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日系アメリカ人のエスニック・アイデンティティ ∼戦後生まれ三世を中心に

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日系アメリカ人のエスニック・アイデンティティ ∼戦後生まれ三世を中心に
日系アメリカ人のエスニック・アイデンティティ
∼戦後生まれ三世を中心に∼
白石藍子
序章
はじめに
第一章 日系アメリカ人研究
一節
アメリカにおける日系人研究
二節
日本における日系人研究
第二章 日本的な日系人
第三章
第四章
一節
アメリカに渡った日本人
二節
教育熱心な一世とアメリカ生まれの二世
三節
強制収容体験
四節
日系人のアメリカ化
アメリカ的な日系人の登場
一節
日系アメリカ人を取り巻く政治環境の変化
二節
公民権運動とアジア系運動
三節
三世と補償運動
戦後生まれの日系アメリカ人
一節
日系アメリカ人の政治参加
二節
日系アメリカ人の経済的位置づけ
三節
三世から見る日系人のエスニック・アイデンティティ
(1)アメリカ化と民族的自殺
(2)三世のアメリカ化と日本文化への関心
終章
おわりに
序章
はじめに
日系アメリカ人は他のアジア系アメリカ人と異なり、新移民iが少ないことから、アメリ
カの全人口に占める割合は年々減少しているii。一時はアジア系のなかでもマジョリティを
占めた日系人であるが、最近では補償運動も終結し、あまり話題に上がることも少ない。
日系アメリカ人は、100 年という歴史的には比較的短い間に、移民として米国に渡り、日
系人コミュニティを形成し、第二次大戦中の強制収容を体験し、戦後には勤勉に学び働く
ことで社会的経済的に向上をはたした。ヨーロッパ移民と比較すると、人種も文化も主流
社会から極めて異なる彼らの歴史は、アジア系アメリカ人の歴史の中では中国系に続いて
二番目に長い。また顕著な世代差が見られることから、日系アメリカ人を研究することは
多民族社会アメリカにおいて、マイノリティが主流文化に適応していく過程を研究するの
1
に適した研究対象であるといえる。
日系アメリカ人研究は同じ「日本」というルーツを持つことから、日本でも多くの研究
がなされているが、日本語による研究は、一部を除いて強制収容と補償運動に関するもの
がほとんどであるが、私の研究は、強制収容体験がない(記憶がない)三世iiiに焦点を当て
ている。このようなマイノリティ研究をする場合、その対象を取り巻く一部の環境だけに
目をやりがちであるが、私の研究では一見して日系アメリカ人とはまったく関係のなさそ
うな外部的要因と、日系アメリカ人コミュニティ内における内部的要因の双方について言
及している点が、この論文のオリジナリティと言えるだろう。
戦後、日系アメリカ人はモデル・マイノリティ(模範的少数民族)と呼ばれ、高い学歴を身
につけ、マイノリティにしては高い年収を手にし「日系アメリカ人の成功物語」が話題を
呼んだ。また日系人はマイノリティの中で一番アメリカ社会への適応度が高いともいわれ
ている。アジア・ウィークが行った語学力・収入・教育に関する調査によれば、アジア・
太平洋諸島系アメリカ人の中で日系アメリカ人が最も同化しており、すべての項目につい
て日系人は最高であったというiv。しかし、白人中流階級と同等まで階層を上昇させた日系
人が、それ以上階層を上昇し大企業の経営者になったとか、有名な政治家になったとかい
う話はめったに聞かない。この論文では日系三世、そしてこれからの世代を担う世代に注
目し、現在のアメリカ社会を生きる日系人のエスニック・アイデンティティとアメリカに
おける位置づけを明らかにする。
戦後生まれの日系人を研究することが中心となるが、強制収容は日系アメリカ人にさま
ざまな意味で影響を与えた歴史的出来事であり、また明治的な人間である一世、そして三
世を育てた親である二世は大いにその後の日系人に影響を与えているといえるため、論文
の前半で少し触れたいと思う。
この論文ではまず第一章で現在のアメリカを生きる日系アメリカ人を研究するにあたっ
て有益な先行研究の紹介をし、第二章で日系一世・二世の時代の歴史について触れる。第
三章では、この論文の中心となる日系三世の生きてきた社会の歴史、すなわち補償運動や、
アジア系運動、彼ら日系人を取り巻く社会が変化したことによる影響を捉える。そして、
さらに第四章において、第三章で挙げたような社会的変化に影響を受けた彼らのエスニッ
ク・アイデンティティとアメリカ社会における位置づけを政治的・経済的・文化的側面か
ら考察する。
第一章 日系アメリカ人研究
一節
アメリカにおける日系人研究
アメリカにおける日系アメリカ人研究では、実際のその時代を生きている日系人による
研究が多い。これらの研究は、研究書というよりも自伝のようなものが多いが、その中で
客観的に統計データやインタビュー調査などを用いて書かれた二冊の本を紹介する。
Jere Takahashi “Nisei/Sansei: Shifting Japanese American Identities and Politics” は、
2
1920 年代から 1970 年代にかけての日系アメリカ人におけるエスニック・アイデンティテ
ィの変化と政治的スタイルの変化に関する本である。日系人の地位の変化や、政治参加、
また他のマイノリティ集団による運動などから受けた影響などに着目している点で、アメ
リカ政治を研究するものにとって、有意義である。彼自身、日系アメリカ人であることか
ら、現地でのインタビュー調査と、統計的データが研究の中心をなしている。
Fujita and O’Brien “Japanese American Ethnicity”は、アメリカ主流社会への同化が進
んでも、日系アメリカ人の民族的絆は維持されており、民族的絆の維持と主流社会への同
化はゼロサムゲーム関係ではないことを述べている。彼らは日系人が従来のヨーロッパ移
民と異なりユニークな存在であることを明らかにしている。634 人の日系二世・三世にイン
タビューを行なっており、日系人が異なる人種との結婚や職場でアメリカ社会に同化して
いるにもかかわらず、日本的伝統を失っていないことを発見している。しかし、彼らの研
究はアイデンティティのレベルまでは立ち入っていない。
二節
日本における日系人研究
続いて日本における研究について触れたい。驚いたことに日本における日系アメリカ人
研究者は女性が非常に多い。理由は分からないが、女性研究者が興味を持ちやすいトピッ
クなのかもしれない。ここで紹介する三人の研究者も全員女性である。
まず竹沢泰子の『日系アメリカ人のエスニシティ −強制収容と補償運動による変遷 』
は、強制収容と補償運動が日系アメリカ人のエスニック・アイデンティティに対して、ど
のような文化的、社会的影響を及ぼしたかについて、文化人類学的観点から研究したもの
である。エスニシティに関する議論の二極をなす「同化論者」とも「多元主義者」ともこ
となるアプローチをとっている。アメリカ社会における一エスニック集団の歴史的経験を
重視し、彼らがその過去の経験を再解釈することによってそのエスニシティが変遷を遂げ、
再構築されたことを検証しており、日系アメリカ人の同化やアメリカ化ではなく、アメリ
カ化するなかでエスニシティの活性化を論じている点でユニークである。
飯野正子『もう一つの日米関係史』は、日米開戦が日系アメリカ人を強制収容へと追い
やったように、1980 年代から 90 年代にかけては日米貿易摩擦から派生した「日本たたき」
がアメリカ社会では「日系たたき」となって日系人に大きな打撃を与えたことなどを述べ
ている。彼女の研究は、日系人が苦しめられたのは戦前・戦中だけであり、1960 年代・70
年代における公民権運動やイエロー・パワー運動などにより自由を勝ち取った、と考えら
れていた日系人が、その後もヘイトクライムの対象となることがあり、その原因が彼らの
ルーツである日本であったということを明らかにしている点が目を引かれる。さらに、モ
デル・マイノリティと賞賛されていた日系人がもうすでにモデル・マイノリティとはいえ
ないほどに平均的アメリカ人になってしまったことに気付かされる。
本多千恵『日系アメリカ人の適応に関する一考察−「成功物語」再考−』は、日系アメ
リカ人の主流文化への適応について、
「同化理論」
「世代理論」
「ミドルマン・マイノリティ
3
理論」という三つの理論について批判的考察を交えて論じている。それを踏まえたうえで、
日系アメリカ人の適応に関する分析枠組みを仮説的に提示し、それを用いて、歴史的に世
代を追って日系アメリカ人の適応過程を再解釈している。ここでも日系アメリカ人はユニ
ークな存在であり、既存の分析枠組みでは捉えられないことが指摘されている。
これらの研究を踏まえた上で、私の研究では公開されている統計データや現地調査デー
タを基に、現在のアメリカ社会を生きる日系人のエスニック・アイデンティティとアメリ
カにおける位置づけを明らかにしていきたいと思う。繰り返しになるが、現在ある日系ア
メリカ人のエスニック・アイデンティティと地位の形成は、日系人を取り巻く小さな環境
を見ていただけでは説明できるものではない。まずは一世・二世の時代について考察して
いこう。
第二章 日本的な日系人
一節
アメリカに渡った日本人
一般的に日系アメリカ人の歴史は第二次世界大戦前、第二次大戦時の強制収容、戦後の
補償運動期、そしてその後の四期に分けることができると言われている。本章では、第三
期までについて述べる。
1882 年の中国移民排斥法の制定以来、1885 年から 1924 年にかけて、大量の日本人がハ
ワイやアメリカ西海岸に移民し、中国人労働者に取って代わる労働力として増加していっ
た。彼らの多くは、若い独身男性で、出稼ぎ目的で移民した農民が多かった。しかし中に
は、社会的な差別から脱出するため、国を追われるように旅立つケースもあったv。彼らは
勤勉で忍耐強く、克己心が強い「明治的日本人」であった。当時の日本からの移民はほと
んどが故郷に錦を飾るためにアメリカに渡った出稼ぎ意識の強い人間であった。未知の世
界に足を踏み入れるような彼らは向上心が強く、新たな労働力として日系人農民は重宝さ
れた。しかし不当な賃金で働かされ、労働組合に参加できないなど差別された。そこで、
このままでは故郷に錦を飾るという目的も果たせないと考えた多くの日系人は、独立農園
を経営する方向へと向かっていった。しかし以前の中国人排斥問題と同様に、よく働く日
系人が白人の雇用まで奪うのではないかと恐怖から、カリフォルニア州を中心として日系
人移民排斥運動が始まった。1907 年には日米紳士協定が結ばれ、日本からの移民はほとん
ど途絶えた。1921 年にはカリフォルニア州で外国人土地法により実質的には日系人の土地
所有が禁止された。さらに 1922 年には外国人帰化法が施行され、日系人は「帰化不能外国
人」とされ、ますます肩身の狭い思いをさせられた。日系一世は、中国人排斥の歴史を知
っていたこともあり、差別に対して慎重に対応するようにしていたが、このように立て続
けに日系人を排斥する法律が施行されたことにより、それまでの努力により築き上げたほ
とんどのものを奪われた。
二節
教育熱心な一世とアメリカ生まれの二世
4
ジーン・オオイシは自身の自伝の中で「ほとんどの日本人移民がそうだったように、父
はアメリカ合衆国には親近感を持てず、国も国で父がそう感じるようにできる限りの手段
をつくした。」と述べているvi。日系一世のエスニック・アイデンティティは前節で述べた
ような白人アメリカ人による排斥や差別の影響により、日本人が現地社会に同化すること
には限界があると感じられたため、自らが「日本から渡って来た移民」であるという意識
を常に持っていた。では、戦前における二世のエスニック・アイデンティティはどうであ
ろうか。
日系二世のエスニック・アイデンティティ形成には三つの要因が考えられる。第一に、
家庭やコミュニティ環境における人種的ないし文化的アイデンティティの教化、第二に、
主にアメリカ学校においての「アメリカ化」のイデオロギーへの追従、そして第三に、大
社会における日系人に対する排斥及び人種差別であるvii。戦前における日系アメリカ人のエ
スニシティは、比較的閉鎖的であった。日本町区域で接する白人は、郵便屋や警察官くら
いのものだった。また、戦前における二世の多くにとってのコミュニティはゲットーだっ
た。これは、日本町区域での高い人口密度と当時の日系人を含むマイノリティの低い生活
水準によるものである。言語上の障壁、
「帰化不能」という市民権が剥奪された社会的地位、
労働組合からの排斥など、働き盛りの一世が主流社会の雇用領域に進出する道は殆ど閉ざ
されていたが、
「みんなが同じ境遇だった」から自分の生活水準を意識することは無かった
viii。
しかし一世は、このままでは二世が大人になった時に大した働き口もなく困難にぶつか
ると心配していた。一世は、アメリカにおいて二世が差別を逃れるためには、高い学歴が
必要だと感じており、
「立派なアメリカ人になること」が「日本人としての誇りである」と
考えていたix。人種差別に苦しむ人種は、ハンディキャップのある障害者のようなもので、
何か特別な技術や能力を身につけなければ、対等には扱ってもらえない。あらゆる偏見に
打ち勝つには、どんなことについても彼らと同程度ないしもっと上手くやることが効果的
であり、彼らから尊敬を得ることが重要なのだと、多くの二世は教えられた。そして、日
系二世にとって日本語を扱う能力と高い学歴こそがアメリカ社会で生き抜くための重要な
要素だと一世は信じ、二世に優秀な学業成績を期待した。実際、二世の間では飛び級は珍
しいことではなかったx。
二世は、家庭と日系人コミュニティを通して日本的価値観、行動様式、規範、そして日
本語を習得していった。一世は「オヤコウコウ」
(親孝行)、「ガマン」(我慢)、
「ギリ」(義
理)、
「ハジ」(恥)、服従、実直、勤勉などといった日本の伝統的価値観及び行動様式を二世
に強調して教えた。中でも「恥」は二世にとって主要な文化的意識を形成するにいたった。
また一世は、目上への礼儀を重んじ、年長者への「クチゴタエ」(口答え)を許さなかったxi。
問題児に対してはコミュニティからも公正を促すような圧力がかけられた。このことは、
二世若年期における犯罪率、非行率の低さからも伺えるxii。
しかし彼らには、同時にもう一つの世界があった。アメリカ的価値観及び行動様式を学
5
んだ一般のアメリカ学校である。非日系人との交友が限定されていたにもかかわらず、若
年において英語が彼らの第一言語となったという事実自体、アメリカ学校が二世に与えた
インパクトの大きさを示しているxiii。彼らはそのアイデンティティを形成するにあたって、
両親から教え込まれた日本的価値観と、立派なアメリカ人になるために学んだアメリカ的
価値観との狭間に立たされることとなった。
二世の多くは学校などにおける差別体験により、強制収容以前に既に肯定的なエスニッ
ク意識を抑圧され、劣等感と二級市民意識をしばしばうえつけられたという。二世の彼ら
は、国籍上は「アメリカ人」であったが、社会からは「日本人」であると決め付けられ、
主流社会に同化していくのに苦労した。また同時に、彼ら自身も日系人であるにもかかわ
らず、日本人(日系人)を見下すような傾向があったxiv。彼らは、差別体験等により日系人
としてのエスニック・アイデンティティを表面的には消失させ、潜在化するようになった。
第二次世界大戦が近づいた 1930 年代頃からは日米関係の縺れ、それがそのまま日系人と
白人アメリカ人の間にも見られるようになった。平均 12.2 年間もの教育を受けていた二世
であったが、思うような職業に就くことはできず、第二次大戦が近づくと、すでに老齢で
あった一世に経済的に依存する二世が目立つようになった。
三節
強制収容体験
戦争が始まると、一世は、日本と関係のあるものを次々と燃やし始めた。なぜなら、そ
のようなものを所有していれば、日本とつながりがあると疑われ、危険な立場に追い込ま
れると考えたからであったxv。だがそんな努力も虚しく、日本生まれの一世はもちろん、ア
メリカ生まれの二世までもが、1942 年 2 月 19 日にローズベルト大統領によって発せられ
た大統領行政命令 9066 号に従い、強制収容所へ移住することになった。多くの二世は一世
の親から「あなたはアメリカ人だから何も恐れることはない」と言い聞かせられていたが、
一世から受け継がれた「仕方がない」という日本的思考、さらに日系人にとってアメリカ
への忠誠心を証明する最良の方法は自ら進んで収容所に入ることだ、という考えからアメ
リカ人としての権利を主張することもなく、強制移住に従うこととなった。実際、90%以
上の日系人が収容所に入り、その内 2/3 はアメリカ市民であったxvi。
収容所では、戦時市民統制監督局(WCCA: Wartime Civil Control Administration)に
よって学校設立の計画は挙げられなかったが、日系アメリカ人は収容所内でも教育の必要
性を強く主張し、子供たちに対する読み書きの授業から若者に対する編み物や日曜大工、
成人に対する速記や救急措置法、一世に対する英語とアメリカ化の授業までもが提供され
るようになったxvii。学校内では、日本語での会話や、柔道、剣道などの日本の伝統的スポ
ーツが禁止されていたが、
「アメリカ化」はカリキュラムの中に組み込まれていた。
このような日系人のアイデンティティを真っ向から傷つけた収容体験だが、
「戦争のおか
げ」で現在ある地位を得ることができたという日系人が多いと言う皮肉な事実もある。実
際、戦前日系人には閉ざされていた職種に戦後就職する機会を与えた。戦前の日系人は農
6
家や小売店経営、女性では家政婦が主な職種であったが、戦後になると、庭師や熟練工と
いった技術を要し、日系人以外とのつながりを必要とする職種に就くようになったxviii。多
くの二世はこれに加え、立ち退きや収容が起こっていなければ、日系アメリカ人は閉鎖的
なゲットーの如きコミュニティでの居住を続け、今日のように多くの成功した専門職の二
世・三世を東海岸に見ることはできなかったであろうと、強制収容体験のもう一つの肯定
的側面を挙げているxix。
なぜ日系人はこのように戦後成功することができたのだろうか。それは日系人がアメリ
カに対して忠誠であることが分かったからとか、日系人の技術が必要とされていたとかと
いう問題ではなく、大戦を終え冷戦期に入ったアメリカという国がアメリカの敵は日本で
はなくソ連だ、という方向に市民レベルから方向転換を図ろうとしていたことも要因であ
ると言われているxx。
四節
日系人のアメリカ化
第二次世界大戦は日系人にとってターニングポイントとなり、10 年間の間に反日系政策
や判決は撤回されたxxi。また、1950 年代 60 年代のアメリカ社会は、まだ「人種のるつぼ」
論を信奉しており、
「成功物語」の典型例と称された日系アメリカ人は、社会上昇を遂げ、
主流社会に同化していった。だが、そこには同時に、彼らの文化的伝統を軽視するという
代償があった。一世とは異なり、二世は、自らの子供に日本語を教えることもなかった。
また、日本文化における価値観や、日本人を祖先とする出自を強調することもなかった。
これは前節でも述べたとおり、日系であるということが、日常的な差別体験や強制収容体
験により、マイナスイメージを伴うものになっていたからである。さらに、主にアメリカ
の公立学校で育成されたアメリカという国への忠誠心やアメリカ人としてのアイデンティ
ティは、白人(ヨーロッパ系)アメリカ人との交際によって更に強化された。彼らのアメ
リカ人としてのアイデンティティは、強い日本人意識を持ち日本人としての特性を示す一
世との世代的相違や対立が、意識されるような状況の中で、より固められていったxxii。日
系一世と二世の間のギャップは主に日本語しか話さない一世と、英語しか話さない二世の
間で、言葉だけが原因ではなく、共通の文化や価値観を持たないことが原因であったとい
える。
他に宗教もまた、多くの二世に「アメリカ化」の指標として捉えられた文化要素の一つ
であった。仏教徒は、より日本的で「同化が遅れている」とみなされる傾向にあった。興
味深いことに、1952 年に悲願の帰化権獲得がついに実現した頃、キリスト教に改宗したり、
キリスト教教会に通い始めたりした一世は少なくない。WASP の経験に基づくアメリカ社
会のイデオロギーは、非ヨーロッパ的価値観の維持を困難にしていたxxiii。
しかし、このような状況でも、二世の多くは日系人と結婚した。その理由としては、白
人と異人種間通婚禁止法の存在が挙げられる。戦後間もない当時、カリフォルニア州を含
む多くの州が依然この法律を固守していた。だが法律だけの問題ではなく、いくら日系人
7
が白人社会に同化しようとしても、それを受け入れない社会が依然として存在し、他の人
種社会との交流がほとんどなかったxxiv。また、南京大虐殺などの歴史の記憶があったため、
同じアジア系であっても交わることはなかった。しかし何よりも、日系人は日系人と結婚
するという伝統的考えが一世である親の意識の中にあったことも見逃せない事実である。
第三章 アメリカ的な日系人の登場
一節
日系アメリカ人を取り巻く政治環境の変化
エスニック・アイデンティティは、家庭、コミュニティ環境、また他のエスニック集団
との相互作用によって形成されるものであるが、コミュニティや外社会の領域に目を向け
ると、アメリカ公立学校が二世のアメリカ化とアメリカ人としてのアイデンティティ形成
に果たした役割は大きい。しかし、大半の二世はその成長期において他のエスニック集団
と極めて限られた社会接触しか持たなかったxxv。そのためか、日系二世は、伝統的にほと
んど政治に関心や興味をしめさなかった。
彼ら日系二世たちは若い時期に政治的社会化がほとんどなされなかったわけであるが、
それには次の 3 つの原因が挙げられる。先ず、第一に、戦前はほとんど一世には市民権が
与えられていなかったということ。第二に、ほとんどの一世は日本においても投票権を持
った体験がなかったし、政治への関心も薄い人々であったこと。第三に、この様な日系人
社会で育った二世は、成人に達した時に適切な指導者や助言者を持っていなかったことで
あるxxvi。彼らの親である一世も、1952 年のマッカラン・ウォルター移民帰化法によって市
民権、投票権を得たが、英語による選挙や識字テストなどによる妨害にあい、また長い間
差別的であった民主党・共和党に参加することにも気が進まなかったため、政治に対する
無関心が続いた。
このような環境で育った二世は、他のマイノリティとの統合よりも、白人アメリカ人と
の同化を重視して考えていた。1950 年代末からは、白人が主に居住する郊外に移転する二
世が増えた。郊外転出の動機は、
「大きな家が必要になった」
、
「子供のために環境を考えて、
」
等様々であったが、主流社会への「同化」を志向しての場合もしばしばあったxxvii。そのよ
うな中で、三世にとってのエスニック・コミュニティは、インターナショナル・ディスト
リクトであった。彼ら三世の幅広い他集団との交友と多感な年齢で経験した黒人運動、マ
イノリティ運動は、特定の他集団との交友に対する両親の世代からの時折の干渉にも拘わ
らず、彼らに他集団に対しより開かれた感情を育ませることになるxxviii。その影響か、1930
年から 42 年の間の日系人の外婚率が 1%未満であったのとは極めて対照的に、1970 年には
50%以上となったxxix。
二節
公民権運動とアジア系運動
1960 年代になると多くの三世は、それ以前とは異なり、アイデンティティや文化、政治
行動を主流社会へ統合するための、第一条件と捉えるようになったxxx。
8
1960 年代末から 70 年代初頭にかけて台頭したアジア系アメリカ人運動は日系アメリカ
人コミュニティ全体に大きな影響を及ぼしたが、最も大きなインパクトを受けたのは三世
であった。彼らは、和解派や同化論者を受け入れず、黒人活動家の大衆行動というような
政治策略をまねたxxxi。当時これらの学生運動に関わった日系アメリカ人もその頃をふりか
えって、
「アイデンティティを模索するのに、私たちには手本となるものがなかったんです。
だから黒人のすることを真似たんです。普通アジア系アメリカ人というとき、黒人の経験
の側面もそなえているものです。」「黒人運動がなかったら我々もなかったでしょう。たし
かにそれを境に、自分が何者なのかわかるようになり、誇りに思い始めたんです。…我々
は今や立ち上がり、もうこれ以上は許さないということを主張しようとしていたんです。
」
と語るxxxii。このようなイエロー・パワーの爆発は、自らの文化的継承の喪失を代償に、そ
れまで同化してきた白人アメリカ人流のアメリカ化への追従を拒絶することをも意味して
いた。
三世は、他のアジア系アメリカ人と統一したグループとなり、更に黒人やチカノ、ネイ
ティブアメリカンとも手を結ぼうと考えていることで、二世とは異なるxxxiii。一般に二世の
間では三世ほど「アジア系」あるいは「アジア系アメリカ人」という語の日常的使用は見
受けられず、また多くの三世ほどアジア系アメリカ人たるアイデンティティを受け入れて
もいないxxxiv。その背景には、二世世代には、アジアの国々との歴史的出来事(例えば南京
虐殺)が脳裏にあるのに対して、多民族社会で育ち、
「アメリカ人」としての感覚が強い三
世には、アジア系アメリカ人と付き合うことに、まったくの抵抗が無いことが挙げられる。
また、アメリカ社会において、日系人コミュニティだけでは影響力が小さくなってきてい
るため、アジア系アメリカ人らと手を結ぶことによって、影響力を広めようとしていると
考えられる。さらには、日系三世が日系人コミュニティという小さな組織で育った二世と
比べ、もっと広い意味での問題に関心を持ち出していることも原因といえるだろう。アメ
リカにおけるアジア系としての共通した差別・抑圧体験の認識がその基盤の大きな部分を
占めておりxxxv、その意味で、アメリカにおけるエスニック・マイノリティの運動は、文化
的人種的特性の共通性に基づいた性質のものから、アメリカにおける民族経験の共有感を
基盤としたものへと変遷を遂げていると言えよう。実際に、二世よりも多くの三世が他の
マイノリティへの懸念を表現しているxxxvi。
三節 三世と補償運動
強制収容時の記憶がない多くの三世が、本や映画、親戚の話によって強制収容の事実を
「発見」するまで、彼らの両親や自らのエスニック集団の歴史的事実を知ることがなかっ
たxxxvii。興味深いことに、二世は、三世が質問しないことは無関心の証拠であると解釈し、
他方三世は、両親への配慮から強制収容についても尋ねることも抑制したxxxviii。しかし「思
い出したくない」収容体験は、多くの二世に日系であることへのコンプレックスを植え付
けたと同時に、収容に対する二世の恥意識は、体験のない一部の三世にも浸透し、彼らの
9
エスニック・アイデンティティに影を落としたxxxix。
では、収容体験のない三世にとって補償運動はどのような意味をもっていたのだろうか。
まず、第一に補償運動による彼らのエスニック・アイデンティティの強化が挙げられる。
強制収容を日系人同士が一致団結して生き抜いたことや、その他のあらゆる差別にもかか
わらず今日の地位を築いた一世・二世に民族的誇りを感じると語るようになった三世も多
い。自らの両親や祖父母の体験を振り返るきっかけとなった補償運動は彼ら三世に、エス
ニック・プライドを植え付けたxl。
またこれに関連して補償運動は世代間の絆を強化する働きもしている。補償運動は世代
間の絆を強め、一丸となって一つの運動を遂行したことからコミュニティの一体感をもた
らした。補償運動はまた日系アメリカ人や他のアジア系、或はマイノリティに対する人種
差別が今日なお存在することを再認識させる働きをしているxli。
世代を超えて戦った補償運動は、1976 年、フォード大統領による「第二次大戦中の日系
人に対する強制収容は誤りだった」とする建国二百年を記念した“The American Promise”
への署名、1980 年、カーター大統領による「アメリカ市民戦時移住および強制収容に関す
る委員会設置法」への署名、1988 年、レーガン大統領による「日系アメリカ人補償法」へ
の署名により実現した、
「第二次大戦中の不当な処遇の被害者で生存している日系人六万人
に対し、一人二万ドルの補償金を支払い、国として謝罪する」ことにより終結した。
補償運動や補償の実現は、単に彼らの日系としてのエスニック・アイデンティティやマ
イノリティ意識を強化しただけではなく、補償運動ほど日系アメリカ人をアメリカ化させ
たものは無いとも言われているxlii。補償を通して、日系アメリカ人の価値観、規範、思想は
疑いもなく、かつてないほどアメリカ化しており、彼らのアメリカ人としての意識は強化
された。さらに、アジア系運動の効果と同じように、アメリカ社会において、
「アメリカ化」
と白人社会への「同化」とが必ずしも同一ではないことが認識されるようになった。
第四章 戦後生まれの日系アメリカ人
一節
日系アメリカ人の政治参加
本節では Republican National Committeexliiiによる調査結果を基に考察していきたいと
思う。この調査は、1992 年 8 月にカリフォルニアに住む 5000 人のアジア系アメリカ人を
対象として行われた。調査対象の内訳は、中国系 42%、フィリピン系 9%、日系 21.5%、
韓国系 17.5%、ヴェトナム系 24.4%、インド系 32%、その他のアジア系 15.5%となってい
る。1992 年の調査ということから、参加した日系アメリカ人の多くは三世であり、少数の
年老いた二世と若い四世が含まれていると思われる。
この調査からも分かるが、まず日系アメリカ人の政治的特徴として挙げられるのは、有
権者登録率の高さであろう。データによれば、日系アメリカ人の有権者登録率は 88%と、
ほぼ 9 割の人が有権者登録していることがわかる。その理由としては、他のアジア系アメ
リカ人の外国生まれ度が高いのに対して、日系アメリカ人は現地(アメリカ)生まれが多
10
いことが挙げられる。現地生まれが多いことは、学歴の高さ、収入の高さという二つの有
権者登録率に関連する項目にも関連があると考えることができる。有権者登録率の高さか
ら考えると、政治参加が多いのが日系アメリカ人の特徴と思われるかもしれないが、少な
くとも 20 世紀における彼らの特徴は政治参加が少ないことである。
例えば、選挙集会への参加に関する質問では、「個人的に選挙集会に参加したことがある
か」という質問に対して、アジア系全体では 17.6%が参加したことがあると答えているの
に対し、日系アメリカ人では 7.7%しか参加したことがないと答えている。また、地域レベ
ルのタウンミーティングに関する質問でも、
「個人的にタウンミーティングに参加したこと
があるか」という問に対して、アジア系全体の平均が 15.7%であるのに対して、日系アメ
リカ人は 4.4%しか参加したことがないと答えている。
Fujita と O’Brien の研究によれば、
日系人は目に見える形での活動に関わる事が少なく、投票や献金といった表からは見えに
くい形での活動に関わる傾向があり、
「活動家」のような活動に関わる傾向は少ないという。
しかし、1992 年のデータから見る限り、目に見えにくい活動にも日系人は参加していない
ことが見えてくる。
例えば、
「政治資金調達に関わったことがあるか」という質問に対して、アジア系全体で
は 30.2%が「ある」と答えているのに対し、日系アメリカ人は 14.2%が「ある」と答えた
に留まっている。また、政治献金に関しても、60.7%が献金をしたことがなく、収入の高さ
にも関わらず、100 ドル以下の献金しかしたことがない人が全体の 8 割以上を占めているの
である。
さらに日系アメリカ人の政治的無関心を裏付けるデータがある。
「どちらの政党が大統領
選を勝ち取るか気になるか」という質問に対して、4 割近くの日系アメリカ人が「気になら
ない」と答えている。これらの数字から、日系アメリカ人はアメリカ社会への適応度が高
く、現地生まれで学歴・収入ともに高いという政治参加度合いの高さと正の相関があるポ
イントを持っているにもかかわらず、アメリカに渡って三世代目に入っても未だに、政治
参加度合いが少ないどころか、政治的に無関心な人が多いことが結論付けられる。この理
由としては、第三章一節でも述べたが、日系人が歴史的に政治的な指導者や助言者を持っ
ていなかったこと、歴史的に識字テストなどによる投票権を妨害されてきたこと、また長
い間差別的であった民主党・共和党に対して不信感があったことが挙げられるだろう。さ
らに、極端な貧困者や高所得者をあまり持たない中産階級の日系三世たちにとってみれば、
現状の社会にある程度満足しており、それほど切迫した政治問題・経済問題を持ってこなか
ったことも要因といえる。では、経済的にはどうなのであろうか。
二節
日系アメリカ人の経済的位置づけ
今日では「日系アメリカ人は経済的にアメリカで成功している」というのが一種の常識
のように思われ、
「日系アメリカ人の成功物語」が話題を呼んだ。1990 年の国勢調査におい
て、アメリカ全体の平均年収が 14,143 ドルであったのに対し、日系アメリカ人の平均は
11
19,373 ドルであった。また貧困率に関しても、全国平均が 13%なのに対して日系アメリカ
人は7%と約半分であったxliv。しかし、彼らは特別に高い収入を得ているのであろうか。
1997 年にサンフランシスコ州立大学教授 Don Marxlvが行った研究に面白いものがある。
彼は、1960 年から 90 年にかけての白人アメリカ人と比較したアジア系アメリカ人女性の
給与の変化を実際の時間給の変化を追うことにより明らかにした。このデータは、女性に
限ったものではあるが、1960 年から 90 年までの日本生まれ・アメリカ生まれ両方のデー
タがあること、また 25 歳から 64 歳の働き盛りの女性を対象にしていることから、日系ア
メリカ人の現在の経済的位置づけを見るには良いデータと言える。Mar 教授のデータは、
住んでいる地域や経験・語学力などのさまざまな影響を調整したデータ、つまり「もし日
系アメリカ人が白人アメリカ人と全く同じようにアメリカ社会で扱われていたら・・・」
というデータを用いていることが特徴的である。
表1はアジア系アメリカ人の「実際の時給」と「得るべき時給」を比較したものである。
【表 1】
マイナスの数字は「もっと高い収入を得ることができたはず」であることを表している。
この表を見ると、アメリカ生まれの日系人は 1960 年では能力以下の収入しか得られていな
かったが、徐々に差は縮まり、1990 年ではわずかに低いだけとなっている。
「白人アメリカ
人より成功してやろう」というモチベーションの高さからアジア系アメリカ人は仕事に対
する向上心が高く、よって高い収入を得られるようになると考えられている。表2を見て
みると、日系アメリカ人の年収はアメリカ生まれに限ってみれば 1960 年当時から白人アメ
リカ人より高かったことが分かる。しかしここには日系アメリカ人が一般的に高い収入を
得ていると考えられている二つの理由が絡んでいる。
【表2】
一つは彼らの学歴の高さ、もう一つは日系アメリカ人人口が都市部の給与水準の高い地
12
域に集中していることである。また、マイノリティの収入は世代を重ねる毎に上昇すると
も言われており、たまたま日系人がアメリカに定住し始める時期が早かったことも影響し
ているだろう。実際に日系人より早くアメリカに移住した中国系の方が高い数字となって
いる。故に日系人だけが突出して高い収入を得ているわけではないと結論付けることがで
きるだろう。
確かに、日系アメリカ人は真面目であるが、序章でも述べた通り、日系アメリカ人はア
メリカ社会において中流階級ではあってもそれ以上ではない。社会学者ダレル・モンテー
ロが「日系アメリカ人が日本的価値観を失うにつれて、彼らが高めてきた社会的・経済的
地位は横ばいになるだろう」と言ったように、若い世代は、それまで日系人の学生の特徴
であった、良い成績を修める傾向から外れてきており、
「アメリカの平均に近づいている」
との指摘もされるようになっている。
「モデル・マイノリティ」ともてはやされた日系アメ
リカ人は「普通のアメリカ人」となるのだろうか。次節では日系人の文化的側面のアメリ
カ化を見る。
三節
三世から見る日系人のエスニック・アイデンティティ
(1)アメリカ化と民族的自殺
一般に移民は、一世・二世は肉体労働で苦労し、三世から高い教育を受けアメリカ社会に
進出するのが典型的なパターンだと言われている。日系アメリカ人の場合は、強制収容と
いう異質な経験があったこと、また高い教育こそがアメリカで成功する鍵であると信じら
れていたことから、二世でも高い教育を受け社会進出した人が多い。しかし、こうしたプ
ラスのイメージとは反対に、アメリカ社会に同化が進めば進むほど「民俗的自殺」とも言
われるような現象が起きているとも言われている。もともと日系アメリカ人は韓国系や中
国系などの他のアジア系に比べて求心力が弱く、他民族との結婚が多い。また高い教育は
他の人種集団との接触の機会を増やし、学歴の高い人は白人社会に居住する傾向が高いた
め、他人種との大学キャンパスや職場での接触を増やすと言われている。さらに、外婚は
アメリカに移民してからの世代が長いほど増えると言われている。その結果、例えば 2000
年の国勢調査では、約 3 割の日系アメリカ人が自らを日系以外との混血であると答えてい
るxlvi。
ここで疑問なのは「日系人は本当にアメリカ化しアメリカ人になったのか」ということ
である。このことについて次項で EIQ という「アメリカ化の度合い」を測る調査データを
用いて考えてみよう。
(2)三世のアメリカ化と日本文化への関心
EIQ(Ethnic Identity Questionnaire)は日系人のアメリカ化の度合いを計量的に把握する
方法として、アメリカの社会学者マスダによって開発されたもので、全部で 50 項目の主と
して「文化」に関する記述文から成るものである。それらは、伝統的なタイプの日本人の
人格的・行動的特性や価値観とみなされるものと、アメリカ人的人格特性・行動特性や価
13
値観とみなされるものの二つを主柱とし、人間関係に関する態度や日本文化の保持・伝達、
そのための条件等に関する関心、などの質問を含んでいるxlvii。被調査者はこれらの質問に
「5:大いに賛成する」
「4:賛成する」
「3:どちらともいえない」
「2:反対する」
「1:大い
に反対する」の五つの中から一つを選択し数字で答える。平均得点範囲が 3.4∼5.0 であれ
ば肯定、0.0∼2.6 であれば否定、その間ならば中立と表示することとする。
ここでは三世のエスニック・アイデンティティを明らかにすることが目的であるため、
1980 年に江淵氏がサンノゼで行った調査結果xlviiiを用いたいと思う。この調査に参加した
三世は 20 代から 40 代の者で、二世は 40 代から 60 代の者であった。
【表3】
サンノゼ サンノゼ
二世
三世
中立
中立
否定
中立
中立
否定
肯定
肯定
肯定
中立
否定
否定
肯定
肯定
8)愛情を感じたら、率直に気持ちを表明する。
中立
肯定
9)親の老後の面倒を見るのは長男の義務である。
中立
否定
肯定
肯定
中立
肯定
肯定
肯定
否定
中立
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
1)良い子とは素直な子のことである。
2)家族に対する義務よりも、個人のしたいことを優先させても差し支
えない。
3)回りに白人がいるような時、日系人仲間で言い争いをするのはよく
ない。
4)私は日本料理が格別に好きである。
5)日系の若者が、他のアメリカの若者が今日陥っている多くの非行に
陥らずにすんでいるのは、立派な日本的伝統のおかげである。
6)日系人に生まれたのは不運である。
7)日系人が全然いない地域よりも、少しでも日系のいるところに住ん
だ方が快適であろう。
10)白人から差別されるかもしれないという考えもなしに新しい場所
に移り住む日系人はバカだ。
11)日系人がアメリカ化するのは差し支えないが、少しは日本文化を
持ち続けるべきだと思う。
12)妻のキャリアは夫のキャリアと全く同様に大切である。
13)日系人は、他のアメリカ人が享受している機会の多くを、その祖
先の故に奪われている。
14)子供が時には親の決めたことに異議を唱えることは差し支えな
い。
15)日系人コミュニティの人間関係は、一般に、外に比べてあたたか
く快適である。
16)私は(日系人だからと言って)他のアメリカ人とは違って日本政
14
府の方針に従おうとするような気持ちをもつというようなことはな
い。
17)日系人にとって最善の事はもっと白人と交わり、完全にアメリカ
否定
否定
中立
肯定
中立
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
否定
否定
肯定
中立
中立
中立
中立
否定
26)兄の決めたことは、弟が決めたことよりも尊重されるべきである。
否定
否定
27)私は、白人は日系人に比べるとつき合いにくいと思う。
否定
否定
肯定
肯定
肯定
中立
肯定
肯定
31)アメリカでの生活は日系人にとり全く理想的である。
肯定
否定
32)助けがいる時は、まず親戚の者を頼るのが一番良い。
肯定
中立
33)日系人は、日系人とだけデートした方が良い。
中立
否定
肯定
肯定
中立
肯定
肯定
肯定
肯定
中立
人として同化することである。
18)人は知らずに私の心を傷つけるというようなことがあるから、私
は事によっては自分の本当の気持ちをかくそうとすることがある。
19)日本語ができないということは、日系人として恥ずかしいことだ。
20)日本民族は自然に対して抜群の洗練された感覚と深い感情を持っ
ている。
21)白人が私を平等に受け入れなかったら腹が立つだろう。
22)日系人が、努力しだいでは主に白人からなる組織のリーダーにだ
ってなれるのではなどと望みをもつことは、白人はけっしてそんなこ
とはさせないから、全くの無駄というものだ。
23)私は日本に対して格別つよい愛着ももっているというわけではな
い。
24)私は他人に対して気を遣いすぎる方である。
25)日系アメリカ人にとって、日本文化遺産をわが子が失わないよう
にさせることは、必ずしも親のつとめであるというわけではない。
28)日本人は他の人種に比べて優れているということもなければ、劣
っているということもない。
29)私はつねに、自分はまずアメリカ人であり、次に日系人であると
思っている。
30)小さな頃はわからないけれども、大きくなると日本語学校の有難
味がわかるようになる。
34)子供と友達みたいに過ごす親でも親としての威厳を失わないとい
うことは可能である。
35)一度日系人に生まれついたからには死ぬまで日系人である。
36)伝統ある日系人諸団体の助けを借りなくても、日系人と白人はう
まくやっていける。
37)日系人が日本文化についてより多くを知ることは素晴らしいこと
15
ではあるが、しかしどうしても必要というわけではない。
38)日系人だけのコミュニティというものがアメリカになくてすむの
否定
否定
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
肯定
否定
肯定
肯定
否定
中立
中立
肯定
否定
肯定
47)余りに頻繁に質問をしすぎる人間は、全体の進行の邪魔である。
否定
否定
48)日系人だけの教会に行く方が好きである。
中立
中立
49)個人が信用を失えば、それは必ず家族全体に及ぶ。
肯定
中立
50)日系人と白人との結婚は奨励されるべきではない。
中立
否定
なら、その方が良い。
39)日本は偉大な芸術的遺産をもっており、世界文明に重要な貢献を
してきた。
40)日本文化に対して非好意的な態度をとる日系人はまちがってい
る。
41)恩を返さぬ人間は立派とは言えぬと思う。
42)差別を受けてから当惑するよりも、全く歓迎されないような所は
初めから避けるのが賢明なやり方である。
43)私はふつう、いろいろな人種の入り混じったグループの話し合い
に加わる。
44)日本の慣習、伝統、態度の多くは、もはや今日の世界の諸問題に
立ち向かうには適切ではない。
45)日本映画を見るのは楽しい。
46)教師とか警官とか、権威をもつおとなに時には「立ち向う」こと
もあるというのは成長過程では自然である。
※1「日本文化志向」を示すと考えられる質問文には下線を引いてある。それ以外は、
「アメリカ文化志向」
を示すと考えられる質問文である。
※2太字で示された質問文は、二世と三世で異なる反応がでたものである。
この調査から三世は、日本文化への知識と関心を保持しつつも、人格・行動特性に関し
てはアメリカ文化に傾斜している、ということができる。具体的には、
「日系人がアメリカ
化するのは差し支えないが、少しは日本文化を持ち続けるべきだと思う」
「日本語ができな
いということは、日系人として恥ずかしいことだ」
「日本映画を見るのは楽しい」というよ
うな項目が三世において二世以上に肯定的に捉えられている。また、
「私は日本料理が格別
に好きである」
「恩を返さぬ人間は立派とは言えぬと思う」というような項目は二世・三世
ともに肯定的に捉えており、日本文化が受け継がれていることが分かる。同時に、「子供が
時には親の決めたことに異議を唱えることは差し支えない」
「子供と友達みたいに過ごす親
でも親としての威厳を失わないということは可能である」
「教師とか警官とか、権威をもつ
おとなに時には「立ち向う」こともあるというのは成長過程では自然である」という項目
に関しても肯定の結果が出ており、行動特性ではアメリカ化が進行していることが分かる
だろう。
16
メイ・ナカノも江淵氏と同様の調査を行っているxlix。彼女の調査では「良い子とは素直
な子のことである」という質問に対して否定の結果が出ており、より一層アメリカ的行動
特性が出ているといえるだろう。また「日本食を良く食べる」
「日本の芸術が好き」
「自分
に「日本的なところ」がある」
「何かもらったらお返しをしなければならない」という項目
で肯定の結果が出ており、江淵氏の結果と同様、日本的文化が三世にも根強く残っている
ということができるだろう。
だが、なぜこのように三世にまで日本的文化が根強く残ったのだろうか。1960 年代から
70 年代にかけて、三世は日系人であることが恥であるといった見方をしだいに捨てて、日
本とのつながりを肯定的に見始めるようになった。その背景として、以下の 4 点が考えら
れる。まず、第一に日系アメリカ人全体の経済的・社会的地位が戦争直後と比べて向上し、
自信を持つようになったこと。第二に、公民権運動の影響を受けて起きたイエロー・パワ
ー運動が、アジア系である日系人の肯定的なアイデンティティを強める効果を持っていた
こと。第三に、彼らのルーツである日本の経済が発展し、日本に対して誇りを持つように
なったこと。そして、最後に 1970 年代に償補償運動が進展した事が挙げられるl。つまり、
「白人アメリカ人のようになる」ことに一生懸命であった二世と異なり、三世には日本と
のつながりや日本文化を振り返る余裕ができた、ということができるだろう。
終章
おわりに
日系アメリカ人の例えとして、
「一世は竹、二世はバナナ、三世は蜂(ビー)」という言葉
がよく用いられる。一世は、竹のようにたくましくしなりながら、差別の中を生き抜いて
きた。二世は、偏見や差別に打ち勝つべく、外見は日系のままであったが、内面は白人ア
メリカ人を目指した。三世の世代ともなると、一世・二世の時代に問題となった、日系ア
メリカ人に対するあからさまな差別やヘイトクライムが騒がれなくなった。その理由とし
て、アメリカ社会がマイノリティにやさしい社会に変わったということもできるが、
「サイ
レント・マイノリティ」と呼ばれた日系アメリカ人が差別に対して声を上げて抵抗するこ
とを覚えたということも言えるだろう。三世はまさに蜂(ビー)のように羽を震わせ訴え
たのである。
勤勉でよく働き、犯罪も起こさないため、モデル・マイノリティと呼ばれ、賞賛された
日系アメリカ人も、日系アメリカ人の価値観が他のアメリカ人の価値観と同じになれば、
日系人社会で地域や家族を重んじる日本人の伝統が薄れ、アメリカ社会一般の個人主義的
傾向が強まれば、日系人の結束によってもたらされたプラス面は失われるとも言われる。
実際に三世世代ともなると、非行などの社会問題が増加の傾向を見せているとも言われ始
めた。ビル・ホソカワは、この点を次のように説明している。三世は「親から『白人のよ
うに』なるように、つまりアメリカ社会の伝統に従うように、という、強い、はっきりし
た指示を受け取る」が、その一方で、彼らは「ほとんど例外なく、親である二世から出さ
れる自分たちを日系のエスニック文化に結びつけるようにという、目に見えない指示に無
17
意識のうちに動かされている。
」その結果、三世は、
「自分たちの二重の文化遺産 つまり、
アメリカ文化と日本文化 に自分を同一視するという混乱に陥り、そしてその両方に関して
どこかの段階で疎外感を持つにいたる」のであるli。
二世たちは、時代背景からも日本的なものを潜在化させて生きてきたが、親となったと
きには日本的価値観を無意識のうちに子である三世に伝えていたのであろう。彼らがアメ
リカの学校で学んでくること・社会で学んでくることと、親が求めていることのギャップ
が彼らに疎外感を感じさせ、非行に走る少年を生み出していた。また、内部的な世代間格
差だけでなく、日系三世が育った 70 年代・80 年代という自由な時代が、少なからずとも非
行に走る少年を増やしてしまった要因のひとつであったことも忘れてはならない。
こうして制度上の差別が撤廃され、偏見に満ちた行為も少なくなるにつれ、日系人であ
る彼ら自身に「どうあるべきか」を選ぶ自由の裁量権が与えられるようになった。日系人
は無理に日本人らしさを捨ててアメリカ風になる必要はなくなり、それが多様な三世・四
世世代をつくりだした。しかしそれが、日系人コミュニティや日系人社会の問題にあまり
関心を示さない世代の到来ともなった。
以上、日系アメリカ人について彼らの持つエスニック・アイデンティティを中心に見て
きた。このように時代の変化から現在では自由を得た日系アメリカ人であるが、彼らには
まだまだ乗り越えるべき壁がある。序章でも述べたが、日系アメリカ人の大企業経営者や
重要な政府ポストに就いた人間は数えるほどである。また少数ではあるが、日米関係がこ
じれれば「日本」と「日系」を同じモノと見るアメリカ人が少なくなく、ヘイトクライム
は発生する。このようなカベを乗り越えられるかは、多様化した日系人一人一人にかかっ
ている。純粋な日系の血を引く日系人の減少、また他のアジア系のように新移民の流入と
いう刺激のない日系人にとって、
「日系」というアイデンティティを維持しつつ、これらの
カベを乗り越えることはますます難しくなっている。
【註】
i 1965 年新移民法制定や公民権法による人種差別制度撤廃後に流れてきた移民。
ii 2000 年の国勢調査によれば、アジア系アメリカ人の総人口は 1189 万 8828 人、日系アメ
リカ人は 114 万 8932 人、そのうち純粋な日系は 79 万 6700 人、となっている。
iii ほとんどの三世は 1940 年から 60 年の間に生まれている。
iv Asian Week, July 28, 1989, p14
v名越健郎「変わりつつある日系米国人(ワシントン・リポート)
」
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月 23 日、p32
vi ジーン・オオイシ/染矢清一郎訳『引き裂かれたアイデンティティ
−ある日系ジャー
ナリストの半生』岩波書店、1989 年、p36
vii 竹沢泰子、
『日系アメリカ人のエスニシティ −強制収容と補償運動による変遷 』東京
大学出版、1994 年、p140
viii 竹沢、1994 年、p72
ix 江淵一公
『バイカルチュラリズムの研究 −異文化適応の比較民俗誌−』九州大学出
版会、2002 年、p218
18
x
竹沢、1994 年、p75
同上、p75
xii 同上、p75
xiii 同上、p79
xiv Jere Takahashi “Nisei/Sansei: shifting Japanese American identities and politics”
Philadelphia: Temple University Press, 1997, p35
xv 竹沢、1994 年、p85
xvi Donna K. Nagata “Legacy of Injustice: Exploring the Cross-Generational Impact of
the Japanese American Internment” New York: Plenum Press, 1993, p8
xvii http://www.lib.washington.edu/exhibits/hormony/Exhibit/
xviii Lon Kurashige “Japanese American Celebration and Conflict: A history of ethnic
identity and festival, 1934-1990” Berkeley: University of California Press, 2002, p128
xix 竹沢、p120
xx Kurashige, p124
xxi Kurashige, p120
xxii 同上、p219
xxiii 同上、p129
xxiv Mei T. Nakano 堀たお子 訳 『日系アメリカ女性』サイマル出版会
1992 年、p195
xxv 竹沢、p227
xi
xxvi
Bill Hosokawa “JACL
in quest of justice” New York: William Morrow and
Company Inc, 1982, p84
竹沢、p130
xxviii 同上、p228
xxix 同上、p10
xxvii
Takahashi, p1
Takahashi、p2
xxxii 竹沢、1994 年、p164
xxxiii Takahashi, p2
xxxiv 竹沢、1994 年、p203
xxxv 竹沢泰子「日系アメリカ人におけるエスニシティ再生とアメリカ化」
『アメリカ研究
27』アメリカ学会、1993 年、p182
xxx
xxxi
xxxvi
竹沢、1994 年、p203
同上、p174
xxxviii 同上、p176
xxxix 竹沢、1993 年、p174
xl 竹沢、1994 年、p192
xli竹沢、1993 年、p176
xlii 竹沢、1994 年、p213
xliii データは 1993 年度版 Statistical Record of Asian Americans に載せられたものによる。
xliv http://landview.census.gov/apsd/wepeople/we-3.pdf
xlv Don Mar, “Four Decades of Asian American women’s Earnings: Japanese, Chinese,
and Filipino American Women’s Earnings 1960-1990,” Contemporary Economic Policy,
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xlvi http://www.census.gov/prod/2002pubs/c2kbr01-16.pdf
xlvii 江淵、2002 年、p264
xlviii 同上、p267
xxxvii
19
Nakano、p237
飯野正子、
『もう一つの日米関係史』有斐閣、2000 年、p170~172
li ウィルソン,B・ホソカワ/猿谷要監訳、
『ジャパニーズ・アメリカン−日系米人苦難の
歴史 』有斐閣、1982 年、p332
xlix
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【参考文献】
一次資料:
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会,1984 年
• ジーン・オオイシ著、染矢清一郎訳、
『引き裂かれたアイデンティティ −ある日系ジャ
ーナリストの半生−』岩波書店、1989 年
• Susan B. Gall and Timothy L. Gall, “Statistical record of Asian Americans,” Detroit:
Gale Research Inc., 1993
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• http://www.jacl.org/ (Japanese American Citizens League)
• http://www.janm.org/main.htm(全米日系人博物館)
• http://modelminority.com/ (Model Minority –A guide to Asian American
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• http://www.census.gov/ (U.S. Census Bureau)
• http://www.apaics.org/index.html (Asian Pacific American Institute for Congressional
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二次資料:
(図書)
• 江淵一公
『バイカルチュラリズムの研究
−異文化適応の比較民俗誌−』九州大学出
版会、2002 年
• 油井大三郎「日系アメリカ人の再定住とカリフォルニア社会」五十嵐武士
リカの多民族体制
−「民族」の創出
編
『アメ
』
(東京大学出版、2000 年)
• 飯野正子、
『もう一つの日米関係史』有斐閣、2000 年
• 町村敬志、
『越境者たちのロスアンジェルス』平凡社、1999 年
• 村上由見子 『アジア系アメリカ人 −アメリカの新しい顔 』
(中央公論社 1997 年)
• 竹沢泰子 『日系アメリカ人のエスニシティ
−強制収容と補償運動による変遷 』 (東
京大学出版、1994 年)
• メイ・T・ナカノ著,サイマル・アカデミー翻訳科訳『日系アメリカ女性 三世代の 100
年
』サイマル出版会,1990 年
20
• 戸上宗賢編『ジャパニーズ・アメリカン 移住から自立への歩み 』ミネルヴァ書房,1986
年
• ウィルソン,B・ホソカワ/猿谷要監訳、
『ジャパニーズ・アメリカン−日系米人苦難の
歴史
』有斐閣、1982 年
• Lon Kurashige “Japanese American Celebration and Conflict: A history of ethnic
identity and festival, 1934-1990” Berkeley: University of California Press, 2002
• Jere Takahashi “Nisei/Sansei: shifting Japanese American identities and politics”
Philadelphia: Temple University Press, 1997
• Donna K. Nagata “Legacy of Injustice: Exploring the Cross-Generational Impact of
the Japanese American Internment” New York: Plenum Press, 1993
• Lauren Kessler “Stubborn Twig: three generations in the life of a Japanese American
family” New York: Random House, 1993
• Yen Le Espiritu “Asian American Pan ethnicity: bridging institutions and identities”
Philadelphia: Temple University Press, 1992
• Stephen S. Fugita, David J. O’Brien “Japanese American Ethnicity: The persistence
of community” Seattle: University of Washington Press, 1991
• Bill Hosokawa “JACL in quest of justice” New York: William Morrow and Company
Inc, 1982
(雑誌)
• 岡本智周「日系アメリカ人の同化とエスニシティ
−世代間変化についてのレヴューと
分析」
『社会学年誌 41』
(2000 年 3 月)
• 名越健郎「変わりつつある日系米国人(ワシントン・リポート)
」
『世界週報』
(1999 年
11 月 23 日)
• 寺島実郎「日系アメリカ人の歴史を忘れるなかれ」
『Foresight』
(1997 年 4 月)
• 木下玲子「日系米国人が希求する新たなアイデンティティ」
『Foresight』 (1996 年 6
月)
• 飯野正子「日系人にとっての戦後 50 年」
『アメリカ研究 30』
(アメリカ学会、1996 年)
• 観堂義憲「民族とは何か
日系米国人の重い五十年」
『エコノミスト』
(1995 年 8 月 1 日)
• 竹沢泰子「日系アメリカ人におけるエスニシティ再生とアメリカ化」
『アメリカ研究 27』
(アメリカ学会、1993 年)
• 本田千恵「日系アメリカ人の適応に関する一考察 −「成功物語」再考 」
『慶應義塾大
学大学院社会学研究科紀要 31』
(1991 年)
• Don Mar, “Four Decades of Asian American women’s Earnings: Japanese, Chinese,
and Filipino American Women’s Earnings 1960-1990,” Contemporary Economic Policy,
April 2000
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