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「世界に響くタケミツ・トーン」(PDF:202KB)

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「世界に響くタケミツ・トーン」(PDF:202KB)
ひ び
だれ
武満 徹
た け み つ とおる
世 界 に響 く タ ケ ミツ・トー ン
いだ い
世界的に有名で偉大な作曲家と言えば、誰でしょう。
あなたの思い浮かべる人物は、例えば、バッハやモーツ
たき れ ん た ろ う
ァ ル ト 、ベ ー ト ー ヴ ェ ン で し ょ う か 。日 本 人 に 限 る な ら 、
や ま だ こうさく
山田耕筰や滝廉太郎などの名前が挙がるかもしれませ
ん。
皆さんは、武満徹という作曲家を知っていますか。現
代音楽の分野において、世界的に知られる偉大な作曲家
です。明治から大正にかけて衆議院議員を務めた、現在
よ し お
の薩摩川内市出身の武満義雄という人の孫にあたりま
どくがく
た
き
す。若い頃、主に独学で作曲を学び、クラシック音楽か
ぶ たい
ら電子音楽、舞台音楽、ポップ・ソングまで、多岐にわ
31
︻関連年表︼
一九三○年 誕生
誕生後まもなく、大連に渡る。
一九三一年
満州事変
一九三七年
日中戦争
小 学 校入 学のた めに、単身帰国 。
一九四五年
太平洋戦争終戦。
一九四八年
清瀬保二に師事。
一九五〇年
﹁二つのレント﹂発表。
一九五一年
﹁実験工房﹂を設立。
一九五七年
﹁弦楽のためのレクイエム﹂発表。
一九六七年
﹁ ノヴ ェ ンバー・ス テップス﹂発
表。
一九九六年 死去
一九九七年
﹁武 満 徹作 曲賞﹂が創設さ れる。
たる作品を数多く残しました。
ひび
﹁タケミツ・トーン﹂という言葉があります。彼の作
かな
った音楽から奏でられる、豊かな音色や独特の響きなど
しょう
を 称 したこの言葉は、彼の生んだ音楽が、いかに個性
的であったかを物語るものです。彼は、一九九六年︵平
成八年︶に亡くなりましたが、世界中の演奏家やオーケ
たいせい
ストラ、そして多くの音楽ファンが、今も彼の音楽を愛
ほとん
し続けています。 殆 ど自力で作曲を学び、やがて大成
くわ
していった彼の音楽人生の歩みを、もう少し詳しくたど
ってみましょう。
だいれん
一九三〇年︵昭和五年︶十月八日、東京に生まれた武
ば
満徹は、生後間もなく中国の大連に渡りますが、やがて
お
帰国し、東京の伯母の家から小学校に通うことになりま
した。
32
︻考えてみよう︼
武 満 徹 の よ う に 、﹁ 家 族 や 親 戚 な
ど身近な人から、自分の生き方に何
ら か の 影 響 を 受 け る 。﹂ と い う こ と
は少なくない。あなたはどうだろう。
︻ジャズ︼
西 洋音 楽 とアフリカ音楽 の組合わ
せに より 発 達した音楽 で、アドリブ
︵即興演奏︶、ソロ︵個人演奏︶、コ
ール ・ アン ド・レ スポンス︵掛け 合
い 演 奏︶ な どの要素を組 み込むこと
が特徴。
︻シャンソン︼
フラ ン スの歌 謡曲全般を意 味し、
中 世 から ルネ サンス時代に かけて、
数 多く 発表 された 。物語性を持 って
い る 歌詞 が 多いことも 特徴である。
ころ
き
幼い頃の彼が出会った音楽は、身近なところにありま
く
うで
お
ば
そう
した。中国で暮らしていた頃に父親がよく聴いていたと
ししょう
い う ※ジ ャ ズ と 、 師 匠 の 腕 を も つ 伯 母 の ※箏 の 音 色 で す 。
すで
その当時から彼が、既に音楽に対して特に大きな興味や
いだ
関心を抱いていたというわけではなかったのですが、無
しゃくはち
意 識 に 接 し て い た ジ ャ ズ の リ ズ ム 、 父 の ※尺 八 や 伯 母 の
箏の音色を通して何気なく親しんでいた日本の伝統音楽
えいきょう
は 、 後 の 彼 の 作 曲 に 大 き な 影 響 を 与 え た よ う で す 。﹁ 尺
おく
八や箏は、自分の音楽と心の奥深いところで関わりがあ
る 。﹂ と は 、 晩 年 に 語 っ た 彼 自 身 の 言 葉 で す 。
しょく りょう
太平洋戦争が終わりを告げようとする頃のことです。
きん ろう
当 時 中 学 生 だ っ た 武 満 は 、 ※勤 労 動 員 と し て 食 糧 基 地
や道路を作っていました。そんなある日、先輩が、フラ
ン ス の ※シ ャ ン ソ ン の 名 曲 ﹁ 聞 か せ て よ 、 愛 の 言 葉 を ﹂
︻箏︼
︻尺八︼
︻勤労動員︼
太平洋戦争末期、労働力不足を
補うため、中学生以上の生徒や学
ちょう よう
生が軍需産業や食糧増産に動員さ
れた。
むか
武満も勤労動員として 徴 用 さ
れ、十五歳で終戦を迎えた。
33
。
という歌のレコードを、こっそり聴かせてくれました。
音楽って、何て素晴らしいものなのだろう
し ょ う げき
大きな感動と強い 衝 撃を受けた彼は、その時ついに、
自分の夢を見つけます。それは、音楽家になること。こ
の 曲 と の 出 会 い は 彼 に と っ て 、後 に﹁ 音 楽 へ の 目 覚 め は 、
も う こ れ 以 外 に は な い 。﹂ と 述 べ る ほ ど の 大 き な 衝 撃 で
あり、武満が音楽の道へと進む大きなきっかけとなった
出来事でした。
音楽家を夢見た武満は、戦後の混乱と貧しさの中、音
つ
楽への道を突き進みます。楽器を何一つ持っていなかっ
た彼は必死に働き、仕事場にあったピアノを使っては、
熱心に音楽の勉強に打ち込みました。
また、武満はアメリカ映画にも大きな関心を持ち、映
くろさわ あ き ら かんとく
画 館 に よ く 通 い ま し た 。後 に 彼 は 、 ※黒 澤 明 監 督 の﹁ 乱 ﹂
という映画で音楽を担当するなど、映画音楽にも多大な
︻黒澤明︼
きょ しょう
日本映画の 巨 匠 であり、世界
ら しょうもん
さむらい
的映画監督の一人。主な作品に
﹁ 羅 生 門 ﹂﹁ 七 人 の 侍 ﹂ な ど 多
数。
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︻教科書の武満徹作品︼
き
﹁雨の樹﹂
︵ピアノ曲︶
小学 校 五年生 音楽の教科書 ︵教育
出版︶に掲載されている。
﹁ノヴェンバー・ステップス﹂
︵協奏曲︶
中 学 校音 楽の教科書 ︵教育出版︶
に掲載されている。
﹁翼﹂
︵混声合唱曲︶
高 等学 校 音楽の教科 書︵音楽の友
社︶に掲載されている。
影 響 を 与 え て い ま す が 、現 代 音 楽 や ク ラ シ ッ ク 音 楽 の 他 、
様々な分野で幅広く自身の才能を発揮したところに、彼
の非凡さ、尽きることのない音楽への情熱が感じられま
す。
ぼっとう
音楽に没頭する日々の中、武満は、あるクラシックコ
ン サ ー ト の 会 場 で 、﹁ 新 作 曲 派 協 会 ﹂ と い う 組 織 の 存 在
き よ せ や す じ
を 知 り ま し た 。 そ の 協 会 で は ※清 瀬 保 二 と い う 作 曲 家 が
かつやく
活躍しており、彼の﹁ヴァイオリン・ソナタ﹂に大きな
がくふ
感 動 を 覚 え た 武 満 は 、清 瀬 に 弟 子 入 り す る こ と を 決 意 し 、
たた
この作曲家の門を叩きます。清瀬は、武満の書いた楽譜
を一目見ただけで好みの音楽を言い当て、彼を驚かせま
した。
清瀬に師事し作曲を続ける武満に、間もなく大きな転
すす
機が訪れます。清瀬の薦めにより、新作曲派協会に曲を
︻清瀬保二︼
作曲家。山田耕筰に師事した後、
独学で作曲を学ぶ。新作曲派協会
の設立にも参加した。
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提出することになったのです。独学で作曲に取り組んで
き た 彼 が 、長 い 時 間 を か け て 完 成 さ せ た﹁ 二 つ の レ ン ト ﹂
ひょうろんか
と い う ピ ア ノ 曲 。二 十 歳 の 彼 の 、自 信 作 で し た 。し か し 、
ひろう
この曲が発表会で披露されると、ある音楽評論家は、次
のように評しました。
﹁武満徹は、音楽以前である
こ
よ﹂
。
あなたの音楽は、音楽と呼べるものではない、という
か
厳しい評価を投げつけられた彼は、駆け込んだ映画館の
くらやみ
暗 闇 の 中 で 涙 を 流 し ま し た 。こ れ ま で の 人 生 で 初 め て の 、
ざせつ
大きな挫折でした。
しかし、このことが逆に大きなバネになり、武満はそ
こうぼう
、仲 間 た ち と﹁ 実 験 工 房 ﹂と い う グ ル ー プ を 設 立 し
てんかい
新しい芸術の創造を目指した活動を積極的に展開しま
す。例えば、様々なジャンルの作曲家の研究や、論文の
きこ う
寄稿、電子音楽への取組⋮。このように様々な分野の芸
︻鑑賞してみよう︼
﹁二つのレント﹂を、実際に聴
いてみよう。
︻考えてみよう︼
武 満 に と って 、
﹁ 実 験 工房 ﹂ の仲
間達は、どのような存在だったの
だろう。
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しげき
術家と共に活動したことが、大きな刺激になったのでし
ょ う 。 や が て 武 満 は 、﹁ 楽 器 の 音 だ け で な く 、 日 常 生 活
ぐうぜん
の 中 で 偶 然 発 せ ら れ る 音 も 、音 楽 に と っ て 大 切 な 要 素 だ ﹂
とら
ヴ ォ ー カ リ ズ ム A ・ I ﹂﹁ 遮 ら れ な い 休 息 Ⅰ ﹂﹁
さえぎ
と 捉 え る よ う に な り 、 こ れ ら の 影 響 を 採 り 入 れ 、﹁ 水 の
曲
リ エ フ ・ ス タ テ ィ ン グ ﹂な ど の 諸 作 品 を 精 力 的 に 制 作 し 、
発表しました。
げんがく
一九五七年︵昭和三十二年︶六月、当時二十七歳の武
いしょく
満が、東京交響楽団の委嘱を受け作曲した﹁弦楽のため
のレクイエム﹂が初演されました。この作品は当初、
せんりつ
﹁旋律︵メロディ︶もなければリズムもない、何もない
⋮ 。﹂ と い っ た 批 判 的 な 評 価 ば か り 受 け ま し た が 、 こ れ
くつがえ
らの評価を 覆 し、世界に﹁タケミツ﹂の名を広める人
物が現れます。ストラヴィンスキーという、ロシアの有
ル
37
名 な 作 曲 家 で す 。﹁ 弦 楽 の た め の ⋮ ﹂ の 発 表 か ら 数 年 後
に来日した際に偶然耳にしたこの曲を、ストラヴィンス
キーは﹁この音楽は実に厳しい、全く厳しい。このよう
こがら
な厳しい音楽が、あんなひどく小柄な男から生まれると
ぜっさん
は ⋮ 。﹂ と 絶 賛 し た の で し た 。 こ の 世 界 的 な 作 曲 家 か ら
たん
の 評 価 に 端 を 発 し 、武 満 の 作 曲 活 動 は 国 内 に と ど ま ら ず 、
海外でも大きな輝きを放っていきます。数々の作曲コン
クールで一位になるのはもちろんのこと、世界的に著名
な楽団や指揮者のもとで、武満の音楽が発表されていき
ました。
武満が、ニューヨークフィルハーモニックからの委嘱
を受けて作った﹁ノヴェンバー・ステップス﹂は、彼の
代表曲として有名ですが、その楽団を率いて一九六七年
︵昭和四十二︶十一月に初演を行った指揮者が、日本を
お ざわ せ い じ
代表する名指揮者、小澤征爾です。この曲は、西洋で誕
38
︻薩摩琵琶︼
︻鑑賞してみよう︼
﹁ノヴェンバー・ステップス﹂を、
実際に聴いてみよう。
︻川内まごころ文学館︼
(
鹿児島県川内市 現在の薩摩川内
)
ゆかり
市 に 縁 のある 先人の文化遺 産を伝
える 。 武満 に関する 資料も展示さ れ
ている。
さつ ま
び
わ
生 し た オ ー ケ ス ト ラ に 、尺 八 や 薩 摩 琵 琶 を 加 え た も の で 、
ざん しん
当時としては非常に斬新で、革新的な作品でした。
幼い頃に出会った尺八や箏の音色、そして、シャンソ
ンの衝撃から始まった音楽人生。度重なる悪評を乗りこ
え、ひたすら自分の目指す音楽を信じ、追求し続けて生
けっ さく
まれた、大傑作でした。
そ の 後 も 武 満 は 、数 多 く の 傑 作 を 世 に 送 り 続 け 、ま た 、
み やげ
若手の育成にも情熱を注ぎます。そして、世界にその名
きざ
を刻んだ数々の音楽を置き土産に、一九九六年︵平成八
まく
年︶二月、六十五年の生涯に幕を下ろしました。
たた
その翌年、武満の優れた音楽を讃え、その遺志を引き
継 ご う と 、﹁ ※武 満 徹 作 曲 賞 ﹂ が 創 設 さ れ ま し た 。 こ の
賞は、祈りや希望、平和をテーマに新しい音楽の創造を
きえ い
呼びかけ、新進気鋭の若き音楽家たちの発掘と育成に貢
︻小澤征爾︼
日本が誇る世界的指揮者。カラ
ヤン、バーンスタイン等、世界的
名指揮者に師事。
武満とは特に親交が深く、音楽
的・人間的に深いつながりを築い
た。
︻武満徹作曲賞︼
一 九 九 七 年 ︵ 昭和 九 年 ︶
、芸 術 音
楽家としての武満の遺志を引き継
ぎ、世界各国の次代を担う若い世
代に、新しい音楽作品の創造を呼
びかける。
また、同年九月、東京オペラシ
ティコンサートホール︵タケミツ
メモリアル︶がオープンした。
39
︻主な受賞作品︼
・
﹁ソン カリグラフィー﹂
・第 二 回現 代音楽祭 作曲コンクー ル
一位
﹁黒い絵画﹂
・イタリア放送コンクール大賞
﹁テクスチュアズ﹂
・ 国際 現 代作曲 家会議最優秀 作品賞
映画﹁乱﹂の音楽
・ロサンゼルス映画評論家賞
﹁ア・ウェイ・ア・ローン﹂
・第 三 十六 回グラミー 賞最優秀現代
作品部門賞にノミネート
﹁ファンタズマ/カントス﹂
・第 三十 七 回グラミー 賞最優秀現代
献しています。
新しい音楽、新しい芸術の創造に生涯を捧げた武満の
みりょう
思いは、今も人々を魅了し、受け継がれているのです。
︻主な受賞歴︼
一九八五年
芸術文化勲章︵フランス政府︶
一九八八年
京都音楽賞大賞
一九八九年
日本文化デザイン会議賞国際文
化デザイン大賞
一九九〇年
国際モーリス・ラヴェル賞
一九九一年
都民文化栄誉章
一九九三年
国際交流基金賞
一九九六年
グレン グールド賞
・
作品部門賞にノミネート
40
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