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【世界史Bの学習プリント(第2学年普通科文系選択者】) 《テーマ

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【世界史Bの学習プリント(第2学年普通科文系選択者】) 《テーマ
主題学習学プ−NO.1
【世界史Bの学習プリント(第2学年普通科文系選択者)】
《テーマ》地図に見る知識の拡大
(教科書P.12∼P.14,図説P.6・P.124∼P.125)
Ⅰ.各時代における地図の特徴
生活に必要な情報を記録し伝えていくための手段
↓
古代
自らが知り得る全ての土地を表している。
中世
宗教界における世界観を表している。
近代
人々の地理的認識が広がっている。
現代
いろいろな情報が盛り込まれている
‖
①人々の空間意識が、時代や地域によって異なっていた。
②人々の地理的認識が、時代とともに広がってきた。
Ⅱ.近代に活躍した探検家
(マルコ=ポーロ
)の『世界の記述 』『
( 東方見聞録
↓
(バルトロメウ=ディアス
(ヴァスコ=ダ=ガマ
(コロンブス
)
)
)
』)
1488年
アフリカ大陸南端の喜望峰に到
達する。
1498年
インド西岸のカリカットに到達
する。
1492年
アメリカ大陸に到達する?
《メモ欄》
第2学年(
)組(
)番 氏名(
)
主題学習資プ−NO.2
【世界史Bの学習プリント(第2学年普通科文系選択者)】
■■資料①「中世とは、どのような社会だろうか?」■■
繁栄を誇ったローマ帝国も、領土の拡大とともに求心力が弱まり、395年には東西に分裂し
ました。同じ頃、アレクサンドリアにおいては、図書館がキリスト教徒に焼き討ちされ、7世紀
にはイスラムに支配されたことで、ヨーロッパからギリシア文化は姿を消しました。ローマの行
政と軍事システムの崩壊は、北部ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の侵入を許し、476年
に西ローマ帝国が滅亡してしまいました。ゲルマン民族は文明化されていない民族の多くがそう
であるように、原始的な多神教で自然崇拝の傾向が強かったのですが、ローマで公認されたキリ
スト教がしだいに勢力を伸ばすと、古い伝統や習慣が新しい理念に取り込まれていき、中世の宗
教世界を形成していきました。厳格な宗教が科学技術を持たなかった社会と結び付くと、ギリシ
アの科学もローマの工学もことごとく否定され失われていきました。例えば、地理については、
創世の物語がそのまま信じられたために、地球球体説は否定され、ギリシア以前の円盤大地説が
復活しました。そもそも地上界よりも天上界に関心が向けられていたので、大地の形など重要で
はなかったのです。
中世ヨーロッパにおいては、多くの人々が、領主の支配する封建的な荘園(私有の大農場)の
中で一生を送っていました。騎士たちが、旅をしたり十字軍に参加することはありましたが、交
易や探検はほとんど行われませんでした。ここにおいては、ギリシア的な投影法による世界地図
も、ローマ的な道路地図も必要ありませんでした。そもそも地図とは無縁の生活だったのです。
↓
□上記の資料を読んで、中世社会の特徴をまとめよう。
教会を中心とする中世の社会では、『聖書』こそが唯一絶対の真理であると考えられ、現実の
世界を研究したり観察する自然科学よりも、聖書の世界から主の教えを学ぶ神学が重視される
ようになった。=『聖書』が全てである。
《メモ欄》
第2学年(
)組(
)番 氏名(
)
主題学習資プ−NO.3
【世界史Bの学習プリント(第2学年普通科文系選択者)】
■■資料②「コロンブスは、アメリカ大陸に到達した?」■■
(1)大西洋横断
ジェノヴァ生まれの有能な航海者であったコロンブス(1451年∼1506年)は、当時の
地図を見て、大西洋を西方に進めば、短期間でアジアに到達するはずであると考えました。そこ
で、彼は、ポルトガルとスペインに計画を売り込んだ結果、8年の年月を要した末に、ポルトガ
ルに遅れを取っていたスペイン王国(イスパニア王国)のイサベル女王の援助を得て実現するこ
とになりました。1492年に、サンタ=マリア号のほか2隻を率いてパロス港を出発すると、
カナリア諸島を経て北東貿易風に乗り、わずか2カ月で小さな島(現バハマ諸島のウォトリング
島)に到達しました。そして、コロンブスは、そこをインド周辺の島々と信じ、インディアスと
呼びました。また、香料や大量の黄金を持ち帰ることは出来ませんでしたが、西回り航路を発見
したことで大歓迎を受け、国王から、「インド副王」の称号を与えられました。その後も、3度
大西洋を渡り、カリブ海周辺にカタイ(中国)とジパングを探し続けました。しかし、アジアの
王国も黄金も見付からずに、植民地経営にも失敗し、第4回航海から帰国した2年後、失意のう
ちに亡くなりました。
(2)インドか新大陸か?
コロンブスは、亡くなるまで、自分の到達した場所が、アジアの一部である信じていたようで
す。それは、カリブ海の島々が、彼の計算した東洋の島々の位置にあったからです。なぜ、1万
5千キロもの誤算をしてしまったのでしょうか?当時の世界地図においては、東の端はジパング
で、西の端はさほど広くない大西洋でした。彼は、地理学者のトスカネリとも相談し、地図の両
端をつないでみて、ヨーロッパから中国までは6千キロに満たないと算出したのです。そして、
これならば、東回り航路よりも近いはずであると考えました。それでは、なぜ、このような地図
が出来てしまったのでしょうか?その原因には、2つありました。
(3)旧大陸だけの世界地図
1つは、地球の大きさがかなり小さく見積もられていたこと、もう1つは、経度を知る術がな
かったことです。距離は移動に要した日数から推測するしかありません。旅行者の話は、概して
大げさになりがちです。海上でも、ロープをつけた丸太を流して、繰り出された長さで測ってい
ました。風や海流のために、大きな誤差が出る方法です。これを小さく見積もった地図の上に書
き込んでいったので、アジアは異常に長く東へ引き延ばされてしまっていたのです。すでにかな
りの遠方航海が行われるようになっていたにもかかわらず、この頃の地図は、プトレマイオスの
地図に描き足した程度のものであったのです。そして、もう1つ理由をあげられるかもしれませ
ん。それは、地図制作者の心理です。空白を隠したいがために、すでにある材料だけで全体を埋
めようとして、ずらしたり引き伸ばしたりしてしまったのです。
(4)新大陸はアメリカと命名された
コロンブス以後、探検家は、次々と大西洋を渡りました。1497年には、イギリスの援助を
得ていたイタリア人のカボットが北米に到着し、1500年には、ポルトガル王国の提督であっ
たカブラルが、ブラジルに漂着し、後に、新大陸において、唯一ポルトガル領を成立させること
になりました。こうしてまず、南アメリカが新しい大陸ではないかと考えられるようになりまし
た。そして1497年から1503年にかけて、中米から南米を探検したアメリゴ・ヴェスプッ
チ(1454∼1512)が、この土地は、アジアではなく新大陸であると明言したのです。こ
れを受けて、1507年ドイツのバルトゼーミュラーの世界図においては、おぼろげながら新大
陸の存在を認め、南アメリカの部分に“AMERICA”と記されています。
↓
□上記の資料を読んで、コロンブスの世界観をまとめよう。
西回り航路で、アジアに到達しようとした。=地球は球体であると考えた。
《メモ欄》
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