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Title Author(s) 唱歌教育と日本語音声の標準化 : 明治の唱歌帖からみた教室の声 平尾, 佳子 Editor(s) Citation Issue Date URL 人間社会学研究集録 .2013 ,8 ,p.133-153 2013-03-29 http://hdl.handle.net/10466/12853 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 人間社会学研究収録 8(2012),133-153(2013年3月刊行) 唱歌教育と日本語音声の標準化 ― 明治の唱歌帖からみた教室の声 ― 平尾佳子* はじめに くにたみ 明治5年の学制頒布にはじまった学校教育は、六十余州の国民の子弟を近代国家 の国民に育成しようとする制度であった。戦前期の学校音楽教育としての唱歌教育 は学制頒布の時点では「当分之ヲ欠ク」として、教科内容は明治 24 年 11 月制定の 「小学校教則大綱」において明示された。従来、明治初期の唱歌教育は西洋音楽受 容の前史のように扱われることが多かったが、近年、唱歌教育がナショナル・アイ デンティティの創出の装置であったとする研究が相次ぎ1)、新しい知見は音楽教育 のあり方を考えるうえでも新たな視点を提供してくれている。 それでは、国民化の装置を目されて誕生した唱歌の時間には、どのような指導が 実践されていたのだろうか。 具体的にどのような指導がされていたのかについては、 個人的な回想や僅かな聞き取り調査がある程度で不明の点が多かった。 そこで、学習の必需品である筆記帳としてまとまった発行部数のある「唱歌帖」2 ) に着目して調査したところ、口形図の解説が今日のものと異なり、母音の発音練習 が五十音順であるなど、歌唱指導の資料でありながら国語教育との関連が認められ た。 本研究では、初期唱歌教育が日本語音声の標準化の役割を担っていたという仮説 に、明治期に作られた唱歌帖の解説や口形図・音階図、歌唱に関する言説、教員養 成課程、児童への質問紙調査の結果などの調査を通して、音声指導の観点からの検 証を試みる。 Ⅰ、新しい歌声―唱歌教育 1、唱歌教育のはじまり 「音楽」や「唱歌」という用語は、 「哲学」や「美術」のように明治期に誕生した * 大阪府立大学人間社会学研究科 人間科学専攻(博士課程前期) 1 134 平尾 佳子 訳語ではなく、古くから用いられていた言葉である。平安期以降、 「音楽」は公的に は外来の音楽か、外来の音楽を模して作られた器楽曲を指し、仮名文字文学のなか では「浄土の音楽」を含む「仏教音楽」の意味で用いられてきた 3 )。また、 「唱歌」 は楽器で奏する旋律やリズムを音韻のつながりで唱える学習法であり、 「しょうが」 と称されていた。明治に開始された学校教育のなかで「音楽」や「唱歌」という用 語が用いられたのは、伝統的語感と和魂洋才の方針が結びついた結果であると考え られる。 唱歌教育実施のために設立された音楽取調掛では、明治 12 年から「和洋折衷・国 楽創成」の事業方針のもとに教材作成や音楽の専門教育がはじめられていたが、音 楽家と唱歌を教授できる教師の養成は、 明治 20 年の東京音楽学校開校によって本格 化した。しかし、唱歌の指導ができる教師の絶対数の不足は深刻 4 ) で、唱歌教育 は 「小学校教則大綱」 (明治 24 年 11 月制定) によって教科内容が明示されたのちも、 全国的に普及していたわけではなかった。また、唱歌科が必修とされるようになっ たのは明治 40 年の小学校令以降のことであった。 唱歌教育の必要性が火急のことになったのは、明治 26 年に祝日大祭日唱歌が制 定され、学校儀式でこれらの唱歌を「合唱スル」ことが規定されたことが大きい。 日頃の授業はともあれ、学校儀式の定められた日時には、子どもたちが新しく定め られた祝日大祭日唱歌を歌えるように指導しておく必要が生じたのである。 2、唱歌帖 ―教育現場の要請を反映した学習ノート 唱歌帖は三線、四線の数字譜用 5 ) や一般的な五線、歌詞の記入のための白紙の ページを含み、歌集的性格の強いものもある。しかし、多くの唱歌帖に記号、用語、 音階、構音などの解説、ほとんどすべてに祝日大祭日唱歌の楽譜が付されているこ とから、授業中の解説資料や用語集としても活用され、学校儀式の練習にも用いら れていたと考えられる。 唱歌帖の内容構成が教育現場からの要請に対応していることは、明治 41 年、新 しい唱歌集編纂に際して東京音楽学校に寄せられた全国師範、中学、高等女学校か らの参考意見のなかで確認できる。 福島県 発声発音の方法を記載され度きこと。 神奈川県 譜表論を説明したる後ち直ちに其の例曲を挙げ、尚ほ其れによりて発音 しては発音法を授け、又調子を説明しては其の例曲を示す如く務め、理 2 唱歌教育と日本語音声の標準化 岩手県 新潟県 岩手県 栃木県 135 論と実習と隔離せざる様秩序的に組織せられんことを望む。…… 楽譜の組織及び諸種の記号に通暁せしむるの必要あるが故に、楽曲の大 意を教科書の初めに編入すべきこと。 楽譜教授及基本的音程練習とを学年に応じて配当せれたし。 祝日大祭日その他の学校の儀式に用ふる唱歌は、凡て教科書中に編入す べきこと。 大祭日祝日の歌曲を新載すべきこと。6 ) この後、刊行された尋常小学唱歌集には、参考意見に挙げられていた記号、用語、 音階、構音の解説や祝日大祭日唱歌の楽譜のページはない。唱歌帖の編集者は唱歌 教育の研究団体や各地の教育研究会、小学校校長会等であるので、教科専用の筆記 帳である唱歌帖が教育現場の要請を吸収したものと考えられる。 唱歌帖の仕様はさまざまであるが、罫線だけで構成される他教科の筆記帳とは異 なっている。 「新式唱歌筆記帳」 (後述)の編纂の趣旨には、発行当時(明治 45 年)の 唱歌科の状況や意匠の趣旨が記されている。 一、唱歌筆記帳は一定の教科書を採用する学校と雖も、已に其必要なるを認む。況 や教科用書の一定せざる所に於いては、猶更必要なること言を俟たず、…… 一、歌詞は五線の下に横書したるもののみにては、其意味を諒解し難きのみならず 真の詩趣を感ぜざるものなれば、之を普通に縦書する必要あり。単音楽曲の歌 詞は四段の譜表の下部の余白欄に、六段のものにありては、左方の余白に記載 するものとす。鉛筆、ペン何れにても使用するを得れど保存上ペンにて記入す るを可とす。 「教科用書の一定せざる所」というのは唱歌を教える教師の力量とも関連する、 当時の状況であると考えられる。歌詞の縦書を「真の詩趣」の感受のためとする姿 勢には歌学の伝統に培われた感性が感じられるし、学習に使われた唱歌帖が「保存」 されるものであったことなどは、音楽的な素養が文化資本であったことを示唆して いる。唱歌帖の意匠は、教科特有の学習を想定して考案されたものであり、書き込 まれた記録は、授業内容や授業中の活動を子どもの立場から具体的に示す資料であ る。 「小学唱歌帖」 3、 図 1 、図 2 は明治末期から流通し、大正初期に使用されたと推定される小学唱歌 帖 7 )の表紙と見開きのページに印刷された口形図・音階図である。 3 136 平尾 佳子 図1「小学唱歌帖」表紙 図2「小学唱歌帖 」口形図・音階図 → 小学唱歌帖の表紙は、五線譜に用いられる記号を素材にして装飾されている。 長く引き伸ばされた♪は五線譜を思わせる水平線と直交し、斜めに挿入された楽譜 は「君が代」8 ) の冒頭部分であって、 「国家教育の大目的は小学校にあり」とされ た時代の意識を反映している。 図 2 の「口のひらきかた」の図はアイウエオ順である。今日の構音の解説図は、 アエイオウの順で、アエイとアオウの二つの流れを図示するものである。アイウエ オ順を歌唱に結びつく音声の構音練習とするには、各音の関係性が希薄で脈絡がな く、むしろ発話の基礎となる日本語の母音の画一化を目的としているように考えら れる。また、 「おんがいづ」は長音階の半音と全音の組み合わせの構造を視覚的に解 説するためのものであり、西洋音楽の音組織に見合った音高制御が指導目標であっ たことを示している。 4、 「新式唱歌筆記帖」 明治 45 年に発行された、師範学校、中学校、高等女学校、高等小学校の生徒のた めに編集された唱歌帖である。考案者の松岡保は、音楽教育会の理事で東京支部長 を務め、文部省検定済「貯蓄奨励の歌」の作曲者でもある。 図3「新式唱歌筆記帖」表紙 図4 口形図 4 図5 音階図 唱歌教育と日本語音声の標準化 137 表紙は濃紺の一色刷りで、左上には空に舞う霊鳥が配されている。古来、 「霊鳥 は君子が善政を行うときに現れる」とされており、この意匠には歌唱と鳥のさえず りを重ねた発想以上の、国家の安康や平和への期待が込められており、考案者をは じめとする関係者の教科観が唱歌教育による個人の内面の充実にとどまらず、社会 教化に及んでいたことを示唆している。 「唱歌者心得一般」の「唱歌の方法」の項では構音図が「口形図」としてアイウ エオ順にかかげられている。各図の左に付された解説は、構音の説明というよりも 口の開け方の目安であるが、アの発声が「二本の指」が入る大きさというのは、今 日でもかなり大胆な口の開け方である。音階図は DO、RE、MI の階名唱になってい る。これらが「唱歌の方法」の解説資料として掲載されていることから、明治 45 年当時の師範学校、中学校、高等女学校、高等小学校の唱歌の時間においても、構 音と音高制御の指導は重視されていたと推測される。 Ⅱ、 「歌唱」についての言説 よきこえ 1、明治 20 年代の「美 音 」 日本初の音楽専門雑誌である『音楽雑誌』創刊号(明治 23 年 9 月 25 日)には、 よきこえ 和声法、オルガン奏法、和洋の弦楽器の弦についての記事と並んで「美音になる秘 伝」として唱歌法が紹介されている。 よきこえ 〇美音になる秘伝 よしあしすみにぶき うまれつき ……固より音声の美悪清 鈍 は其特 性 にも 由るべけれとも、其男女の性に依て音域の高 はっきり 低を異にするは楽理に照らすも亦明確たり。 其国其土地によりて言葉も違えば幾分か発音 の仕方も違う道理にて、欧州人の唱歌と吾邦 人の唱歌とは其の法異なり、先ず、欧人の唱 きまり 歌法は男女の性を分かちて音域の程度を定め 唱う故に、聴人さえ楽々と愉快に聞得るか如 し。之に比すれば吾邦の唱歌法は一種又異な る処ありて、其派其人に依りては男声を以て 女性の高くピンとした意気な声に擬せんとす るが如く、又女声を以て男性の低くノッペリ うしほえ した、否、牛吼たる声を真似るが如きは、実 おもい に聞くさへ頭の膸が苦しき 感 を覚ゆるなり。 … 美音になる秘伝とは……只充分に口を開 よきこえ 図6 美音になる秘伝 ひとつ くことの一点にあるのみ。充分に口を開いて唱 5 138 平尾 佳子 すこし ふ時は 毫 も苦しからず、楽々と唱え得べきなり。……老幼と男女を問わず唱歌を善 てだて かく くせんと欲する時は左の方法に従い、怠らずして練習するこそよき方便なれ。斯の つく いくたび 如く五十韻の綴りを図に製り、最初は己れの口形を鏡に映しつゝ、幾回となく上下 つゞり すぐ 縦横飛々に図の 綴 を正しく練習して、終に五十音中の只一字を見ても直に其口形を 作るに至らば、声も楽に、歌も楽に唱へて、己れも愉快に、聴人も亦愉快に聞得へ はやよきこえ し。 己に愉快に唱へ愉快に聴得るに至らば、早美音に成りたるものという可きなり。 この記事には署名がないが、記事と表の記述内容からは、著者は外国語の素養が あり、西洋音楽の声楽曲に親しく触れる機会に恵まれ、音声について相当な研鑽を 積み、唱歌教育について指導的な立場にある人物であることが推測される。 記事の中では、言語には国や地方によって発音が異なり、欧州の唱歌法と日本の 唱歌法は幾分声の使い方に違いがあるのは道理であり、わが国には日本語にあった 歌い方がある、としている。しかし、西洋音楽の声楽曲(独唱、重唱、合唱―筆者注) にみられる男女の声域の差に対応した声の使い方を評価して、邦楽にみられる通常 の声域からかけ離れた声の使用の表現牲を認めず、 生理的に拒絶している。 つまり、 日本語音声の特性は尊重するが、伝統的な邦楽の発声法は認めないという立場から 唱歌法を指南している内容である。 2、大声を要求する練習法 ここで具体的な唱歌法として紹介されているのは、長調の音階に乗せた五十音の、 構音を重視した発声練習である。母音の練習の順序は、 「小学唱歌帖」の口形図と同 ・ じアイウエオ順である。表の上部、階名の欄の「1、2、3、4、5、6、7、1 」は、 ・ 唱歌教育が始まった当時に用いられていた数字譜の表記で、 「ヒフミヨイムナヒ」 、 ・ と読み、今日の「ドレミファソラシド」の階名を意味する。音名欄の「は」の音高 ・ は明治期の楽典ではC4(中央ハ)であって、表の上辺と右辺は長音階を歌う練習、 つまり西洋音楽に見合った音高制御の訓練を指示している。 よきこえ 表の左辺は子音の発音と構音点を説明するものと考えられるが、 「美音になる秘 伝」には現代日本語の子音の構音とは異なるところがある。 図 7 にあるように、現代日本語の子音の構音点は口唇部、歯茎部、軟口蓋部、声 門部の四つに整理されている。表のハ行には「唇」と書かれているが、 「フ」 (口唇 部)以外は声門部の音である。また、ヤ行は「喉」ではなく、歯茎口蓋音であり、 ワ行は両唇から発する口唇音であって「喉」からの音ではない。 6 唱歌教育と日本語音声の標準化 図7 子音の発音と構音点 139 米山文明『声がよくなる本』p.140 また、指定された部位を意識するような発声をするには多量の呼気流が必要であ る。一般にラウドネスとピッチは制御できる幅が広いほど、より自由な歌唱表現が よきこえ 可能になるが、 「美音になる秘伝」の発声法ではことばや旋律の流れが単音に寸断 されることが懸念される。記事には「唱歌を善くせんと欲する時は左の表に従い、 てだて 怠らずして練習するこそよき方便なれ」とあるが、訓練の目的は、歌唱よりも明瞭 な発音にあるものと推測される。 3、共鳴法への無関心 よきこえ 「美音になる秘伝」の表の下辺は、五種の母音の口腔の開き方を口と舌の形状で説 明している。練習には鏡を用いる指示があり、歌う本人の身体感覚からではなく、 他者の眼差しで書かれた説明が視話法の影響を感じさせる。 たとえばア音の口形は、 今日であれば「あくびをするときのように」などと説明されるが、ここでは「口を 椀大に開き」とあり、お椀のよう丸く、大きな口を開くように、という指示されて いる。口形については、イ音の「一の字形」 、ウ音の「凹字形」 、エ音の「日字形」 、 ヲ音の「竇の如く」と、すべて外見から説明されている。また、 「舌浮きたる」 、 「舌 平なる」 、 「舌沈みたる」など、舌の上下の位置の指示はあるが前後位置と口腔内の 変化については説明がない。図 9 の母音三角は日本語の母音発声時の舌の位置を示 よきこえ したもので、図 8 はその拡大図であるが、 「美音になる秘伝」の表には、図 8 にみ る舌の前後位置の説明が欠落している。 7 140 平尾 佳子 図 8 母音の開き方と舌の位置 杉浦克己『日本語学~母語のすがたと歴史~』p.26 図 9 母音発音の舌の位置 米山文明『声がよくなる本』p.138 また、母音発音時には、図 9-右の「ア」と「イ」の発音時の図のように、口腔 内のみならず咽喉部の形状も変化し構音や共鳴と深く関わっているが、喉や口の奥 などの共鳴腔には言及されず、歌唱に必要な「響き」の制御(共鳴法)については 触れられていない。一般に発音の明瞭性を重視すると共鳴が不統一になり、共鳴を 重視すると限りなく「ア」音に近づいて発音が不明瞭になる傾向があるが、ここで は発音の明瞭性を優先し、 歌声に影響する共鳴の問題はまったく考慮されていない。 4、唱歌に求められた規範 ― 標準化された日本語音声 よきこえ 「美音になる秘伝」の文脈からは無理な発声の忌避志向は読み取れるが、共鳴の 問題は、男女別や声質の差で定まる声域の問題と混同され、頭声発声(裏声)や呼 吸法の問題とともに無為にされている。音楽教育の論壇であった専門誌 9 ) において も、共鳴法や音色の問題は言及されていないのである。 よきこえ 明治 20 年代に期待されていた「美音」とは明瞭な発音で音高制御ができる声で あって、今日の歌唱に要求されるような咽頭腔や鼻咽腔で均質に共鳴させた声とい うよりも、音声としての日本語の発音とイントネーションを制御できる声の意味合 いが強い。ここで目指されているのは、唱歌の歌詞の、音声としての標準化である。 のちに唱歌の歌詞に言文一致として口語が採用されていくことを考えると、 「唱歌を よく よきこえ 善」するための「美音」の訓練法は、音声言語としての日本語の標準化への方略で あると考えられる。 8 唱歌教育と日本語音声の標準化 5、唱歌と話しことば ー 伊澤修二と目賀田種太郎の構想 141 10 ) 唱歌教育実施を目的とした音楽取調掛設立への動きは、伊澤修二と目賀田種太郎 の連名で提出された上申書から始まる。明治 11 年 4 月、伊澤は留学生監督官であっ た目賀田とともに、唱歌科を興すのに必要な音楽取調事業を行うよう、文部大輔田 中不二麿に上申した。そこに記された音楽の効用には、気分転換と体育の次、知育、 徳育の項目に優先して音声への効果が簡潔に述べられている。 ……夫レ音楽ハ学童神気ヲ爽快ニシテ勤学ノ労ヲ消シ肺臓ヲ強クシテ其ノ健全ヲ助 ケ音声ヲ清クシ発音ヲ正シ聴力ヲ疾クシ考思ヲ密ニシテ又能ク心情ヲ楽マシメ其ノ 善性ヲ感発セシム是学室ニ於ケル直接ノ功力ナリ…… 11) 唱歌と話しことばの発音との関連の重視は、同月 20 日、目賀田種太郎が私信とし て田中不二麿に宛てた意見書にも確認できる。公学の大要として緊要な科目は国語 で、 「舌モテ又筆モテ正シク用ヰル」として、学習による、話しことばの標準化に言 及している。 ……抑公学ノ大要ハ人ノ其ノ平生ノ要務ヲ達セシムル様ニ教フルニアリ、斯ク教フ ルニ緊要ナル学課ハ其ノ国語ヲ舌モテ又筆モテ正シク用ヰルト数学ノ大要トニ可有 之ト存候、…………学室ニ小童ヲ倦マサラシムル緊要ノ事ニ付一日間ニ十分又ハ十 五分時間之レニ唱歌セシメハ却テ其ノ常課ヲ学ブニ速ナルベシ、コハ啻ニ音楽ヲ休 息ノ一具ト見ルニ止マルト雖モ尚其他ノ効力アル事ハ御承知ノ事ニテ差向キ我カ学 校ニ於テ其ノ直接ナル功ハ学童ノ健全ヲ助ケ発音ヲ正シクスル等ニ可有之ト存候、 ママ 又其ノ漸次社会ニ対シテ閑接ノ効力ハ実ニ善良ニ可有之ト存候…… 12 ) さらに同年、目賀田種太郎はメーソン宛に同様の内容を記した手紙を送って、話 しことばの発音の改善を重視している。 ……As I understand the chief design of the public schools, is to prepare men for their ordinary business of life, and the most important studies to be taught are the correct use of the language with tongue and pen and fundamental processes of mathematics .…… It is important not to tire the children in school and singing exercise of ten or fifteen minutes during a day will give the more ease in their studies. This is simply regarding music as an art of recreation, but its further benefits are well known to you. The direct benefits, we expect to receive from the first moment of its introduction will be that it will promote the health of school children and the pronunciation (which is very bad now ) will be bettered, and it will gradually and indirectly bring a good influence upon our society .…… 13 ) 9 142 平尾 佳子 また、東京音楽学校存廃論争 14 ) の起った明治 24 年、東京音楽学校校長であっ た伊澤修二は、衆議院での「学校唱歌ノ何物タルヤ」の議論に対して学校唱歌は智 育と体育への貢献であるとし、 『国家教育』 誌上で唱歌科の目的について論じている。 ……吾人ノ知識ハ其始メ皆耳、目、舌、鼻、身ナル五官ノ助ニヨリテ物理界ヨリ心 理界ニ収メ来リ以テ各自所有ノ知識ニ同化シテ之ヲ保存増殖シ時ニ臨テ之ヲ運用ス ルモノナル……耳ト舌トヲ教養スルハ智育ノ宜シク務ムベキ所ナルハ明ニシテ唱歌 ハ主トシテ此目的ヲ達スベキ一科ナリ…… ……聴官(耳覚)ヲ教養スルハ音ニ非レハ能ハス小学ノ教科ニ読方唱歌等ノ科を設 クルハ主トシテ該官ヲ教養スル為メナリ……此二官(聴耳ノ助、快舌ノ力―筆者注) ノ教養ニ資スル唱歌ノ智育ニ必要ノ関係アルコト又明ナラズヤ 15) 伊澤は明治 15 年の著書『教育学』の内容を引用しながら、耳と舌の教育は智育が 必ず引き受けるべきことで、唱歌はこの目的達成するための一つの科目であり、読 方と唱歌は音声を媒介として密接な関係あることを明言している。 音楽取調掛設立直前の資料は、唱歌科が構想の段階から日本語音声の標準化の目 的を有していたこと、東京音楽学校存廃論争時の資料は、唱歌科が、普通教育にお いては読方との関連を期待されていたことを示唆している。 Ⅲ、教員養成 1、東京音楽学校 唱歌科教員養成に関する資料の中に、日本語の構音の学習に関する記述がある。 明治 16 年の「音楽取調掛規則および教則」の「教科細目第二年後期」の「音楽 ママ 論(一週二時) 」の音楽理論には「音ノ理、自然音ト楽音トノ関係、発音機ノ講解 ヲ授ク」16 ) とあり、 「この内容はほとんど手を加えることなく、東京音楽学校の教 科課程として移行した」17 ) とされている。 明治 21 年「東京音楽学校入学志願者心得仮定」18 ) では、入学試験に「発音及聴 音」の項目があり、明治 24 年 2 月には「東京音楽学校ニテ生徒ノ発音ヲ正ス」19 ) 課 程があったと考えられる。また、明治 26 年の東京音楽学校の教科改正の記事に、発 音学の履修には方言の発音を 「一定の正音」 にする目的があることが記されている。 り ずむ 同校に於いては是までは専ら呂律と手術の練磨を主とし教授しつつありしが、村 岡校長は深く感ずる所ありて昨冬来先ず試みに教科の改正に着手し……殊に一時欠 科の発音学を更に興し、初級に此一科を置き、専ら口頭練習及び発音理を授け、国々 より出でたる師範部生徒などの地方習慣音を教改し唱歌上の発音は一定の正音にす るの見込みなりと云う。…… 20 ) 10 唱歌教育と日本語音声の標準化 143 さらに明治 26 年 6 月から 33 年までの7年間続いた「小学唱歌講習科」の入学試 験科目にも「発声、聴音」の項目があることから、東京音楽学校が開校から高等師 範学校付属の時期を経て再独立するまでの期間には、なんらかの科目の時間に日本 語の構音について学習し、 「地方習慣音を教改し唱歌上の発音は一定の正音にする」 教育がなされていたと考えられる。 2、 『小学校唱歌教授法』21 ) 明治 30 年、伊澤修二の教えを受けた元橋義敦は「師範学校の教科書及び小学校等 の参考書」として『小学校唱歌教授法』を著している。著者の元橋義敦は明治 26 年に東京音楽学校を首席で卒業しており、この著作が伊澤修二の認可や鳥居忱の校 閲を背景としていることから、内容は当時の唱歌教育界の大勢を代弁するものと考 えられる。元橋は「第八章 教師ノ注意スベキ要件」で、小学校唱歌科の実情を厳し く批判している。 ママ 第二節 発声機の練習 ……往々教師ニシテ発声律ノ適度ヲ知ラズ慢ニ暴音ヲ発セシメ又児童ノ音域ヲ察セ ズ強テ之ヲ唱ハシメントスルモノアリ故ニ児童ハ額ニ青筋ヲ出ダシ顔ニ紅色ヲ漲シ 傍ニ聴クモノヲシテ殆ンド堪ヘザラシムルニ至ル…… (甲) 声音ノ強度 ……今日小学校ニ於ケル唱歌教授ヲ見ルニツケ教師ノ多クハ口ニ暴音ヲ発スベカラ ズト令シ而シテ児童ノ発声スベキ強度ハ那辺ニアルヤモ知ラズ慢ニ大声号唱スルヲ 以テ得々タルモノアリ否教師自ラモ亦此ノ如キ発声ヲナス者ナキニアラズ故ニ児童 ノ之ヲ模倣スルハ敢テ怪ムニ足ラザルナリ尚其ノ一層甚シキニ至リテハ児童ハ現在 暴音ニ唱ヒ居ルモ猶薄弱ナリトシ更ニ激烈ニ唱ハシメント企ツルモノアリ豈ニ慨嘆 ニ堪ユルベケンヤ…… 22 ) 教師が大声で歌うように指示するので、子どもたちが「額ニ青筋ヲ出ダシ顔ニ紅 色ヲ漲」して歌っているという異様な現実を改善するために、元橋は児童の声域の 解説から説き起こして変声や音声障害にも触れている。子どもの発達や現実の理解 を通して子どもの存在そのものを尊重しようとする姿勢は、唱歌教育の初期には見 られなかったものである。 「 (丙)発音ノ方法」では発音矯正の必要について述べている。 ……発音矯正ノ必要ハ読書ニ於テモ最モ然リ況ンヤ唱歌ニ於テヲヤ蓋シ発音ノ不正 ママ ハ発声機使用ノ方法ヲ知ラザルニ基因セズンバアラズ…… 11 23 ) 144 平尾 佳子 構音については口腔の矢状断面図を用いて母 音発声時の舌の位置を前後関係も含めて詳しく 解説し、 「口ノ開度ヲ最モ正確ニ験」するための 器具として「伊澤氏定韻器」を紹介している。 使用方法の解説によると、 「ほ」の距離を口 を閉じたときの右の口角と左の口角の距離に合 わせて、短脚を「に」の測定弧の母音の位置に 合わせると、長脚と短脚の距離は各母音発声時 の舌の高くなる箇所と上顎との距離を示す。 たとえば、 「イ」音では舌頭と上顎の距離であり、 「オ」音では舌の後部と上顎の距離を現しており、 それらの距離によって口の開く大きさを特定しよ よきこえ うとする器具である。定韻器は、 「美音になる秘 図 10 伊澤氏定韻器 伝」では言及されていなかった舌の前後位置や口腔内の広がりについて理解できる ように考えられている。 元橋は「諸学科ヲ補成ス」の項で、唱歌科と読書科との関連を強調し、唱歌科の 発音法が発音矯正に効果があることを述べている。 ……読書科ニ於テ最モ注意スベキ一要件ハ正サニ発音法ナリトス……若シ言語ニシ テ其ノ発音ノ不正ナランカ己レノ意ヲ人ニ達スル事能ハザルベシ……唱歌科ニ於テ ハ殊ニ秩序的ニ且ツ正格的ニ組織シタル発音法ニヨリ訛言ヲ矯正シ或ハ全ク口ニ言 ヒ能ハザルモノヲ発音セシムル等一定ノ練習法ヲ行フヲ以テ其奏功ハ単ニ読書科ニ 於テ之ヲナスガ如キモノヽ比ニ非ラザルヲ信ズルナリ…… 24 ) 「 (丁)気息用法」は息継ぎの説明が主であるが、フレージングを重視しており、発 音だけでなく歌唱を意識している。共鳴についての言及はないが、大声で歌う唱歌 が横行していても、 明治 30 年の頃には子どもたちの心と身体のあり方を尊重しよう とする教師が育っていたことは明らかである。 3、 「教科目に対する児童の評価」25 ) ― 明治44年東京府教育会調査部 実際に唱歌を習った子どもたちの評価を、東京府下 36 校 19,269 人の児童の回答か らみる。図 11 の表は明治 44 年、東京府教育会調査部による「教科目に対する児童 12 唱歌教育と日本語音声の標準化 145 の評価」の最終評価である。調査対象児童は尋常小学校一年から六年、高等小学校 一年から二年の八学年にわたっており、 対象科目は十六科目である。そのうち尋 常小学校一年からの科目は修身、読方、 綴方、書方、算術、図画、唱歌、体操、 手工の九科目、 三年から女子のみに裁縫、 四年からの科目は歴史、地理、理科の三 科目であって、農業、商業、英語は高等 小学校からの科目である。 調査項目は 「最 も大切と思うもの」 、 「最も好きと思うも の」 、 「最も嫌いと思うもの」の三つであ り、図 11 の表は「最も大切と思うもの」図 11「教科目に対する児童の評価―通観」 と「最も好きと思うもの」の百分率比を 一括し、 「最も嫌いと思うもの」 の百分率比で除した結果である。 唱歌の評価は低く、 男子と男女総合で最下位、女子においても十六科目中十五位である。 図 12「教科目に対する児童の評価」第一・第二・第三の調査表から「唱歌」の部分 13 146 平尾 佳子 図 12 は 「 最 も 大 切 と 思 う も の 」、 「 最 も 好 き と 思 う も の 」、 「 最 も 嫌 い と思うもの」の調査内容の、唱歌に関する評価を人数で集計したものである。調査 対象の児童数が 19,269 人であることを考慮すると、唱歌科が子どもたちに好かれて いないことは明らかである。子どもたちは唱歌科を大切だとは思っておらず、男子 の順位は最下位、女子は 12 位である。唱歌科は女子にはやや好かれ、男子に嫌われ る傾向があるが、好きな順位は全科目中、男子が 14 位、女子が 7 位、嫌いな順位は、 男子が 1 位、女子が 2 位で大差はない。 子どもたちが挙げた「もっとも嫌いと思うもの」の理由には、今日から見れば以 外なものが含まれている。 「声が出ない」 「頭(又は咽頭)が痛くなる」 「生来きらい」 「試験の時に歌えないか ら」 「歌の節がわからない」 「覚えても役に立たぬ」 「男子に必要なし」 「苦しいから」 「声が悪いから」 「何となしに嫌い」 「音譜が馬鹿げて居る」 (以下省略) 」26 ) 「男子に必要なし」というのは、一世代前の音楽観の影響ではないかと推測され る。明治初期の音楽観については、伊澤多喜男(伊澤修二の弟―筆者注)が明治8年 頃の状況を次のように述べている。 ……其の時分の事を申上げますと云ふと、一体侍ひと云ひますか士族と云ひますも のは、歌を歌ふと云ふような事は非常に擯斥されたものです。彼奴はどうも歌を歌 う、丸で話にならんぢやないか。是がまア其の当時の考へ方です。一体学校で歌を ママ 歌ふのは何の為だらう、歌を歌ふのは芸者か売笑婦でなくては歌はないものだと思 って非常に卑しんだ次第です。…… 27) 「男子に必要なし」という理由に代表される風潮に対して東京教育会調査部は、 「男子なるが為に唱歌を嫌忌するが如きは速に芠除すべき思想なり」として、明治 初期の音楽観との違いを明確にしている。 しかし、子どもたちの訴える身体的な苦痛は、口の動きを誇張した構音と大声発 声の結果ではないかと推測される。 「もっとも嫌いと思うもの」 の調査結果について、 東京府教育会調査部は次のような講評をしている。 一、唱歌、図画、手工は児童の好める教科たるに拘はらず嫌忌の首位を占むるは注 意すべき現象なり即ち児童の告白に照らすに教材並に教法に欠陥未精練の点多 きが為なるが如し殊に唱歌を嫌忌するもの学年に正比例して増加するは最も反 省を要すべき点なり。……此等の諸教科目に対する好悪は専科教員の有無に関 せざるが如し否却って専科教員あるが為めに其嫌忌の情を増大したるが如き感 あるものあり吾人の警省を要すべき点なり。28 ) 14 唱歌教育と日本語音声の標準化 147 専門の教科内容と指導法を研究した専科教員の権威主義的指導や、子どもたちの 感性や欲求、能力とかけ離れた指導を批判した講評の内容は、児童中心の新しい教 育思潮につながるものがある。 Ⅳ、唱歌帖の変化 大正期の唱歌帖から、口形図と音階図のその後の変化を概観する。 1、 「七声会編 唱歌帖」大正8年(大正3年初版) 図 13「七声会編 唱歌帖」表紙 図 14「七声会編 唱歌帖」口形図・音階図 → 表紙は楽譜を意識した意匠で、ト音記号を蔓性植物のように扱って左右反転形に 配置し、上部に花を咲かせている。口形図はアエイオウ順に変化し、男女そろった 子どもたちの写真を用いてよりわかりやすく、 親しみやすく構成されている。 また、 音階図には数字譜に「ドレミファソラシド」が併記され、数字譜を「ヒフミ」では なくドレミで読んでいたと推測される。29) 2、 「唱歌帳 乙号」 大正 14 年(大正 4 年初版) 図 15「唱歌帳乙号」表紙 図 16「唱歌帳乙号」口形図 15 148 平尾 佳子 表紙には「君が代」の楽譜を背景に「不老長寿」を表す菊水が配置され、唱歌教 育が国民づくりの一端であることを現している。音階図はなく、口形図はアエイオ ウの順に変化し、発音時の口腔内での舌の前後関係についても言及している。 3、 「改版 新案小学唱歌帖」 大正9年 図 17「改版新案小学唱歌帖」表紙 図 18「 改版新案小学唱歌帖」口形図・音階図 表紙には蝶とスズランを挟んで五母音の口形図が大きく用いられ、発音練習が教 科の象徴とされるほど重視されていたことをうかがわせる。口形図と音階図は明治 期のものと類似しているが、口形図がアエイオウの順に変化しており、音階図には 「ドレミファソラスイド」が併記されている。 「改版」とあるところから、元の版は それ以前から流通していたものと考えられる。 4、 「最新小学校唱歌帖」 (大正 15 年) 図 19「最新小学校唱歌帖」表紙 図 20「最新小学校唱歌帖」→ 口形図・音階図 最新小学校唱歌帖の表紙に、国家や音楽を連想させるものはなく、口形図は、男 女そろった子どもたちの写真がアエイオウの順に並んでいる。音階図は全音と半音 の違いを明確にするために、横長に大きくなっている。 大正期の唱歌帖の表紙は、国家を表象する題材から次第に自由になる。口形図に 16 唱歌教育と日本語音声の標準化 149 は子どもたちの写真が用いられるようになり、 理解しやすいように工夫されている。 発音練習はすべてがアエイオウの順になり、 構音の変化がより自然になった。 また、 音階図に併記された階名は、 「123(ヒフミ) 」に「ドレミ」が併記されて唱法も 変化し、大正期の唱歌教育が初期唱歌教育とは理念上でも異なってきたことを示唆 している。 Ⅴ、結語 幕末期の内乱を経て明治になると首都が東京に移動し、人びとの往来の流れが変 わった。統一された日本語を制定すること、ことに話しことばの標準化を図ること は国民国家を形成し、列強に対抗して独立を維持するための大きな問題であった。 唱歌科実施のために尽力した伊澤修二や目賀田種太郎はこの問題を明確に意識して おり、唱歌科は「公学の大要」12) である国語の「舌モテ正シク用ヰル」12) 役割を 期待されて世に出た。唱歌科における日本語音声の標準化を目的とした発音の練習 法は、音楽取調掛と東京音楽学校の教員養成課程において履修され、卒業生が奉職 した各府県の師範学校を拠点にして全国に拡散した。 唱歌科の表紙に組み込まれた「君が代」は、唱歌教育もまた「国民づくり」の一 環と考えられていたことを表し、学習の便を図るために編集された唱歌帖の口形図 は日本語の標準化を音声面から促進しようとする意志の反映である。日本語の標準 化は経済活動の広域化と軍隊の指揮のために不可欠のことであったが、ことにお国 訛りの存在する話しことばは発音の標準化を必要とする。口形図のアイウエオの順 よきこえ は歌唱のための身体制御というよりも国語教育と関連したものであり、 「美音にな ママ る秘伝」や「発声機の練習」と称された訓練法は、明瞭な発音のための発声器官の 制御を目的としており、歌唱に必要な共鳴に配慮した発声練習ではない。 はしご型の音階図は長音階の全音と半音の組み合わせを表しており、音階の説明 や練習に用いられたものと推測されるが、目的は音の高低関係を理解させることに ある。日本で最初の唱歌科教科書「小学唱歌集初編」の音階図は山形の階段状であ るが、はしご型の音階図は距離を感じさせずに、より高低関係に集中して理解でき る利点がある。音の高低関係の理解と制御は日本語のアクセントやイントネーショ ンの理解を容易にし、話しことばの標準化を促進する。唱歌帖の口形図と音階図は 唱歌の基本練習を解説するものであるが、歌詞が日本語である以上、音声の標準化 にも資するのである。 17 150 平尾 佳子 口形図が口唇中心であるように、唱歌教育では口を大きく開くことが求められて よきこえ いる。しかし、表記に忠実におさらいすれば大声発声になる「美音になる秘伝」や 青年教師が批判する「額ニ青筋ヲ出ダシ顔ニ紅色ヲ漲」22) した子どもたちの様子、 唱歌科を「声が出ない」 「頭(又は咽頭)が痛くなる」 「苦しいから」25) と嫌忌する 子どもたちの評価は、当時の唱歌の指導が極端であったことをうかがわせる。 有名な「唱歌校門を出でず」という言葉の背景には、教条的な歌詞が子どもの自 然な気持ちや生活とかけ離れていただけでなく、構音を重視した発声練習を反復す る意味が子どもにはよく理解できなかったことがあると推測される。 大正期の唱歌帖の表紙には国家を意識した意匠から音楽に関する記号や花など、 しだいに自由な題材が用いられるようになるが、 口形図・音階図は掲載され続ける。 口形図が口唇ではなく子どもたちの顔写真に変化しているのは、児童中心の教育思 想の影響であると考えられる。母音練習のアイウエオはアエイオウ順に変化し、声 の共鳴に対する関心の高まりが、発声練習を国語の五十音表から離して音声学の母 音三角の自然な順序に近づけたことが推察される。新しい歌が言文一致の詞によっ て作られるようになると、話しことばと唱歌の関係も変化した。雅俗と階級の隔て を超えて共に歌える歌の創造が国民に「場」を提供するだけでなく、歌が感情の器 になっていったからである。 唱歌科という新しい科目の揺籃期は、国語教育の傍らにあった。しかし、唱歌科 のあり方は西洋音楽の響きのみならず、翻訳文化によってもたらされた言葉への関 心や近代的自我意識の覚醒の中で変化していく。唱歌帖の意匠の変化は人々の音楽 観の変化と並行しており、近代化が民衆の側からも推進されたことを示している。 註 1) 山東功『唱歌と国語―明治近代化の装置―』 講談社 2008 奥中康人『国家と音楽―伊澤修二がめざした日本近代―』春秋社 2008 2) 唱歌帖は「唱歌帳」 、 「唱歌筆記帳」 「唱歌学習帳」などとも表記されている。昭和期にな ると唱歌帖よりも「唱歌帳」 、 「唱歌学習帳」と題されるものが多くなる。 3) 笠原潔・徳丸吉彦『音楽理論の基礎』放送大学教育振興会 2007 pp. 210-211 4) 東京音楽学校存廃論争初期に提出された意見書に、唱歌科教員養成が教育界の要請に追い つかない実情が記されている。 「明治二十年の頃に至り…唱歌の教員を各府県師範学校等より求め来ること益々急なるに 依り、音楽取調掛を東京音楽学校と改め引き続きて……今日に至るも各府県より唱歌教員 を求め来るもの続々断たず、殆ど之が供給に応ずること能わざるの景況なる……」 ( 『音楽 雑誌』明治 24 年 2 月号 p.3) 明治 24 年には、東京、京都、大阪、神戸などの都市では一校に二人の唱歌教員が在職し 18 唱歌教育と日本語音声の標準化 151 ている場合もあるが、地方では教員の確保がむずかしかった。 茨城県 明治 22 年以前は師範学校付属小学校其他二、三の小学校に実施せらるる のみ…(24 年の時点では‐筆者注)高等小学校のみ実施せらるる事にて尋常小学 校は水戸市を始め石岡土浦等の数校のみなり (『音楽雑誌』明治 24 年 1 月号 p.11) 伊勢国員弁郡 唱歌を実施せる学校は高等小学校一、尋常小学校三なり。然れども遊戯 唱歌は到る処に之を試み居らるも、惜し哉、呂律の正しきもの少なし。 ( 『音楽雑誌』明治 24 年 4 月号) また、唱歌の時間に西洋音楽の七音音階を正しく歌うには楽器の助けが必要であった が、オルガンの台数が少なかった。山葉寅楠が初の国産オルガンの製造に成功したのは 明治 20 年であって、輸入品は高価であった。 高知県 県下の学校にて已に風琴を備付けられたるは、同地中学校、師範学校、 土佐郡第一高等小学校、高知市四尋常小学校、江之口仝、介良仝、赤岡 仝、安芸仝、佐川仝、長岡第二第三高等小学校、香美郡第一高等小学校 の十二、三校なりという。(『音楽雑誌』明治 24 年 9 月号 p.19) このような状況下で、明治 25 年 4 月、文部省専門普通学務局は「……相当ノ技能ヲ 具ヘ授業ノ方法等ニ通スル教員ハ目下欠乏ノ姿ニ候ヘハ之ヲ養成スルハ緊要ノ儀ト存 候……」として各府県に東京音楽学校への特選生派遣の通牒をだしている。 (東京音楽 学校百年史、第一巻、p.436) その後も教員養成は大きな問題で、明治 34 年の東京音楽学校卒業生の一人は、帰郷 後、十日間程度の小学校教員対象の講習会を、要請に応じて繰り返しおこなっている。 ( 『音楽界』明治 41 年 2 月号 p.33) 5 ) 三線のものは二番まで、四線のものは三番までの歌詞が書けるように構成されている。 6 ) 『音楽界』明治 41 年 4 月号 pp.24-27、5 月号 pp.20-27 7 ) この「小学唱歌帖」の流通や使用の時期を直接的に特定できる記載はないが、数字譜で 用いられる記号の解説の欄に「いろいろなきごー」として棒引き仮名遣いが用いられてい る。棒引き仮名遣いは明治 33 年の小学校での表記法整理にもとづくものであるが、明治 41 年に廃止になっていることから、この間を中心に流通していたものと考えられる。裏 表紙に印刷された軍艦印(煙を上げて進行する軍艦の図)は製作所の登録商標と表示され ており、勇壮なデザインが日清・日露の戦勝に国の未来を夢見た世相を思わせ、この推測 と一致する。 また、 「小学唱歌帖」には「第五學年 吉田八千代」の記名があるが、小学校が六年制 に改正されたのは明治 40 年で、第五學年は明治 41 年以降にしか存しない。 (国立教育研 究所編『日本近代教育百年史』第四巻、学校教育2(財)教育振興会 1974. p.915) 「小学 唱歌帖」は明治 41 年以降、表記法の移行期間終了までの数年間に使用されたと考えるの が妥当である。 8 ) 「君が代」の冒頭はD音であるが、この音高の変異は記譜の間違いではなく、デザイン 上の問題解決のために意図的になされたものと考えられる。仮に正しい位置にD音を書き 込むとすると構図の均衡が崩れるので、このデザインの製作者は装飾性を優先したものと 考えられる。 9) 『音楽雑誌』は「正格優美なる音楽を翼けて文明の栄域に達せしむる紹介をなす」目的で 「音楽名家」 「論客大家」の賛同を得て創刊された。 『音楽雑誌』明治 23 年 9 月号 p.2 10 ) 唱歌と話しことばについては、奥中康人『国家と音楽―伊澤修二がめざした日本近代』 第四章にくわしい。 11) 『目賀田種太郎関係文書』 「唱歌教育の効用についての意見書」 (上申書の写しー筆者注) 1878 年 4 月 8 日付 東京芸術大学図書館蔵 19 152 平尾 佳子 12 ) 同掲文書「我公学ニ唱歌ノ課ヲ興ス仕方ニ付私ノ見込」1878 年 4 月 20 日 田中不二麿宛 『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』p.15 には、 『音楽伝習所創設書類』 (明 治 12 年 10 月)にある書類は、 「目賀田種太郎個人の意見として書かれている。だが、筆 跡は伊澤修二のものである。 」とされており、二人の共同制作と考えられている。 13) ママ 前掲文書「メーソン推賞其他ニ関する目賀田意見(英文) 」東京芸術大学図書館蔵 14) 明治 24 年、民力休養のための経費削減を理由に、高等中学校、女子師範学校、東京音楽 学校を廃止する案が出され、音楽学校存廃論争に発展した。唯一の音楽学校の危機に巻き 起こった議論は、当時の音楽観、音楽教育観を反映している。 15) 東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』1987 p.340 16) 同掲書 p.49 17) 同掲書 p. 44 18) 同掲書 p.429 19) 同掲書 p.341 20) 『音楽雑誌』第二十八号(明治 26 年 1 月 25 日) 21) 元橋義敦『小学校唱歌教授法』 明治 31 年 7 月 浪華 教育書房 発行 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 22) 同掲書 pp.76-77 23) 同掲書 p.82 24) 同掲書 pp.10-11 25) 『音楽界』明治 45 年 2 月号 pp.25-35 松岡保「小学児童の唱歌の評価に就いて」 この記事は、本来明治 44 年 11 月東京教育誌上に発表されたものを、研究資料として転 載している。 26) 同掲書 p.31-32 27) 東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』1988 p.253 28) 前掲『音楽界』明治 45 年 2 月号 p.31 29) 数字譜をドレミで読んでいたことは、筆者のおこなった聞き取り調査(2011 年)におい て、100 歳、96 歳、95 歳の女性から確認できた。 参考文献 奥中康人 『国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』 2008 春秋社 山東功 『唱歌と国語 明治近代化の装置』 2008 講談社 渡辺裕 『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』 2010 中央公論新社 山住正己 『唱歌教育成立過程の研究』 1967 東京大学出版会 東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』1987 音楽之友社 『音楽雑誌』 明治 23 年 9 月号、24 年 1 月号、2 月号、9 月号 『音楽界』 明治 41 年 2 月号、4 月号、5 月号 明治 45 年 2 月号 G .J .Borden & K.S. Harris 廣瀬肇訳 『ことばの科学入門』 1994 MRC メディカルリサーチセンター ヨハン・スンドベリ 榊原健一監訳 『歌声の科学』 2007 東京電機大学出版局 加藤友康 『ボイス&ボディートレーニング』 1989 桐書房 米山文明 『声がよくなる本』 1997 主婦と生活社 20 唱歌教育と日本語音声の標準化 153 月溪恒子・北川純子・小塩さとみ『現代日本社会における音楽』 2008 放送大学教育振興会 笠原潔・徳丸吉彦 『音楽理論の基礎』 2007 放送大学教育振興会 呉宏明「伊澤修二と視話法~楽石社の吃音矯正事業を中心に~」京都精華大学紀要第 26 号 伊澤修二『視話法』1901 大日本図書株式会社 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 元橋義敦 『小学校唱歌教授法』 明治 31 年 7 月 浪華 教育書房 発行 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 杉浦克己 『日本語学~母語のすがたと歴史~』2009 放送大学教育振興会 平尾佳子「小学校唱歌科の指導法の変化― 四種の唱歌帖の調査からー 」2012 大阪芸術大学短期大学部紀要 第 36 号 Vocal pedagogy and the standardization of Japanese speech -investigating Shōka-chō (唱歌帖) from Meiji period- Keiko HIRAO Recent studies show that singing education plays a role in creating national identity. However there are not so many studies that mention what instruction method is concretely employed. Therefore I try to research instruction methods in early singing education from the view of vocal training. This research is mainly based on music paper with some diagrams for voice training and simple music theory attached (Shōka-chōs 唱歌帖). And it is also based on pupils’ answers to questionnaires on the subject of singing, discourses on singing, and teacher training manuals from the Tokyo Academy of Music (Tōkyō Ongaku Gakkō). As a result it became obvious that the subject of singing had been intended to play a role in standardizing a certain aspect of phonetics in Japanese speech since its foundation and that in early singing education it gave higher priority to clear articulation than to resonance and it was to do with education of Japanese speech. 21