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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL 米国女子技術教育の発達(II) : アメリカにおける性差別の 撤廃と教育(2) 永島, 利明 茨城大学教育学部教育研究所紀要(17): 93-100 1985-03-15 http://hdl.handle.net/10109/11420 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html 茨城大学教育学部教育研究所紀要17号(1985)93−100 93 米国女子技術教育の発達 (皿) 一アメリカにおける性差別の撤廃と教育(2)一 永 島 利 明 (1984年11月5日受理) 第二次世界大戦中の婦人の軍需工業への進出 この研究の目的および方法は第一報で示したものと同様である。この報告は1941年より1968年頃まで の内容を示した3 1939年9月第二次世界大戦がはじまると,アメリカは中立を宣言したが,ついに1941年12月8日の日 本の真珠湾攻撃をきっかけとして参戦した。働き盛りの男子労働者や農民は兵士として戦場におもむい たので,そのかわりに婦人が労働力として職場へ進出した。実際に戦時体制のわずか数年間に女性の労 働者は1,300万人から1,900万人へと増加した。1945年には民間労働力の36%が婦人によって占められ たといわれる。これに対して学校教育はどのように対応したのであろうか詔 多くの工業が男子中心に運営されていたように,学校も女子の教育に適するように編成されていなか った。婦人を能率よく訓練するために,施設・設備および教育計画をどのように変更したらよいかとい うことが問題となった。職業学校の管理職,工場の従業員,婦人自身に対する世論調査の結果から,多 くの人が「婦人も少女も男子と同一に教育すべきである」と信じていることがわかった。男子と女子の 教育方法は異なるべきであるという偏見も強かったが,事実によってこの偏見は誤りであることが明か になった3) 職業教育の教師たちは,現実の工業の条件を詳細に検討して,どうすれば偏見をなくすことができる か,女性が職務に成功するにはどんなことに適応すべきかを吟味し,工夫した。青年男子が戦場におも むいたので,そのかわりになる労働力を動員する必要はどこでも宣伝されていた。工業労働者の補充に 関するかぎりでは,婦人も男子と同一の方法で訓練することは当然であった。就職したことのない少女 を訓練するだけではなく,現在雇用されている婦人を工場に配置転換したり,能力を向上させるにはど うしたらよいか,という問題があった。 職業学校では軍需工業に直接関係していない工場やサービス業に勤務している婦人の配置がえを早め ようとする訓練が行われた。例えば,ミシガンベル電話会社は秘書や事務員を建設や整備の仕事にかえ た。職業学校では少女たちは兵役に入った男子にかわって設計図,トレース,製図の授業の授業をうけ た。この点は日本の軍需産業が未熟練な学生生徒の勤労奉仕にたよったのと大きく異なっているε)旧制 の大学,専門学校,中学校,高等女学校の学生生徒は上流階級の出身であり,労働する態度が形成され ておらず,不慣れであったのに,これを労働力として短兵急に使用した点に欠陥があった。 公務員や公益事業(ガス,電気,電話など)の欠くことのできない地域サービス労働者として少女や 婦人が採用された。このため以前は少女が決して入学しなかった職業高校の昼間部に入学することが奨 、 励された。ある技術高校では商業美術や音楽を専門にしている最高学年の数人の少女が地域の公益産業 に雇ってもらうという条件で製図の勉強をした。 94 茨城大学教育学部教育研究所紀要17号(1985) 1943年合衆国戦争訓練局は高校の正規の授業の補充として行われた戦争訓練学級に17年歳6ケ月以上 の少年少女の入学を許可した。女子には地場産業の訓練が実施されたので,転勤はできなかった。女子 に不向きとされていた職種はたてまえでは排除されることになっていたが,実際には職業学校では地域 の産業の訓練の必要に応じて指導をした。 1941年8月には戦争訓練学級の女子の割合は3.1%,42年7月には29.8%に達した。第2次世界大戦 中,軍需生産訓練計画で訓練された婦人の総数は150万1,453人に達した8)1940年1月1日より1945年 6月30日までの職種別受講生はつぎの通りである。 雇用前コース受講者 補充コース受講者 自 動車 1,935 5,606 飛行機 194,065 435,188 電 気 6,873 6,760 鍛 造 238 125 鋳 物 1,081 2,211 機 械 148,028 73,370 ラ ジ オ 21,984 31,859 板 金 13,311 1,778 造 船 68,118 185,661 溶 接 24,520 15,927 そ の他 74,569 188,246 合 計 554,722 946,731 上記のように,航空機,機械,ラジオ,造船,溶接などの分野が多くの女性の訓練生を採用した。 もっとも婦人が役に立ったのは,溶接であらゆる分野で活躍した。一般に「婦人は機械を扱う能力がな い」といわれたが,正確にいえば「機械を知る」機会がなかったというべきであった。イギリスでもっ とも女子が成功した職種は組立,帯鋸,穴あけ,クレーン操作,中ぐり,検査,(ノギス,マイクロメー ’ タを含む)旋盤作業,研削,仕上,レンズみがき,プレス運転,リベット打ち,溶接であった。 あらゆる婦人が工業に適しているとは限らないので,不適格者を除くために,訓練・採用,勧誘には 男子と同種の方法がとられた。学校は少女の選択に責任をもっていた。従ってこれらの工業生産に従事 していた婦人は,その適性が認められて,職種を選んでいたのである。つぎに,ペンギン・ブックスで 「婦人溶接工の造船日記」を書き,後に教育省職業教育部の溶接委嘱講師となるオーガスタ・クラウソ ン女史の事例をみよう。 彼女たちは造船学校でガス溶接の講習を2ケ月間うけた。講習生のなかには,小さい子をもつ母親, 保育園に通園する子をもっ母親,赤ん坊を祖母にあずけている母親がいた。ガス溶接を初めてしたとき 「信じられない」「恐ろしい」「きたない」「炎が騒音を出すなんて考えられない」「驚いた」と発言 していた。しかし,彼女たちは女性にありがちなこうした潔癖感や恐怖感を一週間で克服するという柔 軟性をもつていた。初日の翌日には製造中の軍艦の司令室の上でびょう打ちやしめ金をしていた。階段を 昇降して狭い場合でもいやがらずに働いた。彼女たちは難しい溶接が検査に合格する経験をつみ重ねて いくと,チームワークを発揮し,理解力が向上していった。彼女たちの誇りは「見習」というバッチが 永島:米国女子技術教育の発達(II) 95 「溶接工」に変ることであった。男子の造船工には怪我そして重傷を負うものもいたが,彼女たちの注 意力は抜群であった。 戦争により婦人が工業へ進出したという経験から,彼女たちはこうした労働が不向きであるという偏 見を一掃した。婦人はあらゆる生産ラインで成功した。その成果は決して男子に劣ることはなかった。 経営者は従来の方針を改めて,婦人を採用するようになった。性よりもなしとげた仕事の質が重視され はじめたのである。 第二次世界大戦中の婦人の農業への進出 農業においても,労力の不足を補うために,婦人は農業機械の運転へ進出した。ここではミネソタ州 マーシャルの戦時農村生産講習会の様子をみよう。受請した15人の婦人のうち14人が36時間の講習を修 了した。大部分は農家の出身であったが,町の出身で農場で働きたいという希望をもつ人もいた。講師 は教職経験のない地域の農業機械の専門能力のある男子であった包) 講習会では農業機械の概要が説明された。重点はトラクターの管理,運転,小修理におかれた。トラ クターの部品に名札がっけられ,部品の名前をチエックした。そしてグループごとに部品を燃料系統と か伝導機構というように分類した。一回当り3時間の講習が11回開かれた。その内容は①動力系とその 部品の展示,②トラクター運転実習,③燃料系,④点火装置,⑤伝導・冷却機構,⑥燃料と維持費,⑦ 耕作用具,⑧播種用具,⑨干草用具,⑩収穫機であった。 11回の講習の後で2回の運転実習が農場で行われた。さらに実習した以外の圃場で3回の耕作奉仕を した。それをみていた農民たちは彼女たちの上達ぶりをみて驚いた。農民は女性が十分に農業機械を動 かせるかどうか疑問に思っていたのである。農業においても,工業と同様に,婦人が機械操作の実力が あることが証明されたのである。戦争中日本においても牛馬耕の講習が小学校卒業の女子に行われた。 しかし,動力源がエンジンと牛馬では生産性が違う。この点の自覚がわが国の指導者になかったことは, 不幸なことであった。 ジョージャ州アトランタ周辺の農業地帯では大恐慌以後,缶詰生産が盛んになっていた。加工しない で出荷すれば,買いたたかれるので,付加価値を高める対策であった。もっとも典型的なものとしては トマト,いんげん豆,野菜スープ,トーモロコシ,グリンピースの製缶があった。缶詰生産設備は実習 施設として教育委員会が購入し,学校に設置されていた。この設備は学校で使用するだけではなく,地 域の人々も使用ぴていた2 1942年になると,食糧品が戦地に送られ,缶詰は村の売店から姿を消した。1942年4月から5月にか けて,夜間の成人学級が開かれ「勝利のための食品プログラム」が提供された。これには州全体で, 5,125人が参加した。州には農業と家庭科の教師が指導して運営されている野菜,果物,肉を缶詰にす る382の設備があった。 この設備は大型で最低5人の人手が必要であった。農業の教師が機械の使用法を教え,家庭科の教師 は質の高い缶詰をつくる材料の準備法を教えていた。缶詰設備のない人たちは家族で学校に行き,この 設備を利用した。利用料として一缶につき0.5∼1セントのお金を支払った。1942年の夏,ある学校では 649家族がこれを利用した。同時に缶詰生産施設に付属された4つの施設で野菜や果物の乾燥の実験が 行われた。この生産のおもなにない手は主婦であった。いままでみてきたのは,成人に達した婦人の活 動が中心であったが,学校ではどうであったであろうか。 96 茨城大学教育学部教育研究所紀要17号(1985) 農村でも1942年の秋になると,労働力の不足は深刻になった。収穫のために学生生徒の応援が求めら れた。ここではマサチューセッツ州スプリングフィールドの場合をみよう。職業安定所では春から農村 の収穫を援助する「学生収穫作業計画」が作られた81小学校を除く学校の学生・生徒が対象であった。 9月の初めに農業科の教師によって,果物,じゃがいも,家畜などの商品作物を生産している大農場の 調査が行われた。その結果をもとに職業安定所,教育委員会,学校の3者により計画が作られた。 生徒は12時30分まで正規の授業をうけ,午後から収穫に参加した。全生徒の75%が1ケ月間にわたっ て続けた。50%の生徒が以前に同じ作業をしていた。必要な人数は木曜日までに農家が要請し,金曜日 に計画が修正された。女子のした仕事は豆類を収穫する仕事が多かった。労働時間に応じて賃金が支払 われた。仕事の量には個人差があったが,同一の労賃が支払われた。また,男女ともにした作業にはリ ンゴの収穫したものを等級づけたり,包装をしたりした。 この生徒の収穫作業は日本では勤労奉仕にあたる。日本のそれは夏・秋の農繁期に生徒・学生が活動 して,その比重が高いのに対して,アメリカは秋の収穫期のみで日本ほど大きな役割を果していなかっ たのではないかと推測される。日本は稲作中心で牛馬耕であったので人力に依存せざるを得かったのに 対して,アメリカは小麦中心の機械化農業であり人力の比重が低かったからであろう。 第二次世界大戦後のマイホーム主義 第二次世界大戦が連合国側の勝利に終ると,アメリカの婦人たちは,勝利の喜びにひたり,平和が永 久に続くと信じていた。彼女たちは軍隊におもむいた夫や息子の早期の復員を要求した。それこそが安 定した平和な生活の前提だったからである。政府はソ連との対立をかかえながらも,婦人の要求に応じ て,復員を促進せざるを得なかった。しかし,こうした「女の幸せ」を求めめる動きが婦人の保守化を 招いた。第二次世界大戦中にピークに達した職場へ進出した動きに逆行して,家庭生活中心の生活が望 ましいという考え方が,再びもりかえしてきた。 こうした傾向は女性だけの問題ではなかった。1950年代になると,ソ連との対立,朝鮮戦争などで家 族を軍隊へ送り出した婦人たちの間には家族そろった平穏な生活に飢えていた。また,マッカーシズム にみられるような政治の反動化が進み,保守ムードが支配的となり,婦人解放運動は弱体化した。そし て婦人は家庭生活や育児に専念することが望ましいというマイホーム主義が支配的となった。 男子は外で働き,女子は家庭を守るという生活様式がマスコミを通じて浸透してくると,学校にも大 きな影響があらわれた。周知のように家庭科は女子向きの教科であるという伝統的な教科観が支配的で あるが,男子も家庭の仕事を分担するのが当然であるという考え方が台頭していた1939年には,男子 の家庭科を学ぶものが,49,679人に達していた。それが保守的なムードのなかで男女分業論が強まった。 1954年には26,490人しか学ばなかった。1954年には1939年の53.3%しか履習者がいない。ほぼ,半減し ているわけである。しかも,それは年間1∼3週間程度の短期間の農業および技術科(インダストリア ルアーツ)との交換授業が大部分で,共学は少数であった評 雑誌「農業教育」の女子中学・高校生に関する教育への関心は1965年まではほとんど示されなかっ た。唯一のものは1965年に「女子のための草花栽培」が掲載されているだけであった。それはロード アイランド州コベントリ高校の実践であった。11)草花栽培を学習した女子のなかには,4年制の大学で花 き園芸を学ぶものもいたが,看護婦や主婦になった。この園芸はもともと女子の好むもので,職業とし て生かすよりも,趣味として楽しむことが多かった。 永島:米国女子技術教育の発達(II) 97 1950年以後,雑誌「農業教育」が紹介しているのは,既婚の農村婦人であった。朝鮮戦争が終りに 近づいた1952年には戦地から帰った農村の退役軍人の妻をどのようにしたら,幸せにできるか,とい うことが問題にされた’1ある在郷軍人は貧しくて,農業を拡大できず,新しいぴかぴかした台所を妻に そろえてやる余裕がなかった。また,ある妻たちの不満は,農村では家と家がはなれているので,ほか の人との接触が少ないということであった。そこでコベントリイ高校の教師は退役軍人の妻の会を作っ て農村の直面している問題を話し合った。その内容は裁縫,調理,育児,音楽鑑賞,聖書の歴史,家の 美化,エチケット,ゲームなどであった。この会は2年以上続き,該当者の約50%が参加したという。 農村の妻たちが社交を楽しむ必要はほかにも強調されていた。農閑期に夜間の成人学級を開いたり, 継続的な会合をもち,子どもの教育の話し合いやレクリェーションをした13騨14Dこのように農村婦人とし て社会と接触しながらマイホームを充実していくというタイプが一般的で,作物・野菜・畜産など直接 生産に関係した学習は乏しかった。生産は夫が,消費は妻が担当するという伝統的家族観がこれらの活 動に反映していた。 事情は工業教育でも同様であった。1958−59年度に合衆国で女子のために行われていた手職・工業 教育のうち366件の教科を調査したが,そのうち8件以上をあげてみると,つぎのようであった。看護 50(13.7%),美容39(10.7%),動力機械運転25(6.8%),婦人服製作21(5.7%),広告・商業宣伝19 (5.2%),歯科助手14(3.8%),製図11(3.0%),縫製9(2.5%),パン作り8(2.2%)であった。動 力機械運転と製図を除けば,やはり女子のための伝統的職業をめざすものが多かったま5) 当時,女子の労働力はすでに全体の29%をしめていたにもかかわらず,新しい職業としては歯科助手 しか注目されていなかった。少女は技術科,機械,工業,科学,数学という名のっいた教科を恐れてい た。多くの女子は技術科または工学の教科を選択しようともしなかった翌その結果,雇用主や会社では 有能で訓練された婦人を使うよりも,資格のひくい男子技術者を使わざるを得なかった。こうした事態 に直面して,工業教育からは女子を熟練労働者または半熟練労働者として教育の対象とすべきであると いう声があらわれた評しかし,それは婦人解放運動によらなければ,実現されなかった。 婦人解放運動の影響 その口火となったのは1963年に書かれたべテイ・フリーダンの著書rフェミニン・ミスティーク』 である。この本は第二次世界大戦後のアメリカで,婦人は妻として母としての生活に自己を見出しうる という誤った女性観を批判するために書かれた。マイホーム主義では,家庭の主婦の生活に真の女性ら しさが発揮されると考えていたが,フリーダンはそれを批判して婦人を家庭から解放することを主張し たのである。家庭のみに関心を持つ女性は,育児に集中して子どもの専制者になる危険があり,夫は一 日の大部分を家庭の外で過し,夫婦がいっしよにいる短かい時間に妻が得られるものは,夫が社会の活 動で得るものに及ばない,というものであった。この本は,家庭のなかで疎外されていた婦人に感動を 与え,ベストセラーとなった。 この種類の本が婦人に影響を与えたが,さらに刺激したのは,黒人の差別撤廃運動であった。アメリ カで黒人が差別されていることは周知のことであるが,民族による平等を求めて,1950年代から公民 権i運動がはじまっていた。1964年7月には公民権法が制定されたがそれに加えで性による雇用差別 が禁止された。しかし,それには奇妙ないきさつがあったよ8) 公民権法案が連邦議会下院の委員会で審議されたとき,ハワード・スミス議員は「人橦,皮膚の色, 一 98 茨城大学教育学部教育研究所紀要17号(1985) 宗教,ないし先祖がどの国民に属していたか」によって雇用における差別を禁止する条項に牲」とい う一語を加えるという修正を提案した。ヴァージニア州選出のスミス議員は保守主義の政治家で女性解 放運動の味方ではなく,この修正を提案した目的も,それによってこの条項の審議に混乱をひき起し, あわよくばこの条項全体を葬り去って,この条項の本来の目的である黒人の雇用における平等化を法律 で保証するのを阻止することにあった。しかし,ミシガン州選出のマーサ・グリフィス議員は,女性と してこの修正案を支持し,多くの女性議員も賛成したので,結局,この修正案は168対133票で下院を 通過し,上院も通過して,修正を含んだ形で法律となったのである。 1964年の公民権法のもとで「平等雇用機会委員会」が設立されたが,この委員会は女性の雇用平等 に関しては熱心ではなかった。法成立のいきさつがこうであったので,議会も新聞も,労働組合もまし てや経営者も女性の雇用平等に熱C・ではなかった。例えば,ニューヨークタイムスは「女性はメッッ (プロ野球のニューヨークのチーム)の投手になれるのか?」という見出しをつけたり,社説には「議会 はセックスそのものを廃止したらよいであろう」というものさえ書いた。ベテイ・フリーダンはスミス 議員から「バニーガールに男を雇わなければいけないのかね」という冗談を聞き,提案議員でさえも差 別をなくすことに熱心でないことを知り,性差別をなくす女性の組織を作ることを決意したま9) フリーダンは,結婚や母になることは否定しなかったが,疎外感に悩む婦人が自己を確立するには, 家庭のなかで妻や母の役割を果しているだけでは駄目で,家庭の外に活動の機会を得る必要があると主 張した。フリーダンを中心として,1966年にNOWが組織された。それはNationa10rganization for Womenの頭文字からとったものであるが,同時に「いますぐ」を意味した。「いますぐ」とか 「われわれは待てない」というスローガンは1960年代の黒人差別撤廃運動,すなわち公民権運動が使 用したのであった3°}NOWを中心とする婦人解放運動によって,教育面では1972の教育法修正9章, 74年の婦人教育公正法,76年の職業教育法の改正が行われた。これらにっいてはすでに研究したので, 残る紙数を農業教育の変化にあてたい11} 学校農業クラブへの少女の参加 アメリカの職業教育には農業,商業,保健,消費・家庭科,家政,事務,技術,手職・工業と8領域 がある。保健や家庭科が“女の城”であるといわれているが,“男の城”があるとすれば,それは農業 と技術であった。1978年には性差別撤廃が教育においても進んでいたが,全履習者の占める女子の割 合は,農業17.3%,技術17.6%にすぎなかった。1972年には5.3%,9.7%であった。 アメリカの高校の農業規程には「未来のアメリカの農民」(Future Farmer of America,FFA) という組織がある。これはわが国の農業高校の学校農業クラブのモデルとなったものである。FFAの 歴史は古くその起りは1917年にさかのぼる。アメリカでホーム・プロジェクトが始まったのは19〔〕8年にステイ ムソンがマサチュセッツ州のスミス高校で試行してからのことである越1917年にいたって全米に普及した。生 徒たちは種子を交換したり,新しい家畜を共同購入したりするグループを作り出した。1926年にいたって,F FAの州組織がバージニヤ州に生まれ,ついで1929年に全国組織に発展して,1950年に法律によって法 人として認められた(日本ではFFAをモデルとして1949年に学校農業クラブが教育課程にとりいれられた)。 このFFAには規則上少女は加入できないことになっていた。1968年には少女を入会することを許可 することを要求する論文があらわれた。それは4つの点を主張していた。第1に,少女は少年より成熟 がはやく,農業科に入学してリーダシップを発揮する。第2に,少女を入学させて共学にすると,学級 永島:米国女子技術教育の発達(II) 99 経営がむつかしいといわれた。しかし,4Hクラブにいる少女が品評会に参加しても,規律上の問題は 生じなかったし,少女がいると,少年は上品にふるまった。第3に,少女は少年とは別行動をとり,ク ラブ員を困らせるという考えの教師がいた。しかし,少女は別行動をとることもなく,すでに入会を許 可しているところでは女子がいることが少年のために役立っている。第4に,女子の農業組織を作らな いのは,何故かという声がある。アメリカの高校の農業科は,工業科,商業科,普通科と併設されてい る総合制高校であり,しかも,ひとつの学校に一学級しかないことか多い。このため少い教師で少年の FFAと,少女の農業クラブのふたつを指導することは負担が重いというものであった。 1968年以前にすでにカリフォルニヤ州をはじめ5つの州では女子の入会を認めていた。1968年の FFAの総会で女子の入会が投票で決定された。これも婦人解放運動の影響であろう。 謝 辞 この研究には,アメリカ研究振興会および野村学芸財団より助成をうけました。記して感謝の意を表 します。 引 用 文 献 1)永島利明,「米国女子技術教育の発達」,『茨城大学教育学部紀要』33巻(教育科学)1985,投稿中。 2)本間長世編,『新しい女性像を求めて』(世界の女性史第10巻),(評論社 1972),138−140ページ。 3)Earl L. Bedell,“Training women for Wartime Industries”, Industrial Arts and Vocational Education.(Jan.1943), PP.1−4. 4)福島敏矩,『学徒動員・学徒出陣』(第1法規,1980)に比較的詳細にのべられている。 5)Melvin L Barlow, History of Industrial Education in the United State.(Peoria: Chas.A噂 Benett Co.,Inc,1967), pp.355−358. 6)AIlen C. Weber,“Teaching Women to Maintain and Qperate Farm Machinery.” Agricultural Education Magazine,15−10(April,1943),192. 7)T.G. Walters,“Farm Families in Georgia Provide and Preserve Foods.”AEM 15−9(March,1943), pp.166−167. 8)T.G. Walters,“Georgia Communities Dehydrate Food.”AEM 15−11(May,1943)p.210 9)H.F.Bartlett,“A Student Harvest−Work Program.”AEM 15−12(June,1943),226−227. 10)Hazel Anthony,“Boys in the Homemaking Department.〃 Journal of Home Economics 48−5(1956),p.327. 11)John H. Ball。“Teaching Floriculture to Girl! AEM 37−8(March,1965),p.213. 12)WHliam Knight,“A Program for the Wives of Veterans and Yomg Farmer.” AEM 25−5(Nov.1952), p.108 13)Herbert D. Brum,“Include the Yomg Farmer’s Wife.” AEM29−4(Oct.1956), p.84 14)J・Wesley Haer・“Remember the Farmer’s Wife! AEM 31−4(Oct.1958), P。80 15)Melvin L. Barlow, op.cit, pp.367−368 16) J.J.Littrell,“Try the Technical Occupations.” Industrial Arts and Vocational Education(Nov.1959), pp.257−258 17)0.A. Emerrtson,“A Drafting Instructor Looks at Industry and School.” IAVE.(J an.1959), p.174 18)本間,前掲書,226−227ページ 100 茨城大学教育学部教育研究所紀要17号(1985) 19)Betty Friedan,“Up from the Kitchen.” New York Times Magazine (March 4,1973), p.8−9 20)本間,前掲書,231ページ 21)永島利明,「アメリカの職業技術教育における性差別撤廃の動向」,『日本産業技術教育学会誌』26巻3号, (1984),71−76ページ 22)日本学校農業クラブ連盟編,『学校農業クラブ活動』,(日本学校農業クラフ◆分室,1956),21−22ページ。 23)Dino A. Petrucci,“ATεacher’s View:Girls in the FFA. AEM.41−4(Oct.1968), p.79 DeveIopment of TechnicaI Education for Women inAmerica:1941−1968 一Eliminating of Sex Discrimination in USA and Education(P旨rt 2)一 Tosiaki Nagasima Abstract 、 vomen Wbrker increased from thirteen million to nineteen million during the Second Wbrld War. Schools were not organized for the training of women. An opinion poll of vocational schoo1, factory personnel men and women themselves revealed that girls and women should be trained in about the same manner as men. Many trainees were enrolled in classes for shipbilding・radio services and welding。 Women learnt rapidly and their latent mechanical skills were easily developed. They overcame prejudices that they worked only the so−caIled ”women’s traditonal tradesぞWomen in rural district were given 1esson in operating tractors. After war women were apt to return to a family−oriented way of life again. As a result,enrollmer毘of home making ed㏄ation for boys decreased from 49,679 in 1939 to 26,490 in 1954. The great part(f agricultural and industrial education effort for women was concentrated in a few occupations. Civil Right s of 1964 prohibited the discrimination (f women’s employment. But, Congress, trade union and press Were not keen to it。 Women liberation movements had gained force again, since Betty Freedan founded NOW in 1966. Girls recognized as member of FFA in 1968.