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第一部 Review of the year 2011 年 前年度主力の大半が抜けたチーム

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第一部 Review of the year 2011 年 前年度主力の大半が抜けたチーム
第一部
Review of the year
2011 年
前年度主力の大半が抜けたチームはシーズン前半敗北を重ねるも、いつ如何なる時も全力、
「激闘」の精神の下、ポゼッションスタイルを貫き成長。法政・慶應との死闘を瀬戸際で
制し、全勝でブロックを通過した。
FINAL4 では代表選手を多数擁する日体大を僅差で退け、迎えた FINAL の相手は前年度、
同じ駒沢の地で部員の誰もが雪辱を誓った因縁の早稲田大。
主導権を握るも、終盤に追いつかれ、劇的な延長 V ゴールで敗戦。
全く勝てず、チームはバラバラだった序盤の危機を乗り越え、「超」個性派集団 24 期を中
心に一人一人が大きく成長し、リザーブチームの奮闘もあり生まれた一体感の中、総力を
挙げて挑んだが、最後の 21 分に流れを掴めず、勝負の難しさ、厳しさが深く刻まれたシー
ズンであった。
【文責:24 期 岡本】
2010 年
10BlueBullets は、強豪早稲田、慶應と同ブロックという非常に厳しいリーグ戦に挑んだ。
明治学院、獨協、早稲田、成蹊を下し、初戦から 4 連勝した東大のリーグ最終戦の相手は
慶應大学。慶應は日本代表二人を含む、非常に強力なメンバーであったが、前節で早稲田
に破れ、負ければ史上初のリーグ敗退が決まるがけっぷちの状況であった。一方、東大は
既に前節で Final4 進出を決めていたが、チームスピリッツである「真っ向勝負」を貫き、
この試合に勝つ事に全精力を注いで挑んだ。緊迫したシーソーゲームであったが、最後ま
で集中力が途切れることなく、用意した戦術や個人の武器が発揮され、勝利を収めた。一
つ一つの局面に全力を注ぐ「真っ向勝負」の精神が結実した試合となった。
続く final4 では東海大学を下し、ここまで全勝で Final の舞台に駒を進めた。相手は、リ
ーグ戦で下した早稲田大学。東大とは対照的にリーグ初戦から苦境にたたされ、試合を追
うごとに調子を上げていた。東大は1Qから 0-3 といきなりビハインドの展開。これまで常
に先制を許すことなく勝ち進んできた東大は、出鼻をくじかれ、その後もルーズボールへ
の反応やシュートの精彩を欠き、リードを保たれたまま試合終了。逆境を跳ね返せず、関
東準優勝という結果に終わった。
【文責:23 期 山下】
2009 年
学生日本一を決める、学生選手権が始まったこの年。主将の伊部と HC の 20 期原(健)とい
う 2 人の改革者を中心に、
「勝利への執念と、今に懸ける覚悟を胸に、日本一たる誇りに生
きる」という言葉を掲げ、A・Bチームを廃止するなど、組織として旧来の体制からの変
革を目指した。五月祭では 3 年ぶりの勝利を収め、リーグ戦初戦も大勝したが、3 試合目の
東京理科大学に敗戦。続く日体大、一橋にも惨敗、結果的には 5 年ぶりに Final4 進出を逃
すブロック 3 位という結果に終わる。
元気でエネルギーの大きい下級生と、大人しくリーダーシップのあり方に悩んだ 4 年生、
それぞれが自分の力の発揮の仕方を模索し続けた 1 年間。この年の試合を見て、東大の個
人と組織の未来を憂う OB の声と、シーズンが終わり呆然とする現役の顔を見て、ただた
だ自分たちの力のなさに悔しさと、情けなさと、申し訳なさの入り混じった感情を抱いて
いた。
【文責:22 期 中谷】
2008 年
前年の主力が多数抜け、
「日本一」に向けて一からの出発となった。
リーグ戦開幕まで負け続け、
「今年はやばい」との声もあったが、10man ライド等ミシガン
から学んだ戦術も用い、リーグ戦を突破。FINAL4 ではサドンデスで勝利し全日出場を勝
ち取った。
「この勢いで」と意気込んで臨んだ FINAL では一転、宿敵慶応に大敗。全日に
向けて猛スパートで立て直しを図るも、初戦で社会人に 5-6 で惜敗した。
突出した選手がいない中、一丸となって勝利する醍醐味を味わった一方、日本一への険し
い道のりを突き付けられたシーズンであった。
【文責:21 期 木名瀬】
2007 年
2007 年度 Blue Bullets は浅井 HC の下、2 年生からリーグ戦に出場していた AT の原(健)
・
藤田、3 年生から主力として活躍していた MF 伊丹・吉江・原(俊)
、DF 大胡などのリー
グ戦経験の豊富な 4 年生に、頼りになる 3 年生 MF 坂井・G 木名瀬、成長著しい 2 年生 LMF
中谷・FO 伊部などの下級生を加えたバランスの良いチームであった。この年は近年 Blue
Bullets が採用していたポゼッションラクロスをベースとしつつも、ブレイクも OF パター
ンに加えて得点力を上げることで日本一を目指した。
リーグ戦予選序盤では順調に勝星を重ねたものの、予選最終戦の早稲田や FINAL4 日体の
強豪校相手にブレイクを得点源として発揮できるまでのレベルに至らず、FINAL4 で敗退
した。
【文責:20 期 藤田】
2006 年
前年の全日本選手権準優勝をうけ、確固たる自信を持って日本一への飛躍を目指したこの
年、5年生AT日高と3年生AT2人、飯塚を筆頭とする4年生MFを中心に、
OF力が大きく期待された。
初めての海外遠征では準優勝という結果を残し、リーグ戦でも日体戦・一橋戦始め無事全
勝して一位通過。
これからいよいよ・・・と期待されたが、秋になって一気にチームの歯車が噛み合わなく
なる。そして、結局チームを立て直しきれないままにFINAL4を迎えることとなり、
5-8で早稲田に敗れてしまう。まじめで大人しい19期なりに必死に頑張って来たが、
勝つことの難しさを実感させられることとなった。
【文責:19 期 畝川】
2005 年
ポゼッションに重きを置いたプリンストンスタイルのラクロスを掲げ、目標を日本一に置
いてから3年目のこの年。AT に大岡、LG に鈴木という学生トッププレイヤーを擁し、
3年間の集大成として臨むシーズンとなった。
学生リーグ予選を5戦全勝で突破したものの、FINAL4の早稲田戦では、最大5点ものビ
ハインドを背負う展開。しかし、この年注力したメンタルトレーニングと、チームの一体
感により、劇的な逆転劇で決勝へと駒を進めた。関東決勝の慶応戦でも、一進一退の攻防
の末、延長 V ゴールで、15 年ぶりに悲願の慶応撃破&関東制覇を達成。
学生ラクロスの歴史を塗り替えた。
さらに全日本選手権準決勝でも慶応を1点差で下し、満を期して決勝でデサフィーオと対
決することとなったが、ジャパンアタック陣のブレイクとゾーンディフェンスに対応出来
ず、5-8で敗戦。全日本選手権準優勝という成績でこのシーズンを終えた。
【文責:18 期 矢島】
2004 年
『奮』
、フルイタツ。
2004 年 10 月リーグ最終戦、04BLUEBULLETS は法政大学に圧勝しながら、TIMEUP の
笛とともにグランドに崩れ落ちた。
得失点差による予選敗退。悔しさ、喪失感、誰もが俯く検見川で時間だけが過ぎて行った。
開幕の慶応大学戦は前半リードしながら惜しくも敗戦。その後は鉄壁の DF を中心に一度も
負けることないまま迎えた最終戦。
漸く機能し始めたOF陣が爆発するも、時すでに遅し、プレーオフに進めぬまま、慶応に
リベンジを果たせぬまま、04 シーズンは幕を降ろした。
2 年からの主力メンバーが多く残り、結果を期待された年であった。
シーズン当初、大学に集まり夜通し語り合った理念・目標。
臨海の初日の出に向かって誓った日本一。
22 人の個性が、時には激しくぶつかり合い、そして互いに高めあいながら、一つ一つ置き
続けた石。
前へ前へ走り続けた日々の練習。
心の底からフルイタツ、
‘うまくなりたい’、
‘勝ちたい’という熱い想い。しかしそれでも
届かなかったプレーオフへの壁。
一戦一戦の重要性、1 点 1 点の重みを思い知らされた 1 年となった。
【文責:17 期 北見】
2003 年
多くの問題を抱えながらの出発だった。
関東準優勝に導いた前年度の主力が抜け、部員も3桁台に上り、さらにグランドの使用が
制限される…。
舵取りを任された16期主将の清水は、チームも練習場所も違う100人を1つにまとめ
るため、ラクロス部の理念を初めて言語化した。
「東大から日本へ貫く感動を巻き起こす集団でありたい」
その結果、AチームはMF佐藤真やG松井を中心に、六大戦優勝、リーグ戦ブロック1位
通過。
チームとして順調な成長を遂げたが、奇しくも前年度と同じカードとなった準決勝日体戦
で、5対8の惜敗。
「日本一」の夢は潰えた。
また、Bチームはこの年度から七帝戦に参加。宮木Bヘッドコーチ(14期主将)らの熱
意ある指導と相まって、準優勝を果たすなど、2 年後の全日決勝戦で活躍する選手を多数輩
出した。4年前、様々な困難に直面し、試行錯誤を繰り返しながら、必死に貫き通した理
念は今も後輩たちに受け継がれている。
【文責:16 期 高尾】
2002 年
シーズンが始まり、幹部による最初の議論は目標を『学生日本一』か『一部残留』にする
かだった。OB からは‘今年はやばい’と噂され、自分たちの客観的な分析でも日本一には
到底届かないレベルから始まったシーズンだったからだ。
何度となく交わされる話し合い。どうすれば勝てるのか、自分たちは何を得たいのか、何
のためにラクロスをしているのか。結果としてチームが得たものは、その年の最大の強と
なる『チームとしての一体感』だった。
そして誰よりも強くそれを望み、全身で表現していて主将、
‘なんか頼りない’倉橋をチー
ムの一人ひとりがチームに出来ることを考え、実践することで支えるチームだった。
リーグ戦 1 敗で迎えた FINAL4 でそれが結実。1 点差で日本体育大学を下した直後、観客
席からグランドへ起こった喜びの雪崩は、その年の最大の成果であり、チームが最も求め
ていた最高の一体感だった。
【文責:15 期 山口】
2001 年
東大は 98 年度の新人勧誘より毎年 2,30 人強の新人を獲得、今現在まで至っているが、そ
の大量採用時代の幕開けたる 98 年度入学プレーヤーが 4 年目を迎えたのがこの 2001 年度
のシーズン。
各ポジションに 2 年次よりレギュラーを担った 4 年生を配し、且つ 3 年生以下からも豊富
な人材を揃え、過去と比べても引けを取らない戦力を擁しリーグ戦を迎えることとなる。
目標はここ 2 シーズン連続で苦汁を嘗めさせられた相手、慶応大学を破った上での『学生
日本一』。
しかし、圧倒的な戦力を誇り、打倒慶応を目指すチームにはびこる慢心。これが命取りと
なり、落とし穴がリーグ戦緒戦にあった。千葉大学戦を 1 点差で落とす。宮木主将のもと
態勢を立て直し、残りリーグ戦を4戦ともほぼダブルスコアで勝利を重ねた結果、ブロッ
ク2位でリーグ戦を通過。FINAL4 の相手は慶応大学。目標である学生日本一を果たす為
には通らなければならない相手であったが、結果は日本代表メンバーを多数擁する慶応大
学に敗戦。3 シーズン連続での対慶応の敗戦。今思い出しても悔しい。
【文責:14 期 宮木】
2000 年
‘変質’。2000 年を一言で表すなら、この表現が最もフィットするかもしれない。
リーグ戦 6 勝 1 敗。プレーオフ準決勝で慶応に 8-6 で敗退、関東 3 位。結果だけを見れば、
近年の躍進の中では埋もれてしまいそうな‘普通の好成績’
。だが、この年は成績には現れ
ないより深いレベルで、東大が大きな地殻変動を起し、これまでとは違う組織としての新
たな高みに昇った、歴史の変換点となった 1 年だった。
4 年生はたったの 6 人。きらびやかな才能、突出した身体能力を持った選手もいない。そん
な中、日本代表を何人も要する全盛期の慶応を相手に、多くの関係者をして、‘過去最も慶
応に勝てそうだった試合’と言わしめた。‘人数が多く、若い学年から試合経験を積んだ代
は強く、その次の人数の少ない〈谷間〉の代は弱い’というこれまでの先入観が支配的な
中、前年に大きな躍進があった次年度にも関わらず、そのセオリーは打ち砕かれた。
何が変わったのか?答えは、‘競争のルールそのものを変えることにより、競合優位を築い
たこと。’プロのトレーナーによるフィジカル・メンタル強化、リクルーティングの抜本的
な改革、ジュニア・海外コーチ導入、GM 制の導入、多くの関係者が叡智を結集して打って
きた布石が結実し、
『組織としての強さの蓄積』が起こり始めた年だった。今となってはそ
れらの戦い方も、多くの学校がやっている標準装備の条件だが、当時としては誰もやって
いない、パラダイムを変える打ち手だった。その時代、環境に応じて‘誰にも見えてない
ものを見て、誰もやっていない戦略を真っ先に、リスクを取って、批判を受けながらも、
本気でやる。それによって圧倒的な競合優位を築く’。新しい東大の<スタイル>が完成さ
れた年だった
【文責:13 期 松山】
1999 年
1999 年のチームを率いたのは‘気遣いの人’石川主将。この年は、各ポジションに核とな
る 4 年生を配すると共に、鈴木 HC のコーチング、才能溢れる 2・3 年生の活躍で第1回大
会以来の全日本選手権出場を果たした。特に後の代表 G・篠原を擁する DF は、単独チーム
として初となる外国人コーチ招聘が奏功し、準決勝までのリーグ戦6試合で平均失点2.
8点と鉄壁の守りを誇った。リーグ戦は翌期からの一部チーム数の削減を受けて 3 ブロッ
クの変則編成。ブロックを 3 勝 1 敗の 1 位で通過。東大は準々決勝で早稲田にリーグ戦の
リベンジを果たし、準決勝で日体を激戦の末に退け、関東学生準優勝を勝ち獲った。一方
で、慶応・クラブチームとの差を思い知らされ、全日出場を目標にしていては届かない夢
があることを実感したシーズンであった。
【文責:12 期? 永山】
1998 年
新ルール・アドバンシングザボールの採用初年度、スピーディなラクロスが主流となると
みられた中、1998 年のチームは RUN&GUN をチームスタイルに、全日本制覇を目標とし
てリーグ戦に臨んだ。開幕戦で、前年日本一の早稲田に挑むも予想外の大敗を喫し、その
後、学習院・専修・武蔵と流れにのれないまま連敗を喫し、後半漸く東海に引き分け、塾
高に勝利。迎えた神奈川との最終戦は背水の陣となったが、試合終了間際の劇的な同点ゴ
ールで入替戦を免れた。結果はブロック 6 位と、本来の力を発揮できないまま終了したシ
ーズンとなった。この年のチームを率いたのは闘将・金。シーズン序盤に大怪我を負った
が、献身的にチームを支え檄を飛ばし続けた姿が印象に残る。又、リーグ戦後半には炎の
復活を果たし、最終戦では記憶に残る豪快なシュートを決めている。
【文責:12 期? 永山】
1997 年
96 年シーズンを戦ったメンバーの多くが 4 年生として残り、過去最強の布陣を自負し”全
日本選手権優勝”を目標に 97 年シーズンに臨んだ。しかしながら、早稲田、慶応、日体、
東海を中心に多くのジャパンメンバーを輩出するほど関東大学学生リーグはその年激戦で
あった。初戦の法政大学に 13 点差をつけて大勝したが、第 2 戦の日体にシーソーゲーム
の末 2 点差で敗退、3 戦目の慶応には 4 点差をひっくり返され惜敗、その後全勝したもの
の 5 勝 2 敗のリーグ 3 位で惜しくも予選敗退を余儀なくされた。その中、中河がリーグの
ベスト 10 に選ばれ日本のラクロスの歴史にその名を残した。97 年は全日本選手権で早稲
田が優勝、慶応が準優勝し関東大学学生リーグのレベルの高さが証明されたが、東大にと
ってはもう一歩のところでより上のステージを逃した非常に悔しいシーズンであった。
【文責:10 期 久山】
1996 年
AT・MFに主力がごっそりと抜け、3 年生を主体とした新チーム全体の底上げと新たな攻
撃スタイルを模索した 1 年。リーグ戦では前年 2 位の東海大学が頭一つ抜け、東大・法政・
成長著しい日本体育大学との混戦が予想された。然し、その年に一部昇格した日本大学に
緒戦でまさかの敗戦。2 戦目は勝利を収めたものの、3 戦目の法政大学戦では主将後藤が負
傷退場。以後戦列から外れるという大誤算。東海・日本体育大学に続き神奈川大学にも惜
敗し 3 勝 4 敗という結果に終わる。各メンバーのポテンシャルはありながら、チームとし
ての経験値の少なさの為、大事な局面で本来の力を発揮できなかった悔しい 1 年だった。
【文責:9 期 後藤】
1995 年
平古場&松村という日本代表クラスの強力な OF プレーヤーに加え、個性豊かな4年と次代
を担う3年によるバランスの取れた布陣で自信を持って『全日本選手権出場』を目標にリ
ーグ戦に臨んだこの年。蓋を開けてみればライバル慶応大学には完敗、格下と見做された
中央大学にも敗北を喫するなどリーグ戦序盤で一時チームはどん底の状態へ。
然しFINAL4 進出に向けた、崖っぷちの法政戦ではエース松村が大爆発し圧勝。息を吹
き返したチームは次の神奈川大学戦も完勝し、学生リーグを 2 位通過。関東学生リーグ準
決勝へと駒を進めた。目標まで後一つの準決勝、相手は勢いに乗る東海大学。追いつ追わ
れつの攻防戦。しかしまさかの 1 点差での敗戦。
兎に角、カッコつけでやや淡白な 4 年生 8 期を中心にあっという間に終わっていった 95 年
シーズンだった。
【文責:8 期 松井】
1994 年
ある意味でこの年は東大ラクロス部にとって転機の年だったと思う。
結果から言うと東
大は初の関東 4 強落ち。 部員の数も増え正式に学年にとらわれず実力でのA/Bチーム
編成。
松本卓(故)をトレーニングリーダーにし、筋トレを含めた本格的な基礎体力強
化プランの導入。 この年から 1 部リーグ 2 ブロック制に変更になり、東大は慶応と同じ
Aブロックになり、最低でもブロック 2 位通過で関東学生ベスト4、別ブロックの早稲田
を破り、全日進出を目指すことになる。チームは平古場・松村のJPN代表MFを中心に、
G浜島、DF粟倉と 3 年を軸にチームを編成。 ゴール裏からAT下村、上からMF松村
の1on1 で得点し、ポゼッションを長く、固く守っていくというゲーム展開を東大の勝ちパ
ターンとする。 同時に東大の脆さを露呈するシーズンとなり、今までなら 1 点差で勝っ
ていた試合に逆に 1 点差で負ける結果となる。 同じブロックの神奈川大学に後半まくら
れて一点差負け。
実力さのある慶応戦を後に控え、この敗退で一気に意気消沈。
でもチームを建て直し慶応戦前半までは1-2の一点差。
それ
後半は思いっきり押されて終
わってみれば1-8で完敗。 ブロック 2 位通過がほぼ絶望の中での最終戦明治は緊張感
を切らせて敗退。 4 年生には新人の時の新歓試合で初めてラクロスを観た葛西臨海での大
学ラクロス生活終了となる。
同時に公式戦に出れなったプレイヤー、東大運動会、ラク
ロス学連の仕事をきちんとこなしてくれたスタッフに感謝するシーズンだった。
【文責:7 期 北村】
1993 年
昨年度のキープレーヤーであるそ北原・高野・池松の卒業、DFの要の豊島の退部で、関
東 4 強と言われていた青学とともに東大の地盤沈下が囁かれていたシーズンになる。 た
だ、以前から経験を積んでいたAT熊倉・宮下、MF密田、神宮ら 4 年生陣、下村、阿江、
北村、草柳、福士、高瀬ら 3 年生陣、そして平古場、松村、粟倉ら 2 年生のブレイクで、
全員で攻め守り勝つというパターンを確立した。 リーグ戦 2 戦目でまさかの東海戦引き
分け。 その時点でリーグトップだった明治とのリーグ最終戦に9-4で力勝ちし、東大 4
強伝説を死守した(青学は 4 強落ち)。 全日進出を賭けて望んだ慶応戦は実力どおり大敗。
それでも東大のプライドを守ったシーズンだった。
【文責:7 期 北村】
1992 年
前年は全日本選手権出場を逃し悔しい結果に終わり、再びチャレンジジャーとして臨んだ
シーズン。前シーズンに主力メンバーとして試合に出場していた選手がいなくなり、この
年のレギュラー選手の殆どが試合経験の少ない若いチームであった。特に、創部以来伝統
的な強さを誇っていた DF 陣メンバーは一新、まさにチャレンジャーであった。尚、この年
から最上級の 4 年生が主将を務めるようになった。
この頃になるとラクロスの普及に伴い関東リーグ加盟校も増加、
この年は1部リーグ 16 校、
4 ブロック体制となった。この年、東大は、慶応義塾高校、立教大学、法政大学と同じブロ
ック(D ブロック)。若いチームだったこともあり、リーグ戦の緒戦の立教戦では多少もた
つき、5-4 の僅差の勝利となったが、2 戦目の塾高には 9 対 4 で順当に勝ち、ブロック 1 位
をかけた法政戦に臨んだ。相手の法政は、日本代表候補 3 名を抱えた新興の雄で、特に MF
の 2 枚看板の破壊力には定評があった。予想通り、点を取っては取られての緊迫した試合
展開。試合終了直前に、相手に 1 点奪われて、1 点差とされ、さらにマンダウンでのフェイ
ス・オフ。ここでロング・
スティックが粘りのフェイス・オフにて、ようやく試合終了の笛がなり、苦闘の末ファイ
ナル 4 へ進出。
全日本選手権進出をかけた試合の相手は前年と同じ早稲田。しかしこの年の早稲田は攻
撃・守備とも圧倒的な力を誇っており、若い東大では歯が立たず、この年もベスト 4 の壁
を敗れず、無念のシーズン終了となった。
【文責:5 期 北原】
1991 年
90シーズンに優勝し、この年から秋の大会に一本化された関東学生リーグのディフェン
ディング・チャンピオンとして臨んだシーズン。東大ラクロス部創部時よりチームの主力
であったメンバーが卒業で抜けたものの、AT・MF・DF・G の各ポジションには全日本メ
ンバーを揃え、そこに下級生(2 年生・1 年生)を加えた新チームで連覇を目指した。前年
の優勝という輝かしい成果のお陰で多数の新入生が入部、大会登録時に、部員は総勢約 50
名と、これまでよりもかなりの大所帯となった。
東大は、1 部 A ブロックにはいり、早稲田大学、明治大学、専修大学、慶応義塾高校と同
じブロック。緒戦よりディフェンス陣は伝統の強さを見せて敵の攻撃の要所を封じたもの
の、攻撃陣に前年のシーズン程の爆発力がみられず、ロースコア・ゲームで勝ち星を重ね
ていった。
全日本選手権進出をかけた早稲田大学との一戦は、相手攻撃陣の豊富な運動量と得点力に
さすがの東大のディフェンス陣も崩されて、残念ながらベスト 4 どまりとなった。
【文責:5 期 北村】
1990 年
春のトーナメントで早稲田に初の敗戦。これで全員の心に火がついた。「もう悔しい思いは
したくない」。夏の検見川では、とにかく練習した。ひたすら走った。骨折者も、熱中症者
も出た。それでも「打倒慶応」に向けて走り続けた。それが自信になった。秋のリーグ戦
で、日本代表を8人そろえる東大は、平均得点14.25点、平均失点0.5点という圧
倒的な強さで予選ブロックを通過。そして優勝候補の筆頭とされる慶応との準決勝。主将
唐仁原は、4~5点は確実に得点できると判断。あとは、爆発的な攻撃力のある慶応OF
陣を3点以下に抑えること。マッチアップを綿密に検討し、ミーティングを重ね、試合は
始まった。前半、AT堀-中居のホットラインから望外の先制。相手ATの個人技で追い
つかれたが、後半にAT大門が左サイドから強引にゴール。さらにMF高野が中央正面か
ら豪快なシュートで突き放す。守ってはLSM沢田をはじめMF陣が相手に食らいつき自
由に攻めさせない。落合らDF陣も体を張ってゴールを奪わせない。終了間際に1点を失
ったが、全員が勝利を信じて最後まで足を止めず3-2で勝ちきった。3年越しのまさに
「悲願」がかなった瞬間だった。決勝でも青学を下し初優勝。守護神G加藤がMVPに選
出される。全日本では決勝で青学に敗れ日本一はお預けとなったが、部としてひとつの壁
を越えた年となった。シーズン後、東京大学運動会への準加盟申請を行った。
【文責:唐仁原・沢田】
1989 年
前年の学生リーグ戦の開催を受け、関東ではラクロスが学生スポーツとして認知され始め、
週刊誌やJJなどの女性誌で取り上げられたこともあって人気を博し、参加大学が増えた
89 年シーズン。 しかし、米国遠征を経験している5大学(東大、慶応、早稲田、青学、
帝京)と、その他の創部まもない大学との技術・戦術レベルの差は大きかった。
この年
から2ブロック制が採用となったが、予選ブロックでは、ターンオーバーからの早いファ
ーストブレイクを重視したプレースタイルを採用した東大が大量得点で圧勝。
万全を期
して臨んだ決勝は、東大のファーストブレイクからの得点パターンをビデオで研究し尽く
した慶応との対戦。
両チームとも主力メンバーは昨年と同じ。
開始から一進一退の白
熱した試合となる。
会場設営の遅れから、4Q途中で日没。ボールを追うことさえ困難
になる中、残り15秒でアウトオブバウンズからのボールを董 w)€セた東大は、エース MF
岩澤に希望を託す。全力でゴールに向かう岩澤であったが、シュートを放つ前に無情にも
試合終了のホイッスル。 結局慶応に 1 点差で敗退し、創部当初の目標であった優勝をで
きぬままに初代(2 期)のメンバーは卒業を迎えた。
【文責:白井・澤田】
1988 年
87 年 9 月の創部以来、多摩川べりで慶応のメンバーと共に練習した時期を経て、駒場ホッ
ケー場での練習体制を確立、有望な 1 年生の勧誘にも成功し、夏にはチームの 3 年生全員
で米国ボルチモアのジョンズホプキンス大学への遠征に参加と、万全の準備で臨んだ 88 年
シーズン。 打倒慶応(イコール、日本一)を目標に臨んだリーグ戦であったが、東大AT陣
が DF 原田、G 菅原を中心とする慶応DF陣を予想外に攻めあぐねている間に、初代得点王
のAT大久保を中心に慶応は着々と得点を重ね、結局 3 点差で敗退。 帝京、早稲田には
難なく大差で勝利を収めたものの、早稲田戦で主将の AT 白井が古傷の左ヒザのじん帯周辺
を断裂し入院・手術(全治 6 ヶ月)するアクシデントに見舞われ、最終の青学戦@検見川
グランドを迎える。 青学は 2 年生中心の若いチームで、過去に何度か東大グランドに招
いて「稽古をつけた」相手。
相手の手の内を知り尽くしていることもあり、前半は終始
東大ペース。後半もこのままかと思われたが、青学は温湯(ぬくゆ)
・荒木のMFコンビを
中心に必死の追撃を図り、ついに4Qに逆転。クリアを焦る東大DF陣のミスをついて青
学AT高木がダメ押しの得点を挙げ、2 点差で敗退。 記念すべき第一回大会は 3 位という
想定外の結果となった。
主将白井がケガでしばらく動けなくなったことを受けて、シー
ズン終了後に新 3 年生の DF 落合が主将となり、この後数年間は 3 年生が主将を務める形
が続いた。
【文責:白井・澤田】
第二部
Voice of the leaders
東京大学ラクロス部男子、主将。
数十人、ある時は百人を超える集団を 365 日背負った人物が、
現役当時を語る。
24 期主将 沢田匠
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
責任の意味を感じたこと。
責任というのは目標の障害となるどんなことが起こっても言い訳にせず、それを乗り越え
必ず結果を出す覚悟を決めることだと部活を通じて感じた。
特に部活において、本当に達成したいことで、自分ではどうしようもないことは少なく、
覚悟次第でどんな逆境も乗り越えられる。その覚悟を持っていることが責任を負っている
ということではないかと思う。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
2010,2011 年二年連続リーグ戦で慶應に勝ち、全勝で Final4 に進んだこと。そして、二年
連続 Final 駒澤第二グランドで早稲田大学に破れたこと。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
学生日本一。結局自分が現役として部活に所属しているときには達成できなかったが、
BLUE BULLETS には学生日本一を達成してほしい。
慶應戦や Final4 の日体戦など、本当に幸せな経験はできたが、やはり目標は達成出来なか
ったという思いは強く残っている。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
この部活で目指しているもの、そのための活動に誇りを持って努力すること。
部員一人一人が自分の本当の想いに耳を傾け、誰よりも謙虚でストイックに行動し、そし
てそういう仲間が集まったこの部活を好きでいてほしい。
23 期主将 山下尚志
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
情熱と感謝。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
2009 年一橋戦と 2010 年慶應戦です。
3 年生のシーズン最終戦で一橋に完敗したことは最も自分の記憶に残ったことの一つでし
た。大事な一戦において、自分自身の取り組みの甘さを思い知らされると同時に、一橋大
学のラクロスに衝撃を受けました。
また、2010 年の慶應戦は、1 年間こだわり続けたチームスピリッツが浸透し、チームとし
ても個人としても慶應に少しも引けをとることなく勝ちきることができました。決勝点の
瞬間や最後のマンダウンを守り切った瞬間の記憶は今でも鮮明に刻まれています。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
東大ラクロス部は、学生ラクロス界で常にトップとなるチームに成長してほしいと思いま
す。そしてラクロス界を牽引する存在であってほしいと思います。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
4 年間の部活の中で、本当にたくさんの方々の想いを感じました。
私は、最初から勝ちにこだわりを強くもった選手ではありませんでしたが、先輩やコーチ
の情熱に少しでも応えたいと思い、自分自身も情熱を燃やし勝利に向かって一生懸命行動
するようになりました。
また、支えて下さるOBや家族、関係者の方々の存在があって、人に感謝することを大事
にするようになりました。未来の現役の学生には、人の想いを大事にし、自ら繋いでいっ
てほしいと思います。
22 期主将 伊部智信
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
身震いし、涙が止まらず、試合の疲れも痛みも過去の苦しみも全て忘れ去ってしまうほど
の、勝利の感動と歓喜を経験したこと。
体中の力が抜け切り、涙すら出ず、悔しいという気持ちを通り越した敗北の虚無感、自己
否定を経験したこと。
敢えて表現するとすれば、異常なまでの感情の起伏なのだと思います。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
リーグ戦最終戦、一橋戦の 4Q、どれだけ気持ちを切らさないように努めても、チームを率
いるものとして最低だと知りつつも、”完敗だ”と心の中で悟ってしまった瞬間。自分たち
の代が 1 年間築いてきたものだけに限らず、先輩方が築き上げてきた様々なモノが目の前
で、脆くも崩れ去るのを感じていました。
心の中にあったのは、悔しいとかではなく、
「どうしよう」という気持ちだけでした。未だ
に生々しく思い出します。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
勝つために全力を尽くすこと、上を目指すこと、組織としても個人としてもパフォーマン
スを最大化して強いチームを追及し続けること。また、そういった姿勢は前提として、学
生チームスポーツならではの、実に
”人間臭い”
難しさと複雑さ、それ故の深さと楽
しさを全身全霊で経験してほしい、と思います。その過程でチームとしても、個人として
も弱いところがたくさん見えてくるはずで、たとえ遠回りに見えても、その一つ一つと目
をそらさずに向き合うことが、頂点への唯一の道なのではないかと思います。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
チームが好きだという気持ち、ラクロスが好きだという気持ち、仲間が好きだという気持
ち。何でも良いと思いますが、人間結局は好きなことに割くエネルギーが一番大きくなる
ものだと思います。そして大事なことは、その”好き”を心の中にしまい込むのではなく、
開放して、共有してみること。そのときに 1+1=2 ではなく、多くのシナジーを生み、辛
さを半分に、喜びを 2 倍にします。
厳しさも、楽しさも、喜びも、その土台の上にあり、BLUEBULLETS が単なるストイッ
クな体育会系と違うところで、これからも是非受け継いでいってほしいところです。
21 期主将 木名瀬邦彦
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
先輩・後輩との繋がりです。現役のときは「仲間」より「結果」が重要だと思っていまし
たが、引退して数年経った今、久し振りにラクロス部の先輩・後輩に会うと、心地よい興
奮、言いようのない居心地の良さを感じます。現役時代をがむしゃらに過ごしたからこそ
築くことができた絆だと思います。
同期会で「お前、あのときあんなこと言いやがったな」などと当時の(苦い?)思い出を笑い
話として酒の肴とする一コマが、個人的には大好きです。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
特にありません。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?今後、そして未来の現役の学生に向
けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
がむしゃらにラクロスに没頭すること。
ラクロスが好きだ、Blue Bullets が好きだ、負けるのが嫌いだ。モチベーションの源泉は何
でもいいですが、その気持ちを全面に出してグラウンドで体現することが一番だと思いま
す。目標達成に向け、個人で鍛錬し、チームメイトと衝突し、覚悟を持って試合に臨むこ
とで、様々な経験をしてもらいたいと思います。
また、結果として強い Blue Bullets になってもらえれば言うことはありません。
20 期主将 藤田篤
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
勝つ喜び、負ける悔しさ、意識が通じ合って点をとったときの嬉しさ、自分の不甲斐なさ、
飲み会でのバカ騒ぎの楽しさなど、今の自分をつくりあげた感情。ラクロスが好きで学生
生活のほとんどを費やし、4 年生のときには自分たちでチームをつくりあげた分それらの感
情も大きかったし、ラクロスを通じて仲間と共有することで更に大きくなった。
そしてそれらの感情を共有した仲間との繋がり。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
2005 年(当時 2 年生)の FINAL 慶應戦での勝利。ベンチから試合を見ていたが、畝川さ
んのサドンデスゴールが決まった瞬間グラウンドに飛び出していた。ベンチ・応援席から
みんなが飛び出し駆け寄ってくるので、倒れて圧死しそうに。チームやサポーター全員が
あれだけ盛り上がり興奮した瞬間は今までにない。
FINAL4 日体戦。この試合に向け Zone DF を用意するも想定以上に相手のシュートレンジ
が広く、次々とミドルシュートを決められ追いかける展開に。原(健)の 1on1 や相手の
10man ライドを崩して点を取るも、なかなか点差が縮まらず 4Q に。必死にボールを奪お
うとする DF 陣を OF コートから見ていてホイッスルが鳴ったときは、このチームでラクロ
スを続けることができないという寂しさが一番大きかった。
FINAL4 日体戦後の飲み会で「青春」でみんな裸になって泣きながら「希望の轍」を歌っ
たこと。その後何年間か吉江と四宮はカラオケで「希望の轍」を聴くだけで泣いていた。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
Blue Bullets が強豪であり続け、全日本選手権でも学生選手権でも関東学生リーグでもいい
ので優勝すること。
2005 年度の関東学生リーグ制覇の際のようにチームやサポーター全員が興奮してグランド
に飛び込んでしまうような瞬間をもう一度味わいたい。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
試合を見ていて勝利やチームに対する思い、ラクロスが楽しいという気持ちが全員から伝
わってくるようなチームであって欲しい。
試合に出ているメンバーは Blue Bullets の代表として、自分が主役だという気持ちで勝利
に向かって必死に戦う。試合に出られないメンバーは出られない悔しさを持ちつつもチー
ムの勝利のために必死に応援する。
そのようなチームは色々なことを考え、チャレンジして苦労することで個々人が人間とし
て成長できているだろうし、見ている側も感動する。
19 期主将 飯塚洋史
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
人と一緒に何かを表現するもの。
大学生活を全てかけて、仲間と一生懸命に高見をめざし続ける中で、多くのことを学び、
多くの感情を味わい、いまの自分の大きな部分が形作られてきたと感じます。
そして、そのあと HC をさせて頂いた後に感じたのは、きっとそれぞれが、個人として、
チームとして何かを表現したかったんじゃないかなということです。それがチームメート
や、家族、観客に伝わって、繋がって行く感覚、そして、その喜びの大きさを知ることが
できたのは、自分の人生にとって、本当に貴重な経験だったと思います。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
何かに一生懸命に真っすぐと向かうこと。そして、その中で必死に考え、行動を起こすこ
と。
感性の大事さ。
尊敬できる先輩、同輩、後輩。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
二つあって、 一つは自分の代ではないが、3 年生の時に、関東学生リーグで優勝をしたこ
と。
優勝が決まった瞬間はなにがなんだか分からない感じだったが、
そのあと青春にいって、優勝杯でドンペリを回し飲みし、
みんなで裸になって歌いまくっていたとき、
心の底から、「うちの部まじ最高だ」と叫んでいた。
(一つ上のMFの橋本卓郎さんが、
”これってムーブメントだよな”って
いう言葉が記憶に強く残っている”
)
もう一つは、自分が 4 年でリーグ戦を全勝で終え、
FINAL4へ向けて進んでいたとき、
今まで圧勝していた、京大と一橋に連敗し、
チームが自信を失い、ゆれていたとき、
なんとかしてこのチームを立て直さなくてはいけないと
副将の山本や幹部陣と必死になって考え、行動したこと。
同期の中村貴俊が朝、みんなの前で自分の思いを伝えてくれて、
チームが引き締まったのが特に胸に残っている。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
今までの部のいいところは受け継ぎつつも、自分たちで考え、決め、時には悩みつつも理
想を追い求めること
全部を楽しんでほしい。
18 期主将 箕輪祐介
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
自分にとって、ラクロスというより東大ラクロス部は「誇」です。
これは私の代(2005 年度)のテーマでもありました。
正直、1 年生のころから東大ラクロス部が自分にとっての本当に「誇」であったかとういう
と自信を持って言えないかもしれません。主将になって、徐々に本当の意味で「誇」とい
うものを感じるようになったかもしれません。
私は特に最後の瞬間は、この部活のためであれば何でもしたいと思ってみたり、この部以
上の集団はないと心底思ってみたり、自分の人生でこれ以上の瞬間はないと思ってみたり
と、今考えると非常に大袈裟で書き留めるのも恥ずかしいのですが、その時は本当にそう
思っていました。
大学に入るまではそういった組織愛を持ったことがなかったので、集団で一つの目標を持
って寝食を共にするというのは最高の経験でした。そんな経験をさせてくれたのが、自分
にとってのラクロスであり東大ラクロス部でした。
今でも間違いなく誇に思っています。
社会人になった今、なかなか経験できないものだと思います。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
一番思うのは、成長する力かと思います。
悔しい、悔しいで終わらないということです。
私が思うに、東大ラクロス部の競争環境は非常にシビアだと思います。
もちろん実力主義で、年は関係ない。
ましては、同じ実力であれば、学年が下の人間が成長性という評価軸からAチームに選ば
れてしまうという、逆年功序列のような状態で、普通の社会ではなかなか考えられない環
境なわけです。
さらにコーチに評価される頻度も高いし、常に周りと比べられている。
その環境の中で、もしチームメートに劣っているという評価を受けたとする。
非常に悔しいわけです。しかし次の評価もすぐに迫っている。
そこで選手は死に物狂いで練習する、さらにはコーチ、先輩、後輩というたくさんのアド
バイザーが周りにはいて、もちろん練習するインフラは整っている、さらには毎日のよう
にラクロスノートをとって如何に効率的に自分を成長させるかを常に考える。
普通の大学生活を送っていると、ここまで成長する過程を短いサイクルで効率的にこなす、
という経験はできなかったかなと。
スポーツをする意義というのはこういうところにもあると思います。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
全日本選手権の決勝です。
今までの人生で最も悔しかった経験なので、忘れません。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
日本一を目指すこと。
常にナンバーワンであり続けるという精神を貫くこと。
どの瞬間においても、どの集団に対しても負けないという気持ちをもつこと。
17 期主将 北見啓
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
現役のころ、代替わりの年末レポートでこのような質問に答えていたような気がします。
そのころの回答は、
「大学四年間、すべての情熱をそそぎ、目標を達成するもの」みたいな
ものだったかと思います。今、改めて思うと、ラクロスとは「自分のバックボーン」だと
感じています。私個人だけかもしれませんが、(いや、そんなことはないと確信しておりま
す)学生時代にはラクロス以外に時間をとっておりませんでした。出席を取らない法学部
だったことも幸いし、授業には出ず、壁うちをしたり、ビデオを見たり、そんなことばか
りしていたおかげで、学部の知識はまったく残っておりません。そんな状態で社会に出て
しまったのですね。さあ、どうする?ビジネスの事もまったく知らなければ、特定分野の
専門知識もない。あるはずの法律の知識は一夜漬けでテストを乗り切ったため全く覚えて
いない。そんな武器のない自分を支えてくれるのはラクロス部での経験でした。強い組織
を作るにはどうしたらよいかを考え、施策を打ち、その反応を見て修正するというプロセ
スができたことが大きいです。これが自分のバックボーンであり、武器となっています。
また同時に、強い組織を作るにはどうしたらよいかを考えていたために、強い組織作りに
興味をもち、経営コンサルティングという業界で働こうと決める強い理由にもなりました。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
上記でも述べた「組織」について考えた経験が一つ。もう一つは、いかに速く成長するか
を考える思考プロセスです。
社会に出ても、ラクロスの上達と同様にビジネスマンとしての成長が求められます。自分
の仕事において重要な要素、例えば問題の本質を特定する力、解決策を作り出す能力、コ
ミュニケーション能力、分析力、英語力、さまざまありますが、
「仕事」というのをいくつ
かに分解して、時間という制約の中でどこに力を注ぎ、さらにどのように鍛えるかが重要
となってきます。これは、まさに「オフェンス」ををパス、キャッチ、シュート、ダッジ
にわけ、シュートの中でもランシュー、スタンディングシュート、カムアラウンド、クリ
ースにわけて、クリースシュートの中でも、もらう前の動きと、キャッチと、シュート、
キャッチのなかでもプロテクションと、引きキャッチと等にわけ、何が一番鍛えなければ
ならないところなのか、どのように練習すると一番速くうまくなるのか考えるのと変わら
ないと思います。重要な思考プロセスはラクロスと変わらないわけです。
3 年、4 年になってから、自分の成長だけでなく、組織として強くなるにはどうしたらよい
かを考える環境に置かれます。どうすれば人が変わるか、考えなければなりません。例え
ば、チームに元気がないなと思ったときに、だれかが何か言ったときに、
「返事」すること
をルールにしたことがありました。それだけでも声を出すという習慣になり、自然と返事
以外の声も出るようになり、元気がでたことがありました。そこから、自発を求める時に、
行動から入ることも一つの方法だと学びました。こういった、組織について考え、そして
その施策を試してきた経験が大きな糧になっています。大学時代に、100 人、それも最難関
とされる大学合格という目標達成経験者の組織をより強くすることを考える、さらに自分
のアイデアを試す機会が与えられる、そんな幸運な人間はそういません。この試すという
経験が、単に考えただけの知識よりも、説得力と自信をもたらし大きな価値を持っていま
す。
「大学四年間、すべての情熱をそそぎ、目標を達成するもの」として、本気で取り組んだ
結果、社会に出た今でも「自分のバックボーン」として、生きている、そんなラクロスと
いうスポーツ、そしてラクロスを楽しいだけじゃなくて自分のバックボーンにまで存在を
大きくしてくれた東大ラクロス部という組織に出会えた幸運に感謝します。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
いろいろ思い浮かんでくるものはありますが、4 年になった時に同期全員で合宿を行った時
のことがまず浮かびました。みんなワクワク感と覚悟に満ちたいい顔をしていました。100
人の組織で、1 年や 2 年も最終学年の 4 年と同じように高いモチベーションと目的意識を持
つにはどうしたらいいか?皆が同じ方向をむき、組織としてベクトルをそろえ、大きくす
るにはどうすればいいか、そんな話をしました。その時に 4 年生それぞれがリーダーとな
り、1,2,3 年生を集めた 4~5 人のグループを作る師弟班をつくるというアイデアが出て
きました。ミーティングでも、組織でも、多の中の一人では当事者意識が薄れ、人任せに
なる。だから少人数のグループをつくり、当事者意識を高めた状態でのミーティングをす
る。かつ、4 年がそのグループを引っ張ることで、4 年の想いや考えをちゃんと伝えられる。
そんなコンセプトだったと思います。
その師弟班で 1,2,3 年生をリードしたからかどうかはわかりませんが(多分関係ないで
すね)
、普段はあんまり喋らない奴が時間おしおしの納会の際に、檀上で延々としゃべって
いたのも良く覚えています。ああ、こいつも普段はしゃべらないけど、いろいろと伝えた
いことがあるんだなーと思いました。当たり前のことですが、熱さを表に出さないやつで
も、やっぱり熱い思いを持ってラクロスやっているんだな、と。なんとなく象徴的な出来
事に思えたので良く覚えています。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
この原稿を書いている今、数ヶ月アメリカに来ています。アメリカに来て感じるのは、サ
ービスの適当さ、道の汚さ、というネガティブ面もありますが、彼らは非常にオープンで
フレンドリー、何事にも捉われないなということです。良くも悪くも、縛りがないからで
はないでしょうか。地理的に広大だという面もありますが、200 年足らずしかない歴史、自
分たちで国を作ったという開拓精神が彼らの何事にも捉われない思考回路にしているので
はないでしょうか。そして、その思考回路がアメリカの今の経済的、政治的に世界の中心
という地位のベースになっているのではないかなと感じています。
日本におけるラクロスもある意味、このアメリカの状況に近いのではないでしょうか。他
の体育会が伝統と堅い上下関係があるのに対し、20 年前に日本にやってきたラクロスは、
白井さん達を筆頭に開拓されたものです。そこでは、無駄だと思われる、厳格すぎる上下
関係はないし、発想も自由、思いついたことをチャレンジすることが許されていたと想像
します。一見無理だと思うこともチャレンジしたからこそ、わずか 10 年足らずでラクロス
が大学スポーツとして普及したのでしょう。この開拓精神は、ラクロスの発展だけでなく、
ラクロスを通して得られるものも大きくしてくれているはず。全くの私見ですが、ラクロ
ス部卒は他の部活卒の新卒よりも優秀だと思っています、自分達で勝つために考え、実行
できる余地が大きいからです。ぜひ、リクルーティングをされている方に伺ってみたいで
す。実際のところどうですか?
しかし、年数がたってくれば、他のさまざまな組織で見られる通り、開拓精神が薄れる可
能性があります。今までの既存の方法にとらわれ、思考をやめてしまう可能性、また何か
新しいことを思いついたとしても、歴史という縛りが邪魔してできない可能性。こうなる
と、組織として革新がおこらなくなり弱くなってしまう可能性があるだけでなく、ラクロ
ス部にいるからこそ得られるものが減ってしまいます。
そうならないために、絶えずチームを更に強くするにはどうしたら良いか、熟考し、アイ
デアを出すことを忘れないでください。そして、しかるべき人物に相談し、その施策を遂
行してください。ジュニアや辻先生の講義の導入、コーチングの本格導入などは 4 年生か
らでなく、当時の 2 年生からのアイデアだったはずです。下の学年だから組織について考
えないというのは間違っているでしょう。もっと言えば、本当に組織を変えるには 1 年で
は短すぎ、それこそ 2,3 年計画でやらねばなりません。私の知る限り、そういった試みに対
して東大ラクロス部 OB 会は基本的にサポーティブですし、今後もそうあるでしょう。
全員が開拓精神を持ち、実行し続ければ、組織は革新をやめず、見ていて魅力的であり、
強くなり、感動を貫くという理念実現に近づくでしょう。捉われから思考を停止すること
なく、チャレンジすることを恐れず、開拓精神を持ち続けていただくことを、切に願いま
す。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
他の体育会が伝統と堅い上下関係があるのに対し、20 年前に日本にやってきたラクロスは、
白井さん達を筆頭に開拓されたものです。そこでは、無駄だと思われる、厳格すぎる上下
関係はないし、発想も自由、思いついたことをチャレンジすることが許されていたと想像
します。この開拓精神は、ラクロスの発展だけでなく、ラクロスを通して得られるものも
大きくしてくれているはず。全くの私見ですが、ラクロス部卒は他の部活卒の新卒よりも
優秀だと思っています、自分達で勝つために考え、実行できる余地が大きいからです。
しかし、年数がたってくれば、他のさまざまな組織で見られる通り、開拓精神が薄れる可
能性があります。すると、組織として革新がおこらなくなり弱くなってしまう可能性があ
るだけでなく、ラクロス部にいるからこそ得られるものが減ってしまいます。
そうならないために、絶えずチームを更に強くするにはどうしたら良いか、熟考し、アイ
デアを出すことを忘れないでください。そして、しかるべき人物に相談し、その施策を遂
行してください。そういった試みに対して東大ラクロス部 OB 会は基本的にサポーティブ
ですし、今後もそうあるでしょう。
全員が開拓精神を持ち、実行し続ければ、組織は革新をやめず、見ていて魅力的であり、
強くなり、感動を貫くという理念実現に近づくでしょう。捉われから思考を停止すること
なく、チャレンジすることを恐れず、開拓精神を持ち続けていただくことを、切に願いま
す。
16 期主将 清水智史
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
リーダーシップが身に付く場。コーチや主将というポジションに関わらず、
あれだけ各個人がチームの為に、或いは自分の為に、無駄な上下関係も無く、
リーダーシップを日々取り続けられる場は中々無いだろう。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
戦友
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
甲乙付け難いものの、2003 年に駒場キャンパス活動停止を言い渡された時、
そして、2005 年にヘッドコーチを務めていたシーズン、畝川選手がシュート
を決め関東学生リーグ優勝を決めた瞬間。
2003 年の活動停止の際、当時の東京大学側には一所懸命に相談・交渉したが、
やはり一定期間キャンパス外で活動せざるを得なかった。2003 年のチーム
だけでなく、未来のチームの弱体化に繋がると、当時は日々焦燥感で一杯
だった。
活動停止から 2 年後の 2005 年、全日本選手権優勝はできなかったが、箕輪
主将のリーダーシップの下、リーグ優勝、全日決勝戦迄勝ち上がり、結果的に
東京大学から総長賞を部が受賞できるに至った事は感慨深い(実は、
2003 年に相談にのって頂いた武藤教授のアドバイス通り)。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
活動停止を経て、当に雨降って地を固める事ができたと思う。駒場・本郷
キャンパスでの練習環境を大事にしながら、東京大学、近隣の小学校や住民
関係者との良好な関係を保ってもらいたい。
15 期主将 倉橋雄作
素敵な仲間に囲まれて
僕は数々の遅いシュートを決めてきた。2 年生の頃。大げさなかけ声とは裏腹に、びっくり
するほど遅いバウンドシュートが僕の武器だった。「しまった、今のは絶対捕れた・・・」
と相手のゴーリーを何度も悔しがらせたものだ。圧巻は専修戦。リーグブロック予選の最
終試合。これに勝利した側がプレーオフ。雨の農グラ。何ともしびれる舞台が整った。前
半、東大は攻めあぐね、3 点のリードを許す。そんななか、僕のバウンドシュートが火を噴
いた。ボールはゴーリーの股下をコロコロと転がる。ゴールラインを超えるころ、ボール
は止まっていたかもしれない。東大待望の初得点。
「お前、ほんとありえねーな」と関田さ
んからお褒めの言葉をいただいた。結局、東大は 5 対 4 で専修を下し、プレーオフ進出を
果たす。この試合が、「揺らぐな、今に集中」のメンタリティが東大に確立していく大きな
きっかけになったのではないかと思う。
遅いシュートといえば、避けて通れないのが 4 年生の時の話。そう、Final 4 日体戦。エー
ス山口幹生が爆発。DF も踏ん張り、一時 8 対 3 とリード。そういえば、この試合の前日、
全体 MTG でのこと。幹生が、
「これまでは周りを鍛えることを一番に考えてきた。明日は
俺が点を取る」と宣言していた。有言実行そのままに、6 得点を叩き出した彼はすごい。で、
日体戦の話。さすが日体、いつまでも黙ってはいない。逆襲開始。東大連続失点。どうに
も流れを止められない。大差リードのはずが、ついに残り 2 分、同点ゴールを許してしま
う。8 対 8。完全に日体ムード。ここで僕は勘違いをしてしまった。
「ここで点を取ればヒ
ーローだ。池さんもさぞかし喜んでくれる。
」何を思ったか、リストレ辺りから、それまで
一度も打ったことのない左ランニングシュートを放ってしまった。あまりの遅さに相手ゴ
ーリーも驚いたに違いない。それ以上に驚いたのは、愛するチームメイトだろう。ボール
はゴーリーのクロスに収まり、攻守交代。もはや幹生から叱られることもなかった。東大
は再び日体の猛攻に曝されることになる。「ごめん、ごめん、みんなごめん。やばい、やば
い、やってもうた。たのむ、たのむ、みんなたのむ。」僕は大いに揺らいでいた。しかし、
チームのみんなは違っていた。
「揺らぐな、今に集中」が共有されていた。MF、DF、G が
一丸となってピンチを耐え抜き、日体はしびれを切らしてパスミス。サイドラインへとボ
ールは転がっていく。奥村と相手アタックがせり合いながらボールを追う。奥村が相手を
吹き飛ばす。やばい、ファールか。しかし笛は鳴らない。ボールはラインを割り、奥村が
早くリスタートしようと構える。もう一人、この状況に素早く反応する人間がいた。#13
佐藤真一。ハーフライン辺りで奥村からパスを受ける。日体の対応が遅れる。近くには幹
生。日体の MF と DF は慌てて幹生の周りを固める。佐藤の前に途が開ける。20 メートル
を走り抜け、そのまま気持ちを込めて体重を乗せたシュート。日体の名ゴーリー松村繁文
の右上を射抜き、ボールがネットに突き刺さる。後に、SATO ブレイクと称えられる素晴ら
しいゴールだった。残り 10 数秒が過ぎ、試合終了を告げる笛が鳴る。スタンドからグラン
ドへと大勢がなだれ込み、みなで喜びを分かち合う。歓喜の瞬間だ。このシーンはビデオ
に残っている。幹生のもとに、小沢さん、園田、大岡が最高の笑顔で駆け寄っていく。他
方、僕にはというと、池さんが駆けつけ、後ろから飛び蹴りを喰らわしてくださっていた。
愛を感じる。
ところで、僕は主将をやらせてもらっていた。名誉なことに「ばか主将」と陰ながら、い
や、大っぴらに呼ばれていたものだ。僕はこの称号に誇りを持っていた。主将になったば
かりの頃、僕は「俺がこのチームを引っ張ってやる」と大いに気負っていた。もう肩に力
入りすぎ。そんな 2 月のある日。例年催される東大ラクロス部 OB・OG 総会でのこと。司
会を務めていたのは久山さん。久山さんは僕より 5 つも期が上で、それまであまり面識は
なかったのだが、うどさんや中河さんから話は聞いていた。
「久山っていうとてもお馬鹿な
人間がいるんだ」と。なるほど、たしかに。その日久山さんは、お馬鹿な空気たっぷりに、
あっはっはと笑っていた。ただ、2 人はいつも久山さんについて話すとき、こう付け加えら
れていた。「久山は馬鹿だ。でもだからこそ、個性派ぞろいの俺たちも一つになれたんだ」
と。総会後、久山さんは僕に、
「お前馬鹿なんだってな。ばか主将の後継者として期待して
いるよ」と声をかけてくださった。久山さんに出会い、すうっと肩の力が抜けたことを覚
えている。いつしか僕も「ばか主将」と呼ばれるようになり、そのたび幸せを感じていた。
同期に恵まれたことは間違いない。同じく 4 年生の時の話。僕らは開幕戦で慶應に敗れて
いた。プレーオフに行くにはもう負けられない。そんなリーグブロック予選の成蹊戦。立
ち上がり、なかなか点を奪えず、2 対 4 とリードを許したままハーフを迎える。東大は第
3Q からゾーン DF を組むことによって、流れを変えようとする。これが効を奏す。直ちに
ポゼッションを奪うことはできず、長い DF が続く。しかし、確実に相手は攻めあぐねてい
た。ここを耐え切ればきっと流れがくる。それを予感させる DF 陣の粘りだった。もう 5
分が過ぎたころ、ついに相手のミスからポゼッションを得る。アウトオブバウンズとなっ
たとき、「今が勝負際だ。ここを取れば、きっと流れがくる」と直感した。その瞬間、4 年
生の各メンバーと目が合った。ここが勝負だと、互いにアイコンタクトを交わしていく。
そう。みなの思いが一つになった瞬間だ。言いようのない興奮、震え。次の OF で東大は得
点し、続いて同点、逆転ゴールを挙げる。僕はこの試合を通じて、「ここを守れば流れがく
る」という瞬間があることを学んだ。そして以後、思いを共有する瞬間を重ねていくこと
で、チームメイトとの間に深いきずなができていった。
最後の試合となった全日本選手権 1 回戦、対ナニワラクロスクラブも思い出深い。当時 2
年生の林はエキストラで精度の高いシュートを、北見は素晴らしいランニングシュートを
決め、それらをゴール裏から見ていた僕は彼らのポテンシャルに心から感心したものだ。
泉なんかは、GB を拾うや否や 20 メートルも独走し、幹生にズバリとアシストを決めてい
た。走り出した瞬間のギアチェンジがすごかった。しかし、結果は 9 対 11 で敗戦。これを
もって Blue Bullets 2002 は解散。試合後の幹生の涙が印象深かった。
そんなこんなで僕は現役としての 4 年間を終えた。何もせず、何も考えず、ただぼんやり
と 2 日間を過ごし、その翌日から人生の第 2Q を始めることにした。以来、ラクロス部での
興奮に比すべき、あるいはそれ以上のものが得られるよう、次のフィールドで頑張ってい
る。高田さんによく言われていたように、小っちゃい人間であることは変わらない。幹生
と善樹と出かけた卒業旅行では、2 人にいじられ続けた結果、不覚にも、ぶち切れてしまう
という失態をやらかした。そういえば、藤崎さん、善樹とともに 1 年コーチをやらせても
らっていたときのこと。全力でのパスキャッチをメニューに取り入れていた。当然見本が
必要になる。僕は飯塚を相手に指名し、みんなの前でパスキャッチをすることにした。彼
は当時 1 年生ながら、手首をしなやかに使って、スナップの効いた伸びのある球を投げて
くる。やばい、こいつの方がうまい・・。威厳をケアしようと躍起になる。そこで事件が
起きた。力みまくった僕の左手から放たれたボールは、スライダー回転のかかった低い弾
道で、飯塚君の左太ももへと直撃した。悶絶する飯塚君の姿が今でも目に焼きついている。
我ながら、何とも小さい。話がそれてしまった。卒業してからも、ラクロス部の後輩たち
からは学ぶこと大だ。何より彼らの面構えがいい。負けないように漲っていこうと、いつ
も刺激を受けている。
1999 年の春。田舎から上京したばかりの僕は、武木田とともに、ふらりとラクロス部の練
習に立ち寄った。ホッケー場に足を踏み入れた瞬間、爽やかな熱気を肌で感じた。自分も
いつか先輩のようになりたいと憧れ、即座に入部を決めた。先輩、同期、後輩たち。東大
ラクロス部で素晴らしい仲間に出会うことができ、本当によかった。ニューヨークのヤン
キー・スタジアム。クラブハウスからグランドへと至る通路には、ジョー・ディマジオの
言葉を刻んだプレートが飾られているらしい。
I want to thank the God for making me a Yankee.
僕も、東大ラクロス部の一員であることを心から誇りに思う。
14 期主将 宮木裕也
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
ラクロスは自らの大学生活そのもの。ラクロスの為の早寝早起き、ラクロスグッズ購入の為のバイト、ラクロス
の為の授業構成、ラクロスの為の栄養補給(焼肉、しゃぶしゃぶ他)等、ラクロス中心の日々を過ごし
ました。2 年間のコーチ任期後(実際は留学もあり、実質 1.5 年間)社会人となった現在では、ラ
クロス(正確に言えば、ラクロス部)は酸いも甘いも経験してきておりますが、自分にとって一番の
居場所と認識しております。現役の試合を観戦する度に、同期他と飲みにいく度に、United
の試合に行く度に、ラクロス部は最もリラックスできる場となっております。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
2 つあり、①仲間、②何事にも全力であきらめない気持ち、だと思います。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
学生最終戦となった Final 4 慶應戦前の約 1 ヶ月間の練習。相手は強敵なるも、此方も豊富
な戦力・Back support で勝てると信じて止まなかった部員全員の気持ちが感じられました。
選手として出場する者からは妥協を許さない必死な姿勢を感じ、応援に回る者からは大一
番を迎える前の緊張感を作り出していたと記憶しております。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
戦績としては全日本選手権優勝。
組織に対しては現役の目標に資する Back support を惜しみなく行うこと。
ラクロス部に所属した(ている)個人に対してはラクロス部に所属した(ている)ことを誇りに思い、大
学時代に一つ大きなことを遣り遂げた(ている)という自負を持って欲しいということ。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
今後の戦績をつくるのは伝統ではなく、その時に在籍する者の力量であるということ。諸
先輩方の残したものに奢れず甘えず、向上心を忘れずに日々努力して欲しいです。
13 期主将 松山達
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
文字通り「全て」。
全身全霊、全知全能を注いで、自分が与えられた DNA と環境でなり得るベストの自分にな
りたい、最高の、最強のチームを作り上げたい、それによって最高の結果を成し遂げて、
最高の体験をしたい。そのために文字通り全てのエネルギーと時間を注がせて頂いた。
その原体験がその後の自分の人生/キャリアの土台/スタンダードになっている。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
一言で言うと simplify された、短縮版の人生/プロフェッショナルキャリアのシミュレー
ション/予行演習。
4 年間という限定された期間の中、解り易い形で、実際の人生よりもギュッと絞り込まれた
戦略変数の中、エネルギーと知恵をフルフルにまで使い切ってどこまで行けるか、という
最高にエキサイティングで、解り易くて、素晴らしい「人生の launching pad」となる体験
をさせて頂いた。
何かを成し遂げる事の意味と楽しさ。楽しさ/面白さとは何か、物事に上達する/成長す
る、人を動かすとはどういう事か、挑戦する快、変化/成長する快、達成する快。正しい
メンタルの状態、フローとは何か。
そしてそれらを経て実際に成功体験を積み重ね、極めてありきたりに聞こえるが、「やれば
出来る」もっと言うと「正しくやればトップレベルになれるし、それって最高に面白い」
という人生のルールを心に深く深く刻み込んでくれた。文字通り自分自身のアイデンティ
ティであり、ベースとなるコミュニティであり、人生/キャリアに於ける土台であり軸。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
3 年生の頭の春休みに一人で 2 ヶ月間行っていたオーストラリアビクトリア州のクラブチー
ムへのホームステイ&ラクロス留学。
文字通りその後の自分のラクロス選手/リーダーとしての行動と考え方を変え、その後の
人生を大きく変えた体験だった。
ラクロス選手として、(当時はまだ)レベルの高かったオーストラリアのラクロスの技術、
練習方法に触れ、大きく成長出来た。
加えて、チームのリーダーの一人として、その環境や仕組みを取り入れ、リクルーティン
グの改革、東京 Junior の立ち上げ、練習方法の改変(合理的に、出来るだけ楽しく、飽き
させないように、強くなる)、プロによるメンタルトレーニングやフィジカルトレーニング
の導入等、多くの変化を生むきっかけを作ってくれた。
そして、ラクロスを越えて、人生に於ける、
①「Get out of comfort zone(心地いいと感じる領域を敢えて踏み越えて、リスクを取って
新しい何かに挑戦する)
」の姿勢、
②「たった一度の人生、せっかくなんだからとことん楽しまなきゃ!」の「Enjoy life!」spirit、
そして
③「世の中にはイタリアンも中華もインド料理も、無数の多様な美味しい料理があるのに、
何が楽しくて死ぬまで毎日和食だけ食べなきゃいけねえんだ?」
「もっとガンガン海の外に
出ていろいろ体験した方がぜってえ楽しいだろ!じゃなきゃ損だろ。
」というグローバル志
向、
を植え付けられたのもこの時、ここでの事。その後外資系プロフェッショナルファームへ
の就職、米国留学、海外就業等、グローバルなキャリア/人生を自ら意思を込めて選び取
って行く事になる自分の生き方/価値観の土台となった。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
全力で楽しんで!目標に向けて全ての戦略変数をつぎ込み、
「知恵」を限界までレバレッジ
して、賢く、要領よく、科学的に、ロジカルに努力し、且つ事。
そして、絶対に日本の中に閉じる事無く、海の向こう、世界を見続ける事。
Get out of your comfort zone で、リスクを取って、トライアルアンドエラーで学ぶべし。
新しい事、変わった事、自分が comfortable と感じる事以外の事にもどんどんチャレンジし、
変化して行く事。そしてそのプロセスを存分に楽しんで!
12 期主将 石川知彦
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
【人生を決定付けた全ての基】
多くの人との出会い、目標に向かっていく勇気、目標を達成するという得がたい経験、そ
れからの人生の自信、心の底からの感動、丈夫な体、、、今とこれからの自分を形作るすべ
ての要素を得ることができた、本当に全ての基です。
そう考えると、ラクロスは、自分の人生を良いものにするための手段であってそれ自体が
目的ではなかったのかも。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
リーグ戦のテスト休み中の合宿での出来事。当時 1 勝 1 敗、得点力不足の課題があり、自
分と飯島は共に AT であり、主将、副将という立場で、チームの不満の矢面に立たされてい
た。それによりチームの雰囲気も悪かったため、合宿中にミーティングの場を持ってチー
ム内の課題、不満を洗いざらい出そうとしたが、すべては「AT が点を取ればいい」の一言。
合宿から帰って、夜中に飯島と電話をし「頑張ろうとかそういったことを言っていてもし
ょうがない。何もいわずに結果を出すことだけに集中しよう」とお互い悔し涙を浮かべな
がら電話で話したことが今でも昨日のように思い出す。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
硬くならず、肩肘張らず、自分たちのチームだと思って思い切りグランドを駆け巡って欲
しいです。組織の課題や OB との連携、優秀な成績など、気になることは沢山あるが、す
べてはラクロスをやりたいから、ラクロスで何かを達成したいから集まったもの。周りに
言われて何かを気にすることなく、その自分の原点を大事にして欲しいです。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
皆それぞれの心にある情熱。
11 期主将 金均
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
人生の凝縮
敗北の悔しさ、情けなさ
勝利の楽しさ、敗者へのいたわり・尊敬
ロジカルな戦略の必要性と、無謀な挑戦に向けた情熱・蛮勇の必要性
レギュラーに選ばれる喜びとレギュラーに選ばれない哀切
自己主張と協調、自己犠牲、そして、友情
神の存在
・・・etc.
あらゆるものを BLUE BULLETS で学びました
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
1.林のゴール
時間がスローモーションで流れて、入った瞬間に神を感じた
2.仁木
AB分けの後、Bチームになった仁木が
「俺はもうAチームに選ばなくていい。Bチームで一年生の育成を手伝いたい」
といってきたこと、その気持ち
3.石川が病院にきた
私の入院中、2ヶ月主将代行をやっていた石川(当時3年副将)が
チーム運営を相談しに病院にきた
こいつも頑張っているんだなと思った
4.田島さん
レギュラー争いでライバルだった田島さんが
引退時に「金とレギュラー争いできて俺は幸運だった」といってくれたこと
5.駒場のグランド
冬の雪かき、夏のボール探し(草が高く伸びて大変)、グラ整・・・
突き抜けるような青い空とグランド、躍動するチーム
その瞬間、その場にいることの喜び
6.同期の仲間
こいつらみんな戦友。幸せになってほしい
7.その他 一杯 記憶に残っていますが、書ききれないので、
酒でも飲みながら、個別に語り合いたいと思います
10 期主将 久山哲雄
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
大学時代の全てです。僕が 1 年生だった時の主将の北村さんの弟が、僕の高校の同級生だ
った縁から、高校時代から東大ラクロス部の存在を知っていました。ただ、自分はもとも
とラクロス部以外の運動会に入ろうと思っていたのですが、当時同じクラスだった高橋豪
一君の薦めもあり、ラクロスの練習に参加したのが東大ラクロス部に入るきっかけでした。
3 年生の時には副将を、4 年生の時には主将を、卒業後 1 年間はヘッドコーチをやり、ラク
ロスに大学時代の全てを捧げていました。卒業後ユナイテッドに入り、今ではあまり試合
に参加できていませんが、今でも心は現役ラクロッサーです。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
東大ラクロス部を通じて出会った全ての人々との関係。特に、個性的な人間が多い 10 期の
中で主将をやってチームをまとめなければいけなかった経験は、今でも非常に役立ってい
ます。グランドの内でも外でも、毎日がドラマティックな代だったと思います。練習中に
チームメイト同士で乱闘になったり、ミーティングが何時間にも及んだり、渋谷の飲み屋
(青春の館)で全裸になりカラオケしたりと、当時は頭を抱えることが多かったですが、
今では全てが良い思い出です。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
良い思い出ではないし、あまり思い出したくない出来事ですが、やはり一番記憶に残って
いるといえば 4 年生の時のリーグ第 2、3 戦の日本体育大学戦、慶応大学戦です。日本体育
大学戦はシーソーゲームを繰り返した末結局 2 点差の敗戦で、慶応大学戦は 4 点差をひっ
くりかえされ負けた試合で、どちらも非常に悔しい試合でした。両試合とも自分は鎖骨を
折っていてベンチで平古場コーチと戦況を見ていたのですが、今でも、
「あの時の指示は的
確だったか?」、「あの時、選手交代をしていたら?」、「こういう作戦が効果的だったので
はないか?」とか、もうそろそろ 10 年間が経とうとしている今でも時々思い出しては頭の
中でシミュレーションをして、ただ実際は負けてしまったという事実に気づき、悔しい思
いを繰り返しています。この悔しさは死ぬまで記憶から離れることはないと思います。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
全日本選手権優勝。どの代も目標として掲げ志半ばで卒業しなければならず、また、20 年
間で 2 度あと一歩のところまでいき、いまだ達成していない全日本選手権優勝という東大
ラクロス部の悲願を是非今後の BLUE BULLETS に託したいと思います。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
東大ラクロス部を愛する心。現役中も卒業してからもいつも心に東大ラクロス部がいる、
そんな関係を各個人が東大ラクロス部と築いていってくれたらなと思います。
将来いつになるか分かりませんが、どこか自然に囲まれた郊外ののどかな地で、芝生が広
がる東大ラクロス村みたいなものを建設して、平日はそこで現役が練習をして、休日にな
ると卒業生が集まってそこでラクロスを楽しみ、また、その卒業生の子供達用のちびっ子
ラクロス倶楽部なんかも作って、練習&バーベキューをしながら家族ぐるみでラクロスを
楽しむみたいなことが出来たらいいなと個人的には夢描いています。
9 期主将 後藤隆志
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
何と言っても同期の友人。特に最後まで一緒だった久保田、栗栖、清水、檜原、白垣、森
崎、藤村の7人。それぞれ個性が強く性格もバラバラだけど、ラクロス部を強くするため
に一緒に悩み、試合に勝つために精一杯頑張った時間を共有できたことは何事にも変えら
れない財産です。そして同じ時期にプレーした先輩達や後輩達。卒業後もそれぞれの職場
で頑張っている、活躍されている話を聞くことは自分にとって非常に励みになります。
自分自身にとっては組織とリーダーとのあり方について考えた経験が貴重な財産になって
います。社会人になると組織とは?リーダーとは?などと教科書的な言葉に触れる機会が
多くなりますが、その言葉を実感として(苦い感情も一緒に湧きますが)腹に落とすこと
ができるのはこの1年間の経験があったからだと思います。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
4年次に主将兼ヘッドコーチとして「チームをどう強くするか」試行錯誤を繰り返した1
年間が一番印象に残っています。当時はコーチング体制やOBからのバックアップ体制などは
整っておらず、チームの運営は各代の主将を中心に自分達で考えて進めていました。
特に私が主将を引き継いだときはOFの中心だった松村さん&平古場さんの両スターを始
めAチームレギュラーが大幅に入れ替わり、加えて今までの攻撃スタイルは二人のスター
プレーヤーを軸に組み立てていくやり方だったため、どういうチームを目指すべきかとい
うスタートのところから考え直していく必要がありました。
スターの不在を全員のレベルアップとチームプレー、運動量でカバーするため、主将とし
てチーム全体の意識を高めることを目指していろいろなことをやりました。チーム全員に
レポートを課し、従来は雨天=練習中止だったものをトレーニング+ミーティングの時間
とし、攻撃パターンはセット毎に自分達で考える・・・等。2,3年生のレベルアップのため特
にオフェンスリーダーだった清水、栗栖は自分を殺して頑張ってくれました。同時に運動
会としての規律を求め、遅刻や練習態度について厳しく注意しました。(細かいことにうる
さい主将でした(笑))
また、来期以降の参考になればと思い練習メニューやその時々に考えたことを練習日誌と
して記録しました。日誌はシーズン終了時に次期主将の久山に渡したため手元にはなく、
どんなことを書いたのかは忘れてしまいました。今読めば赤面モノの文章だとは思います
が、当時はそれなりに一生懸命書いていたのを憶えています。
リーグ戦の結果は3勝4敗のリーグ5位。勝てる試合を落としたゲームもあれば、完全な
力負けもありました。自分自身はケガで2試合しか出場できず、選手としても主将として
も悔いの残るシーズンでした。勝てなかった原因は何か?その後ずっと自分の中で考えて
きましたが、今は「勝つための方法」をリーダーである自分が具体的にイメージできてい
なかったこと、そのため「勝つための方法」をチームで共有できなかったこと、が原因で
あり主将としてチーム全員に申し訳ないと感じています。
8 期主将 平古場篤志
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
大学生活の中心。先輩、同期、後輩と素晴らしい人たちにめぐり合えた。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
仲間
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
Final 4 をかけ落とせない法政戦と神奈川戦を快勝したこと。
法政戦での AT 松村による怒涛の5得点、Goalie 浜島を中心とした DF 陣の神がかりぶり
はすごかった。
Final 4 をかけ落とせない法政戦と神奈川戦を快勝したこと。
法政戦での AT 松村による怒涛の5得点、Goalie 浜島を中心とした DF 陣の神がかりぶり
はすごかった。
「お前らいつまで4年生に頼ってんだよ。こんなんで恥ずかしくないのかよ。」
涙交じりの怒声が駒場のグランドの片隅で発せられたのは、私が4年の春、神奈川大学と
のシーズン初の練習試合後のミーティングであった。これが主将である私の怒声であれば、
自らの現役時代の熱さを象徴するエピソードとして自慢げに書くところだが、残念ながら
これは私のものではない。当時3年、そして私の次の主将となる後藤隆志君(通称ゴリ)
によるものである。
神奈川大学といえば、その前年2部から昇格した際のメンバーの大半が残り、非常に勢い
があると目されていたチームであった。とはいうものの、シーズン初戦で6-20という
私の記憶にない大量失点にて敗北したのである。
当時チームにはコーチもおらず、練習計画も選手達で作らねばならなかった。主将である
私は、簡単に失点を重ねるチームを前に、「これでは手も足も出ない。まだシーズン始まっ
たばかりだし、基本的な練習から地道に行うしかないな。新3年生は試合経験もまだ十分
に無いんだし。
」などと優等生のように大敗という現実を受け入れていた。
そんな状況でのゴリの怒声である。もっとも面食らったのは私である。「一番恥ずかしく思
わなくてはならないのは、主将である自分かもしれない。」冷水を頭からかぶせられたよう
な気分であった。今では試合内容は全く思い出せないが、ゴリの怒声だけは鮮明に覚えて
いる。
余談にはなるが、その年のリーグ戦最終戦の相手は神奈川大学であった。ゴーリー浜島、
ゴリを中心としたボトム陣の鉄壁な守りに加え、3年生 AT の活躍もあり、6-4と勝利。
見事 Final 4 へと駒を進めたのであった。
胴上げをしようと言ってくれた当事 2 年生の久山君たちの申し出を、
「全日本出場が目標だ
から、まだ早い」と大人気なく無下に断り、胴上げされる機会を逸したのを、今でも後悔
している。大人気ない後悔であるが。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
東大ラクロス部に対する誇り。我々は 8 期で、ラクロス草創期を支えた先輩から直接お話
を伺う機会にも恵まれたが、そのお話の中に、東大ラクロス部に対する誇りを感じていた。
7 期主将 北村淳
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
一言でいうとチームへの帰属意識と使命感だったと思います。チームが勝つ為に必要な自
分のプレーと勝つべきチームを作るための自分の役割、そこにチームメイトが重なり合っ
て突っ走った 4 年間だったと思います。 勿論、それらは極めて一般的な話であり、他の
スポーツやそれ以外のどんなことでも起こりえることですが、ラクロスの面白さは、二十
歳前後の大人が初心者から始める団体競技であるということで、個人と組織の成長の早さ
が絡み合ってくることだと思います。
パスキャッチもろくに出来ない人間が本気で全日
出場とか夢見ていて、1-2年も経てば現実的な目標として考えているというギャップと
それを埋める努力と準備をしているという姿。絶妙なアンバランス感が本当に面白いし、
それを実現していくというプロセスが熱くて充実しています。
試合で勝つ喜びは何物に
も代えられないくらい大きいし、負ける悔しさは本当に痛い。
ば薄れて忘れます。
でもそれらは時間が経て
その後の人生にはもっと嬉しいことや辛いことが起こります。
た
だずっと残ることはそのチームでやり遂げたという意識と一緒にやってきた仲間です。
だからこそ、今Blue Bulletsの活躍を聞くと胸が高まるのだと思います。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
社会人になって 2 年程クラブチームでプレーしました。 また偶然海外赴任先がラクロス
のメッカであるボルティモアだったので、一ラクロスファンとして向こうの大学リーグの
試合をよく観戦しました。
正直言ってそれらの時期のほうが大学時代よりラクロスをス
ポーツとして楽しんだ気がします。
と思います。
全然楽しかったし、プレーのレベルも断然高かった
でも私にとってラクロスとは即東大ラクロス部です。
中身の濃さと時間
の重さが違います。 仲間と一緒に過ごした 4 年間は充実していたし、面白かった。 チ
ームへの帰属意識と使命感は今でも何かの時に自分の励みになっています。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
今と今後のプレイヤーとスタッフの皆には真剣にラクロスに没頭し、喜怒哀楽を感じても
らいたいと思います。
個性を尊重し、失敗しても挫けず、最後まで勝つことを諦めない
チームであり続けて欲しいと思います。
その皆の姿こそ、東大から感動を発信する組織
であると思います。 1OBとして応援し、サポートしていきたいと思っています。
6 期主将 密田英夫
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
思い返せば大学生活そのもの。朝早く起きて練習して、授業にも行かず家に帰る生活。多
くの友人、先輩後輩はラクロスを通じて知り合いました。勝つことから得られる達成感、
負けることで感じる悔しさ、大学時代の経験の全てはラクロスから得たものでした。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
チームで新しいものに挑戦し、試行錯誤しながら少しずつ前進して何かを勝ち取っていく
というプロセスは、社会人になってから日々経験していることと何ら変わりません。特に
リーダーとしてチームを率いた最後の 1 年間に経験した挫折と達成感は、今の自分自身の
土台になっているような気がします。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
偉大な先輩達が卒業した後の最後の 1 年間。Final4 への進出だけは絶対に守ろうとチーム
メートと悪戦苦闘の日々。最終的には 4 強には残り、主将としては安堵した瞬間を今でも
覚えていますが、最近の現役諸君の活躍を見ていると、その辺りに目標を置いてしまった
自分がチームの限界を作ってしまったんだなあとも思っています。でも、まあ、あの当時
は必死でした。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
好きなだけの時間とエネルギーを使いながら、みんなで自由に考えて戦略を練り、チーム
一丸となって勝負に挑んで行く体験は貴重です。東大ラクロス部がこの素晴らしいチャン
スを与える組織であり続けられるように受け継いでいって欲しいと思います。
5 期主将 北原寛之
大学を卒業して早 15 年がたち、
今振り返ってみると、東大ラクロス部で過ごした 4 年間は、
ラクロスが、そしてラクロス部の仲間が生活の中心にあり、殆ど全てといっても過言では
ありませんでした。今だから白状しますが、東大での練習に加えて、全日本の練習が重な
り、毎日朝から晩までラクロス漬けであった時期は、少し嫌気がさして、ラクロスから離
れたいなんて心の奥で思っていたものです。もっともそんな折に、練習試合中に唇を縫う
怪我をして 2 週間ほど離れて、無性にラクロスをやりたくなったというオチがつくのです
が。今となっては、そんな風にひとつの事に熱中することができた 4 年間を過ごすことが
できた幸せをしみじみと実感しています。
学生リーグ優勝・全日本選手権準優勝の余韻がまだ覚めていなかった大学 2 年生のシーズ
ン終了時に、前代主将より思いもかけず新主将に任命されました。思いもかけなかったの
は自分だけで無く、同期もきっとそう思っていた事でしょう。いずれにせよ、心の準備も
無いまま新 3 年生として主将に就任し、さらには 4 年生時も引き受けて、合計 2 年間も主
将なるものを務める事になりました。もともとリーダー的な存在は自分には向いていない
と思っていたので、慣れない位置に正直とまどい、悩みながらの 2 年間でした。あれから
十数年経た現在、会社組織の中で、部下を持つマネージャーとなりましたが、今振り返っ
てみると、主将としての自分の組織運営能力についてはお恥ずかしい限りですが、当時の
経験があって、今の自分があると自分に言い聞かせてます。当時のチームの皆さんにはこ
の場をおかりしてお詫びとお礼を申し上げます。
そんな現役時代の 4 年間の出来事の多くが記憶に残っております。公式戦で初めて得点を
とった事とか、エアー・サロンパスの匂いが充満していた古い検見川の大部
屋で過ごした夏合宿の風景とか。もちろん宿敵慶応に勝った試合も忘れられません。但し、
個人的に一番記憶に残っているのは、自分が 4 年生時の対法政戦です。この年
は、創部以来東大ラクロス部を背負ってきた先輩達が全員いなくなり、2 年生のみならず、
1 年生もレギュラーメンバーに入れたとても若いチームで、一戦一戦、実戦を重ねて徐々に
チームとして仕上がっていく感じでした。ブロック 1 位、ベスト 4 をかけた対戦相手の法
政はラクロス歴は浅いものの、高い身体能力を持つ数人を中心とした強豪。激戦の末、東
大が 1 点差で勝利したのですが、この試合が今でも一番記憶に残っているのは、この試合
は試合に出た選手が夫々点を取り、みんなで守り失点を防いだという、まさにチーム全員
で勝利を勝ち取ったという印象がとても残っている為。結果として、この試合が 4 年間の
現役生活における、最後の勝ち星となったのですが、未だに試合終了の瞬間を忘れられま
せん。
4 期主将 唐仁原雅之
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
大学生活のすべてだったと言って過言ではない。
そして、その後の人生におけるよき友・先輩を与えてくれた。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
負ける悔しさ、勝つことの難しさ、そして勝つことの喜び。
勝つために何をすべきか、どう闘えばいいのか、戦術眼・戦略眼も学んだ。
主将としてリーダーに立つことの難しさ、周囲のサポートの大切さ・ありがたさも。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
やはり慶応に始めて勝利した秋季リーグ戦の準決勝。一こま一こまを今でも思い出す。
中居の先制点、大門さんの2点目、高野の3点目、沢田さんの涙・・・。
ビデオ班が撮影に失敗(おそらくは自分の機械の不調)したのは、今となってはご愛敬か。
全日本選手権の準決勝、神戸大との試合も苦い思い出で忘れることができない。
実力差は圧倒的で、前半から猛攻を続けたが、シュートがことごとくゴーリー正面にいっ
たりポストに当たったり。前半は1点しか取れなかったように記憶している。
DF陣は自分も含めてイライラし、ハーフタイムにOF陣に対して「おまえらいい加減に
しろ」みたいなことを 自分が口走ってしまった。それでチームの雰囲気は最悪に。
後半、20点近く取って結果的には圧勝したが、秋季リーグからのいい流れに水を差した
のは明らかだった。
翌週の決勝、関東では勝った青学に負けた訳だが、自分のあの一言がなければ、と今でも
悔やんでいる。
一方で、そのことが社会人生活を送る上での教訓になっているのも事実だが。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
熱い思いを忘れず、自分に嘘をつくことなく、まっすぐに練習に取り組んでほしい。
引退する時に後悔することがないように。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
白井さんたちの代が手作りで創部した当時の、「うまくなりたい」「勝ちたい」という純粋
な思いを、ぜひつないでいってほしい。
3 期主将 落合誠
あなたにとって、ラクロスとは何でしたか?
当時日産のシーマだったかと思いますが、「食う、寝る、遊ぶ」といたキャッチフレーズが
あったかと思いますが、それをもじって「食う、寝る、ラクロス」と皆で言っていたと記
憶してます。これからすると大学生活そのものだったかなと思います。
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
同じ思いを持った仲間とクサイですが熱い思いでしょうか。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
大学 4 年のとき初めて慶応に勝った試合で、たしか高野が 3 点目を決めたときかなと思い
ます。勝ちを確信して思わず熱くなったことを思い出します。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
偉そうに語るものは特にありません。皆さんの思うがままに楽しんでいただければよろし
いのではないでしょうか。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
こちらも特にありません。昔とは状況も異なると思いますので、皆さん好きなようにやっ
ていただければよろしいのではと思います。ただジジイじみてますが、こうした熱い時間
は 2 度とないと思いますので、思う存分やりたいようにやればよろしいかと思います。
2 期主将 白井宏明
ラクロス部で得た一番のモノは何ですか?
友人達と後輩達(東大だけに限らない)。
海外経験。
組織をゼロから立ち上げる経験。
チームが勝つためにどうしたらよいかを理詰めで考える習慣。
現在は、東京ジュニアに
参加したり、現役チームの活躍を観戦することを通じて、元気を分けてもらっています。
現役のときに一番記憶に残った出来事は何ですか?
ラクロス協会の延滋男さんの引率で、慶応の早川・緒方、東大 1 期の桑田さんと行った 88
年 3 月の海外視察と、ラクロス協会の援助で、88 年夏にチーム全体でジョンズ・ホプキン
ス大学に海外遠征したこと。
海外経験自体がすばらしかったこともさることながら、当
時の心ある社会人の方々からのサポートでこうした海外遠征が実現したということが胸に
残っています。
今後の BLUE BULLETS に託したいものは何ですか?
ここ 10 数年ぐらいの間に、OB/OG が現役を様々な形でサポートするという文化が定着し
てきたように感じます。 この流れを継続していって欲しいと思います。
今後、そして未来の現役の学生に向けて、繋いで行って欲しい思いはありますか?
「国際親善」と、「ラクロス・メイクス・フレンズ」。
ラクロス協会のキャッチフレーズ
として、使い古された感はありますが、この2つの言葉に、ラクロスが始まった頃の関係
者の思いが凝縮されているように思います。
日本一を目指して勝ち負けにこだわるのは
もちろんですが、同時に海外にも目を向けて、ミシガン留学や海外遠征、その他の機会を
通じて海外にどんどん出て行って欲しいと思います。
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