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Title 甑形土器の基礎的研究 Author(s) 杉井, 健

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Title 甑形土器の基礎的研究 Author(s) 杉井, 健
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甑形土器の基礎的研究
杉井, 健
待兼山論叢. 史学篇. 28 P.31-P.56
1994
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/48033
DOI
Rights
Osaka University
3
1
甑形土器の基礎的研究
じ
め
杉
井
健
本稿では、朝鮮半島から本格的な甑形土器がもたらされた時期を主な対象として議論を進める。特に、日本列島
は極めて大きい。
であった。しかしその形態が日本列島全体にいっせいに普及したのではない。特に、西日本と東日本における相違
とする。その形態は、牛角状の把手を有し、底部には数個の蒸気孔︵多孔タイプの蒸気孔︶を穿孔するというもの
本格的な甑形土器の出現および盛行は、古墳時代中期、朝鮮半島から大型の甑形土器がもたらされたことを契機
使用されたものと考えることは困難である。
用されたものではない甑形土器の最初であると考えられる。しかしこの土器の容量は極めて小さく、日常の炊飯に
日本列島では、弥生時代後期になって鉢形を呈する土器の底部に焼成前の穿孔を施したものが出現し、これが転
甑︵こしき︶形土器とは、蒸すことをその機能として持つ土器のことである。
{
ま
32
と朝鮮半島の甑形土器の特徴を明確にし、両者の関連のしかたを探ることに主眼を置く。そのためには両者の雛形
土器の概要を知ることが肝要であるが、その前提として、第二章では甑形土器の分類における重要点を整理する。
そののち、日本列島と朝鮮半島の甑形土器の分析を行う。日本列島に関しては多くの研究の蓄積があるため詳述は
避け、筆者の考える重要な特徴や変遷観を整理することにとどめたい。朝鮮半島の甑形土器に関してはまとまづた
研究がほとんどないため、各事例を詳しく紹介することを通してその特徴を整理する。そして、それらの分析を通
して、両者のかかわり方、 および日本列島における甑形土器の特質を考えてみたい。
なお、以下では特別な場合を除いて、甑とのみ表記する。
甑形土器分類の視点
甑を分類する基準は多岐にわたる。そのうち、これまでの研究でもなされてきたように、筆者も蒸気孔や把手の
形態、体部外面に残される調整痕や凹線などを重視する。なかでも蒸気孔︵底部︶の形態は重要である。
蒸気孔の形態︵図 1︶ 筆者は、土器として形作られた甑は基本的に蒸す対象物を支えるためのスノコ状のもの
が内部に入れられて使用されていたと考えている。そのため、 スノコを支えるための装置の有無を分類の第一とす
る。すなわち、古墳時代後期以降に関東地方を中心にして盛行する大型の甑のように完全に底部をつつぬけに作る
ものをスノコ支え無しタイプ︵図1 2 ︶とし、それ以外のものをすべてスノコ支え有りタイプと分類する。
スノコ支え有りタイプは非常に多くに分類することが可能であるが、重要なのは、完全に底部を作った上でそこ
に幾つかの蒸気孔を穿つものと、完全な底部は作らず、底部付近にスノコを支えるための桟︵さん︶を渡す工夫を
甑形土器の基礎的研究
33
施したものの二者に大きく分けることができることである。
これらのうち前者はいわゆる多孔タイプの蒸気孔とされるものである︵図111Y すなわち、直径一センチメ
ートル未満の小円孔を多数穿孔したものや、底部中央に一つの円孔、そしてその周囲に幾つかの円形や台形、楕円
形などの蒸気孔を穿孔したものなどがこれに含まれる。
後者には、 つつぬけに作った底部下端付近に棒状の桟を渡すための一対ないし二対以上の小円孔を穿つもの︵図
114︶や、 つつぬけの底部付近内面に桟を受けるための浅い窪みを数対刻むもの︵図115︶などが含まれる。
さらに、これまでよく二つの半月形の蒸気孔を穿孔したものとされてきた底部形態︵図1|3﹀も、底部に一本の
桟を渡したものとみなしてこれに含む。
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のやそれを上下から押しつぶしたような扇平なもの、
むωそれらを参考にして列挙していけば、牛角状のも
把手の形状の分類はこれまでも多く行われてきてい
の有無の区別が第一に重要となる。
する大型の甑などは把手を持たない。そのため、把手
る。ただし、古墳時代後期以降に関東地方以東で盛行
把手の形態 土器の甑には把手を持つものが多くあ
とは当然区別して考える。
なお、これまで検討してきた蒸気孔はすべて土器焼成前に穿孔されたものであり、土器焼成後に穿孔されたもの
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あるいは舌状の形態をとるもの、さらにいわゆる山陰型甑の把手のような半環状のもの
や乎安時代以降に千葉県を中心とする地方でみられる小さな粒状を呈するものなどがあ
る。また、把手ではないが体部に鍔︵つば︶をめぐらせるものも存在する。
これらの把手のうち、主に牛角状の把手には細工が施されることがある︵図2﹀。これ
も先学の指摘を踏襲するが、把手の上面に切り込みを行うことや把手の先端を切り落と
図 2 把手への細工
することは避けるが、外面調整に関してはこれまでも注目されている通り、 タタキ自の有無と外面下端部のケズリ
その他の要素 体部の調整痕や器形、法量や焼成なども重要な分類要素である。これらのそれぞれについて詳述
あると考えられ、凹纏を持つものは例外なく把手を接合する前にそれをめぐらせている。
回線の有無 体部外面の把手接合位置に回線がめぐらされることがある。これは、把手の接合位置を示すもので
が存在する。
る。また後者には、把手接合位置にくぼみを設けた上で貼り付けるものと、何も細工を行わず直接貼り付けるもの
内面から外面に向けて挿入するものと、外面から内面に向けて把手付け根を挿入するものに分けることが可能であ
さらに、把手の接合法にも挿入法と貼り付け法の区別がある。前者は、体部の把手接合位置に穿孔を施した後、
して平坦な面とすること、 また把手先端付近の下面に刺穿孔を有することが細工の主な内容である。
切
山陰型甑のように容量コδ リットルを大きく越える超大型のものなど、様々に分類することが可能であ幻w
リットルにも満たない小型のもの、古墳時代中期以降の甑のように容量一 Oリットル前後の大型のもの、いわゆる
痕の有無の区別が重要である。また法量に関しても、弥生時代後期以降を中心に存在する鉢形の甑のように容量一
34
甑形土器の基礎的研究
35
。
これまで一記してきた分類要素の多くは、甑の編年の指標となるばかりでな
ム
。
く、大小の地域性や、 日本列島と朝鮮半島の関係を探る上でも重要なものと
。
。
ム
なると考える。以下ではこの視点を念頭に置き、まずは古墳時代中期に朝鮮
日本列島における甑形土器の特徴
大阪とその周辺の甑形土器
。
半島から日本列島に新しくもたらされた大型の甑から分析を始める。
︵一︶
古墳時代中期、須恵器が出現する頃になって、牛角状の把手を持つ甑が西
日本を中心に盛行するが、大阪を中心とする地域ではその出現期から須恵質
の甑と土師質の甑が両者とも多く存在することを特色とする。そのため当地
における甑の動向を分析することは、各種甑の特徴を知る上で重要である。
土師質の土器のうち外面の調整痕にタタキ目を残すものはこれまでも韓式
てきお筆者もこれに異論はなく、土師質の甑をその外面調整によって分類
。・・・ほとんどに共通する要素
0・・・多い要素
ム・・少ない要素
空欄,.目ほとんど存在しないか存在しない要素
。
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調整
手
把
孔
気
蒸
形
器
系土器などと呼称され、朝鮮半島と強いつながりを持つ土器として注目され
した上で、それぞれに分類された甑が持つ要素を検討した。その結果はかつ
て中西克宏が示したものと類似するが、五世紀代における畿内出土の甑の特
徴をまとめると表ーのようになる。具体的な数値では示し得ていないが、
お
表 1 5世紀代における畿内出土甑形土器の特徴
口縁部
底 部 円 孔 円 孔 円孔+円孔 円 孔 上面 先端 下面 凹線 外面
十
+
+
下端
切り
平底丸庭 台形孔 三角孔 2重∼ l
重 楕円孔 切込み 落とし 劇民ヲL
ケズリ
36
よその傾向はつかむことができる。
それによると、各甑とも牛角状の把手を有することと多孔タイプの蒸気孔を持つことでは共通する。また従来か
らの指摘の如く、土師質の甑のうち外面調整痕にタタキ目を残すものと須恵質の甑との共通性も見て取ることがで
きる。特に把手に細工を施すことと把手接合位置に回線をめぐらせることは、これらに特有のものとしてよいだろ
ぅ。ただし、これらの蒸気孔の形態に関してみられる相違は興味深い。
蒸気孔の形態は特に須恵質の甑に各種見られるが、このうち、中央に設けた円孔の周囲に配される蒸気孔が一重
ないしは二重以主にめぐる円孔となるものが大阪府堺市大庭寺遺即日ド多く見られ︵図3111 一方、四孔以上の
楕円孔となるものが大阪府堺市陶邑窯出土遺物に多い︵図312︶という点は重要である。また、韓式系土器とさ
れる外面調整痕にタタキ目を残す土師質の甑の蒸気孔は円孔のみで構成されるものが大半である︵図314︶のに
対し、 ハケ目を残す甑には楕円孔を持つものが定量的に存在する︵図315︶という点も注意すべきである。この
ことについては後述する。
この時期の甑の分布は、土師質のものは河内湖周辺部、須恵質のものはその生産地である陶巴周辺部に偏る傾向
がある。このことは、 一つは須恵質の甑は生産地周辺部からそれほど離れては流通せず日本列島各地では土師質の
甑が主流をなしたこと、二つは、渡来集団には陶邑周辺に居住し須恵器生産に従事したものや、 五世紀の河内の開
発に従事したものなど多くの性格の異なる集団が存在したことの反映であろは山
六世紀以降は、須恵質の甑が犬舎く減少し、土師質のうちタタキ目を残すものは消滅する。土師質の甑の蒸気孔
には、周囲の楕円孔が三個になるなど孔数が減少するという動きと、底部に桟を渡すという動き︵図313・6︶
甑形土器の基礎的研究
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30cm
文献、参考文献 1・2 ・4 ・5より
7
6・1
3・1
図 3 日本列島の甑形土器(注 7-c ・8 ・1
は筆者原図)
0
1
作成、 6・
層出土 2、大阪
、大阪府大庭寺遺跡 393-0LZ
1
次調査 B-1出土 4、大阪府久宝寺南遺跡古君
7
9
2遺構面落込 1出土 6、大阪府奈良井遺跡1
、
コ
出土 9
、大阪府小角田遺跡 CY-81SK64
8
3号住
1、群馬県歌舞伎遺跡A地区第3
住居出土 1
が現れる。このうち前者は、五世紀後半には出現する動きで一部七世紀にまで受け継がれる。後者は、六世紀にな
って現れるが、主流は底部に粘土で作った桟を渡す蒸気孔︵半月孔タイプの蒸気孔、図313︶で、七世紀まで続
く形態である。把手は上下に押しつぶしたような扇平なものから、舌状の形態をなすものに変化する。これは六世
紀後半の動きで、これにあわせて、接合法が挿入法から貼り付け法に変化する。
須恵質の甑は、陶邑でほとんど生産されなくなった六世紀になって、北摂の大阪府豊中市桜井谷窯ず多く生産さ
れる。ここの甑は、内面に当て百六痕を明瞭に残し、蒸気孔のうちの周囲のものを底部外縁いっぱいに沿って穿孔す
ることを特徴とする。また把手は貼り付け法によって接合される。この他に、大阪府堺市野々井遣制一から半月孔タ
イプの蒸気孔を持つ甑が検出されており、共伴遺物とその形態から七世紀代のものとすることができる。
その他の地域の注目される甑形土器
いる。器形は、尖り気味の丸底から続く偏球状の胴部の上に短い直立する口一縁部を持つというものである。胎土は
福岡県福岡市西新町遺跡出土例︵図317︶ 当遺跡F地区第二号住居から、特異な形態をした甑が検出されて
ここでは本稿の議論に関係する重要なものに限定してその概要を述べたい。
︵
一
一
︶
も出土数は減少し、九世紀以降にはほとんどみられなくなる。
七世紀後葉以降になると、土師質の甑は、 つつぬけの蒸気孔と舌状の把手を持つものとなる︵図319 一
方
、
。
﹀
須恵質の甑は、底部に脚台を付けるものとなり、蒸気孔は多孔タイプに返る︵図318︶。この須恵質の甑の底部
形態は、外山政子が指摘するよう同ド曲物の甑の存在を背景としたものであろう。そして時期を経るにつれ両者と
38
徴小な砂礁を若干含むがよく精製されている。蒸気孔の形態が注目され、直径八ミリメートルほどの小円孔を外面
から内面へ多数穿孔するタイプである。現状では一一一孔のみが確認できるが、おそらく底部全体にわたって蜂の巣
ょう。時期は和泉式の中段階に位置付けられる。
︶
群馬県新田郡尾島町歌舞伎遺跡出土例︵図31日
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の意識が弱く、また製作に不慣れであったことを示す好例であろう。時期は歌舞伎遺跡編年E期後半︿鬼高式I
ものとなっている。これなどは、底部がっつぬけの甑が主流の当地においては、蒸気孔を多孔にすることに対して
るものである。しかし蒸気孔は、中央孔を大きく穿孔しすぎたために周囲の楕円孔と切り合ってしまい、花弁状の
当遺跡A地区第三三号住居出土の甑は牛角状の把手を有す
いびつな形をしており、また中央の円孔よりも大きなものもあって大きさがかなり不揃いであることは注意を要し
部中央に一つの円孔、その周囲に六つの円孔を穿つという蒸気孔を有するのだが、その周囲をめぐる円孔はかなり
るいは外面にタタキ目を残す土師質の甑の形態を理解していた製作者の手によるものであるといえる。ただし、底
イプの蒸気孔を持つのである。さらに胴部中央に二条の回線を持つことも特筆すべき点である。 つまり、須恵質あ
おいては、当遺跡第二号住居から出土した甑は特異なものである。すなわち、完全な牛角状の把手、および多孔タ
埼玉県行田市武良内遺跡出土例ハ図3lm︶把手を持たずかっ蒸気孔をつつぬけとする甑が主流の関東地方に
EV
ハ
が西新町E式に位置付けられ、弥生時代終末期のものであることと同時に、造り付け竃を持つことは特に注意すべ
きである。同様の甑は、福岡県教育員会の調査において検出された二号住田 どでも確認されている。
円形の穿孔があり、挿入法による接合であったことがわかる。調整は外面がハヶ、内面がケズリである。この住居
状に小円孔を多数穿孔するものであったと思われる。把手は脱落しており形状は不明だが、胴部の把手接合部位に
甑形土器の基礎的研究
39
期︶とされる。
宮城県仙台市岩切鴻ノ巣遺跡出土慨︵図3|ロ︶
南小泉式に位置付けられる当遺跡第一号住居出土の甑は、東
北地方における初現期の大型の甑として注目される。蒸気孔はつつぬけであるが、体部に付けられた把手は横方向
に長く引き伸ばされた帯状の突出度の低いもので、同時期の西日本の牛角状の把手とはかけはなれた形態をなすこ
とは重要である。
朝鮮半島における甑形土器の特徴
の甑についていま日本列島の立場から整理しておくことは、 日本列島と朝鮮半島の交流を考える上でも、 また日本
朝鮮半島南部地域における最近の調査によって、多くの新しい資料が増えてきている。そうした中で、朝鮮半島
つ諸要素の分析がやや少なく、さらなる検討の余地を残している。
土の甑を集成し、その蒸気孔に注目して分類・編年などを行っており大いに参考になるが、分類に関して、甑の持
甑それのみに限定した細かな分析は、 いまだ数少ない。最近発表された李海連ハ叫司、思の論都町、伽耶・新羅出
かなことである。ただ、朝鮮半島における土器の編年研究の中で土器の一器種として甑に言及することはあっても、
古墳時代中期以降に主に西日本において盛行する大型の甑の源流が朝鮮半島にあることは、先学の研究から明ら
四
例を中心とした検討を行い、それを通して朝鮮半島における甑の動向を考えてみたい。
列島の甑を分析する上においても有益なことであると考える。そこで以下では、 まず筆者が観察することのできた
40
甑形土器の基礎的研究
1
4
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慶尚南道三千浦市にある遺跡である。ここの八号住居祉から底部に焼成後の穿孔
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全羅南道光州市にある遺跡である。ここの沼沢地から、円形粘土の外側面
。
図 4 朝鮮半島の遺跡の所在地点
検出された。丁寧な層位の観察が行われ、それを
器時代から原三国時代を中心とする多くの遺物が
遺跡である。三次にわたる調査が行われ、無文土
韓国全羅南道海南郡松旨面の沿岸部に位置する
6・7
海南郡谷里貝塚出土例︵図5 1 3・4・
永洞遺跡などで検出されている。
気孔を持つものが慶尚北道慶山郡押梁面にある造
に主に行われていることが特徴である。同様の蒸
その小円孔の穿孔が、底部面を越えて体部下端部
た、段を持つ平底の底部には細長い針状の穿孔を三条並べて行い、その周囲に多数の小円孔の穿孔を行っている。
を押しつぶした形態の粘土帯を口縁部に持つ甑が検出されている。これは牛角状の把手を体部上位に一対持つ。ま
在
弥生式土器編年の須玖式に併行する時期と考えられており、 この頃日本列島で同様の焼成後 の穿孔を施した警が存
を施した塞が出土している。時期は三角形粘土帯土器が盛行する勤島田期に位置付けられるが、これは北部九州の
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図 5 朝鮮半島の甑形土器〈注18∼20・
2
2
∼2
4・
26
∼29・
3
2より作成〉
1
、勲身遺跡出土 2
、新聞洞遺跡出土 3・
4・
6・
7、郡谷里貝塚出土 5
、城山東区貝塚出土 8
、味郷
群出土 9
・
1
0、余草里窯跡出土 1
1、大成洞2
9号墳出土 1
2、大也里遺跡出土 1
3
∼1
5、夢村土域面王
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墳
〔
もとに各層位が五段階に分割されている。そのうち第E期層から貨銭が出土しており、それを基準にして各層位の
年代的な位置付けが行われている。それによると、第I期層が紀元前四1三世紀、第E期層が紀元前一世紀前半ま
t前半、第V期層が二世紀後半
たは二世紀後半1紀元一世紀中葉、第E期層が一世紀後半、第N期層が二世紀初頭
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ー三世紀前半または後半となる。それらの各段階からそれぞれ特徴的な甑が検出されている。
円
一九八七年度調査の住居社出土の甑はやや小型のものである︵図513﹀。器壁の磨誠が激しいが内外面ともナ
一六孔となっている。外周の一六孔のうち半数が
デによる調整が行われていると思われる。細工を施さない牛角状の把手を体部上位に一対持つ。平底の底部にはコ一
られる。
ハお﹀
二孔、
一六孔と
四重に穿孔するものである。このうち外側の一六孔は体部下端部に穿たれている。これは郡谷里第V期に位置付け
把手を一対持つハ図516﹀。蒸気孔は直径八ミリメートル程の小円孔を内側から一孔、六孔、
一九八六年度調査Dグリッド出土例は、体部外面にタテハケ、内面にナデを行うもので、細工されない牛角状の
ハ
第
﹀
つタイプであると考えられる。時期は郡谷里第N期に位置付けられる。
の把手を一対持つ︵図514﹀。把手部内面に円形のひび割れがあり挿入法によって把手が接合されていることが
わかる。蒸気孔は直径七1八ミリメートルの小円孔が現状で六個確認でき、 おそらく同じ大きさの小円孔を多数穿
一九八八年度調査C 1グリッド出土のものは、器壁内外面にナデ調整を施し、体部中位に細工を施さない牛角状
考えられる。
底部からはみ出して体部下端の器面に穿たれることを特徴とする。時期は郡谷里第ESE期の中に位置するものと
O孔
、
O個の小円孔を三重に穿ち、その配置は内側から四孔、 一
甑形土器の基礎的研究
4
3
︵
お
︶
一九八八年度調査時の採集遺物であるが、良好な残存状態の甑がある︵図517︶。把手は先端を切り落として
面を作るもので、その下面には刺突孔がある。外面の把手接合位置には、 一条の回線がめぐる。調整は外面が回転
ナデ、内面も丁寧なヨコナデである。外面底部付近にはケズリが施されている。蒸気孔は直径六1 八ミリメートル
ハ
お
﹀
の小円孔を幾重にも多数穿つものである。色調は撞褐色だが、非常によく焼きしまっている。
馬山外澗城山東区貝塚出土例︵図515︶ 慶尚南道昌原市にある遺跡である。その第I層から第置層を中心に
して一五点の甑が出土した。図示したものはそのうちの一点であるが、内外面にハケ調整を行い、細工されない牛
角状の把手を持つ。蒸気孔は小円孔を多数穿孔するタイプである。郡谷里一九八六年度調査Dグリヅド出土例︵図
慶尚南道居昌郡南下面にある住居祉を中心とした遺跡であり、ここの四世
キや格子タタキを施す。また、体部外面には幾重もの圏線をめぐらし、細工されない牛角状の把手を接合する。蒸
端部が破損しており詳細は不明だが、他の例に先端を切り落とすものが存在する。
昌寧余草里窯跡出土蹴﹀︵図519・
叩
︶
慶尚南道昌寧郡昌寧邑にある陶質土器を焼いた窯跡である。ここから
は
一 O点弱の甑が検出された。そのうちの一つは外反する口縁部と丸底の底部を持つ器形で、体部には縄薦文タタ
孔は底部の中央に一個、その周囲に八個の直径二センチメートル程の円孔を穿孔するものである。これの把手は先
よって泊されている。体部中位には一条の回線がありその位置に牛角状の把手が挿入法によって接合される。蒸気
つは、外面には斜格子タタキ、内面には丁寧なナデが施される軟質のものである。外面下端部のタタキ目はナデに
﹀
ロ
紀代に位置付けられる住居祉から
はいくつかの甑が検出されている。そのうち第一二号住居社から出土した中の一
居昌大也里遺跡出土問︵図5 1
516︶に類似する。
44
気孔は小円孔を多数穿孔するタイプである。これとは別に、針状の穿孔を放射状に施すタイプの蒸気孔を持つもの
ハ
却V
ソウル市にある遺跡で、現在オリンピ?ク公園として整備されている。ここ
孔は底部中央に一つの円孔、その周囲に四つの半月形孔を穿つが、そのうち周囲のものを底部外縁に沿って穿孔す
デを施すことによってタタキ目をすり消すことは行われない。外面把手接合位置には一条の沈線をめぐらす。蒸気
二つは、平底の甑である︵図5lu﹀。外面にはその底面にまで格子タタキを施す。体部下端部分にケズリやナ
調整である。蒸気孔の全体は不明だが、円孔の存在が確認できる。焼成は軟質である。
縄薦文タタキ、底部には格子タタキが施され、その上から一一ニi 一四重の圏線がめぐらされる。内面は丁寧なナデ
一つは外反する口縁部と丸底の底部を持つ甑である︵図5im﹀。外商口綾部から胴部下半にかけては縦方向の
からは主に一ニタイプの甑が検出されている。
夢村土城出土鵬﹀︵図F
O
I
n−日︶
六号墳などから出土している。
門
a
v
これと同様の器形をなすものが、味都王陵第九地区第三墓構副榔や慶州市月域路古墳群ナ︵斗﹀地区ナ︵斗︶ i
放射状に一二個施す。
する。外面には格子タタキ自を残す。蒸気孔が特徴的であり、細長い針状の穿孔を中央に三個、それを中心にして
から丸底の底部に続く器形をなす。体部中位に凹糠を施し、上面に切り込みを持つ牛角状の把手をその位置に接合
かの主体部から甑が検出されている。そのうち第七地区古墳群第四号墳出土のものは、ほぽ直角に外反する口一縁部
円相且﹀
慶州味郡王麗地区古墳群出土例︵図5 1 8︶ 慶尚北道慶州市の中心部に位置する古墳群である。古墳のいくつ
も存在する。
甑形土器の基礎的研究
45
ることを特徴とする。把手は上面に切り込みを持ち、先端を切り落とすものである。焼成は硬質である。
三つは、横位に接合された半環状の帯状把手を持つことを大きな特徴とする︵図5!日︶。内外面全体に丁寧な
ナデ調整が行われ、外面の把手接合位置には一条の沈線がめぐらされる。蒸気孔は直径二・五センチメートル程の
円孔を中央に一孔、周囲に六孔穿つものである。
これらのうち、一二つ自の甑はその把手の形状などから高句麗土器の影響下にあることは確実である。 一つ目と二
つ自の甑は調査報告書によればそれぞれ夢村I期︵三世紀末・四世紀初i 四世紀中葉︶、夢村E期︵四世紀中葉1
五世紀中葉以前﹀に位置付けられているが、夢村士誠の報告書の編年案には異論もあ日間︶確実なことはいえない。た
朝鮮半島における甑の動向
だし両者とも百済土器の範障で捉えることはできよう。
︵
一
一
﹀
朝鮮半島南部地方で明確な甑が出現するのは無文土器時代後期である。これは体部上位に細工されない把手を持
ち、数条の針状孔とそのまわりの多数の小円孔からなる蒸気孔を持つ。この周囲の小さな円孔が、底部面を越えて
三角形の中間形態であることは、本格的な甑の出現時期を考える上で重要となる。さらに甑として使用されたもの
タイプの甑の口縁部には粘土帝が形成されていることである。 つまり新昌洞遺跡出土甑の粘土帯の断面形が円形と
の蒸気孔を持つ甑は慶尚道から全羅道にかけて広く分布するものであった可能性がある。さらに重要なことはこの
ある。新昌洞遺跡出土例などがその代表であるが、新昌洞遺跡の調査概報の中でも述べられているよう凶ご﹂の種
多く体部下半部にまで穿孔されることが初現期の甑の大きな特徴であり、以降に一定期間受け継がれて行く形態で
46
甑形土器の基礎的研究
47
かどうか問題は残すが、動島遺跡出土の焼成後底部に穿孔を施した警の時期が三角形粘土帯土器を中心とする時期
に位置付けられていることも示唆的である。すなわち、少なくとも、粘土帯土器が作られている無文土器時代の終
わりになって、焼成前に蒸気孔を穿孔した本格的な甑が出現したといえる。
このあと甑は継続して製作されるが、その変遷を明確に追うことができる要素は第一に蒸気孔の形態である。す
なわち、まず一つは底部面をはみ出して体部下端部にまでその穿孔が及ぶ形態から、底部面のみへの穿孔になると
いう変化がある。また一つは、直径一センチメートルに満たない小円孔を幾重にもわたって多数穿孔するというも
のから、その円孔の直径が大きくなるに伴って全体の孔数が減少すると同時に、中央に一孔とその周囲に数個の円
孔という形態が確立していくという変化がある。これをよく示すのは、海南郡谷里貝塚出土の各例などである。
把手には、その接合位置が体部上位から中位になるという変化と、細工されないものから細工されるものへとい
う変化がある。
外面調整に関しては、無文土器、瓦質土器等のこれまでの分類研究で言及されてきた通りである。すなわち、
タキ調整を行うものほど相対的に新しい。また、把手接合位置に施される凹綜は外面タタキ調整のものに主にみら
れる。
これら各要素同士の相関関係を明確に示すことは、 いまだ多くの資料にあたることのできていない段階では難し
く、今後の課題として残される。ただこれまで示してきたごとく、把手に細工を施すことと、外面調整にタタキ目
を残し、凹線あるいは圏綜をめぐらせることはある程度の対応関係をみせることを確認することができる。
地域的な特徴は、特に慶尚道東部地域において顕著である。すなわち、底部を丸底に成形することと、蒸気孔に
タ
は針状の穿孔を放射状に行うことである。この形態の甑は三世紀後半に位置付けられている金海大成洞二九号墳で
も検出されており︵図51H︶、五i 六世紀を中心とする味郡王陵地区で多く検出されていることも加味すると、
かなりの時間幅を有する形態であるといえる。ただし、金海大成洞二九号墳出土のものはやや小ぶりでかつ器壁が
厚い。また、 口一縁部はその外反度が小さく、くの字状を呈する。これは、 のちの味雛王陵地区出土のものへの発展
過程を探る上で重要な相違点である。
夢村土域で検出されている横位に接合された半環状の帯状把手を持つ甑は、京幾道草浦市にある一五i 一六世紀
の陶窯祉でも検出されている。また朝鮮総督府が行った農具調査の報告の中でもほぼ同形態の甑がみられることか
ら、少なくとも近代にまで継続して作られる器形であることがわかる。
また、筆者の知る限りにおいて底部をつつぬけに作る甑がみられないことは、 日本列島における甑の発達を考え
る上で、重要な検討課題となる。
日本列島の甑形土器と朝鮮半島の甑形土器
ても、再者の甑は密接な関係を持っていることや、 一方で日本列島独自の要素も多く存在することを知ることがで
これまでにみてきた日本列島および朝鮮半島の甑の諸例は全体からみればごく一部にすぎないが、その中におい
五
のようにその種の甑が検出されている地域がある。その西新町遺跡出土甑の蒸気孔が小円孔を多数穿孔するもので
古墳時代中期以前、まだ牛角状の把手を持つ甑が多く日本列島に存在しない時期においても、福岡県西新町遺跡
きる。以下でそれらをまとめてみよう。
48
甑形土器の基礎的研究
49
あることは、弥生時代終末期と同時期の朝鮮半島の多くの甑と共通する特徴であり注目される。また、先に指摘し
たように当遺跡では同時期の竪穴式住居に竃が造り付けられており、これはこの時期の日本列島においては特異な
ことである。つまり、西新町遺跡は、その居住者集団の日常生活レベルにおいて極めて密接な朝鮮半島とのつなが
りを有していたことが推定され、それは当遺跡に相当数の朝鮮半島からの渡来者が存在していたことを示すもので
ある。
古墳時代中期になって須恵器の生産が開始される。その初期の窯跡を持つ大阪府大庭寺遺跡と陶邑窯において、
その甑の形態に違いがあることは重要である。すなわち、先述した、大庭寺遺跡出土の甑の蒸気孔はその周囲孔を
一重ないしは二重の円孔とするのに対し、陶閏巴窯出土の甑には周囲孔を四孔以上の楕円孔とするものが多く存在す
るという相違である。
先に朝鮮半島の甑を検討した中で、その蒸気孔について、小円孔を多数穿孔する形態から、中央に一孔とその周
囲に数個の円孔を穿孔するという形態への変化があることを確認した。また、日本列島で須恵器の生産が開始され
た五世紀代に相当する朝鮮半島出土の甑の中で、周囲の蒸気孔を楕円孔とするものを筆者は知り得ず、存在すると
しでも決して主流とはならないと考えられることも重要である。
すなわち、これらのことを勘案すると、大庭寺遺跡出土の甑の方がより朝鮮半島の甑の形態に近く、 一方T K七
三号窯など陶邑窯出土の甑はより百本列島的なものであると考えることが可能となる。このことは、 いわゆる韓式
系土器とされる外面調整痕にタタキ目を残す軟質の甑の蒸気孔は円孔のみで構成されることが多く、 一方その影響
を受けて成立したと考えられる外面にハケ目を持つ土師質の甑の蒸気孔には楕円孔を持つものが一定数存在すると
ヒコニゴ
10cm
図 6 関東の甑形土器
1・
2、埼玉県後張遺跡 5
0号住居社出土
(参考文献 6より作成〉
いう事実によっても補強される。
また、朝鮮半島の甑に関してみることのできた、把手に細工を施すことと、外面に
タタキロを残し凹線あるいは圏線をめぐらせることの対応関係は、 日本列島のいわゆ
る韓式系土器および須恵器の特徴と共通し、この点からそれらの密接な関係をうかが
うことができる。
古墳時代中期以降、東日本においては底部をつつぬけに作る甑︵図6︶が急速に普
さらにもう一点、東日本における甑の発展を考える上で重要なことは、西日本のように朝鮮半島の甑の影響を直
であることと密接に関係する。すなわち、蒸気孔を一つにするという伝統を継承したものと考えるのであ浦町
及する。これは、底部に一孔のみを穿孔する鉢形の甑が、弥生時代後期以来、連綿と継続的に作り続けられる地域
o
おけるその後の炊飯様式の方向性を決めるものとなったのであ一物
日本の特質として注目される。この甑と竃の動向は別稿でも述べたように非常に有機的に関連しており、東日本に
このことは竪穴式住居に造り付ける竃を二つ掛けに改良し大きく発展させた東日本のもう一つの側面であり、東
広く普及したのである。
作るという点では西日本、東日本とも共通するが、東日本の甑は底部をつつぬけに作るという独自の発展を示し、
で検出された甑であり、 おそらく埼玉県武良内遺跡出土の甑もその例に含まれるであろう。すなわち、大型の甑を
接的に受けなかったことである。この事を端的に示す例が、先にあげた群馬県歌舞伎遺跡や宮城県岩切鴻ノ巣遺跡
50
甑形土器の基礎的研究
5
1
お
わ
り
八謝辞﹀本稿は、各地の発掘現場や博物館、収蔵庫などを見学させていただいて得ることができた多くの所見がもとになって
いる。本文中で言及した資料に関連してお世話になった左記の方々以外にも、大変多くの方に資料−調査、文献探索等に関して便
宜をはかつていただいている。感謝したい。
小林義孝、中井貞夫、泉本和秀、藤沢真依、岡戸哲紀、柳本照男、田中毒夫、高橋一夫、若松良一、外山政子、安在階、徐姶
後の研究の基礎となるものであると考える。今後のこれらについての検討を約束して本稿の終わりとしたい。
ことによって、現在につながる炊飯様式の流れを大きく捉えることができる。本稿で整理した事項は、それらの今
った論考は数少ない。また、古墳時代のみではなくそれ以前、以後も視野に入れた分析が必要となろう。そうする
地方、なかでも埼玉県と群馬県に関しては詳細な研究がなされているが、それ以外の地域では甑それ自体を取り扱
甑に関して今後に残された課題は、日本列島各地域における小地域単位の動向を明らかにすることである。関東
も示すことができた。
本と東日本では、朝鮮半島からの甑の影響のしかたのみならず、その後の発展の様相まで大きく異なっていたこと
本列島ではかなり急速な甑の独自的発展が起こったことが明らかになったと思う。また、 日本列島内において西日
り、日本列島における初期の大型の把手付甑は朝鮮半島のそれと密接な関係を有していること、 しかし、その後日
関係を採ることにつながる。本稿では、そのうち、朝鮮半島との比較を主要な目的として論述してきた。これによ
甑形土器を検討することは、 一面では当時の炊飯様式を考えることにつながり、またある一面では朝鮮半島との
.
」
ー
ノ
、
52
男、申敬徹、金東院、成洛俊、朴詰一万、屋鐘津、伊胴元、都出比呂志、福永伸哉、朴天秀。
大阪府教育委員会、大阪府立泉北考古資料館、大阪府埋蔵文化財協会、豊中市教育委員会、福岡市教育委員会、埼玉県教育委
︶
京総覚﹁古墳時代後半期における土師器の器種構成﹂︵古川嶋・高井健司編﹃大阪市平野区長原・瓜破遺跡発掘調査報
告
﹄ E 財団法人大阪市文化財協会一九九二年、大阪市︶一九三1 一九四頁など。
門田誠一﹁有溝牛角形把手||韓式系土器についてのメモ! i﹂︵森浩一一編﹃考古学と移住・移動﹄同志社大学考古
などがある。
外山政子﹁群馬県地域の土師器甑について﹂︵﹃研究紀要﹄六財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団一九八九年、
群馬県北橘村﹀
中村倉司﹁関東地方における竃・大形甑・須恵器出現時期の地域差﹂︵﹃研究紀要﹄第六号財団法人埼玉県埋蔵文化
財調査事業団一九八九年、大宮市︶、
佐原員﹁煮るか蒸すか﹂︵﹃飲食史林﹄第七号飲食史林刊行会一九八七年︶ 0
また、最近の研究では小地域ごとの分析が盛んであるが、よくまとまったものに、
堀田啓一﹁日本上代の甑について﹂︵橿原考古学研究所編﹃日本古文化論孜﹄古川区文館一九七O年、東京︶。
木下正史﹁古代炊飯具の系譜﹂︵和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会編﹃古代・中世の社会と民俗文化﹄弘文
堂一九七六年、東京︶。
例えば通史的に全国的な傾向を追求した論考には、以下のようなものがある。
岩崎卓也﹁甑小考﹂︵﹃信濃﹄第一八巻第四号信濃史学会一九六六年、松本市﹀。
員会、埼玉県立さきたま資料館、群馬県埋蔵文化財調査事業団、釜山大学校博物館、慶星大学校博物館、東義大学校博物館、木
浦大学校博物館、ソウル大学校博物館︵敬称略、順不同︶。
なお、英文要旨作成においては佐々木憲一氏の、図版のトレースにおいては白井美友紀氏の手を煩わせた。深謝。
︵
I
︶
注
︵
︶
2
3
ハ
甑形土器の基礎的研究
5
3
6
︵
5
ハ
4
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︶
﹀
8
︵
︶
7
︵
ハ
9
︶
︵M山 ︶
︵
U
学シリーズE 同志社大学考古学シ F 1ズ刊行会一九八五年、京都市﹀など。
拙稿﹁山陰型甑形土器と山陰地方﹂︵一九九四年六月三日、九州古文化研究会に投稿、受理。﹃古文化談叢﹄に掲載予
定︶において、山陰型甑形土器を中心とした容量の比較を行っている。
韓式系土器研究会編﹃韓式系土器研究﹄ IiN ︵一九八七・一九人九・一九九一・一九九三年、大阪市﹀などに詳し
八八年、東大阪市﹀ o
中西克宏﹁把手付甑形土器について﹂︵﹃東大阪市文化財協会ニュース﹄三l三 財 団 法 人 東 大 阪 市 文 化 財 協 会 一 九
a、森村健一一編﹃陶邑・大庭寺遺跡﹄︵財団法人大阪府埋蔵文化財協会調査報告書第四一輯大阪府教育委員会・財
団法人大阪府埋蔵文化財協会一九八九年、大阪市︶。
b、冨加見泰彦・山上雅弘編﹃陶邑・大庭寺遺跡﹄ E ︵財団法人大阪府埋蔵文化財協会調査報告書第五O輯 大 阪 府
教育委員会・財団法人大阪府埋蔵文化財協会一九九O年、大阪市﹀。
c、富加見泰彦・土井和幸編﹃陶邑・大庭寺遺跡﹄ E ハ財団法人大阪府埋蔵文化財協会調査報告書第七五輯大阪府
教育委員会・財団法人大阪府埋蔵文化財協会一九九三年、大阪市﹀。
d、岡戸哲紀﹁陶ロ巴と大庭寺遺跡﹂︵﹃古墳時代における朝鮮半島系文物の伝播﹄第三四回埋蔵文化財研究集会発表要
旨埋蔵文化財研究会・関西世話人会一九九三年、大阪﹀など。
中村浩編﹃陶邑﹄ E ︵大阪府文化財調査報告書第三O輯大阪府教育委員会一九七八年、大阪市︶など。
田中清美﹁5世紀における摂津・河内の開発と渡来人﹂︵﹃ヒストリア﹄第一二五号大阪歴史学会一九八九年、西
宮市︶。
柳本照男編﹃桜井谷窯跡群2lu窯跡﹄︵豊中市文化財調査報告第九集少路窯跡遺跡調査団一九八三年、豊中市﹀
など。
中村浩ほか﹃陶巴﹄羽︵大阪府文化財調査報告書第三五輯財団法人大阪文化財センター一九八八年、大阪市︶。
ハロ︶ 外山政子﹁甑について||平安時代の甑を中心にして 11﹂︵﹃研究紀要﹄四財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
一九八七年、群馬県北橘村﹀七三頁。
54
︶
︵日﹀
︵
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︵日︶
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1
71
6
︵悶︶
池崎譲二ほか編﹃福岡市高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告E 西新町遺跡﹄ ︵福岡市埋蔵文化財調査報告書第七九集
福岡市教育委員会一九八二年、福岡市﹀一回七頁。
柳田康雄﹃西新町遺跡福岡市早良区西新所在遺跡の調査﹄︵福岡県文化財調査報告書第七二集 福岡県教育委員会
一九八五年、福岡市︶一一一具。
栗原文蔵ほか﹃国道げ号熊谷バイパス関係埋蔵文化財発掘調査報告鴻池・武良内・高畑﹄︵埼玉県遺跡発掘調査報
告書第一一集埼玉県教育委員会一九七七年、浦和市︶五二頁。
井上唯雄一編﹃歌舞伎遺跡﹄︿財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団一九八二年、群馬県北橘村︶六O頁
。
一九九三年、韓国釜山市﹀。
J
白鳥良一・加藤道男ほか﹁岩切鴻ノ巣遺跡﹂︵﹃東北新幹線関係遺跡調査報告書﹄ I 宮城県文化財調査報告書第三五
集宮城県教育委員会・日本国有鉄道仙台新幹線工事局一九七四年、仙台市︶二O 二頁。
李海運﹁ 旬。サオ時寸前寸ペ ET吋
J 叶ヰ叶||コ一園時代是号一位。一旦 l
i﹂︵﹃博物館研究論集﹄二釜山直轄市立博物怨
屋盛洛﹃海南郡谷塁貝塚﹄ E ︵木浦大皐博物館盟申術叢書第一五冊 木浦大皐博物館・全羅南道海南郡
韓国木浦市︶図二六。
M ︶ 山雀盛洛﹃海南郡谷里貝塚﹄ I ︵木浦大準博物館皐術叢書第八冊 木浦大同学博物館・全羅南道海南郡
国木浦市︶九八頁。
︵
お
︶ 屋盛洛一九八九︵注お文献︶図二ニ。
︵
︵招︶
一九八七年、韓
一九八九年、
︵ 況 ︶ 鄭永和﹃造永洞発掘調査報告﹄︵学術調査報告第六時嶺南大事校博物
館一九八五年、韓国︶一一一一八頁。
︵
辺
︶ 雀盛洛担保南郡谷里貝塚﹄ E ︵木浦大皐博物館皐術叢書第一一冊木浦大拳博物館・全羅南道海南郡一九八八年、
韓国木滞市︶一 O ニ頁。
︵
却
︶ 趨現鐘・張斉根﹁光州新昌洞遺蹟| l第1次調査概報||﹂︵﹃考古学誌﹄第四輯韓園考古美術研究所一九九二年、
韓国﹀一二四頁。
安在陪ほか﹃勤島住居祉﹄︵釜山大皐校博物館遺蹟調査報告第一三輯釜山大皐校博物館一九八九年、韓国釜山市﹀
四九頁。
」
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/
︵日目﹀
r、
,
,
.
.
.
_
,
甑形土器の基礎的研究
55
︶ 韓柄三・鄭澄一万﹁東区貝塚渓掘調査報告﹂︵﹃馬山外洞城山貝塚設掘調査報告﹄ 文化公報部文化財管理局
お
︵
一九七六
。
年、韓国︶入O頁
︶ 林孝津・郭東哲・趨額福﹃大也里住居社﹄ E ︵東義大拳校博物館拳術叢室田三東義大事校博物館 一九八九年、韓国
幻
︵
釜山市﹀四三頁。
ハ部﹀ 金誠亀・金正完ほか﹃昌寧余草里阜、河井斗吋﹄ I ︵園立晋州博物館一九九二年、韓国晋州市﹀七五頁。
金廷鶴・鄭澄元・林孝洋﹁味郷王陵第七地区古墳群稜掘調査報告﹂︵﹃慶州地区古墳愛掘調査報告書﹄第二輯 文化財
管理局・慶州史蹟管理事務所一九八O年、韓国︶六七頁。
︵叩却︶
︶ 世ノ世英﹁味制御王陵地区第9区域︵A競破壊古墳︶護掘調査報告﹂︵﹃慶州地区古墳護掘調査報告書﹄第一輯文化財管
却
︵
理局・慶州史蹟管理事務所一九七五年、韓国﹀一一一一九頁。
︶ 宋義政ほか﹃慶州市月城路古墳群﹄︵園立慶州博物館・慶北大拳校博物館・慶州市一九九O年、韓国︶二七回頁。
幻
︵
金元龍・任孝宰・林永珍﹃夢村土城東北地底端技掘調査報告﹄︵ペ合大皐校博物館・ぺ全特別市一九入七年、韓国ソ
︵泣︶
ウル市︶二ハ一頁。
金元詰・任孝宰・朴淳諜﹃夢村土城東南地区議掘調査報告﹄︵ぺ。一大暴校博物館・々を特別市一九八八年、韓国ソ
ウル市︶二六七1 二七三一良。
q 忠商大挙校百済研究所一九
朴淳護﹁百済土器斗形成過程||社オ帝斗合す407All﹂︵﹃百済研究﹄有一一一二 J
超現鐘・張斉根一九九二︿注初文献︶六八1六九頁。
九二年、韓国﹀五六頁。
lいわゆる百済前期都城論に関連して||﹂︵﹃東京大学文学部考古
﹀ 白井克也﹁ソウル・夢村土城出土土器編年試案i
お
︵
学研究室研究紀要﹄第一一冊東京大学文学部考古学研究室一九九二年、東京︶。
︵出﹀
﹀ 李海連一九九三ハ注回文献﹀五九頁。
お
︵
︶ 中千淀ほか﹃山本地区文化遺蹟護掘調査報告書﹄ ︿明和大翠博物館・湖巌美術館・京幾道 一九九O年、韓国︶二七
お
︵
二頁。
︶ 朝鮮総督府勧業模範場編﹃復刻 朝鮮の在来農具﹄︵慶友社 一九九一年、東京﹀九六1九七頁。
釘
︵
56
︵ 部 ﹀ このことに関しては、稿を改めて詳述したい。
︵
鈎
﹀ 拙稿﹁竃の地域性とその背景﹂ハ﹃考古学研究﹄第四O巻第一号 考古学研究会
参考文献
5
︵
︶
。
会 一 九 八 四 年 、 堺 市v
立石盛詞ほか﹃関越自動車関係埋蔵文化財発掘調査報告X V 後張﹄
財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団一九八三年﹀。
一九九三年、岡山市︶。
︵埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第二六集
野島稔﹁奈良井遺跡﹂︵韓式系土器研究会編﹃韓式系土器研究﹄ I 一九八七年、大阪市﹀。
樋口吉文編﹃陶器・小角田遺跡﹄︵堺市文化財調査報告第三三集堺市教育委員会一九八八年、堺市︶。
川口宏海・白神典之﹁翁橋遺跡発掘調査報告||第1地区||﹂︵﹃堺市文化財調査報告書﹄第一入集堺市教育委員
1﹀中尾芳治編﹃難波宮祉の研究﹄第八︿財団法人大阪市文化財協会一九八四年、大阪市﹀。
︵
︵2﹀赤木克視・森屋美佐子・三好孝一一編﹃久宝寺南︵その 1︶﹄ハ大阪府教育委員会・財団法人大阪文化財センター
八七年、大阪市﹀。
︵
3
︿
﹀
4
︶
︵
6
︶
ハ文学部助手︶
九
Fly UP