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比較文化史からみる音楽と文学の東西交流―マーラーの中国趣味を例に

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比較文化史からみる音楽と文学の東西交流―マーラーの中国趣味を例に
「比較文化史からみる音楽と文学の東西交流―マーラーの中国趣味を例に」『音楽教育学』 2003年度 33巻2号、9-21頁
基調講演」
「
比 較文化史 か らみ る音楽 と文学 の東西交流
― マー ラーの 中国趣味 を例に一 《詩 の越 境 と変容 》
国際日本文化研究センター 稲
賀
繁
美
洋画 を含 めず 日本画一本で 出発 した の に対 し, 東 京
は じめ に
ご紹介頂 きま した稲賀繁美 と申します。私は専門
音楽学校 は 伊 澤 修 二 が 中心 とな って , 日本 の 音 楽
は美術, つ まリヴィジュアル な資料を扱 う方 の人間
( 邦楽) を 含 めず に洋楽 中心 の 教 育 を 行 い ます。 東
です。音楽 について皆様 の前でお話 しするのは, こ
京音 楽学 校 に邦楽科がで きるの は, ず っと後 の1 9 3 6
れが最初で最後 かと存 じます。 さて, わ れわれが音
年 ( 2 2 6 事件 の年) ま で待 たなければ な りません。
楽教育 と言 います と, 小 学校, 中 学校, そ して高校
資料 A に 「欧州管絃架合奏之国」■ お示 ししてい
まで当然のことのように西洋 の音楽を学 んできま し
ます。 この浮世絵を描 きま したのは, 橋 本周延 とい
た。われわれの子どもの頃 には, もちろんそ うした
う人です。 この作品は1 8 8 9 年の 9 月 , とい うことは
ことにまった く疑間を感 じて いなか った訳です。最
帝国憲法発布 の一連の催 し物 の, い わば ル ポル ター
近そ うい う状況が大きく変わ りつつある。その中で
ジュとしての浮世絵であった訳です。 「欧州管絃架
私 のよ うな者 にも講演の依頼があったのかと存 じま
合奏之国」 と題 されていますが, そ れでは出 し物 は
す。 そ こで, 今 日はマー ラーの話を中心 におきなが
何であったかとい うと欧物 ではあ りません。左上の
ら, 異 文化理解 とい うことについて考えてみたいと
所に小 さく楽譜があるのが分か ります。引 き延ば し
思 い ます。
てみます と資料 B の ようになります。 これは, 拡 大
するとしっか りと読める, 実 に精密 な錦絵 の木版画
になっています。江戸の浮世絵で毛彫 りと言 って,
1 . 美 術 か ら見 た 日本 の 文 化 と ヨー ロ ッパ の
文 化 との出逢 い
毛髪 の うな じを細か い線 で彫 りつ けます。非常に高
ある文化が別の文化に出逢 い, 立 ち混 じったとき,
度な技術 だ った訳ですが, これを近代 にな って, た
どのような ことが起 こるので しょうか。まず最初 に
とえば楽譜を書 く際 に応用 した様子が見て とれると
導入 として, 私 の専 門である美術 の方向か ら, 日本
思 います。
の文化が ヨーロッパ の文化と出逢 ってどのような こ
さて, 東 京美術学校 に洋画科が設置 されたのは開
とが起 きたのかということを手短に検討 してみたい
校後 1 0 年を経過 した1 8 9 6 年で した。主任教授 として
と思 います。周知 のよ うに, 明 治期 には東京音楽学
迎え られたのは, 長 くフランスに留学 して洋画を学
校 と東京美術学校がそれぞれ設立 されま したが, 両
んだ黒田清輝です。その黒田清輝 の絵画 の 中に西洋
者は全 く異 なった出発の仕方で, そ の後 の 日本の音
的な表現 と日本の伝統的なもの との 出逢 いがどのよ
楽 と美術 の方向付けを決定的なものに しま した。ど
うに現れているかをみてみま しょう。 資料 C を ご覧
うい うことかと申します と, 東 京美術学校 は フェノ
昔語 り》 と
下 さい。 ここで とりあげるのは黒田の 《
ロサの芸術観 を受け継 いだ岡倉天心が中心となって,
い う絵であ ります。標題にあ る 《
昔語 り》 とは, 清
-9-
tl
音楽教育学第33-2号
A
(2003)
橋本周延 《
欧州管絃集合奏之国》
スで タバ コを 吸 い なが ら語 り部 ( 西 ア フ リカで
は
「グ リオモレ 」 とな りますが) に 耳 を傾 け る “
怠惰
"
女
な" 男 た ちと “
労 働に勤 じむ
とが 対比 して 描 か
レ″′「喩‐
'
れて い ます。 一 方 《昔語 り》 では, 五 感 ( 視覚, 聴
アニ)じti二:│:漱=t
覚, 味 覚, 臭 覚, 触 覚) が 1 枚 の絵 の 男女 の様 々 な
構 図 の 中に表 されて お り, これは西 欧伝統 の 「
五感
の 寓意」 を踏 まえて い る, とい うのが 高階秀爾先生
の お説で す。黒 田清輝が, パ リのサ ロ ンで も受 け入
れ られ るよ うな異国 風俗歴史 画を模索 した とぃ ぅこ
B
橋本周延 《
欧州管弦楽合奏之固》楽譜部分にみる
ひらがな 。カタカナと漢字の用法
とと, フランス ・アカデ ミーの洋画手法を 日本 へ 移
入 した こととは, 表 裏 一 体 の 関係 にあ るので す。
黒 田の 《
昔語 り》が 日本 の風俗 を洋 画 ( 油絵) で
閑寺 を舞 台 と した 《平家物 語》 の小 督 の悲恋物語で
す。 この主題 の 背景 には, 日本 の語 り物 の伝統があ
描 いてい るのに対 して, 橋 本周延 の 《欧州管絃 梨合
奏之 固》 ( 1 8 8 9 ) ( 資料 A ) に 戻 ってみ ると, ここで
ります。 中央の 男性が横笛を 吹 く真似 を しなが ら物
は, 日本 にお け る洋楽演奏 を浮世絵 とい う日本 独 自
語 を語 って い るのを, さま ざまな格好 の 着物姿 の男
の和風表現技法で描 いて い ることが 分か ります。 こ
女が 聞 き入 って い るとい う構 図であ ります。
こに は, よ く考 えれば 奇妙 な和洋混 交が 見え るわ
け
この 絵 は, 実 は1 9 世紀 フラ ンスの オ リエ ンタ リズ
ム絵 画 の 一 つ の 典型 とみ ることので きるオ ラース ・
で すが, この絵 は 日本 に西 洋音楽が どのよ うに移入
され たか とい ぅ視点 か らみて も興味深 い もので す。
ヴ ェル ネ ー ( 1 7 8 9 ∼
1 8 6 3 ) の 《アラブの語 り部》
( 1 8 3 3 ) ( 資料 D ) の なかに表現 されたアラブ
風俗 の
音楽を楽 しむ とい うょ りも, いか に も気真面 目に歌
日本版, す なわち黒田が 日本風俗を異国風俗歴史画
を歌 った り, 楽 器を演奏 した りして い る様子が みて
と して描 こうとした もので あると見ることもで きま
す。 《ア ラブの語 り部》では, 北 アフ リカのオアシ
-10-
絵 の 中で は, 西 洋風 の 合奏を行 って い る人 々が,
とれ ます。 さらに フルー トを吹いて い る男 の人の 表
情 を注意 して見 ます と, それ は張 り詰 めた 表情で吹
詩の越境 と変容》
比較文化史か らみる音楽 と文学の東西交流―マー ラーの中国趣味 を例に一 《
ヴェル ネーのアラブ風俗の
日本版。 パ リのサ ロンで受 け
入れ られ る異国風俗歴史画の
模索 は, 東 京美術学校 によ う
や く開設 された油絵科の主任
教授 による, ア カデ ミー絵画
の 日本への移植 とも表裏一体
だ った。
C
《
昔語 り》 (1896)
黒田清輝
カ ンヴ ァ ス/ 油 彩。 9 9 0 ×
ウ ォー レス ・コ レ
136.5cm。
クシ ョン。北 アフリカのオア
シスで, タバ コを吸 って語 り
部 に耳を傾け る “怠惰 " な 男
たちと, “労働に勤 じむ " 女
との対比。
D
オラース ・ヴェルネー
《アラブの語 り吉8》(1833)
いています (資料 E)。 男性 の背景のバル コニーの柱
は本来円い石であ るべ きですが,そ うではな く,板
を張 り合わせたような平 らな形で描かれて います。
ここに も “
みせかけ"の 西洋風 の薄 っぺ らさが,浮
世絵師のま正 直な描写ゆえに,か え ってまざまざと
露呈 していて,興 味深 い ものです。 ここには,献 身
的な自己統制 のぎこちなさと,苦 肉の折衷欧化策 の
意図せ ざる暴露との同居, ともい うべ きものが見 ら
,
れます。 つ まり,「土着化 されたオ リエンタリズム」
ひたす ら西欧を模倣する日本 の背伸 び姿が如実に表
E
欧州管弦集合奏之国》部分
橋本周延 《
れて います。
さらに,音 楽との関連で言えば,楽 譜 (五線譜)
まで通常縦書 きで右か ら左 へ と書 かれ て お り, 横 書
が輸入 された ことで, 日本語 の表記 の仕方 にも大き
きの場合 も右 か ら左 へ と書かれて い ま したが, 五 線
な変化を もたらす ことにな りま した。 日本語はそれ
譜が左 か ら右 へ と進行す る こ とか ら, 五 線 譜 に書 き
― H―
(2003)
音楽教育学第33-2号
込む歌詞 は左か ら右 へ と記載す ることが必要にな り
Das Lled von der Erde
大地 の1吹
岩間 の清水》 の木版
ま した。その結果, 明 治唱歌 《
の例 ( 資料 B ) の ように, なぜか 1 番 はひらがなで
2 番 はカタカナ ( その理 由はさて お き…) , 左 か ら
右に歌詞が記載 され ることになったのです。 これは
現代 のわれわれか ら見ると何で もないことのよ うに
思われますが, 当 時の人 々にとってはたいへん大 き
な変化であ り, 楽 譜 もなかなかに読み難いものだ っ
たのではないか と想像で きます。また, 五 線譜では
漢字が使えないためで しょうか, 縦 書きの漢字かな
交 じりの歌詞が別記 されているわけです。
2.詩 の越 境 と 変 容 ― マ ー ラ ー の 中国 趣 味 と
は 何 だ つたか ―
ここまでは,西 洋 の絵画が 日本に入 ってきてどの
ような混乱が起 こったか
あるいは日本 の文化 に西
洋 の音楽が影響を与えてどのような変容を もた らし
てい ったかの例をみて きま した。それを前提 とした
上で,次 には逆 に,本 国の本題である マー ラー の
《
大地 の歌》を取 り上げ,中 国の文化が西洋文化 と
出逢 って変容 されてい く様子をとらえるとともに,
曲 :1907年夏, アル ト・シュールグーバ ッハで
作由に着手,1908年 夏, トープラッハで完
成 (アルマによれば1909年10月, メー レン
にて完成)。
演 :[オ ーケス トラ稿]1911年 ■月20日, ミュ
初
ンターナ
ンヒェン。 ブルーノ ・ヴァノ
旨揮。
[ピアノ稿]1989年 5月 15日,東 京の国立
音楽大学講堂。 マ リャーナ 。リポウシェク,
エス タ ・ヴィンベル イの独唱, ヴォルフガ
ング ・サヴァリッシュの ピアノ。
初
版 :1911年にヴォーカル ・ス コア,1912年 にフ
ル ・スコア,共 にウニ フェルザル社
全
集 :[オ ーケス トラ稿]IX(1964年 , ウニ フ上
ルザル社,1990年 に改訂版)
[ピアノ稿]Supplement H(1989年 , ウ
ニ フェルザ ル社)
楽器編成 :ピ ッコロ, フルー ト3(3番 は ピッコロ持
ち替え),オ ーボエ 3(3番 はイ ング リッ
シュ ・ホル ンの持 ち替え), 変 口調 ク ラ リ
ネ ッ ト3,変 ホ調 クラリネ ッ ト,変 口調,
イ調のバ ス ・クラ リネ ッ ト, ファゴ ッ ト3
(3番 は コン トラファゴ ッ ト持 ち替え), ホ
ル ン 4,へ 調 トラ ンペ ッ ト3, トロンボー
゛
ン3, バ ス ・テューパ, ティンパニ, クロッ
ケ ンシュピール, トライア ングル, シンバ
ル, タム タム, タ ンプ リン, 大 太鼓, ハ ー
プ 2 , チ ェレスタ, マ ン ドリン, 弦 5 部,
テノール独唱, アル ト独唱 (バ リトンで も
可)
演奏時間 :約60分
作
『グスタフ ・マー ラー全作品解説事典』 1994,
長木誠司,立 風書房
これ は何 とも はず か し い早 と ち り であ っ
悲 歌 行﹂ の訳 であ る こと、 富
た。 李 自 の ﹁
士 川英 郎 氏 が ﹁李 太 白 と ド イ ツ近 代 詩 ﹂ に
指 摘 す るご と く であ る。 昭和 四十 二年 四月
集 vol.24)。
﹁
比 較 文 学 研究 ﹂、 ま た 四十 九 年 五月 玉 川大
すると ころとなった ものであ ります (吉川幸次郎全
学 出 版 部 ﹁西東 詩 話 ﹂。 私 の 速 断 は 、 取 り
改変を加えて採 られ,そ れをさらにマー ラーが脚色
消 さ ねば な ら な い。 ま た こ の訳 はも とも と
ル ト・デ ー メルが訳 し,ペ ーター ・ベー トゲの本に
コo
訂う
O P プ32 に よ る こと 、 富 士 川 氏 の
知 られて います。その第 1楽 章は李自の詩を リヒャ
﹃吉 川幸 次 郎 全 集 ﹄ 第 二十 四巻
李白等 の漢詩 か ら採 られた ものであることは,よ く
論 文 にく わし い。 そ れ が W ,電 の 本 に採
ら れ、 〓半げ1 の利 用す る と こ ろ と な った
マー ラーの 《
大地 の歌》 のテキス トが中国唐代の
の であ る。 詩 を 訓 読 によ って示 せば 、 次 の
とい うことを考えてみたいと思います。
ご と く であ る。
それを通 じて マー ラーの 中国趣味とは何だったのか
2-1.第 1楽 章 <地 上の悲愁を詠える酒席の歌>
テキ ス トは吉川幸次郎氏が富士川英郎氏の指摘を
い と思 います。 G は , 第 1 楽 章 の対訳です。あわせ
紹介 して述べているように,李 白(701∼762)に帰 せ
て李 自の漢詩を見 てみ ま しょう。 H を 読み下 し文に
られ る 「
悲歌行」 の訳であ ります。早速独文を見 た
した もの ( 吉川幸次郎) が 1 です。
-12-
ー
一 詩 の越境 と変容》
比較文化史か らみる音楽と文学の東西交流―マー ラ の中国趣味を例に 《
G I DASTRINKLIED VOM」
第 1楽 車 地上の悲愁を詠 える酒席の歌
AMMER DER ERDE
この家( や
) の主人 よ !
Herr dicses Hauses l
う, 酌 むことなきままに満々たる黄金 の酒 を数斗!
D e i n K e l l e r b t t g t d i c F i n e d e s g o l d c n e n君 が酒蔵は匿
Weins!
ここにあるのは これぞ我が三尺の琴 !
H i e r , d i e s c L a u t e n c n n 'ciicnh!口
かき鳴 らし 酒盃 ほ して楽 しめば,
D i e L a u t e s c h l a g c n u n d d i e G l a s c r l e e r cこの琴
n,
つなが らに相合 いて和す るもの。
D a s “n d d i c D i n g e , d i e z u s a l l l m e n p a s s e nこのふ たつふ た
なみなみ と注( つ) がれ し一掬 の酒盃 こそは
E i n v o l l c r B e c h e r W e i n s z u r r e c h t c n Z c lほ どよき時機 ( しお) に
を占む る王国のすべ てにもまさる値あ るもの !
I s t m e h r w e r t , a l s a u e R e i c h c d i e s e r E r dこの大地
e l
生は暗 く, 死 もまた暗 し。
Dunkel ist das Leben,ist der Tod!
かも
大地は
わに蒼く
,し
とこと
(き
ゅ
う
り
ゆ
う
)は
C)弯窪
乙
…
P翼屹[R][1獲
了
蔓鮮〕
]11葺
l暮
砕
Finllalnent blaut ewig,und dic Erde
揺 るぎな くな が らえ
n und aufblih'ni:n Lenz
ird iange fest stch`
春 をむ か えては 百花線 舌し。
beb訪
λ
:lill
linGぬ見 基
11:II曇
猟III:t工
'I[I量
そ!
と
き
`三
11、
t
Tす
∵
:i買
言
][与ら
の
奎
[よ
基
∫
l∬ド
留l∬
:ll:罵
iよ
[3曇
評 露
:t:」
鳩
電tri:『 置 1:::illttn_夕
管 iF:翫
12ξ 言:i航
層::も
の!
H i n a u s g c l l t i n d e n s i 3 e n D u r t d e s L e b e聴け君
n s ! ら, そ れが吼 える声がい まけたたま しき喚 き とな り
」
e t z t n c h m t d e n W e i n i J e t z t l s t e s Z e i t ,の世の生の甘
G e n o s s e n t )き香
こ りの うちに溶けこみゆ くさまを !
生は暗 く, 死 もまた暗 し !
︵
伝 ︶李 白
-13-
我 に 三 尺 の琴 有 り
且須 一蓋杯 中酒
君 に 数 斗 の酒 有 り
狐猿坐喘墳上月
一杯 は 千 鉤 の 金 も 宙 な ら ず
死生 一度 人皆有
琴 鳴 り 酒 楽 し く し て 両 に 相 い得 わ ば
富貴百年能幾何
悲 し み の来 た る 乎
金玉満堂應 不守
悲 し み の来 た る 乎
天は長 しと雖 も
地雖久
天 は久 しと雖 も
天雖長
金 玉 は 堂 に満 つる も 応 に 守 ら ざ る べし
悲来乎
死 生 一度 人 皆 な 有 り
悲来乎
富貴 百年能く幾 何
一杯不官千鉤金
狐 猿 は 座 し て晴 く 墳 上 の 月
我有三尺琴
琴鳴酒榮雨相得
︶
たび盃中の酒を尽くすべし ︵
且つ須べからく一
君有数斗酒
音楽教育学第33-2号
李 自の漢 詩 の 「天 は長 しと雖 も/ 地 は久 しと雖 も」
(2003)
2‐
2.第 3楽 章<青 春 について>
にあ た るの は, マ ー ラーで は, 第 2 節 の 1 , 2 行 ,
`Das Firmament blaut ewig,und die Erde/Wird
続 いて, 第 3楽 章を見ます。李自の原詩 (資料 」)
を ジュデ ィ ト・ゴー テ ィエ 」udith Gautierが
仏訳
lange fest steh'n und aufbliih'n irn Lenz.'で
す。
("Le livre de iade")し
て い ます (資料 K)。 この
と こ ろが 驚 くべ き こ とに,原 詩 にあ る 「雖 も」 とい
人は,有 名なテオフ ィール ・ゴーティエの娘ですが,
う言葉が マー ラーで は消えて しま って い ます。原 詩
彼女 のフランス語訳はその後 ドイッ語に重訳 されて
の 勘 ど ころは 「一 杯 (の酒)は 千釣 の金 も音 な らず」
ゆきま した (資料 L)。
で あ り,そ こに は 「須 べ か ら く一 たび盃 中 の 酒 を尽
原詩において,人 の魂胆 まで も照 らすほどに澄み
くす べ し」 と居 直 った現世享楽 的な色彩 ゆえ の悲 哀
切 った池の水の面には,春 の太陽が写 っています。
が 濃厚 で した。 それが あ ま りにあか らさまなために,
林 には得 も言われぬ美 しい花が咲いています。李 白
李 白に模 され た後世 の作 と も言われて い ます 。 とこ
ろが,そ の 語句 が 同時期 の ドイ ツで は李 白を代表す
の詩 「
宴陶家亭子」がその 出典ですが, ここには興
味深 い (意図的 ?)誤 訳がみ られます。すなわち李
る詩 と受 け取 られ,世 界苦 Weltschmeltzの思 想 と結
自の詩では 「
陶家」 というのは,陶 氏 (人名)と い
び つ き, ひたす ら現世を厭 う解釈へ と転調 して しまっ
う人の家を表 しているのですが,マ ー ラーのテキ ス
たわ けです。 そ もそ も原詩 に 」ammer(悲
トでは 「陶器でで きたあず まや 」, “
ein Pavi110n
嘆 あ るい
は憂愁 )を 見 るのか ら して大誤 解 とい って もよ いの
aus grunem//und aus wei13em Porzellan(緑
ですが , さ らに Firmament blaut(こ れ に は 「宵 隆
は とことはに蒼 く」 とい う訳が な され て い ます ),
る陶片と白なる陶片 の織 りなす四阿) " と 変わ って
います。中国的な雰囲気を醸 し出すためにはかえ っ
「百 花練乱」 な どの,原 詩 か らは遠 い 言 葉 が 見 出 さ
て効果的だ ったので しょう。 この意図的 ( ? ) 誤 訳は
れ ます 。■ ぜ この よ うに変質 したのか,そ れ に つ い
すでに ゴー ティェの仏訳にみ られるもので, つ いで
なが ら, この詩はまたパ ウル ・クレーの1 9 1 8 年の絵
て は,後 で もう一度 触 れ たい と思 い ます 。
また,「孤 猿 は座 して 喘 く墳上 の 月」 に あ た るの
な
Ft
《V e r s u n k e n e L a n d s c h a 沈思に浸
る庭 》 の 発 想
Seht dOrt…
は, “
……DuFt des Lebens"の部分ですか
源か もしれません ( 資料M ) 。 「
緑水蔵春 日 ( 緑あ ざ
マー ラーで は,孤 猿が不吉 な 「幽鬼 な る姿」 と して
やかな池水の中には春の 日の太陽の影が映ってお り) 」
現 れ,そ の 猿 の 吠 え る声が 「けたたま しき喚 き」 と
は, クレーの絵の群青の水に映 った黒 い太陽を思 い
して表 されて い ます。 皆様 よ くご存 じの 曲 冒頭 のテ
起 こさせ る部分です。 また, ゴーテ ィェの訳では,
ノー ル の 激 しい歌声 は, この 喚 きに通 じる もので,
水 の面で三 日月, 陶 器 の あずまや, 人 々が l a t o t e
それ は マー ラー の 語句 に従 えば 「溶 け こみ ゆ く」 の
e n b a s '仏
“訳 ( 「
逆 さまにな って」映 っている) " と
で はな く,む しろ切 り裂 くよ うな叫びで しょう。 ま
記 されています。 マー ラーのテキス トで も, 水 面に
た,原 詩 の 「悲 しみの来た る平/悲 しみの来たる乎」
映 る逆 さま の 光景 と して “
auF dem KopFe stehend
が 曲尾 の 「生 は暗 く,死 もまた暗 し !」 に転換 され
( 逆しまに立た ざるものな し) " と 表現されていま
す。
た と言 え るで しょうか 。す なわ ち,原 詩 の感 傷が,
マ ー ラー において は,宗 教的 な死生観 へ と著 しく変
調 されて 提示 され て い ると言 え ま しょう。
-14-
詩の越境 と変容》
比較文化史か らみる音楽 と文学の東西交流―マー ラーの中国趣味を例 に一 《
仰 家の亭子に宴す 開元2 4 口 3 6 D
士メリ/ 池開照騰鏡/ 林 吐破顔花
緑水蔵春日/ 青 軒秘晩霞/ 若 聞弦管妙/ 鐘 谷不能誇
(1:′
τ
::1ltF[」
芝
碗
18
ρ
重
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窪積矯fr夏
睫n,輔 宵厭覗官
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曇
冥
扇
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軍
意
見
集
R蒐
炉
轟
菫
摯
ふ
模
念
鬼
曇
iこ
iを
Iキ
察
霧
霙
寡
晉
継
1嘱
易
忌
l
stl先
電
写
ζ
観
塁
谷
1等
嘗
看
繕
機
嘗
峰
λ
理
倶
暑
L褐
lt雇
Ta霧
な.TIIR電
う
管
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い
の
之
に
か
で
訳
ほ
な
あ
る
。
賞
助
こ
が
な
ど
興
趣
豊
も
(大
野
)
で
き
る
と
に
し
み
な
お
も
誇
の
ん
だ
楽
間
営
谷
K
IE PAVILLON DE PORCELAINE
⑥
ιルrα,_P`
ve un pavillonに
Au milictl dtl pctit lac artincicl,s'61ё
pQalncv―
小 さな人 工 の 池 の 中央 に , 緑 と 自の 色 を した 陶 器 の
あず まや が 建 って い る。 そ こへ 行 くには 虎 の 背 の よ
v c par un pont de
t hianche;On y ar●
igtc
,ade,qui sc vontc commcロlc
dosiコ
うに湾 曲 した , 翡 翠 の橋 をわ た る。
Dans cc pavi1lon,quclqucs amis,vetus dc robcs claires,
その あ ず まや の 中で は , 明 るい 色 の 装束 に 身 を飾
boivcnt enscmblc des tasscs dc vindctiё
つた友 だ ちが数 人 , 暖 か い 酒 を飲 み 交わ して いる。
IIs causent galement,ou tracent des vcrs,cn repoussant らは楽 し
彼
く語 らい , 帽 子 を阿弥 陀 に被 り, 袖 を い
lcurs chapcaux en arncre,cn relcvant lin peu lcurs
ささか ま く し上 げ , 詩 を作 つて い る。
manches,
そ して , 小 さな橋 が 翡翠 の 三 日月が逆 さ に な つ た ( E
よ うな形 で 映 つて い る池 の 中で は , ( 逆 さ の ) 陶 器 の
crolssant dejadc,quclques alnis,vetus dc robcs claircs,
あず まや の 中で , 明 るい 色 の装 束 に 身 を 飾 つ た友 だ
ttnd呵 n_闘 襲
bo市ent,latete en bas dans unJμ
ちが数 人 , 逆 さ まに な つて 呑 ん で い る ( の が 映 つて
Judih Cauttr,―
dndC 19o2(rё )
( 門田 員 知 子 訳 )
い る)。
Et,dans le lac,oi le petit pont,rcnversё
,scmblc un
―
“
第 3楽 章
IH VON DERJUGEND
青春 につ いて
の ただなか
M i t t c n i n d e m k l c i n c n T c i c hささやかな池
c
にたたずむは
Stcht d■2翼は地蝕LЩl■
…
Und au、w鍬 3日■2oピ ユdいL
緑 な る陶片 と
白な る陶片 の織 りなす四阿。⑥
Atlfdcs kleincn Tcichcs stillcr ちい さ き池 は静 か に広が り
ヽ
Vasscrnache zcigt sich ancs
水面 に あた りの もの なべ て
Wundcrlich im Spicgelbilde
その妙 な る姿 を映 しだ しぬ。
川 にs a ■ d a ■K Q 直 画 面
陶片 の緑 と白につ つ まれ し
①
ln dem Pavillon aus grtlnelll 四阿 ととも に映 りしものの
Und aus weiSein Porzellan;
逆 しまに立た ざ るものな し ①
-15-
eisunkene
P a u l K l e eV《
Landschafi》
沈思に浸る庭 ( 1 9 1 8 )
音楽教育学第33-2号
(2003)
こ こには,東 方 の原 詩 にはなか った綺想 が 西 欧語
う。実は,そ れに先立つ最終節 1-3行 での “
百花
へ の 翻訳 の途 中で 付 け加 わ った様子が 窺え ます。 い
練乱 の春 "“青 い光 "は ,先 ほど見 た第 1楽 章第 2
か に も ロココ風 の人工 楽園の雰囲気力ヽ 軽快なテノー
節に通 じています。 もう一度第 1楽 章第 2節 ④を見
ル か らも響 いて き ます 。 ク レー の 絵 の 特 異 な 構 図
てみます。そ こで用 い られているのが Firmament,
(エ ジプ ト古代絵 画 の 手 法)も , あ るい は この 詩 に
すなわち中国語原詩の 「白雲」が ユダヤ =キ リス ト
よ って説 明で きるか も しれ ませ ん。
教的な 「
蒼弯」に変貌 したわけです。 この関連を見
るだ けで も,終 楽章の最後であ り曲全体の最後に位
2‐
3終 楽章<告 別>
置す る `Ewig…ewig!'の 「
永遠」の連呼が, 宗教
次 に,終 楽章 を見て い きます。 よ く知 られて い る
よ うに, この 詩 (資料 N)は ,王 維 の 「
送別 」 と孟
的あるいは形而上学的な永遠を意味することは間違
いないで しょぅ。
浩然 の 「
夏 日南亭懐 辛 大」 の二 つ の 詩 を合 わせ編 作
王維の原 詩が いわば,旧 友との 「
離別」であった
した ものです。 資料 Oは ,後 半 に使 われ た王 維 の詩
のに対 し, マー ラーはそれを地上か らの永遠の 「告
「送 別」 とその訓 読 の部 分で す。
別」 という話題に転換 して しまったという, この変
細 か く見て い る時間が あ りませ んので,最 後 の部
容は見のがせません。
分 にのみ触れ た い と思 い ます。 王維 の原詩 の最終行
い うまで もな く,本 来な ら 「
第九交響曲」になる
には,自 雲が 出て きます 。 訓 読 に よれ ば,「 白雲 は
はずだった 「
大地の歌」作曲直前にマー ラーは最愛
尽 くる時無 し」 で す。 ベ ー トゲの独訳 (資料 P)で
の娘 Maria Annaを5歳 で失い,そ の心労か らか,
は `Und ewig,ewig sind die wei13en Wolken…
.'
一度 目の心臓発作を体験 しています。 「大地 の 歌」
で す。 この 「白雲」 とい う言葉 は漢詩 に とって は生
の作曲は,娘 の死を受容す る 「喪 の仕事」 Travail
命 とな る重 要語です。 しか し, マ ー ラーでは 「白雲」
de deuilで
もあったので しょうが , その 中で娘 の死
が 消 えて い ることが注 目され ます。 そ して 「大地 も
を昇華 し,大 地 との訣別を希求する,神 学的と言 っ
春 きた りなば … 」 と い う部 分 が 付 け 加 え られ ,
て もよい壮大な宇宙観が示 されま した。
…ewig… (永遠 に …永遠 に …)"と い う,反 復
ewig・
“
我が子の 「
死」の受容というテーマが東 ・西の翻
表現 とな って い ます。 「白雲 」 とい う言 葉 は消 えて
訳による 「
onの 中で, どのよ うに変
渡 り」 migra■
い ます が ,繰 り返 し雲 が 湧 き出で, は るか に消えて
質す るのか,手 短にもう一つの例を補足 してみま しょ
い くイ メー ジを音楽表現の上で残 したともいえま しょ
う。
―-16-―
詩 の越境 と変容》
比較文化史か らみる音楽 と文学の東西交流― マー ラーの中国趣味を例 に一 《
第 6楽 章
Wl DER ABSCHIED
vigen Liebens,Lcbcns,tunk'nc Wcltl
Schёnhcit,oc、
告別
美 しきかな ! 永 遠 の愛 と生 に酔 う世界 よ !
友は馬 よ り下 り
別れの盃 をさ しだ しぬ。
待 ちた る友 は訊 く, 赴 くは何処 の土地 か ,
何ゆえ にこの地 に留 まるを許 され ざるか 。
Er stieg vom Pfcrd und re19htO ihh den Trunk
dcs Abschicds dar
Er iagtc ihn,wohin er tthre
nd auch warum cs lnisstc sein
答え し友 の 紗 に覆われ しご と くかすむ声 ,
この世 にて運 にい まだ恵 まれ ざれば な り !
Er sprach,seine Sdmmc war umnort:
mein Freund,
ir war aufdicscr Welt das Gllck nicht holdl
ohin ich gchi? Ich gcht,ich wand'rc in dic Bcrgc
ein einsam Herz!
s u c h e R u h e Jm避
wandle nach der Hcimat,mcincr Stattel
ch wcrdc nicmalsin dic Fcme schwcifcn
in ist mein Hcrz und harret scincr Stundc!
大地 も春 きた りなば百花舞 い緑 萌 え い づ 。
何処 に往 くとも造 け き彼 方は光青め り。
永遠 に ……永遠 に 。・…
liebe Erdc alliberall
aufim Lenz und gttnt aurs neu!
Hiberall und鋤
蜂 ユ 眠 ‐ 血 L山
亜 囲 口
往 くところ何処 にやあ らん , 我 れは往 く,
山中を放 浪せ む , 孤 独 を癒 す安 ら ぎ求 め ,
赴 く先 は故郷 , 終 の棲 みか , 漂 白う とも
二 度 と異国 に足 を踏 み入れ る こ とは な し。
心すで に鎮 まれば心の時 い た るを待 たむ。
,
ig― Ewig!
送 別 王維
下 馬飲 君酒
間 君何 所之
君言不得意
帰臥南山陸
但 去莫復問
=馴日﹁毎勤測 ﹁
送別
馬を 下り 君に酒を飲 ま しむ
間 う 君 何 の之 く 所 ぞ
君 は言 う 意 を 得ず
帰 臥 す 南 山 の睡
但 だ 去 れ 復 間 う莫 ら ん
白 雲 は 尽 く る時 無 し
P
Hans Bethge Tcxt(1907)
Der Abschied des Frcundes― Wang‐ Wcl
Wohin ich gch?
Ich wandrc in die Bcrge,
Ich suchc Ruhc flr mein cinsam Herz
lch werde nic mchrin die Fcrne schwcifcn,――
Mld ist mein Fuss,und mid ist meinc Scelc―
Die Erdc is die gicichc ibcrall,
Und魏
…
,ewig sind die wcisscn WQICn・
Curlew River″ ヘ
3 . 謡 曲 《隅 田川》 か ら “
隅田川》とベ ンジャ
とりあげてみたいのは, 謡 曲 《
ム ・プルーマー に依頼 しま した。 ヴ ァン ・デ ル ・ポ
の秘 劇 《C u r l e w
ミン ・ブ リテ ン ( 1 9 1 3 - 1 9 7 6 )神
( 資料 R l ) 。 その脚本 ( 資料 R ) と , プ ル ーマーが
( 1 9 6 4 ) です。 ブ リテ ンは 《隅田川》 ( 資料
River》
参照 した可能性 もあるメア リー 。C ・ ス トー プスに
Curlew Rlver》を創作 した とい
Q)に 角
虫発されて 《
よる 「隅田川」 の英訳 ( 1 9 1 3 ) ( 資料 S ) と を比べ て
われて います。 ブ リテ ンは, 6 0 年 代, 日本にや って
みた い と思 い ます。 ス トー プスの英訳 は, 原 文に非
きた時に 「隅田川」 の舞台に感銘を受けま した。作
常 に忠実です。
曲に際 しては リブレッ トを 日本通の友人, ウィリア
-17-
ス トがその経緯について面 白い証言を残 して います
隅田川》 では, わ が子を失 った母親がその
謡曲 《
音楽教育学第33-2号
れて表現 されて い ます。違 いは幾重 に もあ りますが,
た とえ ば, 元 の文で は, ひ ととき母 と子が手 に手 を
取 り合 い ます。 しか し, ブ リテ ンではそのよ うな シー
ンはあ りませ ん。原 謡 曲 の ` 子の霊 ' の 台 詞 「母 に
て
ま しますか」 は, ` G o y o u r w a y i n p e a c e…W e
s h a l l m e e t i n H e a' v「e母上様,
n。
お安 らか に, 天 で
お会 いいた しま しょう」 と 「精霊」 の 言葉 に変 容 し
て い ます。
川」で は, わ が子 と見 えて いたのは茫 々の草 の塚 で
あ った, 「 じる しばか りの, 浅 茅 が 原 と, な る こそ
あわれ な りけれ, なる こそ あはれ な りけれ」 と終 わ
ります。 この部分 の ス トー プスの英訳 は ` A h p l t i f u l
indeed is this Our life//Ah pitiful indeed is this our
l i f e l 'す
で。 ブ リテ ンの ほうを見ます と, 大 修道 院
長と修道僧が ` O p r a i s e O u r G o d t h a t l i f t e t h u p / T h e
Fallen,the lost,the least;//The hope He gives,and
His grace that heales.' `In hope, in peace, ends our
m y s t e r y ' 「おお, 墜 ち し者, 迷 え し者, 卑 小 な る者
を救 いた もう我が神 を, 神 が お与 え にな る希望 を,
そ して安 らけ きその恩寵 をたたえ よ う。希望 の うち
に, 平 和 の うちに, こ の 神秘 は幕 を 閉 じる。」 と語
、面影 も 幻 も 、
﹁隅 田川﹂﹃
新 日本古典文学大系 五七 謡曲百番 三四四︱ 五頁﹄
最 も明 白なの は終結 部分であ りま し ょう。 「隅 田
のど
壼o︼︿
歌﹀女 へ 南 無 阿 弥 陀 仏 子 へ南 無 阿 弥 陀 仏 、南 無 阿 弥 陀 仏 と
へ蔵 のう ち よ り 、
︰
∩ン
︵C 子 剛
0同 島ひ
幻 r 見 え け れば
ヘ あ れ は わ が子 か
へ に てま し ま す か と ︵
へ
に 1ヂ
テキ ス トで は, そ れが キ リス ト教的世 界 へ と変 容 さ
に手 を 取 り 交 は せば 、 又 ︱消 え 消 た と な り 行 け ば 、 いよ いよ ︱思 ひは ま す 鏡
て い ます。 と ころが ブ リテ ンの 《
Curlew Rlver》
の
見 え つ︱隠 れ つす る程 に 、鶴 則 グ 笙 も ほ のぼ のと 、嚇 ︶
律 け ば 跡 絶 え て、我 子 と見 た し は塚 の
Q
母親 の悲 しみが仏 教的 な世界観 に染 め られ て 描 かれ
げるし
︵
離夕が
赳ィとして
上の
鷹とヽなるこ
ただ︵
齢rれ、なるこ
ばかりの
、革︱
あはれ
そ
そ
あ は れ成 け れ 。
わが子 の 幻 を見て 間答 を交 わ します。その情景では,
(2003)
り, 全 員が キ リエを唱 し, 曲 が終 わ ります。 ここで
仏教的無常感が キ リス ト教 的救済 へ と転換 されて い
ることは 明 らかです。
「川」が東 と西 とを隔て るとい うモ チ ー フ は原 作 の
Curlew River"で
《隅 田川》 には な く, “
前 面 に押
か つ て 武智鉄 二 は このデ ウス. エ ク ス. マ キナめ
し出 され, 彼 岸 と此岸, 洋 の 東西 の 隔 た りを効果 的
いた 改編 に 満足で きず, この部 分 に手 を加 えて能仕
に示 しま した。 こ こに仏教世 界か らキ リス ト教世 界
立 に上 演 した ことが あ りま した ( 1 9 7 7 ) 。その一方 で
へ の 「渡 り」 の 実相 を見て取 ることがで きま しょう。
-18-
比較文化史か らみる音楽 と文学の東西交流―マー ラーの 中国趣味を例 に一 《詩の越境 と変容》
S
‖
THE StIMDA RIVER“
Maric C.Stopes
R Bcn」 amin Britten(1913‐ 1976) "Curlew Iこ verT
″Japα″,′
Vο,London,Helnemann,MCMXIn)
た ノ
rP/aysの′ο′
ARNυ ttUEКRCl■lRC「
IΠ
甍口Ob″ 心田 qD71(1出 )
Librette based on the Mcdieval Japaneseplay
No―
■E M O ■ I E R I W o r d S 〕
Stimidagawa ofJuroMotomasa(1395-1431)
Oh,that was my child's voicc praying,he that said ule praycr
by WlLLIAM PLOヽ CR
iuSt nOW
ο″,″′
力″A力 r/wα″α″
His voice was it,Iam∝ rtain,and within tlus mound it
[1刀 (7カasン″″ε″ε々ssノοソ″ ″
ッカοappピク″
s′″α″,メ
b/7〃
ピ″ Fra″ピ′
2′
″
″s′0′力a rO″
′
b)
sccmed
Spidt()総
Go your way in pcase.mother
Thc dead shan risc again
And we now wili ccasc our praying,
And in that biessed day
Thou his rnother art,and solely,honourably deign to pray
Wc shan meetin Hcaven
MO■ ER ISongI
Abbot and Chorus
…
Even if noting but lis voice rctum,
Amen
I、
voldd that l could hear that voice again
FERRYMAN[WordS]
As you say,we also hcard it
Spirit
God bc with you all
CHILD
I adorc thcc,O Etemal Buddha
l adore thec,O Eternal Buddha
18〕
〔
Abbot
Good souls,wc have shOwn you hcre
How in sad mischance
A sign、vas given of Godis grace
CHORUS ISong]
The voice is heard,and ike a shadow too
Witiin,can one a little form discern
iThC SpiHt Ofthe Child appearsl
Monks
A sign of God's grace
Abbot
A vislon lVaS seen,
A nliracle and a mystery,
At our Curlew ttver hcre
A woman was healed by prayer and grace,
A wonlan with griefdistraught
CHELD
Ah!Mother!Is it yoll?
[The SpiHt dlmppcars]
CHORUS[Song]
○
Monks
With gher dlstraught
/ Q
Abbot and Monks
(E遍 o面 ng ule congrcgatiOn)
.O praise our God thatlifteth up
Thc fanen,the lost,thc least;
The hope Hc gives,and His race that heals
And dimly nushed thc sky,tin naught was len
Abbot
ln hope,in peace,cnds our lnystery
r″′
οッ
ピ
sa■'■
″′′
力 σ″′
,gα″
″
α,α″′
CL々 bbο
ッ/rο
`И
`α
″a■
fr2″
お,Иε
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〃ルsrr2″
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′
″′́′
なrsヵ″″α
ッ
・
Oιass10″
a/rピ
″力′
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ρ′
A‖
Rl
Laurcns van dcn Posti И ″αノ
た、
ν
′
′
ra β′
力αル物′
rsヵ
″′
,,
α′
Pcnguin,1988
But ollt ofthis camc the frui」
hi coHaboration bet、veen Ben
and William Bcn and Peter wcntto Japan and Bcn,
prompted both by William and myscll gOt hOoked on
Noh and,as a rcsult oF seeing ″
S″
ッ
ガioRα、
α,hc wrote
・(・・‥
C″″
′
′l″
Rノνο′
)the rlrst of three ofBen's purest
r e l i g i o u sp lco、
r a t i o n s (…
・。
) I n C ″″ル″R ′ν′″h c
c、p10rcs the deep,instinctivc,pagan religiOus root in
hiinsclf―
the natural religion as yet llndogllla」
zcd,
uncloudcd by prcconcdved ideas,11le tnle prc―
Cluisuan
and the ancient natllral〔
unlenslon in himscll
-19-
Tc lucis antc tcnninum,
Renim Creator,poscimus,
Ut pro tua clementia,
Sis pracstll et custodia
Procul rcccdant somnia,
Et noctium phantasnlatal
Hostemque llostrum comprimc,
Ne polluanttr corpora
PraesLn,Pater plissilllc,
Patriquc compar Umcc,
Cunl SpirittI Paraclito,
Regnans per olllnc saeculunl
Amen
音楽教育学第33-2号
4 . 中 国 溶 陽 両級 中学 校 , 瀧 井 女 子 国 民
高 等 學 校 の 校 歌 ― 祖 父 ・稲 賀
T589
(2003)
第10章 先代遺香―父 稲賀 襄遺文
襄―
ひ とつ の 平 凡 な逸話 に触れ た く思 い ます。
朝!
豊
o 弔 汗・
とを 「異 文化教 育」 と結 び つ け るため に,
=:
ムt
抑漱十
■:
ミ:
i:
゛
口:
けお時間を いただいて , 本 日述 べ て きた こ
¨ 場 に申 や 0川
時間が迫 って 参 りま したが , 最 後 5 分 だ
オ史
T と U を ご覧 くだ さい。 そ こに校歌が載 っ
← ス とを , ん
私 の 祖父 は広 島 の 高等 師範学校 を 出てか ら
高等女学校 や師範学校 の 先生 をや って お り
ま した。 戦 前 ・戦 中当時 は台 湾 も韓国 も日
本 の統 治下 に置かれて いたた め, そ ち らに
痣,m即
て お ります。 身 内の話 で恐 縮 なので すが,
奉天 〔
澪陽]両 級中学校 校歌 (稲賀 裏 作詢)
康徳5(1938)年
12月 「
事業記念J写 真帖より
も師範学 校 など 日本 の学校 が 多 く造 られ ま
した。 私 の祖父 は関東 省 の 旅順 や大連 を振
り出 しに, 「満洲国」, つ ま り今で言 い ます
校
′= ' `
と中国東北部 の奉天, さ らには北辺 の龍井
一“一
t●”
フあ″
、
■
一
一
の祖 父 は早 く( 1 9 2 8 ) に
大連 で 6 歳 の長男 を
樹 ■ 人 作 ‖l
″らt
に移 り, 晩 年 には校長を歴 任 しま した。 そ
輛 資 A角 :獣
歌
・
(
活11/t.以
亡 くし, 「忘れ よ と言ふ 人 の あ り, 死 に し
子 を, 忘 れて何 を思 へ と言も、らん」 と詠 ん
で い ます。 息子 を失 った経験が, 教 師 と し
ての人生 や その音楽観 に も大 きな影響を 与
一 F ん
′
T の 楽 譜 を見て いただ くと, 作 詞が稲 賀
一
え たよ うで す。
襄, U で は作詞 と作曲が ともに稲賀襄 となっ
て い ると思 い ます。 当時 の校長先生 は, た
だ校長で あるだけではな く, 校 訓や校旗の整備, 校
めて再検討すること も忘れてはな りますまい。
歌の作詞や作曲までや らなければいけない, ま たそ
祖父は日本に戻 る前に 「
外地」で亡 くなりま した
ういった力がないといけなか ったよ うです。 日本は
( 1 9 4 4 ) が, 幸 い なことに荷物 だけが まとめ られて
この時代, 統 治下の中国に学校をつ くり, この よう
お り, 日本に届いたので この ような資料が残 されま
な日本語の校歌をつ くっては生徒たちに歌わせて い
した。 U の 龍井女子国民高等学校の校歌は, 実 際に
たわけです。
書いた楽譜の資料が見つか らないので, 旋 律は分か
今 日 「異文化理解」や 「国際交流」が しきりに叫
りません。 もし本学会員の皆様 の 中で, どなたか発
ばれていますけれど, 戦 前そ して戦中期に日本が同
見 されま した ら, ぜ ひご一報を いただ きたいと思い
様 の課題 にいかに取 り組んだかを, 自戒 と自省を込
ます。往時 の異文化音楽教育の, いわば一底辺を形
-20-
署一
比較文化史か らみる音楽 と文学 の東西交流―マー ラーの中国趣味を例 に一 《詩の越境 と変容》
龍井女 子國民高等學校校 歌
稲 賀 裏 作詞 ・作曲
ァ
”舛ぽ仕へまつりて 瑞垣のうちなる我らが幸
一 あ ま て る 神 の 官 居 の ほ と り 丘 べ の森 に立 て る 學 園
荒 ぷ 朔 風 も 雄 しく 堪 へて 強 き 皇 國 の 乙 女 と な ら む
二 嘉 笙 遠 く そ そ り て 崇 し 自 頭 み 山 の動 か ぬ す が た
修 め て 撓 ま ず 嗜 み 薫 る 床 しき 協 和 の 乙 女 と な ら む
れ が に 映 ゆ る 国 個 の 流 れ 大 海 めざ し 夜 費 を 舎 か ぬ
〓一
皇 國 の 榮 に 己 を す て て 我 等 興 亜 の乙 女 と な ら む
電 ︶ は 過 か いざ や 進 ま む 一路 の 彼 方
四 明 るき ,
* 同 沿 革 に ﹁廉 億 十 一年 一月 十 四 日
校旗図案並枚歌作詞作由 稲賀
襄 ﹂ と ぁ る。
ボ 科 一二学 級 定 員 七 二0名 、
同年 ﹁
師 遭科 一学 級 定 員 五十名 ﹂。
ほか に ﹃學 枚 組 警 要覧 ﹄ 全 七 十 三買 、
﹁廉 徳 十 一年 二 月 稿 四 月 十 九 日 臓
写 完 成 ﹂ と 、 表 紙 に自 筆 注あ り。
m矩颯 故 格 賀 理 先 生 略 歴
一
月二十 一日3取“”伯昴上Eけ九二六番地 一“生
明治 二十六年 一
△遺凛作所 3,曖薔伯都■,■,町二九
籠 井 女■ 国 民 高等 學校 一寛 ﹄ ょぃ
廉 七 十 一 ︵一九 四 四︶ 年 度 東満 純 省 立 ﹃
U
づ くる一 次 資料 を皆様 に提供す る ことで, 本 席 の責
外」 とい った 区別 を前提 と した 「理解」 の 枠 組 みを
めを塞 ぐ次第 です。
問 い 直す ことに もつ なが る こ とで しょう。
最後 に, 今 日は有名 な古典や頂点 に立 った作 曲家
ばか りを取 り上 げ て お話 ししま したが, 大切 なのは
終 わ りに
話が 多岐 にわた りま した。 しめ くくりに今 日の講
これを底辺で 支え て い る 日常 の音 楽実践 です 。 ご く
平凡 であ、つ うの 愛好者, 享 受 者, 聴 衆 の 視点 や立脚
演 の結 論 と して 3 点 を 申 し上 げ ます。
まず第 1 に , 自分 の 属 して い る文化 を知 るとは ど
点 を研究 の 中にどの よ うに取 り入れ るか, そ れ も異
うい う ことなの か を 考 えて み る必 要 が あ ります 。
文化間音楽教育 の現場 におかれては大切な ことで しょ
「異文化理解」 とい う言葉 が 安 易 に使 わ れ て い ます
う。 また, 論 ず べ き 「対象」 と しての音 楽 で な く,
が, そ れ な らば 「自 ―文 化」 は 自明 なの で し ょ う
人 々を, そ して文化 の 間を つ な ぐ 「媒体 」m e d i u m / a
か。 自分 で は 「異文化」 だ と思 って い る文化 圏 に身
と して の 音楽, とい う視点 もあ ろ うか と存 じます。
を置 いてみて は じめて 「自 ―文 化 」 も見 え て くる
長時間 にわ た りま して恐縮です。最後 にな ります
が, 学 会 の ます ます の発 展 をお祈 り して , 講 演 を終
一一 その発見 の 契機 を大切 に した い と思 い ます。
第 2 に 指摘 した いの は, 変 容 へ の寛容性 とい う徳
目です。 本 国取 り上 げた例 か らも分か ります ように,
わ りた い と思 います。 ご静聴 ま こ とにあ りが と うご
ざい ま した。
中で , 作
文化 か ら文化 へ の 「渡 り」 ( m i g r a t i O n ) の
品は否応 な く変質 して い きます。 それを頭 ごな しに
*
「誤解」 と決 めつ けず, 洋 の東西 , あ る い は南 北 を
美子, 鈴 木慎一朗, 奥 忍の諸氏のお手をわず らわせ, 講
当日の録音不備のため, 安田香, 杉江淑子, 加藤富
それ を つぶ
演の概要を再現 していただきま した。 記 して謝意を表 し
さに観察 し, 両 者 の 関係 を視野 の 中 に納 め る必要が
ます。なお, 誤 謬などあれば, その責任は講演者に帰す
越境 と変容》 の実相 を見据 えて,
あ りま しょう。 《
ることを一言明記いたします。
つ な ぐ渡 し舟 の上で 何 が起 こったのか
そ こに我が身を さ らす ことは, 自分 と他 者 , 「 内 と
-21-
Fly UP