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高校化学担当者のための基礎化学

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高校化学担当者のための基礎化学
教員免許状更新講習
20013 年 8 月 15 日
於 琉球大学 理学部
高校化学担当者のための
高校化学担当者のための基礎化学
のための基礎化学
1 時限
イントロダクション
オービタルと化学結合
2 時限
電子密度分布と化学結合
3 時限
エントロピーと変化
4 時限
自由エネルギーと変化
筆記試験
琉球大学 理学部
海洋自然科学科
堀内 敬三
イントロダクション
この講習は高校の授業に直接役立つものではありません。内容は、定性的で大学教養課
程程度ですが、学部でも物理化学として学習する内容です。この講習の目的は、高校で化
学を教えている皆さんの化学における基礎知識を充実してもらうことにあります。教科書
を使って授業をしていても、そこには書かれていない事柄についても深い知識を持ってい
るか、いないかで、かなり教え方に差が生じるものです。例えば、化学出身にも係わらず
学校の都合で生物や物理を担当することがあると聞きます。教科書は丁寧に書いてあるの
で、予めそれを読んで内容を理解しておけば、一応授業はできるかもしれません。しかし、
それで十分なら、高校を卒業した学生が大学で学習することなく、直ぐに高校生に授業し
ても良いことになります。大学あるいは大学院で化学を学んだ者が高校で化学を教えると
いうことは、高校で教えている化学よりも高いレベルの化学の知識と化学を含んだ自然科
学全体についての広い知識が、化学教師に求められているということではないでしょうか。
この講習で採り上げる内容は、オービタル とエントロピーです。これらは学習指導要
*1
領外ですが、発展という形で載せている教科書もあります。また、以前には一時期ではあ
りますが日本の高校の教科書でも指導要領内の内容として載っていましたし、現在では多
くの諸外国の高校の教科書では取りあげられています。また、国際バカロレアにおいても、
その高校教育課程には今回の講習の内容の多くが含まれています。この様に、オービタル
やエントロピーを高校過程でも教えることは国際的趨勢ですが、もちろんそれには理由が
あります。化学の基本(コア、エッセンス)は、化学結合と化学反応であり、それらを理
解するためにはオービタルとエントロピーが必須だからです。
オービタルとエントロピーは大学の化学系を卒業された方なら、一度は学習しているは
ずです。しかし、大学で学んだ内容全てを、卒業後何年たっても良く覚えている人は少な
いでしょう。次頁のコピーは「化学と教育」という雑誌に載っていた記事で、化学系社会
人技術者が基礎(主にいわゆる物理化学)を修得したい、言い換えれば基礎学力の不足を
感じている、という内容です。化学を専門としている技術者でも、基礎学力の不足を感じ
ています。これはある意味で高校で化学を教えている皆さんにも当てはまることなのでは
ないでしょうか。大学で化学を専攻したが化学の基礎をもう一度勉強したいと思っていて
も、あるいは、大学で化学を専攻していなかったが高校の事情で化学を教えているので、
化学の基礎を勉強したいと思っていても、日々の仕事に追われてなかなかそのための時間
がとれないのが現状ではないでしょうか。この講習は、そのような欲求のある方には、あ
る程度意味のあるものだと考えています。
*1 日本語では軌道関数というが、略して軌道ということが多い。軌道という言葉は、太陽の周りの惑
星の軌道などがイメージされるので、ここではオービタルと呼ぶことにする。
一認
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文
熟
繍
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議
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慧
議
議
謹
慧
il;I
化学系社会人技術者の基礎学習に関する−考察
川美
石原顕光,吉
雪,朝倉祝治
(2000年10月4日受理)
2化学系社会人技術者に対する面談調査
lはじめに
筆者らは化学系社会人技術者に対する学習支援を行って
筆者らは1997年度に文部省からの委嘱研究F高等教育
きており,様々な業種の企業に所属する化学系社会人技術
者と接する機会が多い。その際,所属企業の業種によらず
彼らからしばしば「基礎」を習得したいという要望を聞
く。しかし社会人技術者は「基礎」という術語を漠然と用
いており,用いている本人自身が明確な内容を意識してい
機関における技術系キャリア開発のためありカレント教育
な1,コ場合が多い。
行ったs)。ここで化学系社会人技術者とは,所属企業の業
種を問わず,実務において主に化学現象が関与する技術・
現象を取り扱っている技術者を呼ぶ。、所属企業の規模を従
業員数で分類すると図1となる。調査対象者の年齢は面談
当時25∼35歳で,全員理工系大学の学部あるいは大学院
の卒業生であり,入社5年から10年程度の業務経験を持
モデルに関する実証的研究」を実施し,20社(業種、:化
学・鉄鋼・非鉄金属・機械・石油・鉱業・金属製品・電気
機器・建設・医薬品・電力ガス・精密機器・輸送用機器)
に所属するのべ22人の化学系社会人技術者に面談調査を
y
一方,大学をはじめとする高等教育機関における工学教
育においても,基礎教育の重要性は繰り返し述べられてき
ている'-3)。そこでは基礎とは,数学・物理・化学,そし
て化学系では量子化学や化学熱力学,速度論などの科目を
’
l
,
l
I
I
具体的に指している。当然,大多数の化学系社会人技術者
は在学中に,これらの科目を履修している。にもかかわら
ず,現実に多くの社会人技術者が「基礎」を求めている。
これは単に知識として基礎科目の習得が不十分であること
を示しているのか,あるいは教育する側とされる側の「基
礎」に対する認識のずれがあり,それが現れているのであ
ち,技術開発に直接従事している。
筆者らが面談調査を行った化学系社会人技術者22名の
うち,20名が業務において「基礎」が重要であることを
認識していると回答した。「基礎」をそれほど重要視して
いない2名は,販売される商品に直結した開発競争の激し
ろうか。
い業務に従事し,スピードアップが求められており,「基
1999年11月に日本技術者教育認定機構(JABEE)が
設立され4),今後高等教育機関における技術者教育のレベ
ルが保証されるようになる。しかしこのことにより,社会
人技術者が求める「基礎」を大学在学中に十分に習得でき
礎」よりもむしろ関連の先端情報が重要という意見であっ
た。しかしそれは「基礎」は現実の業務における直接的な
貢献度が低いということであり,根本的な重要'性は認めて
いた。このように大部分の化学系社会人技術者において
るのであろうか。このような疑問に答えるために,化学系
「基礎」の重要性は認識されていると思われる。
社会人技術者の求める「基礎」とは何かを明確にしておく
ことが重要であると考えられる。そこで本稿では化学系社
会人技術者の求める「基礎」について,筆者らの実施した
面談調査5)や化学熱力学に関する講座の受講者からの意見
及び筆者らの経験に基づき詳細に分析し,考察を行った。
また「基礎」が重要であることを認識していると回答し
た20名は,程度の差はあるが全員がその習得の必要'性を
感じると回答した。従って,大部分の化学系社会人技術者
は「基礎」の重要性を認識しており,かつその習得の必要
性を感じていると言って良い。
そして「基礎」の学習支援を行うためのシステムについて
従業員数
も言及した。
園∼1000人
座I田国日﹄
’
11
1
必
Aconsiderationonlearningofengineeringbasicsforchemicalengi・
neers,
AkimitsuISHIHARA(有)テクノロジカノレエンカレツジメントサービス
取締役横浜国立大学工学部非常勤識師
[連絡先]254-0821平塚市黒部丘20-14(勤務先)。
p画
4
灘
謹
雲
;
Z1000∼5000
Ⅲ
1匡4=
Ⅲ5000∼10000
目10000∼
る分類(20社)。
図1調査対象者の所属企業の従業員数による分類
MiyukiYOSHIKAWA(有)テクノロジカルエンカレツジメントサーピス
主任研究員横浜国立大学工学部非常勤講師
ShukuiiASAKURA横浜国立大学工学部教授
286
化学と教育49巻5号(2001年)
目次:
目次:
1 時限 オービタルと化学結合
・・・ 1
1. 化学結合は電磁気学だけでは理解できない
2. オービタル(軌道関数)の導入
3. オービタルに基づいて化学結合を理解する
3・1 疑問①について
3・2 疑問②について
2 時限 電子密度分布と化学結合
・・・8
1. 電子密度分布の導入
2. 電子密度分布に基づいて化学結合を考える
2・1 疑問④について
2・2 疑問③について
3. 化学結合についてのまとめ
3 時限 エントロピーと変化
・・・13
1. 原子・分子の熱運動
2. 気体の拡散
3. 気体の圧力
4. 固体の融解
5. ゴム弾性
6. エントロピーのまとめ
4 時限 自由エネルギーと変化
・・・19
1. 自由エネルギー
2. 化学反応を自由エネルギーに基づいて考察する
3. 溶解現象を自由エネルギーに基づいて考察する
F1 ~ F5
・・・23
1 時限 オービタルと
オービタルと化学結合
1. 化学結合は
化学結合は電磁気学だけでは
電磁気学だけでは理解
だけでは理解できない
理解できない
原子は有限の大きさを持っているが、これは電磁気学では理解できないことなのである。
正の電荷と負の電荷はくっついている状態が最もエネルギー的に安定なので、正の電荷(原
子核)と負の電荷(電子)が集合して、有限の領域内で離れて運動している状態を安定に
*1
維持できることはミクロの
ミクロの世界の特徴なのである 。マクロの
マクロの世界ではこのようなことは
起こらない。マクロな大きさの正の電荷と等量の負の電荷を持ってきても、水素原子はで
きない。力学や電磁気学だけでは、原子や分子のようなミクロの
ミクロの世界を理解することはで
きない、量子力学的性質を理解する必要がある、ということをよく認識する必要がある。
1、2 時限では、幾つかの疑問に答えるという形式で化学結合についての理解を深めた
い。
原子は電気的には中性な物質なので、電気的には安定な系である。しかし、希ガスを除
いた全ての元素は一般に単体としては天然に存在しない。ほとんどの元素は化合物、酸化
物とか硫化物とかハロゲン化物、といった形で天然に存在している。これはその方が原子
でいるより安定だからである。電気的に中性な原子がなぜ不安定なのだろう?なぜ結合し
ようとするのだろう?
疑問①
疑問① なぜ希ガス元素だけが安定で、それ以外の元素は不安定な(=結合を作ろうとす
る)のだろう?
水素原子は二つで水素分子 H2 を作るが、三つ集まって H3 分子を作ることは常温常圧で
はない。水素原子は二つ以上の原子と共有結合することはできない。これを結合の
結合の飽和性
という。同様に、希ガス元素は常温常圧では分子(例えば He2 など)を作ることはない。
また、分子は固有の形をしており(言い換えれば、結合の
結合の方向性があり)、例えば分子ど
うしが衝突しても、その形は変わることはない。ダイヤモンドは非常に隙間の多い構造で
あり、最近接の原子は僅か 4 個である。これは炭素原子間が共有結合で結ばれていて、炭
素原子は 5 個以上の原子と結合できないからである。
しかし、イオン結合
イオン結合や金属結合には飽和性も方向性もない。塩化セシウムは最近接の対
イオンが 8 個であるが、塩化ナトリウムは 6 個である。つまり、前者の Cl-は 8 配位で、
後者の Cl-は 6 配位である。この違いは単に陽イオンの大きさの違いに起因しており、陽
イオンと陰イオンの結合がどうなっているか、と考える必要はない。Cu の結晶や Fe の結
晶のような単原子金属結晶は種類によらず基本的に最密充填構造をとるが、これは単に球
をできるだけ最密な配列になるように充填するという観点から説明でき、原子間の結合状
態を考える必要はない。
疑問②
疑問② 分子は固有の形を持っており、共有結合には飽和性がある。これはなぜだろう?
*1 原子や分子程度の大きさに対して、ミクロ(microscopic)あるは微視的という言葉を、我々が目で
見える程度の大きさに対してマクロ(macroscopic)あるいは巨視的という言葉を使う。
-1-
これらの疑問は古典力学や電磁気学だけでは解決できない。量子力学的性質を理解する
必要がある。これらの疑問に答えるために、オービタルを使って化学結合を考察してみよ
う。電子と原子核は電荷を持っているので電気的に相互作用するが、原子内の電子は単な
る負の電荷ではなく、オービタルという状態を占めている電荷なのである。
2. オービタル(
オービタル(軌道関数)
軌道関数)の導入
量子力学的性質 1:原子あるいは分子内の電子はオービタル(軌道関数)と呼ばれる、一
定のエネルギー値と一定の運動領域を持った状態を占めている(=占有している)。原子オ
原子オ
ービタル(原子軌道関数 AO)、分子オービタル
分子オービタル(分子軌道関数 MO)
原子や分子内の電子は好き勝手に運動することは出来ない、オービタルと呼ばれる状態
のどれかを占めるという形でしか存在できない。オービタルには名称がついている。例え
ば、AO の場合、s オービタル、p オービタル、d オービタル、
オービタル ・・・などがある。オービ
タルのエネルギーはある決まった値であり、それらは不連続である(F1 図 10・7 水素原子の
エネルギー準位図
)。ということは、原子・分子内の電子はある決まったとびとびの値
エネルギー 準位図参照
準位図
のエネルギーしかとれないということである。これをエネルギーの
エネルギーの量子化という。自然界
の不連続性は物質(これは原子から成る)だけに限らずエネルギーにも現れているのであ
る。
F1 図 2-7、F3 図 4・2 に s、p、d オービタルの図を示す。原子は原子核と電子から成る
ので、マクロな粒子のような(例えば野球ボールのような)明確な境界をオービタルは持
っていないことに注意する。これらオービタルの図はそのオービタルを占める電子の運動
領域の境界面を表しているが、この領域外に電子が見出される確率は零ではない。例えば
水素原子の 1s 電子の位置を測定したとき、その領域の中に電子が見つかる確率が例えば
95 %である領域の境界面が F1 図 2-7 において s オービタルとして示されていると考えら
れる。オービタルには正負の符号があることに注意する(例外は 1s オービタル、F1 図 2-7
参照)
。
オービタルに関して重要な性質は次の Pauli の排他原理である。
量子力学的性質 2:Pauli(パウリ)の排他原理・・・一つのオービタルを占めることのでき
る電子の数は二つまでである。この二つの電子を電子対という。
この電子対は以下のようにエネルギー準位図に書かれる(F1 図 11・23、11・24 参照)。
↑↓
ここで、↑と↓は電子の異なる二つの状態を表している。何が異なるかというと、スピン
の状態が異なっている。スピンはマクロな粒子にはなく、電子、中性子、陽子といったミ
クロな粒子のみが持つ性質である。↑は上向き
上向きスピンあるいはαスピンと呼ばれ、↓は下
向きスピンあるいはβスピンと呼ばれる。Pauli の排他原理によると、一つのオービタル
に二つの電子が入れるが、その場合、二つの電子のスピン状態は異なっていなければなら
ない。すなわち、電子対とはαスピンの電子とβスピンの電子から成る一組の電子のこと
である。同じスピン状態の電子 2 個が一つのオービタルを占めることは出来ない。
-2-
☆ 電子配置
電子殻は原子オービタルから構成されている。K 殻は 1s オービタルから成るので、収
容できる電子は 2 個となる。L 殻は 2s オービタルと 2p オービタルから成り、2p オービタ
ルは 3 種類あるので、全部でオービタルが 4 個あり、電子は 8 個収容される。
電子殻と原子オービタルの対応(かっこ内の数値はそれらに収容できる電子の数)
K 殻(2)
1s オービタル(2)
L 殻(8)
2s オービタル(2) 2p オービタル(3 種類、6)
M 殻(18) 3s オービタル(2) 3p オービタル(3 種類、6) 3d オービタル(5 種類、10)
ここで、1s、2s 等の 1、2 という数は主量子数と呼ばれている。同じ s オービタルであっ
ても、主量子数が異なると、エネルギーの値が異なり、大きさも異なる(形は同じ )
*1
電子がどの様にオービタルを占有しているかを表したものを電子配置という。原子や分
子の電子状態は電子配置によって表される。基底状態(エネルギーの一番低い状態)の原
子の電子配置は、エネルギーの低いオービタルから順に Pauli の原理に従って占められる。
これを構成原理という。
基底状態の原子の電子配置(第 1 ~ 3 周期)
H:1s
1
2
2
He:1s
1
2
Li:1s 2s
2
2
Be:1s 2s
1
2
B:1s 2s 2p
2
1
2
2
2
2
2
C:1s 2s 2p
1
2
2
N:1s 2s 2p
2
2
3
2
2
4
2
O:1s 2s 2p
3
2
2
5
2
F:1s 2s 2p
4
2
2
Ne:1s 2s 2p
5
2
6
Na:[Ne]3s Mg:[Ne]3s Al:[Ne]3s 3p Si:[Ne]3s 3p P:[Ne]3s 3p S:[Ne]3s 3p Cl:[Ne]3s 3p Ar:[Ne]3s 3p
2
2
注:[Ne]= 1s 2s 2p
6
6
☆ 混成オービタル
混成オービタル
水素分子 H2 は水素原子の 1s オービタルを使ってその結合が形成されている。同様に、
塩素分子 Cl2 は塩素原子の 3p オービタルを使っている。これに対して、例えば、メタン
分子 CH4 の CH 結合では、炭素原子は 2p オービタルだけでなく 2s オービタルも使って化
学結合を形成していると考えられている。
水素原子の場合は F1 図 10・7 に示すように、同じ殻のオービタルのエネルギーは等し
いが、それ以外の原子の場合は F2 図 13・23 に示すように、同じ殻のオービタルであって
もそのエネルギーは同じではない。しかし、同じ殻内の s オービタルと p オービタルのエ
ネルギーは比較的接近していることが分かる。このとき、この s オービタルと p オービタ
ルが混ざり合って新しいオービタル(これを混成オービタル
混成オービタルという)を作り、この混成オ
ービタルを使って化学結合を形成することができる。sp 混成オービタル
混成オービタルは 1 個の s オー
ビタルと 1 個の p オービタルから作られる一対のオービタルで互いに反対方向を向いてい
る(F2 図 2 参照)。sp2 混成オービタル
混成オービタルは 1 個の s オービタルと 2 個の p オービタルから作
られる 3 個のオービタルである(F2 図 3 参照)。sp3 混成オービタル
混成オービタルは 1 個の s オービタル
と 3 個の p オービタルから作られる 4 個のオービタルである(F2 図 4 参照)。上述のメタ
ン分子の場合、炭素原子は 4 個の sp3 混成オービタルを使って、4 個の水素原子と結合し
ている(F2 図 4 参照)。以下に示すように、これ以外に d オービタルも使った混成オービ
*1 正確に言うと、角度依存性が同じ。動径部分は異なる。
-3-
タルも存在する。
3. オービタルに
オービタルに基づいて化学結合
づいて化学結合を
化学結合を理解する
理解する
3・1 疑問①
疑問①について
原子内の電子を内殻電子と価電子に分けて考える。内殻電子+原子核を原子心という。
原子心全体は正に帯電している。価電子は AO を対を作って(スピンαとβの状態で)占
めているが、対を作らずに単独でオービタルを占めている電子もある。これを不対電子と
いう。一つの不対電子を持った原子二つからなる系を考えよう(例えば水素原子やハロゲ
ン原子)。二つの原子が近づくと、それぞれの原子の(不対電子が占めている)AO は重
なり合うようになり(これをオービタルの
オービタルの重なりと表現する、F1 図 11・17、11・18 参照)、孤
立原子の電子状態が変化し、新しい電子状態=分子オービタル
分子オービタルが形成される。このとき、
二つの AO から二つの MO ができる(1 対 1)。一つは AO よりエネルギーの低い結合性分
子オービタルで、もう一つは AO よりもエネルギーが高い反結合性分子オービタル
反結合性分子オービタルである
(F1 図 11・23 参照)。
各原子から供給された 2 個の不対電子が対を作って(この 2 個の電子は共有電子対と呼
ばれる)結合性 MO を占めることによって共有結合が形成される(F1 図 11・23 参照)。結合
性 MO は AO よりもエネルギーの低い状態なので、この状態は二つの原子がばらばらの
状態よりエネルギー的に安定化する。基底状態では共有電子対は反結合性 MO を占める
ことはない。
結論①
結論①-① ほとんどの原子は不対電子を持っているので、原子どおしが集まって分子を
作って安定化しようとする:不対電子を持った原子は(不対電子が占める)互いのオービタ
ルが重なる程度まで接近することができるので、原子オービタルから結合性分子オービタ
ルというエネルギー的により安定な電子状態が形成され、それを不対電子どうしが電子対
(共有電子対)を作って占める=共有結合が形成される。
ところで、希ガス元素を除くほとんどの元素は不対電子を持っているが、2 族の元素(Be、
Mg 等)の基底状態の電子配置は s2 なので、不対電子はない。しかし、2s オービタルと 2p
オービタルのエネルギー差は小さい(F2 図 13・23 参照)ので、この 2p オービタルを使って
(つまり混成オービタルを作り)共有結合を形成することができる。例)BeCl2(sp 混成
オービタル、F2 図 1 参照)
同様に、一部の遷移元素もその基底状態において不対電子を持たないものがあるが(例
えば Pd:4d105s0、Pt:5d106s0)、d オービタルと s および p オービタルのエネルギー差が小
さいので、結合を作ることができる(d2sp3 混成オービタル
混成オービタル)
オービタル 。第 3 周期以降では空の d オ
ービタルのエネルギーが低いときは、これを使って結合を作ることができる。P:3s3p33d
(PCl5)S:3s3p33d2(SF6)Cl:3s3p33d(ClF3)(F2 ページの図参照)P、S、Cl の通常の原子
価はそれぞれ、3、2、1 であるが、上記の分子では、それが 5、6、3 となっている。これ
を超原子価という。通常の原子価は電子式でも説明できるが、超原子価はオービタルを考
えないと説明することはできない。エネルギーの高い空のオービタルを使って結合を作る
-4-
ことはエネルギー的に不利のように思えるが、結合を作ることによる安定化がそれを上回
れば、その結合は作られる。
結論①
結論①-② 希ガス元素以外でも、2 属元素および一部の遷移元素は不対電子を持ってい
ない。しかし、2 属元素および一部の遷移元素はエネルギーの低い空のオービタルを使っ
て結合を作ることができる。これに対して、希ガス元素は不対電子は無いし、エネルギー
の低い空のオービタルもない。そのため、希ガス元素は安定であるが、それ以外の元素は
結合しようとする。閉殻構造はなぜ安定かというと、不対電子が無くて、エネルギーの低
い空のオービタルがないから。
注意:希ガス元素もキセノンは比較的安定な化合物を作る。He の 1s と 2s、Ne の 2p と 3s、
Ar の 3p と 4sAO のエネルギー差は大きいが、Xe の 5p と 5d のエネルギー差は比較的小
さいので、混成オービタル 5s5p 5d を使って安定な分子 XeF4 を作る(F2 ページの図参照)。
3
2
3・2 疑問②
疑問②について
水素分子 HA-HB の二つの電子は対を作って結合性 MO を占めるので、ここにもうひと
つの水素原子 HC が近づいても H3 分子(HA-HB-HC)はできない。その理由は次のように説
明される。水素分子 HA-HB と水素原子 HC が接近すると、HA-HB の MO と HC の 1s オービ
タルの重なりが生じるはずであるが、実際には有効な重なりが生じない。その理由は Pauli
の排他原理が、オービタルを三つの電子が占めることを許さないからである。このように、
電子対どうしあるいは電子対と不対電子では、Pauli の排他原理のためそれらの電子が占
めているオービタルの間に重なりが生じない。これは言い換えれば、希ガス元素や分子が
それら同士あるいは別の原子と結合を作らないのは、これらの間に反発力が働くからであ
り、この反発力を交換斥力という。これは分子や希ガス元素の間には常に存在するもので、
分子間相互作用の一つである。この斥力は
Pauli の排他原理がその原因であり、Coulomb
分子間相互作用
相互作用とは関係がないことに注意する。同じスピン状態の電子どうしは Pauli の排他原
理のため空間的に同じ領域を占めることができないが、スピン状態が異なっている電子ど
うしはそのような制限はないので、空間的に接近することができる。接近できるといって
も、電子間に引力が働くわけではなく、電子間には常に Coulomb 斥力が働いている。
結論②
結論②-① 不対電子を二つの原子が共有して共有電子対が形成されることによって共有
結合が生じる(=不対電子が占める原子オービタル
原子オービタルが
オービタルが重なり合
なり合い結合性分子オービタルが
形成される)。ある原子 A がその原子価を満たす結合を作ってしまうと(= A の不対電子
が全て共有電子対を作ってしまうと)、Pauli の排他原理のため、A のオービタルをそれ以
上他の原子 B の不対電子が占めることができないので、A と B の間でオービタルの重な
りが生じず(=交換斥力が働き)それ以上結合が生じない=共有結合に飽和性がある。
(参考:MO による結合の飽和性の説明)F1 図 11・24 参照
水分子 H2O の平衡構造は折れ線型をしているが、同じ三原子分子でも二酸化炭素分子
CO2 は直線型をしている。なぜこのように平衡構造が異なるのか?また、簡単な分子の形
は直線型、折れ線型あるいは四面体型のように幾つかの形に分類することができる。分子
の数は何万とあるのに、その形は数種類に分類することができるのはなぜか?その答えは
-5-
分子の電子状態を考察することによって得ることができる。なぜなら、電子間には反発力
が働くので、その静電エネルギーが一番低くなるように電子が分布するからである。この
時重要なことは、原子・分子内では電子はオービタルという固有の運動領域を持った状態
を占めているということである(単なる静電相互作用ではなく、オービタルを占める電子
間の静電相互作用を考えるのである)。その結果、静電エネルギーが最も低いオービタル
の空間配置が分子の平衡構造として反映されるのである。
原子価殻電子対反発理論(VSEPR 理論)では分子の中の任意の原子集団に注目し、そ
の中から中心原子を選び出し、それと結合している原子の局所的配置を考える。この考察
を分子全体に行うことによって、分子全体の幾何学的構造を理解する。
O
H
・
O=C=O
↑↓
H
H・
・
・
・ ↑↓
O
↑↓は孤立電子対
H・
C・
・C
・ ↑↓
・H
N
H・
H2O
・ C
・H
・C
C・
NH3
ダイヤモンド
水分子 H2O:酸素原子の価電子は 6 個ある。水素原子の電子まで含めると、8 個の電子が
あることになる。Pauli の排他原理よりこれらの電子を収容するために 4 個のオービタル
が必要なことが分かる。このオービタルをそれらの反発が最も少ないように配置するには
どうしたら良いであろうか。それには上図に示すような立方体を想像してみると良い。立
方体の中心に中心原子(核)があるとする。オービタルが図に示すような四隅と中心原子核
の間に分布するとき、オービタル間の反発は最も少なくなるであろう。これは sp3 混成オ
ービタルである。この sp 混成オービタルを形成する 4 個のオービタルの内二つを水素原
3
子との共有結合に使い、残りの二つは結合には使われず、孤立電子対が占める。この結果、
水分子の平衡構造は折れ線型をしているのである。このように考えれば、アンモニア分子
NH3(あるいはアンモニウムイオン NH4+)の平衡構造もすぐに理解できる。このような構
造を四面体構造という。
正四面体角は 109.47 °であるが、HOH 結合角は 104.5 °、アンモニア分子の HNH 結
合角は 106.7 °というように、実際には正四面体から少し歪んだ構造をしている。メタン
分子の HCH 結合角は正四面体角である。ダイヤモンドの結晶構造も任意の炭素原子に注
目して描けば、上図のようになる。SiO2 の結晶構造も、ケイ素の周りには 4 個の酸素原
子があり、四面体構造をしている。氷の結晶構造も水素原子を無視して酸素原子間のつな
がりだけを考えれば、基本的にはダイヤモンド構造と同じである。
このように、水分子やアンモニア分子の形は sp3 混成オービタルによって理解できるが、
H2S の HSH 結合角は 92.1 °、PH3 の HPH 結合角は 93.42 °である。これらの場合は sp3
混成オービタルというより、ほとんど p オービタルのみを使って化学結合を形成している
ことが分かる。すなわち、H2S では S の電子配置は[Ne]3s23px23py3pz なので、3py、3pz オー
ビタルを水素原子との結合に使い、PH3 では P の電子配置は[Ne]3s23px3py3pz なので、3px、
3py、3pz オービタルを水素原子との結合に使っていると考えられる。
-6-
H2O、NH3 と H2S、PH3 のこの様な結合状態の違いは、これらの水素結合にも影響を与
えている。前者の融点、沸点が高いのは水素結合の影響による。前者では混成オービタル
を占める非共有電子対が水素結合に関与していたが、後者にはそのような非共有電子対が
無いので、水素結合を形成することができない。
H2O
融点/℃
沸点/℃
0
99.974
H2S
NH3
PH3
- 85.5
- 77.7
- 133.8
- 60.4
- 33.4
- 87.8
H2O も H2S も球に近い形をしているから、もし水素結合がなければ、12 配位の最密構造
またはそれに近い構造を示すであろう。実際、H2S 結晶ではそのような結晶構造をしてい
るが、氷は 4 配位構造をしている。
二酸化炭素分子 CO2:炭素原子の価電子は 4 個ある。水素原子と共有結合を作る場合には
メタン分子 CH4 となり、上記の四面体構造になる。しかし、酸素原子と炭素原子は二重
結合を作ることができるので、二酸化炭素ではこの 4 個の価電子は 2 個ずつ酸素との結合
に使われる。酸素原子の価電子は 6 個であるが、孤立電子対が二つあるので、結合に使わ
れる電子は二つである。この酸素原子の電子まで含めると、やはり 8 個の電子が結合に関
与することになる。それらを収容する 4 個のオービタルはこの場合全て共有結合に使われ
るので、これらのオービタルは炭素原子と二つの酸素原子との間に一つずつ局在すること
になる(二重結合)。その場合オービタル間の反発を最も少なくするには、二つの結合に
関与するオービタルの組がそれぞれ原子核を挟んで反対側にあればよい。つまり、直線型
の構造である。
結論②
結論②-② 原子や分子の中で電子は一定の運動領域(したがって一定の形)と量子化さ
れたエネルギーを持つオービタルという状態を占める(量子力学的特性)。分子を構成す
る各原子の結合に関与する電子は、それらの間の電気的な反発が一番少なくなるような配
置のオービタルを占めるので、分子はそれぞれ固有の形をしているし、その形は数種類に
分類することができる。
-7-
2 時限 電子密度分布と
電子密度分布と化学結合
1. 電子密度分布の
電子密度分布の導入
現在、化学結合はその生成機構によって共有結合、イオン結合
イオン結合、金属結合の 3 種類に分
類される。ところが、
疑問③
疑問③ どの化学結合も基本的には静電相互作用でできているのに、なぜ異なる 3 種類の
結合様式が存在するのだろう?どこが違うのだろう?
という疑問が生じる。また、イオン結合と金属結合は電気的相互作用で結合ができている
と考えれば、理解できるように思えるが、
疑問④
疑問④ 共有結合において、電気的に中性な原子どうしがなぜ電気的な力で分子を作るこ
とができるのか(=くっつくことができるのか)?
という疑問も浮かぶ。ここでは、これらの疑問について次の量子力学的性質に基づいて考
察する。
電子を
を見いだす確
量子力学的性質 3:原子や分子の中の電子を考えるとき、(ある場所に)電子
いだす確
率、電子密度、電子分布、という考え方、見方をする。原子内、分子内の電子状態は電子
密度分布によって考察できる。
オービタルと電子密度の関係:オービタルψの絶対値の二乗|ψ|2 が電子密度に比例する。
F2 図 4・3 を見てみよう。原子の中の電子の位置を測定したとき、電子が見出された位
置に点をつけたとする。この様な測定を繰り返していくと、点描画のような電子の位置分
布図が得られる。点がたくさんあっても、それだけの数の電子が存在することを意味して
いるわけではない。ある空間に点がたくさんあるということは、その空間の電子密度が高
いということであり、その空間に電子を見いだす確率が高いことを意味している(電子密
度が高い場所では電子を見いだす確率が高い)。これが上述した電子密度分布の意味であ
る。核の周りで電子が円軌道を描いて運動しているとすると、電子はその軌道上にしか見
出されないはずであるが、実際は核の近くや至る所に電子は存在するのである。我々は原
子や分子の中で電子がある軌道を描いて運動しているという描像を放棄する。その代わり、
原子や分子の中で電子がどの様に分布しているかと考える。複数の粒子の分布を考えると
いうことではなく、1 個の電子から成る水素原子でも、その 1 個の電子がどの様に分布し
ているか(どこで見出される確率が高いか)、と考えるのである。電子は確かにある種の
運動を原子・分子内で行っているが、その運動の軌跡を考えるのではなく、原子核から 10
-10
m 以内の空間に電子を見いだす確率はどれほどか?とか、電子は原子核の周りで球対
称に分布しているとか、電子を見いだす確率が一番高い原子核からの距離はどれほどか?
という考え方をする。
結合に電荷の
電荷の偏りがあることを、結合に極性があるという、と高校の教科書には書いて
ある。電気陰性度の大きい原子は少しだけ負の電荷を帯び、小さい原子は少しだけ正の電
荷を帯びる、という記述もある。この電荷の偏りとは何だろう?少しだけ負あるいは正の
電荷を帯びるとはどういうことだろう?この意味は上記の電子分布という考え方で理解で
きる。HCl を例に考えてみよう。孤立した水素原子では、陽子からある半径 rH の球の中
-8-
に 1 個の電子を見出す確率はほぼ 100 %であるとする。同様に孤立した塩素原子について
も、原子核からある半径 rCl の球の中に結合に関与する p 電子を 1 個見いだす確率もほぼ
100 %であるとする。これらが結合して分子を作った状態では、陽子から半径 rH の球の中
にこれらの電子を 1 個見いだす確率は 100 %ではない。一方、塩素原子核から半径 rCl の
球の中にこれらの電子を 2 個見いだす確率は 0 %ではない。つまり、電子分布に偏りがあ
るのである。このとき、例えば、水素原子には 0.8 個の電子が、塩素原子には 17.2 個の電
子が存在する、と表現する。その結果、水素原子には+ 0.2e の電荷が、塩素原子には- 0.2e
の電荷があると見なせる。電子分布という見方では、小数個の電子が存在するのである。
2. 電子密度分布に
電子密度分布に基づいて化学結合
づいて化学結合を
化学結合を考える
2・1 疑問④
疑問④について
共有結合の最も簡単な例は水素分子イオン
水素分子イオン H2+である。この分子は二つの陽子と一つの
電子とからできている。電子がいなければ二つの陽子は互いに反発しあって離れてしまう
はずだから、電子が二つの陽子を結びつける糊の役割をしているのは明らかである。結び
つける力は陽子の持つプラス、電子の持つマイナスの電荷の間に働く電気的な引力である。
水素原子では電子は一つの陽子とのみ相互作用していたが、水素分子イオンでは二つの陽
子と相互作用している。核間領域の電子密度が高いので、電子を中にして二つの陽子が向
かい合っている。近い電子による引力が遠い原子核どうしの反発力を上まわるので陽子は
中央に向かって引かれる。
水素分子 H2 の場合、結合に関与する電子は二つある。この場合も電子が二つの陽子を
結びつける糊の役割を果たしている。実験的に、核間領域に電子密度の高いことが分かっ
ている(F1 図 2 参照、これは理論計算による)。この場合、電子が核間領域に集中すると、電
子間の反発があって不安定になるように思えるが、それ以上に一つの電子が二つの核と相
互作用することによる安定化が効いているのである。つまり、共有結合も電気的な相互作
用でできていることが分かる。
核間領域に電子がある時の簡単な相互作用の見積もり:
+
-
+
-
+
-
例えば粒子間の距離 r を、r(e -e )= 8、r(e -e )= 6、r(e -e )= 5、とする。
・ee+・
2
V(r) = q1q2 /(4 πε r)なので、e /(4 πε)= X とおくと、
・e +
・e-
破線:斥力= V(r)= X[1/6 + 1/8]= 7X/24
実線:引力= V(r)=- X[4 × 1/5]=- 4X/5
引力効果が勝っていることが分かる。
ところで、なぜ核間でこのように電子密度が高くなるのだろう?核間領域の電子密度が
高くなるのは、オービタルの重なりの結果である(F1 図 11・17 参照)。AO が同位相で重な
り合うことによって核間領域の電子密度を強め合うのである。その結果、結合性 MO は AO
よりエネルギー的に安定化する。
結論④
結論④ 化学結合を原子核と電子のレベルで考察すれば、共有結合も電気的な力で原子を
結びつけている。すなわち、核間領域に電子密度が高いと、電子と原子核の引力が電子間
・核間の反発力を凌駕して、全体として引力効果が働く。
-9-
オービタルと
オービタルと電子密度の
電子密度の関係:二つの AO が同位相で相互作用するときには、常に相互作
用領域(核間領域)に電子をためるように相互作用し結合性 MO を作る(F1 図 11・17 参照)。
逆位相で相互作用するときには、常に相互作用領域から電子を排除するように相互作用し
反結合性 MO を作る(F1 図 11・18 参照)。共有結合の本質は核間領域の電子密度が高いこ
とであるが、これは結合に関与するオービタルが同位相で重なり合って強め合った結果で
ある。この意味で、共有結合の本質はオービタルの
オービタルの重なりであり、重なりが大きいほど結
合が強くなる。
2・2 疑問③
疑問③について
化学結合は、どれも電子が仲立ちとなり、電気的な力で原子をつないでいるものである。
では化学結合における三つの結合様式で何が異なっているのか?典型的な共有結合、イオ
ン結合、金属結合では原子間の
原子間の電子密度分布がはっきりと異なっている。つまり、三つの
結合様式は電子分布の異なる三つの様相なのである。
ここで、典型的なイオン結晶である塩化ナトリウム、典型的な金属結晶であるアルミニ
ウム、そして典型的な共有結合結晶であるダイヤモンドにおける電子密度分布の図を見て
みよう(F3 図参照)。結晶中の電子分布の様子は X 線回折という実験によって知ることが
できる。このとき得られるのは、図のような電子密度
電子密度の
の等高線である。等高線の値が大き
いところでは、電子の存在する確率が高いと解釈できる。電子密度が与えられれば、ある
体積中に存在する電子の数が得られる。
塩化ナトリウム結晶において、ナトリウム原子核の周りにはほぼ 10 個の電子が、塩素
原子核の周りにはほぼ 18 個電子がそれぞれ存在し、かつ Na+、Cl-イオンの中間には電子
密度がほぼゼロの領域があって、陽イオン、陰イオンは離れている(と見なせる)ので、
ナトリウムから塩素に電子が確かにほぼ 1 個移っていることが分かる。一方、Al の電子
密度を測定してみると、原子間の電子密度はどこもゼロでなく 0.18 e Å-3 である。この密
度は Al 原子 1 個につき 3 個の(自由)電子が原子間(正確にはイオン殻間)の隙間に一様
に分布していることを示している。また、Al 原子核の周りの電子数を求めてみると 10.2
個となる。これは Al 原子(原子番号 13)が Al3+の状態にあることを示している。このよ
うに金属結晶では、各原子は価電子を放出して陽イオンとなり、放出された電子は陽イオ
ン間を運動しながら、各陽イオンと引力的な相互作用を行って原子同士を結びつけている。
これが金属結合である。これに対して、ダイヤモンド結晶では、炭素原子間(核間領域)
の電子密度が高く、それ以外の領域の電子密度が低いことが分かる。
では、なぜ物質によって電子分布が異なるのか?異なる結合様式が存在するのか?これ
*1
は原子の
原子の性質(電子を受け取りやすい、電子を放出しやすい) の違いによる。電子を受
け取りやすい原子と電子を放出しやすい原子があると、価電子が移動してイオンになり結
合を作り(イオン結合)、電子を放出しやすい原子が集まると、価電子を放出して陽イオ
ン間に電子が分布して結合を作る(金属結合)。電子を放出しにくい原子同士では、価電
*1 電子を受け取りやすい原子は、電子親和力が大きく、電子を放出しやすい原子は、イオン化
イオン化エネル
ギーが小さい。
- 10 -
子を共有して結合を作る(共有結合)。このように、結合の様相は結合する原子の性質を
反映しているのである。
結論③
結論③ 化学結合は、本質的にどれも電子が仲立ちとなり、電気的な力で原子をつないで
いるものである。原子は単独で存在するよりも、集合して分子や結晶を作ろうとする。こ
のとき、原子の性質(電子を受け取りやすい、電子を放出しやすい)の違いによって原子
間の電子密度分布が異なるので、それを三つの結合様式(共有結合、イオン結合、金属結
合)として分類した。
実際の化学結合は一般に、典型的な共有結合、イオン結合、金属結合の電子分布とは程
度の差はあれ異なっている。
分子の化学結合= a(共有結合性)+ b(イオン結合性)
(1)
結晶の化学結合= a(共有結合)+ b(イオン結合)+ c(金属結合)
( 2)
a ~ 1、b ~ 0、c ~ 0 のとき典型的な共有結合、a ~ 0、b ~ 1、c ~ 0 のとき
典型的なイオン結合、a ~ 0、b ~ 0、c ~ 1 のとき典型的な金属結合。
HCl のように異なる原子が結合を作るとき、電気陰性度の大きい原子の方に結合電子の分
布が偏る。このとき、この結合は共有結合性と同時にイオン結合性を持っていると表現す
る。同じ原子間の化学結合は 100 %共有結合であるが、異なる原子間の化学結合は程度の
差はあれ、共有結合性とイオン結合性を同時に持っている 。遷移金属の結晶では原子間
*1
に金属結合の他に、d オービタルを使って共有結合も作っているので、典型金属の結晶に
比べて、融点が高い。つまり、金属結合に共有結合性が共存した結合状態になっている。
☆ 量子力学的共鳴
ある結合が共有結合性とイオン結合性をもっているとき、その結合は共有結合構造 H-Cl
とイオン結合構造 H+ Cl-の間で共鳴している、と表現し次のように表記する。
H-Cl ⇔
H Cl-
(3)
+
ここで、H-Cl(共有電子対が核間領域で偏りなく分布している)や H
+
Cl- (水素原子か
ら塩素原子に電子が 1 個完全に移動したイオン状態)は共鳴構造式あるいは極限構造式と
呼ばれ、実在する分子を表す構造式ではなく、実在する分子をその線形結合(=重ね合わ
せ)で近似するための仮想構造式である。
HCl の正確な分子構造= a(H-Cl)+ b(H+ Cl-)
あるときは H-Cl となり、またあるときは H
+
a2 + b2 = 1
(4)
-
Cl となり、時々刻々この二つの構造の間を
飛び移っていると考えてはいけない。ベンゼンの炭素間の結合はどれも等価であり、C-C
単結合とも、C=C 二重結合とも異なる。このときベンゼンは F4 図 4 のように二つの共鳴
構造式の共鳴体として表される。単結合と二重結合が交互に結びついた構造式(ケクレ構
造式)は実在のベンゼン分子の構造式ではない。このような共役二重結合系は F4 図 3 の
ブタジエンのように(量子力学的)共鳴の概念で理解される。F4 図 5 に示す炭酸イオンや
硝酸イオンにおいても三つの結合はどれも等価であり、酸素の持つ部分電荷も三つとも等
*1 この世に純粋なイオン結合は存在しない。イオン結合という概念は、共有結合に対比される極限的
なモデルであり、一方の原子から他方の原子へ完全に電子が移動しているような結合は、現実には存
在しない。
- 11 -
しい。
3. 化学結合についてのまとめ
化学結合についてのまとめ
等核二原子分子の化学結合は純粋な共有結合である。しかし、それ以外の(分子内の)化
学結合は共有結合性とイオン結合性を併せ持っている。それは要するに、共有電子対がど
の程度片方の原子に偏っているかということであり、その極限が純粋なイオン結合という
ことである。しかし、純粋なイオン結合というものは存在しない。イオン結合という概念
は、共有結合に対比される極限モデルである。したがって、分子内の化学結合は共有結合
を基本として理解することができる。
では、金属結合は共有結合とどこが違うのか?金属結晶は陽イオン(正電荷)が電子を
仲立ちとして集まっている。これは二つの水素原子核(正電荷)が二つの電子を仲立ちと
して水素分子を作っている様相とよく似ている。Pauling は、金属結合は本質的に共有結
合と同じで、ただその結合が局在していないものと考えた。彼は次のような多数の共有結
合構造が結晶全体で共鳴していると考えた。
Li - Li ⇔
Li - Li
Li
Li
Li ⇔
Li
Li - LiLi
+
⇔ ・・・
(5 )
Li
これはいわば、多くの原子が多くの電子を互いに共有した状態であると考えられるので、
原子間には一定の引力が生じていなければならない。この引力が金属結合である。それゆ
え金属結合もまた、共有結合の一変種とみなされる。あるいは、結晶の電子状態を記述す
るバンド理論
バンド理論(F4 図 20・51、20・52 参照)では、結晶全体に広がる Bloch 関数というものを
考える。これは分子における分子オービタルに対応するもので、強結合近似という考え方
では、Bloch 関数は各イオンの原子オービタルの一次結合(LCAO)で近似される。
以上の考察から分かるように、化学結合の本質はオービタルの重なりに起因する電子の
共有であり、その結果、原子核と電子間の静電相互作用によるエネルギーの安定化(=化
学結合の形成)が起こる。
- 12 -
3 時限 エントロピーと
エントロピーと変化
エネルギーという言葉は日常会話でもよく使う。エネルギーが高い状態はダイナミック
な(動き回っている)イメージがあり、反対に、エネルギーの低い状態は活力のない(じ
っとしている)イメージがある。これは見方を変えると、エネルギーの高い状態は不安定
で、低い状態は安定であるといえる。この見方にたつと、自然界で
自然界で起こる変化
こる変化はよりエネ
ルギーの低い状態に、より安定な状態に向かうのではないかと予想される。例えば、化学
反応で発熱が観測されるということは、エネルギーを放出してよりエネルギーの低い状態
に移行していることを意味している。常温付近で起こる反応の多くはこのような発熱反応
であるが、吸熱反応も観測される。吸熱反応はエネルギーを吸収してよりエネルギーの高
い状態へ移っている。この例からも分かるように、自然界で起こる変化はエネルギーでは
説明できないのである。実は、自然界で起こる変化はエントロピーが増大する方向に起こ
るのである。これをエントロピー増大則
エントロピー増大則という。
ところで、20 世紀を代表するアメリカの物理学者 Feynman は、彼の有名な教科書「フ
ァインマン物理学」の冒頭で「現在の科学知識をたった一つだけしか次世代に伝えること
ができないとしたとき、その伝えるべき知識とは、物質は動き回る小さな粒子からできて
いる(原子説)、ということであろう。」と(いうような意味合いのことを)言っている。実
は、物質が原子や分子というミクロな粒子から、しかも、莫大な数の粒子からできていて、
それらが不規則な熱運動しているからこそ、エントロピーが存在するのである。もし、物
質が小さな粒子からできているのではなく、物質をどんどん小さくしていくと、そのまま
連続的に小さくなって無くなってしまうとしたら、この世界にエントロピーは存在しない。
エントロピー増大則という自然法則は、物質が莫大な数のミクロな粒子からできていると
いう事実に基づいているのである。
1. 原子・
原子・分子の
分子の熱運動
物質が原子や分子というミクロな粒子からできているということは今や常識であるが、
これに関して強調したいことが二つある。それは、我々が見ることができるマクロな大き
さの物質を構成している粒子の数は Avogadro 数個程度というとてつもなく莫大な数であ
るということと、粒子は絶え間なく運動しているということである。
絶対零度(T = 0)では物質を構成する粒子の熱運動は完全に停止する。有限温度(T
> 0)では粒子は熱運動を行い、温度が高くなるほどその運動は激しくなる。つまり、熱
運動とは物質を構成している粒子が有限温度でおこなう運動であり、温度とはこの粒子の
熱運動の運動エネルギーの平均値を表している。だから、絶対温度では絶対零度より低い
温度、つまり負の温度が存在しないのである。
ところで、熱運動は不規則な
不規則な運動であると高校化学の教科書に書いてある。この‘不規
則’という意味を考えてみよう。気体分子を想像しよう。気体分子の運動はニュートンの
ニュートンの
運動方程式で記述できる。つまり、ある瞬間の分子の座標と速度が分かっていれば、原理
- 13 -
的にはその後の分子の運動を予測することができる。しかし、一般に物質を構成する粒子
の数は Avogadro 数個ほどもあるので、全ての気体分子の運動を追うことは原理的には可
能であっても、莫大な数の方程式を実際に解くことはできない。ところで、このような莫
大な数の分子の中から 100 ~ 1000 個ほどの分子を取り出して、その運動の様子をシミュ
レートする事はできる。このとき、これらの分子の運動の様子は我々にはどのように見え
るであろうか。分子は衝突を繰り返し、絶えず運動方向を変え、あちらに行ったり、こち
らに行ったりして、分子は‘でたらめに’動き回っているように見えるであろう。太陽の
まわりを地球や火星などの惑星は楕円軌道を描き規則的に運動している。分子の熱運動に
このような規則性は見いだせない。しかし、上述したように、分子の運動はニュートンの
運動方程式で記述できるので、分子は決してでたらめに運動しているわけではない。絶え
ず運動方向を変えるのは、他の分子とあるいは容器の壁と衝突するからで、分子の運動の
一つ一つは、惑星の運動と同じようにはっきりとした因果関係に基づいているのである。
しかし、分子の数が莫大なため衝突を繰り返し、その結果運動の軌跡がとてつもなく複雑
になり、分子がでたらめに動き回っているように見えるのである。これが熱運動が不規則
であるという意味である。ここではこのような意味で不規則あるいはでたらめという言葉
を使うので、それを強調するために‘不規則’あるいは‘でたらめ’のように表記することに
する。
ところで、熱平衡状態で観測される巨視的な物理量(例えば圧力)はそれの原因となる
ミクロな力学量(圧力の場合は分子の衝突)の長時間平均を観測していると考えられる 。
*1
このような熱平衡状態にある分子の運動を長時間平均して考えたとき、容器内の任意の位
置に任意の一個の分子を見いだす確率はどの位置についても同じと考えてよいだろう。つ
まり、分子の運動に対して確率的な
確率的な見方・
見方・考え方を導入することが許されると期待される。
ある瞬間に任意の一個の分子が容器内のある場所にいるとき、次の瞬間この分子がどの方
向に向かって進むか予想がつかない=どの方向に向かう確率も等しいであろう。このとき
分子の運動は‘でたらめ’であるといえる。すなわち、莫大な数の粒子が存在する系の長時
間平均(=熱平衡状態にあるマクロな系)を考える限り、粒子の運動を‘でたらめ’として
取り扱う見方・考え方を採用する(=本来力学過程である粒子の運動を確率過程と見なす)
ことが可能であると考える。しかし、この後すぐに分かることであるが、確率的、統計的
に取り扱うが、粒子の数が莫大なので、そこから得られる結論はほとんど確定的である。
2. 気体の
気体の拡散
中央に仕切りのある箱の左に気体が閉じ込められていて、右側は真空になっているとす
る。この仕切りをとると気体は右側に移動して箱いっぱいに広がる。これを拡散という(F5
図 3・3 参照)
。なぜ気体は拡散するのだろう?どうして左側にじっとしていないで、右側に
*1
9
1 気圧、25 ℃の気体窒素において、1 個の分子は毎秒 7 × 10 回衝突する。つまりある運動が継続
する時間は 10
-10
s 程度である。ミクロのレベルではこの程度の時間間隔を考えるので、1 秒でも充分長
時間である。巨視的な物理量を測定するのに要する時間のスケールでは、分子の運動は充分平均され
ていると見なすことができる。
- 14 -
広がるのだろう?気体が広がるとエネルギーが低下して安定化するのだろうか?答えは、
気体は莫大な数の分子からなり、その分子は‘不規則な’熱運動をしているからである。粒
子はどの方向に進む確率も等しいので、右に動く分子も左に動く分子もあるが、左に動く
分子はすぐ他の分子と衝突してしまい左方向にはなかなか進むことができない。それに対
して、右に動く分子は他の分子が無いので、右方向にどんどん進むことができる。結果と
して、分子全体は徐々に右側に分布するようになり、最終的には箱の中全体に分子が均一
に分布するようになる。一度このような分布になると、右に進む分子も左に進む分子も等
しく存在するので、均一な分布を維持し続けることになる。これが熱平衡状態である。箱
いっぱいに拡散して熱平衡状態になった気体は、二度と拡散する前の状態(=しきりをと
った瞬間の状態)に戻らない。これを拡散は不可逆過程であると表現する。これを確率の
問題として考えてみよう。
『しきりをとる前に気体が存在した領域を A とし、箱全体の 1/2 の大きさであるとする。
分子が存在できる場所の数を Z とすると、Z は箱の体積 V に比例する。熱平衡状態におい
て、1 個の分子が領域 A で見いだされる確率は、ZA/Z = VA/V = 1/2 である。従って、N 個
の粒子の場合、始めの状態(=全粒子が領域 A にのみ存在する)の出現する確率は(1/2)N
である。』(1/2)N という確率がどれ程のものかを見積もってみよう。
宇宙の年齢はおよそ 10 秒である。1 気圧、25 ℃の気体窒素において、1 個の分子はお
18
よそ 10-10 秒毎に運動状態を変えている(=衝突している)。そこで、今考えている箱の中
の気体分子の微視状態が 10- 秒毎に変わると仮定しよう。このとき、この気体分子が宇
10
宙の誕生以来その微視的状態を変え続けたとして、それはせいぜい 1028 回程度である。も
し、宇宙の誕生以来気体分子を観測し続けていたら、1 回 A という領域に全分子が集まる
ことが観測できたとすると、それはおよそ 1/10 の確率があったということである。これ
28
と等しい確率を与える N の値は 92.96 である。(1/2)92.96 = 1/1028。つまり、僅か 100 個程
度の分子の集合でも、全分子が全体の 1/2 の領域に集中する確率は宇宙のタイムスケール
で 1 回程度である。粒子数が Avogadro 数個程度のとき、(1/2)N の値がどれ程小さくなる
か分かるだろう。確率的に取り扱うが、粒子の数が莫大なので、そこから得られる結論は
ほとんど確定的である、ことに注意する。
我々はこのとき、箱全体に広がった分子が初期状態(領域 A にのみ分子が存在する状
態)に戻ることは確率的にほとんどあり得ない、と表現するが、このときのほとんどとは
この計算で示したような値を意味している。
我々はこの気体の拡散が起こる理由をエントロピーという言葉を使って次のように説明
する。気体がより広い領域に広がると系のエントロピーが増大するので、気体は拡散する。
なぜなら、自然現象はエントロピーが増大する方向に進むからである(エントロピー増大
則)。エントロピーとは何だろう?気体分子が左側にしか存在できない状態よりも、右側
にも存在できる状態の方が分子の自由度が大きいことが分かる。左側にも行けるし、右側
にも行ける、というわけで自由度が大きいわけである。これを言い換えると、(ある分子
に注目したとき、その分子は左側にいるかもしれないし、右側にもいるかもしれないとい
うわけで、)分子の配置がより乱雑、無秩序になっているということである。エントロピ
ーとはこのようなミクロなレベルでの乱雑さ、無秩序さを表す巨視的な量であり、ミクロ
なレベルで無秩序なほどエントロピーは大きくなる。従って、気体が左側に閉じ込められ
- 15 -
ていた状態と、右側にも広がった状態では、後者の状態の方がエントロピーが高い。
なぜエントロピーは増大するのだろう。それは物質は莫大な
莫大な数の粒子から構成されてい
て、その粒子は‘不規則な
不規則な’熱
’熱運動をしているからである。
(注意)自由度、乱雑、無秩序という言葉はマクロな系にも使えるが、ここで考えている
自由度とか乱雑さとは、ミクロなレベルでのはなしである。
3. 気体の
気体の圧力
気体が圧力を示すのは、体積を増大させてそのエントロピーを増大させたいためである。
粒子は広い領域に存在するほど、自由度が大きくなるので(、その結果粒子の配置はより
乱雑になるので)、系のエントロピーは増大する。ある容器に入れておくと気体は圧力を
示すが、それはこの容器がなければ広がって系のエントロピーを増大させようという傾向
があるからである。これをミクロのレベルで考えると、気体分子の運動は全く‘不規則’な
ので、この領域の内側に向かう運動もあるが、外に向かう運動が存在するので、気体は圧
力を示す(、容器がなかったら拡散する=エントロピーを増大させる)のである。
高圧のガスボンベから気体が大気中に吹き出すと、気体はすごい勢いで吹き出てくるの
で、何か強い力が気体に働いているように感じるかもしれない*1。しかし、気体分子とは
無関係に存在する力が気体に働いて気体が吹き出ているのではない。気体分子が‘不規則
な’熱運動をしているから気体は吹き出してくるのである。すごい勢いで吹き出てくるの
は、我々が想像する以上に気体分子がすごいスピードで運動しているからである。例えば、
25 ℃の空気中の窒素分子 N2 は 475 m s-1 ほどの速さで運動している。これは時速に換算
すると、1700 km h-1 である。我々がこの分子の速さを実感できない理由は、気体分子が
衝突を繰り返して、絶えず運動方向を変えているからである。この速さで運動している気
体分子が集団で飛び出してくるのだから、その勢いは相当であろう。ガスボンベの中で気
体は‘不規則な’熱運動をしている。そのとき、ボンベに少し隙間ができれば、たまたまそ
こに飛んできた気体分子がボンベの外に飛び出す。ただ、それだけなのである。何か特別
な力が働いているわけではない。
拡散現象は気体以外でも、濃度が不均一な溶液でも溶質の拡散現象が観測される。濃度
が不均一な溶液が均一になっていくとき、濃度勾配があると濃度の高い部分から低い部分
に向かって何か力が働いて、溶質分子が移動する(拡散する)ように感じるかもしれない。
しかし、溶質分子に何か力が働いて、そのために拡散が起こったのではない。分子が‘不
規則な’熱運動をするから、拡散が起こったのである。分子が‘不規則な’運動するから、
濃度の高い領域から低い領域へ移動する分子の数が濃度の低い領域から高い領域へ移動す
る分子の数より多いので、差し引き正味の移動(つまり拡散)が起こったのである。
*1 圧力差によって気体が押し出される、というイメージがあるかもしれない。しかし、圧力とは気体
分子の運動そのものである。圧力が働いて気体分子が動かされるのではない。気体分子が運動するか
ら、圧力が発生するのである。
- 16 -
4. 固体の
固体の融解
温度を上げて固体を液体にするためには、熱エネルギーを供給しなければいけないので、
液体状態の方が固体状態よりエネルギーが高いはずである。それなのになぜ融解が起こる
のだろう?液体になるということは、エネルギー的により不安定な状態をわざと選ぶこと
になるが、なぜ固体や液体の状態に踏みとどまることはできないのかという疑問がわいて
くる。温度が上昇しても融けず、非常に熱い固体(例えば 100 ℃の氷)になってもいいの
ではないかと思われる。なぜなら、エネルギー的に考えれば、任意の温度において結晶状
態が一番エネルギーが低いからである。結晶状態はポテンシャルエネルギーの一番低い状
態であり、全粒子のエネルギー U =全粒子の運動エネルギー+全粒子のポテンシャルエ
ネルギーなので、任意の温度において U の一番低い状態は結晶状態である。それにも係
わらず、ポテンシャルエネルギーより運動エネルギーが大きくなったら、結晶構造がバラ
バラになるのは、粒子が‘不規則な’熱運動をするからである。規則的な運動をしていたら、
バラバラにはならない(かもしれない)。言い換えれば、エントロピーが増大するので融
解が起こるのである。
5. ゴム弾性
ゴム弾性
外力を加えれば変形するが、外力を取り去ると元に戻る物体は、弾性を持つといわれ、その物体を
弾性体 と呼ぶ。これに対して、力を取り去っても変形が元に戻らない性質を塑性という。物質は一般
に外力が小さい間は弾性を示すが、力がある限界を超えると、塑性を示すようになる。通常の固体の
弾性の原因は、その物体を構成している原子、分子の間の相互作用である。ゴムは固体のくせにブ
ヨブヨして非常に軟らかい。指で押せばブヨブヨと凹む。伸びやすい。そしてねじりやす
い。ゴムはもとの長さの数倍にも伸ばすことが出来る。従って、ゴム弾性の原因が分子間
力であるはずがない。ゴムひもを引っ張ったときに元に戻ろうとする=縮もうとする力を
張力という。ゴムはイソプレンの重合体が基本になっている(F5 図参照)。この重合体で
は、C と CH2 との間の結合の周りで回転することができ、そのためいろいろな構造をと
ることができる。実際のゴムは、このような高分子鎖が架橋点で固定された三次元の網目
構造をしている(F5 図 2-21 参照)。架橋点で固定されているが、高分子鎖の間の相互作用
は非常に弱いので、架橋点間で分子鎖はやはりいろいろな配置をとることができる。有限
温度では、熱運動によってこの C-CH2 結合軸周りの回転が‘不規則に’起こるため、鎖が
伸びた状態ではなく、縮んだ状態をとる*1。従って、ゴムを引っ張っても元の縮んだ状態
に戻ろうとするのである。これをエントロピーで表現すると、エントロピーを増大させよ
うとしてゴムは縮む(=張力を示す)のである。このように弾性が熱運動による(=エン
トロピー効果による)もので、分子間引力によるものではないから、容易にこの屈曲した
糸くずを引き延ばし、変形させることができるのである。ちょうど気体が固体や液体に比
*1 簡単な計算:回転の自由度が 2 あるとする。鎖状分子 1 分子当たり回転のできる箇所が 100 あると
すると、鎖状分子が直線状になる確率は(1/2)
100
= 7.9 × 10
- 17 -
-31
である。
べてはるかに圧縮しやすいように 。
*1
鎖の各部分は熱運動によって盛んに動いているから、勝手に折れ曲がった糸くず状をし
ているだろう。鎖の各部分が熱運動をして色々な形態をとる。結果としてこの鎖は丸まっ
た無数の形態をとることができる。気体分子の運動は分子全体の直進の熱運動であり、ゴ
ムで問題となるのは分子内の回転の熱運動である。
ゴムの弾性=張力=分子のまるまろうとする力=分子の収縮運動=回転の熱運動
気体の弾性=圧力=分子の広がろうとする力=直進の熱運動
6. エントロピーのまとめ
エントロピーのまとめ
物質が莫大な数のミクロな粒子からなり、それらが‘不規則な’熱運動をするために現れ
る巨視的な現象(拡散、融解、ゴム弾性、不可逆性その他)を我々はエントロピーという
概念で理解する。粒子は熱運動しているので、ミクロなレベルでできる限り無秩序になろ
うとする。その結果巨視的に眺めたときにはできるかぎり均一で等方的になろうとする傾
向が自然界にある。これがエントロピーの
エントロピーの増大則である。このようにエントロピーはその
原因をミクロなレベルに求められるものであるが、それ自体は巨視的な物理量である。分
子 1 個のエントロピーというものは存在しない。
*1 気体の圧力も一種の弾性である(体積弾性という)。圧縮しようとすれば抵抗力を示し、手を離せ
ば元に戻る。
- 18 -
4 時限 自由エネルギー
自由エネルギーと
エネルギーと変化
1. 自由エネルギー
自由エネルギー
Gibbs(ギブス)の自由エネルギー
自由エネルギー(Gibbs エネルギーともいう)G の定義式は、
G ≡ H - TS
( 6)
である。ここで、H はエンタルピー、S はエントロピーである。エンタルピーとはマクロ
な物質の持っているエネルギーである。
宇宙
孤立系:外界と全く交渉を持たず、つまり、外界との
エネルギーや物質の交換を行わない系。宇宙は孤立系である。
外界
系
閉じた系
じた系(閉鎖系)
閉鎖系):外界との間にエネルギーの交換はあるが
物質の出入りのない系。
開いた系
いた系(開放系)
開放系):外界との間でエネルギーや物質の交換を行う系。
一般的な実験条件、すなわち、定温・定圧、膨張仕事のみの場合を考える。このとき、
Δ S 宇宙 = Δ S 外界 +Δ S
= -Δ H/T +Δ S
(一般的)
( 7)
(定温・定圧、膨張仕事のみ)
(8 )
- T Δ S 宇宙 = Δ H - T Δ S
(9)
となる。ここで、Δ S 宇宙は宇宙のエントロピー変化、Δ S 外界は外界のエントロピー変化、
Δ S は系のエントロピー変化である。式(7)から(8)への書き換えにおいて
Δ S 外界 =-Δ H/T
(定温・定圧、膨張仕事のみ)
(10)
という関係を使った。Δ H は定圧、膨張仕事のみという条件で系が得た熱量なので、-
Δ H は外界が得た熱量である。式(9)において、
- T Δ S 宇宙=Δ G
(定温・定圧、膨張仕事のみ)
(11)
とおく。式(9)と(11)から、あるいは定義式(6)において、定温条件下の自由エネルギー変
化を考えると、
ΔG = ΔH -TΔS
(定温)
なる関係が得られる。式(11)より、Δ G < 0 なら、Δ S
(12)
> 0 になっていることが分か
宇宙
る。
エントロピー増大則は孤立系の場合なので、今問題にしている系が閉じた系の場合は自
由エネルギーが変化の方向を示す。すなわち、孤立系ではエントロピー S が増大する方向
に、閉じた系では自由エネルギー G が減少する方向に自発変化が起こる。熱平衡状態で
は、エントロピー最大(孤立系)、自由エネルギー最小(閉じた系)となっている。実際
に孤立系の条件を満たして実験をするのは大変なので、我々にとって自由エネルギーは非
常に重要である(=我々は自由エネルギーに基づいて考察することが一般的である)。
ここでは、化学反応と溶解現象を自由エネルギーに基づいて考察してみよう。
- 19 -
2. 化学反応を
化学反応を自由エネルギー
自由エネルギーに
づいて考察する
エネルギーに基づいて考察
考察する
液相反応を考えよう。溶媒和効果は溶液中の化学反応の収率に重大な影響を及ぼす。溶
媒和とは、溶質分子が周囲の溶媒分子と結合し、粒子集団を作る現象である。反応を行わ
せるのに重要な決め手となるものの一つは適切な溶媒の選択である。例えば、水は反応に
イオンが関与するときに溶媒として適しているが、決して万能ではない。溶液中で反応が
進むかどうかを決定するのにイオンの溶媒和エントロピー
溶媒和エントロピーが重要であることが多く、時に
は支配的な効果を持つこともある。
ここでは水溶液中のイオンが関与する化学反応を見てみよう。水和に伴うエンタルピー
変化、エントロピー変化はともにイオンの電荷が大きいほど、同じ電荷を持つイオンでは
イオン半径が小さいほど、一般に大きな負の値となる。主として静電相互作用のためにイ
オンに水分子が一定の配向をとって結合し(第一)水和層を作る。水和層にある水分子はバ
ルクの水に比べ秩序性が高いので、エントロピーは減少する。水和が強いほど、エンタル
ピー変化、エントロピー変化とも負の値は大きくなると考えられる。F5 ページの表 6・4
を見てみよう。
(ⅰ)Δ H が正(吸熱反応)。反応に伴ってフッ化物イオン F-が HF2-イオンに変わった。小
さな F-は、大きな HF2-より水を強く引きつけて(=水和して)安定化しているので、反
応の進行に伴って HF2-が増えると、エネルギーが高くなりΔ H は正になる。Δ S も正で
ある。小さな F-の周りの水和構造は、大きな HF2-のそれよりも整然としている;つまり
エントロピーが小さい;従って、反応が進行して F-が減少するにつれて系はより乱雑に
なるのでΔ S は正になる。
(ⅱ) Δ H が負(発熱反応)。反応によってイオンが増えるので、水和によってエネルギー
的に安定化する。反応によって生成する各イオンはそれぞれの周りに整然とした水和環境
を作り出すためΔ S は負になる。
(ⅲ) Δ H が負(発熱反応)。反応によってイオンが生じるので、水和によってエネルギー
的に安定化する。反応に伴って中性分子からイオンが生じるので、Δ S が大きく負になる。
(ⅳ) Δ H とΔ S の符号が反対である。Δ H が負(発熱反応)。水は中性分子の方がエネル
ギー的に安定である*1。イオンが中性分子に変化するので、Δ S が大きく正になる。
3. 溶解現象を
溶解現象を自由エネルギー
自由エネルギーに
エネルギーに基づいて考察
づいて考察する
考察する
液体に固体や気体や液体を混ぜると、溶けたり溶けなかったりする。なぜ溶解度に差が
あるのか?なぜ飽和するのか?考えてみよう。熱力学的には自由エネルギーに基づいて説
明される。
Δ G ○=- RT lnK
(13)
ここで、K は溶解平衡の平衡定数で、この値が大きいほど溶解度も大きい。したがって、
溶解度は溶解に伴う標準自由エネルギー変化Δ G ○の値に依存する。Δ G ○が大きな負の
値であるほど、溶解度が大きくなる。逆に正の値であればほとんど溶けない。では、なぜ
+
-
-7
*1 中性の水の中には H イオンと OH イオンは H2O の 10 しか存在しない。
- 20 -
Δ G ○が正になったり負になったりするのか?微視的観点から考察してみよう。
溶解現象においても溶媒和(水和)が重要な働きをしている。溶媒和することによって、
溶質どうしが再び結びつくことを妨げている。溶質が安定に溶媒中に分散していられるの
は、この溶媒和のおかげである。例として塩析を考えてみよう。タンパク質や親水性高分
子などの親水コロイド溶液に多量の電解質を加えると、分散質であるタンパク質等の溶解
度が減少し沈殿する現象を塩析という。例えば、タンパク質の溶液に多量の硫酸アンモニ
ウムを加えるとタンパク質が沈殿する。濃厚な石鹸液に食塩を加えると石鹸が液から分離
して固化する。塩析は塩類の添加によって多量に生じたイオンがそれまでタンパク質等を
安定化していた水分子(水和分子)を引きつけてしまうために、タンパク質等が安定に溶
けていられなくなった結果である。
一般に水和(溶媒和)はエネルギー的には(Δ H < 0)溶解を促進する働きを、エント
ロピー的には(Δ S < 0)抑制する働きをすると予想されるが、実際には、Δ H > 0、Δ S
> 0 になる場合もある。これについては後ほど詳しく考察する。
ここでは塩の水への溶解を考えることにする。塩はイオン性結晶であり、水に溶けると
きはほとんど完全にイオンに解離した状態で存在する。しかし、塩の水に対する溶解度は
塩の種類によってずいぶん異なる。
Δ solH < 0、Δ solS < 0 の場合:
*1
298 K
Δ solH(kJ mol-1)
- T Δ solS(kJ mol-1)
CaSO4
- 26.86
42.18
CuSO4
- 73.14
56
Δ solG(kJ mol-1)
15.32
- 17
298 K における CaSO4 と CuSO4 の水への溶解に伴うエントロピー変化Δ solS はほぼ同じ
値をとる(エントロピーは減少している)。これに対して、溶解のエンタルピー変化Δ solH
は大きく異なっている。その結果、CaSO4 と CuSO4 の水への溶解に伴う自由エネルギー
変化Δ solG は、前者が正で溶けにくいのに対して、後者は負で溶けやすい。これはエンタ
ルピー効果によって溶解度に差が生じる例である。
Δ solH > 0、Δ solS > 0 の場合:
298 K Δ solH(kJ mol-1)
NaCl
CaF2
Δ solS(J K-1 mol-1)
Δ solG(kJ mol-1)
45
- 8.8
3.883
11.5
- 150
56.15
塩化ナトリウムとフッ化カルシウムのΔ solH はほぼ同じ正の値であるが、前者は 5 mol
dm-3 以上水に溶けるのに、後者の平衡溶解度は 0.001 mol dm-3 以下である。これはなぜか?
小さなフッ化物イオン F-と高い電荷を持つカルシウムイオン Ca2+は周りのいくつかの水分
子と固く結びついて、秩序の高い配列(水和殻)を作り出す。一方、塩化物イオン Cl-の
*1 これは溶質が固体の場合、固体の方が水溶液の状態よりも乱雑さが大きいことを意味しているよう
に思える。これは大変不思議なことであるが、この溶解エントロピーΔ
sol
S とは、正確には、固体と
水とが別々にあるときと、水溶液とを比較したときのエントロピー変化なのである。溶解に伴う溶質
の配置の乱雑さの増大と、水和による水分子の配置の乱雑さの減少の両方の効果が寄与する。
- 21 -
大きな寸法とナトリウムイオン Na の低い電荷のために NaCl ではこのエントロピー効果
+
がずっと弱いものになる。そのため、NaCl ではΔ solS が正になる。これはエントロピー効
果によって溶解度に差が生じる例である。
これまで例から分かるように、種々の化学現象を熱力学的データに基づいてミクロな観
点から定性的に考察することができる。
しかし、溶解現象は一般に定性的なミクロな考察をしても、全体としてのエンタルピー
やエントロピーの大きさはもちろんその符号さえも推測する事はかなり難しい。エントロ
ピーに関していえば、CuSO4 のようにΔ sol S が負になる場合もあるし、NaCl のようにΔ sol
S が正になる場合もある。また、電解質を水に溶かすと水の温度が下がることがある。
これは溶解に伴って吸熱(Δ sol H > 0)が起こるからである。上記の NaCl(Δ solH = 3.89 kJ
mol-1)の他にも、ショ糖なども吸熱溶解する。これに対して、無水の炭酸ナトリウムや
エタノールなどは発熱溶解する。この様に、Δ solH やΔ solS が正にも負にもなる理由は次
のように考えることができる。
溶解という現象は一般に、
溶解=水和+格子
(14)
という関係にある。エントロピー変化に対して、この関係を NaCl を例に考えてみると、
Na+(g) + Cl-(g) → Na+(aq) + Cl-(aq)
-
NaCl(s) → Na (g) + Cl (g)
+
-
NaCl(s) → Na (aq) + Cl (aq)
+
水和
(15)
格子
(16)
溶解
(17)
となる。水和によりエントロピーは大きく減少するが、格子エントロピー
格子エントロピーは大きく増大す
る。なぜなら、イオンは固体状態でいるより、広い気相中を動き回ることにより、より乱
雑な状態となるからである。直接溶解現象(17)を考えてみても、溶解に伴う溶質の配置の
乱雑さの増大および水の水素結合ネットワークが溶質の侵入によって壊されることによる
乱雑さの増大が起こることが分かる。これらの相反する寄与の違いを見積もることは難し
いのである。
同様に、格子エンタルピー
格子エンタルピーが大きくても、水和エンタルピー
水和エンタルピー(の絶対値)が大きければ、
Δ sol H は小さくなる*1。言い換えれば、真空中でイオンを引き離すために要するエネルギ
ーΔ LH と水和による安定化エネルギーΔ hydH のかねあいでΔ sol H の値は負になることも
あるし、正になることもある。なぜなら、結晶として凝集するのと水に溶けて水和するの
ではほぼ同程度のエネルギー変化(安定化)を伴うからである。
Na+(g) + Cl-(g) → NaCl(s)
Δ H ○=- 787.2 kJmol-1 =-Δ LH (18)
Na+(g) + Cl-(g) → Na+(aq) + Cl-(aq)
Δ H ○=- 783.31 kJmol-1 =Δ hydH (19)
結晶中でのイオンの配置の様子と、水溶液中でのイオンのまわりの水和の様子はよく似て
いる。水分子は分極していても 100%正電荷と負電荷に分かれていないので、似ているけ
れども同じではない。しかし、水分子の分極の極限がイオン結晶の正負のイオンという点
*1 格子エンタルピー
格子エンタルピーΔ
L
H はイオン結晶を気相中で構成イオンに分解するのに要するエネルギー、水
+
-
和エンタルピーΔ hyd H は気相中のイオン(例えば HCl の場合は分子の HCl ではなく、H と Cl に分離
した HCl である)を水に溶解させたときに放出される安定化エネルギーである。
- 22 -
で似ている。また、塩自体も水分子を伴った水和物であることが多く、その溶解ではそれ
らの水素結合の切断または生成を含むので、事情はさらに複雑になる。
(参考)
☆ 飽和
NaCl の水への溶解度は 25 ℃のとき、質量モル濃度で 6.49 である。つまり、水 1 kg 中
に NaCl が 6.49 mol(1 mol = 58.44 g)溶ける。水 1 kg は 55.55(= 1000/18) mol に当た
るから、このとき NaCl と水分子の割合は、6.49:55.55 = 1:8.56 となり、NaCl 一つの周
りに 8.56 個の水分子があることになる。実際には、水に溶けた NaCl は完全電離している
ので、Na と Cl-の周りの水を合わせて 8.56 個ということである。イオンの大きさから考
+
えて、水がその周りをうまく取り囲むための水分子の最低個数は 9 個程度であり、NaCl
飽和溶液では NaCl 一つあたりの水分子の数がこの値に近くなっている。これ以上イオン
が増えると、水和水分子が足りなくなるので、エネルギーの安定化が不十分になる(ある
いはイオンどうしの再結合を妨げることができなくなる)と思われる。
なぜ飽和するのか?いま考えている温度と圧力の下では、溶質は気体あるいは固体の状
態が安定な状態で、液体状態は不安定な状態である。その溶質を増やしていく極限を考え
れば、いつまでも無制限に溶質が溶媒に溶解することなどあり得ないことが分かる。
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