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駅家ノ木馬祭 冊子(PDF 10.7MB)ダウンロード

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駅家ノ木馬祭 冊子(PDF 10.7MB)ダウンロード
“ こころひとつ。響け!日本 ”
美術館プレイベント vol.12
T
his was the last time that Toraji heard an oracle from the Benzaiten.
The next year, Toraji caught cholera and passed away at the age of
41. Afterwards 751 houses were burnt in a great fire, just as the oracle
had said. However, Zentaro's mansion and the many people living in
the vicinity managed to escape because of the warehouses that were
previously built. Hans, who came to visit Toraji's grave the next year,
has depicted Maebashi's Wooden Horse Festival in his notebook. A picture of the town being filled with the energetic shouts "Mokuba da,
mokuba da, da, da (Wooden horse, wooden horse)" is drawn there.
index
うまや
紙芝居 駅家の木馬まつり・・・・・・・・・・・・・・・1 〜 6
驛家の木馬祭《忘れられたもうひとつの前橋》
・・・・・・7 〜 32
実在の登場人物と関連施設、店舗紹介・・・・・・・・・34 〜 39
人物相関・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40 〜 41
関連年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42 〜 43
T
he Tragedy at the age of 29 (1874, 1874), summoned us to
the beauty Maebashi will to live together.
The effects of your bun folds were doing good, in those days
Sanchajie "senbei Mitsumata" is also in town for the "baked
bun," was starting to be sold. Well you came in Maebashi, Manju
taught the secret to making the statement made acquaintance
Miyauchi, Meiji year 1996, Maebashi became famous "bun
Katahara" will be born.
For English text, please see following website http://www.artsmaebashi.jp/node/29
紙芝居
The Wooden Horse of Umaya, picture-story show
*
I
will tell you the origins of
the Wooden Horse Festival
of Umaya [also called the
Wooden Horse Festival of
Kuruma] that began here in
Maebashi.
うまや
*駅家とは、前橋の
名前のもとになっ
た言葉で、城のそば
の馬をつないでおく
小屋という意味です。
その馬小屋ー駅家の
そばに橋があったの
で、駅家の橋(うま
やのはし)と呼ばれ、
それが「厩橋」から
「前橋」になったと
されています。
1
d on what is now
et, just nearby
was necessary
e. He studied
nd became an
さ
acquaintance of
time.
1
da, a benefactor
2
壱
k under Zentaro
goi ng th
times, as it wa
from the Edo
period, and n
such as volc
て 、今から一 五 〇
年 前 は、 江 戸 か
ら明治へと日本
は 大 き く か わ り、 同 時 に
噴 火、 地 震、 凶 作 な ど の
自然災害が起きていた大
変な時代でした。
こ の 大 混 乱 の 時 代、 多
くの貧しい民衆を助ける
た め に、 悪 代 官 を 殺 し 幕
府に捕まり罪人として処
刑された国定忠治がいま
す。 忠 治 に は 双 子 の 子 供
が い ま し た。 そ の 下 の 子
供、寅次の物語です。
Toraji was 18
were happen
寅
3), he moved to
50 years
貳
arn how to read
earthquakes,
2
en charge of by
in Ogo, and was
hi, who managed
yoshi put Toraji
a substitute for
次 は 大 胡 に い た 忠 治 の 恩 人、 大
前 田 栄 五 郎 に 引 き 取 ら れ、 饅 頭
屋のおよしの養子になりました。
母 親 代 わ り の お よ し は、 寅 次 を 寺 子 屋 へ
いかせ読み書きをしっかり勉強させまし
た。一八歳の時(文久三年、一八六三年)、
栄五郎の知り合いの前橋の下村善太郎の
所 で 働 く た め、 前 橋 に 引 っ 越 し ま す。 寅
次 は こ う し て 現 在 の 弁 天 通 り の 場 所、 大
蓮 寺 の す ぐ 近 く に 住 み ま し た。 寅 次 は 商
売に必要な英語を勉強して通訳になりま
した。
hool and made
1
参
二
of Chuji who lived
Eigoro Omaed
九歳の時(明治七年、一八七四年)に養
母のおよしを前橋に呼び寄せ、一緒に暮
らすことになります。
およしが大胡でやっていたオリメ饅頭は評判を
聞いて、三俣町でも「三俣センベイ」が、また向
町でも「焼きまんじゅう」ができてました。前橋
でおよしは、宮内文作に秘伝のまんじゅう作りを
教えます。そして前橋名物になった「片原まんじゅ
う」が誕生することになるのです。
T
四
into a temple sch
Toraji's mother, Oy
一
him thoroughly lea
and write. When
(Bunkyu 3, 1863
Maebashi to work
Shimomura, an a
Bentendori Stree
八 歳 の 時 に、 寅
次は大人として
長岡寅次と名乗
る こ と に な り ま す。 三 好
屋 の 主 人、 下 村 善 太 郎 は
生糸の取引で大きな利益
を 手 に 知 れ、 町 で も 有 名
な 実 業 家 と な り ま し た。
彼 は 横 浜 の 情 報 を、 早 馬
を使って他の人より早く
手 に 入 れ て い た の で す。
寅次は善太郎に馬を使う
こ と を す す め た の で す。
これは大蓮寺の弁財天の
お 告 げ を、 寅 次 が 夢 で 聞
い た た め で す。 前 橋 は や
がて製糸業の中心となり
「糸の街前橋」として有名
になっていきました。
Eigoro. Toraji lived
3
English, which w
for business, an
name Toraji Nagaoka as an adult. Zentaro
W
adopted by Oyosh
4
D a i r e n j i Te m p l e
hen he was 18, Toraji started to use the
a manju shop. As
3
oraji was take
明
治期に日本からの生糸の多く
は、 前 橋 で 荷 作 り さ れ た も の
で、 ロ ン ド ン で は 生 糸 の こ と
を「マエバシ」と呼んでいました。この
ような世界に通用する高い質の生糸を作
ることが出来たのは、スイスの会社の協
力 が あ っ た か ら で す。 寅 次 は 通 訳 と し
て働くだけでなく、スイスの会社から来
ていた技術者ハンス・シュペリと仲の良
い友達になっていきました。ハンスは日
本各地で買い集めた約一五〇〇点の竹製
品のコレクションを持っており、さらに
was called
日 本 で 見 た こ と、 聞 い た こ と を い つ も
6
ost of
silk exported
M
the raw
from Japan
in the Meiji
period was
packed at
Maebashi,
and raw silk
ノートに細かく書き残していました。
London. The
5
4
Swiss friend Hans.
"Maebashi" in
五
橋には工場で働く女工さ
ん が 増 え て き ま す。 で も
女工さんの給与は安く貧
乏 な 人 が 多 か っ た の で す。 そ こ で
立 川 町 の そ ば 屋、 大 川 屋 で は、 貧
しい女工さんのために安くて栄養
の あ る「 絹 お ろ し そ ば 」 を つ く っ
たのですが、寅次もそれにかかわっ
て い ま し た。 ま た 寅 次 は 赤 城 山 の
船津伝次平がつくった野菜や関口
長左衛門の大島梨を女工さんへ安
く 売 っ て い ま し た。 前 橋 で 最 初 の
魚屋の大島喜六の手伝いも寅次は
し ま す。 前 橋 の 本 屋、 煥 乎 堂 に は
寅次の友達のスイス人ハンスから
新しい知識を学ぼうと、人が集まっ
てきました。
前
六
to learn new knowledge from Toraji's
八
s repeatedly occurred,
o action together to save
homes and families, but
人 が コ レ ラ で 亡 く な り ま し た。 こ う し
はぎわらみつぞう
たなかに新しく医者として前橋にきた
萩原密蔵(朔太郎の父)は、病院を開き
コ レ ラ 患 者 を 救 っ て い く の で す。 火 事、
疫病、噴火、地震が繰り返し起こったこ
の時代は家や家族を失った多くの貧しい
人達がたくさん生まれましたが、善太郎
と寅次は一緒になって、社会的に弱い人
anages.
孤児院などをつくっていくのです。
達を助ける活動をはじめ、病院、養老院、
nd established hospitals,
However, their salaries were low and many of them were poor.
の大混乱の時代
So Okawaya, a soba restaurant at Tatemachi, made "Kinu-oroshi
には噴火、 地震
5
Soba", which was cheap and nutritious, for the poor factory girls,
の他に大火事が
he number of factory girls in Maebashi was increasing.
T
こ
良くおき、皆は困ってい
ました。しかし弁財天か
ら夢のお告げをうけた寅
次は、火事が広がるのを
防ぐため、主人の善太郎
に土蔵を町内につくるこ
とをすすめ、防火用の土
蔵があちこちにつくられ
ていきます。その一方で
大火事で焼け出された多
くの貧しい人達へ、無料
で食料・飲料を善太郎は
配っていく。火事の後に
疫病も大流行し、コレラ、
チフスによって毎年、数
千人の人が死んでいった
大変な時代でした。
し養母のおよしは亡くなって
一 八 八 三 年 )、 コ レ ラ が 大 流 行
次 が 三 八 歳 の 時( 明 治 一 六 年、
7
しまいます。前橋市内では一八三三人の
寅
七
n which fires, epidemics,
8
明
his was the
T
Toraji heard an
last time that
oracle from the
Benzaiten. The
next year, Toraji
治 一 八 年、 一 八 八 五 年 に、 弁 財 天 か ら の
最後のお告げを寅次は聞きます。
や が て 混 乱 と 改 革 の 時 代 が 終 わ り、 新 し
い民の時代が始まる。そのために弁財天の乗る木
馬を作って、町の中を回って歩くことで、多くの
幸せを人々に与えることができる。その前にもう
一度、火と病が起きるが、新しい時代が木馬に乗っ
てやってくる。木馬まつりをはじめるのだ。
弁財天は寅次に、木馬を作れと告げます。寅次
は木馬を作り、お告げにそって弁財天をのせた木
馬を引いてまわる木馬まつりをはじめます。前橋
の町の人もその木馬まつりに参加し、古い時代が
終わり新しい時代が来ることを祝ったそうです。
and passed away
九
こ
caught cholera
6
十
れが、寅次が弁財天のお告げを聞いた最
後になりました。次の年、寅次はコレラ
にかかって四一歳で亡くなってしまいま
す。その後お告げの通り、大火事が起きて七五一
戸の家が焼失。でも土蔵を作っておいた善太郎の
屋敷や周辺の多くの人たちは、火事を免れました。
次の年に寅次の墓参りにきたハンスは、前橋の木
馬まつりの様子をノートに書き残しています。
「木
馬だ、木馬だ、だ、だ」というかけ声が元気に町
中にひびいていた絵が描かれています。
弁 財 天 は 二 つ の お 告 げ を 残 し て い ま し た。 ひ
とつは次の年に新しい時代の息吹を言葉にする者
が前橋に生まれること。もうひとつは「ひふみと
さらにふを足した年に木馬はよみがえる」という
お 告 げ で す。 は じ め の お 告 げ は、 萩 原 朔 太 郎 が
生まれることで実現されました。そして次のお告
げは二〇一一年に木馬が前橋に作られることで実
現するのです。もうひとつのお告げがありますが、
」となって実現さ
それはチューリッヒで「 DADA
れ て い ま す。 こ う し て 寅 次 に ま つ わ る 木 馬 の 由
来の物語は、新しい時代を求め、つくり出して行
こうとするみんなの心の中にうけつがれ、そこで
うまや
くるま
駅家の木馬、車の木馬となっては前橋の町によみ
がえるのです。
10
9
群馬の有名人といえば、国定忠治と萩原朔太郎でしょうか。
明治から現代の時間の中で、講談や大衆演劇、小説や任侠映画としてさまざまに脚色さ
れてきた忠治の物語は、伝説が伝説を生み、どこまでが史実でどこからがフィクション
なのか、もはや混沌としている状況です。歴史学者たちの間でも見解がことなるようです。
この物語は、その忠治の子供、寅次が主人公です。
国定忠治が処刑され、萩原朔太郎が生まれるまでの約三〇年の間、忠治と朔太郎をつな
ぐかのように、激動の歴史の中を、群馬・前橋の実在の多くの有名人の間を縫いながら、
寅次は駆け抜けていきます。
忠治の物語が混沌としている上に、その子供の物語ともなれば、さらに曖昧模糊として、
いったいそんな子供がいたのか、いなかったのか、本当のところはよく分かりません。
ただ、この物語に登場するほとんどの人物や物事は実在のモノであり、どれもが、その
後の群馬、とりわけ前橋の街の豊かさや発展を支えた大事な人・物ばかりです。そして
それらのいくつかは、現在の前橋の街のあちらこちらにその痕跡を留め続けています。
木馬まつりは、そんな過去の豊かさを支えた人・物と現代とをつなぎ、かつての前橋の
豊かさを復活させるシンボルなのです。過去に木馬まつりが本当にあったかどうかはわ
かりませんが、でもかつてあったかもしれない、そして我々が忘れてきてしまってきた
なにものかを復活させる試みなのです。
それでは、その木馬まつりの由来をご覧にいれましょう・・・・
7
木馬ノ巻
まんどりんノ巻
対話ノ巻
啓示ノ巻
生糸ノ巻
鎖鎌ノ巻
饅頭ノ巻
26
24
21
18
15
14
10
8
《忘れられたもうひとつの前橋》
由来
予言ノ巻
28
9
だだノ巻
30
序
結
32
序
前橋市にある弁天通り商店街の中に江戸時代から続いてい
る浄土宗のお寺、大蓮寺がある。
ここで木馬祭りが始まったのは、明治一八(一八八五)年
のことである。
しかし戦前までにはすっかりこの祭りは忘れられてしまっ
た。
9
大蓮寺山門
日光の圓蔵
国定忠治の子分。栃木県
日光街道の板橋宿に生ま
れ、出家するも、寺を出
て任侠の世界に入る。知
略にすぐれ、忠治の軍師
役として活躍する。この
物語の中では生き延び
シーボルトにであうこと
になっているが、忠治と
ともに捉えられ獄死した
という説もある。
10
は、幕末から明治にかけての混乱と大変革の時
八六〇年から一八八〇年までの二〇年近くの間
饅頭ノ巻
一
期であった。さらにこの時期は火山噴火、火事、
凶作、幕府の崩壊、西南戦争なども続けて起こり、世の中
が根底からいたるところで破壊されつくされた大改革の時
代であった。民衆の不安、治安、生活はこのカオス的状況
の中で先行きの全く見えない闇の中を突き進んでいた。
この混乱の時代の中を生きた人物に長岡寅次がいる。彼
は国定忠治の遺児であった国定龍次の弟にあたる。兄の方
が父親の国定を引き継いだが、弟の寅次は父方の長岡の姓
を受け継いでいる。二人は双子として生まれたが、忠治に
まにわねんりゅう
は知らされず圓蔵が、二人の世話をしたのであった。兄の
国定龍次は馬庭念流を身につけやがて天狗党の戦いに参加
して行く。弟の寅次は大前田栄五郎にひきとられ大胡の饅
頭屋で育てられていく。嘉永三年、一八五〇に忠治は罪人
が、栄五郎を名古屋から追いかけてきて妾にな
の饅頭屋は名古屋の老舗の饅頭屋の娘、およし
として処刑された。寅次が五歳の時であった。
こ
り、栄五郎がお金を出して大胡に饅頭屋を開か
せていたのだった。当時の大胡は日光、伊勢崎、新潟、長
野への道が交差している宿場町として非常なにぎわいをみ
せていた。
この一帯から関東周縁の広い地域までが大親分、
大前田栄五郎の縄張りであった。 忠治の軍師と言われた
圓蔵は、二人の子供に任侠ではない生き方をするように指
導していたが、兄は父親の姿を追いかけて社会的反抗者の
道にすすみ元治元年、一八六四年に天狗党の反乱に加わっ
たあと幕府に反逆者として追われ加賀、京都、江戸と逃げ
てまわり明治元年、一八六八年三月三日におりんをつれて
上州大前田村にもどったと伝えられているが、その後の消
息は消えてしまっている。天狗党の反乱の下仁田戦争のあ
とは弟にも連絡をとらなくなっていた。 すでに忠治一家
をはなれて日光に戻っていた圓蔵は、その後長崎でシーボ
ルトについて医学をまなび故郷にもどって歯医者を開業
し、明治九年、一八七六年、七四歳で亡くなっている。日
光の如来寺回向庵に埋葬された。激動の時代の中を寅次は
の元で育てられ、自然に饅頭の作り方も覚えて
次は大胡の「オリメ饅頭」をやっているおよし
圓蔵の言葉を守り堅気として庶民のなかをしたたかに生き
て行く。
寅
いく。一〇歳のときには養母の手伝いが出来る
ようになっていた。また近くの寺子屋で読み書きを習いに
いく。圓蔵が栄五郎に手習いを習得させることを頼んでい
た。これからの世の中を生き抜いて行くには、刀ではなく
知識が必要だと考えていたからだ。同じ年一八五五年、安
政二年には饅頭屋のすぐちかくで竹内啓介が酒蔵七つ星を
開き、寅次は酒の仕込みの冬の時期に働くようになる。い
ずれ寅次は栄五郎が賭博場で面倒をみた三好屋の下村善太
郎(初代前橋市長)のひきで前橋に移るのである。大蓮寺
の斜め前に善太郎の持ち家があり、そこに寅次は住むこと
天狗党の反乱
元治元年(一八六四年)
に筑波山で挙兵した水戸
藩内外の尊皇攘夷派(天
狗党)によって起こされ
た一連の争乱。元治甲子
の変ともいう。
11
12
になる。明治七年、一八七四年に栄五郎が亡くなったあと
養母のおよしを呼んで一緒に暮らし、すぐ近くの弁天湯に
親子そろって夕方に風呂にでかける二人がよく見られたと
いう。栄五郎の大胡での葬儀は盛大におこなわれ、関東近
辺の任侠の大親分たちはすべて列席した。清水の次郎長も
きていた。しかし寅次(二九歳)は堅気であったので葬儀
には参加せず、栄五郎の遺言に従って葬儀のあと内々に養
母と二人でお別れをしている。
当時の前橋市街(前橋繁盛記より)
大
胡の「オリメ饅頭」は上州でも有名な菓子とし
て知れ渡るようになるにつれ、この影響で吉田
栄光が三俣にセンベイ屋をひらき、その二年後
には原嶋類蔵が焼き饅頭を向町にひらくことになる。前橋
の寅次の所に引っ越してきたおよしは、オリメ饅頭の作り
方を善太郎の紹介で知り合った宮内文作に教えることにな
る。文作は明治八年、一八七六年に独自の工夫を加えた片
原饅頭をつくり店を開く。そこでおよしは片原饅頭屋を手
伝うことになる。片原饅頭が評判になってきた頃、明治九
年、一八七七年に毎日饅頭を良く買いにきていた小屋保治
(後に大塚姓になる)に寅次は声をかけたことがある。頭
の賢そうなその子がやがて東京にでて帝国大学で岡倉天心
に師事し、また夏目金之助(夏目漱石)と出会い生涯の親
友となるのであった。
13
片原饅頭(前橋繁盛記より)
機外和尚
関根(津久井)いそ
江戸時代末の大胡町の出
身の僧侶。前橋三河町の
隆興寺の住職。寺子屋を
開き、多くの者が教えを
受けた。
14
(話はすこしさかのぼる。)
の紹介で前橋三河町にいる機外和尚に会ってい
政二年、一八五五年には寅次(一〇歳)は圓蔵
鎖鎌ノ巻
安
はくゆどう
る。機外和尚の助言と推薦で寅次は、すでに身
分 に 関 係 な く 受 け 入 れ る 体 制 に な っ て い た 藩 校、 博 喩 堂
で、四書五経、日本外史などを勉強をするために、週に三
回大胡から前橋へ通うことになった。そこでは弟子が車座
になって討議する「会読」が行われており、欧米文化、国
内政治、経済などの議論がおこなわれていた。学費は親代
わりの栄五郎が支払っている。そのときたまたまお寺に来
ていた関根いそと話をしている。前橋に引っ越しをしてか
らたびたびいそには世話になっていたようだ。鎖がま免許
皆伝の関根いそは明治三年、一八七〇年に医師の津久井文
護に嫁ぎ津久井いそとなり、名産婆として知られ医師の萩
原密蔵とつながりを持つことになる。朔太郎の時の産婆は
三年間前橋を離れていた下村善太郎は、横浜で
いそである。
の生糸投機で大もうけをして八王子から家族
共々、前橋に文久三年、一八六三年にもどって
恩 に 報 い る た め 寅 次 を 三 好 屋 に 呼 び 寄 せ る こ と を 伝 え た。
既に十八歳になっていた寅次は、名前を長岡寅次と名乗る
ことになる。 善太郎の勝機の元は、かつての圓蔵、忠治、
栄五郎の任侠関係者の人脈を情報伝達の早馬のかわりに
使ったことである。横浜の生糸相場の情報をその日のうち
に八王子、前橋に伝える飛脚は栄五郎の人脈が、あっての
ことである。
初代前橋市長。生糸商と
して大成功をおさめ、私
財を投じて県庁誘致をは
じめとする前橋の町の発
展に貢献した。
下村善太郎
群馬郡清里村上青梨子に
生まれる。鎖鎌の免許を
持ち、産婆として名声を
得る。明治二一年、群馬
県産婆会を創立、初代会
長となる。弟子の高橋瑞
子はのちに日本で三人目
の女医となる。
きて三好屋を引き継いでいく。この時、善太郎は栄五郎の
一
鎖鎌
度が根本からひっくり返り「世直し」
「打ち壊し」
革、 混 乱 の 時 期 で 政 治、 宗 教、 経 済 の 体 制、 制
の時代は幕府が倒れ明治政府に変わって行く変
生糸ノ巻
こ
がいたるところで起こっていた。財政的な危機状態におち
はやみけんそう
ふかざわゆうぞう
いっていた藩は、生糸産業を興すことにすべての望みをか
が い た。 彼 ら は 前 橋 の 生 糸 を 機 械 化 す る た め に ス イ ス 人
けて動いて行く。その中心に速水堅曹と大目付の深沢雄象
シーベル(在日スイス総領事にして会社の責任者でもあっ
た)の助けによって水車を使った動力を使うことで成功す
る。国際的に生糸市場を押さえていたシーベル=ブレヴァ
ルト社との関係を使い横浜で生糸を売ること、進んで近代
的産業化へのシステムを群馬に導入した人物である。慶応
三年、一八六七年に前橋城が再建されたあと速水は前橋に
住むことになる。その後、速水は政府にはいり明治政府の
生糸産業興振と富岡製糸工場設立におおいに寄与していき、
明治九年、一八七七年のフイラデルフィア万国博覧会に生
糸、織物展示、販売のため代表の一人としてアメリカに派
遣され、帰国後翌年の明治一〇年、一八七八年の内国勧業
博覧会の生糸分野の担当者になっている。 当時前橋で集
荷された生糸は座繰糸を九貫目にまとめた提げ糸のかたち
で 荷 造 り さ れ て お り、 こ れ が ロ ン ド ン の イ ギ リ ス 商 人 に
よ っ て 提 げ 糸 を 総 称 し て「 マ エ バ シ maebashi
」と呼ば
れることになったのである。
速水堅曹
前橋藩による日本最初の
機械製糸工場の創立の中
心人物。横浜に潘営の製
糸販売店を進出させた
り、生糸の町・前橋の基
礎を築いた。後に富岡製
糸場長、横浜の生糸輸出
会社同伸社の社長、蚕糸
業諮問会委員長代理な
ど、近代日本の製糸業に
多大の貢献をはたした。
深沢雄象
速水堅曹とともに前橋藩
営の機械製糸工場を設
立。速水と同様に前橋の
生糸産業の指導的役割を
はたしたが、一方、ロシ
ア正教の洗礼を受け、布
教にもつとめた。自由民
権運動にも関心をもって
いたといわれる。
15
下村善太郎像
揚げ糸
水、深沢と下村の生糸取引、産業化の活動の間
のやりとりを実質的に受け持っていたのが、長
岡寅次であった。速水は寅次の向学心を見抜い
シーベル
チューリヒ出身の技術
者。明治期に来日し、日
本の草創期の近代製糸産
業に立ち会い、たくさん
の記録を残している。ま
た竹製品等の日本の伝統
的な工芸品や植物の収集
を精力的に行い、のちに
その収集品のリストと解
説文がスイスで出版され
ている。その本は好評で、
ベルリン国立図書館にも
おさめられている。
ハンス・シュペリ
明治初期、横浜の外国人
居留地におけるスイス総
領事。速水堅曹らの相談
を受け、前橋藩営の機械
製糸工場創立に協力。自
らも日本とヨーロッパを
結ぶ絹貿易の会社を手が
けていた実業家でもあっ
た。
16
速
て横浜から来ていたアメリカ人宣教師、ロバート・リチャー
ドソンを紹介し、個人的に寅次が英語を学ぶことを善太郎
に納得させる。やがて寅次は生糸取引にかかせない貴重な
地元の通訳として働いて行くことになる。 彼はシーベル
のあと前橋に生糸の取引と品質管理指導のため明治一六年、
一八八三年に派遣されたスイス人のハンス・シュペリと仕
事上の関係だけでなく私的な友人にもなっていた。シュペ
リはバーゼル大学で学びさらにチューリッヒ大学を出たス
イ ス 人 で あ り ド イ ツ 語、 英 語、 フ ラ ン ス 語、 イ タ リ ア 語
を話し、ラテン語を読むことも出来た。スポーツ、芸術に
も関心の高い青年であった。寅次(三八歳)とは英語で会
話をしていたようだし、さらなる英語の勉強と西欧文化の
知識、情報を彼から広く学んでいたようだ。シュペリは二
度日本にきており、一度目は一八八三年から一八八四年、
二四歳で、二度目が一八九〇年から一八九五年、三一歳で
ある。日本の生活、文化、自然に深い興味を持っていて登
山愛好家でもあったシュペリに頼まれ赤城、榛名、妙義の
山の案内役も務めた。地元職人に特別に注文、指示して作
らせた竹製リリエンフェルトタイプのスキーで赤城山で最
初にスキーをしたのはシュペリであると、寅次の日記に書
かれている。これが日本で最初のスキーの記録である。ま
た榛名神社のご神体の大岩の図を手帳にスケッチし、妙義
ではハーケンを使って岩登りを試みている。シュペリは2
度目の来日のとき、明治二二年、一八九〇年のときには特
製の竹のピッケルを使って富士山をはじめてのぼっている。
ピッケル、ハーケン、スキー用具は前橋で、かつて寅次が
ふじえだてるよし
の作になるものである。日本ではじめてのスキーと登山用
紹介した地元竹職人と立川町に住んでいた刀工、藤枝英義
道 具 を シ ュ ペ リ の 指 導 で 前 橋 の 職 人 が 製 作 し た の だ っ た。
これらの製品もチューリッヒ大学の民俗学博物館のシュペ
川 町 に あ る そ ば 屋 の 大 川 屋 に も よ く 顔 を だ し、
次は前橋の女工たちの面倒をよくみていた。立
リ、コレクションに現在も残されている。
寅
大川藤造と話をし貧しい女工のために季節の野
菜天ぷらをつけた、安くて栄養のある大根おろしとあわせ
た名物「絹おろしそば」も二人の話しから生まれたと言わ
れている。貧しい女工たちが毎日食べる野菜を寅次は、赤
城山の改革的農法の指導者であった船津伝次平からまとめ
て買い取ってこさせ、女工たちにやすく販売していた。夏
の時期には伝次平の畑でとれるいちごをもらってくること
もあったようだ。いちごは女工たちに非常に人気が高かっ
たと言われている。関口長左衛門がはじめた大島梨も人気
があった。また善太郎の親友であった大島喜六は、広瀬川
たつまち
で猪牙舟をつかって伊勢崎まで商売の範囲を大きくひろげ
魚屋で成功した商売人であり、やがて竪町通りに前橋で初
めての魚市場をひらくと同時に、善太郎の活動を財政、戦
略面で支えていくことになる。善太郎の店で働いていた寅
次は喜六の手伝いもしていくことになる。雑穀、野菜、魚、
酒、味噌、醤油、漬け物が自由に手に入る前橋のまちは居
酒屋、一杯飯屋、芸者を抱えるお茶屋が繁盛していく。こ
のころ鯉の養殖業も喜六ははじめていく。喜六の手伝いも
していた寅次は、魚の仕入れでたびたび伊勢崎、高崎にも
いくようになり高崎では、材木屋から魚屋になったばかり
の井上保三郎(房一郎の父)と親しくなっている。
大島喜六
前 橋 市 竪 町 に 生 ま れ、
二〇歳で魚問屋を開業。
街づくりに大きな貢献を
しつつ、また日本画や短
歌、茶道に通じていたと
いわれている。下村善太
郎のふところ刀といわ
れ、下村の活動をうしろ
から支えていた。
井上保三郎
建設会社井上保三郎商店
(井上組)を創業。高崎
観音建立に尽力。長男の
井上房一郎は、ブルーノ・
タウトの高崎招聘、群馬
交響楽団設立など、群馬
の文化に多大の貢献をな
した。
17
古市剛
前橋藩儒学者。
『前橋風
土記』を編纂。江戸時代
中期の地誌として貴重な
資料。春光堂南軒と号し
た。
18
でいる。これは当時の儒学者、古 市剛の「ト筮
水はその日記の中に陰陽変動図を毎日書き込ん
啓示ノ巻
速
指南大全」を熟読していたからである。幕末の
時代には天理教、黒住教、如来教などの神懸ったシャーマ
ニズム的な宗教者が現れてきていた。明治になるとすぐに
廃仏毀釈がおこり混乱が日本中ではじまる。修験道関係者
の反乱の運動も日本各地でおこっていく。江戸時代の家庭、
身分、職業制度の崩壊が、新しい精神価値、生き方への欲
求となってでてくる。経済的な崩壊だけでなく、精神的な
崩壊も「世直し」
「打ち壊し」のなかに存在している。ま
た上州でのキリスト教の受容の素地もこうして出来上がっ
ていたのだ。 明治一一年、
一八七八年ころに寅次(三二歳)
かんこどう
は、前橋に鳥を買いにいくという名目で本を読みにきてい
た住谷天来(当時一〇歳)と煥乎堂書店(当時は前橋支店)
でなんどか出会うなかで知り合い言葉を交わし、キリスト
教のことも話し合っていた様子を寅次の読書仲間で支店の
店主、高橋常蔵が店の奥からみていたという。 没落した
多くの士族の家の娘たちが女工として働くようになってい
たが、外国人指導者と一緒に宣教師も来たため、生糸作業
場が当初はキリスト教布教の場所となっていた。明治一一
年、一八七八年には前橋では一番古い正教会がうまれてい
る。また明治七年、一八七四年に新島襄の帰国により安中
陰陽陰陽変動図
(速水の日記から/前橋市史より)
に日本キリスト教団が誕生、前橋の大手町に明治一二年、
一八七九年に和田正機により前橋教会ができ積極的に社会
活動を展開し孤児院、養老院そして教育活動で前橋英和女
学校(現在の共愛学園)が設立され教育事業にも関わって
橋ハリストス正教会として旧前橋藩士の深沢雄象(速水の
いく。 また明治十七年、一八八四年には先の正教会が前
上司で一緒に生糸産業に関わり後に自由民権思想をもとに
した上毛繭糸改良会社を起こす)の献身的努力によって建
てられた。寅次はハリストス正教会の落成式に招待され、
すでに洗礼を受けていた深沢氏からロシアのペテルスブル
グで絵画を学んだ日本初の女性画家、山下りんの描いたイ
習っており、神懸かることはなかったが、それ
次は幼いときに圓蔵から天台修験道のやり方を
コンを示されたと日記に書いてあった。
寅
で も 啓 示 を 受 け る こ と は 幼 い と き か ら あ っ た。
前橋では大蓮寺の近くに彼は住むようになる。その理由は
大胡の養林寺が浄土宗であり、鎌倉時代に京都で法然上人
に大胡太郎が教えをこうて以来の深い関係が生まれていた
からである。圓蔵は幼いときに寅次郎に阿弥陀如来を信ず
ることを教えてきていたので、彼が前橋にいくとき藩主酒
井重忠が帰依していた大蓮寺をすすめており、また偶然に
も善太郎の家が斜め前にあったので大蓮寺のそばに住むこ
とになる。大蓮寺には酒井氏が勧請した弁財天も祭られて
高橋常蔵
前橋の煥乎堂書店の創業
者。
住谷天来
高崎市東国分町に生まれ
る。英語や漢学を学び、
前橋教会で洗礼を受け
る。後に東京に出、慶応
義塾を卒業、雑誌『警世』
の記者となる。前橋に戻
り、共愛学園の設立に関
わり、多くのキリスト教
関係の訳本を出版。
19
前橋ハリストス正教会(右)
山下りんの描いたイコン(左)
20
いた。弁財天は宇宙を支配する梵天の妃であり、二人は燃
え上がる天馬の馬車にのって世界の運行をつかさどってい
る。修験道のなかでも信仰されている神でもあった。寅次
はキリスト教に理解を示し、研究もしたが仏教、神道を捨
てることはなかった。彼は天理教にも理解を示しており、
庶民がこの混沌とした混乱の時代を生き延びて行く手だて
が、なにかなくてはならないと考えていたのだった。「世
直し」
「 打 ち 壊 し 」 と い う も の が、 明 日 へ の 食 事・ 仕 事・
住居もままならなくなって追いつめられていた多くの庶
民・没落士族・没落藩士の苦しみのあらわれであったこと
じてかれにもたらされて、それによって数々の
橋での生活の折々に弁財天からの啓示が夢を通
を寅次も感じて毎日を生きていた。
前
ひらたあつたね
困難な問題を寅次は通り抜けてきていた。貫前
易学者の古市剛のひ孫、古市沺、別名三代目春光堂南軒と
神社の宮司で平田篤胤の弟子であった井上正香や儒学者で
貫前神社
も懇意であった。三代目とはかなり親しい仲で突っ込んだ
話をしていた記録が、寅次の日記に残っている。
大蓮寺の弁財天
(wikipedia より、撮影 ChiefHira)
車持氏という豪族だったらしいが、帝から名前
る時こう質問している。「群馬のもとはくるま、
対話ノ巻
あ
をいただいている。帝よりも古くから車持氏は
日本にいたのだろうか」
、これに対して春光堂は「車持氏
は帝へ毎年ささげる馬を榛名山麓で放牧してそだてていた
豪族らしい。私が思うにかれらは百済、高麗から逃げてき
た貴族達ではないかと。彼らが馬を日本に持ち込んだのか
もしれない、この地域には多胡、大胡と言うように胡人が
昔は住んでいたという説もある。いずれにしても長い時代
の中で血は混ざり合ってしまっているはずだがな」、寅次
は「そうなると西郷さんたちの朝鮮解放というのは、職を
失った多くの士族の人たちは良いかもしれないが、先祖に
同じ血がながれているかもしれない朝鮮に打って出るとい
うのはよくわからなくなります。それに帝にもおなじ血が
流れているのではないですか」、春光堂「帝の時代になり、
新しく明治となったのだから滅多なことは言わない方がい
い。そうでないと羅蘇(現在の警察官)に引っ立てられて
首をはねられるぞ。なんでもフランスから運んできたあた
らしい処刑の道具が刑部省に設置され、すでに罪人数人の
首が落とされていると聞いている。大きな刃物がいきなり
上から落ちてきて、苦しみは感じないそうだが」そのとき
寅次は首筋にいやなものを感じたと書いている。
胡人
胡人とは渡来人のこと。
高崎市吉井町に国の特別
史跡に指定されている多
胡碑という古碑があり、
奈良時代にこの地に多胡
郡を設置したことが記さ
れている。最近の考古学
の知見によると古代の群
馬では縄文時代に豊か
だった遺跡が、弥生時代
には寒冷化の影響か急速
に減少するものの、古墳
時代に入ると今度は爆発
的に古墳が作られるよう
になったことが分かって
おり、そこに渡来人の影
響を指摘する説もある。
21
一九世紀のイギリスの詩
人・思想家・デザイナー
であり、多方面で大きな
業績を持つ存在。芸術と
工芸の統合によって、理
想的な社会が実現すると
考え、
『ユートピアだよ
り』を始めとして様々な
著作を残した。またデザ
インの分野でも大きな業
績をあげ、
「モダンデザ
インの父」と呼ばれる。
ウィリアム・モリス
22
また「県庁が高崎から前橋に決まったことで、どうもお互
いの関係がおかしくなってきてますね」、春光堂「そうさな、
世も根元から変わったのだからこれからは、速水さんのよ
うに世界を広く見て上州を発展させなくてはならないはず
さ。いつかは乗り越えなくてはならない事柄だ…そう言え
ば、お前の友達の保三郎は商売熱心だが、富岡鉄斎の絵を
買ったという噂もきくぞ。なかなかの士ではあるらしい」、
「そうです。保三郎は志のたかい友で、材木屋から魚屋に
なり、そして井上組をつくり大きくのびていますから、い
つかは本人の言うように高崎に観音像をたてるだろうと思
います。信心深いことでも他の商人とは違います。スイス
の友、ハンスに彼のために本を頼んであります。保三郎が
読めなくとも息子の代になれば読めるでしょう」、春光堂
「おお、あの山登りのハンスか。いろいろと西洋のことを
私も彼から教えてもらったな。ウイリアム・モリスという
イギリス人の美しく豊かな生活を求める世直し運動のこと
か。夢のような話だがな」
、
「きれいな絵がついている本を
今度ハンスが持ってくるのを楽しみにしてるところです」
寅次
ぬきさきじ ん じ ゃ
また「貫前神社の井上師が言霊の神懸かりの行については
なされたことがある。ところでキリスト教団のなかでも同
じような行があると聞いたことがあります。」、春光堂「そ
うそう。私も聞いたことがある。なんでもバンドという集
まりでそれが起きるらしい。バンドで集まってキリストを
讃えていると霊が降りてきて、異言という霊の言葉を大声
で語り始めるそうだ。熊本バンド、神戸バンド、函館バン
ドでもおなじことがおこり、さんざん涙を流した後で改心
して洗礼をうける士族もいるらしい。安中と前橋でも同様
か じ き と う
のことが起こってもおかしくないぞ。」、「私も養父の圓蔵
とが仏教でもおこると聞いてます。また天理教の神懸かり
師が修験道をやっていたので、加持祈祷でもときに同じこ
も同じことのように思えます。つまりキリスト教でも神懸
かりがおこるわけですね。人と霊の関係は西洋も日本も同
じというわけでしょうか」
、春光堂「おそらくおなじこと
が起こってるとしか言えないだろうな。まさに天は等しく
人と世界に光を投げかけておるんだよ」
安中とキリスト教
安中藩士であった新島襄
は密航してアメリカに渡
り、キリスト教や教育に
ついて欧米から多くを学
び、帰国後、安中でキリ
スト教の講演をする。洗
礼を受ける人が相次ぎ、
明治一一年安中教会が作
られる。そしてそれらク
リスチャンたちのつなが
りや活動の中から、前橋
に群馬県最古の女学校で
ある共愛女学校が設立さ
れるに至る。
23
三代目春光堂
24
も前橋を襲っている。明治一五(一八八二)年、
治初期の混乱の時期には、疫病と大火がなんど
まんどりんノ巻
明
には萩原密蔵(朔太郎の父)が前橋にきて一家
をかまえることになるが、その年群馬ではコレラが大流行
し一、八三三人が死亡している。前橋では歴史的変革のな
かで家、職、家族を失った多くの孤児、貧困層の人たちの
ために病院、収容施設が建設されて行く。こうした中で病
人を治療した密蔵の医師としての腕は高く評価され、多く
の人が萩原医院に押しかけることになる。その一方で明治
一六(一八八三)年、には前橋でこれまでにない大火がお
こり町の中心地区の大半を焼失してしまい、庶民の生活が
困窮化し住民の間に負債返還拒否の集団威嚇運動がおき
る。こうした中で三好屋の下村善太郎は被害者に見舞いの
お金、食料をすすんで配ることをしていく。寅次もこの活
動を手伝っていく。この大火のあと寅次郎は弁財天のおつ
げで、善太郎の住んでいる地区に土蔵作りの倉を防火壁と
し て 建 て る こ と を 提 案 し 採 用 さ れ る。 ま た こ の 年 に 寅 次
前の約束にしたがっておよしの遺骨は、大胡の大前田栄五
(三八歳)は、養母およしをコレラで亡くしてしまう。生
多くの遊び場、飲み屋が前橋の 紺屋町周辺に集
こうやまち
の こ ろ は 芸 者 の こ と を「 猫 的 」 と 呼 ん で お り、
郎の墓のなかに埋葬された。
こ
まっていた。上州で酒作りが盛んになるのは幕
萩原朔太郎
敷島公園内へ移築さ
れた朔太郎の生家
末からである。江州商人とのつながりが上州にも出来てき
て藤岡、大間々、太田、榛名、前橋にも蔵元が沢山できた。
寅次は栄五郎からの人脈もあったが、善太郎や速水堅曹と
の関係もあり、横浜に出て行く生糸業者とのつながりも深
く、拡大化していく上州商人の後押しを助けていくのであ
る。またこの混乱の時期、寅次は金儲けよりも世の中の弱
者に救いの手を差し伸べていく活動にかかわっていく。や
がて前橋は多くの貧困者のために、寅次と善太郎と有志、
僧侶が中心になって「積善会」になっていく母体団体をつ
くり病院をたてていく。大きな時代の変化の中で取り残さ
れていく社会的弱者のためにお互いが助け合って行こうと
うことになる。バーゼル大学でブルクハルトと
ュペリとの交流の中で、寅次はマンドリンを習
する心が、この時代には生きていたのだ。
シ
若きニーチェの講義を聞いていたシュペリはル
ネッサンスとギリシャ文化に詳しく、寅次にマンドリンを
弾きながらダンテの「神曲」を聞かせたこともあったよう
・J・ルソー
だ。また英語の勉強にはシェークスピアの戯曲やモリスの
小説の一部や、おなじスイス人で思想家の
曲」の本は、
弁財天のおつげで寅次は密蔵に手渡している。
原密蔵も呼ばれていた。その後、マンドリンとダンテの「神
会には医師の井上隆伯(井上武士の父)、津久井いそ、萩
歌を作り、それを教え広めようという声が出てくる。祝賀
以来、尋常小学校の師範の中から子供たちのために自作の
ンドリン演奏と自作の歌をうたって喝采をあびる。この時
井小学校の北)の祝賀会で寅次(三三歳)は、はじめてマ
一一(一八七八)年、に群馬師範学校の新校舎(現在の桃
の英語訳の本を読まされた、と日記に書かれている。明治
J
萩原密蔵
医師。大阪府出身。群馬
県立病院に勤務し、副医
院長となり、後に前橋に
開業。長男は萩原朔太郎、
長女は医師津久井惣次郎
と結婚し、萩原医院を継
ぐ。
25
26
者があつまり天皇をおむかえする迎賓館として、
治一八(一八八五)年、九月には前橋の生糸業
木馬ノ巻
明
臨江閣を建て落成式がおこなわれた。この祝い
の帰り道に寅次は、天空をはげしく燃えながら翔ていく馬
車を幻視し弁財天のおつげを聞く。 混乱と改革の時代は
すぎた、これからはあたらしい民の時代がはじまる、その
ためにもう一度、天の炎輪がまわり疫病と大火が前橋で起
こるがそれが最後になるだろう、そのあと前橋の町と人は
生まれ変わる、再生する、その時代の到来のために天馬を
弁財天に捧げること、その天馬に弁財天が乗って町をまわ
り福徳をみんなにくばることになる、馬は木で作ること、
その木馬、天馬の名前はこのたび県の名前になったいにし
えからの言葉「車/くるま/群馬」、羽根ではなく車がつ
いて地の上を移動出来る木馬であること。馬を止めた厩橋、
つまり前橋でこの木馬がつくられなければならない。それ
は大蓮寺の弁財天が乗るものでなければならない。やがて
この木馬は世界に知られ、前橋も世界に知られる町になる。
この木馬は寅次が一人で作るもので、弁天通りに住んでい
ない大人は手伝ってはならないが、遊びにきている子供た
ちが手伝えば将来にご利益がある。弁財天の喜ぶ音楽、踊
り、衣装は大歓迎である。木馬の右に薔薇、左に百合の花
を飾ってほしい。いずれも再生と命の象徴だからだ。木馬
を引くときのかけ声は「木馬だ、木馬だ、だ、だ」とする
臨江閣
のが良い。
こ れ を 聞 い た 寅 次 は さ っ そ く 木 馬 作 り に 取 り か か っ た。
三ヶ月かけて木馬をつくり、完成したときに大蓮寺の前に
飾って皆に見せたそうだ。善太郎をはじめ多くの知り合い
や女工、商人、立川町の職人、芸者そのほか多くの市民が
毎日見に来たのである。
「木馬だ、木馬だ、だ、だ」というかけ声をかけながら木
最初の木馬まつりのあと、翌年からは各町内でもさまざま
馬は町中を引かれていったそうだ。
な大きさ、色の木馬がいくつもつくられ大通りを「木馬だ、
木馬だ、だ、だ」というかけ声が町中で響き合い、大勢の
観客もでて本町から広瀬川までにかけての地域全体で盛大
な市民のお祭りが行われたと記録に残っている。
このお告げをもとに明治一八(一八八五)年、に「群馬、
くるまの木馬」が作られ市内を練り歩いたと言われている。
このお祭りがやがて前橋まつりと呼ばれる祭りの始まりで
あった。寅次が四〇歳の時である。
27
28
している。ひとつは、次の年にあたらしい時代
の時、弁財天は寅次に最後の二つのお告げを残
予言ノ巻
こ
の息吹を言葉にする者が前橋から生まれるだろ
うというお告げ。もうひとつは、これで寅次のこの世での
仕事は終わるが「ひふみとさらにふを足した年に木馬はよ
みがえる」と。寅次はそのことは誰にも言わず、彼の日記
に書き残しているだけであった。
明治一九(一八八六)年、にコレラが流行し寅次は萩原密
蔵の看護を受けながら九月二二日に四一歳で亡くなる。翌
年二〇(一八八七)年、に前橋は大火がおき七五一戸の家
が焼失。お告げ通りに土蔵をつくっていたため善太郎の家
屋敷とその周辺は火事を免れることが出来た。寅次は密蔵
に看取られながら息を引き取る時、弁財天からのひとつの
お告げを伝えて死んで行った。あたらしい時代の言葉を歌
う者が生まれてくると…朔太郎が生まれる一一月一日の
一ヶ月半、四五日前のことであった。
寅次の葬儀には、下村善太郎をはじめ速水堅曹、深沢雄象、
大島喜六、船津伝次平、萩原密蔵、津久井いそ、井上保三郎、
高橋常蔵、三代目春光堂、井上正香などをはじめ多くの同
じ町内に住んでいた仲間、女工さんたち、近所の子供が焼
香にきたが、遺言とおりごく簡素に静かに行われた。遺骨
は大蓮寺にある弁財天堂のすぐそばの小さな墓に埋葬され
た。
すべては忘れ去られていたことであるが、大蓮寺に残され
ていた寅次の日記、縁起記録本にこのことが書かれている
のが、つい最近になって発見された。
この記録をもとに、二〇一一年にふたたび、大蓮寺の前に
年後の今、
「ひー一、ふー二、みー三とさらにふー二を足
「駅家の木馬」をつくり、前橋の町の再生のために一二五
した年、一二三年に二年をたす一二五年後」にふたたび木
馬がよみがえる。こうして弁財天が寅次に伝えたお告げが
現実のものとなるのである。
29
30
るとき、スイス連邦工科大学のシュレーター教
次の友人であったシュペリは日本へ二度目に来
だだノ巻
寅
授から日本の植物標本を集めてくることを依頼
されていた。彼はすでに一度目の来日のときから日本の竹
製品、和紙、印章のコレクションをおこなっている。これ
は二〇〇三年にチューリッヒ大学で、シュペリ・コレクショ
ンとして一五三四点が公開されている。また日本の伝統工
芸、習俗、伝承に大きな関心をもち日本文化論を書いてい
る。彼は寅次と知り合い、たびたび前橋にやってきては生
糸工場を見たあと、竹職人の仕事場をこまめに寅次の案内
でまわり竹製品を買い集めていた。 シュペリが二度目に
来日したときには、寅次はすでになくなっていたが生前の
約束で彼は四冊の本を持ってきていた。そのうち三冊は煥
乎堂前橋本店にいた英語研究会の仲間であった高橋常蔵に
手渡された。ダンテ「神曲」ラテン語、ニーチェ「ツラツ
ストラはかく語れり」ドイツ語、ジャン・ジャック・ルソー
「社会契約論」フランス語の三冊であった。最後の一冊は
高崎の友人であった井上保三郎にモリスの装丁した「ユー
トピアだより」英語本が手渡された。
寅
次の墓参りもかねて「群馬、くるまの木馬」祭
りの日に、シュペリは前橋をおとずれ、その祭
りの印象をデッサンつきで手帳に記録している。
「木馬だ、木馬だ、だ、だ」という囃子言葉が中には書き
込 ま れ て い る。
「 mokubada mokubada da da mokubada
」というくりかえしが町中に響きわたっ
mokubada da da
て 心 に 深 く 残 っ た と。 や が て シ ュ ペ リ は 一 八 九 七 年 に ス
一九〇三年の連
—
イ ス に 帰 国 し、 チ ュ ー リ ッ ヒ で 二 度 に わ た る 日 本 の 体 験
を「 自 伝 」 と し て 紀 行 雑 誌 に 一 九 〇 〇
載 で 掲 載 さ れ、 非 常 な 好 評 を 得 た た め に そ の 後 一 九 二 四
Die Welt
と二五年には相次いで本となって出版される。「この極東
の 地 に お い て も 世 界 は 民 主 化 し つ つ あ る の だ。
」と力強く書き記
demokratisiert sich auch im fern Osten.
している。その中に友人であった寅次のことと「群馬の木
馬」
の祭りの様子が絵入りで書かれている箇所がある。(現
在 Hans Spörry
の紀行文はインターネットでも見るこ
とが出来る)彼の日本紀行が書かれた雑誌は当時のスイ
ス、ドイツでは非常な関心を持って読まれたそうだ。シュ
ペリの連載がのっている雑誌は、スイスのアスコーナのコ
ミューンの本棚にもあったことが確認されており、チュー
リッヒのキャバレー・ヴォルテールに一九一六年に集まっ
た前衛作家の常連はこの日本の生活、伝承を書いた雑誌を
良 く 知 っ て そ う だ。 そ こ で ダ ダ、 dada
と い う 言 葉 が、 彼
らの運動の合い言葉として選ばれたのは決して偶然ではな
いだろう。
煥乎堂
31
前橋を代表する書店。創
業 者 の 常 蔵、 二 代 目 の
清七 ス
、
( ピノザ研究家)
三代目の元吉(詩人)と
個 性 あ る 店 主 が つ づ き、
前橋の文化に大きく寄与
した。現在はすでに建て
代わっているが、詩人の
元吉の代に、著名な建築
家の白井晟一に本店の店
舗設計を依頼し、その建
築はながく市民に愛され
た。
(写真は白井晟一設
計のもの)
シュペリの出版された
紀行文より
さ
32
結
寅次に伝えられた弁財天のお告げは、こうしてチューリッ
ヒでも実現された。
お告げのとおりに大蓮寺の前に二〇一一年に作られる木馬
は、一二五年の歳月を飛び越えて現在のわたしたちの中に
生まれてくることになる。
寅次の生きた「くるま 群馬」がここによみがえるのだ。
これが「群馬の木馬」の由来の話である。
に
お
の
け
!
!
馬
緒
ま
引
を
告げ
だ
ぞ
寅
一次
と
弁
天
うまや
駅家とは、前橋の名前のもとになった言葉で、城のそばの馬をつないで
おく小屋という意味である。その馬小屋ー駅家のそばに橋があったので、
駅家の橋(うまやのはし)と呼ばれ、それが「厩橋」から「前橋」になっ
たとされている。
群馬といって全国的に知られているのは、国定忠次と萩原朔太郎である。
ひとりはやくざ、ひとりは詩人。二人とも有名ではあるが,地元では彼ら
を地域の文化資本,資源として十分に活用するには至っていないようであ
る。やくざを行政は支援できないし、故郷を捨てた詩人もどうもしっくり
こないらしい。微妙な距離感があるのだ。
そこで私は、忠治と朔太郎をつなぐ新しい物語を提案しようと考えたの
である。両者は三〇年ほどの時間的差があるだけで、ともに近代の誕生時
期を生きた人物である。この両者をつなぐ人物として忠治の子供、長岡寅
次が物語の中心に位置することになる。幕末から明治の時代で寅次をめぐ
る多くの人、出来事が、忘れられてきた前橋の町の、もうひとつの歴史
を呼び起こすーこれが「駅家の木馬」の目的であり、寅次が弁財天から実
行をうながされた木馬祭りを、現在に再現することも計画の中心でもあ
る。由来の物語と木馬祭りが地域で共有され、定着されるように考えてい
る。冊子制作もすすめ、英文のウエッブサイトも開くつもりだ。幕末から
明治にかけては、アートの歴史において世界的に重要な動きが起こってい
る。極東の島で起こった木馬祭りも、そうした世界史的な流れと無縁では
なかったことが証明される。
地域の人たちと一緒になって自分たちの手で過去の歴史を再構成し、新
しく読み替え現代と結びつけていく喜び、おもしろさを伝えたいと思って
いる。過去は、現在とともに生きており、それを未来へ手わたしてゆく、
白川昌生(しらかわ よしお)
ここに地域の力が不可欠であり、その力こそが木馬祭りの原点なのだ。
33
1948 年、北九州市戸畑に生まれる。国
立デッセルドルフ美術大学卒業(マイ
スター)
。美術作家として個展、グルー
プ展など国内外で活動。個展 2007 年
群馬県立近代美術館主催「 フ ー ル ド
キャラバン計画」
。主な著書「西洋美
術史を解体する」水声社 2011 年。現在、
群馬県立女子大学非常勤講師。
1881 年(明治 14 年)9 月創業以来、今年で 130 年の老舗です。
前橋が製糸業で賑わう中、芝居小屋の入り口に面していた当時
の大川屋は、一階は女工さん向け、二階は糸繭商や文人たちの
会合用の小座敷という構えでした。初代店主の大川藤造は、仕
送りの為倹約をしていた女工さんたちが、「かけそば」ばかり
食べているのを見かね、前橋北部時沢地区の特産である大根を
おろして入れるサービスを始めます。きめ細かい大根おろしを
チリレンゲで二山のせた形が繭の形に似ていたので、いつしか
「絹おろし」と呼ばれることになりました。仕事で関わりなが
らも、袖を通すことの出来なかった女工たちの絹にたいする想
いがこめられていたのでしょう。これが評判を呼び、100 年以
上もの間にわたり、前橋の庶民に愛され、はぐくまれてきまし
た。絹おろしそばは、今でも大川屋の人気メニューのひとつです。
原嶋屋総本家 1857 年(安政 4 年)創業。今や群馬の代表的な銘菓となった
焼まんじゅう発祥とされる名店。創業者の原嶋類蔵が考案した
とされる焼きまんじゅうは、竹串に餡の入っていない饅頭を数
個刺し、甘く味付けされた味噌を刷毛で塗りながら焼き、熱い
うちに食べるのが特色です。風格のある店内に入ると、正面で
焼きまんじゅうが焼かれている真っ最中。お客たちがいまかい
まかと自分の番を待っています。奥でも食べることもでき、麦
茶のサービスもあります。店内を見渡すと、そこかしこに歴史
を感じさせる調度品や古い看板等が飾られていて、明治や大正
の時代にタイムスリップしたような気分にさせられます。小麦
を大切にしてきた上州の食文化の結晶のような焼きまんじゅう
ですが、群馬以外では意外とあまり知られていないようです。
焼きたての熱々をいちど食べるとやみつきになりますよ。
34
大川屋 片原饅頭跡
35
三俣せんべい 片原饅頭 1855 年(安政 2 年)創業という老舗。150 年以上もの間、前
橋の庶民とこの地を訪れる人たちに愛され続けてきた銘菓で
す。交通の要所のこの地で、創業者の吉田栄光が実家の農家の
軒下で、余り米から作った焼きたてのせんべいを売り始めたの
は、浦賀にペリー提督率いる黒船の来航があってから 2 年後
のことでした。香ばしいにおいに誘われた旅人や商人がつぎつ
ぎとこれを買い求め、「三俣にうまいせんべいがある」と評判
に。遠方からも買い求める人たちがやってくるようになったと
いうことです。当初は「吉田屋」を屋号にかかげていましたが、
その後「やま吉」と変わり、今の「三俣せんべい」を屋号とし
たのは、1913 年、創業から 57 年を経てからのことだったと
いいます。老舗の味を代々受け継ぎ、頑固に味を守りつづけて、
今日に至ります。
かつて前橋の定番のお土産と言えば、この片原饅頭でした。
1832 年創業といいますから、そのころ活躍中の国定忠治も食
べていたかもしれません。朔太郎の好物という説も。惜しく
も 1996 年に廃業しましたが、江戸・明治・大正・昭和・平成
と、160 年以上にもわたって前橋の人々に親しまれました。創
業者の宮内文作は群馬県の社会福祉の父とされる人で、大火災
にあったことを機縁に、キリスト教に入信、明治 24 年の濃尾
地震の孤児救済のための孤児院を開設したり、養老院を設立し
たり、またその募金活動で東奔西走していたそうです。現在、
多くの人に惜しまれた片原饅頭を復活させようと、「前ばし 万十屋」さんで「ふくまんじゅう」が販売されています。片原
饅頭で職人頭をやっていた方の指導を仰ぎ、片原饅頭の味を再
現しています。
山下りんは、明治時代にたくさんのイコン
(キリスト教での神や天使や聖人の像)を
制作した女性のイコン画家です。1857 年常
陸国笠間(茨城県笠間市)に生まれました。
絵の勉強をするために、明治になったばか
りの東京に出て、開校まもない、日本で最
初の国立美術学校である工部美術学校に入
学します。その後、帝政ロシア時代のペテ
ルブルグ(サンクトペテルブルク)に2年
間の留学をして、帰国後、イコン制作に没
頭します。有名な東京ニコライ堂の竣工の
際にもイコンを制作しており(関東大震災
で消失)関東・東北・北海道の正教会に多
くの山下りん制作のイコンが残されていま
す。前橋のハリストス正教会の降誕聖堂に
は山下りんのイコンが掲げられていたそう
ですが、惜しくも戦災で消失しました。そ
の後、1918 年に故郷の笠間に帰り、1939
年に故郷で亡くなりました。近代日本で最
初の女性画家です。
船津伝次平 群馬県人ならほとんどのひとがそらんじて
いるといわれる上毛カルタの「ろ」の札に、
『老農 船津伝次平』とうたわれています
が、何をした人なのかを知る人はそんなに
たくさんいないようです。1832 年(天保
3 年)前橋市富士見町に生まれます。農業
技術の改良にいそしみ、高く評価されまし
た。老農とは明治のころの農業指導者のこ
とで、日本の在来の農業技術に自らの体験
を加え、さらに西洋から入った近代農学な
ども参考にしながら実証的で質の高い農業
技術を考案・指導していった人たちのこと
です。群馬県の船津伝次平、奈良県の中村
直三、香川県の奈良専二が特に有名で明治
の三老農と呼ばれています。伝次平は後に、
元駒場農学校及び東京帝国大学講師となり
ます。1898 年(明治 31 年)没。
萩原朔太郎 前橋の誇る、日本近代詩の父と称される偉
大な詩人です。1886 年(明治 19 年)に前
橋生まれ。近代的思想を感覚的に歌い上げ、
日本での口語自由詩を確立します。32 歳の
ときに『月に吠える』を刊行、確固たる地
位を確立しました。
『青猫』
『氷島』などの
詩集が有名です。音楽を愛し、マンドリン
倶楽部を設立。また写真撮影にも凝り、当
時の前橋の街の写真をたくさん残していま
す。さらに自転車にも挑戦していて、その
四苦八苦する様子を『自転車日記」という
散文にしています。短い文章ですが、繊細
で苦悩する詩人と言うイメージとは対照的
に、苦労しながら自転車を乗りこなすユー
モラスな姿が伺えるほのぼのとした小品で
す。そうして自転車を乗りこなせるように
なり、遠出して忠治の墓を訪れ、
『國定忠
治の墓』という詩を作っています。1942
年(昭和 17 年)没。
36
山下りん 国定忠治 あまりにも有名な『赤城の山も今宵限り~』
で知られる、江戸時代後期の侠客です。講
談や大衆演劇の中で人気を博した忠治で
すが、近年、生糸生産による上州の経済基
盤の変動と関係づけて新たな忠治像が問わ
れるようになってきました。一介の任侠の
徒に留まらず、行き詰まりを迎えた幕藩体
制からの自立や自治を模索するある種の革
命家のような存在とする説もあるようです。
本名は長岡忠次郎。文化 7 年(1810 年)生
– 嘉永 3 年 12 月 21 日(1851 年 1 月 22 日)
没。
「国定」は生地である上州佐位郡国定村
(群馬県伊勢崎市東町)に由来します。JR
両毛線国定駅のほど近く、養寿寺というお
寺の境内に忠治の墓があります。本来のお
墓は、忠治にあやかろうとする人たちが墓
の破片をとっていってしまうので、柵で囲
われ、となりに、立派な墓石が新たに立て
られています。養寿寺には
「国定忠治遺品館」
も併設されています。
大前田栄五郎 夏目漱石 江戸後期の侠客で、関東から東海地方まで
影響力をもった大親分です。1793 年(寛政
5 年)前橋に生まれました。忠治と同時代
に生き、武闘派の忠治とは対照的に、侠客
同士の仲裁や調整をする能力にたけていて、
顔役として大きな勢力を持つようになりま
した。キップのよさと腕っ節の強さから関
東一の大親分として名を馳せます。晩年は
大胡町向屋敷で静かに暮らしました。1874
年(明治 7 年)没。英五郎の墓は、大胡の
町を見下ろす高台にあります。英五郎の像
も建っている立派なものです。
言わずと知れた明治の文豪です。1867 年
(慶
応三年)に東京に生まれました。
『我輩は猫
である』
『坊ちゃん』
『こころ』など有名な
作品がいくつもあります。漱石と群馬との
関係は、前橋出身の大塚保治との交流によっ
て知られています。1894 年(明治 27 年)
、
漱石は伊香保温泉を訪れ、前橋に帰省して
いた保治を呼び出し数日間伊香保で過ごし
たようです。一説によると、共通の知人で
あった大塚楠緒子との恋愛問題について話
し合ったのでは、とも言われています。後
に楠緒子は保治と結婚し、その時の失恋の
体験が漱石に後の『三四郎』
・
『門』
・
『それ
から』
・
『こころ』などの作品を書かせたの
ではないか、と推理する人たちもいるよう
です。 1916 年(大正 5 年)没。
大塚保治 37
物語の中では、旧姓の小屋保治として登場、
夏目漱石との交流で知られています。1868
年(明治元年)に前橋に生まれました。東
京大学に進学し、大学院で美学を専攻しま
す。ヨーロッパに 4 年間留学し、帰国して
東大の教授になります。日本で初めての近
代的な美術展であった文部省美術展(文展)
の開催の建議書を出し、審査委員をつとめ
ました。漱石とは学生時代からの親友で、
『我
輩は猫である』の登場人物、迷亭のモデル
とも言われています。
(漱石は否定している
そうですが)1931 年(昭和6年)没。
前橋文学館と広瀬川
弁天通商店街に面した浄土宗のお寺です。1505 年に厩橋城の鬼門
にあたる、いまの臨江閣のあるあたりに創建されたといいます。あ
萩原朔太郎を記念して、前橋の街には前橋文学館が作られました。
1993 年から、前橋市によって現代詩を対象とした、萩原朔太郎賞
いつぐ利根川の氾濫のため、現在の場所に移されました。江戸時代、
前橋のお殿様であった酒井氏の崇敬が篤く、初代の酒井重忠は利根
川の氾濫を鎮めるために、水の神様でもある弁財天を勧請しました。
が設けられ、毎年その授賞式がこの前橋文学館にて行われます。前
橋文学館の前には朔太郎の像がたっています。そしてその足元には、
前橋市民に愛され続けてきた広瀬川が流れています。坂東太郎の別
これが、今の弁天通の名前のもとになっているわけです。昔は利根
川から水をひいて、弁天様を祭るお堂の前に池を作り、弁天池と呼
んでいたそうです。芸能の神様でもある弁天様に、前橋の街を華や
かに彩っていた多くの芸者さんたちがお参りに訪れていたといいま
す。今は弁天池はなくなりましたが、水の神様である弁天様にちな
んでか、境内には水琴窟が作られ、軽やかな音を聞かせてくれてい
ます。そして、一方、毎月3日には弁天通では弁天ワッセが開催さ
れており、様々な屋台がたちならび、芸能の神の弁天様に奉納する
かのように歌や踊りなどが繰り広げられています。
名で知られる利根川のほとりにある前橋の街は、利根川の氾濫との
戦いの中で築かれてきました。いくつもの支流が街中を通り、生活
用水としてだけではなく、物資の移動や交通にも役立てられてきま
した。街中の意外な場所に船着き石が残っていて、当時をしのばせ
ます。広瀬川も支流の代表的のひとつで、かつてはその水力を利用
した製糸工場が河畔にたちならんでいました。そこで働く多くの女
工さんたちや、行き交う糸繭商たちが前橋の街の賑わいを支えてい
たのです。前橋文学館から青々とした河畔の柳の下を歩いていくと、
当時の女工さんたちが工場から街中へと渡る小さな橋が残っていた
り、朔太郎賞を受賞した詩のモニュメントが点在していて、街の歴
史や文化を知る格好の散歩コースとなっています。
38
大蓮寺
ダダ
キャバレー・ヴォルテール
ダダイスムという、20 世紀初頭にチューリッヒ、そしてベルリン、
1916 年のダダ宣言を書いたドイツ人文学者フーゴ・バルによって
パリにひろがった新しい芸術・思想運動のことです。第一次世界
大戦に対する抵抗をきっかけに、戦争の愚かしさ・空しさから既
成の秩序や常識を否定しました。既成の
芸術の意味や価値を解体して、特別なも
のとされてきた芸術という価値観自体を
疑い、今まで芸術とは考えられてこなかっ
たものをあえて芸術として提案したりする
ような活動をたくさん行いました。その
結果、芸術という概念は大きく広がるこ
とになったのです。ダダイスムの考え方は、
現在の芸術にも深く大きな影響を与えつづ
けています。
「ダダ」は、
フランス語で「木
馬」を意味することばでもあります。
アスコーナのコミュー ン
ア ス コ ー ナ は 南 ス イ ス の 観 光 地、
マッジョーレ湖のほとりにある、イ
タリア国境に近い街です。20 世紀
39
の初頭に街の背後の丘「モンテ・
ヴェリタ(真理の山)
」に、
「自然へ
の復帰」をかかげた多くの芸術家や思想家が集まり独自のコミュニ
ティーを作りました。ヘルマン・ヘッセ、カール・ユング、ルドルフ・
シュタイナー、フーゴ・バル、パウル・クレー、ジェイムス・ジョ
イス、イザドラ・ダンカンなど、そうそうたる人たちが集まってい
たようです。これらの思想家や芸術家によって、この小さな丘から、
20 世紀を大きく動かしていく新しい芸術や思想の多くが生み出さ
れていったと言っても過言ではないかもしれません。 (http://www.monteverita.org/)
1916 年 2 月 5 日に開店したスイスのチューリヒにあった、今で言
うナイト・クラブのような場所です。当時は第一次大戦の末期で、
チューリヒには戦争から逃れようと、多くの亡命した知識人たちが
集まっていました。彼らがこのキャバレー・ヴォルテールを支え、
ここを拠点として、新しい芸術運動であったダダイズムが世界に向
けて発信されていくことになったのです。
「ここでダダイズムがは
じまった」という市の歴史案内プレートが壁にかけられていました
が第二次大戦後、空き家になっていたところ、2003 年に観光促進
という目的のもと、改めて開店されたそうですが、当時の文化・思
想的なものとは無関係な場所になっているようです。
藤枝英義
小屋保治
高橋常蔵
山下りん
夏目漱石
住谷天来
古市沺
古市剛
平田篤胤
当時は日本古来の思想と西洋から
入ってきた新しい思想がぶつかりあ
う文化的に大変な時代です。宗教・
文学・美術・工芸、さまざまな分野で、
西洋の文化をまねるだけでなく、日
本人独自のものとして産み直そうと、
みな苦しみ・もがいていたのです。
文化
40
人物
相関
井上流伯
井上武士
寅次は、ジャンルの垣根を超え、
さまざまな人物を結びつけます。
前橋の街で、製糸業のにぎわいが
人々を出会わせたことを考えると、
寅次は生糸の化身のようです。さ
まざまなジャンルの人物が出会い、
結びつき、社会を変えていく・・・
この時代の不思議さと面白さはこ
の点にあるといえるでしょう。
萩原朔太郎
萩原密造
朔太郎は医師・密蔵の長男として生
まれます。当時、第一級の知識人で
あった医師たちは文化・社会に大き
く貢献していきます。井上流伯の息
子の武士は、日本人ならだれでも知っ
ている「ぞうさん」「うみ」「チューリッ
プ」などの童謡の作曲者です。
関根いそ
シーボルト
機外和尚
医
日光の圓蔵
国定忠次
船津伝次平
深沢雄象
ヘルマン・シーベル
速水堅曹
下村善太郎
大島喜六
関口長左衛門
大川屋
宮内文作
長岡寅次
およし
竹内啓介
井上房一郎
ハンス・シュペリ
農
41
この時代の政治や経済は製糸業を抜きには
語れません。流通、雇用、投資といった局
面で、社会の枠組みを根本的に変えていく
変化を製糸業はもたらします。そしてその
変化の中から生み出された新しい人材が政
治や実業の中心となっていきます。
井上保三郎
政治
実業
大前田栄五郎
清水の次郎長
江 戸 時 代 末 期 の 閉 塞 状 況 の な か、 彼 ら は、
そのゆきづまりを打ち壊すように活躍しま
す。枠にとらわれない自由さが人々を魅了
し、数多くの物語をうんだのでしょう。ま
た実際、彼らとの交流からも社会福祉貢献
をしていく人たちが現れてきます。
任侠
42
年表
忠治の処刑から朔太郎の誕生まで、二人をつなぐように寅次は活躍します。この江戸
末期から明治の前半という時代は、未曾有の大変化があった時代です。一方で自然災
害や火事といった多くの不幸が襲った時代でもあります。しかしそこに暮らしていた
人たちはそれらに負けることなくエネルギッシュに時代を切り拓きます。現代もまた、
困難にみちた変動の時代です。時代を切り拓いた庶民のエネルギーを、私たちにバト
ンのように受け渡してくれる木馬まつり、その復活の意味はそのあたりにありそうです。
68 年
1850 ●忠治処刑●下村善太郎、家族を連れて八王子へ行く
1855 ●大胡・七ツ星酒造はじまる●三俣せんべい創業●地震 M6.5
1857 ●焼まんじゅう原島屋創業
1858 ●街中火事 40 戸延焼
1859 ●横浜開港(前橋生糸輸出始まる)
1861 ●本町に生糸改会所できる
1863 ●下村善太郎、前橋本町に帰ってくる
1864 ●大渡萬代橋(現在の大渡橋とは異なる)が完成 ●火事 24 戸延焼
1866 ●一揆が起こる
1867 ●前橋城再完成
1868 ●世直し一揆がおこる
1870 ●深沢・速水、日本最初の機械製糸所をつくる(スイス人シーベル来る) ●前橋県になる
1872 ●春光堂南軒没 ●県第一番小学校(曲輪町)
1874 ●大火事 121 戸消失 ●新島襄アメリカから帰国 ●警視庁が設立
1875 ●市立英学開校
1876 ●前橋旧城が県庁になる ●片原まんじゅう
1877 ●速水、フィラデルフィア万博へ ●関口文七破獄 262 人脱獄
1878 ●正教会生まれる 県尋常師範学校(桃井小学校)開校
1879 ●チフス流行
1880 ●県庁前橋に確定
1881 ●『上毛新聞』発刊
1882 ●コレラ流行 火事 30 戸消失
1883 ●大島喜六没 ●大火事で 730 戸が消失
1884 ●前橋−上野間の鉄道開通
1885 ●臨江閣落成 ●木馬祭りはじまる
1886 ●コレラ大流行
長岡寅次
[ 1845
〜
]
1886
]
1944
萩原朔太郎[ 1886
〜
]
1919
]
1918
]
1930
住谷天来[ 1869
〜
萩原密蔵[ 1857
〜
]
1913
へルマン・シーベル[ 1842
〜
速水堅曹生[ 1839
〜
関根(津久井)いそ[ 1838
〜
]
1944
50
]
1901
43
40
]
1893
30
大正 昭和
20
深沢雄象[ 1833
〜
60
1892 ●下村善太郎初代前橋市長となる
1900
]
1883
明治
90
]
1857
40
]
50
80
]
1874
68 年
10
明治維新
下村善太郎[ 1827
〜
30
1887 ●大火災 751 戸消失
1888 ●前橋英和女学校(共愛)
1886
大島喜六[ 1826
〜
20
国定忠治(長岡忠治)[ 1810
〜
10
江戸
50
1850
70
1827 ● 藩校「博喩堂」設立、寺子屋も増える
1832 ●志摩屋(後に片原饅頭を売り出す)創業
機外和尚[ 1808
〜
1800
大前田栄五郎[ 1793
〜
1793
かつて前橋を賑わせていた
デパートだった場所が、美
術館に生まれ変わる。経済
中心の価値観から、美的な
もの、奥深いもの、魂にうっ
たえるものを大事にする価
値観へ世界も変わろうとし
ているのではないか。さあ、
木馬まつりに参加して、新
44
しい世界に乗り出そう!
“ こころひとつ。響け!日本 ” まえばしフェスタ “ 風 ”
うまや
美術館プレイベント vol.12「駅家の木馬」
日時:平成 23 年 9 月 4 日(日)
・1 回目午後 2 時から
・2 回目午後 4 時から
会場:前橋中心商店街各所
集合場所:大蓮寺
前橋市千代田町3丁目3の24
うまや
主催:駅家の木馬まつり実行委員会・まえばしフェスタ実行委員会
共催:前橋市
後援:前橋市教育委員会・前橋中心商店街協同組合・前橋商工会議所・
上毛新聞社・朝日新聞前橋支局・毎日新聞前橋支局・読売新聞前橋
支局・産経新聞前橋支局・東京新聞前橋支局・日本経済新聞前橋支
局・NHK 前橋放送局・エフエム群馬・まえばし CITY エフエム
協力:大蓮寺、弁天通商店街、 弁天通り青年会、前橋市立中央小学校、
前橋市立桃井小学校、キッズフェスタ2011「おまつり木馬をつく
ろう!」ワークショップ参加のみなさま、ミニギャラリー千代田市民
活動拠点運営ボランティアスタッフのみなさま、
ヤーマンズカフェ、
内山浩幸、樺沢みゆき、藤井光、清水博太郎、岡田達郎、八木隆行、
小野田賢三、NPO 法人まえばし市民活動支援センター
(順不同・敬称略)
駅家の木馬まつり 2011 年 8 月 20 日 発刊
うまや
発行:駅家の木馬まつり実行委員会・まえばしフェスタ実行委員会
編集協力:大蓮寺、弁天通商店街、原嶋屋総本家、大川屋、三俣せんべい、前橋市
(順不同・敬称略)
統括編集:白川昌生
45
編 集:福西敏宏(NPO 法人まえばし市民活動支援センター)
写 真:木暮伸也
翻 訳:佐藤良明、管梓
デザイン:寺澤事務所
W
hen he was 18, Toraji starte
Nagaoka as an adult. Zentaro
Miyoshiya, made a large profit from r
a locally famous businessman. Using
he was gaining information of Yokoh
was Toraji who suggested the use of h
because Toraji heard an oracle from th
at Dairenji Temple in a dream.
1
50 years ago, Japan was going
through difficult times, as it was
changing greatly from the Edo period
to the Meiji period, and natural
disasters such as volcanic eruptions,
earthquakes, and crop failure were
happening at the same time.
*この物語は史実にもとづいたフィクションです。
free
Fly UP