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ギドン・ドゥ・ラ・メール - HERMES-IR

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ギドン・ドゥ・ラ・メール - HERMES-IR
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
「ギドン・ドゥ・ラ・メール」について
近見, 正彦
三田商学研究, 43(6): 87-99
2001-02
Journal Article
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/18172
Right
Hitotsubashi University Repository
87
002
三田商学研究
年 9 月62 日掲載承認
第34 巻第 6 号
1002
年 2 月
「ギドン・ドゥ・ラ・メール」について
近見正彦
<要約>
本稿は,海上保険法史上一つのモニュメントであると言われている「ギドン・ドゥ・ラ・メール J に
ついて,若干の考察を試みたものである。
「ギドン・ドゥ・ラ・メールj は,私的なマニュアルにすぎないが,そこに掲げられた多くの規定群
はほとんどそのままルイ却の海事勅令に受け継がれ,その重要性を高く評価されている。しかしなが
ら,その重要性は広く認められているものの,これの研究はきわめて少ない。まして本格的な研究に限
れば,皆無に近い。そのためもあるのであろうか,
1ギドン・ドゥ・ラ・メール」には,未だに解決さ
れていない問題が数多く存在する。本稿では,多くの問題から三つの基本的な問題,すなわち「ギドン
・ドゥ・ラ・メールJ の元来のタイトル,編纂・発行の時期および編纂者の問題を取り上げ,それらの
解決の一端を提示している。
<キーワード>
保険,保険法,保険史,保険法史,海上保険,海上保険法,海上保険史,海上保険法史, 61 世紀,フ
ランス,ルアン
I
序
フ ラ ン ス ・ パ リ の 北 西m
k731
)neuoR(
, セ ー ヌ 川 河 口 か らm
k521
上流の地にノルマンデイ最大のルアン
という都市がある。ここは,かつてノルマン公国の首都であり,現在では下セーヌ工業地
域東部の中心地で,今なおその繁栄を誇っているが,この地が世界に広く知られているのは,何と
言っても百年戦争末期のフランスを救った救国の少女,聖ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた地
であったためであろう。処刑された広場ecalP(
ud iV xue )ehcraM
には,ジャンヌの魂を弔うために
聖ジャンヌ・ダルク教会が建てられており(同所の南には,小さいがジャンヌ・ダルク博物館も建てられ
ている),市の中心部の北には,ジャンヌが幽閉されていた搭
ruoT(
enaJ
'd Ar )c
も残されている。
ルアンを世界に知らしめているのは,こればかりではない。絵画に趣味を有し,特に印象派に興
三回商学研究
8
味を抱いている人達は,モネが日の光の変化の中に浮かぶ大聖堂を描いた連作にルアンの町を思い
描くであろうし, 9831
1r)ego
年の世界最古の大時計 oH-srG(
を目当てに当地を訪れる観光客も少
なくはない。また,コルネーユやフロベールの生地としても名高い。
かかるルアンは,海上保険法史においても,かの有名な「ギドン・ドゥ・ラ・メールj が編纂・
発行された都市であるとされているから,重要な地であること,一般に認められている。
「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ は,あたかも法典の如き体裁で書かれているが,法典そのもので
はなく,あくまでも当時の諸慣習を法規集の形で編纂した私的マニュアルである。したがって,
「ギドン・ドウ・ラ・メール」が国家権力を背景とした法規としてその効力を有したわけではない
が,これのほとんどの規定はルイVIX の海事勅令に受け継がれ,さらにこの海事勅令が当時のヨー
ロッパの海事に関する一般法とされていたから,
rギドン・ドゥ・ラ・メール」の海上保険法史上
の重要性に異議を唱える研究者はいない。
このように「ギドン・ドゥ・ラ・メールj はその重要性を広く認められているものの,不思議な
ことにこれに関する本格的な研究は少ない。そのためであろうか,
rギドン・ドウ・ラ・メール」
については,今なおその編纂・発行の時期,編纂者等,いくつかの基本的な問題が解決されること
なく残されている。
本稿では,とりあえず「ギドン・ドゥ・ラ・メールj の未だ解決されていない問題からそのタイ
トル,編纂・発行の時期および編纂者の三つの問題を取り上げ,それらについて若干の考察を試み
たいと思う。
E
タイトル
上記マニュアルに触れたわが国の文献を繕けば,表記の仕方が区々であることをにわかに知るこ
とができる。
rギドン・ドゥ・ラ・メー
)JJJ ,「ギドン・ド・ラ・メ-)むあるいは単に「ギド J」)
とする文献があり,また原語を使用している場合にも,“G 凶don
あるいは“Le Guidon
de al mer"
,
“Guidon
de al Mer"
と表記の仕方に違いがある。しかしながら,ヨーロツパの文献で
は,このような表記の仕方の相違はほとんどなく,概ね“Guidon
)1 .fC eriaperuaeB
,
p4. 30
)2 たとえば,田中, 21.p
)3 たとえば,大森, 12.p
)4 たとえば,石井, 45.p
)5 たとえば,石井, 45.p
)6 たとえば,今村, 59.p
)7 たとえば,加藤, 81.p
)8 kcurB
,
.S 7,
Dona ,
世56.p
de al mer"
,
faL eso ,
p191. tesusedraP
,田中・原茂, 9.p 等.
,木村, 43-32.p
等.
II(
de al mer"
とされている。とす
J,.p 73 .1
等.
,加藤, 32.p ,木村, 432.p
等.
,田中・原茂, 9.p ,村瀬, 19.p
等.
等.
,
Gow ,
,
p4. Hamacher
,
35.S
,
iRtrep
,
53.p
,
zluhcS
,
S 71 等.
「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について
98
れば,このマニュアルのタイトルはこれを「ギドン・ドゥ・ラ・メール」または「ギドン・ド・ラ
uidon
・メール J,あるいは原語で“ G
de al mer"
とするのが,おそらく穏当なところであろう。
しかしながら,そもそもこのマニュアルの元来のタイトルが“ G
uidon
ed al mer"
であったので
あろうか。
「ギドン・ドゥ・ラ・メー lレ」は, carielC
がその著書に掲げて広く知られるところとなった,と
言われているけれども,果たしてそこには“ G
uidon
ed al mer"
というタイトルが付されていたの
であろうか。
carielC
には,少なくとも 7461
年版, 161
年版, 1761
年版, 3871
年版, 871
年版が存在してい
る。そして,そのいずれの版にも「ギドン・ドゥ・ラ・メール」が掲げられているが,そこには,
版により多少の綴りの違いはあるものの,大略“n
odivG
,
te ivq tnetem
esidnahcrm
aal Mer"
elitv
te eriasecen
rvop
というタイトルが付されており,“ G
uidon
xvec
ed al mer"
ivq
tnof
とされ
ていたわけではなかった。したがって, Iギドン・ドゥ・ラ・メールj の元来のタイトルは“ G
uidon
ed al mer"
ではなかったと思われるが, carielC
若干手を加えていたから, carielC
は
, Iギドン・ドウ・ラ・メール j を掲げる際に,
のみで,これのもともとのタイトルがどうであったかを判断す
るのは早計に過ぎる。
「ギドン・ドゥ・ラ・メール j のマニュスクリプトまたは印刷本があれば,それに如くは無い。
「ギドン・ドウ・ラ・メール」のマニュスクリプトは聞に埋もれ 未だに発見されていない。し
かしながら,印刷本は,少なくとも 7061
年版, 8061
年版, 916
年版の 6 版が発行されたらしい。それらの内, 8061
らかに現存しているけれども,残りの7061
年版, 8261
年版, 916
年版と 5461
年版, 8261
年版は, susedraP
年版, 5461
年版および1561
年版および1561
年版は明
が言及し,参照した版
で,おそらくは現存するのであろうが,残念ながら筆者は今のところそれらの所在を確認するには
至っていない。
大谷教授 li
のは7461
最近の著書に n
odiuGI
年版である j とされ, 7461
による保険証券の雛形」を掲載するにあたって「援用した
年版の存在を明らかにしているけれども,それはClcarie
の7461
年版のことであろう。
それはともかく,上記 6 版の中で最も古いのは,言うまでもなく 7061
年版である。そこで,同版
が初版であるかどうかが問題となる。
同版の序文の献辞には,同版を“'fehcered
印刷したことが示されているらしい。“'fehcered
)9 “
"v を発音に合わせて“ u" と表記している等の違いがある
)01
C.erifaperuaeB
,
p4. 30 tesusedraP
)II( ,.p 573 .
)11 susedraP
)II( .,
47-173.p
大谷, .02.p
なお,同教授は,同じ箇所で
susedraP
が印刷本の年代について誤記していることを
)21
指摘しているが,それは同教授が G
i 凶nod ed al mer 自体は, 7061 年版と5461 年版が現存しているよう
である」とされたための誤解であろう。
0
09
三田商学研究
は「再びJ あるいは「もう一度j という意味であるから, 7061
年以前に同じものが印刷されていた
のであって,同年よりも古い版が存在したようであるが,それが何年の版であるかは,
“
'fehcerd
という語からは分からない。
)41
suedraP
によれば,かつてシェルブールの海事裁判所の検事職にあった tluorG
は「ギドン・ドゥ・ラ・メー Jレj に061
た海法関係の文献のリストが存在し,その中で, tluorG
)51
年という年号を付していた。このことから, suedraP
により作成され
は,おそらく tluorG
は061
年版を初版と考
えていた,とする。
この指摘はきわめて興味深い。しかしながら,上記リストが今でも存在するのか,また存在して
いても,それはどのようなものなのか,さらに果たしてそれがどの程度信用の足るものであるか
は,同リストに関する詳細が示されていないので判断のしょうがない。したがって,ここでは 061
年版がおそらく存在し,それが初版であるかもしれないという,僅かな可能性のみを記憶に留めて
おくことにしよう。
さて,
rギドン・ドゥ・ラ・メールJ の元来のタイトルに立ち返るが,この問題は 7061
年版を見
ることにより一挙に解決することができると思われるけれども,現在,筆者は同版の所在を確認し
)61
ていない。したがって,それを見るわけにはいかない。また,同版を利用した suedraP
ドン・ドウ・ラ・メールJ の諸規定を掲げるにあたって,“ DROIT
NOM
DE GUIDON
DE IA MER"
MARl
というタイトルを挙げるのみで
TIME
も
,
CONNU
rギ
SOUS
LE
これが「ギドン・ドウ・ラ・
メール」のもともとのタイトルであるとは思えない。
幸いにも,筆者の手元には 8061
nidro
必er
STILE
du
Roy
年版のコピーがある。これを見ると,同版はeriarbil
である nitraM
ET VSANCE
DES
el reisgseM
QVI
FONT
marchndise
ruemip
の工房で印刷・発行され,その表紙には“ GVIDON
MARCHANDS
QVI
a al Mer"
tnetm
ドウ・ラ・メール」の諸規定を収録しているところには,“ GVIDON
CEVX
& Im
,
& iuq tnetm
en al Mer"
と印刷されている一方,
Vf ILE
rギドン・
ET NECESSAIRE
POVR
というタイトルが掲げられている。
両者には若干の相違があるが,いずれがそもそも「ギドン・ドゥ・ラ・メール j に付されたタイ
トルであるかと言えば,諸規定掲載のところに書かれたのがそうであり,表紙に印刷されているの
は書名と考えるのが自然で、あろう。
8061
年版は, 7061
年版に遅れるところわずか l 年で発行されているから,おそらく 7061
のまま再版したものである。とすれば, 7061
)31
)41
)51
)61
.fC etioB 皿
,321.p
tesusedraP
II(
.273.p
susedraP
JII( ,
susedraP
II( J,
.273.p
susedraP
JII( ,
.73.p
な
お
,susedraP
年版の書名,すなわち“selhoN
semutoC
が掲げられている。
"rem
年版をそ
年版それ自体の書名およびそれに収録された「ギドン
J,.273.p
のlirB
uo nodiuG
】
no
に触れた箇所には,nollirB
e,
lytS
te ecnasU
sed sdnahcram
が実際に引用した1561
iuq tnetem
aal
「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について
-ドゥ・ラ・メール
J
のタイトルではないが, 8061
19
年版のそれらをもって 7061
年版のそれらとみな
しでもあながち誤りであるとは言えない。
7061
年版と 8061
年版の書名および「ギ、ドン・ドゥ・ラ・メールj のタイトルが同じであろうとい
う推測は,後の 916
含めて, 8061
年版でも,書名およびタイトルの両者ともが,大文字と小文字の使用の仕方を
年版と全く同じである事実によって裏書きされている。すなわち, 8061
年版の書名と諸規定のタイトルが全く同じであるという事実により, 8061
い1
706
年版および1
916
年と僅か 1 年しか違わな
年版も同様で、あったと思われるのである。
もちろん僅か l 年でタイトルを変更した可能性が全くないとは言えない。しかしながら,常識的
に考えてその可能性は限りなく小さい。したがって,
Vl1 LE ET NECESSAIRE
は,これを“GVIDON
en al Mer"
tnem
E
POVR
とし,初期の印刷本の書名は“GVIDON
aal Mer"
Iギドン・ドウ・ラ・メール」のタイトル
CEVX
STILE
QVI
FONT
ET VSANCE
marchndise
,
& q 凶 tnem
DES
MARCHANDS
QVI
とするのが正しい。
編纂・発行の時期
「ギドン・ドゥ・ラ・メール j がいつ頃発行されたかについては,あまり論議がなされていな
い。発行時期よりも編纂時期の方が重要であると考えられたからかも知れないし,あるいは,いず
れの時期も通常それほど隔たってはいないので,両者を区別して論議する必要性が認められていな
かったからかも知れない。
それはさておき, 8061
年にルアンで「ギドン・ドゥ・ラ・メール」が発行されたことは,紛れも
ない事実である。筆者の手元にそのコピーがあるからである。また, suedraP
が利用した 7061
年
版も,その所在をつきとめてはいないけれども,確かに存在していたであろう。問題は,それ以前
の版があるか否か,そしてそれは何年の版であるかである。
既述のように, 7061
年版の序文にある献辞が“d
'fehcer
印制したことを明示している由である
から,これ以前に「ギドン・ドウ・ラ・メー Jレj が印刷されていたことは明らかであろう。しかし
ながら,それが何年の版であるかに触れた研究はほとんどない。おそらく suedraP
ではないかと思われるが,その suedraP
は
, tluorG
のメモに触れ, 061
しかいないの
年版が存在し,そしてそ
れが初版であったかもしれないことを,断言的な言葉は残していないものの,暗に示している。
初版の発行後数十年を経て,その資料的価値の高さ等から再版されるケースがないわけではない
)71
xuetioB
,
221.p
に掲げられている“Le nodiuG
elits te ecnasu
sed sdnahcram
q凶tnetem
aal "rem
は
,
これを“u
en etros
ed "leunam
と同格に解釈すべきであるから, xuetioB
が間違っているわけで、はない
が,書名であって, rギドン・ドゥ・ラ・メール」そのもののタイトルではない。xuetioB
は,これを7061
年版のものとしているようであるけれども,同版の所在については,何も明らかにしていない。
29
三田商学研究
けれども,一般には数年後に再版されることが多く,さらに 7061
れている事実をも同時に考慮すれば,
のアローワンスも入れ, 7061
年版に続いて翌日80 年にも発行さ
rギドン・ドゥ・ラ・メールJ の発行時期については,多少
年から 20 年は遡らないのではないだ、ろうか。
4 説が主張されている。第ーは 61 世紀後半,第二は61 世紀末の数
一方,編纂時期については
年,第三は 1556年 ~1584年,第四は 1563年 7 月 20 日 ~1565年という説である。 15世紀あるいは 17世
紀に編纂されたという説は,筆者の知る限り,存在しない。 61 世紀,それも後半に編纂されたであ
ろうことについては,ほほ異論は見当たらない。
かかる 61 世紀後半説は,比較的無難な説ではあるが,大雑把であるとのそしりを免れない。もう
少し詳細な限定をなすことができれば,その方が望ましいに違いないけれども,資料という制約の
中で限定をするわけであるから,正確を期すべく,より幅をもって限定せざるを得ないことも当然
あり f尋るであろう。
雌紀末の数年という説は, sedraP
ぷ宝説いている。すなわち,
編纂は 61 世紀末の数年に決定され得ると思う Je]( siorc
sereinred
sena
ud VIX eeis 1c).e
cnod
no'uq
rしたがって,私は,ギドンの
tuep rexif
alnoitcader
ud nodiuG
xua
と。その根拠は,必ずしも明確に述べられているわけではないが,
論旨の進め方から筆者が付度すれば,
rギドン・ドゥ・ラ・メール」の初版は061
た可能性がないわけではない,もし 061
年頃に発行され
年頃に発行されたとすれば,これの編纂は061
年を大きく
遡ることはないであろう,したがって, 61 世紀末の数年に編纂されたと考えることができる,とい
う点にある。
)91
また, 1556年 ~1584年説は,大谷教授の記述に従えば, suedraP
が主張しているかのようであ
)02
る。確かに, suedraP
は
, r ギドン・ドゥ・ラ・メールJ が1556年 ~1584年に編纂されたかもしれ
ないことに言及しているが, suedraP
自身が同説を主張しているわけではない。 suedraP
は
,
「ギドン・ドゥ・ラ・メー Jレj が1556年 ~1584年に編纂されたということは「あり得ないことでは
ない J
li( entiores
sap
impossible) と言っているに過ぎず,自らの主張として 1556年 ~1584年説を唱え
自身は,その 01 数行下で,
ているわけではない。上記のように, suedraP
rしたがって,私は,
ギドンの編纂は 61 世紀末の数年に決定され得ると思う」としているのである。
1556年 ~1584年説の根拠は,端的に言って,
rueirp
およびslusnoc
るが,それは651
(いわゆる
)slusnoc-seguj
,
.273.p
,
.273.p
はそれまでにない
の保険訴訟における裁判権について定めを置いてい
年の王令により設けられたものである一方,その裁判権は 4851
よって海事裁判所(釦lIr )etua
)81 susedraP
)II(
)91
大谷, .091.p
)02 susedraP
)II(
rギドン・ドゥ・ラ・メールj
年の王令第 2 条に
に移管されており,この海事裁判所について「ギドン・ドゥ・ラ・
「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について
39
メールJ は言及していない,ということにある。
第三の 1563年 7 月 20 日 ~1565年説は, liverF
時支持し,大谷教授ト採る学説で、ある。elliverF
ほとんどそのまま翻訳した大谷教授によれば, 651i
の裁判権については,遅くとも 561
3651
年の王令で初めて設けられた Js
lunoC-segu
年までには異議が唱えられており,一方,この651
年 7 月0
2 日のノルマンテY 高等法院
)tnemelraP(
を
年の王令は
に登録されて初めてその効力を生じたから j
24)
1563年 7 月 20 日 ~1565年に「ギドン・ドゥ・ラ・メールj は編纂されたというわけである。
さて,上記各説の問題点を検討すれば, 61 世紀後半説は,既述のように,大雑把であるとの非難
を受けざるを得ない。期間をより限定することができれば,それに越したことはない。
61 世紀末の数年に編纂されたという説は,
iギドン・ドウ・ラ・メールj
の意義をきわめて単純
に考えているきらいがないわけではない。
「ギドン・ドウ・ラ・メール」は元来私的な編纂物である。しかしながら,これが有する意義に
は,種々のものが考えられるのではないだろうか。すなわち, 651
となったrueirp
およびslusnoc
年の王令により認められること
の制度は,他の都市にはあったが, }レアンにはそれまでなく,上記
王令によって初めて設けられた制度である。そして,同制度の設立に熱心に取り組み,かつ力の
あった者がAneniot
saisaM
であって,この者が上記制度設立のために,いわば建議資料として
「ギドン・ドゥ・ラ・メール」を編纂したのかも知れない。もしそうであれば,
・メー Jレj はrueirp
およびslusnoc
いは,同制度設立後のrueirp
iギドン・ドゥ・ラ
制度設立のための建議資料として意義を有するであろう。ある
およびslusnoc
がいかなる規範に基づいて裁判を行うかが確国として
決定されていない時に,私的編纂物ではあるが,かかる裁判における規範資料として編纂されたと
考えることもできょう。この場合には,
iギドン・ドゥ・ラ・メールj
は,裁判の規範的な意義を
有していたと言える。あるいは,上記制度設立後,商人衆は保険取引を行うにあたって当時の諸慣
習を知らなければ安全な取引を行うことができないから,そのためのガイドブックとして編纂され
たのかも知れない。そうであれば,商人衆の安全な取引のための指針的意義をこれに認めることと
なる。またあるいは,商人衆が,保険取引について自主的規制を行うにあたって,その規範として
編纂されたということも十分に考えられる。かかる場合には,
iギドン・ドウ・ラ・メールj
は商
人衆の自主的規制規範としての意義を有する。
このように,
iギドン・ドゥ・ラ・メール」の意義は,これをいろいろに考えることができるの
であって,もしそうであるとするならば,まず「ギドン・ドゥ・ラ・メール」の意義を明らかにす
ることが肝要であろう。それによっては,自ずから編纂の時期が決まって来るおそれがあり得るの
)12 .fC susedraP
)22 elliverF
.7,
43.p
)32
大谷, .091.p
大谷, .091.p
)42
)II[
,
.273.p
49
三田商学研究
である。ということは,杓子定規に必ずしも初版発行に遡ること数年の内に編纂されたと考えなけ
ればならない必然性は存在しないわけで,もし,そのように主張するのであるならば,それなりの
理由付けが必要であろうにもかかわらず, suedraP
い
。 suedraP
には,明確な理由付けは特段なされていな
の思考を極言して述べれば,初版発行前数年の聞に編纂された,としているに過ぎ
ない。
1556年 ~1584年説は,いかにも説得力を有するかのような印象を与えるけれども,保険訴訟の裁
判権が海事裁判所に移管されたのは,最終的に1861
25)
年 jレ
イVIX の海事勅令であるという批判に対し
て,どのように回答するのであろうか。
suedraP
は
, 4851
年以前に「ギドン・ドゥ・ラ・メール」が編纂されたと推断することはきわ
めて当然であろう,しかしながら,海事紛争を海事裁判所へ係属せしめることは, 4851
布後も一般に行われなかったし,ノルマンデイでは,slusnoc-seguj
ていた,そして,slusnoc-seguj
が継続してその裁判権を有し
が最終的にこの権限を失うのは, 1861
てのみである,したがって,
とから導き出される論議は,
rギドン・ドゥ・ラ・メール」にslusnoc-seguj
rギドン・ドウ・ラ・メールj が4851
証拠とはなり得ないであろう,として, 4851
年の王令公
年の海事勅令の施行によっ
が言及されているこ
年以前に編纂されたことを示す
年以前という限定を廃棄し, 61 世紀末の数年に編纂さ
れたと主張するのである。
)7:2
さらに, eriaperuaeB
し
, rueirp
およびslusnoc
によれば, 651
年という始期はおよそ01 年下らなければならない。けだ
の裁判権確立のためには,同権限を行使すべき地および場ならびに裁判
を行うための当初の資金が必要で、あり,その手当が最終的になされたのは561
年であったからであ
る。かかる批判にどのように反論するのであろうか。
1563年 7 月 20 日 ~1565年説には,上の 16世紀末の数年に編纂されたとする説および1556年 ~1584
年説に対する批判がそのまま妥当する。 eriaperuaeB
が実質的にも確立するのは561
間限定の根拠とされているf] s
egu
の研究では, rueirp
およびslusnoc
年以降であって,それ以前ではない。また, 561
一
slunoC
の裁判権は561
の裁判権
年という一方の期
年までに異議が唱えられたj という点
についても,実証という観点から言えば,きわめて大きな難点が存在する。けだし,elliverF
も大
谷教授も証拠となるべき資料を明らかにしていないからである。したがって, F
re 吋
ell によって
も,大谷教授によっても,どのような異議が唱えられ,その結果なぜ、rueirp
およびslusnoc
が裁判
権を失うこととなったかは,イ可も分からない。
このように,上記 4 説は,決定的であるかどうかは別にして,いずれも何らかの欠陥を有してい
)52 susedraP
)62 susedraP
)72 erraperuaeB
)II( ,
.273.p
.273.p
)II( ,
.7-6,
04.p
「ギドン・ドゥ・ラ・メールj について
59
る。かかる諸学説の中で最も無難なのは,大雑把で、あるという非難は甘受しなければならないけれ
ども, 61 世紀後半説であろう。しかしながら,さらに一歩踏み込んで61 世紀後半のいつ頃かという
ことになると,いかんせん参考とすべきオリジナル資料が少なすぎる。したがって,今ここでいっ
頃であると断じるわけにはいかない。本稿では,とりあえず61 世紀後半とし,さらなる限定は資料
の発見を待ってあらためて行うこととする。
町編纂者
「ギドン・ドゥ・ラ・メール j が誰によって編纂されたかについては
あるとされつつある。かつては,不明であるとされたり, Aneniot
れていたが,最近の文献では概ねAneniot
saisaM
saisaM
ほぼAneniot
saisaM
で
以外の名が取り沙汰さ
とされている。であるならば,編纂者に関する
問題は解消されたかのようであるが,必ずしもそうではない。
28)
大谷教授は,
ち
, G
uidon
Aneniot
comerce
I現在では, .hC
ed al mer
saisaM
ed eriaperuaeB
の見解が通説となっているようである。すなわ
の作者は,スペイン人であり,かつルアン市の初代保険会議所書記であった
であると考えられている。 j とし(アンダーラインは引用者),注に taloM
emitram
normand
aalnif: du moyen
が挙げられていることから考えれば,
ega
Iすなわち j
,
siraP
,
2591
以下はtaloM
,
.p 39
,M. ,Le
を掲げている。注にtaloM
の見解のようであるが,それでは
その前の文章とのつながりが奇妙である。「すなわち」という語の意味からすれば, eriaperuaeB
見解がこの語の後に続いていると考えるのが通常であり,同見解を大谷教授はtaloM
の
により明ら
かにしたというのであろうか。
eriaperuaeB
の主張が通説であるか否かはともかくとしても, eriaperuaeB
がAneniot
saisaM
を
スペイン人であると考えていたかと言えば,そうではないと答えなければならない。この一事を
もってしでも,編纂者に関する問題がなくなったわけではないことを理解することができる。
まず,大谷教授により通説とされている(ただし,同教授はeriaperuaeB
eriaperuaeB
を引用されていない)
の主張を聞くことにしよう。
eriaperuaeB
によれば, 651
年の王令で認められたrueirp
およびslusnoc
の裁判権が実際に機能
するようになるには,同王令が高等法院に登録され,公示されなければならなかったことはもちろ
ん,それと同時にこの裁判権行使のための土地・建物が手当されなければならなかった。かかる土
地・建物の取得には,多額の資金が必要であったけれども,新しいこの裁判権が一刻も早く実際に
行使されるよう,先頭に立って運動を展開したのが,かのAneniot
)82
大谷, .291.p
)92 eriaperuaeB
.1-6,
04.p
saisaM
という人物であり,彼
69
三田商学研究
は商人衆の名で請願書を提出し, 7551
年11 月62 日の書状により裁判権行使のための土地・建物の取
得が認められることとなる。また,各種の抵抗を排除し,裁判権行使のために商人衆が寄り合う許
可を取り付ける一切の手続きを引き受けたのも,このAneniot
ない。An ω
ine
saisaM
であった。そればかりでは
は,そもそもこの裁判権確立のために,王令の高等法院への登録に精力的に働きか
けたのであった。
3651
年 5 月32 日,最終的にAneniot
の主張は成果を得,同年 7 月01 日に届けられた免許状によ
り,裁判所が取得すべき税額およびその収税業務執行の商人衆への委託が認められることとなっ
た。なお,この金額はかなり高額で,その中から裁判所長官が取得する金額は, 3651
階で, 9,
813
Aneniot
年21 月末の段
l.t.に決められている。
saisaM
は,このようにルアンにおけるrueirp
およびslusnoc
の裁判権確立のために精
力的に活動した。一時他の商人衆の反感を買ったけれども,おそらくAneniot
れたに違いない。それは,彼が初代の erg 血re sed secilop
secnarusa'd
の貢献は高く評価さ
に任じられたことから理解
することができる。
Aneniot
saisaM
が海上保険に関して豊富な知識を有していたことは, 3551
人記録にある,ポルトガル人 SimonB
年 7 月91 日付け公証
砲の船舶に付された 2 件の保険契約に,スペイン商人衆の
コロニーにおける主要な商人衆とともに彼の名が掲げられていることから,疑問を差し挟む余地は
ない。
かかるコロニーの主要な商人衆の何人かは,フランスに帰化した家族を祖先とし,当時すでにル
アンでは高い尊敬を受けていたが, Aneniot
月のerreiP
saisaM
と
ρI 凶es edlueryC
は0251
がどうであったかと言えば,eriaperuaeB
年01
との婚姻状(ルアンで作成)に基づき彼が出自をスペインと
することを否定している。しかしながら, Aneniot
は
, 8651
年 7 月91 日の記録にあるように,フラ
ンス語とスペイン語に熟達した人物で,スペイン商人と取引関係を途絶えなく有し,裁判ではしば
2751
しばスペインでなされた契約のフランス語訳を作成していた。さらに,彼の娘 ehtaC
出el は
,
年から5751
と結婚してお
年の間tniaS
-se-E
d-eneit
sreilenoT
の出納係であったsiocnarF
ine
り,スペイン家族との縁も結ぼれていた。したがって,An ω
saisaM
alivaD
がスペイン人であると誤
解される背景は十分に整っていた。しかしながら,上記のように,eriaperuaeB
saisaM
によればAneniot
はスペイン人ではない。
Aneniot
Massias が gre飽er に任じられたのは 1563年 ~1565年 9 月 27 日であり,初代の gre血er で
あった。さらに,彼は1751
年にもその任にあり,ルアンにおける erg 飽re 制度設立当初において彼
が果たした役割はおそらく過大評価しでも評価しすぎることはない。An ω泊e saisaM
物であったことを考えれば,
がかかる人
Iギドン・ドゥ・ラ・メール」の編纂者として彼以外の誰の名を挙げ
ることができるであろうか。「ギドン・ドゥ・ラ・メール」の編纂者に関して直接言及するオリジ
「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ について
ナル資料が存在しない中で考えられるのは, Aneniot
saisaM
97
しかいないのである。eriaperuaeB
「ルアンにおけるギドンの編纂について最も適任な人物はAneniot
saisaM
は
であり,私はこの編纂
の名誉を確かに彼に与えおと言う。
おそらくeriaperuaeB
の見解は正しい。保険訴訟におけるrueirp
reifferg
に精力的に奔走し,初代の
に任じられたAneniot
およびslusnoc
saisaM
の裁判権確立
を差し置いて「ギドン・ドウ・
ラ・メー lレj 編纂の栄誉を受けるべき者はいない。
確かに「ギドン・ドゥ・ラ・メールJ の編纂者はAneniot
であろう。しかしながら,だ
からといって,これの7061
年版の著者もAneniot
納係の記録によれば, 6951
年の復活祭から翌年の復活祭までの 1 年間にAneniot
ために02 suos
て
, 7061
saisaM
saisaM
が支払われていた。すなわち, Aneniot
であったわけで、はない。iolE-tniaS
saisaM
の出
の埋葬の
は,上記期間中に死亡していたのであっ
年版を著すのは不可能である。とすれば,同版は誰が著したのか。
eriaperuaeB
は
, Aneniot
も危倶するように, 7061
の息子La tneru
がこれの著者であると推測する。ただし, eriaperuaeB
年版の序文 8061(
年版にはこの序文は付されていない)のトーンおよび内容
は,ルアンで多くの商人衆から尊敬され,二代に渡り erg 血re を務めたAneniot
saisaM
およびLa tneru
にふさわしいとは言えない。二人の名前も単に「二人の熟練した,この市の最も富裕な商
人J とされているばかりでなく,二人への賛辞も全く書かれておらず,二人の名声・名誉・社会的
地位に応じたトーンおよび内容になっていない。このあたかも矛盾しているかのような二つの事実
をeriaperuaeB
は「私は,本屋の広告のみを知り,著書がかつて売り出され,多くの序文が我々に
例を提供するこの罪のない欺臓の良好な市場ができていたとしても何ら驚くに値しなようとして,
当時すでにルアンには海事関係のマニュアルに関する相当な市場が存在したことを理由に,矛盾で
はないと説く。すなわち, eriaperuaeB
の言わんとすることを筆者なりに理解すれば,ルアンでは
海事関係のマニュアルが多く発行されており,この溢れんばかりの類書の中で,新刊として「ギド
ン・ドゥ・ラ・メールJ を発行するにあたり,序文は献辞等により飾られることなく,淡々と書か
れたにすぎないのである。
eriaperuaeB
のように理解すれば,確かにAneniot
とLa tneru
saisaM
の名声・名誉・社会的地位
に対してどちらかと言えば冷淡なトーンで書かれた事実を納得することができる。しかしながら,
この序文はさらに新たな問題を提供するのであって, p
eruaB
御
il この序文の内容から「ギドン
.ドゥ・ラ・メール j よりも賞賛に値する別の作品がいくつか存在するかもしれないことを推測し
つつ,
)03
)13
)23
)33
Iギドン・ドウ・ラ・メールj
erraperuaeB
erraperuaeB
erraperuaeB
erraperuaeB
.2,
14.p
,
p4. 1.1
,
p4..31
,
p4..31
の7061
年版以前の版の存在については否定し, susedraP
と
89
一回商学研究
対立するのである。
年以前の版の存在については,すでに触れたように,おそらく存在したと思われるが,
1607
が言及する Groult
Pardesus
のリストも上記序文の付された 1607
何とも致し方がない。ここでは, Pardesus
V
年版も確認していない現在では,
に与しつつも,最終的な判断は留保しておきたい。
結
「ギドン・ドウ・ラ・メール」はその名声および重要性にもかかわらず,さほどじっくりとは研
究されていない。
本稿で取り上げた三つの問題はいずれも基本的なものであるが,それらでさえ必ずしも最終的な
判断を留保しなければならない問題もあり,
rギドン・ドゥ・ラ・メールj
の謎は深まるばかりで
ある。
本稿ではかかる謎の一端について,その解釈の指針ないし方向性に関する一石を投じたにすぎ
ず,本格的な研究は新しい資料の発見を待ってあらためて行いたいと思う。
参考文献
石井『海商法』法律学全集03 ,有斐閣,昭和34 年.
今村『海上保険契約論』上巻,損害保険事業研究所,昭和35 年.
大谷『フランス海上保険契約史』成文堂, 91
大森『保険法(補訂版
H 法律学全集13
年.
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加藤『ロイド保険証券の生成』春秋社,昭和 3
8 年.
木村『ロイズ保険証券生成史』海文堂,昭和 54 年.
田中(誠
H 新版保険法』千倉書房,昭和35
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田中(誠)・原茂『新版保険法(全訂版
近見『海上保険史研究-14
年.
千倉書房,昭和26 年.
年.
・5世紀地中海時代における海上保険条例と同契約法理一』有斐閑, 791
村瀬講述『海上保険講義要領』巌松堂,明治4
5 年.
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xuetioB
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「ギドン・ドゥ・ラ・メール」について
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[一橋大学大学院商学研究科教授・商学博士]
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