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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 『ハムレット』の視界のわるさ : 『スペインの悲劇』と比較して Author(s) 清田, 幾生 Citation 長崎大学教育学部紀要. 人文科学. vol.61, p.33-46; 2000 Issue Date 2000-06 URL http://hdl.handle.net/10069/5781 Right This document is downloaded at: 2017-03-31T11:33:51Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 長崎大学教育学部紀要 一人文科学 - N0. 61,3 3-4 6( 2 0 0 0.6) 『ハムレッ ト』の視界のわるさ - 『スペインの悲劇』と比較 して - 清 田 発 生 Low Vi si bi l i t yi nHaml et I nCompari sonwi t h TheS pani s hm・ a ge d y l k u oKI YOTA エ リザベ ス朝の演劇の隆盛は、 当時次 々に英訳 されていった、 ローマの悲劇作家セネカ の影響 を抜 きに しては考 え られない。大学では ラテン劇の講義 が古 くか ら行われていた し、 時 には大学や法学院で、学生たちがセネカを舞台化 した りしていたので、影響 は必至であ った。文化先進 国 イタ リアの古典 を模範 とす ることで、当時の イギ リスの劇作家たちは、 演劇 とい うジ ャンルに様式 と形 を与 えよう とした。なに もセネカの作品だけが模範 とされ たわけではないが、彼の作品群のセソセ イシ ョナルな内容 と修辞が、観客 をひ きつける要 素 を もっていた とい うべ きであろ う。 ロン ドンに初めてつ くられたい くつかの劇場 が、劇 作家 の更な る誕生 と、その劇作家 に、中世の演劇 とは異な った、新 しい演劇の確立 を促 し た。かれ らの幾人かは、セネカの古典 を模倣す るこ とで、自らの作風 を作 り上げていった。 セネカ風 とは、修辞の格調の高 さ と、神話 にまつわ る血 なま ぐさい話 を題材 に した五幕物 を言 う。 エ リザベ ス朝時代 にセネカの影響 を受けた、復讐悲劇 とよばれ る作品群 には、作劇上、 共通す るものがあ る。マキアベ リ的な権謀術数、刺殺 か ら毒殺 までの残酷行為、復讐者 の 決意 と実行の蓬巡、伴狂、狂気、劇中劇、亡霊、それに殺害 され る者の数の多 さな どであ る。 それに、時 には 『ハム レッ ト』 に見 られ るような、近親相姦や、 ど くろの趣味、な ど も加わ る。当時、復讐悲劇 が流行 した背景 には、時代の噂好 もあ ったであ ろう。す ぐれた 劇作家 たちが、そ うい う道具立てで、す ぐれた復讐劇 を残 した。『ハム レ ッ ト』の成立事 情 は、 この ような コンヴ ェンシ ョンを背景 に している。 その コンヴ ェンシ ョンの頂点 をな す傑作 とな るものが、『ハ ム レ ッ ト』 よ り約十年前 に書 かれた と推定 され る、 トマ ス ・キ ッ ドの 『スペ インの悲劇』 であ る。 シ ェイクスピアは 『ハ ム レッ ト』 を書 くに当た って、 復讐悲劇の原型 とも言 うべ き、キ ッ ドの この先行作品 をかな り意識せざ るを得なかったで あろう。 すでにさまざまな出典、種本が想像 されているものの、残存は していない 『原ハム レッ ト』 は、 キ ッ ドの手 に よるもの とも、 シ ェイクス ピア作 とも言 われてい る。 ( 1 )いずれ に 3 4 清 田 発 生 しろ、シ ェイクスピアが 『 原ハム レット』を どの ように改作 して、今我 々が見 るような 『ハ ム レッ ト』 を仕上げたか、その詳細 は判 らない。ただ同 じ復讐悲劇 とは言 って も、『スペ インの悲劇』 を成立 させている±ソヴ ェソシ ョナルな条件 とい うか、いや復讐劇の伝統 と もなっているものの在 り方 を、シ ェイクスピアが異なる方向へ向けて作品創造 を 目指 した であろうことは、想像で きる。従来の手法で劇作晶を造 ってい くことに、 シェイクスピア が満足 しなかった、 とい うより、彼の創造力が、 コンヴ ェンシ ョンの束縛のなかに収 ま り きらない ところがあ った、 と言 った方が よい。新機軸 と言 って も、『 ハム レッ ト』は、あ くまで復讐劇の伝統の枠内で造 られた ことは忘れないでお こう。彼はそれを受け継 ぎなが ら、実験的な手法をふ くめて、旧い話 とその形式 に、新 しい表現 を盛 り込んだのである。 以下、『スペ インの悲劇』 と、『 ハム レッ ト』の一部 を比較 して、その両者の相違点が何 を 意味 しているかを考 えることにする。 ( -) 先ず、印象批評的な表現をする と,『スペ インの悲劇』 に比べて、『 ハム レッ ト』の特徴 は、劇全体をおおう酸味 さ ( 多義性)である。酸味 さ といって も、台詞 に使用 された表現 の不可解 さか ら、人物像や状況の酸味 さまでいろいろ と挙げ られる。台詞の正確な意味が 今では不明になっているところは別 に して も、性格造型の不整合性や、台詞間の矛盾点な どはす ぐ目に付 くところである。 その酸味 さも、書誌学的な異種本間の触齢の外 に、 もと をた どれば 『 原ハム レッ ト』の背後 に、ベルフ ォレの 『アム レ物語』、その粉本 と思われ るデンマー クの 『サ クソ ・グラマテ イクス』な ど、表 に見えない作品の奥には、伝東や古 い民話が層 をな して重なっている ところにも由来する。シ ェイクスピアが この作品を完成 した時代 においては、少な くとも登場人物やプロッ トの幾分かが、すでに人 々に知 られて いたであろう。 当時は 自然な ことと思われていた人間の振舞いや状況が、いまではその成 り立ちの意味を失 って しまい、現代人には不可解 と思われる点 も多いのである。 しか しここでは、この作品においては、主題 とプロ ットか ら眺めるパースペ グテ イヴが、 観客や読者 に とって、先の方 までなかなか見通せない点 に注 目しよう。 それは、爽雑物の 多い 『ハム レット』 における、視界のわるさ とで も言お うか。復讐 とい うアクシ ョンの主 題 か ら話が逸脱 して、一見 した ところ、関連性の薄い、枝葉の多いエピソー ドが、積み重 ね られてい くのである。 しか も、エピソー ド間の因果関係がはっきりしない場合 もある。 た とえば、宰相ポロニアスの言動である。彼は若い頃芝居 に熱中 した ことを、なぜハム レ ッ トに語 らねばな らないのか。彼は海外留学 をす る息子に判 らない ように、別人にその生 活振 りを探 らせ るが、それ と、道化 じみたかれの滑稽な性格は、 どう結び付 くのか。台詞 か ら判断で きる人物像が、 観客には筋の通 るもの としては映 らないこともしば しばである。 主題か ら逸れた ような脇筋の集横 を見 る結果、観客や読者はアクシ ョンの方向を見失 うこ とがある。後 になって、黄み重ね られたエピソー ドの個 々の意味が、間接的におぼろげな が ら主題 と関連があ ることが感 じられる とい う仕組みである。 H ・ジ ェソキンズは、『ハム レ ッ ト』の筋の展開は、独 白や会話、脱線的な挿話な どが あって も、ゆっ くりとした、院想的な進度であ り、作者は しっか りとプロ ッ トの糸を把握 してい る とい う趣 旨を述べている。(2) た しかにそれには間違 いないが、連 な言 い方 をす 『 ハムレット』の視界のわるさ 35 る と、それでは大筋 か ら一見逸脱 したエピソー ドの存在は何 を意味す るか、 とい うこ とを を考 えさせ るのであ る。 それ に対 して 『スペ インの悲劇』 の方 は、 もちろん唆味 な ところはあ るに しろ、『ハム レッ ト』 に比べた ら、はるかに復讐のア クシ ョンが明確 な軌跡 を描 いて見せ る。 因果律が は っき りしているのであ る。 それだけに観客 には、筋 の流れが分 か りやすい。 それは作者 キ ッ ドが、 この作品に劇 中劇 を使用 したその技巧の鮮 やかさに もよる。構造の点 か らいち ばん顕著 な こ とは、作品全体が ロシア人形 の ように、入れ子構造 になっていることであ る。 復讐 とい う主題の中で、加害者 と被害者 が、大小の劇中劇の連鎖のなかにおかれてい る。入 れ子のいちばんの外枠 は、 コー ラス役のアン ドレアの亡霊 と、復讐 の霊が、黄泉の国か ら 現世 に戻 って きて、生前 に 自分 と関わ りのあ った者 たちの、その後 の生 きざま、死 にざま を眺め る とい う形 を とっている。アン ドレアの亡霊 は、現世 の人物 とは怨恨の連鎖 におか れてい る。 この世 では血生臭 い成 り行 きが繰 り広げ られ、それに対 して、アン ドレアの亡 霊 と復讐 の霊は、各幕 の最後 に、 コメン トを下す。成 り行 き とは、 この劇の主人公であ る ヒエ ロニモが、最愛 の息子ホ レイシ ョーを惨殺 されて、報復のために、 自作の余興の芝居 を利用 して、息子の加害者 たちすべてを死 に至 らしめ る とい う筋 である。 その余興の劇中 劇が、入れ子のいちばん内側 にあ るもので、それをヒエロニモは 自作 自演す るが、その内 容は、殺人の報復のために、加害者 を刺殺す る とい う残酷な復讐劇 である。入れ子構造の 一番 内側 にあ る虚構の劇中劇が、外側の現実の次元 と、亡霊のい る次元の世界 を、逆 に照 射 していることにな る。 劇中劇 とは、基本的 には舞台上 に繰 り広げ られ る作 り物 の虚構 の中に、 また違 った次元 の虚構 を挿入す るこ とであ る。観客 か ら眺め る と、 この二者の関係が、劇的ア イロニーを 生み出す。 キ ッ ドは大小 さまざまな劇 中劇 の手法 を用 いて、『スペ インの悲劇』 を凍 った もの している。『ハ ム レ ッ ト』 では、主人公 が これを意識的 に利用 して、犯罪者 の確認の 手がか りに しよう としている。なに もこの二作 に限 った こ とではない。 エ リザベス朝の演 劇では、舞台の上 に多次元の層 をつ くる技法は、頻繁 に用 い られている。 これはそれだけ 劇作家 が演劇空間の構造 に意識的 にな った とい うことであろ う。 ところでキ ッ ドが 『スペ インの悲劇』の中に候 め込み、 ヒエロニモ に復讐 を果たさせた 『ソ リモン とパーセダ』 と い う劇 中劇では、劇的ア イロニーは成立 しないo ヒエロニモが宮廷の余興で、劇作家 とな って、息子殺 しの策謀家 ロレンゾ一味 に、 自作の台詞の メモを渡 しなが ら、各人に役割 を 割振 ってい く詳 しいい きさつを、た しかに観客は見ている。彼 が余興芝居の中の人殺 しの 役 をや ることも、観客は知 らされている。 しか し彼 が虚構の殺人 をそのまま現実の人殺 し にす る とは、観客は前 もって教 え られてはいないか らであ る。 もっ とも、余興芝居が始 ま る前 の独 自で、彼 は復讐の決行表 明を しているので、前 もって観客はそ うな るだろうとは 感づいてはいるけれ ども。 『ハ ム レッ ト』を含む、キ ッ ド風の復讐悲劇の展開には、三段階があ る。「序 」「破 」「急」 の三段階の形 で見てい くと、 まず第- に、犯罪の提示であ り、 これが観客 には強烈 な感情 的シ ョックを与 え、後 に行われ る復讐の原田 とな るものであ る。『スペ インの悲劇』では、 ヒエ ロニモの息子の殺害であ り、 これは観客の見ている ところで行われ る。『ハム レッ ト』 では、劇 が始 ま る前 に、犯行はすでに行なわれてお り、観客は父の亡霊が語 る話でその経 緯 を知 るこ とにな る。第二の段階は、犯罪者の探索あ るいは、確認 である。 ヒエロニモほ 3 6 清 田 幾 生 息子殺 しの犯人探索 に時間をかけ る。息子の恋人であ ったペルーイソペ リアの手紙は、真 犯人が誰であ るかを告げるが、彼 には確信が持てない。ハム レッ トの方は、亡霊 が告げた ように、現国王が真犯人であ るか どうか、その確証 を掴みたがる。主人公は両者 とも間接 的に教 えられた事実 に、疑いの気持ちを抱 くのである。二人 とも犯罪者確認 に計画や策略 をめ ぐらすが、 ヒエロニモは国王に近づ くことを、犯罪者 ロレンゾに邪魔 され、ハム レッ トの 「ねずみ取 り」は、逆 にクローデ ィアスの疑惑 を招 く。その間復讐者は、相手の反撃 をは ぐらか し、あるいは油断 させるために、 メン タルな手段 を講 じる。ハム レッ トは狂気 を装い、 ヒエロニモは狂気 と正気を装 う。 復讐劇の最後の段階は、復讐劇につ きものの、急転であ る。犯罪者の逆襲、反撃が伴 な うが、報復は成功す る。そ して、復讐者は被復讐者 と共 に、倒れる。 この とき復讐者は ど の ような理 由があれ、殺人 とい う犯罪を犯 した こ とにな る。 ( 二) 復讐悲劇の主人公がた どる道 には共通の劇的過程 があ る。愛す る者が不当な殺 され方 を するので、取 り残 された者は、激烈 な怒 りと苦悶を通 して、敵討ちを決意する。宗教的 に は復讐は勿論許 されていない。それは当然 なが ら、神の裁 きにゆだねるべ きものであ る。 ロマ書 に言 う、「 復讐す るは我 に在 り」 であ る。 エ リザベス朝では、国事 に関す る犯罪 の 報復の解決は、当然国王の手 に任 されていた。更に当時は、私的復讐者 を厳 し く処罰す る 法律 があった。復讐劇の観客は、当然その こ とを知 っていたであろう。 しか しそれに もか かわ らず、当時の教会や説教師が、説教壇 か ら、あるいは文書で、復讐禁止を訴 えること が しば しばであった (3)ところを見 る と、報復行為が現実 には頻発 していた こ とが想像 で きる。復讐劇の人気は、残酷 と流血、あ るいはタブーを冒す こ とへの喜びにも支 えられて いたであろ う。あるいは、法 に頼 らずに私怨を晴 らす行為への共感 もあ ったであろう。 し か し、表向 きには、報復 とは言 え、殺人を犯す復讐者の正 当性はあ くまで も否定 されるべ きものであ り、特 に 『スペ インの悲劇』の ように、過剰 な報復のあ り方が舞台上 に現出す る と、観客に とっては、反感 と共感の交錯する、複雑な感情 と恐怖心を起 こしたであろ う。 『スペ インの悲劇』では、ヴ ィラソであるロレンゾが、恋人 と逢引 している最 中のホ レ イシ ョーを急襲す る。彼をあずまやに吊るした上 に、手下 と共 に、剣で刺す とい う残忍 な 手 口である。その ときの殺人者 ロレンゾの台詞 には、陰惨 な悪意の しゃれがあ る。 Al t ho ughhi sl i f ewe r es t i l la mbi t i o uspr o ud, Ye ti shea tt hehi he g s tno whei sde ad.( 2 -4,6 0 11 ) 「こ奴は生 きている ときはいつ も、高い位 につ こう と野心を燃 や していたが、死んだ今 が、いちばん高い ところにいるじゃないか」とロレンゾほぶ ら下 った死体を見上 げて うそ ぶ く。 ヒエロニモの息子ホ レイシ ョーは前途有望な若者 であった。ポル トガル との戦争で は、 ロレンゾ と勲功 を争 っている。 しか し、 ロレンゾは国王の甥であ り、高貴な身分 に属 す る。 ヒエロニモは、宮廷付 きの司法官であるが、王族 ではない。 ロレンゾの台詞は、社 会階層の差異 に、露骨なばか りに言及 している。 この ことは、 ヒエロニモの悲劇を、デソ 『 ハムレット』の視界のわるさ 37 マー クの王子ハム レ ッ トのそれ と比較 す るさいに、重要 な意味 を帯び ることにな る。なに も身分の違 いが悲劇の質 を決定す るわけではない。 しか し 「貴人の没落」が、悲劇の条件 の基本であ った こ とを考 える と、作者側 に とってほ、当然なが ら扱 う人物の性格造型 に も 異な った表現が用 い られ るのであ る。 ヒエ ロニモが夜 中に息子の無残 な死体 を発見 して、悲嘆 に くれ る台詞 は、他の人物たち にはない、独特の身振 りの大 きい語調 と、誇張 された修辞 に貫 かれている。それは作者が 主人公 に一 つの表現形式 を採用 させた ことを意味す る。 Ia mt hyf a t he r .Whoha t hs l ai nmys o n? Wha ts a va gemo ns t e r ,noto fhuma nki nd, Ha t hhe r ebe e ngl ut t e dwi t ht hyha ml e s sbl o od, Andl e f tt hybl oodyc or ps edi s ho no ur ' dhe r e, Fo rmea mi ds tt hi sda r kandde a t hf uls ha de s Todr o wnt he ewi t ha noc e a no fmyt e a r s ? 8 -2 4 ) Ohe a ve ns ,whymadeyo uni ghtt oc o ve rs i n?(Ⅱ-Ⅴ,1 マキアヴ ェリ的な殺人者の側は、人殺 しとは、ただの殺人であ り、邪魔者 を排 除す る策 謀の結果 に しか過 ぎないが、 ヒエロニモ に とっては、個人の不幸以上の ものであ る。 ここ か ら彼は、悲劇の台詞 の原型 とも言 うべ き、誇大な修辞の様式 を伴 った詠 嘆表現 に入 って い く。 あ とで述べ るように、『ハ ム レッ ト』 の レアテ ィーズが、オフ ィー リアの死 を知 っ て、墓場の場面 で号泣す る ときの、大げ さな表現法 と共通す るものがある。ヒエ ロニモは、 天 に正義 と助けを乞 い、絶望 しては 自殺 を考 える。思 い とどまっては、犯人を突 きとめ る ために、地獄 にまで呼びかけ るのであ る。誇大な言 いまわ しは、復讐 を志 向す る、彼の内 面の儀式 と言 って もよい。文体の トーンは違 うが、ハム レッ トも母親 を難話 しに行 くにあ た って、「今 こそ墓 が 口を開 き、地鉄 が この世 に毒気 を吐 きかけ る時。昼間な ら見 るさえ 3 -2,4 07 -41 0) と、地鉄 とい う語 を 口にす る。 これ も 傑 え る所業 を、や ってのけ よう」 ( 一 つの儀式的なま じないであ る。 ここで 『スペ インの悲劇』の台詞 の文体 について言 うと、ヴ ィランの ロレンゾの ものは、 マキアヴ ェリアソ らし く、情緒のない意志的で機械的 な調子、バルサザ-の ものは、ポル トガルの王子 らし く、少 し優雅 な 口調、そ してヒエ ロニモの ものは、情念が誇張 された文 体、 といった ように、作者 は書 き分 けている。た とえば ヒエロニモ は息子の惨殺 された遺 体 を発見 した ときは、 その嘆 きを次の ように述べ る。 Owo r l d,nowor l d,butmas so fpubl i cwr ongs , Co nf us ' da ndf i l l ' dwi t hmur de ra ndmi s de e ds ; Os a c r e dhe a ve ns !i ft hi sunhal l o w' dde e d, I ft hi si nhuma na ndba r ba r o usa t t e mpt , I ft hi si nc o mpa r a bl emur de rt hus Ofmi ne,butno wnomor emys o n, Sha l lunr e ve a l ' da ndunr eve ngedpas s, 3 8 清 田 幾 生 Ho ws ho ul dwet e r m yo urde a l i ngst obej us t , I fyo uun j us t l yde a lwi t ht ho s et ha ti nyo urj us t i c et ms t ?(Ⅲ-i i,3 -l l ) この台詞 の、論法 を考 えてみ る と、三行 目か らは、天 に向かって、「もし息子の不運が 報復 もな されずに、その まま顧み られない状態 な らば、」 と呼びかけ、天の配剤の不当性 を訴 えている。最初の二行は、個人の不幸か ら出発 した激情が、一挙にあふれ出て、個人 内面の境界 を越 えて、世界一般の悪、普遍的 な悪 にまで対象が広が っている。「おお、世 界 よ、いや世界ではない、む き出 しの悪のかたま りよ、殺人 と数 々の犯罪に満ちた、乱れ た場所 よ!」ヒエロニモ 自身がスペ イン宮廷付 きの司法官であ り、 日ごろか ら犯罪の訴状 私的怨念が異常 に拡大 されていることが判 る。 の処理 に追われていることを差 し引いて も、 しか しこの作品の中で描 かれている 「 悪」は、スペ インの宮廷 に関わる者たちの ご く一部 で しかない。国王の甥 ロレンゾ と、その手下の凶行であ り、ポル トガルの王子バルサザたちの陰謀であるに しか過 ぎないのである。ホ レイシ ョーが この世 か らいな くな って も、 スペ イン宮廷や国家 には別 に何の変化 もない。『ハム レッ ト』の場合 は、主人公が王子の 身分であ るので、現国王 クローデ ィアスの過去の犯罪 を追求することは、その影響が国家 的な広が りを もつ可能性があった。 ヒエロニモはスペ イン宮廷で重 きを置かれる司法官で あるといって も、王族ではないので、彼の動向が天下国家の運命を左右するこ とはない。 「 花の盛 りを前 に、むご く摘み取 られたバ ラ、だま し討ちにあ った息子」の非業の死を 嘆 くヒエ ロニモは、「言葉 も涙 に邪魔 されて」 と言 いなが ら、その悲憤 と呪訳 を朗 々とし た調子で、格調高 く詣 いあげ る。キ ッドに強い影響 を与 えたセネカの悲劇は、 もともと俳 優が舞台の上で演技や しく ・さ と共に上演するものではな く、朗葡す るための、あ るいは読 書用の レーゼ ドラマである。当然なが ら、キ ッ ドのフランク ・ヴ ァ-スには、必ず しも彼 の独創ではない言葉の断片や、用法が入 り込んで くる。特 に誇張 された修辞の用法 に、そ れが見 られ る と言われている。過去の作家の文言を借用するこ とについては、シ ェイクス ピア ももちろん例外ではない。エ リザベ ス朝の劇作家たちは、ルネサンス以前か らの伝統 の積み重 ねの中に、生 きている。『スペ インの悲劇』の文体 には、対句法な どの、 ′修辞的 な対照が多用 されていることは、セネカの影響 として、以前か ら指摘 されている ところで ある。 さらにこれに加 えて、言語表現の様式化 と図形的な要素、抽象的な線描美を強調す る研究家がいる。Ma q ue r l o tによると、それは作品の安定 と永続性 を求める一種の秩序願 望の芸術的表現 とい うことになる。(4) ( ≡) 復讐決行 を堅 く決心す るまでの、 ヒエロニモのいわば心の旅路は、彼 にさまざまの役割 を背負わせ る。天に正義の裁 きを訴 えて も、地獄 に復讐 を頼んで も、応 えはむな しいばか りである。職業柄、真犯人がわか らない以上、法の裁 きには限界があることは、彼 に もよ く判 っている。絶望か らの 自殺 に思いをめ く ・らし、また、復讐を口走 り、それが出来ない 自分 を責め、狂気を装 ってみた りする。 内面の葛藤 を独特の修辞 にのせて、繰 り返 しデク ラメイシ ョソを行 う(5) ヒエロニモ には、一人の人間像 として、整合性 の欠けた、矛盾す る言葉 も出て くる。逆 に言 えば、それだけ精神の錯乱 が嵩 じている と見 ることもで きる。 『ハム レッ ト』の視界のわ るさ 3 9 ヒエロニモ とは違 って、妻の イザベ ラは、天の正義 を期待す る、と言 う。その妻 に対 して、 ヒエロニモは 「犯人がわかれば悲 しみ も休 まる。復讐 がで きれば、心 も楽 になる」 と言 う。 更 に妻 に対 しては、嘆 くのはやめて、それを押 し隠す こ とで、息子 を死に追 いや った、姦 計 と悪企みを暴 くこ とがで きる と言 う。 復讐悲劇の常道 で、被害者は、復讐 の誓 いの後の 第一歩は、真犯人 を突 きとめ るまで、苦悩 と悲哀 を他人の 目か ら隠す こ とである。ハム レ ッ トの場合は、真意 を他人に悟 られぬための伴狂であ るが、 ヒエロニモは胸 に重 くの しか か る、狂わんばか りの胸の悲痛 と苦悩 を他人 に見せず、正気 を装 うことであ る。 しか しこ の方法だけでは彼 に何の情報 ももた らさない。犯人が判 明 した後 で、苦悩 をへて、国王 に 直訴 しようとす る彼の 目論 みは、 ロレンゾの邪魔立てで、あ っさ り潰 されて しまう。 それ どころか、復讐の実行 を遅延 させている自分 自身に対す る自責の念 と欲求不満 が募 るばか りであ る。心理的圧迫で、忍耐の限界 にあ る彼 を次 に襲 うのは、狂気であ る。 司法官であ る彼 に、裁判の訴状 を もって きた一市民の老人 を、死んだ息子 と間違 える。 この場面は、 鬼気迫 る ものがあ る。 復讐悲劇の作者 は、主人公の復讐決行の遅延 を巧みに措 くことが腕の見せ所 であ る。 そ の さい必ず描 かねばな らない ものは、主人公が発す る復讐 を誓 う言葉 と、それを直 ぐ行動 に移 す ことで きない無力さに悩む姿 であ る。 とりわけヒエ ロニモの場合は、 自分・ の 口か ら 溢 れ出す過剰 な言語 に、行動の伴 わないむな しさを感 じる意識 であ る Butwhe r e f or ewas t eImi neunf mi t f ulwor ds , Whe nna ug h tbutbl oodwi l ls a t i s y mywos f ? Ⅲ一佃,67 16 8) e( 言語 と行為の蔀離 とい うテーマは、『ハ ム レ ッ ト』の主人公の意識 のなかで、 もっ と大 き く取 り扱 われている問題である。しか しヒエ ロニモの方 は、この状況 か ら早 く立ち直 る。 復讐 をす ることは、犯罪者 にな るこ とであ り、それには行為者 は当然ただではすまない覚 悟 が必要 であ る こ とを 自覚す る。 セネ カの文 を引用 して、彼 は、「安全 に罪 を犯 す道 は、 罪 を更に重ね るこ と」 と言 う。取 り乱 した様子 を、国王 に哀れ まれるだけで、取 り合 って もらえないヒエロニモ は、息子の殺人 に正義の裁 きを、 といった言葉 を声高 に叫ぶのでは な くて、「む き出 しの、災いを招 くようなや り方 は とるまい。秘密の、だが確実 な方法 を 選ぼ う。 それを愛想の よさ とい うマン トで くるもう」 と、 じっ くり時 を待 つのである。 つ ま り、今度は感情 をむ きだ Lに露 わにす るこ とをやめて、演技 で平静 さを装 うのであ る。 ここか ら、復讐 を遂げ るのに芝居 を利用する道 が開けて くる。ハム レッ トが復讐の手段 と して狂気 を装 うの とは逆 に、 ヒエ ロニモは狂気寸前 の精神状態 を、忍耐 力で正気 に見せか け、「落 ち着 かないままに落ち着いてい よう」 と、 うす うす犯人だ と感付 いてい る 「奴 ら」 の油断 を待 つ。三幕十四場以降、 ヒエロニモはバルサザ-、 ロ レンゾやその父 カステ ィー ル公爵 な どと出会 って も、憎悪心 を表 に出さずに、 に こやかな愛想の よさで、応対で きる のであ る.欺鮪の和解 であ る。 自分 自身 とは違 った人間になること、演技、芝居 をす るこ とは、そのまま、最後 の復讐決行の余興芝居 につなが っている。言 いかえる と、演技 とい う隠れ蓑 をかぶ って、彼 は初めて悩 む こ とな く、行為 に突 き進 む こ とがで きるこ とになる。 演技 あ るいは芝居 は、 ヒエ ロニモ に とって、儀式 なのであ る。 この計画殺人ではペルーイ ソペ リア と共謀 してい るこ とは言 うまで もない。ただ、役 に扮 した彼女が、役の まま本当 4 0 清 田 幾 生 にバルサザ-を殺 して、 自害 まで して しま うのは、彼の計算外だった ことである。彼は、 芝居 の酉己役 を決 め る ときに、「人殺 しの役 は私がや ります、大丈夫 です」 と言 って、 さ ら に、「たって もうそれは、頭 に描 いてあ りますか らね」 と言 う。 Ⅰ ' l lpl a yt hemur de r e r ,Iwa r r a ntyo u, Fo rla l r e a dyha vec o nc e i t e dt ha t .(Ⅳ-i,1 3 3 -1 3 4 ) 頭 に描いている 「それ」 とは、殺す役をす ることと、本当に殺す こ との両義である。 さ らに、後の独 自では、彼は 自分 自身に対 して、 こう呼びかける。 Be ho ve st he et he n,Hi e r o ni mo,t ober e ve ng' d: Thepl o ti sl a i do fdi r er e ve nge: Ont he n,Hi e r o ni mo,pur s uer e ve nge, Forno t hi ngwa nt sbuta c t i ngo fr e ve nge.(Ⅳ-i i i ,2 7 -3 0 ) 虚構の殺人劇 を利用 して、そのまま余興の席で、現実の殺人を し遂げ ようとするヒエロ l o t 'が 「芝居の筋」の ことか、密 かに胸 に抱 く 「策略」の こ となの ニモの台詞では、 p̀ か、作者は虚構 と現実の怪 し く交 じりあ う世界を提 出 している。言 うまで もな く、最後の 行の à c t i ngo fr e ve nge' も、「復讐 の演技」 と 「復讐の実行」 との両義 に懸けた用語 で ある。言葉 と行為の分裂 に悩 んでいたヒエロニモに とっては、演技 とい う仮面の儀式 を通 して、 ここに両者が矛盾す ることな く一致 し、分裂が終 ることの予兆 となっているのであ る。それに比べ ると、 .同 じように言葉 と行為 の分裂 に苦悩するハム レッ トは、 どうだ った であろうか。デンマー クの王子 には、 この ような幸せな瞬間は訪れない。 ( 四) エ リザベス朝の、シ ェイクスピア以前の劇作家たちは、中世劇の遺産 を受け継いだが、 まずは 自国の演劇を大陸並みに向上 させ る必要 に迫 られていた。ルネサンス後発国の運命 である。外国、特 にイタ リアの古典演劇 を師 として、演劇 をモ ラルや美や娯楽の総合芸術 として、崇高な- ジャンル に高めねばな らない。 ヒエロニモは、復讐 のための例の余興芝 居 について、めでたい席だか ら、喜劇の方がいい、とい うバルサザ-の提案を断 って、「 劇 作家兼俳優」 として、「 王たちに見せ るのだか ら、堂 々た る文体の悲劇 でなければ」 と強 引に自分の説 を押 し通す。 この 「 堂 々た る文体の悲劇」 とい うことは、作者キ ッ ドの頭の なかでは、演劇の模範的な姿 としてあ ったであろう。 キ ッドがお こな った ことは、表現の スタイル として、修辞上の形式 を確立す ることであ った。そ して、シ ェイクスピアが 『 ハ ム レッ ト』 を書 くころには、『スペ インの悲劇』 が復讐悲劇の原型 として、すでに存在 し ていたのである。それはシ ェイクスピアに とって、マ一口ウの作品 と共 に、作劇の コンヴ ェンシ ョンのなかに数 えられていたのである。すでに 『タイタス ・アン ドロニカス』で、 復讐悲劇 を一度試 している。『 ハ ム レッ ト』 を造 る ときに も、シ ェイクスピアは 『スペ イ ンの悲劇』 を意識せざるを得なかったはずである。 は っきりしないが、推定 されている完 『ハム レ ッ ト』の視界の わ るさ 41 成年代 では、先行作品 『スペ インの悲劇』 と、『ハム レッ ト』の差 は、十数年 であろ う。 伝統や コンヴ ェンシ ョンを束縛 と感 じる劇作家 もいるであろ う。だか らとい って、その 手法 に大改革 をお こな えば、客 を失 う恐 れがあ る。『ハム レ ッ ト』 は、伝統 や コンヴ ェン シ ョン とい う大枠 のなかで、 復讐劇のあ り方 を変 えるものであ った こ とは明 らかであろう。 新機軸 を打ち出す とは言 って も、知的な観客 もいれば、大衆 もいる。両方 に芝居小量 に来 て もらって、満足 させねばな らない。 シ ェイクスピアがや った ことは、旧い話 に新 しい形 式の表 現 をあたえるこ とであ った。 『ハム レ ッ ト』 の酸味 さの幾部 分 かは、作者 が従来の コンベンシ ョンを崩 した こ とに見 られ るであろ う。それは 『スペ インの悲劇』 に見 られ る ような、ア クシ ョンが復讐 とい う主題 にそ って、遠近法の法則 によ り明確 に動 くのではな く、ア クシ ョンが、主題の色調 を失 って、拡散 して しまい、断片の細部 が主題 とは別な方 向を主張す るこ とであ る。前述 した ように、シ ェイクスピアは主題 をプロ ッ トの責任 にす べて背負わせずに、軸 をはず して、 さまざまな脇筋 に 自己主張 させている。互 いに関連性 のない ような脇筋の挿話が とりとめ もな く並べ られ る とい う感 じである。主題 の 目的の終 点 に うま く達す るために、直線的 に向か うのではな く、ゆ らゆ らと迂回 して進 むや り方で あ る。『ハム レッ ト』のなかでは、奇 し くも、ポ ロニアスが語 る台詞 に、 この技法 に類似 した方法 が見 られ る。彼 は海外 に留学す るレアテ ィーズの動 向を探 るために、密 かに監視 者 を放 つ。 その息子の スパ イ役 に、ポ ロニアスは言 う。 Yo urba i to ff a l s e hoo dt a kest hi sc a r poft mt h: Andt husdoweo fwi s do ma ndo fr e a c h, Wi t hwi ndl a s s e sa ndwi t ha s s a yso fbi a s , Byi ndi r e c t i o nsf i nddi r e c t i onso ut .(Ⅱ-i,6 3 -66) ポ ロニアスがスパ イ役 に命 じた、「遠 まわ しに、間接的 に攻 めて、直接の 目的 を見つけ 出す こ と」 とい うや り方、 これが、シ ェイクスピアが 『ハ ム レッ ト』の構造 に採用 してい る手法であろ う。 ア クシ ョンの性急な展開ではな く、摸め手 か ら脇筋 における細部 を リア ル に描 くのであ る。一見作者 は遊 んでいるように も見え る。 目的である終局の復讐 に至 る 過程 を時間軸 に沿 って段階的 に措 いてい くのではな く、逸脱 した筋のヴ ァリエ イシ ョソを、 観客 が復讐悲劇 の 目的、方 向を見失 うほ どに、列挙す る。 もともとイタ リア美術史の用語 であ る 「マニエ リスム」 は、盛期ルネサンスの理想を体 現 している絵画の法則 か ら、はみ出 した もの について述べ るものであ る。 この用語 を、酸 味 なまま文学作品に も適用す るこ とについては、穀誉褒鮭 の扱 いを受けている。マニエ リ スムは、作品の もた らす感動の根拠の説 明にはな らないが、作品の意図や構造 を理解す る 上 では効果的であろ う。伝統的な習慣や因習 とな ってい る手法や理念 に飽 き足 らず、法則 か ら逸脱 した り、法則の どこかに、歪みやね じれをつ くるこ と、 もしこの程度の意味合 い な らば、『ハ ム レ ッ ト』 に もそれは当てはまるこ とであ る。 ただ し、その さい、た とえば キ ッドの 『スペ インの悲劇』 の ような作品 をコンヴ ェンシ ョン と見立てた場合であ る。 シ ェイクスピアは復讐悲劇 の先行作品 として、『スペ インの悲劇』の もつ様式的な均整 とは 逆の方向にむか うのであ る。 『ハム レ ッ ト』では、主題 か ら逸脱 したエピソー ドや、拡散 した脇筋のなかで、主人公 4 2 清 田 幾 生 が他者 と出会い、発言するその回数 と人数の多 さにも注 目して よかろう。それはヒエロニ モの場合をはるかに凌いでいる。ハム レッ トは、下 々の人達、た とえば旋役者、墓掘 りの ような人達 とも親 しげに言葉 を交わす。下情 に通 じていることがまた、『スペ インの悲劇』 の主人公 と違 って、観客に主人公 に対する親近感を抱かせ るものに している。マニエ リス ムの特徴の一 つに、遊びの感覚がある。主題か ら逸脱 して、遊戯すること、 これはハム レ ッ トが族役者たち と、当今の芝居談義をする場面 にも感 じられる。 この場の話題は、劇の テーマ と全 く関係ないわけではないが、 ここでシ ェイクスピアは、 かな りの程度、遊んで いる。 この ように、舞台上でハム レッ トが置かれる状況の多 さで、彼は多様な人間性 を見 せ ることになる。作者はマニエ リスム的な手法 によって、ハム レッ トの性格造型 に幅 と奥 行 きをあたえる余裕 を得ているのである。シ ェイクスピアは これまでの演劇 になかった、 主人公の内面の深化の可能性をそ こに見出 している と言 って よかろう0 ( 五) ここで、 ヒエロニモ とハム レッ トの内面の違 いに少 し目をむけてみ よう。ハム レッ トに とって、父の復讐 は単 に現国王 を殺害 し、母 を改心 させ ることに止 ま らず、「この世 を改 めるべ く生 まれて きた とは !」と亡霊の命令が重荷 になるほ どの社会的、政治的意味まで もつ。 したがって、ハム レッ トの情念は、恋愛 もふ くめた多 くの問題に拡散 してい く。 そ れに比べてヒエロニモの迷いは、 もっ と単純である。彼の復讐の根源は、かけがえのない 愛情の根拠 を奪われた父性愛である。た しかに世界に対する怨恨、悲憤 をさけぶけれ ども、 一国の王族であるハム レッ トが、デンマークの運命を左右する状況を頭 においている事 と は違 って、絶望か らこの世 を呪 う文句 を吐いて も、あるいは名誉が掛かっていることを口 には して も、あ くまで もそれは家族 を失 った強烈な怨恨である。ヒエロニモは、その怨念、 遺恨の集中度で観客を引 きずってい くのである。彼が 自殺 をを考 える ときは二度あるが ( 二 幕五場 と、三幕十二場)、その時 ヒエロニモの頭 に浮 かぶ二者択一の問題 とは、思い きっ て国王に直訴 して、正 しい裁 きを して もらうか、あるいは、剣や縄で 自ら命を絶つか とい うものである。 一方ハム レッ トはその厭世的な独 自で、生 と死を二者択一の形で考 える。 しか も、その ときの選択の基準は、 whe t he r ' t i sno bl e ri nt hemi nd- (Ⅲ-i,5 7 ) とい う台詞 に見 られるように、生 き方の立派 さ、つま りいずれかを選ぶに当たっての、 意識的精神の高貴性を問題 に している。 ここがヒエロニモに見 られない点である。ハム レ ッ トの思考 と院想は、人間の内面、精神活動、理性や感性、分別、意志、理知、勇断 と怯 惰 な どか ら社会的に、国家、世間、 さらには神、天国 と地獄 と広がるのである.知性の も た らす二元論 に引 き裂かれて苦悶する彼の姿が、演劇 としてほ、 コンヴ ェンシ ョンにない 全 く新 しい ものなのである。 ヒエロニモほ息子 を奪われて、それに対 して何の手立て も打 てない欲求不満の父親であ り、その悲哀が彼 を非人間性 と狂気 に追いや るが、ハム レッ ト の方は、同 じように復讐の決意は していて も、深刻な間額 に直面 していて も、倫理観 と精 『ハム レッ ト』の視界のわ るさ 43 神的バ ランスは喪失 していない。 この こ とは、両者の違 い として記憶 して よいであろ う。 『ハム レ ッ ト』が単な る復讐劇 を超 えてい る所 であ る。 『スペ インの悲劇』では主人公は、策略 として、伴狂 をみせ るが、それはご くわずかな 時 間 で あ り、 悲 哀 の 強 さ か らや が て 本 物 の 狂 気 が 一 時 的 に訪 れ る。 ハ ム レ ッ トは 、 そ れ に 比べて、狂気 とは、術策 として選 んだ役割演技の世界であ る。誰 よ りも先 ずオフ ィー リア の部屋 を訪 れて、狂人の印象 を強 く与 えたのは、彼の復讐 開始の最初の儀式 とも言 うべ き であろう。無言でみせ る彼の狂乱ぶ りは、彼女の言葉 を通 して語 られ る。 こうしてハム レ ッ トは、役割 をかえることによって、常 であれば相手 に言 えない こ とで も、 自由に表現す る特権 を獲得 す る。オフ ィー リアに対す る彼の言葉は、母の再婚、近親相姦 とい う事実 に 端 を発 した、女性嫌悪 と性的侮蔑 に彩 られた、罵言であ る。時 には、国王夫妻 が観ている 劇中劇の場面 の ように、欝横 した感情 を、性的俗語や隠語 をま じえた言語遊戯の表現法で、 彼女 を無慈悲 に も傷 つけて、心理的 に窮地 に追いや るのである。 ハム レッ トはのちに誤 ってポロニアスを殺す。 これで父を失 う経験 を、ハム レ ッ トとオ フ ィー リアは共有 した ことにな るが、二人の悲劇の根源 は、 ともに父親の言葉 に従順 だ っ た ことであ る。 ポロニアスは国王の意図を汲んで、娘 を田に してまでハム レッ トの真意 を 探 ろう とす る。その彼 に対す るハム レ ッ トの対応は、 オフ ィー リアに対 す るもの と違 い、 宮廷道化師のそれであ る。彼女 に対 しての ときの ように、辛妹 なア イロニーの こもるもの ではあ るが、非難 とい うよ り、知恵比べに よ り相手 を小ばかに して、軽 くいなす格好の も のである。 もちろん相手の探 りの策略 を知 っているハム レッ トは、狂気 とい う隠れ蓑 をか ぶ ってい る。 それは国王夫妻 に雇われたスパ イ役の、 ロー レン クランツ とギルデンスター ンに、あ くまで も真意 を見せない態度 と同 じものであ る。 母親ガ- トルー ドがハ ム レッ トを 自分 の私室 に呼んだのは、彼が演 出 した 『ゴソザ-ゴ 殺 し』で、 いた く国王の不興 をかった息子 に苦言 を呈 し、 きつ く諌 め るためであ る。 しか しハム レッ トに とっては、愛欲 に溺れた母親 に、怒 りと不信のすべてをぶちまけ る時であ る。母親 は息子 に、「お父上はたいへんお腹立 ちです」 と言 う。 しか し彼 に とっては、叔 父であ る王位纂奪者の現 国王を、「父上」な どと呼はねばな らない筋合いはない。 Yo ua r et heQue e n,yo urhus ba nd' sbr ot he r ' swi f e, And,wo ul di twe r eno ts o,youa r emymo t he r .( Ⅲ-i v,1 4 -1 5 ) 母親 に裏切 られた とい う思いのハ ム レッ トの感情 は、押 えつけ られていた反動 か ら、 こ こで一気 に爆発す る。 そ して母親 を難詰す る言葉 がいっそ う激 しさを増すのは、陰 に隠れ て盗み聞 きしていたポ ロニアスを国王 と思い違 えて、刺殺 してか らである。母親 と 「王国 泥棒」 であ る叔父 との 「近親相姦 」 のあ りさまを、「汗 にまみれて脂 ぎった寝床 の中で、 欲情 にひた って 日を送 り、醜悪 な豚 さなが らに、 ささや き交わ して重な り合 う」 と形容す る.ガ- トルー ドには辛 くあた らない ように と言 った父の亡霊の教 えを、ハム レッ トは興 奮のあま り、忘れて しまっている。我 々は ここで、今 までに見 られなかった激烈 なハ ム レ ッ ト像 に出会 ってい る。 ハム レッ トの この種 の感情の爆発 は、発狂 して 自殺 したオフ ィー リアの埋葬 の場面で、 観客 は再び見 るこ とになる。 レアテ ィーズに とっては、帰国 してみれば父は不審 な死を と 4 4 清 田 幾 生 げているし、犯人 とされるハム レッ トへの怒 りが こみ上げて くるなかで、狂女 とな りはて て、城内を当て もな くさま よう妹の哀れな姿 に衝撃 を受けたばか りである。 そ こへそのオ フ ィー リアが水死 した報せである。 しか も死因に疑 わ しい ところがあ り、教会か らは正式 な葬儀 は挙げて もらえず、埋葬はほんの略式の もので、ひそやかに済 まされ る始末である。 棺 に土 をかける前に、もう一度 オフ ィー リアを抱 きしめたい と、妹の亡骸 を収める墓穴へ、 レアテ ィーズは飛び込む。密かに陰か らそれを見ていたハム レッ トの気 に触 ったのは、 レ アテ ィーズがハム レットを呪認す る言葉 を吐いたか らではないであろう。 墓穴に飛び込ん で悲嘆にか き くれる とい うレアテ ィーズの情熱家型の大袈裟な振舞 い と、芝居がかった派 手な台詞が、ハム レッ トの怒 りをかったのである。彼 に とって、 レアテ ィーズの次の よう な台詞は、我慢で きない ものである。 Ho l do f ft hee a r t ha whi l e, Ti l lIha vec a ug h the ro nc emo r ei nmi nea r ms . No wpi l eyo urdus tupo nt heq ui c ka ndde a d, Ti l lo ft hi sf l a tamo unt ai nyo uha vema de T'o'e r t o po l dPe l i o no rt hes kyi s hhe a d Ofbl ueOl ympus .( Ⅴ-i,2 4 2 -2 4 7 ) ( Le a psi nt hegr av e . ) ハム レッ トが、同 じ く墓穴 に飛び込 んで、 かつての恋人の兄 と取 っ組み合いをや らかす のは、 レアテ ィーズが、妹 に対す る愛情 を、「さあ、死んだ妹 と一緒 に、生 きているこの おれに土 をかけて くれ、 この平地がペ リオン山の峰 よ り高 くな り、オ リンパスの頂 を越 え るまでにも」とい う仰 々しい比倫で詣 いあげたこ とにたいす る反感 か らである。レアテ ィー ズの悲嘆の表現 と身振 りに、ハム レッ トは、おのれの感情 に感動 している偽善を読 み取 っ たのである。 これ と、ハム レッ トの、「四万の兄が集 まろうとも、オフ ィー リアへのおれ の愛情 には敵 うまい」 とい う反擬の答 えは、内面の感情 と言語表現 との関係 とい う問題を 含んでいる。ハム レッ トに してみて も、た とえば父親 と叔父の比較 を、「ハ イペ リオン と サチ ュロス」 とい う表現を とっていた。 これ と同工異曲なのが、死んだ父親への賛辞であ り、母親 に詰 め寄 る ときの言い方 では、父親の顔 にただ よう気品は、「アポ ロンの巻毛、 ジ ュピターの額、人 を威圧す るマースの眼差 し」 とい う誇張 した比倫 であ った。 ただハム レッ トは レアテ ィーズの ように、自分の感情 を恥ずか しげ もな くス トレー トに、 大袈裟 に派手な修辞 にのせ ることは していない。彼は 自己の感情の言語表現のスタイルに ついては、 もっ と自制的であ る と言 って よかろう。 レアテ ィーズの 自己愛 に淫 した感情過 多の比倫は、ハム レッ トには到底許せない ものに映 ったのである。 ここで思い出されるの が、『スペ インの悲劇』の ヒエロニモの修辞法であ る。 レアテ ィーズ とヒエ ロニモ を比較 することは、その劇中の役割か らも、劇中の経験、情念の密度、思考の経過 か らもほ とん ど不可能な ことであ るが、引用 した レアテ ィーズの表現法 には、抑 えの利 かない点で、 ど こかヒエロニモのそれ と相通 じるものがあ る。墓場の場面でハム レットの激発 した感情は、 一般化 して言 えば、修辞上の コンヴ ェンシ ョンに対す る怒 りであ る、と言 って よかろうか. ハム レ ッ トはさまざまな状況に投げ込 まれて、それに応 じて、それぞれ異なる人物像を 見せて きた。国王の前ですねた態度 をみせ る不満家の王子 として、死んだ父親を慕 う人物 『 ハムレット』の視界のわるさ 45 として、 自殺志願者 として、演劇愛好家 として、復讐 と世 直 しの重荷 を背負わされた人間 として、その資格の有無 を 自らに問い掛け る自省家 として、行動 力のな さで 自責の念にか られ る人物、野心的な行動家 を羨望す る人間、世の在 りように絶望す る人間、伴狂で恋人 を傷 つけ る若者、言葉遊びで探 りをた くみにかわす宮廷道化師、旅役者や墓掘 りに親 しげ に語 りかけ る人、人生のむな しさ と愉 しみを知 る人、国王 に雇われたスパ イ役二人 を巧 み に片づけ、死 に追いや った行動家、透徹 した 目で他人 を見抜 く厭世家、際想す る思索家、 激烈 な言葉 を再婚 した母親 に投げつける女性嫌悪 の息子、 フ ェアな決闘 をす る人間、な ど 数 えれば き りがないほ どであ る。そ して これ らの性格の総体 としての一人の主人公 に、 ま たその鮮やかな言語 に、観客 は魅力を感 じないわけにはいかない。 しか しなが ら、ハ ム レ ッ トが復讐者 として資格 を欠 いている ことは、そのルネサンス的な多彩 な才能 と、またそ の感受性や精神の高貴性 に由来す る と見て よいであろ う。 た しかに彼は、復讐 とい う反道 徳的な大それた行為の妥当性 を、 自らに問 いかけ るわけで もない。 またその反宗教的 な要 素 を考 えるわけで もない。 しか し彼 は復讐劇の主人公 として必要 な、偏執的なひたむ きさ を持ちあわせていなのであ る。周囲の変化 に豊 かに反応す る、マキアヴ ェリズムを欠 いた、 フマニス トなのであ る。(6)そ してそれが、作者が意図的 に造型 した主人公の性格であ る。 最終場面で復讐は行われ るが、それはハム レッ トの冷徹 な計画や術策 に よるものではな く、 ほ とん ど偶発的な出来事 に近 い、はずみに よるものであ る。 まるで万華鏡の ように、 これだけ多様 な一人の人間像 を見せ られ るものの、我 々にはハ ム レッ トについて、一 つだけ言 えるこ とがあ る。 それは、根本の ところで、彼 が変化 して いない こ とである。進歩で も退歩で もよい、成熟 で も未熟化で もよい、そ うい う時間の流 れにそった人間の変 わ りようが、 この主人公の内部 に感 じられないのであ る。観客が見 る のは、あ くまで も、一人の人間の性格の多様性 なのであ る。 これは 『スペ インの悲劇』の 主人公 と比べれば明 らかであろ う。 ヒエ ロニモは最愛の息子 を失 って以来、悲嘆、絶望、 苦悶、怒 り、奔走、伴狂、狂乱、閉ざ された方策、妻の 自殺 な どを通 して、最後 に復讐 に は うってつけの決定的な劇 中劇 を思いつ く。そ して実行 に移す前 には、決意 を胸 に秘 めた、 む しろ落ち着 きのあ る人間 とな ってい るC もはや、以前 の ような、 もが き苦 しみ、弱音 を 吐 き、満た されない感情 を露骨 に吐露す る人物の姿はない。決行 にあたっては、 うわべは 冷静 に、機械的 にこ とを進 めて行 く。復讐 が成就 したあ とも、息子 ロレンゾを虐殺 され、 娘 のペルーイソペ リアに も死なれた父親 カステ ィール公爵 に向かって、「いかがですか、私 たちの大 団円のあ りさまは」 と平然 として、皮 肉な言葉 を投げつけ る。彼は こ とを成 し遂 げた満足感 と自信 に満ちてい るのであ る。彼は心の平安 を得た と言 って よかろ う。 ここに は、時間軸 にそ った人間の変化 ・成長 が措 かれてい る と見 るこ とがで きる。 ここが 『ハム レッ ト』 との相違点であ る。 この違 いは、シ ェイクスピアが 『ハム レッ ト』 を善 くにあた って、 プロ ッ トの因果関係 を間接的で希薄な もの にす る とい うマニエ リスム的な手法 を採 り、プロ ッ トの遠近法 をず らして、主題のヴ ァリエイシ ョンを増や した結果であ る。テーマの中央部 に在 る もの よ り、 周辺部 にあるそれぞれのエ ピソー ドが、 まるで独立 したかの ように、関連性 を失 って存在 す る。しか もその方 が却 って面 白い とい う結果 を生む こ とがあ る。極端 な言い方 をすれば、 主人公だけでな く、作者 自身 も主題の重 さを避 けたが っているように見 える。因果律の希 薄化は、必然的 に時間軸 の無視 を含 んでいる。 プ ロ ッ トの上 か ら見た 『ハム レ ッ ト』の暖 4 6 清 田 幾 生 昧 さ、不透明さ、視界のわるさは ここにその原因がある。そ して この効果は、ほかな らぬ 作者が 目指 した ものであ り、作品の面 目もここにある。 『スペ インの悲劇』 も 『ハムレッ ト』 も、作劇上の条件や、主人公の性格造型にそれぞ れ違 いはあって も、大詰めでは、復讐者 も被復讐者 も共 に死ぬ という復讐劇の伝統 に従 っ ている。 しか も被復讐者は、 自分の破滅を知 らないがまま倒れてい くのである。 クローデ ィアスは見殺 しの王位纂奪者であることが、相手に露見 している とはつゆ思わずに、ロレ ンゾは 自分が殺 されることす ら知 らずに、それぞれ死んでい く。 テキス トは、 l.Th o ma sKy d,Th eS L k mi s hTy z z Ddy ,e d.Phi l i pEd wa rds , ( TheRe v e l sPl a y s )Ma nc he s t e r U, P. , 1 9 7 4 2.W.Sha ke s pe a r e ,Ha ml et ,e d.Ha r o l dJ e nki ns ,(Th eAr de nSha ke s pe re,Me a t hue n) , 1 9 8 2 なお、本文中の 『スペ インの悲劇』の和訳の個所は、村上淑郎氏の訳業 ( 小津次郎 ・小田島雄志編 F ' ェリ ザベス朝演劇集』〔 筑摩書房〕所収)に負 うところが大 きい。そのまま借用 した個所 もある。 註 I.多 くは F ' 原ハム レット』の作者はキ ッドという説であろう。シ ェイクスピア作説は、た とえば ,I l a r o l d Bl o om である。 H.Bl o o m,SHAKESPEARE,TheZ nv e nt i o 7 20 ft heHuman ( Ri ve r s i deBo o ks ) ,Ne w Yo r k,1 9 9 8 ,p. 3 8 3f f . 2.Ha r o l dJ e nki n s ,I nt r o duc t i o ni nt heTe x t ,p. 1 3 5 3・Th eRb a de r' sEnqc ゆ di bo fSh ak e s be we ,0.J .Ca mpbe l le d. ,Tho ma sY.Cr o we l lCo. ,Ne w Yo r k, 1 9 6 6,p. 6 8 4f f . 4.J e a nPi e r r eMa q ue r l o t ,Sh ak e s be ana ndTheManne 7 i s tTr a di t i o n,Ca mb idgeU. r P. , 1 9 9 5 ,p. 5 6 なお、マニエ リスムの親点か ら論 じるこの著作は興味深 く、刺激的あ りで、かつ説得力がある。 5.Pe t e rMer c e rは ヒエ ロニモの誇張 された悲嘆の修辞 に、「儀式」 を読み とってい る。 P.Mer c e r , Haml etandt heAc t i n go fRe wn ge ,Ma c mi l l a n,1 9 8 7,p. 4 3 6・I b i d. ,p. 9 7 その他の参考文献 玉泉八州男 編 9 9 7 年 Fェ リザベ ス朝演劇の誕生』 水声社 1 石田 Fェ リザベス朝の復讐悲劇』 英宝社 1 9 9 7 年 久 他