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名 古 屋 大 学 博 物 館 報 告
名古屋大学博物館報告 第 29 号 Bulletin of the Nagoya University Museum No. 29 名古屋大学博物館報告 編集委員 EDITORIAL BOARD Bulletin of the Nagoya University Museum 編集委員長 EDITOR-IN-CHIEF 吉田 英一 YOSHIDA Hidekazu 環境地質学 Environmental Geology 編集委員 EDITOR 佐々木重洋 SASAKI Shigehiro 文化人類学 Cultural Anthropology 竹中 千里 TAKENAKA Chisato 生物圏環境学 Agroecology 池内 敏 IKEUCHI Satoshi 歴史学 History 大路 樹生 OJI Tatsuo 地球生物学 Paleontology, Marine Zoology 新美 倫子 NIIMI Michiko 環境考古学 Environmental Archaeology 束田 和弘 TSUKADA Kazuhiro 構造地質学 Structural Geology 西田佐知子 NISHIDA Sachiko 植物分類学 Plant Taxonomy 門脇 誠二 KADOWAKI Seiji 西アジア考古学 Prehistoric Archaeology 藤原 慎一 FUJIWARA Shin-ichi 機能形態学 Functional Morphology (編集事務局) 名 古 屋 大 学 博 物 館 報 告 No. 29 目 次 年輪年代法による輸入スプルース材の年代決定と産地推定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 箱﨑 真隆・中村 俊夫・・・・・・ 1 基礎セミナーの素材としての名古屋大学キャンパス内の放射線量 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 冨山 慎二・加藤ともみ・坂田 健・田中 剛・・・・・ 13 大村一蔵(1910)に見る放散虫化石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 永井ひろ美・白木 敬一・・・・・ 23 放散虫化石の研究史からみた美濃帯の地質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 水谷伸治郎・・・・・ 33 名古屋大学博物館野外観察園展示室の展示記録 2012 年 10 月から 2013 年 10 月まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉野奈津子・・・・・ 53 第 25 回名古屋大学博物館企画展記録 なんじゃ?もんじゃ?~髙木典雄とコケの世界~・・・・・・・・・・・ 西田佐知子・松本葉留奈 ・ ・・・ 59 第 28 回名古屋大学博物館企画展記録 「氷壁」を越えて─ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯─ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 西田佐知子・堀田慎一郎・松下佐知子・・・・・ 67 名古屋大学博物館報告の編集規約及び投稿規定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 77 名古屋大学博物館報告は名古屋大学博物館のウェブサイトからダウンロードできます (http://www.num.nagoya-u.ac.jp/outline/report.html). Bulletin of the Nagoya University Museum No. 29 Contents Tree-ring dating and dendroprovenancing of the imported Spruce woods ............................................................... HAKOZAKI Masataka, NAKAMURA Toshio . ..............1 Turning the topic of radioactivity in the Nagoya University Campus to an instructive material for the First Year Seminar................TOMIYAMA Shinji, KATOH Tomomi, SAKATA Ken, TANAKA Tsuyoshi . ............13 Radiolarian Fossils Mentioned in OMURA Ichizo (1910) .................................................................................. NAGAI Hiromi, SHIRAKI Keiichi . ............23 The Mino Terrane in the Japanese Islands viewed from the radiolarian biostratigraphy ......................................................................................................... MIZUTANI Shinjiro . ............33 Record of the exhibition at the Nagoya University Museum Botanical Garden from October, 2012 to October, 2013.............................................. YOSHINO Natsuko . ............53 “Nanja-monja” — Prof. Norio Takaki and His Mosses ...................................................................NISHIDA Sachiko, MATSUMOTO Haruna . ............59 Did the nylon rope brake? Life of Shigeo Ishioka and his fight for safety ................................. NISHIDA Sachiko, HOTTA Shinichiro, MATSUSHITA Sachiko . ............67 Articles in Bulletin of the Nagoya University Museum are available from the a website of the Nagoya University Museum (http://www.num.nagoya-u.ac.jp/outline/report.html). 名古屋大学博物館報告 Bull. Nagoya Univ. Museum No. 29, 1–11, 2013 年輪年代法による輸入スプルース材の年代決定と産地推定 Tree-ring dating and dendroprovenancing of the imported Spruce woods 箱﨑 真隆(HAKOZAKI Masataka) ・中村 俊夫(NAKAMURA Toshio) 名古屋大学年代測定総合研究センター Center for Chronological Research, Nagoya University 〒 464-8601 愛知県名古屋市千種区不老町名古屋大学年代測定総合研究センター Center for Chronological Research, Nagoya University, Furo-cho, Chikusa-ku, Nagoya 464-8601, Japan 要 旨 年輪年代法体験学習の教材を得るため,アラスカ州から輸入されたスプルース材の樹種同定と年代決定 および産地推定を行なった.木材解剖学的特徴に基づく同定の結果,樹種はシトカスプルースに同定され た.年輪年代解析の結果,15 試料から AD1689–1990 にわたる 302 年間の標準年輪曲線(AKNCCH01 と 命名 ) が得られた.AKNCCH01 は,アラスカ南東部沿岸地域の標準年輪曲線と tBP > 6.5 を示し,特にプ リンスオブウェールズ島のものと tBP = 9.36 という非常に高い値を示した.以上の結果は,これらの輸入 スプルース材が,アラスカ南東部太平洋沿岸諸島で,17 世紀末~現代にかけて生育したシトカスプルース であることを示唆する. Abstract In order to obtain the teaching materials for dendrochronology workshop, wood identification, tree-ring dating and dendroprovenancing survey on imported spruce woods were carried out. As a result of identification based on wood anatomical features, the species was identified as Picea sitchensis (Bong.) Carrière (sitka spruce). A tree-ring chronology with code name AKNCCH01 (it covers AD1689–1990 from 15 woods) was obtained as a result of dendrochronological analysis. AKNCCH01 was compared with chronologies of the southeastern Alaska coastal area and yielded tBP > 6.5. In particular, correlation between AKNCCH01 and chronology of the Prince of Wales Island showed a very high value of tBP = 9.36. The above results suggest that these imported sitka spruce woods have grown at the southeastern Alaska Pacific coastal area, from the end of 17th century to the present. 1.はじめに 年輪年代法は,年輪幅変動の個体間の同調性を利用して,年代未知の木材の絶対年代を 1 年精度 で決定する年代測定法である.年輪年代決定には,年代既知の多数の年輪幅データを平均化した「標 準年輪曲線」を用いる.近年では,地域ごとに構築された標準年輪曲線のネットワーク化が進められ ており,年代測定のみならず,木材の産地推定や時空間的な環境変動復元などが可能になっている (Haneca et al., 2009; Speer, 2010; Bridge, 2012). 名古屋大学年代測定総合研究センターでは,名古屋大学平成 25 年度地域貢献特別事業の一環とし て,2013 年 7 月 31 日~ 8 月 1 日に,この年輪年代法の体験学習を開催した.本事業では,小学 5 年 生~中学生を対象に,木材の切断,年輪観察面の研磨,年輪幅の計測と記録,年輪幅変動グラフの作 成,そして変動グラフと標準年輪曲線との絵合わせ(目視評価に基づくクロスデーティング)から年 —1— 輪の形成年を決定するまでの基礎実験を体験させた. 本事業の開催にあたって,上記実験に適した木材を準備し,予め年代を決定しておく必要があっ た.また,参加児童の「夏休みの自由研究」となることを見越した事業であるため,教材とする木材 の樹種と産地についても,できるだけ正確な情報を提供する必要があった. 年輪年代法の試料は,標準年輪曲線が確立されている樹種の木材であり,かつ 100 層以上の年輪か らなるものが望ましい.著者は,この条件を満たす木材を,名古屋市内のホームセンターで探した. 当初は,日本産樹木のスギ,ヒノキを検討したが,それらの木材は年輪数が 50 層未満であった.次 に,外国産樹木を検討したところ,100 ~ 200 層の年輪からなるアラスカ産スプルース材の「まな 板」を見つけた. スプルースはトウヒ属の総称であるため,この木材の種名は不明であった.アラスカ産であるとす れば,北米大陸に自生する 7 種のトウヒ属のいずれかに該当する.さらに,アラスカから輸出される 林業重要種となれば,シトカスプルース(Picea sitchensis(Bong.)Carrière),ホワイトスプルー ス(Picea glauca(Moench)Voss),ブラックスプルース(Picea mariana(Mill.)Britton, Sterns & Poggenb)の 3 種に絞られる.2013 年現在,国際年輪データバンク ITRDB(International TreeRing Data Bank: http://www.ncdc.noaa.gov/data-access/paleoclimatology-data/datasets/tree-ring) には,これら 3 種の標準年輪曲線が多数登録されている.したがって,この輸入スプルース材のまな 板に,年輪年代法を適用すれば,正確な年代が得られるだけでなく,年輪幅変動の同調性の統計評価 に基づいて,より詳細な生産地の推定も可能であると予想された. そこで著者は,年輪年代法体験学習の教材を得るために,これらの輸入スプルース材を試料とし て,木材解剖学的特徴に基づく樹種同定と,年輪年代法に基づく年代決定および産地推定を行なった. 2.試 料 試料は,「天然木スプルース材」「アラスカ産材」とラベル表示された「まな板」30 枚である.こ の板は,一枚板または 2 枚の材が組み合わさった板で,柾目材であり,寸法は 18 cm×36 cm×3 cm である.実験前に,試料の年輪数を計数し,50 層以下であった 5 点は使用しなかった.試料には AKNC001 ~ 025 の試料番号を与え,2 つの材が組み合わさった試料には,さらに –1,–2 の区分番 号を加えた. 3.方 法 3−1.樹種同定 試料から徒手切片法を用いて,横断面(木口面),接線断面(板目面),放射断面(柾目面)を観察 するためのプレパラートを作成し,40 ~ 1000 倍の光学顕微鏡下で,木材解剖学的な特徴に基づき樹 種同定をした. 3−2.年輪年代解析 試料の横断面(木口面)をサンダーで研磨し,スキャナを用いて画像データ(2400 dpi)を得た. 画像から年輪幅を計測した(0.01 mm 精度). 試料の年輪幅時系列データを年輪年代解析ソフト PAST4(SCIEM)に入力し,試料間でクロス デーティングした.クロスデーティングの具体的な方法は米延ほか(2010)を参照されたい.クロス デーティングでは統計評価(tBP ≧ 3.5.tBP が 3.5 のとき,危険率 0.1 % であり,二つの年輪幅時系 列に相関関係があるとみなされる : Baillie & Pilcher, 1973)と目視評価を併せて行ない,各試料が複 —2— 表1−1 アラスカ州とカナダのトウヒ属 3 種の標準年輪曲線(その 1)(ITRDB アクセス日: 2013.07.21). —3— 表1−2 アラスカ州とカナダのトウヒ属 3 種の標準年輪曲線(その 2)(ITRDB アクセス日: 2013.07.21). —4— 数の試料に対し,矛盾の無い年代関係となるか反復検証(Replication)を行なった.クロスデーティ ングできた試料の重複する年輪幅をアンサンブル平均し,年代未知の標準年輪曲線を作成した.作成 した標準年輪曲線のクオリティを評価するため,ARSTAN(Cook, 1985)を使用して,RBAR(50 年窓の移動相関の平均値)と EPS(Expressed population signal: Wigley et al., 1984)を算出した. そして,EPS = 0.85 を閾値とし,それを超える年代範囲において,信頼性の高い共通成分が得られ ているとみなした. ITRDB からシトカスプルース,ホワイトスプルース,ブラックスプルースの年代既知の標準年輪 曲線(表 1)をダウンロードし,PAST4 に入力して,試料の標準年輪曲線とクロスデーティングし た.ここでも,統計評価(tBP ≧ 3.5)と目視評価に基づいてクロスデーティングした.複数の標準年 輪曲線に対して,矛盾しない年代関係にあることを確認した上で,試料の標準年輪曲線の年代を決定 した.また,統計評価(tBP)の多寡に基づき,試料の産地を推定した. 4.結 果 4−1.樹種同定結果 観察の結果,試料(AKNC004)はシトカスプルースに同定された.以下に,木材解剖学的記載お よび同定根拠を示す. シトカスプルース Picea sitchensis(Bong.)Carrière マツ科トウヒ属(図 1). 水平・垂直樹脂道が存在する針葉樹材.早材から晩材への移行は緩やか.分野壁孔は典型的なトウ ヒ型で,1 分野に 2–6 個.仮道管放射壁に大型の有縁壁孔があり,早材部で 1–2 列に並ぶ.他の北米 産トウヒ属では,有縁壁孔が 2 列となるのは稀である(Hoaldley, 1990)ことから,シトカスプルー スと同定した. 通常,木材の樹種同定は,全試料について顕微鏡観察を行なうが,本調査では 1 試料の結果から, 他試料も同樹種と同定した.その根拠は,シトカスプルースの心材の色がピンク色を帯びた明るい茶 色で,他の北米産トウヒ属のそれとはっきり区別されることによる(Hoaldley, 1990).木材構造を観 察した AKNC004 の色はピンク色を帯びた明るい茶色であり,他の試料も同じであることから,それ らの顕微鏡観察は省略した. 図1 試料(AKNC004)の木材組織の顕微鏡写真.木材解剖学的特徴からシトカスプルースと同 定した.a: 横断面(×40).b: 接線断面(×40) .c: 放射断面(×100). —5— 4−2.年輪年代解析結果 年輪幅計測の結果,試料 25 点(29 測線)から,58 ~ 210 年(平均 118.8 年)の年輪幅時系列が得 られた.平均年輪幅は 1.22 mm であった.クロスデーティングの結果,14 測線間で相対的な年代関 係が決定した.年代関係の確定した全試料において,複数の他試料に対し tBP > 3.5 が得られ(表 2), グラフの重なりを比較した目視評価においても,連続的な年輪幅変動の一致が認められた(図 2A). これら 14 点の年輪幅時系列を,確定した年代関係の位置でアンサンブル平均し,240 年間の年代未知 の標準年輪曲線 AKNCCH00 を作成した.AKNCCH00 の構成試料間で RBAR と EPS を算出した結 果,構成試料数が 10 点を超える約 60 年間において EPS = 0.83 ~ 0.88 の値が得られた(図 2B, C). AKNCCH00 を ITRDB の標準年輪曲線とクロスデーティングした結果,シトカスプルースでは 12 地点(全 34 地点),ホワイトスプルースでは 13 地点(全 67 地点)の標準年輪曲線と tBP > 3.5 が得 られ,AD1751 ~ 1990 に年代決定された.一方で,ブラックスプルースの標準年輪曲線(全 3 地点) とは,年輪幅変動の一致が確認されなかった. 次に,AKNCCH00 に含まれず,年代決定できなかった試料の年輪幅時系列を,ITRDB の標準年 輪曲線とクロスデーティングした.その結果,AKNC024-2 が AK6,AK19,AK121 と tBP > 3.5 を 表2 輸入スプルース材試料のクロスデーティング結果 図2 A. 輸入スプルース材の標準年輪曲線(黒色線)と構成する試料の年輪幅時系列(灰色線).B. 標準年輪 曲線の構成試料数の分布. C. 標準年輪曲線構成試料間における 50 年窓 45 年重複の移動相関の平均値 (RBER)と EPS(expressed population signal. EPS > 0.85 の区間において信頼性の高い共通成分が抽 .) . 出された年輪変動とみなされる(Wigley et al., 1984) —6— 示し,年輪幅変動の一致も目視で確認され,AD1689 ~ 1751 に年代決定された. AKNCCH00 と AKNC024-2 は重なる年が 1 年のみであり,クロスデーティングできる年代関係 になかった.しかし,他の標準年輪曲線とのクロスデーティング結果に問題が無いことから,両者 を連結して AD1689 ~ 1990 にわたる 302 年間の標準年輪曲線 AKNCCH01 を作成した(表 3,図 2).AKNCCH01 の平均年輪幅は 1.31 mm(標準偏差 0.25)であり,Mean Sensitivity(以下 MS: Fritts, 1976)は 0.12 であった(表 3). AKNCCH01 を ITRDB の標準年輪曲線とクロスデーティングし,得られた tBP 値と調査地点の座 標から産地推定地図を作成した(表 1,図 3).その結果,AKNCCH01 はアラスカ州南東部プリン スオブウェールズ島のシトカスプルース標準年輪曲線(AK19)との間で tBP = 9.36 という極めて高 表3 輸入スプルース材標準年輪曲線(AKNCCH01)と t BP > 6.5 を示す(表 1)標準年輪曲線群の各種統 計値. 図3 輸入スプルース材標準年輪曲線(AKNCCH01)と ITRDB のトウヒ属 3 種の標準年輪曲線間の t BP 値に基づいて作成した産地推定地図.図中の SI はシトカスプルース,GL はホワイトスプルース, MA はブラックスプルースを表す.統計的に有意とされる t BP > 3.5 が得られた標準年輪曲線の地点 には,その多寡に応じて着色した. —7— 図4 輸入スプルース材標準年輪曲線(AKNCCH01)と ITRDB 登録標準年輪曲線のクロスデーティング 結果. A. プリンスオブウェールズ島産シトカスプルース (AK19) とのマッチングを年輪幅実測値で表した グラフ. B. A をハイパスフィルター(5 年移動平均法)で標準化して表したグラフ.両者の年輪幅変動は全 体にわたって極めて良く一致している. C. アラスカ本土北東部産ホワイトスプルース(AK117)とのマッチングを標準化して表したグラ フ.両者の間では高い t BP 値が得られているが,年輪幅変動は AD1880 以降,一致が乏しくな る. い統計値を示した.両者は,目視評価でも年輪幅変動の全面的な一致が確認された(図 4A, B).ま た,アラスカ州南東部太平洋沿岸地域およびカナダ西部のシトカスプルース標準年輪曲線群(AK2, AK6,AK121,CANA084)とも tBP = 6.86 ~ 7.50 という非常に高い値が得られた(表 1,図 3). その他に,ホワイトスプルースの標準年輪曲線(アラスカ州北西部の AK117)との間で,tBP = 5.89 という値が得られたが,グラフの目視評価では AD1880 以降の一致が乏しいことが確認された(図 4C) .全体的な傾向として,AKNCCH01 は,アラスカ州南東部太平洋沿岸地域のシトカスプルース 標準年輪曲線と年輪幅変動がよく類似することが明らかとなった. 5.考 察 5−1.試料の樹種と産地について 試料の樹種は,木材解剖学的特徴から,シトカスプルースに同定された.北米産トウヒ属は,シト カスプルースを除いて,木材構造が酷似するため,種レベルの同定ができない(Hoaldley, 1990) .試 料から確認された仮道管放射壁の有縁壁孔が早材部で 2 列をなす木材構造は,シトカスプルースの重 要な同定拠点である.したがって,試料がシトカスプルースである可能性は,木材構造のみから判断 しても,極めて高いといえる. 年輪年代解析の結果も,この同定結果を強く支持した.標準年輪曲線間のクロスデーティングにお —8— いて,シトカスプルースでは 35.3 %(12 / 34 地点)が tBP > 3.5 を示した.一方,ホワイトスプルー スでは 19.4 %(13 / 67 地点)が tBP > 3.5 を示し,ブラックスプルースでは示すものがなかった(表 1).さらに,tBP > 3.5 を示す組み合わせの tBP 値の平均は,シトカスプルースでは 5.89 と高い値と なり,ホワイトスプルースの 4.27 を上回った.年輪幅の変動は,生理特性が同じ,または近い樹木 が,類似的な気候下で生育した場合に共通する(Fritts, 1976).AKNCCH01 が,他の樹種よりも, シトカスプルースの標準年輪曲線群と高い tBP 値を示したことは,両者が同じ樹種であることを裏付 ける有力な証左である. 試料の産地は,標準年輪曲線間の統計値の比較から,アラスカ州南東部太平洋沿岸地域と推定され た.シトカスプルースは,アラスカ州本土及び太平洋沿岸諸島,ブリティッシュコロンビア州(カナ ダ),カリフォルニア州メンドシーノ郡中央部までの北米大陸太平洋沿岸地域を天然分布域とする樹 木である(Eckenwalder, 2009).AKNCCH01 の平均年輪幅(= 1.31 mm)と MS(= 0.12)は,高 い tBP 値(> 6.5)を示した標準年輪曲線群のそれと近似した(表 3).MS は生育環境の安定度を推し 量る統計値であり,0 ~ 2 の間を取り,0 に近いほど安定度が高いとみなされる.天然分布域以外の 地域,例えばポーランドポメラニア地域で生育したシトカスプルースでは,平均年輪幅 2.85 mm, MS = 0.161(Feliksik and Wilczyński, 2008)や平均年輪幅 3.09 mm,MS = 0.212(Feliksik and Wilczyński, 2009)が報告されている.これは同樹種が,気候条件,生育環境の異なる場所では,成 長速度も成長量の年々のばらつきも大きく変わることを示している.AKNCCH01 が,アラスカ州南 東部のシトカスプルース標準年輪曲線と高い tBP 値を示し,さらに平均年輪幅と MS が近似したこと は,両者が非常に近い場所に生育したことを強く示唆する. 日本はアラスカ産シトカスプルース材の最大輸入国であり,その木材は様々な用途に利用されてい る(Harris, 1984; Braden et al., 2000).このような輸入・利用状況からみても,本研究の試料は, ラベル表示の「天然木スプルース材」「アラスカ産材」に偽りなく,アラスカ州南東部太平洋沿岸地 域産のトウヒ属シトカスプルースで間違いないと考えられる. 5−2.年輪年代法の教材としての評価 今回の年輪年代解析では,29 測線中 14 測線間(48.3%)で,相対的な年代関係が決定できた.こ のなかには,年輪数 58 層の測線も含まれる.それらを平均して得られた AKNCCH01 は,アラスカ 州南東部のシトカスプルース標準年輪曲線とのクロスデーティングと反復検証が成立し,AD1689 ~ 1990 に年代決定された.その年代範囲は 302 年間に及び,同種の他の標準年輪曲線(表 1)と比べ ても短くない.ただし,今回の解析で構築された AKNCCH01 は,EPS が閾値に達する区間が短い (図 2C) .つまり,年輪幅変動の共通成分が全体にわたって強調できている標準年輪曲線とは言い難 い.他の標準年輪曲線との間で,高い tBP 値が得られ,年代決定できたのは,参照された側のクオリ ティが高いからであると考えるべきである.AKNCCH01 のクオリティを高めるためには,さらに試 料を追加し,構成試料を増やす必要があると考えられる. 年代関係が決定できなかった試料には,191 ~ 198 層の年輪からなるものも含まれた.これらは平 均年輪幅が 0.36 ~ 0.53 mm と狭いため,年輪の形成されてない年(欠損輪)を含んでいる可能性も ある.また,これらの試料は,今回の解析では検討できていない,もっと古い年代のものであること も考えられる.シトカスプルースは樹齢 800 年に達する長命の樹種である(Schweingruber, 1993). 本調査での歩留まりと,年代が広範囲にわたる可能性を考慮すれば,今後,この輸入材を同様の実験 に用いる場合は,少なくとも 50 層の年輪を持つ試料を 50 点以上(本研究の倍以上)用意する必要が あると考えられる. —9— 本研究によって,輸入スプルース材は,年輪年代法で年代を決定することができ,詳細な産地を推 定することも可能であることが示された.年代が得られた試料を体験学習で使用したところ,全ての 参加者(小中学生と保護者)が,年代を正しく決定できた.輸入スプルース材は,安価で入手しやす い.このことも,教材とする場合の利点である.高等教育や一般向けセミナー等で,年輪年代法を テーマとする場合には,この輸入スプルース材を有力な教材のひとつとして推奨したい. 謝 辞 本研究は平成 25 年度地域貢献特別事業の一部として,名古屋大学総長裁量経費の助成を受けて実 施された.試料の樹種同定を行なうにあたり,名古屋大学年代測定総合研究センター一木絵理博士に は,実験機器類を貸して頂いた.本稿の作成にあたり,名古屋大学大学院環境学研究科城森由佳氏に は,有益なご助言を頂いた.記して感謝します. 引用文献 Anchukaitis, K. J., D’Arrigo, R. D., Andreu-Hayles, L., Frank, D., Verstege, A., Buckley, B. M., Curtis, A., Jacoby, G. C. and Cook, E. R. (2013) Tree-ring reconstructed summer temperatures from northwestern North America during the last nine centuries, Journal of Climate, 26, 10, 3001–3012. Baillie, M. G. L. and Pilcher, J. R. (1973) A simple crossdating program for tree-ring research. Tree-Ring Bulletin, 33, 7–14. Barclay, D. J., Barclay, J. L., Calkin, P. E. and Wiles, G. C. (2006) A revised and extended Holocene glacial history of Icy Bay, southern Alaska, U.S.A. Arctic, Antarctic and Alpine Research, 38, 153–162. Braden, R., Cunningham, K., Lippke, B. and Eastin, I. (2000) An assessment of market opportunities for Alaskan forest products exports. Laufenberg, T. L. and Brady, B. K. (eds.) Proceedings: Linking Healthy Forests and Communities through Alaska Value-Added Forest Products, General Technical Report PNWGTR-500. 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Journal of Climate and Applied Meteorology, 23, 201–213. 米延仁志・大山幹成・星野安治・光谷拓実・Eckstein, D.(2010)年輪年代学におけるクロスデーティングのガ イドライン─日本産材を用いた方法論の分析とモンテカルロシミュレーションによる統計的クロスデーティ ングの再検討─.考古学と自然科学 ,60, 1–12. (2013 年 10 月 15 日受付) — 11 — 名古屋大学博物館報告 Bull. Nagoya Univ. Museum No. 29, 13–22, 2013 基礎セミナーの素材としての名古屋大学キャンパス内の放射線量 Turning the topic of radioactivity in the Nagoya University Campus to an instructive material for the First Year Seminar 1),2) 1),2) 冨山慎二(TOMIYAMA Shinji) ・加藤ともみ(KATOH Tomomi) ・ 1),2) 2) ・田中 剛(TANAKA Tsuyoshi) 坂田 健(SAKATA Ken) 1)名古屋大学大学院環境学研究科 Graduate School of Environmental Studies, Nagoya University, Chikusa-ku, Nagoya 464-8602, Japan 2)名古屋大学年代測定総合研究センター Center for Chronological Research, Nagoya University, Chikusa-ku, Nagoya 464-8602, Japan Abstract We experienced a severe accident at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant in March 2011. We have understood now that we need to keep alert on radiation exposure in daily life. Knowledge and basic experience on radioactivity must be included in a fundamental curriculum of general education in universities. As a part of the First Year Seminar at Nagoya University, we and the students intended to measure and learn dose of natural radiation from various sources in our common environments. In this paper, we report the radiation exposure of examinee in their hometown as well as radiation dose measured in and around the Higashiyama Campus of the university. We expect the students to remember their experiences and the approximate amount of exposed dose in daily life. 1.はじめに 2011 年3月に起こった東京電力福島第一原子力発電所での事故は,これまでの日常生活において, 気に留める必要が無かった様々な物理量を,意識の内に持ち込んだ.その中には,放射性核種や放射 線についての物理量がある.たとえば,本稿をまとめている6月 16 日の朝日新聞名古屋版には,『政 府は被爆線量を年1ミリシーベルト以下にする目標を掲げ、、、』との記事が1面に掲載され,同じく 6月 19 日の夕刊には,『地中の汚染水を調べる井戸から,1リットルあたり 50 万ベクレルのトリチ ウムが、、、』などの記事が掲載されている. 名古屋大学の卒業生は,様々な職業に携わり,世界各地での活躍が期待されている.ヘルシンキの 最高気温がマイナス5度,あるいは,ダマスカスの最低気温が 30 度であると聞けば,自分が過去に 経験した値から類推して,どのような服装でフィールドワークに赴けば良いか,その対応にさほどの 苦労は無い.しかし,マイクロシーベルト,あるいはベクレルの数値が目の前に踊った時,それらが キャンパスのある名古屋での日常体験と比較して,どれほどのものであるかの経験が無ければ,値の 評価は難しく,すべて行政府から公にされる指針が行動の基準となる.将来多くの分野で指導的立場 に立つであろう学生は,しかし,なんであれ常にそのような指針が出された理由を考え,自分自身の 行動に自ら判断を下す力を持つことが望まれる. 原子力発電所の事故で放出された放射性物質そのものを名古屋で直接観察する事は容易にはできな い.しかし,自然界には,ウランやトリウムの娘核種やカリウムの放射壊変に伴う放射線が飛び交 — 13 — い,その量はキャンパス内においても,場所により大きく異なる.その値はどれほどなのか? 場所に より異なる理由は何か? 測定機器に表示される数値は何を意味しているのか? について TA や学生 と共に考えた. 本報告は,大学初年時学生を対象として企画されている「基礎セミナー」を利用して,『シーベル ト(Sv)で表現される線量当量を体感し,紙面に報道される数値を体で理解する試み』の記録であ る.授業は,平成 23 年度から 25 年度に田中が担当し,環境学研究科大学院生の冨山,加藤,坂田が テイーチング・アシスタントとして指導にあたった.受講生数は,平成 23 年度 13 名,24 年度 12 名, 25 年度 12 名で,進学予定学部は,法学部5名,教育学部1名,経済学部9名,情報文化学部2名, 理学部8名,工学部7名,農学部4名,と多岐にわたっており,付属高校からの聴講生も1名あった. 2.測定装置 放射線測定は,(1)受講生が日常の生活において被爆している線量を知る,(2)名古屋大学東山 キャンパス内の様々な場所の線量の違いとその変化が何に起因するかを体得する.(3)その線量を 今回の発電所事故による値と比較する.この3点を目標とした.測定器具は,名古屋大学アイソトー プ総合センターのご好意により借用した.(1)の測定には,5月の連休期間中アロカ社電子ポケッ ト線量計「マイドーズミニ PDM-111 型」(図1下方 a)と予備電池を受講生全員に渡し,自宅ある いは大学生活を含む1日(24 時間)の生活時間における被爆線量を測定した.(2)の測定には,ア ロカ社シンチレーションサーベイメータ TCS-161(図1上方 b)を 2 名1組のグループが持ち,キャ ンパス内を室内/屋外を問わずそれぞれのグループが注目した任意の場所での線量を測定した.『任 意の場所』とは,通常の生活場面における放射線量の変化を知る事を目的としているので,その選択 は学生に任せた.12 人の受講生が2人ずつ組になり,測定がなされた.学生の選択では,アイソトー プセンターの周辺,理学部生物学科の RI 排水貯蔵タンクの周辺などが,真っ先に彼らの興味を引く 測定対象となったようである. 図1: 本セミナーで用いた測定装置. 下方にある a はアロカ社電子ポケット線量計「マイ ドーズミニ PDM-111 型」.通常この装置は,研究室 で放射線を扱う実験時などに各個人が身につけ,個人 被曝の積算量を測定する.上方にある b は,アロカ社 シンチレーションサーベイメータ TCS-161 型で,放射 線を扱う研究において,その場/その時における放射 線量を測定するのに用いられる.いずれも,名古屋大 学アイソトープ総合センターのご好意で借用した. 図2: 名古屋大学の地盤となっている八事層.キャンパス内 での観察は難しくなったが,この写真は東山公園東山 一万歩コース沿いで撮影.空間線量率 0.035 マイクロ シーベルト/時が読め,この値は,人工物の少ない山 の上グランドの空間線量率と同じである — 14 — 3.地質環境 名古屋大学全域は,チャートの円礫に特徴付けられる砂礫層を主体としており,坂本他(1984)に よる八事層に相当するものと考えられる.この地層は,約 600 万年前の第三紀鮮新世に,かつての東 海湖に矢田川累層として堆積した地層が,第四紀洪積世になって再堆積した砂礫層とされる.大学の 基盤となる八事層は,グラウンドに行く本部裏で容易に観察されたが,かつての崖はだんだんと平坦 化され,また草木の成長で露頭そのものの観察は困難となったが,第2図に示すような砂礫層が大学 の地質環境として分布する.河川による砂礫の運搬と再堆積は,カリウムを含み風化に弱い長石や雲 母の破壊と元素の溶脱を促進する.田中ほか(2010)によりユーフラテス河畔における研究でも示さ れているように,河川の運搬を経た堆積岩起源の地層が特にカリウムに由来する放射線に乏しい事 は,地質学的な解釈と符合する. 4.測定結果 受講生が各自の1日(24 時間)の生活において 被曝した線量を第1表に示す.測定時間(この間 に被曝した量が積分される)は学生により多少異 なるので,積 算量と共に,その値を測定時間数で 割った,1時間あたりの線量当量として合せて示 第1表 a:2012 年度受講生の通常の生活環境場での被爆量 アロカ PDM-111 ポケット線量計(図1の a)による) 測定者 線量当量 積算量 (μ Sv/h) (μ Sv/24h) おもな測定場所 学生 A 0.09 2.06 大学 0.07 1.70 自宅(豊川) 0.08 1.96 自宅~下宿 した.この値を 24 倍すれば,1日あたりの被爆量 学生 B 0.09 2.08 大学 となり,更に 365 倍すれば年間の被爆量となる. 0.09 2.04 栄 0.07 1.74 自宅(瑞穂) 0.08 1.87 ベランダ (下宿)で過ごしたようである.測定者による差 学生 C 0.09 2.04 大学 は,ほとんど見られず,0.05 マイクロシーベルト 0.08 1.94 自宅(緑区) 学生 D 0.09 2.08 大学 0.08 1.82 自宅(知立) れた.平均は,0.080 マイクロシーベルト/時(平 0.08 1.99 刈谷 成 12 年度受講生),0.066 マイクロシーベルト/時 学生 E 0.08 1.90 大学~下宿 0.07 1.68 自宅(多治見) 学生 F 0.09 2.04 大学 多くの時間を過ごした場所は,大学の教室内と自宅 0.08 1.87 自宅(大垣) (下宿)での睡眠期間中であると考えられる.この 学生 G 0.09 2.13 大学 0.08 1.86 自宅(天白区) 0.09 2.10-2.16 の内“室内”の値空間線量に対応していることから 学生 H 0.08 1.81 大学~自宅 も,室内での被爆量が通常の生活環境下での被爆量 0.10 2.35 自宅(福井) 学生 I 0.08 1.92 大学 0.09 2.08 自宅(犬山) が,測定期間中(連休を測定に当てた)に帰省した 0.07 1.72 名古屋駅 学生もおり,金沢市,福井市などでの線量がやや高 学生 J 0.07 1.78 下宿(千種) 0.08 1.94 自宅(大阪) 学生 K 0.07 1.72 下宿~大学 らの結果は,水野ほか(2012)による愛知教育大 0.07 1.76 自宅(大阪) 学(刈谷市)学生による測定平均値 0.080 マイクロ 学生 L 0.08 1.87 下宿~大学 0.08 1.83 自宅(京都) TA 加藤 0.08 1.83 大学(年測) 平均 0.080 1.92 測定者(受講生)は,多くの時間を大学と自宅 /時から 0.09 マイクロシーベルト/時の値が得ら (平成 13 年度受講生)である.測定者がもっとも 値は,次に示す名古屋大学キャンパス内での測定値 を規定している事がわかる.数名の学生ではある いようにも見える.地域における差であろう.これ シーベルト/時と共通する結果である. 上記 44 測定の平均値 0.076 マイクロシーベルト /時は,0.67 ミリシーベルト/年に換算される. — 15 — 山の上グラウンド この値は,日本全国の放射線分布図(中部原子 力懇談会,2009)から読み取れる愛知県中部の 環境放射線量 0.7 〜 0.9 ミリシーベルト/年と 符合する. 次に,受講生2〜3名を1グループとして, 1グループにサーベーメータ(図1の b)1台 を持たせ,キャンパス内を建物の内外を問わ ず,各自が興味を持った場所の線量を測定した 第1表 b:2013 年度受講生の通常の生活環境場での被爆量 アロカ PDM-111 ポケット線量計(図1の a)による) 測定者 線量当量 積算量 (μ Sv/h) (μ Sv/24h) おもな測定場所 学生 A 0.04 1.00 大学~天白公園~本山 学生 B 0.06 1.40 大学~八事日赤 学生 C 0.09 2.14 石川県 金沢市 学生 D 0.07 1.60 大学~東山 学生 E 0.07 1.74 一宮 図書館 学生 F 0.06 1.40 本山 学生 G 0.08 1.80 兵庫県 神戸市 (図3).測定結果を第2表 a, b に,測定場毎 学生 H 0.07 1.78 岐阜県 大垣市 の線量率を図4a, b, c に示す.測定は,年度ご 学生 I 0.07 1.56 静岡県 浜松市 学生 J 0.05 1.18 大学~西尾市 学生 K 0.07 1.68 大学~川名 図面上では似たような場所で測った様に表示さ 学生 L 0.08 1.92 岐阜県 大垣市 れているもあるが,細かい位置は異なってお TA 冨山 0.06 1.52 大学~川名 平均 0.066 1.59 とに異なる個別のグループが行っているので, り,結果としての測定値も異なる事が多いの で,それぞれの年度毎に別の図表として示し た.平成 11 年度の測定は,測定表が作られて いないので,図のみ(図4a)を示した. 環境放射能は地質環境に依存する(たとえ ば 湊,2006).さらには地質依存性を利用し て,環境放射能から目視で区別しにくい層序対 比に用いる試みもなされている(片岡ほか, 2013).全体として認められる事は,屋外の空 間線量より,建物内の空間線量が多いことであ る.例えば,図3c の文系地区の測定では,屋 内の線量(赤丸)が近隣の屋外(黄色)より明 らかに高いことがわかる.全測定を通して,屋 外 74 地点の空間線量の平均が 0.069 マイクロ シーベルト/時であるのに対して,屋内 54 地 点の平均は,0.076 マイクロシーベルト/時で あった.(いずれも特定物へ密着して測定した 値を除く)これは,屋外において放射線の多く は,地面1面に存在する建材や地質に含まれる ウラン・トリウム・カリウムなどに由来した が,建物内では,天然の放射性元素を含むコン クリートにより3面が囲まれた空間で3面から の放射線が合わさって測定されることによると 図3: 測定の一風景. 学生自身が興味のある任意の場所での測定を行わせた. アイソトープセンターの放射性廃液貯蔵タンク,大型実 験施設,そしてこの電波望遠鏡.学生がどのような所か ら放射線が出ているのか想像している内容が伺える一場 面である. 考えられる. 東京電力福島第一原子力発電所事故の被災地では,屋外の線量が屋内より高いので,一時,児童生 徒が屋外で遊ぶ時間を制限した.これは,自然由来ではない線源(原子炉からの放出物)が屋外に存 在したことによる.屋内の線量が屋外より高い,これが汚染のない場所での自然の姿であろう.東山 — 16 — 第2表 a:名古屋大学東山キャンパス内の放射線量−1 (2012 年度測定:アロカ TCS-161 サーベーメータによる) 測定者 石田・小倉 鉾館・近藤 伊藤・高橋 岡村・近藤 宮崎・田中 山田・安藤 測定場所 付属高校廊下 付属高校図書館 付属高校図書館 トイレ 鏡ヶ池 付属高校グラウンド 工学研究科 3 号館 航空機械実験 北部生協 工学科実験 工学研究科 2 号館 2F 工学研究科 2 号館 3F 全学棟サブラボ B ファミマ 文総中庭 渡辺龍聖像 法経 A 館 2F 地下鉄 1 番出口 第一グリーンベルト 第二グリーンベルト 中央図書館 2F 中央図書館 3F 中央図書館 4F 中央図書館エレベータ 中央図書館 1F 第三グリーンベルト 全学 A 館 1F 情報科学校舎 体育館前 南部学食 2F 購買 留学センター 1F 豊田講堂前芝生 理学部 A 館 理学部 A 館 理学部 E 館 理学部 E 館 保健管理センター ES 総合館 ES 総合館 工学部 5 号館 FOREST グリーンサロン東山 グリーンサロン東山 理学館 理学部 C 館 理学部 B 館 理学部校舎 豊田講堂前 古川記念館 古川記念館 ( 年測 ) 農学部畑 音楽練習室横 林の中 環境医学研究所 本部事務局 1 号館 本部事務局 1 号館 山の上グラウンド横道路 共同教育研究施設 2 号館 地球水循環研究センター 農学部実験棟 原子核第 1 特別実験棟 農学部東実験棟 農学部東実験棟横 道路 屋内運動場前 屋内運動場 2F 山の上テニスコート 陸上競技場 多目的コート 測定環境 (屋内・屋外) 屋内 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋内 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋外 屋内 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋内 屋外 屋内 屋外 屋外 屋内 屋内 屋外 屋外 屋内 屋外 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋内 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋外 屋外 屋外 — 17 — 空間(1m)か 特定物密着か 空間 空間 密着 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着 空間 空間 密着 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着 空間 空間 空間 空間 空間 空間 線量当量 (μ Sv/h) 0.09 0.08 0.11 0.09 0.04 0.05 0.09 0.06 0.07 0.11 0.07 0.08 0.08 0.06 0.06 0.17 0.08 0.11 0.10 0.04 0.07 0.07 0.05 0.05 0.05 0.07 0.12 0.25 0.08 0.04 0.06 0.06 0.08 0.07 0.08 0.06 0.10 0.09 0.05 0.05 0.09 0.06 0.07 0.07 0.07 0.09 0.09 0.07 0.05 0.07 0.12 0.06 0.03 0.05 0.05 0.13 0.11 0.04 0.06 0.07 0.08 0.09 0.07 0.05 0.06 0.09 0.05 0.05 0.06 0.05 備 考 エスカレ å ータ作業中 地面 水辺 グランド 中庭の石 第2表 b:名古屋大学東山キャンパス内の放射線量−2 (2013 年度測定:アロカ TCS-161 サーベーメータによる) 測定者 ? 山口・三ツ井 河野・平野 測定場所 経済学部棟入り口 法学部棟入り口 教育学部棟2階 サブラボ A プール 道路 観察園 道路 地下鉄入り口 経済学部棟入り口 経済カンファレンスホール 法学部印刷室 全学棟入り口 地球科学実験室 サブラボ Aå 体育館 文学部棟入り口 文学部棟2階 文学部棟3階 生協 工学部3号館 図書館のわき 図書館 IB 電子情報館 北部厚生会館わき 航空・機械実験棟わき 工学部3号館わき 工学部2号館 第一グリーンベルト 名古屋大学駅構内 工学部7号館 B 棟 学生会館 エコトピア科学研究所 工学部3号館 工学部2号館トイレ 豊田講堂内 豊田講堂前の芝生中央 豊田講堂前芝生隅の木 豊田講堂前 豊田講堂入り口 豊田講堂 豊田講堂 豊田講堂 豊田講堂 豊田講堂 発電設備 テニスコート横 留学生レジデンス 保育園横 保育園横 保育園横 宇宙線望遠鏡室 山の上道途中 ナショナルコンポセンター 職員食堂 博物館横 博物館 博物館 博物館 測定環境 (屋内・屋外) 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 空間(1m)か 特定物密着か 空間 密着(石) 空間 密着(木) 空間 密着(バイク) 密着(草) 密着(コンクリ) 空間 密着(AED) 空間 空間 空間 空間 密着(石) 密着(パソコン) 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着(茂み) 空間 空間 密着(側溝の中) 密着(側溝の中) 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着(銅像) 空間 密着(木) 密着(記念碑) 空間 密着(鉄製扉) 空間 空間 密着(柱) 空間 空間 密着(自販機) 空間 密着(量水器) 空間 — 18 — 密着(バイク) 密着(ドア) 密着(メーター) 密着(土) 密着(メタセコイア) 密着(精算機) 密着(花崗岩) 密着(花崗岩) 密着(大理石) 線量当量 (μ Sv/h) 0.08 0.08 0.06 0.07 0.06 0.07 0.04 0.06 0.09 0.09 0.06 0.09 0.09 0.09 0.08 0.09 0.08 0.08 0.08 0.09 0.05 0.07 0.07 0.07 0.06 0.05 0.12 0.05 0.07 0.06 0.08 0.09 0.09 0.07 0.05 0.16 0.07 0.06 0.13 0.10 0.05 0.09 0.18 0.13 0.08 0.06 0.05 0.07 0.04 0.06 0.03 0.07 0.04 0.02 0.05 0.06 0.10 0.26 0.11 備 考 人がよく通る 石が多い 狭い通路 開放的な空間 水泳実施中 道路 草が茂っている 道路 人がよく通る 人がよく通る 広い 人が少ない 人が多い パソコンが多い 運動している時 商品が陳列 日陰 エレベーター内 (遠隔受信機付) 第2表 b(つづき) 測定者 竹内・道白 ? 平島・福田 測定場所 理学館 ES 館内 理学部 B・C 館 多元数理前 Craig's Café 前 理農館前 フォレスト前 フォレスト前 フォレスト前 ES 館前 ES 館前 保健館前 工学部8・9号館 駐輪所 理学部 B・C 館 駐車場 駐車場 フォレスト裏 フォレスト裏 駐車場 駐車場 環境医学研究所本館 農学部5号館 環境共用館 工学部研究科6号館 環境医学研究所本館 農学部 農学部 A 館前 農学部西研究室 環境共用館 名大保育園 ナショナルコンポセンター 陸上部部室 更衣室 体育館 保育園横 保育園自転車置き場 テニスコート 体育館近く 部室棟 テニスコート 野球場 ホテル ライフル練習場 公園 更衣室 道路 測定環境 (屋内・屋外) 屋内 屋内 屋内 空間(1m)か 特定物密着か 空間 空間 密着(壁) 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋内 空間 空間 空間 空間 密着(体) 空間 空間 密着(木) 密着(バイク) 空間 密着(鉄) 密着(硝酸) 空間 空間 空間 密着(体) 密着(体) 密着(コンクリ) 空間 空間 空間 空間 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋内 屋内 屋内 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 屋外 密着(雑草) 空間 密着(落ち葉) 空間 密着(パンジー) 空間 空間 空間 空間 空間 密着(自転車) 空間 空間 空間 密着(石) 空間 空間 空間 空間 空間 空間 密着(車) 線量当量 (μ Sv/h) 0.04 0.05 0.08 0.08 0.06 0.06 0.09 0.07 0.07 0.06 0.07 0.06 0.07 0.06 0.06 0.07 0.06 0.07 0.07 0.06 0.05 0.09 0.06 0.08 0.10 0.09 0.05 0.07 0.06 0.06 0.06 0.05 0.09 0.07 0.09 0.09 0.06 0.03 0.06 0.06 0.05 0.09 0.06 0.04 0.09 0.09 0.05 備 考 廊下 コンクリート囲み内 キャンパス内の自然由来の放射線(地質由来+宇宙線由来)は,山の上グラウンドの 0.04 〜 0.06 マイ クロシーベルト/時として,測定された値である. 3年間の測定結果をとおして,線量が多かった所は,グリーンベルトのモニュメント,情報学研究 科中庭の石,年代測定総合研究センター前の石垣にそれぞれ密着して測定した場合であった.それぞ れが作られている素材は,花崗岩であり,花崗岩にはウラン・トリウム・カリウムなどの放射性元素 が多く含まれる事によると思われるが,0.2 マイクロシーベルト/時を超える線量率を示す場所は学 内では極めて限られている. 学生は,また,自然界よりも人工物から放射線が出ていることを気にしているようである.水野ほ か(2012)では,生協の電子レンジや PCB 保管庫などが学生の興味を魅いたが,今回も,量水器の — 19 — 遠隔送信機,エスカレータ,工学部実験棟,原子核第一特別実験棟,実験棟脇の側溝の中,などでの 測定がなされている.日頃,学生達が,放射能を持つ物質が扱われているのではないか?と感じてい る場所ではないだろうか.そして,これらの場所の放射線量が,ほかの場所と差がないことを納得し たものとおもわれる. 4a 0.10 0.05 0.09 0.08 0.08 0.04 0.08 0.08 0.12 0.03 0.07 0.08 0.07 0.05 0.04 0.04 0.06 0.10 0.06 0.05 0.20 0.13 0.04 0.10 0.04 0.05 0.04 0.08 0.05 0.04 0.03 0.13 0.08 0.06 0.03 ~ 0.06 * 0.02 0.04 名古屋大学東山キャンパス 放射線マップ 測定日 11. 0.05 ~ 0.06 0.06 0.08 0.08 0.03 0.04 ~ 0.05 0.06 ~ 0.08 屋内(密着) 0.04 0.06 0.08 μSv/h *エレベーター内 屋内(空間) 0.05 0.06 0.03 05. 16. 0.04 0.09 ~ 0.11 屋外(空間) 屋外(密着) 0.12 ~ 0.13 0.10 0.16∼0.18 0.20~0.26 4b 0.05 0.07 0.06 0.07 0.07 0.08 0.06 0.09 0.07 0.09 0.11 0.07 0.04 0.06 0.05 0.09 0.08 0.04 0.09 0.11 0.08 0.09 0.08 0.09 0.10 0.06 0.05 0.07 0.07 0.06 0.09 0.05 0.07 0.07 0.06 0.05 0.05 0.07 0.05 0.11 0.08 0.12 0.11 0.06 0.05 0.03 0.04 0.12 0.05 名古屋大学東山キャンパス 放射線マップ 測定日 12. 05. 14. μSv/h 屋内(空間) ~ 0.05 0.06 ~ 0.08 屋内(密着) 屋外(空間) 0.25 0.08 0.13 0.07 0.07 0.08 0.06 0.11 0.08 0.10 0.04 0.09 ~ 0.11 屋外(密着) 0.12 ~ 0.13 0.04 0.16∼0.18 0.20~0.26 — 20 — 0.05 0.09 0.05 0.06 4c 0.06 0.07 0.07 0.07 0.07 0.09 0.07 0.06 0.09 0.07 0.07 0.06 0.06 0.10 0.07 0.05 0.09 0.05 0.10 0.05 0.06 0.05 0.07 0.06 0.12 0.06 0.06 0.08 0.06 0.08 0.050.06 0.06 0.09 0.08 0.06 0.09 0.07 0.07 0.08 0.09 0.06 0.05 0.04 0.08 0.09 0.06 0.08 0.08 0.05 0.13 0.06 0.03 0.06 0.05 0.07 0.05 0.06 0.04 0.26 0.06 0.05 0.07 13. 05. 20. 屋内(空間) 0.03 0.04 0.06 測定日 0.06 0.02 0.16∼0.18 μSv/h 屋内(密着) 0.03 ~ 0.05 屋外(空間) 0.06 ~ 0.08 屋外(密着) 0.06 0.09 0.09 名古屋大学東山キャンパス 放射線マップ 0.09 0.08 0.10 0.09 0.08 0.09 0.11 0.05 0.13 0.09 0.07 0.06 0.08 0.08 0.06 0.05 0.10 0.05 0.07 0.07 0.07 0.060.04 0.09 ~ 0.11 0.09 0.06 0.08 0.06 0.07 0.09 0.09 0.06 0.04 0.06 0.09 0.12 ~ 0.13 0.16∼0.18 0.26 図4: 名古屋大学東山キャンパス内の空間線量率および様々な物質表面の線量率. 第2表 a, b の値をそれぞれ図 4b, 4c に示した.図 4a に対応する数値は,保存されていなかった.地図上で似た位置に マークされていても,年度により詳細な測定位置などが異なるので,年度ごとに分けて図示した. 図4a: 2011 年度の測定値分布 図4b: 2012 年度の測定値分布(第2表 a に基づく) 図4c: 2013 年度の測定値分布(第2表 b に基づく) 5.授業の展開と将来への展望 上記の放射線測定は,授業の導入に用いた.学生は,耳慣れないマイクロシーベルトや食品の汚染 に使われるベクレルの用語に戸惑いながらも自分に関係したデータとして測定を進めた.身近な値と して学生の気が入った所で,ベクレル,グレイ,シーベルトへの説明を始める.測定値が高かった所 と低かった所の比較や,天然の岩石中に存在するカリウムの放射壊変から,普通の岩石も,規制され ている牛肉とおなじ数百ベクレル/ kg の放射能を持つ事,よく使われる“シーベルト”は,なかな か定量化しにくい値である事等へと学習を進める.参考書として田崎晴明著「やっかいな放射線と向 き合って暮らしていくための基礎知識」を提示した.文科系にも理科系にも理解し得る良書である. 大学祭の期間中にアイソトープセンターと年代測定総合研究センターの施設見学を必修事項とし, そこでの自主質問を経て,授業後半における各自の調査テーマを自由に設定した.2013 年度の学生が 設定したテーマは以下のようであった. ◯放射線のもつ経済効果(経済) ◯海の中の放射性物質(経済) ◯放射能と放射性物質の研究の歴史(経済) ◯農業分野での放射線利用について(経済) ◯原発事故が生んだ需要と風潮(経済) ◯原子炉と核融合炉の放射能(理) ◯放射能と癌(理) — 21 — ◯放射線の利用について(理) ◯宇宙線が地球にたどり着く過程(理) ◯食物連鎖における放射性物質の蓄積(理) ◯放射能への耐久性を考慮した構造物との技術(工) ◯放射線抵抗性生物(農) 教員では思いもつかないような,進学先にとらわれない,広範なテーマが選ばれている.テーマのあ との( )の中に書いたのは,進学予定学部である.授業時間ごとに,全員が調べた内容を発表し, その内容への質問(メモ)を必修とした.他の学生の発表内容も聞かねばならず,受講生は苦痛で あったに違いない.しかし,自分の被曝線量率(0.0n μ Sv/ 時)だけは覚えてくれたと確信する. 謝 辞 名古屋大学アイソトープ総合センターからは毎年度,本報告のきっかけとなった名古屋大学初年時 教育「基礎セミナー A」に,受講生数のポケット線量計 12 台とサーベーメータ6台をお貸し頂いた. また,名古屋大学アイソトープセンターおよび年代測定総合研究センターには,名大祭期間中,多数 回にわたる施設見学会に受講生を受け入れて頂き,受講生からの放射線や年代測定に関する多くの質 問に丁寧なご説明を頂いた.環境学研究科の竹内誠教授からは,大学の基盤となっている八事層につ いてお教え頂いた. 基礎セミナー A の受講生(平成 2011 年度 13 名,平成 2012 年度 12 名(付属高校からの聴講生をふ くむ),平成 2013 年度 12 名)とは,様々に有益な議論を交わすことができた. 文 献 中部原子力懇談会(2009)目で見る自然放射線.pp. 10. 片岡良輔・沼田直樹・白川知恵・神田ゆか・小沢 萌・中村明博・小畑怜子・三浦 悟・竹内 誠・南 雅代・柴 田理尋・田中 剛(2009)放射線を指標とする環境評価教育の開拓.名古屋大学博物館報告 ,25 号,15–23. 片岡達也・竹内 誠・田中 剛(2013)堆積物・堆積岩の源岩測定に対する γ 線スペクトロメトリーの適用性. 日本地質学会第 120 年学術大会(2013 年 9 月,東北大学)講演要旨. 湊 進(2006)日本における地表 γ 線の線量率分布.地学雑誌 ,115 巻 1 号,87 –95. 水野将人・丹羽陽太・富山天耀・柳瀬里枝・渥美雅己・加藤弘太郎・川口陽平・古居竜太郎・久保翔輝・下間祥 子・高須泰良・鄭 卓涵・管野慶文・五十嵐夕香莉・三宅 明・田中 剛(2012)環境放射線を用いた環境 教育─愛知教育大学における試み─.名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 ,XXIII,190–195. 坂本 亨・桑原 徹・糸魚川淳二・高田康秀・脇田浩二・尾上 亨(1984)名古屋北部地域の地質.地球地質研 究報告 ,地質調査所5万分の1図幅 pp. 86. 田中 剛・片岡良輔(2011)名古屋大学前歩道放射線の多様性とその天然放射線通路標識(Radio Guide-way) の提案.名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 ,XXIII,82–87. 田中 剛・於保 俊・桂田祐介(2010)天然放射線を用いたガーネムアリ遺跡の土壌対比.名古屋大学博物館報 告 ,26 号,59–70. 田崎晴明(2012)やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識.朝日出版社.pp. 148. (2013 年 10 月 15 日受付) — 22 — 名古屋大学博物館報告 Bull. Nagoya Univ. Museum No. 29, 23–32, 2013 大村一蔵(1910)に見る放散虫化石 Radiolarian Fossils Mentioned in OMURA Ichizo (1910) 1) 2) 永井ひろ美(NAGAI Hiromi) ・白木 敬一(SHIRAKI Keiichi) 1)〒 466-0815 2)〒 498-0017 名古屋市昭和区山手通 1-23-1, 701 Yamate St.1-23-1, 701, Showa-ku, Nagoya, 466-0815 Japan 愛知県弥富市前ヶ須町午新田 535 Umasinden 535, Maegasu, Yatomi, Aichi, 498-0017 Japan Abstract In June 1910, OMURA Ichizo submitted his dissertation thesis entitled “Report on the Geology of Shiretoko, Sakhalin and Brief Description of Crystalline Schist of Sakhalin” for the Geological Institute of the University of Tokyo. In this thesis he made a detailed description on geology and geography of the Shiretoko Peninsula at the southeastern end of Sakhalin. He discovered well preserved radiolarian fossils from radiolarite in the “Paleozoic” system near Butchino, identified them as Cenosphaera gregaria, C. pachyderma, Heliodiscus sp., Theocapsa elongata, Lithocampe exaltata, Stichocapsa perpasta, and S. grandis; and depicted their fairly detailed figures. These radiolarian fossils were considered to be of Paleozoic, compared with those of the Paleozoic systems in mainland Japan. Recently the Paleozoic system of the Shiretoko Peninsula is recognized as a Cretaceous accretionary complex. The radioralian fossils recovered from Shiretoko by Omura should be assigned to the Middle Jurassic to the Lower Cretaceous species by the morphological characters. はじめに 1920 年代以前の黎明期の放散虫化石研究史を明らかにするために,筆者らは主として東京大学地 質学科の卒業論文の調査を行い,これまでに菊池安 Kikuchi(1883),三浦宗次郎 Miura(1884), 吉田弟彦 Yoshida(1900)の紹介を行った(永井 , 1995; 永井・白木 , 2010, 2011, 2012). 20 世紀初期の東京大学卒業論文には各地から radiolarian slate 産出の報告はあるものの放散虫化 石に関しては,河野密 Kono(1908)に Radiolarite の薄片の偏光顕微鏡写真(p. 148, Open nicol × 120)が載せられているのみである.なお,Kono(1908)は当時までに知られていた秩父系の Radiolarian slates 産地を総括している. 今回,大村一蔵の東京大学地質学科卒業論文 Omura(1910)に放散虫化石の図が付されているこ とが分かったのでその紹介をする. 大村一蔵は地質学会会長や国策会社帝国石油の副総裁を勤めた著名人である.小松(2007)は, 「地球科学」誌に「大村一蔵:青年とスポーツと地質学を愛した豪傑」と題する評伝を寄せている. それによると地質学が最後にあるように,学生時代は地質学にはあまり熱心でなかったようである. しかし Omura(1910)は,樺太東南端知床半島の広大な地域を非常に詳しく調査し,その結果を 20 万分の1地質図にまとめている. — 23 — サハリン知床の地質 大村一蔵の東京大学卒業論文である“Report on the Geology of Shiretoko, Sakhalin and Brief Description of Crystalline Schist of Sakhalin”は B5 判ノートに英文で手書きされている.まえがき (Preface)2頁,詳細な目次(Contents)4頁,序文(Introduction)2頁,本文は 3–108 頁と結 論(Conclusion)1頁からなる.これに続き“Brief Description of Crystalline Schist of Sakhalin” の副題名と 16 頁の記述が追加されている.図版は I ~ XIV の 14 枚である.この他に,地質図と地 質断面図の2葉の折込図が付されている. 調査地域の概念図と地質図の一部を,それぞれ Fig. 1 と Fig. 2 に示す.図版の内 Pl. IX の Figs. 1, 2 が放散虫岩(Radiolarite)薄片の顕微鏡写真である(Fig. 3).放散虫化石のスケッチ(Fig. 4)並びに記載は本文 87–89 頁に書かれている. なお,“Brief Description of Crystalline Schist of Sakhalin”は,Suzuya(鈴谷)山脈のオホーツ ク海に面する露頭から得た石墨片岩や緑色片岩の記載である. まえがき(Preface)には,樺太庁の要請を受けて 1909 年夏から秋にかけて樺太の Shiretoko(知 床)半島の地質調査を行ったと書かれている. 山谷は樹木や草に覆われ,道は崩れており調査は困難 を極めたという.調査にあたっては,東大卒業生の R. Katayama 氏のカラー地図と水路局の地形記 録を参考にした.小藤文次郎・横山又次郎の両教授の助言と激励にたいして謝辞が書かれている.最 後に,樺太に経験の深い神保小虎教授並びに樺太庁の主任地質学者 S. Kawasaki 氏に対する謝意が記 されている. 序文(Introduction)では,樺太島は結晶片岩・古生代・中生代・新生代系からなり,この島の 西側に発達している中生層や炭田をもつ第三系は東大卒業生の Mr. Shimotomai 氏により調査され ている.知床半島は古生代・中生代・新生代系から構成されるが,その古生代系は同卒業生の R. Katayama 氏が知床半島を訪れた以外誰も調査していない.この卒論の目的は,特に古生代系につい て,その地質学的位置を明らかにして,日本本土のものと比較したい,と極めて簡潔に述べている. 目 次(Contents) は 第 1 章 地 理(Geography), 第 2 章 地 質(Geology), 第 3 章 岩 石 記 載 (Petrography) ,並びに結論(Conclusion)に分けられ,それぞれが更に細分されている.放散虫 化石に触れているのは,第2章の Paleozoic system(p. 34–35),第3章の Sedimentary rocks(p. 84–87)および Radiolarite(p. 87–89)である. 樺太(サハリン)の東南端の知床半島は北緯 46° から 46°55’,東経 143°15’から 143°45’に位置 し,西に亜庭湾,東はオホーツク海,南方には北海道(宗谷)がある. 地理では一般的な自然地理の他に Inhabitant と Tribe の項がある.定住者は非常に少ないが, Busse 湖近くの Arakuri(アラクリ)付近には(Fig. 2) ,3所帯 11 人の原住民が住む.また, Tunnaicha(富内)には 80 人のアイヌ人と少数の日本人が住むが,それ以外の集落の定住者は全て ロシア人であると記している. ここで第2章の Paleozoic system(p. 34–35)を活字化してみると以下のようである. Paleozoic system Now my questions in this chapter are ‘May I say it is Paleozoic ?’ and then ‘To what system in our home island does it correspond ?’. Rocks The rocks which construct this system are following: Quartzite contains Radiolite(ママ) Limestone — 24 — Figure 1. 樺太と知床半島の概略図.Plate Ⅰ in Omura(1910) — 25 — Figure 2. L. Busse から Mt. Tatsumi までの地域の地質図.折込地質図から一部改編. R: Radiolarite Di: Diorite P: Peridotite Lm: Limestone Schalstein Sandstone Sandy shale All these rocks resemble to that of Paleozoic system in our home island and intimately resemble to that of Hokkaido. From my observation, I am able to recognize following stratigraphical order of the rocks of this system: — 1. Shaly sandstone and sandy shale 2. White and green quartzite 3. Sandstone (grey rock) 4. Schalstein with limestone 5. Red and variegated quartzite 6. Adinole slate 7. Flinty quartzite I could not find any organic remain which is important to determine the geological position; consequently I can not decidedly determine the geological age of the system. Then I have to determine by the comparison with the stratigraphical order of Paleozoic system which already studied by our senior in the districts of home island. 大村の調査目的は樺太知床半島の古生代系の分布を調べ,本土のものと比較することであったが, この文章では冒頭からこれが古生代のものか?本土のどこと比べたらよいか?と根本的な疑問を呈し ている.時代決定に有力な化石は見つからず,地質時代を決定できない.そこで本土で先輩が既に確 立している明確な古生代系のものと比較することにした,と言う.従って,大村が Butchino 周辺で 採集した放散虫岩(Radiolarite)の地質年代も古生代として扱われている. 次に第3章の Sedimentary rocks(p. 84–87)のなかの放散虫化石に関する部分 (p. 87) は以下のよ うである. Quartz In open nicols it is clear but between crossed nicols they form microgranoblastic structure and the cracks filling quartz exhibit the crypto granoblastic structure. There are the circular cavity which occupied by micrograins in the matrix. This is supposed to — 26 — have been resided by radiolaria formerly. 放散虫化石のスケッチが載っている Radiolarite(p. 87–89)を紹介する.大村の手書き原稿で放散 虫化石のスケッチが描かれている p. 89 のコピーは,Fig. 4 に示してある.活字化したものは次のも のである(著者注:原文では Radiolite と記されているが正しいスペルは Radiolarite である.また, 学名は斜体で書くべきところであるが,原文通り立体のママとした). Radiolite(ママ)(See PL. IX. Fig. 1. 2.) Locality Neighborhood of Butchino Composition Primary and secondary Quartz Colored mineral — chloritic matter Numerous organic remain Macroscopic character More or less irregularly foliated structure dark bluish green flinty lustrous compact hard rock. Microscopic character Quartz — Between crossed nicols it exhibits the granoblastic structure but open nicols it is covered wholly by the chloritic matters. Chloritic matter — appear in minute grain or dots, sometimes earthy, light greenish yellows, sometimes dirty, and spread over all through the field, which give the rock green appearance. Organic remains — innumerable remains of radiolarian exist in the matrix of quartz. It is striking fact such numerous remains are contain in a rock and their feature are seen very clearly. I have given them the name comparing their feature the figures which illustrated in Rüst’s Radiolarien. (They are figured in the end) Family I Sphaerozoidae Subfamily I Monosphaeria Cenosphaera (gregaria?) ··········· 1 Cenosphaera (pachyderma?) ····· 2 Cenosphaera (pachyderma?) ····· 3 II Dyosphaeria Heliodiscus ( ) ················ 4 Family II Cyrtidae Subfamily I Triocyrtidae Theocapsa (elongata?) · ·············· 5 Subfamily II Stichocyrtidae Lithocampe (exaltata?) ·············· 6 Stichocapsa (perpasta?) ············· 7 Stichocapsa (grandis?) · ············· 8 さて,ここで Radiolarite の偏光顕微鏡写真 Pl. Ⅸ , Fig. Ⅱ(Figure 3)の説明で“What large number of them there is!”と記していることから,今から約 100 年前に大村がこれを観察した時の 感動が伝わってくる. — 27 — Figure 3. 放散虫岩(Radiolarite)薄片の偏光顕微鏡写真 Plate IX. Figs. 1, 2 in Omura(1910) — 28 — Figure 3.(つづき) — 29 — Figure 4. 放散虫化石のスケッチ Page 89 in Omura(1910) — 30 — 議 論 サハリン島は日露戦争(1904.2.8–1905.9.1)により 1905 年8月1日に日本の軍政下におかれ,9 月1日ポーツマス休戦協定により北緯 50° 以南は日本領樺太として,1945 年8月第二次世界大戦終 了時まで属領統治制度下に置かれていた.1907 年には樺太庁が設置された(原ら,2011). まえがき(Preface)に述べられているように,大村は樺太庁の要請を受けて 1909 年に知床半島 の地質調査を行った.樺太庁の主任地質学者 S. Kawasaki は川崎繁太郎で,1905 年から樺太の鉱山 調査に従事していた.R. Katayama は片山量平,日本領となった南樺太の南半部の調査を担当し, 1906 年に知床半島を旅行している(川崎,1907) .なお,川崎は 1910 年には朝鮮に渉り,1920 年 から 1931 年まで朝鮮総督府地質調査所の所長を務めた(山根・三土,1954). 神保小虎は,1906 年樺太に渡航し,地質調査を行うとともに南樺太の地史を総括した(神保 , 1906) .南樺太の地質区分は,甲)結晶片岩類,乙)古生層,丙)白亜系アンモン介層,丁)第三紀 諸層,戌)海成段階及び低地の諸沈殿物,巳)古火成岩,庚)火山岩,に分けられた.彼は,古生層 を「化石見へず」と注記し,「北海道の古生層の如く、硅岩、輝綠凝灰岩、砂岩、粘板岩、石灰岩及 び凝灰岩中の石灰レンズあり(中略)シレトコ(重藏岬)地方の白色の大理石は恐らく、同地方の花 崗岩の接觸に因りて變成したる古生層中の物あらんか」と書いている. 大村一蔵はこの流れに沿って小藤・横山・神保の三教授の指導の下に樺太の知床半島の調査を 行ったものと推測される.先にも述べたが大村の調査目的は樺太の知床半島に分布する古生層の調 査であった.しかし現在では,Kimura et al.(1992)の“Fig. 1. Geological outline of southern Sakhalin”の B 図を見ると , 樺太の知床半島には広く Cretaceous accretionary complex が分布し, 半島の先端部に Tertiary granites が,また部分的に Tertiary 並びに Quaternary sediments が分 布しており,古生層は見あたらない.従って大村は,その多大な努力にもかかわらず,Paleozoic System のところで,冒頭に「古生代のものか?本土の何処と比較したらよいのか?」との疑問を提 示せざるを得なかったのである. 大村が見つけた放散虫化石は中生代型である.Fig. 3 に示した大村の PL. IX, Fig. I の拡大偏光顕微 鏡写真の放散虫化石の外形と表面の模様から推定すると Milifusus dianae minor BAUMGARTNER (Baumgrtner et al., 1995, Plate 3286, p. 315) に 良 く 似 て い る. こ の 種 の 産 出 時 期 は Unitary Associations Zones(UAZones)– 9–20, mid-late Oxf. to late Haut.(p. 314)とされている.つまり 後期ジュラ紀のオックスフォーディアン中後期から白亜紀前期のオーテリビアン後期である.もしこ れが,Milifusus dianae dianae(KARRER)(同 Plate 3274, p. 313)であれば UAZones – 7–12 で産 出期間は殆どジュラ紀で白亜紀は極初期となる.従って大村が扱った放散虫化石は産出時期を中期ジュ ラ紀から前期白亜紀のもと判断するのが妥当であろう.本文で大村が放散虫化石名を調べるのに参照 したという文献“Rüst’s Radiolarien”はその放散虫化石名から推測すれば,Rüst(1885)である. なお,大村はこの卒論以外に樺太の地質について報文を書いていないようであるが,その後石油会 社に勤務した大村は,精密な地質調査の結果に基づく,日本の油田地帯の地質についての論文を幾つ か発表し,石油地質学の第一人者となった(小松,2007). まとめ 20 世紀初頭の東京大学地質学科卒業論文の調査を行ったところ大村一蔵 Omura(1910)“Report on the Geology of Shiretoko, Sakhalin”に放散虫化石のスケッチが載っていることが分かったので, その紹介をした.大村は、樺太南東部の知床半島の地質調査を,古生代系の地質学的位置を明らかに — 31 — し,それを本土のものと比較するために行った.そこで放散虫岩(Radiolarite)を見つけその偏光顕 微鏡写真と化石のスケッチを遺した.調査では有効な化石を見つけられず地質時代の決定は難しく, 北海道の古生代系を参考にした.そのため放散虫化石の地質年代も古生代のものとされた.しかし, 現在では樺太の知床半島には広く白亜紀の付加帯が分布していることが知られている(Kimura et al., 1992).大村が採集した放散虫化石は中生代型であり,ジュラ紀中期から白亜紀前期のものである. 謝 辞 諏訪兼位先生,水谷伸治郎先生,並びに足立守先生にはいつもながら激励をいただいた.岐阜大学 の小嶋智先生にはサハリン島の地質について文献の紹介をしていただいた.東京大学地球惑星学科専 攻図書室の陶山和子さん,土井千種さんには保存図書室閲覧時に大変お世話になった.また名古屋大 学理学部図書室利用に当たっては名古屋大学博物館館長吉田英一先生並びに図書室職員の方々にお世 話になった.これらの方々に心から感謝します. 引用文献 Baumgartner, P. O., O’Dogherty, L., Gorican, S., Urquhart, E., Pillevuit, A. and De Wever, P. (eds.) (1995) Middle Jurassic to Lower Cretaceous Radiolaria of Tethys: Occurrences, Systematics, Biochronology. Memoires de Geologie (Lausanne), no. 23, 1172 pp. 神保小虎(1906)南カラフト地史の通觀(神保觀察の區域).地質学雑誌 ,13, 322– 326. 川崎繁太郎編(1907)樺太鑛産調査槪報.樺太民政署,147pp. Kikuchi, Y. (1883) Report on the Geology of the Province Awa in Shikoku. Dissertation Thesis of the University of Tokyo. Kimura, G., Rodzdestvenskiy, V. S., Okumura, K., Melinikov, O. and Okamura, M. (1992) Mode of mixture of oceanic fragments and terrigenous trench fill in an accretionary complex: example from southern Sakhalin. Tectonophysics, 202, 361– 374. 小松直幹(2007)大村一蔵:青年とスポーツと地質学を愛した豪傑.地球科学 ,61, 321– 327. Kono, Y. (1908) General Geology of the North Western Part of Musasi. Dissertation Thesis of the University of Tokyo. 原暉之編(2011)日露戦争とサハリン島.北海道大学出版会,414pp. Miura, S. (1884) A Brief Report on the Geology of Eastern Tosa. Dissertation Thesis of the University of Tokyo. 永井ひろ美(1995)美濃帯における中生界の放散虫生層序学的研究の歴史とその意義.名古屋大学古川総合研究資 料館報告 ,特別号,no. 4, 1– 89. 永井ひろ美・白木敬一(2010)菊池安による本邦初の放散虫化石の記載.名古屋大学博物館報告 ,no. 26, 103–118. 永井ひろ美・白木敬一(2011)三浦宗次郎(1884)による放散虫珪岩の記載.名古屋大学博物館報告 ,no. 27, 1–11. 永井ひろ美・白木敬一(2012)吉田弟彦(1900)に見る放散虫化石.名古屋大学博物館報告 ,no. 28, 89– 94. Omura, I. (1910) Report on the Geology of Shiretoko, Sakhalin and Brief Description of Crystalline Schist of Sakhalin. Dissertation Thesis of the University of Tokyo. Rüst, D. (1885) Beiträge zur Kenntnis der fossilen Radiolarien aus Gesteinen des Jura. Palaeontographica, 31, 1– 67 (272 – 321). 山根新次・三土知芳(1954)わが国の地質調査事業の沿革.地学雑誌 ,63, 151–165. Yoshida, O. (1900) Report on Geology of the Southern Part of Higo. Dissertation Thesis of the University of Tokyo. (2013 年 10 月 15 日受付) — 32 — 名古屋大学博物館報告 Bull. Nagoya Univ. Museum No. 29, 33–52, 2013 放散虫化石の研究史からみた美濃帯の地質 The Mino Terrane in the Japanese Islands viewed from the radiolarian biostratigraphy 水谷伸治郎(MIZUTANI Shinjiro) 〒 465-0086 名古屋市名東区代万町 2 - 21 2-21,Daiman-cho, Meito-ku, Nagoya City, Aichi, 465-0086, JAPAN Abstract This paper describes the outline of study of the Mino Terrane, central Japan, principally from the radiolarian biostratigraphic viewpoint. Activiites of the cooperative researches related to my study such as IGCP-115 (the siliceous deposits of the circum-Pacific region), IGCP-171 (the circum-Pacific Jurassic), IGCP-224 (Pre-Cretaceous terranes of Japan), Circum Pacific Terrane Conferences, are also reported. After the plate tectonic discussions on the orogenic belts were presented, we were going to discuss the Alaskan geology. I have met Prof. Pessagno in 1967 at the special meeting of IGCP-114 held at Menlo Park, California, and he taught me the fundamental knowledge and techniques on radiolarian paleontoloty at University of Texas at Dallas in 1968. After leaving USA, I started the extensive study of Radiolaria with my colleagues at Nagoya. The first paper reporting the finding of Jurassic radiolarians in the so-called “Paleozoic” areas in central Japan was described by a student (M. Sakai) in 1979. The results of these studies in the Mino area was orally reported to Prof. Emeritus Teiichi Kobayashi, who strongly recommended me to write the result and to publish it on the Proceedings of the Japan Academy (Mizutani et al., 1981a). Jones et al. (1977; 1980) and Coney et al. (1980) pointed out the importance of the tectonostratigraphic terrane as exemplified in the geology of West Canada and Alaska. The Wrangellia terrane, the Chulitna terrane, and the Angayuchan terrane are the examples of the terrane in west North America. We have a special meeting in Japan called the Oji Seminar in 1981 as an activity of DELP (Dynamics and Evolution of Lithosphere Project), where we organized the Circum-Pacific Terrane Conference, which was held thereafter at Sydney in Austraia, and at Nanjing in China, and so on. In Japan, IGCP-224 organized by Prof. K. Ichikawa to restudy the geology of the Japanese Islands based on the radiolarian biostratigraphy, and we published the report entitled the PreCretaceous terranes of Japan. As for the Japanese Islands, Miyashiro (1967) published his idea on the geology of the Japanese Islands based on various aspects of earth sciences such as i) the fundamental knowledge of metamorphic petrology, ii) the thermodynamic of Al2SiO3 (sillimanite, alulsite and cyanite), iii) classification of metamorphic facies and facies-series, iv) finding two contrasting metamorphism of high-T/low-P and low-T/high-P ones, v) combining the data of deep seismic zone under the Japanese Islands, vi) distribution of Cenozoic volcanoes, vii) geophysical data of whole Japanses Islands, and viii) topological properties of islands and trenches and trough, collaborated with Sugimura and Uyeda, which were really a beautifully summarized to understand the geological — 33 — history of our islands. On the other hand, the concept of Heterogen, or the heterogeneous aggregate of the craton and orogenic belts in East Asia, of Kobayashi (1953, 1957) has been approved by the Asian geologists, which may be treated from the collage-tectonic point of view. Outline of history of the study on the Japanese Islands suggests the new and global trend to understand their geological history. As was discussed at the DELP meeting in Japan, the studies of geolgic age determination have been stressed to be much more promoted for all the earth scientists, and they gave us additional data for the study of the intra- and inter-terrane relation. As was treated on the basis of the biostratigraphy of the geologic history, we can extend our discussion to the geohistory on the basis of the choronostratigraphy even if there are plutonic and metamorphic rocks and Precambrian rocks. It will be discussed on the basis of the P-T-t-path of the old terranes in the Japanese Islands. The complexity of mélange terrane, or ophiolite terrane will be disucussed in detail by biostratigraphically and choronostratigraphically. In this report I describe the short history of academic exchange program between Nagoya Universiy of Japan and Nanjing University of China, which have been performed under the leadership of the governmental policy of China and also under program of circum-Pacific terrane project. In fact, the geology of the Nadanhata terrane in the Heilongjian Province in northeast Chinaa has many traits in common with the Mino Terrane in Japan. I published a paper in Nagoya Journal of Philosophy (Mizutani, 2013) on the revolution of science, and I reviewed the paper here, too. Brief history of our studies of the radiolarians in the Mino terrne and in Japan is described here on a basis of many reports published in these fifty years. まえがき 先般,私は雑文を書いた.それは,Nagoya Journal of Philosophy という雑誌に掲載していただけ ることになっている.そのために,私は沢山の哲学の参考書を読んだ.巷によく知られているのは, Kuhn(1966),あるいは,その邦訳(クーン:中山 訳,1971)であろう.この本,とくに,原書 は,私が意識して探したがなかなか手に入らなかった.たまたま,機会があって,カリフォルニアに でかけ,University of California at Berkeley に行ったとき,学生会館の書籍部で見つけて,購入し た.それは第 3 版であった.たかが 200 頁余の本であるから,すぐに読めると思ったら,大間違い. 私には,邦訳を横においてそれを見ながら読んでも,“パラダイム”について,その内容を十分に理 解することはできなかった. しかし,地球科学を専門にしている関係で,Stewart(1990)と LeGrand(1988)は何とか読ん だ.この2冊の書は,同じテーマで,20 世紀後半に起こった大きな学問的変化について解説してい る.そのタイトルを並べて記してみよう. LeGrand, H. E.(1988)Drifting Continents and Shifting Theories. Stewart, J. A.(1990)Drifting Continents & Colliding Paradigms. これらの著者は,それぞれ独立に自分の作品を執筆し,彼らが語るところによると,LeGrand の 原稿が先にできあがっていたという.後者は,その原稿を同じ書店に持ち込んで,二人の原稿につい て,その経緯を知った.結局,前者はイギリスで,後者はアメリカで出版された.これらの題名から 明らかなように,彼らは地球科学の近代史を詳しく書き,当時,なお現役として研究活動を続けてい る人たちからも意見を聞き,もちろん,主要な原書論文には目を通して,作品をまとめている.私 は,これらの著書に加えて,Giere(1988)の解説も読んだ.Giere(1988)は科学一般のなかで, とくに,地球科学,つまり,プレート・テクトニクスについて解説したもので,我々が読むと,むし — 34 — ろ物足りないくらいである.LeGrand は,メルボルン大学の科学史の教授である.私は彼が住むメ ルボルンにでかけたとき,手紙を書いておいて,彼に会った.以前から,私は彼とは文通をしていた から,彼はすぐに返事をくれて,会う約束をしてくれた.いつもそうするように,私は彼にその名前 の発音を訊ねた.彼は,米国で育ち,長い間,化学史を勉強していたという.Lavoisier の時代にと くに興味をもっていたらしい.米国で育ったこともあって,彼の名は,「ルグランド」と発音すると 教えてくれた.私がいつも,彼のことをルグランドと言うと,語学のできない奴はかわいそうだなと いう顔をして,フランス系だから,「ルグラン」だろうと,教えてくれる親切な人も少なくない.そ れを聞くたびに,私は,彼との交際の長い歴史を語るのであった(水谷,1997). その経緯などを上記の作品(水谷,2013)に書いておいた.なお,彼は私との交流の記録として, 私を始め多くの日本人が放散虫の研究をしているという歴史を LeGrand and Glen(1993)に書き残 しておいてくれた.共著の相手,Glen はアメリカの地質調査所にいて,放散虫の研究をすすめた古 生物学者,David L. Jones との緊密な交流があったと思われる.その Glen 自身も,この学問の動き に大きな関心があり,とくに,岩石磁気学のプレート・テクトニクスへの貢献についての作品(Glen, 1982)は,直接関係者に会い,また,測定機器を検討したりして,1960 年代の研究者同志のめまぐ るしいつば競り合いを生々しく活写している.Glen は,Berkeley や Stanford の大学研究室,そし て,Menlo Park の Geological Survey の地質学者の間を走り回って,その頃の日進月歩の研究の発 展過程を追っている. このように,私は,LeGrand(1988),Stewart(1990),Glen(1982)を読んだが,これらの 本にはそれぞれ特徴がある.それに対して,Hallam(1973)はどちらかといえば,簡潔にこの学 問の歴史を次のような題名をつけて書いた.すなわち,“A Revolution in the Earth Scienes from Continental Drift to Plate Tectonics”であり,彼の本はわずか 127 頁である.しかし,これだけあ れば基礎的な知識をもつ学生なら,十分,プレート・テクトニクスの成り立ちを知ることができると 思われる. これらに加えて,私は,プレート・テクトニクスに関する多数の原著論文を読んでいる.しかし, 今回は,さらに,哲学の書籍を読まねばならなかった.その中でも,特に私が力を入れて読んだの は,Laudan(1977)と Hoyningen-Huene(1993)であった.これらの書籍を原語でよむことは大 変なエネルギーが要る.私は,LeGrand と哲学の話を,いわゆる英会話で進めたが,それができた のは,私が前もって彼の著書を読み,その一部について,私が質問を用意しておいたからできたので あって,直接,哲学的な問題を議論することはとてもできない.しかし,私は,とくに HoyningenHuene(1993)を懸命に読んだ.この本がどのように書かれたかだけを,ここで簡単に,紹介してお こう. T. S. Kuhn の本が出版されたときは,世界は大変に驚いたらしい.欧州でも,そうであった.な かでも,ヘーゲル哲学の伝統をひくドイツではかなり騒がれたらしい.まずはそのドイツ語訳の出版 が考えられた.すなわち,“Die Wissenschaftsphilosophie Thomas S. Kuhns : Rekonstruktion und Grundlagenprobleme” (translated by Alexander T. Levine with a foreword by Thomas S. Kuhn) である.そのドイツ語版をさらに Hoyningen-Huene が英訳し,そして,英語版として出版した.つ まり,私は,この書を通して,ドイツ人の思想を英語で読み知ることができるのである,とそう思っ た.原著者の Kuhn はこの書,Hoyningen-Huene の原著である Levine 版に対して FOREWORD を 英語で寄せている.それを詳しく読むと,Kuhn はその英語解説文中に,何度も,“gestalt switch” という語を使っている.“like the duck-rabbit”とわざわざ書いているので,私には,原著者が皮肉 — 35 — を言っていると思えてならない.彼は,実は“似て非なるもの”と言いたくて仕方がなかったのでは なかろうか.Hoyningen-Huene(1993)を開いて,逐語訳的に内容を追ってゆくと,この書は,T. S. Kuhn(原著)⇒ A. T. Levine(独訳本)⇒ Hoyningen-Huene という対応がなされて世に出たの ではない,ということがわかる.実は,この中には,Kuhn の著作に関して,ドイツ人が批判的に書 いた多くのドイツ語の哲学書や哲学論文が引用され,それを紹介しながら,書かれているのである. 哲学者なら,そのあたりの事情に詳しく,それらの哲学書や哲学論文を原文,つまり,ドイツ語で読 んでいて,全体を客観的に楽しみながら,読むことができるであろう.しかし,私にはそれができな い.仮に,物理的にそれらの資料が手元にあっても,私には,とても,彼らの考えをドイツ語で読 み,理解する力はない.だから,私は,Hoyningen-Huene(1993)と Khun(1966)と中山 茂訳の 3 冊を並べて,それらを平等に読みながら,内容の理解に努めた,・・・ということを水谷(2013) に書いた.それはとてもシンドイ作業であった.そして,世の多くの人はさも理解したような顔をし ながら,「パラダイムの転換だ」とか,「パラダイムを変えるべきだ」,と言ったような書き方をして いるのを私は不思議に感じている.これらの著作の蔭で T.S. Kuhn 氏が皮肉で失笑しながら,我々を 眺めているような気がしてならない.つまり,私は,本当に“科学革命の構造”を理解したとはとて も語る自信はない.むしろ,都城(1998)に述べられている Kuhn の解説を読みながら,自分で考え るほうが理解は早く,また,正確な気がしている. 以上が,先般,私が書いた作品の底流に流れている考えである.そのほか,Laudan(1977)に大 きく影響を受けた.その相互の類似関係から,私は LeGrand(1966)は Laudan 派であり,Stewart (1990)は Kuhn 派であると,感じている.これだけの前置きを記しておいて,今回のこの小論に入 ることにしよう. 学生時代から研究者へ 私は,昭和 25 年(1950) ,名古屋大学理学部に入った.教養部で地学の授業が始まったのは,東 大から名大に赴任された石岡孝吉先生が来られた 1 年生の後期からであった.地質巡検と講義と実験 が行われた.石岡先生の講義を聴いて,私は,大変な興味を覚えて,学部へ行ったら地球科学科へ進 もうと決心した.石岡先生の講義は,地質学史の話もあったし,宇宙の話から近代物理学の挿話など にも触れられていた.そして,何よりも,生まれて始めて使った「偏光顕微鏡」を通して知った美し い多色の画像に魅せられてしまったのであった.地質学という学問は,石岡先生の講義を受けて,始 めて知った.だから,私にはとても新鮮な刺激であった.石岡先生は,黒部で,日本で最初に“十字 石”片岩を発見された研究者であり,名実ともに満ち足りた輝かしい毎日を送っておられた. 教養部から東山の理学部へ進んだとき,これからは本当に勉強しなければならない,と感じた.し かし,地球科学教室はできたばかりであって,松澤先生と小穴先生のお二人の教授がおられて,構造 地質学と地球化学を教わった.そして,いくつかの講義を聴き,また,実験や実習を体験するうち に,私は当時,助教授でおられた木村敏雄先生が講義で担当されていた“堆積地質学”を専門に研究 していこうと感ずるようになった.できたばかりの地球科学教室でも,新着雑誌は,図書室には届い ていた.それらの中で,もっとも理解しやすい分野がこの堆積地質学でもあった.しかも,その頃, 世界で大流行になっていたのが堆積地質学であった.なかでも,オランダの研究者,P. H. Kuenen が 言い出した“turbidity current”の研究(Kuenen and Migliorini, 1950)は世界の注目を浴びてい た.その頃,多くの現象がすべてこの“turbidity current”と関係づけて論じられていた.つまり, 長い間,謎であった堆積作用とその産物は,turbidity current によって説明されつつあった.結果と — 36 — して,その産物である“砂岩”の研究も世界で同時に進んでいた.私もその流れに乗って,砂岩の研 究を始めた(Mizutani, 1957).しかし,私の興味は他の堆積岩に移っていった.それは,次のよう な考えからであった.砂粒は現在,ほとんどの環境に砂として存在する.しかし,古い地質時代のも のはすべて固くなって,砂岩になっている.一方,例えば,岐阜の山地には,チャートと呼ばれる岩 石が豊富に出る.ところが,その岩石が固くなる以前には,どのようなものであったかが当時はまる でわからなかった.つまり,チャートの成因を調べるために必要な研究をしてみたいと考えるように なった.それについては,私の先生である Kimura(1954)は,珪質頁岩とチャートの観察に基づい て,極めて優れた推論をされていた.それを私は丹念に読んでみて,自分がやりたい計画を考えた. そして,熱水実験を試みることにした.こうして,私は,シリカ鉱物と珪質堆積岩についての専門家 になった(Mizutani, 1966, 1967, 1970; 水谷,1976) . よく知られているように,地殻でもマントルでも,SiO2 の量はもっとも多い.また,岩石として も,チャートや珪質頁岩などは,普通に見られる岩石である.にもかかわらず,当時,まだ,その 成因について定説はなかった.多くの研究者がそれについて関心をもっていた.幸いにも,私は,こ の問題を抱え,自分の三部作をもって,アメリカへ出かけることにした.その頃,国際的な研究組織 が組まれていた.それは International Geological Correlation Program,(略して IGCP)と呼ばれ ていた.その組織の一つである IGCP 115 は“Siliceous deposits in the Pacific region”と名付けら れ,主に,アメリカと日本の研究者がそれに参加していた.アメリカで開催された会合で,私は,偶 然に,University of Texas at Dallas(以下,略して,UTD)の Prof. Pessagno に会った.そして, 彼が示した放散虫化石のすばらしい走査型電子顕微鏡の写真に驚いた.彼の名前を私は知らなかった が,しかし,私は,彼にすぐ北米に滞在中に UTD に出かけるから,是非,この化石について教えて 欲しいと,頼みこんだ.1976 年春のことであった. その後,私は,UTD へ出かけ,そこで,懇切丁寧な個人指導を受けた.Prof. Pessagno による特 別講義であった.こうして私は放散虫研究者になった.帰国してから,すぐに,必要な電子顕微鏡 を購入した.幸運にも,私は安価な(しかし,この微化石の研究にとっては十分な拡大率をもってい る)小型の走査型電子顕微鏡(SEM)JSM-T20 を手に入れることができた.そして,学生や院生た ちと一緒に化石の収集と分離,観察に飛び回ったのであった.それ以前から,私は,珪質岩類につい ては多くの薄片を収集していたし,また,放散虫化石を含んだチャートやマンガン・ノジュールも 持っていた.学生実験では,堆積岩の顕微鏡観察を教え,成因について解説していた.そのころの “古生層”のどこに行けば,含放散虫チャートや珪質頁岩があるかも知っていた.そして,最初の成 果,ジュラ紀放散虫の発見は,4 年生学生の酒井正男君によってなされた.酒井正男君によるジュラ 紀放散虫の発見の経緯はいろいろな機会に詳しく書いておいた(水谷ほか,1998). 私たちの最も重要な論文は,当時,小林貞一先生の助言に従って,学士院記事に投稿し,出版さ れた(Mizutani et al., 1981a).同時に,私は,当時,地質調査所に居た柴田 賢氏にお願いして, 馬瀬川の珪質頁岩の放射年代を測ってもらった(Shibata and Mizutani, 1980).私の仕事(水谷, 1981)ばかりでなく,研究室の連中も次々と報告を出していった.もちろん,国際誌として,IGCP 115 の報告書にも提出して,印刷公表された(Mizutani and Shibata, 1983). 私たちは外国の研究者を日本に招く計画を立て,IGCP 115 を我が国で開催した.その時(Aug. 2127, 1981),私は,友人と共に,野外巡検の案内役をかって出た(Mizutani et al., 1981b).野外の事 実を前にして,議論することは極めて重要である.それには,会話力がなければできないし,もちろ ん,知識と体験がないとうまくゆかない.幸いに,私は,日本の友人に助けられ,多くの外国の友人 — 37 — に囲まれて楽しく,この野外巡検を終わることができた. 私の場合,たまたま UTD で Prof. Pessagno の教えを請うたことがきっかけであったが,世界の他 の地域,日本や欧州でも,同じころに,大規模な研究グループの組織化と発展があった.それらにつ いては,すでに述べた(水谷,2013)が,いずれも,地質学的な,とくに,地域地質の新発見として 価値ある貢献をしていた.それが短い期間に,突然,起こったこと,そして,年齢の若い研究者が中 心となっていることを重視して,それを“革命”と呼ぶことも許されるかもしれない(石垣・八尾, 1982).しかし,私は,“短い期間に,突然,”と考えるか否かは,研究者によって,必ずしも同じで はない,という研究例を述べながら,それを“革命”と呼ぶことには賛成できないと論じた(水谷, 2013) . これまで述べてきたように,私はシリカ鉱物の研究論文を抱えて,この IGCP 115 に加わってき た.この研究班にかぎらず,その他の研究テーマもいろいろあって,放散虫の研究から,新しい事実 が沢山見つかったという結果を中心課題にして,私は活発に他の研究者と交際するようになった. IGCP 171 もその一つである.このグループは,日本の佐藤 正先生とカナダの McMaster Univ. の Westermann が中心になって呼びかけた“Circum-Pacific Jurassic”と呼称されている研究グループ であった.また,後に生まれた IGCP 224 とされるグループもある.ここでその組織の枠組みを概説 しておこう. 世界の関係者の集まりである大きな組織 IUGS = International Union of Geological Sciences 国際 地質科学連合がある.地質学に関する国際的な問題を整理・処理するために,活躍している.一方, UNESCO がさらに大きな分野にわたって発言権をもっている.これら両者が連絡をとりながら,そ の下部組織として,IGCP Board Member があり,そこへ特定の研究者から新しい IGCP の提案が行 われる.そこで,その提案が適当であると認められると,わずかであるが,研究費が支給される.そ して,一般に,その Grant を seed-money として,研究費を集めることになる.グループが大きけれ ば,研究活動は活発になるが,しかし,それを運営するのに手間がかかる.国際的であればあるほど 計画・連絡・実施・報告には大変になるであろう.すでに述べた IGCP 115 では我が国の世話役とし て,東大の飯島 東教授が活躍された.また,次に述べる IGCP 224 では,大阪市立大の市川浩一郎 教授が世話役の責任をもって活躍された. アメリカの学会(Geological Society of America)には,資産家 Penrose の基金をもとにして運 営し,研究会の会合に助成金をだしている“Penrrose Conference”がある.まず,小グループで, Penrose Conference を計画し,さらに,IGCP へと発展してゆく例もある.一方,日本では,文部 省から支給される科学研究費の配分に関して,とくに,国際的な総合研究のような性格をもつ研究グ ループには,会議を開いて検討し,特別枠が与えられることもある.後に述べる DELP =Dynamics and Evolution of the Lithosphere Project:国際リソスフェア探査開発計画,がその一例である. 研究計画は,日進月歩である.また,組織としても,あるいは,研究対象としても,さらに,若い 研究者の育成のためにも,国際的なスケールで行われることが多い.とくに,最近では,学問の進歩 とともに研究活動は文字通り global になりつつある.そして,上述の研究グループとその活動は,研 究自体にその発展の要素があり,また,場合によっては,国際的になる必然性もあった.しかし,国 際的な交流がすべてそのような経過を経て進展してゆくものではない.その一つとして,中国,とく に,南京大学と名古屋大学との交流を例にして,その経緯を述べることにしよう.その前に,とくに 東亜の研究で著名な小林貞一先生のことを記しておかねばならない. — 38 — 小林貞一先生への報告 私たちの研究室で明らかになりつつあった新しい化石による事実を,私は,まず古生物学会で, Mizutani, Okamura and Shibata(1979)の連名で講演した.そこでは関心が薄いかったためか, また,私自身が古生物学会で発表したことがなかったためか,出席者の中から特別の質問は無かっ た.問題はかなり大きなものであることから,私は,1981 年 4 月,東京で地質学会があったとき, その内容を小林貞一先生にお話し,聴いてもらいたいと考えていた.彼は,すでに戦前から弟子と一 緒に,放散虫化石の研究を始めていた(Kobayashi and Kimura, 1944).また,犬山で発見されたア ンモナイト(Perisphinctes sp.)の化石について,極めて強い関心を持っておられた.私は,学会で 会った浜田隆士さんに,小林先生の自宅の地図を書いていただき,電話しておいて,出かけた.Sato (1996)によって詳しく紹介されているように,小林先生は,大へんな知識の持ち主であり,古生 物学会や地質学会の重鎮であった.でも,私が訪問したときは,やさしくお宅に招き入れてくださっ た.私は,地質学の泰斗という印象を感じながら,最近の事実であるがと前置きして,美濃帯での ジュラ紀放散虫化石の発見と分布について話をした.先生は,じっと耳を傾けて聴いておられた.地 理的な説明は必要なかった.また,時代論についての議論も不要であった.一般の人に解説する前置 きに関する部分はすべて省き,すぐ,詳しい研究の本論と事実の説明に入った. 私が説明を終わると,それまで,ただ黙って聴いておられた先生は,この結果をすぐに学士院記事 に書いて出すようにと強く勧められた.そして,投稿規定や投稿の方法などを具体的に教えてくだ さった. それが終わってから,私は,先生のお話を聴いた.それは,わかりやすく言えば,地質学の歴史の 話であった.彼が若いときから,最近までの地質学の発展や流れについて,私がわかるように,話し てくださった.私は,院生の時代に,松澤 勲先生から「東亜の先カンブリア系について」という題の 勉強をするようにと,言われていて,多くの文献を読んでいた.とくに,小林先生が若い時に研究さ れた“Ozarkian 問題”などについて知っていたから,心から尊敬していた.最近の岩波講座・地球 科学のことも話題になり,その昔刊行された最初の岩波講座・地質学古生物学の思い出も話してくだ さった.おまけに,その時,私に,秋吉の小澤儀明さんの研究結果について,私に次のように質問さ れた.「フズリナの進化と地層の逆転とを同時に説明することは論理的に正しいか?」と.私はその 質問の内容をすぐ理解した.そして,その論理の緻密なことに感心した. 先生宅から辞するときには,私は,小林先生にはかなりのことを話しても理解していただけると確 信を持つようになっていた.少なくとも,私たちの放散虫化石に関する成果については,十二分に理 解していただいたと確信を持って名古屋へ帰ったのであった.このような経過を経て,私たちの研究 結果は学士院記事として,出版された(Mizutani et al., 1981a).小林貞一先生に謝辞が述べてある こともあって,とくに日本の研究者からはよく引用された作品であるが,私個人にとっては,忘れら れない思い出の論文となった. 私の研究について,中国との関係に移る前に,ここで作品の一つ,水谷(1982)について記してお かねばならない.私たちは,美濃帯の各地で,保存のよい放散虫化石をみつけ,次々と新しい事実を 発見して,その報告をまとめて発表していた.同じような事実,あるいは,似たような産状が日本列 島の各地で,次々と明らかになりつつあった.簡潔に言えば,①いわゆる秩父古生層の分布地域の中 から,ジュラ紀の年代を示す放散虫化石がみつかっていったこと,そして,②それまで,化石がない とされていた四万十帯から,ジュラ紀―白亜紀の化石がみつかっていったことであった.①も②も放 散虫化石の SEM 写真と詳しい地図とを添えた論文であった.考えなければならない問題は,そのよ — 39 — うな多量な新しい事実は,何を我々に物語っているか,という点に関してであった.私は,微化石の 研究と並行して,その問題を絞って,勉強を続けていた. 私がそのような本質的な問題について筆をとったのは,水谷(1982)がはじめてであった.この作 品は,市川浩一郎先生がわざわざ名古屋までこられて,私に執筆を依頼されたものであり,私として は,とても断りきれなくなって,まとめたものであった.それは,その頃動きだしていた DELP の 活動の一端として,上田誠也先生が音頭をとられて苫小牧で開かれる“王子セミナー”(Hashimoto and Uyeda, 1983)で発表しようと考えていた内容(Mizutani and Hattori, 1983)であった.それ は日本列島の地史をどう考えるかということであり,単なる地方地質誌の書き換えとは違う問題で あった.それは“terrane”の問題であった. すでにアメリカでは,David L. Jones たちが中心になって,Penrose Conference でこの問題を 議論し始めていた(Beck et al., 1980).その人たちが王子セミナーに参加して,我々と一緒に,こ の問題に絞って議論を始めた.同時に,この問題の大きさや深さを考えて,以降 ,“Circum-Pacific Terreane Conference”(以下,CP-Terrane Conf.)を開いて行こうということになっていた.これら の経緯などについては,私は水谷(1988)で詳しく紹介した. 南京大学との交流 その頃,隣国の中華人民共和国は,紅衛兵を中心にして,大きな内部紛争をおこしていた.それに 対して,不安を感ずる人も,また,逆に,それを支持する人もいて,要するに我々には,具体的な事 情はよくわからなかった.その文化大革命の嵐が過ぎ去り,政権がおちついて鄧小平の時代になり, 中国では,開放政策が行われるようになった.大学においても同じであった.あとからわかったこと であったが,北京大学は日本の東大と,西安大学は日本の古都にある京大と,そして,中央に位置す る南京大学は名古屋大学と積極的に関係をもち,交流をすること,といったような指令が中国の文部 省に相当する教育部から発せられたらしい. 南京大では,当時,学長であった郭 令智教授の代理として,1982 年,まず,施 央申教授が来 日した.そして,大学の意向を打診しておいて,翌年,郭学長が名大を訪問された.時の名大学長飯 島宗一教授と直接面談された.その記録は,学内のニュースとして,各部局に伝達され,報じられ た.私が,極めて幸運であったのは,郭学長と私とがその専門が同じ,構造地質であったことだっ た.会談は順調に進み,南京大学は,私を指名して,集中講義をしてくれと依頼していった.私は, これまで述べたように,放散虫の研究で新しく明らかになった事実を抱えていた.さらに加えて, CP-Terrane Conf. の動きもあり,研究の展望をもっていたので,悦んで承諾した.その頃は,中国の 開放政策が始まった当初であったこともあって,帰国してすぐ私はその体験を書くように頼まれて, 朝日新聞に記事を書き送った(水谷,1983). その頃の中国の実情を,ここで,記しておこう.中国では,開放政策以前は,学術交流の相手は, 専らソ連であった.だから,彼らはロシア語を学び,モスクワの大学に留学した.当然であるが,そ こでは反アメリカの風潮が強く,ほとんどの学者は,すでに定着している地球科学の動きであるプ レート・テクトニクスに反対であったらしい.だから,そこで学んだ中国の学者も,反プレート・テ クトニクスであった.そのような動向は中国全般にわたっていた.かろうじて,一部の人が真剣にプ レート・テクトニクスのことを勉強しはじめていた.しかし,中国が欧米と交際をはじめ,南京大 学からも,カナダやアメリカへ若手の学者が留学するようになって,多くの人たちは,Dewey and Bird(1970)などを読み,プレート・テクトニクスを受け入れるようになっていた.それが南京大学 — 40 — では,自慢の一つであった. 私は,その事情を聴きながら,集中講義で何を話すか綿密に検討していた.例えば,私にとって は,大型電子計算機を使う仕事は,もう日常茶飯事になっていた.しかし,中国では,まだそのよう な研究環境にはなかった.これは若い学生や院生にとってはとても刺激的な話となった.地質学では どのような問題に計算機を使うのかに若者は大きな関心をもっていた.一方,CP-Terrane Conf. に は,南京大学から,中国の代表として,南京大学の施 央申教授が出ていた.私は,しかし,彼が本 当にこの議論の内容を理解しているかについて,疑問に思っていた.私は,集中講義の中で,これを 一つのテーマにすることに決めた.私たちは,1980 年夏,David L. Jones と一緒にアラスカに出か けていたし,また,問題の Chulitna terrane を遠望していた.この Chulitna Terrane については, その後,岩石化学的研究なども進められているが(Gilman et al., 2009),かつて Jones et al.(1977, 1980)が記載し,述べたような考えは本質的には変わっていない.南京大学の講義では,これらの 事実とそれに基づく考え,そして,国際的な動きを,分かりやすく説明した.もちろん,私は中国語 ができないので,講義は英語であった.それを中国語に訳してもらった.しかし,郭 令智教授は, かつてイギリスへ留学した経験もあって,私の英語をほとんど 100%理解されたようであった.そし て,それまで,彼が聴いていた CP-Terrane Conf. の報告とは違った印象を受けられたようであった. 私の話は,当然,自分の体験と業績が中心であったが,しかし,彼らからみると,私の集中講義は, 古生物学であり,岩石学であり,また,構造地質・テクトニクスであり,また,計算機科学であっ た.その内容の多様さに郭令智教授はすぐに気づかれたようだった.そして,その時まで,南京大学 地質系と呼ばれていた大学組織の名称を南京大学地球科学系と改められた. ただ,実際問題として,日本でも“terrane”という概念は理解が極めて困難な概念であった.私 はかなり詳細に,この語について解説したが,“terrain”なる語も実際に使われていた(例えば, Miyashiro, 1967)し,私自身もその語を使ったこともあった(Shibata et al., 1971).その後,詳 しく検討してみたところ,Lawson(1895)が最初に次のように,使っていることが分かった(p. 347) .“The northern area of the Franciscan terrane lies in the triangular section of the peninsula wihich is situated beweeen Merced vally, the Goldn Gate and the bay of San Francisco.”である. すでに述べたように(水谷,1988),今日,議論されているような意味でこの語を最初に使ったのは, Irwin(1972)であるが,英語圏の研究者には,あらためて“terrain”と“terrane”の区別を説明 する必要はないのであろう.最近の教科書,例えば,Frisch und Meschede(2011)では, “terrane” 〈ドイツ語では,“Terran”〉という章を設けて,解説しており,Johnson and Harley(2012)でも 実例を挙げて,“terrane”を説明している. 南京大学においても,この新しい考え方を受け入れる風潮が感じられた.同時に,私の講義を聴い た人たちは,この新しい交流によって,確かにそれまでにはない別の動きが世界で動き始めているこ とを知ったのであろう.私は,その後,当時,まだ副手であった若い研究者である張 慶龍氏を名古 屋大学で勉強するように引き受けることになった.彼は私の研究室で勉強をしていった.最後には, 私は彼に理学博士の学位を與えることになるが,その課題が,中国大陸の“テレーン解析”であった (張,1995) .彼は,名古屋大学での勉強を終えた後も,私たちと一緒に黒龍江省那丹哈達地域の現 地調査に参加した(Mizutani et al., 1986; 水谷ほか,1989; Mizutani et al., 1990) .張 慶龍氏は, その体験などを含めて,中国大陸の東部のテレーン解析をまとめたのであった. — 41 — IGCP 224 とその総括 八尾ほか(2001)が指摘しているように,わが国で本格的に放散虫化石の研究が隆盛になったの は,1979 年以降である.興味深いことに,O’Dogherty et al.(2009c)が類似の方法,すなわち, 公表された研究論文数の統計結果から,中生代の放散虫化石の研究は 1968 年ごろから急激に増えて いると述べている.彼らによると,1968 年から出版されるようになった DSDP(Deep Sea Drilling Project: 海洋底ボーリング)の報告の影響,さらに,微化石の観察に SEM(Scanning Electron Microscope: 走査型電子顕微鏡)が導入された 1970 年代からの動きが大きな要素になっているとい う. 学生のころ,地質学という学問についてほとんど何も知らなかった私には,その頃話題になってい る問題の大きさや重要性などはさっぱりわからなかった.その頃,名古屋大学で大きな話題になって いたのは,われわれの一年上の先輩が,野外調査の折に,たまたま知ることになったアンモナイトの 化石であった.小学校の少年が,愛知県犬山の山中で偶然,拾ったというアンモナイトが問題の化 石であり,九州大学の松本達郎先生にみていただいたところ,ジュラ紀の Perisphinctes であろうと いうことであった.この化石は,長い間,研究室に保管されていたが,後に,Sato(1974)によっ て,正式に検討され Coffatia(Subgrossouvria)sp. と記載された.Bathonian 後期から Oxfordian 前期にわたるものという.この化石の存在は,多くの地質学者を悩ませた.なぜなら,岐阜県下の 山岳地帯は,各地に点在する石灰岩から紡錘虫が見出されていて,ほとんどはペルム・石炭系と信 じられていたからであつた.私が書いた最初の論文-(Mizutani, 1957)は,その題名を“Permian sandstones in the Mugi area, Gifu Prefecture, Japan”というが,今,考えてみると,その題名から して,そもそも間違っている. その頃の地質学では,造山運動は,“地向斜”と呼ばれていた巨大な堆積地域に順次地層が堆積し ていって始まる,とする考えであった.その概念の具体例を私は,一つはアパラチア山脈で考えられ ていた例(Pirsson and Schuchert, 1920)と,もう一つは,日本列島で考えられていたモデル(小 林 , 1951)を用いて描いた(Mizutani and Kojima, 1992; Fig. 1 & Fig. 2).日本列島の場合,モデル はいうまでもなく,その堆積層全体の時代論においても極めて不完全なものであった. 1954 年,木曽川河畔を卒業研究で調査していた愛知学芸大学の井上さんは珪質頁岩に挟まれて産 出するマンガン・ノジュールを発見し,その中に極めて保存のよい放散虫化石を見出した(Inoue, 1955; 井上 , 1955).彼の指導教官,林 唯一先生は,東京文理大出身であったから,この事実を報告 (井上・林 , 1956)すると同時に,彼自身の先生,藤本治義教授に報告した.Fujimoto(1953)は三 波川変成岩や秩父帯から放散虫化石を見つけていて,次のように述べていた.“Radiolarian remains were discovered in certain parts of the crystalline schists of the Sambagawa. Judging from these Radiolarians, it is certain that the fossiliferous rocks are Mesozoic and possibly Jurassic in age. (p.273) ” . 井上さんの試料を見た藤本は , この放散虫化石はジュラ紀であろうと語ったと想像される. その頃,日本の基盤岩類についての知識や情報は,まだ,今日のように,確定的ではなかった.本 村敏雄先生が名大から東大に移られる前に,私は,この大山の放散虫化石については,注意を怠らな いようにと注意を受けていた.彼自身,すでに放散虫の研究をしていたのであった(Kimura, 1944; Kobayashi and Kimura, 1944).美濃地域の山地を歩いていた私は,もっぱら,珪質堆積岩の薄片 を観察し続けた.チャートは珪質の骨格をもつ化石が集まってできた,というのは実際には,単なる 説明にすぎないことが分かってきた.放散虫化石の骨格の真ん中には,明らかに cryptocrystalline chalcedonic quartz があるのによく見ると,骨格もわずかに残っているのが普通であった.珪酸から — 42 — なる骨格が溶けてシリカが供給されたとするならば,骨格は無くなっているはずだ.しかし,骨格の 構造が残っていることの方が多い.しかも,かなり細微にいたるまで,それが観察できる場合もあっ た.また,放散虫化石を含む岩石は,そのほかにも,粘土質物質を多量に含んでいることが多い.鏡 下で見る「チャート」の特徴は,その主成分であるシリカの起源と沈殿の過程が問題であることが 想像できた.加えて,世界の海洋で試みられていた深海底掘削計画(Deep Sse Drilling Project)で も「チャート」と呼べる岩石が見つかっていないことも問題であった.つまり,「チャート」の源は 見つかってはいない,ということも段々分かってきた.そして,私の興味は“チャート化作用”とい うよう過程に集中していった.そして,一連の実験的研究が始まった.私は,その結果(Mizutani, 1966, 1967, 1970; 水谷 , 1976)を論文としてまとめるのに忙しかった. その頃のわが国における古期岩類についての理解は,松本・勘米(1971)の編集になる“地向斜堆 積物の研究”と題する地質学論集第 6 号にまとめられていて,中・古生層に関する知識の概要がわか る.一方,日本列島の地史が外国人にどのように理解されていたかは,例えば,Schwan(1973)を 読むと,よくわかる.この地質論集が出た直後から,わが国の地史についての理解が大きく変わつて いった.この論集では,小池ほか(1970)が引用されている.また,その後,先カンブリア時代の岩 石を含む上麻生礫岩(Adachi, 1971)の発見で話題になる研究も登場し(足立・水谷,1971),さら に,緑色岩の地球化学的研究で注目を浴びる杉崎隆一・田中 剛なども彼らの仕事を寄稿している.事 実,Sugisaki et al.(1972)の論文が読まれ,さらに,Koike et al.(1971)や猪郷(1972)の生層 序学的検討が本格的になって,この分野の研究は急激に発展するようになった. 私は化石などには無関心の多くの人たちにも,これら放散虫化石の成果を伝える義務を痛感してい た.その頃 , 岩波の雑誌“科学”の編集部に直接連絡ができたので,論文を.“科学”に出そうと考 えて,私が筆をとって,中世古・水谷・八尾(1983)の連名で,紹介論文を書いた.この記事は, すぐさま反響を呼び,その内容の一部が地学の高校教科書にまで引用されるようになった(小川, 1986).それ以前のことであったが,小川勇二郎さんは,ある日,名古屋大学に来られた.ついでに, 私たちの SEM の実験室をご覧になった.そばの壁には,Classification of Radiolaria と題する畳一 帖ほどのパネルが掛かっていた.“MIZUTANI & OBASE May 16,1984”,と記されていた.小川さ んは,“これ,写真を撮っていいですか ?”と言われ,私が笑って,“どうぞ”というと,カメラを出 して撮影して帰られた.紳士的な方だなぁと,私は感銘を受けた記憶がある.おそらく当時,この種 の Systematic Classification を,試案とはいえ,図示して,多数の化石の図を一緒に並べて展示した ものはわが国では,少なかつたであろうと思っている.とにかく,高校地学の教科書に出たというこ とは,放散虫化石は,大学入試の試験問題に登場することにもなる.事実,その後,たびたび放散虫 化石は問題に出るようになった.そして,かつての紡錘虫などと同じように,放散虫化石は日本列島 の歴史を語る場合には,忘れてはならない重要な化石になったのであった. 放散虫化石の研究と総合研究 私は,中世古先生と相談して,総合研究を組むことにした.そして,中・古生層の研究者で,この 微化石に関心のある人たちを集めて,情報を交換しながら,研究を進めた.実際,研究を開始する と,費用がかなり要ることが分かる.それを,中世古先生は,いつも自分のお金で,補っておられた らしい.その“ありがた味”がわかってきていたので,私はこの総合研究で配布された金額を均等割 りにしないで,重点的に先生に多く分配した.それに対しては,誰一人文句をいう人はいなかった. 皆,そこにいたるまでの中世古先生の貢献がいかに大きなものであるかを知っていたからであろう. — 43 — この総研の成果は,水谷編(1984)として報告したが,この組織では,全体会議はすべて省略し た.私たちには,研究の目的や方法,相互の比較などと言って,集まって議論などしている暇も余力 もなかった.ただただ,ひたすら,珪質堆積岩を処理して,放散虫化石を分離し , それが何時の時代 の化石であるか,どこからにその岩石を採取したか,その周辺の地質はどのようになっているかを丁 寧に分かりやすく記載し , 化石の写真を掲載する作業 , つまり,論文を書くのに忙しかった.私とし ては,研究費も欲しかったが,むしろ,もっと,時間が欲しかった.だから,研究分担者の時間を無 駄に費やすことは止めた.時間を生み出して,分担者に余裕を与えることも,代表者の責務だと感じ ていた.型破りのこの総研は,この報告書自体が,主として Collected Papers の形式になっていた ことからもわかる.会議は一度も開かなかった.その代わり,研究分担者に配布した研究連絡誌と彼 らが執筆した別刷りを集めて仮製本した.この報告書自体は,出版直後,多くの人から,欲しいから 送ってくれないかと,請求された.その頃の日本の研究者たちは,この総研組織の運営やお金のわけ 方などにはあまり関心はなかった.大切なのは,その成果であった.私は,研究代表者として,特に 了解をとつたわけではないが,文部省に成果を報告するつもりなどあまり考えていなかった.われわ れの成果は,むしろ,わが国の中・古生層研究者の多くの人に知って欲しかった.さらに,研究代表 者としては,新しい事実を可及的速やかにまとめ,それを配布したかった. 国内の事情とは,まったく別に,国際共同研究も,平行して,動いていた.先に述べた IGCP l15 “Siliceous deposits in the Pacinc Region”がその一つであった.私が関係していたもう一つの国際 “CP-Terane Conf.”が各国,持ち回りで開かれていた.また,大阪市大の市 共同研究グループでは, 川浩一郎先生が代表を務めておられた IGCP 224 も活動していた.このグループは,1989 年,“PreJurassic Evolution of Eastem Continental Margin of Asia”と称していた.しかし,最後の総まと めにおいてはその名称を“Pre-Cretaceous Terranes”とした(Ichikawa et al., 1990).すなわち. Coney et al.(1980)が使った“terrane”という言葉がだんだん定着するようになってきたようで あった.ことに後者の二つの研究グループは,Coney et al.(1980)の論文に影響を受けて動き出し た新しい視座からの変動帯の検討であった.私自身も,Jones et al.(1977)や Coney et al.(1980) の論文を読み , 勉強していた. 私は,院生のとき,小林貞一先生の“Heterogen”という概念を知った.それを再び思い出して いた.Kobayashi(1953)は次のように書いている(p. 256),“The third element is the Chinese heterogen”, the geology of which is complicated by patches of solid massifs such as Ferghana, Tarimia, Tibetia, and so forth.(中略)As complicated above the third element is a heterogeneous aggregate of rigid massifs or minor kratons, plastic geosynclines, and the intemediate quasikratons or subgeosynclines. So name “Chinsese heterogen” in which the microkratons are fused by arcuate orogens convex either to the north or to the south.”(ここで,イタリック表示は, Kobayashi, 1953, による).私はこの説明文を掲げて,もう少し,水谷(1988)の中で詳しく書くべ きであったといささか悔いている.もう一度,記すと,Kobayashi の言う heterogen とは,水谷ほか (1998: p. 42, 図 4)が解説したいわゆる Collage Tectonics から見た中国大陸の地質構造であり,ま た , 地質構成の解釈だと考えてよいであろう. この“Terrane”と言う語については,注目すべき記述がある.韓国の Prof. Lee, S. M.(1989) は,IGCP 224 の中間報告において,“Precambrian Metamorphic Terranes”と記し,さらに,小林 貞一(1957)を引用して-,“Korea-Chinese Heterogen”という語をそのまま使用している.Lee, S. M. は,岩波講座 : 地球科学第 16 巻「世界の地質」(都城,1979)で,“コリア半島の地質とテクト — 44 — ニクス”を担当して,李 商萬の名で執筆しているが,そのことからもわかるように,日本でもその 名が知られている優れた地質学者であった(李,1979).上記の IGCP 224 の中間報告が出版された 時点で,彼は新しい動きについて十分理解していたように思われる.このような経過を経て,IGCP 224 の最後のまとめは.Ichikawa et al.(1990)によって,“Pre-Cretaceous Terranes of Japan”と 名づけられたのであった. プレート・テクトニクスから,世界各地の地質構造や地史を見直すとすると,我々はやはり放散虫 化石生層序学的立場にたって,複雑な構成を解きほぐし,あるいは,離れた地域の似たものを同定し ていくことができるであろう.その例として,私は中国大陸黒竜江省の那丹哈達(Nadanhada: 耳で 聞くと,ナタハタと聞こえる)地域の放散虫化石を調べた.それが極めて美濃帯のものと似ているこ とから,これら二つの terranes は かつては同じところに類似の発展過程をたどってできたものだと 考えた(Mizutani et al., 1986; Mizutani et al., 1990; 水谷ほか,1989).この考えは,国際会議でも 発表したが,幸い,同席した研究者の中には David Jones ら放散虫化石に詳しい研究者もいて,私の 考えていることは十分,分かってくれたようであった(Mizutani, 1987). その後,私は,日本福祉大学情報社会科学部へ移った.“「情報社会」を科学する”を目的としたこ の新学部がたいへん気に入っていた.そこには,私よりもはるかに専門的な知識と技術をもっておら れる先生がたが何人も居られた.中でも,磯貝芳徳教授は視野の広い方であり,いつも柔軟な考えで この情報社会学部の研究・教育に当たっておられた.私は,磯貝先生に,我々の放散虫化石のデータ ベース構築にあたり助力をお願いした.そして,そのための科学研究費を申請して,動きはじめた. 私は,このときから,新しい計算機言語(HTML 言語)を覚えることになった.さらに,永井ひろ 美・小嶋 智の二人に応援を頼み,“放散虫化石画像データベース Rad-File(IDB) ”を作り始めた. データベースの構築と一言で語るが,内容によってはその作業はたいへんな仕事量になる.しかも, それを公開する方針で出発している.その概要は,水谷ほか (1998) に解説したが,その後,新しく 名古屋大学博物館が設立されてからも,初代館長足立守教授の理解ある援助のもとで,今日にいたる まで,改版を続けていて,多くのデータがそこに付け加えられている. 微化石の研究,とくに国際的な研究において,データベースの構築は必須であろう.情報量が多く なるとその論文の収集や整理だけでも,大変な作業量になる.このような動きを反映して,1995 年, 大きな動きがあった.Baumgartner et al.(1995)の出版と刊行である.これは Tethys 地域のジュ ラ紀中期から自亜紀の放散虫化石に関する総括である.1172 頁にもなる大きな,重い書物であった. しかし,実に便利に編集されていた.主として,欧州において出されたデータを中心として,八尾 昭 さんや松岡 篤さんも協力しているので,わが国のデータも含まれていて,放散虫化石の産状・放散 虫化石の分類系統・生層序に関する包括的な総集である.考えてみると,国際的といっても,地質時 代,つまり時間的な枠,そして,Tethys という空間的な枠,に限って語るだけでも,この本のような 膨大な集大成が必要だということをあらためて確認したのであった. Biostratigraphy and choronostratigraphy 私が最初に Chulitna terrane の存在を知り,さらに,Wrangellia terrne を知り,そして,Lopez Island などの島々の地質を思い出すと,Coney et al.(1980)が主張する考えがかなり重要なものだ ということを認めざるをえないようになってきた.その頃,プレート・テクトニクスは多くの事実 を集め,精密な測定を行い,地球の表側と裏側を同時に議論のまな板にのせて,作り上げられてい た.中でも,Miyashiro(1967)は,(i)変成岩岩石学の基礎から,(ii)sillimannite, andalusite, — 45 — kyanite(いずれも,化学組成は Al2SiO5)の熱力学的性質から変成岩の生成条件を温度(T)と圧力 (P)のメモリの中で考察することを考え,(iii)本における変成岩類の分布とその構成鉱物に基づく 分帯を試み,(iv)それらに基づいて,相対的に低温度 / 高圧型(low-T/high-P)ならびに,高温 / 低 圧型(high-T/low-P)に区分し,(v)現在,日本列島で知られている深発地震帯の分布,(vi)第四紀 火山の分布,(vii)日本列島に関する地球物理的データ, (viii)島弧と海溝の地形,などと結びつけ た.それは,変成作用・火山活動・地形・地球物理的特徴などを総合して,一つの明快な説明を与え たもので,全体としては,極めて美しいまとまりのある考えであった.その考えは,世界各地の変動 帯の形成史を考える際に,役立っていて,さらにそれは Dewey などによって,まとめられていった. それはあまりにも過去の造山運動説とは,美しさの点で,また,強い説得性を持っていた点で,はる かに優れていた.そのために,世界各地の変動帯はそのモデルで,すべて説明されてしまった,とい うような印象を与えたところがあった. それに対して,猛然と問題を投げかけていったのは,CP-Terrane Conf. であった.すでに解説し たように(水谷,1988),彼らは,作り上げられたプレート・テクトニクス造山論を,“simplistic subduction model”とか“deweygram”と呼んで批判した.事実,アラスカの Chulitna terrane と か,Angayuchan terrane の性質とその近傍の地質を知った 研究者は,俗に exotic terrane と呼ばれている考えに対して,もっと理解を深めようと考えるよう になっていった. 地質学者は,自分の目のまえにある事実を見て,また,手にして,考察するのを常とするが,しか し,地球物理学者の一部は,地史の直前と直後の予測を考えながら,議論をする.そのめ,Nur and BenAvraham(1977, 1982)は Coney や Jones たちを支持しつづけた. 日本において,プレート・テクトニクスの受容が自然に認められ,さらに,私が強制したわけでは ないが,日本列島は複数の terrane に分けられていった.その過程においては,各地域の地質に関す る微化石による biostratigraphy が大きな役割を果たした.地史の解析は,化石を産する地層がある とそれを用いて,地質学的事件の順序がつけられる.できればそれに対して,年数のメモリが付けら れたら理想的である.しかし,少なくとも,現在では,化石による分帯はものの順序をつけて考える ためには,十分,精度がある.順序がきまれば,場合によっては,その因果関係が決まる.少なくと も,結果を,原因とみなうような間違いは起こらない. このものの順序を決めるという考えは,地史の研究法の極めて大きな基本的な思想であった.それ を明らかにしたのは,イタリヤの医師,ステノであったと言われる.彼の哲学(ステノ,山田俊弘 訳,2004)は,野外観察に基づいて,地質現象の順序を正しく決めるという点にあった.それ故, 次のように書かれている.“We have already recognized Steno’s important contribution, the low of superposition of starata.(p. 6; Kummel, 1970)”.地質学者は,お互いの理解のために,その報告 は,狭い地域の地質のことから,大きくは世界全体の陸地の特徴まで,それらを地質時代の古さの順 に並べる習慣がある.つまり,地質年代表を添えるのである. ただ,この方法,つまり,化石で地質時代がわかり,その順に従って記載を進めるという方法は, 化石をほとんど含まない地層や岩石に対しては,不可能であった.しかし,最近になって,地質時代 の年代決定が比較的容易にできるようになり,その結果,化石を含まないような古い岩石や地層,さ らに,火成岩や深成岩についても,いわゆる biostratigraphy に基づいて,時代区分ができるように なった.この chronostratigraphy による地方地質史の解明は,地質学の守備範囲を一気に拡大した. 一つは,岩石の種類に限らず問題を議論することができるようになったこと,もう一つは,化石が全 — 46 — くなく,時代があまりにも古いために,その地質時代の比較を諦めていた時代のできごとについて も,同じように議論ができるようになったのであった. 世界の変動帯には,調べてみると複雑で,細かくみるとますます複雑に,ものがからみあってお り,原因が重なり合っていることが多い.その一例が,melange であり(Wakabayashi and Dilek, 2011),ophiolite complex である(石渡,2010).とくに,堆積岩を伴わない火成岩や変成岩が主体 となっている ophiolite などでは,biostratigraphy は頼りにできない.むしろ,放射年代測定の結果 によらざるをえない.幸いなことに,最近では,多くの放射年代測定が行われるようになってきた. すでに述べた DELP の会議においても,地球科学において,もっと年代測定の技術的な問題や予算 的な問題を真剣に議論すべきだと主張された.その結果,柴田(1985a, 1985b)が報告しているよう に,それぞれの研究機関で技術的な連絡をとりながら,研究が進められるようになった.とくに,新 しく名古屋大学で開発された CHIME 法による年代測定は,大きな話題となっている(Suzuki and Adachi, 1991; Suzuki et al., 1991) . 私は,このような granitic terrane や ophiolite terrane については,できればその中の適当な岩石 について,P-T-t-path を知ることが肝要だと述べておいたが(水谷,1988), これら年代測定が可能 になることに並行して,P-T-path と同時に,P-T-t-path も知ることができるようになるであろう.最 近では,年代測定のデータを集めて整理することによって,上述したようにいくつかの出来事とその 順序を正しく,知ることができるようになってきた.その結果として,複雑な地域地質の記載には, 放射年代や CHIME 年代を使って,その地域に産する岩石類の年代表をまず掲げて,本論に入るとい う論旨の進め方が行われるようになっている(例えば,小沢ほか,2013). Baumgartner et al.(1995) が 出 版 さ れ た と き に, 痛 感 し た よ う に 古 生 物 学 の 研 究 は 文 字 通 り global に広がってゆく.八尾ほか(2001)のような研究の動向分析を国際的に進めたいと企 画したとき,その作業は莫大なものになるであろう.しかし,もし,この道の専門家が協力して Baumgartner et al.(1995)が試みたように,国際的な視野をもって努力すれば,総まとめは不可 能ではないであろう.そして,その要請は,日に日に大きくなるであろう.化石の研究では,文献 が大切であることは,講義の ABC で語られる.私自身は余裕がなかったため,参画していないが, Baumgartner et al.(1995)も実は,INTERRAD Jurassic-Cretaceous Working Group と称してい る国際研究グループを組織して,彼らの総まとめを実施したのであった.そして,その結果は,おそ らく比類ない貢献として,世界中の研究者に認められたことであろう. 現在,放散虫化石の研究史上で,どこに蓄積があるか,そして,新しい動きが活発にあるか等を 考えると,言語の問題ももちろんあるが,やはり欧州グループにお願いすることになるであろう. ありがたいことに,今回は,O’Dogherty et al.(2009a)が中心になって,やはり,the Mesozoic Working Group of the lnternational Association of Radiolarian Paleontologists(InterRad) を 組 織 し,2006 年 の New Zealand で の 会 議 に 続 い て,Granada [2006,2007],Paris [2007, 2008] での会合を経て,Catalogue of Mesozoic radiolarian genera をまとめ上げた.O’Dogherty et al.(2009b)に概説されているように,1867 年以降,2008 年までに出版された論文からの 915 属 についてまとめてある.ICZN の国際規約に従って整理されていると断り書きがもあり,私などにと つては,とても役に立つ便利な出版物となっている.中でも,O’Dogherty et al.(2009c)の 140 年 間にわたるこの中生代放散虫化石の研究史は一読に値する.ここで,全く別の見地から指摘してお く必要があるのは,この種の出版物に関して,新しくなりつつある情報交換の方法である . 多くの人 が体験されているように,従来のほとんど,そして,現在でも,多くは,専門家の間では,情報交 — 47 — 換の方法として,別刷をお互いに,郵送し合うという方法がとられてきた.しかし,この方法によっ て,文献を完壁に備えるとなると,情報量の多い分野では,別刷りの整理だけで,めまぐるしいほど 作業量があることになる.しかし,最近は,情報化のおかげで,簡単に整理できる.私自身,この O’Dogherty たちの仕事は,メールによる連絡を受けただけであった.そして,実際には,私がもっ ている情報は,[-.pdf] 型で書かれた情報だけであった.しかし,これからは,その方法が多用される であろう.この種の情報は,自分のペースで処理できる.それを記憶させておくか,または,自分で 印刷して読むこともできる. 研究活動が活発になるにしたがって,さらに,多くの仕事が増えるであろう.それをこなすに は,新しい考えと新しい方法をとりいれながら,進めていかねばならないであろう.O’Dogherty et al.(2009a)によれば , 彼らの仕事のあと,できれば Paleozoic と Cenozoic の放散虫化石について も,類似の総括が出ることを望み,期待している. 謝 辞 本稿は,名古屋大学博物館の研究報告として,あらために筆をとり,投稿したものである.印刷に なる前に,博物館研究員の束田和弘准教授,ならびに,藤原慎一助教には,粗稿を読んでいただい た.そして,多くの問題点を指摘され,それに従って,原稿を訂正した.両氏には心からお礼を申し あげる.なお,博物館長の吉田英一教授には,投稿に際して,多くの便宜を受けた.彼の好意ある理 解があって,本稿の印刷が可能になった.ここに記して,謝意とする.本稿は私の研究史でもあり, この中に登場する研究者は,先生・先輩・後輩を含め,少なからざる数に及ぶが,失礼を承知の上 で,それら内外の方々に対する謝意は略させていただいた.残念ながら,他界された方もおられる. それら幽冥境を異にされた方々の冥福を祈り,この謝辞を結ぶ. 引用文献 Adachi, M. 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Museum No. 29, 53–58, 2013 名古屋大学博物館野外観察園展示室の展示記録 2012 年 10 月から 2013 年 10 月まで Record of the exhibition at the Nagoya University Museum Botanical Garden from October, 2012 to October, 2013 吉野奈津子(YOSHINO Natsuko) 名古屋大学全学技術センター The Nagoya University Technical Center, Chikusa-ku, Nagoya 464-8601, Japan 名古屋大学博物館野外観察園展示室で 2012 年 10 月から 2013 年 10 月までに名古屋大学博物館のサ テライト展示を6つ行った.本報告はその記録である.展示の企画,展示者との調整は野崎ますみ (名古屋大学博物館)が行い,会期中の管理は吉野が行った.展示物に関しては展示者が作成を行っ ている. (1)サイエンスイラストレーション・サマースクール in あいち 受講者作品展 主 催: 名古屋大学博物館,名古屋大学グリーン自然科学国際教育研究プログラム,GCOE「機能 分子科学への神経疾患・腫瘍の融合」,高等教育研究センター,産学官連携推進本部あい ちサイエンスフェスティバル事務局 共 催: 名古屋造形大学,名古屋大学物質科学国際研究センター,博物館 協 力: ジョンズ・ホプキンズ大学医学部医療アート専攻,トロント大学バイオメディカル・コ ミュニケーションズ専攻,名古屋大学研究推進室,リサーチアドミニストレーション室, 東北大学大学院医学系研究科 後 援: 在名古屋米国領事館,名古屋アメリカン・センター 図2,展示室の様子 図1, チラシ — 53 — 会 期:2012 年 10 月9日(火)~ 10 月 26 日(金) 入園者数: 211 人 担 当: 藤吉 隆雄(名古屋大学 産学官連携推進本部),野崎 ますみ(名古屋大学博物館) ごあいさつ 昨年に続き,日本ではなじみが薄いサイエンスイラストレーションの入門コースが名古屋大学で行 われました.米国ジョンズ・ホプキンズ大学医学部 医療アート専攻(修士課程)から講師を迎え, ハンドワークと PC ワークの両方を使った,サイエンスイラストレーションの基礎課題に挑戦.その 実践成果を展示します. (2)蟲魚圖譜展 主 催: 名古屋大学博物館 会 期: 2012 年 11 月5日(月)~ 2013 年3月8日(金) 入園者数: 1,110 人 担 当: 門脇 誠二(名古屋大学博物館),野崎 ますみ(名古屋大学博物館) 展示作品(25 点) ギフチョウ, ナミアゲハ, ヒメジャノメ, モンキチョウ, クロアゲハ, キアゲハ, カラスアゲハ, オオカワトンボ(♂), オオカワトンボ(♀), チョウトンボ(♂), チョウトンボ(♀), ハッチョウトンボ(♂), ハッチョウトンボ(♀), コサナエ属の一種(♂), トラフトンボ(♀), オオヤマトンボ(♂), ヤマサナエ(♀), ホウボウ, アンコウ, イトヨリダイ, クルマダイ, アヤメカサゴ, モミジガイ, 「カタツムリ」, 「テハタキエビ」と「ノシメエビ」 図4,展示室の様子 図3,チラシ — 54 — (3)空・雲・光 三矢保永写真展 主 催: 名古屋大学博物館 会 期: 2013 年4月5日(木)~8月 31 日(金) 入園者数: 1,014 人 担 当: 野崎 ますみ 撮影者プロフィール 本職のかたわら ,山登りを趣味とし,ついでながら,山の写真を撮っている. 空の光と雲,山の彩りが,主な撮影対象.山歴は長いが,写真歴は最近の十年あまり.古稀に近づ いて,山ジイジイといわれても素直に受け入れられる.膝・足腰に問題点を抱えながらも,日々の訓 練は続けているのだが… 光と雲の織りなす光学現象や,不思議な自然現象の写真によって,美しい自然を守る大切さを汲み 取っていただければ幸いである. 本職は,ナノトライボロジー(ナノ領域で相対運動する二面間の科学と技術)の研究.大学を定年 退職後も,研究を継続するとともに,科学の啓発活動にも従事. 展示作品(観察園 30 点) 奥美濃のシャングリラ,薫風の白き尾根,環水平アーク(Ⅰ,Ⅱ),滝雲に光射す,折り重なる山 並み,大台ケ原の上に現れたハロ(日暈),北アルプスに夏山到来(Ⅰ,Ⅱ),巨大入道雲の北進, 日本海の夕日の反射,かぎろい,地球影,大日岳に現れたブロッケン,稲妻に輝く夜の入道雲, 多層の波雲,夕焼けの光芒,紅葉に染まる屏風岩,滝谷から湧き揚がるガスと夕陽,孤峰槍ヶ岳, 新設の御岳遠望,初冠雪の剣岳,雲の変貌Ⅰ(その1,その2,その3),雲の変貌Ⅱ(その1, その2,その3,その4,その5) 展示作品(博物館3点) 空翔ける竜雲, 雲と山のあいだ, 北アルプス 夏の夕暮れ 図6,展示室の様子 図5,チラシ — 55 — (4)野外観察園 初夏の植物 主 催: 名古屋大学博物館 会 期: 2013 年7月1日(月)~7月 31 日(水) 入園者数: 290 人 担 当: 吉野 奈津子 展示作品(30 点) エンジュ, エフクレタヌキモ, シコウラン, オオガハス, ツユクサ, ホルトノキ, サンゴジュ, ウツボカズラ, オオケタデ, オオバボダイジュ, ジュズサンゴ, ハンゲショウ, ヒシバデイコ, ウマノスズクサ, ハマオモト, キフゲットウ, ホップ, シュウカイドウ, ナツメ, ナツズイセン, ネムノキ, イヌビワ, サクララン, アガバンサス, テンジクスゲ, タカサゴユリ, クロイトトンボ, ハッチョウトンボ(♂,♀), オオシオカラトンボ, 図8,展示室の様子 図7,チラシ (5)ムラージュ キノコの写真展 主 催: 名古屋大学博物館 会 期: 2013 年8月6日(火)~ 10 月 19 日(土) 入園者数: 989 人 担 当:野崎 ますみ — 56 — 展示作品(42 点) シロキクラゲ, キツネノエフデ, ズキンタケ, コムラサキシメジ, シワナシオキナタケ, ヒメツチグリ, コウボウフデ, カエンタケ, キイボカサタケ, ツノマタタケ, アケボノオシロイタケ, ケロウジ, チシオタケ, オオムラサキアンズタケ, ハナビラタケ, クロラッパタケ, コウモリタケ, ムラサキカスリタケ, アラゲコベニチャワンタケ, スギヒラタケ, キヌガサタケ, タマシロオニタケ, オオワライタケ, オオヒラタケ, シロマツタケモドキ, ベニヒガサ, オオツガタケ, ハナオチバタケ, ミカワクロアミアシイグチ, キツネノチャブクロ, ツチイチジクタケ, コキララタケ, オリーブサカズキタケ, ガンタケ, ウスヒラタケ, ハナオチバタケ, コンイロイッポンシメジ, タマゴタケ, チャタマゴタケ, フカミドリガサ, ウスキキヌガサタケ, アミガサタケ 図10,展示室の様子 図9,チラシ (6)学生によるミニ展示 「生物のかたちとおもしろさ」 主 催: 名古屋大学博物館 会 期: 2013 年9月 30 日(月)~ 10 月 19 日(土) 入園者数: ムラージュ キノコの写真展と同時開催のため,入園者数はムラージュ キノコの写真 展に含まれる. 担 当: 西田 佐知子,藤原 慎一,NUMAP(名古屋大学ミュージアム活性化プロジェクト) ごあいさつ 野外観察園でみられる植物や虫たちを素材として,名古屋大学の学生たちが展示制作に挑戦しまし た. — 57 — 宇宙,文学,機械・・・博物館に集まったかれらの専門はさまざまです.そんな学生たちは一体ど のような切り口から課題に取り組んだのか!? ぜひ皆さんの目でお確かめください. 図11,展示作品 図12,展示作品 (2013 年 10 月 15 日受付) — 58 — 名古屋大学博物館報告 Bull. Nagoya Univ. Museum No. 29, 59–66, 2013 第 25 回名古屋大学博物館企画展記録 なんじゃ?もんじゃ?~髙木典雄とコケの世界~ “Nanja-monja” — Prof. Norio Takaki and His Mosses 西田佐知子(NISHIDA Sachiko) ・松本葉留奈(MATSUMOTO Haruna) 名古屋大学博物館 The Nagoya University Museum, Nagoya University, Furo-cho, Chikusa-ku, Nagoya 464-8601, Japan 場 所:名古屋大学博物館(古川記念館内) 会 期:2012 年 11 月 23 日から 2013 年2月2日 本記録は,第 25 回名古屋大学博物館企画展(図 1 – 3)の展示内容を記録したものである.この企 画展は,名古屋大学教養部の教授だった髙木典雄 氏(1915 – 2006)と,彼が発見したナンジャモン ジャゴケについて紹介したものである.髙木の蘚 苔類コレクションは博物館の代表的な標本コレク ションのひとつであり,展示では,このコレクショ ンの一部と,コレクション以外に髙木氏が遺した 果実の標本や自作展示パネルなどを中心に,髙木 氏の業績及びその人柄を紹介した.また,名古屋 大学で現在行われている蘚苔類を使用した研究な ども紹介し,コケ全体に興味を持ってもらえるよ うに工夫した.展示の統括やパネル原稿の作成を 西田が行い,展示品の選別や配列などについては 西田の監修のもと松本が中心になって行なった. なお,実際の展示は3つのコーナーを「髙木典雄」 「ナンジャモンジャゴケ」「コケの世界」という順 序で行なったが,ここでは展示内容を理解しやす いよう,「髙木典雄」「コケの世界」「ナンジャモン 図1 展示ポスター(飯野孝浩氏作成) ジャゴケ」の順序で記録する.また,展示では髙木氏の文章など,ここに挙げた以外にも多くのパネ ルが展示されたが,紙面の都合上,報告にはメインパネルの文章を紹介するに留める. 「ごあいさつ」にもあるが,この展示ではとくに髙木氏のご遺族に展示品の貸出などでたいへんお世 話になった.また,学内での研究については,生命理学研究科木下俊則教授の研究室(とくに奥村将 樹氏),遺伝子実験施設杉田護教授の研究室,および情報科学研究科青木摂之准教授の研究室にお世話 になった.鳥取県立博物館(現慶応大学)の有川智己氏と国立科学博物館の樋口正信氏は,魅力ある 講演で特別講演会を満員御礼にしてくださった.これらの方々に,ここで改めてお礼を申し上げたい. — 59 — 図2 「髙木典雄」コーナーの展示風景 図3 「コケの世界」コーナーの展示風景 ごあいさつ 名古屋大学教養部の教授だった髙木典雄氏(1915 – 2006)は,世界的に有名な蘚類研究者でした. とくに彼が発見したナンジャモンジャゴケは,「植物分類学にとって 20 世紀最大の発見」と評価され るほどの貴重な植物です.ナンジャモンジャゴケは当初,正体不明の生物としてさまざまな研究者の 頭を悩ませました.後に蘚類の一種であると判明しましたが,いまでもその学名には Takakia という 髙木氏の名前が残っています. 髙木氏は蘚類の研究者であるだけでなく,植物全般に造詣が深く,またそのやさしく楽しい語り口 で人気のある教育者としても偉大な人でした.そして,植物だけでなくあらゆるものに興味をもち, ひたすら標本を集める「トリ魔」としても有名でした. 髙木氏の集めたこれらの標本のうち,6 万点を超えるコケの標本や多くの果実標本が名古屋大学博 物館に収蔵されています.本展示ではこうした標本の一部を紹介するとともに,髙木氏の植物に対す る情熱,髙木氏が情熱を注いだコケの世界,そして髙木氏が発見したナンジャモンジャゴケについて 紹介します.さまざまな展示品から,髙木氏の熱意やコケの面白さを味わっていただけたら幸いです. 今回の展示では以下の方々や施設にご協力をいただきました(あいうえお順・敬称略).この場を 借りて御礼申し上げます. 青木摂之 有川智己 伊藤政夫 伊村 智 岩月善之助 鵜沢美穂子 奥村将樹 尾坂知江子 勝山輝男 木下俊則 杉田千恵子 杉田 護 髙木武子 髙木 洋 髙木芳弘 高橋宏二 樋口正信 古木達郎 松本葉留奈 宮崎雅貴 宮田有希 Larry Duke 神奈川県立生命の星・地球博物館 (株)モスワールド 国立科学博物館 国立極地研究所 千葉県立中央博物館 鳥取県立博物館学 服部植物研究所 平成 24 年 11 月 23 日 名古屋大学博物館長 吉田 英一 — 60 — 〈コーナー:髙木典雄〉 髙木典雄 名古屋大学教養部の教授だった髙木典雄(1915 – 2006)は,ナンジャモンジャゴケの発見者として 世界的に有名な蘚類研究者でした.そして,コケだけでなく植物全般に造詣が深く,また,そのやさ しく楽しい語り口で人気の先生でした.専門家や学生はもちろん,一般の植物愛好者からも広く,か つ深く慕われました.そして,植物をはじめとするあらゆるものに興味をもち,ひたすら標本を集め る「とり魔」としても有名でした. ここでは髙木の経歴とともに,髙木の人柄を表す文や,「とり魔」の一面を紹介します. 髙木典雄略歴 1915(大正 4)年 11 月 22 日 熊本県荒尾市に生まれる 1935(昭和 10)年 熊本県師範学校卒業 1935(昭和 10)年 熊本県鹿本郡山鹿尋常高等小学校訓導,陸軍第十三連隊へ入隊(同年8月除隊) 1940(昭和 15)年 東京文理科大学生物学科(植物専攻)入学 1942(昭和 17)年 東京文理科大学生物学科(植物専攻)卒業,東京府豊島師範学校教諭 1943(昭和 18)年 東京第二師範学校助教授,結婚 1945(昭和 20)年 東京第二師範学校教授,長男誕生 1946(昭和 21)年 熊本師範学校教授 1947(昭和 22)年 岡崎高等師範学校教授 1949(昭和 24)年 名古屋大学講師を兼任,次男誕生 1953(昭和 28)年 名古屋大学助教授 1956(昭和 31)年 理学博士 1957(昭和 32)年 (財)服部植物研究所理事 1963(昭和 38)年 鳳来寺山自然科学博物館学術委員,(財)服部植物研究所監事 1964(昭和 39)年 愛知学院大学非常勤講師を兼任 1965(昭和 40)年 愛知県文化財専門委員 1966(昭和 41)年 名古屋大学教授 1972(昭和 47)年 名古屋市文化財調査委員会委員,日本蘚苔類学会会長 1979(昭和 54)年 名古屋大学を退官,同大名誉教授,愛知学院大学教授 1988(昭和 63)年 愛知県自然環境保全審議会会員,愛知学院大学客員教授 1989(平成 1)年 勲三等旭日中綬章受章 1990(平成 2)年 日本蘚苔類学会名誉会員 1991(平成 3)年 愛知学院大学非常勤講師(1992 年退職) 1993(平成 5)年 岡崎市文化財保護審議会委員(2003 年辞任) 2006(平成 18)年2月1日 永眠.享年 90 歳. 髙木の人柄 髙木は,その植物についての造詣の深さ,そして楽しくやさしい語り口で多くの人に尊敬され,慕 われました.大学での講義だけでなく,鳳来寺山自然科学博物館や東山植物園など,さまざまなとこ ろで植物の講演を気さくに引き受けていました.髙木が行った講習会や見学会などは,いつも常連の 人で賑わっていたといいます.髙木の人柄とコケへの情熱に接し,コケの愛好家となった方もたくさ んいらっしゃいます.そのような方の中には,名古屋大学博物館の髙木蘚苔類コレクション整理のた めに,骨身を惜しまず働いてくださった方もおられました. ここでは髙木の文章から,髙木の人柄,植物採集への情熱などが偲ばれるものを紹介します. — 61 — 髙木蘚苔類コレクション 名古屋大学博物館には,髙木典雄が収集された約6万点を越すコケの標本があります.日本各地の コケをはじめ,ニューギニアなど,太平洋を囲むさまざまな地域のコケもあります.また高山から採 集されたものも多く,世界に誇る貴重なコレクションです. 一つ一つのコケが,髙木特製の標本袋に入れられています.標本袋と標本台帳には,髙木が調べた 学名なども手書きで記載されています.このコレクションが多方面からの研究に活用されるように, 現在博物館ではデータベース化が進められています. 「とり魔」コレクション 髙木は,蘚苔類にかぎらず,さまざまな標本を採集することで有名でした.ときには植物だけでな く,貝や動物化石なども残しています.これらはさまざまな箱に分類され,箱に見出しをつけて並べ てありました.髙木の研究室は,膨大な数の箱で埋まっていたそうです. 髙木のコレクターぶりを表す逸話があります.ノーベル賞を受賞された文学者の大江健三郎氏が, 日本の文化勲章を辞退されたことがありました.その際,辞退について週刊誌が「コケにされた文化 勲章」という表現をつかった記事を出しました.髙木は,「コケという名のつくものはなんでも集め ておくのが私の習慣」と,この記事も大事なコレクションとなったそうです. 髙木のコケ研究 髙木は,コケの中でもとくに分類が難しいといわれるヒツジゴケ科やシッポゴケ科の蘚類などを精 力的に研究しました.また,「山は私の人生です」と言われていたように,山を愛し,その山に生育 するコケを,情熱を持って研究しました.富士山に生えるコケの分布や生態,中部日本の山岳地帯の 蘚類の分布など,知識だけでなく体力と根気が必要な研究も行なっています.こうした努力が,餓鬼 岳でのナンジャモンジャゴケの発見にもつながったのでしょう. 髙木の名前がついた?湖 カナダのブリティッシュコロンビア州には,「タカキア湖」という名前の湖があります.髙木がみ つけたナンジャモンジャゴケの学名「タカキア」から名前がつきました.間接的には,髙木の名前が ついた湖と言えるかもしれません.この湖には雄大な自然が残っています. 今回,展示のためにブリティッシュコロンビア州の方にタカキア湖の写真をお願いしたところ,快 く提供してくれたデューク氏は「この湖にピクニックに訪れたとき,プロポーズをして結婚しまし た」とのことでした.ピクニックには,水上飛行機を使って出かけたそうです.髙木のコケからの思 わぬ縁で,カナダの大自然とカナダ人の自然の楽しみ方を垣間見ることができました. 〈コーナー:コケの世界〉 コケってなんじゃ? 一般的に蘚苔類のことをコケと呼びます.蘚苔類は,今も生きている陸上植物のなかではもっとも 古くからいる植物です.シダや花をつける植物とは,維管束と呼ばれる水や栄養を運ぶ器官がないこ とがちがいます.また,繁殖の仕方もちがっています. 蘚苔類は,水中に生活する藻類と陸上に生活する維管束植物の中間にあること,また,ふつう湿気 の多い場所に生えることから,「植物界の両生類」といえる存在です. — 62 — 蘚苔類の化石はデボン紀(4億年前ごろ)から見つかっていますが,体が柔らかいためか,あまり化 石が残っておらず,その進化の歴史をたどるのは難しいとされています. 髙木お気に入り?のコケ紹介 髙木が解説を書いたり,写真を貼り付けて展示に使ったとおもわれるコケがいくつかあります.そ の中の一部を,そのまま紹介します.また,髙木が書かれたコケに関する文章を紹介します. コケのからだ わたしたちがふつうに見るコケの体は,配偶体にあたります.胞子体は小さく,ふつう配偶体の上 についています. 胞子が発芽すると,糸または塊のような「原糸体(げんしたい)」ができます.これが発達して配 偶体となります. 配偶体の上に造卵器と造精器ができ,精子は水中を泳いで造卵器に行きつき受精します. 受精後,配偶体の上に胞子体ができます.胞子体の先にある胞子のうで減数分裂*した胞子ができ ます. 胞子は風で飛んで散らばり,新しい配偶体に育って世代をくりかえします. *減数分裂:染色体の数が半分に減る細胞分裂 コケの分類群 コケは,蘚類,苔類,ツノゴケ類という 3 つの分類群に大きく分かれます.シダや花をつける植物 には,蘚類が一番近いことがわかっています.世界中に,蘚類は約2万種,苔類は約 8000 種,ツノ ゴケ類は約 400 種あります. 日本のコケ 日本は南北に長くて高い山もあること,全体的に湿度が高いことなどから,さまざまなコケが生え ています.現在,日本には約 1800 種のコケ植物が知られています. 京都の西芳寺は苔寺として有名です.そのほかにも,日本の神社仏閣にはコケがよく似合います. 観賞用に利用されるコケには,オオスギゴケ,コバノチョウチンゴケ,ヒノキゴケなどがあります. 苔寺のように,コケは日本の文化に根付いています. 世界のコケ コケは極地から熱帯まで,陸上のいたるところに生えています.ただし,海中に生えるコケはない ようです. 熱帯の湿潤な山岳地域では,林の木をコケが覆い,蘚苔林といわれる森林を作ります.なお,アメ リカ西海岸の森などで木にぶら下がっているサルオガセは地衣類で,コケではありません. 極地域の,他の植物が生えないようなところでもコケが分布しています. 寒い地域にある湿原では,よくミズゴケが生えています.こうしたミズゴケは死んでもしたいが腐 らず,これが積もって高層湿地を作ります. — 63 — 役立つコケ 花をつける植物ほどではありませんが,コケのなかには人間の生活に使われるものもあります. たとえばミズゴケです.ミズゴケは腐りにくく,水の吸収にすぐれているため,乾燥よけとして園 芸によく使われます.園芸目的で野生のミズゴケが乱獲される場合があり,自然保護上の問題になっ ていることもあります. コケは軽くて薄い層になること,維持管理が比較的楽な種類もあることから,屋上緑化などにも使 われはじめています.また,コケの中には大気の環境に敏感な種類があります.とくに木の上に育つ コケの種類が,その場所の大気汚染を知る指標となることもあります. コケなのにコケでない? コケという名前は,小さいものなどによく使われるため,実際は蘚苔類ではないものに付いている ことがあります. たとえば,ウメノキゴケは地衣類といわれる生物で,藻類と菌類が共生したものであり,蘚苔類で はありません.モウセンゴケは花を咲かせる被子植物です.海にいるハナゴケは植物ではなく,いわ ゆるサンゴの仲間(イソギンチャクなどに近い仲間)です. 名古屋大学のコケ研究 蘚苔類は,陸上植物の進化を探る上で重要な分類群です.名古屋大学でも,蘚類や苔類をつかって 最先端の研究がおこなわれています.こうした研究の一部を紹介します. (ナンジャモンジャゴケの研究については下記参照) ・ゼニゴケから探る細胞膜ポンプの進化(名古屋大学大学院生命理学研究科 木下俊則研究室 奥村将樹) ・コケの生物時計を探る(名古屋大学大学院情報科学研究科 青木摂之研究室) 〈コーナー:ナンジャモンジャ〉 ナンジャモンジャゴケってなんじゃ? 1950 年代の前半,髙木典雄は北アルプスでふしぎな生物を見つけ,標本としてもちかえりました. それがコケの一種として発表されたのはそれから約5年後です.このコケは「植物分類学上 20 世紀 最大の発見」と評価する研究者もいるほどです.このコケのなにがそんなにすごいのでしょう?この コケはいったいなんなのでしょう? ナンジャモンジャゴケとは? かこん 高さ1センチほどの小さなコケで,コケの「根」にあたる仮根がありません.また,長さ1ミリほ どの葉は,棒のようで平たくなく,茎から不規則に生えています.のちに生殖器官などが発見されて 蘚類であることが明らかになりましたが,それまでは何の仲間かわかりませんでした. ナンジャモンジャゴケはなぜ重要? 生殖器官の形や DNA の塩基配列などから,いまではナンジャモンジャゴケは蘚類の一種であるこ とがわかっています.しかも,現存する蘚類のなかではもっとも初期に生まれたグループに属してい いかんそく ると考えられています.蘚類は,コケのなかではシダや種子植物のような維管束をもつ植物に近い仲 間です.そのため,維管束植物がどのように進化したのかを探るには,ナンジャモンジャゴケの実態 — 64 — を知ることが重要な鍵になると思われます.ナンジャモンジャゴケは染色体の数も 4 本と,陸上植物 のなかでは非常に少ないことがわかっています. ナンジャモンジャゴケの「広い」けれど「狭い」分布 ナンジャモンジャゴケ属ははじめ日本アルプスで見つかりましたが,その後,北海道の大雪山,東 南アジアのキナバル山,ヒマラヤ,アメリカ北西部などで見つかっています.寒い地方では低地にも 生えますが,熱帯や暖帯ではふつう高い山の上に生育しています. コケでは同じ仲間が世界に広く分布していることがよくありますが,分布は広いものの,それぞれ の分布地ではごく限られた場所にしか生えていないナンジャモンジャゴケは,それを集めて回る研究 者泣かせの植物です. 見つからないナンジャモンジャゴケの生殖器 形態から生物の類縁関係を知りたいとき,もっとも重要なヒントを与えてくれるのが生殖器官の構 造です.ところが,ナンジャモンジャゴケの生殖器官はなかなか見つかりませんでした.光合成をす る葉は体に一年中ついていますが,交配するのはごく短い間なので,生殖器官がいつも見られるとは 限らないのです.ナンジャモンジャゴケのために高い山を苦労して登っても,そこに生殖器官が見つ からないとき,研究者のくやしさはいかばかりだったでしょう. ナンジャモンジャゴケは 1951 年にはすでに発見されていましたが,その分類の決定的なヒントと なる造精器と胞子が見つかったのは 1993 年でした. ナンジャモンジャゴケの分類 ナンジャモンジャゴケは,その独特の形態から,また他の植物との DNA 塩基配列のちがいから, いまでは蘚類のなかの1属に入れられています.しかし,その独特さのため,ナンジャモンジャゴケ 亜綱という独立した分類群名がついています.ナンジャモンジャゴケ亜綱には,ナンジャモンジャゴ ケ科ナンジャモンジャゴケ属しか知られていません. なお,ナンジャモンジャゴケ属には,ナンジャモンジャゴケとヒマラヤナンジャモンジャゴケの2 種が知られています. ナンジャモンジャゴケと分子生物学 ナンジャモンジャゴケは,蘚類のなかでももっとも原始的な性質を残している可能性があり,植物 の進化を考える上で重要な生物種として注目されています.名古屋大学では,そんなナンジャモン ジャゴケをつかって分子生物学研究が行われています. RNA 編集ってなんじゃ? 生物学の世界で「セントラルドグマ(中心教義)」ともいわれる「常識」は,DNA の情報が RNA に写され,その情報をもとにタンパク質が合成されることです.ところが 1980 年代後半に,DNA の 配列と RNA の配列が一致しないという奇妙な例が見つかるようになりました.DNA が RNA に写さ れるとき,ヌクレオチド(DNA を構成する単位)が違うものに入れ替わったりします.このような 現象を「RNA 編集」と呼びます.この RNA 編集はカビや哺乳類でもみられますが,植物でいろいろ な例が見つかっています. — 65 — ナンジャモンジャから探る植物の RNA 編集 まもる 名古屋大学遺伝子実験施設の杉田護 研究室では,植物における RNA 編集のメカニズムやその意味 ひんぱん を探求しています.いままでわかってきたのは,植物によって RNA 編集が頻繁に起こっているもの とそうでないものがあることでした.たとえば,種子植物の葉緑体では 20 から 40 箇所で RNA 編集 が起こっていますが,藻類やゼニゴケ(苔類)の葉緑体ではまったく起こっていません.では蘚類, とくに蘚類でも初期に現れたとおもわれるナンジャモンジャゴケではどうでしょうか? ナンジャモンジャゴケは 1000 ヶ所以上で編集 杉田研究室の宮田有希さんは,ナンジャモンジャゴケをはじめとする蘚類やシダ類で,この RNA 編集がどのくらい起こっているのかを研究しました.その結果,蘚類のヒメツリガネゴケの葉緑体で は RNA 編集が数カ所でしか起こっていなさそう(後の研究で1ヶ所と判明)なのに,ナンジャモン ジャゴケでは 1000 ヶ所以上で起こっていることがわかりました.また,ナンジャモンジャゴケでの RNA 編集部位は,花を咲かせる高等植物などと共通する箇所が多いこともわかりました.その後, 杉田研究室ではナンジャモンジャゴケにおいてこの RNA 編集が行われる場所やタイミングなども明 らかにし,初期の植物における RNA 編集の多様性や進化に新しい知見をもたらしました. その後のさまざまな研究から,陸上植物で RNA 編集がみられるのは,約 4 億年前に植物が上陸す る際,紫外線によって生物内の DNA が傷つくのを防ぐために生まれた仕組みではないかという仮説 が出ています.こうした RNA 編集の意味やその詳細なメカニズムについては,まだ今も研究が進め られている最中です. ナンジャモンジャゴケ発見秘話 あらゆるコケを愛した髙木にとっても,ナンジャモンジャゴケには格別の思いがあったようです. このふしぎなコケについて,髙木は当時の発見秘話を残しています.ここでは「服部博士の思い出と ナンジャモンジャゴケ」というエッセイの全文を紹介します. 特別講演会 1)2012 年 12 月8日(土)13 時半より 名古屋大学博物館3階講義室 「なんじゃもんじゃゴケ?」 有川智己(鳥取県立博物館学芸員) 2)2013 年1月 12 日(土)13 時半より 名古屋大学博物館3階講義室 「苔 こけ コケ」 樋口正信(国立科学博物館陸上植物研究グループ長) (2013 年 10 月 15 日受付) — 66 — 名古屋大学博物館報告 Bull. Nagoya Univ. Museum No. 29, 67–76, 2013 第 28 回名古屋大学博物館企画展記録 「氷壁」を越えて─ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯─ Did the nylon rope brake? Life of Shigeo Ishioka and his fight for safety 1) 2) 西田佐知子(NISHIDA Sachiko) ・堀田慎一郎(HOTTA Shinichiro) ・ 2) 松下佐知子(MATSUSHITA Sachiko) 1)名古屋大学博物館 Nagoya University Museum 2)名古屋大学大学文書資料室 Nagoya University Archives 場所:名古屋大学博物館(古川記念館内) 会期:2013 年 11 月5日から 2014 年1月 30 日 本記録は,第 28 回名古屋大学博物館企画展(図 1-5)の展示内容を記録したものである.この企画 展は,2012 年に博物館に寄贈された物品および大学文書資料室に寄託された文書・映像資料を中心に 行なったもので,展示写真や展示品は多数であり,ここには年表を除くメインパネルの原稿を掲載す るにとどめた.展示では,メインパネルのうちコーナー1,3を西田,コーナー2を堀田が執筆し, 資料の探索およびハンズオン制作などを松下が担当している(資料探索は,前者2名も随時参加し た).なお,「ごあいさつ」にも記述があるが,今回の展示,および展示に使用した資料の寄贈・寄託 は,石岡繁雄氏の次女である石岡あづみ氏と,「石岡繁雄の志を伝える会」会員をはじめとする方々 の尽力あってこそ実現したものであった.ここに重ねてお礼申し上げたい. ごあいさつ 石岡繁雄氏は物理学・工学研究者であり,安全学や山岳教育を通して多くの人材を育てた教育者で す.また,井上靖の小説『氷壁』の題材ともなった人物です. 1955 年に起こった弟(若山五朗氏)の前穂高岳での墜落死を契機に,石岡氏はナイロンザイルの 弱点を直視することになります.それから約 20 年間,これ以上山での犠牲者を出さないために,氏 は仲間とともにナイロンザイルの弱点を訴え続けます.氏の執念はこのナイロンザイル事件を乗り越 え,登山道具や介護用機器などの開発にまで及びました. 石岡繁雄氏は名古屋帝国大学出身であり,一時期は名古屋大学職員でもありました.また,1990 年 に名古屋大学史編集室が編さんした『写真集名古屋大学の歴史』では,氏から多くの写真を提供して いただきました.このような縁もあり,2012 年,石岡繁雄氏の資料が名古屋大学の大学文書資料室と 博物館に寄託・寄贈されました.今回の展示は大学文書資料室とともに,この貴重な資料などをもと に氏の生涯を紹介することで,多くの方に氏の人生と氏の目指した安全学に触れて頂くことを願って 開催しました.なお,展示は3つの部門に分かれていますが,ナイロンザイル事件を独立に取り上げ たため,一部時代が前後します. — 67 — 図1.企画展のポスター(高橋佑磨氏制作) — 68 — 図2.企画展の各コーナーを示す垂れ幕 図3.企画展では石岡氏を紹介する DVD も上映され た 図4.ナイロンザイル事件を紹介するコーナー 図5.石岡氏が実験に使ったザイルの展示など 石岡繁雄氏の資料の寄託・寄贈は,ご遺族の石岡あづみさんと「石岡繁雄の志を伝える会」会員, 岩稜会会員をはじめとする方々の多大な努力の上に実現いたしました.また,これらの方を含む以下 の方々には,展示について様々なご協力をいただきました.開催にあたり,ここにお礼を申し上げま す. (あいうえお順・敬称略) 相田武男,石原國利,河合義久,川角信夫,澤田榮介,柴山昌洋,菅沼敏雄,高橋佑磨,立岡恭一, 徳山加陽,藤田壯二,前田幸雄,松本亮三,水野高司,三矢保永,森川文夫 朝日新聞社,あるむ,井上靖文学館,市立大町山岳博物館,中日新聞社,毎日新聞社,読売新聞社 名古屋大学 博物館/大学文書資料室 石岡繁雄(1918 - 2006) 米国サクラメント市生まれ.愛知県津島中学,第八高等学校を経て,名古屋帝国大学工学部電気学 科卒.戦後三重県鈴鹿市にて岩稜会設立,屏風岩中央カンテ初登攀. 昭和 30 年1月前穂高でザイル切断により実弟を失う.これをきっかけに“ナイロンザイル事件” が発生.事件解決の努力の中で登山用緩衝装置等 47 件の特許を取得.豊田高専,鈴鹿高専教授,三 重県山岳連盟会長などを歴任,石岡高所安全研究所所長. — 69 — 第一コーナー「バッカスと山─石岡繁雄の前半生─」 子供の頃から山に憧れた石岡.一方で,天文や物理を愛し,探究心にあふれた青年に成長します. かけがえのない妻や山の仲間たちとの出会いもありました. ①誕生 石岡(旧姓若山)繁雄は 1918(大正7)年1月 25 日,アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメ ント市で生まれました. あ ま ぐ ん さおり あいさい 若山家は愛知県海部郡佐織村(現在の愛西市)の農家でしたが,当時の農村はたいへん貧しく,繁 雄の祖父の弟は貧乏を苦に自殺してしまうほどでした.この貧しさから逃れようと,繁雄の父繁二 も,すでにアメリカにいた兄をたよってサクラメントに移住し,農民として働きました. アメリカでの生活にめどがたった繁二はその後,郷里のとなり町から嫁をもらい,5男をもうけま した.繁雄はその長男でした. ②帰国 愛西市の出身者には,出漁中に難破してアメリカ船に助けられた後,カリフォルニアの農園で働い た者がいました.こうした縁で,愛西市からは 1891 年から 1924 年の間に 640 名もの人々が渡米して います.移民の生活は厳しいものでしたが,短期間で一財産をつくることも可能でした. 1920 年(大正9)年7月頃,父の繁二は約 20 年間の移民生活を終え故郷に帰ります.当時3歳だっ た繁雄もこのとき帰国しました. ③山との出会い 繁雄は濃尾平野という,山とは関係の少ない場所で育ちました.初めて山といえる所へ行ったの は,父が湯の山温泉へ連れて行ってくれた時でした. その後旧制中学校時代,繁雄は白馬岳に登って山のとりこになります.登山は繁雄にとってかけが えのないものとなり,繁雄や周りの人々の生き方に大きな影響を与えることになります. ④繁雄と八高・名古屋帝大 繁雄は小さい頃,「すべての成績が優」というほど優秀で,絵や作文も得意でした.しかし,中学 時代に将棋のとりこになり,八高の入学試験に落ちてしまいます. 浪人中,受験勉強に専念するようにと繁雄の父は,彼を八高に近い名古屋市千種区に下宿させまし た.この下宿先が石岡家だったのです.翌年繁雄は八高文科に入学(1年後理科に再入学)し,1940 (昭和 15)年には名古屋帝大理工学部電気学科に入学しました. ⑤最愛なる妻・敏子(1) かんべ 石岡家の実家は鈴鹿市神戸の大地主で,敏子はその一人娘でした.父の正一が東海銀行(現在の三 菱東京 UFJ 銀行)の名古屋支店長をしていた頃,一家は名古屋市に住んでいましたが,父の帰りが よく遅くなりました.帰りを待つのが妻と一人娘の敏子だけでは不用心と,用心棒もかねて下宿して むこ もらったのが繁雄でした.やがて,敏子の母は繁雄の人柄にほれ込み,ぜひ敏子の婿 にと希望しま いいなずけ す.繁雄 17 歳,敏子7歳のとき二人は許嫁となり,その8年後に結婚します. — 70 — ⑥最愛なる妻・敏子(2) 敏子は体が弱かったため,繁雄は敏子の母から,敏子を登山に連れて行ってほしいと頼まれます. こうして敏子は繁雄とともに,9歳で槍ヶ岳に,10 歳で白馬岳に登頂します.11 歳からはロックク ライミングに打ち込み,13 歳で槍ヶ岳の小槍を,15 歳で穂高岳の滝谷を登りました. その後も敏子は,二人の娘を育てながらも,ときには繁雄と登山を楽しみました.敏子は 2004(平 成 16)年に心臓病で亡くなりますが,幼い頃からその最期までの約 70 年,繁雄に見守られ,また繁 雄を支える人生を歩みました. ⑦卒業後の石岡 太平洋戦争下の措置としてとられた繰上げ卒業によって,石岡は海軍技術中尉(後,大尉)として 勤務します.終戦後は旧制・神戸中学の教師,名古屋大学の職員にもなりました.石岡はナイロンザ イル事件に遭う前から,仕事における問題点をまっすぐな眼差しで見つめ,解決への提案をおこなっ ています. ⑧岩稜会 かんべ 終戦後,石岡は三重県立旧制神戸中学校(現在の三重県立神戸高等学校)の教師となります.石岡 から山の話を聞いた生徒たちが熱望した結果,石岡は山岳部を作ります.さらに,翌年には卒業生と なった部員などと共に「岩稜会」を創設しました.この会の会員は,多くの難しい山々,そしてナイ ロンザイル事件を,石岡とともに闘う同志となったのです. 岩稜会は名古屋大学の山岳部とともにヒマラヤ遠征をめざしたこともありました.しかし最後に なってネパール政府からの許可が下りず,断念せざるを得ませんでした. ⑨終戦直後の登山 すずか 1945(昭和 20)年 12 月,石岡は生徒たちと鈴鹿山脈の鎌ヶ岳に登ります.しかし生徒の中には, ぬ リュックがなくて南京袋をかついでいる者や,“むしろ”を二つ折りにして縫い合わせ,荒縄でしば りつけている者もいました.当時の一般家庭の事情を考え,山行中の食事はコメはひかえサツマイモ にしたところ,腹に力が入りませんでした.体力の消耗で部員達は危険なほどよく転びました. このときの辛い思いから,石岡らはその後の登山にはコメを持っていくようにします(部員のほと んどが農家の息子なので可能でした).また,旧陸軍の天幕を手に入れてテントやリュック,ウイン ドヤッケなどを作り,共通の装備としました.登山時の部員の服装は,いつも着ている学生服や父親 の古い背広などでした. とうはん ⑩屏風岩登攀 まえほたか ひ だ 前穂岳(標高 3090 m)は飛騨山脈(北アルプス)にある穂高連峰の山です.穂高の山域は剣岳や 谷川岳などと並ぶ日本有数の岩場で,なかでも前穂高岳には登るのが難しい未知の岩場が多く,魅力 とうはん びょうぶ あふれるところでした.この前穂高に連なるもっとも難しい岩場で,登攀不可能といわれていた屏風 岩の正面の中央カンテ*と呼ばれるルートに,1947(昭和 22)年,石岡は旧制・神戸中学山岳部員, そして春に卒業した山岳部 OB の計3人で挑みます. * カンテ=岩壁の突き出している部分 — 71 — 第二コーナー「ナイロンザイル事件―石岡と岩稜会,20 年の闘い」 弟の滑落死─このときの1本のナイロンザイルが石岡の人生を変えます.一時は社会から否定され ながらも,石岡や岩稜会は,人命と名誉回復のため,真実を求めて闘います. (1)事件の発生とその反響 ①若山五朗の転落事故起こる まえほたかだけ とうはん 1955(昭和 30)年1月2日,北アルプス前穂高岳東壁の厳冬期初登 攀に挑戦していた,岩稜会登 山隊の3人パーティの1人である若山五朗(三重大学1年)が遭難しました.頂上直下において,自 身の体重を支えるために険しい岩壁から突き出た岩にかけたナイロン製のザイル(ロープ)の切断に よって転落し,行方不明になったのです.これが以後 20 年にわたる,いわゆるナイロンザイル事件 の発端でした. ②注目されたナイロンザイルの切断 くにとし さわだ 若山五朗に同行したザイルパートナーの石原國利(中央大学4年)と澤田栄介(三重大学3年)の 生還によって,転落の原因がナイロンザイルの切断によることが明らかになると,この事故は登山界 やマスコミの注目を集めました.ナイロンザイルは,従来の麻ザイルよりも扱いやすいうえに強度も すぐれた新製品として注目されていたからです.そして事故直後から,早くもザイル切断の原因を使 用者のミスに求める説が登場するのです. ③石岡の検証実験開始 当時名古屋大学の職員であった石岡繁雄は,実弟である若山五朗やそのザイルパートナー,岩稜会 けいしょう の名誉と将来にわたる登山者の生命を守るため,科学的裏づけもなく早まった結論を出すことに警鐘 を鳴らすとともに,自らの手でナイロンザイルの強度を試す実験をはじめました.自宅での実験のほ か,名古屋大学などでも実験をおこない,ナイロンザイルが岩角において致命的な欠陥を持ち,それ が切断の原因であったことへの確信を深めていきました. ④篠田軍治と東京製綱 石岡は実験の結果を発表し,ナイロンザイルに重大な弱点がある可能性を示しました.これをうけ て,このザイルを生産した東京製綱による公開実験が,大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長 でもあった篠田軍治の指導の下におこなわれることになりました.ただ石岡は自分の実験に自信を持 ち,さらに篠田も石岡との面談では石岡の実験を肯定する発言をしていたため,公開実験には出席せ ず,いまだ行方不明の五朗の捜索へ出発したのでした. (2)人命と名誉回復のための闘い第一次収束まで― ⑤蒲郡の公開実験とナイロンザイル安全論の拡大 がまごおり 1955(昭和 30)年4月 29 日,東京製綱蒲 郡工場(愛知県蒲郡市)にマスコミや山岳関係者を集め, ナイロンザイルの岩角に対する強度を確かめる公開実験がおこなわれました.その結果は,ナイロンザ イルは岩角に耐え,その強度があらためて証明されたという,石岡にとって全く予想もしなかった驚く べきものでした.これは実験の重大な作為によるものでしたが,切断しなかったという事実だけがマス コミなどを通じて大々的に報道され,ナイロンザイル安全論が一気に拡大することになったのです. — 72 — ⑥社会からの批判と石岡家の苦しみ ナイロンザイルは強いという印象を一般に与えた公開実験によって,五朗本人だけではなく,ザイ ルの取り扱いの失敗を隠そうとしたとして,石岡や岩稜会への批判や中傷が強まりました.石岡はこ れに反論しますが,登山界と学界の権威を背景とした業界大手企業による公開実験の結果という,厚 い壁が立ちはだかりました.石岡は,一時は実父から親子の縁を切ることを言いわたされます.逆風 のなか,1955(昭和 30)年7月 31 日に,切れたザイルを身体につないだままの五朗の遺体が発見さ れました. ⑦公開実験への疑惑と篠田の態度 石岡は,公開実験に使われた岩角に,離れた位置からでは見えないわずか1ミリほどの丸みが付け られていたために,ザイルが切れなかったことを知ります.その後,さらに詳細な再検証をおこなっ て自信を深めた石岡は,篠田軍治にこれを問います.しかし篠田は,ナイロンザイルの岩角に対する 欠陥よって事故が起こったことや,蒲郡の実験に重大な作為があったことを,公式には決して認めま せんでした.石岡らの,篠田やメーカーへの不信はつのっていきます. ⑧「ナイロンザイル事件」の社会問題化 石岡ら岩稜会は,篠田教授やメーカーと全面的に対決することを決意しました.その後も相手方か らの誠意ある対応は見られず,逆にナイロンザイル安全論が拡大していくありさまでした.ついに岩 稜会の石原國利は,1956(昭和 31)年6月 23 日に篠田を名誉棄損で名古屋地検に告訴します.その 翌月には,岩稜会がこれまでのいきさつをまとめた冊子『ナイロン・ザイル事件』を作成して山岳関 係者やマスコミなどに配付し,あらためて社会の注目を集めました. ⑨小説『氷壁』とナイロンザイル事件 やすし ひょうへき 1956(昭和 31)年 11 月 24 日,朝日新聞紙上において,井上靖による小説『氷壁』の連載がはじま りました.厳冬の前穂高岳東壁でのナイロンザイルの切断による転落事故,ザイルの欠陥をめぐる主 かくしつ 人公と企業や社会との確執など,現実のナイロンザイル事件を素材としたこの小説は大きな反響を呼 び,早くも 1958 年には映画化されました.これによって,多くの人々が事件のことを知るようにな りました. ⑩続く闘いと厚い壁 告訴は,説明なしに大阪地検の扱いになったうえ,不起訴処分に終わりましたが,石岡と岩稜会は 篠田への公開質問状などによってねばり強く闘い続けました.篠田やメーカーは,これに対してあい まいな説明しかできず,マスコミなどの論調にも変化が見られるようになります.それでも,蒲郡実 たて 験と学界や業界の権威を盾にしたナイロンザイル安全論を完全にくつがえすことは容易ではなく,そ の間にもナイロンザイルの切断による犠牲者が増えていったのです. ⑪終止符宣言 1959(昭和 34)年8月 30 日,岩稜会は「ナイロンザイル事件に終止符をうつにさいしての声明」 を発表し,事件を収束させることにしました.これは,篠田教授やメーカーからまともな反論がな く,蒲郡実験の作為とそれに際しての篠田とメーカーとの特殊な関係性など,岩稜会の主張が実質的 — 73 — に認められたと判断したからです.この頃になると,マスコミ等の論調も,石岡や岩稜会の主張を支 持するものが多くなりつつありました. (3)再展開から決着へ ⑫相つぐ事故と闘いの再開 しかし終止符宣言後も,依然としてナイロンザイルの岩角に対する弱点は放置され,重大な転落事 故が跡をたちませんでした.石岡ら岩稜会は,1971(昭和 46)年から事件解決のための活動を再開す ることにしました.その際に主な目的としたのは,ナイロンザイルの取り扱い業者にその危険性を表 示させることと,ナイロンザイル安全論を定着させる大きな要因になった『山日記』を日本山岳会に 修正させることでした. ⑬公開実験による論争の決着 石岡ら岩稜会の主張は,その支持者を拡大していきました.すでに,ナイロンザイルの欠陥を認め るメーカーも現れており,もうひと押しというところでした.そして 1973(昭和 48)年3月 11 日, 石岡は勤務先である鈴鹿高専で公開実験をおこないます.多くのマスコミや関係者の目の前で,蒲郡 実験の誤りとナイロンザイルの危険性を明快に証明したこの実験のインパクトはきわめて大きく,長 年の論争に決着をつけるものでした. ⑭消費生活用製品安全法と安全基準の制定 公開実験から3ヵ月後の 1973(昭和 48)年6月6日に消費生活用製品安全法が制定され,登山用 ロープもこの法律の対象となりました.これをうけて,1975(昭和 50)年6月5日には登山用ロープ の安全基準が定められました.石岡は,この基準を定めるための通産省の調査委員会に名前を連ねま した.若山五朗の遭難から 20 年をへて,ナイロンザイルの弱点をふまえた安全な使い方が日本に定 着することになったのです. ⑮『山日記』の訂正 最後の関門は,日本で最も長い歴史を持つ山岳団体である日本山岳会が,登山者の安全のために毎 年刊行していた『山日記』の訂正でした.1956(昭和 31)年版に篠田教授が書いた,ナイロンザイル の岩角での強さを強調する記述は,それ以後も大きな影響力を持ったからです.篠田は最後までその 訂正の必要性を認めませんでしたが,日本山岳会の判断により,1977 年版『山日記』において,編集 ふ ゆ とど の不行き届きを認めて関係者へ謝罪する記事が掲載されました. ⑯石岡を支えた人々とその思い 石岡は,その強靭な意志とたぐいまれな実行力をもって長く困難な闘いを続けましたが,決して孤 独だったわけではありません.敏子夫人をはじめとする家族や岩稜会の人々は石岡を信頼し,その活 けんしんてき 動を献身的に支えました.その他の山岳団体では,三重県山岳連盟が一貫して石岡を強く支持しまし た.石岡が勤務していた名古屋大学にも,当初の石岡らの活動を支援した教員や学生がいました. ⑰未解決の日本山岳会名誉会員問題 1989(平成元)年,日本山岳会評議会は篠田軍治を名誉会員に推せんすることを決定しました.前 — 74 — 年にも関西支部が名誉会員への推せんを評議会に発議しましたが,一度は評議員の一部からの反対に より見送られていたのです.これに対し石岡は,ナイロンザイル事件が解決し,篠田のおこなった行 為が明らかになった以上,名誉会員とすることなど決してあってはならないと強く反対しました.し かし,日本山岳会はこれを強行し,その後の石岡の再三のはたらきかけにもかかわらず,取り消され ることなく現在に至っています. 第三コーナー「『氷壁』を越えて─石岡がめざした安全学─」 ナイロンザイル事件を乗り越えた彼は,山道具や昇降機器の開発など,研究や教育を通じて安全学 に大きく貢献し,その志は,いまも多くの人の胸に刻まれています. ①「氷壁」を越えて 石岡繁雄は 1964(昭和 39)年に豊田工業高等専門学校の助教授に就任します.その後 1969 年に教 授となり,1971 年から 83 年までは鈴鹿工業高等専門学校の教授を務めます. 学生たちに物理などを教えるかたわら,石岡は安全な登山装置や高所安全降下具の開発に情熱を注 ぎます.ナイロンザイル事件に人生を大きく左右された石岡ですが,それを乗り越えた彼は,教育や 研究を通じて安全学に大きな貢献を果たしました. ②安全な登山をめざして しょうげき ナイロンザイルが素材の性能上岩角での衝撃に弱いとわかっても,ザイルを頼らずに岩登りはでき ません.衝撃を受けてもザイルが切れないようにするにはどうしたらいいのか・・・石岡は工夫に工 夫を重ねます.そして 1958 年,「衝撃時における登山綱切断防止装置」を完成させ,特許を取りま す.こうして石岡の安全装置の研究が本格化しました.石岡がその生涯に出願した特許や実用新案な どは,200 件を超えます. ③石岡の発明装置 石岡が特許を取った発明品の多くは,人やものを安全に出来るだけ小さな力で上下に動かすことと 結びついています.ザイルを使って安全確保をしながら山を登れるようになることと,リフトを使っ て車椅子などが安全に上下できるようになることは,石岡の中で自然につながるテーマだったので しょう.彼が発明した,ビルなど高所からの緊急避難装置などは,実用品として販売されたこともあ りました. ④自前の実験用鉄塔 昇降に関する自分の開発品が本当に安全であると認められるためには,検査基準を満たす高度での 実験が必要でした.そこで石岡は自宅の裏に 16 mの実験塔を自費で建設します.約5階建の高さの 「やぐら」のような鉄塔は,4階部分まで十数人の実験者が載って,5階部分から物を昇降させるこ とができます.この塔で実験を積み重ねることで,石岡はさまざまな装置の開発に励みました.彼の 死後の 2008(平成 20)年,塔は老朽化のため解体撤去されました. ⑤ロープの安全性に関する権威に ナイロンザイル事件をきっかけとして,石岡のもとにはロープの安全性に関する調査の依頼が舞い — 75 — 込むようになりました.物事をうやむやにせず,徹底的に検証する彼の取り組みによって,重大な ロープ事故の原因が解明されています. ⑥石岡の最期 2004(平成 16)年,最愛の妻敏子が心臓病で亡くなります.敏子の亡きあと悲嘆にくれた石岡は, 生きる希望も失ってしまいました.同年,石岡高所安全研究所も解散閉鎖してしまいます.しかし, 周囲の励ましや,残すべきものは残そうという強い意志から,ナイロンザイル事件に関わるまとまっ た著書を残すことに取り組みます.こうして,2005 年には『ザイルに導かれて』,2007 年には相田武 男氏との共著『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』が出版されます. 石岡は 2006(平成 18)年8月 15 日午前9時7分,名古屋第一日赤病院にて,大動脈瘤破裂の ショックによりあの世へと旅立ちました.ナイロンザイルの弱点隠しと闘い,その弱点克服に苦しみ ながらも,最期は「ザイルに導かれ」るという心境に至った彼の人生は,88 年の幕を閉じたのでした. ⑦石岡の志を伝えたい 石岡繁雄の沒後,岩稜会のメンバーや豊田高専・鈴鹿高専の教え子など石岡を慕う人々は,安全に 生涯を賭けた彼の志を伝えるため,彼の遺した膨大な資料の整理に取り組みました.こうしてまとめ られた資料は,文書・画像類が約 12000 点,物品が約 500 点になりました.歿後6年の 2012(平成 24)年8月,これらの資料のうち,文書・画像などは「石岡繁雄文書資料」として名古屋大学大学文 書資料室に寄託され,物品資料は「石岡繁雄コレクション」として名古屋大学博物館に寄贈されまし た. 特別講演会 1)2013 年 11 月 22 日(金)13 時半より 「ナイロンザイル事件発生のいきさつ」 石原國利氏(ナイロンザイル事件当時の登山パーティのリーダー) 2)2013 年 12 月 13 日(金)13 時半より 「厳しさと優しさ,愉快さが同居していた石岡さん」 相田武男氏(元朝日新聞社記者,「石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実」の共著者) 3)2014 年1月 17 日(金)13 時半より 「ながら山登りの楽しみ方─雲を読む,風を読む,光を読む─」 三矢保永氏(名古屋大学名誉教授,名古屋産業科学研究所上席研究員) (2013 年 10 月 15 日受付) — 76 — 名古屋大学博物館報告 (Bulletin of the Nagoya University Museum) の編集規約及び投稿規定 〔編集規約〕 1.発行目的 本誌は名古屋大学博物館の研究成果等を公表するために発行する. 2.投稿有資格者 本誌に投稿できる者は,①名古屋大学職員及びこれに準ずる物,②名古屋大学に籍を有す る学生・大学院生及び研究生,③編集委員会が事前に承認した者,の三者とする. 3.投 稿 原稿及び所定の別紙様式の投稿整理カードのデータを,CD もしくは USB メモリに入れ, 下記の宛先へ送付する.投稿整理カード及び印刷の注意書きについては,紙媒体での提出も 認める. 〔原稿送付先〕 〒 464-8601 名古屋市千種区不老町 〔原稿送付先〕 〒 464-8601 名古屋大学博物館 〔原稿送付先〕 〒 464-8601 『名古屋大学博物館報告』編集委員会 4.投稿締め切り 毎年 10 月 15 日(但し,当日が休日の場合は翌日)とするが,投稿は随時受け付ける(尚, 投稿が遅い場合は次年度号印刷になる場合もあるので注意のこと). 5.投稿原稿の受付 編集委員会は,投稿原稿が本誌発行目的と投稿規定に明らかに反している場合は,投稿原 稿を受け付けないことがある. 6.投稿原稿の受理 投稿原稿の受理は,原稿の種類(後述)に応じて査読を実施した後,編集委員会が決定する. 7.校 正 校正は誤植の訂正に限る.初校及び再校は著者が行う. 8.別刷り 50 部を著者に寄贈する(不要の場合は申し出る).希望者はさらに,著者負担で別刷りを 作ることができる. 9.著作権 本誌に掲載された著作物の著作権は名古屋大学博物館に属するものとする.ただし,著作 の全部ないし一部を筆者自身が他に利用する場合は,その出典を明示すれば足りるものとす る.第三者から転載申し込みのあった場合は,博物館が窓口となり,博物館と筆者との協議 により可否を決定するものとする. — 77 — 10. 『名古屋大学博物館報告』の体裁 A4 版,左綴.和文または欧文.横書きを原則とするが,縦書き等,他の形式も必要に応 じて認める.以下に文字数の目安を示す. 和文(横書き)刷り上がり,45 字,40 行,1 段組み(1800 字) 和文(縦書き)刷り上がり,34 字,26 行,2 段組み(1768 字) 欧文刷り上がり,100 ストローク,43 行,1 段組み(4300 字) 〔投稿規定〕 1.投稿原稿の種類 原著論文,短報,資料解説,その他. 2.投稿原稿の枚数制限 短報は刷り上がり 4 ページ以内,原著論文は刷り上がり 20 ページ以内を原則とする.なお, 刷り上がり 1 ページあたり,和文は約 1800 字,欧文は約 4300 字である. 3.投稿時の提出物 投稿原稿は Word 等を用いて A4 版用紙で作成し,全角文字は MS 明朝,半角英数字は Times New Roman,半角英数字の特殊記号は Symbol とする.四隅に幅 3 cm 程度の余白 をとる.投稿に際しては,投稿整理カード,テキスト,図,表,図版,印刷の注意書き等のデー タをコピーした CD もしくは USB メモリを提出する.なお,投稿整理カード及び印刷の注 意書きについては,紙媒体での提出も認める.提出された媒体は原則として返却しない. 4.投稿原稿の構成 原著論文,短報:表題,著者名,所属,住所,要旨(以上,和文,欧文とも),本文,引用 文献一覧を付ける.その他に,図,表,図版があれば,それぞれの説明文を付ける. 資料解説,その他:表題,著者名,所属,住所(以上,和文,欧文とも),本文,引用文献 一覧を付ける.その他に,図,表,図版があれば,それぞれの説明文を付ける. 5.印刷指定 印刷の指定や注意書きは,Word や PDF 等の注釈機能を用い,明確に指示する.印刷の 指定や注意書きを電子データで作成できない場合は,紙媒体に朱書し,明確に指示する. 和文の句読点は, 「.」(全角ピリオド), 「,」(全角コンマ)を用いる.欧文の句読点は“.” (半角ピリオド), “,”(半角コンマ)を用いる.数式や図表は印刷の便を考えて作成する. 6.引用文献の書き方 本文中で文献を引用する場合の例を以下に示す:「(Baumgartner, 1984; 鈴木ほか,1985; Yoshida et al., 2005)」,「Yoshida et al. (2005) は …」,「鈴木ほか(1985)は …」. 原則として著者名のアルファベット順に,著者名, (年),表題,誌名 / 書籍名,出版社名, 巻(号),ページを記す.誌名 / 書籍名は省略せずに記し,イタリックとする.巻数はボー ルドとする.先頭ページと最終ページの範囲指定はエヌダッシュを用いる. — 78 — <例> Baumgartner, P. O. (1984) A Middle Jurassic–Early Cretaceous low-latitude radiolarian zonation based on unitary associations and age of Tethyan radiolarites. Ecologae Geologicae Helvetiae, 77, 729–837. Holmes, D. (1978) Holmes Principles of Physical Geology, 3rd ed. Nelson, 730p. Nishida, S. and Mohamed, M. (2000) Preliminary study of the cuticular features in eleven angiosperm species from Klias and Binsulok, Sabah. Mohamed, M., Yusoff, M., and Unchi, S. (eds.), Klias-Binsulok Scientific Expedition, Universiti Malaysia Sabah, Kota Kinabalu, 35–41. Universiti Malaysia Sabah, Kota Kinabalu. 鈴木和博・佐脇貴幸・堀内達郎(1985)X 線マイクロアナライザによる全岩分析のためのガラス 新作成法.岩鉱:岩石鉱物鉱床学会誌 ,80,316–319. Yoshida, H., Takeuchi, M., and Metcalfe, R. (2005) Long-term stability of flow-path structure in crystalline rocks distributed in an orogenic belt, Japan. Engineering Geology, 78, 275– 284. 7.図,表,図版 図,表を入れる位置の指定は著者自身が行う.表は本文とは別のファイルで作成し,全て の表に通し番号を付ける(和文の場合は「表 1,表 2,…」,英文の場合は”Table 1, Table 2, ...” とする).図は本文とは別のファイルで作成し,全ての図に通し番号を付け(和文の場合は「図 1,図 2,…」,欧文の場合は”Fig. 1, Fig. 2, ...”とする),それぞれの図について刷り上が り寸法を印刷の注意書きにて指定する.図版(写真)は必要最小限の枚数とし,出来るだけ 原寸大のものを準備する.カラー図版は,その旨を印刷の注意書きにて指定する(カラー図 版の指定がない図については,原則的にモノクロ印刷する).カラー図版の印刷実費は著者 が負担する. ( (図 1, 2), 和文中で図や表を引用する場合は,以下の引用例を参考にする―(図 1) ,表 1), (図 1–3) ,(図 1;表 1, 2).欧文中で図や表を引用する場合は,以下の引用例を参考にする ―(Fig. 1), (Table 1), (Figs. 1, 2), (Figs. 1–3), (Fig. 1; Tables 1, 2).本文中に,全ての図表が 引用されていることを確認すること. — 79 — 『名古屋大学博物館報告』投稿整理カード 投稿原稿提出日 年 月 日 (編集部記入)受理: 年 月 日 和文 欧文 種別(○でかこむ) 原著論文 短報 資料解説 その他( ) 著者名 和文(欧文) 所 属 和文 (欧文) 連絡先所属 氏名 TEL: FAX: e-mail: 表題 和文: 表題 欧文: 原稿の枚数 本文: 枚 表(Tab1es): 枚 要旨(Abstract): 枚 図版(P1ates): 枚 図 (Figures): 枚 その他(Caption など): 枚 無料別刷(50 部) 要 不要 (いずれかに○) 有料別刷希望部数 部 その他の希望 — 80 — 名 古 屋 大 学 博 物 館 報 告 第 29 号(非売品) 2013 年 12 月 25 日発行 編集・発行 名 古 屋 大 学 博 物 館 〒 464-8601 名古屋市千種区不老町 電 話 052-789-5767 印 刷 名古屋大学消費生活協同組合印刷部 〒 464-0814 名古屋市千種区不老町1 電 話 052-781-6698