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Title 19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山

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Title 19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山
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19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者Ⅰ :
鉱業技術教育制度の沿革
工藤, 教和(Kudo, Norikazu)
慶應義塾大学出版会
三田商学研究 (Mita business review). Vol.49, No.6 (2007. 1) ,p.35- 50
科学技術教育の制度的整備の遅れとイギリス産業の「衰退」を結びつける議論が多い。このよう
な議論を吟味するには,具体的な技術教育組織の成立とそこで育まれた人々の実際の活躍の場を
検討してみることが不可欠である。19世紀から20世紀にかけての金属鉱業技術教育と鉱山技術者
について大量の観察を行なったディクソン論文の紹介を兼ねてこれを行なう。本稿では,まず前
提となる19世紀後半に姿を現す金属鉱業技術教育組織の成立過程を概観する。次稿においては,
ディクソンの成果を紹介しながら,それぞれの技術教育組織から育った技術者の特徴を考察する
予定である。
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234698-20070100
-0035
35
2006年12月14日掲載承認
三田商学研究
第49巻第6号
2007年 1 月
19世紀後半から20世紀初頭における
イギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
――鉱業技術教育制度の沿革――
工 藤
要
教
和
約
科学技術教育の制度的整備の遅れとイギリス産業の「衰退」を結びつける議論が多い。このよ
うな議論を吟味するには,具体的な技術教育組織の成立とそこで育まれた人々の実際の活躍の場
を検討してみることが不可欠である。19世紀から20世紀にかけての金属鉱業技術教育と鉱山技術
者について大量の観察を行なったディクソン論文の紹介を兼ねてこれを行なう。本稿では,まず
前提となる19世紀後半に姿を現す金属鉱業技術教育組織の成立過程を概観する。次稿においては,
ディクソンの成果を紹介しながら,それぞれの技術教育組織から育った技術者の特徴を
察する
予定である。
キーワード
科学技術教育,金属鉱山業,19世紀イギリス,ケンボーン鉱山学校,王立鉱山学校,鉱山・冶
金協会
はじめに
困難な問題が生起したとき,その問題の根源を教育に求める例は歴史上枚挙に暇がない。教育
をめぐる論議が多くの社会的問題の「犯人探し」の際に隆盛を見るのはなぜか。ある時代の教育
の成果は長い時間を経過して初めてその姿を現す。今問題を引き起こしている現象の原因とされ
る教育のあり方を決めたのは数10年前の政策当事者や関係者であって,決して現在の為政者の責
任ではない。また,現在の教育政策の効果は数10年先に現れるのであって,たとえ失敗であった
としてもその責任をすぐに追及されることはない。したがって,為政者や評論者たちにとって教
育は格好の題材となり得る。教育と経済パフォーマンスとの関係を 察するサンダーソンは,こ
1)
のような趣旨のことを述べている。加えて,教育の効果は,そこで育まれた人々の活動を媒介し
て実際には発現するので,その過程ではそれを担う人々の個性,置かれた環境等の影響を強く受
ける。教育そのものがどこまで問題の核心なのかはますます検証し難い。このため,研究史にお
1) Sanderson, Education and Economic Decline , pp.155-6.
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いても教育の功罪を問う議論は,延々と続くことになる。
19世紀第4四半世紀以降の,イギリスの経済パフォーマンスの,アメリカ,ドイツに比しての
悪さ,とくに電気,化学を中心とする「第2次産業革命」への乗り遅れを,イギリス科学技術教
育の未整備に原因の一端を求める見解についても上記のことが当てはまる。ランデスの古典的な
著作では,レッセ・フェール的な立場を取るイギリスにおける教育制度と制度的志向を深めるド
2)
イツの科学技術教育との比較が論じられた。衝撃的な論調のウィーナの著作ではイギリスの教育
3)
をとりまく社会的価値体系にまで議論は普遍化された。技術教育史に詳しく教育と経済変化(と
くに衰退)との関係を論じたローデリック,スティーヴンスの研究では,まさにこれが正面から
4)
論じられ, イギリス病」の犯人探しともなった。これに対して,ポラードは,少なくとも1914
年まで,イギリスは政府による全国画一の制度としての科学技術教育を確立しなくとも,それぞ
れの産業や事業体が独自の方法でイギリス流の技術教育を実現しており,それらが良く機能して
5)
いたことを指摘した。また,エジャトンは,技術教育の立ち遅れを精力的に主張した同時代人の
多くが,技術教育の利益代弁者であり,その主張を割り引いて聞く必要があること,イギリスの
技術教育はイギリスの方法でそれなりに良く役割を果たしていたこと,したがって,技術教育の
6)
遅れを経済パフォーマンスの停滞に結びつけることの困難さなどを述べている。またサンダーソ
ンは,技術教育の遅れとは何を指すのか,技術教育の進展・遅延と産業の成長・停滞の因果関係
を本当に求めることができるのか等をイギリスに加えてドイツ,フランスの例などを引いて述べ,
7)
正確な把握の困難さを指摘している。
科学教育をめぐる議論は現在でも2つの方向で語られている。その1つは,ウィーナの主張の
ような反産業主義的な空気がはたしてイギリスの教育全体に存在したのかどうか,それはどのよ
うな影響をイギリス経済社会に与えたのかというきわめて大きな分野での議論である。それは
8)
ルービンシュタイン,さらには「ジェントルマン資本主義」論までにも繫がる議論となる。他の
1つは,教育史・科学技術教育史の分野での蓄積である。学校制度として不備であるならば,い
かにして実際の科学技術教育がなされたのか。実践と経験を基にする「実践人(the practical
9)
man)」の時代が終焉を迎えつつあるとき,明らかに制度整備が遅れていたように見えるイギリ
スにおける科学技術教育の実態はいかなるものであったのか。この時代に数回設置された教育問
題,とくに科学技術教育に関する議会委員会の報告や証言に基づく研究などが,主に教育史の分
10)
野で多く残されている。わが国でも,三好,西沢,岩内諸氏の研究が,イギリスにおける科学技
2) Landes, Unbound Prometheus,訳書369-70頁。
3) Wiener, English Culture,たとえば第2章。訳書17-41頁。
4) Roderick and Stephens, Education and Industry.
5) Pollard, Britain s Prime, Chapter 3, pp.115-213.
6) Edgerton, Science and Technology.
7) Sanderson, Education and Economic Decline , pp.165-71.
8) Rubinstein, Capitalism, Culture.
9) Locke, The End of the Practical Man.
10) Ahstrom,Albu,Aldrich,Anderson,Ashby,Barnett,Cardwell,Green,Jarousch,Perkin,Wrigleyなど
末尾の参 文献参照。
19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
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11)
術教育の展開と産業の関係を論じてきた。
19世紀後半にロンドンが,世界の金属鉱山業のセンターとなったことは周知の事実である。そ
こでは,世界中の鉱山会社の株式が取引され,世界中で採掘された鉱物資源の取引が行なわれて
いた。世界の鉱山会社を起業する場合に必要な資本の調達のみならず,必要な会計知識,鉱山技
術や鉱山経営のノウハウの獲得などがこの都市で行なわれていた。そして海外の現地では,これ
らロンドンのコンサルタント会社との関係をもつ技術者がそれぞれ活躍していた。それでは一体,
このようなことを担った技術者たちは,どこから来てどこで教育・訓練をうけたのであろうか。
ハーヴェイとプレスは,ロンドンの世界鉱山業のセンター化とリオ・チント(Rio Tinto M ines)
に代表される世界的な鉱山企業やモーリング(Bewick,Moreing & Co.)のような国際的鉱山コン
サルタント会社がいかにして鉱山技術者(鉱山経営管理者を含む)を調達し得たかについて論じ
12)
ている。イギリス科学技術教育史の全般を論じるのは別の機会に譲り,本稿では鉱業技術教育,
とくに金属鉱業技術教育制度の成立過程とそこで教育を受けた鉱山技術者の世界的な活動領域の
13)
一端をディクソン(D. G. Dixon)の未公刊の博士論文の紹介を兼ねながら述べることにしたい。
このような実際の姿を明らかにすることが,上述のような印象的な議論に陥入りやすい経済パ
フォーマンスと教育との関係について1つの具体的な検討素材を与えると える。
Ⅰ
鉱業技術教育の展開
Ⅰ-a 源流
19世紀前半のイギリスにおける鉱業技術は,どのヨーロッパ大陸諸国でもそうであったように,
現場での実践から習得されていた。ただし,ドイツではフライブルク(Freiberg)鉱山学校のよ
14)
うに1766年と早くから国立の学校が 設され,鉱山技術教育が比較的組織的に行なわれていた。
このような時代に,イギリス国内はもとより国外で必要とされる金属鉱山技術者の供給源として
11) 末尾の参 文献参照。
12) Harvey and Press, Overseas Investment . 後に合衆国大統領となる Hoover もスタンフォード大学卒業
後,23歳でロンドンの Bewick, M oreing & Co.が管理・経営するオーストラリアの金鉱の技術者としてそ
のキャリアを始めた。Nash, The Life of Herbert Hoover, pp.50-1.
13) David G.Dixon, Results and Consequences,unpublished Ph.D.thesis. ここで本稿ならびに次稿の成り
立ちについて説明したい。筆者は1998年在外研究中のテーマとしてロンドンの鉱山コンサルタント会社の活
動を追いかけていた。この過程で,鉱山・冶金協会の機関誌 Transactions of the Institution of Mining and
Metallurgy の死亡記事が,鉱山技術者の教育歴,職歴を 察する材料になること,これに加えて Reeks の
編集になる Royal School of Mines(RSM )の卒業生名簿もまた参 になることに気づいた。このため,
協会機関誌の死亡記事から RSM 関係者の名前を抜き出し整理を始めた。20数名についてまとめたところで,
同じような作業を Dixon 氏が博士学位請求論文作成のために行なっており,また,その作業規模が672名を
対象とした比較にならないほど大きなものであることが判明した。そこで作業を中断し,Dixon 氏の論文
の公刊ないしは,それに基づく論文の発表を待つことにした。ところが,Dixon 氏はサザンプトン大学で
博士学位取得後,不幸にも病に倒れられた。論文の公刊の見通しがないままに彼の貢献が知られないで推移
することを惜しみ,ここでその紹介を兼ねて本稿と次稿を著すことにした。本稿では,前提しての鉱業技術
教育機関の沿革を自身の問題意識と知見を加えて紹介し,次稿では主に Dixon 氏の研究の成果を紹介する。
14) Roderick and Stephens, Education and Industry, p.140.
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の優位性を発揮したのは,ヨーロッパ有数の非鉄金属鉱業地であったイングランド南西部,デ
ヴォン,コーンウォール地方であった。銅そして後には錫の大量の産出に加えてタングステン,
砒鉱などがこの地では採掘され,これらを採掘する技術と監督能力とが現場での実践を通して蓄
積されてきていた。この結果,キャプテンと呼ばれた鉱山経営管理者は,国際的な活躍の場を見
15)
出していた。しかし,ハーヴェイたちによれば1870年代から引き続いた鉱山技術の革新はより多
くの科学的知識に裏付けられた訓練を必要とするようになり,技術者のタイプにも変更が生じ,
16)
従来のキャプテンのような「実践人」の位置は第2義的になったと言う。このような変化が生じ
るはるか以前から,鉱業技術教育の必要性は説かれていた。
世界的な鉱山コンサルタント会社の基礎を築いたテイラー(John Taylor)は,早くから教育
17)
制度の整備に熱心であった。若年期にデヴォンの銅鉱山の経営を任されたことから生涯の職業と
して鉱山業との関りをもつに至った彼は,1825年にコーンウォール鉱山学校の目論見書を書いて
18)
いる。彼はこの中で,実践による経験の蓄積こそ鉱業技術習得の基礎であることに変わりはない
が,新しい方法や他者が採用している方法の価値を正しく判断するためには,最新の理論や実践
的技術の変化についての情報をしっかりともっていることが必要であると説いた。そして,実践
の改善は知的な原理に基づいて行なわれていることを確信することが大切であるとした。頭脳明
晰な鉱山労働者に,当時では大陸のフライブルクやケムニッツの鉱山学校でしか得られないよう
な理論と実践的な知識を授けようとする提案であった。鉱山労働者がこの教育について行けるか
との懸念に対して, 鉱夫たちは,一般的に言って最も優れた人々である。なぜなら,鉱夫とく
に坑夫は,(採掘現場で)日ごろから常に物事に対する判断を求められているからである。
」とし
19)
た。彼の構想は,労働する鉱夫に科学的な理論的素養を授けることにあった。彼は, (鉱山学校
は,
)若者が坑内での労働を続けながら,彼らにとって最も有益な科学の説明を受けることがで
き,余暇の時間を最先端技術の実践例を見聞きし比較することに費やすことができる場である。」
20)
と述べた。
テイラーの提案は現実化することはなかったが,この後,鉱業教育の制度化に向けての動きが
断続的に続き,19世紀後半になってイギリスにおける鉱業教育の体系が姿を現すことになる。す
なわち,コーンウォールでの鉱山学校,ロンドンでの王立鉱山学校,そして鉱山・冶金協会とい
う技術教育制度の成立である。これらはそれぞれ相互に人的また理念的にも繫がりをもって展開
したものではあったが,成立過程それぞれには独自の側面も多く見られた。それ故,ここでは各
組織の沿革について年表を基礎としてまず眺めてみることにしたい。
15)
16)
17)
18)
Royal Cornwall Gazette, 7 April 1843, Harvey and Press, Overseas Investment , p.70.
Harvey and Press, Overseas Investment , p.72.
若年期の Taylor および彼の科学への貢献については,Burt, John Taylor に詳しい。
J. Taylor, Prospectus of a School of Mines in Cornwall in Taylor (ed.), Records of Mining, (1829 )
reprinted in Sheffield, (1986), pp.1-19, Burt, John Taylor, pp.67-9.
19) Burt, John Taylor, p.69.
20) Burt, John Taylor, p.68.
39
19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
Ⅰ-b コーンウォールでの鉱業教育の成立過程
テイラーの構想以降も,コーンウォールではいくつかの鉱夫教育の提案と試みが見られた。王
立コーンウォール協会(Royal Institution of Cornwall)会長のレモン (Sir Charles Lemon)は,
1838年に私財を提供してまず2年間ではあるが,鉱夫の教育を試みた。この試みは地元で好意的
に迎えられた。1839年には,代数,幾何,測量術などの講義が開講され,さらにロンドンのキン
グス・コレッジの教授などによる数学と機械工学の認定コースが設置された。これに自信を得た
レモン
は,1840年に初期費用として5千ポンドを投入するトゥルーロー(Truro)鉱山学校の
設立を提案した。これによると,500ポンドを彼が提供し,残りは地元の金属資源に少額の税を
課することによって調達することになっていた。さらに彼は,死後,彼の遺産のうち2万ポンド
を寄贈することも約束した。しかし,この提案は地元の鉱業界では冷ややかに扱われた。鉱山業
者たちが自らの出費に躊躇したこととか,レモン
の提案があまりにもイギリス国教会色が強
21)
かったことなどが原因として挙げられている。結局,この提案は撤回された。
1840年代には当地の有力な鉱業地権者バセット家の夫人の援助を受けたフィリップス(J.
Phillips)の鉱山技術学校が労働鉱夫を対象としてトゥルーロー,タッキングミル(Tucking22)
mill)で開かれたが,短期間で閉じられたようである。1853年に鉱夫教育に関心を強くもってい
た3団体,王立コーンウォール協会,王立コーンウォール地質学会(Royal Geological Society of
23)
Cornwall),王立コーンウォール・ポリテクニック会(Royal Cornwall Polytechnic Society)が集
い, 鉱山学校再建」について検討した。この会合は,それぞれの団体すべてに関わっていたハ
ント(Robert Hunt)の主導によるものであった。彼はデヴォンポート(Devonport)の出身であ
り,さまざまな職種を経験した後,ロンドンの実用地質学博物館(M useum of Practical Geology)ならびに鉱山学校開設の中心人物となったド・ラ・ベッシュ
(Sir Henry De la Beche)に
見出され鉱山記録所記録官(Keeper ofMining Records)となっていた。また,彼は後述するロン
ドンの国立鉱山応用科学学校 (Government School of Mines and of Science Applied to the Arts)
24)
開校当初の応用鉱山機械工学の教授を務めた。ハントにとっての関心は,永続する学校制度の構
築であった。とくに科学技術教育の唱導者プレイフェア
シュ
(Sir Lyon Playfair)やド・ラ・ベッ
の協力を得て,ロンドンの鉱山学校とコーンウォールを含む鉱業地での学校との連携,
ネットワークをも構想するものであった。1855年から3年間の試行としてトゥルーローで学校が
開設され,化学,鉱物学,数学,機械工学等が開講された。各学期末には,1853年設立された科
学技芸局(Department ofScience and Art)を代表してロンドンの鉱山学校の鉱物学鉱山学教授,
スミス(W. W. Smyth)が試験を行なった。受講者は当初多くはなかったが,それなりの成果を
21) Piper, A Short History, pp.10-1
22) Piper, A Short History, p.11.
23) コーンウォール・ポリテクニック会については,Roderick and Stephens, Scientific and Technical
Education, Chapter 7, pp.119 -33.
24) Dixon, The Results and Consequences, unpublished Ph.D. thesis, pp.24-7, Reeks, Register of Old
Students, p.37.
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学 研 究
鉱業技術教育関連年表
年
コーンウォール
1814
1818
1825 テイラー,コーンウィオール鉱山学校
目論見書を発表。実現せず
1835
1838 チャールズ・レモン の支援で3講師
による講座開設(トゥルーロー)
1840 レモン :5000ポンドでの鉱山学校設
立の提案。実現せず
1843
1840 バセット夫人の支援によるフィリップ
年代 スの鉱山学校(トゥルーロー,タッキ
ングミル)短期間存続
ハント,王立コーンウォールポリテク
ニック会セクレタリー
1847
1851
ロンドン
関係技師協会
王立地質学会
土木技師協会(1828年勅許)
ド・ラ・ベッシュ ,実用地質学博物
館ならびに鉱山記録所設置を提案
鉱山監督官制度導入(トレメンヒア初
代監督官)
炭鉱での爆発事故の連続などにより鉱
山学校設立の要請強まる(ヘンリー・
ド・ラ・ベッシュ ,リオン・プレイ
フェアー )
ハント,ド・ラ・ベッシュ の鉱山記
録所記録官(1845年)
機械工学技師協会(1878年勅許)
ド・ラ・ベッシュ ,実用地質学博物
館をジャーミン街に開設
国立鉱山応用科学学校開校(ハント,
応用鉱山機械工学教授)
1852
北部イングランド鉱山・冶金技師
協会(主に石炭)
1853 王立コーンウォール協会,王立コーン
ウォール地質学会,王立コーンウォー
ルポリテクニック会(ハントがすべて
に関係), 鉱山学校再建」検討
1854 プレイフェアー やド・ラ・ベッシュ
の指示・協力も見込む鉱山学校ネッ
トワーク構想
1855 3年間の試行で講義開始
科学技芸局設置に伴い鉱山・技芸応用
科学首都学校に改名
25)
あげた。3年を経て,財政的な見通しが立たないこともあって,この試みは中止された。しかし
この間,トゥルーローのクラスで実験室助手を務めていたピアス(Richard Pearce)が王立コー
ンウォール協会の支援を得て鉱業町各地で鉱業関連の講座を開設し受講者が増え続けていた。ピ
アス自身も協会の財政的援助によって,国立鉱山学校の3ヶ月コースで学んだ。ハントもピアス
26)
のセント・アグネス(St. Agnes)での講座の試験を担当した。
上述のような動きに対して,当初は必ずしも積極的ではなかった鉱業者自体が次第に鉱業教育
機関について関心をもつようになった。恒常的な鉱業技術教育の基礎となる機関の設立がハント
の呼びかけで実現した。1859年のコーンウォール・デヴォン鉱業者連盟(M iners Association of
Cornwall and Devon)の成立である。今回は鉱業に携わる人々の支持も一定に受けての開始で
27)
あった。ピアスの講座の発展を基礎にしていた関係で,講座はコーンウォールの鉱業中心地各地
に分散して開設された。1863年には,コーンウォール各地の11のクラスに200名の生徒が受講す
るまでになった。この年,科学技芸局の認証制度に申請し,修了者は全国に通用する資格を手に
25) Piper, A Short History, p.10.
26) Piper, A Short History, p.11.
27) Piper, A Short History, p.11, Roderick and Stephens, Scientific and Technical Education, p.106.
19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
1859 上記学校財政的支援不足により恒常化
せず
ハント,王立コーンウォールポリテク
ニック会会長
ピアーズの各地での講義を王立コーン
ウォール協会が支援
コーンウォール・デヴォン鉱業者連盟
成立,鉱山各地域(レドルース,ペン
ザンス,ケンボーン等)で講義を開始
1863 同学校,科学技芸局の認定制度採用
1869
1876 G. L..バセット(鉱山地主)実験室等
を寄贈(ケンボーン)
1880
1885 コーンウォール・デヴォン鉱業者連盟
とコーンウォール鉱山協会合併,コー
ンウォール鉱山連盟協会成立
1887 ベリンジャー「鉱夫の技術教育」につ
いて講演
1888 ケンボーン鉱山学校技芸学校初の入学
案内を発行
1889
1890
1892
1907
1909 ペンザンス校レドルース校をケンボー
ン に 集 約,ケ ン ボーン 鉱 山 学 校
(CSM )となる。
1923
41
王立鉱山学校(RSM )の名称使用
鉄鋼協会(1899年勅許)
1872年以来のサウス・ケンジ ントン
キャンパスへの移転問題決着,鉱山・
冶金部門(王立鉱山学校)も移転
鉱山技師協会(1918年勅許)
王立鉱山学校および王立科学学校とな
る
鉱山冶金協会(1915年勅許)
王立鉱山学校,王立科学学校,中央技
術学校(ロンドン・シティ・ギルド協
会 設立)統合 し,イン ペ リ ア ル・コ
レッジとなる
インペリアル・コレッジ,ロンドン大
学学位を授与
1993 CSM ,エクセター大学の一部となる。
Piper, A Short History of Camborne School of Mines, Reeks, Register of Associates, Harvey and Press, Origins and Early History
等より作成。
するようになった。また,生徒数419名を数えた1880年には,ロンドン・シティ・ギルド協会
28)
(City and Guilds of London Institute)の試験を受験できるようになって行った。
このように,全国レヴェルでの教育認証を獲得する鉱業教育制度ではあったが,一つの問題が
あった。それは,成立の事情を反映しての分散的な教育体制であった。鉱業技術教育をさらに発
展させるために必要な中心となる施設をもたなかったのである。ケンボーン(Camborne)には,
1876年に地元の鉱山地主で鉱業者でもあるバセット(G. L. Basset)によって寄付された実験室
があり,1882年には,それに隣接しケンボーン科学技芸学校が,やはりバセットの援助によって
整備され,鉱業技術関係講座が一式開設できるようになっていた。しかし,他の鉱山町,たとえ
ばレドルース(Redruth)やペンザンス(Penzance)などでも比較的多くの講座がもたれてい
29)
た。王立鉱山学校の卒業生ベリンジャー(J. J. Beringer)は,ケンボーンで初めて昼間に鉱夫
を対象に化学と鉱物分析学とを講義したが,彼がこの後ケンボーンを中心とする鉱山学校開設の
28) Piper, A Short History, pp.12-3, Roderick and Stephens, Scientific and Technical Education, p.111.
29) Piper, A Short History, pp.12-5.
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学 研 究
主導者となって行く。彼は1887年に恒久的な鉱山学校の趣旨と必要性を,コーンウォール・デ
ヴォン鉱業者連盟とコーンウォール鉱山協会(Mining Institution of Cornwall)とが統合して発足
30)
したコーンウォール鉱山連盟協会(Mining Association and Institution of Cornwall)で説いた。こ
の構想に基づいて,1888年にはケンボーンの学校は,鉱山科学技芸学校として初の入学案内を発
31)
行するに至った。ベリンジャーを校長とし,地元の最大の錫鉱山ドルコース(Dolcoath Mine)
のキャプテン,トマス(J. Thomas)を中心とする学校経営委員会委員の努力によって同校は基
礎を固めて行くことになった。この動きを受けて1909年,最終的にレドルース,ペンザンスで展
開していた学校講座を統合してケンボーン鉱山学校(The School of M etalliferous M ining, Cor32)
nwall: Camborne School of M ines)が発足した。すでに地元の非鉄金属鉱山は衰退し昔日の繁栄
を取り戻すことはなかったが,この学校はそのステイタス(学位発行権等)を変転させながらも,
高等教育としての鉱業技術教育を実施する場として存在し続けた。
テイラーに源を発し,レモン,ハント,ピアス,そしてベリンジャーに連なるこの地の鉱山学
校構想に一貫して流れていたのは,労働鉱夫への科学技術教育であった。このことは先に述べた,
ベリンジャーの鉱山連盟協会での講演によく現れている。大陸諸国や合衆国での優れた技術教育
に伍して行く必要性が増したこと,学ぶのが裕福ではない労働鉱夫なので資金提供者が必要なこ
と,それには資金提供者自身が技術教育の目標を明確にする必要に迫られていることなどから,
まずこの地で技術教育が注目されるようになった事情を説明した。その上で,彼は,技術訓練・
教育が必要とされる理由を,技術知識の普及,自然科学の産業技術への応用,そして行き過ぎた
分業の是正の3つに分けて述べている。技術知識の普及については,多くの技術情報が出版物の
形で提供されるようになればなるほど,それらを知的な関心をもって正確に読み理解する基礎能
力を身につける必要が鉱夫たちには求められると指摘した。自然科学の応用に関しては,基礎と
なる化学,天文学,数学など応用科学に留まらない一部の純粋科学を理解する素養が鉱夫の思
力訓練には必要であると述べた。さらに,鉱夫たちが科学技術教育を受ければ,専門家でなくと
も測量技師や鉱物分析学者の言葉を理解し,広い視野をもつ鉱夫に成長することができ,行き過
33)
ぎた分業がもたらす弊害(職業の固着)を減じることができると説明した。テイラーが構想した
階級間の壁を乗り越える手段としての教育の理念がここには受け継がれていたと言える。
鉱夫への教育と並んでこの地の鉱業教育の成立過程で重視されたのは,実践である。かつての
ように実践からのみ技術を習得することではないとしても,決して教室での教育・実験が実践に
代替するものではないとされた。教育は実践の補完物であった。昼間の講義を開始したベリン
ジャーでさえ,昼の労働を終えての夜間の学習を基本として見ていた。実践重視の姿勢は,実習
鉱山の確保に現れていた。ケンボーン鉱山学校が実質的に 設された1888年当時,最盛期は過ぎ
たとは言え多くの地元の鉱山が操業していた。したがって実習鉱山の選定にはそれほどの苦労を
30)
31)
32)
33)
Beringer, The Technical Education , pp.164-9.
Piper, A Short History, p.16.
Piper, A Short History, p.22.
Beringer, The Technical Education , pp.165-7.
19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
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しなかった。しかし,19世紀末ともなると,学校自身が鉱山をもつ必要に迫られた。1897年にサ
ウス・コンダロー鉱山(South Condurrow Mine)東鉱区のリースを受け,これをキング・エドワー
ド鉱山と命名し実習鉱山とした。実習鉱山は,1919年にはこの鉱山の水没によって代替鉱山に
34)
移った。
上述のような「地域有力者」
, 地元鉱山業者」
, 労働鉱夫への技術教育」
, 実践重視」などの
言葉で代表し得るコーンウォールの鉱業技術教育の成立過程,具体的にはケンボーン鉱山学校の
成立過程にあった理念と目標が,はたしてその後,理想通り推移したかについては検証が必要な
課題である。
Ⅰ-c 王立鉱山学校の成立
テイラーのように大陸諸国と比しての鉱業教育機関の整備の遅れを説く者もいたが,ロンドン
では概してその必要性についての認識は低かった。しかし,相互に関連しているが2つの方向か
ら鉱業技術教育の必要性が主張されるようになった。
その一つは,1842年の議会の児童雇用委員会報告に基づく鉱山監督官制度の設立である。初代
の監督官となったトレメンヒア(H. S. Tremenheere)は, フランス,ベルギー,ドイツでの立
派な鉱山学校が与える多大な恩恵について誰も知らない。わが国ではこの明白な有用性を長い間
35)
無視してきた」と述べて鉱山学校の必要性を説いた。また,相次ぐ炭鉱での事故を受けて設置さ
れた議会委員会も, 現在,(事故防止の)指導はこの職業にある人々やこれを指摘することがで
きる資格をもつ人にほとんどなされていない。それが教授されるべき大陸諸国にあるような鉱山
36)
学校・大学の必要性が感じられる。
」と報告した。鉱業者が正確な科学的知識をもって操業するこ
とこそが事故を未然に防止できるというものであった。
他方で,地質測量委員会(Geological Ordnance Survey)のド・ラ・ベッシュ は,コーンウォー
ルの調査をしている過程で,実用地質学の有用性を強く感じた。そしてこれを示す博物館と鉱山
活動の記録を一箇所に集めておくことの必要性を強く説き,実用地質学博物館と鉱山記録所
37)
(Mining Record Office)構想を1835年に国庫庁長官(Chancellor of the Exchequer)に訴えた。大
英国学術協会(British Association for the Advancement of Science)の後援を受けてこの計画は進
められ,その過程で,博物館に付属して鉱石見本の蒐集・分析や鉱業技術の検討を行なう講座が
開設された。
1851年の大英博覧会での収入と,科学技術教育に関心が高かったアルバート公の支援を受けて,
ロンドンのジャーミン街(Jermyn Street)とピカデリー街(Piccadilly Street)とに面した建物に
ド・ラ・ベッシュ の構想した本格的な実用地質学博物館が開設された。これと同時に,鉱業技
術教育を行なう学校としての国立鉱山応用科学学校が同じ建物に開設された。鉱山学校の意義に
34)
35)
36)
37)
Piper, A Short History, p.29.
Teremenheeres Report 1849 quoted in Dixon, unpublished Ph.D. thesis, p.23.
Committee on Mine Accidents, p.ix.
Sir Henry De la Beche, Inaugural Discourse in Records of School of Mines, pp.1-2, および Reeks,
Register of Old Students, p.12
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38)
ついて,この学校の開校講義でド・ラ・ベッシュ は以下のように述べている。
アイルランドを含むグレート・ブリテンでは,年に2千4百万ポンドにも上る鉱物資源を
生産しています。これはヨーロッパ全体の9分の4にもあたる数字です。しかし,これまで
このような多額の生産をしている人々に適切な指導をする機関がありませんでした。幾人か
は大陸の諸国の政府が設立した鉱山学校に学びその後貴重で有益な人材として活躍していま
す。しかし,大多数の鉱夫たちは適切な指導を受けることもなく,せいぜい狭い地域で技術
についての意見交換をしているに留まっています。……(中略)……イギリスを除くヨー
ロッパの主要な鉱業国では,鉱山学校が整備され,そこでなされる研究の価値がどれほどの
もので,それが無駄な出費をどれほど防いでいるかよく認識されています。
このように,他国の教育機関を意識し,鉱業技術者育成教育のために開設されたはずのロンド
ンの鉱山学校ではあったが,イギリス全体の科学技術教育のあり方をめぐる動きに強く影響を受
け,しばらくは不安定な立場に置かれることになった。1853年に商務省の中に科学技芸局が設置
されると,同校は実用地質学博物館,地質測量部などと共にこの管轄下に入った。さらに1845年
に開設されていた王立化学コレッジ(Royal College of Chemistry)とも合併して,鉱山技芸応用
科学首都学校(M etropolitan School of Science Applied to M ining and Arts)となり産業に応用さ
39)
れる科学を教育する学校へと教育範囲が拡大させられた。逆に見ると鉱業技術教育はその一部門
となることであった。これは,科学技芸局の全国の産業中心地に産業に関する科学技術学校を成
立させようとする試みの一環でもあった。科学技芸局の教育構想は以下のような区分を伴ってい
40)
た。
一般部門:応用科学についての一般的な知識を欲する人々を対象とする。
鉱山・冶金部門:鉱山・冶金を学ぼうとする学生を対象とする。
技術部門:化学的,機械的な技能を要する職業に携わろうとする人々を対象とする。
労働者部門:講義によって労働者を指導する。
鉱山・冶金部門で学んだ学生は,最初の10年の間,毎年の正規入学者が平
14名,非正規生
(開講コースの一部に出席)50名前後,合わせても60数名と当初の期待よりは少ないものであっ
41)
た。しかし,産業への応用科学教育一般の一部門としての位置は,他国の鉱山学校を理想とする
者たちにとっては不満足なものであった。1859年には上記の一般部門と技術部門が廃止された。
化学科は残ったが鉱山・冶金への応用を強く意識したものへと変更され,鉱山学校の特徴を強く
38)
39)
40)
41)
Sir Henry De la Beche, Inaugural Discourse in Records of School of Mines, p.14.
Reeks, Register of Old Students, p.67.
Reeks, Register of Old Students, pp.68-9.
Reeks, Register of Old Students, p.63.
45
19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
出そうとする動きがあった。1863年からは王立鉱山学校(Royal School of Mines)の名称を正式
42)
に使用するようになった。
1863年の委員会では,科学技術教育の中心をサウス・ケンジントン(South Kensington)に集約
43)
しようとする方向が打ち出されたが,これをめぐって王立鉱山学校内部に分裂が生じた。これは
単に,キャンパス移転の問題ではなく,ド・ラ・ベッシュ の構想した鉱山学校の理念が他の科
学技術教育学校の中に埋没することを恐れた,言わば鉱山学校の独立性維持を目指すか否かの選
択問題としてであった。サウス・ケンジントン移転問題は1872年に化学,物理,生物の学科が移
転するに及んで本格化した。地学,応用機械工学などもこれに続いた。学校の起源ともなった実
用地質学博物館と鉱山記録所から離れることができないとして最後まで残った鉱山・冶金学科も
1880年に移転し,ここに鉱山学校のジャーミン街時代は幕を閉じた。1881年には,鉱山・冶金部
門から派生した科学教員養成の関連学科を科学学校(School of Science)として独立させ,1890
年には,王立鉱山学校,王立科学学校(Royal College of Science)としてそれぞれ明確に法人化
された。さらに1907年には,これらとロンドン・シティ・ギルド協会によって1881年に設立され
ていた中央技術学校(Central Technical College)が合併し,インペリアル・コレッジ(Imperial
College of Science and Technology)となり,イギリスの科学技術教育の重要な一翼を担うことに
なった。
コーンウォールでの鉱山学校成立の過程と比べ,当然のことではあるが,ロンドンでのそれは
国全体の科学技術教育に向けての姿勢に強く左右されていた。鉱業の重要性を認識し,外国の鉱
山学校を強く意識して有力な識者が 設した鉱山学校は,科学技術教育の実績を積むことになっ
た。それ故に実績ある構成要素として科学技術教育一般に組み込もうとする動きと, 立当初の
理念を貫き鉱山学校としての発展を目指す動きとの相互交渉が成立過程には現れたと言える。た
だし,独立した鉱山学校を目指した立場にとっても,コーンウォールの学校でもそうであったよ
うに,ここで成立した鉱山学校が,実践的技能の訓練のみを主眼としたものではなく,理論と実
践の最適な組み合わせを狙っていることには変わりがなかった。王立鉱山学校が,科学理論の教
44)
育に熱心で,鉱業技術者が職業上必要な技術には役立たなかったとの意見もある。鉱山業の現場
ではなく教職などに入った者も多かった。しかし他方で,ここの卒業生(Associates)や一部
コースの受講者が世界各地の鉱山で活躍したのも事実である。実態についての定性的のみならず
定量的な 察も重要である。
Ⅰ-d 鉱山・冶金協会
19世紀に専門技術者が自らの地位を確立し始めると,結成の要因にはいくつかの違いがあるも
のの同業の技術者が団体を形成するようになった。学校教育ではないが,これらの団体が果たし
た専門の技術教育機能は無視できないものがある。各団体の結成理由,機能についてはブキャナ
42) Reeks, Register of Old Students, p.102.
43) Reeks, Register of Old Students, p.111.
44) Roderick and Stephens, Scientific and Technical Education, p.103.
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45)
ン(R.A.Buchanan)の詳細な研究があるので,ここでは鉱山・冶金業に関する技術者協会の成立
過程と特徴を一 するに留めたい。鉱山・冶金業における専門技術者団体は,1892年に結成され
た鉱山・冶金協会(Institution of M ining and M etallurgy)である。この結成の背景には,19世紀
末に向かっての鉱山・冶金技術の高度化があった。ハーヴェイなどが触れたように単なる経験に
基づく技術から科学的知識に裏づけされた技術への変化である。さらに,世界的な鉱山業の展開
につれて,鉱山企業やコンサルタントなどは信頼できる鉱山技術者を求めていた。この保証を与
えてくれる団体が必要であった。また,鉱山技術者たちも世界各地に赴き仕事をするようになる
と,その地の地質条件はもとより法的な規制や慣習などについての知識や情報を欲するように
なっていた。
1889年に,ベル
(Sir Lowthian Bell)を長とする鉱山技師協会(Institution of M ining Engi-
neers)が結成された。しかしこれは,当初 Federated と呼ばれていたように,それまでにイ
ングランド北部で組織されてきていた幾つかの石炭鉱山技師協会の連合体的な意味合いをもって
成立していた。したがって,当時世界的な場面で活躍している金属鉱山技術者たちにとっては,
自らのステイタスを示すとともに,技術情報はもとより法的,制度的あるいは鉱山管理上有益な
情報を交換できる場と見るには物足りないものであった。有力な鉱山コンサルタント会社などが,
世界金属鉱業の中心地となっているロンドンに鉱山・冶金技師の協会を設立すべきだとの主張を
繰り返した。折しも,マイニング・ジャーナル誌(the Mining Journal, MJ)の社主兼エディター
が企画した国際鉱業・冶金博覧会がロンドンのクリスタル・パレスで1890年に開催されると,ま
46)
すますその動きが強まった。
1892年,石炭鉱山技師を除いて,113名の
立会員を有し,鉱山コンサルタント会社社長シー
モア(G. Seymour)を長とする鉱山・冶金協会が発足した。発足の事情が示すように,会員資格
には厳格な基準が設けられていた。確立した3名の会員の推薦を受け,実践経験だけではなく,
しっかりした技術理論を身に着けた者のみが入会を許された。したがって,コーンウォールの
47)
キャプ テ ン と い う だ け で は 入 会 で き な かった。 会 員 に は,正 会 員(M embers),賛 助 会 員
(Associates),学生会員(Students)の3つのカテゴリーがあった。厳格な入会資格を求めては
いたが会員数の増加には著しいものがあった(表1)。また同時に,発足当初からきわめて国際
的な性格を帯びていた。表2はこれを良く示している。これは1890年代から1900年初頭にかけて,
王立鉱山学校の学生が増大した流れと軌を一にしている。金属鉱山業において, 実践人」の時
代はすでに終幕を迎えていたと言える。この場に参加することが国際的な鉱山業の技術者として
認められることになった。この協会は,年次総会だけではなく定期会合を開いていた。鉱山技術
45) Buchanan, Industrial Proliferation , do., The Engineers.
46) Harvey and Press, Origins and Early History, pp.A171-2.
47) 1892年末,170名の会員を数えたが,コーンウォールのキャプテンは9名に過ぎなかった。Harvey and
Press, Origins and Early History,p.A173. 時代は下るが,このことは1922年に会長 S.J.Speak によって
なされた総会での基調報告によく表されている。彼は言う。 この協会の一つの目的は教育を受けた技術者
と単なる現場の実務経験者とを明確に区別することにあった。このことは今までのところ達成されてきたし,
うまく行なわれているようだ。実務経験のみによる技師はいまやいなくなろうとしている。
」Transactions
of the Institution of Mining and Metallurgy(Trans. IMM )Vol.31, 1921/1922, p.xxx.
47
19世紀後半から20世紀初頭におけるイギリス鉱業技術教育と鉱山技術者 Ⅰ
表1
名誉会員
鉱山・冶金協会の会員数
正会員
賛助会員
学生会員
合計
1892
0
117
29
24
170
1896
1900
4
7
224
375
117
175
104
174
449
731
1904
1908
12
11
571
714
337
563
326
511
1246
1799
1912
1914
9
6
871
961
828
962
550
563
2258
2492
出典:Harvey and Press, Origins and Early History, p.A173
Transactions of the Institution of Mining and Metallurgy, 各号
表2
鉱山・冶金協会会員の地理的分布
1892
1905
1914
119
13
578
70
973
113
アフリカ
アメリカ
15
6
276
169
467
363
アジア
オーストラリア
11
6
89
120
220
174
170
1302
2310
イギリス
ヨーロッパ
合計
出典:Harvey and Press, Origins and Early History, p.A173
Transactions of the Institution of Mining and Metallurgy,I,1892-93,pp.21-29
および同誌1905年,1914年各号の会員リスト(不明分を除く)
者や監督者,コンサルタントに有益なさまざまな講演・シンポジウムが設けられた。たとえば,
1900年10月,11月の2回の定例会では,各国の鉱業法についてのテーマを絞った報告と討論がな
48)
49)
された。この他,各国鉱山の実例(1905/1906年には「日本の金鉱」についても発表された),鉱山技
術の紹介,鉱山会計の標準化の試み等,広い範囲にわたる報告と討論があり,機関誌に発表され
た。この協会は,金属鉱山の「投機的」と見られがちな評判を是正する努力もし,各人に厳格な
50)
行動規範を求めることもあった。正会員はもとより「学生会員」カテゴリーの者も,この場で最
新の技術を学ぶことができた。この点で,会員に対しても含め,さまざまな教育機能をこの協会
は果たしていた。
Ⅰ-e 今後の課題
成立の事情はこのように異なるこれら2つの学校と1つの技術者協会ではあるが,金属鉱業技
48) Trans. IMM , Vol.9, 1900/1901, pp.2-67.
49) Trans. IMM , Vol.15, 1905/1906, pp.202-26.
50) Trans. IMM , Vol.6, 1897/1898, p.192.
48
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学 研 究
術教育を制度的に担って行くようになった。これらを材料として当時の鉱山技術者・監督者の教
育・訓練そしてキャリア形成の実態を把握できれば,教育と経済活動の関係に関する 察に一つ
の貢献ができると
える。
鉱山・冶金協会機関誌(Trans. IMM )は第19号(1909/1910年)から会員の「死亡記事」を掲載
し始めた。これには,その技師・監督者の出身校(もしくは訓練を受けた方法・場所)ならびにその
後のキャリアが記されている。これを大量観察することで当時の技術者の教育・訓練の場とその
特徴,さらには彼の活躍の場の一端を知ることができる。この成果をあげたのがディクソンであ
る。この紹介と補足を近々の課題としたい。(未完)
参
献
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