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九州工業大学学術機関リポジトリ"Kyutacar"
九州工業大学学術機関リポジトリ Title Author(s) Issue Date URL 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 : コーンウォル産 すずの先買1607-1643年をめぐって 水井, 万里子 2013-03-31 http://hdl.handle.net/10228/4932 Rights Kyushu Institute of Technology Academic Repository 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ―コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって― 71 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 – 1643年をめぐって ― (平成24年11月30日 受理) 人間科学系 水井 万里子 Mineral Resource and the State Finance in Early Modern England :The Tin Farming 1607-1643 ( Received November 30, 2012) Kyushu Institute of Technology Mariko MIZUI はじめに イングランド国家財政は17世紀中に重要な転換を遂げた。国家の総収入の長期的推移を 見れば、16世紀中葉の修道院解散期に短期的に増大した総収入が以降1640年まで停滞し たのと対照的に、1660年代、ついで1680年代に飛躍的に増加した後は19世紀初頭に至る まで増加の一途をたどったことがわかる。近世を通じて拡大していく軍費に財政面で対処 するために、税収による財政基盤と長期貸付金の確保が必要であった。17世紀のイングラ ンドは、特に1640年代以降の税徴収における議会コントロールの拡大、1690年代のいわ (a fiscal state) ゆる財政革命などによってこれを整備していき、18世紀には「財政国家」 1) としての体制を固めることとなる。 しかし、17世紀の度重なる経済、社会、政治、外交、宗教をめぐる危機、アイルランド・ スコットランド・イングランドの三王国体制の動揺、そして革命という問題を看過して、 国家財政の発展的側面のみを重視することはできない。特に1640年代以前の財政上の諸 2) 問題はイングランドの内乱の起源をめぐる議論の主要な論点の一つでもある。 この点を 踏まえれば、1640年代の税徴収権力の交替と国家財政の関連に注目し、17世紀イングラ ンドの国家財政基盤の変容を、 「王権歳入」から「税収」への移行過程としてとらえるこ とができる。1640年代以前には、議会の承認を得ない国家歳入は総収入の約四分の三を 占めた。この歳入には、国王大権に基づく多様な財源からの歳入だけでなく、初期ステュ アート朝の非議会承認税である強制借り上げ金、船舶税なども含まれる。 エリザベス朝から初期ステュアート朝の税収はインフレーションによってその価値を減 じ、これにより負債に喘ぐ当時の国家財政改善のための財源は、付加関税の賦課や独占権 の付与といった国王大権に基づいたものに多く求められた。しかし、このような徴収手法 は当該時期の議会、さらに地域社会においても国王の課税への大権に対する疑義を巻き起 72 水 井 万里子 こした。一方、増大する支出に直面した王権は収入と支出の差を議会承認税収で埋めるこ とができず、結果、王権はこれに代えて「大権の限界を試しつつ」 、政治的なリスクを伴 3) う国王歳入の徴収に頼ることになる。 特に、関税と初期独占による税収は1640年までは王権によってコントロールされ、そ の徴収は国王大権に基づいて行われたが、これらを王権歳入枠に入れるとすれば、当該時 期の王権は国家総収入の70%以上を掌握していたことになる。16世紀中葉から18世紀初 頭までの時期を通じ国家総収入の約三割から四割を占めた関税収入は1640年代以降議会 に掌握され、1650年代までには関税・消費税による歳入も議会がコントロールした。ピ ューリタン革命、共和政を経て1660年の王政復古以降も、王権歳入は1640年代以前の国 家総収入に対する圧倒的な割合を回復することはなく、周縁的な財源に甘んじることとな る。つまり国家財政上のバランスが王権歳入側から議会課税歳入に著しく傾いた1640年 4) 代が財政史上の一つの重要な転換点であった。 本稿が取り上げるのは、上記のような国家財政転換期の1640年代まで展開した、イン グランド南西部産出の非鉄金属であるすずの先買制度(pre-emption)である。ここでは、 まず英国公文書館(TNA/PRO −以下 PRO)所蔵の史料を中心に用いながら、先買請負制 度(tin farming)の実証的な解明を通して、当該時期における王権歳入とすず産業の関 わりを明らかにしていく。さらに、先買請負人、ロンドンの商工業者、地元の生産者とい う諸利益集団の動向を通して、王権歳入請負の展開が一産業に与えた影響も考察していき たい。 すず産業は当該時期に王権の歳入源としての掘り起こしが進んだ。当該時期の王権歳入 については、現在リチャード・ホイルらの王領地の研究によって実質的な解明が進んでい 5) る。 ホイルの基調とする議論は、エリザベス治世の王領地経営が合理的かつ効率的であ ったのに対し、初期ステュアート王権は王領地精算による即時の収入獲得に抵抗できず、 王領地が徐々に解体されていった点に集約されよう。しかし、前コーンウォル公領(the Duchy of Cornwall)文書室員グレアム・ハスラムによる当該時期のコーンウォル公領の ケースはこれと異なって、すず先買請負の年レント増によって初期ステュアート朝の公領 6) 経営が順調に発展していたことを示す。 ほぼ同時期に展開した関税徴収請負についての 代表的業績があるロバート・アシュトンは、書評において、ハスラムの指摘するすずの先 買請負と潤沢な公領経営の問題を新奇かつ重要な指摘と評価するが、他方これについての 7) さらに詳細な実証的検討を要求している。 本稿が検討するすずの先買請負制度は、コーンウォル公爵(Duke of Cornwall)の中世 以来の封建的特権である「先買独占権の請負人への付与」の行使であり、請負人の年レン トは王権歳入の一端をなしていた。これについては、ハスラム以前にもすず産業史の代表 的研究者ルイスの著作や、財政史のディーツ、ニュートン、また、アシュトン自身によっ ても若干触れられているが、これらの記述は断片的、もしくは曖昧であり、アシュトンの 8) 指摘のようにさらに解明していかねばならない点が多い。 すず産業はイングランド南西部コーンウォル半島の主要な地域産業であり、1640年代 9) のすず先買の廃止がコーンウォル経済にもたらしたポジティヴな影響が主張されている。 しかし、1640年代以前の地域史料の多くが内乱期に消失し、残存する地域史料も、現在 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって ― 73 閲覧が極めて限定されているコーンウォル公領庁に相当量が保管されているため、産業史 の文脈でも、当該時期のすず産業の研究、特に先買請負制度の解明はほとんど進んでいな 10 ) いのが現状である。 地域史では、最近のストイルの研究により、内乱期に王党派側で戦 ったコーンウォルの人々の地域的独自性と、その核となったすず生産者集団スタナリーズ 11 ) (the stannaries)の問題に焦点があてられているが、 この議論をさらに深めていくため にも、本稿が企図する、1640年までのすず先買請負制度下のすず産業の変容、輸出・国 内加工・生産に関わった諸利益集団の関係性の見取り図を作成することが必要だと思われ る。上記のように、すず産業というミクロの視点から、転換期であった17世紀イギリス国 家財政をめぐる議論のみならず、産業史、地域史の諸議論にも参加していく礎としたい。 2 すず先買請負制度の展開 1607年−1643年 (1)すず産業と王権歳入 初期ステュアート朝の先買請負制の特徴はその継続性と年レントの増大にあるといって もよい。当時王権は生産者ティナーから年4∼5回のコイネージを通して鋳造税を徴収し ており、その年額は2,000ポンド強と安定していた。この内、デヴォンのスタナリーズの すずの年間生産高の9倍以上を産出するコーンウォルのスタナリーズにおいては、1サウザ ンドウェイト(以下MWT)につき2ポンドの鋳造税が課され、当地の年間生産高は1,000 MWT前後であったことから、コーンウォル側のスタナリーズが王権にとって着実な歳入 をもたらした。この安定した税収に加え、王権は先買請負制のもとで、請負人から年レン トを受け取ることとなった。 すず先買請負権が中世以来コーンウォル公爵により保有されたことは先述したが、1601 年の請負制導入以降、直接先買による利益、および先買請負の年レントが財務府に納めら れ国王歳入の枠に組み込まれる事例は多い。1612年にヘンリ王子がコーンウォル公爵と してリヴァリ(the livery)を開いた期間にも請負レントは国王歳入であったとされ、当 時鋳造税とその他の雑収入のみがすず産業からの公領歳入となった。唯一ヘンリの死後 1615年にチャールズ王子(後のチャールズ1世)が公位に就いてから1625年の即位までの 期間においては先買請負レントが公領収入となり、その後は1643年の請負制廃止まで国 22 ) 王歳入枠に再度組み込まれたようである。 このように、すず産業は、国王財政とコーン ウォル公領財政の双方の財源として計上可能な、王権にとって極めて融通の利く歳入であ った。 初期ステュアート期のすず先買の特許は、表で示されるように、合計8回諸請負人グル ープに出されている。この時期の請負はグループごとに四次に渡って展開したものと整理 することができる。 74 水 井 万里子 表 すず先買請負年レント 1607 ―1643年 期間 年レント (£) a: 1607 ― 1608 2 , 000 b: 1608 ― 1612 8 , 000 c: 1612 ― 1613 9 , 000 第二次請負 d: 1615 ― 1621 9 , 000 第三次請負 e: 1621 ― 1628 16 , 000 f: 1628 ― 1638 12 , 000 g: 1638 ― 1640 16 , 000 h: 1640 ― 1643 12 , 000 第一次請負 第四次請負 出典: a: PRO, SP40/2, fos.81-82.;b: PRO, SP40/2, fol.78.;c: PRO, SP14/78/1.;d: ロンドン・ピュ ー タ ラ ー ズ・ カ ン パ ニ か ら £4,500、 ク レ メ ン ト・ ハ ー ビ ィ(Clement Harby) の グ ル ー プ か ら £4,5 0 0。PRO, E3 0 6/1 5, no.1-3; BL, Lansdowne MS.1 2 1 5 , fol.2 2 6.;e: DCO, Book of Orders, 1626-1635, fos.86-87.;f: PRO, SP16/420/38.;g: CSP, Domestic, 1635, p.606.;h: PRO, SP16/451/84. 年レントの額は表中の第一次請負期に三度引き上げられたが、 当初のレント(1607年−08年) 2,000ポンドは、エリザベス治世末期の先買請負年レントと同額であった。1604年から 1607年の国王による直接先買制期の実質収入は、諸経費(すずの運搬料、ロンドンの倉 庫の賃貸料、先買官職保有者への賃金、買い付け費用の借入に対する利子)を差し引き年 23 ) 7,700ポンド前後と概算できる。 これと比較すれば1607年請負制開始当初の2,000ポンドというレントは不均衡なほどに廉 価であったといえよう。しかし、1608年四月に請負制導入を主導した大蔵卿ドーセット伯 (Thomas Sackville, Earl of Dorset)の 死 去 翌 月 ソ ー ル ズ ベ リ 伯(Robert Cecil, the first Earl of Salisbury)が後任の大蔵卿に就任し、同年12月には先買請負人が年レントの8,000 ポンドへの引き上げに応じた。この見返りとして、請負人にはすず輸出に賦課されていた 24 ) 付加関税(the imposition on tin for export)の徴収請負権が与えられた。 1610年からすず 先買請負管理を担ったコーンウォル公領院は、1612年に請負人と交渉を持ち、結果次年度 25 ) レントの9,000ポンドへの引き上げを了承させた。 この際、公領側はロンドン・ピュータ ラーズ・カンパニや他のロンドン商人(この内レヴァント会社との取引については後述)と 26 ) も先買請負をめぐって交渉を進めており、 この競合がレントの引き上げに結びついたとも 推察できよう。しかし、コーンウォル公ヘンリの急逝による混乱からその後の契約の実施 状況は曖昧なものとなり、この新レントが実際に支払われたか否かは明確ではない。 チャールズ王子が慣行上の16歳に満たない年齢でコーンウォル公領のリヴァリを獲得 27 ) したのは1615年6月21日であったが、 第二次先買請負の特許はそれに先んじて同年1月 に国王ジェームズ1世によってロンドン・ピュータラーズ・カンパニに与えられた。ピュータ ラーズ・カンパニは年間500MWTのすず先買を請負い、年レントは4,500ポンドであっ 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって ― 75 28 ) た。 他方、ロンドン商人のシンジケートも同年5月に特許を獲得し、彼らはピュータラ ーズの割り当ての残りを先買することとなり、年レント4,500ポンドをコーンウォル公爵 29 ) に納めることとなった。 当時南西部の年間すず生産量は1,000MWTと見積もられてお り、年レントも1612年の旧請負人との契約にある9,000ポンドを双方の請負グループが二 分した。また、両請負グループは鋳造税の徴収・納入業務も代行し、それぞれ別個にコー 30 ) ンウォル公爵にこれを納入していた。 ハスラムによれば、1617年から1619年のチャールズ皇太子の総収入は年平均33,925ポン ドである。この内、コーンウォル公領からの歳入が最も大きな比重を占め、年平均16,150 ポンド(総収入の約48%)にのぼった。これに次ぐ歳入源は、王領地から新たに皇太子領 に併合された土地からの収入で年平均9,320ポンドで、ウェールズ大公領からの収入年平 均5,133ポンドが続いた。このコーンウォル公領歳入の内訳は、すず産業からの収入、す なわち、すず先買の年レント9,000ポンドと鋳造税の年2,000ポンドの計11,000ポンド、が 最も大きな歳入項目であった。これは、当該時期の公領総収入の年平均の68%を占める もので、他方公領の土地収入は年平均1,918ポンドにすぎなかった。すず産業からの歳入 が皇太子の総収入の年平均の32%にあたったことから、当時すず先買請負と鋳造税が公領 31 ) のみならず皇太子の財政全般を支える重要な財源であったと思われる。 第三次先買請負では、年レントが増大し16,000ポンドに達しており、1620年代にすず先 買請負制が安定期に入ったことがうかがえる。続く第四次請負では当初レントは12,000ポ ンドに減額されたものの、1638年の特許更新によって再度16,000ポンドに引き上げられ、 32 ) 以後1643年の先買請負制廃止に至るまで年レントはこの水準を保った。 このように初期 ステュアート王権は、すず先買請負制度によって、増収と歳入の安定化を得ることができ た。これに加えて、先買請負人の年レントが前納されたことによって、王権は請負人から 貴重な現金の貸付の機会をも同時に得ることとなった。さらに第二次請負、第三次請負で は、王権は請負人から度々融資を受けており、これらはレントの支払い時に天引きされた。 33 ) この際、請負人は王権から融資に対する利子を受け取っている。 すず先買請負への理解を深めるには、ほぼ同時期に導入された初期ステュアート朝の最 も主要な王権歳入請負である、関税徴収請負のアシュトンによる詳細な分析との比較が有 益であろう。関税請負制度は1604年から1641年に請負制が廃止されるまで継続して実施 された。関税収入は王領地収入とともに初期ステュアート朝王権歳入の二大項目であり、 関税収入のみで当該時期の王権総収入の過半を占めた。議会承認が必要な直接税やその他 の収入をあわせた広義の国家歳入においても、当時三割から四割は関税からの収入であっ た。この内、請負人からの年レントは1604年の請負制導入時に112,400ポンドであったが、 1610年代後半には140,000ポンド、20年代前半には160,000ポンドに達し、20年代後半以降 30 年代後半までの期間は 150,000 ポンドの水準を保ち、請負制廃止直前の 1638 年には 34 ) 172,500ポンドにのぼった。 関税請負制が長期に渡って間断なく実施された理由は様々であるが、まずは請負制が王 権に対して歳入の確実性と高い収益性をもたらしたことがあげられる。関税収入は各年度 の貿易状況に左右されるが、請負人が関税収入に見合った一定額を年レントとして前納し たことによってその確実性は増した。関税の直接徴収制と比べると、請負制では契約レン 76 水 井 万里子 ト額を上回る余剰金額は請負人の利益となるため、関税の徴収は厳密になり、さらに同制 度では王権が関税徴収諸経費の負担からも解放されるため、収益性は増したといわれる。 さらに、請負人が当年レントの前納、時には次年度、次々年レントの一部を前納したこと で、当時借入難にあった王権財政は請負人から貴重な短期・長期借入の機会を得たことに 35 ) なる。 すず先買請負の年レントの最高額は先に見たように1620年代第三次請負における 16,000ポンドであり、当時の関税請負年レントの一割であった。しかし、すず先買請負の 年レントの前納は小規模ながら王権に借入の機会を与え、王権歳入の安定化にも効用があ ったことから、初期ステュアート朝のすず先買請負制は、同時期に展開した関税請負制と 同様に当該時期の王権の財政的要求により展開したものと位置づけることができよう。エ リザベス朝末期にはすず先買請負人の呼称はプレエンプタ(pre-emptor)であったが、関 税請負人の呼称「カスタムズ・ファーマ」に準じたものか、初期ステュアートの先買請負 36 ) 制下で彼らは「ティン・ファーマ」 (the tin farmer)と呼ばれるようになる。 (2)すず輸出と先買請負人 前節ですず先買請負を王権財政との関わりから検討し、その関税請負との類似性を示唆 した。しかし、関税請負が税徴収・納入という金融業的性格を強く持ったのに対して、す ず先買請負がすずという「モノ」を扱う商業的業務であったことが両請負の大きな相違点 としてあげられる。関税請負人は貿易商人が各港湾において支払う関税を直接その収入と するが、すず先買請負人は、年レントの支払いに加え、まず生産地スタナリでのすずの買 37 ) い付けに年間約30,000ポンド以上の資金を投入する。 その後すずを運搬し、これを市場 に供給したところでようやく利益が生じるため、十分な資本と、レントに見合う利益をも たらす海外市場へのアクセスが不可欠であった。すずが中世以来のイングランドの主要輸 出品目であったが、初期ステュアート朝の先買請負において重要な意味を持ったのもすず 輸出である。実際に当該時期のすず先買請負特許にはほぼもれなくすずの輸出独占権が付 加されていた。第二次請負期の請負グループであったロンドン・ピュータラーズ・カンパ ニには輸出が許可されなかったが、一方のロンドン商人ジョブ・ハービィ(Job Harby) の請負グループが輸出独占権を得ている。 ロンドン港およびコーンウォル諸港の関税台帳からは、輸出独占権を持つ先買請負人自 38 ) らがすずを輸出していたことは明らかである。 第一期請負人は1611年クリスマスからの 一年間にロンドンから3,374MWT、第二次請負人は1616年クリスマスからの一年間にロ ンドンおよび南西部諸港から2,769MWTのすずを輸出している。第三次請負のすず輸出 は1625年クリスマスからの一年間でロンドン港から5,025MWT、1633年クリスマスから の一年間で同じくロンドン港から2,767MWTであった。各年度の総輸出量に占める割合 は第一次請負から順に87%、99%、78%、98%であった。第一次から第四次までを通じ た主な輸出先はレヴァント地域、イベリア半島、バルト海およびロシア、低地地方、フラ ンスなどであった。このうち最大の市場はレヴァント地域であり、 上記の各年度に置いて、 第一次請負では2,406MWT、第二次請負で900MWT、第三次請負で3,777MWT、第四 次請負では2,422MWTのすずが同地域に輸出された。これが各年度の総輸出量に占めた 、58%、85%であった。 割合は順に67%、32%(この年度の最大輸出先はフランスで35%) 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって ― 77 このうち請負人以外の商人によるものは、第一次請負期の当該年に6MWT、第三次請負 期の当該年に27MWTのすずのみであった。また、第三次請負下の当該年度において、東 インド会社によって1,400MWT(総輸出量の22%)のすずが東インドに輸出されている 事実も銘記されるべきであろう。上記のデータから東インドへのすず輸出が確認できるの はこの年度に限られている。関税台帳の史料状態からこれ以外の年度の正確なデータを抽 出することが困難であるため、極めて大まかな分析となるが、先買請負人が実際にすず輸 出をほぼ独占しており、彼等の主要海外市場はレヴァント地域であったと推察されよう。 すず先買請負人の所属する貿易会社の検討からも、すず輸出におけるレヴァント地域の 重要性が明らかとなる。初期ステュアート朝の先買請負人は、レヴァント会社、東インド 会社、貿易商人組合、フランス会社、ロシア会社など、ロンドンの多様な貿易会社に所属 しており、大多数は複数の会社に同時に所属した。なかでもレヴァント会社と東インド会 社に所属するものが多数見られ、総勢28人の請負人のうち、25人がレヴァント会社のメ 39 ) ンバーであり、16人は東インド会社のメンバーであった。 特に、1616年の第2次請負以 降の請負人が先買請負特許の付与直後にレヴァント会社のメンバーとなった事実は特筆す べきである。これは、1616年にレヴァント会社が第2次請負のハービィのグループから の要望に答え、全員が同社の部外者であった先買請負人のメンバーシップ保有を認めたこ とによる。レヴァント地域への独占貿易権を有するレヴァント会社はすず先買請負人の加 入を議決し、以後、第3次、第4次の請負人もこれに沿って若干の例外を除き同社のメン バーとなった。レヴァント会社の加入料は一人あたり50ポンドであったが、先買請負人は 半額の25ポンドを加入当初に支払い、特許失効後にレヴァント貿易を継続することを希望 するもののみ、各自残額を支払うこととされた。ただし、これらすず先買請負人として新 規に加入した商人に対しては、特許の有効期間中のレヴァント貿易はすず輸出のみに限ら れており、主力であったレヴァントからの絹、干しぶどう、香辛料などの輸入は特許失効 40 ) 後から行うことが規定された。 レヴァント会社に所属する商人は、同社が独占するレヴァントからの奢侈品輸入とその 再輸出が生み出す利益によって、冒険商人組合所属の商人を凌ぎ政治的にも経済的にも一 大勢力となった。レヴァント商人は1620年代、1630年代に東インド会社の中核メンバー ともなり、ロバート・ブレナはこれを「レヴァント=東インド企業合同」 (the LevantEast India combine) と し て 提 示 す る。 純 粋 な ロ ン ド ン の 貿 易 商 人 団 体(mere merchantship)たることを社是とするレヴァント会社のメンバーシップは、加入料支払 い制、徒弟制、縁故関係を通じて獲得することが可能であったが、新規加入者のほとんど が既存メンバーとの縁故関係を通じたものであり、ブレナはこれが同社の閉鎖性を象徴す 41 ) るものとする。 これが正しいとすれば、1616年以降のすず先買請負人のレヴァント会社 への新規加入は、レヴァント商人の排他的結合性に打ち込まれた楔のごとき事例だったの ではないだろうか。 新利益集団すず先買請負人が出現したとはいえ、上記のように、請負人と既存の利益集 団の重複的関わりは明らかである。特に、ロンドンのレヴァント会社メンバーのすず先買 請負人としての役割は顕著であり、レヴァント商人は、すず先買請負導入前の1590年代 からすずの流通段階において既に勢力を拡大していた。しかし、彼等にとってすず先買請 78 水 井 万里子 負人は1616年以降同社に新たに参入した新勢力であり、当該時期の両者の差異について は一考を要する。また、同じく請負制導入前からの既存利益集団であるロンドン・ピュー タラーズ・カンパニも第2次先買請負に参加しているが、彼等の請負特許保有はこの時期 のみに限られており、それ以外の時期の先買請負への対応も把握すべきであろう。また、 先買請負には一切参入が見られない生産者ティナーの対応についても留意せねばならな い。次章では、先買請負の実施によるすず産業の構造変化、それにともなう各集団間の軋 轢、先買制下の各集団が抱えた諸問題を取り上げ、これら既存の利益集団が王権の志向す る先買請負制にどのように対応したのかという問題について検討していく。 4 安定期の諸問題 1620年代の第3次請負期に年レントは16,000ポンドと最高額に達している。16世紀半ば 以降減少・停滞が続いていたすず生産も1620年代半ばには年200MWTの増産があったと 42 ) いわれる。 しかし、1626年、および1627年に対スペイン・対フランス戦争下のすず輸出 不振を理由に先買請負人のレントは26年に3,000ポンド、27年に5,500ポンド当該年レント 92 ) から減額されている。 南西部両州は1625年のカディス遠征当時遠征軍の駐屯地となった が、これの維持をまかされた地元の財政負担は大きく、1626年7月デヴォン州の治安判事 達は駐屯兵の州外への移動を要請した。駐屯兵は衣服にも事欠く状態であったため、とり あえず政府はすず先買の年レントから 1,000 ポンドの軍服手当、さらに向こう 3 年間に 43 ) 30,000ポンドを駐屯兵の同州からの撤収費用にあてることとした。 しかし、1626年から 1628年までのデンマーク支援(対ハプスブルク)戦費もかさみ、これに関し戦争請負人 (a war contractor) フィリップ・ブラマッチ(Phillip Burlamachi)の資金に多大に依存して いた王権は、1627 年度のすず先買請負からの実際のレント収入 10,500 ポンドのうち、 44 ) 4,500ポンドをブラマッチの返済分とした。 結局駐屯兵の撤収費用は1627年にデヴォン・ 45 ) コーンウォル両州から徴収された強制借り上げ金によって賄われた。 戦時下の輸出不振 による控除はあったにせよ、第三次請負では請負人自身の輸出利益から生み出された年レ ントが、戦費調達に苦心する王権にとっては貴重な安定収入であったことが推察できる。 安定期の年レントの増加とともに、請負人に対する王権の財政的依存は強まり、すず産 業におけるすず先買請負人の勢力は拡大していく。第2次請負期でロンドン・ピュータラ ーズ・カンパニと商人の両グループは9,000ポンドの年レントを折半していたが、第三次 請負ではロンドン商人を中心としたグループが単独で先買を請け負い、以降ロンドンピュ ータラーは請負には参加せず、請負人からすずの年間割当を一定価格で供給されることと なった。第2次請負では500MWTの国内向け先買を行った同カンパニであるが、その割 当量は第3次請負期に400MWT、第4次請負期に300MWT と減少し、すず供給が締め付 46 ) けられていった。 1631年にはカンパニの下級メンバー60人が署名したすず供給の不足を 47 ) 訴えた請願が、首脳部の頭越しに大蔵卿と財務府長官に送られている。 請負人から彼等 へのすずの平均供給価格は、1620年の1重量ポンドあたり9.32ペンスから1636年の11.21 ペ ン ス( 1 M W T = 1120lbs あ た り 約 52 ポ ン ド 6 シ リ ン グ ) へ と 約 20 % 増 加 し て い 79 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって ― 48 ) る。 1635年の、請負人からの一方的な供給価格釣り上げの通達に対しては、カンパニは 49 ) 請願活動を展開している。 この通達の背景には、ジョブ・ハービィの率いる請負人グル ープに対して、翌1636年の先買請負特許の有効期限終了を前に、政府が彼等の特許更新 にあたって現行の12,000ポンドから、16,000ポンドへの年レントの増額を要求していた事 50 ) 実がある。 交渉の末、請負人の希望通りピュータラーへの供給価格は1636年に増加した 51 ) が、政府は請負人の旧特許の延長を認め年レントの増額開始は1638年まで延期された。 他方、コーンウォルのティナーもこの1636年の特許更新時に、先買人によるすずの買 い取り価格をめぐって、長期に渡っていた据え置きを指摘しその増加を訴え始める。先買 価格は第一次請負期の1608年に1重量ポンドあたり5.60ペンスと設定され、1613年には6 ペンス(1MWT=1200 lbs あたり30ポンド)に増加、 第二次請負の価格は不明であるが、 52 ) 第三次請負の1621年以降1635年まで6ペンスから増減なしであった。 1636年6月10日付け のティナーの請願は、すず鉱山の深層化にともなう日常的経費の増大とすず先買価格の安 価固定によるすず鉱業の衰退からの救済は一刻の猶予も争う問題とし、先買人が「鉱業生 産の衰退はティナー自身に帰されるべき問題として、この問題の解決をでき得る限り引き 53 ) 延ばすつもりである」と非難する。 この2日後国王チャールズの出席の下、枢密院はロ ンドン・ピュータラーズ・カンパニとティナーを召還して聴聞を行い、ここで各集団に対 し、第一に、ティナーからの買い取り価格増による海外市場向けすず価格の上昇について、 第二に、国王の損失や臣民の不利益をもたらすことなしに、ティナーに対してどのような 54 ) 便宜がはかりうるのか、という二点についての書面での解答が命じられた。 一週間後、 55 ) 王権はティナーの価格増要求に対する結論を二年後1638年まで先送るよう通達した。 ティナーのすず価格の問題は1638年12月の延長された特許の更新時に再度議論される こととなる。枢密院はティナーであるコーンウォルのジェントリを召還し、単価上乗せ額 として年2,000ポンドの供与を約束し、これを王権と先買請負人が折半することとなった。 これによりスタナリーズの貧しい日雇い鉱夫や賃金労働者が十分な恩恵を与えられるよう 56 ) 上記のジェントリに要請し、今後さらなる価格増の要求を訴えでないよう厳命した。 ほ ぼ同時期にロンドン・ピュータラーズ・カンパニも供給増加を訴え、枢密院はこれに対し 1639年1月初頭に調査委員会を設けたが、3名の委員には現すず先買請負人であるハー 57 ) ビィと第一次先買請負人1名が含まれていた。 同年2月7日付けの国王布告からはこの調 査結果の概要が見て取れるが、ここでピュータラーズは鋳造税納税前のすずの市場流出と いう初期ステュアート朝請負制を通じた問題に関与した疑いを追求されたのみであった。 58 ) ピュータラーズは、同月にカンパニ内ですず供給の改善に対する委員会を設けること を決定し、5月4日国王宛に請願を提出した。ここでは1635年の請負人による突然のすず 価格増を非難した上で、このような厳しい請負人の供給を承諾するかわりに、二次加工し たすず延べ棒の自由輸出権を要求した。彼等の第一義的目標であったすず供給改善につい ては断念され、先買請負人が保有する輸出独占にカンパニの権利を拡大しようとする狙い 59 ) であったと思われる。 さらに、ティナーの側は、1639年末先買請負人が同年度の上半期の1,000ポンドの供与 60 ) 金支払い後、支払い継続を拒否しているとして再度請願する。 枢密院はこの問題を1640 年2月に取り上げるが、これは1639年12月5日に提出された「北アフリカ(the Barbary) 80 水 井 万里子 の大規模すず鉱山発見」という請負人の主張を大幅に考慮したものであった。枢密院が急 遽海外在住者から集めた情報によれば、同地のすず鉱山はイギリス産すずに匹敵する良質 なすずを生産しており、これが廉価で海外市場に出回れば、同市場におけるイギリス産す ずの需要が「もし完璧に消失するのでなければ」深刻な影響を受けることは必至というも のであった。これに対処するため、枢密院はとりあえずすずとピューター器の輸入完全禁 止策を打ち出し先買請負人の意見を求めた。これに加え、枢密院は国内の白鋳鉄・ラッテ ン(真鍮の一種)日常器の製造を中止させ、すずの国内需要増のために居酒屋やエールハ ウス・店舗で使用されているワイン・ビール・エールの販売、売買用の計量器をすべてす ずかピューター製のものにする策も検討している。この北アフリカすず鉱に関する請負人 の主張は、請負人の供与金不払いに不満を表していたティナーにも送られ、枢密院はイギ リス産すずの海外市場での危機に際し、請負人の供与金が継続されるべき理由を示すよう 61 ) 要求した。 1640年2月28日付けのティナーの回答では、ティナーが請負人の主張に「一様に驚いて いる」とし、この供与金がなければすず生産中止はやむを得ないと述べている。ティナー の観点では「ごく最近発見されたようなすず鉱山がそんなにも深刻に海外市場のイギリス 62 ) 産すず需要に影響を与えることはありえない」のであった。 しかし、政府のこの問題へ の対処は真剣であって、酒類小売りにおけるすずとピューター製計量器の使用は1640年7 月24日に国王により布告された。請負人の要請であった、治安判事による酒小売り業者の 63 ) 取り締まりについても盛り込まれている。 また、北アフリカ産のすずは今や大量にオラ ンダ、フランス、イタリア、及びレヴァント地域に輸出されているとし、すず輸出に利益 を負っていた請負人の救済のため、さらに同年4月に現行16,000ポンドの年レントからの 64 ) 4,000ポンドの割引も認めた。 請負人に対して上記のような救済処置を施した上で、国 王は5月にティナーに対し年2,000ポンドの供与金は、これまでの滞り分を含めて、今後も 65 ) 継続すると通達した。 しかし、同年夏までにはスコットランド戦争に備え、コーンウォ ル州のジェントリには1,600名の徴兵とその指揮費負担が命じられ、これに対し同州の有 力ジェントリでティナーでもあったサー・フランシス・バセット(Sir Francis Bassett) 「我々のすず鉱業について は7月24日に以下のように中央軍部にあてて書き送っている。 は、現今徴兵された者、また徴用忌避した者によってすずの生産労働が完全に放棄されて おり、すず鉱山は水に浸かるままとなっています。このため、すず先買請負人(彼等は依 然として我々への2,000ポンドの供与金支払いを拒否しております)は、バーバリの多量 のすずの存在より、むしろ我々からの(すずの)不足のためにレントの割引を切望する正 66 ) 当な根拠を持つこととなるでしょう。 」 先買安定期の1630年代に至って、ティナーやロンドン・ピュータラーズ・カンパニの 先買請負人に対する不満は増大していたが、 王権は請負人の利益を重視する傾向にあった。 これには、当時請負グループを率いていたハービィの王権に対する融資の増加が関わって いたと思われる。1616年に第二次すず先買請負に参加するまでフランス会社の周縁的メ ンバーであったハービィは、この請負下にレヴァント会社、東インド会社のメンバーとな り、20年代にはロシア・レヴァント・東インド会社で活発な貿易活動を行い、30年代に はレヴァント・東インド両会社の中核メンバーとなっていた。1628年にすず先買請負権 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって ― 81 を再度獲得した後には、1635年から国王の秘密特使となって王権所有の宝石の大陸での 質請けにあたり、この業務達成の1638年にナイト位を受爵している。同年には関税徴収 請負業務にも参加し、1640年1月から7月には王権の大陸における兵器買い付け請負人と 67 ) なり、王権の財政的依存度は強まっていた。 安定期のすず先買請負人は1620年代以降す ず産業におけるその勢力を次第に増していたが、王権のすず先買請負人に対する財政的 関係強化から、30年代後半のすず産業の諸利益集団間のバランスが大きく崩れ始めたと 見ることができよう。 結びにかえて ロンドン・ピュータラーズ・カンパニは1642年5月に下院に対し、すずの廉価での割り 68 ) 当てを要求する請願を提出している。 さらに、すず先買請負は1643年1月から下院の攻 撃にさらされることとなった。しかし、 度重なる下院の召集にハービィは最後まで応じず、 代わりに査問に出頭した二名の請負人は、年レントの議会への供出要求を拒絶し投獄さ 69 ) 70 ) れた。 また、同時に下院の命により請負人の事務所の差し押さえが行われた。 すず先 71 ) 買請負人はこの年3月30日付けで議会によって任を解かれている。 しかし、同年末まで には、議会と請負人の間で何らかの交渉があった模様で、下院は当時差し押さえていた 請負人の船舶の解放を命じ、翌年2月にはすず先買請負からのすべての利益を当時議会派 72 ) 王党派間の戦場となっていた西部各州での戦費にあてることとされた。 一方王党派も 1644年から1645年にすずの売買益を得ることに懸命であり、当時フランスに逃れていた 女王は、武器購入とオランダでの借入金の利子返済のため、すずを南西部から持ちだそ うと試みた。オレンジ公はこのための船の貸与と関税免除を王党派に約束していた。コ ーンウォルのファルマス港からフランス、低地地方へのすずの運搬を企てたのは、1638 73 ) 年のハービィの関税請負シンジケートの一員であった。 すず産業と国家財政は深く結びついており、中央権力の財政的要請はすず産業全体の あり方に影響を与えた。本稿では、エリザベス朝末期から初期ステュアート朝のすず先 買請負制度の展開を検討し、同制度が1643年まで継続して実施され、年レント前払いな どを通じて王権に歳入増と借入の機会を与えたことを示した。また、当初既存のレヴァ ント商人、ロンドン・ピュータラーズ・カンパニ、ティナーの請負制への反発にもかか わらず、大蔵卿の主導で先買が導入された。しかし、請負制の安定期においては、請負 業にレヴァント商人、ピュータラーズという二大勢力が取り込まれたことも明らかとな った。しかし、先買安定期における年レントの増加に見られるように、王権の請負人へ の財政依存が強まり、すず産業における請負人の勢力が強まったため、当該時期末期に は請負人によるすず売買の価格設定がロンドン・ピュータラーズ、スタナリーズのティ ナー双方の反発を招いた。 にもかかわらず、1643年までの先買請負制下で、国王大権に基づいた財源としてのす ず産業からは、すず輸出にかかる関税や付加関税、鋳造税、および先買請負人からの年 レントが王権歳入として徴収され続けた。初期ステュアート王権がこの時期のすず産業 82 水 井 万里子 の財源化に傾注したことは、付加関税や独占権付与と同じく政治的リスクを冒しつつ、 先買制度による歳入増加に固執していた事例から明らかである。すずと国家財政の関係 は、請負制廃止後、共和政下でのすず一次購入にかかる消費税賦課の時代を経て、王政 復古後にすず先買請負制度は復活し、1680年代のすず少額硬貨鋳造、18世紀アンの治世 下での先買直接制の実施と展開していく。17世紀後半の国家財政における王権歳入の周 縁化という議論に、上記のようなすずの実証事例から検討を加えていくことを当面の課 題として結びにかえたい。 1 ) P.K. Obrien and P.A. Hunt, ‘The Rise of a Fiscal State in England, 1485-1815’, Historical Research, 66, 1993, pp.129-176. 2 ) C.Russell, The Causes of the English Civil War, Oxford, 1990, pp.168-169; A. Hughes, The Causes of the English Civil War, London, 1991, pp.13-14. 3 ) M.J. Braddick, The Nerves of State, Manchester, 1996, pp.1-20; P.Croft, ‘Fresh Light on Bate’s Case’, Historical Journal, 30, 1987, pp.523-539; R. Ashton, The City and the Court 1603-1643, Cambridge, 1979, pp.90-92, 107-108;A.G.R. Smith, ‘The Crown, Parliament and Finance: The Great Contract of 1610’, in The English Commonwealth 1540-1640, eds., P. Clark, A.G.R. Smith and N. Tyacke, Leicester, 1979, pp.111-127; R. Cust, The Forced Loan and English Politics, Oxford, 1987, pp.331-337; C. Russell, Parliament and the King’s Finances’, in The Origins of the English Civil War, ed. C. Russell, London, 1973, p.101-108. 4 ) Braddick, op.cit., pp.9-14, 80. 5 ) The Estates of the English Crown, 1558-1640, ed. R.W. Hoyle, Cambridge, 1992. 6 ) G. Haslam, ‘Jacobean Phoenis: The Duchy of Cornwall in the principates of Henry Frederick and Charles’, in Hoyle (ed.), op.cit., pp.263-296. 7 ) R. Ashton, English Historical Review, 108, 1993, pp.679-681; Do., The Crown and the Money Market 1603-40, Oxford, 1960, nd ) 8 F.C. Dietz, English Public Finance, 1485-1641, 2 vols., ii, 1558-1641, (2 ed.), London 1964, pp.120, 132, 157, 160, 275; G. R. Lewis, The Stannaries, Cambridge (Mass), 1924, pp.144-149; A.P. Newton, ‘The Establishment of the Great Farm of the English Customs’, Transactions of the Royal Historical Society, 4th series, 1, 1918, pp.147, 151. 邦語文献では、酒井重喜『近代イ ギリス財政史研究』 、ミネルヴァ書房、1989年、40頁、96頁参照。 ) J. Whetter, Cornwall in the Seventeenth Century, Padstow, 1974, pp.60-61, 75. しかし、バート 9 はすず産業の発展を1690年代以降とする。R. Burt, ‘The Transformation of the Non-ferous Metals Industries in the Seventeenth and Eighteenth Century’, Economic History Review, 48, 1995, pp.27-30, 32-33, 42-43. 小林栄吾「イギリス錫鉱山業における初期独占成立の基礎」 『歴史学研究』 271号、1962年が初期独占の観点から主にルイスの著書を用いて議論しているので参照されたい。 近世イギリスにおける鉱物資源と財政 ― コーンウォル産すずの先買1607 ― 1643年をめぐって ― 83 10) コーンウォル公領庁文書室のご厚意により、本稿では公領文書を使用することで先買請負制度の解 明を進めることができた。しかし、これは公領史料のごく一部に過ぎず、より詳細な探索と分析が さらに必要となろう。 11) M. Stoyle, Loyalty and Locality, Exeter, 1994, pp.157-158. ; Do., ‘Pagans or Paragons?: Images of the Cornish during the English Civil War’, English Historical Review, 111, 1996, pp.299-323. 20) Burt, op.cit., p.29; Lewis, op.cit., pp.253-255. 21) コーンウォル公領は後者を「商人請負人」(the merchant farmers)と呼ぶ。Duchy of Cornwall Office( 以下 DCO), Letters and Warrants, 1615-1619, fos.51-52. ) 22 Haslam, op.cit., pp.287-288. 23) PRO, E351/2128, 2129, 2130. この直接先買制の収支報告によれば、王権は1604年8月から1605年8 月の1年間に、34,152ポンドの資金を次ぎこんですずを先買、売上は概算で45,093ポンドで、これ による粗利益は10,941ポンド。年間支出の内訳は、先買関連官職の報酬1,367ポンド、すずの運搬、 管理費は年平均1,865ポンドで、計3,232ポンド。したがって概算準利益は7,709ポンド。 24) PRO, SP14/35, SP14/44[Domestic Correspondent]; SP14/78/1; SP40/2, fol.78. 25) PRO, SP14/78/1. 26) Welch, op.cit., pp.57-59; PRO, SP105/147[the Court Books of the Levant Company], fol.16. 27) Haslam, op.cit., pp.274-275. 28) PRO, SP14/141, p.135; BL, Lansdowne MS.1215, fol.226. 29) PRO, SP14/141, p,174. この史料の請負人の名前はカレンダーにおいて誤記されており、ルイス、 ハスラムなどの現今の研究者はこれをもとに表記しているので留意されたい。 30) PRO, E306/15/2, nos.1-3. 31) Haslam, op.cit., pp.284-286. 32) この交渉の過程は第4章安定期の諸問題を参照。 33) 例えば 1622 年に 3,000 ポンド、1623 年に 2,800 ポンド、1624 年に 3,600 ポンド。DCO, Letters and Warrants, 1621-1623, fol.201; DCO, Book of Orders, 1621-1625, fos.127, 129, 163. 34) Ashton, op.cit., p.88. 35) Ibid., pp.81-85. 36) これは、1608年の第一次請負期の初頭頃からであった。 37) 先買単価は1613年から1638年まで固定の1MWT あたり30ポンドで、年間生産量を1,000MWT 強と した概算である。 38) 第一次請負期から第四次請負期まで順に、PRO, E190/16/12; E190/21/2, E190/1028/10,20(Cornish ports); E190/29/4; E190/38/7。 ) 39 これらの商人の所属貿易会社についてはラブのデータを参照した。T.K.Rabb, Enterprise and Empire, Cambridge, (Mass.), 1967, pp.224-410. 40) PRO, SP105/147, fos.81-82, SP105/148, fos.16, 33, 45-6, 99, SP105/149, fos.35-83. 41) R. Brenner, Merchants and Revolution, Cambridge, 1993, pp.69-74. 42) PRO, SP14/118/83. ルイスのデータも参照。Lewis, op.cit., p.255. 43) PRO, SP39/20, no.12; SP39/23, no.60; SP16/38/81. 44) M. Wolffe, Gentry Leaders in Peace and War, Exeter, 1997, pp.102-103, 109-110; A. Duffin, Faction and Faith, Exeter, 1996, pp126-133; Acts of Privy Council,(以下 APC) , June 1626-December 1626, pp.206-207. 45) PRO, E306/15, no.5. 46) APC, January 1627-August 1627, pp.75-76. 47) PRO, SP14/141, p.135; Welch, op.cit., pp.78, 81, 86; APC, 1621-1623, p.286; PRO, SP16/420/38. 48) Welch, op.cit., p.88. 49) Ibid., pp.78, 81, 86; APC, 1621-1623, p.286; PRO, SP16/420/38, CSP, Domestic, 1638-1639, p.174. 84 水 井 万里子 50 ) 51 ) 52 ) 53 ) 54 ) 55 ) 56 ) 57 ) 58 ) 59 ) Welch, op.cit., p.94; CSP, Domestic, 1635, pp.8, 606. CSP, Domestic, 1634-1635, p.586; CSP, Domestic, 1635, p.8. CSP, Domestic, 1635, p.606. PRO, SP14/78/1; BL, Lansdowne MS.1215, fol.226. PRO, SP16/326/2. PRO, PC2/46/252. PRO, SP16/326/60. 60 ) 61 ) 62 ) 63 ) 64 ) 65 ) 66 ) 67 ) 68 ) Welch, op.cit., p.99; PRO, SP16/420/38. PRO, SP16/424/101. PRO, PC2/51, fos.321-322. CSP, Domestic, 1639-1640, pp.493-494. Larkin(ed.), op.cit., pp.720-722. PRO, SP16/451/84. 69 ) 70 ) 71 ) 72 ) 73 ) PRO, PC2/49, fos.610-611; PRO, SP16/404/102. PRO, SP16/409/15. Stuart Royal Proclamations of King Charles I, 1625-1646, ed. J.F. Larkin, Oxford, 1983, pp.659-661. PRO, SP16/455/23. CSP, Domestic, 1640, pp.458-459. APC, 163-1614, pp.9-10, 34-40, 171-172, 190-193, 221-223;CSP, Colonial Series, vol.4, 1622-1624, pp.120-121; CSP, Domestic, 1636-37, p.312; CSP, Domestic, 1639, p.402; CSP, Domestic, 1639-1640, pp.368-9, 487; Ashton, op.cit., p.103. Welch, op.cit., p.106. Journals of the House of Commons,(以下 CJ ), ii, pp.920, 925, 927, 929, 930. CSP, Domestic, 1660-1661, p.508. CJ, iii,pp.328, 332, 335, 354-355, 407, 414. CSP, Domestic, 1644-1645, pp.371, 387, 430, 448, 469-470, 502, 546. M. Coate, Cornwall in the Great Civil War and Interregnum, 1642-1660, 2nd.ed., Oxford, 1963, pp.184-187 も参照。