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6月 - 主日のミサの朗読配分による

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6月 - 主日のミサの朗読配分による
2014 年 6 月(主日 A 年)
6 月 1 日 主 の 昇 天
使 1:1〜11 エフェ 1:17〜23 マタ 28:16〜20
1.マタ
vv.18-20 「イエスは、近寄って来て言われた。 “わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたが
たと共にいる。”」
あまりにも有名なこの “復活のイエスの宣教命令” を、正しく理解するための二つの前提を、先ず再確
認しなければなりません。その第一は、父なる神がキリストを死者の中から復活させてお与えになった “天
と地の一切の権能” に、私たち教会が服してその御名を賛美しているという実際の姿であり、第二は、 “あ
なたがたに命じておいたこと”、すなわち “もろもろの支配と権威の武装を解除して勝利された”(コロ
2:14-15) “キリストの福音を信じて救われている”(ロマ 1:16)という、教会の福音理解と信仰体験であります。
私たちの小教区における実際の体験が、既に久しくこれから大きく乖離しているとしても、それでもこの二
つの前提を曖昧にしたままで、教会に委ねられた宣教の使命を理解することは不可能だからです。
2.エフェ
v.23 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の満ちておられる場で
す。」
神はその絶大な力によってキリストを死者の中から復活させ、 “今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱
えられる”(v.21) “あらゆる名にまさる名をお与えになりました。” (フィリ 2:9) 教会はこの、父が御子にお
授けになった “天と地の一切の権能” を信じて、 “イエスキリストは主である” と公に宣言している (フィリ
2:11)信仰共同体に他なりません。これ以外には決して、 “キリストの教会” は存在し得ないのです。
私たちは以前はこの世を支配する霊に従って歩んでおり(2:2)、生まれながら神の怒りを受けるべき者で
した(2:3)が、福音を信じて洗礼を受け、キリストの死にあずかって罪に対して死に、キリストの復活にも結び
つけられた結果、聖なる者たちの受け継ぐべき神の国の相続者とされました(1:11)。
ですから私たちが “今は神を知っている、いや、むしろ神に知られている” (ガラ 4:9)ということと、 “神
の栄光に与る希望を誇りにしている”(ロマ 5:2)ということとは一つなのです。教会に連なるすべての信者に
とって、これからも神の霊の助けによってさらに深く福音を知り、与えられた神の国の希望がどれほど豊か
な栄光に輝いているかを悟ることは、最優先の課題でなければなりません。
以上の前提に立って初めて、復活のイエスの宣教命令、 “すべての民をわたしの弟子にしなさい。 ・・・
洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい” を、私たちは正しく理解する
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2014 年 6 月(主日 A 年)
ことが出来るのです。
我が国に初めてキリスト教をもたらした 16 世紀のカトリックの宣教師たちも、また明治時代のプロテス
タント諸教派の宣教師たちも、このような “あなたがたに命じておいたこと” (マタ 28:20)を深く理解してい
る人たちでありました。キリシタン時代の殉教者の歴史は、このような基本的福音理解を前提にしてこそ理
解出来るものです。プロテスタントの宣教師 S.R.ブラウンが、 “一人のブラウンが伝道するより十人のブラ
ウンをつくることがより大切である” と言って横浜に開設したブラウン塾の神学的伝統は、今も東京神学大
学というプロテスタントの代表的な教職養成機関に受け継がれています。
しかしいつの間にか時代の大勢は、教会が自らの信仰体験と福音理解を深めることではなくて、宗教団
体としてのキリスト教を拡大すること、キリスト教的価値観や道徳を広めることがイエスの命令であると考
える方向に進んで来たのです。人々をキリストの救いにあずからせるためではなくて、キリスト教主義者の
人口を増加させるためにだけ “宣教” という事柄が考えられるようになったということです。
3.使
v.11 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ
有様で、またおいでになる。」
復活されたイエスは四十日にわたって使徒たちに現れ、神の国について話されました。そして彼らは聖
霊を受けて “キリストの福音”、そして “神の国の希望” の証人、すなわち宣教者となったのでした (v.8)。
教会の宣教は、いつの時代にも、 “聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの
復活、永遠のいのちを信じる信仰” の宣教以外ではあり得ないのです。そしてこの宣教は、主イエスの再臨
と神の国の実現の日まで続けられなければなりません。
信者一人一人が自ら福音を理解し、キリストの救いを体験しているのでなければ、福音の宣教に参加す
ることは出来ません。これは信徒、修道者、聖職者に等しく当てはまることです。 “わたしは世の終わりま
で、いつもあなたがたと共にいる”(マタ 28:20)とは、そのような “宣教する教会” に向けられた復活のイエ
スの言葉であることを、私たちは正しく “悔い改めて信じ”(マコ 1:15)る者になろうではありませんか。
アーメン、 ハレルヤ。
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2014 年 6 月(主日 A 年)
6 月 8 日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 I コリ 12:3b〜13 ヨハ 20:19〜23
1.ヨハ
vv.22-23 「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 “聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あな
たがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。”」
聖霊降臨の主日は復活節を締めくくる最後の主日であります。典礼暦において、この期節および待降節
から降誕節にかけてのもう一つの期節で記念するキリストの神秘は、残る年間の歩み全体の土台でありま
すから、私たちは聖霊降臨の主日をその前後から切り離して理解してはなりません。
私たち教会にとって聖霊は、イエスの死と復活および昇天の後に初めて、真理の霊すなわち福音の弁護
者として送られて来たのであって(ヨハ 15:26-16:15 参照)、それは “父と子から出て、父と子とともに礼拝
され” る “現在の” “生ける神” であります。
このテキストは、弟子たちが復活の主によって使徒として立てられ派遣されたことを述べているのです
が、同時に vv.22-23 は決して使徒あるいはその後継者だけに限定されないで、すべての信者に等しく向け
られているのです。聖霊は使徒たちにだけではなくて、すべての信じて洗礼を受ける人々に等しく注がれた
からです。通常は司教または司祭によって行われる洗礼が、実は場合によっては “だれでも” 授けることが
出来るという、教会に古くから伝わる例外規定を思い起こすことは、この際有益であろうと思われます (カ
テキズム 1256 参照)。 洗礼を通して罪の赦しを与えてくださるのは神であって、決して使徒自身がそのよ
うな権能を神から委譲されたのではありませんでした。
聖霊は使徒たちおよびその後継者たちに、また信者一人一人に働く “現在の、生ける神” でありますが、
その働きの実を正しく見分けるには正しい知識と健全な信仰が必要なのです。
2.使
v.11 「 ・・・・・ 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
私たち信者はこれまで聖書や説教から、神の偉大な業について実際どの程度聞き取ることが出来、そし
てこれを理解して来たでしょうか。福音を語ることも、聞くことも、そしてそれを理解することも、すべては
聖霊の助けによってだけ可能なのだという説明は、確かに正しいけれども、そのことは必ずしもあまり真剣
には教会の現場で考慮されて来なかったように筆者には思えます。
聖霊は、最初の五旬祭の日にだけ降ったのではありませんでした。使徒言行録が伝えている五旬祭の日
のペトロの説教は、いわば原始教会における主日毎のミサの説教の反映として理解すべきであって、それ
は聞く人々を “悔い改めて福音を信じる” ように導く “聖霊の働きの実” でありました。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を
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2014 年 6 月(主日 A 年)
通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ 3:23-24)、 「イエスは、わたしたちの罪のために死
に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」 (ロマ 4:25)、 「生まれながら神の怒りを
受けるべき者 ・・・ (すなわち)罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−−あなたがたの
救われたのは恵みによるのです−− キリスト・イエスと共に復活させ、天の王座に就かせてくださいました」
(エフェ 2:3-6) という福音が、 “全地に響き渡り、世界の果てにまで及ぶ” (ロマ 10:18)時代が到来したので
す。聞いたけれども理解しない人々がどんなに多くいても、それでも確かに、聖霊は恵みによって選ばれた
者を残してくださっています(ロマ 11:5)。 そしてそのことの上に、歴史の教会は立っているのです。
3.I コリ
v.3 「聖霊によらなければ、だれも “イエスは主である” とは言えないのです。」
v.7 「一人一人に “霊” の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」
信仰宣言(Credo)というものが、個人の主体的決断である以前に、先ず聖霊の働きの実であるというこ
とを、私たちは理解する必要があります。そしてそれは福音を聞くことから始まるのであって(ロマ 10:17)、
私たちはミサの説教を通してであれ、各自の聖伝と聖書の学びを通してであれ、いずれにしても、 “教会に
委ねられた信仰の遺産” から聞くのです。そしてこの信仰は、個人の信仰である以前に、先ずなによりも教
会の信仰であることを忘れてはなりません。
教会がこの信仰を共有し、この福音によって立つために、聖霊は “教会全体の益のために” 働いてくだ
さいます。ですから、霊の働きの実として現れる “愛、喜び、親切、柔和等々”(ガラ 5:22-23)を、個人的な
徳目としてではなくて、教会を造り上げてゆく(エフェ 4:12、I ペト 2:5)ための賜物として理解することが大
切なのです。
明日から、再び典礼暦の年間が始まり、今年も待降節第一主日の “前晩の祈り” の前まで続きます。
アーメン、 ハレルヤ。
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2014 年 6 月(主日 A 年)
6 月 15 日 三位一体の主日
出 34:4〜9 II コリ 13:11〜13 ヨハ 3:16〜18
1.ヨハ
v.16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びない
で、永遠の命を得るためである。」
“諸民族の光はキリスト ・・・・・ 教会はキリストにおけるいわば秘跡” と語り始める教会憲章は、教会を
父なる神の救いの計画によって存在する “父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民” と定義し
ています(1,2,4)。 そして、 “われわれは信条の中で、この教会を、唯一の、聖なる、普遍の、使徒的と宣言
する” と説明した後に、 “この教会は、この世に設立され組織された社会としては、カトリック教会のうちに
存在する” という確信を表明しています(8)。
御子イエス・キリストを信じて救われるとは、この教会に加え入れられることであります。永遠の命を与
えられて神の国を受け継ぐのは教会であって、決して切り離された個人ではないということを、ここで特に
強調しておかなければなりません。
現代のカトリック教会は、一方ではこのような素晴らしい教会憲章を持っていますが、それと並行して実
際には救いを私的な信心として追求する古い考え方もかなり盛んなようです。せっかく聖書が一般信者に
身近なものとなったのに、これを学ぶ人々がキリストによる救いの共同体性に目覚めないと、正しい意味で
“教会を造り上げる”(エフェ 4:12、I ペト 2:5)ということに結びつかないのです。
御子を信じる者は、神が御子の血によって御自分のものとなさった教会の中におり、信じない者は教会
の外にいるという事実の、厳粛な意味を畏れを持って聞き取る人は幸いです(v.18)。
2.II コリ
v.13 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」
ミサが本質的に共同体の祭儀であるということを理解しないと、その開祭の部の挨拶でこの聖句が唱え
られる意味を知ることが出来ません。ユンクマンは “集会は、司祭の案内で共同体となり、神の前に出る”
と説明しています(ミサ p.199)。
このミサをささげる共同体の中心に父・子・聖霊なる神が共にいてくださるということを、現在のカトリッ
クのミサ典礼書は明確にしようとしているのですが、ミサを人間中心の集会のように理解する人々はこの
同じ聖句を、恵み・愛・交わりを自分たちで作り出す合い言葉のように考えてしまいます。
実際 vv.11-12 のような勧めを、信者個人の私的な信心や美徳の追求として理解しようとする傾向が、
従来のカトリック教会でもかなり有力でありました。そのために一般信者の間でも、また多くの司祭たちの
間でも、典礼憲章や教会憲章、そしてミサ典礼書の総則等への理解とその学習が非常に軽んじられたまま
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2014 年 6 月(主日 A 年)
になっているのです。
キリストの体である教会を造り上げることは、ミサを正しく造り上げることであり、私たち一人一人に
とって “聖書の学び” はまさにそのような実を結ぶものでなければなりません。使徒パウロはこの “教会を
造り上げるため” という目的のために(I コリ 14:26、II コリ 12:19,13:10 他)、悩みと愁いに満ちた心で(II コリ
2:4)、何通かの手紙をコリントの教会に書き送りました。この目的を前提にして、vv.11-12 は理解されなけ
ればなりません。
3.出
v.6 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 ・・・・・ 」
これは、現代人が理解するような “個人の私的信心や善き業” を対象にして語られた言葉ではありませ
ん。モーセはひれ伏して、特定の個人のためではなく、イスラエルの共同体のために執り成して言いました。
v.9 「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確
かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてくだ
さい。」
“すでに世の初めから予型によってあらかじめ示され、イスラエル民族の歴史と旧約を通して、感嘆す
べき仕方で準備され、最後の時に設立され、聖霊の注ぎによって姿を現した教会” (教会憲章 2)は、 “父と
子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民” であることを(同 4)、深く理解して、感謝しようではありま
せんか。
“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。” “また司祭とともに。”
アーメン、 ハレルヤ。
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2014 年 6 月(主日 A 年)
6 月 22 日 キリストの聖体
申 8:2-3,14b-16a I コリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
1.ヨハ
vv.54-55 「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
1969 年の待降節第一主日より発効した現在の “ローマ・ミサ典礼書” には、およそ 1500 年間にわたっ
て使われて来た従来の奉献文に、さらに新しい三つの奉献文が追加されました。しかしその際に、各奉献
文における主のことばは同一であるように定められました。 「パンには、 “皆、これを取って食べなさい。こ
れはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)” と唱え、カリスには、 “皆、これを取って飲みな
さい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるししとなる新しい永遠の
契約の血(である)。これをわたしの記念として行いなさい” と唱えます。」(使徒憲章)
この奉献文には、 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られた
てこと、 ・・・・・ 復活したこと」(I コリ 15:3-4)、 「御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って永遠の
贖いを成し遂げられた」(ヘブ 9:12)という、キリストの死と復活についての歴史理解が表明されています。
私たちが献げるミサは、この十字架のいけにえの秘跡的再現であって、復活されたキリストは聖体の両形態
のもとに現存しておられ、これにあずかる者に聖霊を通して永遠の命を保証してくださいます。
ですから、感謝の典礼の “交わりの儀” にあずかることが出来るのは洗礼を受けた信者だけであって、
それは “今おられ、かつておられ、やがて来られる”(黙 1:4)キリストへの信仰と固く結びついている “秘跡”
であります。教会において “交わり” とは、何よりもミサにおいて、聖霊の交わりの中で信仰的に体験され
るものであって、 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」 (I ヨハ 1:3) しば
しば誤解されているように、 “神の国の栄光にあずかる復活の希望” を脇に置いて、ただ人々がお互いに
仲良くすることとは、全く似て非なるものであることを強調しておきましょう。
2.申
v.3 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人は
パンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせる
ためであった。」
世俗の人は、世の中から苦しみや飢えを無くすることが、人類の課題であると考えます。少しだけ信心
深い人は、そのためには “神の言葉” に耳を傾けることが有益であると主張します。そこにある前提は、歴
史を造り出すのは人類であるという理解です。
しかし聖書が語っている神は、御自分の民を苦しめ、飢えさせることも、そして人は神の言葉によって生
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2014 年 6 月(主日 A 年)
きることを知らせるためにマナ(思いがけない出来事)を食べさせることもされる方であります。神は歴史の
主であって、御言葉によって世界は造られ、神の言葉によって歴史は導かれるのです(詩 33:6,9)。 しかもそ
の歴史は、究極的には終末の裁きと神の国の完成に向かって行く救済史でありますから、 「言葉を侮る者
は滅ぼされ、戒めを敬う者は報われる」(箴 13:13)のです。
私たち教会が “共にミサをささげる共同体” であるということは、神の言葉を、神が与えられる苦しみ
や飢えと共に受けることであって、そのようにして歴史の完成者である “わたしたちの希望、救い主イエ
ス・キリストが来られるのを待ち望んでいる” のです。 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたち
が義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)キリストを忘れて(8:14a)、人間が自分たちの能力と努力に
よって歴史に善い方向性を与えることが出来、その目的のために都合よく利用できるものが “神の言葉”
であるなどと錯覚してはなりません。
3.I コリ
“キリストの血にあずかり、キリストの体にあずかる” とは、 「この御子において、その血によって贖われ、
罪を赦された」(エフェ 1:7)ということ、 「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリ
ストと共に栄光に包まれて現れる」(コロ 3:4)であろう大群衆の一人にされた(黙 7:9-17)ということに他なり
ません。
“交わりの儀” が “神の国を証しする共同体の信仰行為” であることを意識し表現するために、ミサ典
礼書の総則(21)は、すべての参加者が 「奉納祈願からミサの終わりまでは立っているものとする」 と定めて
います。他の人々の拝領が続いているのに、先に拝領した人がまるで自分の用事は済んでしまったかのよ
うにさっさと座るのは、聖体拝領を個人的な信心としてしか考えていないからであって、たいへん残念なこ
となのです。
v.17 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからで
す。」
キリストの聖体の祭日は、私的な祭日ではなくて、全教会の祭日であることを覚えて “神に感謝”。
アーメン、 ハレルヤ。
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2014 年 6 月(主日 A 年)
6 月 29 日 聖ペトロ 聖パウロ使徒
使 12:1〜11 II テモ 4:6-8,17-18 マタ 16:13〜19
1.使
vv.1-4 「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟であるヤコブを剣で
殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。そして、 ・・・・・ ヘ
ロデはペトロを捕らえて牢に入れ、 ・・・・・ 」
イエスの 12 人の弟子の中で特に重要な三人が、ペトロ、ヤコブ、ヨハネでありました (マタ 17:1 参照)。
その一人であるヤコブが、キリスト教の歴史における最初の殉教者となりました。ちなみに、その後原始ユ
ダヤ人教会の重鎮となったのはイエスの兄弟ヤコブであって(ガラ 1:19)、ゼベダイの子ヤコブ(マタ 4:21)で
はありません。しかし、主は天使を遣わしてヘロデの手からペトロを救い出されました。使徒言行録では、
ペトロはこの後 「そこを出てほかの所へ行った」(12:17)とあるだけで、記録の舞台からは姿を消します。ペ
トロは確かに原始教会がその上に建てられる岩として、このときの迫害から守られたのでした。しかしその
教会はあくまでもキリストの教会であって、決してペトロの教会でも、また主の兄弟ヤコブの教会でもなかっ
たことに注目しましょう。
2.マタ
v.16 「シモン・ペトロが、 “あなたはメシア、生ける神の子です” と答えた。」
ベネディクト前教皇が毎週水曜日のカテケージスで語った講話を集めて、後日出版された “使徒たち”
という書物の冒頭には、次のように書かれています。 「教会は使徒たちを土台とする信仰・希望・愛の共同
体として建てられました。使徒たちを通して、私たちはキリストに出会うのです。」
カトリック教会では、主が聖ペトロを他の使徒たちの上に立てたということが、ローマ教皇の聖なる首位
権および聖職位階制度全体の神学的根拠となっていますが、ベネディクト前教皇がカテケージスでマタ 16:
23 を取り上げて、 “イエスに指図するためではなく、イエスに従うために” とこれを解説しているのは、あ
る意味で現代の教会の “下(人間の側)からの神学” への警告として心に留めるべきでしょう。
12 人の使徒を始め、その他の多くの “いつも一緒にいた主の証人” (使 1:22)が存在していたにもかかわ
らず、 “いろいろなキリスト教” ではなくて、ただ一つの使徒的教会が建てられたのは、主がペトロを使徒た
ちの頭また教会の土台岩とされたことに深く根ざしています。
聖ペトロその人は今は過去の人でありますが、ペトロを頭とする使徒たちの伝えた福音の伝承が、ロー
マ教皇を頭とする司教団によって今も明示され、維持されています (教会憲章 20)。 そしてこの使徒的伝承
の背後に立っておられるのは、復活して神の右に挙げられた現在の生けるキリストであります。 “イエスが
死に支配されたままでおられるなどということは、あり得なかったからです。”(使 2:24)
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3.
パウロは回心して三年後に、ペトロに会うためにエルサレムに上りました。彼は自分が理解し、宣べ伝え
始めた福音が間違っていないか、ペトロに説明して意見を求めました。正しい使徒的伝承を受けるためには、
どうしても岩であるペトロに会わなければならなかったのです(ガラ 1:18〜2:2)。
私たちはここで、ペトロが偉大な神学者としてキリスト教の教理を後輩の指導者たちに教授したなどと
考えるべきではありません。そうではなくて、彼は教会の使徒的伝承の鍵を握る岩として、主によって立て
られていたということです。その伝承が指し示しているのは生ける復活のキリストであって、言い換えれば
この福音伝承そのものの中にキリストが働いておられるのです。ですからパウロは一方では 「わたしはこの
福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく」(ガラ 1:12)と言い、しかも何の矛盾もなく 「わたしも受
けたもの」(I コリ 15:3)、そして 「わたし自身、主から受けたもの」(I コリ 11:23)と言うことが出来ました。
4.II テモ
v.17 「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるた
めに、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」
新約聖書の中で、使徒パウロの名を冠する手紙はかなり大きな部分を占めています。彼自身神に感謝し
て、 「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きまし
た」 と言いました(I コリ 15:10)。 教会の神学において、パウロは非常に重要な位置を占めています。
今日は聖ペトロ・聖パウロの祭日であります。しかし教会の中にペトロ教会とパウロ教会があるわけでは
ありません。 “キリストが幾つにも分けられてしまう”(I コリ 1:13)ようなことは、正しくはないのです。原始
教会における使徒の職は、受肉し復活したキリストから直接に委任を受けたものでありました。彼らの証し
は、キリストからの直接的な啓示を基礎としていました。歴史の教会はこの使徒たちの伝承から独立して
“独自に” ではなく、使徒の伝承を受け継いでキリストの福音を宣教するのです。それはペトロの福音でも
パウロの福音でもありません。復活して父なる神の右の座に着き、終末の日の来臨を待っておられるキリス
トの福音であります。ですから、先の “使徒たち” からの引用は次のように読み換えることが出来るでしょ
う。 「教会は使徒たちの伝承を土台とする信仰・希望・愛の共同体として建てられました。この使徒的伝承
を通して、私たちは生ける復活のキリストに出会うのです。」
“今おられ、かつておられ、やがて来られる方”(黙 1:4)に賛美 !!
ハレルヤ、 アーメン。
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