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「ベトナム戦争後の米国における通常戦力の革新―「オフセット戦略」の
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
2016 年度日本国際政治学会研究大会
アメリカ政治外交Ⅰ分科会ラウンドテーブル「グローバル化と冷戦」ペーパー
ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新
―「オフセット戦略」の起源と形成に関する予備的分析―
森
聡
(法政大学)
はじめに
1969 年 1 月に発足したニクソン(Richard M. Nixon)政権は、ベトナム戦争を終結させ
ることによって戦費を削減し、同時に非国防支出を拡大することにより、停滞する経済を活
性化させ、混乱する社会を安定させることを目指した。連邦議会も概ね同じ方向性を有して
いたために、国防費は削減され、米軍の規模は大幅に縮小されることになった。また、ニク
ソンは、ベトナム戦争によって損なわれていた NATO 諸国との関係を改善すべく、ジョン
ソン政権期に悪名の高かった NATO 諸国に対する負担分担の要求を控えるとともに、マン
スフィールド(Mike Mansfield)上院議員らの要求にも反対して、在欧米軍は撤退させない
とする判断を下した。その結果、同盟諸国が賄っていた国防費の財源の一部を失うことにな
り、国防予算の財政的裏付けがさらに薄弱化することになった。
アメリカは、こうした財政的な制約に直面する中で、ソ連が対米核パリティを達成し、さ
らに欧州での通常戦力バランスが NATO 側に不利な軍事情勢に直面することになった。す
でに 1960 年代からアメリカと他の NATO 諸国との間では、有事の際の核兵器使用のタイ
ミングをめぐって立場が対立していたが、米ソ核パリティの出現は、アメリカはいかにして
西欧諸国を防衛するかという問題を再び先鋭化させた。アメリカがこの問題にどう取り組
んだかを検証するこれまでの研究は、外交と軍事という二つの取り組みに光を照らしてき
た。第一に、外交上の取り組みについては、いわゆるデタント外交とそれをめぐる米欧関係
が研究上の焦点となってきた。この時期についてのアメリカ外交史研究や国際関係史研究
の大半は、米ソ間の戦略兵器制限交渉(SALT)や西欧諸国の東側陣営に対する外交、
「ヨー
ロッパの年」や第四次中東戦争をめぐる米欧関係、さらには 75 年のヘルシンキ最終議定書
に至る東西間の多国間外交の実態を明らかにするものである。1第二に、軍事面での取り組
みということでは、いわゆるシュレシンジャー・ドクトリンと呼ばれた、核兵器の限定的な
1
近年の研究として、たとえば次がある。Daniel J. Sargent, A Superpower Transformed: The
Remaking of American Foreign Relations in the 1970s, Oxford: Oxford University Press, 2015;
Mathias Schultz and Thomas Schwartz eds., The Strained Alliance: U.S.-European Relations from
Nixon to Carter, German Historical Institute and Cambridge University Press, 2010; Craig Daigle,
The Limits of Détente: The United States, the Soviet Union, and the Arab-Israeli Conflict, 19691973, New Haven: Yale University Press, 2010; Fredrik Logevall and Andrew Preston eds., Nixon in
the World: American Foreign Relations, 1969-1977, Oxford: Oxford University Press, 2008; 山本
健『同盟外交の力学―ヨーロッパ・デタントの国際政治史、1968-1973』、勁草書房、2010
年。
1
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
使用を前提とする核兵器の運用政策の見直しが研究上の焦点となってきた。フォスター・パ
ネルによる作業と、その後の国防省内部における検討作業を経て、国家安全保障決定覚書
(NSDM)242 として策定された核運用政策をめぐる政策過程を検証するものである。2ま
た、特にニクソンによる核兵器の運用については、核兵器使用のリスクを意図的に利用しよ
うとした「狂人戦略(madman strategy)」についての研究もある。3
確かに、国防予算が制約される中で、通常戦力バランスが悪化するとなれば、核兵器を頼
る形で抑止力を維持するのが、一見して戦略的にも、財政的にも理に適っていた。その後ソ
連が 1977 年頃から SS-20 中距離核ミサイルを配備したのを受けて、NATO が 79 年 12 月
にいわゆる「二重決定(dual-track)
」を下して、アメリカがパーシングⅡミサイルを西ドイ
ツに配備したり、83 年にはソ連軍が NATO の軍事演習「エイブル・アーチャー(Able Archer
83)
」を軍事行動と誤解して一触即発の事態が生起したため、欧州における核兵器の脅威が
強く印象付けられている。70 年代の欧州安全保障を分析するのに核戦略に注目するのは妥
当であり、本稿はそれに異議を唱えるものではない。
しかし、米ソ間の核パリティが達成されて以降、両国は核戦争の危険を警戒しつつも、抑
止力の重心が通常戦力に移行しているとの認識を有しており、通常戦力バランスを重視し
ていたことが明らかとなっている。換言すれば、米ソ両国は、核兵器を軍備管理レジームに
封じ込めつつ、通常戦力が両国間の戦略的競争の中心を占めつつあると考えていたので、
1970 年代の欧州安全保障の軍事的安定性ないし不安定性は、通常戦力バランスに懸かって
いたという見方もできる。本稿は以上の問題意識に立って、国防予算の制約や米ソ間の通常
戦力バランスが悪化しているとの認識が作用する中で、米国防省と米軍が、兵器システムと
ドクトリンの革新を通じて、欧州の米軍通常戦力の抑止力を強化する取り組み、いわゆる
「オフセット戦略」を 70 年代初めから 80 年代にかけて展開した事実を明らかにする。従
来の研究が、政権首脳陣やホワイトハウスを軸とした各種省庁間会合などでの核戦略の見
直 し な ど に 注 目 し て き た の に 対 し 、 本 稿 は 国 防 先 端 研 究 事 業 庁 ( DARPA―Defense
2
Terry Terrif, The Nixon Administration and the Making of U.S. Nuclear Straetgy, Ithaca: Cornell
University Press, 1995; William Burr, “The Nixon Administration, the ‘Horror Strategy,’ and the
Search for Limited Nuclear Options, 1969-1972: Prelude to the Schlesinger Doctrine,” Journal of
Cold War Studies, Vol.7, No.3 (Summer 2005), pp.34-78; William Burr, “’Is this the best they can
do?’: Henry Kissinger and the US quest for limited nuclear options, 1969-1975,” in Vojtech Mastny,
Sven G. Holtsmark, and Andreas Wenger eds., War Plans and Alliances in the Cold War: Threat
Perceptions in the East and West, London: Routledge, 2006, pp.118-140; Francis J. Gavin, “Nuclear
Nixon: Ironies, Puzzles, and the Triumph of Realpolitik,” in Fredrik Logevall and Andrew Preston
eds., Nixon and the World, Oxford: Oxford University Press, 2008, pp.126-145; Ibid, Nuclear
Statecraft: History and Strategy in America’s Atomic Age, Ithaca: Cornell University Press, 2012,
esp. Chapts 5 and 6.
3 William Burr and Jeffrey Kimball, “Nixon’s Secret Nuclear Alert: Vietnam War Diplomacy and
the Joint Chiefs of Staff Readiness Test, October 1969,” Cold War History, Vol.3, No.2 (January
2003), pp.113-156;Scott D. Sagan and Jeremi Suri (2003) “The Madman Nuclear Alert: Secrecy,
Signaling, and Safety in October 1969,” International Security, Vol. 27, No. 4 (Spring 2003), pp.
150-183;手賀裕介「ニクソン政権のベトナム戦争終結計画、1969 年―『マッドマン・セオリ
ー』による強制外交の失敗」、『国際安全保障』第 43 巻第 2 号(2015 年 9 月)20-38 頁。
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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Advanced Research Projects Agency)や米陸軍の訓練・ドクトリン司令部(TRADOC)な
どの国防組織が、政権を跨いで展開した取り組みに注目する。
本稿の構成は、概ね次の通りである。第 1 節において国防費の削減が米軍通常戦力の戦
略の大枠を規定するとともに、ニクソンが在欧米軍の撤退を禁じ、国防支出の増額を認めた
ものの、米軍総兵力数が大幅に削減された経過を辿る。第 2 節では、ニクソン政権が米ソ核
パリティに置かれた中で、通常戦力の増強を重視し、さらに 1973 年 10 月の第四次中東戦
争で米ソ両国の兵器性能が試され、その分析結果が欧州戦域での軍事バランスに影響が及
ぶと考えられたことを明らかにする。第 3 節では、通常戦力の革新に関する研究に基づい
て、DARPA が精密誘導兵器システムのプロトタイプを開発するプロジェクト「アソルト・
ブレイカー」を主導して、兵器システムの革新を進め、他方で米陸軍では、第四次中東戦争
に関する分析や兵器システムの革新などを踏まえて、「エアランド・バトル」なるドクトリ
ンが新たに生み出された過程を検証する。4
1.ニクソン政権期における国防費の削減と国防戦略の改定
(1)ニクソン政権を取り巻く経済・政治・財政状況
ジョンソン(Lyndon B. Johnson)政権の「偉大な社会」計画に関連する事業支出やベト
ナム戦争に要する戦費は、ニクソン(Richard M. Nixon)政権の国防戦略や国防予算編成に
重くのしかかった。1965 年から 1969 年にかけて、ベトナム戦争への介入と社会保障支出
の拡大などによって、消費者物価指数は 14 ポイント上昇し、1969 年の上半期にはインフ
レ率が 7.2 パーセントに達した。こうした経済状況は、一般消費者の購買力を低下させ、ア
メリカ経済全般に負荷をかけたほか、国防省にとっては兵器や装備の調達費が上昇するこ
とを意味していた。また、ベトナム戦争に対する厭戦気分は、戦争の早期終結と求めるにと
どまらず、国防費を削減して、
「平和の配当」を国内プログラムに振り向けるべきとする声
を高めることになった。連邦議会では、アイケン(George D. Aiken)共和党上院議員やマ
ンスフィールド(Michael J. Mansfield)民主党上院院内総務といった有力政治家らが、国防
費の削減や在外米軍の撤退を求める動きを起こしていた。5
こうした経済的、政治的な状況の中で、ニクソンは再選を念頭に置いた政権運営をするこ
第 3 節で取り上げる国防省内での一連の取り組みは、「オフセット戦略」なる呼称で言及
されてきた。アメリカの国防政策研究機関の報告書などで言及されてきたが、オフセット
戦略を包括的に取り上げようとした先行研究として挙げることができるのは、トームズ
(Robert Tomes)の『ベトナムからイラクの自由作戦に至るアメリカの国防戦略』の第四
章と第五章のみである。アソルト・ブレイカーに関しては、DARPA 関係者の依頼を受け
て実施された国防分析研究所(Institute for Defense Analyses)の調査報告があり、エア
ランド・バトルについては、米陸軍関係者による論文などがある。第 3 節で取り上げるア
ソルト・ブレイカーとエアランド・バトルについては、全体像の構築を目的として、差し
当たってはこれらの資料に多くを頼った。これら資料の出典は、第 3 節を参照されたい。
5 Richard A. Hunt, Melvin Laird and the Foundation of the Post-Vietnam Military, 1969-1973,
Washington D.C.: Historical Office, Office of the Secretary of Defense, 2015, pp.63-64.
4
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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とになった。ベトナムからの撤退と国内プログラムの拡充は、再選戦略の柱を成していたの
で、必然的に国防費を大胆に削減せざるを得なくなった。ベトナム戦争の戦費が膨らんでい
たことによって兵器の近代化が先延ばしにされ、前述の通り兵器調達コストが上昇してい
たほか、そもそも戦争で費消した武器・弾薬も補充しなければならなかった。そこに加えて、
1967 年に連邦議会が可決した法律により、政府職員は民間企業での類似の職種並みの給与
を受給することとされていたために、国防省の人件費も急速に増大していた。つまり、戦争
の終結によって戦費を削減したとしても、国防費本体は増大圧力にさらされていたのであ
る。ベトナム戦争後の経済計画を検討する省庁間グループが 1969 年に算出したところによ
ると、1973 年までに国防費は 50 億ドルしか節減できず、仮にアメリカ経済が成長して歳
入が増えたとしても、1974-1975 財政年度には、1000 億ドルの新規支出に対して 130 億
ドルの財源しか確保できないという状況であった。国内プログラムの財源を確保するため
には、単に戦争を終結させて「平和の配当」を回収するだけでは足りず、国防費に「なた」
を入れる必要が生じていたのである。事実、ニクソンは連邦政府の支出に占める国防支出の
割合を大きく低下させていくことになる。国防支出は、1968 財政年度に連邦政府支出の 46
パーセントを占めていたが、1974 財政年度には 30 パーセントにまで低下した。ちなみに、
教育や社会保障などに係る支出は、同じ期間に、33.3 パーセントから 50.4 パーセントに増
大した。このような厳しい財政状況の中で、ニクソン政権は世界規模の国防戦略を見直すこ
とになった。6
(2)通常戦力の戦略の改定―NSSM 3 と NSDM 27
ニクソン大統領は、政権発足直後から国防戦略の見直しに着手し、財政面での制約という
国内事情と、中ソ関係の悪化という国際情勢を踏まえ、適切な戦力規模を割り出す際の想定
を、従来の「2 つの大規模侵攻に対する同時防衛」から「1 つの大規模侵攻に対する防衛と
もう 1 つの大規模侵攻に対する部分対処」へと切り替えた(1 と 2 分の 1)
。この決定は、
国家安全保障決定覚書(NSDM)第 27 号にまとめられ、当面の通常戦力の整備基準となっ
た。この NSSM3 に基づく戦略の検討は、五つの異なる水準の米軍の通常戦力の規模と、そ
れぞれの水準に応じて予算手当が可能な国内プログラムを並置して行われたのが特徴的で
ある。ニクソンは、国防戦略が国内プログラムに及ぼす影響を踏まえながら国防戦略を決定
したのであり、実はこうした試みはアメリカ政府内で初めて行われたのだった。7以下、そ
の概略を明らかにする。
ニクソンは 1969 年 1 月 21 日に、
「アメリカの軍事態勢とバランス・オブ・パワー」と題
した国家安全保障研究覚書(NSSM)第 3 号を発出し、国防戦略の見直しを指示した。NSSM3
は、異なる予算水準に応じた米軍の核戦力と通常戦力のあり方と、その安全保障、対外政策
6
Ibid, pp.65-67.
“HAK Talking Points with Schultz and Ehrlichman on DPRC, Defense Budget,” undated, Box H098, Meeting Files (MF), NSC Institutional Files (NSCIF), Richard Nixon Presidential Library
(RNPL), Yorba Linda, CA.
7
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上の影響について検討するように指示するものであった。8NSSM3 は、米軍の核戦力と通常
戦力の双方について検討を指示するものであったが、両者は切り離されて検討され、国防支
出の約 6 割を占める通常戦力について検討した省庁間運営会合は、69 年 9 月 5 日付で報告
書を提出した。この報告書では、下記のような 5 つの戦略と、それぞれの戦略がいかなる国
内事業を可能にするかを示す内容であった。
(この当時、米軍の核戦力部隊は、国防支出の
約 25 パーセントを占めていた。
)
国内事業は、第 1 種から第 4 種まで優先度別にカテゴリー化された。第 1 種事業(71 財
政年度は 50 億ドル、75 財政年度は 210 億ドル)には、社会福祉事業、各州への歳入再分
配、都市交通機関整備事業、初等・中等教育支援、犯罪対策事業、高速道路保全事業、水・
大気汚染対策事業、職業訓練事業、郊外住宅整備事業、下水・廃棄物処理事業、小児保健・
発達支援事業などが含まれていた。第 2 種事業(71 財政年度は 20 億ドル、75 財政年度は
80 億ドル)には、航空整備事業、高等教育支援事業、包括的な労働力拡大事業、環境保全
事業、国際開発援助事業などが含まれていた。第 3 種事業(71 財政年度は 20 億ドル、75
財政年度は 110 億ドル)には、都市開発・整備事業、身障者向けの公的医療保険、公共セク
ターへの就労支援事業、環境監視事業などが含まれていた。第 4 種事業(71 財政年度は 50
億ドル、75 財政年度は 200 億ドル)には、有人宇宙飛行強化事業、復員軍人支援事業、食
糧配給拡大事業、超音速輸送基盤開発事業、国立公園整備事業などが含まれていた。9
これらの国内事業をどこまで予算手当できるかは、国防支出の水準に懸かっており、示さ
れた 5 つの世界戦略(worldwide strategy)は、下表の通り、その内容に応じて年間所要支
出額が異なっていた。
<NSSM3 の世界戦略と非国防支出>
内容
単位:億ドル
FY71
FY73
手当可能な
FY71
FY73
非国防事業
戦略1
NATO 防衛/アジアでの限
720
710
定侵略に抗する同盟国支援
戦略 2
NATO 防衛あるいはアジア
第 1 種、第 2
90
270
70
200
50
150
種、第 3 種
730
750
防衛(朝鮮半島あるいは東
第 1 種、
第2種
南アジア)
戦略 3
NATO 防衛+アジア防衛
(朝
770
820
第1種
鮮半島あるいは東南アジ
ア)
“National Security Memorandum 3,” January 21, 1969, Foreign Relations of the United States,
1969-1976, Vol. XXXIV (以下 FRUS XXXIV), p. 2.
9 “Paper Prepared by the NSSM 3 Interagency Steering Group,” September 5, 1969, FRUS XXXIV,
p.185.
8
5
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戦略 4
NATO 防衛+アジア防衛
810
960
(朝鮮半島+東南アジア)
戦略 5
ワルシャワ条約機構軍の全面奇
第 1 種財源
4%
6%
9%
14%
所要増税率
860
襲攻撃の撃退+アジア防衛
1,060
第 1 種財源
所要増税率
キッシンジャーはニクソンに対して、69 年 10 月 2 日付の覚書で、戦略 4 と 5 は、ニク
ソンがすでに公約している国内事業を反故にしなければ実現できないという理由を挙げて、
そもそも検討に値しないと退けた。国内事業の財源確保がまず優先され、残余の財源で国防
戦略を検討していた事実をここに確認できる。なお、増税して国防費を増額する案があっさ
りと退けられたのは、それらを連邦議会が受け入れることはない政治的ムードが存在して
いたからであった。キッシンジャーは、ベトナム戦争によって「反軍事の熱狂」が生み出さ
れていたので、非国防支出に国防支出を競合させるような働きかけは、全く無駄に終わる公
算が高かったと述懐している。10
また、この覚書でキッシンジャーは、戦略 2 の採用をニクソンに進言しているが、その理
由として、①アジアにおける中国との通常戦は、予期されるものでもなければ、アメリカの
利益にも適わない、②アメリカが中ソ両国と同時に戦争する可能性は低い、③不確実性に備
えるという観点から戦略 1 よりも規模の大きい戦力を保持するのが望ましいし、仮に戦略
1 に移行するとしても二段階に分けて移行するのが望ましいことを挙げた。ただし、戦略 1
についてキッシンジャーは、陸軍部隊 10 個師団と 2,200 機の戦術航空機を削減することに
なるので、アメリカが防衛コミットメントを減じていないと主張するのは極めて難しくな
ると指摘し、否定的な見方を示した。11
なお、キッシンジャーが中ソとの同時戦争の可能性が低いとの見通しを持っていたのは、
いわゆるデタント外交を進める意思を持っていたからというよりも、1969 年 3 月にいわゆ
るダマンスキー島事件が発生し、中ソ関係が一触即発の事態に陥るほど悪化していたから
だったと考えられる。この時点で米ソ・米中関係の改善を確たるものにできるとの見通しは
まだ立っていなかったが、中ソ関係は目に見えて悪化していたからである。69 年 5 月下旬
と 6 月初旬には、ソ連軍が中国を仮想敵に据えた大規模な軍事演習を実施したほか、8 月 2
日以降、ソ連及び東欧、極東地域のソ連空軍機が全て一斉に活動を停止したため、米政府内
では、ソ連による対中軍事攻撃の可能性があるとの見方が広がった。というのも、空軍機の
一斉活動停止は、大規模軍事作戦を開始する間際の航空機に燃料・弾薬を補給し、戦闘序盤
で敵からの攻撃を回避すべく一斉発進するために取られる措置だと理解されていたからで
ある。8 月 12 日付で作成された国家情報見積(NIE) 11/13-69「ソ連と中国」は、ソ連が、
大規模戦争に陥らずに中国の核施設やミサイル施設を攻撃できると考えている可能性もあ
ると指摘し、今後も中ソ間の緊張が高まり、国境沿いで定期的に中ソが武力衝突する可能性
10
11
Henry A. Kissinger, The White House Years, New York: Simon & Schuster, 1979, p.215.
“Memorandum From Kissinger to Nixon,” October 2, 1969, FRUS XXXIV, pp.212-214.
6
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
は高いとの見通しを示していた。12
ニクソンは、キッシンジャーからの覚書にイニシャルをして戦略 2 の採用を承認し、69
年 10 月 11 日付で NSDM27「アメリカの軍事態勢」が正式に決定された。なお、NSSM3
は、翌 70 年 7 月 1 日までにベトナムでの戦闘が停止するとの前提を置いた予算見積額を検
討していたが、NSDM27 では、71 年 6 月 30 日までに在ベトナム米軍兵力を 26 万人にま
で削減し、73 年 6 月 30 日までに戦闘を終結させるとの前提に基づいた国防支出見積額も
示され、71・72 財政年度は 760 億ドル、73・74 財政年度は 750 億ドル、75 財政年度は 760
億ドルとされた。13アメリカ政府内で、国防支出と非国防支出を並列させて検討したのは初
めての試みであり、ニクソンは NSDM27 に至る検討と決定の過程を非常に高く評価してい
た。14
(3)国防費の削減と NATO 政策の見直し
NSDM27 は、米軍の通常戦力を整備するための予算編成方針だったが、それはあくまで
も方針であり、国防省は連邦予算局(BoB)と大統領、さらには連邦議会によって国防費を
容赦なく削られていくことになる。国防予算をめぐる攻防は、ニクソンが 69 年 9 月 17 日
に NSDM26 で新設した国防プログラム検討委員会(DPRC)などで繰り広げられた。
BoB は 69 年 8 月に 71 年度予算概要枠を示し、ニクソンの国内事業予算を踏まえて、国
防支出額は 725 億ドルと設定されており、NSDM27 が採択された後にも、この目標予算額
は有効とされていた。この目標額を達成するためには、国防省は支出額を前年度から 22 億
ドル削減しなければならず、これには、ベトナムから撤退させる兵力をより速くかつ多くす
るか、アメリカ本土の米軍の兵力数と即応性を低下させるかしなければならなかった。69
年 12 月 9 日の DPRC では、22 億ドルの削減分のうち、15 億ドルをベトナムから 19 万人
を撤兵させることによって達成し、7 億ドルを米軍総兵力から 20 万人削減することによっ
て達成することで一旦は合意に至った。この国防省内での合意内容がそのまま実行される
とすれば、1971 年 6 月末にベトナムには 26 万人の米軍兵力が残留し、米軍総兵力は 315
万 9 千人から 294 万 2 千人まで削減することになった。
しかし、その十日後に BoB は、さらに 18.7 億ドルの国防支出の削減を求めてきたので、
8 月 13 日には、新疆とカザフスタンの国境付近で中ソの軍部隊が衝突し、中国側に死傷
者が多数出たと伝えられたほか、同 18 日には、国務省情報調査局のスティアマン
(William Stearman)が、在米ソ連大使館第二部のダヴィドフ(Boris Davydov)からの求め
に応じて面談した際、後者が前者に対して、ソ連が中国の核施設を攻撃した場合、アメリ
カはいかに対応するかと質し、これは真剣な質問だとしてその趣旨を詳しく説明した。こ
の情報は国務省から CIA、DIA、ホワイトハウスにもたらされ、キッシンジャーはホワイ
トハウス特別行動グループ(WSAG)を招集して、この情報を検討したほどであった。
National Intelligence Estimate, August 12, 1969, FRUS XXXIV, p.235-236;Editorial Note, FRUS
XXXIV, p. 236-237;Memorandum of Conversation, August 18, 1969, FRUS XXXIV, p. 238-240.
13 National Security Decision Memorandum 27, October 11, 1969, FRUS XXXIV, p.224.
14 HAK Talking Points with Schultz and Ehrlichman on DPRC, Defense Budget, undated.
12
7
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
レアード(Melvin Laird)国防長官は 12 月 20 日にニクソンに掛け合って、ベトナムでの残
留兵力数を 71 年 6 月末時点で 26 万人に固定する決定を取り付け、ベトナムからの撤兵を
早めることによる国防支出の削減と陸軍を縮小させる流れに歯止めをかけようとし、ニク
ソンはそれを了承した。しかし、同じ日に今度はニクソン自身が、国防支出を 3.35 億ドル
削減するように指示を出し、12 月 30 日には国防省の文民職員を 30 万人解雇するように求
め、そこにさらに 5-6 億ドル程度を削減できないか検討するように指示した。レアードの
抵抗によって文民職員の解雇は見送られたが、最終的に 70 年 1 月 15 日の閣僚会合では、
725 億ドルの国防予算からさらに 5 億ドルを追加削減することが決まった。この一連の決
定により、70 年度から 71 年度にかけて、米軍の総兵力は 55 万 1 千人削減され、国防省の
文民職員は 13 万人解雇され、国防関連産業の労働者が 64 万人失職することになった。1570
年 2 月 2 日に連邦議会に 71 年度の大統領の予算要求を提示したニクソンは、歳入が 2,021
億ドル、歳出が 2,008 億ドルとなり、13 億ドルの財政黒字を見込めると発表し、連邦財政
支出に占める非国防支出の割合が 41 パーセント、国防支出の割合が 37 パーセント(712.5
億ドル)となり、
「ここ二十年来で初めて教育、保健、所得保障、恩給といった非国防支出
が国防支出を上回った」とニクソンは説明した。16
しかし、この頃の世論は、国防費の削減を支持する意見が 49 パーセントに上っており、
こうした声は連邦議会での予算審議に反映され、ニクソン政権の 71 年度国防予算案はさら
に削られることになった。レアード国防長官は、上下院の軍事委員会や下院歳出委員会にお
いて、F-111 戦闘爆撃機や 3 隻目のニミッツ級空母、C-5A 大型輸送機、AH-56A ヘリコプタ
ーの開発や生産などをめぐって厳しい質問にさらされ、国防予算額の修正を重ね、譲りえな
い最後の一線は 687 億ドルだと訴えた。しかし、連邦議会は非国防予算を増額しながら、
歳入を増やす措置をとらず、国防予算の審議を後回しにして、71 財政年度が開始した後に
も予算を確定させず、最終的に 70 年 12 月 16 日に承認した 71 年度国防予算額は 665.96
億ドル(総額 724.9 億ドル)と、大幅な減額になった。
71 年度予算の審議と並行して、国防省内ではすでに 69 年 12 月から 72 年度予算の作成
作業が始まっていた。JCS は国防情報と NSC での政策方針を踏まえて 69 年 12 月初めに
パッカード(David Packard)国防副長官に、統合戦略目標計画(JSOP)72-79 を提出し、
NSDM27 で決定された「1と 2 分の 1」戦略に基づいた米軍の運用計画を提示し、パッカ
ードは 70 年 1 月半ばに、72 年度の国防予算枠を NSDM27 で定められた通りに 760 億ドル
に設定し、これを上限とした予算を編成するように指示した。予算削減圧力がかかっていた
統合参謀本部は、上限額を引き上げなければ NSDM27 の戦略を実現できないと抵抗した。
JCS によれば、NSDM27 は NATO 防衛を 90 日間と想定しているため、90 日を超えた場合
には、様々な展開がありうるものの、アジアの米軍兵力を欧州にスウィングさせなければな
15
Hunt, Melvin Laird, pp.259-265.
Annual Budget Message, FY 1971, February 2, 1970, Nixon Public Papers 1970, pp.46-56, and
fn 40.
16
8
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
らなくなる事態も予想され、そうした必要が生じれば、部隊や装備、補給品の輸送が困難を
極め、ソ連が太平洋方面で妨害作戦に出る恐れもあるので、より重厚な兵力配備と同盟国支
援の体制を組まねばならない、そのためには 760 億ドルでは足りないと主張した。これに
対してパッカード副長官は、70 年 3 月に回答文書において、予算方針をまず守り、可能な
範囲で戦略方針を実現するように求めた。17
予算方針を貫徹するためには、米軍は戦力を削減しなければならなかったが、NATO の米
軍について言えば、NATO で即時運用が可能な「カテゴリーA」戦力のうち、戦艦 3 隻、駆
逐艦 12 隻などを削減し、今後 NATO に実戦配備が予定されている「カテゴリーB」戦力の
配備を見送らなければならないことを意味していた。ニクソンは、米海軍部隊の削減に関す
る NATO との協議開始を承認したが、レアードに対して、NATO 諸国と妥協する余地を残
すように指示した。この削減案に対して NATO の米海軍司令官(SACLANT)は、ソ連の潜
水艦戦力が増強されつつある中で、米海軍の対潜水艦戦能力や大西洋のシーレーン防衛能
力を削ぐべきではないと警告したが、NATO 諸国から大きな反対が出なかったため、70 年
8 月にレアードは統合参謀本部と海軍に対して、該当する海軍部隊の廃止を指示した。18
ニクソンは、70 年 9 月末から 10 月初めにかけて欧州を訪問することになったが、この
訪問に先立ってロジャーズ(William Rogers)国務長官がニクソンに対して、在欧米軍を削
減するのは好ましくないと訴えた。ロジャーズは外交上の理由をいくつか挙げながら、在欧
米軍の現行水準に維持すれば、それはソ連との将来的な戦力削減交渉のカードになりうる
と指摘した。19ニクソンはロジャーズの進言を受け入れ、ブロジオ(Manlio Brosio)NATO
事務総長に対して、アメリカが在欧米軍を一方的に削減することはないと確約し、東西間に
おける多国間の相互戦力削減という文脈でのみ米軍兵力の削減を検討しない意向を記者会
見で明らかにして、連邦議会による在欧米軍削減に反対する態度を明らかにした。欧州歴訪
を経てニクソンは、NATO 諸国に米軍駐留に関連する支出を還付させるよりも、それら諸国
に自国の国防費を増額させる方が、アメリカ国内で在欧米軍を維持するうえで決定的に役
立つとの考えを固めた。20換言すれば、従来のオフセットによる支払いを打ち切るとニクソ
ンは判断したのだった。
その結果、米国防省はさらなる苦境に立たされた。国防省は、NATO 諸国からのオフセッ
ト支払によって米軍兵力を維持しようとしていたが、それが断たれたうえに、ニクソンは 70
年 9 月に国防予算を 760 億ドルから 745 億ドルに削減する決定を下したからである。レア
ードは、在欧米軍部隊を撤退させるよりほかに方法はないとニクソンに訴えたが、キッシン
17
Hunt, Melvin Laird, pp.280-282.
Hunt, Melvin Laird, p.318. この米海軍力削減は 12 月に実施されることになるが、NATO
諸国への通告は見送ることになった。
19 Memorandum from Eliot to Kissinger, September 25, 1970, Haig Chron Sep 25-30 1970, Box
972, Haig Chronological Files (HCF), National Security Council Files (NSCF), RNPL.
20 Nixon Remark on European Trip, Nixon Public Papers 1970, p.806; Memorandum from
Sonnenfeldt to Kissinger, October 9, 1970, NATO Vol 9-1, Box 260, Agency Files (AF), NSCF,
RNPL.
18
9
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
ジャーやヘイグらは、在欧米軍を撤退させれば、アメリカと NATO 諸国の関係が弱体化す
るとして反対した。ニクソンは、レアードが一方的な在欧米軍撤退に勝手に動くのを止める
べく、NATO の米軍兵力数を 31 万 9 千人で維持し、71 年度から 76 年度までの間に、在欧
米軍兵力と関係人員を削減してはならず、あらゆる兵力撤退案は、全て DPRC での検討を
経なければならないとする決定を 70 年 10 月末に通達した。ニクソンは、在欧米軍の撤退
を禁じ、NATO 諸国に負担分担を無理強いしないとする判断を固めたのだった。21
NSDM27 を踏まえた NATO 政策の見直しは、こうした厳しい財政面での制約の中で行わ
れることになった。NSDM27 が決定された 69 年 10 月の翌月に、NATO における米軍の所
要兵力の検討を指示する NSSM84 が発出された22。これを受けて 70 年 5 月と 6 月に報告
書が作成されたが、在欧米軍が 3 万人削減されても米軍の抑止力や戦闘力に大きな影響は
出ないとする結論に対して、統合参謀本部からも NSC 事務局からも異論が噴出したため、
ナッター(Warren Nutter)国際安全保障担当国防次官補が責任者となり、NSC スタッフの
リン(Laurence Lynn)が補佐する形で、報告書を改めて作成し直すことになり、70 年 11
月 19 日の NSC で審議されることになった。この会合でレアード国防長官は、国防予算を
枠内に収めるためには、やはり在欧米軍を削減するしかないと主張したのに対し、キッシン
ジャーは、少なくとも NATO 諸国が十分に通常戦力を強化するまで在欧米軍を撤退させる
べきではないと反論し、ロジャーズ国務長官も、アメリカが一方的に兵力を撤退させれば、
NATO 諸国はソ連と手を握りかねないと反対した。23
こうした議論を経て、ニクソンは NATO 防衛のための米軍を強化する決定を下した。70
年 11 月 25 日に発出された NSDM95 は、ワルシャワ条約機構軍の全面攻撃に米軍と NATO
軍が持ち堪えられるように、とりわけ通常戦力の戦闘力を強化し、NATO 防衛に係る全ての
米軍部隊が 90 日間、通常戦力によって NATO 諸国を防衛できるような能力と体制を整備す
べきとしたほか、71 年度の在欧米軍の兵力水準を 31.9 万人とした。そのうえで、NATO 軍
の装甲、対装甲能力、航空機、兵站、備蓄、動員、増派といった面での改善措置を講じるよ
うに指示した。24
ニクソンは、在欧米軍の兵力水準を維持し、NATO 軍に兵力を強化すべきとの判断に至っ
たので、国防支出を増額する方針へと転換した。ニクソンによれば、中東におけるソ連軍の
兵力増強、キューバでのソ連軍による基地建設、SALT 交渉でのソ連の消極姿勢などが、こ
21
Hunt, Melvin Laird, p.320-321.
ニクソン政権は、69 年 4 月から NATO 政策の全般的な見直し作業を開始し、同年 7 月
に発出された NSSM65 に基づいて NATO に対する核・通常戦力による攻撃に必要な兵力
の検討作業が行っていた。しかし、その後 10 月 11 日に NSDM27 が決定され、「1 と 2 分
の 1」戦略が採用されることになったので、翌 11 月に NSDM84 が発出されて、この新戦
略を前提とした所要兵力の検討が行われることになった。
23 Memorandum of Conversation, NSC Meeting, November 19, 1970, NSC Minutes 1970 [1 of 3],
Box H-109, NSC/IF, NSCF, RNPL.
24 National Security Decision Memorandum 95, November 25, 1970, at
https://fas.org/irp/offdocs/nsdm-nixon/nsdm-95.pdf.
22
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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の方針転換を促した。キッシンジャーは 70 年 12 月 14 日にレアードに対し、ニクソンが
745 億ドルという当初指示した国防予算枠を、最大で 770 億ドルにまで引き上げる用意が
あると電話で連絡した。25その後、国防省と行政予算管理局(OMB)、キッシンジャーとの
間で国防予算に関する調整が行われ、71 年 1 月 29 日にニクソンが連邦議会に送った予算
教書では、国防予算は 775 億ドルとされたが、連邦政府支出に占める国防支出の割合は前
年度の 36 パーセントから 34 パーセントに低下し、ニクソンは国防予算の増額が、NATO
の即応性の向上と支援体制の強化のためと説明した。26
レアード国防長官は、71 年 3 月から連邦議会で 72 年度予算の審議に臨んだ。3 月 4-5
日の下院歳出委員会でレアードは、ニクソン政権の 5 か年国防計画は、世界の警察官と新
孤立主義の中間を往く慎重な戦略に依って立つものであると説明し、国防予算は非国防予
算よりも低く抑えられていると強調した。27連邦議会では、国防予算の調達予算や研究開発
予算に注目が集まり、F-14 と F-15、シャイアン陸軍ヘリ、空軍 AX 実験機(のちの A-10)
などの開発の効率性やコストが質問に付された。また、マホン民主党下院議員などは、米軍
兵力が 72 年度末に 250 万人にまで削減される中で、はたしてニクソンの戦略を実行可能性
は担保できるのかを質し、レアードとモアラー(Thomas H. Moorer)統合参謀本部議長は、
MIRV、B-1、潜水艦発射弾道ミサイルなど核戦力を強化するための投資も行われると説明す
る場面などもあった。審議は 72 財政年度にもつれ込み、最終的に 71 年 12 月 15 日に承認
された 72 年度国防予算総額は 764.67 億ドルとされた。28
なお、73 年度国防予算の作成作業は 71 年 1 月半ばから始まり、ニクソンは 72 年 1 月 24
日に大統領予算案を連邦議会に提出し、この中で 783 億ドルの国防予算を要求した。この
年の春にベトナムで春季攻勢(Easter Offensive)が発生したため、国防支出に圧力がかか
った。また、連邦議会は引き続き国内プログラム予算を増額し、財政赤字も膨らんでいたた
め、ニクソンは税収を引き上げない限り、国防支出を削らざるを得ない状況が生まれていた。
レアードは国防費だけが削減対象とされるのは不当であり、非国防支出も削減対象とされ
るべきだと公言したため、あくまで国防費の削減を検討するように求めていたニクソンと
ホワイトハウスの逆鱗に触れた。連邦議会での審議を経て、72 年 10 月末に確定した 73 年
度国防予算総額は 757 億ドルとなった。その結果、1969 年から 73 年にかけて、米軍総兵
力数は 346 万人から 225 万 3 千人にまで削減され、陸軍は 151 万 2 千人から 80 万 1 千人
にまで半減されることになった。29
25
Telephone Conversation between Kissinger and Laird, December 14, 1970, folder 2, Box 8, HAK
Telcons, NSCF, RNPL.
26 Hunt, Melvin Laird, pp.288-289; Budget Message to Congress, January 29, 1971, Nixon Public
Papers 1971, pp.80-95.
27 Hunt, Melvin Laird, p.291.
28 Hunt, Melvin Laird, p.293-7.
29 Hunt, Melvin Laird, pp.452, 456-457, 459, 461.
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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2.欧州での軍事バランスに関するアメリカの認識
(1)軍事バランス分析
ニクソン政権は、欧州戦域における東西間の軍事バランスが西側に不利な方向へと悪化
しているとの認識を持っていた。一方で、1960 年代半ば以降、NATO 指揮下の米軍部隊が
ベトナムに投入されていたため、在欧米軍戦力が低下していた。他方で、ソ連が核戦力面で
対米パリティを達成し、通常戦力面でもワルシャワ条約機構軍が NATO 軍よりも優位に立
っているとの理解が浸透しつつあった。30ニクソンは、1969 年 2 月 14 日の国家安全保障会
議(NSC)の席上、
「柔軟反応など戯言だ。相手側は我が方を上回る通常戦力という可能性
を持っている。大量報復できた頃は、我が方にも行動の自由があったが、状況は変わった。
欧州では、通常戦力を劇的に増強することが必要になるかもしれない」と指摘した。また、
キッシンジャーはこの会話の延長で、「欧州諸国は、アメリカの核の傘が先制攻撃に懸かっ
ていることに気づいていない。これはもはや成立していない」と述べ、レアードは、
「在欧
米軍部隊を[ベトナムに]投入したので、柔軟反応も成立していない」と指摘し、ニクソンは、
「核の傘は、もはや存在しない。我々のバーゲニング・ポジションは変化したという事実に
向き合わないといけない」と述べた。 31ニクソンはその五日後の NSC 会合においても、
「NATO への核の傘など馬鹿馬鹿しい。そんなものは存在しない」と繰り返し述べており32、
対ソ関係において核兵器や核兵器による拡大抑止の意味はほぼ消失したと考えていた。ニ
クソンやキッシンジャーをはじめとする米政府関係者らは、対米核パリティを達成したソ
連が、通常戦力を背景にして強硬な行動に出るリスクを懸念し、欧州では、むしろ通常戦力
が重要な意味を持ってくる可能性に注目していた。3371 年 8 月 13 日の NSC 会合で国防戦
略と予算方針を審議するのに先立ってキッシンジャーがニクソンように作成した覚書では、
米ソの核パリティが達成されつつあるということは、ニクソンが対外政策上の目標を達成
するための手段として、核兵器を頼りにしにくくなっており、むしろ「通常戦力こそが対外
政策と戦略の中心的な位置を占めるに至っている」と説明した。34
Lawrence S. Kaplan, “McNamara, Vietnam, and the defense of Europe,” in Mastny et al eds.,
War Plans and Alliances in the Cold War, pp.286-300.
31 Notes of National Security Council Meeting, February 14, 1969, Box H-20, NSC/IF, NSCF,
RNPL.
32 Minutes of National Security Council Meeting, February 19, 1969, Box H-109, NSC/IF, NSCF,
RNPL. ニクソンはドゴール仏大統領と会談した際に、自分が大統領に選出された直後にブ
リーフィングを受け、米ソの核ミサイル数に関する機密情報に接して、アメリカがわずか
にリードしているものの、両国の核ミサイル数がほぼ拮抗している事実に少々驚いたと述
べている。Memorandum of Conversation, March 1, 1969, FRUS 1969-1976 XXXIV, p.38. 1970 年
11 月時点におけるソ連の戦略核戦力に関する情報当局の見積もりは、次を参照。National
Intelligence Estimate 11-8-70, November 24, 1970, FRUS 1969-1976 XXXIV, p.620-628.
33 Notes of National Security Council Meeting, February 14, 1969, Box H-20, NSC/IF, NSCF,
RNPL; Paper Prepared by the Defense Program Review Committee Working Group, August 18,
1970, FRUS 1969-1976 XXXIV, p.579-580.
34 Memorandum from Kissinger to Nixon, undated (memo prepared for August 13, 1971 meeting),
box H-32, NSC/IF, RNPL.
30
12
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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米国防当局が懸念したのは、ワルシャワ条約機構軍の通常戦力を使って NATO 軍の戦術
核兵器を破壊することができれば、アメリカによるエスカレーションが困難になり、欧州に
おいて通常戦のみで勝利できるとの見通しをソ連が持ってしまうリスクであった。という
のも、ソ連軍はすでに 1965 年頃から欧州での限定戦争を想定したドクトリンを採用してお
り、戦争が始まれば核戦争へとエスカレートする可能性が高いと見ながらも、核戦争にエス
カレートする前に通常戦が一定期間続く(conventional pause)という想定を組み込んでい
た。ここでいうソ連軍のドクトリンは、機甲師団(戦車部隊)を波状に編成し、第一波で
NATO 軍前線に突破口を開き、第二波部隊(second-echelon forces)がその突破口を利用し
て、重要な目標を攻撃し、指揮・統制システムを攪乱し、NATO 軍による核兵器の使用を防
ぐというもので、ソ連軍による攻勢のカギとみられていたのは、戦車部隊と作戦機動団
(OMG – Operational Maneuver Group)で構成される第二波以降の後続部隊(Follow-on
Forces)で、OMG は NATO 軍の指揮統制面での攪乱を引き起こす任務を与えられていると
考えられた。従来の NATO 軍の有事計画では、敵戦力と交戦する前線(FEBA – forward edge
of the battle area)で作戦行動を起こすことになっていたが、NATO 軍は開戦直後の約 30 分
間に 120 輌もの敵戦車を迎撃しなければならなくなるため、反転攻勢はおろか、この間に
主要な NATO 軍戦力を撃滅される恐れがあると考えられた。35
米ソ核パリティの時代においては、通常戦力こそが要となるとの判断は、1970 年 11 月
25 日に発出された先述の NSDM95 にまとめられた。「NATO のための米軍の戦力と戦略」
に関する分析と検討の結果を踏まえて、NSDM95 は、
「アメリカとソ連の戦略バランスを踏
まえ、NATO がワルシャワ条約機構軍による通常攻撃を抑止し、要すれば防御するための、
信頼性のある通常戦力による防衛態勢を有することは死活的に重要である」とするととも
に、
「通常戦力による防衛に一層の重点をおくべき」とした。また、戦力の整備に関する箇
所では、ワルシャワ条約機構軍による全面攻撃に NATO 側が通常戦力で 90 日間対応できる
ように、在欧米軍の即時的な戦闘力の強化を図るべきとした。36
ただし、そこには難しい問題が伏在していた。すなわち、人件費と兵器の開発・調達費の
高額化が、予算面での制約と相俟って、米軍戦力を急激に低下させていくリスクが生じてい
たのである。戦略爆撃機 B-1 をはじめとする従来の兵器は高額化が進んでおり、実際のと
ころ、兵器の開発・調達費と人件費が増加の一途を辿る中で、「1と 2 分の 1」戦略をまと
もに実行できるかどうかは不確かとなり、政権首脳陣のレベルで重大な問題として受け止
められた。71 年 5 月にキッシンジャーはニクソンに覚書を送り、人件費と兵器の開発・調
達・維持に係るコストが増大していることによって、すでに米軍の規模の縮小と即応性の低
下を強いられており、今後も人員削減を進めていけば、軍事と外交の両面でソ連との競争を
有利に展開できなくなると指摘し、ニクソンの注意を喚起した。これを受けてニクソンはレ
35
Kimberly Marten Zisk, Engaging the Enemy: Organization Theory, and Soviet Military
Innovation, 1955-1991, Princeton: Princeton University Press, 1993, pp.130-131; Tomes, U.S.
Defense Strategy, pp.120-121.
36 National Security Decision Memorandum 95, November 25, 1970.
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アードに対し、このままではコスト面の影響で現行の戦略を実行できなくなる恐れがある
として、DPRC でこの問題を検討するように指示した。NSC スタッフのスミス(Wayne
Smith)もキッシンジャー宛の覚書で、国防予算の制約に対応するために、兵力水準と即応
性を犠牲にしてきたために、米軍の規模はここ 3 年で 25 パーセントも縮小し、高価な通常
戦力を削減すれば、抑止力を維持するために核戦力への依存を高めざるを得なくなる危険
があると指摘したのだった。37
(2)第四次中東戦争のインパクト
こうした中、1973 年 10 月に発生した第四次中東戦争が起こると、エジプト側が使用し
たソ連製通常兵器が、イスラエル側の使用したアメリカ製通常兵器に対して十分な有効性
を発揮したことが明らかとなり、同様の兵器が配備されている欧州における軍事バランス
が揺らいでいるのではないかとする懸念がワシントンで広がった。具体的には、次の二通り
の現象が軍事バランスに影響すると理解された。第一に、1970 年代初めまでは、戦車を阻
止できるのは戦車の砲撃のみとされていたが、第四次中東戦争でエジプト軍は、兵士が携行
可能なソ連製対戦車ミサイルを使ってイスラエルの戦車部隊の進軍を食い止める場面が見
られた。第二に、エジプト軍は、ソ連製の防空兵器をイスラエル空軍機に対して使用し、そ
の有効性を証明した。このような形で米ソの通常兵器の使用性能が証明されたため、もしソ
連軍が欧州戦域で同じ対戦車ミサイルを NATO 軍戦車部隊に対して効果的に使用すること
ができれば、ソ連軍は従来よりも多くの戦車部隊を攻撃作戦に振り向けることが可能とな
り、それはすなわち、ソ連軍が NATO 軍の要衝をいち早く制圧する可能性が高まることを
意味していると考えられた。また、ソ連軍が NATO 空軍機に対して有効性の高い防空兵器
を使用すれば、NATO 軍の空中発射型戦術核兵器の有効性が削がれる可能性も高まると考
えられた。さらに、米国防省が第四次中東戦争での戦績データを基にして欧州での NATO 軍
とワルシャワ条約機構軍の戦闘をシミュレートしたところ、NATO 軍が弾薬・兵器を消耗す
るペースが、想定されていたよりも著しく高いということが判明した。このため、もし現状
のまま欧州で開戦すれば、NATO 側が従来想定されていたよりも早い段階で戦術核兵器の
使用に踏み切らねばならなくなることが一部で懸念されるようになった。38
米陸軍は、特に第四次中東戦争の開戦当初の六日間で破壊された戦車の数が、NATO 地域
に配備されている米軍戦車の数を上回っていた事実に注目した。39また、空軍も第四次中東
戦争に注目していた。戦争後まもない 1973 年 12 月 22 日にニクソンが国防省首脳陣と会
談を持った際に、空軍参謀長ブラウン(George S. Brown)将軍は、中東から得た教訓を活
37
Hunt, Melvin Laird, pp.297-298; Memorandum from Kissinger to Nixon, May 26, 1971, and
Memorandum from Nixon to Laird, May 28, 1971, DoD vol.7, Box 227, AF, NSCF, RNPL;
Memorandum from Smith to Kissinger, June 2, 1971, DPRC Mtg 15-17 July 1971, Box H-103,
NSC/IF, NSCF, RNPL.
38 Tomes, US Defense Strategy, pp. 62-63.
39 Donn A. Starry, “Reflections,” in in George Hofmann and Don A. Starry eds., Camp Colt to
Desert Storm, Lexington: The University Press of Kentucky, 1999, p.549.
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かして、離隔発射兵器の開発をさらに進めていく方針であると説明した。40
3.米国防省における通常戦力の革新
国防予算が制約される中で、欧州における東西の軍事バランスが西側にとって不利な方
向へと傾きつつある状況は、アメリカ政府内で兵器システムの革新と、軍事ドクトリンの革
新という二つのイノベーションを引き起こすことになった。米軍の前方展開部隊は、アメリ
カの本格的な介入の引き金になるとする、いわゆるトリップワイヤー説が語られることが
あるが、米国防当局としては、核兵器の使用決定に至るまで自軍兵士を座して死なせるとい
う発想を拒否しており41、むしろいかにして NATO 諸国を巧みに防衛するかという積極的
な考え方の下で各種の取り組みを展開していくことになる。
(1)核戦力を通常戦力で代替する構想の模索―技術面での革新
米国防省内では、欧州における軍事バランスの悪化にどう対応すべきかという課題に、複
数の部局が取り組んでいた。そのうちの一つのネット・アセスメント局(ONA)は、ソ連軍
の演習や訓練マニュアル、そして参謀本部が彼我の戦力の相対関係を見定めるために使用
していた基準などを研究し、ソ連軍の標準作業手続を分析したほか、国防コンサルティング
会社 BDM に「ソ連製兵器と米国製兵器の比較」なる研究を委託し、多くのソ連製兵器の性
能が米国製兵器の性能と同等かそれ以上ではあるものの、唯一、電子機器の分野のみアメリ
カに優位があることを突き止めた。このことから、NATO 軍がワルシャワ条約機構軍に対す
る軍事的優位を回復するためには、電子分野を中心とした先端技術を活用するしかないと
の認識が持たれることになった。42
また、国防原子力庁(DNA-Defense Nuclear Agency)と DARPA43は、
「長期研究開発計
画プログラム(LRRDPP – Long Range Research and Development Planning Program)
」
なる研究プロジェクトを編成してファンディングし、1973 年 6 月から 1975 年 2 月にかけ
て研究が行われた。44 LRRDPP は、ニクソンが米ソ間の核パリティが出現したことで、核
兵器のみによってあらゆる紛争を抑止するのは不可能となり、低次の紛争においては、他の
抑止手段を持つ必要があると述べたことを踏まえ、核兵器による大規模攻撃以外の選択肢
を提供するために必要となる技術を特定する研究を実施した。LRRDPP では、運営委員会
の下に、戦略的オルターナティブ・パネル(議長:ウォールステッター(Albert W.
40
Memorandum of Conversation, December 22, 1973, FRUS 1969-1976 XXXIV, p.131.
Tomes, US Defense Strategy, p.59.
42 Gordon S. Barass, The Great Cold War: A Journey Through the Hall of Mirrors, Stanford:
Stanford University Press, 2009, p.64.
43 いわゆるスプートニク・ショックを受けて、1958 年に先端研究開発事業庁(ARPA)と
して設立され、1972 年 3 月に、国防(Defense)を名称に追加して DARPA となった。
LRRDPP の実施を決定した当時の DARPA 長官は、ルカシック(Steven Lukasik)
。
44 Dominic A. Paolucci, Summary Report of the Long Range Research and Development Planning
Program, Falls Church: Lulejian and Associates, February 7, 1975, DNA-75-03055,
41
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Wohlstetter)
)
、先端技術パネル(議長:ヒックス(D. Hicks))
、弾薬パネル(議長:ローゼ
ングレン(J. Rosengren)
)という三つのパネルが設けられ、民間からも国防コンサルタン
ト四社が検討作業に加わった。45
検討作業では、米ソが適切な規模の核報復能力を保持しているとの前提の下で、核兵器を
使用しない「ソ連による限定侵略(limited Soviet aggression)
」が発生した際に、政治的・
軍事的に有用な兵器システムとは何かを分析した46。ここでいうソ連による限定侵略には、
①第三国間の紛争へのソ連の参戦、②ソ連周辺国へのソ連の侵略、③単一の NATO 加盟国
へのソ連の侵略、④NATO に対するソ連の攻撃、⑤米本土の特定目標に対するキューバ危機
型のソ連の脅威、という五つのケースが想定された。LRRDPP はこのうち、政治・軍事的
解決策を要する②と③のタイプにあたる低次紛争への対応がこれまで十分に検討されてこ
なかったとして、この類型の侵略に焦点を絞った検討を行った。戦略的オルターナティブ・
パネルは、①ソ連軍の侵略部隊を支援するソ連領内のソ連軍部隊に対する攻撃(ベータ攻撃)
と、ソ連領内への戦略的な縦深攻撃(ガンマ攻撃)で構成される強制反応戦略(a strategy
of coercive response)と、②被侵略国内のソ連軍部隊への戦術攻撃(アルファ攻撃)と、ソ
連領内のソ連軍支援部隊への攻撃(ベータ攻撃)で構成される侵略阻止戦略(a strategy of
stemming aggression)という二種類の戦略を構築し、合計 7 つの紛争シナリオ47を基にし
て、これら二種類の戦略を実行するのに必要な能力(兵器技術と弾薬類)を割り出した。そ
こには、各種の地中貫通兵器や、移動式操作機雷、遠隔操作無人機、自動標的捕捉型弾道ミ
サイルといった新たな発想に基づく兵器が含まれていたほか、GPS、子弾型焼夷弾、クラス
ター爆弾、硬化通常弾頭といった既存の技術・兵器についても、改良によってそれらを活用
する方途が広がるとされた。LRRDPP は最終的に、ほぼ必中する非核兵器(near zero miss
non-nuclear weapons)は技術的に可能かつ軍事的に有効であり、多様な有事の下で、これ
まで核兵器を必要としていた任務を代行し、国家指揮権限(National Command Authority)
に大量核報復以外の戦略的な選択肢を提供しうる、と結論付けた。48国防省 ONA 局長マー
45
元軍人の専門家を抱えていた国防コンサルタント四社は、Braddock, Dunn and McDonald,
Inc.(前述の BDM、本拠地:ヴァージニア州ヴィエナ)
、General Research Corporation(本
拠地:カリフォルニア州サンタモニカ)
、Lulejian and Associates, Inc.(本拠地:ヴァージニ
ア州フォールズチャーチ)
、Science Applications, Inc.(本拠地:カリフォルニア州ラホヤ)
だった。
46 より具体的には、①ソ連による限定侵略を抑止するためにアメリカが採用可能な戦略あ
るいは選択肢にはどのようなものがあるか、②それらの戦略を裏付ける軍事的能力とはい
かなるものか、③必要とされる軍事的能力を実現するうえで最も有望なシステム概念と具
体的な技術的アプローチとはいかなるものか、④それらの概念の技術的な実現可能性を示
すために開発されるべき技術ととられるべき研究・開発面での活動とはいかなるものかと
いう四つの課題についての検討が行われた。
47 七つの紛争シナリオの詳細は割愛するが、①ノルウェー、②イラン、③ユーゴスラヴィ
ア、④日本、⑤アラブ=イスラエル、⑥中国=ソ連、⑦キューバ危機のリプレイ、という
七つの紛争シナリオが使われた。
48 Paolucci, Summary Report of the Long Range Research and Development Planning Program,
16
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
シャル(Andrew Marshall)によれば、この分析結果は当時、
「極めて重要な意味合いを持っ
た」
。49
LRRDPP は 1975 年 2 月に検討作業を終えたが、その後 DNA は、BDM 社のブラッドッ
ク(Joseph Braddock)がリーダーを務める LRRDPP の後続研究グループを助成し、同グ
ループは、ワルシャワ条約機構軍の攻勢を通常戦力で打破するのに必要な五つの兵器を特
定した。その五つの兵器とは、①敵地に 300 キロメートル入り込んだ区域内の敵部隊の動
きを捕捉する空中レーダー、②20 キロメートル以内の標的を捕捉する地上配備型監視レー
ダー、③標的エリアに多数の精密誘導弾を投下し、慣性装置とレーダー追跡によって標的に
誘導されるミサイル・バス、④ミサイル・バスから放たれて標的を探知して自動的に攻撃す
る終端誘導型子弾(TGSM – terminally guided submunitions)、⑤レーダー、インテリジェ
ンス情報源、傍受通信などを統合的に分析する迅速な標的照準システムであった。50
さらに、こうした動きと並行して、1973 年に国防研究・工学担当部長(DDR&E)に任命
されたカリー(Malcolm S. Currie)は、DARPA の再編と活性化を進めた。カリーは、国防
省の研究・開発予算を安定的に確保し51、DARPA が本来取り組むべき基礎研究や大型研究
プロジェクトを復活させて成果を挙げたいと考えていた。また、カリーは、軍事技術におい
てこれまでアメリカはリードしてきたものの、ソ連がここ二十年の間に国防技術の研究・開
発に力を入れてきた結果、アメリカに急速に追いつきつつあり、軍事力の質・量の両面で米
ソを総合的に比較すると、両国はほぼ拮抗してきているとみていた。52
そこでカリーは 1974 年に、DARPA 長官にヘイルマイアー(George Heilmeier)を採用
し、DARPA を組織的に刷新して、欧州におけるソ連軍の軍事的優位を相殺するのに必要な
新技術を活用する方途を模索するように指示した。なお、カリー以前の DDR&E は全て核兵
器を専門とする科学者だったが、
カリーは電子分野を専門とする初めての DDR&E となり、
ヘイルマイアーも電子分野を専門とする研究者としての経歴を持っていた。ヘイルマイア
ーは、シュレシンジャー(James R. Schlesinger)国防長官の承認を得て、統合参謀本部長
pp.4-6, 21-45.
49 マーシャルの発言が引用されているのは次。Barass, The Great Cold War, p.65.
50 Richard Van Atta et al., Transformation and Transition: DARPA’s Role in Fostering and Emerging
Revolution in Military Affairs, Volume 1, Alexandria, VA: Institute for Defense Analyses, 2003, p.17;
Robert Tomes, US Defense Strategy from Vietnam to Operation Iraqi Freedom, p.66.
51 当時の DARPA 年次予算は 2 億ドルで横ばい状態にあったが、インフレ等の調整を含ん
でいたので、実質的には予算が減少していく状況に置かれていた。
52 Memorandum from Currie to the Chairman of the Defense Science Board, April 17, 1974, box
FG 13, Subject Files, White House Central Files, RNPL. しばらく後にフォード(Gerald R.
Ford)政権で国防長官に就いたラムズフェルド(Donald H. Rumsfeld)は、アメリカの国防
政策の見直し作業を進め、76 年 11 月 30 日付で NSSM246 報告書をまとめるが、この報告
書も、ソ連がアメリカに軍事技術面で対抗するために精力的に研究・開発事業を進めてい
ると指摘した。ただし、ソ連側は、必ずしも技術の兵器システム化に成功しているわけで
はないとも指摘している。Report to National Security Study Memorandum 246 Prepared by the
National Security Council Defense Review Panel, November 30, 1976, FRUS 1969-1976 XXXV,
pp.495-498.
17
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
や各軍と協議し、向こう十年間にわたる DARPA の投資戦略を策定した。ヘイルマイアーの
戦略は、DARPA 内にいくつか主要な大型の取り組みを編成するというもので、①離隔発射
型兵器と指揮統制通信システムの組み合わせによる後続戦力攻撃、②戦術装甲、対装甲プロ
グラム、③赤外線を用いた宇宙からの地上監視、④宇宙におけるミサイル防衛のための高エ
ネルギー・レーザー技術、⑤対潜水艦戦、⑥先進巡航ミサイル、⑦先進航空機、⑧人工知能
と先進コンピュータ技術の国防利用、⑨ステルス技術といった分野が特定され、1976 年頃
から再編されたプロジェクトが推進され始めた。53
DARPA 内でのこうした取り組みの一環として、同庁の戦術技術局(Tactical Technology
Office)のプロジェクト・マネージャーだったストロム(Leland Strom)は、同局のムーア
(Robert Moore)局長に対し、移動標的位置表示(MTI-Moving Target Indicator)レーダー
を使って、ミサイルを地上標的に誘導し、終端誘導型子弾を使って標的を破壊するという構
想を提示した。また同じ頃にムーアは、防衛産業大手マーティン・マリエッタ社から、電子
光学シーカー付きの終端誘導型子弾を搭載した同社の T-16 ペトリオット・ミサイルを使う
戦場攻撃ミサイル・システム(battlefield interdiction missile system)に関する説明を受け
た。こうした一連の経過を踏まえてムーアは、「統合標的捕捉攻撃システム(ITASS –
Integrated Target Acquisition and Strike System)を DARPA のプロジェクトとして立ち上
げ、米軍の軍事的能力を新たに開発して現実化する計画を立案した。ムーアは、マサチュー
セッツ工科大学のリンカーン研究所に、ITASS で必要となるシステムや技術の実現可能性
を含めた構想の具体化と評価を依頼した。これは先端技術を全く新たに開発するというよ
りも、既存の技術や実現間近の技術を組み合わせる大型のシステム統合の取り組みであっ
たため、巨額の投資が見込まれ、DARPA には必ずしも適していないのではないかとする見
方もあった。しかし、1976 年夏に国防科学理事会(DSB – Defense Science Board)が行っ
た研究(後述)が、レーダー、ミサイル、子弾、センサー、情報集約システムを統合して兵
器システムを編成することは可能との見通しを示すと、いわゆる精密誘導兵器システムの
開発プロジェクトが本格的に動き出す流れが生まれた。54
(2)
「アソルト・ブレイカー」先進技術構想デモンストレーション
1976 年夏に国防科学理事会(DSB – Defense Science Board)は、
「ワルシャワ条約機構
軍による攻撃への対兵力通常攻撃(Conventional Counterforce Against a Pact Attack)」な
53
Richard H. Van Atta, Seymour J. Deitchman, and Sidney G. Reed, DARPA Technical
Accomplishments, Volume III, Alexandria, VA: Institute for Defense Analyses, 1991, pp.Ⅱ-4, 14, 15;
Richard Van Atta et al., Transformation and Transition, Volume 1, p.9.
54 Richard Van Atta et al., Transformation and Transition, Volume 1, p.18. なお、ヴァン=アッタ
は、DSB 夏期研究が国防分析研究所(IDA – Institute for Defense Analyses)の「標的攻撃
研究(target engagement study)
」
、空軍と DARPA による合同研究「リアルタイム標的捕捉
とミサイル誘導更新(real-time targeting and missile guidance update)」
、リンカーン研究所が
具体化した ITASS といった複数の研究プロジェクトの内容を総合的に評価したとしてい
る。
18
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
る研究を行い、翌 77 年 1 月に報告書をまとめた。DSB の夏期研究プロジェクトは、ワルシ
ャワ条約機構軍の砲兵、戦車、指揮・統制・通信、対空防衛システム、戦場阻止攻撃、早期
警戒の各分野に対抗するのに必要な能力を検討するチームを編成して分析を行った。この
DSB 報告書は、レーダーで敵部隊の移動目標を捕捉し、その情報を情報集約センターに集
め、そこで標的を選択して、地上もしくは爆撃機からミサイルを発射し、そのミサイルが飛
行中に航空機レーダーからの移動目標に関する情報を受信し標的情報を更新して、ミサイ
ルが標的の近くで子弾を放出して敵部隊を攻撃するという構想について、その実現可能性
を技術的な見地から検証した。その結果、次の五つの結論に至った。第一に、戦闘管理・兵
器管制システム(Battle Management and Weapon Control Systems)の開発と配備によっ
て、戦術戦闘能力を飛躍的に伸ばす機会が存在する。第二に、空軍と陸軍のセンサー、兵器、
統制、ディスプレイ、通信装置が係わるシステムは、軍種間及び軍種内の個別の部門を横断
するものであり、戦場における統合作戦を要する。第三に、現時点で国防長官官房(OSD)
内にこうしたシステムの開発を主導する部署が存在しないため、DDR&E がこの役割を担う
べき。第四に、現行の体制下でこのシステムを開発することは、管理・組織面で困難なため、
特別な体制を組む必要がある。第五に、このシステムによって生み出される能力は、特別な
体制を組んで開発するだけの価値がある。DSB 夏期研究は、端的言えば、ワルシャワ条約
機構軍の量的優位を相殺することは技術的に可能との見通しを示し、そのために新たな戦
闘管理・兵器管制システムの速やかな開発を進言したのだった。55
1977 年にカーター(Jimmy Carter)政権が発足すると、ブラウン(Harold Brown)国防
長官は研究・工学担当国防次官56にペリー(William Perry)を指名し、ONA 局長マーシャル
とともに、いかにしてアメリカの技術面での優位を軍事的優位に結びつけるかを検討した。
その結果ペリーは、単に先端技術を兵器化するというのではなく、むしろ複数の支援的な役
割を果たす技術システムを新たな形で組み合わせることにより兵器の有効性を高め
(system of systems)、もってソ連の量的優位に対抗するという、いわゆる「オフセット戦
略」の基本的な発想を作り上げた。こうした発想に立った当時の主な研究・開発プロジェク
トとしては、一方でステルス技術があり、他方で精密誘導兵器を中心に据えた一連のシステ
ムがあった。57ペリーは、精密誘導兵器システムは欧州における軍事バランスの問題を克服
55
Defense Science Board, Summer Study on Conventional Counterforce Against a Pact Attack,
January 1977, Office of the Secretary of Defense, Washington Headquarter Services, Declassified in
part on December 5, 2012, esp. pp.21, 23-25.
56 DDR&E が研究・工学担当国防次官という新設ポストに改編された。
57 Bill Owens, Lifting the Fog of War, Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2001, p.8182. なお、本稿では取り上げないが、レーダー、赤外線、音響、視覚の面で極度に探知さ
れなくい戦術航空機を開発するという構想は、ハーヴィー・コンセプトと当初呼ばれ、や
がて DARPA の監督の下でロッキード社が HAVE BLUE とのコードネームのプロジェクト
として研究・開発を進め、F-117A ステルス戦闘機として結実した。TACIT BLUE と呼ばれ
たプロジェクトは、B-2 爆撃機の開発へと結びついた。ハヴ・ブルー・プロジェクトは、
技術システムの完結性が高く、様々なシステムを組み合わせたアソルト・ブレイカーとは
対照的なシステム設計となっていた。
19
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
するカギの一つと判断し、1978 年の 2 月から 3 月にかけて開かれた上院軍事委員会で、次
のようにその重要性を説明した。
精密誘導兵器は戦争に革命をもたらす可能性を有していると、私は考えてい
ます。さらに重要なのは、私たちはこの分野でソ連を引き離しており、この差
を巧みに活用すれば、ソ連の戦車やミサイルに対して我が方が同数で競争す
るといったことをせずして、戦争を抑止する能力を飛躍的に高めることがで
きます。ソ連との競争を、我が方が長期にわたって根本的な優位を維持できる
技術的な分野へと、実質的にシフトするのです..
.私たちの開発する精密誘導
兵器システムは、次のような能力を獲得することを目標としています。すなわ
ち、戦場において全ての高価値の標的を常時捕捉でき、捕捉できる標的を直接
攻撃でき、攻撃できるあらゆる標的を破壊できる能力です。58
ペリーは DARPA 長官にフォッサム(Robert Fossum)を任命し、DSB 報告も踏まえて精
密誘導兵器システムを開発するための特別な体制を組み59、1978 年 5 月に、
「アソルト・ブ
レイカー(Assault Breaker)
」と名付けた開発プロジェクトを始動させた。それは文字通り、
ソ連軍の第二波以降の後続部隊の強襲を挫くための兵器システムの開発を目的としており、
次の四つの要素で構成されていた。60

航空機レーダー:前線から離隔した場所で行動し、敵部隊の動向に関する情報
を集める。航空機搭載のレーダー・システムは、PAVE MOVER と呼ばれた。
(元々空軍が開発していた合成開口レーダーを、DARPA が移動標的位置表示
機能(MTI)付きのものへと改良したものが TAWDS(Tactical Air Weapons
Direction System)となり、その後 PAVE MOVER と改称された。
)

攻撃調整センター:各方面に展開するレーダーを含むセンサー類や他の情報
源から得られたデータを集約する。個別の標的に対する攻撃の決定はここで
下される。

地上発射型弾道ミサイル:発射されたミサイルは自らの慣性装置で飛行し、必
要であれば PAVE MOVER がミサイルに標的の位置に関する情報を再送信し
て誘導情報を更新し、ミサイルが目標地域の「バスケット」に到達する。固定
目標の場合はミサイルが直接攻撃を加え、移動目標の場合はミサイルが子弾
を放出する(子弾を格納しているミサイルは、
「ミサイル・バス」と呼ばれた)
。
58
Richard Van Atta et al., Transformation and Transition, Volume 1, pp.18-19..
アソルト・ブレーカーでは、ペリーを議長とする執行委員会の下に、フォッサムを議長
とする運営グループが組織され、この運営グループが、個別のシステムや技術の開発プロ
ジェクトを運営する DARPA を監督する体制が組まれた。なお、ペリーも DARPA を直接
指揮し、軍種間の協力を促す努力が行われた。特定の企業がとりまとめ役を務めることは
なかった。Richard H. Van Atta, Sidney G. Reed, and Seymour J. Deitchman, DARPA Technical
Accomplishments, Volume II, Alexandria, VA: Institute for Defense Analyses, 1991, p.5-8.
60 Ibid. p.5-8, 5-9.
59
20
森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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マーティン・マリエッタ社製のペトリオット(T16)ミサイルと、LTV 社の T22
(LANCE)ミサイルが試験された。

子弾:ミサイルから放出された子弾が標的を認識し、子弾が標的を直接攻撃す
るか(TGSM の場合)、子弾がさらにペレットを放出して標的を攻撃する
(SKEET と呼ばれた)
。ジェネラル・ダイナミクス社製の TGSM と、AVCO
社製の SKEET が試験された。
アソルト・ブレイカーは、四つのフェーズに分けて進められた。第一フェーズでは、個別
要素の技術水準が、システム全体の所要基準に達しているかどうかが検証された。第二フェ
ーズでは、中核となる個別要素の技術を並行して試験し、必要な改良を加える作業が行われ
た。61第三フェーズでは、個別要素を組み合わせる試験が繰り返された。例えば、航空機と
地上のレーダー情報をミサイルに伝達して誘導する試験や、ミサイルに子弾を搭載して放
出する試験が行われた。第四フェーズでは、1982 年暮れにニューメキシコ州ホワイトサン
ズ・ミサイル試験場において、全ての要素を統合して戦車を攻撃する試験が合計 9 回行わ
れた。PAVE MOVER 航空機レーダーの代わりに地上レーダーを使用し、標的とされた戦車
は停止したままとされるなど、当初の目標条件を全て満たしていたわけではなかったが、最
終試験において、5 両の戦車すべてに TGSM を命中させることに成功した(SKEET は命中
せず)
。この最終試験結果によって、DARPA がアソルト・ブレイカーを通じて追求してきた
精密誘導兵器に必要な技術的能力の獲得が確認された。62
その後、空軍の PAVE MOVER は陸軍が開発していた SOTAS レーダー・システムと統合
されて統合監視目標攻撃レーダー・システム(J-STARS – Joint Surveillance Target Attack
Radar System)
」となり、陸軍が主導して開発してきたミサイル・システムは、
「陸軍戦術
ミサイル(ATACMS – Army Tactical Missile System)
」となったが、アソルト・ブレイカー
のテストから本格的な開発・生産に至るまでしばらく時間を要することになった。63
61
子弾のシーカーの試験は、他の要素とは切り離して行われ、もっぱら子弾が戦車とその
他の熱源を区別してホーミングできるかどうかが検証された。また、子弾の装甲貫通力の
試験も別個に行われ、ジェネラル・ダイナミクス社の TGSM も AVCO 社の SKEET も、
必要な性能を備えていることが確認された。
62 Van Atta et al., DARPA Technical Accomplishments, Volume II, p.5-18.
63 Ibid, p.5-14. ミサイルについて当初、陸軍と空軍が共同して開発する JTACMS 開発プロ
グラムがあったが、空軍は空中発射型巡航ミサイルの開発を進めることにしたため、陸軍
が単独で開発する ATACMS となった。なお、各軍は独自に開発している兵器の開発予算を
アソルト・ブレイカーに奪われたくないとの警戒心があったため、予算上の考慮から、ア
ソルト・ブレイカーに対して慎重な姿勢を見せた。国防長官官房(OSD)と DARPA は、
各軍がアソルト・ブレイカーを基にしたシステムを迅速に開発しなかったことに不満を募
らせたと言われる。
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
(3)米軍の「エアランド・バトル」―ドクトリン面での革新
こうした DARPA の取り組みとは別に、米陸軍は、先述の第四次中東戦争の結果を踏まえ
て、欧州戦域でワルシャワ条約機構軍にどう向き合うかという問題に、ドクトリンの刷新で
対応した。以下にみるように、陸軍のドクトリン刷新は、FM100-5 が 1976 年と 82 年に改
定されることによって進んでいくことになる。
ベトナム戦争が終結した 1973 年 8 月に、米陸軍は組織改編を行い、陸軍本土司令部
(CONARC – Continental Army Command)が、部隊司令部(FORSCOM – Forces Command)
と訓練・ドクトリン司令部(TRADOC – Training and Doctrine Command)に分割されるこ
とになった。後者はヴァージニア州フォート・モンロー基地に司令部を置き、陸軍の訓練、
教育、部隊設計、所要軍需品の検討のほか、陸軍のドクトリン策定を任務とされ、デピュイ
(William E. DePuy)将軍が初代の司令官に就いた。第四次中東戦争が終結すると、デピュ
イは、自身の副官にあたるスターリー(Don A. Starry)少将を 74 年 1 月にイスラエルに派
遣した。スターリーは、ゴラン高原での激しい戦車戦や、スエズ運河沿いでエジプト側が使
用した携行型対戦車有線誘導ミサイルの有効性などに注目し、ハムフェルドⅠ(Humfeld I)
と呼ばれた東西ドイツの国境防衛のウォーゲームなどを通じて、その欧州戦域へのインプ
リケーションと、ドクトリンの基礎をなす概念を検証した。その結果、線状に展開している
米軍部隊が、前線を突破しようと縦列で侵攻してくる敵部隊を側面から挟み込みつつ、敵先
頭部隊を押し止めるための米軍部隊を分厚くしていくという、「アクティヴ・ディフェンス
(active defense)
」なる概念を考案した。ところで、諸兵科連合ドクトリン(combined arms
doctrine)は、フォート・リーヴェンワース基地の諸兵科連合センター(CAC – Combined
Arms Center)と指揮幕僚大学(CGSC – Command and General Staff College)の所掌であ
ったが、当時の責任者がまともなドクトリンを作成できていないとして、デピュイは CAC
と CGSC を締め出す形で陸軍ドクトリン FM100-5 の改定に乗り出した。
TRADOC は 76 年 7 月に、アクティヴ・ディフェンスを基礎とした FM100-5 改訂版を発
出したが、各方面から批判を浴びることになった。76 年版 FM100-5 は、米軍部隊が固定さ
れた防御位置から敵部隊を迎撃するという受動的な消耗戦を基本とする内容だった。この
ことから、火力の規模と消耗戦に注目するあまり、米軍部隊の機動性を活用する方途を見過
ごしているとか、ソ連軍部隊が一箇所に攻勢を集中させることを想定しているが、戦闘部隊
に後続するソ連軍部隊に対してどのように対応するかが欠落している、このようなドクト
リンを実行することは不可能、そもそも欧州を想定したドクトリンを、世界各地に展開する
米陸軍全体のドクトリンとするのはおかしい、といった様々な批判に晒された。77 年に
TRADOC 司令官に就任したスターリー将軍は、敵部隊が前線を突破する前に集中攻撃を浴
びせて、第二波部隊が到来する前に、地形を巧みに活用して敵先頭部隊を撃破すると説明し
たが、それでも批判は止まなかった。64
Richard M. Swain, “AirLand Battle,” in George F. Hofmann and Donn A. Starry eds., Camp Colt
to Desert Storm: The History of U.S. Armored Forces, Lexington: University Press of Kentucky,
64
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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1979 年にメイヤー(Edward C. “Shy” Meyer)将軍が陸軍参謀長に就任すると、スターリ
ーに対して、FM100-5 の範囲を戦術レベルから作戦レベルにまで広げて改定するように指
示した。メイヤー将軍の側近だったリチャードソン(William R. Richardson)少将が CAC
と CGSC(フォート・リーヴェンワース基地)の司令官に就任すると、TRADOC 司令官ス
ターリーは、FM100-5 の改定責任を CAC と CGSC に返還し、リチャードソンが責任者と
なって FM100-5 の改定が進められることになった。65
しかし、スターリーは、ソ連軍の第二波部隊の問題に引き続き取り組んだ。スターリーは、
77 年 1 月に再びイスラエルに出向き、第四次中東戦争を作戦レベルの視点から再検証し、
戦場を時間と距離の両面で拡大するという発想に至った。その後スターリーは、BDM 社の
専門家ブラドックが国防原子力庁(DNA)に提出したソ連の核兵器に対する縦深攻撃につい
ての研究報告書などを参考にして、81 年 3 月の『ミリタリー・レビュー』誌の論文「戦場
を拡張する(Extending the Battlefield)
」を発表し、
「ディープ・バトル(Deep Battle)
」な
る概念をまとめた。ここで注目すべきなのは、スターリーは、上記のブラッドックの研究報
告をみて、先端的な兵器運搬手段と命中精度の飛躍的な向上によって、かつて核兵器の使用
を必要としていた攻撃が、いまや通常弾頭によって達成可能になったと確信したと述懐し
ていることであり66、これは兵器システムの革新がドクトリンの革新に作用したことを物語
っている。ディープ・バトルは、欧州戦域において NATO 側に縦深性を求めることができ
ない状況の下、ソ連軍の第二波が前線に到達するはるか前に、敵地奥深くで後続部隊を攻撃
しつつ、同時並行で前線において戦闘部隊を迎え撃つというもので、米軍の攻撃作戦の範囲、
すなわち戦場を前線から敵地側へと延伸(extend)するという発想に立っていた。前線から
12 時間以内の到達範囲にいる敵部隊は旅団レベルで対応し、24 時間以内の到達範囲にいる
敵部隊は師団レベルで対応し、72 時間以内の到達範囲にいる敵部隊は軍団レベルで対応す
るとされており、敵地への縦深攻撃を不可欠としていたため、陸軍が空軍を頼らなければな
らない構想だった。TRADOC のデピュイ将軍がかねてから空軍の戦術航空軍団(TAC –
Tactical Air Command)司令官のディクソン(Robert J. Dixon)将軍との関係を良好に保っ
ており、スターリーが TRADOC 司令官を務めていた時も、空軍のカウンターパートにあた
るクリーチ(William Creech)将軍と欧州赴任が重なっていたこともあって、TRADOC と
TAC の関係が保たれていた。こうした背景もあり、1981 年に陸軍と空軍との間で、空軍の
対地支援攻撃の割り当てについて了解覚書を取り交わすに至った。67
リチャードソンは、FM100-5 の改定チームに、ワスドセイジ(Huba Wass de Czege)中
佐とホルダー(Leonard Holder)少佐、シンライク(Richard H. Sinnreich)中佐、ヘンリッ
1999, pp.362, 366-367, 370, 372. ロバート・タフト・ジュニア上院議員の補佐官だったリン
ド(William Lind)が『ミリタリー・レビュー』誌上で 76 年版 FM100-5 に対する批判を披
露し、話題を呼んだ。
65 Swain, “AirLand Battle,” p.381, 383.
66 Donn A. Starry, “Reflections,” pp.552-553.
67 Swain, “AirLand Battle,” p.383.
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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ク(Richmond B. Henriques)中佐ら新進気鋭の人材を採用した。TRADOC からドクトリン
の起案を取り戻したフォート・リーヴェンワース基地の CAC を拠点としたこのチームは、
ホルダーが中心となってディープ・バトル概念を精緻化し、アクティヴ・ディフェンス構想
を放棄した。82 年 8 月に正式に改定された FM100-5 は、機動によって主導権を握り、縦深
攻撃によりソ連軍の後続部隊を撃破する攻勢重視のドクトリンとなり、陸軍と空軍の軍種
間連携を不可欠としたことから「エアランド・バトル(AirLand Battle)」と名付けられた。
エアランド・バトルは、NATO のドクトリンとの整合性も担保されているとされたが、その
適用範囲は世界規模とされ、要すれば核兵器や化学兵器の使用も織り込める内容だとされ
たことから、NATO 諸国の間で物議を醸すことになった。68
ところで、その NATO については、欧州連合軍最高司令部(SHAPE)が 1979 年暮れか
ら、NATO 軍の一般防御位置(General Defensive Position)を攻撃するソ連軍部隊を対処可
能な規模にまで撃滅するための方策を検討し始めていた。このとき SHAPE は、「後続部隊
攻撃(FOFA – Follow-on-Forces Attack)」と呼ばれることになる作戦概念の立案に着手して
いたのである。欧州連合軍最高司令官(SACEUR)のロジャーズ(Bernard W. Rogers)将
軍は、ワルシャワ条約機構軍が 81 年に実施した軍事演習 Zapad-81 において、機構軍が作
戦機動団(OMG)を活用していることを知り、スターリーと同様、第二波及びそれに後続
する全ての部隊を攻撃する必要があると認識した。FOFA は、防御態勢にある NATO 軍部
隊が、やはり前線到達まで 24 時間、48 時間、72 時間かかる距離にいるソ連軍部隊を攻撃
するのに必要な態勢を概念化するもので、①米陸軍と空軍の縦深戦闘・航空阻止(Deep
Battle and Air Interdiction)作戦を調整し、前線から 150 キロメートル離れたソ連軍を標的
にし、②空軍の攻撃作戦を前線から敵地側の 300 キロメートル先にまで展開し、③地上及
び空中からの攻撃を戦闘情勢に応じて迅速に適応させられるような技術とドクトリンをさ
らに開発することを柱とする内容だった。なお FOFA は、あくまで原状の回復を目標とす
るもので、その目標達成に必要な限りで敵地侵入攻撃を行い、核兵器は使用せずに、できる
だけ通常戦を戦うことが想定されていたので、米陸軍のエアランド・バトルとは基本構想が
異なっていた。69
ロジャーズは、81 年 10 月に FOFA 概念を NATO 軍事委員会に提案し、同委員会は FOFA
を「軍事概念枠組み(Conceptual Military Framework)
」と呼ばれた戦略文書 MC299 として
採択した。この間、アメリカ以外の NATO 諸国は、未完成の高価な技術に頼り過ぎている、
もしソ連軍が OMG を第一波で使用すれば、NATO の FOFA 部隊は作戦行動を起こす前に
68
Ibid, pp.382, 384-385. 核兵器の使用が必要となる全般的な状況が存在する場合、後続部
隊攻撃は、核兵器の使用承認を取り付けるための時間を稼ぐための手段と陸軍内の一部
(砲兵部隊)では考えられていた。John L. Romjue, From Active Defense to AirLand Battle: the
development of Army doctrine, 1973-1982, Fort Monroe, VA: Historical Office, United States Army
Training and Doctrine Command, 1984, pp.37-38.
69 U.S. Congress, Office of Technology Assessment, New Technology for NATO: Implementing
Follow-on Forces Attack, OTA-ISC-309, Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, June
1987, at https://www.princeton.edu/~ota/disk2/1987/8718/8718.PDF.
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
※著者の許可なき引用はお控えください。
撃破されてしまう、NATO は防衛的同盟であるのに、敵地奥深くを先制的に攻撃する FOFA
はあまりにも攻撃的で、危機安定性を損なう、FOFA は通常戦を長引かせるもので、アメリ
カの核による安全の保証が減退している証である、FOFA は新たな軍拡競争を引き起こすの
で、既存の軍備管理の枠組みを損なう、といった批判を行った。しかし、最終的に FOFA は
82 年春に NATO 閣僚理事会で承認され、さらに 84 年 11 月の NATO 国防相会議において
長期計画指針(Long-Term Planning Guideline)として採択された。70
おわりに
ニクソン政権は、ベトナム戦争を終結させて戦費を縮小し、連邦政府予算を非国防プログ
ラムに重点配分しながら、同盟国に対する財政負担要求を取り止める決定を下し、国防支出
の財源が切迫する中で、有事想定規模を「1と 2 分の 1」へと改定する国防戦略を策定した。
ニクソンは国防費を漸増させる方針へと欧州での東西間の軍事バランスが西側にとって不
利な方向へと傾いていく中で、国防予算の大幅な削減を引き起こすことになり、核兵器への
依存度を高めざるを得ない状況を生み出していた。しかし、米ソの核パリティが出現したこ
とにより、アメリカにとって核兵器の使用は政治的に困難になっていたのが現実であり、ア
メリカは信頼性のある抑止力をいかにして確保するかという困難な戦略的課題に直面する
ことになった。米国防省は、
「アソルト・ブレイカー(Assault Breaker)」なる精密誘導兵器
システムのプロトタイプや、
「エアランド・バトル(AirLand Battle)」や「後続部隊攻撃(FOFA
– Follow-on-Forces Attack)」といったドクトリンの革新によってこの課題を克服しようと
した。米ソ核パリティという環境下で通常戦力の戦略的意義が高まっていた中で、ベトナム
戦争やアメリカ経済の停滞によってもたらされた国防支出の制約は、皮肉にも国防分野に
おけるイノベーションを引き起こし、それが結果的に欧州における米軍の通常戦力強化に
結び付いたのだった。
本稿はソ連側資料の検証に及ぶものではないが、こうした米国防省のイノベーションに
対して、ソ連はどのように反応していたのだろうか。アメリカと NATO による通常戦力の
革新に対するソ連の反応についてのこれまでの研究は、ソ連は米軍や NATO 軍における革
新に気づき、やがて自軍のドクトリンや訓練の見直しを行ったとする見方を示している。蛇
足になるが、これまでの研究の解釈を示しておきたい。
まずソ連は、米国防当局による革新に気づいていたのだろうか。バラス(Gordon Barass)
によれば、1975 年 12 月 14 日の時点で KGB 議長アンドロポフ(Yuri Andropov)は、ソ連
共産党政治局常務委員会への報告で、NATO が通常攻撃を撃退する能力を飛躍的に高める
一連の先端技術兵器の開発に乗り出していると述べていた。71また、ジスク(Kimberly M.
Zisk)は、78 年頃になると、ソ連軍の軍事誌『ZVO(Zarubeznoe Voennoe Obozrenie)
』に
おいて、アメリカと NATO が高度な戦術指揮・統制システム、無線電子情報収集・標的捕
70
71
Zisk, Engaging the Enemy, pp.136-137.
Barass, The Great Cold War, p.199.
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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捉システム、精密航空攻撃システム、レーザー、対戦車兵器を開発していると指摘する論文
が散見されるようになっていたが、この当時のソ連側の認識は、これらは前線から下がった
場所を拠点にして使用する離隔攻撃兵器の開発と認識しており、敵地への縦深攻撃を想定
したものとは理解していなかったとしている。しかし、ジスクによれば、
『ZVO』誌の 1983
年 8 月号に掲載された論文を皮切りに、これ以降、NATO 側の戦争計画に重大な変化が生じ
ているとする論文が次々と刊行され、それは概ね次の三点を指摘していた。第一に、NATO
の説明とは裏腹に、新たなドクトリンは、地上軍と戦術航空軍を連携させながら高度に機動
的な攻撃作戦を行い、またワルシャワ条約機構軍の第二波部隊の侵入や移動を攪乱しよう
とするものである。第二に、NATO の軍事演習を見る限り、ワルシャワ条約機構軍の後続戦
力を縦深攻撃で撃破し、戦場での核兵器の使用を遅らせることに成功しており、かつて核兵
器の使用まで 5 日間しかもたなかったとされていたのが、いまや 15 日間までその期間が延
びている。第三に、NATO の戦争計画は反転攻勢に重点を置く、攻撃なものへと変質してい
る。このようにソ連の国防専門家の間でも、NATO 側の変化に確実に気付いていた。72少な
くともソ連軍総参謀長だったオガルコフ(Nikolai V. Ogarkov)元帥は、アメリカによる精
密誘導兵器システムの開発を把握し、1984 年の論文において、それが通常兵器に核兵器並
みの威力をもたらすものであると論じていたことが確認されている。73
では、ソ連はアメリカ側の革新を知って、それにいかに反応したのだろうか。オーウェン
ズ(Bill Owens)によれば、当時ソ連の動向を注視していた米国防省 ONA 局長マーシャル
は、いまやソ連はアソルト・ブレイカーというアメリカのプログラムの成果に不安を覚え、
それに反応しようとしているとみていた。74そのソ連側の不安が、防御的な戦略への転換を
導いたという見方と、より攻撃的なドクトリンに結びついたという見方に分かれている。
トームズによれば、オガルコフ将軍は、ホワイトサンズ実験場を監視していたソ連の衛星
情報によってアソルト・ブレイカーの成功を知り、ソ連軍の兵器調達プログラムの見直しを
指示した。75また、ジスクは、1980 年代にソ連の戦略論議に、文民戦略家が発言力を増し
た事実を明らかにしたうえで、その代表格の一人であったココーシン(Andrei Kokoshin)
などは、ソ連軍が FOFA に対抗して類似のドクトリンと兵器開発に乗り出せば、ソ連と欧
州に及ぶ危険が高まるとして、それまで軍事専門家のコミュニティで議論されていた「攻勢
作戦における防御」という発想からさらに踏み込んで、ソ連軍の攻撃的態勢そのものを防衛
的態勢へと全般的に切り替えていくべきだと主張していた事実に注目している。ジスクに
72
Zisk, Engaging the Enemy, pp.138-140.
Mary C. FitzGerald, Marshal Ogarkov and the New Revolution in Soviet Military Affairs, CRM
87-2, Alexandria: Center for Naval Analyses, January 1987, p.8.
74 Owens, The Fog of War, p.83.
75 Robert Tomes, “The Cold War Offset Strategy: Assault Breaker and the RSTA Revolution,” War
on the Rocks, November 20, 2014, at http://warontherocks.com/2014/11/the-cold-war-offsetstrategy-assault-breaker-and-the-beginning-of-the-rsta-revolution/. このトームズの指摘は、オガ
ルコフの判断についての出典を示していないため、信憑性が極めて低いと言わざるを得な
い。
73
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森 聡「ベトナム戦争後のアメリカによる通常戦力の革新」
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よれば、ココーシンが防衛的政策を発表したのが 85 年 9 月で、ゴルバチョフ(Mikhail
Gorbachev)が欧州通常戦力削減を唱え始めたのが同年暮れであり、ココーシンは 86 年の
ワルシャワ条約機構によるブダペスト・アピールの起草に係わり、同機構が翌年にベルリン
宣言を発出して、防衛的な軍事ドクトリンへの転換を打ち出したことから、こうした一連の
重大な変化が FOFA に端を発している可能性を示唆している。76そうだとすれば、米ソ間に
は、戦争によらない、戦略的な相互作用が発生して、抑止効果が生まれただけではなく、攻
撃的なドクトリンが防御的なものへと変質するプロセスが引き起こされたことになる。
これに対して、オドム(William E. Odom)は、ソ連軍は、NATO 側が FOFA の体系を完
全に発動する前に、迅速な攻勢を展開すべきとする攻撃性の高いドクトリンへと転じたと
論じている。オドムによれば、ソ連軍による FOFA への対応策は、スピードであり、ソ連軍
による大西洋岸までの目標到達時間が 2 か月から 2,3 週間に短縮された。ソ連軍は、OMG
を開戦前から前線に配置し、開戦初日に NATO 防御陣の隙をついて突いて特に空軍基地を
攻撃し、さらにソ連軍空挺部隊と連携しながら 1 週間以内に 150-300 キロメートル進軍し
て先頭部隊の到達予定地点まで進出し、今度は第二波部隊が同様の作戦でさらに 300 キロ
メートル前線を押し進めるというものであった。77一般的にも、ソ連軍は DARPA の ITASS
構想などの革新を目の当たりにして、そこに「偵察=攻撃複合体(reconnaissance-strike
complex)
」の飛躍的な発展を中核とした軍事技術革命(military-technical revolution)が生
じつつあるとの認識を抱いて、ソ連自身も対応策を講じていこうとしたとの見方がある。78
上記の諸解釈は、いずれもソ連指導部や軍内部の一次資料に依拠したものではないこと
から、かなり割り引いて捉える必要がある。したがって、米国防省による一連の革新が NATO
の抑止力を向上させ、ソ連軍のドクトリンを攻撃重視から防御重視へと転換させたか否か
は、今後検証していく必要がある。通常戦力を軸にして米ソが戦略的な相互作用を起こし、
それが欧州通常戦力削減交渉や冷戦の終結に影響を及ぼしていた可能性もあることから、
右課題の意義は少なくないと言えよう。
(以上)
76
Zisk, Engaging the Enemy, pp.151-152.
William E. Odom, The Collapse of the Soviet Military, New Haven: Yale University Press, 1998,
p.76, 78.
78 国防省 ONA 局長マーシャルがこれを最初に指摘し、ONA のクレピネヴィッチが MTR
に関する分析メモを作成した。Barry D. Watts, The Maturing Revolution in Military Affairs,
Washington D.C.: Center for Strategic and Budgetary Assessments, 2011, pp.1-4.
77
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