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2012 年5月号 - 日本ビジネス航空協会

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2012 年5月号 - 日本ビジネス航空協会
2012 年5月号
隔月刊
(NPO法人)日本ビジネス航空協会
◇
巻
頭
振り返ってみれば 50 年
理 事
山下 洋司
丸紅エアロスペース株式会社 代表取締役社長
いつ頃から航空分野に興味を持ち始めたかと聞かれたら恐らく小学 1 年生の頃だと思われま
す。庭で歯磨きをしていたら恐らく米軍の戦闘機が今でいえば超低空で過ぎて行ったのが、非
常に印象的でした。約 50 年前の事で何と早い物体であると強烈な印象でした。
実際に生まれて初めて飛行機に乗ったのが小学 5 年生の時で、伊丹空港から福岡の板付空港
まで乗りました。日本航空の DC-6 でもちろんプロペラ機でした。当時 11 歳で近所の同世代では
恐らく初めてで、現在と違って離陸してしばらくすると操縦席に案内してくれまして、機長が
その頃では子供が乗客として乗ってくるのは珍しかったのか色々説明をしてくれました。びっ
くりしたのは、ものすごく多くの計器が並んでいたことでした。操縦席には機長、副操縦士、
航空機関士と恐らくもう一人(ナビゲーター?)が乗っていた気がしました。
2 回目に乗った航空機はヘリコプターでした。叔父が税務署長をしていた関係で播磨造船所
(現在の IHI)の進水式をヘリコプターで見学させてもらいました。飛行機と違ってヘリコプタ
ーは翼がなくてよく飛べるものだと驚いていると、ふわっと浮いてドックの真上に来て上空か
ら進水式を見せてもらいました。
これらの経験が航空機に対する興味や憧れとなり、何かこの種の仕事に従事出来ないかと考
える様になりました。大学時代はグライダーに乗ったりしていましたが事故で休部となり、しば
らくはこの分野から離れていました。3 年生になりそろそろ就職を考える頃になり、どうせなら
航空機を取り扱っている商社に就職をと考えていたところ、たまたま下宿していた叔母の家に
当時丸紅の専務をしていた方が尋ねてこられました。「君は何年生か」と尋ねられ「3 年生です」
と答えると「就職はどうするのか」と聞かれたので、「航空機ビジネスに強い商社に行きたい」
と答えたところ、「うちに来い」と誘われたきっかけで丸紅に就職をした次第です。
ところが卒業直前に起こったロッキード事件の余波で会社に入ったものの航空機部隊は壊滅
状態でした。しばらくの間当時一番強かった紙パルプ部隊に配属されペーパービジネスに明け
暮れておりましたら、4 年ほどたったころ会社から海外研修生として 3 年弱フランスに派遣され
ました。学生時代は外国語としてはドイツ語しか習っておりませんのでフランス語は赤ん坊の
ごとく一からの勉強でしたが、不思議なものでオウム返しでしゃべっていると何とか話せるよ
うになりました。
パリ大学の先生が「君は将来どんな事をやりたいか」と尋ねられた際、「フランスは世界第 2
の航空産業国なので航空機ビジネスをやりたい」と答えたところ、当時設立間もないエアバス社
に研修生として派遣される機会を得て、航空機の製造工程を一から勉強させて貰いました。
2
フランスから帰国の時を同じくして、航空機ビジネスの再スタートと重なり、丸紅の航空機部
隊に配属されました。爾来今日まで約 30 年間一度も転勤せず航空ビジネスの分野に従事してき
ました。
紆余曲折がありましたが、現在の会社(丸紅エアロスペース)を設立する機会に恵まれ、会社
の看板商品である米国ガルフストリーム社のビジネスジェットを販売する機会に恵まれまし
た。
我が国ではまだまだビジネスとしては米国に比べ規模が小さい業界ですが、欧米の経営者が
縦横無尽にビジネスジェットを使ってコンピュータ時代のスピード感にマッチしたビジネスス
タイルを駆使している状況を見て、日本にもこの種の、重要なビジネスツールとしてのビジネ
スジェットを如何にして定着させるかを考えるこの頃です。
若いころ機会があってコンコルドに搭乗する機会を得ましたが、搭乗客にコンコルドに乗る
理由を聞いたら「ビジネスは時間が最重要だ」との返事が返ってきました。巨大ビジネスには決
断のタイミングが重要である事は言うまでもありませんが、決断には日本で言う稟議決裁とは
違ったビジネススタイルが基本であるのであれば、欧米の経営者がビジネスジェットを駆使し、
機中でも会議の決裁ができる環境を維持しているビジネススタイルは、我が国にとっても必要な
環境と思われてなりません。
現在のように IT が発展した時代にあっては経営者が世界中どこに滞在していても常に経営判
断をすることが肝要で、欧米(最近では中国も含む)では、移動しながら経営方針を決定し実行
に移す為に IT 並びに優れたデーター通信機能を備えたビジネスジェットが、COMMON TOOL とな
っています。
我が国にとっても、同様な環境が育ちつつあると思われることから、更なる業界の発展に会
社人生を捧げたいと願っております。
◇ ビジネス航空界のトピックス ・ 新着情報
ABACE2012
ABACE(Asian Business Aviation Conference & Exhibition)2012 が、NBAA(National
Business Aviation Association)と AsBAA(Asian Business Aviation Association)の共催で
3 月 27 日-29 日に上海虹橋空港で開催されました。
久しぶりの ABACE でしたが展示機数 30 機、参加者数 150 社近くと規模は前回の香港での
ABACE をはるかに上回るものであり、中国におけるビジネス航空の急速な発展を見せつけ
られるものでした。日本からも会員の愛知県や成田国際空港(株)等がブースを出展され又多
数の方々が日本から来ておられました。
航空局からもご参加いただき General Session のパネルディスカッションにも御登壇いた
だいて最近の日本の当局の姿勢等をお話しいただきました。
3
上海虹橋空港の ABACE2012 屋外展示風景
同
General Session
小型ビジネスジェット機等によるチャーター事業に対応した新しい運航・整備基準の導入
3 月 30 日に小型ビジネスジェット機等によるチャーター事業に対応した米国の FAR135 と
同じような新しい包括的な運航・整備基準を策定、導入する方針が航空局から正式に発表
されました。本件は長年当協会が要望してきた事項であり大きな前進です。
発表の詳細は国土交通省ホームページ(航空-報道発表資料「小型機ビジネスジェット機
によるチャーター事業に対応した運航・整備基準の策定について」をご参照下さい。
成田国際空港ビジネスジェット専用ターミナルオープニングセレモニー
成田国際空港ビジネス航空専用ター
ミナルオープニングセレモニーが 3
月 30 日(金)に吉田国土交通副大臣、
長田航空局長、坂本千葉県副知事等を
迎えて同施設で盛大に開催されまし
た。当日は会員企業のご協力によりビ
ジネスジェット機 7 機、ヘリコプター
1 機の展示も行われセレミニーに花を
添えさせていただきました。
同施設は翌 31 日から正式供用されま
した。
航空局主催「安全に関する技術規制のあり方検討会」第3回開催
航空局主催の「安全に関する技術規制のあり方検討会」
(委員長鈴木真二東大教授)の第3
回会議が、4 月 6 日に開催されました。
今回はビジネス航空関連もその議題として取り上げられ、この席上、上述の FAR135 並の
基準の策定、導入方針並びに JBAA 個別要望事項(航空局安全部関連)に対する回答の
正式提示がありました。検討会の詳細につきましては、国土交通省ホームページ、
航空-基本情報-審議会・委員会等-安全に関する技術規制のあり方検討会、
4
http://www.mlit.go.jp/koku/koku_tk19_000001.html に掲載されていますのでそちらをご参照
下さい。
EBACE 2011
今年の EBACE(European Business Aviation Convention & Exhibition)は5月14-16
日 に EBAA(European Business Aviation Association) 及 び NBAA ( National Business
Aviation Association)の共催により Geneva で開催されます。今年も盛大な催しになるこ
とが予想されます。
◇ 協会ニュース
日本航空協会主催の講演会でビジネス航空について講演
3 月 13 日に開催されました日本航空協会主催「航空と宇宙」定例講演会で佐藤協会副会長・
事務局長が「ビジネス航空の現状と課題、そしてその将来について」という表題で講演を
行いました。講演会には長田航空局長初め多数の航空界の重鎮の方々にもおいでいただき
ビジネス航空に対する理解を深めていただくよい機会になりました。
その時の講演資料は協会ホームページ資料(会員向)に掲載してありますのでご参照下さ
い。
規制緩和要望のその後の状況について
規制緩和要望実現にむけてその後も航空局等と折衝を続けておりますが、航空局も局内に
「ビジネスジェットに関する技術規制検討会」を発足させられる等して大変積極的にご検
討いただいております。
その結果上記の「小型ビジネスジェット機等によるチャーター事業に対応した新しい運
航・整備基準の導入」方針が打ち出される等、大きな前進が見られます。その他の協会各
要望事項についても多くの前向きな回答をいただいており、それらにつきましては今後総
会や協会ホームページ等で紹介させていただく予定です。
2012 年度総会の開催について
会員の皆様にはすでに開催通知をお送りしておりますが、以下により平成 23 年度の総会を
開催致します。
日 時 : 平成 24 年 5 月 9 日(水) 16 時より
場 所 :メルパルク東京
尚総会後には例年通り懇親会を予定しておりますので皆様のご参加をお待ちしております。
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主要協会活動(3-4 月)
3月5日
四役会開催
3月7日
航空局航空戦略課との要望事項についての検討・調整会議
3月9日
静岡空港ターミナル地区西側駐機場供用開始記念式典に参列
3月13日 日本航空協会主催の講演会で講演
3月16日 航空局安全部との要望事項についての検討・調整会議
3月21日 ヘリ協定例会に出席
3月22日 航空局安全部主催の「ビジネスジェットに関する技術規制検討会」に
出席
3月27-29日 ABACE2012(上海虹橋)に参加
3月30日 成田国際空港ビジネス航空専用ターミナルオープニング式典に参列
4月6日
航空局主催第 3 回「安全に関する技術規制のあり方検討会」に出席
4月9日
理事会開催
4月23日 監事説明会開催
4月23日 東京海上日動火災保険と航空保険について協議
◇ 投 稿
“Flying” the most next myself
―「飛び道具」それは私の肌着―
柳井 健三
会報担当・元雑食性パイロット
常から恐れていたことに、お願いしていた執筆者からの入稿が無いのです。止むをえぬ事
情によるのですが原稿にバックアップを持つほどの冗長性がない身には「埋め草」を用意す
るしか手がありません。そこで僭越ですが過去に業界誌などに書き落とした古い記事を撚り
合わせ、表題としました。 42 年に亘り、終身被雇用という古い構造社会に身を置いた自分
の、「飛行」に関するエピソードを拙文で綴りました。
出自抄
南方庁司政官という父の職種の関係で、一家はインドネシア、セレベス島メナド市に居
を構えていた。もちろん太平洋戦争以前のことである。母は8人の子を成したが南洋の風土
病とも言うマラリアなどで4人を失う。私はその末子、開戦を前に東京に戻った一家だが母
の叱言、兄弟喧嘩は日本語、マレー語、オランダ語の奇妙な混成語であった。現地に留まっ
た父は、終戦の翌年に連合国戦犯として現地で処刑となり帰国は果たせなかった。父を知ら
ぬ末子はまあ健常に育ち、成人しては念願の「K航空機工業」(現K重工業)に就職が叶っ
た。K社では操縦士を社内公募に依り養成する企画があり、1 年に 1 名を 4 年に亘って実施
6
した。私はその 2 期生に。選考に能力検定や適性の審査などはなく、技術系という条件は
あったが、長兄ではないと言う理由のみで選ばれたようだ。当時はまだ長兄は家督を取る、
以下は消耗品で、操縦士は当然消耗品に含まれると言う考えが根強かったのだろう。操縦訓
練をいきなりヘリコプタで始めるという方法も異例であったが、ともあれ、22 歳にして小
型ヘリコプタの事業用操縦士としてのエアマン人生が始まったのである。
ヘリコプタとの関わり
小型ヘリに 300 時間ほどしか経験のない新米パイロットに社業の飛行試験が任せられる
はずもなく、
「1000 時間ほど経験を積んで来い」とばかりに外勤を命じられた。耕運機や船
外エンジンなど関連会社のロゴを付けた 4 人乗りのヘリを 1 機貰って整備士と営業マンの 3
人チームで農村・漁村へ巡業の旅に出るのだ。250 時間の整備点検時期が来るまでの 4 か月
ほどは会社に帰してもらえない。全国津々浦々の舞台は河川敷、網干し場、公営の運動場な
どでイベント会場には当日朝から幔幕が張られる。
待ち受ける振袖のミス○○からは歓迎の
花束、その先には決まって白い封筒が、ご祝儀というものを頂く職業と認識する。ヘリの来
る日は近くの学校も休みとなり、まさに旅芸一座の興業である。土地の代理店の采配に従っ
て一回 5 分の遊覧飛行を毎日 6 時間ほど続ける。200 人ほどを空に誘う 70 回の離着陸で、
筋肉以外に使うものは何もない。1年ほど続けるうちに多くを学んだ。操縦技術ではない、
民族社会学である。
イベント会場では土地の名士の本妻と二号さんのバッティングなどがた
びたび起きる。
「かかる事態を惹起したのはお前のせいである、善処せよ」と。ご祝儀だっ
て遣う機会がない。たまの休日にはチームの3人で街の料亭に上がり込み、給料の何倍かの
モノを一気に吐き出し豪遊した。隣りの座敷にはマグロ・はえ縄の漁師のお兄ちゃんたちが
居たりして、
、板コ 1 枚下は「空気」か「水」の違いはあれ、気風は同じなのだ。
思えば私とヘリの関係は特需やブームと共にあったようだ。ベトナム戦争、農薬散布、電
力・資材輸送ブームなど。本業の試験飛行に加えて航空ショウなどのデモ飛行、用途開発の
ために使用事業やテレビ局へ出向し、新たな機材の運用を試してみる。機体の目方を減らし
て怪しげな宙返りを披露したり、急峻な山中で送電線のケーブルを張り渡すなど、小型、大
型取り混ぜて5機種ほどのヘリで苦楽を共にした約 3000 時間の飛行の思い出は尽きない。
飛行機との関わり
社内の操縦士職として最も若く末席の私が「最も長く使いデある」という理由からか、固
定翼(飛行機)に転向せよ、の社命で飛行機の操縦訓練を受けることになった。国内に適当
な施設がないのでアメリカの飛行学校へ入校するのだ。
末子・末席もいよいよ国際人である。
サンフランシスコにある JAL の人材派遣会社の傘下にある飛行学校に入り、初歩練習
機からT類輸送機までの一環訓練を受ける、贅沢なプログラムだ。事業会社では考えられ
ない潤沢な訓練費はどこから生まれる?多くを防衛庁(当時)から受注する我が国の航空機
産業では、工賃(man-hour rate)を防衛庁にも請求する。当然訓練費もかなりの部分を割
り掛けとして乗せていたのだろう。
7
言葉の問題があったが何とかクリアし訓練を 15 カ月で終了。但し会社には「補習の要あ
り」と嘘をついて、何か月かをロスアンジェルスに遊んだ。中心街 One Wilshar に店を張
る「丸紅アメリカ」の室井所長とは郷里が同じ関西という理由だけで、事務所に居候を許し
て頂いた。
時折訪れてくる我がK重工の上司にディズニーランドで1日遊んで頂くのが私の
仕事になった。空港まで迎えに行き、夕方ホテルか空港に送っていく。東京への直行便がな
かった時代だ、
偉い人でも当時は米州方面への出張の最後はディズニーランドとハワイを加
えるのが旅程の常だったのである。外貨の持ち出し、送金にも厳しい制限があった。手元不
如意を理由に室井所長から何度かUS$の用立てを頂いたが弁済した覚えがない、丸紅アメ
リカと K 重工はロッキード社を介して一緒に仕事をしていた仲だ、小額の Default は免じ
て頂けるのではないかと思っている。ましてやとっくに時効である。
この時期、丸紅エアロスペース社はまだ誕生していません。本編巻頭言を執筆頂いた丸紅
エアロスペースの山下社長が初めてヘリコプタに乗って播磨造船所を訪ねられたころでし
ょうか。
因みに室井所長は播磨造船ドックのある兵庫県相生市のご出身ですが、これは余談。
テストパイロット
我が国航空界ではマイナーな存在で数十名ほどしかいないテストパイロットだが、新しい
飛行機を開発するのに十数年かかる日本では、
新規の開発機を担当できるテストパイロット
(Experimental Test Pilot)は能力に加えよほどの幸運と好いタイミングに恵まれる環境
が要る。私を含め、大多数のテストパイロットたちは量産航空機のテストを担当する、つま
り Production Test Pilot なのだ。その仕事はそれなりに誇りあるものに違いないのだが、、
さて、私はK社で 38 年間その職種に就いていたが、新開発の航空機をテストする機会は
ただの一度しか恵まれなかった。ヘリコプタの運動性を改善するために開発したリジット・
ローターシステム(注)のKH7(後になってKHR)と呼ばれたヘリ。飛行試験を私が担当
した。当時は電気・電子制御など無い時代で、ローター回転の制御をバイクのスロットルの
ように手動で行うので、ヘリの運動性能に操縦操作が追いつかない。KHR は研究機として
生涯を終え、実用化には至らなかったのだが、長い間工場に眠っていた機体が、最近になっ
てK市の航空宇宙科学博物館に展示されていた。40 年以上を経てその姿に出会い、懐かし
くも嬉しい思いがする。お蔵入りから博物館入りに格上げされたのだ。
(注)リジッド・ローター・システム
(無関節ローターシステムとも)
ローター回転面内の動きを、関節を使わず部材の剛性(しなやかさ)によって
制御する方式。ヘリの運動性・応答性が改善され部品点数、重量も軽減できる。
一部の Production Test Pilot はエンジンや装備品の換装、大改造や特殊研究機のテスト
や評価などに携わる機会を得るが、このような仕事がせめて未知との遭遇と言える。しかし
その結果の反映が、設計技術者の求めているものであり、新たに開発する航空機の基礎デー
8
タを提供でき、またシミュレータ評価試験などでお役に立てることも多かったのだ。
当時から民間機の開発には消極的だった我が国だ。YS11 や STOL 飛鳥など、その後のフ
ォローと市場開拓を地道に続けていれば今頃は Airbus 社に負けないほどの民間航空機が育
っていたのではないか?官指導型の弊害を強く感じる日本の航空機産業である。
同じように軍用機の多くも欧米機のライセンス生産に頼った。新たな機種を製造・改造す
るたびに原産国や現場の部隊へ赴き訓練を受ける。この種の転換訓練、技量維持訓練、顧客
への教育訓練など、製造業とはいえ本業の合間には訓練また訓練の日々であった。
ある時、数少ない国産機
C-1 輸送機に 100 機の注文が
リビヤ(カダフィ大佐)から
舞い込んだ。勇んでデモフラ
イトの計画を立てたのだが、
戦術輸送機
沖縄までしか足のない C-1 機
C1
は、中近東地区の戦火を避けたルートを選ぶと、現地到着までに8回以上の燃料補給を受け
る必要がある。専守防衛論上、長い足を持つことを官が憂慮したのが原因である。武器輸出
3 原則に抵触する問題には、兵装がないことを理由に「武器に非ず」として通産省(当時)
の許可まで取り付けたのだが、エンジンが米国製(P&W社)であることから米国防省の許
可が下りず、このプロジェクトは涙を呑んだ。当時は国産機と言えど、まだ外国のテクノロ
ジーに頼ることが普通であり、その悔しさを身をもって感じた事であった。
ボーイング社のライセンス生産機である CH47 型ヘリコプタを見事リビヤに売り込んだ
イタリアとは道義や外交センスのしきい値が異なるお国柄なのだろう。
定期運送事業会社には Acceptance Test Pilot と呼ばれる職種がある。旅客の安全や、運
航効率などを考慮し、製造会社から機材を受領することを仕事とするパイロットである。
ところで我が国の航空機製造会社の悩ましい部分は、M社のようなトップ企業を除き、一
人のパイロットが何機種もの飛行機やヘリコプタを同時に担当することである。
多機種少数
生産の弊害でもある。朝にヘリを飛んで、午後にはジェット機に乗り換えるような事象は当
たり前なのだ。器用と言えば器用なテストパイロットだが、××貧乏と名のつく事になりが
ちでもある。浅く手広くの領域は下手クソと同義語で、雑食性パイロットの所以である。
かくして定年退職の日までに輸送機、対潜哨戒機、早期警戒機、情報収集機、特殊研究機、
大小ヘリコプタなど 20 機種ほど、主として試験飛行の 10650 時間が色あせたログブックに
記録されている。論理の立たない計算だが、平均時速 200 ノットとすればお月様まで 6 往
復して 7 回目の返り道に当るそうな。生まれてから 1 年 1 カ月の間、空中に浮かんでいた
勘定にもなるらしい。
「飛んでナンボ」の商業飛行と違って、飛ばない方が効率の良い航空
機製造業の内部では、飛行そのものが肩身の狭い、遠慮の要る仕事であった。無違反は多分
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に怪しいが、誰も傷つけず、何も壊さず無事故で過ごすことが出来たのは幸運であった。
業界以外の方々と会ってお話したり、飲んだりするたびに、会話は決まったパターンと
方向へ進行する。以下は Production Test Pilot としての話である。
「テスト・パイロットさんですってねえ、カッコ好いですねえ、どんな飛行機に?」
「ツナギを着て、お客も乗せられない飛行機です、お客に代って乗せているのは鉛のバラスト、色だって満
足に塗ってないのもあるし、荒っぽいし、カッコ好さには程遠いですよ」
「怖いでしょうねえ、危ないこともいっぱいあるんでしょう?」
「いえいえ、テストと言っても予測できることがほとんどで、大体シミュレーターで結果は出ているし、それを確
かめるのが仕事なんですよ」
「でも、飛行中にエンジンが止まったり機械が故障して死ぬような思いもされるのでしょう?」
「確かに新品の飛行機には初期故障というのがあるのですが、品質管理技法も進歩した今は昔のように
頻発することはないんですよ」
と言うような会話が一般になされる。Test Pilot の一般のイメージと実際との間に距離を
感じる。テストパイロットは会社の中の一集団「飛び屋」にすぎない。その回りにいる技
師たちは空力屋、構造屋、艤装屋、エンジン屋、油圧屋、電気屋、電子屋などに加えて現
場を同じくする整備屋さんたちだ。これらを統合するものにシステム・インテグレーター
というまとめ屋さんが居て、その上にはプロジェクト・マネジャーと称するボスがいる。
飛び屋は必然的にこれらの技術屋たちとお付き合いすることになるのだが、、世間話なら、
「怖いことですか、42 年の間にそんな想いをたった 2 度だけ経験したでしょうかね」
「エンジンが止まってしまったとか、舵が動かなくなったとか?」
「いえいえ、そう言う故障は怖い部類には入らないんですよ、予断、予測が可能だし、その事態からの回復
処置はいつでも出来るよう気持ちと手順が準備されているんです」。 恐いのはむしろ、、
*
飛行機どうしの異常接近や接触など、突発的な出来事が起きる
*
ひとつの故障が起きたときに連鎖して別の異常が起きる
*
ひとつの故障が起きた時、対応を間違ったり気象条件が悪かったりと、
不利な事態が重なる
こんな状況から事故に至ることが多い、「不具合の連鎖」、「Error Chain」として知られて
いることだ。私の場合幸運にも事故にならなかったのは、連鎖して異常や不利な事態が起
きなかったのだろうと思う。
「一度目は人為的な激しい下降気流に飲み込まれてしまったこと、二度目は他機と空中で異常に接近
したことでした」
2 回ともヘリコプタでの出来事だ。1 度目は北アルプス穂高岳の上空、会社のプロモーシ
ョン映画を撮影中のこと。
10
まっさらな大型最新型ヘリが朝焼けの穂高岳バックに飛ぶ雄姿をフィルムに納める。私
の操縦する小型ヘリがカメラで狙う。位置が決まって私は 1 万フィートをホバリングで待
機する。その少し上を大型ヘリが 120 ノットでフライ・バイ。通り過ぎた瞬間、バッター
ンとショックが来た。ドでかいローターの吹きおろしをもろに被ったのだ。限界パワーで
ホバリングしていた私は瞬間に 200 フィートほど落とされた。でも天佑と言うか、夜明け
の穂高にも少しの風があった。そして私はその風の上手(上昇気流側)に居たのだった。
30 ノットほど速度を得たところで転移揚力(流入空気量が増えることで揚力を増す現象)を得たの
だろう、沈下は止り脱出できた。私は全身からアドレナリンを、カメラさんは 16mm のマ
ガジンをおでこにぶつけて大きなコブを作った。
2 度目の経験は場周経路(右回り)ダウン・ウィンドで起きたニア・ミス(因みにニア・ミ
スは日本語、英語では Mid-Air Conflict)である。私は CH46D(米海兵隊仕様、民生型は V107)ヘリ
の左席に座るコ・パイロット、私の CH46D は外回りパターンで、1100 フィート、相手の
小型ヘリはビジターの顧客が操縦するもの。
内回りパターンで 900 フィートの設定である。
管制官は私に No.1 を、ビジターの小型ヘリに No.2 を与えた。
「久しぶりやからオマエが着陸するかい?」と右席の機長(正規の席です)は私に操縦を
ハンド・オフした、
、まさにその瞬間、ダウン・ウィンドを飛んでいた私の左から直角に同
じ高度で横切る小型ヘリを認めたのだ。操縦桿を譲り受けたとたんの出来事である、咄嗟
に 90 度バンクに入れたからヘリは見事にブレードストール(回転翼の 失速)を起こし 200 フ
ィートほど落下した。管制官、私、機長、
ビジターの機長の四者がみな注意を怠っ
ていたと言える。
立て直した私の真上をビジターのヘリ
は何事もなく(気がつく様子もなく)通り
過ぎていった。「××tower, say position
No.1 traffic?」と言うコールが耳に入って
きた。
CH46D の民生型 V107
この時、もしヘリが私の制御下になかったらとっさに機を失速させることはできなかっ
たのである。この事実は事故として私以外の誰かが目撃談として書いたかもしれないのだ。
片翼エンジンでの着陸や、システムの Unsafe での着陸は幾度も経験した。緊張はするけど
恐さを味わったことはない。
、、、でも上述の2回だけは、
、
JBAA との関わり
操縦士という「飛び職」を降りても航空界に関わっていたい想いが、お前でも使ってや
ろうか、という慈悲深い方々の思し召しに止まって、2002 年以来(途中 2 年の中断はあっ
たが)JBAA 事務局でお世話になってきた。42 年の長きにわたって飛行機という機械だけ
11
に向かって仕事をした男が、対人間という職種の仕事をする経験は初めてなので、失敗と
戸惑いばかりであった。まさに先人の言う「パイロットは潰しが効かぬ」の常套句を自ら
実践したのである。失敗の多くはビジネスマンとしての基本動作や、常識が身に付いてい
ないことが原因らしい。潰れないにしても角々が削られて、少しは丸みが出てくれれば良
いのに、と思っている間に 70 歳を過ぎてしまった。
さすがに加齢障害も多く、2011 年 5 月の総会を区切りに事務局を退き、会報作成だけの
仕事にさせて頂き今に至っている。
思えば Flying Machine とも呼ばれるアルミとチタン合金の Hardware は、42 年という
歳月を経て、いつしか私の Underware (肌着)のようになっていたのだった。
航空戦略に強く関わる職種の JBAA なので、
私のような労働集約型職員は手足でご奉仕す
るのを旨としている。それさえ為し得たかは疑
問だが、でも現場の実務、ことに空中の事柄な
どで頼りにされるのは嬉しいことで、また誇り
得ることでもあると感じている。
最後のテストフライト 2000 年 2 月
引用した書籍:
「そらのみちくさ」
湧井
雑誌「PILOT」既刊号
カレン著(拙著)
P3C 室戸沖にて
鳳文書林出版販売社
(社)日本航空機操縦士協会編
◇ ホームページのご案内
協会ホームページ
http://www.jbaa.org/
ホームページで、新着情報等より詳しい情報を提供させていただいておりますのでご利
用下さい。
◇ 入会案内
当協会の主旨、活動にご賛同いただける皆様のご入会をお待ちしています。会員は、正
会員(団体及び個人)と本協会の活動を賛助する賛助会員(団体及び個人)から構成され
ています。
詳細は事務局迄お問い合わせ下さい。入会案内をお送り致します。
12
団体 50,000 円
入会金 正会員
個人 20,000 円
団体 30,000 円
賛助会員
個人
1,000 円
団体 120,000 円以上
年会費 正会員
個人 20,000 円以上
団体 50,000 円以上
賛助会員
個人 10,000 円以上
◇ ご意見、問い合わせ先
事務局までご連絡下さい。
(NPO)日本ビジネス航空協会 事務局
〒100-8088
東京都千代田区大手町 1 丁目 4 番 2 号
Tel:03-3282-2870
丸紅ビル3F
Fax:03-5220-7710
web: http://www.jbaa.org
e mail: [email protected]
編集子後記:
編集子たるもの、原稿に窮し自らのモノで埋めるなど、想定外出来上がりの 5 月号です。
投稿原稿に余剰を持っていたいものと痛感しています。投稿にはジャンルを問いません、
会員および会員関係者から奮ってのご投稿を願っています。
投稿先は
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です。
この後は少しでも質の高い会報を提供できるよう微力を傾けて参ります。
それが飛行機に惚れたが故の使命であると思っています。
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