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「映像音響詩」― 映像と音楽の総合

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「映像音響詩」― 映像と音楽の総合
「 映像音響詩」― 映像と音楽の総合
Audio Viaual Poems:Synthesis of Image and Music
中村 滋延
九州大学大学院芸術工学研究院
[email protected]
はじめに
マルチメディアという用語は商業主義にま
映像音響詩における映像表現は,音による表現
を深化・拡大させるためにある。筆者にとって
みれてすっかり魅力を失ってしまった。しかし、
マルチメディア環境が可能にしてくれたこと
自体はなんら色褪せてはいない。一人の人間が
は,映像音響詩を制作することは,通常の音楽
作品を作曲することと本質的な差異はない。
1980 年代初めから,作曲活動の柱のひとつ
ひとつのマルチメディア・パソコン上で、複数
の感覚を対象とした作品を作ることができる
ことの創造的刺激は健在である。それどころか、
として,ミュージックシアターの制作上演活動
を筆者は行なっていた。ミュージックシアター
はステージ上の視覚的要素(演奏者や登場人物
その創造的刺激を糧にしている者は増えてい
る。コンピュータ音楽コンサートにおける映像
付き音楽の増大はその証拠であろう。
の動作や,舞台の美術や照明など)を構成に取
り入れた音楽作品のことである。映像音響詩は,
このミュージックシアターでのステージ上の
そうした反面、映像と音楽の関わりについて
の創作的視点からの論述は意外と少ない。(知
覚認知の視点からの論述はあるにはが、創作的
視覚的要素を,テレビモニターやスクリーンの
画像に換えたものである。
視覚的要素を音楽の構成に取り入れるとは,
刺激にはならない。)
本論は、筆者の映像付き音楽「映像音響詩」
の作品解説の形を通して、映像と音楽の総合の
簡単に言えば次のようなことである。
音楽はひとつの音からだけでは音楽にはな
らない。複数の音が集まり,相互に関係づけら
創造的可能性の一端について明らかにするこ
とを目的としている。ただしその論述は主観に
満ちたものであって、客観的な検証を得たもの
れてはじめて音楽になる。音は他の音との関係
づけによってはじめて意味を持つ。その意味と
は,緊張,安定,弛緩,繋留,等の構成的な意
ではない。むしろ「作者の声を直接伝える」と
いうことに的をしぼったものであり、創作の勘
のようなものの提示を通して、この目的の正当
味である。こうした音の構成的意味は,視覚的
な情報が加わることによって,それが,増幅さ
れたり,転換されたり,否定されたりする可能
な議論への導入の役割を果たそうとするもの
である。
性を持つ。
例えば,今ここに,弱音で鳴らされたピアノ
のドの音があるとする。この音は,その前後に
映像音響詩とは何か
映像音響詩という言葉は筆者自身による造
語で,英語には Audio-visual Poem,ドイツ語
鳴る音,そして同時に鳴る音によってその意味
が付与される。ところがこの音を鳴らすのに,
ピアニストが高く上げた腕を思い切りよく鍵
には Audio visuelles Gedicht と訳している。
映像音響詩は,作曲家という筆者の出自を反映
して,音による表現を第一義に考えてつくられ
盤に叩きつけて弾いたとしよう。聴衆は,ピア
ニストの様子から大音量の和音が鳴ることを
予想するだろう。ところが,鳴ったのは弱音の
る映像作品である。誤解を恐れずに言うならば,
ドの音だったのである。そこで生じるドの音の
1
意味は,
「意外」
「はぐらかし」というようなも
のであろう。この意味は,視ることなしでは生
まれてこない。つまり,視覚的な情報が音に意
味を与えたのである。
映像音響詩における,映像表現はまさにこの
ような役割を基本的には担っている。もちろん,
これはあくまでも基本的なことであって,実際
には画像自体が作りだす意味(構成的な意味の
場合もあれば,形や動きが示す具体的な意味の
場合もある)が音自体の意味を超えることも多
ただし映像パートだけではこうした表現は
抽象的過ぎて視聴者に意味としては伝わらな
い。視覚的要素と聴覚的要素の間には様々な関
係がある。筆者の映像音響詩はこうした「関係
づけ」を発想の出発点に置いているのである。
い。そこで音響パートがその意味を担う。冒頭
部分では時計の秒針の音が時間に追われてい
る様子を描写する。中間部分では日常生活の中
で発せられる様々なうめき声・あえぎ声・ため
息等の断片と硬質の物体同士がぶつかり合う
ような様々な打撃音とがストレスを描写する。
《Common Tragedies in urban life 》「 抽 象 型 」
映像音響詩
2000 年 4 月制作の《Common Tragedies in
urban life》(上映時間 6 分)は都会生活の悲劇
的側面をシニカルに表現しようとした作品で
こうした音は,その音の持つ具体的な意味性を
強調するためだけでなく,音楽構成のために素
材としても効果的に機能するように加工・変調
ある。
映像パートは都会生活の様々な事件やそれ
によってもたらされる人々の悲しみを象徴す
される。例えば秒針の音はだんだんと早く・高
くなっていくように加工・変調されたりしてい
る。
る幾何学的図形とその動きによって構成され
ている。
《L u s t 》「 引 用 型 」 映 像 音 響 詩
2000 年 4 月制作の《Lust》(上映時間 6 分)
は最初から「引用型」映像音響詩として構想さ
れた。その際,3つの創作上のねらいがあった。
そのひとつは,抽象的な形象を素材として映
像パートを構成することであった。黒地のフレ
ーム内には縦長の四角形が7本ならぶ。時間の
推移とともに,これら四角形の長さや幅が絶え
例えば作品冒頭部分のサークル上に配置さ
れた 12 コの円は時計の文字盤を模している。
ず変化し,四角形の位置も左右に動く。縦長の
四角形がつねに7本並んでいるということで
統一性が図られ,それらが時間とともに様々に
様々な色彩で激しく明滅・点滅する 12 コの点
は時間に追いまくられる現代の都会生活者を
表している。中間部分ではゆがんだ格子状の図
変化し動くことによって多様性が図られてい
る。
2つめのねらいは,抽象的な形象の中に実写
形の中をいくつかの円があわただしく動く。円
は格子の中に閉じ込められたり,格子と激しく
ぶつかったりする。こうした様子は人間関係の
画像をモチーフとして取り入れることであっ
た。実写画像は雑誌・新聞の写真やテレビ映像
の断片からの引用である。これによって具体的
様々なもつれからくる現代の都会生活者のス
トレスを表している。
なメッセージ性が抽象的な形象に付け加えら
れる。メッセージの内容は現実世界の危機の要
2
因をなす人間の欲望とその行動への警告であ
(上映時間 7 分)は「引用型」映像音響詩のタイ
る。
プに属する作品である。ただしこの作品では引
用は手段ではなく,内容そのものである。この
ことが他の作品での引用とは異なっている。
この作品は,ピカソのマリー・テレーズへの
愛を,マリー・テレーズをモデルにして描いた
彼の様々な絵画作品によって表現しようとし
たものである。それに加えてマリー・テレーズ
をモデルにした絵画作品の素晴らしさを分析
的に描こうとした作品でもある。いわば,映像
表現(同一時間上に展開される映像と音楽)に
よるピカソについての"評論"である。したがっ
て映像パートのモチーフはすべてピカソの絵
画作品からの引用になるのである。
映像パートにはピカソの絵画作品が次々と
登場する。登場順序はピカソのマリー・テレー
3つめのねらいは,映像パートの抽象性と意
味性に即応する音響パートをつくることであ
..
った。音響パートの中心となる素材はもの音と
ピアノ音楽である。もの音は映像パートの実写
モチーフに直接働き掛け,その意味を強調する。
..
そのためにもの音はそれ自体で前後の脈絡な
く鳴ることになり,一貫した音楽的持続を作る
ことはない。音楽的持続を担当するのはピアノ
音楽であ。
以上の3つのねらいは達成されたと思う。
た
..
だし,音響パートがもの音と音楽という要素に
ズとの出会いからドラ・マールの出現によって
二人の愛が終わるまでの時系列にほぼしたが
っている。
ピカソはマリー・テレーズを単なるモデルと
して描くだけでなく,自身をミノタウロスに,
マリー・テレーズをその犠牲となる乙女になぞ
らえた絵画も描いている。その関連で寓話的色
彩の強い絵画も描いている。私はこれらを様々
に加工した。ある部分を塗りつぶしたり,特定
の人物やモチーフを移動させたり,特定の人物
やモチーフを重複させたり,色彩を変えたり,
複数の絵画を組み合わせたり,等。そうするこ
とによって,ピカソの絵画作品が如何に巧みに
構成されているか,その絵画作品が語っている
ことが何であるか,などとを表現したかったの
二分されてしまい,通常の映像作品のサウンド
トラックに近くなってしまった。映像音響詩に
おける音響パートはそれ自体が分離できない
である。評論家は言葉を用いて作家及び作品を
論じるが,私はここで映像表現を用いてピカソ
とその作品を論じようとしたのである。
全体としてあることが望ましいのだが。
この作品は個展での発表後,2000 年 11 月の
「ソウルコンピュータ音楽フェスティバル
2000」
(韓国)で上映された。また ICMC(国際
コンピュータ音楽会議)2001 ハバナ(キュー
バ)に入選した。
《Metamorphosis of Love 》 … … 評 論 と し て
の映像音響詩
2000 年 3 月制作の《 Metamorphosis of Love》
3
り、それが音の意味を変化させ、映像との間で
さらに多様に意味を形成するようにしている。
..
《Lust》では音楽はもの音によるパートとピ
..
アノによるパートの2つから成る。もの音は、
抽象的な形象の動きにも、その中の実写映像に
もつけられている。そのことによって抽象的な
形象の動きの意味と、形象内の実写映像の意味
とを強調する。ピアノはその音楽的持続によっ
て映像にたいしても一貫した持続を与えてい
る。
音響パートは 1999 年 5 月に檜垣バレエ団か
ら委嘱を受けて作曲した「ミノタウロスに捧げ
られた愛 ---- ピカソとマリー・テレーズ」
《Metamorphosis of Love》では音楽は引用
から成り立っている。
引用の対象は音楽だけで
..
.
はなく、もの音もそうである。引用としてのも
.
..
の音はもの 音としての意味がより記号化され
て用いられる。 ..
映像の音楽は、もの音と“音楽”から成る。
..
もの音はその意味性のみではなく、その音楽性
..
によっても映像に関わることができる。もの音
の意味性は類似性によって特定されるが、時に
(作・演出:前原和比古)のバレエ音楽がもと
になっている。これはミュージックコンクレー
トの技法を応用した実験的なバレエ音楽ある。
じつはこのバレエ音楽の作曲を通して,ピカソ
のマリー・テレーズへの愛とその愛がもたらし
た絵画作品群の素晴らしさを知った。その時以
来,このバレエ音楽に基づいた映像作品を作っ
てみたいと思っていたのである。バレエ音楽自
体は約 40 分の長さがあり,上映時間7分のこ
は記号的意味が与えられることもある。
“音楽”
はその音楽的持続によって映像に一貫した時
間的持続をもたらすことが出来る。さらには引
の映像作品のためには,すべてを作り直さなく
てはならなかった。音楽は多くの引用から成り
立っている。引用の対象は“音楽”だけではな
..
..
く、
もの
音もそうである。引用としてのもの
音
..
はもの 音としての意味がより記号化されて用
いられる。
用としての意味を映像に対して応用すること
も出来る。
この作品は個展での発表後,2000 年 10 月の
「マルチ・アート・フェスティバル 2000」
(韓
国ソウル)で上映された。
『Mdedia Festival 2004 in Keihanna コンピ
ュータ音楽ワークショップ予稿集 2004-1』
ICMAAsia/OceaniaRegion、pp1-4
なお,ピカソの絵画作品や写真の引用による
著作権問題を指摘され,現在,この作品を公開
上映することを控えている状態にある。
まとめ
映像音響詩は視覚的要素と聴覚的要素との
「関係づけ」を発想の出発点に置いている。
《Common Tragedies in Urban Life》ではそ
れ自体では意味を持たない抽象的で幾何学的
..
な映像に、もの音が意味付けする。映像はまっ
たく意味を持たないわけではなく、動きと、動
きの一連の持続から意味を発する。音も同様に
..
.
単発のもの
音で意味付けするだけではなく、
も
.
の音の音楽性を活かして、音楽的な持続をつく
4
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