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十 十 - 九州大学

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十 十 - 九州大学
執行嵐先生の最終懇話(録音テ lプより)
名誉教授・故人
-
︿に
執行先生が錯覚されたものと思われる)。そして、郷里にもらわれ
ていってですね、両親が別れて、もう父方は相手にしないから、母
方にもらわれていったんですよ。それで苦労した。そこは大家族な
んですよ。もうとにかく後家さんとオールドミスばっかりなんです
(笑)ロ二一人ぐらいおったです。人聞が二一人もおると、みんなが
仲ょくできない。必ず派閥ができるんですな(笑)。大体五人ぐら
いでまとまるんで、五、六人で。それで、派閥ができるんですねロあっ
ち行ったり、こっち行ったり、御愛想笑いしとかないかんわけです
よ。それで私は本当に家族というのは無くさないかんと思ったんで
執行嵐いこの前は学生さんにはたしか社会学という話をいたしま
したけれども、今の社会学の中でも、どうして家族社会学を選んだ
習慣を持っておられました。当日もそうでした。)
ところが、やっぱり彼女ができるんですね(笑)。それで、仲よ
うのをですね。﹁支配の諸類型﹂、これを理解しないと、家族主義は
解けないのですよ。これを勉強したわけですよ。
けやったってだめだから、ドイツ語でやってみようというわけで、
マックス・ウェ1バlの﹁ティ1ペン・デア・ヘルシャフト﹂とい
すよね。
それで、大学に入って家族社会学をやったのは、家族を無くすた
かですね。聞くも涙、語るも涙なんです(笑)。というのは、実は
当時改組委員であった福留が、経済学担当で、執行先生と同じ社会
私は複雑な家庭に育っている、大家族なんです。私は大正一四年一一
月四日生まれなんですけれども、実は生まれたのは、実際に世の中
に出たのは大正二二年一三月四日なんです。七カ月で飛び出したん
くしたいというので、まだ結婚する前だったですけど、今度はいか
にして夫婦は幸福になれるかですね(笑)。夫婦の幸福度の予測研
究です。そして、その次からは夫婦関係のダイナミクス、子供なん
か構わんから、ダイナミクスですね。俗に、私はインターツ1リズ
めにまずやったんですよね(笑)。との家族主義が日本を悪くした
んです。それで、私はマックス・ウェ Iパーをやったのも、日本だ
ですね。慌て者なんです。これじゃ、まあ、とにかく小さくて、生
ムでやっていたんで、インターッlリズムというのはですね、結局
集団としてモノをとらえないで、人間と人間の関係としてとらえ
る考え方でございまして、心理学の人はよくご存じでしょうけど、
ですよ。それで、私の母ちゃん、また次をはらんでいるんですよ。
ジ1 ・ティl ・
ニ1ドですね、シカゴ学派なんですよ。それでやっ
て、それはファミリー・ディスオ1ガニぜ1ション・アンド・オl
ガニゼlションですね。日本で俗によく﹁雨降って地固まる﹂と言
きるか死ぬかわからんから、昔は大まんだった、届けたってしょう
がないんです。やっとこれ、生き延びれたというので翌年の二月四
日に届けが出ているんですよ。その聞に母親はもう離婚しているん
科学教室に属していたこともあって、司会役を務めた。当時、執行
先生は多少とも緊張する場に臨む際には、事前にお酒を召し上がる
いう行事があった。とこで紹介するのは、一九八八(昭和六三)年
=一月三三日に行われた社会学担当教授・執行嵐先生の談話である。
との懇話会は、何故か、改組委員会が世話する慣例になっていて、
(*一九八0年代の教養部で、二一月の最後の教授会の開催日の牛前
中に、その年度末で定年を迎える先生方の談話を拝聴する懇話会と
執
f
丁
私は大正一四年一一月四日生まれですけど、私の妹は大正一四年一一
月三目、紀元節です︹*一一月三日は明治節。紀元節は二月一一日。
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嵐
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」
いますけど、あれは全く嘘なんです。もともと好いやつは壊れても
よくなるけど、悪いやつが壊れたらだめです(笑)。
そういうものをやりながら、それでまた婚姻というもの、家族と
いうものを、考えれば考えるほど、またさっぱりわからなくなりま
した。考えんやつはすぐわかったと言うんですよ(笑)。勉強しと
るとわからなくなる。昔、田んぼに水を入れるために、足踏みを踏
んでいましたよね。学問の道はいつまでも無限の足踏みですよロ賓
の河原の石積みですよ。積んでは壊れ、積んでは壊れ、業ですね、
人間の。知恵があったぽっかりに、ばかだったらよかったと思うん
例えば白川村ですね。そこでは長男だけが結婚できるんですよ。次
三男は結婚できない。女の人も、長男の嫁になれば結婚できたわけ。
それ以外は結婚できないロしかし、人聞はそれじゃすまんから、適
当にやりますし、ラバーができるんですね。しかし、結婚とは言わ
ないで、生まれた子供はどっちにつくかといったら、母親のほうに
つく。乙れは﹁おんじ﹂、﹁おんぼ﹂なんです。宮崎にもありました。
福岡県にも大分との境にありました。
あるいはとういう制度がある。アフリカのヌアl族というのは人
類学でよく取り上げますけどね、ゴーストマリッジ、死霊婚という
のがあるんですね。ここでは父親、結婚した男が、子供がないうち
に死んだら、どういうことをするか。その兄弟、または従兄弟に
よって子供を生ませる、嫁さんに。それで生まれてくる子供が誰の
子になるかというと死んだ夫の子になる。旧約聖書にもあるんです
よ。創世記の三八章。ユダヤ人の長老、ユダがですね、長男が死ん
だときに、次男のオナンに﹁汝、兄嫁のととろに入りて、兄のため
に子供を生め﹂。そういう言葉があるんですね。そしたら、オナンは、
生まれる子が自分の子ではないから、兄嫁のテントに入る前に地に
漏らしたりですね。これはオナニズムの語源なんです。そのことが
神の自に悪ければ、オナンもまた死ぬんです。
あるいはまた、インドのマヌの法典にもありますよ。サピルナ婚。
夫によって子供を生むととができなければ、兄弟、または従兄弟に
よって、夫のために子供を生め。ただし、そのことで用事が済んだ
ら、相手との関係は嫁と男のような間柄でなければならない。田辺
繁子さんが訳した岩波文庫の﹃マヌの法典﹄にちゃんと書いてあり
ますよ。奇々怪々ですよ。
それで自分の生活からそういうのを、それで私はそういう家族主
義に対してあれでしたから、じゃ、日本の社会もそうだから、やく
ざの世界も勉強しました。それからテキ屋も研究しました。例えば
●
ですよ(笑)。もう業を踏んでいるような気持ちですよ。しかし、
選んだ道、行かないかんですわな。最後まで足踏んでいこうと思う。
過去を語りたくないんです。私にはまだ未来がある。前を向いて進
もう。振り返るな。それで過去を諮りたくないですけどね。ま晶、
そんな風にやってきました。
それで、婚姻というのも、なかなかはっきりしないけれども、た
だ一言できるんですよね、私は。というのは私にとっての命なんで
す、婚姻は。婚姻というのは親を決める制度である。なかんずく父
親を決める制度なんです。だから皆さん婚姻というのは、女の人は
女性を束縛する制廃だと言うかもしれない。それは嘘なんです。男
を縛る制度なんです。おまえが父ちゃんや、逃げちゃいけないとい
うのが婚姻なんですよ。だから、父親がいない社会には婚姻という
ものはないんですよ。
そういう例があります。それは南インドのナlヤル族です。タ
ラバ1ドというんです。シプリング・ハウスホールド (*ω号宮田
O
町E
O
E
O
eと言いますけど、同胞世帯ですね。それは、兄弟姉妹、
それから姉妹の子供で世帯を持っているんですね。男は、種付け男
で、とれはラバ1(*FO話吋)なんです。日本にもあったんですよ、
かつては。かつては﹁おんじ﹂、﹁おんぼ﹂という存在がいました。
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245———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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十
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すが、こういうのは殺される、成り立たない。テキ屋は親分子分関
皆さんたちが、寅さんというのはですね、一匹オオカミのテキ屋で
母ちゃんを大事にしたことだけが私のあれです(笑)。これまでの
人生も、子供は信用できませんわ(笑)。いかに残された老夫婦が
仲よくやっていくか、そういう研究でもしようかなと(笑)。結局
は威張らんこと、﹁うん、うん﹂と言っておけばいい。あせらんで
なかったと思います。ただ、[聴取不能]さんじゃないけど、まあ、
如きは大したことはできませんでしたし、世の中に貢献する己とも
すよロ僕は泣いて追っかけていきょったですよ、一里、二里、走っ
て追っかけたこともありますよ。しかし、もうあきらめるんですね。
それを繰り返していくうちに、一つも私は別れがあんまり苦になら
ですね。二、三年すると、﹁ねえやは嫁に行く﹂で行ってしまうんで
すけれども、またすぐ忘れる。そういう育ちなんですよ。小さいころ、
親がいないですからね、婆やたちに育てられた。婆やというか女中
すなロ腹立ちます、僕は痢癒持ちですからねロただ、私は感情家で
係がなきゃ、親分を持たなければ、絶対生きていけないんですよ。
疑わしい人はここに本を持っていますから読んでください。特にこ
れはいい本ですよ。特に福留さんみたいに、僕とどっちこっちの音
痴はですね、歌が歌えんからですね、これを読んで口上ですよ、テ
キ屋のですね、これをやると余興になりまずから、ぜひ読んでくだ
さい。
そして、皆さんたちは、演歌師などというのは結局テキ屋の世界、
やくざと違うんですよ、やくざはただ何とかで﹁ござんす﹂と、﹁ご
ですね。それですぐわかるんです。例えば、石田一松、参議院議員
にもなったことがある演歌師ですね。とれも結局飯島一家の涜れで
ないんですよ。も、これで止めましょう、一番短い話で御免なさい。
ざんす﹂を下げる。テキ屋は﹁ござんす﹂と上げないかん、語尾を
すよ。実は岡晴夫もそうですよ。パタゃんもそうですよ、田端何と
エニユケlシヨン・プリ1ズ(*自︺主E
g号p-M-OEO-)(笑)。
家族についてはいろいろ学者が多い中で、私がいろいろ本当はでき
る。開発したことはないけど、人のやったととは大抵記憶していま
ずから。いろいろな家族がありますよ。今言ったように婚姻がない
かというのがおるでしょう。演歌師の中にずっとそういう流れがあ
るんですよ。何でそういうのを知るかというのはですね、親分です。
親分、子分というのは日本だけじゃないんですよ。カトリックの
影響のある社会にも相当ありますよ。ジャマイカ、コンパレド制、
だいふ
コンパレド制というのは結局、代父制なんですよ。代用のダイ、チ
チですよ。結局命名、洗礼のですね。親になったら子分にする。フィ
適正規模というのがある、と私は思うんです。家族は四、五人が精
社会もあったことはあるんですね。
そして、最初に言いましたように、私も一二人くらい家族がおっ
たんですけど、分裂が起こる。大体いろんなものにおいてですね、
リピンにもありますよ。カトリシズム{*口同居。ロ己盟国-がありまず
から。日本の隠れキリシタンにもありますよ。代父のことを何とい
ことを言うなと、百人も集めて。これでは知識の切り売りしかない
んですよ。それを嘘八百言って人格を何とかと言うから、間違いが
いっぱいです、情動的な結びつきをしようと思ったら。学校で、人
格教育しようとすれば二O人までですよ。大学で人格教育、馬鹿な
早くやめんと︹笑)。皆さんが本当に立派な話を長々とされたんで、
起とるんですよ(笑)。国でも、日本みたいに一億ぐらいだったら、
民主的な総理大臣、竹下の馬鹿、中曽根の馬鹿と言ってもいいです
うか。日本の古来からの言い方で、﹁へと親﹂と言います。で、何
でもくっついていくんですね。
余り言つでもあれですから。言い出したら止まりませんからね、
私は早く止めようと思つんです。それで、老兵はただ消えていくの
みなんです。一生懸命勉強したことは勉強しましたけれども、私の
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されますよ。権力持たないかん。馬鹿と言えるのは一億までですよ。
よ。人口一 O億になってごらんなさい。毛沢東の馬鹿と言ったら殺
言葉を借りれば、博多に飽いた人聞は人生に飽きたのであ!る。で、
ロ)の
ン、ドクター・ジョンソン(*ωmgc巳 ]OF
ロωopu 吋・]O}58
どうも失礼しました、要らぬことばかり言って。(拍手)。
博多で生活はしようと思います。
知識の切り売りと思えば。そうしたら、スタッフをたくさん持つこ
ありがとうございました。しかし、(笑)。流れる涙は隠すことで
適正規模があるんですよ。ただ大学は、だから多くていいんですよ、
とができるから、いろいろの知識を得ることができますよ。このあ
きない。
∞君。2ZE∞
︿
ロω
o邑可江口目。ロ己B
印
︿S 一回。毛色 04
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たりを考えて、今の大学で人格教育ができると思うのが、そもそも
私は間違いだと思う、はっきりあきらめましょう。できゃしないん
麗しの樋井川よ、優しく流れよ、我、か歌の尽きるまで。ちょっと
街学的やけど、おれ。(拍手)。
ですから。こういう錯覚なんですよ。人格教育はまた別の場、かあり
ますよ。こういうところが頭の悪い奴には││(笑)。私は人にす
人ですよ。決して好んで浪人になったんじゃないんですよ。誰も呼
ぐそういうことを言うて、やりそこないましてね。私はこれから浪
んでくれないから浪人なんですよ(笑)。考えてみれば論語の為政
Y亙払
編に、これは子張という人が、禄を求むるを学ぶ。どうしたら就職
できるか、孔子に聞いたんです。孔子が﹁多くを聞きて疑わしきを
快き、その余を言えばとがめ少なし。多くを見て疑わしきを映き、
その余を行えば悔い少なし。言(げん)とがめ少なく、行い悔い少
247
一 一 → 第 3章宏震に残忍できごと
なければ禄その内にあり﹂。そうしたら向こうから就職を言うてく
O
る。考えてみれば私は、言とか行いに悔い多し(笑)。これはやっ
ぱり無理ですわ(笑)。人生というのはそういうものです。
それで私も、今度は宴会(*午後教授会の終了後に開催される送
別会を指す)のときはもう言いませんけどね、しょうがないから。
けれど、私は案外運がいいんです、育ちは悪いけれども、大金持ち
にもらわれて、ずっと養子、養子で来て、銭をためてる、銭がある
ところにだけ養子に行っているんです(笑)。今度また養子に行く
んですけどね、そこは不動産業ですよ。不動産業というのはですね、
このごろの言葉です。(*昔の言葉で言えば)地主です。不動産業
の手代でもちょっとしながら、郷里(くに)と博多を行ったり来た
り。しかし、博多からは去ろうと思わない。サミュエル・ジョンソ
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後列左から執行嵐(社会学)、横田耕一(日本国憲法)前列左から大西孝子(祉 あ ご
れざ
会科学教室事務)、福留久大(経済学) 1
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0年代初め、社会科学教室にて。
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旧社会科学教室アルバムより
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鳴呼、 わが青春﹁六本松﹂
円四
町
内
田
町1
0mg 。同同町﹃ER巳可。。=
童館大型毛誉重二見剛史
教育学部の平塚益徳教授が私の母校加治木高校で謹開演されたのは
昭和三四年、その内容に感銘された久保平一郎校長が溝辺のわが家
に来られ﹁小原因芳・鯵坂二夫先生らのよき理解者でしたよ。ぜひ
世相は安保反対の頃、学生運動でボイコットを受け教室に入れな
かったり、天神周辺の電車道でジグザグ(問問Nm凹)デモをやったの
も遠い思い出です。明善の二人と加治木の二人計四人で六畳二聞
を借りカーテン間仕切りの生活も貴重な体験です。部屋代は一人
千五百円、学食だと朝二O円、昼三五円、みんな質素倹約の生活で
した。でも、博多名物﹁山笠﹂を見学したり、小旅行やキャンプ、
映画にはちょくちょく出かけました。﹁勝利なき戦い﹂もその一つ
です。
ソ連のロケット月面到着やロI マ五輪等で世界への夢を描いた
書館で英字紙の社説を解説したのは満二O歳の頃、私は英文日記を
日々でもありました。イラクから医学部に来た留学生に乞われ、図
鹿児島師範で小原先生と机を並べた間柄の父、末っ子老教育界に
楽しんでいました。語学力を伸ばしたいという気持と、青春の悩み
息子さんには九大受験を﹂と言われたらしいのです。
進ませたいのが本心の様子でした。当時一浪中の私は英数学館で受
や自分の理想を外国語の世界で表現したかったのかも知れませんロ
春夏秋冬それぞれの長い休暇には必ず帰省し農業の手伝いをして
験勉強の仕上げに励んでいましたロ幸い成績も九大ラインに達して
きたので、父の勧めに従い九州大学一本に絞りました。五倍の難関
います。あれから半世紀、父母の齢に達した今、﹁親もきっかった
ろうナ、でも息子が手伝ってくれた時は嬉しかったかもナァ1﹂と
思うことです。大学進学記念の池に寄せて父は詠んでくれました。
を越えて﹁オヤジヨロコベタケシ﹂の電報に家族は小躍りした
六本松でのクラスは﹁文一の三﹂、文学部の一部と教育学部をま
コニ四の夏、皆で造りしこの紫泉、永遠に清水を湛へてしがな﹂﹁努
そうです。
とめた約五O名、その八割は福岡県出身、鹿児島県からは私一人で
力して事の成る日の嬉しさは、われ一人知る神の面影﹂。
わずか一年半の時空なのに、たくさんの出会いがありました。初
したが、五月には早くも親睦会を結成し仲間づくりに精出しました。
大学生になった実感は時間割の自主扇成、教養科目全般に加えて語
恋は実りませんでしたが、のちに良き伴侶を私に紹介し月下氷人の
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生劇場﹂の濫筋でもあったのでしょうか。懐かしい故郷・ハイマl
大役を引き受けて下さったのはラテン語の先生でした。六本松は﹁人
学では英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語までびっしり、ノー
トの何冊かは日記と共に保存しています。
サークルは弓道部・茶道部・ ESSそして結局落ち着いたのが教
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自己主
旦です。
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2・色四国O
官
このたび、わが青春﹁六本松﹂を振り返る機会を与えられ、私は
育研究会でした。河合栄治郎著﹃学生に与ふる書﹄をテキストに読
書会、学園祭では旧制福岡高校の寮を改造した部室に泊まり込みま
何たか今、夢の世界にいるような気がしてなりません。
宮司ロF
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E 司・
した。フアイヤ1ストームの思い出も過ぎります。箱崎キャンパス
から見学に来られた先輩に﹁大学生活の道のりは長いんだヨ。ゆっ
くり遊んでから学部に来なさい﹂と言われたのを覚えています。
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川
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」
六本松学生時代の思い出
福岡市博物館館長
憲一郎(昭型プ七年入学)
利のための闘争﹂、﹁国家と革命﹂などの洗脳的読書会がつづき、段々
と政治的なイデオロギーに親しんでいったものです。当時の九大生
学しましたロ同じ九州であっても大分の言語文化は瀬戸内海を向い
の二階に引っ越しをしました。隣の住人は壱岐からの医学生で、彼
とよく市街ウオッチングに出かけました。との頃は旧博多駅の時代
荷を乗せ友達が加勢してくれてすぐ終わります。半年ほどで浜田町
は我々に限らず皆政治的な関心も高く、デモにも多く参加していま
n 軍板付基地への F 一
した。 米
O五配置反対 uなど叫んで束中洲で
機動隊と採みあったりもしましたロ
学生はよく引っ越しをします。引っ越しは簡単、リヤカー一台に
ていたようで、方言ものんびりしています。しかし大都会福岡に出
てきて、まずコはってんがくさ﹂など今まで聞いたこともない強烈
で、古色蒼然とした駅舎のプラットホームに、 C五七蒸気機関車に
引っ張られて入ってくる特急あさかぜの雄姿を胸躍らせて見物して
昭和三七年春、私たちは大分上野丘高校を卒業し、九州大学に入
な方言に驚き、またどこまで乗っても料金(一人二ニ円、往復三五円)
が変わらない市内電車にピックリし、﹁さすが福岡じゃのう﹂と感
いました。移動はもっぱら市内電車ですが、城南線は道路の中央が
電車専用軌道となり、舗装していません。とこは運転手も気持ち良
いらしく、大正時代の木造電車などが左右に車体を激しく揺らしな
心したものです。当時六本松の校舎は古めかしい旧制福高の木造の
建物で、風格のある本館を通り抜けると学生控え室(ミルクホール)
があり、その先に新館と呼ばれるコンクリート三階建ての教室棟が
ありましたが、両側に並ぶ教官室などは昔のままの木造でしたロ仲
の部屋でしたが、九州各地から一 O数名の学生が来ていて、朝晩締
四五円昼夜六O円)と時々豪華にトンカツ(八O円)を食べていま
した。また呉服町の日立ファミリーセンターや電気ホ1ルでのステ
レオコンサート(生演奏ではない、音響機器のみ)は金の無い芸術
的学生の楽しみでした。
て
一 OO円の映画を見、味のタウンのナイルカレーで食事をして帰
るというものです。食事といえば日常は大学内の生協食堂で定食(朝
がら猛スピードで練塀町の坂を六本松へ下っていました。天神町に
もよく出かけました。我々の定番コ1スはセンターシネマで三本立
麗な女主人の作ってくれる食事を食堂で一緒にとるのが楽しみでし
た。夜は誰ともなくどこかの部屋に集まり、天下国家のことから人
生論まで硬軟とりまぜての先輩たちの話に目を輝かせたものです。
六本松教養部の授業は、学部専門課程に進む前の一年半外国語科
間の半分は田島寮に入れたのですが、私は大濠公園近くの下宿屋に
入りました。木造モルタル造りの家で私の部屋はトイレの横の四畳
目や基礎教育科目を受けるのですが、当時の日記を見ると第二外国
のであります。
テレビも冷暖房器もパソコンも無いこの頃の学生生活は、今思え
ば奇蹟の様な一時期でしたが、情報氾濫の嵐に探まれ、就職戦線に
苦労している今の学生たちに一度味わせてやれたらなと時々思うも
語(私はドイツ語)に悩まされたこと、また何といっても前期と後
期の試験が最大の苦しみであったことが分かります。それを除けば、
自分自身で時聞を自由に使うことのできる真に貴重な時期でした。
●
西
大学には文化芸術、体育系など六O近くのサークルがありましたが、
私はまじめに﹁法律研究部(法研)﹂に入りました。入部早々から﹁権
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249———— 第 3 章 記憶に残るできごと
十
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六本松の想い出
福岡市総合図書長植木とみ子(昭和四四年法学部幸)
その年大学紛争のあおりで東大の入試が中止になり、急逮変更し
てトライした九大の入試もまた、全共闘の学生の妨害を避けて、直
前に試験場が学外に移された。入学式にもヘルメット集団が闇入し
て一悶着あり、始まった学生生活ロ
に書き改める仕事であるロ
ここで同じくお手伝いをしている文学部の助手や、新聞記者や、
数人の先輩と知り合い、また竪削の社会主義関係の新聞などを丹念
に読む機会を得た。原稿の締め切り間際になると、近くの旅館にみ
んなで泊まり込んで、徹夜に近い作業もしたロ届屋物を取って食べ
ることを覚えたのも、このときである。教養部の表門の真ん前にあっ
た、そば屋﹁大江戸﹂の﹁天とじ井﹂がおいしかったこと。
先生の関わっておられた組合運動の学習会にも何回か出席して、
その後の懇親会にも加わり、国鉄や郵政の労働現場の人たちとも懇
意になった。しかし、先生は﹁あなたにはあなたの本分がある﹂と、
私に運動への参加は要請されず、むしろ幅広くマスコミや山川菊栄
さんなど当時の著名な方々を紹介してくださった。
本学に進学するに当たっては、﹁法学部では、有地教授が柔軟な
オリエンテーションで同じクラスの人たちと自己紹介しあい、誘
われて何度か街頭デモに参加したロ間もなく教養部全学集会があり、
無期限ストに入った。学校に行っても豊南はないし、机や椅子のバ
リケードで封鎖された教室に入ると、いろいろ落書きしたヘルメッ
考え方を持っているので、君に合うのではないだろうか﹂と、貴重
なアドバイスもいただき、私はその通りにした。有地亨教授には、
れない。
つまり普通の大学生活を目一杯楽しんだが、しかし、何と言っても
私の六本松は﹁大学紛争﹂と﹁川口先生﹂、乙の二つを抜きには語
もちろんとの問、家庭教師のアルバイトをし、恋をし、旅行をし、
学問の師としてそれ以来ずっと今日までお世話になった。私の今日
あるは、このお三人の先生のお陰である。
トを被った何人かの同級生が、所在なく本を読んだりしていた。
ともかく暑く、無気力な夏だった。私はこの夏、岩波新書の心理
学関係のほとんど全部を読破した。記録によると一 O月一四日に、
機動隊による封鎖解除がなされている。私は電車道の向乙うから、
催涙ガス、高圧放水と火炎瓶の攻防を見ていた。
全学集会を聞いてストを終結させたのは、その前だったはずだ。
スト解除のための差事開催させるために、私は全共闘の各会派の
リーダーを訪ね、説得して回った。一人一人の王宿を訪問し、部屋
に上がり込んで同意を取り付けたのだ。初めて男女の学生が同棲し
ている部屋に入って、不思議な気がしたことを今でも鮮明に覚えて
いる。
六本松の後半は、前教養部長の川口武彦先生との出会いから始ま
る。授業が再開されてすぐに、どんな経緯だったか定かではないが、
堺利彦全集﹄の出版のお手伝いをすること
川口先生から呼ばれ、 ﹃
になった。明治・大正時代の堺利彦の著述を集めて、現代仮名遣い
ート-
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六本松、 九大物理研究部の想い出
次
第
田中卓史(昭和三八年入学・九州大学工学部電子工学科卒)
昭和三八年(一九六三年)五1六月頃、六本松の九大教養部正門
前で撮った物理研究部のメンバーの写真です。左から田中卓史、柴
田洋二、三角修一、有馬さん、長沢勲、奥田秀夫です。私、田中は
九大で助手をした後、国立国語研を経て福岡工大の教授に、学生運
動で活躍した柴田君は日立製作所に、三角君は三和銀行を経てソフ
トの会社に、一年先輩の有馬さんはどうされたかな?学生服の長
沢君は九大の講師を経て九工大の教授に、背の高い奥田君はシャー
プに就職しました。皆、定年退職の年齢になっているので、既に
学
園
祭
足をやったり合宿をしたり、楽しいことを沢山しました。紅一点の
てか、四月には新しい部員が沢山入ってくれました。研究以外に遠
まとめるため、ガリ版刷りの部誌を創刊しました。その効果、かあっ
昭和三九年(一九六四年)の三月には一年間の活動の研究成果を
k
同年秋は東京オリンピックが行われました。ちょうど同じ頃、学
桑野幸子さんは薬学部に進まれたけど、その後、どうなされたかな?
新しくできた学生会館の屋上 (
1
9
6
4年秋)
一
●
に三場はこていにた験の験と研しー外動
は年だクのし方あ。な実、、究た部れ場当
模下つラ時まをつ物ど験偏真発手をのの時
擬のたブ代しマた理を、光空表園借物手の
!吉弟ののの本ス旋のや無と放を依り理前部
かので発学まタ盤実り線光電や宅て教一、室
雪時宗表園
lも 験 ま の 弾 の ろ 色 い 室 東 は
り代、の祭 Oし使室し実性実う々まのの運
生会館が完成して、部室は学館に移動しました。同時に私達も六本
251 ———— 第 3 章 記憶に残るできごと
退職されているかも知れません。下駄履き、学生服、か時代を感じさ
せますね。後ろには二階建ての木造校舎も写っています。
昭和 3
8年 5・
6月頃の六本松教養部正門
ι
」
松を去り、箱崎の本学へと移りました。
人生を振り返ると、六本松で過ごした一年半は受験勉強から開放
され、自由を満喫できた充実の期間だった気がします。クラブで直
接知り会えた先輩、後輩はわずか一年に過ぎませんが、物理研究部
文芸部部室と無邪気な夢
白石良夫
昭和四二年のたしか五月から、わたしの福岡生活が始まった。下
昭和四三年入学 文部科学省主任教科書調査官
ら、メーリングリスト(心七円)ができていて、私の時代から現役
宿のあった堤からパスで六本松を通過して、天神の予備校に通った。
のO B会はインターネット、か普及する以前のパソコン通信の時代か
の学生まで百数十名、世代を越えてネット上での会話が成り立って
かうわたしに声をかける者、かあった。文芸部の窓がおおきくあけら
入学して一と月にもならないころ、学生会館の食堂から教室にむ
裏には、水泳部のプlルがあった。
ルが、オンボロ長屋と通称される建物のなかに同居していた。その
あった。みじかい廊下をはさんで、コ一部屋、ずつ、都合六つのサーク
のほうから学生会館に行く道の右手に、木造平屋のサークル棟が
わたしの六本松での生活の中心は、文芸部の部室にあった。本館
翌四三年四月、九大に入学したとき、本館前の木造はなかった。
と学生とのあいだでこぜりあいが繰り返された。
は一月一九日であったが、年末年始から、市内のあちこちで機動隊
七O年安保闘争が本格的に始動しはじめた事件であった。空母入港
の、反日共系学生の重点闘争であり、ベトナム戦争ともからんだ
反戦運動家が福岡を前線基地として結集しはじめた。羽田事件直後
メリカ原子力空母エンタープライズの佐世保入港が決まり、全国の
その年の暮れから正月にかけて、福岡の町は騒然としていた。ア
では切通しを抜けて、両側が田んぼの田舎道を歩いていた。
福大だけでなく、下宿の周辺、か田園地帯だった。最寄りのバス停ま
だ、いかにも丘陵を切り拓いたばかりといった雰囲気を醸していた。
堤は福岡大学の学生の下宿がおおかったが、七隈キャンパスはま
だ木造の建物のある風景であった。
パスの窓から見た六本松教養部は、新築の本館のこちらがわに、ま
クラブのトランプミーテイング(鈴木俊雄、桑野他)
います。
真空放電の実験器具製作中の田中、長沢
252 れていて、そこから、オリエンテーションの世話をしてくれた文科
二年一組の赤塚正幸と蒲池信義が笑いながら、手招きしていた。
﹁いまから授業?﹂
が、自由気ままな大学生生活では、朝食を食いはぐれないために寝
坊はできず、夕食も八時まで帰らなければならなかった。そのプレッ
ばまた部室に帰ってきた。あのころ、日がな一日、なにをして暮ら
していたのだろう。
シャーに耐えられなくなって、わたしは七月に、教養部の裏の谷二
丁目の、間借りだけの下宿に越した。
その翌日から、わたしは文芸部の部室から授業に行って、終われ
そう言われて、わたしは、たまたまそこにあった椅子に足をかけ
て、窓を飛び越えて部室に入ったロぞれがわたしの文芸部入部の儀
文芸部といっても、隅の本棚に、数冊の文芸雑誌と売れ残った﹃壇﹄
のバックナンバーがあるだけの部屋であったロ部室には赤塚や蒲池
﹁いえ、四時限固までは空いてます﹂
﹁ちょっと話していけよ﹂
式だった。大きな机と、どこからもってきたのか、頑丈な木の椅子
だけの、何もない部屋であったロ赤塚は、机の上の紙包みから、
の友人と称する三年生が出入りしていたが、だれが文芸部員である
のか、よくわからなかった。そういうわたし-も、正式に部員になっ
たのかどうか、暖昧なままであった。部費をとられるでもない、こ
れといった活動をするわけでもなかった。
そのうち、わたしの友人の一年生も部室に出入りするようになっ
た。かれらも部員かどうか、本人さえはっきりした自覚がなかった。
わたしにとっての六本松キャンパスのはじめ半年は、文芸部以外
では、エンタープライズ事件の余韻ただよう政治の季節であった。
一年上のノンポリ学生たちからは、佐世保でのデモ参加の得意げな
●
﹁出来立てのホヤホヤ﹂
と言って、一冊の小冊子をわたしに手渡した。それが教養部文芸
部の雑誌﹃壇﹄であった。
﹁なんとも、この意匠はセンスがないねえ﹂
と蒲池は、冊子の表紙を見ながら言った。
﹁おまえ、えらそうに言うだけで、作品も書かないくせに﹂
﹁書いてると、おまえの詩みたいなおセンチなものになって、な
んともやりきれなくなる﹂
そのときどんな話題がでたのか、記憶にない。それほど話がはず
んだわけでもなかったが、といって、気まずい沈黙に悩まされると
話を聞かされた。もっとも、政治問題に関心のふかかった当時の学
生とはいえ、安保条約やベトナム戦争、原子力空母入港は、学園生
活とは直接の関係がない。デモに参加したり議論したりしても、ど
こか観念的な世界のことであった。ところが、入学後二か月たった
六月二日、われわれ九大生が無関係でいられない、とんでもない大
事件が起こった。
板付米軍基地のジェット戦闘機が夜間飛行訓練中、とともあろう
ともなかった。部室の窓からは、サッカーのゴ1ルネットとまだ木
湾たった体育館が眺められた。赤塚はときどき、﹁花の首飾り﹂の
フレーズを口ずさんでいた。
その日、結局、四時限目の霊歪は出ず、夕方まで部室ですごした。
﹁晩飯は、生協にするか。おれの下宿の近くの定食屋にするか﹂
そう蒲池は言って、わたしも誘った。
エンプラ闘争後いまひとつ盛り上がりに欠けていた九州の反戦運動
に恰好の火がつき、墜落現場の周囲には、反日共系学生たちがパリ
に理学部構内に建設中の大型電算機センターに墜落したのである。
﹁すみません。飯付きの下宿なもんで、もう帰らなきゃ﹂
わたしは、入学を機に、堤から鳥飼一丁目の下宿に移っていた。
堤のときとおなじく賄い付きであった。とれは予備校生には最湾た
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253———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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ケ1ドを築いた。
文芸部という姿かたちがわたしに見えたのは、入部して半月後、
ないかと思うロ大正・安部のほか、遠藤周作・石原慎太郎・開高健・
安岡章太郎といった、油ののりきった作家が、新潮社の書下ろしシ
リーズを精力的に書いていた。
大学生運動のシンボルとなっていたが、それが年末のある夜、忽然
箱崎の理学部構内の建物に突き刺さったファントムの残骸は、九
熊勇助などが執筆していた。東中洲のレストランの一角を借り切っ
と姿を消した。
﹃九大文学﹄の合評会のときであったロ﹃九大文学﹄は箱崎の学部の
文芸部の機関誌で、去年進学した狩野博幸や津上直樹・碇浩一・諸
て、近辺の大学の文芸部員が集まった。狩野や津上とはそれが最初
あったという。だが、わずかの時聞に、だれにも気づかれず、どう
やってあの巨大な機体をおろし、だれがどとに運んだのか、謎が謎
見張り役の活動家たちが全員、現場を離れたすきのできごとで
の出会いだった。それからしばらくして、﹃壇﹄ の合評会が教養部
正門前の喫茶底﹁琉拍﹂でおこなわれた。守九大文学﹄の執筆者もやっ
て来て、後輩の作品を遠慮なく斬った。
説コンクールの最終選考まで残ったということを知ったのは、﹃九
の文芸雑誌、しかも芥川賞・直木賞にいちばん近い雑誌に取り上げ
られるのは、至上のととであったロ狩野が前年の ﹃
文芸﹄の学生小
の﹁同人雑誌評﹂で批評されたロわたしたちにとって、中央の専門
前途有望といえば、庄野潤三の小説﹁前途﹂が出版されたのもそ
望な新進気鋭の涜行作家であったロ
のはまだ駈出しのころであって、わたしの六本松時代には、前途有
橋和巳が務めたこともあると聞いた。もっとも、高橋が委局たった
説もあらわれた。東京では、例の三億円強奪事件があった。
をよぶとはとのことで、さまざまな憶測がとびかつて、無責任な小
γ の席だったと記憶している。何々大
大文学﹄合評会のあとの懇親 会
学文芸部のだれそれが何々新人賞の一次選考を通ったとか、九大新
のとろだった。庄野は戦時中、九大文学部東洋史の学生であった。﹁前
その﹃九大文学﹄に載った津上の﹁ロビンソンの島﹂が﹃文学界﹄
聞主催懸賞小説﹁松原賞﹂の入選作の出来がいまひとつだとか。そ
途﹂は、おなじ東洋史の一年上の島尾敏雄らとの交遊を、日記形式
時代の九大文学部の青春がそこにあった。
尾の出征を見送る場面で終わる。わたしの自には、まさに古きよき
り、庄野らしい抑制された語り口で戦時中の学生生活が綴られ、島
で綴った作品である。平尾の下宿をでて歩くところから小説は始ま
さきの松原賞は、その選考委員が毎回交代していたが、かつて高
ういった話題が、わたしの耳にさかんに入ってきだしたころ、わた
しも作家になるんだ、と漠然と思っていた。
わたしが現代小説ばかり読んでいたからなのか、戦後日本文学史
のなかでも、このころが﹁小説の時代﹂であったような気がする。
大江健三郎の﹁万延元年のフットボール﹂が話題になり、大江
夫であった。乙の無名作家(当時は)に、﹁読み手に理解してもら
わたしの文学への憧れは、プロの作家になるという夢想に育って
で、それに﹁第四間氷期﹂と﹁他人の顔﹂および短篇数本が収まり、
おうという底意が見え透いている﹂という一言で、わたしの作品は
の最初の全作品集が出た。小説中心の文学全集花盛りのころであ
二九O円。当時でもとれは文庫本より廉価感があった。重厚さとは
切り捨てられた。はじめて活字になったのは、教養部一年の終わり、
いった。わたしが松原賞に応募したそのときは、選考委員が小川国
ほどとおい赤い表紙のこの文学全集を、おそらくおおくの文学青年
三月発行の﹃壇﹄一四号に載せた二篇の小説である。題名からして
り、集英社の日本文学全集が安部公房集を一冊にするという英断
が、持って歩くには恥ずかしく、こっそり下宿で読み耽ったのでは
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センスを疑う(だから、己こには出さない)。若さが空回りして、
わたしの過去から消し去りたい出来であった。大江健三郎を気取っ
たという己とがすぐわかる。
たことによって、大学事務は完全に麻揮し、以後、教養部の授業は
おこなえなくなった。わたしたちは、サークル室や開放状態の別棟
のだが、これが年に一回だったか二周たったか、よく覚えていない。
わたしがはじめて参加したのが熊本大学での大会、このときはたし
の教室の窓から、占拠された本館を見上げるという日々をおくつた。
そのころ、九州一円の大学・短大の文芸部を糾合した、九州学生
文芸連盟、略して﹁九文連﹂というのがあった。大会を聞いていた
般学生はかれら過激派を見離し、見離されたかれらは尖鋭化して
か冬休みの前だったように思う。西南大学で開催されたときは、徹
夜で文学論を戦わせて、みんなで未明に櫛田神社に界き山を見に
そのころすでに、学生たちは政治問題から冷めていた。九大闘争
のシンボルが神隠しにあったように撤去され、反日共系学生たちの
内ゲバがたびかさなって、共有された連帯感もなくなっていた。一
いった。わたしの関心は、半年後にひかえた学部進学にあった。国
語国文教室を第一志望にしていたが、成績できめられるなら、とう
行った。もっとも、記憶が希薄になって、おまけに錯綜混乱してお
り、熊本も山笠も九文連の大会とは関係ないのかもしれない。
そんなことより、との九文連でどんなイベントをやっていたのか
いうことだけである。昭和四四年二一月の刊行。それに、わたしの﹁春
が来て夏が来て秋が来て﹂という小説が載っている。たしか二日か
三日で書き上げた。自分でいうのも何だが、肩の力が抜けた、秀逸
●
てい無理たとはわかっていた。そして、事務室の掲示板に貼りださ
れた名簿に、わたしの名前は第一志望にも第二志望にもなかった。
一年でそろえておくべき単位の数に満たず、成績じたいがつけられ
なかったのである。わたしの進学先は、半年後、教養部通過の単位
わたしは今でも、ときどき夢を見る。時間割を埋めるのはいいが、
いっこうに単位が取得できない、このままではとても進学できない、
卒業できない、こんなことを妻に知られてはマズイ。えっ?おれっ
な小説だった。わたしのもっとも好きな作品である、などというほ
ど出来のいいものを書いていたわけではないが。
さえ、わたしは覚えていない。
ただ、これだけは確実といえるのは、連盟が﹃九州学生文学﹄と
いう機関誌を発行しており、わたしの手元にその第二号がある、と
て結婚して仕事もちゃんとしてるじゃん、いまさら大学なんて卒業
しなくても、と思いつつ、何度も見ているから、﹁ああこれは夢な
機動隊導入で占拠学生が排除されたのは、一 O月であった。それ
からしばらくして豊采が再開されたのだが、年内に前期のすべてを
を満たしたうえで決定するということになって、宙ぶらりんのまま
二年生をむかえた。
んだ﹂というところで日が覚める。
それはともかく、いまにして思えば、とれが幸運であった。もし
消化して、一 O月一日付の名目で学部に進学させるために、あらゆ
ることが慌しかった。慌しさのなかで、わたしの単位は満たすとと
本館封鎖がわたしに幸いしたとは、そういうことである。
年があけて、晴れて箱崎の文学部に行ってみると、当時一五人定
ができた。もう時効だから言うが、白紙だった進学先を届け出よと
いわれ、﹁国語国文﹂と記入したら、なにも言われず許可された。
所定の単位に足りていれば、人気のたかい第一志望には行けなかっ
た。わたしは決定を留保されたのであるが、その決定されなかった
ととが、ある事件によって、わたしに幸いした。などというと、不
謹慎のそしりをうけそうではあるが。
その事件とは││。新学期が始まってすぐ、教養部の本館が過激
派活動家に占拠された。事務室と教官研究室の入る本館が封鎖され
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255———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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とだけは覚えている。わたしと同類の国文進学生が、どさくさに紛
員のはずの進学生が、正確な数字は忘れたが、オーバーしていたこ
あった。野次馬の友人のうちのひとりは、米軍機墜落に抗議して板
行ったが、わたしは箱崎の定食屋のテレビでちょっと見ただけで
イジヤツクである。物見高い友人たちは板付の福岡空港まで見に
付基地前で勇敢に機動隊にぶつかっていった元ノンポリ活動家で
れて混じっていたロ﹁春が来て夏が来て秋が来て﹂を発表したのと
前後して、﹃壇﹄一五号か発行した。﹁カインとアベルの息子たち﹂﹁置
あった。事件は三月=二日に起こっている。六月の安保闘争の本番
をひかえていたが、わたしもそのノンポリ学生も、もう完全に政治
去り﹂を載せた。わたしの記憶では、箱崎の下宿に完成品が印刷屋
から届けられた。
よど号事件への無関心は、六本松での政治の季節と作家への無邪
の熱から冷めていた。
賞に応募した。同賞は、生原稿以外に同人誌掲載のものも受け付け
気な夢がわたしのなかでとっくの昔に終わっていたことを、わたし
二篇のうち、﹁カインとアベルの息子たち﹂を、わたしは太宰治
ていたのである。五篇前後を最終候補に絞って、それをプロの評論
う青年が、某人気歌手の別荘での内ゲバで死んだ。だが、新聞でそ
に自覚させた。文芸部の部室によくやって来た反帝学評の石井とい
家や作家の委員が選考するのであるが、その前段階の、編集者の選
んだ四O数篇の題名と作者名が主催雑誌 ﹃
展望﹄に載る。そのなか
後年、もう四O代の終わり、学位論文の口頭試聞が終わって、居
か狼雑で、それでいて底抜けに無邪気で、なのに存在することじた
陳腐な言い方だが、若いということはけっして美しくない。どこ
れを知ったときも、もはや身近な事件ではなかった。
合わせた大学院生を誘って中野三敏教授と懐かしの箱崎で夕食をと
いが恥ずかしく、それをひとに覗かれることの恐れがつねに付きま
にわたしの作品もあった。
もにした。そのとき、わたしがむかし小説を書いていたという話題
とっていた。懐古して、自己嫌悪が襲ってくる。
︹付記︺文中、敬称は略させていただいた。
もはや四O年も前のことである。わたしの周辺におとった出来事の記述に
は、記憶遣いが多々あると思われる。確実なのは、エンプラ入港やよど号事
件老手元の日本史年表で確かめたぐらい、米軍機墜落のE確な日付にいたっ
ては、当時白新聞で確認するしかなかった。年表者めくりながら、新聞の縮
刷版をみながら、わたしの六本松時代はすでに﹁歴史﹂のなかにあることを
実感したロ
たのだろう。
らく、軌道修正したときが、六本松の青春との遅すぎる訣別であっ
属する。だから、どこかで人生を軌道修正させたはずである。おそ
わたしもいまでは、世間的にまっとうな暮らしをしている部類に
になったが、教授は例によって、﹁直木賞候補になったんだぜ﹂と
話を大きくした。わたしは苦笑いしながら、しかし、はっきり杏定
しなかった。
六本松では、わたしの生活は文芸部の部室とともにあった。だが、
箱崎のキャンパスに、わたしが六本松で馴染んだような文芸部の部
室はなかった。コンクリートの床に、薄い板のデスクとスチール製
の椅子だけの、殺風景な部屋であった。開け放す窓さえなかった。
なにより、そこに一日いても、やって来る人間などいなかった。
留年してわたしと一緒に学部進学した赤塚は、永遠のボヘミアン
を気どって放浪の旅に出、大阪から長い手紙を寄越した。わたしの
足は、部室からも教室からも国文研究室からも遠のいて、箱崎の町
を俳網するようになった。
そのころ、﹁よど号事件﹂があった。日本園が遭遇した最初のハ
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一
元九州大学教授
井田好治
罪
帰らず 帰らずば恩愛の僻甘いかに断ちけむ
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事
き
ら
ぐ
一日にして壷中に在はす
とち・
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'a
ひ
わ
が
肩
ゆ
九州大学総長梶山千里氏の﹁脱﹁横並び﹂へ妙手次々﹂という取材
記事が人目を惹きつける程の広いスペースで載りました。
との中に﹁福岡市の中心部から西方約二O一キロに伊都キャンパス
根深い原因が在るのだと。然しこのことの放に、恥ずべき行為を犯
暴行事件は一体いかなることか。学生は言う、乙とに至るまでには
第一に、七月一日(木)第三時限に起とった英語科教官に対する
張り出して、次のような事実を知り一得ました。
分かり切った名称かも知れませんが、私は周辺の辞書・事典を引っ
という地名は耳にしたことがありません。既に九大関係の方々には
移る見込み﹂と明々白々な記事も載っておりました。
昭和四八年八月に、故郷の横浜国立大学に転じた私には、﹁伊酔﹂
が関学。ニO二O年までに医・歯・薬・芸術工学部以外の七学部が
した者の違法性は断じて正当化されるものではない。
みなされている。
0怖か福岡県糸島郡南部の旧郡名。﹁和志蛇位凪﹂の﹁供耕民﹂(と
間のハンストに入るとととした。そして教養部の現状について、言
て、ハンストをやっている学生の休験を遺体験するために、七五時
私は心にもない嘘を言うつもりはないので、私の言葉の鉦しとし
みろ﹂という掌&
の非難の声が起こった。
いくらいだ﹂と言ったところ﹁学生がハンストを止める時期でそん
虚仮のごとくにわが立ちすくむ
と吋
対E
君にしあればや ひそとして逝く
と
六本松時代の ﹁
日記﹂
(昭和四六年七月五日より)
﹁わがハンストの弁﹂
私はなにも自己犠牲や自己純化を目的として、ハンストを始める
わけではない。七月三日(土)のいわゆる団交の席上で私が﹁教養
部長室前でハンストを行なった学生の行為はかれらの生命を尊重す
や
平成 二O年四月二一日(月)の﹁朝日新聞﹂朝刊の(二九面)、
る立場で、との段階で止めてもらうために、自分もハンストをした
3
に
ー
枢
ν
や
なととを言うとはそらぞらしい﹂﹁卑怯だ、やれるものならやって
5&
か
ら
(ハンスト二日目。帰途志々目内科に寄る。床並先生 一緒に行っ
てくれる。ご好意有り難し。七月八日(木﹀ハンスト第四日目、午
後七時をもって終了)
●
ぽ「
る
去
)
いたいととを言った。
)
O ﹁貌志倭人伝﹂中国の正史﹁三国志﹂の貌志(競書﹀にある﹁東
a凶"ん
1倭﹂の通称。晋の陳寿国調。e魚
夷伝
準の﹁刻略﹂により、三世紀前
ート
1
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257———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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やまたいと︿
半における邪馬台固などの日本の地理、風俗、社会、外交などにつ
いてまとまって記した最古のもの。
勉強するぐらいしか取り柄のなかった僕は、大学行くなら一番近
くて安い九州大学と決めて、中学の図書館で読んだガモフ全集が面
白くて物理に入りましたロ目指していたのは、宇宙開発か原子力利
用の分野です。普通に卒業したなら、原発の技術者に就職というと
││以上二項目は ﹃
国語大辞典﹄(小学館、昭和五六刊)による。
﹁町軒毘﹂について、もう一冊の辞書の説明を加えれば、﹁伊酔
O
ころでしょうか。
の︿に
なて
し
す。大学っちゃ面白い所だ、とテレビを見ながら思ったのを覚えて
います。何が問題で立てこもっているのか知りませんでしたが、大
掛かりな文化祭に見えて参加したかったなあロ
社会では公害とか食品汚染という毒物を出すことによる被害が問
題になっていて、その中で、自分の利益、つまり卒業して条件の良
い会社に就職することや希望する分野の研究者になること、のため
に毒物を流出させていいのかという疑問がきっかけで、僕はとの運
動に参加しました。
当時の九州大学は、箱崎地区の農学部に特殊排水処理施設を作っ
て、学内の毒性排水の処理をしていたわけですが、実験で使われる
薬物の廃液、器具を洗浄した排水がすべて確保されて移送されるの
か、排水処理の能力は大丈夫なのか、そもそも、たかが知れた学生
の実験が必要なのか。問題になる所は数々あったのですが、大学を
理について大学の在り方を問う学生運動が行われました。その前か
僕が入学した一九七四年の春にも、六本松地区の化学実験廃液処
とは別の運動に参加したりするうちに、僕には大学にいる意味が薄
という集会の案内をする看板を建てたり、あるいは、との排水問題
自分なりの考えを書いたピラを作って配布したり、皆で考えよう
問うことが、その中にいる自分の生き方を闘うことになりました。
ら問題になっていたはずですが、との年、授業中に押しかけて教官
れていきました。望んでいた宇宙開発や原子力は、多量の資金と危
ない開発なんであるものかつてね。教養部から本学へ進学する単位
険性が必須なもので、にもかかわらず僕には魅力的でした、犠牲の
三O年以上経つと、人物や事実関係は殆ど忘れてしまいましたが、
数まであと語学一単位までとって迷っていましたが、進学すべきで
ないと考えました。
気分だけは未だに忘れていませんロざつくりとまとめると︿自分の
です。
に疑問を投げかける、つまりは授業妨害という形にまでなったわけ
一九七四年入学、九大生協勤務
もう一つ、大学に行きたいと思ったのが東大安田講堂の攻防戦で
固﹂三世紀頃、北九州、現在の福岡県糸島郡地方にあった困ロ﹁貌
志倭人伝﹂に、帯方都使が駐在し、また一大率長官が常置され、邪
の文主
町に
は廿
な四
つ年
かを
しす
きど
かし
九州大学六本松地区毒タレ斗争のこと
(前川俊一先生の歌)
││﹃大辞称﹄(松村明編三省堂、 一九八八年刊)
馬台国以北の諸国の検察にあたったというロ﹁いと﹂
博酒
多に
目指して来た科学は、人のためになるのか﹀ということになります。
258 十
十
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川
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柳
修
比
二
一卜-
」
れると何でもやってしまう質なので、科学技術の現場はまずいなと
ら去る者、どちらも自分で決めることでした。僕は、課題を与えら
バーの行く末もそれぞれで決めました。大学を卒業する者、大学か
人それぞれの考えで決着をつけることですから、参加したメン
な旅だった。
三両編成の満員電車での通学は、田舎出の私にとっては毎日の小さ
もらったのだ。まだ西鉄の路面電車が走っていた頃で、二両編成や
めていた関係で、当時、箱崎松原にあった郵政省の子弟寮に入れて
私のふるさとは長崎県五島市。父がそこにある小さな郵便局に勤
六本松には、懐かしい思い出がたくさんある。
思い、大学を去ることにしました。やはり︿これはやって良いこと
か悪いことか、と悩む人﹀が科学に携わってほしいものです。
り紙をつけた看板取付け会社に入社、九州大学には教養部まで、つ
なぜか法研というサークルに入り、九大祭で甘酒の模擬屈を出した
りのカレーを食べながらワイワイと話したこと。法律が苦手なのに、
の仲間たちと食堂に集まって、卵入
まり高校卒の看板屋となりました。ということで僕の九大六本松時
こと。大濠公園が大好きで、ときどき周囲をジョギングしていたこ
μ
代は終わった、はずだったんですが、看板屋を辞めた後に九大生協
と。教養部近くの喫茶屈で初めてデートして、ジュークボックスで
エル五
にバイトで入ってから六本松書籍に最早二O年以上勤めてしまいま
﹁裏切りの街角﹂を何度も聴いたこと。学生証を紛失して届けを出
n
した。こんなに縁のある九州大学六本松地区が消えてしまうのは寂
したとき、﹁粉失届﹂と書いて、﹁粉じゃなくて紛でしょ﹂と事務の
法学部五組、通称
しい限りです。ま、人生至る所に青山あり、これは親父のよく使っ
方に注意されたこと:::。恥ずかしい思い出や甘酸っぱい思い出が
一九七八年の秋、福岡市内在職探しに散歩して、従業員募集の張
た言葉ですが、どこで生きても幸せはあると曲解して、今後も生き
ほど続き、結局、三年から四年に進む時に一年休学して、時間稼ぎ
私自身はといえば、入学してしばらくして発病した五月病が三年
ものの見方と行動力に大きなショックを受けた。
まだ学生運動の残り火がくすぶっていた時代だが、彼らの社会的な
階段教室で夜中に学生集会を聞き、議論を主導して解決に導いた。
大分出身の二人組は、九大祭の開催をめぐる問題がこじれたとき、
いた。
白い人たちが集まり、浪人未経験組にはない人間的な魅力を放って
研究会で六松亭兵五郎として活躍していた。彼の周りにはいつも面
他の大学を退学して九大に入りなおした五歳年上の友人は、落語
から近づいたのだと思う。
いうより、彼らが自分のペlスを持っていることに憧れて、私の方
私の友人には、浪人経験がある個性的なメンバーが多かった。と
多いが、いろいろなシl ンを思い出す。
田上富久
ていきます。
六本松の出会いに感謝!
一九七五年入学、長崎市長
昭和五O年に入学してすぐ住んだのは、六本松ではなく箱崎だっ
た
。
F
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259———— 第 3 章 記憶に残るできごと
●
をすることになる。アルバイト生活と自転車旅行に明け暮れたとの
一年の聞に、私は地方自治という自分の進むべき道に出会った。
一年休んで自分のペ1スを守ろうとしたのは、私にとっては決し
て無駄ではなかった。そして、との﹁自分のペlスで生きる﹂とと
を教えてくれたのは、六本松で出会った友人たちだったのだと、い
なく、その後の経済学部専門課程での一一年半の期聞を併せて、全て
を六本松周辺で過ごした。入学直前に借りた、六本松近くの草香江
のアパートを引っ越すことなく、地下鉄やパスを使って箱崎校舎ま
で通っていた。今改めて振り返ってみると、それだけ六本松校舎を
中心としたあの雰囲気が、私自身とても気に入っていたというとと
大学卒業後、就職先で知り合った私の妻は福岡県宗像市の出身で
なのだろう。
六本松キャンパスは、多くの若者たちに﹁出会いの場﹂を提供し
あり、先日久しぶりに妻の実家を訪れた。そして熊本へ帰る途中に、
ま改めて思う。
てきた。場所が移っても、時代が変わっても、真剣に生きようとす
乙れも久しぶりに一人で六本松に立ち寄ってみた。昔よく通った古
いる。
てきた役割に終止符を打ち、この地が新しく生まれ変わろうとして
計画 uなるものを探し出すことが出来た。六本松校舎が永年果たし
九州大学六本松キャンパス跡地利用
岡市のホlムペlジを覗くと n
ような当時の面影を感じとることは出来なくなるかもしれない。福
この周辺は大きく変化するに違いない。次回訪れた際には、今回の
しかしながら、この後、校舎が無くなってしまったら、おそらく
とても嬉しかった。
いたことが、私にとっての学生時代を思い出す何よりの場所だけに、
でいたアパートとアルバイトをしていた定食屋が変わらずに残って
たが、まだまだ当時の面影は十分に残っていた。そして、私の住ん
いくつかのお屈が無くなっており、新しく地下鉄が通ったりしてい
本屋や居酒屋、喫茶庖、ボーリング場、ビリヤード場等を探した。
る若者たちの出会いが、新しいキャンパスで生まれ続けることを心
から願いたい。
移転に思う
一九八五年入学、熊本市長 幸山政史
﹁九州大学が前原の方へ移転する﹂との話を聞いたのは、もう随
分前のような気がする。お隣の熊本県で暮らしていても、その後は、
是非校舎にも入ることにしよう。そして僅か四年間ではあるが、様々
今回は校舎に入ることが出来なかったために、次回訪れた際には、
稿依頼を受けて、伊都キャンパスの建設が急ピッチで進められてい
な思い出が詰まっているこの地を、私の記憶の中にしっかりととど
移転に関する詳しい情報を持っととはなかった。今回記念誌への寄
ること、来年の三月で六本松校舎が幕を閉じることを明確に認識す
して丁度二O年が経過している。
確実に歳をとったということなのかもしれない。気が付くと、卒業
めておきたいと思う。とんなことを感じるようになったとは、私も
uというものを実感している。
ることになった。そして、これまでほとんど感じることの無かった
n
一抹の寂しさ
私が九州大学に通った四年聞は、当時の教養謀程の一年半だけで
ート-
川
て
260 十
十
比
二
一卜-
」
傍観者の日記から
広島大学大学院文学研究科教授
啓
(一九七八年永¥)
の午後、学生とおぼしき気弱そうな男が﹁あの、クラブには何かお
入りになりましたか。﹂と、掲示板の前で声をかけて来た。入って
いないと答えると、﹁哲学とか人生とか聖書とか、そういったもの
には興味はありませんか。いや、一 O日ばかり前に遠くから拝見し
て、とう、なんというか、人生について深く思索しておられるよう
に感じたのです。どうです、一緒に勉強しませんか。﹂などととん
でもないことをいう。そして私の部屋までついて来て真面目そうな
前向きの人生論を一方的にしゃべって帰っていった。あとで郵便で
届いたのは韓国に本部のある宗教団体の宣伝パンフレットで、今に
して思えば有名なカルト集団の勧誘にまんまと撮ったのである。当
時は全く知識を持っていなかったけれどもどこか胡散臭さを感じ、
﹁私はいかなる団体にも加入する気はありません。﹂と絶縁の手紙を
出して事なきを得た。
均衡を保とうとしていたらしい。四月二二日にギブスは取れたもの
の、足がふらつくので夏休みに入る頃まではステッキを手放せない。
おまけに高校時代の名残で頭はつるつるの坊主頭、どこから見ても
イレに駆け込む記事がやたらと多い。おかげで一コマ目の授業はほ
とんどまともに聴き終えることがなかった。こんなととは日記に書
かずともよさそうなものだが、自分の悪戦苦闘を客観的に見据え、
戯画化して自らを喜劇の登場人物と見なすことで、辛うじて精神の
生活も加わって胃腸を悪くしたものと思われ、腹痛に見舞われてト
引き摺り、右手にステッキを突いて四月六日の入学式に参列した。
入学早々の足の不自由は、新しい環境に適応できないストレスを著
しく増長させ、肉体的精神的に私を追い詰めた。これに不規則な食
ず文章で再現することが無上の楽しみだった。自由な時間の大半を
などというものまで読んだ。生協で奮発して買った六段のスチール
ラックの棚に、購入したばかりの本を固めて置く。それが少しずつ
増えるのがうれしかった。そしてそんな毎日の出来事を細大漏らさ
む。気になる記事は手元の日記に概略を書き留める。仕送りが届い
た日には紀伊国屋書庖へ出かけて文庫や新書をまとめて買っては無
秩序な読書に耽る。特に岩波新書が学術の入り口として輝いて見え
た頃で、受講する科目と関連させて﹃宇宙と星﹄守スポーツと健康﹄
学生生活を続けた。一日の授業が終わり、図書館で新聞を数紙読
体的に誰かと関わることはせず、当然課外活動は一切やらず、教室、
梅光閏一一丁目の間借り、そして図書館の三点をぐるぐる回るだけの
激石の﹁草枕﹂に触発され、非人情の傍観者として、己を空しく
し、ひたすら自に映る事柄を写し取ることに没頭していた私は、主
まともな新入生ではない。間もなく、私が﹁九大の三奇人﹂の一人
三O年後の唯一の読者として、丸二日かけて通読したロ
入学直前に右足の螺を骨折した私は、白いギブスに覆われた足を
たちとの遣り取りなど、私の見聞と言動が克明に記録されている。
私の教養部生活すべてがこの中に詰まっているといってよかった。
半月ほど前から文学部進学の直前までの日記である。四百字詰原稿
用紙に換算して約千八百枚。瑛末な日常生活、授業の概要と評価、
新聞報道の抜書き、読んだ本の概略、そして文一組の級友や知人
書庫から取り出したB五判百枚の厚手のノlト四冊、一九七八年
=一月一七日から翌年の一 O月二二日まで、すなわち九州大学入学の
田
日記書きに費やしていたのは間違いない。夜も更けて、今では廃止
されているが、小笹から六本松キャンパスの南西隅をかすめて樋井
●
久
保
と呼ばれていると誰からか聞いた。
そんな私を買いかぶったか、それとも見くびったか、四月一七日
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261 ———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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川鉄橋へとカーブして走る筑肥線の列車の通過音が、かたんかたん
と哀愁を帯びて聞こえる。そんな時、孤独をしみじみとありがたく
味わいつつ、ボールペンをひたすら走らせた。
授業では、福田殖助教授の﹁中国古典﹂と大原長和教授の﹁法律
学﹂、それとかなりのご高齢であったが小川和男講師の英語が面白
かった。福田助教授の場合、学聞に対する愛情が、親しみゃすい口
調で、さまざまな逸話││平戸かどこかの学校で授業中に鯨が見え、
﹁鯨だア﹂と叫んで生徒と一緒に見物した話ゃ、露天商まがいに本
を路傍で売った話などーーとともに語られて、急速に学聞をしたく
なった。岸信介似の、凄みを秘めたロマンスグレー大原教授の講義
には知的興味を十分に掻き立てられたが、毒舌と辛嫌な皮肉の連発
にくたびれ果てた。法学が哲学とともに最古の学問であると語り、
﹁てつがくウ﹂﹁ほうがくウ﹂と指を順々に折って見せながら諸学に
対する法学の優位を得々と説かれるので、教室に気まずい雰囲気が
流れることも一再ではなかった。中村翫右衛門そっくりの風貌とき
びきびとした口調が持ち味の小川講師の講読はゴ1ルズワ1ジ1の
短編﹁騎士﹂で、毎回の書き取りの小テストが苦にならなくなるく
らいに読み込み、ひょんなことから決闘して死ぬ老いた主人公と、
主を失った犬に妙に感情移入した。 O E Dの編集方法について語る
かと思えば、﹁福岡は仙台に比べて緑が少ないですな。﹂と断じたり
して、暗闇蓄の深さと広さに脱帽した。かと思うと、出席すれば休講
で、今日もそうだろうと高を括って欠席すると決まって授業がある
﹁科学史﹂を筆頭に、本当に無造作に休講となる講義も多く、読書
と日記執筆の時聞が得られたことを喜びながらも、どこか釈然とし
なかった。
一九七八年といえば、福岡市が空前の水飢鍾に見舞われた年であ
る。新聞には毎日、福岡市の水がめであるいくつかのダムの貯水率
が、コップに入った水の量に準えて図示され、その数値がじりじり
と下がり続けるのが不安でならなかった。図体だけ大きくて役立た
ずの江川ダムがほとんど空っぽのままで、﹁江川﹂と聞くだけで罵
りたくなったロ五月二五日から夜間一五時間断水が始まった。六月
一日からは午後四時から九時までの五時間給水となり、さすがに大
学も臨時休校に入る。トイレ用水と飲み水をバケツと水筒に溜めて
おくのが日課で、水筒の底にうっすらと見える赤錆が慣れない環境
から来る疲れの堆積そのものに思えて、やりきれなかった。九月
一五日には台風一八号が玄界灘を斜めに通過し、福岡市でも瞬間風
速四六メートルの暴風が吹いた。間借りの部屋の雨漏りがひどく、
洗面器やコップ、塵取り、ジュースのあきかん、石鹸入れの蓋など
を畳の上にいくつも置いて赤茶けた水滴を受け止めた。ポチャン、
ピチャン、ポトッ、ピンとさまざまに奏でる水音を聞きながら、小
さなラジオで台風情報を聴く。とにかくとの台風でダムの水が増え
ますようにと祈った。夕方になって風が収まり、妙に黄色い空に見
入りながら教養部まで歩いていくと、梅光園団地の街路樹が倒れた
りしていたが、雨量は水不足解消には全く足りず、結局給水制限は
翌年の三月二四日まで続いた。近くの銭湯輝国湯は一 O月一六日か
ら増改築工事に伴う休業に入ってしまい、仕方なく六本松の真砂湯
に時々出かけたが、それも週二日程度のことで、年中不潔感が拭え
なかった。銭湯からの帰り道に冬の夕空を見上げると、薄墨を染み
とませた綿のような雲が一面に広がって、県南の明るい冬空に慣れ
た自には何とも陰穆に映った。
穴だらけの木造教室があるかと思えば、プレハブ教室が軒を並べ、
図書館も古い建物を壊して新館の建設が始まるなど、教養部は大き
な転換期を迎えていた。亭々舎という集会所や学問の殿堂のように
見えて何となく近寄りがたかった玉泉館にはほんの数度足を踏み入
れた程度で、旧制高校の余香か楽しむ余裕はなかった。学生運動も
ようやく下火となりつつあり、たまに奥田八二教養部長の﹁厳重に
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警告する。授業中の学館立ち入りは禁じられている。すぐに退去し
なさい。﹂という上ずった声が放送で教室に涜れたりする程度で、
混乱といえば教室に鳩が舞い込むのが関の山、いかにも平和に授業
が行われた。自治会活動にのめりこんだ級友が、西鉄パスの値上げ
一九八0年代の六本松キャンパスと
学費値上げストライキ
聞き手楠瀬慶太(比文院生)
聖書口溝口孝司
ノンポリを決め込んだ私には彼岸の出来事だった。そもそも自治会
六月一七日九州大壁土ハ本松キャンパス基層構造講座研究室にて
や水不足に伴う九大祭自粛の動きなどを取り上げてクラス討論を企
画することが何度かあったが、議論は全く盛り上がらない。何より
と生協がどうしていがみ合うのか、教養部自治会と文学部自治会が
どう違うのか、さっぱりわからなかった。自治会との関わりといえ
溝口孝司先生が、九州大学教養部に入学したのは一九八二年四
月。その後二年余りを六本松で過ごした(その後、北九州に移る)。
六本松の思い出は、陸上部での部活動、学生活動の拠点となった六
●
ば、当時としては画期的なボールペン原紙に漢文の書き下しをびっ
しり書いて自治会室の印刷機で試験対策用のプリントを作ったこと
くらいであった。一九七九年四月二五日には公共交通ゼネストが行
われたが、二一月末に居を移した箱崎一一丁目から一時間二O分かけて
本松キャンパスと、クラスの代議員として参加した一九八三年の﹁学
費値上げストライキ﹂だった。
建っている。
③本館
②旧図書館
木造の今よりも小さい図書館があった。現在は、大きな図書館が
正門脇には桜の老木がずっと並んで生えていた。乙の桜並木は、
桜の名所としても有名だったが、地下鉄七隈線の建設で全て無く
なってしまった。
-一九八0年代の六本松キャンパスー
①正門脇の桜の老木
徒歩で六本松に向かう際に見た沿道の様子の方が興味をひいた。七
月上句には日教組の大会が都久志会館で開催され、右翼の街宣車が
走り回る中、機動隊の警備の様子をわざわざ見に行ったりもした。
要するに教養部と学生気質の変遷、そして世相のすべてが観察の対
象であり、日記の素材であった。
濫読と人間観察から生れた感慨をたっぷりと盛り込んだ偏頗な日
記は、ますます快調に書き進められていった。教養部生活一年半、
隠遁を実践し、日記という唯一の文筆活動にすべてを投じた似而非
文人の私は、その実、他者と真剣に触れ合うことで自信が木っ端微
塵に砕けることを何よりも恐れていた。とんな私に、親交が今まで
続くような友人が一人として出来ようはずもない。しかし、三O年
後の私の中に、むずがゆく、また確かに蘇ってくる、ひたすら一人
でいられた幸福感のようなものに嘘はなかった。
④旧体育館
旧制福岡高校時代の木造の建物が体育館として使われていた。現
在は、広い駐輪場になってしまっている。
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263———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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265———— 第 3 章 記憶に残るできごと
なあ﹂と笑ったともいわれる。だれが何の目的で匿名投書をしたの
だろう。九大全体で懲戒処分が四名、訓告が五名となった。うち教
養部は六笥たった。とれをきっかけに入試の管理が厳重になった。
川本光治 会九五五年金--霊軍事
﹃
三十年史﹄には、正式記録はいっさい残されていないとある。や
みのなか、しかし五O年近くを経過したいま、真相に近づきうる可
能性がある。
九大生協設立の頃
元九大生協理事
当時の教養部の学生厚生施設は、前期の学生数が三OOO名に近
-A
づいていたにもかかわらず、旧制福高から引き継いだ施設のみであ
,包︿さい
り、食堂の座席数はいずれも業者経営の﹁亦楽斉と学食﹂ 二つ併せ
て-五O席たらず、購買部にいたっては一九五八年までは畳二枚分
月にやっと学友会厚生総部の購買部が
の近藤売底のみ、五八年一一 一
できましたが、 措
置絡部はなく、まさにないないづくしの状況でした。
五九年九月にその当金の値上げ問題が発生したのです。学食は当
時でさえご度食ったら 二度と利用したくない﹂と言われており、
非常に評判の悪い食堂だったため、学生の不満は一気に膨れ上がり、
学食の経営者が﹁値上げを認めなければ営業をやめる﹂と主張した
ため﹁生協を作って自分たちでやろう!﹂との機運が一気に広が
り、六O年安保に向け盛り上がりつつあった学生運動の一環として、
一
O月二八日の学生大会では﹁生協設立支援﹂の決議がなされ、そ
の後一カ月で一 000名を越える生協設立賛同署名が集まり、二
月二 三日学生大会の終了後﹁生協設立総会﹂が教養部休育館にて行
われたのです。
教養部では生協設立は焦眉の課題であった訳ですが、箱崎キャン
ζの﹁教養部での生協作り﹂に対し、大学当局は﹁全学的な生協
パスの状況は、生協の設立がそれほど急がれてはいなかったと言え
の発足日です。
九大生協としての事業は一九六O年四月一日からはじまりまし
でなければ認めない﹂として認めなかった(大学当局が認めなけれ
ば、学内の厚生施設が借りられない)ため、設立運扇を箱崎地区へ
九大生協は
九六O年
一 O月一四日﹄に股立されました。ぞれ
一
﹃法人としての登記が完了した日であり、法人として
は、九大生協の
た
。
学友会厚生総部のもとにあった、主に箱崎キャンパスの四つの食
一九六O年四月九大生協としての事業が始まると、例の学食は新
たに生協の運営、すなわち学生教職員による自主運営になり、それ
ます。
堂と購買部や図書プリント部(書籍部と印刷部)と教養部購買部、
と拡大し、学友会代議員総会での生協化支持決議を経て、一二月
二三日には全学的な設立総会が行われるに至ったのです。
九大生協の設立総会は、一九五九年一二月 二三日に箱崎キャンパ
までのご日当たり三OO食﹂から 一気に 三倍の﹁一 OOO食﹂を
越える鴛異的な利用の伸びとなり、ご飯が間に合わず(ご飯老炊く
それに新たに教養部食堂、田島寮食堂と売底、医学部の食堂と購買
部が九大生協として事業開始したのです。
スで行われたわけですが、実はその直前の一九五九年- 一月二 三自
に九大生協の設立総会が、教養部(六本松)で行われました。
ート
1
て
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十
七
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J
設備が不足したためて大きな釜のあった田島寮の食堂で炊いてリ
ヤカーで運ぶ事までやりました。入手も日を追って不足し、昼前に
野菜配達をしてきた Tさんは、そのまま夕方迄帰れない日が続き、
とうとう食萱で働いてくれる様になってしまったし、現T大学名誉
教授のK氏(当時の学生理事)等が昼時聞にはコ﹂飯つぎ﹂に汗を
涜す状況でした。
生協事業開始時の定食の価格は、朝二O円昼夕各三五円のいわゆ
る九O円定食でした。
そして教科書等書籍は五%引きで売られ、購買部では学生服や角
六本松キャンパスにおける
組合運動の記録の断片
小早川義尚(九州大学教職員組合六本松嘉聞)
﹁さよなら六本松﹂誌の編纂にあたり、組合からも寄稿をとのお
誘いがあった。教職員組合六本松支部の現執行部にも長い六本松の
組合の歴史に精通する者はおらず、また、未整理の資料を掘り起こ
して年表的な記録を整理する余裕もない。そこで、何度かの引越に
もかかわらず組合の部屋の書架に埋もれながら残っていた資料か
ら、筆者らの独断でいくつか還りだし﹁六本松キャンパスにおける
組合運動の記録の断片﹂として紹介することにしたいロ
との組合組織は九州大学教職員組合の一支部となっており、六本松
地区には﹁六本松支部﹂がある。もっとも、﹁組合﹂を名乗ってい
●
帽・学部パッチが新学期の人気商品でした。
エピソードとしては一九六三1五年ごろには、年に一回 ﹃
松茸ご
飯﹄が定食のメニューに登場していました。(当時、松茸はまだ庶
民の手に届いていたのです)
しかし、メインディッシュは魚や鯨であり、一九六四年時点では
また、利用還元と言って﹁生協の予想利益の一部を組合員の利用
ても二OO四年の法人化以前は、国立大学に勤める国家公務員の﹁職
九州大学教職員組合は、当初、部局ごとにあった教職員組合の連
合体(連合会)として出発している。現在では部局・キャンパスご
時に還元する企画﹂で、後期の試験期の定食にリンゴやミカンや卵
員組織﹂で、労働組合法に言うところの﹁労働組合﹂ではなかった。
また﹁六本松支部﹂という支部名は、一九九四年の教養部解体以降
のもので、それまでは﹁教養部支部﹂であった。さらに以前は、先
述したように独立した﹁九州大学教養部教職員組合﹂であり、その
週一回御馳走日を設定し肉料理が定食メニューに登場して好評を得
ていました。
などを付け、大変好評でした。
書籍部では、教科書を含め全点五%引きから現在の一O%引きに
至っていますが、生協以前は定価販売でしたから、との四八年間で
通算すると七l八億円は割り引いた計算になるでしょう。
起こりにおいては、教職員の相互扶助による福利厚生を目的とする
﹁親和会﹂があり、教養部教職員組合の規程にも﹁親和会規程﹂が
含まれ、組合員相互の慶弔、見舞い等についての定めがあった。こ
の精神は今でも生きており組合員相互の親睦、さらにはこのキャン
パス全体の教職員の親睦を深めることが六本松の組合の一つの目的
となっている。実際にこの六本松キャンパスにおいて教職員相互の
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267———— 第 3 章 記憶に残るできごと
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268 一九六八年五月六日の日付で、議事録のノlトに(提案)﹁非常勤
職員より、長期勤務であるが本採用は永久にできぬものか。家族を
扶養しているが生活が苦しい。とのこと。学校当局に打診すべし(三
役にて)﹂との記載がある。今でも続く大学の職場における雇用形
態の抱える問題の端緒が伺えるロとの後、公務員の採用に裁量によ
るものが許された時期には一部の方は定員化されたが、総定貝法の
●
縛り・公務員の定員削減、一九八O年に導入された三年雇用などの
ため、女性を中心に多くの定員外職員を抱えたまま大学はついに法
人化されるロ法人化にあたって、まず定員外職員の方の雇用の継続
が組合としての最重要課題であったが、とれはすんなりと受け入れ
269———— 第 3 章 記憶に残るできごと
られた。逆に、公務員でなくなったため今までの﹁定員﹂という考
えは絶対的な縛りではなくなった。組合はこの機に、これまでの運
動の積み上げをもとに団体安渉により有期契約職員(以前の定員外
職員)の正規職員化を強く求め、大学もその道を聞いた。六本松キャ
ンパスにも多くの女性定員外職員・有期契約職員の方がおられたが、
との機をとらえ何人もの方が正規化されるととになった。六本松の
組合が長らく取り組んできた課題が、キャンパスの無くなる前に一
部とはいえ解決できたことは喜ばしい限りだ。
さて、変わったところでは、一九八二年度活動総括(案)に、﹁一一
県知事選への取り組み御存知の通り、教養部の同僚であった奥田
八二先生の出馬という事態が突発し、組合内外、大学内外の支持を
結集して、奥田当選が実現しました。組合としては、﹁勝った﹂と
いう実感を久方ぶりに味わうことができました・・・﹂という記載が
ある。組合として国政・地方などの選挙において特定の候補や政党
を支持することはなかったが、さすがにとのときには少し雰囲気が
違ったようだ。その次の県知事選では、現職奥田知事に対抗馬とし
て出てきたのが九大学長であった田中健蔵氏で元教養部長と元学長
の対決といった構図になった。乙のときも奥田当選となり教養部(六
ート-
川
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襲
言
語ぎ
録
十
断 本
片以松
十
比
二
一卜-
」
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」
十
懐かしの写真①
本誌印刷直前に、ドイツ語教室で保管されていたアルバムが出現。急きょ挿入しましたが、撮影日など詳細が不明なのでキャプションは省かさせて
いただきました。その②は 3
1
6買に、その③は 4
3
4買に掲載しています。右上枠内折竹校長、最前列右から 2番目は鶴、永井重義(口ひげ)内藤濯、
玉泉大梁(中心にいる人物、黒めの服)左から 3番目山本清、 2列目左生徒 2名の次穴山孝道二人おいて秋山六、右から 3番目平山一雄、折竹校長
6年 4月から 2
0年 1
1月。*平山一雄先生のアダナは「だんぺい」、内藤濯先生は叱るときパカではなくバッハといった。
の任期は昭和 1
円「 二三
匹
1
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"
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~一一一? ー
左に「株式会社星野組」 右に「高専学徒報国隊福岡高等学校」とある。
寺の肩額に久遠山(写真ではトリミング、場所不明)前列中央に折竹校長その右永井重義
270 
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