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﹁福音伝道に必要な 正しい教会観﹂ 山岸登師

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﹁福音伝道に必要な 正しい教会観﹂ 山岸登師
ないのです。しかし人間は愚かな ︵?︶の実体を見たのです。それは、
人間の野心、野望の発揮の分野に
罪人です。この聖なる分野をさえ、 神の聖なる御力の発揮の分野を、
人間の力の発揮の場に変えようと
すり替えている実に悲しむべき、
か。
また愚かな発言ではないでしょう
するのです。
私は二十年以上前、ある神学校の
卒業式で卒業生に励ましの言葉を
生でしたが、 次々と前に出て行っ
りました。 たった五名ほどの卒業
きについての抱負を証する時があ
語る前に卒業生たちの卒業後の働
かって、言った。
﹃もしも、このこ
議し、イスラエルの全集団に向
人隊の長たち、すべての隊長と合
﹁ここに、ダビデは千人隊の長、百
したのです。
ダビデ王もこれと似た誤りを犯
福音伝道と教会の形成という働
て、自分は十年間に七つの教会を
語るようにと招かれました。 私が
きは純粋に、教会のかしらでいま
建てるつもりであるとか、 千人教
とが、あなたがたによく、私たち
の神、主主主主主の御旨から出たことなら、
(1)
﹁福音伝道に必要な
正しい教会観﹂
山岸登師
すキリストの御働きの分野であっ
会を建てるとか、 自分の望みを語
う。彼らのうちには、放牧地のあ
て、人間がそこに入り込む余地は
すぎません。あるいは神に協力さ 神学校の教師の宣教師たちは、 大
せていただく下僕にすぎません。 喜びで手を叩いていました。
る町々の祭司やレビ人もいる。 彼
イスラエル全土に残っている私た
﹁私は〇〇をしてみせる。
﹂という
らを私たちのもとに集めよう。 私
りました。 それを聞いていたその
ですからその神の御栄光のみが求
言葉は、 単なる肉から発した野心
たちの神の箱を私たちのもとに持
全くありません。そこでは、人間
められなければならない場に、人
にすぎず、 空疎な大言壮語である
ち帰ろう。私たちは、サウルの時
はただ単に神の用いられる道具に
間の自己顕示欲から発する自己主
のです。私はその時その神学校
ちの同胞にいっせいに使者を送ろ
張などに活動の場を与えてはなら
Maranatha October 働きを自分の力と考えの発揮の場
彼は、正しい目的は正しい手段で
代には、これを顧みなかったか
めたのです。動機、目的さえ正し
箱をダビデの町に運ぶことが真実
しかし、第十五章は、その後ダビ
︵Ⅰ歴代一三 一:一︶ことによって
明らかにされています。
たましいに救い福音を宣べ伝えた
非常に大切な働きであり、滅びる
えです。福音伝道、教会の形成は
ザが神の怒りによって打たれて死 ければ、どのような手段を使って
んだとき、
﹁ダビデの心は激した﹂ も構わないという考えは、人間の
行われなければならないことを認
ら。
﹄
﹂
︵Ⅰ歴代一三 一:∼三︶
に変えてしまったのです。彼は非
ダビデは﹁もしも、このことが、 常に傲慢になっていたことは、ウ
あなたがたによく、私たちの神、主主主主主
の御旨から出たことなら﹂と言っ
に神の命令によることであると確
デが自分の誤りを悟り、悔い改め
ましょうと考えたのでしょう。
らそれに乗せて運ばせていただき
代にはもっと立派な牛車があるか
人が契約の箱を肩に担いだが、 現
す。彼は、モーセの時代ではレビ
えから発した方法を採用したので
ところが彼はそうせず、自分の考
自身に仕えさせるために、彼らを
箱をかつがせ、とこしえまでも、ご
かついではならない。主主主主主は、主主主主主の
た。
﹃レビ人でなければ、神の箱を
張った。そのとき、ダビデは言っ
場所を定め、そのために天幕を
家を造り、また、神の箱のために
﹁彼はダビデの町に自分のために
らかにしておられます。
ん。神は聖書の中にその方法を明
た方法で行われなければなりませ
のです。その働きは神が定められ
光のみが現されなければならない
神の御業であり、そこでは神の栄
その働きは人間の働きではなく、
示欲の手段に変えてはなりません。
いと願うことはすばらしい願望で
自己顕示欲から出た非常に悪い考
信していたならば、彼は神の箱を
す。しかし、決してそれを自己顕
確かに神の契約の箱をダビデの
選ばれたからである。
﹄
﹂
︵Ⅰ歴代一
使徒としての責任に従ってテモテ
(2)
ていますが、もし彼が神の契約の
どのようにして運ぶべきかの指示 た。そのことを第十五章が明らか
を神に仰いだはずであったのです。 にしています。
町に運びたいという願いは立派で
五 一:、二︶
使徒パウロは、神から与えられた
あったのです。しかし、彼はこの
マラナ・タ 10 月号
慢になりサタンと同じさばきに会
かもサタンは、群れが起こされる
区別するために便宜上﹁牧師﹂と
また使徒パウロは伝道者テモテ
と直ちにその献身者を高慢になら
とテトスに教会毎に長老たちを任
教会に使徒と預言者は存在しませ
に、人を教える力のある忠実な人
せ、群れを独立させようと働きか
う恐るべき機会となるのです。し
ん。しかし、テモテやテトスのよ
を見出して、そのような人に、彼
けるのです。そのようなサタンの
呼んでいます。
︶
うな伝道者は存在し、また存在し
から教えられた真理をゆだねるよ
命するように命じました。現代の
なければなりません。
うに命じました。
︵Ⅱテモテ二 二:︶ 誘惑に乗せられて、傲慢になり、役
伝道者の責任は、次世代の伝道者 に立たなくなってしまっているか
では、伝道者はだれによって立て
られのでしょうか。それは、キリ
見守り、監督し指導することです。 しいことです。しかし、その若い
た地域にある諸教会の長老たちを
伝道者の責任は、自分に任せられ
りません。またそれらは人の目に
識と力が与えられていなければな
て働く賜物と霊的能力、教える知
てられている者には、伝道者とし
キリストによって伝道者として立
献身者が、その群れを独立させて
れが起こされるならばなおすばら
しいことです。そして、そこに群
える働きに参加することはすばら
年の若い献身者が福音を宣べ伝
聖霊がそれをお許しになりません。
り込む余地がありません。神の働
間の誇り、自慢、自己宣伝等が入
です。神の定められた方法には、人
いただけるように神に求めるべき
い教会観に従って働きを行わせて
者たちは、聖書が示している正し
神の御名の御栄えを真に求める
他の者たちが行うべきではなく、 向の罪悪です。
ている者たちが行うことであって、 主張は、全く非聖書的な、分裂志
は伝道者としての召しにあずかっ
き人は、常に身を低くして神の奴
つての献身者の数は多いのです。
︵私たちは、特に専心して、群れを
自分をその群れの牧会者とするな
隷として群れの奉仕者であるべき
一地方教会が独立しているという
養い、見守り、教え導くために立
らば、それは、その人にとって傲
もすぐに明らかにされます。
てられている長老を、他の長老と
(3)
スト御自身によってです。そして、 を訓練し養成することです。 これ
Maranatha October です。
頭の雄牛と七頭の雄羊とをいけに ﹁あなたとあなたの家族﹂
求めなかったからです。﹂
︵Ⅰ歴代
私たちがこの方を定めのとおりに
行列に参加している全ての者たち
喜びは非常に大きかったのです。
デの町まで運んだときのダビデの
こには喜びがあり、さらに神のみ
が子供であるという、まさにその
章で語られているように、私たち
らです。
﹂ですから、ヘブル書十二
神の家から始まる時が来ているか
るべきです。なぜなら、
﹁さばきが
きですが、義によってしつけられ
に親子関係は愛に基づいているべ
てくださったことでしょう。
﹂確か
父はどんなにすばらしい愛を与え
ま私たちは神の子どもです││御
と呼ばれるために、││事実、い
るべきです。﹁私たちが神の子ども
確かにその通り、愛に基づいてい
か、という人もいることでしょう。
親子の関係は愛の関係ではない
CCCCC・・・・・HHHHH・・・・・マッキントシ師 前田大度師訳
ダビデは次のように言いました。 えとしてささげた。
﹂
︵Ⅰ歴代一五 : ︵その十︶
﹁最初の時には、あなたがたがい 二六︶
なかったため、私たちの神、主主主主主が、 聖書が語っている手段を採用し
一五 一:三︶
このように神が定められた方法
と同じ真っ白な亜麻布で作られた
私たちに怒りを発せられたのです。 て神の箱をレビ人に担がせてダビ
に従わないことは非常に危険なこ
礼拝用の服を着て神の箱の前で喜
神の箱をにない棒で肩にかつい
美しさを現してくださいます。私
事実が、私たちが御父の義なるし
つけのもとにあることを意味して
いるのです。また、ヨハネ十七章
(4)
さらに、彼が王服を脱いで、その
とであるのです。
び踊った謙遜な姿は、多くの人々
に大きな喜びを与えました。
神は、みことばに従う者たちを必
だ。
﹂
︵Ⅰ歴代一五 一:五︶
神も、御自分のことばに従う者た
たちの全てが、神のみことばに忠
ことばに従う者たちの中に謙遜の
ちを助けられました。
実に従う者でありますように。
ビ人を助けられたとき、彼らは七
﹁神が、主主主主主の契約の箱をかつぐレ
のことばに従って命じたとおり 、 ず助けてくださいます。そしてそ
﹁そして、レビ族は、モーセが主主主主主
に従ったのです。
その後、ダビデは、主のみことば
マラナ・タ 10 月号
御名によって保たれています。
にゆだねられており、神ご自身の
では、教会が聖なる父の配慮の元
しまうことになるのです。 そう
しまい、預かった神の力を失って
ての高度で聖なる立場に失格して
保っていなければ、神の代表とし
原因を追及しない者たちがいます。
この問題を正しく認識し、失敗の
がめることとなります。
す。顔は真っ赤になり、良心はと
ます。両親が子供を治める権威を
さばきを受けることになると信じ
しい霊的汚点であり、必ずや神の
しょうか。それは神の御目に恐ろ
ほど、嘆かわしいことがあるで
供に支配されてしまっていること
悪い者の手に渡るのです。親が子
正しく行使しなければ、支配権は
支配権をゆだられた者が、それを
どこかに表れるからです。神から
になるのです。支配関係は、必ず
て子供たちが両親を支配するよう
供たちを治めていないなら、 やが
げ込まれてしまいます。両親が子
その家庭は例外なく混乱の中に投
る指が直ちにその家族を指すので
上げようものなら、彼らを非難す
させられています。か細い声でも
となり、口は閉ざされ、証は沈黙
てしまったのです。力は絶え絶え
あるべき立場と霊的影響力を失っ
失敗してしまい、その結果、本来
自分の家庭を治めることに完全に
神のための証人であることとは全
に回復することはできず、周囲の
重大な真理を見失ってしまうと、 なってしまえば、その立場を完全
こころでないなら、もしも神が恵
供たちがそのように育つことがみ
信じられません。では、もしも子
しょうか。私はそのようなことは
がままで世的であって良いので
きりさせておきたいのです。 神の
うのです。しかしながら、私ははっ
の人は恵みの対象ではあります。 いずれは子供たちも世の中に出さ
人々に対する神のふさわしい証人
み深くも私に対して開いてくだ
しかし、恵みの対象であることと、 なければならないのだから、 と言
となることはできないのです。そ
さったと同じ道を子供たちにも開
たちの悲しむべき状態なのです。 しもべたちの子供が、はたして、わ
く別問題です。これが多くの兄弟
いておられるなら、もしも神が恵
ない、大人になるまで待てばよい、
です。子供たちが若い間は仕方が
であるのは当然のことだと言うの
子供たちがわがままに育ち、 世的
(5)
クリスチャンである両親がこの
手放し、その権威をしっかりと
Maranatha October になってしまったなら、私はどの
わらず私の子供がわがままで世的
しもこれらすべてのことにもかか
にも取っておられるなら、また、も
くださったと同じ祝福を子供たち
みによって私に持つことを許して
と同じです。この預言者は、自分
する者は、昔ベテルにいた預言者
て良いでしょうか。そんなことを
台に立って子育てするのを妨害し
ずべき失敗話をし、彼らが神の土
ところを、その反対に、自分の恥
ちは、私たちと同様、
﹁福音を弁明
たどっています。私たちの子供た
に多くの者たちがこのような道を
めにしつけなかったからです。 実
しまいました。子供たちを神のた
なり、脇腹に刺さるとげとなって
私は親としての立場と責任におい
ことばに不従順にして、獅子に殺
自分の兄弟をも引き込み、主のみ
家庭であると見なすことができた
たちの家庭が、神を証するための
ることを忘れてはなりません。 私
ような結論を下すべきでしょうか。 自身が邪悪な町に住んでいながら、 し立証する﹂ために立てられてい
て、重大な罪を犯し失敗をしてし
させてしまいました。
要するに問題はこうです。子供た
なら、子供たちへのしつけ方も直
(6)
まったと言うべきではないでしょ
うか。子供たちの育て方を間違い、
供たちを用いておられるのです。 です。それは家庭の中に、やっか
ちに変わってくるはずだと私は確
いな問題や悩み事がなくなるため
ちのわがままは、自分自身の心の
リスチャンホームの子供というも
それは、私が自分自身を懲らしめ
と言うより、むしろ、家族の混乱
主を尊ばなかったと認めるべきで
のは皆そうなのだと、一般的な原
なかったからです。これは実に厳
によって証が台無しにならないた
信しているのです。私たちは、秩
則を作って良いでしょうか。 若い
粛な見方であり、心を深く探らせ
めなのです。そして忘れてはなら
わがままの表れなのです。義なる
親たちのところに行って、神の定
られる見方です。問題を回避する
ないのは、子供たちの肉を従わせ
はないでしょうか。それとも、私
められた道に歩むことを神に求め
ために、家庭のことは放っておい
るために、まず自分自身の肉を従
序ある高い霊的状態を求めるべき
る者には、神が間違うことなく忠
たのです。今や子供たちは大きく
神は、私を懲らしめるために、子
実に導いてくださると励ますべき
の子供もそうだったのだから、 ク
マラナ・タ 10 月号
きません。自分の肉に勝利して初
肉で肉を従わせることは絶対にで
に、他方はそこまでするつもりが
て、肉を従わせようとしているの
わせていなければならない事です。 があります。夫婦の一方は世を捨
全体が霊的に乱れてしまい、 不敬
ることがあります。これでは家族
場合、父親が惨めな立場に置かれ
れている通り、子供たちの前にお
はなく、ひとりなのです﹂と書か
るべきなのです。﹁もはやふたりで
厳密な意味において、ひとつであ
とつであるべきです。文字通りの
意志、権威、影響力は、本質的にひ
しれません。父がせよと命じるこ
家族全体に与える悪影響ははかり
されているとはいえない状態とな
のです。その結果、主に結びあわ
完全な一致が必要です。二人の声、 解や原則が完全に反目してしまう
ん。ですから私たちは、真実な悔
の憐れみは尽きることがありませ
たちが成長するにあたって、どれ 心は深い悲しみに沈むこととなり
ほど致命的であることでしょう。 ます。主の恵みは無尽蔵であり、主
ります。このようなことは、子供
い改めと罪の告白があるなら、 神
のよう状態が続くなら、主の前で
考えただけでもぞっとします。 こ
キリストのための証はというと、
しくしつけることはできませんし、
めて、子供たちの肉にも勝利でき なく、そのために悲しい結果とな 虔 な 状 態 に な っ て し ま い ま す 。
る立場にいるのです。さらにまた、 ります。家庭の管理や統率がばら ︵注︶これは恐ろしいことです。こ
のような環境では、子供たちを正
ばらで、ごまかされ、夫と妻の見
いても、
﹁ひとり﹂としての美しさ
とを、母はかまわないと許し、父
で、父親とは無関係に働き、父親
開いて、ともに必要を祈るのです。 です。母親の影響力が、父親の外
厳しく、独断的で、威厳ある存在
から、心に悲しみを持っているな
はならないと言うことです。 です
かなことは、現状に甘んじていて
て信じることができます。一つ確
(7)
父と母との間に、曇りない理解と
と力を表しているべきです。 その
この点において、クリスチャンは
を完全に排除してしまい、極端な
ともに神の前に出て、ともに心を
しばしばお互いを傷つけ合うこと
ためには、二人はともに、神を待 は建て上げているのに、母が倒し は恵み深くも、いやしてくださり
ち望んでいなければなりません。 ているのです。時に父親は、恐く、 回復してくださると、期待を持っ
Maranatha October うするなら、神は必ずお聞きくだ
名を根拠に、神に叫ぶべきです。そ
めるべきです。神の真理と神の御
ら、昼も夜も、神に心から叫び求
名を根拠に、神に叫ぶべきです。そ
めるべきです。神の真理と神の御
ら、昼も夜も、神に心から叫び求
から、心に悲しみを持っているな
に十分に気を付けなければなりません。
もしも残念なことに、家庭での細かい問
題で不一致が生じたなら、神の御前で内
密に相談し、祈り、自らを裁くべきです。
決して、その問題によって霊的な弱さを
表すことのないようにしなければなりま
せん。そうでないと、子供たちは確実に
家庭の秩序を軽んじるようになりますか
ら。
私たちは、すべてのことを、神の
御子のための証という光で見るよ
うにしましょう。私たちがこの地
上に置かれているのは、まさにこ
のためだからです。ただ家族を養
うためだけに、地上に置かれてい
るのではありません。家族を神の
ために、神とともに、神によって、
神の御前で、養い育てるために生
かされているのです。そのために
私たちは、神との交わりの中に
生まれる力によって、子供たちの前や、 もっといなければなりません。 ク
しもべたちの前で、良い姿を保てるよう リスチャンである親は、自分の気
す。ですからクリスチャンの両親は、主
にあって完全に結び合わされた一致から
損なうことになるかのどちらかです。ど
ちらの場合も、証をひどく妨げ、子供た
ちに悲惨な傷を負わせることになりま
り、不当に怒り散らして、
﹁子どもをお
こらせる﹂結果となるか、母親が子ども
の意志を甘やかし、父親の人格と権威を
るなら、間違いなく悪い結果となり、敬
虔な秩序は保たれず、正しいしつけは不
可能になります。父親が過度に厳しくな
に向かって、
﹁このことはお父さんには
内緒にしておきましょう﹂ということで
す。このようなよそよそしい裏取引をす
︵注︶何よりも悲しいのは、母親が子供
さり、お答えくださいます。
さり、お答えくださいます。︵注︶ うするなら、神は必ずお聞きくだ
これは恐ろしいことです。このよ
うな環境では、子供たちを正しく
しつけることはできませんし、 キ
えただけでもぞっとします。 この
よう状態が続くなら、主の前で心
は深い悲しみに沈むこととなりま
す。主の恵みは無尽蔵であり、主
の憐れみは尽きることがありませ
ん。ですから私たちは、真実な悔
い改めと罪の告白があるなら、 神
は恵み深くも、いやしてくださり
回復してくださると、期待を持っ
て信じることができます。一つ確
かなことは、現状に甘んじていて
はならないと言うことです。 です
(8)
リストのための証はというと、 考
マラナ・タ 10 月号
神の代理であるのです。このこと
を払うべきです。親は、家族の中で
ことのないように、最大限に注意
まぐれやいらだちで子供をしかる
ら神の支配の原則が実行されてい
に罰を与えることは、幼いときか
ねるかもしれません。実際に子供
か、娯楽は何が許されるかとたず
罰を与えるべきか、ほうびは何
ぜいたくなおもちゃや商品を与え、
す。子供たちのいいなりになって、
べきです。それが何よりも有益で
の過ごし方のできるものを与える
しては、可能な限り、有益な時間
子供たちの欲望を満たす手伝いを
を正しく理解しているなら、すべ
て の こ と が 調 整 さ れ る は ず で す 。 れば、滅多に必要にならないと私
ん。とても小さな子供に関して、私
は信じます。ほうびに関しては、 しても、何も良いことはありませ
(9)
親はまた、神のしもべでもあるの
で、しもべとしての働きを正しく、 親が子供を愛しており、認めてい
がいつも見いだすのは、子供たち
喜びを引き出していることです。
ることを表現することの方が大切
うびをもらうためでなく、神がそ
最後に、あらゆる事において、そ
よく理解して果たすために、主人
うあるように語っておられるゆえ
れが罰であれ、ほうびであれ、娯
が、自分で作った一本の棒や一枚
いつも主の足下に身を置き、何を
です。子供を従順にならせるため
楽であれ、キリストに目を注ぎ、ど
です。子供は従順であるべきで
なすべきか、どのようになすべき
のほうびは、子供の競争心という
であられる御方との交わりを、ひ
かを知らなければなりません。そ
肉をあおることになりがちです。 のような形の肉にも従わせられな
の紙によって、高価なおもちゃが
うしているなら、すべてはたやす
いように熱心に求める者でありま
す。無条件に、ためらいなしに、従
く幸いです。家庭内の取り決めに
しかし、親が子供を受け入れてい
しょう。そうであるなら、私たち
んぱんに、いや、途絶えることな
関して、あれやこれやといろいろ
ることの表現として、小さなプレ
与えるよりも、より真実で単純な
な事柄に、明確なルールがほしい
ゼントという形で与えることは、 の家は、神を証する家となり、私
く、持っていなければなりません。 順であるべきであって、それはほ
と望む親がしばしばいます。クリ
当然許されることです。娯楽に関
たちの家に来る者たちは、
﹁ここに
スチャンである親は、どのような
Maranatha October た﹂
︵三二︶のですが、ごく僅かの
道に歩み、その道からそれること
なく、主主主主主の目にかなうことを行っ
です。もし彼が偶像に対して持つ
な嫌悪感を持っていなかったこと
とは、彼が偶像礼拝に対して十分
も知れません。はっきり分かるこ
れを止めるだろう。
﹂と考えたのか
ないことでしょう。
︵完結︶
例外を除いてほとんどの信者同様
は神がおられる﹂と言わざるを得
歴代誌第二・第二十章三十五
∼三十七節 山岸登師
も完全ではない。だから民衆が高
でした。確かに私たちの歩みも、ヨ
﹁その後、ユダの王ヨシャパテは、
シャパテ同様完全ではありません。
悪事を行ったイスラエルの王アハ
ヨシャパテの不完全さを次節が明
ズヤと同盟を結んだ。彼はタルシ
らかにしています。
シュへ行くための船団をつくるた
﹁しかし、高き所は取り除かな
めにこの王と結んだ。彼らはエツ
かったので、民はなおも、彼らの
ヨン・ゲベルで船団をつくった。そ
父祖の神にその心を定めようとし
のとき、マレシャの出のドダワの
なかった。
﹂
︵三三︶
子エリエゼルがヨシャパテに向
なぜ彼は﹁高き所﹂を取り除かな
かって預言し、こう言った。
﹃あな
かったのでしょうか。その理由は
たがアハズヤと同盟を結んだので、
分かりません。しかし、想像する
主主主主主はあなたの造ったものを打ちこ
ことはできます。多分彼は、
﹁自分
感の不足という欠陥を突いてきま
ために彼の偶像礼拝に対する嫌悪
サタンは、ヨシャパテを攻撃する
べき程の十分な嫌悪感を持ってい
に彼の歩みも完全ではありません
き所に行って偶像を拝んでも、そ
した。サタンは私たちを攻撃する
に、船は難破し、タルシシュへそ
のまま行くことができなかった。
﹂
ヨシャパテは﹁彼はその父アサの
盟関係を持たなかったであろうし、
アハブの娘を自分の息子の嫁にす
ることはなかったでしょう。 彼は
その失敗の苦い結果を十分に味
わったはずなのです。アハブに騙
された彼はそのために命を失うと
ころであったのです。
ところ、その苦さの記憶も数年経
つと薄れてしまったのです。
(10)
たならば、彼は決してアハブと同
れを強制的に止めることは自分に
ために私たちの弱点を突いてきま
わされました。
﹄そうこうするうち
はできない。そのうちに彼らはそ
マラナ・タ 10 月号
も、彼は信仰者であったことを私
シドンの王の娘であったので、 イ
ルが、海洋貿易で大儲けしている
を持ったのも、アハブの妻イゼベ
でしょう。彼がアハブと友好関係
く手に入れたいという欲望のため
そらくタルシシュへ行って金が安
結んだのでしょうか。それは、お
してそのような悪者と彼は同盟を
を知っていたはずです。ではどう
シャパテ王は彼が悪者であること
と似てそうとうの悪者でした。 ヨ
アハブの息子のアハズヤも父親
喜ばせするという名目であっては
せするためであって、間接的にお
しかもそれは直接的に神をお喜ば
決して持ってはならないのです。
ばせするという目的以外の目的を
ないのです。私たちは、神をお喜
仰の戦いを戦い続けなければなら
から私たちは天に行く日まで、 信
く私たちを攻撃しています。 です
サタンはその肉を使って絶え間な
私たちも信仰者です。しかし、完
を追求し続けなさい。信仰の戦い
て義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和
らのことを避け続けなさい。そし
しかし、神の人よ。あなたはこれ
た。
痛をもって刺し通してしまいまし
た。そして、自分自身をひどい苦
信仰の道から迷い出てしまいまし
る者たちはそれを追い求めたため、
悪の根︿源泉﹀であるからです。あ
せん。私たちは肉を持っています。 ば、金銭を愛することがあらゆる
全な欠陥のない信仰者ではありま
を立派に戦い続けなさい。そして
の落とし穴に陥ります。なぜなら
と罠と、多くの愚かで有害な情欲
たがっている者たちは、その者た
す。サタンは私たちの弱点をよく
たちは心に銘記しているべきです。 ちを破滅と滅びに落とし込む誘惑
ゼベルのつてでシドンと友好関係
なりません。私たちは、聖霊が使
永 遠 の い の ち を 獲 得 し な さ い 。﹂
(11)
知っています。
を持って、海洋貿易に参加させて
徒パウロを通して語られたみこと
﹁しかし、もし食べ物と衣服があ
自分自身を守りなさい。
﹂︵Ⅰヨハ
もらって富を手に入れるためで
する欲が彼の判断を狂わせ、 彼の
るならば、私たちは、それらで満
ネ五 二:一︶
あったのでしょう。彼の金銭に対
子孫にまで非常に悪い影響を及ぼ
足していましょう。金持ちになり
ばに常に留意しているべきです。 ︵Ⅰテモテ六 八:∼一二︶
﹁小さな子どもたちよ。偶像から
した大悪を犯させたのです。 しか
Maranatha October であったのかの真相の現れである
ですから正しい信仰者の願いは一
(12)
﹁ 主 の 聖 徒 た ち の 死 は 主主主主主の 目
に尊い。
﹂
詩篇一一六 一:五より のです。死はその人の信仰の真偽 刻も早くこの世を離れてキリスト
を暴露するのです。しかも、人間 がおられる所に行き、キリストと
山岸登師
は自分がいつ死ぬかだれも分から 共にいるようになることです。そ
﹁人はそれまで生きてきたとおり
ないのです。主イエスの御再臨が れで使徒パウロは聖霊に導かれて
にしか死ねない。
﹂とある人が言い
遅れれば私たちの贖われていない 次のように語っています。
ました。確かにこの言葉は真実を
からだは必ず死ななければなりま ﹁それで私たちは勇気をもって行
語っています。主イエス・キリス
せん。しかし、真実なクリスチャ 動をしています。しかし、むしろ
トを心から愛し、主に真実に仕え
ンにとって、からだの死によって 肉体から離れて、主のところに定
てきた人は、自分の肉体の死を迎
主イエス・キリストへの自分の真 住する方が願わしいと思っていま
えた時、自分が心から崇め、お仕
﹂
︵Ⅱコリント五 八:︶
実な信仰と愛とを表現できること す。
えしてきた主イエスに、いよいよ
は実に大きな喜びであるのです。 ﹁なぜならば、私にとって︵私の
世を離れて主にお会いする、 待ち
この世界は最初の先祖アダムが 中で働いておられる︶キリストが
に待った時が来たことをどれほど
︵肉体
罪を犯したために呪われてサタン 生命活動︵の源泉︶であり、
喜び感謝することでしょうか。
の支配下にあります。ですからク が ︶ 死 ぬ こ と は 益 で あ る か ら で
言い換えれば、聖徒たちの死に方
リスチャンにとって住むべき場所 す。⋮⋮⋮⋮⋮︵この世を︶離れ、
はその人がどれほど真実に主イエ
ではありません。キリストは私た そしてキリストと共にいることを
スを愛し、主に仕えてきた真実な
ちをこの悪の世から救い出し、新 私 は 切 望 し て い ま す 。 な ぜ な ら
信仰者であったのか、それともそ
しい世界で永遠に生かすために十 ば、そのほうがはるかに優れてい
の人の信仰が偽りのものであって、
字架の上で死んでくださり、死者 るからです。﹂︵ピリピ一 二
: 一∼
たちの中からよみがえられました。 二三︶
世俗的で、口先だけ実のないもの
マラナ・タ 10 月号
主イエス・キリストは私たちに天
トと永遠に生きる者とされていま
だけで、すでに天においてキリス
が、私の喜びです。
﹄
田場姉は、二年前の十一月に沖縄
エス様を信じ救われました。 田場
に国籍を持たせるために贖いの御
ここに最近天に召された沖縄の
姉の地上での信仰生活は、二年に
の集会に来られ、福音を聞き、イ
リストは私たちを御自身と共に永
田場姉についてのすばらしい証が
も満たないものでしたが、苦難の
す。
遠に生きる者にしてくださいまし
あります。彼女が天に召されるま
本人も知らなかったのですが、 既
業を成し遂げ、復活されました。キ
た。それで、私たちは、
﹁私たちの
: でのほぼ三週間毎日彼女を病院に
見舞った岡崎の山本先生に証言し
がキリストの再臨に先立つことが
ますが、たとい私たちの肉体の死
す。キリストの再臨は緊迫してい
死の、栄光のからだに変えられま
は一瞬のうちにキリストと同じ不
れて復活し、生きている聖徒たち
ストと同じ栄光のからだに変えら
れている聖徒たちのからだはキリ
臨されたならば、すでに天に召さ
を切に願うのです。キリストが再
キリスト信者は、キリストの再臨
らない病にかかってからは、なお
きれないくらいです。こうして治
る者とされました。感謝してもし
恵みのおかげで天国で永遠に生き
こなかった私が、神様の大いなる
きて、地獄へ行くことしかやって
す。何も知らずに五〇年も生きて
番の喜びは、天国へ行けることで
﹃私の今まで生きてきた中で、一
召された田場悦子姉のものです。
﹁この証は、八月二六日に、天に
ていただきます。
彼女の内なる新しい命は、一層輝
いく彼女の死ぬべき肉体とは逆に、
し、そんな中、傷つき弱り果てて
医師も彼女を見放しました。 しか
いきました。そして、最終的には、
ダメージを、次々その身に受けて
酷な味覚障害等、きわめて深刻な
体の各部分からの皮膚の移植、 過
の頬と顎骨また舌の半分の切除、
も受けました。その結果として、右
経験し、一ヶ月に渡る放射線治療
この一年半程の間に、手術を七回
に癌が彼女の体を蝕んでいました。
連続でした。信仰をもった時点で、
国籍は天にあります。
﹂
︵ピリピ三
あっても、私たちは肉体の贖いを
さら思います。天国に行けること
(13)
二〇︶と叫ぶのです。それで真の
地上で待つか、天で待つかの違い
Maranatha October きを増して行きました。田場姉の
た数時間後、田場姉は、お母さん
にもなっていました。
﹃じゃあ、田
胸のうえで手を組んで祈っている
口からは、不思議なくらい不平や 田場姉の姿がありました。最後の
不満は聞こえて来ませんでした。 一ヶ月、ほぼ毎日、田場姉と面会
へ帰って行った、との事です。
の伊禮姉によると、眠るように天
場さん、またね。
﹄そう言って別れ
むしろ彼女は、それらの苦しみを、 し、共に御言葉を読み、お祈りし
自我が砕かれるためのものとして、 ていたのですが、最後まで、力を
﹃けれども、私たちの国籍は、天
次に挙げるのは、田場姉の大好き
の一方で、一貫して天国を切望し、 していました。別れ際、声の出な
また再臨の希望に強く励まされ、 くなった口を必死で動かして、ア・
メ・ン。 ア・リ・ガ・ト。と言っ
にあります。そこから主イエス・キ
振り絞って意識を集中させようと
てにっこり微笑んで見送ってくれ
リストが救い主としておいでにな
感謝を持って謙遜に受け止め、 そ
ました。召天の日の朝、計らずも
た言葉です。
だった聖句と、遺言として残され
上のはせ場を走り抜きました。 あ
大喜びしていました。また、寝た
声をかけました。まるで、ここは
み、お祈りし、一人づつ田場姉に
んです。
︶
﹂
んとゆうかさんは息子さんと娘さ
(14)
命ある限り主を待ち望み、この地
る時の手術では、背中の筋肉を外
きりの状態になった後も、 付き
ている者たちには、罪に汚れ呪わ
福音の真理を明瞭に知って信じ
添っておられた家族の方に伝道が 教会のようだね、と誰かが言って
なされた際、ふと見ると、そこに、 いました。気がつくと、一時間程
するとすぐ、以前に同室であった の呼びかけに対して、明らかに呼 うに。よう子さん、かよ子さんが
方を訪ね当て、動くようになった 吸に大きな変化が見られました。 救われますように。天国で、また
﹄︵ゆうやさ
右手を使って筆談で福音を伝え、 そこで、皆で賛美し、御言葉を読 ぜひ、あいたいです。
され、右手が動かなくなったので 六名の教会のメンバーが、田場姉 るのを、私たちは待ち望んでいま
﹄ピリピ三章二〇節
すが、懸命にリハビリに励み、文 のベッドを囲みました。田場姉は、 す。
字を書けるまでに回復しました。 薬で眠らされていましたが、私達 ﹃ゆうや、ゆうかが救われますよ
マラナ・タ 10 月号
チャンの姿はその人のキリストへ
であるのです。死に臨んだクリス
共にいる方が遙かに望ましいこと
りも、この世を離れてキリストと
れている悪の世界に生きているよ
ならば、非常に恥ずかしい死に方
に執着していた信者が死を迎えた
ストの再臨の前に、世を愛し、世
ら離れ天に行きます。もし、キリ
のいずれかによって必ずこの世か
れともキリストの再臨によってか
をしなければならないことでしょ
の愛の現れであるのです。
ば、キリストにどんなに喜んでい
何よりもキリストを愛し、キリス
キリスト信者の、キリストを愛す
ただける死に方で死ぬことができ
う。しかし、今から福音の真理に
る愛の真実な表現であるそのよう
ることでしょうか。ですから私た
トと共に歩むことを日々求めてい
な死は、キリストの御目にどれほ
ちは、今から常に天に望みを置い
しっかりと立って主を愛し、天を
ど尊く映ることでしょうか。 それ
てキリストと共にいることを切に
﹁
﹃信じたとき、聖霊を受けましたか﹄
と尋ねると、彼らは、﹃いいえ、聖霊の
与えられることは、
聞きもしませんで
した﹄と答えた。
﹂と記されており、六
節には
﹁パウロが彼らの上に手を置い
たとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは
異言を語ったり、
預言をしたりした。
﹂
と記されています。
現在でも聖霊を受
けると異言を語るのですか。
答 先ず第一に使徒の働き第十九章の
一節から七節までを読まなければなり
ません。
第二節でパウロはこの人々に
﹁信じたとき、
聖霊を受けましたか﹂
と
尋ねました。
なぜパウロは彼らにこの
ような質問をしたのでしょうか。
この
人々は神を恐れ敬う真実な信仰者でし
たが、
クリスチャンたちの群れに加わ
らず、
独自の群れを作っていたことが
察せられます。
パウロは彼らに何か変
わったところがあると見たのです。
そ
れで、
彼らが真実なキリスト信者であ
るかどうかを知るためにこのような質
(15)
た聖徒が、いよいよ世を離れ、キ
は、キリストにとって非常に大き
願う者でありましょう。
問 使徒の働き第十九章二節には使徒
パウロがエペソで幾人かの弟子たちに
リストにお会いする時が来たなら 見上げ、常に天に望みを置いて生
ば、どれほど喜ぶことでしょうか。 き て き た 信 者 が 死 を 迎 え た な ら
な喜びであるに違いありません。
それでもう一度冒頭の言葉﹁人は
それまで生きてきたとおりにしか
死ねない。
﹂に戻ります。
私たちは肉体の死によってか、そ
Maranatha October れたことが異言で神を賛美したことに
た。第六節には﹁パウロが彼らの上に
手を置いたとき、聖霊が彼らに臨ま
こ
と
は
べきで
異 言 を 語る
否 定 さ れる
すが、
人が真実にキリスト信じたなら
でしまいました。現在異言で語って
も、
それは聖霊を受けたしるしではあ
りません。
よって証されました。しかし、全ての
信者に聖霊が与えられることが明らか
になったとき、
異言を語ることが止ん
れ、彼らは異言を語ったり、預言をし
たりした。
﹂と記されています。
ば、その時、聖霊を受けることは非常
に大切な事実です。
﹂
︵四、五節︶当
問をしたのです。なぜならば、真実な バプテスマを受けた。
信者であるならば、
信じたとき聖霊を 然パウロは彼らにキリストの御死によ
彼ら
受けたはずであるからです。すると、 る贖いの真理を教えたはずです。
彼らは、﹁いいえ、
聖霊の与えられるこ
とは、聞きもしませんでした﹂と答え
たのです。
それでパウロはなお突っ込
んで、
第三節に記されているとおり彼
パウロが彼らの上に手を置いたと
き、彼らに聖霊が与えられたことに
E-mail:[email protected]
00960-0-57854
(16)
は主イエスをキリストと信じ受け、
主
イエスの御名にバプテスマされまし
らに﹁では、どんなバプテスマを受け
たのですか﹂
と質問したのです。︵この
質問をギリシア語の原文から正確に訳
すと
﹁何にバプテスマされたのか。
﹂
で
マラナ・タ 値段 一部三〇円
は、
﹁他国の言葉﹂を意味しています。
この人々は恐らくユダヤ人であったの
でしょう。
彼らが普段使っていないユ
ダヤ語で神に感謝したのです。
-
よってパウロが使徒であることが彼ら
に明らかにされました。
で、パウロは、﹃ヨハネは、自分のあと
に来られるイエスを信じるように人々
に告げて、
悔い改めのバプテスマを授
さて、使徒時代の初めの頃、だれで
もキリストを信じた時、
聖霊が与えら
次にこの異言は現在異言派の教会で
行っているような奇声を発することを
決して意味していません。
この異言と
けたのです﹄と言った。これを聞いた
その人々は、
主イエスの御名によって
ヨハネが預言者であることを認め、
ヨ
ハネを信じていたのですが、
主イエス
を知らなかったのです。
それで、﹁そこ
す。
︶すると彼らは、﹁ヨハネのバプテ
スマ︵に︶です﹂と答えたのです。そ
こで問題が明瞭になりました。
彼らは
マラナ・タ 10 月号
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