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シングルスカラー The Amateurs

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シングルスカラー The Amateurs
シングルスカラー
アマチュアリズムの極致
オリンピック金メダルを目指す
アメリカの四人の若い男たちの物語
訳 KM
i
The Amateurs
The Story of Four Young Men
And Their Quest for an
Olympic Gold Medal
D.ハルバースタム
ii
第一章
それはまったく世に喧伝されることのない出来事だった。とは言うものの、それはオリンピック選手選考会
であり、出場者が異常なまでの情熱をこめている種目の選考会ではあった。しかし、その大会は観衆向けにチ
ケットが販売されるわけでもなく、それが開催される地元ニュージャージー州プリンストンでもほとんど注目
を集めることもなかった。今ではごく普通に行われていることだが、当時は地元のホテルやレストランの経営
者たちはスカルの最終選考レースが町に五百万ドルもの臨時収入をもたらしてくれたことを商工会議所に報
告することもなかった。厚紙に書いた急ごしらえの看板が数枚、物見高い見物人のためにプリンストンの街を
通り抜けてカーネギー湖に至る道筋を表示していた。今やメディアにあふれ返っている現代世界にありなが
ら、そこではジャーナリストの群れはまったく見られなかった。記者証明書が配られるわけでもなく、テレビ
カメラも来ていなかった。わずかに、スチールカメラをぶら下げた写真記者がただ一人、仕事を命ぜられて所
在なさそうに詰めているだけだった。全米ボート協会の若い女性職員が報道担当になっていたが、彼女の古
びて使い込まれたタイプライターは早々に故障して動かなくなった。ボストン・
グローブ紙の記者が一人姿を
1
見せており、フィラデルフィア・
インクワイアラー紙からも記者が一人来ていた。おそらく、これらの新聞社が
アメリカでもっともローイングが盛んな二つの都市を代表していると言ってもよいだろう。なにしろ、ハーバー
ド大学とペンシルバニア州立大学がボートレースに燃やす対抗心には特別なものがあるのだ。ニューヨークタイ
ムズは地元のフリーの記者に取材をまかせていた。コロンビアではボートはいまひとつ人気がないスポーツだっ
た。AP通信の地方担当局は、このイベントに記者を送らないことを争っているかのようだった。アメリカにも
スカルの選手たちが実存するのははっきりしているが、彼らは自分たちだけの世界に生きているのだ。
選手団をプリンストンに送り込む貸し切りの飛行機やバスというのもなかった。チームの管理担当が選手た
ちの荷物をバスからホテルのフロントまで運んで世話をやき、選手たちは食事時間になればやって来て、請求
書にサインするだけ、などということもあり得なかった。ボートの大会というのは、誰かの車に便乗させても
らい、他人の家に居候してベッドを使わせてもらう上に、食事と言えば、ただ飯をあさるとまでは言わないに
しても、予算をぎりぎりまで節約する世界だった。なにしろ彼らは猛烈に腹をすかせた連中なのだ。選手た
ちはいつも腹をすかせていた。食べ物は燃料であり、彼らはものすごい量の燃料を燃やしていた。レストランは
おいしいかどうかで評価されるのではなく、量が問題だった。
2
シングルスカルでアメリカ代表の座を勝ち取る本命と目されていたマサチュセッツ州ケンブリッジ出身のクリ
ストファー・
ウッドは、格別に宿泊と食事の貧乏生活に慣れており、プリンストン地域をよく知っていた。たと
えば、プリンストンモーターロッジというモーテルでは、四人漕ぎボートで参加しているときなど、彼とチーム
メートは一泊三十ドルのダブルベッドの部屋を一つ借りて、マットレスをベッドの台からおろして床に並べて四
人が一部屋に寝るようにした。こうすれば、宿泊費は一人あたり七ドル五十セントになるのだ。この週末、
ティフ・
ウッド(
幼児時代に自分の名前をはっきり言えなくて、クリストファーがティファーとなってしまってい
たことによる)
は、友人を車に乗せてケンブリッジからやってきた。この友人は、チャーリー・
アルテクルーズと
いう名前で、彼の競争相手でもあった。ウッドの車の上には二人のスカル艇がくくりつけられていた。
ウッドは、チャーリー・
アルテクルーズが好きだった。ウッドは、それぞれクルーとして乗るボートこそ違え、
仲間の中ではアルテクルーズがもっとも運動選手としての才能に恵まれていると思っていた。ほとんどのボー
ト選手と違って、彼はどんな競技種目でもよくできた。まずたいていのスカル選手たちは、練習は好きだが
レースは嫌っていたものだ。なぜなら、レースの苦痛と緊張は大変なものだったからだ。ところが、才能あふれ
るアルテクルーズは、レースは好きなくせに練習を嫌っていた。それに、アルテクルーズと一緒に旅をすると経
済的なメリットもあった。彼はつい最近大学を卒業したばかりなので、レガッタが開催されることの多い東海
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岸のあちこちの都市の大学に友人や大学院生のネットワークを持っていた。ここプリンストンでも彼の友人の
家に泊めてもらうことになっていたので、さらにコスト節減につながった。
ティフ・
ウッドはシングルスカルの選手権保持者であり、人によっては、彼を一九八四年のオリンピック大会
でメダルを獲得できそうな、アメリカではもっとも有力な選手と目していた。年齢三十一歳になるが、彼は
成人としての人生をローイングに捧げてきたわけで、まさにアマチュア選手というものを象徴する存在だった。
仕事上の成功や、結婚、悦楽というものを投げ棄て、一心不乱にこの競技に打ち込んできたわけだが、その
競技たるや世の人はほとんど見向きもせず、従って、商業的な見返りというのはまったくなかった。彼は、
レースの本命とおそらく誰からも思われているだけでなく、オアズマンの世界では彼に勝って欲しいというのが
支配的な感情だった。若くて経験の少なかった頃の選手として、彼は一九七六年オリンピック大会のときには
補欠選手だった。だが、正選手の誰も病気に倒れることはなかったので、彼は一本も漕ぐことはなかった。
ローイングの世界で成長を遂げてからは、一九八〇年男子チームの主将に指名されていた。しかし、その年、
カーター大統領がアメリカ選手団の夏季オリンピック大会へ
の参加をボイコットすることを決定したために、
彼は再び一本も漕がなかった。オリンピックというものがボート選手にとっては全米にその存在を知ってもら
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える絶好の機会であったので、このボイコットは非常に手痛い打撃だった。その年、ウッドは彼らのスポークスマ
ンとしてカーター大統領を厳しく批判した。他種目の選手たちの中には、心の奥底では批判的ではあったも
のの、商業的な報復を恐れて公にはボイコット支持を表明する者もいた。オアズマンたちはキャリアに傷がつ
く報復を恐れてはいなかった。彼らにはもともと商業的価値というものはなかったからである。そんなわけで、
彼らはむしろあからさまに不満を表に出して、カーター大統領がワシントンで催した式典の最中にわいわい
と騒ぎ立てる、うるさい一団を形成した。ウッド同様、多くの選手は、その式典の晩、カーター大統領と握
手するのを拒否した。さらには、合衆国大統領にひじ鉄を食らわせる示威行動さえ見せた。カーター大統
領と握手するのを拒否した連中は大統領と一緒に壇上に上がろうとしなかったのだ。それくらいならまだ
おとなしいと言ってよいだろう。式典が終わると、ウッドと同年代にあたる一九八〇年のローイング選手団の
多くは、失望を胸にしまいこみ、もしカーターが次の選挙に立候補しても絶対に投票してやらないと誓い、
競技としてのローイングから身を引いた。だが、ウッドは違った。オリンピックという目標に焦がれ続けたので
ある。オリンピックの場で競うことのないままでは自分のローイング経歴は不完全であるように思えたので、
彼はもう一回勝負しようと一九八四年のオリンピックまで選手生活を続けることにした。彼はローイングが
心底好きだった。仕事を持つことよりもなによりも、ローイングこそが彼の現実の世界だった。個人的にも
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ローイングにずいぶん献身してきた。ローイング団体のいろいろな委員も勤めてきた。もとオアズマンだった人
たちの間では、条件が同じならティフ・
ウッドが勝ってくれれば嬉しいという、暗黙の共通の気持ちがあった。
ジョン・
ビグローとジョー・
ブースカレンは共にイェール大学ボート部出身で、この週末、ウッドの主な対戦相
手のうちの二人になるのだが、二人は一緒の車に乗ってやってきた。彼らは前の週の日曜日にチャールズ川で
行われた非公式のレースに出場し、二人ともティフに勝っていた。第二位に入ったブースカレンにしてみれば、
ウッドに勝ったことは特別に勇気づけられたことだった。ブースカレンは、体格こそビグローやウッドにやや劣
るが、漕ぎがうまく、きれいだった。たいてい、レース前半はブースカレンがリードするが、決勝線間際にウッ
ドかビグローが彼をかわすのがパターンだった。
ビグローにとっては、過去二回全米選手権を制したが、腰痛の持病を抱えて、前年はまったく振るわなかっ
たから、この勝利は本当に嬉しかった。一年ぶりにシングルスカルでオリンピック予選に挑戦できそうだと感じ
ていた。冬の間、チャールズ川で漕ぎ、ハーバード大学のニューウェル艇庫でトレーニングを続けてきたブースカ
レンやウッドと違って、ビグローは故郷のシアトルに戻って腰の診断を受けていた。冬の大部分、彼は友人であ
るポール・
エンクイストとダブルスカルをやっていた。ダブルの場合、一人一人の漕手にかかる負担はシングルほ
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ど大きくなく、ビグローの腰には優しかったので次第に回復して、またレースに出られるほどになってきた。一
九八三年には非常に荒かった漕ぎも改善を見せ始めていた。彼とエンクイストはたいへ
ん呼吸のあったダブルを
組んでおり、オリンピックではダブルの代表になる可能性もあった。
彼は四月中旬にケンブリッジの街に戻ってきたのだが、そのときはオリンピック代表に選ばれてもダブルか
クオドルプル(
クオド)
だろうな、と諦めていた。(
ダブルでは二人の選手がそれぞれ二本のオールを持ち、クオ
ドでは四人の選手がそれぞれ二本のオールを持つ。どちらもコックスがいない。)
それでもオリンピックの理想
に参加できるのであるから、それはそれで良かった。しかし、心の奥底ではシングルスカラーになりたいと渇望
していた。なんとなれば、それでこそアメリカボート選手の第一人者ということになるのだから。ティフ・
ウッ
ドがかつて言ったように、「
全勝を通したチャンピオンエイトのメンバーであったとしても、アメリカのボート選
手としての個人ランクでは第五十位ということだってある。だが、シングルスカルは最高だ。それはローイングの
世界に身をおく者なら誰もが知っていることだ」
ケンブリッジに現れたとき、ビグローはスカルの自艇を持っていなかった。以前はハーバード大学の所有艇を
借りていたが、オリンピックのスカル代表選手コーチであるハリー・
パーカーは彼のために艇をとっておいてくれ
ようとはせずに、それをアルテクルーズに割り当てていた。このことはビグローにいやな予感を与えた。それは、
7
まるで座席がすでに誰かに取られてしまったようなものであり、ハリーは、彼一流の他人にはうかがい知れな
い方法で、シングルスカラーとしてのビグローには関心がないと言っているようなものだった。その年の春、ティ
フ・
ウッドは新品のスカルを三千四百ドルで購入し、使ってみたが、どうも好きにはなれなかった。しかたなく、
この新艇のシートを外して以前から使っていた艇に使用しているのだが、それではまるで三千四百ドルのシー
トに座っているようだった。ビグローはウッドに新艇の方を貸してくれないかと頼んだ。投資した金を少しで
も回収したいウッドは、週に五十ドル払ってくれるなら貸してもいいよ、と答えた。ウッド同様、節約家のビグ
ローはこれには驚いて、借りるのはやめた。ビグローは、ハーバード大学のコーチでもあるハリー・
パーカーのも
とに帰って、艇庫に余分な艇があったら一つ貸してくださいと頼み込んだ。パーカーは、古くてひどい状態の
ずんぐりした艇を指差した。これでは勝てそうもない。ビグローの自信はいっそう落ち込んでしまった。ビグ
ローは、アンディ・
スデゥースという名前のスカラーを思い出した。彼もメーカーの製品ラインの中で一番高級
なボートを注文していたのだが、スカルではなくスイープ漕手として出場することを決めていた。ビグローはス
デゥースに一週間だけ彼の艇を貸してくれないかと頼み、スデゥースは、いいよ、と言ってくれた。
ビグローがケンブリッジに戻って最初の週末、ハリー・パーカーは以前から非公式のレースを計画していた。
土曜日には、彼は何人かの選手をダブルに乗せてテストした。冬の間ダブルに乗っており、その種目における
8
自分の能力に自信をもっていたビグローは、その種目一位に入った。日曜日、ビグローはまたダブルを漕ぐつ
もりでいたが、誰も彼と一緒にダブルをやりたがらない。そこでパーカーは、全員をシングルに乗せることに
した。パーカーは、選手を二つの予選組に分けた。彼は、ビグローをウッドとブースカレンと同じ速い組に入れ
た。ビグローは、これはパーカーが自分をシングルから遠ざけてダブルをやらせようと仕組んだものと確信し
た。この日曜日、二千㍍レースをやるのだ。ほぼ一マイルと四分の一になるが、これが標準の距離だ。風雨の
強い日で、ローイングに最適な状態にはほど遠かった。ブースカレンとウッドは非常にうまくスタートを切り、
ビグローをぐいぐい引き離した。五百から千㍍の区間では彼らはビグローとの差をさらに開くことはなかった。
そこでビグローが仕掛けた。彼は腰のことが気になっていたので、それまであまり強く漕いでいなかった。だが、
最後の五百㍍の区間で、彼はウッドとブースカレンを抜いた。ちょうどイースター(
復活祭)
の日曜日だったの
で、彼はこれを宗教的な体験と受けとめた。腰に不具合が発生することもなく全米トップ級のレースで漕ぐ
ことができたのは一年ぶりのことだった。彼は、主敵二人に勝ったのだ。
その時点までは、ハリー・
パーカーは、ジョン・
ビグローはダブルをやる気でいるのだと思っていた。パーカーは、
ビグロー・
エンクウィスト組のダブルは強力だし、おそらくオリンピック出場権を獲得するだろうと予想してい
9
た。だが、彼は、ビグローがケンブリッジに戻り、ウッドとブースカレンの緊張関係を見て取った瞬間に、ビグ
ローとしてもシングルで争いたい気持ちを抑えきれなくなるだろうと感じていた。なんと言っても自負心があ
るのだ。昔からのライバルが二人そこにいる状況というのは、まるで三つ子の兄弟の三番目が長い旅路の後に
故郷に帰り、新しいおもちゃで遊びたがっているという状況のようなものだ。ハリー・
パーカーがそれを何とな
く感じ取っていた一方で、ポール・
エンクウィストはそんなことは承知済みだった。「
やってますね」
と、初日に艇
庫前でエンクウィストはパーカーに声をかけた。ビグローがウッドとブースカレンのあとを追っていた。ビグロー
がシングルのレースに勝ったあと、エンクウィストはパーカーに何も言わなかったが、悲しげな表情を浮かべてい
た。あとでパーカーと目が合ったときに、エンクウィストは首を振って、右手でくるくると回してきりもみ落下
する様子を表した。その意味はパーカーにはっきりと分かった。彼らがダブルを組む機会は夢と消えてしまっ
たのだ。
そんなわけで、ジョン・
ビグローとジョー・
ブースカレンが一緒にプリンストンに車でやって来たとき、どちら
も自分は負け犬とは思っていなかった。ビグローは、一年ぶりに腰の問題で悩まされることはなかったと分
かったし、ブースカレンはこの数ヶ月でウッドとビグローに並ぶレベルに達したと確信していた。ブースカレンは、
イェール大学でビグローの一年先輩だったし、二人は親友の関係だった。車での途上、二人は飽くことなくロー
10
イングや、自分たちの体のこと、それに遺伝の話をしていた。ブースカレンは、自分の体のことに魅了されてい
るようだった。彼は、スポーツと競争にとりつかれていた。彼以上に自分の体調管理に気を配っている者はな
い。彼は、体格は他の二人よりも小さいのだが、自分の体を鍛え、その力を極限まで高めようとしていた。実
際、一時期、彼はスポーツ医学を自分の仕事にしようとさえ思った。彼は、ダートマス大学の医学部に進学し
ようと希望した。それは彼にとって最適の医学部であり、最適の場所に位置していた。秋と春にはローイング
をやり、冬には長距離スキーのトレーニングができる。体と心にとってこれ以上に望むものがあろうか?だが、
結局、彼はそこに進学せず、ニューヨーク市の街中のコーネル大学医学部に入った。車の中で彼はビグローに尋
ねた。自分の優秀な遺伝子を子供に伝えるためには、運動能力を持った女性と結婚すべきだろうか?女性
の体力と体格を過度に重視するのは間違いだろうか?車の旅も終わり頃になって、ビグローはブースカレンの
方を向いて言った。「
ジョー、今度のレースは自分たちの人生にとってもっとも重要なレースだ」 ブースカレンは
しばらく黙っていた。ビグローは続けて言った。「
このレースのために何年も練習をやってきたんだ。ここで勝っ
た者がオリンピックに行く」
彼の気持ちの中には、オリンピック選手というのは、ほとんど気高いといってもいいような、何か違った存在
という認識があった。四年前、イェールの学友であり、クルー仲間だったスティーブ・キースリングに問われた
11
ことがある。一九八〇年のオリンピック大会に向けてなぜそんなに厳しいトレーニングをやるのか、と。彼は
答えた。「
オリンピック選手ともなると違うんだ」
ビグローがレースの話をするのを聞いて、ブースカレンも、そ
うだな、と心の中で同意した。彼には分かっていた。ビグローは、彼特有の几帳面さですでに気持ちをレース
に集中させていること、そしてすでにレースを戦っていることを。二人とも具合良くイェール大学ボート部の
先輩のドナルド・
ビーアの家に泊めてもらうことになっていた。ビーアは一九五六年卒業年次の人で、イェール
大学エイトのメンバーとしてオリンピック金メダルをとっていた。ビーアは、好んでイェール大学ボート部の後輩
をプリンストンの自宅に泊めてやった。彼の家はさながらローイング博物館といった趣で、過去の記念品に満
ち溢れていた。ジョン・
ビグローがこの家について何物にもまして気を引かれたのは、そこにオリンピック金メダ
ルが収蔵されていることだった。その家の主としてふさわしく、ビーアがかつてビグローに言った言葉がある。
「
ジョン、いいかね、人生にはローイング以上のものがあるんだ。と言ってもたいしたことではないがね」
ほぼ三十年ぶりのことになるが、アメリカにシングルスカルでオリンピック金メダルのチャンスがめぐって来た。
過去三年間、アメリカのスカラーたちは世界選手権で三位に甘んじていた。アメリカ代表としてオリンピック
シングルスカルで最後にメダルを獲得した選手は、あのレンガ職人、ローイング、そして俳優で有名なケリー一
12
家の、銅メダルをとったジョン・
ケリー・
ジュニアだ。彼としては三回目のオリンピック挑戦になる一九五六年の
大会でのことだった。因みに、彼の父親は一九二〇年のアントワープ大会で金メダルを獲得しており、この種
目におけるアメリカの最後の金メダルになっていた。だが、一九八一年に、当時わずか二十四歳で国際レガッ
タ初出場のビグローは、銅メダルを獲得して皆を驚かせた。彼は一九八二年にも同じ成績を収めたが、一九
八三年にはティフ・
ウッドが銅メダルだった。ということは、この週、プリンストンには共に争う二人の世界クラ
スの選手が来ているということになる。ブースカレン、ジム・
ディーツ、それにブラッド・
ルイスなど、他の選手た
ちの時代は、この二人の時代とほんのわずかに前後していた。
彼らのコーチであるハリー・
パーカーは、これらの若くて才能ある選手たちのエネルギーをすべてシングルス
カルに集中させるのは良くないと思っていた。彼は、その内の何人かをダブルやクオドに振り向けたかった。ダ
ブルやクオドでは、スカル系重視のヨーロッパの国が伝統的に支配的だった。両種目とも、馬力よりもチーム
ワークと技術がより重要だった。そんなところがアメリカの苦手とする理由だった。ヨーロッパでは二十代後
半から三十代初めの若い選手たちが、しばしばたっぷりとした国の助成のもと、長時間かけて技量に磨きを
かけていた。アメリカではローイングを補助してくれる人といえば両親くらいしかおらず、スカラーたちは、
普通、二十代半ばになると競技から引退していた。パーカーとしては、口にこそ出して言わないものの、しっ
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かりと思っていることだが、シングルスカルの選考会を早く終えてしまいたかった。心の中では、彼としてもウッ
ドに傾いていた。ウッドの荒々しいスタイルがシングルに適している一方で、ビグローのスタイルはチームボート
により適していると思われたからである。アメリカでは、チームボートというのは、間際になって急遽編成さ
れることが多かった。選手たちは三週間あるいは四週間一緒に練習してから大会に出場するのだが、相手の
ヨーロッパチームは国の助成を受けて、三年、四年、中には七年、八年と一緒に漕いでいる連中なのだ。
とは言うものの、自身強烈な競争心の持ち主であるパーカーは、目の前で繰り広げられる三人の争いには
興味をそそられた。彼の見るところでは、この三人のスカラーの実力はきわめて接近しており、本命と目さ
れる存在の者はいなかった。体格のためにブースカレンがやや劣るかもしれない。ウッドとビグローは強力だか
ら、レース中に多少のミスを犯しても勝てるかもしれない。ブースカレンの場合、そうはいかなかった。彼が完
璧な漕ぎをしたときにのみ、勝つチャンスが生まれる。ブースカレンはパーカーを楽しませてくれた。ブースカ
レンは、どの大会の、どんなレベルでも競技してきた。その年の春、全米に販路をもつ雑誌社が三人のオアズマ
ンの写真をとろうと、カメラマンを送り込んできたことをパーカーは嬉しく思っていた。パーカーは、ブースカ
レンがうまく立ち回って、写真の中央から自分が外れないように、そして他の二人と自分は同等と思われる
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ような場所を占めるようにしているのを見守っていた。カメラマンはブースカレンに端に立つように繰り返して
指示していたが、ブースカレンはそれを無視して、写真編集に際して自分が枠から外されないようにしていた。
あいつはこんなところでも競うつもりか、とパーカーは思った。
写真撮影の場でブースカレンが競ったことは友人であるビグローを驚かせはしなかった。二人は一九八一年
の全米代表チームのメンバーだった。ヨーロッパ遠征の終わりに写真を撮るとき、ブースカレンはビグローの隣
に立った。自分の背の方が高いビグローは、ブースカレンが爪先立ちになっていることに気がついた。カメラマン
がシャッターを切ろうとする瞬間、ジョーは横を向いていてビグローの肩を見ていた。どちらの方が高くなって
いるか確認しようとしていたのだ。
15
第二章
ティフ・ウッドは、今週の競技に出場するためにとにもかくにも耐え忍んできた。彼は他の出場者よりも
五、六歳年上だった。人生ならば十五年、あるいは二十年で世代交代するかもしれないが、ローイングの世界
ではそれはずっと短かった。おそらくわずか四年くらいのものだろう。求められるものが非常に厳しい上、他
に楽しいものがたくさんあるのだから、それを長く続けようとする者はほとんどいなかった。ティフ・
ウッドは、
今や彼が卒業した後に大学に入学してきたような若い選手たちと競おうとしているのだ。彼とハーバードの
クルー仲間だった同年代の者たちは、彼の憑かれたようなさまを賞賛、羨望、そして不審が入り混じった目
で見守っていた。彼らの見るところ、ウッドは一九七〇年代半ばに活躍したいくつかの偉大なクルーの中では
もっともボートを続けそうにないメンバーだった。彼はこうしたハーバードボート部のメンバーとしては今まで
にもっとも強力な選手の一人かもしれないが、同時にもっとも荒っぽい選手の一人でもあった。彼は、プレッ
シャーとチャレンジに対して、いっそう強くオールを水中に叩きつけ、全力を傾注することで応えて来た。彼
と同年代の選手たちの目には、たしかにウッドはローイングが大好きだったが、同時に彼は何かを証明しよう
16
としているかのように思えた。今や伝説的にもなったハーバードクルーの中で、彼はどちらかと言えば目立っ
た存在ではなかった。彼の二人のチームメート、アル・シーリーとディック・キャッシンは有名になっていた。と
言ってもボートの世界では、という話だが。特にシーリーは、世の関心を呼び起こす異常な才能を現していた。
彼のクルー仲間であったキャッシンは、ティフ・
ウッドがもし他のボートに乗っていれば神様になり得たかもし
れないと思っている。この「
神様」
というのは、真のスターのことを言うボート仲間の言い回しだ。しかし、あの
ボートに乗っていては、彼の名前がローイングの外の世界に知られることはほとんどなかった。しかし、今や彼
は自他共に認めるアメリカ最高のオアズマンの権利を争おうとしている。現実的な感覚からすると、彼は大
人としての人生を先送りしているのだ。
彼が二十代半ばに達したときのことだが、もうローイングは辞めるつもりだと言いながら心をひるがえす
態度に儀式めいたものがあった。父に電話しては、もう終わり、十分やった、足を洗うよ、と言うのだ。その
後、将来の可能性や、彼自身の向上振りを考え始める。実際、彼はスカラーとして長足の進歩を遂げつつ
あった。結局、選手生活を続けよう、あと一年だけ、ということになる。一九七九年には、一九八〇年オリ
ンピックの夢が彼を後押しした。一九八一年にはジョン・
ビグローが台頭してきて、叩くべきライバル的存在に
なった。ビグローに対抗するために、一九八二年になる頃には、彼の技術は著しく向上していた。一九八三年
17
になると、これまで以上にローイングの力が増し、次のオリンピックも手が届かないわけではないと思えるよ
うになった。そこで彼はまた父に電話して言う。うん、もう一回やることにしたよ。この一シーズンだけだけ
どね。彼の父は、何物にもましてオリンピックのことが頭を離れないのだな、と思った。
ティフ・
ウッドは、数年間も、特にこの数週間、シングルスカルの選手を脅かすあらゆる要素を克服してきた。
中でも、人がまだ起き出して来ない寒くて不快な時間帯に一人でトレーニングを行うことの孤独と空虚さは
大敵だった。もう辞めたい、という衝動はほとんど耐え難いものだった。チームスポーツならば選手たちは互
いの絆で結ばれているし、仲間の手前、続けなければいけないというプレッシャーが大きい。チームメートを
がっかりさせたくないので練習をさぼるわけにはいかない。朝、またベッドにもぐりこみたいという思いが頭を
よぎるたびに親友たちの怒った顔が浮かぶ。だが、スカラーたちは自分自身の内に動機づけを見出す他はな
い。ウッドが思うに、スイープオアズマンからスカラーへ
の転向は精神的な問題が大きい。技術的な差などは無
視できるくらいのものだ。彼は、当時、友人のアルテクルーズに起きていることに興味をかきたてられていた。
アルテクルーズは、ハーバードで素晴らしい実績のあるスイープオアズマンであり、スカルへ
の身体面の慣れは彼
にとっては比較的容易なことだった。ただ、手の使い方はより微妙なものが要求された。一本のオールを両手
で扱うのではなくて、両手にそれぞれオールを持つ。それに、スカルはスイープローイングよりも純粋に力を
18
要求される。だが、そんなことよりも精神的な慣れの方がずっと厳しい。アルテクルーズは一人で練習するの
がきらいで、病理的といってよいほどに練習パートナーを必要としていた。彼はいつもウッドや他のスカラーに
電話しては、一緒に練習できないかと聞くのだった。スタジアムの階段ダッシュの練習でさえもそんな調子だ。
ウッドは、孤独であることがどんなものなのか、よく分かっていた。プレッシャーといっても、自分で作り出す
プレッシャーしかないのだ。オリンピックコーチであり、過去十四年間にわたってときどき彼のコーチでもあった
ハリー・
パーカーは、厳しくて感情に動かされない人だった。ティフ・
ウッドはよく承知していることだが、ある
朝、彼がパーカーのもとに行って、スカルはとてもやっていられません、もうやりたくありません、と告げたと
してもパーカーは驚いたり、失望したりする表情を浮かべることはないだろう。パーカーは、疑問を差し挟む
ことなくその決心を受け入れることだろう。ハリー・
パーカーは、すでに十分に覚悟を決めた選手しか受け
入れなかった。そういう前提でローイングをやってもらうのだ。彼の側からインスピレーションを与えるような
ことはなかった。
アメリカのスカラーたちは、大体の場合、以前はスイープの選手であった。つまり、彼らは各人が一本の
オールを扱うエイトを漕いでいたのである。大学では、彼らにとってローイングがすべてに優先していた。それは、
19
もう憑かれたほどと言ってよい。卒業時点になって、今後の人生において仕事をどうするか決めかねて、いま
しばらくローイングを継続するのが常だった。そこで選択しなければならないのは、毎日一緒に漕ぐ相手と
して他の七人、三人、あるいは一人を見つけるか、それともシングルスカルを漕ぐか、ということになる。多く
はスカラーになった。だが、三、四年もすると、最高の選手であっても大学院に進学しているか、それとも
ウォールストリートで働いていることになる。ウッドが思うところでは、彼らはちょうどこれからさらに向上
しようとしている段階を迎えているのに、おそらくスカルを漕ぐこともやめているだろう。彼の体は過去三、
四年にくらべてずっと強くなっている。(とは言うものの、彼は思い知らされているのだが、全力を出し切った
レースの後、体力の回復期間が若い頃より長くなっていた。)だが、普通の生活を暮らしたいという誘惑は強
く、毎日が厳しい行のような生活をするのが年々つらくなる。自分自身のトレーニングのさまを見てみろ、と
ウッドは思う。冬の期間、ボストンの夜明けの空は灰色どころではなく、まだ真っ暗だった。厳しい寒さの中で
は孤独感がいっそう募る。より良い、そして楽な生活、つまり恵まれた生活が可能な人たちの中ではその時間
に起き出して運動しようなどとする人はいないだろう。
「
ローイングをやり続けようとするなら、自分自身を追い込まなければやっていけないです」
とウッドは言
う。「
コンタクトレンズを片方目につけたら、まずまたベッドにもぐりこむことにはならない保証みたいなもの
20
です。起き上がり、ベッドを脱け出すことができたらキッチンにたどり着けるんです。キッチンに行くことがで
きたら、玄関まで行けますよ。玄関まで行けたら、車。車まで行けたら、艇庫ですね。ある一つの段階を超
えることができたら、次の段階につながるんです。そうやって自分自身の背中を押していけば、もう止めたと
いうことにはなりません。しかし、自分自身の体が発する信号には注意を払う必要があります。なぜなら、
あるときはなまけてもっと眠りたいということもあるし、またあるときは体が本当に疲労して休息が必要な
場合もあります。それは見極めなければならないですね」
ウッドにしても、こんな厳しい摂生に嫌気がさす
ときもある。自分のやっていることがいやになって何もかも放り出したくなる。だが、彼は毎朝起床して、や
らなければいけないと思っていることを自分に強制し続けた。一番つらいことだが、冬にはローイングの喜び、
つまりボートが軽く感じられてすっ飛ぶ感覚はもはや得られず、屋内で苦痛と退屈に満ちたトレーニングに
替わるのだ。スピードがウッドにとっての楽しみだった。ジェット機のこの時代、シングルスカルはせいぜい時速ニ
十から二十二㎞でしか進まず、十四㎏を少し下回る重量でしかない。だが、そのスピード感は格別だ。大型
艇では皆の力を合わせなければならない。しかし、シングルスカルでは自分だけが頼りだ。調子が良いときの
喜びは喩えがたく素晴らしい。
大学を卒業してからの九年間、彼はいくつかの大変立派な仕事についたことがある。だが、ローイングが何
21
にもまして優先するということについてはまったく疑いがなかった。ハートフォードの街で彼は保険の仕事を
やったが、彼はこの仕事を気に入っていた。ハートフォードという街では保険関係の人が王様という土地柄だ
けに、その方面の仕事をやるのは最高なのだ。だが、彼はボストンのコンサルティング会社に転職した。なんと
言っても、ボストンに行けばハーバード大学、チャールズ川、世界最高のローイング施設がいくつか、この競技種
目に関心を寄せている若い対戦相手、そしてハリー・
パーカーの存在があった。ウッドはこのコンサルティング会
社を気に入っていた。この会社の人たちは彼に親切で、彼のローイングの都合に合わせて仕事を調整してくれ、
ローイングにどっぷり漬かっているばかりで、ほんのちょっと会社に顔を出したときにもサラリーの半額を支
払ってくれた。彼の大学時代のクラスメートの多くはニューヨークで仕事に励んでいた。彼らはボストンにいる
よりもニューヨークの方が出世に早いと見ていた。実際、その通りであったかもしれず、ティフ・
ウッドは立身
出世を犠牲にしていたかもしれないのだ。だが、ニューヨークはシングルスカルをやるにはまったくひどい場所
だった。
22
第三章
ティフ・
ウッドは、どうして自分がこんなことをしているのか、まったく幻想を抱いていなかった。別に国のた
めにやっているわけではない。自分自身のためにやっているだけなのだ。メダルを獲得した場合には、国歌が演
奏され、個人的な目標と国家の目標が合一したときに、表彰台で感情がこみ上げてくることはある。だが、
それは大変な献身ぶりと犠牲にそれなりの価値があったということでしかない。彼は年間に六百時間ものト
レーニングを行い、四百七十五時間も水上でオールを握った。そんなに練習しても、レースは年間に数回しか
なく、その累計時間は百三十分ほどのものであろう。練習に費やす時間と実際の試合あるいはレース前後の
時間がこれほどかけ離れている競技はほとんどない。この比率を考えてみれば、今度の選考会とオリンピック
出場の機会が選手たちにとってどれほどの意味を持つものであるのか、ずっと分かり易くなるというものであ
ろう。ほとんど八年間にもわたって概ね孤独な練習の成果がこの週末の七分間のレースで結果が出るのだ。
スポーツがビッグビジネスになっているこの国で、ボートは別世界だった。ボートは、アマチュア、プロを問わ
ず、テレビ時代の到来によって引き起こされたスポーツのものすごい成長の恩恵をまったく受けて来なかった。
23
一九八〇年代になる頃には、スポーツとテレビの結婚(
そして関連グッズの商品化)
は実質的に行き着くとこ
ろまで行っていた。この電子の目が好むスポーツは驚くべきブームを迎え、富と名声の機会となった。カメラ写
りの悪いスポーツは、比較的にという話だが萎んでしまった。バスケットボールとか陸上競技のスター選手な
ど、一九八四年のロスアンジェルス大会に出場した偉大な選手の多くは、いずれ電子の目により、その長く、す
ばらしい経歴の過程で国中の注目を集める機会を得るだろう。ジミー・
カーターもその政治生命が続くあい
だ、幾度となくテレビに出ることであろう。しかし、ボート選手にはそんな機会はない。
ローイングというのはまったくテレビカメラ向きにできていない。テレビ制作者がレースを追いかけられるカ
メラを据え付ける可動式の台をなんとか作り上げたとしても、カメラアングルによっては、本当は遅れている
方のボートが勝者のように見えてしまうように、着順を正確に映し出していないこともある。ヘ
リコプターも
使われたことがあるが、たいした成果をあげることはできなかった。一番うまくないのは、素晴らしいローイ
ング、つまり鍛え上げた選手が左右対称にすごいパワーでタイミングを合わせてオールを引く優美な点が、
カメラを通してみると面白みのない機械的な動きに見えることだ。ABCがオリンピック大会の一部として
ローイングを放送したのはよいが、このネットワーク局はさっさとよりテレビ映りの良い他の種目に切り替え
てしまったときには、ちょっとそれはないだろうと言いたくなるくらいだった。カメラはよりあからさまにパ
24
ワーが発揮される様を好んだ。それなのに、オアズマンのパワーはずっとコントロールされていた。それにカメラ
は個人に焦点をあてるのを好むものだが、シングルスカルを除いて、ボート競技には一人一人の顔が見えない
のだ。
そんなわけで、商業化されたスポーツに熱狂するこの二十世紀において、ボートは十九世紀という時代そ
のままに取り残された変り種でしかない。テレビ時代が到来するまでは、スポーツの世界ではアマチュアとプロ
にほぼ明確に隔てられていた。大学レベルでさえ、フットボールやバスケットといった種目にはプロの色を帯びて
いたが、陸上競技のようなアマチュアの牙城でさえ境が崩れ始めていた。若くて才能があり、夏季オリンピック
大会で四個の金メダルを獲得するだろうと言われているカール・
ルイスという名前の陸上競技のトップスター
選手は、報道によれば、出場料とスポンサー料で年間に百万ドルを稼いでいるという。おかげで、彼はすでに
骨董品とクリスタル製品の真剣な収集家になっている。アメリカンフットボールチームのダラス・
カウボーイが
ワイドレシーバーに起用すべくルイスをドラフトで引き当てたときに、ルイスのコーチが言ったことだが、ダラ
スが首尾よく契約まで持ち込むことは難しいだろう、別にルイスがフットボールを嫌っているわけではないが、
ダラスの年俸ではルイスの収入が大きく減ることになるから、ということだ。陸上競技に金回りの良い選手が
25
何人か現れたというのは、テレビ局が彼らに関心を示したことの反映だ。それでもテレビのネットワーク局が
陸上競技を放映するのは、番組表に穴が開いているときとか、オリンピック年にあたって若い(
黒人の)
選手が
ソビエト選手を負かす機会が訪れたときに限られていた。また、社会が変わりつつあることも影響している。
アメリカ社会全体がブルーカラーからホワイトカラーに移行し、座ったままの生活になると恐れられるにつ
れて、より多くの人々がかつてないほどランニングやジョギングをやり始めたことで、選手に自社製品を使って
もらうことの意味合いが大きくなり、マジソン街に本社を構える企業の関心を呼び覚ましたのである。そん
な関心は普通の年でも強いのだが、オリンピック年ともなるとどこへ
行ってもそればかりだ。
オリンピックに対するマジソン街の関心を呼び覚ますきっかけになったのは一九八〇年の冬季大会でアメリ
カのアイスホッケーチームが番狂わせ的にソ連に勝ったことだった。それまでは大学のホッケーの試合に一般
大衆が熱狂することなどなかった。だが、ロシア人に勝利したとなると話は別だ。一九八四年の冬季大会の
間に流されたコマーシャルの多くはあのときの勝利を反映したものであったし、マジソン街の期待は、夢よ再び
というものだった。そんなコマーシャルの描いたものは、髪をすっきりと切りそろえた農場育ちの若いアメリカ
の青年たちが家族に別れを告げてホッケーの合宿に参加しようとしている姿だった。そして、彼らは、乾坤一
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擲、奇跡的な金メダルを獲得することになるのだ。そんなコマーシャルの影響はあまりに大きく、神話と事実
を混同させてしまったほどだ。あまりにコマーシャルがよくできていたので、今回は力の劣る選手しかいないア
メリカの国民は、勝つはずがないのにメダルを取れると信じこんでしまった。コマーシャルが大いに利用した一
九八〇年のホッケーチームの方が一九八四年のチームよりも良かったことが分かったときの困惑ぶりは見え
透いていた。一九八四年のホッケーチームのコーチは、恥ずかしくてしばらく故郷に帰れないほどだったと語っ
ている。マジソン街はさっさと関心をホッケーから夏季大会に移してしまい、注目すべき選手は今やスケート
を履いているのではなく、ランニングや棒高跳びの選手だった。アマチュアリズムに関する緩い規制のもと、選手
のうちの何人かは商品のセールスマンと化していた。Zべック(訳注、ビタミンサプリメントの商品名)と言うの
が好きだというランナーがいたし、また別のランナーはあまりにスケジュールが詰まっているのでスニッカーズを
食べているのだと公言していた。そんなキャンディーバーを食べて彼はオリンピック選手になれたというわけだ。
かつてはローイング同様に人気のなかったマラソンは、ランニングシューズや朝食用のシリアルを推薦するコマー
シャル出演で今や金持ちになり始めていた。だが、ローイングは旧態依然としていた。その理由の一つは、二千
ドルや三千ドルもするスカル艇は一般大衆の手が届くものではなかった。このプロやセミプロの世界にあって、
シングルスカルという競技は、図らずも真のアマチュアの牙城として生き残ってきたのである。
27
そんな状態はアンドリュー・
カーネギーを喜ばせたことであろう。選考会が開催される湖は彼を記念して
命名されたものだ。巨万の富を築いたカーネギーだが、彼はローイングがもたらす肉体的および精神的な豊
かさを固く信じていた。一九〇三年に、当時プリンストン大学の学長だったウッドロー・ウイルソンはカーネ
ギーに大学院充実のための寄付を要望していた。その大学院の頂点にロースクールを設けようというのだ。そ
の時点までの資金集めははかばかしくなかった。ウイルソンはほぼ百万ドルを必要としていたのだが、金持ち
のプリンストン同窓生を訪問して懇請したものの、目標額にはほど遠い状態だった。カーネギーに寄付を要望
する長文のレターの中で、プリンストン大学というのはアメリカのものであると同時に、彼の言であるが、「
徹
頭徹尾スコットランド的」
でもあった。カーネギーはプリンストンを訪問してウイルソンに語った。彼の学生たち
が必要としているのはロースクールではなくて、ローイングをやる湖だというのである。性格を涵養し、学部の
学生を勉学のあとにリラックスさせるスポーツというだけではなく、ローイングをやっていれば学生たちはフッ
トボールをやらずに済むだろう。カーネギーは、フットボールを荒くれ男のやるスポーツとして徹底的に毛
嫌いしていた。そう言って、カーネギーは近くの流れを堰き止めるダムを建設するために十五万ドルを寄付
した。こうしてカーネギー湖は構想され、資金提供がなされ、命名されたのである。以後もプリンストンに
ロースクールが創設されることはなかったが、(
後にウイルソンはカーネギーに語っている。「
私たちはパンをお
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願いしたのに、あなたはケーキを下さったんですよね」
) キャンパスではフットボールの方がボートよりも人気
があるスポーツであり続けた。だが、次第に訴訟好きな社会になっていく八十年後のアメリカにおいて、カー
ネギーは間違った選択をしたということを誰が言えるだろうか?
不思議なことだが、オアズマンはいつも顔の見えない存在だったわけではない。十九世紀の終わり頃にはロー
イング、特にスカリングは人気スポーツだった。新聞にはプロのスカラーたちの成績やライバルに叩きつけたが
挑戦のことが多く報じられていた。一八七〇年代の終わり頃に行われた選手権大会には三万人もの観衆が
押し寄せてきたこともある。トップ級のスカラーたちは年に一万五千ドルもの賞金を稼ぎ、さらにそれを上
回る額がひそかに賄賂や裏金としてやりとりされていた。ある意味では今日のボクシングのようなものだっ
たのである。スカル競技はがさつなスポーツで、いわゆる遊び人とみなされる人種がはびこっていた世界だった。
そして賭け金の額も異常に高かった。選手たちも良い生活を目指してアメリカ社会に踏み出したばかりのア
イルランド人やアイルランド移民の息子たちの場合が多かった。激しい賭け事の対象となったことで、まもな
く試合結果は次第に怪しいものとなり、公式かつプロがやる興行としての競技自体も汚いものになっていっ
た。
今世紀の初めになる頃には、ローイングは厳格にアマチュアの世界になり、レガッタは運動競技大会といって
29
よいかわからないようなあいまいなものになった。天気が良いときには、多くの若者たちが近くの土手に集
まっては、これからレースがスタートしようとしているか、あるいはすでにスタートしてしまった、二、三㎞上流
地点での出来事はまったく気にせず愉快そうに酒を飲んでいた。ボートがさっと通り過ぎるときに観衆はほ
んのちょっとだけ誰が勝ったのかなと思うものの、すぐにわいわいと飲み食いに戻ってしまう。彼らは、ローイ
ングというものはあくまでも出場者自身が楽しむスポーツだと分かっていたのである。ローイングに魅せられ
ている人たちはいつも漕いでいるようだった。ティフ・ウッドがメンバーだったハーバードクルーでストロークをつ
とめたアル・
シーリー曰く、「
まったく密閉された世界」
だったのである。学生時代、オアズマンたちはとてつも
なく長い時間をローイングに捧げ、しばしば授業が始まる前の午前六時に艇庫には姿を見せていた。肉体的
にも精神的にも、彼らは級友たちからは隔てられていた。彼らにとって天地が動転するようなできごと、た
とえば対抗クルーから第二クルーに格下げになったなど、でさえも級友たちにはまったく気がつかないうち
に進んでいた。いろいろな意味で、彼らは、小規模だが、遠い地での激しい戦争からの帰還兵のようだった。誰
が、こんな遠隔地でのこと、ひどい犠牲のこと、勇敢な英雄的行為のことを知っているだろうか?そもそも気
にかけているだろうか?ふさわしいことかもしれないが、オアズマンたちの結婚相手も、ローイングをやってい
る若い女性か、あるいはチームメートの姉妹であることが多いようだった。結婚式披露宴の出席者と艇庫に
30
姿を見せる人たちはほとんど同じようだった。
彼らが行っていることや名前を外の世界に知らしめることができないという状態の中で、彼らは彼ら自身
の名誉を自らの手の内にしまいこみ、記録を残す担当者になっていたのである。彼らは、誰が誰に勝って、何
とい
秒差だったとか、誰がどんなレートで漕いだとか、誰が誰を抜いた(
誰かを抜く row through someone
うのはオアズマンが使う言葉で、相手が疲れを見せているときに、自分にはいよいよ力がみなぎってくる)
など、
驚くべき忠実さで各レースのことを記憶していた。あるレースで負けたときには、自分のレーンには勝者のレー
ンよりも強い向かい風になっていたとか、ボートのリギングが悪かったとか、飛行機での旅行の具合が悪くて、
二日間も調子が回復しなかったなど、慰めの要素を見出していた。自分たちのスポーツ種目が伝統的なメ
ディアからほぼ無視されていたので、ローイングはいよいよ現実というよりも神話的に祭り上げられていった。
彼らの行いが本や新聞というものではなく人の口から口へ
と伝えられてきたので、ローイングは神話的なオー
ラをたたえるようになった。ハーバードのクルーメンバーは、オリンピックに備えた合宿で、いつもは厳しくて何
ごとも譲ることがないハリー・
パーカーが、彼のお気に入りの選手の一人であったフリッツ・
ホッブスの傍にしゃ
がみこんでいたことを、それから十五年も経ているのに、良く覚えている。ホッブスは、エルゴのテストを終えた
ところで気を失ったのであった。選手に対して感情や同情というものを決して示すことのないハリーが、ある
31
人によると、フリッツ・
ホッブスの眉の汗を拭いてあげていたというのである。
相手レーサーのことならどんな些細なことでも知っていれば、それは有利なことだった。プリンストンでの選
考会に出場する選手たちは、おそらくウッドが一番力はあるが、同時にもっとも荒っぽい漕ぎをしており、
向かい風には強いことを知っていた。彼よりも滑らかではあるが力に劣るブースカレンは追い風の条件に向い
ていた。ビグローはスタートの出だしは遅いが、追い込みに強かった。ブースカレンはスタートの飛び出しがもっ
とも速いのだが、終盤では他の選手ほど強くなかった。今や三十五歳になって最後の挑戦にかける元チャンピ
オンのジム・
ディーツは、一回なら素晴らしいレースぶりを見せることは出来るだろうが、準決勝と決勝を続
けて全力で漕ぐというのは彼にとっては厳しいことだろう。彼らは互いに猛烈に競い合いながらも一緒に夕
食に出かけてはローイングの話をしていた。彼らが強い絆で結ばれているということは驚くべきことではない。
何と言っても、真冬の早朝の艇庫がいかに厳しく、侘しいものであるか、レースがいかに苦痛に満ちたものであ
るか、誰よりも自分たちが一番良く分かっているのだ。
それは、ある意味で大変に男っぽい世界だった。彼らの自負心は非常なものだった。また、そうでなければ
32
この厳しいスポーツをやっていけない。意思と野心がそれほど強くない者たちはそんな生活を続けられなかっ
た。オアズマンたちは、ほとんど全員、非常に個人主義的で、何かに憑かれたような強い強迫観念の持ち主で
ある。アル・
シーリーに言わせると、「
A型性格の世界」
なのだが、そういう彼もA型性格の人だ。忠誠心と対
抗心はきっちりと分けられていた。互いに絆を感じてはいるが、同時に相手に対して強烈な対抗心を燃やし
ていた。ローイング社会は閉鎖的なものなので、その対抗心や羨望心は著しく増幅されることになる。ある
選手がある選手をけなしたとすると、それが現実のものであろうと想像上のものであろうと、艇庫内の緊
張はときとして相当なものになる。キースリングがローイングに関する彼の自叙伝の中で書いているが、それ
はまるで「
決闘者どうしの友情のようなもの」
だ。それが同じクルーの間でもそうだ。
忠誠心と対抗心が微妙にバランスしているといっても、忠誠心の方がだいたい優ることが多い。そうである
理由の一つが、苦痛だ。それが絆の決定的な要素だ。苦痛のことは言わない、というのがオアズマンたちの不文
律になっている。そんなことを言うのは、みっともない上に、さらに悪いのは、それでいよいよ苦痛を浮かび上
がらせて、差し迫ったもの、身に感じられるものとなるかもしれないのだ。そのことを口にしないことで、苦痛
がさして重大なものではなくなるかのようだった。
ローイングについての素晴らしい自叙伝(
訳注、 Shell Game
と題する著作)
の中で、自身強力なイェール大
33
学のクルーのメンバーであり、アメリカ選抜チームのメンバーでもあったスティーブ・
キースリングはローイング
に伴う苦痛について詳細に記している。こんな著作を著したということは、彼が苦痛に対処し切れなかったこ
とを示すものだと何人かのチームメートは感じている。彼らの言い分では、キースリングが対処し切れていた
ならそんなことを書くはずがない、というのである。対照的に、艇庫まわりの伝説的人物たちというのは、気
を失うまでやり続けた男たちとか、何とかローイングを続けた男たちのことだ。ティフ・
ウッドがセントポー
ル校に在学中、彼はマッドドッグ(
狂犬)
ロギンズという選手にまつわる伝説を耳にしながら成長した。ある日
の練習のこと、マッドドッグロギンズは、練習の最後として力漕四十本を指示されていたボートに乗っていた。
(
力漕というのは持てる力の全てを発揮するもので、力漕四十本というのは全力で四十本漕ぐことになる。)
ロギンズは目いっぱいに頑張りすぎて、力漕四十本の終わりに気を失ってしまった。レースの終わりではなく、
力漕四十本の直後に気を失うというのは神話としてはよくできた話だ。
そんなことがローイング社会の重要部分であったにしても、その狭い社会で対抗心を燃やす他の理由が
あった。ティフ・
ウッドが思うには、他のチームスポーツでは、選手たちは自身の役割を心得ていた。アメリカン
フットボールであれば、ラインマンはクォーターバックと役割が違うし、バスケットボールならフォワードとガー
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ドの違いがある。ただ、控えのクォーターバック選手は、内心自分が先発選手に選ばれて当然と思っているこ
とはあるだろう。だが、オアズマンとなると、各人が基本的には同じことをやっているわけで、それについては
自分が最高と思っている。ある者は内心でそう思っているだけだが、またある者はそんなに遠慮はしていない。
ウッドが言うには、こうした自己中心主義は、ストロークサイドの選手に特によく見られる。狭いローイング
という社会の中でさえ、ストロークサイドの選手たちにはそういう定評があるのだ。
ストロークサイド選手の自負心は、ほぼ共通したものと言える。練習初日、コーチは、普通、誰かストローク
手をやりたい奴はいるか、と問いかける。ストローク手というのは一番前の席に座ってペースを設定し、他の七
人の選手はそのペースに従うことになる。自己中心的な気持ちが強い選手はすべて自分がストローク手をつと
めるべきと思っているわけだから、そうしたエゴの強い選手はほぼ全員が手を挙げた。そんなわけで、エゴによっ
てチームは最初から割れている。ウッド自身も、ハーバードクルーのストローク手は自分がやるべきだと確信し
ていた。彼は、クルーのストローク手を見事にやってのけたアル・
シーリーを賞賛と羨望の入り混じった目で見
たものだった。シーリーがストローク手をつとめたクルーはどれも比類なく良い成績をおさめた。優勝できな
かったのはただ一回だけで、ヘンレーでも優勝したし、ハーバードクルー史上最高のクルーだったと見る向きも
多い。彼と一緒のレースを最後に漕いでから九年がたつというのに、ティフ・
ウッドの心の中にはまだアル・
シー
35
リーを恨む気持ちが残っていた。一方、アル・
シーリーの方でも、そうした恨みの気持ちがあることを承知し
ていても、ウッドではなくて自分がハーバードのストローク手をつとめて当然だったということをいつでも徹底
的に証明してやるというつもりでいた。ウッドは、自分がこんなことにこだわっているのは気狂いじみているな
と思うものの、実際そう信じているのだからしょうがないと決め込んでいた。彼はまた自分でも分かっている
のだが、シングルスカルをやるようになった理由の一つは、ボートのストローク手をつとめるにはそれしかなかっ
たということだ。
おそらく、ローイングの世界というのは、相当程度、遺伝子的に予め選定されているのではなかろうか。ス
ポーツが国家管理の下にある東ドイツのような国々では、当局が若い選手たちを生理学的にテストして誰を
育成し、誰を落とすか決めている。幸いなことに、アメリカではそんなに機械的ではなかった。肺が空気から
酸素を抽出する能力が非常に高くて、レース中に筋肉組織が高度に補給されていることにより耐久能力が
優れている選手はローイングが好きになり、良い成績を収めていた。生理学的にそれほど適していない選手は、
結局、それを好きになることはないし、成績も振るわないので、次第にやめていくことになる。(
高校時代か
ら共にシングルスカルのチャンピオンになるまでずっと一緒にティフ・
ウッドと漕いでいたグレッグ・
ストーンは、
36
最初、ウッドが良い成績を収められているのはただに彼の強烈な競争心のためだろうと思っていた。後になっ
てスポーツ生理学を知るようになってストーンに分かったことだが、ウッドの勝利は、彼の強烈な競争心に加
えて、強い遺伝基盤のおかげで下手な技術でたいへ
んな量のエネルギーを無駄にしながらも、なお勝てるほど
のものがあったからだ。
運動選手を専門的にテストしているオハイオ大学教授のフリッツ・
ヘ
イガーマンによると、スカルのトップ級の
選手たちは、素晴らしい生体標本で、彼の言葉だが、ほとんど生理学的奇形ともいうべきものだった。彼らの
特に優れているのは、驚くべき酸素摂取能力であり、そのおかげで体内の食物をエネルギーとして放出してい
る。通常人の場合、一分間に三リットルの酸素を取り込むことができるのに対して、ウッドやビグローのよう
な世界級のボート選手たちになると一分間に六リットルを取り込むことができた。この酸素摂取量というの
が彼らのパワーのキーであり、そのおかげで他の選手たちよりもずっと上を行くことができた。野球選手は
三リットルほど消費するが、走ったり止まったりするプロのバスケットボール選手で四リットルだ。六リットルと
なると図を突き抜けてしまう。それに近い種目としては自転車やクロスカントリースキーがある。実際、体格
比という見方をすれば彼らの方がローイング選手よりも少し多く酸素を摂取すると言えるだろう。だが、
自転車やクロスカントリースキーの選手たちはずっと小柄であるから、純粋にサンプリングを行った場合、
37
ローイング選手の酸素摂取量の方が大きい。
体がエネルギーを生産する方法には二通りある。有酸素と無酸素である。有酸素の方がずっと効率的で、
これがローイング選手の優劣を決める。体内に取り込む酸素の量が大きければ大きいほど、体は食物をより
素早くエネルギー生産に使える。そのように消費されたエネルギーはキロカロリーとして計られる。一キロカロ
リーというのは、一㎏の水を摂氏一度上げるのに必要な熱量である。歯を磨いている人は一分間に一キロカ
ロリー、公園を歩いて車に向かっている人は四から五キロカロリー、ゆっくりとジョギングしている人は六から
八キロカロリー消費すると言われている。クロスカントリースキー選手は、一分間にほぼ三十キロカロリーを消
費するが、オリンピッククラスのローイング選手は一分間に三十六キロカロリーを消費する。
酸素が有酸素エネルギーの鍵であるのに対して、無酸素エネルギーというのは取り込まれる酸素が次第に
少なくなってきたときに作用し始める。しかし、無酸素エネルギーの効率は十九分の一でしかなく、副産物と
して乳酸を発生する。これが非常な苦痛を引き起こす。そのために、レース終盤にローイング選手が必ず直
面するエネルギーの通常の供給の枯渇状態にあっては、非常に非効率で、ものすごい苦痛を伴うエネルギー源
にとって替わられることになる。
38
ティフ・
ウッドがシングルスカルの本命と目されているが、本人はそのようには感じておらず、そもそも本命
でありたいと自ら望んでいるのか確信が持てなかった。ケンブリッジの気候の厳しさのために、彼は水上練習
の時間をほとんど取れていなかったし、レースになるとその時間はもっと少なかった。練習とレースはまったく
別物なのだ。主な挑戦者であるビグローに対する彼の優位性があったにしても、そんなものはわずかなもので、
実質的な優位性はまったくないと言ってもよい。ハリー・
パーカーがウッドに警告してくれたことだが、本命視
されるということは他の皆に自分が狙われる立場になる。素晴らしく調子の上がった一九八三年からは、彼
が他の選手たち、特にビグローから目標にされるという重荷を担うことになった。
一九八一年から一九八三年まで、ウッドとビグローの対決は、ビグローがわずかに有利であったが、あたか
もマッケンローとコナーズを思わせる、異常なほどの厳しさを現してきた。ところが、一九八三年にはビグロー
が腰を痛めて振るわなくなったのに対して、ウッドが大会を制するようになり、シングルスカル選考会のみな
らず、世界選手権で銅メダルをとるまでになった。(
ビグローの友人たちは、問題は彼の腰だけのことではない
のではないかと疑った。彼らは、パーカーがウッドに警告した本命という存在にまつわる重圧に負けたのでは
ないかと感じていた。)だが、今やビグローは治療の面でも精神的にも立ち直り、誰も、少なくともアメリカ
国内選手は、先行するビグローを抜くことはできなかった。ローイングの世界では、彼のラストスパートは伝説
39
的なものだった。
40
第四章
数年前に刊行された校内学生紙イェールデイリーニュース紙に掲載されたジョン・
ビグローの一枚の写真は、
スティーブ・
キースリングが知る彼の友人のイメージをもっとも的確に捉えていた。その写真を見て、キースリ
ングは心の不安を覚えた。それはビグローがシングルスカルをレースではなく単独で漕いでいるときのもので、
自分自身と、自らが課した基準を相手に漕いでおり、顔を苦痛に歪ませて最後の力を振り絞って、もっと強
く、と自分を責め立てていた。キースリングが思うには、苦痛は根源的なもので、スティーブン・
スピルバーグで
さえも創り出しえないものだ。その写真を見て、キースリングは、ローイングというのはビグローの心の奥底に
ある、ほとんどコンラード的なものに触れているような気がした。つまり、いつもは隠れているが、ときどきそ
の姿を現したくなる全面的な憤怒という暗闇だ。ビグローの高校時代のコーチであるフランク・
カニンガムは少
し違った見方をしている。カニンガムは、選手たちの顔にあらわれる大げさな苦痛の表情を、どちらかと言え
ば、真に受けない方だった。彼は、そんなものはコーチに強い印象を与えようとするいんちきなものであり、
選手たちが苦痛を表に出さないでいればローイングを苦痛と考えることはなくなる、と考えていた。ローイン
41
グを苦痛と思えば苦痛は増すのだ。だが、ビグローの顔には何か違ったものが現れている、とカニンガムは思っ
た。「
ジョンの場合、集中がすごい。集中心が顔に表れているのですね。良いと思いますよ。口を開いて、唇を
引き締めている。口で呼吸していますね。まるで・
・
」
とカニンガムは一呼吸置いて喩えを探しているようだった。
「
自分より小さい奴を倒そうと身構えている猛獣、といったところでしょうか」
ビグローは、そんな激しさで漕いでいることを自身承知していた。その理由の一つは、自分の人生の中で感
情的にすっきりしない部分があり、ローイングがほぼ完璧にそのはけ口の役目を果たしてくれていたからだ。
彼はオアズマン仲間であるブラッド・
ルイスに、なぜローイングをやるのかと尋ねたことがある。ルイスは答えた。
自分は、敵愾心が強く、攻撃的な男だが、ローイングだけがそんな攻撃的な心のよい意味でのはけ口になって
くれているからだ、と。そんなに率直でぶっきらぼうな答えにビグローは驚いたものだが、ルイスはさらに続
けた。「
君だって同じじゃないのか、ジョン。君も敵愾心が強い方じゃないか。だけど、君は格好よくそれをロー
イングにうまく現さないようにしているんだよ」
ビグローはしばらくそのことを考えたが、たぶんルイスは言い
当てているなと思った。
キースリングが思うには、ビグローはまず間違いなく近年の世代のイェール大学のボート選手の中では最高
42
の選手であり、現代のトレーニング技術と筋肉トレーニング機器の優位性を考慮すれば、イェール史上最高の
ボート選手だ。彼はローイングが特別に位置づけられている東部の私立学校出身ではなく、シアトルの私立
学校からイェールに入学したのだが、技術に長じており、ボート選手として良いコーチを受けていた。彼のス
タイルは印象的で、無駄がなく、力感にあふれていた。彼は、自分よりずっと大きくて力のありそうな選手よ
り以上に強く引き、自分の目標を達成するために異常なまでに自分を追い込んだ。イェールはローイングを
熱心にやる一握りのアメリカの大学の一つではあったが、彼が入学した当時においては、振るわなくなってい
た。大会では出ると負けの状態で、さらに具合の悪いことにはハーバードとの対校戦の四マイル、約六千四百
㍍のレースではこのところ負け続けだった。イェールの転換期は彼が入学する前年から始まったのだが、イェー
ルの完全復活において彼は一定の役割を果たした。彼と同年代の選手たちは、オアズマンはいかにあるべきか、
つまり、力強く、緩むことなく、そして不撓不屈の精神などにおいて彼をそのモデルとみなしていた。レースに
あたり、これから迎えることになる厳しさと苦痛にどう対応できるか不安を抱える選手たちは、平然と動
じないビグローを見て落ち着きを取り戻させてもらったものだ。もし彼らがビグローと同じように振舞えれ
ば、彼らも強くあることができるのだ。
とは言うものの、彼らのうちの多くの者は、人間としてのビグローについて相反する二つの気持ちを抱いて
43
いた。彼はあまりに違いすぎていた。彼の政治的思想さえも人と違っていた。彼は鯨の保護に熱心だが、保守
的なチームメートの中には、鯨なんか原子爆弾でも喰らわせてやれ、などとわざと言う者もいた。人付き合
いが下手で、他人を気楽に感じさせることができない。それどころか、人をどぎまぎさせることにひねくれ
た喜びを見出しているのではないかのようだった。彼の方でもカルチャーショックを受けることになるのだが、
彼自身もチームメートに対して多少のカルチャーショックを与えることになるのだ。イェールでは、ボート部員
はその大半が東部のプレップスクール出身者として洗練された素養を身につけていた。着るべき衣服、着ては
ならない衣服、言ってよいこと、言ってはならないことなどが自ずと決まっていた。ところがビグローは、東部の
遺伝子があるとはいえ、西部出身者だ。その挙措容儀はどうしようもない田舎者だ。彼は新人担当コーチで
あるバズ・
コングラムにいつも質問を浴びせかける。新人クルーに入ったプレップスクール出身の選手たちは、彼
をまったく扱いにくい奴だと感じていた。何人かのチームメートは、ビグローに「
コーチ」
のあだ名をつけた。ま
た他の者たちは、ニックネームよりももっと写実的な呼び方をした。彼らによると、ビグローは「
変人バニー」
だというのである。以後、その呼び方が彼についてまわることになる。
彼にとって、イェールは居心地の良くないところだった。そこでは、誰もが賢そうで、愛想がよく、言葉が巧
みだった。彼がシアトルで第七学年だったとき、彼の先生たちは彼が字の読めない障害を持っていることに気
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がついた。父兄面談で、担任教師は彼の両親に対して「
信じられないでしょうが、彼には字を読むということ
が大変なことなんです」と語った。彼は字を読むための特殊学級に入れられたが、そのこと自体が障害を
持っていることと同様に世間に対して間が悪かった。彼にしてみれば、知恵遅れの子供たちのための教室に入
れられたようなものだった。彼はこの汚名を嫌い、一年半かかるコースを一年で終えようと心に決めた。彼が
必要としているものに心を砕いていた担任教師は、彼が自分の障害を克服しようとするプレッシャーのあま
り、ときどきぐったりした様子で教室に来ていたことを覚えている。その女性教師が彼の母親に言うには、ク
ラスの開始時にジョンはしばしば言葉を発することができず、ただ苦痛のうめき声を上げるのがやっとだった。
こんな状態にもかかわらず、学校でよい成績をあげてもらいたいという両親の絶大な期待に応えようと努
力したので、彼は実際によい成績をおさめた。それでも読み書きは彼にとって大変むずかしいものであること
には変わりがなかった。大学ではコースに絶対必要なものしか読まなかった。彼にしてみれば、読書の愉しみ
などという考えは理解できなかった。入学試験であろうと、その後の教室でのテストであろうと、アイビー
リーグの基準で、彼がテストでよい点を上げることは、まずなかった。彼の友人たちが目にする彼の手書きの
文字は、まるで子供のそれのようだった。クラスに提出するレポートを書くということは、ちょっとした拷問
だった。(卒業時の彼のイェールにおける平均評点は、四を満点とする尺度で二・
九だった。彼が入学を希望
45
し、落第した大学医学部のリストはすごいものだった。長い間、彼が医学部に入れるかどうか、はらはらの状
態だった。)
彼の知能レベルが問題だったのではなく、知性をどう表現するかが問題だった。
彼の読書障害は、彼の社会的自信を喪失させていた。彼が入学を希望したウィリアムズカレッジは、彼の希
望を受け入れなかった。父も祖父もイェールに忠誠心をもつ同窓生でなかったら、彼はそこでも却下された
かもしれない。ニューヘ
イブンに到着した当時は、彼はシャイで社交的なことがまったくできなかった。入学して
初めの数年は、彼はボートを通して自己表現をしていたのである。それが彼に自信をもたらす一つのはけ口
になっていた。新人クルーのコックスをしていたダン・
ゴールドバーグは、ビグローはまるでサラブレッドのようだ
と思った。素晴らしいが、神経過敏。一つのことには素晴らしく巧みだが、他の事となるとぎこちなく、シャ
イで、うまく対応できない。
ボートというものがなかったら、彼はまったくどうしてよいか分からなかっただろう。一学年を終えた後、
彼がシアトルに帰ってきたとき、友人たちは、イェールはどうだった、と彼に尋ねた。「
体育活動の方は良いよ」
と彼は答えた。「
だけど、学科の方はどうなんだ?」
「
全然好きになれないね。自分にはきついところだよ」
ビグローは、馬鹿にされることに神経質だっただけでなく、他人から、あいつは出来ない奴だと見られるこ
とを嫌った。彼が三年生のとき、ハーバードとの対校戦を控えて彼がストローク手として練習しているとき、
46
その練習の出来にすっかり意気消沈して、チームメートと一緒に朝食を食べることに耐えられなかったこと
があった。うまく行かないときには自分自身を責めて、また他人もきっと自分のことを責めているだろうと
思い込むのだ。もし、食事中にチームメートがちょっとでも批判的なことを言ったなら、きっと自分は怒り出
しただろうな、と思っていた。
年齢を重ねるにつれて、彼は自分自身の行動と激情の発露を注意深く見守りながら、自己認識を高める
べく若い人たちよりも厳しい練習を行った。イェール在学中、そしてその後の年月、彼はよく他の人たちに、な
ぜローイングをやるのか、それについて彼らはどう思っているのか、率直に語らせることを好んでやった。そん
な内省的な問いかけをするので、彼は仲間内ではあまり好かれることがなかった。何人かは、彼が自分たち
の振舞いを分析しようとしていることにいい気持ちがしなかった。(
彼らは、ビグローの即興問答が始まった、
と言い合ったものだ。)
また、別のある者たちは、問答に答えたら、これまでやって来られた糧になっているス
ポーツへ
の意欲がそぎ落とされてしまう気がした。こうしたことがすべて、あいつは変わっているという評判を
強めるものになっていた。どういうことになっていたのかというと、要するに彼は自分自身の社交的なぎこち
なさを裏返しにして利用することで自分自身を守っていたのだ。
ジョン・
ビグローはあきれるほど率直に自分のことを仲間たちに話していたが、自分の学習障害については、
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在学中、話すことはなかった。だから、友人たちには今一つ分からないことがあったために、彼を完全に理解
することができなかった。彼がイェールに在学した四年間を通してずっと吹き荒れた彼についての議論は、そ
の後も続いた。あいつは洗練ぶった田舎者だったのか、それとも田舎者ぶったセンスのある奴だったのか?あい
つは馬鹿か、それとも天才か?彼の友人たちやコーチたちの一部は、彼のことを大人になりきれない子供だ
と思い、またある者たちは子供のような大人だと思った。彼は、あるときはまったく裏のない男のようであり、
そうかと思えばすぐその次の瞬間には陰険そのものに見えたりする。ティフ・
ウッドは、彼の振舞いを「
人工
的な純真さ」
と評した。彼の一面は、ホールデン・
コールフィールド(
訳注、サリンジャーの小説「
ライ麦畑でつ
かまえて」
の主人公)
のように愛らしく純真だが、運動選手としての彼の本領はまったくキラーだった。
彼はイェールの卒業生としてダートマス大学医学部に進もうとしている途上にあったわけだが、若きアイ
ビーリーグのプリンスのようには見えなかった。ときとして訳が分かっていないような様子を見せるが、また
あるときはしっかりと明晰に考えを述べる。こうしたことから、彼が冷徹な目を通してすべてに注意を払って
いるのはまったく明らかだった。それなのに、次の瞬間には、また、何でも知りたがり、助けを求める純朴な
田舎者に戻っている。
見かけだけなのか、それとも本当なのかは別にして、彼の純真さと、まったく見ず知らずの他人に驚くよ
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うな個人的なことを問いただそうとする意欲との間で、彼はしばしば非常な量の情報を得ていた。会話する
負担を他人に負わせることで、彼は自分のことはあまり表に出さずに、その人のことを見抜いていた。彼は
相手の平静を失わせる特殊な才能を持っていた。つまり、自分はその答えをすでに知っているのに、相手に
とって間の悪い質問をしては、その反応を見ているのだ。
彼のそうした態度のために、イェールの先輩たちは彼を警戒の目でみていた。トップクラスの運動選手たる
もの、非常なまでにクールであるか、あるいは非常なまでに熱烈であるかのどちらであると思われていた。と
んでもない田舎者の最高の選手、あるいは純朴な選手などという のは聞いたことがない。彼のイェールでの
チームメートをいらいらさせるのは、彼の能力、容姿、そして育ちからすれば、いとも簡単に皆と同じように
なれるのに、彼はことさら皆と違っているように振舞っていることだった。
少年として人との付き合いがうまくできなかったことで、彼はローイングを通して友情を求めていた。自分
にとってローイングの何が良いのか明確になったとき、彼のその定義は一風変わったものだった。大部分の選手
たちは、パーフェクトな瞬間は何かと言う と、レースで勝つということよりも、ボー トを漕いでいるときの
フィーリングのことを言う。つまり、八本のオールが同時に水に入る完璧な動作の一致だ。そんなときは、
ボートは水から飛び上がらんばかりに走るように思えた。オアズマンたちは、そうした瞬間を「
スイング」
と
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言う。ジョン・
ビグローにしてもそうした瞬間が大好きだ。だが、彼はそのことについて興味深い表現をする。
彼が言うには、その瞬間の何が良いかというと、艇に乗っている他の選手たちを信頼できるからだというので
ある。つまり、皆が同じように力を合わせない限りボートは「
スイング」
することはなく、それがために、そし
てそれが唯一の理由なのだが、クルーの間に真の信頼関係が生まれる、というのだ。この一事をもってしても、
若いイェール大学ボート部員として、彼はチームメートの大部分の者とは別のものを求めていることがわか
る。
ワシントン大学ボート部の影響を受けて、彼のローイングスタイルも他と違っていた。東部の選手から見る
と、漕ぎ方は荒っぽくて、オールが水に入る瞬間のキャッチでは小さくバックスプラッシュが上がっていた。一年
生のとき、そのことでビグローはエド・
チャンドラーと議論をしたものだ。エクゼター校ですでにボート経験の
あるチャンドラーは、バックスプラッシュが上がるということはボートにブレーキがかかって、勢いがとめられて
しまっていると主張した。二人はこの論争をコングラムのもとに持ち込んだ。チャンドラーがこんなに自信を
持って言えるのはめったにないことだった。だが、コングラムは言った。「
うーん、実際はだね、ジョンの方が正し
いな」
チャンドラーはびっくりした。彼は艇庫に帰ると何人かの友人とその話をした。「
信じられないだろうけ
ど、技術論争をして負けたんだ。あのビグローの野郎を相手にしてだぜ」
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やがて東部出身のオアズマンたちも彼が技術的には良いものを持っているかもしれないが、彼は全力で引い
ていないのではないかと結論づけた。彼らの見るところ、その証拠に、彼のオールが残す泡がそれほど大きく
ない。同じく私立のプレップスクール出であるマイク・
アイブスはビグローのスムースなストロークと小さな泡を
見て、「
あいつは引いていない」
と言った。つまり、彼のストロークは滑らかなだけで、全然力が入っていないとい
うのだ。道理で、それなら技術が優れているように見えるわけだ。そんな見方も、冬のある日、終わりを迎
えた。全員がエルゴメーターで各自のスコアを計測することになった。これは水上のレースを模したマシンで、大
変にきついものだ。体格が大きくて力も強い男たちも終わったときには息も絶え絶えになってしまう。
皆がそれぞれのエルゴのスコアを知ることになり、その成績で仲間の漕力を計ることになるので、エルゴをや
る日はまさに審判の日だった。多くの者はできるだけ順番が後になるように図った。自分の番になったときに
他の選手の成績を知っておけるからだ。イェールに入学する前にボートの経験はなかったが、体格が大きく、
力も強いスティーブ・
キースリングやエリク・
スティーブンスのような選手たちにとっては、この日は素晴らしい
日だった。なぜなら、エルゴでは技術のことなど気にせず、マシンをぶっ壊すまでに引きまくれば良いのだから。
各選手は十分間漕ぐことになっていた。新人クルーのコックスであるダン・
ゴールドバーグがマシンの表示をモニ
ターしていた。コングラムに、ただ最終スコアだけでなく、各選手の途中計時も分かるように報告するためだ。
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何人かの選手は、もっと強く引けとあおってくれるように彼に頼んだ。だが、ビグローは全然そんなことは望
まなかった。「
何にも言ってくれるな。ただし、一分ごとにレートがどうなっているかだけを教えてくれ。その
他は何も言ってもらわなくていい」
他の選手は、全員、出だしから猛烈に強く、速く引いたが、決まって終盤に
は勢いが鈍ってしまった。ビグローはそれほど激しくないがスムースにスタートした。彼のスプリットタイムは平
均しており、テストも半分ほど進んだところで、彼のスコアはベストスコアよりもわずかに遅れている程度だった。
こいつは今までに一番きちんとしたやり方だな、とゴールドバーグは思った。その後、ビグローのスプリットは
次第に上がって行った。これが彼のスプリントのやり方で、終盤も力強く上がった。彼は、テストの長さを計算
に入れて自分のエネルギーをほぼ完璧に割り振っていたのだ。彼のスコアは、他の選手全員の十パーセント上を
行っていた。それは驚くべきパフォーマンスだった。テストが終わったときには、他の選手は皆マシンの上でぐった
りとしていたのに対して、ビグローはできるだけ静かにゆったりと立ち上がり、新聞を読む程度のことをやっ
たかのようにマシンから気楽そうに離れて行った。彼のスコアがあまりに高く、肉体的苦痛もまったくなさそ
うなので、ゴールドバーグと他の選手たちは駆け寄って、機械が壊れていたのではないかとチェックしたほどだ。
こんなごく並みの体格をした新人(
ビグローは身長一九〇㎝で、体重はおそらく八十四㎏だった。本当に大
きい選手になると身長一九五㎝、体重九十五㎏といったところだ)
が、あのスコアをたたき出したのか?この
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スコアは、対校クルーのもっとも強い選手が出したスコアよりも高いぞ!
だが、このエルゴのスコアでさえ、あいつはどこかおかしいという感じを与えた。頭のよい奴なら誰だって感じ
た苦痛をなんらかの形で外に現すものだ。脳タリンは苦痛を感じないのさ、と幾分の残虐性をもって彼をけ
なす者もいた。彼は、自分のまわりでこんなことが言われていることは十分承知していた。まもなく、彼の大
学入試センターの学科試験成績が以上に低いという噂が流れた。あいつはマシンだ、と言われるようになった。
彼の友人であり、競争相手であるジョー・ブースカレンも彼のことをマシンと呼んだが、その意味合いは他と
違っていた。「
彼は、有酸素運動マシンだね」というのがブースカレンの評価だった。ビグローは自分がまわりか
らそんな呼ばれ方をしていることを知っていて、そのことを不快に思っていた。彼だって苦痛は感じているのだ。
しかし、彼はそれをローイングにおける目標達成のために必須なこととして諦観をもって受容していた。
本当は、ビグローは自分自身およびまわりの人それぞれについて完璧を求める性質だった。一年生のとき、
彼は身長一九三㎝のキースリングの傍にいるのが耐えられなかった。そんな嫌悪感は何も個人的なことから
来ることではなかった。単に、キースリングは以前にローイングをやったことがなく、従って、力があると言って
も漕ぎは雑で、まったく技術的になっていないから、ということでしかない。技術が厳しく要求されるこのス
ポーツにおいて、まったくそのスキルがないということがビグローを怒らせたのだ。ボートの上で彼の後ろの連
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中が無駄話をしているとか、注意を払っていない様子を見せたりするときには、彼は振り向いて怒鳴りつけ
たものだ。コックスのゴールドバーグは、ビグローと他の者たちの間を取り持とうとした。ハーバードとの新人
戦の日、強い風が吹き荒れていていた。レースが始まる直前に、ビグローは、皆がすでに非常な緊張状態にあ
ることなどまったく気がつかない様子で、荒れた水面のコンディションにいかに対処すべきか他の者たちに小声
で指示を出し始めた。ゴールドバーグは、一悶着ありそうだぞと思っていたところに、キースリングが声を上
げた。「
お前は自分のことだけ考えて、自分のレースをやっていろよ」
他のオアズマンたちが階級文化、それがローイングをするという階級ではあるが、によって司られているとし
たら、ビグローの場合はクルーの深い倫理観とも言うべきものを拠り所にしていた。それは、あたかも現実世
界に不満があり、より純粋で、より倫理的な宇宙というものをローイングに求めていたようなものだった。彼
とゴールドバーグは激しく対立する間柄だった。当初は、二人とも互いに相手に苛立ち、その後、長期間を
経て友人関係になることができた。ゴールドバーグは、アイオワの高校でボクシングをやっていた。そんなわけ
で、彼もローイングや、その階級文化というものに初めて接したのだった。彼は、コックスの役目の一つは、選手
たちを挑発して駆り立てるものと聞いていた。だから、彼は、初め、それをやり、レースの終盤には選手たち
に向かって、「
勝ちたいと思っているのか!勝ちたいのか!」
と怒鳴り上げていた。フットボール選手から転向し
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てきて初めてローイングをやる選手たちは、高校時代にコーチからそのように接して来られたので、そんな掛
け声が気に入っていた。だが、ビグローはそれを嫌った。「
二度とそんな言い方をしないでくれ」
と彼はゴールド
バーグに注文をつけた。「
そういうことが問題じゃないんだ。絶対に」
ゴールドバーグにしてみれば、それがオ
アズマンの行動規準というものにおける最初のレッスンだった。どういうものかは別にして、何かうまくいってい
ないとしても、それは選手たちの欲求がそれほど強くないから、というようなものではなかった。苦痛という
のが当たり前のことになっているので、レースに出るオアズマンたちにはそんな問いかけをされるいわれはない
のだ。
規準にはいろいろな側面があった。レースというのは、相手に対するものであると同時に自分に対するもの
であること。クルーに完璧はない。どんなに良いクルーであっても、それがレースという環境でないにせよ、いつ
か負けるときが来る。そして、ボートがパーフェクトに突進するあのスイングの瞬間的快感。流れ、潮、それに
風によってタイムも変わるので、ボート競技では記録というものがまったく価値を持たない。ランナーなら以
前の選手の記録を上回ったかどうか、知ることができる。ところが、連勝を続けるボートの選手でさえ、自
分たちは六年前に同様な実績を上げたボートより速いのかどうか確信が持てない。彼の艇の方がおそらく
速かっただろうという鍵は、他の競技種目にある。というのは、水泳や陸上競技の選手たちは先人たちの記
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録をシステマチックに塗り替えてきた。とは言うものの、実証的な証拠は何もなかった。そんなわけで、謙虚
であることが行動規準の一部になっていた。これから行おうとすることや過去の実績を誇らないこと、また
敗者を貶めないこと、などがそうだ。相手も自分たちと同様に厳しい練習を積んできたのであるから、自分
自身と同様に相手をも尊敬するのだ。ビグローが二年生のとき、イェールは東部地区スプリント大会で優勝
したが、イェールの何人かの選手は自分たちが一番とばかりに指を突き上げていたが、ビグローはこんな態度
を嫌った。その一年後に、何人かのイェールの二年生がハーバードのボートに向かって野次を飛ばしたものだが、
ビグローには一層これが気に入らなかった。後になってあのレースについて触れて、彼は「
二年生たちは確かに
強かったのですが、彼らはクルーの謙遜ということをまだ学んでいなかったのですね」
と言った。
対校戦クルーのコーチであるトニー・
ジョンソンも、ゴールドバーグ同様、ローイングのあるべき姿の規準につ
いての彼の信念の強さに驚かされている。勝つことも大事だが、ハイレベルで競技することも同等に重要なのだ。
ジョンソンが時々に思い起こすのは、ジョンのお気に入りのレースは、勝ったレースではなく、彼が一年生のとき
の東部地区スプリント大会でのことだった。イェールは第三位に終わり、優勝はペンシルバニア大学だったが、上
位三チームが〇・
五秒差の中に入っていた。ジョンソンと話をしているとき、ビグローは、よく、あれは素晴らし
いレースでしたね、と振り返るのだった。ジョンソンは、また、ビグローが相手クルーのことを悪く言わないよう
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に大変に気を使っていることに打たれた。彼は、漕ぎがよくないからといって人をネガティブに評価すること
を嫌っていた。あるとき、ビグローとジョンソンがレガッタを見守っているときに、ジョンソンが何気なくあるク
ルーの漕ぎがひどいねとコメントしたら、ビグローが怒ってすぐにジョンソンに噛みついた。ジョンソンは、「
ジョン、
待てよ、俺は、彼らは悪い奴らだと言ったわけじゃないぞ。ただ、ひどい漕ぎだなと言っただけだぞ」
彼の日常の態度が、勝ちたいという彼の欲求の強さを如実に表していた。大部分のトップ級の選手たちは、
その自尊心や欲求のそれと分かる臭いを漂わせていた。彼らのそばにいれば否が応でも彼らの野心を感じざ
るを得ないし、彼らが自分の領分だとして囲いを設けていることに気がつく。それと対照的に、ビグローは、
格別に厳しいスポーツにおいて勝つためならどんな犠牲も払うというようなライバルたちと違って、ちょっと
面倒を見てもらいたいと思っている反体制文化の子供のように見えた。キースリングが思うところでは、彼の
競争心は勝ったときよりも負けたときの方に現れやすい。勝ったときには、彼は純真さのマスクをかぶってい
ることができるが、負けると感情が表に出る。あるとき、イェールのまったく非公式の練習のときに、キース
リングとビグローはそれぞれ対抗するボートのストローク手をつとめるように指示された。自分のボートがビ
グローのものよりも強くないことを知っていたキースリングは、フライイング的にとびだして早々に二艇身の
差をつけた。驚いたことに、ビグローは猛烈に怒って、彼およびそのボートに乗っている全員に向かって汚い罵
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りの声を浴びせかけたのだ。ビグローが腰に問題を抱えており、ティフ・
ウッドが世界選手権で三位入賞した
一九八三年に、誰かがビグローに、ティフ・ウッドが良い成績をおさめて嬉しいかと尋ねた。何と言っても二
人は友人同士であるし、ティフは素晴らしくライバルをサポートする相手だったからだ。ビグローはあきれる
ほど率直に答えた。「
いえ、ジェラシーだけです。ひどいジェラシーです」
彼は小さい子供のときからずっと目標を達成してきた。「ジョンのことについて何か話していただけません
か?」
と、かつて四年生担当の先生が学年の初めにあたり彼の母親に尋ねたことがある。長い間じっと考え込
んでからナンシー・
ビグローは答えた。「
あの子は何でもよく出来たがるんです」
彼は、よく出来たがる反面、失敗することを嫌った。彼は、競争する場を注意深く選んだ。イェール在学
当時、キースリングは生物学のコースを選択していた。その学年の途中、彼は何となくビグローも同じ科目を
選択しているのではないかと思った。キースリングはいつも教室の前の方に座っていたのだが、ときどきビグロー
をずっと後ろの方に見かけた気がした。だが、彼が選択コースのことをビグローに話したときに、ビグローはそ
のコースを選択しているのではなく、ただ聴講しているだけだと言った。それはちょっと信じがたかった。生物
学のコースを聴講するやつなどいるわけがないのだ。美術史とか、アメリカ近代史などが好まれているものの、
生物学のような技術的なものは関心を持たれなかった。後に、キースリングはビグローがコースを選択してい
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ると確信するようになったが、彼がそれを認めるまでにどれほどの成績を上げているかを見届けるのはしば
らく待つことにした。彼の友人たちは、彼がイェール卒業後に医学部に進もうとしていた時期が彼にとって一
番好きになれる時期ではないかと思った。彼の成績はたいしたことはなく、彼が偉大なスカル選手であろうと、
なかろうと、彼の願書をほとんどの医学部は歓迎してくれなかった。イェールの友人たちが彼に接して以来、
初めてのことだが、あの豪腕ビグローが何かにつまずいているのだった。人間的弱さを見せて、ビグローは友人
たちに心から胸襟を開いてきた。以前なら、ベストであらねばならないことや、弱さを見せてはならないとい
う責任感の故に、賞賛されこそすれ、好ましい人間と思われることはなかった。
彼の同年代の者たち以上に、ジョン・
ビグローは家族や伝統といった重荷を背負っていた。ビグロー家は、ま
さに家族であった。一家は年に一度は集い、連絡を取り合って、自由と共に義務感を強く意識していた。ビグ
ロー一族は、皆、ずっと優れた実績をあげてきた。ジョン・
ビグロー自身はシアトル出身ということになろうが、
ビグロー家は伝統的に古風な東部者だった。一族は、その過去が現在と密接不可分につながっているというよ
うな家族だった。祖父ビグローの息子であるルシアス・
ビグローが第二次大戦後にワシントン州に移り住んだの
であるが、それは彼とその妻ナンシーが過去の重荷から逃れたい気持ちからだった。
ジョンの祖父、ルシアス・
ホレーシオ・ビグローはイェールでボートとフットボールの両方をやっていたのだが、
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彼の母、ジョンにとっての曾祖母が、ハーバード=イェール対校レースで一人のオアズマンがオールにもたれか
かって気を失う様を見た。愕然とした彼女が、どちらか一方のスポーツをやめるよう息子を強く説得したの
で、息子は、彼女が安心したことに、フットボールの方を選んで一九〇七年のイェールチームの主将になった。
その彼も亡くなって久しいが、彼の妻、ビグローお祖母さんは、彼女自身のやり方で家族の伝統の炎の守り手
となっていた。ビグロー家は特別な血筋なんですよと、彼女はジョンの友人たちにいつも思い起こさせるのだが、
彼女が心からそれを信じていることは明らかだった。ビグロー家の男たちが必ずやることがあり、一方では絶
対にやらないことがあった。彼らの学業成績はよく、態度はクリスチャンであり、教会をかかすことがなく、
皆イェールに入り、紳士のように振る舞い、然るべき職についていた。彼らがやってはならないことも同様に厳
格なものであった。酒は飲まない、大声を上げない、怒りをあらわにしてはならない、そして罵らない。彼女
の家はビグロー家のいろいろなスポーツの賞状や記念品であふれかえっていた。その中には世紀初頭のものも
ある。イェールが危うくジョンの兄であるルークを不合格にしようとしたとき、彼女は曾お祖父さんビグロー
のイェールのペナントを取り外してやると公言したものだ。幸い、ルークは遅れて入学を許され、ペナントも掲
げられたままになっている。彼女の息子ルシアス・
ビグローは、運動面では彼の父親ほど実績を上げることはな
かった。フットボールをやったものの、もらった賞といえば、チーム内における取組姿勢良好に対するくらいの
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ものだった。だが、彼も一族の伝統を引き継いでいった。父親同様、彼もスカル・
アンド・
ボーンズ(
訳注、イェー
ル大学内の秘密クラブ)
の会員になっていた。そして、彼がいつも良い学業成績を期待されていたように、彼も
自分の子供たちに良い学業成績をあげることを要求していた。彼の両親がいつもドアまで見送りに出て、学
校のことで決まり文句を言った。彼もまた自分の子供たちを見送るときに同じ言葉を言う。毎朝、「
楽しん
でいらっしゃい。全優をとるんだよ」
ジョン・
ビグローは、西部の自由闊達さと東部の伝統と義務感が入り混じった、普通にはない特権的なシア
トルの家庭で育った。ナンシー・
ビグローは鶏、あひる、それに七面鳥など、いろいろな動物を飼っていたのはた
しかだが、東部気質が生活様式、義務感、そして教育という面に現れていた。子供たちはその地域ではもっと
も良いとされているレイクサイド校に通い、テニス、サッカー、ローイングなどのスポーツに親しみ、当然のよう
にそれに長じるようになっていた。ジョン・
ビグローは十歳の頃にシングルスカルに乗り始め、所属するテニスク
ラブを通して最初から良いコーチを受けていた。愛情と思いやりがいっぱいの楽しい家庭で、子供たちにはも
のすごい量の注意とエネルギーが注がれていた。どちらかと言えば、ある友人などは、ビグロー家はあまり子
供たちのことに目が行き過ぎているのではないかと思った。子供たちが必要以上に保護されているので、彼ら
が間違いをすることさえも許されないというか、できないのではないか、というのだ。両親は、お前に必要な
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ものは分かっているよ、という思いをジョン・
ビグローに感覚的に伝えていた。しかし、その思いは、いつも真実で
あるとは限らないことが後に明らかになるのだった。
家庭内に摩擦がないわけではなく、ときどきジョンと父親の間でそれが表面化することがあった。それは
典型的な世代間の相違によるものだった。ジョンが感じていることは、両親の期待を一身に受けて育った父親
は、成功と出世を目指して自分の子供たちに厳しくあたり過ぎており、彼の子供たちへ
の愛情も子供たちの
成績次第というところがあった。ジョンは、そうした見方から母親を除外していた。しかし、彼にしてみれば、
父親はビグロー家の者ならば、皆、社会で成功するものだという考えにとらわれている男だった。ビグロー家
の者なら最高の学校に通って、運動選手として良い実績をあげ、会社に入ったらそこの社長になるのが当た
り前と言う考えだ。ジョンの中のホールデン・
コールフィールド的なものが反抗した。(
イェールでは、彼はロー
イングが大好きだった。しかし、ハーバード=イェール対校レースは嫌った。なぜなら、その時期が来ると先輩
たちがやってきて、その年のイェールの資金集めにとってレースにおける勝利がいかに重要かということを話し
に来るからだ。彼は、先輩たちがローイング自体のことではなく、勝利にこだわっていることが嫌いだった。と
きどき、彼は思った。もしそれがレースの目的なら、先輩たちが自分たちで漕げばいいじゃないか、と。彼にし
てみれば、レースというのは出場する選手たちのものであって、イェールに金を渡す人たちのものではない。)
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小さい子供の頃、彼は学校でいつも規律上の問題を引き起こしていた。先生方の権威に対して、たびたび疑
問の口をはさむからだ。彼の母親は、そうした彼の態度を彼にかかっている緩むことのないプレッシャーのせい
であり、なにしろ、「
良」
ではだめで、ビグロー家の者たるもの、いつも「
優」
でなければならない、という世界に
対する一つの反抗心の現れだと思っている。
ルシアス・ビグローは、彼の愛情も子供たちの成績次第であることをいつも否定するのだが、その一方で、
きっとそうに違いないとジョンに思わせることを口にする。たとえば、ジョンが医学部への入学願書を出した
とき、彼は自分の学科成績の限界を承知していた。だが、父親はすぐにハーバードかイェールの医学部だな、
と言った。つまり、最高の学府だ。ジョン・
ビグローにしてみれば、まさにそういうことから逃げ出したいと願っ
ていることなのだ。ビグロー家の者は最高の学校に行って、高みをきわめなければならない、という考え方か
らだ。ジョンは、自分はとてもそんなところに入れそうにない、と父親に言った。ルシアス・ビグローは、もし
ジョンがそんなに強く思っているなら、そうすれば良いと答えた。それは、果てしない愛憎劇と、完全に調和
することのない世代間の態度の行き違いを完璧なまでに映し出しているように見えた。最終的には、ジョン・
ビグローも父親は自分を愛してくれていると思ったが、父親の尊敬も自分のスポーツの成績次第で上がったり、
下がったりするのだな、とも思った。両親はプレッシャーから逃れようとシアトルに移り住んだというのに、父
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親は自分で気づく以上に自分自身の気質の中にそうした傾向を持っているとは皮肉なことだ、と彼は思った。
こうした環境が、ジョン・
ビグローをして、良い成績を上げたいという欲求に対してただちに強力に答え、しか
し一方で同等の力をもってそれに反抗したいという矛盾した若者に育て上げた。
64
第五章
ジョンの気持ちのもっとも良き理解者は、六年にもわたって彼の友人、チームメート、そして競争相手で
あったジョー・
ブースカレンだった。ブースカレンは、かなりの期間をシアトルのビグロー家で過ごした。ブースカ
レンがコーネル大学医学部の最終学年であった一九八二年の秋に、彼は他のいくつかの医学部で二、三ヶ月を
過ごすことが義務付けられていた。彼はオリンピック出場を狙っており、卒業後は何らかのスポーツ医学をや
ろうと思っていたので、彼は、研修地として、すべて立派なローイング施設が整っている場所を慎重に選んでい
た。その一つがシアトルのワシントン大学だった。そこで彼はビグロー家に泊めてもらって大変なお世話になった
のだが、彼以前にも他の若いオアズマンたちも同様な世話になっていたのだ。ビグローの両親は、ジョンのライバ
ルということで友情にも微妙なところもあったが、彼のことを気に入ってくれた。
ジョンの両親は、ブースカレンは大変に負けず嫌いの性格だが、素晴らしく魅力的な人間だと分かった。あ
る朝、ナンシー・
ビグローは、ジョーと一緒に朝食をとっているときに、ローイングについてどうするつもりかと
彼に尋ねた。
65
「
オリンピック選手に是非とも選抜されたいですね」
と、彼は答えた。
「
どのボートがお望みなの?」
と、ナンシーは尋ねた。しばらく沈黙があり、「
クオドなの?」
と彼女は言葉
を継いだ。
「
それもいいですね」
と、彼は言った。ナンシー・ビグローは、言外に残されたものがあると思った。彼がシン
グルスカルを望むなどというのはあり得なかった。シングルは彼女の息子のジョンのものなのだ。
「
シングルはどう?」
と彼女はさらに尋ねたが、彼女自身、自分がそんなことを口にしたのが信じられない
思いだった。
ブースカレンは、彼女の方を向いた。彼の目は愛嬌があって、まったく純真そのものだった。彼は、彼女の家で、
彼女が作った朝食を、彼女と一緒に朝食テーブルについて食べながら、素晴らしく上品に微笑んでいた。彼は、
「
シングルも大変いいですね」
と言った。彼は、彼女の息子が占めるべきオリンピック選手の座を狙っているのだ。
これは見事な若いキラー選手たちの世界だわ、と彼女は思った。こうして彼女のボート選手たちへの無邪気
な思いは終わりを告げた。
ジョン・
ビグローと彼の父親との世代間戦争は、ブースカレンには面白かった。ルシアスが息子にもっとも高名
な医学部に入れと勧めるのに対して、ジョンはそれへ
の報復として父親の食べ物について塩と砂糖を控えるよ
66
うにといつも言うのだった。ブースカレンが皮肉だなと思ったのは、ビグローお祖父さんはイェールのフットボー
ル選手として実績を残しているが、運動選手としてはジョンがビグロー家の史上最高の選手であることだった。
ジョン自身および家族の者がそれに気づいていないか、あるいは彼自身は気づいていても、それで解放された
気分にはなれないでいるのだろう。
ビグロー家に逗留したことでブースカレンとジョンの関係は強まったが、ときとして気詰まりなこともあった。
それというのも、父親同様、ジョンは何ごとにもすこぶるつきの几帳面ぶりで、家の客人でいることも容易で
はなかったからである。それにブースカレンがときどき感じたことだが、ジョンはその態度によって暗に自分の
方がスカル選手としては上であることを示唆するかのように、その行動に巧みなかけひきの要素があった。そ
れがブースカレンの気に障り始めた。ビグローの話しぶりからすると(
というか、少なくともブースカレンが彼
の話しぶりを受け止めたところでは)
、二人の間にはかなりの能力の差があった。ビグローがブースカレンの向
上ぶりを褒めないわけではないが、彼はそれで相手を悩ますつもりでいるとしか思えないやりかたで言うの
だった。「
ジョー、大変良くなってきたじゃないか。いやー、良くなったよ。全米で三位になれるスカラーだね」
などと彼は言ったものだ。ジョンの顔色を見ても、わざとそんな言い方をしているのか分からない。なぜなら、
彼は優しく善い人間であると共に、巧みに駆け引きをする男であることが同時にできたからだ。後にビグ
67
ローがオリンピックでペア選手の座を目指していた友人のキースリングに会ったとき、彼は大変快活に振舞って
いた。しかし、別れ際に彼はキースリングに「
スティーブ、いいか、レース結果は練習次第だぞ」
と言った。ニュー
ヨークで雑誌編集者の仕事をフルタイムでやっており、レースに向けた練習は不規則になりがちだったキース
リングにしてみればそんなコメントは全然ありがたくなかった。
多くの点で、ブースカレンはまったく賞賛に値する身体を持っていた。身長は一九〇㎝、引き締まった筋肉
質の体だ。だが骨格は大きい方ではなく、オアズマンのパワーの出どころである肩幅が広くなかった。艇庫のま
わりを歩いていると、彼は別の運動種目の選手のように見えた。えらく筋肉の発達したテニス選手が友人に
会いに来たかのようだった。過去二年、ビグローやウッドを相手にして、おおむね三位に終わることの多いス
カル選手として、彼は自分の体格が問題なのだと思っていた。そこでオリンピックを控えた一年の間、以前の
力の限界を打破し、体ではなく心の持ちようこそが最終的な結果を出してくれるものであることを証明す
るために、彼は体を作り上げることに全力をあげた。その信念こそが、産まれ落ちた体を前向きに鍛えるこ
と可能にしてくれた。過去には体のことが精神的な障害になっていたものだが、この年、彼は、それは今や問
題ではなく、自分は身長一九三㎝で体重も九五㎏であるかのように競争力あるオアズマンであると自分自
身に思わせていた。
68
ハリー・
パーカーは、トップ級のスカラーたちの間ではブースカレンがおそらく最も競争心が強いと感じてい
た。ブースカレンは何ごとにおいても競った。長距離ランニングがイェールボート部の練習の重要な一部である
とすると、もとはごく普通のランナーであったジョー・
ブースカレンは、自分を素晴らしい長距離ランナーに作
り上げて行った。一九八一年のボートシーズンが終わったあと、彼とビグローはウエイトトレーニングルームで
体を鍛えることにしていたのだが、彼は自分たちの向上ぶりをきちんと計測し、そして二人のうちのどちら
がより向上しているかが分かるように、自分とビグローの筋肉量を定期的に計測した。冬の数ヶ月間、彼と
ティフ・
ウッドは数回一緒にクロスカントリースキーに出かけた。クロスカントリースキーは、持久力向上に効
果があるとしてハリー・
パーカーが奨めたスポーツだった。体重がウッドよりも軽いので、だいたいブースカレン
の方が勝った。ブースカレンにしてみれば、クロスカントリースキーでティフに勝ったということがローイングに
も影響を与えるものであると思われた。彼は、ウッドの方でも同じように考えており、それが原因でウッド
が次第にスキーをやらなくなったのではないかと薄々感じ取っていた。
ブースカレンという名前はフランスの名前である。彼の父親のアンソニー・
ブースカレンは六十一歳になるが、
それよりは二十歳くらい若く見えた。彼もイェールに通ったのだが、彼の運動選手としての経歴は第二次大
戦で中断された。戦争の間、彼は海兵隊の輸送機の乗員だったが、戦後、彼はシラキューズのル・
モイン大学で
69
政治科学を教えていた。息子たち三人の目には彼は強健な体をしており、敬虔なカトリック信者であり、政
治的には確固とした保守主義者であり、週末には大変に競争心の強い運動選手であった。彼は決してリトル
リーグで息子たちを応援するタイプの人間ではなかったが、彼の取組姿勢と強烈な競争心(六十一歳で所
属テニスクラブの大会で優勝した)
は直接彼の息子たちに伝わった。彼は熱心に、というかおそらくよその父
親たちの誰よりも熱心に息子たちの試合やボートレースの応援に出かけ、彼の応援は全面的なものだった。
だが、彼はいつもそこに自分の徹底した基準を持ち込んだ。一九八一年に、ジョー・
ブースカレンが初めてシン
グルスカルの決勝に進出し、そこで素晴らしい漕ぎを見せて、最後のところでティフ・
ウッドに抜かれはしたも
のの三位に入ったとき、息子を迎えた彼の父親の言葉は、「
駄目だな、ジョー。残念だった」
ブースカレンのすぐ
そばにいたジョン・
ビグローはそれを聞いて、親父の基準が、無意識のうちかもしれないが、また適用されたな、
これだからジョーは、次回は前回よりもよい成績をあげることが大事なんだな、と思ったものだ。
彼の息子たちは、ブースカレン家では天賦の才能を無駄にしてはいけないと常々思い起こされていた。三人
の息子たちのうちの長兄であるトニーは、ペンシルバニア大学で軽量級アメリカンフットボールの選手として活
躍し、次兄のマイクは一九六〇年代の終り頃にイェールのアメリカンフットボール名選手として、オールアイ
ビーリーグのラインバッカーに輝いた。マイク・
ブースカレンは一八五㎝、八八㎏で、アイビーリーグの標準か
70
らしてさえも大きい方ではなかったが、敏捷でタックルのあたりが非常に強かった。マイクはジョーよりも十一
歳年上でジョーが思春期を迎える頃、マイクの活躍ぶりが家族生活の中心になっていた。ジョーは、父親が友
人たちに話をしているときに、父がいかにマイクのことを誇りに思っているかを感じ取った。ジョーは、父親が、
ある意味では、マイクの運動選手としての実績を通して自分の人生を歩んでいると思った。当時はイェールの
全盛時代だった。カルビン・
ヒルや漫画のドーンズベリーのもとになったブライアン・
ダウリングなどがプレイし
ていた頃である。ブースカレン一家は、どの試合にも車で応援に出かけたものだ。兄の名前が呼び上げられた
ときにイェールボウルに集まった六万人もの観衆が上げる大声援を聞くのは、十歳の少年にとってわくわく
させられることであった。マイクが成し遂げたことは、一家にとって大きな励ましだった。それに近づきたいと
いう欲求がジョーの少年時代の重要な一部だった。子供の頃のジョーは兄のマイクにべったりで、兄の成績を我
がことのようにうれしく思い、誇りに思った。だが、彼も、後になって分かることになるのだが、兄と同じ運命
を歩むことになる。
彼はプレップスクールでアメリカンフットボールをやったが好きにはなれなかった。一時はテニスが彼に向いた
スポーツのように思えた。イェールに入った当時は、身長一八八㎝でほっそりとしており、まったくテニス選手
向きの体つきだった。だが、テニスという幻想はすぐに消え去った。彼のテニスの力量はせいぜい地元のクラブで
71
プレイする程度であるのに、イェールのテニス部の選手たちは高校生の頃からあちこちの大会で活躍してきた
人たちだ。そこで彼はようやくボートに目をむけたというわけだ。入学して間もない秋学期にテニス選手の
夢をきっぱりあきらめて、イェールの艇庫に行ってボートをやりたいのだがと申し入れた。その時すでに彼の
強烈な思いは格別だった。イェール対校クルーのコーチをしていたトニー・
ジョンソンは、この若者は十分か十五
分ほどのうちにローイングのすべてを説明してもらい、時間を無駄にしないでさっさと水上に出てやりたがっ
ているようだと思った。
一年後に入学することになるビグロー同様、ブースカレンは、イェール大学ボート部復活の立役者となった
グループの重要な一員になった。年をとったイェールの先輩たちはイェールボート衰退をベトナム戦争当時の
急激な学内改革のせいにしたものだ。しかし、同じ頃、ハリー・
パーカー率いるハーバードクルーは素晴らしい
成績をあげていた。彼らは長い髪の毛をして、自分たちも反戦グループと同じ思いだと公言し、卒論には黒
人パワーについて書き、そしてオリンピックに出場した。事実、パーカーは選手たちが政治的に強い意見を持っ
ていることを特別に誇らしく思っていたのである。自分自身競争心の強いブースカレンは、イェール大学ボート
部というところはまったく競争心がないところだな、と感じていた。ハーバードクルーが強力であることは、対
校クルーが自分たちに劣らないほどの二軍、三軍の重量級ボートから常に挑戦を受けていることに拠ってい
72
た。ところが、イェールでは自分の番が回ってくるのを待っているだけの受身の姿勢のように見えた。二年生が
四年生を対校クルーから追い出すようなことはしないものと思われていたのだ。対校クルーの選手たちを見
ていると、自分たちはボートを漕ぐだけ、仲良くやっていこう、お互いにうるさいことは言わないで、という
感じだった。この点、ブースカレンは「
うるさい」
方だった。何年もの後、トニー・
ジョンソンが思い出すことだが、
ブースカレンが二年生になったとき、ジョンソンは二艇を川に出した。シーズン初めのことだったので、彼は新二
年生が互いに自己紹介をするよう促した。各人それぞれに言われたように自己紹介したのだが、名前を名
乗る程度の通りいっぺんのものだった。ブースカレンの番になったら、彼は「ジョー・
ブースカレンです。がんがん
行くので、よろしく」
と言ったものだ。
彼がローイングを好んだ点は、屋内トレーニングをやればやるほど、その成果は水上にあらわれる、という
ところだった。彼は最初から良くできた。フォームが良くて、すぐに体の動きがなめらかな天賦の才能をもっ
たオアズマンになった。彼はなめらかに漕がざるを得なかったと言ってもよいだろう。なぜなら、他の選手と
違って、彼には無駄にする余裕がなかったからだ。一年生のときには重量級クルーのストロークをつとめた。
それまでローイングをやったことのないものにしては素晴らしい向上ぶりと言ってよいだろう。彼は、また、体
を鍛え始めた。自分は対校レガッタに出場できるほどの選手になれるかもしれないと思い始めたのもその頃
73
である。彼はローイングが好きだったが、一九七八年、一九七九年の対校クルーの中ではもっとも体格の小さ
い選手ということで、自分の地位がそれほど確固としたものではないことがいやだった。二年生のときも対校
クルーのストロークをつとめたが、三年生になると彼の体格のゆえにいつ切り捨てられるかわからなかった。ビ
グローや 彼のクラスメートたちなど、多くの才能ある二年生は対校クルー に入るのは間違いなかった。ト
ニー・
ジョンソンも、心の内では、誰かもう少し大きくて、力のある奴が第一ボートのブースカレンにとって替わ
るかもしれないな、と思っていた。その年の冬、ジョンソンはいつになく厳しい屋内トレーニングを課して選手た
ちを鍛え上げた。ブースカレンも他の選手たちと一緒にそれをこなした。練習の終わりに、他の選手たちが
立ち上がれないほどの状態になっているのに、彼はロープに飛びつき、さらに二十分もやって自分の体を鍛え
て行った。これでは彼が外されることはないだろう。彼のシートは安泰だった。一年後、イェールのクルーは以
前にも増して大きく、強くなった。その中で、ブースカレンとビグローは一番小さい二人だった。ジョンソンは、
他のコーチ同様、重い選手を中央に集め、軽い選手をストロークとバウの両端に配置するのを好んだ。しばら
く、ブースカレンがストロークをつとめた。それから、ジョンソンはビグローを試しにストロークに入れた。ブース
カレンにはこれが精神的にこたえ、彼の口から不満のつぶやきがもれた。ついに、誰かがジョンソンのもとに行
き、ジョーのことで何か手を打たないといけない、彼の不満が雰囲気を悪くしている、と訴えた。不平の声は
74
止んだ。納得したわけではないが、とにかく彼は第一ボートに残留できた。
彼は、一九七九年にイェールを卒業した。その年、チームメートの多くは全米選抜の地位に挑戦し、選ば
れた。しかし、彼はローイングから身を引いていた。彼の新世界は医学部になったのである。体調を整えてお
くことには依然として気を配り、クロスカントリースキーを模したトレーニングマシンを購入した。しかし、ロー
イングから離れて一年、彼は自分がどれほどローイングを恋しく思っているか思い知らされた。スカルをやろ
うかと思ったりした。バズ・
コングラムに替わってイェールの新人クルーコーチについたマイク・
ベスポーリはブース
カレンを煽る術を心得ていた。彼は、東部地区スプリント大会のときにブースカレンと並んで立っていたときに
何気ない風でつぶやいた。「
ジョー、君には無理だろう。きつ過ぎるからな。自分の気持ちが盛り上がってこな
いと無理なんだよ。君にはそこまでできないだろう」
ベスポーリは分かっていた。それがブースカレンを焚きつけ
る一番よい方策であることを。(
四年後、ケンブリッジで行われたイースターサンデーレースでビグローがブー
スカレンとウッドの二人を破ったとき、まだブースカレンの気持ちを持ち続けさせてやろうと願っていたベス
ポーリはブースカレンのいる前でビグローに言ったものだ。「
ジョン、ジョーを抜いた気持ちはどうだい?気持ち
がいいだろう」
)
一九八〇年の夏、コーネル大学医学部の夏休みで帰郷していたブースカレンは、軽量級スカルの選手権者で
75
あるスコット・
ループと一緒にトレーニングを始めた。彼とループはほぼ毎日一緒に乗艇練習をした。ループは、
ブースカレンをかなり先に行かせておいてからスタートして彼を抜き去るのだった。自分でもきつい練習をし
ていたループは、ブースカレンを自分のレベルに引き上げてやった。ブースカレンは、一層ローイングとフィットネ
スマシンでのトレーニングに真剣に取り組むようになった。兄のマイクは、ジョーにとっては選手が自らを鍛える
ために手を尽くし、単独で練習するスポーツに魅力があるのだろうと思った。マイクが見るところ、それが弟
の育ち方によく適合しているようだった。彼らの母親は、六十四歳で癌のために亡くなった。当時、兄は二人
ともすでに独立しており、ジョーは片親に育てられるただ一人の息子になった。彼は、普通ならもっと遅くに
なってから身につけるはずの、自分の力でことに当たらなければならないという感覚を強制的に発達させら
れたのだ。マイク・
ブースカレンが強く感じているのだが、弟は自分の内に力の源を見出すことに慣れていた。ス
カラーにとっては絶好の資質だと言って良い。夏休みが終わってコーネル大学医学部に帰ってから、彼は週末
毎にニューヘ
イブンに車で通い、人気のないイェール大学艇庫に泊り込んでは、医学部での強い精神的、心理的
な疲労とローイングによる体力の消耗のバランスに気を配りながら、できるだけ多くの時間、スカルの乗艇練
習をした。
彼は次第にスカルの漕ぎが好きになってきた。以前は、いつもストローク手を望んだものだった。なぜなら、
76
ストローク手はボートの中で別格の存在だったからだ。スカルでは、ひとかどのスカラーなら誰もが別格でいら
れた。彼は、もはやクルーの中の大男に運んでもらう、痩せて、ちびのバウ手ではなくなっていた。一九八一年
頃には、彼はより多くの時間をケンブリッジで過ごすようになり、ハリー・
パーカーの指導の下にある他のトッ
プスカラーたちと一緒に練習した。ブースカレンは、彼のイェール時代のコーチであるトニー・ジョンソンとハ
リー・
パーカーの対照に戸惑った。どちらかというと優しくて、話がしやすいジョンソンだが、彼は身体面では
パーカーと同じほど選手たちを鍛え上げた。しかし、メンタル面ではそれほどでもなかった。ブースカレンの思
うところでは、トニーの場合、自分が本当に一生懸命に努力していれば、まず間違いなく褒め言葉を頂けた。
しかし、ハリーは、どんなに頑張っても、まだまだと言う。ブースカレンは感じたのだが、ハーバードの艇庫に
漂っている問題は、自分は本当にこれに耐える力があるか?だった。これは、口に出して言われることではな
いが、いつもそれを感じるのだった。彼自身で結論を得たことだが、ハーバードの環境はどちらかと言えば冷
たいものだった。彼がそれに完全に馴染むことはなかったが、それが彼を一層の高みに押し上げてくれたこと
は確かだ。彼がかつてあれほど尊敬の対象にしていた兄のマイクが、今は彼を尊敬していた。彼が思うには、
ジョーは彼の身体的、精神的な能力を尋常ではないレベルまで高め、そのおかげで自分よりもずっと大きくて、
力があり、より天賦の才能に恵まれている男たちに伍して戦っていけるようにした。彼がそうして行けたのも、
77
ローイングというものと自分の能力を完全に理解していただけではなく、競技における相対性の概念という
ことも理解していたことによる。ジョーは、大会に出場するとき、記録を樹立しようとか、他を圧倒してや
ろうなどとは思っていなかった。むしろ、彼は、主なライバルたちだけでなく、自分の力量やその限界も抜け
目なく計算して、レース戦略をそれに適合させた。(
ティフ・
ウッドはマイク・
ブースカレンの見方に同意してい
る節がある。ウッドは、ビグローを相手に漕ぐのを好んだ。それは、ビグローのレースぶりはいつも同じだから
だ。だが、彼はブースカレンを相手にするのを嫌った。なぜなら、ブースカレンは毎回レース戦略を変えてくる
からだった。)マイク・
ブースカレンにしてみれば、弟は信じられないほど精神的にタフな選手になっていた。彼
はローイングの世界で競技するような男ではなかったはずなのに、今や最高レベルで競技している。一九八三
年には、彼のローイングの質は確実に向上し始めて、持久力も著しく高まった。昨年、ブースカレンは持久力
がものいう三つの重要な大会で優勝した。スクーキル川のヘッドレース(四千四百㍍)、コネチカット川のヘッド
レース(
五千六百㍍)
、それにもっとも権威あるチャールズ川でのヘ
ッドレース(
四千八百㍍)
である。チャールズ
川では、まったくうれしいことにティフ・
ウッドに僅差で勝った。本来なら、彼は技術に巧みな選手を必要と
しているチームボートを狙って然るべき選手なのだが、彼はシングルスカラーになりたかった。彼は、オリンピッ
クにちょうど間に合うタイミングで自分はピークを迎えると信じていた。春もまだ早い頃、ボート協会の仕
78
事としてスカルの予定表をチェックしていたマイク・
ベスポーリは、ブースカレンの様子を聞いてみようと電話し
てみた。「
何か君の手伝いになることはあるかね?」
とマイクは尋ねた。
「
四人漕ぎスカルの方では何かあるかもしれませんね」
とブースカレンは答えた。その前年、彼は全米代表の
四人漕ぎスカルで漕ぎ、世界選手権で七位に入っていた。そのとき一緒に漕いでいたのは、チャーリー・
アルテ
クルーズ、ビル・
パーディ、そしてビグローだった。もっと経験を積めば、このクルーはもっと強くなっていたかも
しれない。
彼が何をやっているか十分承知の上でベスポーリは言った。「
ほう、シングルをやめて四人漕ぎスカルをやる
のはどうかね?」
「
全然、その気はありません」
とブースカレンは言った。
79
第六章
ティフ・
ウッドがボストンの町を若いビジネスマンたちにまじって歩いていると、彼はまるでアイビーリーグ風
の身なりをした、コンサルティング会社で保険数理士をしているらしい、ただの若い男性にしか見えない。実は、
彼は、実際にその仕事をしているのだ。身長一八五㎝、体重八十四㎏の体躯にもかかわらず、偉大なボート
選手と聞いて想像するほど彼は背が高く見えないし、力強そうにも見えない。スーツを着ているとほとんど
痩せ型に見えるほどだ。しかし、彼の体に余分な脂肪はまったくなく、全身が筋肉の塊だ。普通の人の体脂
肪率は十八パーセント前後だろうが、彼の体脂肪率は七から八・
五パーセントの巾に入っている。(
スケート選
手のエリク・
ハイデンも七パーセントだ。)
ローイングの服装をしたときになって初めて、彼の強力な腕と、とてつ
もなく太くてごつごつした筋肉だらけの脚が姿を現す。それらから発揮される力は想像できないほどだ。
ジョン・
ビグローが彼とその能力のことについて話をするとき、彼はまずウッドの脚について話した。
体力に加えて、ウッドは苦痛に耐える能力が異常に高かった。ローイング、特にシングルスカルでは、選手は、
レースの都度、他のスポーツに類を見ないほどのレベルの苦痛に見舞われる。確かにフットボールでも真正面か
80
らの体当たりのときには激しい痛みに襲われる。それは他のスポーツだったら重傷を被ったときの痛みといっ
てよいだろう。それは、しかし、当たったら痛いぞといった種類のものだが、ローイングでは毎回その痛みを味
わうことは間違いなく保証されている。シングルスカルの選手権大会では、苦痛は所与のものになっている。各
レースは短距離ダッシュのように戦われる。しかし、十秒、二十秒、あるいは四十五秒といった時間で終わる短
距離レースと違って、二千㍍のスカル選手権大会では七分ほどかかる。ほぼ二マイル走の時間だ。体は通常の
方法で供給される酸素を急速に燃やしつくし、さらに多くのものを要求する。しかし、供給できる酸素の量
は次第に少なくなる。ということは、体はまだ高いレベルのエネルギーを生産しているといっても、スカラーはそ
のつけを大量の乳酸を同時に生産することで払わされている。乳酸とともに、苦痛が次第に高まってくる。
それに、スカラーたちは長距離ランナーのように自分でペースを組み立てることができない。終盤に必要な分
をとっておこうとエネルギー節約しておこうということもあるかもしれないが、彼らは実際にはスタートから
全力で飛び出していくことになる。スカルのレースでは先頭に立つことが有利だ。先頭に立つ者は後方の他の
ボートを見渡せるし、他の艇の立てた波をかぶることもない。
全盛時にあったティフ・
ウッドは、レースの後、体力が回復するのに五日間かかった。彼がローイングを思い
浮かべるとき、まず頭に浮かぶのは苦痛のことだった。レースでスタートしてから二十五本ほど漕ぐと体が痛
81
み始めた。肺と両脚は、もう止めてくれとうめき声を上げる。ときとして、その誘惑は抗し難いほどだった。
その衝動に抵抗し、苦痛にもかかわらず進み続け、その苦痛を突き抜けて、一層の力を振り絞る能力が、よ
り強力で、よりスムースな他の選手たちが後方に下がっていく間に、彼をチャンピオンにした。だが、彼はレー
スというとかならずあの苦痛のことが頭に浮ぶ。彼にとっては、レース前にじっくりと戦略を練ることがつら
かった。レースのことを考えただけであのひどい苦痛が思い起こされるからだ。
だが、彼は自分の苦痛に耐える能力が自分を類まれな選手にしてくれていることも承知している。彼は、
自分がやっていることのプラスとマイナスを頭の中で反復して検討し、それら全てを注意深く合理的に説明づ
けた。レース自体は大変な試練だ。あの苦痛は拷問と同じだな、と彼は思った。その拷問の最悪な要因は、そ
れを自分みずからが課していることだ。そんなことを頭の中で反芻する必要はない。だが、彼はそれに立ち
向かおうと自らを奮い立たせた。彼は最高の選手たちを相手にして自分の力量を計りたかった。それを達成
する唯一の方法は苦痛に打ち克つことだった。
本当のところ、心の奥底では、彼はローイングのこうした面が好きだった。なぜなら、それが普通の特別に
才能があるわけではない若い男女が自らを超えた高みに到達することを可能にしてくれているからだ。彼は
かつて言った。「
私は思うのですが、私がローイングを好きなのは、ヒーローになれるチャンスがあるからなんで
82
す。毎日、ごく普通に見える場の中でも、それぞれのボートにヒーローがいるんです。ボートを進めようとエ
ネルギーを振り絞って頑張っている人たちですよ。私はそれが好きです。私は、それに対して敬意を払います。
それはこの世界で特別なことだと思っています」
とにかく、彼はローイングをやっていると自分に自信が持て
る感じがするのだ。
彼のコーチであり、自身オリンピックスカル選手であったパーカーは、ティフ・
ウッドが格別に優れているとこ
ろは、自分にあとどれほどエネルギーが残っているか、そして最後の一滴までそれを使い果たすよう正確に計
算する能力にあると見ていた。残された力を振り絞って最後の一本を漕いで決勝線を通過するそのときに
は、まさに持てる力を使い果たしたときだ、とパーカーは思った。これは練習のときでさえも同じで、パー
カーは最近それをまざまざと見せつけられた。長くて、きつい練習の上がりとして、彼はウッドに力漕ラスト
二十本を指示した。ウッドは、それに応えた。だが、パーカーはうっかり、もう十本と指示した。ウッドの体
にもう余力は残っていない。ウッドは、いつもなら非常に慎み深く、信じられないほどもきちんとしている若
者だが、このときばかりは理性もなく猛烈に怒ってパーカーに向かって怒鳴りつけた。「
この、馬っ鹿野郎!」
ウッドがハーバード大学ボート部に入って間もなく、パーカーは、こいつに技術の細かいことを云々するのは
むしろ逆効果だと見抜いていた。彼は技術のことにはもどかしい思いをしていた。パーカーは、彼に対する最
83
善のコーチは、彼に余計なコーチはせずに、爆発的な力を吐き出させるままにしておくことだと判断した。
ウッドが他と違うところは、体を用途に合うように押し曲げようとする意志の力だった。ウッド自身も承知
していることだが、それには狂気じみたものがあった。しかし、そこには目的もあったのだ。なんと言っても、
彼は、苦痛ではないにせよ、犠牲というものが欠くべからざる要素になっている伝統の中で育てられてきた。
彼自身が口 にしたことだが、彼はレジャー 社 会ではなくピュー リタン的倫理を信じているのだ。人々 がレ
ジャーだけを追い求める社会は空虚だと、彼には思えた。ローイングで一番良いのは、それが突きつける障害
であり、彼の言葉によれば、たとえそれが人工的に創り出された障害であっても、だ。
彼は、もちろん非常に競争心が強い。長くて退屈な冬の間、屋内のタンクと称する施設でローイングをや
るのだが、そこで彼は自分を奮い立たせるために競争的ゲームを考案した。自分の前で漕いでいる選手より
も大きい泡を作り出すのだ。(
彼はごまかしなどせずに几帳面にそれをやったのだが、もちろん前で漕いでい
る選手はそんな競争が行われていることなど知る由もなかった。)
学部を卒業するときに、ウッドはビジネス
スクールとロースクールの両方の試験を受け、素晴らしい成績で合格する栄誉に与った。彼はいつも学科試験
では成績が良かった。彼の友人たちの何人かは、医学部も受ければよかったのに、と冷やかしたものだ。競争
相手のグループがもう一つ増えるだけじゃないか、と彼らは言ったものだ。
84
彼のフィアンセのクリスティ・
エイサリンドもローイングをやっていた。彼女は、長く、あてもなく歩くのが好
きだった。ティフ・
ウッドは、そんなのは好きではなかった。ティフが散歩に出かけるときには一定のフォームが
あって、街のブロックの周りを三回半するのだ。もしブロック三回半の既存の記録があればなおさら結構だ。
それを破ってやるつもりだ。
人生に目的とフォームがあると同様に、散歩にも目的とフォームがなければだめなのだ。それがローイング
の面白いことの理由の一つだ。こうしたレベルで競争する人たちは、悪魔的情熱をもって競争した。しかし、そ
こには何の表向きの経済的見返りはないし、裏の見返りもない。ただ、栄誉あるアマチュア選手としての特権
を求め、与えるだけの仲介場というだけだ。だが、選手たちは、ほぼ例外なく、生活に恵まれ、豊かなアッ
パーミドル階級、つまり普通ならこの社会でことさら困苦を求めようなどとはしない集団の子供たちであっ
た。貧民街の家の息子が、バスケットボールこそがスラム街を抜け出すための切符だと願って、一日六時間も
校庭で練習しているのは理解できる。ビーコン・
ヒルの高級住宅街の息子がそれほどの時間を使って栄誉を得
ようと自身を苦痛にさらすのは理解しがたい。そんな栄誉など、世間の誰も理解できないのだ。おそらく、
我々の社会においては、狂気のように卓越性を求めるのはアマチュアの世界に残されているだけなのだろう。
ティフ・
ウッドは、アメリカの体制社会の本家ともいえるビーコン・
ヒル育ちで、彼に先立つ父親同様、子供の
85
ときから最高と目される学校に通い続けた。ウッド家は、もともとボストン土着の家柄というわけではない。
祖父のレジナルド・
ウッドは、十四歳で学校をやめ、ウォールストリートで走り使いをしていたのだが、株で儲
けた。自力で叩き上げの男として、彼は自分の子供たちには立派な教育を授けてやろうと決意した。
ティフの父親のリチャード・
ウッドは、ハーバードに進学し、六十代に入って間もない年齢だが、息子に劣ら
ず引き締まった体をしている。彼は今も毎日五、六㎞ほど、週末には十六㎞のランニングをやる。五十代後半
に、彼はフルマラソンを三回やった。最初のマラソンでは、彼は二十七㎞過ぎたところでリタイアしたが、二回
目では三十七㎞で足が進まなくなり、一ブロック毎に歩いたり、走ったりしながら五時間半でゴールした。翌
年、十分練習を積んで、彼はびっこを引くこともなく、四時間半で走り通した。彼は野外にいるのが好きで、
スキーのゲレンデには最初に飛び出し、夕方一番遅く引き上げるのだった。彼は、気温が摂氏マイナス二十度
にもなり、ときどき八歳になる息子のティフが一緒にいる以外は誰もいない日にゲレンデに出ることに特別
な喜びを見いだしていた。リチャード・
ウッドにははっきり分かったのだが、息子はどんなに苦労してでも父親
にくっついて行くつもりでいた。父親と競争しているわけではないだろうが(
八歳か、九歳の子供が親と競争し
ようとすることなどあるものかどうか、答えが難しいところではあるが)、とにかく彼は幾度となく父親に
何かを証明しようとしていた。彼は小さい子供のときから何かに取りつかれたようになってしまうことが多
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かった。幼稚園の時に、彼はものすごく多くの本を読み、学年の終わりに幼稚園から「
世界のもっとも偉大な
本読み」という、きれいに記された表彰状をもらった。父親は、彼が非常に厳しい課題に取り組む意欲はほ
とんど自虐的でさえあると思ったものだ。
十歳のとき、彼はデイビッド・
ハンセンという友達の家に泊まったのだが、二人はごく簡単なテントを屋外に
張って寝ることにしていた。春もまだ早い時期で、外は寒かった。その夜、ひどい風雨に襲われた。そんな嵐の
中、デイビッド・
ハンセンは家の中に逃げ込んだ。翌朝、リチャード・
ウッドが驚いたことには、息子が十㎝もの
水の中で眠っているのを見つけたのだ。その時以来、彼は、息子が身体的リスクの限界まで自分を追い込もう
としており、さらに息子はただ何かを証明するだけでなく、そのことで他に認めてもらっているのだと知っ
た。
一年後、父子はニューハンプシャーの山歩きに出かけた。ずいぶん上に登ったところで直径がせいぜい六㍍ほ
どの小さい池に行き当たった。水は凍るほどに冷たかった。その上には、おそらく十㍍ほどの崖が切り立って
いた。リチャード・
ウッドは、崖を一目見て、これから何が起きるか悟った。ティフはそこに飛び込もうとする
だろうが、池があまりに小さいので、外れることも十分にあり得た。ティフ・
ウッドが言った。「
あそこから飛
び込んだらすごいだろうね」
「
お父さんはやめておくよ」
とリチャード・
ウッドは言った。彼は、ティフが距離を
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目算しているのを見守りながら考えていた。止めろ、というべきか?いや、控えておこう、彼を止めさせるこ
とはできない、と彼は判断した。そして、ティフ・
ウッドはさっと飛び込み、きれいにやってのけた。まず、普通
の人ならそんなところで泳ごうとも思わない水の中へ
の飛込みだった。
その頃はティフ・
ウッドにとって必ずしも幸せなときではなかった。両親の結婚が瓦解に瀕しており、離婚
の手続きを進めているところだった。彼は、自分がひどく内気な性格だと気がついており、周りで起きつつあ
ることへ
の感情を完全に自分の内に閉じ込めておいた。それは、彼が感情を持っていないということではなく、
それをどう表現して良いか分からなかったのだ。両親が離婚した直後から、ちょっとしたことで彼はすぐ泣き
出すようになった。継母が慰めようとすると、彼はぷいと横を向いた。「
誰も、僕が可哀想だなんて思っても
らいたくないよ」
と彼は言っていた。父から、家に残っていろ、とか寄宿舎つきの学校へ
行け、とか言われれば、
彼はそんな機会をつかまえて逃げ出しただろう。
彼は、一九六七年にセントポール校に入学した。十三歳のときで、年齢のわりに体が小さく、自分に自信
が持てず、混乱していた。後になって悟ったことだが、彼は大変内気で、苦しみは自分の内に籠めておく小さ
な少年だった。セントポール校では、最初、彼の学業はあまりよくなかった。彼は頭の良い子だったが、あまり
にがり勉で、いっぱい良い成績をあげることは必ずしも学友たちに好かれないことをすぐに悟ったのだ。彼は
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反抗的になり、髪は長髪にするようになった。しかし、それでも人に好かれない。当時を振り返って彼は言う。
「
僕が友達になって欲しいと思う人たちは、僕に興味を持ってくれなかったんですね。私は彼らが間違いを犯
していると思いましたが、それを彼らに分からせるのは簡単なことではないです」
セントポール校での人気や地位は、漠然とだが、彼の手の内にはない、容姿とか、体格とか、運動競技の成
績などに関連していた。彼は、特別に天賦の才能ある選手というわけではなかった。視力は大変悪く、その当
時、コンタクトレンズというものはなかった。彼は、なにごとにおいても不器用で要領が悪かった。そんなとき、
彼はローイングを始めた。彼が参加した最初の二日間、コンディションは寒くて雪がまじる最悪の状態だった。
ボートには水がじゃぶじゃぶ入って来たが、彼は気に入った。同年代の少年のほとんどを追い払ってしまう厳
しい気候が、彼を引き寄せた。彼はそんな気候の中ではいつも落ち着きを感じるのだった。始めた直後から、
彼はこのスポーツならうまくできそうだという感触を持っていた。なぜなら、それはただ力と献身的打ち込
みだけを要求するもので、技術とか、優雅さとか、タイミングは問題ではなかったからだ。
セントポール校では、ローイングは大変栄誉あるものとされており、アメリカンフットボールに劣らず、学校
の伝統の中に組み込まれていた。それに、ティフ・
ウッドにとってはフットボールは問題外だった。彼の視力では
ボールがよく見えないのだ。だが、ローイングでは選手は後ろを向いている。彼の問題を承知している母親は、
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彼にローイングを奨めた。父親はまだフットボールにこだわっていたのだが。ティフ・ウッドの直感は、ローイン
グこそが彼のスポーツだと教えていた。ローイングで成功するにはどんな犠牲を払わなければならないにして
も、それを受け入れるつもりだった。彼は、学内でのみ使われる種類のクラブボートというもので漕いでいた。
彼は、クルーのコーチであるリチャード・
デービスが上級生には大変人気があることに気がついた。デービスは、
空軍を退役したばかりの若い人で、夜には学生たちと一緒に食事していた。ティフ・ウッドは、偶然、彼と同
じ食卓に配置され、毎夜、静かにそこに座って、できるだけ多くその場の楽しい雰囲気を吸収していた。彼は、
自分のことに気づいて欲しいという気持ちと、気づかないで欲しいという気持ちの間に揺れ動いていた。彼は、
立派で実績のある若者たちの中にあって、自分はほとんど小さ過ぎることを承知していた。あまり静かにし
ているもので、デービスは自分がいることさえ気がついていないのではないかとさえ思った。
セントポール校の二年目のとき、ある子が鎖骨を折ってしまった。デービスは部員をリストの下まで見渡し
て、ウッドを第三ボートに入れた。その時以来、彼の人生はローイングを中心に回ることになった。彼は何を
やらせても不器用だったが、ローイングについてだけは、自分は強いという自信が持てる感じがした。それは
自分自身を主張する千載一遇のチャンスだった。他の誰よりも技術的には劣るにしても、ティフ・
ウッドは、洗
練された技術を欠く分、ただ固い決意と意志の力でそれを補うつもりだった。何かがうまくいかないときに
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は、本能的に彼は、とにかくもっと強く引け、と自らをさらに追い込むのだった。そのスタイルが彼のトレード
マークになった。リチャード・
デービスは、彼のような若者にはぴったりのコーチだった。デービスは、大学院生
として在学中に、ハーバードで一時コーチをしていたことがあるのだが、ハリー・
パーカーのやり方をまねた。
デービスは、技術よりも体作りと精神面を重視した。彼の教えは、体調を整えて、練習をしっかりやりさえ
すれば、勝てる、というものだった。「
体が悲鳴をあげるくらいまで漕がなければだめだ」と彼は学生たちに
指導した。それはティフ・ウッドにぴったりの教えだった。鍵は、天与のものではなく、選手自身の内にある。
午後、水上でのきつい練習のあとにデービスが一㎞半ほど離れた学校までランニングで帰ることを命じたとき
など、他の学生たちは、えーっとうめき声をあげたものだが、ティフ・
ウッドは喜びの表情を顔に浮かべて先
頭に立って走ったものだ。なぜなら、それこそが彼の領分であり、自分に課したルールだったからだ。
まもなく、彼には非常に強力な漕手という評判が立ち始めた。ときには、彼は、自分のローイングが大変
うまく行っているので、ボートを自分の力だけで進めているような感じがした。自分の限界ぎりぎりまで自分
を追い込めば、そして苦痛のレベルを我慢の限界を超えるほどに高めたなら、自分のボートを勝利に導くこ
とができるはずだ。そう信じて、彼はいっそう力をこめるのだった。彼の母親は、忠実に毎試合応援に駆けつ
けた。「
いつか、ヘ
ンレーでのレースにも応援に行くことになりそうね、ティフ」
と彼女は言った。
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翌年、彼がセントポール校に戻ったとき、新たな寄宿舎を割り当てられた。その初日にクラスに向かってい
るとき、彼は事情通の少年たちの憧れの対象になっている一人を見かけた。厚かましい連中だが、彼もそう
した仲間に加わりたいと願っていたのだ。彼らは何ごともいとも簡単にやってのけるし、過去の自分に比べて
千倍も社会的レベルが違っているように見える連中だ。その少年は、「
ハロー、ティフ」と声をかけてきた。ティ
フもその仲間として認められたのだ。それから何年も先の将来において、同年代の少年たちの誰よりもずっ
と長くローイングを続けることになるのは、一つには感謝の気持ちから、また一つにはローイングが自分に
とって死活的に重要なものだったことによる。もっとも傷つきやすいときに、ローイングは彼の人生に規範を
与え、自信をもたらしてくれたのだ。
彼の漕ぎ方はきれいなものではなかった。と言うよりは、荒っぽくて、すさまじいと言った方がよい。彼が言
うには、「
私は、何か突き動かされている感じがしているんです」 彼のニックネームは、彼のスタイルにふさわ
しく、ザ・
ハンマーである。これは、ちょっと馬鹿にしたような言い方で、技術が足りない分を馬鹿力で補おう
とするボート選手に対しての言葉だ。彼はまさしくハンマーであった。彼にはボートを進める特性に優れてい
るところがあり、(
なにしろ、彼が乗るボートは勝っていた)
プレップスクールや大学のコーチたちは彼のスタイ
ルをいじくり回さないようにした。とにかく、彼は、自分のパワーを発揮したくてうずうずして、技術のこと
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なんかかまっていられるか、というかのようだった。それというのも、技術を向上させるためには、少なくと
も初期の段階においてはだが、パワーを抑えていかなければならなかったからだ。彼がオールを水の中に打ち
込むときは、ものすごい勢いと力でやるものだから、彼の体の方にも物理的な衝撃が走った。オールが水に入
る瞬間をキャッチというが、彼のキャッチは荒っぽかった。彼は自分でもそれを承知しているが、そんな欠点さ
え許されていた。自分のボートが遅れをとっているとき、彼の反応はいつももう少し力をこめることだった。
「ティフはどこにいるの?」ボートのことをまったく知らない継母のジェーン・ウッドはハーバードが出場する
レースを見ていたときに叫んだ。「
どの子か、分からないわ」
ローイングを多少知っている彼女の友人の一人が
答えた。「
ほら、頭を振りながら漕いでいるあの子よ」
伝統的なスカラーの中には、彼の技術の拙劣さにあきれている者もいた。しかし、彼は、長い間、そんな評
判のことは気にしなかった。むしろ、フォームのことにとらわれ過ぎの連中を軽蔑していた。「
体操や、フィギュ
アスケートや、飛び込みならいざ知らず、ローイングじゃフォームなんて関係ない。僕は勝ちたいんです。ロー
イングをやるからには勝たなくては。勝てば、君のフォームは良いと、皆、言ってくれるでしょう」
と、かつて彼
は言った。彼は、技術は優れているクルーが、力強いけれど荒っぽいクルーに負けている事例をいくつも数え上
げて見せるのだった。彼が特に好んで話すのは、有名な(
そして勝者になった)
ワシントン大学クルーのことだっ
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た。そのクルーは、大変荒っぽい漕ぎをするのでボート界で「
よろよろ、ふらふら、がつがつ」
クルーとして知ら
れていた。彼は、また、パワーや持久力よりもスタイルがより重要であるとする伝統的な見方を批判する
オーストラリアのオアズマンであるスティーブ・
フェアバーンの言葉を好んで引用した。フェアバーンは言う。「
力
いっぱいオールを引け。体とかスライドなどは自然に何とかなるんだ。」ティフ・
ウッドは、こうした言葉に慰
めを見出していた。
94
第七章
彼はボート部のない大学に行くつもりはまったくなかった。できればハーバードに行きたかった。なぜなら
一九六〇年代と七〇年代において、ハーバードが大学ボートの重要拠点だったからだ。一年生のとき、彼の
体重は七十五㎏だったので、軽量級クルーを狙ってみた。しかし、彼はすぐに二つの理由で重量級に目標を切
り替えた。第一に、オアズマンとして人生において相当の犠牲を覚悟していたのだが、軽量級を維持するため
にいつも飢えたような状態になるのがいやだった。第二に、ローイングの世界では、重量級の方に本当の地位
と威信があったからだ。軽量級は、ほとんどの大会で、ただ前座的に行われていた。ハーバードにおける彼の
選手経歴は素晴らしいものであったが、名前が知れわたることはなかった。一九七二年に、彼は素晴らしい、
そして負け知らずのハーバード一年生クルーのメンバーとして漕ぎ、ヘンレーにも行き、そこでテームズカップ
を勝ち取った。彼がそれぞれ三年生と四年生であった一九七四年と一九七五年に、彼は国内では無敗を続
けたハーバード対校クルーのメンバーとして漕いだ。これらのクルーは本当に素晴らしく、威勢がよかった。
そのストローク手はアル・
シーリーだったが、彼の世間の注目を集める才能と自分自身の売り込み方はハー
95
バードの歴史においてほとんど類を見ないほどであった。ジャーナリストは彼について書きまくった。ボートを
やらない人たちでも彼の名前を知っていた。彼は、生まれつきの変人ではないにしても、見事に自分自身をそ
のように仕上げていった。ときどき、自室で小さい爆弾を爆発させてはルームメートを驚かせるのであった。
ハーバードが連戦連勝を重ねているとき、シーリーは、勝利の都度、自分の印しをそこに残し始めた。ハー
バードが仕掛けてイェールやペンシルバニア州立大学を抜くときに、彼は「
あばよー、イェールさん!」
とか「
さ
いなら、クエーカーたち!」
などと大声を上げるのだった。こうしたことは紳士のスポーツとしてのローイング
では前代未聞のことだった。ときどきは、あっさりと「
バイバイ、お前さんたち!」
ということもあった。他のク
ルーは、シーリーとハーバードを嫌った。対戦する都度負けるだけでもいやになるのに、彼らの威張った態度
がそれに輪をかけた。
ワシントン大学とのレースがハーバードクルーのエリート意識の最たるものだった。ハーバードの勝利のほとん
どは東部の大学を相手にしたものであったので、ワシントン大学の選手は、このレースこそ全米選手権という
思いで臨んだ。ところがハーバードにしてみれば、この遠征の途上ですでにウィスコンシンを相手にして、辛勝で
はあったが、勝っているので全米選手権はすでに頂いたつもりでいた。シアトルで行われたこのレースの前に、
シーリーはお得意の駆け引き上手を発揮して、シアトルの高層建築スペースニードルにヘ
リコプターで急襲して
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やるぞ、などと公言していた。ワシントン大学の選手たちは当然のことながらシーリーの態度にむかついた。
(
後年、シーリーが言ったことだが、「
彼らはきっと僕らのことを生意気で、上流育ちの、プレップスクールから
ハーバードに直行した野郎たちと思ったでしょうね。実際、それに違いないんですから」
) ワシントンも彼らの
やり方で報復した。タイミングが重要だった。ハーバードクルーが艇庫に到着する、ちょうどその時、ワシント
ンの選手たちは乗り出そうとするところだった。彼らは巨漢ぞろいで、おそらく全米で一番大きいクルーだっ
た。彼らは全員サングラスをかけ、頭は剃り上げてあり、上半身を裸にして体にオイルを塗っているところ
だった。彼らは、一人当たり七㎏は重いだろう。ただそれだけでなく、シーリーは思ったのだが、彼らは不気
味な恐ろしさを漂わせていた。とにかく、大柄で筋肉が盛り上がっている。「
あの筋肉の丸みは、まるで遺伝
的欠陥のようでしたよ。原始人みたいにね。それに比べて我々は、細くて、鼻持ちならない東部野郎というわ
けですね」ところが、ハーバードが二艇身差で勝った。レースも残り三分の一になったところでハーバードが引
き離しにかかりつつあったが、そこでシーリーが叫んだ。「
さいなら、ハスキーさん!」
ハリー・
パーカーは、シーリーのふざけた態度を何とも言えぬ思いで見守っていた。それは余計な生意気ぶ
りであるにしても、それだけの実力の裏打ちがあった。彼のクルーは、自分たちは素晴らしいように言われて
いるが、実際に素晴らしいのだからそれも当然、という態度で振舞っていた。彼らは、ローイング史において
97
「
無礼で、うまい」ハーバードクルーとして名を残すことになる。その名前は、初めの頃の勝利に際して、ある
長年のローイングファンが彼らのところにやってきて、大変スムースなレースぶりであったが、態度が無礼だった、
と言ったことに発している。彼らはその名前が気に入り、すぐに「
無礼で、うまい」
ハーバードで通用するよう
になった。彼らのやっていることには何か狂気じみたものがあった。しかし、それもそうだろう。シーリーは言
う。「
肉体的狂気ですね。私たちはどうということもないことに毎日あれほどの情熱を注ぎ込んでいるわけ
ですから、これは狂気の一形態ですね。それはもう文化的な狂気を来たしますね。私たちは文化的に気狂
いですよ」
シーリーは第二次大戦マニアだったので、皆、戦争当時のヘルメットをかぶって練習した。シーリーは
パットン将軍がお気に入りだったので、ボートもジョージ・S・パットンと名付けられた。レース前には、シー
リーは、パットンの戦争当時のもっとも有名な演説からその一節を引用するのを好んだ。それは、あひるを蹴
散らすようにドイツ野郎どもを叩きのめす、という下りで、東ドイツクルーと同じ艇庫の中でそれをやるこ
とに特別の喜びを見出していた。ハーバードクルーは、いつしかある儀式をやり始めた。イェールとの対校戦の
前に、カロリーを使い果たす練習で夜には腹ペコになっていることと、一刻も早く合宿から逃れたい思いが重
なって、彼らはドーナッツ走と言い習わされているものをやった。彼らはハンバーガーチェーンのジャック・
イン・
ザ・
ボックスの店まで車で行き、ティフ・
ウッドが、客が注文するときに使うマイクに向かって言うのだった。「
ハ
98
ムを五つ」
そうするとスピーカーを通じて、ハムは扱っていませんが、という答えが店の男から返ってくる。「
あ
るだろう。ほらハムが五つだ」
とウッドが言うと、皆で尻をまくって見せてやるのだった。
皆、粒ぞろいの選手たちだった。その内の四人、全員ストロークサイドだが、は全米代表に選抜され、さら
にその内の二人、ウッドとグレッグ・
ストーンはスカルで全米選手権者となった。彼らは単に勝っただけでなく、
大差で勝った。彼らはそうした勝利を「
水平線の彼方」
と呼び始めた。それほど二番手のクルーを引き離して
いたということだ。彼らの間に緊張がなかったということではない。自分がこうしたクルーのストロークをやっ
て当然だったというティフ・
ウッドの信念はその内の小さいものではあったが、シーリーとの友情の大きな妨げ
になった。グレッグ・
ストーンは、いつも第一ボートで漕いでいたというわけではない。これが彼にとってはいらい
らさせられる種ではあった。しかし、ストーンはあまり口を出し過ぎるという者たちもいた。日々の練習でも
競争心が現れ、互いに相手を負かそうとするのだった。スタジアム走(
ツール・
ド・
スタッドと呼び習わされてい
る、ハリー・
パーカーのオフシーズンスペシャルの一つで、ハーバードスタジアムの三十七セクションを上ったり、下
りたりしながら走り回る)
では、毎回計時され、記録が掲示された。グラトンズはこのツアーは2回やったが、
2回が義務と言うわけではなかった。二十五分以内に走りきれば立派なものとされていた。ツール・ド・ス
タッドよりもきついのがダッシュで、これはリレー形式でスタジアムの一番下から上まで上り下りして、それを
99
五回繰り返す。エルゴメーターでも競争だった。六番手のディック・
キャッシンが六分間で三千八百点のスコアで
もっとも強く、他の者たちは三千六百点前後だった。ウエイトトレーニングルームでも競争だったが、ウエイト
で特に強い者はいなかった。ウエイトをやると筋肉が固くなると彼らは思っており、彼らが求めるものは固さ
ではなく柔軟性だった。
内部でそれほど激しい競争をする理由の一つは、艇上に自分のシートを確保するのが厳しいことによる。
二軍、あるいは三軍のボートでさえも激しく打ち込んでいる選手たちがいっぱいいた。いわば、仲間内で追い
上げを図っているようなもので、選手たち自身がハリー・
パーカーの分身になっているようなものだった。その
激しさはシートレースによく現れていた。シートレースというのは、誰がボートの本当の推進力になっているか
を見極めようとするための原始的な方法だった。それは、まことに単純ながら、情け容赦のないものだった。
二人の選手を二隻のエイトで競わせるものだ。全力を出し切るレースが終わると、その二人はボートを入れ
替える。こういうやり方を数週間もしていると次第にどちらがいつも勝つか、負けるか、コーチの目には明ら
かになり、その成績にもとづいて艇のメンバー編成を行うのだ。ティフ・
ウッドは猛烈なシートレーサーだった。
彼よりもずっと大柄なキャッシンは「彼はまったくすごかったですね」と記憶を蘇らせている。「彼は、シート
レースで負けたことがないと思いますよ。私は体が大きくて力もある方でしたし、エルゴの成績も良い方でし
100
た。大学二年生が全米代表に選ばれることは珍しいのですが、私は二年生のときに選抜されました。ですが、
シートレースではいつもティフには負かされました。二年生で全米代表チームから戻ってきたときに、ウッド
が頑張っているもので自分のシートをなかなか確保できませんでした。一度だけ、シートレースで彼と同着に
入ったことがあります。一九七五年四月十七日のことでした。その日は私の誕生日でしたから、よく覚えてい
るんです。だけど、彼を負かしたことは一度もありませんね」
ハリー・
パーカーはシーリーにシートレースをあまりやらせようとしなかった。シーリーは、技術的に優れ
ており、器用で、人を引きつけるところがある、最高のストローク手だった。彼の強みは、その威勢の良さだっ
た。彼が皆の中でも抜群の選手であると彼自身でも思っていることが、彼の意欲維持にきわめて重要なこと
だった。部内のボート上の競争で他の者に負けてしまってはうまくない。ある年、カリフォルニア大学のコーチ
は言ったものだ。「
シーリーとキャッシンがいる間は、我々はハーバードに勝てないでしょう」
この言葉は、他の者
たち、特にティフ・
ウッドの心を傷つけた。グレッグ・
ストーンは、彼とウッドの二人が共にスカル種目に転向し
たのは、彼らもクルーのメンバーとしてシーリーやキャッシンに劣らず勝利に貢献したことを証明しようとい
うのが主な理由だったと確信している。さらに、彼らの証明の対象は、ストーン自身の言葉によれば、「シー
リーとキャッシン、ハリー・
パーカー、それに私たちの両親に向けられていました。私の父親もボートをやる人
101
でしたが、父もシーリーとキャッシンのレースを見に来たものです。父も人気にとり憑かれていたんですね。
まったく、参りましたよ。五年後になっても、私たちは全米選手権者のスカラーとして頑張っていましたよ。私
たちも彼らに劣らないエイトのメンバーであったことを証明するためにね」
プレップスクール当時のウッドには何かワイルドなものがあった。彼は、主に大麻だったが、麻薬もやった。サ
イケデリックなことにも手を出してみた。彼が付き合う相手は、体育会系よりも、トレンディーな連中だった。
ハーバードでもローイングを熱心にやったが、やはりワイルドだった。他のボート部員たちは一緒の下宿に入
ることが多かったが、ウッドはだいたいがボート以外のグループとの下宿を選んだ。長髪で、麻薬をやり、趣
味関心も異なる連中だ。麻薬はまもなく彼の生活からその影が消え、次第にローイングにいっそう傾倒する
ようになった。当時を振り返って、彼は、麻薬をやったのは、あまり深入りせずに反抗心を示すもので、時代
の流れに影響されただけだと思っている。彼は非常に頭のよい学生であったが、二回、仮及第対象に置かれ、
成績不良のために、一シーズンの間、ローイングを禁止されたことがある。彼が仮及第の処分を受けたのは、
ある科目の授業に一回も出席しなかったからだ。長い革のトレンチコートを着て、サングラスをかけている彼の
格好が、彼に一九七〇年代半ばにおける一九六〇年代の学生の名残の烙印を押すものとなった。彼は、統
合失調症的な自分のイメージを好んだ。ハーバード学外のほとんどの人にとって、そのボート部といえばス
102
ポーツの中でもっとも体制のインサイダー、エリートとして映るであろうが、それならば彼はインサイダーで
もあり、同時にアウトサイダーでもあった。
彼の漕ぎ方の凄まじさは、運動競技上のことではあるが暴力的とも言えるものだった。他の選手たちの間
の彼の評判は、彼はパワフルな漕手であるが安定していないというものであった。彼の友人たちでさえ感じるこ
とだが、ときどき彼はすべてを自分で背負い、自分一人だけでボートを動かすつもりで頑張ろうとするから、
それが逆効果になっている。一年生のとき、ヘンレーでの一次予選のことだった。予選なので、その後のレースの
ことも考えなければならない。選手たちは四分の三艇身ほどリードしたら、その差を保持して行けと指示
されていた。ところが、レースの中ほどで、全力を出せないでいらいらしたウッドがチームメートに向かって怒
鳴りつけていた。「レッツ・ゴー!レッツ・ゴー!レッツ・ゴー!」彼がこうして怒鳴っているとき、岸沿いにハー
バードの新人担当コーチのテッド・
ウォッシュバーンが自転車で追いかけていたのだが、彼の怒鳴り声がはっきり
聞こえた。ウォッシュバーンはウッドに叫び返した。「
自信をもって行け、ティフ!自信だ!」
ボート上の自己主張は激しかった。シーリーとキャッシンはときどきどちらが優れているか口論したものだ
が、そんな口論も互いに相手を必要としていることを認め合って終わるのだった。ウッドは、ほとんど暴力的
な漕ぎで自分のエゴを表していた。三年生の終わりに行われるキャプテンの選挙ほどエゴのぶつかり合いがはっ
103
きり現れるものはない。四人の有力候補がいた。シーリー、キャッシン、ウッド、それにストーンだ。これらの有
力候補自身は、誰一人、相手候補に投票することは考えられない。おそらく、皆、自分に投票したはずだ。
二軍ボートの誰一人、この四人に投票することもない。妥協の産物の候補として、比較的おとなしい二番手
のブレア・
ブルックスということになった。
こんな騒ぎや内部の緊張関係にもかかわらず、クルーの一員であることはとても素晴らしいことだと、
シーリーは思った。良いクルーを作り上げるということは、八百㎏ほどの生身の身体と野心とエゴを八十㎏ほ
どの重量しかない薄い殻の中に詰め込み、そしてそれをうまく機能させるということだ。だが、シーリーは
思うところでは、偉大なクルーの場合、何か輝かしいものがあった。すべての人はその人生においてシンメト
リーと目的、つまり何か自分を高めてくれて良い気持ちにさせてくれるものを捜し求めている、とシーリー
は信じている。それぞれきつい練習に耐えて、多くの犠牲を払ってきた八人のオアズマンが集い、そこに何か不
思議な魅力あるものを見出す。そして、レースの都度、それを味わっては、お互いを刺激し合い、高め合ってい
る。こうしたフィーリングは、ただ単に自信をつけさせてくれるだけでなく、必要なメンバーが過不足なくそ
ろった仲間としての意識を持たせてくれた。そして、自分たちが成し遂げていることはアマチュアリズムの粋で
あると認識していることによってそうしたフィーリングは増幅されていた。彼らは、そうしたいからそれを
104
やっているのであって、そんなフィーリング以外に何の見返りも求めようとはしないのだ。
こんな偉大なハーバードのクルーで、そしてその後のあちこちの国際レガッタでフォアやエイトを漕いだ後、
ウッドはスカルに転向した。こうした動きは、ある意味では必然のことであった。全米選手権者としてのスカ
ラーは、アメリカ最高のボート選手として認められるだけでなく、現実的なレベルに話を戻してみると、選手
が次第に年を重ねて、より重い責任を負うようになってくると、スカル選手である方が何かと都合が良いの
だ。野球よりテニスの方が調整がつき易いというのと同じことだ。スカル選手なら、勤務先の予定に合わせて
自分の練習計画を調整して、どんな時間帯であれ、好きなときに練習できる。団体競技のメンバーになると、
メンバーがそろわないと練習できない。
一九七六年に、ウッドの友人のグレッグ・
ストーンがモントリオールオリンピックに観光客として行った後、ス
トーンはウッド(
このオリンピックチームにスイープの補欠選手として入っていた)
にダブルスカルを一緒にやら
ないかと持ちかけた。ストーンは、それまでに、対校クルーの四年生メンバーとして週に一度、ロースクールに
入ってからはもっと頻繁にという具合に、スカルをかなり漕ぎこんでいた。ウッドにとっては、スカルは新たな経
験であった。一九七六年の秋、たった三回だけ二人で練習しただけで大きなイベントであるザ・ヘッド・オブ・
ザ・
チャールズに出場した。そこで過去に何回か優勝しているジム・
ディーツとラリー・
クレカツキーの組など
105
をおさえて第二位に入り、自分たちでも驚いた。翌年、一九七七年に、二人はヘンレーに遠征し、一九七六
年のオリンピックで第二位だったイギリスのダブルスカルに次いで第二位に入った。
一九七七年には全米ダブル選抜レースに挑戦するはずだったが、ウッドが病気になり、出場を取消しせざ
るを得なかった。替わって、二人とも、その二週間後のシングルの選抜レースに出場することにした。ストーン
は大変調子が良いと考えていた。予選では彼はジム・ディーツと対戦することになった。ディーツは、一九七
二年のミュンヘンオリンピックでシングルスカル第五位、一九七六年のモントリオール大会では第七位だったが、
アメリカのスカル界に長年君臨してきた選手生命もその終わりに近づいていた。ディーツはスタートの飛び出
しよく、勝った。しかし、レースの後、ストーンがウッドに語ったのだが、自分は勝てるとは思ったが、決勝のこ
とを考えて力を残しておいたというのだ。ウッドもその選抜大会に出場したが、予選通過はならなかった。漕
ぎがますます良くなりつつあったストーンは、翌日、ディーツを破りチャンピオンになった。この勝利はスカル
界の皆を驚かせたかもしれないが、ストーン自身にとっては予想通りものだった。だが、この勝利はストーンと
ウッドでダブルをやろうという目論見に影響を与えることになった。ストーンは、今や、シングルスカルのチャ
ンピオンであり、一九七八年にストーンとウッドの組が全米チャンピオンになった後でも、シングルが彼の優先
種目になった。一年後、国際大会では不振だったストーンは再びダブルに集中して取り組むつもりであったが、
106
艇速は思ったほど伸びなかった。
クリス・
アルソップとダブルを組んだウッドは、一九七八年の世界選手権で第五位に入った。ウッドは、自分
が向上し、より実績を積んだスカラーになりつつあることに自信を深めていた。スイープからスカルに転向す
る道筋もゆっくりとだが、着実に目論見通りに進んでいた。一九七九年に、彼はシーリー、アルソップ、それ
にジョン・
バン・
ブロムたちと四人漕ぎスカルを組んだが、これが良く走った。まさに、合計は、単に部分を合わ
せたよりも大きいことを見せてくれた。彼らは、比較的に若いスカル選手で、オリンピックを目前に控えてい
たこともあり、一九八〇年には四人漕ぎスカルで良い結果を出せそうだと期待をふくらませていた。一九七
九年の秋、ウッドはチャールズ川のヘッドレースにおいてシングルで優勝した。この結果、彼は最優秀のスカル選
手と目されるようになった。同じ頃、彼の友人であり、チームメートであり、ボートメートであったストーン
は、競技から身を引きつつあった。ストーンと同じ家に下宿していたシーリーは、ウッドとの違いについて、ス
トーンは自分の限界に達したことで、他の道を進みたいのだろうと思った。だが、ウッドの限界となるとまだ
見極めがついていなかった。そこで彼は、当時、異常な厳しさでトレーニングに励み、容赦なく自らを追い込ん
でいた。
オリンピックがボイコットにあい、四人漕ぎスカルの希望が絶たれたとき、シーリーと彼の友人の数名は
107
チームを離れて、もっと普通の生活に戻るべく調整を始めた。(こう した経緯の中で、シー リー はオックス
フォードで二年間を過ごし、アメリカンフットボールのクリーブランドブランウンズのワイドレシーバーとして
挑戦してみたがうまく行かなかった。)
だが、ウッドは、自らの新境地に向かって突き進んでいた。すべてがう
まく噛みあって、スカラーとしての彼の地位を確固としたものにしていた。ディーツとストーンの後を継いで、
彼の順番が来たのだ。そして、一九八〇年に、ようやく彼の時代が到来したようにみえた。ところが、一九
八一年の秋に、ジョン・
ビグローがチャールズ川に現れた。
108
第八章
ティフ・
ウッドは、もちろん、ビグローの評判は聞いていた。卒業年次で言うと、ウッドはハーバードの一九七
五年卒だが、ビグローはイェールの一九八〇年卒だった。だが、選手同士は互いのことを知っているものであり、
ウッドは、ビグローが素晴らしいとの定評があり、一九七九年のハーバードとの対校レースでは有力視されて
いたイェールクルーのストロークを勤めた非凡なオアズマンであることは知っていた。(
レースではハーバードが四
秒差で勝った。)
レースを見守っていた人たちの多くは、その中にハリー・
パーカーも含むが、両校の対校戦の歴
史上、おそらく最高のレースだったと目していた。六㎞半にもおよぶレース距離を考えれば四秒差というのは
微々たるもので、あの日のビグローの驚異的な粘りのことを、皆、知っていた。何回となくハーバードは仕掛け
てイェールを抜くかに見えたが、ビグローは一歩も譲らずイェールを盛り返させた。
ティフ・
ウッドは、ビグローはすごいらしいということは承知していたが、彼のことをそれほど真剣に考えて
いなかった。何と言っても、ビグローにとってはシングルスカル選手として最初の年であったから、本当に彼が脅
威になるにはしばらく修行を積まなければならないと思われて当然だった。それに、ウッドはビグローにすで
109
に一回勝っていた。一九七九年に、二人とも全米代表チームに入っていた。エイトのストローク手を勤めるはず
だったビグローが、病気で漕げなくなってしまった。ビグローはそんな事態へ
の対処がうまくない。ビグローにつ
いてのウッドの印象は、灰色の顔色をして、今にも泣き出しそうな情けない若者だった。そのときのレガッタの
後でティフ・
ウッドに一つ確信が持てることがあったとすれば、それは彼が全米代表チームメンバーとして再
びビグローに会うことは決してないだろう、ということだった。
一九八一年の春、チャールズ川でウッドに勝てる者は、ストーンを含み、誰もおらず、彼は女子の四人漕ぎ
スカルとほとんど並んで漕いでいた。彼は二十八歳になり、以前の彼よりも強くなっていた。彼自身、自分の
力の向上を文字通り感じとっていた。レース終盤になると盛りもりと力が湧きあがって来るのだ。以前より
さらに自分を律するのに厳しく、ローイングが楽しくてたまらなかった。ビグローが現れたとき、当時彼はま
だ二十三歳だったが、ウッドは、彼が快活で控えめな青年だなと思った。そして、二人は一緒に練習で一緒に
漕ぐようになった。ある日、二人は二分間漕を区切りとして、その繰り返しの練習をした。区切りというの
は練習の一部分で、練習では普通その区切りを繰り返して行う。ビグローはウッドほど優れた選手ではない
と思われていたので、ビグローが少し先に出るようにした。最初の四回はウッドがビグローを追い抜いた。しか
し、五回目、六回目になると、ウッドは突然ビグローに追いついていけないことに気がついた。最後の二分間漕
110
になって、ビグローもその状況に気がついた。お互いに何も言わないうちに、彼らは並んでスタートするように
なった。
その夜、ウッドは漕ぎ戻ると艇庫に座り込み、考えた。「奴はできる。本当に素晴らしい」後になってビグ
ローが艇庫に入ってきたとき、ウッドは彼に、素晴らしい漕ぎをしていたね、と言った。「
今日は、いくつかの区
切りでは君に負けていたよ」
と彼はぽつりと言った。明らかに、挑戦者が現れたのだ。
二日後、二人はまた一緒に練習し、今度は千五百㍍漕の繰り返しをやった。ビグローが三回ともすべて
勝った。ウッドにとってもっと不気味だったのは、その日、シーリーとストーンのダブルが出ていた。このダブル
はチャンピオン組というわけではないが、何と言ってもダブルであり、しかも二人の実績ある選手が乗っている。
その日の練習漕の一つにこのダブルが二人のシングルに付き合ってくれた。ダブルはシングルを先に行かせて、
それから次第に追いついて来た。残り五百㍍になってビグローはギヤを入れ替えて全力で漕ぎ、最後までダブ
ルに抜かせなかった。これを見ていたウッドは、これは大変なことになったぞと思った。しかし、確かにビグロー
は優秀な選手だが、まだ経験が浅く、本格的レースはやったことがない奴だ、と自分に言い聞かせて慰めとし
た。レースは練習とは違う。練習では素晴らしいと見えた選手が、レースになるとそれほどではなかったとい
う例はいくつもある。ウッドは、自分の強みはレースにこそあることを誇りにしていた。ウッドは、ビグローの
111
出鼻をくじいてやろうと心に決めた。
数週間後、二人はハノーバーで開催されたニューイングランド地区選手権大会で対戦した。予選では、一位
でなくても予選通過できるので、フィニッシュではお互いに流したままゴールしたが、ビグローが前に出ていた。
ビグローがウッドに声をかけた。「まあ、楽だったね」この言葉はウッドをいらつかせた。ウッドは、それまでビ
グローに先行させておいたが、フィニッシュでは強く追い込みを図ったのだった。決勝には三艇が進出した。
ジョー・
ブースカレンが第三レーンで漕ぐことになった。三人がシングルで争うのはこれが初めてだったが、この
三つ巴戦はその後何回となく繰り返されることになる。ウッドは、三十八という極めて高いレートで強く漕
ぎ、スタートから素早く飛び出した。彼は最初の五百㍍はそのペースを保ったが、それでもビグローはずっと
四分の三艇身差でついて来ていた。次の五百㍍になるとビグローはウッドを抜きそうになった。しかし、ウッド
は頑張った。あれだけの力漕でほんの少しのリードしか奪えなかったことで精神的に落ち込み易い局面だった
が、ここで気持ちで負けてなるものかと彼は決意していた。残り五百㍍になって両艇ほとんど並んでいたが、
ウッドがスパートをかけた。ビグローもこれに応戦した。両艇は五百㍍の間ずっと譲ることなく、一本漕ぐた
びに相手より少し前に出る並漕状態が続いた。両艇ともレートは上げずに、ただ一本毎に強く引くように
していた。まったく完璧なレースとも言えるものであり、ウッドもビグローも催眠的に魅了されていた。両者
112
とも譲るわけにはいかないので、これは極限状態のレースだ。ビグローの両腕、両脚の痛みは猛烈なもので、彼
はウッドがぐっと前に出てくれるか、それとも後ろに下がって、この苦痛から解放してくれないかと願った。
レースでは、普通なら、あまりの苦痛のためにレーサーの一方は身体的あるいは精神的に、そのどちらでも
構わないのだが、崩れてしまう瞬間が来る。その崩れは大きくなくてよい。一方の選手が全力をこめて前に
出ようとすることで、相手が参るか、それとも自分自身で崩れてしまうことになる。だが、ここでは両者と
もくじけようとしない。レースの三分の一の距離にわたって一本毎に丁々発止の戦いを繰り広げた。ビグロー
は、こんな状態でレースを続けるには次の一本のこと、ただそれだけを考えるしかないと思っていた。そうでな
ければとても持ちそうにない。彼らはデッドヒートの状態でフィニッシュラインを通過したが、フィニッシュライ
ンがやや斜めになっているのでビグローが有利に見えた。ブースカレンはずっと遅れていた。「
いいレースだったね、
ジョン」
とウッドは好敵手に向かって言った。いいレースどころか、完璧なレースだった、と彼は思った。
ウッドにとって、この経験は気分爽快なものだった。おそらく、彼自身ほぼ完璧なレースをしたはずだ。彼
はこれ以上ない漕ぎをしたのに追い抜くことができない相手を見つけたのだ。他の相手だったら途中で崩れて
いただろう。彼は素晴らしい、まったく素晴らしい、とウッドは思った。その日、後になってからウッドは自分の
中に複雑な気持ちがあることに気がついた。ある部分では負けて残念という気持ちがあり、またある部分で
113
はこんなに完璧なレースの主役の一人でいられたことに大いに浮立つものがあった。ビグローはもうあと一、
二年待つ必要などない、と彼は実感した。
しかし、ウッドはまだビグローを破る自信を持っていた。だが、彼と一緒に練習することは注意してやめた。
自分は経験十分なのに対してビグローは経験が浅いので、一緒に練習することはビグローの自信を深めさせ
るだけだとウッドは思った。ティフ・
ウッドとしてはビグローに自信をつけさせてやる必要などまったくなかっ
た。ハノーバーでのあのレースだけでも多大な貢献をしてやったというものだ。
ビグローの方では、もちろん、勝って大変うれしかったし、スカラーとしてこんなにあっさり成功したことで
自分自身驚きもした。シングルスカルはこんなものではないとされていたのだ。初戦で全米トップのスカラーを
破るなど、まったく予想外のことだった。ローイングでは、スタートから優勝ではなく、次第に力をつけていく
のが正しい道筋のはずなのだ。その年の遅くに行われたトライアルでビグローとウッドは予選で同じ組にあ
たった。一位は決勝進出、その他は敗者復活戦にまわる。この予選では残り五百㍍というところでウッドはビ
グローに半艇身遅れていた。だが、そこでビグローのオールがブイを打った。ウッドにはそのオールの打音に次
いで、ビグローが腹きりして上げたうめき声が聞こえた。そこでウッドはただちにパワー全開にしてすぐに一
艇身のリードを奪い、そのまま予選レースを勝った。これでウッドは直接決勝に進出し、ビグローは敗者復活
114
戦にまわった。予選は午前、敗者復活戦はその日の午後、決勝は翌日の午前に行われた。決勝では、ウッドは、
両脚に前日のレースの疲労が残っているのを感じたので、出だしのレートを抑えて行った。遠くでハリー・パー
カーがもっとレートを上げろと叫んでいるのが聞こえた。ブースカレンが序盤でリードを奪ったが、ビグローが
彼とウッドを抜き去った。ティフ・
ウッドが教えられたのは、ビグローは特別な奴で、その持久力は並外れてお
り、大会中でも一レース毎に強くなっている事実だった。
その大会に引き続く一ヶ月の間に、彼らは単に競争相手ということだけではなく、友人どうしにもなった。
二人は練習でも並べて漕ぐのを楽しむようになった。その喜びは特別なものだった。ビグローのようにウッド
を追い上げる者はおらず、ウッドのようにビグローを追い上げる者もいなかった。陸に上がると、二人はまっ
たくそれらしくない友人どうしになった。ローイングというスポーツを通して、そしてこうした春の日にもっと
も好きなことは競争相手と並べて漕ぐことというような絆で結ばれた二人は、ますます互いに親近感を持
つようになった。この頃の時期は、二人にとってそれまでに水上で経験したことのないような有意義な時期に
なった。長めの距離ではビグローが勝つことが多かったが、二人は驚くほど互角だった。二人は、どちらも、日
一日、自分が向上しているのを感じていた。ウッドは、二人が共に非常に速いと分かっており、その年の夏、ビ
グローがヨーロッパに遠征したときには国際大会できっと素晴らしい成績をあげることについては疑いを持た
115
なかった。競争相手として、そして一人の人間として、ウッドのビグローに対する賞賛の思いはますます強く
なった。ウッドは、ビグローはオアズマンとしての完全な品性を備えていると思った。ウッドは、一本毎に全力を
こめ、決して力を抜くことはなかった。ビグローは、自分より年上で、より成熟した、そしてより確固とした
ウッドに守られていると感じていたが、そのウッドが今やすべてをさらけ出して見せてくれている。それは、素
晴らしいボート選手の兄を持っているようなものだった。
116
第九章
その年の春、彼らの練習はハリー・
パーカーの監督のもとに行われた。いろいろな立場で彼の指導のもとで
十三年間も漕いでいたウッドにとっては、パーカーは尋常ならぬ権威を体現する人物だった。この世で至極当
然であったのは、ニューウェルボートハウスに行き、三時間あるいは四時間と練習しては、簡潔にして的を射た
批評で珍重される言葉をハリーの口から聞くことだった。ビグローとブースカレンにとっては、彼はとにかく勝
利をもたらすことにおいて神秘のベールに包まれていた。彼らがイェールの学生の頃は、イェールの方がおそら
く優れていたクルーのはずなのに、なぜかハーバードがいつも勝っていた。ビグローは、パーカーがその極意を伝
授してくれたなら成功は疑いなし、とでもいうような調子でパーカーに接した。
だが、そんな神話は別にしても、パーカーは周りを圧するパーソナリティを持っていた。三人がオリンピック
選手選考会に向けて準備しているとき、彼らの念頭にあるものは、何よりも、いつもパーカーのことだった。
彼らは、彼がどんな機嫌でいるとか、彼の視線は誰に向けられているとか、(どんなに小さなものであれ)彼
がどんな兆候を見せているかとか、などについて、四六時中、パーカーの話をしていた。
117
これが他のスポーツだったら、コーチが感じていることはたいした意味を持たないかもしれない。しかし、す
べてのものが微妙なものであり、外目にはいずれ劣らずパワーにあふれたように見える選手間の違いを計量
化することが難しいローイングにおいては、一層のことコーチの見解に命運がかかることになる。他のスポーツ
では、コーチが偉大なチームを率いているときには、チームの中のスター選手もコーチ同様な賞賛を受ける。
人があの偉大なジョン・
ウッデンが率いたバスケットボールチームを思い起こすとき、彼らはウッデンだけでは
なく、選手のジャバーやウォルトンのことも思い起こすであろうし、アメリカンフットボールのベア・
ブライアン
トなら彼の素晴らしいクォーターバックだったジョー・ナマスやケン・
ステイブラーなどが合わせて頭に浮かぶ
はずだ。だが、ローイングでは、偉大なクルーの栄光も八人で分け合うことになるから、一頭地を抜いた人物
となるとコーチということになる。それが来る年も来る年も勝ち続けているコーチならなおさらのことだ。
言わず語らずのうちに、若い選手が偉大なオアズマンに成長したとすると、その陰にはハリー・
パーカーがい
たからだ、ということにされてしまう。
他のスポーツなら、偉大な選手にはいくつもの権威、権限が存在する。まず、学生当時のコーチがおり、そ
れからプロになってからのコーチ、さらには代理人の存在もある。また、メディアもある。メディアというのは、
コーチよりも選手の方に光を当てて、彼らを必然的に自由な立場においてコーチから独立した存在にするこ
118
とができる。これらは何一つローイングに当てはまらない。アメリカ、そしてその中のスポーツというものにお
いて、あらゆる階層における権限というのが割れて、新たな権限というものが勃興するのが普通であったと
しても、ローイングではそうはならない。権限は固定化されて、五十年前と変わるところがないということに
なってもおかしくない。ハリー・
パーカーはただ単にハーバードクルーのコーチというだけでなく、たびたび全米
チームのコーチもしていたので、実質的に彼は学校のコーチであると同時に、プロ選手のコーチの役割も兼ねて
いた。その彼が、今は、オリンピックスカルチームのコーチなのだ。
彼は神話に満ちた男だった。彼の決定は、選に洩れたオアズマンにとっていかに恣意的なものに見えようと、
最終的な断であり、それに異をとなえる者はアウトサイダーの立場に追いやられる。二十年間というもの、
彼ほど一つの競技種目を支配してきた者はいない。ある年に、ハーバードがノースイースタン大学とのレースに
遅れて来たことがある。いらいらしたノースイースタンのコーチが、パーカーはどこにいるのかと尋ねた。彼は、
今、歩いてやって来るところですよ、途中、あちこちの艇庫に寄って来ているので、ちょっと遅れています、とい
う返事だった。
彼の性質には近寄りがたいものがあった。親しまれることは権威を損なうものであるのに対して、近寄り
がたい存在は逆にそれを増大させた。彼の下で漕いでいたオアズマンが言うには、彼の周りにはプライバシーの
119
ベールがかかっており、それを軽々に取り外そうなどとしてはいけないのだ。彼には「
ミスター・
チップス」
の雰
囲気はまったくない。彼は、自分が教えていたオアズマンたちが卒業した後においても気安い友人関係になる
ことはない。とは言え、彼らに対する彼の誇りは非常なるものがある。彼は、彼らの人生において自分が中心
的存在(
ただ一人の中心人物と言ってよいだろう)
になっていることは承知している。それだからと言って、近
しい関係になるということではないのだ。一九七〇年代の半ばになってようやくそのポリシーを緩めはしたも
のの、長い間、教え子だったオアズマンの結婚式にさえ出席しようとはしなかった。ハリーが結婚式に来てくれ
ることが夫になる人にとってそれは大変な意味を持つことなのだと聞いていた花嫁は、あふれるばかりに彼
に感謝の言葉を述べたものだ。これにはパーカーも一瞬驚いた様子だったが、「
いや、この週末こちらに来る予
定にしていたんですよ」
と彼は言った。
彼はレース前に感情をこめた話をするようなことはしないし、ハーバードの栄光を高めようとか、イェール
を叩かなければならないなどとクルーに対して力説するようなこともない。彼が育てたオリンピッククルーの
うちの一つのクルーメンバーが記憶しているのは、決勝レース前に彼がやって来て、「さて、今日は優秀なク
ルーをたくさん相手にしなければならないな。勝とうと思うなら、頑張らないと駄目だぞ」
とだけ言ったこ
とだ。彼のクルーは、ハリーの親父さんに勝利をプレゼントしようと、元気もりもりの態度で水上に出るよう
120
なことはない。むしろ、彼らは自分たちがハリーのおめがねにかなうできが示せるかを心配していた。彼の偉
大なところは、教え子たちに自分の内にこそ力の源を見出せと叩き込んだことだ。若い教え子たちが耐え忍
んできたとてつもない犠牲と困苦について彼が何も感じていないというわけではない。ただ、簡単にそれを表
に現さないというだけだ。ハーバード大学艇友会の年次夕食会というのがあって、これは母校ボート部のため
の資金集めのイベントだが、彼がいつも主役のスピーカーを勤めていた。そこで彼は前年の結果報告について話
をしている最中によく涙をこぼしたものだ。
彼は、ごまかしや嘘がないか、常に自分は警戒しているぞ、とでもいう風に、身の回りに本気の警戒心を漂
わせている。彼の目は絶えず周りにいる人間に向けられ、彼らが何を欲しているのか、どんな犠牲を払うつ
もりでいるのか、外見ほどに中身もタフか、などを推し量っていた。彼の顔は、日焼けした険しい表情をしてい
た。彼を見守っていた新聞記者は、記者のくせとして観察対象の人物を推し量っていたのだが、パーカーはど
ちらかというと軍の偉大な大隊長と言う方がふさわしいと思った。パーカーは、飽くことのない競争心の持
ち主で、アメリカのローイング界のありようを独力で塗り替えてしまった。彼が登場するまでは、ローイングは
毎年三月から六月まで練習するものだった。彼が来てからは、ハーバードクルーは一年を通して練習するよ
うになった。そして、ハーバードがボートの覇者となってからは、他の学校も年間を通してやるようになった。
121
彼の強烈な個性を前にして異を唱えるものはいなかった。ハリーが口を開けば、その通りになった。ハーバード
の外では、特にローイングの一大拠点であるフィラデルフィアの近辺など、彼の敵も多かったかもしれない。彼
に負けたクルーのコーチたちや、彼が指導する全米代表チームの選に洩れた選手の間にはアンチ・
パーカーの
気分があったであろう。だが、ハーバードでは、彼は自分の思い通りに振舞っていた。
彼のクルーは自分自身を駆り立てていたが、それは彼らが優れていたからであり、また自分たち自身もそ
の優秀性を認識してからであるが、ハリー・
パーカーが彼らを駆り立てていたからでもある。選手たちはパー
カーの分身であり、その強烈な勝利へ
の意欲を体現するものだった。彼が言うことも大事だったが、言われな
かったことはさらに大事だった。彼はただ選手たちをコーチしているだけではなく、選手たちと競っていたのだ。
ローイングというスポーツが、人間の限界は奈辺にあるかを見出そうとするものであると考えれば、ハリーは
自分自身をその限界の決定者の役に任じていたとも言える。彼もスタジアム走を選手たちと一緒にやり、隙
さえあれば彼らの前に出ようとしていた。ビルとフリッツのホッブス兄弟がペア艇で漕ぎ出し、ハリーもシング
ルスカルを出して並べるようなときなど、それは、最早、単なる練習ではなく、ハリーを相手にしたレースにな
ることは疑いがなかった。ハリーはそれに負けるつもりなどはなく、実際、負けたことはなかった。イェールと
の四マイル対校レースに備えてハーバードクルーがニューロンドンに出かけたときには、他にすることもないので
122
彼らはクロケットをやった。こんなクロケットの試合でも、パーカーは、シーリーの言によると、「
とんでもない
ごまかし屋で、ずるばっかりするし、しょっちゅうルールを変更して自分有利に持って行くんですよ」
一九七
〇年代の末、パーカーのもとで助監督役をやっていたピーター・
レイモンドという若い男がトレーニングをしよ
うとスタジアムに出かけようとすると、パーカーが自分も行くから一緒にやろうと誘ってきた。トレーニング
の最中、十五歳も若いレイモンドは気がついたが、パーカーは彼とただ一緒に走るのではなく、負けてなるも
のかと彼と競争した走りをしていた。そんなパーカーの対抗心はレイモンドを狼狽させた。こんな小さいこと
に何もそれほど頑張らなくてもいいじゃないかと思えた。何回か秋の日の午後に、ハーバードとボストン大学
は合同で練習することがあったが、練習後に彼らはサッカーの試合をやることがよくあった。フィールドでは
パーカーがもっとも激しいプレイ、思うままにエルボーの違反プレイをやっていた。ボールが空中にあるとき、
ハリーとボストン大学の選手が同時にそれを取りに行き、衝突になった。ハリーの歯が一本半分に折れてし
まったが、彼は構わずプレイを続けた。彼はシングルスカルでこのクルーと並べて漕ぐのを好んでやった。そして、
四十代という年齢にもかかわらず、だいたい彼の方が勝った。あるとき、彼はT・
ラザルスという仮名でチャー
ルズ川のヘ
ッドレースに出場した。死んだはずの男が生き返ったわけだ。彼は、クロスカントリースキーも負けず
劣らず熱心にやった。一九七八年に、一日の気温が摂氏零下二十度を上回ることはないという気候条件の
123
中で、彼は四十㎞のスキーマラソンに挑戦した。各所に設けられたチェックポイントでは医者が凍傷の有無を
監視していた。パーカーは、真白になってしまった耳をうまく医者の目から隠し通した。こうした彼の競争心
はチームの競争心につながり、逆に彼も選手たちの競争心から力をもらっていた。狂気が、狂気を呼んでいた
と言ってよいだろう。
若い選手たちは、大部分、心地よい、思いやりあふれる豊かな家庭の出身だが、それまでにこんなに厳しい
規則と基準ずくめの生活や、その基準を体現する男に出会ったことがなかった。彼が褒め言葉をかけてくれ
ることはめったにない。めったにないからこそ、彼の褒め言葉はいっそう価値あるものになっていた。そんなわけ
で、彼がものを言わない方が、いよいよ彼の信憑性が高める結果になった。彼の強みはそうした対人関係にお
ける距離だった。つまり、彼が選手たちに近寄るのではなく、選手たちの方が積極的に彼の方に近寄らなけ
れば話もできないという状況だ。彼に近寄ろうとすることで、選手たちは彼の基準を満たすようになる。
ティフ・
ウッドは、パーカーは選手たちを尊敬しているので彼らをもてあそぶようなことはしないし、また選手
たちをけなしたり、褒めたりして操ってやろうなどとしているわけではない、と確信していた。彼の賞賛の言
葉は、いつも注意深く思慮されたものだった。「
無礼で、うまい」
と評されたクルーが連戦連勝を飾っている頃、
そのメンバーたちは、自分たちがハーバード史上、あるいは少なくともハリーがコーチしたクルーの中では最高
124
のクルーだろうかと議論しあったものだ。さらには、やがてはハリー自身がやって来て、君たちは自分がコーチ
した中では最高だよ、と言ってくれるだろうか、とまで話が盛り上がったものだ。彼らは、それまでの最高の
クルーと言えば、一九六七年―六八年のクルーであることを承知していた。このクルーは、オリンピックに出
場し、金メダルの有力候補と目されていたが、数人のメンバーが体調を崩してしまった。「
無礼で、うまい」ク
ルーのメンバーが三年生になる頃には、彼らは、優勝する都度、熱心に新聞を広げてハリーがついに何かを
言ってくれたかと読み漁るようになった。しかし、彼がそれを口にすることはなかった。しかし、彼は別な言い
方をした。それは、彼のいつもの言動からすれば、ほとんど惜しみない賛辞とも言えるものだった。「今日の
レースは、素晴らしくよく漕いだね」
という調子だ。だが、彼は選手たちが願っていた言葉は決して言ってくれ
なかった。
学生時代に彼のもとで漕いだ男たちは、ハーバードという学府のボート部の監督として、自負心があり、
知性も高く、自律的な学生選手たちを相手にするには、彼こそまさに適任の人だったと考えている。商業化
が進んだこの社会において、彼は、並外れて優れた若い男たちが愛でも金でもなく、ある目標と誇りのため
に克己する環境を作り上げることに成功していた。そんな選手にとって、真の勝利とは、隣にいる選手、ある
いは他のボートに乗っている選手に勝つことではなく、自分自身に課した基準を満たすことだった。何よりも、
125
そうした選手は、自分がアマチュアである由縁は何なのか、見返りらしいものはほとんど何一つ与えてくれな
い社会において、自分が何ゆえにそこまで打ち込むのか、その理由を感じ取っていた。パーカーが指導する男
たちにとっては、ローイングというのはスポーツに劣らず神学的なものでもあった。つまり、それは信仰の上に
成り立っているのだ。選手の自尊心や、ハーバードローイングというエリート社会の一員であるということは、
自分が何を行ったかにかかっていた。もし、自分が一生懸命に努力すれば、報われるのだ。
パーカーという人間は、どちらかと言えば、今世紀の後半という時代にそぐわないように見えた。彼は、
明らかに高い知性があり、徹底的にある方向に駆り立てられており、そして微妙な面を持っていた。彼の機
嫌を損ねるのは禁物だった。彼の存在感には、堅苦しく、厳しいものがあった。企業経営、学術界、医学界な
ど、どんな職業であれ、彼がトップに上り詰めないことは考えられない。それでいて、彼は現代の基準からす
れば低額の報酬で、しかも現代の商業化スポーツの中心から外れた種目のコーチに甘んじていた。しかし、彼
は自分がしていることが好きであり、退屈などはまったく感じていなかった。唯一、数年前に彼が自分は豊か
ではないことに気づかされたのは、離婚したときに、同程度に成功し、意欲的な男たちの所得に比べて自分
がわずかな金しか稼いでいないことが明らかになったときだった。だが、そんな思いもたちまち消え去ってし
まった。
126
彼の人生における最大のお手本であったペンシルバニア大学コーチのジョー・
バークも同じことをやっていた。
パーカーは、多くの点で、自分をジョー・
バークの直系子孫と任じていた。バークは、あまり複雑でない時代の
人で、当時は、規則がらみで、それを破ることもままならなかった。彼は、一九一四年生まれで、スイープと
スカルの両方で偉大な選手だった。ペンを卒業すると、彼は実家が経営するニュージャージー州の果樹園で働
いた。彼は、平日はその農園の面倒を見て、週末になるとスカルを車に乗せて近くで開催されるレガッタ会場
に出かけ、車からスカルをおろし、水上に出て漕ぎ、優勝して、またスカルを車に乗せて、農園に戻った。彼は、
レース後に残って他のローイング好きの者たちと話し込んだり、一杯飲ったりするようなことはしなかった。
彼にはそんな必要はなかった。彼は一匹狼的で、まったく誰にも頼らず、オアズマンとしてはほぼ独学の人だっ
た。(
ただし、後になって分かったことだが、彼は、偉大なオアズマンであり、シアトルでボート製造業をやってい
たジョージ・
ポコックと手紙のやりとりをしていた。)
バークの信念は、オアズマンはそれぞれに自分にぴったりするものを見出さなければならない、というもの
だった。彼は徹底的にパワーを頼りにしていたが、ポコックのような昔気質の人たちはローイングというのは体
の動きのシンフォニーである説明していた。バークは、あたかも滑らかに漕ぐだけでボートを進める不思議な
力があるとでも言うような技術偏重がまかり通っていると感じていた。ボートを進めるのはパワーと持久力
127
のはずだ。彼は完璧な条件の中にいた。彼の農園は適度に南寄りに位置しているので、年間を通して漕ぐこと
ができた。彼は、夏には、好んでランコカス支流からデラウエア川まで漕ぎ下って行くのだが、そこまで行くと
週末を楽しむ大型のモーターボートによく出会った。彼はこうしたモーターボートを相手にして競争したも
のだが、どうしてたった一人で漕いでいるだけで自分たちの前を行けるのかと、モーターボートに乗っている
人たちが理解できないとばかりに驚きの声を上げるのを楽しんでいた。当時のスカラーのほとんどは、レース
で一分間に二十八ほどのレートで漕いでいたが、このペースだと完璧なフォームで漕げるが、あまりエネルギー
を要しなかった。一九三六年頃に、バークはそれよりずっと高い三十六ほどのレートに上げた。それ以降、毎
年、彼はレートを一枚か二枚ほど上げて、とうとう四十二で漕ぐようになった。こうなると、レース全体を
通してスプリント勝負になった。一九三〇年代の終わり頃には、彼は、アメリカは無論、おそらく世界で最高
のスカラーになっていた。わずか二十二歳で出場した一九三六年のアメリカン・
トライアルで二位に入った。そ
して四年間というもの、一度たりとも負けることはなかった。誰もが、彼が一九四〇年と一九四四年のオリ
ンピックでオリンピックチャンピオンになるだろうと思っていたが、その年にオリンピックが開催されることはな
かった。パーカーは、彼こそ完璧なアマチュアと見なしていた。一九二八年と三二年のオリンピックで優勝した
オーストラリアのボビー・
ピアースというスカル選手がバークにレースの挑戦を申し入れたとき、バークはこれ
128
を断った。バークは、ピアースには会いたいと思ったものの、そんなイベントはきれいごとでは済むはずもなく、
一八七〇年代のスカルレースで盛んに行われたように、賭けが横行するに違いないと強く感じていた。ローイ
ングは、その愉しみだけのために行われるべきなのだ。
一九五一年に、彼はペンシルバニア大学のコーチとして雇われた。彼は異様に四角張った男だった。スリー
ピーススーツを着込み、選手たちには距離をおいて接した。優勝クルーを育てるというのは大変なことなのだ、
と彼は態度で言っているかのようだった。消灯時間が定められ、選手たちはそれを守らなければならない。二
年生だったハリー・パーカーが、もう一時間くらい起きていても構わないだろうとクルーの仲間に言ったとき
には、バークはパーカーに激怒した。パーカーごときが何ということを言うのか?あいつは、バークが定めた
ルールよりも上にいるとでも思っているのか?その一年後、対校クルーのあるメンバーがビールをちょっと飲ん
だかどでBクルーに降格させられた。ペンのクルーが西ドイツに遠征したとき、選手たちは歓迎会でコーラを
飲んではいけないと命令されていた。コーラには炭酸ガスが入っているから、という理由だった。彼らは、また、
遠征の最後のレースで優勝した後も酒を飲むことは許されなかった。ジョー・
バークは、選手たちについて人々
の記憶の中に、酔っ払ってホテルの部屋から部屋へ
とふらふらと渡り歩いて大騒ぎしている若いアメリカ人とい
うイメージを残したくなかった。服装の規律も厳しく、ネクタイと上着を着用するものとされ、さらに一九
129
六〇年代になると髪の長さまで決められた。(バークは、所定の長さに切ってある木片で髪の毛の長さ を
チェックした。)
選手たちにはそれぞれの体重上限も課せられ、週に一度、体重計測を行った。体重オーバー
になったものは、五、六㎞走らされた。冬の終わりに、水上練習をやるには水が冷たすぎるかどうか問題に
なったときには(
水上で事故になり、艇が沈没するような出来事に備えて)
、ジョー・
バークは自分が水の中に
もぐってその問題に決着をつけた。
一九五三年に、当時十八歳だったハリー・パーカーはジョー・
バークの世界に歩み入った。パーカーは、コネ
チカット州イーストハートフォード市の出身で、海軍からの奨学金を受けていた。彼は運動選手になりたいと
強い願望を持っていたが、天賦のうまさを持ち合わせていなかった。高校ではバスケットボールをやったが、た
いしてうまくはならなかった。彼がペンでの初日に入学手続きをしているとき、大学の受付係員の後方にボー
ト部のコーチたちが並んで立っていて、身長が一八〇㎝以上ある若い男はいないかと眺め回していた。そして、
それらしい者を見つけると、ボートをやってみないかと勧誘していた。ハリー・
パーカーはそれに何の注意も払
わなかったが、手続きの列の終わりに来ると、大学の係員が彼に体育の課程をとるか、部活をやるつもりは
あるかと尋ねた。彼は、瞬間的に「
ボートをやります」
と答えた。「
タンクはあっちにあるよ」
とその係員は言
い、体育館の方を指差した。こうして彼はボート選手になった。
130
パーカーは、オールが水の中を動くときのパワーの感覚が気に入った。何年も後にやってくることになる
ティフ・
ウッド同様、これは自分に向いている、これをやるには情熱と献身が基本的な要件になる、とただち
に感じ取った。一年生のとき、彼は体重七十三㎏で、軽量級のクルーで漕いでいた。その年、偶然にジョー・
バークが新人軽量級の指導にあたっていた。二年生になる頃には、パーカーは重量級対校クルーに入っていた。
ジョー・
バークは彼の弟子を見出したのだった。
バークは、パーカーの肉体的な頑張りには並々ならぬものがあると感じた。しかし、肉体的な頑張り以上
の何かがあった。バークがハリー・
パーカーについてのもっとも早い頃の記憶といえば、タンクで黙々として練習
している若い男というものだった。パーカーは血がにじむほどに歯を固く結んでいたが、口から血が流れるの
を気にも留めていなかった。彼は、ただ、漕ぎ続けた。バークが教えた者の中ではこれほど熱心にローイングを
やったものはいなかった。パーカーはただそれをやったというだけでなく、常時、全身全霊それに打ち込んで
いた。週末には、パーカーは友人と二人で郊外にあるバークの自宅まで十三㎞の道のりを歩いて行き、ローイ
ングについて話し合った。パーカーはオアズマンとしてやったことを細大洩らさず記録していたが、この記録は
彼のローイングについての素晴らしい知識を映し出していた。それは、コーチの記録と言ってよいものだった。そ
れとは気がつかないうちに、パーカーはバークの生活を自分の生活のモデルにしていた。バーク同様、パーカー
131
は口数が少なく、孤高の雰囲気を持っていたが、それでいて情熱的だった。彼はバークに対しては打ち解けた
気分になれた。それというのも、そうした態度が彼にとってきわめて自然だったからだ。彼は、それを見習お
うとしていたのだが、自分自身の内にすでにそういう気質を備えていた。彼はエンジニアになろうとペン大学に
入ったのだが、教養科目に関心が向いてしまい、卒業したら教師になろうと決めていた。だが、海軍の予備役
士官として奨学金を受けていたためにその訓練に日数を割かなければならなかった。バークのガイダンスに
従って、海軍で訓練する間、スカル種目に転向した。ジョー・
バークは、ハリー・
パーカーにスカルの漕ぎ方を教
えた。一九五〇年代の終わり頃、二人は毎日一緒に練習に出たが、当時、四十代半ばになっていたバークは
若いパーカーよりも一艇身先を行って、毎回それを守り通したと言われている。(
パーカーによると、「
その話
は、まあ、その通りですね。ただ、私たちは何もレースをしていたというわけではないのですがね。驚くのは、
十年後になっても彼はその地域のトップスカラーたちに対してもまだそれをやっていたことですね」) パー
カーは他の選手たちより優れていたので、一九五九年のパンナム選手権大会で優勝し、一九六〇年のオリン
ピック大会にはアメリカ代表のスカル選手として出場した。このオリンピックでは偉大なソビエトのオアズマンで
あるイワノフの影に自動的に隠されてしまった。
おそらくフィンランドのペルティ・カルピネンを除いて、イワノフはハリー・パーカーが目にした最も偉大なス
132
カラーだった。もし誰かがスカラーの試作品を設計していたとすれば、彼はイワノフをモデルにしていたこと
だろう。彼は、身長一九三㎝で、手足は長く、足腰の強さは抜群で、持久力もすごかった。彼は、また、素晴
らしいコーチを受けていた。パーカーが一九六〇年にローマに行ったとき、イワノフは彼が手にすることになる
三個の金メダルのうちの一つをすでに手中に収めていた。それは、彼が十八歳のときのもので、一九五六年の
メルボルンオリンピック大会で、当時では実際上唯一人のライバルであったオーストラリアのスチュアート・マッ
ケンジーを相手に強烈なレースを制して勝ち取ったものだった。
彼らの並外れた競争は数年に渡って繰り広げられたが、やがて二人の間に真の友情が育つことになった。
イワノフが完璧にローイング向きの体格をしていたのに対して、マッケンジーはそうではなかった。彼は、厚い胸
板をして、膝まで届くかと思われるような長い腕を持っていたが、体の動きが不思議にぎこちなかった。メル
ボルン大会では、彼もまた十九歳という若さだったが、レースの早い段階で大差をつけ、ほとんどレース全体を
通してその差を保った。終盤、イワノフが彼のトレードマークとも言える全力を出すスパートを入れた。彼は、
じりじりと前に出て、次々に先行する艇を抜き去った。彼が第二位にすべりこんだジャック・
ケリーを抜こう
としたとき、ケリーはイワノフに自分の苦痛の表情を見られまいと意識的に反対方向を向いた。イワノフは
さらにじりじりとマッケンジーを追い詰めた。突然、ゴール直前にマッケンジーは漕ぐのを止めた。彼にはもは
133
や力を使い果たしたのだった。その直後に、同様に疲れ果てたイワノフも止まった。それから二人はまた漕ぎ
始めたが、イワノフの方がほんのわずか前に出て優勝した。
一年後、マッケンジーはリベンジを果たした。二人はヘ
ンレーに出場した。そこで彼らは一緒にチェスのゲーム
をやった。そのゲームの途中、マッケンジーはイワノフを奇妙な目つきで見た。彼は、相手について非常に重要
なあることに気がついた。彼が判断したところでは、イワノフはローイングと同じようなやり方でチェスをやっ
ていた。彼は理詰めのゲームは苦手で、騎兵隊の突撃のような盛り上がりを必要としている。マッケンジーは
こう悟ると、イワノフを疲れさせて最後のスパートを効かせないように、もっと早めにスピードを上げて行こ
うと決めた。これがうまく行った。彼は〇・
〇二秒差でヘ
ンレーの優勝を飾った。イワノフは自艇から飛び込ん
でマッケンジーのところに泳いで行き、祝意を表した。この敗戦でイワノフは精神的に崩れ、その後の二年間と
いうものはうまく漕げなくなり、しょっちゅうレース戦略をいじり回した。
一九六〇年には、彼は本来のリズムを取り戻した。今や良き友人となった彼とマッケンジーは一九六〇年
のオリンピックを控えてアルバノ湖で一緒に練習した。そこで、マッケンジーは自分がイワノフに勝つのは無理
だと悟った。マッケンジーはすでに銀メダルを一個獲得しており、二個目を求めようとはしなかった。彼がオ
リンピックには出場することはなかった。しかし、ハリー・
パーカーは違った。
134
二十二歳で、ソビエト陸軍兵士の身分だったイワノフは、パーカーに畏敬の念を抱かせる人物だった。オリン
ピックは友情を築き、仲間意識を深める場でもあるので、二人は短いながらも会話を交わした。ソビエトのス
イープ系の選手の何人かはリトアニアの選手だったが、彼らは、自分たちはリトアニア人であると考えており、
英語も多少できた。彼らはパーカーにイワノフがアメリカ人のスカル選手と話したがっていること、そして何
を話したらよいかまで教えてくれた。良きオリンピック選手であるパーカーは教えられた言葉を暗記して、
イワノフのもとに行った。イワノフはこうしたスポーツの交流の場が生じたことを喜んだ。パーカーも同じだっ
た。「
スーキン、シン」
とパーカーは教えられたとおりの即席ロシア語を口にした。イワノフの表情は暗くなり、
態度が冷たくなった。十年後、「
パットン」
という映画の中でパットン将軍がロシアの将軍に同じ言葉をかけてい
る場面を見ていて、彼は自分がイワノフに対して「
この、くそ野郎」
と言ったのだと分かった。結局のところ、そ
れほど友情にあふれたものにはならなかったのだ。その後、ハリー・
パーカーはしばしばイワノフのことを思い
浮かべたが、パーカーが一つだけほぼ確信を持てるのは、イワノフは他のソビエト兵士と共にアフガニスタンに
送られることはなかっただろうということだ。
海軍から除隊してからも何くれとなくバークの指導の下にあったパーカーは、ハーバードボート部の新人
担当コーチの職を得ることにした。それは楽しい場であった。パーカーは博士課程で研鑽を積むと同時にコー
135
チもできた。彼はその仕事は一時的なものだろうと思っていた。実際一時的だったと言ってよいのか、二年後
に対校クルーのコーチだったハービー・
ラブが心臓発作で死亡し、ハリー・
パーカーがその後任に指名された。
彼が二十八歳のときだった。その年、一九六三年、イェールが有力視されていたが、ハーバードが勝った。ハー
バードはその後の十八年間というもの連勝を続けた。こうして神話が誕生した。
136
第十章
そんな背景のもと、プリンストンでの週末に、彼は全スカル選手のコーチになっていた。彼が指導するハー
バードクルーの方はしばし待ってもらわざるを得ない。トップスカラーのほとんどは、施設が整っているケンブ
リッジで練習していた。パーカーは、以前ハーバードで自分が指導した選手たちのえこひいきにならないよう
に気を配った。選にもれてがっかりしたハーバード以外の選手の中には、パーカーがえこひいきをしていると非
難するものもいたからだ。彼は、選手一人一人の強み、弱みを熟知していた。ビグローは完璧な集中力の力
を持っていた。彼は、レースを前にして動じることはなく、決して自分の能力に疑いを持たず、そしてレースが
好きだった。彼は以前ほどスムースではなくなったが、彼の力と目的意識はその不足を補って余りあった。
ティフ・
ウッドをそれほど強力にしているのは、彼の決意のほどだった。ティフ・
ウッドはもっと力を出せたは
ずだ、ということはあり得なかった。彼は極限まで自分を追い込んでいた。ビグローよりも数㎝ほど身長が低
く、体格からすると彼がワールドクラスの選手になることは考えられなかった。
ブースカレンも自分を追い込むという点ではウッドと同程度に厳しいものがあったが、その方法が違った。
137
ブースカレンは、三人の中ではもっともスムースに漕いでいた。それに、前年には持久力を劇的に向上させてい
た。彼は頭がよく、繊細な神経を持っていた。おそらく体格がそれほど大きくないことを意識してか、自分が
軽んじられているとの思い込みが他の選手よりも早かった。一九八三年に、ウッドが優勝した後、彼ら全員が
全米代表チームのスカル合宿に参加した。厳しい練習予定が組まれていたが、あるときパーカーはビグローと
ブースカレンの二人をダブルに乗せてみた。この二人のボートが格別に速くはなかったので、パーカーはブース
カレンを外して別の選手を入れた。ブースカレンはすぐにパーカーのもとに行き、尋ねた。「
チームボートでは
僕よりもジョンの方が効果的だと考えているんですか?」
そういうことか、とパーカーは思った。ブースカレン
は、ビグローと対等でなければだめなのだ。同じ艇に乗っている限り、二人は同輩でいられる。彼が外される
となると問題を起こす。
おおむね四十人ほどの若い男たちがシングルスカルの選考会で争った。それとは別にもう四十人ほどがダブ
ルをレース形式で漕いだ。このレースで結果を出せば、スカル合宿に参加してダブルかクオドのシートを争うこ
とになる。彼らのレースは公式のものではなかったが、シングルの方は公式レースだった。レースの初日は金曜日
で、予選のみが行われた。予選は七組で、各組にそれぞれ六名または七名の選手が出場した。各組の一位が
自動的に準決勝に進出する。その他は、組合せの運が悪かった場合の救済として、翌日午前の敗者復活戦に
138
まわる。敗者復活戦も六組が組まれ、各組の一位が準決勝に進むことができる。もちろん、問題は、同日の
午後に準決勝レースがあることだ。
金曜日の予選では波乱は起きそうになかった。ウッドとビグローが決勝の本命視されており、ブースカレン
がそれにわずかながら遅れてつけている。第二グループに含まれるのは、元全米シングルスカル選手権者のジ
ム・
ディーツと前年に全米代表ダブルで漕ぎ、この冬の間カリフォルニアでトレーニングしてきたブラッド・
ルイ
スだ。
ジム・ディーツは三十五歳になるが、彼は七歳のときからレースで漕いで来た。彼は、アメリカのシングルス
カラーとして一九七二年と七六年の二度にわたってオリンピックに出場した。一九八〇年以来、彼はスカル
レースでは振るわなかった。しかし、オリンピックが近づいて来た一九八三年には、彼は再び己を奮い立たせて、
一九八三年の全米シングルトライアルではブースカレンとビグローを破り、ティフ・
ウッドに次いで四・
四秒差の
二位に入った。一九八三年のレースになるまで、彼は、アメリカ証券取引所に職を得てローイングから身を引
こうとしていた。しかし、一九八三年のレース結果はたいへ
んに勇気づけられるものだった。オリンピックの栄光
の炎がちらちらしてローイングを続けることになった。一九八四年は、漕ぐ距離こそ長かったが、実戦レース
をそれほどやっていなかった。つまり、激烈に戦うことはあまりなかったのだ。彼は、レースがどんなものか、誰
139
よりも経験があると思っていた。相手は、自分がピークだった頃にようやく初心者から脱しようとしていた
男たちだ。彼はウッドがもっとも手強いと思っていた。おそらく、二人がレースを五回やれば、ウッドが少なく
とも三回は勝つのは間違いがなかった。しかし、彼は、ウッドには弱点もあると思った。ウッドには前回優勝者
として猛烈なプレッシャーがかかっている。誰もが彼を倒そうと狙っている。そんな立場をディーツは自分が
チャンピオンだった頃の経験からよく承知している。優勝者のみがすべてを勝ち取る一発勝負で、ディーツは
若い選手たちに不意打ちをかけてやろうと狙っていた。彼らがお互いを牽制している間に、自分は素晴らし
いレースを展開して勝つのだ。彼は、自分にはそんなすごいレースを一発やる力があると信じていた。彼の問
題は、体力が回復する時間が次第に長くなって来ていることだった。予選で厳しいレースになってしまうと、そ
こでエネルギーを使い果たしてしまう。何よりも、彼は省エネを心がけなければならなかった。
140
第十一章
一般には第二グループと見られている層にいるもう一人の選手がブラッド・
ルイスだった。カリフォルニアか
らローイング人脈(
元ハーバードのオアズマンであるマイク・
リビングストンはブラッドのコーチをしており、マイ
クの兄のクリーブはケンブリッジに住んでいて、まだローイングをやっており、ハーバードの艇庫では誰とでも
顔見知りだった)
を通じて入ってくる情報では、ブラッド・
ルイスはたいへ
ん調子が良いというものだった。しかし、
過去において、彼は疲れで先細りになる傾向を見せていた。それに、彼はカリフォルニア出身で、東部ではなく
あちらの方で練習していた。地域的偏見が強いこのスポーツでは、彼はチャールズ川で漕いでいる人たちに比べ
てあまり真剣に受け止めてもらえなかった。カリフォルニア出身であるのは構わないし、出身地を今さらどう
することもできない。しかし、あちらでずっとトレーニングを続けているということは、そんな選手はおそらく
あまり真剣ではないことを示すものだった。カリフォルニアに住んでいることから価値観が逆になっていること
がうかがえる。ピューリタン的倫理観がキーワードになっているローイングでは、カリフォルニア、特に南カリ
フォルニアと聞いただけで無意識のうちに、たるんだ、甘いライフスタイルのイメージがつきまとう。
141
ルイスは、ややこしくて、ときには扱いが難しい若者だった。彼は、挙措容儀から東部出身と分かる他のオ
アズマンたちと打ち解けることができなかった。彼らの方は彼らの方で、ルイスのことをむっつりと気難しい奴
だと思っていた。彼はローイング世界のことについては熱心だが、そこに棲みついている他の者たちからはおお
むね離れて暮らしていた。この年、彼は、誰も彼に注目していないことをむしろ喜んだ。
彼は、シングルのトライアルで皆を驚かせてやりたいと願った。彼は、ほとんど人に気づかれないままプリン
ストンの街に入り込み、人と交わろうとする努力もしなかった。彼が水上に出た最初の日、ジョー・
ブースカ
レンが漕いで通りかかった。「
やあ、ブラッド」
と彼は声をかけた。彼の姿をみかけて心から喜んでのものだった。
「
どうだい?」
ルイスは返事もしなかった。「
おい、ブラッド、返事くらいしろよ」
とブースカレンは呼びかけた。
それでも沈黙したままだった。彼は漕ぎ続けている。ブースカレンは怒鳴った。「おい、止まれ!止まれよ!」
「止まれない」とルイスは言った。「今は練習の途中だ」 彼はそのまま漕ぎ去った。ブースカレンは思った。ブ
ラッドという奴はあんな奴だな。オリンピック大会でもう一人のルイス、タイム誌の表紙を飾り損ねた男、と
して知られたいと願っていたブラッド・
ルイスは、ビグローとブースカレン、ウッドとアルテクルーズなど、他のス
カル出場者たちがライバルと一緒に移動してきたと知ってびっくりした。
ローイングについてのルイスの考え方では、敵と交友するなどということは許されてよいはずがないものだっ
142
た。彼にしてみれば、こんな大一番のレースの相手は敵でしかなかった。ウッドやビグローなどの他のオアズマン
たちの多くは、何かに属したい、そして友情と社会にうけいれてもらいたいと願うからこそローイングでこれ
だけ頑張っているのに対して、ブラッド・ルイスは、人から離れていたいために頑張っていた。彼のコーチ、療法
士、トレーナーとしてブラッド・
ルイスに同行してきた従兄弟のミッチ・
ルイスは、ルイス一族の男たちは独立心
が強いんですよ、と言う。彼らは、帰属意識が好きではなく、組織図の中に組み入れられるといらいらする
性質だ。誰にもああしろ、こうしろと言われないと、逆に一生懸命になれるのだ。彼は言う。「
私たちは黒い
羊のように異端者なんでしょうね。私たちは、いつもコーチと衝突してしまうんです。それは無理だろうと言
われていることをやりたいのです。逆に、それはやるべきだ、などと言われるとやる気がなくなってしまいま
す」
ブラッド・
ルイスの家庭生活は簡単なものではなかった。母親は、彼が小さかった頃、病気がちで、彼はほと
んど父親に育てられた。彼の友人が思うには、そんな背景があって、神経質で、自己防衛過剰な面が植えつ
けられた。ブラッドは、人に軽んじられることには意識過剰なわりに、自分が他の人に何をしたかについては
奇妙に鈍感だった。他人に接するときの彼の態度は、異常に挑発的だった。同僚に対しては、無礼な態度を
とることによって、そして彼らに疎遠の態度をとり、反感を持たせることで、彼は世界から隔絶されていたい
143
という、望みの自己達成的予言を作り上げて行った。彼は、あたかも自分が相手の弱みに先につけこまない
と相手が自分の弱みにつけこむことになるとでもいうように振舞った。彼は強く不平の意識をもっており、
誰かの恩義を受けることを嫌った。あるとき彼が友人に語ったことだが、「
僕は、人に何かを頼んだり、済み
ませんが・
・
とか、ありがとう、などと言わなければならないのが嫌いなんだよ」
彼の友人であること、さらに
言えばチームメートであることさえ容易いことではなかった。
一年前、彼がダブルの選手として全米代表入りしたときだが、彼のパートナーであるポール・
エンクィストは、
ダブルをやる上で不可欠な親しい交りを続けるのは、彼にとっていまだかってなかったほど難しいことを思い
知らされたものだ。ルイスがエンクィストに、長時間、一言も話しかけないことが何回となくあった。まるで、エ
ンクィストがチームメートではなく敵であるかのような扱いだった。
この週末、ルイスは自分を敵をつけ狙う戦士だと見なしていた。敵というのは、まずティフ・
ウッド(
実のと
ころは、ルイスはスカラーたちの中では、唯一人、彼を好もしく思っていた)
、そしてブースカレン、さらには多
分ビグローも、だ。ルイスは東部の人たちが自分を同輩とは見なしてくれていないことを承知していたが、そ
んなことはルイスにとってどうでもよいことだった。彼は、彼の写真が全米ボート協会の機関誌ザ・
オアズマン
(
当時の名称で、今はローイングUSAと改称されている)
の特集記事を飾ることはないだろうと確信していた。
144
こうした感情は多くの西海岸のオアズマンに共通するもので、もともと世間の注目を集めることのない競技
において、同じボートをやる仲間からも無視される存在、という思い込みだ。
ルイスがスカル選手として成長しつつあった頃、他のオアズマンたちは東部出身の者たちばかりだった。彼ら
は同じ学校に通い、仲間たちの間で交友の輪を広げ、大会の間、互いの家に泊まりあった。ところが、彼はア
ウトサイダーだった。彼は、若く、たいした金も持たず、その態度はまるで意識的にやっているかのように荒っ
ぽいものだった。皆がぼやいたのは、彼を自分の家に泊めてやろうものなら長居はするし、食費を出そうと
もしないことだった。皆は彼を「
アメリカの客人」
と呼んでいた。他の者たちが自分のことに執着しないという
わけではない。ただ、それをうまく覆い隠しているだけだった。ルイスは、自分は人付き合いが下手だと知って
いた。彼に関する限り、グループは小さければ小さいほど良かった。まわりに六人ほどの人がいると、彼は不
気味に黙り込み、自分の内にこもっては他の者たちの居心地を悪くしてしまう。彼の同輩たちにしてみると、
彼はちょっと変わっているだけではなく、反抗的で、ときには大口を叩いた。一九八三年に、シングルスカルト
ライアルに備えてボストンにやってきたとき、彼は人々に自分が優勝すると吹聴していた。そういうことが起
きないとも限らなかったが、ローイング界の作法では、そんなことを言い触らさないものだ。それは行儀が悪
いと思われていたし、実際、彼が勝つことはなかったからなおさらだ。一年後のスカル合宿でジョン・
ビグローが
145
ルイスと話しているときに前年の大言壮語に触れ、いかにあれが他のオアズマンの気に障ったかを指摘した。し
ばらくルイスは何も言わなかったが、十分後にビグローのところに戻ってきて、びっくりした様子で「
君も本当
に気に障ったのか?」
と尋ねた。
それが恐ろしい東部野郎たちに取り組むために、自分を奮い立たせるルイス流のやり方だった。カリフォル
ニアのオアズマンに対する東部の紳士気取りにもかかわらず、ルイスはカリフォルニアの方が東部に対して絶対
的に優位に立っていると思っていた。カリフォルニアでは年間を通して漕げるのに、東部では気候のために四か
ら五ヶ月は損をしていた。エルゴ、トレーニングルーム、それにタンクなどはそこそこ水上練習の代用品になる
かもしれないが、彼が思うには、オアズマンにとって、実際の水の上で、実際に漕ぐのが一番だった。彼は、自
分は、過去一年間、全米の誰よりも、その二倍は漕いで来たことを確信していた。だが、それでいてさえ、孤
独感をひしひしと感じていた。自分と父親だけで練習計画を練り、ニューポートで練習してきて、彼は従来の
コーチのあり方について次第に疑問を持つようになった。彼の力が向上し、かつては自分を馬鹿にしていたコー
チたちが彼に関心を示し始めると、彼らコーチたちには用心してかかった。実際のところ、彼は、自分自身、
父親、それにローイング界のうちのほんの数人のものしか信用していなかった。事実、プレオリンピックのレース
の一つで、彼は「
権威を疑え」
というバンパースティッカーを貼り付けたいと希望した。しかし、それはだめだと
146
言われた。それでバンパースティッカーを貼ることはなかったが、彼はその態度を貫いた。
この週末、彼はティフ・
ウッドの後を追いかけていた。彼にはいつもティフ・
ウッドのことが念頭にあり、何と
強いレーサーだ、何と精神的にタフな奴なんだ、と思っていた。その年、これに先立って、ルイスがニューポート
湾での練習を切り上げようとしていると、彼と顔見知りの水上パトロールの人が合図をするので漕ぎ寄せて
行った。パトロールの人は「
ウルトラスポーツ」
という雑誌を手にしていた。それは、自分の体を極限まで追い込
むボートやランニングの選手たちだけを取り上げる雑誌だった。パトロールの人は「
これを見たかい?」
と尋ね
た。その雑誌にはティフ・
ウッドの特集が大々的に取り上げられ、彼が素晴らしい漕ぎを見せていることが書
かれていた。この記事を読み終えたルイスは、くるりと艇を回して、その日、さらに十六㎞を漕いだ。
前のクリスマスのときに、ティフはニューポートに赴き、八百五十㍍スプリント勝負のクリスマスレガッタに出
場した。ルイスにとって、それは自分の力を試すに絶好の機会だった。なぜなら、ウッドは現チャンピオンであ
り、とてつもないスピードを持っていて、スプリント勝負で彼を破ることはほぼ不可能だったからだ。レースでは
ウッドが僅差で勝ったが、ルイスとしては大いに勇気づけられた。ルイスの気持ちの中では、あれほどの僅差で
フィニッシュできたことは、予定通りに調整が進んでいる上に、冬の残りの日々から春にかけて実際の水上での
練習を活用できることを示していた。
147
彼は自分の力の向上を計るいくつかの指標を持っていた。一つは、ニューポート湾内のリド島のまわりを周
回する時間である。これを彼は「
リド回り」
と呼んでいた。一周すると四㎞、二周で八㎞のこのリド回りの時
間が、この一年間、着実に下がってきていた。水は素晴らしく平らなので、計時時間の比較も意味あるものに
なっていた。もう一つの指標は、一九八〇年のオリンピックで五位に入ったスウェーデンのスカラー、ハンス・
スベン
ソンと比較してどれほどできているか、というものだった。
スベンソンは大きな男で、スカル選手としての実績も十分なものだった。一九八〇年の秋に、彼はスウェーデ
ンの冬を逃れて南カリフォルニアにやってきた。そして、彼とルイスは一緒に練習した。そのときは、スベンソン
はルイスに対して圧勝だった。一九八一年に、スベンソンは戻ってきた。まだスベンソンの方がいつもルイスに勝っ
ていたが、差が縮まり、ルイスはときどきスベンソンのオールが作りだす水の泡を見ることができた。二人は友
人の間柄になった。スベンソンは、ときどき、ニューポートビーチ市の郊外にあたるコロナ・
デル・
マール市にある
ルイス家に泊めてもらった。ルイスもまたスウェーデンのスベンソン家に泊まった。(
スベンソンが語るところでは、
ルイスは客人としては不適切なところがあり、食べ物に不満をもらしては、南カリフォルニアの男らしく、アボ
カドはないのか、などと注文をつけた。そんなものはスウェーデンにはありそうもなかったが、スベンソン夫人が
ようやく見つけて食卓に出したが、ルイスはそれを吐き出してしまった。実がまだ熟していなかったのだ。)
148
その練習はルイスにとって大いに役立った。練習では徐々にペースを上げて行く大部分のアメリカ選手と
違って、スベンソンは水上に出た瞬間からきつい練習に入る。三十本ほど漕いで体をならすと、その後は全力
で行く。流して漕いだり、ペースを守りながら漕いだりするようなことはしない。一九八二年のクリスマスレ
ガッタで、ルイスは初めてスベンソンに勝った。しかし、長い距離ではスベンソンの方がまだまだ上だった。一九八
三年の秋(
一九八四年のオリンピック選考会を控えているルイスにとっては最高のタイミングだった)
になると、
ルイスの方がスベンソンにいつも勝つようになった。それは、ルイスにとって、自分がワールドクラスの選手に成長
した確かな証であった。ようやく積み重ねてきたものが成果を現し始めたのだ
ティフ・
ウッドは、ブラッド・
ルイスという男は興味をそそる奴だと思っていた。ブラッドにとって、ローイング
は非常に重要な経験というよりも、もうそれしかなかった。ルイスにはローイング以外の生活はないので、その
ローイングの具合が悪ければ彼にとっては二重につらいし、勝てば二重にうれしいのだろう、とウッドは思った。
ルイスもこうした見方におおむね同意している。彼は、ボート選手以外の自分を想定することができないの
だ。程度は落ちるものの他にもいくつか関心を寄せているものがある、というのではなく、他のものがまったく
ないのだ。彼は、一日の生活がどうだったのかを評価するのに、それがどんな具合に自分のローイングに役
立ったのかことしか考えなかった。
149
一九八四年の秋に彼は二十九歳になる。大学卒業以来、いろいろな職についたが、ローイングを続けるのに
必要な金を稼ぐと辞めてしまうのだった。彼は実家で生活し、父親から生活支援を受けていた。彼は、主に
住宅の外壁を作る大工として働いた。三、四ヶ月働くと六千ドルから七千ドルを稼ぐことが出来た。それだ
けあれば練習、艇と装備、遠征費用、それに食費をまかなうことができた。彼は、三千ドルから四千ドルも
するスカルを四艇持っていた。他のスカル選手の中には、彼の艇へ
のこだわりを冷やかす者もいた。しかし、彼は
最新の艇・
装備に凝る性質で、四艇くらい持つのはそれほどの負担ではないと考えていなかった。過去二年間、
彼はオリンピック助成のための仕事支援策のもとでウェルズファーゴ銀行に勤める形になり、おかげですべての
時間をローイングに向けることが出来た。彼は、他のこと、他の人のことにはいっさい目もくれないという自分
の一途な人生は、自分を利己的な人間にしてしまっていることはよく承知していたが、目的を達成するまで
はそれもしょうがないと割り切っていた。
ローイングが彼の攻撃的性格や反抗心の良い意味での唯一のはけ口だった。彼は自分のやりたいことなら
進んで一生懸命にやるが、それはあくまで自分流を押し通せることがかぎになっていた。リトルリーグの野
球でさえ、彼はコーチといつも衝突していた。高校でも、いろんなスポーツをやってもよかったのだが、コーチが
いつもあれこれ指示する種目には警戒してかかった。一年生のときにバスケットボールをちょっとやってみたが、
150
練習する上で細かい注意事項がいっぱいあるのでいやになってしまった。彼は先発チームに入れなかったが、
コーチは、控え選手は座ってはならない、と命じていた。ある練習でルイスともう一人の控え選手が座っている
と、コーチが見咎めて言った。「
お前たち、どういうつもりなんだ?」
隣に座っていた子が囁いた。「
次の試合の
練習をしているんです、と言ってやれよ。」
そこでルイスは答えた。「
次の試合の用意をしているんです」
それが
彼の最後のバスケットボールの練習になった。
対照的に、ローイングは比較的リラックスしたもので、まもなく学校で何人かの高い才能はあるが不満を
持った生徒のたまり場になった。ブラッド・
ルイスは、規律というものは、コーチが押し付けるものではなく、自
分自身で課すものでなければならないと信じていた。
ルイスはオレンジコーストカレッジに進学するつもりでいたが、入学前からそこのコーチがいやになっていた。
彼は、調子を最高にしておこうと、入学前の夏にシングルスカルをやっていたのだが、ドックで彼の様子をうか
がっていた新人担当のコーチが何をやっているのかと尋ねた。ルイスは、一年生で二軍ボートに入れるように
トレーニングしているんです、と答えた。そのコーチは言った、「
それは無理だね」
「
でも、頑張りますよ」
とルイ
スは言った。「
無理だ。そんなことは考えない方がいい」
その言葉を聞いて、ルイスは、ボートを格納すると、す
ぐにカリフォルニア大学アーバイン校に切り替えてしまった。彼がアーバインに入学した年、アーバインの全盛
151
時代は終わりを告げようとしていた。彼が四年生になったとき、もうよいエイトを編成できないほどになって
いた。彼は、エイトではなく、フォアに集中すればまだ戦えるのではないですか、とコーチに進言した。そのアイ
デアは受け入れてもらえなかった。チャンスがまったくないレースで負けるのがいやになったルイスは、ボート部
をやめて、学年の残りの期間、バレーボールをやった。
彼をアーバイン校にリクルートし、そこで彼の最初のコーチになったボブ・アーンストは、ブラッド・ルイスの
人物を直ちに見て取り、こいつはチームスポーツではなく個人種目に向いていると判断していた。彼の目標は、
常に個人的なものになるだろう。他の選手たちと一緒に練習していたのでは自分の力が薄められてしまう、
とルイスは最初から用心してかかっているのだな、とアーンストは感じ取った。アーンストには分かったのだが、
ルイスは並外れた運動選手であり、非常に高いレベルでトレーニングをし、自分がやりたいことをよく研究して
いた。彼ほどスポーツやトレーニングの書物をよく読む者はいないし、いったん練習内容を決めたら彼ほど一
生懸命練習する者はいない。だが、彼は、学生選手たちを奮い立たせる多くの要素に対しては驚くほど反応
を示さない。大会を前にして他の選手たちの意欲をかきたてようとして、何をどうしなければならないなど
と、あるチームメートが話を始めると、ルイスは目に見えてぷいと横を向いてしまう。だが、アーンストには分
かっていた。もし、ブラッドがいやがる方向にブラッドを仕向けようとすると、そこで口論になりはしないが、
152
ただ、彼は立ち去って、二度と戻って来ない。こんな具合だから、彼はチームメートにとって扱いにくい存在
だった。
学生時代にルイスと一緒に漕ぎ、口論もしたことがあるブルース・
アイバートソンは、ルイスを究極的に利
己的な奴だと思っている。チームを第一に考えるアイバートソンには、ルイスの自己中心的な生き方は到底理
解できなかった。二人の間で摩擦が生じた原因の一つは、ルイスは自分の関心を引くことしかやろうとしない
ことだった。彼の関心の中にはローイングに伴う艇や艇庫の整理整頓というつまらない作業は含まれていな
かった。ルイスは、また、どの日に練習をやり、どの日に休むかの選別において、アイバートソンが見知っていた
他の優れた選手たちと違っていた。きつい練習をやりたくないと思った日には、彼はただ流して漕ぐだけだっ
た。(
これを、選手たちは「
ぱしゃぱしゃ漕ぎ」
と呼んでいた。)
またある時には、彼は一人静かに練習して、自
分のレベルを高めて行く。ある練習の漕ぎで他のスカラーたちを相手にして自分が確実に勝てると思ったとき
だけ、彼は全力で漕ぐ。それは競うというよりも、まるで相手を暴力的に攻撃しているようだった。アイベッ
トソンにしてみれば、それは最悪の種類のいじめ的態度だった。
一九八〇年に、アイバートソンは過去一年間に積もり積もった恨みつらみをルイスにぶちまけ、「お前は
シャークだ、とんでもないシャーク野郎だ」
と言ってやった。そんな言葉もルイスには蛙の面に小便だった。アイ
153
バートソンは正しかったのかもしれない。数年後、ルイスがプリンストンでもシングルスカル選考会に現れたとき、
彼は小さなゴム製のシャークを艇にテープで貼り付けていた。彼のチームメートは、どうしてあいつは皆と同
じようではないのだろうか、といつも不思議に思っていたのだが、答えは、まず、同じようにしようとしてもで
きないのだろう、であり、次に、同じようにしたくないのだろう、だった。そのことを誰よりもよく承知してい
るアーンストは、ローイングの何がブラッドにぴったり合っているのかが分かっていた。ルイスが一年生のとき、
アーンストは、彼にシングルスカルからやらせてみた。彼は、最初からこれが気に入った。彼は一人で思い通り
にできた。自分自身が決めること以外に、従うべき何のルールも命令もなかった。
ルイスは、自分と東部の選手たちとの違いがあるとすれば、彼らの方はレース経験が十分で精神的にタフ
になっていることだろうと思っていた。彼らはレースで一艇身くらいリードされていても慌てることはない。大
学選手として、何回となく、彼らはリードされていても逆転して勝った経験をしていた。しかし、弱小チーム
に所属していた者にとっては、差をつけられるのが常態だった。そんなチームにいると、リードされるとパニッ
クに陥るか、その位置に甘んじてしまっていた。ティフ・
ウッドは、十七歳か十八歳の頃からそうしたタフな性
質を身につけていた。二十九歳になったルイスは、いまだにそれを学び取ろうとしていた。ティフ・
ウッドが、彼
にとっての目標選手なのだ。ルイスは、ハーバード大学艇庫の中にあるハリー・パーカーの執務室の外にポス
154
ター大に引き伸ばされた、あの有名な「無礼で、うまい」クルーの写真に魅惑された。彼にとっては、それは
八人の男たちの写真ではなく、もじゃもじゃ髪でサングラスをしているただ一人の男、ティフ・ウッドの写真
だった。ウッドは他の選手たちとちょっと合っていなくて、頭の位置が大きくずれていた、と言えば言えなくも
ない。しかし、彼を見つめるルイスの目には、強烈な集中力と猛烈な力の発揮が見て取られ、ルイスは他の選
手に目を移すことが出来なかった。
彼は、自分が今やウッドにとって最大のライバルになっていると確信していたので、ケンブリッジに来て他のス
カラーたちと一緒に練習しないかという招待を断った。彼は、そこに行くことに何のメリットも見出せなかっ
た。彼は、すでに他の誰よりも水上練習時間を多くとっており、今や信頼を寄せているマイク・
リビングストン
から大変よいコーチを受けていた。リビングストンは、カリフォルニア育ちながらハーバードに進学したという文
化的複合性を持っており、チャンピオンクルーの一員として漕いだ経歴を持つ。その中には、一九七二年のミュ
ンヘ
ンオリンピックで銀メダルを獲得したことも含まれている。大学の成績も非常に良く、ロースクールに進学
した。しばらく民権団体ACLUの北西支部の弁護士として働いた後、彼は一九七〇年代の後半にカリフォ
ルニア大学バークレー校のコーチに転じた。物事を分析的に思考する彼の一面は、必ずしも大衆の関心を得
ていない大義に力を傾注するハーバード育ちの弁護士特有のものだった。しかし、カリフォルニア育ちの気質と
155
一九六〇年代という時代の申し子としての彼の一面は、人間の未知の限界、精神の不可思議に魅惑されてい
た。カルロス・
カスタネダの著作を熱心に読んでいるリビングストンは、東洋の宗教に関する知識やヨガの研究
が選手の集中心を高め、内に秘められたパワーをコントロールすることに役立つことを確信していた。バーク
レーで、彼は、二種類の知見、合理性と力の源の秘密、を融合させる方法を研究していた。彼は、カリフォルニ
ア大学バークレー校の水泳コーチをしているノート・
ソーントンと執務室を分け合っていた。ソーントンは、コー
チたちが、体力、持久力、および技術の面で選手たちに教えることの限界にそろそろ近づいていると感じてい
た。彼が思うには、メンタルトレーニングこそ、コーチとしてこれから切り開くべき領域だった。
スポーツ心理学はすでに盛んな分野になっており、今後いっそうその重要性を増して行くと思われていた。
リビングストンが求める勝利は、内なる自分に対する勝利であり、選手が持つ能力のすべての要素を調和さ
せようというものであった。そのため、彼は「
灼熱の集中心」
と自分で名付けたものを創造しようとした。彼の
教えの中心となるものがカスタネダの説いていること、すなわち、一瞬という時間を最大限に活用しなけれ
ばならない、あるいは今日という日が自分の人生最後の日というつもりで生きよ、ということだった。この教
えは、すでに精神が昂ぶっているレース当日ではそれほどのこともないが、決まりきったことを単調にやるこ
とが多い練習では極めて重要なことだった。選手が練習で計り知れないほどに強められていれば、レース当日
156
の精神面のタフさは自然に身についていることになろう。
バークレー校で三年間コーチをした後、リビングストンは落ち着かなくなり、一九八三年当時はハワイに住
んでいた。過去一年間、彼は定期的にニューポートに戻り、「
おじさんたち」
という年長者のグループを指導し
ていた。このグループは、ボートをやったことのない人たちの集まりだが、スイープ種目でオリンピックを目指
していた。ニューポートで、彼はブラッド・ルイスに出会った。ルイスは今までのコーチたちには疑わしい思いを
持っていたが、リビングストンこそ彼が捜し求めていたコーチだった。リビングストンは、ボランティアとして、押
し付けることはなく、何かを変えようとすることもなく、ただルイスがすでに持っている長所を伸ばしてやろ
うとした。一番良かったのは、彼がルイスの能力と、シングルスカルの選考会では良い成績をあげられるチャン
スが十分にあることを信じていることだった。
ルイスに選手たるもの戦士であれと教えたのは、カスタネダから学んだリビングストンだった。その意味す
るところは、戦場に出て敵と戦うのではなくサムライではなく、内なる自分と戦って勝つ戦士のことだった。
ルイスはこの考えに飛びついた。ただ、彼の心の中には強い使命に燃えている男としてのサムライのような戦士
の気分が強かった。リビングストンはリビングストンで、ルイスが行っていることに感心していた。まったく独自に、
ルイスは大変に独創的で、優れた総合的な練習計画を立てていた。リビングストンには、外部からのサポート
157
なしにルイスを長年に渡ってここまで駆り立ててきたのは向上することそのものを目的として来たからに他
ならないと思えた。彼が全霊を傾注しているだけに、彼は常に向上して来た。そして、向上してきたからこそ、
彼は自己を計る指標としてローイングを愛した。ルイスがリビングストンに練習を見てもらえないかと頼んで
きたとき、用心したのはリビングストンの方だった。彼はルイスに言った。「
ブラッド、君がやってきたことは大
変に素晴らしいことだが、それは、一つには君が自分で練習計画を立て、自分自身で完全に責任を持ってそ
れをやり通したことだよ。自信を持ってやりなさい。君が思っている以上に、君は正しいことをやって来たん
だよ」
過去一年半、ルイスは精神面を強化してきたが、それに加えて体力向上にも特別な努力をした。トップ級
の重量挙げ選手であった従兄弟のミッチは、物理療法士兼トレーナーとしてカリフォルニア州グレンドラ市で
働いており、他の運動選手たちに重量挙げを教えていた。その教え子たちの中には、オリンピックの柔道チー
ムや陸上競技の選手たちがいた。ボート選手の中には、重量挙げをやると無駄な筋肉がつくと言ってトレー
ニングルームに入ろうとしない者もいた。オアズマンというのはほっそりとしていて、敏捷性があり、パワフルで
あると思われていた。テレビのアクションドラマの怪人ハルクのように筋肉むきむきになってはいけないのだ。ミッ
チ・
ルイスはそうした見方は間違いだと言う。彼によれば、敏捷性を犠牲にすることなく、力をつけるウエイ
158
トを使ったトレーニングを組み立てることは可能なのだ。ソビエトや東ドイツでは、それをオアズマンにやらせ
ている。筋力がついたのに、それがオールの引きに結びつかないなどというのはナンセンスだ。引く力が強くな
ればなるほど、ボートはもっと速く進むはずだ。ブラッド・
ルイスは、自分の唯一の弱点は筋力が足りないこと
だと認識していたので、彼は従兄弟の指導でトレーニングしてもいいなと思っていた。二人は、一年半という時
間をかけてオリンピックを目指すことができるのだ。
専門の選手ではない人たちにとってウエイトルームは面白くないことが分かっていたミッチ・
ルイスは、少しず
つだが向上が分かるような練習計画を立てた。これならブラッドも達成感があるだろう。その練習計画は、
また、ブラッドのローイングの面においてもできるだけ早く結果が現れるように組まれた。そこで、ブラッドは、
週に三回、午後の水上練習をやめて従兄弟のもとでトレーニングすることにした。こうして、以前から大き
く、強力であったブラッドは、ますますそのような体つきになった。二ヶ月もしないうちに、彼のリド回りの時
間が下がって来た。十月のある日、彼は従兄弟に電話して言った。「
ミッチ、すごいよ。今日、リド二周の自己
ベストを二十三秒も縮めたんだ。」
それ以降、ブラッドは、病みつきになった。
彼はもともと大きい体格で、身長一九三㎝、体重八十六㎏だったが、体重が五㎏ほど増えた。増えた分は、
すべて腕と肩についたものだった。彼のやるウエイトは基本的に三種目だった。スクワットリフト、デッドリフト、
159
そしてベンチプレスだ。彼の力は、スクワットで百四十三㎏、デッドリフト百八十四㎏、ベンチプレスで百十八㎏
になった。重量挙げ専門選手にしてみれば、こんな数字は初心者としてはまあまあいいじゃないかという程
度のものかもしれない。しかし、ボート選手にしては、それは素晴らしいものだった。筋力がローイングに役立
つものであれば、ルイスが過去一年間に向上したのは間違いなかった。(
ある日、ハノーバーでのスカル合宿で、
ジョン・
ビグローが通りかかったとき、ルイスがベンチプレスをやっている最中だった。ビグローも試してみようか
と、ルイスがやっていた六十㎏のウエイトに手をかけてみたが、二回ほど持ち上げたところで力がなくなり、
やめた。ルイスは、その重量は自分のトレーニング用の重量ではなく、ほんのウォームアップ用の重量であると
は、さすがに気の毒になってビグローには言えなかった。
プリンストンでの週末はルイスにとって高いものについた。彼が負担した合計費用は、四千ドルに近かった。
自艇を東部に輸送するコストがかかった。自分と従兄弟のミッチのための航空券のコストもかかった。ルイスは、
また、ミッチに仕事から離れている間の報酬として六百ドルを支払わなければならなかった。ミッチは、コー
チとして、そして予選レース間にマッサージを施すために同行してきたのだ。マッサージは、レースの後で競争
相手よりも早く体を回復させる効果があるので、大いに有利になるであろうことを確信していた。
160
第十二章
予選レースで番狂わせはなかった。ゆったり楽に漕いだティフ・
ウッドが七分〇四秒一のベストタイムを記録
した。ベストタイムの漕ぎをすることが彼にとっては重要なことだった。それができないなら弱点がある兆候
だ。ビグローのタイムが第二位で、七分〇六秒四三、ブースカレンが第三位で七分〇八秒〇二だった。ブラッ
ド・
ルイスは予選で勝った。ジム・
ディーツは予選第二位で、タイムはビグローよりも七秒遅かった。ディーツは
敗者復活戦にまわることになる。彼は、敗者復活戦自体はあまり気にしていなかった。予選で比較的楽に漕
いでいたからだが、事実、彼は敗者復活戦を通過することになる
ティフ・
ウッドは、準決勝の組合せを見て怒った。抽選で決まった組合せはまったく偶然の産物だったが、彼
自身、ビグロー、ブースカレン、そしてディーツと、強豪選手はほとんどすべてその予選組に入っていた。このう
ち、上位三人が決勝に進出できる。ということは、誰一人として、レースを流して漕ぐことは許されないとい
うことだ。普通なら、準決勝レースの上位三人は楽だった。第四位の選手の前を行くようにペースを調整し、
ゆったり漕げばよいのだ。しかし、今やそんなことは言っていられない。悪いことに、他の組のトップ級の選手は
161
エネルギーを節約して、十分に休息した上で次のレースに臨める。(
ウッドの見かたは正しかった。その組の第
四位のタイムは、他の組の第一位よりも四秒も速かった。ウッド同様、ジム・
ディーツも準決勝組合せ抽選の
意味が分かっていた。決勝に進出するには、彼は準決勝に全力で臨むしかないのだ。なんとか決勝に進出して、
ここ一番でびっくりするような素晴らしいレースをやってやろうという彼の計画は露と消えてしまった。
対照的に、ブラッド・
ルイスの自信は大いに高まった。彼は会場に座って、係員が準決勝第一組の選手名を
ブースカレン、ビグロー、ディーツ、ウッド・
・
と読み上げるのを聞いていた。自分の名前が読み上げられるのを
待ったが、ついにそれが読み上げられなかったとき、彼は大きく安堵の息をもらした。他の四人は準決勝で潰
しあいになるが、自分は一位になる必要もなく、流して漕げるのだ。
準決勝レースは大変な接戦で、見事なレースだった。ウッドが第一位で、続いてあまり遅れることなくビグ
ロー、そしてブースカレンとディーツが第三位を目指してデッドヒートを展開した。ディーツの漕ぎは皆を驚
かせた。いつもならまるでエイトのようにスタートから飛び出すのだが、今回は、彼は自分のエネルギーを節約
し、ペースを抑え、最後に猛烈な力を爆発させた。彼はブースカレンを猛然と追い上げたので、ブースカレンを
マー クしていたウッドは、最後の三十本で力漕十本を入れさ せられた。これでウッドが第一位に入った。
ディーツは、自分ではブースカレンに勝ったと思っていた。彼の友人たちもそう思った。他の選手たちも、ほと
162
んど、そう感じていた。しかし、同着が宣告された。ディーツは怒った。自分が昔からの天敵とみなしている、
あのハリー・パーカーが裏で糸を引いたに違いない。ディーツはビデオテープで判定するように要求した。し
かし、カメラアングルが低すぎて、ビデオを見てもはっきりとしたことは言えなかった。二艇の間にいた他の一
艇が決勝線通過時の視界を妨げていた。結局、二艇とも決勝進出が認められた。
その判定にウッドも快く思わなかった。ブースカレンは、緩い意味での友人ではあるが、その友人関係も、二
人が同じ競技で競っているというだけで、微妙かつ油断のならないものだった。ウッドとビグローの場合はロー
イングが好きだという共通項によって一見ありそうもない関係ながら真の友情で結ばれている。それに対し
て、ウッドとブースカレンでは互いに相手を気に障る奴だと思っている。あの準決勝レースは誰にとってもきつ
いものだった。ディーツは決勝にとっておきたかったエネルギーを使い果たすはめになったし、ティフ・
ウッドに
してもその可能性があった。とにかく、ウッドはビグローに向かって言った。「
いいレースだった。」
この言葉を聞
いてビグローは喜んだ。なぜなら、それはウッドもかなり頑張らなければならなかったことを示しており、有
利な要因になるからだ。レースがただ純粋に艇速の勝負ということであればウッドに有利だ。しかし、持久力
勝負―二回のレースというのはまさに持久力の勝負になる―ならビグローに分がある。
誰も、少なくともアメリカにおいては誰も、ビグローを追い抜くことはできないし、終盤で彼の追い込みを
163
かわし切る者もほとんどいない。ティフ・ウッドの力をもってすれば、最後の五百㍍に入る時点で一艇身の
リードを保っていればビグローをかわすことはできるだろう。だが、その差もぎりぎりまで詰められることに
なるだろう。レースは二千㍍で行われ、最後の五百㍍にはおよそ一分五十秒かかる。ティフ・
ウッドのラストス
パートはすごいが、ビグローのように五百㍍にわたってスパートを続けることはできない。
その理由は、生理学的なものだ。選手の筋肉には二種類がある。遅筋線維と速筋線維だ。遅筋線維は、選
手のエネルギー補給を継続することができるので、高いレベルの持久力を求められるスポーツに最適である。
だが、そうした特性を持つ選手は、素早く爆発的スピードを出すのが苦手だ。それに対して、速筋線維は、
素早くスピードを出すことができるが、エネルギー補給が続かない。ジョン・
ビグローの体から切り取った筋肉
標本を調べると、彼の筋肉の七十二パーセントが遅筋線維であることが分かった。一方、ウッドは六十パーセ
ント台の低い方だ。ハリー・
パーカーは、ブースカレンの計測値はずっと低いのではないかと思っている。(
ブース
カレンは生体検査を受けたことがなかった。)
ブースカレンは三人のうちで一番エレガントに漕ぐし、このグルー
プの中の兎的存在だった。彼は、他の選手たちよりも急激にパワーを発揮できるが、終盤に息が切れてしま
う傾向があった。
ジョー・ブースカレンは、決勝レースのことを長時間考え抜いて慎重にレース戦略を立てた。序盤から速く
164
出るが、燃え尽きてしまうほど速く出てはだめだ。準決勝レースは、皆と同じように彼にとってもきついもの
だった。ディーツの終盤の追い込みには彼もびっくりさせられ、おかげで彼も全力で出させられる破目になっ
た。彼も、勝負はきわどかったし、ディーツの友人たちが、これはハリー・
パーカーが糸を引いたせいだと噂し
ていることも承知していた。
決勝に進出した全選手のうちでは、ジョン・
ビグローがもっとも安定していて堅実だと見られていた。彼はい
つも自分のレースを漕ぎ、スタートで誰かがぱっと飛び出しても自分のレース戦略を変えようとはしなかった。
彼が各五百㍍でやることは、他の五百㍍でやることとまったく似通ったものだった。彼は決勝レースに向けて
次第に自信を深めていった。準決勝では、彼のスタートはうまく行かなかった。一本目でバランスを崩してし
まったのだ。一本目でつまずいたために、回復に数本かかった。これからレースという猛烈な重圧の中で、彼は
あきらめて漕ぐのをやめようかと思ったほどだ。彼は過去にも同じような経験をしており、これは不安発作
の現われだと分かっていた。その不安というのは苦痛から来ていることも分かっているが、まるで彼の体がなん
とか彼をやめさせようとしているかのようだった。瞬間的に、彼は自分が頭の中で、今日はあまりレース気分
ではないから、あまり強く漕がないでおこう、と考えていることを意識していた。それは切迫した恐怖の一つ
の現れであり、彼がそれに屈したことはなかった。彼は次第に落ち着きを取り戻し、準決勝レースで素晴ら
165
しい漕ぎを見せた。結果的に彼が嬉しかったのは、自分がレース毎に強くなっているのが実感できたことだ。
決勝では、彼はティフ・
ウッドを叩くつもりだ。もし、五百㍍地点でティフと一艇身以内につけることがで
きれば勝つ自信があった。
風が許容レベル以上に吹き募っていたために、大会本部は決勝のスタートを遅らせざるを得なくなった。
ティフ・
ウッドは湖岸にとめたサーブ車の中に座っていた。彼のフィアンセや家族がやって来て、ちょっと口をか
わしては離れて行った。彼は無駄話をする気分にはなれなかった。彼は、大会の出場者の一人でありながら、
大会からまったく隔絶しているように見えた。また、考え込む時間があり過ぎた。緊張を振り払おうとする
こと自体が、緊張が相当なものであることを示している。彼は、他のスカラーたちと同様に、レースをするの
が好きだった。しかし、過去に何回となく不安に苛まされてきた。彼は自身の身体能力や、レースに伴う犠
牲はどんなものであれ払う覚悟については確信を持っている。しかし、彼は、レース前になると自分が過度に
緊張して締め付けられるような気分に陥っていることや、これから起きようとしていることについて過度に興
奮していることで、かえって自分をだめにしていることに気づいていた。彼は、ジョン・
ビグローの自信ぶりを羨
ましく思った。それは自信ではなかったのかもしれないが、いかにも自信ありそうに見えており、それで十分
だった。ビグローは皆が待機している場所を歩き回っていたが、その態度には先に控えているレースのことを気
166
にしている様子はまるで見られなかった。
一九八三年になってようやく、ウッドは悩まされてきた緊張から奇跡的に解放されるようになった。その
年は、ウッドにとって素晴らしい年だった。一九八一年にビグローに敗れたことで、彼は一九八二年に一層
ローイングに傾注して、初めて自分の技術面に磨きをかける練習をした。彼の大きな欠点は、ローイング用語
で言うところの、「
尻逃げ」
というものだった。これは、脚の蹴りと体の他の部分の動きがうまくつながっていな
いことを言う。これがあると、パワーの損失につながるだけでなく、艇の進みがぎくしゃくしたものになる。
一九八二年に彼がローイングに注ぎ込んだ厳しい練習の成果がシーズン後半になって現れ始め、彼は一九八
二年のトライアルレー スについて楽観的でいられた。そう したところへ、一九八二年の終わりに彼はニュー
ジャージー州カムデンにある大変なコースで漕がなければならなくなった。コースマーカーがうまく設営され
ておらず、連続して何個かのブイを打つ破目になった。最後のブイには強く当たり、転覆した。「
畜生!」
とい
う言葉と共に、彼は水面に落下した。彼はもう一度漕がせて欲しいと要求し、その場に居合わせたオリン
ピック関係者も同意したが、地元の人たちはそれを受け入れなかった。一九八二年の望みもこれで終わった。
だが、厳しい練習の成果は翌年になって報われた。今までどうもうまく行かなかったことが、ローイングで
も、個人的な生活のことでも、急にうまく行き始めた。まるで啓示を受けたように、浮き立つような気分
167
だった。こんな気分が全米トライアルから西ドイツのデュイスブルグで世界選手権まで続いた。
偉大なフィンランドのチャンピオン、ペルティ・
カルピネンは、一九八三年の年、シングルに出場することはな
かった。西ドイツのペーター・
ミヒャエル・
コルベ、東ドイツのウーベ・
ムント、それにモスクワオリンピックの銀メダ
リストであるソ連のワシーリー・
ヤクーシャが、この順でフィニッシュするのではないかと見られていた。スタート
で周りを見て、ティフ・
ウッドは、突然、自分にはメダルのチャンスがあるという強い気分に襲われた。彼は、俺
はアメリカで最高のスカラーとしてここにきているのだ、と自分に言い聞かせた。彼はすでにチャンピオンであ
り、それ以上のものを要求する権利は誰にもない。その意味で、彼が良い結果をだせる条件は整っていた。彼
にそんなに期待がかけられているわけではない。しかし、彼はすごい自信を感じていた。おそらく世界で二番
目に素晴らしいスカラーであろうコルベ選手と予選組が同じだったが、ウッドはほとんど彼と並んで漕ぎ、敗
れはしたがわずか一秒差だった。その結果、彼は敗者復活戦にまわった。彼は楽々と準決勝に進出した。準
決勝ではそんなにできはよくなかったのに、ムントに次いで第二位に入り、ヤクーシャが第三位だった。ウッド
はスタートから慌てた感じで発進し、漕ぎがぎこちなく、重かった。費やしたエネルギーのわりに艇速は伸び
ていなかった。それでも、彼はヤクーシャには勝ったのだ。コルベとムントは彼よりも一段格上かもしれないが、
決勝の日に手が届く距離にあった。彼がこんなに楽観的になれたことはなかった。
168
決勝レースのスタートではコルベ、ムント、それにヤクーシャは、皆、さっと飛び出し、彼は置いていかれた。最
初の百㍍で彼らはウッドの視界から消えていた。彼は途端に気落ちして、愚かなうぬぼれを後悔した。こう
なってはせめて自分として最高のレースをすることで満足するしかない。四位、あるいは五位に入ったからと
いって、そんなに悪いものでもない。二百五十㍍で、先行する他の三艇のうちの一艇に少しでも詰めておこう
と、彼は力漕十本を入れてみた。しかし、それは無駄な努力だった。相手は、誰も視界に入って来ない。その
時点で、彼は、レースへ
の意欲と精神的タフネスを失わないように頑張らなければならなかった。それでも何
とか進み続けられたのは、自分の調子は良いと感じていたからだ。残り五百㍍になって、周りを見ると、何と
ヤクーシャがすぐ傍にいるではないか。それから二人は接戦を演じた。こんなに落ちてきたということは、ヤ
クーシャはもうだめだな、と彼は思った。そこでウッドは出せるエネルギーをすべて振り絞って頑張り、ヤクー
シャだけでなくコルベにも詰め寄った。ソビエト選手のヤクーシャは、もう力尽きていた。レースも残り五十本そ
こそこになったとき、ウッドに観衆の歓声が聞こえた。それは、下馬評に上がっていなかったアメリカ選手がソ
ビエト選手を破ろうとしていることへ
の西ドイツの観衆の歓声だった。残り三十本でウッドはヤクーシャを抜い
た。彼は、メダルだ、メダルが取れる、と思いながら漕いだ。突然、彼はパニックに陥った。間違えたか、と思い
ながら、彼はフィニッシュした艇の数、それからまだ入って来る艇の数を慌てて数えた。彼は間違えてはいな
169
かった。彼は第三位に入っていた。銅メダリストになったのだ。彼は、モスクワオリンピックの銀メダル選手を
破ったのだ。ウッドにとって、それは栄光に輝く、そして記憶に残る瞬間だった。彼には、今でもあのとき自分
に向けられた西ドイツ観衆の声援がまざまざと蘇ってくる。
数週間後、彼はサンタバーバラ付近のキャシタス湖で開催されたレガッタで漕いだ。この大会は、プレオリン
ピックとして、アメリカおよび海外の選手とコーチがコースを下見する機会を与える目的で特別に予定され
たものだ。コルベもカルピネンも出場しなかったが、アルゼンチンのリカルド・
イバラ、スウェーデンのスベンソン、東
ドイツのムント、カナダのパット・
ウォルター、それにジョン・
ビグローなどが出場して速いレースになった。ウッド
は、決勝で非常に良い漕ぎを見せた。ムントとイバラが早々に飛び出したが、七百五十㍍付近でウッドはムン
トを抜き、さらに千五百㍍付近で余裕をもってイバラを抜き、余力を残して優勝した。ビグローは第四位
だった。このレースで、デュイスブルグでの結果はまぐれではなかったことが証明された。だが、数ヵ月後には、
これらの結果はウッドにとって重荷になった。一九八四年の今や、アメリカのスカル選手すべてが彼の後を追い
かけていた。本命選手として、彼は皆の目標になったのだ。
プリンストンでの観衆は少なかった。それは、オリンピック選手選考会というよりは、キャンプで車のテール
ゲートを開いてやるようなちょっとしたお楽しみパーティーを大きくした程度のものだった。準決勝を見守
170
る百人ほどの人々の大半は他の選手、あるいは出場選手の友人や家族たちだった。スイープのコーチであるク
リス・
コーゼニオスキーがスイープ選手選考会の一部として設定したペアのレースもいくつか行われていた。ジョ
ン・
ビグローの今のルームメートであるフレッド・
ボーチェルトはペア選手として漕いでいたし、スティーブ・
キース
リングもペアを漕いでいた。
脇の方では何人かの選手の家族のグループが、旧友の再会という感じで寄り固まっていた。ジョー・
ブースカ
レンの父親であるアンソニーが、ティフ・
ウッドの父親のリチャードに、この年、ウッドが大変良い成績を上げて
いることに祝辞を述べていたし、ジョン・ビグローがやって来て、彼の主敵二人の父親たちと言葉をかわしてい
た。彼はアンソニー・
ブースカレンを良く知っていた。ブースカレン氏が、息子のイェール在学当時に、自分の息
子に劣らずジョン・
ビグローのことも見守ってくれていたからだ。ビグローは、また、最近のスカル選手権大会で
のことからリチャード・
ウッドを知るようになった。ジョンは、ウッド氏に対して自分の父親であるルシアス・
ビ
グローが熱心に息子のボートレースの応援に駆けつけ、写真を撮ってくれること、そしてその中に昨年の世界
選手権決勝の時のウッド氏とティフの素晴らしい写真を何枚か撮っていることを話した。そのビグロー氏がこ
のレースの応援に来ていないということは、ビグローの何人かのライバルたちは、ジョンの腰がまだ完全に癒えて
いないサインではないかと受けとめた。ジョンの準備が万全にできているなら、ビグロー氏がオリンピック選手
171
選考会に来ないはずがないのだ。
こうしたことがすべて、この催しが、その昔、どこかで行われていたものであるけれども、それが時の流れに
抗して生き残ってきたかのような印象を与えていた。おそらく、テレビ放映されることがないからこそ、そん
な過去がしぶとく生き残れた理由であろう。ABC局がオリンピック放送を取り仕切るということになってい
たので、局にはローイングも放送する義務があった。実際、選手の一人がベンジャミン・
スポック博士などの元
選手と一緒に「グッドモーニングアメリカ」という番組に出演するという話もあった。しかし、番組担当者は
レース前にそれを録画しておこうとした。全米ボート協会の若い広報担当者キャスリン・
リースが、分かってい
らっしゃらないようですね、というような表情を浮かべて言うには、スポック博士は一九二四年のオリンピック
の金メダリストではあるけれども、彼はスカルではなくてスイープの選手だった、と言うのだ。種目が違います、
というわけだ。そうですか、それでは録画までにスカル種目のベテラン選手と、シングルスカルの優勝選手の都
合をつけて頂けませんか、と番組担当者は要望した。リース女史は答えた。「
優勝選手の名前は言えません。
まだ決勝レースをやっていませんから。」驚くにはあたらないが、これで録画のアイデアもボツになってしまっ
た。
172
第十三章
決勝レースで十五本漕いだところで、ティフ・
ウッドは、これはレース運びを間違えた、自分のペースを守る
ことができていない、レースの主導権を握っていない、と分かった。彼が後に述懐したことだが、それはあたか
もレースに負けることが予め決まっていたかのようだった。一分経過したところで、これはだめだという絶望
感に襲われた。前のレースの疲れが残っていたせいではなかった。そんなことよりも、もっと精神的なものだっ
た。おそらく、きついレースを連続してやる場合のビグローの優位性を意識しすぎたのだろう。振り返ってみ
ると、まるで霧の中で漕ぐようにふわふわとした漕ぎになってしまった。以前にもそんなレースを経験したこ
とがある。そんなときには、なにごともどうしようもなく自分の思うとおりになってくれない。しかし、こん
な大一番でそれが起きたことは今までになかったことだ。
この決勝レースでは、ジョー・
ブースカレンは予定していた以上の速いペースで飛び出してしまった。五百㍍地
点で、彼は、ティフ・
ウッドに半艇身、その他の選手には水を開けていた。ブースカレンは、自分は速く、力強く
漕いでいると感じていた。自分の感じでは、間違いなく、良く漕いでいるというレベルを超えて、最高のできだ。
173
しかし、千二百㍍あたりで、突然、ブラッド・
ルイスが猛チャージで突進してきて、さらに前に出た。そのあま
りの速さに、ブースカレンは対応する暇もなかった。彼はこれで一瞬精神的に崩れて、がっくりと来た。彼は、
ブラッドがこんなに速いスパートをかけてくることを予期していなかった。さらに周りを見渡すと、ウッドと
ビグローがスパートをかけてきた。ブースカレンにはもう余力は残っておらず、飛び出しが速すぎたという思
いがよぎった。
ブースカレンがきっと速く飛び出すだろうと予期していたブラッド・
ルイスは、前半の千㍍でできるだけエネ
ルギーを節約するようにペースを心がけた。二、三年前には持久力が彼の問題であり、東部の選手たちは彼
が疲れてくるのを待っていたことを知っていた。今や、しかし、彼はレース展開を心得ているつもりだ。それは
簡単なことではない。自分のレース戦略を立て、エネルギー配分を適切に行い、相手の強みと弱みを理解し、
誰かが飛び出しても慌てないようになるには長い時間がかかった。中間点で、ルイスはレースがあまりに簡単
なので驚いた。他の選手たちには予想外のはずだと分かっていて、彼はスパートをかけた。彼の突進が、あいつ
はそろそろ疲れてくる頃だというところで出たので、皆の意表を突いた。何がなんだか分からないうちに、ル
イスは皆に優に一艇身の差をつけた。彼は、いいぞ、行けるぞ、と感じていた。決勝レースは、自分がカリフォル
ニアでただ一人何週間も思い描いていた通りに運んでいる。
174
ビグローは、ブースカレンがさっと飛び出して早々に先頭に立ったことはあまり気にならなかった。それよ
りも、どういうことだ?と驚いたのは、ティフ・
ウッドのスロースタートだ。こんなにスローなのはティフらしく
ない。ティフはいつもレースの主導権を握ろうとする選手のはずだ。これは自分をわなにかけて調子を狂わそ
うとするウッドの新しい戦略か、とビグローは疑った。ティフはどうして後方に下がっているのか?自分にも彼
ほどのスピードとパワーがあるなら、できるだけ前に出ておくはずだが、と彼は考えた。そこまで考えて、彼
はそのまま遠慮なく前に出て自分なりのレースを展開しようと決めた。中間点付近で、ビグローはショーン・
コ
ルガンとジム・
ディーツを抜いた。彼はそのときになって初めて気がついたのだが、驚いたことにブラッド・
ルイス
が抜け出て艇速も鋭くブースカレンを追い上げていた。ルイスも良いスカル選手であり、それも非常に真剣な
選手ではあるが、この決勝レースで彼のことはビグローの計算に入っていなかった。だが、今やそのルイスが頑
張っていて、いつもなら脱落するあたりなのに、今までになく力強く漕いでいる。明らかに、ブラッド・
ルイスは、
誰にも気づかれることもなく、この一年間で大きく成長したのだ。自分とルイスの間に二艇身も水が開いてい
るのを見てとり、ビグローは、この二艇身もの差は最後の五百㍍だけで詰めるには大き過ぎる差だ、ブラッド
に追いつくには猛烈な苦痛を覚悟しなければならないし、それでも追いつけるかどうか分からない、と考え
ていた。
175
だが、ビグローには、ブラッドごときがチャンピオンスカラーになるのは間違っていると思えた。それは、ビグ
ロー的な秩序と序列の感覚にそぐわなかった。ティフをシングルスカラーとしてイメージするのは簡単だ。彼
は知性と自信を備え、メディアの扱いもうまいし、ボート選手たちのスポークスマンとして並外れた手腕も見
せている。だが、ブラッド・
ルイスは違う。彼は自信ありそうに見えるし、自信ありそうに話す。だが、その自
信ぶりは本物のようには思えないのだ。他の選手たちに親しそうな振舞いを見せたかと思うと、急にそっけ
なくなってしまうのと同様に、自信のほども安定しないのだ。ジョン・
ビグローは、シングルスカラーとしてのブ
ラッド・
ルイスのイメージが好きではなかった。残り五百㍍になったところでビグローはブラッドを追い上げ始
めた。ルイスに関係なく、彼は優勝しようとがんばったことであろうが、ルイスに対する嫌悪感情が一層の頑
張りの理由になった。ゆっくりではあるが着実に、彼は先頭との差を詰めて行ったが、それにしても差が大き
過ぎる、という思いはあった。
この時点で、ティフ・
ウッドも、いつも自分の方が勝っていたブラッド・
ルイスが前に出ていることに気がついた。
ティフは自分の体に鞭を入れた。彼はボートがそれまでよりも速く進むのを感じた。ウッドが力強く出始め、
一艇また一艇と抜いて行った。彼は鋭く突進してルイスに詰め寄ったが、ビグローもまた突進していた。ウッド
は、ルイスとビグローの二人に追いつくのは難しいと考えていた。ルイスを抜いて、決勝線でビグローに詰め寄る
176
ことまではできるかもしれない。もう百㍍あれば勝てるかもしれない。もう百㍍あれば・
・
と、彼は怒りの気
持ちの中で考えていた。
ブラッド・
ルイスはビグローが仕掛けてくるのを見ていた。ビグローのボートは、あの定評あるビグロースプリ
ントが始まったのだろう、まるで水から飛び上がるように見えた。ルイスはまったく疲れていなかった。それど
ころか、比較的に力強いものを感じていた。しかし、レースのこの時点におけるビグローはとにかく驚嘆に値す
るものだった。ルイスとしては、ここは落ち着いて、十本、十本と十本単位のセットを数えていくしかないなと
考えていた。五百㍍では十本を六セットやることになる。決勝線が次第に近づいて来るが、ビグロー、そして
ティフ・
ウッドがルイスに猛チャージをかけてくる。中でもウッドが急速に詰め寄ってくる。
決勝線に近づくにつれ、ジョン・
ビグローはブラッド・
ルイスが落ちてくるのを感じた。ルイスは、自分がレース
の主導権を握っているし、決勝線も近いということで、もう流して漕いでいるのか?そういうことかもしれな
いし、また別の可能性はルイスがあと一歩というこの時点で力尽きてしまったのかもしれない。ビグローは、持
てる力のすべてを注ぎこんだ。彼は、ティフ・
ウッドがチャージをかけてくるのを見ていた。あと三十本となり、
ビグローは岸で観衆が「
ビギー!ビギー!」
と叫んでいるのを聞いた。観衆が自分を声援してくれるというこ
とは、まだ勝てるチャンスがあるということだ。それで彼は一層の力を振り絞り、最後の三十本に全力をこめ
177
た。彼は、決勝線を通過するとき、随分を追い込みはしたがルイスの方の勝ちだなと思った。希望があるとす
れば、彼の視線は斜めになっていて正確な判断ができなかったことだ。先にその週末にあたり、ブースカレンと
一緒に漕いでいたとき、ジョーは彼に決勝線の角度がちょっと変だな、と指摘していた。決勝線には視覚的な
錯覚を起こし易いところがあり、勝ったと思われる選手が実は負けているということもあるようだ。イェール
時代のコーチのトニー・
ジョンソンが親指を突き上げているのが見えたが、彼は自分が勝ったのか確信を持てな
かった。
審判団の判定は、ビグローが七分二十七秒一で第一位、次いでルイスが七分二十八秒、ウッドが第三位で
七分二十八秒一、そしてブースカレンは七分三十二秒一だった。ジム・
ディーツは、連続して行われた二回の
厳しいレースで燃え尽き、第七位に終わった。
ルイスは不満だった。あとわずかというところで、勝利がするりと逃げてしまった。それに、彼は審判団の
決定を全面的に受け入れるわけには行かなかった。彼らは正しい角度から見ていたのか?あんな僅差を彼ら
は判定できたのか?ティフを破ったことだし、予定通りのレース展開だったのに、ビグローの奴はうまくかいく
ぐって行ったらしい。誰もがルイスが素晴らしい漕ぎを見せたことに驚いたが、ルイスの落胆は大きかった。そ
178
の晩、彼はミッチ・
ルイスに語った。「
俺たちはやるべきことは全部やった。ただ、おかしいのは俺が勝てなかった
ことだね。」
彼はさっさとプリンストンを出て、他のスカラーたちから離れて行きたかった。
ティフ・
ウッドはビグローのもとにやって来て祝意を述べた。ビグローの方はウッドのレースぶりに狐につまま
れたようだった。彼が、なぜゆっくりスタートしたのか、とウッドに尋ねたが、ウッドもその質問に答えられな
かった。答えのかわりに、ウッドは腕をビグローの肩に回して言った。「
ジョン、君が勝ったことで寂しく思うこ
とがあるのだけれど、それは二人でダブルを漕ぐことはもうできそうもないことだね。」
そう言うと、彼は家
族の方に行って、テールゲートピクニックに加わった。彼はとてつもなく長い期間、とてつもない努力を傾注し
てきたのに、ひどい結果になったことについてがっくりと来ていた。最悪なのは、最後にまだ余力が残っていたこ
とだ。それは、まるで罪を犯したようなものだ。
彼は、オリンピックではおそらくダブルかクオドを漕ぐことになるだろう。シングルスカルはもうあり得ない
のだ。あんなに長い間、非常なる決意で求め続けた目標だったのに・
・
。彼は失意を包み隠してピクニックを楽
しみ、それからクリスティと一緒に車で家に帰った。彼女は、彼以上にこの敗戦に打ちひしがれて涙にくれて
いた。彼はレースのことはあまり話をしなかったが、彼女には分かっていた。彼は車の中でずっとレースを振り
返っていたのだ。彼は叫び出したかった。だが、彼がときどき口にしたのは、「
畜生」
という短い言葉だけだった。
179
プリンストンから家まで、長すぎる車の旅だった。
180
第十四章
ジョン・
ビグローはすぐにはケンブリッジに帰らず、コネチカットへ
と車で向かい、ビグローお祖母さんのとこ
ろで数日過ごした。勝利の喜びを彼女と分かち合いたかったのだ。彼女はもう九十四歳だったから、二人が
共に過ごす時間はもうそれほど多くなかった。歩行補助具を使わないと動き回れないようになっていたが、
ビグローお祖母さんはそれでも競技に関心がある。彼女は目の前においてあるイェール番組表や同窓会誌を
見てはイェールスポーツ関係のラジオ放送を熱心に聞いているので、選手たちのことを驚くほどよく知っていた。
ある選手が登場すると、「
ああ、ジョン、この選手はすごいのよ」
などと言いながら、選手の実績を詳しくあげ
るのだった。(
数ヵ月後、ビグローはあるバーティーでそのハーバード大学のクォーターバックに会う機会があり、
彼に言った。「
あのね、僕のお祖母さんがさ、君はすごいと言ってたよ。お祖母さんは君のファンなんだ。」
これ
にはその若い選手の方が驚いた。)
その年、彼女はジョンがローイングをやることにあまり賛成ではなかった。彼女が思うには、余りにローイン
グに打ち込むことで、彼が自分自身とビグロー家を犠牲にしていた。もうそろそろ他のことに目を向けても
181
いい時期だった。ジョンは、今年は訳が違う、オリンピックの年なんだ、と説明しようとした。選手選考会の後、
彼女のもとで過ごしていた数日の間、電話が絶え間なく鳴り続け、いろいろな人が祝意を述べたり、インタ
ビューを申し込んできたりした。彼女が、いったいこの騒ぎは何なの、と尋ねたので、ジョンは、オリンピックだ
よ、僕が国を代表して世界を相手に戦う権利を勝ち取ったんだよ、と説明した。「
ああ、それは結構ね」
と彼
女は言った。彼女が喜んでいるようなので、オリンピックは彼女にもいいものらしい、と分かった。
彼は火曜日にはケンブリッジに戻るつもりでいた。月曜日になって、彼はハリー・
パーカーに電話した。二人
はレースのことを話し合ったが、会話の途中でビグローは言った。「あなたはティフに勝ってもらいたかったで
しょうね。」
パーカーはびっくりした。彼はビグローの突然の率直な物言いと、あからさまな態度の扱いにはもう慣れて
いたが、このときばかりは不意を突かれた感じだった。それと言うのも、その指摘が正しかったことも少なか
らず影響していた。彼は、ビグローの率直さには自分も同様に率直に出た方がよいとすぐに悟り、答えた。
「
まあ、そうだね、ジョン。ティフに勝ってもらいたかったよ。君たち二人は、スカラーとしてはほぼ同格だ。だ
けど、彼よりも君の方がチームボートに向いていると思うんだ。」
「
僕がダブルかクオドにまわり、ティフにシングルをやらせたいんですか?」
とビグローは尋ねた。
182
パーカーは、ジョン・
ビグローがオリンピックでシングルをやりたがっていることは誰よりもよく知っていた。そ
れだからこそ、これは微妙な問題だった。その話はけりをつけておいた方がよいだろう。「
ジョン、その質問へ
の
答えは日曜日に出たんだよ。君がシングルスカラーだ」
とパーカーは言った。パーカーは、こいつは変わった奴だ
と思っていた。
183
第十五章
選考会が行われた日曜日はティフ・
ウッドにとってつらい日だったが、翌日の月曜日は最悪だった。その日、
ソビエトが一九八四年のオリンピックをボイコットすることを発表した。絶頂期にもテレビにほとんど出るこ
とがなかったティフ・
ウッドは、地元のテレビ局記者たちに取り囲まれていた。何と言っても、彼は、地元の人、
オリンピック級の選手、その上、筋道を立てて話のできる人だった。ある日の午後だけで、四回も出演した。記
者たちは口々に、「
これは一九八〇年のしっぺ返しで、しょうがないでしょうかね?」と尋ねた。彼は答えた。
「一九八〇年の選手団の一員として、私は選手を大会に参加させるべきだと思います。しかし、私たちの多
くは、こんなことになるのではないかと恐れていました。ソビエトだけがボイコットするならそれほどでもあり
ませんが、世界で最高のボート選手である東ドイツまで来ないとなると、大会の意味が少し薄れますね。」
「
メダルの価値が低下するということでしょうか?」
ある記者が尋ねた。
「
メダルは、いつでもありがたいものです。」
「
あなたを見に来るファンも減りますかね?」
また別の記者が尋ねた。
184
「
ボートなんか、もともと誰も見に来ませんよ。」
翌日、彼は艇庫でビグローと合流した。ビグローは、抗議の意味で、ソビエトのローイングジャケットを着て、
ソビエトの帽子をかぶっていた。彼は怒っていた。
まるでだまされたようだ、と彼は言った。彼はソビエト選手のことはどうでもよかったが、東ドイツ選手が
来ないことは大問題だった。彼は東ドイツのルディガー・
ライヒェと対戦したことがあった。彼はライヒェを好
もしく思っていたが、ライヒェは彼に話しかけることを許されていなかった。東ドイツ当局は、選手間の交流を
喜ばなかったのだ。だが、ライヒェは格好がよく、優雅だった。彼はビグローにウィンクしてくれたものだ。その
ウィンクは、「
いいかい、くだらないことが多いけど、こうしたトップレベルで競技する選手でいられることはと
ても素晴らしいことさ。その中に僕たちはいる。僕は君のことを知っているし、君は僕のことを知っている。そ
れで十分。僕たちはつながりのある人間なんだよ」
とでも言っているようだった。
ソビエトや東欧ブロック諸国のオリンピック不参加は、シングルスカルの決勝予想順位に大きな変化をもたら
さなかった。アメリカのスカル選手のメダル獲得は、おそらく銅メダル一個であることに変わりがない。なぜな
ら、ビグローは、カリフォルニア州サンタバーバラ市に近いキャシタス湖で、史上最高とも言われる二人の偉大
なスカラー、フィンランドのペルティ・
カルピネンと西ドイツのペーター・
ミヒャエル・
コルベを相手に戦わなければ
185
ならないからだ。一九七六年と一九八〇年に金メダルをとったカルピネンは、伝説的なオリンピック三連勝の
ソビエト選手、ワシーリー・
イワノフよりも偉大で、おそらく史上最高のスカラーだろう。一方、コルベは、他の
時代だったら金メダルを三つとっていただろう。
カルピネンはベーブ・
ルースのような存在で、群を抜いているので、彼の出場する種目を彼独特のスポーツに
変えてしまった感がある。ビグローにとって、カルピネンは神様だった。彼に勝とうなどと考えることさえあっ
てはならない。せめて望むのは、コルベが脳の熱病に冒されたためにカルピネンに一泡吹かせてやろうなどと
考えてやみくもに頑張り、燃え尽きてしまって、自分が銀メダルをかすめとるチャンスを残してくれないだろ
うか、という程度だ。ビグローにしてみれば、カルピネンと一緒のレースに出場できるだけで名誉なことだっ
た。
カルピネンは、身長は二㍍、体重百㎏。上体は大きく盛り上がり、肩と胸はまるで、人民の労働者たる者
かくあるべしという理想を打ち出そうとした頭のおかしい左翼的彫刻家が形作ったようだった。それでいて、
彼の体は驚くほどしなやかだった。こんなに巨大で、力強い人間が、こんなに小さくて繊細なボートに乗って
競争できること自体がすごいことだった。スカル艇の幅はたった三十㎝ほどで、ちょっとした間違いや体重の移
動ですぐに転覆してしまう。カルピネンは、大きく、力強く、そして現代風な悪習に染まっていない、スカンジ
186
ナビアのカントリーボーイを完璧に体現していた。フィンランド東海岸の小さな町、ベマアの石工の息子で、六
人兄弟だった。一九七六年に彼が最初の金メダルに輝いたとき、村人のほとんどがカルピネン家を訪れて祝
意を述べたものだ。祝意は直接会って述べなければならなかった。なぜなら、カルピネン家には電話がなかった
からだ。
カルピネンは少年のときにスカルを始めて、二十一歳になった一九七四年になる頃にはスカルに真剣に取り
組んでいた。最初は、彼は体が大きいだけで、ぎこちなく、また力も強くなかった。レース終盤には脱落する
ことが多かった。一九七六年のモントリオール大会では、スカル界の神童といわれ、十九歳で世界チャンピオン
になったコルベが絶対本命視されていた。彼は、身長一九三㎝、力強く、テクニックにも優れていた。シングルス
カル決勝で、コルベはスタートよく飛び出し、千㍍では優々と他に差をつけていた。当時まったく無名だったカ
ルピネンは八秒差をつけられ、到底回復不能の時間差と思われたが、そこからカルピネンの猛追が始まった。
フィニッシュはオリンピック史上もっとも劇的なものの一つになった。残り二百㍍になった時点でもなおコルベの
優位は動かないように見えたが、彼のペースが落ちつつあった。カルピネンの方は猛烈な勢いだ。残り五十㍍、
まだコルベがリードしている。残り十五㍍でカルピネンがコルベを抜き、二秒半差で勝った。一九八〇年には、
カルピネンはモスクワでまた金メダルをとった。コルベは、アメリカの大会ボイコットに従って出場しなかった。さ
187
て、予想が正しければ、カルピネンがキャシタス湖で三個目の金メダルとり、コルベが二個目の銀、そしてジョ
ン・
ビグローが銅メダルの有力候補だ。
ジョン・
ビグローはハノーバーの合宿地を早めに出た。リュッツェルンでの大きな大会の前に、ヨーロッパの小さ
な大会でレースをいくつかやっておくためだ。リュッツェルンの大会は、オリンピック大会前の最終的調整の場に
なる位置づけだった。ヨーロッパでは不振が続き、彼は自分自身に腹を立てていた。腰は大丈夫だったが、何か
がおかしかった。
一番腹立たしいのは、自分が、三年前、二十三歳のときに国際舞台に初めてたったときほどのローイングが
できていないことだった。彼が出場した最初の国際レース決勝は、スカル選手としてわずか七回目のレースであ
り、ミュンヘ
ンでの第一予選レースはシングルスカルで五回目のレースだった。それなのに、びっくりするような良
い成績だった。一九八一年の夏にはその余韻をひいて、まだ良い方だった。彼はアメリカ選手権を勝ち取るに
は時間がかかるだろうと思っていたが、一年目の選考会で勝ってしまった。そして、全米チームとしてミュンヘ
ン
での世界選手権に出場した。ハリー・パーカーがチームのコーチで、彼はある日ビグローに言った。「
コルベは別
にして、君が勝てない相手はいないぞ。」
(
その年、カルピネンはダブルをやっていて、シングルには出場していな
188
かった。)
パーカーの言葉を聞いていたビグローは、パーカーの声に真実味がこもっておらず、パーカー自身も
自分の言葉を信じているわけではない、と感じた。彼は、自分はせいぜい第五位だろうと踏んでいる、ビグロー
はそう判断した。世界選手権予選レースで、彼はアルゼンチンのリカルド・
イバラと対戦した。イバラはヘ
ンレー
に出場してシングルで優勝したばかりで、ビグローの元コーチのフランク・カニンガムは彼を素晴らしいオアズマ
ンと評価している。だが、若くて経験不足のビグローは、恐れるものはないとばかりに、残り五百㍍になった
ところでイバラを抜いた。イバラが巻き返しに出てくるものと待ち構えたが、イバラは出てこない。ビグローは
そのまま差を広げて勝った。
勝っただけでも自分自身びっくりのビグローは、勝っただけでなく、予選レースの最高タイムを記録した。こ
んなに簡単なはずではないだろう、とビグローは思った。準決勝では、本命視されていた西ドイツのコルベに次
いで第三位に入った。このときばかりは緊張した。目標は決勝進出で、そのためには準決勝でよい結果を出さ
なければならなかったからだ。
決勝レースでは、彼はまったく自由な立場だった。そもそもここに来られるとは思っていなかったのだから、
失うものは何もない、と彼は考えた。対戦相手にコルベとルディガー・
ライヒェがいたが、彼らはスタートから
ずっと先に行ってしまっていた。だが、彼は自分のペースを守るレースを展開し、二十三歳にして銅メダルを獲
189
得した。ハリー・
パーカーが決勝線付近にいて、ビグローが見たことがないような笑顔を見せていた。そして、
自分のカメラで写真をぱちぱち撮っていた。このレース結果はハリーにとってそんなに重要なものだったのか
な?とビグローは怪訝に思った。やがて、彼は泣き出したくなった。望みの目標はすべて達して、わずか一年
のうちに世界選手権でメダルに手が届いたのだ。彼はコルベとライヒェと同じ表彰台に立ち、俺は世界の偉大
なボート選手二人と一緒にいるんだ、俺は銅メダルをとったんだ、と思っていた。
彼はその日の残りをボートの国際大会で昔から行われている習慣で、他の選手とのユニフォームの交換を
やって過ごした。その取引で得たのは、スイスチームのスウェットスーツ(
ソビエトのものほど珍重性がないが、ソ
ビエトのものはすでに持っていたし、それよりずっと上質だ)と西ドイツのローイングシャツだ。その夜、チーム
メイトは町に繰り出したが、彼はただ眠りたかった。彼のお祝いといえば、彼に相応しく、自分自身の発見と
いうことで、心の内で行われた。その日まで、彼は、医科大学に進学しようかなとずっと考えていた。医科大
学予科の課程をいくつかとってみたが、格別よい成績をあげることはできなかった。そんなこともあって自己
懐疑に陥り、医科大学進学の決心がつけられなかった。今や、しかし、ボートで目標を達成したことで、でき
ないものはないという気分になっていた。学校に帰ったら、もっと医科大学予科の課程に取り組み、医科大学
を目指そうと決めた。
190
一九八二年に彼は再び世界選手権の場に戻ってきた。今度は自信も野心も持っていた。コルベもカルピネン
も不出場だったが、身長一九五㎝、体重九十一㎏のライヒェはコルベと同格の存在だった。予選第一組で、ビ
グローはライヒェとあたった。うっかり予選一位だけが準決勝進出と思っていたので、彼は全力で頑張った。
レースはまったく力強いものだった。ビグローは勝たなければいけないと思っていたので一生懸命に漕いだし、
ライヒェはレースが好きなので彼もまた一生懸命に漕いだ。ライヒェが〇・
一秒差で勝った。レースの後で、ビグ
ローは、フィニッシュしたライヒェがコーチに向かって、「
さて、これからどうしましょうか?」
と尋ねたと聞かさ
れた。
ビグローは決勝レースで勝てると思っていた。彼は、以前に勝っているソビエトのヤクーシャにはほとんど注意
を払わず、ライヒェの対応に集中した。ライヒェとヤクーシャは早々に飛び出していったが、残り七百五十㍍に
なってビグローがペースを上げた。残り五百㍍でビグローがヤクーシャを四分の一艇身リードしていた。そこか
らヤクーシャが頑張り、ビグローを抜き返した。シングルスカルのレース終盤になってビグローが抜かれたのはこ
れが初めてだった。ビグローは、ライヒェに遅れること一秒四一で、またもや銅メダルだった。今度はライヒェも
自分をマークしていたのか、とビグローは気づいた。
191
第十六章
そうした結果は、すべて、将来もっと素晴らしい実績をあげることを約束してくれるものだった。しかし、
ビグローの成績は頭打ちになった。一九八三年には腰の問題のために不振が続き、予期していたようには調
子が戻らなかった。オリンピックに向けて準備中も、ビグローは、自分は正しい方向に努力を集中しているの
だろうかと次第に疑問を持ち始めるようになった。彼としては、アメリカローイング界の分裂を反映して、東
部のコーチと出身地の西部のコーチという二つのコーチグループの板挟みになっているようなものだった。ハ
リー・
パーカーやトニー・
ジョンソンのような東部のコーチはアメリカのジョー・
バークや西ドイツの有名なラッ
ツェブルグクルーのコーチのカール・
アダムといった人たちの弟子を任じていた。アダムが指導する、ほぼその地
方の選手で構成されたラッツェブルグクルーが一九六〇年のオリンピックで優勝すると、彼はアメリカでも影
響力ある人物になった。ラッツェブルグクルーは、フォームよりも筋力と持久力が重要であることを示した。
彼らは持久力トレーニングを重視し、長距離走をやり、ウエイトトレーニングをやり、エルゴメーターで練習し、
乗艇練習でもスタミナを向上させることを主眼にした。パーカーやジョンソンといったコーチたちは、選手の
192
漕ぎがよく、艇速が出ている限り、彼らのフォームをいじり回すのは生来好まなかった。トニー・
ジョンソンはい
つも言っていた。「
やってみなさい。とにかく、やりなさい。強く引いて。考えていたらだめだ。」
彼のお得意のせ
りふは、次にどの脚を動かそうかなどと考えていたらムカデは歩けなくなってしまうだろう、というものだっ
た。
対照的に、ビグローの西海岸のコーチたちは、パワーよりもフォーム重視の、いわゆる伝統派だった。その代
表格がハーバードでストローク手をつとめたフランク・カニンガムであり、ダブルを兄弟で一緒に漕いで全米選
手権をとった実績のあるスカル選手のチャーリー・
マッキンタイアなどだった。彼らの師匠にあたるのは伝説的
なスカラーであり、シアトルを根拠地にするボート製作者でもあるジョージ・
ポコックだった。彼らは、技術よ
りもパワーを重視する連中をスカル界のペリシテ人と呼んだ。エイトで技術よりもパワーを云々するならまだ
しも、スカルはそんなものではない。彼らは、スカルにおける欧州勢の大きな強みは技術を重視しているから
に他ならないと確信していた。マッキンタイアは、翻訳して読まざるを得ないアダムの教えに従おうとするア
メリカのコーチたちを徹底的にこきおろした。ポコックと彼の信奉者たちならば、教え方がうまいだけではな
く、英語で書いているではないか。カニンガムやマッキンタイアにとっては、他でもないビグローこそは自分たちの
選手であり、自分たちにとっての希望の灯りだった。東部の大学などに行ったものだから、ビグローは正しい道
193
を踏み誤り、パワーと持久力の理論に誘惑されてしまったのだ。彼は東部派に寝返ってしまい、スタイルを犠
牲にして筋力に走ってしまっている。驚くにあたらないが、彼らは、ビグローのローイングの質が低下し、向上
も頭打ちになっていると考えている。
特にマッキンタイアが声高にこの点について主張を述べている。彼に言わせると、ビグローの成功は、他の筋
力の強い選手たちよりもスライドの使い方が見事なことによっていた。スライドというのは選手が座る可動式
のシートのことだが、スライド上でぎくしゃくせずにスムースに力を発揮できるところがビグローの特別に優
れている点なのだ。そのおかげでボートは見違えるほど滑らかに進むことができる。マッキンタイアはいつもビ
グローにお説教をたれていた。「
いいか、スライドの使い方一つで相手を負かすことができるんだ。」
彼は、ビグ
ローが技術を忘れ、パワーに傾くことを嫌った。「あいつ、また蒔割りをやってるな。」マッキンタイアは、ビグ
ローが力ずくの動きになって、リズムを失っているということを言いたいのだ。前年の春に、彼はビグローに長い、
怒りの手紙を書いていた。「
やめろ!やめろ!やめろ!ま、どうせ、お前は俺の言うことを聞こうとしないの
だから、どうでもいいけどな。」
この年の春、コーチが技術を重視する派の人だったアメリカのスイープ陣が素
晴らしい結果を出しているのを見て、ヨーロッパで不振続きのビグローは、カニンガムやマッキンタイアが間違っ
ているか、分からなくなった。きっと、自分の技術面がおかしくなって、それで調子が悪いのかな、と彼は思っ
194
た。
ジョン・
ビグローは、ボートを習い始めの頃、として主にフランク・
カニンガムから良いコーチを受けていた。カ
ニンガムはかつてハーバードでストローク手をつとめたことがあり、ビグロー家の西部へ
の移住を理解しているつ
もりだった。それというのも、彼自身、同じようにして移住してきたからだ。カニンガムは東部の特権階級の
息子として育ち、ハーバードに進学し、体格のせいでその軽量級クルーで漕いだ。学業は戦争のために中断さ
せられたが、海兵隊の新兵教育は彼にとって目からうろこの経験だった。彼は、部隊の中でもっとも高い教育
を受けてきた人間であるが、その実、変な話だが、もっとも自由度が足りない存在であることに気がついた。
他の若い兵士たちは、除隊したら自分は何をするつもりだということを話していた。彼は、自分の将来のこと
をどうしようと考えたことがなかった。何人かの兵士が計画しているような、何かの商売をはじめるつもり
などという考えは、彼の考えの枠を超えている。彼はカニンガム家の息子であり、たしかにキャボット家やロッ
ジ家とは違うかもしれないが、それでも劣らないほど真剣に義務感というものを受け止めていた。フランク・
カニンガムには、そうした余りに多くの枷、余りに多くの過去とのつながりが負担になっていた。
彼は、戦後、ハーバードの学窓に戻り、身長がわずか一七八㎝、体重七十五㎏ながら、今度は軽量級では
なく、重量級クルーのストローク手として素晴らしい記録を残した。その中には、シアトルでの優勝記録があ
195
り、そのときのタイムは十二隻レースの大会記録として三十年間にわたって破られることはなかった。一年後、
まだ何をやりたいのか決められず、カニンガム家の息子として自分自身不甲斐ない思いをしていた彼は友人
と一緒に国を横断する放浪をして、ようやくシアトルに腰を落ち着けた。そこには比較的小所帯ながらハー
バード同窓会グループがあり、彼のローイングの実績がまだ大きくものを言った。東部と違って、シアトルでは
期待のされ方が違った。落ち着いてから数週間後のこと、彼はハーバード同窓生の数人と夕食会のテーブルに
ついていたが、そのとき誰かが彼にもう仕事は見つけたか、と尋ねた。「
いいや、まだなんだ」
と彼は答えた。し
かし、そろそろ仕事探しにかかるつもりだった。尋ねた男は言った。「
慌てることはないよ、フランク。ゆっくり
時間をかけてやれよ。」
その言葉を聞いて、カニンガムはこの地を根拠地にしようと決めた。ここなら息がつけ
るというものだ。
彼は手始めにシアトル市のジュニア向けローイング教室のコーチをやった。その後、パブリックスクールで教職
を勤めるかたわらコーチをやり、さらに英語教師およびローイングコーチとしてアッパーミドル階級の子弟の
ための典型的な郊外の全日制学校であるレイクサイド校に移った。彼は一風変わったコーチだった。彼は、レ
イクサイド校では良好かつ規律ある部活動と、午後五時半までに子供たちを水から上がらせることを約束
した。優勝するとは約束しなかったのである。彼は、十七歳の子供たちが勝ったり負けたりすることと自分の
196
エゴをごちゃまぜにするようなコーチになるつもりは毛頭なかった。優勝といえば、彼はハーバードで一生分
もの優勝を味わってきている。彼は、子供たちにローイングというものを教えるだけであり、後は選手次第だ。
彼は、ローイングは楽しいぞ、とも約束しなかった。父兄が、彼の教え方が手ぬるいのではないかという不平を
言ったとしても(
実際のところそんな苦情はほとんどなかったのだが。それというのも、フランク・
カニンガムは
タフな男で、父兄も軽々には彼に苦情を言い難かったので、少なくとも面と向かった苦情はなかった。)
、彼は、
厳しさは艇庫の整理整頓とボートの手入れに十分現れているでしょう、と言葉を返しただろう。だが、彼も
ハーバードでトム・
ボレスやバート・
ヘ
インズといった師範格のコーチの指導を受けた男だ。(
バート・
ヘ
インズは軽
量級のコーチで、まだ若かったカニンガムが彼のもとに行って、重要なレースではどういう漕ぎを心がけるべき
か教えを乞うた。ヘ
インズは答えた。「
フランク、スタートで飛び出したら、そのまま先を譲らないようにすれ
ばいいんだよ。」
)
カニンガムは、自分の知識を子供たちに伝えたかった。誰かが、先生のボートはレースではど
うだったんですか?と尋ねたときなど、彼のいつもの答え―「
勝つより負けるときの方が多かったね」
―は、ほ
とんどうれしそうだった。彼は生徒に厳しい練習を課す方ではなかったが、彼のもとから巣立って行った選手
たちはアメリカの誰にも引けをとることはなかった。
フランク・
カニンガムとジョン・ビグローの関係は複雑だった。それは、賞賛、あいまいさ、抑制、そしてまった
197
く異なる目標が入り混じったものだった。カニンガムは、ビグローを素晴らしいボート選手と評価はしているが、
彼がもっと独立心を持って、人間としてもっと完全な人になってくれることを望んでいた。一方、ビグローの方
では、カニンガムのことを勝つことよりも技術と艇庫の整理整頓にこだわっている人だと思っていた。レイクサ
イド校ではアメリカンフットボールに劣らずサッカーが重視され、ローイングは高級なスポーツとされていた。
ローイングが高級なスポーツとされる理由は、少なからず、父兄の多くは彼らの子弟をアイビーリーグの大
学に入れたがっており、アイビーリーグに行くためにはローイングが最高の手段だったからだ。
レイクサイド校に入学した当初の秋、ジョン・
ビグローはサッカーをやった。冬にはスクワッシュをやり、春に
はローイングをやってみようと考えていた。なぜなら、ローイングをやっている生徒たちは、学校で一目おかれ
る存在であり、人柄の感じが良かったからだ。ビグローは、最初の年、あまりローイングが好きになれなかった。
ローイングというスポーツは厳格で、練習も厳しく、カニンガムの教え方もただ叱るだけのように見えた。そ
れに、勝つということは幾分なりとも費やした努力に対するご褒美の感じが持てるのに、それにはあまり重
点がおかれていなかった。カニンガムにしてみれば、生徒一人一人が何が自分にとってベストかわかっているは
ずだった。二年生になって、ビグローはラクロスをやった。それは父親がイェールでやったものと同じスポーツ
だった。だが、ラクロスは彼には荒っぽすぎるように思えた。女性たちがやるラクロスのように、あちこちにパ
198
ディングや防具をつけてやるなら、彼もそれを楽しめたかもしれない。その年の春、彼は学校から車で帰る
途中に浮橋の上でしばらく止まった。水面は波一つなく、彼は眼下に広がる景色のおだやかさに見とれた。
ちょうどそのとき一隻のボートが通り過ぎて行った。ビグローの心の中に、自分も漕ぎたいという強い欲求が
湧き上がり、ボートを漕ぐときの体の動かし方が自然に浮かんできた。ボートがそんなに楽しいものとは自
分でも分かっていなかったことだ。
そこで、彼は三年生になってまたボートをやることにした。カニンガムは、ビグローが一年生のときには素晴
らしい選手だったので、彼が戻ってきたのをうれしく思い、いっそう厳しくあたった。
問題は、戻ってきたビグローが、カニンガムには喜ばしいどころか面倒な存在になったことだ。カニンガムの目
には、ビグローはこのスポーツを頭で考えたがるように映った。彼は果てしなく質問を繰り返し、何についても
細かいことをその理由と共に知りたがった。そうした彼の好奇心は、一部にはローイングに対する真剣な関
心によるものもあったが、また一部には自分は他の者たちとは違うということを見せつけて注目を引こうと
しているのではないかと、カニンガムには思えた。ビグローは絶え間なく説明を求める質問を繰り返し、カニン
ガムは彼に言うのだった。「
ジョン、正しくできているときには、自分でもそれを感じているはずだよ。」
それで
もビグローは説明を求め、そしてカニンガムは答える。「
うるさい、言われた通りにやれ!」
カニンガムの怒りは、
199
ある日、ビグローが艇庫の中で技術について質問したときにとうとう頭に来た。
カニンガムは彼を脇に押しのけたが、ビグローは「
カニンガム先生、僕はうまくなるために知りたいんです」
と
粘った。
もうあきあきさせられたカニンガムは言った。「
ジョン、そんなことはどうでもいい。」
「
ですが、先生、先生も僕にうまくなってもらいたでしょう・
・
」
とビグローは口を継いだ。
「
ジョン、君のお母さんならうまくなってもらいたいだろうな。お父さんもそうだろう。しかし、俺はお前の
ことなんか・
・
。」
だが、カニンガムはジョン・ビグローがいつか並外れたオアズマンになるかもしれないとは分かっていた。彼は
まったく教え甲斐がある選手であり、シリアスなオアズマンに不可欠な、ある資質を備えていた。カニンガムの
言葉を借りると、ビグローは「
憑かれたようなしつこさ」
を持っており、良きオアズマンたる者はすべて、ローイ
ングというものの実際の価値を度外視してこのスポーツに打ち込むものなのだ。それに、ジョン・ビグローは、
運動選手として高い知性、ローイングへ感性、そして一定の大胆さを備えていた。彼が三年生のときのある
レースで、クルーは高いレートで飛び出したものの数百㍍行ったところで一艇身差をつけられていた。そこで、
ビグローはレートを四枚落とした。これは普通にはない動きで、十七歳の少年がそんなリスクを冒すなど聞い
200
たことがなかった。これが他のストローク手ならむしろレートを上げたことであろう。あるいは、力漕十本を
入れたかもしれない。しかし、ビグローはまずボートをしっかり安定させて、程よいテンポに落ち着かせた。こ
れでレイクサイドのクルーに一体感が生じて、キャッチもそろい、そして艇速が伸び始めた。レース後、ビグ
ローは非常な喜びにひたった。「カニンガム先生、カニンガム先生、やりました!やりましたよ!」と彼は叫ん
だ。
カニンガムにはビグローがどこまで成長するか皆目見当がつかなかった。しかし、翌年、ビグローが対校ク
ルーのストロークをつとめたときに、その兆候が現れた。彼のローイングに対する取り組み姿勢は他の選手た
ちよりも真剣であり、彼は真剣さの度合いで成果に違いが生じると考えていた。彼は、他の選手たちが自分
ほどの集中力や真剣さで取り組んでいないときには怒りを覚えた。あるとき、自分の後ろのシートで私語が
多くなったとき、彼は、その内の一人に向かって、ボート以外のことをしゃべったら彼ジョン・
ビグローがそいつ
を水の中に放り込んでやる、と言い放った。その警告が守られなかったので、ボートが艇庫にもどってから、ビ
グローは、実際、そいつを水の中に放り込んでやった。そして、場をとりなすつもりで、自分も飛び込んだ。そ
うすることで、水に放り込まれるのもそれほど悪いものではないぞということを示し、また、おそらくは誰か
に放り込まれる前に自分から入ってしまえというつもりだったのだろう。
201
彼とカニンガムの関係は、互いに相手に対する賞賛の思いと、不満の入り混じったものであり続けた。その
理由の一つには、父親との緊張状態があったために、ビグローが学校のコーチに対して、コーチとして現実にで
きる以上の大きな役割を期待していたためかもしれない。微妙な言い回しで、彼は、カニンガムがあまりに多
くのことを要求する割にはクルーに対して厳しくあたらないし、勝利へ
の執着も見せないではないか、という
思いを表現していた。一方、カニンガムの方でも、同じく微妙な言い回しで言うのだが、ビグローが大人になり
きっていないくせに、彼の普通でない感性で人々を操って自分の望む方向に引っ張っていこうとする、と思って
いた。イェール大学が彼に関心を示しており、どうやらビグローはイェールに行きそうだった。アメリカンフッ
トボールやバスケットのようなスポーツの場合の新入生勧誘と違い、イェール大学の勧誘はおだやかなもの
だった。新人担当コーチから電話が数回、それに数回のレター、ただそれだけだった。そうは言うものの、勧
誘には違いない。
その年の夏、彼はレイクサイド校の友人ポール・
モストとペアを組んで練習していた。ビグローの母親に言わ
せると、漕いで、食べて、寝て、また漕ぎに出かけた夏、ということになる。二人の練習は真剣なものだった。
あちこちの筋に助言を求めた後、彼らは練習計画を練り上げた。初めて、ビグローは今までになかったレベル
のパワーを自分の内から絞り出した。二人はどこかの大会に出場したいと望んだが、ボートの大会は東部に
202
しかなかった。最終的に、二人はその年の夏、フィラデルフィアで開催される全米選手権に的を絞った。レイク
サイドの校長は、ペンシルバニア大学のコーチであるテッド・
ナッシュと馴染みがあり、二人のためにボートを借
りる手配をしてくれた。彼らは中級カテゴリーで出場登録をしたが、後でビグローが気づいたことだが、それ
は間違いだった。彼らはエリート級でも通用する力があったのだ。彼らはレースで快調に漕ぎ、第二位に入っ
た。ビグローはあまりにあっさりと結果が出たので驚いた。彼は、レースの後で、バウのモストが、まだ前にもう
一艇いるぞ、と言ってくれなかったことで腹を立てていた。優勝できたかもしれないのだ。このとき初めて、ビ
グローは、ローイングなら自分は何か大きなことができそうだと予感した。
ビグローがイェールに進学するのは当然と思われていた。兄のルシアスが願書を出したときには、難しいとい
う通知を受けた。つまり、入学が許可される確率はほんの一パーセントということだ。しかし、父親が裏で糸
を引いてルシアスを入学させた。ルシアスにとって、イェールは楽しい場所ではなかった。そこでは、頭のよい学生
はとてつもなく頭がよく、スポーツ選手は彼よりも優れていた。後になって、彼はボストン大学に転学した。そ
んな事情で、ビグローもイェールなんかに行ったら同じ轍を踏むことになるのではないかと恐れた。一応、願
書は出したものの、彼はウィリアムズ大学に行くつもりだった。だが、ウィリアムズ大学は不合格になり、合格
通知を受け取ったのはワシントン大学とイェール大学の二校だけだった。彼は家に残るつもりはなかったので、
203
イェールしか行くところがなかったというのが本当のところだった。
イェールに入学してみて、彼はサッカーをやろうか、ボートをやろうか、迷った。彼は、学科面でも人との
付き合いでも自信が持てなかった。それでも、彼は自分自身に自信と帰属感を与えてくれる何かのグループ
に属していたいという希望を持っていたことは認識していた。兄のルシアス・
ビグローに助言を求めたら、ルシア
スは弟に、お前はスポーツに何を期待しているのか、と尋ねた。ジョンの答えは、ローイングをやろうかと考え
ている者にしてはおかしなものだった。彼は、楽しいものを求めているというのである。ルシアスは言った。「
それ
ならローイングをやればいいじゃないか。ローイングをやっている連中は仲間意識が強いらしいからな。」
ジョンはイェールの一年生クルーの第一ボートに乗り、十三年ぶりにハーバードを破る結果をもたらした。
しかし、それでもローイングに全力を傾注すべきか確信が持てなかった。彼は合唱団にも所属していた。彼は、
よい声をしていた。最終的には、彼はボートの友人は合唱の友人よりも大事だと判断した。オアズマンは、皆、
ローイングをやるために非常なる犠牲を払っているので、お互いの関係は非常に強いものになっていた。
いったん決めたからには、ローイングをやることの覚悟には完全なものがあった。イェールのローイング活動
は一九六〇年代の初めからばらばらの状態だった。一九七六年の秋にビグローがイェールに入学したとき、
ハーバードが、一九六三年以来、毎年恒例の四マイル対校レースで連勝を続けただけでなく、東部で行われる
204
大会のほとんどを制していた。イェール大学ボート部は沈滞して、艇庫には負けて当たり前の気分が漂ってい
た。一九七〇年代の初め、イェールのコーチは新入生の重量級第二ボートを編成するのも苦労するほどに
なっていた。ローイングでは、敗者が着ていたユニフォームを勝者に差し出すのが伝統になっていた。イェールの
ローイングシャツは青地に白の縁取りがしてあり、サテンの飾り帯がついた高級なもので、決して安物ではな
かった。非常に多くのこうしたシャツが献呈されてしまったので一九七〇年代には、大学は新人には簡単な青
いTシャツを着せることにした。だが、一九七五年には非常に良いイェールクルーの核になる選手たちが集ま
り始めた。
翌年、ビグローの他にスティーブ・
キースリング、デイブ・
ポッター、そしてエリク・
スティーブンスが加わった。
初めから、ビグローの存在が大きいことには疑いがなかった。だが、彼は自分に好意を持ってくれている人たち
にとっても扱いにくい男だった。彼はトニー・
ジョンソンのことを、あたかも自分が夏季学級に来ている子供で、
その先生に話しかけているように「
ミスター・
トニー」
と呼びかけた。(
「
ミスター・
トニー、今日はどんな練習で
すか?」と彼は尋ねる。ジョンソンは、三分間漕をやるつもりだ、と答える。「きつい練習になりますか、ミス
ター・
トニー?」
と彼は尋ねる。ジョンソンが、そうだ、すごくきついだろうね、と答えると、「
あなたにもきつ
いんでしょうか、ミスター・
トニー?」と尋ねる。ジョンソンは、いいや、俺はコーチをやるんだからね、たいして
205
きつくないよ、と答えた。)
ジョンソンは、うまい具合にビグローを扱った。彼はことさらビグローに対してきつくあたることはせず、彼
の態度にことさら大げさに反応することはしなかった。ジョンソンは、ビグローが優れた、そして競技に打ち
込んでいる選手であることは分かっており、ビグロー自身が、いろいろな手を使って、自分が何者で、どういう
立場にあるかということについての気持ちの揺れを表現しているのだということも分かっていた。だが、トレー
ニング、規律、集中力などといった重要な点については、まったく手を抜くようなことはしなかった。ビグロー
は、ごまかすようなことは絶対しなかった。どちらかと言えば、彼はコーチを助けて、その指示を実行させる
役目を引き受けていた。ビグローは、自身素晴らしいな選手であるばかりでなく、その技量と、一見、普通の
人のように見えていながらエルゴですごいスコアを叩き出す事実とで、他の選手たちも自然と頑張るように駆
り立てていた。少しその言動に人を苛つかせるところがあるが、彼の運動選手としての真剣さと競争心を疑
う者はいない。彼が他の分野で成長することを欲するのかは彼自身の問題だった。
ジョンソンは対決的姿勢をとることはせず、ビグローを額面どおりに受けとめた。ビグローが朝食前に艇庫
に現れ、やたら多くの質問をしたとしても、ジョンソンは、普通、途中で遮るようなことはしなかった。しかし、
ある日、ビグローの質問も度が過ぎたとき、ジョンソンは彼に向かって、「ジョン、チームには三十人ものメン
206
バーがいるんだよ。その一人一人からいっぱい質問を受けて、それに私がいちいち答えていたら、他にやるべき
ことをやる時間がなくなってしまうだろう。だから質問は一つにしろ」
と言った。ビグローは、まるで小さい子
供のように質問した。それからビグローは、もじもじしながら尋ねた。「ミスター・トニー、あの、デイブ・ポ
ターの代わりに質問を一つしていいですか?」
また、あるときには、これは春まだ浅い時期のフロリダでの長期
のきつい合宿練習のときだったが、ジョン・
ビグローは艇の上から一羽の鳥を指差し、「
あの鳥は何の鳥ですか、
ミスター・
トニー?」
と尋ねた。翌日、トニー・
ジョンソンはフィールド用の鳥類図鑑をモーターボートに持ち込
み、どの鳥が何の鳥であるか、見分けてあげようとした。後日、皆がタンパ大学図書館の前を歩いているとき、
ジョンソンは変わった鳥の大きな群れに気がついた。「
あの鳥は何の鳥か、分かるか、ジョン?」
と彼は尋ねた。
「
いいえ。」
「
ジョン、あれは黄頭ゴイサギというんだよ」
と前日の夜、図鑑を調べていたジョンソンは言った。彼は
図鑑を取り出し、ビグローに手渡した。こんなことをやってジョンソンは楽しんでいた。
ハリー・
パーカーの後塵を拝する形で連敗続きのために自分のコーチの仕事も危うくなっていたジョンソンは、
ついに自分のところにも優秀な選手が入ってきたかと思った。彼自身も素晴らしい実績のあるボート選手で、
一九六八年のオリンピック大会で舵なしペア銀メダルに輝いていた。(
彼のペアは、最後の十㍍で東ドイツペアに
抜かれ、一㍍差、時間にして東ドイツの七分二十六秒五六に対して七分二十六秒七一で敗れた。)
彼の性格
207
はパーカーほど強烈ではない。普通の人の感覚からするとジョンソンは異常に熱心な人と思われるかもしれ
ないが、彼の比較的におだやかな性格は、それこそがボートの世界では変わっているということになるのだ。
当初、彼はイェールクルーにそれほど厳しく接しはしなかった。学生たちがローイングを学び始めていると同
様に、ジョンソンもコーチのあり方を学び始めていた。彼が着任した当時、カントリークラブ的雰囲気とまで
は言わないにせよ、イェール大学ボート部の真剣度合いは全身全霊を傾けてというにはほど遠い状態にあった。
ジョンソンの指導下にあるクルーのいくつかでコックスをつとめたアンディ・フィッシャーは二年生のときに春の
チームミーティングに出席して驚いたものだ。上級生たちが来るべきシーズンの目標を話していた。来るべき
シーズンの目標だって?時期は今や三月で、来るべきシーズンの目標を検討するには遅すぎる。今、シーズン
がまさに始まろうとしているわけで、ハリー・
パーカー率いるハーバードクルーは前年の九月から厳しいトレー
ニングを続けているというのに。イェール大学ボート部新入生はそんな強烈な意欲を持っていたが、上級生の
方はさほどでもなく、部は割れた状態になっていた。上級生の何人かはブースカレンやフィッシャーといった新
人たちを見下していた。あまりに厚かましいから、という理由だ。彼らは、また、ビグローをも見下していた。
態度がスマートではなかったからだ。新人三人は三人で、ローイングに真剣に取り組んでいない上級生に対す
る軽蔑心を隠そうとしても、それは見え見えだった。
208
ジョン・
ビグローにとって、トニー・
ジョンソンが選手たちに説いていたもののうちで最も大きく影響を与えた
のは、体を鍛えるとき、限界などというものはない、というものだった。ジョンソンは、これを繰り返し説いた。
限界は心の内にあるのであって、体にあるのではない。心と体の葛藤において、練習のときに体を極限まで追
い込めば心の方が勝利するものなのだ。こうして、ジョンソンはウエイトマシンを使ったトレーニングで一回でも
多く繰り返すことを要求するなど、次第に厳しくしていった。選手たちは、苦痛の叫び声を上げながらもこ
れに応えた。選手たちが外からの助けなしに続けられなくなったときなど、友人たちは選手の脚をマシンの
上で動かすのを手伝ってやった。体の方はとっくにギブアップしているのだが、心の力でそれを無理に動かして
いるのだ。これが、ジョンソンが言うところの、限界を押し拡げるというものだった。
ブースカレンは、いつも自分たちがやっていることを分析して、その理由を知りたがった。ときには、彼のそ
うした質問がジョンソンの気に障った。ある日、選手たちがウエイトサーキットをやっているときに、ブースカレ
ンがもっと軽い重量で繰り返し回数を増やした方が良いのではないかと提案した。普段はおとなしく、注意
深いジョンソンが、「
黙れ、言われた通りやれ」と言葉短く命じた。要するに彼が言っているのは、「
ジョー、お
前は考え過ぎる。だから、お前のローイングもだめなんだ」
ということだ。(一九八四年、ブースカレンとビグ
ローがオリンピックに備えて強化練習中にイェールが出場するケンブリッジでのレガッタを見に行った。「
トニー
209
に会ったかい?」
とビグローは彼に尋ねた。「
うん」
とブースカレンは答えた。ビグローは尋ねる。「
彼は何と言っ
ていた?」
ブースカレンは答えた。「
考え過ぎるな、だってさ。」
)
この四年間でビグローほど自分自身に厳しい練習を課してきた者はいない。ときどき、他の選手たちはとて
もビグローの基準にはついて行けないことを思い知らされた。彼の集中力は並外れており、ボートの上で誰か
がさぼっていると彼にはすぐ分かった。ローイングから来る苦痛は他の者たち同様にあるのだが、彼はそれを
できるだけうまく包み隠した。ときとして、彼はコックスのフィッシャー(他の誰でもない、コックスだ)
に「
今日
はやりたくないよ。体が痛いんだ」
と明かした。フィッシャーはうなずいた。それでもビグローは艇上の誰より
も強くオールを引き続けた。何年か後になって、チャンピオンシングルスカラーになっていたビグローは、スカル
の練習前にトレー ニングマシンを使ってウォー ムアップをす ることにしていた。それには理由があった。この
ウォームアップを通じて、苦痛がどれほどのものになりそうか、見当がつくからだった。マシンである回数をや
ると、ひどい苦痛に出会うポイントがある。彼はそこでさらに数回やってみて、最終的に苦痛がどの辺まで行
きそうか、それに耐えられそうか、推し量ることができた。そうして、乗艇練習のときに同程度の苦痛に見
舞われると、あとどの程度耐えられるか知ることができた。さっき、マシンの上でやってきたばかりだからだ。
ビグローが乗った新人クルーは惜しくも東部地区スプリント大会で優勝を逃した。二年生になって、彼は二
210
番を漕ぐようになったが、その頃からイェールの対校クルーが勝ち始めた。そのシーズンから、一九七八年の
ことだが、イェールは再びあの高級ローイングユニフォームに戻った。同じ年の六月、フィッシャーは、ビグローを
二番においておくのはもったいないのではないでしょうか、彼にはストロークを漕がせるべきで、リーダーとし
ての天賦の才を持っていると思います、とジョンソンに進言した。ジョンソンもほぼ同じように考えており、三
年生のときにジョン・ビグローは一九七九年のイェール大学対校クルーのストローク手をつとめた。このときの
クルーは、イェール史上もっとも優れたものの一つとうたわれるようになった。
ビグローのチームメイトとの関係はいつも微妙なものだった。三年生のとき、イェールローイングの古い世代
の名残である四年生たちは彼をクロケット委員に指名した。それはイェール大学ボート部において伝統的な
仕事の一つではあったが、それをやりたいという部員はあまりいなかった。それというのも、クロケット委員と
いうのは、本当のところ、ちょっとふざけた役回りだからだ。やることはと言えば、バス旅行を計画して、その
バスにはクッキーがあるように気を配り、ハーバードとの定期戦にそなえて待機するゲイルズ・
フェリーにある
イェール大学艇庫でクロケットのゲームを組織することなどだ。だいたい、このクロケット委員というのは第二
ボート、あるいは第三ボートから選ばれることが多かった。クロケット委員はクロケットの試合で負けることは
ない。なぜなら、試合進行中にでもルールを適当にでっちあげることが許されているからだ。この役回りのよ
211
いところは、せいぜい、そんなことくらいだ。そんなわけで、指名されるのはまったくありがたくない。ビグロー
指名の狙いはある意図を持ったものだ、と友人たちは思った。この指名にはビグローも驚き、うれしくなかっ
た。上級生たちはこの指名を通して、「
なるほど、お前はよい選手かもしれないが、お前はしょせんアウトサイ
ダーなんだからな。覚えておけ」
と言いたいわけだ。
クロケット委員は、ボーイさんと呼ばれていた。「
ボーイさん」
、と他の者が呼びかける。「
ボーイさん、クッ
キーが欲しいんだけど。」
最初のミーティングで、ビグローはボーイとしての自分流のルールを設定しようとし
た。彼曰く、ボーイは皆に平等に接し、公正を期します。そうすることで皆さんの尊敬を得るようにします。
ボーイは、また、言われた通りにします。しかし、彼はボーイとしての仕事をあまりうまくできなかった。
ジョークの対象にされ、自尊心を傷つけられた。
ジョン・
ビグローが三年生のとき、ほぼ二十年ぶりにイェールがハーバードとの定期戦を制するのではないか
と前評判が高かった。イェールはすでに東部地区スプリント大会で優勝しているが、そこでハーバードなどを
破っている。唯一負けたのは比較的弱いダートマス大学を相手にしたときだった。このときは荒れたコンディ
ションで、イェールの艇は危うく沈没の憂き目に会うところだった。この時期のイェールクルーは、平均で一九
三㎝、九十一㎏という超大型クルーであり、ハーバードよりも大きく、まるで相手を見下すような威張った
212
クルーだった。
ローイングという厳しい世界においてさえ、ハーバード=イェールの定期戦は別格の存在だった。ほとんどの
レースは二千㍍、つまり一マイルと四分の一の距離で争われる。しかし、毎年、ニュー・ロンドンのテームズ川で
行われるハーバード=イェール定期戦は四マイル、六千四百㍍で行われる。それは、まるで、一試合一時間で
終わるフットボールチームが最終的な選手権大会では一試合三時間で争うようなものだ。このレースでは、
他に例を見ないようなやり方でスタミナと勇気が試される。一九七八年には、腰を痛めていたイェールのスト
ロー ク手のデイブ・ポッター は三マイルを通過したところでほとんど意識を失ってしまい、アンディ・フィッ
シャーが顔に水をひっかけてやってもだめだった。そんなことがあってイェール艇は後れを取り、ハーバードが
二艇身差で勝った。それでもあのときのレースは素晴らしかったと言われている。しかし、一九七九年の定期
戦は別格に素晴らしかった。
ハリー・
パーカーの言によると、「
それ以前にあれほど素晴らしいレースはなかったのではないかと思います
ね。今後もあんなに素晴らしいのはおそらく出てこないのではないでしょうか。」一九七八年のときには、
イェールがスタートで余りに控えめに出てしまった反省として、ビグローはスタートから速く行くことにした。
実際、そのようにスタートを切り、出だしを三十八という高めのレート、コンスタントを三十六で通した。大
213
変にきついペースであったが、うまく行っているようだった。二マイル地点でイェールが一艇身リードだった。こ
の差は、ある見方からすれば大きいリードだが、イェールのペースがかなり速かったこと、そしてそのために選
手の力がかなり使い果たされたことを考えると非常に少ないとも言える。二マイル半地点でハーバードが出
て、並んだ。ビグローは素晴らしい力量でイェールを引っ張ってきたが、対面のストローク手であるゴーディー・
ガーディナーもまた劣らずハーバードを引っ張っている。ビグローの後ろを漕ぐスティーブ・キースリングは、
目の片隅でこの二人を見守り、まるで二つのレースが同時進行しているような感覚を覚えた。つまり、一つは
ハーバードとイェールの戦いであり、もう一つはビグローとガーディナーの個人的な争いだ。しばらくは、オー
ルの動きに応じて、両艇、抜きつ抜かれつの接戦が続いた。まず、ハーバードが出て、次いでイェールが先行す
る。またハーバードが出たかと思うと、イェールが抜き返すという状態だ。どちらも相手を突き放そうとす
るが、決定的な差を奪えない。残り一マイルというところでハーバードが一艇身リードした。ハリー・
パーカー
は、これで決まりだな、と思った。普通なら、こんなに長く並んで激しく争った場合、その差は意志の勝利を
表し、あとは差が一方的に開くものだ。勢いのあるクルーには力がみなぎり、自信が増す。そんな力と自信
がパワーとなる。抜かれた方は弱々しくなり、精神的に当初のやるぞという気持ちが身体から消えうせる。
しかし、ビグローはぎりぎりの終盤でイェールクルーを盛り返し、ハーバード艇に迫って行った。もう時間がほ
214
とんど残されていない。と、イェールの選手が一人オールで水をつかみ損ねた。そして、ハーバードが勝った。四
マイルの距離を争って、差は四秒だった。
あのときのイェールクルーのメンバーは、今なお、レースの一部始終を思い描き、一本毎のストロークを感じ
ることができる。両艇が出たり入ったりする様子についての彼らの記憶はびっくりするほど鮮明だ。彼らが学
生時代のローイングのことを話すとき、必ずあのときのレースのことが話題になる。そして、どうしてあのと
きは負けてしまったのかと答えを模索するのだ。中には、ビグローのペースが速すぎたのではないかと思ってい
る者もいる。だが、彼らはパワフルなクルーであり、準備万端整っていた。もしビグローのペースが遅かったら、
ハーバードが早々にリードを確立してしまったかもしれないのだ。きっと、相手が素晴らし過ぎたということ
かもしれない。その年のこれより前、ハーバードがサンディエゴでの大会で優勝したとき、ハーバードの選手の一
人が艇上に立ち上がり、チームメイトに呼びかけた。「
おー、皆、ハーバードの神様だ!」
一九七九年のレース
では、アンディ・
フィッシャーがこの台詞を逆手にとった。イェールが並ぶ都度、「シート一つリードした・・
シー
ト二つリード」
と掛け声をかけるのではなく、「
ハーバードの神様一人抜いた・
・
神様を二人抜いた」
と言ったの
である。それはすぐに彼らの大切な記憶になったが、同時に忌まわしい記憶でもあった。あんなに良く漕いだ
のに、あんなに良いクルーだったのに、負けてしまった。
215
翌年、ビグローはストロークではなく、六番を漕いだ。彼がストロークをやるとペースが高すぎて他の者がつ
いていけない感じがあった。しかし、イェールは、その年も結局勝てなかった。最後の一マイルでばらばらの状態
になり、苦い敗戦を味わった。このイェールクルーはこれで終わりを迎えたが、不完全燃焼の意識が残った。
イェール大学ボート部の復活の一端を担ったのに、あんなに良いクルーで、素晴らしい漕ぎをしていたのに、
ハーバードを破ることはできなかったのである。
ジョン・
ビグローは将来の道筋もないまま大学を卒業した。チームメイトの大部分の者と同様に、彼はロー
イングに徹底的に打ち込み、その世界に完全に閉じこもっていたので、その後の人生をどうしてよいか、分か
らなかった。ボートの選手たちはほとんどプロスポーツのように徹底した生き方をしてきたが、他のスポーツ
と違ってローイングにはプロとしての生き方は用意されていなかった。二十一歳か二十二歳でクルーの擬似プ
ロ生活は終わり、彼らは新たに自分自身の人生を始めなければならなかった。
特にビグローは、どうしてよいか分からなかった。医科大学も考えてみたが、学部レベルの成績はそれほど
良くはなく、医科進学課程も受けていなかった。ガールフレンドとも別れてしまった。悪いことに、彼女は他の
ボート部選手のもとに行ってしまった。二人の別れ方は苦く、後味の悪いものだった。どういうわけか、相手
のボート部選手の車のタイヤの空気がなくなったりもした。ちょっと途方にくれて、ローイングのように余計
216
なことを考えずに打ち込むことができるものが見つからずに人生の方向が定まらないまま、ジョン・
ビグロー
はシアトルの実家に帰り、自分の将来を考えた。自分の人生にぽっかりと大きな穴が開き、自分自身どうし
てよいか分からなかったので、彼はシングルスカルの練習を始めた。
シアトルに戻って、彼はカニンガムとマッキンタイアの二人にコーチしてもらった。もっともカニンガムとの関係
は一筋縄ではいかないままだった。まずカニンガムが嫌ったのは、テクニックを犠牲にして力と持久力を優先す
るビグローの姿勢だった。長い間、こうした緊張状態は危機状態にまで陥ることはなく、互いにローイングを
愛していることには違いがないので、二人は友好的な関係を保ってきた。ところが、一九八三年の冬に、二人
は一大衝突を引き起こした。対立の原因は、いくぶん皮肉なものであった。一九八三年に、ジョン・
ビグローは
全米チームのコーチであったハリー・
パーカーに、世界選手権に際してボート整備を担当するボートマンとし
てフランク・
カニンガムを同行させてはどうかと提案した。カニンガムは、その道のエキスパートでもあった。カニ
ンガムは、シアトルで三十年ほど教職を続けた後に三年ほど前にリタイアして、当時、フリーの立場でコーチ
をやったり、ボート整備をやったりしていた。
自分のスタイルを批判するカニンガムとマッキンタイアにいらいらしていたビグローは、特級の技術がなくて
もボートは走るし、優れた技術だけでは遅いボートもあるということをカニンガムに見せてあげようというつ
217
もりでヨーロッパ遠征を提案したのであった。そうしたビグローの意図を知らないハリー・パーカーは、どうい
うことかと少し不思議に思ったが、カニンガムの整備技量を知っているのですぐに同意した。フランク・
カニンガ
ムに教えてあげようというビグローの意図は良かったにしても、選んだ遠征が悪かった。アメリカチームはまっ
たく不振だった。もっとも良い結果を出したのがティフ・
ウッドで、シングルスカルで銅メダルだった。カニンガム
の見解では、そのティフでさえ下手なわりに銅メダルを取れたと言ってもよいくらいのもので、そのスタイルに
はあまりの無駄があるのにあきれかえってしまった。ビグローはクオドのストロークをつとめたが、第七位に終
わった。カニンガムは、自分の思うところを胸の奥底にしまっておくようなことはしなかったが、カニンガムとビ
グローの対立を引き起こすこともなかった。対立は、その年も遅く、ハーバードでコーチをしている一人である
ブルース・
ビールがシアトルにやって来たときに起こった。
ビグロー家で夕食会があり、カニンガムも招待されていて、ボート仲間の楽しい集いとして、世界選手権の
模様を撮ったルシアス・ビグローの素人映画を映すことになっていた。しかし、ディナーが始まる前のこと、皆
があちこちに座っているときに誰かがレースのときの写真を回覧した。その内の一枚はアメリカのエイトを撮っ
たもので、正確さが命のこの競技において左右ばらばらの状態を示していた。その写真がカニンガムのところに
回ってきた。彼は、「
みっともないね」
と一言いい、笑った。彼が放ったこの一言は、大きな間違いで、彼も後悔し
218
た。怒ったジョン・
ビグローは顔を怒りにこわばらせ、立ち上がると演説を始めた。後に自分でも分かったのだ
が、彼はカニンガムを痛めつけてやろうと思っていたのだ。「
あなたと家の父は、レースの映画の後ならこれらの
写真についてどうぞいくらでも話し合って下さい。映画の前に話はしないでもらいたいですね。今、あなたから
何も聞きたくありません。」
やがて映画が映された。カニンガムの意見では、やはりエイトはみっともないものであった。その後でビグロー
はカニンガムのもとに行き、彼に言った。カニンガムには全米代表チームをそれほど批判する権利はない、とい
うのだ。せっかくビグローの提案で遠征に参加したのに、そんな批判を、それもビグローの家で、繰り広げるの
はビグローを裏切るようなものであるのは明らかだった。カニンガムは、思った。まあ、いいだろう、これはレー
スに備えて、ジョンの目からすると、あれほど厳しくトレーニングを積んできたチームメイトを立てているわけ
だから。それは理解できる。カニンガムは、また、思った。ようやくジョンも、もはや少年ではなく大人になった
ということだ。カニンガムを批判するのに、自分の父までそれに加えたのはどういうことだろうか?まあ、そ
れもいいだろう。それから段々話が個人的なものになってきた。ビグローがカニンガムに対して、あなたの他の
人へ
の期待はいつも高過ぎる、若い選手たちに対してせっかちで、思いやりがないと言い立て始めた。あれ、話
の主題がいつのまにか違う方向に行っているぞ、とカニンガムは思った。彼はビグローに反論しようとしなかっ
219
た。しかし、彼は若いプリンスに衣をはがされたような苦い気持ちでビグロー家を後にした。それから数週間、
彼はジョン・
ビグローから何の音沙汰も受けることもなく、二人の関係はこれで切れてしまったものと思ってい
た。ところが、二ヵ月後、ビグローと彼の友人のポール・
エンクイストが彼の目の前に現れ、来るオリンピックを
控えて二人のダブルスカルの練習を見てくれないかというのである。あの日の夕食会のことはまるで話しに出
なかった。
220
第十七章
ローイングというものが高潔心、名誉、そして力に満ち溢れた、定量化可能なスポーツであるとすると、
チームの合宿はそれとまるで逆なものだった。それはダーウィン的な最小公分母(
訳注:
集団の中でもっとも
劣る者を指す比喩的用法)
の世界だった。こうした合宿はまったくひどいもので、不安と緊張に苛まされ、必
然的に偏執狂的になってしまう。つまらないことまでも定量化され、重要な意味を持つようになる。十四人
の選手を集めておいて、わずか五週間のうちにパーカーはそこからダブルとクオドのクルーを編成しようとい
うのである。だいたいのスポーツにおいて、本来、選手選考は簡単なものだ。全員にシングルスカルを漕がせて、
あっさりと上位六人を選べばよい。しかし、クルーとなると話が違う。個の合計が全体、とは必ずしもならな
いのだ。パワーは中程度だがテクニックに磨きをかけた四人のスカラーの方が、合宿でパワーでは上位だった四
人を集めたクルーをあっさりと破ることもある。六月にプリンストンでもう一回オリンピック選考会が予定
されていた。ここには合宿には参加しなかった選手たちが乗るボートも出場を予定しており、パーカーから
切り捨てられた若い選手たちも合宿組に挑戦する権利を与えられていた。(
彼らは、一層のこと、やってや
221
るという意欲に駆られていた。)
こうしたダブル、クオドといったボートはすでにずっと一緒に練習してきてお
り、また合宿組のクルーは数週間後にならないと決まらないということもあって、アウトサイダーの方が、天
賦の才能では劣るにせよ、一緒に練習してきた有利性があった。そうしたクルーの一つが選考会で勝つかもし
れないという可能性もあって、合宿所での偏執狂ぶりもいよいよ増すのだった。
こうした緊張感に満ちた時期、スカラーたちは、誰もがハリー・
パーカーを見守り、自分がパーカーのお眼
鏡にかなっているか、静かに謎めいたパーカーが何を思っているのか、考えをめぐらせるのだった。こうしたぴ
りぴりした雰囲気の中では、昔からの友人もライバルになり、敵になる一方、新しい環境の中では昔からのラ
イバルと同盟関係を結ぶことにもなった。さらに、ジム・ディーツを含み、選手の中には、ハリー・
パーカーを
好きになれない者もいて、彼らの方でも自分たちがパーカーに嫌われていることも承知していた。だいたいの
選手が彼のことをハリーと呼び、彼のことをまるでローイングの神様のように話していたが、ディーツは彼のこ
とを「
パーカー」
と呼び捨てにし、彼を敵と思っていた。ハリー・
パーカーをじっと観察していた者は、彼の選手
選考法は合理性と精神主義的なものの不思議な混合物であることを承知していた。彼はシートレースを得
意としており、ハーバードでの練習でも、そして彼が仕切る合宿でも徹底的にそれをやった。しかし、彼は、
また、自分の直感も大事にしていた。また、シートレースでは現れにくいがレースに勝ちをもたらす、ローイン
222
グ上の他の技術もおろそかにしなかった。合宿では、彼は、ときとして、その技量に信頼をおく特定の選手を
過酷なシートレースに最小限しかさらさないように、そして彼らが負けることのないような環境を仕組んで
やる方法で守ってやった。彼は、また、強い選手たちをわざと相手にさせて、あまり欲しくもない選手たちを
疲労困憊させることもした。ハリーは、ケンブリッジで教え子だったティフや、ジョーや、チャーリーといった
連中のえこひいきをするだろうか?ハリーが、ティフとチャーリー・アルテクルーズを一緒に漕がせたという
ことは、彼らにダブルを漕がせる決定をもう下したのだろうか?
ティフ・
ウッドは、自分がダブルかクオドのメンバーになれるであろうことにまったく疑念を持たなかった。
彼は、また、ハリー・
パーカーに対しても特別に注意してかからなければならないという気持ちもなかった。
過去十三年間にわたるウッドの人生で、かくありたいと思わせるよう な象徴的人物はと言えば、ハリー・
パーカーその人であった。合宿でティフの調子は上がらなかった。プリンストンでのあの敗戦から来る失望感は
外目にも明らかだった。彼の唯一の目標はシングルスカルで勝つことだったことが、彼自身の心にのしかかって
きた。彼は、一時は、合宿所を出てリュッツェルン湖での国際レガッタでシングルに出場してみようかと考えた。
それをそんなに真面目に考えていたわけではなかったが、シングルスカラーであることがいかに彼にとって重要
223
なものであったかを示していた。十三年にわたる彼の人生はただ一つの目標をめがけて構築されていた。とこ
ろが、彼は目標にほんのわずか届かなかった。チームボートに戻ることは、彼が考えていた以上に困難だった。
彼は、過去四年間、一人で漕いで来ており、自分以外に気を使う必要はなかった。彼の漕ぎ方が荒っぽいにし
ても、力強い漕ぎであり、それで誰か他の人のタイミングを狂わせることもなかった。それが今はチームボー
トに戻ったことで、彼は慣れるのに苦労している。それはまるで、シングルで向上すればするほど、チームボー
トには適さない、となっているかのようだった。
合宿は席取ゲームの様相を呈しており、多くの者が切り捨てられる運命にあった。それに、パーカーをよ
く知る者は、今年はパーカーが異常に気が散っていることに気がついた。問題の一つは、ハノーバーでシングルス
カル選手たちを指導している最中に、イェールとの恒例の四マイル定期戦に備えて平凡なハーバードクルーを
も指導しなければならないことだった。イェールに対するハーバードの長年にわたる優位の後、過去三年間は
イェールが定期戦を制していた。また、イェールだけでなく、他のクルーも追いつき始めていたのである。各地の
コーチたちも、今や、パーカーの通年トレーニングを真似てやっているし、新人発掘においても、彼よりも積極
的にやっている。パーカーは、出向いて候補選手を自校に勧誘するのが好きでも、得意でもなかった。その選
手がボート部にとどまれる保証はないのだ。
224
さらに、彼は自分自身の失望感を隠す苦労も味わっていた。彼はアメリカローイング界の大物とされるこ
とに慣れており、スイープとスカルの両方のコーチを兼ねることを望んでいた。当初、オリンピック委員会はス
イープコーチが自分の時間を自校のチームとオリンピッククルーに割り振っても良いとする職務内容を設定
していた。それに従って、ハリー・
パーカーはオリンピック委員会に対して企画書を提出していた。しかし、彼が
まさにそういうことをしているときに、オリンピック委員会は、オリンピックにおける近年のアメリカボート界
の不振に頭を悩ませ、方針を変更してしまった。その背景には、母国ポーランドから亡命中の才能あるコー
チ、クリス・
コーゼニオスキーにコーチを引き受けてもらえそうな状況があった。コーゼニオスキーは、他の職責
にわずらわされることなく、全米から才能ある選手を集めては、年間を通して彼らの面倒を見る、フルタイ
ムのナショナルコーチならば引き受けてもよい意向だった。突如として、全米コーチの職務内容が大きく書き
換えられてしまった。オリンピック委員会ボート部会はスイープのコーチとしてコーゼニオスキーを選任し、
パーカーはスカル種目のみを任されることになった。オリンピック委員会ボート部会が、最高のアメリカ人
コーチたちをこけにして、外国人を選んだことにパーカーはがっくりとした。もう長いこと誰にもその地位を
脅かされることなくやってきたパーカーは裏切られた気持ちになり、非常に個人的な調子で部会の決定に
対して抗議した。彼の気持ちからすれば、部会の決定は自分が育てた選手を他のコーチに渡してしまうよう
225
なもので、彼は狭められた自分の地位を甘んじて受け入れることが出来なかった。
プリンストンでのトライアルの日、パーカーとチャーリー・
アルテクルーズの間でちょっとした衝突があった。
アルテクルーズは決勝進出がならず、プチファイナルと呼ばれる順位決定戦で漕ぐことになっていた。これは、
決勝進出を逃した六人の選手に対して八位から十三位まで順位をつけるものだ。順位決定戦は、普通は、
それほど重要なものではない。しかし、オリンピック合宿の強化選手候補を選抜しようとしているコーチに
とっては、このレースも比較的大きい関心事だった。アルテクルーズが順位決定戦を棄権することを決めたこ
とがパーカーを怒らせた。アルテクルーズは彼のお気に入りの選手の一人ではあったが、パーカーはアルテク
ルーズを呼び寄せ、彼の態度を叱った。驚いたことに、それに対してアルテクルーズがパーカーに、あなたの態
度こそおかしいと噛みついたのである。つまり、自分がスイープ選手をコーチできなくなった失望感のために、
パーカーがオリンピックスカルチームの指導に身を入れておらず、スカル選手たちはなおざりにされている感
じをもっている、と言うのである。
アルテクルーズの反応にびっくりしたパーカーは、数日後、ティフ・
ウッドに連絡をとり、いったいどうなって
いるのだ、と尋ねた。パーカーと話をしながら、ウッドは、アルテクルーズの言っていたことは、本当のところ、
正しかったとパーカーが認めているような感じがしていた。パーカーはエイトを任されなかったことについて失
226
望していたし、その影響が彼の態度に現れているのだ。ハーバードのOB選手たちがアルテクルーズの言ったか
を聞き及んだとき、彼らは愕然とした。十五年も前なら、ハリーに対してそんな口のききかたをする者は誰
もいなかった。
ハノーバーで、パーカーはシングルスカル決勝に皆の眼が向き過ぎていたためにチーム全体に対して悪影響
が生じていると判断した。パーカーは、コーチとしてウッド、ビグロー、それにブースカレンに対して極力公平
に接してきたが、内心ではシングルでウッドに勝ってもらいたかった。ウッドとビグローの差は無視できるほどの
もので、一方に銅メダルの可能性があるなら、もう一方もその可能性を大いに秘めていた。ビグローがチーム
ボートにおいて重要な戦力になり得るのに、ウッドにはそれを期待できなかった。今や、ティフ・
ウッドがこの
合宿を楽に過ごせる道はないことは明らかだった。
パーカーはシートレースを始めてからの数週間、静かに遠くから見守る姿勢をとった。彼が静かにしていれ
ばいるほど、緊張感は大きくなった。彼がダブルスカルの選手としてチャーリー・
アルテクルーズとジョー・
ブー
スカレンを望んでいるのは疑いがなかった。ウッドは、最初、戸惑い、悩んだ。心配すればするほど、彼はパワー
のみに頼ろうとし、漕ぎが荒くなった。彼は、この合宿で調子が上がっている者がいるのかどうか、分からな
かった。彼が見るところ、アルテクルーズはまずまずのようだった。アルテクルーズは、プリンストンでのシングル
227
スカル選考会では振るわなかったが、ここに来てから調子がピークに来ているようだ。彼はパワフルなオアズマ
ンで、まだスイープからスカルへの転向途上にあった。単純な有酸素運動能力の観点からすると、彼はビグ
ローやウッドと同格の選手と仲間内ではみなされていた。ウッドにはパーカーが何を考えているか読めていた。
アルテクルーズは素晴らしいレーサーで、力強さではこの合宿に来ている誰にも優るといえども劣ることはな
い。ブースカレンは素晴らしいスカラーであり、並外れた技量を持っている。この二人を組み合わせれば・
・
。
しかし、ウッドは、こうしたパーカーの判断は見当違いだと思っていた。レースを何回かやらなければなら
ない大きな大会では持久力が重要な要素になるだろうが、その点、彼はブースカレンより強かった。それに、
ブースカレンはオアズマンとして機械的とも言えるほど技術が優れているので、彼が乗るボートは練習初日も、
その数週間後も同じようなできを示すだろう。もう一つのダブルの組合せ、たとえばウッドのパートナーを
組む相手としてアルテクルーズと、あるいはルイスと、あるいはビグローとすると、最初はそんなにうまく行
かないかもしれないが、よりパワーを秘めたボートになるだろう。アルテクルーズ=ブースカレン組のボートが
向上の頂点に達して、それ以上の向上が望めなくなる時期が来てからも、もう一方のボートならさらに力
をつけて行くのは確実だ。ウッドは、パーカーが目の前の合宿で起きていることだけにとらわれず、ボートの
パワーという考え方に方向性を与えて欲しかった。ウッドは、また、自分が力量の劣る選手と組み合わされ
228
ることが多く、ジム・
ディーツのようなトップスカラーたちと一緒に漕ぐ機会を与えられていないと考えてい
た。ウッドは、まもなく、自分はせいぜいクオドにシートを得るくらいだろうと思うようになったが、クオドは
チャーリー・
ブラッケンという若い選手がストローク手をつとめており、彼のタイミングのとり方に合わせるの
が難しかった。
ブラッド・
ルイスもティフ・
ウッド同様のフラストレーションを味わっていた。ルイスは比較的良い気分でこの合
宿に来ていた。彼は、過去、自分とハリー・
パーカーの間に暗黙の緊張が走っているのは承知していた。(
数年前、
自艇を持って東部にやってきたルイスは、ティフ・ウッドに、ハーバード大学艇庫のボートラックを貸してもら
えないかとハリーに聞いてくれないかと頼みこんだ。彼とハリーとはうまが合わないので、ティフから聞いても
らえるとありがたい、というのであった。)
しかし、ハリー・
パーカーは一九八三年夏のその合宿でルイスに良い
ダブルを組ませ、彼とポール・
エンクイストは世界選手権で堂々の第六位に入った。ハノーバーでの合宿は、ル
イスの目では公平に行われたとは映ったが、訳が分からないところもあった。彼は、アルテクルーズと、そして
ブースカレンと一緒に漕いだ。彼が一緒に漕ぎたいと思っていながらできなかったのはティフ・
ウッドである。あ
るとき、ルイスはパーカーの助手をしていたクリス・アルソップのもとに行き、自分をティフと組ませてくれと
頼んだ。ルイスが思うには、シングルのトライアルでそれぞれ二位と三位に入った自分とティフを組ませるの
229
が至極もっともなことだった。その組合せがうまく機能すれば、すごいボートができるはずなのだ。アルソッ
プは考えてみるとは言ってくれたが、何も起こらなかった。
ルイスはハノーバーを好きになれなかった。毎日雨ばかりで、部屋は小さく、電話もない。従兄弟のミッチが
同行してくれたが、ミッチが着ているものに苦情が寄せられた。ミッチはどこでもトレパンスタイルの生活をし
てきたが、ルイスとしては従兄弟に間の悪い思いをさせたくなかったので、自分の懐から二十ドルを出して東
部風の衣類を買ってあげた。
ウッド同様、ブラッドはずっとシングルスカルに専念してきたので、今さらチームボートに戻るのは難かった。
シートレースでも地力を発揮できなかった。そうしたシートレースでアルテクルーズとブースカレンが良い成績
をあげているのは納得できるものがあるが、だからといって彼らが組むダブルがそれほど良いものとは思えな
かった。彼らのボートは、彼が「
即席コンビ」
と呼ぶ、コーチ好みの類の組合せのように見えた。コーチが二人の
選手を組み合わせてみると、彼らは即席にぱっとうまく合って最初から速いボートができあがり、コーチと
しては嬉しい、という訳である。
それでもなお、彼にチャンスがあるとすると、ウッド同様、クオドではなく、ダブルスカルだった。ダブルは、
技術よりも力が命のオアズマンにとって扱い易いボートで、そのクルー編成はぎりぎり間際になっても間に合
230
う。クオドは、クルー全体としての経験とスムースなテクニックが特別に重視されるもので、アメリカ選手には
苦手な種目だ。クオドは非常に高いレートで漕ぎ通すことが多く、力感溢れるというよりも巧みに漕ぐ。世
界最高のクオドは、おそらく西ドイツのクルーだろう。あちらでは一九七七年以来ずっと同じ四人の選手が
クルーとして漕いでいる。この合宿でのクオドのストロークはおそらくチャーリー・
ブラッケンになるのだろうが、
ルイスもブラッケンの後ろで漕いで彼に合わせるのに苦労していた。ブラッケンに出会った記憶がなかったので、
ルイスは他の選手にブラッケンはプリンストンでのトライアルに出場していたかどうか聞いてみた。彼の友人は、
うん、彼も出場していたよ、と答えた。「
で、どんな成績だった?」
とルイスは尋ねた。友人は、「
準決勝に進出
できなかったね」
と答えた。
自分が乗る艇でブラッケンがストローク手をつとめていると、ブラッドはまるで自転車を後ろ向きに乗って
いるような気がした。それは、ブラッケンのせいではないし、自分のせいでもなかった。あるレースで、彼らのク
オドは六艇身差で負けた。そんな大差で負けたことはルイスの選手経験の中にはなかった。そこで彼とビル・
パーディのシートを入れ替えさせられた。そしたら、ルイスが抜けたボートの方が、ルイスが加わった方の
ボートに勝った。水上でこんな最悪の日を味わったことはルイスの記憶にないことだった。
231
第十八章
リュッツェルン湖に遠征する前日、パーカーは脱落させる選手を発表した。どうせ自分は切られると承知
していたジム・ディーツは、脱落させられる以前にパーカーと口論していた。ディーツは、自分の気持ちを隠
そうともせず、自分には公平なチャンスが与えられなかったと主張した。クルーの編成は、実質的に最初か
ら決まっていたようなものだった。ダブルは、予想通り、アルテクルーズとブースカレンになった。ルイスは、この
コンビのボートに「
ラブ・
ボート」
と仇名をつけた。アルテクルーズとブースカレンの二人とも美男子で、二人と
も自分たちが女性にもてることを承知していたからだ。クオド四人のうちの三人は、ショーン・
コルガン、ビル・
パーディ、そしてチャーリー・
ブラッケンだった。パーカーは、ブラッド・
ルイスに第八番手の選手になる気はあ
るか尋ねた。ルイスは気乗りがしなかった。彼にしてみれば、それは補欠ということに過ぎない。しかし、本当
の補欠はウッドとフラクルトンの戦いの敗者だった。ルイスは自分に与えられた仕事を「
公平な補欠」
と表現し
た。他の選手たちと手をつなぐ役目だ。彼はまったく面白くなかった。彼はそんな従属的なポジションにとど
まりたくなかったので、内心、他の選手たちの誰かに何かが起こって自分にチャンスがまわってくることを望ん
232
だ。それというのも、クオドの誰よりも自分の方が優れた選手であることに自信を持っていたからだ。彼は、
自分はこのチームから自分から抜けることを考えている、とアルソップに告げた。アルソップは彼の言葉をパー
カーに報告した。パーカーは、それは結構だが、決心を夕方の五時までにしてくれと答えた。
その日の午後、ルイスはブースカレンと彼のガールフレンドと一緒に車でボストンに向かった。移動に三時間
かかったが、途中、ルイスはメモ用紙をとりだし、パーカーの指示についてプラスとマイナスを書きつらねた。プ
ラスとしては、リュッツェルンで出場するチャンスがあることだ。リュッツェルンの大会はその年の主要な大会だっ
た。スイスでどちらかのボートが不振なら、彼にもう一回チャンスがまわってくることもあり得た。練習時間
はほとんどないが、ティフ・
ウッドとダブルを組んで漕ぐチャンスがあるかもしれない。しかし、マイナス点も強
力なものがあった。彼のポジションはグループの中で従属的なものになるだろう。そもそも、彼がローイングを
やってきたのは、従属的である必要がないという理由からだった。それに、ティフとダブルを組むとしても、フ
ラクルトンとも漕がないといけないだろう。それは遅いボートになることは目に見えていた。そんな状況の中
では彼の最善のものが発揮できそうにない。この合宿での彼の失敗は、ティフと一緒にダブルを漕がせてくれ
と強硬に主張しなかったことだった。シングル決勝で二位と三位の実績からすれば、二人がそう主張できた
はずなのだ。
233
ボストン市街に入るとき、ルイスとブースカレンと彼のガールフレンドは、ボストンとケンブリッジの間にかか
る橋の上で、むせ返るような暑さの中、交通渋滞にあって長時間車の中に座っていた。それを渡ったところで、
」という標識の方に曲が
ハーバードの艇庫へ
はどちらへ
曲がるのだったかな、という問題になった。「 Back Bay
」の方だったか? ルイスは「 Back Bay
」と言い、ガー ルフレンドは
るか、それとも「 Somerville-Cambridge
」
の方だと言うが、ブースカレンはどちらとも分からなかった。ルイスはガールフレン
「 Somerville-Cambridge
ドの方が絶対に間違っていると思ったものの、ブースカレンは彼女が言った方向に曲がった。しかし、それは間
違った方向だった。ルイスはブースカレンを長い時間ずっと見つめた。そして、こいつは女の子の言うことを聞い
ているが、その子は実際のところ何も分かっちゃいないのに、と思っていた。ルイスは、男女の行動様式のあるべ
き姿についての信念が傷つけられた思いがした。こんなことがあって、ルイスとしては、ブースカレンは弱い男で、
自分は彼に勝つことができるという判断を下し、その時点でリュッツェルンには行かないことに決めた。彼は、ハ
リーがボート編成を変更しないことを願うのみだった。
ルイスがハーバードの艇庫に行ってみるとポール・
エンクイストがいた。彼は、合宿組のアルテクルーズとブー
スカレンのボートに挑戦するつもりはあるか、エンクイストに尋ねた。エンクイストの答えは、ある、ということ
だった。自分があまりに現場に近いところにいるせいで感情に流されていないかを確認するために、ルイスは
234
カリフォルニアにいる父親に電話した。「
抜けるんだな」
と彼の父親は言った。「
お前は自分に値する尊敬を十
分してもらっていないんだから。」
そこでブラッドはハリー・
パーカーに電話した。
「
リュッツェルンには行かせてもらいたいと思っています。」
「
それは結構だね。」
「
ただし、ポールと私が第二ダブルを漕がせてもらえるなら、です。旅費は自分たちで払います。他の費用
も、です。私たちは、ただ、ダブルで出場させてもらいたいだけです。」
パーカーは、しばし考えた。「それは現実的な考え方じゃないな」
と彼は言った。そこでルイスはパーカーに
言った。それなら自分はエンクイストと一緒に挑戦艇として漕ぎます、と。
その後、パーカーはもう一度艇庫に電話してエンクイストに補欠のポジションを提示してみたのだが、エンク
イストはそれを拒否した。ブラッドが自分とパートナーを組みたいと言ったばかりなのに、ハリーが自分に電
話してくるなんて馬鹿みたいだ、とエンクイストは思った。また、この電話はルイスを怒らせた。パーカーが自
分たちを割ろうとしていると見たからだ。パーカーはパーカーで怒っていた。ルイスがパーカーのチームを割ろ
うとしていると思ったからだ。
ルイスとエンクイストは、オリンピック委員会が管理する艇をハノーバーからハーバード艇庫に戻そうと積ん
235
でいたトレーラーの上からダブルスカル艇を降した。二人はこのダブルスカル艇をバンに乗せてスクアム湖に向
かい、練習を開始した。二人がそのボートを使用する権利があったのかどうか、あいまいだった。彼らの行動
は法律ぎりぎりのものだった。彼らがそんなことをしている頃、ハリー・
パーカーは自分が切り捨てたばかりの
選手に電話して補欠選手を確保しようとしていた。リジリー・
ジョンソンは、最初、提示を受け入れたものの、
後になってそれを撤回した。クオドの挑戦艇で漕ぐことにしたのだ。それでパーカーはグレッグ・モンテッシに
電話したが、彼にも断られた。しかたなく、当初予定の八人ではなく、七人の選手だけでヨーロッパ遠征に向
かった。ハーバードの OB
選手たちは、こんなに青ざめたハリー・
パーカーを見たことがなかった。
ヨーロッパではスカル選手たちは振るわなかった。ビグローはまず東ドイツのグラナウに遠征したが、まった
く調子が出ず、決勝進出さえかなわなかった。彼は、自艇を送り込まずに規格艇を漕いだせいもあるが、そ
れにしても彼の自信は大きく揺らいだ。リュッツェルンではまだましだったが、パーカーが期待したほどのできで
はなかった。オリンピックを控えて、彼はピークを迎えていなかったのだ。ダブルは四位と五位だった。まずま
ずだが、立派というほどではない。クオドは二日続いてのレースだった。ティフ・
ウッドが漕いだときには四位に
なり、翌日ジャック・
フラクルトンが替わりに入って三位になった。ウッドは今やクオドの最後のポジション争い
で格下になった。パーカーにクオドを準備する時間はあまり残されておらず、その内の大半をフラクルトンに
236
割り当てたので、ウッドが選抜されるチャンスはいよいよ少なくなった。チームはスイスからアメリカに戻ると、
一日だけ休みをとり、ハノーバーに車で向かい、十九日、火曜日の午後軽く調整した。噂では、ハリーは翌週
の月曜日に最終的メンバーを発表するということだった。
237
第十九章
ティフ・
ウッドがこんなに短期間のうちに頂点から転げ落ちたことはひどいことで、それも徹底していた。
わずか六週間前まで、彼は、最近の世界選手権銅メダル保持者であり、現アメリカチャンピオンだった。今や、
彼はどのボートにも乗せてもらえそうにない状況だった。プリンストンでの選考会で、彼の準決勝レースのタ
イムはフラクルトンよりも二十九秒も速かった。その差たるや、天地ほどの差だ。だが、クオドの他の選手の言
によると、ウッドが入った場合、艇速が重く感じられるというのである。ウッドは、気をしっかり持って気落ち
しないようにして行こうと努力した。彼は、フラクルトンや他の何人かの選手たちよりは自分の方が優れてい
るし、過去においていつも自分を助けてくれた本当のシートレースをやれば自分は勝てるという絶対的な確
信を持っていた。彼は、自分ウッドという選手がチームボートでは漕げない男だという考えを受け入れるつも
りはまったくなかった。一九七〇年代も遅く、彼がシングルに転向する以前、彼とグレッグ・
ストーンは非常に
速いダブルを組み、一九七七年のヘ
ンレーレガッタで第二位に入っている。また、その一年後、彼は、この合宿で
コーチ助手をしているクリス・
アルソップと組んで世界選手権第五位に入った。さらに一九七九年には、オリン
238
ピックに備えて、ウッドや他の多くのスカル選手は、シングルではなく、チームボートに力を入れていた。彼は、
アル・
シーリーがストローク手をつとめたクオドのメンバーとして非常に良いクルーを構成し、向上を続けてい
た。オリンピックではそのクオドで出場するつもりでいたし、それでヨーロッパ勢に一泡吹かせる自信があった。
だが、オリンピックはボイコットにあい、彼らの夢は打ち砕かれてしまった。
今、彼が置かれているジレンマは、自分が優秀なオアズマンであることを証明する手段が実質上奪われてい
ることにあった。過去、いつも彼を救ってくれたのは、彼が偉大なレーサーであることだったのだが、今はレー
スをやって自分を証明する手段がなくなってしまった。こんなことになったのも自業自得の一面があることは
彼も承知している。合宿では調子が上がらなかったし、そんな状況をハリー・
パーカーにしっかり見られてし
まっている。ティフ・
ウッドがローイング界で信頼する人があるとすれば、それはハリー・
パーカーその人だった。
そんな信頼心もウッドの心の内の怒りを鎮めてはくれなかった。
239
第二十章
ブラッド・
ルイスとポール・
エンクイストは、間を置くことなくニューヨーク州イサカにあるカユガ湖での練習
に向かった。ルイスがいつもむっつりとして近づき難い一匹狼的な人間であるのに対して、エンクイストはおそら
くローイング合宿をやっていてももっとも気安く付き合える人間だろう。彼はいつもフェアで、自分の失敗を
他人のせいにすることはない。この合宿は彼にとって悪夢のようなものだったが、彼は、それは自分のせいだと
思っている。あるとき、クリス・アルソップが、彼の練習中の顔つきに厳しさが足りないと指摘したが、彼は怒
りもしなかった。むしろ、自分はなぜ厳しさが足りないのだろうと考えたくらいだ。レースに負けたからと
言って、自分のエゴが傷つけられたとも感じない。エンクイストとルイスの二人をコーチしていたボブ・
アーンスト
は、ポールと一緒に漕いでいる限り、ブラッドはまるで一人でシングルを漕いでいるような気分になっているの
ではないかと思った。エンクイストは、ルイスの言うことに異を唱えることは絶対になかった。エンクイストがパー
カーに合宿メンバーから切り捨てられたとき、ジョン・ビグローは彼が非常に傷ついた思いをするだろうと予
想した。ところがエンクイストは、「
ハリーは正しいよ。僕は全然調子が出ていなかったからね。僕だって同じこ
240
とをしただろうさ」
と言ったのである。
シアトルの鮭漁師の息子であるエンクイストは、プルマンにあるワシントン州立大学(
訳注、同じワシントン州
の州立大学ながら、プルマンにあるワシントン州立大学とシアトルにある既出および後出ワシントン大学は別
の大学。なお、ミズーリ州セントルイスにも私立のワシントン大学があるからややこしい)
に入った。身長が一
九八㎝もあったので、彼はバスケットボールをやるつもりだった。しかし、彼はリクルートの対象になっておら
ず、コーチはふらりとやって来た学生にはまるで興味を示さなかった。親切な工学部の教授が、ボートはど
うだと言ってくれた。ボートは身長の高い人に向いていると思われていたので、エンクイストはその足で向かい、
ワシントン州立大学ボート部に入った。ボート部はできたばかりで、コーチも慣れておらず、チームはいつも
負けた。エンクイストは四年間対校クルーのメンバーとして漕いだが、最後の年にクルーは向上を見せて、西部
地区選手権で第四位になった。一九七七年に卒業した後、彼は数ヶ月父親と一緒に鮭漁船で働いたが、ポー
ルが本当にやりたかったのはローイングを続けることだった。鮭の漁期が終わってから、彼はワシントン大学に
向かった。そこで、ボブ・
アーンストがシングルで練習することを認めてくれた。アーンストはワシントン大学の
女子選手のコーチを担当していた。朝、彼は十二人ほどの選手―その大部分は女子だが―をシングルに乗せ
て、水上に送り出した。彼は、このグループを蚊トンボ集団と呼んでいた。その誰もがエンクイストよりもうま
241
かった。彼は、小さな女の子がスカルに乗った自分を追い越して行っても恥ずかしい気にならなかった。一年も
すると、彼は皆と同等になった。彼は、体格は大きかったものの、筋力は強くなかった。やがて彼はトレーニン
グのあり方について学び始めた。その後の数年間、彼はすべてをなげうってローイングに集中した。彼の父親は、
あきれてしまった。「
おい、お前、オールなんか食えないだろうが」
とフェリックス・
エンクイストは言ったものだ。
毎年、彼は冬シーズンに練習しては東部に出かけて東部選手と対戦した。彼が向上するのに随分と時間
がかかったが、一九八一年に、彼はシングルスカルで決勝進出を果たした。その年の夏、彼は全米選手権男子エ
リート級で第四位に入ったのだ。それでも、シングルは彼に向いていないように思われた。体格が大き過ぎて、
レートもどうも具合がよくない。シングルに乗って、どんなに高いペースで頑張ろうとしても、二十九以上に
上がらない。他の選手たちは、彼の奮闘ぶりを面白そう に眺め、彼の気さ くな性質もあって、彼のことを
ポール・
ゼン(
禅)
クイストと呼んでいた。彼の最初の突破口は一九八三年に訪れた。それは、六年間も努力を
継続してきた後のことだった。ダブルで漕ぐと調子が良くなり、全米チームに加わることもできて、ブラッ
ド・
ルイスと組むことになった。エンクイストという男は、あまり感情をあらわにせず、リラックスしているよう
に見えるが、内には大変な意欲を秘めている、とアーンストは評価していた。ただ、それが性格もあって表か
ら見えないだけなのだ。
242
エンクイストとルイスがダブルを組んだ一九八三年、彼らは若いペア―二人とも国際大会の経験がなかった
―にしてはなかなかの成績をあげた。だが、二人の個人的関係は非常に難しかった。彼らはデュイスブルグで
の世界選手権で第六位に入った。その時点での彼らの限界は、自分たちの能力というよりも自信と経験不足
によるものだった。彼らがヨーロッパから戻ってキャシタス湖でのレガッタに備えているとき、ルイスは、ときどき、
エンクイストを放ったらかしにすることがあった。宿泊しているはずのモーテルにルイスの姿は見当たらず、練
習もすっぽかした。彼がようやく現れたときも、まったく打ち解けた態度は見せず、話の糸口もなかった。
彼は、ときどき自分で車を運転して来ることもあるが、そんなときには、でっかい白塗りのリンカーンに乗っ
てやって来た。それはボート選手が乗るような車ではなく、気さくなエンクイストならいざ知らず、他のボー
ト選手たちの眉をひそめさせた。ボート選手ならサーブとかボルボに乗るものだ。他の人だったらその時点
でルイスの首を締めてやったかもしれないが、ポール・
エンクイストはただ肩をすくめて、「
ま、ブラッドは変わっ
ているんだよ」と言うだけだった。ダブルのパートナーだからといって親友である必要はないが、このダブルは
常識レベルにも達しないもののように思われた。
だが、オリンピックを目前に控えた一九八四年の今、そんなことは、皆、過去のものになった。ルイスは、エン
クイストはほぼ完璧なパートナーと考えていた。非常な長身と九十八㎏という体重があり、彼は申し分のな
243
い体格をしている。慣れるのも早い。漕ぎは安定しており、終盤でもしっかりしている。シングルスカルは、彼に
とってはデリケート過ぎるボートだし、クオドは彼にしっくりしない。一つルイスにとって懸念材料は、エンクイ
ストの前腕が弱いのではないかということだ。ルイスが考えるに、エンクイストが接戦になると弱いという理由
は、それが原因であり、終盤になると決まって彼の腕に疲れが現われた。そこで、ルイスはエンクイストにウエ
イトを使ったトレーニングをやらせた。エンクイストが急速に体を作り上げていったことは、ルイスにとって嬉し
いことだった。二人とも、合宿ではいやな思いばかりだった。特に、ルイスがいやだったのは、アルテクルーズと
ブースカレンに代表されるアイビーリーグの生意気さだった。彼らは、まるで、自分たちの仲間は入れてやる
が、そうでない者は排斥するという感じを丸出しにしていた。
イサカでは、舵つきと舵なしフォアのコーチをしていたトニー・
ジョンソンは、この二人の手助けをしてやろう
としていた。そこは水面が静かなこと、そして対戦相手にこと欠かないほど多くのボートが出ていることから
トレーニングには最適の場所だった。四本のオールを操るダブルスカルは、フォア、特に舵つきフォアとは良い勝
負を展開することができた。良いコーチであるジョンソンは、微妙な立場にいた。ジョンソンは、ルイスとエンクイ
ストを手助けしてあげているわけだが、彼のお気に入りのイェール出身オアズマンであるブースカレンは合宿組
としてダブルスカルをやっていた。そんなことがあっても、ジョンソンは、皆、メダルクラスの選手たちであり、彼
244
らが一定のレベルの支援を受けて当然と考えた。彼は、身長が高くてリーチが並外れて大きいエンクイストに
漕ぎを小さめにしてオールの角度がルイスと同じになるように指導した。それだけでボートが速くなった。
ジョンソンは、また、このペアの漕ぎはフィニッシュが荒いことを見て取った。これは簡単に直してあげることがで
きた。ジョンソンは、こんなにやる気になっている選手にはめったにお目にかかったことがなかった。
コーネルで、ルイスは毎晩自分たちの使命について話した。彼らは自分たちに加えられた過ちを正してやる
ハンターになった。今や、ルイスとエンクイストの集中心を乱すものは何もない。繰り返し、繰り返し、彼らはル
イスのカリフォルニアのコーチであるマイク・
リビングストンから送られてきたテープを演奏した。それは変わっ
たテープで、リビングストンが作曲した少し気味悪い音楽だった。「
こんにちは!僕たちがこの素晴らしい世界
でもう一日生きていられるのは恵まれたことだ。今日は、試練の日だ。今日は、自分が生きている証として死
に立ち向かうのだ。戦士として、これがやるべきことだ。体も感覚も抑えつけて、息も止めて、意志の力で自
分の内から戦士の気分をかき立てろ・
・
。」
イサカでは、ルイスとエンクイストの二人は水上で漕ぐだけでなく、鏡の前でエルゴのトレーニングを行った。
普通のローイングの世界やコーチによる指導というものから隔絶していたルイスは、自分のトレーニング機器に
創意工夫をこらした。彼は自分でスピードチューブと名付けたものを発明したことがある。これは、タイヤの
245
ゴムチューブから切り取ったもので、ボートの脇にくくりつけておく。水が常時その中を流れるようなら艇速
が出ている印になるし、そうでなければボートがよたよたとしか進んでいないことになる。ニューポートでは二
百五十㍍のランドマークを設置し、友人の一人であるポーラ・
オバースティンに自分のテクニックを見るための
ビデオを撮ってもらった。そこを漕いでは戻ってきてビデオに写っている自分のフォームをチェックしては、また
出て行ってストロークの練習をするのだ。また、彼がイメージローイングと称するやり方で精神力を鍛えた。
これは、タンクに設けたドックに座り、相手がティフ・
ウッドやジョン・
ビグローを相手にして、その挑戦を振り
切るつもりでフルに二千㍍のレースを漕ぐのだ。ルイスにとって、このイメージローイングで勝つことは重要な
意味を持っていた。イサカで、彼とエンクイストは、レースの色々な状況を想定してシャドーローイングなるもの
を練習した。たとえば、ルイスが「
千㍍、ジョーとチャーリーが一艇身出ている」
などと叫ぶ。あるいは、「
残り
五百㍍、俺が腹切りをやった」
というのもある。
彼は、予期しないことが起きるものだと分かっていた。精神的にタフであることが重要だったが、どんなこ
とが起きても準備はできているという状態にあって初めて精神的にタフになれるものなのだ。彼らは友人た
ちを呼び寄せては、自分たちが漕いでいる間にその注意をそらすように仕向けてもらった。集中力が非常に
重要だった。自分たちはベストになるんだ、彼はそうエンクイストに語った。彼は、エンクイストの集中心をもっ
246
と高めてやらなければいけないと強く思っていた。「
俺たちは誰にも負けない。それが俺たちのモットーだ。誰
にも負けない」と彼は言い続けた。そして、毎日エルゴで練習するときに、目の前に「俺たちは誰にも負けな
い」
と書いた大きな黒板を置いておいた。トライアルレースの直前に、彼は大きなキャンバス地とスプレー式のペ
ンキを買った。横三㍍もある看板に「
俺たちは誰にも負けない」
をそこに書きつけた。
それから彼らは水上練習に出た。ルイスにとって鍵になるのはスピードだった。彼は、二人とも大変に体格
の大きいダブルのクルーだから、持久力とパワーには自信があった。だが、スピードとなるとアルテクルーズと
ブースカレンの持ち味だった。そこで、三日か四日おきに彼らは五百㍍のスプリントをやってタイムをチェック
した。タイムは着実に低下していた。それを始めた頃は一分三十七秒だったが、一分三十四秒になり、さら
に一分三十秒になった。カユガ湖での練習も終わりに近づいた頃、彼らは五百㍍のスプリントを二回やり、二
回とも一分二十九秒だった。このタイムを出せるダブルはそう多くない。彼らの準備は万端整った。最後の数
日間彼らを見守っていたトニー・ジョンソンは、この二人がおそらく勝つだろうという予感を持った。彼は、オ
リンピックを逃すことになるであろうジョー・
ブースカレンに対してはちょっとした心の痛みを覚えたが、ブー
スカレンがダブル代表のポジションを逃しても補欠に選ばれることを望むばかりだった。
247
第二十一章
ティフ・
ウッドの友人であり、今やシングルスカラーとしての地歩を固めたジョン・
ビグローは、ウッドの苦悩
を非常な同情をもって見守った。あの偉大なボート選手が自分としてはどうしようもない力にとらわれてい
るのだ。ウッドがオリンピック出場を逃すかもしれないことにビグローは耐えられない思いだった。
「
この合宿で適正な機会が自分に与えられてきたと考えていますか?」
とビグローは彼に尋ねた。
「
全然そうじゃなかったね。」
彼の声は、自身の内に渦巻く怒りを抑えたものだった。
「
ハリーと話をしてみたらどうですか?」
とビグローは言った。
「
いいや」
とウッドは答え、ビグローは、なぜですか、と尋ねた。
「
選手はコーチに不平をならす立場にはないからさ」
とウッドは答えた。
合宿での緊張はいよいよ高まった。フラクルトンがクオドに入り、ウッドにはシングルで練習する以外に乗る
ボートがなくなってしまったので、ビグローは自分とウッドがダブルで練習することを提案した。そうすれば、
ビグローは自分の腰を心配せずに練習できるし、ウッドにも居場所を確保できるし、それにダブルにも競争
248
相手ができて好都合だろう、というわけだ。以前にもビグローはこの提案をし、パーカーも反対はしなかった。
ビグローは「
あなたには面倒なことになるかもしれませんね」
と言ったのだが、パーカーは「
俺の手に負えない
ようなものじゃないだろうさ」
と答えた。ビグローは何ごとにおいても負けず嫌いな熱烈なオアズマンであり、
ウッドにとってはダブルがオリンピックへ
の一縷の望みだった。突然、ダブルスカルが彼ら二人にとって興味ある
ものになった。ビグローのヨーロッパ遠征では望んだ結果を得られなかった。その遠征の結果から判断すると、
カルピネンとコルベは彼より上であるばかりでなく、銅メダルでさえ獲得は難しくなった。彼は、出発前よりも
帰ってきた後の方がキャシタス湖での成功の自信が揺らいでしまった。しかし、ダブルとなると話が別だ。この
種目では圧倒的なクルーはいない。ビグローとウッドが世界クラスの選手としてその能力をうまく合わせれば、
いい線を行けるかもしれない。銀メダル、いや金メダルでさえ手が届くかもしれない。アルテクルーズ=ブース
カレン組はリュッツェルンでは第五位だった。ビグロー=ウッド組が彼ら二、三秒差をつけて勝てるなら、銀メダ
ルは有望だ。二人でダブルを試してみたところ、しっくりきた。パーカーは控えめに励ましてくれた。彼は、パ
ンドラの箱を開けてしまい、ウッドのように強くて皆からも賞賛されている選手が乗るボートがなくなってし
まったことで合宿全体が極度の緊張状態にあることを承知していた。
水曜日に、パーカーはダブルを競わせた。ウッドにたまった怒りと不満がついにはけ口を見い出したのだ。
249
彼のパートナーであるビグローはもとから自分を酷使する性質だ。彼らのやり様は練習というよりは戦争
だった。それぞれ約二十本漕ぐ十五ほどのセットからなる競漕の間、彼らの形相はすすさまじかった。この合
宿で起こったことのすべてが彼らの体に現れていた。彼らには憤怒が奔しっていた。ウッド=ビグロー組は、すべ
てのセットで勝った。誰かがパーカーに、ちょっと尋常じゃない練習ぶりですね、と言った。「
レバノンほどじゃな
いよ」
とパーカーは答えた。
その練習後、パーカーは選抜ダブル組について思い悩んだ。競漕の途中、アルテクルーズが、レートはどれく
らいでやることになっているんでしょうか、とパーカーに尋ねたのだった。「
チャーリー、レースのつもりで漕ぐ
んだよ」
とパーカーは答えた。ブースカレンがそわそわしながらリギングがおかしいと不平をもらしたが、パー
カーはそれを彼の不安を表したものと受け止めた。選抜ダブル組は明らかに動揺していた。すでにルイス=エ
ンクイスト組からの挑戦を気にかけなければならなかったところに、この合宿でもう一組の挑戦を受けたの
だ。
パーカーは、第二のダブル艇を組むことが良いことかどうか確信がもてなかったので、木曜日に予定してい
たさらなる競漕を延期した。しかし、金曜日には競漕を再開し、千㍍を四セットやらせた。第一セットは
ウッド=ビグロー組が半艇身差で勝ち、その後の三セットはアルテクルーズ=ブースカレン組が僅差で勝った。
250
決定的な差とは言えないかもしれないが、パーカーは決定を下すには十分と判断した。その時点で彼はダブ
ル二艇の間の競漕をやめることを申し渡した。ウッドは狼狽した。「
ですが、やってみなさいと言ったのはあな
たじゃないですか」
と彼は言った。「
そうだが、気が変わったんだよ」
とパーカーは答えた。
ウッドは、ダブルではブースカレンより自分の方が強いとまだ信じており、パーカーに、シートレースをやら
せて下さい、と頼んだ。彼がアルテクルーズと一緒に漕ぎ、ビグローがブースカレンと組んでレースをやるのだ。
パーカーはこの要求に驚いたようだった。ウッドは、望んでいたほどアルテクルーズと一緒に漕ぐ時間をとって
もらえなかった、と言った。さらに続けてウッドは、実際のところ、望んでいたほど、あるいは自分にふさわし
く、他のトップレーサーと組ませてもらえなかった、と言った。パーカーは、この問題をまた蒸し返したくな
かった。彼としては、ダブルは決定済みであり、クオドが問題、そして残された時間は非常に少なかった。パー
カーは尋ねた。「どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ?今となってはもう遅いよ。」
ウッドは彼の答え
に怒り心頭に発して、ほとんど言葉を失った。ボートの合宿でウッドが嫌ったものの一つは、利己的に上に働
きかける選手であり、その働きかけに耳を貸すコーチであった。ハリーはどうしてこの合宿で起こったいろいろ
なことに気がつかないのか?ウッドがどう思っているか、彼が分からなかったなどということが有り得よう
か?ウッドの怒りは鎮まらなかった。
251
ビグローとウッドはすんなりパーカーの言うことに同意するつもりはなかった。翌日、ウッドとビグローは、
またダブルを漕いだが、競漕はやらなかった。土曜日になって、コーチ陣は最初からやっておくべきであったこ
とをやった。ビグローにストロークを任せたのである。そうするとボートの勢いが違ったように思えた。コーチ
は強い印象を受けた。月曜日、パーカーは、クオドにはフラクルトンを残し、ウッドを切る発表をした。この報
せを聞いて、ウッドはビグローに、二人でやったダブルが非常にうまく行ったことでやる気になったか、と尋ね
た。ビグローは、そうだと答えた。「
プリンストンで漕いでみるか?」
とウッドは尋ねた。ビグローは、漕ぎたい、
と答えた。
ビグローの同意がどういう波紋を引き起こすか、誰にも分からなかった。彼は、スタートラインに立つ前に
シングルスカルでの出場権を放棄することになるのか?もしウッド=ビグロー組が勝ったら、ビグローはシング
ルか、ダブルか、好きな方を選べることになるのか?ウッドはパーカーの意見を求めた。ウッドは覚えているが、
パーカーは「そんなことはしないでくれ」とは言わなかった。ウッドはオリンピック委員会の役員に連絡をとっ
たが、その場合のルールはどうなのか、誰も分からなかった。過去のオリンピック政治力学のベテランとして、
ウッドはビグローが事前に権利放棄をする必要はないことには確信があった。しょせん、オリンピック委員会
は最高のスカラーにキャシタス湖で漕いでもらいたいと考えているわけだから、その才能ある選手の希望に
252
沿った形の決定をするはずだ。ビグローの古くからの友人の一人であるブースカレンは、ビグローが自分たち
の艇に挑戦するかもしれない事態に腹を立て、二人が同室になっていたダートマス大学の寄宿舎から出て行
き、ビグローとは口をきかなくなった。アルテクルーズもウッドから距離をおき、ビグローに対して五ページに
もわたる痛烈なレターを書いた。そこには、彼がティフとジョンからの挑戦を恐れていないこと、こんなごたご
たを水上でティフとジョンの喉に押し込んでやる、とあった。同時に、ブースカレンとウッドも激しい口論をし
た。
「
君は合宿の仕組みをぶち壊しているんだぞ」
とブースカレンはウッドに詰め寄った。
「
仕組みなんか、機能していないじゃないか」
とウッドは答えた。「
もし、機能していたら、こんな騒ぎになら
なかっただろうさ。」
ハリー・パーカーもかんかんに怒った。彼は、ビグローが人を手玉にとるのは良くないし、アルテクルーズに
対する古い恨みからこんなふざけた行動をとっているとビグローを非難した。(二人は、いろいろな理由でう
まが合わなかった。一年前にはほとんど喧嘩になり、ビグローがアルテクルーズの自転車をハーバード艇庫前
のスロープに投げ落として終わった。まったく象徴的だったが、自転車は横倒しになって転げ落ち、あと少しで
水に落ちるというところで止まった。)
253
合宿所では、他の選手たちは、ウッドについては、彼の立場にいれば誰だってそうするだろうということを
やっているだけだと同情的だったが、ビグローに対しては反感を持った。火曜日になって、ブースカレン、アルテ
クルーズ、そしてパーカーからの猛烈な圧力のために(そして、もしダブルをやるとすれば友人のポール・
エン
クイストにも挑戦する形となることもあって)
ビグローは意向を翻した。ビグローが意向を撤回した後、ウッ
ドは、パーカーがドックに近い水際で小石をぽちゃり、ぽちゃりと水に投げ入れている姿を見たことを覚え
ている。一人離れて、口をきくどころか、近づきがたい雰囲気だった。
火曜日の午後、ティフ・
ウッドはアメリカ証券取引所に電話して、ジム・ディーツを呼び出してもらうよう
頼んだ。彼がこの週末プリンストンでダブルを漕ぐつもりがあるか、尋ねた。ディーツは、こうした電話が来る
であろうことを予期していた。スカラーたちの世界では秘密などなかった。この合宿が、がたがたになっている
ことは広く知られていたのである。その週の早く、彼はウッドとビグローがダブルを漕ぐかもしれないという
ことを聞いていた。それは彼の歓迎するところだった。なぜなら、そういうことになればシングルの選考会を
やり直さなければならないからだ。しかし、そういうことにはなりそうもないことが分かって、彼はティフ・
ウッドが自分に電話してくるに違いないと思っていたのである。それは大歓迎だよ、と彼はウッドに語った。彼
らが一緒に水上練習できるのは二日間しかない。やるにしても、やらないにしても、即決しなければならな
254
かった。ティフ・
ウッドはパーカーのもとに行って、ディーツと組んで出場することを伝えた。パーカーには怒っ
ている様子はなかった。しかし、ウッドがオリンピック委員会所有のダブルを使わせてもらえますか、と尋ね
たところ、パーカーは、だめだ、と答えた。ウッドは、サイ・
クロムウェル所有になる非常に良いダブルがあるこ
とに触れた。クロムウェルは、一九六四年のオリンピックにおいてダブルで銀メダルをとっている。ダブル艇とい
うのは使わせてもらえるのを見つけるのが難しく、クロムウェル艇はローイング界で非常に良いボートとして知
れわたっていた。クロムウェルの未亡人であるゲイルがそれをオリンピック委員会に五百ドルで貸していた。彼女
はティフの友人でもあった。彼女が賃貸契約を結んだとき、彼女は考えられないことを考えていた。もし、
ティフが合宿に参加してチームボートに選抜されなかったらどういうことになるのか?ハリー・
パーカーが合
宿使用艇をウッドの手の届かないところにおいてしまうかもしれないことを恐れて、彼女は、賃貸契約の中に、
プリンストンでのトライアルの一週間前に契約が満期終了する条項を入れておいた。そうすれば、何か不具
合が起きても、ティフがその艇を使えるように配慮したのだ。ウッドはこのクロムウェル艇のことに触れて、契
約が終了していることを自分は知っていると話した。「
そういう状況についてはまったくうれしくないし、話し
たくないね」
とパーカーは答えた。そこで、ウッドは合宿から離れた。十四年間にわたって、二人の男の関心は
ほぼ一致していた。そして、ウッドはハリー・
パーカーの言うことなら何でも信じた。今、この微妙な瞬間に、
255
彼らの関心は完全に行き違い、二人の関係もずたずたになった。
ジム・
ディーツは、ディーツ=ウッド組のダブルというのは良い案だと思った。ルイス=エンクイスト組のボー
トが気になるが、自分とティフなら十分勝つチャンスがある。二人には失うものはないし、得るものばかりだ。
彼はウッドのことを同時代のスカラーとしては最高の選手と評価している。人間としてもウッドという男が好
きだった。
ジム・
ディーツはブロンクスの大工の息子で、彼の声にはニューヨークのブルーカラー地域のなまりが残ってい
た。彼のローイングに対す る熱意は、ほとんど子供のよう だった。他の選手の中には彼のことを「高校生 ハ
リー」
と呼ぶ者もいた。この表現には、彼が大人になりきっていないことをちょっと馬鹿にする響きがあった。
彼は、アイビーリーガーたちが自分のことをどう思っているか、承知していた。彼は彼で、アイビーリーガー
たちの紳士気取りがあまりに当たり前なことになっているので、彼らはそれに気がついていないと感じていた。
まるで一本の線が引かれているようだった。線の向こう側には皆がいて、自分は線のこちら側に一人ぼっちで、
絶対に受け入れてもらえないのだ。長い選手経歴の間、彼が大きな大会できっちりとレース終盤をまとめ切
れないことを口を極めて非難するスカラーたちがいた。高い身長と長いリーチで体格的には素晴らしいが、
彼は確かにレース終盤に疲れを見せることがしばしばあった。それは性格的なものだろうという者もいた。
256
数年後、遺伝子とか筋肉繊維などについての科学的知識が得られるようになって、ディーツの不首尾は性格
にはまるで関係がないことが分かった。むしろ、遅筋繊維と速筋繊維の構成がおそらく半々という非情な遺
伝的な構成にもかかわらず、ディーツが誰よりも英雄的に漕いできたことが明らかになったのだ。そういう
ことが分かってから、ディーツの選手経歴に対して、しぶしぶ気味ながら賞賛が寄せられるようになった。
ディーツの方も、他のハーバード出身者と違って、ティフ・
ウッドという人間が、両親がどういう人たちであ
るとか、どこの学校に通ったかなどに関わりなく、彼が人間として、そしてオアズマンとしてどういう人であ
るかだけで判断してくれる人だと思った。彼は、最後の大一番をウッドと漕げることがうれしかった。練習で
きるのは二日間だけ。彼は、ティフの調子が今一つ上がっていないこと、そして自分が何をやらなければなら
ないか分かっていた。彼としては、ティフが、いつも、気力と体力を使い果たして全力で漕ぐことを止めさせな
ければならなかった。
最初の練習の調子が良かったので、彼らはすぐに、これは行けるぞという可能性を感じた。しかし、ウッド
の荒い漕ぎが気になるディーツは、練習の後、彼を傍に呼び寄せて言った。「
ティフ、君が選抜されなかった理
由を知りたければ教えてあげよう。君は魚をぶっ叩いているけど、漕ぎになっていないんだよ。練習のときみ
たいに漕げばいいんだ。僕にペースを設定させてくれ。パワーはいつでも出せるさ。」
二人が自分たちの能力を
257
うまく合わせて漕ぐことが出来れば、チャンスは大いにあった。ディーツは盛りを過ぎたかもしれないが、そ
れでもボートをぐいぐい進める力はあった。
258
第二十二章
合宿組のボートがプリンストンに到着する前から、ハリー・
パーカーはブースカレン=アルテクルーズ組のダ
ブルのチャンスは少ないのではないかと悲観的になっていた。リュッツェルンでのレガッタの頃から、彼はジョー・
ブースカレンの気持ちの持ちようを懸念していた。ハノーバーでの合宿の始めにあたり、自分は簡単にチーム
ボートに適応できると多分考えていたブースカレンは、おそらく合宿参加選手の中でもっとも自信に満ちて
いた。だが、リュッツェルンで彼は不安の兆候を現し始めた。そこでの最初のレースの前日、パーカーは彼の両肩
をつかみ、やさしく揺らしながら言った。「ジョー、明日は目が覚めたら十分休んだ気がして気分良く、力
満々に感じるはずだ。他のことはすべて忘れて、速いレースをやるんんだ。速くだそ、ジョー!」ダブルは、実
際のところ、まずまずのできだった。しかし、チームがハノーバーに帰ると、不安がまた戻ってきた。その理由
の一つとして、ウッド=ビグロー組のダブルをめぐっての騒動があるが、もっと大きな要因としてブースカレン
がルイス=エンクイスト組を心配していることにあるとパーカー思った。すでにローイング仲間の噂で伝えられ
るところででは、ブラッドとポールは調子がよいということだった。ブールカレン=アルテクルーズ組のボートは
259
今いち艇速が伸びない。この二人は仲間内で口論を始めるようになった。ブースカレンは、自分があら探しを
されて、アルテクルーズはボートの問題を自分のせいにしていると感じていた。彼は、また、パーカーが自分の
ことを信頼していないのではないかと、それを恨みに思った。パーカーは、「
レースへ
の覚悟は本当にできている
のか?」
といつも問うのだった。ついに、ブースカレンはパーカーとアルテクルーズに向かって言い放った。「
僕はス
カルのやり方は心得ているつもりです。僕は馬鹿じゃないんですよ。わけもなく僕のせいにするのは止めてく
ださい。」
レースを控えて、ブースカレン=アルテクルーズ組が勝てる見込みは良くなかった。
再びプリンストンでのこと、第一レースは土曜日に予定されていた。他の選手たちは水曜日頃からそこで練
習を始めているというのに、ルイス=エンクイスト組は金曜日に姿を現した。彼らは、自信にあふれ、傲慢と
も見える戦士になっていた。彼らは、皆から離れていられるようにちょっと値段の高いモーテルに泊まっていた。
彼らは予選を六艇身差で勝った。日曜日、それまでコーネルでは二人を指導してきて、そしてこのミニ大会で
は二人の世話をしてあげているトニー・
ジョンソンは、艇庫から出て行く二人を見送りに来て、頑張れよと声
をかけた。ルイスは、「
今日は、連中を叩きのめしてきますよ」
と答えた。ジョンソンは、汚い言葉遣いは気にな
らなかったが、その言い方の激しさの方が気になった。そんな激しさは、レースにあたって必ずしも良い方向に
260
働くとは限らない。あまりに早く燃え尽きて、六分間のレースなのに、二人の選手が終盤ばらばらになってし
まう恐れがあったからだ。オアズマンは、普通、そんな口のきき方はしないものだ。しかし、ジョンソンは、二人
とも自分たちのやるべきことを心得ている選手であると最終的には判断し、結果へ
の疑いは持たなかった。
ルイスとエンクイストはスタート地点まで漕ぎ進み、レースのスタートでスカル艇を保持するステッキボート
に艇尾をあずけた。アルテクルーズ=ブースカレン組は隣のレーンだ。ルイスは、彼らのうちの一人―アルテク
ルーズの声だったと彼は覚えている―が、よろしくお願いします、と声をかけてきた。彼もエンクイストも一言
も発せず、頭をそちらに向けようともしなかった。レースに友情など無用だ。ブラッド・
ルイスは彼にとって完
璧な役回りをもらったと思っていた。権威に立ち向かうアウトサイダー、諸々の特別配慮をしてもらってい
る本命クルーに対する挑戦艇、というわけだ。彼はまったく平常心で、準備は万端整っていた。
ステッキボートに向かって漕いでいくとき、ジョー・
ブースカレンはチャーリー・
アルテクルーズがルイス=エン
クイスト組に挨拶したのを聞いた。お返しの言葉がなかったのでブースカレンは彼らの方を向いたが、彼が見た
のは目を合わせようともせず、まっすぐ前方を見つめる彼らの顔だった。あいつらは良く準備できているよう
だ、と彼は思った。彼は、自分とアルテクルーズも同じような集中心を持っているだろうかと怪しんだ。ルイス
とエンクイストの返事がなかったので苛ついたアルテクルーズが、「
おい、そんなに無愛想にしていることはないだ
261
ろう」
と言ったのがブースカレンに聞こえた。ブースカレンはアルテクルーズに言った。「
放っておけ、チャーリー、
無駄だよ。」
ブースカレンが終盤になるとペースが落ちる傾向を心配していたパーカーは、二人にスタートは抑えて行け
と指示した。ブースカレンとしてはもう少し速めに行きたかった。選手権レースで他の強いボートの後方に控
えるのを嫌ったからだ。だが、五百㍍でルイス=エンクイスト組は速くも一艇身リードし、その次の五百㍍で
もその差を拡げた。千㍍地点で、ブースカレンはブラッド・
ルイスが喜びの叫び声を上げるのを聞いた。ブース
カレンには、それはまるでインディアンの勝利の雄叫びのように聞こえた。(
実のところは、それは日本語の柔
道の掛け声だった。)
くそっ、と彼は思った。彼は、こんなに早い時点でそれほど差をつけられるとは予想して
いなかった。差は拡がりつつある。他の艇にも追い抜かれてしまった。
ジム・
ディーツは、自分とウッドの組で漕ぐこのレースに満足していた。他の艇は数週間、いや数ヶ月も一緒
に練習して来ているのに、自分たちはわずか二日だけだ。ディーツはゆっくりしたペースで出た。ウッドにリズ
ムをつかんでもらい、気持ちを落ち着けてもらうためだ。パワーは後でいくらでも発揮できる。彼らのボート
は快調に進んでいる。最初にリードを奪ったのはケーシー・
ベーカーとダン・
ブリソンの組だった。中盤でエンク
イスト=ルイス組が仕掛けた。ディーツとウッドは全力を出したが、相手の艇の方が強かった。ウッドのダブル
262
は、第二位に入り、タイムは六分四十一秒一三だった。六分三十五秒五〇だったエンクイスト=ルイス組に遅
れること約五秒だった。合宿選抜艇は第四位で、六分四十三秒一〇だった。
クオドのレースがまだ控えていた。ダン・ルイスというスカラーが、敗れたダブルの選手たちがもう一回の
チャンスを望むのではないかという期待含みで出場登録をしていた。彼は、アルテクルーズとブースカレンに誘
いをかけ、この二人が今度はティフ・ウッドに即席クオドに加わらないかと誘った。自分のレースが終わった
ウッドは、彼らがやって来たとき、ビールを飲んでいた。最近あった不和のことは忘れ去られ、合宿の尊厳も
いっそう低下してしまった。「
OKかどうか、あなたの方からハリーに聞いてみてください」とアルテクルーズは
ウッドに言った。ウッドはパーカーに会いに行った。パーカーは、即席クオドを奨めもしないし、止めろと言う
つもりもない、と言った。即席クオドというアイデアに、ただ、肩をすくめただけだった。彼らのクオドは、最
初の二十本まではリードした。奇跡は結局起きなかったが、彼らは楽しんだ。彼らは優勝クルーから二十七
秒遅れでフィニッシュした。合宿選抜クオドも不調だった。「
ひどい日曜日、というわけだ」
とブラッド・
ルイスは
言った。
その後、ティフ・
ウッドはディーツのもとに行き、礼を述べた。彼らは不思議と自分たちに満足していた。彼
らがオリンピックに行くことはない。と言っても、出場選手としては、という意味だが。だが、合宿の苦い思い
263
ではなくなっていた。ディーツは最後と思って一発勝負にかけ、願いどおりのことをやったのだ。ウッドも、あ
いつは強いがチームボートには向かないという合宿組の疑念を払拭したいと望み、やはり願いどおりのことを
やったのだ。彼の望みがハノーバーで消え去る前に水上でもう一勝負残っていた。
ウッドの古いハーバード仲間であるディック・
キャッシンがブースカレンのところに話にやってきた。彼はブース
カレンがふさぎこんでいるかと思ったが、意外とブースカレンは快活だった。彼は、「
それで、これからどうする
つもり?」
とブースカレンに尋ねた。
「
自分の人生に入って、医者になります」
とブースカレンは答えた。「
もう、潮時ですよ。」
「
ここに来ていること自体が、その九十パーセントだ。そういうことだ」
とキャッシンは言った。キャッシンも前
日のスイープ種目、ペアで敗れていた。
トライアルが終わって、ハリー・
パーカーは怒りまくった。彼は、どんなものであれ敗戦を厳しく受けとめる
男であるので、自分が選抜した合宿組のボートが挑戦艇に敗れてしまうという、こんな日は、彼にとってほと
んど個人的な屈辱だった。
合宿すべてが大失敗だった、と彼は思った。一番大きな問題点は、トライアルを挑戦艇に開放するという
決定だった。彼はずっとトライアルという考え方に反対してきた。だが、フィラデルフィアのローイング界の人
264
たちはトライアルを望んだ。政治的な駆け引きをだらだらとやるのを好まず、彼は前年の秋にその考えに同
意していた。彼はリュッツェルンでの大会へ
の参加をすぐに中止すべきだった。いったん決まってしまうと、トライ
アルというのが合宿組のボートに非常な重荷になり、リュッツェルン大会出場が無意味なものになってしまった。
リュッツェルンに出かけたことで大事な時期の二、三週間をロスしてしまい、挑戦者たちに大きな心理的優位
性を許してしまった。あの時期、ずっとハノーバーにとどまっていれば、彼の選手たちはもっと自信が持てたで
あろうし、ハノーバーでは合宿組のいろいろな艇が随分と調子よくやっているらしいという情報が外に出て、
心理的にも逆のことが起きていたかもしれないのだ。
パーカーは、また、違った選抜方法を採れば良かったかなと反省した。ベストのクオドをまず選び、それか
ら選手たちを相互に戦わせて二艇のベストのダブルを編成するのだ。このダブル二艇がトライアルに進出でき
るようにする。選手たちは自分に合う相手を見つけ出すだろうし、そうしてできたダブルは良いものになる
に違いない。その点、選手たちは巧妙なものだ。「
抜け目がなければスカラーじゃないですよ」
とはブラッド・
ル
イスの好きな言葉だ。
だが、パーカーは自分のコーチがよくなかったとも認識している。スイープ種目をコーゼニオスキーにとられ
て、落胆のあまり集中できずにスカル選手たちの面倒を十分に見てやらなかった。選手たちの彼に対する批
265
判の中には妥当なものもある。確かに、オリンピック選手たちを指導する全米コーチは、自校のコーチとして
の仕事から解放されるべきという考え方には彼も賛同するが、決定のタイミングがいかにも自分に対する裏
切りのようだったと彼は考えている。過去二年間にわたって自分が面倒を見て、その基礎づくりを自分が
やってきた若い選手たちが、さてこれからという時期に他のコーチに渡されてしまったのだ。そんな意に沿わ
ない決定に対してとるべき適切な行動は、辞任することだったろう。だが、彼のエゴがそれを許さず、通常な
らポジティブな経験であるはずのものをネガティブなものにしてしまった。彼は選手たちの信頼にそむいてし
まったわけだが、そんなことは考えられなかった。自分の過ちを理解し、それを公に認めることは、彼が行っ
たことでもっともつらいものの一つになった。
ジョン・
ビグローはダブルのトライアル観戦にプリンストンには行かなかった。彼はハノーバーにとどまってルイ
ス=エンクイスト組を応援した。ポールは彼の友人だったし、いつもフェアで親切な男で、冬の間シアトルでずっ
と一緒に練習してくれたのだ。彼は、合宿でいろんないやなことがあったから、ジョーとチャーリーを応援す
る気になれなかった。彼はレース結果を電話で聞いた。翌日、ブースカレンがハノーバーに戻ってきたとき、ビグ
ローは自分たちがまだ友人関係でいられるか自信がなかった。緊張が頂点に達したときに合宿所を出て行っ
たまま、ブースカレンは戻ってきていなかった。ビグローが自室にいるとき、廊下からブースカレンの声が聞こえ
266
た。ビグローは部屋から出てみた。ブースカレンが手を差し出したとき、ビグローは大きな安堵を感じた。「
つ
らかったね」
とブースカレンはトライアルについて話した。「
だけど、終わってしまったことだから、いつまでも考
え込んでいられないよ。」彼は、数日、友人を訪ねたりして過ごした。だが、新たなクオドとダブルの選抜ク
ルーがハノーバーに到着する予定日の前日、ジョー・
ブースカレンはできるだけひっそりと離れていった。
267
第二十三章
ティフ・
ウッドは、オリンピック委員会ボート部会によって補欠に選ばれた。一九七六年にもスイープ選手
のバックアップとして補欠になった経験があるが、それは彼にとって大変難しいものだった。彼は自分の人生に
おいてこんなに役に立たない思いをしたことがなかった。さらに悪いことに、彼の周りにいる人たちは、皆、高
い目的意識を持った人たちばかりだった。オリンピック強化合宿では、厳しい練習を積んでようやくそこにた
どり着いた若い男女の特別に熱い思いで満ち溢れていた。今回は、ウッドは自分自身にも役割を作り出そう
と心に決めていた。置かれた状況に慣れるのが難しい理由の一つが、彼のローイングが格別に素晴らしいとい
う事実だった。プリンストンでのダブルのトライアルの後、彼とビグローはハノーバーで互いを相手にレースをし
たが、ウッドが勝つことの方が多かった。チームが西海岸に―まずバークレーに、そしてキャシタスへ
―移動し
て行った後、彼はビグローを相手に練習するのはよろしくないと判断した。彼自身にとっては面白かったが、
ビグローのためにならないと思ったからだ。
キャシタス湖では単独行動になったウッドはできるだけ頻繁にイギリスの女子フォアに寄り添って練習した。
268
そのフォアが彼にとってちょうどよい相手になってくれた。練習以外の時間はつらかった。見知らぬ人が彼に
会い、彼がオリンピックのボート選手と分かると喜んだときなど、彼は、自分は補欠のスカラーだと説明しな
ければならなかった。それを聞いた人たちの失望のさまは、それを説明しなければならない彼自身の内なる
失望を映し出していた。彼は両親のために何セットかのチケットを手配していたのだが、スカラーたちのレース
当日の朝、彼はときどき観客席の前に立って、一人ぽつりと今や不要になったチケットを売りさばいていた。
それはオリンピックの素晴らしい記憶とはなり難かった。会場のキャシタス湖と宿舎になっているカリフォルニア
大学サンタバーバラ校の寄宿舎を往復する車での移動もつらかった。アメリカチームは選手を輸送するバンを
持っていたが、そのバンは漕手、コーチ、それにコックスを待ってくれても、補欠選手のことは待ってくれなかった。
彼がちょっと遅れると、バンは彼を乗せずに出発していた。
彼は、誰もが彼のことをオリンピック選手といっても補欠選手であることを知っているような気がした。彼
の唯一の望みは、誰かの不運につけこむことしかなかった。しかし、誰も病気の気配を見せない。彼は、ハ
リー・
パーカーを探そうとも、避けようともしなかった。二人の間の亀裂は深刻なもので、少なくともウッド
の方はそう思っていた。パーカーの方は関係を修復したいと望むかもしれないが、ティフ・
ウッドの心の傷は深
かった。その夏のことを振り返ってみると、クリティカルな瞬間―それは彼がダブルの座を逃したときだ―は、
269
彼の気がつかないうちにやって来ては、過ぎ去ってしまっていた。リュッツェルン大会に向けた準備を進めなけれ
ばならなかったプレッシャーの緊急性と、クオドへ
の適応の難しさを考えれば、彼がクオドに入れるチャンスは
ほとんどなかった。彼は、リュッツェルンを多少犠牲にしても、いろいろなダブルの組合せをもっと試さなかった
のはハリーの失点だと考えている。選手選考の流れ全体に締りがなく、まとまりを欠いていた。彼が心の内で
考えたもう一つの可能性は、ハリーはそもそも自分ウッドの才能を最初からそれほど高く評価していなかっ
たのではないか、ということだ。
ハリー・パーカーにとって、合宿の一番難しかったのはティフ・ウッドの居場所を見つけてやることだった。
ティフがシングルのトライアルで勝てなかったときから、パーカーは特別なジレンマに陥った。ティフは、お気に
入りで、特別な選手でありながら、パーカーが思うにはチームボートには馴染み難いのだ。ハノーバーでは、
彼はティフがダブルで良い結果を出してくれることを望んだ。ウッドはエンクイストと組んだとき、良く漕いで
いた。パーカーとアルソップはこの二人をペアにしてみようかと真剣に考えたこともある。しかし、結局は、彼
らは、ブースカレン=アルテクルーズ組のボートが速いと判断した。どちらかと言えば、合宿の足を引っ張った
ものの一つが、ウッドの居場所についてのパーカーの気配りだった。だが、パーカーも、いろいろな組合せをもっ
と試さなかったのは自分の失敗であり、ウッドの(
そして他の選手たちの)
不満には相当の理由があると認め
270
ている。そうは言っても、トップ選手というものは、選考方法は自分中心に回るはずのものだという思いがち
なのも問題の一つだった。結局はバランスのとれた物の見方が大事なのであり、コーチの仕事というのは個々
人の選手の面倒を見ることではない。個人的には特定選手をひそかに応援していても、一番早いボートを編
成するのが仕事だ。
ボート編成は、大学チームよりもオリンピックチームの方がずっと難しい。大学では、コーチの判断は、選手
たちは大学という一段大きな組織の一員であり、その組織にとっての最善の案を受け入れなければならない
という事実によって緩衝作用が期待できる。ところが、オリンピックチームとなると、各選手は自分のことし
か考えない。ティフ・
ウッドを切ったことは、パーカーのコーチとしての全経歴の中でもっともつらいことだった。
彼もできるならそうしたくなかった。オリンピック会場で、一人ぽつんとして、才能を発揮する機会もない
ウッドを目にすることは、パーカーにとって非常につらいことだった。
271
第二十四章
ジョン・ビグローは、オリンピック村にいることに興奮していた。彼は、目的意識を共有し、何年にも自分た
ちの人生を捧げた結果としてここに来ている選手たちに取り囲まれているという感触がたまらなく好きだっ
た。彼は、ルーマニアのコーチであるビクトル・
モチアーニと話をするのを楽しんだ。と言っても、実際のところ、
まったく会話にならなかったのだが。なぜなら、ビグローはルーマニア語を話せないし、モチアーニは英語を話
せないからである。だが、モチアーニは彼のことを気に入ったようで、彼の名前を呼んでは、即席の手話のよう
なものを使って一生懸命に友情の証を伝えようとしていた。そんなときには、すべてのルーマニアの人々はすべ
てのアメリカ人と友人で有り得るように思えた。
ビグローは、前回のレガッタの経験からオリンピック村にいる多くの他の選手たちを知っていた。ペルティ・
カ
ルピネンも来ていた。彼は、一人だけ超然としているわけではないが、外国語ができないので苦労しているよう
だった。だが、ビグローと会うと、いつも握手したり、会釈をしてくれたりした。ビグローが驚いたことに、ペー
ター・
ミヒャエル・
コルベは、今回は、誰とも親しそうに振舞っていた。彼は、今アメリカにいるということでアメ
272
リカ人には愛想よくしていた。ドイツでの大会の時には、彼はよそよそしくて、口をきく暇もなかったものだ。
シングルスカルの日程はものすごく厳しいものだった。予選が火曜日、予選を通過できなかった選手のため
の敗者復活戦が水曜日、準決勝が木曜日、そして決勝が日曜日だった。最初のレースで準決勝進出を決めら
れなかった場合、三日連続のレースになる。ビグローはすんなり準決勝進出とはなりそうもなかった。抽選の
結果、彼の予選組にはコルベとカルピネンが入っていた。ビグローは、一面ではちょっとがっくり来たが、しかし
大局的にはこの組合せを喜んだ。なぜなら、決勝レースという重圧なしに二人と対戦する機会を得ることに
なったからである。
ビグローは、予選レースでは、彼にしては珍しいことだが、非常に速いペースで出たが、次第に遅れて行った。
コルベが序盤リードした。残り数百㍍になってカルピネンが仕掛けた。ちょうどその時、ボート競技を放送し
ていたABCはコマーシャルを入れたのでレースの途中で選手たちの様子が分からなくなった。コマーシャルはマク
ドナルドのもので、友人のために二十個のフィッシュサンドイッチを注文する男を主役にしたものだった。また、
それぞれにコカコーラを注文していた。そこで画面がキャシタス湖に戻り、コルベが諦めてカルピネンを追おう
としない様子が映っていた。ビグローは、さらに後方に遅れてしまい、苦戦していた。フィニッシュの追い込みで
力強く上がることで知られたビグローだが、疲れているように見えた。カルピネンが彼に十秒差をつけて勝っ
273
た。コルベは流して漕いでビグローとは三秒差だった。(
レースの後、ビデオテープに見入っているコルベを見た者
がいる。コルベが友人たちにレースを注意深く説明していたというのである。残り数百㍍になったところを指し
て、「
ここが、僕がレースをあきらめたところですね」
とコルベは言った。若いオランダ女性が、どうしてレースを
あきらめたのか、と尋ねた。「
レースをする都度、カルピネンを破る必要はないからですね。一度だけ破れば
いいんです」
と彼は答えた。
ビグローは自分のレース振りに失望していた。カルピネンやコルベと争うどころではなかった。ビグローがス
タートから恐れていたものが本当だったことが明らかになった。彼は、銅メダルが取れれば上々というところ
だった。あるアメリカのジャーナリストが彼に、金メダルは取れそうですか、と尋ねたところ、彼は答えた。
「
銅メダルを期待していますけど、もっと上を行きたいですね。」
翌日の敗者復活戦は比較的容易だった。彼は、準決勝に進出するには上位三人のうちに入れば良かった。
しかし、彼は勝ちたかった。なぜなら、ハリー・
パーカーが準決勝の予想組合せを作成しており、ここで勝って
おいた方が準決勝で楽になるからだ。彼は、ニュージーランドのゲーリー・
リードに五秒差をつけて勝った。し
かし、力を抜いて流すわけにはいかなかった。その結果、彼は準決勝でコルベと予選で勝ったので中一日休んだ
アルゼンチンのリカルド・イバラと対戦することになった。ビグローにとって、準決勝は三日間の内に三本目の
274
レースになる。ビグローは、自分が持久力に優れた選手であり、大会が進むにつれて他の選手たちに疲労が
現れてくる頃、自分はいよいよ元気になってくることを意識していた。だが、それは皆が同じ程度のストレスに
さらされていればの話だ。
準決勝で彼は疲れを感じた。コルベとイバラはさっと飛び出してレース序盤で彼の視界から消えた。五百㍍
で彼は第六位だった。漕ぎがいつもよりはつらい。初めて彼は決勝進出を危ぶんだ。だんだnと彼は何人かの
選手を追い抜いた。千五百㍍で彼はスウェーデンのベンクト・
ニルソンと並んだ。レース終盤は果てしなく続くか
と思われるようで、ビグローが予想していたよりも多くのエネルギーを要した。結局、彼は三位になり、コルベ
から遅れること二秒半で、二位に入ったイバラにも敗れた。ビグローは自分に満足していなかったが、何とか
決勝には進出でき、二日間の休養がとれた。
275
第二十五章
ブラッド・
ルイスは、プリンストンで挑戦艇として勝った後、ほんの瞬間だけ喜びを爆発させた。彼とポール・
エンクイストがアメリカ代表ダブルになるのだ。彼は合宿で起こったことにまだ怒っており、さっさとカリフォル
ニアに飛んで帰った。彼はハノーバーでの強化合宿にまた参加するつもりはなかった。あんな場所はあきあき
だ。何としてもいやなのは、あの場所は選考過程で自分をパイバスしたコーチであるハリー・
パーカーが仕切っ
ている。ルイスがカリフォルニアで、一人、シングルで練習を続け、ぎりぎり間際になってエンクイストとカリフォ
ルニアで合流するかもしれないという情報が流れて、エンクイストは動揺した。まるでルイスがレース後にまた
性格が変わって、ふたたび手の届かない人間になったかのようだった。ハノーバーに向かったエンクイストはルイ
スに連絡を取り続け、ようやくルイスは東部に来てエンクイストと一緒に練習することに同意し、誰あろう
パーカーに彼らのトレーニングを見てもらうことになった。
超然としているように見えながら、ルイスはオリンピックで競技することに興奮していた。一九七六年に、
彼は大学出たての若者として、モントリオールに出かけた。北米大陸でオリンピックが見られるのはこの機会
276
しかないと思ったのである。そのオリンピックでボート競技を観戦して嬉しかった。自分も大学でボートをやっ
た者として、選手たちを非常に身近に感じた一方、自分たちの成績を考えると遠い世界の話のように思え
た。彼らは世界最高の選手たちだ。彼はそんなに金を持っていなかったが、モントリオールというところは物
価がそんなに高くなかった。彼は三ドルの立見席の券を買い、シングルスカルの決勝レースを見た。カルピネン
がコルベを終盤で破ったレースだ。それは素晴らしいレースで、当時の現世界チャンピオンであり、偉大なスカ
ラーであったコルベが、ほとんど無名のカルピネンに敗れたものだった。
そのレースでルイスが覚えているのは、それまでカルピネンは主要なライバルに勝ったことがなかったというこ
とだ。ルイスとエンクイストもまた主要なライバルクルーに勝ったことがなかった。だが、結局、彼らは全ての主
敵に勝つことができ、できるだけ積極的なレースを展開するつもりだ。ルイスは真剣にリュッツェルンと昨年の
世界選手権でのビデオを検討し、各ダブル艇のストロークレートを計っては、どのクルーをマークすべきかを確
認した。彼は、ポールと自分のダブルは一九八三年時点においてヨーロッパのどのクルーにもひけをとるもの
ではないと判断した。自分たちがそのことを知らなかったので、十分な自信を持って漕いでいなかっただけなの
だ。
二日間で二つのレースにおいてそれぞれ四位と五位になったアルテクルーズとブースカレンのリュッツェルンで
277
のフィルムを見て、ルイスはアメリカクルーの漕ぎが慎重すぎたと結論づけた。リュッツェルンで優勝した東ドイ
ツのダブルはキャシタス湖で漕ぐことはないので、そうすると主なライバルは西ドイツ、カナダ、ユーゴスラビア
あたりと思われた。ルイスは、それなら自分とエンクイストが東ドイツの替わりになってやろうじゃないかと
決めた。東ドイツのダブルのクルーは大男で強力だったが、その点ルイスとエンクイストも同じだ。彼らが漕ぐ
とき、高いレートにはあまりこだわらず、一本一本最大のパワーを発揮するようにしていた。東ドイツクルー
同様に、ルイスとエンクイストも、オールが水中にある時間を短くして、リカバリーでゆったり漕ぐストローク
を目指すことにした。その方が、彼らの体格とパワーにより良く適合していると思われた。ポールと自分が
勝てない理由などない。彼らの手が届かないダブルなど存在しないのだ。彼はエンクイストの闘争心かき立て
を続け、一㍍もの膨張式のシャークを買ってきて、それに「
ハングリー精神で行こう」
と書きつけた。
エンクイストと彼は今や戦士になっていた。彼らは、外国選手と交流しようとはしなかった。戦士たるもの、
人から離れて、交際などしないものだ。同時に他のダブルと水上に出るときには、ただ軽く漕いでいるときで
さえも他のボートを追い越さないと気がすまなかった。最初のレースの直前に、ルイスは、戦士がこういうと
きにする他の何かを思い浮かべようとしていた。西ドイツが敵であり、倒すべき主要なダブルであるとすれば、
戦士は彼らの国旗を掲揚する柱に小便をひっかけるだろう。彼はエンクイストに自分はそうするつもりだと
278
言った。
「
捕まって牢屋にぶち込まれないようにしてくれよ。今さらティフと漕ぐのでは、慣れる時間が足りないか
らね」
とエンクイストは言った。
279
第二十六章
ハリー・
パーカーは、オリンピック期間中、ルイス=エンクイスト組のコーチの一人であったが、彼はルイスが敵
意を持っていることは分かっていた。それは構わなかったが、彼が気になったのは、自分がコーチとしてブラッ
ド・
ルイスをうまく扱いきれておらず、むしろブラッドがコーチたちに向けて仕組んだ目論見にはまってしまっ
ていることだった。それは、コーチたちを無視するゲームだった。こうすることで、非常に長い間、ルイスとう
まが合うコーチがいなくなり、ルイスは一人で思うようにできることを保証するものだった。パーカーが遅ま
きながら分かったのは、ルイスが反応を示す唯一のものは全面的な支持と絶え間ない元気づけだった。この二
つは、パーカーがルイスに与えていないものだった。第一、そんな風に選手を扱うのはパーカーの考えの中には
ないものだった。それに、パーカーには時間がなかった。一九八三年当時は、彼はルイスをうまく扱ったと思っ
ている。特に、多くの立派な選手たちと違って、ルイスが練習をやりたがらなかったときのことだ。一九八三
年シーズンが終わって、パーカーの気懸かりになっていたことの一つが、ブラッドは世界選手権の決勝進出だけ
で満足してしまって、終わり頃にはあまり力が入っていないように思われたことだ。一年後、パーカーは、自
280
分がルイスの内なる怒りと情熱を完全に見誤ったことに気がついた。しかし、ルイスにそんな怒りを引き起こ
させたのは合宿でのパーカー自身の決定が要因になっていた。図らずも、パーカーはルイスに非常な恩恵を施
したことになる。体制による過ちを見返してやろうという意識に燃えた男として、完璧に彼を形作ったわけ
だ。
しかし、ルイスは合宿で評価の難しい男だった。気分が乗ったときや、自分が気に入っている選手と組んだ
ときには素晴らしい一方、いやな相手と組まされると地力にほど遠いできし見せない。パーカーは、始めの
頃に彼をエンクイストと組ませた。それで艇速は伸びるだろうと期待した。そうならなかったのでパーカーは
推測したのだが、ルイスは、多分、過去にも組んだことのあるエンクイストをなぜか自分より格下とみなしてい
た。彼がチャーリー・
アルテクルーズと組んだこともある。最初から、これはうまく行かないだろうな、とパー
カーには分かっていた。ルイスは艇上に着座すると頭を垂れて、視線を上げようともせず、口をきこうとし
なかった。二つほど練習の漕ぎをやってみたが、二人ともだめで、すぐ休憩をとった。「
ボート上の態度に問題
があると思います」
とアルテクルーズは言った。
パーカーが思うには、ブラッドの問題の一部は、シングルスカルでのトライアルの結果、彼は大部分のスカ
ラーたちよりは自分の方が上であることを証明したわけであるから、今さら毎日頑張りを見せる必要なな
281
いと考えている節があることだ。だが、これはオリンピック合宿であり、競争は猛烈だった。過去がどうだった
ということは一切関係がなかった。
パーカーにしてみれば、ルイスはコーチにとって悪夢のような選手だった。彼の最高のパフォーマンスを根拠
にして選ぶべきか、それともたるんだときを基準に判断すべきか、やるつもりになっている日が基準か、それ
ともやる気のない日か?これらは難しい選択だった。
282
第二十七章
オリンピックの第一予選組でルイス=エンクイスト組は西ドイツとノルウェーとあたった。西ドイツが飛び出
しよく、大きな差をつけた。ルイスとエンクイストは、どんなレートで漕いでいるかを表示するストロークメー
ターを艇に装備していた。彼らは、予定していたレート、三十四、をなかなかキープできなかった。千㍍では、
彼らと西ドイツの間に、おそらく一艇身分の水が開いていた。ルイスとエンクイストはレートを上げ始め、急速
に追い上げて、結局わずか一秒半の遅れでフィニッシュした。ルイスはフィニッシュの調子には満足できたが、レー
スとしてはそうとも言えない。彼らの固い決意にもかかわらず、まだ積極的な漕ぎが不十分だった。事前に
どんなレートで漕ぐと決めることと、水上で実際にそれを維持できるかは、まったく別な話だ。ルイスは彼ら
の不首尾を経験不足によるものと判断した。この予選レースは、ルイスとエンクイストがダブルでレースするほ
んの七回目のものだった。ヨーロッパ艇の中には、同じコンビで百回ものレースを経験しているものもある。
第一予選で期待したほど二人がうまく漕げなかったことで、ルイスは気分が悪かった。エンクイストがパー
カーに、予選で二位に終わったことでルイスがぶつぶつ言っていると報告してきた。オレンジコーストカレッジ(
訳
283
注、南カリフォルニアのオレンジ郡にある大学)
でコーチをしているデイブ・
グラントとパーカーは、彼が自信を
取り戻すように働きかけた。グラントが言うには、ブラッドを支えてやるには、それが全面的なものでなけ
ればならなかった。彼は、さらにつけ加えて「
ハリー、ときにはもっとも相応しくない奴にこそ愛情をもって接
しなければならないんだ。」
パーカーとグラントは、繰り返し二人に予選レースでは良くやったこと、特にレー
ス後半が非常に力強かったことを語って聞かせた。彼らは、将来がこの二人のアメリカ選手にかかっていること
を強調した。
ルイス=エンクイスト組は第二位だったので敗者復活戦にまわらなければならなかった。ルイスにとっては、
それは本当に恐ろしいレースだった。彼は、何としても決勝に進出し、メダルを取りたかった。だが、敗者復活
戦で調子が出なければ、それで一巻の終わりだ。敗復では上位二位までが決勝に進出できる。敗者復活戦
はいくつかのヨーロッパクルーにとっても大事なものだった。もし決勝に進出できなければ、翌年の資金援助を
打ち切られるからだ。そんなわけで、敗復は、普通なら決勝レースにとっておかれるはずの、全力での漕ぎが
要求される。ルイスとエンクイストは、スタートからフィニッシュまで先頭で行こうと話し合った。ところが、彼
らのもっとも手強い相手のユーゴスラビアも同じ考えでいた。ユーゴスラビア艇は五百㍍でややリード、千㍍で
もまだややリードしていた。千五百㍍地点でアメリカ艇が先頭に立ち、二秒差で勝った。彼らは決勝に進出
284
することになり、意気盛んだった。
285
第二十八章
決勝が行われる日曜日、ティフ・ウッドは早くに目が覚めた。今日はレースの日だ。しかし、彼が漕ぐこと
はない。彼には目的意識はあったものの、自分にとってもっとも大事なものに関してはまったく目的意識を持
てなかった。彼は、ずっと、オリンピックレースを最後にして引退するつもりだった。その週の早くに、彼はパッ
ト・
ウォルターと話をした。ウォルターはカナダチームの補欠選手であるが、世界クラスの選手だった。話の内
容は、補欠選手を集めてレースをやろうじゃないかというものだった。面白いし、そうすることで自分も帰属
意識を持てるだろう。二人は西ドイツの補欠選手にも声をかけた。ウォルターは、乗っても良いという態度
だったが、決定はウッドに任せた。最終的には、これが彼にとって最後の漕ぎになるので、自分の考えを乱す
ようなものを入り込ませたくない、とウッドは決心した。これは一人だけでやりたいのだ。ウォルターは共感
を示してくれた。結局、二人はことを面白くするために、ウッドが先行して、きっちり二分後にウォルターが
後を追うことにした。そうすれば、二人の時間差も分かるし、適度にプレッシャーがかけられる。
それは変なレースだった。ウッドがスタートしたときには天気は晴れていたのに、千㍍で深い霧が立ち込め
286
て視界がきかなくなった。後半千㍍を霧に包まれて漕いでいるときに、ウッドは自分がオリンピックに出場し
ていたらどうなっただろうかと考えていた。そして、彼は自分に言い聞かせた。大事なことは、男として自分
の落胆に対して適切に振る舞い、潔く、そして寛容であることだった。それがローイングというものなのだ。
ローイングとはその準備において非常なるものが要求されるわけだから、仮に目標に届かなかったにしても
自分が人間として価値のない者に成り下がったわけではないのだ。こう、彼は自分に言い聞かせた。しかし、
そんな自分の言葉をすんなり受け入れらない自分があった。彼は、三回もオリンピックチームのメンバーに
なっていながら、一本も漕ぐことはなかった。二千㍍を漕ぎ終わって、彼はウォルターを待った。二分が経過し
た。ウォルターが現れる気配がない。いよいよ濃い霧に阻まれたウォルターは三十秒ほど遅れて来た。レース
などというものではない。ウッドは戻ると艇のリギングを外し始めた。これからジョン・
ビグローがスタートす
る頃だと知りながら、彼はそうしたのだ。彼はジョンが大変好きだったが、彼がシングルでレースする姿はとて
も見られなかった。それは、あまりに苦痛だった。
287
第二十九章
ビグローの漕ぎは彼自身にとって、そしてコーチたちにとって不可解なものだった。ハリー・
パーカーは、ビグ
ローの腰が問題の原因だと確信していた。数年前にはいとも簡単に発揮できたパワーが、今や出て来ない。身
体的な問題だろうが、検査しても何も出て来ない。それなのに、練習の最後の数週間の間、いつもの五百㍍
漕ぎを繰り返した後、ビグローはパーカーに、「
力が出ません」
と語った。ビグローは、オリンピック期間中も同
じ言葉を繰り返した。違いは彼の両脚にあるように思えた。彼は、一九八一年および一九八二年当時とは
別人のようになっていた。パーカーの意見では、彼は非常に頑張っており、勇敢だったが、以前にできたことが、
今やできなくなっていた。それでも、パーカーはビグローに銅メダルのチャンスが十分にあると考えていた。
火曜、水曜、木曜とレースした後、ビグローはようやく休息の時間を持てた。彼の体は疲れ果て、彼として
は他の選手たちも同じ状況であることを望んだ。土曜日、決勝の前夜、ハリー・
パーカーが彼の部屋にやって
きた。一つにはレース戦略の話をするためだが、ビグローが推測するところでは、もう一つにはパーカーが、自
分は君を応援しているぞということを伝えたかったのだろう。決勝ではカルピネンとコルベはとても手が届く
288
相手ではないことは、ビグローには分かっていた。彼の銅メダルを争う相手としては、アルゼンチンのイバラとカ
ナダのロバート・
ミルズだった。ビグローは、この二人には以前に勝ったり、負けたりしている。ミルズには勝てる
自信があったが、準決勝でイバラに負けているので彼の方がより気懸かりだった。ビグローはイバラをマークし
て行こうと決めた。自分のレースをやるんだ、と彼は自分に言って聞かせた。自分は自分のボートを速く走
らせることはできても、相手のボートを遅くさせるなんてことはできない。だから、他のボートのことは考え
ないようにしよう、そして彼らに注意をそらされないようにしよう。
自分のレースをやるということは千㍍地点では控えた位置にいるようにして、そこからペースを上げ始め
るのだ。だが、他の選手たちは非常に速く飛び出したのに対して、彼は、いかにレース戦略とは言え、ひどいス
タート振りだった。五百㍍では予定よりもずっと遅れてしまった。彼は六位で、視界に入るボートといえばた
だ一艇、ギリシャのコンスタンチノス・
コントマノリスだけだった。ビグローは彼よりも遅れていた。千㍍でようや
くコントマノリスよりも少しだけ前に出た。だが、レースの展開は最悪の方向に向かって行った。
彼よりもずっと前方ですごい決戦が起きつつあった。おそらく彼にとって最後の金メダルのチャンスとばか
りに、コルベがカルピネンに対してかなりの差をつけていた。カルピネンも応戦するが、今回ばかりはコルベは緩
む気配を見せない。これはまったく別世界のことだ。ずっと後方で、千㍍から千五百㍍の間、ビグローはイバ
289
ラとミルズを視界にとらえた。驚いたことにミルズがイバラよりも前にいる。ビグローはイバラを追いかけ、こ
の五百㍍の区間で彼を抜いた。残るはミルズだけになったが、ミルズとの差は大きすぎるように見えた。レース
終了後、ビグローは千五百㍍地点でミルズに遅れること六秒二だったことを知った。大変な差だ。一瞬、彼は
レースを諦めようかと思った。しかし、そんな訳には行かないと分かっていた。これが彼の人生最後のレースな
のだ。そこで、彼はスパートをかけた。スパートのときにときどきやったことがあるが、今回はストロークのレン
ジを短くしようとはしなかった。ただ単純にパワーを上げたのだ。ボートは水面を飛び上がるように走った。
彼は、どんどんミルズを追い詰めて行った。前方では、カルピネンがついに突進を始めていた。それは強力で、決
然としたもので、レートはそのままでより大きいパワーを加えたものだった。コルベは必死に彼を振り払おうと
している。このレースは、おそらくコルベにとって最高のものであったろう。一瞬、今回はコルベがフィンランド人
を抑えきるかのように見えた。残り二百五十㍍でコルベが〇秒八六リードしていた。だが、最後の百㍍でカル
ピネンが力の限りをつくして彼を抜き去り、一秒九五差で優勝した。
ビグローのスパートは遅すぎた。もう百五十㍍早くスパートをかけていたらうまく行ったかもしれない。だ
が、ミルズがビグローに一秒六二の差をつけて三位に入った。ということは、追い込みでビグローはミルズに四
秒六も詰め寄ったことになる。ビグローは四位になり、メダルを逃した。彼がまず感じたことは、もうこれで
290
レースをすることはない、うまくできるだろうかと心配する必要は最早なくなった、という安堵感だった。そ
れから、彼は、体の芯から力を絞りだして、もう少し強く引けなかっただろうかということが、一瞬、脳裏を
かすめた。彼の落胆も、一部はすぐに消え去り、また一部はレース後も長く尾を引いた。それは、カルピネン
やコルベといった最高のレベルの選手に対抗できなかったということではなくて、世界選手権で銅メダルをとっ
てから三年の間に向上が見られなかったことについてのものだった。どちらかと言えば、彼はむしろ少し後退
していたのである。
表彰式でカルピネン、コルベと同じ表彰台に立つロバート・
ミルズが銅メダルを受け取るのを見て、ビグローに
ひどいジェラシーの波が覆いかぶさってきた。ビグローは、ミルズが今受けている評価を自分がいかに強く望ん
でいるかを意識して驚いた。そのとき、ハリー・パーカーがドックにやって来た。ビグローは、パーカーを見て
びっくりした。パーカーが自分のことをこんなに気にかけてくれていたとは知らなかった。何と言っても、今と
なっては、パーカーが彼に関心を持っているなどという偽の素振りを見せる必要などないのだから。ビグロー
としてはパーカーのためにできることは何もなかった。メダルを彼にプレゼントすることもない。おそらく、
パーカーは彼が好きで、彼が思っている以上に、彼の力を信じてくれていたのだ。ハリー・
パーカーは笑顔を見
せていた。ビグローはそれでまた驚いた。そして、彼はいつになく優しかった。彼は手をさし伸ばし、ビグローの
291
髪の毛をくしゃくしゃに揉んだ。
「
きつかったろう。」
「
ハリー、できるだけ頑張ったつもりです。」
「
ジョン、今日は立派なレースだったよ。」
その時点では、それはビグローが聞くことの出来た最高のものだった。彼は、みじめな思いをしていた。彼は、
元イェールのコックスで、今はオリンピック代表エイトのコックスであるセス・
バウアーという名前の友人と一緒に
座り、首を苦々しく振った。「
信じられないよ。まったくレースにならなかった。信じられないな。逃がしちゃっ
たよ。」
彼は、レース前半で艇速が思ったように伸びなかったし、それをどうにもできなかった、とバウアーに
語った。レースの後、彼は観客席に行き、家族と合流した。彼の古い友人であり、コーチでもあるチャーリー・
マッキンタイアもそこにいた。マッキンタイアは、ビグローに、良かった、大変良かったと褒め、最後の五百㍍の部
分を追いかけたんだぞ、と言った。それを聞いてビグローは喜んだ。後になって、このときの写真を見て自分が
満足そうに見えていることにビグローは驚いた。彼の夢は潰え、四位になり、メダルを逃した。しかし、写真
にはリラックスして驚くほど満足そうな若い男が写っている。彼は、彼の表情に現れているものは、もう漕がな
くてもよい、練習も、トレーニングもやらなくてもよい、人々の望みと期待に応えようとする必要もないとい
292
う安堵感から発するものだと思った。
293
第三十章
ブラッド・
ルイスとポール・
エンクイストは、外部の人が察する通り、同室ではなかったが、仲良くやっていた。
二人は、自分たちの気質があまりに違いすぎるので、そうすることの良い面よりも緊張が高まる可能性の方
が高いと判断した結果だ。ルイスのルームメートはティフ・
ウッドで、エンクイストはビグローだった。準決勝のあ
と、ルイスとエンクイストは、各艇の途中地点における時間を示すタイムシートを研究した。後半千㍍では、
彼らの艇が最も速かった。そこで、問題はレース前半で遅れ過ぎないようにすることだった。
日曜日に決勝レースが行われた。ベルギー艇が非常に高いレートでまずリードを奪った。千㍍で彼らは二
艇身先行していた。ボートの上では、体重が重い方のエンクイストがストローク手をつとめ、軽いルイスがバウ手
になるようにした。ルイスがすべての号令を発した。彼らは自分たちの戦略を隠語にしていた。ルイスが「ク
イックハンド」
と言うと、それは素早く両手を体から離すハンズアウエイを意味した。ベルギーが先行したこと
は彼らの気にならなかった。昔だったらここでルイスはパニックに陥り、レース戦術を変更したものだ。ところが、
ここでは彼とエンクイストは自分たちのレースを展開した。「
誰にも負けないぞ」
ルイスは漕ぎながらそう言う
294
のだった。千五百㍍でベルギーはまだ一艇身リードしている。「ニュージーランド」とルイスが号令してニュー
ジーランド作戦を発動した。これは、ボートの上で少し姿勢を高めに、そしてストロークを小さめにすること
を意味する。ニュージーランドの選手がよく使う手法だ。ルイスの周辺視の視野に初めてベルギー艇の姿が
入ってきた。彼らのペースは落ちてきている。ルイスは「
追いつけるぞ」
とエンクイストに声をかけた。残り四百㍍
ほどになったところで、二人は力漕二十本を入れた。それで両艇並んだ。「
東ドイツ」とルイスが号令を発し
た。これはシートの上で一層姿勢を高くする、東ドイツ流のやり方だ。二人が疲れているときに漕ぎが雑に
なることを防止する方法でもある。ルイスは、ベルギーを確実に捕らえたし、自分たちは勝てると思った。ル
イスとエンクイストは、次の十五本は両艇並んだままにしておいた。残り二十本ほどになったところでアメリカ
艇が出始めた。「
出たぞ。いいぞ、この調子だ」
とルイスは声をかけた。彼は、もうレースは勝ったも同然だから、
ここで背伸びし過ぎてレースをぶち壊しにしたくなかった。彼らは一秒半の差で優勝した。ルイスとエンクイス
トはメダルを獲得し、夢を達成した。それどころか、金メダルをとったのだ。それは夢以上のものだった。それ
はルイスにとって九回目のダブルでのレースだった。ブラッド・
ルイス、オリンピック金メダル保持者、とルイスは
思った。それは記録帳に永遠に記録される。ブラッド・
ルイス、カリフォルニア州コロナ・
デル・
マール市出身。すべ
てのこと、あのすべてのことは、やるだけの価値あるものだった。起きて欲しいと望んでいたすべてのことが、そ
295
の通りに起きたのだ。彼の変人ぶりも今や天才として見られるだろう。ハリー・
パーカーも来て彼に祝意を
述べ、背中を叩いた。ルイスは、パーカーがこんなに嬉しそうにしているのを見たことがなかった。
彼は表彰台に立ち、メダルを受け取った。いつも静かで感情を表さないエンクイストは、静かにして感情を
表さなかった。だが、笑ったことのないルイスは、笑顔で両手を頭上に突き出して勝ったボクサーのように上下
に振った。彼は若い女性から受け取った花束を取り上げて彼の妹に渡し、金メダルを母親に渡した。
数日後、ブラッド・
ルイスとポール・
エンクイストは、家族と一緒にハワイに旅行中のマイク・
リビングストンか
ら小さい包みを受け取った。それは決勝レース前に発送されたものだった。中には小さいプラスチック製の
シャークが入っていた。メモには、「
金メダルを目指せ。ホウジロサメは、後半千㍍で襲いかかるのだ。負けるん
じゃないぞ」
とあった。
296
第三十一章
ジョー・
ブースカレンは、その日曜日、シアトルのバージニア・
メイソン病院で勤務していた。そこでインターン
生としてスタートしたばかりだった。彼はオリンピック番組をできるだけ見るようにしていた。彼は、それに感
動することが多く、自分でも驚いていた。それは、単にスポーツのイベントではなく、また最大のレガッタとい
うのでもなかった。それよりももっと大きい、一部には精神的な、また一部には演劇的な、何か美的なもの
だった。そのあまりの大きさに圧倒されたブースカレンは、突然、自分もその一員として加わりたいと切に望
んだ。その時まで、彼は自分の失望にうまく対応して来たと思っていた。彼は自分の負けをできるだけ合理
的に振り返ってきたつもりだった。自分はベストをつくし、準備もよく出来たし、それでも負けた。彼は、ルイ
ス=エンクイスト組が誰よりも優れた力をうまく制御してレース戦略に合うよう調整したから勝ったとは思っ
ていない。彼は、自分とアルテクルーズにとってのクリティカルなときというのは、リュッツェルンに遠征して、そ
こでの国際レガッタでレースするときだったと考えている。彼らはトレーニングにおいてピークを迎えるのが早
すぎたのだ。リュッツェルンのために水上時間を二週間費やさなければならなかった。彼は、今でも、あの年、
297
自分とアルテクルーズが最高のダブルを組んだと思っている。合宿中、二人は、ルイス=エンクイスト組を破っ
ているのだ。
その日曜日の午前中、ブースカレンはできるだけ病室を出たり入ったりしてはテレビの前に行き、ボート種
目の決勝戦を見ようとした。彼は、ルイス=エンクイスト組が優勝するのを後悔と失望の入り混じった感情を
もって見守った。二人が表彰台に立って、ルイスの顔に笑みが浮かんでいるのを見たとき、ブースカレンは自分
があそこにいるはずだったのに、と思った。突然、彼はブラッドとポールがチャンスをつかみ、自分はそれに失
敗したことに怒りがこみ上げてきた。それに、ローイングを諦めるのが予期していたよりも難しいことに気が
ついた。彼は、ずっと体調維持に努力して来た。彼は、病院から五㎞ほど離れたワシントン湖のほとりに居を
定めていた。病院までは上り坂が続くが、彼は毎日ローラースキーで通い、帰りにはランニングした。彼は近く
カヤックを買って毎日それでトレーニングをするつもりだ。(
スカルができる場所は離れすぎていた。)
彼はまた
ローイングをやることを真剣に考えていたが、その場合、目標は一九八八年で、しかもオリンピックになる。
298
第三十二章
ジョン・
ビグローは、ダートマス大学医学部に進む準備をしていた。彼は友人皆にレターを送り、そのほとん
どにオリンピックのローイングのピンを同封した。彼の古い友人である、元イェールのコックス、ダン・ゴールド
バーグに宛てたレターには、「
ボートを辞めるのは容易ではありません。私は、シングルについては満足していま
す。それというのは自分の力量が分かっているからです。しかし、ダブルやクオドとなると未知数です」とい
う下りがあった。それは、完全にボートを諦めたという男のレターではない。多くの友人たちが、シングルスカ
ル決勝のビデオを提供しようと申し出てくれた。ビグローは、それをいずれも断った。彼は、コルベが決勝戦の
ビデオで自分がカルピネンに抜かれるときのシーンを見て泣き出したという話を聞いた。初めて、彼はコルベに
同情の思いを禁じ得なかった。ビグローは、あのレースを再び見る必要はなかった。彼は、レースの模様を完璧
に、実際、あまりに完璧に、覚えていた。それを再び見るというのは、もう一度苦痛と失望を感じるだけの
話であり、一九七九年のハーバード=イェール対校戦のビデオを見ると同じくらい意味のない行為だった。オ
リンピックレースから日にちが経つにつれて、次第に失望感も和らぎ、ストレスもなくなったことで安堵感も増
299
して行った。彼が、今一番気懸かりなのはティフ・
ウッドのことだった。彼は、ティフが自分こそシングルを漕ぐ
べきであったと思っているのか、と気にかかったし、また、彼が、自分が出ていたなら銅メダルを取っていたはず
だと思っているのか、と気になった。だが、それについてビグローができることは何もない。ときどき、彼は、も
う一度ボートを、チームボートをやってみようかと思った。彼は、また、ブラッドの従兄弟のミッチ・
ルイスに
手紙を書いて彼のウエイトトレーニングについて教えてもらおうかとも思った。
300
第三十三章
ブラッド・
ルイスは、他のアメリカの金メダリストとともに、大会の後、アメリカ各地で行われた祝勝ツアー
を楽しんだ。とは言っても、ボートという変なスポーツの金メダリストであることは彼の名声をたいして上げ
ることにはならなかったのだが。他のボート選手たちは彼が金メダルを取ったことは知っているし、地方の新
聞の中には注目したものもある。それ以外は、喜びの気持ちは自分の内からしか出てこなかった。アンディ・
ウォーホルがアメリカでの名声について言っていたのは何だっけ、と彼はある友人に尋ねた。名声などというも
のは十五分しか持たない、だったかな?おそらく、それは当たっているね。このツアーで彼はすぐに名声を獲
得する方法を学んだ。「式のときにはいつも体操選手の後ろに立つようにすればいいんだよ。なにしろ、カメ
ラはいつもあいつらの後を追いかけているんだから」
と彼は言った。
301
エピローグ
オリンピックの数ヵ月後、ブラッド・
ルイスはウエルズ・
ファーゴ銀行での仕事を辞めて皆をほっとさせた。彼
が絶対になりたくなかったのは銀行員だった。彼は自分のオリンピックの経験について何回か講演し、それを
楽しんだ。彼が特に好んだのは、決勝レースの模様を写したABC放送のビデオを上映することだった。その
ナレーションの中で、事前に結果を分かっていたカート・ゴウディは、アメリカのダブル艇は千㍍地点で遅れて
いたことを解説していた。「
だが、ルイスもエンクイストも心配していなかった」とゴウディは言った。「
とんでも
ない!」と部屋の後方からルイスが声を上げた。聴衆は、そんな言葉を喜んだ。彼はワープロを買い、自分の
経験を本に書き始めた。秋になったら彼はティフ・
ウッドとダブルで漕ぎたいと思ったが、ティフの方はそれに
興味を示さなかった。ルイスはもうしばらくスカルをやって、一九八五年のヘ
ンレーで漕ぐ希望を持っている。
ジョン・ビグローはペンシルバニア大学ではなくダートマスの医学部に進むことを決めたが、すぐに自分が正
しい決断をしたことが分かった。彼は、ハノーバー地域の田舎風の環境やアウトドア活動が気に入った。彼は、
302
当面、ボートはやらないつもりだが、春になったらシリアスな競技生活に戻るか、分からなかった。彼は、心
理療法士が教えるストレスに関する選択科目を選んだが、すぐにこれが気に入った。同じ教室にいる学生た
ちがディベートの際に、君は皆にとって扱いにくい奴だと言ったときが、特に、そうだった。皆が言うには、ビ
グローが自分のことはほとんど明かさないくせに、他人の私的なことを根掘り葉掘り聞きたがる傾向がある
というのである。それで彼が驚いたわけではない。彼は、小さな町の医者になることを真剣に考えていた。
ジョー・
ブースカレンは、一九八八年のオリンピックに出場したいと強く願っている自分に気がついた。彼は、
また、長年望んでいたものを受けた。ニューヨーク特別外科病院の研修医のポジション提示だ。この病院はアメ
リカの著名病院の一つで、希望者が多く競争の激しいポジションだった。実際のところ、彼は、自分の名前が合
格者氏名のリストに載ることはないのではないかという悪夢に、前年、悩まされたものだ。だが、まだローイン
グへ
の情熱が冷めやらず、自分自身も驚きだったが、この切望していた任命を断って、どこかの素晴らしいロー
イングセンターに近い病院の緊急処置室でのごく平凡なポジションにつこうかと考えている自分がいた。その
メリットは単純だ。緊急処置室での勤務時間は長いが、決まった時間に仕事は終わる。そして、ローイングを
続ける自由時間がある。彼がそんなことを考えていると聞いて友人たちは驚いた。それがトニー・
ジョンソンの
303
耳に入ったとき、彼はただ首を振るばかりだった。「
まったく負けず嫌いな奴だな」
とジョンソンは言った。ブー
スカレンは、数週間、この選択肢を思案したが、結局のところ、特別外科病院の研修医を選ぶことにした。だ
が、このエピソードは、いかに彼が一九八八年のオリンピックという考えにとらわれていたかを示すものだっ
た。
ティフ・ウッドは、まだローイングからの引きこもり症状が続いていた。チャールズ川に出ることもめったに
なかったが、秋にはザ・
ヘ
ッド・
オブ・
ザ・
チャールズに出場し、アンディ・
スデゥースに次いで第二位に入った。オ
リンピックではエイトを漕いだスデゥースは、今や他のスカラーたちから期待の星と目されていた。ウッドは、
思ったほど自分が振るわなかったことを不満に思っていた。しかし、本格的トレーニングに踏み出すかは決め
かねていた。ウッドとクリス・
エイサリンドは婚約を発表し、それを祝って二人のために、十二月中旬、盛大な
婚約パーティーが開かれた。ティフ・
ウッドは、一つの問題をじっくり考えて、それからハリー・
パーカーをパー
ティーに招待することにした。ハリーは、過去一年いろいろあったが、ウッドの人生において重要な部分を占
めていることには変わりがなかったのである。
304
完
305
Fly UP