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第2章 三浦の歴史

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第2章 三浦の歴史
第2章 三浦の歴史
大椿寺の埴輪(三浦市撮影)
来福寺の和田義盛像(三浦市撮影)
<拝観の場合は要連絡>
<拝観不可>
空から見た新井城址(京急油壺マリンパーク提供)
- 2-1 -
1
原始時代
三 浦 に ヒ ト が 住 み つ い た こ ろ =旧 石 器 時 代
関東地方では、約2万年くらい前の地層から石を打ち砕いて作った打製
石器が見つかっており、三浦半島でもその頃から人々が住みついていただ
ろうと考えられています。この頃はまだ土器が発見されていないため「旧
石器時代」と呼ばれています。
こ
あ じ ろ
みず
や
と
おおば たけ
三浦市のこの時代の遺跡としては小網代の水谷戸や松輪の大 畑などが
こく よう せ き
あり、ローム層の赤土の中から黒曜石などの石器が見つかっています。三
浦 半 島 の 遺 跡 の 特 徴 は 、 い ず れ も 当 時 の 海 岸 か ら 離 れ た 海 抜 100 ~ 150m
くらいの見通しのきく台地にあったことです。
りょう
じょうもん
狩 り や 漁 中 心 の 生 活 =縄 文 時 代
今から1万年ほど前から、気候が暖かくなるとともに活発だった火山活
動もおさまってきました。大陸をおおっていた氷河がとけて海水面が高く
なり、日本列島は大陸から切り離されました。
ちょうどこの頃から土器と弓矢が使われるようになり、稲作が始まるま
で の 約 8000 年 の 間 、 狩 り や 漁 ・ 採 集 を 中 心 と し た 生 活 が 営 ま れ て い ま し
た。使われていた土器に縄目の模様がつけられることが多かったので、こ
の時代を「縄文時代」と呼んでいます。
三浦半島には、当時の入り江や内湾に面して縄文時代の貝塚遺跡が数多
く あ っ て 研 究 も 進 ん で い ま す 。横 須 賀 市 の 夏 島 貝 塚 の 土 器 や 平 坂 の 人 骨 は 、
縄文時代の研究の上で全国的にも大変貴重なものです。
(いずれも戦後に発掘された縄文早期の遺跡で、夏島遺跡は出土物が炭素年代測定で
約 9000 年 前 と 測 定 さ れ た 古 い 土 器 の あ る こ と で 、 ま た 、 夏 島 遺 跡 は 平 坂 人 骨 の 見 つ か
っ た こ と で 有 名 で す 。)
- 2-2 -
み
と
も ろ いそ
三浦市内にも松輪の大浦山・三戸・諸磯などに多くの遺跡があり、縄文
土器をはじめ石器・動物や魚の骨などたくさんの遺物が見つかっていま
す。また、諸磯遺跡では竪穴住居も見つかっており、海の貝や魚あるいは
陸の小さな獣や木の実などをとって食料とし、1か所に住みつく生活をし
ていた縄文時代の人々の暮らしがわかってきています。三浦市内から出土
し た 土 器 は 、「 三 戸 土 器 」・「 諸 磯 土 器 」 な ど と し て 縄 文 時 代 年 代 区 分 の 標
準土器とされています。
三浦市内から出土した土器や石器などの遺物は、これ以降の弥生時代や
古墳時代のものなどもふくめて初声にある市文化財収蔵庫に収められ、い
つでも見学できるようになっています。
(三浦市所有)
(編集委員作成)
- 2-3 -
や よ い
赤 坂 遺 跡 に 住 ん だ 人 々 =弥 生 時 代
今 か ら 2400 年 く ら い 前 ( 紀 元 前 4 世 紀 こ ろ ) に 日 本 に 稲 作 が 伝 え ら れ る
と 、 人 々 の 生 活 が 大 き く 変 わ り ま し た 。 狩 猟 ・ 採 集 の 時 代 か ら 、 農 業 (栽
培 )を 中 心 と し た 時 代 に 移 っ て い っ た の で す 。 貯 蔵 を 主 目 的 と し た 薄 手 で
硬い弥生土器が使用され、そのほか稲作のための石包丁や青銅器・鉄器な
どの金属器も使われるようになってきました。この時代を、土器の発見さ
れた東京の地名をとって「弥生時代」と呼んでいます。
三 浦 半 島 で も 、 近 く に 湧 き 水 の 出 る 谷 戸 の あ る と こ ろ を 中 心 に し て 20m
以 上 の 台 地 で 多 く の 遺 跡 が 発 見 さ れ て お り 、 紀 元 前 後 (弥 生 時 代 中 ・ 後 期 )
から半島各地に弥生文化が広がっていたことが確認されています。
あ そ び がざ き
さいきょうごめ
三 浦 市 内 で は 、 赤 坂 (初 声 )・ 大 浦 山 (松 輪 )・ 遊 ヶ 崎 (城 ヶ 島 )・ 才 京 込
(諸 磯 )な ど の 多 く の 遺 跡 が 発 見 さ れ て い ま す 。 特 に 赤 坂 遺 跡 か ら は 以 前 か
ま が たま
てつ お の
ら 勾 玉 や 鉄 斧 な ど が 発 見 さ れ て お り 、 1977 ( 昭 和 52 ) 年 に 行 わ れ た 遺 跡 全 体
の 約 1/100 に あ た る 部 分 の 本 格 的 調 査 で は 、 多 数 の 住 居 跡 が 発 見 さ れ る と
と も に 東 日 本 最 大 級 の 住 居 跡 ( 15m × 12m ) も 見 つ か り 、 全 国 的 に も 珍 し い
大規模遺跡であることが確認されました。これは、この赤坂遺跡が三浦半
島の拠点的集落であったことを示しているばかりでなく、弥生時代後期の
ムラからクニヘの移行期を考える重要な遺跡として注目を集めています。
そして現在、こうした赤坂遺跡を国指定の史跡として保存することが検討
されています。
ど うけ つ
び しゃ もん
ま た 、大 浦 山 洞 穴 や 毘 沙 門 洞 穴 な ど 、
海に突き出た台地の先端にあるたくさ
んの大小の洞穴の中からも、多くの骨
ぎ ょ ろう ぐ
角器や貝製の漁撈具が発見されていま
す。このことは、この地方では縄文時
代に引き続いて漁や採集が生活の中心
であったことを示しています。
(赤坂遺跡調査団撮影)
- 2-4 -
さらに、これらの洞穴からは、多くの遺物と共に人骨や占いに使われた
ぼっ こ つ
ト骨も発見されています。このことから、当時の人々が洞穴を生活の場と
してだけではなく、占いや埋葬の場として利用していたことがうかがえま
す。
特 に ト 骨 は 、『 魏 志 倭 人 伝 』 や 『 古 事 記 』 に 登 場 す る 占 い の 道 具 で し た
ま ぐ ち
が 、 1949 ( 昭 和 24 ) 年 に 間 口 洞 穴 ( 松 輪 ) か ら 日 本 で 初 め て 発 見 さ れ ま し た 。
文字でしかわからなかったことが、三浦半島の地において実物として確認
されたことは、歴史的に見てもとても重要な意義があります。
もみ跡が見られる土器
< 三戸原 出土>
(三浦市所有)
弥生時代の漁撈具
ト骨ー占いに使用した骨
< 大浦山洞穴遺跡出土>
<大浦山洞穴遺跡出土>
(三浦市所有)
(三浦市所有)
弥生時代の漁撈具
弥生時代の土器
(海外洞穴遺跡出土)
(赤坂出土)
(三浦市所有)
(三浦市所有)
- 2-5 -
2
古代
古墳が作られたころの時代
き ん き
3世紀から7世紀にかけて、近畿地方を中心に全国各地に大小多数の古
墳が作られるようになりました。農業の発展とともに人々の間に富と力の
ご うぞ く
差があらわれるようになり、その地域を支配した豪族がその富と力の
しょ うち ょう
象
ご う か
ふ くそ う ひん
徴として、豪華な副葬品をそなえた高塚墳を作っていったのがこれに
あたります。
三浦半島でも、少し遅れて5世
紀から8世紀にかけて古墳が各地
で見つかっています。前方後円墳
などの大きなものは少なく、丘の
上に作られた比較的小さな円墳が
中心で、当時の海岸を見わたす場
所に多く作られています。古墳時
代の後半になると、山や海岸の崖
に横穴を掘って墳墓としものが多
く見られるようになります。
三浦市内には図のようにたくさ
んの古墳が分布していますが、そ
の多くは横穴古墳です。それらの
(斉藤氏作成)
中には、まだきちんと調査のすんでいないものが数多くあります。
だ いち ん じ
向 ケ 崎 (三 崎 )の 大 椿 寺 裏 山 の 円 墳 は 、 城 ヶ 島 大 橋 の 工 事 の 際 に 古 墳 の 形
が こ わ さ れ て し ま い ま し た が 、 そ の 工 事 の と き に 人 物 (第 2 章 の と び ら の
ペ ー ジ )や 兜 ・ 馬 な ど の 埴 輪 が 発 見 さ れ て い ま す 。 ま た 、 菊 名 の 白 山 神 社
きりづま づ く り つま い り が た こ ふ ん
裏の横穴古墳は家の形をした「切妻 造 妻入形古墳」と呼ばれる形式で、
内部は棟や柱などが浮き彫りにされていたり、一部には朱塗りのあとが見
られるものです。
- 2-6 -
このようにたくさん残る古代の古墳・遺跡・古代の東海道が通っていた
こ と 、『 古 事 記 』・『 日 本 書 紀 』 に 出 て く る 日 本 武 尊 が 三 浦 半 島 か ら 房 総 半
島に渡ったという伝説があることなどを考えたとき、当時の三浦半島の人
々の生活が中央と結びついていたことがうかがえます。
子持ち勾玉<三戸出土>
大椿寺裏山古墳出土
白山神社古墳
(三浦市撮影)
の馬型埴輪
(三浦市撮影)
<神奈川県立歴史博物館所蔵>
( 三浦市撮影)
奈良・平安時代の三浦
「 三 浦 」 ( 御 浦 ) と い う 地 名 が 初 め て 古 い 文 献 に 出 て く る の は 、 720 年 に
完 成 し た 奈 良 時 代 の 歴 史 書 『 日 本 書 紀 』 の な か で す 。 692 年 の 項 の な か に
かのとのひつじのひ
「辛
みこと もち
からす
ひな ふ た つ た て ま つ
まう
みうらのこおり
未 に 、 相 模 国 司 、 赤 烏 の 雛 二 隻 献 れ り 。 言 さ く 、『 御 浦 郡
え
ふ せ の
あ そ み しこ
ふ
ち
ら
す けの み や つ こ
に 獲 た り 』」、「 相 模 国 司 布 勢 朝 臣 色 布 智 等 ・ 御 浦 郡 少
か しま の おみ
く
す
くらい
もの たま
ふた と せ
領と、赤烏獲た
え つ き ゆる
る 者 鹿 嶋 臣 橡 樟 と に 、 位 及 び 祿 賜 ふ 。 御 浦 郡 の 二 年 の 調 役 服 す 。 ①」 と あ
ります。
しょうそういん
ま た 同 じ く 奈 良 時 代 の 正 倉 院 文 書 に は 、735 年 の『 相 模 国 封 戸 租 交 易 帳 』
ひ び る ごう
として檜前女王の土地「御浦郡氷蛭郷」があげられ、田の大きさや税の額
ひ る た
が記されたりしています。この氷蛭郷とは、今の金田の蛭田の地域を指す
とされています。いずれも、天皇を中心とした律令体制が三浦半島のすみ
ずみまでいきとどいていたことがよくわかります。
わみょうるいじょうしょう
た
づ
さらに平安時代の『和 名 類 聚 抄』という書物には、御浦郡に「田津、
あ
い
御 浦 (美 宇 良 )、 氷 蛭 (比 々 留 )、 三 崎 (美 佐 木 )、 安 慰 」 の 5 つ の 地 名 が 示 さ
れ て い ま す (具 体 的 に は ど こ の 地 域 を 指 す か 不 明 の 点 も 多 い )。
① 読 み 方 は 岩 波 書 店 発 行 『 日 本 古 典 文 学 大 系 68
日本書紀下』による。
- 2-7 -
このように、奈良時代から平安時代にかけての三浦のようすは都にあっ
たいくつかの文書に出てきますが、文書の数も少なく、まだまだ具体的な
ようすはわかっていないのが実情です。
か い なん
海南神社のいわれ
毎 年 7 月 17 日 か ら 3 日 間 に わ た っ て 盛 大 な 祭 り が 行 わ れ て い る 海 南 神
社には、次のような言い伝えがあります。
す け みつ
奈良時代に中央の貴族であった藤原一族の藤原資盈は、貴族同士の争い
に巻き込まれて九州から三崎へ流れつきました。資盈は房州の海賊を退治
するとともに、土地の人たちにいろいろなことを教えてくれました。この
こ と に 感 謝 し た 土 地 の 人 た ち は 、 866 年 ( 平 安 時 代 の 初 め ご ろ ) に 資 盈 と そ
みつ わた ひ め
の妃である盈渡姫をまつり、海南神社を作りました。
おお す け よ し あき
けいだい
また、鎌倉幕府成立の功労者となった三浦大介義明が、海南神社の境内
で「神事狐合」を行って頼朝に味方する
ことを決めたという話もあります。
これらの言い伝えが事実かどうかは不
よ
明ですが、平安時代ごろから海難避けの
神社として、また三浦の総社として土地
の人たちの信仰を集めていたのは間違い
ないようです。
(三浦市撮影)
城 ヶ 島 神 宮 寺 (廃 寺 )と 行 基
こん りゅう
薬 師 山 (城 ヶ 島 )に あ っ た と い わ れ る 神 宮 寺 は 、 奈 良 時 代 に 大 仏 建 立 に
協力した行基によって開かれたと伝えられています。現在は見桃寺にある
やくしにょらいぞう
ぎ ょ うき
本尊の薬師如来像も、行基の作と言われています。大仏建立のために全国
をめぐった行基は、遠く三浦にも足を運んできたのでしょうか。
て んよ うい ん
ま た 、 和 田 (初 声 )の 天 養 院 に あ る 薬 師 如 来 像 も ま た 、 代 表 的 な 平 安 中 期
の作と考えられています。
- 2-8 -
いずれも奈良・平安の
ころから、三浦の人たち
の信仰を集めた仏像なの
でしょうし、中央の貴族
や僧侶との結びつきのな
かに、三浦の人たちの暮
らしもあったようです。
相模のつわもの三浦一族
(三浦市撮影)
平安時代の終わりごろから鎌倉時代にかけて、三浦半島に本拠地を置い
て い た 三 浦 氏 の 活 躍 に よ っ て 、「 三 浦 」 の 名 が 大 き く 歴 史 の 上 に 登 場 し て
きました。
三浦氏は、平安時代の中ごろに関東地方に住みついた桓武天皇の一族と
伝 え ら れ て い ま す 。 11 世 紀 の 中 ご ろ に 東 北 地 方 で 起 き た 前 九 年 の 役 ( 1051
よりよし
た い ら の た ゆ う ためみち
年 ~ 1062 年 ) で 、 源 頼 義 に 従 っ た 平 太 夫 為 通 に 三 浦 郡 が 与 え ら れ た の
で、為通が「三浦」を家名にしたと言われています。
そ の お よ そ 20 年 後 に 起 き た 後 三 年 の 役 ( 1083 年 ~ 1097 年 ) に は 、 為 通 の
た め つぐ
よ し いえ
は ち まん
子 為 継 も 源 義 家 (八 幡 太 郎 義 家 )に 従 っ て 活 躍 し 、 い っ そ う 源 氏 と 三 浦 一 族
の結びつきが強まりました。
そのころの関東や東北地方では古代の律令制度がくずれ、有力農民たち
は武力を用いて自分たちの土地を守っていました。そして、そのような武
力を持った有力農民の頭となったのが源氏や平家でした。その源氏と主従
関係を結ぶことで、関東地方の有力武士団の一つとして成長していったの
が三浦氏でありました。
あづまかがみ
の う そ
鎌 倉 幕 府 の 歴 史 書 『 吾 妻 鏡 』 に は 、「 曩 祖 三 浦 平 太 郎 為 継 、 八 幡 殿 ( 源
たけひら
いえひら
義 家 )に 属 し て 奉 り 、 奥 州 の (清 原 )武 衡 ・ 家 衡 を 征 し て よ り 以 後 、 あ く ま
おん ろく
は
でその恩禄を啄むところなり」とあります。
- 2-9 -
た め つぐ
ごん ご ろ う か げ ま さ
三浦為継と鎌倉権五郎景正のエピソード
『奥州後三年記』より
相 模 国 住 人 鎌 倉 権 五 郎 景 正 と い う 者 あ り 、 年 わ ず か 16 歳 。 大 軍 の 前
に命を捨てて戦う間に右の目に矢突き刺されてもなお相手の首を射ぬ
あ お む
き、その後、景正は兜をぬぎ仰向けざまに倒れた。
つ わも の
くつ
三浦平太郎為継というものあり。評判の強者なり。これを見て、靴を
は
ふ
履くままま景正が顔を踏まえ、矢を抜かんとす。すると景正倒れながら
刀を抜き、上着のすそをつかみ突き上げる。
為 継 驚 き て 「 こ れ は い か に 、 何 と す る 。」 景 正 答 え て 、「 弓 矢 に あ た
りて死するは強者の望むところ。ところが生きながら土足にて顔を踏み
かたき
つ け ら る る は 何 ご と ぞ 。お 前 を 仇 と し て 殺 し 、我 も ま た こ こ に 死 な ん 。
ひざ
という。為継、舌をまきていうことなし。膝をかがめ、顔を押さえ矢を
抜いてやったという。
三浦の武士
ほ うげ ん
へ い じ
保元・平治の乱にも、三浦武士はたくさん都へ動員された。特に、平
治の乱に敗れた頼朝の父源義朝は三浦氏を頼りとし、都を逃げる義朝に
よ し ずみ
あ くげ ん
た
よ し ひら
三浦義澄が最後まで従っている。また、義朝の長子の悪源太義平の母は
三浦義明の娘であり、義澄の兄弟であったという。
源平の戦いのなかでも、三浦武士はあちこちで活躍した。平氏に決定
し り ご
ひよどり ご
的な打撃を与えた「一の谷の合戦」で、誰もが尻込みをする 鵯 越えの
急坂の上で「三浦では鳥を射るにも、これくらいの坂は馬で歩く。三浦
か
の 武 士 に と っ て は 馬 の 練 習 場 も 同 然 。」 と 馬 に 乗 っ て 駆 け 降 り た 佐 原 十
よ しつ ら
郎義連の話は、三浦武士 の勇敢さを示すものとして有名である。
- 2-10 -
3
鎌倉時代
鎌 倉 幕 府 と 三 浦 一 族 ( P 25「 三 浦 家 略 系 図 」 参 照 )
は た あ
鎌倉幕府をたてた源頼朝が伊豆で反平氏の旗揚げをしたとき、これに協
お お す け よし あ き
ためつぐ
力 し て 大 き な 力 と な っ た の は 、 衣 笠 城 (横 須 賀 )に い た 三 浦 大 介 義 明 (為 継
きぬがさ
か ら 3 代 目 )と そ の 一 族 で し た 。 平 家 の 軍 勢 に 衣 笠 城 を 攻 め ら れ て 義 明 は
よ し ずみ
城 と と も に 討 ち 死 に し ま し た (衣 笠 城 の 合 戦 )が 、 義 明 の 子 義 澄 や 孫 の 和 田
よしもり
義盛が伊豆で敗れた頼朝と房総で合流して関東地方の源氏勢力を結集さ
せ 、 1192 年 の 鎌 倉 幕 府 成 立 へ と 結 び つ け た の で す 。
幕府成立に重要な役割を果たした三浦一族を頼朝は重視し、和田義盛を
さ む ら い ど ころ
幕府の重要機関である侍
べっとう
所 の 別 当 (長 官 )に つ け る と と も に 、 義 澄 を 三
浦の別当と呼んで幕府の元老に位置づけました。
義澄の領地である三崎には、頼朝の別荘である椿の御所・桜の御所・桃
の御所が作られました。また、頼朝が多くの武士とともに歌や踊りを楽し
か
ぶ
じま
ふ た ま ちや
ん だ と い う こ と か ら 、 歌 舞 島 (三 崎 二 町 谷 )の 地 名 が 今 で も 残 っ て い ま す 。
しかし、頼朝の死後、三浦氏は北条氏と対立を深めました。そして、和
田義盛が三浦氏の勢力を固めて北条氏を倒そうと立ち上がりましたが、義
よしむら
ね
がえ
澄の子の義村が北条方へ寝返ったこともあって鎌倉の由比が浜での戦い
( 1213 年 和 田 の 乱 ) で 敗 れ ま し た 。 ま た 、 義 村 の 一 族 も 、 三 代 将 軍 実 朝 の 暗
じょ うき ゅう
殺事件や承
や す むら
な い ふん
久の乱を通して一族の内紛や北条氏との対立がおこり、義村
みつむら
の 子 の 泰 村 ・ 光 村 の と き に 北 条 氏 に 攻 め 滅 ぼ さ れ て し ま い ま し た ( 1247 年
ほ う じ
しっけん
宝 治 の 乱 )。 こ う し た 動 き の な か で 三 浦 氏 は 幕 府 中 央 か ら 排 除 さ れ 、 執 権
北条氏が幕府を動かすようになりました。
ら い ふく じ
三 浦 市 に は 、 上 宮 田 に あ る 来 福 寺 の 和 田 義 盛 木 像 (市 指 定 文 化 財 )を は じ
め、初声の和田を中心とした義盛の旧跡や金田湾を見下ろす丘の上にある
義村の墓と伝えられる石碑など三浦氏に関わる史跡が数多く残っており、
三浦市と三浦一族の関係の深さを物語っています。
- 2-11 -
来福寺<和田義盛の木像が祀られている>
歌舞島から見る富士
(三浦市撮影)
(三浦市撮影)
三浦義村の墓
和田義盛精進の地(わくり井戸)
<金田・岩浦>
< 初声・高円坊>
(三浦市撮影)
(三浦市撮影)
三浦市にかかわる主な史跡
(編集委員作成)
- 2-12 -
< 三浦 一族 >三浦 家略 系図(三浦郡教育会編参照)
平
高
望
―
(
村良
岡
)文
―
忠
通
―
為
通
―
為
継
―
義
継
(
佐
原
)
政
連
政
村
重
行
家
連
盛
連
景
連
女
盛
義
広
連
経
連
高
信
盛
時
―
頼
盛
―
(
貞 時
宮
田
明 明
)
―
(
新時
井
城継
始
)―
高
継
―
高
高
明
通
―
高
時
連
高
道
香
高
處
信
連
(
来
福
寺
開
基
)
(
住
吉
城
に
て
戦
死
)
義
連
(
森
戸
)
義
実
泰
連
時
連
(
道
寸
)
(
正
木
)
(
長
門
守
)
(
三
浦
)
(
芦
名
)
(
長
井
)
(
三
戸
)
為
清
(
津
久
井
)
義
季
(
多
々
良
)
義
行
(
大
介
)
義
春
(
太
田
和
)
781 ~ 809
1062
( 前 九 年 役 )
1087
( 後 三 年 役 )
義
明
義
久
暦>
~
(
岡
崎
)
<西
桓
武
天
皇
―
葛
原
親
王
―
高
見
王
(
矢
部
)
義
澄
友
澄
胤
義
重
澄
義
村
家
村
光
村
泰
村
朝
村
(
畠
山
重
能
妻
)
(
杉
浦
)
女
(
大
河
戸
広
行
妻
)
1180
( 衣 笠 落 城 )
女
(
杉
本
)
義
宗
女
女
義
長
義
胤
宗
実
義
国
秀
盛
義
信
義
重
義
直
義
行
義
茂
(
朝
比
奈
)
義
秀
(
和
田
)
義
盛
女
1213
(和 田 一 族
亡ぶ)
女
義
氏
常
盛
(
高
円
坊
)
朝
盛
1247
(三浦氏亡ぶ)
( 宝 治 の 乱 )
1467 応 仁 の 乱
1494
( 時 高 亡 ぶ )
義
同
時
綱
―
時
忠
三
浦
英
太
郎
(
荒
次
郎
)
義
意
1518
( 道 寸 新 井 城
に亡ぶ)
(
志
摩
守
)
(
子
爵
)
三
浦
基
次
- 2-13 -
4
室町・戦国時代
三浦道寸と新井城
ご だ い ご
に っ た よ し さだ
あし か が た かう じ
1333 年 、 後 醍 醐 天 皇 の 呼 び か け に 応 え た 新 田 義 貞 や 足 利 尊 氏 に 執 権 北 条
氏が倒されて鎌倉幕府が滅び、時代は室町・南北朝時代へと移りました。
このようななかで、三浦氏もいろいろな中央勢力と結びつきながら、相模
国の守護職と所領を確保してきました。新井城が小網代・油壺に築かれた
のはこの頃だといわれています。
ときたか
室 町 時 代 後 期 、 新 井 城 主 で あ る 三 浦 時 高 ( 義 明 よ り 11 代 目 ) に は 子 ど も
か んれ い
がなく、関東管領上杉氏と小田原城主である大森氏の娘との間に生まれた
よし あ つ
義同を養子に迎えました。ところがその後時高に実子が生まれたため、義
同は母の実家の小田原に戻って出家して道寸と名乗るようになりました。
し か し 、「 三 浦 氏 を 継 ぐ の は 道 寸 で あ る 」 と す る 道 寸 の 家 来 が 多 く 、 道
寸 も 意 を 固 め 、 1494 年 に 義 父 の 時 高 を 新 井 城 に 攻 め て 時 高 父 子 を 自 殺 さ せ
どう す ん
てしまいました。こうして道寸は新井城の城主となり、三浦氏を継ぐこと
お うに ん
になりました。応仁の乱を経て戦国時代に突入していた頃のことです。
そううん
この頃・伊豆国から相模国にかけて力を伸ばしてきていたのが北条早雲
です。早雲は小田原の大森氏を倒し、相模国さらには南関東全体に勢力を
伸ばそうとしてきました。これに対して道
よし もと
寸は新井城を子の荒次郎義意にまかせ、相
模国中央の岡崎城(伊勢原市)で早雲を防
ごうとしました。しかし、早雲は岡崎城を
すみよし
破 っ た う え 三 浦 半 島 の 入 り 口 の 住 吉 城 (逗 子
おとしい
市 )を も 陥 れ ま し た 。 道 寸 は 最 後 の と り で
として、自然の地形に恵まれた新井城にた
よらなければならなくなったのです。
(編集委員作成)
新 井 城 は 、 東 西 か ら 深 く 谷 の 切 れ 込 ん だ 引 橋 を 大 手 (城 の 正 面 )と し 、 そ
- 2-14 -
の南側全体を1つの城と構想した大規模な中世の城で、その中心は小網代
の 半 島 の 先 (現 在 の 東 大 臨 海 研 究 所 と な っ て い る あ た り )と 考 え ら れ て い ま
す。三方を海に囲まれた崖の上にあり、遠くは大磯や小田原まで見渡せ、
せ ん だ
物資の補給も容易な新井城。しかも、城内の千駄やぐらには二千俵もの米
が 貯 え て あ っ た と い わ れ て い ま す 。「 こ こ に た て こ も れ ば … 」 と 、 道 寸 父
子は考えたのでしょう。
じん ば がは ら
一方、早雲の軍は引橋の手前にあたる菊名の陣場原に陣どり、持久戦と
なりました。道寸の期待した援軍は、早雲の軍に打ち破られて三浦まで到
ろうじ ょう
ひょ うろう
つ
着できません。3年間の籠 城で、兵 糧も尽き果てました。ついに道寸父
子 は 、 こ こ を 最 後 の 戦 い と 覚 悟 を 決 め 、 激 し い 戦 い の な か で 75 人 の 味 方
じ け つ
と 共 に 自 決 し た ( 1516 年 、 一 説 に は 1518 年 と も い う ) と 伝 え ら れ て い ま す 。
あぶら つぼ
ち し お
そ
油 壺の名は、この戦いで湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したか
のような状態になったことから名付けられていると言われています。
新井城内より出土
した冑の一部
<東大臨海実験所
所蔵>
(三浦市撮影)
現在の引橋(編集委員撮影)
道 寸 の 一 部 の 家 臣 は 、 そ の 後 も し ば ら く 城 ヶ 島 (将 ヶ 島 )に 立 て こ も っ て
あ
わ
さ と み
抵抗しましたが、後に北条水軍として組織されました。安房里見氏の三
浦半島攻撃に対して、三浦を守った三崎十人衆はこの人たちです。三崎城
(三 崎 中 の ま わ り に 土 塁 の 一 部 が 残 っ て い る )の 時 代 が 始 ま っ た の は 、 こ の
頃だと言われています。北条湾の名が残ったのも、こうしたいわれからな
し ん ざ え も ん
のでしょう。また、上宮田には、土地の豪族の松原新左衛門が浜で火をた
- 2-15 -
(編 集 委 員 作 成 )
う じつ な
い て 、 里 見 軍 と 戦 う 北 条 氏 綱 (早 雲 の 子 )を 嵐 の 海 上 か ら 救 っ た と い う 話 も
残っています。
三浦氏を破った北条氏は、相模国をまとめる戦国大名となります。そし
か
い
て、駿河の今川氏や甲斐の武田氏などと相争うとともに、検地などを通し
りょ う ご く し は い
て一段進んだ領国支配を完成させていくのです。
荒次郎の首
新井城の落ちるとき、荒次郎は自ら首をかきおとした。その首は、早
雲の城のある小田原に飛んで海岸の松の木にかかり、生首のまま3年も
く よ う
あった。いかなる名僧に供養を頼むも死なず。あるとき道寸が出家した
うつ
あけぼの
寺 の 禅 僧 が 、「 現 つ と も 夢 と も し ら ぬ ひ と ね む り
浮世のひまを 曙 の
よ
空」と一首詠むと、たちまち白骨となったという……。
え
この伝説は、
ま
小網代の海蔵寺の絵馬に描かれたものですが、このほかにも新井城落城
の話は江戸時代の講談などによく登場したようです。
- 2-16 -
5
江戸時代
海上交通の発達と三崎
1590 年 に 相 模 国 の 北 条 氏 が 豊 臣 秀 吉 に 滅 ぼ さ れ る と 、 関 東 全 域 が 秀 吉 に
よ っ て 徳 川 家 康 の 領 地 と さ れ 、三 浦 半 島 も 徳 川 氏 の 支 配 す る と こ ろ と な り 、
三浦の水軍も徳川氏に引き継がれました。
さ ら に 1603 年 、 家 康 が 江 戸 幕 府 を 開 い た こ と か ら 江 戸 が 全 国 の 中 心 地
となると、江戸湾入り口の重要地点にあたる三崎は幕府が直接治める
てん りょ う
む か い まさつな
ただかつ
天 領となり、幕府の旗本向井正綱やその子の忠勝などが船奉行として海
上を行き来する船を監視するようになりました。
けん と うじ
今 で も 見 桃 寺 (三 崎 )に は 、 正 綱 は じ め 向 井 一 族 の 立 派 な 墓 が 残 っ て い ま
す。
江戸幕府が安定期を迎えると三崎は、軍事上ばかりでなく商業・交通の
ぶぎょうしょ
面でも重要性を増してきました。三崎に奉行所や代官所が置かれ、海の
せき し ょ
か い せん
あらた
どま
関 所 と し て 「 廻 船 」 ( 沿 岸 行 路 の 運 送 船 ) の 荷 物 改 め と と も に 、「 船 泊 り 」
(船 の 風 待 ち や 潮 待 ち を す る )や 廻 船 問 屋 を 通 し て 物 資 の 移 出 入 も 多 く 行 わ
れるようになってきたのです。この時代の三崎は、浦賀とともに三浦半島
で最も栄えた“町”として発展していったのです。
海 上 交 通 の 増 加 に あ わ せ て 航 路 の 安 全 も は か ら れ ま し た 。 安 房 ケ 崎 (城
ヶ 島 )に は 物 見 や ぐ ら と し て 「 の ろ し だ い 」 が 作 ら れ 、 種 々 の 合 図 に 使 わ
れました。
向井正綱の像<見桃寺>
(拝観の場合は要連絡
向井一族の墓<見桃寺>
三浦市撮影)
(三浦市撮影)
- 2-17 -
1678 年 に は 幕 府 に よ っ て 今 の 灯 台 の あ る 西 山 ( 城 ヶ 島 ) に 、 魚 油 を 用 い た
あ ん どん
とうみょうだい
行燈式の「灯 明 台」が建てられました。しかし、余り明るくないという
まつ ま き
こ と で 、 1720 年 に 松 薪 を た く 「 か が り 屋 」 と な っ て 1870 ( 明 治 3 ) 年 ま で 続
き、現在の洋式灯台へとつながったのです。
漁業の発達
三 方 を 海 で 囲 ま れ た 三 浦 で は 、 昔 か ら ボ ウ チ ョ ウ (見 突 き )な ど の 原 始 的
な漁業が行われ、近隣の人たちに海の幸を供給してきました。
江戸時代に入ると全国的な商品経済の発展のなかで、三浦でも江戸や大
と
阪の大消費地に対して大量に獲って大量に売るという形の漁業が発展して
き ま し た 。 紀 伊 (和 歌 山 県 )地 方 か ら 移 住 し て き た 漁 民 に よ っ て 行 わ れ た 上
て んけ い
宮田周辺での「マカセ網」は、このような漁業の典型です。
か みが た
江 戸 時 代 以 前 よ り 関 西 地 方 の 漁 民 は 、 上 方 (京 都 や 大 阪 )で 大 量 に 売 れ る
ほ し か
「 干 鰯 」 (綿 花 栽 培 の 肥 料 と し て そ の 頃 か ら 使 用 さ れ る )の 原 料 と な る イ ワ
シの漁場を求めて、関東地方まで進出してきました。そして、江戸時代の
し も つ うら
中 ご ろ 、 紀 伊 の 下 津 浦 の 漁 師 た ち も 三 浦 半 島 下 浦 地 方 に 移 住 し 、「 マ カ セ
網」という大型の網でイワシを獲るようになったのです。
そう
この漁法は魚群の来るのをじっと待つのではなく、何艘もの船でイワシ
まき あ み
を取り巻いて獲る巻網で水揚げも多く、三浦の漁師にも大きな影響を与え
たと考えられています。獲れたイワシは「干鰯」として上方へたくさん送
られました。
今でも上宮田のいくつのお寺には、当時の移住民である「マカセ」の人
た ち の 墓 が あ り 、「 マ カ セ 井 戸 」 と 呼 ば れ る 井 戸 も 残 っ て い ま す 。
さかな
ま た 、 こ の 時 代 、 江 戸 で も 武 士 の た め の 魚 ( 肴 )を 出 す 場 で あ っ た 「 肴
場」が城下の庶民のものと
して発達しました。江戸の魚問屋や地元の有力な魚商が村で魚を買い
い け す
で
が
(「 生 簀 上 げ 」 - な か に は 沖 ま で 出 て 漁 師 の 魚 を 直 接 買 う 「 出 買 い 船 」 な
- 2-18 -
ど も あ っ た )、 江 戸 の 市 場 に 並 べ た の で す 。 こ の よ う な 流 通 機 構 の 整 備 が
さらに漁業生産を拡大し、魚種を増やしたり新しい漁法の開発を進めまし
せ ん ぎょ
た 。 ま た 、 鮮 魚 を 江 戸 ま で 届 け る 高 速 船 の 「 お し ょ く り 船 」 (押 送 船 )も さ
かんに利用されました。
まぐろ
かつお
たい
あわび
こ の よ う に し て 、 三 浦 の 鮪 ・ 鰹 ・ 鯛 ・ ス バ シ リ (ぼ ら )・ イ ナ ダ ・ 鮑
え
び
たこ
・サザエ・海老・蛸などは江戸時代から有名になり、江戸の発展とともに
三浦は漁業の村として発展していくのです。
新田の開発と農業
江戸時代に入ると農業も発達してきました。その1つとして、三浦半島
各地でも新田の開発が進みました。
お お た わ
そ う ざ え も ん
初 声 の 「 入 江 新 田 」 は 、 1708 年 に 武 山 村 太 田 和 の 山 田 惣 左 衛 門 が 開 発 を
ぎ ざ え も ん
始 め て 、 そ の 子 の 儀 左 衛 門 が こ れ を 引 き 継 ぎ 、 30 年 も の 年 月 で 完 成 さ せ
くわ
たものです。詳しい開発の記録は残っていませんが現在の初声小学校のま
ど
て
わ り の 田 が そ れ で 、 延 長 400m の 石 で 根 固 め し た 外 側 土 堤 と 約 250m の 内 側
しょ うじ ん
し
き
土堤、さらに精 進川沿いを2本の土手で仕切ってその内側を田にしたも
の で 、 広 さ は 15 町 歩 ・ 石 高 は 22 石 で あ っ た と さ れ て い ま す 。 規 模 は 大 き
なものではありませんが、完成までにかかった長い年月にその苦労がしの
ばれます。そのほか「上宮田新田」や「松輪新田」をはじめとして、多く
の村で新田の開発が進められたのもこの頃です。
し もご え
も ぐ さ
か いそ う
き ん ぴ
ま た 、新 し い 農 機 具 の 使 用 や 、干 鰯 ・ 下 肥 ・ 藻 草( 海 藻 )な ど の「 金 肥 」
(買ってきた肥料)の使用もさかん
になり、農業生産も高まってきまし
た。
一方、商品作物としての特産物の
生産もさかんになり、三浦大根のも
も め ん
と に な る「 高 円 坊 大 根 」や「 三 浦 木 綿 」
は三浦の特産物として世間に知られ
るようになりました。
(編集委員作成)
- 2-19 -
このように江戸時代は、新田開発と商品経済が全国的に進み、そのなかで
三浦の農業も大きな発展をしていきました。
外国船の渡来と江戸湾防備
さ こ く
徳 川 三 代 将 軍 家 光 は 、 1635 年 に 「 鎖 国 令 」 を 出 し て 中 国 と オ ラ ン ダ 船 以
外の来航を禁じて外国との貿易を制限し、貿易港は長崎だけとしました。
し か し 、 19 世 紀 に 入 る と 、 ロ シ ア ・ イ ギ リ ス ・ ア メ リ カ な ど の 船 が た
びたび日本各地に来て、国交を強く望むようになりました。これに対して
しらかわ
あ い づ
幕 府 は 、 外 国 船 の 来 航 に 備 え て 1810 年 に 、 白 河 藩 と 会 津 藩 に 江 戸 湾 入 り
口 の 砲 台 建 設 を 命 じ ま し た 。 1811 年 に 会 津 藩 は 三 浦 半 島 の 一 部 に 領 地 を 与
はしり みず
えられてその任につきました。そして、走 水・浦賀・城ヶ島に大砲台場=
お だ い ば
か も い
「 御 台 場 」 を 築 き 、 城 ヶ 島 に は 遠 見 番 所 を 、 城 山 (三 崎 )や 鴨 居 (横 須 賀 )に
は領域支配のための陣屋を作って江戸湾警備にあたりました。
『 城 ヶ 島 の 過 去 帳 』 に よ る と 、「 文 化 9 ( 1812 ) 年 10 月 18 日 よ り 安 房 ヶ 崎
は っ か えん しゅう
かいぼう
(城 ヶ 島 )御 台 場 に 発 火 演 習 始 ま る 。 海 防 に あ た る 船 舶 は 沿 海 村 名 主 。 水
夫 は 漁 夫 。 そ の 日 給 二 百 文 。 4 隻 の 船 の 水 夫 計 104 人 。 名 主 お よ び 船 主 に
じゃっ かん
ねん ぽ う
たいとう
は若 干の年俸を給し、帯刀を許す」とあり、当時の海防のようすがうか
がえます。また、向ケ崎の大椿寺などには、三崎の地で亡くなった会津藩
士やその家族の墓が今も多数残っています。
その後、三浦半島の海防はいくつかの藩に交
代 で ま か さ れ ま し た が 、外 国 船 の 来 航 は や ま ず 、
三浦沖にもイギリス船やアメリカ船が多数来て
います。そしてそのたびに、海防をまかされた
大名は大きな出費を強いられ、近くの村々では
人足や船・馬などを提供させられ、大変な負担
になっていたようです。
(三浦市撮影)
う ちは ら い れ い
こ の よ う な 状 況 の な か で 、 幕 府 は 1825 年 に 「 外 国 船 打 払 令 」 を 出 し ま し
- 2-20 -
た 。 1847 年 に は 、 上 宮 田 ( 現 在 南 下 浦 市 民 セ ン タ ー ) に 海 防 陣 屋 本 営 と 栄 町
(旧 保 健 所 跡 地 )に 分 営 が 作 ら れ 、 彦 根 藩 や 長 州 藩 な ど が そ の 任 務 に つ き ま
き ど た か よ し
いとうひろふみ
し た 。明 治 維 新 の 改 革 に 力 を つ く し た 木 戸 孝 允 や 伊 藤 博 文 ( 長 州 藩 ) な ど も 、
え
じ
青年時代にこの海防陣屋に衛士として勤めていた記録が残っています。
か んた い
1853 年 6 月 3 日 ( 現 7 月 8 日 ) 、 4 隻 の 黒 い 艦 隊 が 三 崎 沖 を 通 っ て 浦 賀 沖
ぶ ぎょ うし ょ
か
に現れました。沖で漁をしていた漁師が驚いて裸のまま浦賀奉行所に駆け
じょ うき せん
込み、この急を知らせたと伝えられています。この2隻の蒸気船をふくむ
4 隻 の 黒 船 こ そ 、 260 年 の 鎖 国 を 開 こ う と ア メ リ カ 大 統 領 の 国 書 を た ず さ
え て き た ペ リ ー の 艦 隊 で し た 。 6 月 9 日 ( 現 7 月 14 日 ) に ペ リ ー は 久 里 浜
に上陸し、江戸幕府にアメリカ大統領の国書を渡しました。幕府は将軍が
病 気 で あ る こ と を 理 由 に 来 年 の 回 答 を 約 束 し 、 会 談 は 30 分 た ら ず で 終 わ
りました。
に ちべ い わ し ん
翌 1854 ( 安 政 元 ) 年 に ペ リ ー は 再 び 来 日 し 、 神 奈 川 ( 横 浜 ) で 「 日 米 和 親 条
約」が結ばれて日本は開国することになりました。
このように、私たちの住む三浦半島は日本の開国の中心の舞台となった
のです。
庶民文化の発展
江戸時代の産業の発達にともなって三崎を中心とする“町”が発達し、
庶民文化も生まれてきました。
き ん ごう
江戸時代の中ごろには、江戸と三崎近郷の俳人たちとの交流があり、そ
おうきゅう
のためのガイドブックとして、三崎の地誌をまとめた『三崎志』が鶯 丘
しゃ そ う や
で ん う も ん
舎 草 也 (本 名 木 村 伝 右 衛 門 )に よ っ て 書 か れ て い ま す 。 江 戸 時 代 の 画 家 で あ
は な ぶ さ いっ ちょう
い っ ぽう
りゅう
てん じ ょう え
こ うね ん じ
り 俳 人 で も あ る 英 一 蝶 (一 峰 )の 「 竜 の 天 井 絵 」 が 光 念 寺 に あ る の も 、
このような交流関係からでしょう。また、海南神社にある江戸の魚問屋か
ら寄進された天井絵も、当時の江戸の絵師の手によるものです。
- 2-21 -
海南神社天井絵
(三浦市撮影)
大椿寺杉戸絵
光念寺天井絵
(三浦市撮影)
(三浦市撮影)
<拝観の場合は要連絡>
錦島三太夫の墓
(三浦市撮影)
三浦市の各地に残る庚申塔
(三浦市撮影)
す も う
現 在 も 続 い て い る 若 宮 神 社 (初 声 )の 「 宮 田 の 相 撲 」 も 江 戸 時 代 に 始 ま っ
は ん じ
て お り 、 近 郷 の 力 自 慢 が 集 ま っ て に ぎ わ っ て い ま し た 。 半 次 (下 宮 田 )の バ
にし きじま さ ん だ ゆ う
ス停そばには、力士から興行元となって当時活躍した錦 島三太夫の墓が
こう しん と う
残っています。三浦市各地に残っている庚申塔も、江戸時代に建てられた
ものが多くあります。今でも「話は庚申の晩に……」という言い方にある
こう
ようにその風習が一部に残っていますが、当時の人たちは庚申講を作って
村全体の相談やレクリエーションの場とし、村の願いとして庚申塔を建て
ていました。このほかにも江戸時代には、今も三浦市で広く行われている
い な り こう
稲 荷 講 (イ ナ リ ッ コ )を は じ め 、 村 の ま と ま り を 中 心 と し た い ろ い ろ な 講 が
さかんでした。
- 2-22 -
りゅうせんあん
三 崎 小 学 校 の 南 に あ る 通 称 「 上 の 御 堂 」 の 下 に 、「 龍 潜 庵 」 と い う 不
け い だい
ふ で つか
動堂があります。その境内には2つの筆塚が建っています。江戸時代のも
の で 、市 内 で 最 も 古 い と い わ れ て い る も の で す 。
市内にはこのほかにもいくつかの筆塚がありま
すが、これは江戸時代に庶民の子どもを教育し
ふ で こ
た 寺 子 屋 で 、 筆 子 (生 徒 )た ち が 師 匠 (先 生 )の 死
お
を惜しんで建てたものでしょう。
ま た 、会 津 藩 は 海 防 の 役 人 を 養 成 す る た め に 、
し ゅ う ぎか ん
三崎に集義館という学問所を置いたことも記録
に残っています。
筆塚<海南神社>
(三浦市撮影)
- 2-23 -
6
明治から現代へ
明治のあけぼの
たいせいほうかん
お うせい ふっこ
1867 ( 慶 応 3 ) 年 の 大 政 奉 還 ・ 王 政 復 古 に よ っ て 、 260 年 あ ま り に お よ ぶ
江 戸 幕 府 の 政 治 が 終 わ り を つ げ ま し た 。 翌 1868 年 、 元 号 が 明 治 と 改 め ら
れ 、明 治 政 府 は 欧 米 の 文 化 を 取 り 入 れ な が ら 国 の 近 代 化 政 策 を 始 め ま し た 。
三 浦 に も 、 少 し ず つ 新 し い 文 化 が 入 っ て き ま し た 。 1870 ( 明 治 3 ) 年 に は
日本で4番目の白色レンガづくりの洋式灯台である城ヶ島灯台が、さらに
つるざさき
う すぐ ら
そ の 翌 年 に は 剱 崎 灯 台 が 作 ら れ 、こ れ ま で の 薄 暗 い か が り 火 に 変 わ っ て 、
ガラスのレンズを通して灯油を燃やした白色の光が海を照らしました。
1871 ( 明 治 4 ) 年 に は 郵 便 取 扱 所 ( 郵 便 局 の 前 身 ) が 松 輪 村 に 、 1873 年 に は 海
ひ き ゃく ふ
やと
南村に開設され、これまでの飛脚夫や近くの農家の人が配達人として雇わ
れました。彼らの制服は国が定めたもので、これが三浦で初めて見られた
洋服だったと思われます。
ごう
おふ れが き
1871 ( 明 治 4 ) 年 、政 府 は「 郷 学 校 の 設 置 に 関 す る 御 触 書 」を 出 し ま し た 。
翌 1872 年 に は 、 三 浦 で 最 初 の 学 校 で あ る 三 崎 郷 学 校 が 日 の 出 町 に 開 校 し
ま し た 。 ま た 、 こ の 年 に 発 布 さ れ た 「 学 制 」 に よ っ て 、 1873 ( 明 治 6 ) 年 に
ひ がし みさ き がくしゃ
三浦に東
に し み さ き が く しゃ
岬 学 舎 (三 崎 郷 学 校 を 改 称 )・ 西 岬 学 舎 ・ 城 ヶ 島 学 舎 (学 舎 と は
(三崎小学校所有)
- 2-24 -
今 の 学 校 の こ と ) な ど 14 も の 学 校 が 開 か れ ま し た 。 い ず れ も 個 人 の 家 や 寺
を校舎として使っていました。
む つあい
1877 ( 明 治 10 ) 年 に 横 須 賀 警 察 署 三 崎 分 署 が 長 井 か ら 六 合
えんしょうじ
①
の円照寺の
けい だ い
境 内 (現 在 の 三 崎 4 丁 目 )へ 移 り ま し た 。 巡 査 は 2 名 で 、 彼 ら の 制 服 は 郵 便
つ
めずら
配達夫に次いで 珍 しい洋服姿でした。最初この警察署は現在の三崎公園
のところに作られる予定でしたが、地元の人々の強い反対運動が起こり、
隣 村 で あ る 六 合 に つ く ら れ ま し た 。 1883 年 に は 海 南 町 に 、 三 崎 で は 初 め て
のガラス窓を使った2階建庁舎が新築されました。
し
く
こうして明治になって新しい制度や仕組みが入って来たとはいえ、人々
の暮らしは昔とさほど変わらずに営まれていました。それぞれの家庭で、
あ ん どん
行 燈 か ら ラ ン プ に 変 わ っ た の は 明 治 20 年 頃 か ら で し た 。 ま た 、 し ば し ば
コ レ ラ が 流 行 し 、 1886 ( 明 治 19 ) 年 に は 120 名 の 患 者 の う ち 亡 く な っ た 方 が
40 名 も い ま し た 。 そ の た め 人 々 は コ レ ラ 予 防 の た め に 、“ 三 度 の 食 事 を 蚊
帳 の な か で と っ た ” と か 、“ 梅 干 し を 食 べ た ” と か 、“ 海 南 神 社 の 世 話 人
ち ち ぶ
みつ み ね
が秩父の三峰神社の御本尊をつれてきた”という当時の様子が現在でも伝
えられています。
明治の小学校のしくみと校則
当時の小学校は下等小学と上等小学に分けられており、6歳から9歳
ま で は 下 等 小 学 へ 、 10 歳 か ら 13 歳 ま で は 上 等 小 学 へ そ れ ぞ れ 4 年 間 通
います。下等小学も上等小学もそれぞれ8級から1級までの段階があり
半年ごとに上の級に進級するために進級試験に合格しなければなりませ
ん。また、毎月小試験も行われ、その成績が悪くても進級できませんで
した。試験の結果は教室に張り出されて公表され、試験の結果が良けれ
ほ う び
ば 褒 美 (賞 状 と 賞 金 )が も ら え ま し た 。
当 時 の 授 業 は 朝 8 時 か ら 6 時 ま で で 、 内 容 は 算 術 (算 数 )・ 綴 り 字 ・ 仮
しゅ うしん
名 づ か い ・ 習 字 ・ 修 身 (道 徳 )・ 行 儀 作 法 な ど で 、 か つ て の 寺 子 屋 時 代
のなごりがありました。
また校則としては、
た ば こ
○
授業中に勝手に席を離れ・雑談したり、ものを食べたり、煙草をの
- 2-25 -
んではいけない。
すみ
○
校内では、水や墨を飛ばしたり、紙くずを散らかしたり、落書きを
してはいけない。
○
生徒の男女の別は、授業から食事にいたるまで同席はもちろんのこ
と、すべて校内で言葉をかわしてはいけない。
○
校則を破ったり、怠けたり、口論・けんかした者は正座1時間、再
び破れば3時間、3度破れば翌日午前7時まで。それでも改まらなか
ったら処分する。
きび
など大変厳しいものでした。
し か し 、 当 時 は ま だ 義 務 教 育 で は な く 、 授 業 料 ( 明 治 15 年 ご ろ で 月 6
銭 ほ ど )も か か つ た の で 、 途 中 で や め た り 、 家 事 の 仕 事 の 手 伝 い の た め
しゅうがくりつ
学校へ通えない子どもも多く、就 学 率は低いものでした。特に女子の
がくれい
入 学 者 は 少 な く 、 1880 ( 明 治 13 ) 年 小 網 代 村 で は 学 齢 児 童 76 人 に 対 し て
就 学 者 は 男 子 18 人 で 女 子 は わ ず か に 2 人 の 計 20 人 に 過 ぎ ま せ ん で し た 。
まだまだ漁師や農民・女には学問はいらぬと言われた時代だったので
す。
① 六 合 (村 )
当時の六合村は現在の原町・栄町・城山町・宮川町・晴海町・岬陽町・白石町・海
外町・東岡町・向ヶ崎町・諏訪町・天神町と三崎町六合・三崎1丁目・三崎4丁目の一部を含む
地域です。
- 2-26 -
明治初めごろの産業
明治になったとはいえ、農業も漁業もその経営や作業内容は江戸時代と
かんしょ
あわ
りくとう
変 わ ら な い も の で し た 。当 時 の 農 作 物 は 、麦 ・ 甘 薯 ( さ つ ま 芋 ) ・ 粟 ・ 陸 稲
だいず
・大豆などが自家用として作られていました。そうしたなかでも、宮川の
ナス・小網代のネギ・高円坊のダイコンなどは名前が少しは知られた作物
で し た 。漁 業 で は 、大 き な 船 で も 長 さ 3 間 半 ( 約 6.4m ) ・ 幅 6 寸 ( 約 1.9m ) で 、
め ら
みくらじま
この船で東は千葉の布良の沖合、西は伊豆半島から尺5御蔵島まで漁に出
まぐろ
かつお
さば
ていました。そこで 鮪 ・カジキ・ 鰹 ・ 鯖 などを捕っていました。いっ
あわび
えび
たこ
ぽう、小さな船では、沿岸でサザエ・ 鮑 ・海老・ 蛸 などを捕っていまし
た。こうしてとれた鮮魚や野菜などは、押送り船で京浜地区に運ばれて売
られました。
かんぎょうはくらんかい
1877 ( 明 治 10 ) 年 に 開 か れ た 第 1 回 内 国 勧 業 博 覧 会 ( 東 京 上 野 公 園 ) へ
の三浦からの出品目録を見ると、当時の三浦の特産物を知ることができま
す。
(編集委員作成)
- 2-27 -
お し ょ く り 船 (押 送 り 船 )
へさき
あし
押送り船は、波を切るように舳先が細くできている船で、 脚 の速い
ちょう
ろ
こ
船 。7 ~ 8 挺 の 櫓 に よ っ て 漕 ぐ 船 で 、江 戸 時 代 以 来 使 わ れ て い ま す が 、
なまぶね
い
ものぶね
明 治 時 代 に は 「 生 舟 」 と 「 活 け 物 舟 」 の 2 つ が あ り 、「 生 舟 」 に は マ
しおひざかな
グ ロ な ど の 鮮 魚 を 、「 活 け 物 舟 」 に は 塩 干 魚 や エ ビ 貝 類 を 積 み ま し た 。
キ ハ ダ マ グ ロ な ら 50 本 ( 約 2000kg ) く ら い 積 め ま し た 。「 生 舟 」 の 出 発 は
夕 方 ・「 活 け 物 舟 」 は 午 前 10 時 頃 で 、 い ず れ も 翌 朝 の 暗 い う ち に 東 京 の
う お が し
魚河岸に着きました。帰りの船には三崎の消費物資を積んできました。
じまん
こ の 船 の 乗 組 員 は 力 自 慢 の 若 者 が 多 く 、 明 治 20 年 ご ろ で 東 京 へ の 1 往
復の賃金が2円でした。当時2円あれば1か月生活できた時代です。し
か し 、 こ れ も 明 治 40 ( 1907 ) 年 頃 に は 汽 船 や 発 動 汽 船 の 登 場 と と も に そ の
姿を消していきました。
三浦市の前身
1889 ( 明 治 22 ) 年 に 町 村 制 が 施 行 さ れ る と 、 こ れ ま で 小 さ く 分 か れ て い た
町 や 村 を 合 わ せ て 、 三 崎 町 (三 崎 町 ・ 六 合 村 ・ 城 ヶ 島 村 ・ 小 網 代 村 ・ 諸 磯
村 ) 、南 下 浦 村 ( 菊 名 村 ・ 上 宮 田 村 ・ 金 田 村 ・ 松 輪 村 ・ 毘 沙 門 村 ) 、初 声 村 ( 下
宮 田 村 、 三 戸 村 ・ 和 田 村 ・ 入 江 新 田 ・ 高 円 坊 村 )の 3 つ の 町 村 に ま と め ら
れました。町村長の選挙も行われ、それぞれの役場を設けて政治にあたる
ようになりました。
- 2-28 -
交通・通信機関の発達
三浦の産業は、明治に入ってもさほど発達しませんでした。その大きな
いぜん
理由として、交通機関が依然として「おしょくり船」であり、それを利用
できない人は馬車も通れぬ道を歩いたり、馬の背に荷物をのせたりして運
ぶ し か な か っ た こ と が あ げ ら れ ま す 。 1881 ( 明 治 14 ) 年 に 初 め て 三 崎 港 に
きせん
汽船が入り、東京と三崎が直接結ばれてスピードアップがはかられると、
だ ん だ ん 人 と 物 の 交 流 が さ か ん に な っ て き ま し た 。 ま た 、 1901 ( 明 治 34 ) 年
に 乗 り 合 い 馬 車 が 三 崎 ~ 浦 賀 の 間 に 開 通 し 、 1909 ( 明 治 42 ) 年 に は 三 崎 ~ 長
井~横須賀を乗り継ぎで連絡する馬車が開通しました。
乗 り 物 の 値 段 あ れ こ れ (明 治 の 後 半 )
・汽船の運賃
東京~三崎
所要時間約5時間
東京発
AM 8:00
三崎着
PM 1:00
三崎発
PM10:00
東京着
AM 3:00
通行税とともで1等
・乗り合い馬車
1日
42 銭
浦賀~三崎
2等
21 銭
馬は1頭立てで定員は左右3人ずつ
4往復
所要時間
乗車賃
42 銭 ( 雨 天 時 は 2 割 増 し )
・人力車
浦賀~三崎
・鉄道運賃
横須賀~東京
約3時間
1 円 10 銭
39 銭
・人夫の日給
50 銭
馬車や人力車があっても人々はほとんど歩いて行動していました。ま
た、当時の東京と三崎を結ぶ汽船は魚を運ぶためのもので、乗客にとっ
せま
む
あつ
さかな
にお
ては 狭 い客室の蒸し 暑 さと 魚 の 臭 いでなかなか大変な船旅だったと
いいます。
- 2-29 -
1888 ( 明 治 21 ) 年 に 剱 崎 電 信 局 で 電 話 が 開 通 し 、 さ ら に 1911 ( 明 治 44 ) 年 に
は 三 崎 に 初 め て 電 話 が 開 通 ( 加 入 者 が 13 名 で ス タ ー ト ) す る な ど 、 通 信 機
関についてもいよいよ近代的なしくみができあがってきました。
1910 ( 明 治 43 ) 年 に は 三 崎 町 と 長 井 村 を 送 電 区 域 に す る 三 浦 電 気 株 式 会 社
が、翌年には三崎製氷株式会社が設立され、魚市場の発展の基礎ができま
した。
こうして明治の終わり頃になって他都市との結びつきが強まると、三浦
の産業も市場を獲得してだんだと発展してきました。特に漁業面では、汽
船 に よ る 東 京 へ の 魚 の 輸 送 の と き に は 氷 を 使 う よ う に な っ た た め 、“ 三 崎
う お が し
”の名が東京では新鮮な魚の代名詞となり、三崎の魚は魚河岸では高値で
し き
仕切られるようになりました。
南下浦や初声では、葉タバコの栽培や高円坊ダイコンをはじめとする
そさい
疏 菜 栽 培 が さ か ん と な り 、南 下 浦 で は ミ カ ン の 栽 培 も 始 ま り ま し た 。ま た 、
獲れた魚も魚商が発動機船で市場へ運び、野菜も汽船を使って東京へ出荷
されるようになりました。
ひしょ きゃく
しお とうじ
そ れ と と も に 、 都 会 か ら 汽 船 に 乗 っ て 多 く の 避 暑 客 が 汐 湯 治 (海 水 浴
ふうこうめいび
の こ と )に 訪 れ 、 明 治 の 後 半 か ら 大 正 に か け て 、 風 光 明 媚 な 三 浦 の 地 に い
ろいろな文人も訪れてきました。
三崎-東京を結んだ三盛丸
(高梨健児氏所有)
- 2-30 -
三浦を訪れた文人たち
北原白秋
言葉の音楽師といわれ、美しい言葉を使って新しい感覚に
満ちた詩を数多く作りました。
三 崎 に ゆ か り の あ る「 城 ヶ 島 の 雨 」は 、そ の 代 表 的 な も の の 1 つ で す 。
白 秋 は 、1913 ( 大 正 2 ) 年 に 家 族 と と も に 向 ヶ 崎 ( 三 崎 ) に 移 っ て き ま し た 。
当 時 の 作 品 に は 、「 引 橋 の 茶 屋 の ほ と り を い そ ぐ 時
ほとほとと秋は
過ぎぬと思ひき」とあります。引橋周辺の風景に強くひかれていた白秋
の姿をしのぶことができます。また、三崎小学校の校歌などにその足跡
をみることができます。
斎藤茂吉
ア ラ ラ ギ 派 ①の 中 心 と な っ て 、 多 く の 歌 人 を 育 て た 人 と し
て 知 ら れ て い ま す 。 1914 ( 大 正 3 ) 年 、 歌 人 茂 吉 が 妻 と と も に 乗 り 合 い 馬
車にガタガタゆられながら、長井から引橋に向かっていったときの沿道
の風景を表した作品に「まるくふくれし煙草ばたけの向ふ道
さ く 隠 ろ ひ に け り 」「 ほ く ほ く と け ふ も 三 崎 へ の ぼ り 馬
馬車は小
粟畑こえてい
ななきにけり」とあります。七曲りの坂を経て、引橋に向かうあたりに
は、煙草や粟畑が広がっていました。
その他の文人
引橋にひかれて作品『森の二時間』を書いた折口信夫
・小説『桜の御所』を書いた村井玄斎・彫刻家の北村四海・美術評論家
の岩村透・歌人の若山牧水・俳人の松本たかしなどが三崎を訪れていま
す。
①アララギ派
1908 ( 明 治 41 ) 年 に 出 さ れ た 短 歌 雑 誌 『 ア ラ ラ ギ 』 を 中 心 に 活 躍 し た 大 正 ・ 昭 和
の歌人のグループ。
- 2-31 -
大正時代の三浦
お うご ん き
明治の終わりから大正の初期にかけて三崎の沿岸漁業は黄金期であり、
また1つの転換期でもありました。この頃は、秋サバやイカの豊漁が続き
ました。また、これまで大型漁船に限られていたエンジンが沿岸漁船にも
て
こ
付けられはじめると、これを機に一本釣りの手漕ぎ船の動力化が進みまし
は ぶ ぐ ち
た 。 こ う な る と 漁 場 は 拡 大 し 、 1 月 以 降 は 大 島 波 浮 口 (ム ツ ・ メ ダ イ )、 3
め
ら
せ
かもがわ
ち く ら お き
~ 4 月 房 総 南 端 の 布 良 瀬 (ム ツ ・ キ ン メ ・ メ ダ イ )、 5 月 鴨 川 ~ 千 倉 沖 (サ
バ ) 、6 ~ 7 月 大 島 ( サ バ ) 、7 ~ 8 月 新 島 ( サ バ ) 、9 ~ 10 月 大 島 ( サ バ ) 、10
~ 12 月 相 模 湾 ( マ グ ロ ) と い う よ う に 、 1 年 を 通 じ て 出 漁 す る よ う に な り
ま し た 。 一 方 1921 ( 大 正 10 ) 年 に は 三 崎 町 営 魚 市 場 が 海 南 町 に 建 設 さ れ 、
み ず あ
翌 年 に は 魚 市 場 の 水 揚 げ が 300 万 円 を 突 破 す る ほ ど の 盛 況 ぶ り で し た 。 こ
うして三崎の漁業は、沿岸漁業を主力として発展してきましたが、遠洋漁
業はまだあまり見られませんでした。
農 業 も 大 正 年 間 に ダ イ コ ン の 栽 培 が い っ そ う 広 ま り 、「 三 浦 ダ イ コ ン 」
の名前がつけられたり、初声ではトマト栽培や鉄砲ユリの球根作りが導入
されたり、初声や南下浦ではキュウリの栽培など都市向けの農業が少しず
つ発展してきました。
(松 崎 貞 夫 氏 所 有 )
(編 集 委 員 作 成 )
- 2-32 -
交 通 機 関 も 馬 車 に 代 わ っ て 1917 ( 大 正 6 ) 年 に 乗 り 合 い 自 動 車 ( 三 崎 ~ 横
須 賀 ・ 3 円 50 銭 ・ 丁 型 フ ォ ー ド ) が 登 場 し た り 、 1919 ( 大 正 8 ) 年 に は ダ イ
コンや魚の輸送に初めてトラックが用いられるなど、これまでの汽船に代
わ っ て だ ん だ ん と 自 動 車 輸 送 が 行 わ れ る よ う に な っ て き ま し た 。 ま た 1913
(大 正 2)年 に は 、 三 崎 町 に 初 め て 電 灯 が つ き ま し た 。 こ う し て 、 産 業 や 経
済の面でも明るいきざしが見えてきました。
関東大震災
おそ
1923 ( 大 正 12 ) 年 9 月 1 日 午 前 11 時 58 分 、 突 然 関 東 地 方 を 襲 っ た 大 地 震
によって、三浦のこれまでの発展の基礎がくつがえされました。美しい海
りゅ う き
い わは だ
岸線は隆起して岩肌をさらけだし、海水浴場や漁港施設は大きな損害を受
ぜ んは んか い
か お く
け ま し た 。 ま た 、 民 家 も 全 半 壊 を 含 め て 全 家 屋 の 40% に あ た る 1500 戸 あ ま
り が 被 害 を 受 け 、 死 者 61 名 を 出 し ま し た 。 し か し 、 正 午 と い う の に 火 災
が出なかったことと、大きな津波の被害をまぬがれたことは不幸中の幸い
でした。
ふつ こ う
三浦の人々は、この困難のなかでも震災の復興をめざして力強く立ち上
がり、これを機会に海岸の埋め立てや漁港の整備・魚市場の拡張工事に取
り組みました。
この時期は、三崎が日本を代表する大漁港として発展するための出発点
でもありました。
(松 崎 貞 夫 氏 所 有 )
- 2-33 -
震災あれこれ
震災を経験した人の話による
と 、「 三 崎 港 に 水 が な く な り 、
干上がって海底が丸見えになっ
た。城ヶ島から三崎まで歩いて
渡 れ た だ ろ う 」「 城 山 の 高 台 に
ひ な ん
避難して何日も野宿した人々は
(編 集 委 員 作 成 )
干上がった磯から、アワビ・サザエ・トコブシを取ってみんなで分け合
た かぬ き
ろ しゅ つ
っ た 」「 高 抜 海 岸 の 磯 と い う 磯 は 露 出 し 、 沖 ノ 島 へ 歩 い て 行 け そ う だ っ
りゅうき
た 」 と 言 わ れ る ほ ど 地 形 の 隆 起 ( お よ そ 1.4m ) が 見 ら れ 、 三 浦 の 海 岸 の
けい かん
景観は一変しました。
ぼ うど う
このほか「江ノ島が沈んでなくなった」とか「朝鮮人が暴動を起こす
「 朝 鮮 人 が 井 戸 に 毒 を 入 れ る 」な ど と い う う わ さ が 流 れ 、人 々 は 動 揺 し 、
たけ やり
じ けい だん
竹槍を作って自警団を組織したと言われています。
(松崎貞夫氏所有)
- 2-34 -
昭和時代
戦前の三浦
昭和の三浦の発展は、大打撃を受けた関東大震災の復興から始まりまし
なかざき
はなくれ
た 。 し か し 、 復 興 の 目 安 が た っ た や さ き に 、 1932 ( 昭 和 7 ) 年 の 仲 崎 と 花 暮
お よ び 1936 ( 昭 和 11 ) 年 の 城 ヶ 島 と 大 火 事 が 相 次 ぎ ま し た 。 そ れ に 追 い 打
ちをかけるように、戦争という多難な時期を過ごさなければなりませんで
した。
三 崎 で の 震 災 に よ る 漁 港 の 復 旧 は 1928 ( 昭 和 3 ) 年 に は 終 わ り 、 翌 年 に は
三崎魚市場が西野の埋立地に新設されるなど漁港整備は少しずつ進められ
ました。
特に「マグロえさ」としてのイワシの豊漁は、他港の漁船を三崎に集め
せき
る 大 き な 要 因 と な り ま し た 。 昭 和 の 初 め に は 、 全 国 で 1300 余 隻 と 言 わ れ
は えな わ ふね
た マ グ ロ 延 縄 船 の う ち 230 ~ 240 隻 が 三 崎 港 に 集 中 し ま し た 。 和 歌 山 ・ 徳
島・高知・三重・宮城・岩手・山形などから、大型動力漁船が相次いで三
崎に移住してきたのです。彼らは三崎を根拠地にして、東太平洋やマリア
ナ沖などにまで進出しました。
こうして三崎港は、全国でも指折りの遠洋漁業の基地として、その名を
とどろかせるようになりました。
(柳井晋氏所有)
(松 崎 貞 夫 氏 所 有 )
- 2-35 -
しかし、大型漁船を所有して操業する資本力のない地元漁業者は、相変
そうぎ ょう
らず伊豆大島沖までの範囲での小型動力船で操 業しなければなりません
で し た 。 そ れ で も 、 1937 ( 昭 和 12 ) 年 に は 三 崎 町 に 住 む 遠 洋 漁 業 者 の み に よ
っ て 三 崎 町 地 元 遠 洋 漁 業 者 組 合 が 結 成 ( 在 籍 船 34 隻 ・ 平 均 86 ト ン ) さ れ ま
した。
てい ち あみ
沿岸漁業では金田湾の定置網漁業がさかんになり、煮干しやメザシが大
量に加工されて京阪神にまでその市場が広がりました。
農業でも、南下浦や初声では京浜地区への市場の拡大にともなったダイ
コンを中心として野菜類・葉煙草・輸出用ユリの栽培が行われる一方、三
きんこう
浦 特 産 の ス イ カ も 1935 年 頃 か ら 増 え は じ め 、 近 郊 農 業 と し て の 発 展 を 見
せるようになてきました。
好 況 を 続 け る 魚 市 場 な ど 活 発 な 経 済 を 反 映 し て 三 崎 で は 、 1934 ( 昭 和 9 )
年 の 近 代 的 な 町 役 場 建 設 を は じ め 、 1935 ( 昭 和 10 ) 年 に 上 水 道 施 設 が 整 備 さ
れたり銀行の支店が建てられたりするなど、産業経済の面で大きく発展し
ました。
戦時下の三浦
1931 ( 昭 和 6 ) 年 の 満 州 事 変 か ら 始 ま っ た 中 国 と の 戦 争 の 長 期 化 は 、 や が
て三浦の経済や暮らしにも深刻な影響を及ぼしてきました。戦争が激しく
ちょうよう
な っ て き た 1941 ( 昭 和 16 ) 年 以 降 に 大 型 優 秀 漁 船 が 次 々 と 海 軍 に 徴 用 さ れ
て、三崎の遠洋漁業はしだいに衰えてきました。
三 崎 地 元 遠 洋 漁 業 組 合 加 入 船 は 、 1941 ( 昭 和 16 ) 年 に 1 隻 ・ 1942 年 11 隻
しょう かい
・ 1943 年 9 隻 ・ 1944 年 8 隻 と 合 計 29 隻 が 徴 用 さ れ て 日 本 近 海 の 哨 戒 ( 敵
の 襲 撃 の 警 戒 )や 南 洋 群 島 間 の 輸 送 ・ 連 絡 に あ た り ま し た が 、 敗 戦 ま で に
ぎ せ い
そ の 7 割 の 20 隻 が 沈 没 し 、 乗 員 の ほ と ん ど が 戦 争 の 犠 牲 に な り ま し た 。
ろ う き ゅ うか
敗 戦 の と き に は 組 合 に 属 す る 漁 船 は 、 老 朽 化 し た 小 型 漁 船 が 12 隻 に 過 ぎ
ませんでした。
ぎ ょも う
ま た 沿 岸 ・ 沖 合 漁 業 も 、 1937 ( 昭 和 12 ) 年 ご ろ か ら は 燃 料
つな
油や漁網・綱の原料である木綿・麻など生産資材が手に入りにくくなる一
- 2-36 -
方、若い男性も兵隊にとられて老人に任されるようになりました。さらに
戦 争 が 激 し く な る と 漁 場 が 戦 場 と な り 、 1945 ( 昭 和 20 ) 年 に は 新 島 浦 や 伊 豆
じゅう げき
大島で操業中の三崎の漁船が多数の戦闘機に銃 撃されたり、沿岸の漁船
しゅうげき
も襲 撃されるようになりました。
て
こ
こうして戦争の終わり頃には、わずかに手漕ぎの船で空襲警報の合間の
沿岸近くで漁をするに過ぎないほどになりました。そのため三崎魚市場の
水 揚 げ 量 は 、 戦 前 の 最 高 35904 ト ン ( 1937 年 ) に 比 べ て わ ず か 1770 ト ン に 激
減しました。
1941 ( 昭 和 16 ) 年 の 農 作 物 作 付 け 制 限
規則によってスイカの作付けが禁止さ
れ、それに代わって米・麦を主として
かんし ょ
ば れ い し ょ
甘薯・馬鈴薯・豆類の作付けが強制さ
れたため、農業で発展を見せていた園
芸栽培農業は衰えていきました。
三浦半島は、首都東京の防衛のため
の重要な地域であることから東京湾
ようさ い
要塞地帯とされ、三崎城ヶ島・剱崎に
ほう だい
大きな砲台が設置されてきました。
やがて、アメリカ軍の攻勢によって
太 平 洋 戦 争 の 形 勢 が 悪 化 す る と ・ 1945 ( 昭 和 20 ) 年 に は ア メ リ カ 軍 の 日 本 本
とくしゅ せ ん こ う て い
土上陸・本土決戦を想定して、小網代・油壷・松輪の各湾に特殊潜攻艇
かい りゅう
せ んす い かん
ぎょ ら い
てき
(海 龍 と 呼 ば れ る 小 型 の 潜 水 艦 。 魚 雷 を 積 ん で 敵 を 攻 撃 し た り 、 自 分 で 敵
と っ こ う し ゅ う てい
しんよう
艦 に 体 当 た り す る )や 特 攻 舟 艇 (震 洋 と 呼 ば れ る ベ ニ ヤ で 作 っ た モ ー タ ー
ボ ー ト 。 前 方 に 爆 弾 を 積 ん で 敵 艦 に 体 当 た り す る )の 基 地 が 設 け ら れ る よ
うになりました。
- 2-37 -
戦争と子どもたち
1941 ( 昭 和 16 ) 年 に こ れ ま で の 小 学 校 が 国 民 学 校 ( 初 等 科 6 年 ・ 高 等 科 2
年 )と 改 め ら れ る と 、 小 学 校 で も 戦 争 へ の 協 力 体 制 が 作 ら れ ま し た 。 儀 式
き ゅ うじ ょ う ようはい
や学校行事が重視され、の宮
さ いけ い れい
こうきょ
城 遙 拝 (天 皇 の 住 む 皇 居 の 方 角 に 向 か っ て
か
ぼくじゅう
最 敬 礼 を 行 う )か ら 団 体 行 進 ・ 駆 け 足 訓 練 ・ 木 銃 を か つ い で の 軍 事 教 練 や
女子は救護訓練・看護訓練などをさせられました。
三崎小の『八十八年の歩み』によれば、三崎町でも小学校 3 年生以上は
じゅうご
少 年 団 が 組 織 さ れ 、「 銃 後 の 守 り 」 と 食 糧 増 産 に か り だ さ れ ま し た 。 高 等
ぼ うく う ごう
科 (今 の 中 学 1 ・ 2 年 生 )の 男 子 生 徒 は 防 空 壕 掘 り に 、 女 子 生 徒 は 火 薬 の 原
料 に な る カ ジ メ ( 海 草 ) の 採 取 ( カ ジ メ か ら 取 り 出 し た カ リ 塩 が 、 1940 ~ 41
年 ご ろ か ら 爆 薬 の 原 料 に 使 わ れ た )と 乾 燥 作 業 へ と 動 員 さ れ ま し た 。
(松 崎 貞 夫 氏 所 有 )
- 2-38 -
しゅっせい
漁船の出 征
なん き ん
1937 ( 昭 和 12 ) 年 に 日 中 戦 争 が 始 ま り ま し た が 、 そ の 年 の 12 月 に は 南 京
よ う す こ う
ちょう こう
を攻略して戦線はさらに揚子江(長 江)をさかのぼって広がっていき
ほ き ゅう
ました。この広くなった戦場に物資を補給するために、多くの小型発動
ちょうよう
機漁船が徴 用されるようになりました。
とく えい まる
1938 ( 昭 和 13 ) 年 に は 三 崎 か ら も 徳 栄 丸 ( 日 の 出 ・ 11 ト ン ・ 40 馬 力 ) 、
ひょうすけまる
か ねし ちま る
兵 助 丸 ( 白 石 ・ 12 ト ン ・ 40 馬 力 ) 、 金 七 丸 ( 海 外 ・ 13 ト ン ・ 50 馬 力 ) が 船
う じ な
あかつき ぶ た い
長 以 下 ほ と ん ど 乗 組 員 ご と 徴 用 さ れ 、 広 島 県 宇 品 の 暁 部 隊 (陸 軍 の 船
ぐん ぞ く
舶 部 隊 )に 編 入 さ れ た う え 、 乗 員 は 軍 属 (軍 人 以 外 で 戦 争 に 参 加 す る 人 の
じ れ い
しゃんはい
どく こう
こ と )の 辞 令 を 受 け ま し た 。 そ し て 上 海 ま で 独 航 し て 、 現 地 で 神 奈 川 ・
静 岡 二 県 徴 用 漁 船 団 と し て 揚 子 江 (長 江 )を 上 下 し て 戦 争 の 物 資 補 給 の 輸
送 任 務 に あ た り ま し た 。 1940 ( 昭 和 15 ) 年 の 秋 に は 徴 用 は 解 除 さ れ ま し た
が 、 兵 助 丸 は 1938 ( 昭 和 13 ) 年 8 月 21 日 に 砲 撃 を 受 け て 沈 没 し ま し た 。
太平洋戦争が始まると、遠洋漁船・大型沿岸漁船とさらなる徴用が行
しょうそ く
た
われて戦争に参加させられ、船も人も大方はそのまま消 息を絶ってし
ま い ま し た 。 そ う し た 中 で 、 1944 ( 昭 和 19 ) 年 2 月 に 、 乗 員 7 人 と と も に
徴 用 さ れ た 三 崎 の 第 二 兵 助 丸 ( 33 ト ン ) は 、 他 の 2 隻 と と も に 国 の 方 か
げきちん
こう ほう
ら戦場で撃沈されたものと思われて全員戦死の公報が発表されました
が 、 終 戦 か ら 6 年 目 の 1951 ( 昭 和 26 ) 年 に 、 南 洋 マ リ ア ナ 群 島 の ア ナ タ
ハ ン 島 に 流 れ 着 い て 自 給 自 足 の 生 活 を し て い た 20 人 が ア メ リ カ 軍 に 救
せいかん
出され、その年の7月6日にアメリカ軍の飛行機で日本へ生還するとい
う出来事もありました。
- 2-39 -
せんき ょう
1943 ( 昭 和 18 ) 年 ご ろ に 戦 況 は ど ん ど ん 悪 化 し て 金 属 が 不 足 す る と 、 子
こ う か
ど も た ち も 大 人 と 一 緒 に な っ て 11 万 枚 も の 硬 貨 ( 銅 貨 ・ 白 銅 貨 ・ 銀 貨 ) を
ぶ んち ん
きょ うし ゅつ
回収したり、文鎮の供
出にも協力しました。この頃になると子どもたち
か んし ょ
か ぼ ちゃ
のお菓子もなくなり、甘いものといえば甘藷・南瓜・さとうきびの茎など
が ま ん
で、それを食べて我慢していました。
戦 局 の さ し 迫 っ た 1945 ( 昭 和 20 ) 年 に な る と 、 4 月 か ら 国 民 学 校 初 等 科
を除くすべての学校の授業の1年間の停止が決定され、生徒・学生たちの
きんろうどういん
てっ て い
勤労動員の体制が徹底されました。南下浦小学校の校舎も、アメリカ軍上
陸に備えて配置された日本軍の兵隊の兵舎として利用されたりしました。
うわさ
たけやり
相模湾へ連合国軍の上陸が 噂 されると、一般の市民も竹槍でこれを防ぐ
本土防衛対策も考えられました。
ざいごうぐんじん
さ ら に 三 崎 町 で は 町 長 や 在 郷 軍 人 (現 役 を 退 職 し た 軍 人 )・ 警 察 署 長 な ど
い こ う
が、県の意向を受けて警察の一室でひそかに、この町の老人や女・子ども
そ か い
を長野県へ集団疎開させる計画をねったと言われています。これによると
小 学 校 高 等 科 児 童 (今 の 中 学 1 ・ 2 年 生 )は 町 に と ど ま っ て 郷 土 防 衛 隊 に 加
わって在郷軍人や警察官とともに主として弾丸運びにあたり、さらに疎開
は 長 野 県 ま で 10 日 問 か け て 歩 い て 行 く 予 定 だ っ た と い う こ と で す 。
小 学 生 の 勤 労 動 員 (三 崎 小 学 校 )
じゅ んか つゆ
さ いし ゅ
①戦車・飛行機の潤滑油とするためのヒマの栽培と採取
ぬ の じ
② 洋 服 の 布 地 と す る た め の カ ラ ム シ (麻 の 一 種 )と り
③馬のえさの草刈り
④三崎小学校区の農家全体の麦畑の麦踏み
た け やぶ
かい こん
もち
⑤ 城 山 の 竹 薮 の 開 墾 (開 い た 畑 に 粟 と 小 麦 が ま か れ 、 卒 業 式 の 祝 い 餅
とパンになった)
- 2-40 -
戦後の復興
じ ゅだ く
1945 ( 昭 和 20 ) 年 8 月 15 日 正 午 の 「 ポ ツ ダ ム 宣 言 」 の 受 諾 を 告 げ る 昭 和
天 皇 の ラ ジ オ 放 送 で 、 満 州 事 変 に 始 ま る 15 年 に も お よ ぶ 長 い 戦 争 が 終 わ
りました。
せん ぼつ し ゃ
三 浦 市 で は 、 こ の 戦 争 で 20 代 の 若 者 を 中 心 に 約 1000 名 も の 戦 没 者 を 出
い た で
し、経済的にも大きな痛手をこうむりました。こうしたなか、アメリカを
か い かく
中心とする連合国軍の占領のもとで全国的に農地改革や民主化政策が進め
ら れ ま し た 。 三 浦 で も 1946 ( 昭 和 21 ) 年 か ら 行 わ れ 農 地 改 革 で は 266ha 余 り
( 1950 年 三 浦 市 農 地 総 面 積 1184ha ) の 農 地 を 地 主 か ら 国 が 買 い 上 げ て 、 改 め
て小作人に安く売り渡されました。また、政治の民主化として地方自治が
す いせ ん
進められ、これまで町村議会から推薦されていた町村長を住民が直接選挙
す る こ と に な り 、 1947 ( 昭 和 22 ) 年 4 月 、 三 崎 町 長 に 松 崎 定 治 ・ 南 下 浦 町 長
に新倉誠一・初声村長に山田孝三郎がそれぞれ選ばれました。
しょ うれい
産業面でも、戦後の食糧難解消のために政府がとった漁船建造奨 励政
策のもとで遠洋漁業用マグロ・カツオ大型漁船も多く作られ、三崎魚市町
め
ざ
水 揚 げ 量 も 遠 洋 漁 業 を 中 心 に 1949 ( 昭 和 24 ) 年 に は 32419 ト ン に 達 し 、 目 覚
ましい復興を見せました。
1953 ( 昭 和 28 ) 年 末 に 始 ま っ た ア メ リ 力 の 南 太 平 洋 海 域 ( ビ キ ニ 島 周 辺 ) で
げん す いば く
の原水爆実験によって、翌年3月に焼津港所属の第五福竜丸が「死の灰」
ひ ば く
を 浴 び て 被 爆 し ま し た 。 三 崎 港 で も 3 月 26 日 に 帰 港 し た 第 十 三 光 栄 丸 か
ほ う しゃ の う
ぎ ょか く ぶ つ
は い き
ら 強 い 放 射 能 が 検 出 さ れ 、 漁 獲 物 48.75 ト ン す べ て が 廃 棄 さ れ ま し た 。 さ
ら に 4 月 か ら 12 月 に か け て 帰 港 し た 遠 洋 漁 船 合 計 158 隻 か ら も 相 次 い で
放 射 能 が 検 出 さ れ 、 合 計 150 ト ン ( 当 時 の 価 格 で 10 億 円 ) も の 漁 獲 物 が 廃
しょうげ き
棄されました。この事件は「原爆マグロ」として社会に大きな衝 撃を与
ぼ う らく
え、一時期マグロ類の価格は暴落して取り引きはほとんど停止し、三浦の
漁業にも深刻な影響を与えました。
こ う し た な か で 漁 業 と 密 接 な 結 び つ き の あ る 三 崎 の 人 々 は 、 1954 ( 昭 和
- 2-41 -
29 ) 年 4 月 20 日 に 魚 市 場 で ア メ リ カ の 原 爆 実 験 に 反 対 し て 町 民 大 会 を 開
せん げ ん
き 、 不 安 と 怒 り の な か で 大 会 宣 言 を 決 議 し て 「 (1 )公 海 自 由 の 確 保
(2 )
ちり ょ う
治療・生活費の完全保障
(3 )災 害 保 障 の 完 全 実 施
(4 )原 爆 の 禁 止 」 を
訴えました。
農業では戦争中からの作付け統制もしだいに解除されて、スイカ・キャ
ベツ・トマト・レタスなど都市向けの商品作物を主体とする近郊農業が再
び中心になってくるようになりました。
よう さ い
きび
また、三浦半島には明治のころより東京湾要塞司令部が置かれて厳しい
監視が続けられていましたが、戦後になると東京や横浜の人々を中心に手
近なレクリエーションの場として、城ヶ島や油壷には観光バスが多く来る
ようになりました。
新制中学校の誕生
学校教育面でも大きな改革が行われ、これまでの国民学校から小学校6
年間および中学校3年間の義務教育の新しい体制に変わりました。三浦で
も 1947 ( 昭 和 22 ) 年 に 、 三 崎 ・ 南 下 浦 ・ 初 声 の 3 中 学 校 が ス タ ー ト し ま し
た。
開校当初は独立した校舎はなく、旧軍隊の施設を使用したり近くの小学
校に間借りするなどしてその場をしのぎました。
校舎も大変不足していたため、午前番・午後番の2回に分ける二部授業
い
す
で行われました。机や椅子はもちろんのこと、教科書やノートも十分にそ
ろわないなかでの授業でした。
のうはん
新制中学校は当時週5日制で、農業の忙しい時期には1週間前後の農繁
休業をとる学校もありました。服装は今のように制服はなく、質素な身な
りをしていました。また、高校進学を希望する生徒はさほど多くありませ
んでした。
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開 校 当 初 の 初 声 中 学 校 (創 立 30周 年 記 念 誌 よ り )
ぶ んけ んた い
初 声 中 学 校 (元 横 須 賀 海 軍 通 信 隊 初 声 分 遣 隊 の 兵 舎 )は 、 初 声 村 の 北 端
に位置しているため生徒の通学路に問題があった。三戸や下宮田の生徒
あま
は4キロ余りの道を登校しなくてはならない。しかも生徒の服装といえ
こく ぼう ふく
せ んと うぼ う
げ
た
ば
ば、国防服に戦闘帽そして下駄履きといういでたちであった。
い
す
教室は6学級分あったが、教室とは名ばかりで机や椅子などはほとん
どなく床に座らせ、ミカン箱が机の代りだった。備品と言えば、古びた
オルガン1台と磨り減ったガリ版ぐらいであった。教科書は全くなし。
後になって配られはしたものの、3人に1冊とか5人に1冊といったあ
りさま。しかもその教科書は、新聞紙を八つ切りにしたような薄っぺら
きょ くど
なパンフレット程度のものでした。学用品も極度に不足し、ノートはお
ろか習字用の半紙さえ事欠くほどでした。
授 業 の 方 も 、 1 ・ 2 ・ 3 期 生 は 毎 日 何 時 間 も 校 舎 内 外 の 整 備 作 業 (ト
ロ ッ コ を 押 し た り 、 埋 め 立 て を し た り )に 追 い 使 わ れ て 授 業 も 満 足 に で
きず……
(各 中 学 校 所 有 )
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三浦市の誕生
三 崎 町 と 南 下 浦 町 お よ び 初 声 村 は 、古 く か ら の 結 び つ き が 見 ら れ ま し た 。
3町村はともに三浦半島の南端部にあって、人情・風俗・習慣などで多く
の共通点をもっていました。地理上も隣接し、容易に結びつける条件にあ
りました。
がっ ぺ い そ く し ん ほ う
1953 ( 昭 和 28 ) 年 の 町 村 合 併 促 進 法 の 施 行 に よ っ て 、 1955 ( 昭 和 30 ) 年 1 月
はたじ るし
1日に生産と観光の町の旗 印とし、半島の開発と住民の福祉増進をめざ
し て 2 町 1 村 が 合 併 し 、 三 浦 市 が 誕 生 ( 合 併 当 時 、 面 積 30.39km2 ・ 人 口 35166
人 ・ 戸 数 6996 戸 ) し ま し た 。
旧三崎町役場
(高 梨 健 児 氏 所 有 )
旧南下浦町役場
(松 崎 貞 夫 氏 所 有 )
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城ヶ島大橋の完成
1955 ( 昭 和 30 ) 年 1 月 1 日 に 誕 生 し た 三 浦 市 は 、 そ の 後 、 市 民 の 大 き な
夢 で あ っ た 城 ヶ 島 大 橋 を 1960 ( 昭 和 35 ) 年 に 完 成 さ せ ま し た 。 漁 港 整 備
や観光事業を大きく発展させるなか、城ヶ島大橋は新生三浦市のシンボ
ルとなりました。
か き ょう
この大橋の架橋工事は、3年の歳月と7億余円の巨費をかけて完成さ
れ ま し た 。 橋 は 、 海 橋 部 分 の 長 さ 575m ・ 幅 員 11m ・ 高 さ は 満 潮 時 で 21m
は こげ たは し
となり、当時東洋一の箱桁橋として多くの注目を集めました。
完 成 間 近 の 城 ヶ 島 大 橋 (高 梨 健 児 氏 所 有 )
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三浦の歴史
三浦の出来事
旧石器時代
水谷戸遺跡、大畑遺跡
縄文時代
大浦山遺跡、三戸遺跡、諸磯遺跡
弥生時代
赤坂遺跡、大浦山遺跡、遊ヶ崎遺跡
才京込遺跡
古墳時代
大椿寺裏山古墳
飛鳥時代
奈良時代
239 邪馬台国が魏に使いを送る
645 大化改新が起こる
『日本書紀』に「三浦」
(御浦)の地名が出て
くる
神宮寺を行基が開くと伝えられている
平安時代
710 平城京に都を移す
745 大仏の建立
794 平安京に都を移す
866 海南神社できる
天養院の薬師如来像がこの頃つくられる
1063 平太夫為通に三浦郡が与えられる
平為継も源義家に従う
1180 衣笠城が落城する
1051 ~ 1062 前九年の役
1083 ~ 1087 後三年の役
1192 鎌倉幕府ができる
1221 承久の乱
鎌倉時代
室町時代
日本の主な出来事
1213 和田の乱(和田義盛亡びる)
1247 宝治の乱(三浦氏亡びる)
1319 ~ 23 新井城できる
1335 三浦時継が三浦の地を与えられる
1333 鎌倉幕府が亡びる
1334 建武の新政
1467 応仁の乱
戦国時代
1494 三浦道寸が新井城の城主となる
1516(1518)三浦道寸が北条早雲に亡ぼされる
1590 三浦半島が徳川家康の領地となる
三崎が天領となる
1590
豊臣秀吉が北条氏を滅ぼ
し、全国を統一する
江戸時代
1678
1708
1811
1847
城ケ島西山に「灯明台」ができる
「入江新田」の開発が始まる
会津藩が江戸湾警備にあたる
海防陣屋が作られる
1603 江戸幕府が開かれる
1825 外国船打払令
1853 ペリーが浦賀に来る
1867 大政奉還
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三浦の出来事
明治時代
1870
1872
1877
1881
1886
1889
大正時代
昭和時代
1901
1913
1917
1921
1934
1941
1945
城ケ島灯台できる
三崎郷学校が日の出町に開校
横須賀警察署三崎分署が長井から六合の円
照寺へうつる
東京~三崎間が汽船で結ばれる
コレラが流行する
町村制が施行され、三崎町・南下浦村・初
声村できる
三崎~浦賀間に乗り合い馬車が開通
三崎町に初めて電灯がともる
三崎~横須賀間に乗り合い自動車が開通
三崎町営魚市場が海南町に建設される
最初の水道がはじまる
これ以降、大型優秀漁船が海軍に徴用され
る
小網代湾・油壷湾・松輪湾に特殊潜攻艇や
特攻舟艇の基地ができる
1947 町村長を住民が直接選挙をする
三崎・南下浦・初声の3中学校が創立される
平成時代
1954 「原爆マグロ」事件が、三浦の漁業に影響を
与える
三崎魚市場で、原爆実験に反対する町民大会
が開かれる
1955 2町1村が合併し、三浦市が誕生する
1960 城ケ島大橋が完成する
1966 上原中学校が創立される
京浜急行が三浦海岸まで延長される
1973 毘沙門地区にし尿処理として衛生センター
が完成する
1974 長野県須坂市と姉妹都市を結ぶ
1975 京浜急行が三崎口まで延長される
1991 毘沙門地域にゴミ処理施設として環境セン
ターが完成する
1991 三浦海業公社が設立される
1992 オーストラリアのウォーナンブールと姉妹
都市を結ぶ
1997 潮風アリーナが完成する
2001 うらりが完成する
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日本の主な出来事
1868 明治維新
1872 学制の発布
1894 日清戦争
1904 日露戦争
1914 第一次世界大戦はじまる
1923 関東大震災おこる
1937 日中戦争はじまる
1941 太平洋戦争はじまる
1945 「ポツダム宣言」を受諾し、
終戦
1946 農地改革がはじまる
1947 日本国憲法が施行される
1951 サンフランシスコ講和条約
が結ばれる。
1953 アメリカ合衆国がビキニ島
で原水爆実験を行う
1960 頃 高度経済成長期はじま
る
1972 沖縄が返還される
1973 オイルショックがおこる
1979 日中平和友好条約が結ばれ
る
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