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第二章 産業資本主義の確立と労働組合運動の開始 t

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第二章 産業資本主義の確立と労働組合運動の開始 t
産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
日清戦争(一八九四i九五)││第一次世界大戦三九一四t 一
八
︾
労働組合運動の成立
第二章
マその背景
わが国の労働運動史の本舞台は、日 清戦争のあとからは じまります。おおまかにいえば一九
一つの区切りになる
0 0年ごろから、すなわち一九世紀と二O世紀のさかい自のころが、近代的労働運動の出発点
です。そして 第 一次世界大戦(一九一四 l 一八年﹀のはじまるころまでが、
と思います。
産業資本主義が確立してきたという条件を基礎にして、労働組合運動が成立しました。中
園、すなわち当時の清国とのあいだに、朝鮮市場をあらそって勝利した日清戦争が、日本資本
3
1
1
主義の確立にスプリング・ボ lドの役割を果たしました。その結果、日本の産業革命は、日清
戦争から日露戦争までの明治三0年代にほぼ完了しました。工場制度がひろがり、鉱山が開発
され、鉄道が全国的に延長されました。そのことは同時に、日本に労働者階級というあたらし
い階級が成立して、自分自身の組織をつくって、資本の搾取にたいしてたたかいを開始すると
いう段階に歴史がはいってきたことを意味します。
マ労働組合期成会の結成と組織化されだした労働組合
﹀
一八九七年(明治三O年
には、横浜ドッ
日清戦争が終わると、戦争による物価値上がりや戦後の経済変動による生活不安に反対し
て、方々でストライキがおこりました。たとえば、
ク、山陽鉄道など、各地で λトライキがおこり、官庁統計でも、この年の下半期だけで三二件
がかぞえられて、それまでと目立った対照を見せています。
一八九
﹂れが日本での近代的な労働組
このような闘争を土台にして、労働組合をつくる運動がはじまりました。こうして、
七年(明治三O年﹀夏、﹁労働組合期成会﹂が結成されました。
合運動の出発点と考えていいでしょう。
﹁労働組合期成会﹂というのは、それ自身が労働組合であったのではなくて、労働組合をつ
くろう、と呼びかけてその準備をする団体でした。その中心人物はアメリカ帰りの新聞記者・
3
2
高野房太郎││この人は当時 AFL(アメリカ労働総同盟﹀の会長であったサミユエル・ゴンパ
ースの指導を受けた人ですがーーーや、十数年間アメリカでアルバイト学生の生活を経験し、労
働組合運動にたいして関心をもち研究してきた片山潜などの人びとでした。
当時の先進資本主義国であったアメリカの労働運動を現地で見聞し、そして祖国日本にも、
いまや労働組合運動を生みだす条件が成熟していることを考えて帰国したこれらの人たちが中
心となって、労働組合をつくろうということを労働者大衆にむかつて呼びかける団体が﹁労働
一八九七年の
組合期成会﹂であったのです。やがてそれを母体として、労働組合がつぎつぎにつくられてい
きました。
まず、組織化を開始した産業部門は、金属・機械や、鉄道や印刷などでした。
暮れに、﹁鉄工組合﹂が一二八四名の労働者によって組織されました。現在、 総評のなかに
全国金属という戦闘的な労働組合があり、また同盟にも全金同盟という組合がありますが、そ
れらの金属・機械の労働組合のご先祖に当たるのが鉄工組合であるといえましょう。
それから、 その翌年すなわち一八九八年(明治一三年)に、﹁日本鉄道矯正会﹂という組合が
つくられました。これは鉄道の機関士の組合で、当時の日本鉄道会社(いまの国鉄東北線﹀の機
関車乗務員が組織したものです。現在の国鉄労組や、動力車労組のご先祖に当たると考えてい
いでしょう。
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産業資本主義 の確立と労働組合運動の開始
第二章
もうひとつはその翌年、
一八九九年(明治三二年﹀に組織された﹁活版工組合﹂です。
はいまの全印総連のご先祖に当たると思います。
D
労働者の団結の威力を示
のほうはこのような強い組織的抵抗にたいして、準備ができておらなかったので、すっかり弱
のストライキは社 会 の 注 目 を 浴 び ま し た 。 こ の と き は 、 労 働 者 が か た く 団 結 し て お り 、 経 営 者
イキは、大きな社会問題としてあっかわれますが、当時でもすでにそうであったとみ与えて、こ
っ た と い っ て よ い で し ょ う 。 そ の 意 味 で 画 期 的 な 大 闘 争 で し た 。 いまでも国鉄や私鉄のストラ
し 、 日 本 の 社 会 に ス ト ラ イ キ を は っ き り 意 識 さ せ る き っ か け を 作 っ た の は 、 こ の λトライキだ
まったのは、当時としてはたいへんショッキングなできごとでした
トライキは、日本ではじめてのできごとではないにしても、労働者が汽車をピタリととめてし
を加えたことからおこりました。 労 働 者 は 会 社 の 攻 撃 に 抗 議 し て 汽 車 を と め た の で す 。
これは機関士たちが待遇改善を要求したのにたいして、 会 社 が 指 導 者 の 首 切 り に よ っ て 弾 圧
当時の労働運動のなかで、とくに一八九八年の日本鉄道機関方のストライキは有名です。
マ日本鉄道機関方のスト
が組織化の先頭を切ったわけです。
いまでも日本の労働運動のなかで、それぞれ重要な役割を演じているこれらの部門の労働者
れ
、
〆
3
4
って、労働者の要求をいれて降参してしまいました。そういう大闘争の経験のなかから、日鉄
矯正会と いう労働組合の組織化が はじまったという いきさつがあります。
マ少しずつ培われていた労働組合結成のための土 壌
話 はもどりますが 、 一八九七年になっ て労働組合の組織運動がは じ めて開始されたと いう わ
けではなくて、資本主義がしだいに発展し、労働者の数がふえ、労資の利害の対立が表面化し
はじめると 、それにともなってかなり早くから労働組合の結成計画もは じまっています。たと
えば 、 一八八七年(明治 二O年) に鉄工が組合をつくろうと して、 流産 したこと や、 一八九O
年には一時的に組織ができたことや 、その 翌年には 印刷工の 組合ができた ことなど が記録に残
ってい ます。 しかしこ のころの労働者は 、 まだ封建時代からの職人気質が抜けきっておらず 、
また階 級的自覚が確立 していないた めに 、経営者に頭があがら なかったり、団 結の必要につ い
ての意識が弱かったり 、要するに近代的労働者と して未成 熟であったために 、労働組合の結成
には時期が早すぎま した 。できても職人の同業組合のような性質の組織で した。
しかし一方で、労働者は資本家の圧制と搾取にたいして、 はじめは一挟暴動的なたたかい方
から 、 つぎには一時的に団結 してス トライキ を武器と してたたかうというところ へ前進 し、こ
のような経験をつうじて 、恒久的な組織である労働組合をもっ 必要を 自覚するようにすすん で
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二掌
きました。その意味で一八九七年からの組織化の時代も突如としてはじまったわけではなく、
その背景には一歩一歩のつみ重ねがあったと考えるべきでしょう。
そして早くも機関紙活動があらわれます。組織運動に機関紙がきわめて大きな役割を果たす
ことはいうまでもありません。労働組合期成会ができ、そしてこれを母体として第一号の組合
として鉄工組合が組織されると同時に、﹁労働は神聖なり﹂﹁団結は勢力なり﹂というスロlガ
ソをかかげて﹃労働世界 ﹄が発刊されました。これはおそらく日本で最初の労働 運動の機関紙
で、その主筆(編集長﹀は片山潜でした。
マ初期の労働組合はどういう形で組織されたか
ところで、注目すべきことは、このようにしてできた初期の労働組合は、現在、日本にある
労働組合と大いに形態が違うということです。いうまでもなく、現在、日本の労働組合の圧倒
的多数は企業別組合であって、企業単位に独立した労働組合がつくられています。ところが初
期の労働組合はいわゆる横断的な組合であって、企業のワクをこえて組織されました。たとえ
ば、鉄工組合というのは、日本橋の本石町に組合事務所を持っていて、個人加盟で方々の工場
の労働者が組合員になりました。 そ し て 、 小 石 川 の 砲 兵 工 殿 、 新 橋 の 鉄 道 工 場 、 石 川 島 造 船
所、横須賀造船所などに支部ができ、 さらに北は北海道、南は九州に組織がのび、最盛期には
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四二文部、五四0 0名の組合員を組織しました。加入したのは、それぞれの工場の熟練労働者
であったようです。企業ごと工場ごとに単位組合がつくられて、原則として全従業員が加入し
ている、今日の労働組合と非常に違った組織形態です。
いうなればイギリスをはじめとする先進資本主義国の国際的な経験を、急速に発展しはじめ
た日本資本主義の条件にあうように生かして、ひろい階級的結集をめざす組織として、わが国
の労働組合運動は、はじまりました。
わが国労働組合運動の国際史的位置
マ世界における労働組合運動のはじまり
国際的な経験などといいましたが、日本の労働組合運動の国際史的位置づけはつぎのような
ことになるでしょう。日本の労働組合のはじまりは、 いまから八O年たらず前ですから、
く労働組合運動がはじまったのはイギリスだといわれています。早くも三百年前にはその芽生
に日本の資本主義の歴史は百年余、労働組合の歴史は八O年といえます。そして世界で一番早
口
2
えがあり、少なくとも二百年前の一八世紀後半になると、労働組合の存在をはっきりみとめる
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
ことができるようです。ということは世界で一番早く、イギリスで、封建制度を くず して資本
主義が発展したということが背景になっています。その芽生えは一六世紀ごろからですが、
八世 紀の後半になると 、世界に さきがけて産業革命を開始し 、大 工場制度がうまれ 、生産力が
飛躍的に発展しはじめま した 。それにともなって大量に賃金労働者があらわれ、労働者はみず
からの利益をまもるために 、組織をつくってたたかう こと を開始 したとい うわけです。
マ労働組合はどこでも資本家の妨害をはねのけ団結をつよめて発展してきた
しかし
、 それならば 、民主主義の本家みたいに いわれてい るイギ リスで は、労働組合がスム
ーズ に妨害を受けずに発展することができたか 、とい うとけっ してそうで はありません。
いうまでもなく労働 者が団結 して 労働組合をつくる動機は 、どこの国でも共通で、まず自分
たちの労働力を商品として売らねばならぬという、資本主 義 制度によって強制された条件のも
とで、労働力の販売条件つまり、賃金について一居主と対等で取引きをしようとします。わたし
たちは、これ以下の賃金では働きません、と申し合わせをして、それを 一
履
主 に認めさせること
によって、生活をまもりたかめることが第一の動機です。また労働時間の問題と賃金の問題と
は切り離せないわけですから、これ以下の賃金では働けませんというと同時に、これ以上長い
時間は働きませんという ことも 申し合わせて 、雇主に認めさせる必要があります。そのために
3
8
は、自分たちが自由に労働組合をつくる権利、すなわち団結権を雇主に認めさせねばならない
し、また自 分たちの要求を一雇主と交渉する 、団体交渉権を認めさせねばならないし、さらに話
し合いがうまくいかなかった場合は、労働力の売りどめをやって 雇主に反省をうながす 、 つま
りストライキを武器にしてたたかう権利をにぎっている必要があります。この団結権と団体交
渉権とストライキ権がなければ、労働者はけっして雇主と対等の立場にたつことができないわ
けです。そこで、そういう組合づくりの運動をイギリスの労働者が開始しました。
しかしこれは、 資本家階級の立場からみれば 、非常におもしろく ないことで 、ただちに妨害
一方的に支配するこ
一七九九年と一八O O年に 議会で﹁団結禁止法﹂
を
に乗り出しました。これまでのように、労働者をバラバラにしておいて、
とができなくなるからです。イギリスでは、
つくって、労働組合をつくったり、 ストライキをやったりすることは犯罪行為だとして、権力
で弾圧しました。そのために、クピになったばかりでなくて、刑務所にぶちこまれた労働者の
数は少なくありません。 そういう攻撃にたいしてイギリ λの労働者は 、 秘密に組合をつくっ
て、弾圧を覚悟でストライキをはじめるというような抵抗を、四分の一世紀にわたってつづけ
ました。資本家の目からみて非合法だろうが、労働者にとってどうしても必要なことだから、
やらないわけにいかなかったのです。 二五年たたかって一八二四年に﹁団結禁止法﹂がやっと
撤廃されま した。そこではじ めて労働者の団結権が社会的に承認されま した 。
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
イギリスにつづいて、 フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国やアメリカでも、産業革命を
経過して資本主義が確立するにともなって、似たりよったりの経過をたどって、 つぎつぎに労
働組合が結成されました。これらにくらべると日本は時間的におくれたわけです。それは日本
の資本主義のスタートが、 ヨーロッパやアメリカにくらべておそかったから、労働組合のスタ
!トもおそかったということにはちがいないのですが、ただそれだけではなくて、日本の労働
組合運動は国際的な水準からみて、ちょっとひどすぎるようなきびしい弾圧を経験しなければ
なりませんでした。
労働組合運動にたいする介入・弾圧
わたしは法律万
一部の法律家や労働組合幹部のように、万事を法律に照らして判
働運動にかぎらず、社会主義運動、農民運動などのすべての民主的な大衆運動、あるいは、い
断するという考え方には賛成しませんが、この法律は、戦前の労働運動を考える場合に││労
能論者ではありませんから
そのあらわれが一九O O年(明治三三年)に制定された﹁治安警察法﹂です。
マ﹁労働組合死刑法﹂ H治安警察法の制定
3
4
0
第二章 産業資本主義 の確立と労働組合運動の開始
一九O O年という年、 つまり、
一九世紀の最後の時点で、治安警察法
わゆる﹁反体制運動﹂を考える場合にllどうしても忘れることのできない 重要な意味をもっ
た弾圧法でありました。
つまり、 資本主義が確立し、
反体制運動の中心勢力とし
という法律がつくられたことの意味は、 日本社会の構造が変化し階級対立があたらしくなった
﹂とを反映している点にあります。
て、労働者階級がたちあらわれてきた、そして、労働者階級を中心に、農民その他の人民諸階
層の抵抗のつよまりを予想しなければならないあたらしい情勢 にたいして、 支 配階級が敏感に
反応し、先手を打って防禦体制をとりはじめたことを示していると思います。
したがって、治安 警察法の全部で三十三カ条の条文は、 ことごとく自主的な大衆運動を妨害
し、弾圧することに狙いが定められていました。たとえば、忠君愛国主義の教育を 義 務 づ け ら
れた学校教師であるとか、あるいは封建時代の遺習として男子から 差 別 待 遇 を 受 け て い る 婦 人
は、政治的無能力者として政治活動に 参 加することを 禁止されました。また 集会 には 警察 の許
可が必要で、 しかも 警察官はその 集会 に自由に出席して、自分の判断で解散させたり、演説を
やめさせたりする権限をもっていました。そういうように国民をバラバラにしてがんじがらめ
にしばりあげるための支配階級の武器として、治安警察法がつくられました。 つまり、言論・
集会・結社の自由などという、基本的な民主的権利が、この法律で 奪 いとられました。
、 1 1 これはたいへん有名な 条文ですが、要するに、
そのなかでの 最大の眼目は、第十七 条 で
4
1
労働組合結成のための運動とストライキのコ扇動﹂を犯罪行為として刑罪をもって禁止するとい
うものでした。 つまり、労働者の団結権、団体交渉権、ストライキ権という基本的な権利を奪
いとることが狙いでした。なかなかカンどころをおさえているわけです。この法律のことを、
当時の人びとが﹁労働組合死刑法﹂と名づけておりますが、まさにズパリの批評だと思います。
この法律は、敗戦後しばらくたった一九四五年の一 O月まで存続していました。もっとも、さ
すがに﹁悪名高き﹂第十七条は、社会情勢の変化につれて、あまりに時代おくれが目立つよう
になったので、一九二六年に削除されましたが、治安警察法そのものは、太平洋戦争が終わっ
たあともしばらく残っていたわけで、半世紀近くにわたって民主運動弾圧に猛威をふるいつづ
けました。そして第十七条が削除されたからといって、労働組合の結成や λトライキが自由に
なったわけではなく、暴力行為等処罰法や労働争議調停法が、第十七条の穴を埋めました。そ
一九五八年の警職法
!l
して戦前の日本では、労働組合の結成や活動を保護する労働組合法のような法律は、 ついにつ
くられませんでした。
マ今日もさまよう治安警察法の亡霊
戦後ずいぶんたって、治安警察法が復活させられようとしました。
警察官の職務の執行に関する法律の改正案││の国会上程がそれです。岸内閣が安保条約改定
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の前ぶれとして、大衆運動を 警察 権力でおさえつける体制をととのえようとしたのでした。こ
のと き戦前の経験をもっている人びとは、治安警察法を復活させてはたいへんだと敏感に反応
しました。また戦後の民主主 義 の成長のなかで権利感覚を身につけるようになった若いひとた
ちは、デイトも自由にできなくなるというので大いに怒りました。老いも若きも統一戦線で反
対して、こ の法案をおしながしました。これは戦後の民主 勢力が、戦前にくらべてずっと強く
なったことのひとつの証明であったと同時に、 日本の統一戦線運動が成功をおさめた最初の経
験として、非常に重要な意味をもっていたと思います。
しかし、治安警 察法の﹁ 夢 よもう一度﹂という支配階級のたくらみは、その 後 も﹁政 暴法﹂
や﹁新 暴力法﹂というかたちをとってしつこくくりかえされてきました。こんにちでは、刑事
基本法である刑法を治安立法の中心にすえ、支配勢力ののぞむままに、大衆運動や労働運動の
弾圧をもっときびしく、すばやく、 しかも 事 前にやるような方向への改悪をめざしています。
治安 警察法のて霊は、いまでも日本にさまよっているといえましょう。
マ治安警察法が果たした役割
日本で労働組合が合法性をみとめられるようになったのは、 や っ と 戦 後 に な っ て か ら で す
が、それは一九四五年の 暮 に制定され、翌四六年の三月から施行された、﹁労働組合法﹂の出現
43
産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
をさします。そこではじめて、労働組合をつくってもさしっかえない、資本家や政府は労働組
合の結成や活動を妨害してはならない、という建前に変わってきたわけです。それを裏づける
ものが﹁憲法二十八条﹂です。﹁勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権
利は、これを保障する﹂と書いてあります。これはちょうど治安警察法の第十七条と一八O度
逆の方向、 つまり、団結権、団体交渉権、 ストライキ権の三つの権利が、労働者にとって基本
的な権利で、どのひとつが欠けても労働者として一人前ではないし、労働組合はカタワである
ということをあらわしたものであります。
しかし実際は、げんざい日本の労働者の権利は完全ではありません。憲法や法律に違反する
弾圧が横行しているばかりでなく、憲法に違反する法律が数多くつくられ、その傾向はますま
すつよめられています。げんに、公務員や公共企業体労働者は、ストライキ権を奪われていま
す。しかし、この問題は、戦後の運動を見るときにあらためて取りあげることにします。
要するに、治安警察法がまかりとおったような環境のもとでは、労働組合は十分成長するこ
とができませんでした。日本は資本主義国として高度に発展し、とくに第一次世界大戦のあと
では独占資本主義の段階にすすみ、人口のなかで労働者階級が占める比重はかなり大きくなっ
たのですから、そうとう大規模な労働組合ができてもふしぎはないだけの客観的な条件がとと
のったにもかかわらず、この治安警察法が象徴しているような政治の体制、 つまり、労働者階
44
級をはじめとする勤労人民を無権利状態におさえつけておくような非民主的・専制的な天皇制
のために、労働組合が十分に伸びることができませんでした。その結果、労働組合の組織状況
Mm(
一九一三年 H昭和六年)
を示す数字をながめますと、 戦前の最高記録は、 組合数が九九三(一九三五年リ昭和一 O年)
組合員数が四二万人(一九三六年 H昭和二年)、推定組織率が七・九
にすぎません。戦後の今日の六万五千組合、 三 二 O万人、三三・二箔という数字と対照しま
すと、あまりに大きなへだたりがあります。なお組合数が九九三にすぎない点には注釈が必要
で、戦後の今日の組合の大部分は企業別組合だから六万五千もの数になるのですが、戦前は企
一九O O年に制定された治安警察法は、生まれたばかりの労働組合をしめ
業別組合ではなく、企業の枠をこえた横断組織が原別でしたから、組合の数がとくに少ないわ
けです。
いずれにしても、
殺す役割を果たしました。もともと、まだひよわな組織で、労働者階級の自覚も弱く、運営も
未熟で、結成されてしばらくたっと伸び悩んでいたのですが、治安 警察法による先制攻撃で、
ノックダウンされたかたちになりました。これ以後第一次大戦まで、明治時代の全期聞をつう
じて、労働組合はほとんど姿を消してしまいました。
45
産業資本主義 の確立と労働組合運動の開始
第二章
社会主義運動の登場
これは日本の特徴といってもいいでしょう。
マ社会主義運動と労働組合運動ーーその国際的な経験
国際的な経験を大まかに類型化してみますと、
ったわけです。それで労働者階級が政治闘争のために自分たちの党を確立することは、
一
九O
労 働 者 階 級 に も 帝 国 主 義 の 毒 が ま わ り 、 労 働 運 動 が い わ ば 資 本 主 義の枠のなかの改良運動にな
たので、労働組合運動にも経済主義が強くなり、労働者階級独自の政治的結集がおくれました。
者階級の上層が資本家に買収されて労働貴族になり、資本主義と共通の利害をもつようになっ
植民帝国として世界を支配したことにともなって、植民地から収奪したえものの一部分で労働
スト運動のような、労働者階級の政治闘争も早くからあらわれていますが、しかしその後は、
この国の労働組合は世界で一番古い歴史をもっており、そして一八三0 1四0年代のチャーチ
一方にイギリスのようなタイプがあります。
て、ほんの一足おくれというかたちで、社会主義運動がはじまっている事実が自につきます。
つぎにこの時期の興味ある問題として、 日 本 で は 労 働 組 合 運 動 の 開 始 と ほ ぼ 時 を 同 じ く し
4
4
6
労働党の議会主義と いう、
イギリス 特 有 の 社 会 改 良
六 年 の 労 働 党 の 結 成 で や っ と 実 現 し た の で す か ら 、 二O世 紀 に 入 っ て か ら で あ り ま す 。 こ う し
﹀
て労働組合会議 (TUC の経済主義と、
主義の二本柱が成立しています。これがげんざいの世界最大の帝国主義国であるアメリカとな
ると 、 労 働 者 階 級 は 大 き な 独 自 の 党 を も つ に 至 ら ず 、大 多 数 の 労 働 者 が 民 主 党 、 共 和 党 の 二 大
一方 の典型は 、 ロ シ ア め 場 合 で す 。 ど ち ら か と い え ば 、 政 治 運 動 H革命運
ブルジョア政党の支配のもとにおかれています。
それにたい して、
動 が 組 合 運 動 に 先 行 す る よ う な か た ち を と り ま した。つ まり 、 ツア l リ の 専 制 の も と で は 、 合
rhk
非合法的な革命運動が、
どうしても早くからでてこざるを得ない。
法的な大衆組織として、労働組合を広範に組織して、経済的条件の改善のために運動する余地
AV
封建的勢力の支配が強いために、労働者、が農民と同盟して活発な政治闘争を展開せざるを得な
くようなかたちで運動が発展しました。中国のばあいも、外国帝国主義の支配と国内の売国的・
で、労働者階級は早くから政治闘争に立ちあがり、政党が先に立って組合があとからついて行
そ
れ
い条 件 が あ っ た こ と か ら 、 共産 党 と 人 民 解 放 軍 の 指 導 的 役 割 が ク ロ ーズ・アッ プ さ れ る 必 然 性
があったと考えられます。
マ日本における社会主義運動と労働組合
4
7
、
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,
刀.
AJfHL そこで、
場
、
第二章 産業資本主義の 確立と労働組合運動の開始
日本は、右の二つの極の中間的な位置を占めるのではないでしょうか。資本主義の確立とと
もに、労働組合運動はいちおう成立するのだけれども、さきに見たような絶対主義的天皇制の
支配のために民主主義的自由が保障されていなくて、伸びることはむずかしい。だから、労働
組合を大衆組織として育てて、生活向上をめざす運動を資本主義の枠のなかですすめるという
目標だけでは不十分で、そのためにも社会体制そのものの基本的性格を問題にせざるを得ない
というところから、早くから社会主義の運動がはじまりました。 つまり経済闘争だけでなく、
政治闘争を早くからとりあげざるをえない条件が日本の労働運動にはあったのです。
それが、 日本で労働組合運動と社会主義運動とがほぼ同じ時期にスタートした背景であった
と思います。
これは今日いっそう大きく問題になることです。げんざい、﹁実践的労働組合主義﹂とか﹁反
共戦線統ごとか、あるいは﹁階級闘争至上主義﹂とか﹁政治的偏向﹂とかいうことが労働運動
のなかで問題になり、労働組合の政治活動、あるいは政党と労働組合の関係が運動のなかでた
えず問題になります。よその国で問題にならないというわけではありませんが、日本で問題に
なる度合いは国際的にみて目立っているように感じられます。
この問題が、のつびきならない課題として鋭いかたちで出てくる地盤、客観的条件は、日本
社会のなかにあるのだから、それを回避することはできないし、それを勝手に自分の好みで批
48
評しても意味はないと思います。
つまり、イギリスやアメリカを引き合いにだしても、 日本はイギリスやアメリカではないの
だから、そのままお手本にすることはできません。さりとて、帝政時代のロシアや革命前の中
国とも同じではありません。日本の資本主義には特有の条件があるのだから、そのなかで労働
組合が占める位置と演ずる役割を具体的に評価する必要があります。なかなかむずかしい問題
で、このことをめぐって、 つまり労働組合と政党の関係をめぐり、あるいは経済闘争と政治闘
争の問題をめぐって、日本の労働運動はずいぶん苦労してきましたし、 いまだに混乱がくりか
えされていることはよく知られているとおりです。そういう問題が、労働運動の出発点からつ
きまとっていると思います。
マ反戦・平和擁護闘争として生まれた日本の社会主義運動
さて社会主義運動は、労働組合期成会ができた翌年一八九八年には﹁社会主義研究会﹂という
﹂れは片山潜、 幸徳秋水、安
組織をつくって、系統的な研究活動を開始しました。そして早くも一九O 一年(明治三四年)に
は、﹁社会民主党﹂という最初の社会主義政党を結成しました。
部磯雄などの、数名のインテリゲンチャが中心になって結成されましたが、その背後には鉄工
組合や日鉄矯正会などの労働組合組織が支持・協力していました。社会主義運動と労働組合運
4
9
産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
動 と の 結 合 の 芽 生 え と い え る で し ょ う 。 し か し 、 こ の 党 は 治 安警 察法によって、結成後ただち
に禁止解散させられましたから、実際には運動できませんでした。
そして、 日露戦争(一九O四l五、明治三七│八年﹀ にたいする反戦闘争が、 社会主義運動の
事実上の初陣になりました。日露戦争は、帝政ロシヤとのあいだに朝鮮と﹁満州﹂ (中国東北)
の支配権をあらそった帝国主義戦争でした。このとき幸徳秋水、堺利彦らが中心になって発行
した週刊﹃平民新聞 ﹄ の﹁非戦論﹂、片山潜が第二インターナショナルのアムステルダム大会に
出席して、日本労働者階級を代表して、ロシアの代表プレハ l ノフと壇上に握手した国際連帯
の行動などのめざましい反戦闘争の歴史は、今日ではかなりひろく知られていると思います。
そこに現われているように、日本の社会主義運動は、反戦・平和擁護闘争としてスタートを切
りました。これはやはり、 日本の資本主義の条件がそうさせたものでしょう。もちろん資本主
義に戦争はっきものです。資本主義があるかぎり、帝国主義がつづくかぎりは、戦争の原因は
なくならないというのはそのとおりでしょう。しかしそのなかでも日本資本主義の軍国主義的
性質・強盗的性格はきわだっています。明治維新以来、資本主義の発展とむすびついて日本がお
こした戦争の数は、世界でも A クラスはうたがいないほどたくさんあります。国の運命をかけ
﹀ には主戦場がヨ l ロツ
つぎの第一次世界大戦(一九一四ー一八 年
るほどの大戦争だけでも、日清戦争(一八九四│九五年﹀からはじまって、十年目には日露戦争
(一九O四lO五年﹀ をやり、
50
パだったので割りこんだ程度の参加ですが、
さらに、
一九一三年にはじま った
ロシア革命に干渉するシベリヤ出兵をやり(一九
一八年)、中国革命を妨害する山 東 出 兵 を や り (一九二七年)、
﹁満州事変﹂以後は、一九四五年八月一五日の敗戦まで、足かけ一五年も戦争をつづけました。
あいつぐ戦争のあいだの﹁平時﹂は、次の戦争の準備をするためのものであったという状態で
すから、これが人民の生活に根本的に影 響 し な い は ず は あ り ま せ ん 。 と う ぜ ん 、 人 民 の 生 活 向
上の要求は、支配階級の戦争政策と衝突します。それが早くも日露戦争のときに、平民社を中
心とする社 会主義者たちの大胆率直な反戦論と してあらわれたわけです。もちろんこの運動は、
機関紙の発行禁止や指導者の投獄などの弾圧をうけましたが、国をあげて戦争協力に動員され
ていた困 難な情勢のなかで 、少数とはいえ社会主義者が、戦争の帝国主義的な性質をはっきり
、 勇敢に反戦運動を展開した先駆的活動
見抜いて、 労働者階級の国際的連帯の立場にたっ て
は、その後の日本労働運動のかがやかしい伝統をかたちづくった点で、重要な歴史的意味をも
っています。
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
階級的矛盾の激化とたたかいの高揚・はげしい弾圧
な λトライキがおこったということは、戦前には見られなかったことです。
いは長崎の三菱造船所(一九O七年)などの、 政府経営の軍事工場や財閥経営の大工場に大き
ちます。 たとえば呉海軍工廠や東京小石川の砲兵工廠(いずれも一九O六年 H明治三九年)ある
まってきます。ストライキの数もふえますが、規模が大きくなり、はげしくなったことが目立
資本主義の発展、大規模工場の出現にともなって、労働運動も戦前にくらべると一段とたか
の海外進出の前進基地がつくられます。
南満州では、満鉄という植民地会社を経営し、朝鮮でも東洋拓殖会社を経営して、独占資本
の植民地経営にのり出す、帝国主義国としての資格を身につけはじめます。
カーブを切っていったのはこのころからだといえましょう。 そして朝鮮や﹁満州﹂(中国東北)
結局、日露戦争は日本の勝利で終わりましたが、 日本の資本主義が独占資本主義に向かって
マ帝国主義への発展と労働者の抵抗
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マ足尾暴動
そのなかで社会にもっとも大きなショックをあたえた争議は、 一
九O 七年(明治四O年)
月の有名な﹁足尾暴動﹂でした。この争議は、当時東洋一といわれた足尾銅山の鉱夫三六0 0
名が、賃上げその他労働条件の改善について、二十四項目の要求をかかげてたちあがり、つい
に暴動化して軍隊の徹底的弾圧をうけた大事件であります。このいきさつをみますと、生産力
の発展にともなって技術が進化し、労働のやりかたがあたらしくなってき、 いままでのような
飯場制度による中間搾取││会社が直接労働者を雇って労務管理するのでなくて、請負業者が
親分子分関係で労働者を支配するーーというようなおくれたやり方では間にあわなくなってき
た、その矛盾が爆発したもので、そういう点で労働運動のあたらしい段階を示すできごとであ
ったと思うのです。しかも、足尾の労働者はいちおう組織をもっていました。ここには片山潜
などの社会主義者の思想的影 響 を う け た 永 岡 鶴 蔵 や 南 助 松 な ど の 鉱 夫 出 身 の 有 能 な オ ル グ が い
にもかかわらず、 当 時 の 組 織 力 は ま だ 不 十 分 な も の で し
て、組合づくりをすすめていました。それを基礎にして、組織的に労働者の要求が出された点
でもすすんだ面をもっていました。
た。争議が暴動化して、鉱山施設の焼打ちゃ職制への暴行に発展したことは、経営者側の挑発
にのったにおいがあるわけですが、組織がけっして強いものではなかったことを示していま
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
す。それを口実に、軍隊が出動して、徹底的な弾圧を加え、組織を破壊しました。
労働争議に軍隊が出動して弾圧を加えたということは、やはりあたらしいできごとでした。
つまり 、それだけ階級対立が深刻になり 、支配階 級が労働運動に たいする 敵意を露骨に示 した
点でも画期的なできごとでした。古河財閥のドル箱である足尾銅山の危機を、天皇の軍隊が出
動 して防いだわ けであります。
闘争の結果 、労働者の要求は 、 かなりの程度に実現しました。しかし、せっかくつくった組
織はつぶされ 、指 導者はヤマから追放されて し ま いました 。労働者 も大きな 損害を こうむって
足尾銅山の暴動は終わりました。この足尾暴動がのろしになって、生野鉱山、三池炭鉱、北海
道夕張炭鉱 、幌内炭鉱 、別子銅山などに、同じころにつぎつぎに 争議がお こり、 多くのもの が
暴動 化し、 幌内や別子では軍隊の弾圧をうけま した。いずれも共 通の条件があったから 、連鎖
反応がおこったとみるべきでしょう。鉱山はとくに労資関係がおくれており、きびしい搾取を
うけていた労働者のはげしい抵抗のエネルギーが、爆発したとみることができます。
しかし、もっともすすんでいた足尾銅山でも、先に見たような状況ですから、ほかの組織化
のおくれたところでの闘争が 、 一時的なものに終わっ てしまったことは、やむ を得な いことで
した。組 合がなく ても闘争はできることを証明したものの、同時に支配 権力にとって治安警察
法が有効な武器であることが 、ここで も証明されま した。
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社会主義運動にあらわれた内部対立と政府挑発
﹀ を中心に社会主義陣営をゆりうごかした﹁方向転換論
一九O 七年︿明治四O年
る情勢にある。したがってこれからの運動は、ゼネストを中心とする労働者階放の﹁直接行動﹂
用しない。しかも一方で労働者階級ははげしい実力行動にたちあがり、それはますます拡大す
ままでの﹁議会主義﹂運動路線は、とても日本のような専制的な政治の支配するところでは通
することを目標とし、そのための前提として、普通選挙の実現を要求してきたが、そういうい
会主義運動は労働者階級の代表を議会に送り、そこで多数派を占めて政治権力を平和的に獲得
のように主張しました。 日本では、とても議会制民主主義などは実現できない。これまでの社
争﹂は、このような背景をもっていました。当時の理論的指導者であった幸徳秋水たちは、次
われました。
争の道は閉ざされているという状況のなかで、社会主義者の一部に非常に急進的な路線があら
このように、階級矛盾が以前より鋭くなり、労働運動ははげしくなるけれども、組織的な関
マ社会主義運動の二つの潮流
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一九世紀末から二O世紀のはじめにかけて第二インタ ー ナショナルが右翼化して、ド
の路線をすすめるべきだ、幸徳らはこう主張しはじめました。この考え方には国際的な背景が
あって、
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
イツ社会民主党の指導部を中心に、修正主義があらわれたことにたいするひとつの反発とし
しきりにゼネ λト戦術を中心とする ﹁直接行動
て、小ブルジョア的な焦りからくる極左的な路線であるアナルコ・サンヂカリズム(無政府主
義的労働組合主義﹀が当時国際的に台頭 して、
論﹂をとなえ、政治闘争の無用を叫んでいました
一方には、そういう批判のしかたでなくて、経済闘争と政治闘争とを結合し、大衆闘争と議
会闘争との関係をあきらかに し、労働組合と政党とのそれぞれの役割をは っきりさせ 、大衆を
レl ニン主義がでできていました。すでにその路線は一九O 五年のロシア第一革命で実
広範に組織しながら、労働者階級の手に権力を獲得する方向へみちびいてゆく基本的展望をも
った、
践的にたしかめられつつあったのですが、このほんとうの革命路線ではなく、アナルコ・サン
ヂカリズムのいわば極左的な線のほうが日本の運動に影響したわけです。
これは、日本の当時の社会主義運動がもっていた小守ブルジョア的な弱点だろうと思うのです
が、その影響が強くなって、普通選挙の実現を当面の中心目標とする片山潜らの﹁議会政策
派﹂と、幸徳秋水らの﹁直接行動派﹂との分派闘争が激化し、運動は分裂状態におちいりまし
た。そして急進的な姿勢のためにとくにきびしい弾圧をうけた﹁直接行動派﹂が、権力の挑発
にかかりました。
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権力犯罪の典型
マデヴチあげられた﹁大逆事件﹂l│
一九一 O年(明治四三年)、幸徳秋水を指導者とするアナーキスト(無政府主義者)やその同調
者たちが、爆弾を製造して明治天皇を暗殺し、暴動をおこして暴力革命にたちあがる計画をた
てた、 という理由で、 全国で数百名の社会主義者(ここで社会主義者というのはひろい意味で、そ
のなかにア ナーキスト も含みます)や 、 その同情者が検挙されました。 そのうち二六名が起訴さ
一回かぎりの非公開の秘密裁判で、天皇に危害を加えようとした﹁大逆罪﹂に あたると い
典型であります。
1 1 三名ないし五名にすぎな
したが って、﹁大逆 事件 ﹂は、天 皇制政府が
社会主義運動を弾圧するためにデッチあげたおそるべき謀略事件でした。これこそ権力犯罪の
かったという、 真相、があきらかにされています。
ろん実行したわけではなく計画を相談しあっただけのことですが
告の大半は無実の罪で処刑されたものであり、実際に天皇暗殺計画に参加したのは、ーーもち
。 しかし、 今日では 、 被
多 い政治的 裁判のなかでも 、もっとも血な まぐさい ﹁大逆 事件 ﹂で す
の一一一名は判決から一週間もたたぬうちに死刑を執行されました。これが明治維新いらいの数
うので、二四名に死刑が宣告され、そのうち一一一 名は無期懲役に ﹁減刑﹂され ましたが、あと
れ
もちろん一方で、この時期に社会主義者のなかに天皇制批判の思想がうまれ、それを自分の
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
宣命を投げ出して実行しようと決意した人びとがあらわれたことの意義は重大です。 かれらは
労働者階級の組織力が未成熟であった当時の情勢のもとで、個人的テロリズムという誤った方
法で自分たちの理想を実現しようと焦って失敗しましたが、 かれらの真意は、 日本人民の自由
と権利をまもるために 、専制的な 天皇制に攻撃を加えることにあ ったわけで、そ の点でかれら
は、日本の労働者階級を中心とする人民が、どうしても対決しなければならない敵である天皇
制を、体当りであきらかにしようとした革命的な先駆者であったといえましょう。
そのようなあたらしい革命的運動の芽生えにたいして、挑発と弾圧によって徹底的な攻撃を
加え、社会主 義運動を 一掃し、 いっさいの民主 勢力をおさえつ けてしまうのが支配階級のねら
いであったのです。
マ﹁大逆事件﹂から学ぶもの
﹁大逆事件﹂がおこされた一九一 O年という年は、 日本が朝鮮を侵略し、これを完全に植民
地にした年です。﹁韓国﹂という国をなくしてしまって、 大日本帝国の領土のなかにいれてし
まうという地図の色の塗りかえをやったのですから徹底したものです。外国にたいして侵略行
動をおこすことと、圏内の民主勢力にたいして弾圧を加えることとは、このように一体のもの
であります。
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それにしても一一一名もの大量死刑は、戦前戦後をつうじても例がありません。まったく﹁大
逆事件 ﹂は、 明治時代の終末を 、もっとも血なまぐさくいろどった 、 日本歴史の一大汚点であ
ります。﹁権力犯罪﹂の真犯人たちは、その責任を負わねばなりません。
ひでこ
この事件ただひとりの生き残り坂本清馬さんと、無実の罪で死刑 ト
になっ
﹁大逆事件﹂の再審請求問題がおこりました。 無実の罪で二五年の
事件から五O年たって 、
牢獄生活を送った、
た、当時のもっともすぐれた理論家・森近運平さんの妹の森近栄子さんとのこ人が、五O年 前
の裁判をやりなおして 、 あらためて無罪を宣告することを裁判所に要求 した のです。
しかし、 すでに歴史的に審判の下っているこのデッチあげ裁判にた いし、 新憲法下の日本の
、 再審の請求を却下しま
裁判所は 、明 治憲法下の絶対主義天皇制の裁判が犯 した 誤りを擁護 し
した。司 法の民主化はまだまだ今後の課題です。
﹁冬 の 時 代 ﹂ を ゆ り う ご か し た 東 京 市 電 の 大 ス トライキ
﹁ 昆虫社会 ﹂と い う 自 然 科 学 の 本 ま で が 発 売 を 禁
う名前のつくものは片っぱしから禁止され 、
冬の時代 ﹂ が や っ て き ま した 。 お よ そ ﹁社 会﹂とい
﹁大逆 事件﹂ の結果 、社 会主義運動の ﹁
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止されたという笑い話が残っているほどの息づまるような時代になりました。しかし労働運動
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
一九一一年、つまり﹁大逆事件﹂の死刑宣告・執行があった年の大みそかか
が死滅したわけではありません。
そういうなかで、
ら翌年の元旦にかけて、東京市電の六千人の労働者がストライキをやりました。これは市街電
車が民間経営から東京市営に移るさいの解散慰労金の分配の不公平、すなわち上に厚く下に薄
い経営者のお手盛り配分にたいする現場労働者の不満から、 ストに入って全市の電車をとめ、
勝利した闘争でした。当時、市電の労働者は労働組合をもっていなかったけれど、車庫ごとに、
がっちり団結し、また車庫間で連絡をとりあい、六千人の労働者が一致して行動して勝利しま
一部の新聞は別として、経営者の腐敗と当局
一年中でもっとも人びとが動く大みそかから元旦にかけて、当時ほとんど唯一の東京市
した。当局や 警察 のしつこい脅迫や懐柔の工作にもかかわらず、 λトライキ破りが出ませんで
した。
民の足であった市電をピタリととめたのですが、
の不正を知り、労働者の要求の正当さを理解していた世論は、 ストライキを支持しました。
そしてこの大ストライキ闘争が、片山潜を中心とする社会主義者の指導と援助をうけていた
つぎのよ
ことは、注目すべき特色でした。この λトを評して、社会主義運動の草分けのひとりである堺
ハイとまりまァす三カ日
利彦が川柳をつくっています。
車掌いわく、
というのです。 詩人石川啄木も、﹁冬の時代﹂の暗黒をやぶるこのストに感激して、
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うに日記にしるしています。
﹁明治四五年がストライキの中にきたという事は、私の興味を惹かないわけにはいかなかっ
た。何だがそれが、保守主 義 者 の 好 か な い 事 の ど ん ど ん 日 本 に 起 っ て 来 る 前 兆 の よ う で 、 私 の
頭は久しぶりにひとしきりいそがしかった。﹂﹁国民が団結すれば勝つということ、多数は力な
りということを知ってくるのは、オオルド・ニッポンの眼からは無論危険極まることとみえる
にちがいないよ
﹂うして明治時代は終わりました。
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産業資本主義の確立と労働組合運動の開始
第二章
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