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ギドン・ドゥ・ラ・メール - HERMES-IR
Title Author(s) Citation Issue Date Type 「ギドン・ドゥ・ラ・メール」について 近見, 正彦 三田商学研究, 43(6): 87-99 2001-02 Journal Article Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/18172 Right Hitotsubashi University Repository 87 002 三田商学研究 年 9 月62 日掲載承認 第34 巻第 6 号 1002 年 2 月 「ギドン・ドゥ・ラ・メール」について 近見正彦 <要約> 本稿は,海上保険法史上一つのモニュメントであると言われている「ギドン・ドゥ・ラ・メール J に ついて,若干の考察を試みたものである。 「ギドン・ドゥ・ラ・メールj は,私的なマニュアルにすぎないが,そこに掲げられた多くの規定群 はほとんどそのままルイ却の海事勅令に受け継がれ,その重要性を高く評価されている。しかしなが ら,その重要性は広く認められているものの,これの研究はきわめて少ない。まして本格的な研究に限 れば,皆無に近い。そのためもあるのであろうか, 1ギドン・ドゥ・ラ・メール」には,未だに解決さ れていない問題が数多く存在する。本稿では,多くの問題から三つの基本的な問題,すなわち「ギドン ・ドゥ・ラ・メールJ の元来のタイトル,編纂・発行の時期および編纂者の問題を取り上げ,それらの 解決の一端を提示している。 <キーワード> 保険,保険法,保険史,保険法史,海上保険,海上保険法,海上保険史,海上保険法史, 61 世紀,フ ランス,ルアン I 序 フ ラ ン ス ・ パ リ の 北 西m k731 )neuoR( , セ ー ヌ 川 河 口 か らm k521 上流の地にノルマンデイ最大のルアン という都市がある。ここは,かつてノルマン公国の首都であり,現在では下セーヌ工業地 域東部の中心地で,今なおその繁栄を誇っているが,この地が世界に広く知られているのは,何と 言っても百年戦争末期のフランスを救った救国の少女,聖ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地 であったためであろう。処刑された広場ecalP( ud iV xue )ehcraM には,ジャンヌの魂を弔うために 聖ジャンヌ・ダルク教会が建てられており(同所の南には,小さいがジャンヌ・ダルク博物館も建てられ ている),市の中心部の北には,ジャンヌが幽閉されていた搭 ruoT( enaJ 'd Ar )c も残されている。 ルアンを世界に知らしめているのは,こればかりではない。絵画に趣味を有し,特に印象派に興 三回商学研究 8 味を抱いている人達は,モネが日の光の変化の中に浮かぶ大聖堂を描いた連作にルアンの町を思い 描くであろうし, 9831 1r)ego 年の世界最古の大時計 oH-srG( を目当てに当地を訪れる観光客も少 なくはない。また,コルネーユやフロベールの生地としても名高い。 かかるルアンは,海上保険法史においても,かの有名な「ギドン・ドゥ・ラ・メールj が編纂・ 発行された都市であるとされているから,重要な地であること,一般に認められている。 「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ は,あたかも法典の如き体裁で書かれているが,法典そのもので はなく,あくまでも当時の諸慣習を法規集の形で編纂した私的マニュアルである。したがって, 「ギドン・ドウ・ラ・メール」が国家権力を背景とした法規としてその効力を有したわけではない が,これのほとんどの規定はルイVIX の海事勅令に受け継がれ,さらにこの海事勅令が当時のヨー ロッパの海事に関する一般法とされていたから, rギドン・ドゥ・ラ・メール」の海上保険法史上 の重要性に異議を唱える研究者はいない。 このように「ギドン・ドゥ・ラ・メールj はその重要性を広く認められているものの,不思議な ことにこれに関する本格的な研究は少ない。そのためであろうか, rギドン・ドウ・ラ・メール」 については,今なおその編纂・発行の時期,編纂者等,いくつかの基本的な問題が解決されること なく残されている。 本稿では,とりあえず「ギドン・ドゥ・ラ・メールj の未だ解決されていない問題からそのタイ トル,編纂・発行の時期および編纂者の三つの問題を取り上げ,それらについて若干の考察を試み たいと思う。 E タイトル 上記マニュアルに触れたわが国の文献を繕けば,表記の仕方が区々であることをにわかに知るこ とができる。 rギドン・ドゥ・ラ・メー )JJJ ,「ギドン・ド・ラ・メ-)むあるいは単に「ギド J」) とする文献があり,また原語を使用している場合にも,“G 凶don あるいは“Le Guidon de al mer" , “Guidon de al Mer" と表記の仕方に違いがある。しかしながら,ヨーロツパの文献で は,このような表記の仕方の相違はほとんどなく,概ね“Guidon )1 .fC eriaperuaeB , p4. 30 )2 たとえば,田中, 21.p )3 たとえば,大森, 12.p )4 たとえば,石井, 45.p )5 たとえば,石井, 45.p )6 たとえば,今村, 59.p )7 たとえば,加藤, 81.p )8 kcurB , .S 7, Dona , 世56.p de al mer" , faL eso , p191. tesusedraP ,田中・原茂, 9.p 等. ,木村, 43-32.p 等. II( de al mer" とされている。とす J,.p 73 .1 等. ,加藤, 32.p ,木村, 432.p 等. ,田中・原茂, 9.p ,村瀬, 19.p 等. 等. , Gow , , p4. Hamacher , 35.S , iRtrep , 53.p , zluhcS , S 71 等. 「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について 98 れば,このマニュアルのタイトルはこれを「ギドン・ドゥ・ラ・メール」または「ギドン・ド・ラ uidon ・メール J,あるいは原語で“ G de al mer" とするのが,おそらく穏当なところであろう。 しかしながら,そもそもこのマニュアルの元来のタイトルが“ G uidon ed al mer" であったので あろうか。 「ギドン・ドゥ・ラ・メー lレ」は, carielC がその著書に掲げて広く知られるところとなった,と 言われているけれども,果たしてそこには“ G uidon ed al mer" というタイトルが付されていたの であろうか。 carielC には,少なくとも 7461 年版, 161 年版, 1761 年版, 3871 年版, 871 年版が存在してい る。そして,そのいずれの版にも「ギドン・ドゥ・ラ・メール」が掲げられているが,そこには, 版により多少の綴りの違いはあるものの,大略“n odivG , te ivq tnetem esidnahcrm aal Mer" elitv te eriasecen rvop というタイトルが付されており,“ G uidon xvec ed al mer" ivq tnof とされ ていたわけではなかった。したがって, Iギドン・ドゥ・ラ・メールj の元来のタイトルは“ G uidon ed al mer" ではなかったと思われるが, carielC 若干手を加えていたから, carielC は , Iギドン・ドウ・ラ・メール j を掲げる際に, のみで,これのもともとのタイトルがどうであったかを判断す るのは早計に過ぎる。 「ギドン・ドゥ・ラ・メール j のマニュスクリプトまたは印刷本があれば,それに如くは無い。 「ギドン・ドウ・ラ・メール」のマニュスクリプトは聞に埋もれ 未だに発見されていない。し かしながら,印刷本は,少なくとも 7061 年版, 8061 年版, 916 年版の 6 版が発行されたらしい。それらの内, 8061 らかに現存しているけれども,残りの7061 年版, 8261 年版, 916 年版と 5461 年版, 8261 年版は, susedraP 年版, 5461 年版および1561 年版および1561 年版は明 が言及し,参照した版 で,おそらくは現存するのであろうが,残念ながら筆者は今のところそれらの所在を確認するには 至っていない。 大谷教授 li のは7461 最近の著書に n odiuGI 年版である j とされ, 7461 による保険証券の雛形」を掲載するにあたって「援用した 年版の存在を明らかにしているけれども,それはClcarie の7461 年版のことであろう。 それはともかく,上記 6 版の中で最も古いのは,言うまでもなく 7061 年版である。そこで,同版 が初版であるかどうかが問題となる。 同版の序文の献辞には,同版を“'fehcered 印刷したことが示されているらしい。“'fehcered )9 “ "v を発音に合わせて“ u" と表記している等の違いがある )01 C.erifaperuaeB , p4. 30 tesusedraP )II( ,.p 573 . )11 susedraP )II( ., 47-173.p 大谷, .02.p なお,同教授は,同じ箇所で susedraP が印刷本の年代について誤記していることを )21 指摘しているが,それは同教授が G i 凶nod ed al mer 自体は, 7061 年版と5461 年版が現存しているよう である」とされたための誤解であろう。 0 09 三田商学研究 は「再びJ あるいは「もう一度j という意味であるから, 7061 年以前に同じものが印刷されていた のであって,同年よりも古い版が存在したようであるが,それが何年の版であるかは, “ 'fehcerd という語からは分からない。 )41 suedraP によれば,かつてシェルブールの海事裁判所の検事職にあった tluorG は「ギドン・ドゥ・ラ・メー Jレj に061 た海法関係の文献のリストが存在し,その中で, tluorG )51 年という年号を付していた。このことから, suedraP により作成され は,おそらく tluorG は061 年版を初版と考 えていた,とする。 この指摘はきわめて興味深い。しかしながら,上記リストが今でも存在するのか,また存在して いても,それはどのようなものなのか,さらに果たしてそれがどの程度信用の足るものであるか は,同リストに関する詳細が示されていないので判断のしょうがない。したがって,ここでは 061 年版がおそらく存在し,それが初版であるかもしれないという,僅かな可能性のみを記憶に留めて おくことにしよう。 さて, rギドン・ドゥ・ラ・メールJ の元来のタイトルに立ち返るが,この問題は 7061 年版を見 ることにより一挙に解決することができると思われるけれども,現在,筆者は同版の所在を確認し )61 ていない。したがって,それを見るわけにはいかない。また,同版を利用した suedraP ドン・ドウ・ラ・メールJ の諸規定を掲げるにあたって,“ DROIT NOM DE GUIDON DE IA MER" MARl というタイトルを挙げるのみで TIME も , CONNU rギ SOUS LE これが「ギドン・ドウ・ラ・ メール」のもともとのタイトルであるとは思えない。 幸いにも,筆者の手元には 8061 nidro 必er STILE du Roy 年版のコピーがある。これを見ると,同版はeriarbil である nitraM ET VSANCE DES el reisgseM QVI FONT marchndise ruemip の工房で印刷・発行され,その表紙には“ GVIDON MARCHANDS QVI a al Mer" tnetm ドウ・ラ・メール」の諸規定を収録しているところには,“ GVIDON CEVX & Im , & iuq tnetm en al Mer" と印刷されている一方, Vf ILE rギドン・ ET NECESSAIRE POVR というタイトルが掲げられている。 両者には若干の相違があるが,いずれがそもそも「ギドン・ドゥ・ラ・メール j に付されたタイ トルであるかと言えば,諸規定掲載のところに書かれたのがそうであり,表紙に印刷されているの は書名と考えるのが自然で、あろう。 8061 年版は, 7061 年版に遅れるところわずか l 年で発行されているから,おそらく 7061 のまま再版したものである。とすれば, 7061 )31 )41 )51 )61 .fC etioB 皿 ,321.p tesusedraP II( .273.p susedraP JII( , susedraP II( J, .273.p susedraP JII( , .73.p な お ,susedraP 年版の書名,すなわち“selhoN semutoC が掲げられている。 "rem 年版をそ 年版それ自体の書名およびそれに収録された「ギドン J,.273.p のlirB uo nodiuG 】 no に触れた箇所には,nollirB e, lytS te ecnasU sed sdnahcram が実際に引用した1561 iuq tnetem aal 「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について -ドゥ・ラ・メール J のタイトルではないが, 8061 19 年版のそれらをもって 7061 年版のそれらとみな しでもあながち誤りであるとは言えない。 7061 年版と 8061 年版の書名および「ギ、ドン・ドゥ・ラ・メールj のタイトルが同じであろうとい う推測は,後の 916 含めて, 8061 年版でも,書名およびタイトルの両者ともが,大文字と小文字の使用の仕方を 年版と全く同じである事実によって裏書きされている。すなわち, 8061 年版の書名と諸規定のタイトルが全く同じであるという事実により, 8061 い1 706 年版および1 916 年と僅か 1 年しか違わな 年版も同様で、あったと思われるのである。 もちろん僅か l 年でタイトルを変更した可能性が全くないとは言えない。しかしながら,常識的 に考えてその可能性は限りなく小さい。したがって, Vl1 LE ET NECESSAIRE は,これを“GVIDON en al Mer" tnem E POVR とし,初期の印刷本の書名は“GVIDON aal Mer" Iギドン・ドウ・ラ・メール」のタイトル CEVX STILE QVI FONT ET VSANCE marchndise , & q 凶 tnem DES MARCHANDS QVI とするのが正しい。 編纂・発行の時期 「ギドン・ドゥ・ラ・メール j がいつ頃発行されたかについては,あまり論議がなされていな い。発行時期よりも編纂時期の方が重要であると考えられたからかも知れないし,あるいは,いず れの時期も通常それほど隔たってはいないので,両者を区別して論議する必要性が認められていな かったからかも知れない。 それはさておき, 8061 年にルアンで「ギドン・ドゥ・ラ・メール」が発行されたことは,紛れも ない事実である。筆者の手元にそのコピーがあるからである。また, suedraP が利用した 7061 年 版も,その所在をつきとめてはいないけれども,確かに存在していたであろう。問題は,それ以前 の版があるか否か,そしてそれは何年の版であるかである。 既述のように, 7061 年版の序文にある献辞が“d 'fehcer 印制したことを明示している由である から,これ以前に「ギドン・ドウ・ラ・メー Jレj が印刷されていたことは明らかであろう。しかし ながら,それが何年の版であるかに触れた研究はほとんどない。おそらく suedraP ではないかと思われるが,その suedraP は , tluorG のメモに触れ, 061 しかいないの 年版が存在し,そしてそ れが初版であったかもしれないことを,断言的な言葉は残していないものの,暗に示している。 初版の発行後数十年を経て,その資料的価値の高さ等から再版されるケースがないわけではない )71 xuetioB , 221.p に掲げられている“Le nodiuG elits te ecnasu sed sdnahcram q凶tnetem aal "rem は , これを“u en etros ed "leunam と同格に解釈すべきであるから, xuetioB が間違っているわけで、はない が,書名であって, rギドン・ドゥ・ラ・メール」そのもののタイトルではない。xuetioB は,これを7061 年版のものとしているようであるけれども,同版の所在については,何も明らかにしていない。 29 三田商学研究 けれども,一般には数年後に再版されることが多く,さらに 7061 れている事実をも同時に考慮すれば, のアローワンスも入れ, 7061 年版に続いて翌日80 年にも発行さ rギドン・ドゥ・ラ・メールJ の発行時期については,多少 年から 20 年は遡らないのではないだ、ろうか。 4 説が主張されている。第ーは 61 世紀後半,第二は61 世紀末の数 一方,編纂時期については 年,第三は 1556年 ~1584年,第四は 1563年 7 月 20 日 ~1565年という説である。 15世紀あるいは 17世 紀に編纂されたという説は,筆者の知る限り,存在しない。 61 世紀,それも後半に編纂されたであ ろうことについては,ほほ異論は見当たらない。 かかる 61 世紀後半説は,比較的無難な説ではあるが,大雑把であるとのそしりを免れない。もう 少し詳細な限定をなすことができれば,その方が望ましいに違いないけれども,資料という制約の 中で限定をするわけであるから,正確を期すべく,より幅をもって限定せざるを得ないことも当然 あり f尋るであろう。 雌紀末の数年という説は, sedraP ぷ宝説いている。すなわち, 編纂は 61 世紀末の数年に決定され得ると思う Je]( siorc sereinred sena ud VIX eeis 1c).e cnod no'uq rしたがって,私は,ギドンの tuep rexif alnoitcader ud nodiuG xua と。その根拠は,必ずしも明確に述べられているわけではないが, 論旨の進め方から筆者が付度すれば, rギドン・ドゥ・ラ・メール」の初版は061 た可能性がないわけではない,もし 061 年頃に発行され 年頃に発行されたとすれば,これの編纂は061 年を大きく 遡ることはないであろう,したがって, 61 世紀末の数年に編纂されたと考えることができる,とい う点にある。 )91 また, 1556年 ~1584年説は,大谷教授の記述に従えば, suedraP が主張しているかのようであ )02 る。確かに, suedraP は , r ギドン・ドゥ・ラ・メールJ が1556年 ~1584年に編纂されたかもしれ ないことに言及しているが, suedraP 自身が同説を主張しているわけではない。 suedraP は , 「ギドン・ドゥ・ラ・メー Jレj が1556年 ~1584年に編纂されたということは「あり得ないことでは ない J li( entiores sap impossible) と言っているに過ぎず,自らの主張として 1556年 ~1584年説を唱え 自身は,その 01 数行下で, ているわけではない。上記のように, suedraP rしたがって,私は, ギドンの編纂は 61 世紀末の数年に決定され得ると思う」としているのである。 1556年 ~1584年説の根拠は,端的に言って, rueirp およびslusnoc るが,それは651 (いわゆる )slusnoc-seguj , .273.p , .273.p はそれまでにない の保険訴訟における裁判権について定めを置いてい 年の王令により設けられたものである一方,その裁判権は 4851 よって海事裁判所(釦lIr )etua )81 susedraP )II( )91 大谷, .091.p )02 susedraP )II( rギドン・ドゥ・ラ・メールj 年の王令第 2 条に に移管されており,この海事裁判所について「ギドン・ドゥ・ラ・ 「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について 39 メールJ は言及していない,ということにある。 第三の 1563年 7 月 20 日 ~1565年説は, liverF 時支持し,大谷教授ト採る学説で、ある。elliverF ほとんどそのまま翻訳した大谷教授によれば, 651i の裁判権については,遅くとも 561 3651 年の王令で初めて設けられた Js lunoC-segu 年までには異議が唱えられており,一方,この651 年 7 月0 2 日のノルマンテY 高等法院 )tnemelraP( を 年の王令は に登録されて初めてその効力を生じたから j 24) 1563年 7 月 20 日 ~1565年に「ギドン・ドゥ・ラ・メールj は編纂されたというわけである。 さて,上記各説の問題点を検討すれば, 61 世紀後半説は,既述のように,大雑把であるとの非難 を受けざるを得ない。期間をより限定することができれば,それに越したことはない。 61 世紀末の数年に編纂されたという説は, iギドン・ドウ・ラ・メールj の意義をきわめて単純 に考えているきらいがないわけではない。 「ギドン・ドウ・ラ・メール」は元来私的な編纂物である。しかしながら,これが有する意義に は,種々のものが考えられるのではないだろうか。すなわち, 651 となったrueirp およびslusnoc 年の王令により認められること の制度は,他の都市にはあったが, }レアンにはそれまでなく,上記 王令によって初めて設けられた制度である。そして,同制度の設立に熱心に取り組み,かつ力の あった者がAneniot saisaM であって,この者が上記制度設立のために,いわば建議資料として 「ギドン・ドゥ・ラ・メール」を編纂したのかも知れない。もしそうであれば, ・メー Jレj はrueirp およびslusnoc いは,同制度設立後のrueirp iギドン・ドゥ・ラ 制度設立のための建議資料として意義を有するであろう。ある およびslusnoc がいかなる規範に基づいて裁判を行うかが確国として 決定されていない時に,私的編纂物ではあるが,かかる裁判における規範資料として編纂されたと 考えることもできょう。この場合には, iギドン・ドゥ・ラ・メールj は,裁判の規範的な意義を 有していたと言える。あるいは,上記制度設立後,商人衆は保険取引を行うにあたって当時の諸慣 習を知らなければ安全な取引を行うことができないから,そのためのガイドブックとして編纂され たのかも知れない。そうであれば,商人衆の安全な取引のための指針的意義をこれに認めることと なる。またあるいは,商人衆が,保険取引について自主的規制を行うにあたって,その規範として 編纂されたということも十分に考えられる。かかる場合には, iギドン・ドウ・ラ・メールj は商 人衆の自主的規制規範としての意義を有する。 このように, iギドン・ドゥ・ラ・メール」の意義は,これをいろいろに考えることができるの であって,もしそうであるとするならば,まず「ギドン・ドゥ・ラ・メール」の意義を明らかにす ることが肝要であろう。それによっては,自ずから編纂の時期が決まって来るおそれがあり得るの )12 .fC susedraP )22 elliverF .7, 43.p )32 大谷, .091.p 大谷, .091.p )42 )II[ , .273.p 49 三田商学研究 である。ということは,杓子定規に必ずしも初版発行に遡ること数年の内に編纂されたと考えなけ ればならない必然性は存在しないわけで,もし,そのように主張するのであるならば,それなりの 理由付けが必要であろうにもかかわらず, suedraP い 。 suedraP には,明確な理由付けは特段なされていな の思考を極言して述べれば,初版発行前数年の聞に編纂された,としているに過ぎ ない。 1556年 ~1584年説は,いかにも説得力を有するかのような印象を与えるけれども,保険訴訟の裁 判権が海事裁判所に移管されたのは,最終的に1861 25) 年 jレ イVIX の海事勅令であるという批判に対し て,どのように回答するのであろうか。 suedraP は , 4851 年以前に「ギドン・ドゥ・ラ・メール」が編纂されたと推断することはきわ めて当然であろう,しかしながら,海事紛争を海事裁判所へ係属せしめることは, 4851 布後も一般に行われなかったし,ノルマンデイでは,slusnoc-seguj ていた,そして,slusnoc-seguj が継続してその裁判権を有し が最終的にこの権限を失うのは, 1861 てのみである,したがって, とから導き出される論議は, rギドン・ドゥ・ラ・メール」にslusnoc-seguj rギドン・ドウ・ラ・メールj が4851 証拠とはなり得ないであろう,として, 4851 年の王令公 年の海事勅令の施行によっ が言及されているこ 年以前に編纂されたことを示す 年以前という限定を廃棄し, 61 世紀末の数年に編纂さ れたと主張するのである。 )7:2 さらに, eriaperuaeB し , rueirp およびslusnoc によれば, 651 年という始期はおよそ01 年下らなければならない。けだ の裁判権確立のためには,同権限を行使すべき地および場ならびに裁判 を行うための当初の資金が必要で、あり,その手当が最終的になされたのは561 年であったからであ る。かかる批判にどのように反論するのであろうか。 1563年 7 月 20 日 ~1565年説には,上の 16世紀末の数年に編纂されたとする説および1556年 ~1584 年説に対する批判がそのまま妥当する。 eriaperuaeB が実質的にも確立するのは561 間限定の根拠とされているf] s egu の研究では, rueirp およびslusnoc 年以降であって,それ以前ではない。また, 561 一 slunoC の裁判権は561 の裁判権 年という一方の期 年までに異議が唱えられたj という点 についても,実証という観点から言えば,きわめて大きな難点が存在する。けだし,elliverF も大 谷教授も証拠となるべき資料を明らかにしていないからである。したがって, F re 吋 ell によって も,大谷教授によっても,どのような異議が唱えられ,その結果なぜ、rueirp およびslusnoc が裁判 権を失うこととなったかは,イ可も分からない。 このように,上記 4 説は,決定的であるかどうかは別にして,いずれも何らかの欠陥を有してい )52 susedraP )62 susedraP )72 erraperuaeB )II( , .273.p .273.p )II( , .7-6, 04.p 「ギドン・ドゥ・ラ・メールj について 59 る。かかる諸学説の中で最も無難なのは,大雑把で、あるという非難は甘受しなければならないけれ ども, 61 世紀後半説であろう。しかしながら,さらに一歩踏み込んで61 世紀後半のいつ頃かという ことになると,いかんせん参考とすべきオリジナル資料が少なすぎる。したがって,今ここでいっ 頃であると断じるわけにはいかない。本稿では,とりあえず61 世紀後半とし,さらなる限定は資料 の発見を待ってあらためて行うこととする。 町編纂者 「ギドン・ドゥ・ラ・メール j が誰によって編纂されたかについては あるとされつつある。かつては,不明であるとされたり, Aneniot れていたが,最近の文献では概ねAneniot saisaM saisaM ほぼAneniot saisaM で 以外の名が取り沙汰さ とされている。であるならば,編纂者に関する 問題は解消されたかのようであるが,必ずしもそうではない。 28) 大谷教授は, ち , G uidon Aneniot comerce I現在では, .hC ed al mer saisaM ed eriaperuaeB の見解が通説となっているようである。すなわ の作者は,スペイン人であり,かつルアン市の初代保険会議所書記であった であると考えられている。 j とし(アンダーラインは引用者),注に taloM emitram normand aalnif: du moyen が挙げられていることから考えれば, ega Iすなわち j , siraP , 2591 以下はtaloM , .p 39 ,M. ,Le を掲げている。注にtaloM の見解のようであるが,それでは その前の文章とのつながりが奇妙である。「すなわち」という語の意味からすれば, eriaperuaeB 見解がこの語の後に続いていると考えるのが通常であり,同見解を大谷教授はtaloM の により明ら かにしたというのであろうか。 eriaperuaeB の主張が通説であるか否かはともかくとしても, eriaperuaeB がAneniot saisaM を スペイン人であると考えていたかと言えば,そうではないと答えなければならない。この一事を もってしでも,編纂者に関する問題がなくなったわけではないことを理解することができる。 まず,大谷教授により通説とされている(ただし,同教授はeriaperuaeB eriaperuaeB を引用されていない) の主張を聞くことにしよう。 eriaperuaeB によれば, 651 年の王令で認められたrueirp およびslusnoc の裁判権が実際に機能 するようになるには,同王令が高等法院に登録され,公示されなければならなかったことはもちろ ん,それと同時にこの裁判権行使のための土地・建物が手当されなければならなかった。かかる土 地・建物の取得には,多額の資金が必要であったけれども,新しいこの裁判権が一刻も早く実際に 行使されるよう,先頭に立って運動を展開したのが,かのAneniot )82 大谷, .291.p )92 eriaperuaeB .1-6, 04.p saisaM という人物であり,彼 69 三田商学研究 は商人衆の名で請願書を提出し, 7551 年11 月62 日の書状により裁判権行使のための土地・建物の取 得が認められることとなる。また,各種の抵抗を排除し,裁判権行使のために商人衆が寄り合う許 可を取り付ける一切の手続きを引き受けたのも,このAneniot ない。An ω ine saisaM であった。そればかりでは は,そもそもこの裁判権確立のために,王令の高等法院への登録に精力的に働きか けたのであった。 3651 年 5 月32 日,最終的にAneniot の主張は成果を得,同年 7 月01 日に届けられた免許状によ り,裁判所が取得すべき税額およびその収税業務執行の商人衆への委託が認められることとなっ た。なお,この金額はかなり高額で,その中から裁判所長官が取得する金額は, 3651 階で, 9, 813 Aneniot 年21 月末の段 l.t.に決められている。 saisaM は,このようにルアンにおけるrueirp およびslusnoc の裁判権確立のために精 力的に活動した。一時他の商人衆の反感を買ったけれども,おそらくAneniot れたに違いない。それは,彼が初代の erg 血re sed secilop secnarusa'd の貢献は高く評価さ に任じられたことから理解 することができる。 Aneniot saisaM が海上保険に関して豊富な知識を有していたことは, 3551 人記録にある,ポルトガル人 SimonB 年 7 月91 日付け公証 砲の船舶に付された 2 件の保険契約に,スペイン商人衆の コロニーにおける主要な商人衆とともに彼の名が掲げられていることから,疑問を差し挟む余地は ない。 かかるコロニーの主要な商人衆の何人かは,フランスに帰化した家族を祖先とし,当時すでにル アンでは高い尊敬を受けていたが, Aneniot 月のerreiP saisaM と ρI 凶es edlueryC は0251 がどうであったかと言えば,eriaperuaeB 年01 との婚姻状(ルアンで作成)に基づき彼が出自をスペインと することを否定している。しかしながら, Aneniot は , 8651 年 7 月91 日の記録にあるように,フラ ンス語とスペイン語に熟達した人物で,スペイン商人と取引関係を途絶えなく有し,裁判ではしば 2751 しばスペインでなされた契約のフランス語訳を作成していた。さらに,彼の娘 ehtaC 出el は , 年から5751 と結婚してお 年の間tniaS -se-E d-eneit sreilenoT の出納係であったsiocnarF ine り,スペイン家族との縁も結ぼれていた。したがって,An ω saisaM alivaD がスペイン人であると誤 解される背景は十分に整っていた。しかしながら,上記のように,eriaperuaeB saisaM によればAneniot はスペイン人ではない。 Aneniot Massias が gre飽er に任じられたのは 1563年 ~1565年 9 月 27 日であり,初代の gre血er で あった。さらに,彼は1751 年にもその任にあり,ルアンにおける erg 飽re 制度設立当初において彼 が果たした役割はおそらく過大評価しでも評価しすぎることはない。An ω泊e saisaM 物であったことを考えれば, がかかる人 Iギドン・ドゥ・ラ・メール」の編纂者として彼以外の誰の名を挙げ ることができるであろうか。「ギドン・ドゥ・ラ・メール」の編纂者に関して直接言及するオリジ 「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について ナル資料が存在しない中で考えられるのは, Aneniot saisaM 97 しかいないのである。eriaperuaeB 「ルアンにおけるギドンの編纂について最も適任な人物はAneniot saisaM は であり,私はこの編纂 の名誉を確かに彼に与えおと言う。 おそらくeriaperuaeB の見解は正しい。保険訴訟におけるrueirp reifferg に精力的に奔走し,初代の に任じられたAneniot およびslusnoc saisaM の裁判権確立 を差し置いて「ギドン・ドウ・ ラ・メー lレj 編纂の栄誉を受けるべき者はいない。 確かに「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ の編纂者はAneniot であろう。しかしながら,だ からといって,これの7061 年版の著者もAneniot 納係の記録によれば, 6951 年の復活祭から翌年の復活祭までの 1 年間にAneniot ために02 suos て , 7061 saisaM saisaM が支払われていた。すなわち, Aneniot であったわけで、はない。iolE-tniaS saisaM の出 の埋葬の は,上記期間中に死亡していたのであっ 年版を著すのは不可能である。とすれば,同版は誰が著したのか。 eriaperuaeB は , Aneniot も危倶するように, 7061 の息子La tneru がこれの著者であると推測する。ただし, eriaperuaeB 年版の序文 8061( 年版にはこの序文は付されていない)のトーンおよび内容 は,ルアンで多くの商人衆から尊敬され,二代に渡り erg 血re を務めたAneniot saisaM およびLa tneru にふさわしいとは言えない。二人の名前も単に「二人の熟練した,この市の最も富裕な商 人J とされているばかりでなく,二人への賛辞も全く書かれておらず,二人の名声・名誉・社会的 地位に応じたトーンおよび内容になっていない。このあたかも矛盾しているかのような二つの事実 をeriaperuaeB は「私は,本屋の広告のみを知り,著書がかつて売り出され,多くの序文が我々に 例を提供するこの罪のない欺臓の良好な市場ができていたとしても何ら驚くに値しなようとして, 当時すでにルアンには海事関係のマニュアルに関する相当な市場が存在したことを理由に,矛盾で はないと説く。すなわち, eriaperuaeB の言わんとすることを筆者なりに理解すれば,ルアンでは 海事関係のマニュアルが多く発行されており,この溢れんばかりの類書の中で,新刊として「ギド ン・ドゥ・ラ・メールJ を発行するにあたり,序文は献辞等により飾られることなく,淡々と書か れたにすぎないのである。 eriaperuaeB のように理解すれば,確かにAneniot とLa tneru saisaM の名声・名誉・社会的地位 に対してどちらかと言えば冷淡なトーンで書かれた事実を納得することができる。しかしながら, この序文はさらに新たな問題を提供するのであって, p eruaB 御 il この序文の内容から「ギドン .ドゥ・ラ・メール j よりも賞賛に値する別の作品がいくつか存在するかもしれないことを推測し つつ, )03 )13 )23 )33 Iギドン・ドウ・ラ・メールj erraperuaeB erraperuaeB erraperuaeB erraperuaeB .2, 14.p , p4. 1.1 , p4..31 , p4..31 の7061 年版以前の版の存在については否定し, susedraP と 89 一回商学研究 対立するのである。 年以前の版の存在については,すでに触れたように,おそらく存在したと思われるが, 1607 が言及する Groult Pardesus のリストも上記序文の付された 1607 何とも致し方がない。ここでは, Pardesus V 年版も確認していない現在では, に与しつつも,最終的な判断は留保しておきたい。 結 「ギドン・ドウ・ラ・メール」はその名声および重要性にもかかわらず,さほどじっくりとは研 究されていない。 本稿で取り上げた三つの問題はいずれも基本的なものであるが,それらでさえ必ずしも最終的な 判断を留保しなければならない問題もあり, rギドン・ドゥ・ラ・メールj の謎は深まるばかりで ある。 本稿ではかかる謎の一端について,その解釈の指針ないし方向性に関する一石を投じたにすぎ ず,本格的な研究は新しい資料の発見を待ってあらためて行いたいと思う。 参考文献 石井『海商法』法律学全集03 ,有斐閣,昭和34 年. 今村『海上保険契約論』上巻,損害保険事業研究所,昭和35 年. 大谷『フランス海上保険契約史』成文堂, 91 大森『保険法(補訂版 H 法律学全集13 年. ,昭和26 年. 加藤『ロイド保険証券の生成』春秋社,昭和 3 8 年. 木村『ロイズ保険証券生成史』海文堂,昭和 54 年. 田中(誠 H 新版保険法』千倉書房,昭和35 H 田中(誠)・原茂『新版保険法(全訂版 近見『海上保険史研究-14 年. 千倉書房,昭和26 年. 年. ・5世紀地中海時代における海上保険条例と同契約法理一』有斐閑, 791 村瀬講述『海上保険講義要領』巌松堂,明治4 5 年. eriaperuaeB xuetioB Bruck carielC itanoD Douyer erF Gow nodivG ,.hC ed ,etoN rus el Guidon sed lA'eimedac , Rouen , .t 98 , 78-681 , p 4. .41-30 , .L A. , La of 伽 en ed mer , siraP , .8691 , .E , DasthcersgnurehcisrevtavirP , Manheim. ,.E , sV , tesemvtsvoc ed al mer ,xvaedroB Am madrets , .871 , A.otat, tarT ledottirid elledinoizarucissa , .C , μssdnahcram sregnarte a neuoR , eseht de 'l 立 eloc sed setrahC , siraP tomes 吋 ell , .E de , eriomeM rus el ecremoc emitiram , W. , eniraM ecnarusni , .5 .de d, esiver by elits teecnasv sed sdnahcram ivq tnettem marchnds a al mer si, cerP euqitylana iuq tnetem nilreB ,7461 .Legizpi ,xvaedroB dω , xuavart ed .0391 ,16 ,Rouen ,1761 etavirp , .lov 1 , onaliM , .2591 ua .61elceis srev( srev-0251 )0851 , noiAstalimis , .3791 ed neuoR , 2 tomes , Rouen te siraP , .7581 niK g-Pae , oL ndon , .1391 aal Mer , Rouen , 8061 , Rouen , 916 , Rouen ,Am madrets ,3871 ?nuoitagerges , 8261 te Rens te , 2 , .1561 99 「ギドン・ドゥ・ラ・メール」について Hamacher , W. M. , eiD .81 strednuhrhaJ iD .s , Bon , .P r, edliB Koch faL eso .2891 ruzethcihcsegsgnurehcisreV , Kar ehursl , .H , La uj n巾 oitcid , .G t, iorD iR ep 抗 oceria揖lus ed euoR 揖 197-65 edsiol semitiram ueiretna emitiram gnugithciskcureB ehcsirotsihsthceR , .t m , siraP , .de.4 ,R ,eiD gnuhetsnE zluhcS sthcersgnurehcisreveS sed sthcereS red ehieR gnubegztseG sed , nI ruga gnubegztesgsnurehcisreveS 1a .8791 , Rouen , .2291 .rωua X//Jfelceeis , .tII te IV s, iraP , 1381 te .5481 , .3591 sed l1A neimg Bestimunge , 5.dB ni red nehcstued red la 舵ner nehcsiaporue dem dnurgetniH , J .Mn.oitcel, loC susedraP sed l1a neimg eguzdnrG rov rebu , rF ,叩拙1ft am .niaM nehcstueD eid ieredeR Bem. sehcubztesgslednaH ,d en NewYork. ihcS siraP retnu r丘 e: und eid rednoseb cS ih 丘 hcsnams' , tfa .7891 [一橋大学大学院商学研究科教授・商学博士]