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明治大学図書館所蔵 『青蓮院文書』 ー中世文書を中心にー
走サU>HQり国HΩ﹀区O︵m甲ロロ匹蝕=一ωけO﹁一〇巴勾Oく一①朝︶ 駿台史学 第=二六号 一−二〇頁、二〇〇九年三月 上 杉 和 彦 明治大学中世史研究会 学図書館に寄贈された。これらの文書は、寄贈者である種村信子氏の うな流出した﹃青蓮院文書﹄のうち一三三点が、一九九四年に明治大 料編纂所に一三四点、広島大学に一二〇点が所蔵されている。そのよ 寺外に流出したものがあり、東京大学文学部に二一二点、東京大学史 東塔南谷に建立した青蓮坊にその起源を有する。所蔵された文書には 輩出した天台宗の門跡寺院として知られ、延暦寺を開く際に、最澄が 京都市東山区粟田口三条坊町にある青蓮院は、数多くの天台座主を は、テキストとして本文書を選び、輪読・検討を行った。以下の﹁翻 本調査を実施した。また二〇〇七年度後期の大学院上杉ゼミの演習で 二〇〇六年十一月二日・二〇〇八年六月二十六日の二回にわたって原 明治大学文学部講師鎌倉佐保氏等が作成した文書の翻刻原稿を参考に、 心とする明治大学中世史研究会は、明治大学名誉教授福田榮次郎氏・ 明治大学大学院文学研究科日本史学専修の上杉和彦ゼミ受講生を中 る。 展示されている。以下本稿は、その十四点の内容を紹介するものであ 文書群の中に中世文書は三十点ほど存在し、このうち年紀・発給 D ︵ 者・宛所などがはっきり分かる十四点が、図書館寄贈後まもなく公開 御父君青山二三郎氏が昭和初年に古書店より一括購入したものと思わ ︵三∼五号文書︶・渡邉元観︵六∼九号文書︶・小野真嗣︵十・十一号文書︶・ 刻と解説﹂はその成果であり、米山聡一︵丁二号文書︶・築地貴久 五 十 三 、 一 九 九 五 年 ︶。 れる︵福田榮次郎﹁図書館特別資料紹介青蓮院文書﹂﹁明治大学図書館報﹄ はじめに 明治大学図書館所蔵﹃青蓮院文書﹄ 1中世文書を中心にー ︻史料紹介︼ Zo﹂ω①゜ζ胃昌bΩ8⑩゜暑﹂−b。O° oり 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 丸山裕之︵十二∼十四号文書︶が執筆した原稿を、全体討論の後に、上 七月廿二日 前大僧正慈円 遣給之由所候也、 月五日天台座主慶朝の時、日吉社において始めて一切経会が行われ、 ︵1︶一切経会 ﹃天台座主記﹄巻二によれば康和四年︵=〇二︶七 杉・築地の責任でまとめたものである。 なお、明治大学大学院上杉ゼミにおける文書輪読には、上記メンバ ーの他に、漆原拓海・須永忍・陳変廷・錦織和晃・久水俊和・藤田嵩 之・水野智子・宮崎賢一・森優次が参加した。 永く﹁年事﹂となすとある。延暦寺における一切経会は、舎利会・灌 凡 例 行う者とみられる。︵3︶楽行事 楽屋行事に同じ。平等院一切経会 開封使 一切経会の当日、一切経を安置する経蔵の開扉・開封作業を 頂とともに﹁三箇法会﹂とされ、天台座主により主催された。︵2︶ ・冒頭に文書名を掲げ、その下に法量を示した。 の場合、当日、経蔵開封の後、近衛官人の中から氏長者によって楽行 翻刻と解説 ・漢字は概ね常用漢字を使用したが、一部旧字も使用した。 事が任命される。 月十六日大僧正となり、同年六月十八日に辞した後、建暦二年︵一二 認できず、未紹介史料と考えられる。慈円は建仁三年︵一二〇三︶二 ︻解説︼一号文書は、管見の限り﹃華頂要略﹄や﹃門葉記﹄等では確 ω ・文中に適宜読点・並列点を施した。 ・判読不能の文字は口をもって示したが、改めるべき文字や推定可 能な文字は︹︺をもって傍らに付した。 ・改行は原則として追い込みとし、﹂を用いて示した。ただし、意 一二︶正月十六日三度目の天台座主となり同三年正月十一日辞す。一 号文書は無年号ながら、慈円が﹁前大僧正﹂と署名し、七月の時点で 図的な改行部分については、原本の改行に従った。 ・原本の紙継ぎ目には、﹄を付した。 屋行事を遣わすとの上皇の返答が、この日、院司近江判官代と家司某 封使・楽行事の派遣を後鳥羽上皇に求めていたこと、それに対し、楽 主の地位にあった建暦二年と推定できる。慈円が、一切経会当日の開 延暦寺の一切経会を主宰する立場にあることが窺える点から、天台座 一 慈円書状︵三二・九×四一・七︶ ・長文の割注は、︿﹀の中に記した。 おま ま ﹁慈鎮和尚文﹂ により慈円の許にもたらされ、慈円がそれを青蓮院の関係者に伝えた ユ ヨ 重申候、﹂一切経会開封使井楽行事等﹂事、昨日可被言上候之庭、 ものが本文書と推測される。慈円は、この時期、二度にわたり後鳥羽 カ 院司﹂近江判官代・家司、自口口口﹂所被仰下候也、﹂楽屋行事可 明治大学図書館所蔵r青蓮院文書」 上皇の皇子朝仁︵道覚︶への師資相承を院へ誓約しており、慈円が、 文永十年二月十八日 修理東大寺大佛長官左大史兼豊後守小槻宿禰︵花押V奉 平朝臣棟望伝宣、中納言﹂藤原朝臣経俊宣奉 勅、依請者、 詳。保延六年︵二四〇︶六月十日行玄が日吉新御塔において鎮壇を ︵1︶日吉社新御塔 美福門院の御願により行玄が建立。建立年は不 こうした後鳥羽院との親密な関係を背景に、院と連携しながら天台座 主として仏事の執行にあたっていることが窺える。 二 亀山天皇宣旨︵三二・五×一〇六・○︶ 修したことがみえる︵﹁華頂要略﹄門主伝第一︶。︵2︶細江庄 現滋賀 ハねさサま ﹁関白良実公御息 細江庄文永十年 県長浜市平方町付近に比定される荘園。平方荘とも称す。建久三年 西山蓮﹂華寿院検校職事 応令前権僧正道玄師資相承日吉社﹂新御塔、同領近江国細江庄井 めの荘園が寄せ置かれるに際し、鳥羽院の院宣が下され、新御塔の別 号︶によれば、日吉新御塔へ﹁佛聖燈油人供等用途料﹂を捻出するた ︵二九二︶七月十四日後鳥羽天皇宣旨︵﹃門葉記芝、﹁鎌倉遺文﹂六〇〇 道玄准后 日吉社古文 ﹂ むぶぽ ﹁新御塔細江庄蓮華日口﹂ 右、得道玄去年十月十一日奏状儒、謹検案内、﹂件御塔建立之後、 当行玄が﹁細江庄文契﹂を尋ね取り新御塔へ寄進。その後、新御塔と の ︵ 細江荘は覚快法親王に相伝、美福門院庁下文により﹁門跡相承領﹂と ユ ソ 歳月久積、美福門院在世之﹂供養、行玄座主其日之唱導也、即降令 された。︵3︶西山蓮華寿院 元は後鳥羽院が道覚の母尾張局の菩提 ユ ハら ハ ヨ リ 旨被﹂補別当、永定置佛供人供之用途、将寄附一庄﹂一円之料所、 を弔うため水無瀬殿に建立したもの。承久の乱後、道覚が、寛元元年 峰寺に移し、善峰寺の伽藍の﹁後戸﹂をもって蓮華蔵と号し代々相承 四三︶父後鳥羽、母尾張局の報恩を修するため、伽藍等を西山善 以彼細江庄、宜為御塔領之由、早有﹂議定、被下院宣、自爾以降、 ヱ 滅亡﹂之刻、不能執務、其後慈鎮大僧正為彼法親王之﹂跡、申達子 の書籍等を安置、一宇の草庵を構え青龍房と名づけ、年来所持の本尊 行玄大僧正附属覚快﹂法親王、法親王又附属忠快法印、而平家一族 細領知之後、附属道覚法親王、法﹄親王重賜官符、建立連華寿院、 道具資材等を収めた︵﹁華頂要略﹂門主伝第六︶。︵4︶美福門院 藤原 割分同庄﹂貢之絵剰、宛其寺用、或始長日不断之佛事、或﹂展毎年 得子。永治元年︵一一四一︶所生の近衛天皇が即位し皇后、久安五年 ロ ハリレ 見所進﹂状、尤可謂灼然鰍、望請天裁、早因准先例、可師﹂資相承 法性寺座主、保延四年から久寿元年︵一一五四︶まで天台座主。康治 八︶三昧院検校、長承元︵=三二︶無動寺検校、保延三年︵=三七︶ 王附属最守大僧正、僧﹂正附属道玄、師資之相承、次第之謹撮、具 之由、恭賜官符者、難無当時之牢籠、将﹂備末代之亀鑑者、右少辮 ︵=四九︶八月院号宣下。︵5︶行玄 藤原師実息。元永元年︵一一一 八講之法莚、偏奉資先皇之御菩提、頻﹂誠後弟之僻緩者也、蓑法親 (一 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 た。︵6︶覚快 鳥羽上皇第七皇子。天養元年︵一一四四︶行玄に入室、 より、行玄の山上の本房をもって青蓮院と号し、阿闊梨五口が置かれ 十二月皇子覚快が入室。久安六年︵二五〇︶十月美福門院の御願に 元年︵=四二︶正月鳥羽院の護持僧に補せられ、天養元年︵一一四四︶ 兄弟﹂︵将軍頼経兄弟︶への継承を記した譲状︵﹃華頂要略﹄第五+五上 年︵一二二五︶五月良快から道覚への門跡継承と道覚以後の﹁将軍御 旦、甥良快︵九条兼実息︶に門跡を継承させるが、死の直前の嘉禄元 ら、幕府は道覚の門跡継承に反対、西山善峰寺に籠居する。慈円は一 出家・受戒。その後、覚快に入室、慈円・玄理に師事し青蓮院に止住。 直後、天台座主を辞す。︵7︶忠快 平教盛息。安元二年︵一一七六︶ 三年︵一一七七︶五月に天台座主となるが、治承三年十一月の政変の を受ける。同三年無動寺検校、嘉応二年︵=七〇︶親王宣下、安元 慈源は三昧院・無動寺検校を止められ、同日、慈円譲状の通りに道覚 訴、結果、幕府の了解のもと宝治二年︵一二四八︶閏十二月二十九日 快は三昧院検校を九条道家の息慈源に譲る。道覚は門跡相承を求め提 書集﹂、﹃鎌倉遺文﹂三一二八三号︶。しかし、天福元年︵一二三三︶八月良 吉新御塔と細江荘を道覚に進上している︵﹁華頂要略﹂第五+五上﹁古文 ﹁古文書集﹂、﹁鎌倉遺文﹂三一二八二号︶を書いた上で、﹁契状﹂により日 治承五年︵=八一︶三月覚快の解により阿閣梨宣旨を受け、覚快入 の門跡継承を認めるとの後嵯峨上皇の院宣︵﹁華頂要略﹂門主伝第六︶ 久安六年︵一一五〇︶法性寺座主、仁平二年︵=五二︶行玄より灌頂 滅直後の同年十一月六日玄理の譲りにより権律師となるが、寿永二年 道覚 朝仁親王。後鳥羽上皇の皇子。承元二年︵一二〇八︶八月の親 ﹁平安仏教と末法思想﹂吉川弘文館、二〇〇六年、初出は一九八九年︶。︵8︶ ことで朝廷・幕府双方の信任を得た︵速水侑﹁鎌倉政権と台密修法﹂同 三年︵===︶樗厳院検校となる。承久の乱後も密教修法を修する 年︵一二〇三︶十二月慈円の勧賞の譲りにより権少僧都に補任、承久 滅亡後、伊豆国に流される。文治五年︵一一八九︶四月赦免、建仁三 れた。その後、後嵯峨上皇の弟尊助の入室・親王宣下があり、建長六 月慈源に代わり青蓮院門主となるが、附属の仁は追って沙汰するとさ るとの譲状︵﹃華頂要略一門主伝第六︶を得る。建長三年︵一二五一︶六 入室、同四年正月道覚より﹁堂舎聖教本尊道具井資材等﹂を譲り与え に与えた。︵9︶最守 松殿基房息。寛元三年︵一二四五︶正月道覚へ ←道玄の師資相承を内容とする譲状︵﹁華頂要略一門主伝第六︶を道玄 なし、建長元年︵一二四九︶十二月二十七日慈源の義絶と道覚←最守 が下される。道覚は死の直前、二条良実の子息最尋︵道玄︶を直弟と ω 王宣下の後、同年十月慈円の吉水坊へ入室。その後、慈円は二度に渡 年︵=孟四︶十一月十九日門跡管領を止められ尊助が門主となる。 ︵=八三︶七月平家の都落ちに同行、元暦二年︵=八五︶三月平家 り朝仁への譲状を書き、師資相承を誓約している。建保四年︵== 但し、直後の同二十五日最守は日吉新御塔・細江荘・西山蓮華寿院を ﹁彼御契状﹂とともに道玄に譲る旨の譲状︵﹃華頂要騒門主伝第七︶を 六︶六月に十三歳で出家・受戒、建保六年︵一二一八︶十二月慈円よ り灌頂を受ける。承久の乱後、乳父尊長が京方の張本であったことか 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書』 の闘乱により天台座主を解任・門跡没収、翌年二月道玄に門跡管領が が約束される。尊助は文永五年︵一二六八︶八月梶井・青蓮院門徒間 決補五︶、後嵯峨上皇の﹁勅裁﹂により尊助←道玄←慈助の相承関係 譲状・道玄譲状とともに後嵯峨上皇に提出され︵﹃門葉記﹄巻一四八雑 皇子慈助への継承を前提に道玄への門跡継承を内容とする書状が尊助 助との関係は良好で、弘長元年︵一二六一︶十二月十二日後嵯峨上皇 道玄への門跡継承は後嵯峨上皇の院宣により否定されたが、当初、尊 入り出家、建長元年︵一二四九︶五月道覚により受戒。道覚が定めた 翌年入滅。︵10︶道玄 二条良実息。宝治二年︵=一四八︶最守の室に 一日両寺検校を止められ、翌年正月十楽院を道玄に譲り北山へ移住、 書店 二〇〇一年、初出は一九九五年︶、忠快が鎌倉への台密修法導入に の ︵ 多大な貢献をもたらした人物であること︵速水侑前掲論文︶、慈円の弟 対する認識の変化︵日下力﹁後栄の平氏たち﹂同﹃平家物語の誕生﹄岩波 としては、平家の血を引く後堀河・四条天皇の即位などによる平家に 荘を覚快から附属され、執務を行っていたとしている点である。背景 道玄が自らの門流の正当性を誇示する上で、忠快が日吉新御塔・細江 暦寺と中世社会﹄法蔵館、二〇〇四年に所収︶。二号文書で注目されるのは、 平雅行﹁青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府﹂、ともに河音能平・福田榮次郎編﹁延 との二つの門流の対立があった︵稲葉伸道﹁青蓮院門跡の成立と展開﹂・ 治天の君の交替に際して門跡相承の再確認を求めた背景には、慈源派 皇の﹁勅裁﹂にあった。道玄が、﹁錐無当時之牢籠﹂としながらも、 ものは、尊助←道玄←慈助の相承関係を規定した弘長元年の後嵯峨上 命じられ、四月慈助が道玄に入室する。その後、道玄は弘安元年︵一 子の一人であったことなどが考えられるが、管見の限り他の関係史料 書いており、あくまでも道玄への門跡継承の姿勢を示す。同年十二月 二七八︶四月梶井・青蓮院両門徒の闘乱により門跡管領を停止され、 に見られない記事であり、貴重であるといえるのではないか。 三 尼正戒売券︵=二・五×四五・七︶ 尊助が門主に復帰する。尊助は道玄から慈助への門跡継承を破棄し、 慈源の後継者慈実︵九条道家息︶を中継ぎに亀山上皇の皇子良助への ハ ぴ ま ﹁近江国日吉社 相承を定め、亀山上皇の﹁勅裁﹂を得ている。 ︻解説︼二号文書は、明治時代の古典学者小杉橿邨が書写・抄録した 弘安古文状 ﹂ カさむ ﹁徴古雑抄﹂に収録され、それを﹃鎌倉遺文﹄が採録していることか ﹁あふミの国やまのまゑのほんひよしの ロロけんのしやう 弘安七年六月 日 ﹂ ほ うロ 道玄は亀山天皇が治天の君となった直後に﹁去年十月十一日奏状﹂を 沽却 近江国神崎東郡山前北庄内神田事 ら、内容自体は既に学界に知られた文書である。二号文書によれば、 証拠文書とともに提出、翌年、門跡相承を認める亀山天皇宣旨が下さ 合載拾萱町伍段伯威拾歩者坪付在別 れたことになる。当時、道玄の門跡相承の論理を現実的に支えていた 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 ロ﹂武伯玖拾貫文、相副院宣井代々手継以下調度﹂謹文等、永代所 難一塵、無更﹂公事・課役、一円不輸之知行也、而依有要用、限直 御房、又西塔西谷南尾龍﹂樹講米武石四斗、可有其沙汰、此外者、 但近年者依時﹀、此外領家御年貢米、如古譲﹂状可致進済領家道明 但此内大宮右方御燈油三斗六升之代﹂三石六斗︿又閏月仁加三斗、 右、件本日吉田者、云下地、云預所職、尼正戒重代相伝﹂口口領也、 西本宮は日吉社の中心的存在。︵4︶西塔 比叡山三塔の一つ。根本 さを知ることができる。︵3︶大宮 大己貴神を祀る西本宮を指す。 油三斗六升︵代三石六斗︶が課せられており、日吉社との関わりの深 文書でも尼正戒相伝の本日吉神田二一町五段一二〇歩に大宮右方御灯 院政期に五箇荘として﹁日吉神田﹂に寄進されたものだという。三号 二〇町はもともと生源寺︵現在の滋賀県大津市︶別当相伝の田地が鳥羽 七六九号︶にも見られ、同文書によれば﹁神崎東郡山前本日吉神田﹂ ロ なロ 沽却平氏女也、若不慮子細出来﹂之時者、為尼正戒井子息本西等之 中堂の西北方の寺域で、北谷・東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・黒谷な ロ ぞ ら ヱ 沙汰、可致明沙汰、﹂傍勒子細、放券如件、 どから成る。︵5︶西谷 北尾谷・南尾谷の併称か。 四 播磨国賀古荘年貢散用状︵二入・四×四〇・八︶ 所蔵者の転変の経緯は不明である。 五二三〇号に﹁三浦周行氏所蔵文書﹂として採録されているが、文書 様式としては一般的なものといえる。なお、本文書は﹃鎌倉遺文﹄一 を銭二九〇貫文で平氏女に売却したことを証したもので、売券の記載 ︻解説︼三号文書は、尼正戒が相伝の本日吉神田二一町五段一二〇歩 弘安七年騨六月 日 尼 正 戒︵花押︶ 女子万歳女︵花押︶ 子息僧本西︵花押︶ ︵1︶山前北庄 近江国神崎郡内で、山前南荘の北東、現在の滋賀県 神崎郡五箇荘町宮荘付近に比定される。年月日未詳の室町院暉子内親 王所領目録︵東京大学史料編纂所所蔵﹃集﹄、﹃鎌倉遺文﹄一二三〇七号︶に おミせま ﹁正応四年 よれば、﹁一 金剛勝院領﹂の項に山前荘とともに北荘の記載があり、 そこに﹁勧修寺中納言﹂との注記が見える。これより推して、勧修寺 古文状 ﹂ おミさ 中納言は当荘の領家と思われるが、これを弘安七年︵一二八四︶六月 ﹁賀古御庄正応三年分御米散用状﹂ もなく、不明とせざるをえない。︵2︶本日吉田 山前北荘内に所在 注進 正応三年分御米散用事 賀古御庄 する日吉社の神田。本日吉神田は古くは安元二年︵一一七六︶七月二 合 の三号文書発給段階にまで遡らせることができるかは、他に関連史料 十一日の中務録行家田地処分状︵雨森善四郎氏所蔵文書、﹃平安遺文﹄三 (6) 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書』 定米百九十五石二斗内 ﹁賀古荘﹂の項などでも触れられているから、文書の内容自体が世に 全く知られていなかったというわけではない。ただ、四号文書により 一 七石三斗三升九合 御侍二郎兵衛殿給分 代銭分 分﹂の箇所を﹁御舎納分﹂としている︶。 意味では四号文書の存在は貴重である︵例えば、﹁華頂要略﹂は﹁御倉納 ﹃華頂要略﹄収載版の読み誤りを正すことができるので、そういった 一 十八石三斗八升五合 御力者二人給之 ︵花押︶ ︵花押︶ 因何可滞哉、就中慈玄﹂僧正申下第三度事書、可加一見之由、乍被 ユ 青蓮院門跡事、理非明究三問三答訴陳﹂状之上、 叡覧之虞、 勅裁 の ﹁三問三答ノ上之支状ト見﹂ さヨ 青蓮院門跡慈玄僧正状 ﹂ ﹁正安元年七月良助親玉筆 ガら ま モ 五 良助親王重訴状︵三三・三×五四・二︶ 一 一石八斗 地頭方給加藤分 上 公文代僧 過・六石九斗七升五合 二百二石一斗七升五合 注進如件、 巳上 一 九十石二斗一升六合 一 八十四石四斗三升五合 御倉納分 所済分 右、 正応四年四月廿日 公文代僧 下司代僧 ハ 申即﹂不及返上、又不随度々之催促、任雅意三箇月之間、﹂抑留之 カロ 條、偏是為令延引裁許粁計自由之結構﹂也、如去三月制符者、評定 文書廻覧日限可守正応﹂制符云々、是為令不口人愁之徳政也、況取 ︵1︶賀古御庄 播磨国加古郡内に所在し、その荘域は現在の兵庫県 加古川市内南部の加古川流域付近にあたる。本文書の伝来のあり方よ 籠事書、﹂無音之条、併非蔑口 朝議哉、何況如同正応之﹂制符者、 むカ ハ り り推して、当荘は当時青蓮院領であったと判断される。 正応与永仁両度之制符、違﹂勅之科重聲之上者、先早被停止当時之 廿箇日不及陳状者、先可停止当時之管領云々、﹂而今慈玄僧正已背 貢米の納入状況を記したもので、年貢の未進・損亡が続いた鎌倉後期 管領之後、﹂被決訴陳於評定、欲蒙 勅裁 、 ︻解説︼四号文書は、正応三年︵一二九〇︶の播磨国賀古荘における年 にあって、当荘では規定年貢高より多くの年貢米を青蓮院に納入して 正安元年七月 日 ︵1︶慈玄 一条実経の子。文永六年︵一二六九︶慈禅の許に入室し、 るソ いたことが知られる。なお、四号文書は﹃鎌倉遺文﹄に未収録である が、﹃華頂要略﹄門主伝補遺に全文が収載されており、この点は例え ば﹃角川日本地名大辞典二十八兵庫県一︵角川書店、一九八八年︶の 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 日限可守正応制符﹂といった内容の条文が含まれていたことが知られ 発せられたこと、そして、そこには訴訟手続法として﹁評定文書廻覧 不明。ただし、本文書より永仁七年︵正安元・=一九九︶三月に制符が 出身で十八歳の慈深に譲っている。︵2︶去三月制符 制符の全文は 二歳で入滅する。なお、彼は入滅前の同月八日に青蓮院門跡を一条家 院検校職に補任されるも、正安三年︵=二〇一︶正月二十六日に四十 灌頂を受ける。永仁五年︵一二九七︶六月二十八日には無動寺・三昧 翌年出家・受戒、建治三年︵一二七七︶には尊助の許に移り、彼から が収載されているが、字句には小異がある。 参照のこと。また、﹃門葉記﹄巻一四七雑決補四には五号文書の案文 社会﹄法蔵館、二〇〇四年︶が関係史料を洗い出し詳述しているので、 同﹁青蓮院門跡の成立と展開﹂︵河音能平・福田榮次郎編﹃延暦寺と中世 門跡の展開﹂︵﹃名古屋大学文学部研究論集﹄史学四十九、二〇〇三年︶や なお、この相論の顛末については、稲葉伸道﹁鎌倉期における青蓮院 一部を引用しているため、その具体的内容が判明する点が興味深い。 主張を支える法的根拠として彼が﹁去三月制符﹂や﹁正応之制符﹂の ていることを非難し、慈玄の門跡管領停止を求めているが、こうした 六 青蓮院門跡尊円御教書︵二九・二×八四・四︶ る。なお、ここに見える﹁正応制符﹂に該当すると思われる正応五年 ︵=一九二︶の制符には﹁可被定議定文書廻覧日限事﹂といった事書を おぽ 可止所務事﹂といった事書を持つ条文があり、本文中に﹁下問状之後、 織田庄内山西郷事、可﹂被相伝知行之由、先年被﹂仰了、更不可有 印祐 ﹂ ﹁建武四年四月二十五日 至廿ヶ日不及陳答者、先停止当時之管領、退可決向後之理非﹂と見え 相違、就之﹂数輩子息之中、瑚子自﹂六歳奉公、常随給仕巳及﹂多 持つ条文がある︵﹃中世法制史料集第六巻﹄公家法四四一条︶。︵3︶正 ハぜロ 応之制符 正応五年の制符を指す。そこには﹁陳状日限過口箇日者、 る︵﹃中世法制史料集第六巻﹄公家法四三六条︶。︵4︶評定 伏見院政 年了、傍瑚子可為譲附之仁之由、﹂先々被仰候了、無子細欺、兼 下の院評定を指す。 伝﹂不可有相違、所詮未来附属﹂等事、宜在瑚子之意者也、﹂重々 又﹄当郷内、不可有割分譲与之儀、﹂瑚子一円可致管領、子孫相 文書もそうした状況の一端を垣間見せるものであり、亀山院の皇子良 依有思食之旨、如此被﹂仰下也、恐々謹言、 ︻解説︼鎌倉後期から青蓮院門跡をめぐる争いは熾烈になるが、五号 助親王の訴状と推定される︵端裏付箋では本文書を﹁青蓮院門跡慈玄僧正 建武四年 ︵3v 刑部卿法眼御房 四月廿五日 印祐 状﹂としているが、これは誤り︶。本文書で、良助は正安元年︵一二九九︶ 七月段階ですでに﹁三問三答訴陳﹂を経ており、慈玄僧正が﹁第三度 事書︵訴状︶﹂を受け取りながら返答せず、三ヶ月間もそのままにし (8) 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書』 は、鎌倉期には青蓮院門跡管領下の常寿院領で、永徳三年︵;天三︶ おりた ︵1︶織田庄内山西郷 若狭国三方郡の内、現福井県美浜町。織田庄 院門跡の坊官の所領に対する関わり方や、門跡と児との関係などを考 莇野家の知行下にあったという新知見を加えるものである。更に青蓮 できない史料であり、織田庄山西郷が南北朝初期に青蓮院門跡の坊官 六号文書は、管見の限り、﹃華頂要略﹄や﹃門葉記﹄などでは確認 三月に青蓮院門跡領として確定したとされる。︵2︶瑚子 ﹃門葉記﹄ 察する上でも貴重な史料といえよう。 ﹁暦応三年古文 おむせま 七 光厳上皇院宣︵三三・四×九七・四︶ ﹁入道親王︵尊円︶﹂暦応二年︵一三三九︶十一月十六日条によると、青 蓮院門跡の児として確認できる。また、六号文書から宛所の刑部卿法 眼の子と考えられる。︵3︶印祐 青蓮院門跡坊官。鳥居小路家出身 リ頂要略﹄巻四十一門下伝﹁坊官第一﹂︶。六号文書の﹁仰﹂の主体であ 青蓮院宮執達﹂ カヨ ま るが、坊官の役割の一つとして、門跡領の預置等を命ずる門跡の令旨 ﹁油小路殿元祖 ピ カ ね な 権中納隆蔭卿﹂ の ︵ ユロ な ひ 崇徳院御影堂口口﹂宮検校職井高橋宮口﹂領事、任上乗院宮口﹂状 御管領不可有口口﹂由 る カ 随御気色所候也、以此旨即艶﹄申入青蓮院麗給、傍執嘩﹂如件、 暦応三年四月十九日 権中納言隆蔭口 ようであることが確認される。また、月日脇の﹁建武四年﹂は異筆の 端書の部分が本来端裏であったようだが、切り取って表にして貼った を命じた青蓮院門跡坊官の印祐が奉じた尊円御教書である。ちなみに 門跡の児瑚子に、青蓮院門跡に対する奉公の功により、譲与すること 三︵=一=四︶、元徳元︵=二二九︶∼元弘三︵=二三三︶、建武二︵=二 院宮 尊円法親王。伏見天皇の第五皇子。応長元︵=一=一︶∼正和 三十六門下伝﹁院家伝第三上乗院﹂︶。︵2︶院光厳上皇。︵3︶青蓮 一四五﹁諸門跡伝第六﹂︶。上乗院は青蓮院の院家の一つ︵﹃華頂要略﹂巻 ︵1︶上乗院宮 益性法親王か。亀山天皇第二十皇子︵﹁華頂要略﹂巻 二〇〇一年︶。 太政大臣僧都御房 可能性が高い。 が﹁相伝知行﹂することを安堵し、かつ泰深の子と考えられる青蓮院 ︻解説︼六号文書は、若狭国織田庄山西郷を、青蓮院門跡坊官の泰深 家出身︵下坂守﹁門跡領の経営形態﹂同﹃中世寺院社会の研究﹄思文閣出版、 部卿法眼御房 泰深か。青蓮院門跡坊官の家である大谷家一流の莇野 ﹁仰﹂の主体は青蓮院門跡︵この時は尊円法親王︶といえよう。︵4︶刑 坊政所﹂﹃古文書研究﹄三十五、一九九一年︶。このことを踏まえるならば、 の奉者を務めることが指摘されている︵伊藤俊一﹁青蓮院門跡の形成と (「 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 子 ︵ ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ 第一編︶。 略﹄巻五十二門下伝﹁執事職補任﹂、六号文書注︵2︶も参照︶。洞院実泰の られる。︵5︶太政大臣僧都御房 青蓮院門跡執事の桓覚か︵﹃華頂要 をつとめる。本文書や八号文書もこうした立場から奉じたものと考え の次男、油小路家の祖。光厳上皇院政下にあって、院の評定衆・伝奏 〇〇四年︶。︵4︶権中納言隆蔭 四条隆蔭。四条家の支流西大路隆政 跡の成立と展開﹂河音能平・福田榮次郎編﹃延暦寺と中世社会﹄法蔵館、二 三五︶∼延文元年︵一三五六︶に青蓮院門跡を管領︵稲葉伸道﹁青蓮院門 高橋宮遺領は、土御門天皇の皇子尊守法親王︵妙法院門跡︶の所領 応二年︵一三三九︶八月⊥ハ日に検校職に任じられている。 による︶。なお、尊円は﹃華頂要略﹄門主伝第十七などによると、暦 司﹁崇徳院怨霊の鎮魂﹂同﹃崇徳院怨霊の研究﹄思文閣出版、二〇〇一年、 原水民樹﹁崇徳院信仰史稿︵一︶﹂﹃言語文化研究﹄四、一九九七年・山田雄 慈円が襲任して以降、青蓮院門跡が代々相承していったという︵以上、 堂並びに粟田宮を統括・支配する職掌だったとされている。検校職は などと記載に異同がみられるが、恐らくは同一職であり、崇徳院御影 所領と、尊性︵尊守の師︶から受け継いだ所領から成る。この所領内 のことである。尊守を養育していた比丘尼観如から尊守が譲与された を益性法親王の譲状に任せて尊円法親王に安堵した光厳上皇院宣であ には、八・九号文書にみえる青蓮院門跡領の備中国縣主保も含まれて ︻解説︼七号文書は、崇徳院御影堂と粟田宮の両検校職・高橋宮遺領 る。七号文書は、すでに﹃華頂要略﹄門主伝第十七、﹃門葉記﹄巻一 い・。 ⋮ 八 光厳上皇院宣︵二九・九×五六・○︶ 四七雑決補四に収録されている。七号文書の欠損部分も﹃華頂要略﹄・ ﹃門葉記﹄に収録されているものを参考として補った。ただし、﹃華頂 崇徳院御影堂は、崇徳上皇の鎮魂のため、上皇に寵愛を受けていた 中納言隆蔭﹂の次に文字の残画らしきものが確認される。 尊勝寺法華堂領口﹂口国縣主保事、与当口﹂禅衆等和与中分之由、 縣主保和与事 暦応三年七十二油小路祖隆蔭卿﹂ ﹁ 尊勝寺 ゆミさ 烏丸局という女性が綾小路河原の自宅に建立したとされているもので 被口﹂食了、不可有相違之旨、 要略﹄・﹃門葉記﹄では確認できなかったが、七号文書では差出書﹁権 ある。粟田宮も崇徳上皇の鎮魂のため、後白河法皇によって、寿永三 院御気色所候也、以此旨可口﹂申入 座主宮給、伍執達如件、 ほ ヨ る お ま 年︵=八四︶四月、春日河原に建立されたものである。粟田宮の名 暦応三年七月十二日 権中納言隆口 ら 称は、この建物が粟田郷にあったことから付されたのだという。﹁崇 大納言法印御房 ロ ロ 徳院御影堂口口宮検校職﹂については、原水民樹氏によると、他に ﹁粟田宮検校﹂、﹁崇徳院御影堂検校﹂、﹁崇徳院御影堂井粟田宮検校﹂ 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書』 院雑掌申状案︵﹃大覚寺文書﹄、﹃井原市史 皿﹄古代・中世編年史料一九七 た、後年の史料であるが、宝徳二年︵一四五〇︶九月日東岩蔵寺真性 勝寺町・同岡崎西天王町の西部地域が寺地に比定されている。︵2︶ 号︶によると、当保の﹁領家職井敷地﹂は康和年中︵一〇九九∼一一〇 ︵1︶尊勝寺 尊勝寺は六勝寺の一つ。現京都府京都市左京区岡崎最 備中国縣主保 備中国後月郡の内、現岡山県井原市。︵3︶院 光厳 四︶より尊勝寺法華堂領であったといわれている。さらに、貞和六年 家﹂とあり、当保領家職を五辻中将家が領していた可能性がある。 ﹃南北朝遺文中国四国編﹄一七八二号︶によると、﹁縣主保領家五辻中将 O五〇︶二月四日室町幕府引付頭人奉書写︵﹃華頂要略﹂門主伝補遺、 上皇。︵4︶座主宮青蓮院門跡尊円法親王。尊円は暦応二年︵=二 三九︶十一月一日に天台座主に還補︵﹃門葉記﹄巻=二〇門主行状三︶。 ︵5︶大納言法印御房 青蓮院門跡執事の隆静。四条隆行の子︵下坂 守﹁中世門跡寺院の歴史的機能﹂前掲下坂著所収、初出は一九九九年︶。 ﹃井原市史 1﹄で述べられているように、当保の相伝・領有関係は 複雑であったようである。八号文書にみられる状況もこうした複雑な ︻解説︼八号文書は、尊勝寺法華堂領備中国縣主保について、尊勝寺 法華堂禅衆と青蓮院が﹁和与中分﹂することを承認した光厳上皇院宣 関係が影響して生じたものと考えられる。 ロほカ ロカロ 備中国縣主保領家職事、地頭濫妨﹂云々、甚以不可然、相共土屋宮 \ ︵← ﹁備中国縣主保領家職事貞和五三廿八﹂ むさ ま 九 引付方頭人仁木義氏奉書案︵三一・六×二九・O︶ である。八号文書は、すでに﹃華頂要略﹄門主伝補遺第十七﹁尊円親 王﹂に収録されており、他の史料集︵例えば﹃南北朝遺文中国四国編﹄ 九七八号︶も﹃華頂要略﹄に収録されたものに拠っている。入号文書 の欠損部分も﹃華頂要略﹄に収録されているものを参考として補った。 ただし、字句の異同として、八号文書の﹁被口食了﹂の﹁了﹂が、 内左衛﹂門尉、荏彼所相尋子細注申状、依仰﹂執達如件、 貞和五年三月廿八日 修理亮在判 ﹃華頂要略﹄では﹁畢﹂となっていることが挙げられる。 縣主保について、﹃井原市史 1﹄︵井原市、二〇〇五年︶によると、 庄又四郎殿 ヨ 当保は本来、七号文書にて触れた高橋宮領の内であるが、高橋宮の死 後、大宮院姑子←後宇多上皇←昭慶門院︵悪子内親王︶の相伝関係が 地頭斎藤康行・同基繁連署和与状写︵﹃華頂要略﹄門主伝補遺、﹃南北朝 人。﹃太平記﹄巻二十九﹁越後守自石見引返事﹂の、観応二年︵一三 り桜田三河入道崇覚と推定される。︵2︶土屋宮内左衛門尉 備中国 ︵1︶地頭 この時期の地頭は、前掲の応安三年︵=二七〇︶和与状よ 遺文中国四国編﹄三七九七号︶によると、当保は﹁高橋宮御遺領﹂と 五一︶正月における備中での足利直義方の上杉朝定と足利尊氏方の高 確認されるという。しかし、応安三年︵一三七〇︶七月十一日縣主保 して、﹁当御門跡︵青蓮院︶御相伝当知行之地﹂であったとされる。ま (11) (一 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 だ敵として、﹁土屋平三﹂なる人物が確認できる。恐らく備中の土屋 師泰との戦闘の場面の中で、師泰軍の陶山又五郎︵備中国人︶が組ん 九号文書は地頭の所務濫妨を対象としていることから、所務沙汰関 きることから、訴訟の具書などとして用いられたことが推測できる。 に指摘がある︶。なお、九号文書は、﹁備中国﹂の箇所に合点が確認で 頭人奉書である︵岩元修一﹃初期室町幕府訴訟制度の研究﹂吉川弘文館、二 氏であろう。︵3︶庄又四郎 備中国人。備中国草壁庄を本拠とする。 ︻解説︼九号文書は、備中国縣主保領家職に対して、﹁地頭濫妨﹂があ 〇〇七年、など︶。九号文書は、引付方︵もしくは内談方︶頭人奉書の中 連のものと考えられる。この時期、主にこうした問題を扱ったのは室 ったとの訴えを受けて、備中国人の庄又四郎に、同じく備中国人であ に内容が類似する事例︵暦応四年︵一三四一︶八月二十三日吉良貞家奉書、 南北朝末期には備中国守護細川氏の被官となり、その守護代もつとめ る土屋宮内左衛門尉と共に現地での﹁子細﹂を﹁相尋﹂ねて、﹁注 ﹃島津家文書﹄、﹃南北朝遺文九州編﹄一六九五号︶が確認できるため、引 町幕府の引付方︵もしくは内談方︶で、所領に対する押領・狼籍等の停 申﹂するよう命じたものである。また、翌年二月四日に当保領家五辻 付方︵もしくは内談方︶頭人奉書と判断される。以下、その判断に関し た︵﹃井原市史 1﹄・古野貢﹁細川氏内衆庄氏の展開と地域支配﹂﹃年報中世 中将家代官政信へ当保領家職を沙汰付するよう庄又四郎等に命が下っ て若干の補足を行% ㎝ 止、沙汰付などを命ずる際に発給されたのが引付方︵もしくは内談方︶ ている︵前掲の貞和六年奉書による︶。このことから九号文書の﹁領家﹂ 南北朝期室町幕府において、九号文書に見えるような問題を主に扱 史研究﹄二十七、二 〇 〇 二 年 ︶ 。 は五辻中将家と判断する。 〇四号︶も﹃華頂要略﹄に収録されたものに拠っている。字句の異同 収録されており、他の史料集︵たとえば﹃南北朝遺文中国四国編﹄一七 へ改編されていたという見解がある︵山家浩樹﹁室町幕府訴訟機関の将 付方頭人奉書とみなすべき文書の残存例がなくなることから、内談方 引付方は、康永三年︵一三四四︶三月に内談方が設置されて以降、引 っていた機関は引付方であった。ただし、九号文書が発給された時期、 は、九号文書の﹁土屋宮内左衛門尉﹂が﹃華頂要略﹄では﹁土屋宮内 軍親裁化﹂﹃史学雑誌﹄九十四−十二、一九八五年。なお、内談方は貞和五年 九号文書は、すでに﹃華頂要略﹄門主伝補遣第十七﹁尊円親王﹂に 内左衛門尉﹂となっていること、九号文書の差出書の﹁在判﹂の部分 ︵=二四九︶八月頃に廃止されたという。佐藤進一﹁室町幕府開創期の官制体 系﹂同﹃日本中世史論集﹄岩波書店、一九九〇年、初出は一九六〇年︶。しか が﹃華頂要略﹄では﹁判﹂となっていることが挙げられる。九号文書 の﹁在判﹂と判読した部分であるが、九号文書を見ると、何かを書き し、九号文書は、差出の人物﹁修理亮﹂が内談方頭人に確認できない ことから内談方頭人奉書ではない。つまり、九号文書こそ、内談方設 足そうとした形跡が確認できる︵この点については、福田榮次郎﹁わが ﹃史料探訪﹄の旅﹂同編﹃︹新訂︺中世 史料採訪記﹄ぺりかん社、一九九八年、 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書』 存在について積極的に扱った研究はないようであるが、内談方体制下 引付方頭人奉書の典型的なものといえよう。管見の限り、この二通の の﹁謎責﹂を﹁停止﹂するよう当国守護の山名時氏に命じたもので、 られる。この奉書は、松尾神社領伯書国東郷庄に対する安房右衛門尉 某奉書︵﹁松尾神社文書﹂、﹁南北朝遺文中国四国編一=ハ八〇号︶があげ と判断されるものとして、貞和四年︵一三四八︶十月二十五日修理亮 管見の限り、九号文書と同様に内談方体制下における引付方頭人奉書 置以降残存例がなくなるといわれる引付方頭人奉書であろう。更に、 る。そうした条件の下、この三通が発給された時期の前後も含めて 亮﹂はこうした状況にあっても引付方頭人に残留が可能な人物といえ このクーデターで反師直派は失脚しているという。つまり、﹁修理 師直クーデタi︵観応の擾乱への伏線︶の影響を受けて行われたもので、 年八月頃に廃止、引付方へと改編されるが、この改編は同年八月の高 年奉書の存在があげられる。前掲佐藤論文によると、内談方は貞和五 が確認できなかった。ただし、もう一つの手がかりとして前掲貞和六 み﹄では人物比定はなされておらず、押紙の﹁源義種﹂も適当な人物 れる︵﹁園太暦一観応二年七月二十二日条、﹁系図纂要﹂仁木氏︶。 ﹁修理亮﹂と名乗っていた人物を検索してみると、仁木義氏が確認さ 示している。なお、内談方体制下における引付方存続の可能性につい にあっても、引付方は存続していた可能性があることを、この二通は ては、祢津宗伸﹁室町幕府開創期の禅律寺院領安堵と越訴審理過程﹂ 仁木氏は足利一門である。観応の擾乱においては尊氏︵師直︶方で、 の 0 観応の擾乱以降、義氏の兄頼章が幕府執事をつとめるなど勢力を伸ば テ文書研究﹂六+四、二〇〇七年︶も参照されたい。 氏将軍管領源義種﹂という押紙が付されている。しかし、﹃花押かが 北朝二﹄︵三四四五号︶にも収録されている。さらに差出書の脇に﹁尊 内、貞和四年奉書は正文で花押が残り、その花押は﹃花押かがみ 南 と、同一人物の可能性が高い。それではこの人物は誰か。この三通の 内容︵所務沙汰関連であること︶や発給時期が近いことなどを考慮する 書と貞和六年奉書が挙げられる。この三通の差出﹁修理亮﹂は文書の 人物が発給したと考えられる文書は、管見の限り、前掲の貞和四年奉 物については明らかにされていないようである。九号文書以外でこの この人物は引付方頭人であった可能性が高い。しかし、今までこの人 九号文書の差出﹁修理亮﹂であるが、これまで述べてきたように、 記述は、主に石川登志雄﹁仁木氏﹂︵﹁室町幕府守護職家事典 下﹄新人 名も﹁引付方頭人仁木義氏奉書案﹂とする。なお、仁木氏についての のことから、この﹁修理亮﹂は仁木義氏に該当するものと考え、文書 が引付方頭人をつとめていた可能性があるのではないだろうか。以上 一九六七年︶。けれども、仁木氏の幕府内での立場を考慮すると、義氏 不明な点が多い︵佐藤進一﹁室町幕府守護制度の研究上﹂東京大学出版会、 年、一三五二︶に武蔵国守護︵兄の頼章︶の代官をつとめている程度で 場にあったと考えられる。義氏についての事蹟は、観応三年︵文和元 賀以下数ヶ国の守護をつとめていることから、幕府において重要な立 すが、それ以前においても頼章の弟︵義氏の兄︶義長が侍所頭人や伊 (『 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 連署請文︵二八・九×四八・○︶ 大和国宇智郡阿陀・近内両郷地下人等 物往来社、一九八八年︶を参考とした。 十 ハ を ゑ ﹁応永 謹文﹂ おさぽ ﹁大和国﹂ たる。︵3V守護殿 ﹃新修五條市史﹄︵五條市役所、一九八六年︶は﹁守 護殿﹂を畠山基国とするが、畠山氏の宇智郡進出は応永の乱で大内義 弘が敗死して基国が紀伊守護を兼ねてからであり、本文書段階での ﹁守護殿﹂は、当時の紀伊守護である大内義弘にあたるか。︵4︶公方 足利義満。︵5︶国中錯乱 南北朝期、大和国のうち宇陀・宇智・吉 守護殿被入御使候﹂間、自往古青蓮院御管領地之由、難返答﹂申候、 ぞ 無承引候、此上可為何様候哉、公心被申﹂公方、可有御落居候、於地 大和国内郡内阿陥・近内両郷事、被仰下之﹂旨、畏存知候詑、但自 略の動きをみせていることから︵﹃歓喜寺文書﹄一四号、七月十九日守護 文書マイクロフィルム版﹄︶、翌年七月には紀伊守護大内義弘が宇陀郡侵 満は大和国の宇陀・宇智・吉野三郡以外には幕府の軍勢を入部させな 野三郡は南朝方に属しており、明徳二年︵一三九一︶十二月に足利義 下者、近年依国中﹂錯乱、御年貢等無沙汰無勿躰候、悔先非、向 大内義弘書状案、﹃和歌山県史中世史料二﹄︶、南朝側に属した宇智郡も タ 後﹂如元可奉仰御門跡之条、不及子細候、若寄﹂事於左右、致不忠 宇陀郡と同様の状態であると髪られ・・よ・て近年とは南北朝A三⋮ ら いことを保証し︵﹁日々記抜書﹂、明治大学図書館所蔵﹁内閣文庫所蔵大乗院 不法候者、此連署之輩、預﹂嚴蜜御下知之時、不可申一言之子細候、 前後の郡内騒乱を指すと考えられる。 ヨ 傍請文﹂連署之状、如件、 新次郎︵花押︶ 次郎︵花押︶ おり︵﹃春日大社文書﹄七六九号、日吉社彼岸用途契状等︶、鎌倉期から青 郷のうち近内郷は、建治元年︵一二七五︶に青蓮院が管領を主張して 蓮院に対して訴えるとともに、年貢等の滞納を謝したものである。両 ︻解説︼十号文書は阿陀・近内両郷の地下人らが守護の郷内入部を青 西阿弥︵花押︶ 蓮院の支配が及んでいたことがわかる。しかし南北朝期には宇智郡は 応永元年八月廿四日 藤四郎︵花押︶ 牛太郎︵花押︶ 南朝方に属していたため、阿陀・近内両郷には青蓮院の支配が及ばな 体11百姓と考えており、応永年間に花押を持つことから、彼らがやが 連署者六名について、久留島典子氏は青蓮院門跡に年貢を納める主 かったのであろう。 源三郎︵花押︶ ︵1︶阿陥 大和国宇智郡内で、現在の奈良県五條市、吉野郡大淀町 にあたる。︵2︶近内 大和国宇智郡内で、現在の奈良県五條市にあ 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書」 可能性を指摘し、室町時代初期、宇智郡の郷は有力百姓層に代表され て戦国時代の国衆連判状に署判する阿陀氏・近内氏につながっていく ﹁名切島﹂と見え、鎌倉期から青蓮院門跡領であった。常楽院の寺領 から西山宮道覚法親王への譲状︵﹁華頂要略﹂巻五十五上﹁古設文集﹂︶に たちは自身の政治的地歩を築いていったと推測している︵同﹁戦国∼ 本文書では名切荘を﹁伊勢国﹂としているが、室町幕府の発給文書 常楽院﹂︶、常楽院が代々知行していたと考えられる。 には﹁伊勢国名功庄﹂とあり︵﹃華頂要略﹂巻三十五門下伝﹁院家伝第二 ロ ロ 近世初期における大和宇智郡の国衆と村落﹂勝俣鎭夫編﹁寺院・検断・徳政 でも、本来志摩国に属する泊浦を伊勢国としていることから︵﹁醍醐寺 るような構造を持ち、守護と青連院のせめぎ合いのなかで、有力百姓 −戦国時代の寺院史料を読むー一山川出版社、二〇〇四年︶。 文書﹄七十五号、応永六年六月二十日足利義満御教書、同七十六号、応永七 法印﹂ ﹁応永十五年七月十一日 と考えられる。 ることから、志摩が伊勢に包摂されるようになったのは鎌倉中期以前 頂要略﹂巻五十五上﹁古謹文集﹂︶、ここでも名切荘は伊勢国とされてい の慈源所領注文には三昧院領とし三伊勢国名切庄﹂とされ︵﹁華個 守護制度の研究上﹂東京大学出版会、一九六七年︶。天福二年︵=一三四︶ 志摩は伊勢に包摂されていたのではないかとしている︵同﹁室町幕府 年三月九日将軍足利義持家御教書等︶、佐藤進一氏は、幕府の地方行政上、 ﹃華頂要略﹄門主伝第十八には、本文書の案文が収められており、 ﹃大日本史料﹄や﹃五條市史 史料﹄の史料引用は、これによってい る。 十一 青蓮院門跡義円御教書︵二九・四×四八・三︶ 御門跡領伊勢国名切﹂庄、如元可令知行給﹂之由、被仰下候也、傍 なお、本文書は﹃華頂要略﹄門主伝補遺第二十﹁道円親王﹂に収録 むぷぽ 執達﹂如件、 されているが、道円は義円の先々の門跡︵永徳元年、尊道より門跡管領。 ハ 応永十五年七月十一日 法印︵花押︶ 至徳二年三月道圓入滅、尊道門跡管領還補︶であり、﹃華頂要略﹄門主伝 れる。 となっているために、第二十が﹁道円親王﹂となってしまったとみら 補遺第十九が﹁慈済僧正﹂︵慈済は﹁華頂要略﹂第十八﹁附弟伝第十二﹂︶ 謹上 常楽院大僧都御房 ︵1︶名切庄 志摩国英虞郡内で、現在の三重県志摩市大王町にあた る。︵2︶常楽院大僧都御房 尊範。 ︻解説︼十一号文書は青蓮院門跡義円が常楽院大僧都尊範に名切荘の 知行を安堵した御教書である。名切荘は建暦三年︵一二一三︶の慈円 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 十二 西園寺実永御教書︵二八・九×四七・三︶ ︵端裏書1︶ ︹閏七月十七日御 門 跡 領 ︺ ﹁口口口口口口口口口口浮免 き 口口口正文 応永廿一﹂ ︻解説︼十二号文書は、応永二十一年︵一四一四︶閏七月十七日付で西 園寺家領山城国美豆牧の浮免の知行を従来通り青蓮院に認めた、西園 寺家当主西園寺実永の御教書である。本文書はすでに﹃華頂要略﹄門 主伝第二十に収録されている。 ﹃国史大辞典﹄﹁馬寮領﹂の項によると、﹁延喜馬寮式には、左右両 ﹁口永二十一年後七月十七日 左馬寮領美豆牧として存続﹂としている︵橋本義彦氏執筆︶。しかし、 月、御馬の肥えざるものを簡んで放飼させると規定している﹂﹁のち 寮管下に山城国美豆厩を置き、畠十一町・野地五十町余を付属し、夏 久衡﹂ 文治五年︵=八九︶には美豆牧は院の御厩管領地となっている︵﹃吾 ︵端裏書2︶ ︵lV ︹相︺ ︹候脱力︺ ! あロ 美豆御牧内浮免﹂事、如元御知行﹂不可有口違之由、内々﹂所也、 妻鏡﹄文治五年閏四月四日条︶。美豆牧と西園寺家との関わりは、網野善 の御厩別当となって以後、一時的な中断はあったとしても江戸時代に 当にな・たのを初めとし・寛元四年︵≡・⊥ハ︶に公相が後嵯峨上皇⋮ 彦氏が保安年間︵=二〇∼二四︶、鳥羽上皇の時に通季が院の御厩別 恐々謹言、 ︵異筆︶ ︹廿 一︺ ﹁応永口口﹂ ︵2︶ あ ハヨ 後七月十七日 久衡︵花押︶ 中納言口口御房 至るまで西園寺家の世襲が続いたこと、さらには鎌倉中期から同家が 左馬寮を奉行し、左馬寮領を知行していたことによるものである︵同 ﹁西園寺家とその所領﹂﹃国史学﹂一四六、一九九二年︶。また、西園寺公経 ︵1︶美豆御牧 山城国久世郡に所在した牧。木津川・宇治川.桂川 の合流する付近に位置し、京都府伏見区美豆、久御山町の北川顔.藤 の拝領以後における左馬寮管領権については、治天の君や室町殿など の意向によって西園寺家︵今出川家を含む︶と洞院家の間を行き来した 和田の辺りであったとされる︵﹃久御山町史﹄第一巻︶。西園寺家領。 ︵2︶久衡 三善久衡。西園寺家の家司。﹃看聞日記﹄応永二十三年 ことが明らかにされている︵本郷恵子﹁公家政権の経済的特質﹂同﹃中世 心院関白記﹄応安四年︵一三七一︶正月十九日条に引用されている同 南北朝期以降における左馬寮領の知行の変遷を見てみると、﹃後深 公家政権の研究﹄東京大学出版会、一九九八年︶。 l一六︶三月二十六日条に、西園寺実永の右大将拝賀に際して﹁久 臣久衡﹂と見える。︵3︶中納言法印御房 不詳。 月七日条には、春日社への祈年穀奉幣の奉幣使として﹁越前守三善朝 衡家司﹂として見える。また、﹃康富記﹄応永二十五年︵一四一八︶十 (一 明治大学図書館所蔵「青蓮院文書』 め、左馬寮領を没収され、後円融上皇から今出川公直に与えられた て修した繊法に出仕していた公定が暴言を吐いて義満の意に背いたた るが、足利義満が永徳二年︵一三八二︶九月十八日から七日間に渡っ このように、応安年間頃は洞院家が左馬寮領を知行していたわけであ の出家﹂田島公編﹁禁裏・公家文庫研究﹄第一輯、思文閣出版、二〇〇三年︶。 して閾所となったことに由来すると考えられている︵末柄豊﹁洞院公数 堵を巡って争い、両者が半分ずつ安堵されたのち、実守が南朝に帰参 されたのは、延文五年︵一三六〇︶、公定と実守︵公賢の弟︶が家門安 安堵がなされた中に左馬寮の半分が確認される。なお、ここで半分と 日付の後光厳天皇繍旨によると、洞院公定に対して家門・家領の一括 院が領有したことが分かり興味深いところであるが、青蓮院と美豆牧、 の知行していた美豆牧内に浮免が設定されていて、その浮免分を青蓮 有形態や収取の構造等不分明な点が多い。十二号文書より、西園寺家 れに見合った得分のみを徴収させるというものであるが、美豆牧の領 など一定地域のなかに免田の面積を定め、田地の所在を特定せず、そ 浮免というのは、中世における免田の一形態であり、郷・村・荘園 の一を領有することを認めたものである。 う処置で、西園寺家が同家領の下地の三分の二、西園寺京極家が三分 に西園寺実俊の二男公兼が分家して西園寺京極家が成立したことに伴 されていたものと考えられる。なお、応永三年の安堵は、南北朝末期 九九九年︶、美豆牧を含む院御厩管領地の領有に関しては詳らかではな が︵木村真美子﹁中世の院御厩司について﹂﹁学習院大学史料館紀要﹂十、一 院御厩と左右馬寮が密接な関係にあったことは既に指摘されている に﹁尼円心田地売券﹂として収録されている文書が写っていることで なお、注目すべきこととして、十二号文書の裏には、﹃鎌倉遺文﹂ 免の得分を有していたか等については今後の課題である。 であり、美豆牧の領有形態等も含め、青蓮院がいつから美豆牧内の浮 そして青蓮院と西園寺家がどの考な関係にあったかについては不明⋮ い部分も多い。先ほど確認したように、永徳二年から本文書に見える ある︵﹁鎌倉遺文﹄二八三五三号︶。﹁尼円心田地売券﹂も青蓮院に残さ L﹂永徳二年十月十七日条︶。 応永二十一年当時までは左馬寮領は今出川家が知行していた。しかし、 れた文書であり、相伝の事情等は非常に興味深い問題であるが、後考 繼 応永三年︵=二九六︶三月二十七日管領斯波義将奉書によると、山城 を期したい。 十三 後土御門天皇女房奉書︵三〇・三×四四・九︶ 領地として、承久の乱以後、鎌倉幕府の意向により西園寺公相が補任 文明五 五﹂ ﹁仰御祈叡感 ハなさなり されて以来一貫して院の御厩別当職を相伝した西園寺家によって領有 函、四一〇号︶ことより、美豆牧は左馬寮領には含まれず、院御厩管 二が西園寺家に安堵されている︵宮内庁書陵部所蔵﹁西園寺家古文書﹂谷 国鳥羽十三ヶ荘・淀魚市・同下司職等とともに美豆牧の下地の三分の (「 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 ⑤ ④ こひ いた よう せいくを 陀堂之地当寺旧跡欺﹂と記されており、三条白河の辺りにあったと推 永意律師により開基。﹁今三条白川之間在字定法寺畑、近年被建阿弥 十四門下伝﹁諸院家伝第一 定法寺﹂によると、貞観十五年︵八七三︶、 ︵1︶ちやうほう寺 定法寺。青蓮院の院家の一つ。﹃華頂要略﹄巻三 おほしめ 定されている。また、﹃大館常興書札抄﹄では、住心院・尊勝院等と され候、 色Σ し候、 ともに﹁脇門跡﹂とされている︵﹃群書類従﹄第九輯消息部所収︶。なお、 ⑥ より は三条公冬。横川検校、鞍馬寺別当、青蓮院執事、横川長吏等を歴任。 輪三条家の﹁家門跡﹂とされている。︵2︶そう正 僧正。実助。父 ﹃康富記﹄享徳二年︵一四五三︶五月十五日条によると、定法寺は輻法 ① と このよ 御きたうのもく六 文明五年︵一四七三︶当時は大僧正、西塔院主。文明十四年六十六歳 ちやうほう寺のそう正 し まいらせ候、 で死去︵﹃華頂要略﹄巻三十四門下伝﹁諸院家伝第一 定法寺﹂︶。 ︻解説︼十三号文書は、定法寺の実助大僧正が祈祷の目録を進上して よくく 御心へて く候、 給候へ めし候、 つたへまいらせ おほし び十日に変異があったようで、﹃親長卿記﹄同年五月十九日条には変 に記されている通り文明五年五月のものだとすると、この月の二日及 めに祈祷を行っている。なお、この時の祈祷の内容であるが、端裏書 定法寺は脇門跡と位置付けられており、実助自身もたびたび禁裏のた きたことに対し、後土御門天皇が喜んでいるということを、青蓮院か か ③ 異に関して賀茂在盛・土御門有宣の勘申による占文が引用されている。 ② しく、 かやう 在盛の占文によると、二日は太白が輿鬼を犯し、十日は歳星が房鉤鈴 ら末寺である定法寺に伝えるように命じたものであると考えられる。 に 星を犯したとされ、有宣の占文では、十日は歳星が房宿を犯したとさ ⑦ めてたく ○①∼⑦は読み順を示す。 (18) 明治大学図書館所蔵『青蓮院文書』 れている。いずれにしても占文の結果は凶事であり、同月二十一日に とであるが、﹃華頂要略﹄門主伝第二十二の明応二年四月十日条に の祈祷が結願し、所々より巻数が進上されている。これらのことより、 同日条︶、同記同月二十七日条によると、この日変異に就いての内典 に尊応の附弟として青蓮院に入室した人物である。﹃華頂要略﹄の記 玉門院庭田朝子。文明四年︵一四七二︶生まれで、同十六年︵一四八四︶ 主として尊伝の名が見える。尊伝は後土御門天皇の第二皇子。母は蒼 ﹁今日新門主尊伝親王浄土寺殿政禅等有受戒為大和上﹂とあり、新門 十三号文書は文明五年五月二日及び十日に起きた変異に対する祈祷に 事は翌年のことではあるが、明応元年時もいまだ青蓮院の前門主尊応 は甘露寺元長を御祈奉行として諸門跡に祈祷が命ぜられ︵﹃親長卿記﹄ 関するものであると考えられる。また、端裏に見える仰書きは、この は健在であり、可能性があるのは尊伝だけであるので、新門主は尊伝 のことであろう。なお、尊伝は明応二年十二月二十一日に突如発心し、 時御祈奉行であった甘露寺元長の筆か。なお、当該期の女房奉書につ いては、女房による奉書という形式を取りながら、天皇自らが認める 隠遁してしまっている。尊伝の直筆の書状はほとんど残っておらず、 性があ・. ⋮ 十四号文書は尊伝の自筆書状のうち、現存する最後の書状である可能 場合も多くみられ、本文書も後土御門天皇の震筆の可能性が考えられ るが、断定は避け、後考を期したい。 十四 青蓮院新門主尊伝御書︵三四・四×五〇・九︶ むすびにかえて 以上十四通の中世文書のうち、四通が学界未紹介のもの、九通が編 ぷヨ 先日讃調文之事、﹂不顧働労之庭、梵鐘﹂才藻歴々、銘心腋候﹂計 纂物である﹃華頂要略﹄や﹃門葉記﹄に所蔵されている文書で新たに ﹁青蓮院新門主御書 明応元﹂ 候、満座各済﹂其聴之由候、殊頓作之﹂至、一段悦思給候、猶﹂ 原史料として確認されたもの、一通が原蔵者の手を離れ所在が行方不 切れているわけではなくその後も続いており、書き損じたか何かの理 細は不明である。﹁猶﹂字以下が切れているわけであるが、紙自体が るが、内容的には後欠であり、差出・宛所ともに記載がないため、詳 ない延暦寺関係文書の一部として貴重であるものといえよう。本稿に んど焼失しており、本稿で紹介した﹃青蓮院文書﹄は、現存する数少 周知のごとく、織田信長の焼き討ちによって延暦寺の中世史料はほと らの文書は全体として一つの内容のまとまりを持つものではないが、 明となっていたものである。これまでの叙述で明らかなように、これ 由により、途中で筆を止め反古にしたものであろう。端裏書によると、 おいても若干の新知見を示したものと考えているが、大方の御批評を ︻解説︼十四号文書は、誠訥文の作成に対するお礼の書状だと思われ 本文書は明応元年︵一四九二︶の青蓮院の新門主の書状であるとのこ 上杉 和彦・明治大学中世史研究会 賜ることで、青蓮院および他機関所蔵の﹃青蓮院文書﹄の内容との比 較を通した、延暦寺文書の全体像を復元する作業の進展を期したい。 なお、本稿で紹介した十四通の文書以外の中世関係史料は、故実書 の抜書き・聖教・詠草が多くを占めている。初歩的な概観調査によっ て、それら史料群の中に、天台座主慈円などの延暦寺関係の高僧や有 力廷臣の名が多く確認でき、延暦寺史の研究にとって重要な意味を持 つものであることがうかがえる。近世史関係の他史料とともに、これ ら史料群の詳細な検討を今後の課題としたい。 (20)