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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
明治初期漁業布告法の研究―5 : 府県漁業取締規則期
Author(s)
青塚, 繁志
Citation
長崎大学水産学部研究報告, v.19, pp.100-145; 1965
Issue Date
1965-10
URL
http://hdl.handle.net/10069/31546
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
明 治初 期 漁 業 布 告 法 の研 究-V
府県漁業取締規則期
青
塚
繁
志
Studies on the Decree of Fishery-Ground
Shigeshi
AOTUKA
in Meiji-V
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
ユO:L
いったか,それが府県漁業取締規則の公布,迎用のなかでどのように廃止されあるいは具
現していったか,また旧漁場秩序が全般的にどのような近代化的順応をしめしたかである.
第1節 府県における漁業税則と漁場取締規則の未分化
第1項 捕魚採藻税則の歴史的性格
74号布達は漁業にたいする府県税徴収と慣行的営業取締を明示している.借区制布告に
おける海面官有を理論的前提とした,私的排他独占漁場支配関係の官許方式と府県権力に
よる漁業取締,74号布達に承継され,一方私的漁場支配は,免許可における慣習的法規裁
量によって,旧権利者が漸次地主的支配者化する途を開いた.
明治初期における国家権力の漁場占有利用関係への介入は,地租改正と軌を一にする漁
業税制確立を契機としてはじめられた.借区制布告は「借用料」として,また74号布達は
「府県税」として租税高権の確立につとめた.しかしともにその初期においては,なお旧
貢納そのものを承継する漁場にたいする抽象的絶対的支配と,地代収入のための私的支配
が,未分化の形で進行する.
したがって9年以後ほぼ13,4年頃までは,漁業税徴:収規則と漁場取締規則が,それぞ
れ租税徴収,地代収取の法的裏付として未分化の形であらわれている.いわゆる一般府県
にみられた捕魚採藻税則がこれである.
第2項地方漁業税制の進行
明治8年工40号布告によって,租税は国税,府県税に区分されたが,その後各府県は適
宜の税目によって府県税を賦課していた.これがさらに確立されるのは,フ4号布達によっ
て漁業関係税が,国税としての借用料から府県税に編入された以後のll年7月(布告19号
)によってである.
ユ9号布告は「従前府県税及民費ノ名ヲ以テ徴収セル府県費区費ヲ改メ更二地方税トシ」
たものであるが,地方税目は,地租五分の一以内(国税附加税),戸数割,営業税ならび
に雑種税の三種に整備された.ついで政府はll年12,月20日39号布告で*,地方税目,税額
を布達したが,漁業採得税は,営業税や雑種税のほかに特別税的にr各地従来ノ慣例二依
リ之ヲ徴収スヘシ若シ其例規ヲ改正シ又ハ新法ヲ創設セントスルモノハ府知事県令ヨリ内
務大蔵両卿へ稟議isすべきものとされた.
*明治ll年12,月20日太政官布告39号
r地方税中営業税雑種税ノ種類及ヒ制限左ノ通相定候条口早布告候事
第1条 営業税分ツテ三類トス其税額当日類胴金拾五円以内トシ第二類ハ金拾円以内トシ第
三類ハ金五円以内トス付目左ノ如シ
但国税アルモノヲ除ク
第一類 諸会社及ヒ諸卸売商
第二白髭仲買商
第三類 諸小売商及ヒ雑話
第2条雑種税目其種類二依リ唖蝉二税額ヲ定ム其目撃ノ如シ
船…… 車……
国税ノ半額以内
第3条 漁業採藻税ハ各地従来ノ慣例二二リ之ヲ徴収スヘシ若シ其例規ヲ改正シ又ハ新法ヲ
創設セントスルモノハ府知事県令ヨリ内務大蔵両卿へ稟議スヘシ
………… ……’・・… 』 (法令全書明治12年孟月)
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
!02
さらに13年4,月17号布告で,漁業採藻税は雑種税のなかに編入されたが,慣例的徴収額
は依然承継されていった.ユ1年39号布告による地方税一般が定額法または国税附加率法で
あるのにたいして,漁業採藻税が慣例による税額であったことは,その旧貢納的性格の承
継ともみられる.もっともだんに税額のみからみれば,明治13年17号布告には,雑種税
中,舟税附加税が従来国税の半額であったものが全額にまでひきあげられ,さらに15年
(布告2号)にはその制限も撤廃されていることから考えれば,地租軽減の反面重税化す
る地方税制の一環として,慣例的徴税の方法は枝葉のことでもあった.
さて以上の雑種税的漁業税の史料は少ない.若干例をあげると,宮城県本吉郡事例では,
従来の地価による「貸下料」(借用料)に代って,14年県布達甲工66号で,一般的なr海面
区画に属するものは区画税として上り高の百分の三を納むる』こととなり,鮪大網のみは
1網10円,その他の地引網鮨網等の運用漁具は,漁夫員数,網間数等の規模により漁具二
二に徴収している1).同県で漁業採藻税として統一されたのはおそく23年である.
また地方税としての漁業関係税の内容では,22年当時で,漁村単位の課税35県,漁具課
税23県,漁獲高課税18県,漁場区域課税17県などが主なものであり,全国総数で21万フ千
円にすぎない2).
以上の若刊史料によると,醐県の区画漁場での収勧斎の解諸仲買商と同等
の鮪大網税の10円,また22年当時の漁村単位課税や漁具,漁獲,漁場区域への諸課税が主
なものであって,重畳的課税はみられない.したがって課税額課税方法において貢納の
性格を脱した近代的税制に近接していたといえる.
問題はその課税額にかかわらず漁村単位に課税され,それが人頭税的に漁業者に割当徴
税する県が大半であったことである.そこではなお共同体的漁場支配関係にたいする税制
面からの支柱的役割がみられる.しかしその詳細はさらに多くの史料によって裏付けられ
なければならないであろう.
第5項 『捕魚半割税則』の実態
明治13年頃にはじまる漁業関係税の地方税としての整備は,当然に漁場取締との分化を
促進するのであるが,それ以前は税則と漁場取締規則との未分化の段階であった.この税
則においては,上納一漁場支配権の存在を意味し,その限りではなお租税高権と地代の未
分離をしめしていた.
現在検討しうる当時の二二丁丁二二としては,僅かに明治12年神奈川県捕二二藻営業ee
二二および12年9月愛媛県漁業規則があるのみであり,それのみによっては全国的傾向を
知ることは困難であろうがその一端はうかがうことができよう.
*明治12年神奈川県甲第3号達『燭魚採藻営業税則別紙ノ通万善メ本年ヨリ施行候条漁場所用
差許営業七度者ハ誤断二身リ収税召致此旨布達候事
第1条海上之漁業概ネ漁船ヲ要スル者二付漁船ヲ分別シテ六等トシ平素漁夫ノ乗船人数二
応シ左ノ営業税上納可致丁子シ敲キト唱へ船底ヲ敲キ魚ヲ捕ル者ハ他ノ漁業ヲ障碍スルモノ
ナレハ漁夫ノ多寡ヲ不問第三条ノ税ヲ納ムヘク且湖水ノ漁業ハ海面ヨリ其利益ノ薄キ者ナレ
ハ是亦漁夫ノ多寡ヲ不問第六等ノ税金ヲ上納可曲事
第1等 漁夫十人乗以上 年税 金 弐円
第2等同七人乗ヨリ九人乗迄同 金壱円廿五銭
:第3等 同六人五人乗 同 金 壱円
第4等同四人三人乗 同 金五拾銭
長崎大学水産学部研究報告 第19号Q966)
ユ03
12年当時は府県税は営業税雑種税に分類され,すでにふれたように漁業採藻税は雑種
税的なものとして賦課されている.それはr漁場所用差許営業封度者ハ略奪二拠リ納税』
し,税納を以て漁場所用の許可とするものであった.
原則的に下魚採藻営業税は,乗組漁夫数の大小によって差等課税され(ユ条),さらに
地曳網,根持網,四艘張網等の漁網を主要生産手段とする漁業のうち,大規模なものは網
税を重複課税されている(2∼4条).一般海面税に類するものはみられないが,採藻海
苔採取業はその漁場面積により徴税している・(6∼フ条). その税額もすべて漁業規模
第5等同弐人乗 同 金廿五銭
第6等同壱入乗 同 金拾五銭
山偏鑑札料 金 廿五銭
但免許鑑札者木製ニシテ船ノ櫨目打付置廃船又ハ他へ譲渡ス時ハ届書二添へ県庁へ返
納シ譲受人者更二鑑札温言高
温2条地曳網同船ヲ主トセス専ラ陸上ノ働キヲ要スル者ナレハ第工条ノ外二左ノ納税ヲ上
納二郎事
第1等 麻網長十六丈以上 年税金壱円五拾銭
第2等 同十五丈以下 金 壱円
免許鑑札料金弐拾五銭
但免許鑑札料者網主ニテ所持シ廃幽幽者ノ他へ譲渡ス時者同様前之通手続キ致スヘシ
第3条根持網ハ其事業広大ニシテ且数日間張網シテ大二他ノ漁業ヲ障碍スルモノナレハ
第1条ノ外更二二ノ通税納可致下
根持網張立中 金 参拾円
但シ其単二拠リ休業スル時ハ第工条ノ課税己ニシテ該漁税ハ上納二不及候事
第4条 四艘張漁ハ虚血二面テ多少ノ漁業ヲ障碍スルト錐モ其事業狭少ナレハ第1条ノ外二
左ノ通上納可即事
四艘張網張立中 金弐円
但シ前同断
第5条 他管ノ漁船漁夫等ヲ相傭ヒ漁業ヲ為サシメ傭主其利益ヲ得ルモノハ自ラ納税ヲ免ル
ルニ付右等ノ分者磯船治者二等回付第1条第2条二二リ傭主ヨリ納税可致事但シー磁心ヒ上
ル者ハーケ年ヲ四季二分ケ税金ヲ四分ニシテ該季二応シ納税可望事
第6条 和若布鹿春心其他海草貝類及釣餌等ヲ採取スルモノハ田畑ノ肥用或ハ他へ販売シテ
利益ヲ得ルモノト錐モ総テ採草場ノ広狭二一リ左ノ割合ヲ以テ納税可致事大凡海面拾町歩二
輪年税金参円
第7条海苔ヲ採取スルハ他ノ海藻ヲ採取スルト異り海中へ鹿朶献木等打立多少通船ノ便ヲ
妨クルモノナレハ左ノ通り納税可工事 鹿朶立場千坪二付一季 金 壱円
第8条 河川漁業ハ海魚ト民業異トナルモノナレハ総テ漁夫壱入毎左ノ通り高慮可致事但シ
自家食料二供スル山回ハ乗船閑遊等二係ルモノハ此限二非ス
川漁税年税 金 弐拾五銭
免許鑑札料 金 拾五銭
但シ免許鑑札出漁ノ節必ス携帯スヘシ
第9条簗漁ト唱へ河流ヲ横断シ或ハ杭木等ヲ打立魚ヲ捕ルノ類ニテ堤防治水ノ妨害ヲナス
モノハ之ヲ厳禁スト錐モ実地妨害ナクシテ許可スルモノハ左ノ通税納理致事
簗藤壷一季一ケ所口付金五円
第10条 前条各営業税期会心ーケ年両度二区分シ上半年トー月ヨリ六月マテ其年七月十五日
限下半年ト七月ヨリ十二月マテ翌年一月十五日限上納可二二但鮪或ハ鰹二等ノ如キ年内捕魚
口止ルモノハ七月前後ヲ以テ区分シ年税ノ半税ヲ免税可致二付右等ノ分ハ其時々届出候儀ト
可相心得事
第n条 漁船地引網等新製口悪並二第8条漁夫創廃業ハ上下半年ヲ以テ区分シ七月後営業七
,月分廃業トモ税額半額上納之儀ト可相心得事
(横浜市水産会:東京内湾漁業史料,Pユエ)
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
ユ04
によって差等をつけ所得比例とは無関係な均一賦課であった.根捲網が30円で他は年税3
円未満である点からみれば,前掲の一般府県漁業税と同じく,漁業だけでは年貢的性格は
稀薄化しつつあったといえる.
また愛媛県漁業規則は,漁場,営業,税法の3章からなり,漁場を23海区にわけ,さら
に各海区を数漁場に細分し,漁場は「一村共用」「各村入会」の二種類としている.徳川
時代の磯猟場,沖猟場の慣行が次第に近代的な形で調整され,34年漁業法における専用漁
場への近接化を形づくっていた.また税法面では営業税のみならず,さらに漁場税を賦課
し,村持漁場を漁業税制面から保障する形をとった3).
9年74号布達以後の漁業府県税徴収は,各県ともに漁場占用利用権を直納によって裏づ
けし,租税徴収を主とし漁場取締が従とされた混在的規則であったことはほぼ推察でき
る.したがってそこでの漁場法秩序は,74号布達にいう慣習を規準として構成されたのは
自然の成行であったであろうが,神奈川県税則にもみるように,漁場支配権取得の要件,
新規開業者の取扱いなどの詳細な点は明文化されず,すべて各府県の自由裁量に委ねられ
ていた.それだけに漁場紛争解決は,統一基準の欠如のままにその時々の諸条件によって
動揺したのは当然であった.
他方漁業採藻税の徴収方法は,l!年39号布告以後ながく地方慣例に一任されたことはす
でにふれたところであり,当初は徴税方法の慣例によることと,漁業取締の慣習によるこ
ととは合一して,旧権利者の漁場占用の持続をもたらしたのである.
しかし国の租税体系の整備,近代化にともない,このような地代収取と一体化した租税
徴:収から,次第に漁業採藻税の分離,体系化が要望されてくる.他面「可成」慣習による
漁業取締も,漁場の現実支配の絶対化という私的物権性を強化せざるをえないわけで,租
税と漁場地代の分化は,捕魚採譜税則から漁業税則と漁業取締規則の分離という形をとっ
て制度化してくるのである.
第2節 漁業取締規則体系の独立整備
第1項 漁業取締規則の税制からの分離
漁業税則と漁業取締規則の分離は,ほぼ明治13年頃から各県で進行したようである.特
殊なケースとしては,岩手県では明治9年からはやくも分離していた.しかしこれは一般
小漁業を漁業税則によって取締るとともに,漁場独占的漁業を別途に漁業規則によって秩
序づけるものであった、
すなわち岩手県県税規則*では,免許鑑札漁業として鰐,赤魚,鱈の各釣漁や,鮭小引
網,投網等の網漁が,「鑑札願受」けの手続を必要とし,F無願無鑑札ニテ密稼』すること
が禁止されている.一方年季免許漁業は, tr河海漁業心得書**」の規定するところであ
*明治9年5月岩手県県税規則
『……県税規則別冊ノ通二二……施行候条……税三三致,……追々免許出願ノ分共総テ規則ノ
趣確守可致若シ母班無鑑杜ニテ密稼致シ候者於有之ハ,吃度処置可及候……
第1条
1.諸稼業左ノ通税納致シ免許鑑札ヲ受営業可愚痴。但自由ノ物品ヲ製造シ或ハ様収シ費用
二不野分ハ此限二二ス。
起案製 工ケ年釜1ケ思付七十五銭
但魚油再製ハ此限二非ス
長崎大学水産学部研究報告 第工9号(1965)
鰐 釣 同 金七十五銭
赤魚釣 同 金七十五銭
鱈釣 同 金五十銭
飽 漁 同 金弐拾五銭
以上十九業パー戸二付,稼鑑札一枚可願受事
玉蔵引網(イクリ網トモ云) 同 金七拾五銭
投網 同 金弐拾五銭
鮎友釣 同 金弐拾五銭
追網 同 金弐拾五銭
以上四業ハ営業ノ者銘々稼鑑札ヲ受ケ出漁ノ節必ス相携可申事
”.... r・
**明治9年ユ2月 岩手県河海漁業心得書
第1条一期免許漁業ハ出願二品シ鑑:二二下二二漁業季節ヲ異り候ハハ、直チニ鑑札返納可
致候事
第2条同上ノ内鮭巻持網鮭鍵クキ瀬ノ三業ハ場所ヲ限ル稼方三脚,一ケ所二人以上出願有
之節ハ先願ノ者工免許可致事
但宴楽クキ瀬ハ川筋一町言霊持網ハ其場一ケ所ヲ宝前ト相良メ曲事
第3条 年季免許漁業ハ五ケ年迄ノ年季を漆工株鑑:札可下渡尤物限ノ節毒煙ク入札ノ上・高
札ノ者へ免許可致二付,其年七月三十一日限株鑑札返納可致事
第5条 新タニ漁業開業見込有之者ハ税額入札ヲ以可願出調査ノ上差支無之候ハハ、更二入
三熱相達面当
但漁場新開非常ノ功労アルモノハ其事業調査ノ上直チニ興業ノ者へ免許致候儀モ可
有之事・
第6条同上出願ノ節ハ所轄戸長へ申出戸長ニテ地元差支有無取調示談書添可願事
但示談書手出方渋滞ニテ営業季節等二拘リ候儀有之節ハ其旨書面ヲ以本人ヨリ直二可
願事事
第7条 第2条,第4条二掲載スル場所ヲ限ル漁業出願ノ節ハ絵図面兵乱可願出許可ノ上目
地元
村吏立会標杭建置境三界紛シ無二様晶晶事
二二小屋二二二等官地二建築致候節ハ更二官地拝借ヲ丁丁出事
第8条海面漁業ハ其海岸ニテ区域ヲ定メ川筋漁業鮭留鱒留ハ上流弐拾間下流弐百間鮎留ハ
上流弐百間下流弐拾間ヲ稼人ノ持場ト相定候事
但シ鮭留出留ハ川下出丸一品上議レモ十町以内二二テハ新留漁場出願候奨免許不相
成候事
第9条 漁場免許株鑑札ヲ受タル者其限内於テ・鯨ノ漁業ヲ禁シ候共・讐ヘハ鮭漁二関ル季
節ノ外ハ其漁場ヲ占ムルノ権利無二事
第ユ0条 株鑑札ヲ受侯者其稼季節二至迄稼鑑札モ不願受亦休業モ不願出於テハ其者ノ妨ケヲ
為シ候儀引付,株鑑札取揚更二入札郵相達事
第ll条 留漁場免許ヲ受候者ハ従ヒ年季家母リトモ船路取開等ノ差支有之節ハ稼方差止候儀
可有之其節ハ速二留場取払旧地形二復シ返上可旧事』
(岩手県水産部;岩手県漁業史料,P.363)
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青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
り,5年以内の年季を限り鑑札を下渡すこととなっている.すでにのべたように4)岩手県
の年季漁業は入札制を採用していたのであり,漁場旧慣にとらわれないブルジョア的漁場
法体系を指向するものであった.
鮭巻持網鮭鍵クキ瀬三業の先願主義(2条),二季漁業の入札制(3,5条),漁場図
面による許可(7条),保護区域的持場の法規上の限定(8条),漁場免許の権利内容明
確化(9,10条),漁場免許の公益上の剥権処分(ll条)などの諸規定は,9年頃におい
ては先駆的な近代的漁場法体系の繭芽をなすものであり,34年漁業法体系に共通する法思
想を見いだすことができる.
神奈川県では14年に税則と漁業取締規則の分離が行なわれている.14年5月甲第87号布
達をもって同県の『漁業採藻税則』が公布されたが,それは前掲同県r営業税則』を第4
類に再編した純然たる徴税規則である5).
これと対応して翌6月甲101号達でr漁業及び詩藻営業規則』*が制定された.ここでも
12年のr捕魚雷藻営業税則』よりは一毅と進展して,新規出願の取扱(1条),隣接漁場
との調整(各条)などの規定において整備され,かつはじめて漁業取締の条規を設けて,
公益上の理由による漁業権の制限条件または免許処分の裁量にたいする制約を設けている
(14条).
* 明治14年6月神奈川県漁業及採二半業規則
『第1条 漁業及採口業ヲナサントスルモノハ先ツ其場所ノ所用ヲ本庁へ出願免許ヲ請フヘシ
但従前所用免許ノ場所二二テ営業セントスルモノハ此ノ限りニ非ス
第2条該営業場ノ所用ヲ請フモノハ其ノ場所ヲ定メタル願書及絵図面へ隣接所用者或ハ対
岸ノ人民二於テ故障ナキ旨ヲを表スル保証印及ヒ其ノ町村戸長ノ連署要スヘシ
第3条所用免許ノ場所二於て営業セントスルモノ一寸4条以下ノ順序二拠ルヘシ
第4条海漁及湖川漁ノ業ヲナサントスルモノハ同業者及戸長ノ連署ヲ以テ所管郡区役所ぺ
出願免許ヲ請クヘシ
第5条 根椿網其ノ他場所ヲ定メ張網ヲナシ捕魚ヲナサントスルモノハ張立期限ヲ明記シ自
村三二海面所用接続丁々漁業丁丁戸長ノ連署ヲ以テ所管郡区役所へ出願免許を請クヘシ
第6条 簗漁縄簗漁シラ漁場ヲ設ケ捕魚セントスルモノハ第14条第2項第3項ノ旨二拠リ堤
防治水ノ防害及融業日付テ故障ナキ旨自村並二水上水下村々戸長及漁業者ノ保証連署ヲ以テ
所管郡区役所へ出願免許ヲ請クヘシ
第7条 海苔及海草貝類ヲ採取セントスルモノハ同業者2名以上及戸長\連署ヲ以テ所管郡
区役所へ出願免許ヲ請クヘシ但自家ノ肥料二充ル為メ採取スルモノモ本条二丁ルヘシ
第8条第4条ヨリ第7条二至ル各業ハ免許ノ証トシテ鑑札ヲ付与スヘシ
第9条休業及就業モ所管郡区役所へ届出休業中鑑札ハ戸長役場へ預ケ置クヘシ
第10条 廃業スルモノハ其陣所管区役所へ届出鑑札還納スヘシ
第n条 鑑札ヲ山麓毅損シ又ハ代替転居等ノモノハ其事由所管郡区役所へ申立壷掘鑑札ヲ請
クヘシ
第12条創業ノ者ハ鑑札附与ノトキ直二税金上納スヘシ
第13条 漁業採豪華ハ左ノ期限二拠リ所管郡区役所へ納ムヘシ
第1期 其此7月ユ5日限リ
第2期 翌年工月15日限リ
第14条 営業取締ノ儀ハ左ノ通り心得ヘシ
第 壱
ユ.総テ漁業ヲナスモノ堤塘蛇籠水除等ヲ損害シ又ハ水路ヲ妨害スルヲ禁ス
第弐
工.簗漁ハ河川ノ両岸厳石ニシテ水上水下村々堤防治水ノ妨害ナキ場所二非レハ免許セサ
ルモノトス
第 参
ユ. 縄簗漁シラ明目杭木二代フルニ細竹ヲ用ヰ堤防治水ノ妨害ヲナササルモノニ非レ洋琴
許セサルモノトス』 (前掲,r内湾史料』,Pユ5)
長崎大学水産学部研究報告 第工9号(1965)
IO 7
以上の事例においても理解されるように,法形式の上での租税法体系と漁場法体系との
分離は,それが進展するにしたがって,当然に従来の旧漁業権者の地位を漁業税上納をも
って権力的に保障するという面を脆弱ならしめていくものであった.それは新建魚採藻税
が,漁場占有利用にたいする代償としての租税的性格を喪失し,もっぱら抽象的絶対支配
の具現としての純租税的性格に純化する過程であった.このことはすでに雑税廃止布告に
よって合法的な漁場支配の拠点を失った旧網元層にとって,その旧海面税復活を断念せざ
るをえないとともに,漁場支配の持続さへも危うくする意義をもっていた.
第2項 捕魚採藻税制をめぐる旧漁場占有層の動揺
新漁業税の性格が,旧権利者の希望する魚場支配にたいする租税であるか否かは,当然
に解釈上の紛議を生じたところである.すでに8年借区制布告による「借用料」や,9年
74号布達による「府県営業税」の性格については,反封建勢力の側からも疑問が提出され
ていた.8年9月新潟県下漁場紛争に際して,藤崎村の大審院上告理由にも,その争論が
見出されるのもすでにふれたところである6).
すなわちr血税とは魚類をとり得るの税であって漁場の税ではない以上海上の営業を他
人に妨げられる理由のない』という主張がそれであった.この見解は正確な当時の漁業税
の解釈とはいえないが,いわば貢租的漁業税上納によって保障されていた漁場支配権にた
いする反簸であり,封建的漁場支配権の根拠となっている漁業税のあり方を鋭く批判した
ものである.
したがってこの批判は,旧漁場支配層にとってより一層漁業税が漁場支配権i税であるこ
とと,その存続を切望する契機ともなったのである.しかし近代的租税体系の確立は直接
的な国家権力による漁場支配の保障的性格を離脱せしめるにいたり,それが海面税的形式
をとるにもせよ文字通り営業税へと移行していったのである.それは漁場支配者決定の要
因ではなく,現実の漁業者から租税を徴収することのみが内容となった.上掲の若干の漁
業取締規則との分離後の税則事例はそれをしめしている.
静岡県では8年の借区制布告にもとづき,豆州内浦の立網漁場の10ケ年魚区を許可した
が,9年74号公布ののち地方税徴収規則によって,漁業税としては漁業採藻税を徴収する
ことになり,借用料との混乱,疑義を生じた.
旧山元側は,借用料の示達がないままに漁業採藻税のみが徴収されたことに不安を覚え
て, r当村ハ……雑税御改正御布告以来旧慣二因リ池元……ヨリ拝借歎願』し,その結果
r税額ノ義急追テ相達世語』として猛禽が許可された経過に鑑み, r右漁業税ヲ拝借税与
心得』てよろしいかとの伺を静岡県庁に提出した.*
* 明治13年8月静岡県漁業採二二ノ性質ニツキ伺
r本年本県甲第88号ヲ以,地方税徴収規則御達中第21条敬承仕馬脳,漁業黒藻税ハ営業人二
等級ヲ設ケ之ヲ分課シ或ハ其人頭二課スル等,町村二二於テ確定スヘキトアリ,又26条二因
レハ従前年;面前ヒ税額ヲ定メ漁業採藻ヲ許可セシモノ此限リ年期中口其税額二面リ徴収スヘ
シトァリ右2ケ条トモ熟考候二第21条ハ全ク捕魚税ニシテ拝借三二無之ト想像,然ルニ当村
ハ……雑税御改正御布告以来旧慣二因リ津元……ヨリ拝借歎願相成一処,海面若千町歩貸渡
之儀,其筋指令之趣モ有之,明治8年中リ同17年迄工0ケ年間聞届候条,税額之儀ハ追テ相違
可申旨ノ御指令二一レハ右漁業税ヲ拝借税与心得,第26条面通リ年;期中ハ旧慣二因リ海面拝
借人……ヨリ悉皆徴収シテ町村会議定二不及執斗候テ可然哉……至急御指揮奉願候也
右 戸長 某 』
(渋沢敬三:豆州内浦漁民史料中巻の弐,P.464)
ユ08
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
静岡県庁はこの伺いにたいして,漁業採藻税は地方税徴:収規則第2工条によって税額は町
村会の議定を経て決定すべきものであり,同則第26条*による従前慣例を継承する税で
はない旨を回答し,かっr但地方税者海面拝借料ト名実別異二付混同ス可ラサル儀心得ヘ
シ』と注意を促している.
同13年3月の豆内浦長浜村約定書によると, r拝借料ハ被差止適宜府県税ヲ課スルモノ
ト相成候二男自今無用二歩スルヲ以テ……』7)とある点からみても,静岡県としては,営
業税としての漁業採藻税が拝借料でないことはすでに決定していた.ただユ3年当時は前掲
の伺指令但書によってみても,なお両者を区別しながらも拝借料の存廃については未決定
のようであった.
こえて16年にいたり,津元よりの拝借料課税の陳情にたいして,r右ハ御指令可相成限
リニ無虚血故,却下御執斗相成度**』と郡役所宛指令している.
このように16年にいたって,漁業税は地方税の雑種税一本に統一されるのであるが,こ
の漁業税の営業税化をめぐって,旧漁場支配権者でありかつ8年借区制布告にさいしてそ
の後10年間の漁場借用を許可された津元層は,波浮役米的海面支配の代償としての恩納を
熱望し,しばしば漁業採血税以外の海面拝借税の上納,あるいは漁業採掘税の拝借税化を
陳情した.これは租税体系の近代化にもかかわらず,なお旧貢納制による漁場支配関係を
存続せしめようとした旧津元層の反近代化工作であった.
この種の漁場支配権の保障を意味する海面税の廃止は,神奈川県の場合も同一であり,
明治22年当時の「漁業窃取差止解除訴訟事件」であきらかにされている.同事件は横浜始
審裁判所で争われたが,原告村が被告村所有海面で明治ll年税則により海面税を負担し蠕
採取入漁をなしていたが,14年の前掲営業規則分離の際海面税は廃止となったのであるか
ら,その後出金をしないことを理由として,原告村の入漁を被告村で拒否することをえな
いものとして原告を勝訴せしめたものであった8).
このような漁業税における権力による直接的な漁場支配保障からの後退は,それに代る
べき権力的保障としての府県漁業取締規則を現出させた.そこにふくまれる府県官僚によ
る漁業免許の裁量処分は,地主的漁場支配権の強化を専ら漁場の官僚統制に求めるの道を
選んだのである.
*明治13年9月前頁*伺にたいする県指令
r書面伺之趣,地方税徴収規則第26条二照準ス可キ筋斗無之,同規則第21条二拠リ,課税可
致儀ト可相心得候事
但地方税者海面拝借料ト名実別異二一混同ス可ラサル儀心得ヘシ』
(前掲「内浦史料」,p.464)
**明治IG年9月静岡県勧業課海面税廃止
中国沢心性寺村加藤三郎左衛門外3人同郡小海村増田七兵衛外2人へ貸与シタル海面税徴否
ノ儀二三二村漁師惣代人ヨリ別紙ノ通り伺出候処,右ハ御指令二相成限リニ無二儀故,却下
御異年号成度,尤モ該税金ノ儀ハ本県布達地方税規則二寄リ漁業税徴収候上国海面税ハ別二
徴収セサルモノ側付,其旨本人工御示諭有之度,…………
明治ユ6年9月29日 君沢田方郡役所御中 静岡県勧業課』
(前掲「内浦史料」,P.565)
長崎大学水産学部研究報告 第19号(19δ5)
109
第5節 漁業取締規則の法律的性格
第1項 漁業取締規則における慣行承継的側面
(1)初期漁業取締規則の性格
ほぼ明治13年頃から税則と分離して独自の法域を形成した各府県漁業取締規則は,9年
の74号布達を背景としつつも,その解釈のいかんによっては漁場慣行秩序に重きをおくも
の,比較的ブルジョア的漁場秩序を容認するもの,さらに専ら公的漁場取締制限に重点を
おくものとさまざまな内容をしめしていた.
それらは19年の漁業組合準則による過渡的統合をへて,やがて34年漁業法につながるも
のであるが,むしろ全国的統一漁業法の欠如したままに,各地方の漁業の近代的発展や後
進的様相を反映して興味深いものがある.34年漁業法制定の際の漁場慣行論争も,その制
度的基礎となった各府県漁業取締規則期の分析をへて,始めてその正確な歴史的意義をあ
きらかにしうるものである.
まず9年の74号布達以後,漁場制度の指導方針となった「慣習による漁場取締」はどの
ように取扱われたであろうか.
8年借区制布告が新規漁業と旧漁業との調整を意図していたことはすでにのべたとおり
であるが,74号布達はその方針を大きく後退させた.しかしそこでいう「慣習」は,必ず
しも故事にとらわれず,ときに新規漁業の進出によって変動した維新後の現実的漁場秩序
を指すこともあり,.また「可成」の解釈から漁場旧慣にとらわれない府県もあった.
したがって当時における「慣行」とは,復古的な封建的漁場秩序を意味するものから,
漁業調整的意義において現時の慣行的漁場規律を考慮するものまでふくむ広範囲な考え方
であったといえる.
この意味で9年以後の各府県漁業取締規則をみると,まず前掲明治14年のr神奈川県漁
業及採藻営業規則』では, r従前所用免許ノ場所二於テ営業セントスルモノ』は,本庁へ
の出願免許を必要とせず,その現実的漁場所用の承継を認められている(1条但書).
また新規出願者の取扱いについて,すべての海漁および湖川漁の出願において,r隣接
所用者或ハ対岸ノ人民』 r自村二二海面所用接続凹々漁業者』 r自村並二水上水下村々…
漁業者』同業者r二名以上』の連署というようにすべて関係町村戸長の保証連署を必要と
し,それを新規漁業が門々地先漁場においてr故障ナキ旨ヲ表スル』ことの保証とした.
この点はある程度ブルジョア化された9年の岩手県河海漁業心得書でも同断であり,新
開漁場についてr出願ノ節ハ所轄戸長へ申出戸長ニテ地元差支有無取調示談書添可願出』
(6条)と定めている.ただし岩手県の場合は,新規開業についての反対運動などのため,
r示談附差出方渋滞ニテ営業季節七二拘リ候』場合は, r其旨書面ヲ以本人ヨリ直二可願
出事』を許してあり,神奈川県のごとき東京湾三十八職的先規9)によって,資源的見地か
らの生産手段の制限が厳格に規制されていた漁業地帯との制度上の差異を見出すことがで
きる.
さらに神奈川県では,!6年12月r漁業ノ平門可成従来ノ慣習二従ヒ取締方可相立儀二有
之就テハ自今一層注意ヲ加へ』三十八職以外の新規漁業は,充分に故障の有無取調の上営
llO
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
回するように布達苦している.
このように9年から14,5年までの各府県漁業取締規則では,共同体的な漁場規制によ
る漁場調整が濃厚であることが一つの特徴となっており,この限りにおいて新規漁業者の
出現や新規漁業の開業がある程度の制約をうけたことは否定できない.その反面新規漁業
蘇
は必ずしも拒否されるものではなく,16年に神奈川県が慣行尊重布達を出したのも,現実
的な漁場旧慣変更の進行を調整しようとするものであったと理解される.
むしろ府県漁業取締規則において,先規的漁場慣行がより強調ちれるにいたったのは,
資源的立場からの漁場統制以上に,経済的視点での乱獲現象が激化した明治14,5年以降
ではなかったかと思われる10).
(2)明治14年以降デフレ期の漁業行政
明治13年明治政府は,維新以後乱発された紙幣整理に着手し,14年以後18年までそれに
ともなう本格的デフレが開始された.官業払下に基礎をおく財閥創出が進行するとともに,
他面地租改正完了によって生じた小中農の大量没落と地主的土地所有の拡大が農村の階層
分解を促進し,体制的不況がこれと相関連して,農漁村は深刻な農産物価格の下落による
窮迫;期を迎えたのである.
政府は14年4月農商務省を設置して強力な農政展開の足場とし,5月『農商工諮問会規
則』 (布告29号) r農商工上等会議諮問会議』 (布達44号)を制定して, r府県勧業上ノ
事業ハ成ルヘク農商工諮問会二諮問シ勧業ノ方法ヲ改進セシム』 (布達45号)ことを決定
した.その後の官僚による上からの勧業政策は,わが国寄生地主的土地所有の確立過程と
対応して,明治農政の特異な発展過程を形成したのである.
漁業においてこの期を特徴づけるものは, r沿岸漁場の狭隆化,魚族の減少,漁民層分
解の激化,その結果としての中世的農奴主経営の崩壊』であり,r効率の高い漁業の進出
に対する旧漁業者との紛争,小寺業者同志の紛争11)』が全国的規模で展開されたことであ
つた.
政府はこの事態に対処するための直接的な漁業行政方針として,まず14年1,月r漁業保
護水産蕃殖ヲ謀ルノ件**』を布達し, r置県以来往々旧慣ヲ変易シテ捕魚匝瑳シキヲ失
シ』ているから,水産盛殖のため充分の注意を加えるよう注意を喚起した.さらに15年3
月にはr並等捕獲ノ為メ潜水器使用二関スル件***』を公布, r使用適度ヲ過ルトキハ介
種蕃殖上妨害ヲ来ス』潜水器使用を取締るよう府県に取調方を命じた.
当時の漁場秩序の混乱はまさに資本主義的乱獲競争の性格をしめすものであったが,
*明治16年12月神奈川県丙103号布達r漁業ノ儀ハ可成従ノ慣習二従ヒ取締方可相之儀i二三立儀二
有之就テハ自今一層注意ヲ加へ内海漁業者ノ相互二契約シタル三十八園外ノ漁業二従事セントス
ルモノ当盤メ沿海浦村二於テ故障ノ有無取糺ノ上営業可致様各漁業者へ懇篤諭示致スヘシ此旨相
違候爵』 (前掲「内湾史料」P.16)
** 明治ユ4年1月20日『漁業保護水産蕃殖ヲ謀ルノ件』(内務省乙第2号達)
『水産ノ盛殖ヲ謀ルハ国家経済ノ要務二郎処置県以来往々旧慣ヲ変易シテ細魚其宜シキヲ失シ為
之水族ノ蕃殖ヲ妨ケ巨多ノ障害ヲ生シ候類不少哉二相聞候目付篤ト実地取調ノ上一層漁業ヲ保護
シ水産ノ盛二二注意可二三旨相違旧事』 (法令全書明14.2)
***明治15年3月r門下捕獲ノ為メ潜水器使用二関スル件』 (農商務省5号達)r近来沿海二於テ飽
みつくくり
等捕獲ノ為メ潜水器械ヲ使用スル者有之趣相聞候処右ハ使用適度ヲ過ルトキ甲介種蓄襟上二妨害
ヲ来スヘキモノ呼付篤ク注意ヲ加へ適宜取締ノ方法取調当省へ可伺出此旨相達候事』
(同上明ユ5.4)
長崎大学水産学部研究報告 第]9号(1965)
ll工
それは一面定着性水族の根絶的乱獲を結果するのは必然であり,わが国漁場取締の資源
保護政策的生産方法制限の重要な柱にもなっている.それは生産手毅が沿岸性技術の域に
止まって発展しない時期においては,漁場生産関係の矛盾が直ちに資源乱獲となってあら
われ,すでに徳川期からの「先規」の主要な対象や要因となっていた.14年以後のデフレ
期における漁村経済の逼迫が,より一層資源根絶的乱獲に漁業者をはしらしめたのは当然
であった.また政府による漁場取締行政も技術的な取締強化に重点がおかれた.
このような資源保護的取締は,しばしば新規漁業の出現を抑圧する方法として行なわれ
るのもまた当然であった.すでにll年当時千葉県でも, r鮨魚ハ……其捕獲ノ多寡ハ即一
般民心ノ栄枯二関スル不義儀二付』新規漁業である小晒網の禁漁期を示達している12).ま
た各府県漁業取締規則における取締規定も技術的性格よりも経済的背景によるものが多い.
明治14,5年当時にまず政府によってとりあげられた沿岸漁場資源保護政策は,その政
策的重点が対支主要貿下品である水産物の保護におかれ,19年漁業組合準則,34年漁業法
もこの見地からの殖産興業政策に貫かれていたことはのちにふれるところである.さて以
上の政府諸通達は,各県における同様の具体的措置となってあらわれ,15年10月三重県は
r潜水器使用規則*』を公布して,漁業者,漁場台数について制限を加え,ユ6年には青森
県が河川での魚留漁業を許可制とし**, 神奈川県も同様に上り簗漁業を禁止する措置に
出ているのがみられる***.
また滋賀県では,16年に従来の漁業採藻規則を改正し, r水産保護例及二二取締仮規則
』を制定し,同時に各町村の自治的漁場取締団体をして町村組合を結成し,さらに近江水
産同業会に発展せしめている13).
政府はさらに工9年6月農商務省訓令9号****を発して,一般的な r三児介苗其他未成
長ノ苔藻類』につき採捕制限を立てるよう各府県に通達し,民間自治団体としての漁業組
合の整備確立と相まって一層資源保護政策を強化した.それは上記のたんなる通牒訓令の
類によっては,進行する漁場紛争や資源乱獲を防止することの不可能であったためであ
り,このようにして74号布達による府県漁業取締は19年漁業組合準則以後の第二期に入る
のである.
(3)漁業組合準則を中心とした慣行漁場取締期
府県漁業取締規則初期における技術的取締の偏向は,漁場秩序形成についての法思想
的動揺に対応した初歩的段階のものであった.そこでは積極的な慣行維持思想はそれほど
みられず,逆に数県においてはむしろ新規漁業階層の漁場占有利用関係を容認する態度さ
* 明治15年10月三重県甲第67号布達
r 潜水器使用規則
第2条潜水器械ノ使用ヲ許スハ本県下在籍ノ者二限ル
第3条 潜水器械ノ使用ヲ許ス場所云々
但一区内ト錐トモ一場二・二台以上ヲ併用スルヲ許サス』 (大日本水産会報:14号,P.55)
**明治ユ6年3月青森県令甲第10号
r川筋二於テ魚留ヲ設ケ漁業ヲ為サントスル者ハ総テ客歳7月本県甲第26号布達……二準シ
出願スヘシ』 (同上,P.56)
*** 明治ユ6年4月24日神奈川県令甲虫15号
9=管下河川二於テ上り簗漁業之儀不相成候条此旨布達候事』
****明治19年6月30日農商務省訓令第9号9魚児介苗其他未成長ノ苔藻月華リニ之ヲ捕採セ
サル様各地ノ状況二従ヒ適宜之力制限ヲ立ツヘシ但明治ユ8年当省第23号達二拠り融点ノ上施
行スヘキ儀ト心得ヘシ』 (法令全書明19.7)
112
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
えしめしていた.
当時農商務省の産業行政方針は,14年6,月乙第5号eeにみるように,欧米模倣の勧農政
策から次第に「民業保護」に転換し,かつr民業保護の名のもとに,地主層およびそのも
とで農村内部に自生的に展開されてきた農業生産力体系を重視し,それをあたらしい近代
的技術導入によって妥協的に改変していくという道がこの時期の農政の基本的進路となっ
た14)』.
そこでは極端な干渉主義が廃止され,農商務行政は管理事務的方向に集中された.そし
て12月の達1号** にみるように,可及的r民情慣習ヲ酌量シ』r干渉ヲ厭テ委放二過ク
ル事ナク成法ヲ株守シテ変通ノ実ヲ失フ事ナキ』府県産業行政が要望されていった.
14年以後,各種水産面談会的系統民間団体の再編強化がはかられ,在野老篤信業者と官
僚技師(例えば15年設立の大日本水産会巡回教師)との協力による漁業技術指導,普及の
進展が行われていく.この方向は,当然に旧網元層を中心とした漁村団体の強化一慣行漁
場支配の強化とならざるをえない.その集中的表現が19年漁業組合準則であり,各府県漁
業取締規則にみる慣行優先方針であった.
一方行政権の漁場秩序にたいする直接的行使介入は,ひきつづき技術的取締の形による
官僚統制的漁場秩序の強化,細密化となって各府県規則にあらわれてきた.それは当時の
上からの生産力発展の道をとった殖産興業政策の必然の結果でもあった.
勿論増加する漁場紛争は,とくに渉県紛争における県内取締の困難を生じ,18年6月農
商務省は23号達をもってr水産上取締ノ義碑面ネ旧慣二輪ルト難モ交渉ノ府県及ヒ地方利
害ノ権衡最モ精査ヲ要スヘキモノ心付右二関スル布達ハ其事由ヲ具シ当省ぺ経伺ノ上施行
スヘキ』ことを各府県に命じている.これはあきらかに拡大する14年以降の漁場紛争が漁
場旧慣のみをもってしては解決しえず,動揺する漁場統制政策の苦悩をしめしたものとい
えよう.
しかしこうしたr地方利害ノ権i衡』のための措置は,翌19年12月19号訓令で廃止され,
渉県秩序も再び旧慣準拠方針に復元している.これはその背景が詳かではないが,当時の
漁場秩序法制定についての急進論,漸進論が交錯してあらわれ,19年の漁業組合準則公布
によって漸進派が勝をしめるや復元的方針に変更したものであろう。しかし政策のいかん
にかかわらず,法制度を動揺せしめ新たな秩序を造出させる漁場支配関係が熟成し,19年
準則以後も発展していったことは上掲経過からみてもあきらかなところである.
さて19年漁業組合準則以後の府県漁業取締規則は,とくに漁場秩序の基礎を慣行に依拠
* 明治14年6月28日農商務省達乙第5号r農商工奨励ノ儀i二付テハ官盛祥之二率先シ其事業ヲ
開設シ或ハ其実利ヲ指示スル等従来区々ノ方法二渉リ之ヲ誘導セリト雛モ今や事業漸ク開ケ
人々自奮之二従事スルノ時二至テハ人民ヲシテ漫リニ依頼スルノ恩念ヲ脱シ益其自奮ノ気象
ヲ拡充セシメサルヘカラス故二専ラ法規二塁リ公平不偏治ク之ヲ保護シ詳々二地方ノ実況ヲ
察シー般ノ便益ヲ図り大二之ヲ奨励スルハ管理上ノ要務二候条地方庁二於テモ此趣旨二基キ
施行可致此旨相達面面』 (法令全書明14.8)
** 明治14年12,月20日農商務省達第1回目農商工ノ事業二巴テハ尤モ意ヲ尽シテ之ヲ奨励鼓動セ
サルヘカラス其方法措置二至テハ専ラ法規論拠リ公平不偏治ク之ヲ保護シ其利便ヲ謀りテ干
渉其度ヲ失フヘカラサルハ勿論二候ヘトモ深ク民情慣習ヲ酌量シ施為其頃キヲ得ルニ非サレ
ハ断シテ其効ヲ奏シ難キヲ以テ因り各地方其方法ヲ画一ニスヘカラス依テ各地方官心当サニ
実地二就テ篤ク注目誘導ヲ加へ農商工二関スル条規ニシテ実際二適用シ難キ場合二野テハ府
知事県令其事由ヲ具シテ当省ノ指揮ヲ乞フヘシ干渉ヲ厭テ委放二過クル事ナク成法ヲ株守シ
テ変通ノ実ヲ失フ事ナキ様注意可致此旨相達候事』 (全三明15.1)
長崎大学水産学部研究報告 第19号(エ966)
113
することを強く指向しているものである.まずその第一点は漁業組合規約の遵守である.
例えば明治23年4月の広島県漁業取締規則は, r漁業ハ都テ其慣例若クハ特約二拠ルベシ
但慣例等不判明ニテ自然漁業上故障アル場合ハ調査ヲ遂ケ之ヲ指定スルコトアルヘシ』
(2条)とし,またr漁業組合設置ノ漁場二於テ漁業……ヲ営ント欲スル者ハ県ノ内外人
ヲ問ハス該組合二加入シ規約二遵フ』(3条)ことを命じている.
23年5月の静岡県漁業取締規則15)でも,r漁業組合設置ノ漁場二於テ県内外人ヲ問ハス
組合外ノモノ従来ノ慣行二依リ漁業スルトキハ心地組合規約二遵フヘシ』(1条)とし,
25年岩手県漁業面部業取締規則1条,同年神奈川県漁業取締規則16),29年忌葉県令5号規.
則も同様の趣旨をうたっている17).また28年ll,月の徳島県水産取締規則18)は, r漁業組合
設置の地区内に現住する漁業者は忌地組合に加入すへし』 (5条)としている.
第二点は,府県漁業取締規則にいう慣行とは,漁場区域,漁具,漁法に関する慣行であ
ることである.例えば28年徳島県水産取締規則ではr漁業場の境界及漁業の方法等は特に
規定あるものの外は従来の慣行に依るへし』(8条)とし,19年ll月の大阪府漁業取締規.
則19)も, r漁具漁法及漁場区域は従来の慣行特約に拠るへし』 (3条)とした.
また25年神奈川県の上掲規則もr漁場ハ総テ其ノ地ノ慣行』に従うことを命じ(5条工
商),28年熊本県翁面取締規則20)は, 『漁場ノ区域又ハ其入会及専用ハ総テ従来ノ慣行二
依ル』 (8条)としている.府県漁業取締規則の全国的統一が行われた28年以後では,
32年の大分県漁業取締規則2りがr漁場ハ従来ノ慣行二面ル』として従来の方針を踏襲して
いる.
以上の数事例によってみても,19年以後の府県漁業取締規則が増大する漁村部落間の漁
場区域対立に対処して,漁場秩序の規制をもっぱら慣行に求め,自治的漁場統制団体とし
ての漁業組合に包括的漁場取締を期待していたことがあきらかである.
この場合の「従来ノ慣行」が徳川期のそれでなかったことはあきらかであるとしても,
14年当時の漁場紛争における旧組合,村落,旧権利者の漁場支配関係における地位を強化
せしめたことは争えないところである.
かつ個別的独占漁場では,9年74号布達以来の漁業取締規則初期において,関係漁業者
の連署を必要とし漁場紛争に備えたことは,漁業組合加入と組合規約遵守の姿で継承され,
問題の重点は組合規約の慣行的性格に焦点が向けられてくるのである.その解明は漁業組
合準則の項でするが,上からの漁業取締規則の一方面制定が支配的に慣習法的漁場秩序を
支持したことが,34年漁業法制定当時における旧権利者の強力な存続の背景となったこと
は重要である.
従来の通説は府県漁業取締規則の慣行尊重方針に着目して,漁業取締規則期の性格をも
っぱら旧慣承継期と見なしている.例えば潮見氏は,r各浦浜においては,地方漁業取締
規則の趣旨にのっとって,旧慣のうえに,漁場の利用関係,漁具漁法の制限をおいたので
あって,その結果,徳川時代の「山野海川入会」によって規律:されたような旧い生産関係
が再生産されてゆく22)』とする類である.
また秋山氏は経済史の立場から,r地方庁はそれぞれの規約を認可することによって,
ほぼ漁業調整の体裁をととのえた. 地方取締規則は, 多くは慣例により,組合規約によ
ると述べ,組合と別箇の上からの調整方針を示していない.個別の組合規約のラフな一般
化を示しているにすぎない23)』とのべている.このような組合規約との結合関係を秋山氏
1ユ4
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
は,r逆にいうならば,半封建的網元層を中核とする漁場利用関係一組合規約を地方権力
によってバックアップしたものが地方取締規則なるものであった』と評価している.
また原暉三訂もその法制史的検討の結果, r明治9年7月太政官達第74号・一・(の)……
法意に基き斯く規定せらるべきは当然にして,何れの地方の規則にありても,取締又は許
可の基準を旧慣,慣行,慣例,慣習等の文詞を以て此の意を表示した.実に当時は旧来の
慣行を保持することが素面以上の重要指針であった.これ畢意新規なる漁具漁法の発生す
るか又は漁業場所の変更するが如きは,漁業上の紛議を醸す重大原因を為すを以て,之を
全く防遇し又はたとひ之を認むるとしても,利害関係者例へは隣…接漁業者又は隣…村の同意
を要する等の特別の手続を規定するを常とした24)』とその意義を説明している.
潮見氏が慣行の歴史的性格,意義を検討せず,34年漁業法制定に至る間の地方漁業取締
規則を指して徳川時代漁業秩序の再生産であるとしたのは論外として,原氏が取締規則の
旧慣承継を74号布達の法意と単純に規定した点も検討を要する.当時の漁業取締規則が,
漁場紛争の鎮圧をその重要使命の一つとしたことはあきらかであるが,さらに重要な条件
は,当時の農政方針が欧米模倣的官営方式から,自主的日本的技術の育成策に転換し,農
商務省は管理行政機関に転質したことにある.
したがってとくに漁業組合準則以後の漁場法秩序は,たんに9年74号布達の機械的適用
なのではなくして,地主的漁場支配権の自生的確立に寄与する歴史的性格を有していたこ
とに特徴がある.それは14年以後のデフレ期における漁村網元層の当然の自衛的手毅でも
あったのである.
その意味では秋山氏が, li半封建的網元層を中核とする漁場利用関係=(漁業)組合規
約を地方権力によってバックアップしたものが地方取締規則であった』との評価は正当で
ある.ただ同氏がそのような地主的漁業調整を漁業取締規則そのものは明示せず,たんに
ラフな一般取締方針をしめすに止まったとしたのは,若干史料分析に不充分の点がある.
とくに19年以後の漁業取締規則では,相当に詳細な技術的取締を直接規定しているのであ
る.これは上からの漁業生産力向上のための不可欠の行政的要求にもとつくものであった
からである.
いずれにしても法制史および経済史における通説的見解は,全面的に旧漁場慣行の承継
を府県漁業取締規則の本質とみている.勿論全国的にみた場合多くの府県において,旧慣
に漁場取締の規準をおき,旧支配者層の地位の持続とその漁場支配権の境界,漁具漁法の
先規的拘束をみたであろう.にもかかわらずその支配的形態であった漁場慣行承継におい
ても,まず権利主体の選定は,明治8年の借区制布告以来行政処分に因るものであり慣行
にもとつくものではなかった.
例えば,明治29年12月28日行政裁判所は,原告の『漁業権ハ明治9年太政官達一基キ法
律上当然従来ノ慣習アル漁業者二属スヘキモノニシテ知事ノ職権ハ其権利ノ有無ヲ確認ス
ルニ止マルモノ』であるとの主張を反論して,r漁業権ハ沿岸人民ノ所有二属スヘキモノ
ニ非スシカシテ知事ハ法律規則二身リ人民ノ出願二対シ免許ヲ与へ若クハ之ヲ拒否スル権
アルモノトス』と判示している.
また漁場慣行以外の事由による新規取得を必ずしも否認するものではなかった.またそ
の免許基準である漁場慣習の意義,内容そのものがすでに歴史的概念であり,変動する漁
場支配の実態が慣行と認められたり,村持漁場または組合持漁場め入会漁業においても,
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
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その決定が慣行的規律となったことは,行政裁判所その他の多くの事例のしめすところで
ある.
すなわち漁村の階層分解と階層出力関係がその規律一慣行を決定したのであり,必ずし
も旧慣そのものの機械的踏襲ではなかった.その限りでは,慣行の文献的不正確さや漁具
の変化を理由として,多くの漁場慣行と称する申立が行政処分に当って拒否されているの
である.ましてやあきらかに慣行にとらわれない漁場取締規則や行政判例もみられ,全面
的慣行承継の機械的主張は再検討を要するといわなければならない.
要するに形式的な漁場慣行の承継も,その現実的目的は部落対立的漁場紛争の上からの
一時的便宜的鎮圧にあり,封建的漁場支配権そのものの継続を目指すものではなかった.
それは漁場紛争の社会経済的主因であった漁場生産関係の矛盾を解決する手段のないまま
に,応変的に旧慣による抑圧策をとらざるをえなかったのである.その旧慣とは封建的支
配関係を再生産するためのものではなく,すでに持続しえなくなった漁場の封建的支配を
脱却して,旧網元層の地主的支配を再生させるための手段的意味しかもっていない.
したがって漁場取締規則のいう慣行を表示する具体的規定は,漁場区域と漁具漁法種類
の先規的拘束であり,権利主体および漁場行使方法そのものを直接規制するものではなか
ったのである.
また旧漁具漁法が改良された場合や,漁獲対象が変化した場合は,慣行的漁場支配は認
められなかった.この点は34年漁業法におけるいわゆる慣行専用漁業権制度にまで引きつ
がれた慣行取扱の行政方針であったといえる.
そこでの府県漁業取締規則の性格は,制定法としてはあきらかに身分拘束を基礎とした
代持入会漁場や農奴主漁業経営を目指すものではなく,免許処分による現状維持的慣行方
針がしめされながらも,次第に法の前の平等や漁場支配権の私的性質とならんで,その上
にたつ官僚統制権が強化されていったのである.
府県漁業取締規則における慣行存続的性格をしめした適例は,豆州内浦における網戸場
免許に関する訴訟事件である.
すでにのべたように25)豆州内浦の津元対小前層の対立は,8年の漁場借用の旧藩元にた
いする許可によって一応鎮圧されたが,その許可期限の満期であった18年再び漁場所有を
めぐる抗争が表面化した.それは長浜村漁場を部落総漁民の共同経営にしょうとする小前
側の意図にたいし,旧試織が2人の他村漁業者および5人の自村非漁業者の協力を得てそ
の共同経営に移そケとして対立したことに発している.小前側は沼津治安裁判所宛「新規
地引網差止勧解願」を提出し,旧津元以外の新規締営者の進出に反対し,その地引網漁場
が旧津元の支配下にあったことから網子側も共同経営者の参加資格ありと主張した26).
この小前側,津糸織の主張にたいし19年12月静岡始審裁判所は,旧津元側のr地引網
漁業の鑑札を受けているのであるから新規経営者も操業は自由である』 との見解を支持
し,旧網戸旧制はその借用期限満期に当るr明治18年以来之レカ所用ヲ差許サレサルモノ
ニシテ何人ト錐モ所用ノ特権アルニアラサルヲ以て従前漁業人口アラス又新規ノ地引網ヲ
設クルモ漁業鑑札ヲ受ケ其漁業ヲ営む事ヲ許サレタルモノナレハ原告(小前側)ハ之ヲ差
止ムルノ権ナキャ明瞭ナリトス27)』とのべ,府県漁業取締規則下の漁場支配権の主体の決
定は,営業許可にあって慣行にはないことあきらかにをした.
他方同裁判所は,工9年ll月内浦三津長浜両村が,木負村の張切網操業を新規漁業であっ
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
ユ16
て先規に背くという理由でその解除方を提訴したのにたいして,木負村のr張霞網ト称ス
ルモノハー般建網ト称シ塞キ網大手地引網ト大同小異其実同種ニシテ新規ノ者ニアラス…
…』の主張を斥け,つぎのように先規的漁場規律の遵守を判示した.
r該営業ノ儀ハ総テ単離旧来ノ区域及慣例二拠リ候義云々トアレハ該慣例二由ラサルヲ
得サル言ヲ侯タス……然ルニ……張切網ノ新規ナル事ハ二村漁法取調書……漁網種目中張
切網ノ名目ナキヲ以テ顕然タリ……将タ又……本訴争フ所海湾ハ……魚道二妨害アル事一
目瞭然ナリトス28)』.
以上の静岡始審裁判所の判決は,当時の府県漁業取締規則にいう慣行が,漁場区域,漁
具漁法に関するそれであって,漁場支配権主体に関しては,旧権利者の承継を当然として
=法定するものでない法意をあきらかにしたものである.
しかるにその自治的漁場行使規範をふくめた漁場法秩序が,しばしば旧慣的漁場生産関
係=封建的生産関係の制度的表現とみられているのは,当時の漁場慣行方針の政策的性格
を機械的に旧慣一封建制とおきかえて考察するためであり,とくに回持漁場の評価におい
てその傾向が著しい.しかし地先入会利用漁場においても,維新後においてはその共同体
的規制は次第に弛緩し,村落そのものの性格も変化していったζとは従来の諸研究のあき
らかにするところである.したがって古典的総有制を維新以後10年代に求めるのは採用し
難い.
そこでは旧慣によって一応その地位を継承しえた旧網元層が,府県漁業取締規則による
漁場法体系の整備,近代化にしたがって,漸次その漁場支配関係の性格を寄生的地主支配
の方向に転化せしめていったのである.逆にいえば府県取締規則の法的性格は,そのよう
な私的漁場支配権化の質的転換を阻止するなにものをももってはいなかったとさえいいう
るのである.
さらに漁業取締規則期の重要な特徴は,総資本との対抗関係において,漁場支配権の強
化の反面,それにたいする公的制限が強行されていったことである.とくにlg年漁業組合
準則以後のそれにおいては全国的傾向となってあらわれ,技術的漁場取締規定に重点をお
きつつも次第に他産業との調整のための漁場利用の制限規定を濃化していったのである.
第2項漁業取締規則における慣行否定的側面
く1)非慣行漁場秩序の諸事例
各府県漁業取締規則の多くは,漁場秩序を慣行に依拠したこと上掲のとおりであるが,
なかにはそれを明文化せずまたは慣行を免許規準としないものもあった.
例えば9年のr岩手県漁業心得』は,その特殊な歴史的背景のもとにおける事例ではあ
るが,慣行を否認しブルジョア的免許制を採ったことはすでにのべた.前掲14年神奈川
県漁業及二二営業規則も新規免許を認めており(1条工項),23年r福井県漁業三二:取
締規則*』は旧慣免許をとくには明示していない(4∼8条).同規則では,入会漁場で
* 明治23年4月福井県漁業採藻取締規則
r第1条 漁業二品業者明治ユ9年6月防霜48号布達漁業組合準則二拠リ適宜組合ヲ設ケ同業
者ノ三二ヲ以テ正副取締入各1名ヲ置キ其組合内ノ取締二二スヘシ
其当撰人名ハ所轄郡役所及当所へ届出ヘシ爾後異同アルトキモ亦同シ
第2条漁業採藻業者ハ各町村大字毎二同業者ノ互撰ヲ以テ漁業総代1名ヲ置クヘシ其当撰
人名ハ所轄郡役所及当庁へ届出ヘシ爾後異同アルトキモ亦同シ
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1工7
r交互入会漁業ヲ為サントスルトキハ其契約書ヲ作り……所轄郡役所ノ認可ヲ受クヘシ』
(8条)として,漁業組合規約による操業を規定しているのみである.
23年『秋田県捕魚島藻取締規則29)』は,原則的には慣行にとらわれない免許制であり,
ただ持場漁業でr旧来ノ慣行ニヨリ引続キ持場漁業ヲ為シタル証左ノ顕著ナル者ハ』免許
されたが, if自ラ心懸ヲ中止シタルトキハ此限ニアラズ』として,慣行の機械的絶対的適
用を排除する傾向をしめしている.これは同県が持場漁業を旧地元町村に所属せしめる原
則(5条)をとったためである.
また25年 r東京府海苔採及養蠣営業場規則30)』 もとくに慣行免許を明記していない.
28年のr徳島県水産取締規則』は,漁場漁法の慣行尊重方針を明示しているのであるが,
他面ではr慣行なき漁業を起し又は新たに漁場を発見し或は養殖場を設置し若くは従来使
用せさる漁具……を以て営業せんとするものは其関係町村漁業組合……に於て支障なき保
証書を謬論は其保証なき理由を具し知事の認可を受くへし』 (9条)とし,潜水器,捕鯨
等の新規漁業は他漁業への支障が大であることを考慮しとくに別条で同旨の規定を設けて
いる.
このような新規漁業にたいする地元町村承認を条件とした免許は,たとえ慣行制をとる
府県においてもすべて並列的に認めていたところであり,それは部落の漁場境界,漁具漁
法の集団的統制の枠内で,相当に権利主体の交替や,漁業形態の進展を容認したのは当然
であった.すなわち新規漁業者は勿論であったが,たんに旧慣のみによっては漁場支配権
は獲得されず,関係地元漁業者の同意がそれを規制したのである.
このような漁業免許への部落的発言権の制度化は,機械的に共同体規制の残存とみるこ
とは適当でないし,制度的には慣行に優先した集団的秩序穿話の発生を物語る一面であっ
た.漁業組合準則による組合規約が多く漁場慣行による秩序を規定したことはあきらかで
あるが,現実には組合の名による集団的意思表示が慣行的規準として取扱われたことは想
第3条河川沼池二於テスル場所不定ノ単独業者ハ第工条ノ組合及第2条ノ漁業総代ヲ設ケ
サルモ妨ナシ
第4条 漁業採藻業ヲ営マントスルモノハ……市ハ当庁町村ハ所轄郡役所へ願出各自二免許
鑑札ノ下附ヲ請フヘシ但市二係ル免許鑑札ハ市役所ヨリ回附スヘシ
第5条 海湖ヲ区画シ漁場採藻場ヲ所用セントスル嫡嗣……所轄郡役所へ願出免許状ノ下剤
ヲ請フヘシ
前項ノ場所ニシテニ郡以上二跨ルモノハ当庁へ願出免許状ノ下上ヲ請フヘシ
第6条 前条漁場採干場ノ外二於テ不動ノ漁器ヲ構造セントスル者ハ・・…所轄郡役所へ願出
許可ヲ受クヘシ
第7条簗漁網戸漁ノ類ハ……所轄郡役所ヲ経テ庁へ願出許可ヲ受クヘシ
第8条 場所ヲ区画シ漁業採無業ヲ営ムモノニシテ交互入会漁業ヲ為サントスルトキハ其契
約書ヲ作り……所轄郡役所ノ認可ヲ受クヘシ
前項入会漁場ニシテニ郡以上二跨ルモノハ当庁ノ認可ヲ受クヘシ
第ll条 鑑札及ヒ免許状ハ貸借或ハ売買譲与スルヲ許サス且ツ鑑札ハ就業ノ間携帯スヘシ但
鑑札又ハ免許状ノ閲覧ヲ需ルルモノアルトキハ之ヲ拒ムヲ得ス
第12条 堤防口吻アル場所又ハ公衆ノ障碍アル場所二於テ漁業採藻業ヲ為スヲ許サス
算当3条石灰,柿渋及「ダイナマート」等渾テ水産二害アルモノヲ以テ遭難スルヲ許サス
第14条 水産繁殖二害アルモノ(潜水器及ヒ打タ瀬網ノ類ヲ用スルモノ)及ヒ治水其他公益
二妨害アリト認ムルトキハ三三ノ漁場ヲ解キ又ハ漁業二丁業ヲ停止シ或ハ禁止スル事アルヘ
シ
第15条 廃業又ハ漁場採藻場ノ所用ヲ廃止スルノハ……鑑札(免許状)ヲ添へ市ハ当庁町村
ハ所轄郡役所へ届出ツヘシ(以下略)』 (前掲「会報」96号,P・152)
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青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
像に難くない.したがって組合規約一府県規則を貫く慣行制においても,漁村共同体の質
的転化すなわち漁場生産諸関係の変化が,新規漁業を現出せしめるのは決して不可能なこ
とではなかったのである.
この点からも慣行とは,漁場区域,漁具漁法の共同体的規制なのであって,府県取締規
則は漁場生産関係の矛盾抑圧のためにそれを権威づけたものであり,生産関係の転化によ
ってはそれらの内容も機械的に固執されるべき条件をもたなかったといいうる.ましてや
それは漁場生産関係の封建的規制を意味したものではないし,それは不可能事であったと
いいうるのである.
(2)権力解釈による漁場慣行の後退
前項にのべた各府県の非慣行的免許による漁場秩序形成や,規則にいう慣行の内容がも
っぱら漁場,漁具,漁法に重点をおき,漁場生産関係は資本主義的発展のままに放任され
たことは,’慣行による漁場取締の実際的運用によってもあきらかである.それは各府県の
慣行的漁場占有利用についての行政解釈や,係争事件となった場合の行政裁判所の司法解
釈の厳格さにおいてみられた.
まず府県漁業取締規則にいう慣行は,第一に漁獲対象,漁具の変化によってその慣行で
あることを否認され,また当時一般的であった慣行立証文書の不足によって法の認めると
ころでないとされるものが多かったことである.
例えば29年の高知県月灘村海面の鱒大敷網撤去事件eeは,・当時の慣行に因る漁業免許の
実相をよく物語るものである.同事件において,原告村に,当該漁場の同村による行使は
r此習慣タル該地方二陰レナキモノナリ』 といい,県がその鱒大敷網の撤回を訓令した
* 明治29年7月高知県月町村事件
r 漁場紛議行政裁判所判決(明治29年7月3日宣告)
高知県幡多如月灘村海面ロノ磐大敷網撤回ノ訓令取消訴願ノ裁判不服ノ訴
原告高知県幡多郡月二村周防形一番
屋敷平民漁渡去浜崎吉三郎外四十五名
浜崎吉三郎外四十五名訴訟代理人
弁護士 元田 肇
原告従参加人高知県幡多郡月灘村西泊一番屋敷 岡茂次郎外五十五名
、被告 高知県幡多郡長 桑原平八
高知県知事 石田英吉
被告従参加人 高知県幡多郡月灘村議浦一番屋敷 平民漁渡去 武田伊蔵外六十二名
〔原告陳述要旨〕
……原告等ハ往時ヨリ……ロノ婆ヨリ沖ノ島大谷ヲ見通シタル線路ヲ以テ東境トナシロノ磐
ヨリ西方百二十間ノ所即チ甲印ヨリ西方鬼王磐二至ル線路ノ中二於テ漁業ヲ営ミ来りシモノ
ニシテ此習慣タル該地方二陰レナキモノナリ故二明治ll年中網代願ヲ差出シタルトキモ其慣
行二基キ出願シタリ其後隣部落樫ノ浦ノ者共原告方漁業総代ノ無学文盲ナルヲ奇貨トシ……
不当ナル願書ヲ認メ霧カニ之レヲ引換ヘタルモ当時県庁ハ早ク之レヲ看破シ西鬼子婆南ロノ
婆ヲ以テ境界起点ノ原位ト為シ古来ノ習慣二号キ捕魚スヘキ旨ノ許可ヲ与ヘラレタリ而ルニ
樫ノ浦ハ又々原告方総代ヲ欺キ県令ノ交替新任ヲ奇貨トシ霧カニ此範囲ヲ変更縮少シタル…
…願書ヲ差出シ新県令誤記二号証朱書ノ如ク之レヲ許可スルニ至リシカ原告周方形及入会山
泊入野津之レヲ聞知スルや直チニ戸長ヲシテ其不当ヲ詰責セシメ樫ノ浦平民ノ再三違約シテ
之レニ応セサルヲ知ルヤ……更二県庁二出願シ遂ニ……当初ノ指令通リ復セラルルニ至レリ
尋テ明治二十三年六月二至リ……大敷網敷設ノ契約ヲ為シ各自ノ境界内二於テ之レヲ敷設ス
ルモ異議ナキコトヲ確約シ此契約二基キ直チニ該網ヲ敷設スヘキ位置範囲ヲ……図面二丁メ
…願書ヲ呈出シ七月二十五日之レカ許可ヲ得爾来此範囲内二於テ該網ヲ敷設シ捕魚二従事シ
来りシモノナリ而ルニ樫ノ浦人民ハ…是迄屡々……右範囲ヲ縮少シ自己ノ捕魚範囲ヲ拡張セ
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
ント図りシモ……被告二曲ミ入り事実ヲ羅織シテ訓令ヲ海底シタルニ被告ハ趣ク之レニ応シ
未着県知事ノ指揮モナキニ訓令ヲ発シ直チニ公力ヲ以テ之レヲ執行スルニ至レリ故二原告共
ハ……果シテ県知事力欺カル指揮ヲ為シタルや否やヲ糺シタルニ……其事ナキ旨及右郡長ノ
処分ハ旧慣ヲ破却シタルモノナルコトノ答ヘアリタルニ付原告ハ被告ノ越権且失当ノ処分ナ
ルコトヲ申立テ訴願セシニ被告モ其越権不当ナルヲ悟り原告ハ第三者ナリトカ又ハ未タ該訓
令ヲ執行シタルコトナケレ日本訴願ハ不当ナリト抗弁シ……県知事亦此理由二依リ原告ノ訴
願ヲ棄却シ本訴二歩リテモ尚ホ此趣旨ヲ以テー二妨訴ヲ試ミタリ然レトモ事実ノアル所如何
トモスル能ハス当裁判所ノ看破セラルルトコロトナリ……知事ハ却テ被告二参加シ該訓令ハ
郡長二指揮シタルモノナリ決シテ越権ニアラス又失当ニアラスト援助スルニ至リシモノナリ
右ノ次第二付本案ノ争点ハ左ノニ点二帰著ス第一該訓令ハ適法ノ委任ヲ受ケスシテ発シタル
越権ノ処分ニアラサルヤ否第二適法ノ委任アリテ之レヲ発シタルモノナリト仮定スルモ該訓
令ハ旧慣二従ヒ従来ノ範囲内二於テ捕魚シ来リタル原告ノ権利ヲ害シタルモノニアラサルヤ
否右第一点二就テハ当初知事ヨリ指揮セシ事実ナキ事及適法ナル代理委任ノ事実ナキ事跡ヲ
以テ其越権ノ処分タルヲ証スルニ足ルヘク……第二点二至リテハ本件訓令ハ原告力旧慣ノ範
囲内二於テ営ミ来レル捕魚権ヲ妨害スルノミナラス隣部落樫ノ浦西泊ト契約ヲ為シ許可ヲ得
タル範囲内二於ケル大敷網敷設ノ権利ヲ害シタルモノタルコト……明白ナリトス……依テ明
治二十七年九月十日高知県知事力為シタル裁決ヲ取消シ而シテ明治二十七年六月二十二日付
ヲ以テ被告力発シタル幡訓令第9工号訓令ノ取消ヲ請求スト云フニ在リ……
〔被告陳述要旨〕
被告答弁ノ要旨ハ周防形海面漁場ノ使用二関スル旧記ハ各部落同様ニアルモ斯カル旧記ハ各
部落勝手二調整シタルモノニシテ確証トナラバ県庁二於テ明治十九年中属中野徳次郎ヲ派出
シ調査セシメタル其復命書二依ルモ確証ヲ認メル能ハス而シテ三部落力入会漁業ヲ営ミタル
ハ鮮ヲ捕ルモノニシテ該魚ハ陸地二近寄リタル場所二居リテ陸ヲ距ル百二十間以外ニハ居ラ
ザルナリ……又原告ハ明治二十三年六月十九日二大敷網敷設ヲ願出テ同年七月二十五日二其
許可ヲ得タリト云フモ被告ハ許可ヲ与ヘタルコトナシ……本件ノ起因ハ明治二十七年四月十
七日樫ノ浦人民ヨリ苦情申立テタルニ依リ被告ハ三部落ノ者ヲ呼出シ或ハ吏員ヲ派遣シ調査
ヲ為シ説諭ヲ為シタルモ到底円満二局ヲ結フノ見込ナキヲ以テ法規ヲ取調へ或ハ県下一般ノ
慣行ヲ調査シ鄭重二鄭重ヲ加ヘタル上処分ヲ為シタルモノナリ又原告力許可ヲ受ケ居リタル
ハ鮮ヲ捕ルノ漁業ノミニシテ大敷網ノ許可ヲ受ケタルモノニアラス抑々明治八年第百九十五
号布告ノ発セラルルヤ海面ノ捕魚ヲ為ス者ハ其筋ノ許可ヲ受ケサルヘカラス然ルニ原告ハ許
可ヲ受ケスシテ営業ヲ為シタルモノナレハ撤回ヲ命セラレタリトテ明治二十三年法律第百六
号二依リ本件ヲ提起スヘキ権ナシ若シ其権利アリトスルモ被告ノ訓令ハ違法二非ス本件ノ大
敷網ナルモノハ萌治十五年二初メテ発明セラレタルモノナルヲ以テ明治十一年ニハ之レヲ用
フヘキ筈ナキヲ以テ見ルモ原告ハ大敷網ノ許可ヲ得タルモノニ非ラサルコト明カナリ又原告
ハ郡長二於テ本件ノ如キ訓令ヲ発スルノ権ナシト云フト雛郡長ハ部内ノ行政ヲ為スモノニシ
テ……許否ノ権アルヲ以テ法規ト県下一般ノ慣行ヲ調査シテ訓令ヲ発シタルモノナリ依テ明
治二十七年六月二十二日付ヲ以テ被告力発シタル大敷網撤回二関スル訓令ハ適法ナルヲ以テ
本訴ヲ棄却セラレタヅト云フニ在リ
〔県知事ノ陳述〕
被告従参加人高知県知事陳述ノ要旨ハ原告ハ現今敷設セル国ノ婆網代ノ認許ヲ其筋二得連年
之レカ敷設漁業ヲ営ミ来リ云々ト言フト錐従参加人ハ未タ其許可ヲ与ヘタルコトナシ……従
参加人ノ与ヘタル指令ハ鮮ノ漁業二対スルモノニシテ大敷網二対スルモノニハ非サルナリ又
特別ノ慣行ナキ限リハ部落ト部落トノ陸地ノ境界線ノ見通シヲ以テ漁場ノ境界ト為スト言フ
コトカ県下一般ノ慣行ナルカ故二周防形樫ノ浦両部落間二特別ノ慣行ナキ以上バー般ノ慣行
二基キ両部落ノ境界タル今サイケ山仏婆ヨリ見通シタルー線ヲ以テ両部落ノ漁場ノ区域ト為
ササルヘカラス今又之レヲー般ノ条理ヨリ論スルモ特別ノ慣行ナキ限リハ部落ト部落トノ陸
地ノ境界線ヲ標準トシテ見通シタルー直線ヲ以テ漁場ノ区域トセサルヘカラサル次第ナレハ
被告力其境界ヲ瞼越セル原告二向テ撤回ヲ命シタルハ適法ノ処置ト言ハサルヲ得ス依テ被告
ノ申立之通リ裁判アリタシト云フニアリ
〔判決〕 原告ノ請求相立タス
〔理由〕
原告ハ本訴大敷網撤回二関スル被告ノ訓令ハ適法ノ委任ヲ受ケスシテ発シタル越権ノ処分ナ
リト言フト錐明治二十二年高知県令第百二十二号ヲ以テ定メタル郡市長委任条件中其第二十
三項二捕魚ノ為メ魚簗瀬張八重ノ類構造願ノ事トアリテ本件大敷網二関スル事件ノ如キモ同
:L工9
Z20
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
ことにたいして行政訴訟を提起した.高知県庁はf周防形海面漁場ノ使用二関スル旧記ハ
各部落同様ニアルモ斯カル旧記目糞部落勝手二調整シタルモノニシテ確証トナラス』と判
断し,またr三部落が入会漁業ヲ営ミタル上品ヲ捕ルモノニシテ……』原告村のいう鱒大
敷網は旧慣にない漁業であり,また県の許可のない漁業であると主張し,撤回訓令の合法
である’ことを開陳している.
したがって県庁としては,r特別ノ慣行ナキ限りハ部落ト部落トノ陸地ノ境界線ノ見通
シヲ以テ漁場ノ境界ト為スト言フが県下一般ノ慣行ナルカ故二』原告村の大敷網は,他村
漁場内で無許可で操業するものと判断し,漁場区域の点からも撤回訓令は至当なりと主張
するものであった.
行政裁判所は,大敷網の如き海面区画漁業は,8年借区制布告により出願許可を要する
ものであり,県庁がその許可をなしたる実証なく,また原告村の主張する旧慣は大敷網に
関しては確証なしとして原告村の敗訴を宣告した.
こζでは行政裁判所が8年借区制布告の全般的継続を認め,包括的漁場支配権を否認
し,漸次支配の対象が海面一般からその経済的目的物である漁獲対象物に限定されると
いう理論構成をとっているのが注目される.すなわち一つは,9年74号布達が借区制布告
を取消し旧慣承継を認めたものであるとする通説の解釈上の誤りを司法解釈としてあきら
かにしたことである.第二には,漁場全般についての支配的概念から次第に一物一権主
義的概念に変化し,34年漁業法の漁業権概念の萌芽がみられることである.これは漁場支
配権の私的支配のローマ法的傾斜をしめす段階といえよう.
また28年2.月にも,行政裁判所は,被告村の明治15年以前の漁業慣行はr特定ノ鰹漁業
二関スル者ニシテ』,現在同村が慣行的漁業として行っていることについては,r特二鱒
漁業ヲ為シ来りタルノ慣行アル者ナリト認ムルニ足ル証左ナキモノトス』*と判示してい
る.
また同宣告はさらに慣行漁業の対象のみならず,その漁場についても不分明の点を指摘
し, r嘉永六年ノ裁決二記載スル漁場ハ今瀬外三ケ瀬トアリテ外三ケ瀬ハ何処二面当スル
ヤヲ判別スルニ由ナク』また「其諸所ナルモノハ共ニ一定ノ名称アル場所ヲ指示シタルモ
ント認難』いとして,慣行漁場であることを排斥している.
また北海道岩内郡の溶融慣行につき,31年12月の行政裁判所宣告は,原告漁業組合の追
項規定ノ委任範囲内二包含スルモノト解釈スルヲ適当ナリトス故二被告ノ発シタル大敷網撤
回ノ訓令ハ違法ノ行政処分ナリト言フヲ得ス又原告ハ適法ノ委任アリテ被告力之ヲ発シタル
モノト仮定スルモ該訓令ハ旧慣二従ヒ従来ノ範囲内二於テ捕魚シ来リタル原告等ノ権利ヲ害
シタルモノナリト云フト錐大敷網漁業ノ如キハー定ノ海面ヲ区画使用シテ捕魚ヲ為スモノナ
レハ原告二於テ該漁業ヲ営マントスルトキハ明治八年太政官布告第百九十五号二依リ管轄官
庁二出願シテ其許可ヲ得サルヘカラス然ルニ原告ハ……各自ノ境界内二於テ大敷綱ヲ敷設ス
ルモ異議ナキコトヲ確約シ此契約二基キ……出願シ其許可ヲ得タリト云フト錐甲第八号証ハ
願書ノ本書二非サレハ該証中明治二十三年七月八日付村長代理助役溝渕政亮奥書証印ノ上同
日進達済及明治二十三年同月二十五日聞置ト或ル本紙同綴ト記載シアルモ被告二於テ該願書
ヲ受理セス随テ之レニ対シテ何等ノ指令ヲ与ヘタルコトナシト抗弁スル以上ハ他二確証ナキ
限リハ甲第八号証ノ如キ願書藪二許可ノ指令アリタルモノト認ムルヲ得ス又原告ハ……原告
等二海面漁業ノ旧慣アルコトヲ主張スト錐該証ハ本件大敷漁業網漁業二関スル願書指令ナリ
ト認メ難キモノナレハ之レヲ以テ原告ハ大敷網ヲ敷設シ漁業ヲ為スノ権利アリトノ証拠ト為
スニ足ラス故二被告ノ発シタル幡訓令第九十一号ハ適法ノ訓令ニシテ之レヲ取消スヘキ理由
ナキモノトス』 (前掲「会報」170号,P.42)
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
12工
練慣行立証書類を目して, r何レモ薄弱ナル間接ノモノニシテーモ原告主張ノ事実ヲ確認
スヘキ証拠トナルニ足ラス』として,北海道庁の同組合鯨建網入会漁場指定願却下を適法
の処分であるとした.32年3月同宣告***もまた,帳場永代売渡証文,川魚鑑札,村浦銭
請取勲等は村受稼業の慣行を立証するに足らずと判断しぜいる.
つぎに慣行的漁場支配権の認定が司法,行政解釈において不安定であったことの第二点
は,府県漁業取締規則などの法令改廃時の慣行確認に際して,その府県にたいする確認手
* 明治28年行政裁判所宣告
r被告二於テ大瀬広曽根ノ赤鼠ハ加吉田村民川畑清兵衛外二百五十五外力当該官庁ノ聴許ヲ得
タル専用ノ漁場ナリシコトハ事実上争フヘカラス同村民長田鹿児島藩馬脚従ヒ該両瀬二於ケ
ル漁業ノ特権ヲ与ヘラレ其権利ヲ実行シ義務ヲ負担シ明治七年四月二至リ古来ノ慣例二基キ
其区域ヲ明確ニシ計上官庁ノ聴許ヲ得テ漁業ヲ継続セシモノナリ鱒漁業ハ他ノ漁業ト大二其
趣ヲ異ニシ数年間数万ノ金額ヲ消費セサルハ其目的ヲ達シ難シ故二古来ヨリ下押田村民国資
金ヲ募集シ組合ヲ設ケ明治十九年本県漁業組合準則二依リ組合規約ノ認可ヲ願出タルニ因リ
無二認可ヲ与ヘタリト云フト錐被告及被告従参加人ノ挙証中明治十五年以前二黒ル藍田特定
ノ鰹漁業二関スル者ニシテ旧鹿児島藩ノ特許モ亦之二外ナラサレハ加吉田村民心旧来大瀬広
曽根二於テ特二鱒漁業ヲ為シ来りタルノ慣行アル者ナリト認ムルニ足ル証左ナキモノトス而
シテ原告ハ……大瀬広曽根ノ主恩ハ嘉永六年三月目裁決ヲ以テ我漁業権ヲ縮少セラレ加吉田
村トノ入会漁場ト為り爾来漁業ヲ継続シタルハ甲第三号証ノ如ク被告二軸テモ明治二十一年
鱗釣漁業ノ出願二対シ原告等三名ハ慣行アル者ナルヲ以テ本庁へ出願二及ハスト云ヒ且受理
由ヲモ説明シタルコトアル次第ナルニ明治二十六年一月二至リ達二第五号ヲ以テ為シタル県
達ハ既得ノ漁業権ヲ拒否シ尚首星瀬ハ加吉田村専用漁場ノ如ク見傲シ川畑清兵衛等ノ鰍漁業
組合ノ出願二認可ヲ与ヘタルハ不当ナル旨主張スト錐甲第二号嘉永六年ノ裁決二記載スル漁
場ハ今瀬外三ケ瀬トアリテ外三ケ瀬ハ何所二適当スルヤヲ判別スルニ由ナク無爵要旨二至リ
テモ加吉田布施両村二漁場ノ良否二従ヒ相互隔日二其留所二乗入レ漁業ヲ為ス可ク又購網ノ
即今ヲ為ス可カラサル事ヲ命示シタルニ過キサレハ之ヲ以テ直チニ大瀬広曽根上灘ケル鱒漁
業ノ入会ヲ認許シタルモノナリトハ認七難ク又甲第三号証……ノ鑑札出猟新規毛無営業ニシ
テ其漁場ハ字新川字伊作諸々ト記シ……其諸所ナルモノハ等割ー定ノ名称アル場所ヲ指示シ
タルモノト病難ク且新規営業云々二依レハ旧来慣行アリシモノニアラサルノミナラス本件二
関スル大瀬広曽根二於ケル慣行ヲ観ルノ証ト為ス月足ラス……其他挙証中原告力大瀬広曽根
二於テ加吉田村卜入会シテ鱒漁業ヲ為ス慣行ヲ有セシコトヲ認ムヘキモノナキヲ以テ其既得
権iヲ豊里セラレタリト謂フ可カラス』 (小林音八:r漁業関係行政訴訟判決要旨及理由集j
P.18−9) .
** 明治3工年工2月工4日行政裁判所宣告『本訴ノ要点ハ係争ノ海面二於テ従来原告二子鯨ノ慣アリ
ヤ否やヲ判断スルニアリ原告ハ甲号数証ヲ提出シテ慣行ノ事実ヲ証セントスルモ甲第1号証
ハ本件漁場指定願書甲第2号証ハ右出願壁際シ戸長ノ田舞書甲第3号乃至第8号証ハ磯谷郡
漁業組合人中一十ノ勢力明治二十二年同二十三年二於テ岩内郡沿岸ニテ漁業ヲ為シ其納税手
続二関ヌル書類其他提出シタル証書円転レモ薄弱ナル間接ノモノニシテーモ原告主張ノ事実
ヲ確認スヘキ証拠トナルニ足ラス然レハ被告力本件鯨建網入会漁場指定願二対シ追練ノ慣行
ナキモノトシテ之ヲ却下シタルハ不法ノ処分ナリト云フヲ得ス』(上掲 r行政判決集』P.
40)
***明治32年3月27日行政裁判所宣告 r原告ハ本件漁業ハ古来村受稼業ノ習慣アルモノナリト
主張スルモ其立証スル甲第4号証帳場永代売渡証文ハ帳場売買ノ証拠二尊マリ村受稼業ノ証
拠ト為ス逸足ラサルノミナラス寧口反対ノ事実即該漁業権一心数人二於テ之ヲ専有シ村民全
体二言セサルヲ認ムヘク甲第5号証川魚鑑札ノ百姓共晶当時数名ノ瀬主ナル者アリテ漁業権
ヲ専有セシヲ以テ村民全体ヲ指シタルモノト認メ難ク甲第6号証村丁丁請取証ハ其金額ノ領
収ヲ証シタルモノニシテ他二何等ノ記載ナキニ依リ如何ナル事情アリテ塁壁ヨリ之ヲ与ヘタ
ルモノカ知ルヘカラサルハ畑野証拠ト為スニ足ラス其他原告二於テ立証スル所アルモ証拠ト
シテ採用スヘキモノナシ』 (全上P.4ユ)
122
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
続をとらなかったための権i利喪失がある.
前掲高知県説示村鱒大敷網の事例は,8年借区制布告実施の際の無届による権利喪失で
あるが,そのほか24年ユ○月行政裁判所宣告*は,19年広島県布達による届出を怠ったこと
を理由として,同様な権利喪失を判示している.その場合の届出義務の解釈も厳密なもの
であって,つとめて慣行的漁場支配を廃滅せしめんとする方向をとったかの感がある.
第三のケースは,漁場占用の時間的継続が慣行の有無の標準となっているのは当然であ
り,29年ll月の行政裁判所宣告**は, r甲主力曽テ係争ノ漁場ニオイテ漁業ヲ為シタル
事実アリ又其後同一ノ漁場二於テ他ノ乙丙等ノ者力漁業ヲ為シタル事実アル場合二在リテ
ハ必スシモ甲者ヲ以テ該漁場二於ケル漁業ノ慣行者ナリト謂フヲ得ス』としている.
以上の一連の行政裁判所の見解は,漁業権処分に関する府県知事の処分を適法であると
する点において,ほとんど同一の性格をもつものであり,19年漁業組合準則以後の漁場慣
行に関する権力解釈をあきらかにしたものというべきである.
この三点における漁場慣行否認の規準は,当時の行政裁判所宣告の多くに類例を見出し
うるのであり,立証文書の不確実性,漁業内容の変動,法令改廃時の手続の欠鉄,漁場占
用の時間的継続のいずれをとってみても,当時の漁村,漁業者の実態からしては,ほとん
どの慣行的漁業についての否認的な条件であったといえる.
したがって権力的解釈運用の如何によっては,多くの漁場支配権における慣行が制度
的に確認されず,競願新規漁業者に席をゆずるかまたはたんに消滅するかの結果となった
ことも想像に難くない.こうした点からもすでにふれた府県漁業取締規則にいう慣習によ
* 明治24年10月2日行政裁判所宣告
r本件所争ノ海面ハ原告力従来三二三三営業ノ為専用セシ場所ナルヲ以テ被告ハ旧慣行二従
ヒ原告二専用ノ許可ヲ与フヘキハ当然ナルニ甲第30号証ノ訓令ヲ為シ原告ノ届書ヲ却下シタ
ルハ違法ナリト云フニ在ルモ原告ハ明治19年広島県布達乙第23号ヲ以テ規定シタル慣行届期
限二従ヒ届出テサルモノナレハ同派達但書二期限内二届出テサルモノハ慣行ナキモノト看倣
ストアルニ依リ其専用ノ慣例ハ成立セサルモノト謂ハサルヲ得ス然ルニ原告ハ該布達二営業
ヲ為スモノトアルヲ以テ現営業者ノミニ関スル規程ニシテ原告ノ如キ当時現営業者二非サル
モノニハ該当セス又原告バー旦届出ヲ差出シタルモ戸長二於テ之ヲ却下シタリト云フト難該
布達面ニハ現営業者二限ルノ明文ナキノミナラス其書式凡例二品テ何年頃海面三又ハ区画専
用ヲ許サレ其後自ラ廃棄或ハ取消サレ云々ト指定シアルニ依ルモ原告言フ如ク現営業者二半
ルモノト一樹メ難シ又其慣行届ハ県知事二差出スヘキモノナレハ戸長力却下シタルモ原告ハ
更二・之レヲ県知事二差出ノ手続ヲ尽シタルコトナクシテ扇田二至リタルモノナレハ本訴二於
テ戸長力其届書ヲ却下シタルヲ理由トスルヲ得ス』
(前掲「行政判決集」P.3)
**明治29年U月9日行政裁判所宣告
r判決要旨
甲者二塁テ係争ノ漁場二於テ漁業ヲ為シタル事実アリ又其以後同一ノ漁場二於テ他ノ、乙丙等
ノ者力漁業ヲ為シタル事実アル場合二在リテハ必スシモ甲者ヲ以テ該漁場二丁ケル漁業ノ慣
行者ナリト謂フヲ得ス
理 由
原告ハ本件漁場二於テ天明年度以来漁業ヲ行フタル慣例アルヲ以テ無手県漁業採藻取締規則
第4条二依リ原告部落二漁業ヲ許可セラルヘキ筈ナルニ被告二等テ之ヲ許可セサルハ不当ナ
リト云フト錐原告部落ノ住民力天明年間該漁場二王テ稼業ヲ為シタルハ事実ナリトスルモ其
以後旧態リテハ或ハ旧藩主点於テ自ラ漁業ヲ為シ或ハ他町村ノー個人二面テ稼業ヲ行ヒタル
事実ナレハ原告部落ノ住民二二テ従来共同稼業シタル慣例アリト謂フヘカラス』
(前掲「行政判決集」P.30)
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
123
る漁業取締を目して旧慣の全面的本質的承継とみる通説はそのままでは承認し難い概括的
な規定といわなければならない.
つぎに以上の慣行的漁場支配権の制度的安定性の動揺は,部落慣行入会利用漁場につい
て多くみられることである.おそらく9年74号布達の当時は,盛行する部落的漁場紛争を
抑圧するため,ほとんどの旧部落入会慣行はそのまま承認されたのであろう.しかし14年
以降のデフレ期においては,たかまる漁村内部の経済的矛盾にたいしてたんに制度的な慣
行承認のみによっては部落対立の漁場紛争を解決することは不可能であった.
また19年の漁業組合準則も結果的には漁場紛争解決には大きな効果を期待しえなかった
ということからして,入会利用漁場支配権の交替,再編成が行われたものとみるべきであ
る.それは個別的独占漁場の増加(例えば小定置から大定置への拡大など)による入会利
用漁場の縮少や,反面漁村人口の増加,漁家家計の逼迫に因る部落の漁場支配圏の拡大な
どの矛盾を,本質的な地主的漁場支配権の問題には手をふれることなく,たんに入会漁村
部落の漁場区域配分上の再編成一資源の再配分によって糊塗しようとする過程であった.
かくして古典的総有制漁場は,漸次その制度的基盤を失い社会的分業の発展による専兼
業漁家による合有的支配漁場化され,部落内階層分解と拡大した海区内での新しい部落間
の矛盾をさらに一層おしすすめることとなったのである.
つぎに,とくに19年漁業組合準則以後に強化された部落慣行漁場の否定的方向は,一面
つぎにのべる漁場支配権の私的性質の強化であるとともに,他面当時の漁業権概念が営業
許可説的傾向にあったことの反映でもあった.すなわち部落慣行漁場区域やその漁獲対象
についての制度的精密性が要求されたことは,旧来の包括的漁場支配権を解体させ,恣意
的支配から近代法的支配に転化せしめることであった.それはやがて34年漁業法における
漁業権内容についての制限種類主義に発展し,漁場の全面的全漁業的支配から特定漁業支
配を内容にした漁場支配権への質的転化となるのである.
また当時の営業許可説的傾向は,8年当時の借区制論争類似のものであり,29年12月行
政裁判所宣告にのべるように, r漁業権ハ沿岸人民ノ所有二恩スベキモノニ非ス』とする
漁場の官僚統制思想であった.
それは法理論的には,漁業免許の公法的関係と漁場支配権そのものの私法関係を混同し
たものではあったが,当時の明治官僚制強化のための権力的宣言であり,漁業免許処分の
優越を強調した点にその歴史的意義がある.それは地元漁民の入会漁場慣行を無償的に
没収しうる唯一の理論的前提であった.かくして34年漁業法制定以前に,すでに府県漁業
取締規則による入会慣行の否認とその再配分が,漁場紛争を漁村内部で解決する唯一の方
向として進行したのである.
第5項漁業取締規則における漁場支配権の私的性質
以上のべたところによって,とくに19年以後の府県取締規則における漁場慣行承継形式
が,実際には多くの府県で漁場生産関係の転移にともなって,新規漁業を容認しとくに地
先入会旧慣を否定する傾向があったことがあきらかとなった.それでは地主的漁場支配権
の支柱であった個別的独占漁場ではいかなる経過をたどったであろうか.
(1)排他的独占性
8年借区制布告,9年74号布達で明文的には不充分であった漁場支配権の私的性質は,
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
ユ24
その後の増加する各府県漁業取締規則において次第に具体化していった.とくに19年以後
は封建的漁場支配権と対物的に,個別的独占漁場における権利漁業の分類化と詳細な権利
内容の明確化が要求されている.
はやくは前掲9年の岩手県河海漁業心得では,個別的独占漁場はr絵図面相添可願出許
可ノ上ハ地元村吏立会標杭比島界紡レ無之様』(7条)規定され,川筋漁業,鮭留鱒留の
持場面積も法定された.また排他性についてはll漁場免許株鑑札ヲ受タル者其限内於テ,
余ノ漁業ヲ禁シ候共,讐へ悲曲漁業二関ル季節ノ外罰其漁場ヲ占ムルノ権利無之事』(9
条)とされ,きわめて近代的権利観念の形成をみている.
しかし一般に漁場支配権の私的性質が成文的にあきらかにされていくのは19年漁業組合
準則以後である.例えば前掲23年秋田県では,捕魚町藻を持場漁業,無煙川留の業,入会
漁業(職漁遊漁)および採藻,鵜遺漁業の4種に分類している.またとくに入会利用漁場
との紡争の多い持場漁業は,原則的に町村有としたが(5条),その免許条件どして,1郡
町村字海湖川名,2 持場の間数及面積,3 持場明細図,4 捕獲魚種類,5 漁具及漁
法,6 持場年限,7所得見込高の上申を要求しており,ほとんど34年漁業法以降の漁業
免許内容を具備している.また簗,川留漁業はその持場区域内に限られ(9条),八丁漁
業は羽数を明記し,権利内容の具体化一排他的支配性の明確化をはかっている.
また25年r東京府海苔里馬養蠣営業場規則』第ユ条は,rl出願場所ノ形状及間数及坪
数,2不動物体ヲ以テ基点トシ其基点ト出願場所ノ標点ノ距離』を明示した図面を願書に
添えることを義務づけている.25年神奈川県規則も,張網,採藻および簗漁の免許出願に
ついて図面とともに,1営業期限および雑魚採藻の季節,1営業場縦横の間数および反別,
1陸上不動体基点と出願場所標点の方位および間数を願書に記載すべきことを規定した.
さらに28年徳島県規則は前掲のように慣行漁場を原則としているが,潜水器漁業や捕鯨
業など入会漁場との紛争の多いものについては,営業場の区域,営業期間,漁期,器具の
個数,捕採場の種類を明記した書類を願書に添付するものとされた(10条).28年熊本県
規則も,新規漁場については漁場略図および漁法の明細を具し許可をうくべきものとして
いる(ユ0条).
府県漁業取締規則の統一期に近い32年の大分県規則*では,慣行漁場についても,漁具
種類,漁法,採捕場場所,期節を漁業種類毎に願書に記載することが義務づけられ,新規
漁業,定置漁業またはその他の個別的独占漁場は,種類毎に,漁場図(方位間数,坪数等
不動体基点による作図および附近の概況),採捕場,漁具の構造および使用法,期節,慣
行的定置漁場,専用漁場では設計図の記載を規定している(5条).さらに免許後の漁期,
漁場,漁具,漁法の権利内容の著しい改造の場合も知事の許可を要するものとした.こ
のように32年当時はすでに34年漁業法所定の権利内容の具体的要素を具備するにいたって
* 明治32年7月17日大分県漁業取締規則
r 第1章総 則
第1条 河海二於テ水産動植物ヲ採捕スル者ハ此規則ヲ遵守スヘシ
第2条 此規則二於テ漁業者ト称スルハ河海二於テ水産動植物ノ採捕ヲ営業トスルモノヲ云
フ
第3条 漁場ハ従来ノ慣行二依ル
第2章漁 事
第4条 慣行アル漁業ヲ為サントスル者ハ種類毎二左ノ事項ヲ具シ所轄郡長二出願シ漁業鑑
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
札ヲ受クヘシ
エ.漁具種類及漁法
3.’
齒
2.採捕物
4.期節
第5条 慣行ナキ漁業又ハ場所ヲ二八テ漁具ヲ定置シ若ハ水面ヲ専用スル漁業ヲ為サントス
ル乱国種類毎二左ノ事項ヲ具シ本県知事二出願シ漁業鑑札ヲ受クヘシ
L 漁場図(方位間数,坪数等不動物躰ヲ以テ基点トシタル見通二三リ之ヲ明ニシ且附近ノ
概況ヲ記スヘシ)
2.採捕物
3.漁具ノ構造並使用法
4.期節
5.設計書(慣行ナキ漁業出願ノ場合二於テハ之ヲ要セス)
第6条漁業鑑札ヲ得タル者其ノ漁業二着手セントスルトキハ鑑札ヲ受ケタル官庁二届出ツ
ヘシ但許可ヲ重縫ル日ヨリニケ年以内ハ漁業二着手玉サルトキハ其ノ許可ハ効力ヲ失フモノ
トス
:第7条漁期及漁場ヲ変更シ又ハ漁具漁法二著シキ改造ヲ加ヘントスル者ハ第4条第5条ノ
手続二準シ更二許可ヲ受クヘシ
第8条漁業鑑札ハ売買貸借交換譲渡譲受ヲ為スコトヲ得ス
転居改氏名其他鑑札濁度異動ヲ生シタルトキハ速二下付ヲ受ケタル官庁二届出書換又ハ再渡
ノ漁業ヲ請ヒ廃業シタルトキハ鑑札ヲ返納スヘシ
前主戸ヲ継承セントスル戸主ハ前戸主若クハ親族二名以上及漁業者惣代人連署シ第4条ee 5
条ノ手続二依ラス漁業鑑札ノ書換ヲ請フヘシ
第9条 漁業願書ハ其漁場二関係アル漁業者惣代人(漁業者少数ニシテ惣代入ヲ選定セサル
トキハ其漁業者トス以下同シ)連署シ上郡長二差出ス場合二於テハ漁業組合ノ(漁業組合設
置ナキ地墨除ク以下同シ)並二町村役場ヲ経由シ本県知事二差出ス場合二於テハ漁業組合町
村役場並郡役所ヲ経由スヘシ但海里以外二於テ為ス漁業ニシテ従来関係者ノ連署ヲ要スルモ
ノハ漁業者総代人ノ連署ヲ要言ス
第10条 漁業者ハ各町村大字大字ナキトキハ町村毎二漁業者総代人三名以下ヲ選定シ所轄郡
長ノ認可ヲ受クヘシ但シ漁業者少数ノ場合ハ郡長ノ認可ヲ受ケ総代人ヲ選挙セサルコトヲ得
漁業者総代二於テ不都合ノ所為アリト認ムルトキハ郡長ハ之ヲ改選セシムルコトヲ得
第11条漁業者総代人二正当ノ理由ナクシテ第8条末項並第9条ノ連署ヲ拒ムコトヲ得ス若
シ連置シ難キトキハ速二其ノ理由書ヲ願人二交付スヘシ
漁業者惣代人ニテ於理由ナク連署ヲ拒ミ又ハ理由書ヲ交付セス故ラニ時日遷延スルコトアル
トキハ出願人ハ其ノ始末書ヲ副へ願書ヲ差出スコトヲ得
第12条漁業者惣代人二於テ故障アル場合ト錐正当ノ理由ナキモノト認ムルトキハ漁業ヲ許
可スルコトアルヘシ
第13条 許可ヲ与ヘタル漁業ト錐水産蓄殖其他公益二書アリト認ムルトキハ其漁業ヲ停止シ
又ハ其許可ヲ取消シ若クハ区域期節ヲ制限スルコトアルヘシ
第14条漁業組合設置ノ地区二居住スル漁業者ハ其組合二加入スヘシ特約又ハ慣行二依リ入
漁スル者若クハ遊楽又ハ自由ノ為メ水産動植物ノ採捕ヲ為ス者ハ其他組合規約二定メタル漁
具漁法及期節二関スル制限停止ノ条項ヲ遵守スヘシ
第3章水産保護
第15条 有毒物,爆発物ヲ使用シテ水産動植物ヲ採捕スルコトヲ得ス但特二許可ヲ得タルモ
ノハ此限リニアラス
第16条 鯉刺網ハ海岸ヨリ三海里以内ノ海面二於テ使用スヘカラス
第工7条左S掲クルモノハ毎種定ムル所ノ期間使用スルコトヲ得ス
1.鯖刺網ハ毎年九月一日ヨリ十二月三十一日迄
2.鯛縛網ハ毎年八月一日ヨリ翌年二月末日迄
3.鵜使漁ハ毎年六月一日ヨリ十一月三十日迄
第!8条 左二掲クルモノハ毎種定ムル所ノ期間採捕スルコトヲ得ス
エ.飽毎年十月一日ヨリ翌年一月三十一日迄
2.海鼠毎年四月一日ヨリ五月三十一日迄
3.児鮎ハ毎年一月一一一日ヨリ四月三十日迄
125
青塚:明治初期漁業布告法の研究一’V
工26
いたのである.このほか27年大阪府規則は,とくにr漁業者ハ濫リニ自己ノ漁場区域外二
出漁シ他ノ漁業ノ妨害ヲ為スヘカラス』 (7条)としている.
以上のような漁場支配権の排他独占的性格の近代法的整備は,村持的入会漁場,個別的
独占漁場の権利関係を明確にし,封建的漁場支配権における恣意的独占から,法による権
利内容の承認への過渡的意義をもっていた.そこでの法思想の主要点は,第一に当時の営
業許可説的傾向に影響され,封建的な共同体的包括的漁場支配権から近代的な権利観念を
導入する制限的漁場支配権へ分化する過程にあった.’
それは海面の資本主義的利用の多面化にともなう漁場の利用制限の一側面であり,いわ
ば旧来の土地所有権的な漁場の全面的支配権能を否定するものであった.8年借区制布告
にはじまる漁場支配権の公共的側面が,現実の必要から次第に具体化され,地方官僚によ
る免許処分を通じて,資本主義的漁業権概念が確立される過程であった.34年漁業法で明
確にされた個別的独占漁場にたいする一物一権主義の形成がそれである.
第二点は,8年借区制布告では繭芽的に存在した漁場支配権の公示原則が次第に精密化
されたことである.8年当時,網元による地券下附運動が効を奏しなかったことはすでに
ふれたところであるが,借区制布告における漁場区画の国家権力による承認は,地券交付
と同様に漁場所持者の確定という意義をもっていた.
その限りにおいては,土地台帳的な意味における物権の公示原則に進展したものといえ
よう.しかし漁場区画とその免許処分,漁場図による公証的意義は,地券のように売買取
引の私法的目的(移転の効力発生要件)は有していなかった31).
それはもっぱら漁場紛争防止の手段として,漁場支配権の存在の許可の形による法的確
定にとどまった.その意味では,実質的な漁場商品化の進行にかかわらず,制度的には物
流19条左二掲クルモノハ採捕スルコトヲ得ス
エ.飽 長三寸未漁
2.海鼠 長 五寸未満
3.鰻 長五寸未満
第20条 河川二於テ漁具ヲ定置シ水面ヲ横断スル装置ノ漁業ハ流水ノ巾三分ノニヲ超ユルコ
トヲ得ス
第21条試験又ハ調査其他必要アリト認ムルトキ丁零規則二於テ禁制ノ事項ト錐出願二依り
特二許可スルコトアルヘシ
第4章 罰 則
第22条 第4条第5条第7条下14条第15条第工6条第17条第18条第19条第20条又日野23条但書
二違背シタル者ハ三日以上十日以下ノ拘留華甲五十銭以上壱円九十五銭以下ノ科料二処シ第
8条二違背シタル者バー日以上三日以下ノ拘留又ハ十銭以上壱円九十五銭以下ノ科料二処ス
附 則
第23条 此規則施行以前二於テ下付シタル漁業鑑札二男記シタル漁具漁法二限リ此規則二四
リ下付シタル漁業鑑札ト同一ノ効力ヲ有セシムルモソトス但鑑札下付ノ除定メタル漁期及漁
場ヲ変更シ又ハ漁具漁法二著シキ変更ヲ加フルトキハ第7条二準拠スヘシ
第24条 此規則施行以前二場所ヲ定メテ漁具ヲ定置シ又ハ水面ヲ専用スル漁業ヲ営ミ居ル者
ハ左記ノ事項ヲ具シ地元漁業者惣代人連署ノ上漁業組合並町村役所ヲ経由シ明治三十年八月
三十一日朝焼当短調届出ツヘシ
1.漁場図(第5条ト同シ)
2.期節
3. 漁獲iノ目白勺物
4.慣行ノ有無従来ノ慣行二依ルモノナルトキハ其慣行ヲ詳記スヘシ…… 』
(片山房吉:「大日本水産史」,P.344)
長崎大学水産学部研究報告 第ユ9号(1965)
ユ27
権的変動については否定的側面を有していたのである.
8年以後のこのような漁場支配権の制度的取扱いの傾向は,もっぱら海面官有原則を前
提として,当時の漁場紛争解決策の観点から漁場利用形態が律せられたからである.その
意味で,むしろ漁場紛争をさらに複雑化する,自由な漁場占有の移転は制度的に阻止さ
れ,資本主義発展と漁場商品化に対応する移転の現実的発展は,許可の発生という制度的
取扱いによって行なわれたのである.したがって制度的には,あくまでも漁場支配権の物
権的移転性を否定して,許可を通じての官僚統制の強化と漁場秩序の公法的性格の確立に
つとめた.
このような当時の漁場支配権における「公示」の性格からいえば,近代法における物権
変動の公示原則とは異質なもの,あるいは歴史的意義を異にするものかもしれない.しか
し物権公示制度の本質(物権存在の表示)と機能(物権変動の表示)を区別し,かつそれ
を統一的に考察する見解がある32).物権法史をこのような商品経済の発展過程に対応して
法構造的にとらえ,物権i公示制度の性格を,存在の表示から変動の表示へと発展的に考察
することは不適当であろうか.このような時間的発展過程的見解が許されるとすれば,34
年漁業法において,漁場商品化の発展に即して採用された,漁業権登録制度以前の借区制
布告および府県漁業取締規則における漁業権原簿的公信力を,近代的漁業権公示制度の出
発点としてとらえることもできよう.
〈2)財産権的利用
府県漁業取締規則においては,漁場支配権の利用権能は次第に対世的効力をもつものと
して整備されてきた.しかしな:おその用益および担保権能の財産的利用の側面は,当時の
漁場法秩序および漁場支配権の「許可」的態様からして当然否定的であった.
19年漁業組合準則以前の府県取締規則では,ほとんど漁場の財産的利用にはふれていな
い.まず25年r東京府海苔採及養子営業場規則』では, r許可ヲ得タル海苔採及食蠣営業
場ヲ事故アリテ他人二譲与セントシ若クハiLb人ヲシテー時営業ヲ為サシメント…スルトキ
ハ第1条ノ手続キニョリ許可ヲ受クヘシ』(3条)とし,操業不能による若干の譲与,貸
付を認めている.しかしこれは全く財産的利用を許したものではなく,むしろ休業漁場の
利用をはかったものであり,同規則は他面r許可ヲ得タル海苔採野寄蠣営業場ハ売買スヘ
カラス』 (5条)と財産的移転を禁止している.
同規則はさらに38年改正でこの趣旨をさらに明確化し, r売買若くは之を貸渡して其料
金を収受し又は之を質入書入することを得ず』(7条)としてあらゆる財産的利用を禁止
した.
また25年の神奈川県漁業取締規則も,止むをえぬ場合の他人営業(貸付)は認めている
が(7条),移転は承認していない.
同様に23年福井県漁業採藻取締規則もr鑑札及ヒ免許状ハ貸渡或ハ売買譲与スルヲ許サ
ス』 (ll条)としている.これらのとくに財産権的利用を禁圧した府県は,漁場秩序を慣
行に依拠したところが多いが,当時の漁業権概念が,所有権的性格よりも利用権的性格に
重点をおく営業許可説に傾いたことからくる当然の帰結であった.
それは物権の原初的形態が物質の利用を規律する制度であったことと対応するものであ
る.慣行的漁場利用=漁場の占有利用的側面の強調が,府県取締規則における漁場支配権
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
ユ28
の物権的性格のすべてであったといえる.したがってその取引的機能は否定され,漁場の
現実的利用に役立つ限りでの変動の容認も,前掲の東京府規則にみるように,また23年秋
県捕魚採藻取締規則が,r持場ヲ譲渡セントスルトキハ譲受人連署ヲ以テ郡役所ヲ経県庁
田へ願出許可ヲ受クヘシ』(18条)とするように,占有権的秩序に背反しない限りでの例
外的措置であった.
この行政方針は34年漁業法直前まで継承されたものであり,29年8月北海道庁令48号r
厚岸湖牡蠣取締規則33)*』も, r免許鑑札は売買譲渡貸借することを得す』 (5条)とし,
34年大分県漁業取締規則でも, r漁業鑑札ハ売買貸借交換譲渡譲受ヲ為スコトヲ得ス』 (
8条!項)としている.
問題は,このような制度的な非財産的規制の根拠は,すでにのべたような当時の権利思
想にあったのであるが,にもかかわらず進展する漁場商品化一所有権化がどのような過程
をへて,資本主義法的権利に到達したかの点である.当時の漁業権行使に関する史料はき
わめて少くその分析にたえない.制度的財産利用禁止が漁場商品化を全般的に阻止したこ
とは疑いないが,反面定置,区画的漁場という比較的商品価値の高い漁場は,種々の形態
において実際上の移転が行なわれ,次第に慣行的漁場秩序の実質的改廃を進行したもので
あろう.いわばこの過程こそが34年漁業法制定における近代法的側面の有力な物的条件と
なったのである.
第4項 漁場支配権の公共的制度
8年借区制布告における漁場支配権の権利内容の明確化が,封建的漁場支配権の複雑な
漁場の支配進退的関係を整理し,漁業租税担当者を確定する目的を有していたことはすで
にふれたところである.
* 明治29年8月北海道庁令48号『厚岸湖牡蠣取締規則』
r第1条釧路国厚岸郡湖中に於て牡蠣採取営業を為さんとする者は願書に本籍戸長の証明
ある戸籍写を添へ地元戸長役場を経て所轄郡役所へ願出免許鑑札を受くへし牡蠣の採取区域
は別記図面点線内に限る
第2条 牡蠣採取営業免許は左の要件を具備する者450字置限りとす但し本条の要件を具ふ
る者忌数に満たざるときは左の二四の要件を具ふる者に限り特に免許することを得
1.厚岸湖岸町村に本籍を有して居住し若くは3年以来寄留し尚ほ引続寄留する者たること
2.年令14才以上60才以下の者にして自ら牡蠣採取に従事する者たること
3.従来牡蠣採取営業の免許を受けたる者又は其家族たること
4.本則第1条の営業免許を受けすして牡蠣を採取したることなき者たること
第3条 牡蠣採取免許期限は満4年を以て1期’とし明治29年10月工日より起り明治33年9月
30日に至る次期以下之に準ず
第4条 前条期問内に於て受けたる牡蠣採取営業免許は該期年の満了と共に其効を失ふもの
とす
第5条免許鑑札は売買譲渡貸借することを得す
第11条 牡蠣採取営業者は漁業組合準則第1条牡蠣製造免許を受けたる者は前項の組合に加
入すへし
第12条 牡蠣採取営業組合に於ては牡蠣採取区域を分画し4箇年に1回輪採するの方法を規
約し当庁の許可を受くへし
第工4条 何人を問わす厚岸湖中の苔藻を採取し又同湖中に貝殻其他塵芥土石を投棄寸へから
す』
長崎大学水産学部研究報告 第工9号(1965)
ユ291
これは同時に新たな漁場紛争を誘発した.これを応急的に鎮圧する便宜的方法として,
9年74号布達以後慣習取締が制度的支柱となったのであるが,ますます全国化する漁場区
域の争奪は,到底慣行による秩序維持によっては対処できるものではなかった.その制度
的な組織法として出発した漁業組合準則もまた同様の結果に終った.
したがってとくに漁業組合による自治的漁場統制を府県権力によって強化し,かつ国家
が直接漁場統制を行なう方向が,20年代の府県漁業取締規則において濃化してきた.これ
らの漁場支配権iにたいする権力的干渉を包括的に公共的制限とよぶならば,その内容は第
一に漁場紛争の直接的官僚統制,第二に漁場生産力増加のための技術的規制,第三に漁業
と他産業の海面利用上の調整の形で,総資本による海面法秩序での漁業の従属化過程にわ
けられる.
(1)漁業調整的制限
漁場支配権を漁業調整的に制限することは,慣行秩序そのものすなわち免許処分を通じ
て全般的に行なわれたことから,直接調整的意味で規制したものは少く,多くは漁業免許
の内容,条件に関するものである.
その第一は,新規漁業と旧慣秩序との紛争防止のため,新規漁業出願の場合は地元関係
者連署を条件としたものが多かったことはすでにふれたところである.この場合新規漁業
が不合理な地元連署拒絶のため妨げられないように単独出願を許しているのが一般的であ
る.
9年岩手県河海漁業心得は,E但示談書差出方渋滞ニテ営業季節等二拘リ二三有之節ハ
其旨書面ヲ以本人ヨリ直二可願些事』 (6条但書)とする.28年徳島県規則6∼10条,32
年大分県規則1⊥,12条もこの趣旨を規定している.一般にこの種の規定をおくのはとくに
新規漁業を容認する府県に多いのは当然である.
つぎに休業漁場の取扱いについては,岩手県河海漁業心得は,r株鑑札ヲ四叉者四囲季
節二至迄稼鑑札ヲ不特待亦休業モ不願出於テハ其者ノ妨ケヲ為シ野里二巴,株鑑札剛胆更
に入札可相早事』 (10条)とする.
25年東京府海苔採二丁蠣営業旧規則では, r海苔採及七七営業場ハ許可ヲ得タル後正当
ノ事由ナクシテー箇年以上営業ヲ為ササルトキハ許可ノ効ヲ失フモノトス』 (2条)とし
ている.この趣旨は32年大分県規則でも6条伺書で,f許可ヲ得タル日ヨリニケ年以内ハ
漁業二着手セサルトキハ其許可ハ効力ヲ失フモノトス』と表現されている.
このような地元同業者の連署,休業漁場の取扱い等のほか,漁場調整的立場から大きな
意義をもち,同時に漁場支配権の私的性質を大きく制限したものに,免許,許可の年限一
権利存続期間の設定がある.
これは漁場支配権の絶対的支配を制限し,一般的所有権と異なる物権的観念をうみ出す
因となるものであるが,それは漁業支配権の本質的な性格ではない.この存続期間設定の
歴史的意義は,もっぱら漁場調整および他産業との調整を内容とした,資本主義法体系に
おける漁場支配権の従属化の手段であった.
徳川期における漁場支配権は,水面利用の未発達と共同体的規制のために,特別に支配
進退的漁場占有利用権に年限を附する必要はなかった.したがって無期限的権利であるこ
とが原則とされていた.
ユ30
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
これにたいし明治布告法における漁場支配権の私法的性質の強化は,他面封建的漁場支
配権の承継的存続をも可能にしたし,漁場新秩序の形成,漁場紛争の解決の点からすれば,
むしろ障がいとなった.そこでは物権の社会化的観念は勿論形成されず,漁場支配権iを調
整的位置におくためには,なんらかの権力的干渉による以外に方法はなかった.
調整的な公共的制限によっても漁業調整は可能ではあったが,直接的干渉によって人民
との対立をまねくよりも,漁場支配権自体の無限的効力を制限することの方が容易であっ
た.何故ならば当時の漁業権概念は,海面官有を前提とした借用漁場ないし営業許可漁場
によって支配されるという,絶対主義的合理性の上に構成されていたからである.すなわ
ち漁場支配権の有限性は,私法的利用にたいする外部からの干渉という論理ではなく,漁
場秩序の必然的合理性によって仮装されていたのである.このような論理はすべて当時の
明治政府による階層的漁場秩序政策や漁業従属化による原本的蓄積の強行という側面を隠
弊するのに役立ったのである.
かくして行政処分の免許と漁場支配権の有期性は,『存続期間中は公益的事由によるのほ
かは,その私的支配を保障された反面,公益的事由という抽象的表現によってならばその
存続期間内であっても変更消滅を余儀なくされたし,免許期限の終了によって官僚的漁業
調整を容易にし,公益にたいする財産権性の従属を明治的な形で具現するにいたったので
ある.
9年岩手県河海漁業心得は,入札制漁場の従来の経過からして当然に年季制を採用して
いた.しかし20年頃までの漁業税農期および府県取締規則初期には,慣行漁場秩序が支配
的であったから,’漁場支配権の有期性の問題は重視されていないのは当然である.
例えば14年神奈川県漁業及採藻営業規則では,なんら免許期間にはふれていない.これ
にたいし14年以降は,漁場紛争の激化とともに慣行制をとる府県でも有効期間を付するも
のが増加している.
25年東京府規則は許可年限を前提としており(10条),28年同規則改正では5箇年以内
に限定するにいたった(2条).同年神奈川県規則は,独占的個別漁場であるr張網採藻ハ
五個年以内トシ簗漁パー箇年以内』 (8条)としている.また23年秋田県規則もr持場年
限ハ満一ケ年以上満五ケ年以内トス猶継続セント欲スル者ハ満期三十日以前二出願スヘ
シ』 (8条)とし,前掲の29年厚岸湖規則も満4ケ年を一期と定めている(3条).
このように慣行制をとる府県でも有期としたのは,慣行が漁場区域,漁具漁法に重点が
おかれ,必ずしも漁業者または漁場支配権そのものを意味していなかったからである.し
かしなお慣行漁場秩序の政策的重視は,漁場支配権の有期的性格を徹底化せしめず,それ
ぞれの府県の事情によって規定するところであった.例えば32年大分県規則は明示してい
ない.また前掲事例のように免許期間は,独占的漁場やとくに資源保護措置を要求される
漁場について多く行なわれたのが特徴的である.
つぎに漁場秩序を維持し漁場紛争を防止するため,漁場支配権者に積極的な作為義務を
負担せしめ,または漁場生産力向上,資源維持のため積極的な直接干渉を加えたものがあ
る.
25年東京府海苔採虚語蠣営業場規則は, r許可ノ場所二於テ季節二至リ海苔柵及養爵位
ヲ建設セントスルトキ口少クモ十日以前二面京府庁二届出ヘシ但営業季節ヲ経過シタルト
キハ之ヲ撤去スヘシ』(6条)として,建込作業時の紛争および残り柵笈による他種漁業
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1966)
13工
者との紛争を防止している.また23年秋田県規則では,r他人ノ持場内二於テ鵜遺若クハ
入会業ヲ為サントスル論調持場主ノ承諾ヲ受クヘシ』(工4条)とする.
27年大阪府規則が, r漁業者は濫りに自己の漁場区域外に出漁し他の漁業の妨害を為す’
へからす』 (7条)とするのもこの類に属するものであろう.しかしこの漁場紛争防止の
ための個別的特殊規定は,慣行制をとる府県ではほとんどみられない.また具体的事項に
ついては公益的制限の規定によって行ないえたものと考えられる.
後者の漁場紛争防止,漁場資源維持の点から積極的に生産関係に介入したものはきわめ
て少ない.前掲29年の厚岸湖壮蠣取締規則が, r牡蠣採取営業組合に於ては蠣採取区域
を分劃し4箇年に1回輪舞するの方法を規約し当庁の認可を避くへし』(12条)としたの
は,資源維持のための積極的干渉に属するものであり,また28年に北海道庁が紛糾する練
鮭鱒建網および角網漁場にたいし,隣…網距離を法定したのは特殊のケースであろう.*
② 漁場資源的制限
府県漁業取締規則とくに19年漁業組合準則以後のそれの重要な特徴は,公益的制限とな
らんで資源保護的見地からする技術的制限の直接干渉にあった.とくに20年以降はほとん
どこれは全国的傾向であり,漁業組合による自主的漁場統制の空文化を権力的に補充せん
とする歴史的な性格をもっていた.またその法律的体裁も,ほとんど34年漁業法およびそ
の後の各府県規則の内容と同一に近いものが制定されている.後期に近いほど漁具漁法,
漁獲物,漁期,漁場の全漁業権内容にわたっての規制におよんでいる.
23年福井県規則では,堤防,公衆に障碍ある場所での漁業を禁止し(ユ2条),石灰,柿
渋,ダイナマイトによる漁法を禁止している(13条).
23年秋田県規則19条も水産保護および治水上心ある毒物, 爆発物漁法, 通船河川での
簗,川留漁業などを禁止している.28年以後になると,28年徳島県規則では,禁止漁具漁
法,禁漁期,禁漁場,さらに自由漁業の制限を数ケ条にわたり規定し,その禁止漁獲物の
販売をも禁じている.
また28年熊本県習事取締規則が, r水底に産卵せる魚卵及岩石に附着せる稚介を採捕す
るを禁ず』 (2条)とし,29年厚岸湖牡蠣取締規則がr何人を問わす厚岸湖中の苔藻を採
取し:雷同湖中に貝殻其他塵芥土石を投棄すべからず』(14条)としたのは,地方的特殊事
窪
窪
と距間
160
200
340
左証
間
馬の 800020
漁と ll
既設左右漁場
間の直線距離
訓点
出漁
* 明治28年北海道鯨鮭鱒建網並角網の隣網距離の制限(道庁公示)
rユ.建網又は角網の練漁業は左の間数以上あるにあらされは出願するを得す但し三角網縦横
の間数は其新設のものは願書に記載し既設のものは所轄区役所へ届出へし
接
国郡名
渡島後志石狩天塩(天塩郡を除く)四国北見国の内
利尻礼文二郡
天塩国天塩郡北見国(利尻礼文二郡を除く)
胆振日高十勝釧路根室千島六国
2.
建網又は角網の鱈漁業は全道を通し既設左右漁場間の直線距離八百問以上出願漁場と左
右隣…接漁場との距離四百問以上あるにあらされは出願するを得す
3.建網又は角網の鮭漁業は全道を通し既設左右漁場間の直線距離千二百間以上出願漁場と
左右隣接漁場との距離六百間以上あるにあらされは出願するを得す
4.本令前廃業したる漁場にして施行後1箇年以内に又施行後と錐とも廃業して後1箇年以
内に其跡替を出願する者牛革令施行前受理したる願書は前各項を適用せす』
(前掲「会報」,155号,p.63)
ユ32
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
例であるが,一般的には32年大分県規則が,水産保護のためとくに一章を設け,そのなか
でとくに禁漁期について具体的な漁業種類暖地区別に規定するなど次第に精密な取締規定
を設けるにいたった.
これらの漁場資源保護上の漁場支配権の制限は,定着性魚類や内水面水族を対象として
設定されるものが多く,従来は漁村共同体による規制の主要部分であったのである.布告
法期において,当時の殖産興業政策の進展と漁村経済の維持策は,これに罰則を付して強
力な国による制限禁止規定化した。
例えば27年広島県では,県令甲36号で r鮎魚ノ…蕃殖ヲ保護スル制限禁止ノ事項tを定
め,太田川筋を中心とした鮎保護のための単行禁止令を制定した34).
この種の資源保護の名目による漁業制限禁止制度は,それぞれの府県の漁業形態に対応
して制定されたが,なかには漁業資源学的または漁携技術的根拠ももたずに,たんに公益
の名のもとに制限禁止を加えたものも多い.これはつぎにのべる公共的制限においても同
様であるが,このため漁業者の困惑,反対をひき起した県もある.
28年に熊本県は,旧諸規則を廃止して新たに野竹取締規則35)を制定したが,その第7条
においてr球磨,緑,菊池三川の河口より海面各方凡千二百間は総て漁事を禁ず但し従来
確実なる慣行あるものに限り特に許可することあるべし』と定め;採貝,潟漁業に依存す
る小漁民の猛烈な反対をひき起した.
当時の九州日々新聞はその状況をつぎのように報道している. S八代郡八代町植柳村金
剛村の漁業者は其漁場を失ひ特に二二の内蝦姑堀,牡蠣採及藁打投網鰻掻其他八代の一産
物たり青苔漁場の如きは比千二百間の外地に漁場一切あらさる由にて県令通り愈々実施せ
らるるの暁には右関係漁業者は糊ロの途を失ひ磯渇に瀕するの場合に立至るを以て頃日来
屡々集会を開催し従来の慣行通り漁業の許可の請願をなす筈なり』.
これらの府県規則による漁業の禁止制限は,明治24年当時ほとんど全国府県におよび,
とくに内湾性海面に多くみられる36)。このことは当時の漁場紛争以上に漁業者の関心事と
なったであろうが,この状況に関する史料は皆無に近い.
農商務省はこれらの漁民生活上の弊害と府県規則の放任的傾向を考慮し,その中央的統
一を図って,28年10月r漁業取締及漁業組合規則其他水産動植物ノ蕃殖保護等二関スル命
令ハ自今本大臣へ経伺ノ上施行スヘシ但従前発布二丁目命令ノ改正又ハ廃止ヲナサントス
ルトキハ本文二準スヘシ』 (訓令14号)と指示した.この法意はまた34年漁業法に継承さ
れたところである.
,〈3) 公共白勺#iiJ B艮
漁場支配権を公共的見地から制限禁止することは徳川期から行われていた.しかしその
大半は,漁場の封建的支配を素乱することにたいする制限的根拠も封建的領有権にもとつ
く用益の制限取消であり,明治布告期のそれとは本質的に異なっている.
まず公共的制限は水族蕃殖と治水対策に出発している.明治中期までの府県漁業取締規
則の大半はこれである.
第二に8年借区制布告は,漁場紛争の調整として,私的漁場支配の明確化と国家による
漁場調整を企図したものであったが,9年74号布達以後も,旧慣の実質的変動過程を通し
ての漁場紛争の増加によって,その制度的必要性はますます大きくなってきた.この場合
長崎大学水産学部研究報告 第ユ9号(19δ5)
133
の漁業調整は,とくに14年以後の漁村人口の増大と漁家経済窮迫による権利拡張傾向のた
めに,もっぱら漁場支配権にたいする権能の魚油または権利の喪失によって行わざるをえ
なかった.
第三に諸産業の発展による海面利用の多面化は,軌道敷設のための海面埋立,航路設定,
軍事的港湾開設,工場排水路等々,資本主義発展にともなってますます拡大されてきた.
とくに明治後年におよんで従来の水面における漁業の単独占用を許さず,その制限,剥権
措置を立法的に整備する必要に迫まられてくるのである.
以上の漁業調整および水面の多面的利用のたあの調整による漁場支配権の制限,喪失は,
公益理由による無償処分の形態をとっている.そこでは漁場支配権の近代法的未成熟とい
う理由以上に,国家法秩序における漁場支配権のもつ歴史的な従属化の性格がこのような
立法政策をとらせていたことが注目される.
土地所有権については,明治5年10月r地券渡方規則』 (大蔵省25号布達)に追加した
20条で, r総テ人民所持ノ地所従来御用ノ節ハ地券二記セル代価ヲ以テ御買上可相成事.
但家作等有之地所上地ノ儀ハ必ス持主承諾ノ上陸ルヘシ尤世上一般利益ノ為二御用相成候
節ハ券面通リノ代金及ヒ其建物等二応シ相当ノ手当差遺シ上地可申付事』とされ,没収と
異なる私有財産原則にたっている37)。それは地租改正窮民告諭書で, r…王法ハ第一人民
所有の証拠ヲ固クシ,地主一度此地券状ヲ得テ所持スルトキハ,向後仮令政府必要ノコト
アリトモ一般公利ノ区制スルニアラザレバ之ヲ買上クルコト能ハス況ンや其他ヨリ豪奪妨
碍ヲナス能ハサルコト固ヨリ論ナシ』とした,当時の土地私有権思想確立の表現であっ
た.
しかし漁場支配権については,6年地所名称更生布告において,海面は第三種官有地
に編入され,8年借区制以後土地所有権とは対夏干措置におかれている.勿論その歴史的
政策的意義は,当時の入会山官有地編入とは異なり,漁場支配権の没収ではなく,漁場紛
争の調整=漁業税負担者の確定にあったのではあるけれども,他面封建領主による領有権i
思想の残存がこのような官有化思想に影響した点もあった.
したがって9年以後の府県取締規則における国家法秩序での漁場支配権の位置は,存続
期間設定にみられるその絶対的性格の制限とともに,無償,強制の刑法上警察法上の没収
的観念をもってのぞむにいたったのである。そこには私有財産原則的思想は未だ明確でな
いし,その制度的確立は漁業権として漁場支配の財産権性が完成した43年漁業法にまたな
ければならなかった.
漁場支配権にたいする公共的制限のもう一つの重要な性格は,8年借区制布告当時の海
面官有思想が漁場紛争調整政策を目標としたものであったのにたいして,14年以後の公共
的制限は行政権による漁場支配権消滅を目的とした制限処分ないし剥権処分であったこと
にある.そして漁場支配権の町村有化とともに,一般漁民層の依存した入会利用漁場の官
有地編入的収奪を意味したことである.
それは旧慣否定による独占的網元漁場の拡大を容認する途でもあったし,先進産業によ
る漁場収奪でもあった.6年の海面官有地化以来の漁場官有理論は,その前史的準備段階
であったのである.しかも一般土地所有権が明治8年目公用土地買上規則』(132号布達)
以来,22年r土地収用法』 (法19号)をへて漸次近代法的収用体系を整備したのにたいし
て,漁場支配権のそれは専権的な没収的処分にとどまっていた.この場合も府県取締規則
134
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
当時の営業許可説,34年漁業法制定時の公権説はその理論的支柱であった.
さて府県漁業取締規則における公共的制限の実態をみるに,早くは9年岩手県河海漁業
心得では, r留漁場免許ヲ受候忌門従ヒ年季中薬リトモ船路忌寸等ノ差支有之節ハ稼方差
止盛儀可有之其節ハ速二留場取払旧地形二復シ返上可致事』 (ll条)と規定し, r漁場借
用ノ返上』の場合をあきらかにしている.
また16年神奈川県規則は,r総テ漁業ヲナスモノ堤塘蛇籠水除等ヲ損害シ又ハ水路ヲ妨
害スルヲ禁ス』 r寸恩ハ河川ノ両岸鬼石ニシテ水上水下村々堤防治水ノ妨害ナキ場所二非
レハ免許セサルモノトス』 r縄跳漁シラ漁ハ謡曲二代フルニ細論ヲ用ヰ堤防治水ノ妨害ヲ
ナササルモノニ非レハ免許セサルモノトス』 (!4条)として,堤防保全の治水上の義務負
担を命じている.
19年漁業組合準則以後は,公共的利限は「公益」観念によって代置されるのが一般化し
たが,例えば25年東京府規則は, r海苔採及養蠣営業場ハ許可ノ年限中ト錐モ公益上演場
所ノ必要ヲ生シタルトキハ営業ヲ中止シ又差止ムル事アルヘシ』(ユO条)とし,同年神奈
川県規則もまた同様の場合は,r其許可ノ効ヲ中止シ又ハ許可ノ指令ヲ取消スコトアルベ
シ』と規定している.
23年福井県規則における r水産繁殖二害アルモノ (潜水器及ヒ打瀬網ノ類ヲ用ユルモ
ノ)及ヒ治水其他公益二画面アリト認ムルトキハ既許ノ漁場ヲ解キ又ハ漁業採藻業ヲ停止
シ皇恩禁止スルコトアルヘシ』 (14条),23年秋田県規則のr持場又ハ簗川留漁業ニシテ
治水其他水産繁殖上露益二妨害アリト認ムルに於テハ許可ヲ与ヘヌ又許可シタル後ト錐取
払ヲ命ズルコトァルベシ』(ll条)と規定するように,漁場支配権の公共的制限は,初期
の水産蕃殖,治水対策を内容としつつも,次第にその範囲を広め公益という包括的概念に
おきかえられていく.
28年徳島県規則のr公益に害ありと認むるときは……』,27年大阪府規則のr水産の蕃
殖若くは公益に害ありと認むる・・∵・』 (6条),28年改正東京府規則のr公益上田場所の
必要を生したるときは無償にて……』(18条)のごとく,直接的な水族保護から一般公益
的事由による制限に拡大していく.同時に32年の大分県規則にみるように, 丁許可ヲ与ヘ
タル漁業ト錐水産蕃殖上其他公益二元アリト認ムルトキハ其漁業ヲ停止シ又ハ其許可ヲ取
消シ若クハ区域期節ヲ制限スルコトアルヘシ』(13条)として,34年漁業法にみる漁場支
配権の制限内容の法的明確化に近接するにいたっている.
さて以上の各府県取締規則における漁場支配権の公共的制限規定は,実際にどのように
発動され運用されたであろうか.
これを判断する史料は,わずかに行政裁判所開設以後の違法処分取消訴訟記録に求めう
るのみである.したがって公共的制限のうち資源保護的意義における公益的取消処分は散
見されるが,他産業との調整はまたは純公共事業の取消処分はほとんど訴訟記録としては
存在していない.これのみによって当時の公共的制限の運用の実態を知ることは困難であ
るがその一端をうかがってみよう.
19年には岩手県でたんに「故障」の故を以て鰯建網漁業が停止された事件がある38).
最も多くみられるのは,水族蕃殖上有害なりの事由によって漁場支配権が制限または消滅
の行政処分に付されれたものである.例えば3ユ年当時収獲高の急増が魚族蕃殖を妨害し公
益を害すとして,漁業免許を取消された北海道水産物取締規則適用の事件がある39).
長崎大学水産学部研究報告 第ユ9号(1965)
ユ35
この事件において行政裁判所は,その取消処分が魚族蕃殖上有害である漁業を取消した
事実を認あ,かつ原告(被処分漁業者)が,同人の漁業が妨害したのは近接する同業者1
名の漁場にたいしてのみであって,いわゆる規則にいう公益を害したるものでないと主張
したのにたいして,上記漁獲増加の事実を指摘しそれを理由としてつぎのように判示して
いる.
r公益トハ国家的公共ノ利益ノミヲ指スニァラスー地方二士ケル公益ヲモ包含スルハ勿
論ナリ而シテ原告ノ漁業方法力魚族ノ蕃殖ヲ妨害スルモノトセハ其ノ利害ノ関係ハ原告主
張ノ如ク僅カニ両人ノ利害二瀬マラスシテ地方物産ノー種ヲ全滅シ又ハ其産額ヲ減殺スル
モノニシテー地方ノ公益ヲ将来永遠二妨害スルモノナリ』.
その漁業種類が判然としないため,一漁場の急激な漁獲増加が漁法の改良によるにもせ
よ,果して資源保護上の制限を必要とするものであったかどうかの判断はできない.しか
し定着性水族の場合は,判決文にしめす漁獲i高を「石」でよぶことはないから,回游性魚
族(棘,鮭)を対象とした建網漁業と推察される.とすれば係争の性質は魚道上の争いで
あり,漁業免許の失当の問題ではなく,許可または権利の侵害に関するものであったろう.
当時はこのような不確定な資源論的前提のもとに公益的取消処分が行なわれたのである.
これにたいし同様の性格の事件で,逆に蕃殖妨害を理由に畠願拒否した北海道支庁の行
政処分が,公益的理由なしとされその処分は違法とされたものがある.33年12月の北海道
鯨漁場出願拒否事件がそれである(32年219号).そこでは公益の概念の適用にさいし,
r魚族蕃殖ノ状態二三専門技術家力頻リニ研究シツツアル今日二於テハ漁獲ノ多寡二依テ
容易二塁運上ノ利害ヲ判断シ得ヘキモノニアラス40)』として公益の取扱について再考を促
している.
府県取締規則の諸事例において,最:も多く規定されたのが資源保護をもって公益的措置
としたものであったが,その科学的判断は行政裁判所宣告の動揺によってもうかがわれる
ようにきわめて不安定なものであった.逆にそのために官権的威圧をもって臨む場合に
は,そのような公権的干渉が容易に漁場支配権の制限,消滅を可能にしたともいえよう.
したがって当時の一般的な技術的取締規定のほかに,個別的に漁場資源保護を理由とした
公共的制限処分の場合は,社会経済的要因がその背景にひそむものとみてよい場合が多い.
例えば27年にr漁業上ノ公益二妨害ヲ与ヘタ』との理由によって,漁場の位置変更を命
じた処分が,実はr漁業者各自ノ収利上ヨリ互二投網ノ位置ヲ争フニ過』ぎなかったもの
であり,その故をもってその変更命令が不当処分なりと判決されたものがある(明治27年
4,月27日行政裁判所宣告26年126号)41).
つぎに府県漁業取締規則において多くの公共的制限の事由とされた治水上の必要に関し
ては,34年5月(33年198号)の天竜川漁業許可取消処分取消請求事件がある42).本件は諏
訪湖吐口の河川に設置する流網漁業が,地理的条件から治水上諏訪湖沿岸に損害を及ぼす
有害の漁業なりとして,県知事がその許可を取消し工作物除去を命じた事件である.
行政裁判所は県の行政処分が適法のものであるという理由を検証調書によりつぎのよう
にのべている.r本件流網ノ如キハ…数個ノ網ヲ各所二設置シ其支柱モ亦数十本ヲ要スルモ
ノナレハ自然乱言ノ流勢ヲ金鳥風雨出水ノ際之ヲ設置スルニ於テハ之力為メ排水ヲ妨ケ沿
岸耕地二浸水ノ害ヲ与フルーノ原因ト為ルヘキモノト認メ』治水上害あるものと判示した.
治水対策上の制限は湖川漁業に多くの事例をみたが,その公益的内容の明確であること
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
工36
と,湖川漁業はとくに農民の兼業形態が大半であったから,係争事件となったものは少な
いようである.
最後に産業運輸業との調整上の必要からの漁場支配権にたいする制限措置であるが,
34年漁業法制定当時までの行政訴訟事件としては塩田開墾事業のための取消処分のみであ
る(36年5.月宣告35年309号)43).同宣告はr海面埋立塩田開墾事業ハ…広大ナル有益地ヲ
得ヘキモノナレハ仮令該事業バー二私人ノ営利二心スルモノトスルモ殖産上必要ナル土地
ヲ築造スルモノナルヲ以テ…全年上必要ト亡失タルハ不当ニアラズ.9とした。
一般に漁場支配権侵害として先進産業が多くの影響を漁業に与えるのは,明治末から大
正にかけてであり各地方にはげしい紛争対立を招来したのであるが,徳川期より行なわれ
ている干拓埋立の農地改良は比較的面隠に行なわれている.
それは農地造成の受益者である農民が兼漁形態であったことによるものであり,府県漁
業取締規則による剥権処分をへずに,示談的にまた公有水面埋立法(大10法57)制定後は
法定の手続を経て行なわれている44).したがってまず農地造成のための漁業権取消処分は
皆無に近かったといえる.
しかし他産業との競合の場合は当然に深刻な対立があったが,大半は補償,見舞金によ
る示談の結果,漁業廃業の形で解決した.いずれにしても行政裁判所宣告にみられるよう
に,営利事業である塩田造成事業がf広大ナル有益地ヲ得ヘキモノナレハ』公益事業と見
倣され,公共的漁場支配権制限処分の対象となったことは,他の交通,新興工場の場合も
当然にそのような解釈で制限規定が発動されうることが予想されるものであり,当時の漁
業の従属的地位をしめす判決であった.
第4節 漁場法秩序の実態
第1項 慣行制漁場秩序の実態
9年74号布達以後の府県漁業取締規則が漁場,漁具,漁法の慣行制を維持し,もって漁
場紛争の防止に努めることが大勢であったことはすでにのべたとおりである.他面14年デ
フレ期開始以後遂年増加する漁場紛争は,19年の漁業組合準則公布によってもなお解決は
困難であり,制度面での慣行制にかかわらずその実状は多くの変動を免れえなかった.
当時の実態的変動とくに漁村共同体的規制や新規漁業の取扱いについて,制度的側面と
は別個にどのように変化したかの史料はあきらかでない.したがって本節ではその内容的
変化を推定しながら,府県取締規則に裏づけられた漁村の制度的慣行の状況を検討してみ
よう.
府県漁業取締規則期初期の状態については,10年のr全国民事慣例類集』*がある.そ
の内容は旧藩時の慣行がそのまま踏襲されていることをしめしている.ただ果してどの程
度の実地調査にもとづいた史料であるかどうか疑わしい事例もありその数も少ない.
このほか農商務省によって23年から水産予察調査,27年には水産事項特別調査が行なわ
れているが,漁場秩序,漁場利用についての内容は欠いている.わずかに34年漁業法制定
に際しての農商務省調査によるr漁業権制度二関スル資料』が,入会,区画漁場の内容に
若干ふれている程度である.いわば34年漁業法制定のための本格的な全国慣行調査は行な
われなかったといえる.また20年以降には若干の地方史料(43年京都府漁業誌,44年富津
漁業史等)があるが大同小異である.
長崎大学水産学部研究報告 第工9号(1965)
工37
工5年当時静岡県伊豆地方の状況は, r漁場は重て古来仕来を守るものにして新漁を禁ず
るは三浦の通法なり故に漁場所用者と難とも漁具漁法を発明し仮令己れが区画内の漁場と
錐とも自儘に之れを施行するを許さず且常置漁具及漁場は制限あるものにして仮令己れか
区画内と錐とも勝手に覚れを増加するを許さす但し小部小釣は此限に非ず5)』とのべ,当
時の典型的な慣行制漁場秩序の状態をしめしている.
すでにふれた豆州内浦地方の網戸場制が,上掲の先規的秩序の中心であった.ただこの
区画漁場以外の入会は自由であり, r仮令新規開業の営業者と錐とも此海面に於て営業す
るは何漁を為すも妨げなし』とされた.またr漁夫に非るもの漁夫たらんと欲し古来営業
の漁夫に附て共に之れを為すは区画内と錐とも敢て妨げ』なく,旧藩時の身分拘束が次第
に失なわれている状況を物語っている.
ただ根持網のような能率漁具は,入会利用漁場への影響が大きいため,r縦令己れか所
用漁場区画内と錐とも隣区隣村の許諾を得す回りに之れを開業する能はさるのみならず居
村地先の海面の外所用区画内と錐とも他筆に果れを開くことを許』されなかった.したが
ってその規制のもとにかつ実質的にそれを破る手段として,r漁村に非さるも其区画漁場
主に示談し六区隣村の許諾を得て分割を漁場主に出し村持網として開業』する方法をと
った.こうした事情は漁村共同体規制下におかれていた雪持漁場が漸次独占的漁場に分
割され,かつ沖合漁場のブルジョア的解体が進行する明治工4,5年頃の過程である.
また同県で最も封建的性格の強固であった内浦地方の網戸場制も,借区期限のきれた17
年頃から次第にブルジョア的経営に転化したことはすでにのべたところであり,地元村民
を排除した他村,自村資本家と旧津元との提携による新漁場経営方式(ユンカー的経営へ
の傾斜)がとられていく46).
内湾地帯の漁場規制が専ら慣行制に傾いていたことはしばしばふれたところであるが,
その代表的な東京湾三十八職制については多くの文献がある47).
そこでは専漁業部落にたいして,西44ケ浦,東40ケ浦計84ケ浦の本漁場と,二間漁業を
営み回附漁のみを許された門付村が区別され,さらに品目季節別に漁具は三十八職に限定
* 明治IO年5月全国民事慣例類集
r・・一・・
。沿海ノ山林ハ魚付山林ト称シ其山林ノ所有者ハ伐採セサルヲ義務トス。……能登国鳳至郡
( P .287)
。河川所有ノ二二付テ古来ヨリ方言二言伝ル事アリ日ク二三左杓ト総テ川ハ其流レノ右二添
フタル村ノ所有トスルヲ以テ総テ漁猟等モ左二叉スル村ニチハ自由ニスルヲ得ス運上ノ如
キ税モ多クハ右二属スル村ニテ差出ス慣例ナリ。……美作国勝南郡(P.288)
・子弟ヲ分家スルトキハ戸数ノ増スヲ以テ官へ届クル事ナリ。財産ヲ分与スル事定論ナシ。
多クハ己レカ職業ヲ以テー戸ヲ立ル事ナリ。海岸ノ村方ニチハ小舟一丁ヲ分与シテ漁業ヲ
営マシムル者多シ。……志摩国答志郡(P.299)
。郵船川同様官ノ所有ニテ池沼ノアル村ヨリ税金上納ノ上魚鳥ヲ捕ヘヌ冷感葦ヲ苅取ルナリ
……。陸前国遠田郡(P.319)
。海岸孤島入家有ル地所ハ藻綿打非時藻等採取スル事秣場ノ例二野シ。長門国豊浦郡(P。
320)
・河川魚猟其持場一村共有スルアリ又年期受免シテ猟場ヲ定ムルアリ皆ナ川役ト称シ綾カニ
運上ヲ収ム故二他ヨリ猟スルヲ拒ムノ権アリ。加賀国石川県(P.326)
。魚猟等ノ部会川瀬ヲ付替スル事古来ヨリ禁制ナリ。鯖江替ト唱へ用水ヲ堰留メ魚猟スル事
二百十日前ハ之ヲ禁ス。加賀国河北郡(P.326)
・川ノ営繕堤防等ハ中央ヲ境トシ両岸村々ニテ費用ヲ出セトモ魚猟二戸リテハ何等ノ川ト云
ピ一方ノ村ノ所得ナリ。依テ該村ヨリ鮎川役石遺旨白魚河石ト唱ヒ川高一石州付藩札十匁
ノ税ヲ出ス事ナリ。周防国吉敷郡(P.327) (r明治文化全集』第13巻法律篇)
ユ38
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
されていた.このような慣行漁法の規制のもとでは,新規漁法の発展の余地はなく,多少
の新規能率漁法の脱法的出現も忽ち訴訟,府指令によって禁圧される状態であった.
ぎ さ ご
例えば再三の小晒網事件などはそれである.したがって23年当時の千葉県地方の細螺子
採取のごときは,r因襲の久しき意に賞罰の方法採収の制限等自ら不文律をなし』てお
り,採取権は藩政時より代々世襲で,漁具も田租10円以上は1人でタブ網工挺,以下は2
人組合わせ1挺の使用に限定されていた.漁期になると各自の組合わせを定め村役場に申
出,役場は台帳を新調,役員が海上を巡視し違反取締を行なう状態であった48).
しかしこの.ような漁場統制も当時は採取権の世襲制も乱れ,その売買が次第に公然化し・
したがって毎年村役場がr台帳を新調』したことは,世襲制よりも漁場,漁具の制限すな
わち漁場利用の人的要素よりも生産用具の資源的制限に慣行漁場制があったことを物語っ
ているのである.
また宮城県での22年当時の状況は,漁場を共同場と区画場とに別け,漁場区域の定法は
他地方と応じく地勢によって各村の境界を基準として海面を分割した.また鮪大網のよう
な個別独占漁場は,r比隣同業者を立会はしむる慣行』であったが,当時しばしば類似の
漁具によって漁業が阻害されたとされている49).
また34年漁業法制定のたあの農商務省編r漁業権制度二関スル資料』 (昭6農林省水産
局刊)は,専用入会慣行の変遷についてつぎのようにのべている.
r漁業発達ノ順序ヲ察スルニ往古沿海ノ地一般二漁業ヲ営為セルニァラス…其狭且瘡ナ
ルモノハ土地ノ報酬欠乏ナルヨリ勢ヒ海産ノ利二資リ生計ヲ営マサル可カラス而シテ他村
ノ位官肥ニシテ反対上ノ現象アル部分ハ共二競争ヲ為ササリシ…此ノ時二当リ前者ハ夙二
漁権ヲ皇土シ地先海面ヲ占得スル而己ナラス進テ左右両村ノ地先ヲ侵漁シ猶奮テ洋中二要
所ヲ探り各遠境遠海二出没セリ而シテ星移リ山盛リ土地ノ報酬限リアリ人民ノ要用限リナ
ケレハ曽テ他村ノ檀猟二委セシ者モ耽々望ヲ海利二属シ…其他小猟ヲ営為スルニ至リ其歩
ヲ進ムル素噺ヒ漁具モ備リ漁法モ熟スルヲ以テ漸ク競争ヲ事トシ他村ノ侵漁ヲ防禦セント
シ是二身テカ屡々紛議ヲ生シタリ』(P14∼5).
このような経済的発展に加えて,同書はさらに幕末維新以後の漁場関係変動の契機を,
旧藩管轄の更替や廃藩置県とくに旧藩貢納の廃止,さら忙8年借区制布告にもとめ,また
府県取締規則による変遷について,r地方庁ハ収税ノ目的ヨリ漁区ヲ定メテ許可シタル愛
媛県ノ如キァリ其他各地借区ノ制二類スル徴税法ヲ規定スル為メ漸次慣習二変遷ヲ生シタ
ルモノ少カラス』(P21)として,借区制布告の影響を認め漁場慣行の変移を指摘して
いる.
つづいて同書は,23年官有地取扱規則による非慣習の海面使用免許の出現をのべて, r
本規則施行ノ手続二面テハ慣行アルモノニ適用セサルノ意ナレトモ出願者所管地方庁ヨリ
申告スル時ハ之ヲ許可スルカ故二多少此等ノ免許二依リ変遷ヲ面高ルモノナキニアラス』
(P22)といい,また工9年漁業組合準則では, ff各地組合ハ概ネ従来ノ慣習二依ルコトヲ
規約二品クレトモ三一其区域ヲ明記シタルモノアリ是等ノ規約酒田リ多少ノ変遷ヲ生シタ
ルモノナシトセス』 (P22)と指摘している.
同調査書はさらに区画漁場の変遷におよぶが,その内容は岩手県素心建網の入札制,石
川県鮪鰯台網の私有財産化と漁業株の売買,広島県海苔養競場売買等の諸事例を指摘する
ものである(P55∼).
長崎大学水産学部研究報告 第19号(1965)
工39
以上の漁場慣行の実態において,当時入会利用漁場の行使が階層的にいかなる分化進展
をしめしたか,とくに町村制施行とともに漁村共同体的漁業者団体がどのような形で存在
し漁場を掌握したか,また個別的独占漁場がいかに入会利用漁場を侵治したか等の問題に
ふれた史料は存在していない.ただ漁場紛争が部落対立の形で入会利用漁場の変遷と新規
漁業の盛行を物語るのみである.
このような慣行的漁場秩序と新規漁業との対立は,のちにのべる20年以後の大規模かつ
広汎な漁場紛争となって表面化するのであるが,ここでは当時の慣行の実状が漁具漁法の
生産用具の規制にあり,漁場生産関係の発展は,徐々に漁場支配権の主体上の変動とその
支配範囲の動揺をもたらしていたことを確認するにとどめよう.
当時の旧慣的漁場秩序にたいして,北海道ではすでにふれたように早くからブルジョア
的漁場秩序が形成されていた.それはr古より参る一種の大資本家が代々漁場の権利を専
有して由利を檀にして居ります…此の如く定めある一定の区画内には他人来りて漁業を営
むことを許さず,故に若し他の資本家か其場所に於て漁業を為さんとする時は必ず其先産
せる人の許可を得さる可からず,即ち其漁業権を買受くるか若くは年限を定あて借受ると
の二法を取らねばなりませぬ.其漁場を借受くる場合には幾許の報酬を漁権主に納むるこ
とを定め其報酬額は漁獲高の何割と云ふ慣例であります』50)と報告されたように,資本主
義地代をうみ出す独占漁場として成立していた.
さらに北海道西別地方鮭漁について,建網55ケ所のうち漕網距離200間以下のものは,
収支償わないため下網が続出し,25年当時28統の習業しかみていなかった.その休業理由
は,r手先を拡げる為の我網を休みたるもの』llケ所, r手先を拡げる為資金を出し他の
網を休めたるもの』8ケ所,r着手するも収支の見込立たす他人よりも資金を受けす休業
したるもの』8ケ所という状態で,資本主義競争による漁場狭隆化と休業網の増加を招き,
実質的な漁場支配権の集中が行なわれつつあったことをしめしている5り.
第2項漁場入会権主体としての漁民団体の性格
府県漁業取締規則期に漁場支配権の主体がどのように変化したかの問題は,漁場支配権
の近代的性格への接近を知るために重要な指針である.この期における立業入会地の帰属
関係については,戦前より先学によって研究され,多くの業績を残している分野であ
る52).しかし漁場支配権としての入会権についてはまだみるべきものがなく,今後の精密
な史実にもとつく漁場入会権制度の研究として完成されるべき分野である.
(1)部落林野入会権と漁場入会権の推移
さて徳川期における村持漁場に関連して,徳川期の村の性格,土地林野についての村誌
ないし一村総持についての先学の所説についてはすでにふれたところである.
このような入会地における支配進退的所持権は,維新後の土地改革によって,国有,公
有ないし民有化するのであるが,工3年区町村会法,17年同法改正,21年町村制の立法政策
上の変化をめぐって対蹟的な見解が表明された.中田立偏は,21年の町村制がr従来の総
合人としての村を一挙にして近代的擬制人たる地方団体に改造し,従来の町村総有財産を
挙げて町村専有財産に変じてしまったのである53)』とされ,入会を目的とする町村とは別
人格の私法的総合人の存在を否定している.
蜘
青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
漁場入会権の地盤たる海面については,形式論理的には6年以後官有地化しており,ま
たこの意味での官有化(実質的には公共用水面の性格)は,しばしば論じたまうに入会的
支配に関する限り公有地入会と異なり問題とする必要はない.問題点は国家領有権のもと
における漁場支配権が,入会権的用益権をふくめて何人に帰属したかである.
中田氏が明治初年における公有地入会権の町村移行,農民の入会地盤の上になりたつ生
活共同体としての村ないし入会を目的とする私法的総合人の否定的見解にたったのにたい
ク
して,まず末弘氏がr維新以来法人観念の変革に因って…入会地所有権と入会権とが分離
せらるるに至ったけれども,村民が其林野上に有したる収益の権利一「入会権」一は依然
として彼等の手中に存し毫も其性質を変ぜざるものと見ねばならぬ』54).とされて,u一マ
法的村の成立とそれと別個の入会権を対象としたGenossenschaftの実在を説かれた.
この見解は戒能氏によって,21年町村制による公法人たる行政村の完成と総合的実在入
もしくはr生活協同体の村』との分離を認める理論によって確立された.
戒能氏によれば入会権は, r明治初年以降明治二十一年にいたるまでの町村変革も… 「
生活協同体としての町村」に対する変革であり得ない』とする前提にたって,形式的には
町村に委託された入会権も,誰某外何等の共同名儀で存続する入会権も本質的に異なるも
のではなく,Genossenscbaft的生活共同体村に帰属するものとされた55).
この戒能氏の,豊富な史料にもとつく,地域,村方三役と戸長制,村寄合と町村会制の
三点から,旧時代の村落と町村制にいう町村との差異を明確にされ,町村制下における実
在的総合人としての村の継続を主張される思想は,そのまま村受漁場,仲間持漁場の形で
存在した漁場入会関係についても適合するものである.
〈2)漁場入会権主体の変動
徳川時代における村持漁場が,典型的な総有形態から,漁村共同体規制をうけながらも
次第に職業団体的共同所有形態に転化し,とくに商品価値の高い漁場においては,仲間持
漁場に進展したことはすでにふれたところである.
維新以後の漁業生産力の発展は,一層この進展をはやめ,形式的には旧村,部落持であ
ってもその漁場行使面における質的転化は,地帯によってははげしいものがあったと考え
られる.それはとくに定着性水族(商品価値の高い貝類,水産動物)や,のり漁場,浮魚
漁場について多くみられたであろう.原氏は東京内湾川崎村のり漁場についての事例をひ
いて,仲間持漁場の進化を説いている56).
維新後の漁場秩序の変動は,『9年後の府県漁業取締規則期当時においては,種々なる漁
場入会権の形態を形成せしめていた.一般にいわれる一村入会,他村入会,数村入会の形
式的分類はそれほどの重要性は認められないが,34年漁業法制定時においては,専用漁業
権とr入漁スル権』の区別にはなった.しかし最も重要なことは,これらの諸形態を通じ
て漁場入会権iがいかに階層化したかの点である.その上にたって共同所有形態としての34
年漁業法の漁業組合がいかなる歴史的性格をもつものであったかを究明することである.
さて府県取締規則当時の漁場所有と漁場入会権との関係は,地盤である海面が法形式的
には官有化していたことから,町村制での林野入会権のような所有と用益の対立は生じて
いない.またその用益権としての漁場入会権は,海面官有の性格がすでにふれたように国
による私法的収益処分権を意味せず,国の領有的行政的支配を受けるということと同一内
:容と考えられるから,国の漁場統制と漁民の入会利用は私法的側面では競合するものでは
長崎大学水産学部研究報告 第19号(19δ5)
ユ41
く,もっぱら国の意図する漁場秩序が漁場支配潅の免許を通して何人に漁場入会利用の権
を帰属せしめるかの点のみにかかっていた.
この場合漁場支配権の一形態としての漁場入会権は,当時の漁場支配権思想からするな
らば,営業許可的公権思想であり,所有権的財産権とは認められないのが権力解釈であ
った.したがってかりに官有化の意味を国の所有と解釈しない場合であっても,入会権i地
盤iのごとく町村財産とすることは,町村の公法人という性格からして制度的に拒否された
のである.
当時の行政裁判所宣告は,いずれもr漁業ハ純然タル一種ノ営業ニシテ公共事業タル性
質ヲ有スルモノニアラサレハ法人タル町村ノ為シ得ヘキ事業ニアラス』との態度をあきら
かにしている(明治27年49号,28年12号)57). 同様の判旨で町村組合も漁業を目的として
設立はできないとされている(行政裁判所宣告27年53号58)).
以上のように当時の漁場入会権は,町村財産の対象からは,法思想的にも制度的にも除
外されたのであり,したがって明治土地改革における入会山の官公有化にみるような収奪
過程とは異なるものである.そのような漁場入会権の収奪は34年漁業法における漁業組合
設立から開始されたのである.
しからば漁場入会権は当時誰人に帰属したのであろうか.従来のこの点に関する法律:的
検討は煉薬によって行なわれている.同氏は,旧著においてはF町村制施行後は概ね甲村
漁民惣代数人と乙村漁民惣代数人とが取極を為し村の機関たる村長は之に干与して居な
い59)』とされ,r換言すれば自然人の新陳代謝にかかはらず変化なく永存する単一体とし
て漁民が所有居りたる事は旧藩以来の幾多の文献に依り之を知る事が出来る』r漁村の総
代組頭或は戸長とか漁村を代表して其の衝に当ると錐も其れは漁民総体の代表者であると
同時に村自身の代表者であって,…抽象的人格者たる漁村(村)又は漁業組合の代表者が
其の団体を代表するのとは大いに其の趣を異にする60)』とされる.
また同氏は別著においては,(O漁場の区域を確定することの困難なりしこと,(m)区域内
において許さるべき漁業種類を確定することの困難なりしこと,困漁場の帰属関係を規律
することあ困難なりしこと,の三点をあげて入会主体の不明確さを指摘され,その条件の
もとでr前時代以来一村専用又は数村入会漁場の利用関係は漁村団体がその漁場を管理監
督し,漁業者はその成員として団体規定に従ひ漁業を為していたものとして,この事実は
何等変化しなかったと見るべきであろう61)』と説いている.
それでは不変の形で存続した町村とは異なる漁場入会権を対象と1した共同体的総合人
は,原氏においてはいかなる形態で存在したのであろうか.
同氏は,まず制度上の実在的総合人についてはr村に代りて生じたる漁民全体の単一体
とも云ふべき職業団体は如何なる性質を有したりしかは制度の上にては全く知ることを得
ないのである62)』としている.
しかしその実在については, r其の団体は漁業組合準則の組合の如く漁場の主体を離れ
た組合ではなく,旧漁業法の組合の如く全体より抽出した独立人が漁場を所有するが如き
ではなく,漁場を所有する点に於ては往年の村団体に準じたるが如く漁場を共同して使用
収益する点に診ては民法上の組合関係に準じたるが如き一種の団体が存在したりしものと
信ずるのである』としている.
さらにそれら入会漁場支配権団体の34年漁業法への承継を,r其の団体性の強きものは
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青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
入会漁場を総有して居るものと見るべく後年漁業組合設置されて撚れに権利を還元せしめ
た.其の団体性の弱きものは漁民の詠手的共有にして後年何某外幾十幾人持の共有となっ
た63)』とみている.
当時漁場入会権が漁民の共有的形態によって,村持,仲間持入会漁場を承継したことは
全く異論がない64).ただ原氏がその所論を展開されるにあたって,当時の慣行にもとつく
営業取締制および営業許可説の故に,上記の生活共同体的団体が制度上否認されたとする
点には疑問がある.果して府県漁業取締規則にいう営業許可という制度的形態は,漁場入
会権団体を積極的に否認すべき法理をもったものであろうか.
原氏は上掲武豊において,r漁業者個人に対する営業免許なるが故に,その間において
部落は漁民並びに漁業上の権利を把握することなく往年の部落とは全く変質したかどうか
である.……漁業者個人に営業免許をなすべきであって部落又は町村に免許を与え,その
住民たる資格において漁業をなす総有的な所有形式は生じなかったと見るべきである.従
って部落又は町村の漁業出願はこれを許可すべきではなかったのである65)』として営業許
可制が制度的に部落:という実在的総合人を認めさせなかったとしている.
この点については,すでにのべたように当時の町村法人論からして,営業権的漁場支配
権は町村,区の所有しうべきものに非ずとする司法解釈からも,生活共同体としての部落
が漁場支配権団体として制度化されず,また漁業組合準則の漁業組合もそれを制度化した
ものでなかったことはあきらかである.
しかしこれをもって,9年74号布告以後のわが,国漁場法体系が積極的に生活共同体と
しての漁民集団を否認または解体せしめたと解することができるであろうか.勿論原氏も
制度的に否認された漁業者団体がまさに制度外に実在したことを信じ,それに重点をおい
て「生活協同体」と制度上の町村との分離を説かれ,かっ生活共同体の慣習法的庶民法的
性格を考察しているようである.それは前掲引用の見解にみられるところである.
府県漁業取締規則にいう漁業の許可は,あるいは府県によっては免許とよばれ,近代法
における警察許可と特許的処分としての免許の区別が法理的に確立されていない.だが当
時の漁業布告法思想が,営業許可による漁業が近代法にいう許可漁業のみでなく,独占排
他的漁場や村持漁場をふくんで対象としたことは,前掲引用の諸府県取締規則によってあ
きらかである.すなわち当時の営業許可という法文をもって,34年漁業法以後の警察許可
を指したものと解することは不適当である.それは近代法への過渡期として,物権として
の漁業権概念や警察許可概念が確立されず,混然として許可,免許の語が採用されていた
時期である.したがって原氏のいうように営業許可制なるが故に個人が対象とされジその
限りで制度的に部落ないし漁民団体が漁場支配権所有者としては排除されたとすることは
誤りである.
また制度的には表現されなかったとしても,それは実際の許可においては誰某外心名の
形で許可をうけ実質的に存在しえたことは同氏の説くとおりであり,戒能氏も認めるとこ
ろである66,.したがって,34年漁業法における漁業組合のような法人形式での生活共同体
は制度上認められなかったが,実質的な形での存在は制度的にも否認されていなかったし
また否認しうるものでもなかった.むしろ漁民集団から抽象化され遊離した法人としてで
はなく,漁民集団そのものとして「外何名」の実在形式があったことにおいて,近代法以
長崎大学煮産学部研究報告 第ユ9号(1965)
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上に布告法の生活共同体的色彩は素朴な形であらわれていたとみてよい.
府県漁業取締規則期の営業許可制は,漁場紛争防止のための官僚統制強化の手段であ
り,漁場支配権の私的性質を制度的に抑圧せんとする政府の努力の表現であった.それを
免許というもその法律的意義は同一内容のものであったのである.いわば,漁場の私法的
収益権よりも秩序遵守義務負担を,公権的意義において表現しようとしたのが当時の営業
許可であった.
さらに営業許可制によって生活共同体の制度的否認の根拠とする考え方には,漁業税則
時における漁場支配権と税納義務との未分化の時点においてのみとらえている難点がある.
すでにのべたように府県漁業取締規則期はその出発において漁業税則期をもつのである
が,原意の考察は, 「税則」期の個人課税=営業許可を税則と取締規則分離後の時期にお
いても同一と考えているきらいがある.
したがって漁場入会権における共同体的規制の存続について,原産は続けて,rたとえ
営業免許は個人銘々であっても,磯付根付漁海草採取にありては,部落においてこれを統
制し漁場の管理監督をなすと同時に,漁民たる営業人は共同体的規制により漁業をなした
ので’
??7)』とするが,その形態こそ生活共同体としての漁場入会権を対象とした同氏の
いう職業団体の姿なのである.その部落は町村制における町村,区ではなく,総漁民の残
存的には総有的,支配的には合有的形態に近接する生活共同体であった.
当時の府県漁業取締規則が一般に町村制における町村や区の漁業出願を許さなかったこ
とはすでにふれたが,過渡的にはたとえば23年秋田県規則にr持場漁業ハ旧地元町村二四
ス其数町村二渉リ分割シ錐キモノハ各町村ノ協議二任ス』 (5条)とあるように,旧町村
(区)の共同体に許可された例もある.また宮城県本吉郡ではr明治22年1月以後は数町
村組合又は1町村の区域に改めたり69)』とあるように,町村制施行によってその統制下に
おかれたものもあった.
これらは当時の入会漁場支配権の町村財産的性格の強い地帯において,その私的財産と
して享有せんとする方向をしめしたものであろう.しかしこれらの町村有単方向は,制度
的には次第に町村の公法人的性格の強化によって整理され,漁民の生活協同体的実在人に
移行し,漁業許可面では複数漁業者の許可の形をとるにいたったのである.
こうした傾向は定置漁場においても同一であり,例えば岩手県宮古村外6ケ村では,
13年岩手県界260号布達にもとづき7ケ村協議し,15年より重茂村字追切地先の鮪建網3
ケ所を免許され共同稼業し,17年には無期限免許に変更免許され,22年の町村制実施とと
もに組合を設立し,従来の各村の共同経営から住民共同漁業組合経営に切替えた.その組
合の設立は住民忽代人会によって行なわれ,いわゆる村張組合の典型的な形をとったが,
形態は制度上大網組合的全住民自営の任意組合に移行したのである69).
この町村制下の村持漁場や仲間持漁場が任意組合形態をとり,生活共同体の漁場所有形
態として存在したことは当時の一般的な形であり,のちにふれる自治的漁場取締団体の下
部組織的小組合化したり,または部落単位の匿名組合化するのである.
また各府県漁業取締規則一般では,すでに検討したように,漁場入会権や個別的独占漁
場支配権を問わず,とくに町村単位の免許を排斥せず抽象的規定しかおいていない.その
町村所有の禁止は行政裁判所宣告によって判例法的に確定したのである.
また府県漁業取締規則は,漁場区域,漁具漁法の慣行による取締を明示し,その取締
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青塚:明治初期漁業布告法の研究一V
主体としての漁業組合が漁場入会権の主体すなわち生活共同体の制度化としてよいかどう
かの問題があるが,これはのちにふれるように,漁場入会権主体として認めるべき制度的
根拠もなく,その上に位置する官僚漁場統制の下部団体たる性格をもつ自治統制団体であ
ったと解するのが正当である.ただ最末端においては,小組合または部落,区の組合の形で,
漁業組合の下部組織化している場合もみられるが,これは漁業組合準則にいう漁業組合で
はなく,組織上その構成員統轄機能が自治的漁場統制に利用されたものというべきである.
最後に上掲の原氏の生活共同体的漁民職業団体が34年漁業法においての承継関係で,団
体性の強いものは漁業組合として,また弱いものは共有の形で合有化されたと説いている
が70),合有的仲間持漁場は団体的統制なり団結力の強いために組合吸収を免れたともいい
うるし,その意味では浜,浦での漁業組合化のものと差異はない.
漁業組合化と合有的共同所有団体の残存は,原氏のいうような規準からではなく,漁業
組合方式による漁場統制政策の異分子として,生活共同体的または合有四団体が残存した
のである.それは34年漁業法による生活共同体的漁場支配権団体統合の対立的側面として
理解されるべきである.その意味で34年漁業法での漁業組合が,すべての生活共同体的漁
民団体が再編強化されたものと考えることには多くの問題があり,その底辺としてさ
らにGenossenschaftの存続を認めることが正当である.
文 献
工)大日本水産会報,工81号P.446.
2)同上, 86号.
3)原三三:日本漁業権i制度史論,P.211.
4)青塚繁志:明治初期漁業布告法の研究一IV,本誌.18号, P.129.
5)横浜市水産会:東京内湾漁業史料,P・ユ3−15.
6)青塚繁志:明治初期漁業布告法の研究一皿,本誌.ユ7号,P.139.
7)渋沢敬三:豆州内浦民史料中巻の弐,P・494.
8)前掲「内湾史料」,P.166.
9)同上,p.54∼.
10)秋山博1一:明治漁業法の制定過程,漁業経済研究.8巻2号,P.9
11)同上,P.8∼10.
12)前掲「内湾史料」,Pユ0∼U.
13)前掲「会報」,29号.P・57∼.
14)渡辺洋三:農業関係法,P.10.
15)前掲「会報」,97号.’P.207.
16)前掲「内湾史料」,P.19.
17)前掲原「制度史論」,P.216∼7.
エ8)前掲「会報」,148号.P.8エ.
91)前掲「会報」,ユ50号.P.97.
20)前掲「会報」,153号.P・101.
21)片山房吉:大日本水産史,P.343.
22)潮見俊隆:漁村の構造,P.27.
23)前掲秋山,P.20.
24)前掲原,「制度史論」,P.2U−2.
25)青塚繁志:明治初期漁業布告法の研究一皿,本誌.18号,P85。
26)前掲「内浦史料」,P.607.
27)同上,P.635.
28)同上,P.594.
29)前掲「会報」,97号.P・208L
30)前掲「内湾史料」,P.工7.
長崎大学水産学部研究報告 第ユ9号(19δ5)
31)小倉武一:土地立法の史的考察,Pユ15−6.
32)舟橋諄一:物権法におけるいわゆる公示の原則について,P.783(労働法と経済法の理論).
33)前掲「会報」,171号.P.55.
34)法令全書,明治27年9.月分.
35)前掲「会報」,153号.P.109.
36)農商務省:水産事項特別調査,下巻,P.713∼.
37)渡辺宗三郎:土地収用法論,P.30,美濃部達吉:公用収用法原理, P.53.
38)小林音八:漁業関係行政訴訟判決要旨及理由集,P.ll.
39)同上,P.36.
40)同上,P.47.
41)同上,P.14.
42)同上,P.50.
43)同上,P.61.
44)青塚繁志:千拓水域における漁業権の地位,P.!62∼(本誌8号).
45) 「静岡県伊豆国漁業律之事」,前掲「会報」5号.P.16.
46)前掲「内浦史料」,P.598∼.
47)前掲「内湾史料」,前掲「会報」,22号.P.ユ8∼,29号. P.6。
48)前掲「会報」,97号.P・エ97.
49)同上,181号.P.443.
50)同上,l12号. P.494.
51)同上,l!9号. P.168.
52)中田薫:明治初年の入会権,明治初年における村の人格(法制史論集2巻),石田文次郎
:土地総有権史論,戒能通孝:入会の研究,末弘厳太郎:農村法律:問題,福島正夫:部落有
林野の形成.
53)中田薫:法制史論集,2巻.p.78B.
54)前掲末弘lP.57.
55)前掲戒能,P.312∼8,375,411.
56)原再三:部落と漁業権,P.42(法学志林54巻4号).
57)前掲小林,P.21,23.
58)同上,P.24.
59)原理三:漁業権制度概論,P.94.
60)同上,P.238.
61)前掲原,「制度史論」,P.227−8.
62)前掲原,「概論」,P.95.
63)同上,P.96.
(64,66)前掲戒能,P.392.
(65,67)前掲原,「部落と漁業権」P.40−41.
68)前掲「会報」,ユ81号.P.443.
69)岩手県宮古町外野町三ケ村住民共同漁業組合各漁場沿革調査書(明34)。
70)前掲原「概論」,P.96.
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