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非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座

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非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
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非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
―アフガニスタンの事例から―
工藤 正樹 1)* はじめに
本稿は次の 2 点を目的とする。第 1 に、いまだ情勢が安定しないアフガニ
スタンの現状を安全保障論の分析枠組みを通じて解き明かすことである。第
2 は、本特集号の主題と関係し、同国の事例から「非西欧型」のセキュリ
ティ・ガバナンスの特徴の一端を導き出すことである。
過去数十年間、同国は戦乱につぐ戦乱を経験した。ホッブス的な自然状態
の世界ともいえる、その無秩序状態をようやく脱して現在、アフガニスタン
は新たな国家形成の道を歩み始めている。しかし、
「戦後」から 15 年あまり
が経過した現在も、国家統治が全土におよんでいるとは言えない状況であ
る。本稿は、
その原因を、同国の治安面の分析で一般的な治安部門改革(SSR)
論ではなく、セキュリティ・ガバナンス論を通じて検証する。
本稿の構成は次の通りである。まず次章で分析の枠組みを提示する。つづ
く第 2 章で、国家統治上の課題を、3 つの側面から分析する。そして第 1 章
で提示する分析枠組みに従い、第 3 章と第 4 章では、規律アクターと攪乱ア
クターの特徴を詳述し、第 5 章で分析を行う。
冒頭の目的に対する本稿の主張は次の通りである。第 1 に、アフガニスタ
ンの事例では、既存の SSR 論よりもセキュリティ・ガバナンスの分析枠組み
のほうが特徴を明示でき、また第 2 の点については、同国は中央集権化の途
上にあり、その点が西欧と前提条件として異なる、というものである。
*国際協力機構アフガニスタン事務所主任調査役
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立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
1. セキュリティ・ガバナンス論と治安部門改革論
本章では、3 つの枠組みを参照しながら、本稿が用いる分析の枠組みを提
示する。なお、ここで治安部門改革論を取り上げているのは、アフガニスタ
ンの分析では、その枠組みが使われることが多いからである 2)。
1-1 ガバナンス論と治安部門改革論
(1)ガバナンス論
古典的な近代国家(主権国家)の理念系をもっともよく象徴しているのは
「国家による暴力機構の独占」である。政治学の分野でガバナンスという概
念の精緻化が進められた理由のひとつは、主権国家というこの理念系のみで
は説明できない、あるいは説明しづらい現象が生じてきたからであろう。
ガバナンス論では、ある特定の課題空間をめぐって、次の 3 点に着目する 3)。
第 1 に、それを構成する主体である。ここでは主権国家だけでなく、その他
の主体(あるいは利害関係者)にも着目する。第 2 に、ガバナンス空間は、
何らかの形で規律されるだけでなく、攪乱もされる。第 3 に、ガバナンス空
間は、その存在自体が公共善(public goods)ないしは公共悪(public bads)
であるとされる。
(2)セキュリティ・ガバナンス論
セキュリティ・ガバナンスは、ここ 20 年間でとくに学術的な精緻化が進
んだ概念である。それは一面では主権国家体制や「ウェストファリア」後の
国家像を模索する試みでもある。たとえば、スパーリング(James Sperling)
は、同論の発展を次のように整理している 4)。
第 1 期は、定義を巡る議論で、その際の研究対象はおもに欧州であった。
2002 年や 2004 年のウェーバー(Mark Webber)らの論考がその金字塔だろ
う 5)。第 2 期には、ガバナンスをめぐって競合する諸定義が生み出された。
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それは、レジーム論(Young: 2009)やネットワーク理論(Krahmann:2003)
などの多様な理論群を反映している 6)。第 3 期は、とくに欧州と周辺地域に
おいて「ウェストファリア」から「ポスト・ウェストファリア」国家への移
行を結びつける試みが行われ、セキュリティ・ガバナンス論の高まりをもた
らした。そして、スパーリングによると、第 4 期は、前期の議論をさらに発
展させて、その時間的・空間的枠組みを超えていく議論である、という 7)。
本論考も、この第 4 期に位置づけられる。
以上のような発展を経つつも、いまのところ同論は発展途上の理論であ
る。たとえば、代表的な安全保障論のテキストの中でも確固たる地位を築い
ているわけではない 8)。とはいえ、上記のこれまでの研究成果群から、分析
枠組みとして一定の有用性は認められるだろう。とくにアフガニスタンは現
在、新しい国家像を模索する過程の真っただ中にいる。地理的には非欧州に
位置するものの、いや、むしろそれがゆえに、その理論的枠組みが新鮮な視
点を提供しうる可能性を秘めていると思われる。
(3)治安部門改革論
アフガニスタンで多用されている治安部門改革論は、理論といえる程には
収斂されておらず、学術理論というよりは政策概念に近い 9)。しかし、セキュ
リティの問題を異なる角度から捉えた概念であり、あえて比較概念として対
置してみると、セキュリティ・ガバナンス論の特徴を鮮明にできるだろう。
治安部門改革の議論は、冷戦期にさかのぼる。当時は治安の実際の担い手
である国軍と警察の改革がその議論の中核であった。しかし、その後、両分
野だけの改革・支援では改革が成就しない例が出てきた。そこで、改革の対
象を国軍と警察だけに絞らず、隣接分野も含めて包括的に支援する必要性が
指摘された。たとえば、司法や国境管理などの改革であり、それに付随する
議論として、関係する主体も可能な限り包括的に特定化するようになった。
この治安部門改革論を、セキュリティ・ガバナンス論と対比してみると、次
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の 3 点が、おもな相違点として指摘できる。
第 1 に、治安部門改革論は、あくまで「治安を提供する側」の議論であり、
おもに、その制度や能力の構築を論じるものである。したがって、たとえば、
同じガバナンス空間に存在している「治安を脅かす側」である攪乱アクター
は基本的に議論の射程外である。
第 2 に、治安部門改革論は、
「分野」を分析の基本単位として、その連携
や「包括性」に着目する。それに対して、セキュリティ・ガバナンス論は、
「主権国家」という近代の基本枠組みに縛られない主体にも着目し、その複
層性や多様性を分析している。
第 3 に、セキュリティ・ガバナンス論も治安部門改革論も、学術・概念的
要素と政策・実践的要素の両方を含んでいる。ただし、治安部門改革論のほ
うが政策論としての指向性が色濃く出ており、規範性が強い。それに対して、
セキュリティ・ガバナンス論は、「規範概念」だけでなく、現実をありのま
まに記述する「記述概念」としても適用される。
1-2 本稿の分析枠組み
以上の 3 つの議論をもとに、ここでは本稿で用いる分析枠組みを提示する。
まず、アフガニスタンの国家再建の青写真は、基本的に治安部門改革論の枠
組みとほぼ重なっている。しかし、同論の視点だけでは、この課題空間の全
体像は見えてこない。そうした視座から、本稿で用いる分析枠組みを明示し
ておくと、以下の 3 点が特徴的である。
第 1 に、主体の複層性と多様性である。とくにセキュリティ・ガバナンス
では、国家以外の主体にも着目する。また、分析対象となるガバナンス空間
は、必ずしも一国内に限定されない。たとえばアフガニスタンの文脈では、
パキスタン北部も含めた地域的な視点も重要である。
第 2 に、ガバナンス論の枠組みと同様に、セキュリティ・ガバナンス論で
は、規律アクターだけでなく、攪乱アクターにも注目する。アフガニスタン
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の文脈でいうと、たとえば現在、
「反政府組織」と位置づけられているタリ
バーンは、もともとは政権を担う「規律アクター」でもあった。そのため、
同国の事例を扱う場合、
「規律アクター(中央政府)」対「攪乱アクター(反
政府勢力)
」という単純な構図で論じることは適切ではない。むしろ分析に
際しては、それらの相互作用にも着目する視点が重要である。
第 3 に、
分析の要となる伴概念のひとつとして本稿では
「委託(delegation)
」
を取り上げている。たとえば、政治学者のストーカー(Gerry Stoker)は、
1998 年の論考の中で次のように指摘している。政府は物理的、法的、規範的
な絶対性を有する存在であり、その意味において、
「政府(goverment)
」と
「統治(governance)」は同一視される。しかしながら近年は、公共サービス
の提供と下位レベルの意思決定においては私的アクターへの機能的な委託
もみられ、問題が複雑化している。すなわち、公的存在である政府から私的
主体への主権作用の部分的な委託が行われているのである 10)。
ただし、ストーカー教授は、そのガバナンス論を展開するにあたり、その
冒頭で「アングロ・アメリカンの政治理論では」とわざわざ断りをいれてい
る。つまり、
この現象は基本的に西側諸国の現状に焦点を当てた分析である。
はたして、アフガニスタンの文脈においても、それは適用可能であろうか。
その点を以下で模索してみたい。
2. アフガニスタン概観
紛争後国の研究で著名な国際政治学者ローランド・パリス(Roland Paris)
らが指摘するように、
「脆弱な停戦状態を恒常的な平和に変えるための公式」
は、いまだ存在しない。その一因は、紛争後国が、政治面・経済面・社会面
での移行を同時並行的に行わなければいけない点にある、という 11)。本章で
は、その 3 つの側面から、アフガニスタンが抱える問題点を検証する。
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2-1 政治:統治と自治の間で
(1)タリバーン政権崩壊まで
ここ数十年のアフガンの政争は、政治学でいう「統治」と「自治」の対概
念を当てはめると理解しやすい 12)。とくに 1994 の段階で無名の民兵集団に
すぎなかったタリバーン(神学生の民兵組織)が、なぜ住民の支持を得て政
権を確立したのか。その背景を振り返る。
1919 年、第 3 次英アフガン戦争の結果として、アフガニスタンは英国から
外交権を回復し、独立を果たした。独立後、半世紀以上にわたり続いた王制
は、1973 年のクーデターにより終焉し、その後は共和制に移行する。しか
し、その後は、坂道を転げ落ちるようにして社会が分裂し、治安が悪化した。
まず、
1973 年のクーデターの立役者ダウード(Mohammad Daoud)首相は
78 年の革命で殺害され、続くタラッキー(Mohammad Taraki)も 79 年に病
死した(暗殺とも言われている)。後継の大統領は 79 年のソ連侵攻後に身柄
を拘束され、その後はソ連の傀儡(共産党)政権が続いた。この間、駐留ソ
連軍と共産党政権に対して、ムジャーヒディーン(聖戦士)による抵抗活動
が激化。その各派はやがて 7 つの勢力に統合され、1989 年には共産政権に対
抗して暫定政権の樹立を宣言。同年、ソ連軍は撤退したが、対立はさらに激
化した。
結局、1992 年にムジャヒディーンの暫定政権が共産政権を倒してラッバー
ニ(Burhanuddin Rabbani)が政権を掌握した。しかし、彼らが掌握できたの
は首都カーブルと北部地域の一部だけだった。たとえば、西の都ヘラートを
掌握していたのはタジク系軍閥のイスマイール・ハーン(Ismail Khan)で
あったし、北部 6 県を支配していたのはウズベク系のドスタム(Rashid
Dostom)将軍であった。その後も抗争は続き、アフガニスタンは一種の無政
府状態に陥っていった。
南部地域は、とくに混乱を極めていた。中央政府の力の及ばないこの地域
では、軍閥や山賊などによる勝手な土地の押収や通行税の徴収が行われてお
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り、レイプなどの犯罪も横行していた。人々は、秩序と治安の回復を何より
も望んでいた。
1994 年の秋、南部の町カンダハールで、この無秩序状態に秩序をもたらそ
うと立ち上がった小集団がいた。かれらはもともと、ムジャヒディーンとし
てソ連と戦った経験があり、ソ連撤退後はアフガニスタン南部やパキスタン
のマドラサ(学校)でイスラーム学を学んでいた。パキスタンのメディアは、
かれらを「タリバーン」
(「イスラームの学徒」を意味する talib の複数形)と
呼んだ。
それは当初、一種の「世直し運動」のようなものであったのだろう。タリ
バーンは、徒党を組んで地元の治安を脅かしていた軍閥や民兵を武力で制圧
した。そして、活動に共鳴する住民を自団に加えて快進撃を続け、わずか 2
カ月余りで南部地域をほぼ平定してしまった。そして、1996 年には首都カー
ブルで暫定政権を打ち立て、1998 年には北部の要衝都市マザリシャリフも陥
落させた。その対抗勢力は「北部同盟」を結成していたが、そのうち、マザ
リシャリフのドスタム将軍はトルコに逃げ、ヘラートのイスマイル・カーン
もイランへ逃亡し、タリバーンに対抗しているのは「パンジシールの獅子」
と呼ばれたマスード(Ahmad Shah Masoud)将軍の勢力ぐらいであった。こ
うしてタリバーンは国土の大半を掌握し、国家の統治に乗り出した。しかし
ながら、政権樹立後のタリバーンは、厳格なシャリーア(イスラームの法原
理)の適用を統治原理にして抑圧的な政策を取った。
とくに国際的な非難を浴びたのは、女性に対する抑圧的な対応やバーミヤ
ンの仏教遺跡の破壊などである。そして、ビン・ラディーン(Usama bin
Laden)をかくまったことで国連の制裁を受け、さらに、2001 年 9 月に米国
で「9.11 事件」が勃発後、米英はアフガニスタンへの空爆に踏み切り、政権
は崩壊した。
結局、タリバーン運動とは何だったのか。タリバーンは、アフガニスタン
紛争の舞台に彗星のごとく現れた。ところがその後、わずか 5 年あまりの短
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期間に、その位置づけは、めまぐるしく変化した。そもそも、その「登場」
前は、①ムジャヒディーンとして外国支配に抵抗した「自由の闘士」であっ
た。1994 年の「登場」後は、②カオス社会に秩序をもたらした「秩序の体現
者」であった。しかし、その後は、③極度に抑圧的な社会を実現した「原理
主義の統治者」であり、最終的には外国軍の武力で掃討された。タリバーン
は、そうした複数のイメージを経てきた集団であり、その位置づけは、世代
や地域によっても微妙に異なっている。
ところで、こうしたアフガニスタンの政治問題を語る時、隣国パキスタン
との関係は避けて通れない課題である。というのも、多くの専門家が指摘す
るように、パキスタンにとって、アフガニスタン国内で「親パキスタン勢力」
を得ることは、西の安定を確保して東のインドと対峙する上で戦略的に重要
であるからである 13)。そのため、これまでパキスタンは継続的にアフガン情
勢に関与してきた。たとえば、同国は 1980 年代には対ソ戦のムジャヒディー
ン各派を支援し、1992 年のラッバーニ政権樹立後のムジャヒディーン各派の
抗争過程では、グルブッディン・ヘクマティヤル(Gulbuddin Hekmatyar)に
支援を行っていた(第 5 章参照)。また、タリバーンの登場後は、支援先を
彼らに変更し、1996 年にタリバーンが首都カーブルを陥落させ政権を樹立す
ると、パキスタンは、いち早くその政府承認を行っている。
さて、以上の 1919 年の独立後に王制が終焉してからの過程を、
「統治」と
「自治」という分析概念を通して眺めてみると、どのように整理できるだろ
うか。
政治原理の理念系(形態)のひとつである「自治」では、「決定」は社会
構成員の全員によってなされる。そして政治的な統合が達成されるために
は、
構成員全員による「決定」に全員が自発的に服従することが要求される。
一方、その相対概念としての「統治」では、政治決定は特定の集団や個人に
よって行われ、統合は強制によってなされる。むろん、強制による「統治」
が正当化されるのは個々人の利益と福祉が実現されるからである。しかし、
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究極的には社会の構成員全体の利益のために個々人の犠牲を強いることに
なる。したがって、
「統治」の極限には全体主義という危険性が潜んでいる
し、他方で、
「自治」の極限には、アナーキー(無秩序状態)という危険性
が待ち構えていることになる。
本来、両概念はあくまで理念系である。現実の政治においては、それら両
極の間で対立と妥協が繰り返され、一定の均衡が成立し、政治的な安定が保
たれる。ところが、ここ十数年のアフガニスタンの場合、社会統合がうまく
いかない中で、統治原理という振り子の針が両端の極限に触れてしまった感
がある。内戦時代は、まさに「自治」の極限にあるアナーキーそのもので
あったし、それに終止符を打とうと登場したタリバーンは、秩序の回復を強
調するあまり極端に全体主義的な政治運営に陥ってしまったからである。
(2)新政権の発足
タリバーン政権崩壊後に成立した現政権は、まさに「自治」と「統治」の
間でバランスを維持するために苦慮しているのが現状である。以下では、そ
の政治動向をまとめておく。
通常、紛争が終結し国家再建に向かう際には、紛争当事者の間で武力行使
の停止を約した「停戦合意」ないしは政治的な合意事項も含めた形での「和
平合意」が締結される。アフガニスタンの場合、それらに類似の合意文章と
しては 2001 年の「ボン合意(Bonn agreement)」が該当する。しかし同国の
場合、2001 年に米国で発生した「9.11 事件」の発生後に、外国軍が実行支配
者であったタリバーン政権を実力行使で崩壊させた、という経緯があり、紛
争当事者のひとつであったタリバーンは、その合意には参画していない。
ボ ン 合 意 の 政 治 日 程 に 従 い、2002 年 6 月 に は 緊 急 ロ ー ヤ・ ジ ェ ル ガ
(Emergency Loya Jirga)が招集され、移行政権が承認されると同時にカルザ
イが同政権の首班として選出された。その後は表のとおり、2004 年 1 月に新
憲法が制定され、同年 10 月には第 1 回目の大統領選挙が開催され、カルザ
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表 1:タリバーン崩壊後の主な政治動向
2001 ᖺ
2002 ᖺ
2003 ᖺ
2004 ᖺ
10 ᭶
11 ᭶
12 ᭶
6᭶
2005 ᖺ
2006 ᖺ
2009 ᖺ
2010 ᖺ
2014 ᖺ
12 ᭶
1᭶
10 ᭶
9᭶
1᭶
8᭶
5᭶
4᭶
2015 ᖺ
7᭶
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(出典)筆者作成
イが大統領に就任した。それ以降、2 回の下院議会選挙も実施された。また、
2014 年 4 月には第 3 回大統領選挙が実施された。選挙は、アシュラフ・ガー
ニ(Ashraf Ghani)とアブドゥラ・アブドゥラ(Abdullah Abdullah)の決選
投票にもつれ込み、不正票疑惑の問題などが浮上したものの、結局、米国の
仲介で、権力を分有する合意がなされて、同年 9 月にガーニが大統領に、ア
ブドラが行政長官(Chief Executive Officer: CEO)になることで決着した。こ
のように、新生アフガニスタンは、かつてのような無秩序な軍閥政治の世界
に舞い戻ることがないよう、統治原理の仕組みを民主的な選挙制度に昇華さ
せている。
ところで 2006 年 1 月にロンドンで開催された会合において、「ボン合意」
の後継文書というべき「アフガニスタン・コンパクト(Afghanistan Compact)
」
という政策文書が承認されている 14)。これは、国際社会の支援のもとで、ア
フガニスタンが国家再建に向けて努力する責任を確認したものである。この
中では、2010 年末までに国軍兵士を 7 万人、警察官を 6 万 2 千人育成すると
いう計画目標が明記されている。ただし、その後、反政府勢力との間で武力
衝突が激化する中で、この数値目標は何度も修正されていく(国軍と警察の
改革については 4 章を参照)。
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
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また、上記と並行して、NATO 軍などを中心とする「国際治安支援部隊
(ISAF:International Security Assistance Force)」もアフガニスタンに展開し
ている。ISAF は 2014 年末に任務を終了し、アフガニスタンの治安機関に治
安 維 持 権 限 を 正 式 に 移 譲 し、 現 在 は 訓 練 を 中 心 と す る「 確 固 た る 支 援
(Resolute Support: RS)ミッション」に代わっている。
2-2 経済:外国依存体制
アフガニスタンの経済は、財政の外国依存度が高いだけでなく、治安関係
の支出が多い点が特徴的である。まず、マクロ経済面でいうと、同国の国内
総生産は約 201 億 USD(約 2 兆 4 千億円)で、一人当たり国民所得は、660USD
である(いずれも名目、2013 年)。アフガニスタンは、現時点では世界最貧
国のひとつとなっている 15)。
つぎに財政面である。たとえば 2015 年度予算案では、歳入 4,282 億 AFG
(アフガニ―)のうち、3,027 億 AFG が外国の支援である。すなわち国庫収
入の 7 割以上を外国からの資金援助(贈与)に依存している 16)。さらに特徴
的なのは、治安関係費の割合である。表 2 のとおり政府歳出の 4 割以上が治
安関係の支出で占められていることが分かる。
現在、アフガンの国軍は 19 万人規模、警察は 15 万人規模という巨大な組
織になっている。たとえば後者について考えてみると、一般的な警察官一人
当たりの国民負担人口比率は「1:450」前後である。それに対して、アフガ
ニスタンは「1:200」前後になっている。純粋に財政面の観点だけで考える
表 2:歳出に占める治安関係費の割合と推移(2013 年− 2015 年度、単位:億 AFG)
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(出典)アフガニスタン財務省資料(http://mof.gov.af/en)を基に筆者作成
(参考)為替レート:1USD = 64 AFG(2015 年 10 月現在)
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と、あきらかに過剰な財政支出である。他方で、国家の治安部隊の規模とい
うのは、脅威(認識)の大きさを反映しており、一般に両者は比例関係にあ
る。実際、現在のアフガニスタンは治安が不安定であり、平時以上の国軍・
警察機能が求められている。治安上の必要性と財政規律・持続性の間でアフ
ガニスタンは身動きがとれない状態に陥っている。ただし、これは裏を返せ
ば、治安関係支出の抑制が財政問題を解決する糸口のひとつとなっており、
その大前提として治安の回復が求められている、ということでもある。
2-3 社会:複雑な民族的分布
(1)民族分布
アフガニスタンは東西文明の十字路と呼ばれる。古くはアレキサンダー大
王が東征するときの拠点になり、またインドから仏教文明が各地に伝播して
いくうえで重要な中継地ともなった 17)。こうした歴史を如実に反映している
のが、その複雑な民族分布である。
多数派を形成するパシュトゥーン(42%)に続いて、タジク(27%)、ハ
ザラ(9%)
、ウズベク(9%)、さらに、バルーチやアイマークなどのいわゆ
る少数民族から構成される 18)。イスラームを国教とし、宗派としてはスンナ
派が多数派(約 8 割)を占めているが、おもに中央高原に分布するハザラ民
族はシーア派である 19)。
アフガニスタンの公用語は、パシュトゥー語とダリー語である。前者はパ
シュトゥーンの民族語であり、言語人口は約 900 万人とされる。その民族分
布は、主にアフガニスタンの南東部からパキスタンの北東部にまたがってい
る。アフガニスタンとパキスタンのパシュトゥーン民族は同一の言語と文化
を共有しており、意思疎通も容易である。第 5 章で後述するとおり、このこ
とはアフガニスタンの社会と紛争に少なからず影響を及ぼしている。それに
対して、ダリ―語は、ペルシア語起源の言語で、タジク、ハザラや一部の少
数民族も話しており、アフガニスタンの全人口の半分以上が同語を解すると
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
111
いわれている。
(2)国家統合とアイデンティティ
ここで国家統合とアイデンティティの問題にも触れておこう。2015 年 8 月
17 日、政府は、2 日後の独立記念日に予定されていた国民 ID カードの発行
を見送ることを決定した。その記載内容をめぐって世論が分断されてしまっ
たからである。物理的には、それまでの A4 サイズの証明書を、手のひらに
収まる大きさのカードに変更しようというだけの試みである。この小さな変
更は、しかし、国民統合に関わる大きな問題をはらんでいた。
新カードには、①氏名、②出生地、③誕生日、④登録番号、⑤国籍、が記
載される。紛糾したのは 5 つ目の「国籍」の部分である。大雑把に整理する
と、多数派のパシュトゥーンの多くが「アフガン人と記載すべき」と主張し
ているのに対して、それ以外の民族の多くが「各民族の名称を記載すべき」
と主張して譲らない、という構図である。なぜ、このような対立が生じてい
るのであろうか。
まず、前者の多数派は、「われわれは皆『アフガン人』である、したがっ
て『アフガン人』と記載すべき。国民の ID カードに民族名を記載するのは、
国民統合を脅かし、アフガニスタンをバルカン化に陥らせる」と主張する。
それに対して後者はこう反論する。
「パシュトゥーン人たちが ID カードに
『アフガン人』と記載したいのは当然だ。なぜなら、
『アフガン』は、単純に
アフガニスタン出身者を指すだけの言葉ではない。それは『パシュトゥーン
(民族)
』と同義でもあるからだ」と 20)。実際に、パシュトゥーン語において
「アフガニスタン」という単語は「パシュトゥーンの土地・国」を意味する
ものとして使われるときもある。すなわち、非パシュトゥーン民族にしてみ
れば、⑤国籍欄に「アフガン人」と記載することは、多数派による少数派の
併合であり、我慢がならない、というわけである。
その後、この問題は国会の審議に付されて「ID カードからは国籍欄を削除
112
立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
する」という妥協案が示され、2015 年の独立記念日に発行が開始されること
となった。しかし今度は、それに対して多数派のパシュトゥーン勢力が「ア
フガン人と記載すべき」と強硬に反対の意を示した。結局、世論がまとまら
ず冒頭の顛末となったのである 21)。
過去を振り返ると、アフガニスタンの内戦の過程で、10 万人の命が失われ
たといわれている。そして紛争の前線の多くが、民族間の境界線をなぞるよ
うな形で展開された。とくに実際に内戦を経験している世代にとって「民族
間紛争」の記憶はいまだに新しいのである 22)。
過去から現在にいたるまで、これら一連の出来事に通底しているのは、国
民統合の問題である。近代的なナショナリズム論の泰斗、ゲルナー(Ernest
Gellner)によれば、ナショナリズムの本質は「政治的な単位と民族的な(文
化的)単位とが一致すべきだとするひとつの政治的原理」だという 23)。民族
も宗教もアイデンティティのひとつだが、それらの上位に位置する、より大
きなアイデンティティとしての「国民」を創出できるかどうか。アフガニス
タンは今まさに、そうした問題に直面している。
2-4 アフガニスタンにおける SSR 論の限界点
アフガニスタンでは、新政権が発足してからおよそ 15 年が経過した。し
かし既述の通り、政治・経済・社会のいずれの側面も移行期にあり、いまだ
多くの問題を抱えている。
既存の SSR 論は本来、治安部門に着目した分析枠組みである。したがっ
て、同論を用いて分析する場合、他の要因は所与の前提条件となる。しかし
ながら同国の場合、上術の通り、治安部門以外の要因が国家再建上の大きな
課題として現れている。そのため、治安部門の改革だけでは恒久的な平和や
国家再建は望めず、分析の視点としても一定の限界を抱えていると言わざる
を得ない。そこで次章では、第 1 章で提示したセキュリティ・ガバナンスの
視座を用いて分析を試みたい。
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
113
3. ガバナンス構造と規律アクター
上記の背景を踏まえたうえで、つぎにアフガニスタンのガバナンス構造を
説明する。とくにここでは、セキュリティ・ガバナンスの主体のひとつであ
る規律アクターを概観する 24)。
3-1 アフガニスタンのガバナンス構造
アフガニスタンでは基本的にガバナンスはガバメント(政府)とほぼ同義
のものとして理解されている。いまだ中央集権化の途上にあり、統一的な政
府統治を目指す新政権にとっては至極当然のことともいえる。とはいえ、実
態としてはインフォーマルな制度も混在しているのが現状である。
憲法の規定に基づくフォーマルな統治機構は、基本的に欧米型の民主的な
統治機構に範を取ったものである。すなわち、三権分立制度が採られており、
立法府は二院制である。また、地方の行政単位である県(province)と郡
(district)には「県議会」と「郡議会」の設置が憲法上規定されているが、後
者は事実上ほとんど設置されていない。また議会といっても、法律の制定権
限があるわけではなく、各行政事項について助言を行うのがその役割とされ
ている。
表 3 が示すように、それ以外にもインフォーマルなガバナンス制度が存在
する。たとえば、インフォーマルな機構・制度としては、ムッラー(宗教指
導者)やハーン(地域の有力者)、地域開発評議会(Community Development
Council: CDC)などのほか、ジルガやシューラといった合議体の意思決定機
構がある。このアフガニスタンに土着の制度は、なにか争点が持ち上がった
時に長老や有力者(ただし、男性のみ)を招集して話し合いにより問題解決
を図るものである 25)。それは、結婚の承認といった家族間の問題から、村、
コミュニティ、郡、県といったあらゆるレベルにおいて存在する。ただし、
インフォーマルなこれら合議体は、ジェンダーの視点が皆無であり、一貫し
114
立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
表 3 アフガニスタンのガバナンスの枠組み
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(出典)Robert D. Lumb, Formal and Informal Governance in Afghanistan, The Asian
Foundation, Occasional Paper No.11, 2012, p.7
た慣習法がない場合が多く、判断が恣意的になりやすいといった問題点も指
摘されている 26)。
なお、表 3 は、セキュリティの視点を意識して整理された表ではない。以
下では、その点を加味し、さらに検討を続けてみよう。
3-2 規律アクターの分類
まず「規律アクター」である。政府・地方政府とは別に、治安維持を直接
的に担っているのは、RS などの外国軍やアフガン治安維持部隊(Afghan
National Security Force:ANSF)とよばれる国軍と警察である。また、イン
フォーマルなレベルでは、表 3 に記載されているような主体のほかにも、軍
閥、コミュニティ長や村長、民間軍事会社(Private Security Company: PSC)
などがある。とくに地方では、軍閥などが実質的な治安維持機能を担ってい
る場合もある。PSC については、アフガニスタンの場合には、政府に登録さ
れているフォーマルな PSC のほか、とくに地方では、登録外のインフォーマ
ルな PSC も存在するとされる。
それらを目的や動機の観点から整理すると、第 1 に、フォーマルな規律ア
クターは、性質上は中央集権化や領土の保全などが主たる目的である。第 2
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
115
に、インフォーマルな規律アクターについては、より限定された領域におけ
る治安維持や自己権益の確保がおもな行動原理であることが多い。第 3 に、
PSC は原則、中央政府ないしは地方政府の監督下での活動であり、基本的に
は政府と目的を共有する。ただし、PSC の行動原理は究極的には経済利益の
最大化である。そのため、短期的な目的は政府と同じであっても、その行動
原理は必ずしも同一ではない。
また、政府の規制外で活動している実質的な PSC も存在している。これら
は基本的には、インフォーマルないしは非合法の主体であり、このうち地域
の秩序を混乱させている場合には、むしろ「攪乱アクター」となっている場
合もある。
3-3 治安部門改革
(1)概観
現在、アフガニスタンで実施されている治安部門改革は、2002 年 4 月にス
イスのジュネーヴで開催されたアフガニスタン治安支援国会合や G8 会合で
描かれた青写真がもとになっている。アフガニスタンの場合、複数のドナー
が個別のセクターを「主導国」として担当する形がとられた。すなわち、国
軍改革(主導国:米国)、警察改革(ドイツ)、麻薬対策(英国)、司法改革
(イタリア)
、武装解除・動員解除・元兵士の社会統合(日本・UNAMA)の 5
本柱である。このうち以下では、規律アクターとして、国軍と警察の発展に
ついて概観する。
(2)国軍
新生アフガニスタンで「国軍」創設が始まったのは 2001 年のタリバーン
政権崩壊後である 27)。ボン合意後の 2003 年 3 月の時点で 2 千名弱だった新
政権の国軍兵士は、2015 年現在、19 万名の規模を維持している 28)。
アフガニスタンの治安機関の立て直しにおいて最大の懸念点のひとつは
116
立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
民族問題である。タリバーン崩壊後、新政権のもとで治安機関の主要なポス
トを掌握したのは、北部同盟のメンバーであった。とくに新規の治安部隊の
採用は当初、主にタジク民族を中心に進められたため、多くのパシュトュー
ン民族が反発した。また、とくに国軍創設の当初は、雇用された兵士はかつ
ての司令官への忠誠心を維持していることも多く、部隊編成の再編は、そう
した司令官の退官を待ってから行うなどの多くの配慮を必要とした。
その後、この問題は次第に改善されていったものの 29)、いまだ完全に解消
されているわけではない。たとえば、国防相の指名は、いまだにさまざまな
確執を生じさせる問題である。最近も、空席となっていた同ポストを巡り
喧々諤々の議論が行われ、2015 年 5 月に、ようやくパシュトゥーン民族出身
のスタネクザイ(Masoom Stanekzai)が国防相代理として大統領の指名を受
けた。しかし、その 2 ヶ月後、国防相としての信認投票を議会で否決されて
おり、2015 年 12 月現在、同ポストは空席のままである。
(3)警察改革と民間軍事会社(PSC)
アフガン警察の立て直しは、試行錯誤の連続であった 30)。2002 年以降、警
察の改革が進められたが、当初「質」重視で改革を進めたドイツの政策は、
現実に治安問題が迫っているアフガニスタンの現実に合致せず、
「量」を重
視した米国などに主導国が変更した。
識字率をはじめ、麻薬や汚職問題なども含めた警察官の「質」の問題はい
まだに大きな課題となっているものの、こうした支援などにより、現在は 15
万人規模の組織に生まれ変わっている。
このアフガン警察組織の中に、アフガン民衆保護部隊(Afghan Public
Protection Force: APPF)という部隊がある。その前身組織は、2010 年 8 月
の「大統領令 62 号」によって創設されたものである。しかも、これは、も
ともと PSC を解体する試みの一環でもあった。
西欧的なセキュリティ・ガバナンスの観点からすれば、本来、PSC の活用
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
117
は統治コストの削減に結び付くものである。実際、アフガニスタンでは政府
財政はひっ迫しており、PSC の活用は、効率的な公共サービスの提供だけで
なく、歳出削減にもつながる話だろう。にもかかわらず、政府が PSC 活用の
動きに反対し、解体を試みているのは、なぜなのだろうか。その理由を考え
てみたい。
アフガニスタンにおいて、PSC 産業が勃興したのは、タリバーン政権の崩
壊後であった。外国軍の駐留が開始され、各国大使館が再開されると、復興
支援の進展に伴い PSC 市場も急激な成長をみせた 31)。新政権の発足当時は、
「統治」の前提となる国軍や警察がきちんと機能しておらず、外国人の多く
は、治安を「自前で」確保する必要があったからである。たとえば、かれら
の中には当初、元司令官たちに治安確保を「委託」していた者もいた。そう
した形でアフガニスタン国内でも PSC が創出され、また、外国の PSC も多
数参入してきた。
ライセンス発行という形で政府による規制の試みが始まったのは 2006 年
頃である。無秩序・無規制な PSC の存在は国家安全保障上の脅威であり、元
司令官などへの直接的な「委託」行為は、進行中であった軍閥や非合法武装
勢力の解体の試みを逆行させる一因ともなりかねなかったからである。ま
た、登録に際して政府要職者のコネが幅を利かせたり、賄賂を要求されるな
どの汚職問題も指摘されていた。こうした事態を受けて、アドマール(Haneef
Atmar)内務大臣(当時)は、内務省傘下の「国営 PSC」組織が、これらの
PSC を代替する案の実現を試みた。手始めに 2009 年、国営 PSC にアジア開
発銀行などの支援事業の警備を担当させ、向こう 5 年間で政府傘下の PSC が
民間 PSC を漸進的に代替していく、という構想を提示した。
この改革案をさらに性急に推し進めようとしたのがカルザイ大統領であ
り、冒頭の「大統領令 62 号」により APPF の前身が創設された。大統領は、
民間 PSC の活用はアフガン国家警察の仕事を損なうものであり、汚職も拡大
させていると批判した。また、先述のとおり政府の治安関係支出は膨大であ
118
立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
る。APPF が PSC の代替となれば(手数料収入という形で)一定の財源も確
保でき財政面でもプラスになる、という側面もあっただろう。
当初、政府は民間 PSC の全面的な禁止も議論していたものの、それでは支
援活動が実施できないとして国際社会からの猛反対に直面して同案は撤回
された(結局、外交機関は例外とすることで一応の決着をみている)
。こう
した流れの中で、民間の登録 PSC は 2015 年 10 月現在、約 20 社前後に縮小
されている 32)。また、APPF は警察の一組織として存続しているものの、さ
らなる能力強化の必要性が指摘されている。
中央集権化や財源確保といった観点から APPF に、これまで民間ベースで
運営されてきた PSC の仕事を任せたい、という政府側の言い分に一定の理は
ある。他方で、これだけ頻繁にテロ事件などが発生している中で、現実問題
として AAPF の能力に確信が持てず、民間ベースの PSC に頼りたい支援国側
の主張も一理あり、議論は平行線をたどっている。中央集権化の途上で「暴
力機構」の一部を「委託」しようとすると、こうした問題が生じるのである。
4. アフガニスタンの攪乱アクター
本章では、セキュリティ・ガバナンスの主体のうち、攪乱アクターを概観
し、アフガニスタンの「非正規戦」の特徴を分析する。
4-1 テロリズムとアフガニスタン
テロには「強制(enforcement)」と「煽動(agitation)」という 2 つの機能
がある 33)。強制は、人々に服従を強いることであり、煽動は、自分たちへの
共感を得て、イデオロギーや道義的な面での裏付けを得ようとすることであ
る。アフガニスタンの文脈でいえば、たとえば、過激派組織のタリバーンが、
ある村を制圧し、
恐怖で自分たちの支配地域に組み込もうとするのは「強制」
である。それに対して、同じタリバーンがテロの実行後に声明を出し「外国
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
119
支配を排除するために聖戦を実施した」などと喧伝し、そのシンパを増やそ
うとするのは「煽動」である。
アフガニスタンでは、国際的なテロ組織であるアル・カイーダ(Al Qaida)
や現地で「ダウェーシュ」と呼ばれているイスラーム国(Islamic State34))だ
けでなく、中央アジアや南アジアを拠点とする地域的な過激派のネットワー
クの活動も存在する。そして、歴史的にそれらから思想的な影響だけでなく、
時には資金的・人的支援も受ける形で、さまざまな過激派組織が生まれ、活
動を行っている。すべてを紹介する紙幅はないが、以下では、アフガニスタ
ンの領域内で活動を行い、とくに一定の政治的主張と組織規模を有する 3 つ
の組織をとりあげる 35)。
4-2 過激派組織の概観
(1)タリバーン
支配領域と組織規模の観点で、現在のアフガニスタンで最大の反政府勢力
は、タリバーンおよび、その諸分派である。一時は霧散霧消したと思われた
タリバーンだが、その後体制を立て直し、少なくとも 2000 年代の後半には
再び勢力を回復している(図 1 参照)。現在、タリバーンの戦闘員は 2 万 5 千
人とも言われており、アフガニスタンの南部地域を主な勢力範囲として、北
部や東部でも巻き返しを図っている 36)。これまで、いずれの地域でも県都に
ついては中央政府の支配が及んでおり、タリバーンやその他の勢力が実効支
配できているのは、基本的に県都の外縁地域に限られていた。しかし、2015
年 9 月、北部の要衝クンドゥース県の県都が陥落した。これは新政権樹立後
はじめての事態であり、現在予断を許さない状況になっている 37)。
タリバーンは自身の「公式ウェブ・サイト」をもっている 38)。「聖戦の声
(Voice of Jihad)
」と題するこのサイトでは、首都やそれ以外の地域でテロ活
動が実施されたあと、
「声明」が掲載されることがあり、そこから活動の目
的が読み取れる。それによると、その目的はイスラームによる国家統治と外
120
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(109号)
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図 1 アフガニスタンにおけるタリバーンのおもな活動地域
(出典)Sarah Almukhtar and Karen Yourish, "14 Years After U.S. Invasion, the Taliban Are
Back in Control of Large Parts of Afghanistan," New York Times, 16 October 2015 をもとに筆
者作成
(注)タリバーンの支配地域は、
そもそも現在進行形で動いており諸説が存在する。本地図
も完全なものとはいえないが、一時期におけるタリバーンの主要な活動地域を示したもの
として提示する。
国支配の排除である。
タリバーンの特徴としては次の 3 点が挙げられる。第 1 に、パシュトゥー
ン民族を主体とした団体である。同民族はパキスタンとアフガニスタンの領
域にまたがり、タリバーンは、同民族の独自ネットワークの中で両国を行き
来しながら活動をすることが可能である。
第 2 に、一定の組織化がなされている点である。2015 年 7 月末に新指導者
としてマンスール(Mohammad Mansoor)氏が選出されるまで、タリバーン
の指導者とされていたのは、カンダハール出身のオマル(Mohammad Omar)
氏である。彼が率いる評議会は、通称クエッタ・シューラと呼ばれ、この合
議体が実質的にタリバーンを運営しているとされる 39)。タリバーンは、その
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
121
公式サイトで自らを「アフガニスタン・イスラム首長国(Islamic Emirate of
Afghanistan)」と名乗っており、いわゆる影の内閣や各県の知事も組織して
いるとされる 40)。また、2013 年にはカタールに事務所を設置し、アフガニ
スタンの現政権などと交渉も行っている。
第 3 に、上記とは逆のベクトルであるが、諸分派の存在である。2001 年の
軍事行動により一時は分解したタリバーンだが、その後、勢力を復権する過
程で、さまざまな分派が生じている。とくに、和平交渉に応じているとされ
るグループとは決別し、もっぱら過激活動にひた走る過激分子や、他組織に
寝返る司令官なども出てきている。
以上のうち、本稿の主題との関係で重要な意味を有しているのは、第 1 の
民族的要素である。実際、タリバーンが実効支配している地域は、パシュ
トゥーンが支配的な地域が多い。また、とくにアフガニスタンの村落地域で
は、村長が政府にも反政府勢力にも中立的な立場を取ることがままある。そ
の際、とくにタリバーンとの関係構築・維持において、こうした同族意識が
役立っていることは指摘するまでもない。
(2)ハッカニ・ネットワーク
ハッカニ・ネットワーク(Haqqani Network)もパシュトゥーンを母体と
した集団である。活動領域は、アフガニスタンの東部地域および当該地域に
接続しているパキスタンの北東部、とくに連邦直轄部族地域(FATA)と呼ば
れる地域の一部にまたがっている。いずれもパシュトゥーンが優勢な地域で
ある。
1980 年代にソ連侵攻に対抗した著名なムジャヒディーンの息子であるハ
カーニ(Sirajuddin Haqqani)が指導者である。2015 年にタリバーンの新指
導者が選出された直後には、新指導者であるマンスール氏を支持する旨を表
明した。このことからも分かる通り、同じパシュトゥーンを母体とするタリ
バーンとも一定の関係を有する。タリバーン傘下の組織とみなされることも
122
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あるが、基本的には独立した指揮命令系統のもとで行動していると考えられ
ている。また、これまで国際テロ組織アル・カイーダとの関係性も指摘され
ている。さらに、パキスタンの諜報機関(ISI)ともつながりがあるとされ、
アフガニスタン国内のインド権益に対して行われたテロに同ネットワーク
が関与していることも多いとされる。
(3)イスラーム党
このグループは「イスラーム党(Hezb-i-Islami Afghanistan)」と呼ばれて
いるものの、政党としては非合法化されている。その指導者ヘクマティアー
ルは、パシュトゥーンのギルザイ部族の出身で、クンドゥース県の生まれと
される。同指導者は新聞などのメディアにも時々登場し、このグループの考
え方は、
そうしたメディア情報からも読み解くことができる。たとえば、2015
年 7 月のインタビュー記事では、同氏は、外国依存を終焉させて、アフガニ
スタンに「主権国家システム(sovereign government system)
」を確立するた
めに、アフガニスタンの政党に対して、かれらの活動に加わるように呼びか
けている 41)。以上からも分かる通り、イスラーム党は、外国軍や外国の存在
がアフガニスタン問題の諸悪の根源であるというのが主な主張である。
4-3 アフガニスタンの非正規戦
「軍隊が 19 万人もいるのに、なぜゲリラ戦を制圧することができないのか、
と問われることがある。しかし、アフガニスタン紛争は、単純なゲリラ戦で
はない点をよく考えなくてはならない」
。アフガニスタンのある治安関係者
は、同国の紛争の特徴をこう表現しているが、これは非常に興味深い点であ
る 42)。この点をもうすこし掘り下げて考えてみると、この国の反政府勢力と
紛争の特徴が見えてくる。それは次の 3 点に集約されるだろう。
第 1 に、紛争や暴力の形態が「非対称」であり、さらにその「非対称」性
が複雑である。定義上「ゲリラ戦」というのは、政府などの正規軍と反政府
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
123
勢力などの非正規軍との戦いである。タウンゼンド(Charles Townshend)の
言葉を借りれば「ゲリラ戦は、正規の軍事的な基準からいえば『非通常戦』
には違いないが、
通常の軍事的ロジックによって展開」される 43)。すなわち、
これは「正規軍」対「非正規軍」の戦いである。それに対して、アフガニス
タンの場合には、
過激派によるテロリズムも横行している。テロリズムでは、
いわゆる「ソフト・ターゲット」である文民や民間人が狙われることが多い。
すなわち、これは「軍」から「民」への一方的かつ無差別な暴力であり、通
常の軍事的ロジックで展開される戦いではない。
第 2 に、反政府勢力が治安の不安定要因であることは間違いないが、他方
で、一部の地域では治安と秩序の担い手にもなっている。すなわち治安を体
現するセキュリティ・アクターにもなっている点である。
第 3 の特徴は、アフガニスタンの場合、反政府勢力の多くが、外国にも
ネットワークを有していることである。再び、同治安関係者の分析を引用し
よう。「たとえ話として、現在のアフガン国軍を、そっくりそのまま最新鋭
のアメリカ軍に置き換えたとしても、アフガニスタンの過激派を制圧するの
は容易ではない。なぜなら、アフガン国内でいくらタリバーンを叩いても、
かれらはパキスタン国内に逃げ込んでしまうし、さらに補給基地がアフガン
国外にもある。その意味では本来、タリバーン問題を解決するもっとも効果
的な軍事的手段は、その拠点であるクエッタ・シューラを攻撃し武力で制圧
することである。しかしながら、パキスタンは事実上の核保有国であり、軍
事バランスの観点から、アフガン国軍がパキスタンに攻撃をしかけることは
不可能である 44)」。とくにパキスタンに接続するアフガニスタン東部の国境
側は、主にパシュトゥーンの部族支配地域である。したがって、タリバーン
分子やハッカニ・ネットワークの構成員などが行き来するのは容易である 45)。
以上 3 点の特徴を踏まえると、アフガニスタンの治安問題は、単純に軍隊
の数の問題ではないことがよく分かる。攪乱アクターは、さまざまなネット
ワークをもっており、また、中央政府の支配が及ばない地域では、部分的に
124
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(109号)
秩序の体現者にもなっているのである。
5. アフガニスタンとセキュリティ・ガバナンス論
本章では、これまでの議論を総括する形で、規律・攪乱アクター間の相克
を概括し、アフガニスタンの国家建設およびセキュリティ・ガバナンス論に
対する示唆、を検討する。
5-1 規律アクターと攪乱アクター間の相克
基本的に、政府などの規律アクターと過激派勢力などの攪乱アクターは対
立構造にある。ただし、インフォーマルな主体、たとえば地方の村長は、一
般に政府にも反政府勢力にも中立的な立場を取ることが多い。それは、自ら
の自治領域の秩序を守ることが重要であり、たとえば政府が地域の秩序を守
れない場合には、地方の軍閥や、場合によっては反政府勢力に、治安の維持
を依拠せざるをえない場合もあるからである。とくにタリバーンを支持する
住民が多い地域では、同組織が徴税を行う一方で秩序の体現者になっている
ケースもある。
アフガニスタンのセキュリティ・ガバナンスが複雑なのは、次の要因が関
係していると言えるだろう。第 1 に、規律アクターと攪乱アクターの境界線
が時として明瞭ではない点である。もちろん、規律アクターである ANSF が
攪乱アクターであるタリバーンを掃討する、といった明確な関係も存在して
いる。しかし、上述のように、地域によっては、タリバーンが治安の体現者
として存在している地域もある。その場合に、彼らは実質的に規律アクター
であり、部分的にはそれで秩序に部分均衡が成立していると思われる地域も
ある。
第 2 に、さらに問題を複雑にしているのは、その形態が一様ではなく、た
とえば「地方」というくくりで現状を一般化することが難しい点である。こ
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
125
れは裏を返せば、中央集権化が完全に行き届いていないことの反映でもあ
る。
5-2 アフガニスタン国家再建に対する示唆
これまでの議論から、どのような示唆が導き出せるであろうか。まず、ア
フガニスタンのセキュリティ分析については、その多くが治安部門改革論の
枠組みを適用している。既述の通り、同論はセキュリティの規律アクター
(主に政府機関)側の分析には長けているが、セキュリティの攪乱アクター
(脅威の源泉となっている組織)の動きは捉えきれないだろう。それに対し
て、本稿でみてきたように、セキュリティ・ガバナンス論は包括的な視点で
アフガニスタンのセキュリティ問題を論じることができる、という利点があ
る。
とくに、セキュリティ・ガバナンス論の立場から、アフガニスタンの現状
を眺めてみると、村長やジルガなど様々なインフォーマル制度が混在してい
ることがよくわかる。そして、それら主体の多くは、規律側ないしは攪乱側
だけに属するわけではない。問題は、中央集権化の過程で、それらの主体を
いかに、政府側に取り込んでいけるか、ということであろう。
さらに、セキュリティ・ガバナンス論のうち鍵概念のひとつである「委託」
という作用は、アフガニスタンの国造りを論じるうえでも有益な視点を提供
してくれる。既述のとおり、PSC をはじめとするセキュリティの「委託」は、
本来、
(中央政府の)財政健全化と効率的な公共サービスの提供につながる
試みである。したがって、反政府勢力との結びつきや汚職といった問題点を
管理し規制することができれば、中央集権化を推し進める要因に変化する可
能性もある。そのことは、セキュリティ・ガバナンス概念を発展させてきた
西側諸国のこれまでの軌跡が歴史的な証左であるといえるだろう。
126
立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
5-3 非西欧的セキュリティ・ガバナンス
本節ではアフガニスタンの事例からセキュリティ・ガバナンス論にどのよ
うな示唆が導き出せるのか、を考察する。先述のとおり同論は、現実を描写
する「記述概念」なのか、それとも理想を示す「規範概念」なのか、という
論点がある。そこで、以下では 2 つに場合分けして検討する。
第 1 に、
「記述概念」としての考察である。つまり、セキュリティ・ガバ
ナンスの視点から、アフガニスタンの「現状」をありのままに描写するとど
うなるか、という点である。
基本的に、首都カーブルでは規律アクターと攪乱アクターが対立してお
り、その意味では、関係性は明確である。他方で、複雑なのは地方である。
上述のとおり規律アクターと攪乱アクターの関係はあいまいである。その権
威も各層で分割され、複数の主体が統治を部分的に担っているヘテラーキー
な世界となっている。その際、一部では部分的な均衡も存在している。ただ
し、部分均衡はあくまで部分均衡にすぎず、全体均衡に比べて、その「均衡」
は崩れやすい性質をもっている。地方の治安が安定化しないのは、まさにそ
の表れだろう。
第 2 に、
「規範概念」として位置付けた場合である。換言すれば西欧型の
セキュリティ・ガバナンス論は、アフガニスタンにそのまま適用可能なのか、
という争点である。
西欧では、封建制度、中央集権化、脱中央集権化という一連の流れを経て、
「セキュリティ・ガバナンス」の議論に到達している。西欧の発展をひとつ
の線形とみる歴史観にあてはめてみると、アフガニスタンはいまだ中央集権
化の途上にある。たとえば、PSC の議論は、中央集権化に至る前の段階で、
ガバナンス機能の一部委託を開始しているようなものである。
さらに言えば、これは「統治」をめぐる、西側諸国(支援国側)とアフガ
ン政府の意識の相違に関係する問題でもある。「セキュリティ・ガバナンス」
などの規範が浸透している多くの西側諸国のドナーにとって、主権作用の一
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
127
部である暴力装置の部分的な「委託」は、
「統治」を歪めるものではなく、む
しろ、それを効率化させるものである。しかし、アフガニスタン政府側は、
そうした規範を必ずしも共有しておらず、したがって、その見解は時に、全
く逆であろう。とくに現在は、まさにカオス的な「分権」状態に逆流するこ
とがないよう、必死で中央集権化を推し進めている段階である。そうした中
で治安装置の「委託」は、逆コースに向かってしまっている感覚がぬぐえな
いのではないかと思われる。端的に言えば、
「ポスト中央集権化」の時代認
識をもっている西欧諸国と、
「中央集権化」以前の段階にあるアフガニスタ
ンとの間には、
「統治」に対する意識において大きな溝がみられるのである。
つまり、アフガニスタンの事例研究との対比で鮮明になるのは、西欧型の
セキュリティ・ガバナンスは中央集権化が前提となっており、それは、あく
まで「ポスト中央集権化」の段階における議論ではないか、という点である。
あるいは逆の言い方をすると、
「中央集権化」の前段階にあることが、
「非西
欧的セキュリティ・ガバナンス」の特徴といえるかもしれない。ただし、こ
の点はアフガニスタンの事例だけで実証することは難しいであろう。
おわりに
既存の分析枠組みである SSR 論は、おもに規律アクター側に着目して分析
している。それに対して本稿は、アフガニスタンで国内紛争が収束しない原
因を、異なる視座から考えてみようと試みた。第 1 章で説明したとおり、既
存の SSR 論は、治安部門以外の諸要因を所与として、おもに治安部門の発展
と連関に着目する。それが故に、治安部門以外の(不安定)要因が強い事象
に対しては、説明力が弱くなる。実際、同国の場合、第 2 章でみてきたよう
に、治安部門以外の要素が紛争後の国家再建において大きな足かせになって
いる。
そこで本稿は、セキュリティ・ガバナンスの視座から、アフガニスタンの
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立命館大学人文科学研究所紀要
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紛争後の国家再建について分析した。同枠組みを用いることで、政府側だけ
でなく、反政府側の主体も分析の対象に含めることができる。第 3 章でみた
とおり、規律アクター側の特徴としては、フォーマルとインフォーマルな主
体が、いまだに混在している。それに対して、第 4 章で詳述したとおり、攪
乱アクター側の特徴としては、反政府勢力が国外にネットワークをもち、ま
た国内の一部では治安の体現者(規律アクター)となっている点である。す
なわち、第 5 章でまとめたとおり、アフガニスタン紛争の特徴としては、第
1 に、規律と攪乱アクター間の境界線があいまいであること、第 2 に、その
形態が地方によってもばらばらであり、一様にとらえることが難しいこと、
である。これらの諸問題に通底するのは、中央集権化がいまだ不完全である、
という事実である。
以上を踏まえて第 5 章では、本特集号の主題とも関係のある「非西欧型セ
キュリティ・ガバナンス」についても検討した。相違点として、ひとつ指摘
できるのは、既述のとおりアフガニスタンの場合、いまだ中央集権化の途上
にあることである。
本稿に関係する今後の研究課題についても指摘しておくと、第 1 に、「非
西欧型セキュリティ・ガバナンス」の特徴についての抽出は十分にできてい
ない。また本稿は、セキュリティ・ガバナンスのもうひとつの側面である国
際的な枠組みについてもあまり触れていない。これらは今後の研究課題であ
る。
以上のような限界はあるものの、本稿は、既存の治安面の分析枠組みで捨
象されている側面に、セキュリティ・ガバナンスの観点から新たな光を当て
ようと試みた。もとい、セキュリティ・ガバナンスの視座のみでアフガニス
タン紛争のすべてを説明できるわけではない。また、既存の枠組みの有用性
それ自体を否定するわけでもない。とはいえ、同国の紛争の特徴をみるかぎ
り、分析枠組みとして、セキュリティ・ガバナンスは、その特徴を捉えるう
えで一定の有意性を示しているといえる。本稿の意義は、その点を実証的に
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
129
提示した点にあるものと思われる。
注
1)本稿において示されている見解は、筆者個人のものであり、国際協力機構に所属する
ものではない。
2)国連決議でも治安部門改革という用語が使用されている。たとえば、安保理決議第 1510
号(2003 年)など。また、アフガニスタンのセキュリティについての分析は次の書籍
を参照。Jonathan Goodhand and Mark Sadra, The Afghan Conundrum: Intervention,
Statebuilding and Resistance, Routledge, 2008; Geoffrey Hayes and Mark Sadra eds.
Afghanistan: Transition under Threat, Wilfrid Laurier University Press.
3)猪口孝『現代政治学叢書 2 ガバナンス』東京大学出版会、2012 年
4)James Sperling ed. Handbook of Governance and Security, Edward Elgar, 2014, p.3-4;
pp.341-359.
5)Mark Webber, "Security Governance in and the Excluded States of Postcommunist
europe," Andrew Cottey and Derek Averre eds, New Security Challenges in
postcommunist Europe: Securing Europe's East, Manchester University Press, 2002,
p.44; Mark Webber, Stuart Croft, Jolyon Howorth, Terry Terriff and Elke Krahmann,
"The governance of European security," Review of International Studies, Vol.30, Issue
01, January 2004, pp. 3-26.
6)Eric Krahmann, Conceptualizing Security Governance, Cooperation and Conflict,
No.38, 2003, pp.5-26: Oran Young, Governance in world Affairs, Cornell University
Press, 1999.
7)James Sperling ed. op.cit, p.4
8)た と え ば 次 の テ キ ス ト で も 当 該 概 念 は 取 り 入 れ ら れ て い な い。Alan Collins ed.
Contemporary Security Studies [3rd Edition], Oxford University Press, 2013; Barry
Buzan and Lene Hansen, The Evolution of International Security Studies, Cambridge
University Press, 2009.
9)治安部門改革については次を参照。上杉勇司・藤重博美・吉崎知典編『平和構築にお
ける治安部門改革』国際書院、2012 年。Jane Chanaa, Security Sector Reform: Issues,
Challenges and Prospects( Adelphi Paper 344), Oxford University Press, 2002; Nicole
Ball and Dylan Hendrickson, Trends in Security Sector Reform(SSR)
: Policy, Practice,
and Research(CSDG Papers)
, Kings College of London, 2009.
10)Gerry Stoker, "Governance as Theory: Five Propositions," International Social Science
Journal, vol. 50, no. 155, 1998, pp. 19.
11)Roland Paris and Timothy D. Sisk 1 Introduction: Understanding the Contradictions of
Postwar Statebuilding, in Roland Paris and Timothy D. Sisk eds, The Dilemmas of
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立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
Statebuilding, Routledge, 2009, p.1
12)アフガニスタンの政治・内戦史についての邦語文献は、たとえば次を参照。鈴木均編
『ハンドブック アフガニスタン』明石書店、2005 年、総合開発研究機構・武者小路
公秀・遠藤義雄編『アフガニスタン―再建と復興への挑戦』日本経済評論社、2002 年、
広瀬崇子・堀本武功編『アフガニスタン―南西アジア情勢を読み解く』明石書店、2002
年など。
英語文献は多岐にわたるが、
たとえば次を参照。Barnett R. Rubin, The Fragmentation
of Afghanistan
( Second edition), Yale University Press, 2002; Peter Tomsen, The Wars
of Afghanistan, Public Affairs, 2013; Sultan Barakat ed., Reconstructing war-Torn
Societies: Afghanistan, Palgrave Macmillan, 2004.
13)井上あえか、
「アフガニスタン情勢」日本国際問題研究所編『南アジアの安全保障』日
本評論社、2005 年、171 頁。なお同稿は、20 世紀以降のアフガニスタン内戦史をタリ
バーンとの関係を軸に簡明にまとめており、分かりやすい。また、パキスタンとタリ
バーンの関係については、次の文献も参照。井上あえか「ターリーバーンとパキスタ
ンの内政」広瀬崇子・堀本武功編『上掲書』
、2002 年、73 − 87 頁、マイケル・グリ
フォン(伊藤力司・小原孝子・渡植貞一郎・浜島高而約)『誰がタリバンを育てたか』
大月書店、2001 年。Abdul Basit, Pakistan s Inextricable Role in Afghanistan s Future,
Rohan Gunaratna and Douglas Woodall eds., Afghanistan after Western Drawdown,
Rowman & Littlefield, 2015, pp. 13-33.
14)http://www.nato.int/isaf/docu/epub/pdf/afghanistan_compact.pdf(accessed on 5
September 2015 )
。
15)IMF 資料。http://www.imf.org/external/data.htm(accessed on 5 September 2015)
16)アフガニスタン財務省資料。http://mof.gov.af/en(accessed on 5 September, 2015)
17)アフガニスタンの歴史については次を参照。ヴィレム・フォーヘルサング(前田耕作・
山内和也訳)
『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店、2005 年、前田耕作・山根聡
『アフガニスタン史』河出書房、2002 年、マーティン・ユアンズ(金子民雄監修、柳
沢圭子・海輪由香子・長尾絵衣子・家本清美訳)『アフガニスタンの歴史―旧石器時代
から現在まで』明石書店、2002 年
18)Ian S. Livingston and Michael O hanlon, Afghanistan Index, Brookings Institute, July 31
2015, p.16. http://www.brookings.edu/about/programs/foreign-policy/afghanistan-index
(accessed on 5 September 2015)
19)アフガニスタンの民族と宗派の概要は、在米アフガン大使館のホームページなどを参
照。http://www.embassyofafghanistan.org/page/afghanistan-in-brief(2015 年 9 月 5 日
アクセス)
20)Jeffrey E. Stern, Afghanistan s Growing Identity(Card)Crisis, Foreign Policy, 21
January 2014.
非西欧型セキュリティ・ガバナンス論の視座
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21)国籍欄をめぐる問題のほか、有権者情報などを記録するデータベースのソフトウェア
の更新など基盤整備に関する問題点もいまだに指摘されている。 Baher Urges Action
over ID Cards, Daly Outlook Afghanistan, August 18, 2015, p.1 and p.4. など参照。
22)Azam Ahmed and Habibi Zahori, Afghan Ethnic Tensions rise in Media and Politics,
New York Times, 18 February 2014.
23)Ernest Gellner, Nation and Nationalism, Oxford University Press, 1983.(邦訳は、加
藤節監訳『民族とナショナリズム』岩波書店、2000 年)
24)国軍・警察改革については、今井千尋「アフガニスタン」上杉勇司ほか編『前掲書』
、
2012 年、189 − 203 頁(第 10 章)が簡潔にまとめている。
25)ジェルガ(Jirga)とはパシュトゥーン語であり、ダリ語では「シューラ(Shura)
」が
類似概念に該当する。
26)たとえば次の文献。Tobias Ellwood, Stabilizing Afghanistan: Proposals for Improving
Security, Governance, and Aid/Economic Development, Atlantic council Report, 2013,
p.7.
27)詳細は次の文献を参照。Mark Sadra, Security Sector Reform in Afghanistan: the Slide
towards Expediency, Michael Brzoska, David Law eds. Security Sector Reconstruction
and Reform in Peace Support Operations, Routledge, 2013, p.83-100.
28)Kenneth Katzman, Afghanistan: Post-Taliban Governance, Security, and U.S. Policy,
congressional Research Service, April 27 2015, p.32.
29)Kenneth Katzman, op.cit, p.32.
30)警察改革については次の文献を参照。Afghan National police Working Group, The
police Challenge: Advancing Afghan National Police Training (Project 2049 Institute)
,
2011; International Crisis Group, Reforming Afghanistan Police (Asia Report No.138)
,
2007; Robert M. Perito, Afghanistan s Police: the Weak link in Security Sector Reform,
United States Institute for Peace, 2009.
31)アフガニスタンの PSC については次の文献を参照。Gloria Westermeyer, The Impact of
Private Actors on Security Governance: An Analysis based on German ISR
Capabilities for ISAF, Springer VS, 2013.
32)2015 年の登録数は PSC 関係者よりの聞き取り(2015 年 10 月 4 日、於:カーブル)
33)テロについては、チャールズ・タウンゼンド(宮坂直史訳)『テロリズム』岩波書店、
2003 年、などが詳しい。
34)アフガニスタンにおける活動範囲はいまだ限定的であるものの、ナンガルハール県な
どの東部地域でとくに勢力を拡大しつつある。2015 年 9 月には、ナンガルハール県ア
チン郡で初めて治安部隊に対する大規模攻撃が行われた。
35)アフガニスタンの過激派については以下の文献などを参照。Michael Vinay Bhatia and
Mark Sedra, Afghanistan, Arms and Conflict: Armed Groups, Disarmament and
132
立命館大学人文科学研究所紀要
(109号)
Security in a Post-War Society, Routledge, 2008.
36)Kenneth Katzman, op.cit, p.42.
37)ただし 2015 年 9 月 28 日、アフガニスタン北部のクンドゥース県の県都がタリバーン
の攻撃を受けて陥落した。新政権の樹立後、県都が陥落したのは初めてである。その
後、政府軍が奪還したが、隣県などでもタリバーンの攻勢が強まっており、予断を許
さない状況である。
38)http://shahamat-english.com/(accessed on 5th September 2015)
39)2001 年のタリバーン政権崩壊後、このグループが、パキスタン領内のバローチスタン
州の州都クエッタに拠点を移したことから、こう呼ばれるようになった。ただし、現
在も拠点がクエッタにあるかどうかは不明である。
40)影の県知事などのもとで徴税や警察権の行使、また一部では教育や保健などの「公共
サービス」の提供も行っているとされる。タリバーンの組織構造や資金源などを各種
の公開資料をもちいてまとめたレポートに次がある。Stefanie Nijissen, Thematic
Issues: Taliban s Shadow Government Civil Military Fusion Center, September 2011.
http://www.operationspaix.net/DATA/DOCUMENT/6400~v~The_Taliban_s_Shadow_
Government_in_Afghanistan.pdf(accessed on 5th September 2015)
41) Suhn Foreign Reliance, Hekmatyar Tells Politicians, Daily Outlook Afghanistan, 21
July 2015, p.1.
42)アフガニスタンの治安関係者へのインタビュー(2015 年 9 月 9 日、於:カーブル)
43)チャールズ・タウンゼンド『上掲書』
、8 頁
44)アフガニスタンの治安関係者へのインタビュー(同上)
45)ただし、とくに 2014 年 6 月以降、パキスタン軍は北部地域のテロ掃討作戦を大々的
に展開しており、一定の成果を収めているとされる。したがって、同国側からすれば
問題は、アフガン(国境)側にあることになり、治安問題をめぐって両国間で非難合
戦になっている。
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