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ぷりずむリズム ∼王子と、女騎士と、目ん玉お化けと
ぷりずむリズム ∼王子と、女騎士と、目ん玉お化けと 、影人間∼ 緑桜燭八斎 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ ぷりずむリズム ∼王子と、女騎士と、目ん玉お化けと、影人間∼ ︻Nコード︼ N9711BZ ︻作者名︼ 緑桜燭八斎 ︻あらすじ1︼ ︻あらすじ︼ 盲目の王子アルテミシアは、髪と目に色がないため、忌み子として 神殿に幽閉されていた。王子の専属騎士兼幼なじみの少女クラウズ ェアは、そんな彼の状況に深く心を痛めていたが、何もできない。 そんなおり、とうとうアルテミシアに処刑の命が下る。可哀想な男 の子は、無垢な命を散らすのか?少女は、大切な幼なじみを救うこ とができるのか?そして、二人の少年少女が巡り会う、奇妙な魔物 1 達。そのかげでうごめく、大人達の陰謀⋮⋮ ︱︱世界が、始まる︱︱ ︻あらすじ2︼ 年下の幼なじみは美少女フェイスの美少年!けど、とある事情で家 庭不和。引きこもりで、友達もいない。おまけに超世間知らず。﹁ わたしがこの子を守るんだ!﹂ 一緒に家出したはいいものの、頼れる人はいなくて、二人きりじゃ 心細い⋮⋮って、幼なじみが魔物に取り憑かれた!?お母さん!? ︵驚︶変質者!?︵怒︶あげくに、女グセの悪い俺様系マッチョの 許嫁まで出てくる始末... ﹁強くならなければ!わたしが!⋮⋮あと、おいしいご飯が食べた いな﹂ 貴族はみんな魔術を使える世界で、チート能力を手に入れた美少年 ︵王子︶と、魔術の使えない女騎士︵伯爵令嬢︶が、魔物に助けら れながら頑張ります! ︱︱ちっとも萌えない人外ハーレムが、始まる︱︱ 2 プロローグ プロローグ めぐ 金の太陽と銀の月、二つが巡る不思議の地には、いろんな国があ りました。 世界のずっと、西の果て。ぽっかり浮かぶ緑の島も、ひとつのり っぱな国でした。 きら 都の少し、北の方。山を背にした湖の、大きな湖上の真ん中に、 島が一つ、ありました。 ふ か しん その島には、鏡のように煌めく湖にふさわしい、それはそれは美 はべ しい神殿が建っておりました。 けが 神々に仕える巫女達が侍る、不可侵なるその奥の奥に、水晶のよ み こ とうと うに美しい髪と、この世の穢れを映す事のない、清らかな瞳を持つ み こ 御子がおりました。 えん このお話は、御子様と、その尊きお方を守護する騎士と、そんな 二人に縁する者達の物語です。 3 一章①﹃色なし王子様と、赤毛の女騎士﹄︵前書き︶ このページを開いて頂き、まことにありがとう御座います。 つたない部分が目立つかと思いますが、もし読み進めて頂けたなら、 とてもしあわせです。 4 一章①﹃色なし王子様と、赤毛の女騎士﹄ アイタイ。 アノヒトニアイタイ。 近くに居るのに、会えない。近くに居るのに、触れない。 タスケタイ。 アノヒトヲタスケタイ。 あの人はイジメられていた。多くのモノからイジメられていた。 なんにも悪くないのに、イジメられていた。 ユルセナイ。 アイツラガユルセナイ。 自分だったら、きっとあの人を守れると思った。 デモ、ドウヤッテ? たな 自分だったら、あの人を喜ばせる事ができると思った。 デモ、ドウヤッテ? ここは、とても冷たかったから。 ここは、とても寂しかったから。 アイタイ。 あの人に、会いたかった。 その部屋の家具は、三つだけ。 小さなベッド、小さな机と、小さな棚の、三つだけ。 アルテミシアは、そんな殺風景でさびしい部屋にいた。 こう し わく この世で二番目に心なぐさめてくれるであろう、小鳥たちのさえ ずりに耳を傾けながら。 唯一の明かり取りである格子のはめられた窓の枠が、可愛い歌い 5 手達のステージだ。 ちゅんちゅん、ちちち。 ちちちち、ぴぃよろ。 暗い石造りの部屋を、柔らかい高音が二重三重に満たす。 けれど、部屋の暗さなんて、その主には全く関係がなかった。 もうもく 何も見えなければ、暗いだの明るいだのは、意味をなさないから だ。 生まれついての盲目の、アルテミシアにとっては。 だがそれでも、この小さく可愛い友人達と、あともう一人。最も 心許せる人がいてくれたら、それだけで良いのだから。 けれど、それも、 ﹁今日でお別れだね﹂ 朝食の時、お世話の巫女達に気づかれないようにと、こっそり取 ぶ っておいた白パンを小さくちぎり、窓枠に置く。可憐な歌い手達を 打ってしまわないように、慎重に、ゆっくりと。 ﹁こんなにきれいな声なんだもの。きっと、とってもきれいな羽の 色なんだろうね。いつもみんな仲良しで、外にもお友達や家族がい っぱいなのかな? ⋮⋮一度きりで良いから、あなたたちを見てみ たかったな﹂ たお 小鳥たちがパンをつついたり、少年の、白パンよりもなお白い、 雪のように汚れなく嫋やかな手に乗って遊んだりと、しばらく時間 がたったあと。 コツリ、コツリ、コツリ。 少年の、人より優れた耳が音を捉えた。彼が最も待ちわびる、い つも心待ちにしている、靴の音。 それから、ドアを叩く音が鳴った。 6 こんこんこん。 規則正しく、丁度三回。 ﹁ローズ?﹂ ﹁はい。失礼致します﹂ 部屋の主の問いかけに、生真面目そうな女性の声が答えた。 ドアを押し開いて入ってきたのは、腰までの赤毛を三つ編みで一 じ ぎ つにまとめた、声にも増して真面目くさった顔の、背の高い少女だ った。 ていねい クラウズェア・セルペンティスは、折り目正しくお辞儀をすると、 丁寧かつ静かにドアを閉め、定規で測ったような均等の歩幅でアル テミシアへ歩み寄った。 ブーツ コツリ、コツリ、コツリ。 ドレスシャツ 皮でできた長靴が、石床を鳴らす。 つる 飾り気のない礼装服とズボンできっちりと身を包み、腰には剣を みどり ふち ど 吊している。彼女は騎士であり、さらには、この部屋に帯剣で入室 ようぼう できる権限がある。 整った容貌の中にある、緑の虹彩で縁取られた瞳が、パンをつい ばむ小鳥たちへと向けられ、ついで、とがめるような視線が少年に 向けられた。 ﹁殿下﹂ いつものお説教が始まる。 ﹁お食事を残してはいけないと、あれほど申し上げているではあり きゃしゃ ぜ ませんか。けっしてお体が丈夫ではないのですから、しっかりとお ゆう 食べになりませんと。これでは、外出もいつになるか﹂ うわぜい 両者の身長差は、優に頭一つ分以上。 ん りり 成人男性ほども上背のあるクラウズェアが、いかにも華奢で少女 はかな 然としたアルテミシアを見下ろすと、まるで大人と子供だ。凜々し い騎士と儚げな少年の対比は、身分の差があったとしても、見る者 に一方的な関係を想像させるかもしれない。 だが、二人の関係は、少し特別だった。 7 わか かす これまでなら、もっと長いこと続くお小言も、アルテミシアの幽 かな笑みでさえぎられた。クラウズェアにしか判らない、彼女だけ が知っている、かわいそうな男の子の、小さな小さな笑顔。 ﹁何がおかしいのですか﹂ とがめる言葉に、 ﹁ううん。おかしくなんてないよ。ただ、ローズはいつも優しいな って、思っただけ﹂ 三つ年下の少年の言葉で頬を赤く染めるはめになった女騎士は、 うら せきばら 本来なら警戒心の強いはずの小鳥たちが、いまだのんきにパンをつ おぐし くし つと ついているのを恨めしげに見やると、咳払いを一つ。居住まいを正 した。 ﹁殿下、御髪に櫛を入れましょう﹂ ﹁うん、お願い﹂ いつもよりも心なしか楽しげな色を含んだ少年の返答に、努めて 気にしないようにしながら、赤毛の騎士は、髪を梳くための準備を する。 机に専用のクロスを敷き、床に届かんばかりに伸びた白い髪を、 クロスの上に丁寧に置く。それから、九〇度向きを変えた椅子にア つ ルテミシアを座らせると、その背後に立ち、戸棚にしまってあった 櫛で梳いていく。 さらり、さらり。 しゅうるり、しゅるり。 げ 薄暗い部屋の中、氷のように真っ白い髪の、その流れの中で、黄 楊の櫛が、何度も何度も、上下する。 アルテミシアの髪は、とても長い。立った状態で、くるぶしを越 えて本当に床に届く寸前くらいまである。 生まれて一度も切ったことがないからであり、それは、一切の刃 物を通さない、不思議な髪だった。 8 さらり、さらり。 しゅうるり、しゅるり。 ﹁今日は、お眠りにならないのですね﹂ 先ほどの反撃と、少しばかりからかうような少女の声色に、アル テミシアは﹁うん﹂と答えた。 ﹁だって、眠ってしまったらもったいないでしょう? せっかくロ ーズに梳いてもらってるのに、ね?﹂ この、いちいち悪気なく素直な返答をよこす少年に、やはり、生 真面目な女騎士は、どうしようもなく赤面してしまう。 けれど、けして居心地が悪いわけではなかった。 ひざうら 二人にとっては、とても心安らぐひととき。 ﹁終わりました﹂ 時間をかけて丁寧に梳いた後、首の後ろと膝裏辺りの二カ所を、 まゆ 二つの赤いリボンでまとめる。そうしないと、白い髪に全身がおお われて、繭にくるまれたみたいになってしまうからだ。 ﹁ありがとう﹂ 一拍おいて、 ﹁その櫛、もういらないから、ローズにあげるね﹂ そう続いた少年の、思いがけない言葉に相当びっくりしたのか、 つ ﹁シア、でもっ﹂ 口を衝いて出た言葉にクラウズェア自身が驚き、慌てて訂正する。 ﹁殿下、ですが、その櫛は遠い異国から取り寄せた珍しい櫛で、た いそうお気に召していらしたはすでは?﹂ この、生真面目で心優しい幼なじみの言葉に、やっぱり彼女にし か判らない幽かな笑みを浮かべながら、アルテミシアは言った。 ﹁うん。だけど、いらなくなっちゃった。⋮⋮捨てるのはもったい こんがん ないから、できれば、ローズにもらってほしいな﹂ 懇願をにじませた言葉に、断ることなどできず、 9 ﹁はい。ありがたく、頂戴いたします﹂ 櫛を押し頂き、ハンカチで包むと、それは少女の懐にしまい込ま れた。 かのじょたち ﹁ところで、殿下。本日は所用で都の別宅へ帰らなければなりませ ん。申し訳ございませんが︱︱﹂ ﹁うん、わかってる。後のことは側仕えの巫女達がやってくれるか ら、ローズは家でゆっくりしてきてね﹂ クラウズェアの言葉をさえぎって、 ﹁気にしないで﹂ と伝えたアルテミシアは、いつも通り、生真面目な女騎士が止め こぼ るのも聞かず、ドアのところまでわざわざ向かい、彼女を送り出し た。 ﹁⋮⋮﹂ 閉まった扉に軽い背を預けた少年の口から、ふうっと、息が零れ 落ちる。 ﹁ばいばい、ローズ⋮⋮⋮⋮⋮⋮約束やぶって、ごめんね﹂ スケイリィフォーリエイジ ふ か しん さざめく鱗葉大陸の西に浮かぶ島国、グリーンウェル。 東端を南北に走る不可侵山脈を始め、大小の山々、緑の高原、縦 横に流れる川と点在する湖︱︱草木の緑と水の青に満たされたその 地は、非常に牧歌的な国であった。 そんな、山河ゆたかなこの国の、第二王子の身分にあるまじきア ルテミシアの部屋を辞したクラウズェアは、いつもの彼女にしては 精彩を欠いた︱︱だが、同僚の騎士達や、神殿の廊下を行き交う巫 とき わ 女たちよりはきびきびとした歩調で、男子禁制の聖域である神殿の 廊下を歩いていた。 あいいろ また、巫女とすれ違う。 腰を越す藍色の髪と、同じ色した目を持つ、︿常葉の乙女﹀だ。 10 ローブ みずみず 緑を基調とした祭祀用長衣に身を包み、瑞々しい葉の色を思わせる 衣の、その上を流れ落ちる藍の髪の中で、銀細工の髪飾りが落ち着 いた輝きを放っている。 しと お互い、会釈を交わす。 ぶしつけ 淑やかさを体現したような巫女は、だが、去りゆくクラウズェア の背に、少々不躾な視線を投げかけた。 その視線に込められたものの意味は、好奇と、同情。 それから、女騎士が来た方角を見やり、溜息を一つ吐いたのだっ た。 いっぽう。 一階、エントランスホールまで来たクラウズェアは、同僚の騎士 達と出会った。 彼女たち三人とも、同じように腰に剣を吊している。どれも装飾 だいだい 性一点張りで、実戦は考えられていない得物ばかりだ。 それぞれ、橙、黄緑、薄紫の髪を長く伸ばし、複雑に編み込んだ り、装飾品で飾り立てている。 カフリンクス ししゅう 服装こそドレスシャツとズボンだったが、フリルやリボン、ある サッシュ いは袖口装身具や刺繍のあしらわれた華美な物で、腰にはスカート に見立てた装飾帯を巻いている。 それまでお喋りに興じていた三人娘は、同僚であるクラウズェア を目にすると、優雅に会釈した。 クラウズェアも、会釈を返す。 そして、 去りゆく彼女を見送る三人娘は、赤毛の少女に気付かれないよう 忍び笑いをし、その姿が完全に見えなくなってから、またお喋りを 始めた。 ﹁何をしているのやら知りませんが、毎日大変よねぇ﹂ ﹁どうせ、怪物の世話でしょう?﹂ 11 ﹁その噂、本当なのかしら?﹂ ﹁例の、︿色なし王子﹀?﹂ ﹁そうです、それですわ﹂ おっしゃ ﹁さあ? でも、ただでさえあんなみっともない赤毛なのに。あれ では嫁の貰い手は無いわね﹂ ﹁ああ、可哀想!﹂ ﹁なら貴女、代わって差し上げたら?﹂ ﹁いやよ! 冗談でもそんなおぞましい事は仰らないで頂戴﹂ それから彼女たちは笑い合い、意中の殿方は誰だとか、腕の良い 仕立屋にドレスを作らせただとか、いつもの話題に花を咲かせ始め たのであった。 なか 神殿は島に建ち、島は湖の央にある。 こ 神殿から出たクラウズェアは、巫女や神殿騎士が一般に利用する 渡し船ではなく、予備の小舟で対岸へ漕ぎ出した。 交代制で渡し守をする神殿騎士と、顔を突き合わせていたくない というのが理由だ。 ぷかりぷかりと船は進み、船に押された水面が、ゆらりゆらりと 波打つ。 まるで、渡る者の心を表すように。 女騎士は考えていた。最愛の、守るべき主人のことを。 アルテミシアは、訳あって男子禁制の神殿に巫女としてその身を 封ぜられている。国中の民はおろか、要職に就く臣下でも、目通り がかなう者は少ない。 聖域の奥にまします、秘せられた姫なのだ。 この国の、第二王子は。 12 かんばせ かんなぎ 花の顔と華奢な体を巫の装束でくるんでも、彼はれっきとした男 の子だった。ただ、その身に受けた呪いのせいで、男子として生き ることを否定されたのだ。 アルテミシアは白き子として生まれた。 それは、あってはならぬ事だった。そもそも、髪が真っ白で、虹 彩に色がない人間など、この世の誰も見たことがなかった。 人間は、色を持って生まれてくるものだ。 太陽を模した金色を最上とし、青、茶、緑、紫、橙、黑、種々そ れらの色を髪や目に持つ。クラウズェアの赤い髪も、あまり好かれ る色ではないが、常識の範囲内だ。 だが、アルテミシアは異常だった。 さん ば その異常さは、天変地異にも等しいものだった。彼を取り上げた 王室お抱えの産婆なぞは、赤子を見た瞬間に、驚きのあまり心の臓 こと ほ を止めてしまったほどだ。女王陛下は寝込んでしまい、国王陛下も、 き とう 妻を言祝ぐ事も忘れ、恨み言しか口にする事ができなかった。 様々な手段が講じられたが、どんな薬も祈祷も意味はなく、どん みそぎ な刃物も通さず、あらゆる染料にも染まらぬ髪に、秘密裏に集めら れた国中の知恵者がさじを投げた。 い ご この事件は、秘せられた。そして、遠大なる禊の儀が執り行われ た。 古来より、忌み子の呪いを解く風習として、﹃性を変えて育てる﹄ というものがある。そして、穢れを落とす場所として、神殿ほど最 適な地はない。 それから、十四年の月日が流れ⋮⋮。 ﹁殿下⋮⋮わたしはまだ、貴方を連れ出せないでいます﹂ ﹁危ないな﹂ 低く豊かな男性の声が、クラウズェアの意識を記憶の海より引き 13 上げた。 ﹁心ここにあらず、か?﹂ ひげ そう声をかける男が立つ、その岸へと、小舟は流れ着いた。 細く引き締まった体と、理知的な顔に髭を蓄えた壮齢の男。名を フィデリオと言う。クラウズェアの剣の師だ。 ﹁先生!﹂ 慌てたクラウズェアは、大声を上げてしまう。 ﹁そんなことでは、水に落ちるぞ?﹂ フィデリオの言葉にただただかしこまった女騎士は、慎重に岸へ 一歩を踏み出した。 彼女は、鏡のように陽光を照り返す湖を渡りきり、俗事の待つ向 こう岸へと降り立った。 誰に対して が抜かれた問いに、﹁はい﹂と、弟子は神妙に答 ﹁お目通りを?﹂ える。 思案げに神殿を見やった後、フィデリオが唐突に言った。 ﹁剣を抜きなさい﹂ この言葉に驚くクラウズェアだったが、師の命に従い剣を抜く。 レイピアという種類の、刺突用の片手剣で、すらりとした細身の 剣 であっ 直剣だ。柄を覆う、複雑で優雅な曲線を描く護拳と相まって、非常 に美麗な印象を与える剣だった。 まご だが、人を殺せる鋭利な切っ先を持つ、紛う事なき た。 レイピア フィデリオも剣を抜いた。クラウズェアの物と作りは同じで、彼 の物は、彼女の細剣と比べると剣身がやや長い。 お互い距離を取り、半身︱︱敵に対して体の側面を向ける姿勢︱ ︱で中段に構える。 ﹁来なさい﹂ 師の呼びかけに応え、突きかかるクラウズェア。 軽快なステップに乗った素早い突きを、剣先の角度を変えながら 14 か かん のど 腕を左右に水平移動させる事で難なくいなすフィデリオ。 果敢に攻撃を繰り出す弟子。喉を、腹を、あるいは胸へ突き込ん かわ でいく。そして、ときおり師匠が繰り出す突きを、レイピアで左右 にいなしたり、ステップバックで躱し、素早くステップインして反 撃。 クラウズェアが小刻みなステップで前後運動を繰り返すのに比べ、 フィデリオはほとんどその場から動いていない。 フィデリオが突きを繰り出す。 今までのものよりも鋭く。 いなしきれないとふんだクラウズェアは、|ステップバックで攻 撃から逃れる︽、、、、、、、、、、、、、、、︾。ついで、ステ 、、、、、、 ップインして反撃の突き。 それをフィデリオは、下がる事なく、腰を落とす事で生まれた体 の重みを剣に乗せ、クラウズェアの剣を斜め下にいなす。そのまま、 低い姿勢からの大股のステップインで、瞬時に間合いを詰める。 集中するあまり、視界が狭くなっていたクラウズェアには、師の 姿が消えたかのように見えた。 ﹁ッ?﹂ 彼女が気付いた時には、下から跳ね上がったレイピアが、喉元に 突きつけられていたところだった。 ﹁︱︱参り、ました﹂ 荒い息をつきながら、クラウズェアは声を絞り出す。 それを合図に、師弟は剣を収めた。 ﹁帰宅は今日だったか?﹂ ﹁はい﹂ ﹁時間を取らせてしまったな﹂ ﹁いえ、そんな﹂ 否定するクラウズェアに、 ﹁すぐに帰るのだろう? ご両親も、さぞや会いたがっておられる だろう。一刻も早く、帰りなさい﹂ 15 その言葉に多少いぶかしく思うクラウズェアだったが、素直に、 ﹁はい﹂ と答え、その場を去った。 赤毛の揺れるその背をを見送りながら、 ﹁ここで会ったのも、運命か。さて、間に合うか﹂ ぽつりとつぶやき、剣士は右手首のブレスレットをひと撫でした。 アイタイ。 アノヒトニアイタイ。 水の中から見上げながら、今日も想う。 イイナ。 アノヒトニアエテイイナ。 今日も、赤毛の人間が来た。あの人に会っていたのだ。うらやま しい。 あの赤毛の人間は、ほかのモノ達のように、あの人をイジメない。 悪いヤツではない。 デモ、ウラヤマシイ。 何よりも、自分とあの人を巡り合わせてくれた人間だ。 デモ、ウラヤマシイ。 あの人に会いたかった。 優しい人。温かい人。 もう一度、抱きしめて欲しかった。 アノヒトニ、アイタイ。 16 一章②﹃陽の儀と、常葉の森﹄︵前書き︶ ほんの少しでも読みやすくなればと思い、一章の分割と、多少の書 き直しを行いました。このような小手先のテクニックに走らず、地 力を上げるべきなのですが⋮⋮。 未熟な腕は、コツコツ書き進めることで磨いていきたいと思います。 17 一章②﹃陽の儀と、常葉の森﹄ ぜい ローブ 贅が尽くされた広い部屋に、二人の男女がいた。 かし 一人は、神殿の巫女達が着るような緑の祭祀用長衣を着た、三十 歳代後半の、美しい女だ。 サークレット ゴールデンブロンド 他の巫女達に比べると、ローブの装飾が多く、樫の葉を模した金 細工の環状額飾りを、負けず劣らず美しい至上の金髪の上から冠し ている。目を彩るのは、明るく鮮やかな黄色。 くせ もう一人は、様々な色合いの布と宝石で派手に着飾った、肥満体 サンディブロンド 型の四十歳代の男である。 ネズミいろ 砂色茶色混じりの金髪を背中まで伸ばしているが、癖が強く髪質 とき わ が硬いので、油で固めている。こちらの目は、青みのある灰色だ。 女は、この国で︿常葉の乙女﹀と呼ばれる巫女達の長、神事を司 り、王権の片翼を担う女王、ベラだった。 一方、男は、有力諸侯の中でもとりわけ力のある大貴族、侯爵の オズワルド・オズボーンである。 ﹁地鎮の儀は、予定通り今日でよろしかったですかな?﹂ ひ ぎ 彼の言う地鎮の儀とは、正式名称が︿赤陽地鎮の儀﹀というもの である。 せきよう じ ちん きんようてんけい この国では、太陽に関する祭祀を︿陽の儀﹀と呼んでおり、その きんようてんけい よ ごと せきよう じ ちん 中でも特に重要な二つが、︿赤陽地鎮の儀﹀と︿金陽天恵の儀﹀だ。 まがごと ︿金陽天恵の儀﹀は吉事を招くためのもの。︿赤陽地鎮の儀﹀は 凶事を祓うためのものだと云われている。 たるんだ首の肉をふるわせながら、体に見合わぬ甲高い声で、オ ズワルドは念押しするように問うた。テーブルの赤ワインを一口あ おる。 ﹁ええ。これから向かいます﹂ 窓辺に立ったベラは、振り向くことなく、希少なガラス越しに外 18 を見ている。 ﹁それは何よりですな。天恵の儀は既に行いました。もう直ぐにで も、恩恵が現れるでしょう。地鎮の儀の方は、すでにこちらから指 示は出してありますからな。女王陛下は、足をお運びになられるだ ふ そん けで結構ですぞ﹂ ひざまず なんと不遜なことに、オズワルドは臣下の身でありながら起立す ることもましてや跪く事もせず、女王に対して声をかけたのだ。不 とが だ 敬罪で手打ちにされてもおかしくはない事だった。 とき わ だが、女王は咎め立てすることはなかった。 ベラは、彼女が祈るべき天でも常葉の森でもなく、神殿がひっそ りと建つ方角を、ただ表情もなく見ていた。 ﹁外へ出ます﹂ ただそれだけ。 温かみのかけらもない、そっけない言葉だったが、アルテミシア にはとても懐かしく、胸の奥底をふるわせる声であることには変わ りなかった。 しばらくぶりの︱︱少なくとも今年初めて聞いた、実の母親の声 だった。 昨日知らせを聞いた時、うっすらと考えないではなかったが、ま さか今日、母に会えるとは思わなかった。それは、望んではいけな いことだったから。 盲目の王子は、滅多なことでは使う機会のない杖を手に取ると、 大理石の廊下を行く母の足音︱︱皮と綺麗な布でできた靴の音を頼 とも りに、後に従った。 共の者は、誰もいない。 コツコツと、母の足音。 カツカツと、子の杖の音。目の代わりに、杖で道を探る。 19 コツ、コツ、コツ。 そ カツ、カツ、カツ。 つ かす 誰が付き添う事もなく、誰が見送る事もなく、人払いのされた広 い廊下を、二人は歩く。 しばらくすると、外に出た。 ﹁あぁ﹂ アルテミシアの口から、感嘆とも溜息ともつかぬ幽かな声が漏れ た。彼が全身で風を受けたのは、実に数年ぶりの事だった。目が見 こう し えていれば、その明るさにも驚いた事だったろう。滅多にあの部屋 ゆうへい から出ることはかなわず、外へとつながるのは、格子のはまった窓 ひとつだ。 少年は、幽閉されていたのだから。 草の生えた土の地面の柔らかさにも驚きながら、その軟らかさに 足を取られないよう気をつけ、母が地を踏む足音について行く。 ﹁船に乗りなさい﹂ ベラの言葉の後に、木を踏む足音が少年の耳に届いた。 ふなべり その足音がした方、水の匂いのする方に、慎重に歩み寄る。 杖が、船縁を探り当てた。 これまでよりもいや増して、慎重に、おそるおそる歩を進める盲 目の少年。先に乗り込んだベラも、最初から船に乗っていた兵士も、 誰も、手を貸さない。 きょう がく いちべつ 兵士に到っては、アルテミシアに目を向けようともしない。その 顔に浮かぶのは、驚愕と、嫌悪と、恐怖。 ﹁出しなさい﹂ 水に落ちることなく乗り込んだアルテミシアを一瞥すると、女王 20 かい が命じた。あまり船をこぐ事に慣れていない兵士の櫂さばきに、バ ランスを崩してたたらを踏むアルテミシアだったが、なんとかこら えた。 ゆらゆらと、船が進む。 水上を冷たい風が渡り、親子の長い髪を揺らしていく。 ベラは、話さない。 アルテミシアは、話せない。 水をかく櫂の音だけが、音らしい音だった。 結局、誰も一言も発さぬまま、船は向こう岸へと着いた。 ベラが降り、誰も手を貸さぬままアルテミシアも続いた。 二人が降り立った岸には兵士達が整列していたのだが、彼らの顔 ボラード ロープ も、先の兵士と同じ表情へとゆがめられた。 係留杭に係留索を繋ぎ終えた兵士が加わり、十人の隊となる。 ﹁あとは上手くやりなさい﹂ そう言いつけ、兵士達の敬礼も捨て置き、ベラは去った。 アルテミシアが聞いたのは、四つの言葉だけ。そのうち、たった 二言だけが彼にかけられた言葉であり、そのどちらも、母親が子供 にかける優しい音色は含んでいなかった。 おど アノヒトガクル。 胸が躍る。 アノヒトガキタ。 だが、近付けない。必死に水をかこうとするが、うまく体が動か ない。 あの人間のせいだった。 金の髪の、あの人間。頭に着けた金ぴかのせいで、近付けない。 魔のモノを近寄らせない力があった。 マッテ。 21 あの人が行ってしまう。 イカナイデ。 湖から離れてしまう。 それでももがいてみたけれど⋮⋮。 あの人は行ってしまう。白い髪の、あの人は。 とき わ ︿常葉の森﹀は、不思議の森だ。 なら にれ 神殿の裏手にあるこの山は、たくさんの木々が生えている。 楢の木や楡の木をはじめとする、色んな種類の木が植わっている。 なかには、東の大陸の南方にしか自生しない樫の木など、本来は育 たないはずの木まで見られる。 しかし、この不思議の森を不可思議なものとする要因は、もっと 他のところにあった。 ことわり みずみず 樫は落葉樹であり、秋には葉の色を変え、冬には葉を落とす。そ れが、この世の理だ。 だが、常葉の森の樫だけは、一年を通して瑞々しい緑の葉を生い 茂らせ、陽光を照り返している。いや、樫の木だけではない。落葉 い けい 樹︱︱冬に葉を落とすはずの木々が、どれ一つたりとも例外なく、 一年を通して緑の葉をつけるのだ。 昔々の人々は、その不可思議に神秘を感じ、神の畏敬を想像した。 自然、敬うための巫女達が生まれた。 ︿常葉の乙女﹀達だ。 くつがえ 彼女たちは、貴族と並ぶほどの政治的権力を持ち、実際、乙女達 とき わ が神事で出した占いの結果は、国王と言えどもみだりに覆す事はで きない。 とき わ 常葉の森は、常磐の森。 22 い 不思議の森の神秘が語られる、その裏側で、古くから言い伝えら す れる恐ろしい話があった。 常葉の森には、魔物が棲むと云う。 うっそう 神事の対象たる山の森。その山を登り、木々をかき分け、ひとき わ鬱蒼と茂る森の奥に、一カ所だけ、開けた場所がある。 こんこん そこにあるのは、青々とした清水を蓄える湖。 ざんがい おお そこでは、恐ろしいまでに透き通った水が、滾々と湧き出ている。 ほこら そしてそこは、忘れ去られた場所。 を持った存在が棲 水辺には、崩れて落ちた祠の残骸が、草に覆われていた。 いわ 常しえに磐へと変えてしまう魔の力 とこ 常葉の森は、常磐の森。 人を、 むさぼ く み着くとも、封ぜられているとも云われている。 ﹃人を石に変え貪り喰う﹄ ﹃なんでもバラバラにして吹き飛ばす﹄ ﹃この世から消す﹄ そんな言い伝えを、この国の誰もが子供の頃に聞かされて育つの だ。 そんな、人々が足を踏み入れる事のない、神秘と恐怖が混在する この森に。忘れ去られたその場所に、アルテミシア達は、いた。 ﹁神事です。お許しを﹂ うめ その言葉とともに、兵士が手にした短剣が閃き︱︱鮮血が散った。 首を刃で貫かれたアルテミシアは、悲鳴も呻き声も上げず、ただ、 くしゃりと顔をゆがめながら、湖に落ちた。 ぶくぶくと沈んでいく、小さな体。 逃げる事も、避ける事も許されなかった、か弱い体。 ﹁⋮⋮おい、もういいだろ﹂ 誰かが言った。 ﹁く、喰われるのも死ぬのも殿下だけで充分だ!﹂ 誰かがそれに続いた。 23 ﹁さ、さっきのが殿下だって、まだ限らないだろっ?﹂ ﹁殿下に決まってるだろ! あの髪を見ただろっ? 噂の︿色なし 王子﹀だったんだよっ、俺達が殺したのは!﹂ ﹁大声を出すなっ、化け物に聞かれたらどうする!﹂ 緊張感が限界に達し、今まで抑えてきた恐怖が、兵士達を支配す る。 彼らがこの場所に来たのは偶然だ。 アルテミシアを殺すのは、森の中ならどこでも良かった。だが、 忌み子 やら 怪物 やら噂さ ﹃とある人物を森で殺せ﹄という侯爵からの命令は、いざその﹃と ある人物﹄を見てみれば、それは れる︿色なし王子﹀その人だったのだ。 怪物とは言え、王族の一員だ。どのタイミングで任務を実行すれ 湖 という風景の変化に機を得て、短剣を振る ば良いか、誰も踏ん切りが付かなかったのだ。 結局こうして、 った訳だが。 ﹁任務は完了したんだ。おしまいだ。女王陛下万歳! 侯爵閣下万 歳! もう戻るぞ﹂ その声に尻を叩かれるように、兵士達は一目散にやって来た方角 へ逃げ帰っていった。 あとには、持ち主を失った杖がぽつんと水辺に取り残され、水に 沈んだ王子の代わりに、赤いリボンがゆらりと浮かんだ。 オチテキタ。 待ち望んだ瞬間だった。 オチテキタ。 あれから︱︱白い髪のあの人が悪いヤツラに連れ去られてから、 その後を必死に追った。 幸い、あの人の家がある湖は、山から流れる川の終着点だ。そし 24 てその川の始まりの一つは、この忘れ去られた湖なのだ。長い長い 時の中、人間達が足を踏み入れる事のなくなった、森の奥の湖。昔、 自分が棲んでいた場所。 オチテキタ。 悪いヤツラは、木々の間をウロウロし、あっちへ行き、こっちへ 行きしながら、山を登り、森の奥へとやって来た。 その後を、見失わないようにしながら、川を上って追いかけた。 オチテキタ。 待ち望んだ瞬間だった。そのはずだったのに、あの人は血を流し、 今にも死のうとしている。 だから、 シナナイデ、オカアサン。 体を捨てて、その人の中に飛び込んだ︱︱ クラウズェアは、普段住まいの神殿騎士用宿舎ではなく、王都の 別邸にいた。本邸は、父親が治めるノーザンコースト伯爵領にある。 そして、今まさにその伯爵領から、伯爵夫人を伴ったノーザンコー スト伯爵が来ていた。 わ かね ひび ﹁いい加減に聞き分けんか!﹂ きた こ 割れ鐘のような声を響かせたのは、ノーザンコースト伯爵ヴィク ター・セルペンティスだった。 したた 赤みを帯びた金髪の持ち主で、がっしりとした体格はよく鍛え込 まれている。 振り下ろされた大きな拳がテーブルを強か打ち付け、白ワインが 満たされたグラスを倒すところだった。 ﹁聞けません﹂ クラウズェアは、静かだが怒気のこもった言葉と視線を父親に向 けている。 25 テーブルを挟んで相対する両者を交互に見ながら、伯爵夫人のイ ライザはこっそりと溜息をつく。彼女も夫と同じく、赤みのある金 髪だ。 セルペンティス家の者は、長子も含め皆、この色だ。 身に金の色を帯びることは大変名誉なことであり、古く、力のあ る血統であると考えられる。︱︱だが、クラウズェア一人だけが、 金の全く混じらない、真っ赤な髪をしている。家族に共通している のは、緑眼のみである。 びじょう ふ ﹁ミッドノール子爵は家柄も大変良く、侯爵閣下との血縁もある。 もったい 剣の腕も立ち、金の髪の美丈夫との噂も名高い。どこに不満がある というのだ? お前には勿体ないくらいの条件だぞ﹂ 怒鳴ってばかりではらちがあかぬと踏んだヴィクターは、努めて 穏やかな声を作り、娘の説得にあたった。 ﹁そうよ、ローズ。貴女だってもう年頃なんですから。親のひいき 目かもしれないけど、器量だって充分、他家のお嬢さん方に決して 負けてないわ。髪の事も、先方は気にしないと云ってくれてるし﹂ イライザも話しに加わり、娘の説得に当たる。 だが、とうの娘は先の言葉にカチンときたようだ。 ﹁お言葉ですが父上、軽々しく﹃腕が立つ﹄などと申されるな。た だ力が強いだけのデカブツだと聞いております。それに美丈夫? 髪の色がなんですか。だいたいそやつ、手癖の悪い女たらしだとも ふ てい やから さ じ っぱらの噂ではありませんか。ほかにも、悪い話をいくつか聞きま す。そんな不逞の輩、死んでもお断りです。そのような些事よりも、 だと云う者もおります。 わたしにはやらねばならぬ事があるのですから﹂ 不吉を呼ぶ色 緑の目が、父から母へ向きを変える。 ﹁母上、赤い色は確かに とつ ですが、髪の色でその者の価値が変わる訳ではありません。そもそ か とく も、わたしはどこにも嫁ぐつもりはありません。家の存続なら、兄 が家督を継げばそれで事足ります﹂ きっぱり言い切ったクラウズェアは、もう話すことはないとばか 26 めいもく りに腕組みをし瞑目する。 ﹁馬鹿者! 親心が解らんのかっ?﹂ ふたたびヴィクターの怒声が響く。 ﹁十七にもなってなんだ! 女だてらに剣なんぞにのめり込んで。 まぶた 神殿騎士など、花嫁修業の一環に過ぎんのだぞ。本気になってどう するっ?﹂ この言葉に、クラウズェアの瞼が開いた。 ﹁いま、なんと?﹂ 低い声が漏れる。 おとし ヴィクターの目には、娘の緑の目が、炎のように揺らめいたよう に見えた。 ﹁いかに父上と言えど、神殿騎士の任を貶められては、黙ってはお られません﹂ 言葉が、レイピアのごとき鋭さを持って、伯爵に突きつけられて いるかのようだった。クラウズェアの怒りの強さがうかがい知れた。 しょうじん しかし、ヴィクターも人の上に立つ者。剣の腕もある。娘の意気 に気圧されるような小人ではなかった。 ﹁もう、やめなさい﹂ 先ほどとは打って変わり、静かな声だった。 たまわ ﹁やめる? そのような権限、父上にはありません。神殿騎士の任 は︱︱アルテミシア殿下を守護するお役目は、サイラス陛下から賜 ったもの。それを︱︱﹂ ﹁終わったのだ﹂ ヴィクターの言葉がさえぎった。 ﹁なにを言われるか﹂ 腰を浮かせかけたクラウズェアを、ヴィクターの言葉が押しとど める。 つと ﹁第二王子はな、お隠れあそばした。精霊になられたのだ。お前の 役目は終わった。クラウズェア、お前は立派に王命を務め果たした のだ﹂ 27 よ ま ごと しばし、静寂が訪れる。 ﹁何を世迷い言を﹂ そんがん はい 沈黙を破ったのは、クラウズェアだった。 ﹁今朝がた、殿下のご尊顔を拝してきたばかりなのです。冗談にし とが だ ては、あまりにもたちが悪い。不敬罪にあたります。殿下の騎士と かたわ して、父上を斬り捨てても誰も咎め立てはしますまい﹂ しょう 実際、クラウズェアの左手は、傍らに立てかけた剣の鞘に伸びて いた。 ﹁神事の象が出たのだそうだ。﹃︿赤陽地鎮の儀﹀を執り行い、第 二王子を︿常葉の森﹀に捧げよ﹄と﹂ きょう がく ﹁なっ?﹂ かがや しるし 驚愕の表情を浮かべる娘に、伯爵は続けた。 ﹁先日、太陽が赤く曜いた。あれが徴だ。どのような災厄がおとず みたま ひとはしら れるかわからんのだ。国難を乗り越えるためだ。仕方がないのだ。 殿下も、王家御霊の一柱として、祖霊の皆様方と共に護国の︱︱﹂ ﹁うるさいッ!﹂ ひ つか 椅子を蹴倒して立ち上がったクラウズェアは、最後まで話を聞く ことなく、剣を引っ掴むと部屋を飛び出した。 ﹁ローズ!﹂ ﹁放っておきなさい﹂ 後を追おうとした妻を止め、伯爵は溜息をついた。 ﹁あの子自身の目で、現実を見てくればいい﹂ ﹁そんな、残酷なことを﹂ 部屋の出口付近で立ち止まったイライザは、非難の目で夫を見た。 ﹁残酷なことを見届けるのも、貴族の大事な役目だ﹂ ﹁どうして⋮⋮。こんな事なら、あの子を殿下に引き合わせるので はなかったんだわ﹂ 夫人の悲痛な言葉に、ヴィクターは視線を落とした。 ﹁そうかもしれん。だがこれであの子も、第二王子から解放された のだ﹂ 28 零れた白ワインがテーブルから滴り落ち、涙のようにぽつりぽつ りと、床に染みを作っていた。 29 てん ばむすめ 二章①﹃宝石の思い出と、醜悪な謀﹄ 二章 はくしゃく け ノーザンコースト伯爵家のお転婆娘クラウズェア・セルペンティ だった。 ぶり スが、王家の第二王子アルテミシアと出会ったのは、二人がそれぞ 遊び相手 れ十と七つの時だった。ちなみに、クラウズェアの方が年上だ。 ありていに言えば、 ょう なぐさ 国王女王両陛下に、まだ少しばかり息子への愛情があった頃、無 聊を慰める役に立てばと、たまたま年の近いクラウズェアに白羽の 矢が立った。 ﹁髪、真っ白だね﹂ もの お 最初は、そんな言葉から始まった。 物怖じせずに話しかける少女に、周囲の巫女達は慌てふためいた かたまり ものだったが、毎日を寂しく過ごしていた男の子には、この刺激の 塊みたいな少女を喜びと共に歓迎した。 ﹁目が見えないんだ? それってどんな? 夜みたいに真っ暗なの ?﹂ ﹁わからない。真っ暗って、どんなの?﹂ ﹁真っ暗は真っ暗よ。太陽の反対よ﹂ ﹁太陽?﹂ ﹁そう、ここからじゃ見えないわ。外に出ましょう﹂ ﹁でも、外には出ちゃいけないって﹂ ﹁わたしに任せておきなさい﹂ そう言って、巫女達の目をかいくぐって外に出たのが、アルテミ シアが生まれて初めて神殿から出た日となった。 ﹁なんだかこわいよ、クラウズェア﹂ ﹁こわくなんてないわよ。それと、わたしはローズよ﹂ 30 ﹁ローズ?﹂ ﹁そう。おとうさまも、おかあさまも、おにいさまも、みぃんなそ う呼ぶのよ﹂ ﹁わかったよ⋮⋮ローズ﹂ はにかみ混じりの微かな笑顔に、つられて少女も笑顔になる。 ﹁あなたはなんて呼ばれてるの?﹂ ローズの無邪気な質問に、少年は幽かに困ったような顔をした。 ﹁アルテミシア﹂ ﹁それじゃあ長いわ﹂ 少年の返答に満足しなかったローズは、しばし考えた。 ﹁シアでどう?﹂ ﹁シア?﹂ ﹁アルやアーティーも考えたけど、あなたには﹃シア﹄がにあうと 思うわ﹂ ﹁うれしい。ローズ﹂ ﹁気に入ってもらえて良かったわ、シア。⋮⋮あなた、泣いてるの ?﹂ ローズの言葉に初めて気がついたと、シアは自らの頬に手を当て た。 ﹁本当だ﹂ ﹁泣き虫なのね﹂ そう言って優しくハンカチで拭いてあげるローと、突然の感触に 驚き、ついでくすぐったそうに身をよじるシア。 ﹁どう? 落ち着いた?﹂ ﹁うん﹂ ﹁まだこわい?﹂ ﹁もう、こわくない﹂ そう答えたシアの手を取って、少年よりも少しだけ大きくて温か い手で、少女は太陽の方へと導いた。 ﹁この、ずっと向こう側にあるのが太陽﹂ 31 ﹁あたたかい﹂ 今度は別の方角へ手を向け、ローズは言った。 ﹁この先に木があって、そこの枝で小鳥が鳴いてるわ。この鳥は、 太陽が出ている時にだけ鳴くのよ﹂ ﹁わかる。ないてる。かわいいこえ﹂ こんな具合に、お姉さんぶったローズがシアに色んな事を教えた のだった。 草を踏み、風に乗って薫ってくる花々の匂いをかぎ、そして、つ しつそう ないだ手からお互いの体温を感じた。 この可愛い勉強会は、王子の失踪に気付いて血相を変えて飛び出 してきた巫女達に見つかるまで、続いた。 ﹁石がつかえないの﹂ ある日のこと。いつも元気なローズが、開口一番、しょんぼりし た声をもらした。 おお ﹁石って、この部屋のかべとかゆかの石? それとも、外におちて る石?﹂ 部屋を覆う冷たい感触や、以前、二人でこっそり外に出た時に拾 さい かしょう った石ころを思い出しながら、シアが尋ねた。 ﹁ううん、︿彩化晶﹀のことよ﹂ ﹁さいかしょう?﹂ 聞いた事のない単語を、シアが繰り返す。 ﹁彩化晶よ。シアは王族なんだから、使えるんでしょう?﹂ ローズは自分がからかわれているのかと思い、少し不機嫌そうに 言った。だが、 ﹁なぁに、それ? ぼく、つかえないよ。そもそも、きいたことが ないよ﹂ この、幼なじみの少年の言葉は、赤毛の少女をたいそう驚かせた。 ﹁うそっ? ⋮⋮本当に?﹂ 32 あり得ない事を聞いたものだから、やはり自分がからかわれてい るのではないかと、ローズは念押ししてみた。 それに対し、盲目の少年は、 ﹁うん﹂ と、即答したのだった。それから、 ﹁ねぇ、ローズ。さいかしょうって、どんな石なの? やっぱり、 かたいの? それとも、パンみたいにやわらかい? スープみたい にあたたかい? この部屋のかべみたいにつめたい? 外にさくお 花みたいにきれいなの?﹂ うそ つ 自分の何倍も物知りな少女に、矢継ぎ早に質問したのだった。 どうやら少年が嘘を吐いている訳ではない事を理解したローズは、 石を使えないのが自分だけではないと解り、しかもそれが一番の仲 まぶた 良しであるシアだったので、なんだか仲間ができたみたいでほっと したのであった。 それから、白い髪した男の子の、閉じた瞼の辺りを見ながら、説 明していった。 ﹁彩化晶はね、わたしもくわしくは知らないんだけど、見たことが ある物は、どれもかたいわ。この前、二人で拾った石ころみたいに よ。けれど、石ころほどには冷たくないわね。あと、いろんな色が あって、とってもきれいよ﹂ ﹁いろんな、色﹂ シアが繰り返す。 ﹁そう。⋮⋮花にいろんな色があるみたいに、彩化晶にもたくさん の色があるわ﹂ 本当は﹃いろんな髪と目をした人たちがいるみたいに﹄と言うべ きだった。何故なら、人の持つ髪や目の色に対応した色の数だけ、 赤 と 緑 という具合に。 彩化晶はその種類が存在するのだから。例えばローズが使えるとす るなら、それは だが、皆が当たり前に持つはずの、その髪と目に色の無い男の子 を想い、優しい少女は言葉を選んだ。 33 色の無い人間に彩化晶が使えるはず たず という事実に思い至り、自分の浅はかさに赤毛の少女はひ そして、考えるまでもなく がない どく落ち込んだのだった。 けれど、当の男の子は気にした風もなく、続けて少女に尋ねる。 色の話題 で自分が落ち込むと、少年も落ち込ん ﹁その石って、どんなふうにつかうの?﹂ その質問に、 レゾナンス でしまう事を知っていたローズは、気を取り直してこう答えた。 ﹁︿共鳴術﹀に使うのよ﹂ ﹁レゾナンス?﹂ またもや、聞いた事のない単語だったので、シアは不思議そうに 繰り返す。 ﹁いわゆる、魔術よ﹂ ローズは、もっと解りやすい言葉で言い直した。 ﹁魔術って⋮⋮あの、ふつうの人ができないことができる、すごい 術のことだよね?﹂ おも も 赤毛の少女が、外の話をする時や、おとぎ話を聞かせてくれる時 わず に見せる、ローズにだけ判る少し興奮気味の面持ちで、シアは言っ た。僅かに身を乗り出してさえいるほどだ。 男の子の反応に気をよくした少女は、学校の先生が授業で言って いた事を思い出しながら、一番の友達に語って聞かせた。 おの リズム ちなみに学校とは、貴族の子弟が通う、王立の教育機関の事だ。 ﹁この世にはね、たった二つだけ、自ずから特別な︿律動﹀を発し い か ているものがあるのよ﹂ しんどう ﹁リズム?﹂ てのひら ﹁そう。振動とも言い換えられるわ。こんな風に﹂ たた ほお ゆる ローズの掌がパンパンと打ち鳴らされ、続いて、机がコンコンと 叩かれた。 人間 と 彩化晶 なのよ﹂ その音がなんだか楽しくて、シアの頬が少し緩む。 ﹁その二つというのが、 ﹁そうなんだ﹂ 34 ハルモニア ﹁そう。で、人間と彩化晶には、決まったリズムがあって⋮⋮えっ と⋮⋮そうっ、固有振動数というのがあるのよ﹂ ﹁こゆう⋮⋮え?﹂ 思わず聞き返すシア。 レゾナンス はっ き ﹁固有振動数、よ。その固有振動数が人間と彩化晶で一致すると、 ︿共鳴術﹀が︱︱魔術が効果を発揮するのよ﹂ すで ﹁えっと、えっと﹂ もう既に話しについて行けないでいるシアは、ちんぷんかんぷん だ。 ﹁簡単に言えば、人と石には相性があるのよ。こんな風に﹂ そう言ってローズは、さっきみたいに掌を打ち鳴らした。 リズム パンパンパンと、三回音が鳴る。 ﹁これがわたしの︿律動﹀だとして﹂ 次に、机がコンコンコンと三回叩かれる。 ﹁これが彩化晶の︿律動﹀だとするわね。どっちも音が三回鳴った わね?﹂ ローズの問いかけに、 ﹁うん﹂ と答えるシア。 ﹁つまり、どちらも固有振動数が三回ということになるの。三回同 士だから、相性はバッチリ﹂ ﹁どっちも三回鳴ったものね﹂ この説明は解りやすかったので、シアも一安心だ。 ﹁けれど﹂ ハルモニア 今度は、ローズの掌が二回打ち鳴らされ、机が三回叩かれた。 ﹁これだと、音の数が合ってないわ。一致してない﹂ おとのかず いつ ち ﹁うん。二回と、三回だもの。音の数がちがうね﹂ ﹁そうなの。この固有振動数が一致したら、︿彩化晶﹀は不思議な 力を発揮してくれる。けれど、一致しなかったら、何も効果は出な いの﹂ 35 そこまで言ったところで、ローズの肩が落ちた。最初、﹃石がつ ヘレディタリー かえないの﹄としょげていた女の子に戻ってしまった。 リズム ﹁わたしは貴族だから︿先天共鳴者﹀のはずなのに﹂ ﹁へれ⋮⋮なぁに?﹂ ﹁ヘレディタリー。生まれつき、特定の彩化晶と︿律動﹀が一致し てる人のことよ﹂ エクワイアード ﹁ヘレディタリーじゃないと、石はつかえないの?﹂ ﹁ううん、使える人もいるわ。︿後天共鳴者﹀って言って、技術で ズレてる︿律動﹀を一致させる人たち﹂ レゾナンス チューニング ﹁その技術は、学校ではおしえてくれないの?﹂ ハルモニア こた ﹁⋮⋮教えてくれる。︿共鳴術﹀の中に︿調律歌﹀っていうのがあ も って、それを上手く使えば、律動が一致して、彩化晶が応えてくれ る﹂ ﹁じゃあ︱︱﹂ さえぎ ﹁使えないの、わたしには﹂ シアの言葉を遮り、ローズは悲痛な声を漏らした。 はつらつ ﹁お父様もお母様もお兄様も使えるのに、わたしだけ使えないの。 しず 勉強してるのに、使えないの﹂ 暗く沈んだ声だった。 いつもは太陽のように明るく溌剌とした少女が、今はどんよりと した雲に覆われてしまったかのようだ。 仲良しで大切な友人をなんとか元気づけようと、シアは少ない知 識をかき集めて考えた。考えたが、結局は良い知恵は浮かばなかっ た。けれど、大好きな友達を慰めたくて、とにかく口を開いた。 ﹁ローズは石がつかえなくてもいいよ﹂ ﹁でも、家族みんな使えるんだよ? 学校の友達だって、使える子 まれ たくさんいるし。最初は使えなかった子達も、勉強してどんどん使 えるようになっていってるし﹂ 貴族であればたいてい、石を使う事ができる。使えない方が希だ。 ﹁ぼくもいちおう貴族だけれど、石はつかえないよ﹂ 36 しっ と ﹃学校の友達﹄に少しだけ嫉妬しながら、シアは言葉を続ける。 ﹁そんなことよりもローズにはとってもステキな才能があるよ﹂ この言葉に、ローズは驚いた。ついで、すがるような気持ちで問 いかけた。 ﹁どんな才能?﹂ ﹁ぼくをいつだって楽しい気持ちにさせてくれる才能! この部屋 を明るくしてくれる才能!﹂ 大まじめだった。真剣だった。﹃明るい﹄なんて言葉の本当の意 味、ちっとも解らなかった。けれど、本当の気持ちを込めて語った。 だから、ローズの顔は真っ赤になった。 ﹁あと、もの知りの才能! それから︱︱﹂ ﹁もう、いいわ!﹂ まだまだ続きそうな言葉に、慌てて待ったをかけた少女は、 ﹁ありがとう﹂ 小さな声でお礼を付け加えた。 ﹁さいきん、外に出ていないわね。出てみようか?﹂ ごまかすように言ったローズの言葉には、﹁だめだよ﹂と元気の ない言葉が返された。 ﹁どうして?﹂ ﹁今まで何度か外にでたでしょう? だから、ローズのことが良く 思われてないみたい。今度みつかったら、ローズと会えなくなるか うった もしれない。会えなくなったらイヤだよ﹂ 切々と訴えるシアに、うーんと腕組みをして考え込むローズだっ たが、しばらくして、 ﹁わたし、騎士になる!﹂ 突拍子もないことを言い出した。 ﹁騎士に?﹂ ご えい ﹁そう。王様も女王様も、お父様もお母様も、貴族は出かける時に 護衛の騎士を連れて行くわ。護衛の騎士がいれば、自由に外に出て いいのよ!﹂ 37 名案とばかりに、手を打ち鳴らしてはしゃぐローズ。 ﹁じゆうに、そとに﹂ ﹁そう。わたしが、シアの騎士になってあげる! そうして、外に 連れ出してあげる! 街へ行って買い物をしましょう。美味しいお 菓子を売ってるわ。馬に乗って山の向こうまで探検に行きましょう。 竜や妖精に出会えるかも。そうして、夜は私の家で一緒にご飯を食 べて、ベッドの中でずっとお話していましょう。それは、きっとと ても楽しいことだわ﹂ あふ 楽しげに話すローズの言葉は、シアには全部は理解できなかった。 けれど、静かに聞き入る彼の目からは、なぜだか涙が溢れていた。 ﹁どうしたの? ここは泣くところじゃないのよ? ﹃ありがとう、 ふ ぼくの騎士ローズ﹄って、よろこぶところだわ﹂ ハンカチで涙を拭いてあげるローズに、その手のぬくもりに触れ お えつ ま ると、何故だかもっともっと涙が溢れてきて、困ってしまうシアだ きゅう しゃ った。けれど、言わなければいけない大切なことだけは、嗚咽混じ りになんとか言うことができた。 ﹁ありがとう。ぼくの騎士、ローズ﹂ か クラウズェアは馬で駆けていた。 くら 父から地鎮の儀の話を聞くやいなや、厩舎へ走った。馬丁を斬り 殺さんばかりの形相で急かし、一番の早馬に鞍をつけさせると、︿ 常葉の森﹀へ向けて馬を走らせた。 ギャロップ ﹁頑張ってくれ!﹂ 襲歩︱︱全速力で向かわせたかったが、それだけは必死でこらえ た。 馬という生き物は、思ったほどには体力はない。長距離走行用に ペースを落として走らせても、せいぜい四十㎞が限界だろう。馬の 品種や用途別の種類にもよるが、満足に襲歩を維持できる距離は八 38 しんぞう ま ひ 百m程度が限界とされ、無理して襲歩で走らせ続ければ、二∼三㎞ で心臓麻痺を起こして死んでしまう。そして、よく訓練された馬で あるほど主人の命令には忠実で、死ぬまで従い続けてしまう。 はや りっ だから、しらずに馬を急かしすぎてしまわないよう、乗りつぶし てしまうギリギリのペースを見極めながら、逸る心を律して、気も 狂わんばかりの時間を耐えなければいけなかった。 そうでなければ、間に合わなくなってしまう。 もしかしたら、もう既に手遅れなのかもしれない。だが、そんな つか 事は考えたくなかった。あってはならぬことだ。 が降りかかるなど起こってはいけないことだった。 クラウズェアが仕える、彼女より年も背も小さなご主人様の身に、 死 ぬ ﹁わたしはまだ、約束を果たしていないんだ!﹂ ちょう こう 馬の首が、汗でびっしょりと濡れている。まだ、大丈夫。まだ、 にら もつ。尻や尾の方まで汗をかいたら、危険な兆候だ。 沈みゆく金色の太陽を横目で睨みながら、クラウズェアはただ一 心に、主が居るであろう︿常葉の森﹀を目指して馬を駆けさせた。 ぶ どう ワインは高級品である。 おんだん かんそう さいばい ワインの材料は葡萄だ。その葡萄は、東の大陸でしか採れない。 とりわけ、温暖で乾燥した一部の地域で栽培された葡萄は質が良く、 味も旨い。その葡萄から作られる果実酒は大変に美味だが、値段は 張る。つまり、金持ちしか飲めないのだ。 ワインを飲むということは、一種のステータスだ。 セイクリッドネス ﹁︿赤陽地鎮の儀﹀は、手はず通りに済みましたな﹂ したつづみ 不可侵卿ことイーストフットヒル侯爵オズワルド・オズボーンは、 好物の赤ワインに舌鼓を打ちながら、女王ベラに話しかけた。 ﹁ええ﹂ これ以上ない簡潔な答えだった。 39 ﹁おつらいでしょうが、これも国のため。ひいては我々のためです からな﹂ この言葉には、ベラは応えない。 ﹁この国の未来に、そして、我々の甘い蜜月に、乾杯!﹂ み くす し 耳障りで甲高い祝杯の声に、冷ややかな視線を返すベラだったが、 ドアへ歩を向けた。 ﹁そろそろ、サイラスを看に行く時間だわ﹂ 、、 お 侯爵に顔を向ける事なく、ベラが告げる。 ﹁陛下の経過は順調ですかな?﹂ ﹁ええ、順調よ。さすがは不可侵卿が推した薬師だけの事はありま すね﹂ ﹁薬も?﹂ ﹁きちんと飲んでいるようよ﹂ ﹁それは、大変よろこばしい。どうですかな、女王陛下も一杯?﹂ ﹁結構です﹂ 結局、ベラが振り返る事は無かった。 わずら 退室する女王と入れ替わりに、外に控えていたフィデリオが入室 する。 こと ﹁まったく、虫の好かん女だ。これだから女の扱いは煩わしい﹂ ﹁今の言葉、女王陛下に聞かれていたら事ではありませんか?﹂ フィデリオの忠告に、思わずオズワルドの腰が浮き、ドアの方を 凝視してしまう。だが、そのドアは開く事も、廊下で物音が聞こえ しょう じん る事もなかった。 その無様な小人振りに、一瞬だけフィデリオの顔に冷笑が浮かぶ。 だがそれは、侯爵に気付かれる事はなかった。 あん ど でっぷりとした尻を椅子の上に落ち着け直したオズワルドは、内 サークレツト 心で安堵しながら語気強く言った。 て なず ﹁ふんっ、ただ環状額飾りが適応したというだけで女王になれた女 だ。諸侯を手懐け、権勢を増した今の儂なら、権力でも充分に渡り 合える。恐るるに足りんわ﹂ 40 いにしえ ﹁古から受け継がれた、 物だったはずでは?﹂ 魔物を寄せ付けぬ と云われる強力な遺 ﹁馬鹿か貴様! 魔物なんぞどこにおる? 儂は人間だぞ。まあ、 あんな魔除けの小道具を身につけていても、産まれたのが怪物なの だから、笑える話だがな﹂ おうたい し そう言ったオズワルドは、腹を揺すって大笑いした。 おい ご どの ﹁あんな女の事よりも、首尾は? 王太子はどうなった? 子爵は すぐにでも着くのか? それと、天恵はまだか?﹂ いま 矢継ぎ早の質問を、フィデリオが一つ一つ答えていく。 ﹁王太子殿下の生死は、伝令が未だ来ませんので不明です。甥御殿 、、、、、、、、、 は、指示通り都に向かっているようです。多少、寄り道はしたよう ですが。それから、天恵は影も形も見えません﹂ かんしゃく む く ﹁ええいっ、腹の立つ! どいつもこいつも、いつまで儂を待たせ るつもりだ!﹂ オズワルドは癇癪を起こし、酒の飲み過ぎで浮腫んだ顔を、赤黒 く染めた。 ﹁伝令に関しては、待つしかありません。それから、︿金陽天恵の 儀﹀だけではなく、︿赤陽地鎮の儀﹀も忠実に再現した方が良かっ たのではありませんか?﹂ つば ﹁やかましい!﹂ 唾を飛ばしながら怒鳴りつけたオズワルドは、ふぅふぅと荒い息 を吐き、濁った目でフィデリオを睨み付けた。 ﹁呼び出すのは天恵の儀だけで充分なのだ! 地鎮の儀なんぞ、関 係はない! あれは、︿色なし王子﹀を殺すための大義名分に利用 ふる できれば、それで良いのだ﹂ オズワルドの血筋は、古くから伝わる神官の家系だ。先祖代々よ けいがい か り祭祀を司り、他の者が知り得ない知識や文献も多く保有する。 だが、長い歴史の中で儀式は形骸化し、その本質は失われた。中 でも︿陽の儀﹀、特に︿赤陽地鎮の儀﹀に関してはほとんどの知識 が失われてしまっており、正確なものが伝わっていない。 41 それでも、彼が読み解いた文献では、望むモノを得るためには︿ 金陽天恵の儀﹀だけで充分なはずだったのだ。 ﹁それよりもあいつめっ、儂が使ってやっておるのに、言うことを 聞かん! 血筋の悪い者はこれだからいかん﹂ 考えたくない案件から目をそらすため、侯爵は話題を変える事に そういう輩 だと解っていたはずでは? それに、ご した。彼の甥御の件だ。だが、 ﹁もとから つ 兄弟が下女に産ませたお子とは言え、れっきとした侯爵閣下と同じ 血が流れておいでですが﹂ これもフィデリオから痛い所を衝かれてしまい、とうとうオズワ 、、、、、 、、 ルドの堪忍袋の緒は切れた。 ﹁うるさいっ、黙れ!﹂ あやつ ぴたりと口をつぐむフィデリオ。 ﹁まあいい。彼奴の欲しがるものを与えてやれるのは、この儂だけ だ。儂には逆らえん﹂ へいげい 押し黙ったままのフィデリオに背を向けた侯爵は、高価なガラス 窓から外を睥睨する。 ﹁いずれ、全部が儂のものになる。焦ることはない﹂ 独りごちる侯爵の背を、物言わぬ剣士は冷ややかに見つめていた。 42 二章②﹃きれいなせかい。きれいなうた。﹄ 夢を見ていたようだった。懐かしい夢。 きっとローズとの約束の夢だろうと、アルテミシアはぼんやりと 思った。そういう時は決まって、胸の奥が温かくなる。同時に少し だけ、切なくもなる。そんな風に感じる必要は無いのにねと、贅沢 な考えを心の奥底に沈める。 まぶた けれど、いつもはそれだけなのに、今回は何かが違った。 しずく 滴 ヴィジョン が一滴、零れ落ちる幻視を見た。 いってき 瞼の裏側を、限りなく黒に近い灰色の世界を、影よりも夜よりも 真っ黒な ︵見る? 夢?︶ アルテミシアの世界はとても狭かったから、いつもたった二種類 の夢しか見ない。 一つは、とりとめもない、ぐちゃぐちゃした夢。何にも形容しが たい世界に、たまに、側仕えの巫女や家族の声がよみがえる。 もう一つは、ローズの夢。楽しくて、嬉しくて、この世は広くて、 色 色 がついていた事は無かった。 いけないことだけれど外に出かけたくなってしまう夢。形がある夢。 けれど、その夢の中のどれも そもそも、何度も何度もローズが必死に教えてくれようとした というものを、結局は理解できなかったのだ。 なのに。 ︵黑って、黒いことなの?︶ だったんだと、 という行為に意味はなかったし、物が触れ 限りなく黒に近い、灰色の風景 黒いという事が不思議と理解できているし、今まで自分が見てい た盲目の風景が、 あ 初めて気がついた。 ﹁え?﹂ 瞼を開く 目が、開いた。 今までは 43 たら痛くて涙が出るから、閉じたままでいたのだ。 今までは。 ﹁これって、なに?﹂ アルテミシアは、混乱していた。 さ さい 自分が地面に倒れ伏しているという状況にも驚いたが、それは、 他の驚きに比べたら、とても些細なことだった。 花が咲いていた。白く、小さく、可憐な花だった。 下草の生い茂る隙間から、せいいっぱい背伸びして、空へ向かっ て伸びようとする姿が薄明かりに照らされているのが目に映った。 ﹁はな﹂ 花だ、ということを知っていた。知っていたことに気付いた。ま るで、自分のものではない誰かの知識が、唐突に自分の中にあるよ うな、そんな、不思議な感じ。 花の名前は分からない。でも、そんなことはどうだってよかった。 おそるおそる手を伸ばして触れてみると、花弁は柔らかく、しっ とりとした手触りだった。ローズが摘んできてくれる花の感触と似 ていた。 土の匂い、草の匂いに混じって、これだけ顔を近づけてみてやっ とわかるほのかな匂いだったが、甘くて優しい匂いだった。いつか、 ローズと一緒にかいだ匂いに似ていた。 ふと、立ち上がってみたくなった。 夜露で湿った下草と小石が散らばる地面に手を突き、立ち上がっ た。 視線が高くなり、 視界が広くなり、 世界が︱︱広がった。 そこは、夜の森だった。 木々が生い茂る森の中で、ここだけが空間が開けている。夜空に 44 輝く銀の月が、枝葉の間から顔をのぞかせ、光を投げかけている。 月光に照らされた湖をぼうっと瞬かせており、とても幻想的だ。 倒れている間にずいぶんと砂をかぶってしまったようで、小石が 散らばる地面の上で、零れ落ちる砂をはたいた。 頭を振り、髪を指で梳くと、リボンがほどけて地に落ちた。 赤いリボンだ。 ローズと同じ髪の色のリボンが欲しいとねだったら、街で買って きてくれた思い出のリボンだ。 残念な事に、辺りに落ちているのは一つきりだった。来る途中で 落としたのだろうか? 拾い上げ、前髪をかき分けながら、月光に照らしてみる。 ﹁これが、赤い色。ローズの髪の色﹂ 口に出して、確認してみる。 それは、とても温かい色だと思った。 ローズにぴったりの色だ。 ローズはあまり自分の赤毛が好きではなかったようだが、アルテ ミシアは好きな色だと思った。今この瞬間、大好きになった。 ﹁あれ?﹂ ふと、気がついた。 最初は、暗いからだと思った。足下の白い花と見比べてみた。 黒い。 髪が、黒いのだ。 前髪を横目で見て、長く重い髪を手ですくってみて、両手で捧げ 持って月光にさらしてみても、黒い髪は黒いままだった。 白い花とは正反対の。 呪われた髪とは正反対の。 ﹁どういう、こと?﹂ 誰とはなしに零れた問いは、意外なことに返事が得られた。 その返答は、言葉ではなかったのだが。 声なき声は、不思議なことに、アルテミシアの身の内から返って 45 きた。それは、形にならない 意思 や 感情 のようなものだっ 仔犬 やく に似た感じだ た。嬉しそうに飛び跳ねて、せいいっぱい自分をアピールしている ように感じられる。昔、ローズが連れてきた った。 まり その何者かの、声なき声をあえて言葉にするならば、 ︻ジブンガ、ジブンガ、ジブンガイルカラ!︼ と繰り返しているように思えた。 ﹁︻君のおかげなの?︼﹂ どうかん アルテミシアの問いかけに、嬉しそうに飛び跳ねる鞠のような躍 動感が胸を満たした。自分の感情とは違うものが胸の内にあるとい うのは変な感じだったが、その弾む気持ちにつられて、アルテミシ アまでも楽しくなってくるようだった。 ﹁︻じゃあ、いま目が見えているのも? あ、色とか、花の形を知 っているのも?︼﹂ この問いかけにも、元気いっぱいの肯定の意が返ってきた。 ︻ホメテホメテ!︼ と言っているかのようだった。 ﹁そうなんだ。︻ありがとう︼﹂ 感謝を伝えると、︻モットモット!︼と胸の内を跳ね回る。 つ アルテミシアは他の言葉を考えたが、ふと、言ってみたい言葉が ぽろりと口を衝いて出た。 ﹁︻えらいね︼﹂ 最初の言葉も、後に続く言葉も、思いがけず自然と湧き上がって きた気持ちを、優しく語りかけるように、言葉にしていく。 ﹁︻ほんとうに、えらいね。すごく、たすかるよ。ありがとう。君 がいてくれて良かった。ほんとうに良い子だね︼﹂ それは、家族に言って欲しかった言葉。 それは、親にかけて貰いたかった言葉。 それは、頭を撫でて貰いながら優しい声で言って欲しい、お母さ んの言葉だった。 46 アルテミシアの言葉に、今まで以上に跳ね回る胸の中の存在は、 嬉しくて仕方がないようだ。 その反応に幽かに笑いながら、アルテミシアはもう一度周囲を見 回し、そして、空を見上げた。 お 静かな森には、静かな音と色があった。 閉ざされた部屋とは違う、耳の奥を圧す嫌な静けさとは違う。 それは、小さな虫たちが歩く音。 ふくろう それは、巣で身を寄せ合う狐の親子の吐息。 それは、木の上で身繕いをする梟の羽音。 おと それは、ごつごつした木々の間を抜け、なめらかな湖面を撫で、 ぎざぎざの枝葉を揺らす風の音。 そして、それらを優しく包み込む、夜のとばりと月の影。 ︱︱世界は、美しかった。 ﹁見えてるんだ、本当に﹂ 月を見上げて呟いた言葉に、自分で零したその言葉の意味が、そ の時初めて実感を伴い、アルテミシアの心を揺さぶった。 水が一杯に満たされたコップが、揺らされて中身を零すように、 きっとずっと我慢してきた心が揺られ、押されて涙があふれ出した。 ﹁︻だいじょうぶ。これは、だいじょうぶな涙だよ︼﹂ あふれ出す涙と静かに泣いているアルテミシアに、胸の奥から心 つむ 配そうな気持ちが生まれてくる。それに安心させるように、アルテ ミシアは優しく︻だいじょうぶ︼と紡ぎ続けた。 まと 静かな夜の静かの森で、音もなく流れる涙のかわりに、月影がさ らさらと鳴っていた。 ﹁殿下!﹂ そんな切迫した鋭い声が響いたのは、髪をリボンで纏め直したア 47 ルテミシアが、そこらを歩き回って木の幹の手触りを楽しんだり、 湖面に映る自分の顔を見て面白がったりしていた時だった。 ﹁ローズ?﹂ 決して間違えるはずがない、少年にとって一番心許せる人物の声 に振り返ると、赤い前髪を振り乱し、緑の目を見開いた背の高い少 女が、肩を上下させながら荒い息をついている姿が見えた。 その手には、赤いリボンが握り締められている。 日が落ちきる直前。森に入る手前で、川岸に引っかかっている見 覚えのある赤いリボンを、緑の目が見付けたのだ。 結局、森に入る所で乗りつぶしてしまった馬に、騎士として自責 の念を抱きながら感謝を捧げ、祈るような気持ちで川沿いを上り、 クラウズェアは、こうしてここまでやって来たのだった。 ﹁ローズだよね? ローズって、そんな姿をしてたんだ﹂ 上下に視線を動かした少年は、赤い髪をあらためて見てみる。リ どうよう ボンと同じく赤い色で、リボンよりももっともっと好きな色だと、 アルテミシアは思った。 ﹁シア、なの?﹂ 対して、クラウズェアは動揺していた。 いな 眼前の少年が、アルテミシアだという確証が持てなかったからだ。 否、彼女の心は、この少年こそが幼なじみであり仕えるべき主で か かがや あるアルテミシアだと訴えていた。だが、彼女の理性は違う判断を こくようせき した。 ル 黒曜石も斯くやと思わせる、しっとりとした黒く耀く長い髪は、 氷のように白かった髪とは正反対だ。 ビー そして、いつか見せて貰った水晶のように透き通った虹彩は、紅 玉のように赤く色づいている。 しらず、よく見ようとクラウズェアが前へ踏み出した時だった。 ﹁︻だめ!︼﹂ 叫んだアルテミシアは、目許を両手で覆い隠した。 ﹁シア?﹂ 48 ﹁︻ちがうの。ローズはだいじょうぶだから。こわくないから︼﹂ 制止の叫びと、一転、優しく何かをなだめるような独り言を呟く 眼前の少年に、ただならぬ切迫を感じたクラウズェアは、心が理性 を押しのけて、アルテミシアに駆け寄っていた。 な ﹁シア、大丈夫? 何が怖いの? 何かあったの?﹂ 少年の頭を胸にかき抱き、背中を撫でてやりながら、優しく問い かける。 この、突然のことに驚いたアルテミシアだったが、しばらく背中 を撫でられたのち、 ﹁うん。もうだいじょうぶ。この子も安心したみたい。ありがとう、 ローズ﹂ 穏やかな声で答えることができた。 ﹁それは良かった⋮⋮って、この子? さっきから、なにを?﹂ アルテミシアの両肩に手を置いて、顔をよく見ようと覗き込んだ 時だった。 緑の目と、赤い目の、視線が合った。 ﹁え?﹂ ぜんもう クラウズェアの心に、強い違和感が生まれた。 生まれながらの全盲であるアルテミシアは、本当は見えているの ではないかと思わせる行動を取る事がある。 杖もなしに部屋を歩き回るのも、その一つだ。 たまもの だがそれは、慣れ親しんだ自室などに限られており、生まれてこ の方、数限りなく繰り返した反復行動の賜なのだ。 それなのに。 今のアルテミシアはいつもとは違うように、少女には思われた。 変わってしまった外見を抜きにして。 みは そういえば、﹃そんな姿をしてたんだ﹄と、最初にアルテミシア が言っていたのを思い出した所で、クラウズェアは目を瞠った。 ﹁目が、その⋮⋮﹂ 紅玉みたいに赤い目を見ながら、もしも違ったらと、この繊細な 49 少年を決して傷付けずに確認するにはどうすればと、そう思うと、 それ以上は言葉が出てこない。 だが、アルテミシアはあっさりと、 ﹁うん。見えてる。見えるようになったんだ﹂ クラウズェアだけが判る幽かな笑顔で打ち明けたのだった。 クラウズェアの顔にも、笑顔の大輪の花が咲いた。 ﹁凄いっ、シア! 凄いよ!﹂ アルテミシアの両手を取って振り回し、抱きしめ、抱きしめたま き せき ま振り回し、少年が目を回してしまう寸前でやっと解放した。 よごと しるし ﹁でも、どうしてそんな奇跡が? 神々のご加護? 常葉の森の神 秘? 赤陽は吉事の徴だったの?﹂ 興奮冷めやらぬクラウズェアの言葉に、 ﹁この子のおかげなんだけれど︱︱︻だいじょうぶ? ⋮⋮うん、 誰か とも話している口ぶりに、訝しげな わかった︼︱︱ローズ、驚かないでね?﹂ クラウズェア以外の 表情を浮かべる女騎士。 おくびょう ﹁今から紹介したい人がいるんだ。お願いだから、驚かないで? とっても臆病な子なんだ﹂ とても真剣なアルテミシアの雰囲気に、これはただ事ではないと 感じたクラウズェアは腹をくくり、﹁わかった﹂と返事した。 ﹁︻出ておいで?︼﹂ こつぜん アルテミシアが言い終わった瞬間、 彼の側に、黒い塊が忽然と現れた。 ﹁なっ?﹂ おぼろ クラウズェアが悲鳴を上げなかったのは、実に、賞賛に値する事 だった。 とも 直径一mほどの黒く丸い塊。いや、塊ともつかぬ、霧のような朧 おに び あや の奥に、赤く不気味な光が灯っている。沼地や墓場に現れるという 鬼火にも似ていたが、もっと得体の知れぬ妖しさがあった。 それが、アルテミシアのすぐ隣に、ふわりともせずに浮いていた 50 のだ。 たまもの ﹁ば、化け物!﹂ 訓練の賜だろう。大切な人を守りたいという気持ちも強かった。 レイピア とつ さ ダガー 腰を抜かすこともなく一瞬の硬直から脱した女騎士は、近い間合い に細剣は不利と咄嗟に判断し、腰の後ろに差した短剣を逆手で引き 抜いた。 一連の動作は、実に素早かった。 だが、しかし。 ﹁待って!﹂ 幼なじみの緊張を肌で感じ取り、遅れて動いたアルテミシアが、 より近い位置にいた事もあり、倒れ込むようにして黒い塊に抱きつ いた時、ダガーはまだ標的に刺さってはいなかった。 ﹁シアっ、どきなさい!﹂ もはや、少年の髪が白に戻っていることなど、クラウズェアにと ってはどうでもよかった。 緊急事態だった。 たち たぶら どういった訳かわからなかったが、アルテミシアは、なにか恐ろ しく質の悪い魔物に誑かされているのだと、クラウズェアは思った。 けれど、 ﹁どかない! この子を傷付けないで!﹂ アルテミシアは、言うことを聞かない。 ﹁シア!﹂ いよいよ誑かされているのだと強く確信したクラウズェアが、ア ルテミシアが覆い被さっていない方をダガーで一突きしようと動い た時だった。 ﹁︻戻って!︼﹂ 少年の叫び声が終わる前に、何の前触れもなく揺らめきもせず、 それは、現れた時と同じく忽然と姿を消してしまった。 黒い怪異は、消え去っていた。 ﹁いなく、なった?﹂ 51 油断なく辺りを見回し、ついで、短剣を手にしたまま小さな主に うら 振り返った女騎士は、黒曜石の髪の下から見上げる、彼女にしか判 別できないだろう恨めしげな色を帯びた目に、たじろいだ。 ﹁シ、シア?﹂ ﹁驚かないでねって、言ったのに﹂ 年下のご主人様は、無茶なことを言った。 ﹁シア、さっきのは? いいえ、そんな事よりも、早くここから離 れましょう。化け物が戻ってくるともかぎらない。話はその後で﹂ そう言って腕を引く守護騎士に逆らい、主は動かない。 ﹁シア?﹂ ﹁⋮⋮行けない﹂ ﹁シア!﹂ ﹁行けないよ﹂ 恨めしげに見上げていた赤い目には、今は悲しみが満ちていた。 その、夜の暗さに浮き上がるように煌めく赤い目は、どうしよう もなく先程の不気味な光を思い出させて、たまらなく少女を不安に させた。 ﹁行けないって、いったい﹂ ﹁さっきの子はね、ここに居るんだ﹂ アルテミシアの両の手が、己の胸にあてがわれる。 クラウズェアの顔から、血の気が引いていく。 黙ったままの少女を見て、自分の説明が悪かったのかと、少年は 言葉を付け足した。 ﹁さっきからずっと、今でも、一緒にいるんだよ。⋮⋮ねえ、どう したの、ローズ? しゃべってくれないと、わからないよ﹂ アルテミシアには、幼 にゆがんでいることなど、解らなかったのだ。 できなかった 他人の表情を読み取るという行為を、見えている人間ならば当た 絶望 り前のことを、今の今まで なじみの顔が ﹁この子のおかげで目が見えるようになったんだよ。とっても良い 子なんだ。きっと、とっても良い子だよ。だからローズ。ローズ、 52 表情 感情 を、学ぶ機会のなか どうかお願い。﹃よかったね﹄って、言って?﹂ そうぼう 親や周囲の人間から学ぶはずだった とぼ った盲目の少年は、変化の乏しい相貌の代わりに精一杯の を声に乗せ、大好きで大切な幼なじみにぶつけた。 ﹁シア、わたしは⋮⋮﹂ クラウズェアは混乱の極みにあった。何も考えがまとまらず、頭 の中は真っ白で、そして、ただひたすらに怖かった。 アルテミシアが怖かったのではない。アルテミシアを取り巻く状 況が怖かった。 青ざめた顔と、さっきから収まらない震えとで、端から見れば、 今にも死んでしまいそうなほどの有様だった。 その時、ふと。 さきほどから指の骨が砕けるのではないかと思うほどに固く握り 込んだダガーの事が、少女の意識にのぼった。 ダガーは、飾り気もなく実用一点張りの物で、何の特別さも持ち レイピア 合わせてはいなかった。その柄を握り込む彼女自身の手は、来る日 ぶ こつ も来る日も細剣を握り、厚くなった皮と剣ダコで、およそ伯爵令嬢 のものとは思えぬほどに無骨だった。 その手は、彼女の誇りであり、存在意義の証だった。 アルテミシアを守ると誓ってできた手だ。 ﹃いま、何を守らなければならないのか﹄ 女騎士は自らに問いかけた。 アルテミシアは、待っている。クラウズェアの言葉を。 ダガーを握る力を緩めると、肩の力も抜けた。そのまま、鞘に収 める。 ﹁ローズ﹂ 不安げな声が、クラウズェアの耳に届いた。 ﹁シア、良かったね。目が見えるようになって、良かった﹂ ぎこちない言葉だったが、それでも良かった。 彼女は守れたのだ、アルテミシアの心を。 53 しょう こ その証拠に、アルテミシアの顔には、微かにだけど確かな笑顔が 浮かんでいた。 その笑顔を見て、クラウズェアの決心も固まった。 ﹁行こう、シア﹂ 唐突な少女の言葉に、最初は驚いた少年だったが、力なく目を伏 せた。 ﹁行けない﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁神殿に戻っても、一緒だよ。髪は白くなくなったけれど、この子 の事が知られたら、きっと良くないことになるよ﹂ アルテミシアの言葉は正しかった。︿魔物﹀を受け入れる人間な ど、この世には存在しない。人間等は、そう考える。普通は。 ﹁じゃあ、どうするの?﹂ クラウズェアの問いかけに、しばらくうつむいていたアルテミシ アだったが、ぽつりと漏らした。 ﹁ここにいる﹂ ﹁ずっと?﹂ 少女は、静かに語りかける。 また、しばらくしてから、アルテミシアは答えた。 ﹁ずっと﹂ ﹁ここには、家もないし、ご飯もないんだよ? ずっといたら、死 んじゃうよ?﹂ いままでで一番長く黙っていたアルテミシアだったが、夜風が奏 でる小さな葉音にも負けそうな、可哀想なくらいに弱々しい声で言 った。 ﹁⋮⋮死ぬしか、ないのかな﹂ ﹁ばか! シアのばか!﹂ ぺちんと、クラウズェアの両の掌が少年の頬を挟み、地面を向い ていた顔を上げさせた。 ﹁そんなことを言うシアは嫌い。なんでも諦めるシアは嫌い。﹃死 54 ぬ﹄なんて言うシアは、大嫌い!﹂ 彼女の言葉に、とうとうアルテミシアの我慢していたものが壊れ てしまい、たくさんの涙があふれ出し、頬の手をびしょびしょに濡 らした。 ﹁街へ出かけて、美味しいお菓子を食べよう? 草原や山を越えて、 妖精も竜も探しに行こう? 見たこともないものを、たくさん見に 行こう? そうして、楽しかったことの全部を、お話ししよ? み んな、二人一緒によ?﹂ 涙で揺らめく赤い目を覗き込み、幼なじみの男の子に言葉をぶつ ける。 ﹁でも⋮⋮﹂ かな ﹁﹃でも﹄じゃないの! そんな言葉は聞きたくないの!﹂ クラウズェアの目からも、涙が零れていた。 シアの騎士 だから、言っ ﹁わたしが守ってあげるから、言って欲しいの。わたしが叶えてあ げるから、言って欲しいの。わたしは て欲しいの﹂ きれいなうた 少女の言葉はまっすぐで。 かたく 純粋な祈りを捧げられた彩化晶が、律動をもって返すのに似て。 頑なになっていた少年の心を、とうとう震わせた。 おえつ ﹁死にたくないよぅ⋮⋮もっと、生きていたい﹂ 嗚咽でしゃくり上げながら、アルテミシアはこれ以上ないくらい に心の中身をさらけ出していた。 自分より小さな主の、素直な気持ちを聞き出せた騎士は、満足そ うに頷いた。 それから、一歩、二歩と後ろに下がり、泣き続ける少年に手を差 し伸べた。 きら まなこ ﹁手を取って。それから、命じて﹂ 少女の、緑に煌めく眼を見上げてから、アルテミシアは前へ進み、 その剣ダコのできた手を握った。 ﹁ここから連れ出して、ぼくの騎士ローズ﹂ 55 二章③﹃目ん玉お化けのお母さんと、影の国からやって来た住所 不定無職﹄ ある日、女の子は石を拾った。 つ 不思議な色をした不思議な石は、とてもとても真っ黒で、神殿が 建つ湖の浅瀬に浸かっていた。 前日は強い雨風が吹き、川の流れに乗ってこの湖まで運ばれてき たものが多かったので、これもその一つだろうと、その子は思った。 女の子は、その卵みたいな形をした石ころを、友達の男の子の所 へ持って行くことにした。 ﹁これって、なぁに? このまえ言ってた彩化晶?﹂ ﹁さあ? お父様も、お母様も、お兄様も、黒いのは持ってないか モリオン な らわからないわ。でも、とっても不思議な色してる。もしかしたら、 黒水晶なのかも﹂ ﹁黒水晶?﹂ 知らない言葉に、男の子が問い返す。 ﹁宝石よ。たいそう綺麗なんですって﹂ ﹁きれい﹂ 包み込むように持っていた石を、小さな手がそっと撫でる。 ﹁つるつるしてて、まぁるいね﹂ ﹁ええ、まるで卵みたいな形だわ﹂ ﹁たまごって、どうぶつが産まれる、あのたまご?﹂ ﹁ええ、そうよ。めずらしいから、あげる﹂ ﹁ほんとう? ありがとう﹂ その日から、男の子は黒い石ころを服の中に入れ、温めた。眠る 時も、ベッドの中で一緒だった。 どんな動物が産まれるか、とても楽しみだった。生まれてきた子 にはモリオンと名付けるつもりだった。もしかしたら、おかあさん の気持ちはこんななのかなと思った。 56 男の子と石ころは、ずっと一緒だった。⋮⋮石が捨てられる、そ の日までは。 ゆ あ ある時。世話係の巫女達が、いつものように事務的に、男の子の 湯浴みの世話をしていた頃。 きび ふ しん ベッドメイクをしていた巫女が、枕の下に隠された黒い石を見付 しか けた。男の子の持ち物は厳しく管理されていたから、不審な物があ っては巫女が叱られる。 こう し 彼女は、部屋の窓から石を捨てた。 の 格子の隙間から落ちた石は、湖の中へとぼちゃんと落ち、落ちた 石は魚が呑んだ。 石がないと知った男の子は、その日、たくさんたくさん泣いたの だった⋮⋮ か ﹁モリオンは、湖の中に住んでたんだって﹂ たくさん泣いて少し枯れ気味の声で、アルテミシアは説明した。 夜の山道を下りながら、一緒に着いてくる銀の満月を、赤い目が 不思議そうに見上げている。 ちなみにモリオンというのは、アルテミシアが彼の身のうちに居 モリオン る存在につけた名前であり、この国のいくつかある鉱石資源の中で も貴重な結晶鉱物︿黒水晶﹀からとったものだ。 ﹁それで、水に落っこちたぼくを助けてくれたんだ。︻モリオンは 良い子だね︼﹂ 胸の辺りを見下ろすアルテミシアは、心なしか嬉しそうだ。彼が 嬉しいと言うより、彼の中のモリオンがうれしがっているのかもし れない。 ちなみに、短剣で刺された事はクラウズェアには伏せている。知 れば、幼なじみの少女は怒り狂って、剣を抜いて駆け出すだろうか ら。 57 い おんみ 幸いな事に、モリオンの力で傷は癒えている。 ﹁⋮⋮それで、何故そのモリオンは殿下の御身へ?﹂ 色々と言いたい事はあったがぐっとこらえ、一番大切な質問をク ラウズェアは選んだ。 ちなみに彼女は、乗りつぶした馬の死体がない方角を選んで、山 を下りている。優しいアルテミシアに見せる訳にはいかないからだ。 ﹁うん、それなんだけれど﹂ そう言って、少年は思案げに目を細める。己の内側へ意識を向け ているのだ。 ﹁モリオンとお話しができるわけじゃないから、本当にそうなのか はわからないんだけれど﹂ お母さん だから、みたい﹂ そう、前置きした後。 ﹁ぼくが ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂ クラウズェアの口から、間抜けな声が出た。 ﹁モリオンはぼくの子供で、ぼくはモリオンのお母さんで、だから 一緒なの﹂ そう言って微かに笑みを浮かべるアルテミシアを、騎士はまじま じと凝視した。 ﹁お、お母さん、ですか?﹂ ﹁うん、そう。あとそれから、水に濡れた服を乾かしてくれたのも、 モリオンだって。︻モリオンは優しい子だね︼﹂ おつしや モリオンと話すアルテミシアの口から、小さな笑い声が漏れる。 ﹁あの⋮⋮殿下、理解が及ばず申し訳ありませんが、仰っている意 味がよくわかりません﹂ 困惑以外の何物でもない色を声と表情ににじませたクラウズェア に、とがめるような声色でアルテミシアが答えた。 ﹁ねぇ、ローズ。そんなことよりも、なんでさっきからぼくの事を ﹃殿下﹄って呼ぶの? それに、その他人みたいなしゃべり方はな に? ぼくには、そっちの方がわからない﹂ 58 ﹁うぅっ、それは⋮⋮﹂ きゅう 赤い目に見つめられて、答えに窮するクラウズェア。思わず足も 止まる。 ひきょう ﹁答えて、ぼくの騎士ローズ﹂ ﹁それは卑怯だわ⋮⋮。わたしは、シアの騎士だから、騎士として ⋮⋮それより殿下、先を急ぎませんと。いつ逃亡が知るところとな きゅうしゃ り、追っ手がかかるやもしれません。ひとまず殿下にはどこかへお じ だ 隠れ頂き、その間、わたしは神殿騎士用厩舎へ急ぎ、馬をとってき ますので﹂ ﹁︻ねえ、これって、ごまかされてるのかな?︼﹂ モリオンへの問いかけのつもりだった。 アルテミシアの声に、内なる声ではなく、二人の耳朶を震わせる 声がかけられた。 ﹁ええ、そりゃあもう、これ以上はないってくらい、ごまかしまく ってる感じっすね﹂ すいか ﹁何やつっ?﹂ にら 誰何の声とともに、アルテミシアを背にかばいながら抜剣したク ラウズェアは、鋭い目つきで声のした辺りを睨み付ける。 ﹁おー、勇ましいこってすなぁ﹂ 楽しげな声と、その後に続く高らかな口笛の発生源に、それは居 た。 木々が作る濃い影の中に立つ、ひときわ黒い人影。人影以外の何 にも見えぬ、目も鼻も口もなく、子供が描いた落書きみたいな、ぺ らりとした人型の影が、少し向こうに立っていた。 ﹁また、︱︱﹂ ﹃化け物﹄と続けそうになったクラウズェアだったが、アルテミ シアを悲しませる事は決してすまいと心に固く決めていたので、な んとか言葉を飲み込んだ。 モリオンの事を受け入れたわけでは、決してなかったのだが。 ﹁黒い人によく会うね﹂ 59 なり のんき 幸い、アルテミシアは気付いた風でなく、女騎士の背後から暢気 に顔をのぞかせている。 こわ ﹁黒い人? お嬢ちゃん、あっし以外にもこういう形した奴をご存 じで?﹂ いろ まじな 先程の、人を食った調子とは打って変わり、きわめて真面目な声 色だった。 ﹁殿下、口をきいてはなりませぬ。何をきっかけにして妖しい呪い をかけられるか、わかったものでは︱︱﹂ ﹁あっしは今、そちらのお嬢ちゃんと話をしてるんですぜ? 部外 者はちょいとすっこんどいてくだせぇ。ええい、話すにゃちいと遠 いじゃねぇか。ちょいとそっちへお邪魔してもよござんすか?﹂ ﹁うん、いいよ﹂ ﹁シア! だめだってば!﹂ ちっとも言う事を聞かないご主人様に女騎士が抗議の叫び声を上 げた時、人影は、向こうからこちらへ、アルテミシアの影の中に立 っていた。 ﹁くっ﹂ レイピア クラウズェアの動きは素早かった。周囲に目を配り、視界の端に しつぷう 人影をとらえた瞬間、突きを放っていた。 疾風と呼ぶにふさわしい突きで、踏み込みの勢いも乗った細剣が、 影の胸を貫いていた。 手応えもなく。 ﹁なっ?﹂ 突こう し と という意識が強すぎです。後の事も考えなきゃあ。ま、 一歩、前へたたらを踏んでしまうクラウズェア。 ﹁ ですが今のでたいていの奴は仕留めていると思いますぜ﹂ 茶化すでもなくかけられた冷静な声に、だが、クラウズェアは心 穏やかではいられない。 ﹁貴様!﹂ 頭と腹に、素早い二段突き。今度はたたらを踏む事はなく、先に 60 さば も増して素早い剣捌きだったが、結果は同じだった。 すい い ﹁ローズ待って!﹂ 事態の急激な推移に着いていけなかったアルテミシアだったが、 今になってやっと動く事ができた。女騎士と影の間に割って入ろう とする。 ﹁シアっ、下がってて!﹂ ﹁ローズ話を聞いて!﹂ ﹁そうそう、お嬢ちゃんの言う通りですぜ﹂ ﹁貴様ぁッ﹂ い すく ﹁あなたも茶化さないで!﹂ ﹁はい﹂ アルテミシアの赤い目に射竦められた訳でもないだろうに、影は おとなしくなり、何故だかその場に正座をした。 ﹁ほらローズ、この人も何もするつもりはないって﹂ ﹁だけど!﹂ そう言い返し、鋭い眼光と剣先を油断なく向けたまま、女騎士は 主を左手で抱き寄せた。 すべ アルテミシアの動きに合わせ、少年の影も位置を変える。その影 のどもと 移 うつ に付き従うように、得体の知れぬ影人間も正座のまま滑るように水 平移動した。 すかさず、レイピアが影の喉元に突きつけられる。 ﹁誰が動いていいと言った﹂ おっしゃ んですぜ? 家が動いたら、住んでるあっしもそりゃあ動く ﹁いや、そうは仰いますがね? あっしは今お嬢ちゃんの影に った ってもんですぜ﹂ またなのか と、不吉な考えが脳裏をよぎったクラウズェアを ﹁家だと? ⋮⋮まさかっ?﹂ 差し置き、少年は興味深げに人影を見ている。 ﹁さっきの面白かったね。ねえあなた、名前はなんて言うの? ぼ くはアル︱︱﹂ 61 ﹁シア!﹂ 稲妻のごとき素早さで口をふさがれたアルテミシアは、もごもご と口を動かして黙った。 ﹁こいつぁ失礼。紹介が遅くなりましたが、あっしの名前は⋮⋮名 ぎ めい 前は、そう、ジャック! ジャックってぇケチな野郎です。へへっ﹂ ﹁嘘をつけ! それは、あれだろう、偽名だろう。間がおかしかっ た!﹂ かい やはり怪しすぎると、アルテミシアの腰に手を回して引き離そう とするのだが、その甲斐むなしく水平移動で着いてくる、ジャック お か と名乗った影人間。 そのさまの可笑しさに、少年は小さく笑い声を漏らす。 ﹁面白いね。⋮⋮ねえジャックさん、あなたはどこから来たの? き ここで何をしているの?﹂ その問いに、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに膝を打つジャ ック。どういう原理か、剣で突いてもぶすりとも刺さらぬその身か き ら、ぱちんという小気味よい音が鳴った。 ﹁いやいやいやさっ、ようお訊きなすった。これぞ、聞くも涙、語 るも涙の物語! どうかお客さん、ハンカチのご用意を﹂ ﹁ローズ、ハンカチ持ってる?﹂ ﹁聞いてはだめよ、シア﹂ 一人は聞く耳を持っていないようだったが、ジャックは語りを続 けた。 ﹁あっしの名前はジャックです。見ての通りの影人間。遠い遠い故 郷から、昼寝をしてたらあら不思議! 見知らぬ土地に、ほいさっ さ﹂ ﹁ほいさっさ?﹂ うなが ﹁話の調子を整えるために付け加えた、無意味な言葉よ、きっと﹂ そう少女が答えた後、観客の視線が続きを促した。 ﹁おしまい﹂ ﹁おしまいなのっ?﹂ 62 あまりにもあっさりとした幕切れの言葉に、思わずクラウズェア が叫んでしまったのも、無理からぬ事だろう。 ﹁かわいそう﹂ なんとアルテミシアは、はらはらと涙を流していた。 む く ﹁あのぅ、シア? 泣くような話じゃ⋮⋮﹂ 世間知らず故の、純粋な少年の無垢な涙にケチをつける訳にもい かず、呆れと笑みの混ざった顔で甲斐甲斐しく涙を拭いてやる幼な じみの少女。 ﹁ジャック、感激!﹂ あいかわらずの正座のまま、胸の前で手を組んでいる影人間。 ﹁それで、お前はここで何をしていたのだ?﹂ 騎士の問いに、 ﹁いやぁ、どうにか帰り道はないものかとウロウロしてたんですが ね? こんな人気のねぇ山ん中、影から影へとしか移れやしない身 としては、どうにもこうにも﹂ 影人間の両手が挙がった。お手上げのポーズらしい。 ﹁そうか。それは災難だったな。お前に神々のご加護を。じゃ﹂ おざなりな祈りの言葉を口にした神殿騎士は、時間を浪費したと ばかりに、先を急ぐためにアルテミシアを促した。しかし、 うる ﹁ねえ、ローズ?﹂ 主の、赤く潤んだ目に見上げられ、やっぱりかとばかりに溜息を つく。 まゆつばもの ﹁シア、ねえ? 聞いて頂戴。こいつはね、怪しすぎるの。ジャッ クって言う名前も嘘っぱちだし、故郷がどうのって話も、眉唾物よ。 きっと、私たちを化かそうとしているに違いないわ。そもそもこい つ、どう見ても︿魔物﹀よ。⋮⋮モリオンとは違うのよ﹂ 心にわだかまりがあるものの、﹃モリオンとは違う﹄という説明 ならば解ってもらえるだろうと、少女は判断した。だが、 ﹁そんな事を言ったらだめだよ。ジャックさん、すごく困ってるん だよ。助けてあげようよ﹂ 63 ね ﹁助ける? この、いかにも素性の怪しい奴を?﹂ 赤毛の少女は横目でジャックを睨め付けた。 ﹁住所不定、無職です﹂ 神妙な声色でふざけた事を抜かすジャックに、女騎士の目はます ますきつくなった。 ﹁だって、ここにはジャックさんの家もないしご飯だってないし。 きょう ぐう ここにずっといたら﹂ 自分の境遇と重ねてみているのだ。それ以上は言葉にならず、ア ルテミシアは目に一杯涙を溜めた。 さや ﹁もう⋮⋮本当によく泣く子ね﹂ 抜き身だった剣を鞘に収め、もうぐっしょりのハンカチは諦め、 指で涙をぬぐってやるクラウズェア。 ﹁ジャックと言ったな﹂ 地に座り神妙にしていた人影に、騎士は向き直った。 ﹁我々を裏切る事も害する事もなく、大人しくついてくると約束で きるか? できるなら、いま、天と地の神々に誓って見せろ﹂ てん ち しんめい 緑の目が瞬きもせず、強い視線でジャックを見下ろす。 ﹁天地神明に誓って。あんたがたを裏切りも害しもしません。言う 事も聞きましょう。そして、何かあればあっしにできる範囲で、お 嬢ちゃんを守ると約束しましょう﹂ 影の身で何ができるとも思いませんがねと、笑いながらジャック は付け足す。 ﹁いいだろう。誓いは、神殿騎士クラウズェア・セルペンティスと、 常葉の木々が聞き届けた。守る限りは神々の加護を。破れば、その おごそ 身を滅ぼす事となる﹂ 厳かに言い渡すと、隣で心配そうに見ている王子様を向いた。 ﹁これでいいでしょう? シア﹂ ﹁うん。さすがはぼくの騎士ローズ﹂ ほっとしたような、それでいて嬉しそうな声のアルテミシアに、 その言葉に、少女は今までの己の態度が思い起こされた。 64 咳払いを一つ。 ﹁では行きましょう。殿下﹂ ﹁どうして﹃殿下﹄にもどるの?﹂ 不満そうなアルテミシアの問いに、 ﹁殿下は殿下だからです﹂ 答えになっていない返答をするクラウズェアだった。 ﹁あのー﹂ そこに、ジャックの間延びした声が割り込む。 ﹁どうしたジャック? なんなりと申せ﹂ これ幸いと、ジャックの話題に話をそらすつもりのクラウズェア だ。 ﹁いえね。お嬢ちゃんが最初に﹃黒い人﹄とかなんとか言ってたじ ゃあないですか? そいつの話を、ちょいとばかりして貰ってもバ チは当たるめぇと思いやしてね﹂ へへっと笑うジャックは、髪の無い黒頭をぴしゃりと手で打った。 ため ら ﹁えと、モリオンのこと? そうか⋮⋮そうだよね、紹介しないと ね﹂ はさ 黒髪の少年は、顔にこそ出さなかったが躊躇った。モリオンの事 ではなく、我が身の事で。 こつぜん だが結局、一度深呼吸をしてから言った。 ﹁︻おいで?︼﹂ 言うやいなや、湖の時と同じように忽然と。アルテミシアを挟ん でクラウズェアの反対側に、モリオンが浮いていた。 ﹁なっ、なんだぁこりゃあっ?﹂ 今の今まで地に正座をしていたジャックだったが、そのあまりに も唐突な怪異の出現に度肝を抜かれたようで、あやうく後ろにひっ くり返りそうになった。 ﹁いや、えっ? いやいや、えっ?﹂ まともな言葉も出ない。 ﹁この子は、ぼくの子供のモリオン。︻モリオン、ごあいさつは?︼ 65 ﹂ り こう アルテミシアの言葉に、赤い光をちかちかと瞬いてみせるモリオ ン。 ﹁︻モリオンはお利口さんだね︼﹂ 嬉しげな新米お母さんの言葉に、 ﹁は? 子供? ⋮⋮マジで?﹂ もう、どちらが化かすの化かされるだのと言っていたのが、まっ たく逆転してしまっていた。 ﹁殿下⋮⋮その仰りようは、誤解を招きます﹂ 剣の柄に手をかける事を必死で自制しながら、騎士が進言した。 ﹁もう、またそういう言葉づかい﹂ どうこう 不満そうなアルテミシアの声にひかれ、ジャックがそちらを見た。 ﹁⋮⋮へ? 白髪になってる? それに、目もなんだか瞳孔が広が りすぎじゃあありませんかい?﹂ ジャックの指摘通り、モリオンが外に出ている今、アルテミシア の外見は元に戻っていた。つまり、色素が一切無い真っ白な髪と、 やはり色素がなく水晶のように透き通った虹彩。そのせいで、瞳孔 な視線が、ジャッ がめいっぱい開いて、黒目が異様に大きく見えた。 ﹁こわい?﹂ まっすぐ ぽつりと、アルテミシアの小さな問いかけ。 ﹁きもちわるいかな?﹂ 視力のない、焦点を結ぶ事のない クの居る辺りを向いている。 そんな頼りない姿を、クラウズェアは息をのんで見つめ、同時に、 ジャックの姿も視界にとらえる。知らず、彼女の拳は握り締められ ていた。 ﹁怖いとも気持ち悪いとも思いやせんね﹂ うさぎ クラウズェアの心配をよそに、拍子抜けするほどにあっけらかん と、ジャックは言ってのけた。 ﹁白い髪も白い肌も、それから大きな黒目も、冬の兎みたいで可愛 66 いですよ。あっしは、ウサちゃんは大好きな動物でさぁね﹂ ジャック自身にはどんな考えがあったのか。気を遣ったのか、ま たは含みはなかったのか。 けれど、その言葉は確実に、︿忌み子﹀として扱われ続けたアル テミシアの、自分でも気付かないでいた心の傷を、優しく撫でた。 きゅう しゃ モリオンにしがみついて泣きじゃくり始めたアルテミシアを、ク ラウズェアは優しく見守っていた。 ﹁男の子っ? マジでっ?﹂ ﹁声が大きい。それと、下品な言葉遣いをやめろ﹂ 少しばかり寄り道をしてから下山し、単独行動で神殿騎士の厩舎 に立ち寄ったクラウズェアは、馬を一頭拝借してきた。本当は二頭 いなな 欲しかったのだが、よく訓練された馬がその一頭だけだったのだ。 連れ出す時に暴れて嘶きでもされたら困るし、それにどうせ、アル テミシアは馬には乗れない。 だん と それから一行は馬に乗り、神殿から離れた。 そして今は、こうして暖を取っていた。 だん ろ かまど も そこは、山から少し離れた所にある森の、うち捨てられた猟師小 屋だった。暖炉を兼ねた竈で薪を燃し、熱と、薄ぼんやりした明か りを得ている。 ちなみに、森というものは基本的には貴族の所有物で、勝手に立 ち入ったり、ましてや猟をする事は犯罪にあたる。それらを行うた めには貴族に使用税を払わねばならない。そんな中、貴重な猟師小 屋がある程度使える形で放置されている状況は、幸運であった。 それはさておき。 のいちご ﹁うん、そう﹂ 赤い野苺の実に興味がそがれているアルテミシアは、ジャックの りん ご なし ぶ どう 叫びに生返事をした。手で触ったり匂いをかいでみたりした後、口 に含んでみる。林檎や梨よりは実が軟らかく、葡萄よりは硬い。味 67 あふ は甘酸っぱく果汁に溢れ、少年の口内を満たした。 ﹁おいしい﹂ きちんと飲み込んでから、感嘆の声を漏らした。 美味しい なめ と感じる気持ちだけで、 ﹁︻モリオンも食べる? ⋮⋮そうなんだ︼﹂ 彼の中にいる子供は、母親の 一緒に満ち足りている。 ﹁こりゃあ、たまげたなぁ﹂ こくようせき ジャックも、違う意味で感嘆していた。 ぶ どうしゅ ルビー 黒曜石を思わせる水のように滑らかな光沢を放つ髪も、野苺より も赤くて葡萄酒よりも透明感のある紅玉みたいな目も、それはそれ はたいそう美しかった。だが、ジャックの言葉に嘘偽りはなく、雪 兎みたいな元の姿も可愛いと思っていた。 しかし、そういった付加価値的な要素ではなく、純然たる造形の 美しさにこそ、驚いていたのだ。 みずみず ぱっちりとして零れ落ちそうな大きな目も、その目を取り巻く影 を落とす長いまつげも、小さくて通った鼻筋も、瑞瑞しく朱を帯び りんかく きゃしゃ たお た唇も、それらのパーツを配置させた、ほっそりとしているが丸み もある輪郭も。その顔を乗せた、華奢で嫋やかな肢体も。それらの し たい 全てが美しく、それらの全てが調和し、そして何よりも、あらゆる いなな 所作を伴った姿態が、未成熟な少女の儚さを想わせて、ジャックの べっぴん 口から賞賛の言葉を紡がせた。 ﹁マジ、別嬪! マジっ、マジでスゲー! 結婚して?﹂ ジャックの興奮にあてられてか、中に引き入れていた馬が一声嘶 いた。 クラウズェアは剣を抜いた。 ﹁誓いを破る者に、死の償いを﹂ ﹁暴力反対! 殿下たすけて!﹂ ﹁もう、ジャックさんまでそんな風に言う⋮⋮それよりも、このオ か レンジみたいな実、酸っぱくて面白いよ﹂ そう言って実を噛んだ少年の、美しい白い顔はしかめられた。 68 ﹁ジャックさんのおかげで晩ご飯が食べられるんだから、ローズも 座って食べたらどう?﹂ ﹁殿下﹂ そう言いながら振り向いた女騎士の口に、実を一房おしこむご主 人様。彼女の顔も、酸味でゆがんだ。 う む げ 事実、果物のなる木まで案内したのはジャックであり、こうして 飢えをしのげているのだから無下にはできない。 ﹁ま、山ん中をウロウロした時に、ぐうぜん見つけただけですがね。 まあ、そんな事よりも﹂ ふたかた ジャックの声のトーンが落ちた。 ﹁お二方が高貴なご身分で、特に殿下はやんごとない御方だと。そ いで、今は訳ありで逃避行の身と﹂ 女騎士と王子の顔を見比べながら、確認していく。 ﹁んで、なんでそんな大事な秘密を、あっしなんかにアッサリとバ ラしちまったんですかい? えっ? もしかすっと、スッゲー信用 されちゃってたりっ?﹂ 決めた のだ﹂ いやぁ参ったなぁと頭をかいてはしゃぐジャックに、 ﹁そうだ﹂ 生真面目な女騎士が答えた。 ﹁へ?﹂ ﹁お前を信用しての事だ。いや、信用すると ﹁今日はじめて会った人だけれど、ジャックさんが良い人だって、 きっとそうだ って﹂ 判るもの。ううん、判るなんて言うのはおこがましいかな。ぼくは 思ったんだ、 クラウズェアの後を継いで、アルテミシアが胸中を打ち明けた。 その、自分にしっかりと焦点を結んだ赤い目に、思わずジャック はたじろいだ。 ﹁いや、こいつぁ﹂ は アルテミシアとクラウズェアの顔を交互に見比べてから、のっぺ らぼうの黒い禿げ頭をポリポリと掻く。 69 ﹁山で誓わされた時より緊張しまさぁ﹂ そう言って、居住まいを正すと、 はばか ﹁あっしはちょいと訳ありで、ベラベラ話しちまうのは憚られるん でさぁ。申し訳ねぇですが、そこはちょいと勘弁してもらいてぇ。 けど﹂ 一端間を置き、 ﹁山で誓った事に、二言はありやせん。裏切る事も、害する事も、 しますまい。あっしにできる事の全てを使って、殿下をお守りしま すよ﹂ 今まで聞いたよりも一番の真剣さで、そう明言した。 クラウズェアは黙って頷き、アルテミシアは微かな笑みを浮かべ た。 薪の生み出す熱よりも温かい空気が、その場に満ちたようだった。 貰った時から、あっしの住処 すみ か ﹁それにどうせ、お前は殿下の影に﹃移った﹄のだろう? つまり、 モリオンと似たようなもの。違うか?﹂ ﹁おや? よくお気付きで﹂ まね 招いて ﹁お前が言っていた事だ。殿下の影が、今のお前の家だと﹂ ﹁そうなの?﹂ 宿主の質問に、 ﹁そうなんでさぁ。殿下に ぶりよう なぐさ は殿下の影ん中です。手持ちがねぇんで家賃は勘弁。なんなら体で 払いやしょうか?﹂ シナを作りながら投げキッス。 ﹁影のお前には何も期待はせん。せいぜい、殿下の無聊を慰めて差 し上げろ﹂ ﹁へーい﹂ 飛び交う軽口に、少年の相貌に微かな笑みが浮かぶ。 今日一日で色んな事があり、何度か肝をつぶす事態にも陥ったが、 幽閉されていたアルテミシアと、いま目の前で微笑むシアを比べて、 きっとこれで良かったのだと、仕える女騎士は確信した。 70 それから、新たな決意を固めた。 ふつり、と。クラウズェアの三つ編みが切り取られた。 誰も、何も反応できなかった。 赤く、腰まで届いていたお下げ髪は、今は女騎士の左手にあった。 右手のダガーは、腰の鞘に戻される。 ﹁バッサリいきやしたね。しかしまた、どうして急に?﹂ ジャックが問うた。当然だろう。 ﹁邪魔だからだ﹂ クラウズェアは簡潔に答えた。 ﹁重いしな。前から切ろうと思っていた﹂ 嘘だった。 逃避行をする上で、多少なりとも変装は必要だろうとの判断だ。 技術も道具もない素人にはたいした事はできないが、できる事はや るべきだ。 貴族は髪を伸ばす。男でも多少は伸ばすものだし、女ならばなお いっそう伸ばす。平民でも、女ならば伸ばす。つまり、髪の長さで 性別や身分がはっきりしてしまう可能性が高いのだ。 アルテミシアの髪は刃物を通さない。ならば、せめて自分だけで も切らねばならぬ。そもそも、そういった役目は自分のものだ。 としても。 伯爵家のお姫様 という身分と。それか クラウズェアは、そのように思っていた。 女 彼女は決別したのだ。 ら、 ﹁長い付き合いだったな﹂ そう言いざま、左手の髪を、竈の火に投げ入れようとした時だっ た。 ﹁だめーーー!﹂ アルテミシアが、凄い勢いでクラウズェアの左手に飛びついてき た。 ﹁燃やしたらだめ!﹂ ﹁シア、じゃない、殿下﹂ 71 ろうばい 狼狽しながらも言い直すクラウズェアを、赤く濡れた眼が見上げ ていた。 ﹁どうしてぇ?﹂ 少女が出会った頃から、人形みたいにほとんど表情の変わる事が 無い白い相貌が、止め処なく流れ落ちる涙に濡れていた。今日一日 で、もうじゅうぶん泣いたはずなのに。 ﹁好きなのに。ローズの赤い髪、好きなのに。どうして?﹂ へんそう ﹁殿下、さきほども申し上げたように︱︱﹂ いか ﹁変装なんじゃあねぇですかい? 追っ手の目をごまかすための﹂ ﹁貴様っ?﹂ 余計な事をと目を怒らせるクラウズェアに、そっぽを向いて口笛 でごまかすジャック。事態が事態なので、誰も﹃口笛が吹けるんだ ?﹄なんて疑問は持たない。 ﹁へんそう? ⋮⋮ぼくのせい︱︱﹂ ﹁違います!﹂ アルテミシアの呟きに、慌てて打ち消しの言葉をかぶせるクラウ かが ズェア。もう一度、ジャックを射殺さんばかりににらみつけた後、 少し身を屈めて赤い目と目線を合わせる。 ﹁もともと切ろうと思っていたのです。重くてうっとうしいですし、 剣術の稽古の邪魔にもなります。髪を洗うのも手間です。それは、 殿下もお分かりでしょう?﹂ 精一杯の笑顔で、少年を説き伏せようと試みる。 アルテミシアは、﹃嘘だ﹄とも﹃そうか﹄とも言わなかった。た だ、いつも、いつだって優しかった幼なじみの、今日で初めて知っ た緑の目のまっすぐさを、確かめるように覗き込んだ。 ﹁殿下?﹂ そう問いかけるクラウズェアの表情から、考えを読む事などはで き れい きない。それは、アルテミシアが最も不得意な事だったからだ。 だから、盲目だった少年は目を閉じて、年上の幼なじみの綺麗な 顔を、そっと両手で包み込んだ。 72 ﹁あの?﹂ め もと ほお くちもと くびすじ とまどいながらも、されるがままのクラウズェア。 りり りんかく こめかみ、目許、頬、口元、そして首筋。白い手がそっと触れて いき、凜々しき少女の輪郭をなぞった。 ささや ﹁うん。わかった﹂ そっと静かに囁いた少年は、目を開けて眼前の少女を見た。 ﹁お解り頂けて良かったです﹂ そう、穏やかに微笑むクラウズェアに、王子はねだった。 ﹁ねぇ、ローズ? いらないのなら、その髪をぼくにちょうだい?﹂ ﹁この⋮⋮髪を、ですか?﹂ ﹁うん﹂ 戸惑う少女へ向けて、両手を差し出す少年。 思わず反射的に、白い掌に赤毛を載せてしまった。 ﹁あのぅ、そんな物を何故?﹂ ﹁うん。ぼくの宝物にする﹂ 率直な返答に、クラウズェアは慌てふためいた。 ﹁な、なりませんっ、そのような!﹂ ﹁もう貰ったから、ぼくの物だよ。返さないからね﹂ そう言って、赤い顔の騎士を尻目に、お下げを懐にしまい込んで しまった。 ﹁宝物って、そんな⋮⋮﹂ 赤面する事しきりのクラウズェアを、口笛でからかうジャック。 当然、今にも火が出そうな目でにらまれた。 そんな二人を尻目に、アルテミシアはそっと拳を握り込んだ。ク ラウズェアの感触が残る、両の手を。悲しい事を我慢している時の、 人の顔の感触を。 とき わ ︿常葉の森﹀は、永遠の森。 一年を通して、常緑樹も、落葉樹も、その別なく瑞々しい緑の葉 73 をつける。 本来ならこの国に育たぬ植物も、根付いている。 だが、その永遠が失われた。 とこ だが、その命の源は去った。 常葉の森の、常しえは失われ。 その不可思議の力は、呪われた王子の中へ⋮⋮ 74 ひ つ 三章①﹃旅支度と、試練を求める者﹄ 三章 やさおとこ その客は、恐ろしく人目を惹き付けた。 一人は剣士風の優男。整った顔立ちを、赤い髪と緑の目が飾る。 こしら すらりとした体としなやかな身のこなし。腰の剣は持ち主に相応し く、優美な拵えはさながら芸術品のごとく。 ﹃腕はさして立たぬだろうが、女に苦労はせんだろう。特に、上 流階級の女には﹄と、何人かの男達は思った。店主もその一人だっ た。 続いて酒場に入ってきた人物に、先客達は息を呑んだ。 かがや つや 東向きの扉から、差し込む朝日を付き添わせた乙女が一人。 あさつゆ ばら はかな は 夜闇を思わせる黒髪は、星々の耀きを溶かし込んだごとく艶やか こ に流れ落ちている。純白の肌に一点の陰りも無く。目は紅玉を填め がら す さい く む く 込んだよう、唇は朝露に濡れる深紅の薔薇を散らしたよう。儚げな 硝子細工の無垢さに、銀月の光を灯したような、高貴の所作を生み 出す姿態。 身にまとう物が庶民の子供服である事が、恐ろしいまでの違和感 を覚えさせるが、見つめていると、そのボロさえもが何か上等な召 し物であるかのような錯覚を引き起こす。 ﹁女神だ⋮⋮﹂ 誰かの呟きに︱︱いや、店主自身が漏らした言葉に、とまってい た時間が動き出し、酒場は色めき立った。 二人は︱︱正確に言うと、人間二人と化け物二体は、夜が明ける 前に猟師小屋を出発した。 まだ誰も野良仕事に出ていない畑を見送り、小川に架かる橋を越 75 え、家畜たちが小屋で眠る牧草地の側を駆け、そうして朝飯時まで に小さな町に到着した。 一刻も早く神殿や王都から距離を離す必要があったが、旅には色 秘せられた存在 だったので、逃 々と物が入り用だ。立ち寄った店で、旅支度と、朝食を済ませよう という計画だった。 ふ 幸か不幸か、アルテミシアは 亡が知れても大っぴらに触れを出す事はできないはずだ。その点に ばくしゅてい 関して、クラウズェアに多少の心の余裕を与えていた⋮⋮胸の痛み と同時に。 よろず や けいたい ここは︿黄金の麦酒亭﹀。どこの町にも存在する、酒場と宿屋と 万屋を兼ねたような形態の、ありふれた店の一つだ。 中年の店主が料理を出し、その娘が女給という具合に、父子二人 で切り盛りしている。 店内は既にいくつかの席が埋まっている。畑や勤め先に行く前の あさ 食事を摂りに来た独り者がたいていだが、中には剣などの武器を持 ち込んでいる者も居た。 彼らの間を、栗色の髪と麻のスカートを揺らしながら女給が行っ たり来たりして注文を取り、料理を運んでいる。 そんな中、アルテミシアとクラウズェアの二人は、空いているテ ーブル席の一つに腰を落ち着けた。 ﹁にぎやかな所なんだね﹂ アルテミシアは、赤い目できょろきょろと辺りを見回した。頭の お ぐし 動きに合わせて、緩やかに髪が波打つ。 ﹁お嬢様、膝の御髪を落としませんよう、お気をつけください。そ れと、わたしは注文をしてきますので、大人しくお待ちください﹂ まと そう言って、クラウズェアは店主が居るカウンターの方へ歩いて 行った。 注意されたアルテミシアは、膝の上に纏めた黒髪が落ちないよう、 体に引き寄せた。立っている状態で地面に着きそうになるのだ。当 然、椅子に座れば床に着く。汚れぬよう、膝の上などで纏めておく 76 必要があった。 ﹁﹃お嬢様﹄だそうですぜ? シアお嬢ちゃん﹂ アルテミシアの影の中から、彼にだけ聞き取れる小さな声で、ジ ャックがゲヘヘとからかった。 ﹁決めた事だもの。守るよ﹂ 足下の影に視線を落とし、呟くアルテミシア。 シアお嬢様 と呼び、クラウズェア と呼ぶと。変装の一環だ。稚拙だが、やらない あるいは 旅をする上で、いくつか決めておいた事があるのだ。アルテミシ お嬢様 クロード アの事は の事は よりはましだ。 ちなみに、アルテミシアは︿常葉の乙女﹀が着る緑の巫女装束か ら、民家に干してあった女児用服を失敬し、着ている。律儀に、ク ラウズェアは銀貨一枚をおいてきた。払いすぎだ。お釣りがどれだ け来る事か。 ついでに言えば、クラウズェアは男装のために、胸の膨らみを布 で縛って押さえ付けている。ジャックが﹃勿体ねぇ﹄と漏らした言 葉は黙殺された。服装はもとよりシャツとズボンで、上等だが飾り 気のない質素な作りをしている。あまり盗みを働きたくはないクラ ウズェアは、﹃新しい物を買うまでは﹄と、そのまま着ているのだ。 ﹁おや? ずいぶんと良い子ちゃんですねぇ? もちろん、シアお 嬢ちゃんは良い子ちゃんのかわい子ちゃんですがね﹂ からかい混じりの言葉に対し、シアお嬢ちゃんは幽かな笑みで答 える。 ﹁うん。ロー、クロードに迷惑かけないように、良い子でいないと。 ささや ︻⋮⋮ん? だいじょうぶだよ? お腹がすいてるだけだから︼﹂ モリオンと話す時の常で、どこを見るともなしに、囁いている。 ﹁ふぅん?﹂ ﹁お嬢様、お待たせしました﹂ そのとき、クラウズェアが戻ってきた。 ﹁お帰り。待ってないよ。二人とお話ししてたから、退屈もしてな 77 い﹂ つくろ 慌てて、言い繕うような返答をよこすアルテミシアに、クラウズ ェアは面食らう。 ﹁シア、お嬢様? 何かあったのですか?﹂ ﹁ううん。何もないよ? 何もしてないし⋮⋮まだ、何も失敗して ないよね?﹂ 最後の言葉は、ジャックへの確認だった。 ﹁いや、失敗っちゅーか、何もありやせんね。あえて言やぁ、スッ ゲー目立ってます﹂ ジャックの言葉に促されて周囲を見ると、確かに酒場の男達は皆、 さりげなさを装ったり、あるいはあからさまに、二人の事を見てい た。特に、アルテミシアの方を。 給仕の娘は、クラウズェアの涼やかな男装姿に頬を赤らめ、アル テミシアの可憐な姿に溜息をついている。 多くの視線にさらされ、それを意識したとたん、アルテミシアは 身をすくめて目を閉じた。 ﹁何か不作法をしたのかな? 髪、髪は?﹂ 不安に襲われ、髪が白に戻ってやしないか、思わず開けた目で確 認してしまう。 ﹁髪は真っ黒、目は真っ赤。いつも通りのかわい子ちゃん。シア嬢 ちゃんは、かわい子ちゃん﹂ 変な調子をつけてジャックが教え、その言葉に、怯えていた少年 ぶしつけ は安堵する。 その間、不躾な目に対し、少年の守護騎士は鋭い視線でにらみを きかせておく。それで、いくつかの目はそらされた。残りは無視す るよりほかないだろう。 ただ、給仕の娘には相手が女性という事もあり、乱暴も不作法も できない。ただ視線を向けるだけに留めたのだが、もうそれだけで 女給の顔は熟れすぎた林檎みたいに真っ赤になり、潤んだ目を床に 向けてしまった。 78 恥ずかしそうに、ごわごわとして毛羽立った麻のスカートをなで つけている。だが、いくらなでつけても、皺が伸びる訳でもなく、 麻が綿や絹に変わるでもなく、ましてやフリルやボタンの一つでも 生えてくる訳が無かった。 せんぼう 女給が貧しくて飾り気の無い服を恥じていた時、クラウズェアの ビール シードル 方は長い栗色の髪に一瞬だけ羨望の眼差しを向け、その気持ちを振 り切るように視線を逸らす。 ラズベリー そうしていると、料理が運ばれてきた。 野菜を煮込んだスープ、黒パン、木苺のジャム、麦酒、林檎酒。 それらが、薄汚れたクロスの敷かれたテーブルに、無造作に置かれ ていく。スープもジャムも酒も、どれも木製の器に入れられていた。 さら しかし、人の顔ほどもある黒パンの塊だけは、そのままテーブルの 上に置かれそうになる。 それを、クラウズェアの手が横から掠った。 ﹁後は自分でやる﹂ 訝しげな顔をした店主だったが、特に追求する事もしない。一度 だけアルテミシアの顔をちらりと盗み見た後、感嘆の溜息を漏らし てカウンターへ戻っていった。 クラウズェアの方はといえば、汚らしいクロスを眉をひそめて見 かす ぬぐ あと ていた。一応、洗ってはあるようだし、他のテーブルのように、食 綺麗 や 清潔 からはほど遠 べ物滓が落ちたり、スープで汚れた口や手を拭った跡はついてなか ったが、それでも、彼女から見て い。 だが、﹃朝でまだ良かったのだ﹄と、内心で己を納得させたクラ ウズェアは、昨晩の内に洗って乾かしておいたハンカチを取り出し、 クロスの上に敷くと、その上に黒パンを載せた。それから、懐から 小さめのナイフを取り出し、パンを切り分けた。それを、テーブル の真ん中、アルテミシア寄りに置く。 ﹁どうぞ、お召し上がり下さい﹂ それまで、一連の作業を瞬き一つせずに凝視していたアルテミシ 79 アだったが、クラウズェアの言葉に、目をぱちくりさせた。 ﹁ロ、クロード、これって、なぁに? パンみたいな匂いがするん だけれど﹂ ハンカチの上の黒パンを、赤い目がじっと見る。 近くの席でさりげなく耳をそばだてていた男達は、訝しげな表情 を浮かべた。 かた ﹁これは黒パンといって、平民が食べるものです。お嬢様が普段お 召し上がりになっている白パンに比べれば、堅く、味も悪いのです が。あいにく、これしか無かったのです。どうか、お許しを﹂ クラウズェアの謝罪の言葉を聞き、周りの男達はぎょっとした。 顔を見合わせ、ひそひそと話し合う者も居る。 ﹁ううん、そんな事ないよ。食べるのがなんだか面白そう! それ に、これを食べたら髪が黒くなるかも﹂ 慌てて打ち消すような言葉を返すと、アルテミシアは黒パンを手 に取った。 ﹁シア、お嬢様﹂ かぶ 健気な主人の言葉に、クラウズェアは胸が締め付けられる思いだ った。 ﹁天と地のお恵みに感謝を﹂ そしゃく 少年は祈りの言葉を捧げると、小さく口を開け、黒パンに齧り付 いた。そのまま咀嚼行動に移るかと思われたアルテミシアだったが、 パンに歯を立てたきり、動かなくなった。 ﹁お嬢様?﹂ やはり口に合わなかったのかと、クラウズェアが気を揉んでいる と、パンを噛みちぎったアルテミシアが林檎酒を口に含み、時間を かけて飲み下した。そうして一言、 ﹁かたぁい﹂ せいはく 間の抜けた声に、ジャックは笑いをかみ殺し、クラウズェアは申 し訳ない気持ちで一杯になったのだった。 白パンは高級品だ。小麦自体が高級品だし、精白にも金がかかる。 80 自然、貴族や金持ちの食卓にしか並ばない。 まれ み えんばく 反して、黒パンは庶民の主食である。ライ麦や燕麦から作られ、 精白もされる事は希なので、色は黒っぽく、実は詰まってずっしり と重く、なんといっても堅い。保存用に作り置きする事が多いので、 乾燥してぱさついた舌触りの物が多い。 ひた ぬ ﹁申し訳ありません! お教えするのが遅くなりましたが、黒パン ふ て ぎわ は、スープや飲み物に浸すか、ジャムを塗って軟らかくしてから食 ようしゃ べるのです。かくいうわたしも初めて食べるものなので、不手際を 犯してしまいました。どうか、ご容赦を﹂ 右手を胸に添え頭を垂れ、騎士の礼で謝罪するクラウズェア。本 当は立って行うべきだが、人目を気にして控えた。 ﹁そんなっ、少しも気にしてないから! クロードも気にしないで こんがん ? ね?﹂ 懇願の色を含ませた許しの言葉に、これ以上主人の気を重くする めし のは本意で無いと、クラウズェアは頭を上げた。 ﹁お許し頂き、有り難う御座います﹂ ﹁どうにも堅苦しいねぇ、お二人さん。飯はもっと楽しく食いなっ てんだ﹂ ジャックのおどけた声が下から届き、二人の心を和らげた。 ﹁そうだね。ジャックさんの言う通りだよ。こういう食事は初めて なんだから、楽しまなくっちゃ﹂ ﹁まこと、その通りですね。では、わたしも﹂ そう言って手に取った黒パンに齧り付いたクラウズェアは、やは えん か り眼前の少年がしたのと同じく動きを止め、無理矢理に噛みちぎっ た。ビールで嚥下する。 ﹁なるほど、堅い﹂ えいよう か じ そういって笑うクラウズェアに、アルテミシアも口許を緩ませた。 よう ﹁黒パンは白パンよりゃあ栄養価⋮⋮あー、体に良い体力を増す滋 ね 養が多く入ってるんですぜ? これから旅をするってぇんなら、食 っといて損は無ぇ﹂ 81 ﹁それは初耳だ。お嬢様のお体にも良さそうではないか。影の国の 知識か? お前は存外、物知りなのだな﹂ クラウズェアの感心したような物言いに、ヘッヘと笑う影人間。 よわい ﹁いや照れるな、こりゃあ。お二人さんよりゃあ長生きしてるみて ぇですからね﹂ ﹁なんと、年上なのか。魔物の齢はわからんものだ﹂ ﹁ねぇ、それよりジャックさん。ジャックさんは食べなくていいの ? モリオンは食べなくてもいいらしいんだけれど﹂ アルテミシアの心配そうな声に、ジャックが嬉しげに答える。 ﹁あっしは飯は食わねぇんでさぁ。腹も減りやせんしね。お気遣い 無く。二人でモリモリお食べなせぇ。特にシアお嬢ちゃんは、たら ふく食べねぇと。大きくなれやせんぜ?﹂ ﹁よくぞ言った、ジャック。お嬢様は食が細くていらっしゃる。い つもいつも、わたしからご進言申し上げているというのに、少しも ポリッジ かじ お聞き入れ頂いた覚えが無い。いつもお召し上がりになる物と言え ば、粥を少しだけだの、パンを少し囓りだの、果物を︱︱﹂ ﹁食べるっ、食べるよ、食べるからぁ。ねぇ、もういいでしょう? その話は。前と違ってちゃんと食欲はあるんだよ。本当だよ? ちゅう しん さえぎ ぬ なんだか体も元気だし。︻⋮⋮そうなんだ?︼モリオンのおかげみ たい﹂ かじ つ いど 慌てて忠臣のお小言を遮ったご主人様は、ジャムを塗りたくった りん ご しゆ 黒パンに齧り付き、一生懸命、黒パンの堅さに挑み始めたのだった。 結局。 アルテミシアはジャムを塗った黒パンを一切れ半と、林檎酒一杯 ビール で満腹になった。彼曰く﹃今までで一番食べた﹄との事である。 ろ ぎん クラウズェアはというと、残りの黒パン全部と、スープと麦酒を しの たくさん食べても筋肉がつ 二杯ずつ平らげた。それでも腹は満ちなかったが、路銀の節約のた た めには堪え忍ぶよりほかは無かった。 82 きにくい というのが、彼女の悩みの一つだ。 そんな、大食漢ならぬ大食乙女のクラウズェアは、店主を相手に 旅支度を整えているところだった。 ﹁旅の道具が欲しい。二人分だ。調理道具と、食器と、防寒具、毛 布、それと食料に飲み物だ。あそこの子を馬に乗せるから、それを いちべつ 差し引いて積めるだけ欲しい﹂ アルテミシアの方を一瞥し、店主に注文する。 ミード やぎ ひつじ ﹁わかった。適当に用意するから、そろったら確認してくれ。⋮⋮ そうそう、酒は蜂蜜酒でいいかい?﹂ ミルク 店主の言葉に、失念していたとばかりに、 ﹁かまわない。それより乳はあるか? 山羊でも羊でもいい﹂ このクラウズェアの言葉に、近くに座っていたカウンター席の男 が笑い声を上げる。 ﹁ミルクだって? ジジババの世話か子守でもするつもりかぁ?﹂ 男の大声に、他の客達の爆笑が酒場に響いた。 下品な笑い声を無視している赤毛の客に、店主が呆れ顔で忠告す る。 わ ﹁お客さん、いったいどういうつもりだい? 冷やかしなら帰って くれ﹂ ミルク はちみつ ﹁冷やかしではない。非礼があったのなら詫びる。だが、必要なも のなのだ。牛のでも構わないから、乳が欲しい。それと、蜂蜜も欲 しい﹂ あくまでも真剣なクラウズェアだったが、この言葉はより一層の 笑いを買い、店主は渋い顔をした。 くす し ﹁あんた、ミルクだの蜂蜜だのと、病人でも居るのか? そんなら 薬師のとこでも行ってくれ。だいたい、蜂蜜酒ならともかく、蜂蜜 なんてある訳ないだろうが﹂ 店主の文句ももっともである。元来、ミルクは体力の無い子供や 年寄り、または病人が飲むもので、大人は飲まないものだ。チーズ やバターは別だが。 83 それと、蜂蜜も同じく療養食の役割を果たし、薬としての側面が 強い。 これだけ言われては、引き下がるよりなさそうだった。店主にヘ き ソを曲げられて、買い物自体ができなくなっては本末転倒だ。ミル あふ よくよう クと蜂蜜を売ってくれそうな者の居る場所を訊こうと、クラウズェ アが口を開きかけた時だった。 ﹁どうしたの?﹂ 彼女の背後から、声がかかった。 ぎんゆう し じん 無性に胸をかき立てる声だった。 とぼ あで 吟遊詩人が歌い上げる、情感に溢れた声では無い。むしろ、抑揚 に乏しいとさえ言える。大陸の大きな劇場で、艶やかに広がる歌姫 たてごと の声とも違う。そういった、肉の身から発される現実感が伴ってい つま び ない。例えるなら、まだ誰も触れた事の無い水晶の竪琴を、罪を犯 め ば す前の幼子が柔らかな手で爪弾いたような。そういった夢想を、聞 く者の胸に芽生えさせてしまう。 きぬ ず そんな声だった。アルテミシアの声は。 誰も、声一つ、衣擦れ一つ、起こさない。 彼女以外は。 ﹁お嬢様。申し訳御座いません。不慣れ故、準備に手間取っており ます﹂ 謝罪する騎士に、 ﹁そうなの﹂ と返すアルテミシア。白い手が胸の辺りで握られ、しょんぼりと 俯いてしまう。 ﹁また、ぼくのせいで迷惑かけて﹂ ﹁お嬢様がお気になさる事ではありません。別の店に寄れば、解決 さ じ する問題です。いえ、問題ですらありません。ちょっとした手違い、 取るに足らぬ些事ですので﹂ そう笑いかけ、少年の頭を軽く撫でるクラウズェア。 白い面が上げられ、乏しい表情の中に、湖の底で頼りなく揺らめ 84 くルビーの煌めきを見た時、店主は激しい後悔の念と湧き上がる使 命感を覚えた。 ﹁用意しよう。待ってな﹂ 言うやいなや、店を飛び出して行ってしまった。 ﹁おい、どこへ﹂ クラウズェアの声が、店内にむなしく響く。 ﹁ぼく、変な事を言ったのかな? クロードの邪魔をしちゃった?﹂ 不安げな声でアルテミシアは問うた。 ﹁いいえ、そんな事は決して。もしかすると、注文の品を取りに行 ってくれたのやも。しばらく時間もかかるでしょうし、テーブルで 待っていましょう﹂ 微笑みと共に、主人の背に騎士の手がそっと添えられる。 ﹁うん﹂ 促されるままに、アルテミシアは席まで歩いて行く。 つつ たる慎ましさが感じられた。 動 たる躍動感 彼は子供の頃からのクセで、転びにくいようにと、後ろ足で地面 静 を蹴る事なく、前足はそっと置き、静かに歩く。 は全くないが、 静けさが身を飾る。 酒場は沈黙に包まれている。 ふと、なにげなく視線をずらせば、一挙手一投足を見守る目。慌 てて反対に目を向ければ、食い入るように、穴が開くほどに見てい うつむ 視線にさらされていると気付く事 に不慣れなアルテミシアは、 る目。アルテミシアは、全ての人間から注視されていた。 ぼう 視線を避けるように俯き、頬を赤らめたまま席に逃げ戻った。 男達は、惚けたように黙り込み、胸中に湧き上がる激しい好奇心 とは裏腹に、声をかける事ができないでいた。 一部の例外を除いて。 ﹁へへっ、こりゃたまんねぇな﹂ 席で恥ずかしげに俯いているアルテミシアに、わざと聞こえるよ うな独り言。近くのテーブルから、アルテミシア達の会話を盗み聞 85 いていた男の一人だ。 しぎゃく しん あお 少年は、その声に一瞬びくりと肩をふるわせ、ぎゅっと目を閉じ てしまう。 その姿に嗜虐心を煽られた男が、どす黒い衝動に駆られて口を開 げ ろう こうとした時。彼とアルテミシアの間に割って入った人物が居た。 クラウズェアだ。 ﹁わたしのお嬢様に何か用か? 下郎﹂ 低く、重い声だった。 さび つ 店内は緊迫感に包まれ、客も、女給も、固唾を呑んで事態を見守 っている。 ね ﹁あぁ? てめぇ、すっこんでろ! オレの剣の錆に︱︱﹂ 周囲の事などお構いなしに、クラウズェアをじっとりと睨め付け、 レイピア 男が剣の柄に手をかけた時である。 抜剣し終わった細剣の切っ先が、男の喉元に突きつけられていた。 ﹁抜けば、死ぬ事になる﹂ のど 静かな声が、余計に恐ろしい。男は震え上がった。 ﹁わっ、わか、った。わかった﹂ あぶら あせ ぶ ざまきわ 切っ先を凝視しながら、無理矢理に喉から声を絞り出す男の顔は、 脂汗にまみれて無様極まりない。 男も、男の仲間達も動かないのを見て取ったクラウズェアは、ゆ お嬢様 ではない呼びかけに、アルテミシ っくりと剣を収め、主人のもとに歩み寄った。 ﹁シア、大丈夫?﹂ 優しい声の響きに、 アの顔が上がった。微かに嬉しげな、クラウズェアだけが判る表情 を浮かべて。 ﹁うん。だいじょうぶ。もう平気﹂ 落ち着いた声の調子に、クラウズェアはほっと息を吐いたのだっ た。 そんな二人の様子を、憎しみのこもった目で見ている男が一人。 ﹁おい、行くぞ﹂ 86 いまいま 忌々しげに吐き捨てると、数人の連れを従えて、宿泊部屋のある 二階へ上がって行ってしまった。 そんな男達を見送りながら、ジャックはぽつりと呟いた。 ﹁こりゃあ、面倒事にならなきゃいいがなぁ﹂ 店内の張り詰めていた空気は緩み、客達は皆それぞれ、飲み食い を再開している。給仕の娘なぞは、クラウズェアの勇姿に完全に魅 了されており、うっとりと見惚れている。 それからしばらくしての事だった。息を切らした店主が、調達し てきたミルクと蜂蜜を抱えて戻ってきたのは。 87 三章②﹃戦闘と、共鳴術と、誓い﹄ ﹁これは?﹂ せん ﹁こいつぁ、カモミールっつー花です。花を乾燥させたもんを煎じ て飲むと旨いですぜ。沈静安眠効果もありやす﹂ ﹁そうなんだ。︻いつか飲んでみたいね、モリオン︼﹂ ふともも ジャックの説明に感心したアルテミシアが、胸中の子と楽しげに 語らう。それから、太股の高さまで背丈を伸ばした白い花に顔を近 づけ、鼻をひくひくさせた。 した な その愛らしい仕草に、クラウズェアは口許をほころばせ、ジャッ クはジュルリと舌舐めずりした。舌がどこにあるのかは判らないが。 ﹁林檎みたいな匂いがする﹂ クローク ひるがえ アルテミシアはカモミールが気に入ったようで、道々に咲く白い 花をかいで回っている。旅装外套が翻り、子供服から着替えたズボ ンが覗いて見えた。 ちなみにクロークとマントの違いだが、前者が体をすっぽり覆う 丈と厚い生地を持つ防寒具であるのに対し、後者は儀礼の場や貴族 の権威付け、あるいは純然たるファッションとして着られる事が多 エメラルド・グリーン いのが特徴だろう。少なくとも、この国においては。 それはさておき。 一行は、牧草地沿いの街道を南下中だ。 道の両側は開けて見晴らしが良く、鮮やかな緑色のカーペットが すいぎよく 敷かれたみたいな一面を、金色の陽光が輝かせている。それはアル テミシアに、翠玉の目を持つ少女を思い起こさせた。 さわ 抜けるような青空から金色の太陽が見下ろす地上を、涼やかな風 が草花や髪を優しく揺らしていき、爽やかな草の匂いと、甘やかな 花の香りを運んでくる。 ﹁もう、春だな﹂ 88 クラウズェアが誰ともなしに呟いた。 ﹁春にしちゃあ、まだちょいと肌寒くないですかい?﹂ ジャックが肩を抱きながら身震いする仕草をした。本当に寒がっ ているのかは、端からは判らない。 この国は、一年を通して涼しい。夏でも汗ばむほどには暑くなら ない。だが、冬が極寒という訳でもない。一番寒い日でも雪が降ら ないし、適度な降雨量もあって牧草も枯れる事は無い。他の国々と 比べて北方に位置してはいるが、海流の関係で珍しい気候になって いる。 ねえ ともあれ。 も ﹁姐さんの胸で、哀れなジャックをあっためてくれよぅ﹂ 言葉とはちぐはぐに、両手で何かを揉むジェスチャーをしながら け 近づいてくるジャックに、手綱を引いていない方の手で胸を隠した クラウズェアは、変質者を蹴って追い払おうとした。 ﹁貴様っ、案の定っ、馬脚を現したな! 死ね! 滅びろ! 影の 国に消え失せろ!﹂ 剣の腕とは裏腹に、体術までは修練していなかった女騎士は、足 をめちゃくちゃに振り回している。多くは空振りし、当たっても影 の身には効かない。 ﹁あ∼くそっ、なんでスカートじゃあねぇんだ! パンツも見えや しねぇ﹂ クローク 蹴られるも何のその、しゃがんでクラウズェアの足の付け根を見 は れん ち うる るも、旅装外套の翻る隙間からズボンと蹴り足しか見えない。 ﹁は、破廉恥な!﹂ 可哀想なくらいに顔を赤くして潤んだ目で睨み付けてくる少女に、 グヘヘェという気味悪い声が影から漏れた。 ちよう ﹁二人だけで遊んでないで、ぼくも混ぜてよ﹂ 蝶のようにふわふわと、花から花へ顔を寄せていたアルテミシア が、ジャックの真似をして隣にしゃがんだ。 ﹁シアっ、お嬢様! 真似しちゃダメ! 頭が悪くなって、品性が 89 げ れつ ぶた えさ くさ 下劣になって、ぺらぺらで真っ黒で、影の腐ったような救いようの ない、豚の餌のドングリ以下になっちゃうわ!﹂ そう、鬼の形相でまくしたてる幼なじみの剣幕に、大人しく従う アルテミシア。 ﹁う、うん。もうしない﹂ こた そう言って立ち上がった少年は、心なしか怯えているようだった。 こうがん む ち ﹁ドングリ以下って⋮⋮﹂ さすがの厚顔無恥なジャックも、多少は堪えているようだ。 ﹁ジャック﹂ 底冷えする声がした。 ﹁お嬢様に下品なことを教えてみろ。お前を殺す。必ず殺す。どう にか殺す算段を見つけて殺す。神々にわたしの魂を捧げてでも殺す。 とにかく殺す﹂ 目が本気だった。短くなった赤い髪が、炎のように揺らめく幻影 が見えた。ジャックは怯えた。馬も、アルテミシアも怯えた。 ﹁わかったか?﹂ ﹁わかりました﹂ 何故か、アルテミシアが即答した。 ﹁シアに言ったんじゃないのよ? そこの豚の餌に言ったんだから。 ちか 待って、どうして泣きそうなのよ﹂ ﹁も、もう泣かないと誓いました﹂ ﹁だから、どうして敬語なのよっ?﹂ クラウズェアが必死に弁解しようとするほど、アルテミシアには 逆効果のようである。 そんな時。 ﹁じゃれ合いは終わりです。来なすったようですぜ﹂ 先程とは打って変わった真剣なジャックの声が、クラウズェアを 凜々しき騎士に戻した。 彼女たちの後方三〇〇mほどの地点、五人の集団がこちらへ向か ってくるのが見えた。 90 つぶや ﹁さっきのお店にいた人たちだ。数は増えてるけれど。なんだか、 顔が真っ赤だよ﹂ アルテミシアが呟く。 ﹁おや? 目の良いこって﹂ ジャックの疑問に、 ﹁目が良い⋮⋮のかな? よくわからないけれど。きっと、モリオ ほ ンのおかげだね。︻モリオンは良い子だね︼﹂ 母親の褒め言葉に、彼の中で嬉しそうに飛び跳ねる感覚がして、 まるでそれは、 ︻ドンナモンダイ!︼ とでも言っているかのようであった。 ﹁お前の危惧が当たったな﹂ 忌々しげに吐き出すクラウズェア。 ︿黄金の麦酒亭﹀を出て直ぐに、ジャックが忠告をしたのだ。﹃ 追って来るかもしれやせん。迎撃の準備をしておきなすった方がい いですぜ﹄と。なので、立ち回るのに都合の良い、開けた場所をの んびりと歩いていたのだ。わざと追いつかせるために。 一つは、追って来た場合に気付きやすいように。もう一つは、ク ラウズェアが戦いやすいように。 さば 彼女の剣術は、師フィデリオから習ったものだ。フットワークも 剣捌きも非常にスピーディーで、上手くいけば剣の一突きで敵を瞬 い 殺できる。だが、そのためには腕をめいっぱい伸ばせる空間、充分 なら 平坦な足場 が必要になる。 なフットワークを活かせる空間、そして、瞬発力を使ったステップ を最大限に活かせる ここは町から近く、道も均されているが、この先もそうだとは限 らない。 つな ひとまず、彼女たちの用心は実ったと言える。 さく ﹁馬を繋げる木か何かあれば良かったがな﹂ 道の両脇は、木の一本、柵の一つもなく、だだっ広い牧草地が広 がっているだけだ。何もなさ過ぎだ。 91 ﹁仕方がない。お嬢様、今から荒事があるかもしれません。ですが ご心配なく。何かあろうとも、フィデリオ先生からご教授頂いた剣 術があります。直ぐに片付けてご覧に入れましょう﹂ クラウズェアは主人を安心させるため、軽口を叩いた。 自分が ではない。アルテミシアは、幼なじみの少女を心配し ﹁怖い目にあうの?﹂ ていた。そして、彼女が負けるとは思っていない。﹃騎士になる﹄ たんれん と誓った日から、フィデリオに師事した時から、彼女は来る日も来 る日も鍛錬を欠かさなかった。手にマメができて、つぶれ、マメが を、アルテミシアは知っていたから。呼び方が﹃シア﹄から﹃ できてまたつぶれ。手の皮が厚くなって、剣ダコもできた。その 手 殿下﹄に変わっても、彼女の誓いと心は変わらなかったから。 自分は心配ない シア のだ。 そのクラウズェアが﹃心配ない﹄と言うのだ。その言葉を疑うま ねなど、できるはずが無かった。だから、 実際に剣を取り戦うクラウズェア自身が、かすり傷一つ負わずにい られるかは判らない事だが。 心優しい幼なじみの心配を、その真意を正しく理解したクラウズ ェアは、口許をほころばせた。 ﹁大丈夫、信じて。⋮⋮お手を煩わせ恐縮ですが、しばし手綱を預 かって頂けますか? この馬は良く訓練されていますので、たいて いの事には驚きません。よほどの事が無ければ、手綱を引く必要も ありませんから﹂ 手綱を受け取ったアルテミシアは、拳ごと胸に抱き込むようにし た。 ﹁ジャック、お嬢様を頼んだぞ﹂ ﹁よござんす。承知いたしやした﹂ ジャックは神妙に頷く。 そうこうするうちに、集団はそこまで迫ってきていた。 92 ﹁待ちやがれ!﹂ 集団から声が上がった。リーダーのヨドークだ。酒場でクラウズ ェアから剣を突きつけられた男である。 十五mほどの距離を取り、対峙するように止まる。五人の男達は 皆、肩で息をしていた。もしも今から剣を交えるつもりならば、こ れほど間抜けな話も無い。 ﹁何の用だ? 忘れ物でも届けに来たか。なら、礼をせんとな﹂ からかうようなクラウズェアの言葉に、上気した顔を怒りでます ます赤くするヨドーク。 せりふ ﹁うるッせえっ。さっきはよくもコケにしてくれたな。ただで済む と思うなよ!﹂ ﹁これほどチンピラらしい台詞を聞けるとはな。まったく面白い﹂ ヨドークの怒鳴り声に、肩をすくめてやれやれと首を振るクラウ ズェア。これに激高するかと思われたリーダーだったが、意外な事 に自制心を働かせ、顔を大きくゆがめた。笑ったのだ。 ﹁大きな口を叩くのも、それぐらいにしとけや。なあ? あんとき ゃ油断しただけだ。それに、オレたちゃ五人もいるんだぜ? オカ マみてぇなナヨナヨちゃんが、棒ッきれみてぇな剣を振り回してど さや うすんだ? え? こいつを見てから言いな!﹂ 言って、背中に担いでいた剣を、鞘ごとどすりと眼前に置いた。 み はば 両手持ちの大剣だ。クラウズェアのレイピアの、優に倍の長さがあ る。身幅も広く、厚みもある。重さに到っては倍ではきかないだろ う。 ﹁どうだ? びびったか? え?﹂ すでに勝ち誇ったような男の声に、 ﹁ああ、驚いた﹂ クラウズェアは答えた。驚きのポイントは、ヨドークが意図した 部分ではなかったが。 ヨドークは決して細い男ではない。それなりに剣を振ってきた。 きちんとした師匠についた事は無いので、技術はほぼ我流、筋肉の 93 きよう い よ 付き方もバランスが悪い。だが、この大剣を振り回す事くらいはで きた。それは、確かな脅威ではあったし、彼が自信の拠り所にする しゅう か のも頷ける。未熟者相手ならば、充分に通用するだろう。数の利も ある。衆寡敵せず。彼だって馬鹿ではない。 だが、クラウズェアは未熟者ではないのだ。ヨドークの意図を読 やから んだ上で、彼らの技量を推し量った上で、余裕の態度を崩さない。 ﹁筋肉馬鹿とは、こういう輩の事を言うのだな。勉強になった﹂ これにはヨドークも切れた。 ﹁ってめぇッ、オレたちを舐めるのもたいがいにしとけよっ? オ パーティー レたちゃ︿試練を求める者﹀だぜ。大陸の方でもちったぁ名を鳴ら した集団だ。敵に回すとヤバいぜ?﹂ ﹁試練を求める者って、なに?﹂ 世間知らずのアルテミシアは、思わず疑問を口に出してしまった。 ぜん クラウズェアに任せて黙っているつもりだったのに。 美少女然としたアルテミシアの言葉に、その正体が男の子だと知 つ らないヨドークは、気を引く事ができたと興奮の笑いを浮かべた。 たぐ そして、口を開こうとした時、別の者が先んじて答えた。 ﹁物取りの類いです﹂ ねら と名乗ることもありますが︱︱まっとうな仕事に就か いつかくせんきん 冒険者 クラウズェアだった。 ﹁ い せき とうぞく う さんくさ ずに一攫千金を狙う、地に足の着いていないならず者連中の事です。 き 遺跡荒らしの盗賊。この世で最も胡散臭い人種。社会の最底辺に位 置する者達です。決して、あのような者達と口を利いてはなりませ ん﹂ この言葉には、ヨドーク以外の男達も切れた。 ﹁おいっ、ヨドーク! もうヤっちまおうぜ!﹂ ﹁後で好きなだけ痛めつければいいだろっ? それに、オレっちは 後ろの嬢ちゃんに興味があんだ。金になるぜぇ、ありゃあ。その前 に楽しませて貰うがな﹂ ヨドークの左右の男達が、めいめい好き勝手にがなり立てた。そ 94 してこの言葉に、今度はクラウズェアが頭に血を上らせた。 ﹁貴様ら、お嬢様をどうするつもりだ﹂ ﹁どうするだってぇ? お前も男ならわかんだろうがよ、騎士気取 りのオカマ坊や?﹂ 薄笑いで答えながら、フォーメーションを組み始めるヨドーク・ パーティー。 前衛が三人に、後衛が二人。 中央から位置を変え、ヨドークは横にずれる。真ん中は、短めの 剣と丸盾を構えた男、その両側に、鞘から抜いた大剣を肩にかつい だヨドークと、反対側に長槍の男が並ぶ。 クォータースタッフ 後ろでは、弓矢を持った年若い男がいるが、まだ矢をつがえずに、 落ち着き無く視線をさまよわせている。もう一人は六尺棒を握って こ て すね あ いるが、構えるでも前に出るでもなく、薄目を開けて静観している。 それら五人が皆、皮鎧に身を包んでいる。籠手や脛当ての類いは 着けていない。 これは、ヨドーク達が得意とする戦法だ。 前衛の三人で、敵を包囲するように動く。横に逃げようとすれば、 長物を持った者に阻まれ、後ろに逃げようとすれば後衛から射かけ られる。そして、それを嫌って正面突破しようとしても、盾に阻ま あせ れる。後は、そのまま取り囲まれて終わりだ。 普通は 行かないものだ。だが、横にも後ろにも行けないと 人間、焦ると冷静な判断が下せなくなる。三人並んだ敵の正面に など なると、反射的に前に行きたくなる。その向かう先にいる敵が、他 あなど の連中よりも短い武器しか持っていないのなら、なおさらだ。そう いう計算だ。手慣れていた。 ヨドーク達前衛が、騎士気取りの優男と侮る相手を半包囲しよう と前進し始めた時だった。 ﹁くらえぇッ!﹂ 大音声とともに突っ込む者が居た。守るべき主人へのおぞましい 欲望を聞かされた挙げ句、﹃騎士気取り﹄呼ばわりを受けたクラウ 95 ズェアだった。 つ まるで、火の点いた矢だった。一直線に駆けながら、レイピアを 片手上段に振りかぶる。 ﹁うおっ?﹂ 最初に反応した真ん中の男が、思わず上げた盾で上半身を守ろう とした。 それを見るや、前方向のサイドステップに切り替えて残りの間合 いを詰めるクラウズェア。レイピアは既に中段に構えられており、 伸びるような突きが、盾の守らない太股に突き刺さった。 ﹁うっ﹂ 苦痛を漏らした時には男の前にクラウズェアは居らず、ステップ バックで開いた空間に、長槍のスイングが通り過ぎた。 がつんっ、と。槍の柄と盾との、木と木のぶつかり合う大きな音 が鳴った。痛みで反射的に下ろされた盾に、横から振るわれた槍が ぶつかった音だ。 ﹁いてぇっ﹂ フルスイングの衝撃が、そのまま槍使いの手に返ってくる。槍を 手放しこそしなかったが、盾で跳ね返った槍が斜め前方、後ろに倒 れた盾使いの前に投げ出される。 ばきり。ヨドークが重い剣を振り上げ、振り下ろした先には、す でに仲間の槍しか無く、それをへし折ってしまった。 そのヨドークに、ステップバックからステップインに反転してい たクラウズェアの剣が突き込まれ、大剣を握る手が血に染まった。 ﹁ぐうっ?﹂ 刺された腕を押さえながら呻くヨドークに、レイピアが突きつけ られた。 あっという間だった。 ﹁降参しろ﹂ クラウズェアは低い声で告げた。 彼女は、油断無く周囲を見渡している。誰も動こうとはしない。 96 戦いながら常に警戒していた弓使いは、どうした事か、一射もしな かった。勿論、射掛けさせないために素早く接敵したのだし、的に ならないように足を止めなかったのだが。 そのとき。 ﹁後ろっ、なにやってんだ!﹂ 無傷だった槍使いが叫んだ。そのままじりじりと後退しようとす しっ た るも、クラウズェアの鋭い視線に足を止めた。 叱咤の声に、年若い男はおろおろと迷ったように弓を上げ下げし ている。射るかどうするか、決心がつかないのだ。 そんな張り詰めた空気の中。アルテミシアは、妙な物を見た。 銀の霧だった。 すき ま かぜ つむ 六尺棒を持った男が、棒を持たない方の手に石を握り込み、口か らは隙間風を真似たような高音を紡いでいる。男の声に合わせるよ うに、その石から銀の霧が立ち上り、音を立てている。 物を知らないアルテミシアには、その音を形容する知識が少なす ぎた。さらさらとした硬くて小さい粒が、柔らかな水の中を流れる 夜 ではなく、クラウズェ でもなく、もう誰も部屋に来てくれない 朝 ような。川底の砂もこんな音を立てるのかなと、眠れぬ夜のある時 にアルテミシアは思うのだ。 昼 その音は、小鳥たちの歌声が聴ける アが来てくれる 音 は︿銀の霧﹀から聞こえてくる。 つど という時間に、遠くの方から微かに聞こえてくる音に似ていた。 その そして、音の流れが、大きく、速くなり、霧が集い形をなした。 ︽槍︾の形になったその矛先は、クラウズェアの方を向いていた。 ﹁横によけて!﹂ つち アルテミシアが叫んだと同時、︽槍︾は放たれ、クラウズェアは 横方向にサイドステップした。 ぼこり すき ばあんっ、という、硬くて重い物がぶつかる大きな音がして、土 埃が舞った。クラウズェアの元居た地面が、鋤で一掘りしたかのよ うに深くえぐれている。 97 クラウズェアは、突風が過ぎ去る音を聞いた気がした。 音に驚いた馬は、一瞬だけ体をびくつかせたが、直ぐに大人しく なった。クラウズェアの言の通り、よく訓練されている。 ﹁バカヤロぅっ、さっさと使わねぇか! 金は払ってやるっ、どん どん撃て!﹂ 石と六尺棒の男に叫ぶヨドーク。それから、弓使いを怒鳴りつけ た。 ﹁セロン! てめぇはさっきからなぁにやってんだっ? 臆病者は 騎士にゃなれねえぞ!﹂ その言葉に、セロンと呼ばれた青年は反射的に矢をつがえた。だ レゾナンス が、まだ構えるところまでは踏ん切りがつかないようだ。 ﹁まさか、︿共鳴術﹀?﹂ クラウズェアが信じられないといった風に呟く。 ︿彩化晶﹀、月から零れた銀の滴。それを使って不可思議の業を 行使する術が︿共鳴術﹀。一般に人々が魔術と恐れるものだ。 この世に働く法則︱︱石ころを放ればやがては地に落ち、火に触 れれば火傷を負う。寒さに水が氷となり、人は老いて死んでいく。 そういった目に見えない大きな力が存在するように、魔の法とでも 呼ぶべき、恐ろしき何かが確かに在った。その法則を︿魔法﹀と呼 び、魔法の一端を知り、行使する者が︿共鳴術師﹀であり、彼らが 行使する偉大な力が︿共鳴術﹀だ。 クラウズェアからは見えないが、男の握り込まれた拳の中には、 確かに青い︿彩化晶﹀があったのだ。貴族ならば誰もが持っいる石 を。クラウズェアが結局は使えなかった石を。 彼女が、子供の頃から抱える負い目に囚われそうになった時、 ﹁ローズ!﹂ あの時も、彼女を前に押し進めてくれた幼なじみの声が、必死の 声が届いた。 ﹁下がって!﹂ 声に従い、ステップバック。その直後、やはり風切り音の後に爆 98 くわ 発が起こり、今度は鍬で浅く地面を掘ったような跡が、六人掛けの 長テーブルくらいの範囲でできていた。左右どちらかにステップし ていたら、横方向に長い爆発跡の中に巻き込まれていたかもしれな い。 ﹁こりゃあ、いったいぜんたい何が起こってるんです?﹂ 風と混ざって 飛んできてる﹂ と ﹁よくわからないよ。けれど、あの男の人が握ってる手の中から銀 色の霧が出てきて、それが ﹁マジで?﹂ ジャックの驚きの声に、アルテミシアが﹁うん﹂と答えた。 おあ とうくうけい ﹁なんでぇ、そりゃあ。魔法? 超能力? 神通力? それとも遠 当てだか透空勁だかの類い⋮⋮って訳でもあるめぇし。自衛隊が秘 密裏に開発した新兵器とかでも、ねぇんだろうなぁ﹂ ﹁共鳴術だよ、きっと﹂ かわ ぶつぶつ独り言を言うジャックの隣で、アルテミシアが呟いた。 ﹁どうしよう? ローズが大変なのに⋮⋮横!﹂ アルテミシアの声に従い、サイドステップで風の共鳴術を躱すク ラウズェア。爆発音と土埃がまき散らされる。 レゾナンス すんぶんたが ﹁外れてんじゃねえかよ、おいっ? この下手くそが! もっと派 手にやりやがれ!﹂ チューニング ﹁やかましいっ、気が散る! ︿共鳴術﹀には高度な集中と寸分違 わぬ︿調律歌﹀が必要なんだ。ボサッと突っ立ってないで、俺を守 エクワイアード ヘレディタリー る盾にでもなってろ! それができなきゃ、せめて黙ってろ!﹂ 男は︿後天共鳴者﹀であった。︿先天共鳴者﹀とは違い、術の行 使には︿調律歌﹀を必要とする。時間を掛けて集中する必要がある のだ。 だが、そんな事情は無学な男には理解できない。 ﹁てめっ、雇い主に向かって!﹂ どうやらヨドーク達は口論を始めたようで、共鳴術が止んでいる。 アルテミシアには、銀の霧も見えなくなり、音も聞こえなくなって いた。 99 ﹁チャンスです、シア嬢ちゃん﹂ ﹁ローズを助けるのっ?﹂ ジャックとシアが算段している頃。 共鳴術が止まったとはいえ、クラウズェアは攻めあぐねていた。 不用意に近づいて、共鳴術を掛けられでもしたら身の破滅だ。共鳴 術師の言葉で、仲間から盾と剣を奪い取った槍使いが、彼の前に陣 取った事も厄介だ。 クラウズェアは、共鳴術の仕組みに明るくないのだ。彼女は、︿ 彩化晶﹀が使えないのだから。術は感覚的なものに寄るところが大 きく、座学のみで理解できるような浅いものではない。 彼女は対策を立てあぐね、心中焦っていた。 そのとき。 クラウズェアの後方から、アルテミシアの﹁ごめんなさい!﹂と からうま いう声と、馬のいななきが聞こえた。そして、﹁ローズどいて!﹂ という叫びも。 ギャロップ 声に従い、サイドにステップしながら背後に視線を遣ると、空馬 がこちらに向かって襲歩で駆けてくるのが見えた。人が乗っていな いとはいえ、荷は積んである。襲歩でもあまり速度は出ていない。 だが、人の全速力よりは遙かに速く、何よりその重さは脅威だ。 重い足音を響かせながらクラウズェアの横を駆け抜けた馬は、そ のまま共鳴術師達の居る方へと駆けていく。 ﹁馬だっ、とめろ!﹂ 叫ぶヨドークに、 くも ﹁無茶を言うなっ、お前がとめろ!﹂ こ まろ がなりあいながら、蜘蛛の子を散らしたように方々へ走る男達。 足に刺し傷を負った男も、この時ばかりは倒けつ転びつ、必死に足 を動かした。 ﹁今ですぜ!﹂ ジャックの声が上がった。言われるまでもなく、クラウズェアは 動いていた。 100 とうてき 腰の後ろ側に差したダガーを抜き、投擲する。狙い違わず、共鳴 術師の二の腕に命中し、男は悲鳴を上げ、手から青い石が落ちた。 うめ 投擲し終えた瞬間に走り出していたクラウズェアは、腕を押さえ て呻く共鳴術師に駆け寄り、最後の一歩をステップインしながら、 レイピアの護拳で男の顔面を殴りつけた。 がちりっ、という歯の折れる音と共に、悲鳴も上げられずに後方 へ吹き飛ぶ共鳴術師。口からは血が溢れている。 ヨドーク・パーティーで、動く者は誰も居ない。めいめい、へた り込むなり気絶するなりしている。弓使いも、結局は最後まで矢を 射る事はなかった。 勝負はついたのだ。 クラウズェアは悩んでいた。 ヨドーク達を打ち負かした後、彼らを一カ所に集め、剣を突きつ けて大人しくさせている状況だ。 五人中三人は怪我を負い、得意のフォーメーションは破られ、奥 の手の共鳴術も、今は彩化晶が取り上げられているので使えない。 彼らは、完全に戦意を喪失していた。 普通なら、このまま町へ戻って、統治者の男爵だか騎士だかに引 き渡せばそれで終わりだ。だが、それはできない。相手が平民なら ともかく、貴族や騎士と顔を合わせるわけにはいかなかった。素性 が割れれば、一巻の終わりだ。 クラウズェア達は、このまま街道を通って関所を抜け、南の貿易 都市︿サザンポート公爵領﹀へと向かうつもりだ。目的は、船によ る国外逃亡である。 サザンポート公爵領は、アルテミシアの兄である王太子エサルレ ち えん そ ご ッドの治める地だ。だが、彼は今、海外のさる自由都市国家にある ふ そう さ 大学に留学中の身だ。自ずと指揮系統にも遅延や齟齬が生じ、アル テミシア達の逃亡の触れが出ても、捜査にほころびが出る。貿易で 101 ふうさ 大きな国益を生み出しているグリーンウェルは、港を完全封鎖する 訳にもいかない。港にさえ行ってしまえば、後はどうにかして貿易 船の積み荷にでも紛れ込み、密航によって外国へ行く。そのために は、この先の︿関所﹀を越えなければならない。関所さえ越えれば、 その先は何とでもなる。そういう計画だ。 甘い計画だった。 きゅう ち 甘いと言わざるをえない事は、クラウズェア自身がよく解ってい みょう あん た。だが、彼女たちには手引きしてくれる権力者や、窮地を打破す る妙案を授けてくれる知恵者など、誰一人として味方と呼べる者は 居ないのだ。剣一筋に生きてきた騎士が、無い知恵を絞って、やっ と考えついた計画だった。 スピードが命だった。早く関所を越えて、南の貿易港に行きたい。 かかず ひま か、だ。 逃がす こんな︿試練を求める者﹀などと自称する、くだらないゴロツキ連 中に係らっている暇など無かった。無いのだが。 殺す 町へ戻らないとなると、選択肢は限られる。つまり、 か、 騎士としてなら、殺すべきだ。ヨドーク一味は悪党だろう。小さ く咲いた名も無き花を、ためらいなく踏みつぶすように、今まで罪 も無い人たちを泣かせてきたに違いない。許せるわけがなかった。 だが。 じょくん クラウズェアは、今まで誰一人として殺した事が無い。騎士にな ると誓って剣を取り、国王陛下から騎士の叙勲を賜ったあの日から、 せいひつ いずれは悪党を手に掛けるだろうと覚悟はしていた。騎士とは、そ ういうものだ。国家の静謐のため、民の安穏のため、盾と成り遮り、 矛と成り手を血で染める。騎士とは、そうある者なのだ。 だが。 クラウズェアの後ろには、戻ってきた馬の手綱を固く握り込んで とぼ いるアルテミシアが居る。いつも通りの無表情だが、彼女だけが判 るその表情は、不安を浮かべていた。その乏しい表情を、恐怖や嫌 悪でゆがめてしまうのが怖い。それ以上に、悲しい顔をさせてしま 102 うのが、もっと怖かった。 しゅんじゅん ﹁どうか助けてくれ!﹂ クラウズェアの逡巡を感じ取ったヨドークは、ここぞとばかりに 土下座した。地面に額をこすりつけている。まねして、周りの連中 も頭を下げ始めた。共鳴術師は気絶したままだ。 ﹁もう悪さはしねぇ! 約束する!﹂ ﹁槍も折れたっ、もうなにもできねえよ﹂ ﹁この足じゃあ、戦うも盗むもできねぇって!﹂ めいめい、哀れっぽく訴え始める。その中で、セロンと呼ばれて いた年若い男だけは、頭を下げるでもなく、クラウズェアをじっと 見上げている。 ﹁ローズ﹂ アルテミシアの、か細い声が聞こえた。 剣を向け、一味を視界に入れたまま、クラウズェアは小さな主人 の方を見た。 ﹁助けてあげよう?﹂ 予想通りの言葉だった。クラウズェアは溜息を吐き、ヨドーク一 味は光明を見いだした。 ﹁誓って! 神掛けて、もう悪事はやらねえと誓います!﹂ ﹁オレも誓う!﹂ ﹁オレもだ!﹂ 口々に誓いの言葉をわめき散らす男達を尻目に、クラウズェアは もう一度溜息を吐いた。男達の態度に呆れたわけではない。まして や、アルテミシアの言葉に呆れたのでもなかった。自分が決断する 前に、主人に決定させてしまった。それは、何かあった時にアルテ 誓いの言葉 でかき消された。 ミシアに責任を負わせてしまうという事だった。反論すべきだ。 ﹁ですが︱︱﹂ だが、反論の言葉は ﹁叶えて欲しい。おねがい﹂ それは、クラウズェアが︿常葉の森﹀で、アルテミシアに言った 103 言葉だ。﹃なんでも叶えるから言って欲しい﹄という、誓いの言葉 だ。 ﹁シア⋮⋮﹂ ﹁わがままだよね。きっとぼくは子供だ。迷惑かけてばかりだし。 よくよう けれど、お願い。許してあげて?﹂ 抑揚に乏しい静かな声が、場を包んだ。 アルテミシアは、クラウズェアが何に悩んでいるのか、明確には 自分の事 理解していなかった。騎士の職務や国の法律、それ以前に、殺す事、 人が死ぬ事を判っていない。だが、大切な幼なじみが で悩んでいるのだけは、肌で感じ取れたのだ。 そして、少女もまた、少年の事が大切だったから。 ﹁御意の通りに﹂ 警戒を怠らないために略式の目礼で応えたクラウズェアは、体ご とヨドーク一味に向き直った。 ﹁お前達を許す事にする。もう一度、あらためて誓って見せろ。そ このお前も誓え。﹃騎士を目指している﹄ならば、︿英雄騎士﹀の 尊名に誓って見せろ﹂ ︿英雄騎士﹀とは、東の大陸において古代に栄華を極めた超巨大 国家を興した人物である。建国の英雄にして初代国王。そして、︿ 騎士﹀という新しい戦士の在り方を打ち立てた人物である。上は国 えいゆうたん 王から下は平民まで、誰もが子守歌代わりに親から聞いたおとぎ話。 吟遊詩人が語り継ぐ、英雄譚。 男達と、最後にセロンと呼ばれた青年に視線を向け、クラウズェ かがみ アが告げた。その言葉に、ヨドーク達はあらためて誓いの言葉を叫 ほま んだ。そして、セロンが初めて口を開いた。 ﹁大昔の大英雄、騎士の祖にして騎士の誉れの鑑、︿英雄騎士﹀の 振るう正義と力の剣に誓って。俺は正しい道を踏み、立派な騎士に なります!﹂ 興奮して声はうわずっていたが、熱意と真剣さのこもった声だと、 クラウズェアは思った。それに、この男は最後まで矢を射なかった。 104 ヨドーク一味と行動を共にしているのも、まだ間がないのかもしれ ない。そう思った。 ﹁いいだろう。誓いの言葉は聞き届けられた。守る者に神々のご加 護を。破れば身の破滅となる﹂ レイピアで、それぞれ天と地と男達を指し示したクラウズェアは、 剣を鞘に収めた。 ﹁さあ、行け。正しき道を探しに行け﹂ クラウズェアの言葉に、一目散に駆け去って行くヨドーク達。セ そろ ロンは一礼をしてから、共鳴術師を背負って歩いて行った。 ﹁姐さんも嬢ちゃんも、揃って甘ちゃんですねぇ﹂ ジャックの呆れた声が、人影をともなって現れる。 ﹁ごめんなさい﹂ アルテミシアの気落ちした声が答えた。 ﹁お嬢様は悪くありません。斬り捨てたとして、ここには隠す場所 も、土を掘り起こす道具もないのです。見つかれば騒ぎとなり、余 計な騒動は我々の旅の邪魔となります﹂ ﹁穴ならそこに空いてますぜ?﹂ ジャックのからかうような言葉に、余計なことを言うなとばかり にクラウズェアの視線が突き刺さる。 う ﹁五人も入るものか! そこまで言うなら、お前が掘れ。今から追 っかけて、五人まとめて埋めてこい!﹂ すき くわ ﹁あっしってば、土いじりは得意じゃないんですがねぇ﹂ ﹁得意不得意以前に、その手で鋤や鍬が握れるものかっ、この役立 たず! ごくつぶし!﹂ ﹁いや、役には立っちゃあいませんがね? 飯は食ってねぇんだか ら、ごくつぶしってぇのは︱︱﹂ ﹁うるさい! この豚の餌! ドングリ以下!﹂ ﹁⋮⋮なんかそれ、一番傷つくでやんす﹂ ﹁うるさいっ、ドングリ!﹂ 馬鹿騒ぎに発展しつつある二人の側で、アルテミシアの心は沈ん 105 でいた。 自分はなんて弱くて役立たずなんだろうと、少年は思っていた。 守られてばかりは嫌だった。自分も、クラウズェアを守りたいと 思った。何故なら、赤毛の少女は少年にとって、大切な幼なじみな のだから。 かご ぜいじやく けれど、生まれてこの方、剣を握ったこともないばかりか、外に 出ることすら数えるほどしか経験のない籠の中の脆弱な鳥に、何が できるというのだろうか? アルテミシアは、知らず服越しに、懐の宝物に手をあてがってい た。誓いの証。この世で最も無力で強力なお守り。クラウズェアの 髪が、そこにしまわれていた。 ﹁守られてばかりは嫌だよ。ぼくも守りたい⋮⋮﹂ 風にかき消された小さな呟きを、胸中のモリオンだけが聴いてい た。 106 三章③﹃ケモノとニンゲンの違い﹄ きょ く ﹁その赤毛の男、確かに﹃ローズ﹄と呼ばれていたのだな?﹂ かしこ ミッドノール子爵タイタス・ゴードンは、巨躯に似合った低音で、 ダーティーブロンド 片膝突いて畏まるヨドークに問うた。 窓から差し込む西日が、くすんだ金髪を鈍く輝かせている。 ﹁へ、へい! 確かに! 確かにローズって呼ばれてました! 最 ひざまず 初はクロードって呼ばれてたんですが、途中でローズとも。なあっ、 みんな?﹂ ヨドークの問いかけに、床に跪いた一味の男達がめいめい頷く。 せんきよ ここは、ヨドークがクラウズェア達に絡んだ酒場︿黄金の麦酒亭 ﹀だ。ミッドノール子爵の私兵団が占拠したこの場には、客は一人 も居らず、店主と女給もありったけの料理を出すだけ出して、店の レイピア 奥に引っ込んでいる。酒は、おのおので勝手に飲んでいる次第だ。 ﹁細剣を使う赤毛の優男。女のように細く、ローズとクロード、二 うやうや つの名前で呼ばれていた。それから、髪の異様に長い娘も一緒で、 恭しい態度を取っていた。⋮⋮おい、その娘の髪は、本当に白でな き く黑だったのか?﹂ そう、ドスの利いたタイタスの声に、ヨドークは震え上がりなが ら何とか答えた。 ﹁ええ! ええ確かに! あれほど恐ろしく綺麗な黒髪は、今まで 見たことありません。白だなんてとんでもない! そんな化け物み お じ き たいな色じゃなかったです。へい﹂ ﹁俺の予想が合っていれば、小父貴はしくじった事になる訳だが⋮ ⋮。ふんっ、何らかの手段を講じて染めたか? 染まらぬ髪と聞い おとし はばか ていたが、王都の連中はなにをやっていたのか。上も下も馬鹿揃い だな﹂ 両陛下すらも貶めたと取れる物言いを、誰憚ることなく吐いたタ 107 イタスに、ヨドーク達は顔を青ざめさせたが、私兵団の連中はゲラ ゲラと笑うだけだった。その中の一人が酒に酔った赤ら顔でヨドー ク達をしかりつけた。 ﹁なにビビってんだっ? 都はな、城ん中は入れ替わるんだよ。そ この将軍様になられるのが、我らが金の髪の美丈夫、戦場の覇者、 光の剣の使い手として名高い、ゴードン様その人だ! その御方に くみ は、侯爵閣下がついてらっしゃるんだぞ? 侯爵閣下は未来の国王 陛下だ。その名誉ある陣営に与する覇気のない奴は、とっとと帰り な!﹂ 兵士の言葉に、私兵の皆々が侯爵と子爵を称えて乾杯をした。 ﹁と、という事は、つまりぃ、オレ達も騎士に取り立てて頂けるっ てお話しは⋮⋮?﹂ これ以上はないというくらいに卑屈な表情と声を作り、舐め上げ るような視線でタイタスの碧眼を覗き込むヨドーク。後ろの連中も、 期待に鼻の穴を膨らませている。セロン以外は。 ﹁働き次第だ。そのためには、まずは俺の婚約者殿を連れ戻しに行 かねばなるまい。王都に行くまでも無く会えるとは、運命の導きか﹂ 口許を大きくゆがめて笑うタイタスの言葉に、ヨドークが疑問の 声を上げた。 ﹁婚約者様、ですか? それは、あの黒髪の?﹂ ヨドークの言葉に、タイタスはかぶりをふる。 ﹁違う。それはおそらく、︿色なし王子﹀だ。俺の婚約者殿は、赤 毛の方だ。男装しているのだろう。正体は、ノーザンコースト伯爵 令嬢だ﹂ ﹁女? どうりで線が細い奴だとばかり﹂ そう漏らしたヨドークに、タイタスの不機嫌そうな碧眼が向けら れる。 ﹁おい。俺の婚約者殿を﹃奴﹄よばわりとは、死にたいのか?﹂ タイタスが身を乗り出す動きでテーブルがずれ、立てかけてあっ た金色の大剣が重そげな音を鳴らした。 108 ﹁ひっ、ひいぃ! め、滅相もありません! どうかっ、どうかお 許しを! 伏して、伏してお頼み申し上げますですぅ!﹂ 額の肉がこそげ落ちる勢いで、土下座をするヨドーク。 それを見下ろしながら、タイタスは鼻を鳴らした。 ビール あお ﹁お前らのようなゴロツキでも、今は数が必要なのだ。一度だけ、 のたま 無礼は許してやろう﹂ 横柄に宣うと、椅子に深くかけ直し、麦酒をぐびりと呷った。 ﹁ありがとうございます! ありがとうございます!﹂ 既に額の皮は破れ、血がにじんでいるのも構わず、ヨドークは額 を床にこすりつけた。無様な姿であった。 ﹁みっともない、顔を上げろ。俺の兵隊になりたいなら、無礼は許 さんが、卑屈も許さん。騎士とはそういうものだ﹂ その尊大な物言いに、鞭で打たれた家畜のように身を跳ね起こし たヨドークは、飼い主を称えて叫んだ。 ﹁お慈悲に感謝を!﹂ 恐怖によって手懐けられた男の目には、異様な光が灯っていた。 ﹁じゃじゃ馬との噂名高い姫様だ。俺ぐらいの男でなければ乗りこ なせまい。会うのが楽しみだ﹂ ロースト が ろう すでにヨドークの事など眼中にないタイタスは、皿に盛られた兎 肉のあぶり焼きを、餓狼のように食いちぎった。 その、野獣共の酒宴を、セロン一人は人間の目で見続けていた。 セロンは、王都よりすっと北、ノーザンコースト伯爵領の外れに ひっそりと存在する小さな村で生まれた。 彼は子供の頃から、男の子が一番大好きなおとぎ話︿英雄騎士﹀ の話がとても好きだった。語り部も兼ねる村の長老に、何度も何度 もねだって聴いた。 ろく は 騎士は貴族と違って世襲制ではない。だが、たいていは先祖代々 仕える貴族の門下で、騎士として召し抱えられ、禄を食む。平民の 109 つて 身で、ましてや金も学も伝もない猟師の息子風情がなれるものでは ない。 たか だが、子供の頃からの夢だった。地べたを這う獣のような生活で おど はなく、大空を飛ぶ鷹のような、そんな人生を歩んでみたかったの だ。高い青空を見上げるたび、セロン少年の心は躍った。 ある時、彼の住まう村に︿試練を求める者﹀と呼ばれる集団が訪 れた。近くの山に︿古代の遺跡﹀があるとの噂を聞きつけ、やって きたのだ。結局はガセだったのだが。 彼らが不満たらたらに村を去ろうとした時、セロンの胸に乾きと 焦りが生じた。飛び去ってしまいそうな鳥の羽を、腕を伸ばして掴 パーティー みたい︱︱そんな衝動だ。 幸か不幸か、その集団には欠員が出たばかりで、セロンはあっさ りと仲間に迎え入れられた。 それが、ヨドークのパーティーだ。 立身出世の第一歩。踏み出した足が大空に繋がっているのだと、 この時のセロンはそう思っていたのだ。 ﹁俺は馬鹿だ﹂ セロンは呟いた。 こんなの騎士じゃない。セロンが思い描いた︿英雄騎士﹀とは大 きくかけ離れていた。いや、正反対と言ってもいい。 村を出る時、父親に怒鳴られた。今までで一番だ。母親に泣かれ た。今までで一番だ。二人とも、もう老いていた。子はセロン一人 しかおらず、面倒を見る者は彼以外には居なかったのに。 両親は、老いた身を世話して欲しかったのか。いや、違う。父と 母は、なんと言っていただろうか。 弓と矢筒を背負って家を出た彼に、その背中に、﹃仕方のない奴 だ﹄と銭袋を放ったのは父だったか。﹃いつでも帰っておいで﹄と 手を振ったのは母だったか。 110 袋の中には、粒銀が五つ入っていた。少し良いパンを十個ばかり 買うことができる。おそらく、それが全財産だった。 あの後、父は老いた身で猟に出たのだろうか。でなければ、飢え 死にするだけだ。母は、地主の畑を耕しに行ったのだろうか。子供 の頃、自分の頭を優しく撫でてくれた手に、やせた手に農具を握っ て、硬い地面を耕しているのだろうか。 ﹁俺は馬鹿だ﹂ 元 仲間の槍使いと、ミッドノール子爵配下の数 もう一度呟いた。舌を噛みそうだ。馬には乗り慣れていない。 後ろからは、 名が、やはり馬で追って来ていた。 夜の暗さを見通す目はセロンが上だったが、手綱捌きは追っ手に 軍配が挙がった。 じりじりと距離が詰められる。 奪った馬は、すでに尻の方まで汗だくだった。もうあまり保たな いだろう。そうなれば、捕まって殺されるだけだ。 騎士にでもなったつもりだったのか。子爵達の悪巧みを、レイピ ア使いの剣士に知らせようと思った。もしかすると、一生お目通り が叶うはずもない領主のお姫様に。セロンが子供の頃から思い描い ていた︿英雄騎士﹀の、その生まれ変わりにも思えた、あの気高く 凜々しい人に。 ﹁俺はっ、俺は!﹂ あいつ けもの みたいに殺してやる!﹂ 死にたくない。死ねない。父と母に会いたい。街道で会った剣士 に会いたい。 ﹁死ね! 裏切り者は死ね! 欠員 とやらは、仲間割れの挙げ句に 背後から、仲間だった男の︱︱仲間だと勘違いしていた獣のうな り声がする。 出会った頃に言っていた 殺されたのだなと、セロンはぼんやりと思った。 暗い山道の、木々の間の道なき道を、悪夢のような時間を、見え ない光を追うように、セロンは馬を駆けさせた。 111 そして、体が浮く感覚が生じた時。セロンは馬ごと、崖から谷底 へと転げ落ちる最中だった。 112 くさり かたびら 三章④﹃光の剣の使い手﹄ ふとももたけ 敵は三人。 チェーンメイル 皆、太腿丈の鎖で編んだ帷子︱︱鎖帷子を着込み、長剣と丸盾で きょう い 武装していた。昨日のゴロツキ連中よりも少しは腕のある奴らだっ じゅん たく たし、何よりも金を掛けた武具が脅威だった。 ︱︱敵が、潤沢な資金を有した大きな組織である可能性が高くな るからだ。 手綱を引く余裕はなく、乗っているアルテミシアに任せ、クラウ ズェアは戦いに集中していた。 街道から少しそれた、木がまばらに生える牧草地の木陰で、そろ 図案が意匠化された紋章。貴族の いしょう か そろ食事休憩を終えて出立しようとした頃だった。 巨人の剣が岩を断つ 突然の襲撃。 盾には 持つ家紋ではなく、部隊章である。クラウズェアは知らなかったの だが、それは、ミッドノール子爵タイタス・ゴードンの抱える私兵 団の部隊章だった。 さっきから、草に足を取られないよう、気を使いながら戦う羽目 になっている。ステップを踏む際、地面を蹴る必要があるのだが、 草で滑りそうになるのだ。 囲まれないよう、小刻みに方向を変えながら、ステップインとス テップバックを繰り返す。その機敏な動きに、クラウズェアを包囲 てつなべ できないと判断した敵は、完全に囲みきろうとせず、半包囲でじり じりと前進し始めた。 ﹁えいっ﹂ た び まき そのとき、馬上のアルテミシアが、ジャックの指示を受けて鉄鍋 すみ の を投げつけた。三脚付きで焚き火の上に置けるし、ふたの上にも薪 や炭を載せられる優れものだ。馬上という高所から投げたのが幸い 113 かね し、思ったよりも飛んで行った鍋は、端の兵士の頭に当たった。 に対し に対する防御力は低い。こ 斬撃 ごぅんっ、という、出来損ないの鐘でも突いたような音が鳴る。 鈍器 鎖帷子のフードをかぶっているとはいえ、それは て効果を発揮するのであって、 の時、鉄鍋は普段の使命を忘れ、鈍器となっていた。 おお 一瞬、頭がふらつく兵士。そして、この隙を逃すクラウズェアで はなかった。 素早いステップインで間合いを詰め、鎖帷子の覆っていない膝に 剣を突き込んだ。 ﹁ぎゃっ﹂ 悲鳴を上げる敵を尻目に、素早くステップバックで距離を取るク ラウズェア。だがその時、少しだけ草で滑ってしまう。 一瞬ひやりとしたが、他の二人の敵の攻撃を受けることなく、間 合いを外すことができた。これで一人、無力化された。 残り二人となった兵士は、アルテミシアも警戒の対象に入れたよ うで、自分たちとアルテミシアを結ぶ線上にクラウズェアを挟むよ う、位置取りをした。 これには、クラウズェアも助かった。守護対象の主の方へ、敵を 斬 向かわせる危険性がなくなった。自分さえ倒れなければ、の話だが。 兵士二人がタイミングを合わせ、同時に斬りかかってくる。 刃 程度の物だ。冶金技術の問題で、強度のある薄い や きん と言っても、長剣に斬り裂く鋭利さなど無い。せいぜいが る 物を模した鈍器 刃を作れないからだ︱︱普通は。 クラウズェアのレイピアは、少し特別だったが。 同時に斬りかかってきたが故に、同じタイミングで下がればどち かわ らも避ける事ができる。また、攻撃する時は盾の裏側から剣を持つ 方の腕を伸ばさねばならない。 レイピア の長剣を、腰 の細剣で地面に押さえつけてやる。つい 鉄 兵士達の攻撃に合わせ、ステップバックで剣を躱すクラウズェア。 鋼 同時に、彼女から見て右の兵士が振り下ろした を落とす力を乗せた 114 で瞬時にステップインに反転しながら、下方向へ伸びきった兵士の 腕の付け根、肩口にレイピアを突き入れた。 ﹁ぐぅっ﹂ かんじよう 鉄より硬い鋼の剣が、鋭利な切っ先が鎖帷子を貫通し、兵士の苦 悶の声を誘う。 残り一人。そう、クラウズェアが心中で勘定し、ステップバック で最後の敵から距離を取った時だった。 いま ﹁呼び子を鳴らせ!﹂ 未だ無傷の兵士が叫んだ。 彼らは当初、手柄を三人だけで分け合う算段だった。 だ ほ ﹃レイピア使いの女剣士は生け捕れ。もう一人の生死は問わない﹄ そう、タイタスからの命令だった。 馬上の子供はいかにも無力で、細腕の剣士も楽に拿捕できると踏 んだのだ。手柄を立てれば騎士の身分はおろか、隊長職にまで昇格 できるかもしれない。男爵だって夢ではない。彼らの主、タイタス・ ゴードンは、将軍の位を約束された風雲児なのだから。 だが、現実は違った。 いま、彼らは敗北しようとしていた。負けるという事は標的を取 ものだね り逃がすという事であり、それはつまり、三人の死を意味した。ミ ッドノール子爵は気性が荒い事で有名なのだ。命あっての物種だ。 実際、昨晩脱走したセロンを捕まえられなかったとある男などは、 あせ 共に追走した兵士達から責をなすり付けられ、タイタスに処刑され たのだから。 ともあれ、この兵士の言葉に焦ったのはクラウズェアだった。 先に無力化した敵のどちらかが、知らせの笛を持っているのだろ はや う。それを確認する余裕は、今の彼女には無い。眼前の敵を倒さな ければならなかった。 ﹁させんっ﹂ 果敢に突き込んでいく。だが、焦りが気を逸らせ、剣を雑にする。 兵士は防御に専念するつもりらしく、盾と剣を使ってからくも攻 115 撃を防いでいる。 ピィーィッ、という、呼び子の甲高い音が鳴った。 その音に一瞬の安堵が生まれたのだろう。兵士の隙を突いて繰り 出した剣が、彼の喉元に突き込まれた。 三人目は絶命した。 クラウズェアは何も考えなかった。 もう一度笛を吹こうと息を吸い込んだ兵士︱︱二番目に肩を刺し ておいた男を、駆け寄った勢いに任せて剣を繰り出し、彼の喉にも 風穴を開けた。無傷な方の手で笛を持つために盾を外し、無防備だ った。 は 一瞬だけ、レイピアを握る手が震えた。 ﹁ひぃっ、た、た、た、たすけっ﹂ 膝を刺されて走れない兵士が、転んで這いずり、立ち上がってま た転び、と繰り返すその背中めがけ、追いすがる。 ﹁ローズ!﹂ 声と共に横から抱きつかれ、血走った目をそちらに向けた時、馬 から下りたアルテミシアが駆け寄ってきたのだと初めて気がついた。 クラウズェアは、恐ろしいものでも見るような目で、主の顔を見た。 ﹁殿下⋮⋮わたしは﹂ そう言ったきり、言葉が出ない。何を言いたいのかすら、クラウ ズェアには分からない。 ﹁とっととずらかりましょう⋮⋮と言いたかったんですが、こりゃ あ﹂ ジャックの声に促され、それ以上にアルテミシアの顔が見られな いクラウズェアは、主の白い顔から視線をそらして、周囲を見た。 三方から、こちらに迫ってくる騎馬や兵士の姿が見えた。いずれ も武装している。三〇人は居るだろうか。 逃げ切れないと、クラウズェアは思った。 荷を全て捨てて馬を走らせるにしても、馬術の心得の無いアルテ ミシアに代わり、誰かが手綱を操作しなければならない。その役目 116 は自分にしかできないが、二人乗りをすれば重くなる。重くなれば 遅くなる。遅くなれば追いつかれる。 絶望的だった。だが、何とかしなければならない。きっと逃亡が 知られ、追っ手がかかったのだ。捕まれば、アルテミシアは殺され る。その最悪の未来だけは、なんとしてでも引き寄せてはならない と、女騎士は思った。 ﹁殿下、わたしは敵の指揮官に一騎打ちを挑みますので、その隙に いぶか お逃げください。西に向かえば、少しは捜索の手が薄く⋮⋮殿下?﹂ アルテミシアから何も返答がない事を訝しんだクラウズェアが背 後を見ると、少年は兵士の死体の手から長剣をもぎ取っている最中 だった。固く握り込まれた死人の手を、やっとの事で開かせる。 ﹁殿下っ?﹂ ﹁ごめんなさい。借りるね?﹂ 死体に謝罪をした後、クラウズェアの方を振り返るアルテミシア。 その目には、嫌悪や非難や恐怖のどの表情も浮かんではいなかった。 赤い目が、緑の目をじっと見つめる。 ﹁ぼくも戦う﹂ いつも通りのアルテミシアに、恐れた表情が浮かんでいなかった 事に一瞬だけ安堵してしまったクラウズェアだったが、少年のとん でもない言葉とその手の剣の意味に、何もかも吹き飛んだ。 ﹁なりません!﹂ 声を限りに叫んだ。 たく ﹁なりませんっ、早くお逃げください! ジャック!﹂ いら だ 後の事を託そうと呼びつけたジャックは、いつも通りののっぺら ぼうで、アルテミシアの影の中に立っていた。 ﹁無理です﹂ その、いつもとは違う真剣な声色に、クラウズェアは余計に苛立 った。 ﹁無理でもなんとかしろ! そうしなければ殿下はっ︱︱﹂ ﹁ローズ、ぼくも戦う﹂ 117 アルテミシアが割って入った。 ﹁だめ! シアっ、言う事を聞きなさい!﹂ もう、上下関係も礼儀も無い。アルテミシアの命さえ守れれば、 クラウズェアにとって他はどうでもよかった。 ﹁いやだ!﹂ その時アルテミシアが上げた叫び声は、幼なじみの少女にとって、 今まで聞いた中で一番大きな声だった。いつも人形みたいに大人し い、女の子みたいな少年の、魂からの声。 ﹁ぼくも戦う! もう、守られてばかりは嫌なんだ! 一緒に戦う ! ローズと一緒に戦うんだ! ローズを守る!﹂ ﹁た、戦うのはわたしの役目なの! シアは守られるのが役目なの ! お姉さんの言う事を聞きなさい!﹂ アルテミシアの剣幕に一瞬だけひるんだクラウズェアだったが、 ここで退いてはならないと、身を乗り出して言い返す。 ﹁だいたい、シアに何ができるのっ? 私より細い腕で、そんな大 い きな剣を振り回せるわけないでしょう。もう、こんな口論を続けて る時間は︱︱﹂ さえぎ け げん ﹁モリオンも一緒に戦ってくれるって云ってるから!﹂ 遮られた言葉に、クラウズェアが怪訝な顔をした。 ﹁モリオンが?﹂ ﹁うん。なんとかできるみたい﹂ ﹁モリオンなんて、ただ黙ってじっと浮いてるだけじゃない! そ んな︱︱﹂ ﹁いえ、ここはお嬢ちゃんとモリオンを信じましょう﹂ 静観していたジャックが、口を挟んだ。 ﹁モリオンとお嬢ちゃんには、確かに不思議な力があると思います。 あの魔法使いとの戦いで、姐さんも助けられたはずですぜ?﹂ しやべ ﹁それは⋮⋮けどっ﹂ ひづめ ﹁さあ、もうお喋りはおしまいです。来ましたぜ﹂ ジャックの言葉を聞くまでも無く、馬の蹄の音も、鎖帷子がジャ 118 ラジャラと鳴る音も、全員の耳に届いていた。 ﹁俺は、ミッドノール子爵、タイタス・ゴードンだ。そちらは、ノ ダーティー ーザンコースト伯爵令嬢のクラウズェア・セルペンティス殿とお見 受けするが?﹂ ブロンド 大柄な男が、馬上で肩をそびやかしながら呼びかける。くすんだ 金の髪が、陽光を鈍く照り返している。青い目は、人を威圧する強 さを持っている。 一目見た時から好きになれない男だと思ったクラウズェアだった いいなずけ が、彼の名乗りを聞いて、その思いが確信に変わった。 男は、クラウズェアの両親が決めた許嫁だったのだ。とはいえ、 娘の方は納得などしていなかったのだが。 ふしあな ﹁知らん。わたしはクロード。見ての通り、旅の剣士だ。貴殿の目 は節穴か?﹂ いまさら言い訳が通じるとも思わなかったが、嫌味の一つでも言 ってやりたいクラウズェアだったのだ。 ﹁そうか。それに関しては後で確認すればいい。町に宿を取ってあ る﹂ だんそう れいじん そう言って口角をつり上げるタイタスのおぞましさに、クラウズ けが ェアの全身に鳥肌が立った。 ﹁汚らわしい!﹂ そう吐き捨て、剣を構える男装の麗人。最初から、交渉の余地な ど無かった。 ﹁俺達の勝負に手を出すな! 未来の夫の技量で、婚約者殿を納得 そういう趣味 させる必要がある。そこの︿色なし王子﹀は、適当になぶり殺しに するなり、好きにしろ﹂ げ ち タイタスの下知に、色めき立つ兵士達。もともと び ぼう あお じゅう の人間も、少なからずは居るものだ。ましてやアルテミシアほど の美貌ともなれば、そういう趣味の無い男の欲望も煽った。人を蹂 119 りん りゃく だつ はじ 躙する事は、金品の略奪と同じく、戦場では た。 当たり前の事 ﹁貴様ぁっ、騎士にあるまじき言動、恥を知れ!﹂ だっ 仮に捕まる事があったとしても、王都に送られ刑の執行を受ける 死 以上の惨劇が大切な主の身に降りかかろうとし まで、身分相応の扱いを受けられるだろうと思っていたクラウズェ アにとって、 ている事態に、目の前が真っ赤に染まるほどの激怒を覚えた。 すでに下馬して抜剣済みのタイタスが、顔をゆがめて笑う。 クレイヴ・ソリッシュ はいじょ ﹁何を仰る。俺は騎士ですよ。愛する祖国グリーンウェルに必要の か ごと ないモノは、この︿光の剣﹀で全て排除する。これ以上無いくらい、 こしら 立派な騎士です。かの︿英雄騎士﹀も、斯くの如くあったでしょう クレイヴ・ソリツシユ な﹂ おくめん ゆう 光の剣と名付けられた、金や宝石の拵えで飾り立てられた大剣を ぜん 肩に担ぎ、タイタスは臆面も無く言ってのけた。構えるでもなく悠 然と立つその姿は、まるでクラウズェアをあざ笑っているかのよう だ。 ぐ ろう 彼女の理性が、怒りで焼き切れた。 ﹁英雄騎士を愚弄するなぁッ!﹂ きんこつりゅうりゅう 怒りの声をなびかせて、赤髪の女騎士は矢のように突っ込んでい った。 チェーンメイル プレートアーマー タイタスは、筋骨隆々たる大男である。身長は二m、体重は一二 〇㎏もある。その巨漢が、鎖帷子を着た上から更に金属甲冑を着込 よろい んでいるのだ。これは、相当な重さである。物にもよるが、タイタ かぶと スの鎧は総重量が四〇㎏もあった。重さに比例するように、圧倒的 い よう ま ものとうばつ な防御力を誇るものだ。兜をかぶらず顔を晒してこそいるが、鉄の おおいくさ 城とでも例えられそうな威容である。 これほどまでの重武装、よほどの大戦か、魔物討伐に騎士団を編 成する際にしかお目にかかれないだろう。その重装騎士あいてに、 あきら クラウズェアはレイピアだけで挑んだのである。無茶としか言いよ うがなかった。だが、彼女は諦めてなどいなかった。眼前の敵を倒 120 し、一刻も早くアルテミシアの加勢に回らなければならない。ただ、 それだけを考えていた。 ﹁せいッ﹂ ク 地を蹴りステップイン。いくつかある鎧の継ぎ目︱︱腋の辺りに レイヴ・ソリッシュ 鋭く突き込んでいく。余裕の表情を浮かべるタイタスは、右手の黄 せつ な 金の両手剣を肩に担いだままだ。 ︵いける︶ たんれん たまもの とつ さ そうクラウズェアが思った刹那、神のご加護か直感か、はたまた 鍛錬の賜か、咄嗟に剣を引いた彼女の判断は間違っていなかった。 いつせん 間に合うはずが無いと踏んでいたタイタスの剣が、棒きれでも扱う き どう 軽やかさで一閃されたのだから。 黄金の軌道を逃れたレイピアは、折られる事なくクラウズェアの 手にあった。 ﹁惜しかったな﹂ 暇つぶしのゲームに負けた程度の気軽さで、タイタスは呟いた。 てのひら 草花が咲く地面に切っ先をめり込ませた剣を、無造作に引き抜いて 右肩に担ぎ直す。 ﹁もう一度だ。次はへし折ってやろう﹂ だらりと下げていた左手を持ち上げ、掌を上にして手招きをする。 きょう がく この身振りに怒りを感じないではないクラウズェアだったが、そ れ以上に、先程起こった事に驚愕を禁じ得ないでいた。 クレイヴ・ソリッシュは、全長二・五m、重量は八㎏にも及ぶ。 なお 勿論、クラウズェアにそういった事が正確に判る訳はないのだが、 ヨドークの大剣よりも尚長大で、彼女のレイピアに比べれば三倍程 度の長さに見て取れる。重さは推して知るべしだ。それを、眼前の 男は片手で振って見せたのだ。 恐るべき事であった。だが、止まってはいられない。剣を肩に担 ぎ直す時がチャンスだったのだと悔やみもしたが、次に活かせば良 いだけだ。フィデリオの﹃常に冷静さを失うな﹄という教えが脳裏 によみがえった。 121 かかと 右膝を曲げて腰を落とす。左足は後ろに伸ばして、踵を浮かす。 動き続ける 事で心を止めないため 溜 た 膝のバネを活かし、リズムを取る。小刻みに上下に揺れる事で、攻 さと を作る準備行動であり、 撃のタイミングを敵に悟らせないためであり、いつでも動ける め である。 人間、緊張下でずっと集中し続ける事は難しい。本人にその気が なくても、気付けば集中がとぎれている事がままある。それを防ぐ ためには、常に動き続けることが有効だ。 かくらん へき クラウズェアのフットワークは非常に優美であった。タイタスを がん まど し 攪乱する目的で繰り返されるステップインとステップバックは、碧 くも すべ 眼を惑わせるのに役立っていたし、身長の実に半分を占める脚線か ら生み出される足捌きは、さながら足の長い蜘蛛が滑るように動く 様を思い起こさせ、端から見る者があったら感嘆の溜息を吐かせた ことだろう。 まばた クラウズェアの動きに、タイタスが不機嫌そうに顔をゆがめた。 そして、一瞬の瞬き。 溜まった 足のバネを使い、 その隙を見逃すクラウズェアではなかった。上下のリズムに紛れ 込ませた動きに乗り、腰を落として 驚くべき速さと距離を生み出す。そして、軽やかな突き。 さきほどよりもほんの少し遅れて、タイタスが剣を振り下ろす。 とはいえ、速い。なんとかクラウズェアの突きに間に合うタイミン グ。驚嘆に値する。 だが、これはクラウズェアのフェイントだった。 素早く前足の踵で地を蹴りながら剣を引き、黄金の軌跡が通り過 ぜつみよう ぎた空間を、瞬時に切り替えたステップインに乗せて再度レイピア を突き込む。 ︵次こそ︶ じょう き いっ そう、思わずにいられない、絶妙の二段突きだった。 だが。 だがなんと、常軌を逸した速度で、タイタスの剣が戻ってきたの 122 だ。 振り下ろした武器を、振った時と同じ速度で振り上げようと思え ば、振り下ろした時に使われたものより圧倒的な力が必要になる。 それは、片手から両手に持ち替えたとしても追い付くものではない。 だが、タイタスは左手を足しただけで、それをやってのけたのだ。 全力を使って という事になる。手加減をしていたのだ。 それはつまり、彼がまだ片手で剣を振っていた時、 いなかった この振り上げに巻き込まれれば、レイピアは折られてしまうだろ う。 ︵間に合わない︶ 絶望的なイメージを振り切るように体を動かしたクラウズェアが、 ま さつ よう 前足の踵で地を蹴ってステップバックしようとした時だった。 草と足との接触面が、摩擦を生み出してくれなかった。要は足を 滑らせてしまった訳だが、これが良い方向に事を運んだ。 まぬが 後ろに転ぶ勢いで、右手もレイピアも高速で後ろに引かれ、クレ イヴ・ソリッシュの斬撃から免れたのだ。転んだ勢いを殺さずに後 転し、間合いから離れるクラウズェア。それを、タイタスは追撃し なかった。 ﹁よく動く﹂ 背にびっしょりとかいた冷や汗と跳ね上がった心拍数を静めるた め、構えたまま息を整えているクラウズェアに対し、タイタスは不 機嫌そうに低い声を漏らす。だが次には、口角をつり上げる独特の 笑いを浮かべた。 経歴に箔をつける はく ための名誉職だと思ってい ﹁さすがは俺の許嫁殿と言ったところか。強者に相応しい女だ。神 殿騎士など所詮は たのだがな﹂ ますます口角がつり上がる。 ﹁赤い髪はあまり縁起が良くないと言う輩も居るが、俺は気にしな 体をいじる 術を持った共鳴術師が居 い。だが、女の髪は長くあるものだし、男のために着飾るべきだ。 勿体ない姿だ。俺の配下に 123 ぜいたく る。そいつに命じて髪を戻させてやろう。それから、これまでより せん も贅沢をさせてやろう。俺の持つ財と勢いに、ノーザンコースト伯 けん めい ぶ べつ 爵家の家名が加わる事は、両家にとって利が大きい。お父上には先 見の明がおありだ﹂ こん ぎ 愉快そうに笑うタイタスに、息が整ってきたクラウズェアが侮蔑 の笑みで返した。 ﹁よく喋る男だ。それに、名門の家名欲しさに婚儀とは、なんと器 ひとすじ の小さい奴だ。そんな、女を物扱いするような下郎なんぞに、この 髪の一筋たりともくれてやるものか﹂ この言葉に、タイタスのこめかみに青筋が浮かぶ。 ﹁婚約者と思い情を掛けてやれば、図に乗ってくれる。さっきので 実力差を思い知ったと思ったが、少々頭の足りん女のようだな。さ ふっとう すが︿色なし王子﹀の監視役にされるだけの事はある﹂ ﹁貴様!﹂ クラウズェアの頭が瞬時に沸騰した。 ﹁殿下を悪く言う事は決して許さん! 殿下の御前で、地に這いつ くばらせてやる﹂ 柄を砕かんばかりに握り込んだレイピアをタイタスに向け、温度 の高い炎のような緑の目で睨み付けるクラウズェア。それに、ハッ ハと高笑いで返すタイタス。 ﹁お前が? この俺を? 這いつくばらせるだって? できもしな い大言を吐く前に、この剣をよく見てみろ!﹂ 掲げられた黄金剣の柄頭には、黄色の宝石が鈍く光っていた。 さい かしょう ﹁これが何か解るか? ︿石﹀の使えんお前には解らんだろうな。 教えてやる、︿彩化晶﹀だ﹂ タイタスの言葉に、クラウズェアの目が見開かれた。巨大な剣を しよう こ 軽々と振り回すタイタスの身体能力に、まさかと思ってはいたのだ。 だが、こうして証拠を突きつけられると、ショックが大きかった。 ﹁石の使えんお前には、俺には絶対に勝てん。思い知らせてやろう﹂ 言うやいなや、タイタスは剣を両手で右肩に担いだまま、真っ直 124 レゾナンス リズム ぐ突っ込んできた。そのスピードは、重装とは思えぬほどのものだ チューニング った。 ハルモニア ︿調律歌﹀を必要としない︿共鳴術﹀が働き、タイタスの︿律動 ﹀と黄色の︿彩化晶﹀の︿律動﹀が一致する。その力は、金属の塊 で身を包み込んだ巨体を、軽々と駆けさせる。 ごうそく 距離を詰めるのは、一瞬で事足りた。 間合いに入った瞬間、豪速の剣が振り下ろされる。金色の軌道を からくも避けるクラウズェアだったが、もはや、剣をかいくぐって 突き込もうなどと女騎士に思わせる隙はなかった。 振り下ろして振り上げる。そんな単純な動きに、何もできずに下 レイピア がるだけのクラウズェアは、圧倒的なスピードとパワーの前に、一 方的な後退を強いられるのみ。 勝負は決している。あとは時間の問題だ。 そして、その時間はすぐに訪れた。 ﹁くっ?﹂ タイタスの猛攻を躱しきれず、クラウズェアは思わず細剣で受け てしまった。折られた剣は彼方に飛び、柄も握っていられずに手か ら弾かれた。指や手首が折れなかったのは、不幸中の幸いだ。 クレイヴ・ソリッシユ ﹁勝負あったな﹂ ヘレディタリー エクワイアード 光の剣の切っ先が、クラウズェアの喉元に突きつけられた。 ﹁︿先天共鳴者﹀どころか︿後天共鳴者﹀ですらないお前には、万 に一つでも勝ち目は無い。現実を受け容れろ。そして、俺の物にな れ﹂ 勝利者の無慈悲な言葉が、剣以上の鋭利さで女騎士へと突き付け られたのだった。 125 三章⑤﹃瞳の放つもの。瞳から零れるもの。﹄ 時間は少しさかのぼり、もう一方の戦場。 固める ことができる ﹁で? 具体的にはどうするつもりなんですかい?﹂ ﹁うん。たぶんだけれど、モリオンは敵を みたい。そういうイメージが伝わってくるよ﹂ アルテミシアに向かって、三方から悠然と歩み寄ってくる兵士達。 げ び 誰も、剣を抜いている者は居ない。抜く必要が無いからだ。皆いち ように、下卑た笑みを浮かべて向かってくる。 だが。 や と アルテミシアが兵士達に向かって︽視線︾を向けた時。彼らの三 分の二ほどが前進を止めた。いや、止められていた。 ﹁足が動かねぇ!﹂ ﹁なんだこりゃっ?﹂ かせ 口々にあがる混乱の声。彼らには見えないが、アルテミシアには その原因が見えていた。 銀の霧と空気が混ざった物が、兵士達の足に絡みついて、枷のよ を真似ているの あまね と、辺りは一面、至る所に︿銀 それ うになっているのだ。以前、風の︽槍︾の共鳴術で起こっていた現 よく見る 象と似ていた。そもそも、アルテミシアは だ。 モリオンに促されて あ の霧﹀が存在していることに、アルテミシアは気がついたのだ。遍 く在るそれに︽視線︾を向けながらイメージをすると、アルテミシ 固めて いるのだ。 アの意思に反応して動いてくれる。そうして空気と混ぜた銀の霧を 兵士達の足の周りで その、アルテミシアが言った﹃固める﹄という事が、二〇人ほど の兵士達の間で起こっていた。 だが、まだ動ける者も居る。これは、アルテミシアの視野の範囲 126 かんしよう に関係するからだ。見えていないものへの干渉はできないらしく、 三方全てに同時に︽視線︾が向けられないが故の限界だった。 ﹁ほうほう。よく解りやせんが、あっしも少しはお役に立つとしや しょうかね。姐さんに﹃ごくつぶし﹄やら﹃ドングリ以下﹄やら言 われるのは勘弁ですし﹂ しゅう もく そう、アルテミシアの影の中から話していたジャックは、ひらひ らと立ち上がって衆目にその姿をさらしたのだった。 ﹁なっ、なんだあれはっ?﹂ その姿にいち早く気付いた誰かが、恐怖の叫びを上げる。 ﹁︿魔物﹀なのかっ?﹂ ひる ひ なか 誰かが続いて叫んだ。 ﹁魔物なんて、昼日中にうろつくもんなのかっ? 山奥や墓場じゃ ないんだぞっ?﹂ でん ぱ ﹁じゃあ、アレはなんなんだよ! 魔術かっ? 色なし王子の呪い かっ?﹂ 恐慌が他の者へ伝播して行き、いつの間にか誰一人として前進す る者は居なくなっていた。 ﹁みんなの視線が痛いでやんすね。近くに来たら握手ぐらいしてや ってもいいのに﹂ ジャックの愉快そうな軽口が、︽視線︾に集中するアルテミシア し の耳に届いた。赤い唇が微かに緩められる。 そ この︽視線︾の維持にはかなりの集中が強いられる。それは、慣 れないアルテミシアの精神力を削いでいた。額には汗が浮かぶ。 ﹁射ろっ、矢を射掛けろ!﹂ その叫び声に従い、背負っていた弓矢を構える兵士が五人。長剣 をただ振り回す事に比べれば、弓の技術は習得に時間がかかる。三 〇人中五人いれば良い方だろう。 だが、それも無駄となった。アルテミシアが新たに枷の数を増や し、射手の腕を固めたからだ。幸いなことに、既に視線を向けてい た視野内に五人全てが居た。 127 ﹁弓が引けねぇ! 助けてくれ!﹂ かたど 新たに生じた悲鳴に、兵士団はいよいよ混乱の様相を増していっ た。その時だった。 自分が操る銀の霧とは別に、空中に集まる霧が︽槍︾の姿を象る パーティー のを、アルテミシアの赤い目が見つけたのは。 たぎ オレンジ その︽槍︾の下には、ヨドーク一味に居た共鳴術師ノーマンが、 復讐に心を滾らせながら、橙の目でアルテミシアを見据えていた。 メロディー すきま風にも似た高音。口からは︿調律歌﹀が紡がれている。言葉 を伴わないその旋律が掌中の青い︿彩化晶﹀に捧げられ、︽槍︾が 放たれる︱︱はずだった。 だが、待てども憎き標的の体に風穴が空く事はなかった。 ﹁何故だっ?﹂ はんちゆう ノーマンは叫んだ。そして、あの時もそうだったと、訝しんだ。 あの、人の範疇を超えた美しさを持つ︿色なし王子﹀とやらは、確 を、あの赤い目 かにノーマンの共鳴術を見破っていたのだ。いま子爵と戦っている 何か 男装の麗人に、﹃避けろ﹄と助言をしていた。 共鳴術師であるノーマンにすら見えない で見ているのだ。見破るだけでなく、どうやってか彼の風の共鳴術 を不発に終わらせている。その推測に至った時、彼は恐怖よりもな お一層の怒りと憎しみを燃え上がらせた。 よど ﹁殺してやる﹂ だいだい 低く淀んだ声で呟いたノーマンは、青い︿彩化晶﹀を懐にしまい 込み、代わりに橙の︿彩化晶﹀を取り出した。青い物より少しだけ 大きく、輝きも強い。 ノーマンの奥の手だ。 青い石より扱いが難しく、より一層の集中と時間を必要とするが、 やる のだ。 当てる のだ。 殺す のだ。もう、 威力は段違いだ。これも不発に終わるかも、などと共鳴術師は思わ なかった。 正常な判断などできていなかった。ただ、傷付けられたプライドを 128 おも ていたら、 回復させる。たかがその程度の事を、ただそれだけの事だけを、念 っていた。 固め 一方、アルテミシアは激しい頭痛に襲われていた。 ︽槍︾の形の銀霧を、それ以上動かないように 干渉する力がなくなったのでこちらも固めるのを止めた。霧は勝手 に散ってしまった。後もう少し敵が頑張っていたら、固め続けてい られずに︽槍︾が飛んできていた事だろう。アルテミシアにはクラ ウズェアのようなフットワークはできない。放たれていたらと思う と、ぞっとする。 だが、もう限界が来たようだ。 両目から涙をこぼし、苦痛に歪んだ顔を手で覆って、それきり、 アルテミシアは歯を食いしばって耐えている。 ﹁シア嬢ちゃん?﹂ ジャックの声にも反応できず、胸中のモリオンが心配そうにぐる メ ぐる回っているのにだけ︻だいじょうぶ︼︻モリオンは良い子︼と いう思考を返せただけだった。 やがて、恐ろしい事が起こった。 ロディー アルテミシアでなくとも見える︽炎の塊︾が、兵士団の上空、唸 り声を上げるノーマンの頭上二〇mに出現したのだ。直径は三mほ どもある。 まるで現実感がない。金の太陽と白い雲が浮かぶ青空。緑の草原 を彩る花々。春の兆しを運ぶ涼やかな風が舞う中、一点だけ、恐ろ しい業火が熱を発生させている。人を殺せる熱を、だ。 ﹁ヤバい、ヤバいって! あれマジでヤバい! 逃げやしょう、シ ア嬢ちゃん! お嬢ちゃんっ?﹂ け む ジャックの切迫した声にも、アルテミシアは反応しない。微かな うめき声を漏らしながら、浅い呼吸を繰り返すのみ。 か ﹁クソ! シア嬢ちゃんっ、嬢ちゃんっ? シア!﹂ そのジャックの叫びを掻き消さんとするように、︽炎の塊︾は無 129 じ ひ 慈悲にも撃ち出された。 速い。 きゃしゃ みるみるうちに迫った︽炎の塊︾は、小さなアルテミシアを、ご うっ、と飲み込んでしまった。少年の華奢な体がオレンジに消える 直前、彼に飛びついた人影と、その後に上空に打ち上げられた黒い 塊とがあったが、誰も目に追えなかった。 地獄は一瞬で終わった。 そのまま爆発するなり燃え広がるなりするだろうと思われた︽炎 の塊︾は、あっけなく消え去った。そして、その炎の中心に焼死体 しゅん びん ひと ゆ などはなく、代わりに、白い髪をなびかせた黒い顔の異形が、猫の ように俊敏に、幽霊のように一揺れもせず、駆け去って行くのが見 えた。 異形が向かう先は、子爵と女騎士の戦場だった。 ﹁騒がしい﹂ タイタスは不機嫌そうに呟いた。 ないがし 部下には﹃好きにしろ﹄とは言ったが、盛り上がりすぎだと思っ た。自分が蔑ろにされている気分だった。調子に乗りすぎだ。後で 罰を与えるべきだろうと思った。指揮系統の乱れを、タイタスは嫌 った。正確に言えば、彼の気を害する物が、彼にとって許せないだ けだ。 それはさておき。 タイタスの眼前には、レイピアを折られ、何も握らぬ手を呆然と ひざまず ゆる こ 見つめるクラウズェアの姿があった。その哀れを誘う姿は、タイタ スの心を満ち足りさせた。 ﹁さあ、勝負はついた。降参しろ。地に跪き許しを請うなら、愛す る婚約者殿だ、手荒にはすまい﹂ この言葉に、怒りで動揺を押し返したクラウズェアが、顔を上げ た。 ﹁死んでもご免だ﹂ 130 ﹁そうか。お前のお荷物は向こうで部下達に可愛がられているんだ ろうが、まだ死んでなかったら助けてやってもいいんだがなぁ?﹂ 口角をつり上げて笑うタイタスに、クラウズェアがはっとなる。 そうして、アルテミシアがいるであろう方へ目を向けた時。彼女 の視界に、白と黒の異形が飛び込んできた。 ﹁なっ?﹂ 思わず声を上げたクラウズェアに釣られ、タイタスがそちらへ目 を向けた時、彼の間合いへ異形が飛び込もうとしていた。 反応できたのはたいしたものだった。黄色い︿彩化晶﹀の力は、 確かにタイタスの身体能力を底上げしていた。腕が、足が、そして 胴の筋肉が収縮し、盛り上がり、無敵の剛剣クレイヴ・ソリッシュ が振るわれようとした。 だが。 しょう それより速く、滑るように、浮いているかのような身のこなしで 間合いを詰めた異形は、重ね合わせた両の掌でタイタスの金属装甲 の腹部辺りを打った。 驚くべき事に、タイタスの巨体が吹き飛ぶ。 現実味が無かった。クラウズェアは、己が夢でも見ているのかと 思った。 総重量約一七〇㎏が、地面に対して水平に吹き飛び、地に落ちて からも緑の草原を滑っていき、そうしてやっと、一〇mほど向こう で止まった。 タイタスは口から血を吐いており、緑のカーペットに点々と跡を 残している。 ﹁ずらかりやしょう﹂ ジャックの声がした。 アルテミシアと同じく、氷のように白い髪の下、下品な言葉を使 うどこかの影人間みたいなのっぺらぼうの辺りから、ジャックの声 が聞こえた。 ﹁ジャック?﹂ 131 恐る恐るクラウズェアが問うと、 ﹁ええ、ジャックですよ。ドングリじゃありやせんぜ﹂ いつものおどけた声が返ってきた。 ﹁よく解らんが、ジャックなのだな。そんな事よりも、殿下をお助 けせねば!﹂ 腰のダガーを抜いて女騎士が駆け出した時、ジャックの声が止め た。 ﹁シア嬢ちゃんはここです、ほら﹂ く もん ゆが そう言うのっぺらぼうが溶け落ちるようにずれた後から、アルテ ミシアの白い顔が出てきた。その目は閉じられ、顔は苦悶に歪み、 玉の汗をかいている。 ﹁シア!﹂ あら そう叫んで駆け戻るクラウズェア。 おお つ 影が引いて首まで露わになった時、気絶しているアルテミシアの 首が、かくっ、と落ちそうになった。 ﹁おっとっと﹂ 慌てたように、引いていた影が戻り、また白い顔を黒く覆い尽く す。 ﹁なんだ、これは? なにが起こって⋮⋮﹂ こう き 呆然と声を漏らすクラウズェアに、ジャックが急かす。 ﹁話は後ですぜ。今は逃げる好機﹂ ﹁あ、ああ、そうだな。解った。殿下が無事ならそれでいい﹂ 答えた女騎士は一瞬、折られたレイピアが飛ばされた方へ目を向 しゅうちゃく けた。だが、草の生い茂る中か、はたまたまばらに生えた木の陰か、 緑の目に映る物はなかった。 あやま 師の言葉が脳裏によみがえる。 ﹃優先順位を誤るな﹄ その言葉と共に歯を食いしばって執着を振り切った。彼女にとっ て、いつだって一番の大切は決まっていた。 そうして、ジャック=アルテミシアと並んで駆け出し、遠くで草 132 は を食んでいる馬を目指したのだった。 ﹁なんだったんだ、ありゃあ?﹂ ししゃくかっか 兵士の一人が、呆然と呟いた。 へいげい ﹁おい、それより、子爵閣下が倒れてるぞ!﹂ 別の兵士が、泡を食って叫んだ。 その混乱を極める兵士団を天から睥睨する者が在った。 ふく モリオンだ。 モリオンは膨らんでいた。少しだけだが膨らんでいた。アルテミ シアにしか判らないだろうが、怒りで身を膨らませていたのだ。怒 した いじ った猫が尻尾を膨らませるようなものだ。 とも 母親と慕うアルテミシアが、ずいぶん虐められた。許せないと思 った。 だから、その不気味に灯る赤い目を、力ある︽視線︾を、兵士達 に向けた。 ︻イツ、イツ。クツ、クツ︼ 兵士達のがなり合う声が、一瞬で消え失せる。 そこには、ただ、兵士の姿をした石像が三〇ほど、静かに立ち並 んでいるだけだった。その物言わぬ石像も、砂と崩れて地に零れた。 モリオンはそれを見届けると、離れゆくアルテミシアに引かれる すな だ ように、彼の方へ飛んでいった。 後には、一面に広がる砂溜まりと、ノーマンが居た辺りにころり と転がる二つの︿石﹀。それと、倒れ伏したタイタスが取り残され るのみであった。 ふう さ 一行は西に向かった。 南の関所は封鎖される事だろう。北はクラウズェアの父が治める ノーザンコースト伯爵領がある方角だ。顔見知りに会うとも限らな い。そして東は、イーストフットヒル侯爵の治める領地のある方角 133 うわさ だ。侯爵は事実上、今のグリーンウェルを支配しているとの噂もあ る危険人物であり、その侯爵領周辺は、彼の息のかかった貴族で固 ぬ められている。それに比べ西は、権力闘争に興味の無い貴族達が多 く、まだしも隙があるかもしれない。 自然、西へ馬を向かわせる事となった。 そして今は、名も知らぬ山の中。日はすっかり落ち、枝葉を縫っ て差し込む銀の月影だけが、頼りとなる明かりだった。 ﹁まだ痛みますかい?﹂ みき ジャックの声が、アルテミシアの直ぐ側、胸の辺りから聞こえる。 おお 今この場にいるのは、ぐったりと木の幹に背中を預けているアル テミシア。彼の首から下を覆ったままのジャック。そして、アルテ ミシアを見守るモリオンだ。 クラウズェアは、﹃見回りをしてくる﹄と言って、今はこの場に は居ない。 ﹁あの時よりはマシになってるよ﹂ そういうアルテミシアの白い顔は未だに苦痛で歪んでおり、時折 痛みに歯を食いしばっている。ただ、喋る事はできるようだ。 木の葉が風にざわりと鳴る下で、アルテミシアの浅く苦しそうな 呼吸音が続いている。 ﹁実はね、あっしは魔法が使えるんです﹂ 唐突だった。 おごそ ﹁今からシア嬢ちゃんのその頭痛を、得意の魔法で治して差し上げ ますぜ﹂ ジャックが厳かに告げた。 ﹁⋮⋮魔法? ⋮⋮すごいね﹂ ﹁ええ。あっしは凄いんです。いいですかい? あっしの言う事を、 せきばら ようく聞いてください。それで絶対に治りますからね﹂ そう言って、一度咳払いをすると、ジャックの言葉が続いた。 ﹁まず、歯を食いしばったらダメです。口を大きく開けて。そう。 次は閉じて。そうそう。それを三回、繰り返しますよ? 口をパク 134 パク﹂ ゆる ジャックに言われるがまま、少年は口を大きく開いたり閉じたり した。 ﹁はい。そうすると、アゴが緩みました。次に、首を回しますよ? つな まず、首をだらんと前に倒して、力を抜きます。それから、首が 無くなって、頭と胴体が細いヒモ一本きりで繋がっている感じで、 そう、そのまま、大きく首を回します。一回、二回、三回。次は反 対も﹂ 声に合わせ、アルテミシアは素直に従う。 ﹁これで、首と肩が緩みましたよ。ずいぶん柔らかくなりましたね﹂ ジャックの言う通り、本当にアゴから首を伝って肩までが柔らか くなったみたいだと、アルテミシアは思った。 ﹁じゃ、アゴの力をもっと緩めましょう。そうすると、アゴが勝手 に開いてきます。自分の力で開こうとせんでも、勝手に開きますよ。 ほうら、開いた﹂ アルテミシアの口が、緩やかに開かれる。 ﹁ではでは深呼吸。鼻からユックリ吸ってぇ、口からユックリ吐い てぇ。はい次吸う時、背中から何か上ってきます。その上ってきた のが、首を通り、後頭部から頭の中に入ってきます。そして、吐く 時に、頭の中にあるドロドロした悪い物が、押されて口から出てき ますよ。はい、ドロドロ−、出てきました﹂ 本当に何か、吐息より少しだけ重い物が出てきたような、不思議 な感覚だった。 ﹁はい、吸って−。吐いてー。ドロドロー。ドロドロが出て行くと、 痛いのも一緒に出て行きますよ−。出てきましたー。はい、繰り返 してー﹂ やわ アルテミシアは驚いた。本当にジャックの言う通りだったからだ。 吐く度に、頭痛が和らいでいく。 そうやって、しばらくジャックの声と、アルテミシアの深呼吸の 音が続いた。 135 み けん うす そうして時間がたった頃。頭の中全部が痛かったのが、どんどん 痛みが引いていき、やがて眉間の奥だけとなり、ついにはそれも薄 らいでいった。 ﹁すごい﹂ アルテミシアが、感嘆の声を漏らした。もうその顔は苦痛に歪ん ではいない。 ﹁ジャックさんって、魔術師だったんだね﹂ ﹁違いますよ﹂ アルテミシアの言葉は、あっさりと否定された。 き こう ﹁でも、痛くなくなったよ? 魔術じゃないの?﹂ ﹁気功です﹂ ﹁きこう?﹂ ともな 聞いた事の無い言葉に、アルテミシアは不思議がる。 ﹁呼吸とイメージを伴わせた、柔軟体操みたいなもんです﹂ ﹁体操﹂ 体操という言葉は、アルテミシアにも理解できた。 ﹁影の国の魔術体操なんだね﹂ 感心したような言葉に、思わずジャックは吹き出してしまう。 ひよう か ﹁魔術体操っつーか⋮⋮まあ、それでいいです。シア嬢ちゃんは、 面白い子ですねぇ﹂ ジャックの珍しく穏やかな声と、聞き慣れない評価に、アルテミ シアが質問した。 ﹁面白い? ぼく、面白いの?﹂ ﹁ええ、面白い子ですよ。それに良い子だし。あと、かわい子ちゃ んです。あっしは、面白い子も、良い子も、かわい子ちゃんも、み ぃんな好きです﹂ ジャックの楽しそうな声に、アルテミシアは黙った。 う かつ ﹁シアお嬢ちゃん? あ、気ぃ悪くしやしたかね?﹂ 迂闊な事を言ったかとジャックが気を揉んでいると、 ﹁﹃好き﹄って、言われた⋮⋮。誰かに好きって言って貰ったの、 136 生まれて初めてかも﹂ そうぼう 夢を見ているような声だと、ジャックは思った。クラウズェアに しか判らないはずの白い相貌が、微かに嬉しそうに、緩んでいるよ うに見えた。 保護欲 のよう 普段﹃可愛らしい﹄と思っていた別の所で、この盲目の白い子の、 この程度の事で喜んでしまう子供に対し、なにか なものが己の中から湧き上がってくるのを、ジャックは感じた。 ﹁ええ、好きですよ。大好きです﹂ これほどストレートに言葉を発した事は、ジャックにとって初め ての事だったかもしれない。少なくとも、何の飾りも無い、素直な 言葉だった。そして、その言葉によって、劇的な変化が訪れた︱︱ アルテミシアに。 うつむ 白い顔は林檎みたいに真っ赤になり、口許をもごもごさせながら 俯いてしまった。 ﹁﹃好き﹄って言って貰うのって、こんなにも恥ずかしいものなん ささや だね。知らなかった。それに、ジャックさんの声って、なんだか不 思議。うまく言えないけれど、こんなにも近くで囁かれると、さっ きの体操の時みたいに、なんでも言う事を聞いちゃいそう﹂ そう言って微かにはにかむアルテミシアに、今度は保護欲とも違 う欲求に突き動かされたジャックが、すかさず叫んだ。 せいだい はなばな ﹁じゃ、じゃあキスしてっ? ぶっちゅーって! ぶっちゅーって 盛大に、派手に、華々しく! あーっ、でもいま顔が無いっ? っ む く ついば ていうか、顔があっても口はどこに? あっしの口って、いずこに ちんみょう っ? 無垢な小鳥ちゃんを啄む予定の罪作りな口はどこさ行ったー ーー!﹂ 胸元辺りからの珍妙な絶叫に、アルテミシアが考え込んだ。そし て、騒ぎ続けるジャックと自分の身が重なり合っている場所を、そ の感覚を見えぬ目の代わりに探った。 ﹁ジャックさん。首から下は、ぼくたち重なり合ってるの?﹂ ﹁重なり合ってます! どうにかやって唇も重なり合いましょう!﹂ 137 こう ジャックの言葉に満足すると、アルテミシアは己の右手の甲に、 キスを落とした。 ﹁へ?﹂ ジャックの間抜けな声。 い ﹁キスって、﹃騎士がお姫様の手の甲にするものだ﹄って、ローズ が云ってたよ。ぼくは騎士ではないから、きちんとしたキスはでき ないけれど。ごめんね?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ダメだった? 失敗した?﹂ アルテミシアの不安そうな声に、ジャックが答えた。 ﹁いいえ。満足ですよ。シア殿下のキスを頂戴しました﹂ 照れ臭そうな声だった。 ﹁今この時から、右手は決して洗わないと誓います﹂ ﹁それ以前に、洗えるの?﹂ この言葉に、﹁こりゃ一本取られたわい﹂とジャックが笑い、ア ルテミシアも微かに笑った。 ﹁ねぇジャックさん。ぼく、ローズを探してくるよ﹂ もうすっかり良くなった少年は、そう告げて立ち上がった。大切 な幼なじみの事が気がかりだったのだ。 ﹁ええ、そうですね。それが良いでしょう。⋮⋮あっしは影に潜っ てやすから、何かあればいつでも呼んで下さい。そうでなくたって、 お嬢ちゃんのピンチには飛び出しますがね﹂ ﹁うん。ありがとう﹂ この、心強い影人間の言葉に、もう一度アルテミシアは微笑んだ のだった。 ﹁見つけた﹂ 彼女が声に驚いて振り返ると、黒髪赤目のアルテミシアが立って いた。近寄る音に気付かなかった事を、クラウズェアは恥じた。 138 よろ ﹁もう、お加減は宜しいのですか?﹂ 主が苦しんでいる時に、見回りを理由にして側を離れていた事に 負い目のある女騎士は、赤い目と視線を合わせられないでいる。い つだって相手の目を見て話す、生真面目で真っ直ぐなクラウズェア らしくない態度だった。 ﹁ジャックさんのおかげで治ったんだよ﹂ そのジャックは、今はアルテミシアの影の中に引っ込んでいる。 ﹁そうですか。⋮⋮あいつは役に立つ奴ですね﹂ それに比べて、という言葉はなんとか口から出さず、クラウズェ アは口許をゆがめた。 ﹁うん。凄く助けられたよ﹂ アルテミシアの素直な言葉が、生真面目な女騎士を追い詰める。 そして、 げきこう ﹁ローズにも助けられたね。お礼を言おうと思って。ありがとう﹂ この言葉が、クラウズェアを激昂させた。 ﹁助けるですって? ありがとう? わたしが何をしたというので すっ? 何ができましたかっ?﹂ 知らず、握り締めていた右手を胸に当て、二つの感触がよみがえ るのを、歯を食いしばって耐えた。 一つは、レイピアの折られる感触。尊敬する師フィデリオから頂 戴した、特別な剣だった。苦しい時も、悲しい時も、歯を食いしば って耐えた時も、そして嬉しい時も。毎日、剣の稽古に使った物だ。 思い出が詰まっていた。そして、アルテミシアを守るはずだった剣 だ。石の使えない少女にとって、たった一つの武器だった。 もう一つの感触は⋮⋮。 固く握り込みすぎて白くなってしまった拳を、アルテミシアの白 い手がそっと包んだ。 ﹁殿下?﹂ 触れた手の温かさと柔らかさに驚き、そしてそれ以外の理由から も手を引っ込めようとしたその動きは、思わぬ抵抗に遭う事となっ 139 た。 ﹁ダメ﹂ アルテミシアの静かな声が止めた。赤い目が、しっかりと緑の目 をとらえている。彼女は、目をそらしたかったのにそらせないでい た。 ﹁ねえ、手を開いて?﹂ 少年の言葉に、クラウズェアはかぶりを振った。だが、今まで目 が見えていなかったアルテミシアには、その身振りの意味が解らな い。 ﹁どうしたの? お願い。手を開いて﹂ なおも言葉を重ねられて、主の言にしぶしぶと従う女騎士。 あて その、硬くざらついた掌を、人を殺した手を、アルテミシアは自 分の頬に宛がった。 ﹁あ、ダメ!﹂ 思わず手を引いたその動きに合わせ、アルテミシアが前に出る形 となる。 手は頬に宛がわれたままだ。 ﹁いつも、ぼくを守ってくれる手だね﹂ 少年の静かな言葉に、何故だかクラウズェアの頬を涙が伝った。 ﹁守れてない。守れなかった﹂ なんて弱々しい声だろうと、アルテミシアは思った。だから彼は、 なおも言葉を重ねた。 がぼくを守ってくれたんだ。ぼくは、 この手 が大好き ﹁ううん。今までも守ってくれたし、今日も守ってくれたよ? この手 なんだ。ありがとう、ローズ﹂ 心 が逃げ場を失い、とても沢山の涙を流させ この言葉はひどく少女を追い詰めたようで、いつだって真っ直ぐ に進む彼女と同じ た。 ずっと我慢してきたクラウズェアは、もう立っていられなくなり、 その場にくずおれるように膝を突き、アルテミシアの腰にしがみつ 140 いて泣きじゃくり始めた。 アルテミシアの目は、姿勢の低くなった幼なじみを見下ろしてい る。自分より年上で、自分よりも背の高い、自分より頼りになり、 自分の何百倍も強い少女。強すぎて、大切な髪まで切らせてしまっ た。 ﹁ローズ、ありがとう﹂ そう言って短い髪を撫でる度に、クラウズェアは大声で泣いてし まう。他人のために泣く事はあっても、自分のためには決して泣か なかった、強くて優しい女の子。 彼女が自分を守ってくれるように、自分もこの大切な幼なじみを 守っていこうと、アルテミシアは誓うのだった。 ﹁色なし王子が生きていただとっ?﹂ 豪華な調度品が置かれた部屋に、甲高い声が響き渡った。 ﹁声が大きいのでは? 誰に聞かれているやら﹂ ﹁うるさい!﹂ フィデリオの冷静な声に、ただでさえ沸点の低いオズワルドはま すます声を荒げてしまう。酒によるものとは違う、怒りにより赤黒 く変色した顔が、醜さを生み出していた。 椅子を蹴立てて立ち上がり、倒れた赤ワインがテーブルクロスに 染みをつくるのも構わず、広い部屋を行ったり来たりし始める。 くみ まるで人間の住処に迷い込んだ豚だと、フィデリオは内心で思っ た。だが、その豚に与しているのも自分だと、皮肉げな笑みを浮か べる。 ﹁何がおかしいっ?﹂ ﹁いえ、閣下のお役に立てぬ我が身を恥じていたところです﹂ フィデリオの言葉に何か言い返そうとしたようだったが、別の事 に思考が割かれているオズワルドは、また行ったり来たりを繰り返 141 し始めた。 そして、目に映ったガラス窓に拳を打ち付けようと振り上げ、だ がその高価さを思い出した頭は別の命令を下し、壁に拳を打ち付け させた。 つば ごんっ、という鈍い音と、オズワルドの苦悶の声が部屋に響く。 ﹁拳を鍛えるおつもりで?﹂ は ﹁う、うるさい!﹂ 腫れた拳を抱え込みながら、怒れる侯爵は唾を飛ばしてわめき散 らす。 ﹁ええいっ、忌々しい! 何もかも自由にならん! 王太子は仕損 じ、第二王子には逃げられ、この国の連中は無能ばかりかっ? 地 かがや 鎮の儀を執り行った兵士達は処刑だ! 皆殺しだ! そもそも、何 故天恵の儀が失敗した? 確かに太陽は赤く赫いたというのに。︿ 影の英雄﹀が呼び出されるはずではなかったのかっ?﹂ ﹁王太子殿下暗殺には、もっと金を掛けて腕利きの暗殺者を雇うか、 または侯爵閣下の護衛から人員を割いて多くを動員して成すべきで した。それから、地鎮の儀の任に着いた兵士一〇名は、すでに処刑 済みです。口封じのためにと、閣下自らご命令されたではありませ んか﹂ ﹁ええいっ、うるさい!﹂ ﹁そしてまさにその︿赤陽地鎮の儀﹀についてですが、やはりもっ とよく文献をお調べになって、慎重に事に当たるべきだったと思い 、、 ます﹂ ﹁黙れと言っている!﹂ その侯爵の命令で、フィデリオはもう何も口にしなかった。ただ、 一人で騒いでいる侯爵を尻目に、彼は弟子に思いをはせた。 クラウズェアはアルテミシア王子を連れて、上手く逃げる事がで きたようだ。この先どうなるかは判らないが、どうかこのまま逃げ たいかんしき 切って欲しいと、剣の師匠は思った。 ﹁女王陛下をお連れしろ。︿戴冠式﹀をできうる限り速やかに行う 142 のだ。王太子が戻ってくる前に、絶対にその前にだ! それと、ミ ッドノール子爵もだ。奴にはせいぜい働いて貰わねばならんという のに。あの馬鹿、大事な兵士に逃げられおって! これだから生ま れの悪い者はっ⋮⋮無い人望を補うための婚約者だというのにっ、 そのお転婆にまで逃げられるとは! つくづく愚かしい!﹂ テーブルクロスを引っ張って食器をなぎ倒し始めたオズワルドに 一礼すると、フィデリオは速やかに退室した。命令は出たのだ。一 刻も早く部屋から出たかった。同じ空気を吸っていたくなかったの だ。 143 四章①﹃猫妖精の姫君﹄ 四章 クラウズェアは、意を決して声を振り絞った。 ﹁モリオン、話がある。殿下の御身から出てきてはくれぬだろうか ?﹂ はいりょ 声が小さいのは、まだ眠っているアルテミシアを起こさないよう にとの配慮だ。東の空がようやく白み始めたばかりで、辺りはまだ 静寂に包まれている。 それに、聞かれると不味い。 緊張で身を固めているクラウズェアの眼前、木の根元で寝具にく るまっているアルテミシアの、微かに上下する胸の上あたりに、一 mほどの黒い球体が現れた。赤い光が、女騎士を見ているのかどう なのやら。クラウズェアには判別できない。 アルテミシアの髪は、色を吸い取られたように白に戻っている。 ﹁た、助かる﹂ 声が震えないように下腹に力を入れながら、クラウズェアは切り 出した。 ﹁この度はアルテミシア殿下を救って貰ったと聞いている。助かっ た。礼を言わせて貰う。また、以前共鳴術師に襲われた際も殿下に お助け頂いたが、それはお前の助力あっての事と聞いてもいる。重 ねて礼を述べさせて貰う。ありがとう⋮⋮モリオン﹂ そう言ってクラウズェアは、ふかぶかと頭を下げた。そして、頭 を下げたまま、言葉を続けた。 ﹁わたしはお前を誤解していたようだ。いや、誤解と言うと言葉を ごまかしているな。わたしは、お前を警戒していた。恐れていた。 殿下に害する存在やもしれぬと、常に心を許さなかった﹂ 144 した そこで、いったん言葉が切られた。 こ たび ﹁だが、お前は殿下を素直に慕い、そのぅ、母親のように想ってい るとか。此度のように助けてもくれる﹂ 赤毛の頭が上がった。 ﹁何より、お前は殿下に視力を与えてくれた。あの子を闇の世界か ら救い出してくれたのは、モリオン、お前だ。お前のおかげだ。お あ 前はどんな薬師や呪い師もできなかった事をやってくれた。神です らできなかった事をだ。いや、毎晩あの子の目が明くようにと祈り を捧げていたのだが、お前が聞き届けてくれたのか? 無学な私に は解らないが、だが、これだけは言わせて貰う。ありがとう﹂ 緑の目が、しっかりと赤い光を見た。いつも通りの真っ直ぐな目 だ。 はず モリオンはふわりともせずに浮いていたのだが、やがて上下に動 き始めた。まるで、空中にある見えない地面で弾んでいるかのよう。 アルテミシアが居れば﹃嬉しそう﹄と評する動きだった。 だが、クラウズェアには判らない。しかし、一瞬だけびくりと肩 を振るわせたものの、短剣を抜くでも後ずさるでもなく、モリオン をじっと見た。 モリオンは、アルテミシアの上から離れ、クラウズェアの周りを 回り始めた。そうして一周した後、赤い光をちかちかと瞬かせて、 小石が湖に落ちるように、アルテミシアの中に消えていった。少年 の髪も黒く色づく。 ﹁いやぁ、いいもん見させて貰いやした﹂ そう言ってモリオンと入れ替わるように出てきたのは、影人間の ジャックだった。 ﹁良かったのやら、わたしにはよく判らないが⋮⋮それより、お前 にも大変な世話になった。アルテミシア殿下の事、また、ゴードン を打ち倒してくれた事、本当に助かった。礼を言う、ありがとう﹂ やはり深々と頭を下げる女騎士に、ひらひらと手を振ってみせる ジャック。 145 ﹁よして下さいよぅ。あっしは 誓い を守っただけですぜ? あ っしは約束は守るんです。それに、あっしらは仲間でしょう? 旅 の仲間は助け合わなくっちゃあ﹂ 目があったらウィンクでもしていそうな茶目っ気のある言葉に、 クラウズェアの口許がほころんだ。 ﹁仲間か。そうだな﹂ ﹁そうですとも。ですからね、シアお嬢ちゃんの事はあっしに全て お任せなすったらそれで良いんです﹂ ﹁待て。意味が解らん﹂ 雲行きが少し怪しくなってきた。 ﹁シアお嬢ちゃんとあっしはね、すでに身と身を重ね合わせた深ー い仲なんです。ジャック感激!﹂ ﹁待てっ、それはどういう意味だっ? だいたいお前、﹃お嬢ちゃ ん﹄と言っているが、殿下はああ見えて立派な男子だぞ?﹂ ﹁可愛けりゃあ、男の子だっていいんです。愛の前には性別なんて 関係ないんです﹂ ﹁いや関係あるだろっ? 不道徳すぎる!﹂ は れん ち ﹁ああ、あの雪原のように清らかな柔肌に、あっしの体が覆い被さ っていく時の背徳感。たまらん﹂ ジュルリと舌舐めずりのような音が聞こえた。 なお ﹁こ、こ、このっ、この恥知らず! なんてっ、なんて破廉恥なっ ? そこへ直れっ、手打ちにしてくれる!﹂ 穏やかな朝日と鳥たちの鳴き声に包まれた中、二人の喧噪は眠れ る王子を起こすまで続いた。 ﹁殿下、ご機嫌がお宜しいようで﹂ ﹁殿下じゃなくて、シア﹂ ﹁うぅっ、ですが﹂ ﹁もう一回、最初から﹂ 146 赤い目に促されて、女騎士はやり直した。 ﹁シア、楽しそうね?﹂ と しぶしぶといったクラウズェアの言葉に、アルテミシアは満足し た。 朝食を摂った一行は、木々の生える山中を歩いていた。昨日の戦 いがまるで夢だったような、穏やかな雰囲気。春の空気に芽吹く新 芽と咲く花々。ゆっくりはしていられないが、緩やかな傾斜とは言 え障害物の多い場所を馬で走らせて怪我でもさせたら元も子もない。 つ 馬の手綱はクラウズェアが引いて、アルテミシアはときおりジャッ クの声に従って木の実などを摘んでいた。 ﹁うん、楽しいよ。今朝起きた時からずっと、楽しいんだ。楽しい というか、嬉しい? ぼくが、というより、モリオンが嬉しそうな んだけれど。︻モリオン、良い事あったんだね? 良かったね︼﹂ そうごう 起伏に乏しいが確かに弾んだ声で、アルテミシアが胸の内に語り かける。その言葉を聞いて、クラウズェアも相好を崩した。彼女の 言葉は、きちんと伝わっていたのだ。 ﹁嬉しそうなシア嬢ちゃんも可愛い﹂ グヘヘェという薄気味の悪い声さえ聞こえてこなければ、赤毛の 少女もずっと幸せな気分でいられたろうに。 は れん ち せっそう クラウズェアは、信頼できる仲間を得た代わりに、また別の問題 げ れつ が発生している事を忌々しく思った。 ﹁よもや、このように下劣で不道徳で破廉恥で節操なしの、チーズ お ぶつ まぎ こ を作り損ねて腐らせてしまった上にハエもたからぬほどに変質した 汚物が、旅の連れに紛れ込んでいようとは﹂ そなた この痛烈な言葉にこたえた様子も無いジャックは、どうやってか 口笛を吹いている。 う いざな アムリタ ﹁おお、アルテミシア。美しき人よ。其方は月の女神の生まれ変わ り。甘き声は花の蜜の如く、愛に飢えた旅人を誘い、禁断の甘露を 分け与える。あっしはそれで滅ぶ事の無い永遠の愛を味わい、人の 知恵を捨て獣に還る。おお、アルテミシア。可憐な人よ。其方は︱ 147 ︱﹂ ﹁やかましい!﹂ みみざわ とどろ 森の中に、怒れる女騎士の声が轟いた。 ﹁そのくだらない、耳障りな呪文をやめろ!﹂ ﹁呪文たぁ失礼な。詩ですよ。お嬢ちゃんに捧げる愛の詩。昨晩、 寝ずに考えたんですぜ? 五番まで﹂ ﹁知るか! とにかく黙っていろ﹂ ﹁ねえ、何の話? 歌なら聴かせてよ? 影の国の歌を聴いてみた いから﹂ モリオンとの会話を終えたアルテミシアが、楽しそうな話題だと 勘違いして、ジャックに話しかけてきた。 ﹁よござんす。おお、アルテミシア﹂ ﹁シアの名前を軽々しく呼ぶな! 汚れる!﹂ ﹁何をそんなに怒っているの、ローズ?﹂ ﹁シア、よく聞いて。このジャックはね、魔物の皮を被った変質者 さら なの。危険人物なの。汚物の中の汚物なの。破廉恥の国からシアを 掠いにやって来た、不道徳の申し子なのよ!﹂ ﹁影の国改め、破廉恥の国からやってきたジャックです。好きな言 さつりく 葉はアルテミシア。好物はアルテミシア。将来の夢はアルテミシア と結婚する事です。今後ともヨロピク﹂ せ と ぎわ ジャックのふざけた自己紹介が、怒れる女騎士を殺戮の女神に変 きぬ えるか、はたまた額の血管を切れさせるかという瀬戸際に迫った時 だった。 にゃあぁぁぁっ、という、絹を切り裂く女性の悲鳴のような、も しくは猫の鳴き声のような、どちらとも取れる大声がこだました。 ﹁なんです? ありゃあ﹂ ﹁ぼく知ってるよ。猫の鳴き声だよ﹂ ﹁猫、なのでしょうか?﹂ 三人と馬一頭が森の中で立ち止まっていると、そちらの方へどん どん物音が近づいてくるようだった。 148 ﹁猫はまだ見た事がないから、楽しみだなぁ。たくさん足音がする よ?﹂ ﹁これって、ヤバかったりしません?﹂ ﹁逃げましょう﹂ クラウズェアが守るべき主の手を引いて駆け出そうとした時、木 々の間から飛び出して来るものがあった。 それは、大きな猫だった。四歳くらいの子供ほどもある大きさで あったが、その大きさよりも注目すべきは、その猫が服を着ていた 事だろう。四つ足のまま、女児が着るようなワンピースを着ている。 その猫は人間を見てびっくりしたらしく、一瞬どうしようか迷った が、そのまま近くの木に登ってしまった。 その直後、今度は猫が走ってきた方角から、人型の影が飛び出し てきた。 五体。大きさは人くらい。毛むくじゃらの体に皮でできた服のよ るいじんえん うなボロを巻いている。手には棍棒。筋肉質で、力は強そうだ。 げんじん ﹁類人猿⋮⋮じゃあない。ゴリラやオランウータンにゃあ見えねぇ バグベア し。原人?﹂ すで ﹁山鬼だ、恐らくは﹂ のん き 既にダガーを抜いているクラウズェアが、緊迫した声で答えた。 ﹁バグベア、ってなんですかい?﹂ 猿にも似たバグベアの顔を見ながら、ジャックが暢気に質問した。 ﹁山に住む妖精の一種だ﹂ ﹁妖精っ? あれが?﹂ ﹁妖精であり、魔物だ。詳しくは知らん。学者ではないのだ﹂ ﹁狂暴なんですかい?﹂ ﹁伝承では人を襲って食うと聞く。そもそも、魔物とは人を襲って 食うものだ﹂ ﹁あっしもモリオンも人は食ってやせんが⋮⋮ともあれ、こりゃあ メタモルフォーゼ あっしらの出番ですぜ。シア嬢ちゃん、合体ですっ、融合ですっ、 肌と肌の重なり合いですっ、いざっ、愛の変身!﹂ 149 せいはい ﹁き、貴様ぁ! モリオンは違うが、貴様はっ、貴様だけは魔物だ ! バグベアより先に成敗してくれる!﹂ そうやって二人が騒いでいる頃、アルテミシアはバグベア五体と 見つめ合っていた。向こうも、現れた当初は興奮していたようだっ たが、今ではじっとアルテミシアを観察しており、黙って立ってい る。 ﹁どうしたの?﹂ 呼びかけたアルテミシアの声に、ゥオォッゥオォッ、と思ったよ トーク りも高い声が返ってきた。その声に、アルテミシアは目をぱちくり させる。 ﹁家の近くに変な人が居たの?﹂ アルテミシアの声に、またゥオォッという声が上がる。 ﹁まさかとは思いますが、嬢ちゃん? あのお猿さん達とお話しし てやすかい?﹂ ジャックの声に、アルテミシアが肯定の意を返した。 ﹁うん。なんとなくだけれど。⋮⋮そっかぁ、子供が怖がるから、 追い払ってきたんだ﹂ 乏しい表情にクラウズェアだけが判る納得顔を浮かべた少年に、 そのクラウズェアがダガーをもてあましたまま尋ねた。 ﹁シア、大丈夫なの?﹂ ﹁うん。あ、そうだ。これあげる。おうちの人たちと食べてくださ い﹂ ﹁ちょっ、シア?﹂ 摘んだ木の実や野苺の入った小袋を渡そうと、ためらいなくバグ さえぎ ベアに近づこうとしたアルテミシアに、クラウズェアの手が通せん ぼした。 ﹁だめよ、危ないわ﹂ ひそ 視線はバグベアに向けたまま、手と体でアルテミシアを遮る。 あ 女騎士は密かに恐れていた。昨日はなんとかなったが、またいつ 主を危ない目に遭わせるかもしれないと。それに、アルテミシアの 150 てのひら おかげで精神的に持ち直したが、掌に残る二つの感触は、忘れた訳 では無い。 つか そのアルテミシアは、クラウズェアとバグベアを交互に見比べて いたが、やがて、 ﹁投げるね? はい﹂ のぞ 小袋を真ん中のバグベアに放った。飛んできた袋をうまく掴んだ バグベアは、袋の中を覗いた後、人がするみたいに頭を下げた。残 りの四人も頭を下げ、一声オォッと低く鳴くと、もと来た方へ走っ て行ってしまった。 ﹁話が⋮⋮本当に通じてたの? 信じられないけど﹂ ﹁自信は無いけれど、たぶん通じてたよ﹂ クラウズェアの呆然とした声に、未だ通せんぼで横に突き出され たままの腕をそっと手に取り、優しく撫でるアルテミシア。 女騎士は自分の髪と同じくらい顔を赤くして、腕を引っ込めた。 ﹁で? そろそろ降りてきたってよござんしょ?﹂ ジャックが唐突に声を上げた。 その呼びかけに応えるように樹上ががさがさと鳴ったが、やがて、 服を着た猫がするすると降りてきた。 さっきは四つ足だったが、地に降り立った姿は二本足で直立する 猫だ。身長は一mほどで、毛色は焦げ茶、くりくりした目は赤っぽ い銅色で、水色のワンピースとの対比が鮮やかだ。耳をアルテミシ ア達の方へ向け、ヒゲをめいっぱい左右に開いている。緊張してい ケット・シー るのだ。 ﹁猫妖精?﹂ クラウズェアの呟きに、ジャックが反応した。 ﹁また妖精ですかい? まあ、さっきの連中に比べりゃあ、よっぽ どメルヘンチックで妖精の雰囲気を損なっていやせんがね﹂ そうやって会話する二人の事を、前へ向けた耳をぴこぴこさせな フェイ がら聞いていた猫妖精は、可愛らしい牙が並んだ口を開いた。 ﹁そういうそっちは、人間と、魔物と、魔精なのね。なんだか変な 151 組み合わせ﹂ 高く、可愛らしく、伸びる声だった。 ﹁フェイ?﹂ シー フェイ アルテミシアの疑問にクラウズェアが答える。 ﹁魔の法に精通した妖精の事を、とりわけ︿魔精﹀って呼ぶのよ﹂ モリオン ﹁そうなんだ? モリオンの事かな?﹂ カッパー ﹁アンタ、黒水晶って言うの? その毛色なら納得だわ。アタシは ルクルク。銅目族よ。アタシ達、目の色が似てるわね﹂ くりくりした赤銅色の目でアルテミシアの赤い目を見つめながら、 猫妖精は自己紹介をした。少しだけ緊張がほぐれたのか、ヒゲの張 りが心なしか柔らかくなった。 ﹁自己紹介が遅れて申し訳ない。わたしはクロード。そこの魔物は ジャックだ﹂ ﹁ジャックでーす。破廉恥の国からやって来やした﹂ 相手の誤解を幸いと、アルテミシアの名前を教えず、自己紹介を 済ませてしまう女騎士。ジャックの扱いが酷かったが、本人は気に した風は無い。 だが、アルテミシアの方は気になったらしく、じっと緑の目を見 上げて口を開こうとした。 ﹁ダメよ﹂ 先んじて意図をくみ取った女騎士がすかさず却下する。 ﹁まだ何も言ってないよ? どうして解るの? それより、ぼく達 よし な ごと の事情はルクルクさんには関係ないんじゃないかな?﹂ 人間社会の由無し事は猫の世界には関係ないだろうと、訴える黒 髪の少年。決して自分たちの置かれた状況を忘れた訳ではなかった が、関係のなさそうな者にまで嘘を吐きたくなかったのだ。 ﹁もう、本当に困った子ね﹂ かんらく 自分自身ではアルテミシアに対し厳しいと自己評価を下している 女騎士だが、端から見れば甘すぎると言わざるを得ない。陥落寸前 で踏みとどまりながら、少年への説得の言葉を考えあぐねていた。 152 ﹁そこの子はね、モリオンじゃあなくってアルテミシアって言う、 さる高貴な出の御方なんですよ、ええ﹂ この唐突なジャックの言葉は、クラウズェアを仰天させた。 ﹁貴様っ、不道徳に飽き足らず密告の罪まで犯すとは! もう許せ ん!﹂ そう言って拳と蹴りを繰り出すが、影の身にはどこ吹く風。ジャ ふぎょう は ックは言葉を続けた。 ﹁﹃俯仰天地に愧じず﹄って言葉があります。殿下は、天にも地に も何ら恥じるところの無い、まことに清らかで正しき御方。何を隠 まこと す事がありましょう? どこに恥ずべき事があるのです? これこ そが真の道、真実の人の姿。どうして神々のご加護が得られない等 ろうろう という事があるでしょうか?﹂ 朗々と言葉を紡ぐジャックに、クラウズェアは見えない雷にでも おろ 打たれたかのように、動きを止めた。そして叫んだ。 ﹁ジャックすまないっ、わたしが愚かだった!﹂ ぐ れつ いや そうして、今度はアルテミシアの前に右膝を突いた。 ﹁殿下っ、わたしは何と愚劣で卑しい人間でしょう! どうかお許 しください! 今この時より心根を改め、必ずや殿下に相応しい騎 士となって見せます! どうかそれまで、見捨てる事なくお側に置 いてください!﹂ ダメだと言えば、ダガーで自分の首を一突きにしそうな勢いであ る。 ﹁もう⋮⋮ジャックさんが変な事を言うから、騎士道精神に火が点 いちゃった﹂ 少しだけ眉根を寄せたアルテミシアは、跪く女騎士の手を取って、 優しく声を掛けた。 ﹁ぼくがローズと離れるなんて、また目が見えなくなる事よりも嫌 な事だよ? ぼくの方からお願いするよ。ずっと一緒に居てね、ロ ーズ﹂ 少年の優しい言葉が、堅物騎士を感激させた。 153 ﹁ああ、シア。わたしは幸せ者よ﹂ いつわ 幼なじみ同士の主従劇場が繰り広げられる中、ルクルクの困惑し た声が発せられた。 ﹁あの⋮⋮よく解らないんだけど、なんか事情があって名前を偽っ てるのね? それでもアタシを助けてくれた。お礼をしなくっちゃ あね﹂ この言葉に、ジャックは自分の計略が上手くいったと、のっぺら ぼうの顔の下でほくそ笑んだのだった。 うろ お礼がしたいから家に案内すると言うルクルクの後に続いた一行 は、虚の空いた巨木の前まで来た。 ﹁なんとか馬も入りそうね。いい? これから中に入るけど、注意 しておくことがあるの﹂ ルクルクが真剣な声で言った。 ﹁皆で手をつないで。そうしてアナタ、アルテミシアはアタシとつ なぐのよ? クラウズェアは馬の手綱だけじゃなくて、体のどこで す も良いから触っておいて﹂ 本当の自己紹介を済ませておいたので、ルクルクはそっちの名前 で呼んでいる。 ﹁あっしはどうすりゃよござんす?﹂ ジャックの問いに、 ﹁アナタはすでにアルテミシアと繋がっているも同然だから、その ままでいいわ﹂ この返答に、クラウズェアは眉をひそめ、ジャックはウヒヒと笑 った。 ﹁じゃ、ついて来て﹂ その声に促されて入った虚の中には、一行の思いもよらぬ風景が 広がっていた。 ﹁なんだ、これは﹂ 154 いま がた 呆然と漏らすクラウズェア。 ﹁今し方、あっしらはでっかい木の中に入ったと思ったんですがね ぇ﹂ 言いながら振り返るジャックの視界には、確かにくぐったのと同 さら じような虚と巨木があった。だが、全く同じではない。それよりも、 周囲の風景が問題だった。 ﹁森がなくなってる﹂ アルテミシアの呟きが、見晴らしの良い丘を吹く風に掠われてい く。 一行は、大木が一本きり生えた丘の上に立っていた。周囲は背の あつ な じ 高い草が生い茂り、草いきれが立ちこめている。 ﹁つか、暑っ?﹂ ジャックの言葉に、違和感にようやく馴染んできた者達の体から 汗がしたたり始めた。 ﹁山火事でも起こっているのか﹂ 警戒するように辺りを見回すクラウズェアの視界には、燃え盛る ものは何も見えない。遠くの方に、緑に包まれた街らしきものと城 のような大きな建物が見えるばかりだ。だが、 ﹁あっちよ﹂ てっぺん けむり そう言って差し出された猫の手が示す方を見てみると、街とは反 対の方角にある山の天辺から、もうもうと煙が立ち上っているのが 見えた。 ﹁あの山の頂上が燃えてるのよ﹂ ﹁活火山ですかい﹂ ﹁火山ではないんだけどね﹂ あいまいな返答のルクルクに訝しむ一行だったが、そんな事より カッパー ようせいきょう と居住まいを正すルクルクは、このように口上した。 ﹁銅目族の治める妖精境にようこそ。王族の一人として皆さんを歓 迎します﹂ そして、一転。 155 ﹁あー、寒かった! 妖精境と違って、外は寒いのね﹂ 156 四章②﹃ようこそ! 灼熱の妖精境へ﹄ 街の門番も、通りを行き交う人々も、みんなみんな猫妖精。大き な猫が直立し、服を着て、歩き回り、人の言葉を話している。 せみ 街の中には緑が溢れている。大通りには大きな街路樹が、小さな 道にも小さな木や花が、なにかしら生えている。 枝々で小鳥たちは歌声を競い合い、木の幹には蝉がとまってミン のき つら ミンジワジワ大合唱。 ただよ 商店が軒を連ねる店先からは、美味しそうな料理やお菓子の匂い もう が漂い、皆の鼻と胃袋を刺激してやまない。 中央広場には大きな噴水が設けられ、猫妖精の子供達が声を弾ま せながら遊んでいる。そうして珍しい一行に気付き、その先頭にル クルクが居るのを見つけると、わらわらと寄ってきた。 ﹁王女さまー﹂ ﹁お姉ちゃん、今日はヒマ?﹂ な ﹁ねえ、ちょっとだけ遊ぼうよー﹂ ﹁これって、ニンゲン?﹂ ﹁なんか黒いのもいるぞ﹂ 取り巻く子猫たちをいちいち撫でてやりながら、ルクルクが申し 訳なさそうな顔をする。 ﹁ごめんね? お姉ちゃん、この人達をお城に案内しなくっちゃ。 また今度ね?﹂ ﹁じゃあ今度ね? ぜったいだよっ?﹂ そう言って手を振って見送ってくれる子猫たちに、ルクルクも手 を振り返す。 ﹁慕われてやんすねぇ﹂ 感心したようなジャックの声に、ルクルクではなくクラウズェア の悔しそうな声が返ってきた。 157 ﹁シアだって、差別さえされなければ﹂ き 忠義の騎士は、主の不遇と己の無力をままならぬと感じていた。 ﹁詮索するべきじゃないんでしょうけど、良かったら訊かせて? アタシで力になれるかもしれない﹂ 子供達との朗らかなやりとりと打って変わり、ルクルクは真剣そ うな声で問うた。もうすっかり一行に慣れて、耳もヒゲも普段通り だ。 ﹁ここは人の世とは違うようですし、ご厚意を無下にするのも礼に 反しやす。お話ししてしまわれたら如何でやんす?﹂ ジャックのすすめにしばらく考えていたクラウズェアだったが、 アルテミシアの将来を考えると、逃げてばかりもいられないと思い 直し、いっそ話してみようかと思った。 かす 横の幼なじみを見ると、とりたてていつもと違った風には見えな い。が、緑の目に気付いて上げられた赤い目を覗き込むと、幽かに 揺らぐ何かが見えた気がした。 クラウズェアの気持ちは決まった。 ﹁シア、ルクルク殿下にお話ししましょう。わたし達にはお味方が りょうしょく 必要です。しばらく軒を貸して頂くだけでも、千金の価値がありま す。いえ、旅の糧食を分けて頂くだけでも。ね?﹂ せい ち クラウズェアの優しく諭す言葉に、アルテミシアは黙ったままだ ったが、しばらくして、 ﹁そう、だね﹂ と応じた。 ﹁娘が命を救われたと聞いておる﹂ ほ ほどこ 木材で組まれた城の中、石造りの城とはまた違った、精緻で上品 いっぴん な彫り物が施された壁面や調度品が囲む大広間に、大木から彫りだ した逸品の玉座から声を掛ける猫妖精が居た。 この国の王、ナデファタだ。 158 ちゃしま とらねこ 王と呼ぶには少々威厳が足りず、気の優しそうな、それでいてく たびれた感じの、茶縞の虎猫だった。 ルクルクや他の民と同じく赤銅色した目を細め、穏やかに一行を ほう び 見下ろしている。 ﹁褒美を取らせねばなるまいて﹂ ご じん この言葉に、待ってましたとばかりにルクルクが口を開いた。 ﹁お父様? こちらの御仁らは旅人なのです。心落ち着ける安息の 地を求めて、あちこちに足を運ばれたとか。ですが、残念ながら満 足できる土地は見つからずじまい。そこで、この平安穏やかな我が 国に腰を落ち着けて頂くというのはいかがでしょうか? それこそ、 命を救われたワタシができる、最高のおもてなしです﹂ アルテミシア達の身の上話をあらかじめ聞いていた王女は、示し なん ぎ 合わせていた内容を口にした。このまま、客分扱いで永住させるつ もりなのだった。 ﹁ふむ、そうか。それは難儀であったな。その程度のことでワシの 娘が受けた恩を返せるならば、安いものだ﹂ ナデファタ国王が永住の許可を与えようとしたときだった。 ﹁待たれい!﹂ ひか 割れ鐘のような声が広間に響き渡った。 つ 広間の両端に控えていた家臣団の、玉座に最も近い場所。武官が 並ぶその列の頭、将軍職に就くバイガンが、王命を遮った。 彼は大きかった。ナデファタ王が一・五mくらいなら、二・五m はある。黄褐色の地毛に黒のまだら模様。体は瞬発力を詰め込んだ ような筋肉の塊で、手足は長くしなやかだ。口には恐ろしげな牙が 並んでおり、目はギラリと輝いている。腰には馬鹿でかい曲刀を吊 り下げており、それを振り回せる腕力もさることながら、牛をも易 ひょう 々と切り裂けそうな鈎爪もまた恐ろしい。 ﹁豹じゃね?﹂ ジャックが小声で呟いた。 ﹁どうしたバイガン?﹂ 159 ナデファタ王がどことなく疲れた声で問うと、バイガンと呼ばれ た猫妖精は一歩大きく前に進み出て、発達した大胸筋を張った。 ﹁甘すぎる! どこの馬の骨とも知れんニンゲンと、ついでに魔物 までおるではないかっ? ワガハイは納得いかんし、武官達もそう だ。だろうっ?﹂ 獲物に襲いかかりでもするのかと思わんばかりの恐ろしい大音声 で、国王と部下達に声を発するバイガンに、ナデファタ王はげんな りし、武官達は尻に火が点いたように口々に﹁そうだそうだ﹂とは おじ やし立て始めた。随分と飼い慣らされているようである。 ﹁バイガン叔父様、それは国王陛下にもお客人達にも失礼だわ﹂ ルクルクが高く鋭い声で抗議すると、バイガンはあざけるように う かつ 鼻を鳴らした。その鼻息もいちいち恐ろしい。 き ﹁ルクルク、そもそも王女のお前が迂闊に外に出るから、このよう な事態を招いたのだぞ? 生意気な口を利くヒマがあったら部屋で いっかつ 反省でもしていろ!﹂ その一喝に、関係が無いはずの文官達は震え上がった。 ﹁ではどうしろと言うのだ? 娘の不始末は確かだが、それはこの 際問題ではない。今は、お客人達に礼をする話だ﹂ さ 声に疲れをにじませながら問うナデファタ王に、バイガンは大き く裂けた口をニィとつり上げた。 その、どことなくミッドノール子爵を思わせる雰囲気や仕草に、 クラウズェアは内心で嫌悪感を抱いた。 ﹁そうだなぁ﹂ 鈎爪の生えた大きな手をあごに宛がい、思案するバイガン。 ﹁ちょっとちょっと、あれって豹じゃね? 猫じゃなくね?﹂ アルテミシア達は事態の推移をはらはらしながら見守り、ジャッ てんしょうざん クは小声でなにやら言っている。 ﹁妙案がひらめいたぞ。︿天焦山﹀の剣を抜かせるのはどうだ? その力試しの結果で決める。あれを抜けばこのクソ暑いのもマシに なってワガハイ達は助かる。それに、あれは恐らく名剣だ。そいつ 160 を褒美に与えれば、これ以上無い礼になるぞ。一石二鳥という奴だ﹂ そう言い放ってニンマリするバイガンに、ルクルクは血相を変え た。 あだ ﹁無茶よ! 危険すぎるわ。あんな火の海に、誰が近づけるってい うのっ? 恩を仇で返すつもりっ?﹂ ふく そうとう怒っているらしく、耳だけでなくヒゲもバイガンの方へ 向き、尻尾も膨らんでいる。 な それをどこ吹く風と悠然と構えながら、バイガンはガハッハと笑 った。 ﹁お前こそ舐めるな。そこの赤毛はヒョロヒョロと頼りないが、あ れはそうとう腕が立つぞ? 戦士のワガハイが言うのだから間違い ない。それを、まるで腰抜けのように扱うお前の方こそ、どうなの だ? ニンゲンの世の習わしを真似るなら、太古の︿英雄騎士﹀に 誓って、そこの戦士はやり遂げてみせると、ワガハイは信じておる ぞ﹂ 勿論、嘘である。彼が人間を高く買う事などない。むしろ劣等種 として見下している。だが、こう言ってしまえば後には引けなくな るだろう。話を受けたふりをして逃げ去ってしまうか。はたまた馬 鹿正直に山の火に飛び込みでもして焼け死んだら、御の字である。 、、 彼の野望のためには、邪魔な要素は排除しておかなければならな い。バイガンは流血だけを好む訳ではないのだ。 ルクルクは怒りのあまり、すぐに言葉が出てこない。 ナデファタ王は額に手を当てて、どう事態を収めるか思案中。 アルテミシアは事態を飲み込めていない。 クラウズェアは拳を固く握り締めている。安息の地を得られるか と期待したのもつかの間のことだった。ここにも居られないのだろ 排除しようとする者がここにも居る事 にだ。 うかと、諦めの気持ちが湧きそうになっていた。事態の困難さにで はない。 その時だった。 ﹁よござんす。お受けいたしやしょう﹂ 161 ジャックの明朗な声が上がったのだ。 一瞬、大広間が、しん、と静まり返った。 てっぺん 最初に開口したのはルクルク王女だった。 ﹁無理よ! 天焦山の天辺は大昔からずっと燃え続けていて、夜に なろうが風が吹こうが雨が降ろうが決して、火が消えた事なんてた だの一度も無いんだから! バイガン将軍のことなら、ワタシが説 得するから﹂ 玉座が安置された段の上から駆け下りてきて、小さな体を一生懸 命に動かし、身振り手振りも交えて説得に当たるルクルク。 アルテミシアは心中で、 ︻この子、良い子なんだね︼ とモリオンに話しかけ、 ︻ホントウ、ホントウ︼ と、子供が弾む感触を楽しんだ。 クラウズェアはジャックの言葉に一瞬だけ面食らったが、ルクル つつし うけたまわ ク王女の必死さに心打たれ、自分の弱い心を恥じた。 ﹁いえ、大丈夫です。このお話、謹んで承ります﹂ 王女を見、ついで玉座のナデファタを見上げる。彼女は心中で誓 っていたのだ。﹃自分はどうなろうと、なんとか血路を切り開き、 シアだけでも安住できる地を作るのだ﹄と。 ﹁ううむ﹂ ナデファタ王はうなった。そして、文官達が居並ぶ列の先頭に声 を掛けた。 さいしょう ﹁スルトン、どう思う?﹂ お声掛かりのあった宰相スルトンが、一歩前に進み出た。灰色の 毛並みをしており、体は小さめで一・三mほど。 ﹁はっ。バイガン将軍のご提案で宜しいのではないでしょうか﹂ むく この言葉に驚いたナデファタだったが、知恵者にして自分の腹心 であるスルトンの言葉を信じる事にした。 ﹁いいだろう。此度の礼、天焦山の剣を与える事を報いとする。ま 162 た、しばらくの国への滞在も許可する。以上だ﹂ ﹁お父様!﹂ ルクルクの悲鳴のような声が上がったが、それでおしまいになっ た。 163 四章③﹃将軍の無理難題と、炎獄の名剣と、王女の後悔﹄ スルトン宰相の考えはこうだった。 アルテミシア一行はとりあえず︿天焦山﹀に行く。行くが、山頂 までは行かない。街から見える山の反対側に回り、誰も来ないであ つか ろう場所、それでいて、なんとか住めそうな場所を探す。そこでし べん ぎ ばらく仮住まいをして貰う。その間、城の者で信用のおける者を遣 わし、衣食住の便宜を図らせる。そうして、ほとぼりが冷めた後、 逃げた と思わせておいて、こっそりかくまうのだ。 こっそり街に戻ってきて貰い、用意した住居に隠れ住んで貰う。 要は うな だ ﹁こういう具合なんだけど⋮⋮本当にごめんなさい。恩人にこんな 仕打ち﹂ ルクルクが小さな体を更に縮めて項垂れるのを、アルテミシアが 肉球のある手をそっと握って止めた。 ﹁ううん。ルクルク殿下には感謝してるよ? せいいっぱいの事を して貰ってるもの。これ以上、なにかを望んだらぜいたくすぎて罰 が当たるよ﹂ しゅ 人形みたいに表情も抑揚もなかったが、不思議と柔らかさのある 人間だと、ルクルクは思った。 ﹁ありがとう、アルテミシア。それと、アタシ達種は違うけど同じ 王族なんだから、﹃殿下﹄って付けなくてもいいわ。クラウズェア 達も、恩人なんだから付けなくていい﹂ ﹁ではお言葉に甘えて、他の者の目が無い時は敬称を省かせて頂き ます﹂ 生真面目な女騎士は、それで妥協した。 ﹁そいで、これからさっそく向かうんですかい? その天焦山とや らに﹂ アルテミシアの影に足を突っ込んだまま、竹を編んで作った敷物 164 の上にだらりと寝そべり、片肘を突いているジャック。だらけきっ た人間の見本のような有様だった。 ここはルクルク王女の私室。王族の部屋にしては質素な造りだが、 竹を使った調度品は存在感を主張しすぎず、だがよく見れば品の良 い物だし、威圧感を与えないように高さはあまり無い。安心感を与 える作りと配置だった。 とう き 風通しもよく考えられていた。広くない部屋を広く見せているが、 物が少ない訳ではない。 日を遮る軒先には、風に揺られる陶器の鈴が涼やかで柔らかい音 を奏でている。 ころころ、ころりぃ。 ころりぃ、ころろ。 茶の用意だけさせて侍女達を下がらせ、今はルクルク王女とアル テミシア達のみだ。 と ﹁あー、スイカ食って海で泳いで花火してぇなぁ﹂ 溶けに溶けきったジャックが、黒い尻を掻きながらボンヤリと漏 ぶしつけ ろうぜき らすのを、クラウズェアは歯をぎしりと噛みながら睨み付けた。 ﹁もはや、不躾を軽く通り越して狼藉の域に達している。生かして はおけぬ﹂ 彼女は、口から火でも吐いて、汚らわしい影人間を浄化してやり たい気分だった。 ﹁スイカって、なぁに? 花火って、どんなの?﹂ 聞いた事の無い単語に興味を示したアルテミシアが、ジャックに 話をねだった。 ﹁スイカってぇのは、野菜の一種ですね。キャベツよりでかくて、 しま も よう 重くて、けど、キャベツと違って凄く甘いんです、果物みたいに。 あと、緑色したまぁるい奴で、黒い縞模様が入ってます。あぁ、ナ デファタ王様みたな縞々です﹂ ﹁き、きさっ、貴様なんという事をっ? 不敬罪で手打ちにされる ぞ!﹂ 165 わ 泡を食ったクラウズェアが、ジャックを処刑する手段を講じるか、 ルクルク王女に詫びるために己の命を差し出すか、混乱した頭で考 えていると、王女のころころとした笑い声がそれを制した。 ﹁いいのよクラウズェア。それよりも、ジャックの話を聞いてみま しょう? 面白そうよ﹂ むぎ ゆ ジャックへの怒りとルクルク王女への申し訳なさで、顔を赤くし たり青くしたりと忙しい女騎士に、ルクルクは大麦を煎じた麦湯を すすめて落ち着かせようとした。 かしこまったクラウズェアが一口飲むと、香ばしくも涼やかな味 むさぼ が口内に広がり、気分を幾分か落ち着かせてくれた。 ﹁棒きれでカチ割って遊んだり、遊んだ後は皆で貪り食うんですよ﹂ ジャックは周りの騒ぎなど気にせず、スイカ談義に花を咲かせて いる。 ﹁最初に割る遊びをする作法なの?﹂ アルテミシアが不思議そうに訊いた。食べ物で遊ぶなど、育ちの 良い彼からしたら考えられない事だったのだ。 ﹁遊ばなくたっていいんですがね? まあ、伝統と格式を重んじる かじ つ 奴らは総じて、まずカチ割って遊びますね。そいで、シア嬢ちゃん のお目々みたいな赤い中身に齧り付いて、黒くて小さい種を一番遠 くまで吹き飛ばした奴が優勝です﹂ ﹁面白そうね。やってみたいわ﹂ ルクルク王女が楽しげな声を上げる。ヒゲも上向きだ。 ﹁ぼくもやってみたいな﹂ ﹁だめよ、シア。破廉恥の国の罰当たりな遊びなのよ?﹂ 女騎士がたしなめた。だが、食べてみたいとは思っていた。女性 ごうかい の多くは、甘い物に目が無いのだ。 ﹁いやぁ、赤い実を豪快に貪り食って、種を遠くまで飛ばせる力強 さがあってこそ、一人前の男子と認められるんですがね? シア嬢 ちゃんには無理かぁー﹂ 返ってくる答えが分かりきっているジャックは、ことさら残念そ 166 うな声色で首を振ってみせた。 あさ ぢ え のう た ﹁シアを侮るのも大概にしておけよ? 浅知恵脳足りんの早とちり 者が。この子なら、そのスイカとやらを二〇個ほどもペロリと平ら げて、この窓からあの天焦山まで種を飛ばし、あっという間にスイ カ畑を作り上げてしまう事だろう。英雄騎士に誓ってな!﹂ ﹁勝手に誓わないでよ。キャベツよりも大きくて重いんだよ? ⋮ ⋮どれくらい重いの?﹂ 子供の頃にお転婆娘がこっそり持ち込んだ品々の中で、ずっしり と重たかったキャベツを思い返し、少年が問う。 ﹁キャベツが∼物にもよりますがだいたい一㎏前後として、スイカ は∼やっぱ物にもよりますが三㎏から五㎏だから、三倍から五倍で すかねぇ?﹂ 楽しげなジャックの声に、アルテミシアとルクルクは目を丸くし、 クラウズェアはうなった。 ﹁それは大きいな。だが、丸一日掛ければ、なんとか二〇個は平ら げられるだろうか﹂ ﹁ねえ? ローズならもしかするとやり遂げられるかもしれないけ おちい れど、ぼくには絶対に無理だよ。お腹が裂けて大変な事になっちゃ きゅう ち う。︻モリオンだったら食べられる?︼﹂ 幼なじみ兼専属騎士の独断専行で窮地に陥った少年は、血を分け ていない我が子に助けを求める事にした。すると、母親的少年の胸 中で、ちかちかと赤い光が瞬く感覚があった。それは、 ︻ワカンナイ、ワカンナイ︼ そう、返答しているように思われた。 ﹁モリオンというのは、アルテミシアの中に居る魔物よね?﹂ 言葉による紹介は受けていたルクルクだったが、実際にはまだお 目にかかっていない。ジャックの例もあり、恐怖より好奇心が勝っ ていた。心根の優しい娘であるのと同じくらい、冒険心溢れるお転 婆娘なのだ。それは、色々と心労の絶えない父親のために、妖精境 より外の世界に珍しい花を摘みに行く度胸を見れば解る。 167 その冒険心に負け、ルクルクはお願いしてみた。 ﹁アタシ、モリオンと会ってみたいわ﹂ 瞳孔が丸く開いた赤銅色の目をきらきらさせて、ルクルクが興奮 気味に言った。 ﹁えっと⋮⋮︻モリオンいい? ⋮⋮うん、わかった︼いいって。 だけど、驚かないでね?﹂ クラウズェアが不安そうに見守る中、黒髪赤目の少年は子供を紹 介することにして、我が身から出してあげた。 王女の部屋の中に、黒く大きな球体が出現する。 ﹁モリオンだよ。ちょっと恥ずかしがり屋さんなんだけれど、すご く良い子なんだ。仲良くしてあげてね? ところで、部屋の隅から 聞こえるのは何の音?﹂ たん す 白髪黒目の少年が見えぬ目の代わりに探り当てた音の正体は、モ いかく リオンを見た瞬間に部屋の隅に置かれた箪笥の上に飛び乗り、毛を 逆立てて威嚇している王女のうなり声だった。丸かった瞳孔は縦に 裂けきり、耳もヒゲもモリオンへ向いている。 ﹁まあ⋮⋮最初は多少びっくりするものですよ﹂ ﹃多少﹄どころではない事はクラウズェア自身がよく解っている ことだったが、他にどう言葉を選べば良いのか彼女には判らなかっ た。気遣わしげな視線を両者に送っている。 幼なじみの声色からルクルクの様子を察したアルテミシアは、し ばし沈黙した後、モリオンに手と頬を触れさせてぽつりと言った。 ﹁︻ありがとう。もういいよ︼﹂ 消えたモリオンを確認し、恐る恐る箪笥から降りた王女は、ばつ が悪そうに敷物の上に座り直した。心なしかアルテミシアとの距離 が離れている。 ﹁ごめんなさい﹂ うつむ 恐怖が薄らぐにつれて後悔の念が押し寄せ始めているルクルクは、 俯きながらか細い声を出した。落ち込んだ彼女の心を示し、ヒゲも 項垂れている。 168 ﹁ううん、ちょっとした誤解があっただけだよ。気にしないで? モリオンは気にしてないみたいだから﹂ そう言うアルテミシアの様子は普段と変わらないように見える。 せんさい 人形のように静かで落ち着いた雰囲気だ。スイカの話をしていた時 とも変わらない。けれど、クラウズェアには判ってしまう。繊細で 優しい少年が、モリオンのことで傷ついているのだと。 い ご だが、クラウズェア自身も気付いていないことだったのだが、そ れは神殿に居た頃の彼女とも似ていたのだ。忌み子として生まれた アルテミシアを、王が、女王が、側仕えの巫女達が作った見えない 壁の向こう側で︿色なし王子﹀と言外に忌み嫌い恐れるのを。そう した中で、文句一つ言わずに、静かに、消えてしまいそうに在った とこなつ 少年と、それを悔しい思いで見守り続けた幼なじみの少女との姿に。 常夏の熱気が勢いを失ったかのように思える空気の中、ジャック の脳天気な声が床から上がった。 ののし ﹁そろそろ行きますかい?﹂ 普段はごくつぶしと罵る下品な影人間相手に、この時ばかりは心 中で感謝しながら、クラウズェアは話を合わせる事にした。 ﹁今日中に行くのか? その天焦山とやらに﹂ ﹁今日は休んで、明日行ってはどうかしら? ささやかだけど、我 が国の伝統料理を振る舞いたいわ﹂ ルクルク王女も、失敗を取り戻したい一心で提案した。 ﹁やあ、ごちそうにありつけるのはありがたいですがね? あのバ イガンとか言うおっとろしい将軍様が、あっしらに変な見張りでも 付けてきやしたら、どうにも動きづらくなっちまう。っていうか、 あいつ豹じゃね? 猫じゃあないですよねぇ?﹂ ﹁確かに、叔父様が変な気を起こしてみんなに見張りを付けると言 い出す可能性はあるわね﹂ ﹁では、今から向かうべきか﹂ ﹁うん、そうだね﹂ 三人の話が天焦山行きに向く中で、ジャックがもう一度訴えた。 169 ﹁いや、それより豹がね?﹂ 170 四章④﹃夢がかなったんだよ﹄ けいだいそう く たい ﹁本官らは、境内走狗隊輸送班に所属の者です。自分は班長のタッ タルガルで、こちらは班員のヒューヴァウワーです﹂ ﹁ハッ、自分はヒューヴァウワーです。この度、皆様方の輸送の任 に着けました事、大変に嬉しく思っております!﹂ 敬礼こそしなかったが、そうやって自己紹介をしたのは二頭の犬 だった。だが、普通の犬と違ったのは、彼らが馬ほども大きくて、 か は 真夏の木の葉みたいな深い緑の毛色だった事だろう。そんな生き物 クー・シー が、きりっとした枯れ葉色の目で一行を見つめている。 犬妖精だ。 ﹁タッタルガルさんとヒューヴァウワーさん。ぼくはアルテミシア です。よろしくおねがいします﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁でっかいワンワンですねぇ。あっしはジャックっていう、ケチな 魔物です﹂ アルテミシアとジャックは名乗り返したが、クラウズェアは沈黙 したままだ。無視している訳ではない。この生真面目な女騎士が礼 を守る相手に礼で返さないはずが無い。ただ、驚きのあまり、声が 出なかっただけだ。 ﹁ローズ? 二人に失礼だよ? それとも、あんまり暑くてのどが 枯れちゃった? だいじょうぶ?﹂ 心配そうな主の声で我に返ったクラウズェアは、慌てて背筋を伸 ばした。 ﹁こ、これは失礼した。わたしはクラウズェアです。こちらにおわ すアルテミシア様の専属騎士を務めております。この度のルクルク 殿下のご配慮と、貴殿らのご協力に感謝致します﹂ そう言って、右手を胸に当て頭を下げる礼をした。彼女の胸の辺 171 ひも つる りで、紐で吊されたお守り袋がぶらりと揺れた。出がけにルクルク 王女から渡された物で、中には王女の爪が入っている。 ﹁いえ、礼には及びません。任務ですので!﹂ タッタルガル班長が答えた。 ﹁皆様方の準備がお済みでしたら、これから目的地へ向かいますが、 いかがですか?﹂ 続いて、ヒューヴァウワーが問うた。 ﹁こちらの準備は整っていますので、これから向かいましょう。と ころで荷はどうすればよいですか?﹂ はいのう 馬に積んでいた荷物は下ろされ、今ではクラウズェアの足下にあ った。 ﹁荷は自分が運びます。左側の背嚢にお入れください。右の背嚢に は、王女殿下からのご指示で用意された飲食物などが入っておりま す﹂ ヒューヴァウワーが答え、荷を入れやすいように地に伏した。 ﹁皆様方は、自分の方へお乗りください﹂ そう言って、タッタルガルも足をたたんだ。 くら クラウズェアが荷を積み、アルテミシアと一緒に恐る恐るタッタ ルガルの背に乗ると、鞍の無い背中は思ったよりもふかふかで乗り ハーネス 心地は良かった。 ﹁乗り具を掴んでください﹂ 指示に従って見ると、胴体に革のベルトで装着された馬具の様な あぶみ 物があり、背中側にアーチ状の取っ手が飛び出していた。手綱の代 わりにこれを握るのだ。鐙は無い。 アルテミシアの後ろから手を回し、ハーネスを握るクラウズェア。 馬とは随分と感覚が違ったが、乗れない事はなさそうだと女騎士は 思った。 ﹁準備はいいですね? では、出発します﹂ そう言って犬妖精達はゆっくり立ち上がると、流れるような身の こなしで走り出した。 172 ﹁なんだ、これは?﹂ ﹁すごい。ねえ、すごいよ、すごい﹂ ﹁こいつぁ、たまげましたねぇ﹂ クラウズェアは心底驚いていた。 まず、その速度である。馬より確実に速い。馬の種類にもよるが、 整備された道を誰も乗せずに全速力で走れば、およそ時速六十㎞程 度が出る。 だが、それよりタッタルガル達は速いのだ。 彼らは整備されていない道を、それも人や荷を乗せた状態で、馬 の倍ほどもある速さで走っているのだ。これは驚異的な事だった。 次に、走行音が全くしないのだ。無音である。不思議な事に、荷 やくどう の揺れる音さえもしない。そもそも、全く揺れる事が無い。馬のよ うに躍動し、騎乗者の尻を痛くしたり頭が揺られる事が無い。荷も、 カタリとも音を鳴らさない。人は疲れず、荷は傷まず。騎士ならば、 千金を積んでも手に入れたい名馬だ。馬ではなく、犬だったが。 クラウズェアは感嘆の溜息を漏らし、同時に、胸中で恐れもした。 かんらく ﹃妖精境と人間が戦になれば、決して勝てない﹄と。こんな高速無 音部隊に襲撃されたら、気付くことなく街も城も陥落する事だろう、 と。 クラウズェアが騎士として思考していた頃、アルテミシアは純粋 にはしゃいでいた。はしゃぐといっても、いつも通りの変わらぬ様 だったのだが。 景色が後ろに流れて行く。自分たちは飛ぶように進んでいる。大 空を飛ぶ鳥はこんな感じだろうかと、少年は思った。すると、胸中 でモリオンがちかちか瞬き、こう教えた。 ︻ソウナノ、ソウナノ︼ ﹁︻そうなんだね︼﹂ 返された肯定の意に、背筋をぞくぞくさせる感じがした。風邪を ひいた時とは違う、胸が躍るような感覚。子供の頃、ローズから外 173 の世界のことを訊いていた時に似ているが、それよりももっと大き な感覚。 うろ でこぼこ道を一気駆け。丈の高い草原を突っ切り、緩やかな傾斜 の丘を駆け上り、外と妖精境とをつなぐ虚の大木の横を一瞬で過ぎ 去り、下りの傾斜を滑るように駆け下りる。 風が顔にビュウビュウと当たり、髪がはためく。大切な赤いリボ ンが飛ばされないように、体の前に回してしっかりと掴んだ。 鳥かごの哀れな少年と、彼に冒険を語ってくれた幼なじみの少女。 その子の赤い髪とおんなじ色した真っ赤なリボンは、寂しい時も、 冒険 が詰まった宝物だった。そ 悲しい時も、独りぼっちの時も、いつだってアルテミシアの心を慰 めてくれた。少年がまだ知らぬ して、今はそのリボンと、リボンをくれた幼なじみと一緒に、冒険 しているのだ。モリオンも、ジャックも一緒に。 風のせいだけでなく、涙が溢れそうになった。ローズの前では泣 くまいと上を見上げたら、高価なガラスを溶かし込んだみたいに綺 麗な青空と、白パンよりも真っ白で黒パンよりもずっしりしてそう こう し な入道雲が見えた。きっと、竜よりも大きい。 格子のはまった暗い部屋を飛び出し、草原も丘も山も越え、妖精 も竜みたいな雲も見た。夢が全部叶ってしまった。ローズのおかげ で、アルテミシアが夢見ていた、けれど諦めてもいたものは、全部 叶った。嬉しかった。うれしいと思ったら、もうダメだった。 少年の白い頬を、涙が伝った。後ろの少女に気付かれないように 声を殺して泣いたが、アルテミシアの努力むなしく、剣ダコのでき た手で涙を拭われてしまった。 ひさし ﹁どうしたの、シア? どこか痛いの? それとも日差しが強すぎ るのかしら?﹂ 涙を拭った手で赤い目のために庇を作りながら、クラウズェアが 心配そうに言った。だから、彼女を安心させようと、アルテミシア は言葉を紡いだ。 ﹁ううん。どこも痛くない。ただ、楽しいなって﹂ 174 言葉にするともっと涙が溢れそうだったから、それ以上言えずに 少年は黙ってしまった。けれど、幼なじみの少女は、それだけで理 解した。 ﹁そう。良かったわね﹂ そう言って優しく腕を回してくれる大切な幼なじみのために、ア ルテミシアは何かしたいと思った。自分のために、家も家族も捨て させた。髪まで捨てさせた。クラウズェアが喜ぶことを、絶対にし たいと思った。 175 四章⑤﹃天焦山﹄ リング てんしょうざん 円環状の不思議な雲が見下ろす場所に、天焦山はあった。 そこは、︿異界﹀と呼ぶに相応しい場所であった。 ひと ご ﹁ジャングルだなぁ、こりゃあ﹂ ジャックが独り言ちた。 裾野あたりから密度の薄い林を形成し始め、やがて密林へと至っ ている。木の生い茂る密度が高くなるにつれ、気温も湿度も上がっ ていった。 ﹁なんだこの蒸し暑さは﹂ ごくさいしき クラウズェアがたまりかねて呻く。 にぎ 極彩色の鳥たちが鳴き声を上げ、見たこともない珍しい動物や昆 虫たちが樹上や地面を横切る。 ﹁こんなにたくさん動物。それに賑やか﹂ 首筋を伝う汗を無意識にぬぐいながら、色彩と音の洪水に圧倒さ れるアルテミシア。 やがて、下草の少なさからまだしも走りやすかった地面は、様々 に生い茂ったツル植物が犬妖精達の足をとるようになり、びっしり と生えたコケ植物が彼らの足を滑らせかねなくなってきていた。 そうして、足が止まった。 ﹁ここまでが限界です﹂ ﹃行ける所まで行ってくれ﹄とのジャックの言葉に従い、ここま で運んできてくれた境内走狗隊輸送班のタッタルガルが、申し訳な さそうに言った。 ﹁いえ、見事な働きです。感謝します﹂ 心からの感謝と賞賛を込めて、クラウズェアは述べた。結局、彼 らはここまで速度を落とすことなく来たのだ。千の言葉を駆使した としても、この感動を納得のいくまで表現できはしないだろうと、 176 彼女は思っていた。だから、言葉ではない礼を、彼女は選んだ。 地に降り立ったクラウズェアは、アルテミシアの手を引いて下ろ してやった。それからタッタルガルとヒューヴァウワーに体全体を 向ける。 走狗隊員二名の視線が女騎士へと向く。 その二名に向かい、まず右足を引いて左足の後ろに着けた。足が 交差する形になる。同時に、両の掌を上に向け、右手は胸の前に、 左手は横に伸ばして地面と水平に、その状態で斜め四五度に身を折 った。 く う 騎士の礼であり、立礼で行う物の中では最敬礼になる。実に優雅 だが、それだけではない。 武 騎士は皆、左腰に剣を吊る。また、組み討ちに備えて腰の後ろ側 に短剣を差す者が多い。つまり、腕を上げて腰から離すことは 事を知らせる。そして、 という意思の表れだ。更に、両の掌を開い 手に何も持っていない 器を抜くつもりが無い て見せることで 無防 容易に前に踏み込めな 事を示す。頭を下げるのは勿論、相手から視線を外して 右足を後ろに引いて更に交差させることは い を伝えている。総じて、 という意味になる。 私は貴方を害するつもりは一切無く、 備 信頼し、尊重します 今では吊す剣の無い身だったが、それでも女騎士は騎士の礼を選 んだ。 ﹁貴殿らに、星の数だけの感謝を﹂ 頭を下げたまま、クラウズェアは謝意を述べた。 を表したのだ。ク 飛びかか この礼に対し、隊員二名は四つ足を折りたたんで地に伏せ、揃え 匂いや音に警戒する必要が無い事 た前足の間に鼻を突っ込み、耳を伏せることで応じた。 らない事 ー・シーの敬礼である。クラウズェア達を背中に乗せたことが既に さら 信頼の証でもあったのだが、それは仕事として行った事であり、彼 らは今、自己判断で無防備を晒して見せたのだ。 ﹁恐縮です﹂ 177 クー・シー タッタルガルが短く答えた。実直さのうかがえるその言動に、ク ラウズェアはこの犬妖精という種族を好きになった。 しっぷう た ろう ﹁ありがとうございました。素敵な風景が見られました﹂ ﹁妖精境の疾風太郎たぁ、アンタらのこってす﹂ はいのう アルテミシアも礼を述べ、ジャックは意味不明なことを言った。 そうして彼らは別れた。 アルテミシアは、ヒューヴァウワーの背嚢に入っていた竹で編ん か し ばん だ手提げ鞄を受け取っている。中には、木製の弁当箱と竹の水筒、 ︿火指盤﹀という登山道具、それに﹃下山や、何かしらのご用命の 際に吹いて下さい﹄と言って渡された笛が入っている。 クラウズェアが荷物を持つと主張したのだが、彼女は既に馬に積 ゆず んでいた分の荷を背負っている。必要のないものは置いてきたので しぶしぶ 軽くはなったが、それでも充分に重い。アルテミシアは頑として譲 らず、女騎士は渋々引き下がった。 ﹁先に寝床になりそうな所を見付けやしょうぜ﹂ ジャックの言を採用し、一行は辺りを探索する事にした。 なた ﹁とはいえ、どちらに進んで良いやら﹂ 鉈を手に持ったクラウズェアが、困惑した声で言った。彼女は騎 士であって、戦闘技術や礼法には明るいが、登山術やサバイバル技 山 という物の概念を超えているとは思っていなかったのだ。 術は持ち合わせていない。まさか、これほどまでに彼女の知ってい る 困惑顔の女騎士を、茹で上がらんばかりの暑さと湿気が襲い、気 力と思考能力を奪っていく。服も汗で体に張り付いて、気持ち悪か った。 一方アルテミシアは楽しんでいた。彼も暑いことは暑かったのだ が、それ以上に初めて見る光景に圧倒され、未知への冒険に心躍ら せていた。表情こそ普段とあまり変わらなかったが。 遠くから鳥の鳴き声がする。 ピョーウッ、ピィーヨゥッ。 178 ピィピィホゥホゥ。 あちこちで笛を吹き鳴らしているみたいだった。 近くの地面では黄色く透き通ったまん丸のカエルが鳴いている。 ホロロロホロロォ。 クルルリクリリィ。 オレンジの実の中身だけくり抜いて手足を付けたようなカエルは、 のっそりぺったり、草の間を歩いている。 い ﹁きれい。それにかわいい。リスかな?﹂ クラウズェアが云っていたのだ。﹃リスは、小さくて、まん丸で、 愛らしく、可愛い声で鳴く﹄と。 アルテミシアがカエルに近寄って行くのを、クラウズェアがめざ とく見とがめた。 ﹁シア? どこへ行くの?﹂ アルテミシアはカエルに近寄りながら答えた。 ﹁リスを抱いてみようと思って﹂ ﹁リス?﹂ 少年が向かう先を見て、赤毛の少女は絶叫するところだった。 ﹁シ、シ、シアっ。シアだめ! だめだめだめぇ!﹂ 慌てて駆け寄り、少年の腕を引っ掴む。 ﹁ローズ?﹂ 不思議がるアルテミシアに、クラウズェアは怖い顔で言い含めた。 ﹁アレはきっとアレよ。カエルよ。カエル、カエルだわ! 見てあ たぐ の色! ありえないわ! あり得ない色よっ? たぶん⋮⋮たぶん あわ ぎ せいしゃ だけど、魔女の使い魔か何かよ。その類い! でなければ、魔女に 姿を変えられた哀れな犠牲者よ! この山、魔女が居るんだわ﹂ そう言ってアルテミシアを引っ張ってカエルから引き離し、鉈を 中段に構える女騎士。 ﹁魔女って⋮⋮。いやまあ、この世界にゃそういうのも居るのかも しれませんがね? ありゃあ単なるカエルでしょうや。ちょっと珍 しいってだけの。触るくらいで︱︱﹂ 179 ﹁だまれ! 魔女の手先!﹂ とど かいじゅう 言葉を遮り、影人間をつり上がった目で睨み付けるクラウズェア。 ﹃どちらが魔女やら﹄とは思うに留めて、ジャックは懐柔する方 向に転じる事にした。 ﹁ま、まあ確かに、やたらと触るのもアレですよね? 毒でも持っ ているかもしれやせんし。色が鮮やかな連中は警戒色で毒を︱︱﹂ ﹁それ見たことか!﹂ わな ﹁いや、まだ触った訳でも、ましてや実際に毒が︱︱﹂ ﹁おぞましい影人間の罠に危うくはまる所だった! シア、向こう へ行きましょ﹂ いつの間にやらジャックが毒ガエルを放した事になっており、一 刻も早くこの場を去ろうと急かすクラウズェアに手を引かれ、アル テミシアは連れ去られて行ってしまった。 ﹁⋮⋮まあ、あっしも一緒に引きずられるんですがね?﹂ アルテミシアの影ごとついて行くことになるジャックが、どこと なく寂しげな声で呟いた。 それをオレンジのカエルがホロリロと見送った。 180 四章⑥﹃ぷりずむ﹄ へび しましま まだら 赤、青、黄の鳥たちが樹上で歌い、緑や茶の縞々模様や斑模様の うかが 蛇やトカゲが枝を渡り地を横切る。灰色の猿が紫の木の実を囓って いたり、見たことの無い四つ足の獣が遠くから一行を窺う。 水たまりの水面をすいすいと渡る不思議な虫を眺めた後、視界の 隅を横切った青くて綺麗な動物に、アルテミシアの興味が移った。 ﹁さっきのはなんだろうね?﹂ たず 赤い目が、緑を基調とした色彩空間を見渡しながら、同行者達に 尋ねた。 ﹁何か珍しい動物でも居たの? まあ、ここには珍しい動物ばかり だけど﹂ ﹁草花だって、面白いのばかりですぜ。あの真っ赤でデカい花やら、 この尻尾みてぇに垂れ下がった葉っぱやら﹂ クラウズェアとジャックは、アルテミシアの見た﹃さっきの﹄に は気付いていない。だが、モリオンは少年の胸中でちかちかと瞬い て教えた。 ︻コッチコッチ︼ ﹁︻こっち?︼﹂ しんえん 促されるままに赤い目が向いた先には、青く大きな揺らめきがあ った。 おおけもの こ はくいろ 青 に刻々と変じゆく、 海が、浅瀬から深淵へと、また深きから浅きへと深度を変えるに くす つれ色の濃さ深さが変わるように、様々な へ まこと奇しき毛色の大獣がそこには居た。 長い時を経たような琥珀色の目が、木々や草花の向こうから赤い 目を見つめている。 ﹁きれい﹂ 心の思いをそのまま言葉にしたアルテミシアが、瞬きもせず見つ 181 め返すその獣に、遅れて気付いたジャックとクラウズェアは圧倒さ れていた。 ﹁⋮⋮熊⋮⋮よりデカい、狼、なのか? 三mはあるな。長ぇ尾を 含めりゃもっとか﹂ なた ジャックの呟きに機を得、手足の思うようにならぬ女騎士は、そ れでも鉈を前に突き出しながら、守るべき主人の前へ身を進めた。 さざなみ 暑さ以外の冷たい汗が噴き出す。 ふと、ゆったりとした細波が青の毛並みを波打たせたかに見えた 時、幻のような獣は、とーん、と地を踏み、羽毛のごとき身軽さで もっと遠くの地面に降り立った。 枝葉の一つも揺らさなかった。いつの間にか、取り巻いていた騒 めぐ 々しい音が消えている。 首だけゆるりと回らせ、やはりアルテミシアを見る。 ﹁着いてきて欲しいのかな?﹂ 一人だけ普段通りのアルテミシアが仲間達に問うと、誰よりも先 に青き獣の尾が、ゆうらり、と招くようにうねった。 ひそ ﹁そうらしいですぜ﹂ 普段のなりを潜めたジャックが、慎重さの中に好奇心のうかがえ バグベア る声で、王子の言葉に同意する。 不可思議な力 を実感し始めていたクラ ﹁シア⋮⋮山鬼の時みたいに、解るの? 鳴き声一つあげてないけ ど﹂ 幼なじみの少年が持つ ウズェアは、もしやと思って問うてみた。 ﹁うん。なんとなくだけれど、たぶん﹂ そう言ってアルテミシアが歩き出すと、大獣は先導するように自 らもまた歩き出した。通常ならば足の運びに伴うはずの下草を鳴ら す音一つ聞こえない。 ﹁シア待って﹂ 遅れまいと、慌てて一歩を踏み出した女騎士は、コケで足を滑ら せ、前に居たアルテミシアに抱きついてしまう。 182 ﹁わっ、だいじょうぶ?﹂ ﹁ごめんなさい、シア﹂ かかと 慌てて体勢を立て直した女騎士に、 ﹁できるだけ地面を蹴らず、踵で着地せずに歩きやしょう。シア嬢 や ゆ ちゃんみたいに。何度も抱きつきたいなら別ですがね?﹂ ジャックの揶揄するような声が、女騎士を赤面させた。 ﹁む﹂ 言葉の一つも言い返してやろうかと思ったクラウズェアだったが、 獣が悠長に待ってくれるとも限らないと思い直した。それに、新し いことを学ぶというのは、大事なことである。それが、自分の欠点 を補うならばなおさらだ。 クラウズェアはアルテミシアの歩き方を観察した。少年は、確か に地を蹴らずに歩いている。常人がやるように、踵から浮かせてつ ま先で地面を蹴る、という事はしていない。足の裏全体を浮かせて いる。同様に、踏み出した足も、踵から着かずに足の裏全体で着地 している。そして、後ろ足に重心を残しながら、前足に一気に体重 おも を掛けることはしてない。なるほど、これならば確かに転びにくい と、クラウズェアは納得した。 そして、今まで目の見えなかった少年の苦労が、改めて憶われた。 危なげなく歩いて行くアルテミシアと、歩く必要すらないジャッ クの後を、クラウズェアは慣れない歩き方でなんとか着いていく。 やがて、一定の距離を保ちながら先導する青い獣の行く先から、 どどどど、という水の流れる音が聞こえてきた。 ﹁滝かなんかですかねぇ﹂ ふち ジャックの言葉は、果たして見事に的中した。木々が開けた先に かけい 見えたのは、大きな岩肌の裂け目から吹き出す水が滝を作り、淵と 小さな川を生み出す場所だった。 木々の密集していた場所とはまた違った種類の佳景で、柔らかい 183 ちょう はち 趣の草花に蝶や蜂が口を寄せ、枝で身を休める小鳥たちはやかまし く鳴くことも無い。淵で跳ねた魚を、背景ごと絵に描き写して寝室 に飾れば心休まるだろうと、見る者に思わせる静かな空間だった。 にじ 足を止めた一行は、この景色に心を奪われていた。とりわけ、滝 だいだい あい のしぶきが生み出す虹に、アルテミシアの赤い目は釘付けになる。 とら ﹁あれは虹っていうんですぜ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七つ かたまり の色がありやす。まあ、色と色の間にゃ人の目では捉えきれねぇほ どの無数の変化があって、実際は無限の色彩の塊だとかなんとか﹂ みんな みたいだね﹂ ジャックの説明に、アルテミシアは目を瞬かせた。 ﹁ ひ くつ 発した本人に、たいした意図は無かった。何気ない言葉であり、 みんな こうさい 卑屈さも悲しみも無い、当たり前に思った感想を述べただけ。だが、 自分以外の人の髪と虹彩の色を指したその言葉は、クラウズェアを とても悲しませた。 ﹁シア⋮⋮﹂ 幼なじみの沈んだ声を耳にしたアルテミシアは、理由までは解ら なかったが、自分の不用意な言葉が少女にこんな声を出させてしま ったのだと気付いて、慌てて謝った。 ﹁ごめんなさい﹂ そして、その言葉がクラウズェアを更に悲しませた。 いわ ﹁シア、どうして謝るの? あなたが謝る必要なんて、何一つだっ て無いのよ? なんにも、誰からも責められる謂れは無い。誰であ ろうとも﹂ ﹃例えシアの両親であろうと﹄という言葉を飲み込んで、硬い手 が今では黒い髪を撫でた。 アルテミシアは、その優しい手に嬉しくなり、また、何故だか悲 しくもなった。 ﹁虹ってぇのは、光がバラバラに分かれて映し出されたものなんだ そうです。ですからね、あの色とりどりのあいつらを一緒くたに混 ぜ合わせてやると、元の光の色︱︱白い光になるんだとか。まあ、 184 正確に言えば 透明 うんちく ですかね﹂ 唐突に始まったジャックの蘊蓄に、アルテミシアは感心したよう に﹁そうなんだ﹂と言い、クラウズェアは神妙な顔で黙っている。 かみ けしょう いしょう ﹁話は変わりやすが、あっしはちぃとばかり髪にはうるさいんです。 古来より﹃一髪、二化粧、三衣装﹄なんてぇ言葉もありやしてね? 髪の綺麗が一番の綺麗です、ええ。シア嬢ちゃんの黒髪も、クラ あわ ウズェア姐さんの赤毛も、どっちも綺麗であっしは好きですが、世 の中には白い髪のやつも居る﹂ アルテミシアの細いからだが、びくりと震えた。 ﹁白い髪ってぇのはね、実は透明なんですよ﹂ そう言ってジャックは滝の方を指さした。 ﹁水は透明なのに、滝が流れ落ちてるとこいらは、泡で白いでしょ ? それと一緒で、白い髪ってぇのはその細っこい一本一本の中が、 泡みてぇになってるとでも考えてくだせぇよ。だもんで、白い髪は 実は透明なんですね。あら不思議﹂ 影人間が、黒い両手を大仰に挙げて見せる。 ﹁シア嬢ちゃんのね、その白い髪も透明、目のぐるりも透明﹂ のっぺらぼうの真っ黒い顔の上で、虹彩を指して円を描く影の指。 ﹁透明ってぇのはね、全部なんです。ぜーんぶの色を持ってるんで す。何もないから透明なんじゃあないんです。シア嬢ちゃん、アン タはね、その髪と目に、全部の色を持ってるんですよ。⋮⋮あっし はね、その白い髪と透明な目が、大好きですよ﹂ そうして、ジャックの声が途切れた後は、滝の音があたりを満た お えつ すだけとなった。だがそのうち、滝の音に紛れて誰かの泣き声が聞 こえ始め、やがて大きな嗚咽へと変わっていった。 肩をふるわせて泣きじゃくる子を胸に抱き、赤毛の少女が水底に 沈んだみたいに揺らめく緑の目をジャックに向け、やっとの事で、 一言だけ述べた。 ﹁感謝する﹂ 185 四章⑦﹃謎の洞窟でお弁当を﹄ アルテミシアが泣きすぎてしゃっくりが止まらなくなった頃。 どうくつ 日が暮れて空が虹のオレンジみたいになってきたので、野営ので きそうな場所を探すことにした一行は、幸いにも滝の近くに洞窟を 発見することができた。中は涼しく、外の熱気が嘘のようだ。 ついでに、洞窟の直ぐ横には、何故かスイカの生い茂る一角があ るのを、ジャックが発見した。 青い獣は、いつの間にやら姿を消していた。 洞窟は思ったよりも奥が深そうだったが、取り立てて危険な要素 はなさそうだったので、取り敢えずは遅い昼食兼夕食を摂ることに した。スイカは冷えた方が美味しいとのジャックの言に従い、クラ とう ウズェアが滝壺に沈めてきた。 籐というツル植物で編まれた敷物を洞窟内入り口付近の地面に敷 き、その上に弁当箱を置いて三人で囲んだ。竹で編まれた敷物に似 ているが、象牙色のそれは質感がつるつるとしており、それでいて 意外と軟らかい。何より、ひんやりとした冷感が火照った体に気持 ちが良かった。吸湿性も高く、心地よい肌触りが長持ちする。 ﹁おいしそう﹂ 木製の弁当箱のふたを開けると、食欲をそそる良い匂いが辺りに 漂った。サンドイッチだ。 薄くてちょっともちもちした黄色いパンの間に、ピリ辛のタレに な す 漬け込んで軟らかく蒸した鶏肉が挟んである物と、甘辛く味付けさ いも あん まんじゅう れた焼き茄子が挟んである物との二種類があった。 あまだけ と たけとう また、デザートとして芋の餡を詰めた饅頭もある。 竹の水筒には、甘竹という植物から採れる竹糖で造った酒が満た はっこう されていた。もう一方の竹筒は、翌日に開けるように言われている。 中身が発酵してヨーグルトになるそうだ。 186 かじ 祈りの言葉を済ませたアルテミシアが小さな口を開け、焼き茄子 サンドイッチに齧り付いた。じゅわりとした汁気が口内に広がり、 こしょう 香ばしい風味としっかりしているが濃すぎない味付けが、少年を幸 せな気分に浸した。 クラウズェアは蒸し鶏サンドイッチを頬張った。高価な胡椒と塩 うま おうせい がふんだんに使われた味付けにまず驚き、それでいて食べたことの 無い調味料も混ざった未知の料理とその旨さに、食欲旺盛な彼女の 思考は食べること一色に染まった。 ﹁すごくおいしいね、この料理﹂ アルテミシアの感想に、頷くだけの返答をしたクラウズェアは、 少年に身振りが通じないことと己の不作法に気付き、口の食べ物を 飲み込んでから改めて返事をした。 ﹁美味しい。凄く美味しいよ、シア、わたし幸せ﹂ その、夢見るような少女の言葉に、 ﹁街で見かけた鳥たちの肉だったりして﹂ グヘヘェと意地悪そうに笑うジャックの言葉に、かじったサンド た む イッチの断面をまじまじと凝視するクラウズェアだったが、こう言 い切った。 ﹁残さず食べることで、手向けとしよう﹂ ためらいなく頬張り始めた。 ﹁え? 姐さんってこういう人?﹂ 珍しく戸惑い気味なジャックの言葉に、アルテミシアが微かに笑 んで幼なじみを弁護した。 ﹁ローズは食べるのが大好きなんだ﹂ 弁護ではなく、単にジャックの疑問を確信に変える証言が得られ ただけであった。 ほの 饅頭もまた旨かった。皮と餡がそれぞれ別の芋から作られている のだが、皮はしっとりとした質感と仄かな甘みがあり、中の餡はほ ろほろと崩れる柔らかい食感とずっしりとした食べ応えのある重み が同居し、芋の持つ個性的な甘みがサンドイッチで満たされたはず 187 の食欲を新たに刺激する。 結局、三段重ねの弁当箱に六個ずつ入っていた三種類の料理は、 アルテミシアが焼き茄子サンドイッチ二個と饅頭一個を食べ、残り は全てクラウズェアの胃袋に収まった。 ﹁お腹いっぱいだね﹂ ﹁そうね。まだ少し物足りないけど、腹八分目が体に良いって聞く ものね﹂ ミード 満腹の上限が違いすぎる二人は、甘竹酒で食後の一杯を満喫して とばり いろど いた。蜂蜜酒とはまた違った香りと、口当たりの柔らかい適度な甘 みが心地良い。 外はすっかり日が暮れて、夜の帳を月と星々の優しい光が彩って いる。昼とは違う虫が鳴き始め、小さな滝の音を伴奏に、聞く者の 心を安らげた。 暗くなりきる前に灯しておいた精油ランプから、カモミールに似 た林檎のような甘い香りと青草の深く爽やかな匂いの混じった香気 が漂ってきている。 ﹁いかん。眠ってしまう﹂ 頬を軽く叩いて眠気を払ったクラウズェアが、唐突に立ち上がっ た。 ﹁まだ寝具の用意をしていないものね﹂ 漏れ出るあくびを上品に掌で隠したアルテミシアが、二人分の寝 具を求めて背負い袋から毛布代わりのクロークを取り出そうとした。 ﹁あ、シアは先に休んでいて? わたしはこの奥を見てくるから﹂ そう言ってジャックに﹁あとは頼む﹂と告げた女騎士は、精油ラ ンプの火を松明に分けた。 樹脂を豊富に含んでいた松は思ったよりも早く燃え始め、ぱちぱ ちという音を洞窟内に反響させ始める。 ﹁ぼくも行く﹂ 取り出しかけたクロークをしまい、アルテミシアも立ち上がった。 ﹁シアは駄目。奥に危ない物があったらどうするの?﹂ 188 いさ そう言っていつものように諫める女騎士に、 ﹁そうでもねぇかもしれやせんぜ?﹂ ジャックが反論した。 ﹁どういう意味だ?﹂ ﹁いえね? 確かに姐さんの仰る通りでやんすし、奥は足場が悪い 可能性もある。有毒ガス︱︱あ∼、吸うと毒になる悪い空気が溜ま ってる事だってあるかもしれやせん。洞窟内に棲む生き物で狂暴な とうとう 奴も、居たりするかもしれやせん。ですがね、それは姐さんもいっ しょです﹂ クラウズェアの疑問に、ジャックが滔滔と答える。 ﹁そこへ比べて、あっしなら多少の知識がありやす。ガキの頃、よ うば くババアに色んな場所に連れて行かれたもんです。洞窟なんかもそ の一つですね、はい﹂ ば あ さま 懐かしむようなジャックの言葉に、 ﹁ジャックさんのお祖母様? それとも乳母?﹂ 興味をひかれたアルテミシアが尋ねた。 ﹁ああ、いえいえ。鬼婆みてぇに厳しかったんで、つい悪し様に言 っちまいやしたがね、あっしの母親です﹂ ﹁なんと、影人間も親から産まれるものなのだな﹂ なり また 今度はクラウズェアが驚きの声を上げた。 ﹁こんな形ですがね? 木の股や石の裂け目から勝手に産まれた訳 じゃあねえんですよ、これがまた。まあ、親と言っても赤ん坊ん時 に勝手に拾って育てやがった血の繋がらねぇ義理の親ですがね﹂ ジャックの口調は軽かったが、予想だにしなかった重い話に、少 年と少女は黙ってしまう。 ﹁いやいや、あれれぇ? どうしちまったんですかい、お二人さん ? ここは黙る所じゃあなく、クソババア談義に花を咲かせるとこ ですぜ?﹂ ことさら明るい声を出したジャックに、硬い表情のクラウズェア が口を開いた。 189 ぶしつけ き ﹁不躾なことを訊いてしまった。申し訳ない﹂ ﹁待った! まったまった、ちょいと待った!﹂ 頭を下げようとしたクラウズェアに、慌てたジャックが静止の声 を上げる。 ﹁いや、そういうのはナシ。そういうのは勘弁で﹂ 両手を大仰に振ってみせる影人間。 ﹁あっしは湿っぽいのは苦手なんですよ。こう、パーッと行きやし ょう、パーッと! っていうか、あっしのせいですね、はい﹂ そう言って黒い頭を掻くと、 ﹁洞窟探検の話ですよ、お二人さん。洞窟名人のあっしが着いてり ゃ姐さんも百人力。で、あっしが着いていくにゃあ、シア嬢ちゃん も行かなけりゃあならん、と。ですからね、お嬢ちゃんも一緒に行 きやしょう﹂ ﹁ローズ、お願い﹂ まくし立てるようなジャックの言に、アルテミシアが追従した。 この二人の言葉に、なんとなく断れる雰囲気ではなくなってしまい、 クラウズェアは渋々了承したのだった。 190 四章⑧﹃こ、これが、大陸の王侯貴族が入るという﹄ ジャックはガスの存在を指摘したが、自分自身ではその可能性は 極めて低いと考えていた。 火山で形成される溶岩洞は、文字通り流れ出た溶岩が冷え固まっ てできた洞窟だ。この場合、冷える過程で溶岩中のガスが外に吹き 出し、その勢いで空いた穴を維持したまま冷えた物となる。それが 溶岩洞であり、鍾乳洞などとはまた違った独特の岩肌になる。また、 ガスの性質上、たいていは上に吹き出すものであり、横穴ではなく 縦穴になる。 お だが、この洞窟は溶岩洞としての特徴が無い。アルテミシアを連 れて行こうと推したのは、その面では安全だろうと踏んだからであ り、もう一つの理由は、戦力の面である。 今現在、クラウズェアはレイピアを失っている。鉈やダガーはあ つ るが、それでは心許ない。それに比べ、アルテミシアにはモリオン が憑いており、いざとなればジャック自身も取り憑く事ができそう だ。そういう意味で、二人揃っていた方が安全だとの計算だ。 洞窟は歩きやすかった。 入り口近辺は外から流れ込む雨が土を運び込んでおり、ごつごつ した岩肌ではなく柔らかで平らな地面が形成されていた。だが、中 に踏み入れば足場も悪くなるだろうと思っていたジャックとクラウ こうもり ズェアは、意外なほどの平らかさに驚いていた。 警戒していた蝙蝠や虫なども見かけない。湿度も高くないばかり なん ぎ か、むしろ外よりも乾燥している。暗いことを除けば、とても快適 であった。 ﹁洞窟というものは、もっと劣悪な環境で、難儀すると思っていた のだがな﹂ 入り口からずっと、縦横三mほどの幅を維持したまま緩やかにう 191 ねった道を奥に進みながら、クラウズェアが感想を述べた。コツコ ツコツというブーツの音が、洞窟内に反響する。 ﹁ゴキブリなんかも見かけやせんね。けど、天井辺りにうじゃうじ ゃいたりぃ∼﹂ 足音を立てることの無い影人間が、女騎士をからかってやろうと 恐ろしげな声を作ってみせた。 ﹁ゴキブリってなぁに?﹂ 先に反応したアルテミシアに、 はね ﹁虫の一種よ。木の皮や土よりももう少し黑っぽい焦げ茶色で、小 さくて、すばしっこくて、翅で飛ぶこともできて、何でも食べる汚 い虫よ﹂ 眉をひそめてこそいるが、たいした嫌悪や恐怖などは感じられな い少女に、ジャックは拍子抜けした。 ﹁普通、女の子は虫やらが嫌いだと思ってたんですがねぇ。特に、 ゴキブリなんかは﹂ ﹁わたしは騎士だ。そんな軟弱な精神は持ち合わせていない﹂ ジャックの言葉に胸を張って答えるクラウズェア。 だが、 ゆが ﹁その、ゴキブリという生き物は、鳴いたりしないの? 昼に見た あのカエルっていう綺麗で可愛い生き物みたいに﹂ アルテミシアのこの言葉に、凜々しき女騎士の顔が恐怖に歪んだ。 ﹁シア! シア、カエルは綺麗じゃないのっ、ましてや可愛くなん てない! あれはね、あれは恐ろしい生き物なのよ。そう、なにか この世の生き物とはまた違った、天下のあらゆる汚物を集めて、そ こに人々の悪意や絶望を詰め込んで、七日七晩のあいだ邪悪な神々 への祈りを捧げてできあがった物なの。そういうアレなの!﹂ き き せま さっき、ジャックが演技して見せた恐ろしげな声など比ぶべくも ない、真の恐怖を語る者のみが発する鬼気迫る雰囲気に、アルテミ シアとジャックは圧倒された。 ﹁う、うん、そうなんだね。ごめんね? ローズ。もうカエルのこ 192 とは︱︱﹂ ﹁いけない!﹂ 少年の怯え混じりの謝罪を、少女の絶叫が遮った。 ﹁そのおぞましい名前を口にしちゃだめ! きっとあいつらを呼び 寄せてしまうわ。そうなればここは逃げ場の無い洞窟。きっとわた しま し達は殺されてしまう。殺されてしまうのよっ? カエルに殺され れば、きっとカエルに生まれ変わる。そうなればもうお終いだわ! ああ、天と地の神々よ、お助けください﹂ 唐突に跪いて祈り始めたクラウズェア。その鬼のような形相に、 アルテミシアが思わず言葉を漏らした。 ﹁ローズ、こわいよ﹂ ﹁そうでしょうっ? カエルは怖いのよ! 恐ろしい!﹂ ﹁⋮⋮もう、いいですかい?﹂ すれ違う二人を見ているのも面白かったが、これでは先に進めな いと、ジャックが一声掛けた。 ﹁わかった﹂ ﹁うん、そうだね﹂ 二人とも納得し、また歩き始める。 ひと ご ﹁なかなか面白いキャラなんですねぇ、姐さんは﹂ 小さく独り言つジャックに、耳の良いアルテミシアがやはり小声 で言った。 ﹁ローズは子供の頃から凄く楽しい子だったよ。さっきは少し⋮⋮ そう、ほんの少しだけ怖かったけれど﹂ 幼なじみの少年は、控えめな感想を述べた。 ﹁む﹂ 先頭のクラウズェアが声を発して止まり、会話が聞かれてしまっ たのかと肩をぶるりと震わせてしまう後ろの二人。だが、その心配 はなかった。 たいまつ ﹁道が二手に分かれている﹂ クラウズェアが松明をかざす先は、確かに道が二股になっている。 193 そして、どちらの道も特徴の無い、今までと代わり映えのなさそう な道に見えた。とはいえ、松明の照らす範囲は狭い。結局は行って みなければ判らない。 そのとき、 ︻ミテミテ︼ ﹁︻ほんとだね。見える︼﹂ モリオンから話しかけられたアルテミシアが、同意の返答をした。 ﹁なにが見えるの?﹂ クラウズェアが問うと、 気付いたけれど、この洞窟全体が他より濃い銀色をしてる。 ﹁どちらの道からも、︿銀の霧﹀が漂ってきてる。いまあらためて 見て どうして気付かなかったんだろう? ⋮⋮︻隠れてたの?︼﹂ 前方や周囲に視線を向けたアルテミシアは、クラウズェアに答え た後に、モリオンの声に耳を傾けた。実際に声を聞いている訳では ないのだが。 アルテミシアが︿銀の霧﹀を見るようになって、︿彩化晶﹀のよ うな特別な石のみならず、あらゆる物、あらゆる場所にそれは在っ た。 空中にも地面にも、更には人にも。 そして、彼の目からすると、この洞窟全体が濃い銀の霧を含んで 見よう としていなかった事で いるのだが、最初に入り口を見付けた時や食事を摂っていた時には 気付かなかったのだ。取り立てて はあるのだが。 静かな洞窟内に、松明のぱちぱちと燃える音と、さらさらという 銀月に似た独特の音が流れ、少年の白い耳をくすぐる。 ﹁こっからは気をつけて進みやしょう﹂ ﹁わかった﹂ ジャックの呼びかけにクラウズェアが応じ、前方に視線を向けた まま問いかけた。 ﹁シア、どっちに行こうか?﹂ 194 緊張をはらんだ声に、うーんと考え込んだ少年は、 たお ゆび さ ﹁こっち。なんだか温かい感じがするよ?﹂ 白く嫋やかな指で指し示した方向は、左手の道だった。 ﹁では、こっちへ﹂ クラウズェアが今までより慎重な足取りで進み始めた。コケで足 を滑らせないよう気をつけている時の歩法だ。自然、足音が小さく なる。 静かに、慎重に進んでいったすぐ先で、一行は行き止まりに出会 った。 ﹁何もない、のか?﹂ 周囲を松明で照らしてみて、目をこらして見たものの、緑の目に は石壁しか映さない。 だが、赤眼には別の光景が映り込んでいた。 さや ﹁そこの突き当たりの壁にね、何かあるよ?﹂ アルテミシアが指さしたらへんを鞘に収まったままの鉈でつつい てみると、クラウズェアの手に何かがずれる感触が伝わってきた。 よく見ると、腹の辺りの高さに出っ張った石があり、それが横にず れたのだ。 ﹁︿石﹀ですかい?﹂ ずれた跡に、茶色の石があるのをジャックがめざとく見付けた。 ﹁うん。︿石﹀だね﹂ ︿彩化晶﹀である事をアルテミシアが肯定し、茶色の︿石﹀に手 を伸ばす。 ﹁シア、危ないわ﹂ 慌てて止めようとするクラウズェアの手に白い手が触れ、安心さ せるように言った。 ﹁だいじょうぶ。危ないことは無いと思う。なんだかね、開けられ そうな気がする﹂ ﹁開ける?﹂ ﹁うん。この向こう側があるんだと思うよ﹂ 195 赤い目が、突き当たりの石壁を見ている。 しば ﹁お嬢ちゃんを信じて、お願いしてみやしょうぜ﹂ このジャックの言に暫し考えたクラウズェアだったが、少年の綺 麗で真剣な眼差しに折れ、従うことにした。 ﹁何かあったらすぐに下がるのよ?﹂ 言いながら、鞘から鉈を抜く。 ﹁うん﹂ ま アルテミシアがそっと手を伸ばし、茶色の︿石﹀に指先を触れさ せた時、 驚くべき事が起こった。 ﹁動いたっ?﹂ 浮いた と言った 驚きの声を上げるクラウズェアの眼前で、︿石﹀のついた壁が先 ず少しだけ上にずれた。ずれるというよりも、 方が正確か。そして、でっぱった石の分だけ奥に動くと、そのまま 上に浮き上がって天井の中に消えてしまった。 後には、石壁の消えた向こう側に大きな部屋くらいの空間が広が っている。 ﹁ほら、ね?﹂ ﹁自動ドアだな、こりゃ﹂ ならずもの 二人の声は、驚きで固まったままのクラウズェアを動かしてくれ た。 ﹁これは⋮⋮試練を求める者どもがしきりに口にする︿遺跡﹀なの か?﹂ まった 太古に栄華を極めた大国は、東の大陸にだけ影響力を持っていた 隠された場 訳ではない。ここグリーンウェルにもその勢力を広げ、︿全き民﹀ と呼ばれる古代人が建設した建物や施設が残る。 も存在する。 都が丸々一つ残る場所もあれば、山中や荒野に残る 所 そういった遺跡に入り込み、調査で入る学者を護衛したり、自分 たちのみで踏み入って金目の物を盗み出す事で生計を立てているの 196 隠された遺跡 なのではないかと、ク が︿試練を求める者﹀と呼ばれる連中だった。 そして、この洞窟こそが ラウズェアは考えたのだ。 ﹁遺跡ですかい? 楽しみですねぇ。さっそく入ってみましょうや﹂ ジャックが促し、クラウズェアが鉈を前に突き出したまま入って いく。アルテミシアも続いた。 そうすると、またもや一行を驚かせる事態が起こった。 おの 暗かった空間が、にわかに明るくなったのだ。床も壁も天井も、 ぼうっとした白い光で自ずと光り、壁一面に松明やランプを並べた ぜんぼう よりもなお明るい場となった。 そうして全貌が明らかになった中は、天井の高さこそこれまでと 変わらず三mほどだったが、横は五mほどもあり、奥行きに至って は一〇mくらいもあった。 しつら その広い空間が、手前と向こう側およそ中間点くらいで趣を変え ている。 手前は机と椅子が備えられ、壁際には棚が設えてある。奥は、短 い下り階段があり、縦横五m、深さ六〇㎝に落ちくぼんだ場となっ ていた。 クラウズェアもアルテミシアも、目を丸くして言葉も発さず固ま っている。 ﹁こりゃあ、水の張ってねぇ屋内プールに似てやすねぇ。あすこに つつ あるのなんて、まるで蛇口みてぇじゃねえか。ねえ、シア嬢ちゃん ? あすこのあの筒みてぇな出っ張り、アレに触ってみやせんかい ?﹂ ﹁どこ?﹂ 今まで目が見えなかった事であまり常識を知らないアルテミシア は、クラウズェアよりも衝撃が少なかった。なので、ジャックの言 で興味を持ち、すぐさま行動に移った、 ﹁⋮⋮あ、待ってシア!﹂ 遅れて思考を取り戻したクラウズェアが、慌てて後に続く。 197 ﹁筒って、この温かい感じがする筒?﹂ 筒は二つあった。横の壁から突き出す形で、口を落ちくぼんだ場 所に向けており、一つは赤、もう一つは青い色をしている。 ﹁あ、じゃあますは赤い筒からお願いしやす﹂ ﹁大丈夫なのかしら?﹂ ﹁うん、たぶんだいじょうぶ。危ない感じはしないし、分かれ道の 手前で感じた温かい感じは、きっとこれだよ。触るね?﹂ そう言って触れてみると、アルテミシアにだけ分かる銀の霧が筒 に集まり、次いで、赤い筒から熱湯が噴き出してきた。 ﹁わわっ?﹂ びっくりしたアルテミシアが思わず筒に触れると、今度は熱湯は 出なくなった。 ﹁ははあ、なるほど。ほいじゃあ今度は、青い方をお願いしやす﹂ ジャックの言に従い青い筒に触れると、こちらは冷水が勢いよく どばどばと出てくる。そして、もう一度触れると、出なくなった。 ﹁風呂ですね﹂ 納得げなジャックの声に、クラウズェアが驚きの表情を浮かべた。 ﹁風呂というと、大陸の王族や一部の大貴族だけが好んで入るとい う、あれか? だが、大勢の下男下女を使って沸かした湯を運ばせ るものだと聞いていたが﹂ 風呂を沸かすのは、時間も労力も金もかかる。そんな手間暇を掛 けた信じられない贅沢は、グリーンウェルの王族だってやらない。 せいぜい、たらいに湯を張ってその中で体を洗う程度だ。平民に至 もくよく っては、濡れタオルで体を拭く程度である。常葉の乙女達は例外で、 泉の水で沐浴するのが日課となっている。だがそれも贅沢としてで はなくあくまでも清めの儀式であり、使われるのは水だ。 だから、そんな贅を尽くした︿風呂﹀などというものがこんな洞 窟にあるという事は、クラウズェアを心底驚かせた。 ﹁ねえ、もう一度出してみてもいい?﹂ 最初は驚いたが、今や好奇心の塊となったアルテミシアが、変化 198 の薄い表情と声にわずかな興奮を忍ばせ、ジャックとクラウズェア を見上げた。 ﹁出しましょう。出しちゃいましょう。しばらく出しっ放しにして、 後でもう一度見に来やしょう﹂ ﹁何か凄く勿体ないことをしている気分だ﹂ 真面目な女騎士は悩んだが、今は残る右手側の分かれ道を調べる のが先決である。ここで見ている訳にもいかないし、風呂というも のに興味もある。 ここにはまた後で来るとして、分かれ道まで戻ることにした。 199 四章⑨﹃四季の間﹄ ﹁もう、意味が解らん。わたしは頭がおかしくなったのか?﹂ クラウズェアが呆然とするのも無理はなかった。 右の分かれ道へ進んだ一行は、またもや突き当たりと茶色の︿石 ﹀を見付けた。今度はクラウズェアが触れてみたのだが壁はうんと もすんとも言わず、アルテミシアが触れると浮いて天井に消えた。 たん す 一歩踏み入ると明かりの点いたそこはやはり部屋になっており、 縦横一〇mほどの広い空間に、ずらりと並んだ箪笥や本棚や大きな 机と何かの器具、それとベッドが一つ。いくつかの扉も。 ﹁理科室と保健室を合わせたみてぇな部屋だな、こりゃ﹂ ﹁それはどんな部屋?﹂ ジャックの感想にアルテミシアが食いついた。 ﹁理科室は色んな植物や動物や鉱物を使って様々な事を試す部屋で す。保健室は傷の手当てをしたり、色っぺぇ養護教諭︱︱薬師から 誘惑される部屋です﹂ きょ ぎ ずいぶん偏った説明であった。 ﹁なんとなく虚偽の説明を受けた気がするのは、わたしだけか?﹂ クラウズェアは疑いの目で影人間を見つめた。 ﹁そんな事よりお二人さん、奥に四つばかり扉がありやすぜ?﹂ 黒い指が指し示した方向には、確かに扉が四つあった。近寄ると、 どの扉にも石はついておらず、普通に取っ手を回すタイプだった。 まず最初に、左端の扉をクラウズェアが開けた。そして、中の光 景を見た彼女は、冒頭の通り呟いたという訳だ。 ︱︱そこは、春だった。 どこまでも続く広い空間。広い土地。 ぽかぽか陽気が満たすそこは、青い空の下を種々の草花が色とり 200 どりに咲き乱れている。向こうの方には山があり、山桜が白っぽい のやら赤っぽいのやらその中間色やらの花をわんさかと咲かせてい る。 また別の方へ目をやると、地平線が遠く霞んで見えた。桃の花が こい 咲き誇る枝々を小鳥が飛び交い、黄色い菜の花畑を兎が跳ね、白い 水芭蕉が揺れる隣の川を鯉が泳いでいる。 ﹁洞窟の出口に出た⋮⋮にしちゃあ今まで見た天焦山の風景と違い すぎる。何より、空にお天道様が浮いてねぇ﹂ ジャックの言う通り、空は明るいのにも関わらず、太陽の姿は無 かった。 ﹁銀の霧が濃いよ?﹂ アルテミシアの赤い目には、辺り一面に漂う霧が見えている。 ﹁あとに、しよう﹂ そう言って、クラウズェアが扉をそっと閉じた。見なかった事に したかったのだ。 一つ右隣の扉を開けると︱︱今度は、夏だった。 蝉の鳴き声があふれ出る。 ﹁出口に出たようだな﹂ クラウズェアの言葉を、ジャックが否定した。 ひま ﹁現実逃避してぇようですがね? お空にお天道様が無い。生えて わり あじさい る木や草も、天焦山の物とは趣が違いやす。⋮⋮っていうか、向日 葵畑とかあるし。なんじゃこりゃ?﹂ しお 元気よく天を向く向日葵たちや、赤紫と青紫の鮮やかな紫陽花、 今はもう萎れてしまったが朝顔もあり、そしてもう充分に驚いた三 人を更に驚かせた物は、 ﹁海ですね﹂ ﹁海、なのか?﹂ ﹁あれが、うみ?﹂ 遠くの方に白い砂浜が広がり、その向こうは広大な大海原が果て しなく続いていた。上空を、鳥が飛んでいる。 201 ﹁こいつぁ、たまげた﹂ ﹁それ以前に、おかしいだろう?﹂ ジャックの感想に、クラウズェアが抗議するような声を上げた。 ﹁海って、本当に大きいんだね﹂ ﹁そう、海は大きいの⋮⋮待って? おかしいでしょ?﹂ アルテミシアの感動に、思考の追い付かない女騎士は待ったを掛 けた。 ﹁おっしゃ、テンション上がってきた! 外からスイカ持ってきて、 あの砂浜でスイカ割りしやしょう! そいで、カチ割ったスイカを 貪り食って、誰が一番遠くまで種を飛ばせるか、競争です! 優勝 者は負けた奴に何でも命令できるルールで﹂ ﹁うん。競争しよう? 最初は、あそこまで走って行く競争をしよ う?﹂ ︻キョウソウ、キョウソウ︼ ﹁位置に着いて、ヨーイ﹂ とん ち き ﹁待てい!﹂ 浮かれ頓痴気になって今にも駆け出しそうな二人を、クラウズェ アの一喝が止めた。 ﹁走って行ってどうするっ?﹂ ﹁そういや、スイカを持ってきていやせんでしたね。ジャックうっ かり﹂ ﹁違うだろう!﹂ ﹁あ、ジャックさんはぼくの影にいるんだから、楽ができるね。ぼ くだけ走ることになっちゃう。ずるいよ﹂ ﹁そうじゃないでしょう? だいたい、走るとか言う以前に、二人 は一緒に着いちゃうでしょう? それじゃあ競争にならないわ。い え、そうではなく﹂ 興奮気味の少女は、肩ではあはあと息をしながらそれそれに突っ 込んだ。 ﹁何故、海がある? ここは山のはずでしょう? そしてどうして 202 昼間なの? いえ、太陽が昇ってないから昼なのかどうかも判らな いけど、外は夜でしょ? ええ、夜だったわ﹂ だんだんと怪しくなってくる自分の認識をしっかりさせようと、 ことさらはっきりクラウズェアは断じた。 ﹁おかしいね?﹂ ﹁おかしいですねぇ﹂ は あく 二人も、駆け出すのは取り敢えずやめにして、クラウズェアに追 従した。 まあ、生真面目な少女のように状況を把握したかった訳ではなく、 単にこの怒ると恐ろしい少女を刺激したくなかっただけなのだが。 ﹁取り敢えず、残りの二つも見てみやしょうか?﹂ ﹁そうだね﹂ ﹁うーむ﹂ ジャックの提案に二人は従い、三つ目の扉を開けることにした。 秋だった。 赤や黄に色づいた木の葉が美しい。 ﹁次﹂ ﹁え? もう?﹂ 一瞥しただけで発された言葉に、ジャックが背の高い少女を見上 げる。 ﹁次﹂ 逆らえる雰囲気では無かった。アルテミシアは黙っている。ジャ ックも黙って従うことにした。 四つ目の扉は冬だった。 ﹁なるほど﹂ 雪景色を一瞥した女騎士は、そう言って扉を閉めた。 誰も、何も抗議しなかった。 ﹁どうしやしょうか?﹂ ジャックがお伺いを立てると、 ﹁まだしも解りそうな所から。まずはこの部屋を調べる﹂ 203 女騎士の下知に、アルテミシアは﹁うん﹂と答え、ジャックは﹁ へへぇ﹂と土下座した。 ほんぞうこ そうして三人で調べた結果。 ﹁書庫兼本草庫ですね﹂ ジャックが言った。 ﹁本草とはなんだ?﹂ クラウズェアの問いかけに、 ﹁植物・動物・鉱物の中で薬になる物を本草って言うんです。ここ は、それを加工したり保存したり調合したり処方する用途で作られ しょう やく た部屋でしょうね。本棚にゃあ本草書があるし、箪笥の中身は本草 を加工した生薬で一杯です。あっしの国じゃあそれを漢方って言い ますが﹂ どこか懐かしむような物言いに、赤い目が黒いのっぺらぼうを見 つめた。 ﹁帰りたいよね﹂ ぽつりと呟かれたその言葉に、クラウズェアは神妙な顔をし、ジ ャックはへらへらと笑った。 ﹁いや、どうでしょうね?﹂ 誤魔化すような、はっきりしない返答に、アルテミシアは目を伏 せて考え込み、クラウズェアは思い切って問いかけた。 ﹁やはり、影の国は遠いのか?﹂ き 育ての親のことで不用意な発言をしてしまったと悔いていたクラ ウズェアだったが、それでも訊かずにはいられなかった。なんのか んのと言いながら、ジャックには助けられている。危機を救って貰 いもしたし、何よりもアルテミシアの心を救ってくれた。 恩人と呼ぶに相応しい。 できることは少ない身だったが、それでも何とか力になってやり たいと思った。 204 それはアルテミシアも一緒だった。少年にとって、この楽しい影 人間は幼なじみの少女や胸中の子供と同じくらい、大切な存在にな っていたのだから。 そんな二人の気持ちを察して、ジャックは明るい声を出した。 ﹁ま、遠いっちゃあ遠いんでしょうねぇ。けど、いますぐ戻れるっ てぇ訳でもねぇですからね。最初は驚きもしたし、焦りもしやした が、今じゃあお二人とー、あ、モリオンとも含めて四人でぶらり旅 をすんのが、えらい楽しくなってやしてね? へへ﹂ 偽りなく零れた笑い声に、クラウズェアは﹁そうか﹂とだけ答え、 アルテミシアはじっとジャックを見つめた。 ﹁それよか、随分と時間が経っちまいやした。とっとと風呂でも入 って寝る事にしやしょう﹂ しんみりした空気を追い払うように、明るい声で少年少女を促し た。 ﹁入るのか、風呂に﹂ ﹁︻楽しみだね︼﹂ ︻タノシミタノシミ︼ 先程とはまた違う重い口調というか、緊張をした声のクラウズェ アと、実際に楽しみなアルテミシア親子が、それぞれの反応を見せ たのであった。 205 四章⑩﹃愛と大切の絶叫﹄ 奇妙な光景だった。 一人だけ裸になったアルテミシアが、モリオンを抱いて湯船につ かっている。そして、目隠しをし、ブーツを脱いで裸足になったク ラウズェアが、椅子に座っている。ジャックはアルテミシアの影に 潜んで出てこない。 いきさつ こうなった経緯をを説明しよう。 一行が風呂場に行くとすでに湯船は一杯となり、湯と水は勝手に 止まっていた。入り口付近に茶色の彩化晶があり、それに触れると 石扉が降りてきたので、暖気が漏れる心配はなくなった。そうして アルテミシアがこう言ったのだ。 ﹃ローズも一緒に入るでしょう?﹄ この言葉には、さすがの幼なじみも慌てふためいた。 アルテミシアは、毎日側仕えの巫女達から体を洗われていた。盲 目の少年は、産まれた時からそうだった。 女子 として育てられた。 また、女人禁制の神殿に閉じ込められて育ったので、男女の性差 うと というものに疎かったし、そもそも だから、女の服を着ることも、ジャックから﹃お嬢ちゃん﹄と呼 ばれることも、そして女性相手に肌を晒したり一緒に風呂に入るこ とも抵抗はなかったのだ。 だが、クラウズェアは違う。 男勝りな性格をしてはいるが、れっきとした女性であり、花も恥 は じらう乙女だ。ましてや貴族のご令嬢なのだから、平民よりも慎み 深い。 アルテミシアを守りたい一心で剣を取り、ズボンを穿き、馬にま たがりこそすれ、男子と全く同じという訳ではなかったし、それ以 206 ていしゅく 前に異性に︱︱アルテミシアをよく知る彼女ですらその事実を忘れ そうなこともあったが︱︱男の子に肌を晒すなど、貞淑な彼女には 考えられないことだった。 だから、部屋の外で待っていようと思ったのだ、ジャックがこう 言うまでは。 ﹃そいじゃあ、クラウズェア姐さんはほっといて、あっしら二人で 入りやしょう? シア嬢ちゃんと二人っきり。裸のおつきあい∼。 おお、アルテミシア、あなたはどうしてそんなに白い肌をしている の? それはね? このジャックに食べられるためさ∼! ジュル リ﹄ 下品な舌舐めずりの音が風呂場に反響し、クラウズェアの怒りに 火を点けた。 ﹃シア? そこの汚物が悪さをしないように、見張ることにしたわ﹄ 勿論、少年に嫌と言える訳が無かった。 こうして、この奇妙な状況が生まれる事となった、という訳だ。 けつ ろ ちゃぷちゃぷという湯が波打つ音と、ぽたりぴちゃりという天井 で結露した滴が落ちる音が、風呂場に反響する。 ﹁シア? ジャックはちゃんと影から出てきていないでしょうね?﹂ 腕組みしている監察官が、椅子にどかりと座ったまま質問した。 ﹁今は目が見えないから判らないけれど、ジャックさんは約束を破 る人じゃないよ﹂ モリオンを両手で抱いたアルテミシアが、頬を黒い球体にくっつ けたまま返事した。抱っこされているモリオンの方は、赤い光をゆ っくりと穏やかに点滅させている。 ほど ところで今のアルテミシアの姿だが。 まゆ リボンを解いているので、全方位に垂れ下がった白い髪が顔も裸 身も覆い隠し、さながら繭に包まれたかの様だ。目が見えていたと しても、これでは周りはよく見えない。 白い少年と黒い球体。見る者があったのなら、きっとかなり驚い 207 た事だろう。 ﹁信用ないっすねぇ、あっし﹂ 白く長い髪の内側から、ジャックのぼやきが聞こえた。 いつものような地面に落ちた影からではない。この浴室は、床も 天井も側面の壁も四方八方が光っている。影ができにくいのだ。だ から、今は白い髪と白い肌の隙間にできた影に潜んでいるのだ。 ﹁仲間としては信頼している。だが、お前の特殊で破廉恥な性癖は おど 信用ならん。もし言いつけを破って影から出てくれば⋮⋮わかって いるな?﹂ 恐ろしい声で脅しつけるクラウズェアに﹁ひえぇ﹂と恐怖の声を 漏らす破廉恥影人間。 ﹁もう、そんな風に言ったらダメだよ? 本当はジャックさんとも 一緒に入りたかったのに。ねえローズ? 本当に一緒に入らないの ? 後で一人で入るなんて、手間じゃないの?﹂ 少しだけ不満の滲んだ少年の声に、赤毛の少女は慌てた。 ﹁ダ、ダメよ! そういうのは慎み深い人間がするものではないわ。 異性が肌を晒して良いのは、結婚した相手だけよ? 側仕えの神殿 巫女達だって、装束を着たまま湯浴みのお世話をしてたはずよ?﹂ 大仰に手を振った後、落ち着かない風に素足で床を探るような動 きをした。 すべ 温かい床だった。床だけではない。光を発する壁全てが温かいの だ。 クラウズェア達には知る術が無かったが、発される光には可視光 線だけでなく、赤外線と紫外線も含まれていた。光量の少ない太陽 みたいなものだ。赤外線で保温をし、紫外線で屋内の殺菌をする。 が、肌が焼けるほどではない。よくできている。 話はそれるが、体の白いアルテミシアが妖精境の強い日差しで肌 を焼かれないのは、モリオンのおかげだった。アルテミシアが酒場 で﹃なんだか体も元気だし﹄と云っていたのはこういうことも含ん でいたのだ。 208 それはさておき。 や ゆ 足を温めて心を落ち着けているクラウズェアに、ジャックが揶揄 するような問いかけをした。 ﹁しかし、ここまでしやすかい? 愛ゆえの行動でやんすねぇ?﹂ 目隠しをしてまでの女騎士の行動を指しているのだ。だが、ジャ ックの意図したものとは違う部分にクラウズェアは反応した。 ﹁わたしはその﹃愛﹄という言葉が好かん。東の大陸で流行ってい 愛 はんちゅう という言葉を使うことに気触れておるようだが、本来、我 かぶ る宗教の教えの一つらしいのだがな。我が国でも、最近の若い連中 が が国には愛などと言う言葉は無かった﹂ 結婚できる年齢とは言え、﹃若い連中﹄の範疇に入る少女が、腕 組みしながら不愉快そうに鼻を鳴らす。 大切 だ﹂ ﹁それまでは?﹂ ﹁ そ ぼく ジャックの興味深げな問いに、女騎士が重々しく答えた。 大切 という言葉こそ、まことに ﹁素朴で、飾り気が無く、それでいて心にせまるものがある。愛な どという浮ついた言葉ではなく 人を想い、また分け隔て無く天地自然のもの全てにかかる言葉だ﹂ 熱のこもった言葉に、ジャックがしめたと言葉をつなぐ。 ﹁ほうほう? ほんじゃあクラウズェア姐さんからしたら、シア嬢 ちゃんなんて一番大切なんじゃあねぇですかい?﹂ ﹁当たり前だ。わたしにとってシアは一番大切で、一番大事で、他 の何にも代えられない、わたしの宝物だ﹂ 間髪入れぬ返答だった。話に熱中していた。目隠しで目が見えて いないこともあり、同じ部屋にアルテミシアが居る事を失念してい るのだ。 ﹁ぼくも、ローズのこと、すごくすごく大切に思ってる。他の誰に も代えられない。ローズはローズだけ﹂ ﹁ありがとう、シア⋮⋮え?﹂ 堂々と言ってのけるには恥ずかしいことではあったが、嘘や誤魔 209 きょう きん 化しは嫌だった。大切な気持ちなら尚更だ。それに、ジャックには 人の胸襟を開かせる不思議な魅力があった。だから話してしまった。 それはいい。ジャックと二人での話ならば。 だが︱︱ ﹁いやぁ、熱烈な愛の告白でしたねぇ。いやいや、愛じゃあなくて 大切か﹂ はやし立てるような声の前に、確かにアルテミシアの声も聞こえ た。 ﹁⋮⋮シア?﹂ 恐る恐る少女が問うと、 ﹁なぁに?﹂ ちゃぷりという身じろぎに合わせた湯の音と、確かに少年の声が 聞こえたのだ。 ﹁き、聞いてたの?﹂ ﹁ん? うん、聞いてたけれど﹂ 当たり前だ。同じ部屋に居るのだから。目が見えなくなったから と言って、人が居なくなる訳ではないのだから。 ﹁わたしはっ、わた、わたしはぁっ?﹂ ﹁なに? どうしたの?﹂ 恥ずかしさのあまり、頭を抱えて絶叫し始めた幼なじみの少女に、 驚いたアルテミシアはびくりと身を震わせた。 ﹁ローズ? ねぇ、どうしたの?﹂ ﹁シアに聞かれたぁ!﹂ ﹁あ∼らら﹂ しばらくの間、浴室に少女の絶叫が響き渡ったのだった。 210 四章⑪﹃ヘンタイが語る、水晶の世界﹄ うな うめ 浴室にて、クラウズェアが自分の失態にうーうー呻き、いつのま にやらできていた日焼けの痛みにうんうん唸っていた頃。 ページ アルテミシア達は書庫兼本草庫に居た。 アルテミシアが本の頁をめくり、ジャックが文面を読んでいる。 最初はジャックが﹃鬼の居ぬ間に、間違えた。姐さんが居ない間 に︿冬の間﹀で雪合戦しやしょうよ﹄と悪魔の誘いを持ちかけたの だが、心優しいアルテミシアは﹃仲間外れにしたらローズが可哀想 だよ﹄と言って甘い誘惑をはねのけたのだ。 まあ、少しだけ、ほんの少しだけ、初めて見る雪を触ってみたり して、その白さと冷たさに驚いたりしたのだが。これでアルテミシ まと アが湯冷めでもして風邪を引き、その原因がジャックにあると知れ れば、哀れな影人間はどうなることやら⋮⋮。 それはさておき。 ﹁それで? 他にはどんな事が書いてあるの?﹂ 字の読めないアルテミシアの代わりに、ジャックが内容を纏めて 簡単に説明してやっているのだ。まあ、読み書きを習っていたとし ても、少年には理解できない言語で書いてあったのだが。 かく いま読んでいる物は、洞窟の主が書いた手記だった。 かたまり たん す ﹁ええとですねぇ。全ての次元の核となる、太極の太極とも言うべ き根元の気の塊︱︱ああ、さっき箪笥の中に入っていた球根があっ たでしょう? ああいうのが、なーんにもないお空の真ん中に浮い てるとでも思ってくだせぇよ。あ∼、湯上がりの美少年の匂いはた まらん﹂ せわ アルテミシアの背後から本を覗き込みながら、首筋にのっぺらぼ うを近付けてクンカクンカ忙しなく、有るのか無いのか判然としな 211 い鼻を鳴らすジャック。 変質者の極みであった。 そで ちなみに、アルテミシアが着ていた服は洗って洞窟の外の枝に干 し、今は替えの服に袖を通している。 ふ らち ﹁くすぐったいよぅ。ねえそれより、続きを聞かせて?﹂ 耳元で聞こえる不埒な鼻息に、息がかかる訳ではないがどうにも くすぐったい感じがして、アルテミシアは身をよじりながら忍び笑 いを漏らしてしまう。 そして、またその仕草が背後の危険人物を喜ばせた。 ﹁ぶひひひ。よいではないか、よいではないか。間違えた。でです ね、その球根は⋮⋮球根と求婚って、字は違いやすが読みは一緒で すねぇ。あぁ、シア嬢ちゃんと結婚してぇ! じゃなかった。その 球根は、水晶みてぇなもんでできてるんだそうです﹂ ﹁水晶⋮⋮って、宝石の?﹂ ぼんのう まき ﹁そうですそうです。くぅ∼っ、白い肌が桜色に色付いて、あっし の煩悩の炎に薪をくべる! 自覚なく犯す罪こそ、最も重い罪だと むりょう む すう 知るべきですぜ! その球根から、四方八方に幹が伸びてるんです﹂ ﹁幹が﹂ ﹁そう、幹です。無量無数にあちこちに伸びた幹です。その幹にま ねじ た、無量無数の枝が生え、その枝々からまた数限りない小枝が四方 八方に伸びていき、ある枝は一直線に伸び、ある枝は拗くれ、ある て さ かばん 枝は他の枝に巻き付き、ある枝は他の枝と重なり合っている﹂ ﹁重なり合う⋮⋮この手提げ鞄みたいに?﹂ 洞窟入り口から回収してきた、弁当箱などを入れていた竹細工の 鞄を指さす。 ﹁んー、編んだみてぇに重なり合っているんじゃなくて、ニュアン ス的には水や光みてぇに混ざり合いながら重なってるようですぜ? 滝の水は、滝壺に落ちたら混ざっちまうでしょ? で、重なり合 った部分は混ざってるんですが、交差した部分を過ぎるとまたそれ ぞれ枝が伸びてる﹂ 212 ﹁ふくざつなんだね﹂ ﹁ええ、ごちゃごちゃしてやがりますね。そいで、そのごちゃっと した枝にまた星の数ほどの実がなってるんだそうです。一つとして ね 同じ色の無い、たぁくさんの実が。その実も、林檎や苺みてぇなも んと言うより、光みてぇな実態が有るんだか無ぇんだかよう解らん ⋮⋮光って事は光子だから実態は有るよな? 有るのか? いんや そもそも、光だと断定されてる訳じゃねぇから、そこはいいのか。 まあ、そういう得体の知れねぇ実の一つが、﹃この世界﹄なんだそ うですぜ? ⋮⋮マジでッッッ?﹂ 説明した本人が驚いていた。 ﹁﹃世界﹄って、なぁに?﹂ この世界の人間は、︿世界﹀という概念を知らない。名称とは、 りんご み かん いちご 他の物と区別する必要が発生した時に生まれる。 林檎という単語は、蜜柑や苺といった他の実と区別するためにあ 実 とだけ言われていただろう。あるいは あれ とだけ言 るのであって、この世に林檎一種類しか実が存在しなかったら、そ れは を知る、もしくは推測する方法が無け などという発想や概念や名称は生まれないのだ。こ 世界 われていたかもしれない。 世界 同じように、他の れば、 の世界の人々が認識しているのは、せいぜい﹃国﹄だ。 ﹁世界ってぇのはですねぇ、宇宙⋮⋮宇宙の説明の方が難しいか? おお かぶ ちょいと待ってくださいよ? 混乱した頭を元に戻さねぇと﹂ もうれつ そう言ったジャックが取った行動は、少年の背後から覆い被さる のうない ま やく ようにして猛烈に匂いをかぎ始める事だった。 ﹁あ∼、脳内麻薬が出てきたー﹂ とんだ暴挙に出たものだ。もはや性犯罪の域に達していた。相手 が無知な少年であることを良い事に、許されないことだ。誰かが立 ち上がらねばならない時だった。 そう、例えば、 ﹁貴様、何をしている?﹂ 213 しの かげろう ゆらり、と、二人の背後で真昼の天焦山を軽く凌ぐ陽炎が立ち上 ったようだった。 ﹁ローズ﹂ いつでも入ってこられるようにと、少年しか開けられない石扉を 開けておいたのだ。そこから、表情が全く消え去った女騎士が歩み 寄って来るのが見えた。 ﹁ロ、ローズ?﹂ まなこ 訳もなく声が震えてしまうのを気のせいと振り切って、アルテミ シアは声を掛けた。 女騎士と、目が合う。 目の錯覚に違いないのに、クラウズェアの両の眼は恐ろしいほど につり上がり、緑色にギラリと光っている。口は耳元まで裂け、ズ ラリと並んだ歯はバイガン将軍よりも鋭い。チロリと揺れる舌の奥 から、黒い炎が漏れて⋮⋮。 アルテミシアは、なんだか急な眠気を覚えた気がして、椅子に座 ったまま気絶した︱︱ 214 四章⑫﹃誰が一番遠くまで飛ばせるかな?﹄ ﹁お早う。よく眠れた?﹂ 気がつくと、アルテミシアはベッドで横になっていた。 ここは書庫兼本草庫。その、部屋に一つだけあるベッドの上で、 アルテミシアは目覚めたのだ。 少年は、むくりと起き上がる。 ﹁ぼく、寝てたの?﹂ いつ寝たのか覚えていなかったアルテミシアは、不思議な感じが した。 ﹁覚えてないの? 昨日、そこの机で本を読んでいる最中に、眠っ てしまってたのよ?﹂ そう言って微笑む幼なじみの少女と視線を合わせると、胸中のモ リオンがガタガタと小刻みに震える感覚があった。なんだかそれは、 とても大きな獣に襲われた仔犬のような感じで、まるでモリオンが クラウズェアを恐れているかのようである。 ﹁シア? どうしたの? なんだか顔色が悪いわ。もしかして体が 悪いの?﹂ 心配そうな少女の声に、アルテミシアは﹁だいじょうぶ﹂と答え、 靴を履いた。 ﹁ぼく、顔を洗ってくるね﹂ ﹁わかったわ。はい、タオル﹂ ﹁ありがとう。⋮⋮ねぇ、ところでどうしてジャックさんはそんな 所でそんな格好をしているの?﹂ 視線の先には、腕組みして椅子に座る女騎士の足下で、土下座を し続けるジャックの姿があった。 ﹁⋮⋮﹂ ジャックは黙して語らない。 215 ﹁ジャック、シアと会話することを許可する。ただし、必要最小限 で済ませるよう﹂ クラウズェアの厳しい声が発されると、 げ せん ﹁へへぇ! 発言をお許し頂き、まことにありがとうございやす! アルテミシア殿下、この下賤で破廉恥で品性が下劣で浅ましいド ングリ以下の影人間めにお声がけ頂きやして、まことにっ、まこと に有り難うございやすぅ!﹂ そう言いながら床に額をこすりつけるジャックに、アルテミシア は驚き、クラウズェアは苛立った声で急かした。 ﹁早くなさい﹂ ﹁ひぇっ? は、はい! アルテミシア殿下、あっしは罰を受けて こうしているんです、はい﹂ めっそう ﹁罰? 罰って? それと、殿下って呼んで欲しくないよ﹂ ﹁滅相もございやせん! あっしは昨晩から真人間になると誓った んでやんす! そのためには神殿騎士様のお言いつけを守らねぇと。 そうしねぇと﹂ そこから先は、ガタガタと震えるばかりで要領を得ない。 ﹁ねぇ、ローズが何か言ったの? お願い、ジャックさんにやめる ように言って? こんなのヤダよ﹂ ふ らち そうやって潤んだ目でお願いされると、クラウズェアは弱かった。 昨晩、アルテミシアに何か不埒なことをしていたようだったので、 散々に説教をした挙げ句、一晩中土下座をさせたまま寝たのだ。も しょぎょう おんしゃ う、許してやっても良い頃合いかと、神殿騎士は判断した。 しょう じん はげ ﹁ジャック、この度の所行、シアの寛大な心に免じ、恩赦を出す事 にする。以降、性根を入れ替えて精進に励むように﹂ ﹁ははぁっ、寛大なお計らい、まことに有り難うございやす! こ しら す のご恩は一生忘れやせん!﹂ これにて、お白州はお開きになった。 216 ﹁あまいね﹂ つ 小さな口でさくりとかみ付いたスイカは、甘くて水気たっぷりで、 アルテミシアの喉を潤した。一晩滝壺に浸けておいたので、よく冷 えている。 ﹁うん、甘くて美味しい﹂ おんしゃ クラウズェアも満足げに、しゃくしゃくと頬張っている。 恩赦により刑期を終えたジャックが、﹃スイカ割りをしやしょう まわ ぜ﹄と提案したので、炎天下でスイカ割りをしたのだ。目隠しをし ぶ て、立てた棒きれに額をつけて三回回る所からきちんとやった。 いざやってみると、これは、アルテミシアに分があった。割った ビス のもアルテミシアだ。クラウズェアは悔しそうにしていたが、スイ カに齧り付いたら機嫌が直った。 ケツト ドライフルーツ ハム スイカの他にも、竹筒に入れられたヨーグルト飲料と、二度焼き ほの 堅パンや乾燥果物、羊乳のチーズ、豚の塩漬けもも肉も並んでいる。 ヨーグルト飲料は、甘酸っぱくて仄かにしょっぱい味がした。 それ以外の物は、もとから保存食として持っていた物だ。 ビスケットは硬いのでヨーグルトに浸して食べた。 羊乳のチーズはヨーグルトのような甘い香りがし、食べると濃厚 で癖のある味がする。 ドライフルーツはベリー系の実を乾燥させた物で、アルテミシア の好物の一つだ。 ハムは︱︱というか、肉類はクラウズェアしか食べない。アルテ ミシアは小さな頃から肉が苦手で、幼なじみを心配させたものだ。 だが、やはり今まで食べたことのある物よりも、今日初めて食べ たスイカは二人に感動を与えた。 と ﹁帰る時、ルクルクにも持って行ってあげよう?﹂ ﹁それは良い考えだわ﹂ ここは洞窟入り口付近。昨日、食事を摂った場所だ。 ねったい う りん 割ったスイカを中まで持ち運ぶのが面倒だったし、景色を見なが ら食事をした方が美味しいと思ったからだ。実際、熱帯雨林然とし 217 のどか た森の風景と比べ、ここは長閑ですらあったし、滝の音が耳に心地 良い。 また、入り口近辺とは言え、洞窟内に一歩でも入ると驚くほど涼 しくカラッとしており、とても快適なのだ。 髪も一晩で乾いた。それなのに、乾燥しすぎて髪や肌を傷めたり はしていない。 二人が仲良くスイカを食べている時のことだ。アルテミシアが、 上目遣いで隣の少女にこう言ったのは。 ﹁それでね? その⋮⋮してもいい?﹂ あ だ こ あで クラウズェアを見上げる赤い目は心なしか潤んでいる。不思議と、 婀娜っぽいのに媚びの色はなく、清らかな艶やかさがあった。 その仕草に、ジャックの視線が釘付けになる。 しぶ いっぽう、少年のお伺いに、少女はそこからうずうずした雰囲気 を感じ取っていた。 ﹁でも、やっぱりはしたないわ﹂ どうせ最後には屈するのだろうが、一応渋ってみせるクラウズェ ア。 ﹁少しだけ。ね? 少しだけなら良いでしょう?﹂ ﹁うーん﹂ 腕を組んで考え込むそぶり。ちらりと少年を見ると、祈るように 両手を組んでいる姿が緑の目に映る。仕方が無いと、赤毛の少女は 溜息を吐いた。 ﹁もう、しようのない子ね﹂ そのお許しの言葉に、 ﹁やったぁ﹂ と喜ぶアルテミシアと、 ﹁ごくり﹂と唾を飲み込むジャックとの二つの反応があった。 そして勿論。 218 ﹁あれ? うまく飛ばない﹂ スイカの種飛ばしが始まったのであった。 ぷっ、と呼気によって吹き飛ばされた種は、洞窟を出ることも無 く、あえなく地に落ちた。 ﹁ローズもやってみてよ?﹂ ﹁わたしも?﹂ 抵抗はあったが、どうせ最後には押し切られるのだ。ならば楽し むより他は無いと割り切り、クラウズェアはスイカに齧り付いた。 そうしてぷっと勢いよく種を吐き出す。 ﹁すごぉい﹂ 年上の少女の肺活量は少年を圧倒しており、洞窟を出て何メート ルも飛び、炎天下の草の中に落ちた。少年の素直な賞賛の言葉と尊 じ ぎ きょう 敬の眼差しに、スイカ割りで傷ついた自尊心も、たちまち回復した。 その、楽しげに児戯に興じる純真な少年少女の隣で、不純で浅ま しい影人間は体育座りでいじけていた。 ﹁いやね? そりゃね? こうなるだろーなーたぁ思ってやしたよ ? けどね、ちっとばっかり⋮⋮こう⋮⋮色っぽい展開と言います か、夢見さして貰っても良かったんじゃぁねぇですかねぇ﹂ 全く学習していない脳足りんは、神殿騎士に聞かれれば一晩土下 座では済まないだろう危険な独り言を漏らしている。だが、その破 廉恥ワードは幸か不幸か聞かれることは無かった。 ﹁あ﹂ こ はく 最初に気付いたのは、またもアルテミシアだった。 おおけもの 森の中から、琥珀色の目がアルテミシアを見つめている。 ﹁青い、狼﹂ アルテミシアの視線につられて目をやれば、昨日の青い大獣の姿 が木々の向こう側に見え隠れし、暑くもないのにクラウズェアの額 に汗が浮き始めた。 219 やっこ ﹁どういうつもりでしょうね? 昨日は奴さんのおかげでここを見 あぐら 付けた訳ですが﹂ 胡座をかいていたジャックが、油断無く獣を視界に入れる。 ﹁スイカが欲しいのかな? お腹がすいているのかも。おいで?﹂ 琥珀色から目が離せないでいるアルテミシアが、まだ口を付けて いないスイカの断片を手に取り、前へ差し出して見せた。 ﹁狼は肉を食べるから、スイカは食べないと思うわ﹂ クラウズェアのもっともな言葉に、だが、その青い獣はゆっくり と洞窟に近づいてきたのだった。 ﹁来ますね﹂ ジャックが低い声で呟く。 クラウズェアは言葉もなく、片膝立ちになりながら脇に置いた鉈 に手を伸ばす。柄を握って初めて、掌に汗が滲んでいるのに気付い た。スイカを食べた後だというのに、喉が渇く。 二人の緊張をよそに、アルテミシアは獣の美しさに目を奪われて いた。 昨日、遠くから見た︿夏の間﹀の海を思わせる、緑がかった明る い色や、黑を含んだみたいな濃く深い青まで、青という青を一身に 集めたその毛色が、光と風に撫でられて波打つようになるのを、瞬 きもせずに見ていた。 いっぽう赤毛の少女は恐れていた。 故郷のノーザンコーストで見る真冬の海よりも凍えそうな冷たい 青に。触れれば全てを︱︱命を呑み込んでしまいそうな深淵を窺わ せる青に。空の青とは違う、海の青に。 ジャックが言った。 ﹁あの世みてぇな色してますねぇ﹂ その言葉に、音も無く近寄ってきていた大獣は、すい、と、ジャ ックの方を見た。 犬とは全く違う、鋭くつり上がった切れ長の目が、黒い人影を見 る。 220 寒い、と、クラウズェアは思った。少し歩けば真夏の炎天下が広 がっているのに、それがとても遠く感じられた。アルテミシアを守 るという使命感が無ければ、みっともなく泣き出してしまっていた かもしれない。 凍ってしまったように動かない体を少年の前に差しだそうと、気 力を奮い起こした時だった。 ﹁あの世って、とても寂しくて怖い所だって聞いていたけれど、こ んなにも綺麗なんだね。︻モリオンもそう思うでしょう?︼﹂ 赤い目をした男の子が言った。 琥珀の目がその子を見た。 クラウズェアは呼吸を忘れ。ジャックは身じろぎ一つしない。 そんな中、モリオンが弾む感触が伝わってきて、アルテミシアは 微かに笑んだ。 獣が︱︱直ぐ側まで寄ってきていた巨体が、後ろ足をたたみ、座 った。大きな獣だったので、洞窟の入り口がふさがれたみたいにな 、、、、 って、中は暗くなった。 ﹁この世界じゃあ、あの世は怖くて寂しいとこなんですかい?﹂ どこか、いつもより道化師じみたジャックの声に、一瞬だけ獣の 耳が動いたが、目も顔もアルテミシアを向いたままでいる。 ﹁うーん⋮⋮あの世にもいくつかあるみたいなんだけれどね? 神 様達が居る天の国に行って楽しく過ごせる人もいるし、ぼくみたい に暗くて寂しいとこにいっちゃう子もいるんだって。こんなに綺麗 なら、天の国の色なのかな?﹂ 大きな獣の前の儚げな少年が言うのを聞いて、クラウズェアは頭 の中が燃えたのかと思うほどに怒りを覚えた。 ﹁誰が、そんな事を云ったの?﹂ もう、恐怖など無かった。それより大事なことがあった。 だが、彼女は怒りを抑えるのに必死で、問うた先のことまでは考 えが至らなかったのだ。だから、幼なじみの返事を聞いて、これ以 上なく後悔した。 221 ﹁⋮⋮お父様とお母様が云ってた﹂ きざ それは、少年がもっと幼かった頃。牢屋みたいな暗い部屋の前で、 両親が話すのを聞いたのだ。 万が一にでも呪いの解ける兆しが見えやしないかと、たまに部屋 を訪れる父と母。二言、三言の事務的な、親子の会話とは思えぬよ うな、それでも男の子にとっては待ちわびたその時間が終わり。別 れがたさと寂しさをどうにかしたくて、せめて遠ざかる靴の音でも 聞きたかった少年が、扉に耳をあてて聴いた音が、 ﹃あんな呪われた罰当たりな子供、死んだら地の底に落ちるだろう よ。あの部屋よりも、暗く、寂しく、おぞましい場所にな。だいた いあれは、本当に俺の子か?﹄ という、苛立った父親の言葉と、すすり泣く母親の言葉にならな い声だった。 しゅう あく 親と言えど人の子だ。それが王族だとしても、人間が持つ当たり 前の感情を持っている。優しい時もあれば、醜悪な心が表に出る時 もある。子の前で言わなかっただけ、まだ親心なり理性なりが働い たのだ。結局、むごい事になりはしたのだが。 ﹃暗い﹄というのは、目の見えぬ少年には理解できなかった。 ﹃おぞましい﹄というのも、難しくて解らなかった。 だが、﹃寂しい﹄というのは解った。少年はいつだって寂しかっ たからだ。そして、死ねばもっと寂しくなるのかと思い、恐ろしく なった。 ⋮⋮もっとも、﹃死﹄の意味すらよく解っていなかったのだが。 ぎりッ、と、クラウズェアの奥歯が鳴った。圧力に砕けそうにな った。いま彼女の眼前に国王サイラスと女王ベラが居たら、どうな っていただろう? 忠義の騎士はどうしていただろうか? クラウズェアは神殿騎士の任に誇りを持っている。 ﹃有名無実のお飾り騎士団﹄ ﹃花嫁修業の一環﹄ ﹃家格に箔を付けるのが目的﹄ 222 などと周りから︱︱特に男から馬鹿にされる事の多い神殿騎士団 しつ しゅく じょ は、実際にお転婆が過ぎる貴族のご令嬢達を閉じ込めて、少々厳し く躾け、お行儀の良い大人しい淑女になるようにと教育を受ける場 所でしかない。 くんりん ではな として君臨するグリーンウェル 王妃 だが、女の身で騎士になるためには、そしてアルテミシアの側に はいぐうしゃ 居続けるためには、神殿騎士以外の道はなかった。 女王 他国と違い、女王が単なる王の配偶者でしかない く、王と同格の存在である では、女性の地位が比較的高い。また、身分の別なく能力次第で召 し抱えられる︿常葉の乙女﹀の存在も大きい。女性が騎士になれる じょ にん というだけでも、驚くべき事なのだ。 騎士叙任権を持つのはサイラス王だ。彼から神殿騎士の任を授か った日を、クラウズェアは忘れない。また、アルテミシアの遊び相 手として彼女を選んだのも、両陛下だ。この運命の導きと、王子の 両親に深い感謝をしていたのだ。 それなのに、これはなんだ? クラウズェアは思った。 授かった任とは? 守るべきものとは? 騎士とはいったい何な のだ? 女騎士は判らなくなった。 こんなむごい仕打ち、親が子にして良いことなのか? 幼なじみの少女は、悔しいのか悲しいのか、判らなくなった。 己の中で渦巻く思考と感情に呑み込まれそうになった時、ふと、 今では髪の黒い男の子の姿が緑の目に映った。 アルテミシアは、普段通りだった。さっき見せた一瞬のかげりは、 今はもう見えない。心の中から無くなった訳ではないだろう。だが、 あぎと あの暗い部屋に居た頃よりは微かな表情に明るさが見え隠れする。 ﹁食べる?﹂ ゆうちょう 白い手が、狼の顎門の前に赤い実を差し出した。 止めるべきだろう。悠長に思考している場合ではない。 223 かたまり だが、ふっと、あの恐ろしい獣が、人など丸呑みにしてしまうだ ろうこの恐怖の塊がどんな反応をするのか、少女は見てみたくなっ おも た。親からも捨てられたこの何の落ち度も罪も犯していない男の子 の贈り物を、どうするだろう? クラウズェアは、張り詰めた念いで見つめた。祈る時の気持ちに 似ていた。 青い獣は︱︱高い位置にあった顔をアルテミシアの方へ寄せたか と思うと、大きな口をがばりと開いた。ダガーみたいな鋭い歯や、 ハンマーみたいな頑丈そうな歯が並ぶ中、上下一対ずつの牙がサー こ じ ベルみたいに突き出し、この世に引き裂けぬ物などないとばかりに、 その存在を誇示していた。 たお 地獄のような光景であった。あの世に繋がる門のようでもあった。 その、危険きわまりない門の内側へ、嫋やかな手を差し入れたの だ、アルテミシアは。 獣は、琥珀の目でそれを見下ろした後︱︱ややあって、ゆっくり と と口を閉じた。閉じる時、鋭すぎる牙で食いちぎってしまわぬよう、 慎重にスイカの実だけをかじった。 ﹁おいしいでしょう? そこの畑で採れたんだよ。この洞窟に住ん でいた人が作ったんだと思う。きっと、スイカ作りの名人なんだろ うね﹂ 人形みたいな男の子が見せた他愛の無い興奮は、なんだかクラウ ズェアの心に救いをもたらしでもしたかのようだった。 ジャックは、黙ってじっと推移を見つめている。 そして青い獣は、大きな口には小さすぎる実を飲み込むと、間近 で見るとなお強調される巨体を、重さを感じさせる事なく横に動か した。 洞窟の入り口が半分開き、向こうが見えるようになった。 それから、森の方を向いた獣の口から鋭く風を切る音が聞こえた かと思った時には、大量のスイカの種が矢のように撃ち出されて、 それぞれ森の中に消えたり木にぶつかって幹に突き刺さったり砕け 224 たり、賑やかな音を奏でたのだった。 ﹁⋮⋮すごぉい﹂ 無邪気な賞賛の言葉に、アルテミシアの方を向いた獣の唇がめく いっ き ご けん れ、牙をむき出しにした。それは、人間の笑った顔に似ていた。 ちけ ﹁まるで手裏剣術ですねぇ。一気五剣も目じゃねぇや。それとも、 マシンガンって言った方が近ぇかな?﹂ このジャックの言葉に今度は、視線一つ、青い耳一つたりとも動 くことは無かった。 ちなみに[一気五剣]とは、一息に五つの手裏剣を打ち込んでし まう、早業のことである。 それはさておき。 ﹁ねえ? やっぱりお腹がすいてたんだよ﹂ というアルテミシアの言葉に、頷いて良いものか判断に困ったク ラウズェアは、 ﹁そう、かもね﹂ とあいまいな返答をし、残りのスイカを与えることに同意した。 とう 獣は、割れたスイカをぺろりと平らげ、その度に種を飛ばして少 年を楽しませた。 大きな体でもっと食い足りないだろうと、広げられた籐の上に並 ぶ食事を勧めたところ、ドライフルーツとビスケットは食べた。ヨ ベーコン ソーセージ ーグルトも、チーズも、ハムも食べず、背負い袋から出した豚の燻 製バラ肉や腸詰め挽肉には見向きもしない。 ﹁変わった狼だな。こんな話は初めてだ﹂ クラウズェアは価値観の崩壊に戸惑っている。 ﹁肉や乳⋮⋮動物性タンパク質は食べねぇのか?﹂ ジャックは思案げに独り言つ。 ﹁ちょいと質問ですが、そのビスケットにゃあ乳や卵は混ぜてあり やすかい?﹂ ジャックの唐突な問いに、 ﹁いや。できるだけ保存がきくように、ミルクや卵を使っていない 225 物を選んだ。その方が安いというのもあるし、あとは﹂ クラウズェアの視線が、獣の口にドライフルーツを入れるのに一 生懸命な少年を向いた。 ﹁あの子は肉や卵が食べられない。知らずに口に入れても吐き出し てしまうのだ。少しだけ混ぜて調味料で味を誤魔化しても、気付い てしまう。正確に言えば、体が勝手に反応して、吐き出させてしま ぐ ち うようだ。困ったものだ。人の気も知らないで﹂ 口調こそ愚痴めいた物だったが、その視線は心配と慈愛に満ちて いる。ジャックの脳裏に、風呂場での﹃大切だ﹄と言っていた少女 の言葉がよみがえった。 ﹁なぁに、ミルクと豆と、あとは果物、野菜、穀物︱︱白パンだけ じゃあなくって黒パンやら他のもんやら食ってましたらね、全く問 題はありやせんよ﹂ ﹁まことか?﹂ 振り向いた女騎士に、 ﹁誓って。ただ、ミルクは火を通さねぇ方がいい。滋養が減りやす からね。これはあらゆる食いもんがそうなんですがね? ただまぁ、 なんでもかんでも生ものばっかじゃあ、食うのに不自由だ。それに、 体も冷えやすくなっちまう﹂ 力強いジャックの言葉が答え、彼女を感心させた。 ほんぞう ﹁お前は、まこと博識なのだな? 影の国で学者でもしていたのか ? いや、本草とやらにも詳しかったな。薬師か何かか?﹂ ﹁なあに、そんな大したもんじゃあありやせんよ。ただ、ちぃとば けんそん かり心得があるってぇだけで。ババアにイヤイヤ仕込まれただけで す、はい﹂ ぼ どう 手を大げさに振って謙遜してみせるジャック。 ﹁ご母堂は、さぞやご高名な方だったのだろうな﹂ 昨晩の土下座刑を申し渡した時とは真逆に、今やクラウズェアは 尊敬の眼差しで影人間を見ていた。 今日は、クラウズェアの中で大きな転換が行われた日になった。 226 ⋮⋮いや、旅に出てからそういったものの連続ではあったのだが。 ともあれ。 照れ臭そうにへへと笑うジャックとクラウズェアが話していた頃。 少年と獣もやりとりをしていた。 ﹁ねえ、あなたの事、ツユクサって呼んでもいい?﹂ くし アルテミシアの問いかけに、琥珀の目が静かに見返した。先を促 すように。 ﹁遠い遠い国で育つツゲっていう珍しい木でできた櫛があってね? それを包んでいた布がツユクサっていう青い花で染められた物だ あ ったらしいの。凄く凄く綺麗な青だったみたい。ローズが⋮⋮あの、 ぼくの幼なじみがしきりに云ってたよ。⋮⋮すぐに色が褪せちゃっ つゆくさ たみたいで、お世話してくれる人が捨てちゃったんだけれど﹂ しお 残念そうに語られた露草という植物は、夏頃に咲く青い花のこと である。日の昇る前から咲き始め、日の強くなる頃には萎れてしま はかな う、朝顔に似た可憐な花だ。花弁からは、明るい青から暗い青まで、 ち ぐさ つきくさ ほたる ぐさ あいばな 色んな青が取れるのだが、色褪せやすく水にも弱い。儚い染料なの だ。千草や月草、蛍草、藍花などの名でも呼ばれる。 勿論、こんな事まで少年は知らない。ただ、一番仲の良い人物が しきりに﹃きれい﹄と繰り返すので、露草色は青の中で一番綺麗な 青になったのだ、アルテミシアの中では。 ﹁すごぉく綺麗なんだって。この世で一番綺麗な青だよ、きっと。 ジェスチャー きっと、あなたの色のことだよ。きっときっとそうだよ﹂ 身振りを知らない少年は、表情も声も変化に乏しかったが、精一 杯の思いを乗せて露草の美しさを力説した。 青い獣は、年経た琥珀の目でアルテミシアの赤い目を見ている。 クラウズェアとジャックも、一人と一頭を見守っていた。 獣は︱︱片方の目でジャックとクラウズェアを視界に入れたまま、 もう片方の、アルテミシアだけ映す目は閉じて見せた。そうして、 227 少年の腕一本分の距離を更に詰め、白い顔や首筋の匂いをかいだと 思ったら、真っ赤な舌で白い顔をべろりと舐め上げたのだった。 大きな舌だったので、一舐めで顔中がベチョベチョになった。 クラウズェアは悲鳴を呑み込むのに必死だった。ジャックは﹁い いなぁ﹂などと呟いている。 とうのアルテミシアは濡れた顔できょとんとしていたが、ややあ ってから、ふふっと小さく笑った。 それで、獣は去った。 228 四章⑬﹃報われた少女と、叶った少年の願い﹄ アルテミシアが顔を洗い、クラウズェアが食事の後片付けを終え た頃。ジャックが切り出した唐突な言葉は、出立の準備を止めさせ た。 ﹁お山のてっぺんに行く必要はねぇんじゃありやせんかい?﹂ この言葉に、アルテミシアは目をぱちくりさせ、クラウズェアは 頷いた。 すみ か ﹁シア、ジャックの言う事はもっともだわ。わたし達の目的は剣を 抜くことではなく、永住できる住処を確保する事よ? 幸い、ここ には家もある。食べ物だって、スイカの他にも、来る途中の森の中 には果物らしき実もあった。あの妖しげな四つの扉を使えば、もっ と楽に食べ物が手に入るかも﹂ 生真面目な騎士は、王命を尊重して頂上の剣を見に行く努力はす べきだと思っていた。だが、話によるとそこは火の海だという。人 の身でそんな場所を行き来できるはずもない。 だから、頂上に着いたらジャックと同じ事を言うつもりだった。 彼女の目的は、アルテミシアが安心して住める場所を見付けること なのだから。 だが、アルテミシアはクラウズェアとジャックを交互に見ながら 言ったのだ。 ﹁ううん、ぼくは剣を抜きに行きたい﹂ この言葉にクラウズェアは驚き、ジャックはすかさず反論した。 ﹁どうしてです? 姐さんも言ってやしたが、ここには生活に必要 なもんが揃ってるみてぇですよ? ここにずぅっと住めばいいじゃ あねぇですか﹂ 優しい声だな、とアルテミシアは思った。 二人とも優しい。二人ともアルテミシアの身を案じてくれる。だ 229 なおさら から、尚更行かなければならないと思った。 ﹁ううん。ぼくはどうしても剣が欲しい﹂ 剣をなくしたクラウズェアに、新しい剣をあげたかった。 バイガン将軍が云っていた﹃名剣﹄を。 そして、ジャックの故郷を探すためには、ずっとこの洞窟に隠れ 住む訳にはいかない。 少年の気持ちは、幼なじみの少女には察せられた。長い付き合い だ。ずっと見てきたのだ。 ﹁シア。なにも、この洞窟にこもって一生を過ごそうという話じゃ ないの。影の国を探す手伝いは、わたしも考えてる。けど、ジャッ う かつ クには申し訳ないけれど、今すぐには無理よ。わたし達には追っ手 なた がかかってる。ほとぼりが冷めるまでは迂闊に外に出られないわ。 それと、剣の替わりならいくらでもある。この鉈だって立派な武器 よ? すぐに使い慣れてみせるわ﹂ そう言って女騎士は鉈を軽く振って見せた。 ﹁あっしも、今すぐに故郷に帰れるたぁ思っていやせん。気長に探 すつもりでさぁ。⋮⋮ま、お二人の気持ちは嬉しいですがね、はい﹂ ジャックが照れ臭そうに言った。 それで、少年はますます剣を取りに行きたくなった。 ﹁行こう? お願いだから﹂ かたく か し ばん 頑なに訴えるアルテミシアの熱意に折れ、一行は山頂を目指した。 ︿火指盤﹀は盤面の中央から針が突き出しており、その針の上に 棒を乗せた物だ。棒の中央はくぼみがあり、針にかぶせると安定す る。棒の先端は赤い︿彩化晶﹀でできており、火に反応するように なっている。 つまりこの場合、常に山頂を指すようになっており、道に迷わな き ゆう いという寸法だ。洞窟内の湯の出る赤い筒に反応しないかが心配だ ったが、杞憂に終わった。 230 熱帯雨林を抜けると、木がまばらになるにつれて空気は乾燥し、 気温は更に上がった。植物の様相も変わってきている。 ﹁ジャングルの次はサボテンかよ﹂ かん き 数メートルもの高さのあるサボテンが、まるで樹木のように乱立 している。地面は乾いた土と石が転がり、乾季のサバンナのようだ。 ﹁暑い﹂ 口を開けば口内が乾く。喋るべきではないのだが、思わずクラウ こ ズェアの口から呻くような声が漏れた。 昨日の日焼けに懲りて、二人ともクロークを羽織りフードを頭か らすっぽり被っているのだが、いかんせん暑すぎる。グリーンウェ ルの人間には地獄だ。 いや、たいていの人間にとって地獄なのかもしれないが。 ﹁シア? 我慢せずに水を飲むのよ?﹂ 甘竹酒やヨーグルトが入っていた竹の水筒に水を詰めてきたのだ が、この分では直ぐになくなりそうだ。水がこんなに美味いと思っ たことはない。逆に、酒など飲みたくもなかった。 ﹁うん﹂ 少し遅れて少年が返事をし、水を口に含んだ。もう、残りの水は アルテミシアにあげようと、女騎士は考えた。 そうして、幸か不幸か。すぐに山頂を知ることとなった。 クレーター状にくぼんだそこは、まさに火の海だった。 つか 直径約五〇〇m、深さ二〇〇mほどもある落ちくぼんだ土地は炎 で満たされ、その中心地に柄以外を地に埋めた剣があった。 ﹁あそこに剣があるよ﹂ アルテミシアが指さした方を見るが、クラウズェアには見えない。 ﹁わたしには見えないわ﹂ ﹁ぼくも剣が見えてる訳じゃないんだけれど、銀の霧が剣の形に集 231 まって、はっきりと見えるんだ。それを取り巻くこの炎自体も銀の 霧のかたまりみたい﹂ ﹁しかし、どうしやす? これ以上ねぇくらい火の海ですぜ? 引 っ返したらどうです?﹂ この世のものとは思えぬ光景に、もはや驚きを通り越して呆れた 心境のジャックが、二人を促した。 ﹁そうね、これは︱︱﹂ ナデファタ王への義理も果たした。ここまで来て、この地獄のよ うな有り様を見ればアルテミシアも納得して帰るだろうと、少女は 思っていた。 だのに、 ﹁ぼく、あの剣を取ってくる﹂ ﹁シアっ?﹂ 何を言い出すのかと、驚きの声を上げるクラウズェアと、 ﹁どうしても?﹂ 赤い目を覗き込みながら問いかける、ジャック。 ﹁どうしても﹂ アルテミシアの返事は簡潔だった。 ﹁よござんす。ほいじゃあ、試してみやしょうか﹂ ﹁何を言ってるの、二人ともっ?﹂ もう、クラウズェアの声は悲鳴に近い。 ﹁試すですってっ? いったい試すべき何があるというのっ? 剣 を取る? 馬鹿を言わないで!﹂ クラウズェアは、アルテミシアの細い肩をがっしりと掴んで抑え た。 ﹁見なさい、あれを。火の海とはよく云ったものだわ。炎以外、な こ やぎ んにも見えない。あの、大きな湖みたいになってる火の底なんて、 見えやしない。子供の頃、火事になった家畜小屋から仔山羊を助け 出そうとした人を見たことがあるわ。水でびしょびしょの布を被っ ていって、それでもあちこち火傷を負いながら、やっと出てきた。 232 可哀想に、仔山羊は死んじゃったけど。でもそんなの比較にならな いくらい、ここは広いのよっ? 被る水も無い! いえ、水があっ たからって、それがどうなるっていうの? シア、馬鹿なことは言 わないで。わたし、本気で怒るからね﹂ 一気にまくし立てた女騎士の顔は汗だくで、熱さと興奮であえい でいる。でも、彼女にはそんな事は重要ではない。今は、馬鹿なこ ぶ じ とを考えている幼なじみを止めなければいけなかった。聞き分けが なければ頬を打ってでも、気絶させて担いで帰ることも辞さないつ もりだった。 アルテミシアが死ぬことに比べたら、嫌われる方が耐えられるか ら。 だが、ジャックがこんな事を言い出したのだ。 ﹁焼け死なずに剣の所まで行く方法があるんです﹂ ﹁ほんと?﹂ アルテミシアは素直に驚いた。 そしてクラウズェアは、 ﹁ジャック。お前が博識なことは理解しているつもりだ。また、楽 しい奴だという事も。だが、今は冗談はやめてくれ。シアが本気に する。それとも、影の身のお前ならば焼け死なずに済むという話か ?﹂ アルテミシアの心を惑わして欲しくないクラウズェアは、ジャッ クののっぺらぼうに非難混じりの目を向けた。 ねっせい ﹁いいえ、いえいえ! あっしじゃあなくって、シア嬢ちゃんとク や ゆ ラウズェア姐さんの二人が、ですよ、はい﹂ 揶揄するようでもなく、冗談を言う時とも違った、真剣さと熱誠 さの感じられる声だった。 ﹁どうすればいいの? 教えてください、ジャックさん﹂ アルテミシアはジャックを見つめ、クラウズェアはひとまず少年 の肩から手をどかした。 ﹁ええ、ええ、お話ししやすとも。それはね? シア嬢ちゃんのお 233 目々の力を使うんです、はい﹂ ﹁ぼくの? ⋮⋮モリオンの力のこと?﹂ ﹁そうです﹂ ジャックは言っているのだ。﹃共鳴術を見破り、固めてしまえる 視線の力を使え﹄と。 それは、アルテミシア自身も考えていたことだ。全く何も考えず おろ にここまで来た訳ではない。育った境遇のせいで、世間知らずで心 も幼い部分があるが、決して愚かな訳ではないのだ。 そしてクラウズェアは、アルテミシアの不思議な力については簡 単な説明を受けてはいたのだが、いかんせん、︿石﹀の使えない人 間からすれば、︿魔法﹀は深遠で理解が及ばない。その上、アルテ ミシアの力は未だかつて聞いたこともないものだった。 ﹁それは⋮⋮確かにシアには不思議な力があることは認める。けど それは、こんな状況でもどうにかできるものなの?﹂ 緑の目が、赤とオレンジの海を映す。 熱が上空の大気を揺らめかせている。 ふと、そのまま視線が上を向いた。遙か高い空の上には、白く大 きなリング状の雲が浮かんでいる。その大きさは、クラウズェアを とてもちっぽけな存在に思わせた。 ﹁ためしてみるね? ︻モリオン、いくよ?︼﹂ ﹁ちょっと待ったぁ!﹂ アルテミシアが火の海に︽視線︾を向けようとした時、ジャック の待ったがかかった。 ﹁まだちょいとお待ちくだせぇ。お嬢ちゃんのお目々の力はすげぇ んですが、この火の海は勢いが強すぎる。もしも頑張りすぎて、こ の前みてぇに頭イタイイタイになったら大変ですからね?﹂ おどけるように言ったジャックは、 ﹁シア嬢ちゃん、姐さんの髪はまだお持ちですかい? それとクラ ウズェア姐さん、ルクルク王女から頂いたお守りを貸してはいただ けやせんかね?﹂ 234 二人を交互に見ながらそう言ったのだ。 ﹁持ってる﹂ アルテミシアは服に手を差し入れて、赤いお下げ髪を取り出した。 大事そうに、両手で持っている。 ﹁この、賜ったお守りか?﹂ 中にルクルクの両手の爪が入れられた小袋を、クラウズェアは首 から外した。 ﹁よござんす。その二つを、この火の海に投げ入れるんです、はい﹂ かす ジャックの言葉は、二人にそれぞれの感情を生じさせた。 つまり、 アルテミシアは幽かなかげり顔でお下げを両手で抱き込み、 クラウズェアは、はっきりと怒りを表しながら。 ﹁待った! 待って待って、待ってくださいよぅ﹂ れんたんどう どうしゅ 二人が何かを言う前に、ジャックが慌てて止める。 こ ﹁理由があるんです、ええ。︿練丹洞﹀の洞主の手記にこうあった んです。﹃おもいの籠もった女の爪と髪を投げ入れろ﹄って。そし ほう し たら火勢が弱くなって剣を手に入れやすくなるって。あ、ちなみに へんくつもの 練丹洞ってぇのは洞窟の名前ですね。︿方士﹀⋮⋮まあ、共鳴術士 みてぇな頭のおかしい偏屈者がそう名付けて住んでたようですぜ?﹂ 昨晩、土下座刑を申し渡したクラウズェアが眠ってしまった後、 一人寂しく刑に服していたジャックの耳に、風もないのに本がめく られる音が聞こえたのだ。 その、机の上の本のめくられた辺りを見ようと、アルテミシアの 影から精一杯に身を伸ばして読んだ内容が、丁度、天焦山の剣に関 して記された場所だったのだ。 ﹁爪と、髪を﹂ 呟いたクラウズェアの視線が、二つの物を行き交う。 アルテミシアの方は、胸に髪をかき抱いて黙っていたが、おもむ ろに顔を上げてこう言った。 ﹁それで、剣が手に入るなら﹂ 235 そうして、手放しがたさに赤毛にほおずりし、キスを落とした。 クラウズェアの方は、何事かまだジャックに反論しようとしてい たのだが、目の前でこんな事をされてはたまらない。顔を真っ赤に 染めて黙ってしまった。 ﹁じゃ、景気良く、力一杯に投げてください﹂ その声に促され、アルテミシアと、まだ頬の赤みが消えないクラ ウズェアがそれぞれ髪と爪を投げた。 放物線を描き、最初に髪が、次に爪が火の海に消える。腕力の差 だ。 ろうろう つむ 炎が揺らめき、確かに、いくぶんかは火勢が弱まったようである。 いくすじ いく ふ その時、朗々たる声で、歌うような調子で、ジャックが言葉を紡 ぎ出した。 くじゃく いっ く ﹁いま、孔雀は見届けた。幾筋もの乙女の髪と、幾振りもの乙女の 爪が、一口の剣に捧げられたのを﹂ す いつもの、薄い布越しのような少しハッキリとしない声ではなか た った。男のように力強く、女のように高く澄んだ、不思議な声だっ た。 たつ きた ほ の お ﹁竜の口よ。断つ口よ。お前の主人が参ったぞ。お前の体が参った くら こんこん あかぐろ あおぐろ ぞ。炎で鍛えて待っておったな? 火之尾に巻かれて待っておった セルペンティス な? 闇い底から昏昏と湧かせて待っておったな? 玄い炎と黎い クラウズェア 炎の向こうで待っておったな? 今からお前の主人が向かう。水竜 の息で冷やしてやろう。雲海の中で遊ばせてやろう﹂ 奇妙不可思議な光景であった。 赤とオレンジだった炎が、声に合わせて、まるで夜に向かう夕暮 れを濃くしたような玄い色になり、次第に夜明けを一つに集めたよ うな黎い色へと変じゆく。 236 アルテミシアとクラウズェアは、霊妙なる神秘の現象に、言葉も ざ なく、熱さも忘れて見入っている。 さ かすみ ねば た のぼ ﹁冴え冴えと目覚めよ、竜の口。炎の様に柔らかく、氷の様に堅い けい もの。霞の様に気配なく、水の様に粘るもの。熱気の様に立ち上り、 みょう そうちょう うろこ 光の様に進むもの。潮の様に寄せて引き、影の様に落ちるもの。軽 妙なる時は羽毛の如き働きを、荘重なる時は鱗の如く働く竜の口、 今から行くから待っておれ!﹂ 最後の一声に合わせ、まるで潮が退いていくみたいに炎の水位が 下がっていき、換わりに、剣のある辺りから火柱が天高く吹き上が った。 だが、まだ完全に火の海がなくなった訳ではない。 二〇〇mの深さを満たしていた炎が、五〇mほどに減っただけだ。 四分の一になったという言い方はできるが、それでもなお、人間の 踏み入れる場ではない。 ﹁⋮⋮ジャック⋮⋮お前、共鳴術師だったのか?﹂ い けい 奇跡のような光景を目の当たりにしたクラウズェアが、その恐怖 とも感動ともつかぬ思いをそのまま畏敬の念に変じて、影人間の方 を見た。 う さんくせ きみょう き て れつ ﹁へ? いや、そんな事ある訳ねぇじゃねぇですか! 共鳴術なん てぇ胡散臭ぇ、おっと失敬。奇妙奇天烈で小難しいモン、使えるわ きゃあありやせんよ。ただ、なんつーか⋮⋮シア嬢ちゃんが見てい る風景とか、洞主の書いた手記とか読んで推測したんですがね? この世界の︿魔法﹀に干渉するにゃあ、音というかリズムというか、 そういったもんが関わってんのかなぁ、と。ダメ元で試してみたと ことだま いうあんばいです。言葉は、まあ単なる演出です。おっと間違えた。 我が国に古来より伝わる︿言霊﹀ってやつです、はい﹂ テヘリとばかりにあっけらかんと語って見せたジャックだったの だが、それでもクラウズェアの敬意が薄れる事はなかった。 237 ﹁感服した﹂ 言葉では足らずに頭を下げようとした女騎士に、慌てたジャック が両手を振って止めさせる。 ﹁待った待った! ちょいちょいお待ちになったぁ! あっしはそ ういうのは苦手なんです。やめてくださいよ。今まで通りが一番で す。あっしになにがしかの事を思ってくださるってぇんなら、今ま で通りにしてください。この通りですから﹂ クラウズェアよりも先にジャックの方が頭を下げた。拝むように 両手も合わされている。 ﹁わかった! もう頭は下げぬから、そちらこそ頭を上げてくれ!﹂ 慌てたクラウズェアによって、この奇妙なやりとりはひとまず終 わった。そして、上がったのっぺらぼうの顔には赤い目が向けられ ている。 ﹁クジャク、さん?﹂ 少年の問いかけに、影の身がびくりと震えた。 ﹁いやいや、なんちゅーか⋮⋮﹂ 返事にならない言葉が漏れた。 ﹁そういえば言っていたな? 本名がクジャクなのか?﹂ クラウズェアの問いに、 ﹁いやぁ、そんな本名ってぇ訳じゃあ⋮⋮﹂ 歯切れが悪い。目があったら視線をさまよわせているのが見えた ことだろう。 ﹁ちがうの?﹂ 無垢な瞳が影人間を追い詰める。 ﹁いや、違わないんですがぁ⋮⋮﹂ ﹁はっきりせんな? 言いたくないのであれば、これ以上は追求せ ぬが﹂ おうじょう ぎわ のぞ 女騎士の言葉に、逃げるように向けた視線の先には赤い目があっ あきら て、挙動不審な影人間は往生際に臨む覚悟をした。 正確に言えば、諦めた。 238 ﹁本名です﹂ 力なく言って、こう付け加える。 ﹁恥ずかしいんですよね、その名前。似合わねぇっていうか。よく もこんな名前つけやがったなあのクソババア﹂ ジャック︱︱改め孔雀にしては珍しく、本音のうかがえる恨み言 であった。 ﹁素敵なお名前だと思う。クジャクさん﹂ ﹁良い名ではないか。これからは本名の方で呼ばせて貰おう、クジ ャク﹂ ﹁ぐぁーーー! よしてくだせぇっ、あだ名のジャックで呼んでく ださいよ、お願いですから! それより、炎が弱まってる今がチャ ンスです。シア嬢ちゃんのお目々パワーで、このクソ熱いのをどう にかしてください﹂ 取り乱した孔雀に促され、そういえばと状況を思い出した二人は、 とりあえずこの話は後に回すことにした。今は剣を取りに行くのが 先決だ。 ﹁︻モリオン?︼﹂ 胸中の子に呼びかけ、アルテミシアは︽視線︾を使った。 濃い銀の霧が渦巻く中、その中心から吹き上がる炎の柱の根元に は、確かに剣が埋まっているのが見える。 だが、最初に見た時よりも形状が変わっているのに気付いた。地 中深くに真っ直ぐ突き刺さっていたのが、短くなり、多少曲がって いる様に見える。 不思議に思いはしたが、今はそれよりもこの炎だ。 もっとよく見ると、火の海も、吹き上がる火柱も、全て剣から出 ている。それならばと、やる事が見えてきたアルテミシアだった。 固め てみた。 彼は、剣だけを見た。強烈な存在感を放つ銀の塊に︽視線︾を合 わせ、その動きを すると、 ﹁熱気が⋮⋮﹂ 239 クラウズェアは目を丸くしている。それもそのはず。今さっきま い ぜん で肌を焼く様だった火の熱が、一切なくなったのだから。 火の海も、火柱も、依然として在る。だが、ゆらりとも揺らめく 事なく、まるで凍り付いてしまったかの様に、その活動を止めてい た。 大気をあぶる陽炎も無い。岩肌を焼いていた余熱すらもが消えて しまっている。ただ、夏の日差しが残るばかりだ。 ﹁今のうちです、下りられそうな所を探しやしょう﹂ ﹁あ、ああ﹂ きゅう こうばい 熱気で顔を近付ける事ができなかったクレーターの中を、クラウ ズェアと孔雀は覗き込んだ。だが、どこも急勾配で降りられそうな 場所が見つからない。道具があればクラウズェア一人ならなんとか なるのかもしれないが、その道具も無い。 妖精境の者達は、誰もこんな風に下を覗き込んだ者は居なかった ので、このように深く急斜面なすり鉢状になっているとは思いもし なかったのだ。 だが、ここで諦める訳にはいかなかった。 ジャックがここまで準備し、アルテミシアが頑張っているのだ。 この状態がいつまで続くのか、判らないのだ。早くしなければなら なかった。次は自分の番だと、クラウズェアは覚悟を決めた。 女騎士が動くのに邪魔になりそうなクロークを脱ぎ捨てた時だっ た。 すぅ、と。音も気配もなく現れた青い大獣が、アルテミシアの側 に在るのを、クラウズェアは気付いた。 ﹃いつの間に﹄という言葉は飲み込まれた。 あぶ 目に鮮やかな青。 赤で炙られた目に優しい青。 アルテミシアが﹃ツユクサ﹄と呼んだ獣が、今は何故だか以前の ような恐怖を呼び起こさなかった。⋮⋮全く、ではなかったが。 240 か せい か せい ﹁加勢でもしてくれるつもりですかい? 狼さん。⋮⋮加勢と火勢 って、音が一緒だな﹂ 一人でウケている影人間を一切無視し、︽視線︾を遮らないよう に注意深く動いた獣は、アルテミシアの隣で地に伏せた。 ﹁乗せてくれるの?﹂ 視界の端に獣を捉えて、青の涼やかな色に心癒やされるのを感じ ながら、アルテミシアは、そっ、と、問うた。 獣の長い尾がゆうらりと動き、少年の頭をふわりと撫で。 いちべつ それだけでアルテミシアは嬉しくなった。 ﹁ローズも乗せてくれる?﹂ この言葉には、獣の琥珀の目は少女を一瞥もしなかった。 だが、 こんがん ﹁おねがい、ツユクサ。あの剣を、どうしてもローズにあげたいの﹂ 少年の懇願に、琥珀の目が初めて赤毛の少女を捉え、ついで、小 さな鼻息を漏らした。まるで、人間のする溜息みたいに。 ﹁ありがとう、ツユクサ。ローズ、乗せてくれるんだって﹂ ﹁⋮⋮えっ? そう、なの? 有り難う、ツユクサ﹂ クラウズェアの礼に、長い尾がおざなりに振られた。 そうして、ツユクサの青い背に乗った一行は、何の揺れも感じる ことなく、一飛びで剣の側まで降り立ったのだ。 本当に一飛びだった。約二五〇mを、だ。気付けば、四方八方を 取り囲む止まった炎の中だった。 そこは、赤で満たされた異界。 ﹁頭が壊れそうだ。死なないのが不思議﹂ とっくの昔にクラウズェアの理解は追い付いていなかったのだが、 もう、色々と心の限界を超えていた。 ﹁剣を抜きやしょう﹂ 孔雀の言葉に促され、ひとまず一行は獣の背から降りた。 241 辺り一面が赤いので、どこに火柱があったのか判らない。 押し寄せる赤の情報に頭の中を占拠され、戸惑いと心細さで足の 重くなっていたクラウズェアに、アルテミシアの声が掛けられた。 ﹁ここだよ?﹂ いつもと同じく抑揚に乏しい声だったが、その声は、赤毛の少女 に冷静さを与えた。 少年の白い手が、彼女の手をそっと引く。 ﹁手を伸ばしてみて?﹂ 声に導かれ、クラウズェアは手を伸ばした。 するとそこには、手に触れる硬い感触があった。その確かな感触 を、剣ダコのできた手が、しっかりと握り込んだ。 その途端。 ﹁熱い!﹂ 叫び声と同時に、辺りを埋め尽くしていた動かぬ炎が一瞬で消え 去った。いや、剣に吸い込まれた。そして、剣の柄から熱が流れ込 み、クラウズェアの手を、そして身の内を焼き始める。 ﹁ローズ!﹂ ﹁ダメ、シア!﹂ あまりの熱さに離そうとした手が離れず、一瞬で死を覚悟した瞬 間。柄を握るクラウズェアの手に、アルテミシアが両手で取り付い て引きはがそうとした。 その時の事だった。それが起こったのは。 爆発に似ていた。 クラウズェアを焼き殺すはずだった恐ろしい熱量が、彼女の手を 通してアルテミシアに流れ込んでいた。 かがや 少年の華奢な体に熱が渦巻き、駆け上り、髪と目を炎の赤で染め らんらん 上げる。 まばゆ つ 目は爛々と燿き、火勢に押し上げられ逆立った赤髪は、燃え盛る 炎のよう。眩く燿きながら赤く立ち上ったその流れは、天を衝かん ばかりであり、 242 そして、 その頂点から圧力に押し出されたモリオンが、ぽぉんと、空に打 ち上げられた。 けたちが それは、ノーマンが火の共鳴術でアルテミシアを焼き殺そうとし た時の再現だった。とはいえ、あの時とは熱量が桁違いなのだが。 ﹁シアっ、手を離しなさい!﹂ 耐えられる熱さになった訳を直感したクラウズェアは、大量の汗 を吹き出し始めたアルテミシアに叫ぶ。 ﹁離しちゃいけやせんぜ!﹂ すかさず割って入った孔雀の声に、クラウズェアが怒りの目を向 けた。 ﹁シアが!﹂ ﹁お嬢ちゃんなら大丈夫です! 信じてください﹂ ﹁だいじょうぶ。ちょっと熱めのお風呂に入ってるぐらいだから﹂ ジャックの切迫した熱誠さと、アルテミシアの健気な言葉が、ク ラウズェアから言葉を奪う。 いつのまにか上空から降りてきていたモリオンが、心配げな風に、 少年の側でくるくる回っている。 ︱︱やがて。 剣から流れ込む熱がなくなると、色こそ深紅を保っているが、天 を衝いていた髪は自然と地へ向け流れ落ち、熱さも和らいだ。 今では逆に、少年の体から、クラウズェアの体を通し、その掌中 の剣へと、緩やかに熱が移動している。 ﹁昨日入ったお風呂くらいになったね﹂ ﹁ほんとう。温かくなった﹂ 苦痛ではない熱さが二人の身の内を温め、汗が滲む。 そうやって、しばらくの時が経った頃。 アルテミシアの体から熱が流れきり、髪が白く、目が黒くなった のを確認したモリオンが、母親の体内に入っていった。 ︻オカアサンオカアサン︼ 243 ﹁︻ごめんね、モリオン。心配しちゃったね︼﹂ 胸中の子をあやしながら、視力を得た少年が見たものは、ありえ ないはずの、 そして、 奇跡のような嬉しい光景だった。 ﹁ローズ⋮⋮髪が﹂ アルテミシアは見た。 少女が握っていた剣は、いつの間にか消えていた。その替わり、 猟師小屋で切ったはずの髪が、彼女の背に流れ落ちているのを。 ﹁え?﹂ 手に吸い付いたように離れなかった剣が消え去っているのを呆然 と見ていたクラウズェアは、幼なじみの声に促され、反射的に手を 後頭部に回した。 ﹁あ﹂ それだけの音が漏れた。 背中の方にも手を回す。切ったはずの髪の感触があった。お下げ はほどけているが。 ﹁うそ?﹂ 体の前に、髪をかき寄せてみた。 いつも見慣れていた、けれど、ここ数日は軽さと引き替えにその 存在を失っていた赤い髪が、手に重さを、目に赤を、感じさせてい たのだ。 ﹁どうして?﹂ ただただ不思議だった。それしか浮かんでこなかった。 少年が言葉をかけるまでは。 ﹁よかったね、ローズ﹂ ﹃よかった﹄と言われた。反射的に、認めてはならないと思った。 ﹁わたし、べつに。ちがうの! 気にしてなかったの!﹂ 選ぶべき言葉が判らない。気ばかり焦って、言ってはいけない、 言いたくない言葉が出ているような気がした。 244 ﹁ちがう! 後悔なんてしてない! 髪なんて、べつにどうだって ! べつに⋮⋮あ﹂ 頬を伝う感触に、少女はますます焦ってしまう。 ﹁ちがうの、これは﹂ そうして一生懸命に言い訳をする相手︱︱アルテミシアの方を見 た彼女は、幼なじみの男の子が微かに笑うのを見た。 ﹁いいの、ローズ。喜んでいいの。ローズが嬉しいと、ぼくもうれ しいから。いいの。髪が戻ったんだよ? よかったね﹂ そう言って精一杯背伸びした少年は、背の高い少女の頭に手をの っけ、よしよしと、頭をなで始めた。 それで、もう駄目だった。 お えつ せき止めていたものが決壊し、ぼろぼろと大粒の涙が零れ始めた。 あふれ出る嗚咽を聞かれたくなくて、目の前の男の子にすがりつ す き、肩の辺りに顔を埋めて泣いた。アルテミシアが頭を撫で、長く なった赤い髪を指で梳く度に、泣き声も涙も沢山出てしまう。 クラウズェアは泣いていた。 こわ 涙に濡れた頬に白い手で触れると、あの日の晩、決断の夜に感じ た強ばりは無くなっていた。 アルテミシアの願いは、叶ったのだ。 245 四章⑭﹃名剣? 名刀? 相棒の名は、薄紅﹄ ﹁シアに泣かされた﹂ 泣き止んだクラウズェアの第一声が、この恨めしげな言葉だった。 ﹁ごめんね? ローズ﹂ なでなで。 ﹁謝ってるのに、どうして嬉しそうなの? そんなのちっとも謝っ てない﹂ ﹁どうしたら許してくれるの?﹂ ふにふに。 ﹁まず、頭を撫でるのと、ほっぺたを触るのをやめて﹂ 文句こそ言ってはいるが、赤毛を腰まで伸ばした少女は、全く抵 うらや 抗していなかった。されるがままだ。説得力のかけらもない。 誰かの咳払いが聞こえた。 ﹁あー、お二人さん? じゃれ合うなんて羨ましい。間違えた。じ ゃれ合うのもその辺にして、もっと別の事に興味を持ってみません か?﹂ ジャック改め、孔雀の声が割って入った。 ﹁ち、ちがっ? これは!﹂ クラウズェアは慌てふためき、 ﹁うん、そうだね﹂ アルテミシアは名残惜しそうに少女から手を離した。ふと、ツユ クサの近くに落ちていた二つの赤いリボンに気付き、拾い上げたそ れのほこりを払い、髪を纏めなおす。 離れる手に、﹁あ﹂と小さく漏らしたクラウズェアは、誤魔化す ように咳払いをする。そして、無意味に腕組みをした。 ﹁別の事とはなんだ? クジャク﹂ 声が少しうわずっている。 246 ﹁⋮⋮仕返しのつもりですかい? その名前で呼ばんでくださいよ ぅ﹂ 恨めしげな声から情けない声に。孔雀の声が笑いを誘い、クラウ ズェアの心を落ち着けた。 ﹁いや、そんなつもりはなかったのだが。わかった、そこまで言う なら今まで通り、ジャックと呼ぼう﹂ ﹁クジャクさんって、いい名前だと思うのに。⋮⋮それでジャック さん、﹃別のこと﹄って、なぁに?﹂ 二人の反応に、あからさまにホッとしたようなジャックに戻った 孔雀は、調子を取り戻すようにおどけた声を出した。 ﹁いやですよぅ。剣です、剣、剣! 剣が消えてるでげしょ? ま あ、予想はつきますがね﹂ ジャックの指摘に、髪のことで頭がいっぱいだったクラウズェア は慌てて周囲を見回した。 ﹁確かに! 剣がないっ? あれだけ苦労して手に掴んだはずの剣 がなくなっている!﹂ 剣の刺さっていた辺りとその周囲を、目を見開いて探し始めたク ラウズェアに、アルテミシアが声をかけた。 ﹁剣ならあるよ?﹂ ﹁どこにっ?﹂ 振り向いた少女の、その動きに合わせてさらさらと舞う赤い髪を 指さしながら、 ﹁この、伸びた分の髪が、たぶんそうだよ﹂ 銀の霧の塊みたいになった赤毛を、赤眼が映していた。 ﹁髪?﹂ ﹁うん、そう﹂ ﹁髪といっても⋮⋮いったいどうすれば﹂ クラウズェアは途方に暮れた。剣が髪になるなど、聞いた事もな い。ましてや、その髪をまた剣に戻すなど。 思わず、博識との認識に変わったジャックへと、視線を向けた。 247 ﹁ジャック、どうすればいいと思う?﹂ ﹁うーん、そうですねぇ。とりあえず、再現してみやしょうか? 地面に刺さった剣を引っこ抜くイメージ。それと、剣から伝わった 熱のイメージ。この二つを頭ん中に思い描きながら、剣を抜く動作 をしてみやしょう﹂ ﹁わかった﹂ 素直にジャックの提案に従ったクラウズェアは、言われた通りの イメージを脳裏に浮かべながら、胸の前で握るように両手を重ね、 うすべにいろ 剣を引き抜く動作をした。すると、髪の重さが一瞬でかき消え、替 わりに、手に重さが生じたのだった。 ほうっ、と、クラウズェアの口から感嘆の溜息が漏れた。 わんとう 美しい剣だった。 湾刀だ。 みね 緩やかに反った刀身は、どこかルクルクの爪を思わせる。薄紅色 にえ の刀身は刃から棟へ行くにつれ濃さを増し、火の粉が散ったような は なが 紅の錵が全体にある。 刃長は二尺二寸一分︵約六七㎝︶、全長は三尺三寸︵約一m︶に 及ぶ。 そして、造りとして特徴的だったのが、切っ先から刀身の中程ま きっさきもろはづくり こがらす まる でが両刃で、それ以降は片刃になっていることだろう。 ﹁鋒両刃造⋮⋮小烏丸⋮⋮な訳ねぇよな﹂ どこか魅入られた風のジャックの声に促され、剣を抜いた時の姿 かがや にえ は もん 勢を再現していたクラウズェアは、右手に持ち替えながら切っ先を 天に向けた。 じ はだ 陽光を照り返す刀身は燃え上がるような赫きを見せ、錵と刃文と いた め はだ や くもはだ 地肌をくっきりと浮かび上がらせた。 すぐ は ﹁板目肌じゃなく八雲肌か。こりゃあまるで、雲間から赤い星々が のぞいて見えるみてぇじゃあねぇか。ああ、刃文は直刃なんだな。 うすくれない 真っ直ぐな姐さんにピッタリだ。⋮⋮しかし、これほどまでに明る く冴え渡った刀、初めてお目にかかるぜ。それに、こんな薄紅の刀 248 べつぴん は見たことねぇや。なんてぇ別嬪な刀だろうね。ウットリ﹂ うっとりとしていた。実際、言っていた。 しん び がん ﹁職人言葉か? 何を言っているのかさっぱり解らん。だが、美し い剣であることは審美眼のないわたしにも解る。それに、驚くほど 軽い。ところで、小烏丸というのはなんだ?﹂ 初めて耳にする言葉にクラウズェアが問うと、 ﹁ああ、失礼しやした。てめぇの世界に入り込んでやした。小烏丸 やたがらす っつーのはあっしの国に伝わる刀なんです。太陽に住むと云われる からす 八咫烏っつー神鳥がおりやして。こいつは足が三本もある馬鹿でか ちな い烏なんですよ。その大烏から当時の支配者が賜ったっつー言い伝 ほ ぼ えがあるんで、それに因んで小烏丸っつー訳です、ええ、はい﹂ 興奮したようにまくし立てると、また惚れ惚れと剣を眺めだした ジャックだったが、思い出したとばかりにこう付け加えた。 ﹁あと、刀ってぇのは、これもあっしの国に伝わる武器の一つで、 片刃の湾刀です。恐ろしく切れ味の良いもんで、それを扱う高度な あい 剣術も同時に発達しやしたね。まあそいつは、見ての通り刀身の中 間辺りまで両刃になってやすから、切るのと突くのの間の子な働き ができるでしょうね﹂ ﹁剣術。⋮⋮突くこともできるのか﹂ そう言って、中段に構えた女騎士は、試しに軽く突きを放ってみ た。 ひ ひ すっ、と、軽やかに突き込まれた動きに合わせ、赤い赫きが尾を 曳いた。 まるで、夜空を横切る流星だ。見る者の目を惹く。 だが、クラウズェアはそれどころではなかった。 ﹁なんだ、これは?﹂ 突き終わった姿勢から元に戻り、立てた剣を眼前に引き寄せてま じまじと見た。鋭い切っ先から赤い錵の散る薄紅色の刀身へと視線 を動かし、玄糸と黎糸の織りなす錦の巻かれた柄、それを握る手、 そして体へと移していく。 249 ﹁どうかしやしたか?﹂ ジャックの問いに、 ﹁体に熱が走った﹂ 簡潔な返答。それでは説明不足だと、 ﹁突いた時、剣から手を通して体に熱が走るのを感じた。抜く際に かたな こ 感じたほどの高熱ではないのだが。何か、妙な感じだ。つくづく不 思議な剣だ。いや、刀か﹂ 緑の目に、赤い剣が映る。体の熱ではない、心の熱が籠もってい すえもの ぎ る人間の目だ。 ﹁据物斬りでもしやすか。ここじゃあ切るもんがねぇから、練丹洞 に戻りやしょうぜ﹂ ﹁据物斬り?﹂ ジャックの提案の中、聞いたことのない単語を不思議に思い、思 わずクラウズェアは繰り返した。 ﹁ああ、試し切りのことです。そいつがどの程度使いもんになるか、 おも 姐さんも知っておきたいでしょう? なんせ、これからはそいつが 姐さんの相棒なんですからね﹂ ﹁相棒﹂ レイピア その言葉が、クラウズェアに手の感触を憶い起こさせた。師フィ デリオから贈られた細剣が、タイタスの剛剣に折られた、忌まわし い感触を。 ﹁そうそう。相棒なんですから、これは名前でも付けてやらねぇと めい き いけませんね。どうしやす?﹂ 普通、刀には銘が彫られている。それが刀としての名になるのだ ためら が、銘を確認するには柄を外す作業が必要だ。刀を扱ったことのあ るジャックでも、見たことのない刀の柄を外すのは躊躇われた。 だが、名を付ければ武器に愛着が湧く。愛着が湧けば、武器と使 こうようかん かっとう おもんぱか い手との間に信頼関係が生まれ、良く働くことが多い。だからこそ さと の命名の提案だったのだ。 だが、普段は聡いジャックも高揚感で女騎士の葛藤を慮れないで 250 いる。少女の気持ちを置き去りにして、言葉を紡いでしまっていた。 また、折られるのではないか? クラウズェアの不安が手に伝わり、わずかに刀を揺らした。 ﹁だいじょうぶだよ、ローズ﹂ 唐突に声が上がった。 ﹁シア?﹂ 緑の目がそちらを見ると、赤い目とぶつかった。 ﹁その、刀? いっしょうけんめい頑張るって云ってるよ? すご く丈夫だから、誰にも負けないって。だから、名前を付けて欲しい、 って﹂ りつどう せんりつ かがや アルテミシアには見えていた。刀に満ちた濃い銀霧が、星の様に 瞬き律動を生み、水の様に流れて旋律となり、炎の様に命の様に赫 くのを。 そして、その全てが﹃戦える﹄という、意思とも言葉とも感じら れる、思いを響かせた音となって目に映り、耳に届くのを。 ﹁誰にも、負けない﹂ アルテミシアの言葉が、クラウズェアによって繰り返された。 ﹁うん。すごくやんちゃな性格みたいだよ? まるで、子供の頃の いたずら ローズみたいに﹂ あ ど どこか悪戯っぽい響きに、沈んでいたクラウズェアの心が動き、 頬に朱が差した。 ﹁シ、シアっ?﹂ 慌てふためき、赤い目から反らした視線を当て所なくさまよわせ、 手頃なジャックに向けることにした。 ﹁なんだかシアが悪い子になってる気がする。あんなに素直な良い 子だったのに。誰のせいだ?﹂ 言いがかりにもほどがある。だが、自分の失言に気付かされ、悔 いていたジャックには、適当に言い返す言葉が見つからない。 ﹁いや、えっ、あっし? どうも済みません?﹂ いつものふてぶてしさのないその態度に、クラウズェアは小さく 251 吹き出した。 ﹁冗談だ﹂ ﹁あ、じょうだん⋮⋮。姐さんもお人が悪い﹂ 言ってから、 たまはがね ﹁空気の読めねぇ発言のお詫びに、一つ。刀ってぇのは見た目の鋭 利さ、繊細さに比べ、随分と頑丈な事は確かです。玉鋼ってぇ特殊 な製法で作られた鉄を使い、硬軟織り交ぜた複合素材によって、硬 くありながら柔軟で折れにくい。そして、曲線を描くその姿は、切 った際の衝撃を分散・吸収し、刀身が折れたり、切り手に衝撃を伝 えにくくする役目もありやす。また、引いて使うことにより少ない 力で易々と切り裂く、という働きもありやす。まこと、考え尽くさ れた剣ですよ、ええ﹂ 真面目くさった声で講釈し、更にこう付け加えた。 わざもの ﹁猛火渦巻く前人未踏の魔境で、姐さんだけが手に入れた刀です。 すっげー刀に決まってやす! あっしの見立てでも、かなりの業物 だと思いやすよ。それを、使い手の姐さんが自信持たねぇでどうし やすか。刀の風格に見合った、堂々とした態度でいなくっちゃあ、 でげしょ?﹂ アルテミシアとジャックの二人に、こうまで言われては迷っても うすくれない いられない。クラウズェアは腹を決めた。 しじょう ﹁そうだな。よし! この刀の名前は︿薄紅﹀だ﹂ 命名の声に合わせ、︿薄紅﹀は熾盛の光明を発し、クラウズェア に熱と手に馴染む感触を与えた。 あ 直ぐに赫きは収まったが、その短い時間にアルテミシアは聴いた。 刀が歓喜する様に、産声を揚げる様に、ごうっ、と激しく律動し、 旋律が流れるのを。 そしてそれは、クラウズェアの律動でもあった。 温かな律動。 力強い律動。 優しい律動。 252 命の律動。 アルテミシアが大好きな、赤毛の少女だけが持つ律動。 ハルモニア クラウズェアの律動に、薄紅の律動が応える。その律動は、見事 に一致していた。 少年の顔に、微かな笑みが浮かぶ。 少女の顔は、驚きで満たされていた。 どんな色の彩化晶も、結局、この頑張り屋の女の子には応えてく れなかったのだ。それなのに、その彼女にだけ応えてくれる律動が、 その手に在った。 体が震えた。 緑の目から零れ落ちそうな滴を、これ以上幼なじみに見せたくな くて。凜々しき騎士は空を仰いだ。 さんぜん かがや 天は高く、空はどこまでも果てしなく透き通り、金の太陽が祝福 するかのように燦然と曜いていた。 そしてジャックはと言うと、辺り一面を染めた赤い光に身を晒し た時、見えない汗を背にかいた面持ちだった。 ﹁なんか⋮⋮あの刀で斬られるとヤバい気がする﹂ 253 四章⑮﹃弟子にして下さい、ジャック先生!﹄ れんたんどう 地に身を横たえて事態を見守っていたツユクサに、アルテミシア が頼み込んで皆を背に乗せて貰い、練丹洞まで運んで貰った。 一瞬だった。 犬妖精の比ではない。行きの苦労は何だったのかと思わないでは なかったが、問題もあった。 ﹁気持ち悪い⋮⋮﹂ 馬に乗り慣れているはずのクラウズェアが、乗り物酔いを起こし ていた。犬妖精達と同じく快適なはずのその背も、あまりにも速度 が速すぎて、不都合が生じるようだった。 かいほう ﹁だいじょうぶ? お水飲む?﹂ 介抱の仕方など知らないアルテミシアは、少女の周りでおろおろ している。 ﹁シア嬢ちゃんは大丈夫なんですかい?﹂ クラウズェアより体の弱そうな少年への、当然の疑問だった。 ﹁うん。途中で急に眠たくなってきて、寝てる間に着いていたから﹂ ジャックの問いに答えたアルテミシアの回答は、勘違いである。 眠ったのではない。あまりの速さに気絶したのだ。 腕組みをしたジャックが言った。 ﹁加速度病、いわゆる乗り物酔いですね。実際に体が揺れなくても、 目から入る情報を脳が処理しきれずに起こる事がありやす。一時的 な自律神経失調症とも言えやすが。奥に良い薬がありましたから、 取ってきやしょう。シア嬢ちゃん? 一緒に行きやしょう﹂ ﹁ローズを治すお薬? うん、わかった。待っててね? ローズ﹂ ﹁うん﹂ 洞窟入り口付近で壁を背にして座り込んでいるクラウズェアは、 少年の声に弱々しく返答した。 254 ちなみに、薄紅はツユクサに乗る際に髪に戻してある。名付けた 事で、呼び戻しが自在になったのだ。それと、ツユクサは一行を洞 窟前まで運ぶと、すぐさま姿を消してしまった。アルテミシアは残 念がっていたが。 暫くして。 ﹁持ってきたよ﹂ ジャックを従えたアルテミシアが、丸い盆に陶器でできた入れ物 と、水差し、空の湯飲みを載せて持ってきた。 ﹁ありがと﹂ 青白い顔のクラウズェアは、吐き気を我慢して律儀に謝意を述べ た。 ﹁ううん、気にしないで?﹂ クラウズェアの事は心配だが、役に立てるのが嬉しいアルテミシ アは、ジャックの指示に従って甲斐甲斐しく用意をしていく。と言 にご っても、湯飲みに薬湯を注ぐだけなのだが。 ﹁はい、どうぞ﹂ ﹁うん⋮⋮うっ?﹂ 渡された湯飲みには、薄い泥水のような濁った液体が入っていた。 匂いも、あまりよろしくない。 ﹁こ、これをわたしが?﹂ しろもの ハーブティーを想像していたクラウズェアにとって、それは、飲 むのにかなりの勇気を必要とする代物だった。 ﹁うん。すぐに良くなるって﹂ だが、無邪気な幼なじみの眼差しを前にして、飲めないなどと言 う余地はなさそうだ。彼女は腹をくくり、それを一気に飲み干した。 不味かった。すぐさま湯飲みに水を注ぎ、口の中の後味を流し去 おう と る。不幸中の幸いだったのは、薬湯が冷えていたのでまだしも匂い しょうはんげぶくりょうとう がきつくなく、飲みやすかった事だろう。 ﹁小半夏加茯苓湯という漢方です。﹃胃を開き、気を下し、嘔吐を 止む﹄と云われてやすね。まあ、腹の調子を良くし、興奮した心を 255 落ち着け、吐き気を抑える効能があるっちゅー事で。あと、腹ん中 に溜まった水を出す効果がありやす。ポンポンがチャポチャポして っと、酔いやすくなりやすからね。暑さのあまり、水をがぶ飲みし たのもまずかったんでしょう。ま、仕方のねぇ事ですが、あの暑さ じゃあ﹂ 慰めの言葉に感謝し、そしてジャックの博識ぶりに驚かされたク ラウズェアは、ただじっと黙って耳を傾けていた。 そうして、暫く安静にしていると、クラウズェアの体内で生理現 象の兆しが感じられた。 ﹁ちと、行ってくる﹂ すっくと立ち上がった少女は、足早に洞窟の奥へと去って行った。 アルテミシアが声を掛ける暇も無かった。 ﹁ローズ、どうしたんだろ?﹂ 少年の疑問に、 ﹁お花を摘みに行ったんでげしょう﹂ グヘヘェと下卑た笑いで返すジャック。 ﹁お花? 花ならそこに咲いてるよ?﹂ 白い手が洞窟の外を指さす。 ﹁そういうお花じゃあないんですねぇ。言うなれば秘密の花園です。 特別なんです。自然が姐さんを呼んでるんです﹂ ﹁そうなんだ?﹂ くだらない話で盛り上がっていると、どこかすっきりした顔のク ラウズェアが奥から戻ってきた。顔色は元に戻り、足取りは軽い。 ﹁お花は摘めなかったの?﹂ 手に何も持っていないのを見て取ったアルテミシアが、不思議そ うに尋ねる。 ﹁お花?﹂ 一瞬、面食らったクラウズェアだったが、元凶を察し、破廉恥の っぺらぼうを睨み付けた。 256 ﹁ジャック﹂ 低く、ドスの利いた声だった。彼女の怒りに誘われ、右手にはい つの間にやら薄紅が握られている。 ﹁ひぇっ?﹂ のっぺらぼうから間抜けな声が漏れた。慌てて逃げようとするが、 アルテミシアの影に住み着いた身では、どこへも行けない。 ﹁薄紅が怖いのか?﹂ 今までとは違うジャックの反応に、少女の唇が下弦の弧を描き、 目が細められる。その恐ろしげな笑みに、哀れな影人間は小水を漏 らしそうになった。 ﹁お、おたすけぇ∼!﹂ アルテミシアの後ろで、土下座しながら手を合わせている。 その、あまりの情けなさに毒気を抜かれたクラウズェアは、思わ しま ず吹き出してしまう。 ﹁冗談だ﹂ そうして刀を仕舞うと、地に伏したジャックの側に右膝を突いた。 ﹁顔を上げて欲しい﹂ その声につられたジャックが顔を上げると、今度はクラウズェア の方が頭を下げたのだった。 ﹁へ? 姐さん、いってぇこいつぁ﹂ 戸惑うジャックに、クラウズェアは言った。 ﹁貴殿の腕を見込んでお頼み申し上げる。どうか、わたしに剣術を ご教授ください﹂ クラウズェアにとってジャックという存在は、最初、単なる怪し げなお調子者であった。やがて信頼するに到り、その博識ぶりにも 驚かされた。 だが、それだけではないと気付いたのだ。 あの、衝撃的であったタイタスを打ち倒した瞬間の事を、今でも 鮮明に覚えている。当初、影の国の共鳴術のようなものだと思って いたが、共鳴術は使えぬと云う。 257 思い返せば、出会った時に身のこなしについて指摘を受けた。 ﹃突こうという意識が強すぎる﹄と。 他にも、足場の悪い場所での歩き方なども。刀の造りにも詳しそ うだった。専門用語が多すぎて、クラウズェアにはさっぱりだった が。 それらから推論するに、﹃あるていど武の道に通ずる者ではない か?﹄との考えに到ったのだ。 かいだく ﹁姐さん、顔を上げてくださいよ。これじゃあ話もできやしねぇ﹂ ﹁では、ご快諾いただけるのでしょうか? そうでなければ、頭を 上げる訳にはいきません﹂ クラウズェアの決意は固かった。ジャックに応じて貰うまで、頭 を下げ続けるつもりだった。 ウーンという唸り声が続き、ハアという溜息が影人間から漏れた。 ﹁教えるたって、あっしは人に何かを教えられるような上等なモン じゃあねぇんですがねぇ。⋮⋮剣の振り方の基本程度なら、まあ、 なんとか下手なりにで良ければって感じですが﹂ その、渋々といった言葉に、クラウズェアの頭ががばりと上がる。 ﹁それで構いません!﹂ 弾んだ声に混じり、アルテミシアのほっとした溜息が添えられた。 幼なじみの大事な時だったのだ。はらはらしながら息を潜めて見守 っていたのだが、良い結果になりそうで安堵したのだ。 ﹁そいじゃ、ま、据物斬りをするってぇ話でもありやしたし、外に 出ましょうか?﹂ ﹁刀はレイピアと違って、基本的には両手で扱うもんです﹂ ジャックの言葉通り、刀の柄は両手で持つようにある程度の長さ がある。 薄紅も例にもれず柄は長く取ってある。 ﹁まあ、こう言うと反論も挙がるかもしれやせんが、あっしが知る 258 、、、、、、、 つば 限りにおいちゃああくまでも基本であり、将来的にゃあ、そこにこ だわる必要はありやせん。ともあれ、右手は鍔の下を、左手はその 下を持ちます。強く握り込まず、柔らかく持って下さい。持つ力は 左右均等。柔らかく、とにかく柔らかく﹂ ジャックの教えに従い、薄紅を両手で持つクラウズェア。 収まり良く、手の内に安定する。長年使い続けたレイピアよりも 持ち慣れた感のある、不思議な心地を覚えた。手の内にあるだけで 心が落ち着くのだ。 今は、直立したクラウズェアが、刀を地面に対して垂直に立てた 状態だ。切っ先が天を、柄頭が地を向く。刃が前方だ。 ﹁刀という物は、刃筋を立てないと切れません。切る物に対して、 刃を垂直に︱︱真っ直ぐ当てましょう。それから、腕は真っ直ぐ。 こし 手首を利かせて小手先で切るでもなく、肘を曲げて前腕で切るので も、肩から先の腕で切るのでもありやせん。腰で切るんです﹂ ﹁腰?﹂ クラウズェアの眉間にしわが寄った。﹃腰で切る﹄という事が理 解できなかったのだ。 腰 から生えてます。腰を使って手足を動かす ﹁そうです。人の手足ってのは、肩や股から生えてるんじゃねぇん です。手も足も、 んです。武器を振るのも、素手で殴るのも、手じゃなくて腰です。 足で蹴るのも、歩いたり走ったり跳ねたりすんのも、ぜぇんぶ腰。 腰を使います﹂ ﹁む﹂ 形の良い眉がますます寄り、クラウズェアの唇は引き結ばれた。 ﹁今は理解できなくて構いやせん。そのうちご自分の体を通して分 かるようになりやすからね。さて。そいで肩は落として下さい。肩 の力を抜いて。それから、肘は外側じゃあなく、地面に向ける。そ うすると、肩が落ちます。余分な力を抜いて∼。あぁ、そんな眉間 にシワなんて作ってちゃあいけやせんぜ。歯も食いしばっちゃあダ メ。リラックスです。脱力です﹂ 259 いったん力を抜くため、クラウズェアは深呼吸をした。 ﹁お、いいですねぇ。お次は、胸を張らず、腰を反らさず、背を真 っ直ぐに。それから、足は踏ん張らず、力を抜き、足の裏全体を地 面に着ける﹂ 言われた通りにすると、刀の重さが足の裏に落ち、姿勢が安定し た。 ﹁ほんじゃあ、あっしが言ったことを守りつつ、剣を振り上げて﹂ 薄紅が弧を描き、頭上に振り上げられる。 ﹁振り下ろして﹂ 声に合わせ、振り下ろされた。 ﹁剣筋がブレてます。真っ直ぐ振り下ろして下さい。閉まる寸前の 扉があったとして、扉と壁の隙間が薄紅の刃の厚さ分だけしか開い てないとしやす。その隙間をキレイに通せるくらいの精密さで、振 り下ろしましょう﹂ ﹁むむっ﹂ ﹁眉間にシワが寄ってます。力を抜いて。じゃ、もう一度﹂ 再度、薄紅が振りかぶられ、振り下ろされる。 ﹁力でムリヤリ真っ直ぐにしやしたね? いけませんぜ、そりゃあ。 剣を振る速度が遅くなるし、動きが硬くなるし、切る事もできなく なっちまう。無駄な力みを捨て、身を柔らかく保てば、自然と剣は 真っ直ぐに振り下ろせます。もう一度です﹂ 斬り です。以上で終わ 深呼吸をしたクラウズェアは、めげずに剣を振る。 ﹁少しだけマシになりやしたね。それが りです。お疲れ様でした∼。有り難う御座いました∼﹂ ﹁ちょっと待った!﹂ クラウズェアの鋭い突っ込みが入った。 ﹁なんでやしょう?﹂ すっとぼけるジャックに、 ﹁これだけのはずがない! もっと多くの動きがあるはずだ! そ れとも、やはりわたしに教えるのは﹂ 260 そこまで一息に言い、 ﹁嫌になったのですか?﹂ 尻すぼみに声が漏れた。見るからにしょげている。 は か ﹁あ、いやぁー、そういう訳では﹂ 真っ黒い禿げ頭を黒い手で掻いたジャックは、言葉を選んで説明 をした。 け さ ﹁基本なんてぇのは、本当にさっきの通りなんですよ。後は応用で ことができて初めて活きる動きです。そもそも、斬 す。袈裟に︱︱斜めに斬るも、突くも、薙ぐも、受け流すのも、 真っ直ぐ斬る がっしうち りかかる敵の動きに応じてこちらも刀を合わせてやれば、向こうさ あい う んの攻撃は勝手に逸れてこっちの攻撃が一方的に当たる[合撃]や 斬り ら[切り落とし]やら云われる、攻防一体の特殊な相討ち技になり おろそ やすからね。でも、そいつぁ先の話です。今はさっき教えた の動作を反復練習するのが良いと思いやすよ? 基本を疎かにす ると、大成しやせんぜ? ⋮⋮って偉そうになに語ってんでしょう ね?﹂ アハハと笑うジャックの前で、黙って聴いていたクラウズェアは、 いきなりがばりと頭を下げた。 しょうじん ﹁申し訳ありませんでした! 己の浅はかさに恥じ入るばかりです。 これからは先生のご指導を守り、一生懸命精進いたします!﹂ ﹁せんせいっ?﹂ 勢いよく頭を下げた堅物騎士に、影人間は素っ頓狂な声を上げた。 ﹁ちょいと! ちょいとちょいとっ、よしてくださいよ! 先生っ ? えっ、なんですそりゃあ?﹂ 頭を下げられた方が弱り切っているのもおかしな話だが、ジャッ クは確かに弱っていた。先生など、いまだかつて呼ばれた事はない。 呼ばれるに値する器でもないと思っている。 だが、クラウズェアの方は違った。 ﹁これからはわたしの剣の師匠なのですから、先生とお呼びするの は当たり前です﹂ 261 けが 真っ直ぐな目は真剣さを帯び、尊敬の念できらきらと輝いていた。 ﹁そんな目であっしを見ないで! 穢れた体が消滅しそう! だい たい、姐さんのお師匠さんは別におられるんでげしょう?﹂ ﹁フィデリオ先生は確かにわたしの剣の師匠です。けれど﹂ そこまで言ってから、クラウズェアの口が引き結ばれる。 ﹁なんかあったんですかい?﹂ そう促すジャックの声に、意気消沈した声が答えた。 ﹁最近、﹃もう教えることは何もない﹄と云われたばかりで⋮⋮。 ﹃後は自分の思う道を進みなさい﹄とも。きっと、わたしに剣の才 の無いのを呆れられたに違いない。だが、お優しいフィデリオ先生 は、わたしが傷付かぬよう、遠回しにそんな風に仰ったのです﹂ 話すにつれ、女騎士の声は地の底まで落ちていった。 ﹁ふーむ?﹂ ジャックは腕組みをした。 ﹁別に、才能が無いなんて思いやせんがね? 百年に一人の天才か と問われれば、それこそ非才の身であるあっしにゃあ人の才なんて 推し量れるはずもありやせんが。今まで姐さんの剣捌きをいくつか 見る機会がありやしたが、それなりの腕をお持ちじゃあありやせん か。落ち込む要素なんて、どこにもありゃしやせんって。そのフィ デリオ先生が云ったのだって、何か深いお考えあっての事じゃああ む げ りやせんかねぇ? 姐さんがそこまで尊敬なすってる御方だ。弟子 を無下に扱うお人じゃあねえでしょう?﹂ ﹁それは⋮⋮確かにそうですが﹂ もと 心細げな目が、不安に揺れている。美徳であるはずの真面目さが、 彼女の心を弱らせていた。 ﹁信じるこってす、自分を。良き師の下でコツコツと修練した自分 を。薄紅の主人に選ばれた自分を。それに、クラウズェア姐さんを たたず 信じているシア嬢ちゃんを、信じられている自分を信じるんです﹂ ジャックの言葉にはっとしたように緑の目が動いた。影の横に佇 む少女のような少年は、ずっとクラウズェアの事を見ていた。 262 緑の目と赤い目の視線が絡み合う。 アルテミシアが微かに笑った。 ﹁だいじょうぶだよ、ローズ。ローズはすごく強くって、それに最 高の騎士だよ﹂ 自分の言葉をかけらも疑っていない目だった。 少女は、この少年を守りたくて、 剣を手に取った自分を﹃かっこいい﹄と言ってくれた期待に応え たくて、今まで一心に剣の鍛錬をしてきたのだ。 そうしてここまでやってきたのではなかったのか? ここで止まってしまえば、全てが無駄になってしまう。前に進み 続けるより道はないのだ。簡単な事だった。 少女は、幼き日の気持ちを思いだし、闘志を奮い立たせた。 ﹁シア、わかったよ。もう大丈夫。それからジャック先生。わたし、 もう迷いません﹂ もう落ち込んでいないクラウズェアに、アルテミシアは微かに顔 をほころばせ、ジャックは慌てふためいた。 ﹁えっ? 結局あっしが先生なんすか?﹂ ﹁勿論です!﹂ きっぱりと言い切るクラウズェア。 ﹁剣術は教えますが、先生はナシ! 先生って呼んだり、あとその 言葉遣いもやめてください! 普段通りで。でなきゃあ、あっしは 何にも教えませんぜ﹂ ジャックの激しい抵抗にあい、クラウズェアは渋々ながら条件を 受け入れることにしたのだった。 ﹁えー、っつー訳で据物斬りです﹂ しばらく剣を振っていたクラウズェアに、ジャックがそろそろい いかと声を掛けた。 ﹁わかりました﹂ 263 ﹁えっ、なんですって?﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ ジャックの聞き返しに、普段通りの言葉に言い直すクラウズェア。 ﹁えーと、じゃあ、あすこに丁度手頃な枝がありやすから、あいつ を切ってみてください﹂ クラウズェアの頭の高さに張り出した枝があるのを、ジャックが 指さした。 太さは、成人男性の腕ほどもある。この場合の成人男性とは、農 夫や狩人、剣や槍を振るう戦士など、ある程度の筋肉がついた男の ことだ。 ﹁自信は無いが、やってみよう﹂ クラウズェアが乗り気でないのには理由がある。 まず純粋に、枝が太い。 また、高い位置にある物を切るのは難しい。力が入りにくいのだ。 そして、薄紅は軽い。使っていたレイピアよりも軽い。見た目以 上の軽さだ。 それとこれが一番の理由になるが、クラウズェアは突くことに専 念した剣術をやっていたので、切ることに自信がなかった。 だが、そうも言っていられない。やるしかないのだ。 クラウズェアは垂直に持った刀を、胸の高さから頭上に持ち上げ と たん た。自然、上段の構えになる。そして、切り下ろした。 途端、切り落とされた枝と木の切断面が、炎に包まれる。 ﹁なっ?﹂ ﹁水、水っ、姐さん水! お嬢ちゃんは火を固めてください!﹂ ﹁うん﹂ ﹁わ、わかった!﹂ 処置が早かったので、よそに燃え移ることもなく、山火事に発展 することはなかった。 ﹁なんてぇ刀だ。おっとろしいな、こりゃ﹂ ﹁うむ。驚いた﹂ 264 ほ くちばこ ﹁でも、なんだか便利そうだね? 火口箱の代わりになるよ﹂ おこ このアルテミシアの言葉に、ジャックとクラウズェアはおかしそ うに笑った。 あんばい ﹁全くですね。こいつなら、ちまちまと火を熾す必要はねぇや﹂ ﹁言われてみれば、確かにね﹂ ﹁ところで姐さん。切った感触はどんな塩梅でしたかい?﹂ この問いに、うむ、と神妙に頷いたクラウズェアは、薄紅をまじ まじと見ながら語った。 ﹁凄まじい切れ味だ。切った感触が全くなかった。こんなにも軽い のに、大したものだ。それと、やはり薄紅から熱が流れ込む感触が あるのだが、今回はそれと同時に、刀身から火が走り出る感触もあ った。結果はあの通りなのだが﹂ 紡がれる言葉に、熱が籠もっていく。 ﹁走り火、ですか﹂ ジャックは興味深げに薄紅を見て、それから切れ味の鋭さに興奮 冷めやらぬといった風のクラウズェアに向かって言った。 ﹁姐さん、剣の切れ味に振り回されちゃあいけやせんぜ?﹂ この言葉に、はっとしたように、夢から覚めた心地のクラウズェ アが、影人間へと目を向ける。 よ それを受けて、 ﹁切れ味に酔えば、剣は殺すだけの道具に成り果てます。振るうの 脱力 さえでき は姐さん。斬るのも姐さん。斬ることの、斬ったことで生まれるこ との全てを感じ、背負わなきゃあなりません﹂ ﹁斬ったことを、背負う﹂ ﹁ま、小難しい言い方をしちまいましたが、要は てましたら、斬り手に感触は伝わるもんです。姐さんはまだ力んで て、力と勢いで切ってるから、手に感触が生まれない﹂ ﹁うっ、面目ない﹂ ﹁ま、おいおいモノにしていきやしょうぜ⋮⋮お?﹂ そうしているとやがて、天からぽつぽつとくるものがあった。 265 ﹁雨か﹂ ﹁あめ?﹂ いつの間にやら雨雲が覆っていた空を見上げ、一面の鉛色と、そ こから落ちてくる透明な雨粒を赤い目に映し、生まれて初めて雨を 見た少年が呟いた。 ﹁白い雲が灰色になってる。それに、あんな色から透明な水が出て くるなんて、不思議﹂ 白い掌に受けた雨粒を見つめ、次いで、再び天を見上げながら鼻 をひくひくさせる。 ﹁部屋の窓からかいだ匂いと一緒だ。雨の匂いはここでも一緒なん だね﹂ 懐かしさを含んだ声色。 決して楽しい思い出だけじゃない。むしろ寂しい思いをたくさん した、格子のはまったあの部屋は、今は遠い。 雨風を防ぐ頑丈な石壁は今はなく、代わりに冒険があった。 肌を濡らす水の冷たさも、身を焦がす猛火も、頬を打つ風も、足 をくたくたにする広い大地も、太陽と月の過ぎ行く昼と夜も、全部 を体いっぱいで感じた。 そうしてその冒険には、ジャックが、モリオンが、クラウズェア が一緒だった。 ﹁雨に濡れると風邪を引くから、ね?﹂ そう言って差し出された幼なじみの手を握り、温かな体温と繋が ったまま、洞窟へと入っていったのだった。 266 四章⑯﹃捨てるということ﹄ ﹁おかあ⋮⋮さま﹂ ベッドで眠るアルテミシアが身じろぎし、小さな寝言を漏らした。 ずれた毛布をかけ直してやったクラウズェアは、少年のあどけな い寝顔をそっと撫でながら、地に寝転んだジャックに抑え気味の声 で問うた。 ﹁わたしは、この子の役に立てているのだろうか?﹂ ﹁どうしなすったんですかい? いきなり﹂ ふ らち スカートだったらパンツを見上げられたのにと、救いようのない つゆ 影人間は不埒な考えなどおくびにも出さずに、赤毛の少女に問い返 した。 そんな事など露とも知らず、クラウズェアは沈んだ声で答える。 ﹁ふと、思ったんだ。わたしはこの子の期待に応えられているのか。 この子が望む﹃最高の騎士﹄に、いったいどれほど近付けているの だろうか、とな﹂ 整った凜々しい顔に、自嘲の笑みが浮かんだ。 あぐら ﹁昼間、強くなると誓ったばかりなのにな。すぐこれだ﹂ ﹁なるほど。最高の騎士、ですか﹂ そう言って身を起こしたぺらぺら真っ黒人間は、胡座を掻いた。 ﹁姐さんが言う、その﹃最高の騎士﹄ってぇのは、いったいどうい う騎士です? 一つこのジャックに教えてくださいな﹂ しりょ つかみ所のない声は、つかみ所のない故に、気軽に話しやすかっ た。 ぶか おさ ﹁最高の騎士とは、フィデリオ先生のような、剣の腕が立ち、思慮 深く、礼法を修め、わたしのような未熟者にも情けをかけてくださ けいけん る方のことだろう。そして何より、騎士の祖である︿英雄騎士﹀の ような、文武両道を極め、神々を敬う敬虔さ、主君への揺るがぬ忠 267 せいれんけっぱく 誠、弱者への救済、正義の執行、悪に染まらぬ清廉潔白、天地に恥 じぬ高潔、などを兼ね備えた人物だろう﹂ 最高の騎士の条件を歌い上げる女騎士に、ジャックが﹁へぇ﹂と 仰天した声を上げた。 ﹁フィデリオ先生がご立派な方だってぇのは分かりやした。しかし、 その英雄騎士ってぇのはそんなに凄い人なんですかい?﹂ えいゆうたん ﹁凄いとも。この国︱︱いや、この世の全ての人間が知っているだ てんぱん ろう。皆、子供の頃から子守歌代わりに聞くものだからな、英雄譚 を。彼が、どれだけ偉大な王だったかを。騎士とその従うべき典範 を作り、大陸のほぼ全てを統一し、平和と豊かさを築いたのだから﹂ 熱のこもり始めたクラウズェアの声に、ジャックの疑問の声が上 がった。 ﹁王様だったんですかい? 国で一番偉いのに、主君への忠誠って ぇのは、ちぃとおかしいんじゃありやせんか?﹂ ﹁それは⋮⋮王になる前は騎士だったのだ。騎士として、名君に仕 えたのだろう﹂ ﹁騎士は、その英雄騎士が王様になってから作ったもんなんじゃあ ?﹂ ﹁うっ。身分は一介の戦士だったのかもしれんが、心は騎士だった のだ﹂ ﹁その一介の戦士が最終的に王様になったってコトは、仕えていた ぜんじょう 主君を追い落として王位を奪ったってぇコトなんじゃあねぇですか い?﹂ あて ﹁なんと失礼なことを! きっと禅譲を受けたのに違いないだろう !﹂ ﹁姐さん、声が大きい﹂ ﹁うっ、すまん﹂ 人差し指をのっぺらぼうに宛がったジャックにたしなめられ、ク ラウズェアは慌てて声を落とした。幸い、アルテミシアは目覚める 様子はない。 268 ゆず さんだつ ちなみに禅譲とは、血縁への相続や武力による簒奪ではなく、徳 の高い者へ王が王位を譲る、理想的な王位継承の事である。 さて。 深呼吸の一回で気持ちを落ち着けた熱血騎士に、地に座るジャッ クがポンと手を打ち言った。 ﹁ははあ、なるほど。しかしこれで解りやしたよ﹂ ﹁なにがだ?﹂ ﹁姉さんの悩みの種が、です﹂ ジャックのこの言葉に、クラウズェアが訝しげな表情を浮かべた。 ﹁どういうことだ?﹂ ﹁ようは、欲張りすぎなんです﹂ ﹁欲張りすぎ?﹂ 意味が解らず問い返すクラウズェアに、ジャックが明瞭に答えた。 ﹁英雄騎士なんてぇいうご立派すぎる騎士を目指すあまり、それが 逆に姐さんの騎士像をボヤケさせてるんですよ﹂ この言葉には、面食らわざるを得なかった。これは、クラウズェ アの根本を揺るがしかねない問題発言だ、と少女は思ったからだ。 ﹁いや、だがわたしは騎士として︱︱﹂ も はん ﹁その騎士はなんのためか、ってぇことですよ﹂ 騎士は皆、英雄騎士を模範とし、﹃彼の様たれ﹄と教えられて修 練に励む。英雄騎士ほどの完全無欠の騎士になった者は居ないし、 そもそも騎士として性根に問題のある者も居ないではないが、それ でも建前上は﹃そうあるべき﹄とどの騎士も云う。 だが、ジャックの言はまるで﹃英雄騎士を目指すな﹄と言ってい るように、クラウズェアには聞こえた。 多くの言葉を尽くして反論しようとしたのだが、ふと、ジャック の言葉が気になった。 あまね 騎士は何のためか? これは、普く騎士叙勲を受けた全ての騎士達のことではなく、ク ラウズェア自身のことを問われている気がした。そもそも、﹃アル 269 テミシアの騎士として﹄という弱音混じりの問いから生じた会話な のだから。 ﹁騎士とは⋮⋮﹂ クラウズェアは言葉を探した。 ふめいりょう だが、模範となる騎士像を述べる言葉が脳裏に浮かび、なんだか しゅうれい 思考を不明瞭にした。それでも考えていると、頭の中が邪魔な物で って一念発起しなすったん いちねんほっき 一杯に詰まっている気がしてきて、彼女の秀麗な眉が真ん中に寄せ られた。 騎士になろう そこで、ジャックが助け船を出した。 ﹁姐さんは、どうして です?﹂ この問いには、間髪を入れず返答があった。 ﹁シアだ﹂ 少女は、言葉を繋げた。 ﹁シアを、あの牢獄のような部屋から連れ出したいと思った。色ん な所へ連れて行って、楽しみと喜びを分かち合いたいと思った。そ して、この子を傷付けるものから守ろうと思った。だからわたしは 剣を取り、騎士になったのだ﹂ 硬い手が、黒い髪をそっと撫でた。白い頬に触れ、﹃おかあさま﹄ と呟いた可哀想な唇をなぞる。 ﹁それで良いんじゃねぇですかい?﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 言われた意味が解らず、遅れて問い返す。 ﹁姐さんにとっての騎士像ってぇのは、それで良いんです。それで 充分なんですよ﹂ 穏やかな声だった。 騎士像 なんだか、クラウズェア自身もそれで良いような気がしてくる。 だが、まだ頭の中にこびりついた、繰り返し言語化された 達が、頭の中を巡りゆく。 ﹁だが、しかし⋮⋮﹂ 270 言いよどむ堅物騎士に、噛んで含めるような優しい声が、ジャッ クののっぺらぼうから紡がれた。 あやま ﹁渡り鳥ってぇのはね、目的地まで飛んでいくことしか考えてねぇ んです。余計なことを考えたり気を取られちまったら、道を誤っち なか まいますからね。余計な荷物も持ってやせん。身一つきりです。で なきゃあ、重さで力尽きて道半ばにして落っこちちまいやすでしょ う?﹂ 落ち着く声だな、とクラウズェアは思った。 不思議な声だった。彼女は今、最初みたいにごちゃごちゃと考え ていなかった。ただ、ジャックの語るその声だけが頭に入ってくる。 捨てる だけを抱いて飛ぶべきです。余分な ことです。捨てたら、身が軽くなります。身が軽く たった一つの大切なこと ふと、肩に力が入っていたことに気付き、ふっと、身を緩ませた。 ﹁ 物は なれば高く飛べます。高く飛べば視野が広がります。ほんでもって、 捨てきったら、最後には一番大切な物が残るはずです。その一番大 切な物が、姐さんに力を与えてくれます﹂ ﹁捨てる﹂ 呟いてみた。 今までは前向きな意味を感じられなかったその言葉が、不思議と、 とても大切なことのように思われ始めた。 何かが変わる。 そんな小さな予感が生まれた。 最初の頃 に戻ってください。そしたら、姐さんの思うよう ﹁ええ、そうです。そうして、身軽になってみてください。身軽だ った に飛べていることに気付くはずです。飛び続けていれば、必要な力 ていねい が身についていきます。その時初めて、他にも大切な物ができてい たら、そいつを拾ったら良いです。一つ、一つ、丁寧に。欲張らな いことです﹂ ジャックの話は終わった。 だが、ふわりと軽くなった心地のクラウズェアは、その感触に少 271 しだけ浸っていたくて、暫く黙っていた。ジャックも黙っていた。 それから。 ﹁そうか﹂ たったそれだけを、クラウズェアは言った。 ジャックは、﹃あっしの話は理解できやしたか?﹄なんてことは ごう か 訊かなかった。ただ、元のようにゴロリと地に寝転がった。 それからは、静かな夜だった。 朝は︿春の間﹀で朝食を摂った。 かぐわ 桃の木の下で広げた保存食は、いつもよりも豪華に思えた。 みずばしょう ぼ たん 花々の芳しい香り。耳には小鳥たちのさえずり。あちらには黄色 い菜の花畑、そちらには白い水芭蕉、あそこに水仙、こちらに牡丹。 そこここに色とりどりの花が咲き乱れ、向こうの山には山桜。 ぐっすりと眠ったはずなのに、腹が満ちると眠りを誘う、穏やか さ。 食後は︿冬の間﹀で雪合戦をした。 一面の銀世界と、身を切る寒さ。二人ともクロークを着込み、ジ ャックの指導に従って雪玉を作り、投げ合った。 雪だるまの胴体にモリオンを乗せたりもした。アルテミシア曰く ﹃はしゃいでいる﹄とのことで、魔物でも遊んだりするのだなと、 クラウズェアは妙に感心したのだった。 わめ 冷えた体を温めようと、今度は︿夏の間﹀に入った。 水着がどうのとジャックが悔しげに喚いていたが、少年少女は無 邪気に遊んだ。 海に足を浸してみたり、砂で城を作ったり、リベンジに燃えるク ラウズェアがスイカ割りに何度も挑戦し、最後に薄紅でかち割った スイカを蒸発させた所でお開きになった。 そして最後は︿秋の間﹀。 目に鮮やかな紅葉。熱くない赤や黄やオレンジ。雪のように散り 272 ゆく紅の中、集めた枯れ葉で火を熾し、掘り起こしたサツマイモで 焼き芋をして食べた。 焼き芋奉行、などと訳の分からぬことを言い出したジャックの厳 しい指導の下で、芋は焼かれた。 ﹁焼き芋と言っても、直接焼く訳じゃあねぇんです。落ち葉が焼か かんよう れて灰になったその下に埋めて、じっくり熱を通すんです。だいた い五〇度、って、薄紅で直接焼くなぁーっ?﹂ ﹁時間も大事です。芋ん中にどんくらいの水分が残るかが肝要です。 パサついたりベッチャリせず、丁度良いホクホクさ加減を出すにゃ あ、まあ、四〇分を目安に、ってまだ早い!﹂ ﹁だいたい、落ち葉で焼くよか石焼きにした方が旨いんだよなぁ。 うつとう かんにんぶくろ 芋も、二ヶ月くらい寝かせたモンの方が旨いし。はぁ∼。テンショ ン下がるぅー﹂ ﹁やかましい!﹂ 終いには、ジャックのくどくどと鬱陶しい言葉に堪忍袋の緒が切 れたクラウズェアの、大音声の怒声が響き渡った。 芋は、ホクホクとした食感と充分に出た甘みが食欲を刺激し、二 人はお腹いっぱいになるまで食べたのだった。 ﹁芋を食い過ぎると、オナラがたぁんと出やすぜ?﹂ ﹁うっ﹂ 訂正。クラウズェアは腹七分目でやめたようだ。 あかね ふもと そうして、西の空が茜色に染まり始めた頃。荷を纏めた一行は、 山を下りた。 犬妖精達と別れた辺りまで下り、貰った笛を吹くと、麓で待機し ていた境内走狗隊輸送班の二名がすぐさま駆けつけてくれた。 ﹁ご無事でしたか﹂ 開口一番、タッタルガル班長が言った。 ﹁殿下も気を揉まれていたようです﹂ 273 ヒューヴァウワーが続いた。 ﹁無事、とは何のことでしょう?﹂ クラウズェアの疑問に、 ﹁話は戻りの道すがらにでも。さ、背にお乗りください﹂ そう言って、二名は緑色の巨体を地に伏せさせた。 274 四章⑰﹃もてなしましょう、剣を抜いた英雄達を!﹄ ﹁無事だったのねっ?﹂ 会うなり、ルクルク王女が駆け寄ってきた。 ﹁はい。ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした﹂ 人の手前、クラウズェアは言葉遣いを選び、頭を下げる。 ﹁ううん。無事なら良いのよ、それで﹂ ホッと胸をなで下ろすルクルクを見て、アルテミシアは、ああ、 やっぱりこの子は良い子なんだな、と改めて思った。 モリオンも胸中で、 ︻イイコイイコ︼ と、それに同意した。 よ そ ところで、猫妖精の姫や犬妖精の班員達が慌てていたのには、実 はこういった訳がある。 さくじつ アルテミシア達が天焦山に行った翌日。 その日は朔日で、金色の太陽のすぐ側には銀色の月が寄り添って いた。 かがや だが普通、新月は人の目には見えない。それは、猫妖精であって も同じこと。 しかし、その見えないはずの新月が、火の玉みたいに真っ赤に赫 くのを、皆が見たのだ。まるで、太陽が二つあるかのように。 そのタイミングが、クラウズェアが剣を抜いた直後なのだ。それ しるし は、誰も知る由のないことではあったのだが。 ともあれ、不吉の徴と皆が慌てる中、ルクルクは居ても立っても みそぎ いられず一行を探しに行こうと城を飛び出した。だが、家臣に見つ かり連れ戻され、不吉を払う禊のために一日中を拘束されていたの だった。誰かを代わりに使わそうにも、皆、恐れて、あるいは外出 275 禁止令で外には出られなかった。 そして翌日、タッタルガル達を山まで行かせ、笛の音をいち早く 聞き取れるよう、麓で待機させていた、という訳だ。 タッタルガルから事情を訊いていたクラウズェア達は、ルクルク 王女の素早い対応に感謝していた。こうして、日が完全に落ちる前 に、城まで戻ってこられたのだから。 ⋮⋮まあ、︿四季の間﹀で遊んでなければ、もっと早く帰ること はできたのだが。 ﹁ところで﹂ 目を輝かせたルクルクが、クラウズェアの方を見上げている。瞳 孔が興奮で丸く開いていた。 ﹁剣を抜いたのでしょうっ?﹂ ﹁おや? どうしてお分かりになったんですかい?﹂ ジャックが問うと、 ﹁だって、こんなに涼しくなったんですもの! お山の天辺から毎 日毎日立ち上っていた煙も今では見えないし。雲の形も変わってる﹂ 王女の声に促されてそちらを見ると、なるほど確かに、天焦山の 上空に浮かんでいた円環状の巨大雲が姿を変え、今では大きな入道 雲になっていた。 だが、しかし。 ﹁涼しくなった⋮⋮かなぁ?﹂ ﹁さあ? もしかしたらばそうなのかもしれやせんが、そいつぁ、 四〇度の気温が三八度くらいになった、程度のもんでげしょ?﹂ 二人が疑問を確かめあっていると、 ﹁確かに、涼しい﹂ クラウズェアがさらりと述べた。 実は彼女は、薄紅の持ち主になってからというもの、妖精境の酷 暑を一切感じなくなっていた。非常に快適なのである。体質が変わ ってしまったのだ。日に焼け、黒くなるはずだった肌さえ、白いま 276 まである。 ﹁でしょうっ? ああ、続きはアタシの部屋で話しましょう? い ほ え待って。その前にお父様にご報告しなくっちゃあね。でもでもそ れより、いったいぜんたい剣はどこ?﹂ あっぱ ﹁見事! 実に見事だ。いや天晴れ!﹂ ナデファタ王は、玉座から身を乗り出してクラウズェアを褒めた。 ﹁よもやあの炎獄から剣を抜く者が現れようとは﹂ ﹁お父様!﹂ ﹁む、これは失言であったな。どうか許して欲しい﹂ 万が一にもそんなことはあり得ないと、面と向かって言ってしま ったのだ。浮かれすぎて口が滑ったようである。 ﹁いえ。わたし達も、あの火の海を目の当たりにした時は、肝をつ かしこ ぶしたものです﹂ 右膝を突いて畏まったクラウズェアが答えた。 実際、アルテミシアが﹃剣を取りに行く﹄と言った時、相当に取 り乱したのだから。 ﹁それで、その抜いた剣はいずこに?﹂ 興奮冷めやらぬ猫妖精の王は、小さな体をうずうずさせながら問 うた。 ﹁はっ。ではこれより、天焦山の剣をご覧に入れましょう﹂ そう言ってすっくと立ち上がった女騎士は、左手を眼前に突き出 した。 背に流れ落ちる赤毛が消え、換わりに、切っ先を下にした刀が姿 を現す。 おおっ、というどよめきが起こり、 次いで、 さや つか ほうっという感嘆の声が、猫妖精達から起こった。 ﹁鞘のない剣でありますので、柄を握ることをお許しください﹂ 277 普通、剣を見せる時の礼儀として、鞘に収まったままの剣のその 鞘を持ち、柄の方を相手に向けて差し出すものだ。そうでなければ、 斬りかかる意思のあるものと見なされてしまう。この場合、それが できなかったので、せめて剣を利き手の逆側、更に逆手に握ること で礼儀としたのだ。 だが、誰もそんなことには気を留めていなかった。 ﹁なんと、美しい剣だ⋮⋮﹂ ﹁きれい﹂ うすくれない 王と姫は、やっとそれだけを述べ、他の者達は言葉も出ない。 きら ﹁刀、と呼ばれる珍しい種類の剣で、名を︿薄紅﹀と申します﹂ ﹁薄紅⋮⋮。炎の燦めきを集めた様でいて、それなのに花に似た繊 細さがある。水の様に滑らかにも見え、伝説に聞く竜の爪みたいな くす 鋭さと力強さも感じられるわ。凄い﹂ ルクルクは、薄紅の異様な美に、奇しき麗しさに、心を奪われて いた。 よ かな 人の思いの及ぶ綺麗ではなく、人知の及ばぬ奇麗に。 そなた ﹁うむ。善き哉! 我が国は、英雄達を歓迎する! 暑さも穏やか になり、過ごしやすくなった。これも其方達のお陰だ。祝いの宴を 開きたい所だが、今日は準備の時間がない。宴は明日に回し、ひと まずはゆるりと休まれよ。ルクルク﹂ ﹁⋮⋮は、はい!﹂ ﹁英雄達をご案内して差し上げなさい﹂ ﹁承知しました、お父様。では皆さん、こちらへ﹂ こうして、一行は正式に妖精境に迎え入れられることとなった。 王と姫が歓迎ムードを作るなか。 退室するクラウズェア達を、バイガン将軍は、鋭い目で見送って いた。 278 ち そう ﹁ご馳走、という訳にはいかないけれど﹂ しいたけ 通された客間に腰を落ち着けると、すぐさま料理の数々が運び込 な す まれた。 いた 茄子、トマト、椎茸、竹の子などの具材を浮かべた。さらりとし たまねぎ た甘酢スープ。 こうそうやき 人参、玉葱、牛肉を炒めて香辛料をたっぷり加えた、とろみのあ る煮込みスープ。 ご ま 塩湖で採れた塩と小魚の粉末を振りかけた、川魚の香草焼。 米と豚肉と細かく刻んだ野菜を胡麻油で炒めて、塩と香辛料で味 付けした物。 冷やしたココナッツミルクに、切り分けたバナナやパイナップル ゆ を浮かべた物。 こしょう 茹でたジャガイモをすりつぶして、山羊の乳、バター、ニンニク、 塩胡椒を混ぜ込み、黄色いもちもちパンで包んだ物。 羊の乳で作った練乳に甘竹の竹糖を混ぜ、切った果物が浮かぶヨ ーグルトにかけた物。 や し 他にも、弁当に持たされたサンドイッチや芋の饅頭もある。 酒も、甘竹酒のほか、ココ椰子の樹液で造った酒や、米から造っ た酒なども並んでいる。 ﹁どうぞ、召し上がれ?﹂ ルクルクの言葉をきっかけに、目を皿のように大きくして料理を かな 見ていたクラウズェアは、食前の祈りを捧げるやいなや、素早く手 を伸ばしていった。 次々に口に運ばれ、次々に胃袋へと消えていく。 決して下品な食べ方ではない。貴族のご令嬢としての礼法に適っ たものだった。 ただ一つ。 食べる速度があまりにも速いのだ。上品な分だけ、その異様さが 目立つ。鬼気迫るものすら感じられた。 ﹁た、たくさん、あるから、ね?﹂ 279 少しだけ及び腰に声をかけたルクルクは、クラウズェアから視線 うかが をそっと外し、甘酢スープをスプーンですくっているアルテミシア を窺い見た。 側のジャックが何やら言っているようで、口の食べ物を飲み込ん でから、いちいち相手をしている。褒められた事ではないと思いな がらも猫の耳をそばだてると、どうやら肉料理とそうでない物の予 測をしている話だった。アルテミシアは肉が食べられないのだ。ル クルクは、客人達の好みを訊かずに料理を出した事を悔いた。 幸い、クラウズェアの方は好き嫌いはないようで、精力的に料理 に口を付けている。 実は、ルクルクはずっと後悔していたのだ。料理のことではない。 モリオンのことだ。 アルテミシア達は命の恩人だ。種族の壁を越え、仲良くもなれそ うだった。 それなのに、軽い気持ちで﹃モリオンを見せて欲しい﹄と自分か ら頼んだ挙げ句、あんな態度を取ってしまったのだ。最低だった。 だから、謝る機会が欲しかったのだ。 けれど、言い出せないでいる。 今だって、勇気を出せばその機会を得られるだろうに、言葉が出 ない。ルクルクは、自分の臆病さに悲しくなっていた。 一方、アルテミシアとジャックと言えば。 ﹁酸っぱいですかい?﹂ サンラータン ﹁うん、酸っぱいし、甘くもあるし、ほんの少しだけ辛い。不思議 な味だよ? でも、美味しい﹂ うるお ﹁そうですかい。きっと酢を使ってるんでしょうね。酸辣湯みてぇ なモンなのかねぇ? ともあれ、甘酸っぱいもんは体に潤いを与え てくれやすから、食べとくといいですよ。ここ数日で一杯汗をかき ましたし、肌も乾燥したでしょうから﹂ ﹁うん⋮⋮︻なんだかこの赤いの、モリオンみたい︼﹂ 280 溜息みたいな微かな笑い声が、スプーンにすくわれた赤い野菜に 誘われて、深紅の唇から零れた。 ︻モリオントイッショ、モリオントイッショ!︼ モリオンも、少年の目を通して赤い実を見て、弾んだ。とにかく、 母親と慕うアルテミシアから構ってもらえるのが嬉しいのだ。そう いうお年頃なのだ。 ﹁トマト、でしょうね。体を冷やし、潤いを与える野菜です﹂ ジャックの説明に、アルテミシアは疑問を口にした。 た び ﹁こんなに赤いのに? 雪みたいに冷えちゃうの?﹂ よう 焚き火みたいな色をしているのにと不思議がっていると、少年の 問いに答えが返ってきた。 いん ﹁仰る通り、赤いモンってぇのは陽の属性を持つんで、体を温める モンが多いですがね? トマトは陰の属性が強いんですよ。まあ、 雪ほどにゃあ冷やしませんが﹂ 影人間が口にした奇妙な言葉に、アルテミシアは目をぱちぱちさ せる。 ﹁陽? 陰?﹂ 赤い目が、赤いトマトから黒い人影に向く。 辛い だと 火 だとか 明 だとかの特徴を持つんです。季節 温かい ﹁こりゃ失敬。この世のあらゆるモンは、︿陽﹀と︿陰﹀の二つの だとか 属性を持ってるんです。︿陽﹀ってぇのは、 るい や 暗い や 甘い や 水 とかですね。季節だと冬 で言えば夏、色で言えば、黑、赤、橙なんかですね。逆に︿陰﹀は、 冷たい で、色だと白や青なんかです﹂ 赤い んで陽の属性を持ってるんですが、 ジャックの話に興味をひかれたアルテミシアは、スプーンを置い て聴く姿勢をとった。 ﹁そいで、そのトマトは こっからが複雑で、暑い時に採れたモンには︿陰﹀の属性が付くん です﹂ ﹁暑いと? ⋮⋮暑いのは︿陽﹀じゃないの?﹂ 281 ジャックの説明を思い返しながら出した答えに、影人間は手を打 って喜んだ。 ﹁よく聴いてましたね。えらいです!﹂ この褒め言葉に、アルテミシアの白い頬が緩む。 甘い という陽 と三拍子揃って陰の属性です。そ て、汁気がたっぷ しる け 赤 ﹁ご推察の通り、暑い季節自体は︿陽﹀なんですが、暑い季節に採 れた物は︿陰﹀の属性を帯びるんですねぇ、はい﹂ ﹁逆になっちゃうんだ? 不思議﹂ たっぷり、味は 暑い季節に採れ ﹁ええ、ええ、不思議です。で、このトマト君は、 水 の属性を一つ持ってやすが、 り っから考えると、︿陽﹀より︿陰﹀の要素が多いでげしょう?﹂ ﹁︿陽﹀が一つに、︿陰﹀が三つ。本当だね﹂ ﹁つまり、トマトはものすっげー︿陰﹀寄りの属性っつー事ですね、 ちょうほう はい。︿陰﹀の食いモンは体を冷やします。暑い季節、暑い国では 重宝しやすね。ま、そもそも暑い季節や国にゃあ、︿陰﹀の属性を 多く含む食いモンがたくさん採れるようにできてんですがね。良い 塩梅にバランスがとれてやすねぇ﹂ いですが、 暑い季節の野菜 ってーことで、︿陰﹀が強いですね。トマ 赤 ﹁そうなんだ。うまくできてるんだね。⋮⋮あ、じゃあスイカも?﹂ 甘い ﹁正解! トマトと一緒で 水分たっぷり トより甘ぇんで、もっと陰が強いです﹂ ﹁すごいね。ジャックさんは物知りだね。ジャック先生って呼ばな くっちゃ﹂ 少年の純粋な褒め言葉に、ジャックは薄っぺらい胸を張った。 ﹁呼んで呼んで! ジャック先生って呼んでっ? なんならこの後、 げ す 保健体育も教えちゃってもイイんでゲスよ?﹂ よこしま 下衆な影人間は、ゲスゲス言いながら煩悩をダダ漏らした。だが、 未知の情報に興味津々な少年は、ジャックの振りまく邪オーラに気 付かない。ジャック先生に無邪気な質問をぶつけていった。 ﹁それじゃあね、あのヨーグルトは︱︱﹂ 282 結局、保健体育の時間が訪れる事は無かった。 283 四章⑱﹃深夜のお茶会﹄ ﹁おやすみなさい、シア﹂ あいさつ ﹁うん、おやすみ、ローズ﹂ 就寝の挨拶を交わし、二人はそれぞれに宛がわれた部屋に別れた。 部屋が別と聞かされた時、クラウズェアは部屋を一緒にして欲し いと願い出るか迷った。今でこそ目の見えるようになったアルテミ シアだが、つい最近まではお付きの者達に身の回りの世話を任せて いたのだ。しかも、ここは住み慣れた神殿ではなく、用事を頼む相 手も知らぬ者ばかり。そもそも、人間ですらない。思いもよらぬ不 都合があるかもしれない。 だが、結局は言い出さなかった。 主君と家臣が同じ部屋で寝泊まりするなどあり得ないし、まして や二人は男女。淑女としての慎みを疑われてしまう。そうなれば、 非難の目を向けられるのはむしろ主人であるアルテミシアの方だ。 また、部屋を用意してくれたナデファタ王の好意にも反する。 それに、クラウズェアは心配ばかりしていた訳でもない。 アルテミシアの側には、常にジャックとモリオンがいる。二人は、 少女にとってもはや心強い仲間だった。だから、二人に任せて自分 は部屋に引っ込むことにしたのだ。 安心する気持ちと、寂しいと思う気持ちは、また別として。 てんがい 一方、宛がわれた部屋の天蓋ベッドに腰を落ち着けたアルテミシ アも、なんだか寂しく思っていた。 神殿を出てからずっと、幼なじみの少女と一緒だった。一緒に冒 険をした。きついことや怖いこともあったが、楽しくもあった。 それなのに、赤毛の少女は今は居ない。 284 神殿に閉じ込められていた頃と違って、会おうと思えば直ぐに会 いに行けるのに、だ。クラウズェアが常に側に居ることが、いつの 間にか少年にとって当たり前になっていたのだ。 ベッドを覆う美しい薄織物も、赤い目を楽しませる役目を果たせ ないでいる。 ﹁ジャック、悔しい!﹂ 足下の影人間が叫んだ。何故かブリッジをしながら。悔しいとい う思いを、体全体で表現したのだ。不気味な置物にしか見えないが。 ﹁どうしたの? ジャックさん。その格好、ぼくにもできるかな?﹂ もの う 二つの疑問を発したアルテミシアは、床にしゃがんで影のアーチ を覗いたりしてみた。 け だる ﹁だってシア嬢ちゃんったら、どっかの誰かを想いながら物憂げで アンニュイで気怠そうな美少女フェイスだったんですもの! きっ おくびょうかぜ チキン とあの泥棒猫のことを考えてたに違いないわっ? ⋮⋮姐さんに聞 かれてねぇよな?﹂ 似たような単語を連呼した後、臆病風に吹かれた真っ黒臆病者は、 そっと扉を盗み見た。幸い、恐ろしい刀が扉を切り裂き燃やすこと はなさそうだ。 少年の胸中でも、赤い光を精一杯にちかちかさせて、自分の存在 を訴えている。 ︻モリオンガイルノ、モリオンガイルノ!︼ ﹁二人ともごめんね? 忘れたり邪険にしてる訳じゃないんだけれ いつく ど⋮⋮。ぼく、いつの間にかすごく贅沢になっちゃったみたい﹂ かす ﹁お嬢ちゃん⋮⋮﹂ 幽かに笑う少年に、慈しみの眼差しが向けられた。 ⋮⋮目がどこにあるか見当もつかないし、しかもブリッジをした ままだったが。 その時、こんこんと、扉を叩く音が鳴った。 ﹁はい。どなた?﹂ アルテミシアが答えた時には、ジャックの姿はなかった。ゴキブ 285 リよりも素早く、少年の影の中に逃げ込んだのだ。とある人物を恐 れたのだろう。心根が卑しい者は、こういうことになる。だから、 誰にも引け目を感じることのない、天地に恥じない生き方をすべき なのだ。 それはさておき。 ﹁アタシ⋮⋮ルクルクなんだけど﹂ 扉の向こうから、猫妖精の姫の声が聞こえた。どこか暗いトーン に不思議に思いながら、アルテミシアは扉を開けた。 そこには、盆に茶器を載せたルクルク王女の姿があった。 ﹁どうしたの? どうぞ入って? ぼくの部屋じゃないけれど﹂ そう言って微かに笑うアルテミシアに、釣られて少しだけ頬を緩 めた王女が入室する。 備え付けの机に盆が置かれ、自然、二人は向かい合わせに座った。 さ ちなみにここはルクルクの私室と違い、グリーンウェルと同じく 椅子が用意されている。 び こう 机の上には花瓶があり、薄紫の花が挿してある。細い花びらが無 数に広がり、甘い香りが鼻腔をくすぐる。 とら アルテミシアは、この花を食べたら体が冷えるのかな? などと 考えながら香りを楽しみ、 一方、ルクルクは胸中の思いに囚われて、香りなど楽しむ余裕は ない。 そうして、しばらくの時が経った。 窓の外では、昼の蝉共はなりを潜め、夜の虫たちが、高く、控え ひ て めに鳴いている。 弾き手たる風が木の葉を揺らし、小さな葉っぱはサラサラと、大 きな葉っぱはザワザワと、高い低いを織り交ぜてかき鳴らしている。 心地良い音に誘われ、つい、アルテミシアの口から小さなあくび が漏れた。勿論、口許は掌で覆っているし、人の居る方向︱︱ルク ルクの方へは顔を向けず、下を向いている。 286 ﹁ご、ごめんなさい!﹂ 客人を退屈させてしまっていたことに気付いた王女は、何を話す よりも取り敢えず茶を注ごうと、慌てて動かした手が湯飲みに当た り、盆の上から払い落としてしまった。 がちゃりっ、と、鈍い音を立てて陶器が割れた。 それでいっそう慌ててしまったルクルクは、もうどうしていいや ら判らなくなり、綱引きで両方から引っ張られた綱みたいに動けな くなってしまった。 アルテミシアの方は、割れた湯飲みが床に散らばるのを見ている となんだか触りたくなってきて、床にしゃがんで手を伸ばした。 割れ物を拾う際の危険を知らないのだ。そして多くの子供達がた どる道と同じく、この子も破片で指を切ってしまった。 にじ ちくりと刺す痛みに、声こそ上げなかったが、白い指先から赤い 血がぷっくりと滲みだしている。 クラウズェアの赤毛とも、モリオンの赤い耀きとも違う、とろり とした赤だった。 たお ふく それまで動けなくなっていたルクルクは、もうびっくりしすぎて な 本当に何も考えられなくなり、気付けば少年の嫋やかな指を口に含 んでいた。 無心で血を舐め取っているルクルクを見て、美味しいのかな? それとも不味いのかな? とぼんやりと考えていたアルテミシアの 眼前で、大きな猫目からぽろぽろと滴が零れ落ちるのが見え、少年 は慌てて手を引こうとした。 とんちんかん ﹁不味かったね。ごめんね?﹂ 少年のこの頓珍漢な声がけに、口に含んだ指は離さず、ルクルク がもごもごと不明瞭な声で答えた。 ﹁違うの。アタシ、ずっと謝りたかったのに、どうしてこんな﹂ ﹁謝るって、なぁに? 何かあったの? 誰かに謝るの? ⋮⋮も し謝りに行くのが怖かったら、一緒について行こうか?﹂ 優しいクラウズェアをお手本にして、アルテミシアも勇気を出し 287 て言ってみた。妖精境でできた友達のために、何かしたいと思った のだ。 その声に誘われ、涙に濡れた赤銅色の目が、ようやくまともにア ルテミシアの目を見返した。 ﹁⋮⋮アナタに謝りたかったの。それと、モリオンに﹂ ﹁ぼくたちに?﹂ ﹁ええ﹂ そう言って王女は、ポケットからハンカチを取り出し、白い指に 巻いた。 ﹁アタシ、アナタ達を傷付けたわ、きっと。だって、あんな態度を 取ってしまったんですもの﹂ 声がどんどん沈んでいき、視線も釣られて落ちた。 言われた方は、もしかして天焦山へ行く前の話かなと、何となく 思った。 それで、普通だったら﹃気にしないで?﹄と言うだろう所を、少 年は別のことを言い出した。 ﹁この髪の黒いのは、モリオンの色なんだ﹂ この、突然の切り出しに、ルクルクは話についていけず、ついて いけないなりにとにかく少年の黒髪を見た。肩越しに前に流し、膝 の上に纏められている長い髪を。 珍しい色だが、それ以上に美しいとも思う色だ。 ﹁それから、目が赤いのも、モリオンの色なんだ﹂ その声に促され、黒髪をたどって白い顔に行き着き、その白の中 で鮮やかに耀く赤い目へと、焦点を結んだ。 ルクルクの赤銅色した目と、少しだけ似ていると思った。 ﹁あとね、︻お喋りするのが大好きだよね?︼﹂ アルテミシアの問いかけに、ちかちかという瞬きと、弾むような 感触が返ってくる。それに対して、ふふっという微かな笑いが少年 の口から零れた。 ﹁⋮⋮モリオンは、なんて言ってるの?﹂ 288 ルクルクの問いに、 ﹁ぼくのことも大好きだって、云ってくれたんだ﹂ 白い頬をうっすらと赤らめながら、アルテミシアは答えた。その 様子を見ていたルクルクは、なんだか心が柔らかくなるのを感じた。 釣られて、体の緊張も少しだけほぐれていく。 ﹁それと、これはローズには秘密なんだけれどね﹂ 一転、ほんの少しだけ重々しさの感じられる声に、ルクルクが思 わず身を乗り出すと、 ﹁モリオンは、怒った時のローズが怖いみたい﹂ アルテミシアとモリオンは真剣なのかもしれなかったが、拍子抜 けしたルクルクの口から、笑い声が漏れた。 ﹁なあに? それ﹂ ころころと、陶器で作った鈴みたいな柔らかな笑い声が転がり出 て、ルクルクの笑顔を飾った。夏の湿った空気も、一時だけ重さを 忘れたみたいに、部屋の雰囲気が変わる。 ﹁もう。ローズって、怒ると本当に怖いのに。ルクルクだって、そ のうち分かるよ。⋮⋮こんなことをぼくが言ってたって、ローズに は内緒だからね?﹂ ﹁はいはい。内緒の話ね﹂ のどの奥でくつくつと笑う猫の姫に、もう、暗い色は無い。 アルテミシアは言った。 ﹁モリオンは、そんな子だよ﹂ ルクルクは、笑うのをやめた。 ﹁ちょっと姿はみんなと違うけれど、そういう子なんだ。そして、 とっても良い子﹂ 赤い目と、赤銅色の目が、逸らされず向き合っている。 ﹁ぼくは、その子のお母さんなんだ﹂ ﹁お母さん﹂ 人間から、魔物が産まれるはずがない。だからこれは、もっと別 の、心のつながりの話なのだろうと、ルクルクは思った。 289 へん か そうぼう アルテミシアの変化に乏しい相貌が、何故だか幼い頃に死別した 少女の母と、重なるような心地を覚えた。無性に、その身に触れた くなるのだ。 赤銅色の猫目が、ほっそりした手に向けられる。 ﹁どうしたの? ⋮⋮手?﹂ 少年は、ルクルクからハンカチを巻いて貰った手を、前にかざし てみた。すると、猫の手がそっとその白い手を包み込んだ。 アルテミシアは、大人しくされるがままにしている。 ルクルクは、自分の行動に焦っていた。こんなことをするつもり ではなかったのだ。自分が一番驚いていた。 それなのに、触れてしまえばもう、その手は離しがたく、胸の内 で彼女を突き動かす何かが膨らむ一方だ。 だがルクルクは、その形容しがたい想いを無理矢理振り切り、当 初の目的を達することにした。 ﹁もう一度、もう一度モリオンに会わせてほしい﹂ 真剣な少女の声に、 ﹁︻モリオン?︼⋮⋮いいって云ってる﹂ 嫌がる素振りもためらいもなく、アルテミシアはモリオンの意を 伝えた。 ﹁ありがとう﹂ こつぜん 身を硬くしたルクルクの手を左手でそっと撫でてから、少年は言 った。 ﹁︻出ておいで、モリオン︼﹂ 音を立てる事も、空気を揺らす事も無く、忽然と、部屋の中に一 かたまり mほどの黒い球体が出現する。夜の中でもとりわけ暗い部分を集め たような塊の中、赤い耀きが灯っている。 アルテミシアはそっと左手を伸ばし、白く嫋やかな手でモリオン を撫でた。モリオンもそれに応え、母の頬に身を寄せる。 一方ルクルクは、やはりどうしようもなく湧き上がる恐怖を、消 す事も押さえつけることもできないでいた。体がまん丸になるほど 290 毛が逆立つのだけは我慢しているが、それでもぞわぞわと波打つ焦 げ茶の体毛は、頭ではなく心に従って勝手に動いてしまう。感情が 表に出やすい猫妖精の体質が、これほどまでに恨めしく思う日が来 ようとは、少女も考えていなかった。 すべ 決意したから、いきなり怖くなくなる訳ではないのだ。 白い髪と黒い目に戻ったアルテミシアは、滑らかだが何の光も反 射しない不可思議な黑に、愛おしげに頬ずりしている。左手はモリ オンへ、右手はルクルクの手と触れあったまま。 ささや それから、ややあって、穏やかに瞬いていた赤い光は、ちかちか と何かを囁くように点滅した。 それでアルテミシアは、微かに嬉しげな様子で口許を緩めた。 ﹁モリオンがね? ルクルクに﹃ありがとう﹄って﹂ この言葉に、ルクルクはぽかんと口を開けてしまった。何もして いないのに、礼を言われる覚えがなかったからだ。 だが、少年は構わず言葉を続ける。 ﹁この子とお友達になってあげてね?﹂ この言葉に、遅れる形で激しく首を縦に振り、それがアルテミシ アに伝わっていないと知ると、 ﹁も、もちろん!﹂ 少々声はうわずってしまったが、ルクルクは答えることができた。 そうしてモリオンは母の体内に戻り、割れた湯飲みと冷えた茶を 取り替えて、深夜の茶会が始まった。 猫の姫には、もう、いつもの快活な笑顔が戻っていた。 291 四章⑲﹃アタシ、人間になっちゃった!?﹄ 深夜の茶会の翌日。 す ここは、アルテミシアに宛がわれた客室。朝方の涼しい風が窓か くしけず ら流れ込む部屋で、クラウズェアが日課の髪梳きを行い、アルテミ シアは夜更かしと梳る心地よさにうとうとしている。 ジャックは床に寝っ転がってあくびをし、三人の周囲をモリオン のどか が回っている。空中をすいよすいよと飛び回ったり、床の上をごろ んごろんと転がったり。 この部屋の者達にとっては長閑な風景だが、部外者が見れば不気 味以外のなにものでもないだろう。クラウズェアも、随分と成長し ま ひ たものである。⋮⋮いや、この場合、適応と言うべきか。それとも、 麻痺と言った方が正しいのか。 つげ クラウズェア自身はとっくに赤毛を梳いて三つ編みにしている。 彼女が白い髪に黄楊の櫛を入れていると、扉を叩く者があった。 ﹁お早う、アルテミシア。アタシ、ルクルクだけど起きてる?﹂ と、続いた。 その音にアルテミシアは違和感を覚えたが頭が上手く働いてくれ ない。 クラウズェアは王女を待たせてはいけないと素早く動き、扉を開 けた。 ﹁お早う御座います。ルク︱︱﹂ そこまで言って、言葉が止まった。何故なら、クラウズェアの眼 前には猫妖精の王女ではなく、可愛らしい人間の少女が立っていた からだ。 背はアルテミシアより拳一つ分くらい低く、クラウズェアと比べ れば胸の辺りまでしかない。丸みを帯びた幼い顔立ちを、肩を越す くらいのダークブラウンの髪が縁取り、カッパー色の大きな目は、 292 かっしょく チュニック 猫を思わせる。褐色の肌を青い膝上丈の短衣に包み、覗く手足はし なやかだ。 ﹁お早う、クラウズェア﹂ ルクルクと名乗った少女が挨拶した。 ﹁⋮⋮え?﹂ 挨拶された女騎士は、思考が追い付かない。ルクルクだと思って 扉を開ければ、見知らぬ少女が居た。それも奇妙なことだが、猫妖 精達が住まう妖精境に、人間が居るのだ。クラウズェアとアルテミ シア以外の、初めての人間。 一方、少女は返答のないクラウズェアを不思議そうに見上げた後、 その脇からひょいと顔を出し、室内を覗き込んだ。そして、目当て の相手を見付けると、 くったく ﹁お早う、アルテミシア。アタシ、人間になっちゃった﹂ かたむ 屈託なく笑って見せたのであった。 やり取りに耳を傾けていたアルテミシアは、その挨拶に焦点を結 ばない真っ直ぐな目を向け、 ﹁おはよう、ルクルク。背が伸びたんだね? そうか、声の聞こえ る高さが違ったから、不思議だったんだね﹂ そう言って、問題にすべき所以外の部分で納得をしたのであった。 ﹁へぇ? 人間に、ねぇ﹂ ジャックが興味深そうに言った。声を発した本人は、アルテミシ アの足下に寝っ転がったままの姿勢だ。だがもはや、誰も気にしな い。 人間の三人は椅子に座っている。クラウズェアとしては、ルクル クの手前、椅子に座らず立って控えているべきかと思ったが、王女 の気持ちをくんでやめた。 モリオンはアルテミシアの中に戻っている。ルクルクは当初、ご ろごろ転げ回るモリオンを見てさすがに驚きで身を硬くしたが、す 293 ぐに笑顔で﹃お早う、モリオン﹄と挨拶をした。まだまだぎこちな かったが。 モリオンもちかちかと瞬いて応え、嬉しそうにぽんぽん弾んで、 アルテミシアの中へと消えたのだった。 かし ﹁ええ、そうなの。不思議なこともあるものだわ﹂ 傾いだ首の動きに合わせ、褐色の肩をそれより濃い茶の髪が撫で る。 グリーンウェルのどの女性よりも短い髪だったが、決して少女の へん げ 魅力を損なってはいなかった。むしろ、活発な気質のルクルクには カッパー よく似合う。 ﹁アタシ達銅の目族は大人になると︽変化の術︾が使えるようにな るのね﹂ ﹁変化?﹂ アルテミシアがオウム返しに問う。 ひょう ﹁そう。普通は強い姿になる。バイガン将軍みたいな﹂ ﹁ああ、あの豹。変身してんのか﹂ ﹁将軍は変化の術が得意なの。それで、アタシもそういう変化をす ると思っていたんだけどね。しかも、まだ術を覚えるには歳が足ら ないはずなのに﹂ そう言って笑う少女はアルテミシアと大差ない年齢に見えた。そ して猫妖精の名残として、窓から差し込む朝日に、立てた麦粒みた いに瞳孔が狭まっている。 ﹁それは⋮⋮﹂ 何か言葉をかけるべきか迷ったクラウズェアだったが、適切な表 現が見つからない。変化の術とやらを使えるようになったことは、 一人前の証として祝福すべきことなのかもしれない。だが、その内 容が問題だった。ルクルクの一族からして、人間への変化は、喜ば しいことなのか、それとも。 しゅんじゅん ﹁最初は戸惑ったわ﹂ クラウズェアの逡巡を読み取ったルクルクが言った。 294 ﹁けど、いいのよ。嬉しいの。アルテミシア達と同じ姿になれるこ とが、アタシには嬉しい﹂ 屈託のない笑顔が、アルテミシアに向けられる。 ﹁そうなんだ﹂ アルテミシアも、微かに笑った。 いちまつ しっと その、親密そうな二人の雰囲気に、クラウズェアは少年に友人が たけ できたことを喜ぶと共に一抹の寂しさを覚え、ジャックは嫉妬に駆 られてブリッジをした。昨晩よりも激しく、猛々︵だけ︶しく。 ﹁そうだったわ、忘れてた。朝食の準備がすんだことを、皆に知ら せに来たんだったわ﹂ 王女の声で、朝の報告会はお開きになった。 ﹃スイカ割りをしやしょう﹄ れんたんどう このジャックの言葉を受け、がぜん張り切りだしたルクルクを交 え、城の中庭でスイカ割りが始まった。スイカは、練丹洞からいく つか持ってきていたので、そのうちの一つを使った。 ﹁右だよ、ルクルク﹂ ﹁右?﹂ ﹁もう少し左、でしょうか﹂ ﹁こう?﹂ ﹁ジャンプ! そこでジャンプ!﹂ ﹁え、ジャンプ?﹂ ジャックの声に従いジャンプすると、青いスカートがひらりとひ るがえり、健康的な太股が陽光に晒された。 ﹁そうそう、あとは真っ直ぐだよ﹂ ﹁あと十歩ほどの所ですよ﹂ ﹁キック! できるだけ大きく足を振り上げて!﹂ ﹁キック!﹂ 弧を描く足の動きに釣られ下着が見えそうになるが、ジャックの 295 位置からは見えそうで見えない。 ﹁あぁっ、場所が悪ぃ! シア嬢ちゃん、もっと正面に回り込みま しょう! 早く早く!﹂ ﹁やめんか!﹂ 無垢な少年をそそのかす邪悪な影に、正義の剣が突きつけられた。 切っ先からは、蛇の舌のように炎がちろちろと漏れ出している。 ﹁すんません。調子に乗りました﹂ すかさずジャックは土下座した。 そうこうするうちに、 ﹁えい!﹂ 気合一閃。棒が振り下ろされ、スイカに叩き込まれた。真ん中か らきれいに割ることはできなかったが、左半分を砕いている。それ を、目隠しを外して確認したルクルクは、嬉しそうに笑った。 ﹁む﹂ そして、割るのに何度かの挑戦を繰り返していたクラウズェアは、 アルテミシアの時と同じように自尊心に傷を負い、唇を引き結んで いる。 りき ﹁姐さんは右手の力が強すぎるんです。だから、目隠しをすると真 っ直ぐに振り下ろせない。まずはその、右手の力みを捨てましょう﹂ ﹁力みを捨てる、か。解った﹂ 赤毛の騎士は、その言葉を胸に刻み込んだ。 ﹁冷えているうちに食べましょうよ?﹂ ルクルクの言葉に誘われ、木陰でスイカを食べる事になった。も うその頃には、クラウズェアの表情も食べる喜びに緩んでいた。 ﹁モリオンは、スイカは食べないの?﹂ ﹁うん、ぼくが食べると、モリオンも一緒に食べてるみたいだよ﹂ ルクルクに返事をしながら、黒髪を束ねる赤いリボンの片方をほ どき、三つ編みの解けた赤毛を纏めてやる。 ﹁ありがとう、シア﹂ ﹁姐さん、お願いしやす﹂ 296 ﹁力みを捨てる、力みを捨てる﹂ 包丁片手のクラウズェアがぶつぶつ言いながら、欠けた大玉に刃 を入れていく。 皆の視線が、赤い実へと注がれた。 その、楽しげな団らんの光景を、ナデファタ王と宰相スルトンが 城の窓から眺めていた。 ﹁楽しそうで何より。あの子には年の近い友人が居なかったのが気 にかかっていたのだ。良い友人を得たものだ﹂ ﹁まこと、そうでございますね﹂ 頬を緩ませる猫妖精の王に、忠実な家臣は頷いた。 今朝早く、血相を変えたルクルクがナデファタの寝室へ駆け込ん できた時、さすがの国王も驚いた。︽変化の術︾で人間になる者な ど、彼の知る限りでは居なかったからだ。 知恵者のスルトンを呼び、二人の前で事情を説明させると、宰相 はこう言った。 ﹃恐らく、アルテミシア殿の血をお舐めになったことが原因かと﹄ ︿月の賜り物﹀を体に濃く宿す者が産まれることがある。魔物や 妖精に比較的多く、まれに人間にもいる。そういう者達は、生まれ つき不思議な力を持っていたり、体が強かったり、︿彩化晶﹀の使 い方が上手かったりする。 そして、アルテミシアがそうなのではないか、とスルトンは推測 したのだ。 バグベア そ つう ﹃あの方は、銀月の賜り物を血に濃く持っておいでなのでしょう。 山鬼と意思の疎通をなさったと聞きますし、ジャック殿達魔物を従 えていることなど、それで説明がつくかと。力ある物を体に取り入 れたことにより、王女殿下の変化の術は早く目覚めたのでしょう。 ぐ こう 人間のお姿になられたのも、血の提供者であるアルテミシア殿の姿 に似たからではないでしょうか? このように愚考します﹄ 続けて、血を飲んだ直後なのでしばらくは変化が続くだろうが、 297 そのうち自然と元に戻るだろう。そうすれば、任意に変化と解除も できるようになるだろう、と述べられた。 この言葉を聞いて、それまで不安そうにしていたルクルクだった ま もう が、一転、安堵の表情を浮かべた。そして﹃アルテミシアにも見せ てくる﹄と言って、部屋を飛び出して行ったのだった。 なぐさ 娘達の楽しそうに笑う声が風に運ばれここまで届き、心労で摩耗 したナデファタの心を慰めた。 その横顔をじっと見つめていたスルトンだったが、胸の内の言葉 かしょく てん あ を形にするべきだと決め、口を開いた。 やぶ ぼう ﹁陛下、華燭の典をお挙げなさいませ﹂ ﹁どうしたのだ? 藪から棒に﹂ ナデファタは驚いた。華燭の典とは結婚式のことだ。スルトンは な ナデファタに結婚しろと進言したのだ。驚かない訳がない。 ﹁ワシが亡くした妻を今でも好いておることは、お前も知っている むこよう し はず。跡取りがおらんなら話は別だが、ルクルクは元気に育ってお とつ るではないか。男児ではないが、それも婿養子を取るだけのこと。 何より、この老骨に誰が嫁いでくれるというのだ?﹂ この、もっともな言葉に、 ﹁はっ、恐れながら申し上げます。この国の未来のため、です﹂ かしず ﹁国の未来?﹂ れいてい スルトンは傅きながら述べ、ナデファタは先を促した。 ﹁はい。ご令弟様のことです﹂ ﹁バイガンか﹂ ナデファタは、思わず溜息を吐いた。ヒゲが項垂れ、一気に老け 込んだ感がある。 にな ﹁はい。将軍閣下のことです。閣下は野心がおありの方です。それ は武を担う者として覇気ありと見ることもできますが、少々行き過 げきやく ぎの嫌いもあります。あの過激さは、時代によっては必要となるこ すこ ともあるでしょうが、今は太平の世。ここ妖精境には劇薬となりか ねません。劇薬は、毒と同義です。健やかな者が毒を飲めば、それ 298 は︱︱﹂ ﹁自ら進んで病を得るのと同じだな﹂ ﹁はっ﹂ ナデファタが継いだ言葉に、スルトンが畏まる。 ﹁方法は、二つに一つ。解毒するか、はたまた、毒に負けぬ強い身 となるか、です﹂ 解毒とはこの場合、バイガン将軍を妖精境から追放するか、もし くは処刑するか、ということになる。だが、ナデファタにとってバ けんせい イガンは血を分けた可愛い弟なのだ、あれでも。 つまり。 ﹁強くなるしかありません。陛下のご権勢を増し、将軍閣下を押さ へん か えつけ、国内の安定を図るための婚儀です。外の血、しかも英雄の 血を入れたとなれば、必ずや王家の血統に良き変化があることと。 陛下と、殿下のお二人に、あの者達はおあつらえ向きです﹂ スルトンは覚悟をしていた。分をわきまえない発言だ。首をはね られても仕方がない。だからこれは、忠義からの進言だった。 ﹁ううむ⋮⋮しかし﹂ ナデファタ王は迷った。スルトン宰相の言い分は解る。また、忠 義を尽くすが故の発言であることも、痛いほど判った。 ひと み ご くう だが、相手は娘の命の恩人であり、剣を抜いた英雄であり、炎暑 いな を和らげた救国の士である。その相手に、人身御供のような役を強 要するというのは、あまりにも横暴だと思ったのだ。 あんねい ナデファタは、心根の優しい王であった。 ﹁ご決断を。お国の大事、臣民の安寧のためです﹂ だく い 国王の迷いを察した宰相は、一段と声に力を込めて迫った。否と 言われれば、切り落とした己の首を部下に献上させてでも、諾意を 得るつもりであった。 れっし ﹁⋮⋮わかった﹂ 肌に伝わる、烈士たらんとの命がけに感じ入り、ナデファタ王は 頷いた。 299 つかさ ﹁では、星の司に良き日を占わせましょう﹂ 子供達の知らない間に、大人達は動き出した。 300 五章①﹃伝統的医療従事者装束︵ナース服︶﹄ 五章 ﹁次のかた、どうぞ﹂ アルテミシアの呼びかけに、一人の猫妖精が入室した。スルトン 宰相の元で働く、文官の一人だ。 ﹁今日はどうされました?﹂ ナース服姿のアルテミシアが、向かいの椅子を勧めながら質問し た。 ナース服だ。 ﹁はい。どうにも眠れませんで。頭も痛いですし、ふらつきますし。 肩がこるやら、目がしょぼしょぼするやらで﹂ ﹁⋮⋮そうですか。最近、怒りっぽくなったと感じますか?﹂ は 頭にナースキャップ、白いナース服は膝丈のスカートで、ストッ キングは穿いていない。代わりに、手に薄い長手袋をはめている。 、 、 、 、 全身白ずくめのナース服だ。 もう一度言う、ナース服だ。 ﹁そういえば、イライラする事が多いです﹂ ﹁⋮⋮首から上が火照ったりしますか? また、食欲はありますか ?﹂ せいえん 白いナース服に負けず劣らずの、白くすらりとした足が覗き見え る様は、見る者に清艶な印象を焼き付ける︱︱主にジャックに。 ﹁火照ります火照ります! カッカしてぼんやりします。食欲もな いです﹂ 症状を言い当てられ、苦しみを理解してもらえると嬉しく思った 文官は、それまでのしょぼくれた様子から一転、勢い込んで喋った。 ﹁⋮⋮そうですか。では、口を大きく開けて、舌を見せてください﹂ 301 ちょうどきゅうひわい そう言って、小さな口を開けて可愛らしい舌を出してみせるアル テミシア。ジャックが﹃エロ可愛い!﹄と評する、超弩級卑猥影人 間が大好物な仕草の一つだ。 その仕草に習い、文官も舌を出す。 ﹁⋮⋮舌の裏側も見せてください﹂ がい じ どう こ まく じか ささや アルテミシアが間を取って喋っているのは、髪の影に潜んだジャ ックが外耳道の奥にある鼓膜で直に囁くのを聴いて、その言葉を繰 り返しているからだ。 ﹁⋮⋮はい。では脈を取ります﹂ 長手袋に包まれたほっそりした両手が、文官の両手首辺りを触れ た。この手袋の下はジャックが影の手で覆っており、実際に脈を診 るのはジャックだ。 ﹁⋮⋮それでは、そこの寝台にあおむけになってください﹂ 指示に従い、男はベッドに仰向けになる。 ﹁お腹を触りますね﹂ 服をめくり、腹を触っていく。 ﹁⋮⋮ここは痛いですか?﹂ ﹁いえ﹂ ﹁⋮⋮ここはどうですか?﹂ ﹁そこも﹂ うつぶ ﹁⋮⋮はい、では、今度はうつぶせになってください﹂ 俯せになった文官の首、肩、背中と、嫋やかな手が触れていく。 腹を触れた時もそうだったが、その柔らかで繊細な感触の心地よさ に、男の疲労しきった体は休眠を求め始めた。 ﹁⋮⋮たしかに、肩がこってますね。⋮⋮ほんとだ、ふくらんでる ⋮⋮じゃなかった。お腹も疲れていますね。⋮⋮あの、だいじょう ぶですか?﹂ ﹁⋮⋮へっ?﹂ いつの間にかうたた寝をしていた男は、その声にはっと目を覚ま した。 302 ﹁すみません! いつの間にやら﹂ 恥じ入る文官に、 ちょうとうさん ﹁だいじょうぶ⋮⋮ですよ。⋮⋮これで診察は終わりです。お薬を お出ししますから、待合室でお待ちください﹂ 声に促され、文官は退室した。彼が処方されたのは、釣藤散とい う漢方だった。 入れ替わりに、クラウズェアが入室してきた。 彼女はピンク色のナース服に身を包んでいる。長手袋はしておら しま ず、引き締まった手足がむき出しになっている。 ﹁さっきの患者さんで今日はお終いよ﹂ 時刻は昼。丁度昼食時だ。 いつも、診療は午前中で終わる。ここしばらく、こういう日が続 いていた。 きっかけは、ルクルクのこんな言葉だった︱︱ ﹁お父様の元気がないの﹂ ルクルクの私室で開かれた茶会の席で、猫妖精のお姫様は溜息を 吐きながら、そう零した。俯いた拍子に肩の髪がさらりと流れ、卓 上の湯飲みに満たされたハーブティーに、吐息がぶつかってゆらゆ らと波紋を生む。 しお 元来は、茶に使われている赤い花みたいな華やかさがあるのに。 光差す部屋の中にありながら、今は陽光に萎れる朝顔みたいだ。 ﹁どう、元気がないんです?﹂ や ジャックが問うと、 ﹁食欲がないし、痩せてるし、溜息ばっかりだし。夜も、あんまり チュニック 眠れてないみたいなの﹂ 言葉を紡ぐ度、短衣からむき出しになった褐色の肩が、力なく落 ちていく。 ﹁ジャック、お前がお見立てして差し上げるのはどうだ?﹂ 303 クラウズェアが言った。 ﹁そうだよ。ジャックさんはすごいんだよ﹂ アルテミシアが続く。 ﹁ジャックは薬師か何かなの?﹂ ぱっと上げられた顔には、期待の色が滲んでいる。猫妖精の名残 を見せる赤銅色の目の中で、縦長の虹彩が開いた。 ﹁あ、いや⋮⋮うーん⋮⋮﹂ だが、珍しく歯切れの悪い返答をよこした影人間は、ぺらっぺら の黒い腕を組み、うんうん唸りだした。 一同が不安と期待の入り交じった目で見つめていると、﹁よっし ゃ! お見立ていたしやしょう! ただ、一つ条件がありやすがね ?﹂ と、結んだのであった。 あ ﹁はいっ、揚げパンとボール揚げと煮込みスープ!﹂ 店員の手によって、小さな机に所狭しと料理が並べられた。 ひきにく たまねぎ 揚げパンは、豆とつぶした芋をパンで包み油で揚げた物。 ボール揚げは、つぶした芋と挽肉と刻み玉葱を混ぜ合わせて丸く こね、パン粉でくるんで油で揚げた物。 煮込みスープは城で出された物の庶民料理版だが、これには肉は 入っていない。その代わり、刻んだ野菜がたっぷりと溶け込んでい る。 どれも塩や香辛料が使われており、漂う香りは食欲を刺激する。 それらが、大皿深皿に山盛りたっぷりとあり、圧巻と言わざるを得 ない光景だ。 ﹁天と地のお恵みに感謝を﹂ ごくじょうねっぷうしょくどう アルテミシアとクラウズェアの二人は祈りを捧げ、食事を開始し た。ナース服姿で。 ここは、繁華街にある大衆食堂︿極上熱風食堂﹀。 304 ︿黄金の麦酒亭﹀とは違い、純粋に飲食物を出す店だ。二人の行 きつけになった店で、昼食はここか、ほか数件の店を日替わりで利 用している。 クラウズェアがボール揚げに齧り付いた。 サックリサクサクの歯ごたえが心地良く、中はしっかりと味付け され、ほくほくほろほろ食感だ。 アルテミシアは揚げパンを食べている。 パン生地の外側はパリパリ、内側はもちもち。しっとり感覚の中 身は、やや薄い味付けだ。手袋をしていないほっそりした手が持つ には少々大きいが、小さな口を開けて一生懸命に食べている。 ちく し どちらも油で揚げてある物なのだが、手掴みで食べる。手が汚れ ないように、各テーブルには使い捨ての竹紙が置いてあり、それで 巻いて食べるのだ。ちなみに竹紙とは、若竹から作った紙のことだ。 煮込みスープはそれぞれにかけたり、スプーンでそのまますくっ たりして食べる。辛みに反応した体が汗をかき、汗が風で蒸発して 涼を生む。暑い国に辛い料理が多いのは、料理を腐らせないためだ けではなく、体を冷やすことを狙ってのものだ。生活の知恵だ。 だが、クラウズェアは汗をかかない。 正確に言うと、薄紅の持ち主になってから、暑さ、辛さに耐性が ついた。鈍くなったのではなく、心地よさを感じる体質になってい た。 ﹁相変わらず、このボール揚げは絶品だわ。昔一度だけ食べた大陸 料理のクロケットというのに似てる﹂ 背筋を伸ばしたまま上品に、だが豪快に食べる、 食べる、 食べる。 みるみる皿の上から料理が消えていき、店内で衆目を集めている。 ﹁揚げパンも美味しいよ。たくさんは食べられないけれど、歯ごた えがおもしろい﹂ パリパリという音を楽しみながら、ゆっくりと食べる。 305 なま ﹁油で濡れた唇が艶めかしい﹂ いか フヒヒと影が、笑ってる。子供の側で、狙ってる。それを見てい た姐さんは、向かいの席で、見ていたよ。お目々を怒らせ、見てい たよ。 ﹁ジャック﹂ ﹁はいっ。もうしません!﹂ コス もうしませんと、何度言ったことだろうか。だがジャックは内心 で﹃ナース服姿の美少女に怒られるのもアリだな﹄と思っていた。 腐っているのだ。 ちなみに何故二人がこんな格好のままなのかと言うと、人気店の 昼時はすぐに席が埋まってしまうため、着替える暇がないからだ。 それではそもそも、どうしてこんな格好をしているのかというと、 それはジャックのお陰だった。⋮⋮間違えた。ジャックのせいだっ た。 ルクルク王女にナデファタ王のことを相談された後、王を診るこ とになった。ただし、﹃アルテミシアが診る形にする﹄という条件 ともう一つ、﹃医療従事者が着る制服を着て貰う﹄という二つの条 件で。 アルテミシアの手を借りてジャックが描いた服のデザイン画を見 た時、クラウズェアは激しく抵抗した。だがジャックに、 ﹃これが正装なんです。伝統と格式があるんです!﹄ と力説され、ルクルクからは、 ﹃どうかお父様を助けると思って﹄ と懇願されれば、もう折れるしかなかった。アルテミシアはよく 解っていなかったので、不満も抵抗もない。 こうして二人はクラウズェア曰く﹃破廉恥な格好﹄をさせられる こととなった。だがその愚痴も、城の仕立屋が徹夜続きで仕上げた 事を思えば、口に出す訳にもいかない。 そして、﹃何故わたしも?﹄と最後まで繰り返すクラウズェアを 306 なだめ、診察を行う事となった。 ぜつたい 問診︱︱患者から症状を訊きながら、姿や声の調子も診る。 舌診︱︱舌の表裏を見て、色や舌苔の付き具合を診る。 脈診︱︱脈の速さ、強さ、硬さなどを診る。 触診︱︱体に触れ、肌の具合、膨らんでいる場所、押すと痛い場 所などを診る。 せいしょえっきとう さんそう これらの情報を総合した結果、ナデファタ王には暑気あたりと心 にんとう 労の二つの診断結果が出た。処方された漢方は、清暑益気湯と酸棗 仁湯の二種類だ。 一日三回、朝昼晩の空腹時に煎じた物を飲むよう言われたその日 の晩、実に何年ぶりのことだろう。ナデファタはぐっすりと眠るこ とができたのだ。翌日は朝から食欲もあり、おかわりまでした。 ﹃城内に部屋を設けるから、そこで専属医となって働いて欲しい﹄ アルテミシアの腕に惚れ込んだナデファタは、こう頼み込んだの だった。実際はジャックが診、薬も処方している訳だが。 こうして城に診療所を開き、勤務医として働くことになった、と いう訳だ。王だけでなく、家臣達も診ている。 そして。 ﹁はいよっ、これはオマケね!﹂ かんきつるい しぼ あらかた食べ終わった頃、店の女将が陶器でできた大きな湯飲み を二つ置いた。中には柑橘類を搾ったジュースが満たされており、 清涼感のある甘酸っぱい匂いが爽やかだ。 ﹁オマケ、とは?﹂ クラウズェアが問うと、身を寄せた女将は二人にだけ聞こえるく らいの小声で言った。 ﹁先生に診て貰ったおかげで、亭主の火傷もすっかり治りましたか らね﹂ そう言ってアルテミシアに笑いかけると、自分の手柄ではない少 年は困ってしまって、黙って俯いた。 307 ほ ごろ ﹁若先生は恥ずかしがり屋なんです。褒め殺しはどうか勘弁﹂ ジャックがフォローすると、女将は﹁謙虚な人なんだねぇ﹂と感 心して去って行った。 夫婦と従業員の三名で営むこの店は、ある日、料理人である旦那 が手に大火傷を負い店を開けなくなってしまったのだ。そこへ、い し うんこう なんこう つも通り昼食を摂りに来たアルテミシア達が事情を訊き、火傷など 様々な外傷や皮膚病に効く紫雲膏という軟膏を渡した所、たちどこ ろに治ってしまい、夫婦から大変感謝された、ということがあった のだ。 ジュースはそのお礼だった。 ﹁でも、ジャックさんも漢方というお薬も、すごいんだね﹂ そう言ってアルテミシアは、ジュースを一口飲んだ。清涼感のあ る香りが鼻に抜け、甘酸っぱさが口に広がる。 ﹁うん。練丹洞の、方士? とやらが蓄えていた薬も凄いけど、ジ ャックの見立ても同じく凄い。大陸の名医にも引けを取らないと思 う﹂ 脂っこく濃い味付けの物を食べた後なので、柑橘果汁は口直しに うってつけだ。 む じんほんぞう こ そうこう 二人の言う通り、練丹洞の本草庫︱︱ジャックの説明によると、 正式名称︿無尽本草庫﹀に蓄えられた薬は、目覚ましく奏効する物 ばかりだった。それこそ、魔法の薬と言っても過言ではないくらい の。 ま ね ごと ﹁よしてくださいよぅ。確かにあすこの漢方は効き目がスッゲーで すよ。あっしも、まあちぃとばかり見立ての真似事ができやすがね ? ババアに叩き込まれたモンの一つですよ、ええ﹂ ジャックが照れ臭そうに言った。 ﹁ですがね? お二人さんは勘違いしてやす﹂ ﹁かんちがい?﹂ アルテミシアが不思議そうな声で聞き返す。 ﹁ええ、そうです。漢方ってぇのはですね、病や怪我を治す力は無 308 いんです﹂ このジャックの言葉に、即座に反論が挙がる。 ﹁いや、しかし現に﹂ クラウズェアは自分の目で見てきたのだ。飲み薬、あるいは塗り 薬で様々な症状が治るのを。 ﹁ええ、ええ。仰りてぇことは解りやすよ。あっしが言いたいのは 治す力 しぜんちゆりょく を手助けしてやる ですね、病も怪我もなんもかんも、治してんのは患者本人だってこ とですよ﹂ ジャックは続けた。 ﹁漢方ってぇのはね、患者が持ってる おも のが役目なんです。猫妖精だろうが人間だろうが自然治癒力ってぇ のが身に備わってるんです。生命力と言い換えてもいい﹂ ﹁生命力﹂ 赤毛の少女が呟いた。 ﹁そうです。生きる力、生き続けるための力、生きようと念う力。 そして、病と闘う力です﹂ 黒髪の少年も、赤毛の少女も、ただ影人間が紡ぐその言葉に、じ っと耳を傾けている。 ﹁漢方は、その生命力がいかんなく発揮されるのを手助けするだけ。 医者は、患者に適した漢方を選ぶだけ。漢方が偉い訳じゃあなく、 ましてや医者が偉いんでもない。結局、病を治すのは患者本人なん けんそう ですから﹂ 店内の喧噪にかき消されない、大きくもないのに不思議と通る声 が告げた。 ﹁自分を治すのは自分です。自分を救えるのは、最終的には自分だ けなんですよ﹂ そうして、ジャックは続けた。 ﹁生きてりゃ、そりゃあ色んなことがありやす。病気もそうですが、 心が傷付くことだってあったでしょう? そういう時、誰かの優し い言葉が嬉しかったことって、ありやせんかい?﹂ 309 ひた む アルテミシアの心に、幼なじみの少女が浮かんだ。貰った言葉な んて沢山ありすぎて、どれか一つを思い出すなんてできない。 それから、いつも胸中に居るモリオンの、裏表のない純真で直向 きな想い。 はげ それと、髪と目のことを言ってくれたジャック。 ﹁温かな励ましの言葉が、勇気をくれることだってありやす﹂ ︿石﹀が使えないと落ち込んでいた時、盲目で口下手な少年が精 一杯に言葉にしてくれた気持ちを、クラウズェアは今でも鮮明に覚 えている。 できが良いとは言えない自分に、上達の度﹃良くなった﹄﹃頑張 よ そ ったな﹄と飾らない言葉をかけてくれた剣の師に、何度励まされた ことか。 ﹁無言の寄り添いだけで、心が満たされることだって﹂ 少年少女は、自然とお互いを見つめた。少年は微かに笑み、少女 は照れ臭そうに頬を染める。 ﹁けどね、そういうのだって、相手のことを信じてるからです。そ して、信じるってぇのはつまるところ、自分の素直な心を信じてる ってことです。相手に救って貰ったんじゃあなく、言葉や人を信じ た自分の心が、自分を救ったんです﹂ ジャックの言葉は終わった。 引き込まれるように聴いていた二人の耳に、店内の騒がしさと外 で合唱する蝉の鳴き声が戻った。 こん 手を伸ばし、同じタイミングでジュースを飲む。 ﹁混できやしたね。そいつを飲んだら出やしょうか?﹂ 調子に乗って喋りすぎたと悔やむジャックの照れ隠しに、二人は そろって頷いた。 310 五章②﹃ひったくり﹄ ごくじょうねっぷうしょくどう ︿極上熱風食堂﹀からの帰り道。 青葉茂る街路樹のアーチが影を作り、打ち水で濡れた道を、風が 通りざまに冷やしていく。 鳥たちが、あっちでちちち、こっちでるるると鳴く側で、蝉たち はジージーミンミン、がなりあう。 大人達は昼休みや買い物を、子供達はわーわー言いながら駆け回 り、賑やかなことこの上ない。 ここには平和があった。 は 緑のトンネルを歩きながら涼やかな風に髪を遊ばせていると、一 人の男の子が黄緑色のスカートを翻しながら駆け寄ってきた。 ここ妖精境では、老若男女問わずたいていの者がスカートを穿い ている。走ったり、騎乗の必要がある職︱︱猟師や軍人など、一部 の者だけがズボンを穿く。蒸し暑い気候なので、ズボンなど穿いて はいられないからだ。ズボンを穿くにしても、ゆったりとした作り あだ ごと にしたり、小さなスリットを入れるなど、工夫をする。 他し事はさておき。 ﹁せんせえ、ばあちゃんを治してくれて、ありがとー!﹂ 黒猫の子供は、元気いっぱいに叫んだ。活発そうな男の子だった。 かが 声に聞き覚えのあったアルテミシアは、 ﹁そうなんだ。良かったね﹂ そう言って微かに笑ったあと、膝を屈めて目線を合わせた。 ﹁でも、このことはないしょ、ね?﹂ ﹁ないしょ?﹂ 男の子が小首をかしげる。 ﹁うん。ないしょ﹂ 赤銅の目が赤眼を覗き込み、笑った。 311 ﹁わかった﹂ ﹁良い子だね﹂ 白い手に撫でられるとくすぐったそうにしていたが、目ざとく友 達を見付けると﹁ばいばい!﹂と手を振り、そっちに走って行って しまう。 ﹁みんなを診られたらいいのにね﹂ 子猫の背を見送りながら呟かれた言葉に、ジャックが答えた。 ﹁仕方ありやせん。大っぴらに看板を掲げちまうと、患者が大挙し て押しかけて来ちまいますからね。そうしたら、全員を診ないと向 こうは納得しない。ですが、そうするとこっちの時間がなくなる。 だからと言って患者を選別するために高い金を吹っかけると、金持 ちしか診られなくなっちまう。今みてぇに、診た患者が知り合いん 中で症状の重いモンにこっそり教えるってぇのが、一番マシだと思 いやすよ﹂ すでに説明がなされた内容だったが、それでもジャックは優しく 噛んで含めるように言って聞かせた。 ﹁⋮⋮うん﹂ 感情では納得しきれない部分もあったが、理屈は解る。それに、 アルテミシア達にはやらなければならない事があった。 ﹁シア、ごめんなさい。わたしの為に時間が割かれてしまって﹂ 真面目で責任感の強い女騎士は、心苦しそうに謝った。 ﹁ううん、そんなことない。ずっとここに居るわけにはいかないん だもの。準備はしないと﹂ ﹁それに、あっしも洞主が書いた手記を読み進める時間が欲しいで すしね。あと、シア嬢ちゃんを鍛える必要もありやす。どんだけ強 くなれるかは教えるあっしが未熟なんで判んねぇですが、少なくと も体は強くなりますからね﹂ 二人の言葉に、クラウズェアは軽く頭を下げるにとどめた。もう、 何度か繰り返してしまったやり取りだ。謝られる側も、心苦しくな ってしまう。この件で頭を下げるのはこれで最後にしようと、少女 312 は胸中で誓った。 ﹁おーい!﹂ その時、進行方向から高く朗らかな声が上がった。ルクルク王女 だ。 アルテミシア達に会う時の常として、人間の姿である。人間のお 客人達に会う他にも、水浴びした後に体が早く乾くだとか、寝る時 に涼しいだとかで、人間の姿を気に入っているのだ。 ﹁やっとっ、見付けたぁ﹂ 駆け寄りざまそう言って、ルクルクは乱れた息を整えた。 優れた身体能力を誇る彼女たちの種族は、敏捷性に特化した反面、 は 持久力はさほどない。持久走が得意なのは、犬や狼、それから鍛え た人間などだ。 それから、彼女が人間に変化して出歩く時は、布の靴を履くよう にしている。肉球がなくなるので裸足だと怪我をする恐れがあるか らだが、地面の感触が感じられないと不安になるからだ。だから、 木や皮ではなく、布の靴という訳だ。 ﹁どうしたの? そんなに慌てて﹂ アルテミシアが尋ねると、 ﹁うん。今からいつも通り中庭で練習でしょ? 見学させてもらお うかな、って﹂ 赤銅色した大きな目が、赤い目に向けられた。 ﹁それならば、城でお待ちになれば良かったのに。どうせ我々は城 に戻るのですから﹂ クラウズェアのもっともな言葉に、ルクルクは恥ずかしそうに笑 う。 ﹁だって、少しでも早く皆に会いたかったんですもの﹂ そう言ってから、少し不満げに頬を膨らませる。 ﹁お昼だって、城で食べたらいいのに。そうしたら、昼食から一緒 に居られるのよ?﹂ ルクルクは、それだけが不満だった。彼女は習い事があるので、 313 午前中は予定が埋まっている。午後からの時間をめいっぱいに使い たいのだ。 だが、少年達が外で食べている理由も理解できるし、朝晩は城で 食べるようわがままを言った手前、あまり強くは言えない。 ごくつぶ ﹁お言葉は嬉しい限りなのですが、働かざる者食うべからずという 言葉もあります。立場に甘えて穀潰しのような生活を送るのも、心 苦しいですから﹂ ﹁グサッ?﹂ クラウズェアの言葉に、ジャックがヘンテコな声を上げた。 ﹁ごくつぶしですんません! 許して下さい!﹂ 道中、さんざん﹃ごくつぶし﹄だの﹃ドングリ以下﹄だの言われ ていたので、反射的に体が動いてしまったのだ。クラウズェアの足 下で土下座までしている。随分と飼い慣らされてしまっていた。 ﹁ちょっと待てっ? いや待って! 今のはジャックに言ったんじ おうらい ゃない。そうじゃないから!﹂ 往来の真ん中でみっともないことはできないと、クラウズェアは 焦って止めようとする。だいいち、本当にジャックの事を責めた訳 ではないのだから。むしろ、今ではとてもお世話になっており、色 んなことを頼っているのだ。止められているので口には出さないが、 剣術の師匠として尊敬もしている。 ﹁あらら、どうしましょ?﹂ 事態を招いた一因のあるルクルクは、半分困りながら、けれど半 分は楽しみながら、頬に手を当てた。 その時だった。 ﹁ひったくり! 誰かーっ、捕まえて−!﹂ 女性の悲鳴が遠くで上がった。 ﹁ひったくり?﹂ 耳慣れない言葉を、アルテミシアが繰り返す。 ﹁物取り、泥棒よ。あっちから聞こえたわね﹂ ルクルクが教えてやりながら、褐色の手で指さした。その方向で、 314 騒ぎが起こっている。 ﹁固めようか?﹂ ︽視線︾の力を使えば捕まえやすいと提案するアルテミシアに、 立ち上がったジャックが待ったを掛けた。 ﹁いえ、ここはクラウズェア姐さんにとっ捕まえて貰いやしょう。 姐さん、いいですかい?﹂ ﹁うむ。心得た﹂ 鍛錬の成果を見せろという意味だ。馬鹿騒ぎを止め、クラウズェ アは気を引き締めた。 ﹁︿薄紅﹀は使っちゃあダメですからね?﹂ おおごと クラウズェアは、まだ薄紅を使いこなせていなかった。人の多い 場で振るうには危険だ。 ﹁わかった。ここは木も多い。火事になれば大事だ﹂ 女騎士は解っていると頷いた。 そうして、こちらから向かう必要もなく、ひったくりは通りの向 ぬ こうより騒ぎを巻き起こしながら走ってきたのだった。 はや 捷い。その一言に尽きた。 露店の並ぶ通りの人混み。その人の波を縫って進む様は、四つ足 の獣に相応しく人には真似し得ない動きだった。まるで、網をすり 抜ける風だ。すばしっこい猫妖精の中でも、取り分け敏捷であった。 かかと 毛色は暗灰色。細く引き締まった体としなやかな四肢は俊敏を絵に 描いたよう。 その暗灰色の風が、人混みを抜けた。 向かう先には赤毛の女騎士。素早く動けるように腰を落とし踵を 浮かせ、待ち構える。 ひったくりは人間の姿に一瞬だけ驚いたが、足を止めずにそのま ま駆けていく。そして、クラウズェアの手前で地を蹴り、右へ動い た。 315 抜ける。そう思うに足る速度。だが、彼の思惑は裏切られ、クラ あし ウズェアは素早いサイドステップで進行方向を塞ぐ。 しかし。 ﹁くっ﹂ 地を蹴る四つの肢は急激な方向転換を易々とやってのけ、逆へ︱ ︱左へ動いた。クラウズェアも反転、逆方向のサイドステップに切 り替える。素早い動きだ。修練の賜だった。 それでも。 人外の捷さには追い付けない。 ﹁へへっ﹂ そう笑ったひったくりの目に飛び込んできた映像への驚きは、先 程の人間を見た時の比ではなかった。 奇妙な服を着たそいつは、さっきの人間がまとう物とは色違いだ。 だが、果たして人間なのか。彼には判然としなかった。 陽光に煌めく黒い髪は、地に届かんばかりに流れ落ちている。反 面、同じ黑なのに何の光も反射しない肌は、さながら影のよう。そ して不気味な事に、顔は目も鼻も口も無いのっぺらぼうだ。 ひったくりは一瞬ひるんだ。だが、やる事は一緒だ。抜き去って しまえばいい。捕まらなければ良いのだし、捕まる訳が無い。 暗灰色の風が迫った。 、、、、 のっぺらぼうの手前で、左へ動く。黒い人影も動いた。 気付けば、動いていた。 気味の悪さを感じたが、考えている時ではない。こいつはフェイ ントに引っかかったのだ。後は逆へ動いて抜き去るだけだ。瞬発力 を備えた筋肉が収縮する。体を一瞬沈め、解き放つ。爆発的な力が 生まれ、暗灰色の体を逆方向︱︱右へ打ち出すように動かした。 せつ な それなのに。 刹那も置かず、白服の黑人間は動いた。動いていた。 まるで幽霊のように、静かに、いつの間にか。いつ反転したのか 判らなかった。予兆が無かった。予測が立てられなかった。彼は、 316 混乱した。だが、体は動く。 あし もう一度、反転。フェイントの連続。それを可能にする瞬発力、 い ぜん 四つの肢、地を掴む鋭い爪。それは、人間には無いモノ。 にも関わらず。 ﹁なんでっ?﹂ おぞ け 思わず叫んだひったくりの、その眼前には、依然としてのっぺら とっさ ぼうが居た。背筋を怖気が走る。悪夢のようなそいつを振り切ろう と、咄嗟に地を蹴り、身を跳ねさせた。 一五〇㎝ほどのそいつを飛び越える⋮⋮はずだった。 だが、しかし。 ﹁ぅぶばッ﹂ 頭上を軽々と飛び越そうとしたその自慢の足が、空中でつかまれ、 振り下ろされたのだ。黒い人影を飛び越していた勢いそのまま、進 したた 行方向に。 結果、強か体の前面を地に打ち据えられた。 むち 端から見れば、のっぺらぼうの頭上を飛び越そうとしたひったく りの足に、無造作に上げられた黒い手が鞭のように巻き付き、くる りと綺麗な軸を作って身が回った。 自然、足にヒモなりが絡みつけば着地もできず地に転ぶに決まっ あ ている。ひったくりは、自分の勢いで勝手に地面とぶつかったのだ。 男は、呻きながら地面にのたうっている。 遠巻きに見ていた猫妖精達は、しばしの間を置いて歓声を揚げ、 手を打ち鳴らした。 けれど、まだ終わりではなかった。歓声が、悲鳴に変わる。 あふ ﹁てめぇっ、ブッ殺す!﹂ 鼻血の溢れる顔を押さえながら、男が立ち上がる。それと共に、 暗灰色の体がふくれあがり始める。 百四十㎝ほどだった身が、百八十㎝ほどへと。 細かった体が、はち切れんばかりの凶悪な筋肉を宿す。バイガン 将軍には遠く及ばないが、それでも巨体であることにはかわりがな 317 あぎ と い。クワリと顎門が開き、人の手足など食いちぎるであろう凶器が 覗き見えた。 ﹁シア!﹂ ひったくりとの接触からこれまで、わずか数秒しか経っていない。 と つ クラウズェアが駆け寄るひまもなかった。駆け寄ろうとした相手︱ ︱ジャックが取り憑くアルテミシアへ向けた一歩を踏み出そうとし た時。 ﹁そこで見ててください! ⋮⋮お嬢ちゃん。これまで通りあっし を信じて、力を抜いて、身を任せてくだせぇ﹂ ﹁うん。わかったよ﹂ 影の下で目を閉じ、だらりと力を抜いたアルテミシアが答えた。 クラウズェアは一瞬だけ迷ったが、現在の師匠であるジャックの 言葉を信じることにした。少しも見逃すまいと、これから起こる戦 いに集中する。 ﹁あれって、アルテミシアなの?﹂ おお それまで事態を見守っていたルクルクが問いを発した。 ﹁はい。ジャックが身を覆っていますが、中身はシアです﹂ ﹁か、勝てるの?﹂ へん げ ごはっと 猫妖精の姫は、恐る恐る訊いた。 街中での︽変化︾は御法度である。盗みよりも罪が重い。何故な ら、振るわれる力が強力すぎ、被害が大きすぎるからだ。警備兵で ない者が抜き身の剣を持ち歩くよりもなお、異様な事態である。 その異様が、そんな危険が、アルテミシアに迫ろうとしていた。 ﹁わたしの師匠は、強いのです﹂ 女騎士の脳裏に、ミッドノール子爵を一撃で仕留めた情景がよみ がえる。 ルクルクは、警備兵達が来ていないか周囲を見回した。だが残念 ながら、まだ騒ぎを聞いて駆けつける者は居ない。クラウズェアを 見上げ、アルテミシアの方を見た。 318 グルォオオオッ、という恐ろしい声を上げながら、巨体が迫る。 どうもう さむ け 恐ろしい力が、恐ろしい勢いに乗ってジャック=アルテミシアに飛 たくま びかかった。 逞しい後ろ足が地を蹴立て、爪が土をえぐる。獰猛な力と寒気の ごうわん する爪を持つ腕が、唸りを上げて振るわれる。 丸太のような豪腕がのっぺらぼうの辺りに振るわれた時、 ひょい、 きゃしゃ という気軽さで黒い両手も動いた。そっと包み込むような柔らか さで暗灰色の手を挟んだ瞬間、 ﹁ぎゃッ﹂ と叫びながら後ろへ吹き飛んだのは、華奢な体ではなく巨体の方 であった。 さんまん ﹁えっ?﹂ 散漫な意識と、まだ慣れない人の目を使っているルクルクには、 何が起こっているのか解らなかった。 一方、注意して見ていた分、クラウズェアには少しだけ判るもの があった。 ジャック=アルテミシアがひったくりの手を両手で挟んだ時、そ の豪腕が真っ直ぐ棒みたいに伸ばされ、その瞬間に、ぽーん、と後 ろに吹き飛んだのだ。 ﹁ぃいぃ、いでぇ﹂ 呻きながら立ち上がったひったくりの手首は折れ、肩の関節は外 れている。だが、赤銅色の目は血走って赤い。怒りに燃える狂気の 目が、小さな体に向けられた。 そ ﹁喰ってやる⋮⋮許さねぇ⋮⋮喰ってやる⋮⋮ゆ、ゆる﹂ もう完全に、正常な思考を失っていた。 狂気が、再度飛びかかる。無事な方の左腕を振るう。 黒い人影も、すっ、と動いた。左の豪腕に右手右肘を沿わせなが ら、丸太みたいな腕の横を、回転しながらすれ違う。 319 それでひったくりの左肘は折れた。 そのまま腕沿いに回転しながら敵の斜め後ろに回り、両掌でがら ゆめうつつ 空きの背中を押してやると、自らの前進エネルギーで前に吹っ飛び、 暗灰色の巨体は地面と激突した。 そうして、ひったくりは気絶した。 ゆうげん なび まるで、舞でも見ているようだった。美しき舞、異形の舞。夢現 ら せん に垣間見る、幽玄。 かんばせ あら 回転に従い螺旋に靡いた黒髪が、うねりを打つ川の水が滝壺に流 れ落ちるように、とっさりと流れ落ちた。 い 髪の流れたその向こうで、影もとろりと流れ落ち、白き顔が露わ になる。 ふ 今度は、歓声は上がらなかった。周囲に満ちる空気の種類は、畏 怖。⋮⋮人々は、遠巻きに眺めている。近寄る者は居ない︱︱この 二人を除いて。 ﹁シア!﹂ ﹁だ、大丈夫っ?﹂ まぶた きら 赤と焦げ茶の髪をした少女達が、畏怖の中心に駆け寄った。 たお 声に応え、白い瞼が上がり、赤い煌めきが二人を捉える。 ﹁うん﹂ 口数は少ない。嫋やかな手の触れた先で、ゴキリと折れた手首と 肘の感触が、少年の心を沈ませていた。 ﹁シア嬢ちゃん、許して下さい。あれでも手加減したんですが、ヤ ロウの突進力が思いのほか強くて⋮⋮。てめえの未熟さに恥じ入る ばかりです﹂ 気遣いと後悔の入り交じったジャックの声に、 ﹁ううん、そんなこと言わないで? 悪い人を捕まえたんだもの。 りっぱなことだよ﹂ 健気な言葉が返った。 ﹁お嬢ちゃん﹂ ﹁待って! ﹃手加減﹄ですって?﹂ 320 興奮気味のルクルクが、普段であれば礼を失するような愚を犯す はずのない王女が、会話に割って入る。 ﹁こりゃあ、王女殿下にも恥ずかしい所をお見せしちまって。あぁ、 穴があったら入りてぇ﹂ ﹁待って待って! あれで手加減ならっ、本気だったら⋮⋮どうな ってたの?﹂ 気が高ぶりすぎ、声も大きくなったのが自覚できたので、意図的 にトーンを落とすルクルク。 ﹁そいつは⋮⋮﹂ だがジャックは、アルテミシアのことを気にして、口ごもる。 ふところ ﹁あんなに強いんだもの。本気のジャックさんだったら、どうして たの?﹂ アルテミシアが促すように言った。 ﹁ん⋮⋮まあ、本気でヤルつもりなら、懐に入って肘でも入れます かねぇ? 上手く入れば心臓止まるし。外れても肋の数本は持って 行けますから﹂ 殺すという直接的な単語を使わないだけ、ジャックも言葉を選ん でいる。 そして、ルクルクはこの言葉に、心の底から仰天した。 ﹁す、凄い! そんなの強すぎる。ジャックって、凄いのね。達人 なのね﹂ 王女の褒め殺しに、いつものお調子者はなりを潜め、ジャックは 弱り切った。 ﹁勘弁してください。だいたい、あっしが強いんじゃあねぇんです。 はいしゃく シア嬢ちゃんが強ぇんです。実際、戦ったのはシア嬢ちゃん。あっ しはちょいと体を拝借しただけ。いずれ、クラウズェア姐さんもこ ツラ れくらいはできるようになりますからね。ってか、もっと軽傷で取 り押さえて、姐さんにでけぇ顔する予定だったのに⋮⋮﹂ はあ、と重い溜息が漏れた。 ﹁これくらい⋮⋮か﹂ 321 緑の目が、倒れ伏して動かない巨体へ向けられる。 ﹁場所を移しましょう。後はいつもの中庭で﹂ 王女の声に従い、一行は現場を後にした。 その背後で、遅れて駆けつけた警備兵達が群衆をかき分けてやっ て来ている。 ﹁遅い! ま、でも、そのおかげで良いものが見られたわ﹂ 不機嫌と上機嫌の入り交じった言葉が、ルクルクの口から零れた。 322 五章③﹃武術﹄ あずまや しつら 城の中庭の一角に庭園がある。 東屋や噴水が設えられ、よく手入れされた花々が咲き、景観をさ かげ えぎらないよう配慮された木が植えられている。その中でも、一番 ナースさんのかつこう 大きな木が作り出す陰で、講習会が行われていた。 かかと ちなみに、二人は伝統的医療従事者装束から着替えている。 ﹁姐さん、踵を浮かしてやしたね?﹂ ﹁うっ﹂ うめ 開口一番のジャックの言葉に、図星を指されたクラウズェアが思 わず呻く。 ﹁それじゃあダメだって教えたでげしょう?﹂ この言葉に、疑問を持ったルクルクが反射的に反論した。 い ﹁でも、踵を浮かせた方が速く走れるし、素早く動けるわ﹂ ﹁確かにそうなんですがね? それじゃあ居ついちまいます﹂ ﹁居つく? って、なに?﹂ とっさ ﹁居つくってぇのは、動きが止まってしまった状態のことです。ま かんだん あ、正確に言やぁ、咄嗟に動けない状態のことですかね。ですから、 いっけん間断なく動いているように見えても、止まってしまった瞬 りんきおうへん 間、動けない瞬間ってのがあって、そいつを居つくって言うんです。 だもんで、じっと動いてなくても、臨機応変に咄嗟に動けるんなら、 そいつは居ついてないってこってす。ええ﹂ ﹁ふぅん?﹂ あいまい 説明されたことの意味は解るが、納得はできない。そんな心情が つ ありありと浮かぶ顔で、ルクルクは曖昧な返事をした。その表情を 読み取り、ジャックが笑って言う。 ﹁じゃ、一つやってみましょうか。シア嬢ちゃん、取り憑いても良 いですかい?﹂ 323 ﹁うん、いいよ﹂ ﹁取り憑くって⋮⋮。その言葉はなんとかならんものか?﹂ すてきめっぽう いんようてんか クラウズェアが苦笑いしながら突っ込みをいれる。 ﹁え? ダメ? じゃあ⋮⋮素敵滅法相思相愛陰陽転化恋愛成就二 身合体ゴッデス︱︱﹂ か れつ ﹁長すぎる!﹂ 苛烈なダメ出しが下された。 かか ﹁えぇ∼? じゃあ、適当に︿かかりみ﹀とでも名付けやしょうか。 ってコトで、︿かかりみ﹀しまーすぜぇ∼﹂ ﹁うん、わかった﹂ 気の抜けきった声とともに、ジャックがアルテミシアの身に懸か る。少年の体が、影にずるりと覆われた。 ﹁さて。そいじゃあ、再現すんのが手っ取り早いですかね。姫様、 通せんぼしやすから、あっしらを抜いて向こうに行って下さい﹂ ﹁いいけど、姫様って呼ばないで﹂ ﹁んじゃあ、ルクルクちゃんで﹂ ﹁ええ、いいわよ﹂ ルクルクはにっこり笑った。 ﹁一国の王女をちゃん付け⋮⋮﹂ クラウズェアが衝撃を受けているが、事態は進む。 ﹁いくわよ?﹂ たたっと身軽な足運びで駆け出したルクルクは、身構えるでもな く自然体に立ったジャック=アルテミシアに迫った。そして、軽や かに地を蹴り、左に跳ぶ。 すると、それに応じて二人も動いた。初動を感じさせない、不思 議な動き。前後、左右、上下どの方向へも揺れることの無い動き。 あいはん 端で見ていたクラウズェアは、美しい動きとも、気持ちの悪い動き とも、相反しそうな二つの所感を持った。 人とはこう動くもの という常識から外れた動きを見た時、人 これは、脳がうまく認識していないが為に起こるものだ。 324 気持ちが悪い という反応が生じる。 の脳は、己の蓄えた知識や経験と、見ている現象とのズレをうまく 処理できず、結果、 それはさておき。 進行方向をさえぎられたルクルクは、ひったくりと同じく咄嗟に 逆へ方向転換する。足首、膝、股関節を折り、身を沈め、つま先で 地面を蹴りながら曲げた足をピーンと伸ばす。その、しなやかな足 が生み出す瞬発力が、逆方向への機敏な動きをもたらした。 一方、ジャック=アルテミシアも動いた。 すとんと右足を地に落とす。地面を踏むことによって生まれた上 か ぼう 方向への反発力を、体内で横方向へ転化させる。それがそのまま、 つ 左方向への前進エネルギーとなる。 また、左足の力を抜くことで、突っ支い棒を失った物が倒れるよ うに、体が左へ傾く。その、倒れる力も左へ動く力になる。 右足と身の中心を軸にして、ブレることなく綺麗に回った体を左 へ向け、そのまま進む。 この工程を、同時に、一瞬で行い、ルクルクに遅れず着いていく。 この動きを目の当たりにしたルクルクは、これ以上は何をやって も無駄だと、早々に諦めた。 ﹁待って!﹂ その声に、影をまとった身が止まる。 ﹁元の姿でやらせて﹂ ﹁ええ、構いやせんよ﹂ ジャックが答えた。 皆が見守る中、王女は︽変化の術︾を解いた。 一四五㎝の背丈がどんどん縮み、一mになる。それにつれて、全 身に獣毛が生える。ヒゲと尻尾が生え、耳は大きくなり、足の指は 五本から四本へと変わる。 そうして、焦げ茶の毛色をした猫妖精が、そこには居た。 身を屈め、四つ足を地に着ける。立てた尻尾をブンブンと左右に 振り、やる気満々だ。 325 ﹁さあ、もう一度よ!﹂ おとろ 背は縮んだ。体重も減り身は軽くなった。だが、筋力は衰えずむ しろ身体能力は向上している。 はや 人を越えた獣が、地を蹴った。 捷い。ひったくりよりほんの少し劣るが、それでも人間の速度を 超越している。 あし 地を駆けた獣が、ジャック=アルテミシアの眼前で直角に曲がる。 ま さつ 人間には無い四つの肢、その全てに備わるザラついた肉球と地に食 い込む鋭い爪が高い摩擦を生む。屈められた足が急激に伸び、その 身を打ち出す。放たれた矢のように。 だが、二人は追い付いた。先程と同じように、行く手を塞ぐ。 それで、王女は本当に諦めた。 ﹁降参よ﹂ レゾナンス はぁっと息を吐きながら、駆けるのを止めた。 ﹁それは、共鳴術ではないのね?﹂ ﹁違いやす。あっしは共鳴術なんてこれっぽっちも使えやせん。こ いつぁ武術です﹂ ﹁武術⋮⋮﹂ ﹁説明して欲しい。わたしの知っている武術とは、あまりにも違い たんれん すぎる。いったい、何をしているのかを。いや、やることは教わっ たのだが﹂ ここしばらく、言われるがままに鍛錬してきたクラウズェアだっ たが、それがどういう意味を持つのかまでは説明を受けていなかっ た。 ﹁説明しやしょう。ってぇことで、木陰へ﹂ 声に促され、皆は夏の強い日差しが作る濃い影へと戻った。 しょこう しこう ていこう ﹁あっしの知る限り、陸の動物の歩き方にゃあ、三種類ありやす。 蹠行、趾行、蹄行の三つです﹂ いきなり飛び出した未知の単語に、皆が戸惑う。 ﹁まあまあ。とりあえず最後まで聞いて下せぇ﹂ 326 ︿かかりみ﹀を解いたジャックが、黒い両の掌を三人に向け、押 しとどめる身振りをした。そして、右手の人差し指だけを立てる。 ﹁一つ目。蹠行ってぇのは、足の裏全体を地面にべったり着けて歩 くことで、そういった動物のことを蹠行性動物って言いやす。猿や 熊なんかがそうですし、人間もそうです。こいつは、すこぶる安定 性の良い立ち方で、足場の悪いとこでも転びにくいですし、木に登 るのも適してやすね﹂ それから、中指を立てた。 ﹁二つ目。趾行ですが、これは踵を浮かして指だけで歩きやす。猫 妖精の皆さん方や犬妖精の隊員さん方は、こいつに当てはまりやす。 蹠行よりゃあ不安定になりやすが、速く走れやすね﹂ そして、薬指も立てた。 ひづめ ﹁三つ目。蹄行です。こいつぁ踵も指もなんもかんも浮かせて、足 の爪︱︱いわゆる蹄だけで歩きやす。蹄行性動物の代表は馬ですね。 しこう こいつらはとにかく速く走るのに適した足をしてやすね。ただ、ず っと爪先立ちをしてるんで、体の支えが不安定です﹂ 講師はいったん言葉を切り、赤毛の生徒を見た。 うつむ ﹁ってことで、クラウズェア姐さんのフットワークは趾行に当たり やす訳ですが﹂ ﹁ローズは凄く速くて、格好良いよ?﹂ ﹁シ、シアっ﹂ 責められている訳ではないのだが、少し俯きがちになっている幼 しゅうち なじみを見て、アルテミシアは疑問の声をあげた。その言葉で、赤 しっと ほ 毛の少女は羞恥で頬を染めてしまう。照れ臭かったのだ。 そして、嫉妬に狂った影人間が吠えた。 ﹁んまぁっ? シア嬢ちゃんったら、姐さんの肩を持って、悔しい !﹂ 雄々しくも猛々しいブリッジが、木陰に建設された。 ﹁早く続きを説明してよ﹂ 先を促す猫妖精の少女は、どことなく不機嫌そう。 327 ﹁あぁ、はいはい﹂ 言われた講師は、咳払いを一つ。そして、話を進める。 ﹁そんかわり、居つく瞬間が生まれやす。そして、姿勢が不安定で 転びやすい﹂ タイタスとの戦いにおいて、草に足を滑らせて転んだことを、ク ラウズェアは思い出した。あの時はたまたま事態が良い方向に転が ったが、次は無いだろう。 ﹁ルクルクも踵を上げてるんでしょう? 良くないの?﹂ 知らないことへの探究心を抑えられず、また、教えてくれる先生 の存在に、王子様は無邪気に質問を繰り返す。 ﹁ルクルクちゃん達は、両手両足ぜぇんぶを使えやすからね。人間 の二倍です。安定性も二倍。更に、ザラザラした肉球や鋭い爪もあ りやすし、そもそも俊敏さが桁違いです。人間が真似しても敵いや せんぜ﹂ ﹁そんなアタシに追い付いたわ﹂ 得意げに説明をするジャック先生に、今度は猫妖精の王女が質問 した。 そして、その問いには、こう、答えがあった。 ﹁それが、武術です﹂ 一同、しん、と静まる。 ﹁調子に乗って、偉そうな口を利きやしたね。すんません﹂ 口が過ぎたと、己を恥じて黒い頭を下げた影人間に、 ﹁いや、続けて欲しい﹂ とても真剣な、どこか挑むような色さえうかがえる緑の目が、言 葉と共にジャックへと向けられた。 それを受けて、黒い講師は背筋を伸ばす。 ﹁では、お言葉に甘えて﹂ また、咳払いを一つ。 ﹁それと、姐さんの動きは直線的すぎやす﹂ この言葉には、ピンとこないアルテミシアとルクルクの二人。 328 だが、クラウズェアには思い当たる所があった。ミッドノール子 爵タイタス・ゴードンとの戦いで、向かい来る剛剣の前に防戦一方 に追い詰められた。その時、ただ後ろに下がるしかなかった自分。 自分より遅い者が相手なら、距離を離して仕切り直すことができ る。または、ジグザグに下がって逃げることができるだろう。フィ デリオから習った剣術は敵を圧倒する速度を生み出せたし、彼女に はその速さがあった。 だが、自分に匹敵するほどの速度で追い付いて来る相手には、直 線的な回避は難しく、更に力で上回られれば押し切られる。まして や、速度さえも負けてしまえば⋮⋮。 それを、あの戦いで実感したのだ、彼女は。 クレイヴ・ソリッシュ ︵剣を振る速さのみならず、あの男は身のこなしの全てが速かった︶ 光の剣の柄頭に埋め込まれた黄色い︿彩化晶﹀の輝きが、クラウ ズェアの脳裏から離れない。 いつの間にか強く握り込まれた拳。その手に、そっと触れる者が あった。 ﹁シア?﹂ クラウズェアより頭一つ分以上も背の低い男の子が、白い手をそ っと伸ばし、赤い目で見上げている。少年は、何か言うでもなく、 硬い拳をそっと撫でた。まるで、大丈夫とでも言うように。 赤毛の少女は、解きほぐされた心のまま、頬を緩ませた。 猫妖精の姫は、そんな二人をじっと見ている。 うらや ぅおっほん、と、ジャックがわざとらしく咳をした。 ﹁まったくもって羨ましい! ではなく。直線の動きしかねぇと、 な すべ どうやっても動きが単調になりやすく、敵に動きを読まれます。ま た、自分以上に速い相手には、為す術が無くなりやす。そこで重要 になってくるのが︱︱﹂ ﹁円の動き、だったな﹂ クラウズェアが後を継いだ。 ﹁そうです。円運動であり、円の軌道を描いて動くこと。これを習 329 サークリング 得しましょう﹂ ﹁円軌道歩法、か﹂ クラウズェアは現在、ジャックの指導の下、この円軌道歩法を練 習している。およそ八歩で一周できる円周上を、決められた姿勢で 回る という行為は、直線を歩くことに比べ、意外と難しい。 歩いて回るというものだ。 それでも、大きな円を描いて回ることはさほどでもないが、小さな 円を描いて回る、これがなかなか上手くいかないものだ。慣れない 内はぎこちない。 クラウズェアもそうだった。 それを、足を上げる際も着地の際も、常に足の裏︱︱親指の付け 根、小指の付け根、踵の三点︱︱を同時に上げ下げしなければなら ない。その上、姿勢は真っ直ぐに保ち、体が上下、左右、前後のい ずれにも揺れてはならないのだから、これはなかなかに骨が折れる。 早く 動けるようになりやす。 ﹁踵を浮かさないこと。地面を蹴らないこと。そして円軌道。こい てん ち しんめい つをモノにすれば、姐さんはもっと 天地神明に誓って、ね﹂ これは、単純な速度の上昇の話ではない。体の使い方の話であり、 速さの質の話であり、早さの話だ。 ﹁早く﹂ 噛みしめるように、クラウズェアは呟いた。 その時、固くなった空気を壊すかのように、弾んだ少女の声が上 がった。 ﹁ところで、ジャックの武術はなんていう名前なの? 流派名とか あるんでしょう? ジャックの国ではさぞや高名な流派なんでしょ うね。それとも、門外不出の秘伝で、誰も知らないのかしら?﹂ 猫妖精の姫君は、好奇心の塊になったみたいに、ワクワクを抑え てんちかいびゃく られない。開いた瞳孔がきらきら輝き、のっぺらぼうを映している。 ろてん ﹁流派名ですかい? えーと⋮⋮一子相伝究極無敵天地開闢台風警 報夫婦円満露天は混浴︱︱﹂ 330 ﹁それはもういい! と言うか、台風警報からおかしいだろうっ? 嘘を吐くならもう少しまともなものにしろ!﹂ いっかつ でたらめな言葉にたまりかねた真面目騎士は、師匠であるはずの 影人間を一喝した。 ﹁えぇ∼? だってぇ。流派名とか言われてもなー﹂ ﹁わかった、もういい﹂ そういえばこういう奴だったと、もう何も言う気力の失せたクラ ウズェアは、重い溜息を吐き出して、肩を落とす。 だらけきった空気が辺りに漂い、もはや練習する空気ではない。 ぽんと肉球を打ち鳴らしたルクルクが、皆の注目を集め、こう言 った。 ﹁ちょっと一息入れない? 喉が渇いちゃったわ﹂ ﹁そうですね。それがいいでしょう﹂ クラウズェアも同意する。 かな ポケットから銀製の呼び鈴を取り出した姫君は、それを二度、三 度と振った。 せいおん 陶器の鈴とはまた違う、澄んだ高音が奏でられる。 風に運ばれた静音を聞きつけた侍女達によって、東屋に茶席が設 けられ、午後のティータイムとなった。 間もなく、ハーブティーと焼き菓子の甘い香りが辺りに漂い始め たのだった。 331 五章④﹃静かな夜の、静かな決意﹄︵前書き︶ 短いです。 332 五章④﹃静かな夜の、静かな決意﹄ 昼間よりも幾分か涼しくなった夜気に包まれる頃。 ページ 静かな虫たちの音色と、微かな寝息の音に混じり、頁をめくる音 が、不定期に小さく鳴っていた。 ここはアルテミシアに宛がわれた部屋で、今は、日課となった夕 れんたんどう 食後の読書の時間だ。 練丹洞から持ち帰った手記は多く、日中に行われる診療や鍛錬の 終わった夜に読み進められている。読むのはジャックの役目だが、 その際、頁のめくり手としてアルテミシアが協力している。未知の 知識に興味のある少年は、説明を受けてもほとんど理解できないに おうせい しろ、この時間をいつも楽しみにしているのだ。 だが、その好奇心旺盛な王子様も、昼の疲れが出たのか、今は居 眠りをこいでいる。 こくり、こくり。 頭がゆらゆら揺れる度、膝上にたれた黒髪も揺れる。首から下は アンブロシアル・スキアー ジャックが︿かかりみ﹀しているので、椅子から転げ落ちる心配は しょうか ない。 ひと ご ﹁︿晶果﹀に、それと︿影の英雄﹀、ねぇ﹂ すいしょうじゅ 不機嫌そうに独り言ちたジャックは、読み進めた手記の内容に考 えを巡らせた。 しょうか 根元の気から生まれた水晶樹には、無量無数の実がなっており、 こんげん ︱︱練丹洞の方士曰く。 その実を︿晶果﹀と呼ぶ。一つの晶果は一つの世界であり、一つの せかい せかい 宇宙を内包している。我々の居る︿この世界﹀もまた、晶果の一つ と。 である。そして、この晶果は、他の複数の晶果と重なり合うという、 特異な状態にある 333 あ し さ これは、世界の構造の話であり、多元宇宙の示唆であった。 こ くう ほう ぐ うつわ 天に在る金陽は、虚空に空いた穴であり、ここより他の晶果と また、方士曰く。 を繋ぐ道である。その道を介し、︿宝具﹀と呼ばれる器を用い、過 去、幾人か呼ばれた者達が居る。彼ら︿影の英雄﹀達によって、部 分的に文明が進歩した。異界の知識で身を立てた者あり、また、身 を滅ぼす者もあり ジャックには不思議に思えてならない事柄がいくつかあった。そ せかい れは、鉄と鋼、大剣と細剣、ガラス、服飾技術などのちぐはぐさ、 しょうか である。 ぞうけい この晶果は、ジャックが元居た晶果との類似点が驚くほど多い。 そして、歴史に造詣が深いとは言えないジャックから見ても、︿鋼 ﹀が誕生するには少し早いのだ。にもかかわらず、クラウズェアの レイピアのように、鋼を鍛えた武具が存在する。 そもそもレイピアは、︿銃﹀の誕生によって生まれた武器だ。金 そ 属をも貫通する銃弾の前では、金属鎧を着る意味が無いばかりか、 その重さは機動力を削ぎ、銃の的になるだけだ。よって、頑丈な鎧 で攻撃を防ぐのではなく、動き回って避けることの方が重要視され ることとなる。みな軽装だからこそ、重さよりも軽さを、鈍器のよ がら す うに殴るのではなく、鋭く突き込む刃を持った剣が誕生したのだ。 硝子然り。服然り。文明にそぐわない、突出した技術。 そこにきて、太古に存在した巨大国家の誕生と発展に、深く関与 アンブロシアル・スキアー する者達の存在が示唆されているのだ。 影の英雄。 異界の技術をもたらした者。 ひず 豊かさと発展をもたらした者。 それから、文明に歪みを与えた者。 334 ま 彼らによって生み出された最たるものは、︿魔物﹀と呼ばれる生 お 物兵器である。 成功失敗織り交ぜて、種々様々な生物が生み出された。だが、突 も か﹂ 如暴走を起こした魔物の集団によって、陸の大部分を統治していた 古代王国は、三日と持たずに滅び去った。 異界の知識を漏らせば、この世から消え去ることになる そして︱︱ ﹁ ジャックには、常につきまとう不安があった。強迫観念と呼ぶほ き ひ どの強いものではない。だが、こちらの世界に来てからというもの、 ある特定の事柄へ感じる忌避の念。 それは、 ﹃己の素性および知識を、みだりに口にしてはならない﹄ というものだった。 手記によれば、素性や知識︱︱彼らの晶果の知を漏らした者達は しぶ ことごとく、跡形もなく消え去ったと記されている。 ﹁だが、あっしは生きている﹂ 名を明かすことや身の上話を渋っていたのは、どうにも付きまと う話しがたさがあったからだ。ただ、呼ばれた者達が皆一様に感じ る、恐怖症にまで達するという﹃話してはならない﹄という絶対的 な恐怖は感じない。そして、今のところ死ぬでも消え去るでもなく、 こうしてジャックはここに居る。 並の者であれば、ここで深く思い悩み、考えや行動を改めたかも しれない。だが、ジャックは違った。 ﹁ま、いっか﹂ あっけらかんと呟くと、︿かかりみ﹀している呪われた王子様の 黒髪を、影の手でそっと撫でた。 ﹁あっしにできる全てを使って、お嬢ちゃんをお守りしやすよ﹂ 静かな夜に、大切な決意が小さく呟かれた。 335 五章⑤﹃魔狼討伐﹄ 水しぶきが飛び散る。 がら す 滑らかな水面を白い手がすくい上げる度に、硝子のように透き通 そば った水の粒が舞い、その大小の一つ一つに星々の煌めきを映し込ん で、とても美しい。 ここは、夜の天焦山。洞窟側の、滝壺だ。 天を焦がす炎はもう無く、夜ということもあり、それなりに涼し ブラウス そで い。あちらこちらから立ち上る虫の音を、柔らかな夜風が運ぶ。 すそ 水に濡れてしまわぬよう、白い装飾緩衣の袖はまくられ、赤いス カートの裾はたくし上げて黒い帯にはさんである。 な 長い髪は二つに折りたたんで、赤いリボンで結んでいる。 風が、豊かな黒髪を見えぬ手で撫で、むき出しになった濡れた手 足に涼を与える。 白い手が動き、すくわれた水が飛び跳ねた。 水を集めて造ったような獣の巨体が濡れる。 お返しと、青く長い尾が動き、小さな少年に水をかけた。 みずびた アルテミシアは頭から水をかぶり、それまでにもうずいぶんと濡 れていた服と髪を、とうとう水浸しにしてしまった。 少年は微かに笑み、忍び笑いを漏らした。 この場にクラウズェアが居れば、赤い眉を逆立てて怒ったろうな と、ジャックはのんきに思った。 アルテミシアとジャック、そしてツユクサがこうしてここに居る のには、訳がある。 れんたんどう むじんほんぞうこ 生薬が底を突いたのだ。 つゆ 練丹洞の無尽本草庫から、運べるだけありったけの生薬を持って 行ったはずだったが、患者を診るはめになるとは露とも思わず。先 336 日、とうとう無くなってしまったのだ。 生薬がなければ漢方を処方できない。そうなれば、患者にできる ことはもうない。だが、まだまだ多くの患者達がこの妖精境には居 た。 とばり 境内走狗隊の隊員を貸してもらえないか、ルクルク王女に願い出 ようかと考えていた時だった。夜の帳が落ちた頃、窓の外から声無 き声で呼ばれたのは。 星明かりの下、青々と静かに佇む大獣。 ツユクサの背に乗り、こうしてここまで来たのだ。気絶しないよ うに、目をつぶって。 ﹁︻楽しいね︼﹂ 少し息を弾ませながら、アルテミシアは言った。 ︻タノシイタノシイ︼ と、胸中のモリオンも弾んだ。 ﹁姐さんにゃあ、くれぐれも秘密ですぜ?﹂ ﹁ひみつ?﹂ ﹁ええ。絶対、です﹂ ﹁そうなんだ。残念だけれど、うん、わかった﹂ アルテミシアの性格なら、﹃次はローズも連れてこよう﹄と言い 出すに違いないと、ジャックは考えた。それで、今晩のことが生真 面目過保護騎士に知られれば、ジャックの命は無いかもしれない。 それを、影人間は恐れているのだ。 ﹁けれど、ローズともこうして遊びたかったな﹂ ちゃぷちゃぷと水を切って歩いた少年は、ツユクサの巨体にそっ と身を寄せ、豊かな毛並みに頬ずりした。 おうよう 青い大獣は、アルテミシアの小さな体を恐ろしげな琥珀の目で見 下ろしながら、いつもの鷹揚さとは少し違う速さで長い尾をゆらゆ らさせた。 それから。 337 たずさ ひとしきり水遊びをした後、生薬をどっさり詰め込んだ袋を携え、 一行は天焦山を後にした。 来た時と同じく、アルテミシアは目をつぶり、やはり来た時と同 じように、背の心地良さに居眠りをこいだのだった。 お城の部屋に着く前に、何故だか服も髪もすっかり乾いており、 風邪を引いてクラウズェアを心配させずにすんだ。 まずは、柔軟体操だ。 むち 腕を、縦回転で振り回したり、横回転で振り回したり、左右交互 に前に伸ばしたりする。これをやると、腕が鞭のように柔らかでし サークリング なやかになる。 それから、円軌道歩法をやったり、素振りをやったりだ。 今は、地面に描いた円周上をひたすら回っている。左回転、右回 転。ひたすら、ぐるぐると。 時間は午後。 空は抜けるように、青く、高く。 午前の診療を終え、昼食も済んだ。いつもの中庭で日課となった 鍛錬を行っているところだ。 この場には三人だけ。ルクルクは、まだ習いごとが長引いている。 クラウズェアとアルテミシアが、それぞれの円を回っており、そ れをジャックが見ている。少年が回る度に、ジャックの身も合わせ て回るのが面白い。 ぜんけい ﹁姐さん、地面を蹴ってます。地面を踏む力と、重心移動で進んで 下さい。かといって、体を前傾させたらいけません。体は地面に対 りき そ して垂直に。腰の高さを変えず、足を前後に開く。あと、腕を伸ば かたよ そうとするあまり、力んで腰が反ってます。腰は真っ直ぐに。あっ、 胸を張ってます! 胸は張らずに。それと、意識も上半身に偏って ますから、もっと下半身を意識して。︱︱シア嬢ちゃんは、後ろ足 に体重を残すクセを捨てましょう。体重は前足に。そいからやっぱ 338 り重心移動で進むこと。それと、きちんと真横を向いて、円の中心 りち ぎ に顔を向けて下さい。で、これが一番大事なことですが⋮⋮お尻が とっても可愛いです﹂ い ﹁えっと、ありがとう?﹂ ﹁最後の言葉は要らんだろうが! シアも、律儀にお礼なんか言わ なくて良いのよ?﹂ ジャックの指導に、二人がそれぞれ答える。 ちなみに、クラウズェアはアルテミシアと違って、手に薄紅を持 れいみょう っている。 この霊妙な刀を手にしていると、刀から熱が流れ込んで来て、ま るで体の中に水脈でもあるかの如く、温かな流れを感じることがで きるのだ。 けんこうこつ それを話したところ、ジャックが﹃今度から薄紅を持ったまま、 鍛錬しましょう﹄と言ったのだ。 二人が、左回りから右回りに転換する。 ﹁腕だけを伸ばそうとするんじゃなくって、肩胛骨をおもくそ外側 ふともも に開きつつ、胸も開く。そうすっと、胴体から腕が伸びていく感じ になりやす。あっと、それから、太腿の内側はくっつけたまま、薄 い竹紙一枚を挟んで落とさない感じに。足が閉じてると、小回りも 利くようになるし、速く動けるようになりますよ。⋮⋮あと、でき ればもっと薄着で色っぽい衣装を着て欲しいところでヤンスねぇ﹂ ﹁やかましい! 真面目に指導しろ!﹂ なんとも緊張感のない練習風景であった。 せみ ﹁やあ、それにしても、今日もクソ暑いですねぇ。そして、毎日毎 日あいもかわらず蝉はウルセェし﹂ ジャックがそう零した。 ふ しん ﹁本当に、暑いね。また練丹洞の滝壺で水遊びしたいなぁ﹂ この言葉に、クラウズェアは不審に思った。︿夏の間﹀の海辺で 水遊びはしたが、滝壺で遊んだ覚えはない。アルテミシアとはずっ と一緒だったし、少年一人で遊ぶヒマはなかった。 339 ﹁また?﹂ ﹁え?﹂ 問われた少年の横で、ジャックはギクリと身を震わせる。 ﹁シア、さっき﹃また水遊びがしたい﹄って。どういう意味かしら ? どこで遊んだの?﹂ ﹁えっと⋮⋮﹂ アルテミシアは、ジャックとの約束を守るために嘘を吐こうとし た。だが、嘘なぞ吐いたことのない少年は︱︱正確に言えば、寂し い気持ちを﹃だいじょうぶ﹄と健気な言葉で覆い隠すこと以外では 偽ったことのない少年は︱︱咄嗟に何を言えば良いのか分からず、 口をもごもごさせた。 ﹁ジャック﹂ 少年とずっと一緒の影人間に、鋭い声がかけられた。 ﹁イタタ、急に腹痛が。ポンポンにタオルケットをかけずに寝たか ら、腹を冷やしちったみたいザンス。今日はこれにて失礼﹂ 言うやいなや、アルテミシアの影にコソコソと逃げ込むが、その 影に薄紅が突き付けられる。 ﹁うっひゃあっ?﹂ かどわ ビックリしたバッタが草むらから飛び出すよりも見事な速さで、 ジャックが影より飛びだした。 ﹁お前のどこに冷やす腹がある。言え、シアをどこに拐かした﹂ ゆうかいはん ﹁め、滅相もない! 拐かすだなんて、そんな、人を身代金目当て の誘拐犯か、性犯罪者みてぇな﹂ ﹁お前には前科がある﹂ しかも、よりにもよって性犯罪の方だ。 その時、天の助けが入った。 ﹁ローズ、ぼくが悪いの! ジャックさんを怒らないで﹂ アルテミシアは、両手を広げて性犯罪者をかばった。 ﹁シア? 説明してくれるわよね?﹂ 幼なじみのこの言葉に、少年は﹁ごめんなさい﹂とジャックに謝 340 ると、いつかの夜の話を語った。 それは、女騎士を冷や冷やさせるに充分な内容だった。 夜にこっそり出かけたことは勿論そうだし、一度は踏み入った場 所とは言え、そこがやはり天焦山という危険な場所に違いはないこ め まい と。そして、大いに助けられた身でありながら、未だに得体の知れ ないツユクサと一緒だったことなど。 しか アルテミシアの話を聞いて、クラウズェアは目眩を覚えた。そし て、これはきつく叱ってやらなければと思った。 ﹁シア﹂ 身を屈めて、赤眼と目線を合わせる。 黒髪の少年は、しゅんとしている。 女騎士の手が、少年の頭を叩いた。 ﹁めっ﹂ さ た あん 叩いたというか、掌を強めに置いた程度だ。クラウズェアは、幼 なじみにはとことん甘かった。 ど 事態の推移を怯えながら見守っていたジャックは、この沙汰に安 堵の息を吐いた。 ﹁次に、ジャック﹂ 底冷えするような、恐ろしげな声がした。 ﹁ひえっ?﹂ 思わずジャックは身をすくませる。 ﹁二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、腕の一本でも切り落としてお くか﹂ かがや ﹁シア嬢ちゃんと対応が違いすぎるぅ!﹂ 振りかぶられた薄紅が、ギラリと赤い赫きを放ち、ジャックも、 ひるがえ アルテミシアも、少年の身の内のモリオンも震え上がった時だった。 ﹁おーい!﹂ はつらつ スカートを翻しながら、ルクルク王女が駆けて来た。 陽光を照り返す褐色の肌は、溌剌たる生命が輝きを放っているか のようで、目にまぶしい。 341 薄紅が髪に戻される。 ﹁命拾いをしたな﹂ おど 勿論これはクラウズェアの脅しで、本気のことではない。だが、 はいせつ き かん 執行官の言葉に身をガタガタ震えさせながら、ジャックはその場に へたり込んだ。排泄器官が備わっていたら、小便でも漏らしていた ことだろう。 ﹁習いごとが長引いちゃって⋮⋮って、ジャックはどうしたの? アルテミシアも、なんだか顔色が悪いような﹂ ﹁なんでもありませんよ。それよりも、お疲れ様です﹂ 声を出せないでいる者達の代わりにクラウズェアが返事をした。 ﹁そう﹂ まろう ルクルクも、あまり気にしなかった。 ﹁それよりも! 魔狼の噂を聞いたかしら?﹂ ﹁魔狼、ですか﹂ つと とどろ 心当たりの無いでもないクラウズェアは、なるたけ顔には出ない よう努めながら、問いを返した。 ﹁そう。かつてこの妖精境で悪名を轟かせた、伝承の狼。とてつも ない魔物よ。多くの民が食い殺されたと聞くわ﹂﹁そいつぁ、穏や かじゃあありやせんねぇ﹂ いつの間にか立ち上がっていたジャックが、ぺらぺらとしながら 話に割って入る。 きも ﹁ですが、所詮は言い伝えでげしょう? 真夏の怪談話にすんなら、 肝の冷える話で結構ですがね﹂ ﹁怪談話の手合いですめば良いんだけど、ねぇ﹂ このルクルクの不安は、現実のものとなった。 とうばつ ﹁魔狼討伐を命じる﹂ 聞く者を震え上がらせる割れ鐘のような声で、バイガン将軍が下 知を下した。 342 城の大広間は一瞬、しん、と静まり返り、 ﹁何を言ってるのっ?﹂ 即座にルクルク王女の反論の声が挙がった。 ﹁あんなもの、単なる言い伝えに過ぎないわ﹂ ﹁目撃者がおる﹂ すかさずバイガン将軍が言い放つ。 ﹁噂話の域を出ないでしょう!﹂ い ﹁誰とも知れぬ馬の骨ではない。ワガハイの部下が﹃見た﹄と云っ ておるのだ。そうだな?﹂ ﹁は、はい! その通りです!﹂ バイガンの側に控えていた兵士が、転ぶように膝を突きながら身 を縮こまらせた。 ﹁王女殿下は、この者が嘘を吐いていると、そう言うのか? もし は こやつが虚偽の報告をしておるのならば、ワガハイは涙を呑んで首 を刎ねなければならんが﹂ ﹁ひえぇっ? 嘘ではありません! お助けを! 嘘ではありませ ん!﹂ 可哀想な兵士は、バイガンとルクルクの二人に対し、交互に頭を 下げ、床に額をこすりつけた。 よみがえ これには、ルクルクも言葉を収めるほかはない。だから、別の方 スウィフト・ウルフ 向から抗議することにした。 ﹁魔獣︿神速狼﹀が伝承の中より蘇ったとして、どうしてその討伐 にな をお客人達に命じるの? 彼らには全く何の関係もないばかりか、 この国を救った英雄なのよっ? むしろ、治安維持を担うバイガン 将軍こそ、真っ先に名乗りをあげるべきだわ﹂ ﹁なんだと、このっ︱︱﹂ ﹁お待ち下さい!﹂ その時、声を上げた者があった。クラウズェアだ。 ﹁恐れながら申し上げます。わたくしどもは、陛下を始め、この国 の多くの皆様方より恩をかけて頂いております。将軍閣下のお取り 343 うすくれない 計らいにより、︿薄紅﹀という名刀も手にすることができました。 このご恩、返さずにはいられません。どうかその討伐のご命令、わ たくしどもにお命じ下さい﹂ き がい いた ﹁クラウズェアっ、アナタ、アナタがそんな風に言う必要は︱︱﹂ ﹁うむ、天晴れな心意気よ! ワシは英雄殿の気概に甚く感服した。 この件は英雄達に任せるとしよう。先の天焦山の件と同じく、見事 もっ 事態を収めてくれると信じておる﹂ ﹁お父様っ?﹂ ルクルクの悲鳴を以て、魔狼討伐の話は一端、お終いとなった。 王女の私室にて。 ﹁ごめんなさい!﹂ がばっと頭を下げたルクルクは、勢い余って机に額をぶつけそう になった。 き ﹁どうしてルクルクがあやまるの?﹂ アルテミシアが不思議そうに訊いた。 ﹁だって、バイガン将軍の横暴を止められなかったし。お父様も賛 成しちゃうし。アルテミシア達はこの国の恩人なのに。それなのに、 アタシ⋮⋮﹂ うる そう言ったきり口をつぐんでしまった猫妖精のお姫様は、我が身 はかな のふがいなさに目を潤ませた。元の姿であれば、耳もヒゲも尻尾も、 かぜ 力なく垂れてしまっていることだろう。 たお な 頼りない風に、陶器製の風鈴が、カラリコロリと儚く鳴った。 なぐさ その時、白く嫋やかな手がそっと伸び、少女の頭をふわりと撫で た。 きっと、泣いている子を慰める時にはこうするだろうと︱︱自分 だったらこうして欲しいだろうなと思ったことを、アルテミシアは 自然に行っていた。それは、少年が母親にして貰いたかったことに 他ならない。 344 ﹁だいじょうぶだよ、ルクルク。ね、そうだよね、ジャックさん?﹂ 少年の問いかけに、 あご ﹁ええ、まあそうですね。今回のことは想定の範囲内です﹂ あぐらをかいたジャックが、顎を撫でさすりながら答えた。 ﹁え? それって﹂ かげ ﹁心構えはできてやしたし、そいつは、ルクルクちゃんから事前に 噂話の情報提供をして貰ってたお陰でヤンス﹂ ﹁そう、なの?﹂ 赤銅色の目が一同を見回し、最後にアルテミシアを上目遣いで見 た。 ﹁うん、そう。だから、安心して。ね?﹂ ﹁うん﹂ その言葉で、何故だかすっかり安心してしまったルクルクは、未 みは だに頭を撫でていた少年の手を取り、甘えるように頬ずりした。 クラウズェアは驚きに目を瞠り、ジャックは﹁百合は良いものだ﹂ は れん ち み と何度も頷いた。ちなみに、少年と少女なので百合ではないし、そ じん もそも破廉恥影人間が期待しているようないかがわしい雰囲気は微 塵もない。 ﹁二人は、なんだか、そのぅ⋮⋮仲が良いのね?﹂ まるで、訊いてはいけないことに触れようとしている罪悪感に似 た奇妙なものを感じながら、クラウズェアはおずおずと声をかけた。 これにはアルテミシアが答えた。 きしょく ﹁うん。ぼくたち、友達だから。ルクルクは、モリオンとも友達な んだよ。︻ね?︼﹂ ︻トモダチトモダチ︼ クラウズェアだけが判る、微かに喜色を帯びた声色と、優しく和 らぐ紅玉の煌めきが、ルクルクに向けられている。 寂しい とい 幼なじみの少年が口にした﹃友達﹄という言葉は、赤毛の少女に 大きな衝撃を与えた。そして、その衝撃の大部分は う気持ちであることを、クラウズェアは自覚してもいた。 345 な人の喜びを、自分もまた受け止めようと、固く心に誓っ だが、寂しい思い以上に、アルテミシアの︱︱自分にとって一番 大切 たのだった。 ﹁アルテミシア﹂ ルクルクは、先程とは違った意味で目を潤ませている。 ﹁アタシ、嬉しい。これからもよろしくね? モリオンも、仲良く してね?﹂ ﹁⋮⋮モリオンも﹃よろしく﹄だって﹂ はか アルテミシアが微かに頬を緩ませ、ルクルクは嬉しげに笑みを零 しんぼく した。 ﹁親睦が深まったところで、今後のことです﹂ ジャックが仕切り直すように、真面目な声を作って話題転換を図 った。 ﹁そうだったわね、ごめんなさい、アタシったら。問題が解決した 訳じゃあないんですものね。それで、何か策があるのよね?﹂ ルクルクも、居住まいを正しながら話に応じる。 てんしょうざん バイガン将軍が言い出した魔狼討伐の決行日は、明日なのだ。兵 士が見たという、︿神速狼﹀が去って行った方角である︿天焦山﹀ へと、アルテミシア達はまた向かわなければならない。兵の一人も 連れずに、だ。これは、バイガン将軍が命じたことでもあるのだが、 クラウズェアもまた、兵を借り受ける必要はないと断言したのだ。 ﹁そういえばクラウズェアは、バイガン叔父様が討伐令を口にした 時、素直に引き受けたわね? 事前に話し合っていたって、ことか しら?﹂ おっしゃ 小首をかしげながら問うたルクルクに、クラウズェアは﹁はい﹂ と肯定の返事をした。 ﹁王女殿下が︱︱﹂ ﹁敬語はなしよ﹂ ﹁⋮⋮失礼。ルクルクが仰る⋮⋮言った通りです。事前にジャック から提案があったのです。そのう⋮⋮﹂ 346 そこまで言ったところで、女騎士は言い辛そうに口ごもってしま う。それを、ジャックが受け継いだ。 ﹁あの豹野郎、おっと失敬。将軍閣下が、噂話にかこつけて、ウチ らに無理難題を言い出すんじゃあねぇかって、ね。そんで、もし﹃ 退治しろ﹄なんて言い出した時にゃあ、取り敢えず話を受けとくよ う、事前に打ち合わせしといたんです﹂ ﹁そうだったのね。でも、どうして? そんな無茶を聞く必要、ア ナタ達にはないんじゃないのかしら﹂ しず も はや ﹁それがそうでもねぇんですよ、はい。あっしら、剣を抜いただの、 炎暑を鎮めたのと持て囃されちゃあいますがね? 所詮は異国の異 種族です。歓待されるのは、手柄を立てた直後だけです。そのうち、 この熱みたいなモンは冷めちまいます。そんで、そんな時に何かト ラブルでも起こって、それがウチらに関係するなんて噂を立てられ でもしたら、邪魔者扱いする連中だって出てくるでしょう﹂ ﹁そんな事は無いわ!﹂ 声を荒げながら机に手を突いたこの国の王女は、己の非礼にはっ と気付き、浮かせた腰を敷物の上に落ち着けた。 ﹁ごめんなさい﹂ わ ﹁いえ、ルクルクが謝る必要はありません。ジャック、今のは言い 過ぎだ。お前こそ、非礼を詫びるべきではないか?﹂ 言い辛い部分を濁さず明確に代弁してくれたジャックに、クラウ ズェアは感謝の念を抱かないではなかった。が、彼女としては身内 しか の非礼を責めなければならない立場にあったし、また、生真面目な この女騎士の性格的に、こうして然るべきなのだ。 ﹁おや、そうですかね? そんならば謝らないといかんですね。ご めんちゃい﹂ ﹁もっと真面目にだな、﹂ とが なだ ﹁いいの、クラウズェア﹂ 咎める生真面目騎士を宥め、ルクルクは続けた。 ﹁そうね。確かに、言われてみればそうなのかしら。アナタ達はま 347 だこの国にとって お客人 扱い。そうなるようにアタシ自身が取 り計らったものでもあるけれど、それじゃあ、まずいのかもね﹂ ﹁ええ、まあ、そういうコトです。あっしらは、自分達の立場をも っと強固にするべく、更なる手柄を立てにゃあならんのです。もし おじ 時間 を与えてくれねぇ御方が居るモンで、ええ﹂ くは、長い時間をかけて、この国に溶け込む必要がある。だが、そ の ﹁叔父様、か﹂ はあ、という重い溜息が、ルクルクの口から吐き出された。 ﹁さきほどの非礼、改めてお詫びいたしやす。この通り﹂ 居住まいを正して、ジャックは頭を下げた。 ﹁気にしないで。アタシ、ジャックのそういう歯に衣着せない物言 い、好きよ。問題点もハッキリするし。⋮⋮そういうの、周りの者 わず 達はあんまりしてくれないし﹂ みんな が居るわ!﹂ 僅かに垂れた頭が、即座に上がった。 ﹁ま、でも、今は 赤銅の虹彩の中で瞳を広げながら、少女は高らかに言い切った。 当初の重々しい雰囲気は、どこかに消え去ってしまっていた。 ﹁そいから、ツユクサのことも話さんといかんですねぇ﹂ ﹁ツユクサ?﹂ このジャックの発言に、ルクルクは首をかしげた。今回の対策の 話をするのではなかったのかと思ったからだ。だが、きっとこれも 関係のある話なのだろうと思い直した。 ﹁うん。ぼくたちの恩人なんだよ﹂ ジャックの後を継ぎ、アルテミシアが口を開く。 ﹁そうなの? 城の者? それとも、街に住んでるのかしら﹂ ﹁ううん。たぶん、︿天焦山﹀に住んでるよ﹂ ﹁え?﹂ ルクルクは耳を疑った。 ﹁天焦山に誰かが住んでるなんて、初耳だわ。でも、あんな山に住 んでるなんて、危なくないのかしら﹂ 348 こ ﹁たぶん、だいじょうぶだよ。とっても強そうだし﹂ みが ﹁熟練の狩人なのかしら? それとも、山に籠もって武芸を磨いて いるの?﹂ ﹁うーん、お仕事は分からないけれど⋮⋮。あ、走るのがすごく速 いよ﹂ ﹁ふぅん?﹂ アルテミシアの話は要領を得ない。それでも、ルクルクは少しも 嫌な顔をせず、熱心に聴いている。 クラウズェアは、どう話を切り出したものかと思案げに腕組みを し、ジャックは二人の会話を面白そうに聴いている。 ﹁なによりも、毛並みがとっても綺麗なんだよ。海みたいな青い色﹂ ﹁え?﹂ その言葉で、ルクルクの大きな目が、より大きく見開かれた。 妖精境に猫妖精は数おれど、海のように青い毛並みを持った者は、 一人も居ない。犬妖精を含めても、だ。何故ならそれは、伝承の中 スウィフト・ウルフ に存在する、災厄の具現者、恐怖の絶対者にして全てを喰らい尽く す魔狼、︿神速狼﹀こそが持つ特徴だからだ。 ﹁えっと、それって⋮⋮﹂ ﹁シアの言う︿ツユクサ﹀とは、青い毛並みを持った、熊のように 大きな狼のことなのです﹂ ﹁狼﹂ 青 にぎ という言葉は呑み込み、代わ という表現に言い換えたクラウズェアは、王女の様子 恐ろしい を集めて作ったような、まこと不可思議で、 その一言が、ルクルクの口より繰り返された。 ﹁海の持つ全ての その⋮⋮立派な狼です﹂ 立派 アルテミシアの手前、 うかが りに を窺った。 いま世間を賑わせている神速狼は、言い伝えの中ではとても狂暴 で残酷な獣だったと云われている。妖精境に住まう多くの者達が喰 われたとされ、時代が下り、恐怖が伝説の中に埋もれてしまった今 349 でも、聞き分けのない子供を脅かす決まり文句として語り継がれて いる。 海の様な青い姿 であると、語り継がれて ﹃いたずらっ子は神速狼に喰われるぞ﹄﹃早く寝ないと、神速狼 が来ますよ﹄と。 その、伝承の狼が、 いるのだ。 だから、クラウズェアは気が気でなかった。猫妖精の姫は、ツユ クサのことを︱︱ツユクサを友達であるかのように語る少年のこと を、この新しい友人はどう思うだろうかと。ただ、それが心配だっ た。 当のルクルクはと言えば、天井を見上げたり、かと思えば床をに らんだり、またはアルテミシアの顔をじっと見つめたりと、瞳孔を 細めたり丸めたりしながらせわしなかったが、 やがて、 ﹁アルテミシアは、その︿ツユクサ﹀という狼が好きなの?﹂ 赤眼をじっと見つめながら、そう、問いかけた。 ﹁ツユクサのこと? うん、好きだよ﹂ 何の飾り気もない、偽りを感じさせない素直な返答をよこしたア ちょうだい ルテミシアに、ルクルクは、何故だか腹が立った。 ﹁ふぅん、そう﹂ ﹁うん﹂ ﹁あっしは?﹂ ﹁わかったわ﹂ ﹁うん﹂ ﹁ねぇ、あっしは?﹂ ﹁それなら、アタシの頭をさっきみたいに撫でて頂戴﹂ ﹁うん? うん﹂ 言われた通り、白く華奢な手が、焦げ茶の髪を撫で始める。 しず 白い手の心地良さに目を細めながら、ルクルクは己の胸中に湧き 上がる様々な思いを鎮めたのだった。 350 ﹁まあ、良いでしょう﹂ ﹁ねえねえ、あっしは?﹂ ﹁お前はさっきからやかましい!﹂ 351 五章⑥﹃神速狼﹄ はな バイガン将軍の思惑はこうだった。 くだん 彼は、部下の目撃証言など、端から信じてはいなかった。だが、 た 件の︿神速狼﹀の話は、上手く使えば邪魔な異邦人達を始末する機 会に繋げられると考えたのだ。 これは、ジャックが推測した通りだった。 将軍は、配下の武官の中でも腕が立ち、なおかつ隠密行動に長け てん た将を選び、隊の中から一個分隊を編成し、軽装歩兵部隊として指 揮させることにした。 目的は、異邦人達の暗殺だ。 かしょく スルトン宰相は、何としてでも華燭の典を執り行うつもりだった。 それこそが、彼が敬愛する国王への忠誠の証であり、その身を捧 げて尽くすと誓った国家の、千年の繁栄と安泰の実現が、彼の夢が 叶う道に通じると、信じていたからだ。 はく そのためには、必要な条件が二つあった。 くわだ 一つは、王族に迎えるに相応しい更なる箔を、英雄達に付けさせ ること。 もう一つは、バイガン将軍が企てるであろう、英雄達の暗殺計画 を阻止すること。それも、秘密裏に。 ふしょうじ 彼は、将軍を失脚させたい訳ではないのだ。そのためには、暗殺 こがいしゅう 計画などという不祥事は、秘密裏にもみ消さなくてはならない。 宰相は、子飼集を使うことにした。 彼らは隠密行動を得意とする集団で、軍には属さない。つまり、 バイガン将軍の配下ではない。スルトン宰相を組織の頂点とし、ナ デファタ王のためにこそ働く。 352 ちょう 子飼集の中でも取り分け隠密行動に長じた者を選び、今回の任務 に着かせることにしたのだった。 さて、いっぽう。アルテミシア達といえば。 けいだいそう く たい ﹁シア。元気を出して、ね?﹂ 前回と同じく、境内走狗隊の隊員である、タッタルガルとヒュー ヴァウワーの二名の背を借りた一行は、今はもう天を焦がすことの ふもと 無くなった︿天焦山﹀へとその身を移していた。 魔狼狩り だからだ。獣を追い込むため ただ、以前とは違って麓で下ろして貰っている。今回の目的は山 頂に登ることではなく、 に、麓から山頂めがけてゆっくりと登る必要がある︱︱名目上は。 ﹁うん﹂ けもの みち 隊員二名と別れた一行は、ゆっくりと山道を登っている。道と言 っても獣道だ。そこを、縦一列に並んで歩いている。まあ、実質歩 いているのはクラウズェアとアルテミシアの二人だけだが。ジャッ クには道など関係がなく、モリオンに到っては母の中に居る。 前回難儀した登山とは言え、この辺りはまだ密林然とした中腹以 降とは違い、木々の間隔が開いた林である。下草も丈は短く、歩く のにそれほど困難はない。 ﹁大丈夫だから。上手くやれるから、ね?﹂ 俯きがちに背後を歩く少年を振り向き、赤毛の少女は艶やかな黒 髪を撫でた。 おもて ﹁うん。そうだね﹂ つつ 白い面が上がり、赤眼が緑の目を見つめた。 ﹁本当に、そう思ってる?﹂ ﹁え?﹂ 少年の鼻が、長い指にちょんと突かれた。 ﹁打ち合わせ通りにやれば大丈夫よ﹂ 353 わざと大袈裟に表情を崩して笑って見せたクラウズェアは、幼な じみの頭をぽんぽんと軽く叩いた。 それに釣られ、アルテミシアも微かに笑う。 胸中のモリオンがユラユラと揺れたので、 ﹁︻だいじょうぶだよ。心配かけてごめんね?︼﹂ と応じた。 ﹁シア嬢ちゃんが主役なんですから。そう落ち込んで貰ってちゃあ、 困っちまいやす。⋮⋮待てよ? 落ち込んだお嬢ちゃんをさり気な く慰めて点数を稼ぐ絶好の機会だったんじゃあ? しまったっ、姐 さんに先を越されたぁ!﹂ ﹁ジャック⋮⋮お前⋮⋮﹂ クラウズェアは呆れ果てたとばかりに首を振ったが、軽薄な言葉 がアルテミシアを慰めるためだと分かっていたので、これは単なる 見せかけのポーズだった。 ﹁お嬢ちゃんにはこのジャックがついてますからね! お早うから ベッドの中まで、あなたをネットリ見つめる憎い奴です。ぶひっ﹂ のっぺらぼうでなかったら、鼻の穴を広げて興奮した様子が見ら れたのではないかと思える、熱のこもった声であった。 ﹁ジャック⋮⋮お前⋮⋮﹂ クラウズェアは、先程の己の見解が間違いではないかとの思いを 拭うことができず、本気で呆れ果てた。 ﹁というかお前、シアが寝ている間に何か良からぬことをしている のではなかろうな?﹂ は れん ち いたずら ﹁良からぬコトってぇのは、いったいぜんたい何ですかい?﹂ ﹁それは、そのぅ⋮⋮何か破廉恥な悪戯を⋮⋮﹂ ﹁え∼、ヤダぁー、なにそれー! 姐さんったら、破廉恥な悪戯と ふけ やらを、まさかシア嬢ちゃんにしたいとか? 毎晩、ベッドの中で 良からぬ妄想に耽って、お嬢ちゃんを想像の中で汚してるんじゃあ ねぇですかい?﹂ ﹁きさっ、きさまぁ! よりにもよって、なんということを言うの 354 だ! 恥を知れぇっ!﹂ へんじょう 激情に駆られた女騎士は、髪より変成させた薄紅を大上段に振り かぶった。激しい怒気が刀に乗り移り、薄紅から炎が吹き上がる。 ﹁うっひぇぇぇっ? オタスケー! ってか、山火事になる! ま た天焦山になっちまいますって!﹂ ﹁してやる! 再び天焦山にしてやる! ここに炎獄を造って、お 前の墓場にしてやるぅ!﹂ ﹁もう、二人とも、早く行こう?﹂ いつもの馬鹿騒ぎにすっかり気持ちが軽くなったアルテミシアは、 ツユクサ とが、 本気でジャックを斬り殺しかねないクラウズェアの手を引き、先頭 に立って歩き始めた。 ﹁あ、ちょっとシア、待って﹂ ﹁た、助かっ、た?﹂ どうやらジャックは死なずに済んだようである。 と ちなみに、アルテミシアに元気がなかった原因だが。 多くの猫妖精を喰い殺した魔狼 これは勿論、ツユクサのことだ。 当初、 こんせつていねい 同一の存在であるとの認識ができていなかった少年は、事態の深刻 さを理解していなかった。 そこをジャックとクラウズェアの二人から懇切丁寧に説明を受け、 やっとのことで状況を把握したのである。 だが、それはそれで、また新たな問題が発生した。 アルテミシアが酷く落ち込んでしまったのだ。 ようぼう 見た目はいつもと同じく、表情の変化に乏しい、お人形さんのよ うな容貌だったので判り辛かったのだが、全く一言も喋らなくなっ てしまったのだ。 これには、長い付き合いのクラウズェアだけでなく、ジャックに のど もその変化がすぐに感じ取れた。 夕食も全く喉を通らず、モリオンとルクルクを酷く心配させたも のだ。 355 なぐさ クラウズェアとジャックの二人は、またもや言葉を尽くして、ア ルテミシアを慰める運びとなった。 最後の決め手は、ジャックの、 ふっしょく ﹃こんなモン、ツユクサを退治したことにして逃がせば良いんです よ。バレなきゃあ良いんですよ﹄ という言葉で、少年の不安も何とか払拭することができた。 ふさ だが、今後ツユクサとは会わず、ましてや城まで来させることな にな ど絶対にできなくなる。それだけがアルテミシアにとって心を塞が せる要因となっていたし、また、その説得の役を少年は担っている のだった。こんな所で遊んでいる暇はない。 ﹁あぁん、待ってよ∼う﹂ ﹁気色の悪い声を出すな!﹂ いかにも不真面目ですと言わんばかりにペラペラしながら、別に 追い付く必要もなくアルテミシアの影ごと移動しているジャックが、 わ 二人に身を寄せてきた。 ﹁怒らせちまったお詫びに、良いコトを教えますから﹂ ﹁ええい、聞きたくなど︱︱﹂ 怒りの炎がくすぶっていたクラウズェアが上げた、荒ぶった声に つ かぶせるように、 ﹁尾けられてやす﹂ 囁かれたその言葉の意味を理解した時、怒れる少女は凜々しき騎 士へと表情を変えた。 ﹁まことか?﹂ 足を止めることなく、同じく囁き返す。 ﹁つけるって、なぁに?﹂ 二人の真似事で声を潜めてはいるが、言葉の意味と事態を理解し ていないアルテミシアが、あどけなく問いかけた。 い ﹁尾行のことよ。わたし達の後を隠れて追って来ている者が居るっ て、ジャックは云っているの﹂ ﹁そうなんだ﹂ 356 れんど ﹁ええ、けっこう練度の高い連中みてぇでして。複数居るのは解る んですが、正確な数までは判りません。恐らく、二つの集団が居や がるんでしょうが、ね﹂ ﹁かくれんぼ?﹂ きょろきょろと辺りを見回したアルテミシアを、クラウズェアが 慌てて止めた。 ﹁シア、だめ﹂ うな だ 言われて、やってはいけない事をしてしまったのだと理解した少 年は、しゅんと項垂れてしまった。 ﹁ごめんなさい﹂ ﹁あ、えっと、別に怒っている訳じゃ﹂ ﹁そうです。今ので事態がどうこう変わることもなさそうですし。 連中の目的は、だいたい想像ついてますからね。対処しようはあり うつむ やすよ。しかし、ホントにかくれんぼが上手な奴らですねぇ﹂ おどけて言って見せたジャックの言葉に、俯いていた白い顔が上 がった。 ﹁うん。⋮⋮あんなにたくさんいるのに、今まで気がつかなかった なんて、あの人達すごいね﹂ とが ﹁あんなに沢山?﹂ ジャックが聞き咎め、 ﹁シア、数が判るの?﹂ クラウズェアはもしやと問いかけた。 ﹁うん。ぼく達のななめ後ろの方の、あいだを空けたそれぞれ左右 みは かげ に、十人の集まりと、十一人の集まり。それと、左ななめ前に一人 いるよ?﹂ この言葉に、クラウズェアの目は驚きに瞠られた。 銀の霧 とやらで見分けてるんですかい?﹂ ﹁シアの目って、凄いのね。それとも、モリオンのお陰になるのか しら?﹂ ﹁そいつも、例の ﹁うん。そうだよ﹂ 357 ﹁シアもモリオンも、偉いわね﹂ クラウズェアの優しい言葉に、アルテミシアの白い頬が桜色に染 まった。 いや ﹁ぼく、うれしいな。失敗しちゃったかと思ってたから。⋮⋮モリ オンもよろこんでる﹂ ほとばし か さら 幸せそうな少年の頭を女騎士が無骨な手で撫でてやり、卑しい影 人間は不純な絶叫を迸らせた。 ﹁チクショー! また姐さんに美味しい所を掻っ攫われたぁっ?﹂ こがいしゅう わかがしら ヒクイシーは待っていた。 彼は子飼集の若頭を務めるだけあって、細い体は身軽でしなやか だ。全体的に灰色がかった毛色で、背中側の黒い体毛は、闇夜で身 よ を伏せた時に周囲に溶け込むのを助ける。大きくて尖った耳は小さ こ かげ な音も聞き逃さず、アーモンド状に吊り上がった目は、夜闇を能く 見通す。 その身は木陰に同化し、鋭敏な目と耳は二つの目標を捉えていた。 一つはアルテミシア達。もう一つは将軍配下の軽装歩兵部隊だ。 英雄達は今、少し開けた場所で小休止を取っている。 軽装歩兵部隊は、英雄達から距離を置き、今のところは動きがな い。 彼には三つの目的があった。 一つ目は、英雄達の護衛。 てったい 二つ目は、将軍配下の者︱︱この場合は軽装歩兵部隊である︱︱ の撤退を秘密裏に促すこと。 ほどこ 三つ目は、英雄達に手柄を立てさせること。これは、魔狼の変装 を施した犬妖精を、彼らにしか聞き取れない笛で合図を送って呼び 出す予定だった。呼んだ後は適当に交戦させ、手傷を負った演技を させて逃がせば良い。そういう作戦だった。 358 彼は、今回の任務を心苦しく思っていた。 二つ目の目的である、軽装歩兵部隊の撤退誘導だが、時期を計ら けいらちゅう なければならないのだ。何故なら、彼らが事を起こす前に捕縛する なり撤退を促すなりしようにも、ただ﹁警邏中だ﹂だの﹁英雄達の はかりごとくわだ 護衛だ﹂などと言い逃れされる可能性がある。そして、また似たよ さし ず うな謀を企てられてはたまらない。 それでは意味がないのだ。 今回のこの一件で、将軍の指図による犯行の現場を押さえる必要 がある。そして、釘を刺すことによってこそ、意味を成す。 だから、ヒクイシーは待っていた。 英雄達が襲われる、その時を。 ころ あ ︵頃合いか︶ クローシェーイは異様な風体の男だった。 毛色は黄褐色。これはバイガン将軍のそれより、茶色味が強い。 のぞ 背は一・五mほどと、猫妖精の中では特に大きくはない。ここまで はいい。 おぞ け だが、口を開けばノコギリのようにズラリと並んだ歯が覘き、見 る者に怖気を走らせる。そして、腕が足よりも長いのだ。 シミター 彼は、剣の腕が立つ。 両の腰に吊した三日月刀と呼ばれる曲刀は、その名の通り三日月 状に弧を描き、敵を撫で斬りにするのに適している。 それを彼は、二つ同時に扱う。二刀流だ。 しちそう 長い腕より繰り出される双刀の連撃は目にもとまらず、一人で七 じ ざい へんげ 人を相手取って瞬く間に斬り伏せた逸話から、付いた異名が︿七爪 自在﹀である。 しかし、彼の異名の本当の意味を知る者は少ない。 彼の左手は、不思議の手であった。 五つの指に備わる鈎爪には、特別な力が宿っている。彼が変化の 359 術を使えないその代わりに得た、強い力。いや、これこそが彼の変 化の術。二つのシミターと五つの鈎爪。合わせて七つを振るうから こその︿七爪自在﹀なのだ。 クローシェーイは、人差し指から小指までの四つの爪を、異邦人 達の周囲に放ったのだった。 れんたんどう ひとまず︿練丹洞﹀まで行く。それで三人の合意は得られていた。 すべ そうぐう 今まで︿ツユクサ﹀と接触していたその全てが、向こうからの意 思であった。こちらからは会う術がない。かの狼と遭遇したのは、 城を除けば洞窟近辺。それと山頂。 まずは、遭遇回数が多く、かつ、拠点にするのに便利な︿練丹洞 ﹀を目指す。これはジャックの発案だったが、アルテミシアがすぐ さま賛成し、クラウズェアも納得した。 だが、その前に。 ﹁早いとこ仕掛けて来ねぇかなぁ﹂ ジャックが退屈そうに漏らした。 ﹁こちらから打って出られれば良いのだが。難儀なものだ﹂ 固め られるの 竹筒のヨーグルトをちびちびと舐めながら、クラウズェアも応じ た。 ﹁おそって来る方が判ってたら、いますぐにでも に﹂ むしゃぶる そう呟いたアルテミシアは、ドライフルーツを一粒つまんで口へ 運んだ。そして、 ︻ブルブル︼ と、胸中のモリオンが今か今かと出番を待って武者震いをしてい る様子に、くすりと微かな笑いを零した。 三人が休憩にと選んだこの場所は、周囲が開けている。以前、山 火事で草木が焼けた場所であり、それからあまり時間が経っていな 360 いのだ。 ここへ来るまでの道々で、あちこちの花や動物を指さして説明す る。そういう演技をジャックとクラウズェアがやりながら、アルテ れんけい ミシアに隠れている連中を探らせた。そうして情報を集めた結果、 それぞれの集団は連携を取ってはいないことが判明した。つまり、 全てが敵という訳ではなさそうだとの結論に到ったのだ。 おそらくは将軍派と宰相派の二派だろうとの見当を付けたのだが、 どちらがどちらの勢力なのかが判らない。間違って宰相派を攻撃で もしてしまったら、目も当てられない。 スルトン宰相はナデファタ王の腹心として相応しい男で、今のと ころ敵ではないだろうと、ルクルク王女から助言を得ている。 ﹁練丹洞まで連れて行く訳にはいかぬし﹂ ﹁そうですね。あすこを知られるのは具合が悪い﹂ クラウズェアのは﹃敵を引き連れていてはツユクサも現れないだ ろう﹄との意味での言葉であり、ジャックは﹃他人に知られては不 ひ 味い色々な物がある﹄との理由からだ。 その時。 ﹁あ﹂ 一つの集団から、銀の軌跡を曳きながら四つの何かが飛んでくる のを、アルテミシアの目と耳が捉えた。 ﹁仕掛けて来なすったか。お二人とも、手はず通り﹂ アルテミシアの反応を見て取ったジャックは、そう告げるなり少 年に︿かかりみ﹀した。だが、影の身が覆うのはほっそりした首ま でだ。︽視線︾を妨げないために。 へんじょう クラウズェアも素早く立ち上がりながら、赤い三つ編みを︿薄紅 ﹀へと変成させた。 四つの飛来物︱︱クローシェーイの鈎爪は、立ち上がった二人の かな 四方を囲むように落ち、アルテミシアにだけ聞こえるさらさらとし た音を奏でながら、驚くべき変化を遂げた。 ﹁化け物め﹂ 361 ﹁こいつぁ、なんだぁ?﹂ クラウズェアとジャックの予想を超え、現れたのは武装した兵士 などではなく、見たこともない四つ足の獣だった。 それは、黒い獣。 ちゅうしゅつ さまよ 体長は尾を含めず二mほど。いかなる獣とも似ず、肉食獣の凶悪 さのみを抽出したような、それでいて、悪夢の中から彷徨い出た怪 物を思わせる異様さだ。 黒い体は一切の陽光を照り返すことがない。だが、ジャックやモ リオンとも違う、ドロドロとした重たい何かでできているかのよう だった。 黒い顔には、目も、鼻もない。唯一確認できる口が大きくパック リと開き、黒い牙を誇示した。まるで獲物を威圧するように吠えて いる風にも見えたが、音はない。 ﹁爪だけが動いてるなんて、ふしぎ﹂ ﹁え、なんですって?﹂ ﹁どういう事なの、シア?﹂ それまで静観していたアルテミシアが漏らした感想に、二人が問 いかける。 ﹁うーんと。あの大きくて黒い体は、ジャックさんの体みたいに触 ることができないと思う。でも、前足の爪だけは触れるよ。あれに 引っかかれたら痛いよ﹂ ﹁つまり、あの鈎爪以外は実態のねぇ幽霊や幻みてぇなモンで、そ いつにだけ気を付けりゃあ良い、と。この解釈であってやすかい?﹂ ﹁ん⋮⋮幽霊も幻も見たことがないから判らないけれど、爪じゃな い所が体に当たっても、たぶんだいじょうぶ﹂ い ぜん きょうい ﹁前足の鈎爪だけ、気を付けたら良いのね。了解﹂ わからない という事にこそ、 対処法が解れば、恐れはなくなる。依然として脅威がそこにあっ ても、だ。脅威の度合いよりも、 人は恐怖を抱くのだから。 ﹁んじゃお嬢ちゃん、やっちゃってください﹂ 362 ﹁うん。ぼくたち、役に立つよ。︻モリオン︼﹂ こ おう ︻タツヨタツヨ︼ 胸中の子と呼応しながら、アルテミシアは︽視線︾を使った。 視界に収めた二体の黒い獣が、置物のようにぴたりと動きを止め る。 ﹁︻モリオン、おりこうさん︼﹂ ︻モリオン、オリコウ!︼ 母親の褒め言葉に、胸中の子は飛び跳ねて喜んだ。 たい じ 一方、ジャック=アルテミシアと背中合わせに獣と対峙したクラ せいがん ウズェアは。 正眼に構えた薄紅の剣先を、あえて右斜め前にずらし、そのまま 二体の黒い獣へ歩を進めた。以前のようなサイドステップではない。 歩み足だ。右、左、右、左。交互に足を出す。 黒い獣は︱︱クラウズェアから見て左手側の方は、剣の開いたの を見て好機と捉え、一直線に駆けてきた、 右手の方は、向けられた剣を警戒し、宙に浮き上がる。跳躍の為 の準備動作がない、重さを感じさせないフワリとした動き。すでに 駆けた仲間より、一拍遅れた拍子で、放物線を描きながら飛びかか る。 黒い巨体が迫った、その時。 赤毛の騎士の体が、ゆらりと左前方に傾き、見えない綱に引かれ き せき るように俊敏に動いた。それは、先にたどり着いた獣の鈎爪が振る か げん われようとした、その時だった。 下弦の月のように半円を描いて閃いた薄紅色の軌跡は、鈎爪を斬 り上げ、触れぬはずの黒い体も斬り裂いた。 獣が、黒い水のようにベシャリと地に崩れ、消え去る。 もう一体の獣の鈎爪が、クラウズェアの元居た空間を空振りし、 次こそはと赤毛の騎士の背後から飛びかかった時。 動きを止めていなかった薄紅が上弦の軌道を通り、向き直りざま 363 に残りの一体を斬り伏せた。 おも げ コロナ 振りかぶられていた鈎爪と、脳天から胸までをすぱりと断ち斬ら れたそいつも、やはり重そ気に崩れ落ちた。 その赤い軌跡は、まるで太陽だった。紅の光環。 勝負は決した。 息を吐いたクラウズェアがアルテミシア達の方を振り向こうとし た、その時だった。 ﹁姐さん左!﹂ ジャックの鋭い叫びが上がったのは︱︱ クローシェーイが動いた時。ヒクイシーもまた動いた。 ﹁お静かに﹂ そ 部下より先行して忍び寄ったヒクイシーは、音もなくクローシェ ーイの背後を取り、首筋に短剣を添えた。 異変に気付いた兵士達が武器に手をかけた頃には、部隊は子飼集 によって包囲された後だった。音や殺気を抑えるために、まだ得物 を抜かずにいた用心が、逆に後手を取らせる結果となったのだ。 ほう き すみ ひ め ﹁宰相殿の使い走りか。ソレガシの隊をどうするつもりだ?﹂ ﹁ただちに戦闘の放棄を。それから、速やかにお退き召されよ﹂ ﹁⋮⋮わかった。武器を収めろ。撤退だ﹂ クローシェーイの宣言に従い、部下達はいったん抜き放った武器 を収め、残っていた黒い獣二体も消え去った。 ﹁これで良いな?﹂ こ だち その確認の言葉にヒクイシーが短剣をどけ、クローシェーイが英 雄達に背を向けた時、それは起こった。 アルテミシア達を挟んで、彼ら二隊の反対側。木立の陰から殺気 がふくれあがったのは。 続いて響いた、 364 ﹁姐さん左!﹂ ただ という鋭い声に、一同の注意が一カ所に集中した︱︱クローシェ ーイ唯一人を除いて。 シミター 彼は、左手に残った親指の鈎爪を、振り返らぬまま赤毛の人間に ちゅう 向けて放った。 爪は、宙でその大きさを変え、持ち主の得物である三日月刀のよ うな形状に変化しながら、横一文字に飛翔した。 透明な姿で。 ﹁姐さん左!﹂というジャックの叫びに機敏に反応したクラウズ よし ェアは、咄嗟に左に刀をかざした。それはただ運が良かっただけな のだが、薄紅は飛来物を弾くことができた。 やじり ぬ 弾かれて地に落ちたのは、一本の矢だった。彼女には知る由もな いが、鏃には毒が塗ってある。実に危ない所だった。 だが、まだ危機は続いていたのだ。 アルテミシアは気付いた。彼だけに聞こえる、さらさらという川 底を流れる砂のような、銀霧の音を。 そちらに赤眼を向ければ、何かが一直線に向かってくる最中だっ た。 向かう先はクラウズェア。飛来物は、誰の目にも映らない。先程 の殺気に紛れた巧妙な攻撃は、ヒクイシーでも、ジャックでも、気 付けない。 唯一、銀の霧を見ることのできる、アルテミシアを除いては。 し 少年は動いた。転がるように、倒れるように。ただ、幼なじみの 少女へと。︽視線︾を使うことすら頭になかった。ただ心を占める のは、クラウズェアのことのみ。 ﹁うわっ?﹂ ジャックは、突然動いたアルテミシアの体と、唐突に︿かかりみ 365 と ﹀が解けたことに驚き。次の瞬間、その光景を目にすることになっ た。 クラウズェアに飛びついたアルテミシアが、体を硬直させ、地に 崩れ落ちるのを。 たわ そして、その背に流れる黒髪が、鋭利な物でも押し当てられたよ うに撓むのを。 ﹁シア? ⋮⋮シアッ?﹂ 突然のことに驚いたクラウズェアは、自分に抱きついた後、地に 倒れた少年の側に膝を突き、素早くその身に視線を走らせた。 見える範囲には、怪我を負った様子はない。だが、これだけでは 安心できない。 彼女は速やかにこの場を切り抜け、この華奢な少年を診断できる 環境に移したかった。しかし、状況がそれを許さない。焦りと、憎 しみにも似た怒りの感情に心が満たされそうになった、その時のこ とだった。 美醜 びしゅう スウィフト・ウルフ ということに繋がるのである。 の度合いが大きければ大きいほど、 ならば、この見事な恐怖の塊の、なんと美 などというものが存在するのだと、この時初めて ︱︱ツユクサが、その場に現れたのは。 恐怖に 醜 ヒクイシーは知った。 青い、大獣。 先程の黒い獣が 美 恐ろしい しいことか。そして、その それはとてつもなく 彼は、恐ろしかった。 だが、あれこそは伝承に名を残す︿神速狼﹀に他ならないだろう と、彼の本能がこれ以上なく教えていた。それならば、英雄達の加 勢に向かわなければならない。彼の任務の一つに、英雄達の護衛も 含まれているからだ。 366 部隊の者で、動けそうな者は彼しか居ない。 死 を具現化した ヒクイシーは、危機を知らせる本能を無理矢理ねじ伏せ、一歩を 踏み出した。 場を支配する圧倒的な存在感。 振り向いたクローシェーイの視線の先には、 かのような、青い獣が在った。 ︵まさか⋮⋮神速狼?︶ 三日月刀を抜き放つ⋮⋮そのつもりだった。だが実際、彼が取れ がくぜん た行動は、曲刀の両の柄に、左右の手をかけたのみであった。 きょうじ 彼は愕然とした。武において、このような失態、一度もなかった のだ。 武人の矜持が音を立てて崩れるのを自覚したその時、彼の視界に 動く者があるのに気付いた。ヒクイシーだ。 一歩、一歩。地を踏みしめるようにして向かう先は、あの神速狼 の方。任務を果たそうとしているのだ。 その姿に、何故だか後れを取ってはならないような、尻を叩かれ る思いのしたクローシェーイは、えいッ、と腹の底から気力を振り 絞った。 すらり、と双刀が抜かれる。 彼もまた、一歩を踏み出した。 だが、クローシェーイとヒクイシーの両名が歩みを進められたの ほうこう あ も、そこまでだった。 神速狼が咆哮を揚げたのだ。 うな は 地の底に閉じ込めていた雷が吹き出してきたのではないかと思わ せる、低く、重く、大きな唸り声だった。地を這うように広がった その声には、質量を錯覚させるほどの圧力を感じさせた。 こた それまで金縛りにあっていた二部隊の者達は、いずれも気を失い、 ばたばたとその場に倒れ伏してしまう。 ヒクイシーとクローシェーイの両名は何とか持ち堪えたものの、 367 がくりと地に膝を突き、もうぴくりとも動けなくなってしまった。 だいおんじょう 大気を震わせ、内臓を揺さぶり、心を粉々に砕かんとする大音声 だった。 はら クラウズェアは一瞬気が遠くなりかけたが、薄紅からの温かな流 れが肚に集まったことで、意識をつなぎ止めることができた。 ためら いつも少年の側でおちゃらけていた心強い影人間は、宿主の影に 引っ込み、出てこない。 ﹁おこって、る、の?﹂ ﹁シア!﹂ ささや ゆず 不用意に抱き起こすことも躊躇われ、地に横たえたままだったア ルテミシアが、囁くような弱々しい声を漏らした。 上体を起こそうとして、咳き込む。 ﹁シア、喋らないで、じっとしてなさい﹂ 慌てて押しとどめようとした腕に、白い手がかかる。 ﹁ううん、だいじょうぶ﹂ ﹁大丈夫じゃありません!﹂ ﹁ツユクサと、お話しさせて?﹂ おも 緑の目を見上げる赤い目には、薄紅を抜きに行くことを譲らなか った時と同じく、強い念いが込められていた。 クラウズェアは迷った。アルテミシアに無理をさせたくはなかっ た。だが、この男の子は以前と比べて自分の望みを口にするように なっていた。 かご たお 少女が手を差し伸べ、旅に誘ったあの日から。 籠の中の小鳥だった少年が、白く嫋やかな手を伸ばして騎士の手 を取ったあの日から。 だから。 王子様の、この世でたった一人の守護騎士である少女は、結局、 368 その望みを叶えることにした。 だもの。なんでも望みを叶えるわ﹂ 手を貸し、立ち上がるのを助ける。 シアの騎士 ﹁ローズ、ありがとう﹂ ﹁わたしは ﹁うん﹂ 短い言葉に、肯定と、信頼と、感謝と、喜びと、安心と、心強さ ほうこう を込めて返答した少年は、彼の騎士の手を借りて立ち上がった。 ︱︱咆哮は、止んでいる。 蝉の鳴き声も、動物が立てる音も無い。この世の全ての音が逃げ 去り、置き去りにされてしまったような狂おしいまでの不安と、張 り詰めた緊張が、場を満たしている。 赤眼と琥珀の目が合った。 だが、どちらも口は開かない。 クラウズェアも口出しはしなかった。ただ、己の体と薄紅とで小 しばら つむ さな体をかばい、先程のような不意打ちに備えている。 暫くして。 ﹁わかった﹂ アルテミシアが小さく言葉を紡いだ。 ﹁シア?﹂ 周囲を警戒しながらも、クラウズェアが問うと、 ﹁あのね﹂ そう言って、アルテミシアが背伸びをしようとし、背の痛みに顔 をゆがめた。 慌てたクラウズェアは、自分が身を屈めてやった。位置の低くな った耳元に、少年が口を寄せる。 ﹁ツユクサがね、今からローズと戦うふりをするんだって。それで、 向こうにいる隠れていた人たちにそれを見せて、それから負けたふ りをして逃げてくれるんだって﹂ ﹁戦う、ふり?﹂ ﹁うん、そう。隠れてた人たちは、ほとんどの人たちが気を失って 369 じんじょう いて、起きている人も今は動けないから、安心していいんだって﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ かた クラウズェアの胸中に、先程響き渡った尋常ではない唸り声の恐 合図 をするから、そし 怖が蘇り、木々の向こうの状況は想像に難くなかった。 ﹁最後にね。戦っている最中に、ぼくが たらローズは本気でツユクサを斬って欲しいの﹂ ﹁本気で? ⋮⋮いえ、分かったわ﹂ 抗議も問いただすこともせず、女騎士は頷いた。 ﹁ええと、ジャックさん、出られる?﹂ ﹁へ? ⋮⋮あっ、出られそうです!﹂ 宿主の呼びかけに、今まで鳴りを潜めていたジャックが影から飛 び出し、アルテミシアの体に︿かかりみ﹀する。 ﹁お話は聞かせて貰ってやした。お嬢ちゃんのことはお任せを﹂ ﹁ああ、頼んだ﹂ ジャック=アルテミシアは後ろに下がり、クラウズェアはツユク サに正対した。 ⋮⋮恐ろしい。 それが、クラウズェアの偽らざる気持ちだった。 その巨体が恐ろしい。 長く吊り上がった琥珀の目も恐ろしい。 鋭利な爪や牙もまた恐ろしい。 しんえん 先程の唸り声も、未だに耳にこびりついて離れない。 の だが何よりも恐ろしいのは、やはり、底の見えない深淵の如き青 あぶ であり、生き物などひと呑みにしてしまうだろうその青だった。 い 山頂の炎獄を前にした時、ふと現れたその青に、赤に炙られた目 を癒やされたこともあったというのに。それでもやはり、恐ろしい。 はら クラウズェアは、乱れた呼吸を繰り返しそうな口を閉じ、深呼吸 した。 深く、腹の底まで届けと息を吸い、ゆっくりと吐き出す。 370 はら 肚の熱が増した。 もう一度、深呼吸。 体に熱が巡り始めた。 上がっていたものが下がったような。ぐらついていた腰がどっし うすくれない いなずま りしたような。そういう変化が、女騎士の中で起こった。 ︵よし、戦える︶ 赤の色付きを増した︿薄紅﹀を、正眼に構える。 それが合図とばかりに、ツユクサが動いた。 低い姿勢から一気に飛び出す。風を切る姿は青い稲妻の如く。 クラウズェアが横に避けると、駆け抜けたツユクサは木々にぶつ かり、落雷みたいな音を立ててそれらをなぎ倒した。突進に巻き込 まれれば、命は無いだろう。 巻き上がった土砂が地に降り注ぎ、土煙が晴れた向こうから、青 い巨体が姿を現す。 ちょうやく 今度は、最初の時よりも更に身を低くし、四肢の力を存分に使っ かわ た跳躍で、狼が飛びかかった。 それを躱すと、着地したツユクサの勢いで土が弾け飛び、地面が えぐられた。 四散した土砂が通り雨のように降り注ぐのを、赤毛の騎士はする すると退いて距離を離す。 ︵手加減されている︶ ため クラウズェアはそう思った。動きに無駄が多すぎるのだ。わざと 溜を作って初動を明らかにしたり、直線的な動きしか繰り返さない。 はや かわ が養われたのは、日々の訓練の賜だった。 たまもの 実はこれは、以前の彼女には判らなかったことであり、そういう 目 から だが、迅いことには変わりがなく、容易に躱せるものでもない。 それを、クラウズェアは辛くも躱し続けた。 うが そのような攻防が、二度、三度と繰り返される中、幾本もの木が 倒され、いくつかの穴が穿たれた頃。 ﹁斬って!﹂ 371 アルテミシアの叫びと、ツユクサの突進が重なる。 あぎ と しぶき 上段に振りかぶられた薄紅が陽光に赤く輝き、迫る顎門に振り下 ろされる。 青に赤が触れた刹那︱︱ 、 、 ツユクサの巨体は、岩に砕け散る寄せ波の如く、飛沫となって散 り、その霧のような空間に赤毛の騎士は呑み込まれた。 ⋮⋮ゾッとする心地だった。 薄紅の熱がなければ死んでいたと思った。 、 、 む さん 体温と、体温以上の何かを持ち去られかけたような、そんな死の 気配。 それは、一瞬だった。 死の空間が過ぎ去り、背後で青は霧散した。 かがや 全身に冷や汗を吹き出しながら、クラウズェアは己の掌中にある、 赤々と生命の色に赫く薄紅をぎゅっと握り込み、深く、深く、相棒 に感謝したのだった。 勝負を終えた勇敢な仲間に、手に汗握りながら見守っていたアル テミシアは駆け寄り。 い けい かろうじて意識を保ちながらも身動きが取れないでいた二部隊の 隊長は、すでに動けることにも気付かずに、赤毛の騎士を畏敬の念 で凝視し続けていた︱︱ 372 五章⑦﹃パジャマパーティー?﹄ うたげ もよお たけ ただ がいせん 城に戻った一行を、ナデファタ王は熱烈に歓迎し、直ちに凱旋を 祝す宴が催された。 ずらりと並んだ料理の数々に、本来なら思いの丈をぶつけるよう に黙々と手と口を動かすはずのクラウズェアは、怪我をした主の隣 に陣取り、甲斐甲斐しく食事の世話をしている。 つか 少年を挟んで反対側にはルクルク王女が座り、やはり何くれとな く気を遣ったり、料理や食材、食べ方の説明などをしている。 そんな風景を眺めながら、ナデファタは英雄に怪我を負わせたこ とに気を病みながらも、それ以上の喜びで終始ニコニコしていた。 ちなみに、バイガン将軍の姿はないが、武官達は列席していた。 その中には、クローシェーイの姿もある。 今回の一件で、彼と襲撃部隊の兵士達の扱いについて、王に判断 がゆだねられることとなった。 当初、指揮官であったクローシェーイと、矢を射掛けた兵士の二 おんしゃ ごんじょう 名は責を負わせ、処刑すべきとの判断を下したナデファタに、宰相 が恩赦を言上したのであった。 ナデファタは渋ったが、結局、スルトンの熱意に負け、二人を許 した。 暗殺未遂事件は伏せられ、ルクルク王女も知らない。アルテミシ うろつ ア達も何も言わなかった。少年の背の怪我は、魔物に襲われた際に 負ったのだと、王女には話してある。 英雄達は、︿神速狼﹀を討ち取ったのみならず、天焦山を彷徨く 魔物まで軽く一蹴してきたのだ。そういう事になっていた。 宴が終わり、間もなくのこと。 373 王の私室に、ナデファタと宰相のスルトンの姿があった。 ﹁恩人であるにも関わらず、国のために利用したばかりか、命の危 険にさらしてしまうことになるとは﹂ 椅子に深く腰掛けたナデファタは、背を丸めながら重い溜息を吐 いた。 まゆつばもの ふた ナデファタもスルトンも、︿神速狼﹀の存在に関し、バイガン将 軍と同じく眉唾物だと判断していたのだ。だが、実際に蓋を開けて あつ みれば、伝承の魔狼は存在したのだ。それを、将軍の配下ばかりか、 王と宰相からの信が篤いヒクイシーまでもが見ているのだ。信じる より他はなかった。 そんな魔狼を、英雄達は見事に討ち取った。真の英雄である。そ れを、殺しかけてしまった。守ることができなかった。 わずら 死なずに帰ってきた。それは結果論だ。 ナデファタには、他にも思い煩う理由があった。それは、責任の 取り方についてだった。 事件の首謀者であるバイガンも、実行犯であるクローシェーイや 配下の兵士も、誰も罰されてはいない。ナデファタも、英雄達に頭 を下げることができない。それは、スルトンから説き伏せられたこ けいきょもうどう とであり、ナデファタ自身もそれは納得していた。 今回の一件は無かった事にする。 それから、バイガン将軍を吊し上げ、軽挙妄動に走らせる結果も 招きたくはない。 それが、王と宰相の共通見解だった。 ﹁陛下﹂ 置物のように側に控えていたスルトン宰相が、恭しく口を開いた。 ﹁何の申し開きも御座いません。ただ、首をご所望されるのは、今 しばらくお待ち下さい。せめて、華燭の典がつつがなく行われる、 その時まで﹂ は そう言って、静かに頭を垂れた。 ﹁ワシがお前の首を刎ねることなどあり得ない。定命を使い果たす 374 かしず までこの国に仕え、ワシを支えてくれ﹂ 傅く忠臣の側まで歩み寄り、自分よりも少し小さなその肩に、ナ デファタは手を置いた。 ﹁勿体ない、お言葉です﹂ 見えない刃 による攻撃は、少年の 万感の思いと、新たにした決意を込めて、スルトンは短く答えた。 だ ぼく 診断結果は、打撲。 アルテミシアが背に受けた 白い肌にあざを作り、女騎士を激怒させた。 襲撃は十中八九、バイガン将軍の差し金だということは見当が付 いていたので、薄紅を手にしたクラウズェアが、将軍の下へ単身乗 り込まんとした。それを、アルテミシアがしがみついて留め、ジャ ックが説き伏せて場を収めたのだ。 代わりに、怒りに燃える緑の目を向けられたジャックは、生きた 心地がしなかったのだが⋮⋮。 そのジャックだが、例の如く漢方薬を処方した。とは言え、今回 ちだぼくいっぽう ねん ざ はアルテミシアの手は借りず、クラウズェアに指示を出した。 うんなんびゃくやく 一つは治打撲一方。打ち身や捻挫に効く薬で、煎じ薬だ。 しっぷ は もう一つは雲南白薬。出血を止め、あるいは滞った血の流れを促 す薬効がある。飲んでも効果はあるが、今回は湿布として患部に貼 は ることにした。 腫れと痛みが引くまでの間、酒、辛い食べ物、湯浴みは禁じられ ふく た。だが、その後は逆にジャンジャン温めるようにとも、ジャック は言った。 これが、帰城した直後の話。 今は、宴の後。アルテミシアの私室である。 はちみつ 窓の外には夜の虫たちの鳴き声が立ち上り、 部屋には、カモミールと蜂蜜の甘い香りと、ミルクの濃厚で膨よ 375 い かな香りが満ちている。ルクルクが煎れた、カモミールのミルクテ ィーだ。 わ ﹁それでっ? それでどうなったの?﹂ ﹁ええ。森のあちこちから湧いて出た獣たちは、闇のように黒く、 不気味な連中でした。その数、およそ百頭﹂ ﹁百頭っ?﹂ うな ルクルクが目をまん丸にして驚く。 ﹁ううむ﹂ クラウズェアは唸り、 ﹁そうだったかなぁ?﹂ アルテミシアは小声で呟いた。 ﹁絶望的な状況に皆が死を覚悟した時、あっしは隠していた切り札 を使う時だと悟ったんです﹂ ﹁切り札﹂ ひ おう ぎ えんおうひゃくせんしょう 手に汗握るルクルクが繰り返した。。 く ﹁秘奥義・閻王百穿掌。黒い獣どもはことごとく皆、胴体に風穴を 空けて死に絶えました﹂ ﹁すごい!﹂ ﹁ううむ﹂ ﹁そうだったかなぁ?﹂ は おうぜっこうちょう ともし ﹁危機は去りました。ですが、秘奥義を繰り出したあっしの体も無 び つ 事では済みませんでした。何故なら、覇王絶好調を使うと、命の灯 火を燃やし尽くしてしまい、使用者も息絶えるからです﹂ ﹁そんなっ?﹂ ﹁ううむ﹂ ﹁︻モリオン、さっきと技の名前がちがうような気がするんだけれ ど、ぼくの気のせいかなぁ?︼﹂ 少年の問いかけに、胸中の子は瞬いて答えた。 ︻チガウヨチガウヨ︼ モリオンも母親の意見に同意だった。 376 し ゆ ﹁その時です! 死に逝くあっしにしがみつき、シア嬢ちゃんが清 らかな涙を流したのです! この世の全ての乙女達の清らかさと、 ぎょうしゅく したた 宝石の美しさと、神々の気高さと、あとそいから、えーと⋮⋮なん やかんやのアレコレが凝縮された聖なる涙があっしの体に滴り落ち ため ました。すると、どうでしょう﹂ かた ず の そこでいったん溜を作り、影人間は聴衆を見回した。 しわ ルクルクは固唾を呑んで見守っている。 クラウズェアは眉間に皺を寄せ、腕組みをしている。 アルテミシアはカップに口を付け、ミルクティーの甘さに頬を緩 ませた。 何故、ジャックがこんな馬鹿話をしているかというと。理由はこ うだ。 ルクルクがアルテミシアの背の負傷を心配し、どういった経緯で のものかを訊いてきたのだ。だが、真実は話せない。話せば、ルク う あ ルクはバイガン将軍に抗議をするだろう。法の裁きを求める可能性 もある。そうなれば、この国に大きな混乱と不和を招くこと請け合 いだ。それは、アルテミシア達の望むところではなかった。 だから、口の達者なジャックに話を一任したのだ。 ⋮⋮それで、このザマである。 ﹁︱︱奇跡が、起きました﹂ ﹁まあ!﹂ ﹁ううむ﹂ まぶた げ カモミールとミルクが効いたのか、一日の疲労が出たのか。アル ふち よみがえ テミシアの瞼は重そ気に下がり始めている。 ﹁死の淵から蘇ったあっしは、お嬢ちゃんと固く抱き合い、心が通 じ合った者同士がする熱い口付けを︱︱﹂ ﹁待て、そこまでは許さん﹂ ﹁︱︱しようとしましたが、そこまでは許されませんでした﹂ 女騎士からの鋭い物言いがつき、話は修正された。 ﹁そう。それは⋮⋮良かったわ﹂ 377 猫妖精の王女は、知らず胸をなで下ろした。 ﹁ところで、アルテミシアの背の傷はどうなったの? いつ怪我を したの?﹂ ルクルクのこのもっともな問いに、 ﹁あ、ケガ? ⋮⋮えーと、それはぁ、ああ、そうそう! 転んで できたモンです、はい﹂ ﹁えっ、転んで? 戦いで負ったものじゃないの?﹂ にら ﹁ええ、まあ、そうです。はい﹂ 眉を逆立てて睨み付けるクラウズェアから視線を逸らし、気まず げなジャックは早口に言った。 ﹁この話はもうお終いです! もう夜も遅いですし、寝るとしまし ょう﹂ ﹁えぇ∼っ?﹂ 不満たっぷりにルクルクが声を上げた。 ﹁アタシ、まだ眠くはないわ。ねぇアルテミシア。もうちょっとこ こに居ても良いでしょう?﹂ そう言ってアルテミシアの腕にすがりつくと、少年の顔を覗き込 んだ。 アルテミシアはと言うと、うつらうつらと船をこいでいた時に抱 きつかれたものだから、びっくりして目を覚ました。 ﹁あれ? もう朝なの?﹂ 目をぱちくりさせ、周囲を見回す。 ﹁まだ夜よ。うたた寝していたのね﹂ ﹁ごめんなさいっ、アタシったら﹂ クラウズェアの指摘と、ルクルクの謝罪が続く。 ﹁どうしてルクルクが謝るの?﹂ 叱られた子供みたいにしょげている少女へと、白い手が無意識に あらが 伸び、ダークブラウンの髪をそっと撫でた。 ﹁あ﹂ まるで、母の手で撫でられているような抗いがたい安心感がルク 378 ルクの理性を溶かし、つい我が侭を言わせた。 ﹁アタシ、今晩はアルテミシアと一緒に寝たい﹂ ﹁え?﹂ ﹁マジでっ?﹂ ﹁うん、いいよ﹂ クラウズェアとジャックが仰天し、アルテミシアは抵抗なく聞き 入れた。 ﹁だめよ!﹂ ﹁パジャマパーティー! パジャマパーティー! パジャ︱︱﹂ ﹁少し、黙っていてくれ﹂ ﹁ひっ、ひゃい!﹂ 最高潮に達したジャックのテンションは、薄紅と、その刃と同等 に鋭い緑の目によって鎮圧された。 ﹁駄目かしら、クラウズェア?﹂ ﹁ローズ、だめ?﹂ 赤と赤銅の目に見つめられ、少年の保護者である女騎士は一瞬ひ るんだが、彼女の道徳観念に従って二人の少年少女に注意すること にした。 ﹁いけません﹂ ﹁何故?﹂ ルクルクが問う。 ﹁この国では分かりませんが、我々の祖国であるグリーンウェルで は、二人の年齢で同じベッドに入ることは不道徳な事だとされてい るのです﹂ ﹁それなら大丈夫! アタシの国では不道徳ではないから﹂ ﹁い、いえ。そういう問題ではなく﹂ ﹁二人じゃだめなの? モリオンもいるし、それにローズとジャッ クさんとの五人で寝たらいいと思う﹂ ﹁それだわ!﹂ ﹁それです!﹂ 379 ︻モリオンモイッショ︼ ﹁シア、人数の問題じゃなくてね? あと、ジャックは黙っていろ﹂ ﹁ふぁい﹂ ひと睨みで黙らされたジャックがいじけて体育座りをしていると、 ドアを叩く者があった。 ﹁姫様? そろそろお部屋に戻られませんと。時間も遅う御座いま すし、お客様方にもご迷惑になります﹂ ﹁ちぇ﹂ はしたなく不満の声を漏らしたルクルクは、クラウズェアの予想 を裏切り、あっさりと侍女の言葉に従ったのであった。 、、 ﹁お休みなさい、アルテミシアとモリオン、クラウズェア、ジャッ ク。また、後でね﹂ そう別れを告げ、部屋を去って行ったのだった。 ﹁帰っちゃった﹂ アルテミシアが残念そうに呟いた。 つつし ﹁一緒に寝るくらい、良かったんじゃあねぇんですかい? 何が起 こるでもなし﹂ どうきん ﹁それはそうだろうが。やはり男女の慎みというものがある﹂ ﹁けど、ルクルクちゃんの口ぶりじゃあ、この国においては同衾し ても問題なさそうですぜ?﹂ 郷に入っては郷に従え ってぇ、ありがてぇ言 ﹁うっ。法が許しても、道徳が許さんのだ!﹂ ﹁あっしの国には 葉もあるんですが﹂ ﹁それはお前の国の話だ。我が国にそのような言葉はない。だいた い、わたしはシアの守護者として、この子に厳しくあらねばならん のだ﹂ ﹁⋮⋮それ、本気で言ってるんですかい?﹂ どの口が言うのかと、発言に責任を持たない信条のジャックです ら、呆れ果てた。 ﹁何だ? 文句でもあるのか?﹂ 380 じろりと睨み付ける視線を物ともせず、ジャックは話題転換を図 った。 ﹁いいえ、別に。それよりも、今日の戦い。ありゃあなんです?﹂ 現在の武術の師匠の言葉に、クラウズェアの表情が気まずげなも のに変わる。 ﹁あれはぁ⋮⋮そのぅ⋮⋮﹂ さっきまでと立場が完全に逆転してしまっていた。 ﹁動きが直線的すぎる﹂ ﹁うぅっ﹂ 図星を指された弟子は、うめき声を上げた。 ﹁敵の動きも直線的で単調だったから良かった様なものの、もっと 厄介な動きをしてくる相手だったら、どうなっていたか﹂ ﹁面目ない﹂ ﹁ツユクサに到っては、手加減されてやしたしね﹂ ﹁くっ、まことに面目ない﹂ 女騎士の身が縮こまり、垂れた頭をますます項垂れさせた。 ﹁ですが、ま、鍛錬の成果は出てやしたね。この短期間で、よくあ そこまで動きの質を変えられやした。上出来です﹂ 一転したジャックの褒め言葉に、最初は惚けたようであった少女 の顔が、徐々に喜びのものへと変わっていった。 ﹁ほ、本当かっ?﹂ ﹁本当です﹂ ﹁わたしに気を遣って︱︱﹂ ﹁遣ってやせん﹂ 師の言葉で高揚感が増していき、背中から後頭部に掛けて生まれ たぞくぞくする震えを感じたとき。少女の側に、それまで成り行き を見守っていた少年が寄り添って言った。 ﹁よかったね、ローズ﹂ その言葉が引き金となり、クラウズェアの歓喜は限界を突破し、 背の震えは全身に広がった。 381 ﹁シアーーーっ!﹂ こま 幼なじみの少年を抱き上げた長身の少女は、暴走した独楽さなが らに、部屋中をグルグルと回り始めた。 ﹁明日っからは、もっと厳しくいきやすからね? あと、シア嬢ち ゃんの目が回らねぇウチに止めといた方が良かぁねぇですかい? って、聞こえてねぇな、こりゃあ。つか、そろそろじゃねぇのかな ぁ⋮⋮って、おいでなすった﹂ ジャックの言葉の後に、開け放した窓の向こうにぶら下がる影が 現れた。 ルクルクだ。 ずる ﹁何よ、みんなだけで楽しそうに。アタシを仲間外れにするなんて 狡いわ﹂ ほっぺたを膨らませたルクルクが窓から部屋に侵入してきたのだ った。就寝用の薄着を身にまとった姿で。 ﹁えっ、ルクルク?﹂ ﹁目が回るぅ﹂ ﹁再び、こんばんは﹂ 三者三様の対応に、 のたま ﹁ええ、こんばんは。と言う訳で、皆で寝ましょうよ!﹂ 王女は宣ったのであった。 ほの 窓から差し込む月明かり。仄かに照らされた室内には、三人の少 年少女達が静かな寝息を立てていた。 がん あれから︱︱ルクルクが窓から侵入を果たした後のこと。 頑としてアルテミシアと寝ることを譲らなかったお姫様に根負け し、一度だけという約束でとうとうクラウズェアも折れたのだった。 更には、二人にせがまれ、なし崩し的に女騎士も夜を共にすること になった。 アルテミシアに宛がわれたベッドは大きく、なんとか三人寝るこ 382 とも可能ではあったのだが、クラウズェアの﹃ベッドは二人で使っ て下さい。わたしは床で寝ます﹄との言葉に、それならばと、アル テミシアとルクルクの二人も床で寝ることを選んだのだった。 当然、焦ったクラウズェアが﹃二人にそんなことはさせられない﹄ と説き伏せようと試みたのだが、無理だった。 それで、今はこうして床に敷物を広げ、三人仲良く眠っている。 おも 月光によって伸ばされた影の中で、三人より少し離れた場所で寝 っ転がったジャックは、一人、惟っていた。 こんじき ちょうじ それは手記のことであり、アルテミシアのことであった。 ぎんいん 虚空に在る、銀の月。金色の太陽と対の存在。 その月と深い結び付きのあるという、︿銀陰の寵児﹀という単語 が散見される項目があった。 よろず おか まなこ と。 人の身でありながら、その内に月の蔵を宿す。何色も持たず、 ︱︱銀陰の寵児。 すべ 総てに染まり、万に冒されぬ水晶の眼と髪を持つ ジャックは想った、アルテミシアのことを。氷のような白い髪を。 かがや 見えない刃に傷付かなかった、不思議の髪を。今ではモリオンの色 を宿した、耀く黒髪を。 いら だ ︿銀陰の寵児﹀には、また、別名があった。 しょうこうし それは︱︱ ﹁︿晶公子﹀、ねぇ﹂ 呟かれた言葉には、どこかしら苛立ちの色が混じっていた。 ジャックは、己の機嫌が悪い方へ傾くのを自覚していた。それは、 呟いた言葉が連想させる、とあるもののせいだった。 ︿彩化晶﹀に︿晶界﹀。 ﹁お嬢ちゃん達をそっとしておいてくれよ。どうか、頼むから﹂ 願いの込められた小さな声を、月だけが静かに聞いていた。 さらさら、さらさら、と。 383 五章⑧﹃婚儀﹄ 三ヶ月。 妖精境へとアルテミシア達がやって来てから、実に三ヶ月の月日 が流れた。 れんたん とは言え、彼らのやることが何か変わるかというと、別段、何も どう 変わりはない。午前中は診療、午後から城の中庭で鍛錬、夜は練丹 む じんほんぞう こ 洞から持ち帰った手記や本草書などの蔵書を読み解く作業。 生薬が足りなくなれば、練丹洞の無尽本草庫まで取りに行くこと もあった。もうツユクサの足には頼れないので、犬妖精の背を途中 まで借り、後は歩いて行くしかない。ジャック曰く﹃これも鍛錬﹄ だそうだ。 ゆう ぎ ふけ それらの合間や休憩時間などには、ルクルク王女が茶会を開いた り、お姫様との無邪気な遊戯に耽ることもあったし、一度きりと約 束したはずのお泊まり会が、アルテミシアの部屋で行われる夜もし こんがん ばしばあった。﹃一緒に寝たい﹄と王女様がワガママを言う度にク ラウズェアは反対するのだが、彼女のご主人様も一緒になって懇願 すると、赤毛の騎士は折れるより他はなかったのだ。 そうして今日も彼らは、昨日と似たような、それでいて楽しく充 実した一日を送る、はずだった。 ルクルクの、この言葉を聞くまでは。 ﹁お父様が、アルテミシアとの婚儀を企んでらっしゃるわ﹂ 午後の鍛錬を行っていた面々は、いつもの時間より遅れてきたル クルクの、この開口一番の台詞に、すぐには反応ができなかった。 結婚 男女が一緒に暮らす と という、いかにも自分には縁遠い一大行事に、少年は他 ﹁ぼく、王様と結婚するの?﹂ 人事みたいに問い返した。 まあ、それ以前に、結婚というものを 384 いう意味程度にしか認識していないアルテミシアではあったのだが。 ﹁結婚しちゃ駄目でしょっ? そんなの不道徳過ぎる!﹂ 遅れて、泡を食ったクラウズェアが絶叫した。 ﹁姐さん、お静かに。どうやらこいつぁ、周りに聞かれちゃマズイ 話みてぇだ。そうでしょう?﹂ いさ ルクルクの表情から、これが王女様のたわいない冗談などではな さそうだと察したジャックは、激情に駆られた女騎士を諫め、仰天 こわ ニュースをもたらした少女へと話を促した。 そのルクルクだが、当初の強ばった表情から一転、俯きがちにア ケツト・シー ルテミシアの赤いスカートを見下ろしている。 ﹁⋮⋮人間と猫妖精との結婚って、そんなにおかしいのかな? ア タシだって、アルテミシアとお父様が結婚だなんて、反対だけど﹂ 快活な少女に似つかわしくない、小さくか弱い声だった。 ﹁ルクルク?﹂ アルテミシアの声に、呼ばれた少女の視線が上がる。赤いスカー ご ふ くん トから、より赤い目へと。 ﹁いえ、あの、決して御父君のことを悪く言いたかったのではなく、 ただ、そのぅ⋮⋮男性同士の結婚は、道義に反すると言いますか﹂ しどろもどろに横から言葉を挟むクラウズェアと、 ﹁男性同士?﹂ 大きな目を何度もパチパチ瞬きさせるルクルク。 ﹁不道徳なの?﹂ ﹁不道徳よ、やっぱり。だって、男同士よ?﹂ アルテミシアの問いに、ルクルクを気にしながらもクラウズェア は訴えた。 ﹁男同士?﹂ ﹁はい。ですから︱︱﹂ ﹁誰が?﹂ ﹁え?﹂ ﹁誰が、男なの?﹂ 385 ﹁え、誰って。シアは男ですし、陛下も殿方ですよね?﹂ ﹁えぇっ? アルテミシアって、男の子だったのぉっ?﹂ 端から見れば馬鹿みたいな問答だったが、ルクルクの中では劇的 な変化が起こっていた。 それまで、猫妖精と人間という種族の壁から生じる部分で拒否反 応を起こされたものだとばかり思っていたのだ。それが実は、そう ではなかった。猫妖精でも、同性同士は結婚できない。ルクルクの 心は晴れた。 次に、ルクルクはこれまでの己の行動を思い出した。女の子だと ずいぶん ばかり思っていた、アルテミシアとのことを、だ。 随分と恥ずかしい真似をしてきたものだ。生まれて初めてできた しゅうち 異性の友人に取る行動ではない。だがそれは、照れ臭くはあるもの の、思ったほどの羞恥はなく、ましてや拒絶感は欠片も生まれなか った。 ﹁そうなのね﹂ 嬉しげに呟いたルクルクは、だが、未解決の問題が残っているこ とを思い出し、それを打ち明けた。 こわ ﹁なら、それは回避できそうね。けど、お父様はアタシとクラウズ ェアとの婚儀も考えてるの﹂ この言葉に、ジャックは吹き出し、クラウズェアは顔を強ばらせ て固まった。 ﹁ローズ、結婚しちゃうの?﹂ ﹁⋮⋮ここでは女同士で結婚できるのですか?﹂ うな アルテミシアの問いを受け、どこか疲れた風のクラウズェアが問 うた。 ﹁まさか、アナタって⋮⋮女?﹂ だ は このルクルクの言葉には、さすがにクラウズェアもガックリと項 垂れてしまった。 ﹁ちっ、違うの! これは、その、アナタがズボンを穿いてるから、 てっきり。それに、背が高いものだから、つい﹂ 386 つ ここ妖精境において、ズボンを穿く者は限られた職種に就く者だ ケット・シー けだ。そして、それらの職に就く者達は皆、男ばかりである。 その上、猫妖精から見れば、人間の男女の差などあまり区別が付 かない。変化の術で人間に化けられるようになったルクルクでさえ、 少女 と そうなのだ。ましてや、彼女以外の者ならば、クラウズェアとアル テミシアの性別を見抜くことなど容易ではない。 み まが ⋮⋮ただし、アルテミシアに関して言えば、人間でも 見紛う者が大半だろうが。 ﹁これはまずいわね。だったら、婚儀の相手が逆になるだけの可能 性が大きいわ。やっぱり逃げる算段をつけておかないと﹂ 華燭の典は一月後。 ルクルクがスルトン宰相から聞いた、婚儀の予定日だ。だから皆、 聞き耳を立てられる恐れの少ない、中庭の東屋に集まり、相談し合 った。ここは比較的見晴らしが良く、誰か近づけば気付きやすい。 こう ざ それで、数日中に準備を終え、妖精境からの脱出を計る算段を付け たのだが。 みょうにち ︱︱その、翌日。 ﹁明日、婚約の儀を執り行う﹂ ここは城の大広間。玉座の安置された高座の、その一段下に立っ た宰相のスルトンが、高らかに宣言した。国王のナデファタは、ど こか思い詰めた表情で、家臣団を見下ろしている。 め で た ﹁この度は、国王陛下とアルテミシア殿、王女殿下とクラウズェア 殿とのご良縁が整い、まことに目出度く︱︱﹂ とどろ ﹁婚約だとっ? キサマ、気でも狂ったかスルトン!﹂ 王広間に、バイガン将軍の怒声が轟いた。 ﹁やな予感しかしなかったんですが、まあ、この場に呼ばれた時点 で察しは付きましたが﹂ ジャックが居るということはアルテミシアも居るということであ 387 り、勿論、クラウズェアも居る。 ルクルク付きの侍女だけではなく、兵士達も伴って大広間まで呼 び出された時点で、クラウズェアにも見当は付いていた。とは言え、 暴れたところで事態が好転する訳もなく。今は大人しくしておくの が上策だろうと、素直に従ったのだ。 だがここに、バイガン将軍と同じく、黙ってはいられない者が居 た。 かしゃく ﹁お父様、ワタシ、今回のことは納得していません! そんな勝手、 ケツト・シー 二人の友人として認められません!﹂ 猫妖精姿のルクルクが、気炎を吐いた。 言葉をぶつけられたナデファタは、良心の呵責から、娘をまとも さくじつ に見られないでいる。 ﹁殿下には昨日きちんとお伝えしたはずです。更には、殿下からア ルテミシア殿、クラウズェア殿へのご通達もお済みのはず。その上 で、お二方からは異存を頂戴することもなく、こうしてこの場にお 越し頂いたのです。ご当人方が納得済みのことを、どうして今更蒸 し返すようなことをなさるのです﹂ ﹁納得済みですってっ? スルトン、アナタ本気で︱︱﹂ ﹁やかましいッ!﹂ その時、 カッパー げ せん わいしょう こんいん それまで怒りに震えていたバイガンが、とうとう爆発したように 叫んだ。 ﹁ワレラ高貴な銅目族が、下賤で矮小なニンゲンなどと婚姻を結ぶ だとっ? バカも休み休み言え! スルトンっ、キサマは国家反逆 た ぶん はばか なんじゃくもの 罪で処刑する! それからナデファタ。国王としては能なしで、血 族の一員としても他聞を憚る軟弱者。オマエがそこに座する資格は ない! 今すぐ、ワガハイに王座を明け渡せッ!﹂ この言葉こそが、王への反逆に他ならない。だが、文官達は皆怯 え、武官達も将軍の剣幕を恐れて何も言えない。そうでなくとも、 王弟のバイガンに対しては、いち家臣として言上はし辛い。 388 そんな中、武官のクローシェーイだけは、事態の推移を︱︱クラ ウズェアとアルテミシアの二人を、静かに見詰めている。 宰相のスルトンは、もしもの時にと、外に控えさせていた子飼集 れいてい をいつでも呼べるよう、懐の鈴に手を伸ばす。 ちんしや き ﹁いくら陛下のご令弟様とは言え、先程の言葉は目に余ります。陛 下の御前で陳謝なさいませ﹂ ﹁なんだと、キサマ。誰に向かって口を利いている?﹂ スルトンの言葉に、バイガンの怒りの質が変化した。赤銅色の目 しゅうたい さら は血走って赤みを増し、その物騒な赤の中では瞳孔が縦に裂けてい る。 ﹁バイガン、よさぬか﹂ この時初めて、ナデファタ王が口を開いた。 ﹁アルテミシア殿、クラウズェア殿。このような醜態を晒してしま いささ こ たび い、まことに申し訳ない。事を性急に進めた件も、心苦しく思って おる。だが、些かなりとも此度の件を前向きに受け止めてもらえる なら、幸いだ。我ら銅目族、英雄達を快く迎え入れよう。バイガン にも、善く善く言って聞かせる。どうだろうか?﹂ おとろ くも まなこ さ これには、問われた本人達よりも誰よりも早く、バイガンが吠え た。 ﹁ふざけるなぁッ!﹂ ぐ けい 大広間の空気が、ビリビリと振動する。 ﹁愚兄よ。衰えて曇ったオマエの眼、今すぐに覚ましてやる﹂ ﹁姐さん!﹂ 向けられた殺気に誰よりも早く反応したジャックが、警戒の声を 発した。同時に、アルテミシアに︿かかりみ﹀する。 へんじょう ジャックのおかげで、クラウズェアは動くことができた。そして、 命拾いをすることとなる。 赤毛の女騎士が︿薄紅﹀を変成させた時。構えたとも言えないそ ひ が の紅刃に、バイガン将軍の大刀が叩き付けられていた。 彼我の距離は、十二m。 389 武官が一列に居並ぶその先頭から、文官列先頭の一歩手前、そこ がクラウズェア達が居た場所だった。 ﹁くッ?﹂ 目にもとまらぬ襲撃に、さしものクラウズェアも後ろに吹き飛び、 撓う しな 壁面に背を打ち付けてしまう。幸い、ある程度の衝撃は、白刃を受 け止めた時に床に逃がしたし、何よりも、薄紅が一瞬だけ 働きをしてくれたので、衝突の力をまともに手で受け止めずに済ん だ。 結果、ぶつけた背を痛めるまでには到らなかった。 ﹁ローズ!﹂ ついげきたいせい アルテミシアは叫び、その焦りとは別に、ジャックに預けたその 身は動き、追撃態勢に入っていたバイガンを、横から打った。 空いていた横っ腹に打ち込まんとした掌は、だが、大刀を振り上 げていたその右腕を下げられ、防がれてしまう。 ﹁ぬっ﹂ すさ そのまま将軍は、左手側︱︱大広間正面の壁まで自ら跳ね、壁面 かしら にな を蹴って玉座の手前まで飛び退った。 にじ ﹁さすが、一国の将の頭を担うだけはありやすねぇ。オマケにその 高ぇ身体能力ときたら﹂ げきこう おどけた台詞とは裏腹に、ジャックの声には切迫した色が滲んで いる。 バイガンは︱︱城の者が知る彼の常と反し、激昂するでもなく、 しぼ 大刀を左手に持ち替えた。先程までは湧くに任せて発散されていた ものが、一点に絞られた。視線は、ジャック=アルテミシアを捉え て外さない。 と、その時。 ﹁この、愚か者がッ!﹂ ひも 落雷の如き大音声が轟き渡った。 ぶつり、と、紐のちぎれる音がした。 ﹁英雄達に、なんということを﹂ 390 ぶつり、ぶつり。 ふく 引き千切れる音と共に、座したナデファタ王の体が膨らんでいく。 ﹁あ、兄上?﹂ バイガンの体が、ぶるりと震えた。 猫妖精の服は、ゆったりとした作りになっている。暑いからとい うのも勿論あるが、彼らが変化の術を使うからだ。大きさを増した ひも しぼ 身の幅に合うように、かなり余裕のある作りになっている。その大 きな服を、術を使う前の身幅に合わせ、紐で絞ってあるのだ。 これは、その紐が千切れる音なのだ。 ばきぃっ。 ざんがい そして、玉座が砕け散る音が響いた。 へいげい 高座には、玉座の残骸と、身の丈三mの獣人が、大きな足で床を 踏みしめてバイガンを睥睨していた。 ﹁老いぼれて体が弱っていたはず⋮⋮﹂ ﹁暑さと、どこぞの愚か者に頭を悩まされ、一時的に弱っておった じん こ だけだ。それも、彼らの優れた医術で回復した﹂ ﹁⋮⋮伝承に聞く人虎だな、こりゃあ。こんなデカかったのか知ら ねぇが﹂ ジャックが誰に言うともなしに呟く。 アルテミシアは、クラウズェアの側で背をさすっている。 ﹁それなのに、お前は﹂ 押し殺した怒りがまた爆発し、ナデファタは裂けた口を大きく開 け、身も凍るほどの恐ろしげな牙を誇示した。 ﹁手足の一、二本は食いちぎってやるッ!﹂ 暴風のような勢いで飛び、バイガンへと襲いかかった。 バイガンの居た辺りから爆発に似た破壊音が広がり、床が砕け散 って二人はもみ合いながら落下していく。 あ ぜん ﹁三人とも、今のうち﹂ 周囲が唖然として動けない中、静かに駆け寄ったルクルクがアル テミシア達に囁いた。 391 ﹁ですが、放っておいては⋮⋮﹂ きゅう 生真面目な女騎士が、穴と王女を見比べると、ルクルクは悪戯っ ぽく笑って見せた。 ﹁いいのよ。叔父様も少しはお灸を据えて貰わなきゃ。それにして もお父様、元気になられて良かったわ。皆のおかげね、ありがとう﹂ ﹁いえいえ、どういたしやして﹂ 王女の礼を、ジャックが代表して受け取った。 ﹁とにかく。この好機を逃したら、次はないわ。あのお父様から逃 げるなんて、絶対できっこないもの﹂ ﹁それは、確かに﹂ クラウズェアは、これ以上なく納得した。残りの二人も同意だっ た。 ﹁ぼく達が逃げて、ほんとうにルクルクはだいじょうぶかな?﹂ 既に話し合った内容ではあったが、改めてアルテミシアは問うた。 ﹁大丈夫よ。お父様、アタシには甘いんだから! 言い訳も考えて あるし、ね?﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 頷いたアルテミシアの手を取り、ルクルクは皆を導いた。 392 五章⑨﹃別れ﹄ 大広間の騒動が幸いし、城の者達の注意は一カ所に集まっていた。 ちゅうぼう ルクルクの手引きで、人通りの少ない廊下を選び、あるいは隠れて やり過ごし。 ﹁ここを抜けたらいつもの中庭で、そこを突っ切って行けば厨房。 それで、更に行けば城の裏門に出られるわ﹂ もうすぐかというところで、 ﹁お待ち下さい!﹂ ぎじょうへい 追い付かれてしまった。 数は四人。儀仗兵の格好をしてはいるが、大広間を守るいつもの 顔ぶれではない。ルクルクの知らない者達だった。 ﹁アナタ達は?﹂ ﹁はっ、宰相閣下にお仕え申し上げる者に御座います﹂ ﹁スルトン宰相の子飼集ね。初めて見たわ﹂ は これは不味いとルクルクは思った。彼らは足が速い。逃げるのは 無理だろう、と。戦って、無力化しなければならない。 ﹁命令です、退きなさい﹂ ﹁それは、王女殿下のご命令でも聞けませぬ。例え、首を刎ねられ ることになっても﹂ さ なわ じょうすい 四人居る子飼集のうち、二人は儀仗を構えた。残り二人は儀仗を おもり 捨て、腰に提げた縄を取った。縄錘と呼ばれる捕縛用の武器で、数 メートルの縄の先端に金属の錘が付いている。 ジャックは最初から︿かかりみ﹀をしている。 かがみ クラウズェアも薄紅を変成させたが、気は進まない。子飼集は職 務に忠実な、むしろ、仕える者の鑑とも言うべき存在に見えたから だ。尊敬の念こそ湧けど、敵意を向けるのは難しい。だが、捕まれ ば終わりだ。 393 その時だった。 ジャックは気配を察し、アルテミシアは人とは違う目でそれを見 た。子飼集の背後に忍び寄る、何者かの姿を。 精鋭だけあり、異変に気付いた四人も遅れて反応したが、間に合 わない。振り返った彼らは、四人並んだ内側の二人は顎を柄頭で打 のうしんとう ち上げられ、外側の二人は側頭部を三日月刀の腹で打たれた。 四人は襲撃者を目にすることもなく、脳震盪を起こして床に崩れ 落ちた。瞬く間の出来事であった。 ﹁アナタは﹂ ﹁ソレガシは、クローシェーイと申す﹂ む ﹁このドサクサに紛れて、あっしらを捕縛なり始末なりするつもり ですかい?﹂ あら ジャックの皮肉げな問いに、クローシェーイは歯を剥いて笑った。 ノコギリのようにズラリと並んだ前歯が露わになる。 ﹁ひえぇ、おっとろしぃ﹂ 過剰に怖がってみせるジャックと、 ﹁武人⋮⋮バイガン将軍配下の者か﹂ 緑の目を細め、クラウズェアが低い声を吐いた。大切なご主人様 を傷付けられた怒りは、未だに彼女の中で燃え盛っているのだ。 緊張感漂う中、アルテミシアだけが平時の調子であった。 ﹁助けて頂いて、ありがとうございます﹂ こ 身振りを知らない少年は、頭を下げることも知らず。だから、た だ謝意を述べただけだった。相手の顔を、じっと見て。 ﹁ちょっと、お礼なんて言わなくて良いのよ!﹂ にら 慌てたルクルクがアルテミシアの袖を引き、ついで、敵意の籠も った目でクローシェーイを睨み付けた。 目をぱちくりさせてルクルクを見たアルテミシアは、だが、何も 言い返さず、再びクローシェーイを見詰めた。 ﹁⋮⋮ソコモトらには無用のものであったろうが、な﹂ それまで浮かべていた笑いを引っ込め、クローシェーイは言った。 394 すみ ﹁さあ、行くがいい。速やかにこの国より去れ﹂ だらりと下げていた三日月刀を鞘に収め、壁に背を預けた彼は、 そう言って視線を外した。 ざま つの ﹁そうやって、背後からバッサリ、ってか? 不意打ちがお得意の あ ようですからねぇ﹂ しゅんじゅん ジャックは悪し様に言い募り、クラウズェアは薄紅を正眼に構え ている。 そんな中、 ﹁だいじょうぶだよ。行こう?﹂ すたすたと一人歩き出す少年に、ルクルクもクラウズェアも逡巡 したのだが。結局は、背後を気にしながらも、一行は従ったのだっ た。 ﹁おめでたい奴だ﹂ その背を見送りながら、クローシェーイは呟いた。 ﹁だが、外にも面白い奴が居るものだ﹂ 少しだけ、愉快そうな色を含ませて、去った異邦人達を見送った。 中庭に出た一行は、そのまま一直線に駆けていた。 ﹁追って来ないかしら?﹂ 後ろを振り向き振り向き、ルクルクが心配そうに漏らす。 あお うま ﹁恐らくは大丈夫でしょう。殺気のようなモンは感じませんでした し。煽っても反応がありやせんでしたからね。まあ、巧く隠してた 可能性もありやすが﹂ ﹁ジャック、あれ、わざと言ってたのっ?﹂ ﹁ジャックにしては冷静さを欠いていると思えば。それに比べてわ たしは未熟だ﹂ かえり この ルクルクとクラウズェアの二人は恐れ入り、同時に、感情をむき 出しにしていた己を顧み、恥じた。 ﹁あっしからすりゃあ、お二人さんの素直さってぇのは、好ましく 395 感じる部分が多いんですがねぇ。だから、シア嬢ちゃんのことも大 好きです﹂ 影人間の唐突な言葉に、女性陣は照れ笑いを浮かべ、︿かかりみ ﹀されていない白い頬も、桜色に染まった。 にら それを見た少女二人は、笑顔を不機嫌なものに変え、少年の体を ︱︱影が︿かかりみ﹀している辺りをジットリと睨んだ。 ﹁す、素直ってぇのも考えもんですねぇ﹂ こぼ 誰にも聞き取れない小声で呟いたジャックは、ハハッと力ない愛 想笑いを零した。 と、その時︱︱ ﹁あ﹂ こつぜん アルテミシアが声を漏らしたと同時。一行の眼前に、青い大獣が ひさかた ぶ 忽然と立っているのを目にしたのだった。 うなばら アルテミシア達にとっては久方振りの、ルクルクからすれば初め ちょうぜん ね て目にするその獣は、陽光の下、波打つ海原のような姿を風に遊ば せみ せ、超然とそこに在った。 蝉の声は知らぬ間に止み、風の音しか聞こえない。 ﹁ツユクサ!﹂ アルテミシアは嬉しそうに声を上げ、 ﹁いつもながら、心臓に悪い﹂ クラウズェアは相変わらずの緊張感に身を硬くし、 うめ ﹁⋮⋮し⋮⋮神速、狼?﹂ 呻くような声を絞り出したルクルクは、側のアルテミシアに知ら ず知らずにしがみついていた。 自然、皆の足が止まる。 いろ あ ガタガタと震えるルクルクを、アルテミシアは抱きしめた。少女 の、健康的な褐色の肌は、あまりの恐怖に色褪せてしまっている。 アルテミシアが居なければ、気が狂ったように泣き叫ぶか、そうい った間もなく、気を失っていただろう。 ﹁ルクルク﹂ 396 少年は、震える少女の耳元に口を寄せ、こう言った。 ﹁だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。ツユクサは優しいから、だい じょうぶ﹂ やわ な だいじょうぶ。そう優しく繰り返される度、ルクルクの中で恐怖 にお が和らいだ。背を撫でられる度、大きくて安心できる存在に包み込 おも まれている気がした。胸を満たす少年の匂いは、どこか甘やかで。 あらが いつかの夜に飲んだカモミールのミルクティーを懐わせて、鼻の良 い彼女には抗えない魅力だった。 いつしか彼女は、白い首筋や黒い髪に顔を押し付けていた。 くわ せんぼう ﹁あっしもクンカクンカしたい⋮⋮﹂ 欲望の権化が、指でも咥えそうな羨望の声を漏らした。 その声に、ルクルクは己のはしたない行為にハッとし、クラウズ のぞ こ しゅうち ェアは影人間の気持ちの悪い欲求にゾッとした。 ﹁だいじょうぶ?﹂ そ わず うなづ 赤い目の持ち主が赤銅色の猫目を覗き込み、羞恥で赤面しながら、 それでも視線を逸らせない少女は、こくりと僅かに頷いた。 だが、身振りの解らないアルテミシアには通じない。 ﹁どうしたの?﹂ 鼻がくっつきそうな位に顔を近付けたアルテミシアに、そこから 逃げるように少年の肩に顔を押し付けたルクルクは、 ﹁だっ、だいじょうぶ﹂ 消え入りそうな声で応じたのだった。 その間、他の面々はと言うと。 つか クラウズェアは周囲を警戒し、ジャックはふて腐れたように地に おも こ はく 寝っ転がっていた。掴めるものなら、草でも引き千切っていそうな 有り様だ。 ツユクサは。その、長い長い時間を憶わせる、深い深い琥珀の目 で、ただじっと、アルテミシアを見ている。 アルテミシアは、ルクルクを抱きしめたまま、ツユクサへと顔を 向けた、 397 ﹁ぼくたちに会いに来てくれたの?﹂ この問いかけに、いつも通り獣は鳴き声一つ上げはしなかったの だが、少年にはそれで良かった。 ﹁ほんとう? ︻よかったね、モリオン︼﹂ この言葉に、胸中のモリオンは弾んだ。 ﹁ツユクサはなんて言ってるの?﹂ クラウズェアが問うと、 ﹁うん。あのね、外まで連れて行ってくれるんだって﹂ せな そう、答えたのだった。 ﹁へえ? 背に乗っけてくれるってぇ訳ですかい。こいつぁ、助か る﹂ ﹁う、む。また、乗るのか﹂ ジャックは気楽そうに、クラウズェアは気重そうに、それぞれの 反応を見せた。 そしてルクルクは。 知らず、手に力を込め、ひっしとアルテミシアにしがみついてい そうしつかん た。今までは友人達を逃がす事だけを考え、夢中だったのだ。だが、 いざ別れが迫った時、襲い来る喪失感に怯える少女が居た。 そんな少女の変化に、アルテミシアも気がついた。 ﹁そっか。ぼくたち、お別れなんだね﹂ 神殿に住んでいた頃は、毎日、クラウズェアに会うのを楽しみに し、別れを寂しがったのだ。旅に出てから三ヶ月少し。皆といつで あふ も一緒だったアルテミシアは、その夢のような生活を捨てるのだと 気付いた。 だから、悲しくなった。 悲しくなって、苦しくなって、涙が溢れてきた。 声を上げることも表情を変えることもなく、少年は泣いた。 こぼれ落ちる涙に気付き、ルクルクの顔が上がる。 泣いてしまいそうだった少女は、男の子が泣くのを見て、自分ま で泣いてはいけないと思った。それから、白い頬を伝う涙を、そろ 398 りと舐め取った。 人間の舌よりざらりとしたその感触に、なんだかくすぐったくっ て。 ﹁ふふっ﹂ 溜息のような泣き笑いの声を、少年は漏らしたのだった。 ﹁さあ、行って!﹂ アルテミシアから身を離し、強めの口調でルクルクは言った。皆 を促すよりも、自分に言い聞かせるように。 ﹁シア﹂ 気遣う優しい声に、アルテミシアは幼なじみの少女を見た。 ﹁うん﹂ 短く答え、 ﹁さよなら、ルクルク﹂ 手を振ることも知らない少年は、赤い目でじっと見ながら、少女 に別れを告げる。 ﹁お嬢ちゃん。そこは﹃さよなら﹄じゃあなくって、﹃また会おう、 ざ ごと 愛しの﹄違った﹃大切な我が姫よ!﹄って、言いましょう。感動的 に。一つヨロシクお願いします﹂ 空気を読まずに割り込んだジャックの戯れ言を、クラウズェアは 止めなかった。 ﹁またね。大切なぼくのお姫様﹂ アルテミシアは、自分の言葉に言い直し、ルクルクに告げた。 ﹁またね、アルテミシア。お姫様みたいな、王子様﹂ ルクルクは、笑いながら返した。 ﹁お世話になりました。また会いましょう﹂ ﹁こっちの方こそお世話になったわ。またね、クラウズェア﹂ ﹁もっかいスイカ割りしやしょう。あと、水遊び! 少女達が薄着 でたわむれる、一夏の思いで! そいつを生きる希望にしようと、 ジャックは思ったのでした。そいじゃ、また﹂ ﹁もう、アナタは相変わらずね。うん、遊びましょ、また!﹂ 399 めいめいが再会を口にし、猫妖精のお姫様以外は、青い獣の背に 乗る。 そして︱︱ その場から、姿を消したのだった。 まさに神速の名にふさわしい速度で。 やかま 草一つ乱さず去った、その後に、やがて、蝉共のうるさい鳴き声 が戻ってきた。 それはとても喧しかったので、きっと近くに寄らなければ誰も気 付かないことだろう。独りぼっちになった女の子は、誰に聞かれる こともなく、たくさん、たくさん、泣いたのだった。 大好きな友人達に、泣き顔で別れをしなかったこの少女は、とて もとても偉いのであった⋮⋮。 ひと飛びだった。 うろ たったのひと飛びで、城の中庭から、街より離れた丘の上に立つ、 妖精境と外を繋ぐ虚の空いた大木まで、ツユクサは跳んできた。 ﹁はやっ?﹂ たまげたジャックが素っ頓狂な声を上げた。 はらはらと涙を流し続けているアルテミシアに、背後から手を伸 ばし、ハンカチで拭っててやるクラウズェア。 ﹁シア嬢ちゃんは泣き虫さんですねぇ﹂ ジャックが言った。だが、馬鹿にした風でもなく、温かみのある 声だった。 ﹁ごめんなさい﹂ 思わず謝るアルテミシアに、 ﹁シアは泣き虫で良い﹂ クラウズェアはキッパリと断言した。 ﹁最近は少し違うけど、この子はすぐに﹃だいじょうぶ﹄って言う から。わたしを心配させる悪い子は、悲しいことがあれば直ぐに判 400 る方が良い﹂ ひた む こ 聞きようによっては酷い言い草だったが、直向きな愛情の籠もっ た言葉であった。 ジャックは思った。この少女はアルテミシアにとって海なのだと。 そ どれだけ涙を流そうと、無限に受け止め続けるのだろうと。 そして、言われた当の本人は。 ﹁うぅ﹂ と、可愛く小さな唸り声を上げ、唐突に、頬に添えられていたク ラウズェアの指を、ぺろりと舐めた。 ﹁きゃっ?﹂ 今まで聞いたこともない可愛らしい悲鳴を上げたクラウズェアは、 こうべ めぐ 腕の中の少年をまじまじと見た。 ﹁し、シア?﹂ 呼ばれた少年は頭を回らせ、緑の目を見上げて言った。 ﹁びっくりした?﹂ ルクルクから頬を舐められた時の驚きを、クラウズェアにも味わ わせようと思ったのだ。つまり、仕返しのようなものである。 ﹁え⋮⋮? あ、こら!﹂ 遅れて意図に気付いたクラウズェアは、顔を赤くし、怒った顔を 作った。 だがそれも、 ﹁ローズ、ありがとう﹂ 少年のこの言葉で偽りの表情も崩れ、笑顔が浮かんだ。 ﹁ツユクサも、ありがとう。もう下ろしてもらってもだいじょうぶ だよ﹂ そう声をかけられたツユクサは、四つの足を折りたたんで、地に 伏せた。 ﹁待っていて、くれたの?﹂ クラウズェアの問いに、 ﹁うん。そうみたい﹂ 401 アルテミシアが答える。 ﹁決めさせてくれて、ありがとう﹂ 妖精境から去りゆく瞬間を、アルテミシアにゆだねたのだ、この 狼は。 ﹁へぇえ?﹂ じょうちょ 驚いたようにジャックが声を上げる。 ﹁人の情緒を理解してるってぇコトですかい? たまげたなぁ﹂ ﹁ツユクサは、優しいんだよ﹂ そう言った少年は、一度城の方を振り返り、小さく呟いた。 ﹁またね、ルクルク﹂ それから、ツユクサの意図を通訳したアルテミシアが、小さな手 のそれぞれに、青く長い尾と、クラウズェアの手とを繋ぎ、虚の向 こうへと踏み出したのであった。 402 六章①﹃王位簒奪の陰謀﹄ 六章 うろ ﹁さむっ?﹂ 虚を出てからのジャックの第一声が、これであった。 ﹁ほんとうだね。すごく寒いよ﹂ アルテミシアも同意し、両腕で自分の体を抱きしめる。 ﹁え? そうかしら? もしかしてっ、シア、風邪を引いたんじゃ っ?﹂ 慌てたクラウズェアは、少年の額に手を当て、熱を測ろうとした。 ﹁ローズの手、温かぁい﹂ だん 寒さに震えるアルテミシアは、女騎士の腕を取って抱きかかえ、 暖を取ろうとした。 ﹁ちょっ、ちょっと﹂ くわ クラウズェアは焦ったものの、別段、それを振り払ったりはしな い。 そうこうしていると。 見覚えのある背負い袋を咥えたツユクサが、それを一行の前に落 とした。 ﹁これは、部屋に置いてきた我々の荷物?﹂ ﹁ほんとうだ﹂ ﹁まさか、あっしらが喋ってる間に虚をくぐって、ひとっ走り行っ てきたってぇんじゃあ?﹂ ﹁⋮⋮うん、そうみたい﹂ ﹁マジでっ?﹂ ﹁それは⋮⋮凄まじいな﹂ 三者三様に驚いたものの、何はともあれとクラウズェアは袋の中 403 から防寒着を取りだし、アルテミシアに着せてやった。 み つき た それから女騎士は、こう呟いた。 ﹁三月は経ったと思ったのだが、山の風景にあまり代わり映えがな いな﹂ 一行がグリーンウェルを後にしたのは、初春を迎えた頃だった。 それから妖精境で三月ばかり。彼女が覚えた疑問にも頷ける。 ﹁そいつを考えても仕方がねぇ。それよりも、これからどうしやす ?﹂ そうさく このもっともな言い分に、クラウズェアは頭を切り換えた。 ﹁その通りだな。⋮⋮我々が消えた間に、ここらの捜索が済んでお れば良いのだが。ひとまずは近くの村か町を探し、旅の準備を整え ち 直すか。馬が安く手に入れば良いが。南は⋮⋮やはり関所が設けて あるのだろうな。西に向かうが無難か﹂ ﹁三月探して見つからねぇってんで、ウチらがおっ死んだって解釈 はしちゃくれませんかねぇ﹂ ﹁そうであって欲しいものだが。それは楽観的に過ぎるだろうな﹂ ﹁やっぱり?﹂ ﹁うむ。天焦山に隠れ住むことができれば、どんなにか良かったろ うが﹂ くぐ ﹁それで万が一にでも出入り口になってるこの虚を押さえられ、山 狩りなんざされた日にゃあ﹂ ﹁うむ、そうだったな﹂ そう言ってクラウズェアは後ろを振り返った。初めて潜った時と 同じ姿の大木が、大きな虚をぽっかりと空けて立っている。 クラウズェアに釣られ、他の二名も虚を見た。 女騎士が呟く。 ﹁良い思い出も沢山あったが、わたしは恐ろしくも感じる。彼らが そむ 妖精境より出て我が国に攻め入ってきたらと思うと。まったく、恩 知らずにもほどがあるが﹂ クラウズェアは騎士だ。女王に背き、追われる身になったとはい 404 え、グリーンウェルの騎士なのだ。国防に関して、それが少しの可 能性であろうと、考えておくのは当然である。 ﹁それはありませんよ﹂ だが、ジャックはお気楽な調子で答えてみせた。 ﹁何故だ?﹂ ﹁だって、外は寒いでしょう? 猫はコタツで丸くなると言いまし て、寒いトコに好んで出ちゃ来やせんよ﹂ ﹁影の国の格言か何かか? 意味の解らん言葉もあったが、なるほ ど。気候が違いすぎるのか﹂ ジャックの言葉に、クラウズェアの気持ちは軽くなった。恩人達 の属する国を、仮想敵国として認識するなど、気が重すぎるからだ。 ﹁そろそろ行くとしやしょう﹂ ﹁そうだな。せっかくルクルクとツユクサの協力で逃がして貰った のだ。ここでもたもたしておって捕まりでもすれば、厚意を無にす る﹂ そう言いながら、クラウズェアが荷物を背負った時だった。 ﹁誰か来やす!﹂ ﹁なにっ? シア、隠れて!﹂ 一同は慌てて隠れる場所を探し、結局、身を隠すに最適であろう、 眼前にそびえ立つ大木の、虚の空いていない側に回ったのであった。 ツユクサは、ふわりと浮くように跳ね、大木の上の方に消えた。 ま さくてき 三人が息を潜めていると、虚の中から足音が聞こえ、やがて外に でん か 出た。 時 に出たとは ﹁殿下、お待ちを。先ずはヤツガレが先行し、周囲の索敵を︱︱﹂ ひま ﹁そんな暇はないわ! 皆が出て行ってから近い な 言え、まだ近くに居る保証はないんだから! それに、あの子達は 追われてる身なのよっ? 早く見付けなくっちゃあ﹂ じ どうやら二人。しかも、その内の一人は、一行にとってとても馴 染み深く、忘れ難い声であった。 ﹁ルクルク?﹂ 405 思わず呟いたアルテミシアの声を、耳の良い猫妖精である彼女が 聞き逃すはずはなかった。 ﹁アルテミシアっ?﹂ 大木の向こうから、重ね着で丸くなった猫妖精が四つ足で駆けて かたまり きた。瞳孔は真ん丸に広がり、尻尾はピンと真上を向いている。 ﹁ルクルク!﹂ ﹁アルテミシアっ!﹂ その猫妖精︱︱ルクルクは、喜びの塊となって少年に飛びついて きた。 ﹁アルテミシアっ、アルテミシア!﹂ そう繰り返しながら、白い頬に自らの顔を何度もこすりつける。 ふわふわの毛は柔らかく、アルテミシアに心地良さを与えた。 ﹁こんなにすぐに会えるなんて、ぼく、うれしい﹂ ﹁アタシも、アルテミシア!﹂ よろ もう散々に頬ずりしてから、今度はゴロゴロと気持ち良さそうな 声が、ルクルクから漏れ始める。 ゴロゴロ、ゴロゴロ。 ごろろろ、ろろろろぅ。 ﹁殿下、お眠りになるのは、後になさった方が宜しいのでは?﹂ ずいこう ﹁はっ? そうだったわ!﹂ ゆめ み ごこ ち ルクルクに随行している猫妖精︱︱子飼集の若頭であるヒクイシ ーが声をかけると、夢見心地であった猫妖精の少女は、己の使命を 思い出した。 ﹁大変なのよ!﹂ とくだね ﹁ええ。大変スキャンダラスなシーンに出くわしてしまいやした。 これは特種でヤンスねぇ﹂ ﹁ちっ、違うの! さっきのはっ﹂ 両手を振りながら慌てふためくルクルクであったが、一度深呼吸 を行い、真剣な声でこう言った。 ﹁ふざけてる場合じゃないの。アナタ達の国に、危機が迫ってるの。 406 アタシはそれを知らせに来たのよ﹂ 切迫したその様子に、一同に緊張が走る。 ﹁危機とは、いったい何でしょう?﹂ クラウズェアが皆を代表して質問した。 ﹁ええ、説明するわ﹂ やいば そうして、ルクルクは語り始めた。 ﹁アナタ達が一度刃を交えた敵に、タイタス・ゴードンという者が そ やつ 居るわね?﹂ ﹁何故、其奴の名を?﹂ こう 心穏やかには聞かれない人間の名に、思わずクラウズェアは驚き 問うた。 さえぎ ﹁ええ、疑問もあるでしょうが、それは後で話すわ﹂ ﹁いえ、話を遮り、申し訳ない﹂ クラウズェアは己の非礼を詫びた。 しゃく なにがし さんだつ くわだ ﹁いいえ、気にしないで。で、ゴードンともう一人、えーと⋮⋮侯 爵の、某﹂ ﹁オズワルド・オズボーンだったかと﹂ きょうぼう ヒクイシーが助け船を出し、発言の後に面を伏せた。 ﹁そう、そいつ! そいつらが共謀して、王権の簒奪を企てている のよ!﹂ ﹁なっ?﹂ その言葉は、クラウズェアを心の底から驚かせた。何故なら、王 ゆう じ にわか 権の簒奪など、彼女が知る限りにおけるグリーンウェルの歴史の中 で、初めての有事だからだ。 ﹁それは⋮⋮しかし、それは、まことの話なのでしょうか? 俄に は信じ難く⋮⋮﹂ この、もっともな言葉に、 ﹁情報の提供者について話すわ﹂ ひとつき ルクルクは、話を続けた。 ﹁アナタ達が去ってから、一月経ったある日のことだわ﹂ 407 ﹁いや、ちょいと待ってくださいよ。あっしらはその虚を出てから、 一日どころか︱︱﹂ 思わず待ったをかけたジャックの声を遮り、 ﹁妖精境と外では、時の流れる速さが違うのよ﹂ ルクルクが口早に説明した。 ﹁内と外で違うのか、それとも虚を潜る時にずれるのかは知らない ここ 時 とずれている。妖精境では三ヶ月ほど暮 けど。ただ、確かなことは、今アタシ達が居るここは、ジャック達 が虚を潜る前に居た けっとう らしたでしょうが、外は三日しか経っていないわ。どうして解るの かって? 潜った時に、なんとなく解るのよ。王家の血統を持つ者 だけに備わる、不思議な感覚。出入りの際に、多少の時間のずれを 調整することもできるわ。だからこうして、皆に会えたのよ。ただ、 一緒に連れて行ける人数に限りがあるのが難点だけど﹂ そう言ってルクルクは、一息吐いた。 ジャックは﹁へぇ?﹂と漏らし、クラウズェアは眉根を寄せて腕 ここ 組みをした。アルテミシアは﹁そうなんだ﹂とだけ呟いた。 ﹁それで続きだけど。皆が去って一月後、外から偶然、流れ着いた 人間の男性が居たの﹂ ﹁流れ着く?﹂ ジャックの言葉にルクルクは頷く。 ﹁そう、まさに。この大木の虚みたいに、妖精境が外と繋がってい まれ る場所がいくつかあって。例えば、川とか。普通はアタシ達の導き がなければ中には入れないんだけど、ごく希に、外の物が偶然に流 れ着くことがあるの。木の実が流れてきて外の植物が根付くことも あるし。それから、洗濯物、とか﹂ そう言って、ちょっとだけ笑ってみせるルクルク。 すいじゃく ﹁けど、人間は初めてだわ。少なくとも、アタシが知る限りでは。 で、衰弱して今にも死にそうだった彼に、あの漢方というのを飲ま じゅうぜんだいほとう み せてみたの。ほら、クティーのお祖母ちゃんを治した﹂ ﹁ああ、十全大補湯ですね。診てねぇから確かなコトは言えません 408 が、まあ、良いと思いますよ。効いたんでしょう?﹂ ﹁ええ﹂ クティーは黒い毛色の男の子で、その祖母はあるとき風邪を引い て寝込んでしまった。家族の手厚い看病で風邪自体は治ったのだが、 えん その後、床についたまま起き上がれない。そのまま衰弱していき、 もうこれまでかと家族が諦めていた頃、縁あってジャック達と出会 い、たちまちのうちに回復したのだった。 その時に処方した漢方が十全大補湯である。衰弱した患者の気力 と体力の双方を十全に補う薬だ。ジャック達が城の診療所に置いて いった物を、ルクルクが見よう見まねで処方したのだった。 だま ﹁セロンっていう名前でね。彼も皆に会いたがっていたんだけど、 皆を騙そうとしている可能性もあるでしょ? ひとまずアタシがア ルテミシア達に会って、この話を伝えよと思ったの﹂ あお その言葉を聞いたクラウズェアは、どこかしら聞き覚えのあるそ の名から、記憶の糸をたぐり寄せた。 だけ ﹁その者、弓の使い手ではありませんか? 髪は妖精境に植わる青 竹のような緑、目は茶色で、背格好はこれくらいの﹂ 自分の背より少しばかり低い位置に掌を掲げて見せたクラウズェ アに、ルクルクは肉球のある手をポンと打ち鳴らした。 ﹁そうそう。背はそれくらいよ。髪と目は犬妖精に似た色だし。あ と、弓の扱いも上手かったわ。と言うことは、クラウズェア達が知 るセロン本人で間違いなさそうね﹂ うんうんと頷き、 ﹁セロンはね、何とかっていう集団︱︱﹂ ﹁試練を求める者、です﹂ また、ヒクイシーが助け船を出す。 ﹁そうそう。そのチンピラ集団に属していたんだって。で、アナタ 達と出会って改心したのは良かったんだけど、町に戻ったらゴード わるだく ンが手下を引き連れてやってきて、なし崩し的にそいつの配下に加 えられそうになったの。で、その時に聞いたのが、王権簒奪の悪巧 409 み。それで彼は、そのまま配下になれば念願の騎士になれたかもし れないんだけど、とある赤毛の剣士と﹃立派な騎士になる﹄って約 束したそうで﹂ いったん言葉を切り、ちらりとクラウズェアを見た後に。 ﹁この情報を、その赤毛の剣士に知らせようと決意して、ゴードン の下を逃げ出した、と。けれど、ゴードンの手下と、昔のチンピラ 仲間が追って来て、暗い夜の山道を馬で駆け、最後には崖から落ち て川にドボン﹂ ﹁そいで、不思議なご縁か偶然か、妖精境に流れ着いたってぇワケ ですかい?﹂ ﹁そう﹂ ルクルクは、クラウズェアに体ごと向いて、こう言った。 ﹁アナタが彼らを打ち負かした時、命を奪わずに逃したからこそ、 こうしてこの情報は手に入ったわ。きっと生真面目なアナタは、そ の時の決断を悩んだんじゃないかしら? けど、アタシはこう思う。 クラウズェア、アナタの決断は、きっと正しかったのよ﹂ ﹁いえ、あれは⋮⋮シアが⋮⋮﹂ ﹁ううん、そんなことない﹂ ﹁シア?﹂ ﹁ローズは優しいから。それで、なんだか辛そうだったから、お願 いしただけ﹂ ﹁あれは、わたしの弱さが招いた結果であって﹂ ﹁失礼ながら申し上げます﹂ 割り込んだのは、ヒクイシーだった。 はい ﹁ヤツガレ共は職務柄、合理的であるよう努めます。合理的であり、 感情を排することは、必要なことだからです。また、そうである自 しょうさ 分に誇りを持ちます。ですが、合理的であることが必ずしも、常に 最良の結果を招くかと言えば、そうとも限りません。証左はこうし て、クラウズェア殿が示された通りです。⋮⋮それに、キデンはお 強い﹂ 410 ヒクイシーには忘れられない記憶があった。赤毛の騎士が、青い 魔狼に立ち向かう、その勇姿を。結局、足がすくんでたどり着けな ほ かったその場所で、果敢に紅刃を振るう、英雄の姿を。 かっとう ﹁素直に頂戴しといたらいかがです? お褒めの言葉を﹂ あきら 口を引き結んで葛藤している女騎士に、ジャックが軽い調子で促 した。 その師匠の言葉に、口許をふっと緩め、諦めにも似た前向きさで、 クラウズェアは頷いた。 ﹁そうだな。⋮⋮お二人のお言葉、嬉しく思います﹂ かしこ その言葉に、ルクルクは笑顔を浮かべ、ヒクイシーは再び面を伏 せて畏まった。 あご 笑顔を浮かべたままのルクルクは、三人を見回し、最後にアルテ ミシアに目線を定めてから、こう言った。 ﹁だからね、みんな、妖精境に戻りましょう?﹂ この言葉に、クラウズェアは目を見開き、ジャックは顎を撫でた。 アルテミシアには変化はない。 ﹁これから外は危なくなるわ。だって、内乱が起こるんですもの。 だからみんな、妖精境で暮らしましょう。ずぅっっと! あ、聞い て? 皆が暮らせるように、お父様達を納得させたわ。もう、婚儀 つな の話なんて持ち上がらない。それに、バイガン叔父様もあの時に両 手両足を折られて、参ったみたい。あ、もう骨は繋がったんだけど ね。妖精境は平和そのものよ。ここみたく、寒くもないし、楽園な まく んだから! ね、とっても良い話でしょう?﹂ 一気に捲し立てたルクルクはずっと笑顔のままで。その笑顔を、 白い手がそっと包み込んだ。 こめかみ、目許、頬、口許、首筋。人間の顔とは違うけれど、髪 を切った時のクラウズェアに似ているように思えて、その硬さを解 きほぐしたくて、ふにふにとアルテミシアは手を動かした。 ﹁ダメ、かぁ﹂ ルクルクは、ぽつりと呟いた。 411 ﹁ぼく、お父様とお母様を助けに行かなきゃ﹂ ﹁そう﹂ ﹁うん﹂ ﹁終わったら、ここに戻ってきてね? そして、みんなで一緒に遊 びましょう?﹂ ﹁うん﹂ ﹁約束よ?﹂ ﹁うん﹂ ﹁なら、⋮⋮いいわ﹂ アルテミシアは手を離し、ルクルクは一歩下がった。少女の顔は、 先程のように笑顔が浮かんでいた訳ではなかったが、どことなく柔 らかさがあった。 ﹁ご免なさい。外の国のことに、妖精境は手を貸せないわ。何かで きたら良かったんだけど。⋮⋮あ、大事なことを忘れるところだっ たわ! ちょっと待っててね﹂ そう言って妖精境の姫は虚の中へときびすを返し、それにヒクイ シーも続く。 そして間を置かずに再び一同の前に姿を現したとき︱︱その人数 は一人増えていたのだった。 ﹁お前は、セロン?﹂ クラウズェアが呼んだ名の通り、ルクルクが連れてきた人物は、 ヨドーク達と共に居たセロンという名の青年だった。 はや その斜め後ろには、油断なく位置を取って続くヒクイシーの姿も ある。 ﹁みなさん!﹂ 興奮でうわずった声を発したセロンは、逸る気持ちのままに駆け 出しそうな勢いであったが、その気勢に反して︱︱いや、自分の向 ひれ ふ けるべき気力の先も意味も忘れていなかったからこそ、勢いよくそ の場に平伏したのだった。 ﹁なんだなんだぁ?﹂ 412 ﹁これはいったい﹂ ジャックもクラウズェアも戸惑いの声を漏らし、アルテミシアは 少し目を丸くしている。その胸中では、モリオンが少しだけ警戒し ながらグルグルとうごめいている。 ﹁セロン、それじゃ皆が面食らうだけでしょう?﹂ せがれ 呆れ気味にルクルクが忠告してやると、青竹色の頭をガバリと上 げた猟師の倅は、 ﹁すっ、すみません姫様!﹂ ようしゃ と、舌を噛みそうな慌ただしさで謝罪をし、再び前を向いたのだ った。 ﹁突然のご無礼、平にご容赦を! 俺はっ︱︱あ、わたくしは、セ ロンと申します。おそ、恐れながら、ノーザンコースト伯爵様のお 情けでご領地に加えて頂いております、名乗るのも恥ずかしいくら いの小さな村の出でございます! この度はお目通りのお許しを頂 へいふく き、まことにっ、まことに有り難う御座いますぅっ!﹂ そう言ってまた平伏すると、春に芽吹いた柔らかな下草へと、そ の額をこすりつけたのであった。 ﹁名乗んのが恥ずかしいって言っちまうと、そんなチンケな領土を 抱えてる伯爵サマもまたチンケってぇお話しになりやせんかねぇ?﹂ ﹁え?﹂ ジャックの言葉とその指摘に驚き、己の失言に気付いたセロンは、 顔を青ざめさせながら面を上げた。そして、声の発された辺りに茶 色の目を向けた途端、これまでの比ではないくらいに顔を青ざめさ せ、青を通り越して白にして、もう今にも死にそうな顔をしながら、 凍り付いた。 影そのもの は であっ 赤毛の剣士と、黒髪の子供と、もう一人。黒ずくめの人間が立っ ているかと思えば、それは人などではなく、 たからだ。 ︱︱魔物。 そう思うが声は出ず、腰は砕け散り、悲鳴を上げることも這って 413 さま 逃げることもできないでいる。 おびや そのあまりの様を目にし、伯爵令嬢はそっと溜息を吐いた。 そして、 ﹁ジャック、我が領民をいたずらに脅かすな。わたしは気にせぬし、 父もまたそうだろう。だいたいお前、その外見で人前に出るのは、 のたま 少し控えたらどうだ? 最近、少々たるんでいるのではないか?﹂ クラウズェアは、あえて伯爵令嬢の立場を取り、こう宣って見せ た。 セロンの口ぶりと、その視線に込められた熱意とから、すでに彼 女の身分は知られているのだろうと察した。隠しても無駄だ。それ と、ジャックよりも立場が上であり、魔物を従えている強者である ことを示して見せねばならないとも考えた。青年に安心を与えるた めに。︱︱実際は、弟子と師匠の関係であるし、少女の内心は謝罪 と罪悪感が吹き荒れている。 この意図を察した影人間は、 かしこま ﹁これは、失礼しましたお嬢様﹂ と畏り、騎士がするみたいに片膝突いて押し黙ったのだ。 ︱︱その演技の甲斐もあって。 セロンは、息を吹き返すように、半ば忘れていた呼吸を始め、多 少は顔に赤みを戻すことができた。 その寸劇を、ルクルクは笑いをかみ殺しながら見守り、アルテミ シアは目をぱちくりさせながらそれぞれの顔を見比べる。 りんぜん クラウズェアは、眉根が寄ってしまいそうなのを必死に抑えてい たのだが、 ﹁騎士とは﹂ 赤毛の少女が凜然とした声を上げると、その意気に打たれたよう じょくん に、セロンの顔が騎士を向く。 騎士たらん と思うその一 ﹁騎士とは、叙勲を受けることのみを指すものではない。かつての ︿英雄騎士﹀がそうであったように、 念こそが、その者を騎士の座に押し上げる。我もまたと思うのであ 414 おく れば、この程度のことで臆してはならない﹂ ジャックやモリオンと出会った当初に、自らもまた驚きや恐怖を 持ったことなどおくびにも出さず、クラウズェアは堂々と語って聞 かせた。 セロンの顔に、覇気が戻っていく。いまだ身は硬いが、恐怖に負 けてはいなかった。 いざな ﹁立ちなさい。騎士らしく、志ある者らしく﹂ その声に誘われ、セロンは立ち上がった。震える膝を叱り付ける ようにして。それは、弱々しくはあったかもしれないが、立ち向か う勇気にも満ちていた。 ﹁よく立った。セロンと言ったな?﹂ ﹁はっ、はい! しゃちほこ張るあまり、棒みたいに突っ張って立つ青年に、 ﹁わたしはクラウズェア・セルペンティス。ノーザンコースト伯、 そ なた ヴィクター・セルペンティスの娘だ。貴族に名を連ねる者として、 また、名誉ある神殿騎士として、其方に礼を申す。よくぞ祖国の危 機を知らせてくれた。全てはそちらのルクルク殿下から伺っている﹂ この言葉に、直立していたセロンは身を折り、深々と頭を下げた。 滴が滴り落ち、若葉を濡らす。 セロンの思いは、報われた。 しんせい ルクルクはその涙に誘われ、赤銅の目を潤ませている。 任務上、ヒクイシーは警戒こそ解きはしなかったが、真誠の涙に 感じ入り、セロンへの認識をあらためた。 アルテミシアは、幼なじみの少女へと、微かな笑顔を向けている。 ジャックは口をつぐんだまま。 ややあって、 ﹁もったいない、お言葉です﹂ セロンは、言葉を絞り出した。 それから地に両膝を突くと、決意のみなぎる相形で緑の眼を見詰 め、騎士に言上した。 415 ﹁わたしを、旅のお供に連れて行って下さい! 一緒に戦わせて下 さい!﹂ ﹁なに?﹂ これには、クラウズェアは驚いた。青年の背後に立つルクルクへ と視線をやると、片肘を支え、頬に手を宛がっている。彼がこう言 い出すであろうことは、先刻承知のようであった。 ならば、全てこちらで決めなければならない。 凜々しき女騎士は、茶色の目を真っ直ぐ見据え、こう言った。 ﹁その願いを叶える訳にはいかない﹂ そして、すぐさま続ける。 つるぎ いくさ ば ﹁戦であれば、祖国を守るため、国の者が一丸となって敵と戦うだ こ たび いせいしゃ ろう。手に剣を取って戦場に身を投じるか、後方で戦士を支える働 きをするか、戦い方にも色々ある。だが、此度の件は、為政者同士 そ なた ゆ の醜い勢力争い。貴族に列する者として恥ずべき事態だが⋮⋮。だ からこそ、其方を連れては行けぬ。セロン、其方の胸中で渦巻く騎 士道精神を、わたしは疑いはしない。だが、其方はまだ仕えるべき ふるさと 主を持たぬ身。ならば、その身の使命は、其方の生まれた故郷を守 ることにこそある。故郷と、その地の民と、其方の家族とを守れ﹂ 話の最中も、話が終わっても、セロンは俯いたり嘆き悲しんだり はしなかった。目の強さに揺らぎが生まれ、それは青年の心の動揺 を表してはいたものの、弱々しい態度も、無様な姿もさらさなかっ た。 ただ、 ﹁はい﹂ とだけ、答えたのだった。 すると、それまで黙って見守っていた者から声が挙がった。 ﹁セロンさん﹂ アルテミシアだった。 高く、柔らかく、透き通った声に、セロンの意識が自然と集まり、 茶色の目を差し向けた。 416 そして、尊敬する赤毛の騎士しか眼中になかった心が、この世の 者とは思えない美しい黒髪の少年へと引き寄せられ、返事の言葉を 奪った。 じゅんぼく 肉の身から発されたとは考えられない、まるで、魂が宿り独りで よくよう に奏でられる女神の楽器みたいだと、村出身の純朴な青年は思った。 へいたん とでも言うべきか、不思 のようなものが感じられるのだ。だから、抑揚がな 音色 ね いろ アルテミシアの声には、抑揚がない。声の大きさも、高さも、ほ 揺らぎ とんど変わることがない。だが、 議な くちびる つむ いにも関わらず、平坦でのっぺりしたものにはならない。 その、人の身を借りた深紅の器から、音が紡がれる。 ﹁あなたが弓を射るところを、見てみたいな﹂ 突拍子もない言葉が皆の耳に届いた。 だが、誰かの口から異議が発されたり、驚きの声が漏れる事はな かった。 ﹁ヒクイシー﹂ ﹁はっ﹂ 猫妖精の姫に命じられた家臣は素早く虚の中へ下がり、樹中から ロングボウ 弓矢の一揃いを携えて戻ってくる。 長弓だ。物の中では小ぶりな方で、ヒクイシーよりも少し短い。 もしもクラウズェア達がセロンを連れて行くとなった場合に備え、 武具や旅道具の一式を用意しておいたのだ。 ヒクイシーから弓矢を手渡されたセロンは、一度だけ掌中の弓へ 視線を落とし、皆の前へ進み出た。弦は既に掛けてある。 手頃な目標を探してみれば、遠くの方に木が密生している場所が な ある。枝々が張り出し、葉が生い茂るその向こう側に、黄色の実が 一つ生っていた。 矢をつがえた。そして、構える。 突き出された左手の中で弓がしなり、右手に引き絞られた弦が、 キリリ、と音を鳴らす。 よく使い込まれ鍛えられた、左大胸筋と右広背筋。 417 みなぎった力が解放され、 ビュッ、という風を切る短い音に継ぎ、 やじり カツン、という、堅い木の幹に、より硬い鉄の鏃が突き刺さる音 が、森にこだました。 遅れて、射落とされた木の実が遠くでゴロリと地に転がる音が、 だんま 小さく耳に届く。 あ かっさい は それまで黙りを決め込んでいたジャックは、その腕の良さに﹁ピ ューィッ﹂と揚げた口笛の音をもって喝采とした。 クラウズェアは、地に落ちた実の黄色さに、黄金剣の柄に填め込 まれた石の輝きを見た気がした。 いち ず そして、アルテミシアはと言えば、周囲の枝葉に脇目も振らず、 目標に向かって一途に飛んだ矢を見送り、なにか︱︱勇気を得た心 持ちであった。 ルクルクが、肉球のある手をパンパンと打ち鳴らし、興奮気味に 射手を称える。 けんきょ セロンは何か言うでもなく、ペコリと一同に頭を下げた。 その謙虚な弓の名手に、アルテミシアが声をかける。 ﹁名乗りが遅れてごめんなさい。ぼくの名前はアルテミシア。グリ ーンウェルの王族に名を連ねる者です。国の危機の知らせ、心より ひ 感謝します。それに、突然のわがままに応えてもらえるなんて、と てもうれしいです﹂ 第二王子の存在は秘せられている。だがアルテミシアは、詳しく 述べることこそしなかったにせよ、王族であることは表明した。ひ っそりと消えていく身だと思っていたあの頃とは、違う。 赤毛の幼なじみは、そんな男の子の前向きな変化に、深い喜びを 覚えた。 そして言葉をかけられたセロンだが、彼は心臓が止まりかねない ほどの衝撃を受けていた。伯爵令嬢に目通りが叶うだけでも奇跡で うんじょうびと あるのに、目の前の美しい人は王族だという。雲の上の存在だと言 っても言い足りない、遙か高みの雲上人だ。 418 せがれ ぬか ず 猟師の倅は、しばらく口をパクパクとさせていたのだが、落雷に 驚いて身を縮める幼子よりも速く縮こまり、地面に額突いた。 ﹁セロンさん?﹂ アルテミシアの問いかけにも、応えられない。 そこで、クラウズェアが助け船を出すことにした。 ﹁セロン、面を上げなさい。それから、起立することも許可します﹂ 心持ち、言葉も声も柔らかい。 ﹁はっ、ははあ! し、しかし⋮⋮?﹂ それでも迷うセロンに、 ﹁セロン、立ちなさい。臣民として、主の望みに応えるのです﹂ ルクルクが後押しをし、それでやっとセロンも踏ん切りが付いた。 恐る恐る立ち上がる。 そんなセロンの下へと、アルテミシアが歩み寄る。そして、そっ と、その両手を取った。 ﹁あんなすごい事ができるんだもの。この手を大事にして下さいね﹂ 赤い目の煌めきに、心が吸い込まれそうだった。 いふうどうどう ヨドーク達と共にしていた時は、初めての戦いに気もそぞろだっ うるわ たし、威風堂々たる赤毛の剣士しか眼中になかったのだ。 たお だが、こんなにも清らかで麗しい人を見たのは生まれて初めての ことで、その手の嫋やかさに触れられたとき、とうとう頭に血が上 ったセロンは︱︱ ﹁わっ?﹂ 驚くアルテミシアの眼前で、失神してしまったのだった。幸い、 俊敏に駆け寄ったヒクイシーが抱き留めたので、倒れて頭を打つこ とはなかった。 気を失ったセロンを覗き込み、ジャックが言う。 ﹁おそらく、血管迷走神経反射性失神ってヤツですね。極度の興奮 きよ が原因で、交感神経優位の状態から副交感神経優位の状態へと急激 な変化が起こり、脳の血が虚して起こるモンです。極陽から極陰に 到ったんですね∼﹂ 419 ﹁つまり?﹂ ﹁単なる失神、気絶です﹂ ﹁そう﹂ ルクルクは簡潔な答えを引き出すと、 ﹁ヒクイシー﹂ と一声。 ﹁はっ﹂ と、忠臣は心得たもので、セロンを虚の中へと運んで行ったのだ った。 ﹁だいじょうぶかなぁ?﹂ 心配げなアルテミシアの言葉に、 う お ﹁大丈夫です。すぐに目を覚ましますよ﹂ とジャックが請け負い、それで少年も安心した。 そして再びヒクイシーが現れた時には、背負い袋を一つ携えてい た。 ﹁皆へ﹂ その呼びかけに応じ、ヒクイシーは背負い袋を下ろし、一行の前 に差し出す。 ﹁これは?﹂ クラウズェアの問いかけに、 ﹁お弁当とか、旅に必要そうな物よ。やっぱり持ってきて良かった﹂ ﹁感謝致します﹂ ﹁ありがとう、ルクルク﹂ ﹁こいつぁ、ありがてぇ﹂ のりうま い 三者三様に、謝意を述べたのだった。 ﹁乗馬の類いは⋮⋮アナタ達には要らないわよね﹂ ﹁えと⋮⋮うん﹂ 悪戯っぽい笑みを浮かべるルクルクに対し、ツユクサが上がった 辺りを見上げたアルテミシアは、一拍おいて頷いた。 ヒクイシーは訝しげな顔をしたのだが、直ぐにそれを引っ込めた。 420 主と英雄の決断に、意見するつもりはないのだ。 めおと ﹁それじゃあ、みんな、またね! あ、そうそう。お父様に婚儀を 諦めて頂くために、﹃二人は既に夫婦で、アルテミシアのお腹には いたずら モリオンという赤ちゃんが居ます﹄って、きちんと伝えておいたか ら!﹂ ﹁なっ?﹂ 絶句するクラウズェアをよそに、悪戯っぽい笑顔で手を振ったル クルクは、来た時と同じようにヒクイシーを従え、妖精境へと去っ て行った。 次の瞬間、青い巨体が上から降ってきて、足音を立てずに地に降 り立った。 ﹁ぼく、ローズと結婚したの? いつの間に?﹂ ﹁し、していません!﹂ ﹁ずるいっス! あっしも結婚したい!﹂ ﹁やかましい!﹂ ﹁ぼくがお母さんだから、ローズがお父さん?﹂ ﹁わたしは女よ!﹂ ﹁愛人でいいから! 愛人でもいいからあっしも仲間に入れてっ?﹂ ﹁やかましい! 叩き斬るぞ!﹂ ﹁︻モリオン、うれしい? ⋮⋮え? そうなんだ⋮⋮︼﹂ ﹁シア? あの⋮⋮モリオンは、なんて?﹂ ﹁うん、あのね⋮⋮言っても怒らない?﹂ ﹁わたしが怒るような何を言ったのかしら、モリオン?﹂ ︻ガクガクブルブル︼ ﹁そ、そんな怖い声を出すから、モリオンが怖がっちゃうんだよ﹂ ﹁モリオンが怖がっているって、どういう意味かしら?﹂ ﹁じゃ、あっしが! あっしがパパになりやす! あっしは怖かぁ ねぇですよっ、モリオンちゃん!﹂ し ま ﹁﹃叩き斬る﹄と言ったのが、聞こえなかったか?﹂ ﹁聞こえました! 聞こえてましたからっ、薄紅は仕舞ってぇっ!﹂ 421 土下座して拝む哀れな影人間に、怒れる騎士は剣を収めた。 ﹁馬鹿騒ぎもここまで。⋮⋮シア、ねぇあなた、本当に両陛下をお 救いに行くつもりなの?﹂ 緑の目を持つ少女から、これ以上ない真剣な眼差しを向けられた アルテミシアは、真っ直ぐと向かい合ってこう答えた。 ﹁うん、行く。だって、ぼくの親だもの。ぼくは、お父様とお母様 の子供だから。それに、お兄様がお帰りになる場所がなくなってい たら、きっと困っちゃうよ﹂ ﹁シア嬢ちゃんは、兄貴とは仲がお宜しいんですかい?﹂ ゆうがく ﹁ん⋮⋮わからない。一度しかお顔を拝見したことがないから﹂ みぎり ﹁え、たった一度きりですかいっ? そりゃあ、なんてぇか﹂ ﹁王太子殿下は、幼少の砌より何かとお忙しい方でな。今はご遊学 中の身であらせられるし﹂ はくじょう ろく クラウズェアの言葉が言い訳じみて聞こえるのは、彼女自身がそ のことに納得していない表れだ。 ﹁へへぇ、そりゃまた。で、シア嬢ちゃんは、その薄情な兄貴と陸 でなしの親を助けに行きたい、と﹂ ﹁ジャック!﹂ ﹁いいえ、これだけは言わして下さい。王太子だかなんだか知りま せんが、そいつは薄情モンのバカ兄貴だし、親父とお袋は輪をかけ た大馬鹿モンです。あっしはそういうのは、許せねぇ。助けに行く 必要なんざありやせん! ルクルクちゃんの後を追っかけて、妖精 境に行きましょう。ツユクサがいりゃあ、虚を潜れるでしょう﹂ ﹁ジャック、お前﹂ ﹁ありがとう、ジャックさん。けれど、みんなのことを悪く言わな いで? お兄様は王位継承者で責任のある方だし、お父様とお母様 は、産まれてきた子供の髪と目が普通とちがったから、ちょっと驚 かれてしまったんだと思う。⋮⋮それに、あの時のお母様、泣いて たんだ。きっと、すごく悲しかったんだと思うから﹂ 扉の向こうですすり泣く母の泣き声が、今でも少年の耳に焼き付 422 いて離れない。 ﹁シア﹂ きゃしゃ 思わず、クラウズェアは華奢な少年を抱きしめてしまっていた。 ﹁ローズ、温かいね﹂ ち アルテミシアは、この年上の少女が与えてくれる熱と居心地の良 い腕の中で、目許を緩ませた。 ﹁⋮⋮言い過ぎやした。すんません、お嬢ちゃん。ひとん家の事情 にズケズケと﹂ これまで旅を共にしてきて、これほどばつの悪そうなジャックを 見たのは、二人の少年少女にとって初めてのことであった。それで なんだかおかしくなって、二人ともくすくすと笑ってしまった。 ﹁ふ、二人とも、笑うなんてひどいですよ﹂ ﹁ジャックさんって、いつも堂々としてて頼りになるから、つい。 ごめんなさい﹂ と ろ ﹁あっしって、堂々としてますかねぇ?﹂ ﹁そうだな。堂々と欲望を吐露するところはあるな﹂ ほ ﹁いやぁ、照れるなぁ﹂ ﹁いや、褒めてはいないのだが﹂ 三人は笑った。いつもみたいに。 ち ﹁おっしゃ、ほんじゃまあ、行くとしますか! いざ、お嬢ちゃん 家へ!﹂ ﹁そうだな。行こう、王都へ﹂ ﹁ぼくの家じゃないんだけれど⋮⋮。いいの、ふたりとも?﹂ ﹁良いに決まってるでしょう?﹂ あいさつ ﹁そうですそうです。恋人のご両親に﹃お宅のお嬢さんを下さい!︼ って挨拶に行くのは、当たり前のことです!﹂ ﹁誰が恋人か﹂ ﹁ふたりとも、ありがとう﹂ ︻モリオンモ、モリオンモ!︼ ︻え? ⋮⋮モリオンもありがとう。お母さん、うれしい︼ 423 賑やかな声を上げる一同のもとに、それまで黙っていたツユクサ が歩み寄り、アルテミシアの側で身を伏せた。 たお ﹁ツユクサも、ありがとう﹂ その言葉と共に嫋やかな手で胸元を撫でられると、青い獣はいつ も通り一声も鳴かず、ただ長い尾を揺らめかせたのだった。 424 六章②﹃王都﹄ にぎ グリーンウェルの王都は、色んな意味で賑わっていた。 王が交代する。これは、王都の民にとってはさほど大きな衝撃は もたらさなかった。 平民からすれば、上が誰にすげ変わろうとあまり関係はない。彼 らにとっての興味は別のところにあるからだ。 それは、税金。 今度の王様はどれくらいの税を課すのか。そこが問題だった。 一方、貴族はと言えば。これも、表向きは穏やかなものである。 何故なら、彼らには既に侯爵と、侯爵から依頼された女王の双方 から根回しが行われている。更に、それでも従わない者達は、ミッ ドノール子爵率いる一団により、黙らされている。 貴族はあまり兵を持たない。持たないと言っても、一定数の私兵 ちょうへい ようへい やと と、お抱えの騎士を何名か配下に持つ。だが、合わせて大軍団にな どなりはしない。 戦になれば平民を徴兵するし、金を持つ貴族は傭兵を雇うのだが、 じゅんたく 平時はそうではない。 このような訳で、潤沢な資金を持つ侯爵からの援助を受けたタイ そろ タス・ゴードンには、質の高い武装をしたそれなりの数の兵士達を 揃えることができるのであり、そのタイタスに逆らえる貴族はほと んど居ないのだ。 そして、その二つの分類に属さない者︱︱王都以外の土地から来 た商人にとってだが、これは、大きな関心が寄せられていた。 話題の中心は、やはり税金である。だが、王都の民がどこか人ご 425 とのように語るその話題は、彼ら商人にとっては並々ならぬ真剣さ で扱われている。 渦中の人物である、イーストフットヒル侯爵オズワルド・オズボ ーン。彼は、とにかく贅沢を好んだ。 こ 島の東方にそびえる霊山のお膝元。そこを中心とする広大な土地 が、侯爵領である。よく肥えた土地なのだが、民の暮らしは豊かと は言えない。 税が高いのだ。 税率を決めたのは侯爵であり、集めた金は贅沢に使われる。それ を知っている商人達は、恐れているのだ。侯爵が王位に就いた時、 グリーンウェルの全ての土地が高い税を課せられるのではないか、 と。 たいかんしき そのような状況下。王都は今、大変賑わっていた。 戴冠式。 ほうかん 現国王のサイラスから、次期国王のオズワルド・オズボーンへと、 宝冠が受け継がれる。 名目は、禅譲。血縁による世襲ではなく、優れた人徳を認められ ての、王位継承だ。勿論、侯爵その人には、人徳の欠片もない。 いしだたみ ろ てん ともあれ。戴冠式の当日ともなれば、それはもうお祭り騒ぎだ。 けんそう 石畳の大通りには露店が建ち並び、国中から多くの人々が集まり、 その喧噪は都の至る所に溢れている。 その喧噪から遠い場所。 城壁の内側、城の敷地内に、アルテミシア達の姿があった。 城壁の外側を囲むように形成される、貴族や大商人達が住まう内 輪区。その向こう側である、平民の居住区や商工業区が立ち並ぶ外 輪区から、賑やかな声が風に運ばれてここまで届く。 ﹁え、もう着いたの? ってか、ここどこ?﹂ ジャックがキョロキョロと見回したのは、城の庭園の一つである、 426 プロムナード 木々や花々が景観を飾る遊歩道の一角であった。 ﹁ここは⋮⋮すでに城の敷地内に来ているな。いくつかある庭園の 端の方だ﹂ ﹁へぇ? あいかわらずの速さですねぇ﹂ ジャックはたまげて見せ、 ﹁ここが、お城。お母様達がいらっしゃるところ﹂ 少年は、ぽつりと呟いた。初めて目にする風景であり、それ以前 に、初めて来た場所だった。 辺りを見回すアルテミシアを見ていると、それだけでクラウズェ れんびん アの目から涙が零れそうになった。だが少女は、泣くことも、まし てや憐憫の言葉を掛かけることもなく、 ﹁こっちよ、シア﹂ 温かな手で白い手を握り、優しく促した。 ﹁あぁん、待ってよ∼う﹂ 気色の悪い声を出しながら、追い付くまでもなくアルテミシアの 影に引きずられていくジャックが続く。 そして、そんな一行を後にして、ツユクサは城壁の向こうへと跳 やっこ ねて消えた、 ﹁ありゃ。奴さん、一緒に来ちゃあくれねぇのか﹂ ﹁うん。人前には出たくないんだって云ってたよ。恥ずかしがり屋 さんなんだね﹂ ﹁恥ずかしがり屋⋮⋮ツユクサには恐ろしく似つかわしくない言葉 に聞こえるわね。けれど、衆目に触れたら大騒ぎになるでしょうか せわ らね。何にしろ、ここまで連れてきて貰っただけで、大助かりだわ﹂ ﹁うん﹂ 生返事を返すアルテミシアは、さきほどから忙しなく辺りに目を 向けている。 ﹁どうしたの、シア?﹂ ﹁うん。なんだか霧が濃くって﹂ ﹁例の、銀の霧ですかい?﹂ 427 ﹁うん﹂ ﹁それは、警戒した方が良さそうね。早くここを抜けましょう﹂ ﹁その前に、背の荷物はそこらに隠しておいていきましょうや﹂ ﹁そうだな﹂ 隠す場所ならいくらでもある。木立と草花の陰に荷物を隠した一 行は、再び歩を進めようとした。 ﹁人が来ます。しかも大勢!﹂ ﹁なに?﹂ ジャックの警告を受け、素早く木陰に隠れた、その少し後。武装 よご した兵士の一団が現れた。その数、十二。うち一人は、ローブを纏 し った女。そして、その先頭には、クラウズェアの記憶に、汚れのよ うに染みついて消えない男の姿があった。 ﹁タイタス⋮⋮ゴードン﹂ 苦々しく呟かれたその男は、皆が隠れた木から一〇mほどの距離 で立ち止まると、大声を張り上げた。 ﹁近くに隠れているのは分かっている。速やかに出てくるなら、命 は取らない。俺は気が短い。さっさとしろ!﹂ ﹁こりゃあバレてますね。共鳴術とか言うので見付けたんでしょう か?﹂ ﹁恐らくは。逃げても同じだろう。それよりも、援軍を呼ばれる前 に片付けるべきだ﹂ ﹁姐さん強気ぃー。そうこなくっちゃ﹂ はしゃぐ影人間の隣で、その宿主たる少年は、赤毛の少女の服を そっと掴んだ。 ﹁シア?﹂ つ ﹁ぼくも出る﹂ ﹁でも﹂ ﹁あっしが憑いてますから、大丈夫ですよ﹂ 武術の師匠が力強く断言し、少年の身に︿かかりみ﹀する。 首から下を影に覆われた少年の、赤い目の煌めきを見たクラウズ 428 ェアは、その顔に頼もしそうな表情を浮かべた。 ﹁そうか。そうだな。では﹂ お じ き そうして三人は木陰から姿を現し、一団の前に進み出たのだった。 ﹁これはこれは、反対派の貴族共かと思いきや。小父貴の言う通り 来てみれば、愛する許嫁殿ではないか。会いたかったぞ﹂ 一瞬の驚きから、あの口角をつり上げる不敵な笑いへと表情を変 え、タイタスは大仰に両手を広げて見せた。 いっぽうクラウズェアは、タイタスの発した﹃愛﹄という単語に、 はやり 思わず失笑を漏らしてしまっていた。こんな男でも﹃愛﹄などとい う流行の言葉を使うのだなと思うと、おかしくなったのだ。 ﹁なにがおかしい?﹂ その様を見とがめたタイタスが問うと、クラウズェアは笑いを引 っ込めてタイタスを睨み付けた。 ﹁わたしにとっては一生見たくもない顔に会ってしまったものだと、 己の不幸を笑っていたのだ﹂ 吐き捨てるようにクラウズェアは応えた。 ﹁残念だ。おっと、そこに居るのは︿色なし王子﹀か。いつぞやは 殺しそびれたな﹂ 余裕を見せる言葉で語ってみせたものの、タイタスの心中は煮え くりかえっていた。 という認識になっている。だが、いく 彼の記憶では、クラウズェア達を取り逃がしたあの日の事は、 黒い人型の魔物に襲われた ら釈明しても侯爵からは﹃部下に逃げられた不人望者﹄と罵られた のだ。何より、彼の今まで築いてきた英名が傷付いた︱︱と、タイ タスは考えている。 許されることではなかった。 ないで。わたしが討つ﹂ う いっぽう、クラウズェアの噛みしめた奥歯がキリリと音を鳴らし、 固め タイタスから視線を逸らすことなくこう告げた。 ﹁シア、あいつだけは ﹁うん、わかった﹂ 429 へんじょう その返事を聞いたクラウズェアは、姿をさらす前に変成させてい た︿薄紅﹀の切っ先をタイタスへ向け、正眼に構えた。 アルテミシアは、その女騎士から距離を取って下がる。 ﹁俺を討つ?﹂ ハハッという笑いが漏れ、それが高笑いへと変わり、ひとしきり 笑った後に、唐突に止んだ。 ﹁いいだろう。以前は訳の分からん邪魔が入ったが、今度はそうは いかん。武器を変えたようだが、さっそくへし折ってやろう﹂ ﹁うるさい奴﹂ 呟かれた言葉に、タイタスの眉が跳ね上がる。 ﹁なんだと?﹂ ﹁相変わらずお喋りな男だ﹂ ﹁なに?﹂ ﹁今度はお前からかかって来い。相手をしてやる﹂ そう言ってクラウズェアは、前回タイタスがしたように、片手で 手招きして見せた。 この屈辱的な仕草に、とうとうタイタスは頭に血を上らせ、こめ かみに血管を浮き上がらせながら怒鳴った。 ﹁前回の惨敗から何も学習しなかったようだなぁ! いいだろう、 望み通り叩き潰してやる! 少々見られぬ姿になるだろうが、なぁ に、安心しろ。千切れた手足くらい、配下の共鳴術師が繋いでくれ よう﹂ ﹁それは安心だ。わたしも気兼ねなく剣が振れるというものだ﹂ 赤毛の騎士はニヤリと笑い、それが、タイタスの残り僅かな理性 を消し飛ばす。 ﹁きさまぁっ!﹂ タイタス・ゴードン率いる十人の兵士達とローブ姿の女は、動く どころか、喋ることもできないでいた。 アルテミシアによって、周囲の空気を固められているのだ。体も 430 試練を求める者 と名乗ったなら 口も動かない。戦うことはおろか、これでは助けを呼ぶこともでき ない。 そして、この集団の中には、 ず者、ヨドークと、その仲間の盾使いの姿もあったのだ。 その二人共が、未だかつてない状況に怯え、混乱し、そして、眼 前の少年に恐怖の目を向けている。 ただし、二人の顔は一部が兜に覆われ、アルテミシアとジャック は気付かないでいるのだが。 ﹁今までの練習を思い出して。リラックスです。頭の天辺を、空か けんこうこつ ら垂れてるヒモで引っ張り上げられてるイメージ。肩の力を抜いて。 胸を張らず、猫背にもならず。緩んだ肩胛骨が左右に開かれる。こ れで呼吸がしやすい。背筋は伸ばし、腰を反らさず真っ直ぐに。足 は立つためだけの最低限の力で立ち、股関節を緩める。全部、頑張 ってやったらダメですからね?﹂ ﹁うん﹂ ﹁そいから、目標を凝視しないこと。ボンヤリで良いです。ボンヤ リと見て、視界を広く取って﹂ ﹁はい﹂ ﹁大変よろしい﹂ ︱︱全力だった。 最初から全力で突っ込んでいった。それなのに、タイタスの剣は 当たらないのだ。 クレイヴ・ソリッシュ 恐るべき速度で踏み込みながら、剣を振り下ろす。金属甲冑に身 を固め、大剣︿光の剣﹀が唸りを上げる様は、さながら猛牛の突進 だ。かすりでもすれば、致命傷である。 だが、赤毛の騎士には当たらない。 ﹁ふんッ﹂ 振り下ろされた黄金の軌跡は空振りし、その時には既に、彼の側 面へとクラウズェアは回り込んでいる。 431 突進するタイタス。 斜め前方︱︱タイタスの側面へと避けるクラウズェア。 縦振りが駄目ならばと横振りに変えれば、今度はしゃがまれ、そ す あ こへ無理矢理軌道を変えた剣を叩き付けようとも、受け流され、あ るいは擦り上げられた薄紅でいなされる。 ﹁くそっ、ちょこまかと!﹂ 焦りの色を隠せないタイタスの声に、 ﹁遅いな﹂ 一言。クラウズェアが呟いた。 ﹁なに? この俺が遅いだとっ?﹂ ﹁ああ、遅い。早く本気を出せ﹂ ﹁殺してやる﹂ 低く、濁って重い声だった。 殺意の塊となったタイタスの動きは、彼の戦意とは裏腹に、その 筋肉は力んで硬く強ばり、これまで以下の速さしか生み出してくれ ない。 ﹁うおおぉっ!﹂ ﹁気合に動きがついてこないぞ?﹂ ﹁黙れぇっ!﹂ ﹁バイガン将軍に比べれば、圧倒的に遅いな﹂ ﹁黙れ黙れぇっ!﹂ もはやタイタスには、クラウズェアの言葉はまともに届いていな い。 ただ﹃遅い﹄という言葉が彼を駆り立て、 彼を追い詰めていた。 に敗れるまでは、無敗だったのだ。 ﹁くそぉっ、︿石﹀の働きが悪いのかっ?﹂ ヘレディタリー 正体不明の黒い魔物 彼は強いはずだった。 実際、 だが、その強者が、︿先天共鳴者﹀としての力さえもある選ばれた 人間が、石の使えない細腕の女に負けるはずがない。タイタスは、 432 おとろ そう思っていた。自分に落ち度があるはずがない。そうなれば、問 題があるのは︿石﹀なのだと。 しかし。 、 ﹁︿彩化晶﹀なら、お前の剣の柄で輝いているぞ? 光が衰えた訳 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ふん し でも、ましてや力を使い切って消えた訳でもない。今のお前は、充 分に力を出し切っている﹂ ミンチ この言葉は、光の剣の使い手を憤死させかねない威力を持ってい た。 ﹁うるさいぞおぉぉぉっ! 黙らんと挽肉にしてやるっ!⋮⋮ええ いっお前達、何を遊んでいるっ? 早く加勢をしろ!﹂ ﹁部下達は動けない﹂ ﹁なにぃ?﹂ 正常な思考のできないタイタスは、隙を晒すことになるとも判断 できず、背後の部下を振り返った。 彼らは皆、めいめいが焦りの表情を浮かべながら、ピクリとも動 けないでいる。そしてその視線は全て、とある少年へと集まってい た。 ﹁まさか⋮⋮色なし王子の共鳴術、なのか?﹂ なび 彼の脳裏を侵す、刹那の幻。あの魔物は、死に神のような白い髪 を靡かせていた。あれは色なし王子に関係があるのではないのか? てっかい そしてタイタスのこの独白は、赤毛の騎士の怒りを押し上げた。 のろ ご ﹁貴様、またその言葉を。あの子への侮辱を撤回しろ。さもなくば﹂ ﹁親から捨てられた呪われ子には相応しい名前だろうが﹂ 怒りの形相を浮かべたまま、無言で薄紅を上段に構えるクラウズ ェア。 ﹁まあ、その親ももうすぐ死ぬがな﹂ ほうぎょ 斬り込まんとしたその時。タイタスのこの言葉で、女騎士の動き が止まった。 ﹁どういう意味だ?﹂ ﹁前王サイラスはもうすぐ崩御するってことだよ﹂ 433 今度はクラウズェアが隙を晒してしまう番だった。一瞬に過ぎな いのだが、後ろのアルテミシアを振り返ってしまったのだ。 そして、その好機を逃すタイタスではない。 黄金の大剣が、クラウズェアに迫った︱︱ ﹁焦らないで! 焦らなくても大丈夫です。体を硬くしないで。呼 吸はし続けて。姐さんが、すぐにあの野郎をぶっ倒してくれますか ら。姐さんを信じて﹂ ﹁うん﹂ ﹁良い子ですよ﹂ 父の話題で心を乱された子供に、寄り添う影が必死に語りかける。 その甲斐あって、アルテミシアの集中はなんとか途切れることはな かった。 せいさん ︱︱凄惨が生み出された。 ﹁ぎゃああああぁーーッ!﹂ という、喉も張り裂けんばかりの悲鳴がこだました。 ち し ぶき と、同時に、宙を舞う黄金と赤の軌跡。剣を掴んだままの両腕が、 血飛沫を上げながら飛び、地に落ちた。 地に膝を突き、苦痛のあまり涙とよだれを垂れ流すタイタスを一 かげろう 瞥したクラウズェアは、緑の目と薄紅を兵士の一団に向けた。 ﹁追えば、斬る﹂ 紅刃が炎に包まれ、冷たい大気に陽炎を作る。 兵士達の目は、一様に怯え一色。答えを聞くまでもない。 ﹁シア、先を急ぎましょう﹂ ﹁うん﹂ ﹁あいよ﹂ そうして、三人は振り返る事なく城へ走ったのだった。 434 エクワイアード ローブの女は共鳴術師だった。それも、肉体を操作することので チューニング きる術と石を持つ後天共鳴者だ。 女の調律歌と赤い彩化晶は、確かにタイタスの傷を癒やした。 だが、右腕は繋がったものの、左の腕は千切れたままに傷がふさ ぐ ず がってしまっている。血を流す左腕は、地に転がったままだ。 ﹁これはなんだっ? さっさと左手も繋げろっ、この愚図が!﹂ ﹁ですが、もう石がないのです。前回の治療と合わせて、今回で使 い切ってしまいました。これが限界なのです﹂ しひょう 彩化晶は、その大きさで行使できる術の威力が変わり、輝きの強 さが満たされた力の濃度であり、術の使用回数の指標となる。 だが、女の手にあった赤い彩化晶は、力を使い果たして石の形を 維持できなくなり、消えた。正しくは、溶けた氷が大気中に霧と消 えるごとく、そこらに漂ってはいるが、人の目には見えなくなった だけだ。︱︱アルテミシアを例外として。 石は暫く時を待てば自然と輝きを取り戻すものだが、女の言う通 り、これまでの使用で輝きの薄れた赤い彩化晶は、右腕を繋げるの に殆どの力を使い果たした。 こうごう だが本来、腕二本を繋げるだけならば、石を使い切ることなどあ り得ないはずだったのだ。なのに、炎を纏う神々しい剣で斬られた ふさ 傷は、これまで治してきたどの傷よりも、治りが悪かった。 左腕の傷をなんとか塞げたのは、彼女の力量が高く、石の消耗を 少なく抑えられたからこそである。 ﹁知るか! 貴様っ、殺すぞ!﹂ だがそんなものは知るかとばかりに、繋がったばかりの右腕でク レイヴ・ソリッシュを振り回すタイタスは、周囲の木を切り倒し、 地面に穴を空けた。 一方、クラウズェアに付けられた傷を女共鳴術師の赤い石で治し すく て貰っていたヨドーク達は、自分達のせいで石が減ったことを責め られやしないかと、身を竦ませて事態を見守っている。 ﹁いけません! 治療後は安静になさいませんと、傷が開く可能性 435 が﹂ ﹁だまれええぇぇぇーーッ!﹂ ひときわ強く叩き付けられた大剣は、地面にめり込んだ。右腕の は と 結合部からは、血が滲んでいる。それをハンカチで拭き取ろうと近 寄る女を腕の一振りで撥ね飛ばす。 女は地に転がり、胸を押さえて呻いている。 周囲の兵士達は、タイタスを恐れて何もできない。 その時、 荒い息を吐いていたタイタスは、懐から二つの石を取り出した。 ヨドーク一味に属していた、共鳴術師ノーマン。彼が保有していた 青い彩化晶と、橙の彩化晶だ。 ﹁これを使って治せ﹂ 無論、無茶である。 ﹁恐れながら、それは不可能です。石の色が違います。傷を癒やす 効能のある石は︱︱﹂ ﹁この役立たずがぁ!﹂ 未だに呼吸のままならない状態で、あえぎながら必死に答える女 に、怒り狂った隻腕の騎士は怒声と憎悪をぶつけた。 そして、その怒気が一気に静まる。不気味なくらいに。 ︱︱タイタスは、残った右腕で二つの石を口に放り、それを飲み 込んだのだった。 ﹁なっ、なんということを!﹂ ﹁聞いたことがあるぞ。魔物も、妖精も、魔精も、より力の強い連 中は体に月の力を多く宿すとな。石を飲めば力が増すはずだ。そし てどうやら、俺の推理は当たったようだな﹂ 彼の言う通り、確かにその身には大きな力が渦巻いていた。体は これまで以上にはち切れんばかりの筋肉に覆われ、失った左腕も、 塞がった傷口の辺りから肉が盛り上がり始め、そして伸びる。 ﹁今すぐに石を吐いて下さい! 人間と魔物は違います! 人が石 を取り入れれば、それは魔物になるのと同じことです!﹂ 436 ﹁魔物の力かっ、それは良い! 俺ならば使いこなせる! 戦場の 覇者、この国の大将軍に相応しい力だ! 小父貴にももう何も言わ せん! 力だ! 力あってこそなのだっ!﹂ そう叫んだきり、狂ったように高笑いを続けるタイタスの体は、 もはや人のそれでは無かった。 体は膨張を続け、二倍、三倍へと増していく。 切れた左腕は伸び続け、その勢いは壊れた井戸のパイプのように、 肉を吹き出し続けている。その肉は、タイタスの足下に広がり、女 を呑み込み、逃げる兵士達をも呑み込んだ。 もはや、地獄絵図だった。 ﹁ゴードン様⋮⋮お慕い申し上げておりました﹂ 肉に覆われて消える直前、哀れな女は、秘めた想いを打ち明けた のだった。 そして、愛する男と一つになった。 437 六章③﹃師弟対決﹄ ﹁おおきいね﹂ い よう 近づくにつれ、城の威容が視界を占めていく。 おと しつじつごうけん けんらん い よう 東の大陸にある、いくつかの大国に比べれば、絢爛たる偉容には 劣るかも知れないが、質実剛健を体現した、まことに立派な城であ った。 木陰から見上げるアルテミシアの目には、いつもは希薄な感情の 揺らぎがあるように、クラウズェアには感じられた。 遊歩道を抜けてここまで来た一行だったが、これ以降は身を隠す 場所が限られる。見張りの数も増える。どうやって城まで近づき、 侵入を果たすか、考えあぐねていたのだ。 ﹁さあて、こっからどうしやす? 今まで通りにゃあいかんようで すが﹂ えい し ﹁ああ。それに、無事入り込んでも、城内は侵入者を惑わせるため ご じ に多少複雑な作りになっている。衛士もそれなりの数が居る﹂ 衛士とは、王が住まう城や宮殿の警備に当たり、王族を護持する 上級兵士のことだ。兵卒よりも文武に秀でた者が選ばれる。 ﹁︻ん? どうしたの、モリオン? ⋮⋮あ、そうなんだ︼﹂ 二人が相談している横で、これまで城のあちこちを見上げていた アルテミシアが、胸中からの語りかけに答え、それにクラウズェア が反応した。 ﹁モリオンはなんて言ってるの?﹂ ﹁うん、あのね?﹂ すい か アルテミシアが答えようとした、その時︱︱ ﹁誰だっ?﹂ 気配を察したジャックが誰何の声を発したのだ。殺意も敵意もな く、穏やかな気配であったので、接近を許してしまった。それを、 438 ジャックは悔やんだ。 それはつまり、二通り考えられるだろう。 一つには、敵ではない可能性。 もう一つには、それなりに腕の立つ者の可能性だ。だが、ここは 敵地と言って良い場所であるはずだ。 そして、現れたその相手は、 いっとき ﹁お初にお目にかかります、殿下。クラウズェア・セルペンティス レイピア は そうれい ひげ に一時剣を教えておりました、フィデリオと申す者です﹂ たい く 腰に細剣を佩いた壮齢の男だった。髭を蓄えた整った容貌と、理 知の光が宿る眼。細く引き締まった体躯は、しなやかさと機敏とが 窺える。 男は、騎士が取る最敬礼で、皆を迎えた。 ﹁先生!﹂ 思わず叫んでしまったクラウズェアに、礼を解いたフィデリオは 落ち着いた声で忠告した。 ﹁静かにしなさい。警備の者が駆けつけても良いというなら、別だ が﹂ ﹁す、すみません﹂ 慌てて謝罪する少女を目にし、フィデリオの顔に微かな笑みが浮 かんだ。 なおさら すき ﹁騎士たる者、むやみに頭を下げるものではない。ましてやそれが 敵であるならば、尚更。隙を見せてはならない﹂ その言葉にハッとしたクラウズェアは身を硬くした。だが、師匠 の口から聞かされた﹃敵﹄という単語が、彼女の心を千々に乱した。 クラウズェアも、可能性としては覚悟をしていたのだ。 師と、剣を交えることを。 だが、心の準備をしていても、実際にこのような局面にもなれば、 動揺する。 彼女はまだ、二十歳にも達していない若さなのだから。 それでも。 439 それでも彼女は決めたのだった。他ならぬ師が云っていた、教え の一つである﹃優先順位を誤るな﹄という言葉を、胸中で言い聞か せて。 れんたんどう クラウズェアにとっての一番の大切は、アルテミシアである。そ かく な もっ れは、練丹洞での、あの日の夜に、ジャックと交わした会話の中で 再確認した、彼女の核を成す部分だ。 だから、言った。 かがや ﹁先生、どうか道を開けて下さい。さもなければ、剣を以て切り開 くことになるでしょう﹂ ひ 決意と共に変成された︿薄紅﹀が、赤い赫きを放つ。 その姿に。見事な紅刃よりもなお目を惹く、緑の眼差しに宿った あふ 力強い輝きを目にし、フィデリオは満足そうに頷いた。 うる ﹁クラウズェア、成長したな﹂ その言葉に、潤んでしまう目はどうしようもなく、溢れる心を零 れ落とさないよう必死に努力しながら、クラウズェアは言葉を重ね た。 ﹁殿下の、シアのお父上が⋮⋮。この子を、会わせてあげたいので す﹂ だが、その言葉には、 ﹁通す訳には、いかない﹂ 柔らかなものから、一瞬、苦渋に満ちた表情を浮かべたフィデリ オは、すぐさま全ての表情を消し去り、腰の細剣をスラリと抜き放 った。 ところで。 当初に掛けられた言葉にも、何の反応も示さなかったアルテミシ アだが。それは、意図的に無視していた訳ではなかった。 嫌なモノ に感じられたのだった。 は 少年の不可思議を見る目は、今回も人には見えない物を見ていた。 そしてそれは、とても ブレスレット 中段に突き出された剣の向こう。フィデリオの右の手首に填まる 腕飾りから、︿銀の霧﹀が発生し、音を奏でている。 440 か 霧はブレスレットをグルグルと巡り、右腕を伝ってフィデリオの くさり 全身へと張り巡らされている。 けず まるで、彼を縛る鎖のように。 ま ザリザリと削るような、キィキィと引っ掻くような、ともかく周 囲に撒き散らされるその不快音を止めたくて、その一心で、少年は 思わず︽視線︾を使ってしまった。 とどこお 歯車に物が挟まって上手く動かない水車のように、ガタガタと音 を鳴らしながら滞った銀の霧は、それでも無理に動こうとして、そ こから行き場を失った。 うでかざ パキリ。 きょうがく 割れた腕飾りは地に落ちた。 それを、驚愕の眼で凝視したフィデリオだったが、アルテミシア へと視線を移してから、こう言った。 しば ﹁気が変わりました。殿下お一人でしたら、お通ししましょう。で すが、クラウズェアは暫しお借りします。殺し合いではないことを お約束致しますし、時間はかからないと思いますので﹂ ﹁ローズがそれで良いなら﹂ アルテミシアは即答し、クラウズェアは焦った。 ﹁シアっ、わたしはっ、わたしは︱︱﹂ ﹁うん、わかった。ローズは良いみたい﹂ ﹁ち、違う!﹂ ﹁感謝致します、殿下﹂ ﹁先生!﹂ ﹁国王陛下は、寝室におられます。最上階の中央、中庭の噴水が見 下ろせる、黒いカーテンが閉め切られた窓があります。城内の経路 は︱︱﹂ ﹁ううん。それだけ分かればだいじょうぶです。ありがとうござい ます、ローズの先生﹂ ﹁シア一人なんて、無茶よ!﹂ ﹁モリオンがね、﹃だいじょうぶだ﹄って﹂ 441 ﹁モリオンが?﹂ ﹁それに、ジャックさんもついてるから﹂ ﹁お任せを﹂ 少年の影からひらひらと起き上がったジャックを目にし、フィデ リオは片眉を上げた。 ﹁⋮⋮わかった。充分に気を付けていくのよ? それと、無理はし ないって、約束して﹂ ﹁うん、約束﹂ そう言って駆けて行こうしたアルテミシアは、思い直してこう言 った。 ﹁さきほどはご挨拶にお答えせずに、申し訳ありません。ぼくの名 前はアルテミシアです。フィデリオ先生、ぼくの大切な友人であり、 最高の騎士でもあるクラウズェアを、どうかよろしくおねがいしま おこな す。えっと⋮⋮﹂ フィデリオが行った、そして、クラウズェアが犬妖精達にして見 せた騎士の最敬礼を真似ようとしたとき、その少年の動きをフィデ リオが制した。 ﹁殿下、お待ち下さい。王族は、頭を下げないものです。貴方は堂 々としておいでになれば、それで良いのです。それが王族の礼法な のです。先程のお言葉だけで、充分ですよ﹂ ﹁そうですか﹂ アンブロシアル・スキアー その言葉に納得し、王子はクラウズェアへと最後に視線を向け、 その場を去った。 ﹁霊妙不可思議な力に加え、︿影の英雄﹀も付き従う、か﹂ ﹁先生?﹂ しょ 知らず呟かれた声を聞き取りきれず、クラウズェアが問いかけた。 せん ﹁いや、耳にした話とは随分とかけ離れた御方のように見える。所 詮、口さがない連中の話など、当てにはならんな。あの方が、お前 のお仕えする主殿か﹂ 去りゆく少年の後ろ姿を目で追いながら、フィデリオは感慨深げ 442 に問うた。 せいかん ﹁はい。わたしがお仕えする、わたしの主です﹂ ﹁そうか﹂ 二人の顔に笑みが浮かび、そして、精悍なものへと変わった。 ﹁ここは少し城に近い。場所を移そう﹂ ﹁はい﹂ 敷地内、中庭一角。 この時間帯、警備兵の巡回経路から外れる場所があった。城内お よび敷地内の警戒よりも、侵入者を城壁より内側に入れさせない事 を最優先としたのが原因であり、指示を出したのは侯爵だ。 さんたん だがそれは、この師弟にとっては好都合であった。 ﹁良い剣だ﹂ レイピア ︿薄紅﹀を目にしながら、フィデリオは素直な賛嘆の言葉を述べ た。﹃武器を替えたのか?﹄とも、ましてや﹃私が持たせた細剣は どうした?﹄などとは訊かない。 問われた弟子も心得ていたので、 そうほう ﹁有り難う御座います﹂ とだけ答えた。 細剣と刀とでは、操法が異なる。それはつまり、戦い方を変えた ということであり、剣術を替えたということだ。だがここで、クラ ウズェアが言い訳じみたことを言ってしまえば、現在の師であるジ ぼうとく ャックにも、修練中の剣術へも不義理である。また、かつての師で あるフィデリオと、彼から習った剣術を冒涜することにも繋がる。 だからクラウズェアは、無様なことは言わず、堂々としていた。 内心の葛藤は、今は振り払った。 フィデリオは中段。 クラウズェアは正眼。 二人は構えて、動かない。 443 これは、かつての師弟の稽古風景とはガラリと変わった構図であ った。 稽古を頂戴する ちょうだい 弟子の立場だから、とい 以前のクラウズェアであれば、フィデリオに果敢に攻め込んでい た事だろう。それは、 うのもある。そして稽古のみならず、実戦においてもそうしただろ う。 あぐ だが、この状況はそういったものとは違う。 攻め倦ねているのだ。 中段に構えられた細剣は、フィデリオの中心線を守っている。下 手に斬り込めば、最短距離を通った突きが放たれ、薄紅が届く前に クラウズェアは絶命するだろう。そうでなくとも、的確にいなされ、 次の瞬間には返す刃で一突きだ。 タイタスのような、高い身体能力に任せた荒削りな剣とも、まし てやヨドークごときチンピラが振り回す剣とも、隔絶している。︱ ︱それが、今のクラウズェアには判るのだ。 それはつまり、クラウズェアがフィデリオの実力を理解できるよ うになったという事であり、即ち、妖精境における鍛錬は実を結ん でいるという事である。 弟子の成長に、フィデリオは満足した。 ﹁では、私から行こう。本気で応じなさい﹂ 軽快なフットワーク、滑るようなステップインに乗り、細剣が繰 り出される。 対するクラウズェアは、その突きを薄紅で右に流しつつ、左前方、 フィデリオの右側面へ抜けていく。 だ えん だが、フィデリオも易々と制されてはくれない。レイピアを流さ れるまま、手首を回して剣を小さな楕円に巡らせ、クラウズェアの 眼前に突き出した。 かか くぐ 何とかそれを、膝と股関節の力を抜いて落ちながら身を低くした クラウズェアは、同時に、頭上に掲げた薄紅で細剣を潜るように受 け流す。 444 紅刃の上を、細剣の白刃が滑っていく。 クラウズェアとフィデリオは互い違いにすり抜け、そして、振り 返った。 ﹁ふむ﹂ フィデリオは頷き、クラウズェアは小さく息を吐く。 ﹁これはどうかな?﹂ 次も、フィデリオが先手を取った。 滑るようなサイドステップからの、伸びる突き。体は軸をずらし、 薄紅の剣先から逸れている。 その突きを、クラウズェアは右に逸らす。だが、フィデリオの手 首が小さく動くと、彼女から見て右回りの円を描いたレイピアの切 っ先が、薄紅の下から回り込んで上を取り、その紅刃を押さえつけ た。 薄紅を下に落とし、そのまま突きへと移行するフィデリオ︱︱そ うなる予定だった。 しかしクラウズェアは、上から抑えられるのを、抑える力に逆ら わず、腕の力を抜いてふわりと刀を逃がしてやる。 場の取り合い を経てそのまま歩を進め、同じくス 素早く浮き上がる紅刃が、レイピアを横に反らす。 武器による つば ぜ あ テップインしていたフィデリオと体がぶつかりそうになり、お互い 上げられた腕によって鍔迫り合いが生まれた。 交錯する視線。 片腕からの力不足に押し負けそうになったフィデリオは、空いて いた左手でクラウズェアの顔めがけて軽く速いパンチを放った。 右足を引きながら体の軸をずらし、それを避けるクラウズェア。 回避動作に伴い、鍔迫り合いの力が一瞬、緩む。 フィデリオがそれを見逃すはずもなく、前に出ていた右足を閃か せ、鋭い蹴りを突き込んでいく。 それを、上げた左足で巻き取るように右にずらしたクラウズェア は、残った左の軸足を刈りに行く。 445 瞬時に察したフィデリオは、レイピアで薄紅を押しながら咄嗟に 身を離し、そのまま数歩、ステップバックで距離を取った。 ﹁私の方が下がることになろうとはな﹂ 言葉とは裏腹に、口許は緩んでいる。 ﹁時に﹂ フィデリオが言葉を継ぐ。 さ なか けい こ ふうけい おも ﹁流派名を訊くのを失念していた。私に教えてくれないか?﹂ 戦いの最中とは思えぬような、かつての稽古風景を懐わせる、穏 お やかな空気が流れた。少なくとも、クラウズェアにはそう感じられ かげりゅう た。 ﹁影流﹂ ﹁影流⋮⋮覚えておこう﹂ そして、また空気が張り詰めた。 女騎士の頬を、汗が伝い落ちる。 ﹁次で、決めよう﹂ 静かに紡がれたその言葉と共に、フィデリオの方から圧すような 何かが発されるのを、クラウズェアは感じた気がした。ジャックみ たいに気配が判る訳ではないのだが、それは、フィデリオの殺気に 他ならなかった。 気がつけば、クラウズェアの全身は汗だくだった。ここは妖精境 と違い、まだまだ寒さが残る初春のグリーンウェルだというのに。 二人は、まだ動かない。 息が乱れるのを、クラウズェアは感じていた。 呼吸が制御できない。それは、心拍数が上がっているからであり、 心が平静ではないからだ。戦場で体力が尽きるのは、何も心肺機能 の問題だけではない。精神状態も大いに関わる。要は、平常心だ。 ︵先生は本気だ︶ クラウズェアは思った。緊張で、身が強ばる。 未だに殺し合いには慣れていない。しかも、あろう事か相手は尊 敬する剣の師だ。今すぐにでも止めたい。逃げ出したい。だが、逃 446 げてはならない。下がってはならない。勝負が付くまで、フィデリ オは通してはくれないだろう。そして、先へ進むためには、勝たな ければならない。 師を、斬り伏せてでも。 ︵シア︶ クラウズェアは想った。自分が仕える主を。この世で一番大切な はら 存在を。銀月のように静かな少年を。 くれない にえ 深い呼吸で息を送り込むと、肚の中で熱が増した。熱は全身を巡 うすべにいろ り、薄紅とのつながりを強くする。 ごと 薄紅色の刃と、星々のように散らされた紅の錵が、赫きを増す。 熱気が天へ昇るが如く、 自然、クラウズェアの手が上がり、上段の構えを取った。 左足が、前に出る。 そこへ、フィデリオが踏み込んでいく。クラウズェアが知る中で、 最も速い師の動き。 途中、腰を落としながらのステップインは、消えたと思わせる動 き。そこから、滑るような軌道の細剣が、喉元へ伸びる。その突き は、閃光と呼ぶに相応しい。 いとま 以前のクラウズェアであれば、首を貫かれて死んでいたであろう 速度。反応する暇すらも与えられず。 だがクラウズェアは、その白刃に合わせて見せた。 左足を軸にしながら右足を前に出し、剣を真っ直ぐ振り下ろす。 白刃と紅刃が交差し、そして︱︱ フィデリオの突きは、クラウズェアの左側面、頬のわずか横へと 逸れた。 クラウズェアが振り下ろした剣は、フィデリオの左腕を斬り落と がっしうち さば していた。頭上に振り下ろされた紅刃を、咄嗟に上げた腕でかばっ たのだ。 せみ ︱︱[合撃]。 蝉の羽一枚分の薄さを思わせる、正確で繊細な剣捌き。その剣を 447 せんよくとう そ せいみょう ぜつ ぎ 以て、敵の剣のみ逸らして斬り勝つ精妙なる絶技。 別名、[蝉翼刀]。 それを、クラウズェアはやってのけたのだ。 ﹁先生!﹂ 頭を割る直前で止めていた薄紅を引き、クラウズェアは叫んだ。 それに対し、フィデリオは︱︱彼にしては大きく表情を崩し、破 顔したのだった。 ﹁見事だ﹂ 細剣を引き、鞘に収める。そして、緑の視線が向けられた腕を掲 げながら、 ﹁案ずるな。大した事はない﹂ 軽々と言ってのけた。 ぜんわん その顔に苦痛はない。不思議なことに、傷口からの出血もない。 ﹁先生、腕が⋮⋮﹂ その不可解さに混乱しながらも、前腕の半ばから断たれた師の腕 に、クラウズェアは手を伸ばそうとする。 ﹁私の体は少々頑丈でな。この程度では死にはしない﹂ そう言って向けられた傷口は、およそ肉の断面とはかけ離れた、 鉄がぎっしりと詰まった、奇妙な物であった。 今まで様々な不思議を見てきたクラウズェアは、それで何となく 納得した。だから、別の疑問を口にしたのだった。 ﹁手加減をされました。本気で応じろと仰ったのに、ご自分は⋮⋮﹂ 実際、フィデリオは全力を出してはいなかった。クラウズェアは ジャックのように殺気が判る訳ではないので、うわべの雰囲気に騙 されたのだ。 その、演技上手な男はこう言った。 ﹁そうだったかな?﹂ とぼけてみせるフィデリオに、 ﹁そうです!﹂ 今いっとき、凜々しき騎士から少女の顔に戻ったクラウズェアは、 448 怒りの形相で師匠を睨み付けた。 ﹁腕を上げたな﹂ その言葉に、騙されまいと思いはするのだが、嬉しさで表情が崩 れてしまう弟子であった。 ﹁さあ、行きなさい。殿下がお待ちだ﹂ 表情を引き締めてそう促すフィデリオに、クラウズェアも騎士に 戻って応じた。 ﹁はい。有り難う御座いました。行って参ります﹂ しわ 赤毛の騎士が頭を垂れ、身を翻して城へ向かおうとした、その時 だった。 ﹁待て!﹂ 強い制止の言葉に振り向けば、眉間に皺を刻んだフィデリオが、 じんじょう とある方角を睨み付けているのが見えた。 ﹁先生?﹂ ﹁何か、おかしい﹂ フィデリオの様子は尋常ではない。厳しい視線が向く先は、クラ ウズェア達が来た方角であった。それは、タイタス・ゴードンと刃 を交えた区域のある方角である。 ﹁おかしい、ですか?﹂ クラウズェアには、アルテミシアのような特別な目も、ジャック のように気配や殺気を察する力もない。だから、彼女にできること をした。目をこらし、耳を澄ませ、そちらに神経を集中させる。 そうすると。 ずるっ、ずるる。 何か、重い物を引きずるような音が聞こえることに、気がついた。 ﹁何か、こちらに来る?﹂ かざんでいりゅう そうして、その音の正体が、角を曲がり姿を見せた時。クラウズ ェアは目を疑った。 つ なみ ﹁何だ、あれは?﹂ 泥を多く含んだ津波か。はたまた火山泥流のような。ドロドロと 449 おも げ した重そ気な 肉色の何か るのが見えた。 が、じわじわと広がりながら流れてく その不気味な肉色の塊には、流れに巻き込まれた木や草花の他に もよお も、槍や鎧の一部、更におぞましいことには、人間の腕や足が突き おか 出ているのさえ見えたのだった。 人間の精神を冒すような、吐き気を催す光景だった。 そして、その動く肉の塊の一部が盛り上がり、人の形を作った。 その姿は、 ﹁タイタス⋮⋮ゴードン﹂ 呻くような声が、クラウズェアの口から漏れた。 450 六章④﹃親と子﹄ ものみやぐら しょうかいへい モリオンのおかげで高い視力を得ているアルテミシアは、城の見 張り塔や物見櫓などにいる哨戒兵を、全て見付けることができる。 更に、彼らがどの方向を向いているのかさえも。 誰の視線も向いていない死角が生まれる空間。そこを、︿かかり み﹀したジャック=アルテミシアが身軽に駆け抜けた。 それで、難なく王の寝室がある窓の下までやって来たのだ。 飛んでる んじゃなくて、﹃ その後は、モリオンの上にアルテミシアが乗り、こうして登って いる最中という訳だ。 ﹁モリオンは飛べたんですねぇ﹂ 感心げなジャックの言葉に、 ﹁うーんと。モリオンが云うには、 く 壁伝いに浮いてる﹄んだって。地面からちょっとだけ浮いてる時み たいに﹂ モリオンの心を汲んだアルテミシアが代弁した。 ﹁へぇ﹂ よくは解らなかったが、解らないなりにジャックは感心した。 ちなみに、アルテミシア曰く﹃つるつるしている﹄モリオンに乗 っているにも関わらず、少年が落ちずに済んでいるのは、引き寄せ られるように体が固定されているからだ。鉄を引き付ける磁石に似 てもいるが、少し違う。 そうして、風が吹いても落ちることなく、目的の窓の前まで来た のだった。 ﹁開けましょう﹂ ︿かかりみ﹀した腕でジャックが窓を押したり引いたりしてみる。 かぎ ﹁開かないみたい﹂ ﹁あー⋮⋮鍵がかかってるのか。セキュリティー上、当然か﹂ 451 ﹁どうしよう⋮⋮︻モリオン、開けられるの? おねがい︼﹂ 身の外に出ていても、触れていればなんとなくモリオンの言いた がら す いことが分かる。彼の子供は、母親の役に立てるのが嬉しくて、張 り切っていた。 ︻イクヨ、イクヨ︼ 少年がお願いした次の瞬間。 さん 闇の中に灯る松明のような目でモリオンが見ると︱︱窓が、硝子 も、桟も、何もかもが砂に変わって散ってしまったのだった。 ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁︻もう開けられたの? ありがとう、モリオン。モリオンは本当 に良い子だね︼﹂ ︻ホメテホメテ︼ ﹁︻えらいね︼﹂ モリオンからの無言の報告を受けたアルテミシアは、無邪気にそ の親孝行ぶりを褒めた。 ﹁いやいや、え? ナニ今の? 窓が砂になっちまったんですが﹂ ﹁モリオンは、窓を砂に変える力があるんだね。︻すごいね︼﹂ ︻エッヘン、エッヘン︼ ﹁窓を砂に変えるっちゅーか、なんちゅーか⋮⋮。ジャック、ビッ クリ﹂ 禍々しい まがまが 我が子 と可愛がり、逆もまた 母親 と慕 と評するであろうその力に、ジャックは驚いた。そ ︿魔物﹀という名に相応しい、不可解で、強力で、多くの人間達 が して、そんな魔物を うその奇妙な関係に、何故だか楽しく感じるのだった。 さて。 アルテミシアを乗せたまま、窓枠や壁をすり抜けたモリオンは、 部屋の床に少年を下ろしてから、いつも通りその体内へと戻ってい った。 ジャックは、宿主の影がある場所ならどこへでも行けるので問題 はない。 452 こうして侵入を果たした部屋は、とても豪華な部屋であった。質 の高い、それでいて落ち着いた調度品が置かれ、華美にならないよ す う配慮された装飾が施されている。 そして、重病人特有の、饐えたような臭気が満ちている。 静かな部屋に風が吹き込み、黒いカーテンをはためかせた。 ﹁ベラか?﹂ 小さな声だった。小さく、弱々しい声。 せい ち しし その声に、はっと息を呑んだアルテミシアだったが、ややあって、 カーペット 静かに声のした方へと歩み寄った。 てんがい 毛足の長い絨毯の上を、ゆっくりと歩く。 ゅう のぞ 向かった先には天蓋の上げられた大きなベッドがあり、精緻な刺 がいこつ 繍の施された掛け布団と、そこに埋もれるようにして顔を覘かせる、 骸骨さながらにやつれた男が横たわっていた。 グリーンウェル国王、サイラスである。その目はもはや、見えて はいない。 ﹁⋮⋮お、おとう、さ、ま?﹂ わず 緊張で、つっかえつっかえ言葉を絞り出すアルテミシアの声に反 応し、サイラスの顔が僅かに傾いた。 か れん ﹁ベラ? ベラなのか? 懐かしい声だ。まだ少女であった頃のよ うに、若々しく、可憐な声⋮⋮﹂ わし ぜいぜいという苦しげな声は、驚きと懐かしさの入り交じった声 だった。 ﹁いいえ、ちがいます﹂ ﹁違う? そういえば、儂を父と呼んだな。おお、エサルレッドが 帰ってきたのか?﹂ ﹁いいえ。お兄様ではありません﹂ ﹁兄だと? ⋮⋮まさか⋮⋮アルテミシア、なのか?﹂ 弱々しい声だったが、その声は、アルテミシアの体を極度の緊張 で震えさせた。数度、口をパクパクさせた後、やっと声を振り絞っ てこう答えた。 453 ぶさた ﹁はい。次男の、アルテミシアです。久しくご無沙汰を重ねてしま い、まことに申し訳御座いません。⋮⋮お父様、あの⋮⋮お会いし とうございました﹂ この返答には、しばしの沈黙が訪れた。 ややあって。 ﹁儂を殺しに来たのか? それならば、お前が手を下すまでもなく、 儂はもうすぐ︱︱﹂ ﹁ちがいます!﹂ さえぎ あまりなサイラスの言い様に、思わずアルテミシアは大声で言葉 を遮った。彼にしては珍しいことだったが、無理もなかった。 ﹁ちがうんです。ぼくはただ、お父様にお目にかかりたくて⋮⋮た よくよう だ、会いたかった。ひとめ、お顔を見たかっただけなんです﹂ 感情豊かな声ではない。むしろ、抑揚に乏しいとさえ言える声だ ったが、張り裂けた胸から取り出したような、純粋で強い思いが込 められていた。 ﹁⋮⋮そうか、悪かった﹂ 静かに泣く息子に、父親は言った。 うつむ おもて ﹁アルテミシア、儂の息子。もっと近くに来ておくれ﹂ この言葉に、俯かれていた白い面が上がった。 ﹁よろしいのですか、ぼくが﹂ ためら ﹁かまわん﹂ 一瞬躊躇われた足は、結局、親の情を求め、かけられた言葉を信 じたくて、前に進んだ。 ﹁おとうさま?﹂ たお 声のした方へと手を伸ばすサイラス。棒きれみたいになってしま った、今にも折れそうな手。その手を、白く嫋やかな手が包み込ん だ。 や ﹁お父様、こんなに細いなんて。お顔も、こんな、ぼくよりもロー ズよりも痩せてる。どうしよう⋮⋮ねぇ、どうしよう。どうして誰 も居ないの? お母様は? お医者様は? お父様がこんなに苦し 454 し り めつれつ んでいるのに、お城の外はどうして賑やかなの? どうしてっ⋮⋮﹂ たましい しんばつ 少年の口から、次々と言葉が飛び出す。支離滅裂な言葉は、少年 の魂からの声だった。 ﹁アルテミシア、もうよい。儂は神罰が下ったのだ。仕方がないの だ。だから、もうよい。泣くな﹂ ﹁でもぉ﹂ あふ 泣く子のあやし方一つ知らないサイラスは、骨のように細く節く れ立った手で、白く柔らかな手を撫でた。 それで、アルテミシアの頬からはますます涙が溢れてしまう。 ﹁それよりも、もしかすると、お前は目が見えているのか?﹂ ﹁はい、見えています。見えるようになりました﹂ ちくせき ﹁そうか⋮⋮。それは、良かった﹂ あん ど 長い長い時の間に蓄積された、深い後悔の声だった。 同時に混じる、安堵の色。 ﹁そうだ。良いお薬があります。来る途中で置いてきたのですが、 とてもよく効くお薬です。お父様もお飲みになれば、たちまち元気 を取り戻されます。お城のお庭ですから、すぐに取って参ります﹂ ﹁そうか。それは嬉しいな。だが、その薬を取りに行く前に、お前 ほうよう いたわ の体を抱きしめさせておくれ。儂は、長年会っておらなんだ息子と、 抱擁の一つも済ませていないのだ﹂ ﹁はい、お父様﹂ アルテミシアは、弱った父を傷付けないよう、労るように、そっ と、その体に抱きついた。 うら ﹁大きくなったな、アルテミシア。済まなかった。それと、会えて 嬉しい。優しいアルテミシア。さぞ、恨んだことだろう﹂ へんりん かけら 間近で、男の子がずっと会いたかったお父さんの声がする。かつ ての威厳の片鱗も、力強さの欠片も無い。だが代わりに、温かな情 があった、 ﹁いいえ、いいえ、うらんだことなど、一度もありません。お父様 も、お母様も、きっとお辛かったのでしょうから。ぜんぶぜんぶ、 455 しかたがなかったのです﹂ しわ ありったけの気持ちを込めて、父に語った。 それだけでは足りない気がして、皺だらけの汚れた頬を、そっと そっと、何度も撫でた。 こんじょう さいご ﹁そうか。ありがとう、優しいアルテミシア﹂ それが、サイラスにとって今生で最期の言葉となった。 むくろ そしてその顔は、彼の人生の中で一番穏やかなものであった。 み と 父親の死を看取ったアルテミシアは、父の骸に泣きすがり続けて いた。胸中のモリオンがあれやこれやと話しかけるが、涙を止める ことができない。 そんな男の子を、ジャックは複雑な思いで見守っていた。 子の親としてあるまじき仕打ちを、許せないという気持ち。 はは 同時に、最後に見せた後悔と、親らしい言葉。 義母を亡くした時のことが、ジャックの胸中に蘇った。そして、 ついおく ひた この可哀想な子供に比べたら、自分はなんと幸せだったことだろう か、とも。 だが、今は追憶に浸る時ではない。 ﹁そろそろここを出ましょう。クラウズェア姐さんと合流して、お っかさんを探しに行かねぇと。誰が来るともわかりやせんからね﹂ なんと冷たいことを言うのだろうかと思いはしたが、心を鬼にし て、優しい影人間は促した。 ﹁⋮⋮うん﹂ ややあって、少年は身を起こした。 ﹁良い子ですね。⋮⋮誰か、来る?﹂ その時、部屋に近づいてくる気配があることに、ジャックは気が ついた。その数、二つ。 慌てて周囲を見回すが、調度品の数こそ多いものの、隠れられそ うな場所は、無い。 456 ﹁しかたねぇ。お嬢ちゃん、入ってきた奴を視線で固めて下さい。 その後、あっしが︿かかりみ﹀してそいつを気絶させやすから﹂ 段取りを説明するジャックの声を、だが、アルテミシアは聞いて いなかった。 扉の向こうから聞こえてきた話し声が原因だ。 ﹁北門近くの遊歩道で騒ぎがあったようですが﹂ ﹁ネズミが騒いだだけです、大した事ではありません。ミッドノー たいかんしき ル子爵に任せておけば間違いはありませんので。それよりも大聖堂 での戴冠式を早く執り行いましょう。︱︱どうれ、先代陛下はお亡 くなりになりましたかな?﹂ がちゃりと開け放たれた扉の向こうから現れたのは、二人の男女 であった。 一人は、女王ベラ。 けんらん もう一人は、イーストフットヒル侯爵、オズワルド・オズボーン である。 二人とも、鮮やかな色々で染め抜いた絢爛たる衣装に身を包んで いる。式典の正装であり、それは勿論、戴冠式のだ。 そして、オズワルドの手には、小ぶりだが存在感に溢れる、純金 製の宝冠が大事そうに抱えられていた。 ひ つ その宝冠に、ジャックの目が向く。どうしようもなく、意識がそ とっさ ちらに惹き付けられてしまうのだ。 ふしんしゃ 一方、オズワルドは咄嗟に声を出すことができなかった。アルテ のち ミシアの、あまりの美しさに。すぐには、不審者の可能性に思い至 らないのだ。 しばしの沈黙の後。最初に口を開いたのは、オズワルドであった。 ﹁お前は誰だ? 侍女か? 断り無くこの部屋に入るなという、女 王陛下のお達しを知らんのか?﹂ だがこの言葉は、アルテミシアの耳には入らない。少年の赤眼は、 侯爵の横に立つ、美しい金髪の女に向いている。 ﹁おかあさま?﹂ 457 その呼びかけに、女は︱︱ベラは答えた。 わず まぶた ﹁⋮⋮アルテミシア、なの?﹂ ごく僅かに、今までよりも瞼が持ち上げられる。驚いているのだ。 び ぼう だが、ただそれだけ。 氷像のような美貌には、大した変化は生まれなかった。 ﹁は? アルテミシアですと? 何故いま︿色なし王子﹀の話など ︱︱﹂ 侯爵が話しに割って入るが、女と少年はお互いしか見ていない。 ﹁はい、お母様。ぼくはアルテミシアです。お母様をお助けに参り ました﹂ ﹁助ける?﹂ きよう ぼう ﹁はい。侯爵のオズワルド・オズボーンという者と、子爵のタイタ いくさ ス・ゴードンという者が共謀して、この国と王位を奪い取ろうとし ているそうです。それを知らせに参りました。戦の準備をなさるか、 みっし 逃げるか、どちらか選ばなければなりません﹂ おんみずか ﹁こいつは驚いた。反対派の貴族が立てた密使か何かか? だが残 念だったな。これは女王陛下御自らのご意思なのだぞ﹂ あざけ のたま ﹁密使ではありません﹂ さら 嘲り宣う侯爵に、声をかけられたアルテミシアではなく、ベラが 答える。 ﹁なんですと?﹂ ﹁この子はアルテミシア。私の息子です﹂ この言葉に、オズワルドの口がポカンと開き、間抜けな表情を晒 した。 ﹁⋮⋮は? しかし、色なし王子、失敬。第二王子は髪にも目にも いや 色のない化け物のような姿であると聞いておりますが。それに、こ れほど美しい男子など﹂ この時、侯爵の顔に浮かんだ表情から、底知れぬ嫌らしさを感じ たジャックは、生理的嫌悪に身震いした。 ﹁お母様と二人だけでお話しをさせて下さい﹂ 458 ぶ れいせんばん しつ ﹁ええい、さっきから﹃お母様﹄などと無礼千万。少々躾けてやる﹂ は オズワルドの両手、十本ある指のそれぞれには、色とりどりの宝 石の指輪が填まっている。そして、十個の指輪の全ての石は、︿彩 化晶﹀なのだ。 チューニング その中で、青い彩化晶に意識を向けた侯爵は、風の共鳴術を使う ことにした。 ヘレディタリー 共鳴術だ。それも、調律歌無しに、である。貴族らしく、彼は︿ かまいたち 先天共鳴者﹀であった。 小さな︽鎌鼬︾を作り、服だけ切り裂いてやろう。そういうつも りだった。 だが、その試みは実らなかった。 ﹁なんだ?﹂ えい し ろうぜきもの もう一度試してみるのだが、オズワルドの意思に反して、共鳴術 は発現しない。 ﹁なぜだ?﹂ ﹁お母様と︱︱﹂ ﹁ええい、やかましい! 衛士っ、衛士はおらんのか! 狼藉者を かんしゃく 引っ捕らえろ!﹂ な だ 癇癪を起こしたオズワルドは、赤黒く顔を変色させながら金切り 声を上げた。まるで興奮した豚だ。 その甲高い叫び声に、慌てた衛士が足音を響かせ、部屋に雪崩れ 込んできた。 だが、次の瞬間。 剣の柄に手をかけた状態で、衛士達の体は動かなくなってしまっ た。 おちい あぶら あせ にじ オズワルドの共鳴術が不発に終わったのと同じく、アルテミシア の︽視線︾で動きを封じられたのだ。 ただ ﹁なんだ、これは? ⋮⋮貴様⋮⋮まさか、共鳴術師かっ?﹂ 只ならぬ事態に陥ったことを理解し始めた侯爵は、額に脂汗を滲 ませながら、衛士達と、アルテミシアとを何度も見比べる。 459 場に大きな混乱を生んだ張本人である、そのアルテミシアだが。 らんよう 彼の身にも、差し迫った問題が発生していた。 ︽視線︾の濫用が、少年の体に負担を与え始めたのだ。眉間の奥 に生まれた頭痛により、眉根が寄せられてしまっている。 ﹁お嬢ちゃん、大丈夫ですかいっ?﹂ ぞく ひそ 少年の影より思わず上がった声は、侯爵を更に混乱させた。 ﹁なんだ、この声はっ? まだ賊が潜んでいるのか?﹂ ﹁まだ、だいじょうぶ﹂ 健気に答える少年とは裏腹に、集中が解け、︽視線︾の効力が消 か かん えてしまっている。動けるようになった衛士達が、今こそと勇気を こつぜん 振り絞り、果敢にも一歩踏み出した時の事だった。 忽然と。 黒い球体が、室内に現れたのは。 ぼう 夜の森の中よりも、深い谷の底よりも、暗くて黒い闇の中で、赤 い光が茫と、煌めいている。 ﹁︻モリオン、だめ!︼﹂ 既に身より出て離れてしまっているため、その意図は解らないが、 モリオンの怒りを感じたアルテミシアが、咄嗟に制止の声を発した。 そのおかげで、衛士達も、侯爵も、命拾いをしたのだった。だが、 それには誰も気付かない。 せいかん 突如現れた化け物に、エリートであるはずの衛士達も驚き怯える 他はない。 サークレット 感情薄く静観していたベラも、さすがに一歩後ずさる。 女王が額に冠する魔除けの環状額飾りは、その効力を発揮できな いでいる。否、正確に言えば、かつてのモリオンと今のモリオンと たたず では、有する力が違うのだ。 い きら その、恐怖の隣に佇むのは、白い髪、透明な目に戻ったアルテミ シアだ。それは、人々が忌み嫌う、呪われた姿。 ﹁い、色なし王子﹂ そこで、オズワルドはあることに気付き、ハッとした。 460 ばん ま でん 先程までの黒髪と赤目。そして化け物の黒い体と中に灯る赤い光。 ﹁万魔殿﹂ いにしえ 恐怖と嫌悪の入り交じった声が漏れる。 スフィリカル・エンシェ まン つツ えい オズワルドの家系は古い。古の統一国家時代から続く、神官の家 れんめん 系だ。︿全き民﹀の末裔であるとの自負もある。それを裏付ける力 ぶんけん があり、遺産もある。その遺産の一つ︱︱連綿と受け継がれた知識 と。 しょうこうし おさ おさ 魔物の母となる者。総ての魔を治め、身に収め、この世の魔を すべ の中、文献にあった存在は、こう記されていた。 す 統べる ﹁お前、まさか、︿晶公子﹀なのか⋮⋮?﹂ であれば、生かしておく訳にはいかない。それは、人間の敵だと、 オズワルドは理解していたからだ。 すき まつえい その危険人物は、どうしてか解らないが、今は弱っている。その チューニング レゾナンス 隙を狙って、神官の末裔はもう一度共鳴術を試みた。 ヘレディタリー 今度は茶色の︿彩化晶﹀だ。 彼は︿先天共鳴者﹀であり、︿調律歌﹀無しに︿共鳴術﹀を行使 することができる。 たいていの貴族は︿先天共鳴者﹀である。彼らは調律歌無しで術 を行使できる代わりに、一種類の石しか使えない。だがその速さは エクワイアード 脅威であり、石の消耗も少ない。 せじゅつ 対して、︿後天共鳴者﹀は術の行使に︿調律歌﹀を必要とする。 施術には時間がかかってしまうが、その代わり、最大二種類の石を 扱うことができ、ある程度の工夫を加えることもできる。 それなのに。 そんな常識をくつがえし、侯爵は全ての色彩の石を使うことがで ずいいち きた。それも、調律歌無しに、だ。そんな特別な人間は、この国に おいては彼ただ一人きりである。 オズワルドは、グリーンウェル随一の共鳴術師なのであった。 侯爵は、アルテミシアが居る辺りの床を崩れさせるつもりだった。 黒く不気味な化け物も、その化け物を従える魔物の首領も、もろと 461 も地面に叩き落とすつもりなのだ。そして今度こそ、彼の共鳴術は 成果を現した。 だが、気が急いて焦ってしまった結果。 彼の共鳴術は制御を失い、部屋を中心に、城の一角を崩れさせて れん ま しまった。術の使い方は充分に心得ていた侯爵だったのだが、その なきがら 精神は充分に錬磨されているとは言い難かったのだ。 国王サイラスの亡骸も、衛士も、侯爵も、女王も落ちる。 そんな中、︿かかりみ﹀したジャック=アルテミシア唯一人が動 ふち いた。崩れる床を飛ぶように駆け、ベラの腕を掴む。 侯爵も、なんとか片手で崩れた床の縁に捕まり、重い体を支えて いる。もう片方の手には、黄金に輝く宝冠。 ほ ﹁貴様、その、姿っ、まさか、︿影の英雄﹀、なのかっ?﹂ 苦しそうにあえぎあえぎ、侯爵は吠えた。石の力を使えば、体を 浮かせることも、崩れた床を元に戻すことさえできる。 いちじる 彼なら、できるのだ。 きゅうち だが、著しく集中に欠いた今の状態では、何もできはしない。現 に、共鳴術で窮地を脱するという考えにすら思い至らないでいるの だ。 かん さわ しゃく さわ ﹁だったらどうだってんだ? え?﹂ 癇に障るその声と、癪に障る単語に、自然、ジャックの声は吐き 捨てるような物言いになった。 ﹁バカか! お前を、︿天恵の儀﹀で、この世に、呼び出したのは、 儂だぞ! この宝冠を、使えるのは、儂だけなのだぞ! 影の英雄 き れつ なら、儂に従え! そんな女、放っておいて、儂を︱︱﹂ そこまで言ったところで、床の亀裂は更に広がり、部屋の全てが せつ な 崩れ去ろうとした。 しょうか ほんの一瞬︱︱刹那の中で、ジャックは迷った。 この陽気な影人間は、この︿晶果﹀の者ではない。ひょんな事か ら何かの力で、元居た晶果からこの晶果へとやって来たのだ。そし てその原因を作ったのが、オズワルド・オズボーンであり、彼が手 462 にする︿宝冠﹀だという。 いま掴んでいる手を離し、オズワルドの手を取れば、元の世界へ 帰ることが可能なのかもしれない。それは、とても簡単で、とても 重要な選択だった。 だが、結局。 ジャックは手を離さなかったのだ。ベラの︱︱アルテミシアの母 の手を引き上げ、崩れる部屋から廊下へと、飛び込んだ。 きゅうじだい い ぶつ 素っ頓狂な悲鳴を上げながら、侯爵は落ちていった。 が れき 旧時代から役目を果たし続けた遺物も、黄金の光を放ちながら、 愚か者と共に落ちる。 かっとう 全てが落ちていき、瓦礫に埋もれて消えた。 ジャックの葛藤は、誰にも知られず、誰に知らせる事も無く、消 えていった。それでもジャックは満足だった。 ジャック=アルテミシアは身を起こし、モリオンもその身に入り、 髪と目は染まった。 遅れてベラも立ち上がる。 や ゆ ﹁助けて良かったの? 私を﹂ この国の女王は、揶揄するように、しかしどこか無機質とも聞こ える声で問うた。 ﹁シア嬢ちゃんのお袋を、あっしが助けねぇ訳がねぇ﹂ ﹁ぼくは、お母様をお助けに参りました﹂ ﹁そう﹂ ただの一言だった。まるで、全く興味が無いとでも言うように。 そして、ジャックの心に深い怒りを生じさせた。 ﹁そんだけかよ。え? 他に言うことはねぇのか?﹂ とぼ 大きくも激しくもない声だった。だが、低く重い声だった。 けんちょ この言葉で、今まで表情の変化に乏しかったベラの顔に、初めて 生まれる顕著な色があった。 ちょうしょう 高らかな笑い声が上る。 それは、嘲笑。 463 ぶ べつ その顔には、侮蔑が。 ﹁﹃言うこと﹄ですって? ありがとうとでも言えと言うの? 私 うつむ は助けて欲しいなんて、一言も言ってはいないのに?﹂ この言葉に、少年は俯き、ジャックは殺意すら覚えた。 ﹁てめぇ﹂ つ 対照的な二人の反応を気にすることもなく、ベラは、胸の内に溜 め込み続けた全てを、口を衝くに任せてさらけ出した。 ﹁助けて欲しい時なんて、もうとっくに過ぎ去ってしまったのよ! あのひと なぐさ 私が辛い時、誰も助けてくれなかった! 私が苦しんでいる時、 サイラスは侍女や巫女達と浮気を繰り返し、慰めの言葉一つたりと もくれなかった! そして、私が悲しんでいる時︱︱︱︱優しい言 葉をくれた人が居た⋮⋮﹂ 激昂から、落ちるトーン。 いつわ ﹁へっ、それがあの豚みてぇな男かよ? あんたは本当に馬鹿な女 だぜ。それで侯爵から、たんまりと偽りの愛でも貰ったのか?﹂ ﹁愛ですって?﹂ さも面白いことを聞いたと言わんばかりに、美しい顔に笑いが浮 かぶ。 ﹁あいつ、同性愛者よ? キスの一つも貰ったことがないわ﹂ あわ さそ 笑いは⋮⋮己へと向けられたものだった。 その、あまりの哀れを誘う姿に、さすがのジャックも言葉が出て こない。 ﹁お母様﹂ それまで、ただ黙って話を聞いていたアルテミシアが、静かに語 りかける。 ﹁⋮⋮なに?﹂ 女王の顔には、未だに自嘲の笑みが浮かんでいる。 ﹁ミッドノール子爵は、我が騎士クラウズェア・セルペンティスが 討ち取りました。イーストフットヒル侯爵も、あの通りです。悪い 人たちは居なくなりました。お母様、もう安心ですね﹂ 464 その静かさに慰められでもしたのか、ベラの顔から暗い笑みが消 えた。 ﹁そうかもね﹂ 寂しそうに目を伏せてしまうベラ︱︱ それを見て悲しくなるアルテミシア︱︱ その時。 ﹁なんだ、この気配は?﹂ 只ならぬものを感じ取り、ジャックは咄嗟にその方向を探った。 ﹁ジャックさん?﹂ ﹁あれは?﹂ 少年の手を借りてジャックが指さす方、そこには、巨大な化け物 が、現実感に乏しく、その異様を晒していたのだった。 しかも、クラウズェアと別れた場所から、そう離れてはいない。 ﹁ぼく、止めに行かなくっちゃ﹂ む ぼう ﹁アレをっ? 無茶です!﹂ 少年の無謀な決意を、当然ながらジャックは止めた。 ﹁ううん。行かないと。だってここはお母様の住む家で、お兄様が 帰ってくる家だから﹂ アルテミシアの心は、全く揺らぎがない。白い面が母を向き、相 も変わらず変化に乏しい声と表情で、こう告げた。 ﹁お母様、どこか離れた場所へお逃げ下さい﹂ そう言って、元は寝室があった空間の、崩れてその先がない廊下 の端まで歩いて行く。 ﹁アルテミシア﹂ 小さな背に声がかかり、アルテミシアは振り返る。 ﹁⋮⋮旅は、楽しかった?﹂ 状況に似つかわしくない、場違いなその問いは、城に来てから初 めて、アルテミシアに微かな笑みを浮かべさせた。 ﹁はい、とっても﹂ ﹁そう。良かったわね﹂ 465 ﹁はい! では、行って参ります、お母様﹂ 466 六章⑤﹃化け物﹄︵前書き︶ このお話︵始まりのお話し編︶も、もうそろそろお終いとなります。 そこで、いつも読んで下さってる皆さんに感謝の気持ちをお伝えし たかったので、この場を借りてお礼申し上げます。 本当に、ありがとう御座います。 好きで執筆していることではありますが、やはり、それを他人に読 んで頂けるというのは、また格別の嬉しさがありますから。 ともあれ、あともう少しおつきあい頂けたら幸いです。 467 六章⑤﹃化け物﹄ つちくれ クラウズェアとフィデリオの二人は、化け物と戦っていた。 そう、化け物だ。 地面に突き出た巨人の上半身。土塊でできた巨体は、肩から腰ま でがおよそ2.5m。それを、岩の鎧が覆う。 右手には、クレイヴ・ソリッシュを模した大剣が握られ、剣身の たずさ みで一〇m。 左手に携えた騎士が持つような五辺形の大盾は、あまりの大きさ そび いわお に構えることができず、横に寝かせて地に置かれている。 ひきにく こ その勇壮に聳える巌の上半身とは裏腹に、腰から下は嫌悪を誘う。 うごめ 泥と挽肉を捏ねて作ったのかと思わせる、ドロドロとした不定形の ひ あ 塊が蠢いており、おぞましいことに、地面や触れる物の全てを溶か は し喰っている。それに食い散らかされた跡が、干上がった川のよう にくぼんだ道を作っている。その道は、まるでナメクジが這った跡 けが さま を想起させてならない、奇っ怪なヌメリによって塗りたくられてい る。 ぼうとくしゃ これほど大地が汚される様を、恐らく誰も見たことはないだろう。 そして、その大地の冒涜者たる巨人の首の上。本来であれば頭が 乗っかっている部分からは、甲冑姿のタイタス・ゴードンの上半身 が突き出ていたのであった。 右の腕には、黄金剣クレイヴ・ソリッシュ。腕と剣が溶け合い、 手首から先に剣身が生えている。 左の腕は、これまた奇っ怪。斬り飛ばされた二の腕の先が、異様 に長い。だらりと垂れ下がったそれは、人の身とも、自然界の物と にじ も思えない。あえて例えるなら、ミミズのお化けか。様々な色が混 ざりきれずに絡み合う、まるで、濁った虹だった。 そんな化け物と、二人の騎士は戦っていたのだ。 468 いや、戦いと呼んで良いものか。 そもそも、タイタスに近寄ることが難しいのだ。 まず、動きが速い。 巨大な岩石剣だが、大きいということは長いということである。 柄を握る手をほんの少し動かしただけで、剣の切っ先は大きく動く。 そして、速い。更に、剣がなぎ払う範囲が広い。その攻撃範囲から 逃れるので精一杯なのだ。 いわお 仮に、剣をかいくぐって近寄れたとしよう。だがまだ、小屋ほど うごめ もある岩の大盾がある。その向こうには、これまた巌の大鎧。そし て、その腰から下に蠢く不気味な塊には、おいそれと触れる訳には いかない。 ゆ えつ おさ わいしょう 騎士達が手も足も出ないのを見下ろしながら、タイタスは心の底 から湧き上がる愉悦を抑えられないでいた。 ﹁遅いなぁ。遅い遅い!﹂ 縦に、横に、岩石剣を振る。ただそれだけで、矮小な者達は必死 で逃げ惑う。 生まれ変わった心地であった。 くく 否、実際にタイタスの体は作り替えられ、より強く、より大きく なった。もはや人の括りから外れた超越者。︱︱もう誰も、血統や、 母親が誰であるかなど、陰口は叩かせない。タイタスは、血よりも、 家柄よりも、なお強大な力を、その身に宿したのだから。 つ 岩石剣が、また並木の一本を切り倒した。 ﹁どうしたものやら﹂ あくたい 飛び退りながらフィデリオが呟き、 せっぱつ ﹁くっ、化け物め!﹂ ざこ クラウズェアは切羽詰まった悪態を吐いた。 ﹁雑魚共め! 逃げるだけか? 騎士らしく、剣を交える勇気もな いか!﹂ ちょうはつ なぎ倒した木を、おぞましい下半身で溶かし喰らいながら、タイ タスは挑発する。 469 きょうこう 勿論、そんな挑発に乗る二人ではなかったが、かと言って、逃げ 続ける訳にもいかない。 きも つぶ 騒ぎを聞きつけた兵士達が集まってきたが、恐慌をきたして逃げ だ め もと 去るか、肝を潰して遠巻きに眺めることしかできない。 まき 駄目元で薄紅の炎を浴びせかけてはみたものの、巌の表面を熱す るにとどまり、クラウズェアの怒りに薪をくべるだけの結果となっ た。 ささや その、蛇の舌のように伸びた薄紅の走り火を見て、一計を案じた フィデリオが、クラウズェアにそれを囁いた。 それに頷く赤毛の騎士。 ﹁タイタスよ!﹂ ずうたい クラウズェアは叫んだ。 で たら め ﹁図体ばかり大きくなって、総身に知恵が回りかねているようだな ! ただ出鱈目に剣を振り回すばかりではないか!﹂ ﹁なんだと?﹂ へきがん なまくら この挑発に、額に青筋を浮かせながら女騎士を睨み付けるタイタ スの、その碧眼は血走って濁っている。 ﹁もっとよく狙ったらどうだ? わたしはここだ! そんな鈍剣な ぞ、我が名刀で受け止めてくれる!﹂ この言葉がいよいよタイタスの理性を消し飛ばし、 わんとう ﹁ならばっ、受けてみろ!﹂ うな 頭上にかざされた細い湾刀ごと、女の身を叩き潰さんと、岩石剣 が風を巻き上げ振りかぶられ、唸りを上げて振り落とされた。 ぐ れん 無論、馬鹿正直に受け止めるつもりなど、クラウズェアにはない。 彼女は、左手側に避けた。 だが、ただ避けただけではない。 おそ ︿薄紅﹀の刀身が燃え上がり、切っ先から空中へと紅蓮が走る。 炎でできた蛇の舌は真っ直ぐに伸び、タイタスの顔を襲った。 ﹁ぬぅっ?﹂ 大盾は間に合わない。仮に間に合うとしても、岩石剣が邪魔で上 470 手く動かせないだろう。そこでタイタスは巨腕でない方の右腕を動 かし、クレイヴ・ソリッシュの剣の腹で炎を防いだ。 のぞ 炎が剣身を舐め、僅かに赤熱させたが、それで終わりだ。 光の剣をかざしながら下を覗くと、女騎士の姿があった。 だが、フィデリオの姿は無い。 ﹁どこだ?﹂ め くら 慌てて首を巡らせれば、タイタスの左後方に、目当ての人物は居 とうてき た。クラウズェアが目眩ましをしている隙に、大盾のかげに隠れて 回り込んでいたのだ。 そしてフィデリオは、既に投擲動作を終えて短剣を放ったところ であった。 ﹁ぐあッ!﹂ 悲鳴を上げてのけぞったタイタスの、その左目に、深々と短剣が 突き刺さっている。その刃は脳まで達していた。 ﹁知恵の勝利だ﹂ つか ま がん か 不敵な笑みとともに、フィデリオは言った。 だが、その勝利宣言も束の間。 タイタスに突き刺さった短剣が、眼窩の中にズルズルと呑み込ま れ、消えていく。 喰っているのだ。 ﹁なに?﹂ さすがのフィデリオも、驚きを禁じ得ない。 つつじょう そして、タイタスの左腕から垂れる不気味な長腕がフィデリオを 向いたかと思うと、筒状の先端から、金属の弾丸が発射されたのだ った。その金属弾は、タイタスの体内で作り替えられた、短剣の成 れの果てであった。 フィデリオは、後ろに飛び退る。 ど 飛び道具に対して、後ろに避けることは愚かの極みである。何故 なら、直線で飛んでくる物に対し、その射線上から退くことにはな らないからだ。 471 だが、フィデリオにはそうせざるを得ない理由があった。 は みぞ 金属弾の射出と同時に、巨人の大盾が横薙ぎに振るわれていたか らだ。 右は、タイタスが這った不気味な溝がある。左からは、大盾が迫 る。細剣を抜いていれば、弾丸を叩き落とすなり逸らすなりできた たた かもしれないが、投擲のために鞘に仕舞われていた。片腕の不利が 祟ったのだ。 唯一の救いは、高所からの射出により、金属弾の射線が地面と水 平ではなく、斜めに撃ち下ろす軌道であったことだろう。 フィデリオのステップバックは俊敏だった。おかげで、胴体への 直撃を避けることができたのだ。 だが、無事という訳にもいかなかった。 ﹁くっ﹂ 地面を蹴るのに使った左足が、丁度膝を撃ち抜かれ、千切れ飛ぶ。 だが彼は、恐るべきバランス感覚を発揮し、倒れなかった。 続いて迫る大盾を、残った右足を軸にしながら、切り落とされて 短くなった左腕と、無事な右腕を使い、身を守る。 衝突と同時にフィデリオの両腕はひしゃげ、だが、頭と胴体は何 とか守った。 しかし、さすがにその場に踏みとどまることは叶わず、何メート ルも弾き飛ばされて、遊歩道の整備道具を仕舞う園芸小屋にぶつか り、くずおれた。 ﹁先生ッ!﹂ クラウズェアが悲鳴を上げると、 ﹁案ずるな、大した事は無い﹂ すぐさま、弟子への師の返答があった。相変わらず傷口からは血 オートマトス ちくしょう の一滴たりとも零れてはおらず、苦痛のうめき声も発していない。 ぶ べつ ﹁ふんっ、︿自動人形﹀か。畜生以下の哀れな存在め﹂ タイタスが侮蔑混じりに吐き捨てた︿自動人形﹀とは、太古の統 一王国時代に作られた、彩化晶を動力源とするカラクリ人形のこと 472 である。自発的な思考ができずに家事や土木作業などの単純労働を する物から、まるで人間さながらに動き、話し、思考する物まで、 様々あったと云われる。旧大国の滅亡と共に製造技術も失われたと ちょうろう 云われているが、定かではない。 フィデリオは、タイタスの嘲弄には応えない。 ぐ ろう だが彼の代わりに、口を開いた者があった。 ﹁私の先生を愚弄するな﹂ クラウズェアであった。 決して大きな声ではなかったが、まるで彼女の深い怒りが剣に乗 先生 呼ばわりか?﹂ り移ったかのように、炎を吹き上げている。 ﹁ほう? 生者でないガラクタを タイタスが言い終わる前に、クラウズェアは駆けていた。 待っていたとばかりに振るわれる、長大な岩石剣。 横薙ぎに迫るその剣を︱︱なんと、クラウズェアは薄紅で斬り裂 きょうがく いてしまった。 ﹁なにっ?﹂ タイタスの驚愕をよそに、その身に迫る女騎士。 だが、そこまでだった。 ﹁くっ?﹂ 炎が風で揺らいだような︱︱。そんな奇妙な、胸騒ぎにも似た感 覚を覚えた時、クラウズェアは咄嗟に立てた薄紅を体の正面にかざ したのだった。 かまいたち 風が、吹き抜けた。 鎌鼬を伴った突風が、タイタスの前面に発生し、クラウズェアを 吹き飛ばしたのだ。幸い、薄紅のおかげで直撃は受けていない。 並木や地面を切り刻み、辺り構わず傷を付けていく風の刃。 後方に吹き飛ばされたクラウズェアだったが、薄紅をかざしてい る限り、その身が刻まれることはなかった。だが同時に、突風で前 進することもできない。 更に驚くべきことが起こった。 473 薄紅で斬り飛ばされたはずの岩石剣が、みるみる元の姿へと戻っ ていくのだ。 これには理由がある。 突風や鎌鼬は、青い︿彩化晶﹀の力だ。ノーマンの物を呑み込ん だとき、備わった力だ。 熱情 の律動が宿ったのだ。それ 再生の力は、これは哀れな女共鳴術師の力だった。赤い彩化晶こ そ取り込んではいないが、その りつどう に、石がなくとも今のタイタスであれば共鳴術は使える。 人と彩化晶とには、律動がある。 だがそれ以外のものにも︱︱獣も、山川草木や大気にさえも、ア ルテミシアが見ている風景が証明しているように、あらゆるもの、 こたいか あらゆる場所に︿銀の霧﹀は存在した。 銀霧︱︱すなわち、彩化していない︿月の雫﹀である。 こたいか きたい へんざい 共鳴術には彩化晶が使われるが、彩化晶は銀の月から零れ落ちた くる ひた む 物が彩化したものであり、︿銀霧﹀としてならあらゆる場所に遍在 している。 リズム タイタスは、それを取り込んだのだ。 メロディー い 命が刻む律動と、タイタスへと向けられる狂おしくも直向きな熱 情の歌とを。 女の愛が、タイタスの傷付いた体を癒やし、岩石剣を再生させる。 ﹁俺は無敵だッ!﹂ タイタスは吠えた。 周囲の大気を吸い溶かし、減った青い石を補充する。そして、︽ 突風︾と︽鎌鼬︾の共鳴術を放つ。 クラウズェアは、風の圧力を地面に逃がし、今度は吹き飛ばされ ることはなかったが、その場に止まることもできずに後ずさる。 ﹁ちっ﹂ 薄紅によって風の刃が阻まれるのを見て取ったタイタスは、風の タスラム 共鳴術を止め、濁虹色の長腕を向けた。そして、地面と、それから 兵士達の体を貪り食い、混ぜ合わせて作った土弾を撃ち出す。 474 狙いは当然、クラウズェアだ。 次々と撃ち出される土弾は、女騎士の体の至る所を狙って射出さ れる。上下左右へと次々に撃ち分けられる土弾に、クラウズェアも しゃへいぶつ 薄紅だけでは対処しきれない。斬り、叩き落とし、逸らし、あるい は動き回って避けたり、並木などの遮蔽物を取って身を隠す。だが、 タスラム いくつか土弾を撃ち込まれると、遮蔽も破壊されるので一カ所には 止まれない。 はじ しんしょく しかも︱︱なんと恐ろしくもおぞましいことか。土弾がぶつかり 弾けた地面や木の幹では、巨人の下半身と同じく、浸食のような現 象が起こっているのだ。浸食は長続きせず、広範囲に広がりこそし なかったが、それに当たれば恐らく、まともな死に方はできないだ ろう事は予想された。 ﹁鬼ごっことは。女子供しかやらん遊びだぞ? いやはや、お前に はむしろ相応しいか﹂ 高笑いに混じり、嘲笑の言葉が放たれる。 ﹁挑発に乗るな!﹂ 身動きの取れないフィデリオが、鋭く弟子に忠告を飛ばす。 ﹁ガラクタは黙っていろ!﹂ が れき 声の方へ放たれた土弾は、フィデリオに直撃こそしなかったもの の、園芸小屋の壁を撃ち壊し、瓦礫で彼を埋め尽くしてしまう。 ﹁先生!﹂ ﹁お前の相手は俺だろうが!﹂ そう言って土弾を乱射するのだが、クラウズェアには当たらない。 ﹁ええいっ、相も変わらずちょこまかと!﹂ 忌々しげな叫びと共に、土弾は止んだ。だが、また違った異変が 生じる。 ﹁なんだ?﹂ クラウズェアは違和感に気がついた。 気温が下がり始めたのだ。 春とは言え、まだ寒風の吹くこの辺りではあったが、更にそれを 475 しの 凌ぐ、冬に逆戻りでもしたのかと思わせる冷気が満ち始める。 否、そうではなかった。 冷気が発生したのではない。熱が奪われているのだ。 だいだい えんすい タイタスは、土や風と同じく、周囲の熱まで貪り始めていた。そ して、体内にある橙の彩化晶を使った。 タイタスの眼前に、火の塊が生まれる。 ﹁なにっ?﹂ そして、驚くクラウズェア目がけて、その︽火球︾から円錐状に 炎が吹き出した。 い たい 、 、 、 、 、 、 咄嗟に木陰に飛び込んだクラウズェアだったが、それは無意味だ った。 しやへい 何故ならば。 、 、 、 、 、 、 遮蔽にした樹木ごと焼かれ、遺体も残すことなく、クラウズェア は焼け死んだのだった。 跡には⋮⋮ 赤毛の騎士が存在した印を残すかのように、薄紅が地に突き刺さ るのみであった︱︱ 476 六章⑥﹃決戦﹄ ﹁ローズ!﹂ 惨劇の舞台に駆けつけたアルテミシアは、それを見た。 あ 地面や木々が無残に切り裂かれた姿を。そして、大切な幼なじみ の少女が、一瞬で燃え尽きるのを。 だが、物を知らない少年は、目が明いてから数ヶ月しか経ってい 死 というものを、である。 ないこの男の子には、目の前の光景がよく理解できなかった。 つまり、 ﹁なんてことだ⋮⋮﹂ ジャックが呻いた。その博識な影人間に、 ﹁ジャックさん、ローズは? どこに消えたの?﹂ アルテミシアは問いかけるが、問われた相手は応えることができ ない。 その代わり、別の声が答えた。 ﹁死んだのさ。燃えて灰になったんだよ。解るか? 哀れで愚かな、 ちょうろう 色なし王子。貴様もじきにそうなる﹂ 嘲弄の声をかけると、タイタスの巨体はじわりじわりと地を喰い た ながら、アルテミシアへと迫った。 ﹁クソっ垂れが!﹂ 殺意の塊となったジャックに、アルテミシアは問うた。 ﹁ローズ、死んじゃったの? お父様みたいに死んじゃったの? もう会えないの?﹂ ﹁お嬢ちゃん⋮⋮﹂ 一刻も早くこの場から逃げなければならないのだが、白い頬を涙 で濡らす男の子を、無理矢理動かす事が躊躇われた。ジャックは逡 巡し、それでも心に鞭を打ってアルテミシアの体を動かそうとした とき、 477 その身から、モリオンが飛び出したのだった。 モリオンは怒り狂っていた。タイタスの私兵団を壊滅させた時よ りも、なお一層だ。だから、躊躇わずに︽視線︾を使った。 相手は勿論、タイタス・ゴードンである。 ︻イツ、イツ。クツ、クツ︼ ﹁なんだ?﹂ いっさいがっさい 突然現れた魔物に驚きの表情を浮かべたタイタスは、何をする暇 も与えられず︱︱その身を、石に変えられたのだった。 肉の身も、土の身も、岩の武具も、金属の武具も、その一切合切 が。そして、砂となって崩れ落ちた、その砂山の中に、大きな︿彩 きょうい み わざ 化晶﹀が、黄、青、橙と、三つ並んで転げたのだった。 脅威は去った。 ジャックは、その大いなる超常の御業を目の当たりにし、声が出 ない。 モリオンは、己が成したことを見届けると、急いで母の体内に戻 った。そうして、何とか零れ落ちる涙を止めようと胸中から語りか けるのだが、アルテミシアはますます泣くばかりだ。 ︱︱その時であった。 ﹁ローズ?﹂ 話しかけられた⋮⋮アルテミシアはそんな気がした。 声のする方を向くと、そこには地に刺さる薄紅が目に映った。そ の薄紅から、声が聞こえるのだ。アルテミシアにしか聞こえない声 が。 いぶか ﹁お嬢ちゃん?﹂ 訝り声をかけるジャックには応えず、ふらふらと歩み寄ったアル りつどう テミシアは、薄紅の柄に、そっと触れた。 リズム せんりつ 触れた手から、律動が伝わる。アルテミシアにしか判らない、命 の律動が。 ﹁ローズ?﹂ 声をかける度に、旋律が流れる。まるで、呼びかけに応えるよう 478 に。 ﹁ローズ!﹂ メロディー かがや 呼びかけに、歓喜の旋律が応えた。︿薄紅﹀が、赤い赫きを放つ。 その赫きはあまりに強く、まるで紅蓮の炎そのもので、やがて熱も 伴い本当の炎になった。 ﹁うおっ? ちょっ、待っ︱︱﹂ その紅蓮に、身の危険を感じたジャックは慌てて動き、悲鳴混じ ますます りの声を上げながらアルテミシアの髪と背の間に逃げ込む。 つ 紅蓮は止まず、益々盛んに燃え、赤を増し、熱を増す。だが決し て、アルテミシアを傷付けることはない。 そして、爆発するように燃え上がった火柱が空へ伸び、天を衝い た後は、縮んで地に戻った。 後には薄紅も無く、換わりに、人の女性の形をした炎が在った。 体は、一定の色を持たない。赤、オレンジ、そして白を経て、青 グラデーション にもなる。刻々と色を変えており、体全体が一度に変わるのではな く、段階的な移行をしている。 髪は紅蓮で、腰まで燃え落ちている。 いぎょう そして、目は太陽の如き金色だ。 それは、その炎の異形こそが、クラウズェア・セルペンティスで あった。 クラウズェアは、束の間、眠りについた心地だった。タイタスと の戦いも、己の体が炎にまかれる瞬間も。そして、自分が死んだこ とを思い出し、今こうして居ることを不思議に思い、我が身を見下 ろした。 炎だ。足も、腹も、胸も。眼前に掲げた腕も、炎だった。 炎の化け物だ。 彼女の認識は現実を受け入れきれず、限界を迎えようとした。 その、直前。 ﹁ローズ!﹂ 炎の体に抱きつく者があった。 479 ﹁シア?﹂ クラウズェアにとって、この世で最も大切な存在。その少年が、 こう言ったのだ。 ﹁ローズ、きれい﹂ ﹁え、⋮⋮き⋮⋮れ、い?﹂ ﹁うん。とってもきれい。なによりもきれい!﹂ この言葉で。 う い そんな単純な言葉で、クラウズェアの心は落ち着いた。彼女の全 ほうよう てを、少年は受け容れたのだ。少女は、受け容れられたのだ。 ﹁シア!﹂ クラウズェアも、炎の腕で抱き返す。 ﹁ぎゃーーーっ?﹂ 死の恐怖に怯えるジャックが叫んだが、抱擁を交わす二人には聞 こえない。 代わりにアルテミシアの耳に届くのは、クラウズェアの音だった。 素直で、 力強く、 にぎ 明るくて、 賑やかな、 楽しい音。 ずっと聴いていたい音だとアルテミシアは思った。そして、包み ほど 込んでくれる熱もまた心地良く、ずっとこうして抱き合って、一つ ぬ になってしまいたい程だった。 ﹁シア、顔がびしょ濡れよ?﹂ ぬぐ まさか自分が原因で流れた涙だとは知らず、クラウズェアは白い 頬をそっと拭った。それで涙は一瞬で蒸発したが、アルテミシアの 肌を焼くことは無い。 ﹁ちょっとおかしい! なんかおかしい! 二人とも離れて! と りあえず離れて!﹂ それまでずっと悲鳴混じりに騒ぎ立てていたジャックの声は、や 480 っと二人の耳に届いた。その声に促され、身を離して辺りを見ると、 ひきにく 信じられない事態が起こっている最中であった。 ﹁なんだ、あれは?﹂ クラウズェアの金色の目には、砂山が挽肉の山へと変わっていく のが見えた。 ﹁まだ死んでねぇのかよ﹂ 気味悪そうにジャックが漏らす。 ﹁︻モリオン? ⋮⋮うん、おねがい︼﹂ 我が子の提案に応じたアルテミシアの体から、モリオンが出てく うごめ る。そしてまた、︽視線︾を肉塊へと向けた。 すると、先程の再現で、蠢く肉が石化し、砂になる。だが、その 中心で三つの彩化晶が強い輝きを放つと、今度はすぐさま砂から肉 へと戻っていく。 もよお いや、砂を喰って肉に変えているのだ。 ﹁オエーッ、吐き気を催す光景ですねぇ﹂ しゆこう 宿主の髪の隙間から覗き見たジャックが、率直な感想を述べた。 ﹁うむ、同感だ﹂ クラウズェアが首肯する。 ﹁どうしよう?﹂ モリオンを身に収めて視力を得たアルテミシアが、二人に問いか ける。 ﹁一目散に逃げるってぇのはどうですかい?﹂ このジャックの提案に、 ﹁そんな訳にいくか!﹂ ﹁ぼくはここを守りたいの﹂ 二人は即答した。 固める から︱︱﹂ ﹁あ、やっぱそうですよねぇ。んじゃあ、戦うしか手はなさそうだ﹂ ﹁うん、戦おう。ぼくが ﹁ダメです﹂ アルテミシアの提案は、途中でジャックに却下された。 481 ﹁どうして?﹂ ﹁シア嬢ちゃん、さっき︽視線︾を使いすぎて、頭イタイイタイに なりかけたでしょう? もうダメです。今日はお終い﹂ ﹁そんな。こんな大変なときに︱︱﹂ ﹁シア、めっ﹂ 食い下がるアルテミシアを、両手を腰に当てたクラウズェアが怒 しか って見せた。 叱られたアルテミシアは、しょげた仔犬みたいに頭を垂れる。 ﹁わたしが行こう﹂ 黒髪を撫でながらクラウズェアが言う。 ﹁うっひゃ? ⋮⋮そうですねぇ。ところで姐さん、︿薄紅﹀はど うしたんです?﹂ 伸ばされた炎の手に驚き引っ込み、髪のかげから問うジャックに、 燃え盛る手を胸に当て、クラウズェアは答えた。 ﹁うむ。この身の内にあるというか、体そのものが薄紅というか⋮ ⋮よく判らん﹂ ﹁んじゃあ、殴ったり蹴ったりするしかなさそうですねぇ﹂ つちくれ つぶて ﹁ん⋮⋮む、そうだな。何とか頑張ってみよう。ところで、敵は風 の共鳴術と火の共鳴術を使う。それから、気味の悪い土塊の礫を飛 ばしてくる。だから、二人は遠くに下がっていて欲しい﹂ ﹁共鳴術ですかい? そんならあっしには効きませんし、お嬢ちゃ んにも効きませんよ﹂ ﹁効かない?﹂ ﹁うん﹂ ジャックの言葉を受けて、アルテミシアが答えた。 ﹁以前、火の共鳴術を受けたことがあるんだけれど、なんだか、熱 くなかったよ。体の中を素通りしていく感じ。妖精境の方が暑かっ た﹂ 少しだけおかしそうに言うアルテミシアに続いて、ジャックが言 葉を補った。 482 つぶて ﹁お嬢ちゃんは不思議ぃーな体質をしておりやして、共鳴術を吸い 取ってしまうみてぇなんですよ、ええ﹂ ﹁吸い取る?﹂ ﹁はい。だから、共鳴術は効きません。そいから、飛礫なら避けま すから大丈夫﹂ ﹁何故、そんなことが判る? いや、一度は火の共鳴術が効かなか ったこともあったのだろうが、だからといって、全ての共鳴術が掛 からないとは限らんだろう?﹂ ﹁んー⋮⋮豚みてぇな侯爵が云ってました。お嬢ちゃんは特別な子 で、神秘の力があるって。あと、影の国の医術で見立てたところ、 やはりそういう診断結果が出てます﹂ ジャックの言葉はめちゃくちゃであった。アルテミシアの体質に であろうはずがない。 関しての知識は、︿練丹洞﹀の手記から得たものである。ましてや、 影の国の医術 だが、この説明でクラウズェアは納得した。 ﹁なるほど。侯爵は代々神官の家系と聞く。この世の神秘に通じて いるのだろうな。それに、ジャックの見立てなら、間違いあるまい﹂ すみ つ 理に明るくない彼女だからこそ、そう素直に信じたのであった。 それに、ジャックのお墨付きであるならばと、そう判断したのだ。 この信頼に、当のジャックは大変心苦しくなってしまったが、そ んなことは顔に出さず︱︱出す顔も無いのだが、ともあれ、しれっ とこう言ったのだった。 ﹁ほい、作戦終了。じゃあ、おっぱじめましょう!﹂ 作戦も何もあったものではない。だが、悲観も自棄も無く、ただ 楽観の空気があった。 クラウズェア達が話している間に、タイタスは復活していた。い ひざまず や、よりその脅威を増していた。 やぐら 身長一〇mの巨人が、跪いた姿勢から立ち上がる。まるで見張り 櫓のようだ。 483 つちくれ 土塊の体を、分厚い岩石の鎧が覆い尽くし、右手には岩石剣、左 すなけむり す バイザー 手には岩石の盾。更に、剣はごうごうと燃え上がっており、盾は風 を巻き起こして砂煙を上げている。 うごめ 首の上には、巨体に相応しい巨大な大兜が据えられ、面頬の向こ う側で、肉が蠢いている。 かろ その巨人に、クラウズェアは駆けた。 まるで体重を感じさせない軽やかさで。いや、実際に炎の体とな った今では、人の身の重さなど無いのだ。 それに対し、タイタスは業火の岩石剣を振るった。その動きは、 以前よりも速い。 ところが、頭上に迫った大剣を、なんと、クラウズェアは避けも しなかった。 彼女の紅蓮の髪に大剣の業火が触れたとき、美しい炎身の姿はそ こには無く、タイタスの右手︱︱大剣を握る手の上にあった。 炎を渡って、一瞬で移動したのだ。 それから、巨人の手の甲辺りを、炎の拳で殴りつけた。 き 打ち込んだ拳の威力は巨人の手を砕き、地に剣を落とさせた。し かし、クラウズェアも後方に吹き飛んでしまった。 威力の強さに対し、彼女の体重が軽すぎて、踏ん張りが利かない のだ。 ﹁突きの反動を下に落とせるようになりましょう﹂ ﹁面目ない﹂ 側に降ってきたクラウズェアに、ジャック先生が指導する。 さん じ ﹁ローズ、格好良い﹂ ﹁あ、ありがとう﹂ 主からの飾らない賛辞に、炎の女神の如き少女は照れた。 こころ え みにく ﹁んまぁっ? お喋りは後にして下さらないっ?﹂ しっと ﹁心得た﹂ 嫉妬に狂う醜い影人間から追い立てられ、再度、クラウズェアは 立ち向かった。 484 だが、この短い間に事態は変わってしまっていたのだ。 砕かれた巨人の手は元に戻っており、大剣もその手にある。 再生したのだ。 きず ばち その代わり、樹木のように太い足から周囲の土を吸い喰らい、身 を築く材料としている。自然、巨人の足下が少しだけすり鉢状にへ こんだ地形となる。 その復活した巨人へ迫ったクラウズェアだが、今度は上手くいか まと なかった。 風を纏う大盾が振るわれて、その突風で炎身が吹き飛ばされてし まうのだ。 ふめいり ﹁フキトバシテヤル⋮⋮タタキツブシテヤル⋮⋮クラッテヤル⋮⋮﹂ 巨人が、声を発した。 ょう にご れんびん それはもはや、タイタスの物とは思えぬ、知性の光の無い、不明 あわ 瞭で、濁った音だった。 ﹁哀れな﹂ こうなってしまうと、憎い敵だったはずの男に対し、憐憫の情に も似たものを感じる。だが、同情するつもりはクラウズェアにはな かった。 炎身が大盾を避け、大剣の方から回り込もうとする。だが、巨人 もそうはさせない。 巨人が左手を振るい、クラウズェアが攻めては退くを繰り返して いると、大兜に覆われた巨人の頭部に、木の棒が突き当たった。 倒れていた木々から、枝の一つを槍に見立て、ジャック=アルテ ミシアが投げたのだ。 みき これは、巨人にとっては痛くもかゆくもない攻撃であった。だが、 その目を一瞬だけくらますことはできた。 この好機を逃すクラウズェアではない。 盾を避け、巨人の足下に飛び込んだ彼女は、その大木の幹を思わ せる足に向かって、飛び蹴りを放った。 それで、巨大な片足が砕かれた。 485 すさ 蹴りの反動をあえて使い、もう片方の足にも跳び蹴りを打ち込ん ぜんけい だクラウズェアは、崩れ落ちる巨体の下から飛び退った。そして、 地に膝と両手を突き、前傾した巨人の背中を駆け上ると、大兜に覆 われた後頭部めがけて、腕を振り上げた。 薄紅の代わりに、指をそろえ、刀に見立てて作った掌を振り下ろ す。 鋭利な炎が打ち込まれ、巨人の頭を一刀両断にしてしまった。 巨体が、崩壊を始める。 崩れ落ちる土砂に巻き込まれまいと、肩を蹴り砕きながら飛び退 るクラウズェア。 ﹁やったか?﹂ 期待を込めて発された言葉に、 ﹁まだみたい﹂ アルテミシアが答えた。 しゅうちゃく 事実、少年の目と耳には、崩れゆく巨人の体が、なおもしぶとく しゅうあく 生に執着し、周囲を貪り喰いながら広がっていくのが、銀の霧とそ の音とで理解できたのだ。 邪気 と呼ぶに相応しい﹂ ﹁殺気とも言い切れねぇ、重くてドロドロした醜悪な気配が満ちて ますねぇ。まさに 呆れたようにジャックが述べる。 よく見ると、クラウズェアの目にも、地面が変色し、土と溶け合 うように広がっていく不気味な現象が見て取れた。そればかりか、 共鳴術を行使する際に見せた、風が吹き込み、気温が下がるという とど 異変も起こっている。 止まることを知らない貪欲な広がりは、じわじわとその範囲を拡 大し、草花も、木々も、呑み込みながら、アルテミシア達の方へと 迫ってくる。 浸食の速度はさほど速くはないが、巻き込まれれば危ないだろう。 はん と 不幸中の幸いであったのは、フィデリオが飛ばされた方へは、その 版図を広げていないことだろうか。 486 ﹁まずいな、これは⋮⋮シアっ﹂ ここに居ては呑み込まれると、アルテミシアを抱いて後方に大き く飛び退るクラウズェア。 ﹁ありがとう、ローズ﹂ ﹁どういたしまして﹂ ﹁しかし、どうしたもんですかねぇ﹂ ジャックが腕組みして唸る。 ﹁ねぇ、あれはぼくたちの方へ進んできてるみたいだけれど、ぼく たちがここから居なくなったら、おとなしくなってくれるかなぁ?﹂ その少年の問いに、それぞれ二人が答えた。 ﹁それは、すこし不味いかもしれないわ﹂ ﹁そうですねぇ。あっしらが消えて大人しくなってくれりゃあ良い んですが、そうでなかった場合、野郎がどう動くか。なんかもう、 む さく い 人としての思考を失っちまってるっぽいですし、目標を見失ったら 無作為に周囲を呑み込みまくって、どんどん広がっていく可能性も あら ありやすからねぇ。そしたら、お城も、もしかすっと城下町まで全 部が喰われちまう未来も、無きにしも非ずってーか﹂ ﹁そんなの、ダメだよ﹂ 即答したアルテミシアに、 ﹁ま、そうですよねぇ﹂ ジャックが頷いた。 ジャックとしては、このまま逃げてしまいたいところだったのだ が、他の二人がそれを良しとはしないだろうと思っていた。だから、 頭を悩ませているのだ。 一方、クラウズェアも考えあぐねていた。このまま逃げるなど論 外だが、かといって、先程の巨人のような体がある訳でもない相手 に、一体どう攻めれば良いのか、判らない。 動かない⋮⋮いや、動けない二人を見て、アルテミシアが行動に 移った。 不思議を操る神秘の眼で、タイタスだったものを、見た。 487 まるで、時が止まってしまったかのように、浸食現象が止まった。 だが、広範囲への視線の負担は大きく、これまでも目を使ってき たアルテミシアは、すぐに限界を迎えようとした。 く もん ﹁シア、ダメ!﹂ さえぎ そむ 苦悶の表情を浮かべ始めた少年に気付き、クラウズェアが炎の体 で視線を遮る。 うば 同時に、モリオンは母の思いに背き、その身から抜け出し、視力 を奪った。 ﹁ど、う、してぇ?﹂ めいめつ 見えぬ目から、苦痛と悔しさで涙を流し始めるアルテミシアと、 彼の側でおろおろしながら赤い光を明滅させるモリオン。 ﹁このままじゃ、お城が、なくなっちゃう。お母様たちの、家、な のに。ぼくの、家族の、家なのにぃ﹂ ﹁シア⋮⋮﹂ 炎身が、白い髪を持つ華奢な体を抱きしめた。 ﹁ロぉズ﹂ 温かな体に、少女の熱に、アルテミシアも白い腕を回した。 ︱︱すると、どうだろう。 二つの体が、まるで水や光が重なり合って一つになるみたいに、 一人の存在へと完成されたのを、ジャックは見たのだった。 神々しい こうごう けいみょう という言葉が、これほど適切に使われる存在を、ジ ﹁こいつぁ、いったい⋮⋮﹂ ャックは生まれて初めて見た。 くら そうちょう かたまり 神々しく、清らかで、高く澄んだ空の清浄さと軽妙を。そして、 せいいき 深く冥い地の底に集まる圧倒的な質量を持った、荘重なる塊。それ らが同居した、人には推し量ることのできない聖域が、人の身を写 せ たけ して現れ出たようであった。 お 背丈は、クラウズェアとアルテミシアとの、ちょうど中間くらい。 きんぞくこうたく かがみ 地に届かんばかりの長く波打つ髪は白金の色を帯び、生者の髪とは 思えない金属光沢は、まるで鏡だ。 488 まなこ く がね しろがね ら せん から きんよう ころも ぎんいん そして、両の眼は黄金と白銀。左目に金陽を、右目に銀陰を宿し グラデーション たよう。 か れん 段階的に移行する炎が螺旋に絡み、華奢な身を衣のように包んで いる。 その可憐で、美しく、恐ろしい姿を、いつの間にかモリオンの影 ひ つ に存在を移していたジャックが、もう何も思考の余地はないとばか りに、ただただ、心と感覚の全てを惹き付けられるままに、二人を ︱︱シア=ローズを見ていた。 アルテミシアは彼自身でありながら、同時に、クラウズェアでも あった。また、少年が少女を包み、それでいながら、少女の中に少 年が内包されてもいる。 それは、クラウズェアにとっても同様だ。 しか 少年少女は、お互いで一つの存在であったが、アルテミシアはア はんしん ルテミシア以外の何者でもなく、クラウズェアもまた然り。同時に、 であるのに、これ以上なく不二の ふ に クラウズェアにとってアルテミシアはなくてはならない半身であり、 個 アルテミシアもまたそうなのだ。 きゅうきょくハルモニア 決して交わらないはずの 存在。 か ふ そく ︱︱それは、究極の調和。 二人は、過不足なく、非常に満ち足りた心地であった。 み 金眼と銀眼は、人の持つ肉眼とは違い、風景を映し出すことはな い。だが、別の視点から世界を観ていた。眼は前を向いてはいるが、 視線の向かう先のみならず、背後も、そして、天と地も同時に観て いる。 みゃくどう その特別な両眼が映すのは、命の輝き。 輝きは脈動して知らせる。命の音を。 一つとして同じ物はない命の音は、この世のあらゆる物、あらゆ こうずい る場所に満ちている。 輝きと音の洪水に満たされた世界。 489 世界はとても自由で、そして、美しかった。 む だが、その光と音の、美しい世界の中にあって、自由にならず、 ひしめき合っている音の群れがあることに、二人は気付いた。 タイタスだったモノと、それに取り込まれたモノ達だ。 と おか 広がり、呑み込み、溶かし、染み込み、腐らせ、分解し、同化す つな る。風を吸い込み、熱を吸い盗り、土を冒し、草木を喰い、二人に 迫る。 きゅうきょく こ りつ 皆で居るのに、重ならず、繋がらず、分かち合わず、調和するこ とが無い。究極の孤立。 それは言っていた、﹁欲しい﹂と。﹁苦しい﹂と。 とら 自由なはずのこの世の中で、とても不自由そうだった。 ︵︵かわいそう︶︶ かか りんこう しんしん シア=ローズは思った。囚われているそれを、解放してあげよう、 と。 しらゆき 二人は、右手を掲げた。 くだ こうこう と そうすると、空から白雪のような燐光が深々と降り始め、月影を 砕いて振りまいたみたいに、皓々と地に積もった。 み わざ ごう か それは、ごっちゃに絡み合い、引っ張り合うタイタス達を解きほ ぐし、これ以上周囲を貪り喰うのを止めさせた。 ゆうげん 次に二人は、左手を掲げた。 かけのぼ すると、先程の幽玄な御業とは打って変わり、劫火が吹き上がっ た。まるで炎でできた竜が、空に翔昇るように。 浸食されていた範囲を焼いた炎竜は、天を衝き、やがて、黄金と 弾けた。 ふ そそ その光の中からは、青と、橙と、黄と、赤の︿彩化晶﹀が無数に げんそうてき 飛び散り、雨のように地に降り注いだ。 ﹁夢でも見てんのか?﹂ き せき ふ おとぎ話の中の、ことさら幻想的な風景を切り取りでもしたかの まり ちゅう ような奇跡に降りしきられながら、ジャックは呆然と呟いた。 その隣では、二人の勝利を喜ぶモリオンが、鞠のように宙で弾ん 490 でいる。 きょうい アルテミシアとクラウズェアの二人は、見事に脅威を退けたのだ った。 その劇的な勝利の舞台から、フィデリオは、いつのまにか姿を消 していた。 491 七章①﹃兄と弟﹄ 七章 そう ぎ しゅくしゅく と 前王サイラスの葬儀は、新王エサルレッドの手により、粛々と執 り行われた。 そく い しき そう、王太子が、ここグリーンウェルに帰還したのだ。 それは、何とも慌ただしい数日だった。 なんきん 遊学先から帰国したエサルレッドは、内々に簡易的な即位式を行 い、王位に就いた。 はくだつ 王権を手にした若き王は、女王ベラの身柄を軟禁。これには、ベ ぎん み ラも大人しく従った。彼女の権力を完全に剥奪してしまい幽閉なり 処刑なりするかは、検討中だ。 か たん それから、サイラスの葬儀。 同時に、今回の事件に荷担した者達を吟味し、その処罰を決する。 さんせき 他にも、兵の編成や、破壊された建造物の修復、敷地の整備など、 考えなければならないことは山積していた。 だから、兄弟がこうして静かに語らうのは、エサルレッドが帰国 してから初めてのことであった。 いや、そもそもこの二人が、真実の血縁者であるにもかかわらず こうして兄弟水入らずの会話を行うのは、生まれて初めてのことだ った。 ゆず ﹁久しいな、アルテミシア﹂ 母譲りの美しい金髪をした青年が、先に声をかけた。エサルレッ ドだ。 ﹁はい。お久し振りです、お兄様。お目にかかれてうれしいです﹂ 弟の方は、緊張で身を硬くしている。 その足下に落ちた影の中では、薄情者の兄への怒りを持て余した 492 ジャックが、何かあれば飛び出してやろうと待ち構えていた。 ふかぶか モリオンも、母の胸中でハラハラしながらグルグル回っている。 うろた 漂う緊張感の中、エサルレッドは深々と腰を折り、頭を下げた。 ﹁すまなかった﹂ ﹁え?﹂ 突然のことに、アルテミシアは狼狽えるより他はない。 謝罪のために頭を下げる という行為が分からないというのも 騎士の礼しか知らない少年は、誰もがごく当たり前にやるであろ う ある。 だがそれよりも、謝られる理由が解らないという部分にこそ、驚 いたのだ。 ひど うら ﹁言い訳はしない。だが、君に肉親として何一つしてあげられなか ったのは事実だ。私は酷い兄だ。恨んで良い﹂ この言葉には、ジャックは拍子抜けした。何か不届きな事でも言 くすぶ ますます おうものなら、それを理由に暴れることができたからだ。だが、当 てが外れた。そして、燻った気持ちは発散されず、影人間は益々不 機嫌になった。 いっぽう、アルテミシアは、 ﹁お兄様は、そのぅ⋮⋮ぼくのお兄様ですか?﹂ この言葉に、エサルレッドの顔が上がった。 ﹁勿論、そうだ﹂ お前など兄ではない つぼみ と。 この時、エサルレッドは弟の言葉をこう解釈した。つまり、遠回 しに皮肉を言われたのだろうと。 だが、違った。 しらゆり ﹁よかったぁ。お兄様は、ぼくのお兄様なんですね﹂ 白百合の蕾がほころんだようだと、エサルレッドは思った。 彼の弟は、表情にも、声にも、あまり変化がない。今もこうして 話していても、そうだった。いや、クラウズェアならばその変化を 感じ取ることはできただろうが、エサルレッドにはまだ無理だ。 だが、この時ばかりは違った。 493 はかな へだ りつどう 彼にも︱︱長い時を隔てて再会したばかりの兄にも、薄い表情の 向こう、儚い声の中に、感情の色と弾むような律動を見付けること ができた。 それは、喜び。 釣られて、エサルレッドの表情もほころんだ。 ﹁ああ、そうだよ。私は君の兄だ。さあ、弟の可愛い顔を、私に見 せておくれ﹂ ﹁はい﹂ 兄弟はそれから、限られた時間の中で、ぽつり、ぽつりと言葉を 交わした。 かけ ら 一人の見送りも着けず、城を去って行くアルテミシアを、執務室 の窓から兄は見送っていた。 ﹁︿銀陰の子﹀よ⋮⋮︿金陽の欠片﹀と歩む道は、どこへ繋がって いるんだい?﹂ その呟きに、力強い声が答えた。 ぎみ ﹁それは陛下次第じゃないのか? そもそもどうして手放す? 大 事な弟君だろう?﹂ このえ 名は、エグバート・セルペンティス。エサルレッドの幼なじみに ずいこう して、現国王の近衛騎士。そして、クラウズェアの兄だ。エサルレ あるじ ッドと共に大学のある自由都市まで随行していたのだが、この度の 件で、主に付き従って戻ってきたのだ。 エサルレッドは幼なじみを振り返り、こう言った。 ﹁大事だから、だ。愛する者同士は、その思いの強さ故にお互いを 縛る。だが、感情に従ってしまえば、たいてい愚かな結末にたどり 着く。あの母のように。だから私は理性で考え、行動したのだ﹂ それは、信念だった。そして、エサルレッドは感情よりも理性に 重きを置く男であった。 ﹁ふぅん? そんなもんかね。まあ、陛下が言うなら従うが﹂ 494 ﹁二人きりの時には、 陛下 はやめて欲しい﹂ ﹁はいはい、エサルレッド。これでいいだろ?﹂ ﹁ああ﹂ 一人は静かに、もう一人はニヤリと笑った。 ﹁あの子はまだ幼い。いずれこの国に帰ることになるだろうが、そ はげ れまでは自由にさせてあげたい。私が自由を得ていた代わり、と言 ってはなんだが﹂ ﹁自由ねぇ。あんだけしこたま勉学やらに励んでおいて、よく言う ぜ。ぜんぶ殿下のためだろうが﹂ ﹁ああ、そうだ。だが、そんな物は苦でもなんともない。あの子の うるわ 苦しみに比べれば。それに、私はあの子を愛している﹂ いもうとご ﹁へぇへぇ。麗しい兄弟愛ですこって﹂ ﹁そう言うエグバートの妹御はどうなんだい?﹂ ﹁ローズか﹂ エグバートはガシガシと頭をかき、こう言った。 おおざっぱ ﹁あいつが幸せなら、それで良いさ﹂ ﹁相も変わらず、大雑把だな﹂ うるお だが、この兄が妹を大事に想っていることを、エサルレッドは知 っていた。 ﹁それより、︿彩化晶﹀がたんまり手に入ったな。国庫が潤うぞ。 どう使う?﹂ ろ けん 切り替えられた話題に、エサルレッドも頭を切り替えた。 ﹁それはもう使い道が決まっているよ﹂ ちょっかつ 今回の一件で、貴族はもう当てにはならないことが露見した。 こころざし 国王直轄の軍を作るべきだろうと、エサルレッドは判断した。そ のためには、国のために尽くそうという、志の有る若者が欲しい。 だが、そんな有望な人間が果たして存在するのかが問題だった。 しかし、その件に関しては、アルテミシアとの会話の中で糸口を 掴んでいたのだ。 ﹁セロンという、弓の使い手に心当たりがある﹂ 495 せいつう ﹁ほう? 弓は、剣や槍よりも扱いが難しいからな。有り難い﹂ しょうじん エグバートの言う通りだ。勿論、全ての武器に精通するためには、 奥深い道のりを精進しなければならない。弓に限らず、剣も、槍も。 だが、剣や槍は、一定数の兵士に持たせて、陣を組んで進ませれ ば、ある程度の成果は出るものだ。しかし、弓はまともに射られる あ ゆみ と す ようになるまで、それなりの練習期間がかかる。ただ振り回せば良 いという物でもない。 きた だから、弓使いは貴重なのだ。 しんせつ ﹁ひとまず、その若者を鍛え上げ、弓取りの長に据える。実験的に、 しばら げき む 弓を扱う騎士団を新設してみるつもりだ﹂ 二人の話は、暫く白熱した。新王が激務に戻る、その時まで。 496 七章②﹃決めた騎士﹄ 王都にある、ノーザンコースト伯爵の別邸。 たい じ その玄関口に、クラウズェアは立っていた。開け放した扉を挟み、 両親と対峙して。 あの時、 みやこ い あの数日間、 けいせき いいなずけ タイタスが都入りした後、彼の指揮する兵達に囲まれていた館も、 さんだつ 特に荒らされた形跡はない。 王位簒奪に反対した貴族の一人だったヴィクターだが、許嫁の親 ということで手荒にはされなかったのだ。 しばらくの沈黙が続いている。 あいさつ 使用人達は、場を包む緊張感に気圧されるように、誰一人として 姿を見せない。 ︱︱やがて。 静寂を破り、先に切り出したのは娘の方だった。。 ﹁父上、母上。長い間、お世話になりました﹂ あなた 引き結ばれていた唇から最初に紡がれた言葉が、別れの挨拶であ る。 ﹁ローズ、貴女なにを言ってるのっ?﹂ 伯爵夫人のイライザが、耳を疑って問い返す。 ﹁母上、わたしはアルテミシア殿下の守護騎士です。今までと同じ く、これからも殿下と共にあり、お守り申し上げます﹂ ﹁ローズ⋮⋮﹂ 娘の決意を見て取った母は、それきり何も言えない。 ヴィクターが口を開いた。 497 ﹁国を出るのか? お前は立派な騎士になるのではなかったのか? ここを出て、騎士としての未来があるものか﹂ この言葉に、娘は怒りもせずに、こう答えた。 ﹁わたしの騎士としての未来は、殿下と共にあります。わたしの未 来は、国王陛下から授けて頂くものではなく、わたし自身が決める な ものです。⋮⋮そう、わたしの師匠が教えてくれました﹂ うず ま 風の凪いだ海のように静かな声だった。だが、その内側には炎の ような熱い決意が渦巻いていた。 ヴィクターは何も言えず、低く唸った。 ﹁それでは、わたしはこれにて失礼します。お二人とも、お達者で。 また会う時もあるでしょう﹂ 頭を下げると、赤毛の娘は去って行く。 そして、彼女が歩く庭の先に、青い大獣が居るのに夫婦は気付い た。 恐怖で、声が出ない。 その獣︱︱ツユクサの背には、アルテミシアがまたがっていた。 動けないでいる夫婦を、じっと見る。 それから、側まで来たクラウズェアを一度見て、再び夫婦に視線 を向けて、こう言った。 ﹁ローズをお借りします﹂ その声が終わる頃には、アルテミシアも、青い大獣も、クラウズ ェアさえも、二人の前から消え去っていた。 足音一つ立てず。 そよ風一つ巻き起こさず。 498 エピローグ エピローグⅠ 城下町を見下ろせる、小高い丘の上。 しば 黒髪の少年と赤毛の少女は、初春の風に髪を揺らしながら、去り ゆく故郷を暫し懐かしんでいた。 モリオンは、母の胸中でぬくぬくとしている。 ジャックは、草っぱらの上に寝転がり、ボンヤリと青空を見上げ ていた。 風が渡り、雲が流れる。 ﹁行こう﹂ アルテミシアが言った。 あの時。 暗い森の中で泣く男の子を、赤毛の少女が連れ出した時みたいに。 白くほっそりした手が、差し出された。 ﹁うん﹂ 頷いた少女は、自分よりも頭一つ分背の低い少年の手を握った。 これから始まる旅は、決して逃避行ではない。 神殿を、森を、家族から逃げ出したあの日は、もう終わった。 これからは自分で決めて、自分で進むのだ。 冒険は、始まったばかりだった。 エピローグⅡ それから皆がどうなったかって? 499 そりゃあ、死んでなければまだ生きているでしょうよ。 そう、こんな風に︱︱ ﹁ねぇ、﹃どうせいあいしゃ﹄って、なぁに?﹂ 春風吹く、穏やかな日差しの下で、無邪気な少年はとんでもない ことを言った。 ﹁シっ、シア! そんな言葉をどこで覚えたのっ?﹂ 泡を食って問いただす女騎士に、 ﹁お母様が云ってたよ﹂ けが 無垢な少年は不思議に思いながら、幼なじみの少女に告げる。 その答えに、クラウズェアは頭を抱えた。 ﹁同性愛者ってぇのはですねぇ︱︱﹂ さえぎ こいつは面白そうな話題だと、話に割って入ろうとした汚らわし へんたい い影人間の言葉を遮り、 ﹁変態のことよ﹂ 真面目な赤毛の少女は、そう断言する。 ﹁へんたい?﹂ ﹁不道徳で、汚らわしいってことよ﹂ ﹁変態の何が悪いのさっ? 変態だって生きてる! 変態でも良い じゃない!﹂ ﹁黙れっ、変態の申し子!﹂ ﹁皆さん初めまして。破廉恥の国からやって来た、変態の申し子で す﹂ 相変わらず変態の意味は解らなかったアルテミシアだが、楽しい 会話のやり取りに、くすくすと忍び笑いを零す。そうして、こう、 宣言したのだった。 ﹁ジャックさんが故郷に帰る方法も探さないとね。頑張って探そう っ、はれんちとへんたいの国を﹂ ﹁探しちゃ駄目ぇーーーっ!﹂ 500 あ 少女の言葉が、高く、遠く、空に揚がった。 ︱︱こんな具合に、今でもどこかで楽しく旅しているに違いあり ません。 おしまい。 501 エピローグ︵後書き︶ 今まで読んで下さった皆さん、本当にありがとう御座います。ただ ただ、感謝の念で一杯です。 ひとまず、一区切りがつきました。これで﹃始まりのお話し編﹄は お終いとなります。しばしの充電期間をおき、その後、﹃豪華客船 編﹄に取りかかる予定です。 次こそは﹁複数ヒロイン﹂で﹁萌え﹂で﹁キャッキャウフフ﹂な内 容になる⋮⋮はず!⋮⋮です... 502 ★お詫び お久し振りです、緑桜です。長らくお待たせしており、申し訳御座 いません︵果たして、そのような有り難い読者様がおられるのか、 謎ですが︶。 一身上の都合で続編が投稿できない状況にあるのですが、いましば らくこの状況が続きそうです。ですので、まことに勝手ながら、い ったん、﹃ぷりずむリズム﹄は完結扱いとさせて頂きます。 状況がクリアできましたら、続編の﹁船旅編︵仮︶﹂を投稿再開さ せて頂きます。 いいかげんな作者に懲りること無く、﹁また読んでやろう﹂と思っ て下さる奇特な方がおられましたら、この上ない喜びです。 それでは、また。 503 ★お詫び︵後書き︶ 残暑が続いておりますが、夜は冷える様になりました。皆様、お体 はご自愛下さいませ。健康は、何物にも代えがたい宝です。 504 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n9711bz/ ぷりずむリズム ∼王子と、女騎士と、目ん玉お化けと 、影人間∼ 2016年7月7日21時38分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 505