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W.オーウェン・ハロッド著「ブルーノ・パウルのタイプ家具とドイツ工作連盟

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W.オーウェン・ハロッド著「ブルーノ・パウルのタイプ家具とドイツ工作連盟
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
W.オーウェン・ハロッド著「ブルーノ・パウルのタイプ家具とドイ
ツ工作連盟、実用主義モダニズム1908-1918年」和訳(上)
Author(s)
針貝, 綾
Citation
長崎大学教育学部紀要. 人文科学. 2007, 73, p. 49-62
Issue Date
2007-03-01
URL
http://hdl.handle.net/10069/9725
Right
This document is downloaded at: 2017-03-28T17:29:00Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長 崎大 学教育学部紀 要 一人文科学一
第7
3号
W.オーウェン ・ハロッ ド著 「ブルーノ ・バウルのタイプ家具 と
9
0
8
-1
9
1
8
年」和訳 (
上)
ドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1
針
員
綾
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は じめに
本稿 では、訳者 が平成 1
6
年度 か ら行 ってい る手工芸連合 工房 史 の基礎 的研 究 の一部 とし
て、W。
オー クェ ン ・ハ ロッ ドが2
0
0
2
年 『
装飾芸術研究』 に発表 した論文 「ブル ー ノ ・バ ウ
ル のタイ プ家具 と ドイ ツ工作連盟 、実用 主義モ ダニズム 1
9
0
8-1
91
8
年 」 の前半部分 を紹介
する (
注 1)。 ブル ー ノ ・バ ウル は手工芸連合工房 において リヒヤル ト ・リーマー シュ ミー
トに次 いで主力 図案 家 として活躍 した後、ベル リンを中心 に美術教育 にカ を注 ぎ、ベル リ
ン美術 工芸博物館 、 プ ロイセ ン美術 アカデ ミー等 の要職 を歴任 した人物 であ る。バ ウル の
業績 の 中で もタイ プ家具 は彼 の手工芸連合 工房 にお ける最 も重 要 な仕 事 のひ とつ と 目され
る。 当初 、訳者 はタイ プ家具 が後 の ドイ ツ工作連盟 におい て重 要 な規格化概念 の源泉 のひ
とつ となった こ とを裏付 ける論文 の執筆 を構想 し、資料調査 を行 っていたが、調査 中にま
さにこのテーマ につ いて明快 に書 かれ てい る本論考 に出会 ったた め、計画 を変更 し、今 回
は これ を翻訳す ることに した。バ ウル のカ タ ログはすで に元ベル リン美術工芸博物館館長
ソニア ・ギュンタ-が 1
9
9
2
年 に出版 したものがあったが (
注1
)
、ハ ロッ ドは大幅 に資料 や
解説 を加 えた形 で2
0
0
5年 にバ ウル のカ タ ログを出版 してい る (
注2
)
。 したがって2
0
0
2
年に
『
装飾芸術研究』 に発表 され た本論 はハ ロッ ドのバ ウル研究 の出発 点 となった論文 であ り、
その後 のバ ウル研究 の重要 なェ ッセ ンスが集約 され てい る論文 で あ る とい えよ う。
翻
訳
1
9
3
6
年 の独創 的な書 『ウイ リアム ・モ リスか らヴ ァル ター ・グ ロピウス までの近代運動
,
の先駆者 たち』 (
注4)の中で、ニ コラス ・ペ グスナ- は建築家ブルー ノ ・バ ウル (
Br
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1
8
7
4
1
9
6
8
)によってデザイ ンされた一連 の量産家具 「タイ プ家具」 (
Type
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) について
言及 している。 タイ プ家具 とい う名称 は、逐語的 に"
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ypi
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lf
um
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と英訳 されてい る。 それ は、経 済的、実用 的、良心的 にデザイ ン され 、入念 に仕 上 げ られ
た家具 を平均 的 な中流 階級 の家庭 が揃 えるために必 要 なあ らゆ る部 品 を含 んでい た。規格
化 され 、機械 生産 され た部 品の、無 限の組 み合 わせ が可能 な近代 的なユニ ッ ト家具 の最初
の例 で あった。 この よ うにタイ プ家具 は近代運動史 に位 置づ け られ てい るのだが、実 は1
8
世紀 ドイ ツの歴 史主義 を想起 させ る形態言語 においてデザイ ンされ た ものであ る。 それ は
結果 的 に機能 主義美学 の歴 史 をた どる歴史家 の意 図 によって無視 され て きた。 この軽蔑 し
針
貝
綾
5
0
た態度 の始 ま りは、す で に 『近代運動 の先駆者 たち』 において明 らかである。ペ グスナはブル ー ノ ・バ ウル の規格化 家具 が 「
その国 中の趣 味 を変 えさせ るこ とがで きた。す なわ
ち、最 も不屈 な ドイ ツの革新者 グ ロピウス さえ もた らす こ とがで きなかった趣 味 を変 え さ
せ たのである」 (
注5) としなが ら、バ ウル の家具 が紹介 され た年 を間違 い、製造元 を取 り
違 えてい る (
注 6)。 しか もペ グスナ- は、趣 味 の変化 のま さにその理 由を次 の よ うに過′
J
、
評価 してい る。妥協 を しない グロピウス に対す る賞賛 によ り、バ ウル はタイ プ家具 の 「
心
地 よさ、清潔 さ、安 っぽ く下品な表現 の排 除」 (
注7) を認 め るに至 った とい うのだ。 それ
で も、 その実用的 なモ ダニズムのデザイ ンが中流階級 の需要 と要望 に合致 した中央 ヨー ロッ
パ の進 歩 的なデザイ ンの歴 史 において、バ ウル の タイ プ家具 は最 も重 要で しば しば見落 と
され が ちなもののひ とつ を具現化 してい るので あ る。 これ は第 一次世界大戦前 の しば しば
気難 しい ドイ ツ工作連盟 を支 えたモ ダニズ ムであ り、 それ が工作 連盟 のイ デオ ロギー上 の
立場 の形成 においてひ とつ の 中心 的 な役割 を果 たす ことになるのであ る。
タイ プ家具 の定義
1
9
0
8年、 ブルー ノ ・バ ウル のタイ プ家具 はアー テ ィス トがデザイ ンしたハ ウス ウエ アの
製造 に専念 していた ミュン- ンの会社 「
手工芸連合工房」 によって紹介 され た (
注 8)。 タ
イ プ家具 の定義 にお け る 「
規格化 され た家具 (
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d
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r
d
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z
e
d血mi
t
u
r
e
)
」 とい う用語 は、規格
とい う概念 が模範 的 な地位 と規範 的 な地位 を同時 に暗示す る限 りにおいてその名称 の含意
に近 いか もしれ ない。 タイ プ家具 はバ ウル が個人 か らの委託 に よ り考案 した作 品 と同 じよ
うにデザイ ンした量産家具 を含 んでいた。 それ は購入 が容易 で、多 目的かつ フ レキシブル
であ るよ うに考 え られ てい た。その結果 い くつ かの異 なった グル ー プ を、生産 され た さま
9
3
6年 にニ コラス ・ペ グスナ- はブル ー ノ ・
ざまなパー ツ によ り構成 す る ことがで きた 。1
バ ウル のタイ プ家具 を外 国の工業 の前例 として次 の よ うに記述 してい る。 「
そのアイデ アは
アメ リカか ら来 たものである。それはアメ リカではしばしば本棚 のために使 われた」 (
注9)。
規格 サイズの棚 の量産 品、 タイ プ家具 のシ リー ズ に共通す る同形 のプ ロポー シ ョン と寸法
のシス テムの間 には明 らか に類似 が見 られ るが、バ ウル の家具 はアメ リカ工業 の実践 -の
ヨー ロッパ人 の適応 とい うよ りもは るか に重要 な何 か を表 してい る。
バ ウル のタイプ家具 は、 リビングルーム、 ダイニ ングルーム、ベ ッ トルーム、子供部屋、
勉 強部屋 をコーデ ィネー トす るの に必要 な家具 のすべ ての要素 を含 んでいた (
図1)。 その
ライ ンは一連 のサイズのベ ッ ド、 ソファー、本棚 、机 、椅子 、 ドレッサー、食器戸棚 、各
種 テー ブル 、柱 時計 な どを多数含 んでい る。 タイ プ家具 は、ニス仕 上 げの くるみ材 、マ ホ
ガニー材 、オー ク材 、 ラッカー仕上 げの トウヒ材 か ら材 質 を選 んで購 入す る こ とがで きた
(
図2)。すべてのパー ツは本棚 の よ うな大 きなパー ツ と寸法 のモ ジ ュール ・システム を考慮
した、一貫 した美 的 プ ログラム との一致 におい て製造 され た (
図3)。結果 として同 じ仕上
げのパ ー ツは、実質 的 には限定 され た数 の、調和 の とれ たア ンサ ンブル を製造す る こ とと
結びつ けられ る.実際、『
装飾芸術』誌 (
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)と 『
芸術』誌 (
Di
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)(
注1
0
)
に同時 に発 表 され た 、1
9
0
8
年 のタイ プ家具 に関す る記事 を添 えた写真 に よって説 明 され る
よ うに、バ ウル の規格化家具 だけで家 を趣 味 よ く設 える こ とは可能 で あった。
バ ウル の タイプ家具 はシ ンプル で、実用 的で、安価 であるこ とが意 図 され てい たが、 「
労
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) に分類 され る こ とはなかった. とい うのは、 タイ プ家具 は中流
働者 家具」 (
W.
オー ウェン ・ハ ロッ ド著 「
ブルー ノ ・バウルのタイプ家具 とドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1
9
0
8-1
91
8
年」和訳 (
上)
5
1
図1 《タイプ家具 :本棚 T
5
5
1
モデル 》1
9
0
8
年
図2 《タイプ家具 :(
左)柱時計、 (
右)洋服箪笥》1
9
0
8
年
図3 《タイプ家具 :本棚 》1
9
0
8
年
針
貝
綾
5
2
図4 《タイプ家具 :ダイニ ングルーム 》1
9
0
8
年
図 5ブルー ノ ・バ ウル ・デザイ ン、手工芸連合工房制作 《ダイ
ニ ングルーム》第 3
回 ドイツ美術工芸展 ドレスデ ン1
9
0
6
年
図6手工芸連合工房制作 《ブルー ノ ・バウルのダイニ ングルー
ム 》1
9
0
7
年
W.
オーウェン・
ハロッド著
「
ブルーノ・バウルのタイプ家具とドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1908-1918年」和訳
(
上)
5
3
階級 (
注1
1
) の家具 だったか らであ る。1
9
0
8年 『
装飾芸術 』誌 に掲載 され たタイ プ家具 の
ダイニ ングル ー ム は、正方形 のテー ブル、二脚 の肘掛 け椅 子、食器棚 、戸棚 か ら構成 され
00マル クか ら3
,0
00マル ク程度であっ
ていた (
図4)。 ドイ ツの労働者 階級家族 の平均年収が9
た第一 次世界 大戦前 において、オー ク材 ニス仕上 げのタイ プ家具 ダイ ニ ングル ー ムの価 格
は9
69マル クであった (
注1
2)。 タイ プ家具 はほ とん どの労働者 階級 の家庭 に とってそれ ほ
ど高価 であった訳ではない。 また、異 なった社会環境 のためにもデザイ ンされた。例 えば、
1
9
06年 に ドレスデ ンで開催 され た第 3回 ドイ ツ美術工芸展 の際 にバ ウル が展示 したダイニ ン
グルー ム (
図5) を含 む タイ プ家具 のダイニ ングルー ムのパー ツは、連合工房 によって生産
され た最 も高価 な グル ー プの ダイニ ングル ー ム に匹敵す るもので あ る。その よ うな部屋 は
平均的 な労働 者 階級 のアパー トや 1
9
0
8年 の 田舎 の家 におい て も成 し遂 げ られ なかった社会
的 な儀 式 を反 映 してい た。 ブル ー ノ ・バ ウル が 1
9
0
6年 に一組 の 「
労働者 家具 」 をデザイ ン
した時、 その 中にはヴィル-ル ム統治時代 の労働者 階級 の平均 的 な生活水 準 に合 わせ た、
リビングルー ム、仕 事部屋 、 ダイニ ングル ー ムのための家具 が含 まれ てい た。 それ に対 し
て タイ プ家具 の ダイニ ングル ー ムは、ベル リンの ブルー ノ ・バ ウル 自身 のダイニ ングル ー
ム、す なわち著名 な教授 のダイニ ングルー ムの家具 に類似 してい る (
図6)0
バ ウル 自身 の ダイニ ングル ー ムのためのオー ダー メイ ド家具 におい て、戸棚 のカー ブや
サイ ドボー ドの本 に合 った化粧 張 りや ガ ラス扉 の菱形 のパ ター ンはタイ プ家具 と共通す る
特徴 で あ る。実際、 タイ プ家具 はバ ウル が 同時期 に連合工房 のた め にデザイ ンした、高価
な一揃 いの手作 り家具 の単純化 され た ヴァー ジ ョン と考 え られ た。 この よ うに連続 して生
産 され たタイ プ家具 は ヨー ロッパ のイ ンテ リアデザイ ンにお ける新 しい重要 な発展 を反 映
してい た。バ ウル の タイ プ家具 は進歩 的なデザイ ンが大量生産 の規模 で 中流 階級 の顧 客 に
首尾 よ く宣伝 販 売す る最初 の機 会 となった 。1
9
08年 まで にモ ダ ン ・デザイ ンの支援 にお け
る中流 階級 とこの支援 の育成 にお け る商業 上 の関心 は高 まってい た 。1
90
2年 と1
90
5年 に、
ベル リンの ヴェル トハ イ ムのデパー トは大衆 の関心 を広 げ るモ ダ ン ・イ ンテ リアデザイ ン
3)。 タイ プ家具 はそ の中立性 に よ り、1
9
05年 にヴェル ト
の重要 な展覧会 を開催 した (
注1
ハ イム あ るい は翌年 ドレスデ ンにおいて展 示 され たアーテ ィス トのデザイ ンに よるイ ンテ
リアか ら区別 され る。 タイ プ家具 はシ ンプル さや 古典 的 な形態 の変形 、生産や流通 のモー
ドにおいて急進 的であった。それ に対 して2
0世紀初頭 の1
0年 間 に リヒヤル ト ・リーマー シ ュ
ミー トや アル ベル ト ・ゲスナー の よ うな芸術 家 よってデザイ ンされ た家具 は、 「
総合芸術 」
(
Ges
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kuns
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we
r
k) とい う依然 として消 えるこ とのないユーゲ ン トシ ュテ イル の理想 を表 し
ていた (
注1
4)。 それ らの構成 は財産や服装 、家族 の様子 との不調和 の要素 も作 品の完壁 さ
を損 なわ ない こ とを暗示 してい る (
図7、8)。バ ウル はタイ プ家具 の 「
部屋 」 はデザイ ンせ
ず 、他 社 のフ ァブ リックや ア クセサ リー と組 み合 わせ て完全 なイ ンテ リア を造 る合理 的で
実用 的 な一揃 い の家具 だ けをデザイ ンした (
注1
5)。
ブルー ノ ・バ ウル
ブル ー ノ ・バ ウル の子供 時代 と教 育 は彼 の応用美術家 としての将来 の成 功 の徴候 をほ と
ん ど示 してい ない。彼 は1
8
7
4年 にザイ フ-ネル ス村 に生 まれ た。人 口7
,5
00人 のその村 は 旧
ザ クセ ン王国オーバ ー ラ ウジ ッツ地方 のゆ るや か に起伏す る農村地帯 に位置 してい る (
注
1
6)。子供 の頃、バ ウル は家具 デザイ ン領域- の伝 統 的 な入 門方法 で ある大工や指物師 に弟
針
貝
綾
5
4
図7 リヒヤル ト・リーマー シュ ミー ト 《インテ リア》
回 ドイツ美術工芸展 ドレスデ ン 1
9
0
6
年
第3
図8アルベル ト ・ゲスナー 《インテ リア》
回 ドイツ美術工芸展 ドレスデ ン 1
9
0
6
年
第3
子入 りは してい ない。野心的 な父 グスタフ ・エ ドワー ドはプ ロのキャ リア (
注1
7
)を積 ま
せ るために1
886年バ ウル をザ クセ ンの首都 ドレスデ ン-送 った。1
2歳 の時、バ ウル は ドレ
スデ ンにあるク ロイ ツギムナ ジ ウムで勉 強 を始 める (
注1
8)。その後す ぐにギムナジ ウム を
去 り、 ドレスデ ン郊外 フ リー ドリッヒシ ュタッ トの教員養成大学 に入学す るも (
注1
9)
、1
892
年バ ウル は教 師 にな る努力 をす る こ とを断念。代 わ りにザ クセ ンの美術 アカデ ミー に学生
として受 け入れ られ る前 の一年 間、 ドレスデ ンのある建築家 の事務所 で働 く (
注20)。1
894
年 には ドレスデ ンを出て、バ ウル は著名 なジャ ンル画家 ・肖像画家バ ウル ・- ツカー (
pa
ul
Hoe
c
ke
r
) の学生 として登録 され たアカデ ミー のあ る ミュン- ン- と向か った。
バ ウル が応用美術家 としての ライ フワー クを始 めたの は ミュン- ンである。彼 がバ イエ
ル ンに到着 した当時、他 の ドイ ツの都市 よ りも ミュン- ンに多 くのの画家や彫刻家 たちが
住みつ き、制作 していた (
注2
1)。諸芸術 の中心 としての ミュン- ンの評判 は、都市 の多 く
の人 口を占め る芸術家 たちに非常 に高い生活水 準 を享受す るこ とを大 ドイ ツ におい て容認
させ た。 こ うした状況 は2
0歳 のブル ー ノ ・バ ウル の よ うな大志 を抱 い た芸術 家達 に とって
大 きな魅力 となってい たが 、 1
9世紀最後 の数年 にお ける美術学生 の ミュン- ン- の流入 は
彼 らを都市-惹 きつ ける状況 を脅 か して もいた。バ ウル もまた ミュン- ン ・アカデ ミー の
W.
オーウェン・
ハロッド著 「
ブルーノ・
バウルのタイプ家具とドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1
9
0
8-1
9
1
8
年」和訳 (
上)
55
多 くの学生達 の よ うに職業画家 として生計 を立 て る 自身 の能力 に疑 問 を抱 き始 めた。 とい
うの も彼 は才能 のあ る芸術家 ではあったが、決 して学業 を成就 す る こ とはなか ったか らで
ある (
注22)0 1
8
9
6年 にはアカデ ミー を去 り、パ ウ/
レは美術雑誌 『ユーゲ ン ト』(
J
u
g
e
n
d
)の
寄稿者 の常連 とな る。翌 1
8
9
6年 に創刊 され た、ス キャンダラス な こ とで知 られ る風刺 週刊
誌 『ジ ンプ リチ シムス』(
S
i
I
叩l
i
c
i
s
s
i
mu
s
)に参加 。1
8
9
7
年 か らバ ウル は毎週 『ジ ンプ リチ シ
ムス』誌 に挿絵 を提供す る。 間接 的 にではあ るが、雑誌 - の参加 も彼 のキャ リア を装飾美
術 - と導いてい った。
友人 で、『ジンプ リチシムス』誌 の協力者 トーマス ・テオ ドール ・ハイネ (
Th
o
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sTh
e
o
d
o
r
He
i
n
e
、注 2
3)の家 のために最初 の家具 を設計 した、 とバ ウル は1
9
6
6年 に回想 してい る (注
24)0 1
8
9
7年 頃ハイネ は ミュン- ンで家具付 きアパ ー トを賃借 りしたのだが、家主 の装飾趣
味 に失望 し、 当時 ミュン- ンで人気 を得つつ あったユー ゲ ン トシ ュテ イル の、彼 自身 の美
的好 み に合 うもの を作 って も ら うよ うバ ウル に協力 を求 めたのだ とい う。 しか し、バ ウル
の興味深 い話 を裏付 ける証拠 はほ とん ど残 ってい ない。
手工芸連合工房 は、前年 に開かれ たメジ ャー な美術展 「
第 7回国際美術展」 (
王立ガ ラス
官、 ミュン- ン、注25) に参加 した芸術家 の グル ー プによ り1
8
9
8年 ミュン- ンにおい て結
成 され た。 当時 『ジ ンプ リチ シムス』誌 の風刺 画家 であったバ ウル は、ガ ラス宮 に出展 し
た ミュン- ン ・ゼ ツェ ッシ ョン (
注26) の メ ンバ ー を含 む進歩 的 な ミュン- ンの芸術家 た
ち とすでに交流 していた。アカデ ミーでバ ウル の指導者であったバ ウル ・- ツカー はゼツェッ
シ ョンの初期 の メ ンバー で あ る。 また、 トーマス ・テオ ドール ・ハイネ も同様 であ る。バ
ウル は1
8
9
7
年 までゼ ツェ ッシ ョンに参加 しなかったか もしれ ないが、 メ ンバ ー とは確 か に
親交が あった らしい (
注27)。 ミュン- ン ・ゼ ツェ ッシ ョンのメ ンバー は、 その後 の ウィー
ンのゼ ツェ ッシ ョンの よ うに 「
総合芸術」 とい う概念 を主 張 した。ゼ ツェ ッシ ョンの画家
フランツ ・フォ ン ・シ ュ トクックは、第 7回国際美術展 の年 に創建 され た ミュン- ンの プ リ
ンツ レ- ゲ ンテ ン通 りの邸宅 の設計 において この理想 を明示す る。 シ ュ トクックはその建
物 、家具 、彫刻 装飾 、絵画装飾 を統 一性 の あ る芸術作 品 として設計 したのであ る。 同様 の
芸術的統合 の雰 囲気 は第7回国際美術展 の展示室 を満 た していた。 これ は家具 とハ ウス ウェ
アの芸術 的デザイ ンによ り美術 と応用 美術 の間の伝 統 的 区別 の除去 に捧 げ られ た新会社連
合 工房 (
ve
r
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n
i
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r
k
s
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a
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e
n)
、す なわ ちv
w の設立 にイ ンス ピレー シ ョンを与 えた。バ ウ
ル は しば しば連合工房 の設立者 のひ と りとして挙 げ られ るが、会社法人 の文書 は別 の こ と
を示 してい る (
注28)。それ にもかかわ らずバ ウル は創設 か ら一年 間その会社 に家具デザイ
ンを提供 し、 その会社 の最 も多産 で成功 したデザイナー のひ とりとなった。
1
9
0
7
年 にバ ウル はベル リンの応 用美術館学校長 に選任 され る。任命 に際 して は影響力 の
あるベル リン博物館群 の総館長 ウイ リアム ・フォ ン ・ボーデ によって推薦 され、カイザー ・
ヴィル -ル ム2世 によって承 認 され た (
注 29)。運営上 の任務 に加 え、バ ウル は建築 とデザ
イ ンの クラス を教 えた。教授 の地位 も独立 した芸術 家 としての彼 の名 声 を高 め る こ とに一
役買 った。 ミュン- ンでの最後 の数年 間 に建築 デザイ ンを準備 し (
注30)、ベル リン-移 っ
てか ら建築事務所 を開 くのだが、ベル リン-移 った後 もバ ウル は連合 工房 の よ うな個人 の
会社 にデザイ ンを提供す るこ とを続 けた。教員 としての仕 事 は彼 の創 造 的過 程 に肯定 的 な
影響 を与 えた と見 え、ベル リンにお ける彼 の仕事 はユーゲ ン トシ ュテ イル に霊感 を得た ミュ
ン- ン時代 のデザイ ンには欠 けてい た 自信 と成熟 に到達 した。意 味深長 な こ とに、連合 工
針
貝
綾
56
図 9 ブルー ノ ・バウル ・デザイン、手工芸連合工房制作
《ニュル ンベル ク駅 1
等 ・
2
等待合室のための家具》1
9
0
6
年
房 がバ ウル教授 の タイ プ家具 を紹介す るの は首都 -移 った後 の こ とで あ る (
注 31)0
工業生産 と伝統的職人技
進歩 的 にデザイ ンされ たハ ウス ウェアのシ リー ズ生産 はタイ プ家具 がオ リジナル で はな
い。1
9世紀終わ りまでに比較的購入 しやすい量産家具 は中央 ヨー ロッパ 中に広 まっていた。
中で もオー ス トリアの会社 トーネ ッ ト兄弟 商会 は初期 の家具 マニ ュフ ァクチ ュア として最
もよ く知 られ てい るものだろ う。 ライセ ンス契約 をした もの も、 ライセ ンス契約 の ない模
造 品 も含 めて、 トーネ ッ トの 曲木椅子 は20世紀初頭 には ヨー ロッパ 中で使 われ てい た。そ
れ は レス トラン、 カ フェ、蒸気船 の客室 、小市 民 の リビング、 ウイ ンター ・ガーデ ン、富
裕者 の使用人部屋 な どの標 準 的な備 品 となっていた。 トーネ ッ トもよ り高価 な作 品 を ヨー
ゼ フ ・ホフマ ンや後 のバ ウル の よ うな芸術 家 た ちのデザイ ン と結 びつ けたが、伝統 的 な職
人技 は初期 の トーネ ッ トの 曲木椅子 を組 み立 て るために依然 として必 要 とされ た。個 々の
モデル は厳密 に標 準化 され、莫大 な数 の同源 の コピー が生産 され た。それ にもかかわ らず、
トーネ ッ トの 曲げ木家具 の よ り高価 なヴ ァー ジ ョンはそれ ほ ど多 く販 売 され てい ない。 そ
れ に加 え、 トーネ ッ トは1
90
8年 に典型 的 な ブル ジ ョアジーのための ダイニ ングルー ムや勉
強部屋 を完成 させ るの に必 要 な同一様式 の家具 を供給 していない。
バ ウル は間違 い な く トーネ ッ トの家具 に親 しんでい た と思 われ る。1
9
04年 にはカ フェ レ
ス トラン (
図 9) の よ うに設 えた、ニ ュル ンベル ク駅 の フ ァー ス ト ・クラス とセ カ ン ド ・
クラス の待合 室 のためのイ ンテ リアデザイ ンを完成 させ た。 その待合 室 は1
9
0
4年 まで に ド
イ ツに確 立 され た機能主義 的 なタイ プを反 映 してい る。 その よ うなセ ッテ ィ ングに相応 し
い家具 も、 どこにで もあ る トーネ ッ トの曲木椅子 の形 において展 開 され た。 しか し、バ ウ
ル はニ ュル ンベル クでは曲木椅子 を使用 してい ない (
注 32)。彼 は6586モデル として連合工
房 に よって生産 され たシ ンプル で、 しっか りしたデザイ ンの椅子 を創 り出 した。連合 工房
もニ ュル ンベル クの待合室 で使用 され たベ ー シ ックなデザイ ンに加 え、椅子 6586aモデル
と肘掛椅子 6586
bモデル を販 売。連合工房 は規格化 、大量生産 され た比較 的少 ない部 品か ら
成 る様 々な家具 を生産 した トーネ ッ ト社 に商業上 の成功 をもた らした、 ま さにその生産 メ
ソッ ドを手本 としたので あ る。実質 的 に、ニ ュル ンベル クのために連合工房 が組 み立 てた
大量 の椅子 6586モ デル か らバ ウル のデザイ ンの大規模 な製造 が始 まった。バ ウル が経 済的
W.
オーウェン・
ハロッド著 「
ブルーノ・バウルのタイプ家具とドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1908-1918年」和訳 (
上)
5
7
図1
0 リヒヤル ト ・リーマー シュミー ト 《機械家具 》1
9
0
6
年
で フ レキシブル な製造 のための タイ プ家具 を思 いつ いたの は、椅子 6586モ デル につい て検
討 に検 討 を重 ね た3年後 の こ とであった。
20世紀初頭 において、上流 階級 を含 む富裕 な中央 ヨー ロッパ の人 々の家 は家 を建 てた建
築 家 に よ り個 々の部屋 の ため にデザイ ンされ た り、伝 統 的 な手工業者 によ り製造 され た揃
い の家具 で設 え られ た りしてい た。概 して高価 な家具 にみ られ る ドイ ツ趣 味 は 1
9世紀後半
の鈍重 な折衷主義 に向け られ ていた。マイ ンツの A.ベ ンべ のよ うな会社 は陳腐 だ とはい っ
て も華や かで優 美 に工芸化 され たイ ンテ リア生産 に専 門化 してお り、 その顧 客 は王家や 実
業家、有力 な企業 、野心的 な 中流 階級 の会員 を含 んでいた 。1896年 ユー ゲ ン トシ ュテ イル
はベ ンべ の よ うな会社 に よって奨励 され た折衷 的歴 史主義 に反対 して ミュン- ンに台頭 す
る。連合工房 と ドレスデ ン近郊- レラウの ドイ ツ工房 す なわちDe
Weは、個性 的 なデザイ ン
と美術 を統合 した作 品を振興す るため、ユーゲ ン トシ ュテイル の絶頂期 に設立 され た。ユー
ゲ ン トシ ュテ イル は美 しい素材 とイ ギ リス の前例 か ら受 け継 い だ賓沢 な職 人技 を強調 して
当初 は富裕者 の中にのみパ トロンを見つ けた。 ミュン- ンの 『ユーゲ ン ト』誌 の グラフィ ッ
クデザ イ ンは幅広 い人気 を得 たが、ユーゲ ン トシ ュテ イル のハ ウス ウエ アはアーテ ィス ト
が制作 した作 品の価格 が高価 で あったため にグラフィ ックデザイ ンの よ うに幅広 い人気 を
得 るこ とはなか った。 また、20世紀初頭 まで ドイ ツのデパ ー トで も入手す るこ とがで きた
ユーゲ ン トシ ュテ イル ・デザイ ンの大量生産 品は、一般 的 な折衷 主義 に他 の形態語桑 を加
えただ けの もので しかなか った (
注3
3)。製 品 をカタ ログ購入す るこ とは控 えめなアパ ー ト
に表面上 の現代性 を付与 したか もしれ ない が、最高 のユー ゲ ン トシ ュテ イル ・デザイ ンの
芸術 的 な統合 とい う結果 には決 して な りえなかったので あ る。
1
906年 、 ドイ ツ工房 は量産 され た トーネ ッ トの椅子 と最高 の アーテ ィス トを集 めたユー
ゲ ン トシ ュテ イル伝 統 のデザイ ンの 中間 に位置す る リヒヤル ト ・リーマー シ ュ ミー トのデ
ザイ ンによる一連 の家具 を紹介 した (
注 34)。 リーマー シュ ミー トの家具 もまた、バ ウル と
連合工房 にとってのイ ンス ピレーシ ョンの源泉 として一役買った (
注35)O リーマーシュ ミー
トはそのデザイ ンを 「
機械家具」 (
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) と呼んだ (
注3
6)。イ ギ リスのアー ツ ・
ア ン ド ・クラフツの伝統 を想起 させ る 「
製 品」 の意味 を意識的 に強調す ることによ り、個 々
のモデル は抑制 され たユーゲ ン トシ ュテ イル の、有機 的 で流れ る よ うな曲線 の特徴 に関す
る リー マー シ ュ ミー トの解釈 を反 映 した、De
Weの機械 家具 に組 み入 れ られ た (
図1
0)。機
械 家具 の最 た る作 品は、外 に見せ る継 ぎ 目と、装飾 的な要素 として扱 われ た留 め具 によっ
針
貝
綾
5
8
て組 みたて られていた。石 のファサー ドにおける構造上不要なアル ミニ ウムの鋲 の効果 は、
1
9
04年 、 ウィー ンに建設 され たオ ッ トー ・ワー グナー の有名 な郵便貯金局 の表現形式 にお
いて明 らか に近代 的で あ るの に対 して、 リーマー シ ュ ミー トの機械 家具 の継 ぎ 目を装飾す
る木 のボタ ンは表現上 の機能 よ りも構造上 の機 能 を助 けてい た。他 の機械 家具 の作 品は、
同形 の、 ろ くろ成形 による部 品の使用 に よ り文字通 り機械 生産 の恩恵 を受 けていた。部 品
に29回転 した手す り子 を組 み込 んだ機械家具 のデス ク ・チ ェアは確 かに独特 であるものの、
広 く20世紀 デザイ ン史 にお ける画期 的 な条件 とは考 え られ てい ない0
ブル ー ノ ・バ ウル の タイ プ家具 は製 品の素材 と手法 において リーマーシ ュ ミー トの機械
家具 と技術 的 に似通 ってい る。 どち らの ライ ンも規格化 され た部 品 に よ り手 で組 み立 て ら
れて仕 上 げ られ、機械 で成形 され ていた。バ ウル によるデザイ ンの表面上 のシンプル さは、
機械 生産- の適合 を連想 させ るが、 タイ プ家具部 品の多 くの細部 は繊細 で複雑 であ る。 タ
イ プ家具 と機械家具 の間 の根本 的 な相違 は、様 式上 のそれ であ る。機械家具 がアシ ンメ ト
リー な形態 と、鞭 打つ よ うな曲線 に対す るため らいが ちな親近性 にお いて1
89
6年 時点 の前
衛 的 な美学 の何 か を反 映 していたの に対 して、バ ウル のデザイ ンは1
9世紀最初 の2
5年 の伝
統 を想起 させ る。1
9世紀初頭 は ヨハ ン ・ヴォル フガ ング ・フォ ン ・ゲーテ と、 その名前 が
彼 の生 きた時代 を意味す る、 ドイツ中産階級 の理想 の具現化 であ るゴッ トリー プ ・ビー ダー
マイヤーの時代 で あ る。1
908年 まで に、ユーゲ ン トシ ュテ イル はす で にその コース を辿 っ
ていたのだ。実際 、1
9
02年 に-ル マ ン ・ムテ ジ ウス は 『
様式建築 と建築芸術』 (
注37) の中
にユー ゲ ン トシュテ イル とその特徴 的な形態 につ いて記述 していた。 しか しなが ら、 ビー
ダーマイヤー の影響 は、ま さに ドイツ ・デザイ ンにおいて感 じられ始 めていたのである (
注
3
8)0
とはい うものの、バ ウル の タイ プ家具 は 1
8世紀 のオ リジナル の コ ピー と間違 え られ るこ
とはないだ ろ う。 む しろ、彼 のデザイ ンは 1
9
0
4年 のセ ン トル イ ス万 国博覧会 と1
9
0
6年 の ド
レスデ ン応用 美術展 での連合工房 の代表 として彼 が提示 した、高価 な手作 りの家具 のシ ン
プル で合理 的 なヴ ァー ジ ョンであ る。批評家 は、 「ビー ダーマイヤー ・リグァイ ヴァル 」 と
い う、 よ り慣 れ親 しんだ言葉 よ りもはるか に正確 に彼 の作 品 を記述す る用語 で ある 「
第二
の ビー ダーマイヤー」 の例 としてバ ウル のデザイ ンに言及 したO タイ プ家具 の丈夫 で実用
的 な特徴 は良心的 なデザイ ン :品質 と趣 味 を具現化 した ものであ り、生涯 を通 じてバ ウル
の作 品 に認 め られ る特徴 で あ る。1
9
08年 、 これ らの特徴 は ドイ ツ ・デザイ ンの未来 を考 え
る際の議論 、す なわ ち前年 の応用美術 のた めの新 しい組織 「ドイ ツ工作連盟 」 の設立 か ら
起 こる議論 の 中心 となった。
註
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9
82
00.邦訳 はニ コラス ・ペ グスナ-著 、 白石博三訳 『モ ダ
W.
オークェン・
ハロッド著 「
ブルーノ・バウルのタイプ家具とドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1908-1918年」和訳 (
上)
5
9
ン ・デザイ ンの展 開 :モ リスか らグ ロピウス まで』 みすず書房
1
9
57年。
5.I
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20
0.
90
6年 ドレスデ ンの ドイツ工房 によ り
6.I
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,
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3
7
-3
8.ペ グスナ-はブルー ノ ・バ ウル が 1
90
6年 に紹介 され た機械 家
紹介 され た機械 家具 をデザイ ンした こ とを暗示 してい る。1
具 は、実際 には リヒヤル ト ・リーマーシュ ミー トによってデザイ ンされ たものである。
実 は最初 のカ タ ログが出版 され た 1
9
08年 以降、 タイ プ家具 が手工芸連合 工房 によって
紹介 され てい たに も関わ らず、ペ グスナ- も1
91
0年 にブル ー ノ ・バ ウル の タイ プ家具
が ドイ ツ工房 によって披露 され た と述べ てい る。
7.Pe
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9
36,
p.
2
00,
8.会社名 「
連合工房」 は、 ウイ リアム ・モ リスの影響力 のある小説 『どこか らかのニ ュー
ス』(
1
89
0年) の中で言及 されてい る"
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"の訳 か もしれ ない。 この理論 は
ジ ョン ・-スケットによって提案 されたものであるoJ
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86,
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93.バ ウル の 「
ユニ ッ ト家具 」 (
p.
99) の始 ま りについて、- スケ ッ ト
の記述 は残念 なが らペ グスナ- の著作 の 中 と同 じ間違 い を犯 してい る。
9.Pe
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,
pp.
86
96にも見 られ る。『
芸術』誌 と 『
装飾美術』誌 は ミュンンの ブル ックマ ン出版 に よって刊行 され てお り、 しば しば両方 の雑誌 に同 じ記事 が登
場 してい る。
ll. ヴィル-ル ム統治 時代 、階級差 は21
世紀初頭 の時点 よ りも客観 的現実性 が あった。 ド
イ ツの中流 階級 は宗教 的、政治 的、社会 的特性 におい て決 して均質 で はなか った。 し
か し、 ドイ ツの市民階級 には、帝国 中に施行 され たプ ロイセ ンの3
階級選挙 システム に
お ける明確 な経 済 的定義 が あった。
1
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9を見 よ。
1
4.ベ ー ター ・べ- レンスが 「
労働者家具」 (
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) のためのプ ロジェ ク トにおい
て行 った よ うに、 リーマー シ ュ ミー トも 「
総合 芸術」 とい う理想 を直接反 映 しない安
価 な家具 をデザイ ンした。 これ らのデザイ ンは ヴェル トハ イ ムの展 覧会 とタイ プ家具
の中流 階級 の顧客 とは違 う顧客 に向 け られ てい た。
1
5. 『
芸術』誌上 に公表 され たタイ プ家具 の挿 図は、バ ウル の家具 に加 えて他 のデザイナー
たちの作 品 と考 え られ る作 品 をも含 む二次的な作 品のバ ラエティー に とって重要であっ
た。 その明快 な含 意 は、 タイ プ家具 が所有者 に特別 な美的感 覚 を押 し付 け よ うとはせ
ず 、典型 的 な 中流 階級 の家庭 に快適 に取 り付 け られ うるこ とで あ る。
1
6. その住民像 は、『
マイヤー の会話辞典』 の 「
ザイ フ- ンネル ス村」 の項 か ら取 られ てい
る。I
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7. 多 くの得意先 は、彼 の有名 な息子 の伝 記 で は グス タフ ・エ ドワー ド ・バ ウル に帰属す
るもの と考 え られ てい る。ザイ フ- ンネル ス村 にお け るコンセ ンサ ス は1
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年 の 1月 の 『ザイ フ- ンネル ス村鑑』の 中で地方史家 ヨハネス ・リヒタ一 によって
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4年 に生 まれ た ヴ ァル ンス
詳述 され てい るよ うに、 グス タフ ・バ ウル はブル ー ノが 1
ドル フ ァー通 り4番 の家か ら売買 を行 う金物屋 であった と指摘 してい る。 その家 は現存
す る。
1
8. ドレスデ ン郊外 ゼ- フォアシ ュタ ッ トのゲオル クフ リュ- ア一 ・ドル フ広場 にあ るク
ロイ ッシ ュー レは非常 に由緒 あ る学校 であ る。カ トリックの施設 として 1
3世紀 に設立
され 、1
53
9年以 降 プ ロテス タ ン トの学校 となった。ル ター派信者 ブル ー ノ ・バ ウル が
入学 した とき、 ク ロイ ッシ ュー レは市立 ギムナ ジ ウムで あった。
1
9. バ ウル がア ビ トゥアを合格 し、公式 にギムナ ジ ウム を卒業 した とい う確証 はない。残
念 なが ら彼 の子供 時代 に関す る記録 はほ とん ど残 ってい ない。
2
0. バ ウル は しば しば ドレスデ ンの美術 工芸学校 の学生 として表彰 されてい る。詳細 は、
1
90
9年 の 『それ は誰 なのか ?』 にお け るバ ウル の最初 の リス トに よる。 しか し、 ニ ュ
ル ンベル クのゲル マ ン国立博 物館 に保存 され てい るバ ウル の回想録 の下書 きで はアカ
デ ミックな資格 の欄 に ドレスデ ン美術工芸学校 を挙 げてい ない。ナチ時代 の帝 国美術
室 に保 管 され てい るバ ウル の フ ァイル は美術工芸学校 につ いて全 く言及 してい ない と
い う点 で彼 の回想録 と一致 してい る。
21.Ma
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4.
2
2. バ ウル の絵 の ほ とん どは失われ てい るが、現存す る幾つ かの作 品の うちのひ とつ は ド
レスデ ン郊外 の プ リニ ッツ城 にある美術工芸博物館 で展示 され てい る。 それ は様式 的
には型 にはまってい る とはい え優雅 な肖像 画 とい える。
23. ハ イネ (
1
8
67-1
9
48) は議論好 きで、『ジ ンプ リチ シムス』誌 の挿絵画家 として最 もよ
く知 られ てい た。彼 も才能 の あ る画家 であ り、熟達 したデザイナー で もあった。
2
4. バ ウル の話 は ソニ ア ・ギ ュンタ-の 『手工芸連合工房 の共 同制作者 としてのベル ンハ
ル ト ・バ ンコ ック、 ブル ー ノ ・バ ウル 、 リヒヤル ト ・リー マー シ ュ ミー ト』 に詳説 さ
れ て い る. So
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29.驚 いた こ とに、 この話 は内容 と調子 が全 く一致 してい る-イネ の 自伝 的小説 『
奇
跡 を待 望す る』 には登場 しない。
2
5. ガ ラス宮 は1
8
51年 に 「
万 国産業大展 覧会」 を行 った、 ロン ドンのジ ョゼ フ ・バ クス ト
ン設計 ク リス タルパ レス にイ ンスパ イヤー され た展 覧会場 であった。
2
6.その組織のフルネームはミュン-ン美術家協会 「
分離派」(
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n")であった。 ミュン- ン分離派 は1
8
92年 に設立 され た、 ドイツ初 の進歩 的な
8
97年 に創 設 され た。
芸術家達 の団体 で あ る。 ウィー ン分離派 はその5年後 の 1
2
7. 『ミュン- ン分離派 :世紀転換期 ミュン- ンの芸術 と芸術 家 たち』 の著者 マ リア ・マ
ケ ラはその組織 - のバ ウル の参加記録 を見つ けてい ない。 しか し、1
90
5年 の本 『ミュ
ン- ン と ミュン- ン人 :人、物 、慣 習』 は分離派 の一員 として特 にブル ー ノ ・バ ウル
に言及 してい る。
28.Al
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48
49を参照 の こ と。
W.
オークェン・
ハロッド著 「
ブルーノ・バウルのタイプ家具とドイツ工作連盟、実用主義モダニズム 1
9
0
8
-1
9
1
8
年」和訳 (
上)
61
2
9. 1
9
08年 の バ ウ ル の 肩 書 き は 美 術 工 芸 博 物 館 授 業 施 設 (Un
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0. これ ら初期 の建築 デザイ ンのひ とつ、重騎兵兵舎 「
バ イエル ンのカール王子 」 のため
の フェステ ィバル装飾 は ヴィル-ル ム Ⅱ世 に 『ジ ンプ リチ シムス』誌 でのバ ウル の政
治風刺 を大 目に見 させ 、 ミュン- ンの芸術家 を美術工芸学校長 として喜 んで受 け入 れ
させ た らしい。バ ウル はニ ュル ンベル クのゲル マ ン国立博物館 に所蔵 され てい る彼 の
伝 記 的 な記録 のなか にこの出来事 につ いて詳 し く記 してい る。
31.最初 の タイ プ家具 の カ タ ログは 1
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0年代 に駅 の レス トラン としてまだ使 われ ていたその待合 室 にはバ ウル の失われ た
オ リジナル の代 わ りに購 入 され た 曲げ木椅子 が あった。
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05年 には ドイ ツ工房 は依然 として元 の名称 ドレスデ ン工房 に よって知 られ てい た。
その名称変更 は、 カール ・シ ュ ミッ トの ドレスデ ン工房 が ミュン- ンの家具調度工房
を吸収合併 した1
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7年 に行 われ た。
3
5. ドイ ツ工房 と連合 工房 を単純 に競争相手 と考 え るのは難 しい。 リーマーシ ュ ミー トと
バ ウル は同時 に両方 の会社 にデザイ ンを提供 していた し、 リーマー シ ュ ミー ト自身 は
会社設立 のた めに資金 の一部 を投 資 した連合 工房 の共 同設立者 の一人 で もあ る。
3
6.機械 家具 は非常 に よ く販 売促進 され た、工業生産 に よる最初 の ライ ンであった。 それ
は有名 な芸術家 リーマー シ ュ ミー トがデザイ ンした とい う点 において革新 的 ではあっ
たが、販 売 され るための初 めての機械生産 され た家具 ではなかった。機械 家具 が最初
に展示 され た 1
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6年 の ドレスデ ン展 は同様 に他 のマニ ュフ ァクチ ュアによって量産 さ
れ た一揃 い の家具 も含 んでい た.He
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8. ビーダーマイヤー ・リグァイヴァル とモダン ・デザイ ン間の関係の議論 についてはs
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付記
8年 度 文部 科 学省 科 学研 究 費補助 金 (
若 手研 究 (B)
)(
課題 番 号 :1
67
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3)
本 稿 は平成 1
に よ る研 究 成 果 の一部 で あ る。
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