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政治協商会議と人民中国の誕生

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政治協商会議と人民中国の誕生
政治協商会議と人民中国の誕生
伊 原 沢 周
会主義現代化建設事業にとって、政治協商会議が国家の
根本方針、政治生活および四つの現代化建設におけるさ
まざまな社会・経済問題を協議、討論し、相互監督を実
行し、憲法、法律の施行を監督する役割を果すことは、
今後とも必要である﹂、﹁人民政治協商会議は、愛国統一
戦線を発展させ、台湾の早期祖国復帰を促進し、祖国統
べきである﹂、と述べた。
一の大業を実現するため、積極的に活動をくりひろげる
の全国代表大会である。国家最高権力機関である全国人
は じ め に
一九四九年十月、中華人民共和国は、政治協商会議
民代表大会は、中国共産党と並立しているが、事実上、
しかし、現在、中国の政治機構の最高峰は中国共産党
︵以下は政協と略称︶によって成立した。いわば政協は、
の統治時代における﹁党を以て国を治める﹂体制と、い
中国共産党の指導の下に活動している。これは、蒋介石
月に第一回全国人民代表大会を北平で開き、﹁中華人民
ささかも変りがないのではないか。
人民中国誕生の産みの母である。しかし、一九五四年九
る職能は全国人民代表大会に渡り、ついにその役割は
共和国憲法﹂を制定してから、政協の国家権力を代表す
協は、一切活動を停止したが、文革後の一九七八年二月、
則のもとで存続することになった。文化大革命期中の政
共産党と他の諸民主党派の相互監督、長期共存という原
とその発展過程、最後に政協の役割と評価などそれぞれ
本論は、まず政協成立の歴史的背景、次に政協の構成
機構であるに違いない。
決するためには、中国共産党にとって依然として貴重な
が示したように、今後、香港、マカオ、台湾諸問題を解
政協は、すでに形骸化されていると言えども、全く郵
鄭小平の指導下に政協第五回全体大会が、開かれた。翌
をとりあげて述べておきたい。
終ってしまった。しかし、統一戦線の機構として、中国
七九年六月十五日、政協の主席として鄙は、﹁中国の社
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52
-
を保っていた。当時、アメリカのルーズベルト大統領は、
まずドイツを撃破させ、それから日本を降伏させようと
安門上に中華人民共和国の正式成立を宣言した。中共に
四九年十月一日に中共最高指導者の毛沢東は、北京の天
約二十数年間にわたって断続的に続いた。ついに、一九
周知のように、中国共産党と中国々民党との内戦は、
の延安政府にも差別なく、武器・弾薬などを提供するこ
カの対中国軍事援助は、国民党の重慶政府にも、共産党
統一戦線の下、ともに日本軍と戦っていたので、アメリ
に増大することになった。その時、国共両党の軍隊は、
は、対日作戦を強化するため、対中国の軍事援助を次第
一 成立の歴史的背景
敗れた国民党首領の蒋介石は、約五十万人の部隊を率い
とが原則であった。米政府から中国に派遣された中国戦
考えていた。その後、欧州戦局の好転に伴ってアメリカ
て台湾へ撤退し、中華民国の余命を持ち続け、今日に至
なぜなら、中共軍は確実に日本軍に対して戦ったからで
区同盟軍参謀長スティルウェル︵J.W.Stilwell︶は、な
一致していないが、一般的に言うと、中共は、農地改革
ある。しかし、蒋介石はこれに反対し、スティルウェル
るまで厳然として存在している。
の成功、民主々義への努力、党員の能率の良さと、信念
との間で意見が対立した。結局、四四年十月末、ルーズ
んとかして武器を中共軍に多く渡したいと考えていた。
の高さなどが評価され、国民党は、腐敗無能、蒋介石の
ベルトはスティルウェルを解任し、その代りにウェデマ
国共両党の勝敗原因について、従来、研究者の意見は
独裁、党員の能率や信念の低下などが敗因であると指摘
ルーズベルト大統領の代表、後に大使となったハーリー
マイヤー将軍は、スティルウェルとは異なり、重慶駐在
いってよかろう。
令。 I. Hurleごと共に蒋介石政権の実力と将来性を高く
イヤー︵A. C. Wedemyer︶を重慶に着任させた。ウェデ
政協は、実は、アメリカの国共両党の和解調停策に
一方、中共の力を無視するわけにはゆかないと考えて
評価していた。
されている。しかし、中共が政治協商会議の活用によっ
よって成立したといわざるをえない。
て政権を樹立できたことは、ほとんど無視されていると
太平洋戦争突入後の一九四二年、日本軍は軍事的優勢
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合政府樹立、政治改革などを話合う用意かおること
する態度を以前よりずいぶんやわらげた。中共と連
よって中国の民族を統一させるために努力を続けて
共両党は、日本を打破るため、中国の全軍隊の統一と中
を蒋氏は示唆した。近ごろ、あなたは、ヤルタで
いたハーリーは十一月七口重慶から延安へ飛んで行き、
国の再建とに協力する、口国民政府を改組し、各党派・
チャーチル、スターリンと会談するそうですが、]﹂
いる。最初、蒋氏は、この統一計画に冷淡な態度を
無党無派の代表を含む連合政府を樹立する、目孫文の三
示していたが、あなたの建議を尊重して、中共に対
民主義を実行し、民主々義を推進し、信仰・出版こ呂
ただちに中国の全軍隊の統一、口終戦後の自由・民
された五項目協約の大要は以下である、]﹂中国政府と国
論・集会結社の諸自由を保障する、白連合政府とその統
主・統一的な中国の樹立、との二点をとりあげて英、
毛沢東との二日間の会談を行なった。会談によって決定
一全国軍事会議の命令を遵守し、実行し、外国から得た
ソ首脳の意見を求められるようにお願い申し上げま
ト大統領あてに送られたハーリーの書信要点は、以下で
力説した。翌四五年一月十四日付、重慶からルーズベル
府内における十分な代表権を彼らに与えるようにと蒋に
を防止するため、中共に寛大な政策的譲歩をして国民政
ており、難色を示した。ハーリーは、将来、中国の内戦
に実行されれば、国民党の支配権が損なわれると心配し
リーは、ただちに蒋介石に提出した。蒋は、草案の通り
ハーリーによったものであるのは、明白である。
つまり、国共両党和解の発議が、ルーズベルト大統領と
ていただきたいと考えている。
石・毛沢東両氏に招待状を送り、あなたに会見させ
的な中国の建設などである。その時、私は、蒋介
民主化、基本的人権の確立および自由・民主・統一
党の合法性、各党派の政府参加、中国政府の開明化、
とができる。すなわち、中国軍隊の統一、中国共産
ならば、私はあなたに具体的な全計画を提出するこ
す。もしあなたたちが、この二点の協議に達成する
武器を公平に分配する、白国共両党はもちろん、他の抗
日団体の合法性を全面的に認める、などである。
ある。
同年四月二十四日、毛沢東は中共第七回全国代表大会
この五項目協約草案を延安から重慶に持ち帰ったハー
私は、中国に着任して以来、ずっとあなたの指示に
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-
前掲のハーリーと定めた五項目協約の内容を再強調した
この連合政府を樹立せよ、という毛の訴えは、明らかに
中国人民を日本侵略者の手から解放する﹂ことである。
協同作戦を強力におこない、日本侵略者をうちやぶって、
克服し、全中国の抗日の力を動員、統一し、連合国との
あり、それによって民主改革をおこない、当前の危機を
を結集して、民主的な臨時の連合政府を樹立することで
必要としているのは、各党各派で無党無派の代表的人物
その基本的要求は、﹁疑いもなく、中国がさしせまって
において、﹁連合政府論﹂という政治報告を発表した。
はないと考えた。そこで蒋は、同年八月十四、二十、二
し合いによって戦後中国の諸問題を解決する以外に方法
アメリカの強い勧告と中共軍の重圧の下に、中共との話
蒋介石は中共に対して不信を抱いていたにもかかわらず、
戦後の民主々義的新中国を樹立しようとした。その時、
で中国の内戦を回避し、国共両党の和解・協力によって
ベルト大統領の遺志を引き継いだトルーマンは、あくま
領されるであろう﹂というありさまであった。故ルーズ
海地帯へ撤退させるならば、全中国の領土を中共軍に占
は、日本人の武装をただちに解除し、全部隊を中国の沿
ズペルト死去、トルーマン後任︶指摘のとおり、﹁われわれ
乍三日の三回にわたり、毛に和平交渉のため重慶を訪ね
ものだろう。やがて日本は、ポッダム盲言を受諾し、無
条件降伏の声明を発表した。第二次世界大戦が、ついに
人民の集会・結社・言論・出版の自由を阻害するいっさ
るよう要請する電報を送った。翌々二十五日、中共中央
電し、岡村の指揮下にあるすべての部隊に、いっさいの
いの法令を撤廃し、特務機関を解散し、愛国政治犯を釈
終った。
軍事行動を停止し、中国解放区の中共軍︵八路軍・新四
放すること、O各党派および無党派代表者の会議を招集
は﹁目前の対時局宣言﹂を発表した。その主旨は、蒋介
軍・華南抗日遊撃隊︶に降伏しなければならないと要求し
して、抗戦終了後の各種の重大問題を検討し、民主的施
石の国民政府がただちに、]﹂各党派の合法的地位を認め、
た。当時中国の広い地区は、中共の抗日ゲリラに支配さ
政綱領を制定し、訓政を終わらせ、挙国一致の民主的連
総司令は、岡村寧次日本軍最高司令官への投降命令を打
れており、蒋介石の国民党部隊にとってきわめて不利な
合政府を樹立し、かつ自由にして拘束されない普通選挙
ポッダム宣言受諾発表の日︵八月十五日︶、中共の朱徳
時期であった。全くトルーマン大統領︵四月十二日、ルー
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努力によって国民政府を助け、中国の内紛を解消しうる
いて延安へ行き、われわれの一年間以上にわたる不断の
二十七日、ハーリー大使は﹁只今、私は愉快な気持を抱
あうことになっている﹂と国民党当局に通達した。同月
慶に派遣して、蒋介石と団結建国の大方針について話し
ンをかかげ、また毛沢東、周恩来、王若飛の三同志を重
ていないし、わが党も平和、民主、団結の三大スローガ
は、﹁現在、ソ米英三国はいずれも中国の内戦に賛成し
しなければならないと要求した。翌二十六日、中共中央
による国民大会を準備すること、などの緊急措置を実施
治中、耶力子らが、国共両党間の諸問題をめぐって話し
以外に、周恩来、工若飛、国民党側は王世木べ張群、張
在は、四十三日間に達していた。その間、中共側は、毛
八月二十八日から十月十日にかけて、毛沢東の重慶滞
党和解の話し合いが、ここからスタートしたのである。
を囲んで歓談し、昨日の敵は、今日の友として、国共両
はないかと思う。酒宴後の二人は林園庭の石造テーブル
開かれた国民党第一次企国代表大会以来初めてのことで
に出席した。蒋・毛の再会は、一九二四年一月に広州で
ら直接市内山洞林園へ向い、蒋介石主催のレセプション
ることを切望している﹂と示している。その日、空港か
を煮詰めていた。互いに譲れない難問かおるにもかかわ
と期待する﹂と表明し、蒋介石の代表張治中とともに、
毛らを迎えるため、重慶から延安へ飛び立ったのである。
らず、十月十日に至り、ともかく双方合意の上で﹁国共
双方代表会談紀要﹂、すなわち﹁双十協定﹂にやっと調
応えて、﹁この度、国民政府蒋介石主席の遜請に応じて
に到着した。重慶空港に着いた毛は新聞インタビューに
一九四五年八月二十八日、毛沢東一行が延安から重慶
成されている。それらの中で、注目されるのは、]﹂平和
解放区の地方政府の存廃問題など、合計十二ヶ項目で構
の廃止、政治犯の釈放、地方自治問題、軍隊の国家化、
国民大会の招集、人民の自由、党派の合法化、特務機関
協定の内容は、平和建国の基本方針、政治の民主化、
二 蒋・毛の会談と政協の設立
重慶にやってきた。当面、何より重要なのは、国内にお
建国の基本方針に関して、﹁平和、民主、団結、統一を
印する運びに至ったのである。
らに基づき、統一、独立、自由の富強な新中国を建設す
ける和平の保証、民主政治の実行、団結の強化だ。これ
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軍隊国家化および各党派の対等・合法化などが、平和建
に実行する。双方は、蒋主席に提唱された政治の民主化、
独立・自由・富強な新中国を建設して三民主義を徹底的
導の下に、長期にわたって合作し、あくまで内戦をさけ、
基礎として共に協力しなければならない。また蒋主席指
のもある。解放区の問題は解決されなかったし、軍
ができた。このほかに、取り決めのできなかったも
ることを認めた。これらの点については、取り決め
内戦をさけ両党が平和的に協力して新中国を建設す
結の方針と人民の若干の民主的権利を認め、また、
こんどの交渉は収穫があった。国民党は、平和・団
確に、国共両党閥には難題が山積している。いちいち
隊の問題も実際には解決されなかった。すでにまと
解決することは決して容易ではない。しかし、すでに決
国達成の必要な道程であることを一致して確認した﹂、
どの諸問題を討論すべきである。只今、双方は、各方面
定された﹁双十協定﹂、ことに政協の招集は、猶予の余
口政治の民主化に関して、﹁双方は、訓政期を早速に終
に接触して政治協商会議の代表人数、組織およびその職
地もない。中共機関紙である延安の﹃解放日報﹄は、十
まった取り決めも、まだ紙の上のものにすぎない。
権などの諸問題を話しており、ひとたび意見の一致をみ
月十九日付﹁双十協定を実現させるべきだ﹂という社説
わらせて、憲政期を始めなければならないことを確認し
れば、ただちに政治協商会議を招集する﹂という二点て
を掲げ、各党派とともに平和建国の方針を行なわなけれ
紙の上のものは、現実のものではない。それを現実
ある。
ばならないと呼びかけた。やがて中国民主同盟は、﹁今
た。また、まず国民政府は、必要な順序により政治協商
したがって、政協の成立とその招集は、上掲の﹁双十
度、国共両党の会談によって決定された政協の招集は、
のものとするには、なお大きな努力をはらわなけれ
協定﹂に基づいて決定されたといえる。
ばならないことを、事実は立証している。
しかし、重慶から延安に帰った毛沢東は、同月十七日
かつてからのわが党の一貫した主張である﹂、﹁政協の中
会議を開き、各党派の代表および各界の賢明な人士を集
に﹁重慶交渉について﹂という報告を中共の党幹部会議
で、すべての問題を解決する際に、まず国家・人民の利
め、国是を協議して平和建国の方案、国民大会の招集な
で行なった。
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る﹂ことができると訴えると同時に、他の各党派の代表
集され、それによって国是を協議し、人心を安定させ
いて民主同盟の代表黄炎培は、政協は﹁必らず早期に招
発展して行くことができる﹂との宣言を発表した。つづ
い。そうすれば、各党派の団結から全国人民の団結へと
益を対象とし、党派間の利害問題をさけなければならな
じていた。中国共産党は、国民党を疑い、その意図
しており、中国共産主義者はソ連の手先であると信
定にもかかわらず国民政府の満州回復の努力を妨害
国民政府は、ソ連が一九四五年八月の中ソ条約の規
いた彼は、
両党間の相互不信は想像以上にひどいとしみじみ感じて
滅になると信じていた。
するところは中国共産党の破壊にあると信じていた。
ハーリー駐華大使の辞表を受理し、それと同時に、G・
と示している。
だちも、黄に共鳴した。しかし、政協招集遅延の最大の
C・マーシャル︻9Orge C. Marshal︼︶将軍を大使の資格
政協招集の先決条件は、国共両党部隊の武力衝突の停
政府の指導者たちは、共産主義者がその武装兵力を
で中国における大統領の特別代表に任命する旨を公表し
止である。国共両党間の仲介の労を取ったマーシャルは、
原因は、会議出席の人選や人数の調整などの諸問題より、
た。大統領はマーシャルへの指令の中で、﹁平和的・民
国民党の代表張群と、中共の代表周恩来とともに、三人
棄てないうちに、政府に共産主義者を参加させたく
主的な方法による中国の統□が、できるだけ早急に達
委員会を設けて、両党の敵対行為の停止およびその関連
むしろ全国各地の国共両党部隊の武装衝突にあったと考
成されるように米国の影響力を及ぼすべきこと、あわせ
事項を討議するべく努力した。翌四六年一月十日、三人
ない意向であり、他方、共産主義者は、法的な政治
て中国の内戦、ことに華北における内戦を停止させるよ
委員会は、停戦協定を成立させた。この日から政協が、
えられる。
う努力することを要求した。これを受けたマーシャルは、
やっと重慶国民政府のホールで開かれた。各党派と無党
的地位の保証なしに兵力を棄てることは自分達の破
重慶に到着すると即刻その任務を開始した。彼は、重慶
無派の代表は、国民党が張群、孫科、陳立夫、王世恚ら
一九四五年十一月二十七日、米トルーマン大統領は、
において、何回か国共両党の代表者だちと会談したが、
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五ら九名、全部で三十六名︵莫徳恵・張君勣の二人欠席︶
党は曽碕、陳啓天ら五名、無党無派からは郭沫若、王雲
は張瀾、黄炎培、章伯鈎、沈鈎儒、張東路ら九名、青年
八名、中共は周恩来、董必武、葉剣英ら七名、民主同盟
ものである、と指摘している。また、会議の主な内容は、
果であり、中共代表と政府との談合によって決定された
会議は中国人民と民主的人士たちが長年期待していた成
つづいて中共代表周恩来は、そのあいさつで、今回の
らないこと、という三点をまとめて示している。
国家民族に深い関係のある平和的建国綱領、国民大会の
が出席した。
の利益を求めず、全国民の共同利益を求める﹂ことにあ
政協会議の開会式で、国民政府主席蒋介石は、﹁本会
ると訴えた。
開催および憲法の制定などの諸問題である。これらを解
知ることができるであろう﹂といっている。また今日中
三週間にわたって行なわれたこの政協会議は、同月三
議を招集した目的は、各党各派の代表と社会の学識経験
国人民がもっとも切実に要求していることは、﹁安定を
十一日に終了した。採決された諸決議案はただちに公表
決するため、中共代表は誠意と容認とを持って各党派の
求め、復興を求め、国家の統一・進歩と繁栄を求めて、
された。それらをあげると、以下の五ヶ項目である。す
代表・賢明な人士と話合いに基づき民主的、平和的、統
彼らの生活を向上させることである。最低限度の生活が
なわちO政府組織案、口国民大会招集案、目平和建国綱
者を招いて国是を協議することである﹂、﹁この会議は、
保障され、彼らが安んじて家業を楽しむことができるよ
領、四軍隊の国家化問題、㈲一九三六年の憲法草案など
一の新中国を築き上げなければならないとしている。ま
うになり、彼らの自由が侵害されることがないようにな
人民の選挙によって生まれたものではないが、国事に熱
ることである﹂と強調した。最後に、蒋は、O誠実、卒
である。
心であり、民生に切実な関心を持っておられる各位は、
直に民主々義の模範を打ち立てねばならないこと、口大
政協会議の閉会式で、蒋介石は会議の諸決議案に対して。
た、民主同盟代表の張瀾は、﹁この会議の目的は、党派
所高所に立って、全国家の利益を考慮せねばならないこ
この度の政協会議は、平和建国綱領、各種の関連問
必らずや人民の真の願いを諒察し、人民の切実な要求を
と、目遠い先を見渡し、国家の前途を正視しなければな
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く本会議のすべての決議を守り、平和団結の精神を
と、一人の公民としてその責任を尽し、忠実かっ固
ればならない。今後、私は朝にあろうと野にあろう
な責任は、諸君と全国々民に託して共同で負わなけ
任ではなく、また私個人の責任でもない。この重大
ばならない。今後の建国の重任は、国民党一党の責
国家民族の前途に対しての大きな責任を負わなけれ
び社会の賢明な人士は、すべて政府に参加し、共に
施に希望が生まれた。今後、各党派の指導者、およ
題の方策を定め、建国の初期の基礎を固めて憲法実
抗議の意を表した。
﹁国民党は、二中全会で政協会議の決議案を覆した﹂と
明した。さらに周恩来は重慶での新聞インタビューで
び広範な人民の同意を得ることはできない﹂との旨を声
図している。この挙は中国共産、その他の民主党派およ
的決定、とくに憲法の原則に関する決定を変えようと企
民党内の多数の有力者は現在政治協商会議の若干の原則
がって同宣言が発表された翌十八日、中共中央は、﹁国
裁体制がいささかも変わっていないことである。した
とてある。中共から見れば、この官言は国民党一党の独
ロー九三六年に国民党一党で採決された﹁五権憲法草
れている。0同年五月五日に国民大会を招集すること、
中全会の官一言である。この宣言の中で、次の三点が示さ
見えた。その具体的な例は、同年三月十七日付国民党二
民党内の右派には、政協会議の決議に反対するきざしが
にもかかわらず、蒋の声明が発表されてまもなく、国
と表明した。
とを促進する。
高官と会談し、﹁政府の機構から支配的な軍閥と反動分
マーシャルは、中国を去るに先立ち、数人の中国政府
シャルは同月八日中国を出発してワシントンに向った。
はマーシャルの米国帰還を命じたことを発表した。マー
とを決意した。一九四七年一月六日、トルーマン大統領
や難局打開が不能であると痛感し、調停から手を引くこ
国共両党間の調停役を勤めていたマーシャルは、もは
次に泥沼にはまりこんでいったのである。
文となったとみた国共両軍は、戦闘を再開し、内戦が漸
このような状況の下に、政協会議の決議案が紙上の空
案﹂を修正するわけにはいかないこと、曰軍隊の国家化
子を取除く﹂、﹁政府と国民党内における汚職と腐敗と無
堅持し、わが国の統一・民主の光明の大道を歩むこ
により、軍令・政令が統一できることを強要することな
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政府の転覆や崩壊の危機が、目の前に迫って来る、と警
能力を一掃する﹂ことの必要を提議した。さもないと、
その他の愛国者達と連合し、反帝国主義、反封建主義、
自由的ブルジョア・各民主党派・賢明な社会人士および
さらに旧満州の東北への攻勢を展開して多数の市町村を
が、あい次いで華北の山東、山西諸省の根拠地を樹立し、
出して全人民解放軍を大いに激励した。こうして中共軍
め、敵の残存拠点を一掃せよ﹂というスローガンを持ち
打倒し、民主連合政府を樹立せよ﹂、﹁人民の武装力を強
宣言﹂を発表した。その中で、﹁一日もはやく蒋介石を
一九四七年十月十日、中共中央は、﹁中国人民解放軍
尤︵致公党︶、彭沢民︵農工民主党︶、李章達︵人民救国会︶、
沈鈎儒・章伯鈎︵民主同盟︶、馬叙倫︵民主促進会︶、陳其
民主党派指導者の李済深・何香凝︵国民党革命委員会︶、
樹立せよ﹂と全国人民に呼びかけた。これに共鳴した各
大会の開催とその実現のことを討論して民主連合政府を
会人士は、すみやかに政治協商会議を招集し、人民代表
よ﹂、さらに﹁各民主党派、各人民団体および賢明な社
を打倒するために、新しい中国を建設することに努力せ
反官僚資本主義の統一戦線を固め、また拡大し、蒋介石
占領した。当時、戦局から見れば、中共軍の優勢と国民
蔡廷錯︵国民党民主促進会︶、譚平山︵三民主義同志連合会︶、
告した。
党軍の劣勢が、日ましに顕著化してきた。それと同時に、
宍月四日︶、中国学術工作者協会︵五月︶、およびシンガ
郭沫若︵無党派︶らは、ただちに連名で毛沢東に打電し、
し、香港で中共中央を支持する声明を発表した。このよ
ポール、カナダ諸海外華僑団体も各民主党派と同一の歩
国民党内部の分裂も目立った。四八年一月、国民党の反
うな軍事的、政治的有利な時機に乗じて、中共中央は、
調をあわせた。
全面賛成の意を表した。引き続いて、台湾民主自治同盟
かつて流産した政協の後を継承し、新しい政協を創設す
四九年の春、蒋介石が国民政府総統引退を声明し、李
蒋派は香港で国民党革命委員会を結成した。また、国民
ることを考えはじめたのである。
宗仁が総統代行に就任した。その時、中共軍は北平に入
︵五月七日︶、香港の民主人士柳亜子・茅盾ら百二十五人
同年五月一日は、メーデーであった。その日、中共中
城し、やがて揚子江を渡河して南京・上海を占領した。
党に弾圧された民主同盟本部も中国本土から香港へ移転
央は、﹁全国労働者が一致して団結し、全国の知識人・
-
−61
十三部門、百三十四人であった。会議の臨時主席周恩来
各界民主人士、少数民族および海外華僑の代表、合計二
加したのは、中共をはじめ、各民主党派、各人民団体、
中央は、新しい政協の準備会を北平で開いた。会議に参
国民政府の危機がいっそう深まった。六月十五日、中共
会議と区別するためである。
政治協商会議と呼ぶのは、蒋介石時代の﹁旧﹂政治協商
の代表者数についての規定﹂を採決した。当時、﹁新﹂
備組織条例﹂と﹁新政治協商会議への参加団体およびそ
それぞれの議題を討論した。ついに﹁新政治協商会議準
会議は同月十九日まで行われた。六グループに分かれ。
を一掃し、全中国を統一し、系統的に、段どりを
を指導して、最大の速度で国民党反動派の残存勢力
に開かれることになった。この準備会は、全国人民
われわれの新政治協商会議の準備会が、今日、ここ
会議に参加した各党派、各団体、各界人士の代表の合
人民政治協商会議第一回会議である。
﹁人民政協﹂と改称した。この会議の正式名称は、中国
開催された。そして新政協を﹁中国人民政協﹂あるいは
的になった。ついに同年九月二十一日、新政協が北平で
諸省を席捲した。国民党軍の敗北と中共軍の勝利が決定
た。中共軍は、浙江から江西、湖南、広東、四川、福建
一九四九年の冬、国共両軍の戦闘が最後の段階に入っ
三 新政協の招集と人民中国の誕生
が開会の辞を述べたあと、中共の党主席毛沢東、人民解
放軍総司令官の朱徳、国民党革命委員会主席の李済深、
民主同盟中央常務委員の沈鈎儒、無党派民主人士の郭沫
若、海外華僑代表陳嘉庚らが、順次に発言した。注目さ
れるのは、毛沢東の講演である。彼は次のように述べて
おって、全国にわたり、政治、経済、文化、国防の
いる。
建設を進めるために、あらゆる必要な準備をなしと
内訳から見ると、中共をはじめ、国民党革命委員会、民
主同盟、民主建国会、無党派民主人士、民主促進会、農
計は六百十二人、その規模は旧政協よりはるかに大きい。
工民主党、人民救国会、三民主義同志連合会、国民党民
げて、すみやかに新政治協商会議を開催し、民主連
われがそうすることを望んでおり、したがって、わ
合政府を樹立することである。全国の人民は、われ
れわれはそうしなければならない。
62
人である。十六人民団体の正式代表は二百六人、候補代
六つの解放軍師団の正式代表は六十人、候補代表は十一
の解放区の正式代表は百二人、候補代表は十四人である。
は百四十二人、候補代表は二十三人である。また、九つ
主々義青年団、計十四党派に及んでいる。その正式代表
主促進会、致公党、九三学社、台湾民主自治同盟、新民
これは、われわれの会議が全国人民の大団結の会議
軍・各地区・各民族および海外華僑を代表している。
全中国のあらゆる民主党派・人民団体・人民解放
われわれの会議には六百余名の代表が含まれており、
東は、開会式で次のように述べている。
らなかった。これらのことについて、主席としての毛沢
るものである。中国人民政治協商会議は自己の議事
であることをはっきり示している。︵中略︶今の中国
案整理﹂、﹁宣言起草﹂、﹁国旗、国徽、国都、紀元方案審
日程の中で、中国人民政治協商会議の組織法を制定
表は二十九人である。その他、特別招待された社会人士
査﹂、﹁代表提案審査﹂などの委員会である。これらの委
し、中華人民共和国中央人民政府の組織法を制定し、
人民政治協商会議は、全く新しい基礎の上に開かれ
員は、会議の重要な議題・提案を討論、審査する。また
中国人民政治協商会議共同綱領を制定し、中国人民
は七十五人である。全代表の党派勢力を考えると、中共
会議は、数人の主席を置き、毛沢東をはじめ、朱徳、李
政治協商会議全国委員会を選挙し、中華人民共和国
たものであり、それは全国人民の信頼と支持を得て
済深、沈鈎儒、郭沫若らが選出された。
中央人民政府委員会を選挙し、中華人民共和国の国
系が圧倒的だといってもさしつかえない。
実は、この人民政協の会議は、当時、中国で総選挙を
旗と国徽を制定し、中華人民共和国々都の所在地を
いる。したがって、中国人民政治協商会議はみずか
実施しうる条件が、まだ整っておらず、いわゆる国会と
決め、また、世界の大多数の国家と同じ年号を採決
会議は、六つの小委員会を設けた。すなわち、﹁政協
しての機能を発揮し、臨時憲法の性能かおる人民政協の
しなければならない。︵中略︶内外の反動派をわれわ
ら全国人民代表大会の職権を執行することを宣言す
共同綱領草案、人民政協の組織法および中華人民共和国
れの面前で震え上がらせ、こうしてもだめだ、ああ
組織法草案整理﹂、﹁共同綱領草案整理﹂、﹁政府組織法草
の中央人民政府組織法などを、早急に制定しなければな
63
とであろう。
を結集した人民々主独裁を実行し、帝国主義、封建主義
導し、労農同盟を基礎とし、民主的階級と国内の各民族
すなわち人民々主々義の国家であって、労働者階級が指
ている。第一章第一条は﹁中華人民共和国は新民主々義、
﹁外交政策﹂に分かれて、合計七章、六十条で構成され
この会議で注目されるは、特別に招待された孫文夫人
および官僚資本主義に反対して、中国の独立・民主・平
-
してもだめだといわせよう。中国人民は、その不僥
の宋慶齢の講話である。その内容は、中共は人民大衆の
不屈の努力によって着実に自己の目的に到達するこ
力を擁する唯一の政党である。この党の指導の下に、中
和・統一および富強のために奮闘する﹂と記されている。
第一回全国委員会委員百八十人の中から、中華人民共和
国の革命が前進しており、ついに中国が生まれ変わった。
国中央人民政府主席に毛沢東を、副主席に朱徳、劉少奇、
中華人民共和国の国家の性格が、これによって明らかに
政府組織法を満場一致で可決した。さらに]﹂中華人民共
末慶齢、李済深、張瀾、高尚ら六人がそれぞれ選出され
今日から孫文の民族・民権・民生という三民主義の実現
和国の首都を北平に置き、翌二十八日から北平を北京と
た。
されている。かつて国民政府時代に強調された三民主義
改名する、口中華人民共和国の紀元は西暦を採用し、本
翌十月一日、その日、中共中央人民政府の主席として
には、全く触れていない。
年を一九四九年とする、曰中華人民共和国の国歌を、暫
の毛沢東は、北京の天安門上で中華人民共和国の誕生を
が、確実に保証された、というものである。
らく﹃義勇軍進行曲﹄とする、四中華人民共和国の国旗
全中国人民と、全世界に向けて、正式に宣言したので
九月二十一日から三十日にかけて、開催されたこの人
を、五星の赤旗とする、との四つの議案も可決された。
さて、この会議の終了日︵九月三十日︶に、人民政協
翌々二十九日に、憲法に等しい人民政協共同綱領が可決
あった。
民政協会議は、二十七日に、人民政協組織法、中央人民
された。その内容は、前文、第一章﹁総綱﹂、第二章
﹁政治機関﹂、第三章﹁軍事制度﹂、第四章﹁経済政策﹂、
第五章﹁文化教育政策﹂、第六章﹁民族政策﹂、第七章
64
した。それにもかかわらず、国民政府の保守的体制は、
いささかも変わっていなかった。しかも新政協準備会の
民政府の経済改革も失敗し、一般民衆の反戦要求も高
お わ り に
まった。これらのすべてが、蒋介石政権の崩壊を促す要
過程で、中国全国各地の学生運動が日増しに高揚し、国
である。人民政協の出発点は、一九四八年五月一日の中
上述のように、人民中国は人民政協から生まれたもの
因であった。一九四九年の春、蒋介石は、やむなく引退
経済的・軍事的改革を実行することに失敗したため、貴
共中央のメーデー・スローガンとして、新政協招集の呼
下の援助が予期された効果を産まなかったことは遺憾で
した。後任の総統代行李宗仁は、国民政府崩壊の危機を
共鳴して新政協準備会が次第に成立した。その第三勢力
ある。この失敗こそ、わが国が今当面している困難の原
びかけからである。ちょうどその時、国民党改革委員
の諸民主党派が中共に協力して結成されたこの人民政協
因である﹂と正直に述べている。
食止めることはとうていできなかった。同年五月五日付、
は、後に蒋介石の政権に致命的打撃を与えた、といわな
北平で新政協準備会が開かれ、同会の組織条例が成立
会・民主同盟・民主促進会などの、いわゆる第三勢力が。
ければならないのである。
した。まもなく蒋介石が大陸から台湾へと渡った。それ
李総統代行は、トルーマン大統領あて書信を送り、その
文字通りに、当時、国民政府内部の混乱・腐敗・無能
と同時に、アメリカの援蒋政策も中止され、スチュアー
一斉に立ち上がって蒋介石の﹁国民大会﹂の開催︹四八
が極まった。前述の中国を去ったマーシャル特使は、国
ト大使は中国から米国に帰った。国共両党の調停に失敗
中で、﹁貴国は、わが政府に対し援助を継続した。当時、
民政府内における保守勢力を排除しなければ、蒋介石政
したアメリカ国務省は、同年︵一九四九年︶八月五日に
年三月二十九日∼五月一日︺に非難を浴せた頃であった。
権の存続は困難だと指摘した。マーシャルの後任になっ
﹁中国白書﹂︵Stateヨ回t by Mr. Acheson on United States
わが政府がこの援助を賢明に使用し、適宜なる政治的・
たスチュアート︵J. L. Stuart︶大使も、国民党の反動勢
したがって、第三勢力の諸民主派は、中共の呼びかけに
刀を弱めて、自由主義者の指導力を強化する必要を強調
65
実は、人民政協は旧政協から発展してきたもの、旧政
動的な結論﹂を出している、と指摘している。
いいながらも白書の真実性を認めている、ただし、﹁反
の中国にたいする干渉をあからさまにしめしている﹂と
東は、﹁白書は反革命の文書であり、アメリカ帝国主義
Policy towards China︶を公表した。これを読んだ毛沢
は単に統一戦線の組織、あるいは政府の﹁顧問﹂とか、
し、代行の任務も終ってしまった。したがって人民政協
く、人民政協のすべての職権も全国人民代表大会に移行
党派の指導役を否定することを意味しているばかりでな
級﹂との字句を削除している。いわば中共以外の諸民主
前掲の人民政協の ﹁共同綱領﹂中にある﹁民主的諸階
は﹁中華人民共和国のすべての権力は、人民に属する。
農同盟を基礎とする人民々主々義国家である﹂、第二条
第一条は﹁中華人民共和国は、労働者階級が指導し、労
時憲法としての役割をついに失った。人民共和国憲法の
を制定した。したがって、人民政協の﹁共同綱領﹂は臨
全国人民代表大会が開催され、﹁中華人民共和国憲法﹂
割はまだ続いていた。しかし、一九五四年九月に第一回
さて、人民中国が成立してからも人民政協の国会の役
よかろう。
カの対中国政策の下に形成されてきたものだといっても
たものである。そうだとすれば、﹁政協﹂は戦後アメリ
は、毛・ハーリーの﹁五項目協約草案﹂から発展してき
指導的中核である﹂と明記されている。つまり、中国共
主義国家である﹂、第二条は、﹁中国共産党は中国人民の
る、労農同盟を基礎としたプロレタリア階級独裁の社会
法第一条は、﹁中華人民共和国は、労働者階級の指導す
による。ことに第二回︵一九七五年一月︶に改正された憲
しかも改正する時には、ややもすれば党の指導者の意向
憲法は四回︵一九五四、七五、七八、八二年︶改正された。
正や制定することができる。建国後四十年もたたずに、
絶対的な特権を持っておりヽ意のままに国家の憲法を改 一
法よりも高い。中共の党の全国代表大会と中央委員会は、 66
共の党の位置が、全国人民代表大会いうまでもなく、憲 一
人民中国の国家機構と国家の権力構造から見れば、中
なったのである。
﹁監督﹂とか、という機関としてのみ存続することに
人民が権力を行使する機関は、全国人民大会の決定と地
産党は、国家と人民との権力の上に置かれており、文字
協は﹁双十協定﹂から発展してきたもの、﹁双十協定﹂
方各級人民代表大会である﹂と明記されている。これは
-
五八年、東京。
イマル出版会、一九七一年。
︵2︶ 入江昭著﹃米中関係﹄︵その歴史的発展︶九七頁、サ
文出版社、北京︶。
-
通りに、一党独裁の体制となったのである。
人民政協構成の柱としての民主諸党派は、一九五七年
の反右派闘争で諸民主党派の指導者・たとえば章伯鈎・
アメリカ国務長官ディーンーアチソンからトルーマン
一頁、昭和二四年。白書は、一九四九年七月三十日に
︵3︶ 朝日新聞社訳・アメリカ国務省﹃中国白書﹄一〇〇∼
大統領に提出されたきわめて重要な外交文書である。
羅隆基ら多くが、政界から追放された。その後、人民政
協内における非中共の諸民主党派の意見は、ほぼ、中共
て、門戸開放主義、中国の行政的、領土的保全の尊重、
アチソンは、﹁米国が、対華外交政策の根本原則とし
中央の意見にしたがっている。のみならず、人民政協の
代表・委員の選出さえも中共の意向に沿って行なわれて
一貫して保持して来たし、そしてまた今なおこれを持
外国による中国侵略のI切に対する反対などの諸点を
続するものであることを、この記録︵白書を指すI筆
いる。その上、人民政協主席のポストが、終始、中共の
指導者に独占されている。
は、﹁白書は反革命の文書であり、アメリカ帝国主義
者注︶はよく示している﹂と述べているのに、毛沢東
かつて中共に批判・追放された国民党は、今や台湾李
登輝総統の指導の下に、民主・開放的政治を行なってい
この点からいうと、それは帝国主義がすでにその常軌
の中国にたいする干渉をあからさまにしめしている。
を逸したことを物語っている。勝利にかがやく偉大な
る。台湾民進党の躍進はその一例である。これに対して、
経済開放政策を唱えた鄙小平は、﹁政治﹂ の開放をどう
年八月二十八日﹁なぜ白書を討論する必要があるの
出さざるをえなくなった﹂と批判している︵一九四九
ついての若干の真実の資料を公表し、反動的な結論を
えるため、自分たちが中国人民に敵対していることに
の側、一方の派は、他方の側、他の一派の攻撃にこた
中国革命によって、アメリカ帝国主義集団内部の一方
考えているのか。人民政協の﹁長期共存・相互監督﹂の
原則をどう活して台湾に呼びかけるのか。これは、今後
注目に値するものである。
註 釈
︵4︶ 前掲白書一〇三真。
か﹂、﹃毛沢東選集﹄第四巻五八六頁、一九六九年、外
会議の任務﹂︵一九七九年六月十五日︶﹃郵小平文選﹄
︵I︶ 鄙小平﹁新たな時期における統一戦線と人民政治協商
一九七五∼一九八二、東方書店、二六三∼七頁、昭和
67
︵5︶ The Ambassador in︵いE目︵Hurley) to President
︹18︺ 前掲中国白書一六八頁。
︵23︶ 同上八三∼八頁﹁蒋介石在政治協商会議上致閉会詞﹂。
︵22︶ 同上三八∼四〇頁﹁張瀾在政治協商会上致詞﹂。
協商会議上致詞﹂。
︵21︶ 前掲国共談判文献資料選輯三五∼七頁﹁周恩来在政治
巻一九二∼五頁参照。
協商会議上致開会詞﹂、また前掲新中国資料集成第︸
︵20︶ 前掲国共談判文献資料選輯ご二∼四頁﹁蒋介石在政治
︵19︶ 同上一七二頁。
︵17︶ ︵7︶ 一三六∼七頁﹁資料二十三﹂。
‘
Roosevelt︹︵:;hungkingj 14 January 1945- [31]
M. 1。 Foreign Relations of the United States
Diploヨatic Papers 1945。 Volume M︵、りぼ﹃回MS︷
︵:hina) pp. 172 177.
政治報告﹁連合政府について﹂︵一九四五年四月二十
︵6︶ 中国共産党第七回全国代表大会における毛沢東主席の
四日︶﹃毛沢東選集﹄第三巻二九三∼四頁、一九六八
年、外文出版社、北京。
∼九頁﹁資料十三﹂、昭和三八年、東京。
︵7︶ 日本国際問題研究編﹃新中国資料集成﹄第一巻一一八
︵25︶ 同上二二八∼九頁﹁資料四十八﹂。
七﹂。
︵24︶ 前掲新中国資料集成第一巻二二七∼八頁﹁資料四十
of Harry S. Truヨan。 1955︶第二巻七一頁、生活・読
︵26︶ 前掲中国白書二六五頁。
︵8︶ ﹃杜魯門回憶録﹄︵Harry S. Truヨan: The Memoirs
書・新知三聯書店漢訳本、一九七七年。
︵27︶ 注︵10︶ 一九五∼二〇二頁。
会編﹃五星紅旗従這里升起﹄ 一四五∼八頁﹁中共中央
︵28︶ 中国人民政治協商会議会国委員会文史資料研究会委員
︵9︶ 同注︵7︶ 一一九∼二〇頁﹁資料十四﹂。
︵ 0︶ 前掲毛沢東選集第四巻五三∼八頁﹁国民党と和平交渉
1
発布的紀念。五ア労働節口号﹁二九四八年四月三
をすすめることについての中国共産党中央の通達﹂。
︵H︶ 一九四五年八月二十八日付重慶﹃中央日報﹄。
十日﹂、文史資料出版社、一九八四年、北京。
共。五回号召致毛沢東電﹂︵一九四八年五月五日︶。
︵凹一︶ 同上一四九頁﹁各民主党派与民主人士李済深等響応中
︵ 91︶ 一九四五年八月二十九日付重慶﹃新華日報﹄。
1
︵ 3︶ 中共代表団梅園新村記念館編﹃国共談判文献資料選
1
︵30︶ 同上一七四∼二〇一頁。
輯﹄四∼八頁、江蘇人民出版社、一九八〇年。
︵31︶ 前掲毛沢東選集第四巻五三三∼八頁。
0︶五九∼七〇頁。
1
︵ 4︶ 同注︵
1
ご二四∼七頁収録、重慶出版社、一九八三年、重慶。
︵33︶ 同注︵28︶三一四∼六頁。
〇頁﹁資料百三十二参照。
︵32︶ 同注︵28︶。また前新中国資料集成第二巻五七八∼八
︵ 5︶ 重慶市政協文史資料研究委員会等編﹃重慶談判紀実﹄
1
︵ 6︶ 同上二八〇∼五頁﹁中国民主同盟臨時全国代表大会官
1
言﹂ 一九四五年十月十六日。
−68−
-
︵34︶ 同注︵28︶四七九∼九一頁。
︵35︶ 前掲新中国資料集成第二巻一四八∼五二頁﹁資料二十
八﹂。
︵36︶ 前掲中国白書二九四頁。
︵37︶ 同上四八七頁。
︵38︶ 前掲毛沢東選集第四巻五八五∼九二頁﹁なぜ白書を討
論する必要かおるのか﹂。注︵3︶を参照。
69−
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