裾、下のところに眼鏡屋を構えておりま
して、
今年で創業 101 周年ということで、ずっと地元に根差した商売活動をしております。
どうぞ本日は皆様よろしくお願いいたします。
早速ですが、私の拙いお話をさせていただきたいと思います。私は昭和 32 年5月に生ま
れております。お見かけしたところ、私より年上でいらっしゃる方が数名ということで、
私もこういった社会に出てくると上のほうになってきたのだなというふうに思いますけれ
ども。
昭和 45 年 10 月 10 日、岩手県営運動公園で国体の開会式を迎えました。そのとき私はボ
ーイスカウト二戸第1団の団員として交通整理を受け持っておりました。天皇陛下のお乗
りになったお車が後ろを通る、絶対に後ろを向くなよと言われながら、こうやって観客の
ほうを見ておりました。そのとき、達増知事は開会式でお遊戯をしていらっしゃったので
すね。その年代でございます。昭和 45 年、秋晴れの盛岡はすばらしい活況を呈しておりま
した。その数年前から国体の準備が県内で進められておりましたね。サルビアの花、赤い
花を全県に敷き詰めるというくらいの数だったと思いますが、岩手県中がサルビアの花に
包まれ、飾られました。そして、岩手国体音頭という踊りを運動会で生徒が踊っておりま
したし、地区の婦人会の皆さん、それからいろいろな競技団体の皆さんが国体を盛り上げ
るために非常に頑張っていたというのを、そのころ小学校6年生だった私はよく覚えてお
ります。
最近、昭和 45 年岩手国体のときのビデオを見ましたら、閉会式で「天皇陛下万歳」をし
ているのです。当時はそうでした。
「天皇陛下万歳」で見事に閉会をして、その後は各県選
手団を岩手県の関係者が小旗を振りながら、握手をしながら会場から送り出したというこ
とで、今でも覚えております。
民宿国体と言われたときでもありました。
当時は宿舎がなかったですよね。それならば、
民宿。民宿というのはホームステイですね。我が家に来てください、我が家に泊まってく
ださいということで家庭的なおもてなしをして、各県の選手がそれを喜んでくれたという
ような時代であったと私は記憶しております。
ですから、
「誠実、明朗、躍進」
、このスローガンで行った昭和 45 年岩手国体は私にとっ
て人生の中で大きな岐路でございましたし、今でもこのスローガンが大好きで、我が社の
2
社是にもしております。そのころ福岡中学校は生徒会のスローガンに「躍進」をとりまし
て、
「永遠の躍進」と掲げました。いまだそれを上回るスローガンが生まれず、今でも福岡
中学校の生徒会のスローガンは「永遠の躍進」でございます。ただ、その由来を知らない
方が多いですね、45 年前ですから。それは岩手国体のスローガンだったということを機会
あるごとにお話をさせていただいております。
さて、まず私のスポーツに関する略歴を申し上げます。皆様もそうだと思いますが、最
初のユニフォームというのは、男の子であれば少年野球ではないでしょうか。私は二戸市
の、当時は福岡町の中町バンビという野球チームに所属しておりましたので、Nのマーク
でした。それが人生で初めてのユニフォームです。そこから始まった競技人生といいます
か、スポーツに関する日々でした。それが今私はJAPANを背中に背負うようになりま
した。それも選手ではなくて、関係者として背中にJAPANをつけることが許されるよ
うになりました。小学校で野球を始め、中学校でソフトテニスを始め、福岡中学校はHの
マークです。そして、福岡高等学校でソフトテニスを続け、インターハイに1回出場しま
した。勝つことはできませんでした。そのときに国体選手という言葉が選手間ではよく使
われました。インターハイ選手ではなくて国体選手。「俺、国体選手になりたいな」、「おま
え、国体選手がいいな」と、そういった会話がありました。それだけ国体にかける思いと
いうのは強かったですし、
「岩手」
というチーム名をつけて全国に出て戦うということにす
ごく憧れを持っておりました。国体はかなわなかったのですが、その後大学に進んでソフ
トテニスを続けまして、
インターカレッジは出場するわけですが、それも大学の名前です。
県の名前、ふるさとの名前を背負って大会に出るということはなかなかできなかったので
すが、カーリングを始めてそれがかないました。何しろ我々のチームしかなかったもので
すから、東北大会に出るときには「岩手」とつけてよかったわけなのです。
平成7年2月、当時の二戸青年会議所は青少年の健全育成を目的に、野球やスキーなど
スポーツを通じた子供たちの交流事業を行っておりましたが、その年にカーリングをやっ
てみようということになりました。柔道やサッカーなどをやりたいという声もあったので
すが、有名な講師をお願いするには当然力が足りず、地元でできるものは何かないかとい
うことで、長野オリンピックで正式採用が決まったカーリングに目をつけました。地元の
県北青少年の家のスケートリンクを活用できて、これならば一石二鳥ではないかと。なぜ
ならば、当時のスケート人気はどんどん下降線をたどっておりまして、開所当時は1日
1,000 人がわっと芋を洗うような利用状況でしたが、1日で 10 人とかそれくらいの人しか
来なくなっていたのです。とてもよい貸し切りの場所になっていました。
それではもったいないよねということでカーリングを始めたのですが、何の知識もなく
始めました。青年会議所という団体はそういう団体でもあるわけなのですけれども。日本
カーリング協会に相談しましたところ、隣の青森県でやっていますよということで、青森
県カーリング協会に相談しました。私が二戸青年会議所の理事長のときです。担当者に青
森県に行かせまして、いろいろ相談をして、人と時間と道具、これを全部用意していただ
3
いて、二戸市に来ていただきました。それで始めたのが中学生のためのカシオペアカップ
カーリング大会です。カシオペアの由来は、御存じだと思いますが、当時県北の5市町村、
一戸町、二戸市、九戸村、浄法寺町、軽米町、これを線で結んだらWの形になる。丸で結
ばなかったのが県の職員の方の偉いところなのですが、Wにして、カシオペア座だと。寒
くて暗くて寂しいところ、それを逆に静かで美しくて輝くところ、その星座の名前に由来
させてカシオペア連邦という広域の連携をつくりました。ですから、大会名もその名前に
しまして、カシオペアというものを今でも重用しております。
管内の中学生たちを集めまして、無料で1泊2日の講習会、大会を開催しました。大盛
況でした。おもしろい、おもしろいということで、我々スタッフは誰もやらない、お世話
だけするのですが、とても楽しくて、子供たちの顔を見て喜びました、また来年もやろう
と。さらに、オリンピックで正式採用されたなら都市部の青年会議所がカーリング協会を
つくるであろうという危機感に駆られまして、それなら二戸市に県のカーリング協会を設
立しましょうということで、大会が2月、設立が5月、日本カーリング協会への加盟がそ
の月、地下鉄サリン事件が起きた2日後に加盟のお願いに行きました。日本カーリング協
会も会員を募っていたところでしたので、青年会議所が母体であれば問題ないですよとい
うことで、スムーズに加盟することができました。
現在、岩手県カーリング協会は、日本カーリング協会の各加盟協会の中で6番目の規模
を誇ります。特に盛岡カーリング協会は単独でも6位になります。それほどの競技者人口
を有しているわけですけれども、まだマイナースポーツの感は否めないと関係者は思って
います。ただ、世間の受けとめ方は大分変わってきていますね。オリンピックで見て、カ
ーリングおもしろいね、どこでできるの、どうやったら楽しいのと、そういったことを聞
いていただけるようになりました。
そこで、さきほどのお話にちょっと戻るわけですけれども、カーリングで最初につくっ
たユニフォームがこれです。名前をつけるのがルールなので、個人名が入ります。ここに
小さく遠慮がちに「岩手」と入っています。初めて岩手県の代表になったときのユニフォ
ームですので、今でも大事にとってあります。カシオペアと書いてありますね。
これは皆さん御存じでしょうか、JAPANです。これは北京オリンピックの日本代表
選手団のユニフォームです。これは買ったものです、夏のオリンピックですので。ですか
ら、ここは日本オリンピック委員会、JOCのマークですね。選手たちのユニフォームだ
と日の丸です。そのとき、やはり日の丸をいつかつけたいと思いました。
この北京オリンピックと同じ年に、私の略歴にも書いてありますが、苫米地美智子さん、
御主人の賢司さん、この2人が日本ミックスダブルスカーリング選手権の初代チャンピオ
ンとして世界大会に派遣されることになりました。私は日本選手団団長として行きました
が、このとき初めてJAPANをつけました。ただ、選手ではないので、個人名がつかな
いのです。日の丸と個人名、これを何とかつけたいと思いました。
これもうれしかったです。
これは知事に1着差し上げたのですけれども、
平成 23 年2月、
4
日本シニアカーリング選手権で初めて優勝することができました。そして、背中に初めて
JAPAN、
そして浪岡という名前をつけることができました。すごくうれしかったです。
ただ、日本カーリング協会は、オリンピックとユニバーシアード競技大会以外で日の丸を
つけることを許していないので、ここでは日の丸をつけることはできませんでした。東日
本大震災の一月前で、苫米地さんたちも2回目の日本ミックスダブルスカーリング選手権
優勝を果たしました。
震災後、県北青少年の家では、山からとっている井戸水のポンプが、木が倒れて断線し
て使えなくなりました。山の中にあっても被災した施設だったのです。本来であれば、あ
あいった施設に避難できればもちろんよかったのですが、水がないということで、受け入
れできませんでした。非常に残念でしたし、このまま使えなくなるのではないかと思った
ことがあります。
当時のチームは、50 歳以上のチームなのですけれども、県立二戸病院の病院長、盛岡市
歯科医師会の会長、それから歯科医師、岩手県の土木の技師さん、それから私眼鏡屋と地
元の建築屋さんだったのですが、皆の意見は、世界選手権に行けるのだけれども、残念だ
けれどもそれは辞退しましょうと。私たちは地元にいて、復興に少しでも役に立つように
頑張りましょうと。
ただ、
苫米地さんたち2人は同じ理由で辞退させてはいけないのだと、
彼女たちは必ず世界選手権に派遣しましょうということで、世界選手権の切符を一つは辞
退し、一つは支えることにしました。
そのときに本当にうれしかったのは、ミズノさんに世界選手権のユニフォームを発注し
てあったのですが、青森県のチームが行ってくれることになりましたので、こちらには待
てど暮らせど届かない。ユニフォームはどうなったのでしょうかと尋ねたら、
「それは浪岡
さん、辞退したのだからユニフォームはないですよ」と、でもなぜここにあるかというと、
みんなでミズノさんに手紙を書いたのです、欲しいと。
「欲しいのです、これを着て、岩手
で復興のために頑張りたいのです」と手紙を書きました。そうしたら、担当者の方が上司
の方に「浪岡さんからこんな手紙が来ていますが、どうしましょう」と泣きながら直訴し
てくれて、つくっていただいたのです、もちろん買い取りですけれども。これを着て、50
歳過ぎのおやじたちが撮影会をやりました。これは、一生の宝物です。でも、シニアは上
限がないので、まだこれを着るつもりがあるのです。去年3位でした、2年前は2位でし
た。1位、2位、3位とメダルを3つ持っているのですが、JAPANを背中につけて世
界で戦ってみたい、もう一回日本の代表になってみたいと思っています。
平成 25 年 12 月、ユニバーシアード競技大会がありまして、日本代表女子チームの団長
として浪岡と日の丸がつきました。監督としてつけた日の丸です。こういったスポーツの
かかわり方があるのだなと思いました。国体選手にもなれなかった私が日の丸と国名を背
負うことができる、スポーツとはすばらしいなと思いますし、目指してよかったなと思い
ます。でも、実は、日本カーリング協会の役員が誰も行けなかったので私が行ったのです。
アマチュアスポーツで選手に付き添って 10 日間、20 日間自分の仕事を離れられる人は本
5
当に少ないです。選手をサポートしたくてもなかなかできないです。トレーナーとかでし
たら、まだ仕事としても成り立つわけですけれども、団長には日当も出ませんし、その間、
会社は代表がいないままに営業活動をしなければいけないわけですから、本当に命がけと
も言えるようなものでした。その価値はあるものだと思いますけれども、こういった形で
日本のスポーツ競技にかかわることができたことが私の非常にうれしい最近の話でござい
ます。
二戸市には県北青少年の家を使う競技団体が三つあります。カシオペアカーリング協会、
カシオペアアイスホッケー協会、県北スピードスケートスポーツ少年団、この3団体それ
ぞれが活動していました。カーリングをして、施設の有効活用ができる、地域の宝が生き
る、よし、どんどんやろうと。当時、岩手県もすごく協力してくれまして、二戸地方振興
局、長野オリンピックを見てから赴任してこられた秋山局長さんが「ここでカーリングを
やっているらしいではないか、団体がどういうことをやっているか、あるいは何か困って
いることがないか調べてこい」ということで調査を受けまして、物がなく、また、なかな
か借りられないという、この二つのことをお話ししました。そうしましたら、岩手県の予
算で石、ブラシ、靴、そういったものをそろえてくださいました。黄色いパンフレットも
そうでした、カシオペア地区の全戸配布です。
そのような形で取り上げていただくにあたり、地元の受け皿になる協会が必要だという
ことで、県の下部組織としてカシオペアカーリング協会を設立しました。補助金も頂戴し
まして、知事杯ですとかイーハトーブカーリングフェスティバルですとか、地域おこしの
ためのイベントをたくさんつくりました。
つくった年、その次の年くらいはよかったのですが、徐々に窮屈になりました。まず、
次に異動して来られる岩手県の担当の方が、なぜ岩手県があなたたち競技団体のイベント
を主催しなければいけないのだと、素朴な疑問です。これは地域づくりのためのイベント
として始まったものなのでということで、毎年説明させていただいて、御了解をいただい
ています。
もう一つ、これが重要だったのですが、県北青少年の家で施設を貸してくれなくなりま
した。カーリング協会ばかり使っているから、ほかの競技団体が不満を言っている、ある
いは一般の利用者がわざわざ山を登ってスケートをしに来ているのに、あなたたちがやっ
ているから帰らなければいけない、こういう言い方をされました。何を言われているかさ
っぱりわかりませんでした。貸し切り料金は払っていますし、許可があって使用させてい
ただいている。それから、我々に文句や苦情が来ないのに、なぜそちらにだけ文句が来る
のですかと。これはおかしいなということで、3団体で集まりました。「我々のしているこ
とは迷惑ですか」と言ったら、
「いやいや、浪岡さんだって我々のしていることは迷惑です
か」
、
「いやいや」と。カーリングのシートといいますか、丸い輪、円がありますよね。施
設の職員の方の御協力である年に二つ、それから何年か後に四つつけて、すごく見ばえの
よい、カーリングにとっては見ばえのよい施設になったのですが、当時の施設の次長さん
6
に線を消すと言われました。
「いやいや、あれがないとできないし、岩手県の施策として石
を買っていただいて、道具もそろえていただいて、住民の方に周知をして、一生懸命活動
しているところでなぜ消すのですか」と言ったら、
「アイスホッケーがきっと文句を言って
くるだろうから、その前に消します」と言われました。もう石で頭をぶん殴られるような
感じでしたけれども、それも聞きました。「アイスホッケーさん、カーリングの線は邪魔で
すか」
、
「浪岡さん、アイスホッケーの線は邪魔ですか」、
「邪魔じゃないですよね、何かお
かしくないですか、このやりとり、我々、お互いのことを理由にされて、いじられている
ような感じがしませんか」
、
「そうだな、何かおかしいな」ということで、それこそ三本の
矢で一つの団体をつくろうと、カシオペア氷上スポーツ競技会という組織をつくりました。
何かあったら3団体で集まってお願いするということにしました。
施設にそのように申し込みました。定款も提出したところ、直してくださいと言われま
した。定款の第1条、この団体の目的は施設の有効活用を推し進めることである、という
部分を取ってくれと言われました。これが書いてあったら、自分たちが何もやっていない
ようだという理由でした。そのような受けとめ方があるのかなと思いましたね。
「では、施
設の活動を補佐する団体ならよいのですか」と言ったら、それならよいと言われました。
そもそも民間団体の定款に口を出す県職員がいるか、これはおかしい、何とかしなければ
いけないということで、一つのアイデアは県議会の先生方にお願いするということでした。
市議会の先生もそうでした。でも、私はとめました。子供たちの活動に政治的な解決法を
持ち込むのはよくない、我々の努力がまだ足りないのではないか、努力しましょうという
ことで、とにかく我々の活動を認めてもらえるように、誰に認めてもらうかといえば、施
設の所長、次長ではなくて、町の人、スポーツにかかわる人、あるいは子供たち、教育に
かかわる人たちに理解してもらって、我々の活動を見てもらいましょうということを決め
ました。つらかったのですけれども、それで何かがすぐ変わるということはありませんで
した。
DVDを流していただいてよろしいでしょうか。ただ、その活動を見ていてくださる方
がやっぱりいたのです。氷上スポーツに限って活動している、それはそれだけの理由があ
ったからなのですけれども、日本体育協会は全国の特色のある総合型地域スポーツクラブ
に選んでくれました。そして、こういったDVDをつくってくれました。15 分間ごらんい
ただきたいと思います。
〔DVD(日本体育協会企画「総合型地域スポーツクラブのある町」
)放映〕
〇浪岡正行講師 日本体育協会のDVDに収録されますと、日本中の方が認めてくれてい
るクラブというふうに感じられました。このときもまだ細かい問題はあったのですが、こ
れ以前ですね、本当に暗黒時代だったときがありました。
県北青少年の家の名誉のために申し上げますが、今はすばらしいです。本当にすばらし
い御努力と御理解をいただいておりまして、共存共栄、本当に一緒に施設をよくしていこ
うという気持ちにあふれています。ただ、そのころは本当に、例えば夕方7時から8時ま
7
では競技団体に貸しましょうという決まりはあったのです、1時間あるいは2時間。10 時
までやりたいと言っても、それはだめと。貸し切りならよいということで、一月前に届出
すればできますよと。うわっ、大変だなと思いました。でも、やりました、規則ですから。
そうしなければ借りられないのでやりました。それをやっていながら、おまえたちばかり
借りていると怒られたのです。
100 人くらいである大会をしていたとき、一般利用の人が来たのです。当時はインター
ネットがなかったので、現場に行かないとあいているかどうかわからなかった。山を登っ
てきた子供が残念そうに帰っていくのです。申しわけないと思って、「あいているところで
滑らせてもよいですよ」と言いましたが、「いや、危ないからだめだ、おまえらの投げた石
が当たったらどうするのだ」と言われました、そっちには投げませんけれどもね。スケー
トとカーリングを一緒にやってはいけないというルールが新しくできたのです。県営スケ
ート場でシーズン初めにいろいろな競技のデモンストレーションをするときに、カーリン
グをやっている周りでぐるぐるスケートの子供たちが滑っています。こうやってやれるな
と、きちんとパイロンを置けば大丈夫だな、石を投げるときもぶつかることはないなと。
「盛岡ではこうしていますよ」
、
「そんなはずはない」と、
「いや、この間やってきたのです」
、
「やるはずがない」と。すごいなと思って、まあいいやというふうな感じでした。
一事が万事そうなのです。週末に子供たちと一緒に泊まって宿泊研修をすれば、次の日
の朝からスケートリンクを使えるというのを最大限に活用しようと思い、宿泊研修をしま
すと言えば、
「じゃあ4時までに来い」と、「いやいや、社会人なので引率は6時ころにな
ります、去年まではそのようにさせていただいていました」、
「そんなはずはない、規則は
4時だ、4時に来い」と、
「わかりました、来て何をしますか」、「集いをやるのだ」と、
「規
則を確認するんだ」と、
「毎日ですか、同じ人間がですか」、「そうだ、それが規則だ」と、
「わかりました、その集いは何時ですか」、「6時だ」と、
「では、6時でいいじゃないです
か」
、
「いや、4時だ」と。4時に行きました、1人の大人が何もしないでずっと6時まで
待っていました、それが規則だと。前の年より提出する書類もふえてきたし、その当時の
所長は、
「なぜきのうはカーリングばかりで、七宝焼のアクセサリーづくりとか、フォトフ
レームづくりをやらないのだ。青少年の家とはそういうところだ」と、
「いや所長、ここの
一番の売りはスケートリンクですよね。そこを使う研修で十分ではないでしょうか」、
「い
や、だめだ、必ずそういった活動を入れよ」と言うのです。その上、前の年までやってい
た大会を、またこの時期にお願いしますと言ったなら、
「その時期は連休で一般の利用者が
来るから大会はやるな」と、
「去年やらせていただいています」、「いや、やるな、そこはだ
めだ」と、ううむと、ずらしましたが参加者が減りました。「所長、あの日はどうでしたか、
利用者は」と聞くと、
「何が」と、
「たくさん来ましたか」、
「知らないな」と。この所長は
何か策があって、そこを一般開放にしたのではないのか、そのために我々は移されたので
はないのかと思ったら違いました。
「大会は、不便でやはり参加者が減ったのですよ」、
「そ
れは残念だったね」というようなことで、どんどん変になっていった。
8
その所長がいた後、県北青少年の家の利用者は半減しました。たった2年間で半減しま
した。いたのは2年間ですよ、この2年間はふえるのです、前の人たちの努力があって。
でも、施設に来たら、その余りのやり方の違いにがっかりして、もう嫌だとなる。次はす
ばらしい所長が来たのです。休館日をなくする、夕方7時から 10 時までは全部競技団体が
使えと。そのかわり、土曜日だけは一般開放する、お互いにそういう条件をのんで一緒に
やろうと、すばらしい所長が来たのです。その所長の年に半減したのです、その所長のせ
いではないのです。前のトップのやり方が半減させたのです、施設の利用者を簡単に減ら
しました。そこから今は立ち直っているのです。震災で沿岸からの利用者が来られなくな
って減りましたが、今は戻っているのです。全国にそんな青少年の家はないです。これだ
け努力して、これだけうまくいっている青少年の家はないともう断言できます。すばらし
いです。ただ、その暗黒の数年間、そのときに我々のことを見てくれていた人は「浪岡さ
ん大丈夫、理解者は外にいるから、外から必ず見ているから、きっとよいときが来るよ、
その人はいつかいなくなるのだから」と。その人を排斥しようという動きまで教職員の中
では出ました。でも、いなくなるのだからと。そこから生まれ変わったのです、職員の人
たちもすごく。あのころは教員の予備軍の方たちがスタッフだったので、トップの言うこ
とに立ち向かうようなことはできなかったのでしょう。そこから優秀な人材もすごく出て
いらっしゃるし、誇りに思える町の宝の施設になっています。
私は今まで数千人にはならないでしょうけれども、1,000 人単位の方にこの話をしてい
ます。当時の恨みつらみを含めて、そして必ず今感謝している気持ちを添えて。
社会教育施設でよい施設なのです。保健体育施設だと、例えば陸上競技場だと岩手県が
主催しても 100%の減免はないのですが、社会教育施設は 100%の減免があるのです。です
から、岩手県あるいは岩手県教育委員会の名前を活用させてもらいました。名前がつけば
利用料金が無料なのです。
「補助金は必要ないか」、
「いや、要りません、名前をください」
と。1日借りれば十数万円です、2日間の大会だと二十数万円、それを年に3回で 60 万円
です。それが今無料です。
規則に縛られた団体でしたけれども、今はその規則を逆に活動しやすいように活用させ
ていただいていますし、スピードスケート、それからアイスホッケーは年間パスがあるの
です。
「カーリングもよいですか」と言ったら「だめだよ」と、「なぜですか」、「カーリン
グは国体種目じゃないから」と、
「ああ、そうなのですか。では、強化費というのは」、
「な
いよ」と、
「県大会は入っていますけれども」、
「いや、国体種目じゃないから」と。国体と
いうのはやっぱり大きいなとそのときに思いましたが、
「浪岡さん、年間パスが欲しいのな
ら議会に陳情したら」と言われました。素人に議会に陳情したらと言う職員でした。
「利用
者がお願いしているのだから、そちらから上の方にお願いしたらよいのではないですか」
、
「それはできない」と、
「なぜですか」、「規則だから」と、そういったやりとりがしばらく
続いたのです。今はお話しすれば何でも前向きに考えてくださっていますし、それでオリ
ンピック選手まで出るようになったというふうに私は思っています。活動が非常に安定し
9
てきた、そして子供たちと指導者の関係もよくなって、施設も協力してくれる。
指導者はもともと皆ボランティアで、10 年間ボランティアをしてきたのですが、活動時
間をふやさせてくれというときに、結果的にとどめの言葉は、「施設には、あなたたちがボ
ランティアを何年やろうが関係ない」という所長の言葉でした。もうだめだなと思って、
それから方向転換をして、この所長を黙らせるにはどうしたらよいか、この所長より偉い
人を後ろにつければよいのだということで、岩手県、あるいはさきほどの氷上スポーツ競
技会から派生した総合型地域スポーツクラブ、これを許すのは日本体育協会、そしてその
上は文部科学大臣です。我々の背中には文部科学大臣がいる、そしてその活動場所はここ
だと決めたと。であれば、それで国から補助金が出るのです。totoを活用して、現在
totoの助成は 500 万円、それから文部科学省の委託事業として、学びを通じた被災地
の地域コミュニティー再生支援事業というものを実施させていただいて、それは 200 万円、
700 万円の公のお金をこのクラブで使わせていただいております。非常にありがたいです。
指導者はお金をもらうのになれていなく、要らないと言うのですが、これはもらってもら
わなければ困るし、もらうだけの指導をしているし、それが今から目指すクラブの姿なの
だから、受け取ってきちんと利用してくださいということをお願いしています。toto
と文部科学省のお金をいただいているので、それぞれが監査をしますし、文部科学省とし
てはtotoのお金はどう使っているのだということを調査してくださるので、両方から
ダブルチェックをいただいています。私一人でマネジャーをしていますけれども、そうい
ったお金の取り扱いには慎重を期すようにしています。そうでなければ活動している子供
たちに迷惑がかかる。大人はどうでもよいですが、子供たちの活動で、お金の使い方がど
うのこうのとなってはいけないと思いますし、今の県北青少年の家に対して大きな失礼に
なると思っています。そういうことで、ここまでが愚痴やらそれらです。
今度のいわて国体で、
二戸市は剣道の会場になります。
インターハイも開催しましたし、
昭和 45 年岩手国体でも福岡高等学校の体育館が剣道の会場になりまして、私もボーイスカ
ウトとしてお手伝いいたしました。全国の方が来て、町の中にいろいろなユニフォームが
あったのを覚えています。
さきほどのユニフォームの話にもありましたが、
「岩手」という名前をつけることにあこ
がれていた私はこういうものをつくりました。震災後、町全体が負傷者はいないのだけれ
ども、やはり沈鬱な雰囲気、これはもうどうしようもなかったです。そこで、当時の小保
内敏幸市長が「浪岡、おまえ何かつくれ、何か皆の気持ちを鼓舞できるものを広報の人間
と協力してつくれ」と言われたので、「負けてたまるか!岩手」というものを、最初は名刺
でつくったのです、すぐできるので。市役所の全職員に配りました、皆ここに「負けてた
まるか!岩手」というのをつけました。
「浪岡、今度は消防の人たちにつけたいからワッペ
ンをつくれ」ということで、同じデザインでこれをつくりました。二戸市消防団約 800 人
がこれを胸につけてくれました。きょう皆様に差し上げたいと思います。今は亡き小保内
市長なのですけれども、市長の気持ちがこもったもので、岩という字の星、世界選手権出
10
場が決まった苫米地は金色、浪岡はシルバーだからシルバー、一般の人は白にしろと。こ
れを皆で胸につけました。シールもつくりまして、ささやかながら岩手県カーリング協会
でそれを被災地の方に差し上げ、いろいろな事業に使っていただきました。
それと、当初はこういったものをつくりました。岩手県カーリング協会のキャッチフレ
ーズ、
「目指せオリンピック」
、これは 1995 年からずっと同じです。オリンピックを目指そ
う、オリンピックだ、オリンピックだと。国体選手にもなれなかった人間がオリンピック
だ、オリンピックだと。オリンピック選手が出てしまったのです、19 年目で。カシオペア
カーリング協会のワッペン、それからこれは県章を使ったチームのマークです。それから、
「負けてたまるか」を英語に訳して「ファイトオン」、頑張り続けるぞ、負けてたまるかと
いうような、これも岩手県カーリング協会のマークとして、全国大会に行くときには選手
に持たすようにしています。世界選手権でもこれを活用させてもらいました。こういった
もので共通の意識のもと、スポーツを通じて地域に貢献しましょうと。岩手県カーリング
協会は青年会議所の活動から生まれた地域づくり団体です。スポーツ競技団体というより
も、地域づくり団体、人づくり団体としての活動がメーンで、カーリングを通じてカシオ
ペア、暗い寂しい町から楽しい話題を情報発信しようということで、地元施設の有効活用
も柱にして活動しています。
そんな中、日本カーリング協会は不正な補助金、助成金の使用ということで、日本オリ
ンピック委員会、
それから日本スポーツ振興センターから大目玉を食らいました。
それは、
マネジメントで雇った職員の給料を協会にバックするように強制した、あるいは専任コー
チ、日本代表に付き添うコーチに対する手当を3分の1、協会に負担分を戻しなさいと。
要はそういった貧しさから来る不正な利用です。でも、どこもやっていることというよう
な感じでやっていたようです。それがばっさり切られまして、3回にわたって日本カーリ
ング協会は新聞各紙に報道されましたし、よくない競技団体として名をはせてしまったわ
けなのです。
それで役員がかわりました、会長が辞任して、次の年には同じ年度の不祥事がまた出て
くるわけです。周りから見るとまたかと、またカーリングかと。3回目だぞ、カーリング
ということで、それは今の会長、理事のときではないのですと言ったって、通用しないと
いうのがわかりました。前の社長がやったことでも、今の社長が責任をとらなければいけ
ないのと同じです。
重い処罰を受けまして、
お金を返還しなければいけなくなったのです。
もともとお金がないからそういうやりくりをしていたところにお金を返さなければいけな
いということで、基本財産を取り崩しました。
犯人捜しが始まりまして、誰が悪かったかと、あの委員長だ、担当者だと。でも、その
ときに私は初めて総務省に行って大目玉を食らったのですが、認識が甘い、その人がやっ
た、ではなくて、そのときの理事会はそれを見逃した罪がある、監事はそれを追及できな
かった罪がある、
皆が処分の対象だと言われ、頭をガッと殴られたような感じがしました。
ではどうするのだ、
この責任はどうとったらよいのだということで、
あれをやめさせよう、
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これをやめさせようという話をしていたのですが、それではだめで、全員で辞任しましょ
うということで、理事を総入れかえしました。会長もさらにやめ、副会長もやめ、専務理
事もやめ、お鉢が回ってきたのが私だったのです。さあこれからやるぞではなくて、何か
のつなぎ、あるいは何かの後始末、苦しいとき、そういったときに力を発揮できるという
か、しぶとく耐えしのぶことができるのが岩手県の人間ではないかというふうに思ってい
ますけれども、お金を返さなければいけない、名誉を挽回しなければいけない、新しい計
画を立てなければいけない、協会を立て直さなければいけない、そういったときの専務理
事を務めさせていただくことになりました。
もうこれ以上悪いことは起きないだろうということで頑張ってまいりましたけれども、
おかげさまで、選手たちの頑張りですが、選手たちが頑張って知名度を上げ、そして全国
の応援者をふやしてくれたおかげで、スポンサーも継続してついてくれるようになりまし
たし、その金額もふやしていただけるようになった。NHKは、日本選手権を1試合ずつ
1週間毎日放送してくれるようになった。そういったことがあって、今、協会はよい雰囲
気に向かっています。でも、何かちょっとしたものがあるとその競技団体が指摘され、糾
弾され、競技者が悲しい思いをしなければいけなくなるので、組織というのは非常に大事
だと思いますし、選手、そして愛好者の方々のためにも公的組織としてきちんとやらなけ
ればいけないという思いを新たにしております。
さあ国体はどうかというと、二戸市は剣道の競技会場であります。来年の1月にはスケ
ートショートトラックの競技会場になります。岩手県のショートトラックの選手はゼロで
す。昭和 45 年岩手国体のときの岩手町のホッケー、それと同じです。大きな前例について
いこう、二戸市を岩手県のショートトラックのメッカにしてみよう、国体を契機にまたス
ポーツで地域貢献できるのではないかというふうに思いました。
外であればスピードスケートの選手は盛岡に就職しましたよね、ホテル東日本と、それ
から盛岡ヘアメイク専門学校に。よい成績を出しています。それから、陸上でも市役所に
入ったり、
テニスで戻ってきた選手がいたり、それぞれ頑張ってよい成績を出しています。
ところがどうでしょう、岩手県は人材輩出県なのですよね。ソフトテニスだと、優秀な選
手は八戸市と仙台市に行きます。中学校を出て、高等学校を出て、国体のときにはふるさ
と選手として戻って来ますが、就職はまたそちらに行きます。ほかの競技もそうなのでは
ないでしょうか。青森県とか宮城県は受け入れ県ですよね。ほかの県で育てた選手をさら
に成長させる。岩手県は、中学校、高等学校でがっちり学校の先生方が熱烈指導をして出
してやります。その後、岩手県にはなかなか戻ってきやすい環境にない。それを残念だと
いう方々がたくさんいらっしゃいます。私も残念だと思います。
でも、国体があるからショートトラックの選手は神奈川県から岩手県に1人来てくれた
のです。需要があれば都心から、都会から岩手県に来るのです。
「岩手」の名前をつけて国
体で頑張ろう、そしてオリンピック出場を目指そう、さらには私の意見に共感して、二戸
市をショートトラックのメッカにするのだったら私が指導しましょうというふうに言って
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くれる人も出ました。今までそういうアプローチを岩手県ではしていなかったのです。他
県の優秀な選手を招こう、あるいは優秀な指導者を導入しよう、そういったことがなかな
かできなかった。
昭和 45 年岩手国体のときもそうでした。教員の部が岩手県のポイント源だったのです。
私の顧問の先生もそうでした。先生になって、高等学校の教師になって岩手県に戻ってく
る、そういった方々が好成績を支えたと思っています。そのような動きが今は余り見られ
ない。いろいろな事情があると思います。でも、来る人もいるということ。それから、一
回出しても、また呼び戻すことができるのではないかということ、それは国体を契機とし
た人づくりだと思うのです。岩手県の名誉のために頑張ってくれる人たちがその後に社会
生活で役に立たないはずはないので、競技者であれ指導者であれ、岩手県に戻ってきて実
力発揮できるような、そういった施策をおつくりいただければ非常にありがたいなと思い
ます。
同時に、中央競技団体、日本何とか協会、私はそのカーリング協会の専務理事ですが、
岩手県出身の会長、副会長、専務理事というのはほかの競技団体を見てもほとんどいませ
ん。では、東京の人たちが就任しているかというと、確かにそうですね。でも、地元で用
事があっても新幹線で、3時間で行って3時間で帰ってこられる、原宿の岸記念体育会館
で仕事をして帰ってこられるのです。あるいはメールができるのです。当時はなかったで
す、連絡網はファクシミリしかなかった。それでもやっていたことがある。今は岩手県に
いても執務にほとんど弊害はないです。であれば、これだけ優秀な人たちが多い岩手県、
体育関係においても中央競技団体の役員になったらよいと思うのです。それで、利益を持
ってくるというよりも、そこで活躍していただくことで、明らかにその人のいる県にはよ
いことが起きるのです。
堤義明さんがJOC、日本オリンピック委員会の初代会長ですが、
その前に日本体育協会内にあったときの委員長は柴田勝治さん、一戸町の出身です。ほん
の二十数年前ですよ、そのときのアマチュアスポーツのトップは岩手県の人間です。すご
いなと思います。今は竹田恒和さんですね、天皇陛下の御用地に住んでいらっしゃる方で
す。でも、そうじゃない、普通の一戸町の方がアマチュアスポーツのトップにいた。その
前後の岩手県の活気というのは違ったと思います。そういった人材の派遣、行ったきりで
はなくて、地元にいながら仕事をするという、そういったスポーツのかかわり方もあるの
ではないでしょうか。
初代の日本カーリング協会会長の奥様は岩手県出身、高松の池でスケートをしていたス
ピードスケートのオリンピック選手です。その方はオリンピック選手団団長を、バンクー
バーオリンピック、ソチオリンピックでの橋本聖子さんの役をやっているのです。それか
ら、柴田勝治さんもそうです。オリンピック選手団の団長として日の丸を持って日本の先
頭を走っていた、そういった方がいらっしゃるこの岩手県の人材活用、輩出しやすいよう
な形をおつくりいただきたいというふうに思います。
競技団体はそれぞれ一生懸命取り組んでいます。いわて国体を返上するかどうかという
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ときに熱い議論がありまして、規模を縮小してもよい、でも今我々ができることはスポー
ツを通じて復興を皆さんに見せることだ、お礼をすることだということで、岩手県の議員
の先生方も、行政の方々もそれを進めてくださっています。時間は少ないです。時間は少
ないですよ。
岩手県の次の国体会場は愛媛県です。国体PRのジャンパーをつくっています。もうキ
ャラクターも決まっています。岩手県のキャラクターはこの間決まりました。愛媛県はそ
の1年後の開催県なのにこんなに準備が進んでいます。これは熱意とかそういうものでは
なくて、やはりやるからにはきちんとやろうねというところだと思います。もちろん動き
出すまでが遅くて、動き出したらとまらない岩手県ですから、その鈍重さと重厚さは岩手
県の特徴だと思いますけれども、やはり早目に取り組んで、それにかかわる子供たち、ス
ーパーキッズの成果も出てきました。三ケ田礼一さんがオリンピック金メダリストとして
ああいった地道な仕事にかかわっているということは本当に尊敬しておりますし、それが
実ってきた。そういった岩手県のスポーツ指導のトップの方々、全国にパイプが広がって
います。陸上の清水茂幸先生は海外派遣の団長ですよね。そういった方がいる、そういっ
た方の御努力を皆さん御理解していると思うのですが、もっともっと広めていただいて、
活動しやすいような形にしていただければありがたいなと思っております。
カーリング、スピードスケート、アイスホッケー、これは中学校総合体育大会の種目で
はありません。ですから、氷上スポーツクラブというある意味違う枠での団体がつくりや
すかった。ただ、カーリング日本選手権に出場する場合、学校を休まなければいけないの
ですが、中学校総合体育大会以外は欠席というのが岩手県のルールです。岩手県の代表と
して行くのに、あるいは、日本体育協会が主催している日本と韓国の日韓青少年冬季スポ
ーツ交流、
日の丸をつけて行きます。
文部科学省のお金で日本体育協会が主催する事業で、
盛岡市のスケートの選手、アイスホッケーの選手、二戸市のカーリングの選手、アイスホ
ッケーの選手、この間の土曜日に出発しました。学校にお願いに行きました。「日本の代表
として行きます」
、
「でも、中学校総合体育大会の主催ではないよね」と言われました。そ
うか、ここにもまだやっかいなことが潜んでいるなと。でも、共催に日本中学校体育連盟
が入っていたので、それを拡大解釈して、二戸市の子は欠席ではなくなりましたが、盛岡
市の子はどうやら欠席になるようです。皆勤賞しかとれない子供もいるのです。その子か
ら勲章を奪ってしまうのです、日本代表として行くのに。どっちをとるかというのです、
休み明けの実力テストか、それとも日の丸か。子供たちは日の丸に決まっていますよ。そ
れを「よし、行ってこい」と後ろから背中を押してやれるように先生が言えないのです。
「行くなとは言わないよ、でも実力テストを受けなかったのだから、学校は休みだったの
だからな」ということを必ず言われるのです。「行ってこい、そのかわり、何かきちんとし
た発表しろよ、全国で校外に影響を与えるようなことをしろよ、リーダーになれよ、それ
をやったら許してやる、行ってこい、そのほうがずっとよい」というような学校の教育で
はないのです。
全国大会へ行きます、
カーリング部はないから顧問はいませんよといえば、
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やはり我々が付き添います。それはよいですけれども、学校は責任とれませんよと、岩手
県の代表で行くのに学校は責任とれませんよという話じゃないじゃないですか。でも、先
生たちはそういったことを言いたくないのだけれども、言わなければいけないのです。
では何が悪いのだと、それは簡単だそうですね。各市町村の教育長が許せばよい、市町
村の教育長は県の教育長が許せばよいのだそうですが、今は面倒だそうです。例えば宗教
法人の全国大会に岩手県の代表で行く、それはだめですとも言えない。だから、どこかで
区切りをつけなければいけないと思うのですが、それは常識的なものでよいと思うのです。
子供が活動しやすいこと、そして子供が他県に行って活躍しやすいこと、戻ってもきや
すいこと。指導者が、あるいは役員が中央で活躍しやすい状況、戻ってきやすい状況。今
スポーツで食べられる人は岩手県には余りいませんよね。でも、つらいけれども、子供た
ちのために、あるいは愛好者のために、給料は下がっても一緒にこの仕事にかかわりたい
という方はたくさんいらっしゃいます。そういった方に対する施策があってもよろしいの
ではないかと思います。
もちろんそのプレーヤーなり指導者が努力することは大事だと思います。国体の監督に
なったから給料が上がる、そういった問題ではないと思いますが、国体の監督をしたので
あれば、それを生かしてスポーツクラブをつくるとか、競技団体を併合するとか、新しい
立場、新しい見方からスポーツを広げ、そして公的なお金を入れやすいような仕組みづく
りをすることというのは普通の市民でもできることです。私でもできました。そこにつら
い局面があればあるほど、我々のクラブが 700 万円も使えるのはあのときの憎い所長のお
かげだと思っています。あの所長がいなかったら、笹川スポーツ財団から年間 50 万円の補
助金をもらって、
「ああ、よかった、よかった」で終わっています。三本の矢が集まったか
ら、カシオペアカーリング協会がもらっている補助金をホッケーさんたちにも分けようね
と。それに反対した会員もいました、なぜ分けなければいけないのですかと。団体になっ
たから分けるのだよと、分けて使えば、これはきっとふえるよと、それで 50 万円が 700
万円になったのです。そういったことは一般の市民でもできること、そしてそこから育っ
ていった子供たちが世界大会に出られること、オリンピックに出られることが証明できま
した。
次はそれを循環させていけばよいと思いますし、それが悪いと思う人は誰もいないと思
います。また新しい施策も出てきています。被災地という言葉がこれからなくなっていっ
たときに、そういったところで勝負できなかったら、やはり悲しい目に遭います。今だか
らこそ、世間の目がこちらに向いているときだからこそ大きな活動をして、岩手県のスポ
ーツ界が新しい変化をしていかない限り、また人材をただ外に出すだけの県になってしま
うというふうに私は思っています。皆様はもう既に御承知で、そのとおりの施策をつくっ
ていただいているとは思うのですが、あえて私の立場から申し上げさせていただきました。
国体を契機に云々という話とはまた大分中身も変わってしまいましたけれども、スポー
ツ団体の立場から見た今の岩手県のスポーツの環境、状況について一言申し上げさせてい
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ただきました。御清聴ありがとうございました。
○城内愛彦委員長 本当に大変貴重なお話ありがとうございました。
これより質疑、意見交換に入りたいと思います。ただいまお話しいただいたことに関し
まして質問、意見等がございましたら挙手で発言をお願いしたいと思います。
○佐々木朋和副委員長 浪岡先生、貴重なお話ありがとうございました。お話を聞いてお
りましても、地域を思う熱い思いから二戸市がカーリングのメッカになったというのはこ
ういう根底が、原点があったのだなというふうに大変学ばせていただきました。
その中で、最初のカーリング大会を主催されて立ち上げたというのが青年会議所の理事
長さんとしてということで、私も現役で青年会議所理事長を務めさせていただいているの
ですけれども、事業が単年制ですよね。それを継続していくというのは苦労もあったので
はないかなと思うのですけれども、どのような工夫で続けていかれたのかということを教
えていただけるでしょうか。
○浪岡正行講師 ありがとうございます。大会名に「第1回」とつけたことです。それで
自分の気持ちはメンバーに伝わりました、「来年もやるのですか」と。
○佐々木朋和副委員長 なるほど、ありがとうございました。大変すばらしい始まりだっ
たのだなと思いますけれども、若い仲間たちが第2回、第3回とサポートしながら、町の
皆さんを巻き込んでいった形なのでしょうか。
○浪岡正行講師 これもちょっと熱く言いたいところなのですが、大会を始めたのは平成
7年でした。
長野オリンピックが平成 10 年で、
そこで第3回を迎えるところだったのです、
オリンピックが2月で、3月に大会をやろうと。オリンピックの後だからすごく来るぞと
思ったら、さっぱり来なかったのです。拍子抜けして、おかしいな、オリンピックだった
のに、みんな感動したのに、やりたいだろうにと。そこで、カーリングのオリンピック選
手を輩出している北海道の常呂町、今の北見市常呂町ですが、そこのカーリング協会の会
長に「何かあったら来ればいいべさ」と言われていたので、そこで開催されていた日本選
手権を訪問しました。人口 5,000 人くらいの町なのですが、カーリングのオリンピック選
手が今まで 12 名出ているのです。町長に二戸市長の手紙を持って会いに行きました。これ
も青年会議所流ですよね、使えるものは使うということで。1人で行ったら相手にされな
いのですが、市長の手紙を持っていくと必ず町長室に入れるのです。そこでお話を伺いま
した。たかだか3年だけやっていて、二十数年やっている我々のところに来るなんて論外
だと、何も言うことはない、もっと続けろと言われたのです。ただ続けろといっても困る
だろうから、オリンピック選手を四、五人連れていけということで、町ぐるみの交流が始
まったのです。
オリンピック選手が二戸市に来てくれました。ただ来ていただくのはもったいないので、
こちらから迎えに行きました。新聞記者、テレビ局の方も含めて 11 人。あちらの教育長、
関係者、選手4人の7人。11 人で行って7人来ていただいたのですが、プレーではなくて、
町と町のつながりを深めたいと思ったのです。たった約 5,000 人の町でカーリング場を日
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本で最初につくったのですが、当時は温水プールをつくるか、カーリング場をつくるかで
町が二分したそうです。政治的にカーリングになったそうですが、オリンピック選手を輩
出し、見事に花が咲いたわけなのです。
サロマ湖のほとりにはホタテ養殖発祥の地という石碑があります。その石碑を書いたの
は当時の農林水産大臣、鈴木善幸氏。そのときの常呂町の漁労長は軽米町出身の小笠原さ
んという人です。岩手県とのつながりを無理やり見つけまして、この町と岩手県はつなが
っているのだということで、それから行き来をすごくするようになったのです。
子供たちはオリンピック選手が来るとなったら、
やはりうわっと食いつきましたし、
我々
大人もただ大会を主催して、ただお客さんが来るのではなくて、教えられる人がいないと
つまらないですから、我々も上手にならなければいけないのだということで、練習に励み
ました。きちんと指導できる体制をとったら、やはり組織として成り立ちました。初めて
来てくれた年の年明けに、私が初めて日本選手権に出ています。それまでは東北で最下位
だったのが東北代表に、それから3回エリートの部の日本選手権に出ています。10 位、9
位、9位と書いてありますが、全部それは言葉を変えれば最下位です。まさに日本選手権
で一勝もしたことがない、日本で一番弱いチームのキャプテンなのですけれども。
そういったことで、町とのつながりから指導といいますか、アドバイスをたくさんもら
いました。そのときに「浪岡さん、あなたたちがやりたいのはわかるけれども、そうじゃ
ない、続けるのだったら子供を育てること、教育委員会の協力をいただくこと、学校と関
係をよくすること、そうすれば協会は続く」と。どんどん、どんどん子供が大きくなって
いくから、そこを毎年、毎年努力すればよいということで、子供たちを岩手県の代表とし
て北海道に連れて行ったり、全国大会に出したりということを積極的にしました。勝てな
くてつらい思いはするのですが、その子たちが果たした役割というのは非常に大きかった
です。それがここまでつながった一番の原動力です。
○名須川晋委員 浪岡先生、ありがとうございました。総合型地域スポーツクラブの部分
に関してですが、年間で 700 万円ですか。
○浪岡正行講師 はい、そうです。
○名須川晋委員 totoですと期限が5年くらいではなかったかなと思うのですが、そ
れが過ぎた後にどのように自立を図っていくのかというのが全国各地の総合型地域スポー
ツクラブの非常に大きな課題だと思うのですが、自主財源をどのようにしてふやしていく
かというふうなことを教えてください。
○浪岡正行講師 ありがとうございます。岩手県内にはおよそ 50 の総合型地域スポーツ
クラブがありまして、その前にはモデル地区として各地にありました。それは大抵、地元
自治体が主催するスポーツクラブでした。
ですから、モデル地区での補助金がなくなると、
その後、職員の人たちの食いぶちもなくなって、
活動が停滞するというようなものでした。
氷上スポーツクラブ3団体で補助金が 500 万円、それから受託事業が 200 万円で、自主
財源は 40%ぐらいになりますけれども、それぞれの団体の活動を基本とするので、単体管
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理という形をとっています。
補助金は4年目ですので、来年が終わるとなくなって、受託事業の 200 万円だけになり
ますが、これも終わります。そうしたらどうなるかということですね。違う事業を見つけ
るしかないです。もっと次のものにチャレンジする。文部科学省の委託事業もチャレンジ
して、採択されているわけですが、それよりもっと大きな事業があるのです、スポーツク
ラブでなければチャレンジできないようなものが。復興庁の事業ですとか、商品をつくる
もの、それから地域の活性化を図るもの、さまざまな分野があるのですが、そういったも
のにもチャレンジできます。
それから、NPO法人になって寄附等をいただきやすい環境をつくる、法人化するとい
う道もあるとは思いますが、何しろそうなると事務量が膨大になって、小さな事務局では
なかなか立ち行かなくなってまいります。ですから、そのときにはまた 10 万円の予算で動
く団体になります。それぞれの団体がそれぞれで活動して、10 万円は共通の活動で使いま
しょうねと。いつまでもお金はないですよと、でも、あるうちは使わせてもらいましょう
ねということで、補助金がゼロになっても運営できるシステムになっています。ただ、そ
こで人を雇っていると難しいですね。その方の生活を保障するということになると、やっ
ぱり事業を始めなければいけないですから。
○吉田敬子委員 ありがとうございました。先ほどの競技者の受け皿をという話はごもっ
ともだなと思ったのですけれども、それ以外に交流人口もふえていけばと思うのですが、
スポーツツーリズムという面で、今現在どの辺の地域から、盛岡からも参加されているよ
うですけれども、例えば大会を開催すると他県からこのくらい参加しているだとか、交流
人口の増加に向けて、今後どのようにされていきたいのかということを教えていただきた
いと思います。
○浪岡正行講師 岩手県でカーリングのできる施設は、二戸市の県北青少年の家、それか
ら盛岡市のアイスアリーナです。盛岡市の事業で、8月には新たに通年型のスケートリン
クが整備され、カーリングシート2面ができます。お話を聞くと 24 時間体制もとれるとい
うことです。選手は競技場がないと育ちません。この2カ所でしかできないということが
問題ではあるのですが、実はほかの県では一つしかないところがほとんどなのです。岩手
県は二つあるというふうに周りに受け取られています。盛岡のことを受けて、二戸市議会
はカーリング場の建設要望書を受け入れてくださいました。新しいカーリング環境を、こ
れは苫米地さんの努力のたまものですけれども、二戸市でカーリングをもっともっとやり
ましょうと受け入れられたということで新しい局面を迎えようとしています。
現在岩手県で行われている大会は、二戸市では中学生を対象にしたカシオペアカップ、
それから二戸ロータリークラブ杯、地元商店街のカップ、岩手県知事杯、岩手県選手権大
会、イーハトーブカーリングフェスティバル、合わせて参加者数が 2,500 人くらいです。
それに定期練習会、これも1回 50 人くらい参加しますので、二十数回の活動で延べ 1,000
人くらいです。盛岡市は市の事業として 12 月、1月の日曜日にカーリングスクールを開催
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していて、これはすごく多いですね。70 人ぐらい来ていますので、協会員が逆に練習でき
なくなって、
協会員にとっては劣悪な状況になっていますが、
参加者が非常にふえていて、
やはり県都だと大きいですね。
日本中どこでもそうですが、カーリング人口が爆発的にふえないのは競技場がないから
です。そして、都心部にないというのが問題です。二戸市がメッカで初めてやったよとい
っても、話の中にありましたが、山の上で冬場に道路がつるつるになるとお母さんはなか
なか登れないですよね。子供も自転車で行ける距離ではない。ですから、やっぱり都心部
あるいは便のよいところ、そういったところにそういったスケートリンクがあればもっと
もっと広まるだろうなと。
これは日本カーリング協会としての責任でもありますけれども、
そういった環境づくりが非常に大事だと思います。
国体用に施設を整備するお金をtotoで準備していたり、今からではとても間に合わ
ないことなのですけれども、そういったものを使ったりして、それがどう活用されるかと
いうアイデアともくろみさえあれば、いろいろな施設が作れると思います。カーリング場
の1年間の運営費は、スキー場のリフト1基分にもならないと思います。天候にも影響さ
れないし、どちらかというと管理しやすい施設だと思うのです。夏場はプールで冬はカー
リング場というつくりの施設も軽井沢にありますけれども、今や通年型の施設としてスケ
ート、カーリングは考えてもよいと思います。西日本のほうに通年型が多いですね。東日
本、北日本は本当に通年という考え方がなくて、シーズンスポーツという考え方なのです
が、愛媛県のミカン畑の上に人工のスノーボード場があって、そこからオリンピック選手
が出ていますからね。場所、施設さえあればそこから優秀な選手を輩出できる。
それから、人がやっていない種目をやれば日本一になれる。いわて国体から新しくでき
る種目いっぱいありますよね。女子部門、自転車、空手、レスリング。吉田沙保里選手が
とっていないのは国体の金メダルだけらしいですね。いわて国体であの人はとるでしょう、
きっと。大々的に報道していただけると思いますよ。そういった報道媒体としても使える
と思うので、今からどんどん、例えばレスリング協会に宮古市の方が行ってパイプをつく
っておけば、あるいは宮古市の方でなくてもよいとは思うのですけれども、競技をメジャ
ーにするチャンスである。国体というのはそれだけの力があると思うし、町の人が理解し
てくれるというのが一番大きいですね、その辺お答えになったかどうか。
○城内愛彦委員長 よろしいですか、ほかにありませんか。ないようですので、本日の調
査はこれをもって終了したいと思います。
浪岡様、本当にありがとうございました。大変勉強になりました。お忙しいところ、貴
重なお時間をとっていただいて感謝を申し上げたいと思います。それでは、拍手をもって
お送りしたいと思います。
委員の皆様には次回の委員会運営について御相談がありますので、しばらくお残り願い
たいと思います。
次に、2月3日から5日に予定されております当委員会の全国調査についてであります
19
が、
長野県においてスポーツ振興に関する取り組み等について調査を行いたいと思います。
お手元に配付してありますので、お目通し願いたいと思います。そのような日程で行いた
いと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
次に、4月に予定されております次回の当委員会の調査事項についてでありますが、御
意見等はありますか。
〔
「なし」と呼ぶ者あり〕
○城内愛彦委員長 特に御意見等がなければ、当職に御一任を願いたいと思いますが、そ
れに御異議ございませんか。
〔
「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○城内愛彦委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。
以上をもって本日の日程は全部終了いたしました。本日はこれをもって散会といたしま
す。御苦労さまでございました。
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