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コミュ難の俺が、交渉スキルに全振りして転生した結果
コミュ難の俺が、交渉スキルに全振りして転生した結果 とーわ/朱月十話 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ コミュ難の俺が、交渉スキルに全振りして転生した結果 ︻Nコード︼ N8858CO ︻作者名︼ とーわ/朱月十話 ︻あらすじ︼ MMORPG﹁エターナル・マギア﹂のトッププレイヤーだっ た森岡弘人は、リアルでは引きこもり歴三年の高校一年生だった。 人生の大半を注ぎ込んだゲームで全てを失い、自暴自棄に陥ってい た弘人は、人生の最後を﹁疎遠だった幼なじみの女の子を、トラッ ク事故から助ける﹂という形で幕を閉じる。 リアルではコミュ難だが、ゲームの中ではコミュ力最強の彼をト ップに君臨させていたのは、誰も取らない不人気スキル﹁交渉術﹂。 1 弘人に興味を持っていた異世界の女神に転生させられ、生前の不幸 をボーナスポイントに換算された彼は、迷いなく交渉術に最大まで スキルポイントを振る。 ゲームをそのまま再現したような異世界で、記憶を引き継いだま ま赤ん坊として転生した弘人は、交渉術の有用性を再確認し、時に 意外な使い方に気づきながら、ただの村人からじわじわと成り上が っていく。 ※あらすじは予定です。 ※主人公以外にも数人だけ転生したり、異世界に行く人物がいます。 ※ステータス表記は節目ごとに行います。 ※一度全面的に改訂し、WEB版は表現を修正しています。 ※ファミ通文庫様より書籍版3巻が1月30日より発売中です。 2 プロローグ 1︵前書き︶ ・ゲームそのままの異世界に飛ばされ、変わった形で無双する話で す。 ・生まれ変わるまでちょっと長いですが、よろしければ先にお進み ください。 ※2016年2月に全面改訂を行い、内容を大きく変更し 授乳↓採乳に変更しました。書籍版では改訂前の内容を元にして います。 なろう版とは内容が異なりますが、ストーリー自体は同じになっ ております。 3 プロローグ 1 ﹁あーあ⋮⋮死んじまったか﹂ 人生は、コミュ障ってだけでハードモードだった。過去形なのは、 もう俺は死んでしまったからだ。 他人に与える印象が良くないとか、思ってることをまともに伝え られないとか、人の目を見られないとか。そういう理由で、ずいぶ んと生きづらい思いをしてきた。 とまあ、死ぬ前のことを考えても仕方ないので、そのくらいにし ておこう。 今考えるべきは、人が死んだあとはどうなるのかってことだろう。 天国に召されるようなことはしてない。親にもらった大事な命で はあるが、俺は結構あっさりと投げ出してしまった。疎遠になって いた幼なじみを助けるためなんていう理由で。 ﹁しかし⋮⋮まだ意識があるっていうのは、どういうことなんだ?﹂ 自分で自分に問いかけるくらいなら、コミュ障の俺でもさすがに できる。これが、人を相手にするとなるといきなりハードルが上が るのだった。 まず、俺は人と目が合わせられない。子供の頃からどうにも克服 できず、クラスの班決めなんかでは最後まで余った末に先生に割り 振られるのがデフォだったし、三者面談でも親同伴ですら、まとも に話せなかったりした。 4 ﹁ちゃんと目を見て話しなさい﹂と生涯で一万回は言われたこと だろう。言ってくれた親や先生等々には、ご面倒をおかけしました と素直に謝りたい。 ﹁⋮⋮なんか昔のことばっか思い出してんなぁ﹂ 俺が今いる場所について確認すると、まず真っ暗だ。そして俺の 意識はあるけど、身体がない。 この無重力に放り出された感じ、ご理解いただけるだろうか。ゲ ームなんかで﹁主観モード﹂ってのがあるけど、まさにそういう感 じだ。身体がないのに視覚があって、思考ができる。だが移動がで きない。 ﹁死んだあとってこんなんなのか⋮⋮くそ、死ぬんじゃなかったな﹂ こんなことなら、アカハックされて全ての財産を失ったとはいえ、 家から一歩も出ずに再開してりゃよかった。 ﹃エターナル・マギア﹄。俺が短い人生のうち、3分の1以上を つぎ込んだゲーム。 小学校から一緒に遊ぶ友達もろくに出来なかった俺だが、ネトゲ の中じゃ、不思議と他人とのコミュニケーションが上手くいった。 クォータービュー型のMMORPGだったから、別にキャラ同士で 目を合わせる必要がなかったからだ。 そしてキーボードに打ち込むと、リアルで話すときと違ってキョ ドらずに話すことが出来た。俺はゲームの中では、高い社交性を持 つことができていたのだ。 5 ﹁あー、やべ⋮⋮鬱になってきた﹂ ゲームで喋れてもリアルで話せなきゃ意味ないだろ、ともう一人 の幼なじみに言われたことを思い出す。こっちは男で、高校まで一 緒だった。一年生で俺が死ぬまでだから、10年近く知り合いでは あった。 そいつと、俺が命がけで助けたもう一人の幼なじみが﹃できてい た﹄ことが、半引きこもりからガチ引きこもりにクラスチェンジし た一因だったりする。しかしまあ、憎むべきヤツだとは思ってない が。せいぜい幸せになってくれよ、と思う。 ﹁まあ、俺の命の代わりに助けてやったんだしな⋮⋮﹂ そう、俺はどうしても、自分の本心と違うことを口に出してしま うクセがあった。 ひきこもりの俺を連れだそうとしてくれた友達に、本当は感謝し ていたが⋮⋮いつも、裏腹な言葉しか出てこなかった。 内申が良くなるように、先生と取り引きでもしたのか? とか。 俺はここにいるのが一番幸せなんだ。外にいるお前らの方が悲惨 な人生を送ってる。リアルはクソだ⋮⋮などと。 ﹁⋮⋮けれど、本当は分かってた、と。自分こそが社会に疎外され た存在で、﹃可哀想﹄なんだってこと﹂ ﹁おあっ⋮⋮!? な、なんだいきなりっ、どっから出てきた!?﹂ いきなり声が聞こえてきて、俺は思い切り挙動不審になる。こう いうのが一番イヤなんだ、俺にとっさの対応とか、冷静な対処とか を求めないでくれ。 6 ﹁どうしてそんなに人と話すのが怖いの? あなたの心には、目立 ったトラウマなんてないように見えるけど﹂ ﹁だ、だから、どっから話しかけてきてんだよ!﹂ 真っ暗でだだっ広い空間で、誰もいないのに声が聞こえてくる。 俺はホラーゲームもやるけど、音を最小限にした上に萌えアニメを 流しながらプレーするほどのチキンだった。いきなり何が出てこよ うが、見る画面を変えれば俺はひとりじゃない。何の話をしてるん だ。 ﹁姿を見せないと安心出来ないっていうことなら⋮⋮はい。これで いい?﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ 何がいいんだ、と聞く前に、視界がいきなり明るくなった。 なんだ、ここ⋮⋮外に見えるのは雲海か? ゲームに出てきそう な、﹃空中神殿﹄って言葉を連想する。 とにかく俺は、ファンタジーによくある神殿みたいなところにい た。依然として身体はないままだ。 そして、目の前に、いつの間にか女が立っている。生前の俺より 幼く見えて、銀色のきれいな髪をしていて、なんか、耳が長い。 俺がプレーしていたエターナル・マギアにもいた、魔法が得意な 森の種族。エルフに似ている。 ﹁良かった、ちゃんと覚えているのね。魂魄だけの状態になっても、 記憶が残っているなら話は早いわ。その状態になると、いろいろ飛 んじゃうのが普通だから﹂ ﹁こ、コンパクって何だよ⋮⋮ふざけんなよ、わけのわからないこ 7 とを⋮⋮﹂ しかし俺は言葉と裏腹に、﹁なるほど﹂と思っていたりする。コ ミュ障にもいろいろあると思うが、俺のコミュ障は﹁とにかく話し 下手で、意志の疎通が上手くいかない﹂というのが主たる要素だ。 考えていることは違うのに、口から出る言葉は別モノになる。そ れはどうやら、﹃コンパク﹄だけになった今でも変わらないらしか った。 コンパクは﹃魂魄﹄⋮⋮だろうか。俺の好きなマンガで出てきた から覚えてるけど、たぶんそうだろう。 ﹁なるほどね⋮⋮すごく思慮深いのに、人と話すときは焦って喋ろ うとして、さらに、思ってもない攻撃的なことを言ってしまう。つ まり﹃素直じゃない﹄﹃あまのじゃく﹄というやつね﹂ ﹁な、なんだよ⋮⋮人を値踏みするみたいに。こんな神殿みたいな とこに居るからって、神様か何かのつもりか? はっ、笑っちまう よな﹂ ﹃でもまあ、多分神様なんだろうな。俺みたいなのに何の用だろう ? 久しぶりにまともに人と話したから、なんか嬉しいな。けど俺、 ウザいヤツだって思われてるよな⋮⋮美人だし、あんまり嫌われた くないな﹄ ︱︱な、なんだこれ。考えてることが、喋ろうとしてないのに、 勝手に音になってしまった。 ﹁くすっ⋮⋮嬉しいとか、美人だって思ってるなら、そういうこと ははっきり言えた方が得をするわよ。あなた、いつもそうなんでし 8 ょう? 本音と裏腹のことしか言えなくて、誤解されてきたんじゃ ない?﹂ ﹁い、いや⋮⋮﹂ ひな ﹃陽菜にも誤解されたっけ⋮⋮あいつがずっと同じバレッタしてる から、俺が気まぐれでやったプレゼントなんて、よく着けてんな、 子供っぽくね? とかって⋮⋮そう言ったあとは何も着けなくなっ たんだよな。それが無かったら、もしかしたら、あいつも恭介のと こに行かなかったのかも⋮⋮あーあ。俺、ほんとクソだ。終わりす ぎてる﹄ ま、また全部俺の考えてることが⋮⋮やばい、俺の言いたいこと は全部伝わってる。しかも今回のは、俺がリアルにどうしようもな い話であって、コミュ障だからって言い訳できることじゃない。 ﹁ふぅん⋮⋮その陽菜ちゃんって子が好きだったのね。その子を、 もう一人の恭介君っていう幼なじみに取られちゃって。さらに、も うひとつ不幸な出来事があったんでしょう?﹂ ﹁全部お見通しかよ⋮⋮はっ、それなら聞く必要ないんじゃねーの ?﹂ ﹃ひきこもりになってから、親に迷惑かけないようにって、金を稼 ぐ方法を考えて⋮⋮エターナル・マギアのゲーム内通貨を貯めて、 RMTしようと思ったんだよな。ホントは悪いことだけど、俺には 他に稼ぐ方法がなくて⋮⋮ようやく二兆エターナ貯めて、換金すれ ば二千万になるってとこまできたのに⋮⋮同じギルドのやつに騙さ れて、パスを抜かれて、垢ハックされたんだ﹄ ログインしたときに、レベルとスキルだけをそのままにして、全 てのアイテムと金が消えていた。 9 小四から始めて高校一年まで、累計ログイン時間二万時間を超え てプレイし続け、それで手に入れたものが一瞬にして泡と消えた。 一日早く換金していれば。もっと小刻みにやっていれば⋮⋮そん な後悔は全て先に立たなかった。 それから数日は廃人のようにして過ごした。その時はまだ、自分 が死ぬとは思っていなかった。 引きこもりだった俺が家を出たきっかけは、雨の中で、俺の家の 前で言い争いをする陽菜と恭介を見てしまったからだ。 走り去った陽菜を恭介はなぜか追いかけず、俺は自分に何が出来 るわけでもないのに、陽菜を追いかけて家を飛び出していた。 ﹁⋮⋮ひとつ、言っておくことがあるわ。遅かれ早かれ、﹃エター ナル・マギア﹄をプレイしていた人たちは、現世と異世界の二択を 迫られることになる﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ ﹃待ってくれ、意味が分からない。あれはただのゲームじゃないか。 現世と異世界の二択とか、なんでそんなことになるんだ?﹄ ﹁それについては説明する必要はないわね。あなたは予想外に早く 死んじゃったから、こうして﹃面談﹄も早く行うことになったわけ﹂ ﹁よ、予想外って⋮⋮﹂ ﹃俺があの日、家の外に出て、陽菜を助けるってことは⋮⋮神様に とっても、予想外だったのか﹄ 心の中が伝わるというのが、こんなに話しやすいとは思わなかっ た。本音が伝わるのは恥ずかしいが、誤解されるよりは百倍マシだ。 俺が生きてる頃もこうだったら⋮⋮いや、それはそれで生きづら 10 かっただろう。考えても仕方ない。 ﹁まず、エターナル・マギアを二万時間以上プレイしていた人は、 全世界のプレイヤー十五万人の中でもほとんどいないわ。あなた⋮ ⋮森岡弘人くん。日本では、あなたがトップの位置にいた。アカウ ントハックの標的に狙われたのは、プレイ時間をほとんど無駄にせ ず、あなたが﹃稼いで﹄﹃集めて﹄﹃鍛えて﹄いたからよ﹂ ﹁クソが⋮⋮レベルキャップで装備も横並びになってんのに、なん で俺だけ貯めてるってわかんだよ﹂ ﹁単純に、あなたのプレイがそれだけ周囲の羨望を集めていたとい うことよ。エターナル・マギアの中で﹃ニ巨頭﹄と呼ばれるギルド のうち、ひとつの指導者でもあったんだから﹂ 俺のコミュ力は、ネトゲの中では万能だった。 対人だけじゃなく、ノンプレイヤーキャラに対してもだ。俺は誰 も好んで取らない、死にスキルと言われていた﹃交渉術﹄に、ボー ナスポイントを100も注ぎ込んでいた。レベルキャップが75で、 1レベル上げるごとに3しか手に入らず、アイテムなどで増やすこ ともほとんどできない貴重なスキルポイントを全振りしたのだ。 交渉術に10ポイントより多く振る酔狂なやつは俺以外にひとり もいなかった。10ポイントで発動する﹃値切り﹄が有用とされて いたが、それ以降30ポイントまで何のスキルも手に入れられない こともあり、それが成功率の低い﹃口説く﹄なんてスキルだったも んだから、誰も交渉術にポイントを振らなくなった。レベル上げが 大変で、キャラの使い捨てはできないシステムだったし、エターナ ル・マギアに存在する数百種類のスキルの中には、目に見えて有用 なものが他にゴロゴロしていたからだ。 チートで全スキル解放して無双してるやつがいるなんて、よくネ 11 トゲで聞く話だが、エターナル・マギアではステータスに関しては 異常にプロテクトが堅く、誰も数値をいじることは出来なかった。 有名なハッカーがクライアントを解析しようとしても、ブラックボ ックスを開けられなかったのだ。 まあそれはともかく、交渉術に100ポイント振っていた俺だけ が、別の世界を知っていた。 交渉術が100でないと会話すらできない王様が俺に頭を下げ、 魔王を倒したとされる伝説級のNPCだって、交渉して傭兵として 雇用できた。 それを利用して、俺は他人に見られないように注意を払いつつ、 誰も攻略できない超絶難易度のダンジョンをソロで攻略し、情報を 少しずつ提供して、仲間を増やした。 結果として仲間は膨大な数になり、俺はギルドを作るように求め られ、ギルドマスターとなった。 12 プロローグ 2 エターナル・マギアで﹃攻略組﹄を名乗っていた連中は、いち早 く俺の流した情報を手に入れて、俺が攻略した後のダンジョンで再 度湧いたボスを討伐しているに過ぎなかった。俺は手の内を明かす ことが出来なかったから、ギルマスという立場でいい思いをしまく ったわけではなく、二兆エターナという資産を得るまでに年単位の 時間がかかっている。ほぼソロプレイで稼いだ金だった。 ﹁ギルマスやってたのはなりゆきだしな⋮⋮運営してたのは、別の やつだよ﹂ まろまゆ ﹃補佐してくれたミコトさんと麻呂眉さんにはいくら感謝してもし 足りないな。麻呂眉って名前も未だにどうかと思うけどな﹄ ﹁内心ではちゃんと敬称をつけるのね。あなた、リアルでもキーボ ードを使って話せば良かったんじゃないかしら﹂ ﹁ば、馬鹿言うなよ⋮⋮キショいって言われて終わりだろ、そんな ん﹂ ﹃それも一度は考えたけど、ネタキャラ扱いされるのは嫌で出来な かったんだ。どう見ても社会不適合者だしな﹄ ゲームやアニメの世界なら、筆談で話そうが、そういうキャラと して許される場合もある。 ネトゲの世界は、俺が﹁みんなに情報をくれる凄いソロプレイヤ ー﹂﹁尊敬すべきギルマス﹂というキャラになることを許してくれ た。こうして親に迷惑をかけて死んでしまった今となっても、ネト 13 ゲなんてしなきゃ良かった、とはどうしても思えない。死んじまっ たからこれまでかけた迷惑を許してくれなんて、やっぱり親には言 えはしないけど。 ﹁そ、それで⋮⋮なんで、俺なんかを⋮⋮﹂ ﹃なんで俺なんかを、神様が呼び出したんだ?﹄ やはり顔をまともに見られないが⋮⋮この神様、ほんとに綺麗だ。 陽菜より可愛い女の子はそうそういないと思っていたけど、ちょっ と心が揺らいでしまってる。 もしかして俺のことを気に入ってくれたんじゃないか⋮⋮とか思 ってみたりして。ゲームの話をしてるから、神様もゲーム好きなら、 俺に見どころがあると思ってくれたのかもしれない。 ﹁ええ、その通りよ。やっぱり頭はかなり切れるわね、そこまでぴ ったり当ててみせるなんて﹂ ﹁おあっ⋮⋮か、考えまで読めるのかよ⋮⋮つか、ゲーム好きの神 様ってなんだよ。ありえなくね?﹂ ﹃ま、マジか⋮⋮ほんとにゲーム好きなのか。捨てる神あれば拾う 神ありってやつなのか。こんな綺麗な神様ならマジで拾われたい。 いや、俺なんて眼中ないだろうけど⋮⋮﹄ やっぱり駄々漏れの思考が伝わってしまう。仮にも神様だろう相 手に対して、綺麗とかどうとか、考えるだけで恐れ多いことだが⋮ ⋮隠しようもないのでしょうがない。 ﹁詳しい事情は、このあとで転生する人たちに対して不公正だから 省くわね。だけど私は、こうして﹃面談﹄をしようと思うくらいに 14 あなたが気に入ったのよ﹂ ﹁お、俺なんかの、どこが⋮⋮?﹂ 銀色の長い髪をさらりと撫で付け、ネットで見たことのある西欧 の美少女みたいに、女神が微笑む。 ﹁あなたが、不幸だったから。全てを注ぎ込んだエターナル・マギ アで、全てを失ったんだものね﹂ ﹁⋮⋮あーそうか、哀れみか。可哀想だから気に入ったって、いい 趣味してんな﹂ ﹃同情されてるのか⋮⋮それとも。確かに客観的に見れば不幸だけ ど、俺はネトゲにハマりすぎてリアルを捨てた引きこもりだ。そん な奴に、見どころなんて⋮⋮﹄ ﹁エターナル・マギアは私の司る異世界そのものを再現したゲーム なのよ。少なくともあなたは、ゲームの中では真摯に人生を楽しん でいた。私は自分の世界の民として、あなたを迎え入れたいと思っ た。あなたが死んでしまって、本当の意味で転生することになると は思っていなかったけどね﹂ ﹁⋮⋮マジか? 俺、死ななかったら、生きたままで転移できたの か⋮⋮?﹂ 俺を魅了してやまなかった、エターナル・マギアの世界に行けた かもしれない。 ⋮⋮しかしまあ、俺にしてみれば、一回転生するくらいの方がち ょうどいいとも思う。 ﹁そう⋮⋮あなたは人生をやり直したかったのよね。陽菜ちゃんを 奪われることも、とても辛かった﹂ 15 ﹁⋮⋮俺みたいのより、恭介の方が陽菜には合ってんだよ。つか、 奪われるとかじゃねーし。付き合ってもないのに、そんなこと考え る方が馬鹿じゃね?﹂ ﹃けど、そう思うくらいには俺は馬鹿だった。陽菜と恭介が付き合 い始めたってのを弟から聞かされて、ますます家から出たくないと 思った。まともに顔を合わせられる気がしなかったんだ、あの二人 と﹄ 結局俺が死ぬ前に、陽菜と恭介が何を言い争ってたのかはわから ない。今となってはどうでもいいことだ。 ﹁そう⋮⋮その﹃想い人を奪われた﹄というのも気に入った点なの よ。その2つを兼ね備えて、最後には報われなかった片思いの相手 を守って命を落とした。これらもあなたが転生する際のボーナスポ イントに加算するわ﹂ ﹁な、何だよ⋮⋮ボーナスって。陽菜のことは別に、俺が不幸だっ たわけでも何でも⋮⋮﹂ ﹃俺の自業自得なわけだしな。勝手に守って勝手に死んだだけだし、 そんなことでボーナスとか、あまりにも都合が良すぎないか﹄ ﹁やっぱり根は真面目ね⋮⋮そういうところも気に入ったのよ。勝 手に守って勝手に死んだっていうけれど、守られた側はどう感じる と思う?﹂ ﹁そ、そんなこと⋮⋮聞かれたって、分かるかよ﹂ ﹃⋮⋮俺が知るかぎりじゃ、陽菜は優しい女の子だった。自分を責 めたりしてないといいけど⋮⋮﹄ 16 俺のことなんて、早く忘れてくれればいい。 けど⋮⋮俺は陽菜を、本当に助けられたんだろうか? 雨の中、 突っ込んできたトラックに轢かれそうになって、俺はあいつを突き 飛ばして⋮⋮そこで意識が途絶えている。 ﹁その答えについても、今は教えられないわ﹂ ﹁な、なんでっ⋮⋮﹂ うまくしゃべれなくてドモってしまう。何が言いたいか、女神の 方を見ないで念じる方が早いくらいだ。 ﹃何で教えてくれないんだ? 俺、もしかして無駄死にだったのか ⋮⋮?﹄ ﹁女神といっても、何でも教えてあげるために来たわけじゃないわ。 ただ、あなたを査定するために来ただけ。前置きに時間がかかった けれど、始めるわよ﹂ ﹁わ、わけわかんね⋮⋮なんだよ査定って﹂ ﹃転生時にボーナスくれるとかいう、例のあれか⋮⋮?﹄ 本音のほうでは、実にスムーズにコミュニケーションがとれてい る。女神は楽しそうに笑うと、俺の目の前に手をかざした。 ﹁まず、あなたは転生後に、こうしてウィンドウを呼び出すことが 出来る。エターナル・マギアで出来たことは全部出来ると思ってお いて間違いないわ﹂ ﹁⋮⋮ん、んなこと言われても﹂ ﹃ウィンドウって、俺だけ使えたらチートみたいにならないか? 17 NPCっていうか、異世界の人に怪しまれたりとか⋮⋮﹄ ﹁それは実際に使ってみて試してみればいいわ。あなたなら、立ち 回りはすぐに分かるはずよ。あなたにとっての現実は、エターナル・ マギアだったんだものね﹂ 揶揄とかではなく、女神は単純に事実を言ってる。俺にとっては リアルより、ゲームの方がよほど比重が大きかった。 しかしエターナル・マギアは2Dと3Dを融合させたタイプのR PGであって、別に現実と変わらないグラフィックとかでは無かっ たんだが⋮⋮。 ﹁それも見てからのお楽しみね。簡略化されたグラフィックで表示 されていたゲームの世界が、全て現実化していると思ってもらって いいわ﹂ マップとかキャラクター、システムは同じ⋮⋮か。最初は、もの すごくグラフィックが進化したエターナル・マギアの世界に入り込 んだ気分になるのかな。 ﹁ええ、想像通りよ。あなたが生きていた世界より、よほど生きや すいんじゃないかしら﹂ ﹁⋮⋮ふん﹂ ﹃まあ、そうだろうな⋮⋮けど、交渉術がなかったら、俺は⋮⋮﹄ ﹁これからあなたにボーナスポイントをあげるわ。エターナル・マ ギアのトッププレイヤーとしてではなく、あくまでも、あなたが生 前に経験した不幸に対してね﹂ ﹁な、なんでそれでボーナスが⋮⋮﹂ 18 ふつう、生前の功績に対してボーナスが入るんじゃないのか⋮⋮ と思いつつ、俺は女神によって眼前に表示されたウィンドウに出て きた文字列に目を通した。 ■−−−森岡弘人のボーナスポイント査定項目−−−■ 1:片思いの相手︵幼なじみ︶を奪われる 96ポイント 2:アカウントハックされて全財産を失う 150ポイント 3:トラックに轢かれて死ぬ 10ポイント 合計値 255 ﹁っ⋮⋮な、なんでこんな大量に⋮⋮つか、合計値ちがくね?﹂ ﹃というか、トラックに轢かれて死ぬのがおまけの扱いって⋮⋮そ れが一番不幸なんじゃないのか? 常識的に考えて﹄ ﹁ボーナスポイントは255でカンストなのよ。エターナル・マギ アもそうだったでしょう? これ以上付与してあげてもいいけど、 ゲームだと初期ボーナスは10だから、255でも破格もいいとこ ろよ。あなたがゲームで取得した総ボーナスが230だったかしら ⋮⋮それより多くても足りないくらいが、私の世界の懐の深いとこ ろよね﹂ 俺は新しい人生でのボーナス値がカンストされるほど不幸だった のか⋮⋮? もっと不幸で、俺より頑張って生きている人はいっぱ いいるはずだが⋮⋮。 というか、ボーナスが100もあれば、割り振り方によっては初 期から無双できるんだけど、255って。確かに100振らないと、 19 他人を出し抜くような力にならないスキルがほとんどだが、2つに 全振りしてもおつりが来ることになる。 ﹁異世界に転生してもらうのは、エターナル・マギアのプレイヤー だけなのよ。その中でも、あなたは私の気に入るような不幸を経験 しているわけ⋮⋮見ているだけでゾクゾクするわ﹂ ﹁は、はぁ!?﹂ ﹃それって、変な趣味してるだけなんじゃ⋮⋮トラックで轢死の査 定が低いのはそういうことか。いいのか女神様が、そんなことで。 いや、でもボーナスポイントをくれるのは確かにありがたいけど⋮ ⋮﹄ ﹁ええ、もらっておきなさい。私は引きこもりで、ゲームに命を捧 げた﹃森岡弘人﹄が見たいんじゃない。あなたがキャラネーム﹃ジ ークリッド﹄として生きていたように、異世界でも生きて欲しいの よ﹂ ジークリッド。俺がエターナル・マギアで作った三人のキャラの ステアリー・トゥ・ヘブン うち、最後まで愛用したキャラクター。 上限人数の千人を擁するギルド、天国への階段のギルドマスター であり、ギルドの掲示板管理人としての名前でもあった。 いわば、俺の半身。ゲームの中のジークリッドと入れ替われたら と、何度思ったことかわからない。 20 プロローグ 2︵後書き︶ 次回は20:00ごろ更新になります。 21 プロローグ 3 ﹁⋮⋮つか、夢だろ? あまりにご都合展開すぎんだろ。そろそろ 病院で目覚ますとか、そんなオチじゃね?﹂ こればかりは本音と大して変わらなかった。異世界に行けるとテ ンションが上がったところで、さすがにボーナスポイントのくだり は都合が良すぎると思ってしまう。 ﹁夢かどうかは、ボーナスポイントを割り振ってから考えなさい。 スキルの種類は覚えてるでしょう?﹂ ﹁ん⋮⋮ま、まあ⋮⋮﹂ ﹃確かに⋮⋮割り振るだけ割り振っとくか。もし本当に転生した時 のために、ガチで考えないとな⋮⋮﹄ 利己的な俺の考えが伝わっても、女神は機嫌が良さそうだ⋮⋮そ こまで気に入ってもらえるとはな。 しかし、自由に振っていいとは言われたけど⋮⋮レベルが上がれ ばまた貰えるとはいえ、エターナル・マギアを知り尽くしている俺 からすると、ボーナスポイントの無駄振りは、すべてを棒に振る可 能性も孕んでいる。 俺が、俺らしく生きるために必要なもの⋮⋮ジークリッドである ために必要なもの。 その第一は、やはり考えるまでもなかった。 ﹁⋮⋮こ、こ、こう⋮⋮﹂ 22 ﹃交渉術。それにまず、100ポイント全振りだ﹄ 口ではうまく言えなかったが、心の声は﹁倍プッシュだ﹂と同じ ノリで、無謀なまでの自信を漂わせていた。 ﹁やはり、そう来たわね⋮⋮残り155ポイントは?﹂ ﹁⋮⋮これで﹂ 短く言うだけにして、あとは頭の中で考える。すると俺の心の声 が、解説するように勝手に聞こえ始める⋮⋮便利だけど恥ずかしい。 ﹃強スキルは山ほどあるが、ポイントを振らなくても後から取得で きるものも多い。それなら、ボーナスは必要なときのために残して おいて⋮⋮俺はあんまり幸運な方じゃないみたいだから、幸運にだ けは振っておこう。30くらいでいいか﹄ ボーナスポイントは取得したスキルに対して後から追加で割り振 れるので、125ポイントは今後のために残しておく。俺は貯める のが好きなので、使うのは当分先になるかもしれない。 ﹁30ポイント幸運スキルに振っておけば、﹃豪運﹄が発動する⋮ ⋮ということね﹂ ﹁ああ。序盤で稼ぐ方法としては、﹃豪運﹄を発動させて首都でギ ャンブルするのが一番だからな。豪運はそれ以外にもいい効果があ るし、なかなか使えるパッシブだと思ってる﹂ エターナル・マギアでは取得したスキルに応じて、必殺技、魔法、 盗むなどのアクションスキルが使用可能になったり、﹃豪運﹄のよ うに、セットしておくだけで常時効果のあるパッシブスキルを得ら れたりする。 23 俺はゲームでは効率の良くないスキルも多少取ってしまっていた が、交渉術と幸運は文句なしに有用だった。低レベル時に持ってお くほど恩恵が大きいと思っている。 あとはどんなジョブを選ぶかで、取るスキルを変える必要がある ⋮⋮あれ、ジョブは選べるんだろうか。 ﹁ジョブについては、転生後はランダムで決められるわ。9割方村 人になるけれどね﹂ ﹁んだよ⋮⋮選ばせろよ、そんくらい﹂ ﹃村人か⋮⋮俺、初心者の頃はなかなか転職できずにスーパー村人 やってたからな。まあ、全然問題ないな。貴族プレーとかもいいけ ど、いろいろ縛りがあって大変だしな﹄ 村人でも全てのスキルを取ることが出来る﹃エターナル・マギア﹄ では、職業によっては固有のスキルを利用できるというメリットは あるが、村人でも剣聖でも楽師でもキャラの強さに大差がない。取 得したスキルでステータスが変わるからだ。レベルが上昇するたび に、スキルポイントは3与えられる。それをどのスキルに振るかで、 千差万別のキャラクタービルドを行うことが出来るわけだ。 スキルは三百種類以上あり、恐ろしいことにサービス開始から六 年経ってもまだ全て見つかっていない。エターナル・マギアの世界 があまりにも広いこと、全十部とされるシナリオのうち、三部まで しか公開されていなかったことが原因ではあるのだが。 ﹁⋮⋮何であんなことになってんのか、わけわかんね﹂ ﹃エターナル・マギアの規模が並外れてるとは分かってたけど、転 生する人間を選ぶためだったってことなら、ちょっと納得いくか⋮ ⋮いや、まだ現実味はないけど﹄ 24 ﹁この世界と私の世界にも、少なからず関係があるということよ。 それもクエストの一つだと思って、転生してから謎を解き明かして みせて。そしてもう一度私のところに辿りつけたのなら、答えを聞 かせなさい﹂ ゲームの舞台だった異世界を現実として生き、女神に再会すると いうクエストを達成する。 まあそれも悪くないが⋮⋮とりあえず、必死に生きてみよう。異 世界の住人として。 俺はそれを、ずっと渇望していた。だから自分が死んだことに、 もう後悔を感じていなかった。 ﹁⋮⋮まあ、しゃーねえ﹂ ﹃死ぬんじゃなかったとはもう思わない。俺は別に、陽菜のために 死んだことは後悔してないんだ。ただ、別にお前のためじゃないん だからね、俺が勝手に死んだんだからねとは言ってやりたかった﹄ 冗談めかせて言うが、女神は最初笑ってはくれなかった。しかし 少し遅れて、俺のことを何とも気恥ずかしくなるような目をして見 てくる。 ﹁そう⋮⋮あなたが生前いかに恵まれなかったか、どうしようもな かったか。それだけで興味を持ったわけじゃない。あなたが、笑っ てしまうくらい善人だったから。それが一番の理由よ﹂ ﹁⋮⋮どこがだよ﹂ ﹃それだけは訂正したい。俺はただの、ロクデナシだ﹄ 25 本心からの返事と一緒に、俺はちら、と女神の方を見た。やはり コミュ障の俺でなくても直視できないだろうと思うくらいの、超級 の美人だった。ゲームの中で萌え美少女と言われていて、俺自身も 入れ込んだサブヒロインたちが、全員かすんでしまうレベルで。 ﹁現実の自分が嫌いだったあなたが、ジークリッドになって、どう 変わるのか⋮⋮楽しみね﹂ 女神が俺の前に手をかざすと、ウィンドウの表示が変わる。 ﹁異世界に転生しますか? YES/NO﹂ 少し、ほんの少しだけ迷った。 それ以上に、俺はエターナル・マギアの世界を生きたかった。 森岡弘人で無くなることが、どうしようもない俺を育ててくれた 両親とのつながりを捨てることであっても。 ︱︱ああ、やっぱりアカウントハックされる前にちょっとでも金 を作って、そんなことで儲けた金じゃ迷惑だと言われても、少しは 親に恩を返したかった。 でもそれすら、本当は。 自分がゲームに人生を賭けたことを後悔したくなかったからだっ た。 ともかく、長い長い女神との対話を終えたあと。 俺の意識は女神の神殿から遠のいて⋮⋮次に目覚めたときには。 ﹁おめでとうございます! 立派な男の子ですよ!﹂ 26 ﹁おぉっ⋮⋮生まれたのか! よく頑張ったな、レミリア⋮⋮!﹂ ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮あなた⋮⋮赤ちゃんの顔を見せて⋮⋮﹂ 産湯に浸かったあと身体を拭かれ、父に抱かれて母親の顔を覗き こんでいる赤ん坊。それが俺だった。 とりあえず、泣くことしかできないので大いに泣く。 赤ん坊は生まれてきたことを呪って泣くとか、そんな話も聞いた ことがあったが⋮⋮。 俺は本当に転生できたこと、生前の記憶を残したままでいられた ことを、喜ばずにはいられなかった。 これから始まる異世界攻略。俺が知っているのは第三部のシナリ オまで⋮⋮それ以降のことは何も知らない。三部までは何の問題も なく進めるし、手付かずの七部がそのまま残っている。 エターナル・マギアをもう一度攻略できる。こんなに嬉しいこと が他にあるだろうか。 ﹁あなた⋮⋮この子の名前は⋮⋮﹂ ﹁おう、神官様に頼んで神様から授かってきた。この子の名前は⋮ ⋮﹂ 俺の父親で、栗色の髪をした切れ長の瞳のイケメンは、紙に書か れていた名前を誇らしげに見せてきた。 ヒロト・ジークリッド そのままかよ! ファミリーネームがジークリッドかよ! と、 まだあんまり良く見えない目でこの世界での父親を睨みつつ、心の うちで叫んだことはいうまでもない。 ちなみにエターナル・マギアの公用語は﹃エルギア語﹄と言われ 27 るものだが、だいたいアルファベットで表記されるので、英語の基 礎がわかれば問題なく読める。筆記体で書かれた自分の名前を見る と、英語の授業が始まった時分、まだ学校に行っていた頃を思い出 させられて、何ともいえない気分だった。 ともあれ、転生完了だ。俺は生まれて3日後にようやく少しだけ 一人になることが出来て、そこで母親や助産師︵?︶の隙を見てウ ィンドウを呼び出し、ステータスを確認することが出来たのだった。 ◆転生時のステータス◆ 名前 ヒロト・ジークリッド 人間 男性 0歳 レベル1 ジョブ:村人 ライフ:40/40 マナ :24/24 スキル: 交渉術100 幸運30 アクションスキル: 値切る︵交渉術10︶ 口説く︵交渉術30︶ 依頼︵交渉術40︶ 交換︵交渉術60︶ 隷属化︵交渉術95︶ 28 パッシブスキル: カリスマ︵交渉術50︶ ︻対異性︼魅了︵交渉術80︶ ︻対同性︼魅了︵交渉術85︶ ︻対魔物︼魅了︵交渉術90︶ 選択肢︵交渉術100︶ ピックゴールド︵幸運10︶ ピックアイテム︵幸運20︶ 豪運︵幸運30︶ 残りボーナスポイント:125 29 プロローグ 3︵後書き︶ 次回更新は日曜日の夕方くらいになります。 幼少期∼できれば少年期までは早いペースでやります。 その間で飛ばした出来事は、必要があればあとで回想する形にしま す。 まずは明日、一人目のヒロイン登場です。 30 第一話 両親と﹁母性﹂スキル︵前書き︶ ※前書き修正 幼年期が想定以上に長くなりましたが 書き残しのないようにしてから幼年期・後期︵2∼3歳︶に行きま す。 ※主人公が赤ん坊のうちは授乳シーンがあります。ご了承ください。 31 第一話 両親と﹁母性﹂スキル ジュネガン公国西部山麓の田舎町、ミゼール。それが、俺の生ま れた場所だった。 ゲーム版のエターナル・マギアにおいて、結婚システムは存在し たが、子供を作るというシステムは実装されていなかった。エター ナル・マギアの中では、リアルと同じように時間が流れていて、ゲ ーム内のプレイヤーも年を取っていく。種族によって開始年齢は違 うが、人間を選ぶと15歳だ。ボーナスポイントで若返ったり、年 を取らせたりすることもできる。 しかし俺がやってきた、エターナル・マギアの世界︱︱ゲームと 同じで﹃マギアハイム﹄というのだが、ここでは0歳のキャラクタ ー、つまり俺のような赤ん坊が存在する。 ここでは結婚したキャラ︱︱いや、もうキャラと言うべきじゃな いだろう。結婚した夫婦は子供を作り、年単位の時間をかけて育て ることになる。一年が三百六十日、一ヶ月が三十日で、赤ん坊の俺 が歩き始めるまでだいたい一年以上はかかる。 俺に出来る意思表示はいろいろあったが、まずひとつ分かったこ とは、交渉術スキルに付随するパッシブスキルは、親に対しては発 動しないということだった。発動しなくても問題ないというのもあ るが、どうやらこれは世界のシステム上の制限らしい。 ﹁おぎゃぁ、おぎゃぁ!﹂ ﹁あらいけない、もうそんな時間だったわね。ちょっと待っててね、 32 ヒロト﹂ 揺りかごの中で泣き声を上げる。しかし異世界の俺の母親︱︱レ ミリアさんが近づいてくると、俺はつい目をそらしてしまう。 俺の感覚では、ちょっと前まで日本人の母さんがいて、そろそろ 四十代になろうとしていたわけで。 それが、いきなり18歳の母親が出来てしまったのである。元の 年齢からニ個上の女性を母親として見られるわけがない。 さらに良くないことに、いや、良いことなのかもしれないが、レ ミリアさんは美人だった。前世の親父も﹃若いころ、母さんはうち の高校のマドンナだったんだぞ﹄と言っていたことがあったが、異 世界の美人が相手ではさすがに分が悪かった。 ﹁⋮⋮あー、うー﹂ ﹁この子ったら、いつも顔をそむけるんだから。あなたのお母さん よ? ちゃんとこっちを見てちょうだい﹂ ﹃人の目を見て話しなさい﹄に属する言葉は、生まれてから一週 間後に家に戻ってきてから、2日に1度くらいの頻度で聞かされて いた。 これは、今回の人生も親には面倒をかけることになりそうだ⋮⋮ いや、同じことを繰り返してなるものか。 実の親にはパッシブスキルが通じない。交渉術が高レベルになる と発動する﹁カリスマ﹂とか﹁︻対異性︼魅了﹂が、親に通じたら ちょっと大変なことになるからだ。俺がどんなわがままを言っても、 33 魅了が発動すると聞いてもらえてしまうことになる。 まあ、赤ん坊の状態だと﹁おしめが大変な状態でかゆいです﹂と か、﹁カンの虫のせいで泣いてしまうので、あやしてください﹂と か、﹁お腹がすいたので授乳せよ﹂とか、交渉しなくてもやっても らえるので、まだスキルに頼る必要はまったくなかった。 ︱︱そして気が付くと、赤ん坊になってからの避けられない習慣 の時間がやってきていた。そう、一日に何度も行われる授乳である。 ﹁ほら、こっちを向いて⋮⋮よしよし、いい子ね﹂ ︵⋮⋮くぁぁ⋮⋮い、いいのか、本当に⋮⋮︶ 俺は赤ん坊で、レミリアさんは母親だ。しかし18歳で、亜麻色 の髪をポニーテールにした美少女が、ぱんぱんに張った乳房をぽろ んと出して吸わせてくれようとしているのである。授乳期には乳房 は張るものだと分かっていても、元から小さくはない母さんの胸が 痛々しいくらいに張り詰めているところを見ると、圧倒されるとい うか、乳児としての本能が刺激される。 ︱︱おっぱいが吸いたい。この赤ん坊ならではの衝動は、凄まじ いものがある。 しかし許されないことをしているような、嬉し恥ずかしいような 気分もあり、俺はいつも素直に授乳を受けることができない。目の 前の赤ん坊が、赤ん坊にあるまじき葛藤と戦っていることなど、レ ミリアさんは何も知らないのだ。それもまた罪悪感を煽ってくる。 ﹁お母さん、あまりおっぱいが出ないから、足りなかったら少し待 34 ってね﹂ 母乳は時間経過によって回復する。というか、この世界において は母乳を与える行為が﹁授乳﹂というアクションスキルに設定され ているのだ。授乳に際してマナを消費するのだが、その消費量は、 どうやら﹁母性﹂スキルに依存しているらしい。 それはレミリアさんのステータスを見て推察したことだ。他人の ステータスを見るには交渉スキルで取れる﹁カリスマ﹂というパッ シブで相手に認められる必要があるのだが、それに関係なく、親子 でパーティを組んでいる扱いになっているので、同パーティの相手 のステータスは閲覧可能になっていた。 ◆ステータス◆ 名前 レミリア・ジークリッド 人間 女性 18歳 レベル10 ジョブ:令嬢 ライフ:76/76 マナ :24/24 スキル: 手芸 25 気品 18 恵体 3 母性 23 料理 10 アクションスキル: 35 手縫い︵手芸10︶ 機織り︵手芸20︶ 授乳︵母性20︶ 簡易料理︵料理10︶ パッシブスキル: マナー︵気品10︶ 育成︵母性10︶ 残りスキルポイント:5 彼女のステータスからだけでも、俺は多くの情報を得ることがで きた。 まず、彼女は片田舎の村に住んでいるが、けっこういい家に住ん でいる。そしてジョブが﹁令嬢﹂⋮⋮これは、貴族の生まれである ことを意味する。どうやら親が貴族で、俺たち一家は親が持ってい た別邸を譲られて住んでいるということらしかった。 気品スキルは令嬢をやっているうちに上がっていくが、一年で1 ポイント上がるくらいのペースなので、気品スキルはボーナスを振 らずに18になったことになる。 母性はどうやって上昇するのかわからないが、﹁授乳﹂が母性2 0で取得できるということは、たぶん子供ができると上昇するのだ ろうと思われる。 恵体スキルは、1ポイントでライフを12上昇させ、物理攻撃力 にレベル×3、防御力にレベル×2のプラス補正が加わる。これも 36 ポイントを振らなくても上昇するが、成長は恐ろしく遅い。18歳 の彼女が恵体3ということは、少し運動をたしなんでいたが、死ぬ ような戦闘はほとんど経験してないってことだ。 ゲームでは俺は﹁恵体﹂に1ポイントも振らず、効率的な上げ方 を見つけて自力で100まで上げたが、その上げ方は赤ん坊の今で は実践出来ないし、実際にやるとなると相当の労力になるだろう。 マウスをクリックするのと、実際に動くのとではわけが違うが、ま あ、その労苦は受け入れるつもりだ。攻略を進めるうえで、恵体ス キルは必須といえる。 レミリアさんのスキルポイントは5余っているが、これは振り方 を知らないのか、あえて振っていないのかまでは分からなかった。 まだ生まれて二週間くらいなので、得られる情報には限りがある。 ﹁お腹がすいてないわけじゃないわよね。はいヒロトちゃん、おっ ぱいでちゅよ∼⋮⋮﹂ ︵し、しまった⋮⋮つい、胸を出させたままで賢者モードになって しまった⋮⋮母乳って味が薄いんだよな。なんかすごく美味しく感 じるけど︶ 俺は前世においては哺乳瓶で授乳を受けていたので、直接母親か ら授乳を受けるのは、生まれ変わってからが初めてだった。ぱんぱ んに張った乳房に手を添えて、レミリア母さんが見守ってくれてい る中、ぱく、と先端をくわえる。 ﹁ヒロト、がんばってもっと吸ってみて。お母さん、最初は出がよ くないの⋮⋮あ、大丈夫そうね⋮⋮﹂ 37 授乳は母との共同作業である。俺は途中からは無心になり、母さ んから栄養と免疫の補給を受ける。 赤ん坊なので乳を吸わないと生きていけない。吸わないと山羊の 乳を飲まされるらしいのだが、山羊の乳は実はけっこう高いのだ。 我が家の家計のためにも、できるだけ母乳で育たなければならない。 ﹁⋮⋮んっ、あぶー﹂ ﹁よーしよし⋮⋮まだだめよ、離したら。できるだけいっぱい吸わ ないと、すぐお腹がすいちゃうから⋮⋮そう、いい子ね⋮⋮﹂ 母は偉大だ、と毎回思わざるを得ない。母乳は俺が思っていたよ りも、かなり多くの量が出ている気がする︱︱これを毎日息子にあ げて、家事までしているのである。もう、一生頭が上がりそうにな い。 母さんは全くじれたりせずに、俺が満足するまで吸わせてくれる。 もうお腹いっぱいと伝わると、彼女は俺を抱っこして背中を叩いて くれる。こうしないと、お腹に空気が溜まってしまうのだ。 ﹁けぷっ﹂ ﹁ふふっ、よくできたわね。ヒロト、いっぱいお母さんのおっぱい を吸って、すくすく大きくなってね﹂ ﹁⋮⋮あうー﹂ 愛嬌よく振る舞えない俺だが、それでもレミリアさんは俺と額を くっつけ、可愛くて仕方がないという顔をしてくれる。 そのたびに俺は前世を思い出し、何の孝行もできなかったことを 後悔するが︱︱同時に、今回は志半ばでは終われないという思いを 38 強くする。 ﹁今はちょっと無愛想だけど、きっと可愛く笑ってくれるようにな るわよね。なんたって、お父さんが明るい人だから﹂ ︵俺も自然に笑えるといいな⋮⋮と思うものの、先行きはまだ不安 だ︶ そう思うが、レミリアさんにあやしてもらっていると、俺は自分 で思っていたよりも自然に笑えているような気がした。 ◆◇◆ 異世界での俺の父親は木こりだった。木は初期装備の武具にも使 えるし、家などの施設を作るために大量に必要になるため、ゲーム でも初期の生産職として第一の選択候補だった。 父親︱︱リカルドのステータスはこんな感じである。 ◆ステータス◆ 名前 リカルド・ジークリッド 人間 男性 22歳 レベル15 ジョブ:木こり ライフ:340/340 マナ :24/24 スキル: 39 斧マスタリー 30 鎧マスタリー 15 盾マスタリー 10 木細工 12 気品 10 恵体 25 アクションスキル: 薪割り︵斧マスタリー10︶ 兜割り︵斧マスタリー20︶ 大切断︵斧マスタリー30︶ ︻木材︼削る︵木細工10︶ パッシブスキル: 斧装備︵斧マスタリー10︶ 鎧装備︵鎧マスタリー10︶ 盾装備︵盾マスタリー10︶ マナー︵気品10︶ 残りスキルポイント:0 ◆◇◆ なかなかの脳筋戦士系である。鎧、盾装備を取っていること、気 品スキルを持っていることから、父も家柄はそれなりに良いのでは ないか、というのがうかがえた。というか、騎士系のノンプレイヤ ーキャラの振り方に類似している。騎士も爵位を持っていることが あるから、貴族の扱いになって気品スキルが上がるのだ。木細工ス キルが12なのは、生まれてからずっと木こりだったわけではない ことも示している。 40 リカルドさんは毎日決まった時間に森に行き、木を切り、時に魔 物を討伐してアイテムを持ち帰ったり、動物を狩猟してきたりもす る。狩猟には﹁狩人﹂スキルが必要なのだが、村の仲間を連れて行 ってパーティを組むことで、狩人スキルの恩恵を受けていた。 その狩人の家はローネイア家というのだが、俺が生まれてしばら くして、そこの家にも子供が生まれた。ローネイアさん家の奥さん、 サラサさんは、時折子供を連れてうちに遊びに来るようになった。 リオナ・ローネイア。それが、サラサさんの娘の名前だ。 ﹁リオナちゃんは将来美人さんになりそうね。目鼻立ちが、サラサ さんそっくりだもの﹂ ﹁ヒロトちゃんもリカルドさんに似て、美男子になるでしょうね。 リオナと仲良くしてくれるといいのですが﹂ サラサさんは物腰が柔らかいが、少し儚げなところがある。ステ ータスが見えないが、彼女は耳を隠していて、人間族ではないこと がわかる。 というか、ゲームにも出てきた同名NPCなので、俺は彼女がど ういう人物かすでに理解していた。ゲームのグラフィックは特徴を 捉えてはいたものの、実際の美貌を見ると、すぐに気づくことは出 来なかったが。 ﹁うちの子、私やリカルドにもあまりなついてくれないのよね。そ こが可愛いんだけど﹂ ﹁ふふっ⋮⋮うちの娘もそうですよ。泣いている理由がわからなく て、時折困ってしまうこともあります﹂ ﹁ああ、それについては、ヒロトは分かりやすいわね。お腹がすい てるとき、泣いておいてから、私が近づいてくるともじもじするの﹂ 41 ﹁お母さんが来てくれて嬉しいんですよ。すごくなついてくれてい るじゃないですか﹂ まあ、18歳の女の子が授乳してくれるために来てくれたとなれ ば、もじもじせざるを得ない。もう生まれてから一ヶ月になるが、 乳離れまでまったく慣れることが出来なさそうなのであきらめてい た。喜びすぎてしまわないように努力するが、ときどきレミリアさ んは気持ちよさそうにしているので、もうどうしていいのか。 そうこうしているうちに、揺りかごの中にいる俺のところへサラ サさんがやってきた。うーん、やっぱり何というか⋮⋮隠してるけ ど、彼女はハーフエルフだ。癒し系のおっとりした美人で、レミリ アさんよりかなり胸が大きい。 ハーフエルフは、本来人前に出てくることが少ない。その事情も 俺は知っていて、この先に発生するクエストに彼女が関わってくる ことも知っていたが、赤ん坊のうちはクエストが進まないので様子 見するしかなかった。 42 第一話 両親と﹁母性﹂スキル︵後書き︶ 次回は20:00過ぎに更新です。 43 第二話 選択肢の罠 ﹁良ければリオナと仲良くしてね、ヒロトちゃん﹂ ﹁⋮⋮あー、うー﹂ しゃべれない上に、サラサさんに覗きこまれてそっぽを向く俺。 うーん、こんな赤ん坊、絶対かわいくないだろうな。リカルド父さ ん、レミリア母さんも困った顔をすることが多い。 ︱︱しかし、俺は失念していた。家族には通用しない交渉術のパ ッシブスキルが、他人には効果を及ぼすことを。 ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽サラサ︾に注目された。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽サラサ︾は抵抗に失敗、魅了状態になった。 ・︽サラサ︾が好意を持ってあなたを見ている。 ・︽レミリア︾はつぶやいた。﹁うちのヒロトはリオナちゃんには あげられないわね﹂ ︵や、やばっ⋮⋮パッシブスキルの効果を試そうとしてセットして たんだった⋮⋮!︶ ﹁っ⋮⋮!?﹂ サラサさんが目に見えて反応する。どうやら、俺のスキルに抵抗 できず、状態異常になってしまったらしい。 44 恐る恐る、さっき頭の中に流れてきたログに目を通す。ウィンド ウを表示すると見られてしまった時の反応が読めなくて怖いので、 俺はいろいろ試してウィンドウを非表示にした。すると、頭の中に、 ウィンドウに表示される情報が流れてくるようになった。 まず﹁カリスマ﹂が発動したので、俺はサラサさんのステータス を見ることが出来るようになった。 カリスマ自体は色々な職業で覚えられるスキルだったりするが、 ﹁他人に一目置かれる﹂という効果があるスキルだ。これが発動す ると、相手をパーティに誘うためにステータスを確認したり、﹁口 説く﹂﹁依頼﹂などのアクションスキルを使用することが可能とな る。鑑定スキルを取らなくても、﹁カリスマ﹂があれば、これはと いう人物のステータスを見てパーティに誘える。 ﹁⋮⋮レミリアさん、やっぱりヒロトちゃんには見込みがあるんじ ゃないかしら。赤ん坊の彼に言うのも何だけれど⋮⋮他の人にない ものを感じるわ﹂ ﹁そういうこと、良く言われるのよね⋮⋮助産師さんも言ってたし﹂ 俺は生まれてすぐひとしきり泣いた後寝てしまったので、その間 のログは見ていない。ログは一定時間経つと消えてしまうので、便 利な行動記録帳というわけにもいかないからだ。なので、俺の知ら ない間に、近づいた人物に対してパッシブスキルが発動していた可 能性はある。 しかしレベルが低いと、﹁魅了﹂は高レベルの人物には通りにく いはずなんだけど⋮⋮成功率0%じゃないとはいえ、成功してしま うとは。こうなると、サラサさんは⋮⋮。 45 ◆ダイアログ◆ ・︽サラサ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO ログは現在の状況を教えてくれるもので、ダイアログは俺の選択 を必要とするものだ。しかし何も選択しなければ、タイムオーバー で﹁流れる﹂。 魅了が成功したからって、近所の奥さんに対して命令することな んて俺にはない。リオナがどんな子か見せてもらいたいとは思うが、 まあ、黙っていてもその機会はあるだろう。コミュニケーションが とれず、嫌われないとも限らないが。 と、とにかく⋮⋮サラサさんへの魅了を解除したい。けど、俺に 出来ることは泣くことくらいだ。 ﹁⋮⋮おぎゃ、おぎゃぁ!﹂ ﹁あらあら、ヒロト、びっくりしちゃったみたいね⋮⋮それとも、 お腹がすいた?﹂ テーブルの近くで椅子に座って見ていたレミリアさんが席を立つ。 しかし彼女のマナは、授乳直後で回復しきっていない。 ﹁さっきあげたばかりだから、私はもうお乳が出ないわね⋮⋮どう しようかしら﹂ ﹁レミリアさん、私が代わりにあげてもいいかしら? リオナにあ げるだけでは、いつも余ってしまって⋮⋮﹂ 46 ︱︱おお、神よ。 女神に転生させられた俺が祈るのもなんだが、神に祈るしかない 心境だった。 レミリアさんに育てられるだけでも俺の赤ん坊時代は恵まれすぎ ているのに⋮⋮まさか、近所の奥さんまで。転生前は近所に住んで いた奥さん方に﹁弘人くん、ずっと引きこもりで森岡さんちも大変 ね﹂﹁うちの子がああなったらと思うと、他人ごとだって言ってら れないわ﹂とか、昼下がりに井戸端会議が聞こえてきたりしていた。 動揺のあまり、トラウマが蘇ってしまっている。 いや、そんなことを考えている場合じゃない。ここは、サラサさ んが無理をして授乳しようとしていないか、確かめなければなるま い。赤ん坊の俺に出来ることはそれくらいだ。 俺は心中でそっと念じて、﹁カリスマ﹂の効果で見られるように なったサラサさんのステータスウィンドウを脳裏に展開した。 ◆ステータス◆ 名前 サラサ・ローネイア ハーフエルフ 女性 123歳 レベル23 ジョブ:セージ ライフ:64/64 マナ :224/264 スキル: 鞭マスタリー 32 白魔術 30 薬師 20 47 恵体 2 魔術素養 20 母性 75 料理 20 奴隷 20 アクションスキル: 鞭縛り︵鞭マスタリー30︶ 治癒魔術レベル2︵白魔術30︶ ポーション作成︵薬師20︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ 説得︵母性60︶ 簡易料理︵料理10︶ 料理︵料理20︶ パッシブスキル: 鞭装備︵鞭マスタリー10︶ 女王様︵鞭マスタリー20︶ 薬草学︵薬師10︶ 回復上昇︵白魔術20︶ 育成︵母性10︶ 慈母︵母性50︶ 子宝︵母性70︶ 残りスキルポイント:17 マナを40消費しているが、それはリオナに授乳したからだろう。 しかしそれ以外に得られた情報が、俺を圧倒していた。彼女はやは 48 りハーフエルフだ⋮⋮それが発端になって、クエストが発生するわ けだが、それよりも意味が分からないのは、圧倒的なまでの母性。 75て。 そして﹁授乳﹂というスキルが存在するのも驚きだったのに、﹁ 搾乳﹂の放つ存在感は凄まじかった。確かに彼女の胸は大きいし、 乳が出すぎる人は搾らないと乳腺が詰まってしまうと聞いたことは あるので、理にかなっているといえばそうなのだが⋮⋮他にも突っ 込みどころのあるスキルが多すぎて、すべてに言及しきれない。 見逃せないのは﹁奴隷﹂の項目。これは、奴隷の経験があること を意味している。ハーフエルフの彼女がどんな波乱に満ちた人生を 送ってきたか、ゲームでの内容を思い出すと複雑な気分だ。こんな ふうに穏やかに暮らしている時代があり、俺はその場面を見ること が出来ているんだな⋮⋮。 ﹁そうね⋮⋮ヒロト、お腹がすいてるみたいだから。サラサさん、 良かったらうちの子に分けてあげて。リオナちゃん、いいかしら?﹂ ﹁きゃっ、きゃっ﹂ リオナはかなり人懐っこいようだな⋮⋮俺より生まれた日がちょ っと遅いのに、もう愛嬌を振りまいている。とても真似できない。 と、対抗心を抱いている場合じゃない。 ﹁ヒロトちゃん⋮⋮こっちを向いてください。お母さんの方がいい でしょうけれど、今回だけは我慢してくださいね⋮⋮﹂ ◆ダイアログ◆ 49 ・︽サラサ︾が﹁授乳﹂を使用しようとしています。許可しますか ? YES/NO サラサさんがリオナの授乳のために着ているゆったりした服の帯 を解いて、胸をはだける。 ︵⋮⋮すっげぇ⋮⋮︶ 感嘆するしかない光景だった。赤ん坊の俺から見るとそれはあま りにも雄大な山脈だった。呼吸するだけでたゆん、たゆんと揺れて いるそれを見上げようとして、正面から向き合えずに目をそらす。 クーパー靭帯だけでこの大きさを支えられるとは信じがたい。異世 界のブラジャーではこの胸はカバーしきれないのか。 母性についての追加解説には、数値×0.2%、乳房が大きくな ると書いてある。もとから大きい彼女の胸に、15%補正がかかっ て大きくなっている。対してレミリアさんの補正は5%弱。個人差 があるし、母に対する敬意は変わらないが⋮⋮こんな見事なバスト は、アニメの中でしか見られないと思っていた。サラサさんは文句 なしの優勝だ。何の大会かわからないが。 しかも胸を俺に見せてから、サラサさんは恥ずかしそうに頬を赤 らめている。0歳児の俺に対してあきらかに意識している理由は言 うまでもない、彼女が魅了状態だからだ。 ︵ほ、本当にいいのか⋮⋮? 何か、サラサさんの旦那さんに悪い ことしてるような⋮⋮︶ ﹁遠慮しなくていいんですよ⋮⋮ヒロトちゃん。リオナはもうお腹 50 いっぱいですから、余った分はいつも搾って捨ててしまうんです﹂ ﹁⋮⋮あー、うー﹂ 俺はしゃべれないので、話しかけられても答えられない。しかし、 こんな場合でも意思疎通する手段がひとつある。 それこそが、交渉術100で手に入るパッシブスキル﹁選択肢﹂ だ。 これをセットしておくと、有効な行動をシステムが計算し、候補 を三つ上げてくれる。選択肢を呼び出すと全てのマナを消費するの で、マナの回復手段がなければ、あまり乱発出来ない奥の手だ。 赤ん坊の俺でも、有効な行動があるはず⋮⋮教えてくれ、選択肢! ◆選択肢ダイアログ◆ 1:︽サラサ︾の﹁授乳﹂を許可する 2:︽サラサ︾の﹁授乳﹂を許可する 3:︽サラサ︾の﹁授乳﹂を許可する ︵ちょっと待てぇぇぇぇ!︶ 赤ん坊の行動に選択の余地がないとでもいうのか⋮⋮システムが 俺に授乳を迫っている。強いられているんだ、という言葉が脳裏を よぎった。 ◆ログ◆ ・︽レミリア︾はつぶやいた。﹁大きい胸がいいってもんじゃない 51 ってことよね、ヒロトも﹂ ・︽リオナ︾は笑っている。 ・︽サラサ︾はあなたに向けてはにかんだ。 レミリアさんのちょっぴりジェラシーの込められたつぶやきが、 ばっちりログに表示される。そして俺は、一度選択肢を呼び出した 以上、絶対にいずれかを選択しなければならないのだった。 ︵⋮⋮神よ。空腹の俺をお許しください︶ 何に赦しを乞えばいいのかもわからないので、とりあえず神に祈 りながら、俺は1、2、3の選択肢を未練がましく行き来したあと、 2番目を選択した。 サラサさんに抱えあげられ、彼女は椅子に座る。そして俺は、彼 女の胸に顔を向けられる︱︱そして。 ◆ログ◆ ・︽サラサ︾の﹁授乳﹂はあなたには使用できなかった。使用条件 を満たしていない。 ・﹁授乳﹂の代替となるアクションが存在します。命令しますか? YES/NO ︵し、使用できない⋮⋮そうか、俺はよその赤ちゃんだからか⋮⋮ でも、代替アクションは使える。代替って一体なんだ⋮⋮?︶ つまり授乳よりも、よその女性にお願いしても大丈夫な範囲の行 為ということだろうか。そういうことなら、俺はリスクを恐れずに YESを選べる。 52 ︱︱しかし、それが甘かった。 ◆ログ◆ ・﹁授乳﹂の代替アクション、﹁採乳﹂が発動した! ︵採乳⋮⋮乳を採取する⋮⋮って、うわっ⋮⋮!︶ 気が付くと、俺の手が淡く光っている。目立つほどの光ではない が、俺はこの光った状態の手をどうすればいいか、﹁採乳﹂が発動 した時点で、理屈を超えて理解していた。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん⋮⋮どうぞ﹂ そう︱︱授乳と同じ効果を得る、吸い付かずに行う行為。 それこそが、女性の胸に触れただけで、授乳で与えられる内容と 同じだけのエネルギーを吸収するスキル︱︱﹁採乳﹂だった。 俺の小さな手のひらが、サラサさんの大きな二つの山の左右に、 一つずつぺた、ぺた、と触れさせられる︱︱すると。 ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・︽サラサ︾の魅了状態が続いている。 ・︽サラサ︾はつぶやいた。﹁不思議な子⋮⋮こんなふうに、おっ ぱいを⋮⋮﹂ 53 ︱︱まだゼロ歳なのに、雄大な山に触れてしまった。大自然の偉 大さを理解した俺は、感動のあまり、﹁採乳﹂を終えても手を離せ ずにいた。 新しい人生は、最初からクライマックスだった。いや、終わって どうする。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、もう一度いかがですか? まだ、お腹いっぱ いではないって顔をしていますし⋮⋮﹂ そして﹁採乳﹂を行っても、女性の感情は授乳を行った時に等し く、俺に栄養を与えているのだと理解しているようだ︱︱代替スキ ルとはいうが、この効力は魔術よりも魔術めいている。触れただけ で、母性が20に達している女性から、恵みを受けることができる のだから。 ︵確かにまだライフが完全回復してないし⋮⋮も、もう一回⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは﹁魔術素養﹂スキルを獲得した! マナが12増えた。 魔術が上手く使える気がした。 ・︽サラサ︾はつぶやいた。﹁これからもお願いしに来ようかしら ⋮⋮﹂ ・︽レミリア︾はつぶやいた。﹁ヒロトを取られないように見てな いとね⋮⋮サラサさん、危険だわ﹂ 54 レミリアさんの心配はごもっともだ⋮⋮まさか採乳で、スキルま で手に入るとは。おそらく、彼女が魔術素養スキルを持っているの で、その恩恵を得られたのだろう。 しかしレミリアさんに与えてもらっても、気品スキルが上昇する ようなので、バランス良くもらっていきたい⋮⋮って、何を偉そう なことを考えてるんだ。育ててもらえるだけでありがたくて涙が出 そうなのに。 リオナはサラサさんの魔術素養をたっぷり受け継いで育ちそうだ ⋮⋮この子が幼なじみってことになるのかな。 レミリアさんに抱えられ、サラサさんに抱えられたリオナと対面 して、俺は思った。 ﹁きゃっ、きゃっ♪﹂ ︱︱この笑顔を、俺はどこかで見たことがある。と。 55 第二話 選択肢の罠︵後書き︶ 次回は月曜日更新です。夕方、夜に2話更新いたします。 56 第三話 スキル上げスタート リオナは赤ん坊ながらにぱっちりしたつぶらな目をしていて、た ぶん美少女になるんだろうなと思ったが、俺にはどうにも﹁幼なじ み﹂という時点で、前世のことが引っかかってしまう。 赤ん坊の今はいいが、言葉が話せる段階にきたら、俺のコミュ障 がばれてしまうし⋮⋮幼なじみに魅了スキルをかけて仲良くなろう というのも気が引けた。 それより何より、赤ん坊の時点では何もできないと思っていたが、 スキルが取れると分かったのは大きかった。 サラサさんが帰ったあと、俺の父親︱︱リカルドさんと、サラサ さんの旦那さんのハインツさんが、森での仕事を終えて戻ってきた。 リカルドさんが収穫してきた木材や、魔物や動物の素材の取り分 を換金すると銀貨15枚分と銅貨数枚になったらしい。週に一度だ け休みだから、平均して月に銀貨300枚程度を稼いでいることに なる。 町の木こりの中では、リカルドさんは最も多く稼いでいる。レミ リアさんも家計に苦しむことなく、疲れたリカルドさんに鹿肉の入 ったシチューと石窯で焼いたパンを出していた。 ﹁お疲れ様、リカルド。今日はね、ハインツさんのところのサラサ さんが来てたのよ﹂ ﹁ああ、ご近所同士仲がいいのは良いことだな。おうヒロト、元気 57 にしてたか?﹂ リカルドさんは食事の前に、俺を揺りかごから抱き上げる。筋骨 隆々の父親に抱え上げられ、普通ならキャッキャと喜ぶところだが、 俺はむっつりしていた。内心は喜んでいるのに、うまく表せない。 ﹁うーむ、やはり俺にはあまりなつかないな。まあ、男親だからそ んなもんか﹂ ﹁それがね、この子ったらサラサさんにはちょっとなついてたのよ﹂ ﹁なに、本当か? 隅に置けんなぁヒロト坊、俺の親友の嫁さんだ ぞ﹂ ﹁⋮⋮ぶー﹂ しゃべれないのでとりあえず不平を音にしてみるが、リカルドさ んは片眉をつりあげて笑っている。 何度見ても、ハリウッド俳優のようなイケメンだ。この血を受け 継いだ俺は、前世と違う顔になってるんだろうか⋮⋮まだ鏡を見せ てもらってないので、自分の容姿がよくわからない。 思い出した、なんとかバンデラスだっけかな。リカルドさんはそ ういうワイルド系ちょい悪な顔で、ローマの剣闘士かと思うような 屈強な肉体をしている。 レミリアさんはポニーテールだから、俺の中ではスポーツ少女っ て印象がある。リカルドさんに比べて容姿があどけないので、ちょ っと犯罪臭が⋮⋮まあ、この世界じゃ女性の結婚が早いからな。日 本じゃ晩婚化が進んでいたから、意外に思えるだけだ。 ﹁まあ、男として少しは分からんでもないぞ。母さんも美人だが、 ハインツの嫁さんも相当だからな﹂ 58 ﹁ちょっとあなた、聞こえてるわよ。ヒロトに変なこと教えないで ちょうだい﹂ ﹁ははは、悪い悪い。心配しなくても、俺はレミリア一筋だからな﹂ ﹁もう⋮⋮あなたったら﹂ 砂糖を吐きそうなやりとりだが、新婚さんなので大目に見ておこ う。童貞は童貞なりに達観するものだ。 まだ俺が生まれた直後だから夜は何もないみたいだけど、そのう ち弟か妹を作ることになるのかな。 前世では弟がいたが、俺とは全く違うリア充ぶりで、恭介とも仲 良くやっていた。まあ弟から聞かされなければ、陽菜と恭介が付き 合ってるらしいと知らずに済んだのだが。 しかし徐々に、こうやって前世のことを思い出しても鬱にならな くなってきた。忘れることは決してないだろうけど、今の俺はこの 世界について知ることに意識が向いていて、ずっと先のことまで考 えるようになっていた。 エターナル・マギアの世界で、誰にも揺るがされない、自分の居 場所を作る。 ただのコミュ難だった俺には無理だったけど、この世界では、人 に必要とされたい。 親だけじゃなくて、他の人にも、俺が居て良かったと言ってもら いたい。 そんなことを考えるのは、今はまだ贅沢に思えてならないけど⋮ ⋮いつか、必ず。 ﹁あら、ヒロトが何か考えてるみたい。赤ちゃんでも、思うところ があるのかしら?﹂ 59 ﹁あんまりノロケてると呆れられるかもしれんな。よぅしヒロト、 あとで父さんと一緒に風呂に入ろうな﹂ ﹁⋮⋮おぎゃ、おぎゃぁ!﹂ ﹁あなた、一日中森にいたから汗臭いわよ。ヒロトは私が入れます から、あなたは一人で入ってください﹂ ﹁むぅ⋮⋮じゃあ、休みの日にしておくか。母さんとばかり入って ると、軟弱な男になるぞ?﹂ 拗ねるリカルドさんに申し訳なく思いつつ、俺はレミリアさんに 抱えられて風呂場に向かった。父さんと入ると、力加減してくれな くて痛いからな⋮⋮まあ、自分で立てるようになったら背中でも流 してあげよう。 ◇◆◇ 次の日の昼下がりも、サラサさんはリオナを連れてやってきた。 一日経てば、魅了状態は解除されてるだろうと思っていたのだが⋮ ⋮。 ◆ログ◆ ・︽サラサ︾の魅了状態が続いている。 ・︽リオナ︾はあなたのことに気がついた。 ・︽サラサ︾はつぶやいた。﹁ヒロトちゃん、今日も元気そうです ね⋮⋮よかった⋮⋮﹂ 60 ︵ま、まだ解けてないのか⋮⋮っていうか、ステータス異常解除し てないのか?︶ 一日経っても魅了が解けない理由として考えられるのは、サラサ さんの好感度が上がりすぎているから⋮⋮ということが考えられる。 ﹁詳細ステータス﹂を見れば、サラサさんの俺に対する好感度が わかる。しかし﹁カリスマ﹂スキルだけでは見られないので、サラ サさんの態度から判断するしかない。 ◆ログ◆ ・︽サラサ︾はリオナをあやしている。 ・︽リオナ︾は喜んでいる。 ・︽サラサ︾はあなたの方を見ている。 ・︽サラサ︾は頬を赤らめた。 ゲームにおいては、見つめてきたり、頬を赤らめたりするのは、 好感度が﹁かなり気に入っている﹂状態まで上がっていることを意 味する。 そうなると、好感度が﹁何とも思っていない﹂になるまで魅了状 態は解除されない。そういうことか⋮⋮サラサさんの状態をステー タス異常と認識できる人も、周りにいないわけだ。 ﹁⋮⋮レミリアさん、機織りで手が放せないみたいですね﹂ サラサさんは独り言みたいに言ってから、リオナを抱えてこちら にやってくる⋮⋮こ、これは⋮⋮。 61 ﹁ヒロトちゃん、お腹がすいていませんか? 良かったら、リオナ と一緒に⋮⋮﹂ ◆ダイアログ◆ ・︽サラサ︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YE S/NO ︵や、やっぱり⋮⋮うわっ⋮⋮!︶ サラサさん、よその家の赤ん坊に対して、簡単に胸を出しすぎで は⋮⋮もう俺も感覚がおかしくなってきた。ハーフエルフは長命で、 彼女は123歳だけど、容姿はどう見ても二十代そこそこだ。そん な人に簡単に胸を何度も見せてもらっては、俺の倫理観があやしく なってしまう。 ﹁やっぱり、自分のお母さんのほうがいいですよね⋮⋮ごめんなさ い、無理を言って﹂ リオナの方はぱくっとサラサさんの乳首に吸い付いている。彼女 の魔術素養スキルが上昇したログが流れてきた⋮⋮くっ、スキルが 上がるし、空腹も満たされるし、効率的なプレイを求める俺として は絶好の機会なのに。 俺が選択しなかったのでダイアログは流れてしまったが、サラサ さんはまだ諦めていない⋮⋮な、なんという執念⋮⋮。 ◆ダイアログ◆ 62 ・︽サラサ︾が﹁採乳﹂を許可しています。命令しますか? YE S/NO この押しの強さは⋮⋮魅了にかかってしまったから、どうしても 採乳して欲しいくらいの状態なんだな。 ゲームだったら、効率を求めてマウスをクリックし、それこそサ ラサさんのマナが尽きるまで採らせてもらったことだろう。魔術素 養のスキルも上げるには時間がかかるし、低レベルの時にできるだ け上げておけるとすごく助かるからだ。 しかし何度も採らせてもらうのは、さすがに申し訳ない気持ちが 強い。何せ、こんな大きくて豊かな胸なのだ。手を添えるだけとは いえ、ちょっとは敬意を示して遠慮するべきではと思ってしまう。 ﹁そんなに遠慮しなくてもいいんですよ⋮⋮? レミリアさんは貴 族の出ですから、乳母の方がいるのは普通です。若奥さまの代わり に、乳母の方が代わりにお乳をあげることは良くあるんですよ﹂ ﹁⋮⋮あー、うー⋮⋮﹂ 0歳児をガチで口説きにかかるサラサさん。﹁カリスマ﹂のせい で、俺を一人前の存在として見てくれているからなのだが、何か犯 罪的な感じがすごくする。 無愛想にしても魅了がかかった彼女の好感度は下げられない。ど うしようもないのなら、ここはトッププレイヤ︱だった頃の精神を 思い出し、貪欲にスキル上げしていくべきではないか。 ︵レミリアさん⋮⋮俺、ひとつ大人になるよ⋮⋮!︶ 63 そんな決意をしたところで母さんは喜ばないだろうと思いつつ、 俺は震える思考で﹁YES﹂を選んだ。最後だけは雄々しく、力強 く、申し訳なく。 リオナが吸ったほうとは逆の方の胸に手を添える。迫ってくる白 い山は、おっとりした彼女の性格に反し、攻撃的なくらいに前方に せり出している。 ︱︱しかし、今までとは違う反応があった。光る俺の手で触った とたん、サラサさんの胸から、ミルクがじわ、と溢れだしてきたの だ。 ﹁す、すみません、勝手に出てしまって⋮⋮あっ⋮⋮!﹂ 手についた乳のしずくを、俺は本能で口に運ぶ。それをサラサさ んは顔を真っ赤にして見ていた︱︱そして。 ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・﹁魔術素養﹂スキルが成長した気がした。 ・︽サラサ︾は恍惚としている。 ︵⋮⋮はっ。つい舐めてしまったけど⋮⋮母さんより濃いというか、 まろやかな味だな⋮⋮って、テイスティングしてどうする︶ スキル経験値が入る、母乳のしずく。それを余すところなく舐め とると、サラサさんは目を潤ませて、さらに期待するように見つめ てくる。 64 ◆ダイアログ◆ ・︽サラサ︾はあなたに﹁採乳﹂を許可しています。命令しますか ? YES/NO ︵スキルを上げるには、何回かしてもらった方が⋮⋮くっ、抗えな い⋮⋮!︶ 前回﹁選択肢﹂を使ったとき、マナを全部消費した俺は、サラサ さんが帰ったあとでほどなく眠りに落ちた。マナがゼロになると意 識が断絶する可能性があり、マイナス100になると発狂する可能 性があるので、実はライフと同じだけマナにも気を配らなければな らない。 そういうわけで、サラサさんのマナを消費させるのも悪い⋮⋮と 思うが。スキル上げに命を捧げた熱い衝動が蘇ってしまい、﹁魔術 素養が上がるまで採りたい﹂と思ってしまう。 ︵本当は⋮⋮本当は、もっと採りたい。お腹いっぱいになるからレ ミリアさんに申し訳ないけど、採りまくりたい⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮リオナはお腹いっぱいで眠そうにしていますから、少しベッ ドをお借りして、寝かしつけてきますね。その後で、続きをしまし ょう﹂ そして俺以上に、サラサさんの方が乗り気だった。リオナをいそ いそと寝かせる彼女を見ていると、何か悪い道に引っ張りこんだ気 がしてきてしまう。 65 しかし胸に手を置いただけでスキルが採れるのだから、できるか ぎり協力してもらえるに越したことはない︱︱正直に言おう、俺も 気持ちが高揚していた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・﹁魔術素養﹂スキルが成長した気がした。 ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・何も起こらなかった。 ・︽サラサ︾は恍惚としている。 ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁魔術素養﹂スキルが1ポイント上昇した! マナが12上昇し た。魔術が上手く使える気がした。 ・︽サラサ︾はあなたを愛おしむように抱きしめた。 ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁魔術素養﹂スキルが成長した気がした。 ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。 ・あなたは﹁薬師﹂スキルを獲得した! ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。 ・︽サラサ︾は﹁艶美﹂状態になった。誘惑の成功率が上がった。 ・︽レミリア︾がドアを開けた。 ・︽レミリア︾はあなたを抱え上げた。 ・︽サラサ︾は困った顔をした。 ・︽レミリア︾は﹁嫉妬﹂状態になった。 延々と俺の採乳を受け続けていたサラサさんを発見し、レミリア 66 さんは嫉妬して、俺をしばらくかまってくれなかった。家庭の円満 のためにも、浮気⋮⋮もとい、母乳でスキル上げはほどほどにしよ うと思う俺だった。 どうも、採乳によって得られるスキルは、﹁職業固有のスキル﹂ と﹁種族固有のスキル﹂のふたつだけらしい。白魔術などが取れる かと期待したが、それはどうやら無理のようだ。 しかしセージの職業スキル﹁薬師﹂が取れたのは僥倖だった。本 来なら、薬師ギルドに入ってクエストをこなさないと得られないか らだ。 ﹁で、では⋮⋮今日のところは失礼しますね。またゆっくりお話し ましょう﹂ ﹁ええ、今度は私の仕事が一段落したときに来てちょうだいね、サ ラサさん﹂ ﹁だー、だー﹂ レミリアさんがサラサさんを牽制するが、サラサさんの腕の中の リオナが愛嬌を振りまき、気勢をそがれる。可愛いは正義というが、 まさにその通りだ。 サラサさんが帰ったあと、レミリアさんは俺を抱き上げながら、 眉を吊り上げて語りかけてきた。 ﹁まったく⋮⋮油断も隙もないんだから。ヒロト、お腹がすいても よその女の人のおっぱいばかり吸ってちゃだめよ﹂ ﹁⋮⋮だぁー﹂ 精一杯の愛嬌で謝罪の意志を示そうとしたが、あまり可愛くはな かったらしく、レミリアさんは苦笑していた。パッシブスキルで﹁ 魅力﹂を取れれば、もうちょっとどうにかなりそうだが。いや、何 67 もかもスキル頼みすぎても良くないか。 68 第四話 三人娘とスキル上げ サラサさんの件でレミリアさんにマークされてしまった俺だが、 赤ん坊の時分でスキル上げすることを諦めたわけではなかった。 うちにはサラサさん以外にも、近隣に住むレミリアさんの友人が しばしば訪れる。そして分かったことがひとつ⋮⋮子供がいない女 性であっても、一定の年齢以上なら﹁母性﹂が20を超えている場 合が多いのだ。前世ではありえないことだが、母性スキルが20を 超えていれば誰でも﹁授乳﹂ができて、代替スキルの﹁採乳﹂も発 動できる。異世界マギアハイム恐るべし。 今日も三人の若い女性が、我が家でお茶会をするためにやってき た。茶の類は結構貴重で、収入のいい我が家だからこそ振る舞える ものだからという理由もあるが、レミリアさんはそのあたりの交際 費はけちらない。令嬢出身だから、社交の場を重視しているようだ。 ﹁レミリア、赤ちゃんを見せてもらってもいい?﹂ ﹁ええ、いいわよ。今は寝てると思うけど⋮⋮あら、ずっと向こう を向いてただけね﹂ ﹁知らない人たちが来たから緊張してるんじゃない?﹂ 人見知りをしているだけなのだが、赤ん坊だと嫌われにくい。ま だ俺は三人の名前を知らないが、近づいてくるだけで出るログを見 れば分かるのだった。 ◆ログ◆ 69 ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ターニャ︾︽モニカ︾︽フィローネ︾ に注目された。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ターニャ︾は抵抗に失敗、魅了状態になっ た。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽モニカ︾は抵抗に成功した。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィローネ︾は抵抗に失敗、魅了状態にな った。 なるほど、ソバージュっぽい髪型の色っぽいお姉さんがターニャ さんで、モニカさんはベリーショートでボーイッシュな印象の女性。 そしてフィローネさんはちょっとふくよかで、常に笑顔でいる朗ら かな女性だ。 ステータスを見てみると、ターニャさんとフィローネさんは﹁村 人﹂で、それぞれに手に職を持っていることをあらわすスキルを持 っていた。モニカさんの職業は﹁狩人﹂だが、彼女には魅了が効い ていない。 こうなると、俺には何も出来ることがないな。スキル上げの観点 で、狩人のモニカさんから﹁採乳﹂したかったのだが⋮⋮彼女の母 性スキルが21あっても、魅了が効かないと頼むことは難しい。 ﹁ヒロトくんって言ったわよね⋮⋮小さいのに、レミリアと似たよ うな気品を感じるわ﹂ ターニャさんが揺りかごにいる俺を覗きこんで褒めてくれる。気 品スキルは3まで上がってるけど、あまり効果はないはずだが⋮⋮ 持ってるだけで印象が変わるということか。気品を10まで上げて ﹁マナー﹂を発動させるまでは意味がないと思っていた。 70 ﹁⋮⋮ねえレミリア、この子のこと、あやしてあげてもいい?﹂ ﹁え、ええ⋮⋮いいわよ。フィローネ、どうしたの? 顔が赤いけ ど﹂ 魅了状態のフィローネさんは、俺のことを意識しているようだ。 ふくよかなだけあって、彼女の胸は結構豊かで、母性値も20を超 えている。 村人であり、まだ職業についていない彼女から﹁採乳﹂をしても、 スキルが得られるかどうか分からない。なので、どうしても採乳し なければならない場面ではないが、どうしても気にはなってしまう。 ﹁あ、お湯が沸いたみたい⋮⋮ちょっと待っててね、みんな。お茶 を淹れてくるから﹂ レミリアさんが席を外す。するとフィローネさんが俺を抱えあげ て⋮⋮や、やめてくれ、急に持ち上げられるとくらくらする⋮⋮。 ﹁おぎゃぁ、おぎゃぁ!﹂ ﹁あぁっ、よしよし、驚かせちゃってごめんね⋮⋮﹂ ﹁フィローネ、あなたの抱き方では合ってないんじゃない? 私に 任せなさい﹂ ﹁あっ⋮⋮ちょ、ちょっと、ターニャ!﹂ ターニャさんに奪い取られる俺。まさか女性に取り合いをされる 日が来ようとは⋮⋮。 ギルマスをしていた頃も、俺は孤高のプレイヤーを気取っていた というか、交渉術のアドバンテージを隠すために、女性と仲良くな ったことはなかった。事務的なやりとりならキーボードを通して交 わせていたが⋮⋮ああ、いや、ちょっとだけはあったかな。二人で 71 狩りをしたとき、﹁これってデート?﹂と言われたことはあった。 そのプレイヤーがリアルで女性かもわからなかったから、何とも言 えないけど。 引きこもってなければ、早く外に出られてたら、オフ会くらいは 行けたのにな。一緒にギルドを立ち上げたミコトさんと麻呂眉さん の顔すら知らないままに、俺は死んでしまった。 とか考えてるうちに、ターニャさんとフィローネさんが睨み合っ ている。モニカさんは二人が争っている理由がわからず、戸惑って いた。 ﹁ど、どうしたの二人とも? 順番にあやしてあげなよ。ヒロトく ん、嫌がってるじゃない﹂ ﹁そ、そんなこと⋮⋮さてはモニカ、あなたこそヒロトちゃんを⋮ ⋮﹂ フィローネさん、さっきまで朗らかだったのに、今は焼き餅を焼 いておられる。というか、交渉術スキルにおいて﹁魅了﹂は交渉を 優位に進めるための補助スキルのはずなのに、あまりに強力過ぎる ⋮⋮なぜだ。 そう考えて俺は、自分が﹃豪運﹄をセットしていたことに気がつ いた。豪運が発動すると、ギャンブルで無条件勝利することが出来 るのだが、他にも確率で発動するスキルが絶対に成功するという効 果もある。 だが、豪運の発動率は現時点で3%しかないはず⋮⋮まだ何かあ る。 ここからは推測になるが、赤ん坊に対して﹁母性﹂を持つ女性は、 スキルの抵抗率が下がるんじゃないだろうか。そうでなければ、あ まりに簡単に成功しすぎてる。 72 ﹁あ、あたしは⋮⋮赤ちゃんを見てみたいとは思うけど、それ以上 のことは考えてないよ﹂ ﹁そんなこと言って⋮⋮こんなに可愛い赤ちゃんを、見るだけで済 むはずないわ!﹂ ︵い、いや、見るだけでいいんじゃないかと⋮⋮うわっ⋮⋮︶ モニカさんとターニャさんが言い争うのを見て、ちょっと申し訳 なくなってくる⋮⋮今後は魅了スキルを外しておこうか、と思った 矢先。 俺のことを抱えていたターニャさんが、ふと優しい目をして見下 ろしてくる。こ、これは⋮⋮っ! ◆ダイアログ◆ ・︽ターニャ︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? Y ES/NO ︵こ、子供がいない女性でも⋮⋮魅了状態の女性の赤ん坊に対する アプローチは、全部それなのか⋮⋮!?︶ ﹁ヒロトくん、少しお腹がすいてるみたいだから⋮⋮お姉さんが、 ちょっとだけ⋮⋮﹂ ﹁ターニャったら⋮⋮もう。じゃあ、順番にね。モニカはどうする の?﹂ ﹁あ、あたしはいいから。二人共、ちょっと変だよ? 後で我に返 っても知らないからね﹂ 73 モニカさんの言うことはもっともだ。いきなりよその赤ちゃんに 胸を見せようとする友人を止めるのは至極当たり前だ。 し、しかし⋮⋮ターニャさんはすでに見せてくれてるけど、大き いな。レミリアさんが小さいわけじゃないのに、この町の女性は発 育が良すぎだ。年齢を見てみたら、まだ19歳なのに。 スキルは上がらないが⋮⋮ライフは回復する。ならば⋮⋮! ◆ログ◆ ・あなたは︽ターニャ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは﹁恵体﹂スキルを獲得した! ライフが12上昇した。 強くなった気がした。 ・︽ターニャ︾はうっとりしている。 ︵ま、マジか⋮⋮﹁村人﹂から採ると恵体が上がるのか⋮⋮!︶ 恵体はかなり身体を動かさないと上がらないし、過酷な戦闘を経 て徐々に伸びているスキルだ。しかしどうやら、授乳や採乳によっ て得られる経験値は、普通に授乳を受けるより多いらしい︱︱こん なにあっさり上がるなんて。 町人なのにジョブが﹁村人﹂というのもこれいかにという感じだ が、つまりは一般人ということだ。令嬢のレミリアさんからは得ら れない﹁恵体﹂が上がるのなら⋮⋮俺の、選択は⋮⋮。 ◆選択肢ダイアログ◆ 74 ・︽ターニャ︾から﹁採乳﹂する ・︽フィローネ︾から﹁採乳﹂する ・︽モニカ︾に﹁採乳﹂を依頼する 採乳がそろそろゲシュタルト崩壊しそうだ⋮⋮そして意味もなく、 動揺のあまりマナを使って選択肢を出してしまった。もう消せない ので、今度はフィローネさんにお願いすることにする。 ターニャさんがそっと俺をフィローネさんに受け渡し、当たり前 のようにフィローネさんが胸を見せてくれる。うーん、すごく柔ら かそうだ⋮⋮マシュマロみたいな感じがする。触ることはできない が。 ﹁ああ⋮⋮どうしよう。私、まだ自分の子供も居ないのに⋮⋮﹂ 俺の手が輝き始める。そして無防備に差し出されたターニャさん の胸に、ぺた、とそっと触れた瞬間︱︱彼女の胸全体が輝き出し、 俺の身体にエネルギーが流れ込んでくる。 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィローネ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁恵体﹂スキルが成長した気がした。 ・︽フィローネ︾は微笑んだ。 ︵手から吸収できるとは⋮⋮何かドレインでもしてる気分だな︶ 75 これを繰り返せば、いつかはまた﹁恵体﹂スキルが上がるだろう。 1ごとにかなり上がりにくくなるので、赤ん坊のうちに数ポイント 上昇すれば御の字だ。 ︵うっ⋮⋮や、やばい。マナがゼロだから⋮⋮意識が⋮⋮︶ ﹁あっ⋮⋮ヒロトくん、まだ足りないみたい。すごく消耗してる⋮ ⋮﹂ ﹁モニカ、私たちはもうあげちゃったから、次はあなたがしてあげ て﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなこと、あたしは⋮⋮﹂ ︵⋮⋮採らせてもらってもマナは回復しないんだけど⋮⋮﹁狩人﹂ スキル⋮⋮欲しい⋮⋮︶ 俺は朦朧としながらモニカさんを見やる。いや、それだけで無愛 想な赤ん坊に採乳させてくれるほど、世界は甘くは⋮⋮。 ﹁⋮⋮わ、分かったわよ。今回だけだからね⋮⋮﹂ ︵⋮⋮つ、ツンデレ⋮⋮だと⋮⋮?︶ モニカさんは俺をフィローネさんから受け取ると、椅子に座って 服をたくしあげる。そして弓を引くためだろう、乳房を押さえつけ ていたサラシをしゅるしゅると外した。 解放された小麦色の山がたゆん、と揺れる。この世界でも日焼け はするのだ⋮⋮とあさっての方向で感心する。そうでないと俺は正 気を保てなかった。 76 ﹁⋮⋮こ、これでいいの? 触るだけで⋮⋮そうなんだ⋮⋮﹂ 光る俺の手をモニカさんが恐れないのも、﹁採乳﹂というアクシ ョンの効果なのだろう。発動条件さえ満たしてしまえば、確実に触 れさせてもらえる。 小麦色の大きな乳房が輝き始め、その弾力を手で確かめた瞬間、 ビリビリ、と今までにない力が流れ込んできた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽モニカ︾から﹁採乳﹂した。 ・あなたは﹁狩猟﹂スキルを獲得した! 狩りの収穫ができるよう になった。 ・︽モニカ︾は優しい気持ちになった。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽モニカ︾は抵抗に失敗、魅了状態になった。 ︵⋮⋮なんというコンボ⋮⋮︶ 俺はモニカさんの腕の中で意識を失う。昼寝していると思っても らえればいいのだが⋮⋮。 どうやら﹁採乳﹂で好感度が上がった直後に、また﹁魅了﹂の判 定が入ったようだ。これでモニカさんにも、今後はスキル上げに協 力してもらうことができる。 しかし今はひたすらに眠い。俺はスキル取得の喜びと、優しい彼 女たちに申し訳なさを覚えつつ眠りに落ちた。 77 第四話 三人娘とスキル上げ︵後書き︶ 明日は女騎士登場! ちょっとずつ物語が動き始めます。基本はスキル上げです。 78 第五話 町での騒動 赤ん坊のまま、俺は順調に取得スキルを増やしていった。 新しく町の住人に接触する機会があると、とりあえずスキルを見 せてもらう。ちょっと申し訳ないが、一度スキル上げを始めると、 どうしても徹底的にやりたくなってしまう⋮⋮前世からの俺の、良 くも悪くもある習性だ。 カリスマを発動させ、魅了スキルが成功したら、場合によっては 吸わせてもらう。まさか赤ん坊時代が、こんなに忙しくなるとは思 わなかった。 しかし赤ん坊のうちだけだろう、と思う。魅力スキルを取得して 上げないと、魅了はほとんど成功しないからだ。赤ん坊に対する補 正がなければ、ほぼ豪運に頼るしかなかったりする。サキュバスと か、インキュバスなんかの魅了専門みたいな種族なら話は別だが。 そういえば、魔物を全然見てないな⋮⋮と思いかけたところで、 俺はふと思い出した。 ジュネガン公国西部のミゼールといえば、あまり離れていないと ころに、ドラゴンが住んでいるという伝承がある。 ドラゴン討伐クエストが発生するとかなり早い時期から言われて いたが、俺がプレイしていた時にはついに実装されなかった。 ︵⋮⋮けど、この世界に﹃未実装﹄は存在しない。ドラゴンがいる のがただの伝承じゃなければ、実際に居る︶ もし、ミゼールにドラゴンが現れたら⋮⋮何のクエストもなしに、 そんなことが起こりうるとは思えないが。 79 ﹁ヒロト、さっきからおとなしいわね⋮⋮いつも静かで助かるけど、 もっと元気にしてもいいのよ?﹂ 昼下がり、揺りかごの中で静かにしていた俺だが、そろそろ実は 母さんを喜ばせてあげられることがあった。あー、うーと言ってい た甲斐があって、ちょっとだけ喋れるようになったのだ。 しかし恥ずかしい⋮⋮しゃべるってことはつまり会話だもんな。 母さんとはいえ、初めて話すとなると緊張してしまう。 ﹁なんて、まだ言葉は分からないわよね。よしよし﹂ レミリアさんが俺を抱え上げて、背中をさすってくれる。俺は今 しかないと思い、勇気を振り絞った。 ﹁⋮⋮ま、まんま﹂ ﹁きゃっ⋮⋮い、今、何て言ったの!? ヒロト、もう一回言って みて?﹂ ﹁⋮⋮ぷいっ﹂ ﹁お、お願い! ママの一生のお願いだから、もう一回言って? ほら、おっぱいあげるから!﹂ レミリアさんに授乳されたのち、俺はこの味を味わうのももう少 しで終わりなのかな、と感じていた。寂しいものだが、そればかり は仕方ない。成長は喜ぶべきことだ。 そして俺は意地でも二度目の﹁まんま﹂を言わないのだった。母 さんだからこそ恥ずかしかったりするが、いつものあまのじゃくだ ⋮⋮また、そのうち言えるといいんだけど。 80 ◇◆◇ 父は元騎士なのではないか、という俺の予想は、想定していなか った形で確かめることができた。 レミリアさんの背中に背負われて、初めて彼女と一緒に市場に買 い物に出た時のこと。 ﹁きゃっ⋮⋮!﹂ 人混みの中で、レミリアさんが男にぶつかられてしまう。人混み でパッシブスキルなんて発動してたら大変なことになるので、あえ て外していたのだが、それが裏目に出てしまった。 ﹁どこ見て歩いてんだ、あぁ!?﹂ ﹁おい、こいつ首都から来た貴族の娘だろ。あのリカルドと一緒に 住んでる﹂ ﹁ああ、リカルドか。臆病風に吹かれた、都落ちのリカルドだよな﹂ リカルドさんのことを知ってる⋮⋮しかし、その言葉には悪意が 含まれている。臆病風⋮⋮都落ちって。 ︱︱そう俺が思っているうちに、レミリアさんが動いていた。 パァンッ! ﹁ぐぁっ⋮⋮て、てめえっ!﹂ ﹁あなたたちに、夫を侮辱されるいわれはないわ! 謝罪しなさい っ!﹂ レミリアさんが男の頬に平手打ちをして、気丈に言う。市場を行 81 き交う人々は、武装した三人の男たちを恐れているのか、遠巻きに 囲んで見ているか、足早に通り過ぎるだけだった。 ﹁先に手を出したのはそっちだからな⋮⋮何されても文句は言えね えよなぁ!﹂ ﹁っ⋮⋮は、放しなさいっ! この子に手を出したら許さないから っ!﹂ ︱︱ありがとう、レミリアさん。でも、俺があなたを必ず守る。 ここでスキルを使えば、みんなに俺の異質さがバレてしまうかも しれない。そうしたら、ここで暮らしていけるかどうか⋮⋮あまり に平穏な暮らしで、荒事があるなんて想像もしてなかったけど、こ こはエターナル・マギアの世界だ。一歩町の外に出ればゴロツキや 山賊がいて、町の中でも、状況によっては強盗などが起こることだ ってある。 俺はそういうシビアさも好きだったが、それとこれとは話が別だ。 ︵パッシブスキルを、全部アクティブにする⋮⋮頼むっ⋮⋮!︶ 魅了スキルを有効にして、かかった人の中に強い人が居れば力を 借りられる。もしくは、三人の男のうち、一人でも﹁︻対同性︼魅 了﹂が発動すれば⋮⋮! ﹁そこまでにしておけ、ならず者どもっ!﹂ ﹁っ⋮⋮なんだ、てめえっ!﹂ 突如として響いた凛とした声。その声の主は、白銀の鎧を身につ けた、金糸のような長い髪を持つ女性騎士だった。頭防具の額当て を付けていて、優美な面立ちに勇ましい印象を与える。 82 彼女は男たちの前まで颯爽と歩いてくると、間合いを取って剣を 抜く。それを見た周囲が大きくどよめいた。 ﹁彼女を誰だと思っている? ジュネガン公国に暮らす者が、汚れ た手で触れていいと思っているのか。恥を知れっ!﹂ らいじん ﹁くっ⋮⋮てめえ、公国騎士団の人間か⋮⋮!﹂ ﹁やべえ、こいつ︽雷神フィリアネス︾だ⋮⋮っ!﹂ フィリアネス︱︱その名前を聞いて、俺は少なからず感動してい た。もちろんパッシブスキルの発動後、ログで魅了がかかった人物 を全速で確認しながらだ。 敵三人はこちらへのヘイトが高すぎて魅了出来なかったが、町の 人を何人か魅了できている。しかし、彼らに即座に命令を下さなけ ればならないという事態は避けられた。 フィリアネス・シュレーゼ︱︱ジュネガン公国最強の女騎士が来 てくれたおかげで、俺は冷静に判断する時間を得られた。 ライトニング・パラライズ・ピアッシング ﹁フィリアネス様、どうしてここに⋮⋮っ!?﹂ ﹁話は後です⋮⋮っ、はぁぁっ! 雷光麻痺刺突!﹂ 雷神フィリアネス。騎士のNPCの中では五本の指に入る力を持 つ女性騎士。彼女はその異名のとおり、雷系の魔術と剣技を組み合 わせた﹁ダブル魔法剣﹂スキルの達人である。 ﹁ぐぁぁっ⋮⋮!﹂ ﹁は、速いっ⋮⋮速すぎるっ⋮⋮﹂ 何が起こったのか、赤ん坊の俺の目では追えない。しかしログに は、フィリアネスの放った剣技が何を起こしたのか、詳細に羅列さ れていく。 83 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は﹁ライトニング﹂を武器にエンチャントした! ・︽フィリアネス︾は﹁パラライズ﹂を武器にエンチャントした! ・︽フィリアネス︾は﹁ピアッシング﹂を放った! ﹁雷光麻痺刺 突!﹂ ・︽アントン︾に1268ダメージ! オーバーキル! ・﹁手加減﹂が発動した! ︽アントン︾は昏倒した。 ・︽ガノフ︾に1134ダメージ! オーバーキル! ・﹁手加減﹂が発動した! ︽ガノフ︾は昏倒した。 ・︽フィリアネス︾の武器エンチャントが解除された。 ︵っ、っょぃ⋮⋮︶ 思わず引いてしまうほど、フィリアネスの戦闘力は途方もなかっ ピアッシング た。ダブル魔法剣を使ったとはいえ、﹁細剣マスタリー﹂20で取 れる初歩スキル﹁刺突﹂で、4桁ダメージが出せるなんて。 オーバーキルは相手のライフの二倍以上のダメージを与えてしま った時に発生する。もちろん相手は死んでしまうが、誇り高き騎士 である彼女は﹁手加減﹂スキルを持っているため、相手のライフを 1でとどめていた。それは原作にもある設定で、手加減したがゆえ に、敵に不覚を取るというイベントもあるのだが⋮⋮。 ﹁て、てめぇっ⋮⋮この女がどうなっても⋮⋮ぐぁっ!﹂ 84 もう一人残っていた男が、レミリアさんを拘束して後ろから刃物 を突きつけようとする︱︱が、俺はすでに手を打っていた。男は動 く前に、誰かに後ろから殴られて倒れこむ。 何が起きたのか、少しログを遡ってみよう。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁魅了﹂スキルをアクティブにした。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽アントン︾は抵抗に成功した。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ガノフ︾は抵抗に成功した。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ドザル︾は抵抗に成功した。 ※中略※ ・﹁魅了﹂が発動! ︽バルデス︾は抵抗に失敗、魅了状態になっ た。 ﹁魅了﹂の範囲内にいた数十人のうちの一人、鍛冶師バルデス︱ ︱ミゼールの町に住むドワーフの老人に、俺の﹁︻対同性︼魅了﹂ が成功した。俺は彼のステータスが高いことを確認したあと、すか さず彼が助けてくれるように命令をしておいたのである。 ◆ログ◆ ・︽バルデス︾は﹁鉄拳﹂を放った! ・︽ドザル︾に244ダメージ! ︽ドザル︾は昏倒した。 85 ﹁く、くそっ⋮⋮てめえら、覚えて⋮⋮やがれ⋮⋮ぐへっ!﹂ ﹁やれやれ。荒事は年寄りには堪えるわい﹂ バルデス老は、ドワーフの寿命に近い230歳だ。老化でスキル ポイントを失っているが、﹁恵体﹂スキルは55という高い数値を 保っている。そこから放たれる﹁格闘﹂系アクションスキルの﹁鉄 拳﹂は、3桁ダメージでも荒くれ者を一撃で倒す威力を持っていた。 86 第五話 町での騒動︵後書き︶ 次回は20:00過ぎに更新です。 87 第六話 雷神フィリアネス 上からならず者を踏みつけていたバルデス老だが、ドワーフの体 重は見た目の小柄さに反してかなり重い。しかしまあ、うちの母さ んに手を上げた以上は、それくらいは甘んじて受けてほしい。 ﹁ありがとうございます、おじいさん﹂ ﹁いやいや、いいんじゃよ。わしもすっかり耳が遠くなってな、騒 ぎに気づくのが遅れてしもうた﹂ バルデス老は言いつつ、レミリアさんの背中にいる俺を見やる。 俺は一瞬だけ目を合わせられたが、やはりそっぽを向いてしまった。 ﹁うむ、いい目をしておる。わしが気づけたのは、この子の持つ風 格のおかげかものう﹂ 同性を魅了すると、大変なことに⋮⋮ということはなく、基本的 には友好的になるだけだ。ゲームでは、女性が男性プレイヤーを使 って同性キャラを落としにかかるというケースもたまに見られたが。 やおいが嫌いな女子なんていませんって、けっこう真理に近いんじ ゃないかと俺は思う。もちろん俺には縁遠い文化だが。 ﹁わしが生きているうちに、子供向けの道具でも作って贈りたいも のじゃ﹂ ﹁いえいえ、そんな⋮⋮今日助けていただいただけで、こちらこそ お礼をし尽くせません﹂ ﹁儂が勝手にそう思っておるだけじゃ。のう坊主、大きくなったら このバルデス爺の工房に遊びに来い。覚えておられたらじゃがのう 88 ⋮⋮ほっほっほっ﹂ バルデス老︱︱いや、バルデス爺は上機嫌に笑いつつ立ち去った。 母さんを助けてくれて本当にありがとう、と言いたいところだが、 言えないし、手を振ろうとしてもぎこちない感じになってしまった。 でも笑ってくれてたからいいか。魅了スキルが成功してくれて良か った⋮⋮。 今回の魅了スキルは町の人十人以上にかかってしまったので、さ っきから﹁命令しますか?﹂のダイアログが連発している。俺が何 もせず、彼らの好感度を上げなければ、24時間もすれば魅了は解 除されるだろう。 のびている男たちは、ガードによって連行されていく。今みたい な事態だと、﹁どちらに非があるのか﹂は、やはり先に手を出した 方が悪いということになるのだろうが⋮⋮どうやら、最初男がレミ リアさんにぶつかったのは、わざとだったようだ。ログを見るとア ントンという男が﹁体当たり﹂を発動させている⋮⋮俺は最初気づ けなかったが、初めから因縁をつけるつもりだったのだ。 レミリアさん、ライフが少し減ってる⋮⋮何てことをしやがる。 しかし俺の怒りは、もう何かに向ける必要はなかった。フィリアネ スとバルデス爺が、完膚なきまでにアントンたちを叩きのめしてく れたからだ。 ﹁あ、あの⋮⋮フィリアネス様、本当にありがとうございます。私 がつい、かっとなって手を上げてしまい⋮⋮﹂ ﹁数に任せて女性に狼藉を働こうとするような輩を、公国の騎士が 見逃すわけにはいくまい。まして、このような幼い赤子を連れて⋮ ⋮﹂ 89 ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽フィリアネス︾に注目された。 カリスマが発動して、フィリアネスがレミリアさんの後ろに周り、 俺の顔を見ようとする。 ﹁むっ、私の方を向いてくれない⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮あー、うー﹂ 急にあなたが近づいてきたので、と言い訳をしたいところだが、 やはり初対面の人の目を見るのは無理だ。愛嬌よく笑ったら、好感 度が上がるかもしれないのに。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィリアネス︾は﹁聖なるサークレット﹂ の効果で魅了を防いだ。 フィリアネスが頭につけている額当てはマジックアイテムで、魅 了を完全防御しているようだ。でも、﹁カリスマ﹂のおかげでステ ータスだけは見られる。 俺は別に、スキル上げのことしか考えていないわけではないのだ。 ゲーマーとしては、強いキャラクターのステータスは無視できない 情報でもあるわけだし⋮⋮閲覧させてもらおう。 90 所持スキルの多さは予想していたが、サラサさんと同じくらいの 情報量だった⋮⋮し、しかし、これは⋮⋮。 ◆ステータス◆ 名前 フィリアネス・シュレーゼ 人間 女性 14歳 レベル30 ジョブ:セイントナイト ライフ:340/340 マナ :120/144 スキル: 細剣マスタリー 40 鎧マスタリー 20 精霊魔術 30 ︻神聖︼剣技 50 魔術素養 10 恵体 25 母性 35 気品 12 アクションスキル: ピアッシング︵細剣マスタリー20︶ ツインスラスト︵細剣マスタリー40︶ 加護の祈り︵︻神聖︼剣技10︶ 魔法剣︵︻神聖︼剣技20︶ ダブル魔法剣︵︻神聖︼剣技50︶ 精霊魔術レベル3︵精霊魔術30︶ 91 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ パッシブスキル: 細剣装備︵細剣マスタリー10︶ 二刀流︵細剣マスタリー30︶ 手加減︵︻神聖︼剣技30︶ カリスマ︵︻神聖︼剣技40︶ 鎧装備︵鎧マスタリー10︶ マナー︵気品10︶ 育成︵母性10︶ オークに少し弱い スライムに弱い 残りスキルポイント:0 ︵⋮⋮じゅ、じゅうよんさい⋮⋮!?︶ 雷神フィリアネスのゲームでの公式イラストは、二十代の女性だ った。﹁フィル姐さん﹂という愛称で呼ばれてもいたし、俺の認識 が間違ってはいないはずだ。頻繁に﹁BBA結婚してくれ﹂と掲示 板に書き込まれるキャラの代表格でもあった。 ゲームではレベル60を超えてたはずなのに、年齢が下がってい るからなのか、30しかない。それでもほとんど無駄のない振り方 をして、今見せてくれた戦闘力には納得できる⋮⋮だが⋮⋮。 ﹁やはり、剣を持っている女は、赤ん坊には怖がられてしまうのだ ろうか⋮⋮﹂ 92 目の前でしゅんとしているのは、紛れもなく14歳の少女だった。 女騎士というより、少女騎士と呼ばなくてはなるまい。 しかし14歳で、リカルド父さんより強い⋮⋮どんなスキル上げ、 もとい苛烈な鍛錬を積んだらこんな強さを得られるのだろう。俺も ぜひ見習いたい。 ﹁フィリアネス様、私が公国の貴族の子女と知っていらしたようで すが⋮⋮﹂ ﹁私は公国を護る者。公王の系譜に連なる方々の名前はすべて存じ ております。レミリア・ハウルヴィッツ様⋮⋮あなたが、我が騎士 団の斧騎士リカルドと婚姻されてから、すでに二年になりましょう か﹂ フィリアネスは母さんの前に膝をつき、頭を下げる。その瞬間、 俺はひとつのことに気が付き、電撃に打たれるような気分を味わっ た。 ﹁ジークリッド﹂は俺のプレイヤー名で、ゲーム中に登場なんて しなかった。俺の両親もいなかったはずだ⋮⋮なのに、この世界で は、元からいた存在になっている。 俺はいくつかの仮説を立てるが、俺を転生させた女神に再会しな いことには、答え合わせは出来ない。今のところは、女神が﹁俺を 迎え入れるために﹂準備を整えた結果なのかもしれないということ だ。両親がいて、両親にはそれぞれの出自があり、人生があり、人 間関係がある。 神は自分が作り出した世界で、人間の存在を自由にすることが出 来る。 でも今は、それを傲慢だと思うよりは。 93 ﹁はい。この子はヒロト⋮⋮私とリカルドが授かった子です﹂ 俺はリカルドさん、レミリアさんの子として生まれさせてくれた ことを、女神に感謝したかった。 おんぶした俺を心地よい加減で揺らしてあやしながら、レミリア さんが笑う。この世界の、俺の母さんが笑っている。 俺はその笑顔を守りたかった。不甲斐ない前世をそれで取り返せ るとは思わないけど⋮⋮リカルドさんも、町のみんなも、サラサさ んやリオナだって、誰だって守ってやりたい。 それが女神にボーナスをもらって、この世界に生まれさせてもら った俺の、せめてもの恩返しだ。 ﹁⋮⋮なぜこちらを向いてくれないのだ。私はそんなに怖い顔をし ているか?﹂ ﹁⋮⋮まんま﹂ ﹁あらあら⋮⋮ヒロトったら、お腹がすいてるみたい。フィリアネ ス様、お礼はまた日をあらためて、必ずさせていただきます。それ では⋮⋮﹂ ﹁実を言うと、私は貴女の家に用があって来たのです。それに、先 ほどの連中の仲間がいないとも限らない。よろしければ私も、貴女 の家まで同行させていただきたいのですが⋮⋮﹂ フィリアネス⋮⋮と、ゲーム時代の感覚を思い出して呼び捨てに してしまっていたが、そろそろ敬称をつけよう。どうやら彼女は、 のっぴきならぬ重要な事情でこの町に来たようだ。ほとんど首都か ら動かないキャラだったから、俺にはこの先、どんなイベントが起 こるのか想像がつかない。 ずっと先まで、赤ん坊の身ではクエストに関わることなんて無い 94 と思ってたけど⋮⋮もしかしたら。俺はフィリアネスさんの来訪に、 密かに胸を弾ませていた。 ﹁な、なんだ、こちらをじっと見ているが⋮⋮私の顔に、何かつい ているのか?﹂ ﹁あら⋮⋮珍しいわね、ヒロトが人見知りせずに、人のことを見ら れるなんて。フィリアネス様、恐れ多いことですが、うちの子がな ついているみたいです﹂ ﹁む、むむ⋮⋮助けたからということか? 別に恩義に感じる必要 などないのだが⋮⋮﹂ もちろん母さんを助けてくれたことに感謝してもいたが、俺は、 こんな時でも目ざとかった。 ︵フィリアネスさんのスキルに母性が⋮⋮それも35。14歳なの に⋮⋮!︶ 彼女の装備を見るには、パーティに入ってもらわないといけない ので、まだ見られないが⋮⋮外見だけでも、何を身につけているか はだいたいわかる。 彼女はゲームでもそうだったが、防御力が高く、付加効果も多い ウェストアーマー ショルダーアーマー フルプレートメイルを、敏捷性が下がって攻撃回数が減ることを嫌 って装備しない。 クロースアーマー そのかわり、﹁腰鎧﹂という腰回りを護る装備と、﹁肩鎧﹂を、 ﹁布鎧﹂の上から装備している。つまり金属部分が肩と腰だけを守 っていて、あとは布なのだ。 ︵⋮⋮これがリアル乳袋⋮⋮14歳で、母性35⋮⋮7%のプラス 95 補正が入ったバスト⋮⋮!︶ ひたすら感嘆するほかない。14歳なのに、明らかにレミリアさ んより大きい。それではレミリアさんが小さいようだが、決してそ うではない。フィリアネスさんが恵体⋮⋮いや、発育に恵まれてい るのだ。 魅了スキルの判定は、しばらく時間が経たないと入らないし、彼 女がサークレットをつけている限りは無効化される。高望みをして はいけないが、セイントナイトの職業固有スキル﹁︻神聖︼剣技﹂ が取れるとなると、正直喉から手が出そうになってしまう。 サークレットを取って髪をおろさせたら⋮⋮じゃなくて、﹁魅了﹂ への抵抗値を下げられたら。そんなチャンスが、果たして訪れるだ ろうか。 ﹁この子ったら⋮⋮フィリアネス様、くれぐれもこの子を甘やかさ ないでくださいね。すぐに女の子を引き寄せる、不思議なところが ある子なんです﹂ ﹁む⋮⋮しかし、私は子供に好かれるような人間ではないし、ヒロ トもさっきからそっぽを向いている。私が甘やかしたところで、喜 んでもらえないのなら、何もするつもりはない﹂ ちょっと拗ねているフィリアネスさん。さすがに最強クラスのN PCから採乳をすることは出来ないか⋮⋮こればかりは諦めるしか ない。今まで18歳以上の女性しか母性20以上を持つ人がいなか ったから、14歳の彼女に対しては、少なからず背徳感があるしな。 装備を外してもらうには、それより強力な装備を渡すしかない。 ﹁交換﹂スキルで渡すにしても、聖なるサークレットと同価値のア 96 イテムなんて持ってないし。 お金とアイテムの﹁交換﹂も出来るのだが、幸運スキルを取った ときに取得した﹁ピックゴールド﹂は俺が自分で歩かないと発動出 来ないから、現時点の財産はゼロだった。それに、マジックアイテ ムのサークレットは金貨百枚じゃすまない価値があるだろう。 ︵八方ふさがりか⋮⋮うーん。とりあえず、彼女の用事が何か分か るだけでもいいか⋮⋮時間回復するとはいえ、母さんのライフも何 とかして回復させてあげないとな︶ ︱︱俺はまだ、今の時点では失念していた。 ゲームと違い、この世界では、どんな人でも絶対に装備を外す機 会があるということを。 97 第六話 雷神フィリアネス︵後書き︶ 明日は一話のみ更新になるかもしれません。 時刻は夕方∼夜になります。 98 第七話 従騎士ふたり 我が家まで同行することになったフィリアネスさんは、他に二人 の部下を連れてきていた。 ﹁フィリアネス様、途中から私たちを置いて行っちゃうなんてひど いですよ∼﹂ ﹁ハーフプレートメイルなど装備しているから、重くて足が鈍るの だ。私は一定のペースで進んでいるつもりだったが、勝手にお前た ちが遅れたのではないか﹂ ﹁わたしは軽装なんですけど⋮⋮フィリアネス様の足が速すぎるん です﹂ マールギット、アレッタと名乗った二人の従騎士は、フィリアネ スさんより年上だが、彼女に対して敬語を使っている。マールギッ トさんはセイントナイトの下位職にあたるナイトで、アレッタさん ヒーラー メディック はメディックだった。回復系の職業だが、武器もある程度使えるた め、騎士団などに所属している回復役は治癒術師ではなく、衛生兵 の場合が多い。 ﹁ごめんなさいね、荷物を持ってもらってしまって。本当に助かる わ﹂ レミリア母さんは買い物の途中だったが、怪我をしてしまったの でマールギットさんに荷物を任せていた。 ﹁あ、いいんですよ∼。私、歩くのは遅いですけど、フィリアネス 様より力持ちですから﹂ 99 ﹁む⋮⋮わ、私だって、今より厳しい鍛錬を積めばすぐに追いつく。 調子に乗ってもらっては困るな﹂ ﹁フィリアネス様はその細腕で、すごく力がおありになるじゃない ですか。マールさんしか腕相撲で勝てる人もいませんし﹂ マールギットさんは﹁マール﹂という愛称で呼ばれているようだ。 俺はレミリア母さんの背中におぶさり、三人の会話に耳を傾けてい た。 ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽マールギット︾︽アレッタ︾に注目さ れた。 ︵⋮⋮いやいや、さすがに即座にステータスを見るなんてことはし ないぞ︶ マールさんとアレッタさんが、俺の顔を見ようと近づいてくる。 マールさんは身長が高く、長い赤毛を一本の三つ編みに結んでいて、 そばかすがあるけれど肌が白い美人だ。全身をハーフプレートメイ ルで固めているが、胸や関節の部分が女性向けに加工されている⋮ ⋮男性向けと女性向けが別にあるんだな。 そしてアレッタさんは、ふわっとしたセミロングのブラウン髪で、 リアルにおいてはオフィス街のOLなどをやっていそうな容姿をし ていた。年齢的には大学生くらいだろうか。 ﹁⋮⋮こっちを向いてくれませんね∼。無理やり向かせちゃうぞ∼﹂ 100 ﹁む、無理やり剥くとか、赤ちゃんに何を言ってるんですか? ダ メですよ、そんなっ﹂ ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽マールギット︾は抵抗に失敗、魅了状態に なった。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽アレッタ︾は抵抗に失敗、魅了状態になっ た。 ﹁っ⋮⋮う、うーん? ちょっと胸がおかしいような⋮⋮何も変な もの食べてないのに⋮⋮アレッタちゃん、あとで診てもらっていい ?﹂ ﹁私も何か⋮⋮その、落ち着かないというか。あ、あの、レミリア 様、この子の名前は⋮⋮?﹂ ﹁あぁっ、また⋮⋮ヒロトったら本当にもう。すみません、この子 はちょっと不思議なところがある子で⋮⋮﹂ 俺を甘やかしてはいけない、とレミリアさんが説明する。確かに そうかもしれない、とこれからしようとしていることを棚に上げて 同意する俺。だんだん悪人になりつつあるような⋮⋮。 しかし﹁授乳﹂は、悪行ではないはずだ。悪行を行うと﹁カルマ﹂ が上がるので、ログに表示されるはず⋮⋮システム的には問題のな い行為だ。カルマに関係なく、母さんに嫉妬させないためには、授 乳は受けるべきではないのだが⋮⋮。 ︵俺が自分で動ける年になって、さっきみたいなことがあったら⋮ ⋮その時は、自分で母さんを守りたいんだ︶ 101 ﹁む⋮⋮何か遠い目をしている。赤ん坊なのに、思慮深い印象を受 けるのはなぜだろう﹂ ﹁赤ちゃんだって色々考えてるんですよ∼。こっちを見てくれませ んけど、可愛いですねぇ。あばば∼、べろべろば∼!﹂ ﹁マールさん、いちおう騎士団員なんですから⋮⋮少し自重してく ださい﹂ マールさんは身体は大きいが心は少女のようだ⋮⋮ゲームの時は まったくしゃべらず、フィリアネスさんの傍に立ってるだけだった から、新鮮な感じがする。アレッタさんも真面目キャラとは知らな かった。 ◇◆◇ ミゼールの町の北にある教会を中心にして、大きめの邸宅が集ま っている。その中のひとつが我が家である。町の人口は1500人 くらいで、全部で三百世帯近くが住んでいる。ゲームより人口が多 いので、俺が知らない人物がほとんどだが、たまに見覚えがある人 もいた。サラサさんはその一人だが、ハインツさんとリオナはゲー ムには未登場だ。 俺の家やサラサさんの家のように三人家族というケースは少なく、 五人∼六人家族が平均的だ。サラサさんたちも近くの家に住んでい るが、うちよりはかなり小さい。うちは二階建てで地下室まである が、サラサさんの家は平屋だった。これは、レミリア母さんの出自 による差が大きい。 102 町の周囲は木の柵で囲われているが、周囲に危険なモンスターが 出没するわけでもないので、そこまで厳重に守られていない。ゴブ リンが出ても、あっさりガードの人たちが撃退したり、捕まえたり しているようだ。低レベルモンスターといえば小動物系もいるが、 繁殖期以外は人里には近づかないし、こちらから仕掛けないと攻撃 してこない動物がほとんどだった。 つまり、ミゼールは基本的には平和な町だ。さっきみたいな事件 はめったに起こらないが、今後は気をつけていきたい。 ﹁こちらがレミリア様の邸宅⋮⋮やはり、ハウルヴィッツの伝統的 な造りになっておりますね﹂ ﹁ええ、父が祖父から譲り受けたものを、この町の人を雇って管理 してもらっていたの。リカルドと私が首都を離れることになってか ら、借り受けているわ﹂ ﹁お父さんのお家ですから、借りたんじゃなくて、もらったって言 いませんか?﹂ マールさんが素朴に疑問をぶつけるが、レミリア母さんと実家に は複雑な関係があるらしくて、﹁借りている﹂という表現をしてい る。それを察して、フィリアネスさんも、アレッタさんも苦笑した。 ﹁申し訳ありません、部下が非礼を⋮⋮マールは素直なところが長 所だが、時々素直すぎる﹂ ﹁うっ⋮⋮す、すみません。空気が読めてなくて、つい﹂ ﹁失言で騎士団を追放⋮⋮なんてことには、二度とならないように してくださいね。せっかく、フィリアネス様が拾ってくれたんです から﹂ マールギットさんは失言で騎士団を追放されかかったことがある 103 のか⋮⋮まあ、何というか、天然っぽいしな。 しかし他人に誤解されやすいというか、つい焦って失言してしま うことの多かった俺には、けっこう親近感が持てた。そんなわけで ︵どういうわけだ︶、俺は家に入るときに、マールさんとアレッタ さんのステータスを見せてもらった。 ◆ステータス◆ 名前 マールギット・クレイトン 人間 女性 16歳 レベル8 ジョブ:ナイト ライフ:460/460 マナ :24/24 スキル: 棍棒マスタリー 25 鎧マスタリー 30 騎士道 20 恵体 35 母性 28 不幸 10 アクションスキル: インパクト︵棍棒マスタリー20︶ 敬礼︵騎士道10︶ 授乳︵母性20︶ パッシブスキル: 104 棍棒装備︵棍棒マスタリー10︶ 気迫︵騎士道20︶ 鎧装備︵鎧マスタリー10︶ 鎧防御上昇︵鎧マスタリー20︶ 重鎧装備︵鎧マスタリー30︶ 育成︵母性10︶ ハプニング︵不幸10︶ オークに弱い 残りスキルポイント:4 ◆ステータス◆ 名前 アレッタ・ハミングバード 人間 女性 20歳 レベル11 ジョブ:メディック ライフ:76/76 マナ :120/120 スキル: 杖マスタリー 10 軽防具マスタリー 10 白魔術 10 衛生兵 30 魔術素養 10 恵体 3 母性 19 気品 10 105 アクションスキル: 治癒魔術レベル1︵白魔術10︶ 応急手当︵衛生兵10︶ 包帯作成︵衛生兵20︶ 毒抜き︵衛生兵30︶ パッシブスキル: 杖装備︵杖マスタリー10︶ 軽防具装備︵軽防具マスタリー10 マナー︵気品10︶ 育成︵母性10︶ ﹁のぼせ﹂になりやすい 残りスキルポイント:13 ︵⋮⋮これを見ると、色々と分かることがあるな︶ フィリアネスさんも﹁騎士道﹂を持っていて然るべきだというイ メージがあるが、持っていなかった。 騎士になるために必須のスキルというものはなく、条件を満たせ ば転職出来る。それはゲームと変わらない。つまり、フィリアネス さんは最初からセイントナイトになり、マールさんはナイトになっ たため、マールさんはナイトの固有スキルの﹁騎士道﹂を持ってい るのだ。 数字のキリがいいものが多いのは、彼女たちにはスキル振りをし ている自覚がなく、必要なものに勝手に振られるので、アクション・ パッシブスキルが発動するポイントまで振られやすいということだ 106 ろう。一部の例外もあるが、だいたいのものが10の倍数で発動す る。 ︵しかしフィリアネスさんも二人も、弱点パッシブがついちゃって るのが気になるな⋮⋮︶ 女騎士はオークに弱いというのは、騎士団にオーク討伐任務が多 く持ち込まれるので、オークのスキル﹁汚い悲鳴﹂を食らってしま うからだ。これを聞くとオークに弱くなってしまう。 オークをオーバーキルして倒し続けると﹁オークに弱い﹂はなく なるので、フィリアネスさんは﹁少し弱い﹂で済んでいたが、マー ルさんは普通にオークに弱い。これも女騎士はオークに弱いという イメージを、﹁エターナル・マギア﹂が忠実に守ってしまったがゆ えのシステムだった。 ︵あと、フィリアネスさんはスライムにも弱かったな⋮⋮そしてマ ールさんは不幸スキルを持ってしまってて、アレッタさんはのぼせ やすい、と︶ 攻略のヒントになるかは分からないが、知っておくに越したこと はない。 ︵ん⋮⋮まてよ。のぼせるってことは、風呂に入った時のバッドス テータス⋮⋮風呂⋮⋮︶ 考えているうちに、レミリア母さんがみんなを家の食堂に案内し ていた。フィリアネスさんは落ち着かなさそうにしつつも、控えめ に辺りを見回し、マールさんは普通に家具などに近づいて見ていて、 アレッタさんはやれやれ、と頬に手を当てている。三人共それぞれ 107 な性格だな⋮⋮ターニャさんたちもそうだけど。 ﹁皆さん、長旅で疲れたでしょう? お湯を沸かしますから、お風 呂に入ってさっぱりしてきてください﹂ ﹁よろしいのですか? 私たちは、町で宿を借りようと思っていた のですが﹂ フィリアネスさんが遠慮がちに尋ねる。母さんは朗らかに笑って 答えた。 ﹁ミゼールは小さな街だけれど、狩場や鉱山が近いので、冒険者は 数日前から宿を押さえておくのよ。それを知らなかった人たちは、 酒場で一晩明かすことになって大変なの﹂ ﹁ふぁー⋮⋮お酒の匂いがするところって、私苦手なんですよ∼。 想像しただけで酔っ払っちゃいそうです﹂ ﹁わたしも、出来れば騒がしくない、屋根のあるところで休ませて もらいたいです⋮⋮﹂ マールさんとアレッタさんは率直な意見を言うが、どうやらフィ リアネスさんも気持ちは同じようだった。 ﹁では⋮⋮かたじけない。リカルド氏に会って話したあとに宿を探 そうと思っていたのだが、この家の軒下を借りさせていただきたい﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そんな硬い言葉を使わなくてもいいのに。フィリアネ ス様は生真面目でいらっしゃるのね﹂ ﹁むっ⋮⋮わ、私は剣しか知らない女で⋮⋮知らずに非礼を働いて いるとしたら、謝罪せざるをえない⋮⋮﹂ やはりしゅん、としてしまうフィリアネスさん。金髪の物凄い美 少女だけに、その姿には、0歳児の俺でも保護欲をそそられざるを 108 得ない⋮⋮と、彼女の口調が伝染ってしまった。 ﹁雷神さまは戦闘では鬼強いですけど、本当はとっても可愛いとこ ろのある方なんですよ∼﹂ ﹁鬼強いって⋮⋮変な言葉を使わないでください、マールさん。そ れに公国最強のフィリアネス様に向かって、可愛いだなんて﹂ ﹁も、もういい。そこで公国最強と言われても、恥ずかしいだけだ ⋮⋮私はまだ未熟者だ。早く大人になって、おまえたちを見返して やりたいものだ﹂ フィリアネスさんは言って、荷物を入れていたバックパックを取 インベントリー り出す。革のバックパックは、騎士装備にはあまり合わないが、容 量的にはかなり使える道具入れだ。 ゲーム通りなら、インベントリーの容量の数値だけ、質量の法則 を無視してものを入れられることになるが⋮⋮ああ、やっぱりそう だった。フィリアネスさんは鎧を外すと、バックパックに入りそう もない大きさの具足とショルダーパッド、チェストプレートをしま い込む。どうなってるか分からないが、あれは便利だな。 ﹁あれほどの強さなのに、とても華奢な身体をされているんですね ⋮⋮そのわりに⋮⋮﹂ ﹁む⋮⋮ま、まあ、なかなか筋肉がつかないのだが、そこは技で補 えていると思っている﹂ レミリアさんは鎧を外したフィリアネスさんの胸を注視している が、フィリアネスさんは気づいていない。華奢なのに胸が自分より 大きいことを、うちの母さんは気にしているのだ。 クロースアーマー ︵し、しかし⋮⋮布鎧以外をここで外すとは思わなかったから、ち 109 ょっとすごい光景だな⋮⋮リカルド父さんには見せられないぞ︶ 自分のことを棚にあげつつ、俺は金属の鎧を外していく三人の女 性を見ていた。マールさんは身長が高いだけに、胸が大きくてもサ ラサさんほどのギャップはない。そして、アレッタさんは⋮⋮。 ﹁ほっ⋮⋮﹂ ﹁な、なんでしょうか、レミリア様⋮⋮そういった反応をされると、 恥ずかしいのですが﹂ ﹁い、いえ⋮⋮ごめんなさい、なんでもないから気にしないでね﹂ ◆ログ◆ ・︽レミリア︾はつぶやいた。﹁私が小さいわけじゃないのよね、 やっぱり﹂ ・︽フィリアネス︾はつぶやいた。﹁着いて早々風呂に入れるとは 幸運だった。汗をかいてしまったからな⋮⋮﹂ ・︽マールギット︾はつぶやいた。﹁今日のご飯はなんでしょね∼﹂ どれだけ小さくつぶやいてもログに出てしまうのは、いつか差支 えがないだろうか⋮⋮と思う。まあ、口に出さなければログには乗 らないけど。 つまりアレッタさんは、比較的胸がひかえめなのだった。レミリ ア母さんとは身長が同じくらいで、スレンダーな体型をしていると いえる。 母性19というのをしっかり確認していた俺は、母性は胸の大き さに比例してしまうんだろうか、と考えていた。母性スキルが大き 110 いほどプラス補正があるから、格差は広がるばかりだ⋮⋮と考える のも失礼だな。 しかし、前の授乳から時間が空いたのでお腹が空いた。レミリア 母さんにもう一度お願いしておこう⋮⋮と思った矢先。 ﹁レミリア様、お怪我をされている様子ですね。申し訳ありません、 気づくのが遅れて⋮⋮すぐに治療いたします﹂ ﹁い、いえ、大したことはないのよ、これくらい﹂ ﹁いいえ、擦り傷ができています。擦過傷はきちんと消毒しておか ないと﹂ アレッタさんは手際よく、母さんの腕のすり傷を治療する。﹁清 潔な布﹂に対して﹁包帯生成﹂スキルを使い、包帯を作ったあと、 ﹁応急手当﹂で治療する。仕上げに消毒も兼ねた治癒魔術をかけて くれて、母さんのライフは完全に回復した。 ﹁今日一日は安静になさってください。数時間で傷も消えるでしょ う﹂ ﹁は、はい⋮⋮でも、困ったわね。この子をお風呂に入れてあげな いといけないんです、うちの主人が帰ってくる前に﹂ ﹁よろしければ、私たちが入れてあげますよ∼。ね、ヒロトちゃん﹂ ︵ぶっ⋮⋮!︶ 思わず耳を疑ってしまった。今日は父さんに入れられる運命かと 思っていたら、マールさんが迷いなく誘ってくるなんて⋮⋮いや、 風呂に入れてくれようとするなんて。 ﹁マールさん、大丈夫なんですか? 赤ちゃんはデリケートなんで 111 すよ﹂ ﹁うちの親戚の子たちを、よくまとめてお風呂に入れてあげてたか ら。赤ちゃん一人なんて、お茶の子さいさいだよ∼﹂ ﹁む、むむ⋮⋮赤ん坊といえど、男といえば男なのだぞ。乙女の肌 を、殿方にさらすわけには⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は警戒している。 ・︽マールギット︾はあなたを見つめた。 ・︽アレッタ︾はあなたを見つめた。 ◆ダイアログ◆ ・︽マールギット︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YES/NO ・︽アレッタ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? Y ES/NO ︵魅了状態だから、こうなるよな⋮⋮でもレミリア母さんを嫉妬さ せたくはないし⋮⋮ど、どうすればいいんだ⋮⋮!︶ ﹁あ、あの⋮⋮うちの子と一緒にお風呂になんて入ると、その、何 て言うのか、おっぱいをあげたいっていう気持ちになってしまうか もしれなくて⋮⋮あぁっ、私も何て説明していいのか⋮⋮﹂ ﹁え、えっとっ、私、それくらいなら何とか大丈夫です。アレッタ ちゃんは無理だけど﹂ 112 ﹁はぅっ⋮⋮は、はっきり言わないでください! 気にしてるんで すから!﹂ ﹁む⋮⋮マールが良くても、わ、私は⋮⋮神にこの剣を捧げた身と して、簡単に裸を見せるわけには⋮⋮っ﹂ ︵っ⋮⋮そ、そうだ。風呂に入れば、絶対に装備が外れる⋮⋮フィ リアネスさんのサークレットも⋮⋮!︶ 今はまだ外していないが、さすがに髪を洗うときは外すだろう。 そのとき、﹁魅了﹂の判定が入れば⋮⋮! ﹁っ⋮⋮え、えっと。レミリア様、お願いです、ヒロトちゃんをお 風呂に入れさせてください∼!﹂ ﹁私からもお願いします。その、後学のために⋮⋮というと失礼で すが、赤ちゃんをお風呂に入れるって、とても貴重な体験になると 思うんです﹂ ﹁あ、アレッタまで⋮⋮なぜそんなに、ヒロトを風呂に入れたいの だ⋮⋮っ!﹂ フィリアネスさんが顔を赤らめつつ、信じられないという反応を する。しかしマールさんとアレッタさんの意志はまったく揺るがず、 俺に優しい視線を注いでいる。 ︱︱神よ、俺はまた罪を犯しました。 つまり俺は、マールさんとアレッタさんに﹁命令﹂してしまった のであった。システム的には問題ない行為でも、見えないカルマが 積み上がっていく⋮⋮そう、俺はスキル上げに魂を売った男だ。 113 ﹁そ、そこまで言うなら⋮⋮分かりました、お願いします。ヒロト、 おいたはしちゃだめよ?﹂ レミリア母さんからマールさんに引き渡される俺。最後に残った 反対派のフィリアネスさんは、端正な口元をぷるぷると震わせ、涙 目になっていた。くっ⋮⋮14歳の少女に泣かれると、さすがに申 し訳ない。 しかし俺は心を鬼にする。ここでセイントナイトのスキルを取っ た暁には、誇り高き騎士の魂を受け継ぎ、人々を護る力にすると約 束する⋮⋮! ︵神・聖・剣技! 神・聖・剣技!︶ プルプルしているフィリアネスさんを、ついに俺は内心で煽って しまう。なんて外道。でも仕方ない、セイントナイトが目の前に居 て、見逃すわけに行くか、否、そんなわけがない。 俺はフィリアネスさんが滞在しているうちに、絶対に攻略してみ せる。赤ん坊でいるうちに接触できたこのチャンスを、絶対に逃し はしない⋮⋮! ﹁フィリアネス様、ご無理にとは言いませんよ∼。私たちだけでも 入れてあげられますし﹂ ﹁そ、そうです。そんな、涙目になるほど恥ずかしいのなら⋮⋮で も、赤ちゃんですよ?﹂ ﹁⋮⋮だー、だー﹂ 愛嬌を振りまこうとするが、やはり素の俺ではフィリアネスさん の心は動かない⋮⋮万事休すか。 ﹁⋮⋮わ、私は⋮⋮赤ん坊が嫌いではない。しかしヒロトはすぐそ 114 っぽを向くのだ。きっと、私は嫌われているに決まって⋮⋮﹂ ﹁そんなことはありませんよ、さっきも言いましたけど、うちの子 はフィリアネス様になついています。それは間違いありません﹂ ︵母さん⋮⋮!︶ 俺のことを最もマークしているレミリア母さんがフォローしてく れた。純粋な気持ちで言ってくれたんだろうけど、俺で無理なら、 母さんに説得してもらうしか方法がない。 ﹁⋮⋮母君が、そう言うのなら。疑うことは、失礼に値するな﹂ みんなの視線を受けていたフィリアネスさんが、ふっ、と表情を 和らげる。そして、マールさんに抱かれている俺を、そっと優しく 受け取った。 ﹁私のことが怖いかもしれないが、あまりつれなくするな。これか ら一緒に湯船に浸かる身だ、仲良くしよう﹂ ︵我が人生に一片の悔いなし⋮⋮!︶ フィリアネスさんが俺を覗きこんで言う。俺はこの瞬間のことを、 忘れることはないだろう。 いや、ここからが難関だ。必ずフィリアネスさんのガードを突破 して、1だけでいい、﹁︻神聖︼剣技﹂スキルを手に入れてみせる ⋮⋮あくまで、この先にある苦難とか色々を乗り越えるために! ﹁⋮⋮ずっとそっぽを向かれているのだが。やはり、私以外で入っ た方が⋮⋮﹂ ﹁なーに言ってるんですか∼、雷神様が一度言ったことを撤回しち 115 ゃだめですよ∼。さ、行きましょう!﹂ ﹁この子⋮⋮愛想はよくないのに、目を放せないというか⋮⋮この 気持ちはなに⋮⋮?﹂ 風呂場に連れていかれる俺を、レミリア母さんはあきらめたよう に見送っていた。おいたはほどほどにするので、どうか許してほし い。今は、今だけは、人生の勝負の時なのだ。 116 第七話 従騎士ふたり︵後書き︶ 今回は一話あたりの文字数を倍にしてお送りしました。 引っ張ってしまいましたが、明日決戦となります。 よろしくお願いいたします。 117 第八話 風呂場︵修羅場︶ 我が家の風呂は、熱い湯を沸かしたあと、それを冷たい井戸水と 混ぜて温度を調節し、一時的に貯水槽に貯めるという仕組みになっ ている。それを外から浴室の中に引いて、バスタブに湯を溜めるわ けだ。 マールさんが外で湯を沸かしてくれている間、俺はフィリアネス さんに抱えられ、アレッタさんと一緒にお湯が沸くのを待っていた。 脱衣場と風呂場が一つになっているので、まだみんな服を着たまま でいる。この辺りは、現代の風呂と違うところだ。 ﹁は∼い、準備出来ましたよ∼。ああ、汗かいちゃった⋮⋮﹂ ﹁マールさん、そのかっこうで薪をくべてきたんですね⋮⋮すみま せん、任せてしまって﹂ クロースアーマー マールさんは布鎧だけの姿なので、汗をかくと布地が張り付いて ⋮⋮俺には縁がなかったが、部活少女が体操服で汗びっしょりにな ってしまったところを見てしまったような、そんな気分だ。 すす ちょっと顔に煤がついてしまってるけど、マールさんは気にして いない。アレッタさんはそんな彼女に本当に感謝していて、お礼を 繰り返し言っていた。この信頼関係、親友ってやつか⋮⋮いいな。 俺もそんな友達を作らないとな。 ﹁このお家って高い壁に囲まれてるから、外から見られる心配とか なくて安心だよ∼﹂ ﹁うむ、そうだな。貴族の邸宅はそうでなくてはならない﹂ 118 マールさんは働き者だな。元々は、大家族を支えて家事をしてた りしたんだろうか。 それにしても⋮⋮さっきからほっぺたにフィリアネスさんの胸が ぽよぽよと当たっている。俺がもうちょっと大きくなっていたら、 確実に鼻血を流しているだろう。無垢な赤ん坊でいるにも、そろそ ろ限界がきているが。 ﹁さて⋮⋮入るとするか。マール、アレッタ、先に入ってくれるか。 私はそれまで、ヒロトを抱えているからな﹂ ﹁はーい。なんだかんだいって、赤ちゃんを大事にしてますよね、 雷神さまは﹂ ﹁マールさんはまたそうやって⋮⋮フィリアネス様は恥ずかしがり 屋なんですから、デリカシーを持ってですね⋮⋮﹂ マールさんをたしなめつつ、アレッタさんは着ているものを脱ぎ 始める。それを途中まで賢者モードで見ていた俺は、ようやく事態 に気がついた。 ︵そうだ、まだ脱ぐんだった⋮⋮風呂イコール全裸だ⋮⋮!︶ 母さんは服を着たまま、俺を湯に浸からせてくれてから、あらた めて自分だけで風呂に入ることも多い。しかし三人は二択の余地な く、俺と一緒に風呂に入ってくれるようだ。 ﹁ずっと縛ってたから、くせがついちゃって⋮⋮ふぁ∼、くるくる ってなっちゃう﹂ ﹁いつもながらすごい髪のボリュームですね、マールさん﹂ ﹁湯に浸かる前に、私が洗ってやろう。いつも私が洗われてばかり だからな﹂ 119 ﹁いえいえ、大丈夫ですよ∼﹂ マールギットさんが長い三つ編みを解くと、カールした髪が腰の あたりまで届く。その髪がかかって絶妙に隠されているが、胸の丘 陵はロケットのように前に突き出ている⋮⋮こうしてフィリアネス さんの高さから見上げると、胸で上が見えない。 ﹁私もマールのように背を伸ばしたいのだが⋮⋮一体何をしたらそ んなになるのだ﹂ ﹁赤ちゃんの頃から、お母さんのおっぱいをいっぱい吸って育ちま したから♪﹂ ﹁マールさんのお母さまも、とても背が高いんですよね﹂ ﹁巨人族でもあるまいし⋮⋮と、それは言いすぎだな。許せ、マー ル﹂ ﹁いいえ∼、雷神さまが冗談を言ってくれると、胸がほっこりしま す﹂ マールさんは話しながらの動作が大きいので、身体の一部分がば るんばるんと上下に弾んでいる。あれでビンタされたら相当痛いだ ろうな⋮⋮乳ビンタというやつか。いや、そんな言葉があるのか知 らないが。 ﹁ヒロトちゃんも、今のうちにおっぱいをいっぱい吸って、大きく なるんでちゅよ∼﹂ ︵おわっ⋮⋮た、高い高い!︶ マールさんがフィリアネスさんから俺を受け取って、いきなり高 く持ち上げる。リカルド父さんもよくこうするが、同じくらいの高 さだった。 120 そして俺を持ち上げた拍子に、はらり、と彼女の髪が、覆い隠し ていた部分を滑り落ちてしまう。 なぜ、男はこうも女性の胸が好きなのだろう。これは、類人猿か ら人間に進化する過程で、視点の位置が高くなったからだと言われ ている。昔はおしりに目が行くのが普通だったのだ。何の話をして いるのだ。 ︵きれいな色だな⋮⋮い、いや、ピンクじゃなきゃ嫌だってわけじ ゃないけど⋮⋮︶ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁あ、ぴったり止まっちゃいましたね∼。怖かったのかな? 怖く ないでちゅよー﹂ ﹁赤ちゃん言葉を使えばいいってものじゃなくて⋮⋮私に任せてく ださい、マールさん。マールさんは良く転ぶので、危なっかしいで す﹂ ﹁アレッタちゃん、さてはヒロトちゃんを独り占めにしようとして ⋮⋮あ、雷神さま、どうしました?﹂ アレッタさんを牽制するマールさんの肘を、フィリアネスさんが ちょいちょいとつつく。 ﹁マール、とりあえずヒロトの服を脱がせてやれ。私やアレッタよ りは慣れているだろう﹂ ﹁はいはーい﹂ ︵この瞬間が、転生してきた中で一番恥ずかしい⋮⋮︶ 121 ◆ログ◆ ・︽マールギット︾はあなたの装備を全解除した。 俺だって恥ずかしい思いをしているので、もはやおあいこだろう。 三人の裸を見てしまっても⋮⋮と思ったら、フィリアネスさんは、 両手で顔を覆っていた。まだサークレットも外してないし、布鎧も 脱いでいない。 ﹁あ、あの。フィリアネス様、それでは目が隠れていませんが⋮⋮﹂ ﹁なっ⋮⋮ち、違うぞ! 私は見たいわけではない、見てはいけな いと思って⋮⋮っ﹂ ﹁雷神さま、可愛いですね∼。私もこんなにしっかり見るの初めて ですから、ドキドキしてますよ∼﹂ ﹁ど、ドキドキとか⋮⋮これはあくまで、後学のためにですね⋮⋮﹂ アレッタさんは言いつつも、切れ長の瞳で俺を見つめる。そんな に見ないでください、俺は0歳児ですよ。 ﹁う、うーん⋮⋮ヒロトちゃん、きっと立派な感じに成長めされる ような⋮⋮﹂ ﹁ま、まじまじ見ないでくださいっ! ヒロトちゃんもきっと恥ず かしがってます!﹂ アレッタさんが俺をマールさんから奪い取る。ささやかながらも 確かにあるふくらみ⋮⋮間近で見ると、また違う味わいがある。色 素の沈着という言葉からは無縁の状態で、マールさんといい勝負の 色をしている部分は、少し小さめだが、全体との調和が取れている。 122 ︵⋮⋮って、おっぱいソムリエじゃあるまいし、何を考えてるんだ。 俺までまじまじ見てどうする⋮⋮!︶ しかし俺の葛藤をよそに、マールさんは予想以上の動揺を見せる。 ほんとに男性に慣れてないんだな⋮⋮ゼロ歳で思うことではないが、 ちょっと可愛い。 ﹁や、やだな∼アレッタちゃん。私見てないよ? うん、全然見て ない⋮⋮きゃぁっ!﹂ ﹁ま、マールッ⋮⋮!?﹂ ばしゃぁぁぁんっ! マールさんはアレッタさんにつっこまれて動揺し、つるっと足を 滑らせる。フィリアネスさんの声もむなしく、彼女はバランスを崩 し、湯船に顔面から突っ込んで水柱を立てた。 ◆ログ◆ ・︽マールギット︾の﹁ハプニング﹂が発動してしまった! ・︽マールギット︾は転倒した! 13のダメージ! ・︽マールギット︾は気絶状態になった。 ︵⋮⋮白桃かな?︶ 浴槽から突き出ているマールさんのお尻を、俺はフルーツに形容 した。あれはフルーツだ、フルーツならまだ許される。お嫁にいけ ない感じにならずに済む⋮⋮! 123 ﹁しっかりしてくださいマールさんっ! もうっ、こんな時に限っ て⋮⋮おもたい⋮⋮っ﹂ ﹁ぼこぼこぼこ⋮⋮﹂ ﹁アレッタ⋮⋮ここは最後の手段だ、尻を叩いてやれ。そうすれば 活が入る﹂ ﹁わ、分かりました⋮⋮失礼します! せいっ!﹂ ぱしぃんっ! アレッタさんの威勢のいい掛け声とともに、浴室に小気味のいい 音が響く。びくん、と白桃が揺れて、マールギットさんが勢い良く 身体を起こした。 ﹁ぷはぁぁぁっ! い、いきなり何するのアレッタちゃん!﹂ ﹁それはこっちのせりふです⋮⋮はぁ。ヒロトちゃんもあきれてま すよ﹂ あきれてはないけど、﹁ハプニング﹂って10ポイントで発動す るわりにひどいな⋮⋮マールさん、今までよく無事でいられたもの だ。 ﹁もう、マールさんには任せていられませんから、私が先にお風呂 に入れてあげます。これくらいの温度でいいんでしょうか⋮⋮﹂ アレッタさんが慎重に、俺を湯に浸からせてくれる。ぬるいくら いなので全く問題ない⋮⋮うーん、気持ちいい。湯で布を濡らして 拭いてくれるだけでもいいんだけど、やっぱり湯に浸かるとじんわ りするな。めちゃくちゃ身体が熱くなるのが早くて焦ったりもする が。 124 ◆ログ◆ ・︽アレッタ︾があなたを風呂に入れている。 ・︽アレッタ︾の﹁母性﹂が上昇した! アクションスキル﹁授乳﹂ を獲得した。 ︵なにっ⋮⋮!?︶ アレッタさんが俺を風呂に入れてくれたことで、母性がちょうど 20に⋮⋮なってしまった⋮⋮! ﹁ふぅ⋮⋮マールさん、教えてもらわなくても出来てますよ。どう ですか?﹂ ﹁くぅっ⋮⋮わ、私の方が、もっと上手く入れてあげられるんだか らね∼!﹂ ﹁なにを争っているのだ⋮⋮まったく。もう、恥じらっている間も 無くなったではないか⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁聖なるサークレット﹂の装備を解除した。 ・︽フィリアネス︾は﹁祝福されたクロースアーマー﹂の装備を解 除した。 ︵⋮⋮や、やばい。これはやばい⋮⋮!︶ 125 湯気が風呂場に立ち込め始めた中で、金糸の髪に純白の肌を持つ 少女が立っている。 思考もまとまらず、﹁ヤバイ﹂とひたすら連呼することしかでき ない。乳袋に収まっていた豊かな実りの果実は、芸術的な均整の取 れた形をしていた。彼女の性格を示すように、重力にまったく従わ ずにツンとしている。 そして神が一筆書きで作り上げたかのような脚線美。もっと筋肉 をつけたいと言っていたが、今のままを保って強くなって欲しいと 思わざるをえない。もちろん年齢を経れば、俺の知っている﹁フィ ル姐﹂に容姿が近づいていくわけで、永遠にこのままではいられな いのだが。 ︵14歳に芸術を感じるのは、ロリコンじゃない⋮⋮のか⋮⋮?︶ 俺は今0歳児だから、14歳は年上で⋮⋮まずい、混乱してきた。 マールさんとアレッタさんを見ただけでも、俺はすでにのぼせそう なのに。 ﹁私もなつかれているのだから、ヒロトを風呂に浸からせてやりた いものだ﹂ ︱︱そして一度目のチャンスが訪れる。俺は祈るような気持ちで、 流れてくるログを待った。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィリアネス︾は抵抗に成功した。 126 ︵くっ⋮⋮ま、まあ、そうだよな。一発で上手くいくわけがない︶ 魅了の判定は、十五分ごとに一回行われる。風呂に入っているう ちに、最低でもあと一回はチャンスがあるはずだ。 フィリアネスさんは俺の心中の葛藤など知らず、お湯を桶で汲ん で、床に片膝をついて肩から浴びた。濡れた金色の髪が身体に張り 付き、さっきのマールさんと同じように、豊かな果実の核心を覆い 隠す。 ﹁石鹸が置いてあるのか。高い宿でも、無いところには無いからな ⋮⋮これはありがたい﹂ 石鹸を使って身体を洗う姿さえ、どこか輝きをまとって見える。 何をしても綺麗だ⋮⋮。 考えているうちにフィリアネスさんは身体を洗い終えて、もう一 度湯を浴びて泡を流す。そして濡れた身体を心持ち隠しながらこち らにやってきた。赤ん坊なので、隠しすぎるのも変だと思ってくれ たらしい。 ﹁ふぅ⋮⋮湯をこんなに贅沢に使ってしまった。しかしマールが沸 かしたのだから許すが、さっき突っ込んだときにかなり湯が溢れた ぞ﹂ ﹁大丈夫ですよ∼、ここをひねればお湯が足せますから﹂ ﹁注ぎ湯が出来るんですね⋮⋮ヒロトちゃんをゆっくりお風呂に入 れてあげられますね﹂ 127 ︵い、いや⋮⋮もうのぼせそうなんだけど⋮⋮︶ 目の前が微妙にぐるぐるしてきた⋮⋮このままではいけない。し かし、それは俺を抱えているアレッタさんも一緒だった。 ◆ログ◆ ・あなたはのぼせ状態になった。 ・︽アレッタ︾はのぼせ状態になった。 ・︽アレッタ︾は混乱している。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん⋮⋮近くで見ると⋮⋮意外に、つぶらな目を⋮ ⋮﹂ のぼせやすいアレッタさんは、まだ風呂に入ってないのにのぼせ てしまう。熱気にあてられたか⋮⋮それとも、魅了状態で俺を抱き しめてるからなのか。 ︵⋮⋮って、この状況は⋮⋮!︶ ◆ダイアログ◆ ・︽アレッタ︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? Y ES/NO ﹁⋮⋮私だって、マールさんにいつまでも⋮⋮負けてられないんで 128 す⋮⋮年上、ですから⋮⋮﹂ ﹁あぁっ⋮⋮あ、アレッタちゃん! だめっ、アレッタちゃんにそ れはまだ早いと思うの!﹂ ﹁な、何をしようとしているのだ⋮⋮アレッタ、とりあえず水を浴 びてはどうだ、顔が赤すぎるぞっ﹂ 慌ててアレッタさんを止めようとするふたり。俺はクールそうに 見えたアレッタさんが、目を潤ませて見つめてくるのを一瞬だけ見 たが、のぼせてきてはっきり顔が見えない。 しかし目の前にある、なだらかな丘陵とほのかな色めきだけはし っかり見えている。ぺたんこだ⋮⋮今まで遠回しに表現してきたけ ど、この中で一番年上なのにぺたんこだ。でもスキルは採れる。 ﹁あっちょっと待ってっ、待ってったらっ⋮⋮めでぃーーーっく!﹂ ﹁は、はしたない声をあげるなマールっ、待て、早まるなアレッタ ッ⋮⋮あぁっ⋮⋮!?﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃんなら、私⋮⋮してあげられる気がするんです⋮ ⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽アレッタ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたののぼせ状態が回復した。 ・あなたは﹁衛生兵﹂スキルを獲得した! ・︽アレッタ︾は運命を感じた。 メディック ︵よし、手に入れたぞ⋮⋮衛生兵スキルを︶ 129 俺の手が輝きを放ち、ぺた、となだらかな膨らみに触れたとき、 またもや新たなスキルが身体に流れ込んできた。この感覚は俺も、 女性の側も、癖になるものがあるようだ⋮⋮アレッタさんはすごく 満足そうな顔をしている。 ﹁⋮⋮ここまで経験するつもりじゃなかったのに。今回の任務は、 想定外のことばかりですね﹂ ﹁ば、バカモノォッ! よその赤ん坊に何をさせている、そんなと ころ、さ、触らせたりして、変なことを覚えたらどうするっ⋮⋮!﹂ ﹁赤ちゃんには甘えるのも必要なことですから、問題ありません。 フィリアネス様もなさってはいかがですか?﹂ ﹁う、ううっ⋮⋮な、なんだその自信は! 私は認めないぞ!﹂ フィリアネスさんは涙目になって慌てふためいているが、アレッ タさんは俺に微笑みかけるばかりだ。泣きぼくろが妖艶すぎて、な ぜ未婚なのに未亡人みたいに見えるのだろう、などと思ってしまう。 そんな俺たちを、マールさんは湯船の中からじっとりと見つめて いた。 ﹁アレッタちゃんのこと⋮⋮年上だけど、ちっちゃいってずっと思 ってた。それは取り消します﹂ ﹁ま、マールさん⋮⋮怖いですから、いつもみたいに語尾を伸ばし てください﹂ 状態異常が回復したので、俺にははっきりと、マールさんの姿が 見えた。 ︵⋮⋮ま、まあ、発育には個人差があるからな︶ 身体はダイナマイトボディとしか言えないマールギットさんだが、 130 やはり十六歳ということで幼さを残した部分があった。見なかった ことにしておく、それがデリカシーというものだ。 ﹁⋮⋮こうしてヒロトちゃんを見てると、お母さんになったときの 気持ちが分かるっていうか⋮⋮﹂ ◆ダイアログ◆ ・︽マールギット︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YES/NO ﹁遠慮しなくていいんだよ∼⋮⋮? アレッタちゃんより大きいし、 きっとヒロトちゃんも大満足だよ∼﹂ ﹁そ、そんな⋮⋮ヒロトちゃんはもうお腹いっぱいです、そうに決 まってます!﹂ ﹁お、お前たち⋮⋮なぜそうもヒロトを甘やかすのだ。そんなに気 に入るような出来事があったというのか⋮⋮くっ、わからない⋮⋮﹂ フィリアネスさんは相変わらず顔を覆いつつも、目の部分が隠れ ていなかった。見届けようというのか⋮⋮俺がマールさんの﹁恵体﹂ 、あるいは﹁騎士道﹂を受け継ぐ瞬間を。 ﹁筋肉質に見えるかもしれないけど、ここはそうでもないから⋮⋮ はい、ぺたり﹂ 彼女が言うとおり、俺はぺたり、と小さな手のひらで、はつらつ とした若さに満ち溢れたマールさんの胸に触れた。 131 ◆ログ◆ ・あなたは︽マールギット︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは﹁騎士道﹂スキルを獲得した! ・︽マールギット︾は幸せになった。 ︵この新しいスキルが得られる感じ⋮⋮プライスレスすぎるな⋮⋮︶ 満足感に浸っていると、マールさんはさらに俺を気に入ってくれ たようで、満面の笑顔で俺を見つめていた。 ﹁⋮⋮こんな気持ちになるんですね∼。えへへ⋮⋮ヒロトちゃん⋮ ⋮﹂ ﹁も、もういいですから交代してください! 私の方が衛生兵なの で、こういうことは得意なんです!﹂ ﹁ま、待てっ、かなり赤くなっている⋮⋮私と風呂に浸かったら、 もう上がらなくては﹂ フィリアネスさんはそう言うけど、俺は﹁採乳﹂を定期的にして いれば、常に完全回復だ。 今は再度、﹁魅了﹂が発動するのを待つしかない。十五分だから、 そろそろのはずだ。 ︵従騎士のふたりの固有スキルはコンプリート⋮⋮しかし本命はま だ⋮⋮っ!︶ ﹁む⋮⋮おとなしいな。本当に大丈夫か? 顔色は良いようだが⋮ ⋮﹂ フィリアネスさんが俺を抱えて、一緒にお風呂に浸かろうとする。 132 そのとき、運命のログが流れた。 ︵頼む⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィリアネス︾は抵抗に成功した。 ︵うぁぁぁぁぁ!︶ 思わず頭を抱えたくなる。なんてガードが硬いんだ⋮⋮サークレ ットなしでも鉄壁すぎる。 ﹁⋮⋮何かやはり不満そうだな。どうすれば、もっと愛らしくして くれるのだ?﹂ ﹁⋮⋮まんま﹂ ﹁お母さんがいないとさみしいんじゃないですか? よしよし、お 母さんでちゅよ∼﹂ ﹁マールさん、さすがにそれは⋮⋮赤ちゃんでも判別くらいつきま すよ﹂ 俺がこのとき﹁まんま﹂を、フィリアネスさんの授乳を受けたい という意味で言ったことは言うまでもない。 ﹁む⋮⋮少し湯が熱いな。やはりヒロトが心配だから、もう少し浸 かったら上がるとしよう﹂ ﹁はーい﹂ ﹁了解しました﹂ 133 こうして俺の戦いは終わった。しかし、翌朝になるまでなら、フ ィリアネスさんはサークレットを外したまま、この家で過ごすはず ⋮⋮。 ︵まだだ⋮⋮まだ俺はあきらめない。ここであきらめたら絶対に後 悔する⋮⋮!︶ 一緒に風呂に浸かってくれている少女騎士に対して、闘志を燃や す俺。フィリアネスさんは鳶色の瞳で俺を見つめながら、小首をか しげていた。 134 第八話 風呂場︵修羅場︶︵後書き︶ 勝負の行方は夜の部に持ち越されました。 父と母の目をかいくぐって 聖騎士に添い寝をしてもらえるのか? フィリアネスの用件も明かされます。 135 第九話前編 魔剣カラミティ︵前書き︶ ※今日は長くなりましたので、二話分割で前後編でお届けいたしま す。 136 第九話前編 魔剣カラミティ 風呂から上がったあと、俺は居間で揺りかごに入れられ、レミリ ア母さんに揺らされていた。 ◆ログ◆ ・︽レミリア︾は子守唄を歌った! あなたは眠くなった。 ・あなたはまぶたが重いと感じた。 ︵ま、まずい⋮⋮眠くなってきた⋮⋮︶ ﹁いっぱい眠って、早く大きくなってね、ヒロト。お母さんたちは それが一番嬉しいのよ﹂ ﹁⋮⋮うー、うー﹂ ﹁ふふっ、ちょっとずつ話してることがわかってきたみたいね﹂ 俺はレミリア母さんの顔を見る努力をずっとしていて、ようやく、 彼女が寂しがらないくらいには顔を見ていられるようになった。 しかし純粋に気恥ずかしい⋮⋮十八歳だもんな、母さんは。今は いつも結っている髪をほどいていて、少し大人びて見える。西洋的 な顔立ちだけど、彫りが深すぎるということもなく、柔らかい印象 の美人だ。目が大きくて、睫毛が驚くほど長い。 生まれたばかりの時と比べてしっかり目が見えるようになると、 137 入ってくる情報も増える。スキル上げとは関係ない部分で、俺は急 速に成長していた。 ︵⋮⋮寝て起きるたびに何かが変わっていく。それが赤ん坊か⋮⋮︶ 考えていられなくなって、俺はうとうとと目を閉じる。レミリア 母さんが微笑み、俺の頭を撫でてくれた。 ◆ログ◆ ・︽リカルド︾は扉を開けた。 ・あなたの眠気が少し取れた。 ﹁帰ったぞ、レミリア、ヒロト。おお、今眠ったところか? 悪い な、騒がしくして﹂ 父さんが帰ってきた物音で、かろうじて眠らずに済んだ。寝てし まいたい気持ちもあるが、今日はそんなわけにもいかない。 ︵目が覚めたらフィリアネスさんが居なかった⋮⋮なんて、後の祭 りだからな。危なかった︶ 俺は揺りかごの中でもぞもぞと動く。そして手を伸ばすと、レミ リアさんが苦笑しつつ、俺の小さい手を握ってくれた。 ﹁あなたも、帰ってきてヒロトが寝ちゃってたら寂しいものね。こ の子もわかってるみたい﹂ ﹁だー、だー﹂ 138 ﹁ははは、まあな。ヒロト坊はえらいな、父さんを待っててくれた のか﹂ 大きくてごつい手で俺に触る前に、リカルドさんはレミリアさん から布を渡され、手を拭く。今日は狩りなんかはしてないみたいだ けど、たまに動物や魔物の血がついていることがあったりする。俺 は抵抗力がまだ弱いので、二人ともかなり気をつけて触れてくれて いた。 ﹁おっ、最近だんだんこっちを向いてくれるようになってきたなぁ。 いろんな人と接して、だんだん慣れてきたか?﹂ ﹁私のことも見てくれるようになったのよ。﹃まんま﹄って、私の ことも呼んでくれるし﹂ ﹁なにっ⋮⋮お、俺のことは? 俺のことは呼んでくれないのか?﹂ 前世でも、俺は常に一緒にいた母さんのほうを先に呼んだ。父さ んのことが分かるようになったのは、いつ頃だっただろう⋮⋮と、 少し思いを馳せてしまう。 ﹁⋮⋮まんま﹂ ﹁だぁぁ、それしか喋れないか⋮⋮しかしそこまで来たら、あと一 歩だ。おとうさん、おとうさんだぞ﹂ ﹁パパの方が言いやすいんじゃないかしら? ヒロト、この人があ なたのパパよ。リカルドっていうの﹂ ﹁⋮⋮ぃ⋮⋮ぁぅ⋮⋮ぉ﹂ ﹁おぉっ! ⋮⋮って、名前のほうじゃなくて、お父さんと呼んで 欲しいんだがな﹂ 母音しかほぼ発音できなくて、﹁ま﹂などの限られた言葉だけ言 える。もう少しなんだけどな⋮⋮生まれて4ヶ月、首がすわったば 139 かりの段階ではこんなものなのかな。 ﹁⋮⋮いあうお﹂ ﹁おおおおっ! うーむ、この子は天才かもしれんぞ、レミリア﹂ ﹁あなたったら⋮⋮それはちょっと大げさだけど、もうすぐしゃべ れるようになるのかしらね。周りの話を聞いてると、あと3ヶ月く らいで、つかまり立ちも始めるみたい﹂ ﹁ヒロトはもうちょっと早いかもな。なんせ、俺の子だ﹂ まだ赤ん坊の俺のことを、両親は誇りに思ってくれてる。その信 頼を、決して失いたくない。 俺は揺りかごの端に手を伸ばして、しっかり掴まる。そして身体 を動かす練習をしていると、リカルド父さんにひょいっと抱き上げ られた。 ﹁まだまだ赤ん坊のままでいてほしいけどな。こんな早い時期にお しめもいらなくなるなんて、教会にでも行けば﹃神の子﹄扱いされ るぞ﹂ ﹁本当にね⋮⋮泣いて呼ぶんじゃなくて、手を叩いたりするように なったし﹂ 泣くと声帯は鍛えられそうだが、マナが減るんだよな。なので、 俺はレミリア母さんにいろんな形で合図をするようになった。こっ ちに来てさえくれれば、彼女はだいたい意図を汲んでくれる。 父さん母さんとは仲良くやっていけそうだけど、問題は、町の住 人と話すときのことだ。俺と同年代の子供もいるし、なんとか上手 くやらないと、両親に心配をかける。 しかしエターナル・マギアなら、努力でコミュ障を補える。人の 140 輪に積極的に入るなんてことは敷居が高いけど、友達を10人⋮⋮ いや、5人。3人だったら、何とかできる。何とかしたい。 ◇◆◇ 母さんの怪我はすっかり良くなっていたが、昼間の出来事を聞く と、リカルド父さんは静かにアントンたちに怒りを向けつつ、母さ んに大事を取って休むように言った。 ﹁では、失礼します⋮⋮私は休んでいますので、何かありましたら 呼んでください。あなた、ヒロトは連れていった方がいいかしら?﹂ ﹁いや、まだ目が冴えてるみたいだし、もう少し遊ばせてやろう。 それじゃ、おやすみ⋮⋮レミリア﹂ リカルド父さんがレミリア母さんの頭にぽん、と手を置く。ナデ ポという言葉があるが、たぶん母さんはそうやって父さんを好きに なったんだろうな、と思うやりとりだった。 母さんが寝室に行ったあと、フィリアネスさんたちが居室から出 てくる。彼女たちは来客用の部屋を使っていて、服もレミリア母さ んが用意したものに着替えていた。木綿のシャツとスカート姿の騎 士三人は、町娘のようでずいぶんイメージが変わって見える。 ﹁私たちがもう少し早く着いていれば、奥方に怪我をさせずに済ん だのだが⋮⋮済まない﹂ ﹁いえ、とんでもない。聖騎士殿が来てくれて良かった。俺が現場 に居合わせていたら、とても﹁手加減﹂など出来る気がしない﹂ 141 リカルド父さんは笑っているが、なぜレミリア母さんが怒ったの かを知ったら、ますますアントンたちを許しはしないだろうと思う。 まあ、ガードに捕まって有罪になると首都に連れていかれるから、 今は町にはいないわけだけど⋮⋮。 ﹁そうですよね∼。私もメイスで戦ったりしたら、気絶じゃ済まな いかもしれないですし∼﹂ ﹁手加減のしかたはぜひ覚えてくださいね、マールさん⋮⋮﹂ ﹁騎士道﹂スキル50ポイントで手加減が取れるんだったかな。 ライフを1にできるって、実はすごく有用だから、取得の難易度は 高めになっている。フィリアネスさんは︻神聖︼剣技のほうで取っ ていたな。 ﹁それで⋮⋮リカルド殿。私がミゼールに来たのは、他でもなく⋮ ⋮﹂ ﹁ええ、分かっています。しかし、この従騎士たちには聞かせるべ き話じゃない。まあ、マールギットさんとやらは、ヘタをしたら俺 より強いみたいですがね﹂ ﹁腕っぷしだけは、マールは騎士団で随一だからな。私でも力だけ は勝てないほどだ﹂ フィリアネスさんの側近の一人が、戦闘になると異常に強いとい うのはゲームでも語り草になっていた。おかげで騎士団が強キャラ だらけというイメージがついていたのだが、実はそうでもなかった りする。フィリアネスさんが公国最強で、マールさんは二番目⋮⋮ 抜きん出て強いというだけだ。低レベルであの恵体だし、レベル2 0にもなれば棍棒スキルが上がり、﹁ダブルインパクト﹂ですさま じいダメージを叩き出すようになる。 142 ﹁私たちが聞いちゃいけない話⋮⋮わ、わかりました。すみません、 では今日はご挨拶だけで∼﹂ ﹁それではフィリアネス様、また後ほど。私たちは部屋に戻ってい ます﹂ マールさんとアレッタさんは俺の方を見て微笑んだあと、部屋を 出て行く。フィリアネスさんは、俺の家に重要な用事があって来た ⋮⋮期せずして、俺も話を聞かせてもらえる状況だ。 ﹁⋮⋮私はこのたび、最高司祭より、﹃護り手﹄を監視する役目を 与えられ、従者を伴ってここに来た﹂ ﹁なるほど⋮⋮公国最強のあなたが、こんな田舎町に足を運ぶのは いささか非効率にも感じますが。貴女以外には務まらない、という 考え方もありますか﹂ いつも砕けた言葉を使うリカルド父さんが、フィリアネスさんに 対してはいくらか畏まっている。いつになく緊張した空気に、俺も 手に汗を握ってしまっていた。 ︵⋮⋮﹃護り手﹄って、何を護ってるんだ⋮⋮誰のことなんだ?︶ ﹁あの剣は、今も無事に、抜かれずに安置されているか?﹂ ﹁間違いなく無事です。この俺が生きている限りは、あれを守り切 ると決めています﹂ リカルド父さんが迷いなく答える。﹃生きている限り﹄という言 葉に、俺は少し、ぞくりとするものを感じた。 命を懸ける必要があるほど、危険なもの⋮⋮﹃あの剣﹄。それを、 リカルド父さんが守っているのか。 143 ﹁⋮⋮済まない。ここで平和に暮らしているあなたがた家族に、あ の剣は似つかわしくない。私が受け取って、出来るだけ遠くに持ち 去り、封印するべきだ﹂ ﹁公王と大司祭様は、あの剣が目の届く範囲⋮⋮首都から三日の距 離にあるこのミゼールにあることで、ある程度安心しておられるの でしょう。フィリアネス様、あなたも首都での任務の合間に、こう して様子を見に来ることができる﹂ ﹁それは⋮⋮そうなのかもしれないが。もしもの時、レミリア殿と ヒロト、そして町の人々にも累が及ぶことを考えれば⋮⋮﹂ フィリアネスさんは辛そうな顔をしている。公国最強の聖騎士と いえど、14歳⋮⋮任務だからといって、全てを割り切れるもので もないんだろう。 そして彼女は俺と母さんのことを心配してくれている。そんなフ ィリアネスさんを見て、リカルド父さんはふっと笑った。 ﹁あなたはまだ若い。俺も言うほど年を重ねてはいないが、自分の 強さに限界を感じ、騎士の道を捨て﹃護り手﹄になることに一生を 費やそうと決めた。それだけのことです。レミリアはそれを理解し ているし、﹃あれ﹄がどれほど危険かも分かっている。それでも彼 女の父親は、こうして住む場所まで与えてくれた﹂ ﹁⋮⋮そう⋮⋮だったのか。私はあなたたちが首都を出た当時、ま だ聖騎士になるために修練を積んでいた。そんな私が、軽々しく、 あなたの覚悟に口を出してはならない⋮⋮そうも思う﹂ ﹁斧を振るう俺は、あの剣に魅入られずに済む。騎士としての実力 が半端な俺でも、果たせる役割があったということです﹂ ﹁⋮⋮私もあの剣を手にしても、魅入られることはないだろう。同 じ剣でも、私の剣とは種類が違う。ならば、護り手の役割は、私が ⋮⋮﹂ 144 フィリアネスさんの言葉を、父さんは無言で制した。やめておけ、 という顔だった。 ﹁聖騎士には聖騎士の役割がある。俺も時が来れば、あの剣を持っ て、妻子のもとを離れるでしょう。しかし、今は⋮⋮せめて、ヒロ トが大きくなるまでは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮分かった。しかし、ひとつだけ頼んでおきたい⋮⋮公国も、 大司祭様も、あなただけに全てを押し付けたいわけではない。﹃あ の剣﹄が目覚めるようなことがあれば、全力で阻止する。あなた一 人で抱え込むのではなく、私たちにも助力を求めてくれ﹂ ﹁ええ、そうでなくては困る。あれは、人の手には余るものです。 だからこそ、こんな片田舎にあるとは誰も思わない⋮⋮さらに言え ば、俺はもはや騎士ではなく、ただの木こりですから﹂ ﹁⋮⋮副騎士団長にまで上り詰めたあなたが、何を言うのですか。 あなたは﹃あの剣﹄が見つかったとき、誰も希望しなかった﹃護り 手﹄を、自ら望まれたと聞いています。騎士団での栄誉も、何もか も捨てて﹂ 父親は元騎士じゃないか。そんな俺の想像を、現実は既に遥かに 超えてしまっていた。 リカルド父さんは副騎士団長⋮⋮この若さで。そして、その地位 を捨てて、この町に移り住んだ。 ﹁都落ち﹂なんかじゃない。父さんは自分の意志で、何か重要な 役目を果たそうとしたんだ⋮⋮。 ﹁誰かがやらねばならんのです。ならば、地位など関係ありますま い﹂ ﹁⋮⋮あなたの覚悟、しかと受け取りました。あとは剣の無事を確 かめ、私はしばらくミゼールに滞留したのち、首都に戻ります﹂ ﹁ここはいい町です、色々と見ていってください。しかし鉱山の奥 145 にだけは行かないことを勧めます。あそこの奥は溶岩があり、外よ り強い魔物の出る魔窟ですから﹂ ﹁心得ておく。あまり汗をかくと、ヒロトと遊ぶときに、鼻を曲が らせてしまうかもしれないしな﹂ ﹁はっはっ⋮⋮女の汗と、俺のような無骨な男の汗では違いますよ。 ヒロトは俺の血を継いで、そういうのは気にせん男に育つでしょう。 なあヒロト、聖騎士様の汗だったら気にしないよな?﹂ ﹁⋮⋮だー、だー﹂ 父さん、いきなりフランクになりすぎだ。俺もどう反応していい のかわからないよ。 しかしまあ、汗にはフェロモンが含まれているというので、聖騎 士の汗ならさぞ⋮⋮って、それは変態だ。 ﹁⋮⋮何となく、ヒロトがリカルド殿の息子というのがわかるよう な気がする﹂ ﹁こいつは俺より、よほど見どころがありますよ。まだゼロ歳です が、今から目をつけておいてはどうです? 聖騎士殿の﹃戒め﹄は、 たしか二十九まで解けぬのではなかったですか。その頃にはちょう ど⋮⋮﹂ ﹁な、何を言っている⋮⋮私の戒めのことは、ヒロトには関係はな いだろう。まして私は、生涯神に剣を捧げ尽くすと決めたのだから な。脇見をすることなど⋮⋮﹂ ﹁所帯を持つのはいいもんですよ。これは説教じゃなく、俺は本当 にそう思っている。俺は﹃あれ﹄を守りながら、ゆるやかに錆びて 朽ちていく斧になるはずだった。レミリアと、そしてヒロトのおか げで、そうならずに済んだんです﹂ 父さんは俺を抱え上げると、優しく背中を叩いてあやしてくれる。 何か泣きたい気持ちになった。俺は父さんの背負っているものも 146 何も知らず、その父さんの覚悟を受け止めた母さんの気持ちも知ら ないで、毎日をただ穏やかに、求めるままに過ごしていた。 もっと、父さんや母さんのことが知りたい。そうしないといつか、 本当に守りたいときに、何も出来ずに終わってしまうかもしれない から。 ﹁さて⋮⋮剣を、直接確かめられるんでしょう? 案内しますよ﹂ ﹁今から見られる場所にあるのか?﹂ ﹁ええ。灯台もと暗し、というわけでもありませんが⋮⋮話すより も、見てもらった方が早い。ヒロト坊、ここで待っててくれな﹂ 父さんは俺を降ろそうとする。しかし俺ははっしとしがみついて 離れなかった。 ﹁ま、参ったな⋮⋮こりゃ。なついてくれるようになったのはいい が⋮⋮父さん、今から大事な用事があってな﹂ ﹁⋮⋮ぱ、ぱーぱ﹂ ﹁なにっ⋮⋮そ、そこまで行きたいのか⋮⋮しかしあんなもの、子 供に見せるのは⋮⋮﹂ 死力を尽くして父さんを説得しようとする俺。赤ん坊に出来るこ とならどんなことでもする。 会話じゃなくて態度で示すのも、かなりのエネルギーが必要だっ た。でも、今はそんなことを言っていられない。 ﹁⋮⋮フィリアネス様、息子も連れていっていいでしょうか? 俺 が﹃あの剣﹄を持ってお見せします﹂ ﹁む⋮⋮ま、まあ、赤ん坊は剣を持つこともできないし、魅入られ ることもないだろうが⋮⋮分かった、私がヒロトを責任をもって抱 147 えていよう﹂ 父さんからフィリアネスさんに引き渡される俺。石鹸の匂いがす るな⋮⋮そして、確かに父さんより、フィリアネスさんの方が圧倒 的にいい匂いがした。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィリアネス︾は抵抗に成功した。 もう3回くらいは追加で発動してるけど、フィリアネスさんの硬 さと言ったら⋮⋮聖騎士って、魅了に強いって隠しパラメータでも あるんだろうか。 ﹁ははっ、俺の時よりおとなしくなって⋮⋮照れてるのか、ヒロト 坊﹂ ﹁赤ん坊なので、何もわからないと思うが⋮⋮この子はなんという か、ただの赤ん坊というだけではすまない気がするな﹂ ﹁ええ、よく言われてます。だからこいつは、間違いなく大物にな るんですよ﹂ 父さんは爽やかに笑うと、家の地下室に向かう。そこに﹃あの剣﹄ があるのか⋮⋮俺を抱いているフィリアネスさんも、緊張しながら 階段を降りていった。 ◇◆◇ 148 家の地下室に入ったのは初めてだった。そこには一つの部屋があ るわけではなく、階段を降りた先に、人二人が並んで通れるほどの 広い通路が広がっていた。空気は思ったよりかび臭くはなく、どこ からか風が流れてきている⋮⋮水の流れる音も聞こえてきた。 ﹁ここは⋮⋮どこに繋がっているのだ?﹂ ﹁ミゼール教会の地下の深部です。教会で祝福を受けた聖水の池に 沈めることで、あの剣の力を少しでも抑えようとしてるんですがね ⋮⋮まあ、気休めといえばそれまでだが﹂ リカルド父さんは苦笑して言う。通路と階段が交互にあって、少 しずつ地下深くに潜っていく⋮⋮そして。 ﹁⋮⋮ここに、あの剣を安置しているのか。まるで、女神の祭壇の ようだな﹂ ﹁俺も初めはそう思いました⋮⋮そこに封じられているものが魔剣 というのは、何とも皮肉な話です﹂ ︵魔剣⋮⋮ま、まさか⋮⋮!︶ ﹃あの剣﹄﹃あれ﹄と言われるとピンと来なかったが、﹃魔剣﹄ と言われれば反応せざるを得なかった。 エターナル・マギアに存在する武器の中で、プレイヤーキャラが 誰一人として持つことが出来なかった、﹃存在するだけの最強武器﹄ 。その一つが、﹃魔剣﹄と言われるものだった。 剣、槍、細剣、斧、棍棒、刀、弓、杖。八つの武器種に1つずつ ﹃魔﹄の名前を冠する武器が存在する。文字通り、魔王が所持する 武器だとか、魔王を倒すための武器だとか色々言われていたが、一 部の武器が安置されているところを見られるだけで、絶対に入手出 149 来ないアイテムだった。 ﹃魔槍ディザスター﹄は見たことがあるが、魔剣は見たことがな い。本当に、あの魔剣が⋮⋮田舎町の、それも俺の家の地下からつ ながっている場所に安置されているのか⋮⋮? ﹁リカルド殿、どこに魔剣があるというのだ? どこにも見当たら ないが⋮⋮﹂ ﹁ここの仕掛けを使って⋮⋮フィリアネス殿、見てください。そこ の聖水の溜まっている池を﹂ 父さんが部屋の隅にある床に触れて何かの操作をすると、上から 滴り落ちてくる聖水を受け止めていた大理石のように磨きあげられ た石の器が2つに割れ、水が一気に流れ落ちる。ダンジョンにこう いう仕掛けが良くあったけど、転生してから見るのは初めてだった。 そして器の水が枯れたあと、姿を現したものは⋮⋮聖水に沈めら れていた、黒い鞘に収められた長剣だった。 ﹁これが⋮⋮災厄の魔剣、カラミティなのか⋮⋮?﹂ ﹁魔神が、世界を滅ぼすために魔王たちに与えた武器。魔王を討っ た勇者によって持ち去られ⋮⋮公国領内の、勇者が暮らしていたと される場所に、この剣だけが残されていた。全く勇者とやらも、何 を思って捨てていったんでしょうな﹂ リカルド父さんは魔剣を手に取ると、フィリアネスさんに見せる。 俺は鑑定スキルがないために簡単な情報しか得られないが、その剣 の情報をログで確かめた。 150 ◆アイテム◆ 名前:?魔剣カラミティ 種類:長剣 レアリティ:ゴッズ 攻撃力:1 ・未鑑定。 ・呪われている。 ・封印されている。 ゴッズ ︵魔剣⋮⋮レアリティ、神話級。本当に、ここにあったのか⋮⋮!︶ フィリアネスさんの腕の中で、俺は魔剣を見つめる。禍々しい気 を放つ剣だが、封印され、その力を全く発揮できていない。しかし 剣装備が出来る人が持てば、呪われて勝手に装備され、﹃魅入られ て﹄しまうだろう。 ﹁まったく⋮⋮震えがくるほどの名剣だ。だが、これはただの剣じ ゃない。言い伝えを信じるなら、災厄そのものだ﹂ ﹁⋮⋮無事であることが確かめられて良かった。これからも、数ヶ 月おきには確かめに来なくてはならない。これを求めている者は、 人間・魔物を問わずあまりにも多すぎる﹂ フィリアネスさんは魔剣に触れようとはしなかった。細剣装備し かできない彼女が魅入られることはないが、それでも、聖騎士の彼 女ですら、いたずらに触れることをためらうほどのものだった。 父さんは剣を元通りにして、再び器が元に戻り、聖水で満たされ 151 ていく。それを見たところで、ようやくフィリアネスさんの緊張が 少し和らいだ。 ﹁ここも絶対安全とは言えない。機を見て、俺は町を離れ、旅に出 るつもりでいます﹂ ﹁⋮⋮魔剣の力を御することさえ出来れば。もしくは、壊してしま えれば⋮⋮﹂ 父さんは、魔剣の護り手としての務めから解放される。でも、そ れが出来るものなら、もっと早くにしていただろう。 ﹁壊すこともできず、野に放てば、いずれは誰かの手に渡る。なら ば、護るしかありますまい﹂ ﹁⋮⋮すまない。これからも、魔剣のことをくれぐれも⋮⋮﹂ フィリアネスさんは最後まで言葉にできなかった。父さんはただ 笑って、先に地下室から出ていった。 ふたり残されたあと、フィリアネスさんは俺を抱きしめると、背 中をぽんぽんと叩いてあやしてくれた。 ﹁⋮⋮ヒロトの父上は、偉大な人物だ。そのことを、覚えておくの だぞ﹂ 彼女はそう言うと、自分も地下室を離れる。俺は言われるまでも なく、父さんの凄さを理解していた。 だけど、それだけじゃない。 魔剣を誰にも悪用させてはならない、何とかしなければいけない。 父さんが一人で魔剣を持って旅に出るなんてことがあったら⋮⋮そ れこそ、魔剣を捨てた勇者と、同じことになってしまうかもしれな い。 152 ︵父さんは、レミリア母さんと一緒にいるのが幸せなんだ。この暮 らしを、壊させたりしない⋮⋮!︶ 歩けるようになったらしなければならないことが増えるばかりだ。 魔剣カラミティを御する、もしくは壊す⋮⋮それを、俺は何とし ても成し遂げようと誓った。 153 第九話後編 天国への階段︵前書き︶ ※本日は前後編に分けてアップしています。最新話をご覧になる際は ひとつ前の前編からご覧ください。 154 第九話後編 天国への階段 地下から出て居間に戻る。もう夜も遅いし、寝る時間だ。 ﹁では、ヒロトは俺が連れて行きます。寝かしつけるのは下手なん ですがね﹂ ﹁そうだな。少し怖い思いをさせてしまったから、緊張しているよ うだし⋮⋮﹂ フィリアネスさんが俺を父さんに渡そうとする。そのとき俺はさ れるがままになりそうになって、このままではいけないという強い 衝動に駆られた。 ︵⋮⋮ダメだ。このまま、思ったことを何も伝えられずにいるのは ⋮⋮!︶ 今までは彼女の目もほとんど見られず、ただ魅了スキルが発動す るのを待っていた。ログを見て一喜一憂するだけで、棚ぼたで強く なれることばかりを願っていた︱︱でも、今は違う。 ︵他にも出来ることがある⋮⋮交渉術スキルの有用性は、﹁魅了﹂ だけじゃない⋮⋮!︶ まだフィリアネスさんの腕の中にいるうちに、俺は﹁選択肢﹂を 発動させる。マナの喪失感とともに、ダイアログが表示された。 ◆選択肢ダイアログ◆ 155 1:︽フィリアネス︾に﹁口説く﹂を行う 2:︽リカルド︾に﹁依頼﹂を行う 3:︽フィリアネス︾に﹁依頼﹂を行う ︵これが運命の選択⋮⋮そうだ⋮⋮﹁口説く﹂と﹁依頼﹂があった ⋮⋮!︶ パッシブスキルではなく、能動的に発動するアクションスキル。 喋れない俺でも、﹁口説く﹂﹁依頼﹂が出来ると、選択肢が示して くれている。 選択肢は有効な行動を示すため、いずれも何らかの効果があるこ とになる。しかし効果には差がある⋮⋮俺の望んだ結果になるかは 分からないが、それでも、可能性はゼロじゃないはずだ。 ︵⋮⋮やるしかないっ⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾に﹁依頼﹂をした。 ﹁あー、うー﹂ ﹁ん⋮⋮ど、どうしたのだ? そんなにしっかりしがみついて⋮⋮﹂ だ、だめだ⋮⋮疑わしい顔で見られると、前世のトラウマが蘇っ てくる。 何をすればいいのかわからない。でも、フィリアネスさんにまだ 156 一緒にいてほしい。 それがスキルが欲しいなんて気持ちであっても、欲しいものは欲 しい。だったら、頼みこむしか⋮⋮﹁依頼﹂するしかない⋮⋮! ︵目を見るんだ⋮⋮ちゃんと目を見て、お願いするんだっ⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮ばぶー﹂ ﹁っ⋮⋮ど、どうしたのだ。そんなにきらきらした瞳で見て⋮⋮さ っきまで、そんなことはなかったのに⋮⋮﹂ ﹁はっはっ、そうかそうか。ヒロトはやはり隅に置けないな﹂ ﹁そ、それは⋮⋮どういうことなのか、教えていただきたい﹂ ﹁うちの息子は、女性の美しさがこの年で分かっているということ ですよ。なあ、ヒロト坊﹂ ﹁う、美しいなどと⋮⋮本当に、そう思って⋮⋮?﹂ ゼロ歳児の俺が、女の人を口説けるわけもないが、﹁依頼﹂はで きる。なになにをしてほしい、と哀願することを、本能的に理解し ているからだ。 俺はフィリアネスさんから目をそらさない。心臓はバクバクして、 今にも壊れそうだ⋮⋮でも、逃げない。 父さんの覚悟を知って、それでも受け身のままでいたら、俺はい つか父さんの足手まといになってしまう。 ﹁母さんが焼き餅を焼くから、父さんは知らなかったふりをしてお くからな。ヒロト坊、お姉さんにたっぷり甘えてこいよ﹂ ﹁あっ⋮⋮り、リカルド殿っ⋮⋮!﹂ ︵さすがですお父様⋮⋮!︶ 父さんは俺をフィリアネスさんに託して寝室に向かった。残され 157 た俺は、もはや縋りつく思いでフィリアネスさんを見つめる。 ﹁う⋮⋮うぅ⋮⋮そんな目で見るな⋮⋮胸がせつなくなる﹂ ﹁⋮⋮あぶー﹂ ﹁くっ⋮⋮わ、分かった、一緒に寝ればいいんだろう! 私は寝相 が悪いから、変なことになっても知らないからな!﹂ カランコロン、と祝福の鐘が鳴り響く。 ︵やった⋮⋮やったぞ。フィリアネスさんと一緒に寝られる⋮⋮!︶ これなら確実に⋮⋮いや、今はスキルのことは留め置く。 赤ん坊ゆえに甘くしてもらえてるのはわかってる。でもコミュ難 の俺が、初めて自分の気持ちを人に伝えることができた。 ﹁依頼﹂の成功率は、代価を払わなければ極端に低くなる。しか しゲームのシステムだけが全てではない⋮⋮異世界の人々には、そ れぞれ感情があるのだから。 ﹁⋮⋮マールとアレッタが起きていたら、何を言われるか⋮⋮あっ ⋮⋮﹂ フィリアネスさんが何かに気づいたように俺を見る。そして、自 分の胸を見下ろした。 ﹁ひ、ヒロト⋮⋮お腹がすいていたりは⋮⋮してもらっては困るの だが⋮⋮ど、どうなのだ⋮⋮?﹂ ︵っ⋮⋮き、来た⋮⋮来てしまった⋮⋮!︶ 158 そ、そうです、俺はお腹がすいています。放っておいたら決して 満たされない飢えにさいなまれ、このままではとても、静かにすや すやと眠ることなどできない⋮⋮! ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィリアネス︾は抵抗に成功した。 ﹁⋮⋮い、いや、何でもない﹂ ﹁ば、ばぶー!﹂ ﹁な、何をっ⋮⋮わ、私は何も言っていないぞ! 不満そうにする のはやめてもらおう!﹂ 赤子と本気でケンカをするフィリアネスさん。まあ確かに俺の態 度が不満たらたらなので、怒られても仕方がないか。 しかし魅了が通らなくても、いけそうな気が⋮⋮でもマナがゼロ だ。ね、眠い⋮⋮。 ︵⋮⋮無念⋮⋮︶ ﹁っ⋮⋮ひ、ヒロト! どうした、眠いのか!?﹂ ﹁⋮⋮すー、すー⋮⋮﹂ フィリアネスさんの驚く声を聞きつつ、俺は意識を失う。これば かりはどうしようもない。 俺はやれるだけのことはやった。彼女の滞在期間は一日じゃない みたいだし、まだ諦める必要は⋮⋮ない⋮⋮。 159 ◇◆◇ ふわり、と意識が浮上する。 今は何時だろう⋮⋮まだ辺りが暗いような気がする。俺はまどろ みながら、自分の状況を確かめようとする。 ﹁⋮⋮任せられた以上は⋮⋮私にも、責任が⋮⋮﹂ 小さなつぶやき声。そして、石鹸の匂いがする。これは⋮⋮フィ リアネスさんの⋮⋮。 ん⋮⋮何かログが流れてきた。この状態で選択肢って⋮⋮いった い何だろう。 ◆選択肢ダイアログ◆ 160 ・︽フィリアネス︾が﹁採乳﹂の使用を許可しています。実行しま すか? YES/NO ︵⋮⋮⋮⋮︶ 一瞬、思考が凍結した。 そのあとで、物凄い感情の波が、身体の内側から爆発的に溢れて くるのがわかった。 ︵うぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁ!︶ ここは、三人の女性騎士が泊まっている部屋⋮⋮フィリアネスさ んが俺に添い寝をしたまま、胸をはだけて、その豊かなふくらみを 見せてくれている。 月明かりだけが差し込む部屋の中で、神秘的なまでの美貌を持つ 少女が、薄く色づいた部分を恥じらうように控えめに手で隠しなが ら、俺を見つめている。 ﹁⋮⋮私があせって、怒鳴ってしまったから⋮⋮怖がらせてしまっ て、すまない⋮⋮﹂ 161 ︵そ、そんなこと全然ないんだけど⋮⋮い、いいのか⋮⋮いいんだ ろうか⋮⋮っ︶ 俺がお腹がすいたと訴えたあと、マナ切れで眠ってしまったこと を心配して、彼女はマールさんたちの見よう見まねで、﹁採乳﹂を 使わせて元気にしてくれようとした⋮⋮ということなのか。 魅了もなにも成功してないのに採らせてくれた人は何人かいるけ ど、フィリアネスさんがそうしてくれるなんて、絶対に無理だと思 っていた。 けれど豊かな隆起を持つ形の良い胸は、現実に、俺の目の前に差 し出されている。 ﹁そ、それとも⋮⋮こういうことではなくて⋮⋮何か、違うことの 方が良いのだろうか⋮⋮やはり、マールかレミリア様に頼んだほう が⋮⋮﹂ 選択肢の時間切れが近づく。10、9、8、7、6⋮⋮。 ︵⋮⋮これが最後のチャンスだ。これを逃したら、絶対後悔する⋮ ⋮!︶ 最後の5秒のカウントが始まったとき、俺は動いた。 静かに輝き始めた手を伸ばして、服をたくしあげて差し出された 二つの山に、小さな手を触れさせる︱︱今まで一度も経験したこと のない弾力。ふよん、という、優しく包み込まれるようで、けれど 手を押し返してくるワガママさ、およそ美乳というものに必要な要 素を、すべて彼女の胸は兼ね備えていた。 162 ﹁⋮⋮こうして触れるだけで、力を与えてあげられる。私もそんな ことが出来るのだな⋮⋮とても、優しい気持ちになる⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・︻神聖︼剣技スキルが獲得できそうな気がした。 ・︽フィリアネス︾は幸福になった。 ﹁あぶー⋮⋮﹂ ﹁む⋮⋮まだ物足りないのか? では、続けてもいいのだぞ⋮⋮私 はおまえのことを、夜のあいだじゅう、見ている義務があるからな ⋮⋮﹂ フィリアネスさんは俺の頭を撫でて、もう一度同じことを繰り返 すように促してくれる。 また、あの感触に触れられるのか。考えただけで頭がぼーっとし てくる⋮⋮あまりにも、幸せすぎて。 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは︻神聖︼剣技スキルを獲得した! ・︽フィリアネス︾は顔を赤らめた。 ﹁ばぶー⋮⋮!﹂ 163 ﹁ふふ⋮⋮あまり大きな声を出してはだめだぞ。みんなが起きてし まうからな⋮⋮﹂ ︵やっと⋮⋮やっと手に入れたぞ⋮⋮!︶ 出会ってから一日目の夜なのに、もう何年も経ってここにたどり 着いたような、そんな達成感があった。 母性もマナも高いフィリアネスさんは、吸っても全然消耗してい ない。14歳なのに⋮⋮。 最初は母性システムをゲーム的なものだと割り切っていた俺だが、 もう認めるしかないだろう。 ︵異世界って素晴らしいな⋮⋮エターナルマギアをやってて、本当 に良かった⋮⋮︶ ﹁⋮⋮ようやく落ち着いたか? 私もそろそろ寝なければいけない から、今日はこれまでだぞ﹂ ︵きょ、今日はっていうことは⋮⋮またお願いできるってことなの か⋮⋮!?︶ フィリアネスさんが胸をしまい、俺の頬を撫でてくれる。至れり つくせりすぎて、俺は満ち足りた気持ちになっていた。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽フィリアネス︾は抵抗に失敗、魅了状態に なった。 164 ﹁っ⋮⋮!?﹂ びくっ、とフィリアネスさんの身体が震えた。そして彼女が俺を 見る目の色が、みるみるうちに変わっていく。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾はあなたを見つめている。 ・︽フィリアネス︾は幸せになった。 魅了が決まらなくても採らせてくれると言っていたのに、ダメ押 しが見事に決まってしまう。こんなことになったら⋮⋮ど、どうな るんだろう⋮⋮? ﹁⋮⋮レミリア様には申し訳ないが⋮⋮今日だけというのは勿体無 いな。ここに滞在するうちに、もう一度くらいは一緒に寝てあげら れるだろうか⋮⋮﹂ 熱っぽい瞳で見つめてくるフィリアネスさん。寝て起きる前はす っかり諦めていたので、頭の理解がついていけない。 あれほど成功しなかった魅了が、ついにかかってしまった。そし て、彼女は俺に添い寝をしてくれていて⋮⋮と、ということは⋮⋮。 ﹁まだ、夜明けまで時間があるな⋮⋮ヒロト⋮⋮﹂ 一度着た服を、また惜しみなくはだけ始めるフィリアネスさん。 165 それを見ながら、俺は自分のギルド名を思い出していた。 天国への階段。それはまさに、今俺の目の前にある光景そのもの だった。 輝く手の光が、暗がりの中で再び姿を表した白い双子の丘を照ら しだす。そのまばゆいまでの輝きに、俺は惹かれ、再び手を伸ばす ︱︱。 ◆選択肢ダイアログ◆ ・︽フィリアネス︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YES/NO 166 第十話の一 乳児期の終わり︵前書き︶ ※定期的に、細部を見直して改稿しています。 内容が一部変わっていることがありますが、 ストーリーに影響がないようにいたします。 167 第十話の一 乳児期の終わり 赤ん坊の時分からスキル上げを始めた俺は、どうやら普通の赤ん 坊よりも、目に見えて成長が早いようだった。 ﹁あっ⋮⋮あ、あなたっ、見て! ヒロトがつかまり立ちしてる!﹂ ﹁おぉっ⋮⋮こいつは凄い! ヒロト、こっちまで来れるか? そ れはまだ気が早いか!?﹂ みんなのおかげですくすくと育った俺は発育が早く、コツを得て 五ヶ月くらいでつかまり立ちが出来た。 赤ん坊の身体のバランスの悪さといったら、頭が重たくてふらふ らする。しかし立つことに慣れないと、歩くことも出来ないわけで ⋮⋮。 ﹁⋮⋮まんま﹂ ﹁ははっ⋮⋮そうか、お腹がすいて、母さんのところまで来ようと したんだな﹂ ﹁はいはい⋮⋮それにしてもヒロト、一日に三回しかあげてないけ ど、大丈夫なのかしら。他の家の子は、一日に10回くらい吸うみ たいなんだけど⋮⋮﹂ ﹁何かつまみ食いでもしてるんじゃないか? なんて、歯も生えて ないのにそれは無理だよな。三回くらいでお腹いっぱいになっちゃ うんじゃないか?﹂ レミリア母さんに授乳を受けつつ、俺はちょっと申し訳なく思う。 生後五ヶ月の現時点で、俺が過ごしている日常は、母さんが思う 168 よりずっと多くの授乳に満ちているからだ。 俺が現時点で、どれくらいスキル収集︱︱もとい授乳を受けてい るのか。スキルが1ごとに上がりにくくなるので吸う回数が飛躍的 に増えることを考えても、ざっくりと計算してもあまりにもあまり なことになっていた。 一人目 レミリア・ジークリッド 人間 18歳 授乳開始時期:生後すぐ 授乳回数:一日3回、月30日 初期は一日8回 累計500回 関係:母親 取得スキル:気品22 最初はもちろん母さんだ。初めは四六時中、彼女の授乳を受けて いた。赤ん坊はすぐお腹がすくので、頻繁に泣いては彼女にあやし てもらい、乳を与えられておとなしくなることの繰り返しだった。 母さんは初めての授乳に最初は戸惑っていたが、俺がただの赤ん 坊らしくするように務めているうちに、だんだん慣れてきてくれた。 ﹁こうしておっぱいをあげてるときが、一番幸せね⋮⋮ヒロト、お いしい?﹂ ﹁あぶー﹂ 母さんは本当に優しい。俺がどれだけおいたをしても許してくれ るし⋮⋮と、開き直ってはいけないんだけど。どうしても中途半端 な数値のスキルを残しておきたくない俺は、隠れておいたを繰り返 してしまうのだった。 169 二人目 サラサ・ローネイア ハーフエルフ 123歳 採乳開始時期:二週間目から 採乳回数:一日5回、月20日 累計450回 関係:あなたに心身共に捧げ尽くしている 取得スキル:魔術素養20 薬師20 サラサさんには本当にお世話になった。魔術素養を20まで上げ たことで俺のマナは240も増え、薬師スキルを取ったことで薬草 学、ポーション生成を覚えることもできた。これで、野生の薬草を 見分けて集め、自分でポーションを作ることができる。 しかし、450回はあまりにも採りすぎた。一日5回でもセーブ していたほうで、サラサさんはほぼ毎日うちにやってきては、母さ んが席を外した隙に採乳を許可してくれた。 ﹁最近、胸の張りがずいぶん楽になったんです。ヒロトちゃんのお かげですね﹂ ﹁きゃっ、きゃっ﹂ 俺はできる限り無邪気にサラサさんから採乳してライフを回復し、 満タンになってもスキル上げのために採らせてもらった。乳がエネ ルギーに変換されて吸収されるので、たまに溢れてしまうこともあ るが、そのときは手についた母乳は舐めさせてもらった。 仕方のないことなのだが、﹁夫に対して申し訳ないわ⋮⋮﹂とい うつぶやきは途中から出なくなった。ひとつ言い訳をしておくと、 夫婦の場合、夫への好感度が一番優先されて、あとはどれだけ高く 170 ても、﹁仲が良い﹂という範疇なのだ。心身ともに捧げる、という のは例えである。例えでもまずいのは百も承知で、とても申し訳な い。 ﹁いつか、リオナにヒロトちゃんの相手を取られてしまうんでしょ うか⋮⋮今のうちに、うんと可愛がってあげますからね⋮⋮﹂ サラサさんに﹁搾乳﹂スキルを使ってもらうと、コップに半分く らいの母乳が絞れる。﹁採乳﹂と違って、また穏便にスキルが得ら れる方法なので、ときどきお願いするようになっていた。赤ん坊は 母乳が何より美味しく感じるのだ。 ﹁ふふっ⋮⋮不思議ですね。ヒロトちゃんのこと、私もレミリアさ んと一緒に育てているみたい⋮⋮リオナと一緒に、私の子どもみた いです﹂ ︵優しいよな⋮⋮サラサさんは。溢れるばかりの母性がにじみ出て る︶ サラサさんにカリスマが発動したこと、魅了がかかったこと、彼 女がスキルを持っていたこと⋮⋮思えば全ての始まりだ。もちろん 俺が最初に取ったスキルは、レミリア母さんから受け継いだ﹁気品﹂ だったが。 ﹁⋮⋮私のお乳と、レミリアさんのお乳は、どちらがおいしいです か?﹂ ﹁⋮⋮ばぶー?﹂ 俺は何も分かっていないふりをしつつ、不思議そうにサラサさん を見る。サラサさんはくすっと笑うと、レミリア母さんが来る前に、 171 もう一度採乳をさせてくれた。 三人目 ターニャ・コリンズ 19歳 採乳開始時期:1ヶ月から 採乳回数:一日2回 週2回訪問 合計64回 関係:あなたに運命を感じている 取得スキル:恵体5 四人目 モニカ・スティング 18歳 採乳開始時期:1ヶ月から 採乳回数:一日3回 週2回訪問 合計100回 関係:あなたに好意を抱いている 取得スキル:狩人10 五人目 フィローネ・ベルモット 18歳 採乳開始時期:1ヶ月から 採乳回数:一日2回 週2回訪問 合計60回︵二回休み︶ 関係:あなたに運命を感じている 取得スキル:恵体5 レミリアさんの友達の三人にも、とてもお世話になった。そろそ ろお分かりいただけるかと思うが、採乳してくれる人が一日にかぶ りすぎると、一日中にわたってとんでもない回数の採乳ができるこ とになる。 172 三人の中でモニカさんの回数が多いのは、彼女からしか狩人スキ ルが取れないからだ。10ポイントでスキルが発動するまで、少し 多めに採らせてもらう必要があった⋮⋮というと、もはや俺は吸血 鬼か何かのようだ。どちらかといえば、吸乳鬼なのだが。採乳した ときのエネルギーを吸う感じといい、何か魔物じみているな、と自 分でも思ってしまう。 ﹁ヒロトちゃんにこうしてもらうと、何だか安心するのよね﹂ ﹁ターニャも? 私も、一日に一回はしてもらいたいくらい。ねえ、 ヒロトちゃん。私の家に泊まりにこない?﹂ ﹁フィローネったら、すぐ貧血になっちゃうんだから、あんまり無 理しちゃだめよ。あたしは身体が丈夫だから、大丈夫だけどね⋮⋮ ヒロト、いいわよ⋮⋮﹂ レミリア母さんがいないうちに三人に順番に採らせてもらうんだ けど、その時の光景は、我ながら死んだほうがいいのではないかと いうほどのものだった。うら若き乙女たちが胸を出したままで俺の 揺りかごを取り囲み、今か今かと順番待ちをしているのだから。 スキルを取る名目で好感度が上昇しまくっていることについては、 俺はもはや目をつぶった。採乳で好感度が上がってしまうのはとて もよろしくないと思う。たぶん﹁魅了﹂が発動している状態でして もらっているのが悪いのだが、こればかりはどうしようもない。 多様なスキルを取っておくことも、交渉術を有用に使うために大 事なことなのだ。可能な行動が増えれば増えるほど、交渉に使える 材料も増えるのだから。 ﹁ヒロトくんの手、あったかい⋮⋮はい、次はフィローネね﹂ ﹁ありがとう、ターニャ。このまま大きくなっちゃったら、どうな 173 るのかしら⋮⋮赤ちゃんの時だけよね、こういうことをしていいの は﹂ ﹁⋮⋮触るだけなら大丈夫なんじゃない? ねえヒロト、触ると嬉 しそうにしてるもんね﹂ ﹁モニカ、最初は興味なさそうにしてたのに。ヒロトくんをかまっ てるうちに、お母さんの気持ちに目覚めちゃったんじゃない?﹂ モニカさんはターニャさんに言われて、顔を赤らめる。そして、 無邪気に胸に触れている俺を見ながら、優しい目をして言った。 ﹁⋮⋮お母さんっていうか⋮⋮ううん、何でもない。ヒロト、大き くなっても、あたしたちとまた遊んでくれる?﹂ ﹁あうー﹂ ﹁ふふっ、まだよくわかってないみたい。モニカ、また私に代わっ て﹂ フィローネさんは特に俺を甘やかしてくれている。彼女は甘くて いい匂いがするし、抱っこしてもらうとかなり安心する。ターニャ さん、モニカさんにも違った良さがあるのだが。 ﹁それにしても、こんなかっこうでいるのをレミリアに見られたら と思うと、ちょっと気が気じゃないわね⋮⋮﹂ ﹁でもヒロトはまだ遊びたそうだし⋮⋮またあたしと遊ぶ?﹂ ﹁ばぶー!﹂ 最近は返事をしても怪しまれなくなったので、元気に返事をする。 三人の顔を見るのにも慣れたし、﹁つぶらな瞳﹂でお願いすること も出来るようになった。そんなスキルは存在しないが。 モニカさんが自分から採乳を許可してくれるようになり、狩人ス 174 キルは順調に成長している。小麦色の胸にぺた、と触る俺を見て、 彼女はくすぐったそうに俺の頬をつついて笑ってくれた。 ◇◆◇ 他にも、町で遭遇したり、レミリア母さんが通う場所で会った女 性が何人かいる。そのうちまず二人が、町の食料品店のメルオーネ さん、洋服店のエレナさんである。 六人目 メルオーネ・ファルカハ 17歳 採乳開始時期:3ヶ月から 採乳回数 2日に1回 合計45回 関係:あなたに好意を抱いている 取得スキル:商人5 七人目 エレナ・パドゥール 25歳 採乳開始時期:3ヶ月から 採乳回数 2日に1∼2回 合計51回 関係:あなたに運命を感じている 取得スキル:商人5 マーチャント ジョブが﹁商人﹂の彼女たちにお願いして、合わせ技で商人スキ ルを10まで上げさせてもらった。 外に出たときによその女性に採乳させてもらうのは困難だと思っ ていたが、一人ずつしか入れない小さな商店の店番をしているメル 175 オーネさんは、レミリア母さんだけが買い物をしているとき、俺を 預かってくれた。最初はなかなか発動しなかったが、何度目かの来 店で﹁魅了﹂が入ったわけだ。 結婚するまで店番をしているというメルオーネさんは、ソムリエ になりつつある俺の番付では、アレッタさんより少し上くらいの位 置にいた。異世界に来てからは初めての眼鏡をかけている女性だ。 ﹁ヒロトくんのお母さん、お肉を選ぶときは少し時間がかかるから ⋮⋮今のうちにね。よいしょっと⋮⋮﹂ メルオーネさんの膝に載せてもらい、採乳を許可してもらう。そ して彼女は片手で服をめくって、小ぶりながら形のいい胸を見せて くれる。 ﹁もう、レミリアさんったら、こんな可愛い子を連れてくるから⋮ ⋮﹂ 輝く手でぺた、と胸に触れて、﹁商人﹂スキルをもらう。彼女は マナが高くないのであまり連続ではできないが、一度に二回までな ら許容範囲だ。 メルオーネさんは照れ笑いしながら俺を見ている。小さめだけど、 成長の予感を感じさせます。まだ17歳だし、成長の余地はありま すよ。とか考えている俺は、やはり死んだ方がいい。 ︵商人スキルは大事だ。お金の消費が減るし、そのうち店で﹁掘り 出し物﹂が買えたりするしな。一番大きいのは目利き⋮⋮鑑定スキ ルだ︶ 176 商人スキルを10まで上げると発動するパッシブスキル﹁商才﹂ を取るために、俺はもうひとり、マーチャントの女性に助力を仰い だ。というか、母さんに連れて行かれた洋服店で、また物凄い逸材 を見つけたのだ。 ﹁レミリアは、あまり身体が強くないからね。代わりにあたしが⋮ ⋮って言っても分からないか。アハハ﹂ ︵っ⋮⋮ご、豪快だ⋮⋮︶ エレナさんは色んな服を売ってる豪商の娘で、ブルネットの長い 髪を持つエキゾチックな女性だった。 彼女は子供が好きだと言っていて、自身も二人の子供を持つお母 さんだ。しかし子どもたちが既に乳離れしているので、母性も下が るのかな⋮⋮と思いきや、50の大台を保っていた。 ﹁昔はもっといっぱい出たんだけどね⋮⋮久しぶりだとこんなもん かしらね﹂ 母さんが店の奥に入って服を試着している間に、エレナさんは胸 元の空いた服の襟ぐりをひっぱってぽろんと乳房を出す。もはや感 覚が麻痺してきているが、他の客が来たらと思うとスリルが尋常じ ゃない。 ﹁吸い付けばいいのに、遠慮してるのね⋮⋮触るだけでも十分なん て、不思議な赤ちゃんだこと﹂ 日焼けして、重力に引っ張られ始めている大きな乳房を支えるよ うに、ぷにゅっと手を当てる。ビリビリと痺れるような感覚と共に、 商人スキルの経験値が身体に流れ込んでくる︱︱。 177 エターナル・マギアでは、人間の女性は25歳を過ぎると﹁おば さん﹂と言ってもおかしくないみたいだけど、全くそうは見えない。 前世で25は女盛りもいいところなので、俺も最初は緊張したもの だったが⋮⋮。 ﹁だー、だー﹂ 何度かぺたぺたと触っていると、エレナさんの目が不意に優しく なる。 ﹁⋮⋮思い出すわね、うちの子たちが小さかった頃。あの子たちも 可愛かったわ、一生懸命小さな手で⋮⋮﹂ そうやってしみじみしているエレナさんは、凄く優しいお母さん なのだろうなと思った。俺はといえば、流れてくるログでスキルが 上昇しないのを確かめて、あと一回お願いしようと思っていたりす るのだが。 ちなみにエレナさんの息子さんはアッシュ、下の妹はステラとい う。子供の数が少ないミゼールにおいては、この先、二人と接する 機会が確実にあるだろう。 ︵事前にいろいろ、周囲の事情を知っておかないとな⋮⋮俺は、何 も知らない子供じゃないんだ︶ 前世の知識を以ってしても子供社会でうまく立ち回れない、なん てことはなしにしたい。しゃべり方をどうにかしないと敵を作って しまいそうだが、そこも﹁交渉術﹂があればなんとかなる。 大人になるまでに、俺は誤解されないための立ち振る舞いを徹底 178 的に練習しようと思っていた。ちょっとやそっとでは信頼を失わな い友達を3人作ること、まずはそこからスタートだ。 179 第十話の一 乳児期の終わり︵後書き︶ 次回は明日更新です。 180 第十話の二 聖職者と冒険者 ︵前書き︶ ※前半後半に分かれる予定でしたが、ボリュームが大きくなり 今回は中編になりますので、 ヒロトのステータス掲載は次回になります。 181 第十話の二 聖職者と冒険者 ジョブが﹁村人﹂の女性は、母さんに背負われて町を歩いたとき によく魅了できたが、恵体スキルが100回﹁採乳﹂をして上がる かどうかという段階にくると、機会を見て採らせてもらうだけでは なかなかスキルは上がらなかった。少しずつ採らせてもらって2ほ ど恵体を稼いだが、12で打ち止めだ。 もう新規のスキルは取れないかな⋮⋮と思っていた矢先。生後四 ヶ月の頃、新しい出会いがあった。家の近くにある教会のシスター のセーラさんだ。 八人目 セーラ・シフォン ?歳 採乳開始時期 4ヶ月から 採乳回数 週に一回 合計8回 関係:あなたが気になっている 取得スキル:聖職者3 歌唱1 シスターのセーラさんは、彼女の自宅から教会に通うときに俺の 家の前を必ず通るので、何度か﹁魅了﹂の効果範囲内に入り、それ が初めて成功したのが4ヶ月目だった。 魅了が成功した人は家を訪ねてくるケースが多い。レミリア母さ んもセーラさんとは知り合いで、それ自体にはなんら問題がなかっ た。知らない人を魅了して訪問してこられても、﹁帰ってもらう﹂ という命令ができるので問題はないのだが。 182 ﹁レミリア様、申し訳ありません。急に訪問などしてしまって﹂ ﹁いいえ、いいのよ。私もいつも、あなたにはお世話になってるし ⋮⋮週に一度は女神の祝福を受けたパンを食べないと、落ち着かな いもの﹂ セーラさんはずっと﹁聖職者のずきん﹂をかぶっていたため、も しかしたら剃髪してたりしないか⋮⋮と思っていた。そこで彼女に 頼んで︵命令して︶、例によってレミリア母さんが席を外している あいだに、ずきんを脱いでもらってみたのだが⋮⋮。 ﹁っ⋮⋮ふぅ。今日は少し暑いですね⋮⋮﹂ ふぁさっ、と広がったのは、白に近いような銀色の髪だった。セ ーラさんは髪を撫で付けてこちらを見る⋮⋮こんなきれいな人が、 すぐ近くの教会で働いてたなんて。 ﹁⋮⋮ヒロトさん、赤ちゃんのあなたに教えを諭すことをお許しく ださい。女神はいつでも、私たちを見守っておられます﹂ ︵女神⋮⋮教会で、女神を崇拝してるんだな。俺を転生させた、あ の女神のことなのか⋮⋮?︶ セーラさんは女神はこの世界を作ったもので、全ての生命を作り、 魔神から世界を守る存在であると教えてくれた。常識的には赤ん坊 が理解できるわけがないのだが、セーラさんは至極まじめに語り続 ける⋮⋮うーむ。敬虔な信者って感じがするな。良くも悪くも。 聖職者はどんなスキルの取り方をするんだろう、とふと気になる。 そして、ステータスを調べてみると⋮⋮。 183 ︵⋮⋮えっ?︶ ◆ステータス◆ 名前 セーラ・シフォン 人魚 女性 7歳 レベル12 ジョブ:シスター ライフ:112/112 マナ :164/164 スキル: 歌唱 100 聖職者 50 白魔術 10 恵体 6 魔術素養 10 母性 30 料理 55 漁師 10 アクションスキル: 祈る︵聖職者10︶ 浄化︵聖職者30︶ 祝福︵聖職者50︶ 治癒魔術レベル1︵白魔術10︶ 授乳︵母性20︶ 184 子守唄︵母性30︶ 簡易料理︵料理10︶ 料理︵料理20︶ 野営︵料理50︶ 釣り︵漁師10︶ パッシブスキル: 聖職者装備︵聖職者20︶ 神の慈悲︵聖職者40︶ 回復上昇︵白魔術20︶ 料理効果上昇︵料理30︶ 毒味︵料理40︶ 育成︵母性10︶ 酒に弱い 人間形態 歌うことができない 残りスキルポイント:16 ︵⋮⋮に、人魚? どこから見ても人間なのに⋮⋮しかし、歌唱1 00⋮⋮!︶ 人魚なんて、ゲームには未実装だった種族だ。何か複雑な過去が あるようで、歌唱100なのに、歌唱系のスキルが何一つ無い⋮⋮ ﹁歌うことができない﹂のパッシブのせいか。 ︵し、しかも⋮⋮見た目は高校生くらいなのに、実年齢7歳って⋮ ⋮︶ 185 種族によっては、早く成人の体型に近づくということはあると思 うが、さすがに驚きすぎて固まってしまう。ななさい⋮⋮七歳⋮⋮ !? ﹁女神は卑しい私にさえも、慈悲をくださるお優しい方⋮⋮ヒロト さんもぜひ、大きくなったら教会にいらしてください。そのときは 神について大いに語りましょう﹂ 人間形態の人魚で、信仰に入れ込んで⋮⋮いや、敬虔に女神を信 じていて、七歳。 この人の謎に触れる時が来るんだろうか⋮⋮? もしかしたら、 水に足を浸したら人魚に戻ったりするんだろうか。 ﹁そして⋮⋮今日のところは。私からあなたに、心ばかりの施しを いたしましょう⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ま、まんま!﹂ 機会を逃してはいけないので、俺は必死に訴える。するとセーラ さんは、くすっと顔を赤らめて笑った。 し、しかし⋮⋮何か、情念みたいなのを感じる。この人、あらゆ る意味で只者じゃない⋮⋮! ﹁女神よ⋮⋮飢えた幼子に、この卑しき身から施しを与えること、 お許しください⋮⋮﹂ ◆選択肢ダイアログ◆ ・︽セーラ︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YE S/NO 186 セーラさんが服を留めていた紐を外して、採乳の準備を始める。 ほ、施しって⋮⋮彼女の中ではそういうことになってるのか。﹁魅 了﹂状態だから、こうなってしまうのはしょうがないんだけど⋮⋮。 窓から差し込む昼の光を背中に浴びたセーラさんは、まさに聖女 そのものだ。フィリアネスさんとはまた違う、完成された少女の美 しさの形がここにある。 ﹁さあ、始めましょう。女神がかつて、自らの生み出した子らに恵 みを与えたように、私からもあなたに⋮⋮﹂ ︵⋮⋮結論からいおう。セーラさんは怖い⋮⋮なんだか怖いぞ⋮⋮ !︶ 俺はセーラさんに抱っこされたまま、あらわになった均整の取れ た柔らかそうな白い胸に、そっと輝く手を伸ばした。 ◆ログ◆ ・あなたは︽セーラ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは聖職者スキルを獲得した! ・︽セーラ︾はつぶやいた。﹁ああ⋮⋮女神よ。罪深き私をお許し ください﹂ セーラさんは俺にエネルギーを与えてくれたあとで、満たされた 微笑みを浮かべる。 187 ﹁⋮⋮聖職者には、このようなことは許されないのですが。ヒロト さんには、ぜひ私と共に、神に至る道を⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽レミリア︾は扉を開けた。 ﹁ごめんなさいね、洗濯物が残ってたことを忘れてて⋮⋮あら、ヒ ロトと遊んでくれてたの?﹂ セーラさんはいきなりドアが開いても慌てず騒がず、一瞬で服を 羽織った。 ﹁はい⋮⋮なかなかこちらを見てくださらないのですが、レミリア 様に似て、類まれな気品を持っていらっしゃいますね﹂ ﹁私より、リカルドに似てるんじゃないかしら⋮⋮でも、どちらの 特徴も継いでくれると嬉しいわね﹂ セーラさんは羽織っただけの服の紐をレミリア母さんにばれない ように結び直すと、脱いでいたずきんをかぶり直してにっこりと微 笑んだ。 ⋮⋮裏表がある人なのかな? まあ、信仰が深いだけで、悪い人 ではないようだしな⋮⋮大きくなってから教会に行くことになると しても、もうちょっとスキルを取っておきたい。 そんなわけで、俺はセーラさんが教会に通り掛かるたびに、採乳 させてくれるようにお願いしてみたのだった。 188 ﹁私などの施しでよければ、いくらでも⋮⋮触れていただくだけで 良いのですね⋮⋮﹂ 彼女が毎回長い説教の後に採乳させてくれるのが、俺は徐々にく せになってしまった⋮⋮こうして信仰にはまっていくのか。いや、 そっちに行く気はないんだけど⋮⋮聖職者スキルは10まで取れな かったし。 九人目 アンナマリー・クルーエル 16歳 採乳開始時期 5ヶ月目 採乳回数 2回 関係:普通 取得スキル:冒険者1 取得アイテム:魔封じのペンダント もうひとり、一度だけ貴重な採乳の機会があったのが、冒険者の アンナマリーさんだ。彼女はミゼールでクエストを受けに来たのだ が、宿を取り忘れて路頭に迷っていたところを、一晩だけうちで宿 を貸した。 ﹁す、すみません、ボク、ミゼールには初めて来たので⋮⋮﹂ アンナマリーさんは肩にかかるくらいで切りそろえた髪の片側だ けを、細い三つ編みに編みこんでいる。鉢巻を巻いていて、装備は 全てレザー系で揃え、大容量のバックパックを背負っていた。まさ に冒険者という風体だ。装備している武器は槍で、見るからにかな り使い込まれていた。 189 ﹁いいのよ、困ったときはお互い様だから。お腹がすいてるでしょ う? ちょっと待っててちょうだいね﹂ ﹁あの、ボクにも手伝えることってありますかっ!?﹂ ﹁ええと⋮⋮私の息子のヒロトと遊んであげて、と言いたいんだけ ど。あなたは大丈夫?﹂ ﹁だ、大丈夫ってなんですか!? ボク、変な趣味とかないですよ !﹂ ﹁それならいいんだけど⋮⋮ヒロト、おいたしちゃだめよ﹂ 釘を刺すレミリア母さん。しかし俺が、﹁冒険者﹂なんて素敵な ジョブを見逃すわけもない。 ︵⋮⋮それにしても、今までにないタイプの女の子だな。16歳で 冒険者か⋮⋮どういう事情なんだろう︶ 考えていると、アンナマリーさんは俺の近くにやってきて、恐る 恐る覗きこんできた。大きな瞳に、俺の顔が映し出されている⋮⋮ や、やめてくれ、そんなに見られたら⋮⋮。 ﹁赤ちゃん⋮⋮ボクもいつか、子供ができたりするのかな⋮⋮﹂ アンナマリーさんは目をそらす俺にも好意的だ。な、なんとか印 象を良くしないと⋮⋮。 ﹁あ、あんあ⋮⋮あいー﹂ ﹁えっ⋮⋮も、もうしゃべれるの? すごいねキミ、ボクの名前が わかるんだね!﹂ アンナマリーさんは感激している。赤ん坊がしゃべるって、それ 190 だけで喜んでもらえる場合が多いんだよな。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽アンナマリー︾は魔封じのペンダントの効 果で魅了を防いだ。 ・︽アンナマリー︾は警戒している。 ﹁っ⋮⋮な、なに⋮⋮!?﹂ ︵うわっ⋮⋮ま、まさか⋮⋮俺のパッシブが発動したことに気づい て、警戒してる⋮⋮!?︶ アンナマリーさんは、魅了に対抗する装備を持っている⋮⋮パー ティを組まないと装備が見られないから、こうなるとは読めなかっ た⋮⋮! ﹁はぁ⋮⋮びっくりした。ときどきこの石、勝手にバチってなるん だよね。ごめんね、驚かせちゃって﹂ アンナマリーさんが、服の胸元に入れていたペンダントを引っ張 りだす。そこには魔石がつけられている⋮⋮そうか。アンナマリー さんは、これが魅了に抵抗する効果を知らずに装備してるんだ。 彼女が見せてくれてるから、簡単なアイテムの情報はわかる。こ こは遠慮せずに見せてもらおう。 ◆アイテム◆ 191 名前:魔封じのペンダント 種類:ペンダント レアリティ:スーパーユニーク 防御力:3 エメラルド ・未鑑定。 ・﹁緑魔石﹂がはめこまれている。 ・﹁魅了﹂を少し防ぐ。 ︵魅了効果を防ぐってわかってるのに、まだ未鑑定⋮⋮?︶ 鑑定には三段階あり、﹁鑑定﹂﹁詳細鑑定﹂﹁真眼﹂の三つのス キルに対応している。おそらくこのペンダントの情報を全て知るに は、詳細鑑定、あるいは真眼スキルが必要なわけだ。 ﹁そのペンダント、気に入ったみたいだね。キミにあげようか? 今日泊まっていくお礼をしようと思ってたんだ﹂ ﹁⋮⋮あー、うー﹂ ﹁あはは、そっか、まだ難しいことはわかんないよね。これはね、 すごくいいものだと思うんだけど、ボクには価値がわからないんだ。 でも、持ってればきっといいことがあるよ﹂ ◆選択肢ダイアログ◆ ・︽アンナマリー︾があなたに﹁魔封じのペンダント﹂を渡そうと しています。許可しますか? YES/NO 192 ︵いきなりスーパーユニークアイテムが手に入るなんて⋮⋮この人、 実はすごくいい人なんじゃ⋮⋮?︶ アンナマリーさんは人懐っこい微笑みを浮かべている。魅了が発 動してかなり驚いたはずなのに⋮⋮いや、俺のしたこととは分から なかったのか。 ﹁ボクはこういうのを探す、トレジャーハンターをしてるんだよ。 いくらでも見つかるから、キミに一つあげる﹂ そこまで言うなら⋮⋮赤ん坊の俺では役に立てられないけど、い つか、何かに使える時が来るかもしれない。 ◆ダイアログ◆ ・あなたは﹁魔封じのペンダント﹂を手に入れた。所持できないの で足元に落ちた。 揺りかごの中にペンダントが落ちる。たぶん、あとでアンナマリ ーさんが俺にくれたことを説明してくれるだろう。母さんがOKと 言ってくれればいいのだが⋮⋮って。 魅了を防ぐペンダントが外されたってことは⋮⋮つ、つまり⋮⋮! ﹁はぁ、お腹空いちゃったなぁ⋮⋮すっごくいい匂いがしてる。き っとキミのお母さん、お料理上手なんだね﹂ 193 母さんの料理スキルは俺が生まれたばかりの頃は10だったが、 今では20を超えるところまで上昇している。そうすると﹁簡易料 理﹂から﹁料理﹂にアクションスキルがランクアップするから、作 れる内容が飛躍的に増えていた。リカルド父さんも毎日喜んで食べ ている。 今日はたぶん、肉と野菜の煮込みかな。俺の知っている﹁ポトフ﹂ によく似ている。パンに関しては町で買ってきたものを、再度焼い てから出す形だ。母さんはパン釜に火を入れる手間を惜しまない︱ ︱それは、リカルド父さんがいくらでも薪を取ってくるからでもあ るが。 しかし、お腹が空いたとはいえ、ポトフの匂いを嗅いでも美味し そうとは思わないんだよな。たまに飲ませてもらう果汁には慣れて きたけど、まだ普通のご飯は食べられそうにない。 ﹁まんま、まんま﹂ ﹁キミもお腹すいた? まだ赤ちゃんだから、お母さんにおっぱい をもらわないとね。それとも、ボクの指でも吸ってみるとか﹂ ﹁ばぶー!﹂ ﹁え? あはは、ごめんごめん。指なんてなめても美味しくないよ ね﹂ まあ確かに、これくらいが普通の反応だろう。一発で魅了にかか って、進んで採乳させてくれるなんていうのが特異な例であって⋮ ⋮。 ◆ログ◆ 194 ・﹁魅了﹂が発動! ︽アンナマリー︾は抵抗に失敗、魅了状態に なった。 ︵とか言ってるうちに、来てしまった⋮⋮!︶ ﹁んっ⋮⋮あ、あれ? おかしいな⋮⋮ボク、どうしちゃったんだ ろう⋮⋮﹂ さっきの判定から15分経ったから、そろそろかとは思っていた。 アンナマリーさんがペンダントを外した時から、内心で期待してし まってはいたけれど。 ﹁⋮⋮まんま、って言われたからかな? 赤ちゃんにそう言われる と、女の人って⋮⋮こういう気持ちになるものなのかな⋮⋮﹂ 赤ちゃんの泣き声に反応して、吸わせる前から母乳が出てしまう ⋮⋮というのは、母さんにもあるらしい。でも俺は泣いてるわけで はないので、単に赤ん坊に魅了されると、乳を与えたくなるという 摂理があるのだ。 ︵すまない⋮⋮アンナマリーさん。﹁冒険者﹂スキルがないと、俺 は歩けるようになっても、ギルドでクエが受けられないんだ⋮⋮!︶ 歩けるようになったら速攻でクエストを受けるってこともないが、 もう恵体も魔術素養もかなり上がっていて、俺は赤子でありながら、 身体を鍛えていない大人より強い。もちろん、身体の大きさなどに 比例してダメージも変わるので、赤ん坊の俺が父さんより強くなる ことはありえないが、低級モンスターならパンチで倒せる。クエス トを受注する準備は既にできているのだ。 195 恵体はすでに12取れているので、ダメージ補正はプラス36⋮ ⋮具体的にどれぐらいかというと、ゴブリンのライフが30なので、 一発で倒すことができる。赤ん坊のままゴブリンに対峙することは ないから、試すことはできないが。ミゼール付近の森のモンスター だと、オーク以外は苦戦せず倒せるはずだ。 とにかく、ギルドに行けるのは早いほうがいい。クエストで手に 入る経験値が多いので、ゲームと同じならば、レベル上げにはクエ スト受注がもっとも効率がいいからだ。雑魚モンスター討伐、素材 の納品なんかでも十分に実入りがある。 レザーアーマー なんだかんだと言い訳をしているうちに、既にアンナマリーさん は革鎧の装備を解除し、タンクトップのような形状の肌着をたくし 上げようとしているところだった。ぷるん、と勢い良く収まってい たものが飛び出したとき、鎧の上からでは分からなかった発育の良 さに思わず固まってしまう。 ﹁そんなにじっと見て⋮⋮さっきまでよそ見してたのに。ヒロトく ん、おっぱい好きなの?﹂ ︵⋮⋮ここまで来ると好きというより、もはやライフワークだ︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽アンナマリー︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・﹁冒険者﹂スキルが獲得できそうな気がした。 ・︽アンナマリー︾は微笑んでいる。 196 ﹁すごい⋮⋮ヒロトくんの手、あったかい。こんなことができるん だね⋮⋮﹂ 優しく尋ねてくるアンナマリーさん。俺は間髪いれずに次の行動 をする︱︱もはや流れるように。 ◆選択肢◆ ・あなたは︽アンナマリー︾に依頼をした。 ◆ログ◆ ・あなたは︽アンナマリー︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは﹁冒険者﹂スキルを獲得した! もう一度ぺた、とアンナマリーさんの胸に触れる。すると先ほど は、エネルギーが身体に入ってきても確かな形にならなかったのが、 二度目では成長したという実感を得られた。 ﹁そんなに気に入っちゃったんだ⋮⋮男の子って、みんなそうなの かな⋮⋮?﹂ ︵重ね重ねすまない⋮⋮でも、これでやりとげたぞ⋮⋮!︶ 冒険者スキルが1でもあれば、﹁駆け出し冒険者﹂扱いでクエス トが受けられる。レベル上げの効率を考えると、取れる段階で取っ ておくのが一番助かる⋮⋮アンナマリーさんが来てくれて本当に良 197 かった。 ﹁⋮⋮でも、いっか。ヒロトちゃん、私のこと嫌いじゃないみたい でよかった﹂ ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾の魅了状態が回復した。 ︵は、早い⋮⋮こんなに早く回復することがあるのか︶ 耐性のある人は、魅了にかかっても自然回復する場合がある。し かしこの早さは⋮⋮おそらくアンナマリーさんの魅了耐性は、モニ カさんよりも高い。 そして、彼女には﹁カリスマ﹂の効果が発動していない。冒険者 であることはスキルが取れたことから間違いないが、彼女がどんな ステータスなのかは見えない⋮⋮かなり気になるけど、それは仕方 のないことだ。 服を元に着直したアンナマリーさんは、俺の鼻をちょん、とつつ いて笑った。 ﹁あんまりおいたしちゃだめだよ? これからは。今日だけは、秘 密にしておいてあげる﹂ ︵⋮⋮やっぱり、この人は俺の能力に気づいてる⋮⋮それでも、魅 了にかかってくれたんだ︶ 198 ただの少女冒険者だと思っていたが、この人はセーラさんと同じ く、何か大きな秘密を持っている⋮⋮そんな気がした。俺がもう少 し大きくなり、冒険者としても経験を積めば、彼女のことが何か分 かるだろうか。 ﹁お待たせ、準備できたわよ。アンナマリーさん、配膳を手伝って もらえる?﹂ ﹁はいっ、何でもやります!﹂ ﹁あら、ヒロト⋮⋮それ、何を持ってるの? ペンダント?﹂ ﹁これ、お宿の代金の代わりにヒロトちゃんにあげたんです。ぜひ もらってください﹂ ﹁そんな⋮⋮いいの? こんなに高価そうなものを﹂ ﹁いいんです、ボク、泊めてもらえて本当に嬉しかったから﹂ レミリア母さんとアンナマリーさんのやりとりを見ていて、俺は 早く喋れるようになりたいという思いを強くしていた。多くの人と 話したいなんて、前世の俺なら思うことは無かっただろう⋮⋮でも。 話さなければ分からないことはたくさんある。セーラさん、アン ナマリーさん⋮⋮彼女たちが何者なのか、関心を持つのは無粋かも しれないが。気になるものは、気になってしまう。 ︵転生したからには、この世界のことを少しでも多く知りたい⋮⋮ 彼女たちはきっと、俺が驚くような世界を知ってるはずだ︶ ゲームじゃ滅多にドロップしなかったスーパーユニークアイテム を、惜しみなくくれた少女冒険者。 俺は彼女の正体を、ずっと後になって知ることになる。 199 第十話の二 聖職者と冒険者 ︵後書き︶ ※次回は明日更新予定です。 200 第十話の三 始まりの日 俺がつかまり立ちを始めて、六ヶ月目に入った頃だろうか。俺は 果汁を口にする頻度が増え、いよいよ乳離れに移行しようというと きのこと。滑り込みで、重要なスキルを取得する機会があった。 十人目 パメラ・ブランネル 20歳 採乳開始時期 5ヶ月半 採乳回数 84回 関係:あなたに好意を抱いている 取得スキル:盗賊10 取得アイテム:盗賊のスカーフ 昼間、近所の家でぼやが出て、レミリア母さんが消火の手伝いに 出たことがあった。俺はさすがに手伝えることがないので、家の揺 りかごの中で運動し、少しでも身体を鍛えようとしていたのだが⋮ ⋮。 パリン、と音が聞こえる。うちの家には、この世界では貴重品で あるガラスを使った窓がいくつかあるのだが、そのうち一つが割ら れてしまったようだ︱︱ということは。 ︵侵入者⋮⋮火事場泥棒ってやつか︶ 俺はとりあえず息を潜める。こういうとき﹁隠密﹂スキルがある と楽なんだけどな⋮⋮実は揺りかごの外に自分で出ることが出来る 201 ようになったので、隠密スキルがあれば気付かれずにはいはいで偵 察出来る。母さんには、発育が早すぎると思われないように、適度 に調節して成長の過程を見せていたりするのだ。 しかし、貴重品がある部屋に先に行かれるとまずい。こっちに来 てくれれば⋮⋮と思っていると。 ﹁貴族なんてちょろいもんだね。危機意識なんて少しもありゃしな いんだから﹂ 冷めた口調で独り言を言っているのは、見るからに悪そうな雰囲 気の女性だった。いかにも盗賊と言わんばかりの軽鎧系の装備に、 足音を減殺する靴、ダガーなどを装備している。 ︵あれは盗賊専用の装備⋮⋮ということは。ステータスを見るまで もなく、盗賊スキルを持ってる⋮⋮!︶ 俺の目が輝き始める。もうちょっと近づいてくれたら、効果範囲 に入る⋮⋮頼む、もう少し⋮⋮! ﹁ん⋮⋮なんだ、赤ん坊か。生まれたばっかりの子供ほっといて、 他人の火事の面倒見てる場合じゃないだろうに﹂ 青みがかったふわふわしたカーリー・ヘアの女盗賊は、皮肉を言 テリトリー いつつも俺の方に歩いてきてくれる。そう⋮⋮そこから一歩先に入 れば、そこは俺の領域だ⋮⋮! ︵トラップカード・オープン! 俺!︶ 202 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動した! ︽パメラ︾は抵抗に失敗、魅了状態にな った。 ﹁⋮⋮無愛想な坊やだと思ったけど。こうしてみると、結構可愛い じゃないか﹂ レジスト うーむ、やっぱり抵抗できない人にはほぼ一発でかかるな⋮⋮イ ージーモードすぎる。 ◆ダイアログ◆ ・︽パメラ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO ︵とりあえず、うちでどういう悪事を働くつもりだったかを聞いて から、どうするか決めよう︶ 頭の中で、﹁何をするつもりだったか教えてくれ﹂と念じてみる。 コンソールが無いから、うまく伝わるか微妙だが⋮⋮バルデス爺に はこれで意志を伝えられたから、たぶんいける気がする。 ﹁あたしはこの家の金目のモノを全部盗みに来たんだよ。その後で 火をつけて逃げるつもりだった。そうすりゃ、証拠も何も残らない しねえ﹂ 203 ︵うわっ、普通に悪人だ!︶ 思わず引いてしまった。盗むだけならまだしも火をつけるって。 俺が普通にピンチじゃないか。 レミリア母さんとリカルド父さんの思い出の品を奪い、愛の巣⋮ ⋮もとい、大事な家を燃やそうとするなんて。これは未遂とはいえ、 許さなくてもいいんじゃないだろうか。 ﹁でも、あんたみたいな可愛い赤ん坊がいるのなら、とりあえず誘 拐して、﹂ ︵有罪だぁぁぁぁぁ!︶ ◆ダイアログ◆ ・︽パメラ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO ・あなたは︽パメラ︾に﹁採乳﹂を命令した。 ﹁ばぶー!﹂ ﹁ん⋮⋮あ、ああ、よしよし⋮⋮わかったよ、甘えたいんだろ? 赤ん坊だからしょうがないね⋮⋮﹂ 交渉術がなければまったく話が通じないところだが、魅了状態の 命令は絶対だ。こんな悪い盗賊は、色々と搾り取ってあげないとい けない。いや、エッチな意味じゃなくて。 ﹁盗みに入った家で何やってんだろうね⋮⋮あたしとしたことが﹂ 204 輝く手を、パメラが服をはだけて見せてくれた、大きすぎて外向 きに重力に引っ張られている褐色の胸に伸ばしていく。そしてぺた、 と触れた瞬間、彼女の胸が輝き、俺の身体に力が流れ込んできた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽パメラ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・あなたは﹁盗賊﹂スキルを獲得した! 気配を隠しやすくなった。 ︵よし⋮⋮!︶ ﹁甘えてる時は可愛いじゃないか⋮⋮坊や。男って、赤ん坊の頃か らそんなもんなのかい⋮⋮?﹂ 盗賊スキルを上げると、敵に気づかれる確率が減る﹁隠密﹂が取 得できる。隠密からは色んなコンボにつながるので、将来的に絶対 必須になる強スキルだ。 しかし、﹁魅了﹂を解除するわけにもいかない。もし帰ってきた 両親と鉢合わせたら戦闘になるかもしれないので、しばらくこのま までいてもらわないと。 ﹁⋮⋮あえあ﹂ ﹁ん⋮⋮い、今何て? あんた、もうしゃべれるってのかい?﹂ ﹁あえあ!﹂ ﹁それに、なんであたしの名前を⋮⋮ま、まさか⋮⋮あんた、悪魔 の子⋮⋮!?﹂ 205 ︵ひどい言われようだな⋮⋮ただ、ここでおとなしくしててもらう ぞって言ってるだけなのに︶ まだ母音しかしゃべれないので、パメラと言おうとしてもうまく 言えないが、気を引くことは出来たようだ。 しかし母さんが戻ってくるまで、どれくらいかかるんだろう。 ⋮⋮あっ。とてつもなく悪いことを思いついてしまった。 ﹁⋮⋮まんま﹂ ﹁な、何見てるんだい⋮⋮あたしはね、赤ん坊をあやしてあげたの は今が初めてなんだよ。さっきのはただの気まぐれで、二度も気ま ぐれがあると思ったら⋮⋮﹂ ﹁まんま!﹂ ﹁ひっ⋮⋮な、なんだってあたしが、こんな赤ん坊に⋮⋮お、怯え てなんざいないってのに⋮⋮っ﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽パメラ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁盗賊﹂スキルが上がりそうな気がした。 ﹁こ、これで満足だろ⋮⋮赤ん坊なんだから、赤ん坊らしく、もう おとなしくしてな⋮⋮っ!﹂ ︵⋮⋮悪人には容赦しない。それが俺のジャスティス⋮⋮!︶ 206 ﹁ちょっ⋮⋮あ、あんた、赤ん坊のくせにすばやいっ⋮⋮あぁっ⋮ ⋮!?﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽パメラ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁盗賊﹂スキルが上がりそうな気がした。 ※中略 ・あなたは︽パメラ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁盗賊﹂スキルが上昇した! ※中略 ・あなたは︽パメラ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁盗賊﹂スキルが上昇した! アクションスキル﹁忍び足﹂を獲 得した。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮や、やっぱり⋮⋮あんた⋮⋮悪魔の⋮⋮こっ ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽パメラ︾は昏倒した。 207 ︵ふぅ⋮⋮赤ん坊でも、こうすればマナ切れで相手を倒すこともで きるわけだ︶ 結局、パメラはあからさまに怪しい格好をしていたにもかかわら ず、お人好しなレミリア母さんによって﹁空腹で倒れていた﹂と勘 違いされ、食事をして去っていった。 採乳をするときに外したスカーフが俺の揺りかごに入っていた⋮ ⋮この盗賊スキルを補助する装備が、俺の戦利品だ。ある意味で、 これが俺の本格的な最初の戦闘だった。マナ切れで倒すというトリ ッキーな戦法だったが。 最後にパメラは俺に対して完全に怯えていたので、さすがにちょ っと反省した。やりすぎてはいけない、何事も。 ◇◆◇ そして俺が生後六ヶ月を迎えようというころ、フィリアネスさん たちがもう一度町にやってきた。 フィリアネスさんは魔剣の様子を確認したあとも、一週間ほど町 に留まり、町の周囲のモンスター掃討などを自主的に行っていた。 ﹁ただいま帰りました∼! くはー、疲れたー!﹂ ﹁ゴブリンだけかと思ったが、オークやコボルドもいるとはな⋮⋮ 徐々にこの辺りの魔物が、強くなっている気がするのだが⋮⋮﹂ 208 戻ってきたマールさんは汗だくになっていて、フィリアネスさん は涼しい顔をしている。少し前に公国東部で大規模なモンスター発 生があって、彼女たちはそこに派遣され、相当な数の魔物を倒して 経験を積み、一回り強くなっていた。 交渉術を利用して、戦闘せずに資産を増やしたりクエストをクリ アしたりすることはできるが、俺はエターナル・マギアの戦闘が好 きだったし、転生してからも早く戦いたいという思いが強かった。 戦いを終えてきた彼女たちを見ていると、どうしてもワクワクして しまう。 ﹁お疲れ様、みんな。騎士団の人たちがモンスターを退治してくれ てるって、町でも評判になってるわよ﹂ ﹁いえ、それほどのことではありません。民を魔物から守るのは、 騎士の義務ですから﹂ レミリア母さんが三人を出迎え、汗を拭く布を渡す。 相変わらず綺麗だな⋮⋮フィリアネスさん。サークレットをつけ てるし、もう随分と会ってないから、魅了も解除されてるに違いな い︱︱と思いきや。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾の魅了状態が続いている。 ・︽マールギット︾の魅了状態が続いている。 ・︽アレッタ︾の魅了状態が続いている。 ︵⋮⋮これって、俺が解除しないともう解けないんじゃ?︶ 209 三人揃って魅了が解除されてないので、まず俺のところにやって きて命令を待ち、授乳を試みようとする。今はレミリア母さんが居 るので、俺は断腸の思いで断っていた。 ﹁きのう、夫がお友達と一緒に森で狩ってきたスターラビットの肉 を仕込んであるから、今日はごちそうが作れるわよ﹂ ﹁スターラビット⋮⋮頭の部分の毛皮が、星の柄になってるってい う、あの伝説の⋮⋮!? ほ、ほんとに食べられるんですか∼!?﹂ ﹁信じられない⋮⋮ラビット系モンスターの巣から出てくる千匹の うち、一匹いるかいないかって聞きましたよ﹂ マールさんとアレッタさんが感激している。序盤でも、超低確率 で激レアドロップが出るのが、エターナル・マギアの良い所だった。 始めたばかりの素人でも、重課金者にまで通じる価値のあるレアド ロップの喜びを体験できる可能性があるからだ。 ア スターラビットの肉が貴重なのは、食べた直後は移動、攻撃、詠 タッカー 唱の速度が上がるからだ。5分だけ効果があるので、ボス戦前に攻 撃担当は全員が食べておくことが暗黙のルールだった。もちろん序 盤ではそこまでシビアではないが。 食事の持続時間はこの異世界ではゲームとは違い、丸一日は持つ とわかっていた。父さんはすでにスターラビットの肉を2回ドロッ プしており、前の食事効果がどれくらい持つかをログで確かめてい る。だいたい一晩は持つので、朝食べると仕事の効率が上がること になる︱︱が、せっかく母さんが夕飯で出すというので、バフ効果 はこの際気にするところではない。 ﹁フィリアネス様、どうしたんですか? さっきからぽーっとして 210 ⋮⋮﹂ ﹁はっ⋮⋮な、なんでもないぞ。子供の頃食べたスターラビットの 味を思い出したからといって、我を失うような脆弱な精神は持って いない﹂ ﹁ふふっ⋮⋮フィリアネス様も、美味しいものには弱いんですね﹂ ︵たーんと食べて大きくなってください、フィリアネスさん︶ ﹁む⋮⋮ヒロトも食べたそうだな。もう少し大きくなれば、私が柔 らかくして食べさせてやろう﹂ ﹁柔らかくって、口の中でですか? そんな、干し肉を死に際の人 に口移しするんじゃないんですから∼﹂ ﹁マールさん、例えが生々しいです⋮⋮﹂ 口移しか⋮⋮離乳食を。いや、そこまでしてもらうわけにはいか ないというかなんというか。 ︵口移しではスキルが上がらないしな⋮⋮ってそうじゃない。キス じゃないか、それって︶ フィリアネスさんのしっとりとした柔らかそうな唇⋮⋮い、いや、 俺は魅了状態が続いたとしても、そんな命令はしないぞ。さすがに 自分から解除するしな、魅了を。 ﹁⋮⋮約束したぞ、ヒロト。同じ口移しなら、あめ玉の方がいいか もしれないが﹂ ﹁ちょっ⋮⋮な、何言ってるんですかそんなうらやましいこと!﹂ ﹁フィリアネス様、町であめ玉を買われたのは⋮⋮まさか、そんな ことありませんよね?﹂ 211 アレッタさんの質問に、フィリアネスさんは頬を赤らめて微笑み を返すだけだった。前に、一晩中授乳してもらった経験が生きたな ⋮⋮って、開き直ってどうする。 あめ玉って、けっこうこの世界じゃ高いんだよな。パンが銅貨2 枚、薬草が銅貨10枚、あめ玉は15枚。この世界では砂糖は貴重 品だ。 調味料に関して言うと、当たり前だが醤油と味噌がない。前世で は和食が好きだった俺は、材料に相当するものを見つけたら作りた いと思っていた。何度か失敗することにはなるかもしれないが。 ◇◆◇ ﹁はぁ∼、びばびば⋮⋮びばびばってなんだろうね、ヒロトちゃん﹂ ﹁自分でもわからないことを言わないでください⋮⋮次は私がヒロ トちゃんと入るんですからね﹂ ﹁はいは∼い。ヒロトちゃん、気持ちいい?﹂ ﹁ばぶー﹂ 風呂に入りつつ、マールさんの胸に抱えられて、ぺたぺたと胸に 触れる。恵体スキルはもう上がらないけど、のぼせなくなるので、 入浴中の採乳は欠かしてはならない。 ﹁あぁ⋮⋮来て良かった。私、ヒロトちゃんにこうしてあげるため に来たようなものだよ∼﹂ ﹁わたしもです。ですから、早く順番を⋮⋮﹂ ﹁そんなに焦ることはない。アレッタ、さっきコボルドの矢を受け 212 ていなかったか?﹂ ﹁い、いえ、かすり傷です。フィリアネス様にそこまでしていただ くほどでは⋮⋮あ⋮⋮﹂ アレッタさんの腕の小さな傷に、フィリアネスさんが口をつける。 心配はないと思うけど、コボルドが時々装備している吹き矢には弱 い毒が塗られていることがあるから、気をつけないといけない。 ﹁こんなことをするより、アレッタが自分で手当てをした方が確実 だな﹂ ﹁いえ、ありがとうございます。お気遣い、いたみいります﹂ ﹁ごめんねアレッタちゃん、私、矢を叩き落とそうと思ったんだけ ど、間に合わなくて⋮⋮﹂ ﹁大丈夫です、私も戦うのに慣れてきましたし。新しいワンドも試 せて良かったです﹂ ワンドで近接戦闘か。メディックならある程度は出来るけど、前 衛に任せるのが本来は理想的だ。 俺は⋮⋮将来、どっちもやれるようにしておきたいな。リカルド 父さんとパーティを組んでる扱いだから、斧マスタリーが徐々に上 ライトニングパラライズ がっていて、そのうち装備できるようになる。まずは斧で、次に剣 を使いたい。 フィリアネスさんに剣を教えてもらいたいな⋮⋮雷光と麻痺のダ ブル魔法剣、あれをいつか使えるようにしたい。そのためには、ま だ精霊術を取ってないから、そのうち魔術師ギルドに行かないとな。 ﹁はーい、それじゃアレッタちゃんに交代ね。よいしょっと﹂ ﹁ありがとうございます⋮⋮ヒロトちゃん、マールさんより小さい ですが、大丈夫ですか?﹂ ﹁私よりアレッタちゃんの方が、ヒロトちゃんは気に入ってるよう 213 に見えるんだよね∼⋮⋮小さい大きいは関係ないみたい。だからあ などれないっていうか﹂ マールさんの視線の先には、相変わらず14歳と思えないプロポ ーションのフィリアネスさんがいる。誕生日が近いので、もうすぐ 15歳になるそうだ。 ﹁な、何を見ている⋮⋮私の身長が小さいのに、胸が不釣り合いに 大きいとでも言いたいのか﹂ ﹁えっ⋮⋮雷神様も、ヒロトちゃんにおっぱい見せたんですか∼? いつの間に?﹂ ﹁ち、違っ⋮⋮断じて違うぞ! 私は皆に隠れて、何かしてなどい ない!﹂ ﹁フィリアネス様、お静かに⋮⋮ヒロトちゃんの気が散ってしまい ますから﹂ ﹁む、むぅ⋮⋮ヒロト、そんなに楽しそうに⋮⋮﹂ ︵フィリアネスさんが焼きもちを⋮⋮し、しかし、アレッタさんか らの衛生兵スキルも大切だし⋮⋮くぅ、悩ましい⋮⋮!︶ そう言いつつも、俺は手を輝かせ、アレッタさんに触れることを 繰り返す。そんな俺をじゃれついていると思っているのか、彼女は 優しい目で見守ってくれていた。 ◇◆◇ ︱︱しかしフィリアネスさんは、実を言うと、みんなの前では自 重しているだけだったりする。 214 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・︻神聖︼剣技スキルが上昇した! ﹁ふふ⋮⋮やはり夜中に、お腹がすいてしまうのだな﹂ ﹁ばぶー﹂ フィリアネスさんは俺の両親に是非にとお願いしてまで、俺と一 緒に寝てくれた。そして、俺が服をつかんで控えめに﹁まんま﹂と 訴えると、苦笑しながらも服をはだけて、採乳させてくれた。 マールさんとアレッタさんが寝入ったのを確かめたあと、毛布の 中に隠れて、幸せでしかない弾力に思う存分触れさせてもらう。 ﹁⋮⋮マールやアレッタのときと比べて、どうだろうか?﹂ ﹁⋮⋮ば、ばぶー?﹂ ﹁ばぶーではわからないぞ⋮⋮ばか。もう少し大きくなって、私の 名前を呼んでくれ⋮⋮﹂ ︵ま、まさか採り過ぎたのか? サラサさんの好感度と同じくらい になってる⋮⋮!︶ 赤ん坊の俺にすら愛の言葉をささやき始めるのが、﹁身も心も捧 げ尽くしている﹂レベルの好感度である。もちろんふたりきりの時 であって、常にというわけではない。 215 ﹁⋮⋮私ならまだ大丈夫だ⋮⋮甘えたいのなら、遠慮なく⋮⋮﹂ ◆ダイアログ◆ ・︽フィリアネス︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YES/NO ︵だ、だめだ⋮⋮さすがにこれは行きすぎだ⋮⋮魅了でここまでさ せたら、後で絶対大変なことに⋮⋮っ︶ ﹁⋮⋮私の胸は、触りたくないのか⋮⋮?﹂ ︵⋮⋮断れるかぁぁぁぁぁぁ!︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・︻神聖︼剣技スキルが上がりそうな気がした。 ︵なかなか上がらない⋮⋮でも、フィリアネスさんは喜んでくれて る。それなら、俺はスキルが上がらなくてもかまわない︶ 小さな手で確かめるようにぺたぺたと触れると、フィリアネスさ んはくすぐったそうにしつつ、俺の頬をぷに、とつまむ。 ︱︱しかし微笑んでいた彼女の瞳が、不意に、真剣なものに変わ る。 216 ﹁おまえが、私に幸せとは何なのかを教えてくれた⋮⋮幸せとは、 まず初めに、おまえが健やかに成長してくれることだ。私は神のた め、公国のため⋮⋮そしてお前のために、この剣を捧げよう。剣だ けでなく⋮⋮すべてを⋮⋮﹂ ︵フィリアネスさん⋮⋮︶ 可愛がってもらっているなんてものじゃない、これは⋮⋮もはや、 愛されているとしか言えない。 けれどそうされるほど、不安になる。俺が話せるようになったら、 今みたいに親しいままでいられるのか。 ︵⋮⋮いや。それを恐れてたら、始まらない︶ ﹁次に来られるのは数カ月後⋮⋮魔剣の監視のたびに、おまえは少 しずつ大きくなっていくのだろうな。そして、いつか立派な男に⋮ ⋮その時、私は⋮⋮﹂ フィリアネスさんが言おうとしていることは、女の子とまともに 付き合ったことのない俺でも分かった。 俺が大きくなったら、フィリアネスさんも⋮⋮そうして立場が変 わって、離れていくことを怖がってるんだ。 いつまでも、同じままでは居られないのかもしれない。それでも 今だけは、夜が明けるまでは。 ﹁⋮⋮いい子だ。今はそうして、甘えてくれ⋮⋮私のことを、必要 として⋮⋮﹂ 217 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。 ・︻神聖︼剣技スキルが上がりそうな気がした。 ・︽フィリアネス︾は涙を流した。 十一人目 マールギット・クレイトン 16歳 採乳開始時期 2ヶ月 採乳回数 8回 関係:あなたに好意を抱いている 取得スキル:騎士道3 十二人目 アレッタ・ハミングバード 20歳 採乳開始時期 2ヶ月 採乳回数 24回 関係:あなたに運命を感じている 取得スキル:衛生兵5 十三人目 フィリアネス・シュレーゼ 14歳 採乳開始時期 2ヶ月 採乳回数 94回 関係:あなたに心身共に捧げ尽くしている 取得スキル:︻神聖︼剣技12 218 ︱︱こうして俺は、生まれてから六ヶ月の間に、多くのスキルを 手に入れた。 全て、皆のおかげだ。 飽くことなくスキルを求め続けた日々、そうしてたどり着いた場 所は⋮⋮。 ◆ステータス◆ 名前 ヒロト・ジークリッド 人間 男性 0歳 レベル3 ジョブ:村人 ライフ:160/160 マナ:264/264 スキル: 斧マスタリー 0↓10 ︻神聖︼剣技 0↓12 薬師 0↓20 商人 0↓10 盗賊 0↓10 狩人 0↓10 衛生兵 0↓5 騎士道 0↓3 聖職者 0↓3 冒険者 0↓1 歌唱 0↓1 恵体 0↓12 魔術素養 0↓20 気品 0↓22 交渉術 100 幸運 30 219 アクションスキル: 薪割り 加護の祈り ポーション作成 忍び足 値切る 口説く 依頼 交換 隷属化 パッシブスキル: 斧装備 弓装備 薬草学 商才 マナー 儀礼 カリスマ ︻対異性︼魅了 ︻対同性︼魅了 ︻対魔物︼魅了 選択肢 ピックゴールド ピックアイテム 豪運 残りスキルポイント:9 残りボーナスポイント:125 ◇◆◇ ︱︱生後半年。乳離れを迎えるまえに入手したスキルを、俺はそ れ以後も、育てられるものは出来る限り育てることに励んだ。歩け るようになり、一歳が近づき、出来ることが加速度的に増えていく。 そして、俺が一歳を迎えた誕生日。サラサさんが、リオナを連れ 220 て家にやってきた。 ﹁ヒロトちゃん、お誕生日おめでとうございます。これからも、私 達と仲良くしてくださいね﹂ ﹁ありがとう、サラサさん。こらヒロト、そわそわしないで、ちゃ んとお礼言いなさい﹂ ﹁⋮⋮あ、ありがとう﹂ ﹁ふふっ⋮⋮最近、恥ずかしがり屋さんになりましたね。昔はもっ と懐いてくれていたのに⋮⋮いいんですよ、もっと甘えても﹂ サラサさんはリオナを抱えたまま、俺を抱きしめてくれる。や、 柔らかい⋮⋮しかもすごくいい匂いがする。一歳でそんなこと考え てるなんて知られたら、どうしていいのか。 ﹁⋮⋮ひ、ひお⋮⋮ひおちゃ⋮⋮﹂ ﹁あら、リオナちゃんもそんなに喋れるようになって。うちの子の こと、もう少しで呼べそうね﹂ ﹁はい。この子ったら、私たちより、ヒロトちゃんのことばかり呼 ぼうとするんですよ﹂ 俺はしばらくの間、リオナとは会ってなかったし、どうしてか、 彼女と顔を合わせると複雑な気分になった。 ﹁ひお、ひおちゃ⋮⋮﹂ ﹁リオナは本当にヒロトちゃんのことが好きなのね。赤ちゃんでも、 いい子だって分かるのかしら﹂ ︵⋮⋮似てる⋮⋮やっぱり⋮⋮︶ 221 生まれたばかりの頃より、リオナは少し女の子らしくなっている。 その顔を見ると、俺はどうしても、記憶の中にある姿と重ねずにい られなかった。 ︵⋮⋮あいつに⋮⋮陽菜に、似てるんだ。そんなのは偶然だ⋮⋮で も⋮⋮︶ ﹁ヒロト、リオナちゃんも歩けるようになったら、一緒に遊んであ げられるわね﹂ ﹁う、うん⋮⋮で、でも、﹂ ﹁きゃっ、きゃっ♪﹂ ﹁ヒロトちゃんと遊ぶのが楽しみです、って言ってるみたいですね ⋮⋮こんなに嬉しそうにして﹂ サラサさんの腕の中で、リオナは俺に無邪気に手を伸ばす。その 姿はとても可愛らしくて、俺はどうやって触れていいのかもわから ないのに、手を伸ばす。 ︱︱その、瞬間だった。 ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の﹁魅了﹂が発動! あなたは魔封じのペンダントの 効果で魅了を防いだ。 ︵なっ⋮⋮!?︶ 頭の中に流れてきたログが信じられず、俺は思わず動揺する。 222 リオナは赤ん坊で、何も変わったスキルなんて持っていない。 サラサさんの子供で、人間のハインツさんとの間のハーフだから、 クォーターエルフで⋮⋮。 ステータスを見ないままに、そうだと思い込んでいた。 この一年、何度も顔を合わせながら、疑いもしなかった。 ﹁さてと⋮⋮リカルドが帰ってくる前に、お料理の支度を済ませな いとね﹂ ﹁私も手伝います。ヒロトちゃん、リオナのことを見ていてもらっ てもいいですか?﹂ ﹁⋮⋮う、うん⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽リオナ︾が一時的にパーティに参加した。 サラサさんになら、辛うじて返事ができる。慣れている相手にな ら、俺はある程度まともな受け答えをすることができた。 ﹁あうー♪﹂ 揺りかごに入れられたリオナをゆっくり揺らしてやると、彼女は 嬉しそうに笑う。俺はアンナマリーさんにもらったペンダントを取 り出し、握りしめながら、祈るような気持ちでリオナのステータス を見た。 ︵⋮⋮そんな⋮⋮そんな、ことが⋮⋮︶ 223 ◆ステータス◆ 名前:リオナ・ローネイア 夢魔 女性 0歳 レベル1 ジョブ:破滅の子 ライフ:40/40 マナ:456/456 スキル: 薬師 10 魔術素養 36 夢魔 10 不幸 5 アクションスキル: なし 224 パッシブスキル: ︻対異性︼魅了︵夢魔10︶ 薬草学︵薬師10︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ 魔王リリスの転生体 種族による職業制限あり 徐々に不幸値が上昇 残りスキルポイント:3 人のステータスを、俺は情報を得るためと言って、必要なことだ と思って見てきた。 そのことを、生まれて初めて後悔した。ほんの一瞬だけ、見なけ れば良かったと思った︱︱でも。 ﹁⋮⋮ひおちゃ⋮⋮ひおちゃ﹂ ﹁⋮⋮なに言ってんのか、わかんねえよ⋮⋮﹂ サラサさんの真似をして俺の名前を呼ぼうとするリオナ。 彼女が伸ばしてくる手を、俺は⋮⋮内心で葛藤に苛まれながら、 ぎゅっと握っていた。 ﹁ひろちゃん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ、なんで俺のなまえ、先に言ってんだよ⋮⋮!﹂ サラサさんでも、ハインツさんでもなく。リオナが最初に呼んだ のは、俺の名前だった。 リオナは、前世の幼なじみに似ている。髪の色も、眼の色も違っ 225 ていても。 ︱︱ヒロちゃん、今日ね、学校でこんなことがあったんだよ。 俺は前世でも、同じ呼び方で呼ばれていた。それを思い出さずに いられなかった。 ︵似てるだけだ⋮⋮リオナは、リオナだ︶ 俺は自分だけがこの世界で特異な存在だと思っていた。 こんなところに、生まれた時から宿命を背負わされている女の子 がいたというのに。 破滅の子なんてジョブも、魔王の転生体なんて文言も、ゲームの 中にありはしなかった⋮⋮。 しかし、分かっていたはずだ。 俺がやっていたエターナル・マギアは、この世界を不完全に再現 しただけのものに過ぎなかったということを。 なぜ女神が俺にボーナスを与えて、この世界に転生させたのか。 なぜ俺の父親が、魔剣の護り手なのか。 なぜ幼い俺が、魔王の転生体であるリオナと知り合ったのか。 ︵⋮⋮たどり着けって言ったな⋮⋮女神⋮⋮!︶ 俺はリオナの手を握りながら誓った。 持てる力と手段の全てを使って、この世界の謎を解き明かす⋮⋮ そして。 例え血がつながっているか分からなくても、サラサさんの﹁娘﹂ であるリオナを、この手で守っていこうと。 226 第10.5話 パーティ結成秘話 1︵前書き︶ ※この回は後から追加しております。 227 第10.5話 パーティ結成秘話 1 リオナは魔王の転生体だった。誰も彼ものステータスを見ること に慣れて、ゲームのようにこの世界を俯瞰するようになってしまう ことをどこかで踏みとどまりたくて、俺は子供のステータスは見な いと勝手にルールを決めていた。しかしそれが、結果的には裏目に 出てしまった。 いかにこの異世界を甘く見ていたか。何が起きてもおかしくはな いのだ。何も知らなければ備えることも出来ない。父さんが魔剣な んてものを持っている時点で、俺は想定しうる全ての可能性を考慮 するべきだった。 リオナのことを知ったその日の夜は思い悩んだが、一夜明けて、 立ち直ってから今後の行動の指針を決めるまでは早かった。 俺は歩けるようになったし、少しだが話せるようになった。ミゼ ールの町に出て情報収集し、来たるべき時のために準備を始めよう と思ったのだが、すぐに問題にぶち当たった。 ︵一歳だと、外に出るのは許してもらえない⋮⋮保護者同伴じゃな いと、普通に怒られるんだよな︶ 俺の身長は現在、80センタ・メーティアくらいだ。長さの単位 は﹁メーティア﹂といって、﹁センチ﹂は﹁センタ﹂、﹁ミリ﹂は ﹁ミリス﹂と、異世界では微妙に言い方が異なる。他の単位も異世 界では違う表記になっている。 ゲーム時代は長さの単位を目にする機会はあまりなかったが、言 228 い方がちょっと違うだけで、前世の感覚がそのまま通用しそうだっ た。 つまり、80センティアしかない俺は、まだとても小さい。手足 のリーチだって伸びてないし、装備品はつけると多少サイズが身体 に合わせて変化するものの、さすがに子どもと大人の装備は兼用で はなく、布製の弱い装備しか選べない。父さんが炭に使う以外にも 資材としての原木を切ってくるので、それを加工して武具を作るこ とも視野に入れなくてはならない。木防具は火に弱く、防御力も最 低ランクだが、布装備だけよりはマシだし、重量のある装備をする ことで恵体スキルが上がりやすくもなる。 ステータスの数値上、大人に匹敵するライフなどを持つ俺は、も しろくに装備もせず外に出ても、そこらの雑魚モンスターには負け ないはずだ。﹁はず﹂のままではちょっと怖いので、早く試してみ たいという気持ちはある。パメラとの戦闘みたいに条件が噛みあえ ばいいが、そうでない場合は、物理的な戦闘力がどうしても必要に なってくる。 そんなわけなので、俺はレミリア母さんに、外に出てもいいかと 夕食の席でお願いしてみた。 ﹁だめに決まってるじゃない、そんな危ないことさせられないわ﹂ ﹁ご、ごめんなさい⋮⋮や、やっぱり、ダメかな⋮⋮﹂ 流暢にはまだしゃべれないが、その拙い口調が、少し母さんの同 情を誘ったようだった。いや、泣きそうになってたどたどしくなっ てるわけではないのだが。 ﹁お母さんか、他の大人の人に連れていってもらいなさい。お父さ 229 んがいるときは、お父さんに頼むとか⋮⋮﹂ ﹁はっはっはっ、ヒロト坊、探検でもしたくなったのか? やんち ゃなのはいいが、町に出入りする連中もみんながみんないい奴だと は限らないからな⋮⋮と言っても、そういうことはまだ難しいか。 とにかく、悪いやつにさらわれたら困るから、一人で出歩いちゃだ めだぞ﹂ ﹁う、うん⋮⋮わかった。ごめんなさい﹂ ﹁そんなに謝ることないのよ、外に出たいっていう気持ちはわかる し⋮⋮私も日中は機織りをしてるから、なかなか遊んであげられな いものね。サラサさんは今でも良く来てくれてるし、これ以上お願 いするのは悪いわね⋮⋮﹂ サラサさんは相変わらずうちに来ては、一歳でもまだ小さいから といって、俺がお腹をすかせていると見るやいなや、ぽろんと胸を 出してくれる。まさに慈母からの無償の恵みなのだが、どうも俺が 大きくなってからというもの、彼女の反応が少し変わってきている 気がして︱︱というのは、今は置いておこう。 母さんがいるときは遠慮するのだが、リオナがさみしそうにする ので、結局俺も一緒に吸わせてもらっていた。おかげで俺の魔術素 養スキルは、魔術を使わなくても少しずつ成長を続けている。 ﹁サラサさんといえば、うちに出入りするようになってから、何か 色っぽさが増したというか⋮⋮いや、気のせいだな。父さんは母さ ん以外は女性として見てないからな、他の女性に目移りはしないぞ﹂ ﹁あなたったら、ヒロトの前で⋮⋮そういうことは後にして、恥ず かしいわ﹂ ﹁そんな本格的に照れられると、俺も⋮⋮な、なんだヒロト、笑っ てるのか? 俺たちのやりとりの意味がわかってるなら、結構すご いんじゃないのか。やはり俺の息子は天才だな﹂ 230 ﹁え、えと⋮⋮お父さんとお母さんが⋮⋮仲良くて、うれしいから ⋮⋮﹂ 言葉が思うように出てこなくてもどかしい。けれどそんな俺を見 て、隣に座っているレミリア母さんは嬉しそうに微笑み、頭を撫で てくれた。 ﹁ありがとう、ヒロト。お母さんとお父さんはね、ヒロトとも仲良 くしたいのよ。今でも十分、仲良しだと思ってるけれどね﹂ ﹁おう、もちろんそうだぞ。遠慮せずにいっぱい話しなさい。父さ んはヒロトの話を聞くの、好きだからな﹂ ﹁う、うん⋮⋮ありがとう⋮⋮でもおれ、しゃべるの苦手だから⋮ ⋮﹂ 本当にそう思って言ったのだが、父さんと母さんは顔を見合わせ る。そして、同時に俺の方を見て笑った。 ﹁それだけ話せたら、他の子のお母さんたちがびっくりするくらい よ。リオナちゃんも、まだほとんど喋れてないのに。最近、ヒロト の名前を呼べるようになったくらいでしょう?﹂ ﹁おっ、そうなのか。そいつは隅におけんな。モテモテじゃないか﹂ ﹁あなた、あんまり軽いことばかり言ってると、軽いお父さんだと 思われるわよ? もっと威厳のあるお父さんを目指してくださいね﹂ ﹁ぐう⋮⋮い、いいじゃないか。俺はフランクな父親でありたいん だよ。なあヒロト、堅物の父さんより、陽気な父さんの方がいいよ な?﹂ ﹁あはは⋮⋮うん﹂ 父さんは底なしに明るいと思う。そういう陽気さが、母さんの心 を開いたのだろう。 231 前世の父さんは寡黙で、母さんはよく話すほうだった。俺は二人 とも同じように尊敬していた。死ぬまでに恩を返せなかったことが、 今でも悔やまれてならない。 ︵RMTで作ったお金を渡せてたら、俺はその後どうしてただろう︶ 今となっては、結局ひきこもりを終わらせることだけが、家族の ためになる行為だったんだとわかっている。でも、生前の俺にはど うしてもそれが出来ないままだった。 今度こそは、間違えたくない。今の父さんと母さんのことが、俺 は本当に好きだから。二人が俺を産んでよかったと思ってもらえる ような人間になりたい。 ﹁な、なんだ⋮⋮ヒロト坊が笑うのって珍しくないか? びっくり するほど子供らしい笑い方だな﹂ ﹁あたりまえじゃない、子供なんだから。ヒロトはいつでも可愛い わよ。だから、近所のお母さんにも気に入られてるのよ。ね、ヒロ ト﹂ ﹁そ、そうかな⋮⋮﹂ ﹁しゃべるようになってから、その小ささとは思えないほど大人び て感じたからな。それはそれでいいんだが、そうやって無邪気に笑 ってくれると、何というか⋮⋮感動だな﹂ ﹁ええ⋮⋮そうね。男の子はすぐ大きくなるっていうけど、ゆっく りでいいのよ﹂ レミリア母さんはまた頭を撫でてくれる。ゆっくりでいい、そう 言ってくれる彼女の優しさは十分に伝わっている⋮⋮だけど。 ︵歩けるようになった今は、少しでもいい⋮⋮前に進みたい。家の 中に居るだけじゃ、出来ないこともあるんだ︶ 232 和気あいあいと話している父さんと母さんに申し訳なく思いなが ら、俺は、明日から行動を開始しようと決めていた。 母さんに心配をかけない。そのために一番いいのは、一人で外に 出ないことだが⋮⋮﹁心配させない﹂という条件を満たして外に出 ることはできる。 食事が終わり、母さんに風呂に入れてもらったあと、俺は父さん 母さんと一緒に寝ることになった。 歩けるようになってから、俺のために用意されていた部屋を与え てもらったが、母さんはまだ一人では心配だからといって、俺を一 緒に寝かせることが多かった。 風呂から上がったあとは母さんはポニーテールを解いている。父 さんは俺たちより先に風呂から上がってきて、早くも深い眠りに落 ちていた。いびきなどはかかず、静かに寝入っている。 ﹁ヒロト、お母さんさっきはああ言ったけど、ヒロトがどうしても って言うなら、少しだけなら外に出てもいいわよ。あまり遠くには 行かないようにね﹂ ﹁い、いいの? さっきは、あんなにダメって言ったのに﹂ ﹁父さんはああ言ってたけど、ヒロトを連れて町を歩いてるうちに、 たくさん知り合いが出来たでしょう? その人たちも、お母さんが 一人で町に行ったりすると、すごくヒロトのことを気にしてくれて るの。ほら、バルデスお爺さんなんて、お孫さんも独り立ちされて るから、ヒロトのことをすごく可愛がってくれてるのよ﹂ ︵バルデスさん⋮⋮そうだったのか。俺たちのことを助けてくれて から、まだ会ってなかったな⋮⋮︶ 233 ﹁でも、やっぱり町にひとりで行くのは危ないわね。ヒロト、もう 少しだけ待ちなさい。そうしたら、エレナさんの家のアッシュ君と ステラちゃんとも遊べるようになるわ。お兄さんお姉さんと一緒な ら、私も安心して行かせてあげられるから﹂ ﹁え⋮⋮お、おれ、あんまり、子供は⋮⋮﹂ ﹁ヒロトも子供なんだから、子供どうしで遊ぶことだって大事よ。 大人のお姉さんばかりに甘やかしてもらってると、だめな大人にな ってしまうわよ? リオナちゃんが歩けるようになったら、遊んで あげなさい﹂ ︵リオナ⋮⋮そうだよな。歩けるようになって、しゃべり始めたら、 話さないわけには⋮⋮︶ 俺はうまくやれるだろうか、という思いが先に立つ。それよりも、 どんなことを話すべきか、リオナと話せば、彼女のことがもっと分 かるんじゃないのかということに、興味を持つべきなのに。 ﹁どうしたの? 考え込んじゃって﹂ ﹁あ⋮⋮う、ううん。分かった、できたらリオナと遊ぶよ﹂ ﹁できたら、なんてことないわよ。あんなに大人しくて良い子なん だから、きっと仲良くなれるわ。あ、もしかして恥ずかしがってる の?﹂ ﹁ち、ちが⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮照れちゃって。いいのよ、お母さんにはひみつにしな くても。でも、お父さんの言ってたとおりね⋮⋮ヒロトは心の成長 も、私が子供のときよりずっと早いみたい﹂ 恥ずかしいといえば恥ずかしい。しかし、それ以上に俺がリオナ に素直に接することができない理由がある。 リオナの笑顔は、陽菜に似ている。彼女が俺の名前を呼んだとき 234 のことが、まだ昨日のことのように頭から離れない。 ﹁ふぁぁ⋮⋮そろそろ寝ましょうか。ヒロトはいっぱい寝て、大き くならないとね。お父さんみたいに﹂ ﹁う、うん⋮⋮おやすみ、お母さん﹂ ﹁おやすみ、ヒロト﹂ 母さんは俺の額にキスをする。そして、肩まで毛布をかけてくれ た。異世界には布団はないが、マットはある。スプリングベッドで はないが、羽毛や穀物の殻などを詰めた袋をマットの代わりに使う ので、マットというよりどちらかといえば布団のような寝心地だ。 母さんはそれを週に何度も天日で干すので、寝る時はいつもお日様 のいい匂いがした。 その香りと身体を洗うためのハーブの香りとが、俺にとって母さ んを象徴するものだった。一緒にベッドに入るとすぐに安心して眠 くなってしまう。 ﹁⋮⋮ヒロト、もう離乳食に完全に変えちゃったけど、大丈夫?﹂ ﹁うん⋮⋮お母さんが作ってくれるなら、何でもおいしい﹂ ﹁そう⋮⋮良かった。食べられるものが増えて、そのうち、私たち と同じものを食べられるようになったら⋮⋮美味しいものを作って あげるわね⋮⋮﹂ 母さんも眠そうにしている。彼女も毎日一日中働いているので、 俺より早く寝入ることもある。まだ俺も夜九時を回ると活動限界な ので、寝るのが早い生活は苦ではなかった。 ﹁⋮⋮すぅ。すぅ⋮⋮﹂ 235 まだ十九歳の母さんの寝顔は、俺から言うのも何だが、少女のよ うなあどけなさが残っている。 一度授乳期を終えてしまうと、戻ることはもうない。普通はそう いうもので、俺も気品が上がるからという理由で、母さんにいつま でもせがみ続けるつもりもなかった。 けど、スキルのためにいろんな人にミルクをもらって、母さんか らもらわなくても済んでいたと思うと、今さらに反省する気持ちも ある。 母さんに守られていることの安心感と、何もかもを与えてもらう 幸福。でも俺は、そこから少しでも早く自立しなくてはならない。 ﹁⋮⋮んん。もう少しこっちに来なさい、ヒロト。寒いでしょう﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。ありがとう、お母さん﹂ 寝入っていたかに見えた母さんに引き寄せられ、胸に顔をうずめ られる。顔を上げてみると、母さんの目は閉じられ、長い睫毛が少 し震えている。しかし眠りが次第に深くなると、その動きもごく小 さくなる。 ︵⋮⋮おっぱいが目の前にあると、地獄なんですけど⋮⋮︶ そして俺の心は安らかになるわけでもなく、とても言えない葛藤 で満たされるのだった。早めに俺は両親と離れ、ひとり部屋で寝る べきだと、なんとなく気を使ってしまう。まだ若いふたりなので、 特にリカルド父さんはいろいろ我慢していることだろう。聞こえて くる寝息を聞く限りでは、睡眠欲が何にも勝っているようだが。 ◇◆◇ 236 母さんの胸による圧迫で葛藤していたはずが、気づくと深く眠っ ていた。母さんは目が覚めるとまず、朝食の準備を始める前に俺を 着替えさせてくれる。父さんもムクッと起きて、料理のために使う 釜に火を入れたりする。 朝食を終えると父さんは出かける支度をして、斧をかついで森に 向かう。木こりの父さんは、木材を扱う商人に定められた木材を納 品する他に、近所に薪を売ったりもする。 今度町に新しい建物が建つそうで、そのための木材の需要が大変 なことになっているそうだった。サラサさんの旦那さんのハインツ さんは、父さんと組んで森に出ては、父さんが条件に合う木を探す 途中で遭遇した獣を一緒に狩っている。ハインツさんは罠の名手で、 ナイフ一つでも大型の獣を狩ることが出来る技術の持ち主だそうで、 一度見せて欲しいと思うものの、なかなか機会に恵まれずにいる。 父さんが出かけたあと、母さんは洗濯物を干し、家事をひと通り 終える。俺も手伝っているうちに、既に昼になっていた。広い家な ので、掃除するだけでも結構大変だ。 昼食の席で、母さんは俺に焼きたてパンをちぎって食べさせてく れながら言った。自分でやってもいいのだが、母さんは白いところ を俺に、外の硬い部分を自分で食べる。まだ歯が生えそろってない 俺にはありがたい限りだ。とにかく柔らかいものしか今は食べられ ない。 ﹁お昼をとったら、お母さん機織りをしてくるわね。エレナさんに 急ぎでって頼まれてる仕事があるから、今日中に終わらせないと﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。いってらっしゃい﹂ ﹁そうは言っても、仕事部屋に居るだけよ。集中してて、声をかけ ても聞こえないかもしれないから、その時はベルを鳴らしてね。お 237 手伝いさんのスーが居るときは、彼女に用事を頼んでもいいけど、 あまりわがままは言っちゃだめよ﹂ ﹁うん、わかった﹂ スーさんはギルドから派遣されたメイドで、元々は首都で働いて いたという人だ。年齢は母さんの一つ下で、言葉は少ないが真面目 な人で、申し付けられた仕事以上のことをしてくれるので、母さん の全幅の信頼を得ている。見た目は華奢だが恵体値が高いので、重 労働になりそうなマット干しも難なくこなしてしまう。体型に比例 せずに力を発揮する姿には、いつも圧倒されるものがあった。 彼女については俺もまだ良く知らないというか、コミュニケーシ ョンがうまくいっていない。﹁カリスマ﹂にもかからないし、最近 は魅了をオフにしているので、普通に話して好感度を上げるしかな いのだが、まだ口下手の俺には、寡黙な彼女とフランクに話すのは ハードルが高かった。 ︵でも⋮⋮今日は、そういうわけにもいかないな。彼女の協力を得 られれば⋮⋮︶ 俺の言うことを聞いてくれるかは分からないが、試してみないこ とには始まらない。 もう俺は、家の中や、保護者の視線のある範囲を行動するだけで は満足できなくなっていた。生前、毎日慣れ親しんだ異世界を、自 分の足で歩きまわりたくて仕方がなかったのだ。 ◇◆◇ 母さんはスーさんが来ると、彼女に仕事と俺のことを頼んで、機 織りをしに行った。見せてもらうこともできるのだが、俺はなるべ 238 く邪魔をしないようにしていた。機織りは機械的な作業に見えるが、 実際は繊細な技術と高い集中力が必要な作業だからだ。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、どうしましたか?﹂ スーさんは俺を﹁坊っちゃん﹂と呼ぶ。何か前世の国民的な文学 を思い出すが、あの作中では﹁下女﹂が出てきたけど、メイドさん はポジションとして近いのかなと思う。 彼女は背中まで届く青みがかった黒い髪を、丸い宝珠のようなも のがついたリボンで二つのおさげにまとめている。身長は俺が知っ ている女性の中では平均的な高さで、華奢な体型に丈の長いスカー トのメイド服がよく似合っていた。 彼女はいつも淡々としていて、感情の起伏が少ない。最初はあま り好かれていないのかなと思ったものだが、彼女は誰に対しても同 じ態度だった。 ﹁え、えっと⋮⋮あの、その⋮⋮﹂ そして、何を言おうとしてたか忘れる俺。そのメイド服は売って るのかとか、スーさんの故郷はどこかとか、今聞きたかったわけで もないことが浮かんできてしまう。 ﹁⋮⋮ごゆっくり、どうぞ﹂ 何を話したいのかゆっくり考えて欲しい、ということらしい。彼 女は律儀に、俺の前にしゃがみこんで待ってくれている。 感情の色を宿していないけれど、冷たくもない、そんな不思議な 瞳。端正な面立ちの彼女と向き合っていると、何か無性に恥ずかし くなってくる。 239 ︵れ、冷静にならないと⋮⋮えーと、なんだっけ、俺が彼女に頼み たかったことは⋮⋮そ、そうだ︶ ﹁スーさん、あ、あの、おれ、おねがいが⋮⋮﹂ ﹁お手洗いですね。かしこまりました﹂ ﹁わっ⋮⋮﹂ スーさんは俺を抱え上げて、トイレまで連れて行こうとする。下 の世話をお願いしたことはないが、もじもじしているので勘違いさ れたようだ。 そしてあれよという間に、俺は抵抗することもできずに小用を済 ませられてしまった。は、恥ずかしい⋮⋮もう婿にいけなくなりそ うなほど、しっかりと見られてしまった。 そう、一歳なのでそれくらいさせてもらっても、まあおかしくは ないのである。それこそ全裸で町を疾走しても、一歳ならそれほど 怒られないが、母さんと父さんは恥ずかしい思いをするだろう。ス トリーキングはダメ、絶対。 そんな非常にどうでもいいことを考えていると、スーさんは居間 の家具の上に置かれた花瓶を拭きながら、頬をほんのりと赤らめて いた。 ﹁⋮⋮すみません、坊っちゃん。私、少し早とちりをした気がして きました﹂ ﹁う、うん。おれ、別にそれでもじもじしてたわけじゃないよ﹂ ﹁しかし、溜めるのは良くありませんから﹂ ﹁え、えーと⋮⋮そ、それはありがとう。またお願いするよ﹂ ﹁はい。いつでもお申し付けになってください﹂ 一歳だとトイレの穴にハマる可能性がある、という実にわかりや すい理由で、俺はまだ一人でトイレに行くのは危ないと思われてい 240 るのだった。危険の少ない洋式のトイレが懐かしい。 ﹁あ、あの⋮⋮こんなこと言ったら、スーさん、おこらない?﹂ ﹁⋮⋮なんでしょうか? 私は坊っちゃんのお願いであれば、まず 怒ることなどありませんが﹂ そこまで言ってくれているのに、心臓がばくばくと脈を打ち始め る。震えるぞハート、燃え尽きるほどヒート! とか言ってる場合 じゃない。余裕に見えるかもしれないが、その実は全く反対だ。話 したいことがあっても、関係ないことを考えずにいられないのだ。 なんだって、俺はこんなに人と話すのが苦手なんだ⋮⋮わかって る、顔を合わせて言葉を交わしても、誤解されることを避けられな かったからだ。 けれどろくに目も合わせられない俺が、恐る恐る彼女のほうを窺 うと、スーさんはずっと微動だにもせずに俺を見ていた。焦れもせ ず、呆れることもなく。 ﹁⋮⋮坊っちゃんは、よく外を見ていらっしゃいますね。お庭に出 ても、外に行きたいと思っていらっしゃるように見えますが⋮⋮い かがですか?﹂ ﹁⋮⋮う、うん⋮⋮おれ、外にいきたいんだ。だ、だから⋮⋮スー さんに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮奥様に、秘密にしておいてほしいということですね。しかし 私は、坊っちゃんを見守ることを申し付けられた身です。坊っちゃ んのお願いとはいえ、簡単にはいと言うことはできません﹂ それはそうだよな⋮⋮うーん。やっぱりスキルを使うしか⋮⋮成 功率が低すぎるけど、﹁依頼﹂するしかない。 241 ◆ログ◆ ・あなたは︽スー︾に﹁依頼﹂をした。 喋れるようになってから﹁依頼﹂をするのは初めてだった。する と、俺の意識に赤ん坊の時とは違う変化が訪れる。 ︵この感覚⋮⋮頭の中に、言うべき言葉が浮かんでくる。﹁依頼﹂ は、こういう使い方も出来るのか︶ 魅了した時に無条件で﹁依頼﹂を聞いてもらえるケースが最も強 力だと思っていたが、それが全てではなかった。こんなことがある なら、今持っているスキルもまた一つ一つ、効果を検証していくべ きだろう。 ﹁スーさん、お母さんが仕事をしてるあいだの、少しだけでいいん だ。もしおれが居ない時にお母さんが仕事部屋から出てきたら、お れは⋮⋮えーと、友達のところにいるって言っておいてくれないか な﹂ ﹁お友達⋮⋮サラサさんと言いましたか。彼女の娘さんの、リオナ ちゃんのことですか?﹂ ﹁え、えーと⋮⋮もし、サラサさんが俺の家に来ちゃうと、そのう そは通じないんだよな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃん、いつもよりお言葉がなめらかでいらっしゃいま すね⋮⋮やはり、他のお子様とくらべて、成長がとてもお早いと見 受けられます。早熟の天才とはこのことですね﹂ 242 そういう反応になるのは無理もない。まだ歯が生えそろってもな い子供が、流暢に喋ってるわけだから。 スーさんはしばらく俺を見て考えていたが、やがて母さんがいる 仕事部屋のある方を見やって言った。 ﹁奥様は、ヒロト坊っちゃんが不在だとわかれば心配されます⋮⋮ ですがひとつ、方法がございます。それは、セーラさん、サラサさ んといった、坊っちゃんのお知り合いにもご協力いただくことにな ります。私が言っていることの意味は、おわかりになりますか?﹂ ﹁う、うん⋮⋮スーさん、遠慮しなくていいよ。おれは、だいたい 大人の人たちの言ってることはわかるんだ﹂ ﹁かしこまりました。では、私にお任せください。他のお子様であ れば、一歳で外に出すなど絶対にしないのですが⋮⋮ヒロト様は、 私の言うことがわかっていて、それでも外に出たいとおっしゃる。 そのお気持ちを尊重したい、私はそう思っております。できれば私 が坊っちゃんをお連れできればと思いますが、そうすれば奥様に説 明ができなくなります。ご容赦ください﹂ こんなに話す人だと思ってなかった。カリスマがなくても、一生 懸命伝えれば、俺の気持ちは無視されることはなかった。 それが嬉しくて、俺はスーさんをただ見ていた。彼女は表情を変 えないまま、俺を抱えあげると、ぽんぽんと背中を優しく叩いてあ やしてくれた。 ﹁危ないことはなさらないでくださいね。坊っちゃんなら、きっと ご心配はないのだと信じております﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。おれ、絶対聞いてもらえないと思ってた﹂ ﹁はい、本当は坊っちゃんをお外に行かせるべきではないのですよ。 坊っちゃん、できるだけ早くお帰りください。外に出て学ぶのは、 もう少し先でも遅くはありませんから﹂ 243 ︵⋮⋮心配してくれてるのは、痛いくらいわかる。でも、立ち止ま っていられないんだ︶ ◇◆◇ 俺はスーさんに下に降ろしてもらい、彼女に見送られて、ついに 一人で屋敷の外に出た。 ﹁うわ⋮⋮ぁ⋮⋮﹂ 思わず声が出てしまった。この小さな身体で見る世界は、途方も なく広く思えた。 天高く、雲は静かに流れて、庭の木の葉を微風が揺らしている。 俺は初めて、エターナル・マギアを起動した時のことを思い出し ていた。あの斜め見下ろし型の奥行きの少ない世界は、今は無限の 広がりを持って俺の目の前にある。 歩き始めの頃は頭が重く感じて少しふらついたが、今はそんなこ とはない。しかし歩幅は狭く、この身長では、俺はちょこちょこと 歩いてるように見えるんだろう。普通に人に見つかれば、その場で 連れ戻されてしまうところだが︱︱俺には、赤ん坊の時に習得した スキルがある。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁忍び足﹂を使用した。あなたの気配が消えた。 244 盗賊スキル10で取得できるアクションスキル、忍び足。これを 使えば隠密状態になり、自分から攻撃したりして見破られない限り は、他人から認識されなくなる。これを使えば、普通に道を歩いて いても、気付かれて連れ戻されることはないはず︱︱と考えたとこ ろで。 ︵あ⋮⋮サラサさん⋮⋮うわっ!︶ 俺の家の前を通りすぎて教会に行こうとしたサラサさんが、俺の 存在に気づかず、すぐ横を通り過ぎて行く。膝丈のスカートがふわ りと揺れて、白い脚が思いきり見えた。 どうやらリオナを教会に連れていくみたいだ。リオナも俺の存在 には気づかず、お母さんに抱きかかえられておとなしくしていた。 ︵ピンク色か⋮⋮ピンクの染料は、この世界では貴重だ⋮⋮と、感 慨にふけってる場合じゃない︶ 俺は気持ちを切り替え、サラサさんたちについていきたい気持ち を抑えて町の方に向かった。 やりたいことが幾つもある。そのうちひとつでも多く、今日のう ちに成し遂げておきたかった。 ◇◆◇ 俺は市場に向かい、そこでバルデスさんの姿を探した。一度助け てもらってから、バルデスさんは市場で俺と母さんを見ると、声を かけてくれるようになった。そのとき、昼は市場に出ている屋台で 245 肉の串焼きをよく買って食べると言っていたのだが⋮⋮昼下がりだ し、さすがに居ないだろうか。 そう思っていた矢先、運良くバルデスさんの姿を見つけた。屋台 の店先に出された簡易テーブル席につき、キノコと肉の刺さった串 焼きを食べながら、仲間らしい中年の男性と話をしている。 ﹁最近、森で魔物が増えてきちまってな。バルデスさん、あんたん とこも武具の注文が増えたんじゃないか?﹂ ﹁ああ、確かに増えておるが、儂も料金を安くするわけにはいかん からのう。今まで通りの値段でのみ請けておれば、さほど忙しくは ならんよ﹂ ﹁ははは、稼ぎどきでもマイペースだな。うちは弟子まで駆り出し て、武具と防具の数を揃えてるよ。中程度の質でも飛ぶように売れ るからな﹂ ﹁鋼を鍛える槌に魂を込めよ、といつも言っておるじゃろう。逆に 言えば、それさえ出来ておれば十分な品質ともいえる。﹃粗悪な﹄ ものだけは作らんことじゃな、あれは使い手を殺すかもしれんしの う﹂ ﹁げっ⋮⋮﹂ ﹁なんじゃ? まさか、﹃粗悪な﹄武器を売りよったのか⋮⋮馬鹿 もん! 責任持って回収せい!﹂ ﹁わ、わかった、売った相手が言ってきたら、無償で普通の武器に 取り替えてやることにするよ。バルデスさんにはかなわねえなあ﹂ ﹁当たり前じゃ。ミゼールの鍛冶師が安く見られれば、冒険者も寄 り付かなくなる。そうすれば商売上がったりじゃからのう﹂ どうやらバルデスさんは、この町の鍛冶師たちから尊敬される立 場のようだ。ステータスを見た時、鍛冶スキルがかなり高かったか ら、俺は最初に武具を作ってもらうならバルデスさんがいいと思っ 246 ていた。 しばらくしてバルデスさんは食事を終え、仲間と別れて自分の工 房に戻った。バルデスさんの工房は市場のある通りから5分ほど歩 いたところにあり、ひっそりとした裏路地でもしっかり目立つ、立 派な金属製の看板を出していた。﹃バルデス・ソリューダス鍛冶工 房﹄とある。開店中の時間は、自由に入って良いとも書かれていた。 ︵お邪魔します⋮⋮おお、暗いな︶ 工房は扉を開けたところから地下に下っていた。石壁に取り付け られたカンテラの明かりを頼りに、俺はおっかなびっくり階段を降 りていく。 すると、帰ってきたばかりのバルデスさんが、金属のインゴット あごひげ を炉に入れ、叩いているところだった。深いシワが刻まれ、白く豊 かな顎鬚を蓄えたドワーフの老人の横顔が、炉の赤い光に照らされ ている。 バルデス爺は金属を炉から取り出すと、ハンマーで叩き始める。 金属が見る間に形を変えて、荒かった形が細やかに整えられていく。 ︵⋮⋮なんて技術だ。鍛冶師って、こんなことやってたのか⋮⋮︶ ゲームでは鍛冶師のスキルを使っても、武具をどうやって作って いるか、武器をどうやって鍛えているかなんて描写されなかった。 異世界では鍛冶師の仕事が、実際の労力を伴う行為として存在して いる。 赤熱していた金属を叩き、水で冷やし、少しずつ伸ばしていく。 247 どうやらバルデス爺が作っているのは肉切り包丁のようだ。普通の 料理に使うものではなく、肉屋で骨ごと叩き切るために使う大包丁 ⋮⋮そのまま武器として使えそうだが、さすがに1歳児が持つと絵 面がホラー以外の何物でもない。 ︵まあ、どんな武器を持っても合うわけないんだよな、一歳じゃ︶ 今の段階では、物々しい武器が欲しいわけではない。斧スキルを 発動することが出来ればそれでいい︱︱そうすれば、斧スキルを毎 日マナ切れまで使うことで、斧マスタリーを習熟できるからだ。 とりあえず、気づいてもらうには隠密を解かないといけない。俺 はウィンドウを脳裏に呼び出し、スキルを解除する。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁忍び足﹂をやめた。﹁隠密﹂状態が解除された! ﹁ふぅ⋮⋮ん?﹂ バルデスさんはいつの間にか、包丁の刃に木製の柄をつけて完成 させていた。それを布の敷かれた木箱に入れたところで、ふと俺の 方を見やる。 ﹁おお⋮⋮おお、おお⋮⋮!﹂ ﹁あ、あの、ば、バルデスのおじいさん⋮⋮おひさしぶり、です﹂ ﹁おおお⋮⋮なんということじゃ⋮⋮!﹂ 248 バルデスさんは感嘆の声を何度も上げたあと、俺に歩み寄ってく る。そして、わっしと両手で抱き上げた。 ﹁ヒロト坊、お父さんとお母さんからすこやかに成長していると話 は聞いておったが、まさかここまで一人で来てしまったのか? そ れは、少々心配じゃの。こんな小さな子供がふらふらしていたら、 さらわれてしまってもおかしくないんじゃぞ﹂ ﹁ご、ごめんなさい⋮⋮でも、おれ、バルデスじっちゃんのところ に来たかったんだ﹂ ﹁むぅ⋮⋮まだ一歳の誕生日を迎えたばかりと聞いておったが。も う、そこまで喋れるようになったのか? 人間の子供は、これほど 成長が早かったかのう⋮⋮﹂ バルデスさんの種族であるドワーフは長命であるために成長が遅 く、人間の方が成長は早い。そうは言っても、俺みたいに一歳で流 暢にしゃべれば、違和感を持たれても仕方ないところだ。 ﹁まあ、来てしまったものはしかたないのう。この爺のところに来 たいとは、うれしいことを言ってくれるものじゃ。しかし、あの炉 には近づくでないぞ。炉の光を直接見るのもいかん、目に悪いから のう﹂ ﹁う、うん⋮⋮わかった。じっちゃんの言うとおりにして、気をつ けるよ﹂ ﹁うむ、うむ。とりあえず、何か飲み物でも用意するかのう。うち の孫に言って作ってきてもらうとしよう﹂ ◇◆◇ 249 バルデス爺さんのお孫さんは三十代らしいが、見た目は半分の歳 にしか見えないくらいの女性だった。彼女は果実のジュースを持っ てきてくれたあと、俺を一度抱っこしてくれてから工房の外に出て 行った。お爺さんの仕事を邪魔してはいけない、というのがバルデ ス爺の家︱︱ソリューダス家の決まりらしい。 ﹁誕生日の祝いに何か作ってやろうと思っておったが、やろうやろ うと思っておると忘れてしまうものじゃ。それに、ヒロト坊にどん なものが喜ばれるかもまだ分からんからのう﹂ ﹁あ、あの⋮⋮お、おもちゃみたいなやつでいいから、斧っていう のは⋮⋮﹂ ﹁斧? おお、おお。お父さんが使うような斧は作ってやれんが、 確かに、おもちゃなら作れんこともないぞ﹂ ﹁ほんと!?﹂ ﹁もちろんじゃ。どれ、ヒロト坊、手を見せてみよ⋮⋮むう、これ だけ小さければ、持ち手はかなり細くなるのう。刃の部分は切れる ようにはできんが、形だけはブロード・アックスを模して作ってみ るかのう﹂ ﹁うん! ありがとう、じっちゃん!﹂ ﹁では、少し待っておれ。それくらいのものなら、少しもかからず に作れるからのう﹂ ﹁おれも見てていいかな?﹂ ﹁見ておられると落ち着かんがのう、まあ良かろう。絶対に手は出 さんことじゃ、やけどでは済まん﹂ バルデス爺は俺の頭にごつい手を置いて言い聞かせたあと、銀色 に鈍く光る金属を選んで、金鋏で挟んで炉に入れ、熱し始めた。そ して赤熱したところで取り出し、さっきより小さな金槌で叩き始め る。 250 ﹁少しずつじゃが、形が出来ていくじゃろう。叩き間違えがあれば、 ただの鉄の固まりにしかならん。頭の中にある形からずれてはなら ぬ。お主の手に合うだけの、玩具の斧⋮⋮そういうものを全力で作 るのも、時に悪くないものじゃな﹂ バルデス爺は話しながらも、何度か炉に金属を入れ、出しては叩 き、冷やし、また火を入れることを繰り返す。そこまで強度を持た せる必要はないと思うのに、もはや刃がなく、サイズが小さいとい うだけで、本物の斧を作るときの意気込みと変わらないように思え た。 ◆ログ◆ ・あなたは鍛冶師の作業を見つめている⋮⋮。 ・﹁鍛冶師﹂スキルが習得できそうな気がした。 鍛冶師スキルの習得条件は、鍛冶屋に何度も武器を持ち込んで武 具を修理してもらったり、作ってもらったりすることだ。そのとき 作業が終わるまで工房にいることで、習得条件を満たすことができ る。バルデス爺がいれば俺はスキルを取る必要はないと思うが、取 得できればそれに越したことはない。鍛冶師スキル20で取得でき る修理スキル﹁メンテナンス﹂は、自分で持っていると非常に便利 だからだ。 そうこうしているうちに、バルデス爺はあっという間におもちゃ の斧を作ってしまった。熱を冷まし終えると、バルデス爺は布を敷 いた小さな木箱に斧を入れて、工房のテーブルに置いて見せてくれ た。俺の小さな手の平に乗る程度の、本当に小さな斧だ。 251 ﹁おもちゃの斧といえど、思い切り叩けばそれは痛いからのう。気 をつけるのじゃぞ﹂ ﹁うん⋮⋮わかった。じっちゃん、持ってみてもいい?﹂ ﹁もちろんじゃ。重かったら、もう少し軽くしてみようかのう﹂ どうしても武器職人としての感覚があるみたいで、実用性も考え てしまうみたいだ。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁銀の玩具斧﹂を手に入れた。 ・あなたは﹁銀の玩具斧﹂を装備した。 俺は斧を持ってみるが、小さいとはいえ金属製で、普通ならこの 小さな手では重く感じるところだろうが、全く負担に感じない。斧 マスタリーが10まで上がっているし、斧装備スキルがある以上、 大きな斧でも装備できるはずだが︱︱これくらいが体格的には限界 だし、そこまで大きいものは必要としていない。 ︵薪割りスキルが発動できれば、刃があるか無いかは関係ない。お もちゃの斧でも、薪が割れればスキル上げが出来るようになるはず だ︶ そして薪割りは家事の手伝いにもなる。木細工加工のために木材 を切り出すためにも使えるスキルなので、一石三鳥にもなるわけだ。 しかし、スキルを実際に発動したらどうなるか︱︱それこそ、魔 術でも使ってるような光景に見えるのかもしれない。スキル上げは、 252 あまり人に見られずにする必要がありそうだ。父さんには、早めに 理解を得ておきたいが、自分の息子が天才というより、異常である と思わせるのは気が引ける。 もしかしたら、正直に事情を話せば理解してもらえるかもしれな いが、俺が転生したというのは、それこそ両親には最後まで明かす つもりもないし、そうするべきじゃないと思っていた。 ﹁ほっほっ、おもちゃとはいえ、なかなかどうしてサマになってお るのう。さすがはきこりの息子じゃな﹂ バルデス爺は上機嫌になり、俺の頭を撫でる。ゴツゴツした岩の ような手だが、撫でられると悪い気はしなかった。 ﹁振り回したりしてはならんぞ。もし、もしじゃが、ヒロト坊が危 ない目に合うようなことがあれば使ってもよい。小さいとはいえ、 思い切り振り回せば、それなりに怖いからのう﹂ ﹁うん、わかった﹂ 俺はもう、最弱ランクのモンスターと戦ってみて、スキルがあれ ば1歳でも戦えるのかを試すつもりでいるわけだが︱︱何もかも正 直に言うことが、必ずしも正しいことではないと思う。 ﹁もし壊れてしまったら、儂のところに持ってくれば直してやろう。 普通なら金を取るところじゃが、ヒロト坊は成人するまで無料にし てやろう。次からは、リカルドの手伝いが出来るような斧も使えれ ば良いのう。しかしそこまで大きくなるには、あと数年はかかるか の﹂ ︵ありがとう、じっちゃん。でも俺、﹃薪割り﹄はもう使えるはず 253 なんだ︶ バルデス爺は俺を持ち上げてあやしてくれる。歩けるようになっ ても、まだほとんど赤ん坊の扱いだ。 その優しい目を見ていると、俺は生き急いでるんだろうかと思え てくる。 それでも一度外に出てしまえば、俺は大人しくしていられない。 次から次へと、したいことが頭に思い浮かんで止まらなくなってい た。 ◇◆◇ 外に出て、裏路地から出たとき、一人の女性が俺の目の前を通り 過ぎようとして立ち止まった。 ﹁⋮⋮ん?﹂ ︵し、しまった。忍び足をかけなおすのを忘れてた⋮⋮!︶ ﹁な、なんでこんなとこに⋮⋮ヒロト坊じゃないか。もしかして、 迷子になっちゃったのかい?﹂ 俺を発見したのはエレナさんだった。そういえば、彼女とメルオ ーネさんの店も、この近くにあるからな。 ﹁あ⋮⋮う、ううん。今日は、え、えっと⋮⋮﹂ ﹁ははぁ、家にいるのが退屈で遊びに来ちまったのかい。うちのア ッシュもそういうことが一度あったっけねえ⋮⋮あの子は家の近く 254 で猫と遊んでたくらいだけどね。ヒロト坊の家からここまで来るな んて、けっこうな冒険じゃないか。あんたもやんちゃだねぇ、見か けによらず﹂ ﹁わっ⋮⋮﹂ エレナさんは俺を抱き上げると、笑顔で覗きこんでくる。相変わ らず、綺麗な人だ⋮⋮この町では珍しいエキゾチックな風貌で、少 しつり目がちな目をしていて、眼力が強い。そして彼女の服はいつ も胸が大きく開いていて、抱き上げられると谷間がすぐ近くに迫っ ている状態となる。 ﹁せっかくだから、うちの子に紹介しようか﹂ ﹁あ、う、ううん⋮⋮おれ、もうそろそろ帰らないと﹂ ﹁そうかい? ああ、レミリアが近くにいるんだね。それじゃ、ま た今度うちの子たちを連れて遊びに行くって伝えておいとくれ。頼 んでる仕事もあるから、明日行くことにしようか﹂ ﹁う、うん、わかった。ありがとう、エレナさん﹂ ﹁ふふっ⋮⋮あんた、喋れるようになると結構かわいい声なんだね え。せっかくだから、ぼそぼそってしゃべるのはやめた方がいいわ ね。おどおどしない、人の目を見る。わかったかい?﹂ ﹁⋮⋮うん。これでいい? エレナさん﹂ 俺はじっとエレナさんを見る。彼女は初めは笑っていたが、その 表情に微妙な変化があらわれる。 彼女の頬が染まっているのを、俺は見逃さなかった。胸元を見下 ろして気にしながら、俺をそっと地面に降ろす。普通なら、彼女は レミリア母さんが近くにいると思っているし、そこまで連れていこ うとしそうなものだが︱︱俺が、そうはさせなかった。 255 ◆ログ◆ ・︽エレナ︾の魅了状態が続いている。 ・︽エレナ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO ﹁おれがここにいたのは、お母さんにはないしょにしておいてね﹂ ﹁⋮⋮ああ。ちょっと不義理ではあるけどね。まあ、ヒロト坊がそ う言うなら、あたしは言うことを聞くよ﹂ ﹁ありがとう。エレナさんには、まだこれからもお世話になると思 うんだ﹂ ﹁お世話になるとか⋮⋮一歳で、なんてこと覚えてるんだい。まっ たく、ませてるんだから⋮⋮﹂ 俺が何を言ってるのか、彼女はすぐに気づいて、胸の下で腕を組 み、持ち上げるようにする。服の襟元がさらに開いて、血色のいい 肌があらわになり、山脈のふもとが少し見えてしまう。 ﹁⋮⋮ついでだし、少しだけここで⋮⋮ちょうど、人もいないから ね﹂ 彼女に完全にスイッチが入ってしまう。というか、魅了が続いて いる時点で、こうなることは避けられないのだが⋮⋮。 ︵一歳になってもふつうに吸わせてもらえるとは⋮⋮しかし、助か るな︶ 一歳だと、15分ほど活動しているだけでライフが1減る。疲労 もライフに影響を与えるというわけだ。そのうち歩行などでは疲労 256 を感じなくなるのだろうが、今はまだ定期的に食事を取ったり、休 憩をしてライフを回復する必要がある。 裏路地の物陰で、エレナさんは見られないように死角を作り、俺 を抱えたままで器用に片方の胸を出す。モニカさんほどの小麦色で はないが、彼女の肌には日焼けあとがうっすらできており、ふだん 露出していない両の乳房の白さが際立って映った。 赤ん坊の頃よりは大きくなった手だが、まだエレナさんの胸は手 に余る。俺の手が輝き始め、エレナさんの胸を支えるようにあてが われると、彼女の商人スキルの経験値が流れ込んできた。 ﹁ふふ⋮⋮重たいから、そうやって持ち上げてくれると楽になるよ﹂ ﹁じゃあ、みんながいないときはいつでも持ち上げるよ﹂ ﹁⋮⋮可愛い顔して、すごいこと言うねえ。いい? ほんとは、お っぱいを持ち上げるのは、結構大胆なことなんだよ﹂ ﹁わ、わかった⋮⋮もうちょっと大きくなったら、もうしないよう にする﹂ ﹁⋮⋮なんて、冗談よ。あんたなら、いくつになっても⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽エレナ︾から﹁採乳﹂した。ライフが回復した。 ・﹁商人﹂スキルが上がりそうな気がした。 触れるだけでスキルが得られる︱︱そのログが表示されるとどう しても嬉しくなってしまうのは、元ゲーマーの性だ。 257 ︵スキル上げをもっと徹底的にやりたい⋮⋮って、さすがに攻略脳 になりすぎだ。エレナさんの負担も考えないとな︶ ﹁⋮⋮ねえ、これって、直接触らないとだめなのかい? あたしは そっちの方がいいんだけど﹂ ﹁う、うん。服の上からでも大丈夫かもしれないけど、お乳が出ち ゃうかもしれないから﹂ ﹁なるほど、そういうことかい。ふふっ⋮⋮あんたも子どもなりに、 気を使ってるんだねえ﹂ 俺は自分からエレナさんの胸をしまってあげた。彼女が名残惜し そうな顔をしてるのは、気のせいだと思おうとしないと自重できな い。マナに余裕があるなら、いくらでも採りたいのが俺の真理だか らだ。 ﹁⋮⋮あんたがしゃべれるようになると、なんだか駆け引きされて るみたいだねぇ⋮⋮そのうち、沢山女の子を泣かせるようになりそ うな気がするんだけど。レミリアにはとても言えないわね、こんな こと﹂ 豪快なお母さんだとばかり思っていたエレナさんだが、ときおり 口調が柔らかくなることがあって、俺はそれが何とも言えず好きだ った。いや、好きといっても恋慕まではいってないが。 ︱︱って、そういう考え自体が﹁ませてる﹂とか、﹁駆け引きし てる﹂とかいうことになるんだろうか。 ﹁アッシュとステラと遊んでるときに、あたしも一緒に遊んでもら えるといいんだけどねえ⋮⋮﹂ ﹁う、うん⋮⋮それはもちろん﹂ ﹁ふふっ、なんだ、ヒロト坊もけっこう乗り気だったんだねぇ。あ 258 たしが無理やりしてるみたいで、ちょっと気にしてたんだよ。じゃ あ、何も気にすることないわねえ﹂ エレナさんは嬉しそうに言うと、しばらく俺をあやすようにして 抱きしめ、背中を撫でてくれる。 そしてひとしきり俺を愛でて満足すると、彼女は先に帰っていっ た。一人になった俺は﹁忍び足﹂を発動し、今日の最後の目的地に 向かった。 ◇◆◇ 家を出てから一時間ほどだが、かなり密度の高い時間を過ごせて いる。母さんは夕方まで仕事部屋から出られないと言っていたので、 まだ時間の余裕があった。 俺が向かった先は冒険者ギルドだ。アンナマリーさんからもらっ た冒険者スキルのおかげで、俺は初級のクエストを受注する資格を 持っている。しかし、この年齢ではまず相手にされず、ギルド長に よってつまみ出されるか、家に戻されてしまうだろう。 ︵そこで今回ばかりは、魅了スキルに頼るわけだが⋮⋮︶ 魅了スキルで冒険者の人を魅了し、仲間になってもらう。そして 俺とパーティを組んでもらって、代わりにクエストを受けてもらう。 報酬は分配制にできるといいが、今はそんなにお金やアイテムが欲 しいわけじゃなくて、クエストを攻略することで得られる情報のほ うが優先だ。 しかし一歳の俺が、パーティに貢献出来る要素があるのかどうか 259 ⋮⋮やはり、戦闘に参加出来ると証明しないと足手まといになって しまう。 ︵⋮⋮あれ?︶ ギルドの入り口が見えるところまで来たところで、出入りする人 に声をかけている一人の若い女戦士の姿が目に入る。 ﹁あ、あのうっ、自分はウェンディ・ベルであります! よろしけ れば、私とパーティを組んで、一緒に冒険をっ⋮⋮﹂ 男女二人ずつ、前衛と後衛のバランスが整ったパーティに、ウェ ンディという女戦士︱︱少女戦士と言えるような年齢だが︱︱が、 必死に声をかけている。 ﹁ギルドカードを見せてごらんよ。話はそれからだ﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮あの、まだ作ったばかりで⋮⋮﹂ ﹁はっ、見ろよこいつの冒険者ランク、Gだってよ! いきなりF ルーキー ランクパーティに入って楽しようなんざ、考えが甘いってぇの!﹂ ﹁だははっ、あんまり言ってやんなよ。新人ってことだろ? お嬢 ちゃん、お茶汲みからなら入れてやってもいいぜ。仕事の分前はナ シのタダ働きだがな﹂ ﹁気が向いたらクエストに連れていってあげてもいいわよ。気が向 くのは何ヶ月後かもしれないけどね﹂ ﹁そ、そんな⋮⋮が、頑張りますから! 騎士学校で剣を学びまし たし、こう見えても⋮⋮っ﹂ ﹁ああわかったわかった、ランクFになったら考えてやるよ。俺ら は忙しいんだ、それじゃあな﹂ 四人パーティはウェンディに取り合わず、ギルドに入っていく。 260 ︵というか、新人がGなのは仕方ないとして、Fランクで偉そうに してるのは⋮⋮イラッとするな︶ ああいうパーティに限って、Eランク以上のパーティには媚を売 ったりするんだろうな。Gランクでも、あのウェンディって女の子 のほうが、よっぽど見込みがありそうだ。真っ直ぐな目をしている し、持っている装備だって粒ぞろいだ。ツノのついた目立つ兜は、 ちょっと似合ってない感じがするが。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ︵⋮⋮あれ?︶ さっきのパーティのうちひとり、最後までウェンディを悪く言わ なかった人が、ギルドに入らずに立ち止まっていた。仮面をつけて いるのでわからないが、どうやら女性のようだ︱︱体型のラインで 判断するのもどうかと思うが。 ﹁すまなかったね。仲間の非礼を、代わりに詫びさせてもらおう﹂ ﹁え⋮⋮あ、い、いいえっ、そんなこと!﹂ ﹁Fランクに上がる事自体は、そう難しくはない。できれば無茶は せず、ゆっくり地盤を固めることだ。小生も、陰ながら応援してい るよ﹂ ︵⋮⋮小生、って言ったか? あの人、女の人なのに︶ その呼び方が引っかかって、思わず彼女を呼び止めたくなる。仮 面をつけていた彼女は、おそらく法術士︱︱ソーサラーだ。 261 ﹁⋮⋮はぁ。やっぱり、だめなんでしょうか⋮⋮でも、ここであき らめるわけにはいかないであります⋮⋮!﹂ 肩を落としていたウェンディは、しばらくしてギルドの中に入っ ていく。そして、しばらくしてから勇んで外に出てきた。 ︵Fランクに上がるために、クエストを受注したのか⋮⋮大丈夫か ? 何か、危なっかしいぞ︶ 一歳の俺がうろうろしているほうがよっぽど危なっかしいのだが、 俺はひとつ思ったことがあって、ウェンディについていくことにし た。 魅了を使わなくても、頼み込んで俺とパーティを組んでくれ、と お願いすることは出来るかもしれない。森なら他の人に見られる心 配も少ないので、モンスターを見つけたら、今の俺の戦闘力がスキ ルの数値に即しているかを確かめることができるはずだ。 ︵今の森って、どれくらいのモンスターがいるんだ⋮⋮弱いやつだ といいんだけど⋮⋮︶ ﹁おいっ、ちょっと待てっ! そこのお前、パーティを組んでると 申告したはずだろうっ! 一人で行くなっ!﹂ ﹁っ⋮⋮だ、大丈夫であります! 仲間とは森で合流するでありま ーすっ!﹂ ﹁コラァ! くそっ、近頃の若いやつはこれだから⋮⋮おい、森に 行けるやつは居ないか!?﹂ 禿頭のギルド長が出てきてウェンディを呼び止めようとするが、 ウェンディは聞かずに行ってしまった。仲間と合流するなんて、は 262 ったりもいいところだ。 そしてギルドからは、新たな冒険者が派遣される様子もない⋮⋮ 何か、嫌な予感がする。 ︵まさか、モンスターのことをよく知らずに、危険な依頼を請けた んじゃ⋮⋮パーティ必須ってことは、ボスモンスターが登場する依 頼っていうことになる⋮⋮!︶ 俺はウェンディを見失わないうちに走り出す。今の体格では周囲 を驚かせる速さだろう︱︱俺は前世で飼っていた子犬のことを思い 出していた。あの身体で、驚くほどすばしこかったものだ。まさか 自分がそれと似た動きをするようになるとは︱︱客観的に見るとち ょっと笑えてしまう。 ︵やばい敵には手を出すなよ、ウェンディさん⋮⋮!︶ ◇◆◇ ミゼールの西の外れからは草原が広がり、さらに先に森がある。 草原に出てからは、ウェンディの後ろ姿は遠かったが、なんとか見 失うことはなかった。 彼女は森に入ると、まずラビットと交戦した。 ﹁はぁぁっ⋮⋮でありますっ!﹂ ◆ログ◆ 263 ・︽ウェンディ︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! ・︽フェイクラビット︾に32のダメージ! フェイクラビットを 倒した! 鉄の長剣を抜き、剣術スキルの﹁薙ぎ払い﹂を放つ。ダメージ量 からすると、彼女のレベルはまだ低い︱︱恵体によるボーナスダメ ージも、15くらいしか認められない。つまり、恵体5︱︱ライフ 100くらいということだ。 ︵この実力じゃ、少し強いモンスターが出てきたらまずい⋮⋮大丈 夫か⋮⋮?︶ さすがに最初から手を出すわけにはいかず、俺は緊張しながらウ ェンディの戦闘を見守る。 ﹁まだまだ楽勝でありますね⋮⋮コボルトリーダーが出るまで、突 き進むでありますっ!﹂ ︵なっ⋮⋮!?︶ ラビットを倒し、次に出てきたゴブリンに斬りかかるウェンディ の言葉に、俺は凍りついた。 ゴブリンリーダーですら今のレベルでは倒せるか怪しいところな のに、コボルトリーダー⋮⋮リーダーのステータスは、群れに属す る雑魚の﹁コボルトクラン﹂より遥かに高い。 ︵それにコボルトは﹁遠吠え﹂で仲間を呼ぶ性質がある⋮⋮ほ、本 当に大丈夫か⋮⋮?︶ 264 ﹁せいぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ウェンディ︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! ・︽ゴブリン︾に32のダメージ! ・︽ゴブリンアーチャー︾に30のダメージ! しかし、後衛を狙いつつ他の敵を巻き込んで倒す立ち回りには、 目を見張るものがある。 武器スキルが薙ぎ払いしかなければ、決め手に欠ける︱︱だがこ のタイミングで手を出せば、俺の異常さが際立って映ってしまう。 ︵モニカ姉ちゃんや、リカルド父さんを呼ぶべきだったか⋮⋮でも、 もう⋮⋮︶ 俺が迷っているうちに、最初のコボルトが姿をあらわす。おそら く、ウェンディが受けたクエストのメインターゲットは、このコボ ルトたちを統べるコボルトリーダーだ。 ストーン・クラブ コボルトは犬の顔をした獣人で、皮の鎧を身につけ、右手にゴツ ゴツとした石棒を携えて、左手にはぼろぼろの木の盾を装備してい る。そいつはウェンディの姿を見つけると、舌なめずりをしてから、 すかさず襲いかかってきた。 ﹁アォォンッ!﹂ ﹁くぅっ⋮⋮!﹂ 265 ◆ログ◆ ・︽コボルトA︾の攻撃! ・︽ウェンディ︾は武器で受け止めた。武器の耐久値が下がった! コボルトが石棒を叩きつける。鈍器攻撃はうまく防がないと装備 の耐久値が削られるため、序盤での初心者殺しと言われていた。 ﹁何の⋮⋮これしきでありますっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ウェンディ︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! 反撃を入れようとするウェンディ。しかしコボルトの目がギラつ き、左手の盾が動く。 ﹁ガルルゥッ!﹂ ﹁きゃぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽コボルトA︾の﹁シールドパリィ﹂が発動した! ・︽ウェンディ︾に致命的な隙が生じた! 266 ︵まさか⋮⋮コボルトがパリィを成功させるなんて、ありえないぞ ⋮⋮!︶ あれだけボロボロだった盾は、このコボルトがパリィを何度も発 動させたことを暗に示していた︱︱それに、俺もウェンディも気づ いていなかった。 ◆ログ◆ ・︽コボルトA︾の攻撃! ・クリティカルヒット! ウェンディに35のダメージ! ・クリティカルエフェクト! ウェンディは混迷状態になった。 ﹁あ⋮⋮かはっ⋮⋮!﹂ ︵まずい⋮⋮!︶ 石棒で鎧の上から突かれたウェンディは、打撃のショックで吹き 飛び、木の幹にぶち当たる。かぶっていた兜が外れて、中に収まっ ていた長い髪が広がる。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮迂闊⋮⋮でありました⋮⋮しかし⋮⋮っ﹂ ウェンディは剣を突いて立ち上がろうとする︱︱だが、その目が 絶望に凍りついた。 267 ◆ログ◆ ・﹁ロングソード+1﹂は耐久値がゼロになり、破壊された。 ・︽ウェンディ︾は﹁?壊れた剣﹂を手に入れた。 ﹁あ⋮⋮あぁ⋮⋮っ﹂ ウェンディが地面に剣を突いた瞬間、ヒビの入っていた剣は半ば から折れてしまう。壊れた剣は修理に出せば元に戻るし、装備とし ても使えるが、攻撃力は最低で、武器スキルも使うことができない。 薙ぎ払いに頼り続けていたウェンディは、これ以上戦闘を続ける すべを失う。混迷状態のために立ち上がることも出来ず、石棒を携 えて歩いてくるコボルトを見ていることしかできない。 ﹁︱︱アォォーーーンッ!﹂ ◆ログ◆ ・︽コボルトA︾は﹁遠吠え﹂をした。仲間に声が届いた。 ・︽コボルトリーダー︾が現れた! ・︽コボルトB︾が現れた! ・︽コボルトC︾が現れた! ﹁や⋮⋮い、いや⋮⋮嫌でありますっ、私は、こんなところで⋮⋮ っ﹂ 268 コボルトリーダーは他の個体よりも大きく、片目に傷が入ってい る。それは、先に討伐にやってきた冒険者か、同格の相手と戦った という証でもあった。そして、おそらくは勝利している。 狼のような風貌で、灰色の体毛を持つコボルトリーダーは、他の コボルト三匹をウェンディに差し向ける。 ﹁ガルルッ⋮⋮!﹂ ﹁きゃぁぁっ、嫌っ、嫌ぁぁっ⋮⋮!﹂ ウェンディがつけている鎧の接合部を器用に爪と牙で壊していく。 コボルトが何をしようとしているのかは明らかだった︱︱コボルト リーダーは長い舌を出し、まるでご馳走でも前にしたかのように、 獣欲に満ちた血走った目でウェンディを見つめる。 ﹁⋮⋮こないで⋮⋮っ、お願い、こないでっ⋮⋮!﹂ どれだけ訴えても、獣の耳には届かない。コボルトリーダーがウ ェンディに触れられる距離まで近づこうとしたところで、俺の中で 何かが切れた︱︱とうの昔に切れていたが、もう限界だった。 ︵⋮⋮自分の立場なんて、もうどうでもいい。ウェンディを助ける ⋮⋮それ以外にない⋮⋮!︶ 少しでも戦闘を有利にするために、使えるスキルは使う。一度心 を決めてしまえば、俺は何も迷うことはなかった。 ◆ログ◆ 269 ・あなたは﹁魅了﹂スキルをアクティブにした。 ・あなたは﹁忍び足﹂を終えた。隠密状態が解除された。 ﹁バケモノどもっ! おれはここにいるぞ!﹂ ﹁え⋮⋮っ!?﹂ ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ウェンディ︾があなたに注目した。 ・﹁魅了﹂が発動! コボルト2体が抵抗に失敗、魅了状態になっ た。 ﹁ガルルッ⋮⋮グガァァァッ!﹂ 邪魔をされたことに激昂し、コボルトリーダーが吼える。見上げ るような巨体を目にして、全く圧倒されないというわけにはいかな かった。 ︵勝てるのか⋮⋮いや、勝つしかない。俺に使える武器スキルはひ とつ⋮⋮それでも⋮⋮!︶ ﹁ガァゥッ!﹂ 最初の相手がコボルトになるとは︱︱生前なら雑魚だったが、転 生後に最初に相手にするとなると、なかなかの迫力だ。 270 しかし俺の手には、バルデス爺が作ってくれた斧がある。玩具の ような斧でも、スキルの力を借りれば、俺に十分な戦闘力を与えて くれる⋮⋮! ︵︱︱行くぞ⋮⋮行ける。絶対にうまくいく⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹁薪割り﹂を繰り出した! 本来は薪を割るためのスキルだが、攻撃に使うこともでき、植物 系モンスターに特攻を持つ﹁薪割り﹂。通常の敵には等倍のダメー ジしか出ないが︱︱今の俺のスキル値に基いて計算するならば。 恵体12に3をかけ、さらに武器倍率を最低値の1.1倍とすれ ば︱︱。 スキルを発動した瞬間、何も考えなくても身体が動いた。 小さな身体を利用して懐に入り、振り上げた小さな斧、コボルト の胴めがけて叩きつける。 ◆ログ◆ ・︽コボルトA︾に45ダメージ! コボルトを倒した! ﹁ギャォォンッ!﹂ 271 ︵戦える⋮⋮これなら⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮すごい⋮⋮あんなに、小さいのに⋮⋮﹂ ウェンディは信じられない、といった顔で見ている。嫌悪を抱か れても仕方ないと思っていたが⋮⋮少しだけ、安心した。 しかしまだ、敵は残っている︱︱コボルトリーダー。今の俺で、 倒しきれる相手なのかどうか。 ︵やるしかない⋮⋮ゴブリンリーダーより少し強いくらいの雑魚ボ スだ。コボルトを倒せれば、絶対に倒せないわけじゃない⋮⋮!︶ ﹁ガォォォンッ!﹂ コボルトリーダーは仲間を倒した俺に、怒りとともに石棒を叩き つけてくる。 ︵恵体でダメージを軽減出来るはず⋮⋮しかし、試すにはあまりに も怖いぞ、これは⋮⋮っ︶ ﹁︱︱﹃神よ、加護を与えたまえ﹄!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁加護の祈り﹂を使った! 祈りが届き、あなたの防御 力が上昇した! 272 神聖剣技スキルで取得できる﹁加護の祈り﹂。一時的に物理ダメ ージを15ポイント軽減するスキル︱︱これと恵体の防御効果を合 わせれば、俺は39ダメージまでは無効化できる。 ◆ログ◆ ・コボルトリーダーの攻撃! ・あなたは5のダメージを受けた。 ﹁くっ⋮⋮!﹂ 石棒を斧で受け止めたが、手がしびれて衝撃が伝わった︱︱しか し、ダメージはたかが知れている。この攻撃を30発受けても俺は 死なない、そう確認できた。 ﹁ガ⋮⋮ガルッ⋮⋮﹂ コボルトは好戦的な魔物なのに、戦意を挫かれることもあるらし い。コボルトリーダーは一歩、二歩と後ずさる。 ﹁⋮⋮さっきまで元気だったのに、どうしたの? こないなら、お れから行くよ﹂ ﹁︱︱ギシャァァァッ!﹂ そして魔物にも、挑発は通じるらしい。その大ぶりの攻撃が、コ ボルトリーダーにとっての敗着の一手になるのは明確だった。 273 しかし俺の一撃のダメージも、まだ決して高くはない。薪割りを あと3回入れる︱︱最後まで、気を抜かずに倒しきらなければ。 ◇◆◇ 戦闘はおよそ5分ほどに渡った。コボルトリーダーが隙を見せる のを待って、着実にダメージを入れていく。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁薪割り﹂を放った! ・︽コボルトリーダー︾に37ダメージ! コボルトリーダーを倒 した! ﹁ガァッ⋮⋮ァ⋮⋮﹂ コボルトリーダーは膝をつき、石棒を落とすと、全身から光を放 つようにして消滅した。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮お姉ちゃん、大丈夫⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮私は⋮⋮夢でも、見てるのでありますか⋮⋮?﹂ 倒れているウェンディの近くに行くと、彼女は目に涙をいっぱい ためて、俺に手を伸ばしてくる。そして現実の存在か確かめるよう に頭を撫で、頬に触れてきた。 274 ﹁あはは⋮⋮くすぐったいよ、お姉ちゃん﹂ ﹁⋮⋮お姉ちゃんだなんて、おこがましいであります⋮⋮私は、命 を助けられたのでありますから﹂ ウェンディは微笑むが、目の端から涙がぽろぽろと伝う。よほど 怖かったんだな⋮⋮それはそうだ。あの状況で仲間を呼ばれて、鎧 まで剥ぎ取られかけたんだから。 ﹁あっ⋮⋮ご、ごめんなさい、おれ、何も見てないからっ!﹂ ﹁ふぇ⋮⋮?﹂ 彼女は鎧の胸甲を剥がされてしまい、その下の服も破かれている。 すごく大きいというわけじゃないが、バランスの取れた形のいい美 乳だ。 ︵戦士としては半人前だが、ここは一流だ⋮⋮って、それはセクハ ラだ︶ ﹁はぁぁっ⋮⋮み、見たでありますかっ? い、いえ、まだお小さ いですから、見られてもそんなに気にしないでありますがっ⋮⋮そ れでも、人に見られたのは初めてであります⋮⋮っ﹂ あわてふためくウェンディ。そして彼女が動いた拍子に、ぴちゃ、 と水っぽい音がした。 ﹁⋮⋮あっ﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ そして、二人して気がつく。座り込んでいるウェンディの下に、 水たまりができていた。 275 ◇◆◇ ﹁ぐすっ⋮⋮ひっく。な、なさけないであります⋮⋮っ、私はもう、 故郷に帰ったほうが⋮⋮っ﹂ ﹁だ、だいじょうぶだよ、お姉ちゃん。おれがちゃんと洗っておい たから﹂ ﹁それがさらになさけないのでありますぅっ⋮⋮うぇぇ∼んっ!﹂ ウェンディはコボルトリーダーの身体の大きさと迫力を見て、座 り込んだままで、聖水というかなんというかを大地に水撒きしてし まったのだった。 ﹁え、えーと⋮⋮おれもちょっと前は赤ん坊だったから、お母さん におしめを替えてもらってたよ。だから、おあいこじゃないかな﹂ ﹁い、今でもほとんど赤ちゃんに見えるのです⋮⋮そんなちっちゃ な男の子に助けられて、お、おもらしした下着まで洗ってもらうな んて⋮⋮し、死にたいでありますぅぅっ⋮⋮!﹂ 近くの小川でウェンディのパンツなどを洗って干しているあいだ、 彼女は下半身を隠すこともできずに、茂みに隠れて俺と話していた。 年上なので﹁ウェンディさん﹂と呼んでいたが、非常に頼りない ので、ウェンディと呼び捨てにする。勇敢な戦士ではあるので、俺 は彼女に好感を持っていた。 ﹁あ、あの⋮⋮そんな、気にすることないよ。それより、おれの方 が変じゃなかった?﹂ 276 ﹁⋮⋮変というか⋮⋮私の剣と同じくらいか、それ以上の威力を、 ちっちゃな斧で出していたでありますね。盾で受けられてしまった 私より、あなたのほうが⋮⋮﹂ そう言ってから、ウェンディは何かに気づいたように言葉を切る。 そして、改めて尋ねてきた。 ﹁⋮⋮あの、お名前を聞いてなかったのであります。私はウェンデ ィ・ベルであります﹂ ﹁おれは、ヒロト・ジークリッドっていうんだ﹂ ﹁ヒロトちゃん⋮⋮いえ、ヒロトさんでありますね。助けてくれて、 本当にありがとうございます⋮⋮であります!﹂ あります、って言わないと落ち着かないみたいだな⋮⋮まあ、そ れはいいか。 ウェンディはかなりの童顔で、溌剌とした活力を感じさせる目を している。その真っ直ぐな瞳を見ていると、こちらも感化されるも のがあった。俺もこれくらい、真っ直ぐに生きたいものだと思う。 ﹁え、えっと。ウェンディさんは⋮⋮﹂ ﹁さ、さんなんてつけなくていいであります、私はただのウェンデ ィでありますから﹂ ﹁うん、じゃあお言葉に甘えて⋮⋮ウェンディは、どうして一人で 戦おうと思ったの?﹂ ﹁うぅ⋮⋮仲間を見つけるつもりだったでありますが、なかなか、 私の実力では入れてくれるパーティが無かったのであります。騎士 学校を出ても騎士団に入れなかった私ですから、しかたないのであ りますが﹂ 落ち込んでいるウェンディの話を聞いているうちに、俺は何のた 277 めにギルドに行こうと思っていたかを思い出す。そう、俺はパーテ ィを組んでくれる相手を探していた。 ﹁あ、あの⋮⋮おれ、まだ小さいし、こんなこと言われてもって思 うかもしれないけど。よ、よかったら、おれと⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ヒロトさんと?﹂ ウェンディは俺が何を言いたいのか予想がつかないようで、不思 議そうな声を出す。 また緊張してきた⋮⋮いや、克服しないと。こんなところでコミ ュ障を発揮してたら、いつまでも前に進めない。 ﹁お、おれと⋮⋮パーティを組んでくれないかな?﹂ ﹁⋮⋮ぱ、パンティでありますか? パンティでしたら、干してあ るものでなくて、宿に帰れば新品が⋮⋮﹂ ﹁ぱ、パンティじゃなくて、パーティを組んでほしいんだ。おれの 仲間になってくれないかな⋮⋮?﹂ パンティと言われたときは面食らったが、なんとか食い下がる。 ウェンディは最初は目をぱちくりしていたが、しばらくして意味が 伝わったかと思うと︱︱。 ﹁ほぇぇぇっ!? わ、私とパンティ⋮⋮じゃなくて、パーティで ありますか!?﹂ ﹁ご、ごめん、おれ、小さすぎるよね⋮⋮ほとんど赤ん坊みたいな ものだし﹂ ﹁い、いえっ、いいえっ! 小さくても百人力であります! 私は、 ヒロトさんの戦いぶりを見た時から、弟子入りしたいと思っていた のでありますっ!﹂ 278 ウェンディは勢い余って茂みから出てきてしまった︱︱茂みから 出てきたのに、彼女には茂みがない。さて、何のことだろう。回答 時間は三秒、配点は五十点。 ︵は、はいてないのに出てきちゃったら⋮⋮み、見てはいけない部 分が⋮⋮!︶ ﹁う、ウェンディ⋮⋮それはいいんだけど、あの、し、下⋮⋮﹂ ﹁ほえ?﹂ 俺は耐えかねて目をそらす。ウェンディは呆けた声を出して、自 分の下半身がマッパであることを確かめた。 ﹁︱︱ひきゃぁぁぁぁーーーーーっ!﹂ ウ コボルトもびっくりの遠吠えを上げて、彼女は茂みに戻っていっ ォークライ た。うーん、どこから声が出ているんだろう。戦士のスキルに﹁戦 士の雄叫び﹂があるけど、彼女には素質がありそうだな。 ﹁⋮⋮もうお嫁にいけないであります⋮⋮お師匠様になら、見られ てもいいでありますが⋮⋮っ﹂ 茂みの中から声が聞こえる。下着が乾くまでは出てきてくれなさ そうだな⋮⋮とか思っていると。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ウェンディ︾は抵抗に失敗した。 279 ︵そ、そうか⋮⋮コボルトと戦うときに、アクティブにしたの忘れ てた⋮⋮!︶ ﹁ひゃんっ⋮⋮!﹂ 茂みの中から魅了が成ったことを示すように、ウェンディの声が 上がる。赤ん坊なら、母性に訴えかけて魅了しやすくなる︱︱と思 っていたのだが。彼女の好感度を調べると、すでにこんなことにな っていた。 ◆情報◆ 名称:ウェンディ・ベル 関係:あなたに好意を抱いている ︵こ、これは⋮⋮コボルトから助けたから、好意を持ってくれたっ てことだよな⋮⋮そして、魅了が入りやすくなってしまったと⋮⋮︶ 分析しているうちに、また茂みが揺れて、ウェンディが出てくる。 今度は、彼女は恥ずかしがる様子もなく、俺の方に真っ直ぐ歩いて きた。 ﹁⋮⋮お師匠様には、私の一番恥ずかしいところを幾つも見られて しまったのであります。それに、これからパーティを組むとなると ⋮⋮し、親睦を深めたいと言いますか⋮⋮ヒロトさんはまだ、赤ち ゃんみたいに小さいでありますから⋮⋮そ、そのぅ⋮⋮あのぅ⋮⋮﹂ 280 ︵は、話がうますぎる⋮⋮じゃなくて、早すぎる。え、えーと、ウ ェンディのステータスは⋮⋮?︶ ◆ステータス◆ 名前 ウェンディ・ベル 人間 女性 13歳 レベル3 ジョブ:戦士 ライフ:100/100 マナ :24/24 スキル: 戦士 13 剣マスタリー 18 恵体 5 母性 24 気品 28 料理 12 アクションスキル: 薙ぎ払い︵剣マスタリー10︶ 授乳︵母性20︶ 簡易料理︵料理10︶ パッシブスキル: 剣装備︵剣マスタリー10︶ 勇敢︵戦士10︶ 攻撃力上昇︵戦士20︶ 281 育成︵母性10︶ マナー︵気品10︶ ︵戦士⋮⋮戦士は戦闘力に直結するスキルが多い。多いぞ⋮⋮!︶ 二回言わなくてもわかるが、大事なことなので強調しておいた。 戦闘力は大事だ、さっきみたいな荒事があったとき、攻撃力が上昇 していたら、コボルトリーダーをもう少し楽に倒せたはずだ。 ミルク 欲望に直結した思考を展開しているうちに、ウェンディは破かれ て申し訳程度に上半身を覆っているシャツを左右に開く。その時の 音を表現するなら、プディングを皿に載せたときの感じというか、 スライム的な感じというか、つまりはぷるるんだった。ぷるんぷる ん、と二回言うと破壊力が増す。そして俺は死ぬ。 ﹁⋮⋮あのまま犬の怪物に襲われていたら、私は生きてなかったの であります⋮⋮ですから、私のすべてはお師匠様に捧げるべきもの なのであります。それが、私の家の家訓なのであります。命を助け られたら、それが異性であれば、絶対に逃がすなと。見込みのある 男性に違いないからと。私は一理ある、と思うのであります﹂ ︵こ、後半はなにか婚活めいたことになってるような⋮⋮それに、 家訓って⋮⋮︶ ウェンディのスキルに﹁気品﹂が含まれていることには気づいて いる。フィリアネスさんもそうだったし、この国では上流階級の子 女でも騎士を目指すことは多いのだろう。 まだ十三歳の瑞々しいプロポーションが、小川の水面のきらめき 282 に彩られている。思わず息を飲むほどで、俺は女の子はこれほど表 情や情景ひとつで違って見えるのかと感嘆する。 ﹁⋮⋮お師匠様、私に何か出来ることはありますか?﹂ ﹁え、えっと⋮⋮あの⋮⋮﹂ 出会ったその日になんて、なかなか無いことだ。むしろありえな い。そんなことを思っていた生前の記憶が、薄れてなくなっていく 感じが⋮⋮これが、次のステージに上がるということか。 ウェンディは俺を抱え上げると、じっと見つめてくる。何をして いいのかわからないが、何かがしたい。彼女の目は、そう訴えかけ ているように思えた。 ︵⋮⋮俺は選択肢を提示するだけだ。ダメならダメと言ってもらっ て⋮⋮まあ、言えないんだけどな︶ ◆ダイアログ◆ ・︽ウェンディ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YES/NO 俺はわりと震える感じで、意識に展開したウィンドウを開き、ウ ェンディの所持スキルからひとつを選択した。﹁授乳﹂をする条件 を満たしていないというログが流れ、代替スキル﹁採乳﹂が選択さ れる。 俺の手が輝き始める︱︱ウェンディはそれを見てこくんと喉を鳴 283 らしたが、胸に触れるまで動かずにいてくれた。 ふにゅん、という何とも言えない弾力︱︱しかし、まだ成長の可 能性を感じさせる硬さが残っている。彼女の胸が光り輝いたあと、 俺の中にエネルギーが流れ込んでくる︱︱﹃戦士﹄スキルの経験値 だ。 ﹁⋮⋮こうしていると、落ち着くのであります。怖い思いをしたこ とも、全部忘れられて⋮⋮安心するであります⋮⋮﹂ 小川のせせらぎと、ウェンディの穏やかな声。彼女のマナからす ると、二度採るだけで限界ではあったが、それでお礼としては十分 過ぎるものだった。 ﹁あ、ありがとう⋮⋮ごめん、変なことお願いして﹂ ﹁い、いえ⋮⋮私こそ、こんなふうにしたいと言ってもらえたのは 初めてなので、何だかふわふわしているであります⋮⋮あの、お師 匠様。もう少しぎゅっとさせていただいてもいいでありますか⋮⋮ ?﹂ 採乳をした後の好感度の上昇は激しいものがある。それでも俺は、 スキルを集めることをやめられない︱︱﹃戦士﹄スキルはとても有 用だからだ。 ﹁うん、いいよ。ウェンディ﹂ ﹁ありがとうございます⋮⋮であります⋮⋮はぅぅ、お師匠様、い い匂いであります⋮⋮っ﹂ パーティに入って欲しいとお願いするつもりが、弟子ができてし まった︱︱しかも、かなりなついてもらっている。 284 俺はウェンディにひとしきり可愛がられつつ、これで冒険の一歩 が整ったことに満足し、そして彼女が俺を気に入ってくれたことに 安堵していた。 285 第10.5話 パーティ結成秘話 2︵前書き︶ ※この回は後から追加しております。 286 第10.5話 パーティ結成秘話 2 今日は天気がいいとはいえ、洗濯物が乾くまでには結構時間がか かる。 薬師スキルが20ポイントに達していた俺は、薬草学とポーショ ン生成スキルを取得していたので、ついでに森でマナポーションの 材料となる﹃魔力の草﹄を探した。なぜマナポーションかと言われ れば、戦士スキルが1取れただけでは足りないからである。忘れて はならないことだが、採乳の際には女性の側がマナを10ポイント 消費する。母性の上昇によって消費量は減るが、ほぼ10だと思っ て問題ない。 そして魔力の草の前に、俺は森の中であるものを発見した。虫に 食われないように、人間には感じ取れない香気を発して虫を遠ざけ る﹃ティフェの実﹄、別名﹃虫除けの実﹄を見つけたのである。 ◆アイテム◆ 名前:ティフェの実 種類:果物 鮮度:新鮮 レアリティ:ノーマル ・食べられる。満腹度が1個あたり10%前後回復する。 ・使用することで﹃︻弱︼虫除け﹄の効果が発動する。 287 食料としてはどうやら梨に近いようだが、今の俺の歯ではかじれ ない。母さんにすり下ろしてもらうなどすれば話は別だが、ふだん 食卓に上がらないということは、それほど美味しくはないのだろう。 ﹁ウェンディ、ずっとそうしてると虫に刺されそうだから、これを 使ってみて﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮ティフェの実でありますね。こうやって二つに割 ると、中に果汁が入っているので、それを身体に塗るのであります。 私の場合、特にお尻の虫さされには注意でありますね﹂ ﹁っ⋮⋮ま、まあ、全体的に注意だけどね﹂ ﹁はっ⋮⋮わ、私としたことが、お小さいお師匠様に、お尻などの 話は早かったでありますねっ﹂ 果汁をお尻に塗るって逆にかぶれそうな気がするけど⋮⋮という か、パンツが乾くまでそのまま我慢してもらってもいいのだが、異 世界にも蚊はいるので、ちょっと気になった次第だ。 ﹁ウェンディ、ポーションは持ってる? 空き瓶が欲しいんだけど﹂ ﹁はい、前に使ったあとのものを、洗って取っておいたのでありま す⋮⋮これであります!﹂ ウェンディは茂みに下半身だけ器用に隠れて、陶器の瓶を差し出 してくれる。これがあれば、あとは草をこの中に入れて、水を入れ て振ることで、魔力の草のエキスが出てマナポーションが出来る。 ◆ログ◆ ・あなたは薬を作っている⋮⋮。 ・﹁マナポーション﹂が作成された! 288 ﹁よし、できた! ウェンディ、ちょっといい?﹂ ﹁お師匠様、私のほうもちょっといいでありますか? ちゃんと塗 れているのか分からないので、確かめてほしいのでありますが⋮⋮﹂ ﹁あ、うん⋮⋮って、お、お尻は見せちゃだめだよ。おれはこんな だけど、一応は男なんだから﹂ ﹁⋮⋮自分の気持ちは、さきほど申し上げたばかりであります。お 師匠様になら、どんな恥ずかしいところもお見せできるというか、 お見せしたいというか⋮⋮は、はしたないでありますね、こんなこ とっ﹂ ︵はしたないというか、お尻だけじゃすまないというのに⋮⋮わか ってるのか? 尻を見せるということは、生きるか死ぬかと同意義 だぞ︶ 口に出すのは恥ずかしいので、考えるだけにしておく。しかし魅 了が解けない限りは、ウェンディの態度はこんな感じのままだろう な⋮⋮油断すると、彼女が嫁にいけなくなるくらいのものを見せら れてしまいそうだ。 こんな恥ずかしいやり取りをしてるのが不思議なほど、ウェンデ ィは普通にしていればかなりの美少女だ。そんな彼女に﹃お師匠様﹄ と呼んでもらうのは、悪い気はしない︱︱というか、かなり嬉しい。 俺もけっこう単純で、おだてられれば木に登りたくもなるほうだ。 前世ではリアルにおける人間不信をこじらせていたので、耳に優し いことを言われても信じはしなかったが。 ︵久しぶりに、昔のことを思い出したな⋮⋮︶ 289 ﹁⋮⋮お師匠様は不思議な力を持っているのでありますね。お師匠 様にお礼をしたいという気持ちでいたので、触ってもらっただけで、 何かお礼をできた気がするのであります。まるで、赤ちゃんにおっ ぱいをあげたみたいなというか⋮⋮い、いえ、お師匠様は、赤ちゃ んではないでありますがっ﹂ 採乳の感覚は俺には実感として分からないが、女性の感想を聞く 限りでは、ほぼウェンディと同じことを言っている。授乳で俺に渡 されるはずのエネルギーが、俺の手のひらを通じて受け渡しされる。 それで俺が満足するというのも分かるらしい。 しかしウェンディほど若い女性から採乳すると、やはり本当にい いのかという気持ちにはなる。おっぱいに吸い付くよりは、手のひ らからエネルギーを吸収する方が、まだ許されている感じはするが ︱︱調子に乗って手を動かしたりするのはいけない。あくまでも、 触れてエネルギーを吸収するだけだ。 ﹁お師匠様のおかげで、私の知らなかった女の人としての力が引き 出されたのでありますね。これはきっと、女神様の思し召しなので あります!﹂ ﹁え、えーと⋮⋮それは、他の人に言っちゃだめだよ﹂ ﹁た、確かにそれはそうでありますね。こんな奇跡のお話をしたら、 みんな私が何を言っているのか分からなくて、困ってしまいそうで あります﹂ たぶん、授乳という行為を採乳に代替できるのは俺だけだ。みん なログが出ていることも自覚できないので、代替スキルは使えない ︱︱なので、俺と同じことを他の人がしようとしても、まずできな いだろう。 290 ︵しかし採乳も、大きくなるほどハードルが高くなるからな⋮⋮︶ モニカさん、ターニャさん、フィローネさんの三人娘も、最近は 家に来ても採乳タイムとはいかない。俺が離乳食を取るようになっ たので、﹃お腹を空かせている赤ちゃんに元気をあげるため﹄とい う大義名分が薄れてしまったからだ。それでも変わらないサラサさ んは偉大だ。偉大という言葉に甘えていることは否定できないが。 ﹁はぁ⋮⋮それにしても、こんな出会いがあるのでありますね。時 には、無茶もしてみるものであります﹂ ﹁だ、だめだよ。ウェンディはおれとパーティを組むんだから、ひ とりで危ないことはしちゃだめだ﹂ ﹁⋮⋮お師匠さま﹂ そしてまたウェンディは下半身を隠さずに出てきてしまった。感 激すると俺を抱っこしたくなるらしい。早めにパンツが乾くことを 祈るが、さっき確かめたときはまだ少し湿っていた。 ﹁お師匠さまのことは、他の人たちには内緒にしたほうがいいであ りますか?﹂ ﹁え⋮⋮う、うん、そうしてもらえると助かるよ﹂ お願いするつもりだったことを、ウェンディが自分から言ってく れた。少し驚く俺を見て、彼女は微笑む。 ﹁きっと、お師匠様がコボルトリーダーをやっつけたと聞いても、 ギルド長は聞いてくれないと思うのであります。私が代わりに報酬 をもらって、それを全部お師匠様にお渡しします﹂ ﹁いや、ウェンディも頑張ったんだから、おれは何もいらないよ。 291 ウェンディは、宿屋に泊まってるんだよね? じゃあ、宿賃だって 必要だろうし﹂ ﹁はぁぁっ⋮⋮お師匠様、優しすぎであります⋮⋮っ、このままじ ゃ、好きになってしまいそうでありますっ﹂ ウェンディは感激してさらに俺を強く抱きしめる。彼女の服の前 は破られてしまい、辛うじて左右を引っ張って止めているだけなの で、ほぼダイレクトにふくらみに顔が押し付けられた。 ︵ふぉぉ⋮⋮この適度な大きさ⋮⋮適乳とはこのことか⋮⋮!︶ 何故に大きい、小さいで人々は争い合うのか。そんな争いを全て 過去にする、世界よ、これが適乳だ。 いや、爆乳、巨乳、普乳、微乳、無乳の全てに魅力があるのだ。 俺はこれからも、一つ一つの出会いを大切にしていければと思う。 ついトリップしてしまったが、我に返って思い出す。せっかくマ ナポーションを作ったので、ウェンディに飲んでもらわないといけ ない。 ﹁あ、あの⋮⋮ウェンディ。さっき言いかけたんだけど、これ、俺 が作ったポーションで⋮⋮﹂ ﹁お師匠様、ポーションが作れるのでありますか? くんくん、確 かに嗅いだことのある匂いがするであります。これはマナポーショ ンでありますね﹂ ﹁うん。これを飲んでくれないかな? 疲れがとれると思うから﹂ ﹁確かに、お師匠様に触ってもらったとき、身体から力が抜ける感 じがしたでありますが⋮⋮マナポーションで、元気が出るのであり ますか?﹂ 292 採乳でマナが減っているとは、確かに説明されなければわからな いだろう。ウェンディはそれでも俺の言うことを聞いて、作ったば かりのマナポーションを飲んでくれた。 ﹁んくっ、こくっ⋮⋮スッキリするお水という感じでありますね。 喉が渇いていたので、一気に飲んでしまったのであります﹂ ◆ログ ・︽ウェンディ︾は﹁マナポーション﹂を飲んだ。 ・︽ウェンディ︾のマナが20回復した! ﹁ふぅ⋮⋮あっ、草が沈んでいるでありますね。これがマナポーシ ョンの素でありますか?﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ ﹁お師匠様は何でも知っているのでありますね⋮⋮でも、すごくお 小さいのに、本で読まれたのでありますか? それとも、薬師のお 知り合いがいらっしゃるとか﹂ 前世の知識で薬のレシピはけっこう覚えている︱︱とは言いづら い。しかし今さらだけど、俺の身体は前世とは違うわけだから、記 憶は魂に付随しているということになるな。転生させるときの、女 神のはからいと考えるのが自然ではあるが。 ﹁えと⋮⋮友達のお母さんが、薬に詳しいんだ。それで⋮⋮﹂ ﹁なるほどであります⋮⋮それにしても、よく効くお薬であります ね。身体がぽかぽかして、朝目覚めたばかりのように活力がみなぎ ってくるのであります!﹂ 293 ︵計画通り⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮あ、あの。あまりにもみなぎりすぎて、どうしていいのかわ からないくらいなのであります﹂ ﹁う、うん。じゃあ、せっかくだから⋮⋮﹂ 卒業しなければならぬと思えど、スキルへの欲求は小さくならざ り。じっとウェンディを見る。なぜに古文調なのかと自分に突っ込 む。 ﹁⋮⋮飲み物のお礼は、飲み物でするのが一番でありますね。お師 匠様に見つめられただけで、自然に出てきてしまいそうなのであり ます⋮⋮あ⋮⋮っ﹂ 目の前にある服の結び目を、小さな手を伸ばしてちょいちょいと 解く。それを固唾を飲んで見守っていたウェンディは、恥ずかしさ が後から来たのか、一気に肌を紅潮させる。その拍子に、あらわに なった適度な大きさの山から、薄い白色の液体が飛び散った。サラ サさんに特有の現象かと思っていたが、触れなくても乳が出てしま っている、﹁射乳﹂という現象だ。 ﹁⋮⋮自動的に反応してしまうようになったのであります⋮⋮自分 の身体がこわくなってきたのでありますが⋮⋮お、お師匠さまっ﹂ ﹁お、おれは全然こわくないよ。おっぱいこわいなんて、もう言わ ないよ絶対﹂ ﹁ち、違います、そうじゃなくて⋮⋮せ、せきにんというか⋮⋮あ の、男女のことはわかるでありますか? ふつうは女性の胸に触っ たら、お友達の関係ではないのでありますよ?﹂ 294 ︵き、きた⋮⋮ついに来てしまった。男として責任を取れ、まさか 一歳で言われるとは⋮⋮っ︶ 子供だからおいたを許してもらえる、しかしそれは相手の考え方 次第だ。今のウェンディには、俺が成長したあと、責任を取ってほ しい相手に見えているわけで。 ︵採るだけ採って、その後は知らないとか⋮⋮ゆ、許されないよな ⋮⋮しかし俺は、かなりフィリアネスさんに心酔しているわけで⋮ ⋮︶ 聖騎士である彼女は、二十九歳までは﹃戒め﹄というのがあって 結婚できない︱︱たぶん、父さんの話によればそういうことらしい。 って、俺はフィリアネスさんが自分と結婚してくれるかもしれな いとか、そんな都合のいいことを考えているのか⋮⋮俺が大きくな る過程で、彼女の心が離れてしまわないよう、常に成長し続けなけ れば。やっぱり家の外に出たのは正解だった、少しでも早くフィリ アネスさんに認められなければ。 ﹁どこを見ているのでありますか? 私の胸は、ここでありますよ﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いいの?﹂ ﹁お師匠様は、いつでもさわっていいであります。恥ずかしいであ りますが⋮⋮お友達以上になれるかどうかは、これからの私の努力 次第であります﹂ よそ見をしていた俺をこちらに向かせると、ウェンディは胸をそ らして差し出してきた。こんなに無防備にされると、少しドキドキ してしまう⋮⋮しかし、触れないという答えはない。 淡い光を放つ手で、ぺた、と適度な大きさのふくらみに触れる。 295 するどウェンディの胸全体が発光して、俺の中に力が流れ込んでき た。 ◆ログ◆ ・あなたは︽ウェンディ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁戦士﹂スキルが上昇した! ﹁こうしていると落ち着くのであります⋮⋮お師匠様、こんな私で すが、これからもよろしくお願いします﹂ ﹁う、うん。おれの方こそ、よろしくね﹂ ﹁⋮⋮柔らかいでありますか? ふにふに、ってしてるであります ね⋮⋮﹂ 触られるのに慣れてきたのか、ウェンディは俺を愛おしげに見つ めている。 マナポーションで回復したマナは20。俺は続けて採乳をお願い して、ぺたぺたと白い胸に触れる。ウェンディはくすぐったそうに しつつも、俺のやんちゃを許してくれる。 ︵この手のひらから力を吸う感覚⋮⋮やっぱりくせになるな⋮⋮︶ ﹁お、お師匠様⋮⋮あ、足に力が入らなくなってきたのであります ⋮⋮﹂ ﹁ぷぁっ⋮⋮ご、ごめん!﹂ ﹁だ、大丈夫であります。これも、修行の一環なのであります﹂ ウェンディは照れ笑いして、胸を隠し直す。破れた服のままで町 296 に入るわけにいかないので、俺が後で代わりの服を調達してきた方 がよさそうだ。 採乳のことをウェンディは﹁修行﹂と言ったが、それは正しかっ たりする。なぜならば、彼女を成長させる要素もあるからだ。 ◆ログ◆ ・︽ウェンディ︾は﹁魔術素養﹂スキルを1ポイント獲得した! ﹁マナを消費して回復する﹂というのは、魔術素養スキルを上げ るための行動の一つである。恵体と魔術素養は、条件を満たせば誰 でも鍛えられるスキルなのだ。しかし存在に気づかない人が多いの で、一般の町人のステータスはそれほど高くならない。 ﹁⋮⋮お師匠様、ちょっと慣れてきたみたいです。もう少し続けて も平気であります﹂ ﹁ん⋮⋮ほ、本当に? おれ、もうすごく満足したよ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮少しだけ触っただけなのに、満足していただけたので ありますね。お師匠様、可愛いです﹂ たまに﹃あります﹄が抜けたときのほうが、ウェンディは可愛い 気がする。そんな彼女に愛でるような視線で見られながら採乳する というのは、ちょっと心が傾いても仕方ないんじゃないかと思った。 誘惑に弱い生き方も、幼さゆえと許してほしい。 ◇◆◇ 297 思いがけず森で時間を取ってしまったので、俺はそろそろ行動限 界だ。出来るだけ早く帰って、スーさんに遊んでもらっていたとい う体で仕事を終えた母さんを出迎えなければならない。 ウェンディの服はしっかり乾いたので、彼女は身支度を整える。 町に戻らないといけないので、破れた胸の部分はほどけて胸が見え ないようにしっかり結ばれていた。まるで女海賊のようで、ワイル ドなスタイルだ。 ﹁ウェンディ、今日はありがとう。また明日、遊んでもらっていい かな?﹂ ﹁遊びというか、お師匠様との時間はすべてが修行なのであります ! ぜひぜひご一緒させていただきたいのであります!﹂ 俺はお師匠様と呼ばれてはいるが、ウェンディに抱っこして運ん でもらっている。俺を運ぶのも、彼女にとっての修行の一環だ。恵 体スキルに経験値が入るので、重いものを運ぶのは良いのである。 ﹁あっ、お師匠様、狩人の人が向こうから来るのであります。お知 り合いでありますか? それでしたら、何か上手な説明が必要であ ります﹂ ﹁あ⋮⋮あの人は、俺の母さんの友達だよ。えーと、なんて説明す ればいいのか⋮⋮﹂ ウェンディに言われて見ると、モニカさんがやってくるところだ った。どうやら狩りに行くところらしい。 俺が森で迷子になりそうになったところを助けてもらったとか、 そういう方向で話すしかないか⋮⋮しかし、それでいいんだろうか。 298 誤魔化してばかりいると、いつかボロが出そうな気がする。 ﹁⋮⋮えっ、ヒロト!? どうしたの、こんなところで。もしかし て、森で遊んでたなんて言うんじゃないでしょうね﹂ ﹁い、いえっ、違うのであります。お師匠様は、私を助けてくれた のであります!﹂ ﹁あっ、ちょっ⋮⋮﹂ ウェンディはモニカさんが俺を問い詰めてるように見えたのか、 あわててフォローしてくれる。その気持ちはうれしいが、モニカさ んに事情を秘密にしておくという選択はなくなってしまった。 ﹁お師匠様⋮⋮助けてくれた? ヒロトが⋮⋮いったい、どういう こと?﹂ 下手に誤魔化そうとすれば、不自然になってしまう。俺はモニカ さんにもお世話になったし、彼女に不信を抱かれたりすることはな んとしても避けたかった。 ﹁⋮⋮モニカさん、お願いがあるんだ。おれの話を聞いてくれない かな﹂ ﹁そ、そっか⋮⋮ヒロト、しゃべれるようになったんだ。レミリア からは聞いてたけど、なかなか顔を出せなくてごめんね。ちょっと 見ないうちに、大きくなっちゃって﹂ 俺とウェンディのことを問いただす前に、モニカさんは近づいて きて俺の頭を撫でてくれた。そうしてから、緊張しているウェンデ ィを見やり、ふっと笑う。 ﹁そんなに怖がらないで、取って食べたりしないわ。あたしはモニ 299 カ、モニカ・スティングっていうんだけど、あなたは?﹂ ﹁わ、私はウェンディ・ベルであります! 騎士学校の出で、今は 冒険者として修行中であります。これから、お師匠様から色々と教 えてもらう予定なのであります⋮⋮そういうことで、いいんですよ ね?﹂ ﹁う、うん⋮⋮モニカさん、そんなの変だって思うよね。おれがお 師匠さまで、何か教えるなんて﹂ ﹁それはそうだけど⋮⋮あっ、良く見たら服が破れてるじゃない。 モンスターに襲われたのね⋮⋮最近、モンスターを倒しても倒して も湧いてきて困ってるのよ。まだ慣れてないなら、森には行かない 方がいいわ﹂ ﹁あっ⋮⋮も、申し訳ないのであります、そんな⋮⋮﹂ モニカさんはウェンディの服が破れていることを気にして、背負 っていた革のナップザックから包帯を取り出すと、さらしの代わり にウェンディの胸に巻いた。 ﹁いいから、気にしないで。冒険者なら知ってると思うけど、ギル ドにはガラの悪い連中も出入りしてるから。そんな格好で歩いてて、 町中でそういう手合いに絡まれると、面倒なことになるわよ﹂ ︵怖いのはコボルトだけじゃない⋮⋮か。自衛する力がないと、シ ビアな世界だよな⋮⋮︶ 母さんが前に町中でごろつきに絡まれたこともあったし、この町 の治安は必ずしも良いとはいえない状態だ。俺に出来ることは限ら れているが、自分の生まれた町を平和にしたいという気持ちが湧い てくる。 まずは、目に映る範囲からだろう。町全体の治安を良くしような 300 んて言い出すのはまだ早い。交渉術があればそれが不可能ではない としても、俺の行動範囲は限られているし、時間もあまりない。今 日だって、想定していた以上に外で時間を使ってしまっている。一 歳の時点ではまだ身体が昼寝を欲しており、ウェンディの腕の中に いると徐々に睡魔が忍び寄ってくる。 ︵う⋮⋮やばい。話してる途中なのに、一気に眠くなってきた⋮⋮︶ ﹁あ⋮⋮ヒロト、そろそろおねむの時間よね。ウェンディって言っ たわね、ヒロトの家は知ってるの?﹂ ﹁い、いえ、まだ知り合ったばかりなので⋮⋮﹂ ﹁分かった、じゃああたしも一緒に家まで送るわね。そんな格好で 行ったら驚かれるだろうし⋮⋮まだ魔物との戦いに慣れてないなら、 亜人種の魔物には手を出さないほうがいいわよ。危ない目に遭うか ら﹂ ﹁はい⋮⋮それは骨身にしみたのであります。あの、モニカさんは、 この森での魔物との戦いには慣れていらっしゃるのでありますか?﹂ ﹁ええ、狩りをするには魔物を排除しなければいけないこともある し。そうね、ここで二人を見かけたのも何かの縁だし⋮⋮﹂ モニカさんとウェンディが話している⋮⋮が、俺の意識はもうい くらも持ちそうになかった。俺が知っている町の人の中ではかなり 強いほうのモニカさんと会って、安心したということもある。もう コボルトの気配なんて近くにないが、知らずに戦闘で緊張を強いら れていたようだった。 ︵⋮⋮できれば⋮⋮モニカさんも、パーティに入ってくれないかな ⋮⋮︶ まぶたを閉じて寝入る前に、二人のやりとりが聞こえてきて、ウ 301 ェンディが感激している。なんとか俺は、意識が途絶える前に、モ ニカさんの決定的な一言を聞き取ることができた。 ﹁ウェンディが一人前になるまで、あたしが面倒見てあげる。ヒロ トに助けてもらったっていうけど、その辺りの事情も気になるしね﹂ ﹁ほ、本当でありますかっ!? 森に慣れた狩人の方がついていて くだされば、とても心強いでありますっ!﹂ 前衛ふたりに、後衛ひとり。あとは後衛がもう一人欲しいところ だ。そのあとで中衛を入れて、さらに前衛、後衛を強化して⋮⋮と 展望を広げていると、前世でパーティを組み始めた頃のことを思い 出す。 ミコトさんが前衛、俺は中衛、麻呂眉さんは後衛。その三人が核 になって、気がつけば人数は少しずつ増え、最終的には常時百人で パーティを組み、ボスモンスターが実装されるたびにみんなで挑ん でいた。 その頃に交わした幾つものチャットが思い出されて、懐かしいと 思うと同時に、泣きそうになる自分を戒めなければならなかった。 ◇◆◇ 次に目を開けた時には、俺は自分の部屋のベッドで寝かされてい た。 ﹁あ、起きた。寝る子は育つっていうけど、一度に寝る時間は短い のね﹂ ﹁モニカさん⋮⋮あれ、どうして⋮⋮﹂ 302 ﹁まあ、置いて帰るのも気が引けたしね。ウェンディはスーさんに 服を借りて、町の宿に戻ってるわ。あんな年上の女の子と知り合う なんて、一体何があったの? しかも、森にいたみたいだけど﹂ モニカさんは咎めるような口調ではなく、純粋に気になる、とい う顔で聞いてくる。それなら、俺もそこまで隠すことはするまいと 思った。 ﹁おれは⋮⋮えっと、スーさんに頼んで、外に出たいってお願いし たんだ。歩けるようになったから、どうしても出てみたくて﹂ ﹁スーさんも驚いてたわよ、ヒロトがどうしてもって言うから、レ ミリアには内緒にしておいて欲しいって。まあ、ちっちゃい子のお 願いは断りにくいわよね。それで、あたしもちょっと考えてたんだ けど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮考えてたって、なにを?﹂ 本当にわからないので、素直に尋ねる。するとモニカさんは可笑 しそうに笑って答えてくれた。 ﹁あたしに頼んでくれたら、いつでも外に連れていってあげようか なって﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いいの!?﹂ 思わず食いついてしまう。モニカさんは俺のベッドの傍らにやっ てきて、頭を撫でてくれる。 ﹁ちょっと前に、うちの父さんが狩りの最中に膝を怪我しちゃって、 あたしが代わりに毎日狩りに出てたんだけど、父さんの怪我が完治 したのよ。それで、あたしはしばらく、仕事での狩りは週に一回く らいでいいって言われてるの。時間が空いちゃったから、冒険者ギ 303 ルドに登録して、依頼を受けてみようと思ってたのよね﹂ ﹁そうだったんだ⋮⋮﹂ ﹁ウェンディも少し剣が使えるみたいだけど、まだ危なっかしいか ら、それならいっそあたしがついていった方がいいかと思って﹂ ﹁うん、おれもすごくうれしい。モニカさんがいてくれたら安心で きるし。狩りのことを教えてくれたら、おれもモニカさんの仕事を 手伝うよ﹂ そう言ったところで、モニカさんの手が一旦止まる。常に短かっ た髪を、彼女は少し伸ばし始めていて、その毛先を指でくるくると いじりながら、彼女は何か言いたげに俺を見つめる。 ﹁ご、ごめん、モニカさん。おれ、何か変なこと言ったかな﹂ ﹁モニカさん⋮⋮うーん、やっぱりちょっと固いわね。久しぶりに 会うから、緊張してるの? ターニャとフィローネと一緒に、あん なに⋮⋮ええと。甘やかしてあげたのに﹂ ︵い、いきなりそっちの話題に⋮⋮俺の思考がピンク色になってし まうじゃないか⋮⋮!︶ 三人娘が家に遊びに来るたび、母さんがお茶を入れるためなどで 席を外すと、彼女たちは恥ずかしがりつつも揺りかごに居る俺のと ころにやってきてくれたので、それぞれに魅力的な山脈に登山させ てもらった。ターニャさんもフィローネさんも初めのころより標高 が高くなり、俺のしている行為が成長に寄与するのか、それとも彼 女たちの成長期が続いているのかは判断が難しいところだった。 しかしここ最近は、三人はうちに来てくれてない。母さんとは町 で会ってるみたいなので、なぜ家に来ないんだろうと寂しく思って いたのだが⋮⋮。 304 ﹁あ、あの⋮⋮ターニャさんとフィローネさんは、おれがいるから うちに来るのが嫌なのかな?﹂ ﹁そんなことないわよ? それにしてもヒロト、もう大人と変わら ないくらいに喋れるのね⋮⋮レミリア、そんなに英才教育をしてた ようにも見えないけど⋮⋮﹂ 場合によっては歳相応に振る舞う努力が必要なこともあるだろう。 というかそれがほとんどだと思うが、俺はパーティを組むことにな った以上、モニカさんにはなるべく俺のことを理解しておいてもら いたかった。 ﹁⋮⋮あっ。もしかして、話せない頃から、私たちが言ってること って分かってたの?﹂ ﹁う、うん⋮⋮最初は分からなかったけど、少しずつ分かるように なったよ﹂ ﹁そ、そう言われると⋮⋮今までしてきたことが一気に恥ずかしく なるんだけど。赤ちゃんの前で、あんまりなやりとりしてたわよね ⋮⋮誰が先にするかとか。ヒロトがお腹をすかせてるのにね﹂ ︵なんて言えばいいんだ、こんなとき⋮⋮いや、言葉に詰まること はないんだけど⋮⋮︶ 交渉術の数値は、そのまま会話の技術に相当するらしく、俺は何 を言ったら相手の機嫌を損ねるかどうかをなんとなく察知すること ができた。どうやら今のモニカさんには、何を言っても許してもら えるらしい。 ﹁えっと⋮⋮おれは、モニカさんやみんなに可愛がってもらってう れしかったよ﹂ 305 ﹁そんなふうに思ってくれてたの? 良かった⋮⋮私もターニャも、 フィロ︱ネも、本当にいいのかなと思ってたの。友達の赤ちゃんを 囲んで裸になって、順番に胸を触らせるなんて⋮⋮何してるんだろ うって思ったりしたけど、ヒロトが幸せそうだと、恥ずかしいけど やめられないのよね⋮⋮﹂ 恥じらいは人生を豊かにするスパイスだ。あの熟練者のサラサさ んですら、俺の前で胸を出す瞬間は﹃いいのかしら﹄という顔をす るのである。そんなときいつも俺は、﹃申し訳ありません奥さん、 でもいいんです。俺は赤ん坊なんですから﹄と考えていたものだ。 そしてリオナが満足したあとも、マナが豊富なサラサさんは、一分 一秒でも長く授乳を続けてくれようとした。 ︱︱しかし、しかしだ。最近サラサさんが、レミリア母さんに申 し訳ないという雰囲気を出し始めている。自分でマナを消費するス キルを使って魔術素養の経験値を稼ぐことはできるが、まだ採乳の 方が圧倒的に効率が良いと俺は見ている。一歳になってもまだ上げ 足りない、それは我がままだと分かっているのだが⋮⋮。 ﹁⋮⋮だめね、ほんとに。最初は、そんなことするなんて信じられ ないって思ってたのに。ターニャとフィローネもくせになっちゃっ て、レミリアに悪いからもうやめにしようって話してたのよ。でも、 この家に来るとどうしてもね⋮⋮ヒロトったら、私たちを見るたび に、こっちを見てくるんだもの。くりくりした目で﹂ ﹁ご、ごめんなさい⋮⋮おれ、みんなが来てくれてうれしかったか ら﹂ ﹁あたしもね⋮⋮最初は、不思議だったけど。今となっては、もう いいかって思ってる。だって、今日こうやってヒロトに会えてほっ としてるから。あたしも会えてうれしいわよ、ヒロト﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ 306 会えてうれしい。その言葉が、俺の心の柔らかい部分に染みこん でいく。 初めに三人娘と会ったときは、モニカさんは一番距離が遠い人だ と思っていた。 しかし今では、一番俺を理解してくれていると感じる。頼りきっ て、甘えてしまいそうで、でもそれはいけないことだと自分を律す る。 けれど、俺のなけなしの抑制を知ってか知らずか、彼女の方から 一歩踏みこんでくる。 ﹁⋮⋮モニカさんっていうのは、ちょっと他人行儀ね。ヒロトはあ たしの言ってることの意味、わかるでしょ?﹂ ﹁⋮⋮じゃあ、モニカ姉ちゃんって呼んでいいかな?﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ちょっとやんちゃな弟ができたみたい。おとなしそう に見えて、実はそうでもないのよね⋮⋮お母さんに隠れて外に出て、 新しい女の子の友達を作っちゃうなんて。出会ったその日に、あん なことまでしちゃうとか、なかなかできることじゃないわよ﹂ ︵し、知られてる⋮⋮ウェンディ、もしかしなくても話したのか⋮ ⋮!?︶ 思い切り動揺する俺を見て、モニカさん︱︱いや、モニカ姉ちゃ んは悪戯っぽく笑った。それこそ、やんちゃな弟分のすることは何 でもお見通しだというように。 ﹁ウェンディに何歳か聞いてみたら、十三歳って言われてびっくり したわよ。ヒロトったら、そんな子までその気にさせちゃうなんて ⋮⋮﹂ 307 ﹁さ、させちゃうというか⋮⋮ご、ごめんなさい、レミリア母さん には言わないで﹂ ﹁言えるわけないじゃない、そんなこと。私もウェンディも、して ることは同じなんだから⋮⋮ヒロトも内緒にしなきゃダメって、ち ゃんとわかってる?﹂ ﹁う、うん。お母さんには、絶対怒られるから⋮⋮よその女の人の 胸は、触っちゃだめなんだよね﹂ ﹁そう。でもそれは、女の人がだめっていうときの場合ね。あたし たちの場合は、ヒロトが赤ちゃんの頃から触ってるんだから、遠慮 しなくてもいいのよ﹂ ︵⋮⋮なんだかモニカ姉ちゃんが、そっちの方に俺を誘導しようと しているような⋮⋮こ、これが年上の女性の交渉術⋮⋮!︶ そして赤ん坊の頃から採乳しているなら、継続しても大丈夫とは。 その発想はなかった⋮⋮どこかで俺は、サラサさんは特別だと思っ ていたのだ。そしてサラサさんも、リオナが喋れるようになったら 自然に機会が失われて、良い思い出になってしまうのではないかと 思っていた。モニカ姉ちゃんたちとの関係がそうなりつつあったよ うに。 ﹁ターニャもフィローネも、本当はヒロトに会いたがってるのよ。 でも、そういうことばかり楽しみにしてたら、ヒロトがいつか変だ って思うかもしれないし⋮⋮﹂ ﹁お、おれの方こそ⋮⋮お姉ちゃんたちが、俺を甘やかしてくれる の、変だって思うんじゃないかなって心配だったよ。モニカ姉ちゃ んは、そう思わないの?﹂ ﹁⋮⋮思ってたら、こんな話はしてないわよ。ヒロトが起きるまで 待ってたりもしないしね⋮⋮ウェンディとふたりきりにさせたら、 きっと毎日でも触っちゃうんでしょう?﹂ 308 ︵ば、ばれてる⋮⋮俺がおっぱい好きだということが、見ぬかれて る⋮⋮!︶ それはそうだろう、俺はたぶん、おっぱいに触れている時はとて も満ち足りた顔をしているに違いないのだから。それだけは嘘はつ けない。ほんとは触りたくないのに、無理をして触っているなんて 嘘はつけない。 しかし毎日でもしちゃうと言われると、別のことを連想してしま う。モニカ姉ちゃん⋮⋮こんなに色っぽい人だったか。それとも、 ウェンディの話を聞いて、思うところがあったんだろうか。 ﹁ウェンディは、ヒロトのパーティに入るって言ってたわ。あたし もそうするつもり⋮⋮ヒロトには、何かしたいことがあるんでしょ う? 小さいから出来ないことを、ウェンディに頼むつもりだった んじゃない?﹂ ﹁う、うん⋮⋮ギルドでクエストが受けたかったんだ﹂ ﹁クエスト⋮⋮そんな言葉まで知ってるなんて。クエストを受けて、 どうするつもりなの? 誰か冒険者の知り合いがいて、それで面白 そうだと思ったとか?﹂ ﹁ううん、おれが自分でしたいと思ったんだ。クエストを受けて、 魔物を倒したりしたら、町が平和になるから﹂ ﹁っ⋮⋮町のことを、そんなに考えて⋮⋮ヒロト、どうやったらそ んなふうに⋮⋮﹂ そんなふうに、この幼さで物事を理解出来るのか。俺はそれを説 明することが出来ないかわりに、自分がしたいことをしっかり話す べきだと思った。 309 ﹁おれは父さんや、家に来る人たちや、町で会う人のことをずっと 見てた。それで、思ったんだ。おれはこの町が好きだから、みんな のためになることがしたいって﹂ ﹁⋮⋮そう。きっと、レミリアとリカルドさんも喜ぶわよ。ヒロト が、そんなことを考えてるってわかったら﹂ ﹁おれはまだ小さくて、心配をかけるから、父さんと母さんには言 えない。でも、じっとしてられないんだ﹂ まだ早過ぎる、と言われたらそこで終わりだ。一度は俺たちの仲 間になってくれると言ったモニカ姉ちゃんだけど、レミリア母さん のことを考えれば、俺に好き勝手させるわけにはいかないだろう。 彼女はしばらくの間考えていた。悩むのも無理はない︱︱しかし。 もう一度、俺は頭を撫でられていた。彼女の手には弓の弦のあと がついていたけれど、俺はその手を綺麗だと思った。お父さんの代 わりに毎日狩りに出ていた彼女を、俺も見習いたいと心底思う。 その真面目さと共存した、軽やかな振る舞いに憧れを抱く。きっ と彼女は同年代の男性から見ても、とても魅力的に見えているだろ う。そんな人が自分の時間を俺のために使ってくれることが、どれ だけ恵まれているのか⋮⋮。 ﹁あたしは狩りが上手くなることしか考えてないし、これからもそ うだと思ってた。ヒロトはそんなに小さいのに、自分だけのことを 考えてるんじゃないんだね。あたしも、見習わなきゃ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなことないよ。おれこそ、モニカ姉ちゃんを⋮⋮﹂ 全部言い終える前に、彼女に抱きしめられていた。どうしてそう なるんだろうと思ったけど、顔を上げてみて、俺は女の人の考えは、 男には決して全てはわからないものなんだろう、と思った。 彼女が今まで見せた表情の中で、一番魅力的な笑顔がそこにあっ 310 た。俺には彼女がどうしてそんな顔をするのか、わからなかった。 ﹁最初は、人見知りしてたでしょ。あたしにはなついてくれないの かと思った。ターニャは明るくていい子だし、フィローネはあたし たちの中で一番お母さんに向いてると思う。あたしみたいなのは、 赤ちゃんのヒロトでもわかるよね。女らしくないって﹂ ﹁そ、そんなことないよ⋮⋮髪が長いとか短いとかも、狩りをして るかどうかも関係ないよ。モニカ姉ちゃんが優しい人だっていうこ とは、初めて会ったときにわかってたんだ﹂ ﹁⋮⋮ひとつ、まだ小さいヒロトに言っておくけど。あたしは優し くなんてないし、自分でそうしたいと思うことをしてるだけ。ヒロ トが可愛いから、自分がそうしたくて、可愛がってるだけなのよ﹂ ︵や、やっぱり⋮⋮そうだと思ってたけど⋮⋮︶ モニカ姉ちゃんは狩りの時は、こういった装備をするのだろう︱ ︱彼女は革のチョッキを脱いで、その下のシャツ一枚の姿になった。 Tシャツのような洗練された形状ではないが、似たような役割の服 はある。 下には革のショートパンツを穿いていて、少し日焼けした太腿が まぶしい。足元の革のブーツは広く普及している靴だが、飾りに毛 皮が使われており、女性らしいデザインの気遣いが見て取れる。 上から下まで見てしまったが、それは彼女がシャツまで脱ぎ始め てしまって、恥ずかしくて目をそらしたくなったからだった。両腕 をクロスさせて脱ぐ例の脱ぎ方は、途中で視界がさえぎられて無防 備になる瞬間があるから、色っぽく感じるのだろうか︱︱そして露 出した胸を覆うサラシは、かなりきつく巻かれている。弓を引く時 に胸が邪魔にならないように、そうしなければならないのだろう。 311 その下がどうなっているのか、俺はもうこの目で見て知っている。 こくり、と喉を鳴らす俺を見て、モニカ姉ちゃんはくすっと笑った。 ﹁ヒロト、すごく見たいって顔をしてるから、サラシはこのままに しておこうかな﹂ ﹁っ⋮⋮ね、姉ちゃん。そんな、意地悪しないで⋮⋮おれ、いい子 にするから﹂ ﹁⋮⋮こういうときだけ、ますますかわいくなっちゃうとか。自分 の武器を知ってる人は、いい狩人になれるわよ⋮⋮あたしなんかよ り、ずっとね﹂ 完全に翻弄されていると分かっているが、どうしようもない。こ んなふうに駆け引きされて、お願いせずにいられるやつがどこにい るだろう。 こういうとき、プライドなどは必要ない。持てる限りの礼を尽く すことしか、俺には許されていないのだ。 ﹁⋮⋮そんなにじっと見ないの。ヒロトはまだわからないと思うけ ど、見られてると恥ずかしいのよ。どれだけ心の準備ができてるつ もりでもね﹂ ︵これで今日三人目⋮⋮あまりペースが落ちてないのは気のせいか ⋮⋮?︶ モニカ姉ちゃんはサラシの結び目を解くと、しゅるしゅると外し 始める。緩んだ布の下で母性の象徴が大きく弾んで、ついに俺の目 の前に姿を現そうとした瞬間、 コンコン、とノックが聞こえてきた。﹁ですよねー﹂と俺の中の ゴーストがささやいた。 312 ﹁モニカ、夕食の支度ができたけど食べていく?﹂ ﹁あっ⋮⋮い、いいの? あたし、帰って食べるつもりだったんだ けど﹂ モニカ姉ちゃんはあわててサラシを巻き直し、瞬時に結び、シャ ツとチョッキを元通りに着てしまった。その速さ、まさに電光石火 といったところだ。 レミリア母さんがドアを開けて入ってくる。モニカ姉ちゃんは緊 張して、何やらあさっての方向を見て、﹁これ、よく見るとなかな かいい絵ね﹂とか言っていた。咄嗟にごまかすのはお世辞にも上手 とはいえないようだ。 ﹁ヒロト、お姉ちゃんに遊んでもらってたの?﹂ ﹁う、うん。すっごく楽しかったよ﹂ ﹁そう⋮⋮それにしては、モニカはさっきからどうしたの? そこ の絵はリカルドが描いたものだけど、モニカが褒めてたって伝えて おきましょうか?﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、そうなの? へえ、そんな趣味があったんだ。ヒロ トも絵心があるかもしれないわね、あはは⋮⋮﹂ ﹁そうねえ、何でも一度はやらせてあげないと、何の才能があるか わからないしね。また紙が手に入ったら、お父さんが絵を描いたと ころに連れていってあげるわね﹂ 白い紙は貴重品なので、﹃絵画﹄のスキルを上げるのは前世では 非常に困難とされていた。リカルド父さんは特にスキルを持ってな かったので、素でうまい範囲ということになるか。 父さんがミゼール近くの森を描いたものだというその絵は、写実 的で描いた人の実直さが伝わってくる絵だった。 313 ◇◆◇ モニカさんは夕食のあと、普通に家に帰っていってしまった。父 さんと母さんが心配するから、ということらしい。親孝行はいいこ となのだが、俺はといえば、もう少しのところでおあずけを食らっ たので、部屋のベッドでゴロゴロしながら煩悶していた。 ︵こんな気持ちは、フィリアネスさんと初めて会ったとき以来だ⋮ ⋮狩人スキルのためだけじゃなくて、純粋に吸いたい。そう思うの はダメだと分かっているけれども︶ そして母さんに風呂に入れられている間も、俺はどこか上の空だ った。 ﹁ヒロト、今日はいい子にしてくれてありがとう。私が仕事をして る間、スーと遊んでたのよね。楽しかった?﹂ ﹁あ、う、うん⋮⋮﹂ ﹁ぽーっとして、もう眠くなっちゃったの? ふふっ、もう少しだ け我慢してね。お母さん、お風呂に浸かりたいから﹂ ﹁うん、大丈夫。お母さんと一緒にゆっくり入りたい﹂ ﹁いい子ね⋮⋮私は子供のころはね、お母さまに我がまま言って困 らせてたのよ。お風呂だって大嫌いで、逃げまわってたの﹂ ﹁おれはお母さんと一緒にお風呂入るの、好きだよ﹂ ﹁本当? お母さんも大好きよ。ヒロトとお母さん、同じこと考え てるねえ﹂ レミリア母さんは俺の身体を洗ってくれながら、優しく語りかけ てくれる。初めの頃は前世のことを思い出して、何度か言葉に詰ま 314 ってしまったことがあった。 子供の頃、親が優しくしてくれた記憶が大事じゃない人なんてい るだろうか。けれど思い出すたび、俺はレミリア母さんに悪い気が して、少しずつ自分の感情をコントロールするようになっていった。 俺は普通の子供の振る舞いを徹底できていない。それでも、出来 る限りレミリア母さんに疑われたくないというのは、矛盾している とわかっている。 けれど、今日ウェンディに会えなかったらと思うと胸が締め付け られる。そんな可能性は初めからなかったし、俺は外に出たことを 後悔しない。いつか母さんに知られてしまっても、それで彼女が自 分の子供に疑問を感じるとしても、仕方がないことだ。 そんなふうに割り切れたら、苦労しない。俺は贅沢なんだろう、 全部が理想通りに行けばいいと思い、あまりにも多くのものを欲し がっている。そして、それでも力が足りないと感じているのだ︱︱ 魔剣のこと、リオナのこと。その二つの問題と向き合うためには。 ﹁⋮⋮お母さんね、実は知ってるのよ。モニカとターニャ、フィロ ーネが、ヒロトのことをすごく可愛がってくれてたこと﹂ ﹁えっ⋮⋮お、お母さん、気づいてたの?﹂ ﹁だって、三人ともお母さんが席を立って戻ってくると、いつも顔 が赤いんだもの。ヒロトの顔はつやつやしてるし、お母さんはそれ を見るだけでわかるのよ。あ、三人と何かしてたわね。って﹂ ﹁ご、ごめんなさい⋮⋮よその女の人には、そんなに触っちゃだめ だよね﹂ ﹁最初はそう思ってたんだけど、お母さん、最近はこう思うように なったの。ヒロトが可愛いから、みんな甘やかしてあげたくなっち ゃうのよね、たぶん。お母さんもそうだもの﹂ 315 ﹁えっ⋮⋮で、でも、おれ、もう一歳だし⋮⋮﹂ 反射的に言ってしまってから、俺は少し後悔する。母さんが、寂 しそうな顔をしたから。 ﹁そうね、もう一歳だから、お母さんはおっぱいあげちゃだめよね ⋮⋮でもね、まだ出るのよ。ほら﹂ ﹁わっ⋮⋮﹂ 母さんが胸に触れると、乳白色の液体が溢れてくる。それは風呂 場の明かりの中で、キラキラと輝いているように俺には見えていた。 もう大きくなった、そう言われることもあるのに、赤ん坊の時と 変わらないくらいの衝動が生まれる。 おそらく本能は、母さんに甘えすぎてはいけないと思いながらも、 一番に母親のものを求めているのだ。 ﹁ヒロトがもし赤ちゃんの頃に戻りたくなったら、いつでも言って くれていいのよ。お母さんにとっては、まだ小さいんだから﹂ ﹁う、うん。ありがとう⋮⋮﹂ ﹁なんて、お父さんに怒られちゃうわね。ヒロトは自立心が旺盛だ から、あまり過保護にしすぎないようにしようって言われてるの。 まあ、お父さんの言うことだから、これから次第でまた変わると思 うんだけどね﹂ ﹁そうなんだ⋮⋮﹂ リカルド父さんの見る目は鋭いと思う。俺は自立して、そしてク エストを攻略したりすることを望んでるわけだから。斧のことだっ て、バルデス爺の所に父さんが出入りしていたら、いつか知られて しまうかもしれない。できれば、それとなくじっちゃんにお願いし 316 て、メンテナンスしてもらう時は秘密にしてもらうべきだろうか。 ﹁あ、そういえば。今日ヒロトが持って帰ってきたおもちゃの斧っ て、バルデスさんにもらったのよね? お母さん、またこんどお礼 の挨拶をしてこなきゃ﹂ ﹁おれも一緒にいくよ﹂ ﹁ふふっ、そのときは町で、ヒロトの好きなものを買ってあげまし ょうか﹂ ﹁うん、ありがとう、お母さん﹂ 母さんが楽しそうに話してくれることが、俺は嬉しくてしかたが なかった。同時に、普通の子供よりも早く彼女のもとを離れなけれ ばならないことが、今さらに惜しく感じられた。 317 第10.5話 パーティ結成秘話 3︵前書き︶ ※この回は後から追加しております。 10.5話は3話構成でしたが、長くなったので4話構成に変更 しています。 318 第10.5話 パーティ結成秘話 3 翌日の朝、モニカさんが家に迎えに来てくれた。レミリア母さん は今日も仕事なので、その間遊んでくれるという体で、俺は堂々と 外に出ることができた。 きのう、ウェンディはコボルトリーダー討伐クエストを達成した ので、GからFランクに上がった。今日はFランクの簡単なモンス ター討伐をこなす予定だ。Eランクまでは今のままでもクリアでき そうなので、上がれるなら上がってしまっても構わないのだが。 ﹁お師匠様、お母さんにも認めていただけてよかったでありますね ! んしょっ、ちょっと重たくなったでありますか?﹂ ﹁きのうとあんまり変わってないよ⋮⋮というか、抱っこしなくて もいいよ?﹂ ﹁いえ、これも修行の一環であります。今も、じわじわと身体が鍛 えられている感じが⋮⋮き、来た、でありますっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ウェンディ︾の﹁恵体﹂スキルが上昇した! ︵ほう⋮⋮恵体スキルが上昇する瞬間は、自覚できる場合もあるの か︶ 師匠らしく感心してみる俺。お師匠様と呼ばれ続けていると、ち 319 ょっと調子に乗ってしまうのは否めない。 ﹁あ⋮⋮お、お師匠様っ。モニカさんが、声をかけられてるのであ ります﹂ モニカ姉ちゃんはギルドから出てきたところで、男女二人ずつの パーティに声をかけられていた。昨日、ウェンディに嫌味を言って いた連中だ。 ﹁あんた、Fランクの依頼受けてたけど、どこのパーティに入って んだ? 良かったら、俺らと一緒にやらねえか。弓使いは今、ちょ うど空いてんだ﹂ ﹁おあいにくさま。あたしはもう、他のパーティに入ってるから﹂ ﹁あ? じゃあ、なんで一人でギルドに来てんだよ。仲間がいるっ てんなら、紹介してもらわねえと筋が通らねえぞ?﹂ ︵⋮⋮まあ、これくらいでイライラしてても仕方ないしな。だが、 俺のモニカ姉ちゃんに手を出そうとは⋮⋮いや、﹃俺の﹄は言いす ぎだけど︶ 男二人の目的が見え見えなので、今までは小物だからと見逃して やっていたが、そろそろ堪忍袋の緒がピクピクしてきた。言うなれ ば、激おこぷんぷん丸というやつだ。生前でも死語になりかけてい たが、異世界で流行らせることは可能だろうか。と、それはどうで もいい。 ﹁仲間なら、そこで待ってくれてるわ。お待たせ、ウェンディ、ヒ ロト﹂ ﹁こいつ、昨日の⋮⋮なんだ、本当にFランクに上がれたのか﹂ ﹁俺らのパーティに入りたくて、必死にランクを上げたってことだ 320 よなぁ。それじゃ、弓使いのあんたと二人一緒に⋮⋮﹂ ﹁お兄さんたち、おれもいるよ﹂ こういう時に限って、俺はわりと喋れるほうだった。モニカさん、 ウェンディの前で舐められて黙っているほど、俺は人間ができてい ない。一歳で人間ができていたら、それは聖人の素質があるといえ るが。 ﹁あ⋮⋮? なんだこのガキは。どっちかの子供か? 子連れで冒 険なんざ、本気でやる気あんのか?﹂ ﹁違うわ。この子はあたしたちのリーダー⋮⋮あんたたちなんかよ り、よっぽど頼りになるのよ﹂ ﹁おいおい、吹いてくれるじゃねえか。こんなガキが頼りになるな んざ、やっぱりFランクに上がれたのはただのマグレってことかぁ、 はははっ!﹂ ﹁早めに謝った方がいいわよ、ジェスタとフューゴはFランクにな ってから、もう一年にもなるんだから﹂ ︵⋮⋮一年経ってもFランクのままって、どんだけ成長しないんだ。 こいつら、もしかして弱いんじゃ⋮⋮︶ 俺はいたずらに注目を浴びないようにと、オフにしていた﹁カリ スマ﹂を発動させる︱︱そして、三人のステータスを見て、女性を 除いて見る価値なしと判断した。男は二人ともレベル5、武器スキ ルも10程度、ライフもさほど高くない。俺ひとりで簀巻きにでき るレベルだ。 しかし、そのうち一人だけ︱︱ふわっとした長い髪を持つ、美人 だけれど妖しい印象を受ける若い女性は別だった。 321 ◆ステータス◆ 名前 ヒルメルダ・ナズロワ 人間 女 18歳 レベル12 ジョブ:魔物使い ライフ:232/232 マナ :24/24 スキル: 鞭マスタリー 12 軽装備マスタリー 13 魔物使い 28 恵体 16 母性 38 アクションスキル: 簡易調教︵魔物使い20︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ パッシブスキル: 魔物言語︵魔物使い10︶ 鞭装備︵鞭マスタリー10︶ 軽装備︵軽装備マスタリー10︶ 育成︵母性10︶ テイム ︵魔物使い⋮⋮調教の成功率が上がる、魔物を仲間にする専門職だ。 322 これは、取っておきたいスキルではあるな︶ ヒルメルダさんという女性の強さは他の二人より明らかに上なの だが、ジェスタとフューゴという男性を高く評価しているというこ とは、彼女には自分が三人の中で一番強いという自覚はないようだ った。こういうことはままあって、女性の中には数値的には強いの に、体格がいいというだけで、男性の方が強いと思っている人がい たりする。 ﹁ふふっ⋮⋮坊や、どうしたのじっと見て。子供は嫌いじゃないけ ど、そんな目で見ても味方はしてあげられないわよ﹂ ﹁ち、違うよ。俺はお姉さんなんかじっと見てないよ﹂ ﹁あら、そう? 私としたことが、勘違いだったかしらね。ごめん なさいね﹂ ﹁ヒルメルダ、そんなガキを構ってんじゃねえよ。まったく、気ま ぐれな女だな﹂ ﹁なんだぁ、乳くさいガキがもう色気づいてんのか? ははっ、こ いつは傑作だ﹂ ︵そりゃお前らと比べたら、この女の人の方に興味あるよ︶ 俺は男たちの言っていることを特に気にしてないフリをしつつ、 内心では別のことを考えていた。 それにしてもヒルメルダさんという女性は、言うほど悪い人では ないようだ。組んでいる人々はお世辞にも褒められないし、一年経 ってもFランクから上に上がらないんじゃ、最終的にDまで行ける かどうかも疑問だ。才能のある人には、埋もれてもらいたくはない のだが⋮⋮まあ、どんなパーティに所属するかは人それぞれだしな。 ﹁とにかく、あたしたちはパーティを組んでるから。誘うなら別の 323 人にして﹂ ﹁フン⋮⋮後悔すんじゃねえぞ﹂ モニカ姉ちゃんがきっぱり言うと、ジェスタはテンプレみたいな 捨て台詞を吐く。イラッとはするが、いちいち腹を立てても仕方が ない。 ﹁俺らのパーティに入れば、何の危険もなく稼げるのによ﹂ ﹁フューゴ、そのくらいにしておいたら? まあ、あなたも気を悪 くしないでね。Fランクに上がったなら、私たちは同じ仕事を取り 合う競争相手っていうわけだし、それなりに実力は認めてあげるわ﹂ ﹁それはどうも。あたしたちは急いでるから、この辺りで失礼する わ﹂ ︵むう、惜しい人材だな。スカウトしてみたい気はするが⋮⋮︶ モニカさんはすでに三人に対する印象が良くないので、なかなか 難しそうだ⋮⋮ヒルメルダさんだけ魅了する手もあるけど、そうす ると何か略奪してる気分になるしな。そうしたらあの二人の男のプ ライドも何もかも、完全崩壊させられそうではあるが。そこまです るのはさすがに酷な話だ。 考えているうちに、ギルドから、前にも見た仮面をつけた人が出 てきていた。法術士がよく身につけるブレザーのような服を着てい て、その上にマントを羽織っている。いかにも神秘的な容姿をした 彼女は、ジェスタたちではなく、俺たちの方に先に声をかけてきた。 ﹁やあ、また会ったね。毎回絡んでしまってすまない、彼らも悪気 ノーン があって言っているわけじゃないんだ﹂ ﹁余計なこと言うんじゃねえよ、名無し。拾ってやった恩を忘れた 324 のかよ?﹂ ﹁ちょっとくらい術が使えるようになってきたからって、調子に乗 ってんじゃねえのか﹂ ﹁すまない、そんなつもりは⋮⋮言い方が悪かったね﹂ ﹁二人とも、彼女も貴重な戦力になってきてるんだから、あまり厳 しいことを言わないであげて﹂ ジェスタとフューゴは﹃名無し﹄と呼ばれた彼女に悪態をつくが、 その視線が仮面を見たあと、彼女の身体に下がっていくのを俺は見 逃さなかった︱︱というか、考えていることが丸わかりだった。 ︵あれが鼻の下が伸びるってやつか⋮⋮嫌味を言ってるわりに、デ レデレじゃないか。一番駄目なパターンだな︶ 名無しさんは仮面をつけて目を隠しており、口元しか見えないが、 色白で唇の形も何とも言えず色っぽく、声も涼やかでかなりの美人 ではないかと想像させる。着痩せするような服を選んでいるようだ が、それでも胸はかなり大きいことが見て取れるし、膝丈のスカー トから伸びる足は適度に締まっており、タイツ装備がよく似合って いる。すらりと背が高く顔が小さいので、男二人と並ぶと頭身の差 が際立っていた。 ⋮⋮って、これじゃ俺も品定めしてるみたいじゃないか。子供の うちは警戒されないからって、失礼だからやめないとな。 ﹁まったく、立場を分かって欲しいもんだぜ。俺らが前衛で苦労し てる分だけ、お前は無傷なんだからよ﹂ ﹁ああ、承知しているよ。いつも世話になっている﹂ ﹁だ、だったらよ、今日の夜は飲みに付き合えよ。いつ誘っても一 人がいいって断るけどよ、ヒルメルダも女一人じゃ寂しいって言っ てるぜ﹂ 325 ﹁あら⋮⋮私は何も言ってないけど。あなたたちに付き合うことも、 そんなに頻繁じゃないしね﹂ ﹁ぐっ⋮⋮そ、それはそうだけどよ⋮⋮﹂ ちょっと見ているだけで、パーティの中の人間関係がわかってき た。男二人は女性に言い寄っているが、女性はあくまで、パーティ メンバーとして見ているみたいだ。 ﹁つ、次のEランクに上がるための昇格任務の後の、打ち上げって ことだよ。そんな時まで四人揃わねえってのはおかしいだろ?﹂ ﹁そういうことなら仕方ないわね。私は出席させてもらうわ⋮⋮あ なたは?﹂ ﹁小生は⋮⋮そうだな。昇格試験に通ったあとなら⋮⋮﹂ ﹁お、おお⋮⋮やっとその気になってくれたのかよ。なあフューゴ、 良かったな﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮そういうことなら、店まで予約しとくか。ギルドの 酒場じゃ、出せる酒も限られてるしなあ⋮⋮くくっ﹂ ︵目に見えて悪い笑みだな⋮⋮まさかとは思うが、ロクでもないこ とを考えてないだろうな⋮⋮?︶ これからあのパーティは昇格試験を受けるのか⋮⋮それが、モン スター討伐だとしたらどうだろう。あの前衛二人の実力では難しい 気がするのだが。 ジェスタ、フューゴ、ヒルメルダの三人は森に向かって歩いて行 く。彼らについていく前に、名無しさんが俺たちの方にやってきた。 ﹁重ね重ねすまない。不快な思いをさせたなら、小生から謝らせて もらおう﹂ 326 ﹁ううん⋮⋮見てて思ったけど、あなたも大変ね。あのパーティで ないとダメな理由があるの?﹂ ﹁わ、私も入れてもらおうとしておいて、こんなことを言うのは変 でありますけど⋮⋮あの男の人たちは、女の人を見る目がその、え っちなのであります。えっちなのはよくないのであります!﹂ 一歳児の行為で頬を赤らめていたウェンディさん︵13︶の発言 に、あれはエッチではなかったのだな、と俺は感心する。エッチじ ゃないならいけないことではないということで、お願いする時に何 も遠慮する必要はなくなった。って、何か開き直ってるみたいだな ⋮⋮その通りだけど。 ﹁彼らが小生を女性として見ているということはないと思うよ。小 生の方も男性に対する関心は今のところないというか、そんなこと を考えている余裕はないから、変なことにはなりようがない﹂ ﹁まあ、そう言うなら大丈夫でしょうけど⋮⋮でも、良かったの? いくらパーティを組んでるとはいえ、あんな連中とお酒なんて⋮ ⋮﹂ モニカ姉ちゃんが名無しさんのことを本気で心配して言う。しか し名無しさんは心配はないというように笑ってみせた。 ﹁小生は酒には強いからね。彼らがもし潰そうとしてきても、飲ま れたりはしないよ。心配してくれてありがとう﹂ ﹁す、すごいでありますね⋮⋮お酒って、間違えて飲んじゃったこ とがありますけど、苦くて口からだーってしちゃったのであります﹂ ﹁あはは、ウェンディは弱そうね、見るからに。でも慣れておいた 方がいいわよー、ある程度飲めた方が楽しいしね。女同士で飲むの も楽しいわよ﹂ ﹁ヒロトさんが飲めるまでは、成人になるまで、あと14年もかか 327 るのでありますね⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮さっきから思っていたんだけど。可愛らしいお子さんだね。 遊んであげているのかい?﹂ ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽名無し︾は隠者の仮面の効果で防いだ。 ︵無効化⋮⋮って、装備品の効果か? 隠者の仮面⋮⋮聞いたこと ないな︶ 名無しさんは俺に近づいてくる。仮面の目の部分には細い切れ込 みが入っていて、その間から見えているようだ。やっぱり近くで見 ても美人のようだ⋮⋮もうちょっと下から覗きこめば、顔が見えて しまいそうなんだけど。 しかしログに︽名無し︾と表示されるということは、あだ名じゃ なくて、本当に彼女は名無しって名前なんだということになる。そ んなことがあるんだろうか? ﹁⋮⋮澄んだ目をしている。まだ小さいのに、深い思慮を感じるね﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。おれ、大人の人の言ってることはわかるよ﹂ ﹁そうなのか⋮⋮ふむ。そういうことなら、私は君には注目してお かなければならないな⋮⋮﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁ああ、なんでもない。変なことを言ってしまったね、今のは忘れ てくれたまえ﹂ 名無しさんは俺の頭を撫でてくれる。微笑んだ口元だけが見えて、 328 そこにルージュが引かれていることに気がつく。化粧品は異世界で は手に入れづらいが、彼女はどこかで入手することができたようだ。 ﹁では、無事に帰れたらまた会えるといいね。正直を言って、小生 たちのパーティはそれほど強くはない。彼らもランクを上げられな いことに焦っているんだ⋮⋮ヒルメルダはまだ彼らに見込みがある と思っているけれど、伸びしろがないと判断したら出て行くだろう ね﹂ ﹁ふぅん⋮⋮名無しさん、あなたは? って、名無しって名前のわ けないわよね﹂ ﹁いや、名無しと呼んでくれればいい。小生は名前を名乗ることが 出来ないんだ。そういう制限をかけられていてね﹂ ﹁制限⋮⋮でありますか?﹂ ﹁そういうものがあると思って、見過ごしてくれればありがたい。 もし君たちが、Eランクを超え、Dランク以上を目指すというなら ⋮⋮そのときは、小生もパーティ編入の希望を出させてもらっても いいかい?﹂ ﹁ええ、かまわないわよ。術士の人が入ってくれると、パーティの バランスもとれるしね﹂ ︵名無しさんは、パーティのランクが上がるなら、所属する価値が あると言ってるわけか⋮⋮︶ 俺たちはFランクに上がったばかりだが、さほど苦戦したわけじ ゃない。難しくなるのはDランクからで、Eランクまでは初心者レ ベルなのですぐに上がれるだろう。何なら、今すぐに昇格試験を受 けたっていい。 しかし、都合よくそんな依頼を受けられるわけもないか︱︱と考 えていたのだが。 329 ﹁それにしても奇遇ね。Fランクなんかじゃ受けられる依頼もレベ ルが低いから、あたしたちもEランクに昇格するための依頼を受け てるのよ。もしかして、競合してるんじゃない?﹂ ︵ナイスだ、モニカ姉ちゃん⋮⋮!︶ モニカ姉ちゃんには、ランクを上げる依頼があったら受けてほし いと頼んでおいた。前のコボルトリーダー戦でまだ余裕があったの で、Eランクにはもう上がれると見ていたからだ。 ﹁む⋮⋮なるほど。コボルトリーダー三体の討伐依頼⋮⋮小生たち も、内容は同じだ。この種の討伐依頼は、早いもの勝ちということ になっているからね⋮⋮﹂ ﹁そっちが先か、あたしたちが先か。まあ、もし出し抜かれても文 句は言わないから、気にしないでね﹂ ﹁もし⋮⋮ということは、小生たちが勝つ可能性は低いと考えてい るわけか。貴女の名前は?﹂ ﹁あたしはモニカ、こっちはウェンディ。それで、この可愛い子が 私たちのリーダー⋮⋮ヒロトよ﹂ ﹁っ⋮⋮リーダー⋮⋮この、小さな男の子が⋮⋮?﹂ やはり驚かれたか⋮⋮モニカさんが俺を抱っこする役を代わって、 サラシに覆われた胸を惜しみなく当ててくる。ぜひあててんのよ、 と言ってもらいたいところである。 そんな俺を見て、名無しさんはもう一度くすっと笑った。そして 俺の頭をくしゃくしゃと撫で、さらに今度はほっぺたをさすり、ふ にふにとつまみ、耳まで触ってくる。 ﹁ふぁ⋮⋮な、名無しのお姉ちゃん、どうしたの? おれの顔に、 330 何かついてる?﹂ ﹁そ、そんなことないと思うけど⋮⋮ヒロトのこと、そんなに気に 入ったの? あげないわよ﹂ ﹁いや、何でもない。何でもない、とばかり言っている気がするけ れどね。何となく、うれしかったのさ﹂ ﹁はぇ∼⋮⋮そ、それって、もしかして一目惚れってことでありま すか? それだと、私のライバル認定をさせていただかないといけ なくてですねっ﹂ ﹁ふふっ、まあ、そう受け取ってもらってもかまわないよ。ヒロト 君を見ていると、子供を作るのもいいかなと思えてくるよ。小生に はそんな発想は、少しも無かったんだけどね﹂ ﹁あの男のどっちかが相手っていうのはやめときなさいよ?﹂ ﹁それは当然というか、彼らは異性として全く眼中にないからね。 頼まれても丁重にお断りするし、これまでもそうしてきたんだけれ ど。なかなか凝りてくれなくて困っていたんだ﹂ それなら、すぐにでも俺たちのパーティに入ってくれないか︱︱ と言おうと思ったけれど。 名無しさんは、今回のクエストには彼らと一緒に挑むと決めてい るようだ。これまで組んできた義理もあるのだろう。 ﹁じゃあ、互いの無事を祈ろう。グッドラック、と言っておこうか﹂ 名無しさんはそう言い置いて歩いていく。グッドラック⋮⋮この 異世界でそんな言葉を使うのは、普通じゃ⋮⋮いや、英語のアイテ ムやスキルがあるので、絶対に無いともいえないか。 ﹁ぐっどら? ウェンディ、どういう意味?﹂ ﹁たぶん、幸運を祈るとか、そういうことではないかと思うのであ りますっ﹂ 331 ﹁お、おれもそうだと思う⋮⋮おれたちも行こう、ターゲットを取 られちゃうし﹂ ﹁見つけさえすれば、コボルトリーダーは確実に倒せるものね。あ たしも父さんと狩りをしてるとき、罠にかかってるのを倒したりし てるのよ﹂ そういえば⋮⋮モニカさん、頼りになりそうだと思ってたけど、 実際にはどれくらい強いんだろう? ◆ステータス◆ 名前 モニカ・スティング 人間 女 19歳 レベル23 ジョブ:狩人 ライフ:280/280 マナ :24/24 スキル: 狩人 38 弓マスタリー 35 軽装備マスタリー 28 恵体 20 母性 43 料理 36 骨細工 57 アクションスキル: 狩猟︵狩人10︶ 332 狙う︵狩人20︶ 罠作成︵狩人30︶ 遠射︵弓マスタリー10︶ 曲射︵弓マスタリー20︶ 乱れ撃ち︵弓マスタリー30︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ 簡易料理︵料理10︶ 料理︵料理20︶ 骨加工︵骨細工10︶ 大型骨加工︵骨細工50︶ パッシブスキル: 弓装備︵弓マスタリー10︶ 軽装備︵軽装備マスタリー10︶ 育成︵母性10︶ 料理効果上昇︵料理30︶ 骨鑑定︵骨細工20︶ ︵さくにゅ⋮⋮じゃなくて、予想以上に強い⋮⋮弓使いとしてだけ じゃなく、色んな分野に秀でてるな︶ モニカさんは恵体こそ低めだが、武器スキルなどは騎士団のマー ルさんに匹敵する実力を持っている。これなら、コボルトリーダー が敵にならないことも、さっきのパーティを前にしても一歩も引か なかったことも納得できる。相手が弱いと見切っていて、引く必要 がないとわかっていたのだ。 333 ﹁んー? どうしたのヒロト、そんなにキラキラした目で見てくれ ることなんて、今までなかったのに。くりくりした目しちゃって、 可愛いんだから﹂ ﹁う、うん⋮⋮モニカ姉ちゃんは凄いなと思って﹂ ﹁モニカさんが頼りになるので、お師匠様も安心なのでありますね っ。でも、私にとっては、世界最強はお師匠様なのであります!﹂ ﹁あ、あはは⋮⋮おれは全然だよ。モニカ姉ちゃん、今日からよろ しくお願いします﹂ ﹁かしこまって言われると照れるわね。気にしなくていいのよ、あ たしも好きでやってるんだから﹂ そう言って俺を抱え上げて微笑みかけてくれるモニカさん。俺は みんなの母性に助けられて生きているな⋮⋮と、深く感謝したい気 持ちになった。 ﹁あ、あのっ⋮⋮モニカさん、お師匠様を抱っこするのは、私の役 目なのであります﹂ ﹁ヒロトって抱き上げると、ふわって柔らかく笑うのよね。昔から 好きなのよ、その顔が﹂ ﹁それは⋮⋮確かにそうなのであります。お師匠様のお母さんもき っと幸せでありますね、こんなに可愛いお師匠様を毎日抱っこでき るんですから﹂ 赤ちゃんにしては無愛想だけど大丈夫かしら、と最初はさんざん 心配されていたものだ。今では母さんも、俺を可愛いと言ってくれ るようになったが︱︱大きくなるにつれて、幼児補正もなくなって しまうからな。 人としての魅力を磨かなければならない。それが俺の目標の一つ である、ギルドを作ることの重要な条件であることは間違いないか ら。 334 ◇◆◇ そして森に着いた俺たちは、こちらを敵と認識して襲ってくるラ ビットやゴブリンだけを倒しながら進んでいく。 俺がどれくらい戦えるのか、半信半疑のモニカ姉ちゃんに、まず ゴブリン相手に実力を見てもらった。 ﹁おもちゃの斧だけど、それは関係ないんだ。こうやって持って⋮ ⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト、危ないっ!﹂ ﹁モニカ姉ちゃん、大丈夫!﹂ ◆ログ◆ ・︽ゴブリンA︾の攻撃! ・あなたには効果がなかった。 恵体によるダメージ軽減で、ゴブリンの攻撃は俺には効かない。 敵が攻撃してきても、どういったわけか俺には絶対当たらないのだ。 1歳にしては機敏とはいえ、ゴブリンの攻撃をかわすには、避け る動きが必要になりそうなものだ︱︱しかし勝手にゴブリンの攻撃 が軌道をそらし、俺に向かうはずの攻撃が空振りする。どういう仕 組みか分からないが、スキルポイントは異世界の物理法則に大きく 干渉するのだと考えられる。 335 そして斧を持ったまま、ゴブリンに向けて振り上げ、俺はスキル を発動する。すると俺の身体は勝手に動いて、ゴブリンに有効な打 撃を入れるべく、斧が規定の軌道をなぞっていく。 ﹁っ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁薪割り﹂を放った! ・︽ゴブリンA︾に41ダメージ! ︽ゴブリンA︾を倒した。 ﹁ギィィッ!﹂ ダガー ゴブリンは持っていた短剣で防ごうとしたが成らず、まともに攻 撃を受けて吹き飛び、光の粒になって霧散する。この時のバシュッ という効果音は、ゲームの時よりも臨場感のある音に変わっていた。 しかしこの世界はリアルであって、ゲームじゃない。俺の手には ゴブリンを斬った感触が残っている︱︱それが、スキルによって自 動的に成されたことであっても。 ﹁ゴブリンの攻撃が当たらない⋮⋮それに、一撃で倒すなんて。信 じられないけど、この目で見せられると信じるしかないわね⋮⋮ヒ ロト、リカルドさんに斧を教えてもらったの?﹂ ﹁う、うん⋮⋮見よう見まねだけどね﹂ 父さんと暮らしていることで斧マスタリーが上昇していくことは 336 確かだ。ウェンディとパーティを組むとき、俺は父さんのパーティ からは抜けてしまったのだが。家族関係には影響しないので、そこ は大目に見てもらいたい。 ﹁こんなのを見せられたら、ウェンディもヒロトを認めるわけよね ⋮⋮﹂ ﹁はい⋮⋮今でも、あのときのことは忘れられないのであります。 コボルトにその、ひどい目にあわされそうになったところを、颯爽 とお師匠様が助けてくれたのであります⋮⋮﹂ ﹁う、ウェンディ、その話は照れるからいいよ﹂ ﹁一歳の子に助けられるなんて、普通は恥ずかしいことだけどね⋮ ⋮と言いたいところだけど。ヒロトの実力はよくわかったわ。ウェ ンディと一緒に敵を引きつけてくれれば、あたしが敵を狙い撃つか ら。パーティは連携してこそよ﹂ ﹁うん、ありがとうモニカ姉ちゃん。じゃあ、早いうちにコボルト リーダーを探して⋮⋮﹂ ﹁︱︱きゃぁぁぁっ!﹂ そのとき、森の中に悲鳴が響き渡る。どうやら、それはヒルメル ダさんが上げたもののようだった。 ﹁っ⋮⋮何かあったんだ⋮⋮っ、急ごう、二人ともっ!﹂ 俺は率先して、声がした方向に走り出す︱︱そして、こともあろ うに、逃げていく男たち二人とすれ違った。 ﹁じょ、冗談じゃねえっ、あんな化けもんだなんて聞いてねえぞ!﹂ ﹁コボルトリーダーの中でも、特にヤバイやつじゃねえか⋮⋮クソ っ、クソッ!﹂ 337 泣き言を言いながら逃げていくのは、ジェスタとフューゴ︱︱推 測するまでもない、あの二人は女性二人を残して逃げ出したのだ。 ﹁根性のない⋮⋮っ、後でブリュワーズさんに言ってとっちめても らうわよ、あの連中っ!﹂ ﹁今はそれより、名無しさんたちが心配でありますっ⋮⋮あ、危な いっ⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト、ウエンディ、射線を空けてっ!﹂ 視界の先に、森の中の開けた場所があり、そこに昨日よりも大き な体躯を持つコボルトリーダーの姿があった。目の前にいる法術士 の女性︱︱名無しさんに、今まさに棍棒を叩きおろそうとしている。 ﹁グルァァァッ!﹂ ﹁︱︱﹃炎よ﹄っ!﹂ 名無しさんは詠唱して呪文を放つ︱︱あれは法術の基礎的な攻撃 呪文であり、レベル次第で威力の変化する﹃ファイアーボール﹄だ。 ◆ログ◆ ・︽名無し︾は﹁ファイアーボール﹂を詠唱した! ・︽コボルトリーダーA︾に54のダメージ! ︵コボルトリーダーの耐久力は150を超えてる⋮⋮まだとどめに は遠い。それに、攻撃がキャンセルされてない⋮⋮!︶ ﹁名無しの人っ、伏せなさいっ!﹂ 338 ◆ログ◆ ・︽モニカ︾の遠射! ・︽コボルトリーダーA︾に48のダメージ! 攻撃をキャンセル した! ﹁ガァァァッ!﹂ 眉間にモニカ姉ちゃんの矢を受けたところで、ようやくコボルト リーダーが怯み、攻撃がキャンセルされる。 コボルトリーダーの接近を許し、名無しさんが攻撃されるのをた だ見ていることしかできていなかったヒルメルダさんは、ようやく 我に返り、腰に装備していた鞭を抜いて振り抜いた。 ﹁あいつら、私を置いて逃げるなんて⋮⋮許さない⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ヒルメルダ︾の攻撃! ・︽コボルトリーダーA︾に23のダメージ! ︵まだ倒しきれないのか⋮⋮それなら、俺が⋮⋮!︶ 続けての詠唱、そして第二射よりも早く、俺はコボルトリーダー のふところに入り込む。名無しさんの驚く声が聞こえた気がする︱ 339 ︱話は全てあとだ。 ﹁︱︱せやぁぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁薪割り﹂を放った! ・︽コボルトリーダーA︾に42ダメージ! ︽コボルトリーダー A︾を倒した。 ・あなたのレベルが上がった! スキルポイントを3手に入れた。 ・︽ウェンディ︾のレベルが上がった! スキルポイントを3手に 入れた。 ﹁ガ⋮⋮ガルァッ⋮⋮﹂ コボルトリーダーの胸に、俺の小さな斧がつけた斬撃痕が走って いる。そしてコボルトリーダーは棍棒を取り落としてドロップする と、立ったままで消滅した。 ﹁とんだパーティメンバ︱ね⋮⋮コボルトリーダーくらい、Eラン クなら楽勝のはずでしょう﹂ ﹁くっ⋮⋮ま、前のときは⋮⋮前衛が盾で受けているうちに、名無 しの火球で、遠くから止めを刺したのよ⋮⋮その戦法で行くって言 っていたのに、あいつら⋮⋮っ﹂ 前よりコボルトリーダーが大きかったので、同じパターンで攻略 タンク キャスター できず、恐慌に陥って逃げていったのか⋮⋮分からないでもないが、 前衛が後衛を置いて逃げるのは許されることじゃない。ヒルメルダ 340 さんも失望が深く、唇をきつく噛み締めていた。 ﹁気を抜くには早いでありますよ⋮⋮っ、お師匠様、どうするであ りますか、コボルトリーダーがあと二体も⋮⋮っ﹂ ﹁リーダー同士では群れを作らないから、気づいてからこっちに来 るまでに時間がある! みんなで叩けばやっつけられるよ!﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト君、コボルトリーダーの習性を、どこで⋮⋮?﹂ 名無しさんは驚いているけど、説明は出来ない。コボルトリーダ ーの習性も、ライフの値も、すべて前世の知識だから。 転生して一年以上も経てば、薄れかかる知識もある。それを書き 留めておく必要もあるなと気が付きつつ、俺は二体目のコボルトリ ーダーに目を向けた。すぐに倒さなければ、鳴き声で手下のコボル トが集まってきてしまう。 ﹁さっきと同じで、みんなで一斉に叩くよ。名無しさん、ヒルメル ダさんも力を貸してくれる?﹂ ﹁是非もない。小生はもとよりそのつもりだよ﹂ ﹁仕方ないわね⋮⋮共同でクエストをクリアすることになるなんて。 これじゃ、自分のパーティの力でEランクに上がったとは言えない わ﹂ ﹁そんなことはないのでありますよ。私たちのパーティと一緒に倒 したのなら、それもお二人の力であります!﹂ そう、ウェンディも加われば、一度にダメージを与えられる回数 が一回増える︱︱倒し損ねる危険はゼロになる。確実に攻撃を叩き 込めば、絶対に勝てる⋮⋮! ﹁いくよ、みんな⋮⋮っ!﹂ ﹃了解っ!﹄ 341 返事を受けて、俺はウェンディと一緒に切り込んでいく。身体中 に傷のある歴戦のコボルトリーダーが、俺たちに向けて、錆びたナ タのような凶悪な武器を振るう︱︱的の小さい俺が攻撃を誘導し、 回避し、隙を作る。 ﹁今でありますっ⋮⋮はぁぁっ!﹂ ﹁動かないで、撃つわよ! 動いても撃つけど!﹂ ﹁﹃炎よ﹄っ!﹂ ﹁ほーっほっほっほっ! この犬っころっ、私の靴を舐めなさい!﹂ 全員で袋叩きにするのはいいのだが、ヒルメルダさん⋮⋮鞭を持 たせるとそういうキャラになるのか。サラサさんも鞭使いだったけ ど、たぶん真逆の使い方をするに違いないな。 ◇◆◇ ﹁︱︱やぁぁぁっ!﹂ ・︽ウェンディ︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! ・︽コボルトリーダーC︾に33ダメージ! ︽コボルトリーダー C︾を倒した! ・︽ウェンディ︾のレベルが上がった! スキルポイントを3手に 入れた。 ・︽ウェンディ︾の﹁剣マスタリー﹂スキルが上昇した! ・あなたの﹁斧マスタリー﹂スキルが上昇した! ・モニカの﹁弓マスタリー﹂スキルが上昇した! ・名無しの﹁魔術素養﹂スキルが上昇した! 342 ・ヒルメルダの﹁鞭マスタリー﹂スキルが上昇した! ウェンディが最後のコボルトリーダーにとどめを刺した瞬間、大 量のレベルアップログが流れる。この気持ちよさは、転生してから も変わらないところだ。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮と、とどめをいただいてしまったであります が⋮⋮もう動けないであります⋮⋮っ﹂ ﹁大丈夫? 初歩の技みたいだけど、けっこう連発してたものね⋮ ⋮﹂ ﹁ウェンディ、マナポーションがあるよ。昨日魔力の草を持って帰 って、作っておいたんだ﹂ ﹁本当でありますかっ? ありがとうございます、お師匠様⋮⋮は ぁ、生き返るであります∼⋮⋮﹂ コボルトリーダーたちは、五人で力を合わせれば難なく撃破する ことができた。ウェンディのレベルも順調に上がっているし、新し い技を修得する日も遠くはなさそうだ。 ﹁名無しさんも飲む? 魔術をいっぱい使ってたから、疲れちゃっ たよね﹂ ﹁⋮⋮ああ。代金は払わせてもらおう、持ち合わせならあるからね﹂ ﹁ううん、いらないよ。名無しさんの魔術のおかげで、すごく助か ったからおたがいさまだよ﹂ 俺の言葉をじっと黙って聞いていた名無しさんだが、差し出した ポーションを手に取ると、少し見つめた後にフタを外して飲み干し だ。白い喉が見えて、こくっ、こくっと飲み下す音が聞こえる。 343 ◆ログ◆ ・︽名無し︾はマナポーションを飲んだ。 ・︽名無し︾のマナが50回復した! マナポーションの回復量は最低で20だが、使用者の最大マナに 応じて回復量が増えて、最高で最大マナの30%回復する。という ことは、小数点以下は切り捨てで、彼女の最大マナは168ポイン トということになる。魔術素養12ということだ。 魔術の使い手としては決してレベルは高くないが、この町の冒険 者の中では中の上くらいの実力はある。もちろん魔術素養12はゲ ーム時代では序盤の数値だから、この町においては、ということに なるが。 ﹁ふぅ⋮⋮回復した。これも、ヒロト君が作ったのかい?﹂ ﹁うん。やり方は知ってるから﹂ ﹁⋮⋮そうか。斧を使えるだけでなく、魔物の習性も、ポーション 作成の知識まである。小さな君が、パーティのリーダーと聞いたと きは信じられなかったが、すべて小生の思い込みだった。人を見た 目で判断しないというのは、心がけていたつもりだが⋮⋮猛省しな ければね﹂ ﹁その子供⋮⋮ま、まあ、危なっかしいけど、素質はあるようね。 うちのパーティの男たちより、よっぽど見込みはあると思うわ﹂ ヒルメルダさんからの評価も急上昇だ。でも、戦う姿をあまり多 くの人に見せるのは得策じゃないんだよな。さっきの男たちが逃げ てくれたのはありがたかった。 ﹁私はそんなに攻撃が得意じゃないのよ。本来は魔物を調教して戦 344 わせたりするわけだけど⋮⋮人間を肉の盾にできるなら、それでも いいかと思っていたわけ。まあ、結果は見ての通りよ。臆病な男ほ ど、頼りにならないものはないわ﹂ ﹁に、肉の盾でありますか⋮⋮言い得て妙でありますが、ちょっぴ りひどいのであります﹂ ﹁そんなことじゃ、この先もパーティを組むなんて考えられないん じゃない? 男の人たちは頼りにならなかったみたいだし⋮⋮女性 とパーティを組む気構えも、浮ついてるし﹂ ウェンディとモニカ姉ちゃんが苦言を呈する。ヒルメルダさんは 反論せず、ふっと力なく笑った。 ﹁楽をしようとしていたのがいけなかったわね。せっかく魔物を調 教しても、死んじゃったら最初から育て直しになってしまうから。 それなら最初から育った人間を利用するのが効率的だと思ったわけ だけど、人間のほうが使えないわね。あなたたちは別だけど﹂ ﹁使うとか使わないとかじゃなくて⋮⋮あのね、ちょっと常識がな いみたいだから言っておくけど。他の人たちは、あなたの駒じゃな いのよ?﹂ ﹁そ、それに、さっきはあの男の人たちを頼りにしてるみたいな感 じだったのでありますっ﹂ ﹁ええ、まあね。Fランクに上がる任務までは、そう苦労もしなか ったし。あの男たちの限界を見定めようと思っていたわけだけど、 これではっきりしたわけ。ああ、もっと強い男はいないの?﹂ ︵まあ、この人自身もそこそこ強いわけだから、寄生ってわけじゃ ないけど⋮⋮今の感じだと、良いパーティには入れてもらえそうに ないな。魔物使いは、魔物を調教しなきゃダメだろう︶ 性格には問題があるが、生前のギルドにも色んな人がいたし、楽 345 して強くなりたいって人もいた。その考え方は変わらないことのほ うが多かったが、中にはギルドの仲間の影響を受け、育成の楽しみ を知って、プレイスタイルが変わった人もいる。そこから効率厨に クラスチェンジしたり、育てきってチャット専になったりとそれぞ れだが、育成こそがゲームを楽しむためのいろはであり、始まりだ と俺は思う。 この人は今はあまり熱意がない冒険者かもしれないが︱︱何か、 きっかけを作れないだろうか。と考えていると、ヒルメルダさんが 俺に近づいてきた。彼女はしゃがみこんで、俺をじっと見る⋮⋮な、 なんだろう。睨まれているわけじゃないみたいだけど。 ﹁ジェスタとフューゴより、坊やの方がよっぽど使えそうね。どう ? 私と一緒に遊ばない?﹂ ﹁お、お師匠様は遊んでいるわけじゃないのでありますっ、まじめ に冒険者をしているのであります!﹂ ﹁好き勝手してくれるわね、本当に⋮⋮ヒロトはあたしたちの仲間 なのよ。それに、使えそうなんて言い方して﹂ モニカさんとウェンディが食ってかかるのも気にせず、ヒルメル ダさんは俺を見ている。白い肌に、紫がかった瞳。垂れ目ぎみで一 見すると大人しそうな女性に見えるのだが、その語り口は悪女その ものという感じだ。ゆるくウェーブのかかった髪は瞳の色と同じで、 異世界ならではのヴィヴィッドな色彩だが、違和感は感じない。 ︵⋮⋮し、しかし⋮⋮チェックしてはいたけど、かなり母性的だな︶ 母性38という数字は、俺が見てきた中で決して高いわけではな レザーアーマー いが、経験則からカップ数を推測するならばD∼Eといったところ だ。革鎧の下に布鎧を着ているが、胸の部分がかなり広く作ってあ 346 る。 魔物使いのスキルは、交渉術で代用出来るので必須ではない。魔 物言語は欲しいが︱︱今の関係で、スキル10に達することは難し いだろう。パーティメンバーの前であからさまに魅了を発動するの も気が引ける。吸いたいのに吸えない、また俺はおあずけを食らっ てしまった。 ﹁まあ、そうよね。こんな将来有望な子を都合よく手放してくれる なんて、虫のいい話もないわね。じゃあ、その話はいいわ﹂ ノーン ﹁あ、あっさりしているでありますね⋮⋮つかみどころがないので あります﹂ ﹁よく言われるわ。それで、名無しはどうするの? 私は今日で抜 けるつもりだけど﹂ ﹁小生は、彼らに一応義理だけは通しておくよ。彼らが今まで、ま ったくパーティの中での役割を果たさなかったわけではないからね﹂ ﹁ふぅん⋮⋮律儀ね。あまり気乗りはしないけど。最後くらいは付 き合ってあげた方が、後腐れがなさそうね。でも、クエストの報酬 で、あいつらに奢るのは腑に落ちないわ﹂ ﹁もらうものはもらうつもりなわけね⋮⋮まあ、共闘したことは確 かだから、良しとしましょう。取り分は7対3っていうところでど う?﹂ ︵モニカ姉ちゃん、お金の話はしっかりしてるな⋮⋮頼りになる。 俺より交渉術に長けてるよな、普通に︶ 交渉術100と、モニカ姉ちゃんの人生経験は今のところイコー ルで結んでもいいくらいだ。ヒルメルダさんは不平を言うことはな く、名無しさんも同意していた。 347 それにしても⋮⋮あの男二人と、最後に酒を飲んで、それで解散 するってことか。ゲーム時代はそういう打ち上げ的なものは無かっ たが、ギルドハウスで夜通しチャットで駄弁ることはあったな。 しかしなんとなく心配だ⋮⋮ジェスタとフューゴは、言っちゃ悪 いが、あまり人格的には褒められた感じはしない。女性陣にパーテ ィを解散しようと言われて、素直に受け入れるんだろうか。 ﹁3でも多いくらいだと小生は思っている。貴女が矢を撃たなけれ ば、小生はコボルトの棍棒で殴られていただろう。死にはしないと は思うものの、しばらく怪我で稼げなくなることは間違いない。た だでさえ収入が多くないから、依頼を受けられないというのは死活 問題なんだ﹂ ﹁私もあまり貢献出来たとは言えないから、それでいいわ⋮⋮それ と。そこの坊やがリーダーなのよね? まだすごく小さいけど﹂ ﹁うん、おれがリーダーだよ⋮⋮わっ、な、なに?﹂ ヒルメルダさんは俺をひょい、と抱き上げる。あまりに自然だっ たので、気構えも何も出来ていなかった。 テイム ﹁あんなに強い坊やを私が心配しても仕方ないでしょうけど。その 辺りの魔物を調教して、坊やの護衛獣にしてあげてもいいわよ。ま あ、私が調教出来る魔物はまだ種類が限られているけど﹂ ﹁ま、魔物を⋮⋮? そんなことができるのでありますか?﹂ ﹁ヒロトが欲しいっていうなら、あたしは止めないけど⋮⋮ヒルメ ルダ、何か変なこと考えてないでしょうね﹂ ﹁こればかりは裏表なく、ただのお礼よ。助けられたら、それなり のことはしないとね。坊やは可愛いから、特別にっていうこともあ るけど⋮⋮どう? ラビットなんかは、育てやすくていいと思うわ よ﹂ 348 育てやすいけど、ラビット系はあまり戦闘向きじゃない。ヒルメ ルダが自分で言っていた通り、調教した魔物はダメージを受ければ 死んでしまい、蘇生することはできない。つまり、防御力が高かっ たり、生命力が強い魔物が護衛獣として望ましいということになる。 ︵しかし、魔物使いのスキルは﹃簡易調教﹄⋮⋮交渉術95で取れ る﹃隷属化﹄の方が高度なスキルなんだよな︶ ゲーム時代は簡易調教出来るモンスターは、低レベルモンスター のみとなっていたはずだ。魔物使いはスキルレベル50で隷属化が 取れて、魔物の育成を早めたり、近くにいる魔物を呼んで一時的に テイム 使役するスキルなどもあって有用ではあるが、隷属化をすでに持っ ている俺には、ヒルメルダさんに調教した魔物を譲ってもらう必要 はない。 お礼をしてくれるというなら、別のことにしてほしい︱︱って、 欲求に素直すぎるだろうか。しかしヒルメルダさんが首都に行って しまうと、この町で魔物使いに会える可能性は低くなるしな。 ︵一期一会⋮⋮初めて会う職業の人には、出来ればお願いしたい⋮ ⋮!︶ 魅了してしまったから仕方がないと思っていた赤ん坊時代から、 俺は多少アグレッシブになっていた。しかしここから交渉に失敗す れば、﹁何よこのエロ餓鬼﹂と言われてしまうだろう。そうすると けっこうダメージが大きいので、慎重にことを運ばなければ⋮⋮。 ﹁あ、あの⋮⋮ヒルメルダさん。少し、ふたりで話したいことがあ るんだけど⋮⋮﹂ 349 ﹁え? それは構わないけど⋮⋮いいの? 仲間のお姉さんたち二 人が怖い目をして見てるわよ﹂ ﹁そ、そんな目はしてないわよ⋮⋮ちょっと行ってくるくらいなら いいけど、ヒロトにいたずらしたら許さないわよ﹂ ﹁お師匠様、行ってらっしゃいであります! 私はコボルトリーダ ーを倒した証明になる品を集めておくのであります﹂ ﹁小生も手伝おう。ヒロト君のことは気になるけれど、彼にも考え があるのだろうからね﹂ みんなの許可を得て、俺はヒルメルダさんと一緒に森に入ってい く。彼女は周りの風景を見ながら、何も言わずに俺についてきてく れた。 ︵近くに水が流れてる音が⋮⋮昨日の川が近いのか。いや、それは 置いておいて⋮⋮︶ ﹁坊や、どうしたの? 魔物が欲しくなったのなら、その辺りで捕 まえられるわよ﹂ ﹁う、ううん⋮⋮みんなには内緒にしてほしいんだけど、おれ、そ ういうのって自分でできるんだ﹂ ﹁なんですって⋮⋮?﹂ テイム ヒルメルダさんが目を見開く。魔物使いの自分にしか調教はでき ない、そう思っていたのだろう。 そんな俺たちの前に、一匹のモンスターが姿を現す︱︱スライム だ。大人がやっと抱えられるくらいの大きさで、水色のゼリーみた アクティブ いな見た目をしている。射程に入ると溶解液を吐いてくる可能性が あるが、今は戦闘態勢ではないので、少し離れたところでぽよん、 ぽよんとランダムに移動している。 350 ﹁気をつけてね、スライムは武器を溶かしてくるから。坊やの小さ な斧も溶かされてしまうわよ﹂ ﹁うん、大丈夫。ヒルメルダさんはそこで見てて﹂ ﹁攻撃の意志はないみたいだけど、あなたのことを気にしてはいる わよ。変に刺激しないようにね﹂ ﹃魔物言語﹄スキルを持つヒルメルダさんは、スライムの意志が 分かっているようだ。俺は﹃隷属化﹄を成功させるための手順を思 い出しつつ、1つずつ実行していく。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁魅了﹂スキルをアクティブにした。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽スライム︾は抵抗に失敗、魅了状態になっ た。 スライムがぷるん、と震えたかと思うと、色が黄色になり、次に ピンク色になる。それを見ていたヒルメルダさんは、目を見開いて 息を飲んだ。 ﹁な、何が起きてるの⋮⋮? スライムが、友好的な状態に⋮⋮い え、こっちに好意を持ってる色に変わるなんて。こんなこと、魔物 使いでも、色々と条件を満たさないとできないのに⋮⋮﹂ ﹁え、ええと⋮⋮おれはスライムが嫌いじゃないから、スライムも そう思ってくれたんじゃないかな﹂ ﹁魔物と心を通じ合わせる⋮⋮そういった天分を持つ人もいると、 先生が言っていたけど。坊やもそのうちの一人なのね⋮⋮こうして この目で見ても、まだ信じられないわ﹂ 351 ピンク色になったスライムは俺の方にやってきて、甘えるように 鳴いた。うーむ、ゼリーみたいだけど、こうして見ると可愛いよう な、そうでもないような。何にせよ、このスライムが俺の護衛獣第 一号だ。 ◆ダイアログ◆ ・︽スライム︾に﹁隷属化﹂スキルを使用できます。使用しますか ? YES/NO ﹁いい子だから、おれの仲間になってくれるかな?﹂ ﹁きゅいきゅい!﹂ ◆ログ◆ ・︽スライム︾はあなたの護衛獣になった! ・名前を自分で設定しますか? YES/NO ︵名前は自動的につけてもらうか⋮⋮その方が、元からの名前みた いで良いしな︶ 俺は心の中で選択肢を﹁NO﹂とする。前世ではテイムしたモン スターに色々中二病的なネーミングをしていたものだが、最初くら いは異世界の自然なセンスに任せてみてもいいだろう。 352 ◆ログ◆ ・︽スライム︾の名前が﹁ジョゼフィーヌ﹂に変更された。 ・︽ジョゼフィーヌ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか ? YES/NO ︵ジョゼフィーヌ⋮⋮な、なるほど。メスなのか︶ エターナル・マギアでは魔物に自動的に名称をつけたとき、性別 によって名前が変わる。まだスライムのうちは性別による差異はな いが、育てていくと種族名が変わって、そこで性別による変化が出 ることになる。 ﹁⋮⋮坊やの歳で、魔物使いの修行を終えるなんて考えられない。 何か本を読んだことはある?﹂ ﹁ううん、そういう本は読んでないよ﹂ 生まれつきできる、と言うとチートスキルを誇示しているような ので、そこは明言しなかった。ヒルメルダは俺の周りを回ってなつ いているスライムを見ていたが、そのうちに何かを悟ったようにふ ぅ、と息をつく。 ﹁坊やは私が何年もかけてできるようになったことを、もう簡単に 出来ている。私が言うのはなんだけど、それはすごいことよ。本気 であなたとパーティを組んで、大きくなっていくところを見てみた いくらい﹂ 353 ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ヒルメルダ︾があなたに注目した。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ヒルメルダ︾は抵抗に失敗、魅了状態にな った。 ︵い、いや、そうじゃなくて⋮⋮っ、いや、それでもいいんだけど って、何を言ってるんだ俺はっ︶ ﹁⋮⋮何を言ってるのかって、自分でも思うけど。あの子たちだっ て、こんな小さな子を相手に、本気で焼き餅なんて焼いたりして⋮ ⋮おかしい、って思ってたのよね。つい、さっきまではね﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、あの⋮⋮っ﹂ いきなり挙動不審になってしまう俺。さっきまでってことは、今 は違うわけで。モニカ姉ちゃんとウェンディの気持ちが、ヒルメル ダさんにも分かったということで⋮⋮。 ﹁坊やが可愛すぎるからいけないのよね、きっと。まだお家の中で、 お母さんに付きっきりでいてもらわなきゃいけないくらいなのに⋮ ⋮それが、魔物と戦っちゃうんだものね。心配で放っておけなくな る気持ちもわかるわ。もっとも、心配することもおこがましい⋮⋮ ああ、少し難しい言葉だったわね⋮⋮﹂ おこがましいというと、自分には過ぎたことだとかそういうこと になるだろうか。少し前のヒルメルダさんからすれば、想像のでき ない言葉だ。 カリスマの効果が、さらにヒルメルダさんの俺に対する認識を変 える。それは本当に魔法のようで、魅了まで効果を発揮してしまえ 354 ば、彼女は従順以外の何物でもなくなる。 ﹁⋮⋮助けてくれたお礼をしたいって言ったでしょう。魔物は自分 で仲間に出来るのなら、別の何かを坊やにあげる。なんでもいいわ、 言ってご覧なさい﹂ 出会った時は俺の存在を気にも留めなかった彼女が、今は頬をほ んのりと色づかせて、興味を隠さない瞳を向けてくれている。スキ ルの効果とはいえ、勘違いせずには居られなくなる︱︱俺もけっこ う単純だから。 ﹁え、えっと⋮⋮あの⋮⋮ヒルメルダさんの⋮⋮﹂ ﹁もっと近くで言ってみて。そんなに小さな声じゃ、聞こえないわ ⋮⋮ほら、こうしたら聞こえるから﹂ ヒルメルダさんは俺を抱き上げて、自分の耳元で話すように促す。 遠目に見ると分からなかったが、彼女が耳に付けている小さなピア スは、月を象ったものだった。 ◆ログ◆ ・︽ヒルメルダ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YES/NO ﹁⋮⋮お、おれ、ヒルメルダさんの、む、む⋮⋮﹂ ﹁いいのよ、あせらなくても。そんなに小さいんだから、大人と普 通に話せるほうがすごいことよ﹂ 355 俺を落ち着かせようと背中を撫でてくれるヒルメルダさん。彼女 の声は優しく、とんでもないことを言おうとしている俺に対して、 何の警戒も感じさせない。 申し訳なさとスキルを秤にかけて、その重さが釣り合う時間は、 いくらも続かなくて。 自分から言葉にして欲しがるのは、赤ん坊が面倒を見てもらうの とはわけが違う。俺の中にそうしてほしいという気持ちがある、そ れを表に出すということで。 ﹁⋮⋮む、胸に、触ってみたい⋮⋮﹂ 小さな声だった。急に彼女の態度が変わってもおかしくないと思 った。 魅了されている彼女が、いいえと言うわけがないのに、言ってし まった。心臓はばくばく高鳴って、いたたまれなくて、顔が熱くな るのをどうにもできない。まだ小さい全身に、恥ずかしさと一緒に 血が巡るようだ。 ヒルメルダさんは俺を抱えたままでしゃがみこみ、いったん下に 降ろしてくれる。彼女がどんな顔をしているか、俺は見上げること が怖かったが︱︱その前に、頭を撫でられていた。 ﹁胸に触りたいの? 触るだけでいいのね? あなたなら、まだお っぱいを吸っててもおかしくない歳だけど⋮⋮﹂ ﹁う、うん⋮⋮一回だけ⋮⋮ちょっとでいいんだ﹂ ﹁胸に触りたいなんて⋮⋮坊やは強いのに、まだ甘えたいさかりっ ていうことかしらね。おとなしい顔して、やんちゃなんだから﹂ ﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂ やはり怒られてしまった。いくらスキルが欲しいとはいえ、採乳 356 はなかなか難しくなってくるのかな︱︱と思いきや。 ﹁ふふっ⋮⋮でも、いいわよ。坊やは見込みがあるもの。そんなに 小さいのに、口だけの男とは違うって教えてくれたものね﹂ ﹁ほ、ほんと⋮⋮?﹂ ﹁将来、もう一度会えた時のためにもね⋮⋮印象を、残しておきた いわね﹂ 俺のことを見込んでくれている。それが彼女にとって、採乳を許 可する決め手になったようだ︱︱スキルを育て、戦う力を持ってい てよかった。 革の鎧の留め具を外して、その下の布鎧に包まれた胸が、締め付 けを逃れて弾力豊かに揺れ、まるで大きくなったようにも見える。 広い襟口をひっぱり、白くて深い谷間が見えて、その先の色が変化 した部分が見えそうになったところで、 ﹁お師匠様、魔物の落としたものを集め終わったのであります!﹂ ︵まあ分かってたけどね! 全然残念だなんて思ってないけどね!︶ こんなときの反応の速さは、ヒルメルダさんもモニカ姉ちゃんに 匹敵していた。そろそろと俺に胸を見せてくれようとしていたのに、 ヒュッと音がしそうな勢いで胸をしまい、留め具を戻し、何事もな かったように俺を抱え上げ、笑顔でウェンディのほうを振り返る。 ﹁お疲れ様。こっちはもう少し話したかったけど、そういうわけに もいかないのよね?﹂ ﹁あはは⋮⋮モニカさんがさっきから舌打ちをしているので、待て るとしてもあと1分くらいが限界であります﹂ 357 ﹁そう、それじゃ仕方ないわね。行きましょうか、坊や﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ ウェンディのことも、モニカ姉ちゃんも決して嫌いになったりは しないのだが、ほんの少しだけ拗ねてしまう部分は否めなかった。 そういう時に限ってヒルメルダさんが俺を見る時に楽しそうにする ので、何か弱みを握られた気持ちにもなってしまったりする。 ︵ま、まあ、もう授乳なんて必要ないしな。それでスキルを取れな くなっても、今あるスキルで十分だし、別の方法でも新しいスキル は取れるし。残念だなんて思ってないぞ︶ ﹁あ⋮⋮お、お師匠様? もしかして、お腹がすいちゃってたりす るでありますか⋮⋮?﹂ ﹁あ、う、ううん。なんでもないよ﹂ ﹁そうでありますか⋮⋮? それは残念でありますね。私、お師匠 様がいつお腹をすかせてもいいように、体調を万全に整えて、お野 菜中心の食生活にしているのでありますよ⋮⋮?﹂ ウェンディは採乳に体調が関係すると思っているようだ。自分が 元気なほど、俺がもらうエネルギーも多いと思うのは分からなくも ない。しかし俺が触るのをそこまで待ってくれていると思うと、手 がうずうずしてきてしまう。 ﹁え、えっと⋮⋮またこんど、お願いしていいかな﹂ ﹁本当でありますか? それでは、次は私が泊まっている宿に来て 欲しいのであります﹂ ﹁ふふっ⋮⋮パーティの仲が良くて何よりね。私ももう少し、パー ティメンバーに興味を持ってみようかしら。もちろん、次に組むパ ーティっていうことだけどね﹂ 358 ヒルメルダさんの中では、今のパーティを抜ける意志は固まった ようだ。またどこかで会う時が来たら、その時は彼女も今より成長 して、魔物もしっかり育てているだろう。 ︵お、そうだ⋮⋮ジョゼフィーヌのことを忘れてた。隠れさせてお かないとな︶ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は辺りに伏せた。 こうしておけば、ジョゼフィーヌは召集をかければいつでも俺の ところにやってくる。それ以外でも、他の人が居ない時には寄って きたりするだろう。テイムしたモンスターは好感度が高いので、今 日会ったばかりでも、主人である俺にはかなり懐いている。 しかしウェンディの提案を断ったのは勿体無かったかな⋮⋮と思 ってしまう。彼女に抱っこして運んでもらっていた俺だが、モニカ 姉ちゃんと合流すると、彼女に受け渡された。どうやら俺のパーテ ィ内での定位置は、モニカ姉ちゃんの腕の中ということになってい るようだ。 359 第10.5話 パーティ結成秘話 4︵前書き︶ ※第10.5話の最終パートになります。 かなり長いので、お時間のある時にご覧いただければと思います。 360 第10.5話 パーティ結成秘話 4 ギルドに行き、戦利品のいくつかをコボルトリーダー討伐証明と して提出すると、俺たちと名無しさんたちのパーティは両方ともE ランクになった。 しかし、男二人が途中でクエストを離脱したことがギルドに報告 されており、彼らはFランクのままで留まることになった。つまり 名無しさん、ヒルメルダさんは個人でEランクの資格を得たという ことになる。こうなれば、よほどの理由がない限り、ランク違いの 冒険者が組むメリットは少ないので、解散は必至というところだろ う。 モニカ姉ちゃんが、名無しさんとヒルメルダさんの行く予定の酒 場について聞いてくれたので、店名を覚えておいた。﹃紅のバラ亭﹄ というそうだ。 ウェンディを宿に送り、モニカ姉ちゃんに家まで送ってもらった あと、夕方になってエレナさんが子供二人を連れて家にやってきた。 ﹁ごめんねレミリア、大変だったでしょ。でも、これでお得意さま に顔が立つわ﹂ エレナさんはレミリア母さんの織った布を確かめ、代金を支払う。 金貨二枚、これだけあれば一ヶ月の生活に何ら支障がないという金 額だ。ミゼールには他にも機織り職人はいるが、エレナさんは母さ んの腕を信頼していて、大事な仕事を優先して回してくれていた。 ﹁いつもありがとうございます、エレナさん。お子さんも元気そう で何よりです﹂ 361 ﹁こんにちは、レミリアさん﹂ ﹁こんにちは﹂ エレナさんの息子さんと娘さん⋮⋮会うのは初めてだ。アッシュ とステラという名前は聞いていたが。アッシュの方は母親譲りの黒 髪をしているおとなしそうな少年で、ステラの方は明るい栗色の髪 を綺麗に結ってもらっている。まだ三歳だが、のちの美貌の完成を 予感させるような、品のある容姿をしていた。子供服のスカートの 裾をちょこんとつまんでお辞儀をする姿を見て、母さんが顔を綻ば せる。 ﹁二人とも、あいかわらずしっかりしてるわね。あ、こらヒロト。 あの子ったら、恥ずかしがりでごめんなさいね﹂ ﹁いえ、ぼくもそうでしたから。最初はしかたないと思います。で も、少しずつ仲良くなれたらうれしいです﹂ ﹁わたしは、男の子とは、あんまり⋮⋮﹂ ︵兄のほうはなんという出来た少年だろう。妹の方は、すぐ仲良く なるにはハードルが高そうだ⋮⋮き、緊張してきた⋮⋮︶ 俺は物陰から見ていたが、ずっと隠れているわけにもいかないの で、気合いを入れて出てきた。アッシュはふわっと世のお姉さま方 を魅了しそうな笑顔を見せ、ステラはぷい、とそっぽを向いてしま う。 ﹁この子、男の子と話すのは苦手なのよ。ご近所にディーン君って 子がいるんだけど、ちょっとその子がぶっきらぼうでね。悪い子じ ゃないんだけど﹂ ﹁男の子は、お人形を大事にしないからきらいなの﹂ 362 ディーンというのは、やはり俺より年上だろうか。うーむ、性格 が合わなさそうなイメージが⋮⋮と、先入観を持ってしまうのは悪 いくせだ。話してみれば、意外にいいやつかもしれないしな。 ﹁ねえ、あなたはお人形に乱暴したりしない?﹂ ﹁う、うん⋮⋮しないよ。ひとの大事なものは、大事にしなきゃっ て思う﹂ ﹁ヒロトくんはそんなに小さいのに、すごくしゃべれるんだね。お どろいたなぁ﹂ ﹁アッシュも喋れたけど、ここまでじゃなかったわよね。ステラも 覚えが早いけど﹂ ﹁わたしの方が早いもの。あなたはまだ小さいから、そんなに話さ なくてもいいの。わかった?﹂ ︵おしゃまさんというか、何というか。プライドが高いお嬢様は嫌 いじゃないぜ、とか言ってる場合じゃないな︶ ﹁うん、おれ、ステラお姉ちゃんにいろいろ教えてほしいな﹂ ﹁⋮⋮いや。男の子はおままごとなんてしてくれないもの。外で走 り回ったりとか、そんなのばかり﹂ ﹁ままごと? おれ、ままごとってしたことないや。やってみたい な﹂ ﹁ほんと? ままごともしらないの?﹂ ﹁ステラ、一度教えておあげよ。ここの近所にも、小さい女の子が いるのよねえ。三人で遊べるといいんだけどね﹂ ︵リオナとステラとままごと⋮⋮それはリア充と言えるのだろうか。 というか、俺にままごとが出来るのだろうか︶ まじめに悩んでしまう俺。アッシュはそんな俺を見て何を思った 363 か、近づいてきて手を差し出した。 ﹁ヒロトくん、ぼくと友達になろう。ディーンもぼくの友達だけど、 二人で遊んでるとステラがすねちゃうんだ。でも、ヒロトくんがい たら、二人ずつで遊べるしね﹂ ﹁⋮⋮男の子はきらい。でも、ヒロトはちょっとだけ、他の子とは ちがうかも。まだちいさいし。よしよし﹂ ︵ままごとがしたいです、ステラ先生⋮⋮! とか言ったら、一瞬 で好感度を失いそうだな︶ 子供の心をつかむのは、そこまで難しくないのかもしれないなと 思ったりもする。その計算が伝わってしまったら上手く行かないの だろうから、子どもに対しては子どもとして接する、それを徹底す べきだろう。 しかし⋮⋮二歳年上なだけなのに、ちゃんと﹃お姉さん﹄に感じ るな。大人の女性と接してきてもそう思うのだから、ステラは相当 しっかりしている。 ﹁ねえ、ご本は好き? わたし、字がよめるのよ﹂ ﹁ステラは絵本が好きなのよ。簡単な字なら読めるから⋮⋮﹂ ﹁お母さん、言っちゃだめ! ステラはむずかしいご本もよめるの ! おにいちゃんより読めるんだから!﹂ ﹁そうだよね、ステラはすごいね。ぼくが今読んでる本だって読め るし﹂ アッシュはお兄さんらしく妹をうまくなだめている。俺はどうだ ったかな⋮⋮小さい時は弟が構ってくれってよく言ってたな。男兄 弟だったから、妹っていうのは新鮮で少しうらやましい気もする。 364 陽菜は一人っ子だったから、お兄ちゃんかお姉ちゃんが欲しかった とよく言っていたが︱︱俺の弟は、どう思っていたんだろう。 考えているうちに、ステラが俺の方を見ていた。恥ずかしそうで、 それでも何か言いたそうで、こっちまでそわそわしてくる。 ﹁わたしはヒロトよりとしうえだから、いろいろおしえてあげる。 わかった?﹂ ﹁う、うん。わかった﹂ ﹁よしよし。いい子はなでてあげる。お母さんもよくそうしてくれ るの﹂ ﹁ステラ、お姉さんみたいなことができて嬉しいみたい。レミリア、 少し遊ばせてあげてもいい?﹂ ﹁ええ、もちろん。アッシュ君も一緒に遊んであげてね﹂ ﹁はい、レミリアさん。ヒロト君、よろしくね﹂ ◇◆◇ 最初はアッシュの性格があまりに良すぎて、逆に裏があるんじゃ ないかと思ってしまったりもしたが、結論から言うとアッシュは本 当にいいやつだった。 妹がどんなことを言っても怒らないし、勉強も出来るのに年下の 俺たちのしていることに合わせてくれる。ステラが簡単な絵本を読 むのをニコニコしながら聞いていて、面白いね、ステラはすごいね と笑顔で言うのだ。 ﹁ヒロト君じゃなくて、ヒロトって呼んでもいいかな。ぼくも、ア ッシュって呼んでいいよ﹂ ﹁ううん。アッシュ兄って呼ぶよ﹂ 365 ﹁あはは⋮⋮それはちょっと照れるなぁ。ステラ、ヒロトがアッシ ュ兄って呼んでくれたよ﹂ ﹁⋮⋮わたしは? 私もとしうえだから、お姉ちゃんって呼んでく れなきゃ嫌﹂ ﹁うん、じゃあステラ姉って呼んでいい?﹂ ﹁いいわよ﹂ ステラはお澄ましして答えたけれど、部屋の隅っこに行ってしま う。そして、何か小声で言っているのが聞こえてきた。 ◆ログ◆ ・︽ステラ︾はつぶやいた。﹁ステラ姉⋮⋮えへへ。ヒロト、おと うとみたいでかわいい﹂ ︵なんか照れるな⋮⋮隠れて言ってるつもりなんだろうけど、ログ で見えてしまうしな︶ ﹁おや、ヒロト、顔が赤いみたいだけど⋮⋮大丈夫? レミリアさ んを呼んでこようか?﹂ ﹁う、ううん、大丈夫。ちょっとあついだけだから﹂ ﹁あついの? ヒロト。おみず持ってきてあげる﹂ ステラは俺が何も言わなくても、部屋を出て行ってしまった。ス テラ姉って呼び方が、それだけ嬉しかったんだな⋮⋮。 ﹁ステラはやさしいから、ヒロトもお姉ちゃんみたいに甘えていい よ。きっとその方が、ステラもうれしいと思うんだ﹂ 366 ﹁うん。ありがとう、アッシュ兄﹂ 子供同士で上手くやれるか心配だったけど、この二人なら何も心 配要らなさそうだ。連れてきてくれたエレナさんにも、良くしてく れた二人にも感謝しなければな。 生まれてからずっと気がかりだったことの一つが、これで無くな った。前世では人と話が噛み合うことが奇跡のように感じていたけ ど、交渉術のおかげで、俺は人並みの会話をすることができている。 何を話せばいいか、何が駄目なのかが分かるというのは、本当に心 が休まる。スキル頼みはどうかとも思うが、いたずらに人を遠ざけ たり、嫌われたりするよりはずっといい。 ﹁さっきディーンのことをお母さんが言ってたけど、本当は悪い子 じゃないんだよ。ちょっといろいろあって、今はいらいらしちゃっ てることが多いけど、ぼくも一緒なら遊べると思う﹂ ﹁うん。おれもできるだけ、仲良くするようにするよ﹂ そう言いつつも、難しいんだろうな⋮⋮という予感めいたものは あった。その﹁いろいろあって﹂というのが分からない限り、見え てこないこともあるからだ。 しかしアッシュ兄の手前、致命的に仲が悪くなるようなことは避 けたい。戻ってきたステラ姉に水を飲ませてもらいながら、何とし ても彼らと仲良くやっていこうと思っていた。 ◇◆◇ その日の夜、エレナさんは旦那さんが留守だということで、うち 367 の客室に泊まっていくことになった。夕食の時間は父さんも加わっ て、果実酒を飲みながらの賑やかな食卓となった。 ﹁レミリアがいてくれて本当に助かるわ。他の職人さんに委託もし てるけど、レミリアの布の評判が一番いいのよねえ⋮⋮ミゼールだ けじゃなくて、首都でも人気なのよ。決め打ちで依頼が来るくらい﹂ ﹁そうだったの? それで報酬がだんだん増えてるのね。こんなに 多くていいのかしらと思ってたんだけど﹂ ﹁レミリアが一日働くと、俺の十日分の給料を稼ぐからな⋮⋮まあ 俺は、木を切ることに誇りを持ってるけどな﹂ ﹁本当はヒモになりたいと思ってるんじゃないの? でもダメよ、 あんたはちゃんと働いて、ヒロト坊に立派な父親の背中を見せてあ げなさい﹂ ﹁言われなくても分かってござぁすよ。それにしてもエレナさん、 飲み過ぎじゃないか?﹂ ﹁いいの。おかあさんはお酒を飲んでるときげんが良くて、にこに こしてるから﹂ ﹁こら、ふだんのお母さんのことは言うんじゃありません。この子 ったら父親に似て真面目なのよねぇ、アッシュもだけど﹂ エレナさんは両隣に座っている子供二人の肩に手を置いて笑う。 そんなお母さんに、アッシュもステラもとても良くなついていた。 そしてエレナさんは、俺に時々おっぱいをくれていることを絶対 に俺の両親には言わない。その辺りは彼女も気にしていて、言わな い方がいいと思ってくれているのだろう。 ﹁スーちゃんも飲まない? 今日は泊まり込みなんでしょ﹂ ﹁私はメイドですので、お酒は嗜みません。お気になさらず、皆様 でお楽しみください﹂ 368 ﹁スーは今日でお勤めが終わりなのよ。来週からは、違う人が来て くれることになってるわ﹂ ﹁それなら、なおさら楽しく飲んで欲しいのにね⋮⋮ヒロト坊もそ う思わない?﹂ ﹁う、うん⋮⋮でも、スーさんはあまりお酒は好きじゃないんだっ て﹂ ﹁恐れいります、坊っちゃん﹂ そう︱︱ギルドから派遣されたスーさんは、一定の派遣期間が終 わるとギルドに戻ってしまう。それを聞かされたのは、今日クエス トを終えて帰ってきたあとだった。 ﹁スーが来てくれてる時はすごく助かってたのよ。ヒロトのことも しっかり見てくれてたし﹂ ﹁ああ、日中に仕事してるとなかなかね。レミリア、仕事してる時 は集中力がすごいから﹂ ﹁⋮⋮まあ、そういうところに惚れたというか何というかだな﹂ ﹁リカルド、後でお仕置きね。ちょっと飲み過ぎて、頭のねじがゆ るんじゃってるのよ。困ったお父さんね﹂ ﹁そ、そりゃないだろ⋮⋮って、そうか。エレナさんとこのお子さ んたちもいたんだった。ヒロト、不甲斐ない父さんですまん﹂ ﹁⋮⋮ヒロトのお父さんはお家にいてくれて、うらやましい﹂ ﹁うちのお父さんは、首都とミゼールを一日ずつ行ったりきたりし てるんです。それで⋮⋮﹂ ﹁パドゥール商会を率いる人物だからな、エレナさんの旦那さんは。 今でも陣頭指揮を取っていらっしゃるというのはすごいことだよ。 人は、偉くなると外に出ることをしなくなるものだからな﹂ 父さんが言うと、エレナさんは微笑みつつも、少し寂しそうな顔 をする。しかし俺と目が合うと、彼女の顔から少しだけ寂しさが薄 369 らいだ。 もしかしたら俺を構ってくれてることが、彼女にとっての心の慰 めになっていたりしないか︱︱と思ったりもするが。まだ一歳の俺 に、そんな役割が果たせるわけもなくて。 ﹁ヒロト坊、お父さんとお母さんを大切にしなさい。あたしが言う のもなんだけど、若いのに出来た人たちだから﹂ ﹁そ、そんな⋮⋮エレナさん、そんなに年は変わらないじゃないで すか﹂ レミリア母さんが照れながら言うと、エレナさんは果実酒を口に 運んでから言う。 ﹁ふぅ⋮⋮あんたたちはまだ若いわよ、うらやましくなるくらい。 私にとっての潤いは、日常のちょっとしたことくらいだけど、あん たたちは⋮⋮ねえ?﹂ ﹁い、いやあの、まだヒロトも小さいし、俺たちはその⋮⋮﹂ ﹁あなた、動揺しすぎ。もう、ちょっとカマをかけられたくらいで そんなに動揺しないで。ヒロト、何でもないのよ。アッシュ君たち も⋮⋮まあ、まだ意味はわからないわよね﹂ ﹁なぁに? レミリアお姉さん﹂ ﹁ふふっ⋮⋮まだおばさんって言われないって、少しほっとするわ ね。お母さんになると、問答無用で言われるものだと思っていたか ら﹂ ︵19歳だしな⋮⋮エレナさんも全然、おばさんという感じはしな い。お姉さんだ︶ エレナさんの肌はうっすらと上気して、酔いがほどよく回ってき ている。母さんも珍しく飲んでいるので、白い肌が真っ赤になって 370 きていた。父さんと一緒に飲んでることもあるけど、飲むと母さん は眠りが深くなって、なかなか翌日は目がさめない。 そんなとき、スーさんに朝食を作ってもらったりしたこともあっ た。母さんも息抜きは必要だし、お手伝いさんが来てくれているの は本当に助かる⋮⋮それに、彼女にはとても世話になった。 ﹁奥様、お食事の後のご入浴の順番はどうされますか?﹂ ﹁ええと、そうねえ⋮⋮エレナさんは一家で入った方がいいわよね。 ヒロトはスーに入れてもらう?﹂ ﹁えっ⋮⋮? あ、あの、それって⋮⋮﹂ 今までそんなことは一度もなかったというか、スーさんが泊まり こむのは母さんが仕事で忙しく、朝食の準備が出来ないときくらい だった。その時も彼女は一人で入浴していたし⋮⋮。 ︵い、いいのか⋮⋮そんな。スーさんは俺の毒牙にかからずに終わ るところだったのに︶ 自分で言うのもなんだが、もはや俺は吸乳鬼であり、俺と知り合 った女性はほぼ全員毒牙にかかってきたのである。そうならなかっ た唯一の女性がスーさんだ。ある意味それは、俺のカルマを下げる ことに寄与していると言えなくもない︱︱と思っていたのだが。 ︵⋮⋮風呂だけなら、いいのかな?︶ 前世からすればありえないことなのに、俺はもう赤ん坊から続く 女性のプロポーションとの戦いに慣れきっていた。そう、これは戦 いだ。俺は女体を前にしても心静かに、賢者になることを強いられ ているのだ。一歳児がいやらしい笑みを浮かべようものなら、悪魔 371 の子扱いされてしまう。すでにパメラに言われたけど。 ﹁あたしが入れてあげてもいいけど、ステラが恥ずかしがりそうね﹂ ﹁わ、わたしは⋮⋮は、はずかしい⋮⋮﹂ ﹁おう、そうか。でもお兄ちゃんとは一緒に入るんだよな?﹂ ﹁ぼくは一人で入れますから大丈夫です。三歳から、いつもそうし ていますから﹂ アッシュ セイント どこまで出来てるんだお前は、と突っ込みたくなる。アッシュ・ ザ・セイントという二つ名を与えたいくらいだ。灰色の聖人、なん だかすごそうではないか。 ﹁俺は最後に風呂掃除がてら入るとしよう。湯を沸かしてくるから、 少し待っててくれ﹂ ﹁あなた、お願いね。私はお酒が回ってるから、今日は身体を拭く だけにして明日に入らせてもらうわね﹂ ﹁たまには女同士で入らない? うちの子も一緒だけど。ステラ、 レミリアと一緒ならいいでしょう?﹂ ﹁うん、わかった。レミリアさん、よろしくお願いします﹂ ﹁あら⋮⋮そう言われると、入らないわけにもいかないわね﹂ エレナさんは仕事を頑張ってくれた母さんを労りたいようだ。風 呂の中で大人の女性が仲良くしているというのも、なかなか風情の ある光景なのではないか。 ◇◆◇ アッシュはリカルド父さんの前に入るというので、俺とスーさん、 372 レミリア母さんとエレナさんとステラ、アッシュ、父さんの順番に なった。 脱衣所で、いつもおさげをしているスーさんが、丸い宝珠の飾り を外す。髪にくせはついておらず、さらりとした黒髪のストレート ヘアに変わる。今まで一度も見たことがなかったので、正直見とれ てしまった。 彼女は無表情のままでエプロンを外し、その下に着ている黒いワ ンピースドレスを脱ぎ始める。背中が露わになると、彼女はコルセ ットを身につけていて、それも外してしまう。どうやって着ている のか一見して分からなかったが、紐を緩めて外す瞬間、半分ほどカ バーされていた胸があらわになる。それも全然躊躇しないので、俺 は見ていいのか悪いのか分からず、あさっての方向を向いていた。 ﹁坊っちゃん、恥ずかしがっているんですか?﹂ ﹁あ⋮⋮う、ううん。スーさん、着るのが大変そうな服を着てるな と思って⋮⋮﹂ ﹁毎日着ていると慣れるものです。外すと開放感があって良いです ね﹂ スーさんは布を巻いて胸と腰の部分を隠し、俺の服を脱がせ始め る。素っ裸にされた時はもう好きにしてください、と言いたくなっ たが、彼女は変わらず落ち着いているので、俺も冷静になろうと思 った。 彼女に身体を洗ってもらったあと、ぬるま湯で流してもらう。そ して振り返ると、彼女は珍しく微笑んでいた。 ﹁スーさん、笑ってる⋮⋮どうしたの?﹂ 373 ﹁すみません、坊っちゃん。弟のことを思い出したのです。弟はま だ幼く、私がお風呂に入れてあげることもあったのですが、頭を洗 うのがいやで逃げ回っていました。坊っちゃんより年上なのですが、 甘えん坊が抜けなくて困ったものです﹂ ﹁そうなんだ⋮⋮ねえスーさん、おれも背中を流してもいい?﹂ ﹁そんな⋮⋮坊っちゃんにそんなことをしていただくわけにはまい りません﹂ ﹁今日が最後なら、お礼がしたいんだ。スーさんは、おれのお願い を聞いてくれたし⋮⋮うちのことだって色々やってくれて、お母さ んもすごく助かってるって言ってた。だから⋮⋮﹂ スーさんはしばらく迷っているようだったが、やがて俺に微笑み かけると、胸を覆っているタオルに手をかけた。そして、俺の目の 前で外してしまう。 ふるん、とまろび出てきた乳房は、雪のように白かった。ピンク 色の部分が鮮やかな色彩を持って俺の目に映る︱︱俺を洗っている あいだ、少し肌寒かったのか、その部分は柔らかくはなくなってい るように俺には見えた。 ﹁では⋮⋮お言葉に甘えさせていただきます﹂ ﹁う、うん⋮⋮くすぐったかったら言ってね﹂ 俺はタオルを泡立てると、繊細そうなスーさんの肌を痛くさせな いように、ゆっくり丁寧に彼女の背中を流した。リーチが短くても、 彼女が座っていてくれれば、なんとか全面に手が届く。 風呂の椅子は木の板に足をつけてあるようなものだが、その天板 にお尻を乗せるとどうなるか⋮⋮というのは、母さんの背中を流し たときにすでにこの目で確かめている。むっちりしているものは、 むにゅっと変形するのだ。それを見た時にいつも俺は思う、バスト にばかり目がいきがちだが、他に大切なものがあるんじゃないのか 374 と。 ﹁んっ⋮⋮坊っちゃん、少しくすぐったいです﹂ ﹁あっ、ご、ごめんなさい⋮⋮スーさん、背中は全部洗えたよ﹂ 腰のあたりが弱かったみたいで、普通に洗っただけでもスーさん は敏感に反応する。彼女がそんな反応をすることはまずないと思っ ていたので、かなりドキドキしてしまう。 コルセットをつけているからなのか、彼女の腰のくびれは凄いこ とになっていた。けれどお尻にはしっかりボリュームがあるものだ から、スーパーモデルにでもなれるんじゃないかと思ってしまう。 エターナル・マギアにそんな職業はないのだが。 タオルを渡すと、彼女は胸などを自分で洗い始める。俺は見てい ていいものかどうか分からず、とりあえず天井を見たりして時間を 潰そうとする︱︱すると。 ﹁⋮⋮坊っちゃんに、一つお伝えしておきたいことがあります﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ そう言ってから、しばらくスーさんは続きを言わなかった。彼女 が身体を洗い終えて、今度は俺が桶にお湯を汲んで、彼女の肩から かけて流す。すると、スーさんは俺の方を振り返り、今までにない くらい真摯な瞳で見つめてきた。 ﹁私は⋮⋮本当は、ただのメイドではないのです。ギルドから来た というのは本当ですが﹂ ﹁そ、それって⋮⋮母さんのことを、騙してたってこと⋮⋮じゃな いよね。スーさんはそんな人じゃない﹂ 375 ﹁そう言っていただけると、気持ちが楽になります。しかし、メイ ドとしてお勤めする以外に、この家に来なければならない理由があ ったというのは⋮⋮やはり、奥様に対しても、ヒロト坊っちゃんに 対しても、決して良いことをしているとは言えないでしょう﹂ ﹁⋮⋮おれたちに、悪いことをしようとしてるわけじゃないのなら。 おれは、気にしないよ﹂ 短い間ではあったが、俺もスーさんの働きぶりを見てきて知って いる。彼女が真面目に仕事をして、母さんの信頼を得たことを。 けれど同時に、気になってもいた。彼女は俺の﹁カリスマ﹂を無 効化する装備をしている。名無しさんがつけている仮面のように。 ただのメイドさんが、そんな装備をしているわけもない︱︱と思っ たのだが。 ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽スー︾があなたに注目した。 ︵そうか⋮⋮フィリアネスさんの時と同じ、風呂で装備が外れたか ら⋮⋮!︶ これが最後のチャンスだと思うと、躊躇してはいられなかった。 ずっと分からなかったスーさんのステータスが閲覧可能になってい ることを確認し、表示を選択する︱︱すると。 ◆ステータス◆ 376 名前 スザンヌ・スー・アーデルハイド 人間 女 16歳 レベル38 ジョブ:エージェント ライフ:628/628 マナ :336/336 スキル: ナイフマスタリー 55 格闘 45 軽装備マスタリー 28 執行者 32 恵体 49 魔術素養 26 母性 22 料理 36 メイド 21 アクションスキル: 投げナイフ︵ナイフマスタリー10︶ 牽制攻撃︵ナイフマスタリー30︶ ブレイドストーム︵ナイフマスタリー50︶ パンチ︵格闘10︶ キック︵格闘20︶ 投げる︵格闘30︶ サブミッション︵格闘40︶ スニーキング︵執行者20︶ 暗殺術レベル3︵執行者30︶ 授乳︵母性20︶ 377 簡易料理︵料理10︶ 料理︵料理20︶ パッシブスキル: ナイフ装備︵ナイフマスタリー10︶ 毒ナイフ︵ナイフマスタリー20︶ 睡眠ナイフ︵ナイフマスタリー30︶ 麻痺ナイフ︵ナイフマスタリー40︶ 回避上昇︵格闘術30︶ 軽装備︵軽装備マスタリー10︶ 氷の心︵執行者10︶ 育成︵母性10︶ 料理効果上昇︵料理30︶ マナー︵メイド10︶ ベビーシッター︵メイド20︶ ︵エージェント⋮⋮メイドはうちに潜入するためのフェイクで、そ っちが本業⋮⋮執行者って、これじゃまるで暗殺者じゃないか⋮⋮ !︶ ナイフマスタリー50︱︱これは相当な修練を積まないと取れな い数値だ。ナイフは射程が短く、ダメージも低いので序盤は苦労す るが、ブレイドストームを取得したところで世界が変わると言われ ていた。範囲内の敵にランダムに7回∼12回攻撃するというこの スキルは、範囲をうまく調節すると単体の敵に12回攻撃を叩き込 める可能性のある、ロマンと実用性を兼ね備えた強力なスキルだ。 こういう例があるので、俺は序盤に苦労するスキルほど後半にど んでん返しが待っているものだと思っていた。交渉術にしても、6 0から80までスキルが取れないという苦しみを超えたあと、一気 378 に挽回する形になっている。 スキルを見てつい考察に耽ってしまったが、そんな場合ではない。 こんなスキルを持っている人が俺の家に来た︱︱その目的が、スキ ルから想像出来る行為、暗殺であるとしたら。父さんと母さんが⋮ ⋮! しかし、俺には何か事情があるように思えてならなかった。もし 暗殺が目的なら、何の警戒もさせずに家に入り込んでいた時点で、 彼女は行動を起こしていただろうからだ。それが、今日までメイド としての仕事をして、それを終えてギルドに戻ろうとしている。 ﹁⋮⋮私は、ギルドの監視員なのです。ギルドに登録している冒険 者の法に触れる行為や、ルール違反を監視して罰則を与える役割を しています。それだけではなく、﹃私たち﹄にはもうひとつ重要な 任務があるのです。ここまでは、お分かりになりますか?﹂ ﹁うん。そんなスーさんが、どうしてメイドなんて⋮⋮﹂ 彼女は何も言わずに立ち上がると、腰に巻いていた布を外す。そ の流れが全く読めずに、全裸を前にして頭が真っ白になった俺を抱 き上げると、一緒に湯に浸かる。どうやら俺が風邪を引くと心配し てくれたようだ。 スーさんは俺を後ろから抱きしめるようにしてくれる。肩のとこ ろにちょうど二つのうくらみが当たるが、彼女は全然気にしていな いようだった︱︱母性20でこの大きさは、補正抜きで大きいとい うことになる。 エージェント ﹁メイドは世を忍ぶ仮の姿です。ギルドの監視員は、色々な職業を 経験し、それになりきって任務を果たします﹂ 379 ﹁⋮⋮スーさんは、メイドの演技をしてたっていうこと?﹂ ﹁⋮⋮そのつもりだったのですが。この家では、想定外の事象があ りました。それはあなたです、坊っちゃん﹂ ﹁お、おれ⋮⋮?﹂ 身体を動かすと背中に触れている感触が鮮明になるので、俺は後 ろを振り返ってスーさんの表情を見ることは出来ない。想定外とい うが、その声を聞く限りでは悪い意味には取れなかった。 ﹁今日は坊っちゃんがモニカさんと外に出られたため、私も外に出 る時間を取ることができました。申し訳ありませんが坊っちゃん、 今日あったことの一部始終は見届けさせていただきました﹂ ﹁っ⋮⋮スーさん、ずっと見てたの⋮⋮?﹂ ﹁ええ。あなたが年の離れた女性たちと一緒に森に向かった時は、 あらぬ胸騒ぎを覚えたものですが、それはまったくの杞憂でした。 しかし魔物が出てきたときは、よほど私も戦いに加わるべきかと迷 ったものです。けれど、坊っちゃんは自分たちのパーティを率いる だけでなく、他のパーティまで救ってみせた。何が起きているのか 自分でもわかりませんでしたが、坊っちゃんは斧をお使いになる。 まだ斧に﹃使われている﹄ようにも見えますが、魔物を倒せること に違いはありません﹂ スーさんは淡々と見てきた事実を話している。魔物と戦った俺を 叱るわけでもなく、むしろ感心してくれているようだった。 ﹁私も子供の頃から訓練を積みましたが、初めて魔物を倒したのは 五歳の時です。坊っちゃんはまだ一歳⋮⋮お父様が斧騎士として名 を馳せたリカルド様であることを踏まえても、あまりにも成長が早 過ぎる⋮⋮﹂ ﹁お、おれのことが変だって思ってるんだよね⋮⋮ごめん、でもそ 380 れは、おれが⋮⋮﹂ ﹁坊っちゃんにはなにか秘密がおありになるのでしょう。それほど 心と身体が、早く成長するほどの秘密が。このまま良い方向にその 力を育て、お使いになれば、これから訪れるだろう出来事も、きっ と乗り越えられます。私は、そう信じたいと思いました﹂ 意外な方向に話が向かう。﹃これから訪れるだろう出来事﹄が、 良くないことだろうというのは想像がつく︱︱そして俺は、彼女が 何のためにこの家に来たのかに思い当たった。 おそらく彼女は、父さんが魔剣の護り手であると知っている。フ ィリアネスさんとは別の経路で、父さんの様子を見るために派遣さ れてきたんだろう。 もしくは、もう一つ可能性がある。それを聞くこと自体に問題は ないと思ったので、尋ねることにした。 ﹁スーさんは、おれの父さんのことで家に来たの? それとも、母 さんのほうかな﹂ ﹁両方⋮⋮と言っておきます。ご存知かもしれませんが、奥様はさ る貴族の血筋の方なのです。奥様のご両親に会われたことはないと 思いますが、おふたりとも、奥様をいつも案じていらっしゃいます。 そのことはいつか、奥様に直接お伝えする機会があればと思ってお ります﹂ ﹁いまは、まだ言っちゃだめなんだね⋮⋮﹂ ﹁はい。坊っちゃんは、おじいさまとおばあさまにお会いになりた いですか?﹂ ﹁ううん、お母さんがそうしたいなら会いたい。そうしないなら、 まだ会わなくていいんだと思う﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃんは、やはりお優しい。しかしお母さまにご心配を 381 かけることだけは、もう少し慎まれた方が良いかと存じます。過ぎ たことを申し上げますが、どうかお許しください﹂ 過ぎたことなんて全然思わないし、俺はスーさんと話しているう ちに、彼女を一瞬でも疑ったことを後悔していた。正体がギルドの 監視者でも、そんなことは関係ない。彼女は本気で俺たち家族のこ とを考えてくれている。 俺が無茶をしているのも、本当は止めたいのだろう。しかしそう しないでくれた彼女に対して、俺はさらに無茶なお願いをしなきゃ ならない。 ジェスタとフューゴが、名無しさんも一緒にお酒を飲むと言った ときに見せた顔。それに気付いていて、何もせずに一晩過ごすとい うのは、少々気持ちが落ち着かない。 ﹁あ、あの⋮⋮スーさん﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃん、何かお願いしたいことがあるのですね? お声 のようすでわかるようになりました﹂ ﹁え、えっと⋮⋮ごめんなさい﹂ ﹁いえ、謝ることはないのですよ。坊っちゃん、いかがなさいまし たか。私にご遠慮なく申し付けてくださいませ﹂ エージェントなのに完全にメイドさんになっているスーさん。プ ロ意識がすごいというか、男はえてしてメイドに弱い生き物なので、 俺も心をつかまれてしまう。 ﹁スーさんも見ててくれたなら、知ってると思うんだけど、きょう、 一緒に戦った人たちがいたよね﹂ ﹁はい。そのうち一人は、坊っちゃんを物陰に引き込み、誘惑しよ 382 うとしていましたね。あの時出ていくかどうか非常に迷いましたが、 ウェンディさんが来てくれたので踏みとどまりました﹂ ﹁ご、ごめん、ヒルメルダさんは何も悪いことしてないんだ。最初 は仲良くなれそうになかったけど、本当はいい人なんだよ﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃんはだまされているのです。あのような女は男性を たぶらかすだけがとりえなのです。まだ一歳の坊っちゃんを、あん ないやらしい目で見て⋮⋮許せません。奥様に代わって、やはりお 仕置きを⋮⋮﹂ ﹁わぁっ、そ、それはいいから! スーさん、そうじゃなくて⋮⋮﹂ ヒルメルダさんがよっぽど気に食わなかったらしく、スーさんの 口調に珍しく熱がこもる。俺があわてて振り返ると、彼女はハッと して口を押さえていた。 ﹁⋮⋮申し訳ありません、さしでがましいことを申し上げました。 今となっては、坊っちゃんのご友人と言ってもよい方でしたね。私 は認めたくありませんが⋮⋮﹂ ﹁え、えっと⋮⋮ヒルメルダさんもそうだけど、もう一人の名無し さんが心配なんだ。一緒にパーティを組んでた人たちと、お酒を飲 んでると思うんだけど、あんまりいい人じゃないみたいなんだ﹂ ﹁やはり⋮⋮ジェスタとフューゴですね。彼らの行動はギルドにも 苦情が寄せられていました。女性冒険者で、それなりの実力を持つ 相手に寄生し、あわよくば強引に関係を持とうとする。それが原因 でミゼールを離れざるを得なくなった女性冒険者もいます。今は、 首都で新しいパーティに入って頑張っているようですが﹂ ︵や、やっぱり⋮⋮あいつら、前からそんなことを⋮⋮!︶ 急に心臓が高鳴り始める。﹃強引に﹄という言葉を聞いた途端に、 居ても立ってもいられなくなった。レベルやスキルは弱くても、彼 383 らも男だ。酔わされてしまったら、名無しさんやヒルメルダさんが 危ない⋮⋮! ﹁坊っちゃんには、あまり聞かせたくないお話ですが。年頃の女性 をパーティメンバーに持つということは、彼女たちを守る必要があ るということです。それは坊っちゃんが幼くとも、できるだけ意識 するべきことです﹂ ﹁うん、わかってる。小さくてもパーティなんだから、関係ないよ ね。関係ないって思ってくれる人じゃないと、仲間にはなってもら えないし⋮⋮﹂ ﹁良い仲間を見つけられましたね。ウェンディさんは真面目ですし、 将来は良い戦士になるでしょう。モニカさんはすでに弓使いとして、 ある程度完成されています。これからも彼女を頼りにすると良いと 思います﹂ パーティメンバーを褒めてもらうのは、自分のことのように嬉し い。 しかし今はそれよりも、名無しさんたちのことだ。スーさんもそ れは分かっているようで、俺を抱きかかえて風呂から上がった。 ﹁私も彼女たちのことは気にかかっておりましたし、ジェスタとフ ューゴがこれ以上問題を起こすようなら、処罰を執行する許可も出 ております。彼らは今日、すでに重大なギルド規約違反を犯してい ます。ひとつは、パーティメンバーを残して逃走したこと。そして もし、パーティメンバーに自分の利益のために危害を加えるような ことがある場合は、即日冒険者資格の剥奪処分と、行為に準じた処 罰を行わなくてはなりません﹂ ﹁うん⋮⋮何もないといいんだけど。スーさん、ついてきてくれる ?﹂ 384 スーさんに尋ねると、彼女はふっと笑う。人間らしいと言っては 語弊があるけど、歳相応の少女らしい、自然な笑い方だった。 ﹁坊っちゃんと、夜のお散歩に出かけたいと旦那様と奥様にお願い いたします。問題はございますか?﹂ ﹁ううん、何もないよ。そうと決まったら急ごう、スザンヌさん!﹂ ﹁⋮⋮どこかでお伺いになったのですか? フルネームではなく、 スーとお呼びください。奥様には、スザンヌという名前は申し上げ ておりませんので﹂ ﹁あ⋮⋮ご、ごめん、何か勘違いしてたのかな、あはは⋮⋮﹂ ﹁坊っちゃん⋮⋮あなどれないお方。もう少し近くで、ご成長を見 ていたかったところではありますが。私がジュネガン冒険者ギルド に所属している以上、いずれまたお会いすることになるでしょう。 大きくなられたら、私のことなど覚えていないかもしれませんが﹂ そんなことはない、と俺は思う。彼女が俺の家を離れたら、次に 会えるのはいつか分からないが︱︱会った時は、必ず思い出す。な ぜなら俺は、スキルをもらった人のことも、もらえなかった人のこ とも、決して忘れることはないからだ。 ◇◆◇ スーさんが俺と夜の散歩をしたいと申し出ると、父さんと母さん は最後の思い出作りにと、あまり遠出をしないことを条件に許して くれた。それを守るわけにはいかないのだが、仕方がない。スーさ んは実は父さんより強いから心配ない、と言うわけにもいかないし。 名無しさんたちが飲んでいるという﹃紅のバラ亭﹄は、ミゼール の市場通りから裏路地に入ったところに看板を出していた。しかし 385 その看板が見えたところで、スーさんは俺を抱えたまま、物陰に隠 れて息を潜める。 ﹁やはり⋮⋮ジェスタとフューゴは、罪を犯すつもりですね﹂ ﹁っ⋮⋮お姉ちゃんたちが危ない、スーさんっ⋮⋮!﹂ 紅のバラ亭から出てきたジェスタとフューゴは、それぞれに人を 担いで運んでいた。ジェスタが運んでいるのがヒルメルダさん、フ ューゴは名無しさんをそれぞれ運んでいて、彼女たち二人は意識が ないようだった。酒に強いと言っていた名無しさんが、簡単に潰れ るとは思えない︱︱つまり。 ﹁あの脱力のしかたは⋮⋮坊っちゃん、彼女たちは薬を飲まされた ようです﹂ ﹁⋮⋮スーさん、絶対に見失っちゃだめだ。気づかれないように追 いかけよう﹂ ﹁ええ⋮⋮参りましょうか。坊っちゃん、あなたの正義感に、私は 深い敬意を表します。そしてあの男性二人に対しては⋮⋮﹂ スーさんははっきり口にしなかったが、氷のように視線の温度が 下がっている。 もし俺が居なかったら、彼女は男たちを殺してしまうんじゃない かと思う。それくらい、今彼らがしている行為は彼女にとって許し がたいことのようだった。 ﹁スーさんはそんなことしちゃだめだよ。ああいう奴らには、それ なりのおしおきがあると思うんだ﹂ ﹁⋮⋮申し訳ありません、坊っちゃんの前で⋮⋮絶対に、お見せし たくはなかったのに﹂ ﹁ちょっと怖かったけど、それだけ怒れるスーさんのこと、おれは 386 好きだよ。おれも怒ってるから﹂ あっさりと言ったつもりだが、スーさんは俺を見て目を見開いて いた。 暗闇に近い裏路地。淡い月明かりが照らす中で、彼女の頬が少し 赤くなっているのが分かる。 ﹁⋮⋮私には身に余るお言葉です。だからこそ、大事にしまってお きましょう。行きますよ、坊っちゃん﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹁スニーキング﹂を発動した! ・︽スー︾とあなたの気配が消えた。 ︵同行者の気配も消せるスキル⋮⋮忍び足の上位互換じゃないか。 これは便利だな︶ スーさんのスキルのおかげで、俺たちは誰にも気付かれず、ジェ スタとフューゴが向かった宿に入り込むことができた。 宿の主人に気づかれないように、ジェスタとフューゴの部屋のあ る二階に向かう。スーさんはドアから入らず、窓から外に出て壁伝 いに屋根にするすると登り、屋根にある窓を音もなく開けて、中を 覗きこんだ︱︱すると。 ﹁死んだみてえに寝てるな⋮⋮こりゃ、朝まで目が覚めねえな﹂ ﹁そうじゃなきゃ困るだろ。途中で目でも覚まされたら、ギルドに 387 駆け込まれて面倒なことになるしな﹂ ﹁その時はミゼールを離れりゃいいだけだろ。いざとなりゃ、隣の 国に移ったっていいしな﹂ ﹁別の国の女ってのもいいよなぁ。せっかく冒険者になったんだ、 やれることはやって楽しまねえとな﹂ ふたつのベッドに、それぞれヒルメルダさんと名無しさんが寝か されている。男たちはそれぞれ服を脱ぎ始めて、まさに女性ふたり の服を脱がせにかかろうとするところだった。 ︵⋮⋮ここまで下衆だと、殺されても文句は言えないんじゃないか と思えてくるな︶ ﹁やはりここで殺した方がいいかと思いますが、坊っちゃんに血を 見せるのは、教育上よくありませんね﹂ ﹁え、えっと⋮⋮殺すの殺さないのっていってるだけで、けっこう 良くないんじゃないかな﹂ ﹁も、申し訳ありません。しかし、事態は一刻を争います。彼らが 女性たちの身体に触れたら、その時は行動を開始します。方針はな にかおありになりますか?﹂ 殺伐とした会話をしながらも落ち着いているのは、スーさんの実 力ゆえだろう。彼女なら目を閉じ、手を縛られた状態でもキックだ けで男二人を倒せるどころか、オーバーキルしかねない。 ﹁とりあえず、おれに任せてみてくれないかな。考えがあるんだ﹂ ﹁かしこまりました﹂ 部屋の中では、ヒルメルダさんが革鎧の留め具を剥がされ、布鎧 を短剣で引き裂かれようとしている︱︱が、悪事もそこまでだ。 388 ◆ログ◆ ・あなたは﹁魅了﹂をアクティブにした。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ジェスタ︾︽フューゴ︾は抵抗に成功した。 ︵運良くかわしたか⋮⋮仕方ない。他にも手はある︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽ジョゼフィーヌ︾を呼び寄せた! スライムを呼び出し、部屋に侵入させる。屋根から落下したスラ イムは、今まさに、名無しさんの胸に手を伸ばそうとしたジェスタ の手前に落ちた。 ぼよんっ。 ﹁う、うわぁぁぁぁっ! な、なんだこいつ、どこから出てきたっ !?﹂ ﹁落ち着けジェスタ、騒ぐんじゃねえよ! 外に聞こえたらどうす る!﹂ ﹁︱︱すでに聞こえておりますが。一歩も動かないでください。あ なた方の全ての動きを、これより敵対行動とみなします﹂ ﹁なっ⋮⋮!?﹂ 389 スライムに気を取られてジェスタが悲鳴を上げる直後、部屋の窓 からスーさんが音もなく入って、両手にナイフを持って男たちに刃 を突きつけていた。まさかスカートの中にナイフを忍ばせていたと は、俺も予想していなかった。 ﹁お、俺たちはこいつらに頼まれて宿に運んだだけだぜ? これか ら何をしようが、私的な行動ってやつだろう。他人にとやかく言わ れる筋合いはねえよ﹂ ﹁そ、そうだ⋮⋮俺たちは何もしてねえ。﹃まだ﹄何もしてない俺 たちに、ナイフを突きつける方がおかしかねえか? なあ、姉ちゃ んよ﹂ ﹁ふたりにどんな薬を飲ませたか、お医者さんが見ればすぐわかる よ。おじさんたち、観念しなよ﹂ 天井から声をかけるが、男たち二人は上を向くことすらできない。 ﹁が、ガキだと⋮⋮まさか、あの女とつるんでたガキが⋮⋮!﹂ ﹁︱︱坊っちゃんを卑しい声で呼ぶな、下郎が﹂ ﹁うぐぁぁぁっ⋮⋮!﹂ ︵あ、あれはサブミッション⋮⋮片手ずつで、二人同時に見事に極 めてる。痛そうだが、自業自得だ︶ ナイフを持ったままの手でスーさんはジェスタとフューゴの腕を ひねり、二人を行動不能にする。彼らが倒れてのたうち回っている うちに、俺も天井から飛び降りて、スーさんにキャッチしてもらっ た。 ﹁坊っちゃん、いかがいたしましょうか? 彼らには、念入りな再 教育が必要になるかと存じますが⋮⋮﹂ 390 ﹁ひぃっ⋮⋮わ、悪かった! もう女たちには何もしねえ、この町 からも出て行く!﹂ ﹁頼む、見逃してくれ! 俺には腹を空かせた子供が三人と、故郷 に残してきた年寄りの母親がいるんだ!﹂ ジェスタの発言はともかくとして、フューゴの発言については、 スーさんをいたく不機嫌にさせたようだった。 ﹁フューゴ・ミゲストロ。ジュネガン南部の出身。結婚歴はなし。 冒険者ギルドに登録してから8年、Fランクより昇格せず。家族構 成は父、そして兄。何か反論はありますか?﹂ ﹁ぐっ⋮⋮な、何で俺のことを⋮⋮て、てめえ、じゃねえっ、あな た様は、まさかギルドの⋮⋮!﹂ ﹁そんなことを告げる必要はありません。パーティメンバーの死の 危険を知りながら敵前逃亡した罪、パーティメンバーに眠り薬を盛 って略取した罪。私はいずれもこの目で見て確かめています。あな た方には、これより処罰が執行されます﹂ ﹁お、女一人に何ができるっ⋮⋮うぎゃっ!﹂ ジェスタが逆上してスーさんに掴みかかろうとしたので、スライ ムを足元に設置して足を絡め、転ばせる。 ﹁っけんなぁぁっうぼぁっ!﹂ フューゴもスーさんに挑みかかるが、彼女はその攻撃をかわすと、 手刀で沈める。ボディを攻撃しないのは、彼らが酒を飲んでいるか らだろう。狙う場所によっては、悲惨なことになりかねない。 ﹁坊っちゃん、あとのことはお任せください。彼らは女性を辱めよ うとしましたので、同じだけ辱めを受けてもらいます。それが、私 391 の処罰の方針なのです﹂ ﹁うん。本当にありがとう﹂ ﹁⋮⋮恐れながら、どういたしまして、と言わせていただきます。 坊っちゃんはどうされますか?﹂ ﹁おれは、二人のどちらかが起きるまで待ってようと思う。あとで スーさんと一緒に家に帰るよ﹂ ﹁かしこまりました。それでは、広場の近くにおりますので。坊っ ちゃんを見つけたら、すぐに迎えに上がります。二人が起きたら、 これを飲ませてあげてください﹂ スーさんは俺に水筒を渡し、恭しく頭を下げると、男たち二人の 襟首をむんずとつかんで、荷物でも運ぶかのように軽々と運んでい った。彼らがどうなったかは、あとでスーさんに聞かせてもらうと しよう。 ◇◆◇ 名無しさんたちの目覚めを待っているうちに、俺は座ったままで まどろんでいた。 ◆ログ◆ ・︱︱︱︱︱︱︱︱になった。 ︵ん⋮⋮なんだ⋮⋮?︶ 392 何かログが出たような気がしたか、しばらく意識がはっきりしな くて流れてしまった。 ﹁う⋮⋮ん⋮⋮﹂ そのとき、ちょうど名無しさんが目を覚ました。ベッドの上で身 じろぎをして、起き上がる。俺は水筒から水を注いで、起き上がっ た名無しさんに差し出した。 ﹁ヒロト君⋮⋮なぜ、ここに? というか、小生は⋮⋮痛っ⋮⋮﹂ ﹁ムリしないほうがいいよ。あの男の人たちに、眠り薬を飲まされ ちゃったんだ。でも、大丈夫だよ。頼りになる人が助けてくれたか ら﹂ ﹁⋮⋮君が助けてくれた、と考えるところだけどね。けれど、夜中 に小さな男の子が出歩いていることも、心配ではある。それより何 より、小生はこう言うべきなのだろう⋮⋮ありがとう、と﹂ 少し混乱しているみたいだったけど、名無しさんは口元に微笑み を浮かべて、俺の頭を撫でてくれる。そして水を受け取って、喉を うるおした。 ︱︱けれど次の瞬間、仮面の下で、名無しさんが涙をこぼす。そ れはまだ赤みを残した頬を伝って、ぽたぽたと彼女の膝の上に落ち た。 ﹁ほ、本当に大丈夫だよ。おれ、二人が酒場から出てくるところか らついてきたから。名無しさんは、何もされてないよ﹂ ﹁⋮⋮いや。そのことを心配したわけじゃない。自分は何をしてい るのかと思ってしまってね⋮⋮ヒロト君は、そんなことを言われて も困ってしまうだろうけれど。仕方ない大人で、すまない﹂ 393 ﹁ううん。大人だって、泣きたいって思うことはあるよ。うちの父 さんと母さんは、泣かないけどね⋮⋮わっ⋮⋮﹂ 一瞬、冗談を言って怒られたのかと思った。けれど違っていた。 名無しさんは床に膝をついて、俺を抱きしめていた。その肩が震 えていて、胸が締め付けられる。 ﹁小生は、自分が女として見られることはないと思っていたんだよ。 男に対して興味もないし、襲われるだなんて想像してもいなかった。 そうすることで、小生は自分を保とうとしていたんだ﹂ ﹁⋮⋮名無しさんは、何かつらいことがあったの?﹂ ﹁⋮⋮なぜだろう。誰にも言うつもりがなかったのに、ヒロト君に は⋮⋮君がまだ、小さいからだろうか。そう言い訳をさせてもらっ ても、いいんだろうか﹂ ﹁いいよ。おれで良かったら、どんなことでも聞くから﹂ しばらく抱きしめられているうちに、背中をぽんぽんと撫でられ る。いつの間にか俺の方があやされてるみたいになって照れてしま った。 名無しさんは身体を起こすと、乱れてしまっていた髪を整える。 するといつもの彼女に近い姿に戻るが、涙のあとが頬に残ったまま だった。それを苦笑しながら拭うと、彼女は俺を抱え上げてベッド に座り、膝の上に乗せてくれた。 ﹁つらいことといえば、そうかもしれない。小生は、約束をしてい たんだよ﹂ ﹁⋮⋮約束?﹂ ﹁友人との約束さ。けれど、それはどうやら果たせなくなってしま ったみたいでね。それでも、あきらめきれなかった。小生はそのた めに、こうして冒険者をしているんだ﹂ 394 ﹁そうだったんだ⋮⋮その友達は、名無しさんの大事な人だったの ?﹂ ﹁大事だといえばそうだね。けれど、君のお父さんとお母さんのよ うに惹かれ合っていたわけじゃない。そんな関係にはなりえなかっ たけれど、彼のことを尊敬していたんだ。とても遠くて、会うこと なんて出来ない存在だったけれど、小生にとっては大事な友人だっ た。彼がそう思っていたかは、今となっては分からないが﹂ 彼女の話はあいまいなところがあって、うまく掴みきれないけれ ど、その約束がとても大事なものなのだということは十分に伝わっ てきた。 俺にも果たせなくなった約束がある。前世で、ギルドの仲間と共 に、世界が終わるまで一緒にいようと誓った。アカウントハックは、 俺にそれを望む権利すらも奪っていった。ずっとみんなを引っ張っ ていた俺には、自分が引っ張られる立場になることが耐えられなか った︱︱それを狭量と言われても否定は出来ないが、当時の俺には、 人を殺す理不尽が世間に溢れすぎているように思えてならなかった。 ﹁性格が合わなくても、仮面をつけた小生を迎えてくれるパーティ は、ジェスタたちだけだった。一人で進めることも考えたけれど、 いずれは行き詰まるような気がしてね。彼らに女として見られてい るのも分かっていたけど⋮⋮小生がそうしなければ、何も起こらな いと思っていた。結果は、見ての通りさ﹂ ﹁⋮⋮それで、名無しさんは泣いたの? 仲間が、ひどいことをし たから﹂ ﹁そうじゃない。こうなって初めて、小生は自分のことが大事だと 思った。それが遅すぎると思って、自分のふがいなさに泣いたんだ。 ヒロト君には、やっぱり少し難しいだろうか⋮⋮﹂ ﹁そんなことないよ。それなら、これから自分を大切にすればいい 395 んだよ。おれも、名無しさんが大事だから、そうしてくれるとうれ しいよ﹂ ジェスタとフューゴと一緒に酒を飲むことが危険だとわかってい ながら、名無しさんは義理立てを優先した。けれど本当は、女性と して身を守ることを再優先すべきだったと、今は気がついたという ことだろう。薬さえ飲まされていなければ、彼らより強い名無しさ んは身を守ることが出来たはずだし、名無しさんが無茶をしたとば かり責めることはできない。まして、ヒルメルダさんもいたのだか ら。 仲間に薬を盛るなんてことはありえない、そう名無しさんとヒル メルダさんは信じた。しかしあの二人は、その信頼を最悪の形で裏 切ったのだ。スーさんのお仕置きは苛烈になりそうだが、そこは甘 んじて受けてもらいたい。 ﹁⋮⋮大事だという言葉を、小生のような変わり者にもかけてくれ る。ヒロト君が慕われている理由がわかるよ。小生も、羨ましいと 思っていた⋮⋮けれど子どもと冒険をする彼女たちに、反感に近い 気持ちもあった。それも、うらやましいと思っていたからなのかも しれない﹂ ﹁う、うらやましいって⋮⋮どうして?﹂ ﹁女性は男性に守ってもらいたくなるものみたいだね。小生も、今 気づいたことだけど⋮⋮起きてそばにヒロト君がいたとき、とても 安心したんだ。君はこんなに小さいのにね⋮⋮﹂ 後ろから包み込むように抱きしめられる。胸の鼓動が背中にとく とくと伝わってきて、それが少しずつ落ち着いていく。俺が安らぎ になるなら、ずっと抱きしめてもらっていて構わないと思った。そ れくらい、俺は彼女たちを助けられたことに安堵していた。 396 ﹁⋮⋮どうやって、抜けだしてきたのか分からないけれど。早く帰 らないと、お母さんを心配させてしまうね﹂ ﹁うん⋮⋮そうだね。名無しさんは、自分の宿に戻るの?﹂ ﹁そうしなくてはね。けれどその前に、伝えておきたいことがある んだ。小生を、ヒロト君たちのパーティに入れてもらえないか? 小生に出来る限りのことをして、役に立つように心がけるつもりだ。 だから⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽名無し︾があなたのパーティに参加申請を出しています。許可 しますか? YES/NO 法術士の彼女が加わってくれればとても助かる。けれどそれ以上 に、俺は彼女の人となりを気に入っていた。 ﹁おれの方こそ、お願いしようと思ってたんだ。よろしく、名無し のお姉ちゃん﹂ ﹁⋮⋮すまない、名乗ることができなくて。冒険を続ければ、いず れこの仮面を外せる日も来るかもしれない。そのときは、すべてを 話すことができると思う﹂ ﹁うん。おれのパーティに一回入ると、なかなか出してあげられな いよ。それは覚悟しておいてね﹂ ﹁ふふっ⋮⋮それは恐ろしい。役に立たない術士と言われないよう に、精進しなければね﹂ 名無しさんは久しぶりに笑うと、しばらく黙って、俺を後ろから 抱きしめ、頭を撫でてくれていた。 397 心地良いけれど、母さんやサラサさんのような、そばに居て眠た くなる感じとは違う。フィリアネスさんのように胸が少し高鳴るけ れど、それとも違う。 名無しさんに対しては、俺は他の誰とも違う安らぎを感じた。出 会ったばかりの彼女に対して、どうしてそう思うのか、自分でも不 思議だった。 ﹁⋮⋮ヒロト君は、フルネームは何と言うのかな。そういえば、聞 いていなかったね﹂ ﹁おれは、ヒロト・ジークリッドっていうんだ﹂ ﹁ジーク⋮⋮リッド⋮⋮﹂ 名無しさんはその音を確かめるように繰り返す。頭を撫でる手の 動きも止まって、何かを考えているみたいだった。 ﹁⋮⋮いい名前だ。勇敢なヒロト君によく似合う、勇気を感じる響 きだ﹂ ﹁そ、そうかな⋮⋮父さんや母さんも照れると思うよ、そんなにほ めてもらったら﹂ ﹁そうか、父君と母君もジークリッドなのか。なるほど⋮⋮それは 興味深いね⋮⋮﹂ その言葉に込められた感情は複雑で、嬉しいようで、それとも違 うようで、俺には判別できなかった。 彼女は何も言わず、俺を持ち上げてベッドに座らせる。そして身 を乗り出し、俺の頬に触れてきた。 ﹁っ⋮⋮な、名無しさん⋮⋮?﹂ ﹁私は君に、女である自分を守ってもらった。それならば、女とし て君に何かお礼をするべきだと思っている。変だと思うかもしれな 398 いが⋮⋮そうしたい、と今話していて思った。急だと思うかもしれ ないが、君はそれだけのことを私にしたんだ。そういうことだと思 って欲しい﹂ ﹁お、おれは、そこまで言ってもらうようなことは⋮⋮何も⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮本当は、小生は理由が欲しかったのかもしれない。君にこれ だけのことをしてあげようと思う理由を⋮⋮んっ⋮⋮﹂ ︵な、なんだかおかしいぞ⋮⋮これって、まるで魅了状態のときみ たいな⋮⋮あっ!?︶ さっき起きる前に、何かログが出た気がした。あれって、状態変 化のログだったんじゃ⋮⋮そうだ、ジェスタとフューゴを無力化出 来るかと思って、魅了をオンにしたままだった⋮⋮! 気が付くと名無しさんは、ブレザータイプの服のボタンを外して 前を開けていた。その下にはキャミソールのような肌着を身につけ ている。母さんも持っているが、この類のアイテムはかなり貴重だ。 唇にルージュを引いてる件といい、名無しさんは女性らしい気遣 いをしている。女として見られると思ってない、なんていうのは本 心じゃない。 ︵何か理由があって、強がってたのか⋮⋮い、いや、そんなことを 考えてる場合じゃ⋮⋮っ、うわっ⋮⋮!︶ その境界を超えるのは、とても難しいことのはずなのに。おそら く魅了状態にある彼女には、そんなことはまるで関係がない。 肌着の裾を摘んでそろそろとめくり上げると、その下にある、ウ ェンディより大きくて、釣り鐘みたいな形をした、ワガママな姿を した丘陵が姿をあらわした。 その仮面をつけて肌をさらしている姿がやたらと扇情的に感じる 399 ︱︱彼女は他の全てを脱いでも仮面だけはつけたままなのだろうけ れど、その姿はどんだけフェチズムに満ち溢れているのだ、と驚嘆 せざるを得ない。変わった口調や、体型を隠す服装でカムフラージ ュしているが、名無しさんはとても女性らしい人だった。 名無しさんは一度俺の目に見せたあとで、あらためて手で胸を隠 す。ふにゅっ、と隠し切れない部分がはみだすさまを見て、俺の理 性は一瞬飛んでしまった。 ︵なんてことだ⋮⋮パーティに三種類の美乳が揃ってしまった。こ れぞまさに三種の神器⋮⋮!︶ そんな理由でパーティメンバーを選んでいたわけではないのに、 くやしい⋮⋮むしろ嬉しい。いや、そうじゃなくて。おっぱいは全 てじゃなくてほとんどだけど、そうじゃないんだ。違うんだ。 しかし魅了をオフにしておけばこうはなっていないわけで。計算 通りと言われても否定出来ない。俺は携帯ゲーム機をスリープ状態 にして放置するタイプだったが、それと同じじゃないだろうか。こ まめに電源をオフして、エコロジーに生きるべきだった。まるで進 歩していない。 しかしカリスマがかかっていないので、一歳の俺は歳相応に見ら れるはずなのに⋮⋮な、なぜ女性の武器というか、身体で俺にお礼 をしてくれようとしているのだろう。今の会話でそう思ったと言わ れたけど、どこにその要素があったのか見当もつかない。俺のデー タテニスは完璧なはずなのに。いや、テニスは関係ない。 ﹁ヒルメルダもいるけれど、彼女はすでにヒロト君にぞっこんだっ たからね⋮⋮森で何があったのか聞いたけれど、そうしたら教えて くれたよ﹂ 400 ﹁そ、それは、その⋮⋮お、おれ、お腹がすいてて⋮⋮ってことじ ゃだめかな?﹂ ﹁だめじゃないさ。一度は試してみたかったということもある⋮⋮ いや、それは言わない約束だね。ヒルメルダに先にされるのは、少 し引っかかるところがある⋮⋮ということにしておこうか﹂ ◆ダイアログ◆ ・︽名無し︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YE S/NO こ、こんなことしに来たんじゃないのに。パーティに入ったら採 乳させてもらおうなんて思ってたわけじゃない。 じゃあNOを選べばいいじゃない、と天使の俺が言う。 どうせこれからもチャンスがあったらお願いしたいんだろ? Y ES一択だと悪魔の俺が言う。 法術スキル10になるまで採乳させてもらわないと、自分でスキ ルを使ってレベルを上げることが出来ない。しかし彼女から教えて もらうことは可能なのである。絶対採乳しないといけないわけじゃ ない。 ︵あ⋮⋮ダイアログが消えた。貴重なチャンスが⋮⋮!︶ 迷っているうちに選択ダイアログの表示時間が切れてしまった。 名無しさんは胸を手で隠したまま、少し切なそうな顔をしている⋮ ⋮これだと、俺がおあずけをしたみたいになっているような⋮⋮。 ﹁⋮⋮ヒルメルダが先の方がいいということかい? 小生は⋮⋮い 401 や。私には、そういう方向の関心は持てないということかな﹂ ﹁そ、そうじゃなくて、あのっ⋮⋮お、おっぱいは、大事なものだ から⋮⋮!﹂ 俺は一度断りましたよ、という体にするのか、考えたなと悪魔の 俺が言う。 おっぱいは大事にしなきゃね、敬うべきものだねと天使の俺が言 う。 ここに天使と悪魔の意見が、間接的ながらも一致してしまった。 天使と悪魔が一体化し、最強に見える。欲望に正直になったともい う。 ︵ずっと小生って言ってた名無しさんが、恥ずかしそうに﹃私﹄っ て言ってるんだぞ⋮⋮ここまでされて、何もせずにおくのか? そ っちの方が残酷じゃないか⋮⋮彼女が魅了状態なんてことは、この 際度外視するべきだ︶ 自分を納得させるのは簡単である。なぜなら自分だからである。 本当はどう思っているのかなんて、俺が一番良くわかっている。新 しいおっぱい、もといバストを目の前にしたとき、考えることはひ とつだ。どんな形でもいい、指先だけでもいいので触れて、彼女の スキルエネルギーの恩恵に預かるべきだ。 彼女がヒルメルダに対抗して採乳させてくれようというのは、何 か女心につけこんでいる気もしなくもない。いや、前世なら異性の 心を射止めるために採乳するという選択はまず出てこないのだが︱ ︱異世界は業が深い。 ﹁⋮⋮やはり﹃私﹄と言うと恥ずかしくて、死にたいくらいだ。し かし小生というと、それは女らしくない。今さら女らしくしたとこ 402 ろで、ヒロト君の心を動かせるわけでもないのに⋮⋮すまない。浅 はかだった﹂ ︵み、魅了されてなお、胸をしまう⋮⋮だと⋮⋮!?︶ 初めての経験だった。差し出されたものが下げられようとしてい るのだ。俺は別に﹁この胸を出したのは誰だぁっ!﹂と言ったわけ でもなんでもないのに。むしろ、これから触らせてもらいたいと思 っていたのに。 頭の中がおかしくなりそうだ。モニカ姉ちゃんに寸止めを食らい、 ヒルメルダさんの魔物使いスキルをもらうこともできず、そして今 なお、魅了にかかった名無しさんが、俺の気持ちを勘違いして胸を しまおうとしている。 ︵一歳だろうがもう関係ない⋮⋮俺は俺にできることをする⋮⋮ベ ストを尽くす!︶ ﹁な、名無しのお姉ちゃんっ⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト君⋮⋮?﹂ 俺が取った行動︱︱それは土下座だった。ベッドの上で小さな身 体を折り曲げ、シーツの上に額をつけての、美しいまでの土下座で ある。DOGEZA、それはまごころを伝えるためのストロングス タイル︱︱俺は謝罪したいのではない、ただ伝えたいのだ。 ﹁⋮⋮お、おれ、お姉ちゃんの、お、お⋮⋮おっぱいにさわりたい ⋮⋮!﹂ もはや交渉でも何でもない、泣き落としである。俺はもう耐えら 403 れない。これ以上寸止めされたら気が狂ってしまう。 赤ん坊のとき、いかに恵まれていたのか。ウェンディがいつでも 触れさせてくれる、それはとてもありがたいことだが、それとこれ スキル とは話が別なのだ。ハーレム願望とかそういうことじゃない、少し でも多くのおっぱいに触れたい。きっと誰もがそう思っていて、幼 い頃に抱いた夢を忘れて大人になってしまう。それってとてもさび しいことだと思う。色々頑張ったのに小学生並みの感想になってし まった。 ﹁⋮⋮ヒルメルダより、私の胸に触りたいのかい?﹂ ﹁う、うん⋮⋮触りたい。見せてもらって、すごくきれいだと思っ てた﹂ ﹁そうか⋮⋮まだ幼い君を相手に、こんなことを思うのも何だけれ ど。こんなに嬉しいと思ったのは、生まれて初めてかもしれない﹂ しまわれかけた乳房が帰ってくる。桜の季節が舞い戻り、俺の心 に花吹雪が吹き荒れる。どんだけ喜んでいるんだと思うが、嬉しい ものは嬉しいのだからしょうがない。 ベッドに座った俺の前に、名無しさんが触りやすいように胸を差 し出してくれる。恥じらいながらも見せてくれているその姿には、 俺の胸を打つものがあった。 ﹁⋮⋮初めは、そっと触るんだよ。そう、そっと⋮⋮﹂ 震える手が、輝きを放ち始める。真っ暗な部屋の中で、俺の手の ひらが放つ光に照らしだされた名無しさんの胸に、俺は壊れ物を扱 うように優しく触れた。 ◆ログ◆ 404 ・あなたは︽名無し︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁法術士﹂スキルが獲得できそうな気がした。 ︵名無しさんのエネルギーが、俺の中に⋮⋮何だろう。この、懐か しい感じは⋮⋮︶ ビリビリと手のひらがしびれるような感覚。それすらも心地よく て、俺は名無しさんの胸に触ったまま、なかなか手を離せなかった。 すると白いしずくが溢れてきて、胸の丘陵を滴り落ちる。それを 手のひらで受けて舐めると、乾いていた喉が潤されて、もっと飲み たいと思ってしまう。 ﹁⋮⋮ヒロト君は不思議な力を持っているね。選ばれし者⋮⋮やは り、君は私が思っていた通り⋮⋮﹂ 名無しさんは夢見るように言いながら、再び俺の手を取る。そし て、乳房の下側にふにゅ、ともう一度触らせてくれた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽名無し︾から﹁採乳﹂した。 ・あなたは﹁法術士﹂スキルを獲得した! 世界の理を秩序立てて 理解し始めた。 ︵よし! ありがとう、名無しさん⋮⋮!︶ ﹁好きなだけ触れていいんだよ⋮⋮夜は、まだ長いからね﹂ 405 まだスキルを上げていい︱︱そう言われて、応じない俺ではなか った。術士である名無しさんのマナは高く、まだ全く枯渇しそうに ない。 ﹁⋮⋮優しく触るんだね。そんなに小さいのに、もう女性の扱いを 分かっている⋮⋮君っていう子は⋮⋮﹂ 名無しさんの声は、響きが凄く心地良い。この声を聞きながら、 いつまでもこうしていたいと思わされる⋮⋮スーさんが待っている から、もう行かなくてはいけないのに。 ﹁⋮⋮まさか、起きたらこんなことになっているなんて。人生って わからないわね﹂ ﹁っ⋮⋮ヒルメルダさん、こ、これは⋮⋮っ﹂ ヒルメルダさんも起きてきて、腕を組んでこちらを見ていた。彼 女は少し頭が痛そうにしていたが、置いてある水筒を見て、何も聞 かずに水を飲み、口元を拭ってこちらにやってくる。 ﹁⋮⋮小生のことを、軽蔑するかな? 一歳の男の子と、こんなこ とをしていていいのかと﹂ ﹁ひとつ勘違いしているかもしれないけど、私はあの男たち二人よ り、あなたの方を信頼してパーティに残ってたのよ。そうじゃなか ったら、今日まで続けてはいなかったわ﹂ ﹁だから⋮⋮見逃してくれるっていうのかい?﹂ ﹁ええ。だって、これから共犯になるんだもの⋮⋮坊やはまだ物足 りないって顔をしてるわよ﹂ シリアスなやりとりのように見えて、そうでもなかった。二人と もふふっと笑い合うと、それで和解してしまう。もしかしなくても、 406 二人の仲は悪くなかったということだろう。 彼女は布鎧をはだけて上半身をあらわにする。名無しさんより一 回り以上大きくて、外向きに垂れてしまいそうなところを、張りで 保っている、何とも言えない艶美さを持つ胸だった。 ﹁⋮⋮坊やは、大きいことはいい方だと思うのかしら? それとも、 名無しくらいの方がお好みかしら﹂ ﹁今のいままで、夢中になってくれていたからね。小生の方だと思 いたいけれど⋮⋮どうかな?﹂ ︵どっちも甲乙つけがたい⋮⋮僅差で名無しさんかな。いや、ヒル メルダさんも⋮⋮︶ 本気で悩んでしまい、答えが出ない。女性の胸に優劣をつけるな んて、俺には考えられないことなのだ︱︱ということにしておこう。 僅差で名無しさんが上、とスカウターは示しているのだが。 ノーン ﹁ねえ名無し、この宿ってあの人たちが借りてた部屋? たぶん私 たち、お酒に何か入れられたのよね。でも、いつも安宿に泊まって たはずなのに、今日は違う宿じゃない﹂ ﹁そうみたいだね。まあ、何のためかは想像がつくけれど⋮⋮残念 だったね、としか彼らには言ってあげられない﹂ ﹁こんなことしたら、冒険者の資格停止か、剥奪になるっていうの にね⋮⋮馬鹿な人たち。私たちに、そこまでする価値があったって いうことでしょうけど。あまり嬉しくはないわね﹂ ヒルメルダさんは苦笑しながら、名無しさんから俺を取り上げ、 ベッドに寝かせて寄り添うように寝そべる。 407 ﹁せっかくいい宿を借りたのに、こんなふうに使われるなんて、思 ってもみなかったんじゃない? ねえ坊や、そう思うでしょう﹂ ﹁ヒロト君には、そういう話は早い⋮⋮と言いたいところだけれど。 大人の話が分かっているのなら、そういった男女の機微も理解でき ているだろうね。まったく、気が抜けない﹂ ﹁あら、女として初めて意識したのが、こんな小さい男の子でいい っていうこと? すごい趣味ね﹂ ﹁あ、あまり言われたくないな。ヒルメルダこそ、何をしようとし ているのかな? 添い寝してそんなふうにだらしない胸を強調して、 ヒロト君を誘惑しているのかい?﹂ ﹁そうなのよね⋮⋮そろそろ、胸を支える肌着を買わないと。知っ てる? 革新的な下着が、他の大陸から輸入されてきたらしいわよ﹂ ︵ま、まさか⋮⋮ブラジャーが他の大陸で発明されたのか⋮⋮!︶ エターナル・マギアにもちろんブラなんて装備はない。水着のビ キニ装備はあったので、ブラがあっても何らおかしくはないのだが。 水着は恥ずかしくないもん、と胸を張ることができても、ブラジャ ーを見せるのは恥ずかしいのだ。何の話をしているのだろう。 ﹁⋮⋮小生もそれは聞いたことがあるけれど、白金貨5枚もすると 聞いている。ヒルメルダは入手する前に、垂れぎみになってしまう んじゃないかな﹂ ﹁まあ、それでもいいんだけど。垂れるとか言わないで、そんな歳 じゃないわよ。ねえ坊や﹂ おっぱいをさらけ出したままの女性二人と、世間話に混ぜられる 俺。前世での子供の頃、母親と一緒に女子更衣室で着替えていたと きのような⋮⋮いや、それとはまた違うか。 408 ﹁ふふっ⋮⋮眠たくなってきちゃった? ぽーっとしてるわね、坊 や﹂ ﹁あ⋮⋮う、ううん。おれ、まだ眠くないよ﹂ ﹁そうよね⋮⋮でも、そろそろお家に帰らなきゃ。その前に一度だ け⋮⋮お昼はあげそびれちゃったしね﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなことをしていたのかい? 小生たちは、コボル トリーダーのドロップ品を集めていたのに⋮⋮ヒルメルダに誘惑さ れてしまったんだね。かわいそうに、ヒロト君﹂ ﹁どうして可哀想なのよ。この子のほうから⋮⋮いえ、それは言わ ないお約束ね﹂ つん、とほっぺたをつつかれる。この人もやっぱり悪い人じゃな いよな⋮⋮ちょっと不真面目なところがあるだけで。まあそんな彼 女に胸を触りたいとせがんだ俺は、まったく人のことは言えない。 ◆ダイアログ◆ ・︽ヒルメルダ︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? YES/NO ・あなたは︽ヒルメルダ︾から﹁採乳﹂した。 ・あなたの﹁恵体﹂スキルが1上昇した! ︵くっ⋮⋮そっちじゃない⋮⋮!︶ 添い寝したままでふくらみを差し出してもらい、触れさせてもら ったというのに、職業固有スキルじゃなくて、種族の固有スキルが 上がってしまった。 409 ﹁坊やの光る手で触られると、気持ちが穏やかになるわね⋮⋮﹂ ﹁小生も驚いたけれどね。ヒロト君には特別な力があって、そうす ることが出来るのかもしれない。仮説にはなるけれど﹂ ﹁採乳﹂の神秘が、ついに他の人にも知られてしまった⋮⋮しか し二人が言いふらしたりもしないだろうし、たぶん問題ないだろう。 今はそれより、俺には抜き差しならない問題がある⋮⋮! ﹁あ、あの⋮⋮ヒルメルダさん⋮⋮﹂ ﹁もう一回さわりたい? ふふっ⋮⋮でも、名無しが見てるからだ めよ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんな⋮⋮﹂ ﹁そんなさみしそうな顔しないの。坊やが私の顔を覚えてたら、ま た会ったときに触ってもいいわ。その時は、立派な男性になってい ると思うしね﹂ ﹁⋮⋮そこまで触りたいと言っているなら、触らせてあげてもいい んじゃないかな? 小生は、そこまでヒロト君を束縛はしないよ﹂ ︵名無しさん⋮⋮ありがとう。俺の気持ちを代弁してくれて⋮⋮で も⋮⋮︶ 採乳は一期一会である。一回でスキルを得られなければ、それが 運命ということもあるのだ。 魅了されてもなお、胸をしまってしまう人たち⋮⋮そういう場合 もあると教えられた。まったく、異世界は奥が深い。いや、異世界 とかは関係ないかもしれないが。 ヒルメルダさんは服を着直してもなお、落ち着かなさそうにして いる。自分で言っておいて、名残惜しそうな顔をするなんて⋮⋮く っ、俺の気持ちをどこまで弄べば気が済むんだ⋮⋮︵逆ギレ︶。 410 ﹁⋮⋮こんな気持ちになるなんてね。坊や、ひとつ勉強になったわ﹂ ﹁っ⋮⋮あ、ありがとう﹂ ﹁そこはお礼を言うところなのかな⋮⋮まあいいけれど。ヒルメル ダに美味しいところを持っていかれてしまったけれど、小生に興味 をなくしたりはしていないかい?﹂ ﹁う、ううん、全然そんなことないよ。名無しさんには、これから もお願いしたいし⋮⋮﹂ ﹁名無しはいいわね、この子と一緒にいられて。この子は見込みが ある子だから、育ててあげなさいな。甲斐甲斐しく尽くしたら、大 人になった後の見返りも大きそうだしね﹂ ﹁小生はそこまで役得づくで動いたりはしないけれどね。これから、 できるだけ一緒に冒険したいと思っているよ﹂ ヒルメルダさんと名無しさんは朗らかに話しつつ、乱れた服を整 える。ようやく視界の肌色が減り、落ち着いて話せる状態になった。 ﹁この子は私がいなくても、他の人たちに支えられて大成していく だろう。私はそのうちの一人になれればいい﹂ ﹁⋮⋮私、なんて。普通に言えるんじゃない。どうして、変な言い 方してたの?﹂ ﹁言ってしまえば、女として自信がなかったからだよ。でも、ヒロ ト君が自信を与えてくれた⋮⋮これからもお願いするなんて、私の 方から言おうとしていたのにね。君は本当に、人の心をつかむのが 上手だ﹂ ﹁そ、そんなことないよ。みんなが、いい人だから⋮⋮おれは、我 がまま言ってるだけだし⋮⋮﹂ そう言ったところで、二人がベッドに座った俺に左右から近づい てくる。何をされるかと思うと⋮⋮。 411 ﹁⋮⋮んっ﹂ ﹁ちゅっ⋮⋮ふふっ。キスマークはさすがにまだ早いわね﹂ ﹁えっ⋮⋮な、なんで⋮⋮?﹂ 二人同時に頬にキスされて、俺は一気に混乱する。けれどそんな 俺を見て、二人は悪戯っぽく微笑むばかりだった。 ﹁さあ⋮⋮なぜだろうね。その答えは、おいおい明らかになると思 うよ﹂ ﹁名無しに同じ、っていうことにしておくわね。また会いましょう、 坊や﹂ 俺は名無しさんに抱っこされて部屋を出て行く。ヒルメルダさん は出て行く前に、﹃貸したお金は返さなくていいわ﹄と書いた紙を ベッドの上に残していった。 ︵どんだけ甲斐性がないんだ、あの男たちは⋮⋮︶ そんな人たちの面倒を見ていた、という形になるんだろうか。本 当に良かった⋮⋮取り返しのつかないことになる前に、色々と解決 できて。 ◇◆◇ 名無しさんは俺を町の広場まで連れて行くと、ヒルメルダさんと 一緒に自分の宿に帰っていった。二人に手を振ってその姿が見えな くなるまで見ていると、振り返ってビクッとしてしまう。そこには、 412 いつの間にかスーさんが立っていたからだ。 ﹁す、スーさん⋮⋮びっくりした。あのふたりは、どうしたの?﹂ ﹁吊るしておきました﹂ ﹁つ、吊るす⋮⋮? どこに、どうやって?﹂ スーさんは両腕を広げる。なるほど、十字架にはり付ける感じで ⋮⋮って。 ﹁ギルドの目の前に、二人を裸にしてはりつけにしておきました。 ﹃私たちはパーティメンバーに危害を加えました。敵前逃亡もしま した﹄と、貼り紙をしておきました﹂ ﹁⋮⋮やりすぎ⋮⋮でもないかな?﹂ ﹁強姦魔は、切断される国もあるのですよ。何がとは言いませんが。 未遂ですので許しました﹂ ﹁スーさん⋮⋮﹂ 1歳の俺にそんな過激な話をしてくれるのは、対等の存在と認め てくれているからだろうか。それにしても、スーさん⋮⋮クールな 顔をして、やるときはやるな。 ﹁お疲れ様、スーさん﹂ ﹁⋮⋮さすがは坊ちゃまです。やりすぎとお叱りを受けることも想 定しておりましたので、安心しました﹂ スーさんは恭しく頭を下げる。前世なら﹃GJ﹄とチャットに打 ち込んでいるくらいの、痛快なことをしてくれたと俺は思う。しか し、引っかかることがひとつ。 ︵魅了して女性の大事なものを吸う俺と、酒を飲ませて貞操を脅か 413 す男たち⋮⋮悪魔なのは俺の方か⋮⋮?︶ ﹁坊っちゃんは⋮⋮その、昼間の続きをされたのでしょうか。あの ヒルメルダという女性は、坊っちゃんに助けられたと知れば、一も 二もなく誘惑するのではないかと案じておりましたが﹂ ﹁え、えっと⋮⋮それは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮主人のおいたは、不問に付すといたしましょう。その言い方 も違いますが、私は坊っちゃんの教育係でもありましたから﹂ ﹃ありました﹄というのは、やはり今日で最後だというのは変わ らないということだ。 スーさんとはもっと話したいことがあった。彼女の強さの理由、 ギルドでの仕事について⋮⋮そして、俺の家に、本当は何をしに来 たのか。 だけど、それより何より、今は伝えたいことがあった。 ﹁ありがとう、スーさん。今まで、楽しかった。スーさんがいなか ったら、おれはまだ家の中にいたと思う﹂ ﹁⋮⋮私はメイド失格です。一歳のあなたを信じて、外に行かせた。 本当はしてはならないことなのに⋮⋮私の胸は、はずんでいたので す。自分は、普通でない存在を目にしている。将来の英雄に出会う ことが出来たのかもしれないと﹂ ﹁え⋮⋮そ、そんなこと考えてたの? おれは、全然そんな⋮⋮﹂ ﹁その才覚は、この世界で何か大きなことを成し遂げるために、神 に与えられたものだと私は思います。あなたに出会うまで、神など はいない、この世界は救いようのないものだとばかり思っていた。 あなたはそんな私に、時として﹃ありえないこと﹄が起こりうるの だと教えてくれた。こうして話していることさえ、そうなのです。 常識に縛られていたら、起こりえない出来事です﹂ 414 スーさんは心から思っていることを言っている。広場を照らす月 明かりの中で、彼女の輝く目を見れば、疑うことなんて出来はしな い。 俺は自分の我がままを通しただけだ。常識外の存在である俺を、 スーさんが好意的に受け止めてくれるとは思っていなかった。いつ もびくびくと怯えて、彼女が手のひらを返しはしないかと疑いさえ もした︱︱その全部が杞憂で、彼女を見誤っていたのだと痛感する。 ﹁私があなたたち家族の元を訪れたこと。家事を勤めたこと⋮⋮そ れがなぜなのか、いつか話す時がくると思います。私はギルドの人 間です⋮⋮坊っちゃんが冒険者を続ければ、いずれまた会う日が来 るでしょう﹂ ﹁⋮⋮うん。ひとつだけ、お願いするよ。危ないことは、しちゃだ めだよ﹂ 俺にもう一度会うと言うのなら。一度死んでしまえば終わりのこ の世界で、彼女が﹃執行者﹄という役割を果たすために、命を落と すようなことがあってはいけない。 ゲームの中ではリスポーン出来るからといって、あっさりと生と 死が繰り返されていた。俺は、この世界もそんな危険を孕んでいる と思っている︱︱エターナル・マギアは、この世界を模して作られ たのだから。 ﹁⋮⋮坊っちゃんにそう命じていただけるなら。私は、どんなこと をしても生き残ります﹂ ﹁ありがとう、スーさん。おれも、絶対死なない。みんなと一緒に、 もう一度スーさんに会うよ﹂ ﹁はい。その時は⋮⋮私もギルドの任を離れ、一人の冒険者になる のも良いかもしれませんね。もし成長したあなたが、私よりも強く 415 なっていたのなら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そのときは⋮⋮スーさん、ちょっといいかな?﹂ ﹁⋮⋮?﹂ スーさんに抱えてもらって、俺は彼女に耳打ちをする。ずっと頭 の中にあって、言えなかったこと。 すると彼女の顔が、ほんのりと赤く染まる。いつも冷静に物事を 見ていた瞳が、ひととき冷静さをなくして、年頃の少女らしさを取 り戻す。 ﹁⋮⋮大きくなったら、意味が変わってしまいます。その時に、ま た改めてお考えくださいませ﹂ ﹁あはは⋮⋮ごめん、変なこと言って。おれのこと、嫌いになった ?﹂ ﹁⋮⋮奔放な方なのだな、と思いはしますが。そういった生き方も、 私はいいのではないかと思います。ヒロト坊っちゃんに限ってのこ とですが﹂ スーさんは少しだけ咎めるニュアンスを含ませて言う。そして、 仕方ない子だ、というように笑った。 ﹁さて⋮⋮坊っちゃん、お家に帰りましょう。今日は、私が添い寝 をしてさしあげますね﹂ ﹁い、いいの? 今まで、そんなこと⋮⋮﹂ 昼寝をする時でも、彼女が寝かしつけてくれるなんてことはなか った。 スーさんは黒髪のおさげを撫でつけると、今までで一番優しい顔 をして笑った。 416 ﹁今日は、そうさせていただきたい気持ちなのです﹂ スーさんは言葉通り、俺の部屋で一緒に眠ってくれた。眠るまで に歌ってくれた歌は、彼女が母親に聞かされた子守唄だと教えてく れた。 成長したときの目標が、ひとつ増えた。立派な冒険者になってス ーさんに再会し、俺の強さを認めてもらう。その時は、今よりもっ と強くなっているだろう彼女に。 ◇◆◇ 明くる日、スーさんは早朝のうちに、荷物を持って俺の家をあと にした。 朝食のあと、父さんを送り出したあとで、スーさんの代わりのメ イドさんがやってきた。彼女はカリスマを防ぐこともなくて、俺は 魅了が発動する前にオフにした。 そばかすのあるキャロルさんというその若いメイドさんも、俺の 面倒をよく見てくれたし、とても働き者だった。レミリア母さんは 彼女に俺を任せることもあったが、俺は出来るだけモニカ姉ちゃん に連れられて外に出るようにして、冒険者としての実績を積むこと にした。キャロルさんはいい人だったが、俺の事情を説明すること は考えなかった。スーさんが特別だったのだと理解していたから。 そして今日も、モニカ姉ちゃんに抱かれてギルドの前に行くと、 ウェンディと名無しさんが待っていた。 417 ﹁お師匠様、モニカさん、おはようございます! 今日はどんな依 頼を受けるでありますか?﹂ ﹁そうねえ、たまには採集依頼なんていいんじゃない? モンスタ ー討伐もいいけど、あまり立て続けだと心がささくれ立っちゃうで しょ﹂ ﹁ささくれてしまっても、ヒロト君に癒してもらえば問題はないの だけどね﹂ ﹁あはは⋮⋮えっと、おれで良かったら、みんなのしてほしいこと はなんでもするよ﹂ 幼児の俺とパーティを組んでくれて、本当に感謝しているから。 けれど彼女たちは、俺の答えを聞いた途端に顔を見合わせたあと、 異口同音に言ってくるのだった。 ﹁お師匠様、あ、あのっ、今日のお仕事が終わったら、私の宿に来 て欲しいのでありますっ!﹂ ﹁ヒロトの家に近いから、あたしの家の方が寄りやすいわよ。レミ リアとは付き合いも長いし、変に疑われたりもしないしね﹂ ﹁小生の取っている宿は路地裏にあるから、目につきにくくていい と思うよ。それにヒロト君は、きっと法術の才能もある。小生が手 とり足とり、本を読み聞かせながら教えてあげよう﹂ 三人に言われて俺はサイズの比較⋮⋮じゃない、スキルの比較を 始める。まだ一番育ってないのは名無しさんだ。発育具合では名無 しさんは二位になるが。だからそうじゃなくて。 ﹁え、えーと⋮⋮じゃあ、今日は名無しさんにお願いしようかな﹂ ﹁ふぁぁっ、そ、それはないのでありますっ⋮⋮どうしてでありま すかっ、味が薄くなったのでありますか!?﹂ 418 ﹁ちょっとウェンディ、こんなところで大声で⋮⋮ねえヒロト、ど うして名無しなの? あたしのこと嫌いになったの? ふーん、そ う。一番つきあいが長いのに、ご近所さんなのに﹂ ﹁⋮⋮こうなると、三人一緒にするという覚悟を決めた方がいいの かな? ヒロト君、どうだろう﹂ ﹁あ、あはは⋮⋮おれ、小さいからよく分かんないや﹂ 究極の問いかけをしてくる名無しさんに、俺は久々に曖昧な言葉 でごまかす。怒られるかと思ったが、三人とも言い争うのをやめて 照れ笑いしていた。小さいから良くわからない、これは当分使える 言い訳かもしれない。 ﹁まあ、冒険に出る前から帰ってきた時の話をするのも変よね。み んな、気を引き締めていくわよ!﹂ ﹁おー、であります! コボルトが出てきたら、めためたにするの であります!﹂ ﹁戦闘は避けたほうがいいと思うけれど、経験は重要だしね。法術 を使う心の準備はしておこう﹂ まだ出来たばかりのパーティなのに、結束の強さはもうベテラン なみだ。 このパーティなら、行きたいところに行ける。俺はゲーム時代の パーティのことを思い出すが、その記憶は、目の前にいる人たちに よって塗り替えられていく⋮⋮。 ︵俺は、この世界で生きてる。みんなと一緒に冒険して、そして⋮ ⋮︶ 世界の謎を解き、守りたいものを守り通し、女神のもとに辿り着 く。 419 スーさんは俺が英雄になるかもしれないと言った。 その通りにしてやろうじゃないか、と思う自分がいる。みんなが 居れば、俺が自分を見失わなければ、決して不可能なんてことはな いんだと心から信じられていた。 420 第10.5話 パーティ結成秘話 4︵後書き︶ ※次回の更新は、第三十三話になります。 週末更新を目標にしたいと思っております。 421 第十一話 二歳のリーダー ︱︱二歳になって、数日が過ぎたころのこと。 家の近くの丘の上、ミゼールの町を見下ろせる原っぱで、俺は寝 転んでいた。食料品店の娘で、読書家のメルオーネさんに代金を払 って代わりに手に入れてもらった精霊魔術の本を読んでいたが、本 を読むと、元のゲームでもそうだったように、読み進めるうちにど うしても眠くなってしまうのだ。 ﹁ん⋮⋮ああ、おまえか﹂ ぷよん、ぷよん。何か水っぽい音がすると思って目を開けてみる と、そこにはスライムがいた。スライムはもちろん敵モンスターだ が、今は﹁テイム﹂を成功させているので、俺の﹁護衛獣﹂になっ ている。 交渉術95で手に入れられるアクションスキル、﹁隷属化﹂。敵 テイム モンスターを弱らせるか、状態異常にしたあとに実行することで、 一定確率で﹁調教﹂が成功する。そうすると俺のパーティに入り、 仲間と同じ扱いにできるのだ。 ︵まあ、戦わせられるほど強くはないけど⋮⋮パーティ人数に制限 があるか、いつか試したいしな︶ エターナル・マギアのパーティ人数上限は百人。これは、GvG の1チームの上限人数でもある。一度パーティを組むと、どれだけ 距離が開こうが、別のパーティに入らない限りはパーティから外れ 422 ない。そのため、俺は赤ん坊の頃も、リカルド父さんが稼いだ経験 値のごく一部を受け取ることができていた。 ﹁ヒロちゃん、ヒロちゃん!﹂ ﹁うわっ⋮⋮な、なんだっ、リオナもいたのか⋮⋮ああびっくりし た﹂ ﹁えへへ。ヒロちゃんがいるところなら、リオナはどこでもついて くの﹂ リオナもきのう二歳になって、誕生会を開いた。ハーフエルフの サラサさんは、長い耳を隠して素性を知られないように暮らしてい るから、事情を理解しているうちの母さん、そして服屋のエレナさ ん母子、狩人のモニカさん、シスターのセーラさんしか誕生会に呼 べる知り合いは居なかった。 異世界では現実とは成長の速度が違うのか、二歳というよりは、 俺の前世の感覚では四、五歳くらいが適当なくらいまで、俺とリオ ナの身体は大きくなっていた。 俺もリオナの誕生日を祝ったけれど⋮⋮悪いくせが出て、まだプ レゼントを渡せてない。考えた末に﹁あれ﹂をあげるのが一番いい と思って、今も持っている。 ﹁ヒロちゃん、りんご食べる?﹂ ﹁い、いらないけど⋮⋮﹂ ﹁そう? おいしいのに﹂ うちから食べ物を持ってきては、リオナは俺にくれようとする。 サラサさんもそれは大目に見ているけど、俺はちょっぴり申し訳な かった。 423 ﹁ヒロちゃん、さっきね、ステラお姉ちゃんとみんなが、もりに向 かって歩いていったよ﹂ まるでクッションか何かの扱いでスライムを抱きしめたり、乗っ かったりしつつリオナが言う。普通ならそんなことをしたら攻撃さ れるが、護衛獣となったスライムはされるがままだ。 しかしあまり変形させるのもなんなので、とりあえず、家の近く に戻しておくことにした。俺のスライムは絶対に人を襲わないし、 呼べばいつでも出てくる。 ﹁森か⋮⋮まあ、おれには関係ないけどな﹂ ﹁うん。リオナもヒロちゃんとあそびたいから、ここにいたい﹂ 俺のことはほっといて、一緒に遊んできたらどうだ⋮⋮なんてこ とは言えない。 リオナはマイナスのパッシブスキル﹁徐々に不幸値が上昇﹂を持 っている。二歳になる頃には不幸スキルが10を超えてしまい、﹁ ハプニング﹂が発動してしまった。 何もしなくても﹁ハプニング﹂が発動してしまうと、悪いことが 起きる。昔マールさんがハプニングのせいで風呂場で転び、13ダ メージを受けていたが、これは子供にとってはかなり大きなダメー ジだ。 結果としてリオナは、あまり家の中にいることが出来ない。しか し、現時点の俺でも、一つだけ﹁不幸﹂スキルを相殺してやれる方 法があった。 424 俺の幸運スキルは30⋮⋮リオナの不幸が30まで上がってしま うまでは、俺と一緒にいれば悪いことは起こらない。もし30を超 えても、俺がボーナスを振れば問題はない。 でも、そんな事情をリオナに説明できるわけもなく。俺はこうし て家の外、それもリオナが行動できる範囲に出向いて、彼女が来て も自然に見えるようにしていた。 ﹁おかあさんも、ヒロちゃんと遊んできなさいって﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ そんなこと言われても、とか、俺に何の関係があるんだ、とか。 前世の俺は、引きこもりから連れだそうとしてくれた陽菜に、い つもそんな言葉ばかりで答えていた。 子供の頃の陽菜にそっくりな顔でリオナが言うから、いつもいた たまれなくなる。 ︱︱でも、そんなことは、もう考えるのはやめにした。 ずっとリオナの方をまともに見なかった俺だが、緊張を飲み込ん で、彼女の顔を見た。 栗色のさらさらとした髪を、両側でおさげにしている。宝石のよ うに輝くつぶらな瞳に、常に浮かべている微笑みは、愛くるしいと しか言いようがない。人間の少女にしか見えないのに、夢魔である リオナは、ただ成長していくだけで魅力が上昇していく。 夢魔のスキル値は、そのまま魅力値として通用する⋮⋮事実上、 リオナの魅力は20を超えている。﹁︻対異性︼魅了﹂の成功率が これ以上上がる前に、対策をしておかないといけなかった。 425 ﹁ヒロちゃん、何のご本をよんでたの? リオナもよみたい!﹂ ﹁これはだめだ。もう少し大きくなったらな﹂ ﹁⋮⋮だめ?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そういう目で見るな。おねだりしてもだめだ﹂ ﹁⋮⋮ふぇぇっ⋮⋮﹂ ︵だ、だから子供は苦手なんだ⋮⋮って、俺も子供だけど⋮⋮︶ すぐ泣きそうになるリオナ。俺はどうしていいかパニックになり そうになるが、こんなとき、一発でリオナが泣き止む方法も、すで に知っていた。 俺はリオナの頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でた。照れくさ さで死にそうになりながら。 ﹁な、泣くなって⋮⋮俺がいじめたとか、リオナの母さんに思われ たくないし﹂ ﹁⋮⋮うん、わかった。ヒロちゃん、ありがと﹂ 俺が泣かせたのに、リオナは律儀にお礼を言う。よく分かってな いんじゃないのか、と苦笑してしまう。 同時に、優しい気持ちになる。前世ではこんなふうに小さい子に 接することが無かったが⋮⋮母さんに話だけ聞いた親戚の子供達を かまうことができていたら、同じ気持ちになったんだろうか。 ﹁⋮⋮そのヒロちゃんっていうのも、やめてほしいんだけどな﹂ ﹁や。ヒロちゃんはヒロちゃんだもん。リオナはヒロちゃんってい うの、好きだもん﹂ ﹁っ⋮⋮な、何言ってんだ、バカ﹂ 426 ﹁バカでいいもん。ヒロちゃんはヒロちゃんだもん﹂ こうなると、リオナは人の話を聞かないのだった。 この異世界だと、3文字の名前を途中で切って愛称にすることは あまりないから、俺のことを﹁ヒロちゃん﹂と呼ぶのはリオナだけ だ。 しかし⋮⋮二歳の幼女に﹁好き﹂とか言われただけで、本気で動 揺してる俺って一体。夢魔だから仕方ないな、ということにしてお くしかない。 ︵呼び方だけは直させたい⋮⋮と思うんだけど。また泣くしな⋮⋮︶ ﹁⋮⋮ま、まあいいや。じゃあとりあえず、これ﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁いいから。手、出して﹂ 俺はぶっきらぼうに、腰につけていたポーチから魔封じのペンダ ントを取り出し、リオナの手に載せた。 ﹁な、何ってわけでもないんだけど⋮⋮えーと⋮⋮﹂ 誕生日プレゼントだ、の一言すら言えない。そんな俺でも、リオ ナに受け取ってもらう方法があった。 ◆ログ◆ ・あなたは︽リオナ︾の﹁普通のリンゴ﹂と、﹁魔封じのペンダン ト﹂を交換してもらうように頼んだ。 427 ﹁⋮⋮なあに?﹂ ﹁そ、そのリンゴ⋮⋮やっぱりくれよ。かわりに、これやるから﹂ ﹁⋮⋮ふぁぁ⋮⋮っ﹂ 意味が分からずにいたリオナの顔が、物凄く幸せそうな笑顔に変 わる。 その笑い方さえ陽菜に似ていると思いつつ、俺はなるべく平静を 装って、リオナにペンダントを渡した。そして、装備しておくよう に﹁依頼﹂する。 これはひとつの賭けでもあった。魅了を防ぐ﹁魔封じのペンダン ト﹂をリオナに身につけさせれば、勝手に魅了が発動することが無 くなるかもしれない。 もし俺が魅了されれば、大変なことになる⋮⋮その時はその時だ。 リオナに頼まれるままに、俺は頭を撫でてしまったり、甘やかした りしてしまうだろう。俺が魅了したみんなが、そうしてくれていた ように。 ︵リオナが無差別にみんなを魅了したら、大変なことになる⋮⋮だ から、頼む⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の﹁魅了﹂が発動! しかし﹁魔封じのペンダント﹂ によって封じ込まれた。 428 ︵よし⋮⋮!︶ これで、リオナが人々を無差別に魅了することはなくなるだろう。 ﹁それ、ずっと付けとけな。おふろ入るときは外してもいいけど⋮ ⋮﹂ ずっとリオナが付けたペンダントを注視していた俺は、顔を上げ てみて⋮⋮そこで、固まった。 ﹁うん、ずっとつけてる。ありがと、ヒロちゃん﹂ ﹁っ⋮⋮ま、まあ⋮⋮り、リンゴが食べたかっただけだし⋮⋮﹂ 俺は照れ隠しにリンゴをかじる。リオナがずっと持っていたリン ゴは、ちょっと温もってしまっていて、味は結構酸っぱかった。品 種改良されてる、日本で流通していたリンゴとは違う。 ﹁ていうか、俺が言ったっていうなよ。それは⋮⋮えと、首輪だか ら。首輪つけてるっていうと、リオナの母さんが怒るからな﹂ ﹁うん、わかった。えへへ⋮⋮﹂ 首輪なんて例えはまずいと分かっていながら、言ってしまった⋮ ⋮まあ、リオナなら内緒にしててくれるからいいか。 リオナは俺の言ったことをちゃんと守る。ヒロちゃんという呼び 方は変えてくれないが。 しかしペンダントを嬉しそうに見ているリオナを見ていると⋮⋮ て、照れるな⋮⋮相手は二歳なのに。 ﹁あ、あー⋮⋮そうだ、ステラ姉と、だれが森に行ったって?﹂ 429 ﹁ステラお姉ちゃんと、アッシュお兄ちゃんと、ディーンくんと、 ミルテちゃんだよ﹂ その面子の名前を聞いて、俺は少し嫌な予感がした。六歳のアッ シュはまだしも、ディーンは四歳なのに俺に対抗してかなり無鉄砲 なことをしてるからだ。この世界の四歳が前世における七、八歳相 当の発育状況とはいえ、子供であることに違いはない。 ﹁⋮⋮何しに行くとか、言ってなかったか?﹂ 思わず素の俺に近い口調で尋ねてしまう。リオナは俺の変化に気 づかず、ぽやぽやとした口調で答えた。 ﹁えっとね、ごぶりんをやっつけるんだって。ディーンくんのお父 さんが、ケガしたから、かたきをとるって﹂ ﹁っ⋮⋮ばかやろう、あいつっ⋮⋮!﹂ リカルド父さんの知り合いでもあるディーンの父親が、森で怪我 をしたのは聞いていた。しかしいくらゴブリンが弱いモンスターで も、異世界の子供の発育が早くても、四歳や六歳の子供が倒せる相 手じゃない︱︱俺を除けば。 ﹁リオナ、ここで待ってろ! おれはステラ姉たちのところに行く っ!﹂ ﹁っ⋮⋮やだ、リオナもいく!﹂ そう言われるのはわかっていた︱︱こんなとき、俺に言えること はひとつだ。 ﹁おまえみたいに足がおそいやつは、後からゆっくり来ればいいん 430 だっ!﹂ ﹁⋮⋮うん、リオナもついてく! あとからゆっくりいく!﹂ リオナはみんなを心配しているが、特にステラ姉のことを慕って いる。二歳年上の彼女は、リオナのことを気にかけてくれて、よく 遊んでくれているからだ。俺もリオナの不幸が発動しないように一 緒にいることで、ステラと話す機会がけっこうあった。 ︱︱そんな彼女だからこそ、ディーンの無茶を止められなかった。 六歳のアッシュが一緒でも、ゴブリンが数匹出れば万事休すだ。 しかし俺が無双して皆を助ければ、ディーンの性格ではさらに対 抗意識を燃やすだろう。 だが、そういった人間関係のバランス取りさえも、俺の交渉術が あれば無理なことじゃない。 ︵待ってろよ⋮⋮みんな。まだ、ゴブリンに手は出すなよっ⋮⋮!︶ ◇◆◇ ディーンの父親が森のどのあたりでゴブリンに襲われたかは、狩 人のモニカさんに聞いた。彼女は森に行く人々のことをよく把握し ているから、とても頼りになる。 そして頼りになるのは、彼女の持つ情報だけじゃない。元からあ る程度戦闘経験のある彼女は、俺の﹁依頼﹂でよくパーティメンバ ーに入ってくれていた。 431 モニカさんの家はターニャさん、フィローネさんの家の近くにあ る。彼女は外に出て出かける準備をしていたので、俺は駆け抜けな がら声をかけた。 ﹁︱︱モニカ姉ちゃんっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽モニカ︾に﹁依頼﹂をした。 ・︽モニカ︾がパーティに加入した! ﹁っ⋮⋮分かった、私も行くっ!﹂ 呼んだだけでモニカさんが全てを察してくれるほど、俺は彼女に 依頼して、何度もパーティに入ってもらっていた。 俺がクエストを受注するには、十五歳以上の保護者が要る︱︱そ れを知った俺は、モニカさんや、他の強い人たちに加入してもらっ ていた。もちろん報酬を分配する条件で。 俺は前衛ができるから、後衛のモニカさんが居れば戦闘は非常に 安定する。元から俺一人でも負けることはないが、俺はまだ、二歳 なりに実力を隠しておく必要があった︱︱レミリア母さんに心配を かけないために。 ﹁何があったの、ヒロトっ!﹂ ﹁ディーンと⋮⋮みんながっ⋮⋮!﹂ 432 ﹁あの子たちか⋮⋮っ、無事でいてよ、お願いだからっ⋮⋮!﹂ モニカさんは少し髪を伸ばし、後ろでひとつに結んでいる。二十 歳になった彼女は、変わらず健康的な小麦色の肌をしている⋮⋮そ して、かなり大人びて女らしくなっていた。ボーイッシュなところ があったのが、今では懐かしいくらいだ。 赤ん坊の頃に知り合った人たちが、今でも良くしてくれている。 それが、俺が恐れていたコミュニケーションの途絶を招くことなく、 俺を周囲に溶け込ませてくれていた。 ◇◆◇ ﹁きゃぁぁぁっ!﹂ 森に入ってすぐのところで、少女の悲鳴が聞こえる。その姿をと らえたとき、俺は目を疑った。 ︵オークッ⋮⋮こんな浅いところに⋮⋮!︶ ﹁ヒロト、私が狙うから、オークを引きつけてっ!﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 普通なら二歳の俺にそんなことを頼むわけもないが、モニカさん は俺の実力を見て、今では町で屈指の前衛として信頼してくれてい る。 アッシュとディーン、ミルテが倒れている。子供の前にオークが 433 突然現れれば、恐怖の判定が入り、気絶する可能性がある⋮⋮まだ 無傷だが、本当にギリギリだった。 しかしステラ姉は、オークに既に捕まっている。オークはステラ 姉の足をつかんで吊り上げる︱︱そして、まるで紙の包みでも破く かのように、片手だけで簡単に服を破り裂いた。 ﹁い、いやぁっ⋮⋮お兄ちゃん、ディーン⋮⋮助けて、ヒロトっ⋮ ⋮!﹂ ︱︱全身の血が沸騰した。バルデス爺にもらった子供用のブロン ズ・アックスを抜き放ち、俺はオークに突進する。 ﹁︱︱うぉぉっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁大切断﹂を放った! ︱︱二歳になる少し前に会得した、リカルド父さんが奥の手とし ていた技。斧を振りかぶり、渾身の気合いと共に横薙ぎに切り裂く、 強力な単体攻撃技だ。 ﹁グガ⋮⋮ガァァッ⋮⋮!﹂ 低い体勢で放った斬撃が、オークの足を捉える︱︱届きさえすれ ば⋮⋮! 434 ◆ログ◆ ・クリティカルヒット! フォレストオークに272のダメージ! ︵あと8ダメージ⋮⋮これならっ⋮⋮!︶ ﹁︱︱ヒロト、伏せてっ! はぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・モニカは﹁狙い撃ち﹂をした! ・オークに35のダメージ! フォレストオークを倒した! 狙いすました一撃がオークの眉間に突き立つ。オークは動きを止 め、額に血を流したところで、光の粒になって砕け散った。 ︵あぶないっ⋮⋮!︶ オークに足をつかまれていたステラを、俺は受け止めようとする。 一歳時より恵体の上がっている俺は、四歳の少女の身体をこともな く抱きとめることができた。ステラは前世における七∼八歳くらい の発育状態だが、五歳相当の俺が抱えると、けっこう超人的な絵面 だ。 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮﹂ 435 ﹁あ、ああ⋮⋮ごめん、俺がもう少し⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮うわぁぁぁぁんっ⋮⋮!﹂ 服を破られ、肌をあらわにしたステラが、俺に抱きついて泣きじ ゃくる。無理もない⋮⋮ゴブリンどころか、一回り以上強敵で、女 性にとって天敵といえるオークに出会ってしまったのだから。 ﹁ひっく⋮⋮ぐすっ⋮⋮﹂ 泣いている年上の女の子に対して、俺は何も言えずにじっとして いるしかない。服屋のエレナさんの娘の彼女は、せっかく良い服を 着ていたのに⋮⋮これじゃ、あまりにかわいそうだ。 憎っくきオークだが、倒してしまえば、アイテム以外に痕跡は残 らない。この世界の魔物は、魔界に通じる﹁巣﹂から送り込まれて くる。魔物は死ぬと、所持アイテムをドロップして消滅する︱︱生 きているうちは血を流すし、生物的な機能を持ってもいるが、死ぬ ときは他の生物と異なり、跡形もなく消えるのだ。 エターナル・マギアのオークはそんなことはなかったが、この世 界のオークは、人間の女性に子供を産ませようとする習性がある。 四歳のステラですら、その対象になるとは⋮⋮もはや子孫を残すた めじゃなく、ただの獣欲にすぎない。 ﹁ん⋮⋮んん⋮⋮﹂ 子どもたちが目覚めようとしている。俺はステラ⋮⋮いや、ステ ラ姉が恥ずかしい思いをしないように、着ていたシャツを脱いで羽 織らせた。俺の服だから小さいが、なんとかステラ姉の身体を覆い 隠す。 436 ﹁モニカさん、ここは頼む。後からリオナも来ると思うから、これ 以上進まないように言ってやってくれ﹂ ﹁うん、分かった。無理しないで、危ないと思ったらすぐ戻ってき て﹂ 二歳の俺を、モニカさんは完全に信頼してくれている。俺は彼女 には、かつてギルドで一緒だった人々に対してそうしていたように 話すことができていた。 ︵危ないと思ったら⋮⋮か⋮⋮︶ 俺はモニカさんの言葉を反芻しながら思う。森の奥に走って行く と、おそらく巣から出てきたのだろう、数体のオークの姿があった。 ﹁グガァァァァッ!﹂ 俺を見つけるなり、襲い掛かってくるオーク。石の棍棒を叩きお ろしてくるが、俺にはその攻撃が止まって見えていた。 ◆ログ◆ ・フォレストオークの攻撃! あなたには効果がなかった。 ブォン、と風を切る棍棒。それを俺はこともなく避ける。 ﹁ガァッ! ガァァッ!﹂ ﹁グガァァッ!﹂ 437 がむしゃらに攻撃してくるオークたち。その攻撃は全て、俺の身 体には届かない︱︱届かせることなど不可能だからだ。 オークの攻撃で受けるダメージは40。しかし俺の恵体は40を 超え、防具の補正を入れると40ダメージなどは完全にカットされ る。 そうすると、どうなるか︱︱俺は無傷だ。無傷ということは、攻 撃が当たらないということだ。 三匹のオークの攻撃を避けるのにも飽きてきた。俺が斧を構える と、オークたちの動きが止まる︱︱そうだ。 魔物の習性として、自分よりレベルが高い相手には威圧される。 2メートルの巨躯を持つ彼らが、五歳児相当︱︱1メートルと少し くらいの俺に対して、強者への畏怖を感じているのだ。 ﹁お前らには、テイムする価値もない⋮⋮最後の一匹までかかって 来いよ⋮⋮!﹂ ﹁︱︱ガァァァァッ!﹂ ◇◆◇ これ以上被害者が出ないよう、俺は目に映る全てのオークを掃討 した。それだけではなく、ゴブリンの群れを見つけて倒す︱︱ディ ーンが森に来た目的を果たすために。 一度だけゴブリンのクリティカルで、完全防御を貫通されたが、 それでもダメージは3⋮⋮微々たるかすり傷だ。時間経過による回 438 復でも、三十分で癒えるくらいのものだった。 森から出てきた俺を、モニカさんと、リオナを含めた子どもたち が待っていた。リオナは駆け寄ってきて、俺に抱きついてくる。 ﹁ヒロちゃんっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮ゆっくり来てるうちに、終わったからな。何も、心配いらな い﹂ ﹁よかった⋮⋮よかったぁ⋮⋮っ﹂ リオナは俺にしがみついて離れない。アッシュは俺に近づいてく ると、申し訳なさそうに頭を下げた。 ﹁ごめん、僕がついてたのに⋮⋮オークが出てきて、僕は⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮気にするな﹂ ﹁な、なんだよその言い方っ! おれたちが弱いと思ってんだろ!﹂ ディーンが噛み付いてくるが、俺は腹を立てたりすることはなか った。普通の二歳と違う俺を、年上のディーンが妬んでも仕方がな いことだ。 ﹁ヒロト、ディーンはゴブリンに取られた、お父さんの⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮持ってけよ﹂ ◆ログ◆ ・あなたはディーンに﹁革の帽子﹂を渡した。 439 ﹁っ⋮⋮な、なんで⋮⋮あの、豚みたいなのが出てきただけなのに ⋮⋮﹂ ゴブリンシーフは、襲った相手からアイテムを盗むことがある。 ディーンはそれを取り返そうとしていた⋮⋮買い求めれば、革の帽 子でも銀貨10枚はする。 俺は運良く、ディーンの父親に怪我をさせたゴブリンを倒すこと ができた。ドロップしたアイテムを見てピンときたわけだ。 ﹁俺はいらないから、やるよ﹂ ﹁か、母さんが父さんにあげた帽子を、ばかにするなっ!﹂ ディーンは俺から帽子をひったくるようにして奪う。 もうちょっと上手く言ってやれたら⋮⋮そう思うけれど、俺はい つも、ディーンとは噛み合わない。 けれど、ここに居るのは、俺とディーンだけじゃない。 ﹁ディーン、ヒロトは私たちを助けてくれたんだから。ちゃんとお 礼を言わなきゃ﹂ ﹁っ⋮⋮す、ステラ⋮⋮だって⋮⋮﹂ ステラ姉はもう泣きやんでいたけど、目が赤くなってしまってい る。いつもつけているヘアバンドはさっきまでは乱れていたが、今 はいつも通りにしっかり付け直されていた。 ディーンは同い年のステラから、よく無茶をたしなめられること があった。﹁ヒロトを見習えばいいのに﹂なんて言ってしまうこと もあって、それもディーンが対抗意識を持つ理由になってしまって るんだけど⋮⋮ステラの評価自体は嬉しかったりもするから、何と 440 もいえない。 ﹁ありがとう、ヒロト。近いうちに、またお礼をさせてね﹂ ﹁⋮⋮別にいいよ﹂ ﹁な、なんだその言い方っ⋮⋮﹂ ﹁ああ、そうだ。ディーン、これも要らないからやるよ﹂ ◆ログ◆ ・あなたはディーンに﹁ポーション﹂を渡した。 ﹁な、なんだよこれ⋮⋮﹂ ﹁これ⋮⋮ポーションね。ディーン、お父さんに使ってあげなさい。 ヒロトのポーションは良く効くから﹂ 薬草から自作したポーションを、俺はインベントリーに五十本ほ ど入れている。数本でも冒険者を雇える価値があるので、よく依頼 料がわりに使っていた。 ﹁っ⋮⋮お、おれはありがとうなんていわないからな!﹂ ディーンは言って、ポーションと革の帽子を握りしめて走ってい く。それを見送ったみんなが笑った。 ﹁あの子も本当はわかってるはずよ。ヒロトが頑張ってくれたこと ⋮⋮﹂ ﹁ヒロちゃん、けがしてる⋮⋮ちょっと、血が出てるよ?﹂ ﹁い、いや、なめるなって、こらっ﹂ 441 額にゴブリンの攻撃が当たってできたかすり傷を見つけて、リオ ナが舐めようとする。さすがに恥ずかしいし、衛生的なこともある のでやめさせようとすると⋮⋮。 ﹁⋮⋮ミルテもなめたい﹂ ずっと気絶していた、もう一人の幼女⋮⋮もとい、俺と同い年の 少女が、いつの間にか俺にしがみついていた。 すごく大人しい女の子で、ほとんどしゃべらない。町外れに住ん でいる魔法使いの老婆の孫で、両親を生まれて間もなく亡くしたそ うだ。レミリア母さんに引き合わされてから知り合い、いろいろあ って懐かれている。 ﹁リオナがなめるから、ミルテちゃんはいいの﹂ ﹁⋮⋮ミルテがなめるから、リオナはいい﹂ ﹁リオナがなめるの!﹂ ﹁ミルテがなめる﹂ 一歩も引かない幼女たちに取り合いをされる俺。無性に恥ずかし いんだけど、リオナはすぐ泣くのでやめろとも言えない。 ﹁はいはい、みんな、お母さんたちが心配してるから。暗くならな いうちに帰りなね﹂ モニカさんに言われて、みんなそれぞれに帰途につく。アッシュ はまだ何か言いたいことがあるようだ。 この少年は面立ちが整っていて、将来美形になりそうだ。俺がエ レナさんにお世話になったことは知らないが、彼女に紹介されてか らずっと、俺を友達として接してくれている。 442 ただ、やはり六歳なのでまだ幼い。二歳の俺が、みんなの監督役 にならざるを得ないところがあった。もちろんアッシュを立てて、 俺は距離を置いて見ているようなところはあるが。 ﹁ヒロト⋮⋮本当にありがとう。僕も、ヒロトみたいに強くなりた いよ﹂ ﹁モニカさん、ごめんなさい。ゴブリンなら、だいじょうぶかと思 って⋮⋮﹂ ﹁本当は叱ってあげたいところだけど、ヒロトに免じて許してあげ るわ。ディーンにも言っておいてね、ヒロトと仲良くするようにっ て﹂ ﹁﹁はい!﹂﹂ アッシュとステラは行儀よく返事をして帰っていく。ステラは一 回振り返って、俺にもう一度頭を下げた。 お嬢様という言葉がふさわしい容姿だけど、四歳にしてステラは 芯が強い女の子だ。兄のアッシュよりしっかりしているんじゃない かと思うときもある。 ﹁ヒロちゃん、もうすぐごはんだから、お母さんをおてつだいして くるね﹂ ﹁ああ。転んだりするなよ﹂ リオナもミルテと一緒に帰っていく。それを見送ったあと、モニ カさんは俺を見て微笑んだ。 ﹁ヒロトはみんなのヒーローなのにね。もうちょっと、素直になっ たらいいのに﹂ ﹁⋮⋮ん﹂ 443 短い返事だけをしても、モニカさんは分かってくれる。それが、 無性に照れくさかった。 赤ん坊の頃は、そんなに親しかったわけじゃない。でも、クエス トを一緒に受けてもらううちに、魅了されていなくてもモニカさん は俺を認めてくれるようになった。 ﹁⋮⋮ねえ、少しだけうちに寄っていく?﹂ ﹁⋮⋮え、えっと⋮⋮﹂ ダメージを受けたときから、少しだけ期待してしまっていた。ダ メージを自然回復以外の方法で回復すると、恵体スキルに経験値が 入るからだ。 その方法は、とてもみんなに言えるようなものじゃない。 赤ん坊の頃ならまだしも、二歳になってもまだ⋮⋮そんなことを しているだなんて。もう、見た目上は幼稚園の年長組くらいなのに。 ﹁知ってるよ? ひとりで森に行って怪我したとき、セーラさんの ところに行ってたりすること⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮ちが⋮⋮﹂ ﹁ターニャとフィローネも、最近ヒロトが忙しそうで寂しいって。 ﹃あれ﹄も最近してないし⋮⋮ね?﹂ 初めは一番﹁いけないこと﹂だと思っていたモニカさんなのに、 今となっては⋮⋮。 一緒にクエストをやり始めた最初の頃は、彼女はそんなそぶりは 見せなかった。けれど俺が前衛を務められること、狩人としてのス キルを持っていることを知ると、彼女の態度は次第に変わっていっ た。 444 魅了の力がなければ、女の人にもてるなんて、俺にはありえない。 ︵︱︱そう思っていたころが、俺にもありました︶ 実力を示すことで認められ、気に入られることだってある。それ を教えてくれたのがモニカさんだった。 だからといって、していいことと悪いことがある︱︱だけど。 ﹁怪我の治りが早くなるなら、いいでしょ? あくまで、怪我を治 すためだから⋮⋮﹂ モニカさんが俺の前に屈みこむ。二十歳になって彼女が女性らし さを増したのは、明らかに俺のせいでもあった。 ﹁じゃ、じゃあ⋮⋮ちょっとだけ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そういうときは素直だよね。私はヒロトのそういうところ、 いいと思う﹂ 魅了もなにも発動していない。それなのにモニカさんは、どこま でも優しい目で俺を見ていた。 ◇◆◇ モニカさんの部屋に入るのは、これが初めてではなくて⋮⋮もう、 何回目になるだろう。 木彫りの置き物や、珍しい弓などが飾られている、彼女らしい部 屋。 445 そのベッドに座って、モニカさんは俺を手招きする。 ︱︱そして服をたくしあげたあと、彼女は微笑みながら言った。 ﹁ヒロト、ほどくの上手だから⋮⋮お願いね﹂ ﹁⋮⋮う、うん﹂ ︵何が﹃うん﹄だ、俺⋮⋮もう二歳なのに、これ以上続けていいの か⋮⋮?︶ 内心で葛藤しながら、俺は慣れた手つきでモニカさんのサラシを 解いた。 歳月を経て、確実に成長していく︱︱見るたびにそう思わずにい られない、雄大さを感じる丘陵。 ﹁⋮⋮弓を引くのには邪魔なんだけど。ヒロトが気に入ってくれて るなら、いいかな﹂ ポーションでもなく、治癒魔術でも、時間回復でもない。 俺がモニカさんにしてもらえる、ライフを回復する行為がひとつ ある。 ﹁ふふっ⋮⋮ヒロト、少し緊張してる?﹂ ﹁う、うん⋮⋮だって、久しぶりだし⋮⋮﹂ ﹁私も緊張してるけど⋮⋮でも、ヒロトがうちに来てくれたことが 嬉しいから。今日は、いっぱい触れていってね⋮⋮﹂ いつも前から手のひらを押し付けて触れるだけだったけど、今日 は後ろから。俺はベッドに乗ったままで前に手を伸ばし、モニカさ んの胸に手を宛てがった。 446 ◆ログ◆ ・あなたのライフが回復した。 ・あなたの﹁狩人﹂スキルが上がりそうな気がした。 ・︽モニカ︾の母性が上がった! ﹁そうやって後ろからぎゅってするのがいいの? ヒロト、やっぱ り甘えん坊なんだ﹂ ﹁う、うん⋮⋮こうしてると、落ち着くから﹂ ﹁⋮⋮じゃあ、好きなだけこうしてていいよ。私も、すごく落ち着 くから﹂ モニカさんは自分で俺の手を導いて、それから何度か触れさせて くれた。 こうやって触れ合うことで、スキルレベルを上げられるようにな ったこと。それが交渉術を持って転生した中で、最も幸運な出来事 だったのかもしれないと、改めて思った。 447 番外編 月光花の蜜 エターナル・マギアの世界には四季がある。俺が生まれたのは4 月1日︱︱ゲーム時代に設定していた誕生日でもあった。ゲーム内 でも﹁嘘つきピエロ﹂なんて強ボスが出てくるクエストが開催され て、その嘘のような強さにみんな失笑していたものだ。 誕生日を過ぎて、今は4月の半ば。 ディーンの父親を襲ったゴブリンを退治した件のあと、俺のかわ りにうちの父さんが礼を言われていた。俺のポーションは良く効い てくれて、ディーンの父親はもう怪我が完治している。 回復ポーションを作っているだけでは、薬師のスキルは頭打ちに なってしまう。そこで俺は、薬師が30になると取れる﹁試作﹂と いうアクションスキルを使って、作成難度の高い薬を作ることにし た。これは、一回も作成に成功していない薬の作成に挑戦するスキ ルだ。使う材料さえ合っていればほぼ成功する。 ﹁ヒロトちゃん、こんな高い材料ばかり集めてどうするつもりなの ?﹂ 食料品店のメルオーネさんは、町の商人たちに顔が利くので、掘 り出し物が入荷したときに俺に知らせてくれるようにお願いしてあ る。 そこで俺が頼んだのは、ミゼール周囲では採取できない薬の素材 だった。レア度が高めのものもあるので、けっこう大枚をはたくこ とになったが、毎日クエストをこなしている俺には問題ない支出だ。 448 ﹁か、母さんと一緒に、ポーション作ろうと思って⋮⋮﹂ ﹁まだ二歳なのに、ポーション作りが手伝えるっていうのがまず驚 きなんだけど⋮⋮﹂ 苦笑しながら眼鏡をくいっと上げるメルオーネさん。彼女もこの 二年で十九歳になり、知的な印象に磨きがかかっている。もちろん ポーションは俺一人で作るのだが、念のために内緒にしている。 俺は彼女とも頻繁に交流して、なんとか普通に話せるようになっ た。どうしても口調が淡々としてしまうが、それもそのうちどうに かしていきたい。 俺は彼女のことを﹁メル姉さん﹂と呼んでいた。元気なモニカさ んは﹁姉ちゃん﹂で、しとやかなメルオーネさんは﹁姉さん﹂⋮⋮ 俺の中でそういう認識ができている。 ﹁メル姉さんも、何か作りたい薬とかある⋮⋮?﹂ ﹁うーん、私が欲しいのは⋮⋮今のところは、読書が早くなる薬ね﹂ ﹁早読みのポーション﹂なら今買った材料で作れるな。前世の記 憶が残っているうちに、俺はレシピを羊皮紙の本に書き留めている から、だいたいの薬は作れたりする。 ﹁ん⋮⋮な、なに?﹂ 気づくとメル姉さんが俺をじっと見ている。彼女は微笑みつつ、 店の前に視線を送って誰もいないことを確認してから、唇に指を当 てた。い、色っぽいな⋮⋮。 449 カルマ などと、もはやとぼけていてもしょうがない。これは俺が赤ん坊 の時に積み上げた業を、少しずつ浄化していく修行でもあるのだ⋮ ⋮って、意味がわからないが。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃんをとりこにする薬が欲しいって言ったら、どう する?﹂ ﹁ど、どうって⋮⋮本気で?﹂ ﹁今さら何言ってるんだか⋮⋮赤ん坊の頃から、まだ何も知らなか った私のこと、あんなにしておいて⋮⋮﹂ ﹁そ、それは⋮⋮っ﹂ ︵商人スキルが欲しいとはいえ、けっこうな頻度で⋮⋮それだけな ら、まだ良かったんだよな︶ 45回も採乳させてもらったとはいえ、メルオーネさんは﹁好意 を抱いている﹂くらいだったから、魅了がかかっていなければ、俺 を気に入ってくれてるというくらいだった。 しかし、母さんに頼まれたという体で欲しいアイテムの手配を頼 んだりしているうちに、俺が普通の子どもと違って頭が切れると知 ると、メルオーネさんの態度が次第に変わり始めた。具体的には、 昔のことをよく話すようになった。 赤ちゃんの頃は可愛かったね、とか、今でもお母さんのおっぱい って恋しい? とか。 その質問の意図が初めは分からなかったが、それは彼女なりに、 俺を甘やかそうとしてくれているんだとわかった。どうやら五歳児 相当、ショタとしか言いようのない俺の容姿が、彼女のお気に召し たようなのだ。 450 ﹁ダメだよね⋮⋮こんな、癖になっちゃって。ヒロトちゃんが来る の、凄く楽しみにしてて⋮⋮﹂ ﹁ちょっ、待っ⋮⋮﹂ メル姉さんに抱きしめられる。モニカ姉ちゃんとは違う、文系女 子の持つたおやかさ。それが俺は、正直を言ってとても嫌いではな かったりする。 彼女は胸の大きさこそ、ソムリエの俺の視点では高い順位ではな いが、ここ二年での母性の上がりが大きい。それで俺に好意を持っ てくれたのかなとも思うが、もはや巡りあわせだろう。 ﹁レミリアさんが連れてきた初めの時から、思ってたしね⋮⋮無愛 想だけど、可愛い男の子だって﹂ ﹁⋮⋮え、えっと⋮⋮﹂ 熱っぽい目で見られて、とても目を合わせられずに戸惑いつつも、 俺は手を伸ばしてメル姉さんの眼鏡を外した。つけたままもいいが、 彼女は外した方が可愛い、お約束通りの人だったりする。 そして眼鏡を外したということは、それが始まりの合図でもあっ た。俺にとって、一日に何度も訪れる、人に言うことのできない時 間⋮⋮。 ︵ライフはもう回復しないけど⋮⋮気づいてしまったからな︶ 赤ん坊の頃に採乳でスキルをくれた人には、ずっと採乳でスキル 経験値をもらうことができる。 スキンシップといっても、普通は成長すれば男性が女性の胸を触 451 ったりはしない。それなので、秘密で触らせてもらう必要はあるが ︱︱未だに経験値効率が良すぎて、なかなか卒業することができな い。 ﹁この時間はあんまりお客さんが来ないから⋮⋮店の奥に行っても、 大丈夫﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 返事に迷うというか、子供同士でも交流ができた俺には、どうに も背徳感がある。無邪気に遊んだりしてるリオナたちを見ていると、 俺ひとりが大人の仲間入りみたいなことをして、年上の女の人と⋮ ⋮というのは、悪いことをしてるようで複雑な気分だった。いや、 明らかに悪いことなのだが。 ﹁⋮⋮今日は何もしないで帰る?﹂ ﹁う、ううん⋮⋮そこまで言うなら⋮⋮﹂ ︵⋮⋮スキル経験値には勝てなかったよ︶ そこまで言うなら、とかどういう上から目線だろう。それでも怒 らないメル姉さんは、まるで仏のようだ。 眼鏡を外した彼女はちょっと童顔だが、俺が知っている女性の中 ではかなり大胆な方だったりする。 ﹁もうちょっとヒロトちゃんが大きくなったら、いろいろ楽しいの にね⋮⋮ふふっ﹂ ﹁な、なにが⋮⋮?﹂ 知らないふりをする俺。そうでもないと、正直を言って異性に関 心があるということを、とても誤魔化しきれそうになかった。 452 ◇◆◇ 薬の材料をもらって、メルオーネさんに早読みの薬を作ることを 約束したあと、俺は店を出て︱︱そこで、後ろから抱きしめられた。 ﹁わっ⋮⋮﹂ ﹁久しぶりだねぇ、ヒロト坊。いつもうちの子と仲良くしてくれて ありがとうね﹂ エレナさん⋮⋮二十七歳になって、ますます女ざかりという感じ だ。長いウェーブのかかったブルネットの髪に、胸の大きく開いた 服⋮⋮知り合った頃と、彼女の雰囲気は少しも変わっていない。 ﹁アッシュはヒロト坊みたいに強くなりたいって、武術の稽古を始 めてるよ。あの子が無茶しないように、これからも見ててあげてね﹂ ﹁う、うん⋮⋮アッシュ兄ちゃんとは、仲良くしてるよ﹂ ﹁もちろんステラもね。あの子、お姉さんだからって、ヒロトに勉 強教えるなんて言い出してるのよ。あたしが昔家庭教師をしてたっ て言ったら、自分もやりたいって﹂ ステラ姉は俺とリオナと知り合ってから、よく面倒を見てくれて いる。エレナさんに似ているので、将来は目鼻立ちの整った美人に なるだろう。エレナさんと違ってキャラメルブラウンの髪色だが、 それは父親から受け継いだものらしい。 ﹁ステラはまだ小さいけど、気づいてるのかしらね。ヒロト坊が将 来有望だってこと﹂ 453 ﹁そ、そんなこと⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮まあ、あたしの方が先に気づいてるけどね。今日はお 母さんのお使い?﹂ ﹁⋮⋮急ぎじゃ、ないけど⋮⋮﹂ そう答えたところで、俺を抱きしめていたエレナさんの空気が変 わる。 ﹁⋮⋮今でも思い出しちゃうのよね。ヒロト坊が赤ちゃんだった頃 のこと﹂ 外だからはっきり言わないけど、何のことを言ってるかは分かる。 さっぱりしていて豪快に見えるエレナさんに、実は繊細なところが あることも、俺はもう知っている。 ﹁⋮⋮ちょっとだけなら、いいよ﹂ ﹁⋮⋮言うじゃないか。そんな、女を手玉に取るみたいな⋮⋮レミ リアが聞いたら、どう思うだろうね﹂ そう言いつつも、エレナさんは抱きしめていた俺を離す。そして 頭を撫でてくれたあと、自分の店の方に歩いていく。 ﹁あんたに﹃服を選んであげる﹄。いつもうちの子が世話になって るからね﹂ ︵これが大人の暗号というやつか⋮⋮しかし俺も、なにひとつ言い 訳できないな︶ 赤ん坊の時に交流した女性の気持ちが、どんな本音を秘めて接し てくれているのか、今の俺には分かってしまう。赤ん坊だろうが、 454 経験は経験というわけだ。 今はまだいいけど、あと一歳大きくなったら、絶対やめよう⋮⋮ と思いつつ、俺はエレナさんについていく。彼女の手を握ると、な んでもないふりをしているエレナさんの頬が、少しだけ赤く染まっ ているのがわかった。 ◇◆◇ 薬の材料を揃えた俺は、難易度が高めの薬に順番にチャレンジし ていくことにした。 ◆ログ◆ ・あなたは薬を作っている⋮⋮。 ・﹁早読みの薬﹂が作成された! よしよし、速度アップのポーションをベースにして、﹁目利き草﹂ などの材料を投入し、混ぜ合わせる⋮⋮覚えていた通りだ。早読み の薬をあげれば、メル姉さんが喜んでくれる。 さて、次は⋮⋮ゲームでは女性NPCに使うと、少し変わった反 応が得られるということで、ある意味需要の高かった薬。ロマンの 詰まったあれを作るとするか。 ︵あえて作らなくても、他に薬は幾らでもあるんだけど⋮⋮俺も男 455 だ、ということで︶ ◆ログ◆ ・あなたは薬を作っている⋮⋮。 ・﹁あやしい媚薬﹂が作成された! ・﹁薬師﹂スキルが上昇した! 出来てしまったか⋮⋮これがまた、普通のポーションと同じ色を してるから、ガラス瓶に入れると見分けがつかないんだよな。 でもまあ、使う用途があるわけでもないし。作ることでスキルが 上がれば目的を達している。 ﹁ヒロト︱! フィリアネス様が来たわよー!﹂ ﹁は、はーい!﹂ そうか、今日は魔剣の様子を見に来る日だっけ⋮⋮久しぶりに会 うな、フィリアネスさん。 媚薬と早読みの薬は⋮⋮いいか、持っていこう。前に部屋に置い ておいたら、リオナが勝手に混乱する薬を飲んで大変なことになっ たからな⋮⋮睡眠薬ならまだ、ぐっすり寝るだけで済むんだけど。 十六歳を迎えたフィリアネスさんは、ますます凛々しくなってい た。しかし、今日はマールさんとアレッタさんを連れておらず、一 人だけだ。 456 ﹁あら、今日は一人なの? 初めてね、フィリアネス様が単身で来 るなんて﹂ ﹁マールとアレッタは、今は休暇中で田舎に帰っている。私も実家 に帰って一日過ごしたあと、こちらに訪問させてもらった⋮⋮済ま ないな、急に押しかけて﹂ ﹁いつでも遠慮しないで来てくれていいのよ。ヒロト、ほら、出て きて挨拶しなさい。フィリアネスのお姉ちゃんよ﹂ ﹁⋮⋮ひ、久しぶり⋮⋮です﹂ ﹁ふふっ⋮⋮なんだ、かしこまって。赤ん坊の頃よりも、今のほう がおとなしくなってしまったな﹂ フィリアネスさんは俺の前に屈みこんで、目線の高さを近くして くれる。そうして俺は、彼女が少しだけダメージを受けてしまって いることに気づいた。 ﹁フィリアネスさん、けが⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮ああ、気にするな。ここに来るまでに、オーク・ロードに 出くわしてな。不意を突かれてかすり傷を負ったが、どうというこ とはない﹂ オーク・ロードって⋮⋮フォレストオークを統率する存在で、何 倍も強いモンスターじゃないか。フィリアネスさんの防御を貫通す るなんて⋮⋮。 でも、フィリアネスさんは﹁オークに弱い﹂がついているのに、 一撃で倒したという。攻撃力が下がった状態でも、ダブル魔法剣の 威力はケタが違うということだ。 ﹁ヒロト、ポーションをあげたら? いつもたくさん持ってるじゃ ない﹂ 457 ﹁ポーション⋮⋮? ヒロト、ポーションなど、なぜ持っているの だ? けがをしたのか?﹂ ﹁う、ううん⋮⋮俺、簡単なのなら、作れるから⋮⋮﹂ フィリアネスさんにはまだ、俺の実力は見せていない。彼女たち は町にいる間に魔物の掃討をしてくれているが、それを俺が手伝お うとしても、まだ断られてしまうからだ。 そのうち一緒に戦える日が来るのかと思うが、それまでは子供扱 いだ。無理もないが、少し歯がゆく思うこともある。 ﹁⋮⋮そうか。では、ヒロトのポーションの効き目を確かめさせて もらおう。信じているぞ﹂ ﹁っ⋮⋮う、うん⋮⋮!﹂ 今ではフィリアネスさんの魅了はようやく解けて、永続しないこ とが残念だったりそうでなかったりしたのだが⋮⋮すっかり、俺と フィリアネスさんの立場は入れ替わってしまった。 彼女が微笑みかけてくれるだけで、嬉しくて仕方が無くなる。そ んな俺を見て、母さんが笑っていた。 ﹁この子ったら、フィリアネス様が来るといつもこうなんですよ。 忠犬みたいになっちゃって﹂ ﹁こんなにかわいい犬なら、連れて帰りたいものだが⋮⋮と、それ は貴女の大切な息子殿に対して失礼だな﹂ ﹁いいえ、いつか連れて帰ってあげてください。騎士団に入れば、 きっとこの子は活躍できますから。リカルドも、今から太鼓判を押 しているんですよ﹂ 父さんは最初、二歳の俺が薪割りを手伝おうとすると焦って止め 458 ようとしたが、﹁薪割り﹂スキルを成功させると、俺に斧の使い方 を教えてくれるようになった。 そうでなければ、俺は﹁大切断﹂を覚えていない。リカルド父さ んは今ではもっと斧マスタリーを極めて、さらに上位のスキルまで 習得している⋮⋮さすがは父さんだ、といつも思っている。 ﹁斧騎士リカルドの後継者か⋮⋮戦いに身を置くことを勧めること は出来ないが、おまえが騎士になってくれたら、我が公国の安寧は 約束されたようなものだな﹂ ﹁⋮⋮頑張るよ、俺﹂ ﹁そうか⋮⋮良い返事だ。やはりお前はいつも、私の期待に応えて くれるな﹂ フィリアネスさんがいる騎士団なら、目指す価値がある。俺は最 近、そう思うようになっていた。 俺にとっては彼女も、いつかこの手で護りたいと思う相手だ。︻ 神聖︼剣技をくれて、知り合ってから今まで、ずっと大事にしてく れている。 魅了が切れたあとは、まともに話せなくなって困ったこともあっ た。 けれど彼女の好感度は、今まで一度も下がったことはなかった。 ﹁心身共に捧げ尽くしている﹂のまま、変わったことは一度もない。 ︱︱しかし、フィリアネスさんが俺に添い寝をしてくれることは、 もう無くなっていた。 ﹁では⋮⋮レミリア様、いつも使わせていただいている部屋をお借 りしていいだろうか﹂ 459 ﹁ええ、いつでもお客さんが来ていいように準備してあるから遠慮 なくどうぞ。ヒロト、粗相のないようにするのよ﹂ ﹁わ、わかってるよ⋮⋮﹂ 不満そうに言う俺を見て、フィリアネスさんが微笑む。その視線 が、何とも照れくさかった。 ﹁ヒロトは、少し反抗期なのだな。あんなに優しい母君はいないの だから、大事にするのだぞ﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁ふふっ⋮⋮よろしい。では、行くとしよう﹂ ◇◆◇ 俺はフィリアネスさんに手をつないでもらい、客室まで連れて行 ってもらった。 二歳の俺の前でも、フィリアネスさんは少し恥じらいながら鎧を 脱ぐ。そして布鎧だけの姿になったあと、ベッドに腰掛けて、櫛で 長い髪を梳かした。 ﹁ふぅ⋮⋮戦闘があると、どうしてもな。髪が乱れてしまう﹂ ﹁お、おれがやろうか⋮⋮?﹂ ﹁ああ、頼む。ヒロトは上手いからな⋮⋮マールとアレッタも褒め ていたぞ﹂ 騎士のみんなが泊まってくれるとき、俺は彼女たちの髪を梳かし てあげることがあった。リオナの髪をサラサさんに教えてもらって 460 梳かす機会があって、それでやり方を覚えたわけだ。 ベッドに座っているフィリアネスさんの後ろに回って、流れるよ うな金色の髪に、そっと櫛を通す。髪の間から覗いている白い肌を、 俺はいつも意識せずにいられなかった。 ﹁⋮⋮ありがとう。すまないな、いつも頼んでしまって﹂ ﹁う、ううん⋮⋮けがは大丈夫?﹂ ﹁本当に大したことはない。ポーションを飲まなくても、一晩で治 るようなものだが⋮⋮ヒロトが作ったものなら、試してみたいな﹂ ﹁じゃ、じゃあ⋮⋮これ⋮⋮﹂ 俺は持っていたポーションの瓶を、フィリアネスさんに渡す。彼 女はその蓋を開けると、中に入っている青い液体を少し見つめてか ら、俺に微笑みかけ、唇を寄せて飲み始めた。 ﹁んっ⋮⋮んっ⋮⋮ふぅ⋮⋮いつも使っているポーションより甘い な⋮⋮﹂ ︵えっ⋮⋮甘い?︶ ポーションに甘い材料なんて使わない。清涼感を得るためにハー ブを入れたりするが、甘みはないはずだ。 そこで俺は、メル姉さんのところで買った薬の材料の中に、﹁月 光花の蜜﹂があったことを思い出した。 ︵でも、あれはポーションの材料じゃないし⋮⋮ってことは⋮⋮︶ ﹁⋮⋮ひっく﹂ 461 ︵ひっく?︶ フィリアネスさんがしゃっくりみたいな音を発した。俺は頭に疑 問符を浮かべ、彼女を見やる。 ﹁⋮⋮このポーション⋮⋮ひくっ。効きすぎ⋮⋮ではないか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮フィリアネスさん、ど、どう⋮⋮﹂ どうしたのか、と言いかけたところで、俺は持ち歩いていた瓶が 三つあったことを思い出した。 ポーション、早読みの薬︱︱そして、媚薬。 媚薬の材料として非常に手に入れづらいのが、月光花の蜜。満月 の夜しか採取できないそれは、他の方法で得られる糖分よりもすが すがしく、料理の味付けにも用いられる︱︱じゃなくて。 ﹁何か⋮⋮身体が熱くなってきたな⋮⋮ひっく。きっと、薬が効い て⋮⋮﹂ ︵⋮⋮うわぁぁっ、間違えたぁぁっ!︶ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁あやしい媚薬﹂を飲んだ。 ・︽フィリアネス︾は興奮状態になった! いかに自分が鈍いのかを痛感する。ポーションの反応じゃないの は、ログを見れば分かることなのに。 こ、興奮状態って⋮⋮媚薬を使うと、異性のNPCが﹁いつもよ 462 り素敵に見えます﹂くらいのサービスセリフを言ってくれるくらい だったのに。こんな反応は想定外だ⋮⋮! ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮ひっく。お前が私と一緒に寝てくれなくなってか ら⋮⋮ひっく。私は⋮⋮嫌われてしまったのかと思って⋮⋮っ、ひ っく⋮⋮﹂ ﹁ま、待っ⋮⋮げ、げどっ⋮⋮﹂ ︵待ってくれ、解毒剤を飲めばっ⋮⋮!︶ うまく言葉にならないし、フィリアネスさんの顔が真っ赤になっ ていて、目がすわっている。酔っ払っているようにも見えるが、も っとまずい感じがひしひしと⋮⋮。 ﹁⋮⋮ヒロトは、マールとアレッタには甘えて⋮⋮私は⋮⋮私にも、 甘えて欲しいのに⋮⋮っ、ひっく﹂ ︵⋮⋮フィリアネスさん︶ 魅了が解けて、俺の前でも凛とした姿を崩さなくなった彼女は、 それが本来の姿なんだと思っていた。 あの夜、俺に添い寝をしてくれたフィリアネスさんの涙は、もう 昔のことになってしまったんだと思った。 ︱︱できればこんな形以外で、そうじゃないと確かめたかった。 ﹁⋮⋮私がどれだけ我慢していたのか、思い知るがいい。お預けを された犬のようだった⋮⋮おまえはそんなことも知らずに、無邪気 になついて⋮⋮あまりにも、残酷過ぎる⋮⋮っ﹂ 463 ︵フィリアネスさん、いくら媚薬が効いてても、それは⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は全装備を解除した。 ︵キャストオフ⋮⋮まだ明るいのに戦闘態勢だ⋮⋮!︶ 圧倒される俺。興奮状態になったフィリアネスさんは、布鎧を脱 ぎ、生まれたままの姿を俺の前に晒した。 あ、相変わらず⋮⋮いや、十六歳バージョンのフィリアネスさん は、明らかに成長している⋮⋮! ﹁⋮⋮ひっく。ヒロト⋮⋮私ももっと幼ければ、あのリオナという 娘のように、おまえとこうやって遊べたのだ⋮⋮ひっく﹂ ﹁は、ハダカでは遊んでないっ⋮⋮﹂ ﹁うるさぁい! おとなしく私に甘やかされるのら!﹂ 完全にろれつが回っていないフィリアネスさんに、ついに捕まる。 しかし彼女は乱暴にせずに、ベッドの端に座って、俺を膝に載せて くれる、そして至近距離で向き合うと、じっと潤んだ目で見つめて きた。 ﹁⋮⋮お前が可愛すぎるからいけないのだぞ。聖騎士の仕事も、ろ くに手につかぬではないか。ばかもの﹂ ﹁え、えっと⋮⋮あの⋮⋮﹂ ︵それは俺が悪いのではないような⋮⋮そして、手につかないと危 464 ないような︶ オークロードと戦って怪我をしたのも、上の空だったっていうの か⋮⋮じゃあ、彼女の悩みを解消しないと。 ﹁⋮⋮私にとって、一番効果のあるポーションは⋮⋮おまえの存在 だ﹂ ︵⋮⋮やっぱり愛されてる⋮⋮今の彼女は、半分くらいは、正気な んだ︶ 愛でるように見つめられ、抱きしめられる。豊かな胸の谷間に、 惜しみなく顔を埋められて⋮⋮そして。 フィリアネスさんを見上げると、彼女はもう一秒も待てないとい うほど、切ない目をして俺を見ていた。 ﹁⋮⋮もう、私に興味はないのか? 飽きてしまったのか⋮⋮?﹂ ︵そんなことあるわけないよ、フィリアネスさん︶ そう言う代わりに、俺は行動で示したいと思った。俺がまだ、彼 女に甘え足りないと思っていることを⋮⋮。 フィリアネスさんの長い髪がかかって、隠れている部分。俺はそ っと髪をどけて、その部分に手のひらで触れた。 ﹁⋮⋮やっと、触れてもらえた。ヒロト⋮⋮どれほど待ち遠しく思 っていたか⋮⋮﹂ フィリアネスさんに抱きしめられ、優しく背中を撫でられながら、 俺はそれから何度か繰り返して﹁採乳﹂し、得難い充足感を何度も 465 味わった。やはり、この人のことを、俺はどうしても特別に思って しまう︱︱その容姿も、強さも、俺への想いも。 ︱︱4月1日はもう過ぎてしまったけれど。 こんな嘘のような本当の日のことを、俺はずっと覚えていようと 思っている。 466 第十二話 クエストのあとで︵前書き︶ ※7/5 加筆修正終了いたしました。 467 第十二話 クエストのあとで モニカさん、ウェンディ、名無しさんとパーティを組んで、スー さんと別れて。あれから二歳になるまで、俺は一週間のうち半分く らいはみんなと一緒に冒険に出かけた。 アッシュ、ステラとの交流も続いている。リオナも歩けるように なり、喋れるようにもなってきたので、最近はサラサさんとリオナ が家に来ると、リオナと二人で遊ばせられることも多かった。 俺はリオナのことが嫌いなわけじゃないが、無邪気になついてく る彼女を見ていると、どうしても気が引けてしまう。その笑顔が、 幼いころの陽菜に似すぎているから。 だから俺にとって、モニカ姉ちゃんが家に迎えに来てくれて、冒 険に連れ出してくれることは、良い口実にもなった。家にいると二 日に一度はリオナが来る、それがどうしても気恥ずかしいからだ。 ﹁赤ちゃんの頃は、こんなにヒロトと一緒に居ることになると思わ なかったのにね﹂ ﹁うん、俺もそう思ってた。でも、モニカ姉ちゃんは強そうだなっ て思ってもいたよ﹂ モニカさんは二歳になっても軽々と俺を腕に抱えている。それほ どアマゾネスな体型ってわけじゃなく、スポーティな狩人女性とい うスタイルなのだが、恵体の数値が腕力に寄与するというのは良い ことではないかと思う。筋肉質な女性も嫌いではないが、どうして も柔らかいフォルムに惹かれるものだ。 468 ﹁強そうなんて思ってたの? やっぱりいろいろ考えてたわけね、 赤ちゃんの時から。時々、私達のことじっと見てたりしたしね。こ の子すごく頭がいいんじゃない? って、ターニャたちと話してた のよ﹂ モニカさんは微笑み、俺の頭を撫でながら言う。今日はよく晴れ ていて、絶好の狩りの日和だが、彼女は本業の狩りは時々お父さん と一緒に行くくらいで、それ以外は俺と一緒に行動してくれていた。 今はクエストを受注するために、ギルドまで一緒に行く途中だ。 レミリア母さんは、俺がモニカさんに狩りを教えてもらっていると 思っている︱︱それは間違いでもない。彼女が狩人スキルを使うと ころを見ると、同じスキルを持っている俺も経験値が入るからだ。 ﹁今日はモンスター退治にする? それとも、採取依頼? 猫探し なんていうのもあるけど、あれがまた大変なのよね﹂ ﹁行ってみてから選んでみたいな。モニカさんや、みんなのお好み でもいいよ﹂ ﹁私たちのリーダーさんは今日ものんきなのね。そろそろランクを 上げてもいいのよ? それなりに経験も積んだし、Bランクの試験 を受ける資格はあるしね﹂ ﹁Bランクの依頼はこの町にはめったにこないから、Cのままでい いよ。危ないことはするつもりないし﹂ 俺が言うとモニカさんは上機嫌になる。なぜだろう、と思ってい ると、彼女はふぅ、とため息をついた。 ﹁ほら、エレナさんのうちの近くに住んでるディーンって子がいる でしょ? あの子、ヒロトより歳上なのにやんちゃばかりしてるら 469 しいのよ。うちの父さんとディーンのお父さんが知り合いなんだけ ど、子育てについて相談されてたわ。あたしはヒロトのことで手一 杯だから、って言っちゃったんだけど﹂ ﹁そ、そっか⋮⋮うーん、そうだね。ディーン兄ちゃんは、ちょっ と反抗期だからなあ﹂ ﹁事情を聞けば、分からないでもないんだけどね。おとなしいアッ シュが、仲良くしてるのも不思議よね﹂ アッシュ兄は誰にでも優しく、ディーンもそんなアッシュ兄を慕 っているが、俺とは折り合いが悪い。まだ二歳の俺がときどき達者 にしゃべるので、それが気に食わないらしいのだ。まあ、俺がディ ーンの立場だったら無理もないという気がするので、別に俺からデ ィーンを嫌ったりはしていない。 ﹁おれも仲良くできるようにするよ。ディーン兄ちゃんと﹂ ﹁そう? あたしはヒロトを独占しちゃいたいから、子供同士もい いけど、毎日リーダーとして連れ回したいくらいだけどね。リオナ ちゃんっていう、強力なライバルもできたことだし?﹂ ﹁あ、あはは⋮⋮リオナは、そんなんじゃないよ﹂ 近所の幼なじみ、というとやはり前世と境遇がかぶるので、幼な じみという表現すら気恥ずかしい。俺は何をそこまでこだわってい るのだ、と自分でも思う。 ﹁あ、そうだ。ヒロト、何か欲しいものはある? それに合わせて 報酬の高いクエストを受けてもいいわよ﹂ ﹁おれは大丈夫だよ。モニカ姉ちゃんは?﹂ ﹁あたしも今のところそんなにはないわね。父さんも元気だし、狩 りの収入だけでそこそこやっていけてるの。あたしも冒険の分け前 は、うちにいくらか入れてるけどね﹂ 470 モニカさんはお父さんに連れられ、三歳の頃から狩りを習い始め て、獲物を売ってお金を得てきた。そういう彼女だからこそ、幼い 俺が相手でも、公平に報酬を分配してくれる。実はポーションや、 アイテムの取り引きで相当な資産があるので、クエストの報酬は俺 にとってそこまで重要な収入源ではない。 だから俺は、いつも一緒にパーティを組んでくれる彼女に、出来 るだけ感謝を伝えるようにしていた。 ﹁あ、あの、モニカ姉ちゃん。これ⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮またお手紙書いてくれたの? ヒロトって本当にまめよね。 二歳なのに、すらすら文章も書けちゃうし。あたしが二歳の頃は、 数字を数えるだけでやっとだったわよ?﹂ モニカさんは楽しそうにしながら、俺の差し出した羊皮紙を受け 取る。そして、目を通し始めた。 ﹁なになに⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽モニカ︾に手紙を渡した。 ・︽モニカ︾は手紙を読んでいる⋮⋮。 ﹃モニカ姉ちゃんへ いつも一緒に冒険に出てくれてありがとう。 今日も一緒に行けてうれしいよ﹄ 子供っぽく書くことを心がけているが、二歳の書く文章ではもち 471 ろんなかった。文章に関するスキルには﹃著述﹄なんてものもある が、専門的なスキルで、ごく一部の学者系NPCなどしか持ってい ない。 なので文章を上達させるには、実際に多く書くしかない。前世の 俺はミミズのような字を書いていたが、転生してからの方が、頻繁 に手紙を書くようになって上手くなっていた。 ﹁⋮⋮ヒロトの手紙、本当に可愛いんだから。話すと大人っぽいし、 大人が苦労する魔物とも戦っちゃうのにね﹂ モニカさんは優しい目で俺を見ると、手紙に視線を戻す。前世な ら手紙を渡すなんて男の俺にはありえなかったが、クラスで手紙を 回していた女子の気持ちが今は少しだけわかった。途中からメール に移り変わってはいたけれど。 ﹃モニカ姉ちゃんにはいつもお礼をしたいと思ってるんだ。おれを いっぱい連れ出してくれてありがとう。大好きだよ、モニカ姉ちゃ ん﹄ ﹁⋮⋮こういうことまで書いちゃって。言ってはくれないくせに﹂ ﹁ご、ごめんなさい。でもおれ、そう思ってるから⋮⋮﹂ ﹁好きって言葉の意味、わかってないでしょ?﹂ ﹁わ、わかってるよ。モニカ姉ちゃんを、尊敬してるってことだよ ね﹂ 手紙を読み終えたモニカさんは、羊皮紙を律儀にいつも腰につけ ているポーチにしまう。 ﹁⋮⋮じゃあ、仕事が終わったあとに、今日もお姉ちゃんにご褒美 472 をくれる?﹂ ﹁っ⋮⋮え、えとっ⋮⋮あの⋮⋮﹂ ﹁女心が分かってないんだから⋮⋮って言われても、まだ小さいか ら困っちゃうか。ごめんね、ヒロト﹂ モニカさんが何をして欲しがってるのかは分かる。俺も採乳は機 会があれば積極的にしたいのだが、胸に触れるだけとはいえ、いつ になっても嬉しさと恥ずかしさが入り混じってしまう。 俺としては全然異存はないんだけど。狩人スキルは順調に上昇し ているし、モニカさんのバストも成長して︱︱いや、それは単に成 長期が終わっていないだけだ。決して﹁俺が育てた﹂などと言うつ もりはない。元から、ドラフト1位くらいに指名されそうなくらい だったし。何のドラフトだ。 ﹁ヒロト、ときどき私の知らないところで、ウェンディの宿に連れ ていかれてるでしょ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ ︵ば、ばれてる⋮⋮さすがに俺が子供とはいえ、﹃浮気﹄というこ とになるのか⋮⋮?︶ 戦々恐々としていると、モニカさんは俺を怒るわけでもなく、頬 をぷにっとつまんできた。 ﹁そんな小さい頃から女の子泣かせてたら、将来が心配になるわよ ね﹂ ﹁⋮⋮きょ、今日は⋮⋮姉ちゃんのとこに行くから﹂ ﹁それは⋮⋮いやいやじゃなくて?﹂ ﹁う、うん、ほんとに⋮⋮﹂ 473 こんな時は必死でわかってもらうしかない。なんとかモニカさん に、俺の気持ちは通じただろうか⋮⋮と思っていると。 ﹁はぁ⋮⋮フィローネがお見合い断ったの、なんでって言えないよ ね。あたしもこんなになっちゃって﹂ ﹁⋮⋮ご、ごめんなさい﹂ ﹁ううん、ヒロトが謝ることじゃないよ。あたしはヒロトのお願い 聞くの、好きだしね﹂ いつもさっぱりとしているモニカさんだけど、時々こうやってド キッとするようなことを言う。 そのたびに俺は、赤ん坊の時分は、なかなか吸わせてくれなくて 手強いとか思っていたことを謝りたくなる⋮⋮思えばモニカさんは、 初めから優しい人だった。 ﹁でもヒロト、リオナちゃんを置いてきていいの? 前、ついてき ちゃってたけど﹂ ﹁あ、あいつは⋮⋮まだ、危ないから﹂ ﹁隅におけないよね、ステラもヒロトにべったりだし。森のおばば のとこのお孫さんも⋮⋮﹂ モニカ姉ちゃんは勘が鋭いというか、俺の交友関係にとても詳し い。焼き餅を焼いてるんだろうなと思うこともあって⋮⋮俺はまだ 二歳なのに、なんて言うわけにもいかず。 ﹁あ⋮⋮そっか。ヒロトは大きい胸にしか興味ないから、こっちに 来てくれてるんだ﹂ ﹁むっ⋮⋮む、胸とかじゃなくて⋮⋮﹂ 474 ︵おっぱい星人であることは見ぬかれてるな⋮⋮もちろん、モニカ さんの小麦色の胸には、これからも惹かれ続けていく。なぜポエム 調なんだろう︶ 間抜けな考えを読まれたみたいに、モニカ姉ちゃんが俺の頬をぷ にっとつまむ。俺はそうされるのが、だいぶ嫌いではなかった。 しかしクエストが終わったあと、モニカ姉ちゃんの家に行くとわ かっていると⋮⋮何というか、そわそわしてしまうな。 ◇◆◇ ミゼールの町で最も大きな建物、冒険者ギルドだ。一階に受付が あり、五十人ほどの客が入れる酒場が併設されている。 朝から飲んでいる人、クエストに出る前の腹ごしらえをしている 人。木串に焼いた肉を刺した料理の、香ばしい匂いが鼻先をくすぐ る。まだ肉をガッツリ食べることはできないが、匂いに食欲をそそ られるようにはなってきていた。 モニカさんは俺を抱っこして、ギルドのカウンターに向かう。毎 日弓を引いているだけあって、彼女の腕力はかなりのものがあった。 ﹁リックさん、こんにちはー﹂ ﹁おう、あんたか。またその坊主を連れてきてんのか⋮⋮あまり良 いことじゃあねえぞ? それは﹂ ﹁大丈夫、危ない目にはあわせないから。色々勉強させてあげたく てね﹂ ﹁だから、もっと大きくなってから⋮⋮ああ、もう何度も言ってる 475 からしようがねえな。説教くさいおっさんだ、とか思わないでくれ よ﹂ ﹁うん、思ってないよ。おれは、つるつるのおじさん好きだよ﹂ ﹁ハゲじゃねえ! 剃ってるだけだ。くれぐれも間違えるなよ、小 僧﹂ 白い歯を見せて笑う、浅黒い肌の筋肉質な中年男性。彼こそが冒 険者ギルドの長、リック・ブリュワーズだ。剃りこみを入れた頭が 特徴的で、例えは悪いが山賊みたいな見た目をしている。 彼は﹃ブリュ兄貴﹄というちょっとアレな名前で呼ばれていた、 ゲーム時代にもいた名物NPCだ。しかし兄貴より、﹃ブリュ妹﹄ こと、リックさんの妹がもっと有名だった。 ﹁お疲れ様です、モニカさん。本日はどんなクエストをご希望です か?﹂ シャーリー・ブリュワーズ。ミゼール冒険者ギルドの受付嬢で、 ゲーム中に何人か登場するメイド服を着たNPCのひとりだ。なぜ か、エターナル・マギアの受付嬢のジョブは全てメイドなのである。 エプロンドレスの胸の部分を大きく張り詰めさせた胸は、ミゼー ルでも屈指⋮⋮サラサさんと互角と言っていい。アッシュブロンド のふわふわとした髪に、白いヘッドドレスがよく似合う。いつも笑 顔を絶やさないが、目元にある泣きぼくろが、なんともはかなげと いうか⋮⋮端的に言って色っぽい。 ゲーム中の簡略化されたグラフィックからは、この容姿は想像が つかず、最初は驚いたものだった。そして、遅れてあの人気NPC が目の前にいることに感激もした。 476 ﹁今日はDランクのクエストから選びたいんだけど、掲示板から適 当に選んでいい?﹂ ﹁ええ、ご自由にどうぞ。モンスター討伐は、三人以上のパーティ を組むように指定されているものがほとんどですので、それは規定 通りにお願いいたしますね﹂ 三人以上となると、いちおう、二歳の俺を抜いてカウントする必 要があるんだよな。残りのパーティメンバー、ウェンディと名無し さんは⋮⋮と酒場の方を見やると、もう二人が席を立ってこちらに やってきていた。 ﹁私も行くであります! お師匠様、今日もお待ちしてましたであ りますっ!﹂ ﹁もちろん小生も同行させてもらうよ。モニカ嬢とウェンディ嬢だ けに、ヒロト君を独占はさせられない﹂ ﹁あんたねえ⋮⋮こういうところでそういうこと言わないの﹂ モニカ姉ちゃんが小声で釘を刺す。名無しさんの仮面の下の艶や かな唇が、笑みを形作る︱︱今日も色っぽい上に、上機嫌だな。 それにしてもこの世界で﹁小生﹂なんて自分を呼ぶのは、この人 まろまゆ だけじゃないかと思う。前世でもそんな口調の人がいたが⋮⋮ギル ドのサブマスだった麻呂眉さんだが、彼は男だったからな。オフで 実際に会ったことはないけど。 ﹁ヒロト、じゃあこのクエストでいい?﹂ ﹁うん、いいよ。手頃な難易度だしね﹂ モニカさんが掲示板に貼り付けてあるクエストメモを剥がして、 477 シャーリーに渡した。 ﹁Dランクのクエスト、スターラビットの肉の納品ですね。報酬は 銀貨百枚で、規定の魔物を依頼中に討伐した場合、報酬に銀貨六十 枚足させていただきます﹂ ﹁気をつけろよ。この頃、倒しても倒してもオークが湧きやがるか らな﹂ ﹁オークなんて敵じゃないわよ。少なくとも、このメンバーならね﹂ そう言って胸を張るモニカさん。彼女が俺を見て微笑むのは、俺 の斧スキルをあてにしてくれているからだ。 戦力として期待されるのは嬉しいものだ。二歳なので、それなり の振る舞いをすべきだとも思うが︱︱戦いたい、という気持ちは抑 えきれない。 ﹁︵今日もお師匠様の斧さばきを見られるなんて、感激であります︶ ﹂ ﹁︵そうだね。彼ばかりに任せるのは悪いけれど⋮⋮頼れる男だか らね、君は︶﹂ ウェンディと名無しさんが小さな声で話しかけてくる。ウェンデ ィは少し子供っぽさを残した声をしていて︵俺の歳で言うことでは ないが︶、名無しさんの声は透き通るような響きで、耳に心地よい。 ﹁︵リックさんにはばれないようにね。さ、そうと決まればちゃっ ちゃとこなすよ︶﹂ ﹁︵私は修行中ですから、ヒロトさんを抱っこするであります!︶﹂ ﹁︵まあ、ヒロト君も自分で歩けるけどね。びっくりするくらい早 いから、周りを驚かせないようにしないと︶﹂ 478 盗賊スキルが上がると身のこなしにボーナスが入り、機敏に動け るようになる。﹁忍び足﹂を使い続けた俺の盗賊スキルは30を超 え、それこそアスリート並みのスピードを手に入れていた⋮⋮が、 町中で見せるのは、一般の人々には刺激が強すぎる。 ◇◆◇ ゲームでは、町ごとに﹁危険度﹂が設定されていて、モンスター を一定数倒すと下げることができた。放っておくと危険度が上がり、 町がモンスターに襲われてしまう。そうなると、プレイヤーが襲わ れている町に集結し、モンスターを協力して撃退することもあった。 それもあって、俺は子供の頃からどうしても危険度が気になり、 モンスター討伐以外の依頼の最中でも、出来るだけ人間に敵対的な モンスターを退治していた。 ﹁はぁぁっ⋮⋮でありますっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ウェンディ︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! ・ゴブリンチーフに56ダメージ! ﹁ま、まだ倒れないでありますかっ⋮⋮きゃぁっ!﹂ バックラー ウェンディはゴブリンチーフの反撃を、円盾で受け止める。攻撃 を弾かれたゴブリンチーフに、見逃せない大きな隙が生じた。 479 ﹁どきたまえっ⋮⋮あとは小生がやるっ! ﹃炎よっ!﹄﹂ ◆ログ◆ ・︽名無し︾は﹁ファイアーボール﹂を詠唱した! ・ゴブリンチーフに64ダメージ! ゴブリンチーフを倒した! ﹁あ、ありがとうであります⋮⋮っ﹂ ﹁まだ気を抜くのは早いわよっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽モニカ︾は﹁乱れ撃ち﹂を放った! ・ゴブリンに76ダメージ! ゴブリンを倒した! ・ゴブリンチーフに72ダメージ! ・ゴブリンチーフに70ダメージ! ︵さすが⋮⋮モニカ姉ちゃんの範囲攻撃は頼りになる⋮⋮!︶ 名無しさんは一度詠唱を終えると、再び詠唱可能になるまで時間 がかかる。モニカ姉ちゃんもそれは同じで、次弾の装填というタイ ムラグがある⋮⋮ならば。 ﹁おれがいくっ⋮⋮!﹂ 480 ◆ログ◆ ・あなたは﹁兜割り﹂を放った! ・ゴブリンチーフに136ダメージ! オーバーキル! ・ゴブリンチーフを倒した。 一体を倒したあと、残りの一体が短剣を振りかぶり、俺に振り下 ろそうとする。 ﹁お師匠様っ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮まだっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは続けて﹁大切断﹂を放った! ・ゴブリンチーフに344ダメージ! オーバーキル! ・ゴブリンチーフを倒した。 同じ武器種のスキルは、マナが続くなら連発することもできる。 組み合わせは限られているが、兜割りから大切断のコンボは、使い やすく強力なことで知られていた。 ﹁⋮⋮ふぅ。これで⋮⋮﹂ ﹁うん、これで全部ね。お疲れ様、ヒロト﹂ ﹁お疲れ様であります! その小さな身体で、いつもすごいであり ますっ!﹂ 481 モニカ姉ちゃんが俺に水筒を渡してくれる。いつも彼女が使って いるものだが、もはや間接キスを気にするような関係でもない。 ﹁んっ、んくっ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂ ﹁私もいただいていいでありますか? 喉がからからで⋮⋮﹂ ﹁小生も、詠唱で喉が渇いてしまった。少しもらってもいいかな?﹂ ﹁あんたたち、自分の水筒持ってきなさいって言ってるのに⋮⋮わ ざと聞いてないでしょ?﹂ 俺が飲んだあとの水筒でウェンディが、最後に名無しさんが水を 飲む。二人とも、モニカさんの言うとおり、わざと水筒を持ってき ていないようだった。 ﹁はぁ⋮⋮生き返ったであります。戦ったあとのお水は格別であり ますね﹂ ウェンディは首都の騎士学校を卒業したが、戦闘能力が足りずに 騎士団の入団試験に合格できず、ミゼールで修行のためにクエスト を受けている。 まだ十三歳なので成長の余地があるし、数年以内に試験に受かれ ば騎士団に入れるだろう。そのときは、広い意味ではフィリアネス さんの部下になるわけだ。 ﹁やはりヒロト君は強いね。この広い世界で、子供なのに強くなれ ることも、無くはないのだろうが﹂ ﹁この子は特別でしょうね。こんな子が他にもいたら、ちょっと怖 いでしょ﹂ ﹁それは言えているでありますね。ヒロトさんの戦う姿を初めて見 482 た時は、夢を見ているのかと思いましたし⋮⋮私をヒロトさんがパ ーティに誘ってくれた時も、驚いたでありますよ﹂ ウェンディはよく俺と出会った当時の話をする。彼女は命を救わ れたと今でも感謝してくれていて、熱っぽく俺のことを語るので、 モニカさんと名無しさんも慣れたもので、笑って相槌を打つのが定 番になっていた。 彼女は俺のパーティに入ってクエストをこなし、成長を実感でき たことで、この半年でさらに俺を慕うようになっていた。異世界の 住人は﹁レベルアップ﹂という概念は知らないが、自分が強くなっ たということは自覚できるのだ。 ﹁⋮⋮昔のことを思い出すよ。ヒロト君は、いつもそうだった﹂ ﹁昔のことって? 名無しがヒロトと仲良くなった理由って、まだ 詳しく聞けてないのよね﹂ モニカさんが聞くと、名無しさんは首を振る。 ﹁いや、そのこととはまた別の話だよ。思わせぶりなことを言って すまないね﹂ ﹁謝らなくてもいいけど⋮⋮ねえ、ついでに聞いておくけど、その 仮面ってどうやったら取れるの? ずっとそのままじゃ気になって 仕方ないわよ﹂ ﹁小生はまだ、自分の顔に慣れていないというか⋮⋮自信がないの でね。これを外す方法を探すのは、まだ先でかまわないよ﹂ 名無しさんが言うことは時々気になることがあるけれど、それも おいおい分かることだろう。今の言い方からすると、一生仮面をつ けていたいというわけでもないみたいだから。 483 ◇◆◇ クエストの報酬をもらったあと、俺はモニカさんと一緒に家路に 就く。Dランクのクエストは結構時間がかかったので、一日ひとつ で夕方になってしまった。 ﹁無事にスターラビットの肉を納品できましたけど、本当は自分で 食べたかったでありますねっ﹂ ﹁⋮⋮あんたたちはなんでついてきてるわけ?﹂ ﹁わ、私はっ⋮⋮その⋮⋮ヒロトさんの弟子でありますから⋮⋮﹂ ﹁小生たちを牽制したいのは分かるけれど、同じパーティの仲間と して、一緒にヒロト君を労うべきだとは思わないかい?﹂ ウェンディ、名無しさん、モニカ姉ちゃんが同時に俺を見てくる。 そんな熱い目で見られても、と俺はいたいけな少年に擬態するが、 それでごまかせるわけもない。 ﹁たまには、二人きりで⋮⋮っていうのは、みんなあるでしょ? じゃあ、遠慮しあって、順番に⋮⋮っていう選択はないの?﹂ ﹁え、遠慮できないのでありますっ⋮⋮我慢したら、眠れなくなっ ちゃうのであります! 一日が終わらないのでありますぅっ!﹂ ﹁一日でも多くリーダーと一緒にいたいというのは、皆の共通の気 持ちだ。このまま帰ると、寝付きが悪くなって深酒をしてしまう。 そうすると金欠になり、私は悪い男性に引っかかってしまうかもし れない﹂ ノーン ﹁あんたねえ⋮⋮そんなこと言って、ヒロトをおどかしてるの? 名無しがヒロト一筋なのは、あたしもウェンディもわかってるわよ﹂ 484 ︵⋮⋮男の人をパーティに入れようとすると断られるからといって、 ハーレムを形成してしまっていいのかどうか、僕には未だわからな いでいるのです。なぜに文語調だ︶ どうでもいいことを考えて、ちやほやされて浮かれそうになる気 持ちをごまかしたくなる。母性は罪なスキルだ⋮⋮少年に対して弱 くなるという補正が入ってしまう。 俺は純粋にパーティを組みたかっただけなのだが、お姉さんたち はそうではなく、俺もちょっとよこしまな気持ちがあることは否め なくて︵主に採乳に対して︶、持ちつ持たれつの関係になってしま う。 なんだかんだいって、俺はみんなにスキル経験値をもらいたい。 ウェンディも名無しさんもモニカさんも良スキルを持っているので、 バランスよく交流していきたいところなのだが、乙女たちはそれだ けでは満足できないようだ。 ﹁せっかく、ふたりきりでお疲れ様できると思ったのに⋮⋮﹂ ﹁三人のほうが、お師匠様もよりどりみどりで楽しいはずでありま す!﹂ ﹁ヒロト君は、私の場合は一時間で⋮⋮回も触るのだけど、ふたり は回数が少ないと言っていたよ﹂ ﹁そ、そんなこと言ってっ⋮⋮ヒロト、見てなさいっ、あたしだっ て少しくらいでくらくらしたりしないんだから!﹂ ﹁私だって大丈夫なのであります! お野菜中心の食事から、適度 に肉類も取るようになって、きっと触り心地がよくなってるのであ ります!﹂ ﹁え、えっと⋮⋮それはぜひ、じゃなくて、できたら、その⋮⋮﹂ 485 一人でも結構いっぱいいっぱいなのに、三人一緒に触り比べると いうのは⋮⋮いや、昔からモニカさんと友人二人にお願いするとき は、そんな感じだったけど。おかげで、手が感触を覚えてしまった。 ﹁はあ⋮⋮わかったわよ。じゃあヒロト、今日はみんな一緒でいい から、今度の日曜は、朝からあたしの家に来ること。いい?﹂ ﹁わ、私も参加するのであります! お師匠様のことは、いつでも 見ていたいのでありますっ!﹂ ﹁同い年の子どもたちに譲りたい気持ちもあるのだけどね。覚えた てが、一番離れがたいというのも否定できない﹂ 元気でワガママなモニカさん、ジャストフィットで優しいウェン ディ、釣り鐘型の艶美な名無しさん。何がとは言わないが、俺はこ の三つに優劣をつけることが、今でもできないでいる。 ◇◆◇ パーティを組むとき、異性プレイヤーに対して下心を持ってはい けない︱︱それが俺の前世のルールだったのに。 採乳でスキル上げできるばかりに、俺は誘惑に勝つことができず ⋮⋮気がつけばこんなことに。 ﹁他の人も一緒だと、こそこそしなくて良いので楽しいであります ね♪﹂ ﹁あたしはそうでもないんだけど⋮⋮はぁ。こうして順番待ちして るときが、一番恥ずかしいっていうか⋮⋮﹂ ﹁今日は少しだけにしておくのかい? 遠慮しなくても、もう少し 486 してもらってもかまわないよ﹂ ︵⋮⋮ちょっと大きくなったかな? もう、かなりお世話になった しな︶ 名無しさんの胸の手応えから、俺は彼女のバストサイズが大きく なったことを感じ取る。年齢不詳の彼女だが、成長期は終わってい ないようだ。 最初に名無しさんから採乳したときの感動は、今でも覚えている。 何度繰り返してもそれは色褪せなくて、それどころか毎回新しい発 見がある。 次はウェンディだ。兜を脱ぎ、鎧も脱いだ彼女の体型は、アレッ タさんよりほんの少しグラマーなくらいだが、採乳には何の支障も ない。 ﹁お師匠様のパーティに入ったときから、私⋮⋮女の人に生まれて 良かったって思ってるのであります。こうしているとほっとするで あります♪﹂ ﹁いい雰囲気作っちゃって⋮⋮ヒロト、ウェンディじゃ満足できな いでしょ? 早くこっちにいらっしゃい﹂ ﹁小さくてもいいって言ってくれたでありますよ、手紙で⋮⋮すご く丁寧で、かわいい文字だったのであります﹂ ︵その手紙はぜひ破り捨ててくれ⋮⋮︶ パーティメンバーに等分に手紙を出している俺。前世の俺だった ら﹁ジゴロか﹂とツッコミを入れるところだ。ジゴロは前世でも死 語だっただろうか。いやそれはどうでもいい。 487 戦士と法術士のスキルを彼女たちに与えてもらってから、どちら のスキルもまだまだ上げ足りない。30に達するまでは、こうして クエストが終わるたびに、あるいは機会があるたびに、お疲れ様を 兼ねてスキル上げに協力してもらわなければ。 しかし俺のことなので、スキルを上げきったとしても、この誘惑 からは逃れられない。三人ともが上半身を露わにしているところを 見て、服を着たほうがいいとダンディに言えるようになるには、あ と三十年は年齢を重ねなければ⋮⋮。 ﹁続けて小生の番でいいのかい? 今日は、ずいぶん熱心に見つめ てくれているね⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。できれば、もう少し⋮⋮﹂ ﹁どれだけでもかまわないよ。小生は、今日は体力が余っているか らね。こうしていると、むしろ疲れが取れる気分だ﹂ 採乳は胸の周りの新陳代謝がよくなるみたいで、マナの喪失はあ るものの、肩こりに効能があったり、胸の張りが取れると評判だっ たりする。クエストの後でみんなしてほしがるのは、安眠できるか らだそうだ。 ﹁名無しさんの胸の形はすごくキレイでありますからね、お師匠様 が見とれる気持ちもわかるのでありますっ﹂ ﹁そこは負けないといいたいところだけどね。ウェンディも少しず つ大きくなってるし⋮⋮ヒロトに触ってもらってるからよね、きっ と。あたしも初めての時から、少しずつ大きくなってるし﹂ 採乳で母性に経験値が入るという理由もあるだろう。俺が彼女た ちから受けている恩恵の方が、遥かに大きいわけだが。 488 ◆ログ◆ ・あなたは︽名無し︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁法術士﹂スキルが上昇した! 世界の理に対する理解が深まっ た。 ・︽名無し︾は微笑んだ。 ・あなたは︽ウェンディ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁戦士﹂スキルが上昇した! さらなる闘争心が目覚めた。 ・︽ウェンディ︾は幸せになった。 ・あなたは︽モニカ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁狩人﹂スキルが上昇した! 狩りの技術が高まった。 ・︽モニカ︾はつぶやいた。﹁ふぅ⋮⋮すっきりするわね、やっぱ り﹂ モニカさんがしみじみとつぶやくと、見ていた名無しさんとウェ ンディも同意する。ふたりとも、ずっと上半身が裸のままだ⋮⋮こ の光景にはいつまでも慣れず、すごいことをしているという気持ち が常にある。 ﹁こうしている時間が、小生は最も癒やされるよ。ヒロト君が早く 帰らなければならないときは、すごく寂しいからね⋮⋮今日は十分 に時間をとってもらうよ﹂ ﹁私も心からそう思うであります⋮⋮お師匠様と、時には一日中、 こうして過ごしたいのであります﹂ ﹁ヒロト、目移りしてるでしょ。いいよ、これからは私しか見えな いようにしてあげるから﹂ 489 モニカさんがそう言うと、名無しさんとウェンディが対抗意識を 燃やす。俺はといえば、嬉しい半面、このまま大きくなったらどう なるんだろうと他人ごとのように考えていた。 パーティの絆は大切だ。しかし、さすがに明日はクエストを休み、 子供らしく過ごすことにしよう⋮⋮。 懺悔しながら、俺はモニカさんの膝に乗せられ、小麦色の双丘を 下から支えつづけた。ここは俺が支えるから先に行け、のポーズで。 490 第十二話 クエストのあとで︵後書き︶ ※次回は子供らしく。お話も進みます。 491 第十三話 子供らしく 斧マスタリースキルは、30を超えると薪を千本割っても上がら ないくらい成長が遅くなる。エターナル・マギアにおいては30が スキルのひとつの到達点になっているからだ。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁薪割り﹂をした。 ・木材から薪が作成された。 家の裏庭で、切り株の上に置いた木材を割る。これが斧の最も簡 単なスキル上げなのだが、スキルの補正が働いているとはいえ、子 供用の小さな手斧で木材がサクッと割れるのは、見ていて不思議な 光景だ。 女神の作ったこの世界においては、スキルが物理法則を超えて作 用している。フィリアネスさんがあの細腕で凄まじいダメージを叩 き出すのも、そこに起因している。マールさんやリカルド父さんは、 恵まれた体格通りの強さを持っているから、﹃強い﹄ということに 違和感がない。 ︵見かけどおりの強さじゃないっていうのは、気をつけないとな⋮ ⋮︶ 華奢な体格の美少女にしか見えない相手が、いきなり高ダメージ 492 を叩きだしてくる可能性もあるわけだ。俺が今現在、何倍もの体格 のオークに対してそうしているように。 ﹁あ、ヒロト、こんなところにいた﹂ ﹁ヒロちゃん、ステラおねえちゃんがきたよ! あそぼー!﹂ 振り返ると、ステラとリオナがいる。今日はクエストに行かない で家にいると言っておいたので、遊びに来てくれたようだ。 ステラは肩まで髪を伸ばし、髪の先を少しカールさせている。今 日は白いカチューシャをつけており、水色のワンピースを身につけ ていた。水色の染料は貴重で、彼女が着ているような複雑な型取り・ 縫製を必要とする服は珍しい。俺とリオナが着ている服はシンプル もいいところだ。 ﹁お父さんのおてつだい? いつもえらいね、ヒロト﹂ ﹁う、うん⋮⋮まあ、ちょっとだけだけど﹂ ﹁ヒロちゃん、何してあそぶ? かくれんぼ?﹂ 異世界での子供の遊びは、綺麗な石を集めておはじきだとか、そ れくらいのものしかない。 俺は前世で少しだけやったあやとりを彼女たちに教えてみたが、 それが思いの他受けたりした。この町には娯楽が少ないので、子供 たちはささやかな楽しみを大切にしている。 ﹁きょうはね、私がおべんきょうをおしえてあげる。私が今から、 ふたりのかていきょうしよ﹂ ﹁かていきょうし?﹂ ﹁かていきょうしはね、とってもすてきなのよ。ママもそうだった の﹂ 493 リオナとステラのやりとりを聞きながら、俺はエレナさんが言っ ていたことを思い出した。しかし年上とはいえ、まだ人にものを教 えられるような段階ではないのだが⋮⋮。 ﹁ヒロト、おへんじは?﹂ ﹁う、うん⋮⋮分かった。何をおしえてくれるの?﹂ ﹁おべんきょうよ﹂ ﹁リオナおべんきょう大好き! ステラお姉ちゃんもすき!﹂ がしっ、とリオナがステラに抱きつく。ステラは恥ずかしそうに しつつも、リオナの頭を撫でてやっていた。 ﹁リオナ、あとでくしをしてあげる。女の子はきれいにしなきゃ﹂ ﹁うん♪ ありがとー!﹂ フィリアネスさんたちの髪に櫛を通したことを思い出しつつ、俺 は思う。幼い彼女たちの友情は純粋で、見ていて微笑ましい。 ︵俺ももう少し、子供らしくするか︶ 前世では小学生の途中から人の輪に入れなくなったが、それも些 細なきっかけによるもので、それさえなければ俺は、人と話すこと を避けるようにならずに済んだと思う。 せっかく人生をやり直し、もう一度子供に戻れたんだから。スキ ルだけじゃなく、素の自分も変えていきたい。 ◇◆◇ 494 ステラが持ってきた子供向けの本。それは、﹃勇者﹄について書 かれた絵本だった。 ﹁めがみさまは、いいました。わたしの子どもたち、にんげんよ、 わたしたちはもういかなければなりません﹂ 俺の部屋の床の上で本を広げ、ステラ姉が読み進め、俺とリオナ が両側から本の内容を見る。 ﹁くー⋮⋮くー⋮⋮﹂ ステラの読み聞かせが心地よかったのか、リオナはすぐに眠って いた⋮⋮学校に通うことがあったら、確実に昼食後の午後の授業で 寝るタイプだな。そのころにはもっとしっかりしてるかもしれない が。 ﹁じぶんの足で立ち、あるくのです。たとえどんなことがあろうと も﹂ ステラがページをめくった先には、8つの武器が描かれていた。 それを、一人の女性⋮⋮おそらくは女神が、人間に与える場面が書 かれている。 ﹁それでもくじけそうなときには、あなたたちのもとに、つよきも のをつかわせます﹂ 女神が遣わす、強き者⋮⋮それが勇者ということか。 八つの武器に伸ばされる手が描かれている。八つの武器⋮⋮どこ 495 かで⋮⋮。 ︵魔神が魔王に与えた武器の数と、同じ⋮⋮?︶ それに気づいたとき、俺はぞくりと背筋に冷たいものを感じた。 ﹁ステラ姉、このえほんって、だれが書いたの?﹂ ﹁この本はね、えらい﹃けんじゃさま﹄がかいた本を、うつしたも のなんだって。おもしろかった?﹂ ﹁う、うん⋮⋮おもしろかったよ﹂ ﹁⋮⋮べんきょうになった?﹂ ﹁うん、いっぱいなったよ﹂ 絵本を読み聞かせるだけでも、今の幼さならば家庭教師をしてる と言っていいだろう。算術や読み書きなんかを勉強するのは、もっ と先でいい。 ﹁⋮⋮よかった。しっかりできて﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ ステラ姉が物凄く嬉しそうな顔をする。 幼いとか、そういうことは関係がない。本当に心を許した笑顔に は、相手の心を動かす力がある。 俺はまだ、そんなふうに自然には笑えていないだろう。だからこ そ、眩しく感じる。 ﹁⋮⋮ステラ姉はすごいや。おれ、もっと本を読んでほしいな﹂ ﹁あっ⋮⋮ごめんなさい、きょうはそれしか持ってきてないの﹂ 俺の部屋には、スキルが得られる本が山ほど置いてある。でもそ 496 れらは仕舞っておいて、ステラ姉には俺の本当の精神年齢を悟られ ないようにしていた。 ﹁くー⋮⋮ひろちゃん⋮⋮﹂ ﹁リオナ、ねちゃってる⋮⋮ふふっ、かわいい﹂ ステラ姉は怒るわけでもなく、リオナの頬をぷにぷにとつつく。 そして、俺の方にも微笑みを向けてくれた。 ︵良かった⋮⋮オークの件は、もう後を引いてないみたいだ︶ 間一髪で助けられたとは言いがたかった。今でも、ステラの泣い ている顔が忘れられない⋮⋮。 そういう顔を見ないようにするために、俺は強くなったんじゃな かったのか。例えディーンや、他の誰かが無茶なことをしても、カ バーするだけの力があるのに。 しかし付近に魔物が増えていく今の状況では、やがて限界が来る。 クエストをこなして危険度を下げても、次の日には上がっていて、 モンスターの討伐クエストが山ほど掲示板に貼り付けられている⋮ ⋮そんなイタチごっこだ。 ﹁ヒロト、おなかすいた?﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。ちょっとだけ﹂ ﹁ママとクッキーをつくったから、食べて。わたしは、このみをい れたのよ﹂ ◆ログ◆ 497 ・︽ステラ︾があなたに﹁ナッツのクッキー﹂を渡そうとしてい ます。許可しますか? YES/NO ステラ姉からクッキーを貰って、口に運ぶ。小麦粉はこの世界で も広く流通していて、パンなどを作る材料として活躍している。ナ ッツにも種類があるが、ログでは特殊な効果のある木の実以外は﹁ ナッツ﹂で統一されていた。 ﹁はい、あーん⋮⋮﹂ ステラ姉がハンカチで手を拭いたあと、包みからクッキーを取り 出し、俺の口元に運んでくれる。 ﹁あ、あーん⋮⋮﹂ 無性に恥ずかしいと思いながら、一口食べる。それをステラ姉は、 間近で微笑みながら見ている。 ﹁おいしい?﹂ ﹁う、うん⋮⋮おいしいよ﹂ ﹁そう⋮⋮っ、ひっく⋮⋮﹂ 素直に答えたつもりだった。 しかし、ステラ姉の表情が不意に崩れて、その瞳からぽろぽろと 涙がこぼれる。 ︵な、なんで⋮⋮俺、何か変なこと⋮⋮︶ 頭の中がパニックになりかける。なぜ泣かせてしまったのか、食 498 べてはいけなかったのか︱︱そんなことは無いと思いながらも、女 の子の涙を見せられて落ち着いていられない。 気がついた時には、俺はステラ姉に抱きしめられていた。いつも の彼女からは想像もできないほどに強く。 ﹁⋮⋮こわいモンスターから、たすけてくれてありがとう⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮ステラ姉⋮⋮﹂ あの時に受けた心の傷は、まだ癒えてなかった。俺は、そこまで 分かってやれなかった。 ただ抱きしめられて、泣いているステラ姉に触れることも出来ず に、そのままでいることしか出来なかった。 ﹁ひっく⋮⋮ぐすっ。こわかった⋮⋮しんじゃうとおもったっ⋮⋮﹂ ディーンの無茶を止めて、他の大人に助けを求めていたら⋮⋮。 そうしていたら、ディーンは一人でオークに出くわしていたかも しれない。あれ以上遅れていたら、助けられたかもわからない。 ︵俺の立ち回りがまだ甘すぎるんだ。まだ、やれることは幾らでも ある︶ 俺ひとりだけで、危険度を下げる⋮⋮その試みではまだ足りない のなら。 モンスターを安全に倒すことが出来る強い人たちを集め、組織を 作るしかない。そう︱︱自警団だ。 今までパーティに入ってもらった人たち。俺とパーティを組んで レベルが上がった人たち⋮⋮その人たちに協力してもらえば、ミゼ ールはもっと安全になる。 499 ﹁⋮⋮もう、あぶなくないよ。だから、泣かないで﹂ ﹁⋮⋮ほんとう?﹂ ﹁うん。約束する﹂ オークにもう一度会ってしまうかもしれない。その恐怖を消し去 るためにできることはひとつだ。 危険度を下げれば、いずれオークは湧かなくなる。けれど今の俺 は、ゴブリンすら湧かせたくないくらいの気持ちだった。 ゲームで傷ついても、死んでも、何も失うことはなかった。でも、 今は違う。 ステラの背中を撫でてあげると、彼女は少し落ち着いて、俺から 離れる。 ﹁⋮⋮私のほうが大きいのに、ないちゃった﹂ ﹁いいよ。みんなには言わないから﹂ ﹁うん⋮⋮ありがとう﹂ ステラ︱︱いや、ステラ姉は、まだ何かを伝えようとしている。 人の目を見られるようになったとき、人が何を考えているのかも、 少しだけ分かるようになった︱︱だから、俺は。 ﹁⋮⋮ステラ姉ちゃん、お昼寝しよっか。リオナも一緒に﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ まだ帰りたくない。ステラ姉がそう思っているように思った俺だ が⋮⋮彼女の反応は芳しくない。 いや、顔が真っ赤になっている。子供だって、大人と同じくらい 500 照れたりも、恥じらいもするのだ。 ﹁⋮⋮ヒロト、いっしょにいてくれる?﹂ ﹁うん、いるよ﹂ 迷いなく答えた。すると恥じらっていたステラは、日向で花が咲 くように笑った。 リオナを俺一人でベッドに運ぶこともできるのだが、母さんの力 を借りた。ステラは俺の力の一端を知っているけど、俺が頼んで秘 密にしてもらっている。 ステラに書いた手紙がエレナさんに見つかって、恥ずかしい思い をしたこともあるが⋮⋮こういうコミュニケーションの取り方が向 いている俺は、それも甘んじて受けるべきだろう。 ◇◆◇ ステラとリオナと昼寝をしたあと、俺は考えた末に、父さんに手 紙を書くことにした。 俺一人で、パーティを組んでいる人たちに働きかけて戦力を集め ることはできる。しかし、ミゼールの大人たちに黙ってそんなこと をするのは、さすがに子供の領分を超えている。 父さんだって、俺が﹁町を守るために自警団を作ろう﹂なんて言 い出しても、聞いてはくれないかもしれない。しかし、父さんだっ て気づいているはずだ⋮⋮モンスターが増えた森に、毎日出ている 501 のだから。 ﹁ただいまー。おうヒロト、出迎えてくれたのか。ありがとうな﹂ リカルド父さんが帰ってきて、使った後の斧を手入れをするため の台に置いたあと、俺の方にやってくる。 ︵斧の件だって、かなり驚かせた⋮⋮これ以上は⋮⋮︶ 迷いが一瞬だけよぎって、俺は後ろ手に持っていた手紙を、すぐ に渡せなかった。 ﹁ん⋮⋮どうした? 我慢してるなら、手洗いはすぐに行った方が いいぞ﹂ ﹁ち、違う⋮⋮そうじゃない。これ⋮⋮﹂ ﹁手紙⋮⋮? 急にかしこまってどうした。ははぁ、何か買って欲 しいものでもあるのか?﹂ リカルド父さんは俺の手紙を受け取る。そして、目を通し始め⋮ ⋮その表情が、見る間に真剣そのものに変わる。 ﹁⋮⋮母さんは、今どうしてる?﹂ ﹁⋮⋮お風呂に入ってる﹂ ﹁そうか⋮⋮じゃあ、ここで話をしても大丈夫だな。そこに座りな さい﹂ 食卓の椅子を引いて、父さんが俺を座らせてくれる。父さんはそ の向かい側に座ると、手紙をテーブルの上に置き、文面を読み上げ た。 502 ﹁モンスターが増えて、子供が襲われる事件があった。今後そんな ことが起こらないようにしたい⋮⋮か﹂ ﹁⋮⋮ステラ姉が、泣いてたんだ。ぼくは、もうそういうのを見た くない﹂ 父さんの前では、俺は自分のことを﹁俺﹂とは言わなかった。僕 というのが恥ずかしくても、両親の前では子供でいたかった⋮⋮け れど、今はそれとは反対のことをしている。 俺の子供にあるまじき内容の手紙を見て、父さんはどう思うだろ う。明らかに普通じゃない⋮⋮。 ︱︱けれど俺の心配をよそに、父さんは呆れも怖がりもせず、俺 をまっすぐに見ていた。 ﹁父さんは、ひとつだけ怒らないといけない。それは、ヒロトが子 供らしくないことをしてることだ﹂ 秘密にしているつもりでも、町に行けば、いつかは父さん、母さ んの耳に伝わる⋮⋮それは覚悟していた。ギルドでクエストを受け るときは、絶対にカウンターに行かなければならないから。 ﹁モニカは腕利きの狩人だ。彼女に狩りを教わるのは悪いことじゃ ない。しかしな、ヒロト坊。斧をバルデス爺のところで直してもら ったとき、ヒロト坊の斧は、明らかにモンスターとやりあった感じ だったと聞いた。勇敢な子供だと言われたが、父さんは正直、冷や 汗が流れたよ﹂ ﹁⋮⋮だまっててごめん。でも、ぼくは⋮⋮﹂ ﹁でもじゃない。本当なら、ヒロトはモンスターと戦っちゃいけな い。そんなことをさせてしまうくらいなら、父さんたちがもっと、 503 町が危ないことを真剣に考えるべきなんだ﹂ 知らなかったわけじゃない。知らないふりをしてくれていただけ だ。 ただの子供のふりをしている俺を、父さんは﹁ヒロト坊﹂と呼び つづけて⋮⋮子供として見続けてくれていた。本当は、そうじゃな いことを知っていたのに。 ﹁⋮⋮父さんは、ぼくのことを嫌いになった?﹂ ﹁⋮⋮おお?﹂ 不意に不安になって尋ねた。子供のふりをしているわけじゃない、 家から放り出されることが怖くなった。 父さんはそんな俺を見て、目を見開いていたが⋮⋮やがて、笑い 始めた。 ﹁はははっ⋮⋮なんだ、そんなことを考えてたのか? 父さんは、 いっぱしの男としてヒロトを扱わなきゃならんのかと、戦々恐々と してたところだぞ。こんな小さい子供を男扱いするのは、どうにも 勇気がいるだろ﹂ ﹁⋮⋮父さん﹂ ﹁ヒロトがどれだけ早く大人になろうと、父さんは父さんのままだ。 それは嫌だと言っても変わってやれん。父さんの年を追い越せるな んて言うなら、話は別だけどな﹂ ﹁⋮⋮あははっ﹂ 父さんの冗談を聞いて、俺は久しぶりに笑った。笑うところじゃ ないと思いながらも、笑っていた。 ﹁そうだ、あんまり真面目くさった顔してちゃ女の子にもてないか 504 らな。リオナちゃんたちは将来可愛くなるから、今のうちからしっ かり仲良くしておけよ﹂ ﹁っ⋮⋮り、リオナは、別に⋮⋮﹂ ﹁じゃあステラちゃんとミルテちゃんか。リオナちゃんが一番気に 入ってると思ったんだがな﹂ ﹁あ、あれは⋮⋮向こうからついてくるだけだよ﹂ 正直を言えば、リオナが俺について回ることを、嫌だとは思って いなかった。 ただクエストに連れていって欲しいというのだけは、手を焼いて いたけれど⋮⋮俺としても、不幸を相殺するためにリオナといたい 気持ちはあるから、両立出来ないのが歯がゆいところだった。 ﹁⋮⋮ははっ、なんだかなぁ。息子とこんな話が出来るのは、もっ と先だと思ってたんだが﹂ ﹁⋮⋮ぼくも、そう思ってた﹂ ﹁そう思うこと自体が、普通はないことなんだがな⋮⋮この手紙も、 まあよく筋道が通ってる。俺がヒロト坊の年だったら、まともに手 紙なんぞ書けてないぞ﹂ 父さんは席を立つと、俺の方にやってきて、その大きな手を俺の 頭の上に置いた。 ﹁⋮⋮しかしな、ヒロト坊。母さんには、あまり心配をかけないで やってくれ。母さんはあまりヒロト坊が甘えてくれなくなって、ち ょっと寂しがってたぞ﹂ ﹁⋮⋮ごめんなさい﹂ ﹁父さんも母さんが寂しくないようにするが、ヒロト坊のかわりは できない。子供は子供らしくすることも、大事なことなんだ⋮⋮わ かるか?﹂ 505 父さんは頭に手を置いたままでいる。いつもは撫でてくれるのに、 俺の返事を待っているみたいだった。 だから俺は、出来るだけ素直に、リカルド父さんの息子として答 えなければならないと思った。 ﹁うん。わかった﹂ ﹁よーし⋮⋮いい返事だ。それでこそ、俺の息子だ﹂ 確かめるようなその言葉が、胸の奥に染みこんでくるように感じ た。 そして俺は、前世でのことを思い出していた。 俺が森岡弘人だったころ、最後に父さんに撫でてもらったのは、 いつだっただろう。 ﹁ヒロト坊、母さんと風呂に入って来い。最近一緒に入ってないだ ろ?﹂ ﹁う、うん⋮⋮でも⋮⋮﹂ ﹁母さんはいつもゆっくり入るから大丈夫だ。後から飛び込んで、 風呂水溢れさせてこい。どれだけはしゃいでも、父さんがまた沸か してやるからな﹂ ﹁⋮⋮うんっ!﹂ ◇◆◇ ﹁ヒロト、どうしたのそんなに慌てて。お父さんと一緒に入るのが いやで逃げてきたの?﹂ ﹁う、ううん⋮⋮お母さんと入りたくて﹂ 506 ﹁まあ⋮⋮そんなこと、初めて言ってくれたわね。あ、わかった。 ヒロト、何か欲しいものでもあるの?﹂ 母さんは父さんと同じことを言う。夫婦は似てくると何かで聞い た気がするが、うちもそうなんだと思った。 ﹁ううん、何も⋮⋮﹂ ﹁ふふっ、遠慮しちゃって。子供は遠慮しなくていいの、もっと甘 えていいのよ﹂ ︵わっ⋮⋮!︶ ざばっ、とバスタブに浸かっていた母さんが上がってくる。二十 歳になった母さんは、元から持っていた気品もあるが、年齢を経た ことで女性らしさがすごく増していた。 俺が母さんと風呂に入らなくなったのは、それも理由だったりす る⋮⋮うちの母さんは綺麗だ。授乳してもらっていた頃のことを思 い出すと、顔が熱くなってしまうほどに。 こんな奥さんをもらったリカルド父さんが羨ましい⋮⋮って、息 子の考えることじゃないけど。本当に、そう思う。 水の滴り落ちる身体を隠しもしないで、母さんは俺を座らせると、 後ろに回ってまずは髪から洗ってくれる。前世のシャンプーのよう なものはないが、ハーブを組み合わせた髪を滑らかにする液があり、 それを用いる。 ﹁まだ小さいんだから、もっと母さんと一緒に入りなさいね。お母 さん、ヒロトが一人でお風呂に入れるっていっても、すごく心配な 507 んだから﹂ ﹁ごめんなさい⋮⋮お母さんが良かったら、一緒に入りたい﹂ ﹁悪いことなんてあるわけないじゃない。お母さんは、ヒロトのお 母さんなんだから﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 母さんの言葉を聞いて、俺は悟られてはいけないと思いながら、 久しぶりに泣いた。 リオナのステータスを見たあの時から、生き急ごうとしてばかり いた。少しでも強くなりたい、出来る限りの情報を集めておきたい ⋮⋮そんなことばかりで。 もちろん俺は、今までしてきたことを全部やめたりは出来ない。 スキルを上げることも、クエストも。 それよりも、何よりも⋮⋮父さんと母さんの子供でいる。それが、 生まれてきたことの⋮⋮。 ﹁最近、サラサさんのところでももらってないんでしょう? おっ ぱい﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、そんな、もう俺、おっぱいなんて⋮⋮わっ!﹂ ざば、と頭から湯をかけられて、ハーブ液を流される。頭を振っ て目を開けると、目の前に、二年前より大きく成長した母さんの⋮ ⋮い、いや、だからマジマジ見ちゃまずいのに⋮⋮。 ﹁ヒロトのこと、もうちょっと甘やかしてあげておいた方が良かっ たかなって、父さんともよく言ってるのよ⋮⋮﹂ ︵⋮⋮母さん︶ ﹁子供らしくなくなっちゃうのは、まだ早いわ。もう少しお母さん 508 たちの、可愛いヒロトでいてね⋮⋮﹂ 真正面から抱きしめられる。豊かな膨らみに顔を埋められて、俺 は思う。 どれだけスキルを上げても、どれだけ強くなっても、忘れてはい けないことがある。 ﹁⋮⋮お母さんのお願い、わかった?﹂ ﹁うん﹂ ﹁そう⋮⋮じゃあ、ちょっとだけ。赤ちゃんの頃みたいに⋮⋮ヒロ トは恥ずかしい?﹂ 恥ずかしいも何もなかった。俺は他のことを何もかも忘れて、本 当に赤ん坊に戻ったように、母さんの胸の中に身を預けた。 509 第十三話 子供らしく︵後書き︶ ※次回は明日夜に更新です。 510 第十四話 湖の竜少女 俺がクエストを受けて少しでも町の危険度を減らそうとしていた 一方で、父さんも木こりの仕事で森に出向くたびに、モンスターを 倒していた。少し前にモニカさんたちとクエストを受けたとき、増 えているはずのオークと遭遇しなかったのはそのためだ。 父さんはモンスターが増えている実情をフィリアネスさんを介し て騎士団に伝え、ミゼール周囲のモンスター討伐を要請した。それ と合わせて、ミゼールの冒険者ギルドで自警団を組織する旨が告知 された。 俺がパーティを組んだことのある冒険者たちは、快く自警団に入 ってくれた。期間限定で﹁依頼﹂を使って雇い入れた人も合わせて 十のパーティを作り、彼らの実力に合わせて、余裕を持ってモンス ター討伐をしてもらった。 父さんたちのパーティは、★4クエストの標的に相当する中級ク ラスのモンスターでも問題なく討伐していた。フィリアネスさんた ちも獅子奮迅の働きを見せて、ミゼールの危険度は一週間も経たず に﹁最も安全﹂の段階まで下がった。 ◇◆◇ 森にモンスターが出なくなった。数日そんな状況が続くと、ミゼ ールの子供たちは森に出かけて遊ぶことが出来るようになった。森 511 の浅いところまでだが、狩人や自警団が目を光らせてくれるように なったからだ。 騎士団と自警団がモンスター退治をしているうちは、俺は森に来 られなかった。自分でも森の様子が見てみたくて、一人で行こうと 出てきたのだが⋮⋮いつの間にかリオナがついてきていた。 ﹁ヒロちゃんがいくなら、リオナもいく!﹂ がし、と服をつかまれる。こうなると言っても聞かないことは、 これまでの付き合いで良くわかっていた。 ﹁しょうがないな⋮⋮じゃあ、ずっとくっついてるんだぞ﹂ ﹁うんっ!﹂ アクティブ 森にはラビット系モブは出るが、彼らはこちらから攻撃しないと 戦闘態勢にならないので問題ない。そのために先制攻撃の一撃で狩 られることが多い、ちょっとかわいそうなモンスターでもある。 ︵⋮⋮あれ。何もいない⋮⋮?︶ 動物も、ラビット系モブも出てこない。スライムもたまに出てく るはずだが⋮⋮生物の気配がしない。 静かな森を進んでいく。すると、どこからか水の流れる音が聞こ えてきた。 森の中には綺麗な泉があって、昔はミゼールの娘たちはそこで水 浴びをしていた⋮⋮なんて話も聞いた。おそらく、俺はその場所を 見つけようとしているのだろう。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん﹂ 512 ﹁ん⋮⋮?﹂ リオナが俺の服の裾をつかんで立ち止まる。どうしたんだろうと 思うが、別に周りには何もいない。 ﹁ヒロちゃん、きこえない? ばさばさ、って﹂ ﹁ばさばさ⋮⋮? いや、全然⋮⋮﹂ ︱︱その瞬間。しばらく何も流れなかったログに、不意に文字列 が流れてきた。 ◆ログ◆ ・魔王の力が災厄を呼ぶ⋮⋮あなたの幸運スキルが一時的にゼロに なった。 ・︽リオナ︾の﹁ハプニング﹂が発動してしまった! ︵なっ⋮⋮!?︶ 今までこんなことが起きたことは無かった。俺が近くにいれば、 リオナの不幸を完全に封じられた。 スキルが一時的とはいえ、下げられるなんて⋮⋮そんな攻撃もス テータス異常も俺は知らない。封印されることはあっても、﹁数値 が下がる﹂ことはありえなかった。 喉がからからに渇いて、声も出せなくなる。そんな俺の脳裏に、 さらに追い打ちをかけるようにログが去来する。 513 ◆ログ◆ ・︽リオナ︾は強大な存在を呼び出してしまった! ﹁っ⋮⋮リオナっ!﹂ バサバサという音が、何の音なのか︱︱俺もようやく気づいた。 音は、上方から聞こえてくる。 俺はリオナを連れて、茂みの中に隠れる。森の中を走って逃げれ ば、逆に気付かれる⋮⋮そう判断した結果だった。 ﹁︵ヒロちゃん⋮⋮?︶﹂ ﹁︵しっ⋮⋮たのむ、静かに⋮⋮っ!︶﹂ 茂みの中で息を殺す。そして俺は、上から聞こえてきた音が、途 中で聞こえなくなったことに気がつく。 はためく翼のような音だった。それが、リオナの呼び出してしま った魔物なのか⋮⋮。 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は人間形態に変化した。 ︵ユィ⋮⋮シア⋮⋮魔物に、名前が⋮⋮?︶ 514 俺はログに﹁強大な存在﹂と表記されていたことを思い出す⋮⋮ それが、人の姿に変化したのだ。 ︱︱かすかな水音が聞こえてくる。俺はリオナにそのまま静かに しているように言って、﹁忍び足﹂を発動し、音の方角に近づいて いく。 少しずつ、少しずつ。這うようにして⋮⋮そして茂みの向こう、 開けた視界の先に、一人の少女の姿を見つける。 ︵⋮⋮なんだ⋮⋮あれ⋮⋮︶ そこにいたのは、目の覚めるような青みがかった銀色の髪を持つ 少女だった。 その外見だけで判断するなら、十代前半に見える。彼女は白く透 ける薄衣を身にまとい、湖の浅瀬に立って、ただ遠くを見つめてい た。 人間離れした美貌。いや、間違いなく人間ではない︱︱彼女の頭 には、角が生えていた。そして薄衣の間、臀部の辺りから、なめら かな鱗にまとわれた尻尾が伸び、水に浸されている。 ﹁⋮⋮魔王⋮⋮呼ばれたはずなのに⋮⋮﹂ ︵っ⋮⋮!?︶ 囁くような声が聞こえる。無機質ながらも、その見た目通りの少 女の声だった。 515 ﹁⋮⋮誰⋮⋮?﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ユィシア︾に隠密状態を看破された! ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ユィシア︾があなたに注目した。 ︱︱目が、合った。少女の金色の瞳が、俺の姿をとらえていた。 瞬間に、死を覚悟する。 この森で、一撃で殺されるような相手に遭遇することはない。そ う、たかを括っていた。 ︵⋮⋮この世界は⋮⋮﹃強大な存在﹄がいる場所と、地続きなんだ︶ 強すぎる相手が目の前に現れてもおかしくはない。 リオナが引き寄せてしまったとしても⋮⋮これは、俺のミスだ。 魔王の転生体という事実に、不幸値を上昇させる以外に、何のマイ ナスもないと思っていた。 ﹁⋮⋮人間の子供。魔王では、ない⋮⋮﹂ ユィシアという名の存在が、俺に近づいてくる。その瞳はやはり 人のものではなく、氷のように冷たかった。 俺という存在を、意に介していない。自分と比較して、あまりに も小さなものとしか認識していない。 516 そんな途方もない存在でありながら、目の前に立った少女は、人 外であることを示す角と尾以外、あまりにも人間に近かった。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ユィシア︾は抵抗に成功した。 ︱︱最後の望みが絶たれた。﹁魅了﹂が通じなければ、戦闘にな っても、勝てる気がしない。 なりふりかまわず残ったボーナスポイントを振り、戦闘力を限界 まで上げることを考えもした。 しかし、俺は完全に威圧されていた。思考がまともに働かなけれ ば、ポイントを振ることもままならない。 ﹁⋮⋮魔王は、どこ?﹂ ﹁⋮⋮知ら⋮⋮ない﹂ ︵リオナ⋮⋮無事に逃げてくれ。頼む⋮⋮!︶ 水から上がった少女が、這いつくばっている俺を覗きこむ。俺は その目を見返し⋮⋮そして。 最後にせめて、自分を殺すだろう相手のステータスを、脳裏に開 いた。 517 ◆ステータス◆ 名前 ユィシア 皇竜 女性 13歳 レベル10 ジョブ:エンプレスドラゴン ライフ:1300/1300 マナ :412/432 スキル: 格闘 35 皇竜族 40 恵体 105 魔術素養 36 限界突破 5 母性 15 アクションスキル: パンチ︵格闘10︶ キック︵格闘20︶ 炎ブレス︵皇竜族10︶ 氷ブレス︵皇竜族10︶ 雷ブレス︵皇竜族10︶ テールスライド︵皇竜族40︶ 飛行︵皇竜族20︶ 無敵︵恵体100︶ パッシブスキル: 回避上昇︵格闘30︶ 竜言語︵皇竜族10︶ 518 人化︵皇竜族30︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ 育成︵母性10︶ 残りスキルポイント:30 ︱︱ドラゴン。前世でもいつかボスとして実装されたら、ギルド メンバー全員で倒そうと言っていた相手。 ゲームなら、何度死んで脱落しても、最後のとどめに立ち会えれ ばよかった。しかしこの世界では、そんな戦法は通用しない。 多人数でしか倒せないボス。一度も死なずに倒すことなど、想定 されていない相手⋮⋮それを目の前にしたとき、感じることはひと つだった。 ︵⋮⋮死にたく⋮⋮ない︶ 皇竜ユィシア。残酷なまでに美しい少女は、俺を感情を持たない 瞳で見下ろしている。 彼女が動けば、俺は死ぬ。恵体105から繰り出される攻撃のダ メージに、きっと耐えられない。 ︱︱それでも。 ︵⋮⋮死ねない⋮⋮俺は、まだ⋮⋮っ!︶ 519 俺は立ち上がり、斧を構えた。それを見ても、ユィシアは感情を 動かさない。 ﹁⋮⋮まだ、生きていたいんだ⋮⋮!﹂ そんなことを言って何になるわけでもない。それでも、泥臭くて も、俺は命にすがる。 数秒なのか、それともそれより短いのか。祈りの時間は、不意に 終わりを告げた。 ◆ログ◆ ・あなたの幸運スキルが元に戻った。 ﹁⋮⋮私は宝を守るだけ。魔王に呼ばれたと思ったけど⋮⋮違った﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は竜形態に変化した。 少女の身体が眩い光に包まれたかと思うと、次の瞬間、そこには 銀色の鱗を持つ、優美な姿を持つ竜の姿があった。体長3メートル ほどだが、翼を広げれば、全長は10メートルほどになるだろう。 520 竜は俺を一瞥すると、翼を開き、一気に上空まで飛び上がってい く。そして次の瞬間には、森の木々に阻まれて、その姿は見えなく なっていた。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん?﹂ リオナの声がしたとき、俺はようやく動くことを許された気がし て、息を吐いた。握っていることもできずに、斧が地面に落ちる。 ﹁ヒロちゃん⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮なんでもない⋮⋮なにも、なかったんだ﹂ 俺はリオナを抱きしめていた。リオナはよく分かっていないのに、 俺の背中を叩いてなだめてくれた。 ﹁⋮⋮もう、こわくないよ?﹂ リオナにも分かっていた。俺が、心の底から怯えていたことが。 モンスターを相手にしても、死の恐怖なんて感じなかった。攻撃 が当たらない、もし当たっても死にはしないと分かっていたから。 ﹁ヒロちゃん、かえろっか。ごめんね、リオナ、ついてきて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮だいじょうぶ。もう、だいじょうぶだから﹂ 俺は心底の恐怖の向こう側にある光を見ていた。 エンプレスドラゴン、ユィシア。彼女の持っていたスキルは、俺 の脳裏に刻み込まれている。 決してその強さに辿りつけないわけじゃない。俺のスキルがあれ 521 ば、準備さえ整えれば、手に入れられるかもしれない。 ︵この世界のスキルは、100で打ち止めじゃなかった⋮⋮100 より、さらに上があるんだ︶ ﹃限界突破﹄。ユィシアが5だけ所持していたスキル。その効果 が、恵体100の上限を超えることを可能にしていたのなら⋮⋮そ れが、皇竜という種族の固有スキルなら。 ︱︱どうしても、欲しい。この世界の全てを知り尽くすために、 俺にはまだ強さが足りない。 ﹁リオナ⋮⋮今見たことは、みんなにはヒミツな﹂ ﹁リオナ、なんにも見てないよ。なんにも見てない﹂ ﹁うん⋮⋮ありがとう。うちに帰ったら、またあそぼうな﹂ ﹁わーい♪ ヒロちゃんだいすき!﹂ リオナが抱きついてくる。そうしているうちに、今しがた味わっ た絶望が薄れていく。 そして俺の中に、どれだけ無謀であっても、成し遂げなければな らない目標が生まれる。 交渉術95で覚える﹁隷属化﹂。調教師より習得が遅すぎるため、 テ 誰も交渉術を上げて取れると知らなかったスキル⋮⋮俺も、ほぼお まけみたいなものだと思っていたけれど。 イム ︱︱条件を揃え、﹁隷属化﹂を発動させ、あのドラゴンを必ず調 教してみせる。 522 その時俺は、ゲームの頂点に居ても知らなかった領域を知るだろ う。文字通り、限界を超えることで。 ﹁ヒロちゃん、どうしたの? うれしそう﹂ ﹁ん⋮⋮なんでもないよ﹂ 限界突破を1取得した直後に、ボーナスを99振る。それが出来 れば、俺のスキルは全て200まで上げられるようになる。 ︱︱こういう希少なスキルのために、ボーナスポイントを残して きたようなものだ。けれど、今の状態でユィシアと戦っても、数秒 で負ける。 ︵あと何年で、あいつを前にしても怯えずにいられるようになれる だろう︶ 馬鹿だと言われるかもしれないが、俺はもう一度、強くなってか らユィシアに会うときのことを心待ちにしていた。勝てるわけがな いボスを、手を尽くして撃破してきた頃の気持ちを思い返して。 ◇◆◇ リオナを連れて家に帰ると、サラサさんが訪ねてきていた。レミ リア母さんとお茶会をしていたのか、テーブルの上にカップが置か れている。 ﹁おかえり、ヒロト。あら、リオナちゃんと一緒だったの?﹂ ﹁うん。ちょっと、遊んでたんだ﹂ 523 ﹁ヒロちゃんとあそんでたの! おなかすいた!﹂ 花より団子というか何というかだ。リオナはテーブルの上にあっ た焼き菓子を、サラサさんに取ってもらって食べ始める。ぼろぼろ とこぼしながら、ハムスターのように食べる姿⋮⋮まあ、可愛いと いえば可愛いけど。 ﹁レミリアさん、それで、先ほどのお話ですが⋮⋮﹂ ﹁ええ、ちょっとうちの子にも聞いてみるわね。ヒロト、サラサさ んが、お泊まりに来ないかって誘ってくれてるんだけど、どうする ?﹂ ﹁⋮⋮え、えっと。いいの?﹂ ﹁ふぁぁっ、ヒロちゃんがおうちにくるの!?﹂ ﹁ああ、リオナったら⋮⋮そんなにこぼして。めっ﹂ 食べている途中で俺のところに来ようとするリオナを、サラサさ んがつかまえて口を拭く。リオナはちゃんと拭いてもらったあとに、 子犬のようにはしゃいで俺のところにやってきた。 父さんは将来可愛くなるだろうと言ってたけど、それは間違いな いと思う。しかしなんというか、俺の精神年齢からすると、光源氏 かよと思わざるをえない。 ﹁ヒロちゃん、リオナといっしょにねてくれる?﹂ ﹁私もリオナと一緒に寝ていますから、三人でということになりま すね⋮⋮﹂ 娘と同様に、いや、それ以上に嬉しそうなサラサさん。ハーフエ ルフだから、出会った頃と見た目がほとんど変わっていない。おっ とりした美人で、見るからに癒される雰囲気のままだ。 524 最近はクエストをしてない日はスキル上げをしたり、リオナをか まう日々だったから、サラサさんとは接する機会が減っていた。今 日顔を合わせるのも久しぶりで、何か新鮮な感じがする。 魅了が発動しないようにオフにしているのも大きい。パーティに 入ってる人にはかからないのでいいが、サラサさんは一定範囲に入 るとかかってしまう。リオナはペンダントの耐性で防いでくれるけ ど。 ﹁ヒロト、サラサさんに迷惑かけちゃだめよ﹂ ﹁う、うん⋮⋮お母さん、じゃあ行ってくる﹂ ﹁ええ、行ってらっしゃい﹂ 久しぶりに一緒に風呂に入ってから、できるだけ母さんに甘えさ せてもらっていたので、泊まりに行くのも止められるかと思ったけ ど、その辺りはさっぱりしているな。 ﹁もう少ししたら、うちに行きましょうか﹂ ﹁うん! ヒロちゃん、リオナといっしょにおふろはいろ!﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ ︵って、ちょっと待て⋮⋮い、いいのか? こんな小さい女の子と 一緒にお風呂とか、犯罪じゃないか?︶ 十六歳だった俺の精神が、幼女に対しての接し方に迷いを覚えて いる。いや、子供の頃は旅行先の風呂なんかで、お父さんと着替え ている幼女の裸を見てしまったりはしたが、そのときは俺も小さか った。 525 ﹁ヒロちゃん、はいろ?﹂ ︵⋮⋮ま、まあ、逆にいいのか。もうちょっと成長したらまずいけ ど︶ ステラくらいまで大きくなると、微妙に発育の兆しが見られたり して、ダメな感じがし始める。今ならまだ許容範囲だ、そういうこ とにしておこう。 ﹁ヒロト、リオナちゃんと入るの恥ずかしいんでしょ。この子った らませてきちゃって﹂ ﹁大丈夫ですよ、私もリオナと一緒に入りますから﹂ まったく大丈夫ではないなと思ったけれど、反論の余地はなかっ た。友達のお母さんに風呂に入れてもらうというのも、まあ、前世 においても絶対に無いカルチャーではないだろう。 ︵俺の精神が、年齢通りならだけどな⋮⋮︶ ﹁わーい、ヒロちゃんとおふろっ、おふろっ♪﹂ ﹁ふふっ⋮⋮うちの娘ったら、こんなに喜んで。私まで嬉しくなっ てしまいます﹂ 上品に笑うサラサさん。レミリア母さんも昔はサラサさんに嫉妬 したりしていたけれど、すっかりそんなこともなくなったな。 魅了が切れてしまえば、そんなものだろう⋮⋮と思ったけど。好 感度は、高いままなんだよな。 526 ◆交友関係◆ ・︽サラサ︾はあなたに心身共に捧げ尽くしている。 ・︽リオナ︾はあなたになついている。 ・︽レミリア︾はあなたの母親だ。 どうやら年齢によって好感度の表記が変わるらしい。ゲーム時代 は数字で表示されていたから、好感度100で結婚できると言われ ていて、結局実装されなかった。プレイヤー間の結婚システムは存 在したが。 孤高のギルマス︵︶を気取っていた俺は結婚はするつもりないと 言っていたけれど、関心がなかったといえばそれは嘘になるという か何というかだ。恋愛沙汰の話題になると途端に脳みその働きが鈍 くなるのは、前世でうまくいかなかったからだろう。それは仕方な い、修正していくしかない。 ﹁⋮⋮実は今日、うちの夫が知人同士の集まりで、帰ってこないん です﹂ ﹁え、ええと⋮⋮私にそれを言われても、ハインツさんもお酒が好 きだから仕方ないわね、としか言えないんだけど﹂ ハインツさんがいないのか。それなら、男がいないとちょっと心 配ということもあるかもしれない⋮⋮って、俺を男手としてカウン トするわけもないか。 ミゼールは平和になったわけだし、犯罪もほとんど起こらない。 レミリア母さんも何も心配してないし、無邪気にお泊まりを楽しん でくるとしよう。 527 ◇◆◇ サラサさんの家の風呂場は、うちより設備としては整っていない が、俺が割った薪を使ってもらっているので風呂を沸かす燃料的に は不自由していない。 ﹁風呂が沸きましたよ奥さん。ハインツの奴、飲み歩くのもほどほ どにしろって言ってるんだが﹂ ﹁いつもすみません、リカルドさん﹂ リカルド父さんが、サラサさんの家まで風呂を沸かしに来てくれ た。俺もできるのだが、まだ危ないと言われて火元には手を出させ てもらえない。 ﹁ヒロト坊、父さんはこれで帰るけど、困ったことがあったらすぐ 呼ぶんだぞ﹂ ﹁うん、ありがとう父さん﹂ ﹁おう、最近はしっかり返事するようになったな。えらいぞ﹂ 父さんが頭を撫でてくれる。それを、リオナとサラサさんが笑顔 で見ているのが照れくさかった。 ﹁レミリアさんにも、よろしく伝えておいてください﹂ ﹁ええ、言っておきます。うちの子をよろしく頼みます﹂ こういうとき、父さんはすごく礼儀正しくなる。深く礼をする姿 に、騎士の頃もそうだったのだろうか、と想像した。 528 父さんが帰っていったあと、俺たちは風呂に入る準備を始める。 リオナはサラサさんに服を脱がせてもらい、あっという間にかぼち ゃパンツも脱いでしまった。 ﹁ヒロちゃん、リオナのほうがはやいよ。えらい?﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮えらいえらい﹂ ︵今はいいけど、将来黒歴史にならないか心配だな⋮⋮こんな、す っぽんぽんで︶ そして俺も裸になる段になって、サラサさんには見られたことが ないな、と今さらに気づく。すると、急に恥ずかしくなってきてし まった。 ﹁ヒロトちゃん、いつもお母さんに脱がせてもらってるんですか? ふふっ⋮⋮じゃあ、今日は私が代わりに⋮⋮﹂ ﹁あっ⋮⋮﹂ サラサさんに服を脱がせられるいたいけな俺。そんな奥さん、俺 は米屋じゃありません、木こりの息子です。何を言っているのだろ う。 そして服を脱がせられたあと、俺は目の前にいるサラサさんの姿 を見て、氷系魔法の直撃を受けたかのように硬直した。 ﹁ヒロトちゃんのおうちよりは小さいですが、代わりばんこで入り ましょうね﹂ ︵相変わらず、この人は⋮⋮俺の中では、世界一位のマウンテンを 529 お持ちだ︶ 風呂に入るときは、サラサさんは耳を隠さなかった。人間とエル フの中間の、長い耳⋮⋮。 リオナは人間にしか見えないが、正体は夢魔だ。やはり、二人の 間に血のつながりは⋮⋮、 ﹁ヒロちゃん、あらいっこしよ?﹂ ﹁っ⋮⋮り、リオナっ、ペンダントは!?﹂ ﹁? ヒロちゃん、おふろ入るときはとってもいいっていったよ?﹂ ︱︱それはそうなんだけど、そうなんだけど⋮⋮! ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の﹁魅了﹂が発動した! あなたは抵抗に失敗、魅了 状態になった。 ︵しまったっ⋮⋮!︶ こ、これが魅了⋮⋮やばい、リオナがめちゃくちゃかわいく見え る。 妹にしたい、なんでもしてあげたい。頬ずりとかとにかく何でも 色々したい。 そして俺が導き出した、この狂おしい気持ちを、子供らしい範囲 で表現する方法は⋮⋮。 ﹁り、リオナ⋮⋮あらいっこしよっか﹂ 530 ﹁うんっ♪﹂ ﹁ヒロトちゃん、お風呂に入る前から顔が赤いような⋮⋮大丈夫で すか?﹂ 頬に手を当てて心配そうにするサラサさん。彼女がまったく前を 隠していなくて、その類まれなるスタイルを眼前にさらしていても、 俺の頭はどうしようもないほどリオナのことで埋め尽くされていた。 ◇◆◇ ﹁ヒロちゃん、ありがとー♪﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ リオナのちっちゃい背中を洗いながら、俺もサラサさんに洗われ ている。しかし俺はリオナがあまりに可愛く見えすぎていて、他の ことは考えられなかった。 ︱︱なんで俺、今までリオナに邪険にしてたんだ? そんなこと していいわけないだろ、こんな可愛いリオナに。今は小さくても可 愛いけど、大きくなったらもっと大変なことになるぞ。今のうちか らっていうか、今からリオナ様に全てを捧げ尽くして、崇め奉るべ きだ。そうだこの愛しさを歌にしよう! ﹁ふんふふんふ∼ん♪﹂ ﹁リオナったら、そんなにはしゃいで⋮⋮私もヒロトちゃんに洗っ て欲しいです﹂ ﹁う、ううん、今はリオナをあらってるから﹂ 531 サラサさんにはすまないが、今の俺にはリオナしか見えていない。 彼女のデリケートな肌を出来る限り丁寧に洗わなければならないの だ。恐れ多い部分は自分で洗ってもらい、俺に許される範囲で⋮⋮、 ﹁⋮⋮その次は、私も洗ってくれますか? ヒロトちゃん⋮⋮﹂ ⋮⋮あ、あれ。何か、サラサさんの声の感じが変わったような⋮ ⋮。 そう思って振り返ると、サラサさんがびっくりするくらい切なそ うな目で俺を見ていた。 ﹁せっかくおうちに来てくれたのに、リオナのことばかり⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮え、えとっ⋮⋮その⋮⋮﹂ こ、子供の俺に嫉妬を⋮⋮サラサさん、そこまで楽しみにしてく れてたんだ。 しかし魅了されている俺は、どうしてもリオナの方に意識が向い てしまう。 ﹁おかーさん、リオナ、ヒロちゃんにあらってもらった!﹂ ﹁ええ⋮⋮綺麗になりましたね。リオナ、先にお風呂に入れてあげ ます﹂ サラサさんはリオナに優しく答えると、湯の温度を見てから娘の 身体を流し、浴槽に浸からせる。 ﹁わーい♪﹂ 潜ったりして遊んでいるリオナ。俺も一緒に入りたい⋮⋮と思っ 532 たときのことだった。 ◆ログ◆ ・あなたの魅了状態が解除された。 ︵⋮⋮そ、そうか⋮⋮俺には効果時間が短いんだ⋮⋮︶ 俺も魅了スキルを持っているから、他人の魅了に対して抵抗力が ある。効果が切れるのも、他の人より早いわけだ。しかしリオナが 成長したら、魅了が解けるかどうか⋮⋮。 ﹁ヒロトちゃんは、まだお風呂に入っちゃだめですよ⋮⋮? 私が 洗ってあげますから﹂ 正気に戻った俺の前に、さんざんじらされてしまったからか、物 凄く色っぽくなっているサラサさんの姿があった。 ︵⋮⋮じらしプレイは彼女には厳禁だな。いや、プレイて︶ 魅了が効いているあいだはリオナに夢中になっていたが、解けた 途端にサラサさんの色気になびく俺。まるで風に吹かれるままに飛 んでいく一反もめんのようだ。 ﹁背中は洗い終わりましたから⋮⋮次は⋮⋮﹂ ︵ま、前は⋮⋮前はらめぇぇぇ!︶ 533 サラサさんが素手で石鹸を泡立て始める。俺はそれを見ながら、 いたずらに女の人の好感度を上げまくったことを、今さらにちょっ ぴり後悔していた。 ◇◆◇ リオナはお風呂から上がった直後は元気だったが、そのうち俺よ り早く眠くなり、ベッドですやすやと寝息を立て始めた。 寝る子は育つというし、俺も眠くなってきた⋮⋮そろそろ寝るか。 そう思っていると、サラサさんもランタンの明かりを消して床に入 った。 リオナ、サラサさん、俺の順で、川の字になって眠る。ハインツ さんはいつも違うベッドで寝ているらしかった。うちの父さんと母 さんはもともとは一緒に寝ていたが、俺が生まれてからは別々に⋮ ⋮と考えて、俺は今、両親がどうしているかを想像し、気恥ずかし くなった。 ︵父さんと母さんはまだ若いからな⋮⋮こういう機会が何度かあっ たら、いつか弟か妹が出来るかもな︶ ﹁ヒロトちゃん、すみません。うちのベッドは、おうちより硬いで すよね⋮⋮﹂ ﹁う、ううん⋮⋮ねごこちいいよ﹂ ﹁良かった⋮⋮リオナ、肩を出して寝ちゃいけません﹂ ﹁むにゅ⋮⋮おなかいっぱい⋮⋮﹂ 534 何やら寝言を言っているリオナの肩まで毛布をかけたあと、サラ サさんは俺の方を向く。 比較的暖かい夜だからか、彼女は薄い布地の寝間着を着ている。 その襟元から覗く深すぎる谷間は、とても直視できないくらいのも のだった。 ︵⋮⋮い、いや、普通に覗いちゃだめだよな。子供だからといって︶ しかし、どうしても目がそらせない。サラサさんに気付かれては いけない、そう思いながら、俺は彼女の顔を見上げる。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、今日、リオナと外に出たとき⋮⋮何かあった んですか?﹂ ﹁っ⋮⋮ど、どうして⋮⋮﹂ ドラゴンに会ったことは、リオナには秘密にしてもらうように頼 んだ。ずっと一緒だったから、教える時間はなかったはずだ。 ﹁リオナと二人で帰ってきたとき、ヒロトちゃんが、少し震えてい たように見えたんです﹂ ﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂ 自分では、いつかあのドラゴンをテイムすると決めて、それで吹 っ切れたつもりでいた⋮⋮けれど。 あの異常な能力値を見た時に感じた恐怖は、拭い去れなかった。 あの無感情な瞳で見られた時の、何もできないという絶望も。 ﹁⋮⋮怖い思いをしたんですか?﹂ ﹁⋮⋮なんでも⋮⋮﹂ 535 何でもない。そう言う前に、俺はサラサさんの胸に抱きしめられ ていた。 ﹁いいんですよ⋮⋮私は頼りないかもしれませんけれど、大人なん ですから。私の前では、強がらなくていいんです⋮⋮﹂ 石鹸の香りと、サラサさん自身の甘い香りに包まれる。深い安堵 が胸に満ちる⋮⋮それは母さんに抱きしめられた時とも違う、どこ までも優しい抱擁だった。 ﹁安心して、眠ってください⋮⋮私も、リオナも、そばにいますか ら﹂ ﹁⋮⋮うん。ありがとう、サラサさん﹂ そうして名前を呼んだとき、俺は気づいた。彼女の名前を呼ぶの は、これが初めてだったということを。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃんに触ってもらうと、私も安心するんです。です から⋮⋮少しだけ⋮⋮﹂ サラサさんが俺の手を取る。そして、少し緊張した面持ちで、自 分の胸にぺた、と触れさせてくれた。 それだけで伝わってくる、圧倒的なボリューム感と弾力。久しぶ りに触れてみると、その凄さがよく分かる︱︱やはりこの人の﹃母 性﹄は高すぎる。 ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾から﹁採乳﹂した。 536 ・﹁薬師﹂スキルが上がった! ﹁あたたかい⋮⋮やはりヒロトちゃんに触れてもらうと、ほっとし ます⋮⋮昔もそうでしたが、今は、もっと⋮⋮﹂ 寄り添って触れているだけなのに、サラサさんにそれほどの安心 感を与えてあげられている。 それなら俺もスキルのことを考えず、こうして抱かれて眠ってい るだけでもいい。そう思ったのだが︱︱。 サラサさんは何かに気づいたように、ゆったりした服をはだける。 すると、いつかのように、乳がこぼれてしまっていた。俺はそれを 手ですくって舐める︱︱搾乳なんてしなくても、こうして溢れてく る分だけでも十分に甘い。 ︵⋮⋮リオナがすぐそこで寝てるのに、俺は何を⋮⋮い、いや。乳 離れしてもお乳が出ちゃうんだから、しょうがないな︶ ﹁すみません、ひとりでに出てきてしまって⋮⋮ヒロトちゃん、良 かったら全部もらってくださいね⋮⋮﹂ あとからあとから溢れてくるサラサさんのミルク。それはまさに、 神秘の泉から湧き出るスキルのしずくだった。 こぼれそうになるしずくを手で受けては舐めることを繰り返す俺 を、サラサさんは慈母スキルを持っている彼女らしく、慈しみに満 ちた瞳で見つめていた。 537 第十四話 湖の竜少女︵後書き︶ ※次回は少し年数が経過します。 538 第十五話 炎の斧と雷光の細剣 二歳から四歳までの間、俺は両親に心配をかけないよう、クエス トではなく﹁指導﹂を受けることを中心としてスキルの習得、鍛錬 を行った。 ﹁育成﹂﹁指導﹂などの教育スキルを持っているキャラクターか らは、好感度を一定以上に上げたあとに﹁依頼﹂することで、確率 でスキルを取得することができる。依頼するとき、アイテムやお金、 あるいは仕事などを代価として支払う必要はあるのだが。 ゲーム時代はすべてのキャラにプレゼントなどをすることはでき マギアハイム なくて、好感度を上げられるのは一部のキャラだけだったが、この 異世界は違う。接触することの出来るキャラクターなら、理論上は 誰でも好感度を上げられる。 特に集中的に鍛錬したのは神聖剣技だ。フィリアネスさんは﹁育 成﹂を持っているので、三歳の頃から彼女に頼んで教えてもらうこ とで、飛躍的にスキルが伸びた。合わせて斧スキルが薪を割り続け るうちに徐々に伸び、二年で50の大台に到達したので、剣マスタ リーは取らず、魔法剣スキルを斧装備で発動させるという変則的な 形を取っている。 魔法剣に必要な魔術は、冒険者の名無しさんから法術を、そして 同い年の友達のミルテのおばば様から精霊魔術を教わった。フィリ アネスさんも精霊魔術を使うが、おばば様は﹁ミゼールの魔女﹂と 呼ばれるだけあって、精霊魔術スキル50を超える高位の魔術師だ ったし、毎日通えるところに住んでいるので指導を受けやすかった。 539 他に白魔術もサラサさんに教わって習得しているが、これはまだ初 歩の治癒術を使えるのみでとどまっている。 ミゼールの魔女を﹃おばば様﹄と恭しく呼んでいるのは、彼女が 弟子入りするならそう呼ぶようにと言ったからだ。ネリス・オーレ リア、それがミゼールの魔女の本名である。 ﹁ヒロトよ、お主も中級までの精霊魔術を使いこなせるようになっ た。そろそろわしに教えられることは何もないぞ、ミルテと外で遊 んでくるがよい﹂ ﹁そんなことないよ。お祖母様は教えたくないかもしれないけど、 おれはもっと魔術を究めたいんだ﹂ ﹁ふむ⋮⋮まあ、そこまで言うのならば、試してやっても良かろう。 しかしこれ以上を求めるならば、それなりの危険を侵さなくてはな らぬ。マンドラゴラを抜くなどは、まだ易しいほうの修行じゃから な﹂ マンドラゴラ︱︱おばば様が育てている、根菜に似た植物である。 抜くときに﹃おぞましい金切り声﹄を上げ、抜いた人間のマナに4 00の固定ダメージを与えてくる。これを耐えればマンドラゴラを 手に入れられるが、魔術素養が低いと発狂して一巻の終わりだ。 精霊魔術を30にするための﹁指導﹂の代価として、おばば様は マンドラゴラをどんな手段を使ってもいいので抜くようにと言って きた。マンドラゴラはテイムしたモンスターに抜かせるのが主流な のだが、俺はせっかく育てたスライムを死なせたくなかったので、 自力で抜いた。死ぬかと思ったが、マナが激減してから回復する過 程で経験値が入り、魔術素養が上がった。 もちろん事故で抜かれたりしないように、マンドラゴラはおばば 540 様の庵の地下、鍵をかけた扉の向こうで栽培されている。マンドラ ゴラは素晴らしいことに食べるだけで魔術素養の経験値が莫大に得 られるのだが、修行で抜いた一本の一欠片しか食べさせてもらって いない。それでもスキルが3上昇したから良いのだが。俺の魔術素 養は40となり、最大マナは500を超えた︱︱ここまで来ると、 魔法の連発を躊躇することがなくなる。 おばば様は後日、マンドラゴラの用途について教えてくれた。人 形のような形をした不気味な人参だが、どうやら魔術素養の上昇以 外にも薬効を秘めているらしい。 ﹁お主の抜いたマンドラゴラじゃがな、実は秘薬の材料にも使われ るのじゃ。万病に効き、死地にある人間すらも完全に回復させる、 薬師の秘中の秘⋮⋮エリクシールと呼ばれる薬じゃ﹂ ﹁エリクシール⋮⋮そんなすごい薬があるんだ﹂ ゲームに﹁完全回復アイテム﹂は存在しなかった。ポーションを 飲むと徐々にライフが回復するし、マナも同じだ。一瞬で完全回復 できるなら、そのアイテムを連打すれば理論上は強ボスも倒せてし まうことになる。それができないからこそ、難易度が崩れずに保た れていた。 ﹁それを作るためのレシピは持っているが、材料が足りぬ。材料を 全部揃えられたら、作った薬は半分お主にくれてやろう。上級精霊 魔術に開眼するための手助けも、してやらんでもない﹂ ﹁うん! おれ、いつか絶対集めるよ!﹂ おばば様の依頼をこなすことで進む﹁精霊魔術﹂の習得クエスト は、こうして進行していく。自力でも上げられるが、クエストに沿 って習得した方が効率がいい。 541 ﹁一生をかけても集められるかどうか、という品ばかりじゃがな。 上級精霊魔術など、一介の人間が持つべき力ではすでにない⋮⋮あ の聖騎士フィリアネスは、既に習得しておると聞いたがのう。あの 娘もまた、もはや人の領域を離れつつある。人間がそこまで強くな って、どうすると言うのじゃろうな﹂ おばば様はいかにも魔女というとんがり帽子の奥にある、深い皺 の刻まれた瞳を細める。口元はフードで隠されていて目しか見えな いが、俺にはその瞳は時折優しい色を宿すように見えた。 孫娘のミルテを見るときの目が、特にそう感じさせる。俺の傍で じっと話を聞いているミルテを見やると、おばば様はしわだらけの 手で彼女の頭を撫でた。 ﹁ミルテや、ヒロトと遊んでおいで。この子はまだ、わしの魔術の 全てを知るには早い。代わりに、おまえの魔術を見せておあげ﹂ ﹁えっ⋮⋮ミルテ、魔術が使えるようになったのか?﹂ ﹁⋮⋮使える。猫さんになって、にゃーにゃーする﹂ ︵⋮⋮そんな魔術、あったっけ? モノマネか?︶ ﹁ミルテの使う魔術は、わしとは違う﹃獣魔術﹄じゃ。なんじゃお 主、知らんかったのか?﹂ ﹁獣⋮⋮魔術⋮⋮﹂ そこまで言われて、俺はようやく思い出した。 ビーストリング エターナル・マギアのバージョンアップで、次に追加される予定 だった3つの職業。そのうち一つが、獣魔術師という名前だったよ うな⋮⋮。 542 ﹁⋮⋮森の中で見せる。ついてきて﹂ ミルテは俺の手を引くと、おばば様の庵の外に連れ出す。すっか り森は平和になっていたが、今は普通にラビット系のモブが湧いて いた。草を食べているだけなので、特に害はない。 俺がミルテと知り合ったのは、おばば様とサラサさんが知り合い で、リオナがミルテのことを教えてくれたからだった。ミルテはい つも一人で遊んでいて、寂しそうだから一緒に遊ぼうと、初めはそ う言われたのだが⋮⋮。 ﹁⋮⋮おばばさまの前ではああいったけど、にゃーにゃーするのは、 ちょっとはずかしい﹂ ﹁そ、そのにゃーにゃーって何なんだ?﹂ ﹁じゅうまじゅつ﹂ ﹁そう、それ⋮⋮おれ、見たことないからどんなのか楽しみだな﹂ おばば様と違う系統の魔術ということは、ミルテの母親か父親が 獣魔術師で、そのジョブを継いだと考えられる。俺は子供同士でス テータスを見ることはしてこなかったので、ミルテがどんなスキル を持っているのかは知らなかった。 ﹁ヒロトのまじゅつもみせて。そうしたら、わたしもみせる﹂ ﹁ちょ、ちょっと待った⋮⋮近い、近いから﹂ ミルテは二歳の頃は髪を短くしていたが、今は少し髪を伸ばすよ うになり、睫毛も長くなって目がぱっちりとしてきた。たれ目気味 のリオナに対して、ミルテはつり目だ。 543 彼女は昔から、俺と話すときに徐々に近づいてきて、最後には鼻 先が近づくくらいまで接近してくるくせがあった。﹃いいにおいが するから﹄らしいのだが、自分では良くわからない。 ﹁⋮⋮くんくん⋮⋮ヒロト、リオナのにおいがする。今日、あそん だ?﹂ ﹁あ、朝、一緒にご飯食べたからかな⋮⋮﹂ ﹁そう﹂ あまり感情を表に出さない子だが、なんとなく言いたいことは伝 わってくる。 一人で遊んでいた頃も、最初は寂しがっていたなんて思えないく らい淡々と落ち着いていたけど、だんだん、それは﹃寂しいという ことすら知らなかった﹄からだとわかってきた。 ﹁⋮⋮私のまじゅつ、他の子にはないしょにして﹂ ﹁う、うん⋮⋮分かった。じゃあ、俺が魔術を先に見せるな﹂ ミルテは胸に手を当てている⋮⋮どきどきしている、ということ らしい。 おばば様との修行はミルテに見せてなかったので、披露するのは これが初めてだ。一番簡単な精霊魔術を見せてあげよう⋮⋮。 脳裏に開いたウィンドウで、精霊魔術レベル1、炎属性を選択す る。そして、表示された呪文を詠唱した。これを暗記すると、呪文 の発動を早く出来るわけだ。 サモンウィスプ ﹁炎の精霊よ⋮⋮我が下に来たりて、闇を照らす明かりとなれ! ﹃炎霊召喚﹄!﹂ 544 ◆ログ◆ ・あなたは呪文を詠唱している⋮⋮。 ・あなたの精霊魔術が発動! 炎のウィルオウィスプを召喚した! 俺が両手を前に差し出すと、マナを消費して精霊が呼び出される。 ウィルオウィスプは下級精霊で、魔力の塊がほんの少しだけ意志を 持ったような存在だ。簡単な命令に従い、空中で静止したり、周囲 を同じ軌道で回り続けたりする。炎属性のウィスプは、よく明かり として使われていた。 ﹁⋮⋮すごい。火が、とびまわってる﹂ ﹁ぶつかってもそんなに熱くないけど、気をつけてな﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ ミルテは澄んだ瞳に炎の光を映し、じっと眺め続けている。リオ ナに見せたときもそうだったな⋮⋮今はもう、二歳の時と比べて落 ち着いてきたから、追いかけまわしたりはせずに見つめていた。 ◆ログ◆ ・あなたが召喚したウィルオウィスプは消滅した。 上級魔術なら精霊に戦わせたりもできるが、初級魔術では一時的 に呼び出すのみに限られる。消滅したというが死んだわけではなく、 精霊界に帰っただけだ。 545 ﹁つぎは、わたしが見せる⋮⋮見てて﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ 正直を言って緊張してしまう。獣魔術⋮⋮ミルテの話だけ聞いて いると、ネコを呼び出したりするんだろうか。そんなことができた ら、今の魔術よりずっとレベルが高い気がするのだが。 ﹁⋮⋮わがからだは、やまねこの、けしんとなる⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽ミルテ︾は呪文を詠唱している⋮⋮。 ・︽ミルテ︾の獣魔術が発動! ︽ミルテ︾は一時的に山猫の力を 宿した! ﹁っ⋮⋮ん⋮⋮んんっ⋮⋮﹂ ミルテの身体が淡い光に包まれる。そして、ところどころにふさ ふさした毛が生えてきて⋮⋮。 ︵こ、これは⋮⋮獣魔術って、もしかして⋮⋮自分を獣にする魔術 なのか⋮⋮?︶ 完全に猫になるわけではない。耳がふさふさの毛で猫っぽくなり、 しゅるりと尻尾が伸び、ところどころがモフモフとした毛に覆われ ていく。他の部分は元のミルテから全体的に少しずつ、ネコっぽく 変化しただけだった。 546 しかし⋮⋮元から猫のようなところのあったミルテには、その姿 がとても似合う。栗色の体毛を持つ猫耳娘と化したミルテは、もふ もふした手を舐めて、雨乞いでもするように顔をこすっていた。 ﹁⋮⋮おばば様は、こうしたら、つよくなるっていってた﹂ ﹁ネコみたいに、はやくなったりするってことか?﹂ ﹁うん。今だったら、木にものぼれるにゃ﹂ ﹁⋮⋮にゃ?﹂ 語尾に﹁にゃ﹂がつくとか、それは副作用か何かだろうか。らし いといえばらしいが、いつものミルテから想像がつかなくて、つい 聞き返してしまう。 ﹁⋮⋮だからないしょにしてっていった⋮⋮にゃ﹂ ﹁そ、そっか⋮⋮どうしても言っちゃうんだな。でも、いいんじゃ ないか? 可愛いし﹂ ﹁っ⋮⋮か、かわいくにゃい⋮⋮っ!﹂ ミルテの顔が真っ赤になり、耳としっぽがピンと立つ。 ︵いいよな⋮⋮猫耳は。猫耳のキャラって、ゲームにはいなかった もんな。ネコミミバンドはあったけど︶ 俺はケモナーの素質があったらしい、としみじみ思う。ミルテの 猫化が似合いすぎているだけなのだが。 しかしそんな俺を見ているうちに、ミルテは四歳にして既に会得 していたジト目で俺を見ていた。 ﹁はずかしい⋮⋮ヒロト、おしおきする﹂ 547 ﹁えっ⋮⋮な、なんでっ⋮⋮うわっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ミルテ︾はあなたに飛びかかった! あなたはマウントを取ら れた。 ︵ま、マウント⋮⋮こんなにあっさり取られるなんて⋮⋮!︶ 一部の格闘系スキル、あるいは﹁跳躍﹂などで相手の上を取った とき、時々起こる特殊な状態︱︱それがマウントである。こうなる と、マウントを外すまで一部の行動以外を封じられてしまう。 ﹁⋮⋮ヒロト、おしおき⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ご、ごめん、ミルテ!﹂ 俺はポーチに入れていた、あるアイテムを取り出す。薬の材料に も使うので、メルオーネさんに手に入れてもらったのだが⋮⋮今の ミルテに効くだろうか。 ◆ログ◆ ・あなたはマタタビの袋を開けた! ・周りにいる猫が酔っ払ってしまった! ﹁ごろごろにゃ∼﹂ ︵特徴的なログだな⋮⋮どうやら女神は猫好きらしい︶ 548 女神がログの文章を作っているかは知らないが、そんなことを考 えつつ、俺はミルテの方を見上げて⋮⋮。 ﹁⋮⋮ごろごろにゃ∼﹂ ﹁っ⋮⋮み、ミルテ、ちょっとっ⋮⋮!﹂ 顔を真っ赤にして酔っ払ったミルテは、俺の上に覆いかぶさって、 胸のあたりに頬ずりしてくる。 ﹁ヒロトがいっぱいいる⋮⋮ぺろっ﹂ ﹁わっ、く、くすぐったいって﹂ マタタビを舐めたくなるならわかるが、ミルテは俺のほっぺたを 小さな舌でぺろぺろと舐めてくる。何度も、何度も。 ︵⋮⋮なんだろう。ほんとに子猫に舐められてる感じだ︶ 最初は焦っていた俺だが、酔っ払ったミルテの幼い仕草を見てい るうちに気持ちが落ち着いてくる。 ﹁ぺろっ、ぺろっ⋮⋮ごろごろ⋮⋮にゃっ、うにゃんっ﹂ ﹁ごめんな⋮⋮マタタビなんか使って﹂ マウントが自然に解除されたが、ある意味でマウントされ続けて いる。ごろごろとなついているミルテの背中を撫でてやると、彼女 は気持ちよさそうに喉を鳴らした。 ◆ログ◆ 549 ・︽ミルテ︾の獣魔術が解除された。 山猫の化身となっていたミルテが、元の姿に戻っていく。耳が元 に戻り、身体の一部を覆っていたふさふさの毛がしゅっと消えた。 異世界ならではの、いかにも幻想的な光景だ。 ﹁⋮⋮ごろごろ⋮⋮﹂ ﹁み、ミルテ⋮⋮もう元に戻ってるぞ?﹂ ﹁⋮⋮にゃん?﹂ 気づいてないのか、それともちょっと猫化があとを引いているの か。また恥ずかしくなっても知らないぞ⋮⋮と思っていると。 ﹁⋮⋮みんな、ヒロトとミルテは、何をしてると思う?﹂ ﹁えーと⋮⋮たぶん、じゃれあってるんだね﹂ ﹁うぉぉヒロト、なんかわかんないけど男らしいぞ!﹂ ︵み、見られた⋮⋮けど、別に致命的でもないか、一人を除いて︶ ステラ、アッシュ、ディーン、そしてリオナがいつの間にか来て いて、俺たちを見ている。頬をふくらませていたリオナは、こちら に駆け寄ってきた。 ﹁ミルテちゃん、ヒロちゃんをまくらにしちゃだめ! 私がするの !﹂ ﹁っ⋮⋮ち、ちがう、ちがう⋮⋮っ﹂ ミルテは慌てふためき、俺の上からどいてくれる。そこにすかさ ず、リオナが飛び込んできた。 550 ﹁ば、ばかっ、何して⋮⋮﹂ ﹁はぅ∼⋮⋮私もヒロちゃんとあそびたいのに。いっぱいさがした よ?﹂ リオナは2歳の頃よりは話し方が成長したが、まだまだ子供とい う感じだ。甘えん坊は変わらず、そしてスキンシップに対する遠慮 のなさも変わっていない⋮⋮恥じらいが出てくるのはもう少し先だ ろうか。 ﹁なあヒロト、おれ、ヒロトの言うとおりに練習したらできるよう になったぜ!﹂ ﹁僕も出来るようになったよ。薙ぎ払い⋮⋮これができれば、桃色 のラビットまではやっつけられるんだよね?﹂ ﹁うん。アッシュ兄ちゃん、ディーン兄ちゃん、おれの前で見せて みて﹂ リオナはちゃんと空気を読んで俺の上から降りる。アッシュとデ ィーンは練習用の木の剣を持ってきていて、俺の前で構えた。 俺みたいに強くなりたいと言っていたアッシュに、俺は冒険者の ウェンディに頼んで﹃剣マスタリー﹄の指導をしてもらった。ディ ーンも途中から加わって、子どもたち二人は一緒に剣の修行を始め た。 あの、オークに襲われた日がきっかけだった。ディーンは次第に 俺を認めるようになり、今では二歳年下の俺に対して一目置いた扱 いをするようになった。元からケンカを続けるつもりはなかったの で、俺としても今の状況は喜ばしかった。 551 ﹁よーし、いくぜっ⋮⋮はぁっ!﹂ ﹁僕もっ⋮⋮えぇいっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽アッシュ︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! ・︽ディーン︾は﹁薙ぎ払い﹂を放った! ︵おお⋮⋮剣マスタリー10の﹁薙ぎ払い﹂ができてる。これなら、 下級のゴブリンまでは倒せるな︶ 薙ぎ払いは基本技だが、範囲内の敵全てにダメージを与えられる ので、序盤の雑魚モンスター散らしにはちょうどいい技だ。効率的 に敵を倒せれば、レベルの上がりも早くなる⋮⋮もちろん、子ども たちが大っぴらにモンスターを倒すわけにはいかないので、試す機 会はなかなか訪れないだろうが。 ﹁兄ちゃんたち、すごいね! 完璧だったよ﹂ ﹁そ、そうか? よっしゃ! アッシュ兄、もっとやろうぜ!﹂ ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮僕はもう疲れちゃったよ。少し休ませてもら えるかな﹂ ﹁兄さん、大丈夫?﹂ ﹁うん、大丈夫。ありがとう、ステラ﹂ アッシュは体力がつきにくく、ディーンと比べると非戦闘職向き だ。将来は家の跡を継いで商人になりたいと言っていたから、無理 せず商人スキルを伸ばしていければいいと思う。 552 ディーンは戦士向きで、父親のことがあってから、強くなりたい という志向を隠さなくなった。大人になったら、ミゼールの自警団 に入るとも言っている⋮⋮彼にとって、憎きモンスターを討伐して くれた騎士団と冒険者たちは、憧れの存在になっていた。 ﹁でも、ぜんぜんヒロトにはかなわないんだよなー⋮⋮おれも絶対、 オークをやっつけられるようになるからな!﹂ ﹁うん。その時は、おれも一緒にいくよ﹂ ﹁私もいく!﹂ ﹁わたしもいく﹂ リオナは⋮⋮できれば、モンスターに近づけることは避けたいな。 ミルテはいずれ強くなって、パーティを組めるようになるかもしれ ないけど。 魔王の力を持つリオナの魔術素養は、常に鍛錬している俺と同じ か、それ以上だ。しかしその力は、戦いには使わせられない⋮⋮﹁ 魔王の力が災厄を呼ぶ﹂というログを見る限りでは。 ﹁むー⋮⋮ヒロちゃん、ミルテちゃんだけ見てる。私もつれていっ てくれなきゃ、ぎゅーってするよ?﹂ ﹁ぎゅ、ぎゅーって⋮⋮﹂ ﹁モンスターのところになんて行ったら、私の方もヒロトをぎゅっ てして止めてあげないと﹂ ﹁す、ステラ姉まで⋮⋮﹂ ﹁あははっ。ヒロト、顔真っ赤になってやんの!﹂ ﹁ははは⋮⋮ごめんねヒロト、うちの妹が変なこと言って﹂ ﹁に、兄さん、変なことじゃないわ、私は⋮⋮っ﹂ ステラ姉が慌ててアッシュに文句を言おうとする。それを見てい るうちに、リオナとミルテが俺に抱きついてきていた。ディーンは 553 打ち解けてみるといいやつで、俺をからかいつつも、本気で悪気を 持ってるわけじゃない。 前世の子供の頃より賑やかで、和やかで、穏やかな日々。日々は とても満ち足りていて、充実している。 しかし、ふと思い出さずには居られない。魔剣、魔王、そして竜 の少女。二年もの間、その全てに対して進展することがなく、ただ 自分の力を育て、目に映るものを守ってきた。 まだ、4年だ。この世界に生まれて四年しか経っていない⋮⋮な のに、前世よりも長く生きているように感じる。 ︵一つくらいは、目的を達したい⋮⋮でも、いつになったら届くん だ︶ ﹁ヒロちゃん、明日はフィリアネスさんたちがくるんだよね。リオ ナたちとは、遊んでくれないの?﹂ ﹁ん⋮⋮ああ、そうか。ちょっと約束してることがあるから、その あとなら大丈夫だ﹂ ﹁やりい! じゃあ、またみんな一緒に集まろうぜ﹂ ﹁ディーンは元気だね⋮⋮ときどきは、みんなで本を読んですごし たいよ﹂ ﹁ええ、そうね。私も、ヒロトに読んであげたい本があるし﹂ ステラは少し頬を赤らめて言う。オークの一件から今まで、彼女 の俺に対する信頼は募るばかりだった。 彼女は俺に少しずつ難しい本を読み聞かせようとしていて、自然 に学力を向上させていた。このままいけば、学者か何かになれるん じゃないかという早熟ぶりだ。俺が言うのもなんだけど。 554 ミルテもおばば様のような魔術師になりたいと言っていたし、み んなそれぞれに夢がある。しかしそれを思うたびに、俺はリオナの ジョブを思い出す⋮⋮。 ﹁破滅の子﹂。そのジョブを変えてやらなければ、きっとリオナ は、普通に暮らし続けることはできない。 村人でも、冒険者でも、なんでもいい。しかし彼女が知らないう ちに転職の条件を満たしてあげても、リオナのジョブは変わらなか った︱︱変えることが出来なかった。 みんなと別れて家に帰る途中で、リオナは当たり前のように手を 繋いでくる。それを照れくさく感じながら、俺は尋ねた。 ﹁⋮⋮なあ、リオナ。リオナは、大きくなったら何になりたい?﹂ ﹁リオナは⋮⋮えっとね⋮⋮﹂ 髪をふたつのおさげにしなくなったリオナは、二歳の頃より少し だけあどけなさを失い、女の子らしくなった。 陽菜も小学校に入る前に、髪を伸ばし始めた。その横顔が、俺の 知っている横顔に重なってしまう。 ︵⋮⋮あいつは、何て言ってたっけ︶ ﹁⋮⋮ひみつ。ヒロちゃんには、教えてあげない﹂ ﹁そ、そっか⋮⋮どうしたら、教えてくれる?﹂ 尋ねる俺に、リオナは愛らしくはにかみ、そして言った。 555 ﹁ヒロちゃんと私が、おとなになるまで、言わないの﹂ ﹁⋮⋮そっか。じゃあ、大人になるまで待ってるよ﹂ ﹁うんっ!﹂ どうしてだろう、俺は急かしたり、茶化したりすることが出来な かった。なんで秘密なんだ、教えてくれればいいじゃないかなんて 言えなかった。 ︱︱そんなやりとりを、俺は遠い昔にも、交わしたことがあった。 大人になったら、何になりたいか。それを聞いても、陽菜は俺に 答えを教えてくれることはなかった。 ◇◆◇ 翌日、リオナが言っていたとおり、フィリアネスさんたちが一ヶ 月ぶりにミゼールにやってきた。 彼女たちが到着するなり、俺はモニカさんに頼んで予約しておい てもらった町の訓練場に、フィリアネスさんたちを案内する。ウェ ンディもフィリアネスさんに憧れているから会いたいだろうけど、 今日は俺たちだけでしたいことがあった。 ﹁ヒロトちゃん、準備はいい? 私とアレッタちゃんは見学してる よ∼﹂ ﹁演武とはいえ、万が一が怖い。くれぐれも慎重にするのだぞ﹂ ﹁うん、大丈夫。いつでもいいよ、フィリアネスさん﹂ 斧を構えて俺は言う。二歳の時より、俺の斧は一回り大きくなっ 556 ている⋮⋮俺も実戦用の武器だし、マールさんも、フィリアネスさ んもそうだ。 俺はフィリアネスさんに頼み込んで、彼女が来るたびにこうして 訓練場で稽古をつけてもらっている。練習の形式は﹁演武﹂で、技 を繰り出すものの、相手には当てないというものだ。 ﹁ヒロト⋮⋮お前は間違いなく天才だろう。私が魔法剣を使えるよ うになったのは10歳のとき。ダブル魔法剣を習得したのは、14 歳になったばかりの頃だった。それも、血のにじむ思いをしてな﹂ ﹁ヒロトちゃんは一回見た技をそのまま使える、天才斧使いなんで すよ∼。﹃俺に盗めない技はないぜ!﹄どやぁ!﹂ ﹁何度も何度も練習していたじゃないですか。たゆまない練習の賜 物ですよ⋮⋮そうですよね? ヒロトちゃん﹂ ﹁うん、それとフィリアネスさんが教えてくれたからだよ。そうじ ゃなかったら、おれは魔法剣なんて使えてない﹂ ﹁そう言ってもらえると、指導する身としては光栄だな⋮⋮﹂ フィリアネスさんは頬を赤らめて言う。十八歳になった彼女は、 ますます胸が大きくなって、乳袋が大変なことになっている⋮⋮し かし聖騎士としての気品は増すばかりで、もはや聖なる気を纏って 見える。 ﹁魔法剣は聖騎士の証。おまえがそれを使えるということは、私と 同じ位置に立つ資格があるということだ﹂ ﹁おれはまだ、フィリアネスさんにはかなわないよ。でも、いつか、 追いつきたい﹂ ﹁ふふっ⋮⋮いい目だ。おまえならできるよ、ヒロト。おまえは私 よりも強くなれる⋮⋮だからこそ、簡単に抜かれてやるわけにはい かない﹂ 557 エンチャント 魔法剣というが、剣だけでなくどんな武器にでも魔術付与を行う ことができる。俺は精霊魔術を本を読んで独学で覚え、おばば様の ところで鍛えたあと、フィリアネスさんにもらった神聖剣技スキル を、育成スキルを持つ彼女自身と練習することで、二年で30まで 上げた。今では魔法剣だけでなく、﹁手加減﹂も身につけている。 あわせてマールさんとも訓練することで、俺は騎士道スキルも上 げていた。アレッタさんも見ていてくれるから、同時に衛生兵スキ ルが上がる⋮⋮彼女たちも経験値は入るし、俺との訓練に進んで付 き合ってくれていた。 彼女たちの目からは分からないが、俺のレベルはフィリアネスさ んには及ばなくとも、他の騎士団員に匹敵するほど高い。訓練の成 果はレベルに比例するので、俺との訓練は効果が高くなるのだ。 ﹁では⋮⋮まず、基本技を見せてもらう。構えっ!﹂ フィリアネスさんは左利きだ。左の手に握ったレイピアを引き、 ピアッシング 腰を落とし、右手を刃に添えて突きの姿勢を作る︱︱レイピアの基 礎にして彼女が最も得意とする技、﹃刺突﹄の発動体勢だ。 俺の基本技は薪割り︱︱ではなく、戦闘においては﹃兜割り﹄に なる。斧を上段に振りかぶり、丹田に意識を集中して呼吸をする︱ ︱そして。 ﹁︱︱はぁぁっ!﹂ ﹁︱︱たぁっ!﹂ ◆ログ◆ 558 ・︽フィリアネス︾は﹁刺突﹂を放った! ・あなたは﹁兜割り﹂を放った! ・あなたは︽フィリアネス︾と訓練を積んだ。 二人の武器が、風切り音と共に空を切る。これだけで訓練と判断 されるが、他にもいろいろ訓練とみなされる行動はある。 ﹁はぇ∼⋮⋮ヒロトちゃん、もう騎士団の斧使いの人より、振りが 鋭いよ∼﹂ ﹁本当に⋮⋮四歳でこんなにうまく斧を使えたら、騎士団の戦闘試 験にも合格出来そうです。斧騎士リカルド様の血は、脈々と受け継 がれているのですね⋮⋮﹂ マールさんとアレッタさんにべた褒めされる。俺の弟子を自称す るウェンディは、二年前の時点で、ぎりぎり騎士団の試験に落ちる くらいの強さだった。当時から彼女より強い俺は、年齢制限さえな ければ、二歳で試験を突破できただろう。 俺はまだミゼールを離れる気はないが、騎士学校には興味がある。 ゲーム時代は学校があっても通うことはできなかったから、まった くの未知の領域だ。 前世で学校に通えなかったから、また挑戦したいという気持ちも ある。フィリアネスさんが講師をしているので、彼女を﹁先生﹂と 呼べるというのも大きいが。 ﹁さて⋮⋮次が本番だ。ヒロト、魔法剣を見せてもらおう。私もダ ブル魔法剣を見せてやる﹂ ﹁うん、わかった﹂ 559 ﹁はぁ⋮⋮ヒロトちゃん、4歳でその風格は反則だよ∼。二十歳の お姉ちゃんを、こんなにドキドキさせて﹂ ﹁ね、年齢のことは⋮⋮私もそろそろ、耳が痛いので﹂ アレッタさんはそう言うけど、二十四歳だからまだまだ若い。二 十歳の時と変わらない、女子大生かOLのような雰囲気のままだ。 しかし彼女の衛生兵としての実力は、格段に向上している。マール さんも同じで、棍棒マスタリーが50を超えてダブルインパクトを 習得したことで、戦闘力が飛躍的に増していた。 ﹁では⋮⋮行くぞっ! ライトニング・パラライズ・ピアッシング !﹂ ﹁うぉぉっ⋮⋮フレイム・スラッシュ!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は﹁ライトニング﹂を武器にエンチャントした! ・︽フィリアネス︾は﹁パラライズ﹂を武器にエンチャントした! ・︽フィリアネス︾は﹁ピアッシング﹂を放った! ﹁雷光麻痺刺 突!﹂ ・あなたは﹁魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁ソルフレイム﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁パワースラッシュ﹂を放った! ﹁火炎烈斬!﹂ フィリアネスさんが放った突きは、そのままの勢いで雷の力を前 方に飛ばす︱︱まるで極太の光学兵器か何かのようだ。あんなもの を食らったら、上位のモンスターでもひとたまりもないだろう。 560 俺の放った技は炎の攻撃呪文﹁ソルフレイム﹂と、斧マスタリー 40で覚える技﹁パワースラッシュ﹂の複合技だ。大物相手に効果 を発揮するパワースラッシュは、空中に大きな炎の斬撃の軌跡を残 す。 ﹁ほぇぇ⋮⋮あ、あんな小さな体で⋮⋮私、ヒロトちゃんと絶対試 合したくないよ∼﹂ ﹁棍棒使いでは騎士団最強のマールさんが、何を言ってるんですか。 腰が引けてますよ﹂ ﹁あ、アレッタちゃんは前衛じゃないからって無茶言いすぎ! ま だ装備が揃ってないから、私は魔法を使われるとひとたまりもない んだから∼!﹂ ソルフレイムは、精霊魔術レベル3の炎属性の攻撃魔術だ。精霊 魔術は個人によって属性の適性があり、俺は炎が向いていて、フィ リアネスさんは雷の適性が最高だった。 ﹁大したものだ⋮⋮私と同じ中級精霊魔術を使い、斧の技も達人の ものといえる。リカルド殿に伝授されたのか?﹂ ﹁父さんを見てたら、おれにも出来るような気がしたんだ﹂ 父さんに教えてもらったのは、実際は薪割りだけだが、それこそ が基本にして極意ともいえる。 ﹁やはり天才か⋮⋮ヒロトはいつも、私の期待を超えてくれる⋮⋮﹂ フィリアネスさんは細剣を鞘に収めると、俺に近づいて、床に膝 を突いて同じ視線の高さで見つめてくる。彼女は感激すると、そう やって見つめてくれる⋮⋮赤ん坊の頃よりも、ずっと熱のこもった 561 瞳で。 ﹁あ、あの∼⋮⋮雷神さま、もう十八歳なんですから、四歳のヒロ トちゃんにアプローチするのはだめですよ∼? 公国法では、十二 歳以下の少年に手を出すと犯罪ですよ∼﹂ ﹁なっ⋮⋮なな何を言うかっ! 私はただ、ヒロトが上手くやった と褒めたかっただけだ! 破廉恥なことなど、断じて考えてはいな いぞ!﹂ ﹁マールさんこそ、一緒にお風呂に入ったとき、ヒロトちゃんに⋮ ⋮その、マッサージさせてませんでしたっけ﹂ ﹁ふぁぁっ、それは言っちゃらめぇぇ! 私の生活の、数少ない潤 いなんだから∼!﹂ 顔を真っ赤にして半泣きで慌てるマールさん。アレッタさんもし てほしいというので、いつもしてあげているんだけどな⋮⋮そのう ちにちょっと成長してきていて、前世で揉むと大きくなると言われ ていたのはあながち間違いでもないな、としみじみ思った。揉むと いうのはマシュマロの話だ。 ﹁まったく⋮⋮いたいけな子供に何をさせているのだ。マール、大 人になれ﹂ ﹁ひぎぃぃ! ら、雷神さまだって、私達が知らないうちにしてる に決まってます∼! 私は男性は苦手ですけど、女の勘は働くんで すからね! ぷんぷん!﹂ ﹁フィリアネス様も絶対にされてますよね⋮⋮でも、一度もそうい うところを見たことがありませんし⋮⋮﹂ 最近はまた、フィリアネスさんはうちに来るたびに俺に添い寝を してくれるようになった。その時に俺はやはり、夜中にこっそりと 布団の中でマシュマロとの戦いを強いられるのだった。手強いマシ 562 ュマロの侵略によって、俺という名の帝国は未曾有の危機に瀕して いた。まあマシュマロというか、おっぱいなのだが。つい本音がこ ぼれ落ちてしまった。 ﹁私はお前たちとは違う。人の前でむ、胸を揉ませるなど、いたい けな子供にさせていいことではないぞ﹂ ﹁あ、そういうこと言っちゃいます? いいんですよ∼、今度のス ライム討伐、私は腹痛でお休みしますから﹂ ﹁っ⋮⋮ま、待てっ、それとこれとは話が別だろう! マールギッ ト、こちらを見ろ! 今の発言を訂正しろっ!﹂ ﹁いやですぅ∼。今夜、私がヒロトちゃんと一緒に寝ることを許可 してくれたら、スライム討伐についていってあげますよ∼?﹂ ﹁わ、私だって、ヒロトちゃんと一緒にって希望を出そうと思って いたところで⋮⋮マールさん、ずるいですよ!﹂ 女の闘いが始まってしまった⋮⋮俺ってなんて罪なやつなんだ、 とか言ってたらいつか刺されるな。 しかし、十二歳までが犯罪か⋮⋮前世では十二歳でも余裕でアウ トなんだけどな。異世界は十五歳で成人だから、十二歳からエッチ なことが許されてもおかしくないか。いやその理屈はどうなんだ。 ﹁あの、フィリアネスさん⋮⋮スライム、苦手なの?﹂ 俺が尋ねると、フィリアネスさんはびくっと反応した。あまりに もリアクションが大きくて、俺は思わず苦笑してしまう。 ﹁っ⋮⋮ち、違う! 私には苦手なものなどないっ!﹂ ﹁そんなこと言って、物凄く苦手じゃないですか∼。ミゼールの森 で小さいグリーンスライムに会った時、腰を抜かしちゃってもがっ﹂ 563 ﹁そそそれ以上言うなっ! 私はスライムなんて怖くない! 決し て怖くないぞっ!﹂ しかしフィリアネスさんのステータスは、雄弁にスライムに弱い と語っている⋮⋮何か、スライムにひどい目に合わされたことでも あったんだろうか。 ︱︱そう考えたところで、俺はひとつ思いついてしまった。俺は、 一匹だけテイムしたモンスター⋮⋮スライムを、今まで密かにじわ じわと育て続け、強力なモンスターに育てあげていたのだ。 ﹁⋮⋮おれのスライムなら、安全に訓練できるよ﹂ ﹁っ⋮⋮な、なんだと!? スライムを飼っているなど、おおっ、 おまえはっ、すっ、すすっ、すすっ⋮⋮ごほっ、ごほっ!﹂ ﹁フィリアネス様、落ち着いてくださいっ⋮⋮大丈夫です、怖いス ライムは近くにはいません!﹂ ﹁私もオークは苦手だけど、最近はちょっと克服できてきたよ∼。 おもいっきり叩いてあげてたら、ちょっとずつ、あ、こんなものな んだって思えてきて⋮⋮﹂ マールさん⋮⋮オーク退治の任務で、オーバーキルしてるんだな。 ﹁オークに弱い﹂が、﹁オークに少し弱い﹂に変わっている。 もうひとつ、オーバーキルで倒す以外に、モンスター恐怖症に類 するネガティブなパッシブスキルを消す方法がある。それは、苦手 なモンスターと長く戦闘状態になることで、﹁慣れる﹂ことによる ものだ。戦闘状態は、模擬的なものでも問題ない。そんなわけで、 テイムしたモンスターを訓練に使うというのは、ゲーム時代でもよ くある光景だった。 564 ﹁おれのスライムは、いいスライムだから。フィリアネスさんが焦 ってダメージを与えたりしても、すぐ回復するし⋮⋮訓練には、も ってこいだよ﹂ ﹁雷神さま、スライム討伐はこれからもあると思いますから、今克 服しておいたらいいんじゃないですか?﹂ ﹁フィリアネス様が今までのように、小さなスライムを見て麻痺さ れても、すぐに治療してさしあげることができず、私も歯がゆく思 っていました﹂ ﹁くっ⋮⋮お、お前たち⋮⋮私にそこまで、スライムをけしかけた いのか⋮⋮!﹂ 涙目でプルプルしているフィリアネスさん。14歳から今まで、 この姿のけなげさ、嗜虐心を煽る感じは変わらないな⋮⋮って、虐 めてるわけじゃないんだから。 あくまでスライムに慣れてもらうだけだ。ダメージを与えるよう なスキルはオフにできるし⋮⋮でも、スライムは状態異常攻撃を持 ってるから、それはオフにしないほうがいいかな。あと、装備解除 スキルとか、他にも特殊な攻撃があるけど、それも外しておいたら 訓練にならない。 ﹁⋮⋮わかった、私も騎士として、いつまでも苦手なモンスターな ど残しておくわけにはいかない﹂ ﹁やっぱり苦手なんですね∼。雷神さま、やっぱり無理しない方が いいんじゃないですか∼?﹂ ﹁うううるさいっ! マール、あとで覚えていろっ!﹂ ﹁ヒロトちゃん、そのスライムはどこにいるんですか?﹂ アレッタさんに言われて、俺は脳裏にウィンドウを展開する⋮⋮ テイムしたモンスターを呼ぶことは、いつでもどこでも可能だ。 565 ◆ログ◆ ・あなたは護衛獣﹁ジョゼフィーヌ﹂を呼び寄せた。 ﹁ど、どこに現れるのだ? その⋮⋮﹂ そのスライムは︱︱と言った瞬間。天井から、ぼよよん、と大質 量のゼリーみたいなものが落ちてきた。 ﹁ひゃぅぅっ! び、びっくりしたぁ⋮⋮﹂ ﹁す、すごく⋮⋮大きいです⋮⋮﹂ ﹁こら、変なところから出てくるな。おれもちょっとびっくりした ぞ﹂ スライムはきゅいきゅい、と鳴く。俺も驚いたのだが、スライム は鳴くのだ。それも結構可愛い声で。 マールさんをすっぽり包み込めるくらいの巨大なスライム。その ステータスはこんな感じになっている。 ◆ステータス◆ 名前 ジョゼフィーヌ スライム ? 4歳 レベル30 ジョブ:グレータースライム ライフ:400/400 566 マナ :24/24 スキル: スライム 62 恵体 30 アクションスキル: 溶解液︵スライム10︶ オフ 毒攻撃︵スライム20︶ 装備破壊︵スライム30︶ 捕縛︵スライム40︶ 絡みつく︵スライム50︶ 装備を奪う︵スライム60︶ パッシブスキル: 自動回復小 斬撃無効 刺突無効 打撃に弱い 炎に弱い 氷に弱い 雷無効 毒無効 麻痺無効 残りスキルポイント:90 ︱︱まさに外道。ステータスを見て今気がついたが、フィリアネ スさんの得意攻撃の全てが、こいつには通じない。あくまで今気づ 567 いたのであって、フィリアネスさんをいじめるつもりは毛頭ない。 いや、本当に心から。 ﹁あ、あれ? 雷神さま、落ち着いてますね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮マールさん、フィリアネス様が⋮⋮立ったまま、気絶してま す﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾はスライムに遭遇してしまった! ・︽フィリアネス︾は恐慌に陥った! ・︽フィリアネス︾は麻痺した! ・︽フィリアネス︾の攻撃力がゼロになった! ・︽フィリアネス︾の防御力がゼロになった! ・︽フィリアネス︾は沈黙した! ※三分経過 ・︽フィリアネス︾は我に返った。 ﹁っ⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮お、大きい⋮⋮大きすぎる⋮⋮っ、こ んな⋮⋮私を壊す気かっ⋮⋮そうなのだな⋮⋮!﹂ ︵す、すまないフィリアネスさん⋮⋮でも、スライムは克服しない と⋮⋮!︶ 膝ががくがくとわななき、レイピアを握る手に力も入らず、びっ しょりと汗をかいたフィリアネスさん。彼女は生まれたての子鹿の 568 ように震えながら、俺の方を見て⋮⋮そして、けなげに微笑んだ。 ﹁しかし⋮⋮おまえがここまでしてくれたのなら⋮⋮私⋮⋮私はっ ⋮⋮ま、負けてなるものか⋮⋮っ!﹂ ︱︱グレータースライムVS雷神フィリアネス。ミゼールの訓練 場で、人知れず、壮絶な死闘が始まる︱︱。 569 第十五話 炎の斧と雷光の細剣︵後書き︶ ※次回は三日後に更新予定です。 570 第十六話 優しい世界 エターナル・マギアにおいて、スライムは最初、テイム出来るモ ンスターの中でもあまり役に立たないと言われていた。ゴブリンは ﹁盗む﹂スキルを早く覚えるので有用だし、オークは盾として優秀 だし、他にも色々わかりやすく強いモンスターが多かったので、ダ メージが通常攻撃の1.2倍の溶解液、持続時間15秒の毒攻撃、 装備破壊などしか出来ないスライムは、育成に手間がかかる上に、 打撃で簡単にやられてしまう。 だがスライムは逆に言えば、打撃、炎、氷以外には無敵に近い耐 性を持つ。耐性を上げる魔術で﹁打撃に弱い﹂は消せないが、炎や 氷には強く出来るので、そうすると斬撃・刺突属性の攻撃を持つ敵 に対してものすごく硬くなる。というか、まず攻撃が通らない。 ﹁雷神さま∼、無理そうだったら早めに呼んでくださいね、私が助 けてあげますから∼。ヒロトちゃん、グーで叩くくらいなら大丈夫 だよね? そのスライムちゃん﹂ ﹁うん、それくらいなら。メイスで叩いても、二三回ならビクとも しないけど﹂ ﹁と、というか、スライムちゃんというのは何なのだ⋮⋮っ、なぜ 愛着を持って呼ぶのか、理解に苦しむ⋮⋮っ﹂ ﹁フィリアネス様、ヒロトちゃんの飼っている大事なスライムさん なんですから、そんな言い方は酷いです﹂ ﹁だ、だから⋮⋮なぜスライムに肩入れする! 少しは私の身にな って考えてみたらどうだっ!﹂ 571 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾はスライムに怯えている⋮⋮。 ・︽フィリアネス︾の足元がおぼつかなくなった。 う、うーん⋮⋮まだ何もしてないのに、フィリアネスさんがふる ふると震えている。内股になってしまっているし、なんだかトイレ を我慢してるようにも見えるな⋮⋮どれだけ極限状態なんだ。 ﹁あ、あの⋮⋮やっぱり、やめておく? フィリアネスさん、顔が 真っ青だし﹂ ﹁ば、ばかを言うな⋮⋮私はスライムなどここっ、怖くは⋮⋮ない のだからなっ⋮⋮!﹂ ﹁わー、まだ強がりが言えるんですね∼。私、雷神さまのそういう ところ、純粋に尊敬します﹂ ﹁マールさん、あまり毒を吐いていると、あとで騎士団式の懲罰を 命じられてもおかしくないかと⋮⋮﹂ ﹁雷神さま、頑張ってください! 私、絶対に負けないって信じて ますぅ!﹂ マールさんの熱い手のひら返しに引きつった笑みを浮かべつつ、 フィリアネスさんはそろそろと細剣を抜き、俺のスライムに向けた。 ぶよよん、とスライムが震えて臨戦態勢に入る。 ﹁ひぅっ⋮⋮!﹂ ﹁雷神さま、とっても可愛い悲鳴が⋮⋮聞いてるこっちの顔が赤く なっちゃいますよ∼﹂ ﹁いえ、私でもあのスライムさんが相手だったら、悲鳴のひとつは 上げてしまうと思いますが⋮⋮大きすぎます﹂ 572 女性が﹁大きい﹂と言うだけで反応してしまうのは、男のしょう がない部分だよな⋮⋮としみじみ思いつつ、俺はあまり引っ張るの も何なので、訓練を始めることにした。 ︵乗るしかない⋮⋮このビッグウェーブに!︶ ﹁行けっ、ジョゼフィーヌ! きみに決めた!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾の攻撃! ﹁く、くぅっ⋮⋮!﹂ つやつやしたゼリーの固まりのようなグレータースライムが、そ の外見から想像も出来ないスピードで変形し、フィリアネスさんに 向けて体の一部を伸ばして体当たりを仕掛ける。もちろん手加減し ているが、ちょっと気合いが入っているので、客観的には容赦の無 い攻撃に見えるだろう。 ﹁ヒロトちゃん、すっごく生き生きしてる⋮⋮年上の女の人をいじ める楽しみを、この年で覚えてしまうなんて⋮⋮っ、だめ、そんな にされたら私、壊れちゃうぅぅ!﹂ ﹁マールさん、日頃からいやらしい想像をされているのはわかりま したから、ちょっと静かにしててください﹂ ﹁し、してません∼! 欲求不満とか、人聞きの悪いこと言わない でよね! そんなんじゃないんだからね!﹂ 573 ﹁お、おまえたちっ、他人ごとだと思って気楽なことをっ⋮⋮きゃ ぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は回避した! フィリアネスさんは何とかジョゼフィーヌの攻撃をバックステッ プで避ける。ほう⋮⋮やるじゃないか。しかしその腰砕けの状態で、 いつまで避けきれるかな⋮⋮? って、なぜ俺は悪役になっている のだろう。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮こ、今度は私の番だ⋮⋮覚悟しろ⋮⋮灰も残 すつもりはないぞ⋮⋮っ!﹂ きゅいきゅい、とスライムが鳴く。ちなみにこのジョゼフィーヌ というのは、テイムした時に既についていた元からの名前である。 スライムに性別はないが、たぶん雌なのだろう。どこで性別を見分 けるのか分からないが。 しかしめらめらとフィリアネスさんが闘志を燃やしているが⋮⋮ 灰も残さないとは、彼女のスライム嫌いも相当だ。出来れば、俺の スライムは悪いモンスターじゃないと分かってもらいたいのだが。 ﹁はっ⋮⋮雷神様、もしかしてあの技を使うつもりですかっ!?﹂ ﹁ヒロトちゃんはまだ見たことがないので、説明しましょう。フィ リアネス様は既に上級精霊魔術を習得されています。﹃雷光麻痺刺 突﹄より、一段階上のダブル魔法剣⋮⋮いえ、威力的には数倍にな 574 る奥義を会得されているのです。以上で説明を終わります﹂ ﹁た、淡々と実況するな! ますます力が抜けるっ⋮⋮くぅ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾はスライムに怯えている⋮⋮。 ・︽フィリアネス︾の攻撃力が半減した! ・︽フィリアネス︾の敏捷性が下がった! ・︽フィリアネス︾の集中が乱れた! スライム恐怖症のステータス異常判定は、数分ごとに入るようだ ⋮⋮惜しい。もう数秒早く技を出していれば、マイナス効果がない 状態だったのに。 ぶにょにょん、とジョゼフィーヌが攻撃態勢から元に戻る。そし てぷるるんと震えたところを見て、同時にフィリアネスさんも震え 上がった。 ﹁雷神さま、さっきから震えるたびに、一緒におっぱいぷるんぷる んしてますよ∼。スライムみたいに﹂ ﹁す、スライムと一緒にするな! マール、もう絶対に許さんぞ⋮ ⋮あとでごめんなさいと、い、言わせてやる!﹂ フィリアネスさんはマールさんにレイピアを向ける︵危ない︶が、 マールさんは口笛を吹いている。なんという上司と部下の関係⋮⋮ 今ばかりは下克上ということか。 ﹁おっぱいぷるんぷるんとか、ヒロトちゃんの前で何を言ってるん 575 ですか⋮⋮胸が大きい人は、その分頭にデリカシーが回らないんで すね。きっとそうです﹂ ﹁馬鹿じゃないです∼、胸が大きくても馬鹿じゃないですぅ∼﹂ ﹁わ、私が小さいことを揶揄してるんですか! 名誉毀損で訴えま すよ!﹂ マールさんとアレッタさんの争いもヒートアップしているが、い ちおう︵酷い言い草だが︶、フィリアネスさんの奥義で俺のスライ ムがやられてしまわないよう、防御態勢に移行させておく。 ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は防御している。 ﹁なっ⋮⋮ず、ずるいぞそんな! なぜ盾みたいな形に変わってい るのだ、スライムなのに!﹂ ﹁えーと⋮⋮スライムも、強くなってくるといろいろ出来るように なるんだ﹂ 実はレベル1のグリーンスライムにも防御態勢はあるのだが、敵 として戦う分には防御が行動選択に入っていない。それゆえに、ス ライムの﹁防御﹂はテイムした場合だけ見られる行動だったりする。 ﹁魔獣使いの才能もあるとは⋮⋮ヒロトはどこまで私の想像を超え れば気が済むのだ⋮⋮認めよう、おまえは既に私より強い⋮⋮ッ!﹂ ﹁諦めるのはやっ! まだ始まったばかりですよ、雷神さま! し っかりしてください!﹂ ﹁そうですフィリアネス様、スライム討伐の最中に麻痺してしまっ 576 たら、もっと大変なことになるんですよ!﹂ ﹁だ、だって⋮⋮ではない、しかし、私にはもう⋮⋮もうっ⋮⋮﹂ もう耐えられない、と言わんばかりのフィリアネスさん。スライ ムが盾型に変形しただけでこの絶望ぶり⋮⋮ちょっと俺も慎重にや りすぎただろうか。しかしフィリアネスさんの奥義を素で受けてジ ョゼフィーヌが無事でいると過信するのも、いささか聖騎士に対し て礼を欠いている。たぶん無事なのだが。 ﹁フィリアネスさん⋮⋮おれも、フィリアネスさんが他のスライム にやられるところは見たくないよ。だから、今のうちに俺のスライ ムで練習しておこうよ﹂ ﹁そ、そうか⋮⋮他のスライムに汚されるくらいなら、おまえの手 で⋮⋮それもそうだな⋮⋮﹂ ﹁何か悲壮なお話になってるけど⋮⋮あ、あれれ∼? このままだ とエッチなことになりそうな予感が⋮⋮﹂ ﹁何を言ってるんですか、これは訓練です。ヒロトちゃんがフィリ アネス様に、スライムさんに命令していやらしいことなんてするわ けないじゃないですか。そうですよね?﹂ ﹁お、おれにはちょっと良くわからないっていうか⋮⋮﹂ スライムの特殊攻撃はまだいっぱいあるからな。それを試すうち に、見ている分には大変なことになってしまうかもしれない。でも ジョゼフィーヌの意志は、俺の意志でもあるわけだから、俺が大変 なことをしていることに⋮⋮それは確かにダメなのではないか。 ﹁私には分かる⋮⋮ちゃんと、わかっている。ヒロトが純粋な気持 ちで、私のスライム嫌いを治そうとしていることを⋮⋮その気持ち に、何としても応えたい⋮⋮!﹂ 577 ◆ログ◆ ・あなたの存在によって、︽フィリアネス︾は鼓舞された! ・︽フィリアネス︾のステータス異常が回復しそうになった! ︵回復しないのかよ!︶ 好感度が高い相手が近くにいると、まれにステータス異常が回復 したり、致死ダメージを踏みとどまったり、クリティカルが出やす くなったりする。支援効果というやつだが、どうやら不発に終わっ たようだ。 しかしフィリアネスさんはけなげにも、細剣で突きの構えを取る。 そして震える唇を律し、一生懸命声を張って、朗々と詠唱を始めた。 サンダーストライク ﹁雷の精霊を束ねる大いなる父よ。天地に轟く雷鳴を、今こそ裁き の鉄槌と変えん⋮⋮っ! ﹃轟雷槌﹄!﹂ フィリアネスさんが振り上げた細剣に、彼女が呼び出した雷が落 ちる。雷の精霊の力を帯びた剣は青白い光を放ち、バチバチと閃光 を弾けさせる。 ﹁っ⋮⋮く⋮⋮これ以上重ねられない⋮⋮今の私には、これが限界 か⋮⋮!﹂ スライムを前にして集中が乱れているから、アクションスキルが うまくいかない。ダブル魔法剣を放とうとしたフィリアネスさんだ が、2つ目の魔法を重ねられず、シングルにとどまる︱︱それでも、 上級精霊魔術の轟雷槌をエンチャントすれば、﹃雷光麻痺刺突﹄以 578 上の威力は得られるはずだ。 ﹁ヒロト⋮⋮見ていてくれ。私は聖騎士として、恐怖を乗り越えて みせる⋮⋮!﹂ ﹁うん、見てるよ⋮⋮フィリアネスさん﹂ ﹁あー、雷神様、やっぱり忘れちゃってますね∼⋮⋮知ーらないっ と﹂ ﹁全然効かないってこともないはずです、公国最強の騎士の魔法剣 ですよ?﹂ ﹁っ⋮⋮だ、だから茶化すなと言っているっ⋮⋮はぁぁっ! サン ダーソニック・スラスト!﹂ フィリアネスさんが腰を落とし、細剣を構えて突撃してくる。こ れは初めて見る技だ⋮⋮彼女の細剣マスタリーも、すでに50を超 えているからな。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は﹁サンダーストライク﹂を武器にエンチャン トした! ・︽フィリアネス︾は﹁ソニックスラスト﹂を放った! ﹁轟雷音 速衝!﹂ ︵すさまじい威力⋮⋮並のモンスターなら4桁ダメージ叩き出しそ うだ。しかし⋮⋮!︶ 雷をまとったレイピアを、今までで最速のスピードで繰り出すフ 579 ィリアネスさん。その剣先が、盾型に変形した俺のスライムの表面 に突き立つ。 ぷにょんっ。 ﹁なっ⋮⋮!?﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は雷を霧散させた。 ・︽ジョゼフィーヌ︾に刺突は通じなかった。 ・︽フィリアネス︾に隙が生じている! ︽ジョゼフィーヌ︾のス ーパーカウンター! フィリアネスさんの渾身のサンダーソニック・スラストは、俺の スライムに全く通じず、レイピアが深々とゼリーに突き立っただけ でノーダメージだった。そして、フィリアネスさんに完全な隙が生 まれる。 攻撃を無効化された場合、カウンターを取られる。それはどのよ うな戦いにおいても当然の摂理だ。 ﹁悲しいけど、これがスライムなんですよね∼。だから言ったのに。 パンチした方がまだ良いですよ?﹂ ﹁フィリアネス様に、素手でスライムを触れっていうんですか? それはちょっと⋮⋮﹂ ﹁わ、私の技が⋮⋮少しくらい効いてもいいではないかっ、ひ、卑 怯ものっ!﹂ 580 もう完全に泣きが入っているフィリアネスさんに、追い打ちをか けるのは心苦しいが⋮⋮スーパーカウンターだからな。スーパーカ ウンターはしょうがないよな、スーパーだしな。 ﹁ジョゼフィーヌ、カウンターだ!﹂ きゅぃきゅぃ! とジョゼフィーヌは返事をする。フィリアネス さんのレイピアが絡め取られ、あれよと言う間に遠くに置かれる。 投げ出すのは武器の耐久度的に気になるので、丁重に床に置かせて もらった。 ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽フィリアネス︾の装備を奪った! ・︽フィリアネス︾の武器装備が解除された。 ﹁あぁっ⋮⋮か、返せっ⋮⋮そのレイピアは、私の騎士の魂がっ⋮ ⋮﹂ ﹁ごめん、フィリアネスさん⋮⋮でも、装備を外すスライムは、け っこう色んなところで出てくるから﹂ ﹁溶かすんじゃないんだ⋮⋮昔、騎士団の男の人たちが、鎧を溶か されて大変なことになったって聞いたよ∼﹂ ﹁それは⋮⋮あまり見たくはない光景ですね﹂ 屈強な男たちがスライムに屈する姿か⋮⋮俺には特に需要はない な。 そんなことより、武器がなくなったフィリアネスさんはこれから どうするのだろう。このままでは俺のスライムに、為す術もないん 581 じゃないか︱︱いや、一つだけ方法があるか。 ﹁おれのスライムに、武器がなくてもダメージを与える方法はある よ﹂ ﹁ど、どうしろというのだ⋮⋮私は雷の魔術しか使えないし⋮⋮﹂ ﹁それに気付かないうちは、訓練は終わらせてあげられませんよ∼。 ジョゼフィーヌ、やっておしまい!﹂ ﹁え、ええと⋮⋮マールさん、そろそろ降格の危機ですから、ほど ほどにしておいた方が⋮⋮﹂ ぼよんぼよん、と弾みながら、ジョゼフィーヌがじりじりとフィ リアネスさんに近づく。フィリアネスさんは身体をかばうようにし つつ、一歩、また一歩と後ずさる。 ﹁や、やめ⋮⋮やめろ⋮⋮それ以上近づいてくるな⋮⋮っ!﹂ ﹁⋮⋮けしかけてみたものの、ちょっと申し訳ない気持ちになって きちゃった。雷神さま、内股になってますよ?﹂ ﹁マールさんも、ちょっと前まではオークを見ただけでそうなって ましたよ﹂ ﹁そ、そうだな、マールはオークを見ただけで、私よりずっと怯え ていたからな﹂ ﹁ヒロトちゃん、訓練は訓練として、心を鬼にしていこっか。他に どういう技があるの?﹂ ﹁ちょっ⋮⋮や、やめろっ、今のは私の失言だった、全面的に謝罪 するっ、だから待てっ、待っ⋮⋮﹂ ︱︱訓練は訓練。そうだ、本番ではスライムは溶解液を吐いてく る。治癒術で治るとはいえ、フィリアネスさんに痛い思いをさせる わけにはいかない⋮⋮! 582 ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾の捕縛! ・︽フィリアネス︾は身動きが取れなくなった! ﹁⋮⋮は、はなせっ⋮⋮くっ、引っ張っても取れない⋮⋮ひ、卑怯 なっ⋮⋮!﹂ ﹁いけー、そこだー! 脱がせちゃえー!﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、お手柔らかにお願いしますね﹂ 俺のスライムはフィリアネスさんの腕と足に巻きつき、身動きを ほとんど取れなくする。フィリアネスさんは両腕を上げられて、布 鎧に覆われた胸を無防備に突き出すような姿勢になっていた。 ︵まさに捕虜のポーズ⋮⋮スライムは本能で、このポーズを取らせ ることを知っているんだな︶ しかしスライム嫌いのフィリアネスさんを、これ以上虐めていい ものだろうか。これ以上やると、慣れる以上にトラウマが深くなる のでは⋮⋮。 ﹁フィリアネスさん、少ししたらスライムが離してくれるから、今 日はここまでに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮い、いや⋮⋮引き伸ばしても意味がない。言っただろう、私 は⋮⋮おまえがここまでしてくれたのなら、絶対に負けられないと﹂ ﹁フィリアネスさん⋮⋮﹂ 完全に捕まっていて身動きも取れないのに、フィリアネスさんの 583 瞳は光を失っていなかった。 ﹁くぅっ⋮⋮こ、これくらいのぬるぬるなどに、私は⋮⋮私は負け ない⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾の毒攻撃! ・︽フィリアネス︾は毒状態になった! ﹁ど、毒まで使うのか⋮⋮そうまでして私を屈服させようというの だな⋮⋮っ、ま、負けてなるものか⋮⋮!﹂ 軽い毒だとはいっても、スライムの接触によってもたらされる毒 は、全身を熱っぽく火照らせる。ますますフィリアネスさんは汗び っしょりになって、布鎧の薄い部分が透け始めた。 ︵さ、さすがに毒はやりすぎかな⋮⋮でも上位スライムは毒を使う しな。訓練のためには、避けて通れない道だ︶ ﹁すごい⋮⋮雷神さま、こんなに耐えて。私のメイスなら、スライ ムもワンパンチで倒せるのに⋮⋮﹂ ﹁拘束されて毒で責められるなんて、毒の内容によっては、とっく に公国法に抵触してきてますね。青少年の育成上、いいんでしょう か﹂ ﹁だ、だから、実況をするな⋮⋮っ、私は訓練をしているのだ⋮⋮ 公国法になど触れていないっ!﹂ 584 ジョゼフィーヌに悪気はないが、ゼリー状のスライムに捕まって いるというだけで、アレッタさんが心配するのも無理はない。だが、 ここで諦めてはスライム嫌いが克服できない。 スライムの捕縛は下手をすると3分くらい継続するのだが、フィ リアネスさんには効果時間が二倍以上になりそうな手応えだ。 ︵耐えてくれ、フィリアネスさん。そしてスライム嫌いを克服する んだ!︶ ﹁きゅぃきゅぃっ﹂ ﹁ひっ⋮⋮な、鳴くなっ、スライムの声など、聞いただけで寒気が っ⋮⋮﹂ ﹁ぴぎー!﹂ ︵フィリアネスさん、それはいけない⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は怒り状態になった! ・︽ジョゼフィーヌ︾の﹁絡みつく﹂! ︽フィリアネス︾は麻痺 状態になった。 ここまで育ったスライムには、人間の言葉がわかる。フィリアネ スさんの言葉で機嫌を損ねたジョゼフィーヌは、俺の命令なしで、 相手を麻痺状態にする﹁絡みつく﹂を繰り出した。 ﹁くぅ⋮⋮う、動けない⋮⋮っ﹂ 585 先ほどまでは多少は身体の自由が効いたのに、フィリアネスさん はぴったりと動けなくなる。麻痺効果が決まってしまったのだ。 ﹁雷神様の動きを完全に止めるなんて⋮⋮スライムちゃん、恐ろし い子⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮マールさん、フィリアネス様よりスライムの方を応援してま せんか? 後で査定に響きますよ﹂ ﹁アレッタちゃん、そんなこと気にしてちゃだめ! ここは心を鬼 にするの!﹂ マールさんの声にフィリアネスさんが反応し、ゆらりと彼女の方 を見やる。こ、怖い⋮⋮マールさんは気づいてないけど、これは後 で荒れそうだ。 ﹁覚えていろ、マール⋮⋮好き勝手言ったことは、絶対に後悔させ てやる⋮⋮っ﹂ ﹁フィリアネスさん、俺は信じてるよ⋮⋮絶対に、乗りこえられる って!﹂ 俺は拳を握って応援する。しかしスライムは、自らの役割を忠実 に果たす︱︱さらにフィリアネスさんを限界まで追い込もうという のだ。 ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽フィリアネス︾の頭装備を奪った! ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽フィリアネス︾の肩装備を奪った! ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽フィリアネス︾の腰装備を奪った! 586 ﹁な、なぜそんなにするすると簡単に脱がせられるのだ⋮⋮っ!﹂ ︵待て、ジョゼフィーヌ⋮⋮すね当てだけは残しておけ!︶ ﹁ぴきー!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽フィリアネス︾の足装備を奪わなかった。 ﹁ち、ちがう⋮⋮っ、それだけ残せとは言っていない! 何の意図 があるのだっ!﹂ ︵俺の趣味です、ごめんなさい︶ ﹁雷神さま、髪を降ろすとほんとに色っぽいですね∼⋮⋮汗びっし ょりだから、後でお風呂でキレイキレイしてあげますね∼﹂ ﹁マールさん、そろそろちょっとだけ優しくしてあげてください⋮ ⋮さすがに後のフォローがしきれません﹂ ﹁⋮⋮後で⋮⋮絶対⋮⋮沈めてやる⋮⋮5分間⋮⋮﹂ フィリアネスさんのマールさんへの憎しみがチャージされていく。 こうして戦争が起こるのかもしれないと、俺は人間の儚さを思う。 こんなことを考えてるとばれたら、俺もフィリアネスさんに雷を落 とされそうだ︱︱雷神だけに。 ◆ログ◆ 587 ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽フィリアネス︾のクロースアーマーを溶 かし始めた! ﹁ふ、服が⋮⋮っ!﹂ ﹁フィリアネスさん、スライムを怖がってばかりいちゃだめだよ。 スライムは友達なんだ!﹂ ﹁う、うわぁ⋮⋮紙を溶かすみたいに鎧が解けていっちゃう⋮⋮ヒ ロトちゃん、これってぱんつも溶けちゃうの?﹂ ﹁ぱ、ぱんつも溶けるんでしょうか⋮⋮そんなことになったら、ヒ ロトちゃんの家まで帰るのが大変ですね﹂ ﹁な、何の心配をしているのだっ⋮⋮ひ、ヒロト⋮⋮っ﹂ ﹁大丈夫、溶かした服の代わりなら、おれがすぐ持ってきてあげる よ﹂ 祝福されたクロースアーマーは、特殊な素材は使っていないので ミゼールでも手に入る。そういう問題ではないのはわかっているが、 装備破壊もスライムの攻撃の一つだ⋮⋮避けては通れない。 ﹁⋮⋮乗り越えろということだな⋮⋮こんな⋮⋮こんな試練を⋮⋮ 神よ⋮⋮あなたは私に何をお望みなのですかっ⋮⋮!﹂ ジョゼフィーヌの装備破壊はじわじわと進み、フィリアネスさん の胸を覆っていた布が、蜘蛛の巣のように頼りなく細切れに溶けて しまっている。肌にまったく悪影響がないので、訓練にはうってつ けだ。むしろスライムにまとわりつかれると、肌の表面の古い角質 が取れてつるつるタマゴ肌になったりする。元からつるつるのフィ リアネスさんには、あまり効果はないかもしれないが。 588 ﹁あ、あの、もうひもみたいな感じになってるんですけど⋮⋮思わ ず敬語になってしまう私です﹂ ﹁足装備だけつけて、あとの部分をじわじわ溶かされるなんて⋮⋮ ヒロトちゃんの将来が楽しみでいて、ちょっと怖くもありますね﹂ ︵俺は何と言われようとかまわない。フィリアネスさん、自分の殻 を破るんだ⋮⋮!︶ ﹁私は⋮⋮私は弱い存在だ⋮⋮スライムの前には、何の抵抗も出来 ずに⋮⋮くっ⋮⋮殺せ⋮⋮!﹂ あきらめかけているフィリアネスさん。布鎧のほとんどが溶けて、 フィリアネスさんの下着が白であり、少女らしい清楚なデザインで あることが明らかになった。マールさんはああ見えて紐パンだし、 アレッタさんは黒だったりするので、聖騎士の貫禄というか、元男 子高校生の純粋なあこがれを叶えてくれたというか、とにかく俺は 猛烈に感動している。 ︱︱どちらにしても訓練は最終盤だ。乗り越えてくれ、フィリア ネスさん⋮⋮! ﹁お、お母様⋮⋮フィルは悪い子です⋮⋮ごめんなさい、ごめんな さい⋮⋮っ﹂ ﹁あっ⋮⋮こ、これは⋮⋮ヒロトちゃん、ストップ! 雷神さまが 少女返りを起こしちゃってる!﹂ ﹁私からもお願いしますっ、これ以上したら聖騎士の威厳が⋮⋮!﹂ ︱︱マールさんとアレッタさんが止めに入ろうとした、その瞬間 だった。 589 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾はスライムに対する恐怖を一段階克服した! ・︽フィリアネス︾の﹁スライムに弱い﹂が、﹁スライムに少し弱 い﹂になった! 耐性が上昇した︱︱これなら致命的なステータス異常は起こらな くなる。しかし、フィリアネスさんの装備の耐久度は風前のともし びだ⋮⋮! ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾の捕縛が解除された! ﹁︱︱はぁぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は素手で攻撃した! ・︽ジョゼフィーヌ︾に3のダメージ! ﹁ぴきぃぃっ!﹂ ︵な、なんとっ⋮⋮!︶ 590 捕縛が解除された途端、フィリアネスさんはスライムに素手でパ ンチを繰り出す。恵体に優れているフィリアネスさんのパンチの攻 撃力は、格闘スキルを持たなくても、スライムの防御をほんのわず かに上回っていた。 ﹁す、すごい⋮⋮雷神さま、ついにやったんですね⋮⋮!﹂ ﹁おめでとうございます! あぁ、こんなにぼろぼろになって⋮⋮﹂ ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮やった⋮⋮私は、やったのか⋮⋮?﹂ 最後の一線を守りきったフィリアネスさんだが、解放された拍子 にほぼ全裸になっていた。しかし全裸だからといって何だと言うの だろう、彼女が成し遂げたことの偉大さの前ではささいなことだ。 ﹁すごいよ、フィリアネスさん。おれのスライムは全部の攻撃を使 ったのに、負けなかったね﹂ ぺたんと座り込んでいるフィリアネスさんの前に膝をつき、彼女 と視線の高さを合わせる。いつも彼女がしてくれていることを、今 回は俺が返す形だ。 ﹁⋮⋮危ないところだった。せ、責任は⋮⋮取ってくれるのだろう な⋮⋮こんな姿を見せてしまったら、わ、私は⋮⋮﹂ ﹁普通ならお嫁にもらってくれてもいいくらいなんですけどね∼⋮ ⋮四歳は早すぎですね﹂ ﹁今から約束しておいたらいいんじゃないですか? それくらい頑 張りましたよ、フィリアネス様は⋮⋮﹂ とても大きなことを成し遂げた雰囲気を出している俺たち。ジョ ゼフィーヌは既に自動回復でライフが満タンになり、元の大きなゼ リーのかたまりのような状態に戻ると、奪った装備をひとつずつフ 591 ィリアネスさんの前に置いた。 ﹁⋮⋮ぬるぬるべたべたするところ以外は、このスライムにも、一 目置くところがあるようだな﹂ ﹁手加減してくれてましたよね。雷神様が声がきもちわるいって言 ったときだけ、ちょっと怒って⋮⋮﹂ ﹁ぴきー!﹂ ﹁あっ、い、今のはちがっ⋮⋮きゃぁぁっ、堪忍してぇ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾の捕縛! ・︽マールギット︾は身動きが取れなくなった! ﹁はぅっ、う、動けない⋮⋮こ、こんな強かったんですね、このス ライムちゃん⋮⋮すごーい﹂ マールさんは捕らえられつつも、まだ余裕を残している。フィリ アネスさんはゆらりと立ち上がると、胸などの大事な部分を手で隠 しながら、ジョゼフィーヌに目配せした。後ろから見ると大変なこ とに⋮⋮尻神様とはこのことか。マジマジ見てはいけないので、両 手で申し訳程度に顔を覆う。 ﹁さんざん、外野から私をいたぶってくれたな⋮⋮マールギット。 何か申し開きはあるか?﹂ ﹁え、えっとですね、あの、若気の至りで⋮⋮ご、ごめんなさい、 許してください! なんでもしますから!﹂ ﹁だから言ったのに⋮⋮マールさん、反省してください﹂ 592 ﹁アレッタちゃんの裏切りものぉぉ! ぜ、絶対仕返ししてやるぅ ∼!﹂ こうして復讐は連鎖していくのだ⋮⋮これも宿命か。いや、アレ ッタさんには復讐される理由はないわけだけど。俺も手塩にかけて 育てたスライムを、いたずらにみんなの服を溶かしたり、じわじわ とダメージを与えたりするために使うつもりはないからな。あくま でも今回限りにするつもりだ。 しかしフィリアネスさんが、そこまでご希望なら⋮⋮仕方がない。 ﹁マールさんはちょっと、おいたをしすぎちゃったね。ちょっとだ け、反省しようか﹂ ﹁ひぃぃっ⋮⋮ヒロトちゃん、そんな笑顔で言われても私っ、こ、 心の準備が⋮⋮っ!﹂ ﹁私だって心の準備などしていなかった。そんな私をにやにやと笑 いながら見ていたマール⋮⋮私の可愛い部下。おまえにも、私の気 持ちを少しでもいいから分かってもらいたい。やれ、ヒロト﹂ ︵イエス、マム!︶ ﹁ひ、ヒロトちゃんっ、その敬礼は⋮⋮どこで騎士団式の敬礼なん て覚えたのっ、見よう見真似なのっ!?﹂ ﹁そこにつっこむ余裕があるのなら、大丈夫そうですね⋮⋮ヒロト ちゃん、どうぞ﹂ ﹁うむ。せっかくだから、ジョゼフィーヌの好きにさせてやったら どうだ?﹂ ﹁うん。マールさん、フィリアネスさんがそう言ってるから⋮⋮ご めんね﹂ ﹁えっ⋮⋮こ、ここで謝られると、命とか、女の子の大切なものと 593 かの、色んな危機を感じるんだけどっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ジョゼフィーヌ︾に命令を下した。﹃いろいろやろう ぜ!﹄ ・︽ジョゼフィーヌ︾は分裂した。 ︵なっ⋮⋮そ、そうか。普通ならありえない聖騎士との戦闘を有利 に進めたことで⋮⋮スライムスキルが飛躍的に上昇し、70に到達 したのか⋮⋮!︶ ﹁いやぁぁっ、増えてる増えてる! 一匹だけでも動けないのに、 二匹はちょっと強敵すぎるっていうか⋮⋮ゆ、許して! なんでも しますから!﹂ ﹁こんな力を秘めているとは⋮⋮スライムとは神秘的な生き物なの だな。私が分裂されていたら、もうここには立っていられなかった に違いない﹂ ﹁フィリアネス様も、人のことになると冷静なんですね⋮⋮だ、大 丈夫ですか? 目にくまが出来てますよ﹂ フィリアネスさんはさすがに疲れたようだが、目だけは光り輝い ている⋮⋮ちょ、ちょっと怖い。今の彼女に逆らったら、俺でも大 変なことになってしまいそうだ。 まあ、あれだけ煽られたら一時的に病むのも已む無しだな。﹃病 む﹄だけにな。審議が入りそうだ。 ﹁ぴきぃぃぃ!﹂ 594 ﹁きゅいきゅぃ!﹂ ﹁あっ、ちょっ、あの、フィリアネス様、助けて、助けてください ! 死にたくない! 死にたくなーい!﹂ フィリアネスさんはほぼ全裸のまま、拘束されているマールさん に近づき、その頬に手を当てる。そしてなぜそんなことをする必要 があるのかわからないが、マールさんの三つ編みをほどき始めた。 ﹁⋮⋮私の倍の苦しみを味わい、そして、同じ気持ちを分かち合お うではないか。マールギット⋮⋮くくっ﹂ ﹁く、くくって、初めて聞く笑い方ですよ! 聖騎士様がそんなに 黒ずんじゃっていいんですか! 黒ずんだって変な意味じゃなくて っ⋮⋮や、やめて、よして、触らないで!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌA︾は︽マールギット︾を拘束している。 ・︽ジョゼフィーヌB︾は臨戦態勢になった! ﹁わ、私はちょっとそういうのよくないと思うの! 2体がかりと かね、騎士道の風上にもおけないっていうでしょ!﹂ マールさんは騎士道を盾に抵抗するが、フィリアネスさんは全く 聞いていない。怖い顔をしてても美人のフィリアネスさん⋮⋮素敵 だ。 ﹁さて⋮⋮最初は何から始めるのだったか。まずは装備をひとつず つ剥がし、布鎧のみ残してから、身体の自由を奪ったあと、じわじ 595 わと残った装備を溶かしてやろう⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ぜ、絶対フィリアネス様を裏切りません、からかったりもし ません、ですから、ですからっ⋮⋮﹂ アレッタさんは地面にうずくまって必死に祈っている。俺も息を 飲むほど、フィリアネスさんは凄絶な殺気を放っている⋮⋮よっぽ ど怒ってたんだな。まるでスライムを統べる魔王みたいだ。聖騎士 が闇堕ちすると、こんなことになってしまうんだな⋮⋮。 ︵マールさん⋮⋮大丈夫。棍棒でスライム退治をすれば、いつか恐 怖症は治るから︶ ﹁こ、この私、マールギット・クレイトンが、スライムちゃんなん かにやられると思ったら大間違いなんですからね! ど、どんとこ い!﹂ ﹁よく言った⋮⋮では、1つずつ私が受けた責め苦を繰り返してや ろう⋮⋮!﹂ ﹁きゃぁぁぁっ、うそ、うそです! うそんこです! いやーーー ん!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌB︾は︽マールギット︾の棍棒を奪った! ・︽ジョゼフィーヌB︾は︽マールギット︾の鎧を奪った! ・︽ジョゼフィーヌB︾は︽マールギット︾の足甲を奪った! ・︽ジョゼフィーヌB︾は︽マールギット︾の小手を奪った! ・︽ジョゼフィーヌB︾の毒攻撃! ・︽マールギット︾は毒状態になった! ・︽ジョゼフィーヌB︾の﹁絡みつく﹂! ︽マールギット︾は麻 痺状態になった。 596 ﹁こ、こんなくらいの責め苦で負けるほど、私はなまっちょろい人 生は送ってないんですからね⋮⋮か、かわいいものじゃないですか ⋮⋮ぷよんぷよんってしてて、ぬいぐるみにしたらさぞ可愛いこと でしょうね⋮⋮﹂ ﹁ほう⋮⋮見上げた根性だ。では、あと30分はそうしていろ﹂ ﹁な、長すぎますぅ! 10分でお願いします、そうじゃないとあ の、私もスライム怖くなっちゃうっていうか⋮⋮じ、自由を返して ぇぇぇ!﹂ フィリアネスさんは途中で興味をなくしたように︵ひどい︶、俺 の方に歩いてくると、長い髪をかきあげながら俺を見下ろし、じっ と見つめてきた。 ﹁あ、あの⋮⋮まだ、マールさんの訓練が⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんなことはいい。おまえのスライムのおかげで、こんな格 好にされてしまった⋮⋮訓練とはいえ、責任は取ってもらわなけれ ばならない。ヒロトが幼いといえど、それは関係ない。わかるな?﹂ ﹁う、うん、おれもちょっとやりすぎたかなとは思ってるから⋮⋮ わっ⋮⋮!﹂ 謝ろうとしたらがばっ、と正面から抱きつかれた。スライムの表 面は水分で潤っているので、フィリアネスさんの胸も潤ってぬるぬ るしている。 ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌA︾は︽マールギット︾のクロースアーマーを 溶かし始めた! 597 ﹁ふ、服が溶けちゃう⋮⋮あはっ、あはははっ﹂ ﹁フィリアネス様、マールさんが笑ってますっ、このままでは⋮⋮ !﹂ ﹁マールが笑っているのはいつものことではないか⋮⋮何を焦って いる? 私はヒロトに癒してもらわなければならない。後のことは 任せたぞ、アレッタ﹂ ﹁い、いえっ、あの、私もスライムさんたちと意志が疎通できない と言いますか⋮⋮っ﹂ 放っておいたら、アレッタさんも訓練の相手だと思って壊されて しまうな⋮⋮ジョゼフィーヌの分裂は時間で元に戻るだろうけど、 アレッタさんも一人ではあっけなくやられてしまうだろう。 ﹁ふぃ、フィリアネスさん⋮⋮マールさんの訓練は、そろそろ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽マールギット︾はスライムが怖くなった。 ・︽マールギット︾は﹁スライムに少し弱い﹂を手に入れた。 ﹁ふむ⋮⋮分かった、私も鬼ではないしな。私の二倍の苦しみを味 わったのならば、もう終わりにしてやるべきだろう。ヒロト、頼む﹂ ﹁う、うん⋮⋮ジョゼフィーヌ、戻れ!﹂ ◆ログ◆ 598 ・︽ジョゼフィーヌA︾と︽ジョゼフィーヌB︾は合体した! ・︽ジョゼフィーヌ︾は辺りに伏せた。 ジョゼフィーヌはまた天井に移動し、屋根の隙間を通り抜けて姿 を消した。流動体のスライムは、ちょっとした隙間でも出入りでき るのだ。 解放されたマールさんは、ぱんつも既に溶かされていた。俺は見 ないようにして、彼女の腰のあたりに、着ていた服を脱いでかけて あげる。 ﹁ヒロトの服を⋮⋮な、なぜ私に貸してくれないのだ﹂ ﹁ぱ、ぱんつまで溶けちゃってるから⋮⋮ごめんなさい、フィリア ネスさん﹂ ﹁⋮⋮スライムこわい⋮⋮スライム強い⋮⋮﹂ ﹁スライムってこんなに強いモンスターだったんですね⋮⋮ヒロト ちゃん、勉強になりました﹂ 唯一被害のないアレッタさんは、一番早く落ち着きを取り戻す。 マールさんはちょっと恨めしそうな顔で見ていたが、そのうち力尽 きて床に突っ伏してしまった。 まあ、マールさんがお仕置きされるという予想外の展開はあった が、﹁スライムに少し弱い﹂程度なら、あまり戦闘に差支えは出な いだろう。フィリアネスさんの恐怖症克服が出来ただけでも、良し としておこう。 599 ◇◆◇ 布鎧なしで鎧を着るわけにもいかないので、俺は町に行ってエレ ナさんの店で服などの装備を買い、フィリアネスさんたちに届けた。 スライムのぬるぬるが残っているが、これはゼラチン質を加えただ けの水のようなものなので、風呂で落とせば問題はない。 ﹁何をしていたのかという目で見られそうだ⋮⋮早くヒロトの家に 戻らねばな﹂ ﹁はい⋮⋮ヒロトちゃんと一緒にお風呂に入って、すみずみまで洗 ってもらわないと⋮⋮﹂ ﹁たくましいですね、マールさんは⋮⋮私だってしてもらいたいで すよ、そんなこと﹂ ﹁え、えーと⋮⋮外ではあまりそういう話はだめだよ、お姉ちゃん たち﹂ いたいけな少年っぽく言ってみるが、三人とも撤回はしない。ア レッタさんはまだしも、フィリアネスさんとマールさんは俺のスラ イムにやられたわけだから、まあ洗ってあげてもいいか⋮⋮役得っ ぽくて、本当にいいのかと思ってしまうけど。 家に帰り着くと、お客さんが来ていた。居間にリオナとサラサさ んがいて、レミリア母さんがいない。 ﹁ただいまー⋮⋮﹂ ﹁確か、サラサ殿⋮⋮でしたね。ヒロトを連れ出してしまっていま したが、大丈夫だったでしょうか﹂ ﹁ええ、フィリアネス様と訓練しているというのは、レミリアさん 600 に聞いています。今、町のお医者さんに来てもらっているんです﹂ ﹁ヒロちゃんのお母さん、ちょっと具合が悪いみたいなの⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮か、母さんが?﹂ そういえば最近、ちょっと様子が変だったな⋮⋮風邪でも引いて るのかなと思っていたけど、サラサさんたちがうちに来ているうち に、悪くなってしまったんだろうか。 心配で、心臓が早まる。そんな俺を見て、フィリアネスさんは優 しく肩に手を置いてくれた。 ﹁何も心配することはない。母君は、きっと大丈夫だ⋮⋮それに、 私たちもついている﹂ ﹁うん、ありがとう、フィリアネスさん﹂ ﹁はぁ∼んっ、雷神さま、その役目私にたまには変わってください。 私だったら、ヒロトちゃんを後ろからぎゅって抱きしめてですね∼ ⋮⋮﹂ ﹁ヒロちゃんをぎゅーってするのは私だから、大きいお姉ちゃんは しちゃだめ﹂ ﹁ま、まさか、日頃からぎゅーってしてるの? リオナちゃん、そ んなうらやましいことをいつもしてたら、そのうちヒロトちゃんの ぬくもりから離れられなくもがっ﹂ ﹁マール、おまえは少し黙れ﹂ ﹁もがもが⋮⋮ぷはっ! ら、雷神さま、本気で怒らないでくださ い、謝りますから∼!﹂ ﹁怒ってなどいない。おまえは騎士団の行事ではしっかりしている が、私の前では気を抜きすぎる﹂ それはマールさんが、本当にフィリアネスさんを慕っているから だろうな⋮⋮と、俺がもう少し成長していたら仲裁してあげられた んだけどな。子供がそれを言うと、さすがに背伸びをしすぎている。 601 ﹁あっ⋮⋮レミリアお母さん、だいじょうぶ!?﹂ 奥の寝室から、レミリア母さんと⋮⋮あれ、一緒に居る中年の女 の人、見たことあるな。 ︵どこかで⋮⋮もしかして、俺が生まれた時、取り上げてくれた助 産師さんか⋮⋮?︶ あの時は目がよく見えなかったから、姿はよく覚えてないが⋮⋮ 確か、俺が生まれてからも、たびたび家を訪ねてきてくれていた。 助産師さんが家に来る⋮⋮それは、つまり。 ﹁リオナちゃん、ありがとう。私は大丈夫⋮⋮フィリアネス様たち も、お疲れ様でした。いつもヒロトがお世話になって⋮⋮﹂ ﹁いえ、こちらこそご子息には大変お世話になっています。今日も、 教えられることばかりでした﹂ ﹁まあ⋮⋮ヒロトちゃん、聖騎士様にまで認められているんですね。 やっぱり、ヒロトちゃんは凄いです﹂ ﹁うん! ヒロちゃんはね、とってもすごいんだよ! 私やステラ ちゃんたちも、いつもそう言ってるの!﹂ リオナは自分のことみたいに誇らしげに言う。な、なんか照れる な⋮⋮こんな、ベタ褒めされると。 それよりも、母さんのことだ。身体の不調は、何が原因だったん だろう⋮⋮? ﹁レミリアさん、みんなには今言ってもいいのかしら?﹂ ﹁はい、私から言います⋮⋮本当は、夫にも居て欲しかったんです が、仕事中ですから、帰ってから家族でもう一度話したいと思いま 602 す﹂ 助産師さんに丁寧に受け答えをしてから、母さんは俺たちに向き 直る。そして少し恥ずかしそうにしながら、お腹のあたりをそっと 撫でた。 ﹁レミリアさん⋮⋮お腹に、赤ちゃんが⋮⋮?﹂ ﹁わぁっ⋮⋮おめでとうございます∼! ヒロトちゃんに弟か、妹 が出来るんですね!﹂ サラサさんとマールさんが、真っ先に事情を察する。よくわかっ ていなかったリオナも、マールさんの﹁弟か妹﹂というところで反 応して、目をきらきらと輝かせ始めた。 ﹁ふぁぁっ、あ、赤ちゃんがいるの? ヒロちゃん、赤ちゃん! 赤ちゃんだよ!﹂ ﹁わっ、い、いきなり抱きついてくるなって⋮⋮赤ちゃんっていっ ても、まだ生まれてくるのは先だぞ?﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ヒロトも嬉しいのに、皆の前では抑えているのか。男 の子だな﹂ ﹁おめでとうございます、レミリアさん⋮⋮若いのに、もう二人め のお母さんなんですね⋮⋮﹂ アレッタさんは感激しきりで、目を潤ませている。優しいんだな ⋮⋮何だか、俺までもらい泣きしそうになる。 ﹁まだ三ヶ月ですから、安定するまでは、出来るだけ安静になさっ てくださいね﹂ ﹁はい、ありがとうございます。ヒロトの時も本当にお世話になっ て⋮⋮﹂ 603 母さんが涙のにじんだ目元を拭く。母さんに赤ちゃんが出来たこ と、俺は全然気づいてあげられなかった⋮⋮嬉しさも不安もあるだ ろうし、こんな時こそ、俺と父さんで支えてあげたい。 ◇◆◇ レミリア母さんはみんなの祝福を受けて、すごく照れていたけど、 とても嬉しそうだった。俺も嬉しくて、いつまでもそわそわと落ち 着かなかった。 母さんはお腹のことを少し気にしながらも、夕食の支度をする。 俺は負担がかからないように、いつもはあまり手伝わせてくれない 母さんにお願いして、高さが足りないときは踏み台に乗って食事の 支度を手伝った。 そしてフィリアネスさんたちと一緒にお風呂に入る前に、彼女た ちはいったん部屋に戻って、リカルド父さんと母さんと三人で、新 しい家族のことを話すことになった。テーブルを挟んで、俺は母さ んの隣に座り、父さんと向かい合う。 ﹁なにっ⋮⋮ほ、本当か? レミリア⋮⋮﹂ ﹁ええ⋮⋮もう三ヶ月みたい。最近、少しふらつくことがあると思 ったんだけど、貧血だったみたいね﹂ ﹁そ、そうか⋮⋮済まない、気づけなくて。これからは足元には、 くれぐれも気をつけてな⋮⋮しかし、そうか。二人目か⋮⋮!﹂ 父さんは次第に実感が湧いてきたのか、初めは驚いていたが、だ 604 んだんと笑顔に変わっていく。 そして父さんは席を立つと、母さんの手を取って言った。 ﹁俺は今以上に仕事をして、おまえたちが安心して暮らせるように する。お腹の子供が幸せになれるように、レミリアと、ヒロトと、 三人で頑張っていきたい⋮⋮ヒロト、こっちにおいで﹂ ﹁うん!﹂ 俺は椅子から降りて父さんに近づく。父さんは俺の頭を撫で、そ してもう片方の手で、母さんのお腹に触れていいかとうかがう。 ﹁そっと触ってあげて。この子がびっくりしないように⋮⋮そう、 そっとね⋮⋮﹂ レミリア母さんのお腹は、まだ目に見えて膨らんでいるわけじゃ ない。しかし、触れた父さんには、そこに確かに命が宿っているこ とが伝わったようだった。 ﹁⋮⋮ヒロトの時も思ったが⋮⋮子供が出来るというのは、本当に、 奇跡みたいだ⋮⋮俺とレミリアの⋮⋮﹂ 父さんはすべて言葉にならないみたいで、途中で乱暴に目頭を拭 う。そしてしばらく目元を押さえたあと、立ち上がり、照れくさそ うに笑った。 ﹁悪いヒロト、父さん、かっこ悪いところ見せたな⋮⋮男は簡単に 泣くなって、いつも言ってるのにな﹂ ﹁あなたったら⋮⋮いいのよ、こんな時くらい、そんなに強がらな くても﹂ ﹁いや、ヒロトが落ち着いてるのに、俺がドンと構えてなくてどう 605 するんだ。本当、どっちが大人か分からんな⋮⋮ときどき、ヒロト が物凄く頼もしく見えるよ﹂ ﹁そんなことないよ、父さん。俺は父さんの方こそ、すごく頼りが いがあるって思ってるよ﹂ ﹁そ、そうか⋮⋮って、言わせたみたいで悪いな。子供は気なんて 使わなくていいんだ﹂ 父さんは照れて、俺の頭を撫でる。それを見ていた母さんも、口 元に手を当てて上品に笑った。 ﹁あなたの二人目の子よ、リカルド。授かることが出来たこと、女 神様に感謝しないとね﹂ ﹁ああ。明日、家族で教会に行こう。ヒロトも教会のセーラさんに は、良くしてもらってるみたいだしな﹂ ﹁うん。セーラさんもきっと喜んでくれるよ﹂ 三人で笑い合う。ここに四人目が加わったときのことを、俺たち 家族は、きっと全員が今から想像している。 ︱︱前世で弟が生まれた時。俺は今と同じように、家族みんなで その誕生を待ち遠しく思い、心待ちにした。 その弟が社交的に育ち、俺とは全く違う道を歩んで、両親の期待 を一身に受けているのを見ていて、俺は⋮⋮弟が生まれた時の気持 ちを忘れ、妬んでしまうこともあった。今では、俺がいなくなった あと、両親と仲良くやっていてほしいとひたすら願っている。 この人生では、俺は決して、弟や妹を妬んだりはしない。兄とし て尊敬されるように生きていきたい。 ﹁あと七ヶ月か⋮⋮名前を考えておかんとな。ヒロトも考えておく 606 んだぞ﹂ ﹁俺のときみたいに、神様にもらえばいいよ。それが一番、いいと 思う﹂ ﹁ふふっ⋮⋮お兄ちゃんらしい顔になっちゃって。ヒロトがお兄ち ゃんなら、きっとこの子も安心して生まれてこられるわね﹂ 俺の名前を神がくれたというのは、女神が授けた︱︱ということ になるんだろうか。この世にある全ての名前がそうじゃないのかも しれないが、色んなものに名をつけているなら、女神もなかなかセ ンスがあるじゃないか、と思わなくもない。 ︱︱そして、俺は思う、﹁女神﹂と言っているが、彼女に名前が あるのかどうか︱︱もし会うことができたら、機会をうかがってス テータスを見てみたいと。 ◇◆◇ 俺の家に、新しい家族ができる。その話を仲間たちに伝えると、 彼らも自分のことのように喜んでくれた。 母さんの妊娠が分かってから、もう二ヶ月︱︱あと、五ヶ月で生 まれる。 一日一日、俺は変わらず充実した日々を過ごしながらも、四六時 中待ち焦がれていた。 家の裏、町を見下ろす丘の上で、俺は仲間たちと一緒に集まって いた。アッシュ、ディーン、ステラ、ミルテ、そしてリオナと俺を 入れて、六人だ。 607 ﹁ヒロト、いいな⋮⋮兄ちゃんになるんだな。俺も弟か妹が欲しか ったよ﹂ ディーンには母親がいない。亡くなってしまったのか、それとも 別の理由かをはっきり聞けてはいないが、察するには、この世には もういないのだと言葉の端々から感じ取れた。 だからこそ、ディーンの母が父に送った帽子を、何としても取り 返そうとした。それを知ったとき、俺は﹃いらないからやる﹄と言 ったことをディーンに謝り、そして受け入れられた。 ﹁ディーンにはお兄さんだっているし、弟も、妹だっているじゃな い﹂ ﹁ん⋮⋮ま、まあ、そうだけど。そう言われると、なんか恥ずかし いっていうか⋮⋮﹂ ﹁僕はディーンさえ良ければ、兄さんみたいな気分でいるよ。僕よ りディーンの方が、体力はあるけれどね﹂ ﹁アッシュ兄⋮⋮あ、あんがとな。つか、ちょっと言ってみただけ だから、あんま気にすんなよ﹂ ディーンは笑ってみせる。けれどその目にある、俺に対する憧れ が、やはり前世を思い起こさせる。 俺に弟ができると知った時、一人っ子だった恭介は、羨ましいと 言っていた。 ︱︱そして弟は、社交的で、成績もスポーツも優秀だった恭介に 憧れ、同じサッカー部に入って、﹃弟分﹄になった。俺に対して、 ﹁兄ちゃんもやれば出来るんだから﹂と何度も言ってくれていた、 俺には出来過ぎた弟だ。 ﹁⋮⋮ミルテも、ヒロトの妹になりたい﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ 608 ﹁リオナもなりたい!﹂ ミルテの言うことに、いつもリオナは対抗する。それは仲が悪い わけじゃなくて、仲が良すぎるからだとも言える。俺に対する気持 ちも近いものがあるというのは、なんとなく気づいていた。 ﹁私はヒロトの本当のお姉ちゃんになりたいとは、思わないわ﹂ ﹁えっ⋮⋮どうして? ステラ姉﹂ リオナが聞き返すと、ステラは頬を赤らめる。七歳が近づいた彼 女は、俺たちの中で一番背が高い︱︱子供の頃は女の子の成長が早 いというから、そういうことなのだろう。 ﹁ヒロトのお姉ちゃんになったら、将来⋮⋮けっこんできないかも しれないもの﹂ ﹁あっ⋮⋮み、ミルテは、ヒロトと⋮⋮けっこん⋮⋮けっこん⋮⋮ ?﹂ ﹁⋮⋮リオナは⋮⋮﹂ ミルテは結婚がよく分かってないみたいで、リオナは⋮⋮わかっ ているけど、すごく恥ずかしがってる。 それでも俺は、リオナがとても懐いてくれていると知りながら、 未来まで決めてしまうことはしなかった。 ︱︱俺は大人になっても、ずっとリオナを守り続ける。そう決め ていても、俺たちが結ばれると決まったわけじゃない。 ミゼールの町に子供はそれほど多くないが、リオナは魅了を封じ ていても、全ての少年を魅了するほどに容姿が整っている。四歳な どということは関係ない、リオナの容姿はあまりに、異性の心を動 609 かしすぎるのだ。 アッシュとディーンは俺とリオナが常に一緒にいるものだと思っ ていて、将来も一緒だということを、少しも疑っていない。だから こそリオナを友人としてだけ見られているだけで、もし俺が居なか ったら、他の少年たちと同じにならざるを得なかっただろう。 けれど日ごとに開花に近づいていくリオナを見ていると、俺も心 を動かされる瞬間があることを否定出来ない。 日に日に陽菜に似ていき、けれど陽菜よりもきれいで、可憐な少 女。 俺は、彼女を守りたいと思う。俺にしか、出来ないと思っている ⋮⋮それが驕りであっても、今は⋮⋮。 ﹁なあ、ヒロト。弟か妹ができて、遊べるようになったら、おれた ちの秘密の遊び場、全部教えてやろーな!﹂ ﹁うん。小さいうちは危ないから、大きくなったらそうしよう﹂ ﹁ははは⋮⋮二歳の時から走り回ってたヒロトと似てたら、すぐに 一緒に遊べるようになりそうだね﹂ ﹁私も本を読んで聞かせてあげたいわ。いっぱい勉強して、家庭教 師をするの。ヒロト、いいでしょう?﹂ ﹁リオナもミルテちゃんと一緒におしえたいな⋮⋮ミルテちゃん、 一緒にお勉強しよ?﹂ ﹁⋮⋮うん。ヒロトも一緒に、勉強する﹂ 穏やかに流れていく時の中で、俺は思う。もう、二度と同じ間違 いは繰り返さない。 仲間がいて、信頼し、尊敬する人たちが居て⋮⋮守りたいと思う ものを、守ることのできる力がある。 610 ︵⋮⋮安心して、生まれてきてくれ。この世界は、優しい世界だ︶ 丘の上の草原、柔らかな背の低い草に背を預け、俺は目を閉じて 静かに思った。 611 第十七話 覚醒 新しい家族の命が母さんに宿っていることがわかってから、四ヶ 月。妊娠七ヶ月に入った頃、母さんは自宅で家事をしている時に倒 れてしまい、町の診療所に入院することになった。 ﹁心配かけてごめんね、ヒロト。リカルド、私のことは気にしない で、仕事に行ってきて。助産師さんもついていてくれるし、何も心 配はないわ﹂ ﹁いや⋮⋮今日は、ついていさせてくれ。ヒロト、母さんには父さ んがついてるから、おまえは遊んできてもいいからな。リオナちゃ んや友達も、お前がいないと寂しいだろう﹂ ﹁ううん、母さんのそばにいるよ﹂ いつもなら、俺は家の外で日中のほとんどを過ごしていたけど、 母さんが倒れた時には幸いにも家にいたから、母体に大事がないよ うに支えてあげられた。母さんは気を失ってしまっていたから、俺 が子供にあるまじき力を見せたことには、今も気がついていないは ずだ。 診療所の先生から診断の結果を聞いてから、父さんは俺を見ると きに笑顔でいるけれど、その笑顔にいつもの心の底から来るような 覇気はなくなっていた。 ︵⋮⋮母さんが心配だ。でも、それは父さんも同じだ︶ レミリア母さんはこれまでも風邪を引いたりすることはあったが、 俺にはいつも﹃大丈夫﹄とだけ言っていた。父さんもそんな母さん 612 の気持ちを汲み取って、俺に心配させるようなことは言わなかった。 ︱︱まだ自分が子供であることが、歯がゆくてならない。その気 持ちを口に出来ない俺は、ベッドの上の母さんの手を取って、握る ことしかできなかった。 ﹁ありがとう⋮⋮優しい子ね。父さんに似たのかしら﹂ ﹁レミリアに似たんだよ。ヒロトはこの歳で、もう俺よりも落ち着 いてる﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そうね、ヒロトがお兄ちゃんなら、この子もきっと頼 りがいがあるでしょうね。リカルドも、頼りがいはあるけれど﹂ ﹁ははは⋮⋮俺はついでか? まあ、ヒロト坊の前じゃ、そこらの 大人じゃ形無しだけどな﹂ 父さんは笑って、俺の頭を撫でてくれる。けれどその手さえ、い つもの気兼ねのない触れ方ではなかった。 少しだけ、震えている。俺は父さんのことも、子供ながらに支え なければならないと強く思った。 母さんが眠りについたあと、俺は少し外に出て遊んでくるように と言われて、町に出てきた。 向かう先は、バルデス爺の工房だ。赤ん坊の時に知り合ってから、 二歳のときに初めて小さな斧を贈られた。木こりの息子の誕生祝い という意味で、最初はおもちゃのような斧だったが、今では手斧く らいの大きさとはいえ、戦闘に使えるものを作ってもらえるように なった。モニカさんと狩りの練習をするためという名目だ。 しかしバルデス爺は斧を修理してくれるとき、俺の斧が薪を割る ためでも、狩りのためでもなく、モンスターとの戦いで消耗してい 613 ることに気づいていた。父さんにそう聞かされてから、俺はバルデ ス爺に正直に事情を話し、それからは斧の本格的な強化を頼むよう になった。 ﹁じっちゃん、いる?﹂ ﹁おお、よくぞ来たな、ヒロト坊。預かっておった斧じゃがな⋮⋮﹂ ﹁出来た? それとも、失敗しちゃったかな⋮⋮﹂ 武器の強化は確率で成功と失敗が分かれ、成功すると+1の数字 がつき、成功するたびに+2、+3とランクアップしていく。武器 の性能は+1でも大きな差があり、+3で元の武器の2倍、+5で 3倍、+7で4倍となる。しかし、一回の強化を依頼するたびに相 応の資金と素材が必要で、+5以上ともなると、入手が困難な素材 が必要となる。メルオーネさんやエレナさんを介してミゼールの商 店全ての情報を得ることができ、町で流通する全てのアイテムを把 握している俺でも、今回の強化が失敗すれば、次の機会は相当先に なると思われた。 俺が今回バルデス爺にやってもらった強化は、﹃ドヴェルグの小 型斧﹄の+7強化である。ドヴェルグとはバルデス爺の種族、ドワ ーフの古い呼び方だ。ドワーフに伝わる積層鍛造技術によって作ら れた斧をベースに、希少金属を使って加工を施すことで、さらなる 強化を試みてもらった。斧はプラスが無い状態でも既に完成してい るものなので、それ以上鍛えることは難しく、鍛冶師スキルが70 もあるバルデス爺でもほぼ失敗する。成功率は10%以下といった ところだ⋮⋮しかし。 バルデス爺は好々爺らしい微笑みを絶やさないまま、前よりもさ らに輝きを増した俺の斧を差し出してきた。 614 ﹁うわっ⋮⋮す、すっげえ! じっちゃん、ありがとう!﹂ ﹁うむ、儂も久しぶりに精魂尽き果てたぞ。しかしこれはもう、子 供向けの斧とは言えぬ⋮⋮使った素材といい、かけた時間といい、 それこそ英雄の持つ武器となんら変わらんものじゃ。ヒロト坊、あ れだけの素材をよく集めたのう﹂ 武器の素材として使われる希少な金属を作るには、まず鉱石を集 めて、錬金術師の力を借りるか、錬金スキルで精錬する必要がある。 しかし、錬金術を産業のひとつとする魔術都市ファ・ジールからと きどき金属のインゴットが流出することがあり、それが首都の貴重 品市場に出たところで、首都の商人にも顔の利くエレナさんに運良 く押さえてもらった。俺が堂々と大金を支払うわけにもいかないの で、支払いはモニカさんに代わりにやってもらった︱︱彼女には本 当に頭が上がらない。 ﹁リカルドですら、それより数段落ちる武器しか持っておらぬ。そ れほどの武器を子供のお主に渡すことなど、本当はしてはならんこ となのじゃがな﹂ ﹁⋮⋮うん。ごめんじっちゃん、無理言って。でも、俺⋮⋮﹂ ﹁ほっほっ⋮⋮いや、説教を垂れるつもりではない。儂はヒロト坊 がどのような子か、これまで見てきて十分に知っておるつもりじゃ。 お主には何か、高く遠い目標があるのじゃろう⋮⋮その志、老い先 の短いこの爺にとっても眩しいものじゃ﹂ ドワーフの寿命は250歳で、バルデス爺は、既にそのほとんど を終えている。若い頃は冒険者として、仲間の武器のメンテナンス をしながら、諸国を見て回って武勇伝を残した歴戦の戦士が、俺を 眩しいと言ってくれる。それを光栄に思うと同時に、身が引き締ま る緊張を覚えた。 615 ﹁じっちゃん⋮⋮ありがとう。俺、絶対に悪いことには使わないよ﹂ バルデス爺から斧を受け取る。俺がプレイしていたエターナル・ マギアにおいて、+7までの強化に成功したプレイヤーはほとんど いなかった。+10までの実装が予定されていたのに、全く追加さ れなかったのは、+7ですら神器と呼ばれる希少さだったからだ。 それを今の時点で手に入れられたことは、今までやってきたことの 積み重ねによるものだ。 少しでも、強く。モンスター討伐以外で自分を鍛えているうちに も、ずっと望み続けていた。恵体は70になり、他のスキルも鍛え 続けた今、俺は大げさではなく、町で一番の強さを手に入れていた。 そしてこの斧を手に入れたとき、俺はもう一段階、今までの自分 を超える。 ︱︱人間の子供。魔王では、ない⋮⋮。 少女の姿をした皇竜の残した言葉、あの時の恐怖に打ち勝つため。 本当の意味で、限界を超えるため。今の俺はまだ、そのための資 格を手にした段階ですらない。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁ドヴェルグの小型斧+7﹂を手に入れた。 ﹁ヒロト坊、出来るだけお母さんの傍についていてやりなさい。強 くなろうとするのも良いことじゃが、それだけが全てではない。家 族を元気づけるのも、お主の役目じゃぞ﹂ 616 ﹁うん⋮⋮分かった。バルデス爺、しばらく来られないけど、俺、 また必ず来るから﹂ ﹁困ったことがあったらいつでも訪ねて来い、儂に出来ることは少 ないが、伊達に長くは生きてはおらん。ミゼールの魔女ほど博識で はないが、教えられることも多かろう﹂ そう言ってバルデス爺は、最後に俺に手を差し出した。ドワーフ にとって、職人の命ともいえる利き手で握手をするのは、最大の親 愛を示す行為だ。 岩のように硬くなった手を握ると、バルデス爺は何度か頷いたあ と、俺を送り出してくれた。 ◇◆◇ 俺と父さんは母さんを看るために診療所に泊まらせてもらってい たが、母さんはほとんどベッドを離れることが出来なくなっていた。 子供を産むときには、それだけの覚悟が必要になる。前世でも、 母さんは弟が産まれるまで、ずっと元気なままじゃなかった。体調 を崩したりもしていたし、最後は病院に一ヶ月ほど入院して、弟が 生まれたあとも、すぐに退院することは出来なかった。 この世界には発達した医療技術の代わりに、治癒術が存在する︱ ︱しかし、それも万能ではない。サラサさんが治癒術で少しでも母 さんのために出来ることはないかと尽力してくれたが、効果は思わ しくはなかった。 ﹁ヒロトちゃん、心配することはありませんよ。レミリアさんは、 617 きっと大丈夫です﹂ ﹁女神様は、レミリア様を必ず守ってくださいます⋮⋮生まれてく る赤ちゃんのことも﹂ 俺が一時的に家に帰ったとき、サラサさんとセーラさんが様子を 見に来てくれた。リオナとみんなも何度か母さんの見舞いに来てく れて、すごく心配してくれていた。そのたびに母さんは、元気だっ た頃と同じように微笑んで、リオナやみんなにお礼を言っていた。 ︱︱少しずつ、不安が膨らんでいく。大丈夫だと言う母さんの面 影が、日に日に儚く俺の目に映る。 そして、周りの大人から核心を言われなくても分かってしまう。 母さんの容態が、本当は思わしくないっていうことが。あの強い父 さんが隠せないことを、他の大人が隠しきれるわけもない。 ﹁ヒロちゃん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮大丈夫。リオナは、何も心配することないよ﹂ ﹁うん⋮⋮でも⋮⋮﹂ リオナもまた、レミリア母さんがいない家に寂しさを感じている。 こんなとき、俺の元気が無かったら、きっとリオナの心にも負担を かけてしまう。 ﹁サラサさん⋮⋮おれは、大丈夫だから。家の片付けをしたら、ま た母さんのところに行くよ﹂ ﹁私も手伝います。私にも、何かをさせてください﹂ ﹁⋮⋮ヒロトさん、私たち大人にもっと甘えてください。私たちは、 いつもそれを待っているんですから﹂ サラサさんとセーラさん、そしてターニャさんたちも、俺が寂し 618 がっているだろうと思ってよく顔を見に来てくれた。 みんなだって、信じてくれている。母さんが、無事に元気な赤ち ゃんを産むことを。 だから、何も不安に思うことなんてない。 数日後の夜までは、俺は、そう思い込もうとしていた。自分に言 い聞かせて、ただ、盲目に信じた。 この世界は優しい世界だ。絶対にそうなんだと。 ◇◆◇ ︱︱けれど、その出来事は起こってしまった。 母さんが出産する予定の、二ヶ月前。母さんが昏睡に陥り、意識 が戻らなくなった。 俺は診療所の外で待っているように言われたが、耐えられずに、 気配を隠して診療所に入り、母さんの容態を伝える診療所の先生と、 父さんの話を聞いた。 ﹁このままでは、母子ともに危険な状態です。レミリアさんか、お 腹のお子さんのどちらかに、重大な後遺症が起こる可能性がありま す﹂ ﹁そんな⋮⋮何とかならないんですか! 妻は、レミリアは、何も っ⋮⋮!﹂ 父さんが抑えきれずに先生に詰め寄る。髪に半分ほど白髪の混じ った男性の医者⋮⋮その傍らには、助産師さんの姿がある。彼女は 沈痛な面持ちで、父さんと医者のやりとりを見ていた。 619 この世界の医療技術は中世ほどにしか進んでおらず、母さんに何 が起きているのかすらも分かっていない。 生まれ変わってから初めて、俺は前世に未練を感じずにはいられ なかった。 高度に進んだ医療があれば、母さんと、お腹の中の子供のことを、 苦しませずに助けてあげられる方法があるかもしれないのに。 前世の世界の先端医療ですら、万能ではないことは知っている。 しかし生まれてくる子供の性別や、母体の状態を知る機器などの技 術は、異世界よりも遥かに先を行っていた。 ﹁レミリアさんの体力がまだ残っているうちに、出来ることがあり ます。しかし、どのみち母体に負担がかかることは否めません﹂ ﹁⋮⋮何でもいい⋮⋮助けてもらえるのなら何でもする。妻を助け てくれ⋮⋮っ、頼む⋮⋮!﹂ ﹁リカルドさん、落ち着いてくださいっ!﹂ 父さんは先生の肩を掴んで揺さぶろうとして、助産師の女性に止 められる。我を失う寸前だった父さんは、目を見開いて、震えなが ら先生を放した。 先生は、母さんのお腹の中の子供を生かすための手術をすると父 さんに告げる。母さんは助かっても、子供は命を落とす可能性が高 いと、そう告げていた。 しかし父さんは、それに頷きながらも、もう自分を保つことは出 来ていなかった。 診療所から出てきた父さんは、俺の姿を見つける。その眼は真っ 赤になっていたが、力を振り絞るように笑ってみせると、俺に手を 620 差し出した。 ﹁ヒロト、今日は家に戻ろう。俺はまた母さんのところに戻るが、 おまえは少し休んだほうがいい﹂ ﹁ううん、おれも、一緒に⋮⋮﹂ 一緒にいる。そう言いかけたところで、父さんの顔が崩れた。 けれど、父さんは泣きはしなかった。全ての感情を押し殺して、 ただ真っすぐな眼差しを俺に向けた。 ﹁⋮⋮わかった。明日の朝になったら、ここに来るんだ⋮⋮できる な?﹂ ﹁⋮⋮うん、わかった﹂ 俺を最初から一緒に連れていかない理由が、痛いほどにわかって いた。 父さんは、母さんと二人で話すつもりだった。母さんに何が起き ているのか、これから何が起きようとしているのかを。 父さんに休むように言われても、少しも寝付けないでいた俺は、 数時間してようやく短い眠りに落ちた。 母さんの夢を見た。生まれてから今までのことを思い返していた。 ︱︱あらあら、ヒロト、びっくりしちゃったみたいね⋮⋮それと も、お腹がすいた? ︱︱はい。この子はヒロト⋮⋮私とリカルドが授かった子です。 621 ︱︱悪いことなんてあるわけないじゃない。お母さんは、ヒロト のお母さんなんだから。 レミリア母さんは、いつも優しかった。困らせることがあっても、 仕方ないことをしても、最後には笑ってくれた。 リカルド父さんは、母さんが笑うところを見るといつも嬉しそう だった。そんな二人を見ていると、俺も同じだけ嬉しくなった。 こんな幸せが、いつまでも続くと思っていた。 こうなってしまう前に、俺には何かが出来たはずだった。 ﹁⋮⋮俺には、何も⋮⋮﹂ 前世でも同じだ。俺は最後まで母さんに孝行のひとつもできなか った。 子供の頃に、幼稚園で描いた母の日の似顔絵と、小学生の頃に、 誕生日に贈った肩たたき券。そんなつまらないものでも、母さんは 喜んでくれていた。俺が引きこもったあとも、決して見捨てたりし なかった。 俺には、信じることしか出来ない。母さんが、無事でいることを。 もう一度笑ってくれることを、ただ馬鹿みたいに信じることしか 出来ない。それ以外に、何も出来ないから。 真っ暗な部屋の中で目覚め、幸福な夢が終わったあとも、俺は空 っぽの心をどうすることも出来ずに、ただ目を開けて息をしている だけだった。 622 泣くことも出来ず、ただ喉に痛みを感じたまま、吐き出す想いも ない。 ︱︱そのうちに、猛烈な怒りが湧き上がってくる。 何のために、力を貰って生まれ変わったのか。俺に出来ることは、 本当に何もないのか。 そうして考えた末に、俺は、今までの歩みの中で見つけていた希 望に気がつく。 ︱︱お主の抜いたマンドラゴラじゃがな、実は秘薬の材料にも使 われるのじゃ。万病に効き、死地にある人間すらも完全に回復させ る、薬師の秘中の秘⋮⋮エリクシールと呼ばれる薬じゃ︱︱ ﹁エリク⋮⋮シール⋮⋮﹂ 上級精霊魔術を得るために進めていた、ネリスおばば様に与えら れたクエスト。 エリクシールの素材は、残りひとつを残して集められていた。し かしおばば様は、最後の一つだけ、俺にはまだ早いと言って教えて くれなかった。 ﹁そうだ⋮⋮エリクシールなら、きっと⋮⋮!﹂ 俺は電撃に打たれたように、ベッドの上で跳ね起きた。外に出る 支度をし、おばば様の元に行こうとする。 623 そして自分の部屋がある二階から一階に駆け下りたとき︱︱俺は 気づいた。 ひんやりとした空気が、どこからか流れ込んでいる。地下室の扉 が、開いている︱︱! ︵っ⋮⋮誰が⋮⋮父さん⋮⋮!?︶ 一刻も早くおばば様の所に行かなければならない。しかし目の前 の事態を放っておくこともできず、俺は﹁忍び足﹂を発動して地下 室に入った。奥に居るのが、必ずしも父さんとは限らない⋮⋮もし、 魔剣の存在に気づき、悪用するような輩だったら、戦わなくてはな らなくなる。 赤ん坊の時に一度だけ通った地下道。そこを進んでいくと、教会 の地下に通じている。 そこには、魔剣を手にして、振りかざした父さんの姿があった。 ︵っ⋮⋮!?︶ 止めなければならない、声を出さなければ。そう思う前に、父さ んは魔剣を、鞘に入ったままで床に叩きつけようとする。 ﹁⋮⋮くそぉぉぉっ⋮⋮!﹂ しかし父さんは、剣を叩きつけることはなかった。床に落とし、 膝を突き、力なく天を仰ぐ。 ﹁災厄の魔剣⋮⋮こんなものさえなければ⋮⋮こんなものさえっ⋮ 624 ⋮!﹂ 魔剣と母さんの容態に関係があるのかは分からない。しかし父さ んは、もう耐えることが出来なかったのだ。 愛した人が生死の境にいる。その現実に対する憤りを、何かにぶ つけずには居られなかった。 もし、母さんに何かがあれば⋮⋮父さんは、もう、元の父さんに は戻ってくれないだろう。 大人になってから、育ててくれた恩を返すつもりだった。そうで なければ、二人も受け取ってはくれないと思っていた。 ︱︱それではもう、遅すぎる。 ◇◆◇ 早朝の町外れ。森に少し入ったところにあるおばば様の家を尋ね ると、ミルテが目をこすりながら起きてきて、ドアを開けてくれた。 そして俺の顔を見るなり、おばば様は首を振り、俺に背を向けよ うとした。 ﹁⋮⋮わしは、何も教えられん。ヒロトよ、お主がどれだけ強くと も、出来ぬことはある﹂ ﹁エリクシールがどうしても必要なんだ⋮⋮母さんを助けたいんだ っ!﹂ ﹁ヒロト⋮⋮﹂ 625 ミルテは俺の剣幕に押されて、瞳を潤ませている。怖がらせてし まっているとわかっていても、俺は引き下がるわけにはいかなかっ た。 ﹁材料の、最後の一つ⋮⋮どんなに難しい材料でもいい、教えてく ださい! お願いしますっ!﹂ そんなことをしてもどれだけの意味もないと知りながら、俺は跪 き、地面に頭を擦り付けた。 ﹁⋮⋮っ、だめ、ヒロト⋮⋮!﹂ ミルテが駆け寄ってきて、俺に頭を上げさせようとする。彼女の 優しさが伝わっても、俺は頭を上げられない。 ﹁おれは⋮⋮おれは、自分はなんでも出来ると思ってた。出来ない ことなんてない⋮⋮大切なものを守る力だってある。これからもず っとそうだと思ってた⋮⋮﹂ おばば様は何も言わない。けれど、そこに居てくれる⋮⋮それが どれだけ見苦しくても、俺は、どれだけ拙い言葉であっても、全て を吐き出すしかなかった。 包み隠すことも何もない。自分の心をありのままに、言葉にする ⋮⋮皮肉にも、こんなときにならなければ、俺はそうやって話すこ とができなかった。 ﹁でも実際は違った⋮⋮俺はまだ子供だ。何も出来ない⋮⋮このま まじゃ、母さんを助けてあげられない⋮⋮そんなのは嫌なんだ。絶 626 対に嫌なんだ⋮⋮!﹂ このまま何もしなければ、俺はきっと、生まれてきたことを後悔 する。 これまで重ねてきた幸福も何も、失ってしまう。父さんも、母さ んも⋮⋮。 ﹁祈るだけで母さんが助かるのなら、どれだけでも祈る⋮⋮でも、 それ以外にも出来ることがあるなら、俺はそれをやらずにいたくな い。何もしなかったら、俺は死ぬよりも後悔する⋮⋮だから⋮⋮っ !﹂ 喉の痛みが限界を超える。声を枯らした叫びが、それ以上続けら れなくなる。 どれだけも気持ちを伝えられた気がしない。子供の泣き言を、お ばば様が聞き入れる道理なんてない。 ︱︱道理なんて、ないのに。 ﹁おばば様⋮⋮﹂ ミルテが驚いたように言う。俺の頭の上に、おばば様の、温かい 手が乗せられていた。 顔を上げると、おばば様はいつもミルテを見るときに見せていた 優しい瞳で俺を見つめていた。 ﹁⋮⋮無理を言うでない。材料を言えば、それは、お主を殺すこと になるかもしれん⋮⋮それこそ、レミリアとリカルドがどれほど悲 しむか。ミルテも、子供らも、ヒロトを思う町の人々の気持ちを、 627 踏みにじることになるのじゃぞ﹂ ﹁でも⋮⋮でも、俺はっ⋮⋮﹂ 縋り付こうとしたとき、俺は、おばば様に抱きしめられていた。 どこまでも優しく、包み込むように。 ﹁ミルテの両親は死んだと聞かせていたが、事実はそうではない。 それを言わずにおいたのも、教えればミルテを殺すことになるやも しれぬからじゃ。肉親を、親愛を抱いた人物を守るために、人は命 を捨てることができる。残される人々の気持ちも、考えもせずにの う﹂ ﹁⋮⋮おばば様﹂ ミルテは俺の傍らで話を聞いている⋮⋮しかし、意外なことに、 驚いてはいなかった。 両親のことを知っていたのか、そうでないのか。今はそれよりも、 ミルテは、ただ俺のことを想ってくれていた。彼女にとって、大切 なことであるはずなのに。 ﹁⋮⋮ちがう。ヒロトは、そんなことしない⋮⋮お母さんを助けた いだけ﹂ ﹁⋮⋮分かっておるよ。だから、罪深いと言うのじゃ。お主はあま りにも早く大人に近づきすぎた⋮⋮いつかは、こんな日が来ると思 っておったよ﹂ おばば様は俺の肩に手を置く。そして、しばらくの逡巡のあと、 ﹃最後のひとつ﹄を告げた。 ﹁エリクシールの材料⋮⋮不死鳥の羽、バジリスクの逆鱗、千年亀 の尾、神酒アムリタ。残りの一つは⋮⋮﹃竜の涙石﹄。高位の竜の 628 流す涙が、結晶に変わったものじゃ﹂ あの日から、決まっていたことなのかもしれない。 皇竜の少女に出会った時から、俺は彼女にもう一度会わなければ、 進むことが出来なくなっていた。避けることなど、初めから出来な かった⋮⋮。 最初に会ってから、二年半以上の時が過ぎた。俺と同じだけ皇竜 が成長しているとしたら、どれだけ強くなったつもりでも、少しも 追いつけてなどいないかもしれない。 エターナル・マギアでは、死に戻りは存在しても、蘇生する方法 は存在しなかった。 この世界で死ねば、復活する方法はおそらく存在しない。 ︵死ぬ⋮⋮もう一度死んだら、俺は⋮⋮︶ 二度も女神が新しい命を与えてくれるなんて、生易しいことは考 えられない。 それが可能だとしても、ヒロト・ジークリッドのままで蘇らせて くれるなんて、都合のいいことはないだろう。女神の気まぐれが無 ければ、死は他の人々と同じように、厳然として俺にも存在してい る。 ﹁ミゼールの森の奥にある洞窟、そのさらに奥深くに、竜の巣があ るという⋮⋮しかしそこまでには、外とは比較にならぬほど強力な 魔物が群れを成しておる。リザードマン、ドレイクの類じゃ。ドラ ゴンはそれらのモンスターを眷属として、宝を守るための門番とし て使役しておる。うまく洞窟に入っても、ドラゴンの姿を見ること 629 すら難しいじゃろう﹂ リザードマン、ドレイク⋮⋮両方が、高レベルになると、雑魚モ ブとは言えない強さになる。高レベルでもソロで狩るのは酔狂とさ れていて、俺もギルドのメンバーと一緒に戦っていた。 ボスでもないのに、操作を少し間違えただけで死ぬような相手。 MMOにおいてはそんなモンスターがごろごろしていたし、パーテ ィーメンバーが特定の役割を守り、決まった順番で動かなければ倒 せないような奴もいた。エターナル・マギアの難易度は、そういう 意味では、ぎりぎりソロプレイが出来なくもないというバランスだ。 ︱︱俺の仲間なら、リザードマン、ドレイクと戦うときの戦力に なる。しかしドラゴンの存在を考えれば、みんなを連れて行くわけ にはいかない。 行くなら、俺一人⋮⋮連れていけるとしたらスライムだけだ。ス キルを駆使して洞窟の奥に辿り着いても、必ずドラゴンが居るとも 限らない。前のように外に出ていたら、ただいたずらに危険を冒す だけだ。 しかしドラゴンは、特別な要因がなければ、決まった場所を動く ことはない。そのことを、ユィシアの残した数少ない言葉が教えて くれていた。 ︵宝を守るだけと言ってた⋮⋮普段は、きっと同じ場所にいる。ユ ィシアは、竜の巣に⋮⋮︶ ﹁ヒロト⋮⋮私も⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おばば様。俺は、何も聞かなかった⋮⋮もし俺が竜の涙石を 630 手に入れても、それは偶然ということにしてください﹂ ﹁⋮⋮そう言うじゃろうと思っておったよ。本当に⋮⋮お主は子供 らしくない﹂ おばば様に教えてもらった通りに竜の巣に向かったわけじゃない。 俺は、自分の意志だけで竜の巣に向かう。それを事実にしなければ いけない。 絶対に生きて帰る。そう思いたくても、俺が一番良くわかってい る。 高位の竜、ユィシアに、今持てる手段の全てを尽くしたとしても、 勝てる保証はない。 ︱︱それでも。 ﹁ミルテ⋮⋮ごめん、心配かけて。でも、ミルテはついてきちゃだ めだ﹂ ﹁やだっ⋮⋮私もいく! ヒロトっ⋮⋮!﹂ ﹁だめだ。俺は⋮⋮今まではそんなに見せてこなかったけど。本当 は⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ほんとうは?﹂ 本当は、いつも怯えていたんだ。どれだけ満たされていても、前 世と同じことになりはしないかと。 そんな気持ちを明かすことが出来るとしたら⋮⋮それは、俺が生 きて帰れたときの話だろう。 だから、俺は笑った。ミルテが不安にならずに済むように。 ﹁⋮⋮おれは、臆病だから。竜の巣になんて、行かないよ﹂ ﹁⋮⋮あぶないところには、いかない?﹂ ﹁うん、行かないよ﹂ 631 強がって嘘をついたことは何度もあった。人を傷つける嘘をつい たことも。 誰かを安心させるためにつく嘘は、数えるほどもない。 ミルテが、絶対についてこないように。ミルテだけじゃない、他 の誰も、俺が何をしようとしているかに気付いてはならない。 おばば様はもう何も言わなかった。そのことに感謝しながら、俺 は最後にミルテに微笑みかけて、庵を出た。 次に向かったのは、母さんのところだった。 未明の診療所。盗賊スキルを上げて入手していた鍵開けで、内心 で詫びながら中に入っていく。 ﹁⋮⋮母さん⋮⋮﹂ ベッドの上でずっと眠っていたはずの母さんは、俺が来ることを 予期していたかのように、身体を起こしていた。 ﹁⋮⋮ヒロト。こんな朝早くに、来てくれたのね。嬉しいわ﹂ どうやって入ってきたのか。そんなことも何も尋ねず、母さんが 微笑みかけてくれる。 泣きついて、縋りたいという衝動に駆られた。今までそうしてく れていたように、抱きしめて欲しかった。 ︱︱けれど、今はできない。俺はこれから、父さんの言いつけに 背く⋮⋮モンスターと戦うなと言われた、禁を破る。 ﹁ごめんなさい、お母さん、ちょっとだけ具合が良くなかったの。 すぐに良くなるからね﹂ 632 ﹁⋮⋮うん。あやまることないよ、母さん。おれは、全部⋮⋮﹂ 全部、わかっている。そう言葉にしそうになって、飲み込んだ。 俺は何も知らない。母さんに、気取られてはならない⋮⋮絶対に。 ﹁そうだ⋮⋮ヒロト。この子の名前、考えてくれた?﹂ ﹁⋮⋮おれは、父さんと母さんにつけてほしい。おれは、父さんた ちがつけてくれた名前が好きだから﹂ ﹁そう⋮⋮分かったわ。父さんもね、ひとつ思いついたって言って たのよ。まだ、教えてもらってなくて⋮⋮あの人も、ちょっと抜け てるところがあるのよね﹂ 元気だった頃のように母さんが冗談を言う。それがどうしようも なく懐かしく思えた。 ︱︱違う。遠い昔のことなんかじゃない⋮⋮母さんはまた、元気 になるんだから。 ﹁⋮⋮ヒロト﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ 母さんが俺の名前を呼ぶ。母さんは微笑んだまま、続きの言葉を 口にした。 ﹁母さんにもしものことがあったら⋮⋮父さんと、この子を⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ 嫌だ、そんなこと言わないでくれ。 もう終わりみたいな言い方をしないでくれ。これからもずっと、 俺と父さんと、みんなで一緒にいるんだ。 633 それがどれだけ幸せなことか、ようやくわかったのに。 生まれ変わってようやく、生きることの意味を見つけられたのに。 ﹁⋮⋮ううん、なんでもない。お母さんがしっかりしなきゃね⋮⋮ ヒロトも頑張ってくれてるんだから﹂ 母さんが言葉を飲み込む。一番つらいのは母さんなのに⋮⋮俺は、 自分の辛さを隠すこともうまくできない。 ﹁ヒロト⋮⋮ごめんね、そばにいてあげられなくて。危ないところ に行っちゃだめよ⋮⋮﹂ 母さんの意識が再び薄れてしまう。俺は母さんの背中を支えて、 そっとベッドの上に横たえる。 ﹁⋮⋮うん、行かない。どこにも行かないよ。だから⋮⋮おやすみ、 お母さん﹂ ﹁⋮⋮ありがとう⋮⋮ヒロト。お母さん⋮⋮ヒロトのこと、大好き よ⋮⋮﹂ 俺は母さんの意識が眠りに沈むまで、その手を握っていた。 母さんが眠りに落ちたあとで、そっと手を離す。そして俺は、病 室を出る前に、母さんの状態を確かめた。 ◆ステータス◆ 名前 レミリア・ジークリッド 人間 女性 22歳 レベル12 634 ジョブ:令嬢 ライフ:10/76 ずっと怖くて確かめられなかった。 けれど母さんの命の灯がもう長くもたないことを、残酷な数字が 示していた。 どれだけの苦しみに耐えてきたのか。どれだけ気丈に、俺と父さ んの前で笑っていたのか。 ︱︱この子に手を出したら許さないからっ! 母さんがアントンたちから俺を守ってくれたあのとき、全身の血 が炎のように燃え上がったことを今でも覚えている。 誓いは今も変わっていない。そして、これからも変わらずに同じ であり続ける。 ﹁⋮⋮俺が母さんを守るよ。絶対に﹂ 病院を出たあと、俺は走り始めていた。バルデス爺に鍛えられた 斧を携え、森へ︱︱その途中で、聞き慣れた声が俺を呼び止める。 ﹁ヒロト! どこに行くの、待ちなさいっ!﹂ ﹁︱︱ついてきちゃだめだ、モニカ姉ちゃんっ!﹂ 635 ◆ログ◆ ・あなたは︽モニカ︾に命令を下した。 ・︽モニカ︾は一時的に、町を出ることが出来なくなった。 ﹁っ⋮⋮どうして⋮⋮ヒロト、待って! 何をするつもりなのっ!﹂ 俺とずっと一緒に居てくれたモニカさん⋮⋮彼女を、最後に裏切 ってしまった。好感度が最大のとき、パーティを組んでいる相手に は、いつでも命令をすることができる。 彼女が中級以上の狩人でも、もしドラゴンに遭遇して狙われれば、 一撃で殺される。他の誰も、命の危険を負わせるわけにはいかない ⋮⋮死んでしまえば、それまでなのだから。 俺も今の自分の力だけで、切り抜けられるとは思っていない⋮⋮ それは、手段を選んでいればの話だ。 ︵⋮⋮結局、自力では上げきれなかったな⋮⋮でも、十分だ︶ この先も使わずにおくつもりだった、ボーナスポイント。レベル アップボーナスも含めて合計245ポイントを、俺は戦闘に関わる スキルに振っていった。 ◆ログ◆ ・あなたは恵体スキルにポイントを30割り振った。スキルが10 0になり、﹁無敵﹂を習得した! 636 ・あなたは魔術素養スキルにポイントを50割り振った。スキルが 100になり、﹁マジックブースト﹂﹁二重詠唱﹂を習得した! ・あなたは︻神聖︼剣技スキルにポイントを10割り振った。スキ ルが50になり、﹁ダブル魔法剣﹂を習得した! ・あなたは斧マスタリーにポイントを50割り振った。いくつかの アクション・パッシブスキルを習得した! ・あなたは幸運スキルにポイントを70割り振った。いくつかのア クション・パッシブスキルを習得した! 神聖剣技、精霊魔術は、スキルを一定以上に上げるためには、ク エストで上限を解放しなければならない。しかしそれ以外の、戦闘 に寄与するスキルは全て最大にできた。残りは35ポイントあるが、 これを残りのスキルのいずれかに振っても、斧使いにとって有用な スキルを得ることは出来ない。 恵体100で覚えるアクションスキル﹁無敵﹂は、マナ半分を消 費して、どれだけ強力な攻撃でも一回だけ無効にできる。二重詠唱 は魔術を連発できるが、それよりは、ダブル魔法剣を使う方が威力 は高いだろう。魔術素養を上げたのは、マナの最大値を少しでも上 げておきたいからだ。 残りのスキルは、全て30で育成が止まっている。狩人、戦士、 衛生兵、法術師⋮⋮職業系スキルはどれも上限解放クエストがある ので、該当する職業についていなければ、30を超えて上げること はできない。 つまり、これが現状での俺の限界だ。ゲームにかけた時間よりも 既にこの世界で生きた時間の方が遥かに長く、女神にもらったボー ナスポイントと+7武器のことも考慮すれば、俺は前世よりも強く 637 なっている。 データだけの強さではなく、本物の強さを手に入れ、一つしかな い命を賭して戦う。 皇竜の涙石⋮⋮それを手に入れなくてはならない以上、この段階 で戦闘スキルにボーナスを振りきったことに後悔はない。ドラゴン に会い、涙石を手に入れるまでに、万が一にも死ぬわけにはいかな いからだ。前世で千匹単位で狩ったリザードマン、ドレイクだから こそ、侮れないことは身にしみている。 まずは洞窟の奥まで潜ることだ。みんなを巻き込まないと決めた 以上、一人で駆け抜けるしかない⋮⋮! ﹁︱︱うぉぉぉぉぁぁぁぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ウォークライ﹂を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! あなたの攻撃力が一時的に上昇し た! アタック 森を駆け抜けながら、俺は叫ぶ。ウェンディにもらった戦士スキ バフ ル30で取れる﹁ウォークライ﹂⋮⋮本来はパーティ全体に攻撃上 昇をもたらす有用スキルだ。 自分を鼓舞するため、そして爆発しそうな闘志を表に出すため。 叫び終えたあとは頭の中が落ち着き、自分でも驚くほどに思考がク リアになっていた。 638 ◇◆◇ 洞窟のある場所の見当はついていた。父さんがフィリアネスさん に洞窟のモンスターに気をつけろと言っていたから、俺はモニカさ んたちとクエストを受けていたころ、森に出向いたときについでに 洞窟の場所を探したことがあった。もし外に強いモンスターが出て きたらモニカさんたちを危険に遭わせることになるので、あまり近 づきはしなかったが、それらしい場所までは見つけていた。 サモンウィスプ ︱︱記憶通りに、ミゼール西部の山麓の岩肌に、その洞窟はあっ た。松明が必要な暗さだが、炎霊召喚を使える俺には暗さは関係な い。 サモンウィスプ ﹁炎の精霊よ⋮⋮我が下に来たりて、闇を照らす明かりとなれ! ﹃炎霊召喚﹄!﹂ 入り口から差し込む日の光が届かなくなると、真の闇に近かった 洞窟の中が、俺の呼び出した炎霊の明かりで照らされる。一時間で マナ1を消耗するのみなので、その気になれば一日中照らしている こともできる。 ︱︱しかし、すぐにウィスプの明かりは必要がなくなった。少し ずつ下り坂になっている洞窟の先に、赤熱した溶岩が見える⋮⋮そ の明かりに、十数体のモンスターの姿が浮かび上がっていた。 ◆ログ◆ 639 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ソードリザード︾が3体抵抗に失敗、魅了 状態になった。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ファイアドレイク︾が2体抵抗に失敗、魅 了状態になった。 ︵よし⋮⋮幸運スキルが乗れば、魅了が決まりやすい。これなら相 手にする敵が⋮⋮っ︶ 減らせる。そう思った瞬間、俺は剣を持ったリザードマンたちが 立ちふさがる向こうに、さらに数十体のモンスターの姿を目にした。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ソードリザード︾は1体抵抗に失敗、魅了 状態になった。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ファイアドレイク︾は全て抵抗に成功した。 魅了はまとめて発動するほど、成功率が減衰していく。いくら幸 運100でブーストしても、高レベルのモンスター相手では最初の 五体でほとんど限界だった。 ︵まずい⋮⋮このままじゃ、ソードリザードを倒している間にファ イアドレイクのブレスが飛んでくる⋮⋮!︶ ゲーム時代の悪夢のような記憶がよみがえる。火山帯に登場する この二種のモンスターは、非常に相性がいい⋮⋮ソードリザードは 640 ファイアドレイクの炎に耐性があるため、ブレスに巻き込まれても ダメージを受けない。そのため、ソードリザードが足止めしている うちに、ファイアドレイクが後ろから容赦なくブレスを撃ってくる のだ。 俺は炎耐性のある装備なんてしていない。ライフがある限り、焼 かれて死ぬことはない︱︱しかしこんなところで、少しも時間をか けているわけにはいかないのに。 ︱︱狼狽えるな。こんなときのために、俺は強さを養ってきた⋮ ⋮ボーナス振りも済ませた今、こんな雑魚が幾ら集まろうと、俺は 止められない。 ﹁︱︱どけぇぇぇっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁アイシクルスパイク﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁フリーズブラスト﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁ブレードスピン﹂を放った! ﹁回転氷刃乱舞!﹂ ・クリティカルヒット! ︽ソードリザード︾三体に1085ダメ ージ! ・︽ファイアドレイク︾二体に843ダメージ! ・モンスターたちを倒した。 ﹁グギャァァァァッ!﹂ ﹁ガァァァァッ!﹂ 641 氷属性の精霊魔術︱︱炎ほど得意じゃないが、覚えていた甲斐が あった。俺の斧は凍気をまとい、炎属性に強いモンスターたちの動 きを鈍らせ、+7まで鍛えられた刃が鱗を切り裂く。 ︵弱点は読み通り⋮⋮しかし、オーバーキルにならない。やっぱり、 こいつら⋮⋮こんなところに居ていいレベルのモンスターじゃない ⋮⋮!︶ ﹁うぉぉぉぉっ!﹂ 俺は続けざまに魔術を付加した斧を振るう。斧スキル50で習得 できる﹁ブレードスピン﹂で、最高効率で敵を倒し続ければ、いず れ道は開ける⋮⋮! そうして斧を振るった俺の眼前に、ソードリザードが立つ。 ︱︱その個体だけは、剣だけではなく、盾を持っていた。 ︵なっ⋮⋮!?︶ ◆ログ◆ ・︽ソードリザード︾の﹁シールドパリィ﹂が発動した! ﹁グギャギャギャギャッ!﹂ ガキン、と俺の斧がソードリザードの持っていたバックラーで弾 642 かれる。バックラーは壊れて弾け飛んだが、技を中断された俺は、 為す術もなく大きな隙を作った。 ︵くっ⋮⋮﹃無敵﹄を使うか⋮⋮でもっ⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・︽ファイアドレイク︾は炎ブレスを吐いた! 燃え盛る炎が襲い かかる! ︱︱いくつも、いくつも。ログが流れて、見えなかったファイア ドレイク十数体が、一斉に炎を吐きかけてくる。もはや、選択の余 地などありは⋮⋮、 レジストアイス ﹁ヒロトっ、そこに伏せよっ! 氷耐術を使えっ!﹂ 無敵を発動させようとした瞬間、背後から聞いたことのない女性 の声が響き渡る。俺は考える前に、声の言うとおりにして精霊魔術 レベル2の﹃レジストアイス﹄を発動させた。 ◆ログ◆ ・︽ネリス︾は﹁アイスストーム﹂を詠唱した! ・︽ネリス︾のマジックブースト! 魔術の威力が倍加した! ・︽ソードリザード︾たちに476ダメージ! モンスターたちは 凍結した。 ・︽ファイアドレイク︾たちに352ダメージ! モンスターたち 643 は凍結した。 ・あなたは氷属性に強くなっている! 魔術を無効化した。 ︵ネリス⋮⋮おばば様? でも、あの声は⋮⋮︶ 明らかに若い女性のものだった⋮⋮ログとの齟齬に、俺は一瞬だ け困惑する。 俺の技を防いでカウンターを繰りだそうとしていたソードリザー ドは、凍りついて氷の彫像のようになっていた。アイスストームに よる凍結効果は15秒は続くし、このまま打撃を加えれば簡単に倒 すことができる。 しかし、まだモンスターは湧き続けている︱︱いずれ打ち止めに なるとしても、倒した数はまだごく一部だ。 ﹁⋮⋮本当は、助け舟を出す気は無かったのじゃがな。わしのこの 姿も、見せるつもりはなかった﹂ ﹁おばば様⋮⋮じゃない⋮⋮?﹂ ﹁何を言っておるか。同じ服を着ておるじゃろうが⋮⋮わしはネリ スじゃ。知らんかったのか? 高位の魔術師は、魔力が活性化する ことで全盛期の姿を取り戻すことができるのじゃよ﹂ 完全に初耳だ⋮⋮言っていることが本当なら、このとんがり帽子 をかぶり、黒いローブを身にまとった、十七歳くらいにしか見えな い強気そうな少女が、ネリスおばば様本人ということになる。 ﹁ヒロト、無事だったか⋮⋮まったく、無茶をする。ソードリザー ドとファイアドレイクなど、騎士団の人間でも臆するほどの相手だ というのに﹂ 644 ﹁良かった∼、間に合って! ヒロトちゃん、一人で危ないことし ちゃだめでしょ! めっ!﹂ ﹁フィリアネスさん、マールさんっ⋮⋮どうして⋮⋮!﹂ ネリスおばば様だけじゃない、フィリアネスさん、マールさん、 アレッタさん、ウェンディ、名無しさん⋮⋮俺がパーティを組んだ ことのある人たちが、次々に姿を見せる。アレッタさんは、少し申 し訳なさそうに口を開いた。 ﹁ごめんなさい、ヒロトちゃん⋮⋮つい先刻ミゼールに到着して、 レミリアさんのお見舞いに行く途中で、モニカさんに声をかけられ たんです。ヒロトちゃんが、森に向かったって⋮⋮﹂ ﹁私と名無しさんも、モニカさんに頼まれて来たんです。お師匠様 が危ないって⋮⋮す、すみません! 未熟な私が、こんなところま で出てきて⋮⋮﹂ ﹁水臭いじゃないか⋮⋮ヒロト君。小生とあれだけ一緒に冒険して くれたのに、本当の危険を冒すときには置いていくなんて。胸が引 き裂かれる思いがしたよ﹂ ウェンディと名無しさんとは、しばらく一緒にクエストに出られ てなかったのに⋮⋮来てくれたのか、こんな危険なところにまで。 ネリスおばば様⋮⋮いや、ネリスさんは、もう一度アイスストー ムを放って奥の敵を足止めしたあと、俺に近づいてきた。あまりに 姿が違いすぎて、まだ実感が湧いてこない⋮⋮若い頃は、こんなに 溌剌とした美人だったのか。腰が曲がってしまい、いつも地面を擦 っていたローブが、今の姿ではロングスカートに見える。スタイル も容姿も、何もかもが違いすぎていた。 ﹁お主だけを行かせて結果を待つというのも、あまりに酷じゃと思 ってな。娘たちが騒ぎ立てておるから、わしが連れてきてやったと 645 いうわけじゃ。この洞窟の場所は知っておったからな﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。本当に⋮⋮﹂ ﹁ヒロト、おまえは確かに強い⋮⋮だが、一人では難しいこともあ る。お前がこれまでの間に築いてきた繋がりを、こんなときこそ頼 るべきだ。私だけではなく、皆がそう思っているのだぞ﹂ フィリアネスさんの言葉を、心から嬉しく思う⋮⋮それでも。 俺は、彼女たちに言わなければならない。皇竜と対面するときは、 俺一人でなければならないのだと。 ﹁⋮⋮うん、俺が間違ってた。俺だけじゃ、ここで時間を食って進 めなかったと思う⋮⋮だからこそ、お願いがあるんだ。フィリアネ スさん、ネリスさん、みんな⋮⋮おれに、先に行かせてほしい。は じめにおれが道を開く、それを援護してもらいたいんだ﹂ ﹁ひ、ヒロトちゃん、一人で奥まで行くの? ドラゴンがいるかも しれないのに⋮⋮っ!﹂ ﹁⋮⋮待て、マール。今のヒロトを止められる者など、ここにはい ない⋮⋮ヒロトは肌でわかっているのだろう。ドラゴンと、ここに いる敵とでは、次元が違うのだと﹂ 全てを言わなくても、分かってくれる。エターナル・マギアでも 背中を任せられる人はいた⋮⋮そんな得難い相手を、この異世界で も得ることできた。それも、何人も。 ︱︱俺も一緒に戦いたい。けれど、母さんにはもう時間がない⋮ ⋮一刻でも早くユィシアの所に行かなくてはならない。 ﹁⋮⋮ヒロト。一つだけ聞いておく⋮⋮勝算はあるのじゃな? で なければわしは、ここでお主を止める。フリージング・コフィンと いう魔術でな﹂ 646 フリージング・コフィン 凍結氷棺。レベル7の氷属性精霊魔術で、相手の動きを止めるこ とに特化している。まともに受ければ凍りつき、動けないうちに、 四歳の俺なら女性の手でも運びだされてしまうだろう︱︱しかし。 ﹁⋮⋮ネリスさん、心配してくれてありがとう。でも、俺には効か レジストアイス ないよ﹂ ﹁⋮⋮氷耐術で防ぐのは無理じゃな。それだけは教えておこう。そ の顔を見れば、死に急いでいるわけではないことはわかった。ヒロ トよ、お主には精霊魔術の極意を教えてやる⋮⋮これはそのための 過程に過ぎぬ。無事に成し遂げ、帰ってくるがよい﹂ ﹁はいっ!﹂ 返事をする俺を見て、皆が久しぶりに笑う。俺が生きて帰ると、 迷いなく返事をしたことを嬉しく思ってくれたんだろうか。 母さんを助けるために、俺はここに来た。無くしかけたものを全 て取り戻すためには、どれだけ難しくとも、生きなければならない。 ﹁必ず生きて戻るよ。みんなも、絶対無理はしないで⋮⋮っ!﹂ ﹃了解っ!﹄ ◆ログ◆ ・あなたの存在によって、パーティーメンバーは鼓舞された! ・パーティ全体のステータスが上昇した! 647 フィリアネスさんとマールさんが前衛でソードリザードを相手に し、ネリスさんと名無しさんがウェンディに護衛されながら、ファ イアドレイクの群れを魔術で確実に減らしていく。アレッタさんは ダメージを受けたみんなに全体回復をかけ続ける⋮⋮初めて組む人 たちとは思えないほど、完成形に近い連携だ。 ︵みんな⋮⋮無事でいてくれ。俺も必ず無事に帰る⋮⋮!︶ 眼前に立ちはだかるソードリザードに、俺は斧を振りかざす。タ ーゲットが分散して数も減った敵ならば、今の俺にとっては障害物 にすらなりえなかった。 ︱︱目指すは、洞窟の奥にある竜の巣⋮⋮宝を守っているだろう、 皇竜。 竜の涙石を手に入れるための手段は、三つ考えられる。一つは、 皇竜を倒すこと。 テイム 二つ目は、皇竜を味方に引き入れる︱︱条件を整え、調教する。 三つ目は、皇竜の出す条件によって、涙石と何かを﹁交換﹂する ︱︱。 どんな手段を使ってもエリクシールを手に入れ、母さんを救って みせる。 それができる可能性がある人間は、俺しかいないのだから。 648 第十八話 二つの翼 皆が駆けつけて道を開いてくれたあと、一人でどれくらい走り続 けただろう。 俺は数えきれないくらいのソードリザードとファイアドレイクを 倒し、一撃で光の粒に変えてきた。 ﹁ゲギャァァァッ!﹂ ﹁こりない奴らだっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁アイスボール﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁フリーズブラスト﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁ブーメラントマホーク﹂を放った! ﹁凍氷飛刃!﹂ ・クリティカルヒット! ︽ソードリザード︾に774ダメージ! ・︽ファイアドレイク︾二体に652ダメージ! ・モンスターたちを倒した。 斧に凍気をまとわせて投げ放ち、切り裂く技。斧自体を当てるの ではなく、斧が纏った魔力の刃によって敵を切り裂く奥義だ。普通 ならそんなものをキャッチすることは難しいだろうが、斧マスタリ ーが60を超えると、飛んでくる斧を無意識に受け取れるようにな る。 649 恵体を100にしたことでスタミナも上がり、どれだけ走っても 息が切れない。これで身体が大人に近づけば、町どころか国でも俺 に勝てる人間は居なくなるだろう。 ︱︱フィリアネスさんは、ボーナスを振った後の俺が備えている 実力をひと目で見抜いた。彼女やマールさんですら、恵体50に達 してから、騎士団の任務でモンスター討伐をしても一ヶ月で1も恵 体が上昇しないような状況だった。 ボーナスが無ければ、人間が到達することの出来ない領域。それ ファイアレ を与えられていなかったら、俺は何もできず、この洞窟に来ること さえかなわなかっただろう。 ジスト 洞窟は少しずつ地底へと下っていく。溶岩の熱を防ぐために火耐 術を使っているが、冷静に考えてみれば、これでファイアドレイク のブレスのダメージはほとんどカットできる。ネリスさんが来てく れるまで、やはり俺は冷静じゃなかったのだろう︱︱力で押し切る 方向に意識が向きすぎていた。 ◆ログ◆ ・あなたのレベルが上昇した! スキルポイントを3手に入れた。 ・今までとは違う自分になった気がした。 ︵レベル41⋮⋮キャップまで、ゲーム通りならあと34。皇竜の レベルは、前に遭遇した時は10だった⋮⋮今はどこまで上がって るんだ⋮⋮?︶ 650 ユィシアがたったレベル10の段階で、恵体100を筆頭に強力 なスキルを備えていたのは、種族の違いというほかない。仮にレベ ルキャップの75まで上げたとしても、レベル20時点のユィシア に確実に勝てるとは思えない⋮⋮皇竜は完全に異次元の存在だ。 俺が恵体を100にしたのは、防御補正が+200もあれば、子 供用の防具の性能を補うことができると考えたからだ。一撃で死ぬ ことだけは避けなければならない︱︱パンチ、キックはまだしも、 他の攻撃のダメージ倍率が高ければ、容易に防御を貫通されるだろ う。﹃テールスライド﹄がどれほど強いか分からないが、ブレスよ り取得が遅いということは、とてつもない威力を持っている可能性 がある。 ︵どうしようもないが、情報不足だ⋮⋮久しぶりだな、初めて戦う 敵なんて︶ プレイヤースキル ギルドのメンバーの中には、ソロプレイを好む操作技術がトップ クラスの人も居て、新たに実装されたダンジョンに一番乗りしてボ スを倒し、事前に攻略情報を教えてくれるなんてことも多かった。 確かにゲーマーとして新雪を踏みたい気持ちはあったが、MMOは それが全てでもない。既にクエストを踏破した人に案内してもらっ ても、面白さが目減りすることはなかった。尤も俺は交渉術で最強 に近いNPCとパーティを組めたので、やろうと思えばいつでも、 どんなダンジョンでも攻略できた。それができたからこそ、トップ プレイヤーとして認められたわけだ。 おそらくこの世界でも、まだ皇竜と戦った人間はほとんどいない はずだ。俺は多くの人々を見てきたが、ユィシアのステータスはそ れこそ人知を超えている。この国で最強だったフィリアネスさんも、 今はステータスの数値だけを見れば、俺の三分の二ほどの戦闘力し 651 かない︱︱プレイヤースキルというか、人間力とも言えるものを加 味すれば、簡単に勝つことができる相手じゃないのは確かだが。 しかしフィリアネスさんは、俺がドラゴンの下に行くだけの資格 を持っていると認めて、自分がサポートに回ることを了承してくれ た。後でひどく叱られるだろうが、生きて帰った暁には、どんな叱 責も受けるべきだろう。 ﹁ん⋮⋮?﹂ ◆ログ◆ ・︽ソードリザードA︾は︽ソードリザードB︾をかばっている。 ︵なんだ⋮⋮大きいソードリザードが、小さいソードリザードを守 ってる⋮⋮?︶ 俺が止まることなく進んできたからなのか、それとも見れば強さ はある程度わかるものなのか。 どちらにしても、その二匹のソードリザードは、俺に戦いを挑ん でくることはなかった。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ソードリザード︾が二体抵抗に失敗、魅了 状態になった。 652 魅了まで決まってしまったら、もう戦う理由はない。俺は近くに 他のモンスターがいないことを確認してから、二体のソードリザー ドに近づいた。 モンスターは﹃魔物の巣﹄という名の異界の門をくぐってきたあ と、こちらの世界で実体化して、初めてかりそめの命を得る。親子 か、仲間同士の情みたいなものがあるものだとは思っていなかった。 自分の境遇に重ねあわせたといえば、そうかもしれない。他の敵 と何ら見かけは変わることがなくても、俺はそのソードリザードた ちを敵として見ることができなかった。 ◆ダイアログ◆ ・︽ソードリザードA︾に﹁隷属化﹂スキルを使用できます。使用 しますか? YES/NO テイム ︵敵に回らないなら、調教しておくか⋮⋮後で解放することもでき るし︶ テイム 魅了状態になったモンスターは、無条件で調教できる。人間はそ れに加えて、能力値や種族、装備品など全てを含めた﹃価値﹄に対 して対価を支払い、﹃首輪﹄系のアイテムを装備してもらうことで 隷属化することができる。ゲーム時代は奴隷という言葉はストーリ ー上で登場することはあっても、実際に仲間に出来るのは﹃剣闘奴 隷﹄に限定されていて、クエストで救出すると傭兵としてパーティ に加えられるというシステムだった。 653 ︵⋮⋮サラサさん、いつも首元を隠してたけど。奴隷スキルがある っていうことは、彼女も⋮⋮︶ ◆ダイアログ◆ ・︽ソードリザードA︾のジョブを﹃奴隷﹄に変更することができ ます。変更しますか? YES/NO ︵これは、NOでいい︶ 一度取得したジョブには任意に切り替えが出来るのだが、あえて テイム 奴隷に切り替えようとは思わない。グレータースライムのジョゼフ ィーヌを調教したときもダイアログが出たが、その時もジョブはス ライムのままにしておいた。奴隷スキルを上げると何かリスクがあ るようにも思えたからだ。 ﹃奴隷﹄は﹃不幸﹄や弱点パッシブと同じくネガティブスキルの 一つだと考えられる。奴隷であるだけで、一部の人間からは差別さ れてしまうし、行動にも制限が出てくる。剣闘奴隷も同じで、長く 傭兵をするうちに奴隷スキルが徐々に下がっていき、ゼロになると 解放されるというシステムだった。 どちらにせよ、ソードリザード二体が他の敵にターゲットされな いように伏せさせておく。俺は黙ってこちらを見てから立ち去るソ ードリザードに、即席ながらの忠義を感じつつ、さらに洞窟の奥を 目指した。 654 ◇◆◇ 奥に進むほど溶岩の熱が苛烈になるのではないかと恐れていたが、 予想に反し、溶岩の赤と黒っぽい岩だけの景色が途切れ、なめらか な白亜の洞窟に移り変わった。広い洞窟が一時的に狭まって、大人 がようやく通れるような狭さの道に変わる。竜がこの奥にいるなら、 おそらく奥に入るための別の経路が存在するのだろう。 ウィスプ 足元は奥から流れてくる水で覆われている。やがて狭い道の奥に 火精霊が飛び出していき、そこに広い空間があることを知らせてく れた。 ﹁⋮⋮ヒカリゴケか何かか⋮⋮?﹂ 明かりがなくとも、壁全体が淡く発光している。狭い道からは想 像も出来ないほど、途方もなく広い空間が開けて、全体に明かりが 行き届いている︱︱ランタンも何も設置されていないのに。 ねぐら 竜の塒にふさわしい、神秘的な光景。いくらも探すことなく、俺 はユィシアが言っていたものだろう、膨大な量の宝を見つけた。広 い空間のさらに奥に、小高い丘のように盛り上がった部分があり、 そこに黄金色を放つ財宝が敷き詰められている。赤や青、緑の光は、 宝石だろうか︱︱この距離でもわかるほどの、こぶし大の大きさの 石がごろごろしている。鑑定しなくてもわかる⋮⋮ひとつひとつの 価値が、首都の一等地に家を買ってもおつりが来るほどのものだろ う。 ︱︱竜の涙石は、この宝の中にあるのか。それとも⋮⋮上位の竜、 皇竜に流させるしかないのか。 655 ︵⋮⋮私は涙を流さない。なぜなら私は泣いたことが、ない︶ ﹁っ⋮⋮!?﹂ 聞き覚えのある翼の音が聞こえ、風が流れ、戦慄が俺の身体を包 みこむ。 聞こえてくる方向は︱︱上。見上げても先が見えないほどの大空 洞から、巨大な爬虫類のような姿が、羽音を立てて舞い降りる。 ︵恐れるな⋮⋮一歩も退くな。俺はもう、前に進むしかないんだ⋮ ⋮!︶ まだ間合いは外れている。宝の手前に降り立った目が覚めるよう な銀色の竜は、俺の方を見やると、一声くるる、と高い声で鳴いた。 雌の竜だからなのか、その声だけならば、愛らしくさえ聞こえる。 ︱︱しかし、その眼光は容赦なく俺を射抜いた。長い首をもたげ、 優美な角を振りかざしながら、銀色の竜が翼を広げて、高らかな叫 びを上げる。 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾の﹁ドラゴンハウル﹂! 竜の咆哮が大気を震わせ る! ・︽ユィシア︾の攻撃力、防御力が上昇した! ・︽ユィシア︾は一時的に状態異常耐性を獲得した! 656 ﹁っ⋮⋮!﹂ 一度目の鳴き声とはまるで違う、鼓膜を揺るがすような咆哮だっ た。銀色の鱗が淡い光を纏い、金色の瞳の奥に血のような赤が宿る ︱︱それは怒りを現すものか、それとも憎悪か。 隙など微塵もない。俺という侵入者を視界に入れた瞬間、皇竜は 当たり前のように戦闘態勢に入った。 魅了を発動する可能性すら与えられない。ドラゴンハウルなんて アクションスキルは、前に遭遇したときは確認できなかったものだ。 ︱︱ユィシアは成長し、強くなっている。﹁皇竜族﹂のスキルが どれだけの数値に達したのか分からないが、ドラゴンハウルだけで なく、複数の新アクション、新パッシブを獲得している可能性があ る。 ︵カリスマが発動しない⋮⋮向こうのレベルが、俺と同じか、それ 以上に高いからだ⋮⋮︶ ボーナスを限界まで振れば、こちらが優位に立てる可能性がある と、砂粒ほどの可能性とはいえ期待していた。 それを絶たれてしまったと気づくと、心臓が壊れそうなほどに高 鳴り始める。 ︵⋮⋮このまま戦いを挑めば⋮⋮俺は、9割方殺されるだろうな⋮ ⋮︶ ﹁⋮⋮グルル⋮⋮グルルルゥ⋮⋮﹂ 657 獰猛に喉を鳴らしながら、皇竜は俺を威嚇する。一歩でも前に進 めば攻撃する、そのプレッシャー自体が物理的な力に変えられてで もいるかのように、俺の眼前に見えない壁を作る。 ︱︱しかし、俺はユィシアと戦うために来たわけじゃない。涙石 を手に入れる、目的はただそれだけだ。 ︵そうだ⋮⋮交渉するんだ。俺が欲しいものは涙石⋮⋮それを手に 入れる方法を、皇竜自身から聞き出すんだ⋮⋮!︶ 前世のゲームで、俺はただマウスを操作し、他の人が話しかけら れない相手に話しかけてきた。王様に交渉を持ちかけ、騎士団長や 大魔術師、大司祭を傭兵として雇い、全能感を味わっていた。 だがこうして、自分の力が及ばないかもしれない相手と対峙し、 自らの喉から出る言葉で対話するという段になって、ようやく俺の 操作していたキャラクターの心情が分かった気がした。 ︵無茶しやがって⋮⋮って思ってたんだろうな。俺も、今そう思っ てる︶ 死ぬかもしれないのに、馬鹿かと思う。俺の心臓は極限状態を過 ぎたあと、嘘のように静かになる。 交渉術100。誰とでも対話を可能にする能力が、ついに俺の血 となり、肉に変わる。 俺は微笑んでいた。全ての感情を超越し、魅入られそうな輝きを 持つユィシアの瞳を見つめながら。 658 ﹁ドラゴンのお姉ちゃんに、お願いがあるんだ﹂ ﹁⋮⋮グルル⋮⋮﹂ 皇竜の唸り声は、それほど不機嫌そうなものではなかった。 俺の話を聞いてくれている︱︱そう確認して、俺はさらに言葉を 続ける。 ﹁おれは、竜の涙石を取りにきた。それをくれるなら、どんなこと でもする﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ユィシアの唸りが止まる。その瞳は俺を捉えたまま、しばらく微 動だにしなかった︱︱そして。 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は人間形態に変化した。 巨竜の身体が眩い光に包まれ、その一瞬あとには、前に出会った 時と変わらない、竜の角を持つ少女の姿があった。 背中辺りまでの長さがあるストレートの銀髪を撫で付けながら、 少女はこちらに歩いてくる。前もそうだったが、竜から変化した後 にはどういった原理か、半透明の透けるケープのようなものを纏っ ている。その下は、頼りない紐のような下着︱︱もとい、装飾品だ けで隠されていた。 659 人間が肌を見せた時に感じる羞恥が、彼女にはない。前にステー タスを見た時は13歳︱︱現在はおそらく15歳ということになる が、その姿は人間における15歳と何ら変わらない。身体は女性ら しい丸みを帯びていて、胸も豊かに膨らんでいるが、成熟している とは言いがたい︱︱俺も女体に慣れているわけじゃない︵と思いた い︶が、まだ成長の余地を多分に残しているように見えた。 ﹁⋮⋮私は泣いたことがない。涙石がこの宝の中にあるとしても、 それを渡すわけにはいかない。この宝は、母から受け継いだもの⋮ ⋮人間の子供よ。宝が欲しくば、私を倒すしか方法はない﹂ さっき聞こえてきた声の通りか⋮⋮泣いたことがない。それが事 実なら、ユィシアがこれまでに涙を流して、涙石が生成されたこと はないということになる。 どんなふうに石になるのか分からないが、流した途端に固まった りするんだろうか⋮⋮想像は出来ないが。涙が主成分というのは間 違いないだろう。 ﹁泣いたことがない⋮⋮か。じゃあ、もし泣くことがあるとしたら、 どんな時かな﹂ 普通なら、女の子にこんなことを聞くのは無礼極まりない。しか し遠慮すれば、ユィシアは俺の言葉を突っぱねるだけで、何も進展 は生まれそうにないと思った。 ﹁⋮⋮母は、泣いたことがあった。私はそれを、母の中で見ていた﹂ ﹁母さんの中⋮⋮?﹂ ﹁私はその時、まだ卵の中にいたということ﹂ ドラゴンは卵で生まれてくる前から意識があるっていうのか⋮⋮ 660 それとも、皇竜だけの特徴なのか。 どちらにせよ、ユィシアと意志の疎通はできている。分かったの は、ユィシアは泣いたことがないだけで、皇竜が涙を流すことがあ るということだ。 ﹁おれはどうしても涙石を手に入れなきゃならない。だからこれか ら、お姉ちゃんに泣いてもらう﹂ ﹁⋮⋮ただの子供ではないとはわかる。前に見たときと比較になら ないほど強さを増している。それでも人間は人間にすぎない。私に 命令を聞かせられるほどの強さは、ない﹂ ユィシアは自分の方が強いと断言する。その自信は根拠のあるも ので、俺にも反論の余地はない。 しかし、今の会話で見えたことがある。 皇竜に命令を聞かせるには、強さを示せばいい。俺の交渉材料は、 ﹃ただの子供ではない﹄ということだ。 ﹁おれと戦って、少しでも見込みがあると思ってくれたら⋮⋮頼み を聞いてくれるってことだね﹂ ﹁竜は強者にのみ恭順する。皇竜は、竜を統べる種族⋮⋮私たちよ り強くなりうる存在は、魔王と勇者だけ﹂ ユィシアは魔王を探していた。それは敵として探しているのかと も思ったが、今の口ぶりでは、魔王も勇者も同等に、自分の強さに 比肩しうる存在として認めているように感じられた。 ﹃強い﹄ということが、皇竜にとっての絶対的な価値なら⋮⋮従 うべきルールなら。 ﹁⋮⋮子供に言って分かるとは思えない。しかし、ただの子供では 661 ない⋮⋮あの時も、魔王の気配を感じた﹂ リオナが近くに居たことが、ユィシアには分かっていた。あの時 幸運スキルが元に戻らなければ、あのままリオナはユィシアに見つ かって、どうなっていたか分からない。 それほどにユィシアが魔王に執着しているのなら、リオナを連れ てくれば⋮⋮そんな考えが一瞬だけ頭をよぎるが、馬鹿なことだと 打ち消した。リオナを危険な目に遭わせることは絶対にできない。 ﹁魔王が傍に居るのなら、悪いことは言わない。私に引き渡すべき﹂ ﹁⋮⋮魔王なんていない。どこにも居ないよ、そんなのは﹂ ﹁⋮⋮魔王は存在する。何度滅ぼされても、生まれ変わるようにで きている。私たちと同じように、女神がそう作ったものだから﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ リオナのことを知られるわけにはいかない。そう思ってついただ けの嘘が、思いがけない言葉を引き出す。 ﹁女神が作った⋮⋮魔王と、皇竜を⋮⋮?﹂ ﹁この世界の全ては、女神によって作られている。何一つ、例外は ない﹂ ︵どういうことだ⋮⋮女神は人々に崇められている存在で、魔王に 敵対してるんじゃなかったのか⋮⋮?︶ 女神は正義の存在だなんて、明言されていたわけじゃない。それ でもこの世界で暮らすあいだ、女神が魔王を作ったなんて、そんな 話は一度も聞いたことがなかった。 それどころか、ほとんどの人は、女神は人間に慈悲を与える存在 662 だと思っている。 ︵⋮⋮事実がねじ曲げられている⋮⋮それとも、ユィシアの言って いることが間違ってるのか⋮⋮?︶ ﹁どちらにせよ⋮⋮魔王は人間の手には余る。もう一度魔王の波動 を感じたら、その時は⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おれは涙石を手に入れられれば、他に何もいらなかった。で も、そういうわけにもいかないみたいだ﹂ ユィシアが魔王の転生体であるリオナを、どうしたいのかは分か らない。しかし今の話を聞けば、リオナがこのまま俺たちと一緒に 成長していくのを、遠くから見守ってくれるなんて生易しい話じゃ ない。 ︱︱強さを示すという理由、そして、リオナを守るため。戦う理 由が二つになってしまった今、俺の中にはひとつの選択しかない。 ﹁ドラゴンのお姉ちゃん⋮⋮いや、ユィシアさん﹂ ﹁⋮⋮戦うことを拒みはしない。しかし、私には、おまえが地に伏 せている未来しか見えない﹂ 戦う前から、おまえはもう死んでいる⋮⋮なんて、酷いことを言 ってくれるものだ。 泣いたことがないと言われた時から、覚悟はしていた。平和的な 手段で泣いてもらうことなんて、それこそどれだけの策士でも出来 やしない。 テイム ︱︱ユィシアのライフを削り、隷属化を成功させ、調教する。 663 魅了が発動していれば、ライフは削る必要がない。しかし何もか かっていない状態では、8割ライフを減らさなければ隷属化は成功 しない。 ︵⋮⋮やるしかない。惜しみなく最強のスキルを使って⋮⋮俺が死 ぬ前に、8割ライフを削り切る⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾はあなたを敵として認識した! ・︽ユィシア︾は竜形態に変化した。 ﹁グオァァァアァァァァッ!﹂ ﹁うぉぉぉぉぉっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ウォークライ﹂を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! あなたの攻撃力が一時的に上昇し た! 巨竜の姿に変わったユィシアは、すかさず大きく息を吸い込み始 める︱︱そして。 664 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は雷のブレスを吐いた! 雷撃が竜の顎から迸る! ︵雷ブレス⋮⋮初めて見る⋮⋮でも⋮⋮!︶ レジストサンダー 炎や氷のブレスとはまるで違う速さで襲いかかる雷撃。それを防 ぐには、﹃雷耐術﹄を使うか、あるいは避けきるしかない。 ︵一度だけなら通じるか⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ シャドウステップ ・あなたは︽隠形︾を発動した! ・︽ユィシア︾はあなたを見失った! ︵盗賊の技⋮⋮消えたっ⋮⋮︶ ユィシアの声が聞こえる。どうやら竜の姿では、直接俺の心の中 に声を届かせることが出来るようだった。 盗賊スキル30で取得できる﹃隠形﹄は、強制的に敵から未発見 の状態になるというスキルである。これを使うと、視界に入ってい るのに気付かれていないという、不意打ちに最適な状況を作り出せ る。 この一撃が通るか、どこまで削れるか⋮⋮俺は祈りながら、斧を 665 振りかざす。 ︵斧マスタリー100の⋮⋮いや、駄目だっ⋮⋮!︶ ︱︱それが致命的なミスになると理解しながら、俺は自分が持て る最高の技を選択しなかった。 人間の姿をして、一度は俺を殺さずに見逃した皇竜を、不意打ち の一撃で殺してしまうかもしれない。 これほどの強者に対して驕りを見せることが、どれほどの愚行か を理解しながら、一度繰り出した技はもう止められはしなかった。 ﹁︱︱せやぁぁぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁アイシクルスパイク﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁フリーズブラスト﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁ギガントスラッシュ﹂を放った! ﹁巨斧凍滅斬!﹂ 巨人の振り回す戦斧の一撃にも等しいと言われる、斧マスタリー 80で取得できる奥義ギガントスラッシュ。パワースラッシュの実 に3倍の威力を持つその一撃は、ユィシアの隙を突いて完全に入っ た︱︱はずだった。 ◆ログ◆ 666 ・︽ユィシア︾に124ダメージ! ︵124⋮⋮!?︶ ユィシアのライフは最低でも1300を超えている。たった12 4では、一割すら削れていない。 俺の斧はユィシアの鱗に傷を付けられても、大きなダメージを与 えるまでには至らなかった。 攻撃を終えた直後、俺はユィシアに発見される。その直後、銀色 の竜の身体が、猛然と俺に背を向けるように回転するところまでし か、俺には視認できなかった。 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は﹁テールスライド﹂を放った! ・あなたに 3 74 ダメ ! まともに読み取れないほどに、ログが崩れた。 全身を貫き通すような衝撃のあと、俺は宙に飛ばされていた。飛 びそうな意識を辛うじて繋ぎ止め、俺は自分がどんな姿勢でいるか も分からないまま、ただ一つだけのことを考える。 ︱︱このまま浮かされていたら、次の追い打ちで殺される。 ︵⋮⋮まだ⋮⋮俺は⋮⋮っ!︶ 667 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は﹁ドラゴンファング﹂を放った! ・あなたは﹁無敵﹂を発動させた! ダメージを全て無効化する! ・あなたはダメージを受けなかった。 ︵⋮⋮無敵⋮⋮私と同じ。人間がこの領域に⋮⋮?︶ ダメージを無効化出来るのは一撃のみ。ユィシアも同じスキルを 持っているのだから、知らないわけはない︱︱しかし、彼女はそれ 以上追撃してこなかった。 宝の山に背中から叩きつけられる。無敵の効果が続いていたから、 俺はすぐに立ち上がることが出来た。宝を守るユィシアが、こんな 所に飛ばしてきた︱︱それこそ、俺がユィシアを少なからず本気に させたという証でもあった。 ﹁まだだ⋮⋮俺はまだ死ねない⋮⋮母さんの所に、薬を届けるまで は⋮⋮!﹂ 全身の痛みをどれほども軽減出来るわけでもないが、持っている うちで最高のポーションを呷り、初歩の治癒術を使って少しでもラ イフを回復させる。 400ダメージ近く喰らったのはもちろん初めてだった。ゲーム では戦っているうちにライフを残り1割まで減らされることも珍し くなかったが、七割も残っているのにこの有り様では、これ以上の 668 ダメージを一度に受ければ耐えられる気がしない。 ほとんどダメージを受けずに戦ってきたツケが、ここで出るとは ⋮⋮しかし幸いだったのは、無敵を使うタイミングだ。﹁ドラゴン ファング﹂は、おそらく﹁テールスライド﹂より威力が高い⋮⋮無 敵で無効化しなければ、俺はもう死んでいたかもしれない。 あまりに実力差が大きすぎる。やはり、俺一人で来てよかった⋮ ⋮マールさん、ウェンディは、きっと決死の覚悟でユィシアのター ゲットを取ろうとするだろう。そうなってしまったら、どうやって も誰かが死ぬことを免れない。そして、俺の技が通じないというこ とは、まともにダメージを与えられる人は他にはいない。フィリア ネスさんですら、細剣マスタリー60、恵体50なのだから。 間合いが開いたときの皇竜の攻撃に備えて、俺は腰を落としてい つでも動けるように構える。この距離で選択できる攻撃は、精霊魔 術︱︱しかしレベル3の中級魔術では、まともなダメージは見込め ないだろう。マジックブーストをかけて、ようやく通るかどうかと いうところだ。 ユィシアのステータスの耐性が見えなかったのは、彼女が俺のス ライムと違い、テイムしたモンスターではないからだ。まだ俺には 見えていないステータスがあり、それがスキルだけでは読み取れな い強さを裏打ちしている。 ︵どうやって削ればいい⋮⋮どうやって⋮⋮!︶ ◆ログ◆ 669 ・︽ユィシア︾は人間形態に変化した。 ︵なっ⋮⋮!?︶ 間合いが開いたままで、ユィシアは人間の姿に変わる。着ている 服の一部が破れ、陶器のようにすべらかな白い肌が覗いている⋮⋮ 鱗の損傷が、人間形態の衣服の損傷に対応している。 ﹁⋮⋮人間の子供よ。これ以上続けるなら、殺さなくてはならない﹂ ﹁⋮⋮わかってる。でも、おれは死なない。死ねないんだ﹂ 体力は戻りつつある。しかしマナは治癒術を使った影響で時間回 復分を使ってしまい、無敵をあと一度使えば、ほとんど空になる。 削らなければならない残りのライフ七割が、あまりに遠すぎる。 600ダメージ与えればいいのか、それともそれ以上なのか。与え きるには、俺がもう5人も居なくてはならない⋮⋮みんなのレベル が上がりきって、ようやく可能性が見えてくる。 しかしその時は、ユィシアのレベルもカンストしている。皇竜と いう種族が、エターナル・マギアの絶対的な強ボスとして実装され る予定だったのなら、安全に勝てる道理はない。 ︱︱4歳で人間の領域を超え、皇竜と戦わなければならない。ゲ ームなら、難易度が壊れた糞ゲーだと言っていたところだが⋮⋮。 こうして向き合ってみればわかる。困難なことを初めから不可能 だと諦めれば済むほど、生きるということは生易しくはなかった。 670 死の淵にいる母さんを救う。それを望むことは、今の段階で皇竜 と戦い、認められなければならないという理不尽の先にある。 ﹁⋮⋮ユィシアさんがどれだけ強くても、俺は絶対に泣かせてみせ る⋮⋮!﹂ ﹁私は宝を奪おうとするものを殺す⋮⋮そう定められている。戦い を挑む者は、排除しなければならない﹂ ユィシアは氷のように冷たい声で言うと、俺に片手を掲げて向け る。 ︱︱竜の姿と向かい合っていた時以上の威圧感。彼女にはまだ、 俺が知らない力があるのだと悟る。 ﹁竜言語魔術⋮⋮相手を石化させる。耐性がなければ、絶対に避け られない﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮私と同じ技を使う子供を、殺すには惜しい。私が新しい宝と して、加える⋮⋮﹂ 止める間も、術もない。ユィシアの唇が、読み取ることのできな い言葉を紡ぎ出す。 ◆ログ◆ ストーンカース ・︽ユィシア︾は﹁石化の呪言﹂を詠唱した! ・あなたの身体が石に変わっていく! 671 ﹁うぁぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 足先から石に変えられ、俺はその場に倒れ込む。ユィシアは金色 の瞳で俺を捉えたまま、表情を変えずに悠然と立っている。 ﹁⋮⋮少しずつ、完全に石に変わる。心臓が先に止まっても、死ぬ ことはない﹂ 美しい少女の姿と、意味のある言葉を交わせたことで、俺はいつ からか勘違いしていた。 皇竜と分かり合える︱︱それは勘違いだった。 ユィシアにとって俺は、珍しい玩具でしかない。石にしてコレク ションに加える価値はあっても、対等の敵としてなど、初めから認 められていない⋮⋮。 意識が遠のいていく。ユィシアは離れた場所にいる⋮⋮俺には石 化を止める手段がない。石になる魔術なんて、ゲームでは見たこと がなかった。 ︵⋮⋮ダメージが通ったのに⋮⋮半分減らせば⋮⋮母さんを⋮⋮︶ 助けることが、できたのに。 生まれてくるはずの子供も、俺の弟か妹になるはずの生命も⋮⋮ 守れたのに。 俺に力がないばかりに、届かなかった。 ボーナスポイントで手に入れた強さが交渉材料になりうると、驕 ったばかりに⋮⋮。 目の前が暗くなっていく。既に石化は、俺の膝の辺りまで進んで いる。 672 ︵死ぬのか⋮⋮俺は⋮⋮石になって⋮⋮︶ 知らない魔術を使われ、為す術もなく負ける。 もし、最初の一撃で、惜しみなく最大の攻撃を放っていたら。 ︱︱そうして傷ついた皇竜の少女に涙を流させることが、本当に 正しいのか。 ︵⋮⋮どうやったら女の子を泣かせられるかなんて、母さんが知っ たら、絶対に怒られるからな⋮⋮︶ 命には、何も代えられない。そう割り切れなかった俺の甘さを、 ユィシアの力が容赦なく飲み込んだ。 ︵父さん⋮⋮母さん⋮⋮みんな。ごめん⋮⋮俺⋮⋮︶ 何もできなかった。何も⋮⋮。 俺の石化は心臓にまで届こうとしている。否応もなく、急速に薄 れていく意識を、 ﹁ヒロちゃんっ!﹂ ︱︱何度も聞いた声が、この世界に繋ぎ止めた。 ﹁リオ⋮⋮ナ⋮⋮﹂ 倒れたままで視線を上げる。目の前に、リオナが立っている。 673 リオナは両手を広げて、ユィシアから俺を守るように立ちはだか っていた。 ﹁ヒロちゃんをいじめる人は、ゆるさないからっ⋮⋮!﹂ ﹁やめ⋮⋮ろ⋮⋮リオナ⋮⋮あいつは、おまえを⋮⋮﹂ ﹁だいじょうぶ⋮⋮ヒロちゃん、だいじょうぶだよ。リオナがきた から、リオナがまもるから⋮⋮!﹂ そう言ってこちらを見るリオナの姿が、前世で見た陽菜の姿に重 なる。 ︱︱俺は、お前を守ろうとした。どうしても死なせたくなかった。 なのにどうしてここに居るんだ。違う、ただ似ているだけのはず だ⋮⋮陽菜は向こうの世界で生きている。俺にとって、それが唯一 の真実だ。 ﹁⋮⋮魔王⋮⋮リリス⋮⋮﹂ ユィシアの呟き声が聞こえる。ユィシアは見抜いている⋮⋮リオ ナの正体を。 一歩ずつ、ユィシアが近づいてくる。それでもリオナは小さな身 体を震わせながら、俺を守ろうとする。 ﹁だめっ、きちゃだめっ! ヒロちゃんをいじめないでっ!﹂ 674 このままじゃお前も危ない。逃げろ、逃げてくれ。 悪夢なら終わってほしい。動かない身体も、ユィシアの存在も、 母さんの病気も、全部。 ︱︱けれど、逃げられない。この目の前にある光景も、石化の苦 しみも、全てが現実だ。 ユィシアがリオナの前に立つ。そしてその手が伸ばされたとき︱ ︱俺は。 ﹁︱︱やめろぉぉぉぉぉぉっ⋮⋮!﹂ 動く手を伸ばして、俺は叫ぶ。 俺を守ってくれようとするリオナ。彼女は俺の言葉に反応し、そ して︱︱。 ︱︱その身体から、円環を描く黒い文字が、幾つも湧き出して空 間に広がる。 ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の魔王の力が覚醒しようとしている⋮⋮! ﹁⋮⋮リオ⋮⋮ナ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ヒロちゃんを傷つける人は、絶対に許さない⋮⋮ヒロちゃん 675 は、私が守るんだから⋮⋮!﹂ まだ幼くて、舌足らずだったリオナは、そこには居なかった。 ︱︱もう、疑いようもなかった。 宮村陽菜。俺の前世の幼なじみが、そこにいた。 ヒーリングレイン ﹁ヒロちゃん、すぐ助けてあげるね⋮⋮もう苦しくないよ。癒しの 雨よ、蝕まれた身体に再び力を与え給え⋮⋮﹃癒しの雨﹄!﹂ ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の治癒魔術レベルが7まで開放された! ・︽リオナ︾は﹁ヒーリングレイン﹂を詠唱した! ・あなたの石化状態が回復した! ・︽リオナ︾の覚醒が進んでいく⋮⋮︽リオナ︾は一段階変異した! 魔王の力の覚醒と共に、リオナは魔術の才能を開花させた︱︱そ の事実がログで読み取れる。攻撃魔術ではなく、白魔術が目覚めた のは、俺を助けるために他ならない。 彼女の使った魔法は、雲も何もないのに優しい雨を降らせ、石に なっていた俺の身体が、雨を浴びたところから元に戻っていく。状 態異常を回復する上級魔術⋮⋮その効果に、石化の治療も含まれて いたのか。 ︱︱しかし、リオナが払った代償は大きかった。 676 ﹁あ⋮⋮あぁぁっ⋮⋮いやぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ リオナの小さな身体。その背中から、黒い翼が出現する。 まるで蝙蝠のような、悪魔が背中に生やすような翼。それは皮肉 にも、光り輝くような銀色の皇竜の翼と、全く対照的な存在に思え た。 動くことが出来るようになった俺は、覚醒のショックなのか、倒 れそうになったリオナを支える。その翼は悪夢よりも悪夢のような 現実としてそこにあった。 ﹁⋮⋮俺のせいで⋮⋮リオナ⋮⋮リオナッ⋮⋮!﹂ リオナは意識を失ったままで動かない。ユィシアから、せめてリ オナだけは逃がさなくてはならない。 ﹁⋮⋮リオナに手を出すな⋮⋮リオナは魔王なんかじゃない。おま えには絶対に⋮⋮っ﹂ 渡さない。そう、ユィシアに言葉をぶつけようとして、俺は愕然 とする。 一瞬、何が起きているのか分からなかった。 あれほど﹃泣いたことがない﹄と言っていたユィシアの頬に︱︱ 光り輝く雫が、幾つも、幾つも伝っている。 それは地面に滴り落ちる前に宝石に変わり、白く透き通る粒に変 677 わって、ころころと転がった。 ﹁⋮⋮リリス⋮⋮生まれ変わっても、人間を守るなんて⋮⋮どうし て⋮⋮﹂ ユィシアが泣いている。その言葉の意味は、俺にはいくらも分か らない。 しかし一つ言えることがある⋮⋮ユィシアは、リリスが生まれ変 わる前のことを知っている。 だからこそ、転生体であるリオナの行動を見て、涙を流した⋮⋮ それならば。 皇竜と魔王リリスは、必ずしも敵対していたわけではなかった。 両者には、まだ想像の及ばない因縁がある⋮⋮そういうことだ。 ﹁⋮⋮泣いたことないって言ったのに。泣いてるじゃないか⋮⋮ユ ィシアさん﹂ ﹁⋮⋮泣いている⋮⋮私が⋮⋮﹂ 自分でも分からないというように、ユィシアは足元に落ちた涙石 を見やる。 求めてやまなかったものが、そこにある。しかし、それを手に入 れるだけでは済まない︱︱無事に持ち帰ることが出来なければ、全 てが水の泡だ。 ︵どうする⋮⋮ユィシアにもう一度交渉するか、それとも⋮⋮︶ いくらも逡巡する時間はない。しかし涙石はあと少しで手が届く 場所にあり、守るべきリオナは意識を失っている。全てを手に入れ るには、まだ詰めの段階に持っていけていない⋮⋮! 678 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾にかかったドラゴンハウルの効果が切れた。 ・あなたの﹃天運﹄が発動した! ︵天運⋮⋮そうか、幸運スキル100の⋮⋮!︶ 豪運の上位互換で、ただ運が良くなる豪運と違い、確実に窮地を 脱することが出来る効果が発動するパッシブスキル。窮地に立たさ れ続けた俺は、その発動条件を自覚せずに満たしていた。 ︱︱どんな効果が起こるのか。祈るような気持ちで、俺は流れて くるログを待つ。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ユィシア︾は抵抗に失敗、魅了状態になっ た。 ︵⋮⋮これって⋮⋮ドラゴンハウルの状態異常耐性が切れて⋮⋮そ 679 こに魅了が発動して、天運のコンボで⋮⋮︶ 今の俺たちにとっての最大の脅威にして障害だった、皇竜ユィシ ア。 ぽろぽろと涙をこぼしていた彼女の頬が、よくよく見ると、ほん のりと赤らんでいる。 ﹁⋮⋮人間の子供⋮⋮なぜ⋮⋮人間なのに⋮⋮﹂ ︱︱今までに何度も、同じ現象を見てきた。しかしユィシアの戸 惑う様子は、あまりにも、今までの冷徹なイメージとはかけ離れす ぎていた。 ユィシアはリオナを抱きかかえている俺を、ずいっと覗きこんで くる。魅了が本当に効いてしまったなら、次にどうなるかは決まっ ていた︱︱ユィシアは人間ではなく、一応魔物の区分になる。つま りは⋮⋮。 ◆ダイアログ◆ ・︽ユィシア︾に﹁隷属化﹂スキルを使用できます。使用しますか ? YES/NO テイム ︵調教⋮⋮できる⋮⋮!︶ 自分より遥かに格上のモンスターのライフを削って隷属化するの は、ほぼ不可能に近い。戦ってみて分かった通り、ユィシアはまだ 680 奥の手を隠していたし、攻撃も防御も凄まじく高かった。 テイム そんな相手でも調教する方法が一つだけある⋮⋮魅了状態にする ことだ。俺はユィシアに対して何度も魅了が発動したのに成功しな かったことから、効かないものだと思い込んでいた。 しかし成功確率が1%でもあれば、いつかは成功する。そして天 運が発動すれば、その1%を引くことが、幸運スキルを持たない場 合よりずっと容易になる。 ﹁⋮⋮強いものに恭順すると言った⋮⋮あれは、少し違った。私は、 私が認めた者に、従属する﹂ ユィシアは淡々と言うが、その手が俺の頬に伸びて、愛でるよう に触れてくる。飽きずにすりすりと触ってくるが、その指の感触は、 彼女が竜だと思えないほどに柔らかく、しっとりとしていた。 ﹁⋮⋮涙石を、もらってもいいなら。従属させてあげるよ﹂ ﹁わかった。人間の子供⋮⋮名前は? まだ、しっかりと聞いてい ない﹂ 間近で見つめてくるユィシア。竜の翼を持つ少女に迫られながら、 黒い翼を持つ幼なじみを胸に抱く。 ︵⋮⋮リオナ、絶対に何とかしてやる。どうすればいいのか、分か った気がするんだ︶ 守ってくれたリオナに感謝しながら、俺はユィシアの方を向き、 テイム そして選択する。 一度調教してしまえば、ユィシアは俺の護衛獣であり続ける。俺 が前世から今までを通して出会った中で、最強の敵が仲間になる︱ 681 ︱それはあまりに現実味がなく、そして同時に、夢のように魅力的 な話だった。 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾はあなたの護衛獣になった! 俺がユィシアに初めて下す命令は、もう決まっていた。 ユィシアは涙石を拾い上げると、俺の手に渡してくれる。全部で 十粒⋮⋮あとは、これをネリスさんに調合してもらうだけだ。 ﹁⋮⋮ご主人さま﹂ ﹁わっ⋮⋮い、いきなりその呼び方はちょっと⋮⋮ヒロトでいいよ﹂ ﹁ヒロト様⋮⋮私は皇竜ユィシア。あなたに従属する⋮⋮この命全 てを捧げると誓う﹂ 誓いを示すように、ユィシアは俺の額に口づけをする。そして、 先ほどまでの無表情が嘘のように、微笑み、照れてはにかんだ。 テイム 魅了が解ければ元のユィシアに戻るが、調教は解除されない。 これで、涙石を手に入れて無事に脱出できる⋮⋮しかし、今のリ オナの姿を、皆に見せるわけにはいかない。 ﹁ユィシア⋮⋮リオナをここで匿ってくれ。俺はまた、ここに戻っ てくる﹂ ﹁⋮⋮魔王の力が目覚めようとしている。完全に覚醒する前に、何 らかの封印を施す必要がある﹂ ﹁わかってる。リオナの魔王化を止められるかもしれない方法が、 682 一つだけある⋮⋮でも、それは今すぐには出来ない方法なんだ﹂ 今は一刻も早く、母さんの下に戻らなければならない。 リオナのことを案じながら、俺は来た道を再び駆け戻っていく。 竜の巣のある大空洞から出る前に一度だけ振り返ると、ユィシアは ふたたび竜の姿に化身し、眠っているリオナを守ってくれていた。 ︵待っててくれ、リオナ⋮⋮褒められた方法じゃないかもしれない けど。このまま魔王なんかにはさせないからな⋮⋮!︶ 683 第十九話 女神の命題 竜の巣を出て外に向かって走る時には、モンスターは襲ってこな かった。ソードリザード、ファイアドレイクは全てユィシアの眷属 ということらしい。 リオナがなぜここまで来られたのか︱︱それはおそらく、リオナ が魔王であることを感じ取れるからだろう。魔王の転生体に魔物が 攻撃を加えることはない。ユィシアに確かめてみないと確証は持て ないが、フィリアネスさんたちが奥まで進んでいないなら、リオナ は単独で、まだ魔物が残っている区間を抜けてきたことになる。 ︵俺はリオナに助けられた⋮⋮今度は、俺があいつを助ける番だ︶ 思いついた方法を実行するには、サラサさんの許しを得なければ ならない。そして同時に、サラサさんからあるアイテムを譲り受け る必要がある。 魅了に頼らず、事情を話すしかない⋮⋮サラサさんとリオナの血 が繋がっていないことにも触れなければならない。それが、サラサ さんを苦しめることになるとしても。 サラサさんも、リオナのことを案じている。その彼女に、翼を生 やしたリオナの姿は見せられない。 俺がやろうとしている方法で、リオナの姿を元に戻せるのかは分 からない。しかし、今の俺には、それ以外に出来ることが見つから ない。 リオナは俺のために力を目覚めさせ、石化を解いてくれた。 684 危険を顧みず、竜の巣にまで来てくれた。いつも俺があいつを守 っているつもりだったのに、俺が守られていた。 そのリオナが、陽菜そのものに見えた。 俺は前世でも、陽菜に守られたことがあった。 ︱︱だいじょうぶ⋮⋮ヒロちゃん、だいじょうぶだよ。リオナが きたから、リオナがまもるから⋮⋮! ﹁なんで⋮⋮﹂ 子供の頃に登山で行った山で道に迷い、怪我をして動けなくなっ た。そんな馬鹿な俺を、唯一探し出してくれたのが陽菜だった。 陽菜はGPSのついた携帯を迷子になったときのために持たされ ていたから、陽菜と一緒にいるだけで救助が来た。父さんと母さん にはこっぴどく叱られて、俺はその時の感謝を、陽菜に伝えられな いままだった。 格好悪いというだけの理由。そんな意地を張っていなければ、前 世への未練を一つは無くすことが出来たのに⋮⋮。 ︵俺はまだ、忘れられてなかったんだ︶ リオナの姿を見るたびに、俺は何度も浮かんだ考えをそのたびに 打ち消してきた。 陽菜もあの時に命を落として、俺とは別に女神に邂逅し、そして 685 この世界に転生したんじゃないのか。 ︱︱少しでも、そうであって欲しいと願う自分を打ち消し、否定 したかった。 もう一度出会いからやり直せるのなら。俺は間違わずに、正しい 道を選べるんじゃないのかという期待を抱いた。 そんなことは、あまりにも虫が良すぎる考えだ。自分を中心に世 界が回転していると思うくらいに、傲慢な考えでしかない。 ︵⋮⋮リオナは、リオナだ。でも、俺は⋮⋮︶ 確かめたい、という思いが湧く。もしリオナが何も知らないと言 うなら、この話はそれで終わりだ。 宮村陽菜という名前を知っているか。森岡弘人という名前は⋮⋮。 けれどそれは何もかもが、元の姿を取り戻すことが出来たときの 話だ。 ◇◆◇ 洞窟に入ってすぐの所で、フィリアネスさんたちのパーティを見 つけた。 ﹁ヒロトッ⋮⋮よく無事で⋮⋮!﹂ ﹁ヒロトちゃんっ! 良かった、戻ってきてくれて⋮⋮ほんとに良 かったぁ⋮⋮! 686 フィリアネスさんたちは俺の姿を見るなり、駆け寄ってくる。マ ールさんもアレッタさんも、目に涙を溜めて俺を見つめてくる。 ﹁ごめん、無茶なことして⋮⋮奥まで行けたのはみんなのおかげだ よ。ありがとう﹂ ﹁その顔を見るに、手に入れられたようじゃな⋮⋮竜の涙石を。よ くぞやった⋮⋮!﹂ 俺はポーチに入れていた涙石をネリスさんに見せる。行かせる時 は厳しい態度だったネリスさんも、感極まって声を震わせていた。 ﹁竜の涙⋮⋮お師匠様は、ドラゴンを倒しちゃったんですか? そ れとも⋮⋮﹂ ﹁それは今のところは秘密にさせてくれ。みんなも、もう奥に行っ ちゃだめだ。ソードリザードとファイアドレイクは、もう人を襲っ たりしない。でも、宝を奪おうとする場合は、話は別だよ﹂ ﹁宝があると聞いても、誰も奥に行こうとは思わないだろうね⋮⋮ 小生も、あまりに彼らが手強くて疲れ果てたよ。麻痺や眠りの魔術 で時間を稼ぐことしか出来なかった﹂ ウェンディと名無しさんはレベル25だから、45のフィリアネ スさん、30で恵体70のマールさんと比べれば、やはり苦戦は免 れない。常に回復系のスキルを使い続けただろうアレッタさんも、 額に汗をにじませている。洞窟の中は溶岩の熱気でかなり暑くなっ ているし、全員が疲労を隠しきれずにいた。 ﹁さて⋮⋮協力してもらっておいて悪いのじゃが、わしはヒロトと 共に庵に戻らねばならぬ。皆は先に町に戻っていてもらえるか﹂ ﹁了解しました、賢者殿﹂ 687 フィリアネスさんの恭しい呼び方に、ネリスさんはゆっくりと首 を振る。 ﹁わしはミゼールの魔女と呼ばれておる。賢者などではない、ただ の鷲鼻のおばばじゃよ﹂ そうは言うが、今の姿はフィリアネスさんと同年代にしか見えな い。マールさんたちも姿と発言のギャップが大きすぎて苦笑してい た。 ﹁えっと⋮⋮それじゃヒロトちゃん、私たちは先に戻って待ってる から!﹂ ﹁賢者様から、秘薬を作ると聞きました。無事に完成することを祈 っています﹂ ﹁お師匠様、えっと、おばば様、頑張ってください!﹂ ﹁おばば様というのは違和感があるな⋮⋮小生はネリス殿と呼ばせ ていただこう。では、ヒロト君。気をしっかり持つんだよ⋮⋮小生 たちは、いつでも君のことを思っている。それを忘れないでくれ﹂ ﹁うん⋮⋮本当にありがとう、みんな﹂ マールさん、アレッタさん、ウェンディ、名無しさんが先に町に 戻っていく。残ったフィリアネスさんは、俺が予想していた通りの ことを尋ねてきた。 ﹁⋮⋮私たちが戦っているうちにリオナが来て、止めても聞かずに、 ヒロトを助けると言って駆けていった。奥で、リオナとは会えたの か⋮⋮?﹂ ﹁うん。リオナは無事だよ⋮⋮でも、今はまだ帰れない。俺が迎え に行くまで、安全な所で待ってる﹂ ﹁ヒロト⋮⋮皆には、秘密にすると言っていたが。リオナが無事と 688 いうことは、ドラゴンを倒したのか? それとも、まさか⋮⋮﹂ テイム 俺がスライムを調教したことを知っているフィリアネスさんでも、 俺が同じように皇竜を仲間にしたというのは、可能性は考えられて も、とても信じられない様子だった。 嘘をつき通すことは出来る。けれどフィリアネスさんには、知っ ておいてもらっても良いと思った。聖騎士である彼女なら、むやみ に口外しないし、マールさんやアレッタさんにも機会が訪れるまで 秘密にしてくれるだろう。 ﹁⋮⋮俺は、竜の巣で宝を守ってた竜を仲間にした。だから、リオ ナは安全なんだ﹂ ﹁⋮⋮お前は⋮⋮いつの間にか、私よりずっと先を歩いていたのだ な⋮⋮﹂ フィリアネスさんは小手をつけたままの手を俺の肩に置いて言う。 そして、皇竜に攻撃を受けて負った傷をいたわってくれた。 ﹁そんなことないよ。俺はフィリアネスさんに、まだ教わりたいこ とがいっぱいあるんだ﹂ ﹁⋮⋮そうやって気を遣わせてしまうようでは、私はますます情け なくなる。今は私のことよりも、母君のことだ。必ず秘薬が効いて、 回復すると祈っている﹂ ﹁うん⋮⋮ありがとう、フィリアネスさん﹂ 俺が離れていくように感じているのなら、そんなことはないと伝 えたかった。だから俺はフィリアネスさんの手を、両手で包むよう に握る。 689 ﹁ネリスさん、行こう。俺は全力で走って行くけど、ついて来られ る?﹂ ﹁儂を誰だと思っておる。この空飛ぶ箒を使えば、瞬く間に庵まで 着くところぞ﹂ ﹁賢者殿⋮⋮いえ、ネリス殿。どうか、よろしく頼みます﹂ フィリアネスさんは一礼して俺たちを見送る。彼女を残して、俺 はネリスさんと一緒に庵に向かった。 ◇◆◇ ネリスさんは俺が竜の涙石を取ってくると信じて、最後の仕上げ の段階を残して、エリクシールの作成を進めてくれていた。 マンドラゴラのエキスを抽出してフラスコのような容器に入れ、 それを溶媒として、他の材料からも適切に成分を抽出して溶かしこ む。今は虹色の液体になっていて、火精霊の炎で温められていた。 ﹁⋮⋮涙石をこれに。一度の生成で、わしの魔力はほとんどが失わ れる。エリクシールが完成したあと、わしは意識を失うじゃろうが、 心配はない。目が覚めた時には、元のばばに戻っておるじゃろうが な﹂ ﹁ネリスさん⋮⋮ごめん、いっぱい苦労かけて⋮⋮﹂ 謝罪する俺を見て、ネリスさんは、おばば様の姿だった時と同じ ように優しく笑った。姿が変わっても、同一人物なのだとこれ以上 ない形で確かめられた。 690 ﹁お主を見ておると、若いころを思い出す。わしも天才と呼ばれ、 出来ぬことは何もないと思っておった。しかし広い世界を知り、そ れが驕りであると思い知らされた。ヒロト⋮⋮お主も広い世界を見 て、わしと同じように学ぶべきじゃな。お主がエリクシールを手に 入れるために揃えた材料、それを持つ神獣たちが、どんな姿をして いるのか。それを見た時、またお主は一つ大きくなる﹂ ﹁⋮⋮うん。分かったよ、ネリスさん﹂ ﹁うむ。素直な子じゃ⋮⋮レミリアは、必ず治る。そう信じて、エ リクシールを使いなさい。エリクシールは、普通の器に入れると器 を溶かしてしまう⋮⋮この水晶の瓶に移し、厳重に封をしなさい﹂ ネリスさんはフラスコに両手をかざし、集中し始める。その口が 動いて、俺には聞き取れない呪文を紡ぐ。 ﹁うわっ⋮⋮!?﹂ ︱︱そして。涙石をひとつフラスコに落とした瞬間、眩い光が視 界を埋め尽くす。 その光が収まったあと、フラスコの中の液体は、紅薔薇のような 深紅に染まっていた。 ﹁⋮⋮命を示す赤色⋮⋮緋色のティンクトゥラ。お主にこれを託す ⋮⋮我が弟子、ヒロトよ⋮⋮﹂ ﹁おばば様っ⋮⋮!﹂ ずっと黙って見守っていたミルテが、倒れたネリスさんに駆け寄 る。ネリスさんはミルテの頭を撫でて微笑みかけたあと、眠るよう に目を閉じる。言っていた通り、彼女のマナはほとんど尽きて、一 桁を残すのみとなっていた。 691 ﹁ヒロト⋮⋮おばば様は私がみてる。おかあさんを、助けてあげて﹂ ﹁ああ⋮⋮分かった。ミルテ、心配かけてごめん﹂ ﹁ううん⋮⋮だいじょうぶ。わたしも、後でいくから﹂ ミルテも母さんの回復を祈ってくれている。このエリクシールは 俺だけじゃなく、皆の想いの上にあるものだ。 俺はフラスコの中の液体を、ネリスさんが用意してくれた専用の 薬瓶に移し替える。そうしても、まだエリクシールは半分ほどが残 されていたが、これ以上は持ち運べない。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁エリクシール﹂を手に入れた。 俺は薬瓶を握りしめ、母さんのいる診療所に走った。 そこで、俺は父さんの姿を見つける。父さんも俺の姿に気づくが ︱︱予想していた通りに。 父さんは拳を振り上げる。無断で居なくなった俺を叱るために。 けれどその手は、振り下ろされることはなかった。そのままリカ ルド父さんは、膝を突いて俺を抱きしめる。 ﹁良かった⋮⋮ヒロト。父さんはお前が居なくなって、町中を探し たんだぞ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮ごめん、お父さん。おれ、どうしてもお母さんを助けたかっ たんだ﹂ 父さんは俺を離すと、真っ直ぐに見つめてくる。その頬はこけて、 692 目には酷い隈ができている⋮⋮母さんの状態が思わしくないことを 知ってから、ほとんど寝られていなかったということだ。 それを俺に気づかれないように、父さんは常に強くあろうとした。 そんな父さんを、俺は心から誇りに思う。 ︱︱その時、診療所の扉が勢い良く開かれる。姿を見せた助産師 さんは、顔を蒼白にしていた。 ﹁リカルドさんっ、レミリアさんが⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮レミリア⋮⋮!﹂ 父さんが走り出す。俺はその後について、母さんのもとに駆けつ ける。 頭のなかから、他の考えが全て吹き飛ぶ。母さんを助けたい、そ れだけしか考えられなくなる。 ﹁レミリアさん、聞こえますか、レミリアさんっ!﹂ 医者の呼びかけに答えず、母さんはベッドの上で動かない。 ︱︱もう、一刻の猶予もない。俺は母さんの傍に駆けつけ、医者 が何か言っているのにも構わず、母さんの口元に薬瓶を近づけ、エ リクシールを一滴その口元に垂らした。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁エリクシール﹂をレミリアに飲ませた。 ・しかし、効果はなかった。 693 ︱︱そんな。 薬を届けられたのに。エリクシールなら、どんな状態でも治るは ずなのに。 ﹁母さん⋮⋮いやだ⋮⋮死んじゃいやだっ⋮⋮﹂ ﹁ヒロトくん、何を⋮⋮リカルドさん、この子は何をして⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮母さんのために、薬を⋮⋮?﹂ 医者と父さんが何かを言っている。その言葉の意味さえわからな いで、俺は青ざめたまま、眠るように目を閉じている母さんに取り すがる。 遅くなんてない。医者だって、これから手術をする体力があるっ て言ってたじゃないか。 ﹁うそだ⋮⋮そんなの嘘だ⋮⋮母さんっ⋮⋮お母さんっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮レミリア⋮⋮﹂ 現実を受け入れられない。振り返ると、父さんも俺と同じ⋮⋮何 が起きているのかを、頭が理解しようとしていない。 間に合わなかったのか。もう、遅かったのか。俺は歪む視界の中 に、母さんのステータスを映しだす。 ◆ステータス◆ 名前 レミリア・ジークリッド 人間 女性 22歳 レベル12 694 ジョブ:令嬢 ライフ:0/76 ︱︱いやだ。 ダメだ、絶対にダメだ。死ぬわけない。母さんは⋮⋮母さんはエ リクシールがあれば、必ず⋮⋮。 ﹁お腹の子供だけは助かるかもしれない⋮⋮これから、﹂ 言いかけた医師を、リカルド父さんが掴みかかって止める。その 鬼のような形相を見ても、俺は少しも怖いと感じなかった。 ﹁レミリアを、こんなになってなお傷つけようっていうのか⋮⋮! ?﹂ ﹁リカルドさん、お子さんの命は助かるかもしれないんです⋮⋮レ ミリアさんだって、きっとそれを⋮⋮っ﹂ ︱︱望んでいる。母さんは優しい人だ⋮⋮俺だって母さんの考え ることはわかる。血を分けた息子なのだから。 だけど⋮⋮それでも。 数字が諦めろと告げていても、俺はどうしても諦められない。 どれだけ無様でも、女神に笑われようとも、最後の最後まであが き続ける。 695 母さんに、生きていて欲しいから。 ﹁レミリアさんっ⋮⋮!﹂ 病室にサラサさんが駆け込んでくる。彼女は母さんの状態に気づ くと、直ぐに駆け寄って治癒術をかけ始めてくれた。 ﹁レミリア様⋮⋮っ、しっかりなさってください! あなたはまだ 生きなければならないっ!﹂ 次に現れたのはフィリアネスさん⋮⋮そしてモニカさん、ターニ ャさん、フィローネさんも入ってくる。 ﹁レミリア! こんなに可愛いヒロトを置いて、先になんて行かせ ないっ! 行っちゃだめっ!﹂ ﹁レミリアッ! あんたが居なくなったら、私がヒロトちゃんを取 っちゃうからね! それでいいのっ!?﹂ ﹁戻ってきて、レミリア⋮⋮お願いだから⋮⋮!﹂ 彼女たちだけじゃない。母さんを、そして俺たち家族を知る人た ちが、次々にやってくる。 マールさん、アレッタさん、ウェンディ、名無しさん、セーラさ ん、メルオーネさん、エレナさん⋮⋮バルデス爺に、アッシュ、デ ィーン、ステラまで。 みんなが母さんの名前を呼ぶ。その声が、既に命の火が失われた はずの母さんの頬に、わずかな赤みを取り戻させるように、俺には 見えた。 ︱︱エリクシールはまだ残っている。最初のひとしずくは、母さ 696 んの口に入っても、喉を通らなかったのだとしたら⋮⋮希望はまだ、 残っている。 ︵母さん⋮⋮少しでもいい。飲んでくれ⋮⋮!︶ もう一度俺は、エリクシールの瓶を母さんの口元に運ぶ。そして 赤い液体が流れ、母さんの唇に伝い落ちる。 ︵頼む⋮⋮お願いだ⋮⋮お願いだから⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽レミリア︾に依頼をした。 ︵依頼⋮⋮今の母さんに⋮⋮?︶ ライフがゼロになっている母さんが、俺の依頼の対象になった。 ﹁⋮⋮んっ⋮⋮﹂ 次の瞬間、母さんの喉が少しだけ動く。エリクシールが喉を通っ たのだと理解した直後、母さんの身体が、温かな光に包まれた。 ◆ログ◆ ・︽レミリア︾の体内に入った﹁エリクシール﹂が効果を発揮した! ・︽レミリア︾は母子ともに生命力を取り戻した! 697 ﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂ 言葉にならなかった。そのログを見たすぐあと、俺は、もう一度 母さんの状態を確かめた。 ◆ステータス◆ 名前 レミリア・ジークリッド 人間 女性 22歳 レベル12 ジョブ:令嬢 ライフ:1/76 ﹁あ⋮⋮あぁ⋮⋮っ﹂ 回復している。ゼロになっていたはずの母さんのライフが、1に ⋮⋮。 母さんが、息をしている。その頬に赤みが戻り、胸が安らかに上 下し始める。 698 その場にいる誰もが息を飲む。最も近くで、母さんが息をしてい ることを確かめた父さんは、大粒の涙をぼろぼろと流していた。 ﹁⋮⋮レミリア⋮⋮あぁ⋮⋮生きてる⋮⋮レミリアが、生きて⋮⋮﹂ ﹁女神の慈悲よ⋮⋮深き癒しをもたらし、全ての苦しみに穏やかな る赦しをもたらしたまえ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽サラサ︾は﹁リザレクション﹂を詠唱した! ・︽レミリア︾のライフが回復した! サラサさんは息を吹き返した母さんに、さらに治癒術をかけてく れる。完全回復するはずのエリクシールだが、母さんの命を呼び戻 すために効能を使い果たしていた⋮⋮しかしもう、母さんの顔に死 の影は感じない。 ﹁レミリア⋮⋮ばかっ、死んじゃうかと思ったじゃない⋮⋮っ!﹂ ﹁良かった⋮⋮レミリア⋮⋮本当に良かったっ⋮⋮﹂ モニカさんたち三人娘が、母さんに泣きつく。それを見ていた騎 士団の三人も、とめどなく涙を溢れさせていた。 ﹁はぅぅ∼⋮⋮わ、私、もうだめ⋮⋮もう我慢できない⋮⋮うわぁ ∼んっ!﹂ ﹁ま、マールさん、そんな子供みたいに⋮⋮フィリアネス様も⋮⋮﹂ 699 マールさんもアレッタさんも号泣している。フィリアネスさんも ⋮⋮。 ﹁ひっく⋮⋮ヒロト⋮⋮お母様が⋮⋮レミリア様が、助かって良か った⋮⋮本当に良かった⋮⋮っ﹂ フィリアネスさんは泣きながら、俺を後ろから抱きしめてくれる。 その温もりに安堵を覚えながら、俺も涙をこぼしていた。 医者の先生は、奇跡のような出来事に茫然自失という状態だった。 それでも母さんが死地から回復したことを確かめ、父さんに深く頭 を下げる。 ﹁私の力不足をお詫びします。ヒロトくんが持ってきた薬が、レミ リアさんを救った⋮⋮私は医者を名乗るのもおこがましい。彼女を 助けるどころか、諦めるようなことを⋮⋮﹂ ﹁いえ⋮⋮先生、謝らないでください。うちの息子が奇跡を起こし てくれた⋮⋮私も、ヒロトが頑張っているのも知らずに、何もして やることが出来なかった。至らぬ父親です﹂ リカルド父さんは涙を拭うと、俺の隣に立つ。そうして、俺の頭 を撫でてくれた。 父さんは、母さんを失うことを他の何よりも恐れていた。魔剣の 護り手になり、その危険に向き合い続けることよりも。 俺は父さんが、母さんをどれだけ深く愛しているのかを知った。 そうして俺が生まれてきたのだと思うと、心はただ感謝で満たされ る。 俺もいつか、父さんが母さんを想うように、人を愛せる日が来る だろうか。 700 ︱︱いや。ずっと誤魔化し続けるつもりもない⋮⋮子供である今 は、まだ形には出来ないことでも。 フィリアネスさんは、こんな俺にも想いを伝えてくれた。リオナ も、ミルテも⋮⋮ステラだって。 子供たちはみんな泣いている。ディーンは顔をぐしゃぐしゃにし て泣いていて、アッシュも涙ぐみながら、苦笑してなだめている⋮ ⋮ステラはお母さんのエレナさんの胸で泣いている。 メルオーネさんは眼鏡を外して涙を拭いている。彼女は目を真っ 赤にして、俺と目を合わせると気恥ずかしそうに笑った。 そして⋮⋮モニカさんは俺と目を合わせると、近づいてきて、正 面から抱きしめてくる。 ﹁ヒロト⋮⋮置いていかれたときは、どうしようかと思ったけど。 やっぱり、怒れなくなっちゃった﹂ ﹁うん⋮⋮ごめん、モニカ姉ちゃん。みんなを呼んでくれて、あり がとう﹂ ﹁⋮⋮いいよ。次に無茶する時は、必ずあたしも連れていってね⋮ ⋮もう、心配させないで﹂ 今なら、そう約束することが出来る。もう危ないことはしないと。 ︱︱けれど、これで終わりじゃない。俺は母さんに治癒術を施し てくれているサラサさんを見やる。 彼女に、尋ねなければならないことがある⋮⋮リオナを救うため に。 701 しかし今は、母さんが生きていてくれること⋮⋮その幸福を少し でもいい、感じていたい。 俺は眠っている母さんの手を握り、そばでその寝顔を見つめる。 苦しさも何もなく、安らかで⋮⋮確かな生命の活力が感じられる。 ふと顔を上げると、ずっと黙って見てくれていたバルデス爺と目 が合う。バルデス爺は微笑み、深く何度か頷いてくれた。 ◇◆◇ 俺はサラサさんに大事な話をしたいと頼み、彼女の家に向かった。 サラサさんはリオナが居ないことに、薄々と、何が起きたのかを 悟っているようだった⋮⋮リオナはどうしたのかと、取り乱したり しない。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん。リオナは、無事でいますか?﹂ ﹁うん⋮⋮でも、今はまだ帰れない。帰ってくるまで、とても時間 がかかるかもしれない⋮⋮﹂ 俺の思う方法で、リオナの魔王化が止められるのかどうかも、あ の翼が消えるのかも分からない。 もし今魔王化を止めることが出来ても、それはいずれ訪れる未来 を、先延ばしにするだけなのかもしれない⋮⋮でも。 ﹁おれは、リオナに助けてもらった。だから今度は、おれがリオナ を助ける番なんだ﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃん。リオナは⋮⋮あなたの前で、何か特別な力を 使いましたか⋮⋮?﹂ 702 サラサさんの問いに、俺は頷きを返す。ここで誤魔化しを言えば、 それはリオナの母さんであるサラサさんへの裏切りになる。 ﹁リオナは⋮⋮魔術を使って、おれを助けてくれた。すごい治癒術 だった﹂ ﹁⋮⋮あの子はまだ、魔術を使えるような歳ではありません。それ でも、私が及ばないほどの魔術を使った⋮⋮そういうことなのです ね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮うん。石に変えられそうになった俺の身体を、元に戻してく れたんだ﹂ サラサさんは迷っているようにも見えた。けれど俺の目を見てい るうちに、その瞳に決意が宿る。 彼女はずっと被っていたフードを外した。そこには普通の人間よ り長く、尖った耳が隠されていた。 ﹁私は⋮⋮本来なら、この町に居てはならない種族です。ハーフエ ルフという⋮⋮﹂ ﹁どうして、居ちゃいけないの? ただ、耳が少し長いだけなのに﹂ ﹁それは⋮⋮エルフと人間の間には、交わりを持ってはならないと いう掟があるからです。ですからハーフエルフである私は、耳を隠 さなければ、人間の町では暮らせません﹂ それはゲームの中から続いている設定だった。ハーフエルフは独 立した自治都市を持ち、その中でのみ暮らしている。 しかし、エルフやハーフエルフはその魔術の適性の高さから、人 間や魔物たちに狙われることが多い。 ゲームに登場した﹃サラサ・ローネイア﹄は、死霊の王と呼ばれ る黒魔術師によって、捕らえられたハーフエルフのうちの一人だっ 703 た。彼女は黒魔術師によって奴隷の枷をつけられ、消えることのな い奴隷の印を刻まれている。その黒魔術師がクエストボスとして登 場すると予告されていたが、俺が生きているうちにそこまで実装さ れることはなかった。 ﹁⋮⋮リオナはハーフエルフとしても、まだ小さいのに、とても難 しい魔術を使った。ヒロトちゃんは、それを見てしまった⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮リオナの耳は長くない。だから、おれは分かってたんだよ﹂ リオナはサラサさんの娘じゃない。 けれどそれを言葉にすることが残酷に思えて、俺ははっきりと口 にはしなかった。サラサさんが自分で明かしたいと思う時が来るな ら、そのときを待つべきだ。 しかしリオナの魔王化は、もう放置しておけるものじゃない。今 も進行しているとしたら、早く封印しなければ取り返しがつかなく なる。 ﹁サラサさん⋮⋮どうしておれがそんなことを知ってるのかって思 ったら、怒ってくれていい。どうしても、お願いしたいことがある んだ﹂ ﹁⋮⋮はい。聞かせてください。私は決して怒ったりはしません⋮ ⋮ヒロトちゃんが言うことなら﹂ それだけの信頼を得てもなお、俺は、それを言うために途方も無 い勇気が必要だった。 ︱︱初めから知っていたなんて、とても言えない。この町で平穏 に暮らしているサラサさんが、過去に奴隷だったことがあるなんて ⋮⋮。 それでも言わなければいけない。彼女が奴隷であったことが、同 704 時にひとつの可能性を導くのだから。 ﹁⋮⋮サラサさんは、首輪をつけてるはずだ。それを、俺に渡して ほしい﹂ サラサさんは驚かなかった。首もとを覆うショールのような布に 触れて、何も言わずに俺を見ていた。 ﹁⋮⋮これを外すことは、今は出来ません。これは私にかけられた 枷⋮⋮今は、まだ⋮⋮﹂ ﹁おれなら外してあげられる。おれは、そういうものだって知って るんだ﹂ ﹁っ⋮⋮そんな⋮⋮そんなことが⋮⋮﹂ エターナル・マギアにおいて、人間やハーフエルフなどの、大別 して人族の奴隷に強制される装備。それが、﹁奴隷の首輪﹂だ。 奴隷として買われた場合、その価格の分だけ奴隷としての仕事を 果たすまで、奴隷の首輪は外れない。ハーフエルフであるサラサさ んは、人間よりも奴隷としての価値はとても高く設定されているは ずだ。 ジョブを﹁セージ﹂に上書きすることは出来ても、奴隷スキルは 消えなかった。今もサラサさんのステータスを見れば、10ポイン トの奴隷スキルが残ってしまっている。 ゲームでは剣闘奴隷が自力で奴隷から解放される以外に、﹁解放 のための代金を支払う﹂ことで、剣闘奴隷の奴隷スキルを一気にゼ ロにし、NPCとして仲間に加えることができた。 705 ︱︱それならば。俺がサラサさんの価値に見合う金額を払い、身 請けをすることで、彼女は奴隷から解放される。 ﹁ヒロトちゃん⋮⋮この首輪は絶対に外れません。これを付けた者 でなければ⋮⋮っ﹂ サラサさんがこんなに動揺した姿を見せるのは初めてだった。い つも穏やかだった彼女が、まるで俺を恐れてでもいるかのように、 少しずつ後ずさっていく。 俺はすぐに距離を詰めたりはしなかった。彼女を怖がらせないよ うに。 子供の俺からは見上げるほどに背丈の差がある女性が、少女のよ うに怯えている。奴隷から解放されるなら、それは嬉しいことじゃ ないのか⋮⋮試してみて、損はないんじゃないのか。そういう問題 ではなかった。 彼女は、希望を抱いてはいけないと思っている。俺に解放されて はならないと⋮⋮今のサラサさんの反応は、そうとしか見られなか った。 ﹁⋮⋮この首輪を外すのは⋮⋮ハインツでなくてはならないんです。 あの人は⋮⋮私を奴隷から解放するまでは、何も⋮⋮﹂ ︱︱そういうことだったのか。 サラサさんはハインツさんを夫と呼ぶけれど⋮⋮リオナは二人の 子供ではない。それだけではなく⋮⋮。 サラサさんとハインツさんは、まだ、夫婦と呼べる関係にもなか った。だからこそハインツさんは、リカルド父さんが苦言を呈する 706 ほど、夜に仲間と飲み歩いていた。 二人の間に何があって、ミゼールで暮らすようになったのかは分 からない⋮⋮リオナをどうして娘として育てるようになったのかも。 もう少し時間が経っていれば、ハインツさんとサラサさんが本当 の夫婦になり、首輪も俺以外の手で外されていたのかもしれない。 ︱︱けれど、俺は⋮⋮サラサさんの首輪を外しても。彼女を縛ら ず、ただ自由にしてあげたいと思うだけだ。 ﹁⋮⋮おれはリオナを助けたい。そのために、出来ることがしたい んだ。何を言ってるのかと思うかもしれないけど⋮⋮﹂ ﹁リオナを⋮⋮この首輪があれば、助けられるんですか⋮⋮?﹂ サラサさんは隠されている首元に触れる。そこに、奴隷の首輪が あるのだろう。 彼女はしばらくの間、ここではないどこかを見つめていた。 ︱︱それが終わったあと、サラサさんの瞳から怯えが消える。 ﹁⋮⋮ひと目見た時から、ずっと思っていました。あなたに出会っ たことで、私も、リオナも、何かが変わる⋮⋮そんな気がしていた んです。夫に対する感謝とは別に、私は⋮⋮いつも、ヒロトちゃん に⋮⋮﹂ ﹁おれは赤ん坊の頃から今まで、サラサさんが良くしてくれること、 いつもありがとうって思ってる。だからおれは、サラサさんが思う とおりにしたい。本当に首輪を外しちゃだめだっていうなら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんな言い方をされたら、断れません。どうしてヒロトちゃ んは⋮⋮まだ、4歳なのに⋮⋮﹂ 困惑しているサラサさん。無理もない⋮⋮俺はいつも子供らしく ないことをしてきたけど、今日のことは、今までで一番と言ってい 707 い。 大人のサラサさんがつけた奴隷の首輪を外すために、対価を払お うっていうんだから。 ﹁おれはみんなより早く大人になると思う。だけど、今まで通りに 子供のままでいたい時もある。都合のいいことを言ってると思うけ ど、父さんと母さんの前では、まだ子供でいたいんだ﹂ ﹁全部⋮⋮分かっているんですね。それだけ小さいなら、本当は分 からないようなことも⋮⋮私がハインツを、どう思っているのかも 分かっていますか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮大事な人だから、裏切りたくない。違うかな⋮⋮おれ、こう いうことには勘が鋭くないから﹂ 自分で言って恥ずかしくなる。本当なら二十年にもなる俺の精神 年齢で、恋愛に感して全く疎いなんて。 少しくらい理解出来てきたのかもしれない。前世よりは、女の人 の気持ちを理解しようと努めているとは思う。 けれどサラサさんがハインツさんを誰より大事に想うなら、俺は ⋮⋮例えリオナを助けるためでも、無理に首輪を外させるわけには いかない。 ︱︱無理を強いることはできない。他の方法を、探すべきだ。 そう思いかけたとき、サラサさんは首に巻いていた布を外した。 そこには、金属片と黒い革で作られた、途中で切れた鎖のついた首 輪がつけられていた。 ﹁⋮⋮夫は⋮⋮いえ。ハインツさんは、私の首輪を、いつか外すと 言ってくれました。私も、それを待ち続けようと思った⋮⋮でも、 それでは、リオナがここに戻ることは出来ない。ヒロトちゃん⋮⋮ そうなんですね⋮⋮?﹂ 708 ﹁⋮⋮うん。俺が考えているとおりなら、方法はそれしか思いつか ない。そんなに都合のいいことはないかもしれない⋮⋮でも、何も しないよりはずっといい﹂ いつかリオナの魔王の力を、本当に封印することが出来るまで。 それまで、リオナが家族と一緒に居ることが出来ないなんて、あ まりにも悲しすぎる⋮⋮だから。 ◆ログ◆ ・︽サラサ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO 魅了が発動せずとも、サラサさんはずっと変わらないままだ。 ハインツさんと同じか、それ以上に、俺への好感度が高い。彼女 がそれを裏切りだと思っていたなら⋮⋮俺は、長い間、何も知らず に彼女を苦しめてしまった。 そして俺はもう一つ、罪を犯す。サラサさんから手に入れた首輪 を⋮⋮娘のリオナに、嵌めなくてはならない。 リオナが了承するなら、彼女のジョブを奴隷に変えられる。 ︱︱そうすれば、﹁破滅の子﹂ではなくなる。魔王の転生体とし ての宿命を、先延ばしにすることが出来る。俺が本当にリオナを救 う力を手に入れられるまで。 もしそれが叶わなければ⋮⋮俺はリオナを救うために、どんなこ とでもする。 リオナが自分を犠牲にして、俺を助けてくれたから⋮⋮理由はそ 709 れだけじゃない。 俺がリオナを助けたいから。人として生きて欲しいから。それが 至上であり、最大の動機だ。 ﹁⋮⋮その首輪を、リオナにつける。それでもいいなら、渡してほ しい﹂ ﹁⋮⋮それがあの子を救うことに繋がると、信じます。私はヒロト ちゃんを信じる⋮⋮初めから、そう決めていましたから﹂ サラサさんは久しぶりに微笑む。それは諦めたからでも、投げや りになったからでもない。 奴隷の首輪がリオナを助けるために必要だなんて、そんな馬鹿げ た話を、彼女が信じてくれたからだ。一寸も疑うことなく。 ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾を二千枚の金貨で身請けした。 ・あなたは︽サラサ︾の﹁奴隷の首輪﹂の装備を解除した。 ・あなたは﹁奴隷の首輪﹂を手に入れた。 インベントリーに入れていた資産のほとんどを、サラサさんを﹃ 買う﹄ことに使う。それを俺は、全くためらうことはなかった。シ ステムとしては﹃買う﹄という行為でも、俺にとっては﹃解放﹄だ。 使った金貨がどこに消えたのかは分からないが、女神の懐にでも入 っているのだろう︱︱なんて、皮肉なことを考えもした。もしくは、 サラサさんを奴隷にした黒魔術師の元に支払われているということ もあるだろう。だが今は、そんなことはどうでもいい。 710 首輪を外したサラサさんの白い首筋には、赤く締め付けられた痕 が残っている。それが薄くなり、いつか消えたときに、彼女は今よ りも晴れやかに笑うことが出来るのだろうか⋮⋮ありのままのサラ サさんに戻って。 ﹁⋮⋮あの子のことをお願いします。私は、この家で待っています から﹂ ﹁うん、必ず連れて帰るよ。リオナを、この家に送り届ける﹂ ◇◆◇ もう一度洞窟に向かう。やはりモンスターは襲ってくることはな く、俺の護衛獣となったソードリザード二体は、途中で出迎えるよ うにして待っていた。俺の姿を見つけると、頭を下げさえもする⋮ ⋮思ったよりも知能が高いのだろう。 竜の巣に入ると、竜の姿をしたユィシアの前に、リオナは前と変 わらぬ姿で横たわっていた。 彼女は俺が近づいてきたことに気づいて、薄く目を開ける。そし て、身体を起こして、背中にある翼を見やり⋮⋮それでも、気丈に 微笑んだ。 今にも、泣き出しそうな笑顔で。 ﹁ヒロちゃん⋮⋮私、羽根が生えてきちゃった。これじゃ、みんな のところに戻れないね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんなことない。これからも一緒に暮らせるよ。お母さんと、 お父さんと⋮⋮﹂ ﹁ううん⋮⋮だめだよ。だって、私は、お母さんとお父さんの、本 711 当の子どもじゃないから⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ 今まで、そんな素振りを見せたことは一度もなかった。 ︱︱それこそが、驕りだった。いくら幼くても、自分の身体のこ とに気付かないわけがない。サラサさんがどれだけ隠しても、耳を 見てしまう機会もあっただろう。 ﹁お父さんは、お母さんを助けてくれただけなの⋮⋮そのお母さん が、私を助けてくれた。教会の前に捨てられてた私を拾ってくれた の。それで⋮⋮いままで、ずっと⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮リオナ⋮⋮全部、知ってたのか⋮⋮?﹂ 自分の親が、本当の親ではないこと。それを知ってなお無邪気に 振る舞い続けたリオナは、どんな思いでいたのか。 ヒロちゃん、ヒロちゃんと俺のあとをついて回って、いつも無邪 気で、時々我がままで⋮⋮眩しくなるほどに、明るかった。 前世の陽菜と同じ。太陽みたいに明るく育つようにと、つけられ た名前だと聞いたことがあった。 ︱︱でも、違ったんだ。リオナは⋮⋮明るくあろうとしていただ けなんだ。 涙に潤んだ瞳を隠すように、リオナが俺に背を向ける。その小さ な背中が震えている。 ﹁本当の子供じゃないのに、ずっといたらだめだよね⋮⋮こんな、 羽根が生えちゃったら⋮⋮お母さんのところになんて、もどれない ⋮⋮﹂ ﹁そんなことない⋮⋮リオナが戻らなかったら、お母さんがさみし がるよ。だから、おれと一緒に帰ろう。その羽根は、おれがなんと かしてやる⋮⋮!﹂ 712 リオナを振り向かせると、その瞳から涙がとめどなく溢れていた。 笑おうとすることなど、もう出来はしなかった。笑えるわけが、 なかったのだ。 ﹁だめだよ⋮⋮おかあさんが困るから、もどれないよ。わたしは⋮ ⋮わたしはっ、まものだから⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮魔物じゃない。人間の心があって、人間の姿をしてるじゃな いか。それを人間って言わずに、なんて言うんだ﹂ リオナを抱きしめ、背中を撫で、出来るだけ優しく語りかける。 ここで説得できなければ、リオナはもう戻ってこない⋮⋮それは絶 対にだめだ。 ﹁ヒロちゃん⋮⋮だめ⋮⋮私と一緒にいたら、ヒロちゃんにも、迷 惑が⋮⋮﹂ ﹁迷惑﹂なんて言葉、普段のリオナなら絶対に使わない。 俺はずっと馬鹿げていると思って、言わずにいたことを、ついに 口にした。 ﹁⋮⋮リオナ。俺たちは⋮⋮この世界に生まれる前に、知り合いだ った。そう言ったら、笑うか⋮⋮?﹂ 俺たちを見守っているユィシアが、小さく喉を鳴らす。無理もな い、俺が言っていることは、ただの⋮⋮。 ただの、絵空事だ。 絵空事でなければならなかったのに。 713 ︱︱リオナは。 ﹁⋮⋮笑わないよ﹂ 声を震わせながら、それでもはっきりと答えた。 ﹁他の人がみんな笑っても、私は笑わないよ。だって⋮⋮私は⋮⋮﹂ ︱︱ヒロちゃんの知ってる、陽菜だから。 そうリオナは言った。俺は既に確信していながら、それでもその 事実を受け入れられなかった。 ﹁⋮⋮陽菜⋮⋮なのか⋮⋮?﹂ 信じない、信じられるわけがない。けれど﹃陽菜﹄という名前を、 リオナが知っているとしたら⋮⋮俺が言わなければ、その名前が出 てくるわけがないのに。俺は一度だって、前世のことは言ったこと がない。 ﹁助けたはずなのに⋮⋮なんでここにいるんだ⋮⋮なんでっ⋮⋮!﹂ やはり助けられなかったのか。俺も、陽菜も事故のときに命を落 としていたのか⋮⋮。 憤りとやるせなさを、俺はリオナにぶつけてしまう。助けたかっ た相手に怒るなんて、そんなことをしても仕方がないのに。 714 最後に陽菜を助けて終わったのなら、それでいいと思っていた。 どこかで、そう自分を納得させていた。 もし、助けられなかったのなら⋮⋮俺は本当に、前世の最後で何 も出来ずに終わったということだ。 意味のある死が全てではない。自分の死に意味を求めることが驕 りだと分かっていても、足元が崩れ去り、俺を支えていたものが失 われようとする。 ︱︱ごめん。 守れなくて、ごめん。 謝りたいのに、言葉が出てこない。謝らなければならないのに。 浮かんでくる言葉は、別の言葉だった。 ﹁⋮⋮ずっと⋮⋮学校来いって言ってくれてたのに。俺は、それを 無視した⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮私が無理を言ったのがいけなかったんだよ。悪いのは、私な んだよ﹂ まだそんなことを言うのか。何も悪いことをしていないのに。 少なくともこの世界で、魔王として生まれ変わるようなことは、 何も⋮⋮。 ﹁ヒロちゃんは何も悪いことしてないのに⋮⋮先生は、ヒロちゃん と喧嘩した子の味方だったから。学校に行きたくなくなっても、仕 方ないよ﹂ そんなこともあった。始まりは些細なことだった。 学校が嫌いになり、居場所を失った。でも俺は、学校になんて行 715 かなくていいと思っていた。 そうして引きこもる俺を見て、陽菜がどれほど苦しんだのかも分 かろうとせずに、現実から目を背けた。 そんな俺は、選ばれなくて当然だ。 当然なのに、俺は嫉妬していた。俺とは違う明るい場所を歩き、 陽菜を手に入れたあいつに。 ﹁⋮⋮なんでここにいるんだ⋮⋮あの時一緒に、死んじまったのか ⋮⋮?﹂ 俺は自分がまだ子供であることも忘れ、森岡弘人に戻っていた。 幼かったはずのリオナも、宮村陽菜に戻っていた。泣き顔まで、 生まれ変わる前の幼いころと全く同じだった。 ﹁ううん⋮⋮ヒロちゃんは⋮⋮ヒロちゃんだけが⋮⋮私を庇って⋮ ⋮﹂ 死んでしまった。やはり、俺だけが⋮⋮。 ﹁なら、どうして⋮⋮どうして、﹃リオナ﹄に生まれ変わったりす るんだ。生きてたのなら、そんなこと⋮⋮﹂ あるわけがない。俺が陽菜を助けられたのなら、転生する理由が ない。 けれど陽菜はリオナとして目の前にいる。それが曲げることの出 来ない事実なら⋮⋮。 陽菜は望んでこの世界に生まれ変わったということになる。彼女 にとって輝いていたはずの、あの世界を捨てて。 ︱︱その、輝いていたという認識さえ。 716 俺が一方的に抱いていた、誤解でしかなかったとしたら。 ﹁⋮⋮ヒロちゃんのお通夜が終わったあとに、ヒロちゃんのお母さ んにお願いして、部屋を見せてもらったの。ヒロちゃんがやってた ゲーム⋮⋮エターナル・マギアっていうんだよね﹂ ﹁俺の部屋に⋮⋮入った⋮⋮陽菜が⋮⋮?﹂ リオナはこくりと頷く。 そして彼女は、﹁そんなことは絶対にない﹂と思っていた俺の予 想を、まるでなぞらえるかのように話を続ける。 ﹁そのゲームを起動してみて、少し動かしてたら、意識が遠くなっ て⋮⋮女神様って言う人に会ったの。ヒロちゃんは死んじゃったけ ど、違う世界に生まれ変わったんだって教えてくれて⋮⋮それで⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮お前も、生まれ変わったっていうのか。生きてるのに⋮⋮助 かったのに、なんでなんだよ⋮⋮っ!﹂ 成績も良くて、みんなに憧れられて、クラスの中心で。俺が知っ ている陽菜は、いつもそんな存在だった。 幸せだったはずだ。俺の方なんて向く必要もなく、光を浴びて、 きらめくような時を過ごして、大人になっていくはずだった。 やがて俺のことなんて忘れてしまって、子供の頃の思い出に変わ る。 それを、俺も受け入れていた。諦めるということと同じ意味だと 知りながら。 ﹁⋮⋮ヒロちゃんに、謝りたかったから。ごめんね、意地っ張りで ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮意地っ張りって⋮⋮何の⋮⋮﹂ 717 リオナは小さな手で、自分の髪に触れた。 それは、陽菜がいつも、俺がプレゼントしたバレッタをつけてい た場所だった。 ﹁似合わないって言われても、ずっとつけてたかった。ヒロちゃん にもらった、プレゼントだから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮馬鹿やろう。なんでそんなに⋮⋮俺のことなんて、そんなに 思う必要なんて無かっただろ⋮⋮こんな、どうしようもないやつを ⋮⋮っ!﹂ 怒って、投げ出して、忘れてしまえばよかった。そうすれば陽菜 は、こんな苦しみを味わわずに済んだ。 女神は生まれ変わった陽菜を、魔王の転生体にした⋮⋮そうする ことで、陽菜に苦難が訪れることを分かっていたはずだ。 悪意なのか、それとも女神にとっては、ただの悪戯のようなもの に過ぎないのか。 これでは、陥れられたのと同じだ。陽菜が、あまりにも可哀想だ ⋮⋮。 ﹁どうしようもなくなんてないよ。子供の頃のヒロちゃんは、私を 守ってくれてた⋮⋮今だってそう。私のことを助けるために、こう やって戻ってきてくれた。ヒロちゃんはずっと変わってないよ。私 の中では、いつも、いつだって⋮⋮っ⋮⋮﹂ 言葉の最後は泣き声でかすれて、聞き取れなくなる。 どうしてそこまで信じられるんだ。俺はお前のことを、簡単に諦 めてしまったのに。 他のやつに取られても、それを祝福すれば、自分が惨めにならず に済む。そんなくだらないプライドを守ることしか、俺は考えられ 718 なかった。 ﹁⋮⋮ヒロちゃんの所にね⋮⋮生まれ変われるようにって、女神様 にお願いしたんだよ⋮⋮そうしたら⋮⋮ひっく⋮⋮私は少し不幸に なるかもしれないけど⋮⋮望み通りにしてあげるって⋮⋮言って⋮ ⋮﹂ ﹁そんな条件でいいって言ったのか⋮⋮どうしてなんだ⋮⋮っ、自 分が不幸になって、前の世界の全部捨てて、そこまでする意味なん てなかっただろっ⋮⋮!﹂ 一度溢れだした気持ちは、もう抑えることが出来なかった。陽菜 を責める資格なんて俺にはないのに。 陽菜がエターナル・マギアを起動しなければ、転生なんてするこ とはなかった⋮⋮そう思わずにはいられなかった。 ﹁⋮⋮俺が⋮⋮ゲームなんてしてなければ⋮⋮お前は⋮⋮っ﹂ ﹁ううん⋮⋮違うよ。ヒロちゃん、ゲームは現実よりもすてきなん だって言ってたよね。私も少しだけ、キャラクターを作って、ゲー ムを進めてみたの。すごく楽しかったよ﹂ ﹁⋮⋮なんで、そこまで⋮⋮あいつと、上手くやってたんじゃなか ったのか⋮⋮?﹂ もう一人の幼なじみ。陽菜は、付き合っていたはずなのに⋮⋮こ の世界に転生することを、迷わず選んだように見える。 ﹁何か、操作を間違えたんだよな⋮⋮生まれ変わるなんて、思って なかったんだ⋮⋮そうだろ⋮⋮?﹂ ﹁ちがうよ⋮⋮私は自分でちゃんと選んだよ。女神さまと話して、 生まれ変わるって決めたの﹂ 719 もうリオナは泣きやんでいる。うさぎのように赤くなってしまっ た目を恥じらいながら、それでも気丈に言葉を続ける。 ﹁ヒロちゃんのところに、行きたかったから﹂ ﹁⋮⋮なんで、そこまで⋮⋮﹂ ﹁ヒロちゃんに、本当のことを言いたかったから。私は、恭ちゃん と付き合ってなんていないよ。恭ちゃんには私よりもずっと素敵な 人がいるからって、断ったんだよ⋮⋮それなのに、言えなくて⋮⋮ っ﹂ それを伝えるために、転生したのか。 なんて馬鹿で、なんて愚かで⋮⋮そして。どうしようもないほど に。 ﹁⋮⋮お前は馬鹿だよ。あいつでも、そうじゃなくても、もっとい いやつを見つけられたのに⋮⋮こんな所に来ちまって⋮⋮﹂ ﹁こんなところじゃないよ。ヒロちゃんが好きだった、素敵な世界 だよ⋮⋮ほら。私、魔法とか好きだから﹂ 四歳のリオナじゃない、十六歳の陽菜の話し方。そのギャップが、 どれほど周囲を驚かせるか⋮⋮こうしてみると痛感させられる。 俺も気をつけてはいても、どうしても無理が出ることはあった。 陽菜はこれまで、ほとんど違和感を感じさせなかった⋮⋮それは俺 の様子を見て、演じていたってことなのか。それとも⋮⋮。 ﹁⋮⋮生まれた時からずっと、記憶があったのか?﹂ ﹁ううん⋮⋮ヒロちゃんが石になっちゃうって思ったら、トラック に轢かれそうになった時のことが、頭の中に広がって⋮⋮私は陽菜 だったんだっていうことを、思い出したの﹂ ﹁そうか⋮⋮そうだよな。でも⋮⋮﹂ 720 リオナが生まれて初めて、俺の名前を呼んだのは⋮⋮それだけは、 忘れずにいてくれたってことなんだろう。 ﹁⋮⋮俺はお前のこと、馬鹿なんて言えないな。俺の方がよっぽど の大馬鹿なんだから﹂ ﹁前の世界では、少し上手くいかなかっただけなんだよ。私はこの 世界のヒロちゃんが、すごく生き生きしてて⋮⋮素敵だと思う。今 のほうが、私の知ってる、一番元気なときのヒロちゃんだよ﹂ ﹁す、素敵って⋮⋮俺は、ボーナスもらっただけで⋮⋮﹂ ﹁それだけじゃないよ。ヒロちゃん、他の子がしないような色んな ことをして、練習してたでしょ。私はヒロちゃんと遊びたくてしょ うがなかったから、ずっと見てたよ。ヒロちゃんが粘り強くて、す ごいんだってこと﹂ 遊びたくてしょうがない。リオナがそう思ってくれることが照れ くさくて、俺は傍で見ていなければいけないと思いながら、時には 素直に会いに行かず、距離を置いたりもした。 それもこれも、リオナが、あまりに陽菜に似すぎていたから。昔 を思い出すことを、なるべく避けようとしていた。 ︱︱なのに。リオナが、陽菜本人だと分かってしまった今は⋮⋮ そうやって逃げることさえも、出来なくなる。 ﹁⋮⋮今は羽根を何とかしないと。そのままじゃ、本当に魔王にな る⋮⋮そうなったら、俺にも何が出来るのか分からない﹂ ﹁⋮⋮人のいないところで静かにしてれば、みんなに迷惑かけない かな⋮⋮?﹂ みんな ﹁そんなことさせられない。サラサさんだって、ハインツさんだっ て心配する⋮⋮友達だって﹂ 721 俺はリオナの後ろに回り、首にかけているペンダントを外す。正 面から外すなんて度胸は、いくら子供同士といっても俺にはない。 ﹁あ⋮⋮ひ、ヒロちゃん、だめっ、それ、取っちゃったら⋮⋮﹂ ﹁じっとしてな。別に、返してくれって言ってるわけじゃない⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽リオナ︾の﹁魔封じのペンダント﹂の装備を解除した。 ペンダントを外したあと、俺はサラサさんから貰った首輪を取り 出す。 もしこれを首にかけても、リオナのジョブが変わらなかったら⋮ ⋮魔王化を抑えられなかったら。そうなる可能性の方が高いうえに、 奴隷の首輪をつけろなんて、強制は出来ない。 それでも、正面から頼むしかない。俺が何の考えもなしに、こん なことをしているわけじゃないと、分かってもらうしか⋮⋮。 ﹁⋮⋮この首輪をつけてほしいんだ。そうすると、これ以上は変身 しなくなる⋮⋮と思う﹂ ﹁えっ⋮⋮えぇっ⋮⋮く、くびわ? あの、ワンちゃんがつけるみ たいな?﹂ ﹁犬がつけるのとは違う、人間がつける首輪っていうのが、この世 界にはあるんだ。たぶん人を選ばない共通の装備だから、成長して もサイズは勝手に大きくなる⋮⋮首が締まるってことは、ないと思 う﹂ 722 何を冷静に説明しているんだ、と思う。首輪に対する情熱を語っ ているようで、何か変な趣味を持っている人のようだ⋮⋮。 ﹁試しにつけてみて、それで駄目だったら外していい。その時は、 他の方法を見つける⋮⋮旅に出ないといけないかもしれないけどな﹂ ﹁⋮⋮わかった。ヒロちゃんがそう言うなら、いいよ﹂ ﹁⋮⋮ほんとにいいのか? 俺みたいなやつに、首輪なんてかけら れて﹂ リオナは俺の問いかけに、頬を赤らめる。そして、俺から首輪を 受け取ると、それを自分の首元に宛てがうようにして言った。この 年齢にして、見るもの全てを魅了するような愛らしい仕草で。 ﹁ヒロちゃんがつけてくれるなら、いいよ。ヒロちゃんの奴隷にな ら、なってもいい﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、冗談だってわかってるけど、それはちょっと言 い過ぎっていうか⋮⋮﹂ ﹁だ、だって⋮⋮さっきから、﹃︽ヒロト︾の奴隷になりますか?﹄ っていう選択が出てるもん﹂ 首輪を差し出しただけでそんなことに⋮⋮リオナにもダイアログ が見えるのか。どうやら、転生した人間に与えられる特典のような ものらしい。 ﹁⋮⋮ど、奴隷っていうか、ちょっと、ジョブってやつを変えるだ けなんだ。リオナは﹃夢魔﹄って種族で、職業が限定されてるみた いで⋮⋮もし魔物の一種だったら、その⋮⋮条件を満たせば、隷属 化できて⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ヒロちゃん、ありがとう﹂ 723 ﹁えっ⋮⋮な、なんで⋮⋮﹂ なぜありがとう、なんてことになるのか。俺が提案しているのは、 常識的に考えて、受け入れがたいことのはず⋮⋮けれどリオナは嬉 しそうにしている。 ﹁ヒロちゃん、私の気持ちをいっぱい考えてくれてる。だから、首 輪をつけていいか迷ってるんだよね?﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮普通はいい気持ちはしないだろ⋮⋮?﹂ サラサさんは自分で外せなかったから、仕方なくつけていたよう なものだ。俺が彼女を隷属化して、主人を上書きすることが出来な ければ、今も首輪を外せなかっただろう。 ﹁⋮⋮ヒロちゃんならいいよ。他の人は絶対だめ⋮⋮でも、ヒロち ゃんなら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮分かった。ありがとう、俺の話を聞いてくれて﹂ ﹁私も⋮⋮でも、もし、私が元に戻らなかったら⋮⋮私が、これ以 上変わっちゃうようなら⋮⋮﹂ ﹁その時は、リオナを連れて旅に出るよ。だからどのみち、一緒に 居ることに変わりはないんだけどな﹂ ﹁ヒロちゃん⋮⋮﹂ この町にいるかけがえのない人々、今まで出会った人々⋮⋮彼ら と離れるとしても、それは永遠じゃない。 陽菜がこの世界に生まれ変わったのなら、俺は女神が呪いのよう に与えた宿命から彼女を解放するまで一緒にいたい。 俺の誤解を解きたいという一心で生まれ変わった。そんな陽菜を、 絶対に不幸なままで終わらせるわけにはいかない⋮⋮。 724 ユィシアが見守る中で、俺は首輪をリオナにかける。そしてリオ ナは、俺からの﹁隷属化﹂を受け入れた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽リオナ︾を隷属化した。 ・︽リオナ︾のジョブを﹁奴隷﹂に変更することができます。変更 しますか? YES/NO ︵⋮⋮できた⋮⋮︶ システムの裏を突くことが出来たのか、それとも、これも女神の 想定の範囲内なのか。 分からないが、俺は幾らかの逡巡を経て、リオナのジョブを変更 する。拒否されるかもしれないと覚悟しながら。 ﹁っ⋮⋮ぁ⋮⋮ひ、ヒロちゃん⋮⋮身体が⋮⋮っ、あぁぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽リオナ︾のジョブが﹁奴隷﹂に変更された。 ・︽リオナ︾の覚醒の進行が止まった。 ・︽リオナ︾の変身が解除された。 リオナの背中に生えていた翼が、まるでほどけるように黒い文字 列に変わって、霧散するようにして消える。 725 悪魔のような翼は消え、完全に元のリオナに戻る。気を失って倒 れそうになるリオナを抱きとめると、彼女の身体は温かく、呼吸は 落ち着いていた。 ︱︱そして、安堵しかけた瞬間だった。 ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の﹁凶星﹂が発動! 大きな不幸が︽リオナ︾に訪れ ようとしている⋮⋮。 ・︽リオナ︾の記憶の一部が封印された! ﹁っ⋮⋮リオナ⋮⋮ッ!﹂ リオナに呼びかけても、意識は戻らない。そしてログは、無常に も時間経過で消えてしまう。 ﹁⋮⋮どこまで人をおもちゃにすれば気が済むんだっ⋮⋮!﹂ 魔王化の進行は止まった⋮⋮それなのに。俺をあざ笑うように、 リオナの記憶が封じられてしまう。 リオナが目を覚ましたとき、何を忘れているのか。もう、推測す るまでもなかった。 ﹁⋮⋮俺に力を与えて⋮⋮陽菜を、魔王にして。何がしたいんだ⋮ ⋮何をやらせたいんだ、おまえはっ⋮⋮!﹂ 726 答えを知るには、女神を見つけ出すしかない。 初めは、ただ世界の謎を知るために会いに行くつもりだった。し かし今はもう、女神と会って、争わないでいられる未来が見えない。 ユィシアは静かに俺を見下ろしていた。そして何も言わないまま に、俺とリオナをその背中に乗せ、飛翔する︱︱竜の巣の直上にあ る別の経路から、外に出ようというのだ。 ︵ヒロト様⋮⋮何があろうと、私はあなた様についていく。女神に 辿り着くために翼が必要なら、私があなた様の翼になる︶ ﹁⋮⋮ありがとう、ユィシア﹂ 洞窟の闇を抜け、遥か青空まで飛び上がった銀竜の背から、俺は ミゼールの町を見下ろす。 俺たちが帰るべき町。これからも守り続けたい町⋮⋮俺とリオナ が生まれたこの場所。 いつか広い世界に出るために、この町を離れるときが来るかもし れない。 ︱︱けれど、必ず帰ってくる。父さんと母さんと、みんなが待っ ていてくれるこの町に。 ◇◆◇ 727 エリクシールの効果は母さんの身体に生気を取り戻させ、母子共 に健康を保ったまま、生まれる予定の日が一日、また一日と近づい てくる。 俺は母さんに、出来るだけついているようにした。皆も顔を出し てくれて、母さんの話し相手をしたり、果物を持ってきて食べさせ てくれたりする。 しばらく俺と母さんが二人になることはなかったが、ある日の午 後、父さんが仕事に出ている間に、その機会が訪れた。 ﹁ヒロト⋮⋮母さんね、長い夢を見てた気がするの。ヒロトが遠く に行ってしまう夢⋮⋮母さんは必死で止めるのに、ヒロトは酷いの よ。一回も振り返らずに行っちゃって﹂ ﹁おれはどこにも行かないよ、母さん﹂ 俺がエリクシールを取ってきたこと、母さんの命が一度は尽きか けたこと。それを、俺も父さんも、母さんには伝えていない。 ずっと、知らなくてもいい。あれは、悪い夢だ⋮⋮母さんが死ん でしまいそうになるなんて。今思い出すだけでも、胸が締め付けら れるような思いだ。 ﹁⋮⋮この子ね、女の子だと思うわ。最近、お兄ちゃんがそばにい ると、母さんのお腹の中で喜んでるように思えるの﹂ ﹁そうなんだ⋮⋮どっちかな。父さんは、もう名前を教えてくれた の?﹂ ﹁ええ。男の子だったらジュードで、女の子だったらソニアってい う名前にしようと思うの。ヒロトが赤ちゃんのころ、読んであげた 728 絵本に出てくる勇者さまたちの名前よ﹂ ジュード⋮⋮ソニア。どちらにしても、とてもいい名前だ。勇者 から名前をもらうっていうのはこの世界では時々あることで、同じ 名前の人がいないとも限らないが。 母さんの言うとおりなら、ソニア⋮⋮それが俺の妹の名前か。 ﹁生まれたら、おれ、抱っこしてあげてもいいかな﹂ ﹁ふふっ⋮⋮もちろんいいわよ。お父さんの次に、お兄ちゃんが抱 っこしてあげてね﹂ 幸せそうに母さんがお腹を撫でる。それを見ながら俺も、やがて 生まれてくるときのことを思い、心待ちにする。 ﹁⋮⋮ヒロト﹂ ﹁うん。何? お母さん﹂ ベッドの上で身体を起こした母さんが、俺の名前を呼ぶ。次の瞬 間、俺は抱き寄せられていた。 ﹁ありがとう⋮⋮ヒロト。この子を⋮⋮お母さんを、助けてくれて ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮お母さん⋮⋮おれは、何も⋮⋮﹂ 何もしてない。そんな俺の嘘が、母さんに通じるわけもなかった。 とても強い力で、けれどどこまでも優しい。ずっと俺の傍にいて、 守り続けてくれた母さん⋮⋮彼女が生きて、もう一度俺を抱きしめ てくれている。 729 ずっと保ち続けていた気持ちの堰が、音もなく切れる。溢れ出し た感情は、もう止まらなかった。 ﹁⋮⋮うぁぁぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 母さんに縋り付いて、俺は泣いた。泣くことしか出来ない赤ん坊 の頃のように、声の限りに。 大切なものを守ることができた。かけがえのないものを、失わず にいられた。 ︱︱生まれ変わることが出来て、良かった。母さんの胸に身を預 けて、俺はただそれだけを想っていた。 ◇◆◇ ネリスおばば様にエリクシールを作ってもらったことで、俺は上 級精霊魔術を習う資格を得た。しかし修行には相応の時間がかかる ので、週に二、三度くらい通って、少しずつ習得を進めている。 洞窟のモンスターをフィリアネスさんたちと協力して狩ったこと で、ウェンディさんと名無しさんの冒険者ランクが上がり、彼女た ちはミゼールでも屈指の冒険者として名を馳せるようになった。彼 女たち自身は、堅実なクエストを重ねて身を立てているが、俺も加 わった時は﹃本気を出す﹄として、1ランクから2ランク上の依頼 を受けている。その時は懐が潤うので、名無しさんは好きな酒をた しなみ、ウェンディは田舎の両親に配達屋を介して送金していた。 730 フィリアネスさんたちはあれからもう一度ミゼールに来て、俺と 修練に付き合ってくれた。彼女は洞窟での戦いで一層腕を上げてお り、俺がもう少し年を重ねたら、演舞ではなく手合わせをしたいと 言ってくれた。 首都には一度行ってみたいという気持ちがある。フィリアネスさ んは騎士学校の幼年部で子どもたちの手本となって欲しいとも言っ てくれたが、俺はリオナの傍を離れるわけにはいかないので、首都 の学校に行くわけではなく、機会があったら訪問したいとだけお願 いしておいた。 ハインツさんはまだ、サラサさんの奴隷状態が解除されたことに 気づいていない。元からあまり家に戻らなかった彼は、最近は数日 も平気で家を空けるようになっていた。事情はまだ分からないが、 サラサさんはリオナには不安な顔を見せないように努めて振舞って いるようだった⋮⋮そして。 リオナについては、恐れていた通りになってしまった。陽菜だっ た頃の記憶は封印され、元の幼い振る舞いに戻った。サラサさんが 安心していたのは救いだが⋮⋮俺には、陽菜が消えてしまったよう で、心から喜ぶことは出来ない。 魔王化の進行が止まっても、リオナの不幸スキルは既に100を 越えてしまっていた。恐るべきことに、限界突破を自然に身につけ ていたのだ。ユィシアが、魔王と勇者だけが自分に対抗しうると言 っていた通り⋮⋮おそらくこの三者は、限界突破スキルを生来の素 養で身につけることが出来るのだろう。 俺は幸運スキルを100にしたが、それでもリオナの不幸を抑え こみきれてはいない。幸いにも凶星はもう一度発動することはなか 731 ったが、早めに手を打たなければならない。 そのために、というだけでもないのだが、俺は一人で森に向かっ ていた。向かう先は、初めてユィシアと会った湖だ⋮⋮そこに、彼 女に来てもらっている。 湖に近づくと、小さな水音が聞こえてくる。森が開けて、湖の浅 瀬に立つ少女の姿が見える。 ﹁ヒロト様⋮⋮﹂ 相変わらず、半透明の薄衣の下には、胸などを申し訳程度に覆う 飾りしかつけていない。とても町中は歩かせられない、扇情的な格 好だった。本人に自覚はなく、全く恥じらってはいない︱︱そのは ずだったのだが。 護衛獣になったユィシアは、俺に見られることを恥ずかしく感じ ているようだった。けれど、微笑んでいる⋮⋮俺になら見せてもい いと言うように。 ﹁竜の巣は大丈夫か? 留守にしても﹂ ﹁眷属が守っているから、問題はない。最近は、いつも森に出てい る⋮⋮ヒロト様の知り合いが魔物に襲われてしまってはいけない。 影から守るのが、私の役目﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮ユィシア。そんなこと言うなんて、ちょっと 前だったら想像できないな﹂ 礼を言うと、ユィシアは俺をじっと見つめてくる。その顔は赤い ままだが、もう彼女は微笑んでいない。 732 ﹁⋮⋮私は母から宝を守る役目を引き継いだ。しかし、私はヒロト 様の傍にいなくてはならない﹂ ﹁あ⋮⋮そうじゃなくてもいいよ、時々、おれが呼んだら来てもら うだけで⋮⋮わっ⋮⋮!﹂ ユィシアは俺に近づいてくると、ずい、と覗きこんでくる。俺の 身長が低いので、前かがみになる⋮⋮すると、ドラゴンの化身とは 思えない柔らかそうな膨らみが、重力に引っ張られて、その大きさ を遺憾なく主張する。 ︵な、なんてスタイルしてるんだ⋮⋮でも、ユィシアはドラゴンだ し⋮⋮︶ ﹁私も⋮⋮宝を守る子を、つくりたい﹂ ﹁そ、そっか、子供を⋮⋮って、えぇぇっ!?﹂ ユィシアはまだ15歳のはずだ。それで、子供を作りたいなんて ⋮⋮い、いや、ドラゴンが子供を産む適齢期が、かなり若いという ことも考えられるけど、それでも⋮⋮。 ﹁⋮⋮ヒロト様の子どもを産みたい。子竜を育てて、宝を守る役目 を託す﹂ ﹁ちょっ⋮⋮ちょ、ちょっと待って、ユィシア⋮⋮おれ、まだ、そ のっ⋮⋮そ、そういうの、早いっていうか⋮⋮!﹂ そもそも子どもを作るって、人間と竜でも可能なんだろうか。そ れ以前に、今の俺では幼すぎて、作ろうにも作れないと思うのだが ⋮⋮。 ﹁エンプレスドラゴンが人化するのは、人間と交わるため⋮⋮中に 733 ハーフドラゴン は、勇者との間に子を成したものもいる。私の母もそう⋮⋮私たち はほとんどの個体が、半竜。血が混じっても、力が失われることは ない﹂ ﹁わ、わかった⋮⋮って、俺の心、読んでないか⋮⋮?﹂ ﹁私は竜の姿では、人の心に直接語りかけられる。それは、人の心 を聞くことも出来るということ﹂ 念話が出来る、ということか⋮⋮皇竜の出来ることを全部聞いた わけじゃないが、超能力じみた力も持っているとは。さすがは、竜 を統べる種族と言うべきか⋮⋮。 ︵⋮⋮ということは⋮⋮俺が、ユィシアの限界突破を欲しがってる のも⋮⋮って、考えたら伝わるっ⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮限界突破⋮⋮?﹂ スキルの名前を言っても、やはり分からないらしい。それは他の 人々も同じで、恵体や魔術素養なんて言葉は、決して日常会話には 出てこない。職業系のスキルについては、﹁﹃騎士道﹄を重んじる﹂ ﹁﹃薬師﹄の修行をする﹂などという形でスキル名が会話に出てく ることはあるが。 ﹁限界突破っていうのは⋮⋮その、文字通り限界を超えるっていう か。皇竜が、他の竜より強くなるための力っていうか⋮⋮そういう ことになるのかな﹂ ﹁⋮⋮私が持っているものは全て、ヒロト様のもの。私は全てを捧 げると言った⋮⋮その言葉に訂正はない﹂ ユィシアは前かがみになったまま、俺を見つめている。思わず下 の水面に視線を映すと、胸を隠していた飾りがずれてしまって、双 734 子の丘がしっかり映り込んでいた。 ︵⋮⋮触れさせてもらうことができたら⋮⋮そう思ってきた。つい に、その時が来たんだ︶ ﹁触る⋮⋮ヒロト様が触りたいというのなら、どこを触ってもらっ てもかまわない⋮⋮少し動悸がするけれど、それも問題はない。生 命活動に支障はない﹂ ﹁⋮⋮うん。ありがとう、ユィシア⋮⋮俺、ずっとそうしたかった んだ﹂ ユィシアの表情は変わらない。けれど、俺という人間の心を、彼 女は理解しようと努めてくれているようだった。 ﹁⋮⋮私は、ヒロト様のしもべ。他に妻ができたとしても、私もそ のうちの一つとして扱って、仔を作ってくれるとうれしい﹂ ﹁っ⋮⋮う、うん⋮⋮俺が大きくなって、その時も俺がいいって思 うようなら、そうしよう。責任は、取らなきゃいけない﹂ ︱︱ユィシアはかすかに微笑む。もともと、表情がないというわ けではないのだとよく分かる、あまりにも可憐な表情だった。 彼女は何も言わずに身体を起こす。そして薄衣の前を開き、胸を 隠していた飾りを、惜しみなく上に引き上げた。 ︱︱ずっと、してこなかったのに。モニカさんたちからもしても らうのはやめて、まじめにスキルを上げて⋮⋮それこそ、真人間に なろうとしていたのに。 豊かに実ったふたつの果実に、﹃限界﹄﹃突破﹄の文字が書かれ ているように見える。どこまでゲーム脳なのか。 735 ﹁⋮⋮ヒロト様の子どもなら、きっと私より強い宝の門番になる。 それまで、絆を深めたい⋮⋮できるだけ強い仔ができるように﹂ ユィシアにとって、仔をつくることがどれだけ大事なのかは分か った。そして同じくらいに、彼女が与えてくれる限界突破が、今の 俺にとって必要だ。 限界突破を手に入れて幸運スキルを上げ、リオナの﹃凶星﹄を抑 えこむために。 透き通った水に満たされた水辺。小鳥の歌が響き、さんざめく太 陽の光が降り注ぐ中で、ユィシアはそっと俺の前に屈みこみ、半身 を水で濡らしながら、母性の象徴であるふくらみのひとつに手を添 えて差し出した。 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? Y ES/NO 彼女の姿をこの湖で初めて見た時、ステータスを見た時から、こ の瞬間を渇望していた。 俺は壊れそうに高鳴る心臓をうるさく感じながら手を伸ばし、下 向きになって垂直に突き出した二つの丘を支える。すると、触った だけで乳の雫が溢れでて、ぽたぽたと水面に落ちそうになる︱︱俺 はそれを、反射的に口で受けていた。 牛乳とも違う⋮⋮これが、竜乳⋮⋮。 736 ﹁ヒロト様⋮⋮いかがですか⋮⋮私の⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮すごく美味しい⋮⋮こんなミルク、飲んだことないよ﹂ ﹁本当は、竜が仔を育てるためのもの⋮⋮人間には、栄養が多すぎ るかもしれない﹂ ユィシアは、敵対していた時の怜悧な表情からは、想像もつかな いほど優しい瞳に変わっている。目を合わせると、ユィシアは恥じ らうように目をそらし、それでも逃げることはしない。 ぽたぽたと垂れてくる雫を口で受け止めているうちに、ログが流 れる。待ち望んだスキルが、ついに⋮⋮! ◆ログ◆ ・﹁限界突破﹂スキルが上がりそうな気がした。 ﹁⋮⋮ヒロト様⋮⋮?﹂ そう、貴重なスキルが一回で手に入るとは限らない。ユィシアは 何が起きたのかわからないらしく、俺の顔を見て小首をかしげてい る。 ﹁⋮⋮ユィシア、ご、ごめん。もう一回⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮かしこまりました。ご主人様の仰せであれば、何度でも⋮⋮﹂ 俺がもう一度胸に触れると、ふたたび雫が滴り始める。俺はそれ を受け止め、こくっ、こくっと飲みつづける。 737 これから何度、こうしてユィシアを呼んで、採らせてもらうこと になるだろう⋮⋮と思ったが。 それから五回目まで、俺はまったくスキルを取得できず、才能が 無いのかと諦めそうになるという一幕もあった。やっとスキルを得 た時には、既にユィシアの好感度は次の段階に到達していた。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁限界突破﹂スキルを獲得した! 今までの限界を、限 界と感じなくなった。 ・︽ユィシア︾の好感度が上がった! ︽ユィシア︾はあなたを気 に入っている。 ﹁⋮⋮今でも子どもを作れるような気がする。ご主人様に触っても らったら、母親になれそうな気がしてきた﹂ ﹁だ、だからご主人様はだめだって⋮⋮ヒロトって、呼び捨てでも いいくらいだから﹂ ﹁やはり、一番ご主人様と呼ぶのが良い。屈服し、従属している気 分になる⋮⋮とても、心地良い﹂ ⋮⋮もしかしてユィシアは、ちょっとMっ気があるんじゃないだ ろうか。そんなことを心配してしまった。 ◆ログ◆ 738 ・あなたは﹁皇竜の使役者﹂の称号を得た! ︵称号⋮⋮このタイミングで。でも、これは嬉しいな︶ ゲームでも称号があり、それがあると入れる場所が増えたり、特 殊なクエストを受けられたりした。だから、称号を取っておくのは メリットが大きいと言える。 ﹁⋮⋮ご主人様⋮⋮もう少し、一緒に過ごしたい﹂ ﹁う、うん⋮⋮あ⋮⋮これはいいな。気持ちいいよ、ユィシア﹂ ﹁竜でも、水に浸かりたいことはある。だから私は、この湖が好き﹂ 満足そうにしながら、ユィシアは俺を抱えたままで、仰向けに湖 に浮かぶ。地下からの温水が流れ込んでいる湖は、まだ春にならな いこの季節でも適温に温められていた。 服が濡れることにも今はかまわず、ユィシアと日向ぼっこをする。 彼女が居れば、本当に、どこにでも行けるだろう⋮⋮その翼で。そ うすれば、きっとリオナを宿命から解放する手段も見つけられる。 魔剣のことだって⋮⋮そして、女神を探すことも。 まだ、俺の冒険は始まったばかりだ。限界突破を取ったあと、こ れからどうしていくのか。俺は、空の上から見た広い世界に思いを 馳せていた。 739 第二十話 生誕/秘薬/極秘依頼 妹が生まれたとき、最初に産湯に浸からせたのは父さんではなく、 俺と助産師さんだった。父さんはあいにく仕事に出ていて、母さん に陣痛が起こったときは森にいたのだ。 ﹁レミリアッ⋮⋮!﹂ お産をする部屋のドアを開け、父さんが入ってくる。母さんは出 産で体力を使い果たしていた︱︱ということもなかったりする。エ リクシールの効能なのか、母さんはお腹が大きくなっているのに、 それを感じさせないほど活動的になっていた。寝たきりで衰弱しき っていた姿は、本当に悪い夢だったかのようだ。 ﹁リカルド⋮⋮元気に産まれてきてくれたから、心配しないで。あ なたが最初に名前で呼んであげなきゃ﹂ ﹁⋮⋮ああ。よく頑張ったな、レミリア⋮⋮ヒロトも、母さんにつ いててくれてありがとう﹂ ﹁おれじゃなくて、おばさんのおかげだよ。母さんをずっと励まし てくれてたんだ﹂ ﹁いえいえ、私は本当にもう、ふたりとも無事というだけでうれし くてねえ⋮⋮良かったねえ、レミリアさん﹂ 助産師の小母さんは手巾で涙をしきりに拭っている。彼女は治癒 術を修めていて、母さんの出血を止めてくれた。サラサさんも継続 して母さんの治療に訪れてくれるし、産後の経過はきっと良いはず だ。 740 ﹁⋮⋮わかるか? お父さんだぞ。リカルド・ジークリッド⋮⋮そ して、きみはソニア・ジークリッドだ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ソニアと呼ばれた妹は、薄く開いた目を父さんに向ける。さっき まではいっぱい泣いていたけど、今は逆に泣き疲れてしまったよう だ。 しかし、﹁きみ﹂か⋮⋮父さんの紳士的なところが、こういう時 に垣間見えるな。産まれたばかりの娘にも、父さんは敬意を払って いる。生まれてきてくれたことへの深い感謝が、見ているこちらに も伝わってくる。 ﹁お兄ちゃんはすごく頼りになるぞ。ヒロト、抱っこしてあげなさ い。気をつけてな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あったかい。赤ちゃんって、こんなふうなんだ﹂ そう言いつつも俺は、前世で赤ん坊を抱っこしたことがあったか ら、慣れた手つきで妹を抱っこしてやることができた。しっかり安 定しているので、父さんは苦笑する。 ﹁ヒロトは本当に、何をやらせても俺よりうまくやるな。父さん、 ちょっと妬けるぞ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ソニアも、ヒロトになついてるみたい。うれしそうに してるわ﹂ ﹁おいおい、ヒロトの方がなつくのも早いのか⋮⋮これは俺も、家 にいる時間を増やさないとな﹂ 妹はもう髪が生えていて、つぶらな目を俺に向けている。確かに 父さんの時より、心なしか顔が喜んでいるみたいに見えた。それに しても、すごく大人しくていい子だ。 741 ﹁ねえあなた、ソニア様って、言い伝えに出てくる勇者様の名前よ ね。どうしてこの子につけようと思ったの?﹂ ﹁それはまあ、ヒロトは子供ながらに器が大きいからな。その妹の ソニアも、きっと立派になるだろうと、願いをかけて⋮⋮﹂ ﹁お、おれは別に、器が大きいとかじゃ⋮⋮﹂ ﹁ヒロトちゃんは立派ですよ。お父さんとお母さんのいうことをよ く聞いて、とっても気が利くし。町の女の人はみーんな、ヒロトち ゃんの大ファンですよ﹂ 助産師さんはそう言うけど、大ファンって、いけない意味も含ま れているのでは⋮⋮スキルのために、町の人から採乳させてもらい すぎたかな。魅了が切れて、そのまま接する機会がないと、好感度 は元に戻っていくんだけど。交渉術スキルが高いと少し会話しただ けで好感度が上がってしまうので、なかなか下がりきらないままだ。 しかし赤ん坊の時のように採乳を続けてるわけじゃなく、今とな っては限られた相手だけだ。森に通ってユィシアにお願いするのと、 あとはモニカさん、ウェンディ、名無しさんにせがまれたときにし ているくらいか。みんな、クエストが終わったあとのご褒美みたい なものだと思っているから、何もしないでいると機嫌を損ねてしま う。 今でもアウトなのに、もう少し俺が大きくなったら⋮⋮というか、 大きくなったら楽しみだと実際に言われてもいる。その場合、赤ち ゃんはコウノトリが運んでくるんだよね? ととぼけるしかない。 何かぶりっ子キャラを売りにしているアイドルじみた言い草だが。 そう考えて、異世界のアイドルといえば、プリンセスだなとふと 思った。このジュネガン公国は公王が治めていて、その公王には三 742 人の娘がいる。そのうち一人が、ゲーム時代のメインクエストの鍵 を握る重要キャラクターだった。 ﹁おーいヒロト、抱っこが上手なのはわかったが、母さんにもソニ アを見せてあげなさい﹂ ﹁あっ⋮⋮ご、ごめん﹂ ﹁いいのよ、ゆっくりで。ヒロトがソニアを可愛がってくれて、お 母さんも嬉しいわ﹂ 朗らかに笑う母さんのもとに、ソニアを抱えたまま歩いていくと、 母さんはそっとソニアを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。 ﹁ありがとう、無事に生まれてきてくれて。私があなたのお母さん よ﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁この子は本当におとなしいな⋮⋮これは、手のかからん子になり そうだ﹂ ﹁さっきまで元気に泣いていましたから、もうおねむなんでしょう ね。レミリアさんは休んでください、私ができるかぎり見ていまし ょう﹂ ﹁いえ、私が見ています。リンダさん、ヒロトの時も、この子の時 も、本当にお世話になりました﹂ 助産師のリンダ小母さんは頷きながら、また涙を拭く。俺も父さ んももらい泣きしそうになるが、父さんは上を向いてこらえると、 俺を見て照れくさそうに笑った。 ﹁ヒロト、嬉しいなら泣いてもいいんだぞ。父さんは大人だから泣 かないけどな﹂ 743 母さんが危ないっていうときには泣いてたけどな、と俺は思う。 だからこそ俺は、父さんがますます好きになった。 そんな父さんを母さんは優しい目で見ている。今まで父さんが力 強く母さんを引っ張っているとばかり思っていたけど⋮⋮この家の 中心は間違いなく母さんだ。 ﹁きゃっ、きゃっ﹂ ﹁あら⋮⋮ソニアが笑ってる。もう分かるのかしら、お父さんがや せ我慢してるってこと﹂ ﹁い、いや、何だか楽しそうと思っただけじゃないか? ソニア、 何かおもしろいことでもあったか? 父さんがもっと面白い顔をし てやろうか。ベロベロバァー!﹂ ﹁あはは⋮⋮そういえば父さん、俺にもそういうのやってた気がす るよ﹂ ﹁ははは⋮⋮覚えてるもんなんだな、赤ん坊の頃のこと。そうする と、あまり変な顔もしてられんな。はじめての娘となると、どう接 していいものかってところだが﹂ 心配しなくても、ソニアは父さんになつくんじゃないかなと思う。 しかし俺のときと違って女の子だから、父さんもちょっと緊張して いるようだ。俺も妹は初めてなので、気持ちはわかる。 これから、おしめなんかも俺が協力して替えてあげないとな。洗 濯もけっこう大変そうだが、まあ水の精霊魔術とか、薬師スキルで ﹁清浄液﹂なんかも作れるから、いろいろ駆使してやっていこう。 ﹁お母さん、俺もこれからいろいろ手伝うよ﹂ ﹁ヒロトは子供なんだから、遊んだりするのが仕事よ。ソニアのこ とはお母さんにまかせなさい。お母さん、この歳になって、今まで で一番っていうくらい元気になっちゃったから。身体の奥から力が 744 湧いてくるのよ﹂ 直ぐにでもベッドを出て帰りかねない勢いの母さん⋮⋮エリクシ ール、恐るべし。 しかし今でも、ゼロになったはずの母さんのライフが、なぜエリ クシールが喉を通った後で回復したのかが分からない。 ︱︱と考えて、俺はゲーム時代のことを思い出した。 ごくまれに、ライフがゼロになっても死なないことがある。見た 目はゼロと表示されても、内部的には小数点以下の数値が残ってい るからだと言われていた。最初は薬を飲み込む力のなかった母さん が、皆の呼びかけに反応して、喉に通してくれた⋮⋮それで病気状 態が回復し、ライフの減少が止まったのだろう。 エリクシールは貴重だから、おいそれと効能を試すわけにもいか ないが⋮⋮まだ瓶に残っている半分くらいは、もしものときのため に残しておこう。正直、ただのポーションが百本や千本集まっても、 エリクシールの一滴に価値が及んでいない。俺が持っている中では、 ドヴェルグの小型斧+7と並び、最レアと言っても過言ではなかっ た。 ◆アイテム◆ 名前:エリクシール 種類:薬 レアリティ:レジェンドユニーク 効果1:ライフとマナを完全に回復する。 効果2:すべてのステータス異常から回復する。 745 いずれかの効果がひとつ発現する。 エリクシールを鑑定してみると、効果1、効果2のいずれかが発 現するのだとわかった。母さんの病気が何なのかは最後まで分から なかったが、エリクシールは詳細が分からない病気も治癒する力が あると考えられる。 アイテムのレアリティは最上位からゴッズ、レジェンドユニーク、 スーパーユニーク、ユニーク、レア、ノーマルの順に序列がつけら れている。ユニーク以上のアイテムは汎用名ではなく、固有の名前 がついたアイテムだ。魔物からのドロップ率は極端に落ち、他の入 手方法も難しく、手に入れづらくなる。 マンドラゴラや神獣の素材などのスーパーユニークアイテムを惜 しげもなく使いながら、エリクシールのレア度が魔剣に及ばないの は、材料を集めさえすれば何個でも作れるからだろう。レアリティ がゴッズのアイテムは、世界に一つしか存在しない。 ︵そういえば⋮⋮おばば様と最初に話したとおり、最初にフラスコ で作ったエリクシールの半分は残してきたんだよな︶ おばば様にも、何か使いたい用途があったということだろうか。 さらに上位の秘薬といっても、存在するかどうかというレベルだが。 ﹁うーむ、どちらかといえば母さん似かな﹂ ﹁まだわからないけど、目鼻立ちはあなたの方じゃない?﹂ ソニアの顔を見ながら睦まじく話している父さんと母さん。いく ら惚気けても足りないくらいだろうと思うが、母さんが診療所を出 746 て家に戻ったら、今までよりさらに仲良くなりそうだな⋮⋮砂糖を 吐く頻度が増えるかもしれないが、息子として生暖かく、もとい暖 かく見守ることにしよう。 ◇◆◇ ソニアが生まれて数日後、母さんは家に帰ってきた。留守の間は 母さんの友達や、サラサさん、セーラさんが家に来てくれて、掃除 なんかをしてくれていたので、母さんがいないうちに家が荒れてし まったということもなかった。母さんが日頃からご近所付き合いを 大事にしているからこそ、肝心なときに助けてもらえる。 前世では、ゲームの中以外では交友関係がほぼ皆無だった俺とし ては、今回はうまくやりたいという思いがある。魅了なしで、まっ とうな交友関係を作らなければならない。 俺はもう、人と会話をするということに関して苦手意識を感じな くなっていた。うまく話せなかった頃、手紙を書いて気持ちを伝え ることが結構あったが、受け取った人はずっと覚えていて、思い出 したように手紙を書くとかなり喜んでくれる。なので、普通に話せ るようになった今でも、手紙を書かなくなったわけではない。 そんなわけで、今日はいつも世話になっているネリスおばば様に、 魔術を教わるついでに手紙を渡すことにした。 ﹁ほう、なかなかの達筆じゃな。これなら、魔術書の写本を任せて も良いくらいじゃ﹂ ﹁おばば様、本が作れるの?﹂ 747 ﹁この歳になると、一冊書き上げるのに数ヶ月はかかるがのう。魔 法薬の作成と同じで、わしの趣味じゃよ﹂ この人はつくづく、ここに暮らしているのが不思議なくらいの優 秀な術師だ。セージのサラサさんを上回る薬師スキルと、聖騎士の フィリアネスさんを凌ぐ精霊魔術スキルを持っている。かなりの高 齢だから、若い時は今よりも凄い術師だったのかもしれない。しか し今でも、賢者と呼ぶにふさわしい人物だ。 ﹁それにしても⋮⋮お主はこの幼さで、どこで覚えてくるのかのう。 ﹃すごい美少女が助けに来てくれて、初めは誰か分かりませんでし た﹄じゃと? このおばばを見て、そんなことを思っておったのか﹂ ﹁わたしも、初めは誰かわからなかった﹂ おばば様の庵に行くと、ミルテは必ず出てきて、一緒に話に加わ る。俺を見た途端にぱぁっと嬉しそうな顔に変わるので、俺もまん ざらでもない。というか、かなり嬉しい。 しかしリオナが俺を助けに洞窟に行ったことをミルテは知ってい て、一緒に行けなかったことを引け目に感じてるみたいだった。そ れについては、ミルテが気落ちしないようにフォローしなければと 思う。彼女も、俺を助けたいと思ってくれたのだから。 ﹁おばば様のかっこうをした、知らない人かと思った。どきどきし た﹂ ﹁ミルテ、お主は匂いである程度はわかるじゃろうが﹂ ﹁⋮⋮若いおばば様は、お母さんのにおいがした﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ ミルテは黙っておばば様に抱きつく。おばば様はミルテの髪を撫 748 でて、慈しむように背中を撫でる。 俺が知らないときも、この二人はこうしてきたのだ、と思う。 ︵ミルテの両親は亡くなってない⋮⋮おばば様はそう言ってたな︶ 俺の両親を助けてくれたおばば様への感謝もある。俺を慕ってく れているミルテのためにも、彼女が両親と暮らせるように、その方 法を探したい。 ﹁おれ、ミルテのお父さんとお母さんを⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そのことじゃがな。お主ほどの実力で冒険に出るのならば、 いずれ会う時も来るやもしれぬ﹂ ﹁っ⋮⋮お父さんとお母さんに、会えるの?﹂ ミルテの目が輝く。しかし、それを見るおばば様の目は、深い憂 いを宿していた。 ﹁しかし、極めて危険じゃ。皇竜を御したヒロトの力は、もはやこ の国では並ぶものがないと見て良いじゃろう。じゃが、ミルテの両 親を隷属させているあの者は、強さの性質があまりに異端なのじゃ﹂ ﹁隷属⋮⋮﹂ ミルテの両親が、奴隷にされてるってことか⋮⋮強さが異端とは、 正攻法で挑むと足元を掬われてしまうということだろう。俺と極端 に相性の悪い敵もいるかもしれない。 そういった事態も想定して、まんべんなく武器と魔術の両方を鍛 錬し、強化してきた。穴がないということは、それだけ死ににくい ということだ。ユィシアとの戦いでは、俺は魅了が発動するまでの 時間を稼ぐことしかできなかったが、それもスキルの選択肢があっ てこそだった。 749 ユィシア戦でも使った盗賊スキルを入手したのは、ある意味で運 たおし が良かったからだ。火事場泥棒に入ったあの女盗賊のことを思い出 し、どうやって手篭めにしたのかを思い出して、あの頃の俺は若か ったなと思う。今もまだ5歳になってないが。 ﹁⋮⋮わしが娘夫婦を助けぬことに、疑問を持っておるか?﹂ ﹁ううん⋮⋮おばば様はミルテを守るために、危ないことをしない でくれたんだよね﹂ ﹁おばば様⋮⋮危ないことはしちゃだめ。お父さんとお母さんは、 わたしが助ける﹂ ミルテの言葉を聞いたおばば様は目を閉じる。深い皺の刻まれた 瞳が再び開いた時には、おばば様は微笑んでいた。 ﹁今はまだ早い。しかし、必ずや助けようぞ。わしに残された時間 も少ないと思っておったが、﹃あれ﹄を作るのにも成功してしまっ たしのう⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮おばば様、﹃あれ﹄って?﹂ ﹁うむ、見せるのはもう少し先にしようと思っていたのじゃが、こ のままではヒロトも上級精霊魔術を習得して、わしの元に通う理由 が無くなってしまうのでな⋮⋮ミルテ、少し外に出ていてくれんか﹂ ﹁⋮⋮? だいじなお話?﹂ ﹁うむ。決して窓の隙間などから覗いてはならぬぞ。そうしたらわ しは、鳥になって飛んでいってしまうからのう﹂ 何だかどこかで聞いたような話だが、そういう昔話が異世界にも あるんだろうか。おばば様は恩返しに来た鶴だったのか。あれも今 から考えると、けっこう切ない話だ。正体がばれても別にいいじゃ ない。 750 と、脱線している場合ではない。ミルテは特に覗いたらおばば様 が鳥になると信じているわけではないようだが、素直に言うことを 聞いて外に出ていった。 ﹁さて⋮⋮完成させたエリクシールじゃが、お主が残していった分 のうち、半分は念のために残しておくことにした。決して万能の薬 ではないが、これがあれば助かる命もあるからのう﹂ ﹁おれもそれは思ってた。一回の生成で、エリクシールは8回分く らい作れてたね﹂ ﹁このフラスコに残っておったのは4回分ほど。そのうち一回分だ けは、わしの研究に使わせてもらった。このエリクシールは、癒や しをもたらすだけの薬としてではなく、もうひとつの顔を持ってお るのじゃ﹂ おばば様は水晶の瓶に保存したエリクシールを取り出して見せる。 あのローブの中がインベントリーにでもなっているのか、彼女のロ ーブからはけっこう何でも出てくる。 ﹁もうひとつの顔⋮⋮別の用途に使えるってこと? アンデッドを 一撃で倒すとか﹂ ﹁神聖なものではないから、そのような効能はない。アンデッドに 使用しても効果はないぞ、それは言っておくが⋮⋮端的に言ってし まえば、エリクシールは最終形ではない。﹃七つの霊薬﹄の下地と なる薬なのじゃよ﹂ 七つの霊薬⋮⋮一気に未知のアイテムが七つも増えてしまった。 どんなものか確かめてみたいという好奇心と同時に、ゲーム時代と 比べてどこまで奥深いんだ、と感嘆してしまう。未完成でもあの面 白さだったのに、完成したら揺るぎない神ゲーとして君臨していた 751 だろう。俺がこっちに来てからも開発が進んでるんだろうか、と少 し考えてしまう。 ﹁わしはそのうちの一つを作りたかった。理由はひとつじゃ⋮⋮来 るべき時のために、どうしても欲しくてな﹂ ﹁来るべき時⋮⋮もしかして、ミルテの両親を⋮⋮﹂ ﹁うむ。もっとも、わし一人で救うことはできぬ。お主と聖騎士、 そしてもう何人かは手練れを集めなくてはならんじゃろうな。最も 難しいのは、敵の居場所を探すことなのじゃが。それについては、 わしが探索を進めておく﹂ ﹁おれも、それらしいことがわかったらおばば様に教えるよ﹂ 今の俺にはミゼールで得られない情報はないと言っていいが、こ の町は狭い。このアスルトルム大陸の全域に探索の範囲を広げなけ れば⋮⋮まずは手始めに、ジュネガン公国内での有力な情報源を増 やすべきだろう。 ソニアが生まれたばかりだし、あと二年⋮⋮いや、三年はミゼー ルで過ごす。しかしその後は、俺はメインクエストを追い始めなけ ればならないと思っている。 俺の現状の目標は、女神に会うことだ。その手がかりが、ゲーム 時代のメインクエストの中に匂わせる程度に仕込んであった。まだ 未実装だったメインクエストの先に、神の領域に近づくイベントが あるはずなのだ。 メインクエストの始まりの場所は、ジュネガン公国の首都だった。 そういう意味でも、首都行きは確定している。もっとも、ゲームと 同じようにメインクエストが発生して、ストーリーが進行していく とも限らないが。 752 ﹁お主に会わなければ、エリクシールを作れなければ、わしは諦め ておったろう。しかし、今は希望を見出すことができた。精霊魔術 の初歩を教えるだけで、満足してやめると思っておったのにのう⋮ ⋮済まぬな、初めの頃は邪険にしてしまっておった。わしの態度が 不愉快だったのではないか?﹂ ﹁ううん、むしろ厳しくしてくれてよかったよ。意地でも魔術を覚 えてやるんだって思ったし⋮⋮それに、今はおばば様が優しいって ことが良くわかってるから﹂ ﹁⋮⋮今となっては、分かる気がするのう。サラサがお主に、なぜ そこまで惚れ込んだのか﹂ おばば様は苦笑して言う。サラサさん、おばば様にそんな話をし てたのか⋮⋮どんなふうに言われてるんだろう。彼女には数え切れ ないほどお世話になったから、﹁私が育てた﹂と言われてもおかし くないな。 ﹁まさかわしまで毒されるとは思っておらなんだがな。まあ、こう なってしまったものは仕方あるまい﹂ ﹁え⋮⋮おばば様、今なんて言ったの?﹂ ﹁鈍いということは、いずれお主を殺すことになるやもしれぬぞ。 ミルテとリオナ、どちらを選ぶのじゃ? 他にも無数の娘に慕われ ておるようじゃが﹂ ﹁え、えっと⋮⋮ミルテはまだ小さいし、よくわかってないんじゃ ないかな﹂ なんというヘタレな言い訳。十分すぎるほどミルテの気持ちは分 かってるのに。まあ、お互い四歳だけどな。 ﹁あの子はもう分かっておるよ。なにせ、わしの孫じゃからのう﹂ 753 ⋮⋮ん? 何だかさっきから、おばば様が言ってることって、ま るで、俺のことを⋮⋮。 いやいや、酸いも甘いも噛み分け尽くしたミゼールの偉大な賢者 が、俺などに懸想するわけがないじゃないか。と思いつつ、俺は若 い姿のネリスさんのことを思い出していた。 ミルテとも違うタイプの、かなりの美少女だった。魔女っ娘コス プレというか、リアル魔女なのだから、それはもうハマりまくって いた。 って、俺は恩人に向かって何を失礼なことを考えてるんだ⋮⋮若 い姿になったのは俺を助けるための一時的な措置だっただけで、俺 を喜ばせるためじゃ決して無いのに、手紙にも綺麗だったとか書い てしまった。なんだ俺、これでは若い姿を切望してるみたいじゃな いか。 ﹁⋮⋮さて、ミルテをあまり待たせるのも悪い。少し、向こうを向 いておってもらえぬか。良いと言うまで、後ろを向いてはならんぞ ⋮⋮我が弟子、ヒロトよ﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮!﹂ おばば様に弟子と言われると畏まってしまう。ウェンディは自分 から弟子と言ってるが、今はその気持ちが分かる気分だ。尊敬する 人に何かを教えてもらうというのは、とても誇らしいことだ。 ﹁⋮⋮んっ⋮⋮こ、これは、なかなか⋮⋮自分で作ったものながら、 凄まじい⋮⋮味じゃ⋮⋮﹂ 味⋮⋮おばば様、何か薬を飲んでるんだろうか。 754 エリクシールを一回分、自分の研究に使ったって言ってたけど⋮ ⋮それで作った薬を飲んでるんだろうか。俺の前で効き目を試した かったというなら、弟子として結果を見届けなければなるまい。 ﹁ふぅっ⋮⋮く⋮⋮ま、まだじゃ⋮⋮まだ見てはならぬぞ⋮⋮定着 するまで、もう少し時間が⋮⋮﹂ ︵⋮⋮あ、あれ? だんだん、おばば様の声が若く⋮⋮色っぽくな ってないか?︶ おばば様の嗄れた声が、次第に張りのある、瑞々しささえ感じさ せるものに変わっていく。 何が起きているのか︱︱それはもう、振り向いて確かめるまでも ないと思っていたのだが。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮そろそろ良かろう⋮⋮後ろを向いてみよ、ヒ ロト﹂ 恐る恐る振り返ると、そこには俺が想像した姿とは、また少し違 ったおばば様︱︱もとい、ネリスさんの姿があった。 ﹁⋮⋮わしも鏡を見ておらぬから何とも言えぬのじゃが⋮⋮どうじ ゃ?﹂ ﹁お、おばば様⋮⋮もしかしてエリクシールで作れる秘薬の中に、 若返りの薬が⋮⋮?﹂ ﹁う、うむ⋮⋮こんなものを使っては卑怯と思われるやもしれぬが な。わしは初めて作る薬は、とりあえず自分の身体で試す主義なの じゃ﹂ なのじゃ、というけど。ネリスさん⋮⋮前の女子高生くらいの年 755 齢から結構上がってるけど、薬の効果は凄まじく、驚くほど若返っ てる。魔女っ子というか、普通に魔女だ。妙齢の美女に変わってし まった。 美魔女という年でもなく、二十代中盤くらいだろうか⋮⋮まさか、 ネリスさんじゅうななさい状態から成長すると、マウンテンの標高 がこんなに高くなるとは。これが彼女の全盛期だったということか ⋮⋮いや、胸がすべての基準というつもりはない。決して。 ◆ステータス◆ 名前 ネリス・オーレリア 人間 女性 27︵68︶歳 レベル53 ジョブ:エレメンタラー ライフ:256/256 マナ :784/784 スキル: 杖マスタリー 73 短剣マスタリー 10 精霊魔術 84 薬師 82 恵体 18 魔術素養 65 母性 63 料理 32 採取 54 756 ︱︱なんてことだろう。27歳まで若返ったネリスさんの強さが 異常すぎる。確かに皇竜には勝てないだろうが、それにしてもこの エレメンタラー ステータスは⋮⋮俺以外では、ここまでスキルの合計値が高い人は 他にいない。精霊魔術師としては最強クラスなんじゃないだろうか。 若返りの薬の効果に時間制限があるということなのか、年齢の表 記が特殊なことになっている。アクションスキル・パッシブスキル は膨大な数があり、全てに目を通しきれないほどだ。 ﹁若返りの薬の効果は徐々に薄れて、元の歳に戻っていくのじゃが な。一週間で一歳は戻るじゃろうから、一年経てば元通りじゃ﹂ ﹁⋮⋮でもそれって、若返りの薬を切らさなかったら、永遠に若い ままでいられるってことじゃ?﹂ ﹁若返りの薬に用いた材料の希少さを考えれば、一度作れただけで も奇跡に近い。量産は決して出来ぬからのう⋮⋮個体数の少ない神 獣系の素材が必要となるから、そればかりは技術でどうにかなるこ とでもない﹂ エリクシールをもう一回作れと言われても、相当時間がかかりそ うだしな⋮⋮神獣素材は高額だし、一個は手に入れられても、二個 目が市場に出たことはない。レア度はスーパーユニークなので、場 所さえ分かれば取れるのだろうが、神獣を乱獲するのはたぶん無理 だろうし、倫理的にも問題がある。 しかし⋮⋮この効果を見ると、何をしてでも欲しがる人は多そう だ。腰が曲がってしまい、しわしわになっていたおばば様が、シャ キッと立ってお肌ツヤツヤ、ロケット胸も復活と来たものだ。ミル テがおばば様と呼んだら、逆に違和感が出てしまう。 757 ﹁今のわしなら、大抵の難敵と戦う際にパーティの術師として通用 するじゃろう。もしミルテのことでなくても、お主が困った時には 言うがよい。あと二十週くらいは、全盛期の力を保てるからのう﹂ 五十歳くらいまで、老化による能力低下がないっていうのか⋮⋮ そうしたら本当に美魔女だな。 何も知らない町の男性が見たら、普通に惚れてしまいかねない容 姿だ。おばば様は町に出ないから、目撃自体されにくくはあるけど。 そんなことを考えていると、ネリスさんは俺の前に屈み込んでき た。フィリアネスさんもよくこうしてくれるけど、急に距離を近づ けられると、正直言って緊張してしまう。 ﹁ヒロトよ⋮⋮これは、お主の気持ち次第ということになるが。見 ての通り、この歳のわしは、娘が生まれたばかりの頃の年齢じゃ﹂ ﹁そ、そうなんだ⋮⋮ネリスさん、やっぱり美人だったんだね﹂ ﹁娘はあまり、乳を吸わぬ子でな⋮⋮わしは張った乳を持て余して は、自分で搾っておったものじゃ﹂ ︱︱その話をそちらから振られると、こちらも正座をして聞かな ければならないんだけど。それくらいに重要なテーマだと言ってい い。 ﹁あまり知られておらぬが、母親の乳には、親の技能を子に受け継 がせる力がある。しかし娘は、精霊魔術の力を受けつがなんだ。ゆ えに、自分で獣魔術を選んで習得したのじゃよ。ミルテはそれを受 け継いでおる﹂ ﹁そうだったんだ⋮⋮じゃあ、ミルテは赤ん坊の頃までは⋮⋮﹂ ﹁一歳になる前には、親と生き別れてしまった。わしはあの子しか 助けられなかったのじゃよ。腰の曲がったばばでは、あまりにも無 力じゃった⋮⋮しかし、今は違う﹂ 758 ネリスさんの言葉に力が籠もる。おばば様は、娘たちを救うため に戦った⋮⋮そういうことだ。 ﹁⋮⋮しかしまだ、時は来ておらぬ。歯痒いが、事を急げば返り討 ちにされるじゃろう﹂ 皇竜ほどの強さとは思いたくないが、年老いたとはいえおばば様 が勝てなかったのなら、敵は相当な実力者だ。 ﹁ネリスさん、おれ、あと少ししたら首都に行こうと思ってるんだ。 そうすれば情報がもっと集まると思う﹂ ﹁うむ⋮⋮わしも首都には知己がおるが、ジュネガン公国の中では ここ数年手がかりがない。わしとミルテにとっての仇は、大陸を流 浪していて居場所が定まらぬ。大陸全域を探さなくてはならぬのじ ゃ﹂ 流浪している敵を探すなら、有効な方法は⋮⋮アスルトルム全土 を旅してツテを作り、情報網を作るというくらいか。 まずはジュネガンの首都で、ある程度の権勢を持つ。国全体に名 前が届くほど有名人になれば、他の国からも着目されるし、敵から 目をつけられるってこともありうる。 後者は自分を餌にするようで危険でもあるが、何の手がかりも無 いまま時間が経ちすぎる方が最悪だろう。ミルテの両親が奴隷にさ れているなら、どんな扱いを受けているかわからないし、救出が遅 れるほどリスクは高まっていく。 ﹁すでにミルテの両親が死んでいる、ということはない。生きてお 759 るかどうかだけは、神託で分かる。神の力を借りたくはなかったが、 背に腹は代えられんからのう﹂ 神託システムはゲーム時代にもあった。神殿で多額の寄付をする ことで、ありがたい神託を受けられる。 たとえば特定のNPCがどこの町に住んでいるか、とか。これの リスポーン 延長で、NPCの現時点での生死を確かめられた。死んでいると困 るキャラは復活していたが、異世界でそんなことが起きるとは考え づらい。 ﹁今のところは、わしとミルテの事情については気にするな。今す ぐどうこうできる問題ではない﹂ ﹁うん。でも、おれがこれからやらなきゃいけないことが見えてき たよ﹂ ﹁⋮⋮済まぬ。お主がそう言うとわかっていながら、わしは⋮⋮﹂ ﹁おれはネリスさんの弟子だから、あやまらなくていいよ。むしろ、 おれみたいな子供を、ネリスさんが頼ってくれるようになって⋮⋮﹂ 嬉しい。そう言う前に、俺はネリスさんに抱きしめられていた。 後ろ髪を優しく指で梳かれる。柔らかい胸が惜しみなく押し付け られるが、今は変なことは全く考えなかった。 ﹁⋮⋮わしはいずれおばばに戻るべきだと思ってはおるのじゃがな。 どうもいかん⋮⋮お主は愛らしすぎる。サラサや聖騎士、他の娘だ けに甘やかさせておくには惜しい﹂ ︵ね、ネリスさんがそんなことを⋮⋮今まで、妬いてるそぶりなん てなかったのに︶ 760 やはり、人の心は目に見えるものではない。皇竜の心を読む力が、 ときどき欲しくなるくらいだ。それこそ、最大のルール違反のチー トだが。だからこそ人間が人間の心を読むスキルは存在しないのだ ろう。 ﹁ミルテには秘密にしておくのじゃぞ⋮⋮あの子はまだ幼い。自分 もしたいと言っては、困るからのう⋮⋮﹂ 若いおばば様は、ミルテの母と似た匂いをしているらしい。サラ サさんといい、俺は、幼なじみの母親にお世話になりっぱなしだ⋮ ⋮。 鎧戸が閉まっていることを確かめたあと、ろうそくの揺れる明か りの中で、ネリスさんがずっと脱がなかったローブをはだける。黒 い布の中から見えた肌色を目にして、俺はひとつのことを思ってい た。 サラサさんにお世話になったことを、ネリスさんは、どんな気持 ちで聞いていたんだろう⋮⋮それこそ、自分が赤ん坊を育てていた ころのことを思い出していたんだろうか︱︱それとも。 ﹁⋮⋮これからは、これも修行の一環と思うがよい。お主には、わ しの持つ全てを与える⋮⋮そう決めたのじゃ﹂ ﹁⋮⋮ネリスさん﹂ 分かったよ、とも、お願いします、とも俺は言わなかった。 ミルテのことを気にするように恥じらいながらも、ネリスさんは 後戻りしようとはしなかった。 そう⋮⋮恥じらっていた。けれど俺の師匠は、俺が近づいてもた じろぐことなく、微笑みながら俺を見つめていた。 761 ◇◆◇ そして、妹が生まれてから三年と少しの時が流れた。 八歳の誕生日を迎えて、しばらくした頃のこと。12歳になった アッシュが、商人ギルドの一員になるべく試験を受けて、見事に初 級試験に合格した。 アッシュの初仕事は荷馬車隊の一員となり、パドゥール商会の荷 物をミゼールから首都ジュヌーヴに運ぶというものだった。しかし、 同時に俺は冒険者ギルドで﹁荷馬車の護衛﹂の任務が貼りだされた のを見て、多少心配になった。 冒険者ギルドの長、ブリュ兄貴は、相変わらず見事に磨き上げら れたスキンヘッドを撫でつつ、任務の内容を教えてくれた。表向き は、パーティのリーダーであるモニカさんに説明する形だ。 ﹁ミゼールと首都の間の公道は山の中を通るんだが、そこで山賊が 現れることが多くてな。護衛の任務は、常に需要がある。まあ、ほ とんどパドゥール商会の依頼だがな。ジュヌーヴからこっちに来る 荷馬車は、向こうのギルドで護衛を募集してる﹂ ﹁最近は、商品だけでなく商人自体を捕らえてさらう被害も増えて いるんです。奴隷は国外に売られる場合が多く、足跡を辿れずに公 国に連れ戻せなくなる場合がほとんどで、深刻な問題になっていま す﹂ まだ若いアッシュは、もし山賊に襲われれば、荷物だけでなく本 人も狙われる。そう考えると、俺たちのパーティで護衛したほうが 良いように思えてきた。依頼の期限はもう二日しかないし、運が悪 762 ければ護衛がつけられない可能性がある。 ﹁で、どうする? 依頼を受けるなら、前金で銀貨二十枚。後金で 残りの八十枚を払うぞ﹂ ★3クエストのゴブリンリーダー討伐と同程度の報酬。この金額 を毎回払うとしたら、パドゥール商会はかなり痛手を被っている。 ギルドは依頼料の10%を仲介料として取っているので、ギルド の収益という分には、護衛の依頼が頻繁に入るのは良いことだろう が⋮⋮。 ﹁ん⋮⋮どうした小僧、じっと見て﹂ ﹁あの、山賊が出るんですよね。もしその場は荷馬車を守れたとし ても、また襲撃されるんじゃないですか﹂ ﹁む⋮⋮しかし、それは今に始まったことじゃないからな。山賊の 本拠地を潰すとなると、依頼の難易度も⋮⋮﹂ 俺の質問に、ブリュ兄は困った顔をしている。俺たちというか、 ウェンディと名無しさんは、ソードリザードとファイアドレイク退 治で名を上げてるのにな。 依頼の難易度が上がっても、冒険者ランクが上がってるから問題 ないんじゃないだろうか。というか、依頼があるなら紹介してほし い。アッシュのためにも山賊根絶、あると思います。 ﹁それは⋮⋮兄さん、モニカさんたちだったら紹介しても良いんじ ゃないですか?﹂ 本当にあった。山賊退治、難易度は★4ってところじゃないだろ うか。もっと上でも受けるつもりだが。 763 ﹁うーむ⋮⋮確かに、こいつらなら⋮⋮よし、分かった。お前さん たち、ちょっと来てもらえるか。シャーリー、頼んだぞ﹂ ﹁分かりました。では、こちらにいらしてください﹂ シャーリーさんに案内され、冒険者ギルドの事務室に入り、その 奥にある小部屋に招かれる。どうやら、掲示板に出ていないクエス トを紹介する専用の場所のようだ。丸いテーブルを囲むように椅子 が六つ置いてあり、部屋には窓がない。外から覗かれないように、 ということか。 しかしシャーリーさんは相変わらずエプロンドレスがよく似合う。 ぱんぱんに張り詰めた胸にさりげなく視線を送ると、モニカさんが むっとした。名無しさんは口だけニヤリと笑っており、ウェンディ はシャーリーさんに憧れの視線を注いでいる。けっこうウェンディ も大きいんだけど。 シャーリーさんはそんな俺の考えなどつゆ知らず、革の表紙で挟 まれた、羊皮紙で作られた依頼書を持ってきた。内容に目を通すと、 ★5の依頼だ。 ﹁盗賊ギルドに属する山賊﹃ポイズンローズ﹄のアジトを、冒険者 ギルドの偵察員が発見しました。今回は、このアジトを壊滅させる か、活動を停止させるという依頼が出されています。依頼者につい ては伏せられています﹂ 謎の依頼者が、山賊の壊滅を依頼する⋮⋮あれ。これ、盗賊ギル ドに加入するかどうかを決めるクエストじゃなかっただろうか。山 賊に味方することもできて、そうすると盗賊ギルドの本拠地に招か れる。 764 盗賊ギルドに入ると、冒険者ギルドからは脱退させられてしまう んだよな。ギルドによっては、掛け持ちができないケースがある。 盗賊は役人からも目をつけられるジョブだし、国からの依頼を仲介 することもある冒険者ギルドは、盗賊ギルドとは相容れないわけだ。 しかしポイズンローズとは、毒はまだしも、薔薇というだけでち ょっと女性っぽい感じだな。百合の対義語という捉え方もあるけど。 何の話だ。 ﹁そのポイズンローズが、荷馬車を襲っているのかな?﹂ 名無しさんが質問する。彼女はもうずっとミゼールに滞在してい て、俺とのパーティ歴もすでに六年だ。剣スキルがろくに使えなか ったウェンディも今では立派に強くなったし、モニカさんの弓矢の 腕もますます磨きがかかった。俺たちのパーティは文句なしにミゼ ール最強と言っていい。ゲストとして騎士団の三人、回復役にセー ラさんとサラサさんも加わることがあって、盤石もいいところだっ た。 ﹁はい、他の山賊集団もいるようですが、ポイズンローズによる被 害が最も多いです。ここ最近、ある女盗賊を首領にしてから急速に 勢力を伸ばしているようです。冒険者の中にも勧誘されて山賊にな ってしまった人がいます﹂ 女盗賊か⋮⋮美人だったら、男だったらホイホイついていってし まうのかもな。大変なものを盗んでいったあの怪盗も、美女にはめ っぽう弱かったし。 ﹁しかし勢力を伸ばした結果、増えた人員を賄うためには、盗品を 765 売るだけでは持たなくなってしまい、捕らえた商人まで奴隷として 売るようになりました。商人だけでなく、旅人も被害に遭っていま す﹂ 山賊の首領になった女盗賊は、なかなか鬼畜な発想の持ち主だな ⋮⋮収入が足りないなら、奴隷を売ればいいじゃないとか、ぶっ飛 んだ思考だ。罪の意識が生来薄かったりするのだろうか。 ⋮⋮なんか、そういう人に今までも遭遇した気がするな。誰だっ け⋮⋮出かかってるんだけど、出てこない。 ﹁ポイズンローズの構成員は、現在百人以上と言われています。★ 5の依頼としては難度が高いので、報酬は★6相当に設定していま す﹂ ★5が受けられるパーティなんて、俺たち以外ではリカルド父さ んがパーティを組んだ場合しか無理だからな。この町のパーティは、 ★2、★3を中心に受けている場合がほとんどだ。 ﹁ふぅん⋮⋮特殊な依頼ってわけね。それで、報酬額は?﹂ ﹁前金で白金貨1枚、後金が白金貨9枚になります。加えて、公国 の全てのギルドにおいて、特別依頼を優先的に受ける権利を得られ ます。冒険者ギルドとしては、この依頼をそれほど重要視していま す﹂ 白金貨は金貨10枚分だ。金貨にして100枚、★5クエストと しては破格だが、それよりも特典が気になる。特別依頼って、ゲー ムだと名声値が上がりやすかったんだよな。名声値が上がればそれ だけ名前が轟き、有名になれる。 766 しかし、盗賊ギルドに属するポイズンローズを、冒険者ギルドか らの依頼で討伐する⋮⋮か。そういう構図だと、盗賊スキルの解放 クエストを受けるのは絶望的か。ギルドに入らないと受けられない からな⋮⋮そこは後で対策を考えよう。 最優先事項は、アッシュが危険に遭わないよう、山賊に襲われる 危険をなくすことだ。アッシュはこれからも、何度も荷馬車を首都 に走らせるのだろうから。 ﹁ヒロト、どうする? あたしたちは、ヒロトの決定に従うわよ﹂ モニカさんたち三人が俺に決定を仰ぐ。シャーリーさんも、もう 俺が実質上のリーダーだとは知っているから、それを見ても驚くこ とはない。 ﹁うん、受けようと思う。是非やらせてください﹂ ﹁ありがとうございます。ヒロトさんたちなら、受けてくれると思 っていました﹂ シャーリーさんはにっこりと笑う。そこには俺たちを危険な仕事 に送り出すかもしれない、という後ろめたさなどは全くない。 俺たちの依頼達成率は、ここ6年間で100%。結果を至上とす る冒険者ギルドにおいては、すでに絶対と言える信頼を獲得してい た。 そして俺たちは、これまで戦闘だけでクエストを達成してきたわ けではない。 人間を相手にする依頼のときほど、俺には都合がいい。言葉が通 767 じる相手なら、いくらでも交渉が出来るからだ。 768 第二十一話 山賊討伐/公女の受難 ギルドで山賊討伐の依頼を受けたあと、俺たちはモニカさんの家 に向かい、彼女の部屋で作戦会議をすることにした。 モニカさんはクエストの報酬でインテリアを整えていて、知らな い弓が増えている。あと、ぬいぐるみのようなものも置かれていた。 これは俺をモデルにした人形だ。俺の顔を一日に一回は見ないと寝 付きが悪いというので、俺が母さんに伝授してもらった手芸スキル を駆使して作成し、プレゼントした。手芸スキルがどれくらい上達 したかを試すためでもあったので、ものすごく喜んでもらえてちょ っと申し訳ない。 ﹁★5のクエストとなると、山賊の強さも侮れないわね。冒険者か ら山賊になった連中も、それなりに腕は立つでしょうし﹂ モニカさんはベッドの上に座ると、膝の上に俺のぬいぐるみを置 く。目の前に俺がいるのに、ちょっと恥ずかしいというか何という か。 ﹁小生たちの実力なら、何ら問題は感じないが⋮⋮ヒロト君はどう 考える?﹂ ﹁私が正面から突っ込んでおとりになっているうちに、お師匠様た ちが山賊のアジトに侵入して、内側からやっつけるという方法が良 いであります﹂ ﹁ウェンディ、いつも言ってるけど無茶はしちゃだめだよ。女の子 なんだから﹂ ﹁はぅっ⋮⋮は、はぃぃ⋮⋮お師匠様に女の子と言ってもらえると あの、フィリアネス様との稽古で雷の魔法剣を受けた時のように、 769 ビビッときちゃうんですけど⋮⋮﹂ いつもかぶっているツノ付きの兜を外したウェンディは、一度剣 を握れば勇敢な女戦士というのが想像出来ないほど、ちょっとおど おどしている。出会った時から六年経ち、彼女も十九歳になってい るけど、性格の芯の部分は変わっていなかった。 最初は冒険者として経験を積んだら騎士団の入団試験を受けるつ もりだった彼女だが、俺のパーティの居心地が存外に良かったらし く、騎士団より収入がいいこともあって、ミゼールに居着いていた。 たまに里帰りしている時以外は、俺たちと行動を共にしている。 ﹁八歳にもなると、もう一人前⋮⋮というには、常識的に考えれば 早いのだけれど、ヒロト君は二歳から小生たちのリーダーだからね。 誤解を恐れずに言うなら、最近は顕著に男らしくなってきたと感じ ているよ﹂ ﹁またそうやってすぐに脱線するんだから⋮⋮★5クエストは何度 もやってきたけど、報酬が★6相当の特別依頼なのよ? 気を抜い てたら怪我じゃ済まないかもしれないって、肝に銘じておかなきゃ﹂ ﹁モニカさんこそ、どうして私たちの宿じゃなくて、モニカさんの お部屋にしたんでありますか? 会議が終わったあと、お師匠様と 何をするのか、私もぜひ見届けたいでありますっ。そして前の時の ように、四人で親睦を深めたいのであります﹂ ﹁わ、私は別に⋮⋮仕事が終わった時だけのご褒美って決めてるか ら、今日は何もするつもりないわよ⋮⋮?﹂ ちょっと残念そうなので、そういう気持ちはあったらしい。最近 は、クエストが終わっても直行で家に帰って、ソニアの面倒を見た り、リオナの不幸が発動しないように一緒にいることが多かったか らな。 770 しかし、リオナのことについては、あるスキルを取ったことで状 況が好転した。限界突破した後に幸運スキルを110にしてみたと ころ、﹃恩恵﹄というパッシブスキルが取得できたのだが、これは 俺の幸運スキルの恩恵を、パーティ内の誰かに常に与えることが出 来るというものだ。これの対象者をリオナに指定しておけば、どれ だけ離れていても、今の彼女の不幸値は108だが、俺の幸運11 0で相殺することができる。おかげで俺の幸運はほぼ発動しないと いうネックはあるのだが。 幸運を上げる方法は知っているが、不幸を下げる方法は分からな い。ミゼールの中に居るだけでは解決しない問題が増えてきた。そ れら全てを含めて、ネリスさんは広い世界を見ろと言ってくれたの だと思う。 ﹁⋮⋮本当にするつもりないから、黙り込まなくてもいいじゃない。 ヒロトの意地悪﹂ ﹁あっ⋮⋮ご、ごめん、そうじゃないよ。モニカ姉ちゃんと仲良く するのが嫌なんて、そんなことあるわけないよ﹂ ﹁それはつまり、小生たちよりもモニカ嬢とのプライベートタイム の方が優先されるということかな⋮⋮?﹂ ﹁その﹃嬢﹄っていうのやめて、何だか落ち着かないから﹂ ﹁私は﹃嬢﹄をつけられると、ちょっと嬉しいであります⋮⋮お淑 やかに見られている感じがするであります﹂ 六年もパーティを組んでいるので、もう長年の友人というか、気 心の知れた親友関係になりつつある。つまりは話が脱線しがちだ、 ということでもあるが、和気藹々としたパーティの雰囲気は好きな ので、俺も楽しんでみんなの話を聞いていた。 しかし、名無しさんはやはり語彙の選び方が特徴的だ。何という 771 か、前世における﹃典型的なオタク像﹄をロールプレイしているよ うなそんな感じがする。 ︵⋮⋮っていうか、麻呂眉さんとまったく同じしゃべり方なんだよ な。男だったはずなんだけど⋮⋮︶ 陽菜がリオナに転生していたと知った時から、俺は名無しさんの 正体も気になって、どうにかステータスを見られないかと機会を探 しているのだが⋮⋮パーティメンバーなのに、保護がかかっていて ステータスが開けない。いつもつけている仮面に何か特殊な力があ るのか⋮⋮それとも。 しかし、他にもステータスが見られない相手は身近にいるので、 あまり珍しいことではないのかもしれないと思い始めてもいる。 ﹁ん⋮⋮ヒロト君、やはり小生たちにも興味を示してくれているの かな?﹂ ソーサラー じっと名無しさんを見ていたので、彼女はローブの胸元に手を当 クロースアーマー てて微笑む。法術士の彼女はネリスさんと違い、パリッとした制服 のような布鎧を身につけることが多いのだが、今日は戦闘に出なか ったのでゆったりした格好をしていた。 ﹁気になっていたのでありますが、名無しさんは最近胸が大きくな ったでありますか? 私も昔よりは大きくなりましたが、お師匠様 に出会わなかったら、たぶん今ほどにはならなかったでありますね﹂ ﹁ウェンディはハマりすぎ。あたしの友達二人もそうだったって思 い出すわ⋮⋮でも、ウェンディはちょっと違うのよね。うれしいっ ていうより、照れてる方が強いっていうか⋮⋮﹂ 772 ウェンディは魅了がかかってない状態なのに、まだ二歳だった俺 がコボルトから助けてあげた結果、好感度がギュンギュンと上昇し てカンストしてしまった。話を聞いてみると、男性に優しくされた ことが今までなかったらしい。容姿は童顔とはいえ可愛らしい面立 ちをしているし、男性に縁がないっていうのも信じられないくらい なんだけど⋮⋮真面目すぎる性格ゆえに、アプローチに気付かない ようだ。二歳の俺を異性として認識してしまうのは、﹃カリスマ﹄ スキルの業が深いところである。 名無しさんは俺の仲間に入ってくれるときの出来事があってから も、大人の男性からパーティに誘われることが何度もあったが、そ の全てを断っていた。俺たちの冒険者ランクがBランクまで上がる と、女性三人のパーティだと思われているためにさらに男性冒険者 の勧誘が激しくなったが、彼女たちは全く首を振らず、﹃鋼鉄の三 女傑﹄などという異名がついていた。ウェンディはまだ女傑なんて 早いであります、と恥ずかしがっていたが、名無しさんとモニカさ んは勧誘が少なくなって気が楽になる、と嬉しそうだった。 ギルド一階の酒場では、いつも女性冒険者の集まるテーブルで、 ザル ウェンディと同席して俺たちが来るのを待っていた。話を聞く限り では彼女はものすごい大酒飲みらしく、男性の冒険者に下心ありき で酒を勧められても、絶対に酔いつぶれたりしないらしい。ウェン ディは笑い上戸で、酒を飲めば飲むほど強くなるらしく、二人揃っ て酒場に勇名を馳せていた。 ﹁そういえば、ウェンディの歳でお酒を飲むのっていいのかな?﹂ ﹁公国法では、十五歳からお酒を飲んでいいことになってるわ。法 律のことに関しては、ステラに聞くといいんじゃない? あの子、 すごい勢いで勉強してるみたいじゃない。ヒロトに教えてあげるた めに﹂ 773 ﹁お師匠様でも知らないことがあるのでありますね。ふふっ、何だ か可愛いのであります﹂ ﹁もうヒロト君も大きくなってきたし、女性から坊や扱いされるの は、あまりいい気分はしないんじゃないかな? ウェンディ嬢もそ のあたりは気をつけないと、知らずに機嫌を損ねてしまうよ﹂ ﹁はっ⋮⋮すすすみませんっ、私ったらつい⋮⋮お師匠様、見捨て ないでくださいっ!﹂ ﹁それくらいは気にしないよ。俺もまだ、どう見たって子供だし﹂ 将来的に戦士ギルドに登録して戦士スキルのキャップ解放をした あと、ウェンディと一緒にスキル上げをしたいので、それまではパ ーティから抜けてもらっては困る⋮⋮というのは冗談で、ウェンデ ィはもはや、俺のパーティに欠かせない前衛だ。俺ひとりで後衛を 守ることはもちろんできるが、今後を考えると、何もかも一人で担 うという考えに凝り固まるのはよくない。 パーティはなるべく六人以上で、前衛、中衛、後衛のバランスが 取れているのが理想だ。パーティ上限人数は百人なので、しばらく は勧誘を続けていきたい。自分のギルドを作ってマスターになると いうのも、当座の俺の目標でもある。ギルドの設立条件は分かって いるので、機が熟したら作るつもりだ。 ﹁アッシュ君は商人の試験に合格したし、ディーン君は最近格闘術 の訓練を始めたみたいだね。ステラ嬢は十歳にしてあの聡明さだか ら、ファ・ジールの大学から招聘がかかるかもしれない。彼女は優 秀な学者になれると思うよ﹂ ﹁ミゼールの子どもたちはそれぞれに秀でたところがありますが、 リオナさんも八歳にして、ミゼールの町の皆さんからすごい人気で ありますね⋮⋮少女好きの人が多いなんて、と初めは引いたであり ますが、リオナさんを直接見て納得したでありますよ﹂ 774 ﹁ものすごい美少女になってきたわよね、リオナは。けれど、それ だけで説明がつかないような⋮⋮そこに立っているだけで注目せず に居られないものがあるのよね、あの子には﹂ 俺が持つパッシブスキルの﹁魅了﹂とは別に、﹁魅力﹂というス キルがある。人にはそれぞれ魅力値とも呼べるステータスはあるの だが、それとは別個に存在するものだ。 どうも夢魔のリオナは﹁魅力﹂を成長と共に修得するらしく、五 歳の誕生日からステータス欄に加わっていた。魅力が上昇するだけ でも魅了が発動しやすくなり、他人との会話が上手くいくようにな るので、交渉術と合わせて取得したいスキルだったりする。魅力ス キルは手順を踏まないと取得できないが、俺もいずれは取得しよう と思っているスキルだ。 まだ子供っぽくて焼き餅焼きで、お節介で⋮⋮と、俺にとっては 大変な女の子なのだが、リオナは魅力スキルの高さもあいまって、 周囲の人物には非常に愛らしく見えるようだった。もちろん、素の リオナも容姿だけでいえば、俺の知っている美女たちに全く引けを とらない。 ノーン ﹁ヒロトとリオナは幼なじみで、過ごした時間も長いし⋮⋮ウェン ディも名無しも、油断してると普通に持っていかれちゃうわよ﹂ ﹁小生は一夫一妻にこだわりはないからね。たまにヒロト君にかま ってもらえれば、それで十分だよ。まあかまうという行為の内容は、 将来的に変化していくことを希望するけれどね﹂ ﹁わ、私も、出来ればお師匠様と弟子という関係を、お師匠様がそ ろそろかなと思ったタイミングで、踏み越えてもらえないかなと思 っていたりするのであります⋮⋮﹂ ﹁み、みんな⋮⋮気持ちは嬉しいけど、俺、まだ八歳だから﹂ ﹁あ⋮⋮今の﹃俺﹄っていう言い方、ちょっと男らしかったわね。 775 もう一回言ってみて、ヒロト﹂ モニカさんは俺に早く成長してもらいたいらしく、そういうリク エストを良くしてくる。俺は子供らしくお姉様方のお願いに応えた いところなのだが、改めて言うのが恥ずかしいので笑ってごまかし た。 リクエストに調子に乗って答えていると、確実に空気が変わって しまうということもある。パーティのリーダーとして、依頼達成の ためには緊張感を持ってもらうように振る舞うべきだ。 ﹁依頼の前はそういうことはしません、っていう顔しちゃって⋮⋮ つれないんだから﹂ ﹁英雄色を好むという言葉は対応できる場面が多すぎて、あまり使 いたくはないのだけどね。ヒロト君は、まさにそれを地で行ってい るね﹂ ﹁そういうお師匠様だから、みんなの信頼を集めているのでありま す。私も一生ついていくであります!﹂ ビシッ、とウェンディが敬礼する。今は冒険者である彼女だが、 騎士学校で学んだ騎士敬礼は、けっこうサマになっていたりするの だった。 ◇◆◇ 山賊のアジトには明日出向くことにして、俺たちはいったん解散 した。モニカさんたちとの﹃お疲れ様﹄は、クエストが無事に終わ った時にすることにした。 776 明日は日中ずっと出かけるので、母さんには何らかの言い訳をし ておかなければならない。そういう時に定番になるのが、﹃モニカ さんの家に行く﹄﹃セーラさんの家に行く﹄﹃メルオーネさんの家 に行く﹄の三択だった。 子供の友達には、俺がモニカさんたちとパーティを組んでいるこ とは言っていない。ディーンとは個人的に、修行のために森でモン スターを倒すのに付き合ったことはあるが、一緒にクエストを受け るのはさすがに色々と隠し通すにも限界があるから、プライベート でのモンスター討伐だけだ。ミゼールの森は危険度が低すぎて、弱 いモンスターしか出現しなくなっているが。 モニカさんはもちろんのことだが、セーラさんとメルオーネさん は俺の事情を知っているので、外出の口実に名前を出させてもらっ てもしっかり話を合わせてくれる。招待されて本当に家に行ったこ ともあるが、それほど変なことになるわけでもなく、健全に過ごさ せてもらった。俺のいう健全は、世間一般の健全とはずれているか もしれないが。 ﹁明日はモニカの家に行くのね。お母さん、そろそろモニカの家に お礼をしておかないと﹂ ﹁大丈夫だよ、一緒に狩りに行ってモニカ姉ちゃんの仕事を手伝っ たりしてるから、そのお礼に呼ばれたんだ﹂ 家の居間で夕食を取りつつ、母さんに説明する。母さんの料理ス キルは長年料理をし続けた結果として50を超えていた。年々料理 がレベルアップしていくので、父さんも喜んでいる。 ﹁ヒロちゃん、またモニカおねえちゃんの所にいくの? リオナの 所にも来てくれたらいいのに⋮⋮﹂ 777 ﹁ごめん、また今度な。サラサさんにもよろしく伝えておいて﹂ ﹁ヒロトの口調がどう見ても、若い頃の俺よりも女慣れしているん だが⋮⋮どう思う、母さん﹂ ﹁あなたもそうだったじゃない、王宮の晩餐会に招かれたとき、女 の人たちにちやほやされてたでしょ﹂ ﹁あ、あれはだな⋮⋮俺もまだ若かったというか、昇進したばかり で注目を浴びていたというか⋮⋮ヘンなことはしてないぞ、俺はレ ミリア一筋だからな﹂ サラサさんは今は自宅にいるが、よくリオナと一緒にうちに来て いる。うちの母さんに機織りを習ったり、薬師としてネリスさんの お手伝いをしたりと、町に出ずに出来る仕事をしていた。 リオナは家に来ると、ソニアの面倒を見てくれている。なので、 ソニアは母さんの次にリオナになついてしまい、その次に俺という 序列になっていた。それでも十分すぎるほど好かれているのだが。 ﹁おにいたん、そにあもおにいたんとあそびたい!﹂ 三歳になって少し経つが、ソニアは舌っ足らずではあるが利発な 子で、かなり達者に話すことができる。 リカルド父さんが期待した通りに、ソニアは俺と同じか、それ以 上に発育が早く、同年代の子を持つ親御さんたちからすると﹃天才﹄ に見えるらしかった。 しかし俺からすると、まだ小さい妹だ。俺の身長もまだまだ伸び きってないが、妹の身長はまだ1メートルに達してない。ちょこち ょこと走り回ってよく転びそうになるので、一緒にいるときは注意 して見ているようにしていた。 ソニアは髪を結んで2つのおさげにしていて、ツインテールとい うやつだ。ツーテールというのが本来の呼び方らしいが、俺にはツ インテールの方が馴染み深い。母さんと同じ亜麻色の髪をしていて、 778 並ぶとまるで母さんを幼くしたような容姿をしている。そんなわけ で、父さんもソニアが可愛くて仕方ないらしかった。 ﹁ソニアも大きくなったら、一緒に連れていってあげるよ﹂ ﹁おにいたんのばか! そにあはいまいきたいの! ばかばかばか !﹂ 赤ん坊の頃はおとなしかった妹だが、物心ついてくるとお姫様の ようにわがままになってしまった。最近は言うことを聞いてあげな いと、すぐ椅子をぴょんと飛び降りて、俺のところにやってきてち っちゃい手でぽかぽかと攻撃してくる。まったく痛くないので、俺 は受け止めつつ、いつもソニアを抱え上げて膝に乗せてやる。 ﹁⋮⋮おにいたん、そにあもつれてって?﹂ こうするとすっかり大人しくなるので、みんな微笑んでいる。リ オナも﹁よかったね﹂という顔で見ているが、人指し指を口元に持 っていって、ちょっと物欲しそうな感じを出していた。彼女のくせ なのだが、八歳のくせに妙に色っぽくて、指摘しづらいものがある。 ﹁ソニアちゃん、もう少し大きくなったら私と一緒に遊びにいこう ね。私のおうちに来てもいいよ﹂ ﹁わーい! リオナおねえちゃんといっしょにいく!﹂ ﹁ははは、ヒロトは引く手あまただな。明日はモニカの家で、次は リオナちゃんの家か。ソニアのことも、しっかり面倒見てやるんだ ぞ﹂ ﹁ちょっ、父さん、それは結構先の話で⋮⋮﹂ ﹁ヒロト、リオナちゃんに意地悪するんじゃありません。次の日曜 日にでも遊びに行ってきなさい﹂ 779 こういうとき、レミリア母さんはだいたいリオナとソニアの味方 をする。父さんも別に俺の味方というわけではなくて、むしろ煽っ てきたりするので、ちょっと俺も反抗期を迎えそうな気分だ。まあ、 俺が素直じゃないっていうだけなのだが。 自分では年上好きの傾向があるかなと思っていた俺だが、リオナ は正直言って可愛い。最近では伸ばした髪をサイドで結ぶようにな って、ますます前世の陽菜に似てきてしまった。リオナの髪型はサ ラサさんがセットしているのだが、異世界にも同じ髪型があるとは 驚きだった。 着てる服も幼い子供が着るシンプルなものから、最近ではディテ ールの凝った少女向けの服に変わった。ステラ姉がリオナの服を選 ぶようになったからだ。パドゥール商会は色んな商材を扱うが、ミ ゼールにおいて主に扱っているのは衣服で、この田舎町にも首都か ら仕入れた最先端の服が入荷する。服飾デザインを専門にした職人 は異世界にもいて、ハンドメイドで一着ずつ服を作っているのだ。 もちろん、簡素なデザインで量産される服もあるが。 母さんが織った布はエレナさんが自分の店で買い取り、服に加工 している。母さんの布は首都にも送られることがあり、品質が安定 していて評判が良いそうだった。おかげで母さんには安定して仕事 が入り、手が足りないときはサラサさんに協力してもらうようにな った。 ﹁おにいたん、どうしたの?﹂ ﹁ん⋮⋮ああいや、何でもないよ。そろそろ食べ終わるから、ソニ アも降りて﹂ ﹁うん!﹂ 780 ソニアはぴょんと俺の膝から降りて、自分の椅子によじのぼって ちょこんと座る。ちょっと前までは父さんや母さんに座らせてもら っていたが、今では危なげなく、一人で出来るようになっていた。 ﹁パパ、ママ、おにいたんとおふろはいってもいい?﹂ ﹁ああ、父さんは一向にかまわないぞ。だけどソニア、たまにはお 父さんと一緒に入ろうな。ヒロトも入ってくれなくなって、お父さ んは子どもたちに置いて行かれた気分なんだ。正直を言うと寂しい﹂ ﹁あなたったら⋮⋮心配しなくても、一緒に入ってくればいいじゃ ない﹂ ﹁パパとはあしたいっしょにはいるの。きょうは、おにいたんとリ オナおねえちゃんとはいるの﹂ ﹁うん、リオナも一緒に⋮⋮って﹂ つい返事をしかけて気づく。妹がものすごい勢いで地雷を踏みぬ いてきたことに。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん、久し振りだね、一緒にはいるの。恥ずかしがっ て入ってくれないかなと思ってた﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、今のはつい返事しちゃったというか、流れでと いうかっ⋮⋮﹂ ﹁ヒロト、男は一度言ったことを引っ込めちゃいかん。見苦しい言 い訳はしないで、一緒に入ってあげなさい﹂ ﹁あなた、それはちょっと悪乗りしすぎよ⋮⋮ふふっ。でも、そん なに目くじら立てることでもないかしらね。二人とも、まだまだ子 供だし﹂ ﹁ヒロおにいたん、リオナおねえたんは、ちょっとおむねがふくら んでるんだよ﹂ ﹁へ、へえー⋮⋮﹂ 781 ︵膨らんでるなら一緒に風呂に入れない気が⋮⋮くっ、俺はどうす れば⋮⋮!︶ ﹁ヒロト、なんだその気のない返事は。男なら、気の利いたことの 一つでも言ってあげなさい﹂ ﹁あ・な・た?﹂ ﹁じょ、冗談だ。母さん、そんな怖い目で見ないでくれ﹂ レミリア母さんにジト目で見られて、父さんはあたふたしている。 二人とも、まだまだ若いな⋮⋮って、俺が言うことじゃないけど。 ﹁⋮⋮ちょ、ちょっとだけね。あんまりふくらんでないよ、ステラ お姉ちゃんよりはぜんぜんだよ﹂ リオナはそう言うが、俺は何も聞かなかったことにしようと思っ た。ステラ姉は最近思春期というやつで、あんまり俺と二人きりで 勉強を教えてくれない。昔はよく本を読んでくれたのに。 ︱︱なんて、理由が分からないふりをするほど子供じゃない。み んなから向けられる好意にどう応じればいいのか、常に真剣に考え なければならない。 ﹁まあ、ステラ姉より小さいから、たいしたことないかな﹂ ﹁むぅっ⋮⋮ひ、ヒロちゃんひどーい! そんなにおっきいお胸が いいんだ! 私だって、大人になったらサラサお母さんみたいにお っきくなるもん!﹂ ﹁大丈夫よ、リオナちゃん。ヒロトはサラサさんに誘われても、最 初はそっぽを向いて⋮⋮あなた。何を真剣な顔で聞いてるの﹂ ﹁近所の奥さんに息子が誘われていたと聞くと、由々しき事態だと 思ってな。父として、息子をどう正しく導いてやるべきかを⋮⋮あ いたたっ、み、耳はやめてくれ母さん、耳たぶが伸びる!﹂ 782 ﹁何か変なこと想像してたでしょう! 子どもたちの前でよその奥 さんにデレデレして⋮⋮反省しなさい!﹂ ﹁いででっ、ひ、ヒロト、ソニア、助けてくれっ⋮⋮!﹂ ソニアは父さんのところにやってくると、膝にぽすっとパンチし て、苦しむ父さんを見上げて言った。 ﹁パパ、ママにおこられてる。かっこわるい﹂ ﹁ぬぁぁっ⋮⋮お、俺の父としての威厳がっ⋮⋮! ソニア、父さ んは、父さんはなっ⋮⋮!﹂ 嘆く父さんを見ていて、俺はつい笑ってしまう。顔を真っ赤にし て恥ずかしがっていたリオナも、それを見てつられて笑っていた。 しかし父さんも、本気を出せばミゼールの人々に一目置かれる存 在なのにな⋮⋮家の中じゃ、妻と娘の前ではかたなしだ。俺も家庭 を持つとこうなるのだろうかと思うと、父さんを見て今から親近感 を覚えてしまう俺だった。 ◇◆◇ 父さんは風呂を沸かしに行く前に、﹁ハインツが嫁さんと上手く 行ってないっていうけど、もしかしてヒロトが原因か? って、そ んなわけないよな﹂と冗談を言っていた。 しかし俺には、それが冗談に受け取れなかったりもする。サラサ さんとハインツさんの本当の関係を知ってなお、俺はサラサさんの 首輪を外し、リオナにつけたのだから。 783 ﹁あっ⋮⋮ヒロちゃん、まだこっちむいちゃだめ!﹂ ﹁だめ! おにいたんはこっちをみるの!﹂ ﹁わ、分かってるって⋮⋮俺は別に、覗いたりしてないからな?﹂ 服を脱いでも、リオナは首輪を外さない。それを確認しようと振 り返ろうとしたら、リオナと妹から猛攻撃を浴びてしまった。 リオナはソニアを先に脱がせてあげてくれて、髪を結んだリボン も解いてくれた。ソニアの髪は首元に届くくらいで、結んでいたた めに少しカールしている。 しかし自分の妹ながら、将来は美少女に育ちそうだと思う。身内 の贔屓目かもしれないが、つぶらな目をしていて睫毛が長く、歯並 びも良い。異世界では噛みごたえのある食べ物が多く、砂糖も滅多 に使わないので、一家ともども虫歯の一本もなかった。父さんが食 いしばりすぎて奥歯が砕けたりしていたが、異世界では歯科医療専 門の治癒術師がいるので、ある程度治療はできるらしい。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん、こっちむいていいよ。そっとだよ?﹂ ﹁ん⋮⋮あ、ああ﹂ 何と言っていいのか⋮⋮八歳の陽菜と風呂に入っていたら、こん な感じだったのかな。いや、小学生の時分だったら、何も思わなか ったとは思うけど。 異世界でも吸水率の高い綿を使用した、タオルに相当するものは ある。リオナはそれで身体の前側をしっかり隠していた。しかし下 を隠すために胸元のタオルがぎりぎりになっていて、なだらかな傾 斜の始まりが見えてしまっている。 784 ︵⋮⋮俺はロリコンではない。そうだ、これは保護したいという感 情だ。スキルでは表せない、父性の目覚めなのだ︶ 素っ裸のリオナをすでに見ている俺には、あれから何年も経過し たからといって、いきなり感想が変わるということはない。俺の精 神年齢は前世から数えて24歳、8歳のリオナとの差は16歳。ま ずい、それって丸ごと俺の前世で過ごした年数じゃないか。という のはどうでもよくて。 ﹁おにいたん、へんなところむいちゃだめ! そにあをみるの!﹂ ﹁お、おう⋮⋮﹂ ソニアが抱きついてくるが、さすがに三歳の妹がぴったり全裸で 密着してこようと、俺の魂は動じない。しかしリオナの胸が膨らん でしまっている事実が、一緒に入っては駄目なのではという背徳感 と一緒に、俺の心の柔らかいところを責めさいなむ。 ︵膨らんでいる⋮⋮つまり、母性スキルが伸び始めている⋮⋮? い、いや、確かめたりはしないぞ︶ ﹁ひ、ヒロちゃん⋮⋮どうしたの、だまっちゃって。何にも言って くれないと、はずかしいよ⋮⋮﹂ ﹁ち、ちがっ⋮⋮お、俺は、べ、別に、その、気にしてるとかじゃ なくて、きょ、興味ないしっ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮お母さんといっしょのほうが、よかった?﹂ ︵そんな究極の質問をされても⋮⋮俺に死ねというのか⋮⋮っ︶ リオナはもう女の子として、そういう機微が分かってるみたいで、 785 サラサさんが俺に見せる態度についても薄々感じ取っているみたい だった。 最近はサラサさんに授乳してもらうことはないけど、彼女が時々 期待してくれているというのは分かってしまう。そんなとき、リオ ナが切なそうな目で俺を見てくる⋮⋮八歳で嫉妬なんてあるわけな い、と最初は思おうとしたが、何度も続くと、気のせいではないと 断言せざるを得なかった。 ︵リオナを傷つけないためには、どう言えば⋮⋮しょ、正直になる しかないのか⋮⋮?︶ 交渉術で選択肢を出したい気分になったが、マナ切れ回避のため のポーションを飲むのも不自然だ。もうちょっと使い勝手が良けれ ば、結構頼れるスキルなのに。 俺は腹をくくり、目を潤ませているリオナに向かって、出来る限 り優しく言った。 ﹁そんなことないから、心配するな。俺は、む、胸の大きさとか、 あんまり気にしないから﹂ ﹁⋮⋮これくらいでも、だいじょうぶ?﹂ ﹁ぶっ⋮⋮み、見せるなっ、ほんとにそれはだめだっ⋮⋮そ、ソニ アも見せなくていいっ!﹂ ﹁おにいたん、お顔がまっかだよ? おふろ、まだはいってないの に﹂ 俺はもちろんソニアの裸身に反応したわけではなく、リオナの方 に⋮⋮いや、どっちもまずい。布で隠していた部分をあろうことか、 自分からぴら、と見せてくるなんて⋮⋮本当にふくらんでるし。 786 ︵こ、これは、何の他意もなく⋮⋮俺は決してロリコンじゃないか ら、ただの定期的なステータス確認で⋮⋮︶ 誰に言い訳をしているかわからないが、俺は葛藤の末に、リオナ のステータスを呼び出した。 ◆ステータス◆ 名前:リオナ・ローネイア 夢魔 女性 8歳 レベル7 ジョブ:奴隷︵あなたを主人とする︶ ライフ:64/64 マナ:1176/1176 スキル: 薬師 16 手芸 10 白魔術 70 恵体 2 魔術素養 96 魅力 32 夢魔 72 母性 10 不幸 108 限界突破 16 奴隷 24 787 アクションスキル: 手縫い︵手芸10︶ 催眠︵夢魔30︶ 飛行︵夢魔40︶ 誘惑︵夢魔50︶ 夢喰い︵夢魔60︶ パッシブスキル: ︻対異性︼魅了︵夢魔10︶ 完全魅了耐性︵夢魔20︶ ︻催淫︼魔眼︵夢魔70︶ 薬草学︵薬師10︶ 治癒術レベル7︵白魔術70︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ ︻×︼ハプニング︵不幸10︶ ︻×︼没落︵不幸50︶ ︻×︼凶星︵不幸100︶ 魔王リリスの転生体 種族による職業制限あり ︻×︼徐々に不幸値が上昇 残りスキルポイント:21 夢魔、魔術素養、不幸が成長と共に著しく伸びてしまうリオナだ が、不幸スキルの影響は幸いにも封印することができている。×が ついた部分は、一時的に無効化されているという意味だ。 魔王に覚醒しかかった︱︱いや、一時的に半覚醒した代償に得た 788 白魔術は失われていないが、リオナは自分からは使おうとしない。 どうやら、自分が魔術を使えるということを忘れてしまったようだ。 サラサさんに教えてもらって初級の治癒魔術を使えるという自覚は あるが、それ以上は能力的には使えるけれど、本人が使えると知ら ないので使えないという状態だ。 ﹁ヒロちゃん⋮⋮あ、あのね。私、まだ赤ちゃんだったけど、覚え てることがあって⋮⋮﹂ ﹁うぇっ?﹂ ﹁おにいたん、へんなこえ出しちゃだめ。ママにおこられるよ?﹂ ︵あ、赤ん坊だったけど覚えてるって、何を⋮⋮ま、まさか⋮⋮! ?︶ リオナはもじもじしつつ、胸を隠すタオルをきゅっと掴みしめる。 風呂場でも外さない首輪が、今は何だか、とても背徳的なものに見 えた。 ﹁ひ、ヒロちゃん⋮⋮お母さんのお胸、さわってたよね? 私がお っぱいもらってるときに、一緒に⋮⋮﹂ ︱︱気づいていたのかリオナ。俺の手があの時光り輝いていたこ とに。 ︵いや、かっこつけてる場合じゃなくて⋮⋮お、覚えてたのか⋮⋮ 俺がサラサさんのバストに、ことあるごとに触れていたことを⋮⋮ !︶ リオナはそれをどう思っているのかと思うと、いきなり心臓がバ クバクしてきた。最低ヒロちゃん、と前世で言われたことはないの 789 だが、初めて言われてしまうかもしれない。 ﹁そ、そのことを、最近思い出したら⋮⋮胸がどきどきするの。ヒ ロちゃん⋮⋮どうして⋮⋮?﹂ ﹁ど、どうしてって言われてもだな、そうだ、ドキドキする時は、 気持ちが安らぐポーションをだな⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮私もお胸がお母さんみたいに大きくなったら⋮⋮ヒロちゃん に、同じふうにして欲しいの﹂ ︵ほげぇぇぇ!?︶ どうして、と聞きながら、リオナの中でもう答えが出ているだな んて。待ってくれ、そんなことを︻催淫︼の力を持つ魔眼で見つめ ながら言わないでくれ。八歳でそのスキルは色々と危険すぎる、封 印するまで目を閉じていてくれ。いや、目隠しプレイとかそういう 意味じゃなくて。 ダメだ、全く冷静でいられない。まだ八歳と思って甘く見ていた ⋮⋮前世でも小学生の性の乱れが問題になっていたじゃないか。あ んなのはけしからんと思っていたが、俺の方がよっぽどけしからん 人生を送ってきてしまっている。文句を言えた義理なのか。いや、 今は反省してる場合でもない。 ﹁リオナおねえたんのおむねが大きくなったら、そにあもさわって いーい?﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、あのね、ソニアちゃんは⋮⋮えっとね、えっとね⋮ ⋮﹂ ﹁ヒロおにいたんはさわっていいのに、そにあはだめなの⋮⋮?﹂ ﹁う、うん⋮⋮ヒロちゃんは男の子だから、今でもサラサお母さん のお胸をさわって⋮⋮女の子はそんなに、お友達のお胸はさわらな 790 いでしょ?﹂ ﹁そう? リオナおねえたんのおむねなら、さわりたい!﹂ ︵うちの妹が、幼なじみと百合関係になるわけがない⋮⋮なんてな︶ たぶん、俺が触るなら私も触る、という妹心理だろう。リオナと しては妹に触られるほうが恥ずかしいらしい。その優先度のつけか たは、ちょっと俺としては理解不能だ。実にけしからん。 ﹁⋮⋮あ、あの、ヒロちゃん⋮⋮今さわってみる? 私の胸、ソニ アちゃんが言うとおり、ちょっとおっきくなったから﹂ ﹁うわぁぁっ、ま、待てっ、見せなくていい! み、見たくないと かじゃないけど、見せなくていい!﹂ ﹁見たいなら、見てもいいよ⋮⋮? ステラお姉ちゃんも、そのう ち見せるって言ってたし﹂ ︵どういう話をしてるんだ⋮⋮気になる⋮⋮というかステラ姉まで ⋮⋮!?︶ 八歳のリオナだけでなく、十歳のステラ姉まで俺に胸を見せたい という。なんだこの状況は⋮⋮俺が今までしてきたスキル上げ行為 に裁きを下そうというのか。それとも俺に精神攻撃をして追い詰め ようという女神の策略なのか。 ︵⋮⋮落ち着け俺、こんなときこそクールに、スマートにだ︶ そもそも考えてみれば、なんら不思議なことではない。リオナも ステラ姉も、かなりの好意を寄せてくれている。それが、気づかな いうちに胸を見せてもいい段階に来てしまっていただけだ。いや、 どう考えても不思議でならないというか、もうわけがわからない。 791 ﹁ヒロちゃんに喜んでもらえるように、私もおっきくしようとして るの⋮⋮山羊さんのミルクを飲むのがいいんだって﹂ ﹁そ、そうなのか⋮⋮あんまり無理はしなくてもいいぞ。し、自然 に成長するのが一番だからな﹂ ﹁⋮⋮ヒロちゃん、おっきくできる? 私のお胸﹂ ︵そんなお願いをする女の子ではなかったぞ、前世のおまえは⋮⋮ くっ、そんなこと言うわけにいかないし︶ 何を言っても今のリオナには通じない。夢魔という種族は、全力 で童貞を殺しに来るのだろうか。八歳にしてこの凶悪さでは、十五 歳まで守りきれる気がしない。 ︵い、いや⋮⋮リオナは陽菜でもあるんだ。前世的には十八歳未満 だと駄目だったんじゃなかったか⋮⋮くそっ、そんな法律なんて気 にする機会もなかったのに⋮⋮!︶ ﹁と、とりあえず⋮⋮お胸って言うのはだめだ。胸の話は、もっと こう、大人になってからするべきなんだ﹂ ﹁⋮⋮ヒロちゃんの前でしか言わないよ?﹂ ﹁お、俺の前でもはっきり言っちゃだめだ。胸の話は、恥ずかしい ものなんだ﹂ ﹁は、恥ずかしくてもいいもん⋮⋮ヒロちゃんに言うんだったら﹂ ﹁もっと照れながら言うんだったらいいけど、堂々と言っちゃだめ だ。胸は大事なんだ、女の子の大切なものなんだから⋮⋮わかるか ?﹂ 必死に説得しようとしているうちに、俺の心は逆に穏やかになっ てきていた。バストっていうのはね、何というか、救われてなきゃ 792 ダメなんだ。そこには男の憧れの全てが詰まっているんだ。 ﹁⋮⋮うん、わかった。ヒロちゃん、ありがとう、教えてくれて﹂ ﹁良かった⋮⋮分かってもらえて。だから、ちゃんと隠さないと。 俺と一緒に風呂に入ることも、そんなにはないと思うけど⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮もう、一緒に入れないの? ソニアちゃんとだけ入るつ もりなの⋮⋮?﹂ ﹁そにあは、おにいたんと、リオナおねえたんといっしょにはいり たい。あらいっこしたい﹂ ︵妹よ⋮⋮気持ちは嬉しいけど、膨らみ始めたらわりとあっという 間なんだ。前世でそうだったんだ⋮⋮!︶ 食べてるものも送っている人生の内容も違うが、俺は確信してい た。たとえリオナがサラサさんと血が繋がっていなくとも、このま まのペースだとお母さんに匹敵するくらいに成長するであろうと。 ﹁やだ⋮⋮私もヒロちゃんと入りたい。ヒロちゃんの背中、流して あげたいもん﹂ ﹁くっ⋮⋮わ、分かった。分かったから、そんな泣きそうな目で見 ないでくれ﹂ ﹁な、泣いてないよ? ちょっと水がはねちゃっただけだもん。ね、 ソニアちゃん﹂ ﹁⋮⋮へっくちん!﹂ ソニアがくしゃみを⋮⋮そ、そうか。こんな格好でいつまでも話 してたら風邪を引いてしまう。早く風呂に浸からせてあげないと。 ﹁リオナ、とりあえず胸は隠して、ソニアを洗って先にお風呂に入 れてあげよう﹂ 793 ﹁ご、ごめんねソニアちゃん、私、自分のことばかり考えてて⋮⋮﹂ リオナは顔を真っ赤にして照れつつ、率先してソニアの身体を洗 ってくれる。焼き餅を焼くことがあるとは思っていたけど、もうす っかり女の子だな⋮⋮リオナは。 しかし8歳で母性10って⋮⋮フィリアネスさんと同じく、若く して20を超えてしまいそうだ。その時は、俺は倫理を選べるのか ⋮⋮しかしリオナからもして欲しいと言われてしまったしな。いや、 リオナの状況を考えると、スキルをもらおうとするのは本気で間違 ってる気もするし⋮⋮。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん、じっと見ちゃだめだよ? さっきは見せたけど、 今は隠してるんだから﹂ ﹁あっ⋮⋮ご、ごめん、気をつけるよ﹂ 俺が説得した結果、リオナに今まで以上の羞恥心が芽生えてしま った⋮⋮良かったのか、悪かったのか。いや、良かったに決まって るな。そうだと思わないとやってられない。 ﹁つぎは、そにあがおにいたんのことあらってあげる!﹂ 天真爛漫なソニアだが、この子はこの子で、ちょっと謎めいた部 分があったりする。 ◆ステータス◆ 名前 ソニア・ジークリッド 人間 女性 3歳 レベル3 ジョブ:村人 794 ライフ:64/64 マナ :48/48 スキル: 気品 3 恵体 2 魔術素養 3 ??? 10 アクションスキル: ??? パッシブスキル: ??? 残りスキルポイント:9 ︵詳細不明のスキル⋮⋮こんなの、見たことないぞ︶ ソニアが持っている謎のスキルは、種族や職業に関係なく上昇し て、10に達していた。そして、母さんから得た気品、身体を動か すだけでも多少は上がる恵体はまだしも、上がる理由がないはずの 魔術素養が上昇している。 俺が知らないことが、この世界には山ほどあるが⋮⋮まさか、妹 が未知のスキルを持って生まれてくるなんてことがあるとは思わな かった。詳細鑑定、あるいは真眼を用いれば、おそらく名称が判明 するのだろうが、今はまだそれらを利用する方法がない。 795 ﹁ソニアちゃん、目を閉じてね。泡を流すから﹂ ﹁うん! きゃはははっ、ざばーん!﹂ リオナが桶で汲んだ湯を浴びてはしゃいでいるソニアを見ながら、 俺は思う。子供のステータスは見ないようにしてきたが、そんなこ とをしていたら、致命的な見逃しをする可能性があるのだと。 しかし心配すると同時に、未知のスキルに対する好奇心があるこ とも否定できない。悪いものじゃなく、素晴らしいものである可能 性もあるからだ。 どちらにせよ、上位の鑑定スキルを自分で手に入れるか、スキル を所持している人と知り合いになっておきたい。人の多い首都なら、 そんな出会いもあるかもしれないと期待していた。 ◇◆◇ 翌日の朝、俺はシャーリーさんに教えてもらった通りに、ミゼー ルと首都ジュヌーヴの公道の途中から、山に入っていったところに ある山賊のアジトを目指した。 事前に盗賊スキルの﹃忍び足﹄を発動できるポーションをネリス さんに作ってもらい、みんなに配ってある。最初から百人以上の敵 を相手にするつもりはなく、ボスを狙う作戦だった。 山賊たちは、山中に作られた古い砦に住み着いて根城にしていた。 この辺りで、昔戦でもあったんだろうか⋮⋮と考えて、俺はゲーム 時代の、ジュネガン公国の歴史について思い出す。 ジュネガン公国は、もとは四人の兄弟が作った国だった。建国当 796 初は四人で分割統治を行っていたが、長兄が欲望に駆られ、他の兄 弟の領地を奪おうと戦争を起こした。戦争は四兄弟全てを巻き込ん だが、上の兄弟たちが争っている間、最も弱いと見られて攻めるの を後回しにされた末弟の国が、弱った兄たちの国を一気に攻め落と したのである。末弟は自分の国の国力を、兄達に対してあえて小さ く見せ続けていたのだ。本気を出せば四国を統一出来る力があった にもかかわらず、領民の流す血を少しでも減らすために。 今に続く公王家の系譜は、その末弟から始まり、今に至っている。 そのため、四兄弟が戦場とした場所には、戦争で使用された砦など が残っているのではないか︱︱と思ったわけだが。たぶんギルドで 把握しているのは山賊のアジトの位置までで、建物がいつの時代の ものかは知らなかったのだろう。シャーリーさんからは、事前に何 も聞かされてなかった。 ﹁さて⋮⋮ここからは、スキルで気配を消した斥候が出てきている 可能性がある。俺たちも気配を消しておこう﹂ ﹃了解﹄ 三人が同時に頷き、忍び足のポーションを飲む。 ◆ログ◆ ・︽モニカ︾︽ウェンディ︾︽名無し︾は﹁忍び足のポーション﹂ を飲んだ。 ・使用者の気配が消えた。 ・あなたは﹁忍び足﹂を使用した。あなたの気配が消えた。 797 ディテクト これで敵からは気づかれにくくなる。忍び足を確実に見抜くには ﹃看破﹄のスキルが必要だが、これはおそらく、ほとんど持ってい る人がいない。交渉術を110まで上げた時に取れた、非常に強力 なスキルだからだ。 ﹁それじゃ、俺は砦に入ってボスを探す。モニカさんたちは火が広 がりすぎないようにしつつ、森の中で煙を起こしてくれ。そっちに 砦の中のやつらの気が向いたら、みんなは砦が見える位置で伏せて てほしい﹂ ﹁ヒロト⋮⋮一人で大丈夫? 砦の中に、罠がないとも限らないわ よ﹂ ﹁大丈夫、ここは俺に任せて﹂ 人間を相手にしたとき、全力で戦っても殺さずにいられるのは、 パーティでは唯一﹁手加減﹂を持つ俺だけだ。︻神聖︼剣技スキル を上げる過程で取得していて、色んな場面で役に立っていた。 ガード ゲームでは罪を犯すとカルマが上がり、町に入れなくなったり、 守備兵に指名手配されるなどの厳しいペナルティがあった。異世界 ではカルマがどうこうというより、法で犯罪は裁かれるので、殺人、 盗みなどを犯して発覚した時点で犯罪者となる。 敵が俺たちを殺しにかかってくれば、こちらも不殺で応戦するこ とは難しくなる。そのため、俺は今回みんなには補助役をしてもら うつもりだった。もし犯罪者を殺害しても罪にはならないが、殺害 数に応じて就ける職業に影響が出てきてしまう。 ﹁モニカ姉ちゃん、矢は麻痺毒の矢か、眠りの矢を使うようにして。 ウェンディも大丈夫だと思うけど、もし戦闘になったら、武器破壊 技を使うんだ。名無しさんも補助魔法で、敵の動きを止めてほしい﹂ ﹁山賊はみんな、殺さずに倒すっていうことね⋮⋮分かったわ。倒 798 した敵は生け捕りにして、縛っておきましょう﹂ ﹁武器破壊⋮⋮分かりました、成功率を上げるためにソードブレイ カーに装備を変えるでありますっ﹂ ﹁小生は平常運転だね。牽制に攻撃魔法を使うかもしれないけど、 威力は抑えておこう﹂ 法術士はマナの消費量を自分で調節できるので、同じ法術でもダ メージが変わる。法術レベル×10が、一度に使用できるマナの最 大値だ。 ﹁みんな、くれぐれも無理はしないでくれ。それじゃ、作戦を始め よう﹂ みんなが頷いたのを確認したあと、俺は砦の裏手に回る。見張り に立っている山賊の位置を確認しつつ、俺は中に侵入できそうな場 所を探す︱︱砦の回りを囲む壁の一箇所に蔦が伝っていて、そこは 登ることが出来そうだった。 ︵潜入任務か⋮⋮ゲームでもあったな。あれはバレたら最初からや り直しだったけど、今回は気が楽だ︶ ばれた時点で、全員昏倒させる方向に切り替えてもいいわけだ。 ここまでの移動に力を借りたユィシアも、実は森の中で待機してい たりするので、戦力は十分すぎる。ただユィシアは全く手加減出来 ないので、竜魔術で敵を石にしてもらうなどしてもらわないといけ ない。治癒術レベル7のヒーリング・レインはリオナしか使えない し、他に石化を解けるのは現状ではエリクシールだけなので、でき れば石化は使いたくなかった。 考えつつも俺は、見張りが交代する時に注意をそらした隙を突き、 799 蔦を利用して砦の壁をするすると上り、忍び足の効力で音もなく内 側に降り立つ。サッと物陰に隠れて周囲の状況を把握する︱︱する と、近くから話し声が聞こえてきた。 ﹁なあ、おかしらってウチの誰かと付き合ってんのかな?﹂ ﹁何言ってんだよ、おかしらは俺がいい男だからってんで引き入れ てくれたんだぜ﹂ ﹁ええ? 俺もそう言って誘われたけど、山賊に入ってからは、俺 が手柄を挙げて幹部になるまでは、皆の手前特別扱い出来ないって 言われたんだが⋮⋮﹂ ﹁バーカ、そりゃお前なんか眼中にないってことだよ﹂ ﹁わ、分かんねえだろ! 見てろよ、俺だってすげえお宝を盗んで 幹部になってやる!﹂ ハニートラップというのか、キャッチセールスというのか。山賊 の首領はどうやら、女を武器にして男性の部下を集めてきたようだ。 こんな状態だと、いつか内部崩壊を招きそうな気もするが。 ﹁あんたたち、私語ばかりしてんじゃないよ! ちゃんと見張りな !﹂ ﹃あ、アイアイサー!﹄ 黒く短い髪の眼帯をした女性が、男たちを叱咤する。あれが首領 ⋮⋮いや、どうやら違うようだ。 ﹁⋮⋮ふう、こええこええ。うちの女どもは、みんな性格がキツイ のなんのって﹂ ﹁パメラ姐さんも、性格はああだからなぁ⋮⋮まあ、引っかかっち まったもんはしょうがねえか﹂ ﹁まあな。あー、姐さんの水浴びとか覗けねえもんか﹂ 800 ﹁やめとけ、砦の一番奥だからもし見つかっても、外まで逃げるま でに捕まるぜ。おかしらにお仕置きされるなら本望だが、まあ爪の ひとつは剥がされるだろうしな﹂ ﹁何もしないうちから諦めんなよ! こっちは三ヶ月も町に出てな くて、いろいろ我慢の限界なんだよ!﹂ 山賊も大変だな⋮⋮なんて同情してやってもいいくらいには、彼 らは多くの情報を提供してくれた。見張りに必要なものは、私語を 全くしない寡黙さ、退屈に耐える精神力だ。そのどちらも、彼らに は著しく欠けているが。 ﹁お疲れ様、お兄さんたち。それと、おやすみ﹂ ﹁えっ⋮⋮ぐへっ!﹂ ﹁うぼぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁峰打ち﹂を放った! ・︽ザム︾に173ダメージ! ・﹁手加減﹂が発動! ︽ザム︾は昏倒した。 ・あなたは﹁峰打ち﹂を放った!﹂ ・︽ベンディ︾に168ダメージ! ・﹁手加減﹂が発動! ︽ベンディ︾は昏倒した。 斧の平たい面で殴る、それが峰打ちである。騎士道スキル30で 取れるのだが、騎士道は50で手加減も取れるし、敵に手心を加え る系のスキルが多い。今のところ、俺は30までしか上げられない が。 801 とにかく盗賊二人は昏倒させたので、近くの部屋を開けて空室で あることを確かめたあと、手足を縛って放り込んでおく。もしこの まま放置してしまうことになった場合のために、頑張れば届く位置 に、男たち自身が持っていたナイフを置いておいた。ロープを切れ ば離脱出来るだろう︱︱起きた時には、山賊は壊滅しているのだが。 ◇◆◇ 首領がどこにいるのかは﹁砦の奥﹂というだけでははっきりしな かったが、見張りの山賊がことごとく雑談を交わしていたので、彼 らの話を聞き、倒し、縛り、先に進むことの繰り返しでなんとかな った。 どうやら昨夜は酒宴が行われたらしく、山賊たちは略奪に出るこ ともなく砦の中で半数以上が寝ていた。起きてきて見張りをしてい る連中はまだマシな方だが、まだ昨日の高揚感が抜けておらず、べ らべらと内情を喋ってくれる。ポイズンローズは首領を含めて幹部 が全て女性であること、どうやら首領は男性を誘惑してスカウトす るものの、実際は男性嫌いであるらしいとも分かった。必要な情報 なのかどうかわからないが。 ︵この絶対の好機を逃すわけにはいかないだろう、常識的に考えて︶ 合計十人ほど見張りを倒したあと、俺はようやく、首領が水浴び をしているらしい浴室の前にまで辿り着いた。首領ともあれば、風 呂場にも武器を持ち込んでいるかもしれないので、一応は応戦出来 るように準備しつつ、浴室の扉に手をかける。古い砦の中にわざわ 802 ざ新しく浴室を作るのはいいが、財政が苦しくて奴隷売買に手を出 したというのにこんな贅沢をしているようでは⋮⋮と呆れつつ、俺 は片手に斧を構えつつ、大胆に扉を開けた。 ◆ログ◆ ・あなたは扉を開けた。 ﹁動くな! 抵抗しなければ、悪いようにはしない!﹂ ﹁チッ⋮⋮こんなガキをみすみす通すなんざ、見張りの奴ら、本当 に使えないね。だけどね、風呂場ならあたしをやれると思ったら大 間違いだよっ!﹂ 全裸で水を浴びていた女首領は、自らの格好に構うことなく、手 の届く場所に置かれていた短剣を手に取り、俺に向かって投擲して くる。 ︵なかなか速いな⋮⋮しかし⋮⋮!︶ ﹁はぁっ!﹂ 俺は斧を振り抜き、短剣を弾く。短剣は天井に突き立ち、女首領 は武器を失った。 ﹁斧なんかで、あたしのナイフを⋮⋮こ、このガキ、強すぎるっ⋮ ⋮!﹂ ﹁⋮⋮あれ?﹂ 803 どこかで見たことある⋮⋮この、青みがかったカーリーヘア。目 つきがちょっときつくて⋮⋮でも、かなりの美人で。 ︵⋮⋮むしろ、どうして忘れてたんだ。盗賊スキルを今でも使わせ てもらってるのに︶ ﹁な、なんだってあたしはいつもガキに⋮⋮何の恨みがあるってん だよ⋮⋮っ!﹂ ﹁お姉さん、俺は、お姉さんのことをよく知ってると思うんだけど ⋮⋮お姉さんは、忘れちゃったかな?﹂ 俺は斧をしまっていた。もう、武器を構える必要もないと思った からだ。 裸のままの女首領は、俺の視線が今頃気になってきたのか、胸と 下半身を手で隠しつつ、目を見開いて俺をまじまじと見ている⋮⋮ そして。 ﹁あんた⋮⋮どこかで、会ったことが⋮⋮い、いや、そんなことあ パメラ るわけない。あのガキが、こんなとこに来るわけないっ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮じゃあ、こう言ったらわかるかな。あえあ﹂ そう︱︱彼女の名前は、パメラ・ブランネル。俺がまだ揺りかご の中にいた赤ん坊の頃に、うちに火事場泥棒に入って、授乳ループ からのマナ切れコンボによって退治された盗賊だ。 女盗賊と言われた時点で、ピンと来るべきだった。金が足りない から奴隷を売るなんて発想も、この人なら納得できる。赤ん坊の俺 を誘拐しよう、とも言いかけてたし。 ﹁⋮⋮あ⋮⋮あぁ⋮⋮あぁぁぁぁぁっ⋮⋮!?﹂ 804 パメラの反応はすさまじいものだった。ビクビクと身体を震わせ たかと思うと、ぺたんとしゃがみこんで、じりじりと後ろに後ずさ っていく⋮⋮完全に、恐怖の大王を見る目で俺を見ていた。 ﹁や、やめっ⋮⋮もうやめて⋮⋮あ、あたしが何したってんだい⋮ ⋮やっと新しい組織を作って、これからだって時に、なんであんた が出てくるんだよぉっ⋮⋮!﹂ パメラがふるふると震えながら言う。まあ、そうだろうな⋮⋮俺 が吸乳鬼として、正当防衛とはいえ誰かに危害を加えたのはあれが 初めてだった。短時間で84回、文字通り吸い尽くしてやったが、 最後はもうパメラは俺のことを人間を見る目で見ていなかった。 ︵怖がられるのはあんまり好きじゃないけどな⋮⋮まあ、仕方ない か︶ ﹁パメラ・ブランネルさん⋮⋮でいいんだよね。確か、直接名前を 聞いたことはなかったはずだ﹂ ﹁だ、だから、何で名前を⋮⋮赤ん坊の時だって、あたしの名前を 呼んで⋮⋮ど、どれだけ怖かったか分かってんのかいっ!﹂ 涙目で訴えられても⋮⋮美人なんだけど、ちょっと残念なところ のある人だな。間違いなく鬼畜だし。 しかし彼女にとっては、俺はそれ以上にヤバイ存在に違いない。 まさか、こんな形で山賊討伐を終えられるとは思わなかったが⋮⋮ これ以上戦わずに済むなら、それに越したことはない。 ﹁俺のことを怖がってるのは分かるよ。でも、あの時の泥棒で懲り なかったんだね⋮⋮﹂ ﹁あ、あたしは盗賊ギルドの人間だ⋮⋮盗品をさばくのが、あたし 805 にとってのまっとうな生き方なんだよっ!﹂ ﹁うん、それは分からないでもないんだけど。俺も盗賊はそういう ものだって分かってる⋮⋮けど、放っておくわけにはいかないんだ。 今回ばかりはね﹂ 自分でも勿体つけたしゃべり方だと思うが、パメラには効果的だ った。俺の話の続きを気にせずには居られないみたいで、怯えつつ も黙って耳を傾けている。まあ怯えてる時点で、交渉は一方的に俺 が有利なんだけど。 ﹁今度、俺の友達が荷馬車をミゼールからジュヌーヴに走らせるん だ。もしパメラさんたちの手下がその荷馬車を見つけたら、どうし てた?﹂ ﹁き、決まってるだろ⋮⋮馬も、荷物も、運んでるのがあんたみた いなガキだったら、そいつもまとめて売りさばくよ。抵抗するんだ ったら、殺して⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮俺の友達を?﹂ ﹁ひぃっ⋮⋮!﹂ パメラはさらに後ろに逃げようとするが、そこはもう壁だった。 俺は普通に聞き返しただけなんだけど⋮⋮そんなに怖かったかな。 あまり追い込みすぎるのも良くないけど、この人にはもう少し反省 してもらった方が良さそうだ。万が一にもアッシュや、他の人達に 危害を加えるようなことがあってはいけない。 ﹁ポイズンローズっていう名前は、パメラさんが考えたの?﹂ ﹁そ、そうだよ⋮⋮き、きれいな花には、毒があるって言うじゃな いか⋮⋮﹂ ﹁トゲがある﹂じゃないのかと思ったが、意味的には大して変わ 806 らないので、それはいい。俺は一歩ずつパメラさんに近づいて、が くがくぶるぶると震えている彼女を、壁に手を突いてずい、と覗き こんだ。壁ドンというには、俺が幼くて妙な構図だ。 ﹁なかなかいい名前だね⋮⋮でも、毒があると困るんだ。これから、 毒抜きしてあげようか?﹂ ﹁ど、毒抜きって⋮⋮あ、あんた、ガキのくせに⋮⋮あ、あたしは まだ処女なんだよっ⋮⋮!?﹂ ものすごい勘違いをされてるけど、まあそれも仕方ないか⋮⋮っ て、何だか可哀想になってきたな。しかしパメラは俺には怯えてい るが、既に荷馬車を何度も襲い、捕らえた奴隷を売ってしまってい る。それは、商人や旅人に甚大な被害を与えてきたっていうことだ。 彼女に捕まって欲しいとか、処刑されて欲しいなんてことは考え てない。そんなことをしても、奪われたものは返ってはこない︱︱ それならば。 ﹁もし俺のお願いを聞いてくれたら、これからも仕事を続けてもい い。でも、それは山賊稼業じゃない。他の山賊が荷馬車に手を出さ ないように護衛する役目だ。それと、捕らえて売った人たちを返し てもらう﹂ ﹁そ、そんなこと出来るわけないだろっ⋮⋮今、この国と敵対して る隣の国に売っちまったんだから!﹂ ﹁売った経路を知ってるのなら、それを教えてくれるだけでもいい。 一番は、略奪から足を洗って、まっとうに生きて欲しいっていうこ とにあるんだ。このまま山賊を続ければ、いずれは公国の騎士団を 差し向けられる。それで容赦なく潰されるより、俺のいうことを聞 いた方がいい﹂ ﹁くぅっ⋮⋮そ、そんなに上手く行ったら苦労しないよ⋮⋮盗んで 売ることに慣れたら、護衛でもらうチンケな報酬なんかで満足出来 807 るもんか⋮⋮!﹂ 実は交易で稼ぐより、効率のいい稼ぎ方なんて幾らでもある。多 彩なスキルを持っている俺だから出来ることではあるのだが。 ﹁分かった。じゃあ、俺から契約金を出そう。ポイズンローズの人 数は、全部で何人なんだ?﹂ ﹁ひゃ、103人だよ⋮⋮あたしを入れて﹂ ﹁じゃあ、金貨103枚。一人一枚ずつで分ければいい。でも、俺 は契約を破った奴を許さない。そのことだけは、厳しく知らしめて おく。あまりこういうやり方は好きじゃないんだけどな﹂ ﹁う、嘘ばっかり⋮⋮あんたは鬼だよ⋮⋮やっぱり人の乳を吸って 生きる悪魔の子だよっ⋮⋮!﹂ パメラは気丈に俺を罵倒する。彼女はブレないな⋮⋮ちょっと感 心さえもする。 ﹁︱︱でも、パメラさんは俺のことが嫌いじゃないはずだよ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなこと⋮⋮あ、あたしは、あんたのことなんて⋮ ⋮っ﹂ 今までずっと封印してきた︱︱あまりに威力が強すぎて。しかし 今回、山賊を改心させるために使わせてもらう。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁魅了﹂スキルをアクティブにした。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽パメラ︾は抵抗に失敗、魅了状態になった。 808 ﹁っ⋮⋮あ、あんた⋮⋮あたしのことあんなにしておいて⋮⋮わ、 忘れられるわけないだろっ、馬鹿っ⋮⋮!﹂ 怯えていたり、圧倒的なレベル差があったりすると﹁魅了﹂のか かる条件を満たすことができる。パメラのレベルは六年前とさほど 変わらなかったので、俺とのレベル差が50近く開いていた。 ﹁ごめん、今まで放っておいて。謝るから、お願いを聞いてくれな いかな?﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽パメラ︾に﹁依頼﹂をした。 ﹁⋮⋮分かったよ。売った奴隷を連れ戻せばいいんだね⋮⋮それと、 公道を行き来する荷馬車を、他の賊から守る。それでいいのかい?﹂ ﹁ああ。他の山賊は、じきに俺たちと騎士団の手で壊滅させる。そ うしたらポイズンローズは解散していい。後のことは、俺は関知し ないが⋮⋮もしパメラさんがまた悪党を結成するようなら、その時 は⋮⋮﹂ ﹁し、しない⋮⋮絶対にしない。あんたとの契約を守ったら、後は 仲間を集めたりはしない。しないから、許して⋮⋮後生だから、堪 忍してっ⋮⋮!﹂ よっぽど赤ん坊の俺に倒されたのがトラウマになってるんだな⋮ ⋮しかしまあ、パメラが山賊を解散して一人になったところで、盗 賊である以上は、また泥棒に入ったりしてしまうわけで。 809 ﹁⋮⋮それと。パメラには、後で俺のパーティに入ってもらう。冒 険者として身を立てるのも、悪くないだろ?﹂ ﹁トレジャーハンターでもしろってのかい⋮⋮ふぅ。分かったよ、 あたしはあんたの言うことを聞く⋮⋮だから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮だから?﹂ 聞き返すと、パメラは俺の後ろに視線を送る。そこには、意外に も几帳面に畳んで置かれたパメラの服があった。 ﹁ふ、服くらい着させてもらわないと⋮⋮あ、あんたに見られてる と落ち着かないんだよっ、人のことじーっと見て、ばぶばぶ言いな がらぺたぺた触って⋮⋮わ、分かってんのかい! あたしは男に触 られるのは、あれが初めてだったんだよっ!﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮あれはちょっとやり過ぎたかと思ってる。反省し てるよ﹂ 俺はパメラに服を渡し、背を向ける。そこまで隙を見せても、パ メラは攻撃してきたりはせずに服を着た。 ﹁⋮⋮い、言っとくけど⋮⋮どこまで知ってるか知らないけど、あ たしは色仕掛けで仲間を集めたけど、寝てなんかいないよ。あんた のせいで、男が怖くなっちまったんだからね﹂ ﹁まあ、俺の家に盗みに入って、火をつけて、俺をさらおうとまで 言ったんだから、反省してもらわないと﹂ ﹁くぅっ⋮⋮わ、分かってるよ。反省すればいいんだろ⋮⋮はぁぁ。 なんだって、あんたみたいな男に目をつけられちまったんだか⋮⋮﹂ ﹁ガキ﹂から﹁男﹂に呼び方が変わっている⋮⋮魅了がかかって いるからかな。やはり、魅了状態で会話すると、どんな内容でも好 810 感度がガンガン上昇してしまう。 あとはポイズンローズの幹部を全員魅了すれば、ほぼ無害化する だろう。モニカさんたちに陽動をしてもらったけど、そこまでする 必要もなかったかな。 ◇◆◇ ポイズンローズ討伐が成功したこと、彼女たちが公道の荷馬車を 護衛する側に回ったことを冒険者ギルドに報告すると、最初は信じ られないという顔で見られたが、パメラのつけていた宝石のピアス と、彼女と幹部が連座で署名した覚書を見せると、さらに信じられ ないという顔をされた。もちろん、二度目は逆の意味でだ。 ポイズンローズは約束を違えたりしないとは思うものの、俺は念 のために、アッシュの荷馬車の護衛を務めてジュヌーヴまで送り届 けることにした。首都にいるフィリアネスさんたちに、ポイズンロ ーズ以外に残っている山賊討伐の協力要請をしたかったということ もある。 ﹁思いがけず大所帯になっちゃったね⋮⋮﹂ ﹁まあ気にすんなよ、アッシュ兄。俺もそこそこ強くなったから、 山賊が出てきても心配いらないぜ!﹂ ぼやくアッシュと、元気のいいディーン。だいたいこの二人はい つもこんな感じだ。 ﹁危ないから、護衛は専門の方に任せなさい。ヒロトだっていてく 811 れるし﹂ ﹁ふぁぁ⋮⋮ヒロちゃん、お馬さんを走らせるの上手だね。かっこ いい﹂ 落ち着いたステラが窘めるように言う横で、リオナはマイペース に俺を褒めてくれる。 馬の乗り方は、フィリアネスさんたちが一度ミゼールまで馬に乗 ってやってきたことがあったので、その時に教えてもらった。外で 周りの状況を確かめながら移動したかったので、仲間たちが乗って いる馬車の御者をしている。ウェンディ、名無しさん、モニカさん は別の荷馬車に乗っていた。 なぜ友達も一緒かというと、ジュネガン公国の王女のひとりが十 歳を迎え、﹁洗礼﹂が行われるためだ。首都では盛大な祝祭が開か れるので、俺がアッシュと一緒に首都に向かうことを知ったみんな も、祭りを見たくて一緒に行きたがったというわけだ。 ﹁ジュヌーヴまではあとどれくらいなんだ? もう、結構走ってき たよな﹂ ディーンに聞かれて、俺はどれくらい走ったかを太陽の位置を見 て計算する。 ﹁あと半日はかかるかな。もうすぐで半分ってところだよ﹂ ﹁そっかぁ。じゃあ、このまま無事に⋮⋮﹂ ディーンが言いかけた時だった。先導していた荷馬車が急に、止 まるように号令を出してくる。 812 ﹁バーデンさん、どうしました!?﹂ アッシュが馬車を降りて、先頭の馬車の御者をしている人に声を かける。 ﹁坊っちゃん、前方で山賊が、ジュヌーヴから来た馬車を襲ってる ようです⋮⋮!﹂ ﹁なんだって⋮⋮!?﹂ ︵ポイズンローズの守備範囲からは外れる⋮⋮他の山賊が、首都か ら来た馬車を襲ってるのか⋮⋮!︶ ﹁みんな、ちょっと待っててくれ! 俺は様子を見てくるっ!﹂ ﹁ヒロちゃん、私もいくっ!﹂ ﹁リオナはここにいなさい、ヒロトにまかせておけば大丈夫だから ⋮⋮!﹂ ステラ姉がリオナを引き止める。ディーンは無言で馬車を降りて きて、俺について走ってきた。 ﹁ディーン、あんたも戻りなさい! ここからは遊びじゃないのよ !﹂ ﹁俺だって、ヒロトと一緒に戦う練習してんだ! 何もしないでい たくない!﹂ ﹁ディーン、気をつけろ、敵に飛び道具使いがいないとも限らない ! 俺より前には出なくていい!﹂ ﹁わかったっ!﹂ 無謀なわけではなく、ディーンは俺の指示を絶対聞いてくれる。 それは、俺の強さに憧れたディーンに、戦い方を教えるための条件 813 だった。 名無しさんとウェンディも連れて、俺たちはバーデンさんが言っ ていた通り、馬車が黒い服を着た賊に襲われているところに辿り着 く。 ほろ ﹁あの馬車⋮⋮幌に公国の紋章が入っている。貴人を乗せている⋮ ⋮!﹂ ﹁なんだって⋮⋮!?﹂ 息を切らしながら名無しさんが指摘した通り、襲われている馬車 の幌には四本の剣のような印が描かれていた。 既に馬車を護衛していた騎士と賊が交戦した後で、騎士たちは敗 れてしまっていた。馬から落とされ、まだ息はあるものの、地面に 伏してうめいている。 賊は残り三人。そのうちの一人が、高々と剣を掲げて言った。 ﹁俺たちは﹃ポイズンローズ﹄だ! 公女を渡せ、さもなくば皆殺 しにするぞッ!﹂ ︵︱︱違う。ポイズンローズは、あんな服は着てない⋮⋮それ以前 に、あんな連中はいなかった⋮⋮!︶ ﹁ポイズンローズはヒロトの説得を受けて、荷馬車を襲うことはし なくなったはず⋮⋮他の山賊が、ポイズンローズに罪を着せようと してるの? それとも、ポイズンローズが裏切ったっていうの⋮⋮ !?﹂ ﹁どちらにせよ、襲われている馬車は絶体絶命でありますっ⋮⋮ど うすればいいでありますか、お師匠様っ⋮⋮!?﹂ 814 ディテクト 俺には敵の嘘を見破る方法が幾つかある。その中でも最も確実で 簡単なのは、﹁看破﹂を使うことだ。このスキルは忍び足だけでな く、あらゆる欺瞞を見破ることができる。 ︵公女⋮⋮敵は公女を狙っている。ジュネガン公国の王女が、馬車 に乗ってこの道を通ると、あらかじめ知っていて狙ったんだ︶ そう思い当たった瞬間、俺はゲーム時代に経験した、あるクエス トのことを思い出していた。今でも鮮烈で、記憶から消えることの ない、メインクエスト序盤の関門。 ジュネガン公国の公女、﹁リセエンシス・ルシエ・ジュネガン﹂。 彼女が洗礼の儀式を前にして誘拐されたことを発端とした、一連の 物語。 ︵リセエンシス⋮⋮﹁失われた姫﹂。彼女が﹁失われる﹂前から、 始められるっていうのか⋮⋮!?︶ ゲーム中では﹁美しい﹂とどれだけ言われていても、最後まで行 方不明のままで、その姿を見ることが出来なかった存在。 ﹁いやっ⋮⋮放してくださいっ⋮⋮!﹂ ﹁大人しくしろ! お前さえ連れていけば⋮⋮っ﹂ 馬車の中から引きずり出されようとしている、一人の少女。その 淡い桃色がかったストロベリーブロンドは、この世界に生まれて初 めて見る種類の髪の色だった。 ﹁︱︱やめろぉぉぉぉっ!﹂ 815 もはや一刻の猶予もない。そう悟った俺は、持てる全ての手段を 使って、さらわれようとする姫を助け出すべく走り出していた。 816 第二十二話 プリンセスとパラディン 止められた馬車の中に入り、中から公女を強引に連れ出そうとし ていた男は、走ってくる俺の声に気づいて振り返った。そして、俺 の姿を見て鼻で笑う。 ﹁子供が蛮勇を振りかざすか。不運だったな⋮⋮見たからには、全 員死んでもらわねばならない﹂ ︵勝手なことを⋮⋮っ!︶ 悪役の定番みたいなセリフを吐く相手に対して、俺はこんな相手 すら、手加減して倒すべきなのかと迷う。向こうは遠慮なく殺意を 向けて、両刃の長剣を構えて俺を迎え撃とうとしている。やはり、 まだディーンに相手をさせるには早いか⋮⋮まだディーンの強さで は、体格の差が埋められない。 しかし、敵が公女から離れたのは幸いだった。もし人質に取られ れば迂闊に手が出せなくなるところだったが、自分から距離を取っ てくれれば、何も躊躇する要素はない。 ﹁見過ごしていれば良かったものを。子供の血で剣を汚すのは、主 義に反するのだがな⋮⋮っ!﹂ この物言いは明らかに山賊じゃないが、こんな時にまで演じてい られないってことだろう。昏倒させて、後でステータスを見てみれ ば正体もわかるはずだ。 817 ソニックブレード ﹁はぁぁっ⋮⋮﹃烈風剣﹄!﹂ ◆ログ◆ ・︽シグムト︾は﹁烈風剣﹂を放った! 剣から空を切り裂く刃が 放たれる! ・あなたには効果がなかった。 剣マスタリー30で取得できる烈風剣は、剣のアクションスキル の中では貴重な中距離技で、斬撃と共に魔力の刃を放つという技だ。 武器も良いものを使っているし、技も悪くはない。しかし恵体が 100を超え、防具もある程度整えている俺には、300ダメージ 以上の攻撃しか貫通しない。こんな攻撃、見てから回避余裕でした というやつだ。 ﹁︱︱遅いっ!﹂ ﹁なっ⋮⋮か、かわしただと⋮⋮小賢しいっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽シグムト︾の攻撃! ・あなたには効果がなかった。あなたのスーパーカウンター! 難なくシグムトという男の長剣による突きを避けると、相手が大 きな隙を作る。そのままの勢いで、敵は俺の後ろまで駆け抜けてい ってしまう︱︱背中ががら空きだ。 818 ﹁一撃で仕留めることにこだわりすぎだ。それじゃ、俺には勝てな い﹂ ﹁︱︱貴様ぁぁぁっ!﹂ 俺の言葉を侮辱と受け取ったのか、シグムトは振り返りざまに斬 撃を放とうとする。カウンターをしなかったのはただの気まぐれだ が、舐めていると思われても無理はないだろう。 だが大振りの剣が俺を捉えられるわけもなく、二回目の大きな隙 が生まれる。こんなにブンブン振り回していたら、ソードリザード に勝てるかどうかも怪しいものだ。パリィされたら、痛烈な反撃を 浴びて殺されてしまうだろう。 ﹁雷の精霊よ⋮⋮我が斧に、ひととき力を宿し給え。﹃パラライズ・ スマッシュ﹄!﹂ ﹁なっ⋮⋮そ、それは聖騎士のっ⋮⋮魔法剣っ⋮⋮!﹂ ﹁︱︱喰らえっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁パラライズ﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁スマッシュ﹂を放った! ﹁麻痺脳天撃!﹂ ・︽シグムト︾に554ダメージ! オーバーキル! ・﹁手加減﹂が発動した! ︽シグムト︾は昏倒した。 ・あなたの武器エンチャントが解除された。 819 ﹁うぐぁっ⋮⋮!﹂ スマッシュ パラライズ シグムトの脳天に斧の刃のない面を叩き落とす。斧マスタリー5 エンチャント 0で覚える脳天撃は、それ自体も敵を昏倒させる技なので、麻痺を 付与するとほぼ100%相手を行動不能にできる。 ﹁シグムト隊長っ⋮⋮!﹂ ﹁い、一撃で⋮⋮あの子供、一体何をしたっ⋮⋮!?﹂ どうやら今の男が敵のリーダーだったらしく、仲間が動揺してい パラライズ・アロー る。黒ずくめの服装で、フードを被って顔を隠しているが、男女一 人ずつらしい。 スリーピングミスト ﹁人のことを心配してる場合じゃないわよ⋮⋮﹃麻痺矢﹄!﹂ ﹁小生の眠りから逃げられるか⋮⋮﹃眠りの霧﹄!﹂ 二人が動揺しているうちに、モニカさんと名無しさんがすかさず 呪文をかける。風切り音と共に放たれた矢が男の方の右肩をかすめ、 名無しさんの発生させた法術の霧が、もう一人の女の方を包み込ん だ。 ﹁な、何だ⋮⋮身体が、しびれて⋮⋮﹂ ﹁しまったっ⋮⋮し、シグムト⋮⋮さま⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽モニカ︾は﹁麻痺矢﹂を放った! ・︽グレッグ︾にかすり傷を与えた! 抵抗に失敗、麻痺状態にな った。 820 ・︽名無し︾は﹁眠りの霧﹂を詠唱した! ・︽ジーノ︾は抵抗に失敗、睡眠状態になった。 次々にこちらの攻撃が決まり、敵が倒れていく。決して相手が弱 かったわけじゃないが、強くもない。公族を護衛する騎士が、こん な賊に簡単にやられるとは情けない、とも思うが、どうやら彼らは まだ見習いで、修行を積んだウェンディよりもレベルが低い人しか いなかった。武器スキルも20程度だし、これでは勝てなくても仕 方がない。 ﹁すっげえ⋮⋮やっぱヒロトはすげえや!﹂ ﹁ディーン、商隊のところに戻ってなさい。商隊のほうが山賊に襲 われないとも限らないから、何かあったらすぐ呼ぶのよ﹂ ﹁わかったっ!﹂ モニカさんの指示を受けてディーンが走っていく。戦闘に参加で きなくて残念がるかと思ったが、いつも俺の戦いを見るだけでも興 奮しているので、あまり気にしていないようだ。 ︵さて⋮⋮公女は、大丈夫かな。まずは安心させてあげないと︶ 俺は馬車の中を覗きこんだ途端に、敵と思われて攻撃されないよ うに気を配りつつ、中を見やる。すると、公女と侍女とおぼしき女 性がいた。 侍女の女性は恐怖からなのか、気絶してしまっていて、公女に介 抱されていた。普通逆じゃないかと思うが、公女が若いながらも、 精神的に強い人物なのだと感じ取れた。 ストロベリーブロンドの髪に、同じ系統の色彩の瞳。そして凝脂 821 のような、なめらかな肌というのだろうか︱︱すぐには、その美貌 を表現するための適切な言葉が出てこない。公女はまだ十歳ほどに 見えるが、その美しさは今の時点で完成されているように思えた。 ﹁賊は倒したよ。もう、何も心配しなくていい﹂ ﹁あなたが助けてくれたのですね⋮⋮心から感謝します。見事な戦 いぶりでした﹂ まだ怯えているだろうに、公女は俺をねぎらう言葉を先に口にす る。俺が幼いのに強いということを驚いてもいるようだが、しかし それ以上に、俺が戦ったことをその目で見て、事実だと受け入れて くれていた。 ﹁俺の名前はヒロト⋮⋮ヒロト・ジークリッド。良かったら、名前 を聞かせてくれないかな﹂ 公女がこんなところで、山賊を名乗る輩に誘拐されそうになった。 それを考えれば、まだ素性の知れない俺たちを信じて、名乗ってく れるかは難しいところだと思った︱︱しかし。 公女は俺を信頼するということを、その微笑みひとつで伝えてく れた。見るもの全てが好感を持たずに居られないような、どこまで も穏やかな微笑みだった。 ﹁私の名はルシエ・ジュネガン。ジュネガン公国の第三王女です﹂ 淡い上品な色彩の服を身にまとい、この年齢にして包み込まれる ような慈愛を感じさせる少女は、胸に手を当ててはっきりとそう名 乗った。 822 ◇◆◇ ﹁公女殿下は、﹃リシエンセス﹄っていうんじゃ⋮⋮?﹂ ﹁いいえ。その名前は、女神の神殿で洗礼を受けた後に拝領する予 定でした﹂ リシエンセス・ルシエ・ジュネガン。ゲーム時代に俺が聞いてい たその名前は、公女が洗礼によって与えられるはずだった神聖名を 冠したものだったと分かった。﹃リシエンセス﹄とは、どうやら公 国において神聖な扱いを受けている﹁聖花﹂の名前らしい。他の聖 花は﹃アースフラム﹄﹃シルマリア﹄などがあり、それぞれ彼女の 姉ふたりが洗礼を受けたとき、洗礼名として与えられたそうだった。 ﹁ヒロト様は、なぜ知っていらっしゃるのですか⋮⋮? 私につけ られるはずだった名前を﹂ ﹁そうです、なぜですか? 余すところなく答えてください﹂ 馬車の中で、まず俺は公女から一対一で話を聞こうと思ったのだ が⋮⋮侍女も一緒にいて、さっきからじっと俺の一挙手一投足を見 守り、警戒の目を向けてくる。彼女はイアンナさんと言って、髪を お団子にして結い上げた、美人だけど気が強そうな女性だ。 ﹁いや、なんとなくだよ。当てずっぽうっていうか⋮⋮﹂ ﹁こほん。姫様と私をお助けいただいた貴方に申し上げることでは ありませんが、もう少し言葉遣いを丁寧にされてはいかがです?﹂ イアンナさんは襲撃直後に気絶した失態を恥じ入りつつも、目覚 めたあとはこんな調子だ。まあ、確かに公女を相手にして話すのに、 823 俺の身分で気安い言葉遣いは好ましくないか。 しかし、子供っぽさを残しつつ丁寧に話すのは難しいな⋮⋮まあ いいか。母さんは貴族で、父さんは騎士だ⋮⋮礼儀を幼い頃から仕 込まれたと言っても、疑われたりはしないだろう。 ﹁大変失礼しました、これからは気をつけます。ルシエ公女殿下﹂ ﹁わ、分かればよろしいのですが⋮⋮急にがらりと変わられると、 逆に落ち着きませんね﹂ ﹁イアンナ、あまり彼にお説教はしないでください。ヒロト様は、 私たちの恩人なのですよ﹂ ﹁は、はいっ、申し訳ございません、出すぎたことを申しあげまし た。お嬢様⋮⋮いえ、公女殿下﹂ 何となくだが、ルシエとイアンナの関係性が見えてきた。イアン ナのステータスを見ると、彼女のジョブは﹃令嬢﹄で、14歳⋮⋮ ルシエより年上で、幼い頃からルシエの侍女をしているらしい。 そしてルシエ本人のステータスは、このようになっていた。 ◆ステータス◆ 名前 ルシエ・ジュネガン 人間 女性 10歳 レベル22 ジョブ:プリンセス ライフ:64/64 マナ :84/84 824 スキル: ︻笛︼演奏 72 気品 83 王統 32 恵体 2 魔術素養 5 母性 18 アクションスキル: 弾き語り︵演奏30︶ 演奏レベル7︵演奏70︶ 演説︵気品80︶ 命令︵王統30︶ パッシブスキル: カリスマ︵王統10︶ 王族装備︵王統20︶ マナー︵気品10︶ 儀礼︵気品30︶ 風格︵気品50︶ 威風︵気品70︶ 育成︵母性10︶ 残りスキルポイント:13 ︵王統⋮⋮また、超レアなスキルを持ってるな︶ ﹁王統﹂は王族しか所持できないと言われていたスキルで、伝授 することも出来ないと言われていたものだ。王家の証というアイテ ムで取得できるが、手に入る数が少なすぎる上にスキル上げが出来 ないので、皆お飾りのスキルだと思っていた。王族のステータスを 見て、どんなスキルなのかと好奇心を煽るだけの存在だったわけだ が⋮⋮改めて、非常に興味深い。 825 公女は姫君らしい風雅な趣味を持っていて、笛の名手だった。笛 といっても、この世界だとフルートのような形状の横笛を指す。弦 楽器、管楽器の一部、ハープ、鍵盤、横笛、あとはパーカッション の類が存在しており、それぞれ演奏スキルは楽器ごとに分かれてい る。 王族の固有スキル﹃王統﹄は、これからまだ伸びていくのだろう が、30の時点では交渉術と内容がかぶっている︱︱王族には権謀 術数がつきものだから、交渉系のスキルが取得出来るということだ ろうか。容姿だけ見ると﹁命令﹂なんてアクションスキルが似つか わしくないくらい優しそうな女性だが、侍女に言われるがままでも ないあたり、いざというときには使うのかもしれない。 女性といっても、10歳︱︱俺より2つ上っていうだけだから、 少女と表現する方が自然だ。それなのに母性18って、リオナもそ うだけど成長が速すぎる。アッシュもディーンも、もちろん俺も、 まだまだ少年という感じなのに。 ︵おっと⋮⋮つい、見入ってしまった︶ 初見のステータスを前にして考えにふけってしまうのは悪い癖だ。 俺の気品スキルを総動員して、王族に対する言葉遣いを心がけて⋮ ⋮と。 ﹁公女殿下、さっき怖い思いをさせたのに、すぐにこんなお願いを してはいけないと思うんですが、ひとつ質問させていただいてよろ しいでしょうか﹂ ﹁いいえ⋮⋮私はもう落ち着いていますから、ご心配はなさらない でください。私を誘拐しようとした方々のことについて聞きたいの 826 ですね?﹂ ﹁はい。これから、彼らの素性を確かめようと思いますので、立ち 会っていただけませんか。イアンナさんはここに残っていてもいい ですよ﹂ ﹁こ、公女殿下が参られるのに、私が残っているわけにはいきませ ん。行きます、行かせていただきます﹂ イアンナさんは緊張を隠せずにいたが、ルシエと一緒に馬車から 出てきた。シグムトたちはまだ気絶しており、手と足を縛られて座 らされている。まだ目覚める様子はないが、ルシエとイアンナさん は恐る恐る、といったようすで、彼らが何者かを近づいて確かめよ うとする。 アッシュたちには、こちらに来ないで待っているように頼んであ る。ここにはモニカさん、名無しさん、ウェンディの三人だけ来て もらって、もし敵の増援が出てきても対処できるように周囲を警戒 してもらっていた。 ﹁⋮⋮その男性が持っている剣は、分かりにくく偽装されています かた が、騎士団のものですね。そして、先ほど繰り出していた技は、公 国騎士団の御前試合で見たことがある技でした﹂ ﹁やはり、そうか⋮⋮﹂ ﹁そ、そんな⋮⋮騎士団の人間が、山賊の名前を騙って、公女殿下 をさらおうとするなどと⋮⋮っ﹂ イアンナさんは貧血を起こして倒れそうになり、ルシエに支えら れる。公女に支えられてどうする⋮⋮と言いたくなるが、それだけ のショックを受けても仕方がないとは思う。 ﹁彼らはポイズンローズと名乗っていましたが⋮⋮それは、実在す 827 る山賊の名前なのですか?﹂ ﹁はい。言って信じてもらえるか分かりませんが、俺と仲間たちが 山賊としての活動を停止させました﹂ ﹁おそらく、ポイズンローズは一番名前が知れ渡っていたから、騙 る名前として利用されたんでしょうね。そこまでして、騎士団の人 間が公女殿下を狙うなんて⋮⋮これは、国に対する反逆そのものよ﹂ モニカさんは苦々しい面持ちで言う。イアンナさんは気を取り直 したが、自分の足で立っていられずに、へなへなとその場に膝をつ いてしまった。 ルシエの白い横顔は青ざめて見えたが、彼女は震えるような息を ひとつすると、それで不安と混乱を飲み込んだようだった。 ﹁どうしてこんなことになったのか、想像はつきます⋮⋮しかし、 私の立場から物事を見れば、それは一方的な見方になります。あな た方に私の立場での推論を話して良いものかは、一人では判断する ことが出来ません。助けてもらって申し訳ありませんが⋮⋮今は、 何も言えません﹂ ルシエは十歳にして、公女としての強い自覚がある。自分の発言 が政治的な意味を持つと分かっているから、簡単に﹁騎士団の中に、 ルシエに害を成そうとする勢力がある﹂と言うことは出来ないのだ ろう。例え、状況がこれ以上なく事実を示しているとしてもだ。 ここはシグムトたちを捕縛して騎士団の人間に引き渡すのが良さ そうだが、それは引き渡す先が信頼に値する場合に限る。 ﹁ルシエ殿下、聖騎士のフィリアネスさんのことはご存じですか?﹂ ﹁っ⋮⋮どうしてフィル姉さまのことを?﹂ 828 フィル姉さまと来たか⋮⋮フィリアネスさんはゲーム時代、﹃フ ィル﹄という愛称で呼ばれていた。そう呼ぶのは一部の親しい人間 だけ、という公式設定資料集で開示されていて、それを元にさまざ まな二次創作が⋮⋮と、それはいい。 ﹁俺はフィリアネスさんの弟子みたいなものなんです。子供の頃か らお世話になっていて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ジークリッド⋮⋮思い出しました。公国騎士団の、前副団長 の家名ですね。あなたは、リカルド・ジークリッドのご子息ですか ?﹂ 俺は頷きを返す。へたりこんでいたイアンナさんが顔を上げて、 俺を見て目を見開き、申し訳無さそうにする⋮⋮彼女は権威に弱い みたいだな。 ﹁そうだったのですね⋮⋮お父上のように騎士を志して、フィル姉 さまに教えを受けたのですか?﹂ ﹁はい。といっても、俺は細剣じゃなくて、父さんと同じ斧使いで すが﹂ ﹁その美しい小さな斧で、私たちを助けてくださったのですね。改 めて、お礼を言います﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、は、はい。ありがとうございます﹂ 思わず照れてしまう。バルデス爺と一緒に作り上げた斧を褒めて もらうのは、正直かなり嬉しかった。久しぶりに挙動不審になって しまうが、なんとか気持ちを落ち着ける。 バルデス爺の工房に通って小型斧を鍛えてもらったのは、鍛冶師 の初歩を教えてもらう過程の延長線上だった。俺がバルデス爺の仕 事を見学したいと言ったら、材料を用意できたら見せてやる、と言 829 われたのだ。ドワーフは誰に鍛冶を教える場合でも、最初は素材を 集めることから始めさせるそうだった。そうやって作った小型斧を、 貴重な素材を使って強化し続けて今に至る。 オーダーメイド 俺の鍛冶スキルは、金属武具の簡易的な補修が出来る程度でしか ないが、ゆくゆくは自分で特注の武具を作りたいと思っている。バ ルデス爺の作る武器の意匠は素朴だが、俺も美しいフォルムだと思 うし、こんなふうに作りたいと憧れずにはいられなかった。それを 褒められると自分のことのように嬉しい。 ﹁え、えーと⋮⋮俺だけじゃなくて、皆も協力してくれたから。み んな、公女殿下がありがとうって﹂ ﹁こ、光栄の極みに存じます⋮⋮ごめんなさい、とっさに丁寧な言 葉遣いが出てこなくて﹂ ﹁公女殿下がこんなに近くにいるだけで、私はもう、緊張で倒れそ うであります⋮⋮!﹂ ﹁小生はヒロト君の指示に従ったまでですが⋮⋮公女殿下、何はと もあれ、ご無事で何よりです﹂ パーティの皆は恐縮しながら返事をする。それはそうか、自国の 姫だもんな⋮⋮普通だったら、まず直接話す機会はない人物だ。 そしてゲーム時代は、登場すらしなかった。彼女はゲームの設定 では、﹁過去に洗礼を受ける前に行方不明になった、失われた姫﹂ だったからだ。 ︵山賊を装った騎士に誘拐された⋮⋮それが、行方不明になった原 因だとしたら。ルシエは⋮⋮︶ 俺たちが通りかからなければ、あのまま連れ去られていた。その 後にどんな扱いを受けるのかは⋮⋮想像する気にもなれない。 830 ︵しかし⋮⋮通りがからなければ、か。偶然にしては、出来すぎて る︶ 必然として定められていたのだろうか⋮⋮ここでルシエに会うこ とは。そうとしか思えない巡りあわせに、俺は何者かの意図を感じ てしまう。 そんなことが出来るのは、この世界を作った女神だけだ。しかし、 全てが女神によって作られたシナリオだとも思いたくはない。 ﹁できれば、フィリアネスさんに保護を頼むべきだ。彼女がどこに いるかはご存知ですか?﹂ ﹁フィル姉さまは、若くして多くの功績を上げた偉大な方です。彼 女は公王様から、このたび領土を与えられることになりました﹂ ﹁もともとシュレーゼ侯爵家の方ですから、シュレーゼ家の領地が 広がったという形になりますが⋮⋮今は、領地にいらっしゃるので はないでしょうか﹂ ルシエの言葉を継いで、イアンナさんが教えてくれる。頼りにな らない人かと思ったが、どうやら本来は、ルシエの参謀というか秘 書みたいな立ち位置のようだ。 しかし、フィリアネスさん⋮⋮あの若さで領主になったのか。2 2歳って、前世じゃまだ大学に通ってたりする年齢だよな。美人す ぎる大学生領主なんていう言葉が脳裏をよぎった。 ﹁フィリアネスさんが領主に⋮⋮そのことは、俺は今初めて知りま した﹂ ﹁はい、つい先日ですから、手紙などでご報告されるおつもりでは あったと思います。フィル姉さま⋮⋮いえ、フィリアネス様は、あ 831 なたのことをとても信頼されている様子でしたから﹂ ﹁えっ⋮⋮フィリアネスさんがルシエ殿下に、俺の話を⋮⋮?﹂ ルシエは髪を撫で付けつつ、そのときのことを思い出すような目 をして話を続けた。 ﹁フィリアネス様は幼少の頃、短い間ですが私の護衛を務めてくれ たことがあるんです。それから、彼女とは親しくさせてもらってい ます⋮⋮定期的にお会いしていたのですが、最近はとても忙しくさ れているようで、しばらく会えていませんでした﹂ ﹁俺もです。手紙で連絡はしてたんですが⋮⋮まさか、領主になっ てたなんて﹂ ﹁急な決定でしたから。しかしそれも、考えてみれば、何かの思惑 があっての決定だったのかもしれません﹂ やはりルシエは言葉を選んでいる。信頼出来る人物の前じゃない と、忌憚なく話すことは出来ないか⋮⋮それなら、やはりフィリア ネスさんの所に行くしかない。 ﹁聖騎士さんなら、首都の近くの砦にいるって話じゃなかった? そこが領地かは知らないけど、ギルドの酒場でそんな話を聞いたわ よ﹂ ﹁首都の近く⋮⋮ということは、そんなに遠くないな。教えてくれ てありがとう、モニカ姉ちゃん﹂ ﹁フィル姉さまの領地は、ヴェレニスという村だそうです。イアン ナが地図を持っているので、お見せします﹂ イアンナさんがふところに入れていた地図を取り出す⋮⋮意外に 胸が大きいが、谷間に入れていたとでもいうのか。胸の谷間はイン ベントリーとして使える、これは試験に出そうだ。保健体育とかの。 832 ﹁ここから半日くらいで着くな⋮⋮首都まで数時間の場所か﹂ いいところに領地をもらったんだな、フィリアネスさん⋮⋮とい うのは置いておいて。騎士団にシグムトたちを引き渡し、今後のこ とはフィリアネスさんと相談して決めよう。 ﹁ヒロト、商隊のみんなはどうするの?﹂ モニカさんに聞かれて、俺は地図を示しながら、今後のことにつ いて説明した。ウェンディと名無しさんも、地図を覗きこんでくる。 ﹁みんなには、先に首都に入っていてもらう。敵がここで公女を狙 ったということは、首都で大っぴらに問題を起こしたくはないはず だから、大丈夫だと思う﹂ ﹁確かに、敵の仲間がいたとして、首都の中で手を出してくること は考えにくいでありますね。山賊のふりもできないでありますし⋮ ⋮もちろん、気をつけるに越したことはないでありますが﹂ ﹁ヒロト君、ちょっといいかな。公女殿下は、どこに向かう途中だ ったのかを伺っていないと思うのだけれど⋮⋮﹂ 名無しさんの言うとおりだ。それくらいは聞いても大丈夫かな、 目立つ馬車に乗ってたし、お忍びで移動してるわけでもなかったは ずだ。 公国の紋章を入れられた馬車の幌を見ながら、俺は思う。公国内 でこの紋章を掲げていれば、危険も避けて通るのではないか︱︱公 女の一行は、そう考えていたんじゃないだろうか。その考えは、俺 にしてみれば甘いと言わざるを得ないのだが。貴人を誘拐して身代 金を取るなんて、いかにも山賊が飛びつきそうな儲け話だ。 833 しかし、敵は山賊じゃない。金以外の何らかの目的があって、ル シエを誘拐しようとした︱︱俺には、どうもそう思えてならない。 ︵この世界では、公女は生きている。それを守りきったら⋮⋮全く 別の未来に変わるんだろうか︶ ゲーム時代のメインクエストにおいては、公王が病没したあと、 血みどろの継承戦争が勃発し、多くのものが失われたあとで、よう やく公国に平和が戻る。しかし、どうにも後味の悪い結末だった。 MMORPGなのでみんなが決まったストーリーを追うことになる ため、実際に国が荒廃したりはしなかったのだが、この異世界にお いては、継承戦争が起これば多くの人が死に、国が荒れることにな るだろう。 こうして助けることが出来たんだから、ルシエを最後まで守り通 したい。そして公国が良い方向に行くように、俺に出来ることをし たい。ただの村人の俺が国のことに干渉するのはあまり好ましくな いが、父さんや母さん、みんなが暮らすミゼールの町を守るために も、戦争なんて起こらない方がいいに決まっている。 ﹁私は首都にある自邸から、公道を通って、南方にあるイシュア神 殿に向かう途中でした。十歳を迎えた王族は、神殿で洗礼を受け、 正式に王族として認められることになっています﹂ ﹁それなら、洗礼を受けないわけにはいかないんじゃ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いいえ、神殿に向かうまでに襲われたのですから、この後も 襲われないとは限りません。私を狙う輩がいると分かっているのに、 無理をして神殿を目指しても、従者たちが危険にさらされます。今 回も、私の従者たちは勇敢に戦ってくれました⋮⋮ですが⋮⋮﹂ 834 公女の護衛三人は軽傷で済んでいたが、もはや戦う意志など残っ ていなかった。それはそうだ、俺たちが来なければ殺されていたか もしれないのだから。 ﹁もし、どうしても神殿に行って洗礼を受けないといけないなら、 その時は俺たちも一緒に行きます。それなら、心配ないでしょう?﹂ ﹁⋮⋮いいえ、それはなりません。あなたたちは、この国の大切な 臣民です。私のために傷つくようなことは、決してあってはいけな い﹂ 公女には、簡単に助けを求められない理由があるのだろう。しか し、みすみす彼女の言うとおりにして、俺がいないところで彼女に 何かあったら、後悔してもしきれない。 人を助けたいという気持ちは、時にエゴになるのかもしれないが ︱︱それでも。 ﹁⋮⋮おれが年下だから、公女さまはあんまり頼りにしてないって こと?﹂ ﹁そ、そんなことは言っていません。あなたの実力は、馬車の中か ら見ていましたから⋮⋮あっ⋮⋮﹂ ルシエは俺が戦っているところを見ていた。考えてみれば、シグ ムトの放った技を見ていたわけで、当たり前のことなのだが⋮⋮。 俺の強さをその目で見ていた⋮⋮ある意味、それは覗き見だ。ル シエの顔は真っ赤に染まり、初めて少女らしい動揺が表れる。 ﹁⋮⋮私より幼いのに、意地が悪いのですね。あなたの強さを知っ ていて力を借りないことは、愚かだと言っているようなものです⋮ ⋮それは私も、じゅうぶん分かっていますのに﹂ ﹁馴れ馴れしい口を聞いてすみません。でも、俺はこの国の民だか 835 らこそ、公女殿下の力になりたいんです。何より⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 公女殿下が不思議そうな顔をする。俺は仲間たちの顔を思い浮か べながら、言葉を続けた。 ﹁俺の友達はみんな、祝祭を楽しみにしてる。公女殿下が洗礼を受 けたことを祝う祭りです。だから俺は、公女殿下には感謝してる。 そんな理由か、って思うかもしれないけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いいえ。そんなふうに言われては、私は無事に洗礼を受けて、 首都に戻らなければならない⋮⋮そうでないと、皆さんに残念な思 いをさせてしまいますし﹂ ﹁姫さま⋮⋮ああ⋮⋮おいたわしや。子供の力を借りなければなら ないなどと⋮⋮﹂ ﹁イアンナ、私もあなたもまだ子供です。そして、子供はいつか大 人になります。ヒロト様と、そのお友達が、この国の未来を築くの ですよ﹂ ルシエが滔々と説くと、イアンナさんは何も言い返さず、はっと したような顔をする。そして何度目か、俺を申し訳無さそうな顔で 見る⋮⋮根は悪い人じゃなさそうだな、この人も。 ﹁ヒロト様⋮⋮どうか、私に力を貸してくださいますか﹂ ﹁はい。こちらこそお願いします⋮⋮俺たちを頼ってください、公 女殿下﹂ ︱︱ルシエはまだ、歴史の表舞台から消えてはいけない。彼女を ﹃失われた姫﹄にしてはならないと、俺は改めて誓っていた。 836 ◇◆◇ 俺はモニカさんたちに商隊の護衛を頼み、自分は単身で、ルシエ の馬車の御者となって、彼女たちをフィリアネスさんのいる砦まで 連れていった。 首都まで馬を走らせて数時間の距離。公道から外れた所に村があ り、そこに公国騎士団の砦はあった。 駐留している兵力は三百人ほど。その総指揮官を、領主でもある フィリアネスさんが務めていた。俺はルシエがいることは伏せて、 村にあるフィリアネスさんの屋敷を訪ね、彼女たち二人を引きあわ せた。 ﹁ルシエ⋮⋮っ、よくぞ無事で⋮⋮!﹂ ﹁フィル姉さま⋮⋮申し訳ありません、ご心配をおかけして。ヒロ ト様のおかげで、ここまで来られました﹂ フィリアネスさんは二十二歳になったが、身長はある程度成長し たところで止まっており、小柄なままだ。しかしルシエを抱きしめ て背中を撫でてやっている姿は、自分もそうして欲しいと思うほど 大人びていて、包容力にあふれている。 金色のさらりとした真っ直ぐな髪は、昔も今も変わっていない。 サークレットも変わらず付けているが、今は耐性が大幅に強化され た﹁戦乙女のクラウン﹂に装備が変わっていた。 彼女は白い布鎧の上から、白銀の肩鎧と腰鎧、小手と具足を身に つけている。胸のあたりを革のベルトのようなもので補強している が︱︱それはもはや、育ちすぎた母性に満ち溢れた部分を強調して 837 いるのかと思うしかない状態だった。鎧を重くせず、胸周りを補強 したいという思想のもとに、そういう装備をしているのだとは分か るのだが。わかるのだが、十字に交差した革紐が、はからずも乳袋 を最大限に引き立たせている。 ︵この装備には欠陥がある⋮⋮同時に、素晴らしく完成されてもい る。この二律背反⋮⋮悩ましい⋮⋮!︶ ﹁半年ほど会っていなかったが、大きくなったな⋮⋮洗礼を受けた ら、こんな気安い口もきけなくなるか﹂ フィリアネスさんは、ルシエに対して妹のように接する。ルシエ も彼女には全幅の信頼を置いていて、今までの緊張の糸が切れてし まって、目を涙で潤ませていた。 ﹁姉さまこそ、会うたびに立派になられて⋮⋮それに、とてもお綺 麗になられました﹂ ﹁そ、それは⋮⋮あまり、ヒロトの前ではそういうことは言わない で欲しい。ほら、そうやって優しい目をして私を見る⋮⋮子供の頃 からそうなのだ﹂ ﹁元気そうでよかった、フィリアネスさん﹂ 俺が言うと、フィリアネスさんはそっと公女殿下から離れてこち らにやってきた。見上げて首が痛くなるくらいだった身長差は、も うかなり埋まってきている⋮⋮俺の顔の位置が、フィリアネスさん の胸より少し下あたりだ。そのまま頭に胸を乗せられそうな高さだ が、さすがにやってはもらえなさそうだ。 ﹁⋮⋮おまえは、見るたびに⋮⋮その、何というか。まだ八歳だと いうのに、こんなことを言うのもなんだが⋮⋮精悍になったという 838 か⋮⋮﹂ ﹁あ、あの⋮⋮フィリアネスさん、俺、そんなに変わってないよ?﹂ ﹁三日も会わなければ、人は成長して変化するものだ。毎日見てい たいくらいなのだがな⋮⋮神聖剣技にしても、私の手で鍛えたかっ たのだが⋮⋮いつの間にか才能を開花させるとは﹂ フィリアネスさんはそう言うが、現時点での彼女のステータスは かなり凄まじいことになっている。こと、神聖剣技においては、俺 と違ってキャップがないので、50を超えて大きく上昇していた。 ◆ステータス◆ 名前 フィリアネス・シュレーゼ 人間 女性 22歳 レベル56 ジョブ:パラディン ライフ:1132/1132 マナ :996/996 スキル: 細剣マスタリー 93 ︻神聖︼剣技 92 聖剣マスタリー 32 鎧マスタリー 84 精霊魔術 82 指揮 30 恵体 91 魔術素養 81 気品 58 839 母性 82 アクションスキル: ピアッシング ツインスラスト ソニックスラスト ミラージュアタック ゼロ・スラスト 加護の祈り 魔法剣 ダブル魔法剣 魔力剣精製 精霊魔術レベル8 号令 布陣 授乳 子守唄 搾乳 説得 童心 パッシブスキル: 細剣装備 二刀流 貫通 会心上昇 手加減 カリスマ 鎧装備 重鎧装備 鎧効果上昇レベル3 指導 マナー 儀礼 風格 育成 慈母 子宝 ︵相変わらず⋮⋮ユィシアを除けば、この人は間違いなく、俺が出 会った中で最強だ︶ ゲーム時代だと二十九歳が全盛期だったので、まだ伸びる余地が あるわけだが、このまま行くと幾つかの数値がカンストしてしまう。 限界突破を取得する方法が皇竜からの継承以外に見つかれば、10 0を超えられるんだけど⋮⋮。 ︵⋮⋮あれ?︶ 840 今まで気づいていなかったが、フィリアネスさんのジョブが変わ っている。セイントナイトはナイトの上位職で、それ以上はなかっ たはずなのに⋮⋮パラディン⋮⋮? ︱︱そして俺は気づいてしまった。見たことのないスキルが、︻ 神聖︼剣技の下にさりげなく追加されていることに。 ︵聖剣マスタリー⋮⋮な、なんだこれ⋮⋮!︶ パラディンの固有スキルなのか、それとも何かのきっかけで取得 したのか。俺は根掘り葉掘り聞きたい気持ちを抑えつつ、まず、フ ィリアネスさんの職業が変化した理由について尋ねようと思った。 ﹁あ、あの⋮⋮フィリアネスさん、領主さまになったって、公女殿 下から聞いたけど⋮⋮﹂ ﹁む⋮⋮そ、そうか。もう、聞いていたのだな。私は前線で戦わな ければならないし、領地などがあっても困るといえば困るのだが⋮ ⋮﹂ ﹁陛下は、フィル姉さまが公国の外に出てしまうことを心配してい るのでしょう⋮⋮姉さまの気持ちを知らずに、ヒロト様に話してし まってごめんなさい﹂ ﹁いや、本来なら光栄に思うべきことだ。ルシエが謝ることはない ⋮⋮しかし、私が外に出ることなど、今は考えられないのだがな。 この国で成すべきことが残っているのだから﹂ フィリアネスさんが言っているのは、魔剣を守ること⋮⋮そして。 俺を、教え導くこと。あるいは、俺の傍に居てくれること。彼女 がそれを望んでくれているのは、その優しい瞳を見るだけでわかる。 ﹁私は聖騎士より、もう一つ上の位を与えられた。そうすることで、 841 領地を統治する資格を得られるのだ。相応の試練を受ける必要はあ ったが、今の私には、さして難しいものではなかったな﹂ フィリアネスさんはパラディンの転職条件を満たした⋮⋮そして、 聖剣マスタリーを取得し、習熟が始まったということか。 ︵や、やばい⋮⋮新しいスキルって言われると、どうしても⋮⋮︶ どうしても欲しくなる。赤ん坊時代から始まったフィリアネスさ んとの交流を思い返し、︻神聖︼剣技スキルを取得した瞬間の、あ の全身から湧き上がるような高揚感が蘇ってくる。 ﹁⋮⋮どうしたのだ? ヒロトはすぐぼーっとするくせがあるが、 直した方が良いぞ。人の話は、目を見て聞かなければな﹂ ﹁う、うん⋮⋮ごめん、フィリアネスさん。気をつけるよ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮本気で怒っているわけではないのだぞ。私は考え事を しているヒロトの顔も気に入っているからな﹂ フィリアネスさんは俺の髪を整えて、頬を包み込むように触れ、 嬉しそうに見つめてくる。14歳のフィリアネスさんは、あどけな くも神々しささえ感じる美少女だったが⋮⋮今の彼女が、その輝き を失ったということは全くない。魅了なんてスキルがなくても、俺 はフィリアネスさんに心身ともに懐いているのだ、と思い出させら れる。 ﹁あ、あの⋮⋮フィル姉さま⋮⋮ヒロト様のことを、そんなに想っ ていらしたのですね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうだな。そのことは、否定する余地がない。ルシエには、 あまり隠しごとをしたくはないしな﹂ 842 フィリアネスさんは顔を紅潮させながらも、俺を想っていること が誇らしいというように笑ってみせた。それを見た公女殿下はきゅ ーっと顔が真っ赤になってしまう。 ﹁私よりずっと大人のフィル姉さまが、私より年下の男の子を⋮⋮ 何だかどきどきしてしまいますね⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮す、すまないルシエ。まだ、こんな話は早かったな⋮⋮し かし、少しずつ慣れた方がいいとは思うのだが。私が言えたことで もないがな﹂ ﹁い、いえ⋮⋮そうですよね、ヒロト様は男の子で、とても強くて ⋮⋮フィル姉さまは、そんな彼のことを⋮⋮﹂ ルシエは俺に対して結構淡白な態度を取っていたが、それは男だ と認識してなかったからじゃないだろうか⋮⋮という気がしてきた。 だが、フィリアネスさんが俺を認めているのを目の当たりにして、 認識が改められたようだ。ルシエが俺を見る目がさっきまでと違っ ている⋮⋮こ、これは⋮⋮。 ﹁ルシエ、顔が赤いぞ。今、マールに水を持って来させよう。マー ルとアレッタは、部屋の外で耳を澄ませているに決まっているから な﹂ がたっ、と部屋の外から音が聞こえてくる。公女殿下から事情を 聞くまでは外で控えているように、と言われていたふたりだったが、 フィリアネスさんの言うとおりに聞き耳を立てていたようだ⋮⋮い けない人たちだ。 ﹃き、聞いてませんけどっ、お水持ってきまぁ∼す! マール・ク レイトン、いきまーす!﹄ ﹃す、すみませんでしたっ、フィリアネス様っ!﹄ 843 ぱたぱた、と二人分の足音が遠のいていく。マールさんもアレッ タさんもすっかりベテランの騎士なのに、昔からフィリアネスさん の前での振る舞いは変わっていなかった。 ◇◆◇ ルシエが水を飲んで落ち着いたあと、俺たちは一度彼女を残して 外に出て、馬車に乗せてきた敵の捕虜三人を、フィリアネスさんた ちに見てもらった。 ﹁この男⋮⋮騎士団の⋮⋮ルシエを襲ったのは、彼らだというのか ⋮⋮!?﹂ フィリアネスさんは怒りを隠しもしなかった。レイピアに手をか けるが、ルシエの手前、剣を抜くことはしない。 ﹁すみません、起きてくださーい⋮⋮事情聴取のお時間ですよ∼﹂ マールさんがふわふわした口調ながら、ぺしぺしと男の頬を叩い て起こす。そしてシグムトは意識を取り戻したが、マールさん、そ してフィリアネスさんの姿を見ると、諦めたように目を伏せた。 ﹁⋮⋮殺せ﹂ ﹁ああ⋮⋮そうしてやりたいところだ。なぜお前がルシエを狙った ⋮⋮? 黒騎士団二番隊長、シグムト・ユンカース﹂ 公国の騎士団は、騎士団長、副騎士団長を頂点として、その下は 844 青、赤、白、黒の四つに分かれている。黒騎士団の二番隊長といえ ば、千人の兵の指揮官ということだ。 そんな人物が、自分が仕えている公王の娘ルシエを狙った。この 事実が露見すれば、黒騎士団が取り潰されてもおかしくはないほど の事件だ。 ﹁二度は言わん⋮⋮殺せ﹂ ﹁⋮⋮死を望んでいる者に、死を与えることは裁きではない。言え、 何を隠している?﹂ ﹁⋮⋮俺が公女を狙ったのは、私欲のためだ。何も隠してなどいな い﹂ 黒幕の名前を隠すのは当然だと思うし、俺はシグムトの態度に苛 立ったりはしなかった。問題は、貝のように口を閉ざす相手から、 どうやって情報を引き出すかだ。 ︵嘘をついてるかどうか⋮⋮まず、確かめておくか︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹁看破﹂を試みた! ・︽シグムト︾は嘘をついていると分かった。 まあ、これが嘘なのはスキルを使わなくても分かる。これは看破 が機能するかどうかのテストだ。 ︱︱次が本番。シグムトに嘘をつかせ、それを見破ることで情報 を得る︱︱例えば、こんなふうに。 845 ﹁⋮⋮どうした? ヒロト﹂ 俺はフィリアネスさんに屈んでもらって、耳打ちをする。そして、 シグムトに質問する内容を伝えた。 フィリアネスさんは頷くと、シグムトに厳しい視線を向ける。そ して、俺が言ったとおりに質問してくれた。 ﹁ルシエが洗礼を受ける前に、何としても阻止する必要がある人物 がいた。そういうことなのだな﹂ ﹁⋮⋮違う。俺は、俺個人の意志で⋮⋮っ﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁看破﹂を試みた! ・︽シグムト︾は嘘をついていると分かった。 これで、なぜ公女が狙われたのかは断定できた。他にも知りたい ことは山ほどあるが⋮⋮。 ﹁個人の意志ということでも、おまえの部下を解放することは出来 ない。三人とも騎士団の規律に従って審判を行い、そこで出された 罰則に従ってもらう﹂ ﹁⋮⋮殺せ⋮⋮!﹂ もう一度同じことを繰り返すシグムトの喉元に、フィリアネスさ んはレイピアの剣先を突きつける。先端が皮膚を貫通し、赤い血が 一筋流れ落ちる。 846 ﹁ぐっ⋮⋮ぅ⋮⋮﹂ ﹁勘違いをするな。私は情けをかけているのではない。公女殿下に した蛮行は、死を以って償われるべきだと思っている。だからこそ 私は、ここでお前に楽をさせたりはしない。騎士の誇りを汚したこ とを悔いる前に、死なせたりなどするものか﹂ 氷のように怜悧な言葉だった。こんなフィリアネスさんを、俺は 今まで見たことがない︱︱昔、母さんを守るために戦った時よりも ずっと、今の彼女の方が恐いと感じる。 シグムトは項垂れ、抵抗の意志を無くす。フィリアネスさんの部 下の兵士たちが、彼らを砦へと連行していった。 ﹁彼らをここで断罪することはできる。しかし、それでは黒騎士団 が表立って我らに反目する理由を作ってしまう⋮⋮公国騎士団は、 四つの色が一つでなくてはならない。淀みなく、公王の剣であり続 けるために﹂ フィリアネスさんの言葉を、マールさんとアレッタさんも、いつ になく真剣な面持ちで聞いていた。 公女の身が脅かされただけの事件ではない。これは騎士団、ひい ては国家に関わることだ。 ﹁ヒロト、礼を言う。おまえが居てくれたから、私は手を止められ た⋮⋮おまえがいなければ、とうの昔に突き殺していたかもしれな い﹂ ﹁⋮⋮ルシエさんのことが大事なんだね。俺も、もし大事な人が傷 つけられたら⋮⋮﹂ その時は罪を犯すことも厭わずに、復讐するだろう。だからこそ、 847 大切なものを奪われないように、気を抜かずに立ち回り続ける。 俺はもう、ただの人間を相手に危機に陥ることはないが⋮⋮周り の人は違う。本来、魔物などよりもよっぽど、人間の方が敵に回す と怖い存在なのだ。 ︵⋮⋮シグムトたちの裏で、誰が糸を引いているのか。それを、無 理矢理にでも聞いておくべきだったか︶ 迷いはあるが、シグムトは口を割る前に死を選ぶだろう。フィリ アネスさんに恐怖を教えられた今では、逆に死ぬことが怖くなった かもしれないが。 ﹁シグムトを拷問にかけるのは、最後の手段だ。その前に、黒騎士 団長から話を聞いてみる必要がある。願わくば、黒騎士団全てが敵 に回らないことを願いたいものだ﹂ ﹁本当ですね∼⋮⋮いざとなったら、負ける気はしませんけどね。 仲間と戦うのは乗り気じゃないです﹂ ﹁練習試合だったら、マールさんは思い切り叩いてますけどね。黒 騎士団の人たちから、悪鬼のごとく恐れられてますよ﹂ ﹁メイスとか使わないようにしようかなぁ⋮⋮レイピアなら、か弱 い乙女って言っても許されますよね∼﹂ ﹁私はまったくか弱くはないが⋮⋮そんな理由で武器を選ぶのは、 武器に失礼というものだ﹂ フィリアネスさんたちのいつものやりとりを見て、俺はようやく 緊張から抜け出すことができた。 マールさんは24歳、アレッタさんは28歳、二人ともまだ独身 だ⋮⋮出会ったときと比べると、二人共装備がかなり強くなって、 歴戦の騎士という風格が出てきている。 848 ﹁さて⋮⋮マール、アレッタ、そろそろ夕食にするか。公女殿下の 口に合うように、料理を手配してくれ﹂ ﹁はい、メイド長にくれぐれもお願いしてきます!﹂ ﹁ヒロトちゃん⋮⋮ううん、そろそろヒロトくんって呼んだ方がい いんでしょうか。久しぶりですね、元気そうで何よりです﹂ アレッタさんが朗らかに話しかけてくる。そういえば、大きくな ってからは、マールさんやアレッタさんとあまりゆっくり話せてな かったな。 ﹁うーん、私はまだヒロトちゃんの方がいいかな∼。だってヒロト くんっていうと、今までと違うふうに見てるみたいで、嬉し恥ずか しいっていうかね。うん、そんな感じ﹂ マールさんは相変わらず長身で、胸が二十歳くらいまで成長を続 けていたが、フィリアネスさんに今では追いつかれてしまった。母 性80超えの二人を前にすると、空間内のバストの平均値が大きく 上昇してしまう︱︱たとえアレッタさんの成長が、24歳時点で止 まっていたとしても。 ﹁⋮⋮二人とも、戦うのに胸はじゃまだと思うんですけど、サラシ で押さえててもこうなんですよね﹂ ﹁あっ⋮⋮い、いや、俺は別に見てないよ﹂ さすがにこの歳では、女性の胸をあからさまに見ることは許され ない。慌てて誤魔化したが、なんとかセーフだったようだ。 ﹁考えてみれば、私のところにヒロトを招くのは初めてだな﹂ ﹁ヒロトちゃん、今日はもう遅いから、出るのは明日にしようね。 暗いとオバケが出てさらわれちゃうよ∼﹂ 849 ﹁ヒロトちゃんをさらえるオバケなんて、存在しないと思いますが ⋮⋮夜道は、幾ら強くても危ないといえば危ないですからね。ぜひ 泊まっていくべきです﹂ みんなの熱い視線を感じる⋮⋮ま、まあ、リオナたちのことは気 になるけど、モニカさんたちも居るし、一分一秒も早く首都に行か なければならないわけでもない。 それに、ルシエを洗礼の神殿に送り届けるかどうか、ということ もあるし。それについては、夕食が終わったあと、雑談の席ででも 議題に上げてみよう。 ︵それより何より⋮⋮これは、チャンスだ︶ 俺はスキル狂ではない。ないのだが⋮⋮新しい職業にジョブチェ ンジすると、固有スキルが変わるわけで。 フィリアネスさんがパラディンになった。彼女はいつも、俺の心 を躍らせるスキルを持って現れる⋮⋮。 ︵聖剣マスタリー⋮⋮30ポイントで何も発動してないってことは、 相当上げないと意味が無いスキルだ。でも、めちゃくちゃ気になる ⋮⋮気になりすぎる⋮⋮!︶ うかが 屋敷に帰る途中、隣を歩いていたフィリアネスさんが、俺の方を さりげなく窺いつつ手を差し出してくる。 ﹁⋮⋮は、初めての場所だからな。はぐれてしまわないように、私 の手を握っておくといい﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮でも、なんか恥ずかしいな﹂ 俺がはぐれるというのも、なかなか無い状況だ。フィリアネスさ 850 ん、手が繋ぎたかったんだな⋮⋮。 俺の手より、まだフィリアネスさんの手の方が少し大きい。しか し、そのうち俺の方が大きくなるだろう。 彼女が小手を外している理由が分かって、ますます気恥ずかしく なる。こうすることを、屋敷を出る前から決めていたっていうこと だ。 ﹁⋮⋮ルシエのことを、どう思った? 私などよりずっと淑やかで、 可愛らしいと思うのだが⋮⋮﹂ ﹁確かに可愛いと思うけど、まだ会ったばかりだから、何とも言え ないよ﹂ ﹁そうか⋮⋮そうだな。今聞いたことは忘れてくれ﹂ フィリアネスさんは苦笑して言うが、その横顔はなんだか嬉しそ うだった。 しかし、歩くたびにぽよん、ぽよんと胸が弾んで⋮⋮もの凄い迫 力だ。 ︵⋮⋮いけるか⋮⋮って、何を考えてるんだ。もう、卒業したはず じゃないか⋮⋮俺は卒業したんだ⋮⋮!︶ 聖剣マスタリーという言葉が俺の頭でぐるぐる回っている。ルシ エのこともあるのに、そんなことを考えている場合じゃない。ルシ エの王統スキルといい、俺の心をくすぐりすぎる。 だが好感度最大のフィリアネスさんなら、ほとんど苦労すること がない。しかし﹃依頼﹄してしまうのは、俺のなけなしの良心が許 さない。残っていたのか、良心。 ︵き、気になって、他のことが考えられない⋮⋮!︶ 851 ﹁⋮⋮何かそわそわしているようだが⋮⋮私と同じことを考えてく れているのか⋮⋮?﹂ 頬を染めて聞いてくるフィリアネスさん。お、同じことって⋮⋮ 俺が考えてることって、スキルとか、授乳とか、そんなことばかり なんだけど⋮⋮。 そんな俺の胸中を知ってか知らずか、フィリアネスさんは屋敷の 入り口の前で、不意に屈みこむと⋮⋮俺にだけ聞こえる声で、耳元 で囁いてきた。 ﹁⋮⋮今日の夜は、私の部屋に来てくれ。個人的な話がしたい﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 耳を甘やかすような、くすぐったい響き。フィリアネスさんはは にかみながら、俺の手を引いて、何事もなかったように屋敷に招き 入れてくれる。 あくまでも、話がしたいというだけだ。昔を懐かしみながら、俺 もフィリアネスさんとゆっくり話がしたい。 清く、正しく、美しく。そんな言葉を頭の中で繰り返しながら、 俺は思う。 みんなで祝祭を楽しむ前に、俺にとって個人的な祝祭が訪れてし まうのではないか。そんな夢みたいなことがあるわけはないのだが、 現実にフィリアネスさんは俺と手を繋いだまま、上機嫌な微笑みを 絶やさずにいるのだった。 852 第二十三話 母は伯爵令嬢/ドラゴンミルク フィリアネスさんたちが着替えている間、俺は居間でルシエとイ アンナさんの二人と話をしていた。 ﹁ヒロト様は、どうしてそんなにお強いのですか?﹂ ﹁ええと、俺は⋮⋮じゃなくて、僕は、と言った方がいいでしょう か、イアンナさん﹂ ﹁な、なぜ私に許可を⋮⋮フィリアネス様のご寵愛を受けているあ なたに、私から意見出来ることなど無いと知っていて言っているの ですか?﹂ とことん権威に弱いな、この人は⋮⋮将来は貴婦人という感じに なりそうな、上品な容姿をしているのに、心根が芯まで貴族主義と いうか。 ﹁私が公女だということは気にせず、どうか楽にしてください。そ の方が、私も嬉しいですから﹂ ﹁ありがとうございます、殿下。それじゃ、遠慮なく楽にさせても らうよ﹂ ﹁だ、だから切り替えが早いと⋮⋮先ほどから思っていたのですが、 公女殿下に対する距離感が近すぎますよ。それは、それだけの身分 ではあるのでしょうが、私たち以外の臣民がそのような態度を見た ら、気分を害するかもしれないのですよ﹂ 確かにそれはそうだけど⋮⋮悪いくせだな。前世の年齢感がある から、10歳くらいの少女だと、どうしても小さな女の子という感 覚で見てしまう。 853 しかし、身体に精神が引っ張られる面もある。イアンナさんに﹃ さん﹄がついているのは、八歳の身体から見ると、イアンナさんは 相当大きく見えるからだ。 ﹁⋮⋮ヒロト様、イアンナのいうことはあまり気にしないでくださ い。イアンナも、本当はヒロト様に感謝しています。ですが、素直 になれないだけなのです﹂ ﹁なっ⋮⋮ひ、姫様、そのようなこと、決してわたくしはっ⋮⋮わ たくしは、公王家に対して、平民は平民らしく弁えるようにと言い たいだけでっ⋮⋮﹂ なるほど、凝り固まった考えをお持ちのようだ。まあ賊から助け たといっても、イアンナさんは気絶してたからな⋮⋮俺が戦った姿 を見てたルシエとは、評価に差があるのは仕方がない。 ︱︱そうやって不本意ながらも納得しようとしていた俺は、ルシ エの次の発言を全く予想できなかった。 ﹁イアンナ、あなたが私を守ると言いながら真っ先に気絶したこと を、あなたの父上⋮⋮パトリオ様に報告したら、どんなお顔をされ ると思いますか?﹂ ﹁っ⋮⋮ち、父上にはなにとぞご内密にっ⋮⋮わ、わたくしは、父 に見放されたら、姫様の側仕えから外されてしまいます⋮⋮そうな っては、もはや私の居場所などどこにもっ⋮⋮﹂ ﹁では、これからヒロト様に優しくしてください。次に公王家の名 前を出してヒロト様を不愉快にさせることがあったら、その時は、 パトリオ様に私から手紙が届くと思ってください﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮申し訳ありませんでした、ヒロト様。度重なる無 礼のほど、お許し下さいっ⋮⋮!﹂ 854 ﹁あ、い、いえ⋮⋮俺はそんなに気にしてないから、謝らないでく ださい﹂ ﹁そんなに﹂ということは多少は気にしてるということで、イア ンナさんもそれを察して恐縮していた。 そういえば、レミリア母さんもジュネガン公国の貴族の出だよな。 イアンナさんの家と、何か繋がりがあったりしないだろうか。 ﹁あの、イアンナさん。俺の母さんの実家は﹃クーゼルバーグ﹄っ ていうんだけど、聞いたことはある?﹂ ﹁く⋮⋮クーゼル⋮⋮クーゼルバーグ伯爵家⋮⋮でございますかっ ⋮⋮!?﹂ 伯爵⋮⋮そ、そんなにいい家柄だったのか。母さんの親戚に会っ たことがないから、全く知らなかった。ミゼールでの母さんの知り 合いも、元々は貴族だったというくらいしか知らなかったし。 フィリアネスさんは母さんが貴族だと知ってたから、伯爵令嬢と わかっていた可能性もある。あえて教えてくれなかったのかな⋮⋮ レミリア母さんと実家の関係について、何か知ってるのかもしれな い。 ﹁あ、あわわ⋮⋮あわわわわ⋮⋮﹂ 座っているルシエの傍に立っていたイアンナさんだが、腰を抜か してぺたんと尻もちをつく。このリアクションの激しさはパメラを 思い出すな⋮⋮まさか、もしかしてと思って切ってみた﹃母さんの 家名﹄というカードが、ここまで効力を発揮するなんて。 ﹁わ、わたくしはっ、イアンナ・シーガル⋮⋮シーガル子爵家の、 七女です⋮⋮っ、どうか、どうか、これまでの非礼の数々、ひらに、 855 ひらにお許し下さいっ⋮⋮!﹂ ﹁ヒロト様のお母様は、クーゼルバーグ伯爵家の方だったのですね ⋮⋮私の方も、存じておらず申し訳ありません。失礼ながらお伺い しますが、ヒロト様は、これまで社交の場に出られたことなどはあ りますか?﹂ ﹁母さんはミゼールから出たことがないし、俺も今回、遠出をした のは初めてだから⋮⋮﹂ ルシエの質問に答えつつも、土下座しっぱなしのイアンナさんが 気になる。イアンナさんも公女殿下の権威をかさに着ていたけど、 俺も母さんの家柄を知らなかったとはいえ、やってることは同じに なってしまった。 俺は席を立つと、絨毯に膝をつき、イアンナさんの肩にそっと手 を置いた。 ﹁イアンナさん、顔を上げてくれ。今言ったとおり、俺の母さんは 貴族の生まれだったけど、俺は貴族として育てられたわけじゃない。 そんなに怖がることないよ﹂ ﹁⋮⋮ヒロト様﹂ 恐縮しきっていたイアンナさんが顔を上げる。蒼白くなっていた 顔にだんだん赤みがさしてきて、切れ長の瞳を何度か瞬かせたあと、 彼女は肩に触れた俺の手に、自分の手を重ねた。 ﹁⋮⋮なんとお優しい。思えば姫様を助けていただいた時から、只 者ではないと思っていました。その後の落ち着いた立ち振る舞いを 見るにつけ、この方が庶民でなく、貴族であったならと思わずには ⋮⋮い、いえ、そうではなく⋮⋮﹂ ﹁ヒロト様は、ヒロト様です。お母様の家柄と、彼個人が素敵な方 であることは、別のことです﹂ 856 ﹁⋮⋮はい。姫様のおっしゃる通りです。お恥ずかしい⋮⋮私はあ なたのような方に、どうして天につばを吐くような物言いをするこ とが出来たのでしょう。これまでの非礼を重ねてお詫びします﹂ イアンナさんは立ち上がり、深々と頭を下げる。ということは⋮ ⋮これで、ルシエと話していても、彼女に警戒されることはなくな ったってことかな。 ﹁ヒロト様はヒロト様⋮⋮素晴らしいお言葉です。私もイアンナと いう個人として⋮⋮女として、将来有望な殿方であるヒロト様に対 し、本来の自分を見せていく努力をすべきなのですね﹂ ﹁⋮⋮イアンナは特にそんなことをしなくてもいいと思いますが、 いかがでしょうか? ヒロト様﹂ ﹁え、えーと⋮⋮ま、まあ、マイペースでいいんじゃないかと⋮⋮ 決して急ぐ必要はないから﹂ ﹁かしこまりました。短い間だけご一緒することになるかと思いま すが、その間に、助けていただいたことへの御礼をさせていただけ ればと存じます﹂ 好感度が高くなったら高くなったで、困った人だな⋮⋮できれば、 ルシエともっと話したいのに。 ︵王統スキルをもらうには、彼女はあまりに幼いけどな⋮⋮最低で も、あと一年かかりそうだ︶ 公女殿下からそんなことを期待するなんてとんでもない! と、 天の声が聞こえてきそうだが、王統スキルが取れなくて、世界が滅 亡の危機に瀕したらどうする? 俺にはとても、そんな可能性を残 しておくことは出来ない︱︱という冗談はさておき。 857 授乳以外にスキルを伝授してもらう方法はあるので、順を追って 過程を踏むこともできるし、大人になるまで待つこともできる。そ のためには、ルシエが無事に暮らせるよう取り計らう必要があるだ ろう。いや、俺はそんな利己的なだけの人間じゃない。俺はゲーム とは違う未来が見たいだけなんだ、いや本当に。 ﹁ヒロト様は殿方といえど、まだ八歳ですから⋮⋮子爵家に伝わる 房中術などは、まだご興味もない年頃でしょうか。少年を喜ばせる すべも、覚えておくべきでしたね﹂ ︵⋮⋮な、なんだって?︶ ﹁な、何を言っているのですか、イアンナ⋮⋮ぼ、房中術だなんて﹂ そうだ、何を言っているのだ。房中術なんて、一般向けのMMO RPGの中に実装されるわけないだろ! この世界がゲーム時代と はまったく違うからって、釣られないんだからね。ぷんぷん。マー ルさんの真似をしてみた。 ◆ステータス◆ 名前 イアンナ・シーガル 人間 女性 14歳 レベル4 ジョブ:女官 ライフ:52/52 マナ :32/32 スキル: 858 ︻竪琴︼演奏 42 格闘マスタリー 5 戦士 8 気品 30 恵体 1 魔術素養 1 母性 24 房中術 13 アクションスキル: 弾き語り 演奏レベル4 艶姿︵房中術10︶ パッシブスキル: マナー︵気品10︶ 儀礼︵気品30︶ 育成 授乳 残りスキルポイント:12 ︵格闘マスタリー5⋮⋮ょゎぃ。って、そうじゃなくて⋮⋮本当に 教育上よろしくないスキルが⋮⋮!︶ シリーガル、じゃなくてシーガル子爵家では、娘に房中術を教え る慣習でもあるというのか⋮⋮まあ、確かに習得しておけば、大人 になってから男を手玉に取ったり、有効に使えそうな気はするけど。 というか、房中術ってどうやって訓練するんだろう。女官という ジョブの固有スキルみたいだけど⋮⋮ま、まさかイアンナさん、1 4歳で体験済みだなんて、中世なみのスピードで大人になってしま 859 ったのだろうか。そう思うともの凄く大人に見えてきてしまう。す まない、童貞と処女以外は帰ってくれないか。まあたぶん、教本と かで指導をされていて、実地ではやってないとは思うけど。 ちなみに房中術について俺が知っていることといえば、大まかな くくりでいえば保健体育のたぐいなのだが、ベッドの中でのテクニ あですがた ックという意味で使われる場合があり、たぶんイアンナさんが持っ ているスキルもそういうものだと思われる。艶姿というアクション スキルが取れるようだが、つまりセクシーポーズだろうか⋮⋮この お説教好きで権力に弱い少女が、どんなセクシーポーズを見せてく れるというのか。女豹のポーズとかそういうやつか。フィリアネス さんといい、十四歳はいろんな意味で目覚めの季節なのか。 ﹁ヒロト様、もう数年お待ちください。そうすればこのイアンナ、 母から女としての秘技の全てを学び、必ずやあなたを天国に行かせ てみせますわ﹂ ﹁へぇ∼、まだ会ったばかりなのに? 最近の貴族の女の子って進 んでるんだ。アレッタちゃん、私たちがこれくらいの時の歳はなに してたっけ?﹂ ピキッ、とイアンナさんが凍りつく。マールさんは彼女の肩をつ かんで持ち上げ、すとんと椅子に座らせた。マールさんは別に世紀 末覇者のような肉体をしているわけではないが、恵体94というス ーパーレディである。フィリアネスさんも同じくらいだったりする が、それはさておいて、イアンナさんの重さなどはまったく難なく 持ち上げられるのだ。今回は手加減して﹃肩をつかむ﹄などという 方法で持ち上げているが、おそらく大人の男性に対してマールさん がイラッとしてしまったら、顔面にアイアンクローをして持ち上げ るだろう。首の骨が大変なことになってしまう。 860 ﹁彼女くらいの歳のとき、私たちは騎士団に入ったばかりで、フィ リアネス様とも出会う前でしたね﹂ ﹁そんな歳から、男の子にうつつを抜かすなんて⋮⋮いーけないん だ﹂ ﹁も、申し訳ありませんっ、わたくし舞い上がってしまい、つい思 ってもみない過激なことを⋮⋮っ﹂ ︵聖騎士のフィリアネスさんの直属の部下>子爵家の七女という力 関係か︶ それにしても七女って、イアンナさんみたいな淫乱⋮⋮もとい、 ビッチな娘たちが七人もいるのか。朱に交われば赤くなるというが、 エロスは伝染するのか。したり顔で最低なことを考えてしまう。そ うだ、姉妹全員が房中術を習得しているとは限らないじゃないか。 ﹁わたくしなどは大したことはないのです。姉たちの方がずっと技 術も知識も進んでいて⋮⋮﹂ ︵すごい家だ⋮⋮!︶ そこまで来るとむしろ感心してしまう。イアンナシスターズが勢 揃いしているところを見てみたい。そして彼女に房中術を教えたお 母さんがどれくらいの実力者なのか、あさっての方向に興味は深ま るばかりだ。 ﹁とにかく、ヒロトちゃんにはそういうのはまだ早いの。いくら貴 族の女の子がエッチなことに耳が早いからといって、ヒロトちゃん の耳にそういう言葉を入れるのは禁止です。それをしていいのは、 私と、フィリアネス様と、まあ大目に見てアレッタちゃんだけだか ら﹂ 861 ﹁何ですかその上から目線⋮⋮いえ、私もそんなことばかり考えて いるわけじゃありませんから、いいんですけど。それにしても、房 中術ですか⋮⋮少し、興味はありますね。私、色気がないので、他 のことで補わないと⋮⋮﹂ 彼女はそう言うが、全くそんなことはないのだが⋮⋮二十八歳と いう年齢でないと出てこない、女性の本質的な色気が出てきたとい うかなんというか。若い頃にはなかった魅力が、今の彼女にはある。 ︵⋮⋮でも、結婚する気がまったくなさそうな⋮⋮騎士団というか、 この世界の武人の女性は、そういうこともあるみたいだけど︶ 子供をつくらずに養子を取って技を伝授するなんてこともあるみ たいで、ミゼールにもそういう関係の親子がいた。 でも、マールさんもアレッタさんも、そこまで割り切っていると 限ったわけじゃないし、本人が結婚のことを話題に出さないなら、 外から心配することでもないのかと思う。 だけど、どうしても考えずにいられないことがある。彼女たちが、 ずっと一人でいる理由がなんなのか⋮⋮。 ︵俺が子供のときに、彼女たちの好感度を最大にしなかったら⋮⋮ いや、そんなことは考えても仕方がない︶ ﹁あっ⋮⋮も、申し訳ありません、公女殿下。私、ついかーっとな っちゃって、公女殿下のお付きの方に失礼なことを⋮⋮ごめんなさ いっ!﹂ ﹁いいえ、お気になさらないでください。こちらこそ、まだ会った ばかりのヒロト様に失礼なことを⋮⋮﹂ ﹁い、いえ、悪いのは私です。公女殿下が謝罪されることはござい ません。これより、慎み深い振る舞いを心がけますので、どうかご 862 容赦くださいませ﹂ イアンナさんが頭を下げるが、マールさんはもう怒ってはおらず、 照れ照れと頬をかくばかりだった。 ◇◆◇ ヴェレニス村では、畜産が主な産業となっている。羊を育てて毛 を取ったり、山羊のミルクを搾って乳製品を作ったりして、商人を 介して国内各地で売ってもらうわけだ。 食事はミゼールと同じく、パンを主食として、ラビット系モンス ターの肉が食卓に上がることが多いらしいが、今日は羊の肉が出さ れた。大量の野菜と一緒に、肉汁が外の縁にたまる特殊な鍋で焼く ︱︱前世でも見たことがある料理だ。肉は果実の汁につけて柔らか く処理され、タレも果汁の甘みと塩のバランスが取れていて、かな りの美味だった。フィリアネスさんの屋敷のメイドさんの料理スキ ルは、うちの母さんに匹敵しそうだ。 ひと通り食べ終えたあと、ハーブティーを飲みながら雑談する。 フィリアネスさんが同席していると、イアンナさんはものすごく静 かで別人のようだった。いつもこうなら、王女の侍女としてふさわ しい、奥ゆかしい女性だと言えるんだけどな。 フィリアネスさんは屋敷の居間に防音の魔術をかけると、ルシエ たちと今後のことを相談し始めた。精霊魔術レベル5には音精霊に 干渉するものがあり、指定した空間内の音を漏らさないようにする ことができる。もともとは、敵の詠唱を妨害するための魔術なのだ 863 が、フィリアネスさんはそれを応用しているようだった。 ︵ゲームとは違って、いろんな用途に魔術が使える⋮⋮か︶ 俺が気づいてないだけで、今持っている魔術の中に、意外な使い 方が出来るものもあるかもしれない。それは留意しておこう。 ﹁ルシエ、祝祭が行われる期日は3日後だと聞いた。それまでに、 イシュア神殿に行くのか? それならば、私たちも同行しようと思 うが﹂ ﹁フィル姉さま⋮⋮お気持ちは嬉しいです。しかし、領主になった ばかりの姉さまに迷惑をかけるわけには⋮⋮﹂ ﹁私は公王に仕える者。その私がルシエを守ることに、何の遠慮も する必要はない。安心して頼るがいい﹂ ﹁⋮⋮姉さま﹂ フィリアネスさんは、俺がルシエに言ったことと同じことを言っ ている。それに気づいたのか、ルシエも目をかすかに見開いていた。 そして俺の方を見やると、恥ずかしそうに頬を赤らめる。 ﹁先程も、ヒロト様に同じことを言われました。私は、自分の身を 守る力がありません⋮⋮皆さんに頼るしかないとわかっています。 それでも、簡単に力を借りることを覚えれば、王族足りえる資格を 持つ者とはとても言えません﹂ ﹁誇りを持ち、それを大切にすることは素晴らしいことだ。しかし、 私は王族が守られてはならないものだとは思わない。王家に連なる 方々を守ることを誇りにしている私たちは、常に迷いなく、ルシエ たちの盾になることができる。それを喜びにして、戦い続けられる ⋮⋮それが、騎士という存在のありかただ﹂ 864 そこまでの思いがあるからこそ、フィリアネスさんはルシエに危 害を加えようとしたシグムトを許すことが出来なかったのだろう。 そして守ることこそが誇りだという言葉が、ルシエの心を動かす。 ﹁⋮⋮私には、覚悟が足りなかった。洗礼を受けて王族と認められ れば、王位継承権を与えられる⋮⋮そうすれば、私のことを疎んじ る人が出てくると分かっていながら、命まではとられないと思おう としていました。その甘えが、私を守ろうとしてくれる人を危険に さらしてしまった。従者の三人が傷ついたのは、私のせいです﹂ ﹁黒騎士団の二番隊長を相手にして、命があっただけでも良しとす るべきだろう。ルシエの護衛をしていた者たちについては、この砦 で少々鍛えさせてもらう。この砦には、私が見込んだ勇敢な精兵し か居ないからな。多少厳しい訓練にはなるが、三ヶ月もすればシグ ムト程度は相手にならなくなるだろう﹂ ︵い、言い切った⋮⋮聖騎士直属兵は、黒騎士団の隊長より強いの か。凄まじい戦力だな⋮⋮︶ ﹁私とヒロト、マール、アレッタがルシエの護衛について神殿に行 く。儀式を終えて戻る道程は、一日あれば終えられる。そのあと、 ヴェレニスで一泊したとしても、首都に入ってからルシエの安全が 保証されるよう掛け合い、準備をする時間はある。特に、無理のあ る目算ではないと思うのだが﹂ ルシエが首都から出て、3日後に祝祭が行われる予定というわけ だ。王族が洗礼を受けるというなら、もう少し日程に余裕を持つべ きではないかと思ったが、何の障害もなければ2日で首都に戻るこ とができていたのだろう。イシュア神殿はゲーム時代にも行ったこ とがあったが、マップが異世界と違って簡略化されていたので、首 都から三十分で着くくらいの距離だったが、どうやら移動に半日は 865 必要なようだ。 ﹁俺もルシエ殿下の護衛をしたい。祝祭って、公女殿下が王族とし て認められたことを、臣民に示すための行事⋮⋮ってことでいいの かな? 話に聞いただけだから、詳しくわかってないんだけど。ル シエ殿下が祝祭でみんなに祝われるところを、俺も見たいんだ﹂ ﹁前に祝祭があったのは一年前だから、みんな凄く楽しみにしてる と思うよ。フィリアネス様とアレッタちゃんのご家族は首都に住ん でるしね。私の家族も田舎から出てくるかもしれないって言ってた くらいだよ∼﹂ マールさん、公女殿下の前でもリラックスしてるな⋮⋮この人は やはり器が大きい。俺も砕けた言葉遣いをしてるけど、それもルシ エの厚意があってのことだ。公の場では、徹底して敬うことを心が けたい。 ︵普段からそうするべきなんだけどな⋮⋮俺は、調子に乗ってるん だろうか?︶ 大人を相手にしても負けないし、怖いもの知らずになっていたの かもしれない。王族ですら、恐るるに足りない⋮⋮そんな考えは、 この国で暮らす多くの人には受け入れられないか。 ﹁あ、あの⋮⋮ヒロト様、ひとつよろしいでしょうか﹂ ﹁あ⋮⋮す、すみませんでした殿下。やっぱり俺、しっかりした言 葉遣いをすることにします﹂ ﹁い、いえっ⋮⋮そのような必要は、ありません⋮⋮っ﹂ ルシエは声を震わせながら言う。その顔は耳まで真っ赤になって いて、俺も含めて、みんな彼女が何を言い出すのかわからず、目を 866 白黒させる。 ﹁どうか私のことを﹃殿下﹄とお呼びにならないでください。皆さ んの前でも、ルシエ、といつものように⋮⋮﹂ ルシエの正式な宣言を前にして、イアンナさんももう何も言わな い。むしろ驚いたのはフィリアネスさんたちだが、彼女たちはルシ エを止める気はないようだった。むしろ、ルシエに対して敬意を払 うべきということとは、全然別のことを気にしている。 ﹁ヒロト⋮⋮ルシエによほどの勇姿を見せたのだな。ここまで心を 鷲掴みにしていたとは、さすがの私も予想外だったぞ﹂ ﹁はぁ∼、お、王女様に見初められておしまいになられるだなんて ⋮⋮ダメ、まだ諦めるのは早いわマール。だってヒロトちゃんはま だ八歳、王女様は十歳だもの! 大人の階段はまだ先もいいところ よ!﹂ ﹁ひとりごとを言うのはいいですが、私たちも登ってませんからね ⋮⋮はぁ。ため息は肌に良くないっていうのに、最近凄く増えちゃ ってます⋮⋮﹂ フィリアネスさん以外の発言には、情念がこもっている⋮⋮二十 歳になってから、マールさんが俺を見る目が変わってきたというか、 何とも言えない期待を感じるようになったのはそのためか。アレッ タさんもそうだったとは、まことに自分の自覚のなさが恥ずかしい。 俺にはどうやら甲斐性がないようだ。 ︵でも八歳だしなぁ⋮⋮八歳で甲斐性があったら、世間の男性から ヘイトを集めそうだし⋮⋮俺は魔法使いを目指すくらいがちょうど いいのかもな︶ 867 ︱︱そんなことを考えていたら、ずっと静かにしていたイアンナ さんが、耐えかねたように口を開いた。アタック⃝5に出場し、一 発逆転のパネルに飛び込んでいく回答者のように。 ﹁ヒロト様は多くの方に慕われているようにお見受けしますので、 老婆心ながら言わせていただきます。騎士団の方には馴染みのない 文化かもしれませんが、貴族社会では一夫多妻は普通のことです。 クーゼルバーグ伯爵家の血を引いておられるヒロト様は、いずれ正 式に貴族として認められるのではないですか? 他の伯爵家の男性 は、3人、4人は妻を持っていますよ。私の父も子爵の位を授かっ ておりますが、私の母を含めて三人の妻を持っていますし﹂ なめらかに言い終えたあと、イアンナさんは満足そうに顔をつや っとさせる。言いたくて仕方ないことを言ったので、ストレスが解 消されたらしい。 それくらい、マールさんとアレッタさんが何を言わんとしている のか、イアンナさんに伝わってしまっていたということだ。傍から 見ていてじれったくなるほどに。 ︱︱フィリアネスさんたちは完全に沈黙している。な、なんだこ の緊張感は⋮⋮俺は何を求められているんだ⋮⋮! ◆ログ◆ ・︽マールギット︾はつぶやいた。﹁その手があっても、まだ八歳 だから⋮⋮はぁ∼、私、いつまで女の喜びを知らずにがまんすれば ⋮⋮﹂ ・︽アレッタ︾はつぶやいた。﹁⋮⋮待っていてもいいんでしょう か。私、その時にはもうおばさんですね⋮⋮でも⋮⋮﹂ 868 ・︽フィリアネス︾はつぶやいた。﹁⋮⋮聖騎士の戒めが終わるま で⋮⋮いや⋮⋮﹂ 音にならないくらいの声さえ、ログに表示されてしまう。お、女 の喜びって⋮⋮やっぱり性欲を持て余してしまってるのか。これは どこぞの大佐に報告しなければならないレベルの非常事態だ。 考えてみれば、これだけ健康な人たちが、ずっと男っ気もないま まに青春の盛りを過ぎようとしているわけで⋮⋮それが俺の責任で あるとしたら、少なからず、何かしなくてはという気持ちになる。 ︵し、しかし⋮⋮俺はまだ八歳⋮⋮何が出来るというわけでも⋮⋮ いや、性欲を持て余してしまうのは良くない。我慢しすぎると身体 に悪いからな⋮⋮︶ 真面目に悩み始める俺。それを見て、フィリアネスさんははっと したように席を立つ。 ﹁ひ、ヒロトにはまだ早い話だ⋮⋮イアンナ殿、その辺りの話は謹 んでもらいたい。貴族の社会がどうであれ、ヒロトが何を選択する かは、大人になってから決めることだ﹂ ﹁は、はい⋮⋮申し訳ありません、差し出がましいことを申し上げ ました﹂ イアンナさんは恐縮して言うが、どちらかといえば、フィリアネ スさんの顔の赤さに驚いているようだった。 ◆ログ◆ 869 ・︽ルシエ︾はつぶやいた。﹁フィル姉さま⋮⋮お気持ちはよく分 かります⋮⋮﹂ ︵も、もう見るのはやめよう⋮⋮ログがあまりに敏感すぎる︶ そしてルシエも、十歳ですでに他人の心の機微を感じ取ることが 出来ている。確かにミゼールの幼なじみの女の子たちも、お互いの 気持ちを察したりしている場面が最近多くなってきたしな⋮⋮ステ ラ姉も、もう思春期を迎えているし。 考えてみるとルシエは年上なので、ルシエ姉と言ってもいいんだ けど、ステラと比べるとあどけなく見える。物言いは公女の風格を 感じさせるが、身長が小さめだからだろうか。といっても、俺と同 じくらいなんだけど。 ﹁で、では⋮⋮明日は早く村を出て、神殿に向かう。ルシエ、それ で良いだろうか﹂ ﹁はい。皆さん、どうかイシュア神殿まで、私のことをお守りくだ さい。よろしくお願いいたします﹂ ﹁そ、そんなっ、公女殿下は頭を下げることありません、私たちは 最初からそのつもりでしたからっ﹂ ﹁公女殿下をお守りするのが私たち騎士の役目です。フィリアネス 様の言うとおり、私たちは王家を守ることを誇りとしています⋮⋮ ですから、遠慮などなさらないでください﹂ ﹁⋮⋮ありがとうございます。ありがとう⋮⋮﹂ ルシエは鳶色の瞳を潤ませた涙を拭く。イアンナさんも横でもら い泣きをしていた⋮⋮彼女も﹃儀式﹄を取得しているということは、 公女に同行して、儀式の中で果たす役目があるのだろう。そういう 870 ことなら、俺たちは彼女のことも守らなくてはいけない。 同僚ともいえる黒騎士団の人間に怪我をさせられたルシエの護衛 たちも、さぞ無念だろうが⋮⋮俺たちが、その意志を継ぐ。そして 首都で待っているみんなと一緒に、ルシエの晴れ姿を見たい。 ルシエが無事に洗礼の儀式を終えて首都に戻らなければ、祝祭は 予定通りには行われないだろう⋮⋮国民の期待が集まっているだけ に、これは責任重大だ。俺はフィリアネスさんと頷き合い、ルシエ を守り通すという意志が同じであることを確かめていた。 ◇◆◇ フィリアネスさんの屋敷の客室のひとつを、メイドさんがベッド メイキングして泊まれるように用意しておいてくれていた。久しぶ りに一人になり、俺はベッドに腰掛けて一息つく。 ﹁ふぅ⋮⋮﹂ とりあえずは、風呂の順番を待つ間に斧の手入れをしておく。素 材の性質上、錆びることはまずないが、戦闘で使ったあとは毎回点 検して、耐久度が下がらないように注意しなくてはならない。 サビ防止の油などを塗ってメンテナンスを終えると、次に気にな るのは首都に向かった皆のことだった。それについては、状況が詳 しく分かるように下準備をしてある。 ◆ログ◆ 871 ユィシア ・あなたは護衛獣を呼び寄せた。 護衛獣はどれだけ離れていても呼ぶことが出来る。彼女には首都 まで商隊を護衛してもらうように頼み、あるアイテムを渡しておい た。それがあれば、皆の無事を確認したり、連絡事項を伝えたりす ることもできる。 ゲーム時代は﹁ウィスパー﹂という機能があり、ログインしてい るフレンドといつでも会話することができた。異世界でも同じよう なことが出来る可能性もあるが、今のところはやり方が判明してい ない。ゲームではパーティメンバーを指定して話しかけられたのだ が、同じようにはできなかった。 そのうちに、窓をコンコンと叩く小さな音が聞こえてくる︱︱首 都から飛んできたのか、それとも近くまで来ていたのか。どちらに せよ、ユィシアの到着はあっという間だった。 窓の外のバルコニーに出ると、翼の音も何も聞こえなかったのに、 そこには確かにユィシアの姿があった。夜空に浮かぶ月の光を浴び て、いつもと同じ、半分透けているような薄衣を身にまとっている。 俺は彼女を部屋に招き入れる。ユィシアもベッドに座るようにす すめると、尻尾が邪魔なのか、お姉さん座りをする︱︱そんな態勢 だと、昔の格好ではいろいろ見えてしまっていたのだが、最近の彼 女は、俺が頼んだこともあって水着のような形状の装備をしていた。 ユィシアは竜の姿から変化するときに自分で服の形を決められるの だが、どうしてもこだわりがあるらしく、ところどころ透けている。 それでも昔よりは露出度は低く、落ち着いて向かい合うことができ 872 た。 ﹁お疲れさま、ユィシア。その様子を見ると、みんなは無事みたい だな﹂ ﹁問題ない。ご主人様が予測した通り、首都に入れば襲撃はないと 思われる。今夜は念のために、商人ギルドから紹介された安全な場 所で宿をとっている﹂ 淡々と報告しながらも、ユィシアの尻尾の先端が揺れている。機 嫌がいいときはいつもそうで、触ってやるとかなり喜んでくれるの だが⋮⋮どうもその反応が艶っぽくて、ちょっと遠慮してしまう。 ︵髪を編みこみにするようになったんだよな⋮⋮ユィシア。それが また似合ってて⋮⋮︶ リオナが時々おめかしをするときに編みこみをするようになって、 ユィシアも意外なことに、それに影響を受けたらしかった。 彼女は自分が護衛獣というのをわきまえていて、テイムしたばか りの頃よりも素直に欲求を口にしたりはしなくなった。しかし、そ れでも定期的に伝えてくることがある⋮⋮俺が忘れないように、と いうことらしい。 ﹁ご主人様⋮⋮少し離れていたから、心配になった。その反動で、 したくなった﹂ ﹁し、したくなったっていうか⋮⋮子供を作りたい、ってことだよ な?﹂ こくり、と頷くユィシア。この皇竜の少女もまた、性欲を持て余 しているのだ。年齢的には十九歳だが、出会った当初から彼女の姿 はほぼ変わっていない。しかし、内的には変化し、成熟していくわ 873 けで⋮⋮。 ︵最近⋮⋮たまにユィシアの目がドラゴンっぽくなるというか⋮⋮ 襲われそうなことがあるんだよな︶ ユィシアは頬を染めて、豊かに膨らんだ胸元に手を当てながら俺 を見る。このいたいけな仕草を見ても、まだ俺は何というか、男と して未成熟なわけで⋮⋮。 ︵あと二年くらい経てば⋮⋮いや、それでも、こ、子供は⋮⋮︶ 竜の巣の宝を守るために、子竜を産みたい。理由はわかるのだが、 そんなことで、見た目は完全に人間の女性のユィシアと⋮⋮す、す るのはどうかと⋮⋮ああ、頭が茹だってきた。 ﹁⋮⋮ご主人様が話している内容が、私の心にも伝わってきた。私 は、悪くはないと思う。雄がハーレムを作る動物は、他にもいる。 人間の王族や、貴族だけの文化ではない﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それはそうだけど⋮⋮﹂ ﹁リオナか聖騎士のどちらかが、ご主人様の最初の相手になると思 う。私はそのあとでかまわない⋮⋮皇竜の種を絶やさないために、 協力して欲しい﹂ リオナとフィリアネスさんのどちらかが俺の初めての相手という のは、まだ分からない⋮⋮と言ったら、何となくだが、彼女たちが 離れていってしまう気がする。 まさか自分が、こんな選択を迫られる日が来るとは思っていなか った。前世の俺は、むしろハーレム主人公なんていうものは、羨ま しいと思いつつもリア充爆発しろ、一人の女の子を選ばないやつは 874 クズだとか、そういう発想を持つほうだったのだが⋮⋮。 ︵しかしここは異世界⋮⋮日本とは違う。一人一人の理解を得られ れば⋮⋮い、いや、俺にはそんな、複数の女性を口説くことなんて とても出来ない⋮⋮!︶ 口説きはしないが、スキルはもらう。なんという都合のいい考え ⋮⋮くっ、自分の最低さばかりが浮き彫りになってくる。 ﹁⋮⋮どうしても嫌だったら、無理にとはいわない。私はご主人様 のもの⋮⋮ご主人様の命令に従う﹂ ︵そ、そんな切なそうな目で見ないでくれ⋮⋮た、耐えられない⋮ ⋮︶ 責めるような目で見られると、昔も今も、精神力をガリガリと削 られる。 押し切られたわけでも、強要されたわけでもない。しかし、答え を待ってもらいながら護衛獣としてユィシアを使役し続けていいの か。それこそ、女の子の気持ちを利用してるようなものじゃないの か。 しかし、護衛獣からユィシアを解放すればいいのでは、という選 択は元から考えていない。その時点で、俺という人間の本質が見え るというものだろう。 ︵⋮⋮呆れるくらい強欲なんだ、俺は︶ 貴族が一夫多妻制と聞いたときに、俺が心の底で何を考えたか⋮ ⋮それはまだ、誰にも言えない。 875 俺はまだ、それを言えるくらいになれていない。みんなに受け入 れられるかどうかは、イアンナさんの話を聞いたときの、フィリア ネスさんたちの反応が答えを示しているんだとしても。 ︵みんなが欲しい⋮⋮か。そうじゃない、一人ずつを大事にしない と意味がない︶ まだ恋愛のことを考えるのは早いという気もする。しかし、この 状況で逃げ続けるのも甘えでしかない。 ユィシアは答えを欲しがっている。子供を作ってあげるかわりに、 俺がユィシアとしてきたこと⋮⋮思い返せば、スキルのためだなん て言って、恥ずかしい思いをさせてしまった。 ﹁⋮⋮恥ずかしくはない﹂ ﹁うわっ⋮⋮そ、そうか、ユィシア⋮⋮俺の心の中、見えて⋮⋮っ﹂ ﹁一人ずつを大事にする⋮⋮そう思っていてくれて、嬉しい。私は 竜で、あなたは人⋮⋮それは、どうしても変えられないことだと思 っていたから。嬉しい⋮⋮﹂ ユィシアは立ち上がると、尻尾の先を俺の目の前に差し出す。そ の行為が、何を意味するか⋮⋮俺は、何度もユィシアにそれをして あげたあとに、ようやく教えてもらえた。 細くなった先端には、サラサラとした銀色の毛が生えている。な めらかな鱗に覆われているのに、先端だけは違っていて⋮⋮そして。 ﹁⋮⋮くすぐったい﹂ そこは、竜にとって敏感な部分のひとつのようだ。俺が握ると、 ユィシアは顔を赤らめて切なそうな目をして、見る見るうちに澄ん だ目に確かな熱が宿る。 876 ﹁⋮⋮今日は、両手で触ってあげるよ。ユィシア⋮⋮だから、俺が 大きくなるまで、もう少し待ってくれ﹂ ﹁ご主人様⋮⋮さわりかたが優しい。いつまでも触っていてほしい ⋮⋮﹂ ﹁できればご主人様じゃなくて、ヒロトって呼んでくれると嬉しい な。何だか、いけないことをしてる気分になるから﹂ 腰砕けになってベッドにぺたんと腰を下ろすユィシア。しかし俺 に、長い尻尾の先端を預けたままでくれている。これは、触り続け て欲しいというサインだった。 ﹁⋮⋮ご主人様は、ご主人様。私の⋮⋮ひとりだけの⋮⋮﹂ ﹁こら⋮⋮ヒロトって呼ぶように言ったろ? 人のいうことはちゃ んと聞かないと﹂ ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮さま⋮⋮﹂ 恍惚としながら、言うことを聞いてくれるユィシア。彼女がこれ ほど素直になったのは、いつからだったか⋮⋮。 限界突破を取るためとはいえ、簡単に彼女が許してくれたわけで はない。竜である彼女が何を喜び、何を望むのか、俺はそれを理解 しようとして努力した。 端的にいえば、彼女は﹃宝﹄が好きだ。ドラゴンはキラキラした ものや、金貨などを好んで集めるので、それをプレゼントすると喜 んでくれる。たまに竜の巣に持ち帰っては、先祖代々集めてきた宝 に、俺から貰ったものを加えられたと、微笑みながら言っていた。 ︱︱人間と変わらない表情を見せるようになってから、彼女は徐 877 スキル 々に変わっていった。俺は、自分の能力で彼女を魅了し、テイムし たことを既に打ち明けている︱︱しかし彼女は、それを非難するこ とはなかった。 ﹁ヒロトさま⋮⋮もっと触ってほしい。久しぶりに、触れてもらえ たから⋮⋮﹂ ﹁ごめん、いつも町に居られないのに、呼ぶ時は頼み事ばかりで。 だから俺も、ユィシアの頼みを聞きたい。そうしないと、バランス が偏っちゃうからな﹂ ﹁⋮⋮ヒロトさまが大人になったら⋮⋮そう言ってくれただけで、 十分⋮⋮﹂ ユィシアはそう言って、名残惜しそうに尻尾を俺の手から抜けだ させる。そして、先端のふさふさの部分を、自分の胸に抱くように した。 ﹁⋮⋮とても心地よかった。竜にとって、尾の先は人に触れさせた くない部分⋮⋮でも、ヒロト様には触れてほしい﹂ ﹁やっぱりそうなんだな。また、いつでも触ってあげるよ﹂ 今度はブラッシングでもしてあげようかと思う。ユィシアには俺 が何をしようとしているかが伝わっているようで、頬を染めてこく りと頷いた。 ﹁人間の姿では⋮⋮胸は、くすぐったい感じが強い。でも、ヒロト さまにさわってもらうと、熱くなる﹂ ﹁っ⋮⋮ま、待って。あんまりそういうこと言われると、俺⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮問題ない。早めに男性としての機能が成熟してくれたほうが、 私は嬉しい。怖がることはない﹂ 878 なぜか励まされてしまった。二次性徴が怖いわけでは決してない のだが、どうやら俺は、自分の身体の変化に戸惑っている感を出し てしまっていたようだ。 ﹁⋮⋮ちがう。ヒロト様の精神は、大人になりつつある⋮⋮でも、 身体は子供。端的に言えば、精⋮⋮﹂ ﹁い、言わなくていいっ! ユィシア、そういうことは人前で言っ ちゃだめだぞ﹂ ﹁心配しなくても、絶対に言わない。でも、私には隠せない。私と 契約した以上、隠し事はできない﹂ ユィシアは微笑みつつ、俺の頭を撫でる。何か、俺の方がテイム されているみたいな気分だ⋮⋮。 ﹁⋮⋮力を与えることは、まだできると思う。ヒロト様がお風呂に 入るまで、少し時間をもらえば⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いいのか? いちおう、宝をあげた時だけって約束 してたけど⋮⋮﹂ ﹁宝なら、もうもらうと約束した﹂ お腹を撫でながら、嬉しそうに言うユィシア。もう確定なんだな ⋮⋮確かに約束はしたので、それを取り消すことはまずないわけだ が⋮⋮。 ︵誰と一番先に⋮⋮ってことだけは、まだ分からないな︶ そんなことを思いながら、ベッドの上で胸を覆う飾りを上にずら し、昔のように胸を見せてくれるユィシアを、座ったままで見やる。 昔から完成されたプロポーションだが、一部だけが年を追うごとに 変化していた。 879 ﹁⋮⋮だいぶ大きくなったな。俺のせいか?﹂ ﹁そう⋮⋮ヒロト様のせい。ヒロト様の、おかげでもある﹂ 胸が大きくなるのは悪いことではない、とユィシアは思っていて くれている。彼女の母性の数値は、俺の護衛獣になってから少しず つ伸び続け、今は50を超えていた。 ﹁⋮⋮最近、搾れるくらい張ってきて困る。ヒロト様に触ってもら うと、楽になると思う﹂ 触れてエネルギーを吸収する行為は、ユィシアにとっても、身体 のエネルギーの流れが良くなるとのことで気に入ってもらえていた。 そして限界突破にボーナスポイントを振らなかった俺は、スキル ポイント貯金をまた始めていたりする。 レベルアップで獲得出来る数値に限界がある以上は、他の方法で スキル上げできる場合、それを優先するべきである。だけど俺は﹃ 依頼﹄はしない。言葉を交わし、交渉し、そして互いの合意の上で 吸わせてもらう。 限界突破は現在、ようやく20に達した。あと10ポイント、ど れくらいユィシアに宝を貢ぐことになるだろう︱︱だが、彼女が喜 んでくれて、俺も目的を達することができ、関係も良好に保たれる。 実際問題、何も悪いことなど無いのである。 ︵最近は、触れなくてもエネルギーが取れるくらいになってきたん だけど⋮⋮やっぱり、添えるくらいはしたいよな︶ 数千回の採乳を経ても、あえて言おう、俺は女性の胸が好きであ る。 880 しかし搾乳が可能になった今、そちらを選択するという手もある のだった。母乳からスキルポーションを作成するとか、おばば様に 相談したら普通に出来そうな気もする。 ﹁⋮⋮直接でいい。私の魔力の自然回復量は大きいから、ほぼ無限 に与えられる﹂ ︵異世界のこういうところが、本当に凄いと僕は思います︶ 思わず俺から僕になってしまうほど、冷静な思考を保つのに苦労 してしまう。女性の胸はやはり、前かがみになると重力にひっぱら れ、立っているときより大きく見える。だがユィシアの胸の張りは 生半可なものではなく、あまりだらしない感じにならない。俺はだ らしないタイプもとても良いと思う。つまりは何度も自己討論して いるが、どんな胸も素晴らしいという結論に至る。 その釣り鐘型の芸術的な曲線が迫り来くる。俺は手を差し伸べて 支える。こうしてコンタクトを果たし、﹁採乳﹂が行われるのであ る。 ﹁⋮⋮ヒロト様の手は、いつも控えめ。指がぴくりとも動かない﹂ ︵揉んではいけないからな。揉んだら、別の行為になってしまう︶ ﹁⋮⋮でも、それだけで落ち着く。動かすのは、もう少し大人にな ってからでいい﹂ ︵お、大人になったらしていいのか⋮⋮早く大人になりたい⋮⋮と か言ったら、どんだけ欲望に素直なんだと思われそうだな︶ 881 ﹁⋮⋮素直でいいと思う。そういうことは、我慢しないほうが身体 に良い﹂ ﹁こ、こういう時は心は読まないでくれ⋮⋮どうしても、ろくでも ない感じになるから﹂ ﹁⋮⋮ヒロト様がろくでなしでも、私は気に入ったから、いい﹂ ろくでなしってはっきり言われたが、まあ仕方がない。今の俺に 必要なことは、開き直り、殻を破ることだ。 ﹁そういうことを言う子には、おしおきしないとな⋮⋮って、ユィ シアにそんなことしたら灰にされるな﹂ ﹁⋮⋮灰にはしない。石にして、私の巣で愛でる。飽きてきたら元 に戻す﹂ ︵こういうところは、やっぱりドラゴンが恐ろしいと思うところだ な⋮⋮︶ ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しますか? Y ES/NO ・限界突破スキルが上がりそうな気がした。 ・︽ユィシア︾は満足そうにしている。 ・あなたは︽ユィシア︾に﹁搾乳﹂を依頼した。 ・︽ユィシア︾はガラス瓶に搾った乳を入れた。﹁ドラゴンミルク﹂ が生成された。 ・︽ユィシア︾は顔を赤らめた。 882 ﹁⋮⋮思ったよりいっぱい出た。搾乳をすると魔力の消費が大きい ⋮⋮採れる量も多い﹂ 俺の渡した手巾で胸を拭きながらユィシアが言う。ついスキルが 上がらなかったので勢いでお願いしてしまったが⋮⋮搾乳したドラ ゴンミルクは真っ白で、まるで牛乳のようだ。味もミルクそのもの だが、非常に濃厚でありながら味がすっきりしている。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁ドラゴンミルク﹂を飲み干した。 ・限界突破スキルが上昇した! 未知の世界への扉が開いた。 ﹁朝一杯ずつ、搾りたてのこれを飲み続けるっていうのは⋮⋮いや、 何でもない﹂ ﹁⋮⋮金貨を10枚くれたら、あげてもいい。無料であげてもいい けど、その時は子供を作る﹂ ﹁き、金貨10枚と子作りを対等にしちゃだめだぞ、ユィシア⋮⋮﹂ どういう会話をしてるんだと心の底から思いつつ、俺はドラゴン ミルクが新鮮なうちに飲み干した。羊の乳より明らかに旨い⋮⋮こ れを与えて育てるなら、ユィシアの仔はとても元気に育ちそうだ。 まあ、それを作るには俺の協力が不可欠なわけで⋮⋮い、いいん だろうか。 ﹁⋮⋮私はあせらない。無理やりにすると嫌われるから、しない﹂ 883 皇竜の力で本気で迫られたら抵抗できないからな⋮⋮ユィシアが 淑女で良かった、と胸を撫で下ろす俺だった。 884 第二十三話 母は伯爵令嬢/ドラゴンミルク︵後書き︶ ※本日は次話まで連続更新です。 885 第二十四話 ささやきの貝殻/ふたりの本音/聖なる泉︵前書き ︶ ※前日の23:00から、続けてこの最新話をアップしています。 順にご覧いただければ幸いです。 886 第二十四話 ささやきの貝殻/ふたりの本音/聖なる泉 ユィシアはリオナ、ミルテ、ステラとは知り合いで、モニカさん、 ウェンディ、名無しさんとも面識がある。年少組はユィシアの正体 がエンプレスドラゴンとは知らないが、ミルテは匂いで人間以外の 種族だと分かるらしく、初めは少し警戒していた。森の中で引きあ わせたところ、クールで大人しい性格のふたりは通じるものがあっ たらしく、何となく打ち解けた雰囲気だった。 そんなわけで、ユィシアが俺の護衛獣としてお使いに行っても、 みんなは特に疑問に思うことなく受け入れてくれた。 ﹁これに、ヒロト様の友人の声を吹き込んでもらった﹂ ﹁うん、ありがとう。みんな元気そうだったなら、それでひとまず は安心なんだけどな﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ユィシア︾から﹁ささやきの貝殻﹂を受け取った。 この﹁ささやきの貝殻﹂は、ミゼールに来ていた行商から手に入 れたものだ。音の精霊の力が宿っていて、音を伝えることができる。 アイテム名からこれがウィスパー機能と同じ役割を果たしてくれ るのかと期待したが、そうではない。ほら貝のような形をしたこれ の穴に向かって話しかけると、声を吹き込むことが出来る。六つの 887 魔石がはめ込まれていて、ひとつにつき一回分の録音に対応してい る。ICレコーダーのように使えて、わりと便利な魔道具だ。 ﹁男の子供たちはもう寝てたから、ちょうど録音回数が間に合った﹂ ﹁はは⋮⋮アッシュもディーンも、寝るの早いらしいからな﹂ 俺も十歳くらいの時は、遅くても十時半くらいには寝てたしな。 次第に夜起きていられるようになって、最終的にはゲームで完徹し、 黄色い朝日を拝むレベルになってしまった。それくらいでないと、 トッププレイヤーなどと呼ばれるようにはなれないのだが。 ユィシアはさっきまでの余韻が残っているようで、ふぅ、と吐息 をつくとベッドに座る。彼女にしては珍しく、横向きに寝そべって、 俺の方をじっと見つめていた。 俺を幾ら見ていても飽きない、と言っていたことがあるが、本当 に彼女は全く目をそらさない。慣れるまでに時間がかかったが、今 となっては慣れてしまった。 ﹁じゃあ、早速再生してみるか﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ささやきの貝殻﹂に宿る力を使った! ・貝殻に宿る音が、あなたの耳に届いた。 ﹃ヒロちゃん、元気にしてますか? 私は元気です。首都はにぎや かで、ミルテちゃんが人が多いからって隠れちゃってます。ステラ お姉ちゃんははぐれないようにって、私たちの手を繋いでいてくれ 888 ます。早くヒロちゃんに会いたいな。リオナより﹄ ﹃⋮⋮そんなに隠れたりしてない。でも、人が多いのは苦手。お祭 りは楽しみだけど、ヒロトがいなかったら、別に見なくてもいい。 早く来てほしい。リオナとステラ姉のことは、私が獣魔術で守るか らだいじょうぶ。ヒロトにも見せてない新しく覚えた魔術があるか ら、またミゼールに戻ったらみせたい。ミルテ﹄ ﹃ヒロト、一つ言っておきます。公女殿下を送っていくとき、くれ ぐれも、失礼なことを言ったりしないようにね。それと、公女殿下 はとてもお綺麗だけど、ぽーっと見とれたりしないこと。そんなこ とをしてたら、不敬罪で捕まってしまうわよ。しばらく話せてなか ったけど、また町に戻ったら、私と一緒に勉強しましょう。あなた が驚くくらい難しい本も読めるようになったのよ。期待して待って いて。ステラより﹄ どちらかといえば、心配しているというより、俺と遊びたいと言 ってくれてる感じだな。ステラ姉、しばらくつれない態度だったけ ど、声が凄く優しい。こういうときだからこそ本音だと思っていい のか⋮⋮ちょっと照れてしまう。 俺が密かに熱い期待を寄せているのが、ステラ姉の学習能力の高 さだ。だんだん読ませてくれる本のレベルが上がっていると思って いたが、気がついたら俺が読めない言語の本まで読めるようになり 始めている。﹃古代語﹄の本の読解に取り組んだことで、解読スキ ルを習得することに成功したのだ。 ︵俺が全てのスキルを取らなくても、みんなが持っていてくれれば、 出来ないことは減る。将来のことを見据えて、チームプレイを考え ていかないとな︶ 889 さすがにステラ姉が学者に転職した後に固有スキルをもらおう、 なんてことは考えていない。もしかしたらそんなこともあるかもし れないが、最初から期待しているのは良くない。時間がかかっても、 違う方法でスキルを習得すべきだ。と、きれいな俺が言っている。 もしかしてそんな葛藤を察して、ステラ姉に距離を置かれたんじ ゃ⋮⋮と心配していたが、そんなことはなかった。これで開き直っ てしまったら、彼女の優しさに甘えているだけだから、決して調子 に乗ってはいけない。 ﹁みんな、ご主人様のことばかり気にしていた。あと、聖騎士によ ろしくと言っていた﹂ ついでじゃなくて、フィリアネスさんの領地に来るのがメインイ ベントなんだけど⋮⋮まあ、みんなが俺を大事にしてくれてること に関して、苦言を呈するほど頭は固くもない。俺がみんなの分まで、 フィリアネスさんに会えたことを喜べばいいだけだ。 次は年長組か⋮⋮この表現だと、何だか前世における幼稚園のよ うだな。大人組、子供組の方がわかりやすいか。 ﹃ヒロト、無事にフィリアネスさんの所に着いたと思うけど、また 敵が来るかもしれないからくれぐれも気をつけてね。そうは言って も、ヒロトが居ればそうそう公女殿下が危険な目に遭うこともない でしょうけど、心配なのは心配だから。最後の手段として、ユィシ アをヒロトが仲間にしたっていうことを公にするっていう手もある けど⋮⋮そうすると、ヒロトもユィシアも、穏やかに暮らすことが 難しくなっちゃうしね。とにかく無事で戻って来るのよ。モニカ﹄ 皇竜を仲間にした俺が、公女の護衛になったと分かれば、敵対す 890 る勇気のあるやつはいないだろうな。しかしモニカさんの言うとお り、ユィシアの存在を明かすと、皇竜を何としても倒そうと戦力を 向けてくる可能性もある。そのとき、ユィシアは問題なく撃退出来 るだろうが、少なくない人死にが出てしまう。 ユィシアの力を借りるのは最後の最後の手段だ。ルシエをいつで も、安全なところに逃がすことはできる⋮⋮しかし今のところは、 彼女が王族として認められ、安全に公国内で暮らせる道を模索した い。 ﹃お師匠様、お元気にしていらっしゃいますか? 私たちは無事に 首都に着いて、隠れ家的なお宿でゆっくりしています。男の子たち は疲れてたみたいですぐ寝ちゃいましたが、女の子たちはすごく元 気で、今でもお部屋でお話したりしてるみたいですよ。私もさっき まで混ざってきたんですけど、お師匠様との関係を聞かれちゃいま した⋮⋮これって改めて聞かれると、とっても説明が難しいという かですねっ、またお師匠様と、そのあたりについてもご相談したい なと思いまして。早く戻ってきてくださいね。ウェンディでした﹄ ウェンディは森でコボルドにやられて悲惨なことになりかけてい たところを、俺が二歳になる前に助けてあげて、弟子入りされたと いう関係だ。人型モンスターは例外なく人間の女性を襲うと分かっ た出来事でもあった。実力がついてくればレベル上げのために倒し まくることになるわけだが、全ての人が戦う力を持ってるわけじゃ ないし、魔物はやはり危険な存在だ。 ﹃これで音が録れているのかな? こんなマジックアイテムは、小 生の知識には⋮⋮いや、何でもない。それはそれとして、伝えてお きたいことがある。遭遇することはないと思うけれど、ジュネガン 公国に最近入国してきた人物で、強者を見つけると手当たり次第に 891 挑んでくる者がいると聞いた。冒険者ギルドによく姿を見せるらし く、有名になりつつある。もし出会ったら、ヒロト君の強さを教え てやって欲しいところだけどね。ジュヌーヴのギルドにも姿を見せ て、公道を南に行くと言っていたらしい。聖騎士殿にも、気をつけ るように言っておいてくれ。名無し、と名乗るのも違和感があるね ⋮⋮これは考えものだ﹄ 名無し、は名前じゃなくて通り名みたいなものだしな。しかし、 道場破りみたいなやつがこっちの方面に行ったっていうのは気にな る。どれくらい強いのか見てみたくもあるし。 そして、名無しさんがそろそろ名前を教えてくれそうな感じが⋮ ⋮フラグが立ったというのかな。彼女の話しぶりだと、どうしても 俺に名前を教えたくないわけじゃないようにも思える。教える時を 待っていた、というか。 ﹁ヒロト様、こちらからも録音を上書きして、また私が届けに行く。 届けたあとは、皆に危険が及ばないように、姿を隠して見守る﹂ ﹁ああ、よろしく頼む﹂ 俺が貝殻に全員分のメッセージを吹き込んで渡すと、ユィシアは 少し名残惜しそうにしながら、バルコニーに出て空中に踊り出る。 そしてその身体が光に包まれ、巨大な銀竜の姿に変わったと思うと、 ゆるやかに上昇したあと、急加速して飛び去った。急にスピードを 出すと突風が発生するため、彼女は人の暮らしに影響を与えないよ う細心の注意を払っているのだ。 エンプレスドラゴンでなければ竜魔術が使えないし、人化ができ る竜種も限られている。ユィシアは普通に人に紛れて暮らすことが できる、ドラゴンの中でもとても貴重な存在だ。そんな彼女を早い 時期に仲間に出来たことが、どれほどの幸運か⋮⋮。 892 ︵私も同じことを思っている。いつでも心は、マスターとともにあ る︶ マスター⋮⋮懐かしい呼び名だな。ギルドマスターをしてたとき、 一部のメンバーがそう呼んでくれたことがあった。ギルマスと呼ば れることが多かったが。 ご主人様、ヒロト様より、マスターのほうがしっくりくる気がす る⋮⋮というのは、俺が少なからず中二病を患っているからだろう か。 ︵ありがとう。そっちも気をつけてな、ユィシア︶ 離れていても念話出来るとはいえ、一定の距離が離れると通じな くなる。ユィシアの気配が薄れる前に、最後に彼女が小さく返事を したように感じた。 ◇◆◇ 今日のところは、明日に備えて早く休まなければいけないので、 あとは風呂に入って寝るだけだ。 フィリアネスさんの部屋に行っても、明日のことを少し話すくら いだろう。彼女は公王家に忠誠を誓っている騎士なのだから、ルシ エが滞在している日に、俺と仲良くしようとも思ってないだろう⋮ ⋮というのは、建前なのだが。 ︵一晩泊まるだけで、そんなに期待しちゃいけないな︶ 893 一時は聖剣マスタリーという言葉に我を失いかけたが、俺もパラ ディンに転職してスキルを取るのが正式な手順になるわけだから、 飛び級ばかりしていてはいけない。しかしパラディンになるには、 それなりに時間もかかりそうだし⋮⋮悩ましい。 ﹁ヒロト様、お風呂の準備が出来ました。着替えは用意してありま すので、何も持たずに浴室にお越しください﹂ メイドさんに呼ばれ、俺は言われた通りに手ぶらで浴室に向かっ た。 フィリアネスさんたちと風呂に入ったこともあったな⋮⋮と懐か しく思い出す。数年経っただけで、もう遠い昔の出来事のようだ。 ︵大人になるって悲しいことだな。女の人と風呂に入ってはいけな くなる⋮⋮当然だけど︶ 人生は厳しい、だが誰もがそうして大人になっていくのだ。悟っ たような顔で俺はひとり浴室の扉を開く。 前世の中世では、風呂はぜいたくなものだとされていたが、同じ ような文明レベルのこの異世界においては多くの家に普及している。 風呂を沸かすための薪の需要量が多いが、木の生育が早いので、森 林破壊が深刻だったりはしない。 フィリアネスさんの屋敷においても、領主の屋敷にふさわしく、 大浴場が設けられていた。七、八人くらい一緒に入ることが出来る くらい広い。俺の家の風呂も相当だが、ここまで天井が高い浴室は 初めてだった。 家ではリオナと一緒にソニアを風呂に入れてやったり、時々母さ 894 んが息子へのサプライズとしていきなり入ってきたり、風呂嫌いの ミルテに風呂に入る習慣をつけさせてくれと頼まれ、おばば様も含 めて三人で入ったりと、とにかく一人で入ることは少なかった。そ んなわけで、久しぶりに一人だと、けっこう寂しかったりする。 ﹁ま、甘えてられる歳でもないよな⋮⋮﹂ そう独りごちて身体を洗い始める。この辺りでは身体を洗うため のハーブ水も、違う調合になっているな⋮⋮これはフィリアネスさ んたちと同じ香りだ。花の成分でも抽出して入れてるんだろうか。 何事もなく身体を洗い終え、汲んでおいた湯を頭からかぶってハ ーブも流した。まだ身長が足りないから、風呂桶に入るときによじ 登らないといけないのが大変なんだよな。 ︱︱そして風呂のへりに手をかけた瞬間だった。浴槽が一気に波 打ち、すわ奇襲か、と俺は身構える。 ﹁ざっぱーん! 人魚があらわれた!﹂ ﹁⋮⋮え、えっと⋮⋮ずっと風呂の中で隠れてたの? 全身真っ赤 になってるよ、マールさん﹂ ﹁ほぁぁっ、なぜ驚いてくれないの! 身体を張った私の﹃人魚の 計﹄を台無しにしてくれちゃって!﹂ ﹁あはは⋮⋮久し振りだね、マールさんと一緒に風呂に入るの。俺 はもう、浸かったらすぐ上がるけどさ﹂ ﹁⋮⋮なんですと?﹂ マールさんがぴくっ、と反応する。見上げると、深い峡谷の向こ う側で、マールさんの長い髪に隠れた顔に、実に不穏な感じに影が 落ちている。 895 ﹁あっ⋮⋮い、いや、あの、俺ももう八歳になったし、女の人と一 緒に風呂に入ったりするのは⋮⋮っ﹂ ﹁やっぱりそういうことだったんだ⋮⋮まだそんなにちっちゃいの に、しなくてもいい遠慮なんてして⋮⋮﹂ ひ、ひどい。俺は当たり前の社会通念に従っているだけなのに、 全否定とは。 ︵マールさんからはもうスキルが取れないからな⋮⋮とか本当のこ とを言ったら、もっと怒られるけどな︶ ﹁雷神様のお屋敷に来た以上は、ただで帰れると思わないでよね! 甘えてられる歳じゃない? ノーです! 私たちはまだ甘やかし 足りないのです!﹂ ﹁おわっ⋮⋮ちょ、ちょっと待っ⋮⋮か、隠させてくれないとっ⋮ ⋮﹂ 全裸のマールさんに持ち上げられる真っ裸の俺。マールさんの視 線が徐々に下に降りていく。 ﹁⋮⋮え、えっと、私、何て言っていいのか⋮⋮何か言ったら、公 国法に触れちゃいそうな感じが⋮⋮﹂ ﹁ち、力持ちなのは分かったから、持ち上げないでくれないかな⋮ ⋮﹂ ﹁ううん、私はただ、子供の頃から知り合いの男の子をお風呂に入 れてあげてるだけ⋮⋮こういうことは、そんなに悪いことじゃない はず!﹂ ﹁マールさん、そこまで無理をしなくても⋮⋮ヒロトちゃんだって 戸惑ってます﹂ 896 この二人、なんだかんだで仲がいいな⋮⋮アレッタさんが当然の ように入ってくる。だから、タオルで隠してるからといって、嫁入 り前の女性が簡単に見せてはいけないというのに。 ﹁そんなこと言って、しっかり見てるくせに! アレッタちゃんの むっつりさん!﹂ ﹁み、見てません! いえ、医学的な見地では見ていますけど、異 性として意識はしていませんから、セーフです。お医者さんが男の 子の身体の変化を調べるのは、どうみても合法です﹂ そ、そんなに俺の二次性徴を心待ちにしているのか⋮⋮俺の中身 が結構いい年だからといって、そんな関心をもたれたら、いたいけ な少年としては戸惑ってしまうわけで。 ︵⋮⋮しかし、何だかもう、セーブしてるのが馬鹿らしくなってき た⋮⋮マールさんのせいだ︶ マールさんに持ち上げられ、男のプラウディアを保つこともでき ない状態で、大きくなったら女性と風呂に入ってはいけないとか、 そんなルールを守り通す必要があるのだろうか。 ︱︱また一つ俺は大人に近づいた。女性から一緒に風呂に入りた いと言われたら、恥をかかせてはいけない。 ﹁マールさん、今までごめん。俺、本当はマールさんや、みんなと 一緒に入りたかったんだ﹂ ﹁よ、良かったぁ∼⋮⋮ヒロトちゃん、実はすごく嫌がってて、そ れで入ってくれなくなっちゃったんだと思ってたよ∼﹂ ﹁フィリアネス様も心配していましたからね⋮⋮本当に良かったで 897 す﹂ アレッタさんは目元を押さえている。な、泣くほど嬉しいことな のか⋮⋮何だかいい話みたいな雰囲気になってきてしまった。 ﹁⋮⋮私もアレッタちゃんも、ヒロトちゃんとお風呂に入るのが、 ずっと心の癒やしになってたんだよ。騎士団の任務で疲れちゃって も、それだけですぐ元気になれてたのに⋮⋮なのになのに⋮⋮﹂ ﹁ヒロトちゃんが、すごく大人びているのは分かっているんですけ ど⋮⋮まだ、気にしないで一緒に入って欲しいとマールさんと話し ていたんです。ごめんなさい、いつもは私がマールさんを止めてい るのに、子供っぽいですよね、いつまでも一緒にお風呂に入りたい なんて﹂ ﹁⋮⋮ううん。俺こそごめん、二人の気持ちも知らないで﹂ 一緒に入るだけなら問題ないんだけど⋮⋮俺だって男だからな。 赤ん坊の頃から精神的には、女性の裸を見て反応してしまう部分は あったわけで。それが申し訳ないことだとずっと思い続けてきた。 ︱︱何より、リオナのことが頭に思い浮かんでしまうわけだけど。 どうしても、一夫多妻制の世界に頭が切り替わらないし、基本的に 浮気がいけないことなのは異世界も同じだからな。 が、そのリオナが無邪気に言うのである。 ﹃ミルテちゃんもステラお姉ちゃんも、リオナと一緒にヒロちゃん のお嫁さんになるんだよね?﹄ 子供の頃ならまあいいかと思って流していたが、マールさんもア レッタさんも、今の状況を見るとガチで一夫多妻を容認しているよ うな、そんな感じが⋮⋮俺が大きくなるまで待ち続けられたら、さ 898 すがに責任を取らないといけない。アレッタさんなんて、あと二年 で三十路になってしまうのだ。仮に俺が15歳で成人するまで待っ てもらっても35歳である。 ︵しかし頭で考えるのと、実行するのはわけが違うからな⋮⋮︶ ﹁⋮⋮ヒロトちゃんは、やっぱり、若い人の方がいいんでしょうか ? 幼なじみの女の子たちの方が⋮⋮﹂ ﹁ううん、絶対そんなことない。だってヒロトちゃんは、私が抱っ こしてあげてるとき、あんなに嬉しそうだったもん。お風呂でぎゅ ーってしてあげてる時だって⋮⋮﹂ ﹁い、言わないでください⋮⋮そういうこと、あんまりはっきりっ。 意識しちゃうじゃないですか⋮⋮もう、いけないことなのに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いけなくないよ? 無理やりじゃなかったら、悪いことなん てあるわけないもん。そうだよね?﹂ 俺が普通の子供だったらアウトだろうな。が、俺は前世から引き 継いだ性的な知識があるわけで。何も分からずに、マールさんたち に無理やり貞操をおびやかされているわけでもなく、むしろおあず けしている方だ。おあずけって言い方もあんまりだが、それ以上に 適切な表現が見当たらない。 ﹁ヒロトちゃんは、女の子の胸は好きだよね? 私の胸が筋肉だと か、そんなこと思ってないよね⋮⋮?﹂ ﹁お、思ってないよ。思ってないけど⋮⋮胸が好きって、甘えん坊 みたいじゃないかな﹂ ﹁そ、そんなことはありません。好きなものは好きでいいんです。 我慢する方が、すこやかな成長にとって良くないですから﹂ このまま健やかに成長していったら、俺は⋮⋮どうなるんだろう。 899 年頃の健康な身体を持て余しながら我慢していた彼女たちに、報い てあげられるんだろうか。 ﹁ちょっとだけ⋮⋮フィリアネス様の所に行くまでは、私たちと一 緒に⋮⋮ね? お願い⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮のぼせてしまわないように、いつまでも引き止めたりしませ んから。ヒロトちゃん⋮⋮﹂ さっきからマールさんは惜しみなく裸を見せてくれている。長い 髪が、決して筋肉なんかじゃない胸の膨らみを覆い隠し、引き締ま ったお腹と腰のラインが目を見張るほどきれいで、健康的な肉体美 だと素直に思う。 そしてアレッタさんも、マールさんに倣うようにタオルを外して、 とても久しぶりに素肌を見せてくれた。彼女はいつもマールさんと 一緒に行動しているのに、彼女と比べてすごく肌が白い。筋肉はつ いていないけど、控えめだった胸の膨らみが出会った頃より一回り 大きくなって、腰回りが充実してきていた。この人が俺に操を立て て嫁に行かないのは、騎士団の男性たちにとっては滂沱の涙を流す 事態だろう。 ﹁三人で一緒に入っても大丈夫だから、ヒロトちゃんが私たちの間 にきて⋮⋮ねえ、どっちがいい?﹂ ﹁そんなに押し付けたりしないでください、マールさんはデリカシ ーがないんですから⋮⋮ヒロトちゃんを見習ってください、こんな に紳士的な触れ方ですよ﹂ ﹁ひ、久しぶりだから、ちょっと⋮⋮緊張するっていうか⋮⋮あ、 ヒロトちゃんったら。ぼよんぼよん、って遊んじゃだめだよ∼﹂ ︵相変わらずのダイナマイトボディに、敬意を表したい⋮⋮そして 900 アレッタさんの控えめさも、俺は好きだ︶ 採乳でほとんどスキルが上がらなくなっても、ふたりの胸のエネ ルギーの流れが良くなるし、友好度も上がる。スキルだけが全ての 行為ではないのだ。 ﹁ん⋮⋮でも、大人になったほうが、なんだか満足する感じがする よ﹂ ﹁そうですか⋮⋮? 私も、ヒロトちゃんの手が大きくなって⋮⋮ 恥ずかしいですね、私の胸は小さいままで⋮⋮﹂ ﹁あはは、大きくても恥ずかしいけどね∼。ヒロトちゃんの手がす っぽり間にはさまっちゃうし﹂ 触れながら普通に話をしているが、この後、フィリアネスさんの 部屋に行こうというのである。罪深い感じがものすごい。 ルシエが王族の洗礼を受ける前日に、こんなことしてるやつが護 衛でいいのか⋮⋮という思いもあるが。一度始めてしまうと、マー ルさんもアレッタさんも、飽きることなく俺との触れ合いを求めて くるのだった。 ︵⋮⋮あれ? なんか、外から音が聞こえたような⋮⋮︶ ﹁ヒロトちゃん、どうしたの⋮⋮? こっち向いてくれなきゃだー めっ﹂ ﹁あ、いや⋮⋮何でもないよ。次はどっちがいい?﹂ ﹁そんなの、自分の方がいいって言うに決まってるじゃないですか ⋮⋮ヒロトちゃん、こっちをどうぞ﹂ 競うように左右から差し出されながら、俺は思う。俺がもうちょ っと早く大人になってたら、二人が求めることに全て応えてあげら 901 れたのにと。 今までは幼いことを言い訳にしていたが、今度は俺自身が、早く 大きくなりたいと思うようになった。もちろん、そっちのことだけ で頭をいっぱいにしてるわけじゃないが、異性に関心を持つのは恥 ずかしいことじゃないと思えるようになってきた。 ◇◆◇ 風呂から上がったあと、マールさんもアレッタさんも地に足がつ かないみたいにふらふらしている。そんな状態にしたのは、もちろ ん俺なわけで⋮⋮照れくさいというか、何というかだ。 ﹁⋮⋮アレッタちゃん、天国ってああいうことを言うのかな? 腰 がふわふわして落ち着かないよ∼﹂ ﹁わ、私もですけど⋮⋮あまり大きな声で言わないでください、公 女殿下も一つ屋根の下にいらっしゃるんですから﹂ 風呂場から出ると、やはりアレッタさんは真面目だった。そんな 彼女が、同僚のマールさんと俺の前だけでは、乱れた姿を見せる。 そのギャップも、今となってはとても魅力的に感じてしまう。 ︵気が多いのかな、俺⋮⋮って、明らかに多いか︶ ﹁ヒロトちゃん、ごめんね、最初は驚かせたりして。私、もう少し 女らしくした方がいいかなって、自分でも少しだけ思ってるんだけ どね∼⋮⋮﹂ ﹁マールさんはすごく女らしいと思うよ。もちろん、アレッタさん も﹂ 902 ﹁ヒロトちゃん⋮⋮ありがとうございます。今日はマールさんより、 私の方を気に入ってくれたみたいでしたね⋮⋮すごく嬉しかったで す﹂ 二人とも公平にしてたはずなんだけど、そうでもなかったのか。 マールさんは確かに、少し恥じらいを持ったらぐっと魅力が増しそ うだ。豪快なのが彼女らしいとも思うんだけど、男はチラリズムに 魅力を感じる動物でもあるので、フルオープンより徐々に開示して いく方が⋮⋮って、ガチで考えすぎだ。 ﹁次は私の方がいっぱい触れてもらえるように頑張るね。おやすみ、 ヒロトちゃん⋮⋮ちゅっ﹂ ﹁⋮⋮いいんですか? いいんですよね、マールさんがするのなら 私も⋮⋮おやすみなさい。ん⋮⋮﹂ 二人が俺の頬にキスをして、自分の部屋に帰っていく。時間をか けて採乳ができたので、騎士道と衛生兵のスキルは久しぶりに上昇 した。スキル経験値効率の良さが変わっていないと確認できて、俺 の方もとても満足だった。 一度部屋に戻ったあと、俺は具体的にフィリアネスさんの部屋に 行く時間を決めてもらってなかったな⋮⋮と気づく。 しかしあまり遅くなると、彼女が休んでしまう可能性がある。俺 は意を決して部屋を出ると、フィリアネスさんの部屋に向かった。 屋敷は三階建てになっていて、俺が泊まる客室やマールさんたち の居室は二階、三階にフィリアネスさんの部屋がある。廊下の突き 当たりの扉に、豪奢な装飾を施された札がかかっていた。フィリア ネス・シュレーゼと名前が入っているが、領主が変わるたびに、こ 903 の札は入れ替えられるのだろう。 緊張しつつドアをノックする。コンコン、と叩くと、中で人の動 く気配がした。 ﹁⋮⋮来たか。入ってくれ﹂ フィリアネスさんがドアを開けてくれて、俺を中に迎え入れてく れる。 彼女は風呂あがりから、寝るための格好に着替えている。白い薄 手の布で作られた、上下が分かれたノースリーブの寝間着だった。 長い髪は後ろでまとめてアップにしている⋮⋮こんな髪型にしてい るところを見るのは初めてで、すごく新鮮だ。 フィリアネスさんの執務用の部屋は別にあるようで、仕事に使う 机などは置かれておらず、丸いテーブルを囲んで三つの椅子が置か れている。もう一つの部屋と繋がっており、その部屋が彼女の寝室 のようだった。床には上質な絨毯が敷かれており、壁には貴婦人の 絵と風景画が飾られている。 窓はガラス張りで、薄いカーテンを通して月明かりが差し込んで いる。部屋の中は間接照明になっていて薄暗いが、その淡い明かり が、ますますフィリアネスさんの美貌を引き立てていた。昼間とは 違う彼女の顔を見せられた気分で、心臓の鼓動がひとりでに早まり 始める。 ﹁ヒロトは育ち盛りだから、本当は長く睡眠を取るべきだが⋮⋮す まないな。どうしても二人で話がしたくて、呼び出してしまった﹂ ﹁俺は嬉しかったよ、フィリアネスさんが呼んでくれて。舞い上が っちゃいそうなくらいで⋮⋮ごめん、真面目な話をするために呼ば れたのに﹂ 904 ﹁⋮⋮真面目といえば真面目だが。私は、それだけで済ませるつも りはないぞ?﹂ フィリアネスさんはくすっと笑う。そんな悪戯っぽい仕草も、彼 女は今までほとんど見せることはなかった。 ︱︱そして、思い当たる。フィリアネスさんは公女の前では騎士 として厳格に振る舞っていたが⋮⋮本当は。 ︵マールさんやアレッタさんと同じくらい、俺と会えたことを喜ん でくれてたのか⋮⋮もしそうだったら⋮⋮︶ 気持ちに衝き動かされそうになる。彼女の胸に飛び込みたい、そ んな狂おしい衝動が生まれてしまう。 子供じゃないのに、子供みたいに甘えてみたい。母さんに対して そうするときは、俺は子供であろうとしている⋮⋮しかし。 子供として以上に、一人の人間として全てを許して預けられる。 フィリアネスさんは、俺にとってそんな存在だった。 ﹁まず、ルシエたちと出会った経緯を聞かせてもらおう。ヒロトは、 なぜルシエたちが襲われたときに、その場に立ち会ったのだ?﹂ ﹁友達が商人見習いになったから、仕事の手伝いで首都に向かって たんだ。手伝いっていっても、山賊から護衛するって役割だけど﹂ ﹁そうか⋮⋮それで、公道を移動していたのだな。ヒロトたちが通 りがからなければ、今頃ルシエは⋮⋮﹂ フィリアネスさんは立ったままの俺を椅子に座らせる。後ろから 肩に手を置かれた︱︱そう思った次の瞬間には、彼女は屈みこんで、 俺のことを抱きしめてくれていた。 ﹁⋮⋮礼を言う。私にとって、ルシエは命に代えても守るべき存在 905 だ。それを守ってくれたのが、ヒロトであったということ⋮⋮その ことを嬉しく思う。同時に、これからは私がルシエを守らなくては ならないとも思っている﹂ ﹁フィリアネスさんが領主になったのは⋮⋮もしかして、ルシエを 助けるために動くことができないようにするため、ってことは考え られるかな?﹂ ふと浮かんだ推論を口にする。もし俺の思った通りなら、フィリ アネスさんに領土を与えるよう取り計らった人物こそが、ルシエ襲 撃に深く関わっていることになる。全ての黒幕かどうかは、まだ分 からないが。 ﹁領地はファーガス陛下から賜ったものだ⋮⋮しかし、そうするよ うに王に進言したのは別の王族の方だ﹂ ﹁その、王族っていうのは⋮⋮?﹂ ﹁王族とは本来、東西南北の四つの王家の方々を指す。そのうち一 つの家の当主が、公王の位を継承する⋮⋮今の王、ファーガス陛下 は東王家の出身だ。陛下に対し、私に領土を与えるよう進言した人 物はグールド公爵という。このヴェレニスを含む、南ジュネガン地 方を支配している⋮⋮﹂ グールド公爵⋮⋮か。ゲーム時代は四王家の中で最も苛烈な性格 とされ、東西南北の四王家の中では、ファーガス王とともに名前が 出ていた唯一の人物だ。 他の王家は存在はしていても、プレイヤーが関わるところには出 てこなかった。ファーガス王の没後、四王家が争いを始め、最後に どうなったかさえも分からないまま、﹃これからジュネガン公国に 戦乱が訪れるだろう﹄というだけで終わってしまっていた。 もしゲームでグールド公爵の名前が出ていたのは、最後まで生き 906 残るからだったとしたら⋮⋮ルシエに害を成そうとしたのは、彼で あるという疑いが強くなる。フィリアネスさんに自国の領地を与え た理由も、ルシエと親しいフィリアネスさんを領地に縛り付けよう としたからだったとしたら、辻褄が合ってしまう。 ︵次第に、何が起きてるのか見えてきたな⋮⋮グールドが黒騎士団 をそそのかすか、抱き込むかして、ルシエを襲わせた。それは、ル シエが洗礼を受けると、王位継承権を持つことになるからだ︶ ﹁⋮⋮ルシエ公女殿下は、洗礼を受けるとどうなるの? 王族とし て認められるっていうのは分かったけど、それって具体的にどうい うことなんだろう﹂ ﹁ルシエは西王家の血を引く方を母に持つ。これは今の王家の始ま りに起因するのだが、西王家の血を引く者が王の嫡子⋮⋮実の子供 として生まれた場合、その者を次の王とすると決められている。今 の状況では、ルシエは次の女王と目されて⋮⋮﹂ フィリアネスさんは説明する途中で気がついたようだった。そう ⋮⋮それこそが、ルシエが狙われた理由そのものだ。 ファーガス王が没した後、西王家の血を引く者が、正当な王位継 承者として立つことを妨害しようとした。 ﹁もし、ルシエがいなかったら、誰が王になるか⋮⋮あくまで例え だけど、教えてくれないかな﹂ ﹁⋮⋮グールド公爵だ。もはや、疑惑は濃い灰色ではなく、黒に変 わりつつある。グールド公爵はファーガス陛下の体調が思わしくな いことを察し、次の王となるために動き始めた。その一端が、ルシ エの襲撃だった⋮⋮何も裏付けを取れていない以上、まだ断定する ことは出来ないが⋮⋮﹂ 907 フィリアネスさんも困惑している。ルシエが襲われたことが、王 家を揺るがす内乱の発端になるかもしれないからだ。 ﹁私に出来ることは、ルシエに無事に洗礼を受けさせ、彼女の身の 安全を保証することだ⋮⋮しかし、私は公国に仕える騎士でもある。 仮にルシエを王族の人間が害しようとしたとしても、私が剣を振る うことは大罪になる⋮⋮﹂ 彼女は胸元に手を当て、ぎゅっと拳を握りしめる。騎士であるこ とが誇りであり、王族を守ることが義務である彼女の苦悩は、察す るにあまりあった。 ︵誰がルシエに害意を持っているのか、シグムトたちに働きかけた のは誰なのか。それを公にしなければ、ルシエは安全にならない⋮ ⋮︶ 難しい問題だ⋮⋮しかし、それを成し遂げなければならない。こ れからは、敵に足元をすくわれないように留意しながら動くことが 必要になる。敵が王族なら、立場を利用してくる可能性はある。フ ィリアネスさんにとっての唯一の弱点は、彼女が聖騎士であり、公 国に仕えているという事実だ。ファーガス陛下ではなく、グールド が一番恐れたのは、フィリアネスさんが公国の管理下に置かれない 立場になることだった。そこまで考えていたのなら、敵はかなりの 策士だというように思える。 ︵まあ⋮⋮本当にグールドが敵だったら。現時点で計略を見ぬいた こちらに分がある︶ ﹁フィリアネスさん、今はルシエを守り抜こう。王族として認めら れれば、敵がルシエに表立って手を出すことはできなくなる。そう 908 だ、ファーガス陛下にルシエの保護を求めるのは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ルシエの母君はファーガス陛下の側室なのだ。ルシエは公女 として認められてはいるが、王族として認められる前の彼女は、母 君の身分である貴族相当となる。王族である陛下から、直接の庇護 を受けることは出来ない⋮⋮正室の妃殿下は、ルシエの存在を快く 思っていないということもある﹂ つまりルシエは王族として認められれば、側室の娘から、女王候 補に一気に立場が変わるということだ。ミゼールでルシエの名前を 聞くことがなかったのは、そういった事情があってのことだろう。 護衛が少なく、精鋭をつけることが出来なかったのは、ルシエを良 く思わない勢力の圧力と考えられる。 ︵こんな状況じゃ、ルシエは遅かれ早かれ⋮⋮そんな状態なのに、 俺も、国民も、何も知らずにいるなんて⋮⋮︶ ﹁私はルシエのことをもっと案じているべきだった⋮⋮おまえがル シエを守ってくれなかったらと思うと、自分に対して憤りを覚える。 私は、領主などという立場を与えられ、何をしていたのだろうな⋮ ⋮こんな所で、安穏とした日々を送っている場合ではなかったのに ⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮フィリアネスさんは、何も悪くない。だから、そんなに自分 を責めないで﹂ ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮﹂ 彼女の前では、俺は今より少し幼い時の言葉遣いに戻ることがあ る。いつまでも彼女は憧れの存在のままだからだ。 俺はフィリアネスさんの固く握りしめられていた手を取り、その 手をほどいた。フィリアネスさんの頬に、涙が一筋伝っていた。 909 ﹁おれがいるよ、フィリアネスさん。おれも、みんなも、ルシエの ことを守りたいと思ってる。一人じゃないんだ﹂ ﹁⋮⋮おまえは⋮⋮本当に、いつも⋮⋮﹂ フィリアネスさんは俺の手を優しくはずすと、頬に伝った涙を拭 う。そして赤らんだ目を恥じらいながら、俺の頭を撫でてくれた。 ﹁⋮⋮おまえがいれば、どんな困難も乗り越えられる。心から、そ う思える⋮⋮ありがとう、私の可愛いヒロト﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮でもおれ、もう可愛いとか、そういう歳じゃ ⋮⋮﹂ ﹁なにを言うか。私の方がいくつ年上だと思っている⋮⋮? 私に とっては、お前はいつまでも可愛いままだ﹂ ︵⋮⋮そうか。そうだよな⋮⋮俺がゼロ歳のとき、彼女は14歳。 その差は、これからも埋まらないんだ︶ どこか勘違いしていたように思う。スキルを上げれば、人のため になることをすれば、ひとかどの人物になれば、年齢なんて関係な くなるんだと。 俺はいつまでも、フィリアネスさんにとって、子供のままだ。俺 に早く大きくなって欲しいと言ってくれて、名前で呼んでくれとま で言ってくれても⋮⋮子供は、子供だ。 可愛いと言ってもらえることが嬉しくないわけじゃなかった。け れど俺は、フィリアネスさんに、﹁八歳にしては精悍になった﹂と 褒めてもらえて、男として認められたような気がしていた。 ︵俺は⋮⋮フィリアネスさんに大人として認められるまで、待てな 910 いのか。ユィシアやマールさんたちを待たせておいて、なんて勝手 なんだ︶ リオナやみんなと一緒に大人になっていくのが、本当なら望まし いと思っていた。 しかし心はもう二十四年も生きているのに、子供であるというこ とが枷に感じることも増えた。 時間の流れは誰にも平等に存在する。今の時間に自分が大人では ないということが、ときどき、もどかしくて仕方がなくなる⋮⋮焦 っても仕方ないと、いつも自分に言い聞かせながら、いつもどこか で急いでいた。 ﹁⋮⋮明日は早いから、そろそろ部屋に戻って休むよ。呼んでくれ てありがとう、フィリアネスさん。ルシエのこと、絶対に守ろう﹂ ﹁⋮⋮ヒロト?﹂ 勝手だと思いながら、俺はフィリアネスさんの部屋を出ようとす る。俺の本質は、今でもコミュ障のままだ。少し思い通りにならな かったくらいで、自分の気持ちをうまく伝えられなくなってしまう。 こんな俺じゃ、大きくなる前に、フィリアネスさんに愛想を尽か されてしまう。そうなってほしくないのに、一度部屋を出ると決め た足は止まらない。 ︱︱止まらない、はずだった。 ﹁⋮⋮行くな﹂ 右肩に、手が置かれている。俺はフィリアネスさんに引き止めら れていた。 911 振り返ると、急に動いたからなのか、フィリアネスさんの髪がほ どけている。結いあげてもなお癖のつかない髪が、薄暗い部屋の中 で音もなく広がる。 ﹁⋮⋮行かないでくれ。私のそばに居てくれ⋮⋮﹂ ﹁フィリアネス⋮⋮さん﹂ 名前を呼んだ途端に、フィリアネスさんが動いた。俺のことを抱 き上げると、ベッドに降ろして︱︱俺の身体を仰向けに横たえると、 俺の頬に手を当てて、間近で見つめてくる。 ︱︱押し倒されている。そこまで大胆なことを、あの真面目なフ ィリアネスさんがするなんて。 ﹁おまえは⋮⋮私のことを、誤解している。マールやアレッタが風 呂に行っていることも、私は知っていた。知っていて、自分は一人 で入浴した⋮⋮おまえがあとでこの部屋に来てくれると分かってい たからだ。なぜ、そんなことすらも分かってくれないのだ⋮⋮っ!﹂ フィリアネスさんの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。 そうだ⋮⋮彼女は昔からそうだった。俺の前では、何度となく涙 を見せた。一人の弱い人間であることを、隠さずに見せてくれてい た。 俺はなぜ、簡単に彼女の部屋を出て行くことができたんだろう。 スキルに惹かれて、甘やかな行為を期待している自分を、格好をつ けたいがために否定しようとしていたのか⋮⋮。 もう何年だろう、フィリアネスさんと一緒に寝ることをしなくな ってから。 912 本当は焦がれるほど、待ち望んでいたのに。そうしないことが自 然だというだけの理由で、避けてきた⋮⋮。 一度やめてしまえば、彼女から俺と一緒に寝たいと言い出せるわ けがなかったのに。 ﹁⋮⋮俺は⋮⋮いいのかな。フィリアネスさんが、子供の頃に言っ てくれたこと、覚えてても⋮⋮﹂ ﹁いいに決まっている⋮⋮おまえが忘れたいのでなければ、覚えて いて欲しいに決まっている。私は⋮⋮私は、お前の成長を見るため にミゼールに通っているようなものだった。魔剣のことを案じなが ら、本当に気にしていたのは、ヒロト⋮⋮おまえのことだった。他 の相手と仲良くしているおまえを見て、嫉妬もした⋮⋮私はそれく らいの人間でしかない。完璧にはなれない⋮⋮おまえを諦めるくら いなら、なれなくてもかまわない﹂ ゲーム時代の彼女よりも、今の彼女の方が成長が早く、強くなっ ているのはなぜなのか⋮⋮それは。 俺に出会って、彼女が変わったからなのだとしたら。 領主になんてならなかった彼女が、パラディンという職についた ことも、そうして生まれた変化の一端だとしたら。 ︱︱完璧でなくなった聖騎士は、それと同じだけ強くもなった。 誤解を恐れずに言うのなら、人を愛することで。 その人というのは俺だと、自信を持っていいのだろうか。そんな 迷いの全てを超えて、フィリアネスさんはいつかのように服をはだ け始める。しかし、突然全ての装備を解除するということはなく、 上の服をはだけ、きれいにサラシを巻かれて支えられた胸を見せて 913 くれる。 ﹁⋮⋮ヒロトに外してもらおうと思って⋮⋮ま、巻いておいたのだ が⋮⋮一度、モニカ殿にそうしてやったことがあると聞いた。私も、 何も知らないわけではないのだぞ⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮みんな、俺のことを怒ったりしないのが、不思議でしょうが ないよ﹂ ﹁ばかもの。怒りはしても、それがおまえを嫌いになるということ にはならない。惚れた女の弱みと言うものだな⋮⋮﹂ 言葉では俺をたしなめながら、フィリアネスさんはベッドの端に 腰掛ける。俺は彼女の後ろに回って、サラシの結び目をほどき、し ゅるしゅると外し始める。 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾のアクセサリの装備を解除した。 サラシはアクセサリ扱いだったりする。アクセサリーは物理的に 可能な限り、何個でも装備出来るのだ︱︱と豆知識を思い浮かべつ つ、俺は晒されていくフィリアネスさんのきれいな背中に息を呑む。 ﹁⋮⋮慣れた手つきだな。こんなふうに、何人のサラシを外してき たのだ⋮⋮?﹂ ﹁モニカ姉ちゃん以外は、フィリアネスさんが初めてだよ﹂ ﹁む⋮⋮そ、そうか。すまないな、いつもヒロトの周りには女性が 増えているから、他にもサラシを巻く女性がいてもおかしくないと 思えてしまって⋮⋮疑い深いのだろうか、私は﹂ 914 ︵全面的に謝るべきは俺の方だな⋮⋮フィリアネスさんがそう思う のも、当然だ︶ 彼女が嫉妬をしないなんて、そんなのはやはり、俺の甘えだった。 マールさんやアレッタさんとのことも黙認してくれていて、それで も我慢していたんだ⋮⋮。 持て余してるなんてマールさんは言ってたけど⋮⋮フィリアネス さんも、そうだったんだ。彼女は言わないだけで、俺への気持ちは 変わっていないんだから。 ﹁⋮⋮慣れたつもりではいるが、やはり、凝ってしまうな⋮⋮ヒロ ト、お願いしてもいいだろうか﹂ ﹁お、お願いって⋮⋮﹂ ﹁赤ん坊の頃から、いつもしているようなことだ⋮⋮みなまで言わ せるな。私もこう見えて女なのだから、それなりに恥ずかしいと思 っているのだぞ⋮⋮?﹂ 長い髪をかきあげて後ろに流しながら、フィリアネスさんは両腕 を上げる。それが何を意味するかが分かっても、俺はものすごく緊 張してしまって、なかなか動くことができない。 ﹁⋮⋮後ろからではやりにくいのなら⋮⋮そうだな⋮⋮﹂ フィリアネスさんは俺が緊張しているとわかったのか、自分から 動き始める。そして、ベッドの上に仰向けに寝そべる︱︱胸を両手 で隠しながら。 ︵か、隠された方が⋮⋮想像力が総動員されて、大変なことに⋮⋮︶ 915 俺は今日、大人になってしまうんじゃないか︱︱そんなことを思 う。 しかし俺の想像以上に現実は魅惑的で、目がくらむほどの光景が、 目の前で展開される⋮⋮。 ふわり、とフィリアネスさんの両手が胸から外される。そして、 彼女は身体を起こし、両手を俺の方に広げて伸ばしてきた。 ﹁⋮⋮こんなとき、どんなことを言えば、喜んでもらえるのだろう か⋮⋮あまり、作法が分からない。まだ少年のおまえに、何を言っ ているのかと思うかもしれないが⋮⋮﹂ ﹁だ、大丈夫だよ。俺だって、よくわかってないし⋮⋮いつもみた いに、触ってもいい?﹂ ﹁う、うむ⋮⋮良いというのも、恥ずかしくて仕方ないのだが。触 れるだけなら、少年でも問題はあるまい⋮⋮﹂ フィリアネスさんに手を引かれ、その豊かな膨らみに手を添えさ せられる。まだ、俺の手にはおさまりきらない。おさまる日が来る のかも分からない、俺が成長しても、彼女の発育はそれを上回って いるのだ。 スキルを発動すると、フィリアネスさんの胸が光り輝く。それを、 彼女は静かに微笑んで見ていた。 ﹁こうしていると、楽になる⋮⋮こんな言い方もなんだが、凝りが ほぐれるようだ﹂ ﹁いつでも言ってくれたら、俺が凝りをとってあげるよ﹂ ﹁⋮⋮そう言われると、毎日でも頼みたくなる。あまり、私を甘や かしてくれるな。私の方が甘やかしたいのだからな﹂ 916 フィリアネスさん⋮⋮なんて可愛い人なんだ⋮⋮もうだめだ。 ︵︱︱もう我慢できない、と言わせていただく︶ ソフトランディング 軟着陸を心がけ、俺はフィリアネスさんの胸に飛び込んでいく。 もう採乳でもなんでもない、ただのスキンシップだった。 ﹁きゃっ⋮⋮そ、そんなに大胆に飛び込んでくるとは⋮⋮さんざん 遠慮していたのに、ヒロトも我慢してくれていたのだな⋮⋮っ﹂ ︵こんなに優しくされたら、俺も素直になりたくなるんですよ︶ ﹁きゃっ﹂なんて可愛い声を出されたら、それなりのことをせざ るを得ない。パラディンの胸で思うがままに甘える、こんな貴重な 経験が出来る男は、後にも先にも俺くらいだろう。 ﹁⋮⋮ヒロトとこうしていると、安心する⋮⋮私が抱っこしている のか、ヒロトに抱っこされているのか。どちらだろうな﹂ ﹁フィリアネスさん⋮⋮ちょっとひんやりしてるよ。湯冷めしちゃ ったんだね⋮⋮﹂ ﹁う、うむ⋮⋮ヒロトが来るのが、少し遅かったのでな⋮⋮責任を 取ってもらえると、ありがたいのだが⋮⋮﹂ 身体を温めるためには、やはりエネルギーを巡らせるのが一番だ。 俺はもう一度スキルを発動して、自らの手と、フィリアネスさんの 胸が温かな輝きを放つ。 ﹁⋮⋮やはり、いつ見ても不思議なものだな。おまえに触れられる と、確かなつながりを感じる﹂ 917 ﹁うん。俺もだよ、フィリアネスさん⋮⋮﹂ スキルが上がるまでがっつかなくても、今夜はずっと触れていら れる。 こんなふうに穏やかな気持ちで採乳ができたのは初めてだった。 俺はフィリアネスさんの胸に身を預けたまま、夢うつつで流れてき たログを確かめた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。 ・あなたは﹁聖剣マスタリー﹂を獲得した! ・︽フィリアネス︾はつぶやいた。﹁⋮⋮このままずっと、こうし ていたいな﹂ ◇◆◇ 深夜になり、フィリアネスさんはベッドの上で、しどけない姿で 眠っている。 ﹁ん⋮⋮ヒロト⋮⋮﹂ 寝顔には、まだあどけなさが残っている。俺は微笑んで、彼女の 肩まで布団をかけてあげて、そっと部屋をあとにした。 ︱︱そして、ドアを開いた瞬間、ごん、と鈍い音がした。 ﹁いたっ⋮⋮ひ、ひひ、ヒロト様⋮⋮っ﹂ 918 そこに居たのは、寝間着に着替えたイアンナさん︱︱と、よりに よって、公女ルシエその人だった。 ﹁ち、違うんですっ、私が公女殿下をお連れして⋮⋮ヒロト様がマ ール様やアレッタ様と、浴室でされていることも拝見してしまい、 フィリアネス様とも深い関係になられているのではないかと、ルシ エ公女殿下に進言せずにはいられず⋮⋮っ、公女殿下がヒロト様に ご興味を示されているようでしたので、私はっ、私はっ、侍女とし て、ヒロト様がどのようなことをしているか、素行調査をっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮つまり、覗いてたんだよね﹂ ﹁ひぃっ⋮⋮!﹂ そんなに悪い人じゃないし、最初の悪印象はあったけど、すべて 水に流そうと思っていた⋮⋮しかしちょっと、俺の堪忍袋の緒が大 変なことに⋮⋮。 ﹁ひ、ヒロト様⋮⋮不潔ですっ⋮⋮!﹂ ﹁る、ルシエ⋮⋮違うんだ、これはっ⋮⋮!﹂ 走り去るルシエを引き留めようとする俺。しかしこの期に及んで 立ちはだかるのは、言う前でもなくイアンナさんだ。 ﹁いいえ、違いませんっ⋮⋮やはりヒロト様は私が見込んだ通りの お方。そのお年で、年上の女性をなんなく籠絡し、意のままに操っ ておられるのですね⋮⋮っ、フィリアネス様までも、聖騎士の姿か らは想像もつかない、あられもない姿を見せられてっ⋮⋮﹂ ﹁おい﹂ 919 ﹁ひっ⋮⋮!?﹂ 自分の声とは思えない声が出た。フィリアネスさんと仲良くして いた時とも違う⋮⋮八歳の本気の怒りも、捨てたものではないと思 える、ドスが利いた声だった。 ﹁俺は、そんなに気が短いわけじゃない⋮⋮でも、こんなことまで されて黙ってられるほど優しくもない。人のことを覗いたら、お仕 置きをされる。そうやって、教えてもらわなかったのか⋮⋮?﹂ ﹁わ、わたくしはただっ、ルシエ様も、ヒロト様のような方がお相 手であれば、初夜を迎えるに何の差支えもないと申し上げたかった だけでっ⋮⋮﹂ そういうのを余計なお世話という。が、もはや言って分かるとい う期待はするべきじゃない。 ﹁⋮⋮どういうつもりだったのかは分かった。でもイアンナさん、 俺はちょっと怒ってるんだ。今までは見逃してあげようと思ったけ ど、ちょっとそういうつもりになれなくなった。ごめん、もう限界 だ﹂ ﹁っ⋮⋮な、何を⋮⋮わたくし、房中術は得意だと申し上げました が、ま、まだ初歩中の初歩しか⋮⋮﹂ ﹁そんなことはしてもらわなくていいよ。ちょっと、反省してもら うだけだから﹂ ﹁あっ⋮⋮こ、子供だからといって甘い顔をしていれば、つけあげ るのもいい加減になさいっ! 年上の女性の怖さを教えてさしあげ ますっ! ええいっ!﹂ ここで俺に襲いかかってくるとは、けっこういい度胸だなと思っ た。 920 ︱︱が、俺は容赦しなかった。 ﹁う、動かない⋮⋮わたくし、シーガル流体術の練習をしてきまし たのにっ⋮⋮﹂ ﹁反省しないんだね⋮⋮それじゃ、しょうがない﹂ ﹁ひっ⋮⋮ひ、ひどいことをなさるおつもりですか⋮⋮?﹂ そんなことはないだろう、という期待を込めてイアンナさんが聞 いてくる。しかし俺は、笑顔で返事をした。 ﹁うん。かなりひどいことをするよ﹂ ﹁⋮⋮ひぃぃっ⋮⋮ぁっ⋮⋮!﹂ ◇◆◇ 俺はあるスキルをオンにして、一晩の間、イアンナさんにおいた をしたことを反省してもらった︱︱翌朝、俺のスキル欄に﹁房中術﹂ が10ポイント追加されていたが、何があったかは俺とイアンナさ んの間だけの秘密だ。 ﹁ふぁぁ⋮⋮よく寝た﹂ 充実感とともに着替えて部屋を出る。すると、そこにはルシエが 立っていた。 ﹁あっ⋮⋮る、ルシエ、おはよう。昨日のことは、あのっ⋮⋮﹂ 921 弁解しようとするが、なかなか言葉が出てこない。しかし俺より 先に、ルシエが顔を真っ赤にしながら言った。 ﹁わ、私⋮⋮ヒロト様にあのようなことをしていただいても、大丈 夫ですからっ⋮⋮!﹂ ﹁えっ⋮⋮る、ルシエ、あのようなことってっ⋮⋮﹂ ルシエはぱたぱたと走り去って、階下に降りていってしまう。公 女殿下が廊下を走るなんて、と言っている場合でもない。 ﹁⋮⋮お、怒ってないなら⋮⋮いいのか⋮⋮?﹂ 彼女に軽蔑されてしまったとばかり思っていたが、一晩明けた結 果、ルシエの意見が変わってしまったようだ。 まだ、会って二日目なのに⋮⋮い、いや。今は吊り橋効果であん なことを言ってしまっただけだ。 ︵し、しかし⋮⋮王統スキルを取る足がかりができちゃった、のか ⋮⋮?︶ 急展開に驚きつつ、俺はルシエと朝食の席で会ったときにどんな 顔をすればいいのか、と頭を悩ませるのだった。 922 第二十五話 イシュア神殿への道 朝食の席の空気は何とも言えないくらいにそわそわしていて落ち 着かなかった。 昨夜のことを振り返ればそうなるのも無理はないが、こうして冷 静になってみると、色々とやりすぎてしまったような気がしなくも ない。 一線を超えなければセーフということでもないのだ。心の中で一 定の節度を持たなければ。 ︵しかし⋮⋮みんな、何だか満足そうだから、いいんだろうか?︶ ﹁雷神さま∼、ちょっとそこのバター取ってください﹂ ﹁おまえの方が近いだろう、マール⋮⋮それに何個食べているのだ。 徐々に納入されるパンの数が増えていて申し訳ないぞ。領主になっ たからこそ、率先して粗食を心がけてだな⋮⋮﹂ ﹁マールさんは身長がありますし、代謝も人より並外れていいんで すよね、きっと。羨ましいです﹂ 普通に食事しているだけなのだが、みんなチラチラと俺の方を見 ては、すごく嬉しそうに微笑むものだから、ルシエとイアンナさん も空気を察して、少し頬を赤らめている。 ﹁ヒロトは遠慮せずに、沢山食べるがいい。まだまだ伸び盛りなの だからな﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん、ありがとうフィリアネスさん﹂ ﹁このパンにハムを乗せて食べると、なかなか美味しい。試してみ 923 るか?﹂ 隣に座っているフィリアネスさんが手づから、スライスしたパン にハムと野菜を乗せて出してくれる。こ、これは⋮⋮﹁あーん﹂と いうやつか。こんなにあっさり、人生の達成目標のひとつを通過で きるなんて。 ﹁⋮⋮あ、あーん⋮⋮として食べるのだぞ﹂ フィリアネスさんが初々しく頬を染めながら、俺の口に入れて食 べさせてくれる。自分の手で食べるよりもずっと美味しく感じるあ たり、脳と味覚は直結しているのだと実感する。今の俺は幸福物質 が惜しみなく出まくっているだろう。フィーバータイムというやつ だ。 ﹁ん⋮⋮美味しい。ありがとう、フィリアネスさん﹂ ﹁はーい、雷神さまの抜け駆けタイムはここまででーす。ヒロトち ゃん、ミルク飲む?﹂ ﹁あ、朝から何を言ってるんですか⋮⋮マールさんったら、本当に 欲求不満なんですから﹂ ﹁ち、違いますぅ∼! なんでもかんでもそっちに結びつけないで よね! ぷんぷん!﹂ 俺もちょっと想像してしまうあたり、完全に習慣化しているな。 触れると落ち着くという意味では、毎日というか、気づいたら常に していてもいいくらいだけど。マナの消費を考えつつということに はなるが。 ﹁ヒロト、どうしたのだ? そんなに優しい目をされると、その⋮ ⋮何か、気になってしまうのだが﹂ 924 ﹁あ、いや⋮⋮何でもないよ。俺もいつまでも甘えてばかりじゃい けないなと思うけど、もう少し甘えたいかなって﹂ ﹁誰だって、大人になったって甘えたいときはあると思うよ∼。ヒ ロトちゃんはまだ八歳だし、ゆっくり甘えていけばいいと思うよ。 私で良かったら、いつでも甘やかしてあげるからね∼﹂ ﹁大人になったって甘えたい⋮⋮ふふっ、それは本当にそうですね。 大人といえど、気を張ってばかりではいられませんし﹂ 親友らしいマールさんとアレッタさんのやりとりを、フィリアネ スさんも微笑みながら見つめている。この三人の関係性は、昔から 見ていて羨ましいなと思う。 そう思っているのは、どうやらルシエも同じようだった。三人を、 少し遠いものを見るような目で見つめている。 ﹁皆さん、とても仲が良いのですね。こうして見ていると、羨まし いです﹂ ﹁ルシエも遠慮することはない。ヒロトは最初は少し人見知りだが、 話していればすぐにわかる﹂ ﹁ヒロトちゃんとお話出来るようになったときは、すっごく感激し ましたよね。最初はばぶー、って言ってた赤ちゃんだったのに、言 葉を覚えたてのときから、私より頭がよかったりして﹂ ﹁それはマールさんが⋮⋮いえ、言わないでおきます﹂ ﹁どうせ私は脳みそまで筋肉で出来てますよ∼だ。ヒロトちゃんは そんな私でも見捨てずにいてくれるんだから、これはもう、めろめ ろになってもしょうがないというかですよ﹂ ﹁め、めろめろ⋮⋮そうだったのですね⋮⋮それは、具体的にどう いった気持ちになるものなのですか?﹂ ルシエがそっちの方面に興味を⋮⋮俺のせいで、公女殿下が俗世 925 に近づいてしまわれたのか。いや、王族の日常が庶民と比べてどの ように異なるかは分からないが。 そう考えると、気になってきたな⋮⋮好奇心だけで人の生活を見 てみたいと思うのは良くないことだけど。 ﹁めろめろって言うのはですね、もうそれは何と言っていいものや ら⋮⋮そう、そのどうしていいのか分からない感じで、居てもたっ ても居られない気持ちがめろめろなんです﹂ ﹁こ、こほん⋮⋮わたくしから申し上げることではございませんが、 クレイトン様、姫様はまだ十歳であらせられますので。そのような 話題は、まだ早いかと存じます﹂ ﹁そ、そうですよマールさん。何を説明しようとしてるんですか、 恐れ多いです﹂ ﹁いえ⋮⋮私も、知らないことばかりで清らかに生きていくより、 大切なことがあると感じました。人と人との関係はきっと、自分の 心に素直になることから豊かになっていくのです。そうですよね、 フィル姉さま﹂ ﹁こほっ⋮⋮る、ルシエ、何のことを言っているのだ? 心に素直 になるとは、どういう⋮⋮﹂ ︵ルシエはイアンナさんと違って、直接覗いてはなかったみたいだ けど⋮⋮あの感じだと、イアンナさんが実況してたみたいだからな︶ イアンナビッチさんというニックネームをつけたくなるほど、彼 女は真性のビッチだった。それが悪いと言っているわけではないが、 ルシエはまだ知らなくてよかったんじゃないか、と思う面もあるわ けで。 逆に言えばそういう人が侍女でも、ルシエは聖母のごとき心で許 926 してきたんだろうな、という気はする。まだ十歳でも物事が分から ない歳じゃないし、イアンナさんの行動に釘を刺すこともしていた。 人の上に立つ資質というものは、普段の言動に表れる。ルシエは やんごとなき身分にふさわしい、高潔な人物だ。西王家の血を引い ているかどうかを別にしても、このまま成長して女王になったとし て、何もおかしいとは思わない。 ︵ルシエは将来の女王になるかもしれない⋮⋮いや、俺たちが守り 通したら、その可能性が凄く高くなる。ルシエが、自分から継承権 を放棄しない限りは︶ ルシエは自分が女王になることについては、どう考えているんだ ろう︱︱と、ふと思った。 ﹁⋮⋮ヒロト様、先ほどからじっと私の顔を見て⋮⋮何か、気にな るところでもあるでしょうか?﹂ ﹁あ、い、いや⋮⋮何でもない。なんとなく、見てただけだよ﹂ ﹁なんとなく⋮⋮か。ルシエの服が変わったことが新鮮で、見とれ ていたのではないのか?﹂ ﹁私たちはこれから一日中鎧をつけてないとですからね∼。よーし、 気合いを入れて行きまっしょい!﹂ マールさんたち騎士団の三人が食事を終えて席を立つ。ルシエと イアンナさんはそれがいつも通りのペースなのか、騎士団のみんな よりはゆっくり食べていた。 ﹁⋮⋮ヒロト様、フィル姉様のおっしゃっておられたことは⋮⋮そ の⋮⋮﹂ 927 ルシエが恥じらいながら尋ねてくる。こ、こういう時に上手いこ と言えてこそだよな⋮⋮と思うが。 選択肢の高度な使い方を試してみるか⋮⋮こんな時に最も適切な 言葉を教えてくれ⋮⋮! ◆ログ◆ ・あなたは﹁選択肢﹂スキルを使用した。 ・選択肢の内容を﹁発言内容﹂に設定した。 ◆選択肢ダイアログ◆ 1:﹁すごく似合っているから、見とれてたんだ﹂ 2:﹁今日の服は季節感が出ていてイイね﹂ 3:﹁ねえ、今日の下着は何色?﹂ ︵地雷っぽい選択肢が混ざってるのはなんなんだ⋮⋮トラップか︶ まあ地雷が正解だったりするのはゲームの中だけだけどな。こう して見るとまるでギャルゲーのようだ。そうは言ってもギャルゲー の類はそんなにやったことがないので、何だか楽しくなったりもす る。 こういうとき、あえて地雷を選んでみるプレイヤーに俺は敬意を 表したい。時間制限の間、ずっと1から3番を往復したあと、俺は 思う。 ︱︱守りに入った人生でいいのか? 928 ︵いや、服を褒める場面で下着っておかしいだろ⋮⋮だがそれがい い︶ 落雷に打たれたような体験だった。人はわりと簡単に、刹那的な 感情でゲスになることができるのだ。 ﹁ねえ、今日の下着は何色?﹂ ﹁っ⋮⋮ひ、ヒロト様⋮⋮そのようなことっ、王女様に突然、忌憚 なくお伺いになるなんて⋮⋮!?﹂ とてつもなく嬉しそうなイアンナさん。すまない、俺もあなたの 同類だったようだ︱︱とか、人を言い訳に使ってはいけないな。 ﹁⋮⋮ヒロト様がどうしても気になるのでしたら⋮⋮し、白ですっ ⋮⋮!﹂ ﹁白⋮⋮白か⋮⋮それはイイね。よく似合ってるよ﹂ 何がイイねだ、と自分に全力でツッコミたくなる。しかし⋮⋮答 えてくれるなんて。選択肢って、実は人生を面白くする効果もある んじゃないだろうか。 なにげにマナポーションを飲みつつ、俺はできるだけ爽やかに笑 った。ルシエはしきりに照れていたが、なぜだかとても嬉しそうだ。 ﹁⋮⋮も、申し訳ありません。こんなはしたないことを、あけすけ に言ってしまって⋮⋮﹂ しかも俺の方が謝られている。そうか、こういうコミュニケーシ ョンもあるのか。いや無い。 ﹁ご、ごめん。服が似合うって言おうとしたのに、つい変なこと言 929 っちゃって﹂ ﹁⋮⋮そんなに気にしていただいていたのですね。フィル姉さまみ たいに、胸が大きい方にしかご興味がないのかと⋮⋮安心しました﹂ 王女様を山賊から助けるイベントの破壊力は凄いな⋮⋮中身は山 賊ではなかったが。 俺がもし女性で、通りがかりの人に命を助けられたらどうだろう。 まあ、好感は抱くかもしれないけど、それくらいで心まで持ってい かれると思わないでよね、となりそうだ。 やはり交渉術の効果なんだろうか。ポイントが高いほど会話がス ムーズに進むという効果もあるのだが⋮⋮俺がコミュ難を発動しさ えしなければ、間が持たなくて苦労することはまず無さそうだ。 ﹁ヒロト様は場を和ませるために、突然そんなことをお尋ねになっ たのですね⋮⋮常人には真似のできない発想です。このイアンナ、 感銘を受けました﹂ 何をしても全肯定されてしまう気がしてきた。もうスキルはもら ってしまったので、イアンナさんにはむしろ感謝しているというか、 申し訳ないターンになっているのだが。 ﹁⋮⋮ヒロト様、いつもそんなことを聞いていたら、それは良いこ とではありませんが、私は大丈夫ですから、何度でも聞いてくださ い﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮って、本当にいいのかな﹂ ﹁はい、私は⋮⋮ヒロト様に喜んでいただけることがあれば、率先 してしたいと思っていますから⋮⋮﹂ 昨日の夜は怒って逃げてしまったと思ったのに、一晩明けたらこ の変わりようは⋮⋮いや、嬉しいといえば嬉しいけど、あまりに都 930 合がよすぎて逆に不安になる。 だがルシエが﹁何度でも聞いていい﹂と言ったことに対して、﹁ 看破﹂をかける気にはならなかった。相手が不本意なことを言って るかどうかくらい、人の顔を見られるようになれば、感じ取るのは さほど難しくはない。 ︵⋮⋮しかし、こうして見ると本当に綺麗な子だな︶ ルシエは見ていて安心できるようなほんわかした感じがするが、 しばらく見ていると美少女すぎて緊張もしてくる。そんなバランス が魅力的に⋮⋮って、気が多すぎるのはダメだっていうのに。 ﹁ヒロト様もルシエ様の美しさには、やはり見とれずにはいられな いようですね⋮⋮洗礼を受ける際の衣装をまとった姿を見たら、き っと恋に落ちてしまいますよ﹂ ﹁い、イアンナ⋮⋮そんなことを今から言わないでください、洗礼 の衣装は、ヒロト様に褒めていただくためのものではないのですか ら﹂ 今からそんなことを言われると期待せずにはいられない⋮⋮と、 気を緩めっぱなしじゃダメだ。 神殿までの道中で、また敵が襲ってこないとも限らない。公道の 南に進むということは、敵と目されているグールド公爵の領土の深 くに入り込むということなのだから。 ◇◆◇ フィリアネスさんの部下たちに見送られ、俺たちは朝のうちにヴ 931 ェレニスを発った。 ルシエを狙っていた輩はどう出てくるか。シグムトが捕まったこ とが伝わっていれば、黒騎士団は表立って襲撃をかけて来ないと、 常識的に考えるところなのだが︱︱。 ︵残念、常識が通じませんでした⋮⋮ってな︶ ミゼールから首都ジュヌーヴまでは、道が途中で枝分かれしてい る。イシュア神殿に向かう道に差し掛かり、少し進んだところで、 前方に何騎かの騎兵の姿が現れる。 ﹁俺たちはポイズンローズだ! その馬車を止めろ、積み荷を渡せ !﹂ ︵⋮⋮もしかして敵は、俺が思ったよりも馬鹿なのでは?︶ ポイズンローズを俺が抱き込んだことを敵が知らないだけで、こ んなに楽な展開になるとは⋮⋮パメラが略奪をしていたことは悪事 ではあるが、その悪名のおかげで、敵が墓穴を掘りまくってくれて いる。 それもこれも、情報の伝達が遅い異世界ならではだ。前世だった ら、ネットの掲示板とかツ⃝ッターで一瞬で情報が拡散され、共有 されていただろう。﹁ポイズンローズ、山賊やめるってよ﹂と誰か が言おうものなら、日本の端っこどころか海外の好事家まで広まっ ている、それがネットの力の凄さであり、恐ろしさである。 俺はフィリアネスさんの馬に乗せてもらっていたのだが、彼女の ほうを振り返ると、恥ずかしげもなく名乗る敵に対して怒っている のか、ビキビキとこめかみを引きつらせていた。 932 ﹁⋮⋮ここまで愚かだとは思わなかった。そんな輩が、ルシエをさ らおうとしただと⋮⋮? ふざけているのか? ふざけているのだ な?﹂ ﹁いいよフィリアネスさん、やっちゃおうよ﹂ わりとノリノリの俺。彼女と一緒に馬に乗っていると、怖いもの 知らずに拍車がかかってしまう。 ﹁うむ。こんな輩など、剣を抜くまでもない⋮⋮雷の精霊よ、大気 に轟き、駆け抜け、我が敵を薙ぎ払え!﹂ ﹁なっ⋮⋮せ、精霊魔術を使う騎士だと⋮⋮﹂ ﹁せ、聖騎士がなぜここにっ⋮⋮!?﹂ テンプレートにもならない定型的な驚き方をして、山賊の格好を した黒騎士団の人々は、フィリアネスさんのかざした手の前方に発 生した雷光が飛んでくるのを、為す術もなく見ていた。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ボルトストリーム﹂を詠唱した! ・︽ラゴス︾、︽ゼーム︾、︽ドビオ︾に平均162ダメージ! ・﹁麻痺﹂の追加効果が発動! 全員が抵抗に失敗し、麻痺状態に なった。 ︵範囲魔法に麻痺つきか⋮⋮耐性防具を持ってない敵なら、何匹来 ても怖くないな。これはいい魔術だ︶ 933 ◆ログ◆ ・あなたは﹁ボルトストリーム﹂を習得する条件を満たしている。 ・﹁ボルトストリーム﹂をラーニングした! 魔術には実は個人差があって、同じスキル値でも特定の魔術を覚 えたり覚えなかったりということがある。フィリアネスさんの魔術 を見たことで、俺は未習得だったボルトストリームを習得すること が出来た。フィリアネスさんと一緒に行動していれば、レベル8ま での雷魔術はコンプリート出来るかもしれないな⋮⋮俺からも提供 出来るといいんだけど。 ﹁ふぉぉ、さすが雷神様⋮⋮私たち、馬車から出て行くタイミング がないよ∼﹂ ﹁いえ、この場合だと出番はありそうですよ。あくまで、お手伝い ですけどね﹂ 馬車の御者をしているマールさんと、中にいるアレッタさんがこ ちらの様子を見ながら言う。フィリアネスさんは馬の手綱を引き、 麻痺して馬に突っ伏している賊に近づいた。魔術の対象は限られて いるので、ターゲットしなかった馬は麻痺しない。これも魔術の器 用なところである。 ﹁麻痺は数時間で解ける。私たちの質問に答えれば、一人だけは私 の部下の手で麻痺を解いてやろう。そうしなければ、麻痺している 間、モンスターに襲われないことを祈ることになるが⋮⋮どうする ?﹂ ﹁くっ⋮⋮殺せ⋮⋮!﹂ 934 ﹁私が何のために麻痺の魔法を使ったと思っているのだ⋮⋮殺すつ もりはない。お前たちの素性を知らないと思っているのか? 今さ ら、隠すべきことなど無いというのに﹂ ﹁な、なんだと⋮⋮!?﹂ そんな反応をしたら、自分たちの正体がポイズンローズじゃない と言ってるようなものだ。 駆け引きも何もないので、交渉術を発揮するタイミングがない。 できれば、交渉のテーブルにつきたいな。下っ端じゃなく、ボスを 交渉の席に着かせないと意味がないか。 結局、山賊を装った黒騎士団から引き出せる新しい情報はなかっ たが、これだけ黒騎士団が揃って敵に回っているということは、や はり黒騎士団長が怪しいということになる。 敵はあれからも断続的に襲撃してきて、グールドの領地に入った 途端にあからさまに妨害が激しくなった。苦戦することもなく、フ ィリアネスさんが魔術で撃退しても自然回復で全快するので、何の 障害もないに等しい旅だった。 ﹁はぁ∼⋮⋮黒騎士団のほとんどが敵に回ってるなんて。気づかな いって怖いですよね、雷神さま﹂ ﹁ルシエが洗礼を受ける段になって、表面に出てきただけなのだろ うな。前々から、黒騎士団はルシエに害を成そうとする者に加担し ていたのだろう﹂ ﹁南ジュネガンに入ってから、襲撃がすでに七回です。もう、事実 を公王陛下に報告して、黒騎士団はお取り潰しにするべきなのでは ないでしょうか﹂ ﹁アレッタがそう言いたくなる気持ちも分かるが⋮⋮そうだな。黒 935 騎士団は一度解体し、もう一度編成し直した方が良いのかもしれな い。ルシエに危害を加えることに加担した者たちを、そのまま残す わけにもいかないからな﹂ そう言いはするものの、四つの色が一つになってこその騎士団と 言っていただけに、フィリアネスさんの失望は大きかった。 ﹁フィリアネスさん、大丈夫⋮⋮?﹂ ﹁ああ⋮⋮すまない、心配させてしまったな。黒騎士団の再生につ いては、今はまだ考えることではない。全てはファーガス陛下と、 他の騎士団長の判断を仰ぐべきことだ﹂ ﹁うん⋮⋮でも、ちょっと疲れてるみたいだから、俺が護衛を代わ るよ。あれくらいの敵なら、一人でも問題ないよ﹂ ﹁⋮⋮分かった。私も少し、ルシエたちと話しておきたい﹂ フィリアネスさんが俺を信頼して任せてくれる。ずっと張り詰め ているままじゃ、どんな人間だって疲れてしまう。だから、彼女に は安心して心を休めてほしい。 フィリアネスさんが馬車に入ったあと、入れ替わりでマールさん が出てきた。何か言っておきたいことがあるらしい。 ﹁ヒロトちゃん、雷神さまの馬って﹃オラシオン﹄って言うんだけ ど、雷神さまが認めた人しか乗せないんだよ∼。特に男の人なんて、 仔馬の頃から絶対乗せないくらいだったんだよ﹂ ﹁そうなのか⋮⋮俺は、全然嫌がられてないみたいだ﹂ ﹁うんうん、私もいちおう乗せてもらえるけど、どうしよっか。二 人乗りしていく?﹂ ﹁いや、休んでもらってていいよ。俺は全然疲れてないし﹂ ﹁むぅ∼⋮⋮そんなこと言ってたら、おしりが大変なことになっち 936 ゃうよ? あ、アレッタちゃんに優しく治してもらおうと思ってた り?﹂ ﹁あはは⋮⋮俺のお尻はそんなにやわじゃないよ﹂ 普通は八歳で、乗馬用のズボンも履かなかったら股ずれが大変な ことになるだろうな。しかし俺はライフが高く、比例して自然回復 量が大きいので、股ずれのダメージが表面化することはない。それ もまた異世界のいいところだ。 マールさんは何か思うところがあったのか、すぐ馬車に戻らず俺 を見ている。その目は、いつになく真剣だった。 ﹁ヒロトちゃん⋮⋮祝祭が終わったあと、私と一回手合わせしてく れる?﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いいけど。マールさん、急にどうしたの?﹂ ﹁ううん、そういえば一度もヒロトちゃんと本気で試合をしたこと ってなかったから﹂ いつも朗らかに笑っていて、闘争心とは無縁に見えるマールさん だけど、フィリアネスさんの側近であり、今では騎士団でも随一の 強者でもある。四年に一度開催されるジュネガン公国の御前試合で は上位四傑に入り、他の騎士団長と実力が拮抗しているとも、フィ リアネスさんと対戦することを避けなければ二位にまで上がってい たとも言われている。 ﹁私は雷神さまには勝てない。でも、それ以外の人には、本当は絶 対負けたくなかったりするんだよ。それが、たとえヒロトちゃんで も⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうか。マールさんは優しいけど、やっぱり戦いにおいては、 いつでも真剣なんだ。普段を見てると、忘れそうになるけど﹂ 937 ﹁あはは∼、本当は雷神さまみたいな、キリッとした騎士さまを目 指してたこともあったんだよ。でも私ね、雷神さまの部下にしても らえて本当に良かったと思ってる。自分にないものを持ってる人を 見ながら、自分らしくいられるって、すごく素敵なことなんだよ。 わっかるかな∼?﹂ ︵⋮⋮それは︶ 自分にないものを持っている人と接しながら、自分らしくいる。 それはまさに、俺が前世のリアルで出来なかったことだった。 リアルに向き合って生きている人たちと共存することを諦めて、 違う世界に生きようとした︱︱。 ﹁なーんて、私だって結構真面目に考えてたりするんだけど、そう いうこと言うとアレッタちゃんが凄く感心してくれるのが恥ずかし くって⋮⋮﹂ ﹁俺もその気持ちはわかるよ。マールさんはフィリアネスさんも認 める、誇り高い騎士なんだ⋮⋮俺も小さい頃、騎士になりたいと思 ったことがあったから、尊敬してるよ﹂ ﹁え、ええ∼っ、そんな、私のことなんて尊敬しちゃっていいの? 基本的に何も考えてないよ?﹂ ﹁いつも真面目なことを考えてると、アレッタさんもつっこめなく て寂しそうだからいいと思うよ。俺も普段のマールさんが好きだし ね﹂ ﹁⋮⋮は、8歳から22歳に言う場合でも、﹃好き﹄は一回に数え てもいいと思う?﹂ ﹁い、いや⋮⋮えっと⋮⋮﹂ そういう意味じゃなくて、と誤魔化すのはラクで。 それは結構前世における、難聴主人公、ハーレム主人公のベタな 938 テンプレの振る舞いであって。 ︱︱じゃあ、俺はどうしたい? 俺はそんな類型にハマりたくて 生まれ変わったのか? 多分、それは違う。俺が思い描いていた﹃ジークリッド﹄は、も っと自由で︱︱もっと大胆で、もっと馬鹿をやって生きているやつ だった。俺はチャットで会話を打ち込む自分と、異世界で生きてい るジークリッドを、違うものだと捉えていた。 キーボードを使わないとうまく喋れない俺は、もうどこにも居な い。ヒロト・ジークリッド、そんな名前で転生した意味がようやく 分かった気がする。2つの自分は等価で、混ざり合って、新しい存 在に変わる。ヒロトでもジークリッドでもあって、どちらか一つで はありえない一個の人間になる。 ﹁もちろん、数えてもいいよ。俺だってもう、その言葉の意味はわ かってるから﹂ ﹁⋮⋮はぁ∼。やっぱりこんな子と⋮⋮ううん、こんな人と出会っ ちゃったら、それはね∼。なかなか、他の人に目移りしたり出来な いよね﹂ マールさんは馬の上の俺に手を伸ばすが、さすがにこの高さでは 頭に手が届かない。なんだか可笑しくなって、俺はマールさんと笑 いあった。 独占欲みたいなものを発揮するなら、それは徹底するべきだろう。 ﹁ジークリッド﹂はストイックだったが、今の俺はとても無欲だと は言えない。 ﹁⋮⋮マールさんは、赤ん坊の俺と会った時のこと⋮⋮変だとは、 939 思わなかった?﹂ ﹁あ⋮⋮それ、今話しちゃう? うん、それは思ってたよ∼﹂ 彼女の答えはあっさりしていた。それこそ、拍子抜けしてしまう くらいに。 俺が魅了スキルを使って、みんなから⋮⋮そして、それからの行 為を経て、俺への好感が上がっていった。その過程で、一度も俺の ことを変だと疑わなかったのかどうか︱︱。 尋ねることが怖くもあり、いつかは殴られることも覚悟して聞く べきだと思っていたこと。 それに、マールさんはとても簡単な答えをくれた。 ﹁もとから、下にいっぱいきょうだいがいるから赤ちゃんとか小さ い子の面倒を見るのには慣れてたけど、ヒロトちゃんだけだよ。で も、赤ちゃんだもん。おっぱい欲しいって泣いちゃっても、それは 自然なことだよね﹂ ﹁い、いや⋮⋮俺が言いたいのは、そういうことじゃ⋮⋮﹂ ﹁私はもとから、そんなに男の人に関心があったりしなくて、強く なりたいな∼っていつも思ってて。ヒロトちゃんと一緒に練習した りするようになって、その時に気づいちゃったの。あ、私今、すっ ごく充実してるって。ヒロトちゃんが強くて、雷神様に認められて ることが、自分のことみたいに嬉しいって気づいたんだよ。じゃあ、 この人が大きくなるまで見てるだけでいいかなって⋮⋮ヒロトちゃ んこそ、そういうの、変だと思うでしょ?﹂ 魅了されている間に好感度が上がって、いつか魅了は切れて、そ れが普通になった。けれど一ヶ月に一度ミゼールに来てくれる彼女 たちとの交流は、途絶えることなく続いた。 言葉が話せるようになったばかりの頃は、口下手だった俺の話を、 彼女たちは嫌な顔ひとつせず聞いてくれた。 940 俺が癒しをくれたと彼女たちは言う。しかし、本当に癒されてい たのは俺のほうだ。 ﹁⋮⋮何も変だと思わない。ありがとう、しか思わないよ﹂ ﹁本当に? 今のうちだよ∼、今のうちにダメって言っておかない と、私はずっと望みを持っちゃうからね。けっこう、夢見がちだか ら﹂ ﹁俺もそうだよ。わりと、大きい夢を幾つも見る方なんだ﹂ 世界の全てを知ること。自分のギルドを作ること。魔剣が永久に 悪用されないように対処すること。陽菜を魔王としての宿命から解 放すること。 どれも達成出来ると思っている。どれかが無理だったなんて、い つか弱音を吐くビジョンすら見えない。 ﹁ヒロトちゃんならきっと出来るよ∼。雷神さまも、みんなもそう 思ってると思う。大きくなったら、すごいところまで行っちゃいそ うな気がするよ∼。追いていかれないように、私も頑張らなきゃね﹂ マールさんはそう言って、オラシオンの首もとを撫でる。そして、 馬車を引く馬に跨って、指で輪を作った。それが彼女の、出発進行 のサインだ。 イシュア神殿まではもう少し。俺は再び、周囲に気を配りながら 馬を歩かせ始める。 ︵久しぶりに魅了をセットしておくか⋮⋮ルシエとイアンナさんを パーティに入れれば、効果が及ばなくなるし︶ ◆ログ◆ 941 ・︽ルシエ︾をパーティに参加させた。 ・︽イアンナ︾をパーティに参加させた。 ・あなたは﹁魅了﹂スキルをアクティブにした。 ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ミコト︾があなたに注目した。 ︵ちょっ⋮⋮い、いつの間に⋮⋮!?︶ 何者かが、俺のスキルの効果範囲に入っていたらしい︱︱気配を 消してでもいたのか。そう思った次の瞬間だった。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ミコト︾は抵抗に成功した。 バックスタッブ ﹁⋮⋮素直に暗殺されてくだされば、楽に終わりましたのに。まま なりませんわね﹂ ︵この声、どこから⋮⋮気配を消す系統のスキルを使ってるのか⋮ ⋮!︶ ◆ログ◆ ディテクト ・あなたは﹁看破﹂を試みた! ・︽ミコト︾の隠密状態を見破った! 942 判断すると同時にスキルを発動させる。すると、今まで感じなか った気配が突如として左の前方に生じた。 シノビ 姿を見せたのは、これまで転生してからは見たことのなかった職 業︱︱忍者の女性だった。黒く長い髪を高い位置で縛り、装備一式 を黒で統一して、まさにくノ一といった風体をしている。 エターナル・マギアにおいて和風の職は侍、忍者、巫女などがあ る。東の大陸にまるで戦国時代の日本のような国があり、そこでは 独自の文化が築かれているという設定があった。出身を東大陸に設 定しないと職につけないので、おそらく彼女は海を渡ってきたのだ ろう。 ﹁ヒロトちゃんっ、一人で大丈夫!?﹂ ﹁マールさん、ここは俺に任せて! なんなら、先に行ってくれて もいい! 後で追いつくから!﹂ 俺は女忍者から馬車を守るように立ち回り、無事に行かせたあと、 オラシオンから降りる。忍者はそれを律儀に待ってくれている︱︱ どうやら、変身モノヒーローのワビサビが分かる人物のようだ。 ︵というか⋮⋮︽ミコト︾で、あのしゃべり方は⋮⋮間違いないん じゃないのか?︶ ﹁幼い子供だけを残して行かせるなんて⋮⋮面白い判断ですわね。 先程から見ていましたが、聖騎士しか戦っていなかったのではなく て?﹂ ﹁俺は手を出す必要がなかっただけだよ⋮⋮戦うっていうなら相手 になろう。でも、その前に聞きたいことがある﹂ ﹁⋮⋮まず、武器を見せていただけますか? それであなたが強い 943 かどうか、判断できますから﹂ 俺はくノ一に斧を見せる。すると、彼女が目を見開き、その瞳は きらきらと輝き始めた。 ﹁ま、マジですのっ⋮⋮!? それ、+7まで強化されていますわ よね!? どうやってそんな武器を⋮⋮どこの職人に頼んだのか、 教えてくださいませっ!﹂ 普通の人は、﹁+7﹂なんて言葉は絶対に使わない。どれだけ強 化しても、﹁強くなった﹂﹁輝きが違う﹂などという表現しかしな い︱︱つまり。 ﹁⋮⋮転生者⋮⋮っていうか、もしかしてミコトさん⋮⋮?﹂ ﹁っ⋮⋮ま、まさか、あなた⋮⋮いいえ、ヒロトなんて人は知りま せんし⋮⋮まさか八歳ということはないはずですわ。私は年齢を引 き継いでいますし⋮⋮﹂ ﹁俺の名前はヒロト・ジークリッド⋮⋮ジークリッドだよ、ミコト さん。俺が知ってるミコトさんなら、覚えててくれるはずだ﹂ 名乗った瞬間、彼女は何度か目を瞬いた。そして、持っていたク ナイを地面に落とす。 長い、長い間を置いたあと。彼女は漆黒の瞳を潤ませ、震えるよ うな呼吸をしたあと⋮⋮俺に向かって駆け寄ってきた。 そして︱︱俺が身構えるより早く。彼女は俺を抱きしめていた。 ステアリー・トゥ・ヘブン ﹁ジークリッドっ⋮⋮﹃天国の階段﹄の⋮⋮そうですわよね⋮⋮っ !?﹂ ﹁うわっ⋮⋮そ、そうだけど⋮⋮だ、抱きつかなくてもっ⋮⋮﹂ 944 柔らかくて、いい匂いがする⋮⋮じゃなくて。彼女の腕をぽんぽ んと叩いてなだめると、両肩に手を置かれ、間近で見つめられる。 整った顔⋮⋮長い睫毛に、大きな瞳。その瞳に涙が浮かんで、ぽ ろぽろと頬にこぼれていく。 ﹁ギルマス⋮⋮会いたかったですわ⋮⋮っ!﹂ ﹁⋮⋮こっちに来ても﹃ですわ﹄口調なんだな、ミコトさんは﹂ 手巾を出して涙を拭いてあげると、彼女はそれを受け取って、顔 を赤らめる。 ﹁ええ⋮⋮私のロールプレイは徹底していますもの。ずっとこの口 調で通していますわ﹂ ﹁凄いな⋮⋮俺はもう、キャラがブレブレだよ。もともと、コミュ 障だったし﹂ ﹁言ってましたわね、そんなことも⋮⋮でも、全然問題があるよう に見えませんわよ﹂ ミコトさんとはかなり身長差がある。彼女は立ち上がると、落ち ている自分のクナイを見やった。 ﹁落としたアイテムは、二分で消滅する⋮⋮ゲーム上のルールはそ うでしたけれど、異世界ではそんなことはない。それは、なかなか いいシステムだと思いませんこと?﹂ ﹁確かに。そういう話が通じるってだけで、もう、疑う余地はない みたいだな⋮⋮久しぶり、ミコトさん﹂ ﹁ええ、お久しぶりですわ⋮⋮ヒロトというのは、ギルマスのリア ルネームだったんですの?﹂ ﹁はは⋮⋮ずっと名乗ってなかったから、ちょっと恥ずかしいな。 そうだよ、森岡弘人って名前だったんだ﹂ 945 過去形で言うと、ミコトさんの表情が陰る。 ﹁元気そうで何よりですわ⋮⋮と言うのも、少し複雑ですわね﹂ ﹁⋮⋮こっちに来る経緯だけでも、歩きながら話そうか。俺は、フ ィリアネスさんたちと一緒に大事な仕事の途中なんだ﹂ ﹁フィリアネス⋮⋮最強クラスの騎士NPC。彼女が絡むイベント の最中ということですか?﹂ ﹁そう⋮⋮未実装だったクエストだ。というより、ミコトさんも気 付いてると思うけど、この世界はエターナル・マギアそのままじゃ ない。実装されてたクエストの、さらに過去から始まってるんだ﹂ ﹁それは詳しく聞かせていただきたいですわ。ここまでレベルとス キルを上げるだけで精一杯で、クエストの類はキャラクエしか見て いませんの﹂ キャラクター キャラクエとは、ネリスおばば様に精霊魔術を教えてもらうクエ ストのようなものである。人から依頼される本筋に関係のないサブ クエストは、全てキャラクエだ。 ﹁⋮⋮せっかくですから、私もしばらくギルマスに同行しますわ。 話したいことは尽きませんが、大事な仕事を遅らせるわけにも行か ないのでしょう? 敵が来ても、私が撃退してあげますわ⋮⋮とい っても、あのニセ山賊たちのレベルでは、﹃渇き﹄は癒やせません けれど﹂ ﹁ああ、よろしく頼む⋮⋮って、口調が全く子供っぽくできなくな るな、ミコトさんと話してると。見た目と合わなくて変じゃないか ?﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そんなことを気にしていたのですか? それこそ、少 女のアバターでたまにおじさんの素が出ていることなんて日常茶飯 事だったではないですか。もっとも、私は元から中の人も女性でし 946 たが﹂ ミコトさんはつり目がちで少し気の強そうな美人だが、俺の正体 が分かってからは、ずっと朗らかに話している。生前︱︱いや、陽 菜の例もあるので死んで転生したとは限らないが、前の世界でもこ ういう人だったのかな。 しかし、レベルとスキルを上げるだけで精一杯と言っていたが、 彼女のプレイスタイルが変わっていないなら︱︱強い相手を探して いたというのもうなずける。 サーバーの中でも屈指の廃人で、対人戦︵PVP︶の最強プレイ ヤー。﹃闇影﹄という二つ名で呼ばれたくノ一。おそらく名無しさ バーサーカー んが言っていた人物は、彼女のことだ︱︱彼女は強い相手を見つけ ると、戦いを挑まずにはいられない戦闘狂だから。 ﹁相変わらずの戦闘中毒みたいだね、ミコトさんは﹂ ﹁ええ。どんなゲームも、戦闘こそが華であり、全てだと考えてい ますわ⋮⋮といっても、異世界では簡単に致命攻撃を繰り出せない のが痛いですわね。まさか、シノビの死にスキルと呼ばれていた﹃ 手刀﹄が、最も使えるスキルになるとは思いませんでしたわ﹂ ﹁手刀で首を飛ばせるようになるのがシノビだけどね﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そこは心配ご無用ですわ。﹃当て身﹄を取っています から﹂ ﹃当て身﹄スキルを取ってオンにしていると、格闘属性の攻撃で ライフがゼロになるダメージを与えても、一桁残る。手加減に似て いるが、当て身はダメージが少なくても相手を気絶させる可能性が ある。 947 ﹁ゲームの中とは違って、腹パンにリアルな手応えがあって良いで すわ。もちろん、首に一撃で気絶させるのもいいですわね﹂ そう︱︱﹃闇影﹄は丁寧な物腰だが、戦闘スタイルはガチの攻撃 一辺倒で、言動もナチュラルにサディストだったりするのだった。 そんな人だが、強さとプレイヤースキルは随一だったので、ギルド のサブマスターとしては優秀で、人望も厚かった。彼女に一度は倒 されたい、と願ってギルドに入る人が複数人いたくらいだ。 ﹁俺でなきゃ見落としちゃうね、今の一撃は⋮⋮ってやつだね﹂ ﹁ええ。懐かしいですわね⋮⋮こっちに来て五年ですから﹂ 女神が言っていた通り、エターナル・マギアのプレイヤーは異世 界に転生する可能性がある。 初めて出会った元プレイヤーは、かつて俺を補佐してくれたサブ マスだった︱︱そして、かなりの美女だった。 それより何より、彼女は転生後の人生をフルにエンジョイしてい るとすぐに分かった。それが、自分のことのように嬉しかった。 ﹁ああ、後で話したらしんみりしてしまうでしょうから、言ってお きますわね。私、あなたがいなくなった数ヶ月後に死んでしまいま したの﹂ ﹁⋮⋮死んで⋮⋮ど、どうして⋮⋮?﹂ ﹁病気だったんですの。私は死ぬまでの最後の一年を、ゲームに費 やすことを選んだのですわ。どうせなら一番面白いと思ったゲーム を、全力でやって終わろうと思いましたのよ。おかげさまで、ゲー マーの本懐を果たすことが出来ましたわ﹂ そんなふうに、本当に満足そうに笑ってみせる彼女。それが事実 なのか、確かめるすべはなくても⋮⋮そんなにあっけらかんと言わ 948 れてしまうと、疑うことが無粋だと思える。 ﹁とても満足していたのですが⋮⋮心残りがあるとしたら。あなた と決着をつけられなかったことです、ギルマス。だから、転生せず に居られませんでしたわ⋮⋮女神には、一縷の望みを込めてジーク リッドの近くに転生するようにと頼んだのですが。そのときはあな たが先に転生していたことは教えてもらえませんでしたわ﹂ やはり⋮⋮女神は転生者の望みのままにしてくれているようで、 そうではない。何か、楽しんでいるような節がある。 ﹁ギルマス、私のステータスを見ますか? あなたが実質上のパー ティリーダーであれば、メンバーである私の能力を知っておいても 良いと思うのですが﹂ ﹁ぜひ見せてほしい。俺のステータスも見ていいから﹂ ﹁⋮⋮緊張しますわね⋮⋮ギルマスのステータス、前世では一度も 見せてもらいませんでしたもの﹂ 俺もそうだ、ミコトさんのステータスを見たことはなかった。自 己申告で所持スキルや装備を聞けば、それだけで事足りたからだ。 ギルメン全員のステータスを把握してるようなギルマスも中にはい ただろうが、俺はそこまではしていなかった。 けれど改めてミコトさんが今ステータスを見せたいというのは、 意思表示でもあるのだろう。自分がこれまでどんなふうに異世界で 生きていたのか、俺に教えたいという。 ◆ダイアログ◆ ・︽ミコト︾がステータスの閲覧を申請しています。許可しますか ? YES/NO 949 ミコトさんからの申請に応じて、俺のステータスを開示する。俺 の方はカリスマの効果で彼女のステータスを見られるので、心中で 念じてステータスを開いた。 ◆ステータス◆ 名前 ミコト・カンナヅキ 人間 女性 17歳 レベル57 ジョブ:シノビ ライフ:1240/1240 マナ :204/204 スキル: 忍術 100 忍装備マスタリー 100 恵体 100 魔術素養 15 母性 20 アクションスキル: 投擲 当て身 五行遁術 木の葉隠れ 韋駄天の術 変わり身 ムササビの術 忍犬調教 影分身 バックスタッブ 無敵 パッシブスキル: 950 クナイ装備 忍防具装備 二刀流 鎖鎌装備 忍刀装備 手裏剣装備 貫手 戦闘狂 夢遊病 育成 授乳 可愛いものに弱い 残りスキルポイント:171 ︵忍術100、忍装備マスタリー100⋮⋮恵体まで。さすがだ⋮ ⋮魔術素養は、忍術を使うために上げ始めたのか。戦闘狂と夢遊病 ってネガティブなパッシブなのか⋮⋮? 可愛いものに弱い、はラ ビット系モンスターに攻撃できないんだよな。これはまあ問題ない か︶ ボーナスポイントを利用したのか、そうでないのかは分からない が、見事な育成だ。レベルアップボーナスが手付かずで残っている のは、俺と同じ志向に基づくものだろう。 ﹁やっぱりすごいな、ミコトさんは⋮⋮って﹂ ﹁⋮⋮ギルマス⋮⋮何ですの? このステータスは。変態的なレベ ル上げをしたんですの?﹂ ︵ぐっ⋮⋮へ、変態的なレベル上げって、授乳のことか⋮⋮って違 うよな︶ ミコトさんは開いた口が塞がらない、という顔をしている。それ はそうだな⋮⋮彼女は俺がもらったボーナスのことも、それをカン ストに使ったことも知らないわけだから。 ﹁いろいろあって、こうなったんだ。強くならないとダメだってい 951 う出来事があったから﹂ ﹁それにしても⋮⋮限界突破。こんなスキルがあるなんて⋮⋮﹂ ミコトさんもウィンドウを心中に展開しているのだろう、胸に手 を当てて宙を見つめているように見えるが、彼女は俺のステータス を一つ一つ確認しているのだ。 確認がなかなか終わらないのも仕方がない。俺が持っているスキ ルの数は、我ながらかなりの多さになっている︱︱収集癖のある俺 としては、これでも全然足りないのだが。 ◆ステータス◆ 名前 ヒロト・ジークリッド 人間 男性 8歳 レベル58 ジョブ:村人 ライフ:1360/1360 マナ:1084/1084 スキル: 斧マスタリー 10↓110 剣マスタリー 0↓10 聖剣マスタリー 0↓1 ︻神聖︼剣技 12↓50 精霊魔術 0↓75 薬師 20↓30 商人 10↓30 盗賊 10↓30 狩人 10↓30 戦士 0↓30 法術士 0↓30 952 衛生兵 5↓30 騎士道 3↓30 聖職者 3↓30 冒険者 1↓30 鍛冶師 0↓30 歌唱 1↓10 恵体 12↓110 魔術素養 20↓105 気品 22↓30 限界突破 0↓21 房中術 0↓10 交渉術 100↓110 幸運 30↓110 アクションスキル: 薪割り 兜割り 大切断 パワースラッシュ スマッシュ ブレードスピン ブーメラントマホーク ギガントスラッシュ トルネードブレイク ドラゴンデストロイ メテオクラッシュ 加護の祈り 魔法剣 ダブル魔法剣 精霊魔術レベル7 法術レベル3 ポーション作成 値踏み 鑑定 忍び足 鍵開け 隠形 狩猟 狙う 罠作成 ウォークライ 応急手当 包帯作成 毒抜き 野営 メンテナンス 鍛冶レベル3 祈る 浄化 無敵 マジックブースト 艶姿 値切る 口説く 依頼 交換 隷属化 看破 953 パッシブスキル: 斧装備 弓装備 杖装備 軽装備 聖職者装備 薬草学 回復薬効果上昇 商才 マナー 儀礼 勇敢 攻撃力上昇 気配察知 カリスマ 手加減 ︻対異性︼魅了 ︻対同性︼魅了 ︻対魔物︼魅了 選択肢 ×ピックゴールド ×ピックアイテム ×豪運 ×天運 恩恵 残りスキルポイント:35↓89 先に行った馬車を追って歩きながら、俺のスキルを確認していた ミコトさんが、不意に立ち止まる。 ﹁⋮⋮こんなに沢山のスキルを、どうやって習得したんですの? あらかじめ1ずつ振っておいてから育てたとしても、未知のスキル はそれが出来ないはず⋮⋮限界突破については、特に詳しく知りた いですわね﹂ ﹁それは、話せば長くなるんだけど⋮⋮﹂ ﹁構いませんわ。そうしてもらえれば、私が忍術を伝授しますし、 キャップ解放クエストのクリアにも協力します。これから継続して パーティに加入してもいいですわよ﹂ ︵そう来たか⋮⋮向こうから交渉してくるとはな⋮⋮︶ 交換条件自体は問題はないのだが︱︱ゲーム時代に一緒だった仲 954 間に、俺のスキル取得方法を教えるのはハードルが高い。 ﹁⋮⋮言えないような方法で手に入れたんですの? 異世界ではチ ートは出来ないですわよね⋮⋮ギルマスが手を出すとは思えません し﹂ ﹁ミコトさんは、転生するときのボーナスは⋮⋮?﹂ ﹁ええ⋮⋮私もいただきましたわ。そんなに不幸なつもりはなかっ たのですが⋮⋮やはり、病気の分は換算されましたわね﹂ 彼女のレベルアップによるスキルポイントは全て残っていたが、 ボーナスポイントは無かった。ということは、ボーナスによる初期 ブーストを行ったということだ。 しかし⋮⋮なぜ、年齢が違うんだろう。リオナもゼロ歳になって いたし、年齢は希望通りになるんだろうか。 ﹁ミコトさんは、女神に年齢の希望を出したのか?﹂ ﹁ええ。元の年齢を引き継いでスタートしたかったので、そうお願 いしましたわ。ボーナスポイントは使いましたけれど⋮⋮﹂ ﹁そんなことも出来るのか⋮⋮﹂ 一度命を落としたんだから、赤ん坊からの転生になるのだとばか り思っていたが⋮⋮それに限ったわけでもなかったのか。というこ とは、他に転生した人がもしいたとして、俺と同じ歳とは限らない。 転生した時期の違いも影響してくるかもしれないし。 しかしここまで8年経って、出会ったのは一人だけだ。女神は他 にも転生する人がいると言ってたけど、異世界で巡り合う可能性は かなり低いってことになるか⋮⋮他のプレイヤー全てに女神が転生 するかどうかを聞いているわけではないということか。 955 ﹁私は強い人を探していれば、いつか知り合いに辿りつくかもしれ ないと思っていました。女神が言っていたのですわ⋮⋮知り合いが 先に転生していると。ギルマスのことだとは思っていませんでした が﹂ ﹁死んだりしなきゃ、転生なんてさせてもらえないと思うよな⋮⋮ あの感じだと﹂ 苦笑して言うと、ミコトさんも同意して頷く。 ﹁やはり、私の狙いは間違っていませんでした⋮⋮まさか、聖騎士 の一行にあなたがいるとは思いませんでしたが。けれど、改めて会 うと緊張してしまいますわね。初めてオフで会った気分ですわ﹂ 言われてみればまさにそうだ。一度もしたことがないオフ会を、 期せずして転生後に実行してしまったわけだ。 ﹁さて⋮⋮私は移動速度が速いですから、馬にもついていけますわ。 馬車を追う前に、限界突破の取得方法を教えてくださいませ﹂ ﹁⋮⋮一つ、お願いがあるんだ。できれば、軽蔑しないでほしい⋮ ⋮んだけど⋮⋮﹂ ﹁軽蔑⋮⋮そんなえげつない方法で取得したんですの? しかし、 それだけの価値はありそうですわね⋮⋮スキル100超えが出来る なら、私も手段は問わないと言いたくなりますもの⋮⋮いえ、身体 は張りませんが﹂ ふと思うのは、ユィシアに授乳してもらわなくても、ドラゴンミ ルクを飲めばいいのではないかということだった︱︱そうしてごま かそうかとも一瞬思った。 が、どのみち﹁搾乳してもらって飲めばスキルが取れる﹂と言っ ても、HENTAI的な感じがすることに変わりはない。やばい、 956 猛烈に恥ずかしくなってきた⋮⋮が、ミコトさんを仲間にするには、 告白するしかない⋮⋮! ﹁⋮⋮俺が生まれた町の近くに皇竜というドラゴンがいて、テイム して、授乳してもらったんだ﹂ ざっくりと端折ったが、ありのままの事実を言った。ミコトさん は大きな目を瞬いていたが、やがて頬をゆっくりと染めていく。 ﹁⋮⋮それは、簡単に実行できませんわね。ギルマスも男の子です わね⋮⋮そんな大胆な⋮⋮﹂ そういう方法があると分かっても、普通は選ばないよね、という ニュアンスで言われてしまった。ま、まずい⋮⋮この反応じゃ、仲 間になってくれないんじゃ⋮⋮。 ﹁しかし、あえて探求してその方法を見つけたのは素晴らしいこと ですわ。教えてくれてありがとうございます⋮⋮そうですか、授乳 ですか。私も身につけたのですが、そんな使い方があったんですの ね⋮⋮﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮俺も赤ん坊だったころに、偶然発見しただけなんだ。 いや本当に﹂ とりあえず、そろそろ話を切り上げて、早くフィリアネスさんに 追いつかなければ。 そう、思っていたよりも時間が経っていたわけで︱︱。 ◆ログ◆ 957 ・﹁魅了﹂が発動! ︽ミコト︾は抵抗に失敗、魅了状態になった。 ︱︱それは、一度発動したパッシブスキルが再発動するには十分 な時間だった。 ︵し、しまった⋮⋮ミコトさんをパーティに入れる前だから、魅了 の対象になるんだ⋮⋮!︶ ﹁み、ミコトさん、俺から離れて! しばらくすれば落ち着くから !﹂ ﹁⋮⋮な、なるほど⋮⋮良くわかりましたわ。なぜ、授乳でスキル を取れたのか⋮⋮凄いですわね、これは⋮⋮﹂ ミコトさんの目がとろんとして、俺を見る目が変わって⋮⋮だ、 ダメだ。このパターンは⋮⋮! ◆ダイアログ◆ ・︽ミコト︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO ︵アィエエエ!︶ 思わず今までにない心の叫びが出てしまう。魅了が成功する率は かなり下がっているはずなのに⋮⋮! ﹁⋮⋮ここで授乳を指示されたら、私の⋮⋮忍術あたりを、ギルマ 958 スに継承出来るんですのね⋮⋮なるほど、それは効率的ですわ。私 が交渉術を取っていたら⋮⋮確実に⋮⋮んっ⋮⋮か、身体が熱いで すわ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾は身体の異変に戸惑っている。 ・︽ミコト︾は﹁黒装束﹂の装備を解除した。 ﹁ふ、服を脱ぐのはまずいっ⋮⋮ここは外だよミコトさん!﹂ ﹁っ⋮⋮い、いけませんわ、こんな⋮⋮私、正気を保つことさえ⋮ ⋮恐るべしですわ、魅了の力⋮⋮っ﹂ ︵落ち着け⋮⋮忍者なら魅了耐性くらいあるはず。すぐに治るはず だ⋮⋮!︶ じっと指示を待っているミコトさん。忍術⋮⋮影分身スキルが欲 しいし、忍犬調教もいい。犬を調教して忍犬にすると、かなり優秀 なのだ。ミコトさんは忍犬を連れてないが、それは犬が一部の地域 にしか居ないからなので、見つければすぐ忍びの術を仕込むだろう。 じゃなくて、今回ばかりは絶対にダメだ。せっかく会えたのに、 スキルのために全てを台無しにするつもりか⋮⋮! ◆ログ◆ ・︽ミコト︾の魅了状態が解除された。 959 ・︽ミコト︾は﹁黒装束﹂を装備した。 ﹁あっ⋮⋮な、治りましたわ。一時はどうなることかと思いました ⋮⋮﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮このスキルで、赤ん坊の頃から無双していましたのね? ギ ルマスのこと、もっと真面目な人だと思っていましたが⋮⋮案外、 誘惑に弱いんですのね﹂ ︵好きなだけ罵ってくれ⋮⋮俺はミルクに魂を売った男だ︶ ウィンドウのログで何が起きたかを正確に把握できるミコトさん には、隠し事などできない。まして、ゲーム時代の知識を踏まえれ ば、俺がここまで強くなるためにどんな立ち回りをしたか想像がつ きそうなものだ。 がっくりとしていた俺だが、ミコトさんはそれ以上責めたりはせ ず、俺をじっと見ている。肩にかかったおさげの先に触れながら、 何を言われるのかと戦々恐々としていると⋮⋮。 ﹁⋮⋮心配しなくても、軽蔑したりはしませんわ。それくらい、ゲ ームでは長くお世話になってきましたものね。ちょっとくらいのお いたは大目に見ましょう⋮⋮もっとも、ちょっとどころではないと 言い切れますけれど﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮ミコトさん。俺、ギルド時代の知り合いにも し会っても、確実に嫌われると思ってたよ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そんなことはありませんわ。マユさんが今のあなたに 会ったら、﹃男らしい﹄と評価すると思いますわよ。そういう人で したもの﹂ 960 確かにな、と三人で会話していた頃のことを懐かしく思い出す。 互いの年齢も何も分からないのに、いろいろ他愛もないことを話し たもんだな⋮⋮。 ﹁約束通り、私はギルマスのパーティに入ります。できれば、強敵 は私にも回してくださいませね。最近熱いバトルがなくて、身体が 鈍っていますの。なんなら、聖騎士さんとお手合わせしてみたいく らいですわ﹂ ﹁はは⋮⋮フィリアネスさんもものすごく強いからな。怪我しない 範囲で頑張ってくれ﹂ ﹁言いましたわね? そう言われてくると燃えてきますわ⋮⋮これ から楽しくなりそうですわね、ギルマス﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾をパーティに参加させた。 ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁もう一度組める日が来るなんて⋮⋮ 望みは持つものですわね﹂ イシュア神殿に着く前に、思いがけない出会いがあった。しかし 今は何より、ルシエの護衛だ。その本分を忘れてはいけない。 俺は﹁韋駄天の術﹂を使って馬と並走できるミコトさんと共に、 かなり先で待っている馬車を追いかけた。 961 第二十六話 神官の姉妹/星空の下 俺たちは夕暮れ前にイシュア神殿に隣接した村に辿りつき、そこ で宿を取った。ヴェレニスより少し規模の大きい村で、人口は五百 人ほどだという。村長は公王家に仕えていた神官で、この村の住民 のほとんどが、イシュア神殿で神に仕えているそうだった。 村長が手配してくれた宿の部屋に入ると、ミコトさんは改めて皆 に挨拶をした。このアスルトルム大陸では珍しい職業の忍者を見て、 フィリアネスさんたちは少し驚くかもしれないと思っていたが、そ れは予想通りだった。 ﹁その装備があると、あれほど速く走ることができるのか? それ とも、異国の武術のなせる技だろうか﹂ フィリアネスさんはミコトさんの体術に関心を持ったようだった。 強者に敬意を払い、常に自分を磨き上げるということについては、 二人には通じるものがあるようで、意気投合は早かった。 ﹁そういった装備品もありますけれど、私はシノビの技術で高速移 動することが可能ですの。馬と並走するくらいは、どうということ はありませんわ﹂ ﹁シノビ⋮⋮そういった者たちがいるのだな。やはり、世界は広い ⋮⋮﹂ ﹁雷神さま、強い人を見ると目がキラキラしちゃいますよね∼。私 は正直に言って、ヒロトちゃんとの関係の方が気になって、それど ころじゃないんですけど⋮⋮チラッ、チラッ﹂ 962 やっぱり気になるよな、それも。前世で同じギルドだったとか、 幾つもの修羅場︱︱主にギルド対抗試合のことだが︱︱を共に切り 抜けてきたとか、言われても呆然としてしまうだろう。 アスルトルム ﹁私は各地のギルドを転々として、強い人を探していますの。この 大陸に渡ってきてから、噂に伝え聞いた聖騎士さまと手合わせをし てみたいと思い、馳せ参じました。その方と一緒に、こんなに強い 少年がいると分かってとても驚いたのですわ。それで、一時休戦し て、あなたたちの強さの秘密を見せてもらうことにしましたのよ﹂ 淀みなくそれらしい理由を説明するミコトさん。ちょっと強引な ところはあるけど、でも納得できなくもないというか、そういう範 囲内の内容だと思う。 彼女は俺と違って、こういうときの喋りは非常になめらかだ。ギ ルド同士で行われる会議の席では、俺が事前にプランを立てて、彼 女が議場での進行を務めることが多かった。 ︵まさか合流できると思ってなかったからな⋮⋮彼女がずっと居て くれると、かなり助かるんだけどな︶ しばらく同行してくれると思うけど、彼女の﹃際限なく強くなろ うとする﹄という性格上、レアな武器防具を集めるためにパーティ を離れてしまうということは普通にありうる。彼女を引き止めるた めには、﹃ここに居れば強くなれる﹄﹃強者と戦える﹄という環境 を用意することが必要になる。 ﹁強さの秘密か⋮⋮ヒロトは私の技を見るだけで覚えてしまったが、 ミコト殿、あなたも同じようにして上手くいくかは分からない。こ の子は天賦の才を持っているからな﹂ ﹁ふふっ⋮⋮それは見ていれば分かりますわ。けれど私は、確信を 963 持って言い切れます。ギルマス⋮⋮いえ、ヒロト君がこれほど強い のは、あなたのような強者から学ぶことが多かったからですわ。マ ールギットさん、アレッタさん、あなた方の存在が寄与するものも 大きいですわね﹂ ﹁えっ⋮⋮わ、私、そんなにヒロトちゃんに教えられたりは出来て ないんですけど⋮⋮やっぱり、私がいるからヒロトちゃんが強くな れる的な部分が⋮⋮?﹂ ﹁私はヒロトちゃんの成長を、驚いて見ているだけですけど⋮⋮す、 少しだけ、練習のあとのお手当てなどはさせてもらっていますし⋮ ⋮貢献出来ていると思っていいんでしょうか﹂ マールさんとアレッタさんは顔を赤くして照れている。それを見 てミコトさんは俺の方をイタズラな目をして見やった。 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁すみにおけませんわね、ギルマス。 もちろん責任は取るおつもりですわよね?﹂ ︵つ、つぶやきがログに出ることを知ってて⋮⋮わざとか、わざと なのか⋮⋮!︶ ﹁む⋮⋮どうしたのだヒロト、そんな、歯の奥にベーコンがはさま ったような顔をして﹂ ﹁ぶほっ⋮⋮ら、雷神さま、その例えはちょっと庶民的すぎますよ ∼。雷神さまはもっとこう、武人らしいっていうんですか? そう いうたとえをしてもらわないと。ミコトさんもそう思いません?﹂ ﹁先ほどから申し上げようと思っていたのですけれど、私はおそら 964 くマールギットさんたちよりは一回り年下ですから、どうぞ敬語は 使わないでください。私は今年で、十七歳になりますわ﹂ ﹁えっ、そうだったの? すごく大人っぽいから、年上なのかと思 っちゃった。なんだー、じゃあ私の方がお姉さんってこと? ミコ ちゃんって呼んでもいい?﹂ ﹁ええ、どんな呼び方でもご自由にどうぞ。私もマールさんと呼ば せていただいた方がいいのかしら⋮⋮ギルマスはどう呼んでいるん ですの?﹂ ﹁えっ⋮⋮お、俺? 俺は、マールさんって呼ばせてもらってるよ﹂ まずギルマス呼びを躊躇しなくなったことに驚いてしまったのだ が、それはみんなも同じだった。一様に頭に疑問符を浮かべている。 ﹁ミコト殿、そのギルマスというのはなんなのだ?﹂ ﹁ヒロトちゃんの異名⋮⋮? ﹃ギル﹄って、冒険者ギルドじゅう に轟いちゃってるとか? とっても強い超美形少年として﹂ ﹁ぶっ⋮⋮ぜ、全然美形じゃないから。マールさん、無理に褒めな くていいよ﹂ ﹁私にとっては、一番⋮⋮というのは、ミコトさんの前で言うのは 恥ずかしいですね⋮⋮﹂ アレッタさんは恥ずかしがってはっきり言わなかったが、﹁一番﹂ の続きを想像すると⋮⋮ぐう恥ずかしい。 ﹁ヒロト様は、別の大陸にもお知り合いがいらっしゃるのですね⋮ ⋮と思っていましたが、出会ったばかりだったのですね﹂ ﹁公女殿下に同じです。わたくしも、一定以上に深い関係でいらっ しゃるものだとばかり⋮⋮いえ、そういった意味では、このイアン ナも同等に⋮⋮﹂ 965 ︵︱︱それは言っちゃだめだよ、イアンナさん。あれだけきつく言 っておいたろう?︶ ﹁っ⋮⋮はっ⋮⋮こ、このイアンナッ、今の発言については全面的 に撤回させていただきますぅぅっ⋮⋮!﹂ ちら、と見ただけでイアンナさんが俺の意図を察してくれる。口 は災いのもと、そう二時間に渡って教えてあげたのだから、少しは 身にしみてくれたようだ。 ⋮⋮って、完全に鬼畜化してるな、俺の思考は。敵に女性が出て きたときの対応は、もう少し紳士的にするよう心がけたほうが良さ そうだ。イアンナさんは敵ではないが。 ﹁⋮⋮ギルマス、なかなか破天荒な日々を送っているようですわね。 ますます興味深いですわ﹂ ﹁今日の朝から、イアンナ殿の態度が変化しているのは⋮⋮ヒロト の度量を認め、受け入れたということなのだな﹂ ﹁は、はいっ、まさにその通りでございまして、わたくしヒロト様 の、血筋に関係のないというか、内側から出てくる高貴さに、深く 心酔しておりましてっ﹂ ﹁⋮⋮イアンナ、もうあんなことをしてはいけませんよ? 私も反 省していますから﹂ ルシエはイアンナさんに何があったか、薄々と察しているようだ ⋮⋮それでもなお、俺に対して好意を持ってくれたというのは、あ る意味なんというか⋮⋮。 ︵まさかルシエはM⋮⋮10歳でそんな。って、何を考えてるんだ 俺は︶ 966 ﹁ヒロト様、私はこれから洗礼の儀式の衣装合わせをさせていただ きます。また、夕食の席でお会いしましょう﹂ ﹁そ、そうでございましたね。このイアンナ、すっかり失念してお りました。それでは皆様、ごきげんよう﹂ ルシエとイアンナさんが退室したあとも、ミコトさんは胸の下で 腕を組んで、にやにやと俺を見ている。な、なんだ⋮⋮胸を強調し て俺を誘惑しているのか。 ︵⋮⋮あれ? 何か、見落としてるような⋮⋮なんだ、この違和感 は︶ ミコトさんの胸がけっこう大きいことは黒装束を脱いだ時に、一 瞬でスカウターが発動したので判別している。母性20であの大き さということは、補正がかかる前の大きさがかなりのものだという ことだ。しかしフィリアネスさん、マールさんクラスと比べると、 一回りほどコンパクトだ。それでも十分⋮⋮って、俺は何をおっぱ いについて延々と終わらないほど熟考しているのだ。 そうじゃない、何か違和感があるんだ。ミコトさんのステータス を見せてもらって、話してるうちに、何か引っかかっている⋮⋮う ーん、ダメだ、今は分からない。 頭を悩ませていると、部屋のドアがノックされた。マールさんが 出ると、そこには一人の男性の姿があった。 ﹁失礼します、村長の⋮⋮いえ、神官長の使いで参りました。お話 があるとのことで、公女殿下の護衛を指揮している方に来て欲しい と とのことです﹂ ﹁指揮は私が執っているが⋮⋮この子も連れていっていいだろうか 967 ? 事情は聞かずにおいて欲しいのだが﹂ ﹁はい、問題ありません。聖騎士殿が選ばれた方であれば、ぜひ同 席していただければと思います。それでは、ご案内いたします﹂ 俺はフィリアネスさんと共に行くことになった。彼女は一も二も なく俺を同行させてくれたが、それだけ信頼してくれているという ことだ。 ﹁それじゃ、夕食は雷神さまたちが帰ってくるまで待ってもらいま す。早めに帰ってきてくださいね、私もうお腹を背中がくっつきそ うで⋮⋮﹂ ﹁マールさん、大事なお話なんですから、そこは非常食だけでこら えてください。私のおやつをあげますから﹂ ﹁いいの!? アレッタちゃん大好きー! もぐもぐもぐもぐ﹂ ﹁ギルマス、私は村の中を見回ってきますわね。新しい場所に来る と、いつもそうするのが習慣ですから﹂ 俺もゲームだったら全ての町を隅々まで探索したものだが、まだ ミゼールしか知り尽くしたといえる町はない。実際に自分の足で歩 いて見て回ると、かなり労力が必要なのだ。 しかしゲーム時代と変わらないスタンスを守っているミコトさん を見ていると、見習わなければという気持ちになる。だが今は神官 長の話を聞かなければならないので、そちらを優先することにした。 ◇◆◇ イシュア神殿に仕えるものの暮らす村は、その名もイシュアラル 村である。﹃ラル﹄は﹃仕える﹄という意味で、イシュアラルとい 968 うわけだ。 村長でもある神官長の家は、他の家より明らかに大きいというこ とはなく、俺たちの滞在している宿の方が大きかった。どうやら、 暮らしぶりに大きな差をつけないようにしているらしい。 神官長の家に入り、居間に入ると、褐色の肌を持つ女性が二人待 っていた。二人とも背中に届くくらい髪を伸ばしていて、それぞれ 赤と青の髪をしている。二人とも容姿がよく似ているが、青い髪の 女性の方が少し身長が小さく、容貌もあどけなく見えた。 ﹁イシュアラルによくぞ参られました。聖騎士フィリアネス殿⋮⋮ 公女殿下をお連れいただき、神と公王家に仕える者として、あらた めてお礼を申し上げます﹂ 二人の女性が揃って頭を下げる。俺もフィリアネスさんに倣い、 彼女と並んで頭を下げた。お辞儀をする文化はジュネガン公国にも あるのだ。 俺たちは席を勧められ、二人の女性とテーブルを挟んで向き合っ た。すると、一拍の間を置いてから左向かいの赤髪の女性が口を開 く。 ﹁私はファム・ファレーナ、こちらは妹のアイラと申します。明日、 洗礼の儀式において、神に捧げる歌の歌唱と、舞いの奉納を行わせ ていただきます﹂ ﹁神官長殿が歌われるのですか。神歌を奉じる歌姫は、他にいたと 聞き及んでおりますが⋮⋮﹂ ﹁彼女は布教のために、この地を離れております。本来なら、彼女 ⋮⋮セーラ・シフォンこそが、神殿の歴史上でも最高の歌姫なので 969 すが。彼女はゆえあって、歌声を失ってしまい⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮セーラって⋮⋮あの、セーラさんのことですか?﹂ ファムさんは話していてもあまり表情を動かさないが、俺の質問 に、かすかに目を見開いた。隣のレダさんも同じような反応を見せ る。 ﹁⋮⋮もしや、あなたはミゼールからいらしたのでは?﹂ ﹁は、はい⋮⋮俺はミゼールの生まれです﹂ ﹁そうでしたか⋮⋮セーラからは、ミゼールの教会で布教に尽力す ると手紙が届いておりました。彼女は、元気にしていましたか?﹂ ﹁セーラ殿なら、この子⋮⋮ヒロトの家にも出入りして、親しくし ていた。彼女は敬虔な女神の信仰者であり、私も教えられるところ があった。そうか、イシュア神殿の歌姫だったのだな⋮⋮﹂ フィリアネスさんは公王、そして女神に剣を捧げたという意味で 聖騎士の名を与えられた。そのため、ミゼールでセーラさんと会っ た時にも、セーラさんの語る女神についての話に耳を傾けていたこ とがあった。 ﹁歌の実力では私たちはセーラには遠く及びませんが、洗礼の儀式 を行えるだけの修行は積んでおります⋮⋮しかし、ひとつ、気がか りなことがあるのです﹂ ファムさんは髪の色を濃くしたような深い緋色の瞳で、フィリア ネスさん、そして俺を見やる。その隣で、アイラさんが少し身をこ わばらせるのがわかった。 その反応だけで、彼女が何を言おうとしているのかは分かる⋮⋮ そして、敵の卑劣さも知っていれば、先読みをするのはさほど難し くはなかった。 970 ﹁ルシエの洗礼を行わないように、圧力をかけられている⋮⋮って ことですね﹂ ﹁っ⋮⋮な、なぜそれを⋮⋮っ﹂ ファムさんが驚きを声に出す。フィリアネスさんも俺の発言に驚 いているようだったが、すぐに落ち着いて受けとめてくれた。彼女 の理解と判断の速さは、いつも見ていてよくわかっていた。 ﹁私たちはここに来る前、何度も襲撃を受けている。彼らの裏で手 を引く者の目的が、ルシエの洗礼を阻止することにあるのは明らか だ⋮⋮ならば、この村で洗礼を執り行う者達に働きかけるのも、可 能性としてありえなくはない⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうだったのですね。やはり、公女殿下を疎んじている者が いる⋮⋮私たちも、そうは思いたくなかったのですが。少し前に、 脅迫の手紙が届いたのです。﹃これから一ヶ月の間、神殿で洗礼の 儀式を行うな。そうしなければ、イシュアラルは地図から消えるこ とになる﹄と﹂ ︵ルシエを名指しにしなければ、自分にたどり着かれないとでも思 ったのか⋮⋮どこまで卑劣なんだ︶ もしグールドの命令で脅迫の手紙が送られたなら、グールドは自 分の領民の命を人質に取ってまで、ルシエの洗礼を妨害しようとし ていることになる。 しかし、まだ確証がない。状況証拠だけで、グールドを弾劾する ことは不可能だ⋮⋮無理にそうしようとすれば、かなりの力技を使 うことになる。 ﹁⋮⋮それでも私たちは、ルシエの洗礼を引き伸ばすわけにはいか 971 ない。引き伸ばすということは、その間にルシエは絶え間なく命を 狙われるということでもある。そして、もし一月洗礼を行わなかっ たとしても、ルシエの存命を知れば、敵はイシュアラル村を⋮⋮あ なたがたを、脅迫し続けるだろう﹂ ﹁⋮⋮はい。私たちは、覚悟を決めています。ルシエ公女殿下が無 事に洗礼を終えたあと、私たちがどのような道を辿ろうとも、それ を甘んじて受け入れるつもりです。女神様は、きっと、争いを望ん では⋮⋮﹂ ︵⋮⋮そんなこと、させられるわけがない。許されるはずがない⋮ ⋮!︶ 脅迫の内容が実行されれば、戦いを望まない村の人々が死ぬこと になる。それを、宗教上の理由で、ファムさんたちは受け入れると 言っている⋮⋮。 そんなことをして洗礼を受けても、ルシエの心には傷が残る。何 より、死ぬ必要のない人々が死ぬ。 ︱︱なぜ、そんなふうに死を受け入れられるのか。俺には、理由 は一つしか考えられなかった。 ﹁⋮⋮抵抗しても、抗えるような力じゃない。ファムさんたちは、 敵がそういう相手だと思ってる⋮⋮そういうことなんですね﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ ﹁もし心当たりがあるのなら、名前を教えてください。俺たちは、 誰にも言ったりしない。それを言わないで、死を受け入れて⋮⋮そ れで村の人全員が納得できるわけない。俺がそう思うのは、間違っ てますか⋮⋮?﹂ ﹁ヒロト⋮⋮﹂ まだ8歳の俺がこんなことを言っても、不相応で生意気に映るだ 972 ろう。しかし、言わずにはいられなかった。 黙っているためにここに呼ばれたんじゃない。何よりも、俺は⋮ ⋮。 ﹁それに⋮⋮アイラさんは、ずっと震えてる﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ ファムさんの隣に居ながら、アイラさんが今まで一度も言葉を発 しなかったのは⋮⋮恐怖で青ざめていたからだ。神官としての務め を果たそうとしながら、それでも、恐怖を押し殺しきれなかった。 無理もない、まだ俺よりいくらか年を重ねただけの、まだ少女とい える年齢なのだから。 ﹁ファムさんだって、本当は死にたくなんてないはずだ。その脅迫 の主がどれだけの力を持っていたって、立場の問題があったって、 何の罪もなく殺されていい人なんていない。もしファムさんがそう したいと言っても、俺は絶対にそうはさせられない⋮⋮例えそれを、 あなたたちが過干渉だと思ったとしても﹂ 人を説得するには、考えていた以上のエネルギーが必要だった。 これは、生前の俺が最も忌避していた行為︱︱﹁説教﹂だ。 まっとうに生きることを諦めた俺が、生きろと言う。それは滑稽 なことだと、自分が一番良くわかっている。 ﹁⋮⋮敵は、グールド公爵だ。この村も、公爵の領地だ⋮⋮もし脅 迫に耳を貸さず、このまま洗礼の儀式を行えば、ただではすまない。 それでも、あなたたちはルシエのために命を捨てようとしている。 そういうことなんですね⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮グールド公爵は⋮⋮素晴らしい方です。イシュア神殿の維持 のためにも、寄付を⋮⋮﹂ 973 言いかけたファムさんの言葉を、フィリアネスさんが遮る。彼女 の横顔は厳しく、その眼光は、一目見て肌がぞくりと粟立つほどに 鋭かった。 ﹁それは、グールドの息子が王族として認められる際にも儀式が必 要になるからだ。彼は、一年後にルシエと同じ年になる⋮⋮﹂ ファムさんは言葉を失う。アイラさんは耐えかねたように俯き、 顔を覆った。 ﹁公王家を作った西王家の血筋の方が、ずっとこの国の王になって きたのに⋮⋮どうして血を流してまで、自分が王になりたいの⋮⋮ っ!?﹂ アイラさんが言う。彼女たちも、もう自分たちを脅かしている者 が誰なのか、気付いていたのだろう。 フィリアネスさんの膝の上に置かれた手が、きつく握りしめられ ている。彼女は一度は抑えようとしたのだろうが、耐えかねたよう に口を開いた。 ﹁自らの欲望のために、領民の命を⋮⋮それが、王族の⋮⋮人の上 に立つ者のすることか⋮⋮!﹂ ︵⋮⋮敵がそこまでして王になりたいなら。俺は、超えちゃならな い一線を超えたとみなす︶ 俺は静かに決意を固める。俺がここまで何のために来たのか、こ れから、何をするべきなのか。 どうしても王になりたい、そう思う気持ちは分からないでもない。 974 野心を持って、上に立ちたいと思う⋮⋮それは、ほとんどの人が持 っている考えだ。俺だって、ギルド対抗戦で負けた時は本気で悔し かったし、頂点に立ったときは全能感を覚えたりもした。 ︱︱しかし、敵がファムさんたちの命を、脅しの材料にすること は許せない。 俺はルシエを守り、そしてファムさんたちを⋮⋮この村を守る。 そのためにしなくてはならないことは、普通に考えれば途方もなく 規模が大きく、普通は﹃少人数では無理だ﹄と諦めるところだろう が︱︱。 ︵最初は仕方ないか。ゴリ押しにはなるけど⋮⋮ミコトさんを仲間 に出来たのは、きっと巡りあわせだったんだ︶ ﹁ファムさん⋮⋮いや、神官長。ルシエの儀式が終わっても、この 村を守り通すよ。だから、諦めないで﹂ ﹁⋮⋮いいえ。あなた方は洗礼の儀式が終わったあと、すみやかに 公女殿下を首都にお連れしてください﹂ ﹁さっき、気がかりなことがあるってファムさんは言った⋮⋮本当 は、死ぬ覚悟をしてたっていうのに。だったら俺が、﹃気がかりな こと﹄のままで終わらせてやる。イシュアラルは、これからも平和 な村であり続ける。俺みたいな子供は信じられなくても、聖騎士の フィリアネスさんなら信じられるはずだ﹂ ファムさん、そしてアイラさんが顔を上げてフィリアネスさんを 見やる。アイラさんの頬には幾筋も涙が伝って、その目は赤く腫れ てしまっていた⋮⋮こちらの胸も締め付けられる思いだ。 ﹁⋮⋮この子は、ただの子供ではない。ミゼールの近くの洞窟に住 む⋮⋮ヒロト、話してもいいだろうか﹂ 975 ﹁うん、いいよ。フィリアネスさんから言ってもらった方が、ファ ムさんたちも信じられると思うから﹂ フィリアネスさんは俺の意志を確認すると、少し間を置いてから 話し始めた。 ﹁⋮⋮ヒロトは、私でもどうやったのか分からないが、ミゼール近 くの竜の巣に住むドラゴンを御した。この子はただの子供ではない。 私は聖騎士を名乗っているが、そのゆえんたる神聖剣技を、ヒロト はこの歳にして使いこなす⋮⋮大人の騎士も顔負けの力で斧を振る い、精霊魔術を使いこなし、さらには⋮⋮そ、その、大きなスライ ムを従えてもいる。そのスライムはヒロトの意のままに動き、凄ま じい戦闘能力を持っている。私と部下のふたり、そしてヒロトだけ でも、ひとつの騎士団を相手にすることも可能なのだ﹂ フィリアネスさんは大まじめに言うが、ファムさんもアイラさん もすぐには信じられず、俺とフィリアネスさんの顔を交互に見る。 事実ではあるのだが、フィリアネスさんの口から武勇伝のように 語られると無性に照れくさくなる。俺たちだけでひとつの騎士団を 相手にできるという評価は初めて聞いたが、あながち誇張でもない だろう。フィリアネスさんたった一人でもこれまで襲ってきた賊を 装った騎士を全て無傷で倒してきたのだから。 そして俺とフィリアネスさん、マールさん、ミコトさんの実力は、 戦闘においていい勝負ができる水準にある。俺が最強だと断言はし ないが、能力値としては俺がトップにいる。体格の補正を考えると マールさんは異常なほど強いのだが、彼女は魔術が使えないだけ、 俺とフィリアネスさん、忍術が使えるミコトさんには一歩譲る。 976 さらにアレッタさんという強力な回復役もいる。彼女はフィリア ネスさんたちの強さに引っ張られ、衛生兵スキルが70を超え、治 癒魔術も習得しているのだ。 騎士団千人が押し寄せても、それを跳ね返すことは決して不可能 ではない。言葉だけではファムさんたちも信じられずにいたが、絶 望に沈んでいたアイラさんの目には、希望の光が宿り始めていた。 ﹁⋮⋮ファム殿、アイラ殿。私たちの力を信じてほしい。敵が力に 任せてこの村を呑み込もうとしても、思うままにはさせない。私た ちはルシエを守るためにここまで同行してきた⋮⋮それは、洗礼の 儀式さえ行えば、他のことはどうでもいいということではないのだ。 目に映る者全てを守ってこその聖騎士なのだから﹂ ﹁⋮⋮あぁ⋮⋮こんな⋮⋮こんなことって⋮⋮﹂ ﹁ファムお姉さま⋮⋮っ、私たちの村は⋮⋮滅びずに済むかもしれ ない⋮⋮っ!﹂ アイラさんがファムさんに縋りつく。妹の背中をあやすように撫 でながら、ファムさんもまた涙をこぼし、それを拭いながら俺たち を見た。疑いは一片もなく、望みを託す重みのこもった目だった。 ﹁⋮⋮私たちの村に、神殿を守るための護衛兵以外、戦う力を持つ 者はいません。しかし、私と妹も治癒の魔術を使うことは出来ます。 聖歌によって、相手の士気を削ぐことなどもできると思います﹂ ﹁いや、戦うことは私たちに任せた方が良い⋮⋮おそらく敵は神殿 を破壊するわけにはいかないから、村を包囲するだろう。そして、 混乱に乗じてルシエを攫うか、亡き者にしようとする⋮⋮考えたく はないが、村を消すというのは、証人を残さないためだろう。だが 事前に敵の狙いが分かっていれば、幾らでも対策はできる。儀式の 際は、神殿に村の全員を集めておく。私たちは村の外で敵を迎え撃 977 つ。敵はおそらく、ルシエがこの近くに移動してきたことを知って、 明日の未明までに奇襲をかけてくるだろう﹂ そのとき、既に神殿に村の全員が移動していれば、戦う力のない 人に危害が及ぶことはない。ファムさんとアイラさんは揃って頷い た。 ﹁見張り台から、村に入る道を監視することができます。何かの助 けになるでしょうか⋮⋮?﹂ ﹁ああ、助かるよ。あとで見せてもらっていいかな?﹂ ファムさんの提案に返事をすると、彼女は頷きを返す。そして、 アイラさんも続けて質問してきた。 ﹁ルシエ公女殿下については、どこにいていただくのが最も安全な のでしょうか﹂ ﹁マールとアレッタについていてもらうのがいいだろう。マールは 魔術は使えないが、武器を使った戦闘の純粋な実力では、私も及ば ないほどの強者だ。アレッタはもしもの時、傷を治癒する技術に長 けている﹂ ﹁分かりました。私たちは神殿におります。いざというときのため、 護衛兵と共に戦う備えはしておきます﹂ 戦わずして死を受け入れると、一度はあきらめていたファムさん だが、妹の涙を見て気持ちが変わったようだった。姉は強し、とい うことか。 ﹁⋮⋮もし脅迫に従わなければ、私たちはここで暮らすことが出来 なくなります。神殿を離れることになれば、神官の務めを果たせな くなるということ⋮⋮それは、私たちにとって死と同意義でした。 978 しかし、もしこの村で暮らし続けるすべがあるのなら、私はそれに 縋りたい⋮⋮聖騎士様、ヒロト様、どうかお願いします。私たちを お護りください﹂ ﹁ああ。そう言ってもらえば、こっちとしても迷いはなくなる⋮⋮ みんなのことは絶対に守る。俺は言ったことを曲げたりは絶対しな いから、安心してくれ﹂ ﹁はい⋮⋮それにしても、不躾を承知で申し上げますが、とても驚 きました。フィリアネス様が男の子を連れていらっしゃったときは、 だだをこねてついてきてしまったのかと⋮⋮失礼なことを考えて申 し訳ありません﹂ アイラさんが頭を下げる。ファムさんも一緒に頭を下げるが、俺 は手を振って、そんなことはする必要はないと示した。 ﹁い、いや、それは仕方ないよ。誰だって俺を見たら、強そうだな んて思わないのが普通だから﹂ ﹁正直なことを申し上げると、まだ、この目で見るまでは信じられ ないところがあります⋮⋮ヒロト様は、殺生をされたことがおあり なのですか⋮⋮?﹂ ﹁神聖剣技には、人を殺さずに剣を振るうことができるようになる 極意があるのだ。ヒロトはそれを早い段階で得ているから、人の命 を奪ったことはない。もっとも、これだけの戦いになれば、敵もこ ちらの命を本気で取りに来るだろう。そうなれば⋮⋮﹂ この手で人を殺すことになるかもしれない⋮⋮しかし。 ﹁⋮⋮難しいとわかってるけど。俺はファムさんとアイラさんたち に、自分たちを守るために、俺たちが人を殺したとは思って欲しく ない。よっぽどの相手が出てこない限りは、俺は﹃手加減﹄できる と思ってるよ。だから、何も心配しなくてもいい。この村の人たち 979 は、これまでも、これからも、平和に暮らしていけるよ﹂ ﹁⋮⋮お優しいのですね、ヒロト様は⋮⋮﹂ ﹁アイラ⋮⋮?﹂ アイラさんが俺を見る目が変わっている⋮⋮や、やってしまった か⋮⋮ちょっと熱弁を振るいすぎたかな。 格好をつけているつもりはないのだが、八歳の俺でも、男気を見 せれば初対面の女性に好感を持ってもらえるということか。いや、 そうと限ったわけじゃないし、自意識過剰はよくないな。 ﹁よろしければ、お名前を、改めてお聞かせ願えないでしょうか⋮ ⋮?﹂ ﹁え、えっと⋮⋮俺は、ヒロト・ジークリッドっていうんだ﹂ ﹁⋮⋮ジークリッド様⋮⋮こんなにお小さいのに、とても勇敢で⋮ ⋮きっと、お父様とお母様も、とても勇気のある方なのでしょうね﹂ リカルド父さんもレミリア母さんも、アイラさんの言うとおりす ごく勇気がある。両親を誇りにしている俺は、ふたりを褒められて 自分のことのように嬉しく思った。 ◇◆◇ 宿に戻ってきたあと、夕食を取って、みんなで順番に風呂に入る。 俺は最後に入ることにさせてもらって、一人で外に出てきた。 宿から少し歩くと見張り台がある。そこに一度登ってみようと思 ったわけだが⋮⋮なかなか高いな。 特に苦もなく登っていく。見張り台には屋根がなく、頭上には満 天の星々がある。この高さなら、確かに村の周囲に敵が来てもすぐ 980 に分かりそうだ︱︱村に通じる開けた道は二つあるが、そのうちど ちらもここから見通せる。 ﹁⋮⋮戦闘の下調べですか? さすが、ギルマスは準備に余念があ りませんわね﹂ ﹁うわっ⋮⋮み、ミコトさん⋮⋮!?﹂ 見張り台の上の足場は、人が二人上がれば密着しなければならな いほどの広さしかない︱︱つまり後から上がってきたミコトさんは、 ほとんど俺を抱きしめるような形になっていた。 ︵せ、背中に⋮⋮黒装束の下に鎖帷子を着てるけど、や、柔らかい 感触が⋮⋮︶ なんとも言えない弾力をふたつ感じる。それに構うことなく、ミ コトさんは俺を後ろから抱きすくめるようにすると、そのまま話し かけてくる。声が響いてきてくすぐったいが、俺はそれを表に出さ ないように耐えることに意識を集中させる。 ﹁村を守ると聞いたときは、やっぱりって思いましたわ。あれくら いの敵なら、何人来てもたいして苦労せずに全滅させられますわよ ね⋮⋮ゲームだと能力の差がありますから当たり前なのですけれど、 こうして自分の手で敵を倒すのですから、やはり一般人からは常軌 を逸している光景になってしまいそうですわ﹂ ﹁そ、そうだな⋮⋮あ、あの、ミコトさん。あんまりくっつくと、 その⋮⋮﹂ ミコトさんは真面目な話をしてるのに、しどろもどろになってし まう。彼女が少し動くたびに、意識が触れ合った部分に向いてしま う⋮⋮女性に触れたことがないわけじゃないのに。 981 ︵直接会ったのは初めてだからな⋮⋮そんな人と、こんなふうにく っついてるなんて⋮⋮︶ 全然現実味がなくて、でも現実で。こんなことしてもいいんです か、と申し訳なくなってしまう。 ﹁どちらにせよ、私はギルマスの指示に従うだけなので、その話は 置いておいて⋮⋮実は、一つ聞きたいことがあって、こうしてあな たを追いかけてきたのです﹂ ﹁き、聞きたいことって?﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そんなに動揺しないでも大丈夫ですわ。ここで取って 食べたりするつもりはありませんから﹂ ミコトさんが楽しそうに笑う。その品の良い声が間近で響くと、 神経の芯が溶かされそうになる。 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁⋮⋮私の方が、緊張していますのに﹂ ログと、ミコトさんの実際の声が同調する。思わずドキッとさせ られたところに、続けて彼女は言った。 ﹁⋮⋮ギルマスは、生前、何歳だったのですか? 結局、最後まで 聞けませんでしたけれど﹂ ﹁俺は⋮⋮十六歳だよ。ミコトさんは⋮⋮﹂ 982 何歳だったのか、と言いかけて、俺はようやく、ずっと感じてい た違和感︱︱引っ掛かりの正体に気がついた。 ︵ミコトさんは年齢を引き継いだって言ってた⋮⋮そして、この世 界で五年過ごしてる。そ、それって⋮⋮︶ ミコトさんは現在十七歳。つまり、転生前から引き継いだ年齢は ⋮⋮。 ﹁⋮⋮ようやく気が付きましたわね。そうですわ⋮⋮﹃闇影﹄は十 二歳。βテストからずっと、エターナル・マギアを廃人プレイして いましたの。ゲームを始めた年齢は一桁でしたわ﹂ ﹁じゅ、十二歳⋮⋮あのプレイヤースキルと、知識量で⋮⋮!?﹂ ﹁そこまで驚くことはありませんわ。MMOは、費やした時間と研 究がものを言うゲーム⋮⋮私は大人に負けないほどプレイしていま したもの﹂ 天国への階段の幹部のうち二人が、ここまで若年だったとは⋮⋮ 話し方ではまったく分からなかった。それを狙ってのロールプレイ だったということか。 ﹁全然気づかなかった⋮⋮こっちで会ったときは、俺より全然年上 だし。綺麗なお姉さんだとしか思わなかったよ﹂ ﹁⋮⋮いけませんわね、ギルマス。天国への階段は、異性への口説 き文句は厳禁だったはずですわよ?﹂ 生前の俺はよくリア充爆発しろ、と言っていたしな。ギルド内恋 愛はある程度黙認していたものの、表向きは、男女関係でこじれな いように禁止ということにしていた。まあ、私たちリアルで結婚し ましたと言われたときは素直に祝福したものだが。あの時撮った記 983 念のスクリーンショットはどうなっただろうな⋮⋮。 ﹁なんて⋮⋮元は十二歳だった私が、背伸びをしても滑稽ですわね。 今だって、私は十七歳になりましたが、まだ子供のままですわ。身 体は、すくすくと育ってしまったのですけれど﹂ ﹁い、いや⋮⋮かなり大人っぽいし、全然違和感も無かったよ。俺 なんかよりずっとしっかりしてる﹂ ﹁⋮⋮ありがとうございます。私、ゲームをしていた頃は、ギルマ スに年齢を知られることがずっと怖かったのですわ。こんな子供が、 と思われてしまったらと思うと⋮⋮﹂ ﹁俺こそ、同じこと考えてたよ。大人っぽく振る舞うのに必死で⋮ ⋮でも、意外に自然にしてもみんな受け入れてくれて。ゲームの中 でだけ、俺は、俺がしたいような振る舞いができたんだ⋮⋮﹂ 元は十六歳で、今は八歳の俺と、元は十二歳で、今は十七歳のミ コトさん⋮⋮思えば、年齢的にはまったく真逆の境遇だ。転生後に 若返った俺、そして転生後からも引き継いで年齢を重ねた彼女。 ﹁⋮⋮でも、良かったですわ。こうして小さいギルマスに会うこと ができて⋮⋮このまま、大きくなっていくギルマスを見ることもで きるのですから。私が一番恐れていたのは、ギルマスが私よりずっ と年上だったら、ということでしたのよ﹂ ﹁え⋮⋮俺は、仲間だったら、年齢なんて気にしないけど⋮⋮﹂ 自己申告ではあったけど、最高で50歳近いギルドメンバーもい た。その人は俺を若造だなんて言ったりしなかったし、俺も年齢の 差を過剰に意識せず、他のメンバーと同じように接していた。 ︱︱だから、当たり前のことだと思っていた、はずなのに。 984 ﹁わっ⋮⋮!?﹂ ぎゅっ、と今までより強く抱きしめられた。思わず声を出してし まうが、それでもミコトさんは離そうとしない。俺の首の後ろ辺り に、そっと頬を寄せてくる。 ﹁私は、何を怖がっていたのでしょう⋮⋮ギルマスがそういう人だ と思ったからこそ、ずっと⋮⋮どんな人なのかを想像していたのに。 私は、自分の信じるあなたを、もっと信じるべきだったのですわ⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮俺は、そんなに大層な人間じゃないよ。本当はギルマスなん てしていい資格は⋮⋮﹂ ﹁どんな境遇だったとしても、あなたは最高のギルマスでしたわ。 私たちというチームに、必死で頂点を見せてくれようとした。誰よ りも長くログインしていても、誰もあなたのことを異常だとは思わ なかった。それは、何のためにゲームをしているのか、みんな理解 していたからですわ﹂ ︱︱そんな、殊勝なものじゃない。 俺の、唯一の居場所だったから。それを必死で守ろうとしていた だけだ。 だけどそんな俺の格好悪さも、何もかも、ミコトさんは許容して くれている。全てを、肯定してくれる⋮⋮。 ﹁そして、今も⋮⋮あなたは、これまで積み上げてきた力を、惜し みなく使おうとしている。それこそ、使い方によっては何でもでき る力を手に入れていながら、人のために使うことを考えられる。そ れを確認出来た今、もうこれ以上確かめる必要はありませんわ。あ なたは間違いなく、私が所属していたギルドのマスターであり⋮⋮ 私が尊敬したトッププレイヤー、ジークリッドですわ﹂ 985 ﹁⋮⋮俺は⋮⋮みんなに支えられてただけだ。ミコトさんや、麻呂 眉さん⋮⋮他の、みんなにも﹂ ﹁ええ。だからこそ、天国の階段は、その名前を残したままで解散 しました。あなたがいないギルドを、残った皆で続ける意味はなか った⋮⋮エターナル・マギアを引退した人も多くいます。わかって いますか? あなたがログインしなくなり、アカウントの課金が切 れて停止されたことが確認されたあと、それほどに惜しまれたのだ ということを﹂ ︱︱そうだったのか。 俺の全てだった天国の階段が、解散した。俺が居なくなっても、 続いているものだと思っていた⋮⋮俺の存在は、代わりが利くもの だと思っていたのに。 やまかわみこと ﹁⋮⋮森岡、弘人さん。私の名前は、山川深琴という名前でしたの。 カンナヅキというのは、私が生まれた月⋮⋮10月ですわ﹂ ﹁そういうことだったのか⋮⋮けっこう考えたな。俺なんて、明ら かに中二っぽい名前つけちゃってさ﹂ ﹁いいと思いますわ。私は最初、自分で考えた名前をつける発想も ありませんでしたから⋮⋮ミコトと呼ばれていると、すごく気恥ず かしくなることもあって、後悔することもありましたのよ﹂ ﹁そうか⋮⋮? 俺はいい名前だと思うけどな﹂ ﹁弘人さんこそ⋮⋮いえ、もうあまり前世にこだわるべきではあり ませんわね。あなたはヒロト・ジークリッド、私はミコト・カンナ ヅキ⋮⋮それ以外の何者でもないのですから﹂ それでも俺は、彼女が教えてくれた名前を忘れることはないだろ うと思った。俺が、森岡弘人︱︱そして、宮村陽菜という名前を忘 れることがないように。 ミコトさんは俺からそっと離れると、狭い足場の上に立ち、周囲 986 を見回した。見上げると、彼女は星空を背にしてくるりと回る︱︱ 長いおさげが追従して、流れるような軌跡を描く。 ﹁軽業師のスキルを取っていたら、ここで宙返りの一つも出来るの ですが。こうして回るだけでも、けっこうスリルがありますわね﹂ ﹁ははっ⋮⋮ミコトさんはやっぱり、スリルを楽しむほうなんだな﹂ ﹁ええ。特に戦闘のスリルと⋮⋮今はもうひとつ。どんなタイミン グで、ギルマスに授乳をしてさしあげることになるのか、という⋮ ⋮﹂ ﹁ぶっ⋮⋮げほっ、げほっ。い、いや、俺はその⋮⋮仮にも前世で 知り合いだった相手に、スキルのことも分かってて、吸いたいって いう度胸は⋮⋮﹂ 無い、と言い切れない俺。ましてミコトさんは、生前は十二歳だ ったわけで。 けれど今は俺より年上だ⋮⋮ああ、混乱してくる。前世から合計 してみれば、俺の方が精神年齢は上なのだが。 ﹁⋮⋮そうですわ。この戦いで生き残ったら、というのはいかがで すか?﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、俺は生き残ることしか考えてないんだけど⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮私もそうですわ。そうなると、当然、してさしあげる ことになりますわね⋮⋮スキルをあげることについては、やぶさか ではないのですが。男の人に見られるのは初めてですし⋮⋮﹂ ホークアイ ︵勿体付けられると、俺の目が鷹の目になってしまうんだけど⋮⋮︶ いけないと思いながら、ロックオンしてしまう俺。それに気付い たミコトさんは、顔を赤らめつつ胸をかばうように腕で隠した。 987 ﹁す、スリルとスキルって似ていますわね⋮⋮と、ごまかしておき ますわ﹂ ﹁くっ⋮⋮悔しい。じゃなくて、大事なものだから、確かに簡単に あげちゃダメだと思うよ。いや本当に﹂ ﹁⋮⋮簡単ではないですから、良いのではないですか? これから、 村ひとつを守り抜くのですから﹂ 普通なら死亡フラグになるようなやりとりだが、俺は死ぬつもり なんて毛頭ない。 ミコトさんもそれは同じだろう。だから俺たちの間には、悲壮感 なんてかけらもない⋮⋮ずっと、笑顔のままだ。 ﹁では、私は先に戻っていますわね。一緒に戻ると、聖騎士さんた ちがヤキモチを焼きそうですから﹂ ﹁お、お手柔らかに頼む⋮⋮俺もまだ、人に好かれるのは慣れてな いんだ﹂ ﹁すっかり慣れているように見えましたけれど⋮⋮初心なところを 残してくれているなら、それは嬉しいですわね⋮⋮﹂ ミコトさんは言って、見張り台の梯子を降りる前に、俺の頬に唇 を寄せ︱︱触れ合うかどうかという距離まで近づいて、そっと離れ ていく。 ﹁み、ミコトさん⋮⋮?﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁⋮⋮気付かれなくてよかったですわ。 まだ、どきどきして⋮⋮﹂ 988 彼女はログが流れてることに気付いてないのか︱︱それどころじ ゃないんだろう。急ぎ足で宿に帰っていく。 その背中を見ながら俺は思った。生き残ったあと忍術スキルを手 に入れられるとして、俺はたぶん、据え膳を差し出されてもがっつ いたりは出来ないんだろうなと。 ︵だって、十二歳だったんだもんな⋮⋮︶ ミコトさんをさんざん頼りにしていたゲーム時代を思い出すと、 思わず赤面してしまう。あの頃から頼りがいのある人だったな⋮⋮ と。 ◇◆◇ 今日は一人で風呂に入る。洗礼の前には入浴が欠かせないとのこ とで、宿の浴室は立派なものだった。 風呂に入ったあとは見張り台に戻り、敵の襲撃に備えなければな らない。いちおう眠気覚ましのポーションを作ってインベントリー に入れてあるので、それを飲めば特に苦もなく徹夜は可能だ。 ﹁ここが正念場だな⋮⋮﹂ 敵はどれくらいの兵力で来るだろう。神官長姉妹の指示で、もう 村人は神殿に移動している︱︱不安そうではあったが、村に居るほ うが危険だ。神殿のある小山に向かう前に、村を通る必要があるか 989 らだ。 戦闘スキルをフルに使って敵全員を薙ぎ倒すか、それとも、ふだ ん使わない魅了スキルを発動させて⋮⋮いや、幸運スキルがほぼ無 効の今、敵の数が多いとあまり役に立たないしな。 そういえば俺、さっきミコトさんに会ったあと、魅了をオフにし てたっけ⋮⋮と考えたところで。 ︱︱キィ、と背後で浴室の木戸が開いた。 ﹁マールさん? それとも、アレッタさんかな。ああ、二人ともか。 さっきも入ってたのに、何度も風呂に浸かったら湯冷めするよ?﹂ 俺は髪を洗い始めていたので、後ろを振り向くことが出来ない︱ ︱が。 ︵⋮⋮あ、あれ? 二人とも、何も言わない⋮⋮︶ ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ファム︾︽アイラ︾はあなたに注目し た。 ︵⋮⋮み、見たことのある名前だ︶ さっき会ったばかりの神官長姉妹が、俺のスキル効果範囲に入っ ている。その事実は分かったが、なぜ? という思いが先行して、 990 俺はぴくりとも動けなくなる。 そしてその迷いこそが、命取りであった。俺にとってというより、 姉妹にとっての。 ◆ログ◆ ・﹁魅了﹂が発動! ︽ファム︾は抵抗に失敗、魅了状態になった。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽アイラ︾は抵抗に失敗、魅了状態になった。 ︵アッ︱︱!?︶ やばい、これじゃ俺がアリジゴクのごとく、彼女たち姉妹を待ち 構えてたみたいじゃないか。違うんだ、ちょっとスキルをオフにし 忘れてたんだ、今オフにするつもりだったんだ⋮⋮! ︵し、しかしノープロブレムだ。俺さえ鋼鉄の自制心を持っていれ ば、魅了しようがしまいが関係ない! 俺は絶対になにもしないぞ !︶ ﹁ヒロト様、夜分に失礼いたします⋮⋮先ほどは、大変失礼しまし た。最初は、あなたのことを普通の子供だとばかり思っていて⋮⋮﹂ ﹁お姉さまと、相談したのですが⋮⋮イシュア神殿は、十歳以上の 男子は入ってはならないのです。ですが、ヒロト様はまだ八歳⋮⋮ それであれば、前夜のうちに﹃穢れ﹄を十分に落とし、身を清めて からであれば、神殿に入ることが許されるのです﹂ 姉妹の声はおよそ、八歳の男の子に向けられるものではない。カ 991 リスマが発動しているので、一人前の男として見られてしまうのだ。 ﹁け、穢れって⋮⋮一人で洗えるから、大丈夫っていうか、あの⋮ ⋮ちょ、ちょっ⋮⋮!﹂ ﹁失礼いたします⋮⋮髪を洗っておられたのですよね。私にお任せ ください、ヒロト様は私たちをお救いくださる勇敢なお方⋮⋮少し でも、その献身に報いたいと存じます﹂ ﹁お姉さまは、髪を洗うのがとても上手なんです⋮⋮私も小さい頃 には、よくしてもらいました⋮⋮﹂ ︵ファムさんが俺の髪を⋮⋮じゃ、じゃあ、背中に触ってるこの手 は⋮⋮アイラさん⋮⋮?︶ ﹁⋮⋮殿方の肌を見るのは初めてですが、すべすべしているのです ね⋮⋮お姉さま、ほら、こんなに⋮⋮﹂ ﹁まあ⋮⋮アイラ、そんなに嬉しそうにしては駄目ですよ。私たち はあくまで、ヒロト様に奉仕するために来たのですから⋮⋮﹂ ︵め、目を開けたら死ぬ⋮⋮死んでしまう。主に俺の理性が死ぬ⋮ ⋮!︶ こんな至近距離で甘い声で交わされる会話を聞きつつ、泡だらけ の手で身体の穢れを清められる。ファムさんの髪の洗い方がまた気 持ちよくて、ぼーっとしてくる⋮⋮こ、この二人、どこでこんなテ クニックを⋮⋮? ︱︱そんな疑問に答えてくれるかはわからないと知りつつ、心の 中にステータスを展開する。 992 ◆ステータス◆ 名前 ファム・ファレーナ 人間 女性 19歳 レベル17 ジョブ:司祭 ライフ:100/100 マナ :216/216 スキル: 歌唱 53 聖職者 42 布教 23 白魔術 33 恵体 5 魔術素養 16 母性 32 料理 42 手芸 23 アクションスキル: 祈る 浄化 説教 治癒魔術レベル3 授乳 子守唄 簡易料理 料理 手縫い 機織り パッシブスキル: 聖職者装備 司祭装備 神の慈悲 回復上昇 料理効果上昇 毒味 育成 ︵⋮⋮司祭⋮⋮ビショップ? あ、あれー? こんな職業はじめて だー︶ 993 思わず思考が棒読みになる。歌唱の値が高いだけに、いい声をし てるのか⋮⋮いや、フィリアネスさんたちの声も俺は好きなんだけ ど。 セーラさんも声が凄く色っぽいというか、そんな感じだったんだ よな⋮⋮声を出させたなんてそんな、俺は慈悲を受けていただけだ。 ミルクは慈悲である。俺は迷える子羊なので導いてもらったのだ。 言い訳にすらなっていない。 そして、アイラさんだが⋮⋮この人の身体の洗い方の技巧が半端 じゃない。手つきが何か⋮⋮それは、スキルによるものなのだろう か。 ◆ステータス◆ 名前 アイラ・ファレーナ 人間 女性 16歳 レベル13 ジョブ:シャーマン ライフ:88/88 マナ :192/192 スキル: 歌唱 53 聖職者 42 舞踏 43 白魔術 27 恵体 4 魔術素養 14 母性 43 手芸 33 房中術 32 994 アクションスキル: 祈る 浄化 舞う 戦いの舞踏 治癒魔術レベル2 授乳 子守唄 簡易料理 料理 手縫い 機織り 艶姿 魅惑の指先 囁き パッシブスキル: 聖職者装備 司祭装備 踊り子装備 神の慈悲 トランス 回復上昇 料理効果上昇 毒味 育成 手芸品質上昇 ︵⋮⋮ぼっ⋮⋮!?︶ イアンナさんの専売特許だと思っていたはずの房中術が、姉妹の うちの大人しい印象のあるアイラさんに⋮⋮あ、あれ、妹のほうだ よな? 母性もかなり高い⋮⋮こ、これはどうなってるんだ⋮⋮? ﹁あ、あの⋮⋮アイラさんって、シャーマンっていうか⋮⋮踊り子 なの?﹂ ﹁そうです、妹のアイラは、神に捧げる舞いの踊り手です。先ほど 歌と舞いを奉納すると言ったのを、覚えておられたのですね。私が 歌い手、妹は踊り手です﹂ シャーマン⋮⋮固有スキルは﹁舞踏﹂か。この姉妹、なんてレア 995 な職業に⋮⋮いや、俺が今までの道中で会うことがなかっただけだ が。ミゼールの教会の司祭は﹁司祭﹂じゃなく、セーラさんと同じ シスター扱いだったからな。 しかしそれだけでは、房中術の説明がつかない⋮⋮まさかアイラ さんは、清楚ビッチというやつだったのだろうか⋮⋮いや、まだ決 め付けるには早い。 ﹁アイラさん、洗い方が⋮⋮その、上手だけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮女神様に舞いを捧げる踊り手は、その⋮⋮女神様に心を近付 ける必要があると言われています。女神様は、性別にかかわらず、 人々に分け隔てなく慈悲を与える存在ですから⋮⋮ジュヌーヴ国教 においては、踊り手は男性に対する触れ方を、教本で学ぶことにな っているのです⋮⋮もちろん、実際に触れてはいけないのですが﹂ ︵女神に仕える聖職者は、乙女でなくてはならないってことか⋮⋮ テクニシャンの乙女。なんというアンビバレンツ⋮⋮!︶ 分かっている、分かっているんだ。こんなに何でも赤裸々に答え てくれて、底なしに優しいのは、俺のスキルが発動してしまったか らなのだと。 ﹁⋮⋮それでは、泡を流します﹂ ざばぁ、と頭から適温の湯をかけられる︱︱が、身体のほうには かけてもらえない。 ﹁え、えっと⋮⋮身体もかけてもらわないと、風呂に入れないんだ けど⋮⋮﹂ 996 当たり前のことを聞いてみようとして顔を上げ︱︱そこで俺は固 まった。 湯帷子というのか、薄い半袖の無地の服を二人とも身につけてい る。しかし、その生地が薄すぎて︱︱跳ねた水と湿気で、ぴったり と肌に張り付いていた。 ︵⋮⋮褐色の肌でも、そこは⋮⋮日本の春を感じさせる色彩なんだ な︶ 日焼けしたのではなく、地肌からこの色なのだろう。二人とも、 褐色のふたつの丘が大きく前にせり出している⋮⋮白い肌の場合よ りコントラストがくっきりして、形がまったく隠せていなかった。 ﹁⋮⋮こんなときに、申し上げることではありませんが⋮⋮先ほど のヒロト様は、とても凛々しく⋮⋮魅力的な男性は、年齢に左右さ れないものなのだと感じてしまいました﹂ ﹁私もです⋮⋮この方になら、すべてを任せることができる。フィ リアネス様も、全身でそうおっしゃっていました﹂ ﹁ぜ、全身って、そこまで⋮⋮あ、あの、見えてるから、隠したほ うが⋮⋮﹂ ふたりは自分の状況に気付いてないんじゃないか︱︱そう思った が、もちろんそんなことはなかった。 ﹁穢れを落とすときは⋮⋮落とす側も、肌に何もつけていてはなら ないのです﹂ ﹁⋮⋮お見苦しいものをお見せすることを、どうかご容赦ください ⋮⋮っ、ぁ⋮⋮﹂ ︵あ、ってなんなんだ⋮⋮俺をどうする気なんだ⋮⋮!︶ 997 アイラさんは悩ましい吐息を漏らしつつ、濡れて張り付いた湯帷 子の前をはだける。ファムさんは妹より恥じらっていて、俺に背を 向けるようにして肌を露わにした。 ︵⋮⋮俺は明日、結構な戦いに挑むはずなのだが⋮⋮ルシエも大事 な儀式が⋮⋮あ、あるぇー?︶ いったい何をしてるんだろう感が強まりすぎた上に、風呂場の熱 気にあてられて、風呂に入る前からのぼせそうになる。 司祭とシャーマンの姉妹。姉のファムさんの方が清楚で、アイラ さんは大人しいわりにひとまわり胸が大きく実っており、﹁艶姿﹂ によるブーストつきだった。俺の鼻血もブーストしかねない。 当たり前なのだが、二人ともぱんつはいてない状態だ。しかし、 大人だ⋮⋮何がどうとは言わない、とても言えない。あえて言うな ら、髪の色と同じだ。 ﹁⋮⋮それでは、残りの穢れを落とさせていただきます。お姉さま、 一緒に⋮⋮﹂ ﹁い、いえ⋮⋮その部分は、アイラに任せます。私は神に一生を捧 げる身ですから⋮⋮でも⋮⋮﹂ 二人の姉妹が並んで俺を見る。俺はまだ男として目覚めていない ことを、こんなタイミングで後悔するとは思わなかった。節操とい うスキルがあるなら、最優先でステータス欄に追加したい。 そんな俺の葛藤を、姉妹は敏感に読み取ってしまう。素肌をあま すところなく晒したまま、潤んだ目で俺を見つめてくる⋮⋮だ、だ 998 めだ。一番弱い感じの見つめられ方だ。 ﹁⋮⋮ヒロト様に、もし望んでいただけるのなら⋮⋮私は、何でも ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮お姉さまの仰るとおりです。私たちが女神様の次に奉仕する べきは⋮⋮ヒロト様、あなた様なのですから⋮⋮﹂ 究極の質問でも何でもなかった。俺はいつか、司祭とシャーマン の固有スキルを使うことになるんだろうか⋮⋮しかし必要のないス キルなど、この世界には存在しない。どんなスキルにもいいところ があるはずだ。 司祭の﹁布教﹂スキルで取れる﹁説教﹂は、俺はあまりいいこと だと思わないが、ファムさんのする説教なら、それは人を教え諭す という意味にとれる。交渉において、人を説得する技術は大きなア ドバンテージを得られるのではないか︱︱﹁舞踏﹂はきっと、社交 の場に出たときに役に立つような気がする。 ︵⋮⋮絶対にこの村を救わないといけなくなったな。いや、初めか ら救うと決めてたけど︶ ◆ログ◆ ・︽ファム︾、︽アイラ︾が﹁採乳﹂を許可しています。実行しま すか? YES/NO もう風呂に一人で入らないほうがいいのかもしれないと改めて痛 感する。彼女たちは風呂に入る前は魅了されてなかったんだから、 それまでは正気だったわけだが⋮⋮神殿に入る前夜に身を清める必 999 要がある、その慣習がこんな事態を引き起こしてしまった。慣習万 歳︱︱いや、こんなことは今夜限りにしなければ。 俺は本格的に﹁穢れ﹂を落としてもらう前に、二人に並んで立っ てもらい、背伸びをして順番に胸に触れた。輝く手のひらから、司 祭とシャーマンのスキルが、それぞれ俺に吸収される︱︱新しいス キルをもらうと、なぜこうも満たされた気持ちになるのだろう。 ﹁ここまでの交流なのですね⋮⋮お姉さま、この先は⋮⋮﹂ ﹁ええ、ヒロト様が大きくなられたときに⋮⋮そのとき、私たちの ことを覚えていてくださったらですが⋮⋮﹂ 彼女たちは自分たちの方が満足したような顔をして、俺の頬に右、 左と姉妹で逆側からキスをすると、感謝の気持ちを述べて退出して いった。 そして彼女たちが立ち去ったあと、一人になってから、俺はふと 思った。 彼女たちが信仰している女神が、俺を転生させた女神なのだとし たら︱︱思ったよりもずっと早く、会える時が来るのかもしれない と。 1000 第二十七話 イシュアラル攻防戦/暗黒の騎士 夜が明け、空に太陽が姿を現し始める。 イシュアラル村を見渡す見張り台の上で、俺はいかにして村を守 りぬくかを考えていた。こちらの戦力が敵に劣るということはまず ないが、村に侵入されてはまずい。火矢を放たれるというのも考え られるので、村の被害をゼロにするには、村から離れた場所で戦闘 を行う必要がある。 この村は高台の上にあり、木で作られた柵で円形に囲われている。 柵の外はそれなりの高さの崖になっているので、簡単には侵入でき ない。自ずとして、労力を少なくして村に進入するには北側、西側 に作られた門をくぐる必要がある。 南側、東側は山なので、そちら側から村に侵入しようとすると、 危険度の高い森を抜けることになるし、獣道しかないので馬で通過 するには時間がかかる。敵が馬を使うかは分からないが、さんざん 山賊のふりをした騎兵と戦ってきたので、移動には馬を使うと予測 していいだろう。ちなみに村の南東に神殿があるが、村から神殿に 入る経路は一つしかないし、神殿の護衛兵は弓を装備しているので、 村を占拠されて兵糧攻めでもされない限りは、神殿が陥落すること はない。 ︵⋮⋮とまあ、いろいろ考えはしたが。敵が目標に辿りつく前に叩 く、それだけで上手くいくんだよな︶ エターナル・マギアにおけるギルド対抗戦には幾つかルールがあ るが、そのうちの一つに﹃ドミネーション﹄というものがある。そ 1001 れは百人ずつで陣地を取り合うというもので、敵が侵入してくる経 路を先読みして妨害したりするのは基本戦術だ。 応戦できる人数は俺、フィリアネスさん、ミコトさんの三人で、 マールさんとアレッタさんは神殿で守備についている。対して、敵 は数百人で来てもおかしくない。異世界では人数制限がないので、 千人以上を相手にしなければならない場合もありうるわけだ。 ︵しかし、空から攻めてくる、なんてことは無いだろうから⋮⋮敵 が人間だと助かるところだ︶ 法術士はスキル80から短距離転移の魔法を使えるようになるが、 そんな使い手はそういないだろう。俺は名無しさんがそこまで成長 するのを楽しみに待っている。そうすれば、彼女の手ほどきで俺の キャップも解放してもらえるようになるからだ。いや、あらぬ方向 の意味ではなくて。 ﹁ギルマス、いけませんわね。既に敵の姿が見えているというのに、 その落ち着きよう⋮⋮油断しては足元をすくわれますわよ﹂ 見張り台の上にミコトさんが登ってきて、少し呆れたような顔で 言う。俺も特に緊張感があるわけでもないが、敵の姿を見落として はいないので、ただ笑って頬をかいた。 そう、実は敵の姿がかなり遠い位置だが、この見張り台からすで に見えている。敵は北東から村に向かって開けた道を通ってきてお り、川に渡された石橋の向こう側で、橋に仕掛けがされてないか調 べているところのようだった。状況から推察しただけだが、まあど ちらでもかまわない。敵がすぐ橋を渡ろうとしないのは、こっちに しても好都合だからだ。 1002 ﹁それじゃ、行こうか。なんか、簡単すぎて拍子抜けだな﹂ ﹁地形が私たちに味方しすぎていますものね⋮⋮まあ、村に続く坂 に丸太を転がす罠を仕掛けたり、落とし穴を掘ったり、馬防柵を立 てたり、橋を渡ろうとして真ん中に来たところで両端が切れるよう 工作したり、ゲーム時代のギルマスだったら、それくらいのことは していたと思うのですが﹂ ﹁それだけやっても進軍を止められないくらいの、凄まじい突破力 のギルドばかり相手にしてたからな。こっちに来てからは、﹃手を 尽くす﹄ってことを、まだ敵がさせてくれないんだ。人間を相手に した場合の話だけど﹂ ﹁⋮⋮人間以外で、ということは、強ボスと戦ったんですのね。私 以外の誰かとパーティを組んで⋮⋮?﹂ ミコトさんは微笑んでいるが、その声には言外のニュアンスが込 められている。 ︱︱私がいないところで、そんな楽しいことをしていたんですの? そんなことを、ゲーム時代は何度も言われた。彼女のログイン時 間は俺より短かったから、俺は常にミコトさんと一緒にいたわけじ ゃないし、全てのボスと一緒に戦ったわけではない。 ﹁俺と一緒にいれば、面白いことはいくつも起こると思うよ。俺は、 みんなには穏やかに暮らしてほしいけど⋮⋮俺自身は、﹃攻略﹄を やめるつもりはないんだ﹂ ﹁⋮⋮それは、あなたが攻略を続ける限り、傍にいて支えてほしい と言う意味ですか?﹂ ﹁ま、まあ⋮⋮って、ごまかしてもしょうがないな。そうだよ、ミ コトさん﹂ 1003 遠回しに言って勿体つけても仕方がない。せっかく見つけた仲間 で、信頼できる人物。 ︱︱そして忍術スキルを持っている、この大陸では稀有な存在。 っていうのはさておいて。 モブ 前世の俺が、彼女を初めてパーティに誘った時のことを思い出す。 その頃、俺と彼女の狩場がことごとくかぶっていて、魔物の取り合 いになったり、ボスのとどめを競うことがあった。 そんな無言のライバル関係が数週間くらい続いたあと、俺と彼女 は偶然に、連携して互いのピンチを救ったことがあった。そのとき 俺はさすがにお礼を言わないわけにはいかないと、﹃thx﹄とキ ーボードを叩いた。 ﹁もう一回、改めてミコトさんをパーティに誘うよ。もうパーティ インはしてるけどな﹂ ﹁⋮⋮﹃お礼にはお呼びませんわ﹄⋮⋮と、ミスタイプしてしまい ましたわね。前世で、初めてパーティを組んだ時は﹂ ﹁ははっ⋮⋮だったな。ミコトさんはけっこう、打ち直すのに時間 がかかってたみたいだけど﹂ ﹁そ、そのときは⋮⋮まだブラインドタッチが苦手だったのですわ。 確認しながら打ち込んでいたら、時間がかかってしまいました。ソ ロプレイなら、ほぼ無言でも大丈夫でしたもの⋮⋮﹂ ミコトさんは言いながら、先に梯子を降りていく。俺も下に降り ると、そこにはフィリアネスさんが待っていた。武装を済ませ、腰 には﹃貫きのレイピア+4﹄を帯びている。 朝焼けの中で金色の髪が微風にそよぐ。綺麗だ⋮⋮戦いに向かう 前だっていうのに、思わず見とれてしまう。 胸の部分に装甲をつけないスタイルは少し変わって、右胸部分だけ 1004 広く作った装甲が覆っている。特注の鎧だ⋮⋮武具のデザインカス タマイズも出来るのが、ゲームと異世界の違いだ。 左胸部分の乳袋が何か固そうに見えるのは、下に着ているコルセ ットがしっかり作られているからだろう。今までの柔らかそうな感 じもよかったが、これはこれで⋮⋮と、いつまで彼女の鎧に見入っ ているんだ。 ﹁ふぃひアネスさん⋮⋮み、ミコトふぁん?﹂ いきなりほっぺたをつままれてしまった。ミコトさんはぺろ、と 舌を出す⋮⋮フィリアネスさんに見とれてたから、ってことか。 ﹁なんだ、和気藹々としているのだな⋮⋮そろそろ、敵が来る頃合 いではないのか?﹂ ﹁聖騎士さんは肌で気配を感じていらっしゃるのですわね⋮⋮素晴 らしいですわ。私たちも見張り台の上から、北東に敵の姿を見つけ ましたわ。まだ少し距離がありますけれど﹂ ﹁ああ、迎撃に出よう。二人とも、準備はいいか?﹂ ﹁無論だ⋮⋮しかし、一つだけ、二人に頼んでおきたいことがある﹂ フィリアネスさんは敵がいる北東に厳しい視線を向けたあと、俺 たちに向き直って言った。 ﹁⋮⋮敵を率いているのが、黒騎士団の団長だったときは、私に任 せてほしい﹂ ﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂ ﹁私とは、騎士学校時代に面識がある。いや⋮⋮向こうにとっては、 因縁と言ってもいいだろう。ヴィクター・ブラックは、自らの部下 が私によって倒されたことを理由に、必ずどこかで私の首を取りに くる。道理が通らないと思うかもしれないが、私が知る限りでは、 1005 奴はそういう人間だ﹂ ﹁ヴィクター・ブラック⋮⋮﹂ ﹁いかにも黒騎士という名前ですわね⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁敵の首領の首を取るのが忍者の本懐 ⋮⋮疼いてしまいますわね﹂ ︵や、やっぱり⋮⋮戦闘狂のうえに、いきなりボス狙いが信条だも んな、ミコトさんは︶ なんとか踏みとどまってほしい、と隣に立っているミコトさんの 服の裾を引く。彼女は俺を見下ろして微笑む⋮⋮大丈夫そうではあ るが、﹁戦闘狂﹂のパッシブのせいで抑えきれなかったらと思うと やはり心配だ。 ﹁私は聖騎士として、ヴィクター自らがルシエに仇なそうとしたと 分かったとき、奴を斬らなければならない﹂ ﹁⋮⋮分かった。でも、できれば黒騎士団の団長には生きていても らった方がいい。手加減しきれない相手なら仕方がないけど、なる べく生かして捕虜にしてくれ﹂ ﹁捕虜はいらんぞ⋮⋮と言ってもらった方が、テンションは上がる のですが。ギルマスの指示とあれば、従わなくてはなりませんわね﹂ ﹁ああ⋮⋮でも、自分の命を一番大事にしてくれ。そのためなら、 どんな手段でも使ってほしい。矛盾したことを言ってると思うけど、 俺にとって大事なのは、敵の命じゃなくて、二人の命なんだ﹂ 1006 それだけは断言しておく。もちろん俺も、二人が手を下さなくと も、身の危険が迫るなら敵に容赦はしない。 ︵だけどそれじゃ、恨みが連鎖するだけだからな。グールドを潰す ところまでいくか、それとも、大人しくさせるだけの状況を作り出 すか。どちらにせよ、この戦いが鍵だ︶ ﹁そろそろ行こう、二人とも。敵が兵力を分けてくれると厄介だ⋮ ⋮その前に叩く﹂ ﹁うむ。敵が例のごとく、山賊のふりをしてくれていると良いのだ がな﹂ ﹁同じ騎士団の仲間だと知ったうえで戦うのは、御免だということ ですか?﹂ ミコトさんの質問に、フィリアネスさんは苦笑する。そして、肩 にかかる金色の髪を撫で付けながら言った。 ﹁騎士として誇りをかけて戦うのならば、私は容赦するわけにはい かない。山賊ならば、私は本気を出す必要がない。それだけの話だ﹂ ︵⋮⋮この人だけは、絶対に敵に回したくないな︶ フィリアネスさんの中に敗北の文字はない。同じ敵の相手をする なら、本気を出さない方が﹃敵にとって良い﹄と思っているのだ⋮ ⋮全くもってそのとおりだろう。 彼女に本気を出させられるとしたら、敵のリーダーが黒騎士団長 だった場合だろう。フィリアネスさんに因縁のある人物のようだか ら、彼女が﹃出てくるかもしれない﹄と言うなら、出てくるのだろ う︱︱そんな気がしていた。 1007 ◇◆◇ 村の門を開かず、村人だけに知らされた出入口から外に出ると、 俺たちは林の中を走り抜け、敵のいる場所まで走った。 朝の森の空気はひんやりとしている。その中で俺たちは息を潜め、 橋を渡りきった敵の集団を視界にとらえた。予想していた通り、ぼ ろぼろの外套をまとって馬に騎乗している︱︱数は五十騎と言った ところか。 ﹁⋮⋮斥候のつもりだろうか。まだ、橋の向こうに本隊が残ってい るな⋮⋮人数は、二百人と言ったところか﹂ ﹁五百人の暮らす村を、二百で制圧しようと考えたのですか⋮⋮騎 士団員と村人の能力差を考えれば、それくらい甘く見られても仕方 がありませんけれど﹂ ﹁ヒロトにはここで見ていてもらおう。あの、勇ましい雄叫びは使 ウォークライ えるか? あれを聞くと、いつもより力が増すように感じるのだが ⋮⋮﹂ ﹁ああ、﹃戦士の雄叫び﹄だね。俺も戦うよ、フィリアネスさん﹂ ﹁背中は任せる。ミコト殿はどうする?﹂ ミコトさんはにっこりと笑う。戦場だというのに、彼女の仕草は 優雅で、上品さを感じさせた。 ﹁ギルマス、私はいつも通りの役割でよろしいですわよね?﹂ ﹁うん、頼んだ。おもいっきりやってくれ﹂ 1008 ハイディング ﹃後衛殺し﹄のミコトさんには、隠密からの奇襲をお願いする。 ギルド時代も、ミコトさんは敵地の奥深くに入り込んで、間接攻撃 や補助を担当する敵を効果的に倒してくれていた。 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁空蝉の術⋮⋮もとい、木の葉隠れで すわ﹂ ・︽ミコト︾は﹁木の葉隠れ﹂を発動した! ︽ミコト︾の姿が見 えなくなった。 俺たちは武器に手をかけ、その時を待つ。カウントを担当するの は俺︱︱それは、フィリアネスさんも、俺をリーダーとして認めて くれている証だった。 ︵3、2、1⋮⋮GO!︶ ﹁うぉぉぉぉぉっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ウォークライ﹂を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! あなたの攻撃力が一時的に上昇し た! 俺の叫びを合図として、全員が動き出す。敵が面食らっているう ちに、フィリアネスさんは電光石火の速さで肉薄し、敵集団に向か って技を繰り出した。 1009 ﹁︱︱はぁぁぁっ! ライトニング・ミラージュアタックっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は﹁ライトニング﹂を武器にエンチャントした! ・︽フィリアネス︾は﹁ミラージュアタック﹂を放った! ﹁雷光 幻影剣!﹂ ﹁なんだっ⋮⋮う、うぁぁぁぁっ!﹂ ﹁聖騎士っ⋮⋮ほ、本当に出てきていたのかっ⋮⋮!?﹂ ︵⋮⋮華麗としか言いようがないな︶ ミラージュアタックは一人に対して繰り出すと最大の攻撃回数は ミラージュ 四回だが、範囲内に他の敵がいる場合、複数の敵に攻撃が分散する。 見ているこちらからすると、蜃気楼のように、フィリアネスさんの 身体が半透明にゆらぎ、分身したように見えていた。 ﹁うぐぁっ!﹂ ﹁がはっ!﹂ ほぼ同時に、四人の敵が倒れる。フィリアネスさんの姿は瞬きの うちに一つに戻り、彼女はすかさず次の技を繰りだそうとする︱︱ 連携技でなければ、個々の技を使ったあとにクールタイムが必要に なるが、彼女は全く苦にしていないようだった。 1010 ︵うかうかしてると、俺の出番が全くなくなるな⋮⋮っ!︶ 斧を取り出して、俺はフィリアネスさんから離れようとする残り の敵に目を向ける。一人残らず、突破させるわけにはいかない︱︱ 弱いものいじめをしているようだが、俺たちにとっては弱い敵でも、 村人にとっては脅威に値する存在なのだから、見逃してやるわけに はいかない。 ﹁雷の精霊よ、我が斧に宿り、大気を駆け抜け、敵を薙ぎ払え⋮⋮ ボルトストリーム・トマホーク⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト、私の魔術を、一度見せただけで⋮⋮っ﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁ボルトストリーム﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁ブーメラン・トマホーク﹂を放った! ﹁天翔落雷斬 !﹂ ︱︱それは自分でも、試しにやってみたらどうなるか、というテ ストではあった。 ﹁斧を投げた⋮⋮? ハッ、明後日の方向に飛んで行きやがる⋮⋮﹂ ﹁ち、違う⋮⋮斧が⋮⋮斧から、魔術の雷がっ⋮⋮う、うぁぁぁぁ っ!﹂ 俺の投擲した斧は、騎兵が逃げる速度を遥かに上回っており、追 いついて上空を通過する︱︱そして、彼らに容赦なく落雷を浴びせ た。斧が飛ぶ軌道の下に入った敵は、根こそぎ落雷を受けてダメー 1011 ジを受け、追加効果で麻痺し、無力化する。 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁もはや歩く攻城兵器ですわね⋮⋮私 も、負けては居られませんわ⋮⋮!﹂ ・︽ミコト︾は﹁当て身﹂を繰り出した! ・クリティカルヒット! ︽ロレンス︾に756のダメージ! ︽ ロレンス︾は昏倒した。 ・︽ミコト︾は﹁吹き矢﹂を放った! ・︽ソーニャ︾の詠唱を妨害した! ・︽ソーニャ︾に94のダメージ! ・﹁眠り﹂の追加効果が発動! ︽ソーニャ︾は抵抗に失敗し、睡 眠状態になった。 ミコトさんがどこに居るのかは分からないが、後方から橋を渡っ てきた弓兵と魔術使いが次々に倒れていく。当て身じゃなかったら、 死んでるどころか⋮⋮素手の手刀で、なんてダメージをたたき出し てるんだ。武器を使ったら軽く4ケタに達するのは間違いないだろ う。 フィリアネスさん、俺、ミコトさん。三人で瞬く間に敵の数を減 らしていく︱︱今のところ、一人も逃してはいない。しかし、敵は 圧倒的な実力差でも、決して撤退しようとはしなかった。 ︱︱なぜ、逃げないのか。その答えに、俺はすぐに気がついた。 倒れた兵に構うことなく、黒い馬に乗って橋を悠然と渡ってくる、 一人の騎士の姿がある︱︱間違いない、敵のリーダーだ。他の兵た ちの顔を見ればわかる、自分たちの統率者に深い畏怖を抱いている 1012 からこそ、彼らは逃げない︱︱逃げられないのだと。 ︵黒馬に、黒い鎧⋮⋮あれが、フィリアネスさんの言ってた⋮⋮︶ ﹁ヴィクター⋮⋮ヴィクター・ブラックッ!﹂ 眼前の敵をレイピアの一閃で倒したあと、フィリアネスさんは身 を翻し、近づいてくる黒い鎧の騎士に剣先を向けた。ヴィクターと 呼ばれた騎士は、顔全体を覆う仮面で見えないが、間違いなくフィ リアネスさんに敵意の篭った視線を向けていた。 そしてヴィクターは、馬上で振るうことを目的として作られたの だろう、長大な剣を抜き放つ。体格自体は決して大きくはないのに、 全身を覆う甲冑を身につけながら超重量の剣を扱えるなんて⋮⋮騎 士団長の名は、伊達ではないということか。 ﹁⋮⋮やはり、領地を与えた程度では貴様を縛り付けることは出来 なかったか。各地の戦に顔を出しては、武勲を求め続ける鬼神⋮⋮ 聖騎士などではない、おまえはただの戦狂いの鬼だ﹂ ︵なんだ、この声⋮⋮何か、ひずんでるような⋮⋮︶ しわが 仮面の効果なのか、それとも声が元から嗄れているのか。 ﹁貴公に言われたくはない。ヴィクター⋮⋮この村に今現れたとい うことは、貴公はルシエを狙う者に加担しているということになる。 部下の騎士たちに誇りを捨てさせ、山賊の姿をさせてまで、何を為 そうと言うのだ﹂ ﹁⋮⋮それを知る必要はない。フィリアネス、お前はここで死ぬの だからな﹂ ﹁何だと⋮⋮!?﹂ 1013 短時間で3分の1に相当する兵力を失っていながら、ヴィクター は動じていなかった。自分ひとりでも負けるつもりはない、そんな 得体の知れない自信を感じさせる。 ﹁私に神聖剣技は通じない。くだらぬしきたりが無ければ、公国最 強の栄誉を受けているのは私だった⋮⋮フィリアネス、それはお前 が最もよくわかっているはずだ﹂ ﹁⋮⋮お前の剣技は呪われている。なぜ、私と同じ神聖剣技を学ば なかった⋮⋮?﹂ ﹁黙れ。私が何を選ぼうと、お前に口を出される言われなどない⋮ ⋮昔からそうだった。お前はいつも、私のことを見下し続けてきた ⋮⋮!﹂ ﹁違う⋮⋮と言っても、聞く耳は持たないのだろうな。いいだろう、 ヴィクター⋮⋮相手をしてやる。貴様に騎士の誇りを、欠片でも取 り戻させてやろう﹂ フィリアネスさんの言葉に黒騎士が剣を振り上げる︱︱感情の昂 ぶりを抑えきれなくなったかのように。 ﹁︱︱誇りなどと、押し付けがましいことをッ! 暗黒の神よ、煉 獄の炎を我が剣に宿したまえ⋮⋮! ヘル・ストライクッ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ヴィクトリア︾は﹁ダブル暗黒剣﹂を放った! ・︽ヴィクトリア︾は﹁ヘルブレイズ﹂を武器にエンチャントした! ・︽ヴィクトリア︾は﹁クリムゾンフレア﹂を武器にエンチャント した! 1014 ・︽ヴィクトリア︾は﹁チャージストライク﹂を放った! ﹁獄炎 紅蓮斬﹂! ︵暗黒魔術⋮⋮敵しか使えないはずだったのに、人間が使うのか⋮ ⋮!︶ そして暗黒剣というスキルも、俺は見たことがなかった。黒騎士 団の団長自体が、ゲームには登場しなかった︱︱今目にしている技 は、全てが未知のものだ。 ﹁死ね、フィリアネスッ!﹂ ﹁︱︱死ぬものか。お前の剣などで、私は死なない⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は﹁スパイラル・サンダー﹂を武器にエンチャ ントした! ・︽フィリアネス︾は﹁スカイ・ヴォルテック﹂を武器にエンチャ ントした! ・︽フィリアネス︾は﹁ツインスラスト﹂を放った! ﹁旋雷双穹 突﹂! 嗄れた声で叫び、馬と共に猛烈な勢いで突撃しながら、ヴィクタ ーは黒と赤の二色の炎に包まれた剣を振るう。ダブル暗黒剣に対す るには、ダブル魔法剣しかない︱︱フィリアネスさんもそう考えた のか、繰り出した技は今まででも最大の威力を持つものだった。 1015 ﹁はぁぁっ⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ ヴィクターの振るう炎の剣を、フィリアネスさんはぎりぎりで身 を捻ってかわす。そして交錯する瞬間に、青と白の雷を帯びたレイ ピアを、目にも留まらぬ速さで叩き込んだ。 ﹁くっ⋮⋮!﹂ 雷のエネルギーが炸裂して、閃光が俺の目を灼く。人間の技がこ んな光景を可能にしていることに、俺は自分のことを棚に上げて、 感嘆を禁じ得なかった。 こんな技を受けて、無事で済むはずがない。 ︱︱そう思った俺の予想を、ログに流れてきた文字列が裏切る。 ◆ログ◆ ・︽ヴィクトリア︾の﹁吸魔の鎧﹂の能力が発動! 魔術が吸収さ れた。 ・︽ヴィクトリア︾はダメージを吸収した!! ︵吸魔の鎧⋮⋮魔法剣のダメージを、ライフ回復に変換した⋮⋮! ?︶ ﹁くくっ⋮⋮はははっ⋮⋮あーっはっはっはっ⋮⋮!﹂ 1016 ヴィクターは馬の手綱を引き、こちらに向き直る。そして不快な 声で高らかに笑った。 ﹁この鎧を手に入れるのには苦労した⋮⋮これがあれば、魔法剣な ど恐るるに足りない。フィリアネス、どうだ。私の前に膝をついて 許しを乞うなら、命は取らずにおいてやろう⋮⋮私の奴隷に堕ちて、 一生首輪をつけて過ごせ。飼い犬としてならかわいがってやろう⋮ ⋮!﹂ ﹁⋮⋮その鎧を手に入れたことが、お前が裏切った理由なのだな﹂ フィリアネスさんは技が全く通じなくても、全く動揺してはいな かった。その眼は揺らがず、馬上で踏ん反り返るヴィクターを見据 えている。 ﹁そうだ⋮⋮今の私には敵はいない。認めろ、フィリアネス。私は お前よりも上の存在だ。敬うべきものなのだ! さあ、認めろ! 私のことを認めるがいいっ!﹂ ここまでの妄執を抱くということは、フィリアネスさんとの間に 並々ならぬ因縁があるようだ⋮⋮宿命のライバルとでもいうのか。 敵ながらかなり強力なスキルを持っているし、まだ俺の存在に気付 いてないのでステータスが見られないが、相当な高レベルであるこ とは間違いない。 ﹁認めれば、お前の自尊心が満たされるのか?﹂ ﹁そうだ⋮⋮こんな小さな村がどうなろうと知ったことではない。 私はお前を屈服させるためにここに来た⋮⋮その大願が叶うのなら ば、この魂でも売り渡そう⋮⋮!﹂ しかし身内の贔屓目だろうか、俺から見るとフィリアネスさんの 1017 方が格上に感じられてならない。真の強者ならば、あんなふうに吠 え立てないと思う。 それにしても⋮⋮さっきからログに︽ヴィクトリア︾と出ている のが気になる。これって女性名のような⋮⋮でも、鎧を着てると性 別がわからない。鉄仮面のせいで顔も見えないし、声もしゃがれて いて男性のように聞き取れる。 ︵しかし、ミコトさん⋮⋮よく大人しくしてくれてるな。こんな相 手を見たら、バックスタッブしたくて仕方なくなるだろうに︶ さっきからつぶやきも表示されないけど⋮⋮橋の向こうに居た兵 の数が減り始めてる。こんな強いメンツだと、俺は何もすることが ⋮⋮。 ◆ログ◆ ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ヴィクトリア︾に注目された。 ﹁⋮⋮何だ、その子供は。フィリアネス⋮⋮村の子供を連れ出して 戦わせようとでもいうのか?﹂ どうやら、俺が自分の部下を倒したところを見ていなかったらし い。ヴィクター⋮⋮たぶんこれは愛称なんだな。愛称が男っぽいし、 やっぱり男なんだろうか。 ﹁ははははっ、笑わせる⋮⋮フィリアネス、私の奴隷となったあと の、お前の初めての仕事を与えてやろう﹂ ﹁⋮⋮私に、何をさせようというのだ?﹂ 1018 尋ね返すフィリアネスさんだが、その声に俺はぞくりとするもの を感じていた。帯びているレイピアの輝きが今までと違って感じら れる。 ︵ま、まずい⋮⋮ヴィクター、やめろ、その続きは言うな! 絶対 言うなよ!︶ 俺は本気で念じる。しかしヴィクターは俺を大剣で指し示すと、 願いむなしく、俺の予想した中で最悪に近いことを口にした。 ﹁その子供の首を跳ね、私に献上するのだ。その血を魔王に捧げ、 私の暗黒剣技はより強力なものに⋮⋮﹂ ﹁黙れ﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 短い言葉だった。しかし、ヴィクターが素に近い返事をするほど、 その迫力は途方もなかった。 ︱︱その目を見てしまっても、なお綺麗だと思ってしまう。それ は俺がフィリアネスさんに心酔しているからで、ヴィクターはびく っと身体を震わせていた。 端的に言うと、完全にフィリアネスさんの睨みに震えあがってい た。 ﹁お前は言ってはならないことを言った。私はお前が反省しさえす れば、黒騎士団を解体するべきなどとはまだ考えていなかった﹂ ﹁は、反省だと⋮⋮何を言っている! 私の前に跪け、命乞いをし ろ! さあ、早く!﹂ 1019 ﹁⋮⋮ヒロト、もはや情けをかける必要はない。私に見せてくれた 以上の、﹃本物の地獄﹄を見せてやるがいい﹂ ﹁なっ⋮⋮ど、どこへ行くっ!﹂ フィリアネスさんは俺でも相手を出来ると見なしてくれたのか、 残りの兵に目を向ける。しかし、完全に威圧されていて、誰も挑ん でくる者はいない。 ︵フィリアネスさんが俺に任せる⋮⋮ってことは⋮⋮︶ さっきは自分で戦うと言っていたのだから、何か理由があるはず だ。 ﹁⋮⋮馬に蹴られて死ぬような子供を、私にけしかけるとは。聖騎 士の誇りも地に落ちたものだな﹂ つまらなさそうに言いながら、ヴィクターはそれでもフィリアネ スさんを挑発するためということか、俺に殺気を向けてきた。 ︵⋮⋮吸魔の鎧に頼りきってるみたいだけど。能力値自体は、どれ くらいなんだ?︶ ◆ステータス◆ 名前 ヴィクトリア・ブラック 人間 女性 23歳 レベル52 ジョブ:ダークナイト ライフ:940/940 1020 マナ :378/408 スキル: 大剣マスタリー 78 ︻暗黒︼剣技 72 鎧マスタリー 84 黒魔術 52 恵体 75 魔術素養 32 気品 36 母性 48 アクションスキル: 大剣技レベル7 暗黒剣 ダブル暗黒剣 暗黒魔術レベル5 授乳 子守唄 パッシブスキル: 大剣装備 スーパーアーマー 鎧装備 重鎧装備 鎧効果上昇レベル2 マナー 儀礼 風格 育成 慈母 スライムにとても弱い オークにとても弱い ︻悪の鉄仮面︼呪われている ︵これは⋮⋮やってしまいましたなあ︶ まず思ったのは、騎士団長を名乗るだけはあるということだった。 1021 レベルは高く、戦闘関係のスキルも高い数値が並んでいる。 スーパーアーマーは、攻撃されても怯まずに反撃できるというパ ッシブスキルだ。大剣の振りの遅さを補えるし、実際かなり強力だ。 暗黒魔術もさっき見せてもらった限り、同レベルの精霊魔術より上 回るくらいの威力があるようだ︱︱しかし。 ヴィクター︱︱いや、ヴィクトリアには、俺に勝てない理由がひ とつある。悪の鉄仮面が呪われているなんてことではない。その上 のへんに、致命的な一行が記載されてしまっている。 ﹁⋮⋮ヴィクトリアさん。俺みたいな子供がって思うかもしれない けど、話を聞いてもらえるかな﹂ ﹁ハッ⋮⋮笑わせるな。貴様のような子供と話すことなどない。一 瞬で肉塊に変えてやろう﹂ 馬の上から俺を見下ろしながら言う彼女。しかし、死亡フラグを 積み上げていることに自分でも気づいていない。 ﹁人を殺すことに躊躇はないんだね。じゃあ、村を襲ってどうする つもりだった?﹂ ﹁私を誘導するつもりか⋮⋮? つまらぬことを。いいだろう、ど うせ死ぬのだから教えてやる。私はグールド公爵と手を組み、この 国を手に入れることにした。ルシエ公女の身柄を拘束し、イシュア ラル村を焼き、それを山賊の起こした事件とする。それだけでグー ルドは、この国の半分を私のものとすると約束してくれた。ルシエ 公女がいなくなれば、グールド公爵の息子が有力な王位継承者とな るからだ﹂ この国の半分か⋮⋮それをヴィクトリアが信じているのなら、ち ょっとかわいそうにもなってくる。そこまで手を汚して王になろう とする輩が、みすみす手に入れた国の半分を渡すわけもない。 1022 ﹁⋮⋮最後にひとつ。グールド公爵に手を貸すのはやめて、まっと うな騎士に戻るつもりはないかな。俺は、﹃悪いことは言わないか ら﹄、そうした方がいいと思うよ﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁ギルマスがその口調になったという ことは⋮⋮勝った、ということですわね﹂ 流れてくるログに思わず笑ってしまう。それを見て、ヴィクトリ アは簡単に激昂してしまう。 ﹁子供に命令されるいわれなどない⋮⋮死ねっ!﹂ ﹁︱︱ごめん﹂ ﹁なっ⋮⋮!?﹂ 俺は頭を下げる。それは、良心の呵責からくるものだった。 弱点を容赦なく突くことに関して、気が引けたのだ。相手が同情 の余地のない悪人であったとしても。 ◆ログ◆ ・あなたは護衛獣﹁ジョゼフィーヌ﹂を呼び寄せた。 1023 ﹁きゅいきゅい!﹂ 馬を走らせ、俺を轢こうとしたヴィクトリアだが、俺の動きが予 想外に速かったからか、簡単に横に移動するだけで避けられた︱︱ そして。 突っ込んで行った先、森の中から、突如として巨大なスライムが 姿を現す。 ﹁⋮⋮ひぁぁぁぁっ!?﹂ ◆ログ◆ ・︽ヴィクトリア︾はスライムに遭遇してしまった! ・︽ヴィクトリア︾は恐慌に陥った! ・︽ジョゼフィーヌ︾の捕縛! ・︽ヴィクトリア︾は馬から強制的に降ろされた! ・︽ヴィクトリア︾は身動きが取れなくなった! 嗄れていながら、少し女性らしさを感じさせる悲鳴と共に、ヴィ クトリアはあっさりスライムに捕まった。 フィリアネスさんは無関心を決め込んでいる⋮⋮たぶんスライム 嫌いだって知ってたんだな。俺にバトンタッチするまで、さんざん 好き勝手なことを言われていたのに、よく我慢していたものだ。 黒い鎧に全身を包み、暗紫のマントを身につけたヴィクトリアが、 四肢をスライムに絡め取られて身動きが取れなくなっている。黒馬 は主人をどうやって助けていいものか分からず、おとなしく見守っ 1024 ている。こうなってしまえば、何の脅威もない。 ﹁だ、団長が⋮⋮聖騎士がスライムに魂を売ったのか!?﹂ ﹁違う、あの子供だ⋮⋮あの子供、魔物使いなんだ⋮⋮!﹂ ﹁そのとおりだ。これからお前たちの団長がどうなるか、私はあま り見ていたくはない⋮⋮あの子のすることを咎めはしないが、少々、 いたたまれない部分があるのでな﹂ フィリアネスさんは敵の騎士たちをレイピア一つで降伏させ、馬 から降ろして村に連行していく。ミコトさんが倒してしまった分は、 起きてから連れて行ったほうが効率的だろう。 黒騎士団は全員が捕虜となる。それを目の当たりにして、ふるふ ると震えていたヴィクトリアが、定番のせりふを口にした。 ﹁こ⋮⋮殺せっ⋮⋮子供などに辱められるくらいなら、私は死を選 ぶ⋮⋮殺せっ!﹂ スライムの万能ぶりにはびっくりするが、拘束と装備外しはいろ んなゲームで効果的だ。自分がやられればピンチになるし、敵に決 まればあっという間に優位に立てる。 ﹁吸魔の鎧か⋮⋮それがあると、正直困るんだ﹂ ﹁そ、そうだろう⋮⋮この鎧を前にすれば、聖騎士すらも無力。も はやこの国に、私に勝てる者など⋮⋮!﹂ ﹁いや、違う。俺の仲間には、物理攻撃でその鎧を貫通できる人が いる。さんざん自分の部下を倒されてるけど、気付かなかった?﹂ ﹁⋮⋮フィリアネスが倒したのではなかったのか⋮⋮!?﹂ さすがにフィリアネスさんも、攻撃してない相手を倒すのは無理 だ。ヴィクトリアは、それだけフィリアネスさんの実力を高く評価 1025 しているってことだろう。 俺が言っている、鎧を貫通できる人というのは、ミコトさんのこ とだ。忍術スキル100で取得できるアクションスキル﹁貫手﹂の 威力は、強力を通り越して凄惨といえる。素手であらゆるものを貫 通する技だからだ。 ﹁その人の力を借りて吸魔の鎧を貫通すると、ヴィクトリアさんは ⋮⋮わかるよね? 鎧を貫通されたらどうなるか﹂ ﹁そ、そんなことが出来るわけがない⋮⋮私の鎧は無敵。得体の知 れない輩に、破れるものではないっ!﹂ 破れなければ、装備を解除すればいいじゃない。ジョゼフィーヌ はぷるぷると震えて、ヴィクトリアの全身を包み込んだ。 ﹁ち、窒息させる気か⋮⋮い、いや、違う⋮⋮わ、私の装備を⋮⋮ っ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の武器を奪った! ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の胸装備を奪った! ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の肩装備を奪った! ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の腰装備を奪った! ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の足装備を奪った! スライムに飲み込まれたヴィクトリアは、ひとつずつ装備を外さ れていく。どうやってるんだろう⋮⋮金具を丁寧に外して、一個ず 1026 つ装備が丁寧に並べられていく。 ﹁ぷはっ⋮⋮わ、私をどうするつもりだ⋮⋮このまま、いたぶって 殺すつもりか⋮⋮!﹂ ﹁大丈夫だよ、ジョゼフィーヌは無害だから。毒攻撃をしないと、 毒は含まれてないよ﹂ ﹁そ、そんな問題ではない⋮⋮野外でこんな姿を晒すなどと⋮⋮フ ィリアネスのやつ、こんな悪魔をよくも⋮⋮!﹂ 国を半分もらうために悪魔に魂を売り渡したのはどっちだ、と言 いたくなる。 ︵しかし⋮⋮なんとなく、鉄仮面だけ外してないけど。呪われた装 備って、スライムのスキルで外せるのか?︶ 黒い甲冑を外して黒いクロースアーマーだけになったヴィクトリ アは、鉄仮面だけ外していないが、ものすごく艶かしい姿になって いた。これ以上脱がせたりはしないが⋮⋮布鎧の裾からすらっとし た足が伸びていて、何とも言えない。全身甲冑の重装騎士が女性だ ったというのも驚きだが、何というか⋮⋮公国の前衛騎士の人たち は、みんな例外なく胸が大きいのはなぜだろう。 母性の数値が頭をよぎる。いや、俺は敵の女性には紳士的にする と決めたので何もしない。暗黒剣技? 何それおいしいの? ﹁フィリアネスさんとは知り合いなんだよね? 好敵手だったとか、 そういうことかな﹂ ﹁その年令で、似つかわしくない言葉を知っている⋮⋮生意気な。 餓鬼は餓鬼らしい言葉を使っていればいい﹂ ︵な、なんて気が強い⋮⋮殺せって言ってたわりに、折れてないア 1027 ピールを始めてるじゃないか︶ しかし女性騎士とはこうあるべきだ、という見本を示されている 気がする。フィリアネスさんも決して屈しなかったな⋮⋮いや、屈 しかけてたけど、ギリギリで克服していたな。あの時のことは涙な しでは語れない。 しかし顔が見えないと、異様な光景だな⋮⋮他の装備がほとんど 外れているのに。俺に変な趣味があるように思われてしまいそうだ。 ﹁え、えーと。じゃあ、悪いお姉ちゃん。その仮面も取っていい?﹂ ﹁お、お姉ちゃんなどと呼ぶな、この汚らしい餓鬼め! 私の鉄仮 面を取れるわけがない、これは呪われて⋮⋮﹂ ︵面白い。取れるかどうか、試してみようじゃないか⋮⋮︶ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の頭装備を奪った! ﹁あっ⋮⋮!?﹂ ジョゼフィーヌが触手を伸ばしてヴィクトリアの頭を包み込んだ かと思うと、あっさり仮面が取れた。 仮面の中におさまっていた緑色の豊かな髪が広がる。そして、見 えた顔は︱︱少しフィリアネスさんに似ていて、かなり目つきをき つくして大人びさせたような⋮⋮掛け値なしの美人だった。 1028 ﹁は、外れた⋮⋮だと⋮⋮一生外れないと思っていたのに⋮⋮っ、 そんなに簡単に⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あ、あの。ヴィクトリアさんは、もしかして、フィリアネス さんと血縁関係があったり⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮私はフィリアネスの従姉だ。聞いていなかったのか? 私が あの女に対抗して暗黒魔術を学び、魔道に落ちたということを﹂ ︵き、聞いてない⋮⋮まったくもって聞いてない⋮⋮!︶ しかし、そう言われてみると⋮⋮フィリアネスさんは黒騎士団の 解体について乗り気じゃなかったし、自分で戦うとも言っていた。 それは、身内に対して情けをかけたということだったら⋮⋮。 ﹁そうか⋮⋮こんな子供を手なづけていたのか。魔物を操る子供を 使うなど、聖騎士の風上にもおけんな。これは傑作だ⋮⋮公王陛下 の耳に入れたら、どうなることか⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮それを黙っておいて欲しいって頼んでもいいかな?﹂ ﹁ふん⋮⋮知ったことか。私は子供の指図などは受けない。おい、 さっさと解放しろ。私の仮面を外したところで、感謝されるとでも 思ったのか? この汚らしい餓鬼め﹂ カチッ、カチッ、カチッ。 何の音かといえば、俺の堪忍袋という名の時限爆弾がカウントを 刻む音だった。 ﹁おまえのような餓鬼に情を移すなど、フィリアネスも安い女だっ たということか。所詮、あいつは多少髪が綺麗で、胸が風船のよう にでかいだけのつまらん女だ。おまえも私に従ったほうがいい。そ うすれば目も覚めるだろう。そうだ、それがいい! 私に従え、汚 1029 らしい餓鬼﹂ そして俺の爆弾は静かに爆発した。俺のことを悪くいうのはいい が、フィリアネスさんの胸を風船だと⋮⋮? 許せるか? ︵こいつはメチャ許せんよなぁぁぁぁ!︶ ﹁⋮⋮あのさ﹂ ﹁ん? どうした愚図、さっさと私を解放⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮フィリアネスさんを風船みたいなおっぱいだなんていうけど、 そっちはどうなんだ?﹂ ﹁⋮⋮んん?﹂ よく分かりません、みたいな顔をするヴィクトリア。ちょっとフ ィリアネスさんに似てるだけに、またイラッとさせられる。 ﹁確かめてやろうか⋮⋮? 言っておくけど、俺は汚らしい餓鬼っ て言われた回数をカウントしてるぞ。さあ問題だ、これまで何回言 った? 答えられたら、ひどいことはしないでおいてやる﹂ ヴィクトリアは無言で俺の顔を見つめる。その顔には疑問の色し かない。 ﹁⋮⋮覚えているわけがないだろう。馬鹿かお前は﹂ ﹁⋮⋮そうか。そうかそうか⋮⋮よくわかったよ﹂ ﹁わ、分かったなら解放しろ。私がこうして、いつまでも大人しく していると思ったら⋮⋮﹂ ◆ログ◆ 1030 ・︽ジョゼフィーヌ︾は︽ヴィクトリア︾の全装備を奪った! ﹁⋮⋮あ﹂ 言葉もない、というように、ヴィクトリアは拘束されたままで自 分の身体を見下ろした。 ﹁⋮⋮! ⋮⋮!?﹂ ずっと傲岸不遜だった表情が崩れ、慌てふためいて俺を見る。そ してスライムから逃れようとするが、まったくビクともしない。 ﹁たまには、こういう敵らしい敵を相手にするのも悪くない⋮⋮ス トレスが溜まった分、ある程度やり返しても、まったく良心が傷ま ないからな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮なにを⋮⋮す、するつもり⋮⋮だ、この汚らしい餓鬼め﹂ ﹁その汚らしい餓鬼に、暗黒騎士様のお恵みを与えてくれるなんて 趣向はどうかな?﹂ ﹁恵みだと⋮⋮? 私に、お前のような餓鬼に与えるものなど⋮⋮﹂ ﹁餓鬼っていうのは、餓えた鬼って書くんだよな。俺が何に餓えて るかわかるか? これが最後のチャンスだ﹂ カチッ、カチッ、カチッ。 今度はヴィクトリアが答えるまでのカウントダウンだ。時間切れ まで3、2、1⋮⋮。 ﹁く、空腹だというなら⋮⋮私のことなど置いておいて、村に帰っ 1031 て、食事でもしたらどうだ?﹂ ぎりぎりで答えるヴィクトリア。俺は審議する、その答えはアリ かナシか。 ﹁どうした、早く答えろ愚図め。これだから餓鬼は⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ナシだな﹂ ﹁な、何が無しだと言うのだ⋮⋮わかるように説明しろ! わ、分 かるように⋮⋮いや、分からなくてもいい、こ、殺せっ、殺せぇっ !﹂ 俺が何をしようとしているか、ようやく分かってくれたらしい。 彼女の敗因は、性格がとても悪かったことだった。もう少ししおら しくしていただけで、こんなことはせずに済んだのに⋮⋮心が痛い。 ような気がする。 ﹁大人しくしてたら、気絶するだけで済むから大丈夫だよ﹂ ﹁き、気絶⋮⋮何をするつもりだ! やはり私に、スライムを使っ て地獄の責め苦を加えるつもりなのだな⋮⋮じょ、上等ではないか ! 私にこれ以上何かしてみろ、貴様ももろともに地獄の釜にひき ずりこんでくれるわ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾は分裂した。 ﹁あっ⋮⋮ち、違⋮⋮い、今までのは全て冗談だった。あやまる、 もう村には何もしない! お前のいうことは何でも聞く! 何をさ 1032 れてもかまわない! だから許せ、命だけは見逃してやる⋮⋮ち、 違うっ、私の命のほうだった⋮⋮っ﹂ ﹁何をされてもかまわないって、本当に思ってる?﹂ ﹁そ、そうだ⋮⋮私に二言はない。もう絶対に、お前には逆らわな い⋮⋮!﹂ ﹁じゃあ、俺の言うことを聞いてくれるってことかな?﹂ ﹁くっ⋮⋮い、いいだろう。お前のような子供に何をされても、私 の誇り高きく漆黒の魂には傷一つつかないのだからな。好きにする がいい﹂ 最後まで折れなかった強い意志には賛辞を送りたい。しかし、こ んなふうにするのは初めてだな⋮⋮。 ﹁とりあえず、50回。がまんできたら、スライムを引っ込めてあ げるよ﹂ ﹁な、何を⋮⋮何なのだ、その50回というのは、何の回数なのだ ⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ヴィクトリア︾に﹁採乳﹂を許可するように命令した。 ﹁⋮⋮な、なに? そんな程度のことか⋮⋮?﹂ ヴィクトリアは自分の胸を見下ろしてから、俺のほうを、意外に 純粋な目をして見てきた。 ﹁⋮⋮わ、私から採れるものなのか? 子供を持つ母親でなければ、 乳など出ないと思うのだが⋮⋮﹂ 1033 ﹁だいじょうぶ、出なくても吸収できるから。でも、一回やってみ たら、案外出るんじゃないかな﹂ ﹁あ、案外⋮⋮今までお前はどんな人生を送ってきたのだ⋮⋮ど、 度し難い⋮⋮﹂ ヴィクトリアはぶつぶつと言いつつも、ちら、と俺の方を見やる。 ﹁⋮⋮私の身体に、後に響くような影響はないのだな?﹂ ﹁うん、ないよ。俺と仲良くなれるとは思うけど、それ以外は、時 間が経てば回復するよ﹂ ﹁ほ、本当なのだな⋮⋮分かった。ならばそれくらいの屈辱、あえ て受けよう。好きにするがいい﹂ ヴィクトリアは一刻も早くスライムから解放されたいみたいで、 わりと簡単に決断してくれた。従順な暗黒騎士、何ともギャップが ある姿だ。フィリアネスさんに少し似てるし、こうして見ると可愛 い女性だと思わなくもない。 ﹁じゃあ、いくよ⋮⋮ちょっとまぶしいけど、痛くないから﹂ ﹁⋮⋮そうか⋮⋮おまえは忌々しき、聖騎士の弟子。その手のひら の光は、やつから受け継いだのだな⋮⋮あの女め、破廉恥なことを ⋮⋮﹂ フィリアネスさんが俺に何か伝授したのだと勘違いしているが、 俺はあえて否定はしなかった。ヴィクトリアは文句を言いつつも、 抵抗することなく、俺の手のひらが胸に触れるところを見つめる。 ぺた、と触れた瞬間、ヴィクトリアの胸が︱︱彼女のジョブの問 題か、黒いオーラに包まれ、そのエネルギーが俺の身体に流れ込ん できた。︻神聖︼と︻暗黒︼の剣技スキルが、身体の中で交じり合 う感じ︱︱これは、何か新しい可能性にたどり着ける予感がする。 1034 今はまだ、予感でしかないが。 ◆ログ◆ ・あなたは︽ヴィクトリア︾から採乳した。 ・あなたは︻暗黒︼剣技スキルを獲得した! 暗き深淵の一端を理 解した。 ︵なんだかエネルギーの味わいがコーヒーというか、ココアみたい だな⋮⋮さすがにお乳がその味ってことはないだろうが、暗黒エネ ルギーって感じだ︶ ﹁⋮⋮何やら、力が吸われている気がするのだが。しかし、悪い気 はしない⋮⋮子供の我がままを聞いてやるのも、悪くはないものだ な﹂ ﹁うん⋮⋮ありがとう。あと40回くらいお願いしていいかな﹂ ﹁ふん⋮⋮恐ろしいことをされるかと思ったら、子供のお守りに等 しいことだったからな。これくらい、どうということはない。続け ろ﹂ なぜか命令されている俺。この人は自分の立場を分かっていない ようだが、穏便にスキル上げができるので、俺は黙々と彼女の胸を 輝かせ、エネルギーを吸い取りつづけた。 ﹁⋮⋮満ち足りた気分だ。子供などいらぬと思っていたが⋮⋮おま えのような子供なら、悪くは⋮⋮﹂ 採乳を終えると、ヴィクトリアは満足そうに微笑み、がくっ、と うなだれる。彼女をスライムから解放してやり、彼女自身がつけて 1035 いた外套をかけてやると、捕虜の連行を終えたフィリアネスさんと ミコトさんが顔を赤らめてやってきた。 ﹁⋮⋮やりすぎですわ、ギルマス。いかに非道な人物といえど⋮⋮ こちらまで変な気分に⋮⋮い、いえ、何でもありませんわ。聞かな かったことにしてくださいませ﹂ ﹁ヴィクター⋮⋮いや、もういいだろう。男性のような呼び方をし ろというのは、ヴィクトリアの偏った趣味だった。この不肖の従姉 は、呪いの鉄仮面をつけてから多少⋮⋮その、なんというか、性格 が歪んでしまったのだ。これで、少しは昔のように戻ってくれると 良いのだが⋮⋮﹂ もじもじしているミコトさんと、さすがに従姉に同情しているフ ィリアネスさん。しかし責められない俺⋮⋮良かった、外道スライ ムマスターと思われてもおかしくないと覚悟していたから。 ︵しかし⋮⋮スライムで、仮面の装備が外れるってことは⋮⋮︶ 俺は名無しさんのことを思い出す。しかし、身内にスライムをけ しかけるのは外道にもほどがあるので、何か別の手段を考えた方が 良さそうだ。 あとは、グールドについて対策を講じるだけだ⋮⋮しかし黒騎士 団長を倒した今、もう、それほど案ずることはないだろうと俺は考 えていた。ヴィクトリアが手勢だけを連れて、団長自ら攻めてきて くれたことで、事実上グールドの頼っていた軍事力のほとんどが無 力化した。あとはグールドの持つ私兵を、いかに動かさないように するかだ。 どちらにせよ、ルシエが儀式を無事に終えて、祝祭の日を迎える 1036 までの道筋はできた。 気づくと太陽は高い位置まで登り、俺たちの勝利を祝福するよう に、柔らかな日の光が降り注いでいた。 1037 第二十八話 洗礼の儀式/遥かなる招待︵前書き︶ ※本日よりしばらく、毎日更新させていただきます。 1038 第二十八話 洗礼の儀式/遥かなる招待 捕らえた捕虜の数、実に二百人弱。黒騎士団全体からすると一部 ではあるが、団長であるヴィクトリアに付き従った団員たちは選り すぐりの実力を持つ者たちで、騎兵・弓兵・魔術兵・衛生兵のバラ ンスも取れていた。工作兵を入れていないのは、昔からの騎士団の スタイルということらしい。 つまり、敵はそれなりに強かったわけだ︱︱俺たちが相手という ことでなければの話だが。団長の実力からして、全く侮れるもので はない。スライムをテイムして育成してなければ、かなりの力技で 倒すことになっただろう。 敵の男性、女性の比率はほぼ同じで、男女別々に山賊などを拘置 するために作られた場所に入っていてもらうことになったのだが、 フィリアネスさんが神殿の護衛兵に指示して、手際よくやってくれ た。マールさんとアレッタさんも神殿から様子を見にきたが、捕虜 の姿を見て、いかにも複雑そうにしていた。 ﹁ヴィクター団長、あの鉄仮面が取れなくなってから団員の人たち にも心配されてたけど、こんなことになってたなんて⋮⋮いやはや、 ストレスは溜めちゃいけないよねって思いました﹂ ﹁そんな軽い感じで流していいことじゃありませんよ。これから、 黒騎士団の人たちはどうするんでしょう。ここにいる人たち以外は、 団長たちの裏切りがあったことを知っているんでしょうか⋮⋮?﹂ 黒騎士団がどうなるか、というのは俺も気にしている。グールド の命令でルシエを誘拐しようとしたことが公になれば、ファーガス 1039 はかりごと 王は黙ってはいないだろう。今まで公爵の謀に全く気づかなかった のかどうかも、今の情報だけでは把握しようがないのだが。 ﹁ひとつ明るい材料があるとすれば、ヒロトのスライムが、ヴィク ター⋮⋮ヴィクトリアの仮面を外してくれたことだ。人間の手では 外しようのなかった装備を、スライムならば外せるというのは盲点 だった。彼女に代わって礼を言うぞ、ヒロト﹂ ﹁あ⋮⋮い、いや。俺はその、あの女の人が吸魔の鎧ってやつを装 備してると、厄介だなと思っただけだよ﹂ 実際に装備を外した順序は、吸魔の鎧のあとで悪の鉄仮面を流れ で外したわけだが⋮⋮その下に着ていたクロースアーマーを脱がせ たのは、正当な行いとは言いがたい。なので、正直いつ指摘を受け るかと思っていたが、やはり俺は非難されなかった。ここまでくる と逆にヴィクトリアに申し訳ない⋮⋮感情に任せて脱がせてしまっ たが、本来は武士の情けで、辱めを与えるべきではないのだ。 あられもない姿になっていたヴィクトリアは、外套にくるまれて マールさんに連行されていった。重要な捕虜なので、丁重な扱いを されることになるだろう⋮⋮俺も後でもう一度話をしておきたい。 ﹁ギルマス、先ほど吸魔の鎧などのドロップ品をインベントリーに 回収していましたけれど⋮⋮他に、何か変わったものはありました か?﹂ ﹁いや、無かったと思うけど。あとで調べてみようと思ってたけど、 今出した方がいいか?﹂ ヴィクトリアから外した装備は、適当に回収して背中のリュック サックに入れておいた。インベントリーの容量が見た目より大きい とはいえ、さすがに吸魔の鎧一式はアイテム欄を圧迫するので、後 1040 でどうするか考えなければならない。売るのはもったいないし、ヴ ィクトリアに返すのも危険がともなう。 考えている俺をよそに、ミコトさんは別のことを気にしているよ うだった。 ﹁⋮⋮い、いえ、そういった方も見たことはありますから、普通だ とは思うのですが⋮⋮﹂ ﹁え⋮⋮普通って、何のことだ?﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁着物の下につけないというケースも ありますけれど、騎士の方にもそういった文化がありますのね⋮⋮﹂ ミコトさんは答えずに、ログにつぶやきだけを残して行ってしま おうとする。これからルシエの洗礼が行われるのに、見に行かない んだろうか。 ﹁ミコトさん、神殿には行かないのか?﹂ ﹁ええ。私は、首都での祝祭のときにルシエ殿下を見られれば十分 ですわ。ギルマスと一緒に行って、あなたがでれでれしているとこ ろを見るのも、あまり気分が良いとは言えませんし﹂ ﹁えっ⋮⋮み、ミコトさん⋮⋮﹂ ﹁私は景色のいいところを探してきますわ。スクリーンショットは 撮れませんが、心の中には残せますから﹂ ミコトさんは指を二本立てて頭の横で振ると、それを挨拶として 今度こそ立ち去ってしまった。まあ、パーティから外れたわけじゃ 1041 ないし、元から自由を好む彼女を束縛する気もない。 ﹁ヒロトちゃんとミコちゃんは、相変わらず仲良しですな∼。ちょ っと妬けちゃうよね、アレッタちゃん﹂ ﹁そうですね⋮⋮い、いえ、そんなことで妬いていたら、私はとっ くの昔に炭になってます﹂ あ、アレッタさん、そんなに⋮⋮俺は女性の気持ちに疎すぎるな。 もっと敏感にならないと、いつかみんなに愛想を尽かされてしまい そうだ。 ﹁罪作りなものだな⋮⋮ヒロト、私たちは護衛兵とともに、捕虜を 監視していなければならない。神殿に行き、ルシエの洗礼に立ち会 ってやってくれ。神官長が言っていたぞ、ヒロトはまだ幼いので、 男子でも神殿の奥に入ることができると﹂ ﹁っ⋮⋮う、うん。わかった、行ってくるよ⋮⋮ふもっ﹂ ファムさんとアイラさんとのことがバレたかと思ったが、そうで もなかった︱︱そして、フィリアネスさんに正面から抱きしめられ、 胸に顔をうずめられた。戦闘を終えて装甲を外していた彼女の胸は、 俺の顔を余すところなく申し分のない弾力ではさみこんでくれる。 ﹁ボルトストリーム・トマホークか⋮⋮良い技だな。私は魔法剣に ボルトストリームを使おうと思ったことはなかったが、ヒロトの技 を見て心が踊った。何事も、試してみるものだ﹂ ﹁お、俺も⋮⋮ミラージュアタック、凄くかっこいいと思って見て たよ。フィリアネスさんはやっぱり強いや﹂ ﹁うむ⋮⋮私はもう、お前にはかなわないと思っているのだがな。 そろそろ、今の限界を超える糸口を探さなければ、置いて行かれる ばかりだろう。今のままで終わるつもりはない⋮⋮それは、覚えて 1042 おいてほしい。お前の隣がふさわしい騎士になれるよう、努力しよ う﹂ 急にそこまでのことを言われると思っていなくて、俺は呆然とし てしまう。嬉しいことを言われていると頭でわかっていても、急に どうしたんだ、と心配になる部分もあった。 ︵限界⋮⋮そうだ。フィリアネスさんのスキルはもう100に近い ものが幾つもある。マールさんもそうだし、ミコトさんは既に複数 スキルがカンストしてる︶ ユィシアのドラゴンミルクを提供すれば、限界は限界ではなくな る。ユィシアが同意してくれたら実現できることだが、それ以外の 方法も模索してみたいという気はする。 ︵採乳は女性からスキルをもらうスキル⋮⋮男からスキルを与える 方法は、何かあったりしないだろうか?︶ 俺が﹁指導﹂スキルを使ったとして、既に相手が習得しているス キルを上げられるだけで、新規のスキルを覚えさせることはできな い。現実的じゃないか⋮⋮でも、それが出来ればみんなに恩返しで きるしな。無理だと決めつけずに、方法を探してみたい。 スキルがカンストして上がらなくなった状態で経験値が入ると、 どれくらい﹃勿体ない﹄と感じるか⋮⋮カンストが当たり前のゲー ムですら、まだカンストしてないメンバーが成長していくのを見て、 少しうらやましいと思うこともあったものだ。このままだと、フィ リアネスさんたちもそういう気持ちを味わうことになってしまう。 ﹁⋮⋮人の胸の中で考え事をするというのは、あまり良くないくせ 1043 だな。それとも、私の胸はそれほどに慣れてしまったということな のか?﹂ ﹁あ⋮⋮い、いや、そうじゃないよ。フィリアネスさんに隣にいた いって言われて、嬉しかったんだ﹂ フィリアネスさんはすごく嬉しそうに微笑んでくれて、俺の頬を 撫でてくれた。このまま二人だったら、キスでもしてもらえそうな そんな空気だったが︱︱あいにくマールさんとアレッタさんが熱視 線を注いでいる。 ﹁む⋮⋮こ、こほん。ヒロト、洗礼が終わったら私たちはすぐに首 都に向かわなければならない。一刻も早く出発する必要があるが、 ルシエはきっと、ヒロトを待っているはずだ。彼女の儀式を見届け てやってくれ﹂ ﹁うん、わかったよ。マールさんとアレッタさんも、またあとでね﹂ ﹁はーい。私もハグしたかったけど、あとに取っておいても、それ はいいものだしね。ね、アレッタちゃん﹂ ﹁は、はい⋮⋮いいんでしょうか、そんな。でも、遠慮していても さみしいですからね﹂ フィリアネスさんは二人を出し抜いてしまった気分なのか、少し 気恥ずかしそうにしていた。俺としては彼女に抱きしめられるのは 最大級のご褒美なので、余韻が抜けきらずに足元がふわふわとして いた。 ◇◆◇ 神殿は村から山門を出て、山の縁を円を描くようにして登った先 1044 にあった。石作りの、ギリシアの神殿のような荘厳さを感じさせる 建物だ。 護衛兵二人に頭を下げて中に入っていく。足音の反響する回廊を 抜けると、驚くほど広い空間が広がっている︱︱ゲーム時代はそれ ほど大きさを感じなかったのに、こうして目にすると﹁洗礼の祭壇﹂ のある広間は圧倒されるほどのスケールだった。 見上げると、円形のドームのようになっている。階段を降りてい った先にプールがあり、その中央に円形の舞台があって、その上に ルシエと神官長姉妹、そして傍らにはイアンナさんが正座をして控 えている。石床の上で正座⋮⋮よく我慢出来ているものだ。意外に 根性があるんだな、と見直してしまう。 物々しい雰囲気に、俺は近づいていいのかも迷うほどだったが、 ファムさんは俺の姿を認めると声をかけてきた。 ﹁ヒロト様、よくぞいらっしゃいました⋮⋮ルシエ殿下のたっての 希望で、あなたさまがいらっしゃるまでお待ちしておりました﹂ ﹁セーラと比べれば劣りますが、私と姉も全霊を込めて、神歌を奏 上いたします﹂ ﹁うん。俺は、ここから見させてもらうよ⋮⋮こんなに近くでいい のかな﹂ 舞台のすぐ下から見上げる、アリーナ席のような位置。ライブな んて行ったのは前世での幼い頃に親に連れられて行った一回だけだ が、その時の感覚を思い出す。舞台の上の歌手が、とても眩しい存 在に見えたものだ。 そして︱︱円形の舞台の中央で跪き、祈りを捧げていたルシエが、 1045 立ち上がってこちらを振り返った。 一歩ずつ歩み寄ってくるその姿を見て、俺は言葉を失っていた。 出会ってからここまで、俺はルシエのことを、どれだけ見目麗し くはあっても同じ人間なのだと思っていた︱︱しかし。 洗礼を受けるための衣装を身にまとったルシエは、目に映る風景 の現実感が失われるほどに美しかった。 胸のうちから広がった感情が、ぞくりと俺の全身を震わせる。 ︵⋮⋮こんなに⋮⋮衣装ひとつで変わるものなのか︶ 瞬きをすることさえ忘れていた俺を、ルシエはじっと見下ろして いたが︱︱その頬に赤みが差して、ようやく俺は、彼女が現実の存 在なのだと受け止めることができた。 ﹁⋮⋮ヒロト様、そして皆さんに護衛していただき、ここまで無事 に来ることが出来ました。洗礼の前に、謝意を述べさせていただき ます。本当に、ありがとうございます﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。今は、みんなを代表して受け取らせてもらうよ ⋮⋮いや。受け取らせて、いただきます﹂ 敬語は使わないでほしいと言われたが、今だけは必要だと感じた。 敬うべき存在を敬う。しきたりや掟を重んじる人の気持ちが、今 になってようやく分かった︱︱敬うという気持ちは、尊敬の対象に 対して距離を置くということではない。憧れを態度に表すのは、当 然のことなのだ。 ︵憧れ⋮⋮か。でも、本当に、それくらい綺麗だ⋮⋮︶ 1046 リオナやミコトさんが居たら、普通に頬をつままれているだろう。 しかし赤くさらりとした髪に宝石をちりばめたティアラをつけ、ユ ィシアが纏っていたもののような透ける薄衣をまとったルシエは、 高くから降り注ぐ細い光をいくつも浴び、舞台を囲う水面に反射す るきらめきを纏って、神々しいとしか言いようのない輝きを放って いる。 白い肌に、まだ女性らしさが芽吹きかけたばかりの身体の曲線。 俺の視線を受けて頬を染めながら、彼女は薄衣のみを纏った身体を 隠そうとはしない。なぜ男子禁制なのか、それがとても良くわかる ︱︱もし俺と同じ十歳より下の少年が他にいても、とても見せられ ない、見せたくはないと思う。 ﹁⋮⋮いかが⋮⋮でしょうか。この服は⋮⋮一生に何度も、着るこ とがないのですが⋮⋮﹂ ﹁す、すごく似合う⋮⋮っていうのもあれだな。肌が透けちゃって るし⋮⋮﹂ ﹁い、いえ⋮⋮そういったことはお気になさらないでください。女 神の祝福を受けるには、本当は何一つ身につけてはならないと言わ れているのです。今は、こうして服を着ても良いことになっていま すが﹂ ◆ログ◆ ・︽ファム︾はつぶやいた。﹁⋮⋮その場合は、私たちも裸身を見 せることになります﹂ ・︽アイラ︾はつぶやいた。﹁ヒロト様だけにならば、お見せする ことは厭いませんが⋮⋮﹂ 1047 ︵神聖な儀式を、決まりに従って裸で行うのは何ら間違いではない ︱︱そうなると俺も裸にさせられるのか。いや、俺は服を着て落ち 着いた気持ちで、みんなのことを純粋な気持ちで見ていたい。届け、 俺のピュアハート︶ ﹁あ、あの⋮⋮ヒロト様。数年前の方式にならい、やはり服を着な い方が良かったでしょうか⋮⋮?﹂ ﹁い、いや⋮⋮俺は何も考えてないよ。ルシエのその格好はきれい だと思うし⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなふうに思っていただけていたのですね⋮⋮遠い 目をされているので、何か間違えてしまったのかと心配してしまい ました﹂ 簡単に放心状態になってはいけないな⋮⋮何がピュアハートだ。 自分だけは服を着ていたいなんて、それはただの保身ではないか。 そうだ、俺も半分透けた衣装を着させてもらおう。って、もうそれ はいいか。 しかし恥じらう姿も絵になっていて、もう俺は、視線を別のとこ ろに向けるしかなくなってしまう⋮⋮ヴィクトリアと戦ってからだ、 こんな気持ちになってしまうのは。俺の中で何かが目覚めようとし ている。いくら綺麗だからって、十歳の女の子に対してもそんな気 持ちになるのは、ギルティな気がしてならない。 ◆ログ◆ ・︽イアンナ︾はつぶやいた。﹁ヒロト様、姫様の衣装を見てあん なにも顔を赤くされて⋮⋮ふふっ、やはり女は度胸、勝負衣装は冒 1048 険するに限りますわね。このイアンナ、衣装の布地を例年より薄く しておいた甲斐がありましたわ﹂ イアンナさんとミコトさんは二人ともお嬢様口調だが、違いがは っきりしているように思うのは、心が綺麗かそうでないかの違いだ ろうか。しかし今のイアンナさんは、良い仕事をしたと言わざるを えない。 ﹁それでは、儀式を始めさせていただきます。ヒロト様もルシエ公 女殿下と気持ちをひとつにされるおつもりで、女神に祈りをお捧げ ください﹂ ﹁⋮⋮ヒロト様がそうしてくだされば心強いですっ﹂ ルシエは恥ずかしさを押し切るようにして言うと、先ほどまでそ うしていたように、舞台の中央に膝をつき、両手を合わせて祈りは じめた。 そして、シン、と祭壇の広間に静寂が満ちる。耳を澄ますと、水 の音だけが聞こえる︱︱その中で、ファムさんがルシエの前に立ち、 その頭に両手をかざしながら、儀式の始まりを告げる。 ﹁︱︱世界を創造せし、全ての根源たる女神イシュア・メディアよ。 ジュネガン公王家の血を引く者に祝福を与え、王家の一人として認 められしことを、唯一の印にて刻み込みたまえ﹂ 天井からの光、そして場を包み込んでいた淡い光が交じり合い、 ファムさんの身体を介して、ルシエに移されていく。 ︵この光が、女神の祝福⋮⋮なのか⋮⋮?︶ 1049 め やがてファムさんは女神を讃える歌を歌い始める。世界を創り、 すべての命を愛で、見守り続ける女神への感謝︱︱その歌の調べに 合わせて、アイラさんが踊り始める。その舞いにはほとばしるよう な感情が込められ、肌を露わにした衣装もあいまって妖艶にも映る が、見ている俺の心はどこまでも静かなままだった。その歌と舞い は神に捧げる以外の目的は一切なく、男の目を惹こうとするもので はないからだ。 ︵これが洗礼の儀式⋮⋮心地良い声だ。光の中で踊るアイラさんも ⋮⋮きれいだ⋮⋮︶ やがてルシエが立ち上がる。そして何をするかと思えば︱︱俺の 方を見つめながら、衣装の胸元を開く。 ︵っ⋮⋮な、なんだ⋮⋮!?︶ 思った以上に膨らんでいる胸の谷間に目を奪われる。しかしルシ エは今度は恥じらわず、目の前の中空を見つめて、何事かをつぶや いた。 ◆ログ◆ ・︽ルシエ︾はつぶやいた。﹁思ったよりも早かったわね⋮⋮さす が、と言ったところかしら﹂ ︵っ⋮⋮違う⋮⋮この話し方はルシエじゃない⋮⋮!︶ 1050 ◆ログ◆ ・何者かの呼ぶ声がする⋮⋮。 ・あなたの足元に、転移の魔法陣が発生した! ﹁ルシエっ、みんなっ⋮⋮!﹂ 目の前が光に塗りつぶされ、白一色に染まっていく。その中でも 神官の姉妹は意に介さず、歌い、舞いつづける。ルシエの瞳も、俺 を見てはいない︱︱彼女は今、﹃彼女ではない﹄のだ。イアンナさ んはこの場の空気にあてられでもしたのか、その場に倒れ伏してい た。 ︱︱ようこそ、ヒロト。私のところにおいでなさい︱︱。 覚えのある声が頭の中に響く。転移が始まったことを告げるログ が流れ、足元の床を踏んでいる感覚が突如として消える︱︱。 目の前の光景が急速に遠のいていく。次に広がるだろう光景がど んなものか、俺には既に想像がついていた。 1051 第二十八話 洗礼の儀式/遥かなる招待︵後書き︶ ※次回は明日、21:00に更新いたします。 1052 第二十九話 新たなスキル︵前書き︶ ※前日より連続更新しておりますので、まだお読みでない場合は 一つ前の話からご覧ください。 1053 第二十九話 新たなスキル 四方に広がるのは、青の一色。雲ひとつない、空の上だった。 イシュア神殿とは違う、けれど似たような石材で作られた神殿に 俺は転移していた。 白い床の向こうに、銀色の長い髪をした、耳の長い女性がいる。 彼女はゆっくりと歩いてきて、俺の目の前に立つ︱︱俺が見上げる ようにすると、彼女はまるで愛らしいものでも見るかのように微笑 んだ。 ﹁⋮⋮久しぶりね。って言ったら、あなたは怒るかしら。それとも 笑う⋮⋮いえ、呆れる?﹂ ルシエのことを神々しいと思った︱︱それは無理もないことだっ た。 彼女は女神の祝福を受けるために、女神そのものを呼び出してい たのだ。 けれど、きっとルシエにも、儀式を行ったファムさんたちにも、 その自覚はないのだろう。彼女たちがこうして女神に会ったことが あるなら、事前に話してくれていたはずだから。 ﹁⋮⋮呼ばれたのは、俺だけなのか?﹂ ﹁ええ。お姫さまと他の人たちには、今のところは用はないもの。 私は自分が生み出したものには、原則として干渉しないことにして いるの﹂ 用がない、とはっきり言う女神だが、俺は酷薄だとは感じなかっ 1054 た。 マギアハイムを作った神がいて、その存在をルシエたちが知るの は⋮⋮決して、良いことではない。俺は女神の人格が、人々が崇拝 する神のイメージ通りだとは思っていないからだ。 ﹁⋮⋮聞きたいことがいくつもあるっていう顔ね。どうしてここに 呼ばれたのかは、私の側としても、あなたがゴールするまで待って いるのは退屈だからというだけよ。私⋮⋮女神のもとに辿りつくと いう目標は、洗礼の儀式に立ち会ったことで達しているといえるわ﹂ ﹁俺はこのタイミングで会えるとは思ってなかった。でも、会えた 以上は⋮⋮﹂ ﹁宮村陽菜を、なぜ魔王の転生体にしたのか。なぜ、リオナとして あなたのすぐ近くに転生させたのか⋮⋮それを聞きたいということ でしょう?﹂ 女神なら、言わずとも分かるに決まっている。だから俺は、胸の 内を言い当てられても不愉快には感じなかった。 むしろ、女神が自分からその話題を出してくれることがありがた いとさえ思った。答えるつもりがない、と逃げられることも想定し ていたからだ。 ﹁あの子はヒロト⋮⋮あなたに会いたい一心で、全てを捨てて転生 することを選んだ。私があなたにボーナスポイントをあげたときの ことを覚えている?﹂ ﹁⋮⋮俺の不幸を、ボーナスに換算したって言ったな﹂ ﹁ええ。そのときに、どういう項目があったか⋮⋮それを考えれば、 なぜ宮村陽菜がただの人間として転生できなかったのか。それも分 かるはずよ﹂ 今でも覚えている︱︱片思いの相手を奪われた︵と決めつけられ 1055 て︶、96ポイント。そしてアカウントハックで財産を失ったこと で、150ポイント。トラックに轢かれたことで10ポイント︱︱ 合計256、カンストしていたので1ポイント切り捨てられて25 5だった。 ﹁あのときのあなたには分からなかったでしょうけど⋮⋮あなたは、 もう一人の幼なじみの計略に嵌められて、初恋の相手を失おうとし ていたの。でもそれを、彼女自身が転生してあなたに伝えようとす ることは、不幸でもなんでもない。私の力で、宮村陽菜の願いを叶 えてあげたと言えるわ﹂ ﹁⋮⋮だから、願いを叶える代償に、ボーナスを与えるどころか⋮ ⋮マイナスを与えて、不幸にしたっていうのか⋮⋮?﹂ ﹁あの子はエターナル・マギアをプレイしていなかった。あなたが 全てを捧げたゲームを少しプレイしただけで、あなたのことが何か わかると本気で思っていた。それをあなたは健気だと思う? それ とも、﹃にわか﹄だと思うのかしら﹂ ﹁そんな⋮⋮ことは⋮⋮﹂ 本当に、全くないと言えるだろうか。陽菜が転生してきたことで、 俺はなぜあんなに憤ったのか⋮⋮それは、陽菜が俺のために自分の 人生を捨てたことが、全部だっただろうか。自問自答しても、すぐ に答えが出せない。 女神は穏やかな微笑みを浮かべている。しかし、その瞳の奥に宿 る光は、笑っているようにはとても見えない。 ﹁⋮⋮だから、彼女はリスクを払わなければいけなかった。彼女は 不幸でもなんでもなく、私の異世界に来て手に入れたいものがある だけで、転生を選んだのだから﹂ ﹁⋮⋮お前は、陽菜に何も説明しなかったんじゃないのか? 転生 1056 したあと、自分がどんな運命を背負うかってことを。そんな騙し討 ちをしてまで、あいつを転生させることは⋮⋮﹂ ﹁させないほうが良かった、ってあなたは言うかもしれない。でも ね、それはあなたの価値観でしかないのよ。もし不幸になったとし ても、簡単に幸せになれないのだとしても、彼女はそれで構わない と思った。それなら私は、彼女にしか出来ない役目を与えてあげよ うと思ったのよ。リオナがリリスの転生体でなければ、別の女の子 がその運命を背負うことになる。そうなるのは、ヒロト⋮⋮あなた の妹でも良かったのよ?﹂ ︱︱俺たちは、女神の手の平の上で踊らされているだけだ。どん なことを正論のつもりで言っても、この女神には通じない。俺の与 えられた交渉スキルさえ、女神に与えて貰ったボーナスに過ぎない のだから。 ﹁⋮⋮俺は陽菜を⋮⋮リオナを、守りぬく。俺はもともと、ボーナ スを与えられるような人生は送ってこなかった。本当はあいつみた いな人間こそが、報われるべきなんだ﹂ 引け目がないといえば嘘になるが、俺のために陽菜が転生を選ん だなら、一も二もなく彼女を守ろうと思う。あいつは俺が来なくて いいと言うまで、ずっと俺を家から連れだそうとしてくれたのだか ら。 ︱︱陽菜が連れていこうとする外の世界より、エターナル・マギ アの方が魅力的だった。もう一度リオナが記憶を取り戻したとき、 そう素直に言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか⋮⋮また、﹃ 素敵な世界だ﹄と笑ってくれるのだろうか。それは、都合のいい想 像にすぎないだろうか。 けれど陽菜が︱︱リオナが考えることは、いつも俺の想像を超え ている。 1057 ﹁あいつは⋮⋮俺みたいなやつのために、こっちに来ちゃいけなか った。それでも⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんな言い方をして、自分を卑下しなくてもいいのよ﹂ ﹁っ⋮⋮な、何を⋮⋮っ﹂ まったく身構えられなかった。フィリアネスさんにそうしてもら う時でも、彼女が何をするか分かっていて受け入れた︱︱それなの に。 俺は女神に抱きしめられるまで、まったく動くことが出来なかっ た。 熱のない、人間以外の存在だと思っていた女神には、ぬくもりも、 心臓の鼓動さえも備わっていた。 ﹁私はエターナル・マギアにおけるあなたの生き方が気に入ってい た。だからこそ、あなたが不幸だった分だけ、この世界で生きる上 での贈り物をあげたかった。私はあなたが陽菜を失ったと思いこん でいたこと、それを哀れんでいたのよ。そんなことをはっきり言え ば、怒られるでしょうけど﹂ ﹁⋮⋮女神のくせに、怒られるとかどうとか。そんなこと、怖がっ たりするのかよ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ええ、怖いわよ。私だって、こうして人と言葉を交わ すことが出来るのだから。言葉を交わすということはね、常に恐れ と隣り合わせの行為でもあるのよ。どれだけ気をつけて話していた って、相手から心ない言葉を向けられることもある。相手が傷つけ ようと思って言ったわけじゃない言葉で、傷つけられることもある ⋮⋮﹂ ︵︱︱それじゃ、まるで⋮⋮女神が、俺と同じ⋮⋮︶ 1058 そんなはずはない。こんなふうに笑って、いつも人をからかって いるような女神が⋮⋮人と関わることを恐れているなんて。 けれどここにいる女神は、決して人知を超えた存在ではなく。一 個の人間に近い精神性を持ち、肉体を持つ存在で⋮⋮俺の同調を得 るために、適当な言葉を並べているようにも見えない。 ﹁⋮⋮女神がコミュ難なんて、聞いたことないぞ。そんな素振りも なかった﹂ ﹁女神にもいろいろあるでしょうけれど、私はそういう性格なのよ。 あなたが転生するときに、必死でつかみどころのない女神を演じて いたのかもしれない。あなたのギルドメンバーの、彼女のようにね﹂ ﹁⋮⋮神様なのに、キャラを作る必要があるのか? それこそ、わ からないぞ﹂ ﹁さて、どうでしょうね。私はあなたの追及に耳を貸すのがめんど うで、こんなことを言っているだけかもしれない。本当のことなん て、まだ何一つ教えるつもりはないのよ﹂ ずっと俺を抱きしめたままで語りかけ続けていた女神は、ようや く俺を離す。 ︱︱女神はさすがだとしか言いようがない。俺が一度も経験した ことのないような、甘く心を揺らすような香りがする。そのままで いれば、俺は⋮⋮たぶん、魅入られてしまうんだろう。自分が、そ うしてきたように。 ﹁リオナはどんなことがあっても後悔しないと決めて転生した。だ から、あなたが彼女の不幸を勝手に決めてしまわなくてもいいのよ。 あの子はああしているだけで、案外幸せなのかもしれないしね。そ れも、前世であなたをどういう存在かと思っていたかによるけど﹂ ﹁も、もうその話はいい⋮⋮リオナは、陽菜だったときのことを忘 れてる。今後、思い出せるのかも分からないんだから﹂ 1059 ﹁そこで私に答えを求めないのは⋮⋮教えてくれないだろうと思っ ているから? それとも⋮⋮﹂ ︵その答えを探すのは、俺自身だ。女神に答えをもらうのは、本来 の意味でのチート⋮⋮ズルだからな︶ あえて言葉にしなかったのは、自分には似合わないだろうと思っ たからだ。 ︱︱女神には、声にしなくても伝わっている。彼女は何か言いた そうに俺を見ていたが、ふっと眉尻を下げて笑うと、俺に背を向け た。 ﹁うわっ⋮⋮そ、その服、背中が開きすぎだろ⋮⋮!﹂ 前から見ると、ホルターネックのような形のドレスなのだが⋮⋮ 考えてみれば、そのまま後ろを向けば相当に露出が多いだろうとは 想像できた。女神にドギマギしているというのも、ちょっと前なら 想像もできない状況だ。 そんな俺の反応を肩越しにうかがって、女神はそれでも背中を向 けたままでいる。一瞬、横から見る形になったとき、乳房の曲線が 危ういところまで見えてしまいそうになった⋮⋮真面目な話をして いたのに、全てが吹き飛びそうになる。 ﹁⋮⋮ねえ。交渉スキルを取ったら、いろんな女の人からスキルを もらえるなんて、あらかじめ想像していたの?﹂ ﹁い、いやっ、それは⋮⋮俺も、そんなことになると思ってなくて ⋮⋮狙ったわけじゃない、なんて言い訳にはならないのはわかって るけど⋮⋮﹂ ﹁私がどんな気持ちで、これまでのあなたを眺めていたか分かる? 1060 それに答えられたら、ご褒美をあげるわ﹂ ︵ご褒美って⋮⋮︶ 思わず見てしまうのは、先程からアピールされている部分⋮⋮女 神と呼ばれるだけはある、芸術的としか言いようのない母性の象徴。 大きすぎず、決して小さくもなく、弾力的にも申し分なさそうな⋮ ⋮。 ︵ま、まさか、女神の⋮⋮いや、め、女神のスキルってそんな⋮⋮ !︶ 女神に一言文句を言ってやるつもりだったし、リオナのことで本 気で怒ってもいた。なのに、今俺が考えていることと言ったら⋮⋮。 質問に答えるくらいでもらえるご褒美なんて知れているだろう。 それに、女神の考えを当てられる気もしない。俺の想像力は貧困だ し、女神に笑われるに決まっている⋮⋮飛んで火に入る夏の虫とい うやつだ。 ﹁あなたにスキルをあげたのは私なんだから、答えてくれてもいい じゃない。ジークリッドは、そういうことに関しては義理に厚いと 思っていたんだけど?﹂ ﹁くっ⋮⋮そっち方面から攻めてこないでくれ。俺に女神の気持ち なんて分かるわけないだろ。馬鹿なことやってるな、って笑ってた んじゃないのか?﹂ 安易な想像だけど、大外しもしてないだろうと思った。客観的に 見たら、俺は採乳でスキルがもらえるからといって、色んな女の人 のステータスを見ては、新たなスキルを発見してはしゃいでいたの だから。 1061 考えてみれば、女神に文句が言える立場にはない。反省しきりの 俺を見て、女神は口元を隠して笑った。 ﹁⋮⋮そんなふうに笑ってたっていうのは、想像がつくよ。正解だ ろ?﹂ ﹁半分は正解で、半分はかすりもしてないわね。あなたには乙女心 を読み取るなんて、百年⋮⋮いえ、十年早いわ﹂ ﹁それは自分で十分わかってるつもりだ。いつまでも、はぐらかし てはいられないけどな。それにしても十年なんて、優しいじゃない か。そのとき、俺はまだ十八歳だし﹂ ﹁交渉スキル100を取った人が、女性との駆け引きも出来ずに終 わるなんて体たらくもないでしょう? 異性の心をつかむために使 うなら、これほど心強いものもないわ。ゲームでは、ただ有利に立 ちまわったり、攻略の助けになるだけのスキルだったけど⋮⋮人と の交渉こそが、人の生を形成する要素の大半なのよ。私も、今さら 気がついたのだけど﹂ 女神にも分からないことがあるのか︱︱いや。分からないという 体で振舞っているだけで、彼女は⋮⋮。 ﹁⋮⋮そんな話は、今はいいわ。あなたには、ご褒美をあげなけれ ばならないわね。何度も特別扱いをするのは、それだけあなたに見 込みがあるからだと思って頂戴﹂ ﹁っ⋮⋮な、なんで⋮⋮半分だけしか、正解してなかったんじゃな いのか?﹂ ﹁私はいつでも笑って見ているわ。あなただけではなく、マギアハ イムの全ての生命を見守り、その残酷さも、美しさも、全てをただ 眺めている。けれどそれは、常に楽しいと思っているわけではない のよ﹂ 1062 女神はずっと微笑んでいる。それなのに、楽しんではいないとい う。 けれど今の彼女が、俺には無理をして笑っているようには見えな かった。 ﹁そう⋮⋮私が唯一楽しいと思うのは、あなたがこの世界で足掻い ているところを見ているときなのよ。見ていなくても、常に情報が 頭に入ってくるのだけどね﹂ ︱︱どうして、そこまで。 ゲームの中だからこそ共通の話題を持って話すことができた。俺 自身には何の面白みもないと思っていた。 魅了が切れたあとも、みんな俺に興味を無くすと思っていた。話 せばすぐにぼろが出て、退屈だと思われる。 けれど、そうはならなかった。俺が思っていたよりも、周囲は話 下手な俺の言葉を待っていてくれたし、俺のペースに合わせてくれ た。 ﹁まあ、あなたは交渉スキルの恩恵とはいえ、赤ん坊の頃に魅了に 頼りきりだったのは確かね。けれどね、あなたが彼女たちに誠意を 持っていなかったら、いくら魅了されていても、スキル経験値の授 受を行っただけで好感度が上がったりしないの。あなたがスキルを 手に入れることを本気で喜んで、彼女たちに心から感謝したからこ そ、今があるのよ。スキルのために利用しているなんて欠片でも思 っていたら、こうはならないわ﹂ 1063 女神が俺に肩入れしてくれる理由は、俺に共感を覚えたから︱︱ 信じがたいことだが、彼女自身の言葉をありのままに信じるなら、 そういうことになる。 しかし、俺の気持ちを楽にするために言ってくれているのかもし れないが⋮⋮彼女が言うほど俺は純粋じゃない。 ﹁⋮⋮最近は、もうスキルが上がらないから採乳しなくていいって 思うこともあるよ。それは、誠意があるとは言えないんじゃないか な﹂ ﹁マールギットのことね。あなたも遠慮していないで、少しでも経 験値が入るなら触れてあげればいいじゃない。騎士道なんてそれほ ど目に見える効果を発揮しないスキルでも、あなたは本気で欲しい と思っていたでしょう? 極度にスキルが上がりづらくなっても、 そのときはそのときで、彼女が望むことなら叶えてあげたいと思っ ているはずよ﹂ そんなことはない、スキルにだって俺は順序をつけている。 その証拠に、俺は神聖剣技スキルを欲しがって⋮⋮初めは俺を警 戒していたフィリアネスさんに、何度も⋮⋮。 ﹁⋮⋮それもそうね。少しくらいの罪悪感は、代償として払うべき でしょうね﹂ ﹁そう言ってもらった方が気持ちが楽になる。俺はいつか、フィリ アネスさんに責められた方がいいんだ﹂ ﹁何度も繰り返すけれど、そんなことは、あなたが一方的に決める ことじゃないわ。これまでのあなたとの時間を考えて、それが魅了 から始まったとして、否定されるべきものなのかどうか。聖騎士が どんな答えを出すのか、あなたももう気付いているはずよ﹂ 1064 ︱︱あ⋮⋮それ、今話しちゃう? うん、それは思ってたよ∼。 マールさんはいつもののんびりした話し方で、そう言った。それ はきっと、マールさんだけじゃなく、他の二人も気がついているこ とを意味していた。 ﹁⋮⋮なんて、あなたの行動を正当化してばかりいても、面白くは ないわね。私はあなたが罪悪感に苛まれている様子を見るのも好き なのよ。リオナに引け目を感じて、献身的にしているのは、あまり 面白くはないけれどね﹂ ﹁やっぱり⋮⋮リオナのことが、気に入らないって言ってるような ものじゃないか﹂ ﹁私のことを、ひどい女だと言ってもらって構わないわ。私の気に 入った人間が、他の人間に尽くしているところなんて、あまり見て いて気持ちのいいものじゃないのよ﹂ ﹁じゃあ⋮⋮俺が他の女の人からスキルをもらってるときも、あま りいい気分じゃなかったとか⋮⋮?﹂ 話しているうちに、その答えに行き着く。女神は微笑むばかりで 何も言わず、頷くこともなかった。 ﹁そろそろ、あなたを元の世界に戻してあげないと⋮⋮気付いてい なかったでしょうけど、あなたは今、精神体の状態なのよ。あなた の精神だけをこちらの世界に引き寄せているから、元の世界のあな たは眠っているように見えているわ﹂ ﹁⋮⋮それはまずいな。ルシエたちに心配をかけてそうだ﹂ しかし⋮⋮精神体か。さっき感じた鼓動や熱は本物だと思えたが、 俺たちが精神体同士だから、触れ合えたってことになるのか。 1065 物質としての身体がないからこそ、これほど女神を美しいと思う のだろうか。 ︵⋮⋮前に会った時は、気が付かなかったな。女神って、こんなに ⋮⋮︶ ほだ ﹁お世辞は年中言われなれているわ⋮⋮でも、いちおう受け取って おきましょう。私はそれくらいじゃ、情に絆されたりしないけれど﹂ ﹁⋮⋮そんなことは、期待してないよ。ちょっとしか﹂ 強がる気にもならず、俺は本音を口にした。女神のスキルが欲し い、そう思ったことを否定はできない。 ﹁⋮⋮ひとつ言っておくけれど。ご褒美は、私の固有スキルという わけにはいかないわよ。精神体同士での採乳は、それこそ、融け合 うような経験でしょうけど⋮⋮﹂ ﹁や、やっぱりダメか⋮⋮そうだよな。さすがに、都合が良すぎる よな⋮⋮﹂ しゅんとしてしまう俺。そんな俺を見て、女神は苦笑する。 ﹁仕方のない子ね⋮⋮ちょっと甘やかしてあげたくらいで、そんな になついちゃって。私があなたの幼なじみにしたことをもう忘れて しまったの?﹂ ﹁忘れないよ。でもそれは、俺が⋮⋮いや。俺がリオナと一緒に、 向き合っていくことだから﹂ ﹁⋮⋮それこそ、けなげだというのよ。いいえ、これが⋮⋮の弱み というものなんでしょうね⋮⋮﹂ 女神の言葉の一部は聞き取れなかった。彼女は俺に近づき、額に 1066 かかる髪を分けて、自分の額を触れ合わせる︱︱やはり、俺は全く 身構えることができない。 ﹁あなたの望みは分かっているわ。これまでお世話になった人たち に、お礼をしたい。というよりは、自分のパーティメンバーに、同 じように限界突破をして欲しいのでしょう? けれど、ユィシアの ミルクを飲んでもらうのは気が引ける⋮⋮独占欲、というやつね﹂ ﹁⋮⋮そこまで見事に言い当てられると、何とも言えないな。自分 の器の小ささを思い知らされる気分だ﹂ ﹁ユィシアは私が作った生命の中でも、最強に類する種族⋮⋮私も、 娘を見るような気持ちで見守っているわ。あの子があなたを抱っこ してエネルギーをあげているのを見ると、大きくなったわね、と思 うときもあるのよ﹂ 女神の容姿だけを見れば、そんな母親のような感想を抱くような 年齢には見えない。初めて出会った頃のフィリアネスさんと同じか、 少し年上といったところだ。 しかし彼女が感じさせる包容力は、これまでに最も慈愛に溢れて いると感じた人物︱︱サラサさんよりも、さらに上だと感じる。比 べようもないが、女神の前に居ると、全ての不安を忘れていく。 ︵⋮⋮元から、不安なんてそうはないけどな。これは、気の迷いだ︶ ﹁強がらなくてもいいのに⋮⋮いえ、そんな言い方をしたら嫌われ てしまうわね。名残惜しいけれど、そろそろ時間よ。あなたが今、 最も望んでいるスキルをあげる。﹃スキルを与えるためのスキル﹄ をね﹂ ﹁そ、そんなものが⋮⋮本当に、あるのか⋮⋮?﹂ ﹁ええ。﹃授印﹄というスキルよ。私は洗礼の儀式で呼び出される と、男性なら腕、女性なら胸元に触れて、﹃刻印﹄を刻みこむの⋮ 1067 ⋮そうして、王統スキルを与える。ルシエが元から王統スキルを持 っているのは、彼女が本当の意味で、生まれながらの王族だから。 けれどジュネガン公王家は、スキルの有無ではなく、刻印の有無で 王族かどうかを判断する⋮⋮スキルを鑑定できる人がいないから、 そうするしかないのよ﹂ 生来の王族⋮⋮そうだったのか。西王家の血を引く者は、血統に よって王統スキルを継承するのかもしれない。 ︵授印⋮⋮女神が持っているスキルってことなのか。他にも未知の スキルを持ってるのか⋮⋮?︶ ◆ログ◆ ・︽名称不明︾のステータスを見ることが出来ない! 何らかの力 で妨害されている。 ﹁私のステータスを見ようとしたのね⋮⋮私には知覚できるわよ。 でも、見えないでしょう?﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮どうしても気になって﹂ ﹁私がどんなスキルを持っているのか⋮⋮気になるでしょう。ひと つ言っておくと、私から手に入れられるスキルは﹃神性﹄よ。けれ ど、今のあなたにはまだあげられないわ﹂ ﹁い、いや⋮⋮俺は、神になりたいとは思ってないよ﹂ ﹁神になれるところに手が届いている⋮⋮そんな物言いね。神性を 獲得したら、確かにそういうことになるものね。いいわ、出来るも のなら、私に交渉してみなさい。私のスキルは、簡単には渡せない けれど﹂ 1068 スキルで、出来る限りのことをする︱︱それを女神も認めてくれ ている。ならば、応じなければ交渉スキル使いの名が廃る⋮⋮! ◆ログ◆ ・あなたは︽名称不明︾に﹁依頼﹂をした。 ・︽名称不明︾は笑っている。 ・あなたは︽名称不明︾に﹁交換﹂を申し出た。 ・あなたは︽名称不明︾の要求に釣り合うものを所持していない。 ・あなたは﹁魅了﹂スキルをアクティブにした。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽名称不明︾は耐性により無効化した。 ・あなたは﹁魅了﹂スキルをオフにした。 俺が持っているものは、女神に何かを依頼できる材料にはなりえ ない。 彼女がくれるものを享受することしか出来ない︱︱俺と女神の間 には、交渉が成り立たない。 しかし俺は、清々しい気持ちだった。交渉スキル110を超えて も、まだ200までは遠い道のりだ。 まだ届かなくても、いつかは⋮⋮そう思うから、これからもたゆ まなく、スキルを磨き続けてゆける。 ﹁⋮⋮選択肢も使ってみればいいじゃない。あなたのマナは、私が 戻してあげる﹂ そこまで手引きをしてくれるのか。選択肢は、今俺がするべきこ と、有効な行動を指し示してくれる⋮⋮それならば。 1069 ◆選択肢ダイアログ◆ 1:何もしない 2:︽名称不明︾の﹁授印﹂を受ける 3:︽名称不明︾に﹁看破﹂を使用する ︵⋮⋮そうだ⋮⋮さっきから、ログに表示されてる名前が⋮⋮!︶ イシュア・メディア。そんな名前であるはずの女神が⋮⋮名称不 明になっている。 ﹁看破﹂を使えば、名前が分かるのかもしれない。しかし、無効 化されたら︱︱。 一瞬迷っただけのはずだった。しかし気づくと女神が、今までに ないほど真剣な眼差しで見つめている。 ﹁⋮⋮あなたはおとなしく、選んでいればいいのよ。ただひとつの 選択を﹂ ︵自分で使えって言っておいて⋮⋮めちゃくちゃだ⋮⋮だけど⋮⋮ !︶ 女神は俺のマナを回復すると約束した。それなら、まだチャンス は残されている。 名前を知ったところで、どうなるものか分からない。ただ、イシ ュア・メディアという名前を、ログの上では伏せているだけなのか もしれない⋮⋮でも。 1070 女神が、これほど警戒するのなら。﹁看破﹂は、彼女の核心に近 づく情報を与えてくれる⋮⋮! ﹁⋮⋮こんなに無粋な選択肢が出てくるなんて。でも、選ばせない わよ⋮⋮女神を甘く見ないで﹂ ︵︱︱勝手に⋮⋮選択肢が、選ばれる⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・︽名称不明︾はあなたに﹁授印﹂を施した。 ﹁⋮⋮んっ⋮⋮﹂ ︵これって⋮⋮首筋に、キス⋮⋮?︶ 女神の唇が首筋に触れる。そのしっとりとした感触と共に、熱い 吐息が伝わる︱︱。 ﹁うぁ⋮⋮ぁ⋮⋮あぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 触れた場所が熱くなり、女神から何かが流れこんでくるのが分か る。狂おしいほどに全身が火照り始めて、目の前の女神の背中に手 を回して、思うままに強くしがみついてしまう。 ◆ログ◆ 1071 ・あなたは︽名称不明︾から、﹁刻印﹂スキルを与えられた! ・︽名称不明︾はあなたの﹁刻印﹂スキルを上昇させた! ・﹁刻印﹂スキルが10になり、あなたは﹁︻口づけ︼授印﹂を習 得した! ︵刻印スキル⋮⋮最初に取得できるアクションスキルが、授印⋮⋮ で、でも、口づけって⋮⋮︶ 俺は自分の身体の変化に翻弄され、当惑しながら、新たなスキル の名称を頭の中で反芻する。 字面だけを見るならば、女神が今俺にしたようにして、スキルを 与えるということになる。 ﹁⋮⋮スキル振りは、10まではサービスしてあげる。あなたのボ ーナスの振り方は、なかなか潔かったわ。これからも、後悔のない 選択をして⋮⋮そして、﹃本当の﹄私のところまでたどり着きなさ い﹂ ﹁っ⋮⋮ま、待ってくれ! まだ、話は終わってないっ!﹂ 女神は止めようとする俺に取り合わず、俺の肩に手を置いて立ち 上がると、唇に人差し指を当てて微笑む。 ﹁⋮⋮スキルの使用方法は、後でログを開いて確認しなさい。ひと つ注意しておくと、スキルは一人の相手に対して、一種類しか与え られない。本当に限界突破でいいのかは、その都度考えなさい﹂ 聞きたいことが山ほどある。最後の最後に出てきた疑問︱︱﹃本 当の﹄とはどういうことなのか。 その答えに近づくことが出来るとしたら。それは女神が俺に使わ 1072 せまいとしたスキルしかない。 ﹁絶対に辿りつく⋮⋮だから、その時はっ⋮⋮!﹂ 目の前にいたはずの女神が、急速に遠く離れていく︱︱俺は縋り つく思いで、スキルの使用を選択する。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁看破﹂を試みた! ・しかし、範囲内に対象となる存在がいない。 ︵届かなかった⋮⋮せっかく、女神の方から隙を見せてくれたのに︶ もう一度女神を呼び出しても、応えてはくれないだろう。次に会 うまでは、どれだけの時間がかかるのか⋮⋮。 しかし、その時は。俺は交渉スキルを今以上に極め、女神の秘密 を解き明かしてみせる。 ︱︱その時のご褒美は。あなたが望むものではなく、私があげた いと思うものをあげる。 女神の声を最後にして、俺の意識は一度途切れる。 俺が会ったのは、本物の女神じゃない︱︱精神体。それなら、本 物の身体を持つ女神が、どこかにいる。 1073 ︵⋮⋮もう、文句を言いたいわけじゃない。俺は⋮⋮︶ 女神がなぜ俺を転生させたのか。それに加えて、﹃本当の﹄彼女 が、どんな状況にあるのか⋮⋮。 女神に会い、得たものもあれば、疑問も増えた。次に再会するま でに、後悔のないように準備をしておきたい。彼女と対等の位置に 立ち、交渉するために。 1074 第二十九話 新たなスキル︵後書き︶ ※次回は明日21:00更新です。 1075 第三十話 初めての刻印︵前書き︶ ※連続更新三日目になります。 1076 第三十話 初めての刻印 青空の上の神殿を離れた意識は、闇を通り抜けて、現実に浮かび 上がる。 ﹁⋮⋮さま⋮⋮ヒロトさまっ⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮あ、あれ⋮⋮ルシエ⋮⋮?﹂ 洗礼の儀式の最中に、俺は気絶した︱︱そういう体になっている と、女神は言っていた。 目の前に、俺を上から見下ろして、目にいっぱい涙をためている ルシエの顔がある。その瞳からこぼれた涙が、俺の頬にぽたぽたと 落ちてきた。 ﹁あぁ⋮⋮良かった⋮⋮ヒロトさま、お気づきになられたのですね ⋮⋮っ﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮俺は大丈夫⋮⋮え、えーと、ほんとに大丈夫だから、 抱きしめたりするのは⋮⋮﹂ ﹁いいえ⋮⋮離しません。離してなんてあげられません⋮⋮とても 心配したんですから⋮⋮っ﹂ 今の俺の姿勢がどうなっているかというと、神殿の舞台に上げら れて仰向けに寝かされ、ルシエの膝の上に頭を乗せられていた。そ のままルシエが頭を包み込むようにして覆いかぶさってくる⋮⋮儀 式のためなのか、香をまとわせた衣装は、胸のすくような香りがし た。 ﹁うっうっ⋮⋮ルシエ様の涙が、奇跡を起こされたのですね。この 1077 イアンナ、久しぶりに清らかな涙を禁じ得ません﹂ ﹁ヒロト様は、呼吸や鼓動がとても小さくなっていましたから⋮⋮ 私たちの儀式が間違っていたのであれば、どうお詫びをすれば良い のかと⋮⋮﹂ ﹁もしヒロト様の身に何かあったら、私も殉じて死を選ぶつもりで いました。本当に良かった⋮⋮﹂ 俺が目覚めたことを知って、みんなが話しかけてくる。よっぽど 心配させてしまったみたいだ⋮⋮それにしてもアイラさんの愛情が、 出会ったばかりだというのに深すぎるな。そこまで思ってもらえる ことには、ありがとうと言いたい気持ちだけど。 しばらく泣いていたルシエは、ようやく落ち着くと、顔を上げて 俺から離れる。そして、恥じらいながら頬の涙を拭い、赤い目のま まで微笑んでみせた。 ﹁⋮⋮ルシエ⋮⋮殿下。儀式は、無事に済みましたか?﹂ 神聖な場においては弁えるべきだと思い、敬語を使う。けれどそ の響きが、ファムさんたちにはどうも健気に聞こえたようで、涙腺 を刺激してしまったようだった。二人ともぽろぽろと涙を流してい る。 ﹁⋮⋮私は、女神の刻印を受けられませんでした。王族としては、 資格がなかったのだと思います﹂ 予想もしなかった答えに、俺は目を見開く。そっと身体を起こし て、ルシエの姿を正面から見る。 彼女は胸元を少しだけ開く︱︱しかしそこに刻まれるはずだった のだろう印は、どこにもなかった。 1078 ︵女神が俺を呼び出したことで⋮⋮刻印を刻む機会が、失われた⋮ ⋮いや、そんなはずは⋮⋮!︶ ︱︱スキルの使用方法は、後でログを開いて確認しなさい。 転移する前に聞いた女神の言葉が脳裏にひらめく。女神がルシエ に刻印を与えなかったなら、ここに、ルシエに﹁刻印﹂を与えられ る存在は一人しか居ない︱︱俺だけだ。 だが、俺がルシエに授印したところで、女神に印を与えられたと は解釈してもらえないだろう︱︱ここからは、演技が必要だ。ファ ムさん、アイラさんの理解を得るには⋮⋮。 ︵一か八か⋮⋮やるしかない⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮俺は今、女神に会ってきました﹂ ﹁っ⋮⋮女神様に⋮⋮ヒロト様、それは、本当なのですか⋮⋮?﹂ ﹁魂が女神様のもとに導かれ、それで意識を失っておられた⋮⋮し、 しかし、今までそんなことは一度も⋮⋮﹂ ファムさんが動揺している︱︱やはり、女神に呼ばれたなんて、 言っても納得してもらうのは難しい。 交渉スキルを使って説得するしかないかと考えたところで、アイ ラさんが何かを言おうとする。 ﹁⋮⋮お姉さま。ヒロト様がそうおっしゃるのなら、私は信じます。 ヒロト様が私たちに、そのような嘘を簡単につくとは思えない。そ 1079 の目を見れば、わかります﹂ ﹁アイラ⋮⋮﹂ 妹の言葉に、ファムさんは少し迷っている様子だった。けれど俺 の方を見ると、ふっと目を閉じる。 そして少しの間を置いて開いたファムさんの目からは、迷いが消 えていた。 ﹁⋮⋮私たちの行った儀式が、女神様の元に届いていたということ。 ヒロト様を信じるということは、それと同じ意味になります⋮⋮そ して、それは何よりも喜ばしいことです﹂ ﹁わたくしも気絶していたのですが⋮⋮女神に選ばれるべきは、や はり将来有望な殿方ということですわね。このイアンナ、女神様の お気持ちが痛いほどに理解できます﹂ ﹁イアンナ、あなたは少し控えてください。今は、真面目な話をし ているのですよ﹂ ﹁は、はいっ、かしこまりました、殿下﹂ 確かに俺と同じくイアンナさんも気絶していたわけだから、女神 に呼ばれたのが俺だけ、というのが引っかかったんだろうな。まあ、 儀式の際にマナを消耗するみたいだから、イアンナさんのマナがも たなかったんだろう。 ﹁ヒロト様は、女神様と、どのようなお話をされたのですか?﹂ ︵⋮⋮って、い、今気がついたけど。俺がしようとしてることって ⋮⋮ルシエに、女神の代わりに印をつけて、儀式が成功したってこ とにするわけだけど⋮⋮つ、つまり⋮⋮︶ 自分でも気づくのが遅かった。俺がルシエに刻印を授けるという 1080 ことは⋮⋮俺が、﹁︻口づけ︼授印﹂のスキルを使うっていうこと だ。 ︵い、いいのか⋮⋮でも方法はそれしかない。ルシエが王族として 認められて、無事に首都に送り届ける⋮⋮俺たちは、そのためにこ こまで来たんだ︶ ﹁め、女神様は⋮⋮俺に⋮⋮公女殿下に、代わりに印を授ける役割 を託されました。公女殿下が王族として認められなかったというこ とは、絶対にありません﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト様から、私に、刻印を⋮⋮?﹂ ﹁そうだったのですね⋮⋮それが本当なら、浮かび上がる印は、こ のようなものになるはずです﹂ ︵ファムさん、ナイス⋮⋮!︶ 王族であることを示す印の形が、スキルを与えるために﹁授印﹂ を使ったときと違う形では困る。ファムさんが見せてくれた神歌の 歌詞が書かれた本の表紙に、王族が与えられる刻印と同じだという 焼き印が押されていた。それを俺は凝視し、寸分たがわず再現でき るように暗記する。 あとは、どうやって﹁授印﹂を行うのか。俺はウィンドウを脳裏 に呼び出し、授印スキルのマニュアルを呼び出す。 ︱︱そして、その内容を目で追ううちに、俺は気がつく。 ︵こ、これは⋮⋮これはあかんやつだ⋮⋮!︶ ◆スキル詳細◆ 1081 名称:︻口づけ︼授印 習得条件:刻印10 説明: 使用者が唇をつけた部分に、任意の形の印を刻み込むアクション スキル。 印はひとつまでつけられる。ひとつにつき、使用者のスキルを一つ 対象者に与えることができる。それによって習得したスキルの 初期値は1となる。使用者のスキル値は変動しない。 同時に、与えたスキルに対してボーナスポイントを 9ポイントまで付与することができる。 この際、使用者が与えたボーナスポイントは失われる。 スキルの授与は保留することも可能。改めてスキルを与える際は、 刻印に再び唇で触れる必要がある。 制限: ・刻印スキル自体を与えることはできない。 ・対象者のマナが30ポイント以上残っていなければならない。 ・﹁除印﹂スキルで印を消去しなければ、新しい刻印はつけられな い。スキルを授与していない場合は、授与する際に印を付け直すこ とができる。 使用方法: ・︻口づけ︼授印を発動する旨を念じる。 スキル名を知らない場合は、該当の行為を念じればよい。 ・対象者がマナ30を消費し、身体の一箇所に魔力の発光が生じる。 その点を、﹁着印点﹂と呼ぶ。 ・着印点に唇を当てて、完了のログが出るまで接触を続ける。 ・完了ログが出る前に離れた場合、完了するまで着印点は消えない。 1082 女神から聞いていた説明通りの内容なのだが、使用方法の欄を読 んでいるうちに全てが吹き飛びそうになった。 ︵着印点って⋮⋮も、問題ない位置に出るよな? すごいところに 出たりしないよな?︶ ﹁ヒロト様、どうなされたのですか? とても難しいお顔をされて ⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮い、いや、何でも⋮⋮﹂ そしてあっさり敬語を使うのを忘れる俺。ストロベリーブロンド の美少女は、すでに赤みが引いてきた目で、無垢な心配を俺に向け てくれる⋮⋮む、胸が痛い。 こんなに挙動不審だったら、女神に呼ばれたというのも信ぴょう 性が薄れるだろうか︱︱と心配していると。 ﹁刻印を与える前に、集中力を高めていらっしゃるのですね⋮⋮分 かりました。私も、謹んで受け入れます⋮⋮﹂ ︵こ、公女殿下⋮⋮そんな大胆な⋮⋮!︶ そこに印が与えられると思っているのだろう、ルシエが俺の目の 前で、大きく胸元を開ける。 俺に見られているからということなのか、肌がほんのりと朱に色 づいていく。頬も真っ赤になっているのに、彼女は指先を震わせな がらも、そのまま俺に見せてくれている。 ささやかだと思っていた膨らみの形が、ほとんど露わになってい 1083 る。発育が早い異世界では、十歳でも全く侮れたものではない。母 性18の数字は伊達じゃないっていうことだ。 ファムさんとアイラさんも顔を赤らめつつ、目をそらせないでい る。イアンナさんは歓喜のあまり、今にも卒倒しそうな感じを出し ている⋮⋮彼女はいつかクビにならないか心配だ。 ﹁⋮⋮あ、あの⋮⋮フィル姉さまのようには大きくないので、恥ず かしいのですが⋮⋮﹂ ﹁ご、ごめんっ⋮⋮分かった、ルシエ。すぐに印をつ⋮⋮つけてや るからな⋮⋮っ﹂ ◆ログ◆ ・︽イアンナ︾はつぶやいた。﹁ああ、ヒロト様があんなに目を輝 かせて⋮⋮やはり姫様の美しさを前に、眠っていた雄性も目覚めざ るをえないということですか。このイアンナ、猛烈に感激しており ます⋮⋮!﹂ ︵⋮⋮まずい、何も言い返せないぞ⋮⋮悔しい⋮⋮!︶ 変なところで噛んでしまったし、ルシエを意識してることがもは やバレバレだ。印を与える役割を代行してるだけだというのに、こ こまで意識してるのはまずい、そう分かっているのに。 それもこれも、このけっこう透けている衣装と、ルシエの白い肌 と、成長が始まったばかりで張りのある膨らみが悪い。ここだけに は、俺の唇を接触させてはならない⋮⋮頼む、着印点。当たり障り のない場所に⋮⋮頼む⋮⋮! 1084 ﹁じゃ、じゃあ⋮⋮いくよ、ルシエ⋮⋮﹂ ﹁は、はい⋮⋮来てください、ヒロト様⋮⋮どうぞ、ご遠慮なく⋮ ⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁授印﹂を発動した! ・︽ルシエ︾の身体の一部が発光した。キスしますか? YES/ NO ︵こんなときだけキスとか表示するのか、この性悪ログ⋮⋮!︶ 口づけもキスも同じ意味だけど、後者の方が恥ずかしい。これも ファーストキスっていうんだろうか、いや、そんなこと考えてる場 合じゃなくて。 ︵印を与えるためだしな⋮⋮キスって言ってもキスじゃないよな。 唇が触れたところに印が出るだけだもんな⋮⋮スタンプみたいなも のだ。そうだ、これはスタンプだ。ちょっと魔力を消費するスタン プだ⋮⋮!︶ できるだけ心を無にして、俺はゆっくりルシエに近づいていく。 ︱︱そして、印が浮かんでいる部分に十分すぎるほど近づいてか ら気がついた。 ﹁お、お姉さま⋮⋮ルシエ公女殿下の、あんなところに光が⋮⋮﹂ ﹁し、印があらわれる前に、その部位が輝くというのは⋮⋮その、 1085 そういうものですから⋮⋮仕方がありません。ヒロト様も、他意は なく触れられることと思いますし﹂ ﹁⋮⋮なんていうことでしょう。乙女の限界に挑むような位置に、 印をいただくなんて⋮⋮公女殿下は王族として認められ、同時に大 人の仲間入りもされるのですね⋮⋮﹂ ︵⋮⋮鎖骨の下のあたり⋮⋮胸ではないよな⋮⋮?︶ ものすごく微妙な位置が光っている。もうちょっと下だったら、 そこに唇で触れた時点で俺の人生の第二章が始まってしまいそうな 位置だった。 葛藤する俺⋮⋮目が充血してしまっていないだろうか。そう心配 してルシエを見ると、彼女はじっと俺を見てぱちぱちと瞬きしてか ら、何を求められていると思ったのか、こくりと頷いた。 ﹁⋮⋮ヒロト様、大丈夫です。ここは、お胸ではありませんから﹂ ﹁お、お胸って⋮⋮﹂ ﹁そうですヒロト様、そこはお胸ではありませんから、誰からもお 咎めは受けません﹂ ◆ログ◆ ・︽アイラ︾はつぶやいた。﹁それを言ってしまうと、私たちがい けないことをしていたと言っているようなものでは⋮⋮い、いえ、 あれはヒロト様の勇気に対するご奉仕。神官としての務め⋮⋮ああ ⋮⋮﹂ ︵ああ、ってなんだ⋮⋮やめてくれ、何もしてないのに色っぽい声 1086 を出さないでくれ。ただでさえ俺はもう限界なんだ⋮⋮!︶ こんなところで公女殿下に、初めての授印をすることになるなん て⋮⋮彼女に与えるスキルは、何がいいんだろうか。 ﹁⋮⋮ルシエ、今、一番したいことってあるか? こんな時に聞く のはなんだけど﹂ ﹁私は⋮⋮ヒロト様に喜んでいただけるようなことが、したいです。 ここまで連れてきていただいたお礼⋮⋮守っていただいたお礼。そ して、しるしをいただくお礼⋮⋮私の身一つでは、もう返し切るこ とが出来ません⋮⋮それでも⋮⋮﹂ ルシエが俺に聞こえない、ささやくような声で言う。とても言え ないこと︱︱けれど俺なら、その願いをすくってあげられる。 ◆ログ◆ ・︽ルシエ︾はつぶやいた。﹁⋮⋮いつかヒロト様と、旅に出たい。 私も、冒険に⋮⋮﹂ おそらく籠の鳥のような暮らしをしていただろうルシエが望むこ と。それは、自由が欲しいということだった。 俺が与えるスキルがきっかけになるのかは分からない。それに俺 は、一つだけ選ぶとしても、ルシエに何を与えれば一番いいのか、 今はまだ選べない。 けれど俺は、彼女がいつか、飛び立つ日が来られたらいいと思っ た。お姫様が一度も本国を離れて周遊してはいけないなんてことも ないはずだから。 1087 ◆ログ◆ ・あなたは︽ルシエ︾の肌に唇で触れた。 ︵熱い⋮⋮本当にそうだ。着印点に集まったルシエの魔力と⋮⋮俺 の魔力が、交じり合って⋮⋮︶ 二種のマナが一つになって、俺の思い描いた形を、ルシエの胸に 残す。 俺が唇を触れさせたままでわずかに動くだけで、少女は小さく反 応し、身体を震わせる。俺はそれを見ていることが出来ずに、途中 からは目を閉じた。 ﹁⋮⋮こんな気持ちを知ったら⋮⋮私は⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ルシエ︾に刻印を与えた! 今はまだ、俺は彼女に与えるスキルを選べなかった。彼女が本当 に俺と旅に出たいというなら、そのとき、必要なスキルを選ぶべき だろう。 それに、刻印を与えることがスキルを与える行為だなんて、彼女 も今はわかっていない。今、彼女が必要としているものは、王族と して認められるための刻印そのものだけだ。 1088 ﹁⋮⋮っ﹂ 刻印をつけ終えたあと、ルシエはふらりと身体のバランスを崩し て、俺のほうに寄りかかってきた。 ﹁おっと⋮⋮ごめん、ちょっと疲れちゃったかな。でも、ちゃんと つけられたよ﹂ ﹁⋮⋮ありがとうございます、ヒロト様⋮⋮﹂ 俺に寄りすがったまま、ルシエは開いた胸元に手を当て、そこに ある印を確かめるように指先で撫でた。 しるし ﹁⋮⋮ヒロト様にいただいた、徴⋮⋮これが、女神様より託された 刻印なのですね⋮⋮﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮上手く出来てよかった。これで、ルシエも堂々と首 都に帰れる。公王陛下も、きっと喜んでくださると思うよ﹂ ﹁⋮⋮父上⋮⋮陛下からは、私は温かい言葉をいただいたことがあ りません。それよりも、私は⋮⋮ヒロト様にしるしをつけていただ いたことが嬉しい⋮⋮何よりも、嬉しいです﹂ 開花を目前にしたその美貌。深い緋色の瞳は、俺の姿しか映して いない。 ︱︱そして、肌に唇が触れるという行為が。少女をほんの少しだ け、少女でなくしていく⋮⋮。 ◆ログ◆ ・︽ルシエ︾の﹁母性﹂が上昇した! 1089 女性として俺を意識したことで、上昇したということなのか︱︱ これで19ポイント。 しかし20ポイントになったからといって、俺が彼女を見る目が 変わるわけではない。公女殿下である彼女は敬う対象であり、今回 胸元にキスをしたことも、もう二度と許されない行為かもしれない と理解している。 ︵王統スキルのために採乳⋮⋮は、期待しちゃいけないな。俺は、 もう役目を果たしたんだ⋮⋮︶ あとは首都までルシエを連れていき、みんなと一緒に、ルシエの 王族としてのお披露目を兼ねた祝祭を見物する。ミゼールを出てか ら数日しか経っていないのに、ずいぶんと長い旅になってしまった と感じていた。 ﹁ん⋮⋮どうした? 刻印をつけたばかりで、身体が変だったり⋮ ⋮﹂ しないか、と言いかけて、俺はルシエに言葉を止められる。 唇を塞がれている︱︱彼女の細い指先で。 ﹁⋮⋮フィル姉さまのようになれるまで、もう少しだけお待ちくだ さい。ヒロト様は、あのような行為がお好きなのですよね⋮⋮?﹂ ﹁こ、行為っていうか⋮⋮﹂ ルシエがヴェレニスで、俺とフィリアネスさんのことをどこまで 見ていたか︱︱イアンナさんに事細かに聞かされていたのかと心配 したが、やはりその通りだったようだ。 1090 彼女は胸元のしるしを俺に見せる。よせばいいのに、頑張ってし まっていると明らかにわかる⋮⋮ほんのり赤かった顔が、さらに赤 くなってしまっているから。 ﹁⋮⋮この刻印は、私が王族であることを表すと同時に⋮⋮ヒロト 様に初めて触れていただいたことの、証です。もう、一生消すこと はありません﹂ ﹁っ⋮⋮る、ルシエ、それって⋮⋮﹂ どういう意味か確かめる前に、ルシエは微笑んで俺から離れる。 ファムさんとアイラさんは、口元に指を当ててこっちを見つめて いたが、慌てて取り繕う。彼女たちも、刻印をつけて欲しいのか⋮ ⋮って、女神の刻印ってことにした以上、手当たり次第につけては 回れないな。印はごく小さいものだけど、形は自分で決められるか ら、一人ひとり違う形にすれば問題ないのだが。 ︵って⋮⋮一人ひとりって、今後も授印していくみたいな⋮⋮お、 俺ってどんどんダメになってないか⋮⋮?︶ ﹁ヒロト様、村に戻りましょう。私と、首都までご一緒していただ けますか⋮⋮?﹂ ﹁あ、ああ。それはもちろん、最後まで責任を持ってついていくよ﹂ ﹁ありがとうございます。首都に着いたら、改めてお礼をさせてい ただきます⋮⋮私に出来ることはささいなことかもしれませんが、 王族として認められた暁には、私のために尽力してくれた方々に報 いたいと思っています﹂ そうか⋮⋮そうだな。やっぱりルシエは、高貴な人物として義務 を果たさなければならないから。俺に対しても、首都に着いたらそ 1091 ういう意識で接することになるだろう。 それを寂しいと思ってはいけない。彼女に敬語を使おうと努めて きたが、それを完全に徹底すればいいだけだ。 ﹁⋮⋮ヒロト様には、個人的にお礼がしたいです。王族としてでは なく、ただのルシエとして﹂ ︵⋮⋮俺って、そんなに顔に出やすいのか?︶ それとも、女性が男性の感情を読み取ることに長けているのか。 どのみち、ルシエが嬉しい事を言ってくれたことに違いはないの で、まあいいか⋮⋮と思ってしまう。読心術なんてスキルは、彼女 は持っていないのだから。 ルシエはイアンナさんに付き添われ、先に洗礼の間を後にする。 俺はファムさんとアイラさんに手を差し出され、気恥ずかしいとは 思ったが、二人と手を繋いでルシエたちの後についていった。 ﹁ヒロト様⋮⋮これから、お時間をいただけますか? よろしけれ ば、出発の前に私たちの家に⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いや、あの⋮⋮フィリアネスさんたちも待ってるか ら、できるだけ急ぐべきっていうか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮あの、お印を与える行為は、お印を与える以外ではなさらな いのでしょうか?﹂ ︵だからあかんやつなんだ⋮⋮印をつけないのに授印したら、それ はただのキスだ⋮⋮!︶ ファムさんとアイラさんが何を望んでいるか︱︱真面目だと思っ ていたファムさんも、わりと大胆だ。禁欲的な生活を送っているの 1092 で、俺とお風呂に入ったときも、かなりドキドキしていたらしい。 ドキドキしても無理のないことを、幾度にもわたってしてもらった わけだが。 ﹁え、えーと⋮⋮絶対、またこの村に来るから、その時に⋮⋮って いうことでいいかな﹂ ﹁⋮⋮マールギットさんが、神殿の護衛をしてくれている間におっ しゃっていました。﹃ヒロトちゃんは好きになっちゃだめだよ、お あずけが上手だから﹄と﹂ ︵ひ、人が知らないところでそんな⋮⋮俺のイメージが⋮⋮!︶ ﹁そういうことだったのですね⋮⋮お姉さまも私も、さきほどのこ とで⋮⋮公女殿下とヒロト様を見ているうちに、身体が⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮この火照りを、もう一度来ていただいたときに鎮めていただ くということで、よろしいのですね?﹂ そこまで念を押されたら、ちょっとだけ寄り道してもいいかな、 とかダークネスな俺が囁いてくる。これが闇堕ち⋮⋮じゃなくて、 欲望に負けているだけだな。 ︵そういえば、ヴィクトリアはもう起きたかな⋮⋮出発前に、グー ルドのことを聞いておかないと︶ 考えているうちに、気が付くとファムさんとアイラさんが立ち止 まっていた。 ︵や、やばい⋮⋮答えなかったから、怒ってる⋮⋮?︶ ﹁⋮⋮今日は神聖な儀式の日ですし、ヒロト様もお疲れですから⋮ 1093 ⋮身体の疲れを癒していかれる、ということではいかがですか?﹂ ﹁それは名案です、お姉さま⋮⋮早速家に戻ったら、薬湯をお入れ しますね﹂ ︵リオナ、ミルテ、ステラ姉、ユィシア、モニカ姉ちゃんたち⋮⋮ 俺はもうすぐ帰るけど、何も変わってなんていないからな⋮⋮!︶ 妖艶としか言いようがなくなった二人に連行されていく俺。二人 とも神官なのだから、ちょっとくらいは我慢を覚えるべきなのでは と思いつつ、ここまで迫られるとついていく以外にはない。禁欲の 悟りを開くべきは俺のほうだというのは、間違いのない事実だった。 1094 第三十話 初めての刻印︵後書き︶ ※次回は明日21:00更新です。 1095 第三十一話 光と陰 村に戻って、神官長の家で﹁儀式の疲れ﹂を癒してもらったあと、 俺はヴィクトリアが目を覚ましたと聞いて、彼女のいるところに向 かった。 村の中に、それほど多く人を入れておける場所があるわけでもな い。ヴィクトリアは宿屋の一室に、手を縛られた状態で監禁されて いた。 俺とフィリアネスさんが二人で部屋に入ると、ヴィクトリアは俺 に鋭い眼光を向ける。しかし戦っていたときのような覇気はなく、 ふっ、と皮肉な笑みをこぼした。 ﹁何をしに来た⋮⋮私を笑いに来たのか。国の半分を手に入れると いう夢も破れ、こうしてお前たちなどに捕らえられている。もはや 自分が生きていられることが不思議だ。この屈辱は死に等しい﹂ ﹁死ぬことで楽になれると思ってもらっては困る。お前が死ぬと、 お前の両親が悲しまれるだろうからな﹂ ﹁親のことは口にするな! お前はいつもそうだ、何かあればすぐ 私の家族を持ち出す⋮⋮っ!﹂ ﹁⋮⋮当たり前だろう。お前の両親には、私も昔から格別のご厚意 をいただいている。近衛騎士として公国に尽くす父君と、娘思いで 料理がうまく、勤勉な母君。私たちの祖父母は、いつも言っている。 ヴィクターの母君を、ブラック卿に嫁がせて良かったと﹂ ﹁くっ⋮⋮!﹂ ヴィクトリアはそれ以上反論しなかった。ふぅ、と諦観のこもっ 1096 たため息をつくと、フィリアネスさんを見やる。 フィリアネスさんの祖父母ということはヴィクトリアにとっても 同じなのだから、今の言葉は耳に痛かったということだろう。 ﹁フィル⋮⋮私はお前を本気で殺すつもりだった。だからこそ私も は 騎士として、欠片でも誇りを残したままお前の手で死にたい。私の 首を、私の愛剣で刎ねてくれ。反逆の汚名を受けて生き長らえれば、 父と母の誇りに傷をつけることになる﹂ ﹁⋮⋮この期に及んで愛剣などと言っているあたり、私はお前のい うことを聞いてやる気にはならない。お前に騎士の誇りがひとかけ らでも残っているというなら、裏切りの代償は忠義によって支払う がいい﹂ ﹁⋮⋮死ぬことすら許されぬというか。くっ⋮⋮くくっ⋮⋮酷なこ とを。私はその子供に思うさまやりこめられ、そして⋮⋮お、女と して、この23年の間、全く動かなかった心を、開かされてしまっ たのだぞ⋮⋮?﹂ ﹁そう、俺がヴィクトリアさんの心を⋮⋮ってえええ!?﹂ いきなり自分に話を振られると思ってなかった俺は、ナチュラル に返事をしてしまった。 ︵ま、まずい⋮⋮フィリアネスさんに怒られる⋮⋮ヴィクトリアさ んとすごく仲良くなったと思われたら⋮⋮いや、確かにそうなんだ けど⋮⋮!︶ 戦闘中ですらこれほど鼓動が高まることもない。ど、どうする⋮ ⋮どうすればいい⋮⋮!? フィリアネスさんは肩にかかる金色の髪をさらりと後ろに流すと、 俺の方をちら、と見る。その頬は、何を思っているのか、目に見え 1097 て赤くなっていた。 ﹁この子はお前が道を外れようとするのを、スライムを使って止め てくれたのだ。その鉄仮面をつけていたせいで、お前は思ってもみ ないことをしようとした⋮⋮元から、簡単に人を殺せるような人間 ではなかったはずだ。昔のお前は、道端の花ですら、静かに愛でて いるようなところがあった。詩なども書いていたな﹂ ﹁っ⋮⋮わ、私の過去を気安く口にするな! 私は花など愛でてい ない! 弱者を哀れんでいただけだ! し、詩に関しては、気のせ いだ! あれは平和ぼけした世界に向けての、邪悪なる呪いの羅列 だッ!﹂ ︵このいたたまれない感じ⋮⋮やめてあげてフィリアネスさん、こ れ以上黒歴史をご開帳しないであげて!︶ 暗黒騎士だけに黒歴史とはこれいかに。いや、花を愛でるのも、 ポエムを書くのも、むしろ白い歴史とも言えるが。ヴィクトリアに も、そんな純粋な頃があったんだな。 俺は幸いにも黒歴史ノートを作ったりはしていないが、陽菜は何 やら﹁絶対に見せられない﹂と言っているノートがあった。今とな っては、その中身を確認することはかなわないわけだが︱︱今更に 惜しく感じてくる。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮き、貴様こそ、私のことを言えた義理なのか。 フィル⋮⋮知っているぞ。お前が子供の頃飼っていた猫に、﹃ミイ﹄ という名前をつけていたことを!﹂ ﹁⋮⋮そ、そんなことは⋮⋮私は知らない。身に覚えがない﹂ ﹁ふはははっ、笑わせる! 聖騎士のくせに自分の発言に覚えがな いだと? それはあの猫への裏切りではないのか!﹂ 1098 ﹁くっ⋮⋮だ、黙れ! 私が飼っていたあの猫は、庭で遊ばせてい るときに逃げてしまったのだ! 名前などつけなければよかった⋮ ⋮そうしたら、寂しい思いなどしなくて済んだ⋮⋮!﹂ ぐっと拳を握りしめて心情を吐露するフィリアネスさん。それを 見てヴィクトリアはさらに嘲笑するかと思いきや︱︱言ってはいけ ないことを言ってしまった、というように、口を噤んでつらそうな 顔をする。 ︵⋮⋮この二人⋮⋮もしかして、もともと親友だったのでは?︶ シリアスな顔を崩していいのか分からず、俺は真面目な顔をした ままで、そんな平和な結論に行き着く。 元々は同じ騎士の道を志していたが、何かがきっかけでヴィクト リアはフィリアネスさんを妬むようになり、暗黒道に堕ちた︱︱も ともとは、二人とも清らかな少女だったのだ。フィリアネスさんは 動物好きで、ヴィクトリアは花を愛するポエマーだった。ポエマー はちょっと言い方が悪いか。そう、夢見がちな少女だった。 夢見がちな少女が成長する過程で、中二病をこじらせるというの は無くはないのではないか。それとも、これは邪気眼だろうか。く っ、右目が疼く⋮⋮邪眼の力が抑えきれない⋮⋮! とか言ってみ てほしい。 ﹁⋮⋮今のは言いすぎた。あの猫を逃したのは、実は私だ﹂ ﹁なん⋮⋮だと⋮⋮?﹂ ﹁お前がいつも愛でている猫を奪ってやろうと思った私は、猫を遊 ばせている隙に好物を使ってミイをおびき寄せたが、あろうことか 私の指にかみつき、逃げてしまった。それがあの事件の顛末だ﹂ 1099 淡々とした口調で言うヴィクトリアだが、言っていることはかな りひどい。事件の顛末というか、先にごめんなさいと言うべきでは ないのか。 ﹁⋮⋮そんな事実を今さら聞かされたところで何になる。私は、今 さら浸るような感傷など持ちあわせては⋮⋮﹂ ﹁フィリアネスさん、いいんだよ。本当に大事だったんだね、その 猫が﹂ 今何も言わなかったら、何のために居るのか分からなくなる。俺 はフィリアネスさんの手を握って、声をかけた。彼女は目を少しう るませていたが、俺の頭に手を置いてくしゃくしゃと撫でると、髪 を整え直してくれてから微笑んだ。 ﹁ふふっ⋮⋮お前は優しいな。私も、ヴィクトリアに言われる前は 忘れていたことだというのに﹂ ﹁俺も犬を飼ってたことがあったから、気持ちはわかるんだ。まだ、 ほんの小さい頃だけどさ﹂ ﹁犬を⋮⋮一度も見たことがないが。私がいないときに飼っていた のだな﹂ 犬を飼っていたというのは、前世での話だ。本当は言うべきじゃ ないが、つい、口をついてしまった。俺が飼っていた犬も、首輪が 外れてどこかに行ってしまい、帰ってこなかったことがあったから だ。 ﹁ふん、今はおまえがフィルに飼われているようなものではないか。 振っている尻尾が見えるようだぞ﹂ ヴィクトリアは俺に対して攻撃的なことを言うが、フィリアネス 1100 さんは怒りはしなかった。もう、挑発に乗る気はないということだ ろう︱︱と思ったのだが。 ﹁⋮⋮私にとって、この子は何よりの宝だ。私の方がこの子につい ていくのが精一杯で⋮⋮言葉は悪いが、飼われているとしたら、そ れは私の方なのだろうな﹂ ﹁っ⋮⋮やはり、フィルもそう感じるのか⋮⋮我ら二人を従属させ るほどのものが、この子供に⋮⋮﹂ ﹁おおかたお前のことだ、初めはヒロトの素養に気づかず、さんざ ん罵声を浴びせたのだろう。その苛烈な性格ばかりは、騎士団に入 る頃には形成されきっていたからな。鉄仮面は関係なく﹂ ヴィクトリアも波瀾万丈の人生を送っているな、と思う。それ以 上に、フィリアネスさんに撫でられているのが心地よすぎて、ヘヴ ン状態になってしまっているけど。 ヴィクトリアに汚らしい餓鬼、と言われなくなると逆に物足りな くなったりもする。罵倒されて喜ぶとか、俺にはそっちの気がある のか⋮⋮罵倒されつつ責めたいとか、調教師なんてジョブがあった ら俺にはうってつけかもしれない。自主的に転職したくはないが。 ﹁ヒロトに罵声を浴びせた回数だけ、細剣で突くことも考えたが⋮ ⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮フィリアネスさん、さすがにそれはやり過ぎじゃないか な?﹂ ﹁フィルは聖騎士としての技を使い、人を斬らずに最強の呼び声を 手にした⋮⋮しかしそれは、人を斬る覚悟がないということではな い。私に対しての怒りも、それくらいでは足りぬほどだろう。今か らでも構わん、やれ﹂ ヴィクトリアの言葉に偽りはなく、彼女は怯えもせずにフィリア 1101 ネスさんを見つめる。苦痛を受けることが、自分に対しての必罰な のだと受け入れているかのように。 ︱︱しかし、俺たちが村に辿りつく前に黒騎士団を壊滅させたと いうことは。彼女は公爵の陰謀に与したとはいえ、罪のない人々を 手にかけてはいない。 ﹁⋮⋮俺は、ヴィクトリアさんが改心するなら、許してもいいんじ ゃないかと思ってる。公国に仕える騎士として、裏切りは絶対に許 されない、それは分かってるつもりだ。でも⋮⋮﹂ ﹁最初は私も、どうしていいものかと思っていた。せめて私の手で 斬るべきだと思った⋮⋮ヴィクトリアに一撃を放ったときは、その つもりだった。吸魔の鎧に防がれていなければ、今頃は⋮⋮﹂ ﹁くくっ⋮⋮あの時のお前の顔は見ものだったぞ、フィル。その顔 を見られただけで、私は溜飲をいくらか下げることができた。あの 鎧には、感謝しなくてはな⋮⋮﹂ ︵吸魔の鎧⋮⋮そういえば、ヴィクトリアはあれをどうやって手に 入れたんだ?︶ 俺はインベントリーの新規アイテム欄を呼び出し、その中にある 吸魔の鎧のパーツの一部の情報を開いた。 ◆アイテム◆ 名前:︻肩︼吸魔の鎧 種類:セット防具 レアリティ:レジェンドユニーク 防御力:16 1102 ・魔術のダメージをライフ回復に変換する。 ・︻肩︼︻胸︼︻腰︼︻腕︼︻脚︼の全ての部位を装備しなければ 効果を発揮しない。 ︵肩鎧だけで防御力16⋮⋮一式装備すれば、防具としてもきわめ て優秀だ。けど、普通なら、こんなアイテムをセットで揃えるのは、 何百日もプレイ⋮⋮もとい、探し求めても無理かもしれない︶ ユニークアイテムですら、通常に生活している分にはほとんどお 目にかからない。レジェンドユニークなんて高レアの上に、五つ集 めないと効果を発揮しない防具なんて、エターナル・マギアにおい ては実質上存在しない扱いにされる。それくらい手に入りにくいも のを、騎士団の団長とはいえ、あのレベルで手に入れられるとは⋮ ⋮何かある、と思わざるをえない。 ﹁ヴィクトリアさん、あの鎧はどうやって手に入れたんだ?﹂ ﹁⋮⋮教えると思ったか、阿呆が。貴様もあの鎧を手に入れたいと いうのか? 馬鹿も休み休み言え、あれは私のような高貴な血筋の 騎士でなくては、触れることも叶わぬものだぞ﹂ ﹁饒舌だな、ヴィクトリア⋮⋮だが、態度をわきまえてもらおう。 質問に質問を返すな﹂ ﹁くっ⋮⋮﹂ フィリアネスさんがレイピアの柄に手をかける。抜きはしないが、 プレッシャー それだけで凄絶な殺気が走る︱︱俺にも緊張が走るが、むしろ心地 よい剣気だ。 ﹁⋮⋮吸魔の鎧は、私が駐留していた砦にやってきた武具商が持ち 1103 込んだものだ。それなりの金額を要求されたが⋮⋮その時の私にと って⋮⋮今も同じではあるが、最適な装備だと思った。あの鎧の一 式を身につけると、吸い付くような感覚があった。そして鉄仮面を 被ったとき、私は今までの自分を簡単に捨て去ることができた。聖 騎士であるフィル、おまえを遠くから眺め、その栄光の陰にいた私 は、過去のものとなったはずだった⋮⋮﹂ 光と陰。聖騎士と暗黒騎士⋮⋮フィリアネスさんが人々の思慕を 集めているのを、ヴィクトリアは羨望の眼差しで見つめていた。そ れは、ヴィクトリアも人々に慕われる騎士になりたかったという気 持ちの現れだろう。 ﹁あの鉄仮面をつけたことで、私はお前が変わったと思っていた。 元から攻撃的で、向こう見ずなところはあったが、決定的に人間性 を失ったのは、あの鉄仮面をつけてからだ⋮⋮ヴィクトリア、そう ではないのか?﹂ ﹁⋮⋮鉄仮面まで着用しなければ、鎧は効果を発揮しない。そう言 われたのだ﹂ ︵⋮⋮なんだって?︶ ヴィクトリアの発言は、俺が見た吸魔の鎧の情報とは異なってい る。 ︱︱悪の鉄仮面は、吸魔の鎧のセット内容に含まれていない⋮⋮! 俺はフィリアネスさんにそれとなく合図して、身をかがめてもら う。そして、髪をかきあげて耳をすませている彼女に小声でささや きかけた。 ﹁フィリアネスさん⋮⋮ヴィクトリアは、騙されてたみたいだ。あ 1104 の鉄仮面で、悪い人に変えられてたんだよ﹂ ﹁⋮⋮やはりか。私が知っているヴィクターは、村を焼き討ちに出 来るような人物ではなかった⋮⋮礼を言う。私はヴィクターを斬り、 全ての真実を知らぬままで終わるところだった⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽ヴィクトリア︾はつぶやいた。﹁何を小声でささやいているの だ⋮⋮き、気になるではないか⋮⋮私の悪口を言っているのか? 絶対にゆるさない⋮⋮地獄の釜で煮られるがいい⋮⋮っ﹂ 結構小心者なログを見て苦笑していると、フィリアネスさんはヴ ィクトリアに近づき、何も言わずに腕を縛っていた縄を切った。 ﹁⋮⋮何のつもりだ?﹂ ﹁お前の命⋮⋮黒騎士団長の剣は、公王陛下に捧げられしもの。そ の役目を半ばにして死ぬことは許されない。生きてもらうぞ、ヴィ クター﹂ ﹁⋮⋮ふん。後悔するぞ、フィル。私は懐柔などされない。いつか お前の細剣を跳ね飛ばし、地に這いつくばらせ、私の愛馬で蛙のよ うに轢き潰してやる﹂ ﹁出来るものならやってみるがいい。私はお前の相手は疲れた⋮⋮ ヒロトに任せたほうが、よほど充実した指導をしてもらえるだろう﹂ ﹁し、指導だと⋮⋮こんな汚⋮⋮子供に、教えられることなどっ⋮ ⋮あ⋮⋮!﹂ 勢い良く反論しかけてから、ヴィクトリアは顔を赤くして口をふ さぐ。 1105 ︵あ、って⋮⋮ま、また変なこと言い出すんじゃないだろうな⋮⋮ なんだその少女マンガみたいな反応は⋮⋮!︶ ﹁何を言いかけたのだ? 私たちは急いでいるのだから、あまり間 を持たせるな﹂ ﹁⋮⋮そ、その子供に、教えられることが無かったわけではない。 私は⋮⋮その、初めてだったからな。こんな気持ちになるものかと、 少しだけ学ぶところもあった⋮⋮そ、その、それについては、ゆく ゆくは、汚⋮⋮ではなく、立派な餓鬼⋮⋮ではない、青年になって から、つ、次の過程に進むことも⋮⋮視野に入れなくもない﹂ ︵そ、そこまで⋮⋮何だか優しい目で見られるようになったけど、 好感度が最大になってしまったのでは⋮⋮?︶ ヴィクトリアに何をしたか、フィリアネスさんは現場に居合わせ なかったので見ていない。俺の︻暗黒︼剣技スキルが10になって いるということは、つまりそういうことなのだ。平均してスキルが 10に達するまで、必要回数は⋮⋮もう伏せても仕方ないが、採乳 した回数は50回である。採乳はすればするほど友好度が上がる︱ ︱最大値になるには早すぎるが、もしかしたらヴィクトリアはショ タコンなのかもしれない。 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮やはりおまえはすごいな。あのヴィクトリアを、 ここまで心酔させてしまうとは。だ、男女の関係というと、私の心 情としては止めざるをえないが⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん、それは大丈夫だよ。俺はフィリアネスさんを裏 切らないよ﹂ ﹁そうか⋮⋮いや、おまえがどうしてもというなら、束縛するつも りはない。ヴィクトリアも放っておけば、独身のままだろうからな﹂ 1106 ﹁フィルに言われたくはないな。社交の場に出れば、私はおまえよ りは男の扱い方をよく知っているぞ﹂ 二人の間の空気が段々と柔らかくなってきた。しかしヴィクトリ アの罪は重いので、その責任を何らかの形で取るまでは、完全に気 を許すわけにはいかない。 ﹁それにしても⋮⋮フィルにはそんな趣味があったのだな。その1 点に関しては、私たちに共通点があったと言わざるをえない。ヒロ ト、おまえはフィルと何歳で知り合ったのだ?﹂ ﹁え、えーと、それは⋮⋮あれ?﹂ 気が付くとフィリアネスさんが部屋の隅にしゃがみこんで、耳を 塞いでぷるぷると震えていた。 ︵⋮⋮ゼロ歳から仲良くしてるっていうのは、やっぱり後ろめたい のかな? でもそれだけ、フィリアネスさんが本気でいてくれてた ってことだよな⋮⋮︶ ﹁聖騎士は清廉潔白、二十九歳までは戒めもあり、結婚も禁じられ ている⋮⋮しかし私は違う。どうやら勝負は決したようだな、フィ ル。ヒロトが男性として私の家族に紹介できるほど成長したとき、 おまえとヒロトの蜜月は終わるのだ﹂ ﹁み、蜜月と言うな⋮⋮わ、私もそれは否定しないが、おまえに出 し抜かれるいわれはないっ!﹂ ﹁何を言うフィル、恋愛は自由だ。八歳にして私はヒロトに、豊か な将来性を見出した。ヒロトも私に触れることで、とても満足そう な顔をしていた⋮⋮どうだ! 出会いが遅くても、私はフィルに遅 れを取ることはないぞ!﹂ ﹁くぅ⋮⋮!﹂ 1107 囚人着のようなシンプルな格好をしていたヴィクトリアは、立派 な胸を張ってふんぞり返った。薄い布なので、バストトップの形状 が⋮⋮言わない方がいいな。俺は何も見なかった。 ︵まあ、俺にとってはフィリアネスさんの方が、ヴィクトリアより 何倍も大切なんだけど⋮⋮︶ フィリアネスさんにはちゃんと伝えておかないといけないが、と ても恥ずかしい。せめてヴィクトリアがいないときに、二人で話し たい内容だ。 ﹁ふぅ⋮⋮少しは溜飲が下がった。話は変わるが、私も部下たちの ことを考えると、今後はお前たちに従うべきだと考えていた。今は 気分がいい、無条件で降伏してやろう﹂ ﹁いや、条件を出せる立場じゃないけど⋮⋮確かに、ヴィクトリア さんと部下の人たちには、こっちについてくれた方がありがたい。 グールドにこれ以上協力しない、それは約束してくれるかな?﹂ ︱︱約束を違えたときは、その命は無いものと思ってくださいま せ。 ﹁っ⋮⋮な、何だ、この⋮⋮先程も戦場で、かすかに感じてはいた が⋮⋮この殺気は、何なのだ⋮⋮っ!?﹂ ミコトさん⋮⋮姿は見せないけど、いつでも殺せるっていう気を 放ってるな。 そして、おそらく彼女は本当に、約束を違えたときにヴィクトリ 1108 アを許しはしないだろう。 一度のギルド対抗戦で相手プレイヤーを倒した人数が、自分が倒 された回数の五十倍に達する。普通なら敵プレイヤーの得意攻撃が 決まれば、何人ものプレイヤーが一度にライフをゼロにされるよう なゲームバランスで、彼女は驚異的な生存率を誇り、敵を葬りつづ けた。それは、全く容赦しないこともひとつの理由だ。 ︵それは異世界でも同じだ⋮⋮ミコトさんは、﹃闇影﹄だ。自分が そうするべきだと判断したら、きっと躊躇なく人を殺せる︶ ヴィクトリアは周囲に気を配っていたが、気配を探ることを諦め る。その首筋に汗が伝っていた。 ﹁⋮⋮お前たちは⋮⋮なぜ、そこまでの力を持って、何も求めずに いられる?﹂ ﹁求めてないなんてことはないよ。そうしなきゃいけないと思い始 めてる⋮⋮この国を安定させないと、外には出られないから﹂ ﹁外に⋮⋮い、いや。私はお前たちの目的になど、興味はない。お 前たちがグールドを倒せるかどうかもだ。私たちはただ傍観する。 何度もこうもりのように立場を変えては、それこそ信用出来るもの ではあるまい﹂ ヴィクトリアの言うことはもっともだ。何もせずに居てくれるこ と、出来ればイシュアラルを黒騎士団が守ってくれればいいが、馬 鹿正直にヴィクトリアを信頼もできないし、フィリアネスさんの兵 に来てもらうのが一番いいだろう。 ︵兵⋮⋮か。まさか、こんなことを考える日が来るなんてな⋮⋮︶ 俺も領地を持ち、自分の勢力を持つことが出来れば。そうしなけ 1109 れば、大きな勢力を相手にするとき、多勢に無勢という不利な条件 と常に向き合わなくてはならなくなる。 四王家のひとつで、公爵の地位を持つ敵。その力を抑えこむには、 俺にも同等の力が必要だ。 女神にボーナスを与えられ、超人的な強さを手にした俺が、権力 を求めることは危険な思想だと思っていた。それは今でも変わらな いし、急に兵を手に入れるなんてことは出来ない。フィリアネスさ んの指揮する兵士の力を借りるだけでも、相当な助力だと理解して いる。 ︱︱しかし。イシュアラルの村と同じように、もしミゼールの町 を人質に取られたら⋮⋮そして、今回のように、事前に敵の企みを 防ぐことが出来なかったら。 リカルド父さんが守っている魔剣にも、敵の手が及んでしまうか もしれない。俺が今抱いている理想を全て実現するには、今のまま ではいけない。 ︵⋮⋮ギルドマスターを目指そうと思ってたのに、一足飛びだな⋮ ⋮領土が欲しいなんて︶ 国から領地を与えられるには、功績が必要だ。公王に認められる ために、何が出来るか⋮⋮。 そのためにルシエを守ったわけじゃない。もっと別のことで功績 を上げる⋮⋮名声を得なければ。 そうしなければ、人の上に立つ資格などない。領地が欲しい、そ んな目的で名声を得ようとするのは、決して清廉な行いではないだ ろう。 考えているうちに、ヴィクトリアが俺を神妙な顔で見ている。彼 1110 女は俺の沈黙を、別の意味に受け取ったようだった。 ﹁⋮⋮どうしてもというなら、グールドに対して挙兵することも考 えよう。我らは公国にとっては反逆者だ。その延長上で、公爵の抹 殺を図ったとしても何もおかしくはあるまい?﹂ ﹁それをすると、ヴィクトリアさんたちはこの国に居場所がなくな る。フィリアネスさんが言ったとおり、ヴィクトリアさんの両親に も責任が及ぶだろう⋮⋮だから、傍観でいい﹂ ﹁そうか⋮⋮ならば、高みの見物をさせてもらおう﹂ 口は悪いが、言ったとおりにしてくれるならこちらとしては助か る。ヴィクトリアと部下たちをフィリアネスさんの指揮下におき、 イシュアラルからヴェレニスに移動してもらえば、それで問題はな い。 しかしヴィクトリアは、何か言い残したことがあるという顔をし ている。どうやら、まだ話を終えるわけにはいかないようだった。 1111 第三十一話 光と陰︵後書き︶ ※次回は明日21:00更新です。 ※追記:申し訳ありません、少し遅れます。 1112 第三十二話 白と黒/二人目の刻印/忍びの本懐 ヴィクトリアはしばらく迷っていたが、意を決したように口を開 いた。 ﹁⋮⋮と、ところで⋮⋮ヒロト。今さら、装備を返せなどと言うつ もりはないが⋮⋮あ、あれだけは、私の手元に戻してくれ。吸魔の 鎧はお前に預ける、あれは私を狂わせる魔性の鎧だ﹂ ﹁え⋮⋮あれって? 俺、吸魔の鎧しか⋮⋮ああ、クロースアーマ ーのことか?﹂ ﹁ち、違う⋮⋮それも返してもらえればありがたいが⋮⋮まさか、 回収してこなかったのか? それなら、監視をつけてもらってもい い、私が自分で探しに行く。あれを他人に見られたら、私はやはり 舌を噛まなければならない﹂ ︵⋮⋮あれって何のことだ? 俺、何か別に拾ってきたっけ?︶ そういえば、ミコトさんが何か言ってたな。吸魔の鎧の他に、何 か変わったものが無いかとか。 最近取得したアイテムは、新規アイテム欄で確認することができ る。俺は何もないだろうと思いつつ、もう一度確認してみることに した。 ◆新規取得アイテム◆ 両手剣:黒曜石の大剣+3 頭装備:悪の鉄仮面 1113 肩装備:︻肩︼吸魔の鎧 胸装備:︻胸︼吸魔の鎧 腰装備:︻腰︼吸魔の鎧 腕装備:︻腕︼吸魔の鎧 脚装備:︻脚︼吸魔の鎧 補助装備:黒のクロースアーマー 補助装備:黒のスキャンティ ︵⋮⋮スキャンティ?︶ クロースアーマーと一緒くたに回収してしまったのだろうか。ジ ョゼフィーヌは一個ずつ脱がせる淑女だというのに。 ⋮⋮スキャンティってなんだろう。これは、フィリアネスさんに 聞いてみるしかないか。俺は部屋の隅で恥じらっているフィリアネ スさんに近づき、驚かせないようにそっと肩を叩いた。 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮私が、恥知らずな女だと気がついてしまったのか ⋮⋮? いたいけな少年に、な、何度も、聖騎士らしからぬ行為を ⋮⋮っ﹂ ﹁ち、違うよ、そうじゃなくて。フィリアネスさんは全然悪くない よ、ね?﹂ ﹁⋮⋮うむ。おまえがそう言ってくれるなら、気が楽になる﹂ フィリアネスさんはぺちぺちと頬を叩くと、気を取り直してすっ くと立ち上がった。その立ち直りの早さに、ヴィクトリアがちっ、 と舌打ちをする。 ﹁少し慰められたくらいで、私とフィル、お前の差は埋められない。 私は心身共に、ヒロトに捧げ尽くしているのだからな﹂ 1114 ﹁そんなことはもう気にしない。おまえと私では、ヒロトと積み重 ねた時間が違う﹂ ﹁なっ⋮⋮じ、時間など関係ない! いかなる接触をしたかが問題 なのだ! こら、む、無視をするなっ!﹂ フィリアネスさんは耳を貸さない。つーん、という彼女の仕草は 珍しいくらいに子供っぽい⋮⋮こんな一面もあるんだな。ヴィクト リアと話していると、フィリアネスさんは俺の知らない一面を見せ てくれる。 ﹁あ、あの、フィリアネスさん。ちょっと聞きたいことがあるんだ けど﹂ ﹁ん? ああ、すまない。ヴィクトリアには、しっかりと言ってお きたかったのでな⋮⋮それで、どうしたのだ?﹂ 俺は例のごとくフィリアネスさんにかがんでもらい、彼女に小声 で質問した。 ﹁︱︱フィリアネスさんは、スキャンティって何のことか知ってる ?﹂ 聞いた途端に、フィリアネスさんがびくっと跳ねた。そして慌て ふためき、俺の両肩に手を置いて、ずいっと迫ってくる。 ﹁っ⋮⋮す、す⋮⋮な、なぜ今それを⋮⋮っ?﹂ ﹁あ、え、えーと⋮⋮貴重なものなのかなと思って。それって、大 事なものだったりするのかな?﹂ フィリアネスさんが凄くあせってる⋮⋮そんなにレアなアイテム なんだろうか? 1115 インベントリーから出してみればいいのだが⋮⋮そうしてみるか。 いや、フィリアネスさんが教えてくれれば⋮⋮。 ﹁⋮⋮ヒロトは、そんなものが欲しいのか?﹂ ﹁え、えーと⋮⋮貴重なものなら欲しいかなって﹂ ﹁そ、そうか⋮⋮わかった。お前がそこまで言うのなら⋮⋮す、す ぐに必要なのか?﹂ ﹁う、うん。すぐに教えてもらえるとありがたいかな﹂ 何か噛み合ってない感じが⋮⋮あ、あれ? フィリアネスさんが 部屋から出て行ってしまった。 ヴィクトリアは縛られて赤くなった手首を見つつ、こちらを微妙 にじっとりとした目で見てくる。 ﹁なぜフィルに相談する必要があるのだ⋮⋮それにあの女、何か勘 違いしているのではないか?﹂ ﹁勘違いって、何を?﹂ ﹁わ、私が知ったことではない⋮⋮どうなっても知らんぞ﹂ ヴィクトリアはそっぽを向いてしまう。そして、フィリアネスさ んがドアを開けて戻ってきた。右手は背中の方に回っている⋮⋮何 か隠してるみたいだ。 彼女は無言で俺を部屋の隅に連れていくと、かなり迷ってから、 後ろ手に持っていたそれを、ヴィクトリアに見えないようにして渡 してきた。 ﹁⋮⋮必要ならば仕方がない。わ、私には一枚しか持ち合わせがな いので、今脱いできたのだが⋮⋮﹂ 1116 ︵⋮⋮脱ぐって、なにを? 俺はスキャンティのことを聞こうとし たはずでは⋮⋮?︶ ﹁あ、ありがとう⋮⋮﹂ 渡されたものは、白くてやわらかい布みたいなものだった。 ぴら、と広げると、フィリアネスさんは顔を覆ってしまう。耳ま で真っ赤になって⋮⋮な、なんだ。この布が、そんなに恥ずかしい ものなのか⋮⋮? ﹁⋮⋮そんなに急に欲しいと言われても、困ってしまうからな⋮⋮ 今度からは、事前に心の準備をさせてくれ。まったく何を言い出す のかと思ったぞ﹂ フィリアネスさんは腰のあたりが落ち着かなさそうにする。彼女 が今着ている服は、鎧を外したあとなのでラフな服装だ。簡素なワ ンピースのような感じで、ひざ上くらいまでしか丈がないのだが、 太ももまで靴下でカバーされている。恥ずかしがるような服装では ないのだが⋮⋮。 それは、しっかり下着を装備していればの話だ。 ︵⋮⋮す、スキャンティって、パンツのことか⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮女性の下着など、欲しがるべきではないぞ。分かっていて聞 いたのではないのか?﹂ ﹁え、えっと⋮⋮何ていうか、その⋮⋮﹂ ︵違うと言ったら、フィリアネスさんに恥をかかせることになる⋮ ⋮でも、今のやりとりでまさか脱いでくれるなんてありえないだろ 1117 ! あ、温かいんですけど⋮⋮!︶ 脱ぎたてのパンティおくれ、というニュアンスのことを言った覚 えは全くない。しかし振り返ってみると、そんなふうにとれなくも ない。スキャンティが、女性の下着のことだったとしたら︱︱単に 俺が、無知を晒していただけなのだとしたら。 ︵⋮⋮へ、変態だぁぁぁぁ! 俺が!︶ ﹁そ、そんなにしっかりと掴むな⋮⋮生地が繊細にできているから、 伸びてしまうぞ﹂ ﹁ヒロト、フィル、何をしている。私はそれほど、大それた要求を しているわけではないつもりだが⋮⋮?﹂ ﹁ヴィ、ヴィクトリアさん、その話はまたあとで! 絶対後で返す から!﹂ ﹁⋮⋮ま、まあ、それならばいいのだが。一応聞いてみただけなの だから、そこまで気に病むことはないぞ﹂ 逆にヴィクトリアに心配されてしまった。毒舌がなくなると、フ ィリアネスさんと口調が似て、騎士らしさが出てくるな⋮⋮などと 思いつつ。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁白のスキャンティ﹂を手に入れた。 ︵っ⋮⋮い、いらなくは決して無いけど⋮⋮むしろ欲しいけど、正 式にログで表示されても⋮⋮!︶ 1118 ﹁⋮⋮と、とにかく⋮⋮ヴィクトリア、お前の今後については決定 した。グールドには協力せず、ここで待機していてもらう。表立っ てグールドが黒騎士団に接触できない以上、それで問題あるまい﹂ ﹁いいだろう。先ほどの尋常ならざる気配もあることだ⋮⋮私も一 度拾った命を、簡単に捨てることはするまい﹂ ミコトさんが常に監視してるわけじゃないけど、一度あの殺気を 向けられたら、それは生きた心地がしないだろう。これ以上裏切ら ないように念を押す必要はなさそうだ。 ﹁では、私たちは準備を終え次第出発する。ヒロト、行くぞ﹂ フィリアネスさんに手を引かれて部屋を出る。しかし彼女は宿を 出ずに、俺を別の部屋に連れて行った。 何か、彼女が急いでるというか⋮⋮俺はこれから、やっぱり怒ら れるのでは⋮⋮? ﹁あ、あまり動くとやはり⋮⋮ヒロト、あとで返してもらうぞ。こ とが済んだあとにな﹂ ︵⋮⋮ことって何のことなんだろう。俺は子供だから全然わからな い⋮⋮なんてわけにいくか⋮⋮!︶ 鈍い俺でもわかる。フィリアネスさんがしようとしている﹁こと﹂ が何なのか。 ◇◆◇ 1119 空き部屋に入ると、フィリアネスさんは鍵をかける。そして、俺 のことをまっすぐな目で見つめて言った。 ﹁⋮⋮先ほど席を外したとき、宿の主人に言って、少しだけ部屋を 借りてきた﹂ ﹁ご、ごめん、俺、何のことかわかってなくて⋮⋮﹂ 下着をもらったことを怒られるとか、返せと言われるのかと思っ たが︱︱違っていた。 ﹁⋮⋮ヴィクトリアに、彼女が言っていたようなことを、したのだ な?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それも本当にごめん、でも⋮⋮﹂ ﹁でも、ではない。ヴィクトリアに勝ったままだと思われているの は、気分がよくない⋮⋮﹂ ︵⋮⋮それって⋮⋮フィリアネスさん、もしかして⋮⋮︶ 改めて怒られるとばかり思っていた俺だが、その一言でスイッチ が切り替わった。 フィリアネスさんは木で作られた窓の隙間から入り込む光の中で、 俺の方をまともに見られずに俯いている。その手は服の胸のところ をきゅっと掴んでいた。 ﹁私の気持ちは、分かってもらえるだろうか⋮⋮そう、悠長にして いる時間がないとは分かっている。しかし、あそこまで言われては、 私も⋮⋮黙っているわけには、いかないのだ⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮あ、あの。ずっと、言ってなかったことがあるんだけど⋮⋮﹂ 1120 ︵今しかない。はっきり言っておくには、今しか⋮⋮その流れなら きっと、フィリアネスさんは、俺から﹃限界突破﹄を受け取ってく れる︶ 母性が一定の数値を超えている人から、俺はスキルを与えてもら うことが出来る。 そして今の俺は、持っているスキルを一つ与えることができる。 限界突破にこだわりすぎることはないが、俺はフィリアネスさん の﹁今のままではいけない﹂という思いに応えたい。出来るなら、 俺の手でそのきっかけを作ってあげたい。 ︵ユィシアに頼むのが申し訳ない⋮⋮というか。ドラゴンミルクは、 代価が必要だからな︶ 金貨でスキルを手に入れるのも、それは悪くないのかもしれない ︱︱しかし。俺は自分の独占欲に正直で、ユィシアとの繋がりを唯 一のものにしていたいと思ってしまった。 そんな俺の胸中を知らず、フィリアネスさんは緊張した面持ちで 歩み寄ってくる。まだ見上げるような身長差があるけれど︱︱小柄 な彼女には、今のまま成長し続けられたら、いつか追いついてしま うだろう。 ﹁⋮⋮言っていなかったこととは。私の⋮⋮その、吸ったことで、 神聖剣技を身につけたということか?﹂ 見ているだけで習得した︱︱そんなふうにフィリアネスさんは言 ってくれていたけど。それは二番目の予想であって、彼女の中では、 一番目の答えは違っていたのだろう。 1121 ︵知っていて、させてくれたのか⋮⋮いや。俺が魔法剣を使ったと きに気付いたのかな︶ それまで剣の修業などしてなかった俺が、斧に魔法をエンチャン トできる︱︱それに理由を見出すなら、魔法剣を使えるフィリアネ スさんと、幼い頃から一緒にいたことが挙げられるのは、自然なな りゆきだ。 ﹁おまえが最初に魔法剣を見せてくれたときは、目を疑った⋮⋮信 じられないと思っていた。しかし同時に、私が何らかの影響を与え たのかもしれないと思った。聖騎士でなければ習得できない剣技の はずなのだから、私が傍にいたことが一因なのではないかと⋮⋮私 がお前に与えたものといえば、やはり⋮⋮最も先に思いつくのは、 それしかないからな﹂ ﹁⋮⋮うん。俺はフィリアネスさんのおかげで、魔法剣が使えるよ うになった。ずっと言わずにいてごめん﹂ ﹁いや、いいのだ。赤ん坊はお腹がすくのが当たり前⋮⋮レミリア 殿は、もともとそれほど乳が出るほうではなかったと伺っている。 それでもヒロトがお腹をすかせているなら、私はしてよかったと思 っている。もちろん、あの年齢で出るとは思っていなかったのだが な﹂ 恥ずかしそうにしながらフィリアネスさんは言う。もちろん、大 きければ出るものじゃなく、自分の子供に与えるために出るものだ から︱︱多少例外はあっても、普通はないことだ。異世界だと、ど うもその辺りがスキルに依存しているというか、母性が20である というだけで出ると決まってしまっている。 ︵そのおかげで、俺は今まで生き残ってきた⋮⋮っていうのは大げ さじゃないんだよな︶ 1122 ユィシアと戦うときにあそこまでスキルを上げておけたのは、授 乳の恩恵を限界まで受けたからだ。あの時使用したスキルが一つで も欠けていたらと思うと、文字通り生きた心地がしない。 ﹁⋮⋮俺、フィリアネスさんにお礼がしたいってずっと思ってたん だ。赤ん坊のとき、初めて魔法剣を見たときのことは、今でも覚え てる。フィリアネスさんは、俺を助けてくれた。竜の巣の時も、駆 けつけてくれた﹂ ﹁そんなことを考えていたのか⋮⋮そうか。ならば私は、何も不安 に思うことなどなかったのだな。ヴィクトリアのことも、子供なら ではのおいたと思うべきなのだろう⋮⋮しかし﹂ フィリアネスさんはそこまで言うと、俺を見やる。そこにある感 情は︱︱考えるまでもない。 俺にだってあるもの。彼女にだって、他の誰にでもきっとある、 独占欲。 ﹁いつでも女は、確認しておきたいと思うものだ。私がおまえの心 の、どれだけを占められているのかを﹂ ﹁⋮⋮いっぱいだったよ。俺は、いつでも⋮⋮﹂ ﹁うむ⋮⋮そうなのだろうな。それは、見ていれば分かることだ﹂ ﹁や、やっぱり分かりやすいかな⋮⋮﹂ ﹁そうでなければ、私もこうしてはいないだろうな。もしおまえが 嫌がっていたら、こんなことはできない⋮⋮﹂ いつから始まるのか、それとも、この部屋に入った時からなのか。 フィリアネスさんは服の前を開いていく。ゆったりと広く作られ た服ですら張り詰めさせていた、まだ成長を続けている胸が露わに 1123 なる。 少し前までは重力に引かれることなくツンと逆らい続けていたけ れど、成長しすぎて臨界に達し、ほんの少しだけ下に引っ張られて いる。鎖骨の下から始まる稜線はすぐに最大の標高に達する︱︱こ んな形状を保つことが出来るのは、彼女が身体を鍛えているからだ ろう。胸を支えるにも筋肉の支えが必要だ。 ︵何度見ても綺麗だな⋮⋮胸がやっぱりすごく大きいけど、奇跡的 なバランスで均整がとれてる⋮⋮︶ ﹁⋮⋮いつも、そうやって真面目な顔になって考えているのは⋮⋮ 私を、女として意識しているからか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮まだ早いって思うかもしれないけど⋮⋮そう言ったら、ませ てるって思われるかな﹂ ﹁そんなことはない。お前は子供らしいところもあるが、人を導き、 引っ張っていくという点においては、大人でも真似のできないもの を持っている。私がさっき言ったこと⋮⋮お前に飼われているよう なものだというのは、大げさな例えではない。ミゼールに通うのは 魔剣を見守るため⋮⋮そして、お前の元に帰るためだ﹂ そんな気持ちで居てくれたのか。俺の方こそ、母さんに犬みたい って言われるほど、彼女が来るたびにはしゃいでいたのに。 ︵⋮⋮もし彼女を魅了せずに、純粋に一緒にいる時間を重ねてたら。 いや⋮⋮それは、ありえない可能性だ︶ ﹁赤ん坊のとき、お前を愛でる気持ちを自覚したとき、私にも母親 になりたいという願望があるのだと思った。しかし⋮⋮違っていた ようだ。私はおまえの成長を心待ちにしている。マールや、アレッ タのことを全く笑うことはできない。私たちは揃って、同じことを 1124 望んでいるのだから⋮⋮そう認めてからは、彼女たちともより対等 に付き合えるようになった。気付いていたか?﹂ 長い付き合いがそうさせたのではなく、俺への思いが同じだから ⋮⋮ということか。マールさんとアレッタさんが時折口にすること へも、俺はいつか必ず答えなければいけないと思う。男が女を待た せていいのは、必ず気持ちに応じられる場合だけだ。 ﹁おまえになら、私たちは安心してついていける。そんな言い方を しては、重荷になるかもしれないが⋮⋮そのために出来ることは全 てしよう。いや⋮⋮させてほしい。私の力が、いずれお前に届かな くなっても⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんなことないよ。そんなことは、絶対にない﹂ ﹁⋮⋮自分のことは、私が一番よく分かっている。私はもう、ヒロ トには及ばない﹂ 彼女が今も公国最強であることは間違いない。しかし、それは俺 を入れなければの話だ。 ユィシアをテイムして戻ったときには、フィリアネスさんは分か っていたのだろう。俺がボーナスを使い、戦闘スキルの幾つかをカ ンストさせたことに。ステータスが見えなくても、彼女ほどの武人 ならば感じ取れる。 俺のために焦っているなら、その気持ちをとても嬉しく思う。 そして、もう焦ることはないんだと教えてあげたい。今、これか ら、この場所で。 ﹁⋮⋮俺は神殿で、ルシエの洗礼に立ち会った。そのとき、神様に 新しい力をもらったんだ﹂ ﹁神に⋮⋮力を⋮⋮ヒロト、おまえはやはり⋮⋮﹂ 1125 ﹁女神⋮⋮様は、直接、自分ではルシエに王族の印を与えなかった。 俺が代わりにするように言われたんだ。そのための力は、きっと、 フィリアネスさんのためにも使える。限界をなくす力をわけてあげ られるよ﹂ そんな説明で納得してもらえるのか︱︱分からなくても、俺は言 葉を尽くすしかない。 今、ここであげることになるとは思っていなかった。しかしでき るだけ早いに越したことはない。今すぐにでも、彼女がじきに行き 着くだろう限界をなくしてあげたい。 フィリアネスさんはしばらく、そのつぶらな碧眼で俺を捉え続け ていた。やがて瞳が細められ、長い睫毛の向こうの瞳が、戸惑いを 隠さずに揺らぐ。 ﹁神の力で、限界を超える⋮⋮私に、それだけの資格があるのだろ うか⋮⋮?﹂ ﹁あるよ。本当なら、俺よりフィリアネスさんの方がふさわしいと 思う。フィリアネスさんには、いつでも誰より強い存在でいてほし いんだ﹂ ﹁⋮⋮お前を超えることがどれほど難しいか。私は、それが分かる ほどの力量はあるつもりだ。だが、成さねばならぬのだろうな。超 えられなくとも、並ばなくてはならない。私は、お前に追いつきた い﹂ 彼女が心を決めてくれた。迷いのなくなったフィリアネスさんは、 ここ数年で一番、眩しい笑顔を見せてくれた。 ﹁⋮⋮ヴィクトリアの挑発に乗って、小さなことを考えている場合 ではなかったな。ヒロトのほうが、よほど真面目に私のことを考え 1126 てくれているというのに⋮⋮私は自分が恥ずかしい﹂ ﹁い、いや⋮⋮しまわないで欲しいっていうか、あ、あのっ⋮⋮﹂ 服を元に戻して胸をしまおうとするフィリアネスさんを止める。 さっきからずっと見せられ続けて、それで元に戻されると、半分泣 きそうになってしまう。そんなにまで欲しがる自分を恥じ入りなが ら、欲しいものはしょうがないだろうと開き直りたくなる。 とどのつまりは⋮⋮俺は、もうスキルなんて関係なく求めてるっ てことだ。フィリアネスさんとの触れ合いを。 そんな俺をきょとんとして見ていたフィリアネスさんは、くすっ と笑うと、俺を抱っこして運び、ベッドに降ろす。頭の後ろに手を 回され、ベッドに寝かされた俺は、彼女に迫られている姿勢になる。 ヴェレニスでのことを思い出し、期待に鼓動が早まり始める。 ﹁⋮⋮日を追うごとにお前は愛らしくなっていく。そのうち、立派 な男になっていくのだとしても、この気持ちは変わらないのだろう な﹂ ◆ログ◆ ・あなたの﹁艶姿﹂が発動した! あなたの振る舞いに、︽フィリ アネス︾は釘付けになった。 ︵こ、こういう時に発動するのか⋮⋮魅了にも近いものがあるな︶ フィリアネスさんは俺のことを熱っぽく潤んだ目で見つめている。 こうして俺に迫っている自分の姿を恥じらい、けれど俺が愛しくて しょうがない。彼女がそんな葛藤と戦っているのは、瞳を見ればわ 1127 かる。 ︱︱そんないっぱいいっぱいのフィリアネスさんを見て、逆に俺 は、自分が落ち着かなければと思うことが出来た。 俺がフィリアネスさんの髪を撫でると、彼女はふっと笑って、胸 を隠していた手を外す。重力に引かれ、ふるんと残像を残して胸が 揺れるのを見て、俺はこくんと息を飲む。どれだけ成長しても、変 わることのない衝動︱︱もしかしなくても、一生変わらないだろう。 俺はフィリアネスさんの髪を代わりにかきあげてあげる。すると、 俺の視界を遮るものは何もなくなり、新雪に覆われたように真っ白 な二つの丘陵が目に飛び込んでくる。 ﹁⋮⋮すごく綺麗だよ、フィリアネスさん﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。おまえにそう言ってもらうたびに、私は生きて いてよかったと思える。それほどに嬉しい⋮⋮﹂ 見つめ合いながら、俺はフィリアネスさんの胸の谷間に手を置い た。とくんとくん、と激しい鼓動が伝わってくる。 ﹁⋮⋮ドキドキしてる。すごいね﹂ ﹁⋮⋮それは、仕方がない。昔より、今の方が緊張している⋮⋮お まえが、少しずつ大人になってゆくから﹂ ﹁そっか⋮⋮じゃあ。あんまり、フィリアネスさんのことを待たせ るわけにはいかないね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮戒めがあるのでな。それがなくても、まだお前は幼すぎる。 道を外れるようなことは、させられない﹂ 俺たちはそういう出会い方をしてしまったのだから仕方がない。 そう思いながら、俺は彼女が驚かないように、下から支えるように 1128 双子の山に手を添えた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。 ・聖剣マスタリースキルが上がりそうな気がした。 ﹁⋮⋮温かい。何も、不安に思うことはなかったのだな⋮⋮ヴィク トリアがどれだけおまえを誘惑しても、私は負けてはやれない﹂ ﹁うん⋮⋮大丈夫だよ、フィリアネスさん﹂ 触れているうちに、今度は俺の心臓が早まってくる。やはり落ち 着こうとしても、抑えられるものではない。 その変化にフィリアネスさんが気づくことはない。短い触れ合い でも彼女は満たされたように微笑み、薄く汗ばんだ肌に張り付いた 数条の髪をそのままに、俺に次のエネルギーを与えてくれる。 ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾から﹁採乳﹂した。 ・聖剣マスタリースキルが上昇した! ︵着実に上がってる⋮⋮いずれ10ポイントになったら、何が起こ るんだろう︶ 満足感を覚えるが、これで終わりではない。今からフィリアネス さんに﹁授印﹂しなければ。 ﹁フィリアネスさん⋮⋮﹂ 1129 ﹁⋮⋮お前が言葉を話すようになり、名前で呼んでくれるようにな って、とても嬉しかった。しかし⋮⋮今では、それだけでは足りな いと思ってしまう﹂ ﹁⋮⋮フィル、って呼んでもいいかな? 二人でいるときは﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ なんとなく思っていたことだった。俺が﹃さん﹄をつけなくなっ たら、彼女がどう思うのか⋮⋮。 それはまさに、彼女が﹁足りない﹂と思っていたことの答えだっ た。 ﹁⋮⋮なぜ、わかったのだ? 私が敬称をつけられることに、距離 を感じていると⋮⋮﹂ ﹁いや⋮⋮ルシエたちがフィルって呼んでるのを見て、いい呼び方 だなと思ってただけだよ﹂ ﹁そうか⋮⋮そうだな。私にとっては幼名のようなもので、恥ずか しくもあるのだが⋮⋮他に私をそう呼ぶのは両親だけだ。おまえに もそうしてもらえると嬉しい﹂ 幼名と聞くと、やはりリオナの﹃ヒロちゃん﹄という呼び名が浮 かぶ。彼女は大人になっても、ずっとそのまま呼び続けるのかもし れないが。 ﹁⋮⋮誰か、別の人のことを考えているだろう。わかるのだぞ、顔 を見れば﹂ ﹁そんなに分かりやすいかな?﹂ ﹁うむ。赤ん坊の頃からそうだ⋮⋮おまえはとても分かりやすい。 それでも全部を知ることはまだできていないのだから、興味が尽き ない。お前についていくことで、新しいものを見つけられる⋮⋮い つでも、そんな気がしている﹂ 1130 ネリスおばば様が言っていた。フィルにもまた、ミルテの親を連 れ戻すために力を借りたいと。 公国に仕える聖騎士の務め。彼女が俺についてくるということは、 その務めと両立が出来ないかもしれない。 ︵⋮⋮いや。フィルがそうしたいと思う生き方を、俺は全て肯定す る。その上で彼女が欲しいんだ︶ 理想を追い求めすぎて、破綻することへの恐れがないわけじゃな い。しかし転生してまで夢を見ないというなら、いつになったら理 想を思い描き、それを目指して生きることが出来るのか。 俺は全てを手に入れる。本当に何もかも、自分の望む全てを。 ﹁⋮⋮しかし、嫉妬してばかりでも良くない。そんなことにかまけ ていたら、私は停滞してしまうからな﹂ ﹁いや⋮⋮気持ちは飲み込まないで、言ってくれた方がいいよ﹂ ﹁問題ない。私はおまえと訓練をすることで、行き場のない気持ち を昇華することができる。それだけの時間は、これからも作っても らうぞ﹂ 限界突破を手に入れたあと、俺やユィシアと訓練することでスキ ル上げができる。俺にしてもフィルとの手合わせは楽しくて実りが あるし、これからも続けていきたい。 ﹁これからも、一緒に強くなっていこう⋮⋮って、俺から言うのは、 やっぱりまだ恐れ多いな﹂ ﹁堂々としていればいい。身体の大きさや年齢が人間の本質を決め るわけではないのだから﹂ ﹁うん。ありがとう、フィル。じゃあ⋮⋮そろそろ、始めようか。 1131 俺の力を、フィルにあげる﹂ 授印の手順はもう覚えている。スキルを発動させ、着印点に唇を 触れさせ、完了まで待つ⋮⋮今度も、問題なく成功するはずだ。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁授印﹂を発動した! ・︽フィリアネス︾の身体の一部が発光した。キスしますか? Y ES/NO ﹁っ⋮⋮な、なんだ⋮⋮この、あたたかい光は⋮⋮﹂ ︵着印点⋮⋮フィルの身体の、どこに⋮⋮︶ ﹁こ、ここに印が出てくるのか⋮⋮?﹂ フィルはベッドの上で膝立ちになる。光は彼女の下半身︱︱左足 の太ももの、内側に発せられていた。 俺はそれを見た瞬間から、無心になろうと決めた。邪念など一切 なく、ただ印をつけるだけ︱︱そうでないと、許されない。 ﹁⋮⋮ヒロト、頼む。私はじっとしているからな⋮⋮少しくすぐっ たくても、耐えてみせる﹂ ﹁う、うん。いくよ、フィリアネスさん﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽フィリアネス︾に刻印を与えた! ・刻印の力で、︽フィリアネス︾は﹁限界突破﹂スキルを取得した 1132 ! さらに上の世界への扉が開いた。 ︵よし⋮⋮っ!︶ そっと唇を離すと、フィルの太ももにキスマーク︱︱じゃなくて、 小さな刻印がついている。俺のイメージで、月光花を模した模様に した。 ﹁ふぅ⋮⋮終わったよ、フィル。身体の感じは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮何か、とても満たされた感じがする⋮⋮今までにない感覚が ⋮⋮あって⋮⋮しかし⋮⋮すーすーとして、落ち着かないのだが⋮ ⋮﹂ ︵スースーする⋮⋮? さっきは、熱いって言ってたのに︶ 気づかなければ良いことが、この世にはたくさんある。 というか、今まで気づかない方がおかしいのだが、それはもう、 俺が迂闊だったというか︱︱注意力が散漫だったというか。 ︵何が起こったのか分からねえと思うが︱︱じゃなくて。お、俺は ⋮⋮俺はなんてことを⋮⋮!︶ ◆新規取得アイテム◆ 補助装備:白のスキャンティ ︵持ってたぁぁぁぁぁ!︶ 1133 ﹁⋮⋮きゃぁっ!?﹂ そして今さら気がつくフィル。自分で脱いで俺にプレゼントして くれたのに。こうなる前に気付いていたら、俺はさなぎから蝶にな らずに済んだのに。責任回避もはなはだしい。 ﹁み、見たのか⋮⋮ヒロト⋮⋮﹂ ﹁み、見てないよ! 全然見てない!﹂ ﹁そ、その反応は確実に見ているではないか⋮⋮! わ、私は、露 出狂ではないぞ! 忘れていただけなのだっ、ほ、本当にそうなの だからな! 今見たものは忘れ⋮⋮い、いや、忘れなくてもいいが、 誰にも言うなっ! 特にマールとアレッタには内緒にしろ!﹂ がばっと起き上がったフィルに揺さぶられつつ、俺は半泣きのフ ィルを落ちつかせようと、﹁見てない﹂﹁見えたけど見てないこと にする﹂﹁きれいだった﹂﹁もう一度見ないとわからない﹂と証言 を変遷させた。 ﹁あ、あれを返せとは言わない⋮⋮しかし、責任は取ってもらう。 母上と乳母にしか見せたことがないのだからな⋮⋮っ﹂ ﹁う、うん⋮⋮大丈夫、前向きに検討するよ﹂ ﹁ば、馬鹿ものぉっ! そこは約束すると言うべきところだろう!﹂ 枕を投げられる俺。頭にぼふっと当たって跳ねたそれをキャッチ しつつ、俺はフィルが子供みたいに怒っているところが見られて嬉 しく思っていた。本当に困ったやつだ、と自分のことを評価しなが ら。 1134 ◇◆◇ フィル︱︱いや、二人のとき以外はフィリアネスさんだ。それは 言葉にしない時でも意識しておかないと、あっさり間違えてみんな の前でフィルと呼んでしまうので、そこは留意しておく。 宿屋から出たあと、フィリアネスさんは鎧を着て、ルシエも準備 を済ませて馬車に乗り込んだ。俺が御者をしようと馬に跨ったとき ︱︱村の門から、芦毛の馬に乗って駆け込んでくる人の姿を見つけ た。 ︵あの水色の髪⋮⋮パメラ⋮⋮!?︶ ﹁ヒロト、ここにいるのかい!? いたら返事しておくれっ! あ たしだよっ!﹂ ﹁俺ならここにいる! どうしたんだっ!?﹂ 門のところで護衛兵に止められかけていたパメラだが、俺が呼ん だことで護衛兵が空気を読んで通してくれた。パメラは馬の速度を 緩め、手綱を引いて静止させる。 ﹁ヒロト⋮⋮ろくでもないことになっちまった。この南ジュネガン の公爵が兵を動かして、山賊狩りを始めたんだ⋮⋮ポイズンローズ や他の山賊に全てなすりつけて、山賊討伐の名目で首都の近くの砦 に兵を集めさせてる。あたしらも散り散りになって逃げてるけど、 このままじゃ皆殺しにされちまう⋮⋮っ!﹂ ︱︱そこまでするとは思いたくなかった。そんな自分の甘さが、 この事態を招いた。 1135 ルシエの洗礼を妨害した、あるいはルシエの身柄を確保したとい う知らせが届かなければ、敵は次の手を打つ。何がなんでも、ルシ エが王族になったと民衆に公表させないために動く⋮⋮。 黒騎士団が罪をなすりつけようとした山賊たちに、累が及んでい る。パメラも腕に傷を負い、包帯を巻いていた。それに気付いたア レッタさんが馬車から出て、パメラを馬から降ろし、手当てを始め る。 馬で先行して馬車を護衛する役目を担っていたフィリアネスさん が、馬を歩かせてこちらにやってくる。 ﹁⋮⋮もはや、一刻の猶予もない。しかしグールドが兵を動かした となれば⋮⋮今、ルシエを連れて首都に向かうのはまずい。奴らは 移動中の公女が山賊討伐に巻き込まれたとでも理由を付け、ルシエ を狙う。たとえ、筋が通らなくとも﹂ ﹁ポイズンローズに罪をかぶせようとした時点で、筋なんて通って なかったさ。最初から、奴らは手段なんて選んでなかった⋮⋮そう いうことなんだ﹂ ﹁祝祭の期日を延ばせば、敵の思うつぼだ。ヒロト⋮⋮﹂ 祝祭を諦めるべきなのか。ルシエの無事を最優先にするなら、そ れも選択肢に入れられる。 ︱︱しかし。俺はもう、これ以上決着を先延ばしにするつもりは なかった。 ﹁交渉はパワー⋮⋮あまり言いたくはありませんが。そうするしか ないですわね﹂ ﹁⋮⋮ミコトさん﹂ 1136 いつの間にか俺が乗っている馬の後ろに、ミコトさんが座ってい た。馬車を引くために立派な体格をした馬は、子供の俺とミコトさ んが乗ったくらいではびくともしない。 彼女は俺の背中にそっと近づき、そしてささやくような声で、恐 るべきことを口にする。 ﹁︱︱殲滅してさしあげましょうか? 公爵の軍勢を﹂ 殲滅。それは、ミコトさんの力を発揮して行われる殺戮︱︱敵を 倒すための、最も分かりやすい方法だ。 ゲームでは、そんな力押しを選択することもあった。それが正し い答えとされるクエストもあった。 ﹁敵は弱い者を追い詰め、自分たちの思うがままに国を動かそうと している。もう、平和的な解決など考えられません。今の公爵に脅 威を与えることが出来るとしたら⋮⋮それは﹂ ﹁力でねじ伏せるしかない。俺も、それは分かってる⋮⋮敵がここ までしてくるとは思わなかった。山賊は確かに悪いことをしてるか もしれない。でも、やってもいない罪を着せられていいかどうかは 別の問題だ﹂ ﹁あ、あたしらは⋮⋮逃げおおせられればそれでいい。ヒロト、あ んたの近くにいれば、あたしは⋮⋮﹂ ﹁ああ、それは問題ない。パメラはこれから、俺たちと一緒に行動 してくれ。公爵は、自分で兵を率いてるのか?﹂ ﹁公爵には親衛隊みたいなのがいるから、それの隊長が兵隊を指揮 してる⋮⋮公爵は、祝祭に出席するために首都にいるはずだよ。四 王家の公爵は、出ることが義務になってるからね﹂ 首都にいれば、ルシエが来ない状況を公爵は自分の目で確かめら れる。 1137 ルシエの王族入りを祝う立場のはずの人間が、実は裏切り者であ る︱︱誰もそんなこと、夢にも思わないだろう。真実を知っている 俺たち以外は。 ﹁⋮⋮ギルマス。私はあなたのためになら、どんな行為も厭いませ んわ。命じてくださいませ﹂ ギルド時代に対抗勢力とやり合ったことがあるが、そんなレベル の問題じゃない。甘いことを言っていれば、敵の思い通りになって しまう。 ︱︱傷ついたパメラを見たときに、俺はもう決めている。公爵を、 ただではおかないと。 ︵ミコトさんなら⋮⋮きっと、一人でもやれる。俺の命令ひとつで、 彼女は⋮⋮︶ 冷徹な殺戮者になり、血の雨を降らせることができる。もしそう したとしても、彼女が俺の仲間であることに変わりはない。 しかし、本気を出すにもやり方は一つじゃない。俺は振り返ると、 ミコトさんに笑いかけた。 ﹁敵の首領の首を取るのが本懐⋮⋮それが、ミコトさんの主義だよ な﹂ ﹁⋮⋮はい。しかし、敵はそれだけで止まるのですか?﹂ ﹁止められるかどうか、まずはやってみようじゃないか。俺がミコ トさんに命じることは、こうだ。﹃俺と一緒に、グールドを倒して ほしい﹄﹂ ﹁⋮⋮ギルマス⋮⋮﹂ 彼女を一人で行かせることも俺は考えていない。安全なところで 1138 待っているだけのギルドマスターなんて、誰の人望も得られやしな い。 ﹁ヒロト⋮⋮公爵のもとに潜入するなら、私も同行させてほしい﹂ ﹁聖騎士さん⋮⋮敵は仮にも公爵であり、王族です。剣を向けられ るのですか?﹂ ﹁⋮⋮グールドをこの手で斬れるのかはわからない。しかし、私も この目で見届けたいのだ﹂ ﹁分かった。フィリアネスさん、俺、ミコトさん。この三人なら、 全く問題ない﹂ グールドの凶行を止める。交渉はパワーだとミコトさんは言った が、それは公爵に俺たちの力を見せ、敵に回すべきでないと理解し てもらうということだ。後手に回ってしまったが、今はそれしか切 れるカードがない。 ﹁目指すは首都⋮⋮みんな、行くぞっ!﹂ ﹃了解っ!﹄ フィリアネスさんが馬を駆けさせる。ミコトさんは俺と目を合わ せると、ただ頷きを返し、馬車に乗り込んだ。 1139 第三十三話 首都潜入︵前書き︶ ※久しぶりの更新になります。 6月は第10.5話を加筆しておりましたので、まだご覧でない 方は そこからお読みいただければ幸いです。 1140 第三十三話 首都潜入 イシュアラル村を発ち、ジュネガン公国の中央部に位置する首都 ジュヌーヴを目指して俺たちは北上する。 ただでさえグールドの領地の中にいるのだから、公道を通って移 動すれば、敵にこちらの状況を知られる可能性もある。もし敵の斥 候が出てきていても、祝祭に出席するために首都にいるというグー ルドの元に情報が伝わるまでは、若干のタイムラグがあると思われ るが︱︱それも絶対ではない。 ゲームでは遠くに情報を伝える便利機能として﹁ウィスパー﹂が あった。異世界にそれに類するスキルや道具があるかはまだ確かめ られていないが、離れていても情報をやりとりする方法が無いとは いえない。 ﹁ヒロト⋮⋮難しい顔をしているようだが。一人で悩むのではなく、 私にも相談してくれて良いのだぞ﹂ ﹁あ⋮⋮ご、ごめん。大したことじゃないんだ﹂ ﹁ひとりで大したことじゃないと決めるのはいけませんわよ、ギル マス。よく一人作戦タイムを取っていましたけど、その癖は治って いませんのね﹂ フィリアネスさんが馬を近づけて話しかけてくる。ミコトさんは 俺と同じ馬に乗って、後ろから手を伸ばして手綱を握ってくれてい た︱︱常に肩に胸が乗ったり、ぽよぽよと当たったりして、移動が 全く苦にならないどころか、俺の後ろ半身は常に幸せな状態だった。 1141 そんな場合ではないと分かっている、しかし急を要する移動中で あっても、心地良いものは心地良い。いたしかたなし、と言ったと ころである。 ﹁敵に俺たちの行動を把握されるのはまずいから、パメラに公道以 外の道を案内してもらえて良かったと思ってたんだ﹂ ﹁あたしの名前が聞こえたみたいだけど、どうかしたかい? 裏切 ったりしないから信用しなよ、あたしらだって、グールド公爵をそ のままにしておいたらこの国で生きていけやしないんだ。嘘の道を 教えたりしないよ﹂ パメラは山賊の首領だったので、公道を通る人々を襲撃するため に、先回りしたり、奇襲するための経路を幾つも知っていた。森の 中を馬で通ることができるように、付近の住民が作った道などを知 っているわけだ。 盗賊ギルドに上納金を収めていたパメラは、盗賊ギルドの首都支 部にも顔が利き、俺たちに首都に着いてからの活動の拠点を紹介し てくれる上に、グールドの居場所についても教えてくれることにな っていた。 山賊に公女誘拐の罪をなすりつけ、皆殺しにしようとするという 暴挙を働いたグールドは、盗賊ギルドにとって抹殺しなければなら ない敵に変わっている。グールドを打倒しようとしている俺たちに、 助力は惜しまないだろうというのがパメラの考えだった。まだギル ドの幹部に確認はしていないというが、彼女の意見を信じることに、 ミコトさんもフィリアネスさんも異存はなかった。 ﹁ギルマスと彼女の間には、よほどのことがあったみたいですわね ⋮⋮八歳の少年を見る目に、あきらかに畏敬が込められているんで 1142 すもの。いえ、どちらかといえば畏怖ですわね﹂ ﹁私も気になるが、ヒロトのことだからな。正義感を以って、盗賊 に道を諭したに違いない﹂ ﹁ま、まあそんなところかな⋮⋮﹂ カルマ アッシュの商隊が無事に公道を行き来するためには、山賊と話を つけておく必要があったというだけなのだが、俺の赤ん坊の頃の業 が思いがけず有効に働いてしまった。 そんな俺を頼ってパメラがやってきたというのも、彼女がある意 味俺の力を高く評価しているからと言えなくもない。何も報告せず に逃げたら、俺がひどいことをすると思っているのかもしれないが。 憎むべきはグールドであり、パメラたちはこの場合は被害者だ。 悪党だからといって、無実の罪で殺されてはたまらないだろう。グ ールドの配下が現在進行形で山賊討伐に動いている今、少しでも早 くグールドの動きを止めなければならない。 ﹁山賊も災難でしたわね⋮⋮という言い方にも、語弊がありますけ れど。悪事を働けば、より大きな悪によって飲み込まれてしまう場 合がある。そのリスクは、今回のことで学ぶべきですわ﹂ ﹁わ、分かってるよ⋮⋮あたしはもう、山賊稼業はやらない。そこ のヒロトのパーティに勧誘されてるからね。それで今までと同じこ とをやってたら、パーティの評判を落としたとかいう理由で⋮⋮あ あ、言葉にも出来ない⋮⋮まあいいわ、でもね、あたしはあんたら と同じ危険を冒すつもりまではないよ。首都まで案内したら、そこ で一旦お別れだからね﹂ パメラのステータスは低くはないが、俺とフィリアネスさん、ミ コトさんとはレベルが違いすぎる。スキルを利用すれば戦闘には参 1143 加できると思うものの、平均レベル57のパーティに、レベル30 のパメラを入れても戦力は大して向上しないし、彼女をいたずらに 危険な目に遭わせることになる。 そんなことを考えていると、背後でミコトさんが小さく笑う。何 か含みがあるみたいで、少しぞくっとしてしまった。 ﹁彼女をパーティに⋮⋮なるほど、そういうことですか。盗賊の技 は、彼女から貰い受けたんですの?﹂ ﹁っ⋮⋮ま、まあ、その、教えてもらったというか、何というか⋮ ⋮﹂ ﹁ヒロトは自らを研鑽することに余念がないからな。例え盗賊の技 といえど、学ばずには居られなかったのだろう﹂ フィリアネスさんは俺が神聖剣技を使えるのは授乳したためだと 思っているようだが、他の女性に対しても、だいたいその方法でス キルをもらったとまでは思っていないようだ。異世界の人たちは、 スキルで人の能力が決まると認識していないのだから、無理もない のだが。 ﹁⋮⋮もう少ししたら、お姉さんと遊んでいたとか、優しくしても らったなんて言葉ではすまなくなりますわよ?﹂ ﹁う、うん⋮⋮分かってるよ、それは。いつまでもごまかしたりす るつもりはないし﹂ ﹁ふふっ⋮⋮別に、いじめたいわけではありませんわ。遊びでして いるわけではありませんものね⋮⋮ですが、私もギルマスにスキル をあげることになるかと思うと、少し考えてしまいましたの。ギル マスに本命の女性がいたら、それは浮気になりませんこと?﹂ ﹁ほ、本命⋮⋮それは⋮⋮﹂ 1144 俺の頭の中に一人だけ浮かんでくるなら、その人が本命というこ とになるだろう。しかし同時に何人も浮かんでくるものだから、我 ながらどうしようもない。 ﹁⋮⋮もしそういった事情も何もかも、気にされないということで あれば。無事に全てが終わったときは、声をかけてくださいませ。 心の準備は、しておきますわ﹂ ﹁ミコト殿、先ほどから何をヒロトにささやいているのだ? その ⋮⋮あまり密着するのは、教育上あまりよくない。ミコト殿には、 胸甲を装着することをお勧めしたい﹂ ﹁この黒装束の下には、鎖帷子を着込んでいますから大丈夫ですわ。 直接当たってはいませんわよ﹂ ︵それにしては、この柔らかさは⋮⋮も、もしかして。鎖帷子が、 すごい形をしているのでは⋮⋮?︶ ﹁ギルマス、想像していることは何となく分かりますけれど、あま り気もそぞろで居るのはよくありませんわよ。修羅場が待っている のですから﹂ ﹁う、うん。分かってるよ、ミコトさん﹂ ﹁⋮⋮ヒロト、休憩を取っている場合ではないが、馬の足を休める ための時間を取りたい。そ、そこで、私の馬に乗り換えてみるとい うのは⋮⋮﹂ フィリアネスさんがこちらの方をちらちらと窺いながら言うと、 ミコトさんが後ろでくすっと笑った。 ﹁あら、一人乗りでは寂しいんですの? それでしたら、ギルマス をお貸ししてもいいですわよ﹂ ﹁か、貸すという言い方は、ヒロトがミコト殿の所有物のように感 1145 じる。ヒロトは物では無いのだから、貸し借りするものではないぞ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮清廉な心の持ち主こそが、聖騎士になる資格を持つと いうことですわね。フィリアネスさんには、あまり意地悪をしては いけない気がしますわ﹂ ﹁む⋮⋮わ、私の方が年上なのではないかと思うのだが。その言い 方では、まるで私が⋮⋮﹂ ﹁俺には同じくらいにみえるよ。フィリアネスさんは、若い時から あまり変わらないよね﹂ 十四歳の彼女と会ってから、すでに八年。フィリアネスさんはま すます優美で、かつ凛とした空気を持つ女性になったが、出会った 頃の面影が失われたわけではない。サークレットからクラウンに装 備を変更したことで、強さと共に高貴な雰囲気まで身につけている。 まさに隙なし、といったところだ。 ﹁⋮⋮それは、私が子供っぽいということか? ヒロトがそう言う なら、否定はしないが﹂ ﹁ギルマスにとっては、女性の年齢は関係ない⋮⋮ということです わね。私とは九歳差ですから、一桁ですし、たいした差ではないと いうことになりますか?﹂ ﹁なりますか? と言われても⋮⋮え、えーと。上は十五歳までな ら、全然気にしないよ。場合によってはそれ以上でも大丈夫だし﹂ ネリスさん、サラサさんなど、二十歳以上年上の女性にもかなり お世話になったからな⋮⋮そんな人たちに対して、守備範囲の外だ なんてとてもいえない。エレナさんも三十三歳だが、最近とみに色 気が増してきてしまい、数年ほど友達のお母さんとして接してきた 結果、適切な距離を置くとさらに魅力が際立つものだなと思ってし まったりして︱︱だからそれはまずいというのに。 1146 ﹁え、えーと⋮⋮今は、気を引き締めるべき時だから。そういう話 は、後で⋮⋮あれ?﹂ フィリアネスさんは何やら顔を赤らめて、指を折って数えている。 彼女と俺は十四歳差だが、それをいちおう確かめているようだ。 それが終わると、フィリアネスさんはほっとしたように胸に片手 を当てる。しかし、俺のほうを見やる目はジト目で、俺とミコトさ んを見比べていた。 ﹁⋮⋮少しでも年が近いほうが、親しみが持てたりはしないのか?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなことないよ。いや、ミコトさんが好みじゃない ってわけじゃなくて⋮⋮﹂ ﹁ま、まあ⋮⋮そんなことを急に言われても、困ってしまいますわ ね。好みというのは、好きという字が含まれていますのよ? それ を口にするということは、それなりの覚悟が必要ですわ﹂ ﹁そ、それは拡大解釈であって、ヒロトはそこまでのことを言って は⋮⋮っ﹂ ﹁聖騎士さん、前を見ないと木にぶつかりますわよ?﹂ ﹁くっ⋮⋮す、すまないオラシオン。不甲斐ない主だが、どうか見 放さないでほしい﹂ オラシオンが自分で木を回避してくれたので、フィリアネスさん は愛馬の背中を撫でつつ語りかける。オラシオンは特に気にしてお らず、高い声でひとつ鳴いてそれに応えた。 ◇◆◇ ジュヌーヴに入る前に、俺たちはヴェレニスに立ち寄った。フィ 1147 リアネスさんの部下によると、グールドはヴェレニスよりもジュヌ ーヴに近い場所の砦に軍勢を駐留させ、自らは手勢を連れて首都に 入ったということだった。 ルシエをこのまま首都に連れて行くことはできない。俺たちがグ ールドを倒したあとでなければ、彼女が狙われてしまう。誘拐どこ ろか、敵はルシエを亡き者にしようとする可能性もある︱︱ならば、 ヴェレニスの村で身を隠しておいてもらう方がいいだろうと俺たち は考えた。 ﹁ルシエ、必ず祝祭の前にお前を迎えに来る。マールとアレッタ、 そして私の部下が、お前のことを守り通してくれる。信頼してやっ てくれ﹂ ﹁はい、フィル姉さま⋮⋮どうか、ご無事でいてください。ヒロト 様、ミコト様、ご武運をお祈りしています﹂ ﹁ルシエ殿下の期待に応え、必ずやお戻りください。その暁には、 このイアンナ、持てる限りの手を尽くしてヒロト様のお疲れを癒し てさしあげましょう﹂ ﹁その役目は私たちがするからいいです。ヒロトちゃん、信じてる からね! 悪い公爵さまなんてやっつけちゃえ!﹂ ﹁フィリアネス様も、ミコトさんも、どうかお気をつけて⋮⋮ヒロ トちゃんと、無事に帰ってきてください﹂ アレッタさんは胸に手を当てて、祈るような仕草を見せる。衛生 兵である彼女には、彼女なりに俺たちの無事を祈る作法があるよう だ。マールさんもそれに倣って、神妙なようすで目を閉じていた。 ﹁ルシエのことは頼んだぞ、マール、アレッタ。グールドはヴォー ダンの砦に兵を置いているようだが、おそらくそれは、ファーガス 陛下に対する牽制の意味がある。ルシエを守るために陛下が兵を動 1148 かし、グールドを討とうとすれば、グールドは無実の罪を訴えて応 戦するだろう。山賊に罪を着せようとしたこと、黒騎士団を抱き込 もうとしたこと⋮⋮それらを総合すれば、もはやグールドは手段を 選ぶつもりはないと見ていい﹂ フィリアネスさんの言葉に、一気に空気が緊張する。戦争が始ま ってもおかしくない状況にある、それをフィリアネスさんから改め て告げられると、戦というものが現実の脅威として皆に認識される。 すでにグールドの軍勢による襲撃を受け、その実態を知っている パメラは、目に見えて分かるほどその顔から血の気が引いていた。 思い出したくないというように首を振り、首都の方角を忌々しそう に見やる。 ﹁⋮⋮グールドと、その下僕どもはおかしくなってる。あんなのが 国を取っちまったら、恐怖政治が始まるのは目に見えてる。盗賊ギ ルドの上の方々がどう考えてるか、まだ結論は出てないけど、まあ ﹃殺るしかない﹄ってことにはなるだろうね。でもあんたらに手を 汚すことを強要出来るやつなんて、どこにもいない。このまま、国 を捨てて逃げちまうって手も⋮⋮﹂ ﹁それはできない。俺の父さんと母さん、他にも守るべき人たちが 多くこの国にいる。その人たちだけを連れて逃げるなんてこともで きない。そうしてしまえば、あまりに大切なものを失いすぎる﹂ ﹁⋮⋮馬鹿だね。仮にも国の4分の1を治めてた男を、簡単に倒せ ると思うのかい?﹂ 大きな力を相手にしていることは、十分すぎるほど理解している。 だが、戦う前から屈することはできない。 俺は物理的にも、精神的にも、この国で勝てない相手はいないと いうつもりでいた。スキルの数値が高いだけでないと証明するため 1149 に、実戦も重ねてきたつもりだ。 ﹁パメラさんも、私たちに助けを求めたということは、グールド公 爵を倒すしかないということは分かっているはずですわ。ギルマス、 いえ、ヒロトさんの手を汚させなくても、私だけで終わらせること もできる。個人の戦闘力とは、それほどの領域に昇華出来るものな のです。たゆまない修練によって﹂ ﹁そ、そんなに華奢な身体で、一人でグールドを倒せるって⋮⋮? あんた、その変わった格好といい、何者なんだい? 確か、海を 渡った東の大陸に、黒尽くめの戦闘集団が居るって聞いたことはあ るけど⋮⋮まさか、その一員だったっていうんじゃ⋮⋮﹂ ミコトさんはパメラの問いに、ただ微笑みを返す。この五年間、 彼女がどうやって生きてきたのか︱︱スキルを複数カンストさせる ために、あらゆる努力をして、修羅場をくぐってきたことは間違い ない。ボーナスポイントだけであれだけのスキルを取ることはでき ないのだから。 シノビという職業を選んだ彼女は、心までくノ一としてロールプ レイしている。 だからこそ、分かってしまう。彼女が忍びの本懐を果たそうとし ていること︱︱敵の首魁の首を彼女自身の手で取り、戦いを終わら せようと考えていることが。 ﹁私はすでに、この身をグールドを倒す刃に変えています。フィリ アネスさん⋮⋮公王家に仕えてきたあなたには、無理を強いること はできない。南王家が公王陛下を裏切ろうとする反逆者であっても、 王家の一部であることは確かなのですから﹂ ﹁⋮⋮王家と、王家に連なるもの全てを守ることが私の義務だ。そ のことに、今でも変わりはない。だからこそ、私はグールドを討た 1150 なければならない。私欲のために公国の民に血を流させようとする 者は、許すわけにはいかない﹂ ﹁それは尊い覚悟です。けれどあなたには、人は斬れない。殺傷力 に特化した武器ではないレイピアで、戦いでは常に手加減をして相 手の命を奪わずに留める⋮⋮敵が強くなるほど、そんな甘さは必ず 命取りになります﹂ ミコトさんはフィリアネスさんの決意を問う。その言葉は、俺に 対しても向けられているように感じた。 しかしフィリアネスさんは一寸も揺らぐことなく、ミコトさんの 目を見返して言った。 ﹁騎士団に入るということは、守るために人の命を奪うこともある ということだ。初めから、そう心に決めることなく騎士団に身を置 くことはできない。ミコト殿の気持ちは嬉しく思うが、覚悟を改め て問う必要はない﹂ ﹁今まで、戦争とかなかったから、本気で命の取り合いなんてした ことなかったけど⋮⋮私たちは、守るためには、そうしなければな らないこともあるって教えられてます。それを間違いだと思ってい たら、もうとっくの昔に騎士団をやめて田舎に帰ってます﹂ ﹁衛生兵の私でも、杖を使って戦う技術は身につけています。戦う 技術とは、人の命を奪うことができる技術です。奪わなくて済む命 なら、奪われてほしくない、そんな気持ちもあります⋮⋮でも、そ れが全てだとも思ってはいません﹂ 騎士団は、国家にとっての最高戦力だ。そこに所属している彼女 たちは、普段どれだけ優しくても、それだけの覚悟を決めている。 甘いことは言っていられない。それでも俺は、この手で人を殺め たあとに、リオナやステラ、戦いを離れて平和に暮らしている人た 1151 ちから、恐怖の目で見られはしないかと思ってしまう。 ︵⋮⋮それでも俺は、守りたいんだ︶ たお 結論は揺らがない。無益な殺生はしない、そう決めてはいるが、 倒さなければならないものは斃す︱︱グールドが居なくならなけれ ば、この国にも、パメラたちにも、平穏が戻ることはないのだから。 ◇◆◇ その日の夜のうちに、俺はパメラ、ミコトさん、フィリアネスさ んと四人で首都ジュヌーヴに向かった。 人口が多い都市だが、遠くからではほとんど明かりが見えない。 首都はぐるりと城壁で囲まれていて、城の周囲を照らす明かりが目 立ち、首都の中までを窺うことは出来ないのだ。 俺たちは森の中を進んで南から首都に近づくと、正門からは入ら ず、壁沿いに東側に迂回して、盗賊ギルドの人間が使う地下通路か ら入ることになった。パメラが首都に滞在するときに使っている隠 れ家を経由して、首都の中に入る︱︱そんな手順を踏むのは、正面 から入ればグールドの配下に把握される可能性があるからだ。手間 はかかるが、隠密行動を何よりも優先する。 異世界でも大きな都市には下水設備があり、盗賊ギルドは下水道 を地下通路として利用している。普段人が出入りせず、首都の中の あらゆる場所に繋がっているため、利便性が高いとのことだった。 問題があるとすれば、流れていく下水の悪臭だろうが、それも布で 1152 口を覆い、さらに魔術で対策を行えば気にならない。 魔術で空気の清浄化を行う方法はいくつかあって、どんな環境で クリア・エア も新鮮な空気を吸うことが出来る︱︱例えば風精霊の力を借りる﹃ 浄化の風﹄。本来は毒霧攻撃などを防ぐ魔術だが、下水潜入におい ても役に立った。 水の流れる音の中で、俺たちの足音は紛れて聞こえない。外套で 身体を覆い、フードを被って姿を分かりにくくした俺たち一行は、 下水道を抜けてパメラの隠れ家に辿り着いた。 ﹁ふぅ⋮⋮久し振りだね、ここに戻ってくるのも。まあとりあえず、 その辺に座りな。グールド公爵がどこに居るかはギルドの方で把握 してるからね。ここの伝声管で、﹃上﹄に連絡できるからちょっと 待ってな﹂ ﹁上って、この上に盗賊ギルドの施設があるのか?﹂ 俺が尋ねると、パメラはなぜか少し気を良くしたようだった。俺 が知らないことを教えられるというのが嬉しいらしい︱︱理由を考 えると、少し照れるものがある。 ﹁首都は広いし、そこらじゅうに盗賊ギルドのアジトがある。普段 は一般市民として暮らしてるけどね。盗賊だって、常に盗みを働い たり、略奪してるわけじゃない。あたしらの稼業は、町に溶け込む ことも仕事のうちなのさ﹂ ﹁⋮⋮盗賊ギルドは、冒険者ギルドとも協力することがあると聞い たが﹂ フィリアネスさんは、部屋にある毛皮を張った椅子には腰掛けず、 立ったままでいる。盗賊の部屋というのが、どうにも落ち着かない 1153 ようだった。ミコトさんは周囲を見回している︱︱何か珍しいアイ マップ テムでもないか、吟味しているのだろう。エターナル・マギアを経 験している人なら、新しい場所に好奇心をそそられるのも無理もな い。 ﹁冒険者ギルドは、汚れ仕事を盗賊ギルドに依頼することがある。 何かを盗むこと、盗まれたものを取り返すことも、冒険者ギルドに 持ち込まれる依頼の一つだからね。あたしたちは共存共栄、持ちつ 持たれつってことさ。冒険者ギルドの表向きの姿しか知らないやつ はわんさかいるけどね﹂ ︵俺もその一人か⋮⋮ゲーム時代でも、そんな設定は明かされなか ったしな⋮⋮︶ 考えてみれば、特に不思議なことではない。もし盗品を探してく れという依頼があったとしたら、盗品を扱う市場に精通している盗 賊ギルドに情報を求めれば、話は早いからだ。 しかし盗賊という稼業自体が、公的には罪になる仕事だ。盗賊ギ ルドがそれでも取り締まりを逃れて存在し続けているのは、したた かな取り引きの結果だろう。盗賊ギルドなりに、生存するための方 策を講じているわけだ。 パメラは伝声管の向こうに盗賊ギルドの人間が居ることを確認し たあと、要件を伝えた。あちらからの声を聞く時は伝声管に耳を当 てる︱︱昔、何かのアニメ映画でそんな光景を見たことがあったな、 と俺は思い出す。 ﹁出来れば今夜中に⋮⋮いや、ここで教えてもらっても構わないよ。 そっちから人を寄越す? わかった、ここで待ってればいいんだね﹂ 1154 パメラはやり取りを終えると、真っ先に俺の方を見る。パーティ のリーダーとして、しぶしぶながらも認めてくれているということ だろう。 ﹁ちょっと待ってな、冒険者ギルドの人間が来る。表のことには、 あっちの方が詳しいからね﹂ ︵首都の冒険者ギルド⋮⋮あの人も、まだ居るんだろうか。もう、 ずっと会ってないな⋮⋮︶ エージェント 俺がまだ一歳を過ぎたばかりのころ、家に勤めてくれていたメイ ドであり、冒険者ギルドから派遣された執行者でもあった女性︱︱ スザンヌ・スー・アーデルハイド。 俺にとっては恩人といえるその人に会うのは、もっと先になると 思っていた。グールドを倒したあと、祝祭を終えて、冒険者ギルド に行って︱︱そこで会えるかどうかも、わからないと思っていたの に。 部屋のドアが、一定のリズムでノックされる。それがどうやら合 図だったらしく、パメラは誰かを尋ねることもなく、外に居た人物 を迎え入れた。 ﹁⋮⋮スーさんっ⋮⋮!﹂ そこに居たのは、最後に会った時よりずっと大人になったスーさ んだった。しかも、俺の家に務めていた頃と同じ、メイド服を身に つけている。 1155 ﹁ギルマス⋮⋮知り合いがいたのですか? 冒険者ギルドに﹂ ﹁坊っちゃん⋮⋮っ!﹂ スーさんが駆け寄ってくる。パメラも突然のことで、言葉を挟む 余地がなかった。フィリアネスさんも驚いているが、静かに見てく れている。 抱きしめられるかと思ったが、スーさんは皆の手前、そこまでは しなかった。俺が被っていたフードを外して顔を確かめると、かす かに微笑みを見せる。 ﹁⋮⋮お久しぶりです。よもや、このような場所で再会するとは。 これも、何かの導き⋮⋮いえ。まだ、喜ぶべき時ではありませんね﹂ ﹁スーさん⋮⋮といいましたか。私はヒロトさんのパーティの一員 で、ミコト・カンナヅキと申します。ギルマスとは、どのようなご 関係ですか?﹂ 忍者と執行者、どこか通じるもののある二人が、視線を交錯させ る。な、何か不穏な感じが⋮⋮どのようなご関係って、俺とスーさ んは再び出会ったとき、腕比べをする約束をした関係だ。一応、そ ういうことになっているはずだが⋮⋮。 ﹁私は、坊っちゃんの家に仕えていたメイドでした。今でも、首都 では表向きは受付嬢の仕事をしていますので、正装はメイド服にな ります﹂ ﹁そ、そうですか⋮⋮言われてみれば、ギルドの受付嬢の制服は、 なぜかメイド服でしたわね﹂ ミゼール冒険者ギルドのシャーリーさんのことを思い出す。彼女 もまた、スーさんと同じく、赤ん坊の頃から今に至るまで俺の毒牙 1156 にかかっていない一人だ。毒牙は我ながら言い過ぎだろうか。 ゲーム時代はギルドの受付嬢がパーティに参加するクエストとい うのがあって、その耐性の高さが注目されたこともあった。ギルド 娘装備というセット装備を一式身に付けると、状態異常の多くを防 ぐことが出来たそうだが、俺は男キャラだったので集めなかった。 麻呂眉さんはロマンだといって集めていたが。 ﹁だけど、いいのかい? こんなところに、その格好のままで顔を 出して﹂ ﹁問題ありません。外では気配を消していますので﹂ パメラの問いかけに、スーさんは事も無げに答える。十六歳から 二十四歳になったのに、昔から変わらない淡々とした物言いが変わ らなくて、何か嬉しくなってしまう。彼女にも色々あったり、レベ ル的には大きく成長しているのだろうから、﹁変わっていない﹂と 一言で言うと誤解されそうだが。 ﹁隠密行動が出来るスキル⋮⋮いえ、技術をお持ちというわけです わね。貴女と私の考え方は、一部が同じ方向を向いている気がしま すわ﹂ ﹁⋮⋮確かに。突然そんなことを言われても、と答えるのが普通で しょうが、私も同じことを考えました。坊っちゃんとの関係性も、 どうやら近いものがあるようですね﹂ バチバチッ、と音がしそうな勢いで、忍者と執行者の間に見えざ る火花が散る。西洋における忍者イコール執行者、と言えなくはな い気もするし⋮⋮密命を帯びて影で任務を遂行するという意味では 共通点があるから、スキルも似た傾向にあるんじゃないかと思う。 1157 ﹁スー殿に聞きたいことがあります。私の名は、フィリアネス・シ ュレーゼ⋮⋮首都に住まう方ならば知っているかもしれないが、改 めて名乗らせていただこう﹂ ﹁はい、存じ上げております。聖騎士フィリアネスの名を知らぬ方 は、この国の端まで行っても見つからないでしょう。その勇名は、 他国にまで轟いていると聞いています﹂ ﹁恐れられているということなら、国を守る者としては喜ばしいこ となのだろうな﹂ フィリアネスさんは苦笑して言う。恐れられて嬉しい人なんて、 例え軍人であってもそうはいないだろう︱︱まして、心優しい彼女 ならなおさらだ。 ﹁フィリアネス殿がここに居るというのも、想定外でしたが⋮⋮南 王家の動きについては、もうご存知と考えてよろしいのですか?﹂ ﹁もはや、誤魔化しても仕方があるまい。私たちは、西王家のルシ エ・ジュネガン公女が王族として認められるため、祝祭まで守り通 すためにここに来た﹂ ﹁さっきも言ったと思うけど⋮⋮グールド公爵が来てるんだろう? 情報を、教えて欲しいんだよ。冒険者ギルドも、グールドのこと はよく思ってないって聞いたよ﹂ ︵それは初耳だな⋮⋮いや、パメラが協力を要請して、スーさんが ここに来たってことは、そういうことなのか︶ ﹁⋮⋮グールド公爵の行動は、冒険者ギルドの情報網でも把握して います。公王に情報を届けることも、私たちの仕事ですが⋮⋮公王 はグールド公爵を警戒していますが、具体的な方策を打つことが出 来ていません。公王が動くことで、公爵に内乱の動機を与えること を危惧しているのです﹂ 1158 ﹁グールドの暴虐を関知していてなお、今まで放っておいたという のか⋮⋮? そういうことならば、黒騎士団がグールドの企みに関 与していたことも⋮⋮﹂ ﹁はっきりと知ることが出来たのは、イシュアラル村での事件があ ってからです。あの件もギルドは関知しておりましたが、ヴィクト リア団長はフィリアネス様によって誅罰を受け、グールド公爵との 関係を絶ったと判断いたしました。今も南ジュネガンの動きは偵察 させておりますが、グールドの兵がイシュアラルに向かっており、 黒騎士団と交戦する可能性があるとのことです﹂ あらゆるところで、戦の口火が切られようとしている。今夜のう ちに、グールドを討たなければ。 この夜が明けて、次の一日を終えれば、もう祝祭の当日なのだ。 ルシエは明日までに首都に入らなければならない︱︱そうでなけれ ば、彼女が王族になったことを祝う祝祭で、不在ということになっ てしまう。国民に彼女の姿がお披露目され、王位継承者だと広く認 知される機会だというのに。 ︵それ自体は、ルシエが心から望んでることなのかは分からない⋮ ⋮でも、きっと、必要なことだ︶ 迷いを捨てなければ、仲間に危険が及ぶことになる。 後戻りできない境界線を、今踏み越えようとしている。 ︵絶対に失敗は出来ない⋮⋮そうしたら、リオナたちのところにも 戻れなくなる︶ ﹁⋮⋮でも、逃げる気は初めからないんだよな﹂ ﹁ヒロト⋮⋮?﹂ 1159 ﹁ああ、ううん。グールドを早く何とかしないと、っていうのは、 じゅうぶん分かってる。スーさん、グールドの居場所を教えてくれ ないかな﹂ ﹁⋮⋮その前に。少しだけ、失礼いたします﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ スーさんは俺に歩み寄ると、昔よりずっと大きくなった俺を、軽 々と持ち上げて抱っこした。 ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹁観察眼﹂を使った! ・︽スー︾が︽あなた︾のステータス情報の一部を取得した。 観察眼は、狩人などの職業で取得できる、相手のステータスや弱 点を知ることができるスキルだ。俺も狩人のスキルを上げて、いず れ取得したいと思っていた。色んな場面で使える、非常に有用な技 能だからだ。 執行者スキルを上げても覚えられるんだろうか⋮⋮と思うが、ス テータスはやはり見られない。スーさんの髪飾りは昔とは違ってい るが、俺のスキルを防ぐ装備効果が同じように付加されているよう だ。 ﹁あ、あの⋮⋮スーさん、俺、もう大きくなったから、そういうふ うに抱っこされると恥ずかしいよ﹂ ﹁っ⋮⋮申し訳ありません。つい、昔を思い出してしまい⋮⋮﹂ 1160 スーさんは慌てて俺を下に降ろす。昔と同じ気持ちで居てくれる のは嬉しかったが、みんなの前では照れるものがあった。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、そのお年で、この国の命運のかかった戦いに臨 まれるとは。わたくしも、想像もしていませんでした。あなたが、 そこまで強くなるとは⋮⋮﹂ ﹁あ、当たり前だよ。ヒロト様は、赤ん坊の時にあたしをやっつけ てるんだからね。こうなることは目に見えてたよ。ああ、なんでま た捕まっちまったんだか⋮⋮﹂ 様、って普通に言うけど、なんだか俺に服従してることをアピー ルしているような⋮⋮しかもちょっと嬉しそうだったりして、なん とも言えない。もしかしてパメラはツンデレだったんだろうか。ツ ンデレって久しぶりに使ったな。 ﹁文句を言ってはいるが、あのまま逃げることも出来たのに助けを 求めてきたという点では、パメラもヒロトに見所があると思ってい るのではないのか?﹂ ﹁っ⋮⋮は、はんっ。あたしゃ、この国を離れる気も、グールドの 追っ手に怯えて生きるのもまっぴらなだけだよ。あんな奴らが国の 偉いさんをやってるようじゃ、先行きもロクなもんじゃない﹂ パメラの言い分は尤もだが、彼女は何やらしきりに耳たぶを触っ て気にしている。その頬が赤くなっているのを見て、ミコトさんが ふっと笑った。 ﹁ともあれ、ヒロトさんの実力についてスーさんが理解してくれて いるなら、話は早いですわね。私たちのリーダーがヒロトさんだと いうのも、納得していただけると思いますし﹂ ﹁坊っちゃんは子供の頃から、人を導く器を持っておりました。多 1161 少人見知りをしていらっしゃいましたが、それさえ克服すれば⋮⋮﹂ ﹁そうだったな⋮⋮初めの頃のヒロトは、私にあまりなついてくれ なかったのだが。今となっては、私の方が⋮⋮﹂ ﹁フィリアネスさん、緊張感を無くしてはいけませんわよ。ギルマ スの話をするとき、微笑ましく思う気持ちはとても良くわかるので すけれど﹂ ﹁む⋮⋮そ、そうだな。済まない、今はそんな場合ではなかったな﹂ フィリアネスさんは恥じ入るが、それを見ているミコトさんも、 スーさんでさえ、それを不謹慎だとは咎めなかった。 ﹁剣を持てば無類の強さを誇る騎士であっても、ギルマスの前では ⋮⋮ということですわね﹂ ﹁ギルマス⋮⋮? それは、ヒロト坊っちゃんのことを言っている のですか?﹂ ﹁いえ、お気になさらないでくださいませ。私は彼をそう呼ぶ、と いうだけですわ﹂ ﹁⋮⋮そうですか。坊っちゃんが、自分のギルドを作られたのかと 思いました。今の坊っちゃんであれば、それだけの力を持っていら っしゃる⋮⋮正直を言えば、震えがくるほどです﹂ ︵俺の強さを観察眼で見抜いても、それを喜んでる。つまり彼女は、 それほどに強いってことだ︶ 八年前からたゆまない鍛錬を積んでいれば、どうなるか。 彼女のステータスを見たら、俺もまた驚くことになるんだろう︱ ︱手合わせするときのことが、楽しみになってくる。 ゲームにおけるプレイヤー同士の対戦︱︱PVPも、何度も俺の 血を熱くさせた。実際に互いの力を認め合う戦うことが、楽しくな いわけがないのだ。 1162 ﹁⋮⋮主人に仕えていたメイドというようには見えませんわね。待 ち焦がれていた、という顔ですわ﹂ ﹁否定はしませんが。今は、一刻を争います。それ以上のお話は、 全てが終わったあとにいたしましょう﹂ そして、作戦会議が始まる。俺たちがグールドを、今夜のうちに 倒すには、どう動けばいいのか。 スーさんの手引きがあれば、首都の情報を知り尽くしているも同 然だ。彼女は俺の方をもう一度見やると、黒髪のおさげに触れなが ら小さく笑った。 ◇◆◇ 公国の首都ジュヌーヴには、公王の居城に隣接して、円卓議場な どの施設がある。それらをまとめて公王府と呼び、その中に、王族 が首都に訪問したとき、滞在することになっている屋敷がある。 グールド公爵が今まさに滞在している別邸もそこにある。公爵の 私兵は、俺たちが事前に把握していた通り、首都に近い砦に配され ている。その気になれば、いつでも攻め入れる︱︱そんな脅しの意 味があるようにも受け取れる。もちろん、青、赤、白の三つの騎士 団が公王府を守っているので、実際に攻め込んだりすれば自殺行為 ではあるが。 スーさんは砦にいる兵自体は問題ではなく、そこからグールドに 追従して首都に入った兵士たちが、当面の障害になると説明してく れた。 1163 ﹁グールドが滞在している屋敷を、現在五十人の兵が守備していま す。それが何故なのかは明白です⋮⋮彼らは、ルシエ公女を手中に 出来なかったのは、何者かの助力によるものと察しているのでしょ う﹂ ﹁反撃を恐れているということか⋮⋮グールドは、私たちの素性は 把握していないのか?﹂ ﹁フィリアネス様は、領地であるヴェレニスに駐留している。表向 きにはそういうことになっていますので﹂ ﹁⋮⋮グールドの企みに従ったことも、間違いばかりでは無かった ようだな。事前に私が動いていることを知られれば、組織上は私の 指揮下にある白騎士団も累が及ぶことになる。それは避けたかった﹂ つまりグールドは、実際に顔を合わせるまで、誰が敵なのかも知 らないということだ。 ﹁五十人の兵については、あなたたちの実力なら難なく切り抜けら れるでしょう。しかし、グールドには常に付き従っている護衛がい るという情報があります。どのような人物かはわかりませんが、グ ールドの全幅の信頼を得ているようです﹂ ﹁そいつが、かなり強いかもしれないってことか⋮⋮分かった。気 構えはしておくよ﹂ ﹁私は、冒険者ギルドの仲間と共に首都の民を守らなければなりま せん。お二人とも、坊っちゃんのことを、なにとぞよろしくお願い いたします﹂ スーさんが深く頭を下げる。フィリアネスさんとミコトさんは、 二人で彼女の肩に手を置いた。 ﹁顔を上げてください、スーさん。私たちの方が、彼に守られてい 1164 るようなものなのですから﹂ ﹁ヒロトが居るからこそ、私も戦わなければならないと思った。意 志を託しているのではない、彼の意志こそが、常に私の望みなのだ﹂ そう言う二人の目には、俺の心に無限の力を湧き起こさせる輝き があった。 ︱︱みんなで、待ってくれている人の元に帰る。そして、祝祭の 日を迎えるんだ。 ﹁⋮⋮良い仲間を見つけられましたね、ヒロト坊っちゃん﹂ ﹁うん。おれも、いつもそう思ってるよ﹂ 俺はスーさんが昔言いかけたことを、今でも覚えている。 彼女が言ったとおり、俺が英雄になるような器を示すことができ たら︱︱その時は。 ◇◆◇ グールドの屋敷に近づくまでは、何ら難しいことはなかった。隠 密スキルを使って気配を隠し、屋敷の気配を窺う︱︱明かりは消え ておらず、物々しい武装をした守備兵たちが、夜通しの番をしてい た。 ︵魅了スキルで敵を減らすか⋮⋮いや、数が多すぎるか︶ ﹁ギルマス、屋敷の裏に回って侵入しますか? それとも⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮何か、不穏な気配がする⋮⋮肌にまとわりつくような、違和 感がある。何なのだ、これは⋮⋮﹂ 1165 ﹁フィリアネスさん⋮⋮?﹂ フィリアネスさんの表情は険しく、その顔が青白く見える。彼女 だけが感じ取れる違和感が、あの屋敷にはある。 言われてみて、俺も気がつく︱︱兵たちの表情も、視線も全く動 いていない。まるで人形でも置いてあるかのように、ただ呼吸する 動きしかしていないのだ。 ﹁⋮⋮戦闘回数は少ないほうがいい。裏に回ろう﹂ ﹁了解しましたわ⋮⋮屋敷の裏に、木がありますわね。あれを利用 すれば、二階のバルコニーから入ることが出来ます﹂ ﹁私は二人のように、気配を隠すことが出来ない⋮⋮済まない、敵 に見つかれば戦うしかない﹂ ﹁うん。それでも俺は、フィリアネスさんが居てくれた方が心強い と思ってるよ﹂ ﹁⋮⋮ああ。そうでなくては、私はここに来ることすら出来ていな い。ありがとう、ヒロト﹂ 屋敷の裏に回ると、ミコトさんが木の高い位置に鉤縄を引っ掛け、 するすると登っていく。フィリアネスさんも鎧をつけているのに、 それを感じさせない身軽さであっという間に登ってしまった。 ︵し、しかし⋮⋮下から見るとああなってるのか⋮⋮︶ まさか下にいて見えてはいけないものが見えるとは思ってなかっ たので、普通に見てしまった。何か言われたら﹃月がきれいですね﹄ と文豪風にごまかしたいところだ。 しかしバルコニーに上がり、屋敷の二階の廊下に出たところで、 1166 そんな気の抜けたことは言っていられなくなった。 ﹁っ⋮⋮見つかった⋮⋮!﹂ 巡回していた槍を持つ守備兵が、こちらに気づく。フィリアネス さんもスキルが無いなりに気配を殺していたはずなのに、その守備 兵の感覚は恐ろしく鋭敏だった。 ﹁何ですの、あれはっ⋮⋮!﹂ 兵は俺たちを見るなり、無言で走りこんできた︱︱生気がない表 情のままで、しかしその動きだけが獣じみている。 ◆ログ◆ ・︽スレーター︾は﹁突撃﹂した! ・︽フィリアネス︾は武器で攻撃を受け止めた! ノーダメージ! ・武器の耐久度が減少した。 ﹁くっ⋮⋮!﹂ ︱︱目を疑う光景だった。公国最強のフィリアネスさんが、一介 の兵士の突きで押されたのだ。 いつものフィリアネスさんなら避けて反撃するところが、レイピ アの刃で受け流すことしか出来なかった。 ︵どういうことだ⋮⋮グールドの私兵のレベルは、想像以上に高い のか⋮⋮!?︶ 1167 ◆ログ◆ ・︽スレーター︾の活動停止が早まった。 ︵活動⋮⋮停止?︶ ﹁ギルマスっ⋮⋮!﹂ 俺と同じようにログの見えているミコトさんが声を上げる。俺は 仮説を立てるものの、まるで︽スレーター︾という兵士が人間でな いかのような﹃活動停止﹄の文字列に、妥当な解答を見出せない。 ︵そんなことはいい⋮⋮やるしかない⋮⋮!︶ ﹁フィリアネスさん、下がるんだっ!﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁アイスボール﹂を武器にエンチャントした! アイス・パライズ・スマッシュ ・あなたは﹁パラライズ﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁スマッシュ﹂を放った! ﹁凍結麻痺撃!﹂ ドヴェルグの小型斧が双属性の精霊魔術を纏う。それを見ても引 1168 くことなく、兵士は下がるフィリアネスさんに追い打ちをかけよう とする︱︱しかしそれを、俺の一撃が断ち切る。 ﹁うぉぉっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽スレーター︾に371ダメージ! ・︽スレーター︾は凍結した。 ・︽スレーター︾に麻痺は効果がない。 敵兵が槍を突き出そうとしたままで凍りつく。手加減をセットし ておいたのに、発動しない︱︱あれだけのダメージを与えても、ラ イフがゼロにならなかったということだ。 ﹁さすがですわね、ギルマス⋮⋮ですが、ここの敵は異常ですわ。 フィリアネスさんの言った通りでしたわね﹂ ﹁⋮⋮全く、人間の身体の限界など無視した動きだった。それに⋮ ⋮この兵士。あまりにも⋮⋮﹂ 青白い肌で、生気が感じられない。しかしここまで来た以上、敵 がどれほど普通じゃなくても、グールドの下まで走り抜けるしかな い⋮⋮! ﹁行こう、二人とも⋮⋮決して気を抜いちゃいけない﹂ ﹃了解っ!﹄ 俺たちは屋敷の広い廊下を駆け抜けていく。青ざめた顔の兵士た 1169 ちが現れ、俺たちの道を塞ぐ︱︱しかし初めから気を抜かなければ、 俺たちの敵ではなかった。 ﹁はぁぁっ!﹂ ﹁邪魔を⋮⋮するなっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾は当て身を繰り出した! ・︽ガルザス︾に575のダメージ! ・︽フィリアネス︾は﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は﹁サンダーストライク﹂を武器にエンチャン トした! ストライク・パニッ ・︽フィリアネス︾は﹁パニッシュ﹂を武器にエンチャントした! シャー ・︽フィリアネス︾は﹁ツインスラスト﹂を放った! ﹁轟雷罰連 閃﹂! ・︽ボルドール︾に772のダメージ! ・︽ボルドール︾に麻痺は効果がない。 ダメージを与えて、敵は倒れている︱︱しかし、昏倒したという ログが流れない。二人とも手加減はしているはずなのに。そしてパ ラライズの上位魔法であるパニッシュでも、麻痺が全く通っていな い。 ﹁手応えがありませんわ⋮⋮ですが、しばらくは動けないはず⋮⋮ !﹂ ﹁今は進むしかない⋮⋮っ、出てくる敵は、全て排除する⋮⋮っ!﹂ 1170 俺は胸騒ぎを覚えながらも、二人と共に駆けることしか出来ない。 これまでも、何度も予測のつかないこと、予備知識のない出来事は 起きて、時に苦難として俺の前に立ちはだかってきた。 しかし、俺は全てを乗り越えてきた。これもそのうちの一つだ︱ ︱後ろを振り返ることは、できない。 1171 第三十三話 首都潜入︵後書き︶ ※今日から日曜日まで、毎日20:00に更新いたします。 1172 第三十四話 死霊の女王 屋敷の三階まで上がり、捨て身の攻撃ばかりを繰り出してくる兵 士たちを退け、俺たちはようやく館の主の居室に続く扉に辿り着い た。 そこには、二人の人物が立っていた。今までと違い、その顔には 生気がある︱︱しかし、感情はない。 そのうちの一人は、栗色の短い髪をした女性だった。軽鎧を装備 しているが、武器らしき武器は持っていない︱︱格闘か、それとも 別の方法か。戦闘能力を持ってはいるようだが、どんな戦い方をす るかは見えてこない。 もう一人は恐ろしいほどに上腕が鍛えられ、革鎧から露出した腕 が筋肉で盛り上がっている︱︱二人ともが、他の兵士とは一線を画 す威圧感を放っている。 ︵この二人が、グールドの護衛⋮⋮只者じゃないな︶ ﹁ミコトさん、俺たちが二人を引きつける。そのうちに扉を抜けて くれ﹂ ﹁⋮⋮分かりました。私も、それが最善だと判断しますわ﹂ グールドを倒すことさえ出来れば、必ずしもこの二人を倒す必要 はない。ミコトさんなら、部屋に入ってしまえば俺たちよりも迅速 にグールドを狙うことができるだろう。 ﹁グールドの下に行かせてもらうぞ。邪魔立てするならば、斬らな 1173 ければならない﹂ ガルム フィリアネスさんは銀色に輝く細剣を二人に向ける。そのとき、 女性の方が何かを呟いたように見えた。 ガルム ﹁⋮⋮我が身体は、冥狼の化身となる⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽シスカ︾は呪文を詠唱している⋮⋮。 ・︽シスカ︾の獣魔術が発動! ︽シスカ︾は一時的に冥狼の力を 宿した! ﹁獣⋮⋮魔術⋮⋮﹂ そのログを見た瞬間、俺の思考が止まる。俺の知る、獣魔術の使 い手はたった一人︱︱。 ミルテは、その母親から獣魔術を受け継いだ。シスカという名前 は聞いていない、しかし、俺は可能性を考えずにはいられなかった。 ﹁︱︱ヒロトッ!﹂ ◆ログ◆ ・︽シスカ︾の攻撃! ・︽フィリアネス︾が割り込みをかけた! ・︽シスカ︾の攻撃がキャンセルされた。 1174 ﹁っ⋮⋮﹂ 獣魔術を使った女性︱︱シスカの身体は全身が紫の体毛に覆われ、 狼のような姿に変わっていた。その手の爪は鋭く伸びていて、俺を 狙って手刀を繰りだそうとした︱︱フィリアネスさんは細剣で突き を繰り出し、それを横から妨害してくれたのだ。 ﹁気を抜いている場合ではないぞ、敵はもう一人いるっ!﹂ ﹁ごめん、フィリアネスさん⋮⋮我がまま言ってるって分かってる けど、二人とも殺さずに倒してくれっ!﹂ ﹁っ⋮⋮ギルマス、なぜ⋮⋮っ﹂ ﹁どうしても、気になるんだ! この二人が、何者なのかがっ!﹂ もう一人の男が動き出して、袖の中から引き出した2つの武器︱ ︱チャクラムを構える。恐ろしいことに、それをほとんどノーモー ションに見えるほどの目に止まらぬ動きで、こちらに向かって投擲 してきた。 ︵考えてるヒマはないっ⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・︽ナヴァロ︾は﹁ダブルチャクラム﹂を放った! ・あなたは﹁ブーメラントマホーク﹂を放った! ・︽ナヴァロ︾の攻撃を妨害した! 1175 放たれたチャクラムを、俺の放った斧が弾き返す。軌道が少しそ れたものの、それでも斧は俺の手元に戻ってきた。スキルを使わず にただ投げるだけでは、こんなことは不可能だろう。 ナヴァロという男はチャクラムに紐をつけており、それを引くこ とで瞬時に手元に戻す。技名こそ﹁チャクラム﹂だが、あれはヨー ヨーのようなものだ︱︱そんな武器が、エターナル・マギア時代に も存在はしていた。ヨーヨーは、まるで曲芸でもしているような戦 闘スタイルを可能にし、一部の玄人を楽しませていた。そのうちの トマホーク 一人が、暗殺武器を極めようとしていたミコトさんだ。彼女と手合 わせした経験がなければ、投擲技で撃墜できるという発想には至ら なかっただろう。 ﹁⋮⋮なかなかやる。子供を殺すには忍びないと思っていたが⋮⋮ どうやら、本気でやる必要があるようだ﹂ ﹁敵は殺すだけ。私たちは、そう命じられてる﹂ 他の兵士とはやはり違う︱︱男の方は、比較的感情を感じさせる。 女性の方は全く無感情に、狼のような目を暗がりの中で銀色に輝か せている。 ﹁ミコトさん、行ってくれっ! 俺たちもすぐに追いかける!﹂ ﹁分かりましたわ⋮⋮死んだら許しませんわよ、二人ともっ!﹂ ﹁承知しているっ⋮⋮はぁぁっ!﹂ ミコトさんが駆け出すと同時に、フィリアネスさんは大技を繰り だそうとする。しかしシスカが鋭敏に反応し、技の出かかりを潰し にかかる。 ﹁させないっ⋮⋮!﹂ 1176 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ダブル魔法剣﹂を放とうとした! ・︽シスカ︾は﹁シャドウクロー﹂を放った! ・︽フィリアネス︾の行動がキャンセルされた。 ﹁速い⋮⋮しかし⋮⋮!﹂ ﹁ああ⋮⋮勝てない相手じゃないっ!﹂ ﹁思い上がるなっ⋮⋮行かせるかっ!﹂ 俺とフィリアネスさんが二人を引き付けているうちに扉を抜けよ うとしたミコトさんに、ナヴァロがチャクラムを投げつけようとす る。しかし、それを許す俺ではなかった。 ﹁﹃炎よっ﹄!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ファイアーボール﹂を詠唱した! ・︽ナヴァロ︾の﹁アサルトシュート﹂をキャンセルした! ︽ナ ヴァロ︾に53のダメージ! ﹁ぐっ⋮⋮魔術まで⋮⋮小僧ォォッ!﹂ ﹁俺たちは進まなきゃならないんだっ⋮⋮!﹂ 1177 激昂し、チャクラムを再び放とうとするナヴァロに向けて、俺は 大技を叩き込もうとする。 クリティカル ﹁手加減﹂はセットしているが、この屋敷の敵を相手に、容易に 致命的なダメージを与えられるとは思えない︱︱しかし、これなら。 ﹁氷の精霊、雷の精霊よ⋮⋮俺に力をっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁アイスストーム﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁ライオットヴォルト﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁メテオクラッシュ﹂を放った! ﹁氷雷流星撃!﹂ ﹁なん⋮⋮だとっ⋮⋮!?﹂ 俺の斧が凍気と雷を纏い、稲光の走る氷の竜巻が発生する。魔法 剣で使える魔術の組み合わせは多々あるが、今使えるものの中では、 これが間違いなく最強だった。 ﹁こんなに強い相手に、他の技は選べない⋮⋮行くぞっ!﹂ ﹁馬鹿な⋮⋮っ、こんな子供にっ⋮⋮!﹂ ﹁うぉぉぉぉっ!﹂ 振り下ろした斧が、まるで隕石のような衝撃を生む。同時に広が った凍気が屋敷の床から壁までを瞬時に凍りつかせ、空気を切り裂 いて雷光が轟く。 1178 ◆ログ◆ ・︽ナヴァロ︾は防御に徹した! ・︽ナヴァロ︾に1874ダメージ! ・﹁手加減﹂が発動した! ︽ナヴァロ︾は昏倒した。 ﹁がっ⋮⋮ぁ⋮⋮﹂ 属性攻撃を防ぐ装備をしているのか、凍結にも感電にもかからな い。しかし防御で軽減しても軽く4桁に達するダメージが出ては、 立っていられるわけもなかった。ライフの最大値は、限界突破しな ければ1240が最大値だからだ。 ﹁ナヴァロ⋮⋮!﹂ ﹁逃がすかっ⋮⋮雷の精霊よっ!﹂ 相棒が倒されたからか、シスカはナヴァロを救出しようと動く。 それを阻止しようと、フィリアネスさんが雷の魔術を短縮して詠唱 する︱︱しかし、シスカは文字通り獣のような動きで跳ね回り、フ ィリアネスさんの放った﹁ボルトストリーム﹂を回避しきった。 ﹁︱︱冥狼の力を、甘く見るな⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽シスカ︾は﹁絶影﹂を発動した! ・︽シスカ︾の敏捷性が大幅に上昇した! 1179 ︵っ⋮⋮速い⋮⋮今まで見た中で、誰よりも⋮⋮!︶ スキルの名前通り、俺はシスカの影すら目で追うことは出来なか った。瞬きの後には、シスカはナヴァロの身体を担いで、窓の近く に立っている。 ﹁⋮⋮この借りは必ず返す﹂ ﹁待てっ⋮⋮まだ聞きたいことがあるっ! ミルテ・オーレリアの 名前に、聞き覚えはっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮そんなものは知らない。私を惑わそうとしても、そうはいか ない﹂ シスカは窓から飛び出していく。追いかけて窓の外を見ると、眼 下には二階だというのにものともせずに着陸し、逃げていくシスカ の後ろ姿があった。 ︵⋮⋮変身する前に見た、彼女の髪の色は⋮⋮ミルテと同じだった。 そして、同じ魔術を使った︶ もし、シスカがミルテの母親ならば。グールドこそが、ミルテの 両親を隷属させている当人だったということになる。 ネリスさんの無念と、ミルテの両親への想い⋮⋮その2つを知り ながら、俺はみすみす、二人を逃してしまった。ナヴァロを倒す前 に、シスカの動きを止めていれば︱︱しかし、今は悔やんでいる時 間すらない。 ﹁ヒロト、逃してしまったのは惜しいが、今はミコト殿を追う方が 1180 先だっ!﹂ ﹁うん、ごめん、フィリアネスさん!﹂ グールドを倒せば、ミルテの両親も解放できる。 扉の向こうに、今まで見えなかった宿敵の姿がある。ミコトさん ならきっと、グールドを追い詰めてくれている。 ︱︱しかし、俺の想像は、無慈悲に裏切られる。 扉を開けた先。暗い部屋の中で、女性の苦しそうにうめく声が響 く︱︱その声の主は、ミコトさんだった。 ﹁ぐぅっ⋮⋮うぅっ⋮⋮ぎ、ギルマス⋮⋮来てはいけませんわ⋮⋮ この、男は⋮⋮あぁぁっ⋮⋮!﹂ 信じがたい光景だった。痩せぎすの老人︱︱貴族の衣装を着てい ることから、おそらくグールドなのだろう︱︱が、ミコトさんの首 をつかみ、片手で宙に吊り上げている。 ﹁⋮⋮なぜ、生きていられるのだ⋮⋮あの姿で⋮⋮っ﹂ フィリアネスさんの言うとおりだった。﹁あの姿﹂で、生きてい られるわけがなかった。 グールドと目される人物の胸には、大きな穴が開いている。着て いた衣服を貫通されている︱︱ミコトさんは、グールドを一撃で殺 そうとしたのだ。 そうするしか、戦いを終わらせる方法がない。俺にもそう分かっ ていたつもりだった。 1181 ミコトさんは俺などより遥かに真摯に現実に向き合い、自分の手 を汚すことを予め心に決めていた。 そんな彼女を、先に行かせた。それこそが、俺の間違いだった︱ ︱。 ◆ログ◆ ・︽グールド︾は︽ミコト︾の首を締め上げている! ・︽ミコト︾は振りほどけない! 窒息により、137のダメージ! ﹁ぐぅっ⋮⋮うっ、ぁぁ⋮⋮っ!﹂ グールドはミコトさんの一撃を受けて、生きている。心臓を穿た れてもなお血の一滴も流すことなく、ミコトさんを死に追いやろう としている⋮⋮! ︱︱死。 リスポーン この異世界に蘇生はない。一度死んでしまえば、それで終わり。 ア 目の前が赤く染まる。倒さなければならない、グールドの腕を切 り飛ばしてでも。 ﹁グールドッ⋮⋮!﹂ ﹁人間でなくなってまで、この国が欲しいのか⋮⋮っ!﹂ ンデッド 俺はフィリアネスさんと共に切り込んでいく。俺はグールドを不 死者と見なし、最も有効な炎の魔術を選択する。フィリアネスさん 1182 シングル は得意な雷の魔術を選び、同時に魔法剣を発動した。ダブルを発動 させている時間はない、互いに単独付与で、最速の攻撃を放つ︱︱! ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁魔法剣﹂を放った! ・︽フィリアネス︾は武器に﹁サンダーストライク﹂をエンチャン トした! ・あなたは﹁魔法剣﹂を放った! ・あなたは武器に﹁クリムゾンフレア﹂をエンチャントした! ・コンビネーションが発生した! ﹁雷撃・紅炎・剣斧撃!﹂ 暗闇を炎と雷の光が貫く。俺の一撃はグールドの腕を切り飛ばし、 フィリアネスさんの刺突は、その胴体を貫通していた。 ◆ログ◆ ・︽グールド︾に1354のダメージ! ・︽グールド︾は一時的に活動を停止した。 ︵また⋮⋮なんなんだ、このログは⋮⋮!︶ 確実に倒せるダメージを与えても﹁倒した﹂と表示されない。焦 りを振り切り、俺はグールドの手から解放されたミコトさんを受け 止めた。 1183 ﹁ミコトさんっ⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮ぁぁ⋮⋮ごほっ、ごほっ⋮⋮!﹂ 首の骨を折られかけていたのか、ミコトさんは血混じりの咳をす る。俺は持っていたポーションを取り出し、彼女の口元に運んだ。 飲むのは苦労するが、それでもライフを回復しなければ、彼女の命 が危ない。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁応急手当﹂をした。︽ミコト︾の状態異常が回復した! ・あなたは﹁ポーション﹂を︽ミコト︾に飲ませた。︽ミコト︾の ライフが回復し始めた。 応急手当スキルを使ってミコトさんの喉を嚥下できる状態に回復 する。それほど喉に損傷がなかったので、俺の拙いスキルでもなん とか治療してあげられた。 俺が作ったポーションは品質が高く、飲めば通常のポーションよ りライフが多く回復するが、45秒かけてゆっくり回復するので瞬 時に完全回復とはいかない。 ﹁ギルマス⋮⋮情けないところを、みせましたわね⋮⋮﹂ ﹁そんなことないよ⋮⋮俺こそごめん。グールドの危険さを、想像 もしてなかった⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮不死者だったというのか。南王家の血を引く公爵が⋮⋮一体、 いつから⋮⋮﹂ 1184 ︱︱人間は脆く、その生は苦痛に満ちている。 ﹁っ⋮⋮誰だ⋮⋮!﹂ グールド以外に、誰もいなかったはずの部屋。 しかし何の前触れもなく、忽然として、﹃それ﹄は存在していた。 窓際で月光を浴び、微笑んでいる︱︱真っ白な髪をした、金色の 瞳を持つ、恐ろしいほどに美しい女。 まるで葬礼に出るための衣装のように、彼女は頭の飾りから靴ま で、黒とグレーのモノトーンに染まっていた。 その美貌は精緻に作られた人形のように無駄がなく、文字通り人 外のものだった。 ゴシックドレスのような衣装の胸の部分は大きく張り出し、大胆 に開いた襟元からは、蒼白い肌が覗いている。 広く作られた袖で口元を隠し、彼女は俺たちを見ながら薄く微笑 んでいた。 しかし、人間の持つ喜びや、楽しみの感情で笑っているわけでは ない。 彼女は俺たちを︱︱この場にいる生者をあざ笑っていた。 ﹁その男⋮⋮グールドは、不死の肉体を望んでいた。幾らこの国の 王の座を渇望しようと、病に蝕まれた彼は、もうそれほど長くは生 ざれごと きられなかった。私は、彼を救ってあげたのよ﹂ ﹁⋮⋮戯言を。グールドを殺害し、不死者に変え、操り人形にした というなら⋮⋮それを救いと呼べるわけがないッ!﹂ 1185 フィリアネスさんは怒りをあらわにして、細剣を女に向ける。そ れを意に介することなく、むしろ面白いとでも言わんばかりの顔を して、女は話を続けた。 ﹁私はグールドの意志を代わりに遂行している。今は使い物になら ないけれど、それなりに面白い企み事をしていたのよ。この国を手 に入れようとしていた⋮⋮そのために私は、大事な駒を貸してあげ たの﹂ ﹁⋮⋮ここの扉を、あの二人に守らせてたのも。黒騎士団長のヴィ クトリアに、﹃悪の鉄仮面﹄をつけさせたのも⋮⋮全部、お前の仕 組んだことなんだな﹂ ﹁っ⋮⋮ヴィクターが、この女に操られていたというのか⋮⋮!﹂ そうとしか考えられない。グールドを影で操っていたのがこの女 なら⋮⋮﹃駒﹄というのが、黒騎士団や、この屋敷を守っていた連 中を指しているのならば。 ﹁何をそんなに怒っているの? 私は退屈で仕方がない国を乱して あげているだけ。他にも方法は色々あるけれど、今回は泥臭い方法 を選んだの。そういうのも、たまには悪くはないものね﹂ ﹁遊びのつもりか⋮⋮グールドだけでなく、その配下の兵までも不 死者に⋮⋮っ﹂ ﹁︱︱あまりきゃんきゃん鳴かない方がいいわね。せっかく、綺麗 な顔をしているのに台無しよ?﹂ 現れた時からそうだった。俺たちには、敵の動きがまるで見えて いない。目で追うことすら出来ない︱︱。 ﹁顔だけじゃなくて、髪もきれいね。透き通るみたいな金色⋮⋮ま るで、天使の輪を溶かしたみたい﹂ 1186 ﹁っ⋮⋮!?﹂ フィリアネスさんが背後を取られている。窓際にいたはずの女が すぐ後ろにいて、凄絶なまでに妖艶な微笑みを浮かべている。 ︵シスカが﹃絶影﹄を使えるのなら、彼女を従わせているこの女に、 同等の芸当が出来ても不思議はない⋮⋮でも、そんな存在がいるの か⋮⋮?︶ そう考えて俺は、ようやく思い当たる。 不死者の頂点に君臨する王。その容姿は、白い髪に、金の瞳を持 つと言われていた。 クィーン 未実装のままで、俺が前世で触れることなく、情報のリークだけ がされていたクエスト︱︱﹃死霊の王﹄。 リッチ ﹁死霊の王⋮⋮なのか⋮⋮?﹂ ﹁王というのは違うわね。私は見ての通り、女だもの。女王と言っ グール てもいいけれど、あまり好みの呼び方ではないわ﹂ ﹁死者を操って⋮⋮屍鬼にしたっていうのか。この屋敷を守ってた 人たちも、全部⋮⋮﹂ ﹁選ばれし資格のない者はそうなるだけよ。けれど、この子は違う わね。フィリアネス・シュレーゼ⋮⋮前から、目はつけていたのよ。 聖騎士は人間にしてはそれなりに強いし、男を知らない処女でもあ る。私の下僕にしてあげるには、とても具合がいいと思っていたの﹂ ﹁っ⋮⋮ふざけるな⋮⋮誰が、貴様の仲間になど⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ 1187 ライトニングソーン ・︽フィリアネス︾は﹁雷の棘﹂を詠唱した! ・︽メディア︾に27のダメージ! フィリアネスさんが、触れた敵にダメージを与える低級魔術を発 リッチ・クィーン 動させた︱︱雷精霊の力が起こす光を見てから、遅れて理解する。 死霊の女王︱︱メディアは一瞬だけ隙を作り、フィリアネスさんが 間合いを取るだけの時間を与えた。 ﹁おとなしくしていると思ったら、詠唱していたのね。呪文は声に 出すのがマナーというものよ﹂ ﹁黙れっ⋮⋮これで終わらせるっ! はぁぁぁぁっ!﹂ それでも余裕を示すメディアに、フィリアネスさんは突きを繰り 出す︱︱それはこれまで見てきた中で最速にして、最小の動きによ って放たれるものだった。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ゼロ・スラスト﹂を放った! 細剣の基本攻撃である突き。それを奥義中の奥義にまで昇華した 技︱︱発動からダメージの発生までのタイムラグがほぼ﹁ゼロ﹂で あることから名付けられた技。 こちらが視認できないほどの速度で移動できる相手も、この技な ら確実に捉えられる︱︱俺もそう思った。 フィリアネスさんの放った突きは、メディアの身体を貫いた。 1188 そうであるはずが、まるで空気を貫いたように、見ていて手応え を感じさせない。 ﹁惜しかったわね⋮⋮私に攻撃を当てるなら、あらかじめ聖水を用 意しなければ。他にも色々方法はあるけれど﹂ メディアの身体の一部が、もやのようにぼやけている︱︱何が起 きているのかは、ログが教えてくれた。 ◆ログ◆ ・︽メディア︾はオートカウンターを発動した! ・︽メディア︾は形態変化を行った! 身体の一部が霧になった。 ・︽メディア︾はダメージを無効化した。 ︵オートカウンター⋮⋮物理攻撃を受けると同時に、身体を霧に変 える⋮⋮それじゃ、無敵を何度も発動出来るのと変わらない⋮⋮!︶ ﹁くっ⋮⋮あぁ⋮⋮!﹂ 霧に変わったメディアがフィリアネスさんの後ろに周り、今度は 羽交い締めにする。華奢な体躯に見合わない力で、フィリアネスさ んは全く振りほどくことが出来ずにいた。 ︵強い⋮⋮あまりにも⋮⋮なんでこんな奴が、こんなところに⋮⋮︶ ︱︱こんな敵が出てくるなんて想像もしていなかった。ユィシア 1189 との戦いを経てなお、俺は自分の手に入れた強さに安堵し始めてい た。 そんな甘えが許される世界ではないと分かっていたのに。フィリ アネスさんを人質に取られてようやく、俺は気がつく。 このままでは、全滅させられる。 これまでの攻撃は全く通じず、敵は手の内をまだ幾らも見せてい ない。 ﹁ねえ、知っている? この世界に君臨する最強の存在は、漏れな く女なのよ。男はそうなれるように作られていないの。偏った世界 だと思わない?﹂ ﹁⋮⋮だから、どうした。俺が、勝てないって言いたいのか⋮⋮?﹂ 心を折られるわけにはいかない。俺は強がりに聞こえると知りな がら、メディアを睨みつけた。 ﹁ふふっ⋮⋮ああ、そういうこと。あなたの目には、あの女の気配 を感じるわね⋮⋮憎らしいくらい。やはり、ここに出てきたのは正 解だったわ。こんな出会いがあるなんて、最高の退屈しのぎだもの﹂ ﹁くぅっ、うぅ⋮⋮ヒロト⋮⋮逃げろ⋮⋮この女は、私が刺し違え てでも⋮⋮っ﹂ 逃げられるわけがない。そんなことは考えていない。 ﹁麗しい愛情ね。まだ小さなあなたに本気で恋をしているのよ、こ の子は。ふふふっ⋮⋮滑稽ね。滑稽で、とても愛おしい⋮⋮﹂ ﹁やめろ⋮⋮私に触れるな⋮⋮っ、あぁ⋮⋮!﹂ 1190 フィリアネスさんの自由を奪い、メディアはその首筋に口をつけ ようとする。 斧を握る手に力を籠める。ウェンディのおかげで手に入れた﹃勇 敢﹄のスキルが、恐怖を忘れさせてくれる。 それが、例え蛮勇であったとしても。二人を守ることが出来れば ︱︱。 ︱︱早くヒロちゃんに会いたいな。 ︱︱ヒロトがいなかったら、別に見なくてもいい。 ︱︱また町に戻ったら、私と一緒に勉強しましょう。 脳裏をよぎった言葉は、ささやきの貝殻から聞こえたみんなの言 葉だった。生への執着と渇望が際限なく強まり、それでも俺の足を 前に進ませる。 ︵ごめん、リオナ⋮⋮ちょっと生き残るにはキツそうだけど。やる しかないみたいだ︶ ﹁ヒロト⋮⋮逃げろ⋮⋮逃げてくれ⋮⋮っ﹂ ﹁そこまで言うのなら、あなたとそこの黒髪の子を残して、男の子 だけは見逃してあげる。それとも、あなたも私のものになりたい?﹂ 圧倒的な強者。しかしそれを驕る相手に、媚びへつらう気などな い。 ﹁フィリアネスさんに、触るな。その人は、俺の大事な人だ﹂ 1191 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮ッ﹂ どうして逃げないのか、フィリアネスさんがそんな目をする。そ れを痛いほど理解しながら、俺は斧を握る手に力を込めて、メディ アと対峙する。 ﹁⋮⋮嫌だと言ったら、どうするの? あなたは私には勝てない。 無駄な戦いはやめて、あなたも私に服従しなさい。そうすれば永遠 に年を取らず、死の恐怖からも逃れられるわ。そうして一緒に、享 楽を貪ればいい⋮⋮魅力的な提案でしょう⋮⋮?﹂ 言い終えると同時に、メディアの瞳が妖しく輝く。 ︵やっぱりそう来るか⋮⋮そうだよな。﹃そういう力﹄も持ってる よな⋮⋮!︶ 俺は、メディアが何をしようとしているか予測できた︱︱その読 み通りならば。 相手に、一瞬の隙ができる︱︱! ◆ログ◆ ・︽メディア︾は﹁魅惑の魔眼﹂を発動した! ・あなたは抵抗に成功した。 ﹁俺には魅了は通じない⋮⋮っ!﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ 1192 ︱︱俺が反撃の方法として選択することが出来たのは、一つだけ。 フィリアネスさんを傷つけずに奪還する、唯一の方法がある⋮⋮! ◆ログ◆ ・あなたは︽ジョゼフィーヌ︾を呼び寄せた。 ︵頼む⋮⋮これ以外に方法がない。フィリアネスさんを無事に取り 返すには、これしか⋮⋮!︶ 窓を押し破って、巨大なスライムが突入してくる。ジョゼフィー ヌはメディアを射程圏内に捕らえると、即座に﹁捕縛﹂スキルを発 動した。 ◆ログ◆ ・︽ジョゼフィーヌ︾の捕縛! ・︽メディア︾は身動きが取れなくなった。 ・︽フィリアネス︾の拘束状態が解除された。 ﹁スライム⋮⋮ふふっ、面白い趣向ね。もう少しだったのに、残念 だわ﹂ メディアは四肢を絡めとられ、フィリアネスさんから離れる。そ れでも俺は、全く安心など出来ていなかった。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮あの女⋮⋮触れただけで、体力を奪ってくる 1193 ⋮⋮氷のように、冷たい⋮⋮﹂ ﹁フィリアネスさん、ミコトさんと一緒に逃げてくれ。俺はあいつ を食い止める﹂ ﹁っ⋮⋮だめだ、ヒロト。お前だけを戦わせることなどっ⋮⋮﹂ ﹁頼む、フィリアネスさん。俺は、みんなに生きててほしいんだよ﹂ ﹁何を⋮⋮っ、自分が何を言っているか、分かってっ⋮⋮﹂ ﹁︱︱与えられた時間は長くはないのよ。それに、何を勘違いして いるの? 一人も逃がす気はないわ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽メディア︾は﹁マナバースト﹂を発動させた! 魔力が身体を 覆っていく⋮⋮。 ・︽メディア︾は魔力を爆発させた! ・︽ジョゼフィーヌ︾に374ダメージ! ・︽メディア︾の拘束状態が解除された。 ︵マナ⋮⋮バースト⋮⋮そんな技、どうやって⋮⋮︶ 未知のスキルを前にして、恐怖を覚えたのは初めてだった。メデ ィアの身体が魔力の光に覆われ、それが炸裂し、ジョゼフィーヌに ダメージを与えた︱︱今はライフが1000を超えているジョゼフ ィーヌでも、数発で死に追いやられてしまうほどの打撃を。 ﹁ジョゼフィーヌ、下がれ⋮⋮っ!﹂ ﹁⋮⋮きゅぅん⋮⋮﹂ 1194 スライム ジョゼフィーヌに命じても、動いてはくれない。爆散した身体が 再生しきらないというのに、逃げようとしない︱︱俺は仲間を逃が す時間を作るために、メディアに向かって斬りかかる。 ﹁魔物を守るために死のうというの? 優しいわね⋮⋮そして、愚 かだわ﹂ ﹁だまれっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは武器に﹁クリムゾンフレア﹂をエンチャントした! ・あなたは武器に﹁ホーリーウェポン﹂をエンチャントした! ・あなたは﹁ギガントスラッシュ﹂を放った! ﹁巨斧聖炎斬!﹂ 発動の速さを重視すれば、最大の威力は出せなくなる。それでも、 法術レベル3の﹁ホーリーウェポン﹂を使えば、不死者にダメージ を与えられる︱︱そう信じるしかなかった。 ︱︱しかしメディアは、胸元に手を差し入れ、一本の短剣を取り 出し︱︱俺の攻撃を、その先端で受け止めた。 ︵なっ⋮⋮!?︶ ◆ログ◆ ・︽メディア︾の﹁パリィ﹂が発動した! 1195 ・あなたの攻撃は無効化された。︽メディア︾のスーパーカウンタ ー! ︵そんな、馬鹿な⋮⋮俺の斧が、短剣一本で⋮⋮︶ 短剣で俺の攻撃を受け、無効化する。武器の性能か、それともス キルの成せるわざなのか。 不死者に有効なはずの神聖剣技が、通じない。どんなダメージす らも、メディアには通らない。 唯一、フィリアネスさんが密着して使った雷の魔術だけだ。それ が、何かのヒントになったはずなのに⋮⋮俺は、攻略の糸口を見つ け出せなかった。 ﹁あなたは、壊すには惜しい⋮⋮あの子たちみたいに、そのまま玩 具にしてあげるわ。魔眼が効かなくても、色々と方法はあるのよ⋮ ⋮?﹂ その時俺は初めて、すぐ近くでメディアの顔を見た。 死霊の女王であるはずの彼女の目は皮肉なほどに生気に満ちて、 俺に対する興味を隠しもしない。しかし、それは彼女の言うとおり、 面白い玩具を見つけた子供と同じだった。 ﹁ぐぅっ⋮⋮ぅぅ⋮⋮!﹂ ﹁ヒロトッ⋮⋮!﹂ スーパーカウンターによる俺の硬直時間が終わるまでに、メディ アは俺の胸ぐらを掴んで釣り上げた。細い腕からは想像もつかない ほどの力で、首が締めあげられる。 時間経過と共に窒息によるダメージが加算されていく。そのログ 1196 に意識を向けることも出来ず、俺は抵抗する︱︱大人の身体なら攻 撃が届くのに。 ︵もっと大きくなれば⋮⋮もっと、強くなっていたら。こんな、と ころで⋮⋮︶ ﹁うふふっ⋮⋮ねえ、悔しい? 悔しいでしょう? 私はとても楽 しいわ。だって、私はあなたのことを愛しているんだもの﹂ ﹁⋮⋮馬鹿⋮⋮言うな⋮⋮お前なんかに好きになってもらっても⋮ ⋮嬉しくないっ⋮⋮!﹂ ﹁そうよ、もっと拒絶しなさい。憎んで、憤って、殺意を抱いて、 そして絶望するの。世界には、残酷なことが沢山ある。あなたがく だらない世界を捨てるなら、全ての残酷なことから守ってあげるわ﹂ ﹁俺は⋮⋮絶望、しない⋮⋮絶対に⋮⋮﹂ ﹁そう⋮⋮じゃあ、もうひと押しをあげるわ。強がりは身を滅ぼす だけよ⋮⋮っ!﹂ メディアの目が妖しく輝き、その体から溢れた淡い光が、幾つも の球体となって飛び去っていく。 ◆ログ◆ ネクロマンシー ・︽メディア︾が﹁死霊操術﹂を再度発動させた! ・範囲内の死者が動き始めた。︽グールド︾の活動限界が延長され た。 ・︽グールド︾の部位損傷が回復した。 ﹁っ⋮⋮まだ、死者を弄ぶと言うのかっ⋮⋮!﹂ 1197 ﹁弄んではいないわ。彼らは私に、不死を求めたのよ。けれど彼ら は選ばれなかっただけ。そこにあるのは、ただの魂の抜け殻に過ぎ ないわ。人形と同じよ⋮⋮千切れてもほら、すぐに修復される﹂ グールドの腕が元通りになり、胸の穴までもが塞がっていく。起 き上がったグールドは、ミコトさんを庇っているフィリアネスさん に、一歩ずつ近づいていく。 ﹁哀れむなら、何度でも殺してあげればいい。いつか、再生もきか なくなる時が来るかもしれないわ。私も試したことはないけれどね ⋮⋮うふふっ。でもね、時間をかけていると、他の人形も集まって くるわよ﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ 窓の外から、金属の鎧を鳴らす音が聞こえてくる。ガチャン、ガ チャン、と規則正しく、ゆっくりと、屋敷に向かって近づいてくる。 廊下から聞こえてくる無数の音。一階から、二階から、倒したは ずの兵士も、そうでない兵士も、全てがこちらに向かってくる。 ﹁人形は人間の身体の限界を超えられる。身体が壊れることを恐れ ない彼らは、なかなか良い動きをしていたでしょう? 五十人の兵 と、グールドを相手にして、いつまで生き残れるかしらね⋮⋮あら。 その前に、あなたはもう、堕ちてしまいそうね﹂ ﹁⋮⋮誰が⋮⋮堕ちるかよ⋮⋮お前なんかの、手の、内に⋮⋮ぐぅ ぅっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ 1198 ・︽メディア︾はあなたの首を締めている! ・あなたは振りほどけない! 窒息により、153のダメージ! ︵もう、どれだけも持たない⋮⋮少しでいい⋮⋮少しだけでいいん だ⋮⋮っ︶ 幸運が働くことも、奇跡が起こることもない。このまま意識が途 切れれば、次に目覚めた時、俺が俺でいられるのかどうかもわから ない。 ︱︱絶対に、全員で、無事に帰る。 だから見苦しくても、滑稽でも、俺は抗う。 俺が諦めることを、絶望することを楽しみにしているやつに、最 後まで喰らいついてやる︱︱。 ﹁俺は⋮⋮俺たちは⋮⋮まだ⋮⋮﹂ ﹁早くあきらめた方がいいのに。できるだけ長く、私を楽しませて くれるつもりなのかしら﹂ ﹁︱︱違う。ヒロトは、私たちは、まだお前たちに負けていないだ けだ⋮⋮!﹂ ︵フィリアネス⋮⋮さん⋮⋮︶ 遠のきかけた意識にすがりつき、俺はその光を見た。 フィリアネスさんの全身から放たれる光。禍々しい、呪われた暗 闇を切り裂く、聖なる光を。 ﹁グールドを操り、この国を陥れようとした。その罪は、償っても 1199 らう⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮貴女はまだ聖騎士として完成されていない。私の操る不死者 を倒しきることは出来ないわよ﹂ ︵そうだ⋮⋮でも、それは⋮⋮︶ フィリアネスさんの持つスキルが、﹃今の数値のままだったら﹄ の話だ。 俺は彼女が何をしようとしているのかに気がつく。彼女が放つ光 こそが、俺たちの希望そのものだった。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は︻神聖︼剣技スキルにポイントを9割り振っ た。スキルが101になり、新たなアクションスキルを習得した! この世界の住人は、スキルの概念を知らない。その制約を超え、 フィリアネスさんは自分の意志でポイントを割り振り、自分の力を 引きあげた。限界突破を1ポイント持っている彼女のスキル限界は 101︱︱その値まで、余っていたスキルポイントを振ったのだ。 グールドはフィリアネスさんの放つ光に怯んでいたが、それでも 彼女に襲いかかろうとする。それを見たフィリアネスさんは、細剣 の刃に額をつけて目を閉じた。 ﹁︱︱せめて、その魂が、約束の場所にて安まらんことを﹂ 祈りの言葉と共に、金色の髪が翻る。メディアさえも、この光の 1200 中では目を開けていることが出来ない、それほどの神々しさだった。 細剣が、フィリアネスさんの発した金色の光に包まれる。その刃 と柄が作り出した形は、懐かしいあの世界で、神聖なものの象徴と された形状︱︱十字だった。 ﹁女神よ⋮⋮不浄なる魂に、永遠の安寧をもたらしたまえ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は神に祈りを捧げた。不死者を浄化する光が広 がっていく! セイクリッド・ノヴァ ﹁︱︱破邪聖光陣!﹂ ﹁くぅっ⋮⋮!?﹂ メディアですらその光を前にして怯み、俺の首を放して自分の身 をかばう。床に落とされかけた俺は、誰かに受け止められる︱︱こ の背中に当たる感触は、数時間前に味わったものと同じ⋮⋮ミコト さんの胸だ。 聖なる光の直撃を浴びたグールドが、初めて苦しみを顔に出す。 そして、どれほども存在を保ってはいられなかった。 ﹁ぐぁぁぁぁぁっ⋮⋮あぁ⋮⋮!﹂ 叫びながらグールドは消滅していく。外からも、廊下からも、同 じ声が聞こえる︱︱フィリアネスさんの放った光は扉の隙間を抜け、 窓からも溢れて、不死者たちをすべて浄化していく。 1201 ﹁私を消そうと言うの⋮⋮っ、そうはさせないっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・範囲内の不死者は消え去った。 ・︽メディア︾は結界を展開した! しかし、聖なる光によってか き消された。 ・︽メディア︾に448のダメージ! ﹁くぅっ⋮⋮うぅ⋮⋮!﹂ 聖なる光が収まり、フィリアネスさんを包んでいた光も薄れてい く。しかしその残滓は蛍の光のように、ほのかな煌めきを放ってい た。 ﹁ギルマス⋮⋮今度は逆の立場になりましたけれど。残念ながら、 まだ戦いは終わっていませんわ﹂ ﹁ゴホッ、ゴホッ⋮⋮ああ⋮⋮ありがとう、ミコトさん。でも、攻 略の糸口はつかめた⋮⋮﹂ 持ちうる限りの手を尽くせば、倒せないボスなど居ない。エター ナル・マギアにおいても、それは最初から最後まで貫かれたルール だ。 メディアの鉄壁の防御も、フィリアネスさんが破れることを証明 してくれた。 メディアの着ていたモノトーンのドレスはぼろぼろになり、胸の 1202 周りと、腰の周りだけを辛うじて覆い隠している。ところどころ肌 が焼け焦げていたが、メディアは何事か呪文を呟き、そのすべてを 治癒してみせた。 ◆ログ◆ ・︽メディア︾は再生の呪詛を唱えた。 ・︽メディア︾の﹁火傷﹂が回復した。 ずっと顔を覆っていたメディアが、手を離す。その下にあるのは、 聖光陣に焼かれる前と同じ︱︱いや、それ以上に美しさを増した、 氷の美貌がそこにあった。 ﹁⋮⋮いけない子ね。見込みがあるとは言ったけれど、主人に逆ら っていいと誰が言ったの⋮⋮?﹂ ﹁おまえに仕えるつもりはない。それこそ、何度生まれ変わったと しても、ありえないことだ﹂ ﹁メディア⋮⋮もう、グールドも、兵士たちも居ない。三対一だ﹂ ﹁それでも、こちらが優勢とは思いませんけれど⋮⋮勝てない、と 思うこともありませんわ﹂ ミコトさんは今まで使わなかった忍刀を抜く。どうやら彼女の黒 装束は、ところどころがインベントリーになっているようだ︱︱隠 し武器を得意とする忍者の装備には、ゲーム時代もアイテム所持量 を多くするギミックがついていた。 俺も小型斧を構える。ライフの回復はポーションで行う︱︱奥の 手のエリクシールは持っているが、これはミコトさんとフィリアネ 1203 スさんのために残しておきたい。 ︱︱やがて月光が途切れて、部屋は真の闇に包まれる。おそらく 雲に月が隠れたのだろう。 ﹁⋮⋮私は愛すると言ったものは、必ず手に入れる。ヒロト⋮⋮あ なたを奪ってあげる。そのためにはあなたはとても邪魔なのよ、聖 騎士フィリアネス﹂ ﹁本当に愛しているのなら、命を奪おうとなどするものか。それが 愛だというなら、あまりに歪んでいる⋮⋮!﹂ ﹁どうかしら? 私はあなたたちよりも、ヒロトが欲しいものをあ げられるかもしれないわよ。だって、彼を愛しているんだもの﹂ ﹁馬鹿なことをっ⋮⋮ギルマスは、そんな言葉に決して惑わされま せんわっ!﹂ 二人の言うとおりだ。メディアの言うことはデタラメで、俺は彼 女から何かを欲しがることなんてない。 ︱︱そのはずなのに。メディアの瞳には狂気が感じられない。 ﹁さあ⋮⋮続きを始めましょう。そして、確かめなさい。私の言っ ていることが、真実だということを﹂ 大きな動きで肌を露わにすることを厭わず、メディアは両腕を広 げる。 もう一度月が姿を現したとき、メディアの背に現れ、ばさりと広 がったものは︱︱。 蝙蝠のような形をした、けれど遥かに大きな、黒い翼だった。 1204 第三十五話 新たな魔王/生と死の狭間 黒い翼︱︱リオナが一度魔王の力に目覚めかけたとき、彼女の背 中に生えたものと酷似していた。 ﹁不死の女王﹂ですら、一度は敗北を意識するほどの強敵だった。 しかし流れてくるログが、現在のメディアが、今までよりもさら に強くなっていることを示す。 ◆ログ◆ ・︽メディア︾は正体を現した! ・魔王の力が目覚める⋮⋮︽メディア︾は︽魔王リリム︾に変身し た! ﹁魔王⋮⋮リリム⋮⋮﹂ 俺の呟きが、メディア︱︱リリムの耳に届く。真っ白だった髪が 薄く赤みを帯びて、その頭部に音もなく、曲がりくねった悪魔の角 が現れる。 ﹁死者の女王っていう呼び名は、正しくないのよ。だって、それは 私の力の一部にすぎないのだから﹂ ◆ログ◆ 1205 ・︽魔王リリム︾は﹁装備再生﹂を発動した! ・︽魔王リリム︾は﹁悪魔のビスチェ﹂を装備した。 ・︽魔王リリム︾は﹁悪魔のヒール﹂を装備した。 ・︽魔王リリム︾は﹁招魂の杖+8﹂を召喚し、装備した。 ︵+8装備⋮⋮あっさり出さないでくれよ、そんな人間の手の届か ないシロモノを︶ 白い肌が黒い革のような素材の、まるでボンデージのような装備 で覆われる。胸元を隠す気がないかのように大きく開いていて、そ の背にはよく見ると、細く長い尻尾が生えている︱︱先端が矢印の ような形状になり、俺の方を指し示していた。 正体を隠していて、変身するボスなんていうのは良くある話だが ︱︱紛れもなく、最強クラスの敵だ。この世界では女しか最強にな れないと言っていたが、この姿を見せられれば、彼女もその一人だ ということを納得せざるを得ない。 ﹁魔王⋮⋮かつて勇者と戦い、女神がもたらした武器で、封じられ たはずではなかったのか⋮⋮?﹂ ﹁それはただの言い伝え⋮⋮くだらないお伽話よ。実際はどうだっ たかなんて、誰も知りはしない。魔王が封じられたままかどうか、 あなたたち人間は確かめていたわけでもない。それに私は封じられ たことなんて、一度も無いわ。勇者は人間にしては強いけれど、負 けてあげる道理はないものね﹂ ﹁女神の武器⋮⋮まさか、魔剣⋮⋮本当に、存在するのですか⋮⋮ !?﹂ 1206 ミコトさんが驚くことも無理はない。ゲーム時代は伝説上の存在 で、入手不可能だったものが、本当にあるというのだから。 エターナル・マギアをプレイしていたなら、欲しくならないわけ がない。どんな方法を使ってでも、手に入れたくなる︱︱しかし魔 剣に触れるということは、ただ強い武器を手に入れられるわけじゃ なく、魔剣に魅入られるという危険性が伴う。それを克服する手段 は、手がかりは見えていても、まだはっきり確定してはいない。 ﹁私は姉さまとは違う。人間に味方をして、わざと勇者に殺される なんて⋮⋮そんなことをして何になるの? 残された私の退屈を、 誰が埋めてくれるというの⋮⋮?﹂ ◆ログ◆ ・︽魔王リリム︾は﹁形態変化﹂を行った。身体のすべてが霧に変 化していく⋮⋮! ﹁っ⋮⋮フィリアネスさん、ミコトさん、来るぞっ!﹂ 魔王リリムの黒い翼も、その蠱惑的としか言いようのない肢体も、 全てが一瞬にして霧に変わる。 ︱︱初めから、容赦などない。分かっていたのに、その攻撃を避 ける術は俺にはなかった。 ◆ログ◆ 1207 ・︽魔王リリム︾の正体不明の攻撃! ・あなたは234のダメージ! エナジードレインが発生した! あなたは生命力を失った。 ﹁うぁぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ ﹁ヒロトッ⋮⋮なぜ、私たちを狙わずに、ヒロトだけをっ⋮⋮!﹂ ︱︱言ったでしょう? 欲しい物をあげるわ。けれどその前に、 代償として命を貰わなくてはね。 どこから声が聞こえてくるのかも分からない。部屋中を満たした 黒い霧全てが敵︱︱魔王リリムそのもの。 何をされているか分からない︱︱首筋が強く痛む。触れてみると、 実際に牙の痕がつけられていた。 エナジードレインなんて、食らった時の絶望感が半端じゃない攻 撃だ。想定はしていたが、本当にやられると、文字通り直接命を削 られている気分になる。エナジードレインがレベルを下げる効果に なっているとき、それを持つ敵がゲームに登場した時は、真っ先に 倒さなければならないとされていたものだ。俺だってそうする、誰 だってそうする。 もし、レベルが下がっていたら︱︱それを恐れながらも、確認せ ずにはいられない。 ◆簡易ステータス◆ 1208 名前 ヒロト・ジークリッド レベル:58 ライフ:735/1360 ︵レベルは⋮⋮下がってない。ライフが減ったのは、純粋にダメー ジを受けたからだ。生命エネルギーって、何のことなんだ⋮⋮?︶ ﹁ギルマスっ、敵が元に戻りますわっ!﹂ 黒い霧がもう一度一つに集まり、リリムが実体を取り戻す。長い 髪を掻き上げ、唇の端に伝った血を拭っている︱︱やはり、俺から 血を吸ったのだ。 ﹁ああ⋮⋮甘くて美味しい。野蛮なことはしたくないのだけど、こ の誘惑には勝てないわね⋮⋮﹂ ﹁形態変化は、常に続けることは出来ないってことか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮いいえ。あなたの想像通りのことなんて、私には何一つ⋮⋮﹂ ︵その余裕が命取りだ⋮⋮っ!︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹁看破﹂を試みた! ・︽魔王リリム︾が嘘をついていることがわかった。 ﹁⋮⋮何一つないわ。それがどうしたというの? あなたが死ぬこ 1209 とには変わりないわよ﹂ ︵女神は看破を妨害した。魔王リリムは、それほど万能じゃない⋮ ⋮女神よりは、下位の存在なのか︶ おそらくリリムは、霧の形態変化を見せることで、自分を倒せな いと印象づけようとした。 魔王が圧倒的な強者であることは間違いない。しかし、フィリア ネスさんの攻撃でダメージを通され、焦りが生じた︱︱そういうこ とだ。 ﹁⋮⋮ははっ⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮何を笑っているの? あなたは生命を吸われたのよ? 私 がもう少し深く吸っていたら、もう心臓は止まって⋮⋮﹂ ﹁な、何が起きているんですの⋮⋮? ギルマス、その余裕はどこ から⋮⋮﹂ ﹁気がついたということだな⋮⋮どうすれば、リリムを倒せるのか に﹂ そんなことはまだ分からない。しかし攻略法を見つけたとき、喜 ばないやつはいない。 例え血を吸われた後であっても、楽しむ時は楽しむ。リリムに対 する怒りは別として、それはそれだ。 ︵霧の形態変化から、元に戻った瞬間⋮⋮いや。その前に⋮⋮︶ フィリアネスさんの大技は、連発が出来ない。しかしクールタイ ムが終わり、破邪聖光陣をもう一度撃つことが出来る状態になって いる。 1210 ﹁ギルマス、私も敵が悪魔族と分かっていれば、それなりの対応策 を取ることが出来ますわ⋮⋮この刀には、悪魔に対する特攻があり ますの。耐久力が低いので、数撃しか持ちませんが﹂ ミコトさんが忍刀を抜くと、その刃は青い光に覆われていた。﹃ 清刀三日月丸+4﹄、鍛え方は物足りないが、魔族に対する二倍特 攻がついている。 ︱︱二倍特攻で、相手が実体化した時にバックスタッブを決める。 三人それぞれが大ダメージを叩き出す奥の手を持ってはいるが、ミ コトさんにも十分期待できる。 口に出して敵の弱点を言ってしまえば、敵も対策が出来る︱︱だ が、二人を鼓舞するためにも必要なことだ。 ﹁二人とも⋮⋮リリムは、ずっと霧のままじゃいられない。一定の 時間で元に戻る、そこを狙うんだ!﹂ ﹃︱︱了解っ!﹄ ﹁そう⋮⋮それで笑っていたのね⋮⋮私の心を覗いたの⋮⋮?﹂ リリムは微笑んでいる︱︱しかし、その目の奥には、こちらを燃 やし尽くそうとする熱が宿っている。 フィリアネスさんは真っ先に切り込み、細剣を切り払いながら叫 ぶ︱︱その身体が、再び聖なる光を纏う。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は神に祈りを捧げた。不死者を浄化する光が広 1211 がっていく! ・︽魔王リリム︾は結界を展開した! ﹁︱︱けれど残念ね。魔王と不死者は違う。今の形態に変わった私 は、その光で燃やすことはできない⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁破邪聖光陣﹂を放った! ・︽魔王リリム︾は破邪の光の効果を軽減した! ・︽魔王リリム︾は56のダメージ! ﹁ふふふっ⋮⋮それで私を倒すには、五十回以上撃たなければなら ないわね。そんなにもつかしら?﹂ ﹁くっ⋮⋮!﹂ ﹁メディア﹂は不死者の上位存在であり、魔王として正体を現し たリリムは、また別の存在となっている。 不死者に対する必殺の攻撃である破邪聖光陣だが、それ自体にも 聖属性のダメージがある︱︱リリムはそれを無効化出来ずに、ダメ ージを受けたということになる。 ﹁︱︱ミコトさんっ!﹂ 彼女がどこに居るか、俺には感じ取れない︱︱ログを辿れば、フ ィリアネスさんが動くと同時に﹁木の葉隠れ﹂を発動していること が見て取れる。 1212 バックスタッブ 隠密状態からの、致命攻撃。彼女はそれを狙っている︱︱ならば、 俺はそれを補佐する⋮⋮! ﹁うぉぉぉぉっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ウォークライ﹂を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! パーティの攻撃力が一時的に上昇 した! ︵︱︱まだだっ!︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹁マジックブースト﹂を発動させた! ・あなたは﹁ホーリーライト﹂を詠唱した! ﹁くっ⋮⋮!﹂ 聖光陣と違い、不死者を浄化するほどの力はない︱︱﹁ホーリー ライト﹂は、ただ敵を怯ませるための光だ。 だがその瞬間、ほんの一瞬、魔王であっても硬直時間が生じる。 そこを見逃すことは、彼女ならば絶対にない︱︱﹁闇影﹂と呼ば 1213 れた彼女ならば。 ﹁その首、貰い受けますわっ⋮⋮!﹂ ﹁甘く見られたものね⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ ・︽魔王リリム︾は﹁シャドウシックル﹂を詠唱した! ・︽魔王リリム︾が攻撃した対象は︽ミコト︾の影だった。 ﹁っ⋮⋮!?﹂ 詠唱を飛ばしてリリムの身体を守るように発生した黒い刃は、ミ コトさんを攻撃した︱︱実体ではない影を。 影分身︱︱シノビがシノビたる所以であるスキルの一つ。ミコト さんはそれを発動させ、リリムの隙をさらに大きなものにしたのだ。 ︱︱つまり、ミコトさんの本体はすでに、リリムの後ろに回って いる⋮⋮! ◆ログ◆ ・︽ミコト︾は﹁バックスタッブ﹂の発動条件を満たした! 攻撃 力が倍加する! ・︽ミコト︾の攻撃! 1214 ﹁お覚悟っ!﹂ ﹁ぐぅっ⋮⋮!﹂ 忍刀の刃がリリムの身体に突き立てられる。その刃を抜き放った 瞬間、溢れだした血が雨のように降り注ぐ。 ﹁ぐぅぅぅっ⋮⋮あぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽魔王リリム︾に453のダメージ! ︽魔王リリム︾は出血状 態になった。 ・︽魔王リリム︾は再生の呪詛を唱えた。 ・呪詛の効果が阻害されている! ﹁忌々しいっ⋮⋮そんな、玩具のような武器で⋮⋮っ!﹂ ﹁玩具ではありませんわ⋮⋮これでも、東の国で妖魔の血を数千も 吸っていますのよ⋮⋮!﹂ この好機を逃すことはできない。形態変化の後の隙を狙うつもり だったが、実際には﹁形態が変化する前﹂に攻撃を通すことが出来 た︱︱何も言わずとも、その場の連携で。 ﹁これで終わりだ⋮⋮っ、リリム!﹂ ◆ログ◆ 1215 ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁フリージングコフィン﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁サンダーストライク﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁メテオクラッシュ﹂を放った! ﹁氷棺雷星撃!﹂ ミコトさんの攻撃を受けたリリムは、立ち直れないままに、俺の 攻撃を受けるしかない。 ︵︱︱いけぇぇぇっ!︶ ﹁︱︱あぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽魔王リリム︾に556のダメージ! ・︽魔王リリム︾は﹁凍結﹂状態になった。 雷鳴と共に斧を叩きつけた瞬間、リリムの足元から氷の柱が立ち 上がり、天井まで貫き通す。 リリムは氷の棺に囚えられていた。その身体の一部が、黒い霧に 変わりかけている︱︱最後の瞬間、形態変化で逃げようとしたのだ。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮終わった⋮⋮のか⋮⋮?﹂ フィリアネスさんの声が聞こえる。俺もまだ、勝ったなんて笑っ 1216 て言うことは出来ない。 ︱︱しかし、最大の危機は乗り切った。リリムはもう動くことが 出来ないのだから。 リオナたちの護衛からユィシアを外すことはしたくなかった︱︱ それが甘い判断だったと、今は後悔してもいる。ここに彼女を連れ てくれば、窮地には陥らなかった。 ユィシアは、魔王と対等かそれ以上の力を持っている。その意味 が、今になって骨身に染みた。俺はユィシアに勝ったわけではなく、 偶然が味方して、彼女を仲間にすることが出来ただけなのだ。 リリムは凍りついたままで動かない、悪魔の翼ごと凍りづけにな って、俺を見下ろしている。 ︵⋮⋮っ!?︶ その口の端が、笑みの形に変わった。 動くことなど出来ないはずのリリムが、笑った。氷棺の放つ冷気 よりも、その顔に俺はよほど寒気を覚える。 ︵︱︱魔王は女神の武器でなければ殺すことは出来ない。幾ら血を 流しても、死にはしないのよ︶ ﹁ヒロトッ⋮⋮!﹂ 1217 身体が揺れた。何が起きたのか分からなかった。 見下ろすと、胸から刃が突き出ていた。身につけていた防具の全 てを、貫通していた。 ︱︱その刃に、俺は見覚えがあった。ミコトさんが持っていた刀 ⋮⋮リリムを貫いたはずの、その刀。 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾は︽魔王リリム︾の血の呪いによって乗っ取られてい る。 ・︽ミコト︾の﹁戦闘狂﹂状態が引き出された。 ・︽ミコト︾の攻撃! あなたに492のダメージ! あなたは﹁ 出血﹂状態になった。 ﹁⋮⋮うぁぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 刃が抜かれた。遅れて凄まじい激痛が訪れて、叫ばずにいられな くなる。 ︱︱そして、身体から急速に力が抜けていく。倒れた俺の目の前 で、氷棺が砕け、捕らえたはずのリリムが自由を取り戻す。 ﹁ミコト殿っ⋮⋮何故だ⋮⋮何故、ヒロトをっ⋮⋮!﹂ フィリアネスさんとミコトさんがどうしているかは見えない。出 血によるダメージが、俺のライフをゼロに近づけていく。 1218 リリムの血を浴びたミコトさんは、﹁血の呪い﹂を受け、身体を 操られ⋮⋮俺を刺した。そうであっても、ミコトさんを責められる わけもない。 俺は身体を起こされ、抱き上げられていた。リリムが俺の頬に触 れている。 ﹁⋮⋮まだ身体が温かいうちに、もらっておくわね。死んでしまう と、あまり血は美味しくないのよ﹂ ︱︱やめろ。やめてくれ。 俺は何も奪われたくない。俺の命を、奪わないでくれ︱︱。 ﹁うぅっ⋮⋮ぁぁ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽魔王リリム︾は﹁吸血﹂した! ・エナジードレインが発生した! あなたは生命力を失った。 ﹁ヒロトっ、ヒロトっ! ⋮⋮貴様ぁぁっ⋮⋮絶対に許さない⋮⋮ 絶対にっ⋮⋮!﹂ フィリアネスさんの悲痛な声が聞こえる。おそらく操られたミコ トさんに、行く手を阻まれている⋮⋮。 1219 かすんだ視界の向こうで、リリムが微笑む。心から満たされてい るというその顔を見て、俺は思う。 恐怖よりも何よりも︱︱魔王とは、何なのか。 リオナと同じように﹁破滅の子﹂から魔王になったのか。それと も、リリムは元から魔王なのか︱︱。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮なあに? あなたはこれから、試されようとしている。一度 死んでから、私の眷属として蘇るのよ。何も恐れることは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮死にたく⋮⋮ない⋮⋮﹂ そう言っても、リリムの表情は変わらないままだった。 ︱︱まるで母親のように優しい目をして、俺を見ていた。これか ら生まれ変わる俺の母だとでも言うように。 ﹁生まれ変わったら、あなたの欲しいものをあげる。あの女なんか より、もっと素敵なものを。だから、安心して死になさい﹂ ︵⋮⋮嫌だ。俺は、人間として⋮⋮人間のままで⋮⋮︶ 意識が闇に飲み込まれようとする。俺の渇望はどこに届くことも なく、ライフは100を切り、流れだす血とともに失われていく。 こんなことが、前にもあった。 同じように助けられてしまったら、俺は︱︱きっと、後悔する。 1220 それでも願ってしまった。薄れゆく意識の中で、俺は︱︱。 ◆ログ◆ ユィシア ・あなたは護衛獣を呼び寄せた。 マスター ︵︱︱ヒロトは私の主人。それを奪おうとする者は全て︱︱滅ぼす︶ 轟音が鳴り響いた。ほとんど見えないおぼろげな視界でも、何が 起きたのかは確かめられた。 部屋の壁の一面が吹き飛んでいる。そして、そこには︱︱。 青みがかった銀色の髪を持つ、皇竜の少女と︱︱幼い二人の、懐 かしい姿がそこにあった。 ﹁ヒロちゃんっ⋮⋮!﹂ ﹁ヒロト⋮⋮!﹂ リオナとミルテ。なぜ、連れてきてしまったのか︱︱そう思う以 上に。 その声を聞くだけで、死に瀕していた身体に、わずかな熱が戻る ように感じた。 そして、ユィシア⋮⋮彼女が居てくれれば。リリムから、皆を守 ってくれる⋮⋮。 1221 ︵⋮⋮ごめん。俺だけじゃ、どうにもならなかった⋮⋮︶ ﹁⋮⋮謝らなくてもいい。人間の男の子は、強がるもの。雄の強が りを許すのは、雌である私のつとめ﹂ 月光を浴びたユィシアは、リオナとミルテを置いて、こちらに歩 いてくる。リリムを全く恐れることなく。 いつもそうだった︱︱ユィシアは、絶対的だった。だからこそ俺 は、彼女に頼り切ることが出来なかった。 本当の意味での主人になるために、彼女と同じだけ強くなりたい と思ったから。 ︱︱それを雄の強がりと言われれば、そのまま受け入れるしかな い。彼女の言うとおりなのだから。 ﹁マスターを傷つける者は許さない。例えリリスの妹であっても、 関係ない﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ふふふっ⋮⋮ねえ、それはそこにいる子の前で言って いいことなのかしら? 私の姉さんなら、そこにいるじゃない﹂ ﹁っ⋮⋮やめろ⋮⋮リオナには、言うなっ⋮⋮﹂ 俺はリリムの身体に縋って、止めようとする。その手を受け止め て、リリムは俺をその場に横たえると、立ち上がってユィシアと対 峙した。 ﹁連れてきたことにはお礼を言わなくてはね⋮⋮血を分けた姉さん だもの。会えて嬉しいわ﹂ ﹁この子は、マスターを心配して来ただけ。リリムには関係ない。 気にする必要もない﹂ 1222 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾の﹁ドラゴンハウル﹂! ・︽ユィシア︾の攻撃力、防御力が上昇した! ・︽ユィシア︾は一時的に状態異常耐性を獲得した! 竜形態での咆哮を必要とするスキルだと思っていた︱︱しかし、 そうではなかった。 バインド 人間形態でも、ユィシアを強化する効果自体は変わらない。竜形 態で使えば、おそらく金縛りなどの効果が付随するのだろう。 竜の気に包まれたユィシアは、金色の瞳でリリムを睨みつける。 奇しくも二人の強者は、同じ色の瞳をしていた。 エンプレスドラゴン ﹁マスター、待っていて欲しい。すぐに終わらせる﹂ ﹁終わるのはそちらよ、雌皇竜ッ!﹂ ◆ログ◆ ・︽魔王リリム︾は﹁アビスグラビティ﹂を詠唱した! ・冥府の扉が開き、︽ユィシア︾の生気を奪おうとする! ﹁︱︱遅い﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 1223 ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は﹁テールスライド﹂を放った! ・︽魔王リリム︾に253のダメージ! ︽魔王リリム︾を宙に浮 かせた! ﹁︱︱あぁぁっ⋮⋮!﹂ ユィシアのテールスライドが、物理攻撃を無効化するはずのリリ ムの反応を上回る。次の瞬間、常に冷静沈着なユィシアが、初めて 声を荒らげた。 ﹁リオナ、ミルテ、ヒロトのことを任せる! 私は空でリリムを倒 す⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽ユィシア︾は竜形態に変化した。 リリムをこの場から遠ざけるためだけの一撃だった。ユィシアは 竜の姿に変化すると、破壊された部屋の壁から、漆黒の空に飛び出 していく。 ﹁ミコト殿っ⋮⋮目を覚ませっ! ヒロトはまだ生きている、戦い はまだ終わっていないっ!﹂ 1224 フィリアネスさんの声と、剣戟の音が聞こえてくる。操られたミ コトさんと、フィリアネスさんが剣を合わせている︱︱ユィシアが リリムを倒すまで、あるいは無力化するまでは、時間を稼ぐしかな い。 ◆ログ◆ ・あなたの出血状態が続いている。 ・あなたのライフが36減少した。 ︱︱あと一度出血ダメージを受ければ、俺のライフはゼロになる。 ﹁ヒロちゃん⋮⋮すぐに助けてあげるね。ミルテちゃんは、さっき 言ってたおくすりをさがして!﹂ ﹁っ⋮⋮わかった。ヒロト、おばば様に作ってもらった薬を⋮⋮っ !﹂ ︵エリク⋮⋮シール⋮⋮そうだ⋮⋮あれなら、今の俺でも⋮⋮︶ 治せるかもしれない。自分の命を繋ぐために使おうとは思ってい なかったが︱︱そんなことは言っていられない。 ◆︻薬︼イ ベント ー◆ ・︻ 質︼ポーシ ン × 3 解 のポー ョン ×17 ・ 痺 の ー × リ シ 1225 インベントリーの中身がウインドウに表示される速度が遅くなり、 表示が壊れている。ユィシアのテールスライドを受けた時と同じ、 ウィンドウの状態は俺の生命活動に左右される。 次に出血ダメージのログが出たら終わりだ。俺はエリクシールだ と思われるアイテムを選び、それを使って、今までに何度も使って きた交渉スキルの一つを選び、実行に移した。 ︵頼む⋮⋮頼むから⋮⋮まだ、生きていたい⋮⋮だから⋮⋮︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽ ︾に依頼をした。 ・あなたのインベントリーから、﹁ ﹂が取り出された。 もう、意識が続かない。抜けだらけのログも黒く塗りつぶされて ︱︱次のログを確認することも出来ずに。 最後に思ったことは一つ。 みんなが、無事であってほしい。フィリアネスさんも、ミコトさ んも、ユィシアも︱︱そして、ミルテとリオナも。 ミルテの両親のことを伝えられなかった。その無念が、闇の中を よぎった。 1226 ◇◆◇ 雨が降っている。 叩きつける冷たい雨の中で、俺は誰かに抱きしめられている。 頭の下にあるのは、柔らかい膝だ。 こんなに女らしくなってたんだな、と俺はとてもどうでもいいこ とを考えて⋮⋮その膝が心地よいと感じた。 なぜ、こんな時に思い出すんだろう。 俺は今、どうなっているんだろう。 走馬灯というには、その感覚は現実に近くて。 目の前に居る陽菜が、泣いていて。 その顔が、少しずつ近づいてくる。 俺は一度もキスなんてしたことがないと思っていた。 ︱︱それはただ、忘れていただけだ。冷たくなっていく俺の身体 を抱いて、彼女が別れのキスをしたことを。 ﹁︱︱私も行けたらいいのに。そうしたら、今度は⋮⋮﹂ 1227 肝心なことばかりが思い出せない。いつもそうだ、記憶というも のは、言うことをきかない。 俺はもう、その時には死んでいたのかもしれない。 そう理解していてもなお、思う。陽菜の言葉を、終わりまで聞か せて欲しかったと。 ◇◆◇ 何もなくなる前に、唇に何かが触れた気がした。 何もなくなったあと、始まったものは、恐ろしいほどの熱だった。 熱が生まれ、全身に広がっていく。凄まじい痛みに、俺は呻き声 を上げる。だが、それは音にならない。 全身の骨が軋んでいる。絶えることなく痛みは続き、俺はいっそ 殺してくれと思い、すぐに否定する。 痛みを感じるということは、生きているということだ。 死ねば女神のもとにもう一度行けるのかもしれない。それも一つ のゴールかもしれないが︱︱それは、ただの甘えでしかない。 生きたい。 生き続けて、手に入れたいものが沢山ある。知らないことが、ま 1228 だ山ほど残されている。 そのためなら、痛みを受け入れる。死にたいと思うことも、もう ない︱︱ひたすらに耐えぬく。 苦しみは終わることなく続く。やがてそれが終わる時、俺は死ぬ のか︱︱それとも。 分からない。 分からないが︱︱。 遠くに、光が見え始めている。薄ぼんやりとしていたそれは、少 しずつ近づいて、輪郭をはっきりとさせる。 ︱︱現実が、そこにある。異世界マギアハイムという名の、俺に とって唯一の現実が。 ﹁っ⋮⋮!﹂ がばっ、と飛び起きた。身体の感覚はまるでないのに、がむしゃ らに身体を起こしていた。 ﹁ひ、ヒロちゃん⋮⋮?﹂ ﹁ヒロト⋮⋮﹂ 1229 すぐ近くで声が聴こえる︱︱というか、密着している。 腕の感覚が少しだけ戻ってくる。この、懐かしい匂いは⋮⋮匂い で気づくのもどうかと思うが⋮⋮。 ﹁ゴホッ、ゴホッ⋮⋮!﹂ ﹁ヒロちゃん⋮⋮無理しちゃだめ、まだ、身体が⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮私たちは、ずっとついてる。心配しないで﹂ 喋ろうとして、うまく声が出なかった。 ︱︱そして辛うじて声を出したとき。 それが自分の声だとは、俺には到底信じられなかった。 ﹁リオナ⋮⋮ミルテ⋮⋮﹂ もっと高い声をしていたはずだ。それなのに、低くなっているよ うに思う。 耳がおかしくなっているのかもしれない。おかしいといえば、何 もかもがおかしかった。 ︱︱俺の腕では、リオナとミルテの二人を抱きしめて、背中に手 を回すなんて無理だったはずなのに。 ベッドの両脇で俺を見守っていてくれたのだろう彼女たちを、俺 は、難なく二人同時に抱き寄せていた。 ﹁っ⋮⋮ご、ごめん⋮⋮っ﹂ リオナとミルテを離したあと、俺は自分の手を見た。 まだ八歳の俺の手は、斧を握るのがやっとだったはずだ︱︱しか 1230 し。 そこには、大人といってもおかしくない大きさになった、俺の手 があった。 ﹁お、俺⋮⋮なんで⋮⋮リリムに殺されかけて⋮⋮二人に、エリク シールを、頼んで⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロちゃんっ⋮⋮!﹂ ﹁ヒロト⋮⋮ッ﹂ リオナとミルテが感極まったように抱きついてくる。二人の姿は 幼いまま︱︱つまり、時間はそれほど経っていない。 俺の身体だけが、大きくなっている。髪は伸び放題に伸びている ︱︱それが指し示すことは一つ。 ︵エナジードレインを受けて、死にかけた⋮⋮それで、エリクシー ルを使った俺は⋮⋮︶ エターナル・マギアにはエナジードレインは存在しなかった︱︱ リリムが使ったことで、初めて見た。 他のゲームにおいて﹁エナジードレイン﹂と呼ばれる攻撃の効果 には、いくつかの種類があった。 ひとつは、レベルや能力を下げる。 そしてもうひとつは︱︱キャラクターを老化させる。 ﹁良かった⋮⋮ヒロちゃん、死んじゃうかと思ったっ⋮⋮良かった よぉ⋮⋮﹂ リオナが泣きじゃくりながら抱きついてくる。その頭を撫でなが 1231 ら、俺はただ繰り返し感謝していた。 リオナとミルテがエリクシールを使ってくれたから、俺はこうし て生きることが出来た︱︱そういうことだと、状況が示しているか らだ。 ﹁⋮⋮その人は、本当に、ヒロトなの?﹂ ﹁⋮⋮そう。ステラ姉、こわがらないであげて。私たちの知ってる、 ヒロトだから﹂ 部屋には他にステラ姉の姿があった。彼女の身長に並びかけては いたが、まだ追いついてはいなかった︱︱。 ﹁っ⋮⋮リオナ、ミルテ、ちょっといいか⋮⋮?﹂ うまく言うことを聞かない身体を動かして、俺はベッドを降りる。 すると、立ってこちらを見ていたステラ姉を、簡単に見下ろすこと が出来るほど視線が高かった。 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮ヒロトが⋮⋮わたしより、お兄さんになったの⋮ ⋮? どうして⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮俺にも、まだ良く分からないけど。ごめんステラ姉、心配か けて﹂ ﹁っ⋮⋮ヒロト⋮⋮っ!﹂ ステラ姉と呼んだ瞬間に、彼女は弾かれたようにこちらに走って きて、抱きついてきた。 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮もう、心配させないで。どこにも行かないで⋮⋮ っ﹂ ﹁うん⋮⋮ごめん。こんなになって、驚くよね⋮⋮心配してくれて 1232 ありがとう、ステラ姉﹂ 子供のような言葉遣いは、もう今の姿では似つかわしくない。け れど俺はステラ姉が落ち着くまで、彼女の弟分のようなヒロトでい たかった。 元の姿に戻れるのかは分からない︱︱あの痛みは、エナジードレ インによって引き上げられた年齢に、身体が無理やり作り変えられ ていく過程のものだった。ネリスおばば様の若返りの薬があるが、 それを使っても、一時的に元に戻ることしか出来ないだろう。 ﹁ヒロちゃん、もうすぐお祭りが始まるんだって⋮⋮公女さま、間 に合ったんだよ﹂ ﹁⋮⋮ヒロトと、聖騎士さまたちのおかげ﹂ ﹁ヒロトには、ゆっくりしていて欲しいけど⋮⋮でも、一緒に⋮⋮﹂ リオナとミルテも抱きついてくる。ステラ姉は俺を誘ってくれて いる︱︱控えめに、頬を赤らめながら。 姿が変わってしまっても、みんな変わらずにいてくれる。けれど、 他のみんなはどう思うだろう。 ﹁そうだ⋮⋮フィリアネスさんやミコトさん、みんなは⋮⋮﹂ ﹁みことさん⋮⋮? あの、黒い服のお姉ちゃん?﹂ ﹁⋮⋮ユィシアがリリムをやっつけてから、いなくなった﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ まだ目覚めたばかりだが、確かめなければならないことが山ほど ある。それより何より、真っ先にしなければならないことが出来た。 1233 ︵ミコトさん⋮⋮ミコトさんのせいじゃない。まだだ⋮⋮まだ間に 合うっ⋮⋮!︶ ﹁みんな、心配かけてごめん⋮⋮俺は祝祭が始まる前に、ミコトさ んを探してくる!﹂ ﹁うんっ、フィリアネスさんたちもさがしてるの。ヒロちゃんもい けば、きっとみつかるよ﹂ ﹁私たちも一緒にさがす。ユィシアが、ついててくれるから﹂ ︵⋮⋮私は無事だから、心配ない。ミコトのことは、空からも探す。 見つけたら教える︶ ユィシア⋮⋮この場にはいないけど、声だけは心に響いてくる。 彼女にも、どれだけお礼をしてもし尽くせない。 ジョゼフィーヌだって頑張ってくれた。状態を確認すると、ダメ ージはもう回復している︱︱あとで、ちゃんと姿を見てお礼を言い たい。 俺は用意されていた、大きくなった身体に合った服を身につけ、 宿を走り出た。 ︵まだ、遠くには行ってない⋮⋮そうだよな、ミコトさん⋮⋮!︶ ユィシアだって探してくれている。フィリアネスさんたちだって ⋮⋮それならきっと見つけられる。 俺はまだ朝方の町を走りながら、ステータスを確認する。今の自 分が何歳かを確かめるために。 1234 ◆ステータス◆ 名前 ヒロト・ジークリッド 人間 男性 14歳 レベル58 ジョブ:村人 ライフ:1840/1840 マナ:1524/1524 1235 第三十六話 祝祭の街/鐘つき塔にて 俺が寝かせられていた宿は、首都に来た旅人たちが主に利用する ような目立つ場所ではなく、酒場や食事の出来る店の集まったとこ ろの裏路地にひっそりと看板を出していた。 宿の外に走り出て、広い通りに出ると、頭上の空は晴れ上がり、 白い雲が流れている。太陽が雲に隠れているのは幸いだった。今の 俺にはどうも、眩しすぎる光は目に毒のようだ。リリムに血を吸わ れて吸血鬼になった、ということでもないと思いたいが。 それにしても人が多い。人混みをかいくぐるようにして走ってい く︱︱陽射しを避けるために外套を羽織り、フードを被っている人 が多いので、一見すると砂漠の真ん中の町にでもやってきてしまっ たかのようだ。 ︵すっかり暑くなったな⋮⋮そういえば、夏が近いのか︶ 季節を意識したことは今まであまりなかった。今は6月の半ば︱ ︱前世においては初夏と呼ばれていて、異世界においてもぐんぐん と暑くなってくるころだ。ジュネガン公国に梅雨などはないので、 空気はからっと乾いており、不快な暑さというわけでもない。 ﹁おわっ⋮⋮ひ、ヒロト、どこ行くんだっ!?﹂ ﹁良かった、元気になったんだね!﹂ 市場通りの雑踏の中で、覚えのある声が聞こえた︱︱ディーン、 そしてアッシュ兄。どうやら、祝祭見物に出る前に町の下見をして 1236 いたらしい。 ﹁ディーン兄ちゃん、アッシュ⋮⋮ッ、ごめん、今は急いでるんだ、 人を探してて!﹂ ﹁よ、よくわかんないけど、みんなが言ってた黒尽くめの人ってや つか!?﹂ ﹁ヒロト、ぼくたちに出来ることはあるかな!?﹂ ﹁大丈夫、俺がなんとかする!﹂ ﹁おおっ⋮⋮なんかカッコイイぞ、ヒロト! よくわかんねーけど、 がんばれよ! ていうかお前、すげえでっかくなっちゃったな!﹂ ﹁無理はしちゃだめだよ! それと、ありがとうっ! ヒロトのお かげで、初仕事はうまくいったよ!﹂ ﹁それは良かった! 二人とも、また後でっ!﹂ 俺は二人に向けて親指を立てる。二人はよくわからないながらも、 笑顔でそれに応えてくれた。 ︱︱俺が成長してしまったことは、二人も聞いていたのだろう。 年齢自体も、身体の大きさも逆転してしまったのに、彼らは変わら ずにいてくれた。 眠っている間に、俺の事情をうまく話してくれた人がいる︱︱フ ィリアネスさんだろうか。リオナとミルテが頑張ってくれたのか。 いずれにしても、感謝は尽きない。 そして俺は、彼女にも感謝している。もしそこを彼女が勝手に決 めつけてしまっているなら、それは間違いだと伝えなくてはならな い。 伝えたいことはもう一つある︱︱俺のパーティに入るというのが、 どういうことか。 1237 彼女がそれを忘れているのならば、思い出してもらわないといけ ない。 ︵なんて言っておいて⋮⋮見つからなかったら、ミコトさんを探す 旅に出なきゃならなくなるな︶ ◆ログ◆ ・あなたの身体がきしみを上げている。 ・あなたの恵体値が3ポイント上昇した! あなたは身体を思うよ うに操れるようになった。 ﹁痛てっ⋮⋮!﹂ いきなり身体が大きくなるというのは、骨などにも負担がかかっ てるということだ。年齢に合うように身体が急成長する負荷を、エ リクシールが吸収してくれた︱︱そう考えられる。 そして身体が大きくなっただけ、それに対応したスキルが上昇す る。それとも俺が、八歳の限界を超えるほど鍛えていた反動だろう か。俺の恵体値は既に153、さっきのログのような恵体上昇が、 寝ている間に何度も起きていたということになる。 死にかけてから超回復することで、一気に強くなる︱︱なんて設 定は、エターナル・マギアにはもちろんなかった。俺が前世で好き だった漫画の幾つかにも見られた設定だが、自分で経験してみると また、爽快というか、こんなに強くなっていいのか、という思いさ えある。 1238 今の俺なら、リリムとの再戦で遅れを取ることはない。届かなか ったリーチも目に見えて伸びていて、今は違和感があるものの、こ うして身体を動かしていればすぐに慣れるだろう。 ︵リリムは途中で身体を﹃分割して﹄逃げた。そうされると、倒し きるには苦労する。ひとつでも分割した身体が残ると、そこから再 生できる︶ ユィシアの声が聞こえてくる︱︱人々の視界に入らないように、 雲の影に隠れるほどの遥か上空にいるようだが、この距離でも念話 は可能ということだろう。 ︵どんなふうに戦ったのか、後でまた聞かせてくれるか。いつか、 決着をつけなきゃならない相手だ︶ ︵わかった。私がこうして傍にいるうちは、力を回復するまでは攻 マザードラゴン めてこないと思う。敵がリリムと分かっていれば、対策のしようは ある。母竜の知識があるから︶ ユィシアの母親は、魔王のことを知っている︱︱あるいは、密接 に関わっているということか。 リオナを見た時、ユィシアが涙を流した理由が分からずにいたが、 ﹃そういうこと﹄なのかもしれない。幼いリオナと、ユィシアが知 り合う余地は無かったということならば、リオナを知っていたのは 別の誰かだ。つまり、ユィシアの母親が︱︱、 ︵そう。リオナ⋮⋮魔王リリスが転生したあの子は、私の母と戦っ たことがある。私はそれを自分のことのように感じてしまった。思 い出した、と言ってもいい︶ 1239 ︵⋮⋮そうか。そのことは、ユィシアが話したいと思ったときに話 してくれ︶ ︵マスターが知りたいことは、すべて話す。遠慮はいらない︶ 魔王リリスのことをリリムは姉と呼んだ。そしてユィシアは、リ リスの転生体であるリオナに対してこう言った。 ︱︱生まれ変わっても、人間を守るなんて。 リリスとは魔王の中でも異端の存在だったのだろうか。リリムも リリスに対しては、複雑な思いがあるようだった。魔王たち全てが 一枚岩ではなく、関係性もさまざまということか⋮⋮。 ︵それより、黒い人を探すことに集中したほうがいい。すべてはそ のあと︶ ﹁そうだな⋮⋮黒い人っていうか、ミコトさんって言うんだ。覚え ておいてあげてくれ﹂ ︵⋮⋮ミコトとの関係について質問したい︶ 関係と言われて、俺はミコトさんのことをどう考えているだろう、 とふと思う。 前世のことを知っているパーティメンバー。気の合う仲間で、彼 女でしか共有できない感覚がある。あれだけ楽しんだ、いわば憧れ の世界に転生した同志︱︱つまりは。 ︵俺にとって、大事な仲間だ。これからも一緒に、冒険したいと思 1240 ってる︶ ユィシアからはしばらく答えが返ってこない。彼女は俺の言葉を 吟味しているようだった。 ︵私は、雄と雌のあいだに、友情は成立しにくいと思う。戦うか、 無関心か、つがいになるか、そのいずれか︶ ﹁そいつは極端だな⋮⋮じゃあ傍にいるには、つがいになるしかな いのか?﹂ ︵⋮⋮それくらいしないと、繋ぎとめられないということ。人の心 は離れやすいものだから。私の場合は違う。竜は一度選んだ主人を、 絶対変えない。裏切らない︶ そこまでのユィシアの献身に、俺はありがとうと言うほかない。 出来るなら人化したユィシアに、直接会ってお礼を言いたいものだ。 ︵⋮⋮それはもう少し待って欲しい。大きくなったマスターは、外 見が大きく変化して⋮⋮周りの人間の反応が大きかった。私も、そ れは例外ではない︶ ﹁え⋮⋮あ、やっぱりそうだよな。こんなに急にデカくなると、怖 いよな﹂ ︵体格自体は、私より少し大きい程度。でも、抱えられるくらい小 さかったから、変化がとても大きい。そして身体の機能が成熟する ということは⋮⋮私がお願いしたことが、実現出来るということ︶ 1241 ﹁お願い⋮⋮あ、ああ。解ってるぞ、解ってるから、いつまでも誤 魔化すつもりはないからな﹂ ユィシアは竜の巣を守らせるために、子供を作りたいと言ってい た。今の俺は、それに協力することについて不可能ということがな い。幼さという殻を脱ぎ捨て、ぐっと大人に近づいた今となっては。 ︵⋮⋮誤魔化し続けられたら、捕獲する。繁殖期がくると、本能を 抑えられなくなる。私を止めたいなら、倒してでも止めるしかない。 今のマスターなら出来るかもしれないけど、おすすめはしない︶ 恵体153となった俺は、ユィシアを組み伏せることすら可能だ ろう。しかし俺は、女の子にそんなストロングスタイルで打って出 ることはまずない︱︱と思っていたが。スーさんとは手合わせする ことになっているし、ミコトさんだって、いつもの彼女なら俺とト レーニングしてみたいと言うところだろう。 ︱︱そう、いつもの彼女なら。そうでなくなっている今、一刻も 早く彼女の所に行かなければならない。 ◇◆◇ エターナル・マギアをプレイしていた頃、一度ユーザー同士の連 絡機能が死んでしまい、ギルドハウスにも入れなくなって、仲間と 連絡がつかなくなったことがあった。 そのとき俺は、ギルドのメンバーとあるゲームをした。誰とも連 絡のつかない状態で、5つの場所からひとつを選んで集合し、今日 1242 はそのメンバーで行動するのはどうかという提案だ。いつも固定メ ンバーで行動することの多かったギルドメンバーも、その時だけは お祭り気分で、いつもと違うパーティで遊んだという。伝聞系なの は、そのときの他のパーティのことは、俺も把握していなかったか らだ。 そして、集合場所の一つとして選ばれたのが、ジュネガン公国の 名所・首都の高台にある、﹃旧鐘つき塔﹄の下だった。その名のと おり、首都の中心部に新しく時計塔が出来たため、時間を告げるた めの鐘は使われなくなったという設定だった。 そこに集まったのは、俺と他に二人だけだった。ミコトさんと、 麻呂眉さんの二人だけだ。 そもそも連絡機能が死んでいるということで、ログインしていた メンバーも一部だけだったのだが、それでも千人のギルドで三人し か集まらなかったことを、俺たちは物好きなんだろうかと笑いあっ た。ジュネガンのダンジョンに大して旨みはないと言われていたか ら、他のメンバーは、レベルキャップを要求する高難度ダンジョン の近くにある集合場所を選んだのである。 町の中心部から離れて、高台を目指す。祝祭においてもこの界隈 が利用されることはないようで、あれだけ騒がしかったのに人の姿 は全くなくなり、俺は高台の上に続く長くゆるやかな丸石の階段を、 一段飛ばしで駆け上がっていく。八歳の歩幅では出来なかった芸当 がたやすく出来ることを、改めて便利だと思いながら。 旧時計塔は苔むしていて、白い外壁に蔦が伝っている。見上げる と首が痛くなるほどの高さ︱︱30メーティアはあるだろうか。中 は七階構造のダンジョンになっているが、モンスターはイベントが 起きた時しか湧かないため、あたりは静まり返っている。 1243 ◆ログ◆ かんざし ・︽ミコト︾は﹁香木の簪﹂の装備を解除した。 ︵っ⋮⋮いる。この近くに、ミコトさんが⋮⋮︶ その時俺の視界で、ふわりと何かが揺れた気がした︱︱自分の感 覚を信じるならば、それはミコトさんの姿だった。 彼女は塔の上にいる。そう確信した俺は、鍵のかけられた正面扉 ではなく、裏にある隠し通路から中に入った。石壁に良く見ると分 かる小さなくぼみがあって、そこを押すと開くようになっている。 閉鎖された時計塔の中は真っ暗だったが、どこからか細い隙間か ら光が差し込み、埃の粒子が舞っているのが見える。ここを抜けて、 ミコトさんも上に上がったんだろうか︱︱どんな気持ちで、歩いた んだろうか。 フリーフォール 円形の塔の内壁に沿うように作られた階段を上がっていく。もし 落ちれば自由落下だ︱︱安全に配慮した手すりなんてものはない。 特に高所を恐れない俺には問題なく、ミコトさんは楽しみながら、 麻呂眉さんは慎重に一段ずつ登っていた。ゲームなのに高所恐怖症 なんて、と笑ったものだが、こうしてみるとあの時の麻呂眉さんの 気持ちがわかる。 壁に手を突き、上に上がっていく。そして、ようやく頂上に辿り 着く。 屋根がなくなり、頭上には青い空が広がる。四方を見渡すと、使 1244 われなくなった青銅の鐘楼の影に、果たして彼女の姿はあった。 ﹁⋮⋮ミコトさん﹂ 出来るだけ慎重に、声をかけた。それでもまだ自分の声に慣れな い。八歳の頃より低くなった声に、驚かせてしまわないかと心配に なる︱︱しかし。 簪を外し、長い髪をおろしたミコトさんは、その髪を微風になび かせながら、俺の方を振り返った。 彼女は微笑んでいた。俺が思っていたよりも、ずっと穏やかな様 子だった。 ﹁⋮⋮もう、お身体には差し障りありませんか? こんなところま で来てしまって、皆さん心配しますわよ﹂ ﹁ああ⋮⋮そうだな。でも、ミコトさんのことだって、皆心配して るよ。もちろん俺もな﹂ 俺はゆっくり歩いて、ミコトさんに近づく。彼女は逃げることも なく、その場に留まっていてくれた。 それでもある程度近づくと、拒絶する様子を見せる。少しだけ彼 女の足が動いて、後ろに下がりそうになる。 ﹁心配なんて⋮⋮私はまだ彼女たちとは、会ったばかりです。それ に、私があなたにしたことは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮やっぱり、気にしてたのか。リリムに操られてた時のこと﹂ リリムの血を浴び、操られ、俺を刺したこと。彼女がリリムの呪 縛から解放されたあと、どう思ったのか︱︱それは、想像するにあ まりあった。 1245 ﹁⋮⋮私は、これ以上あなたの傍にいる資格はありません。ギルマ ス、ここでお別れですわ﹂ ︱︱そう言うだろうとも、分かっていた。 彼女が何のために強くなったのか。俺ともう一度パーティを組ん で、どうしたいと思っていたのか。 ﹁私は、自分のことを強いと思っていました。海を渡ってこの国に 来てからも、ずっとそう思っていた。あなたのステータスを見ても なお、戦闘という分野においては、私が一部ですぐれていると思っ ていました﹂ ﹁⋮⋮そうだな。俺も、そう思った。今でもそうだと思ってるよ﹂ ﹁⋮⋮あなたを手にかけようとするために、その力を使ってしまっ た。絶対に、そんなことはしたくなかったのに⋮⋮私は、取り返し のつかないことを⋮⋮っ﹂ それが限界だった。努めて冷静に話そうとしていた彼女の頬に、 涙が伝っていく。 ﹁まだ、この手に残っています⋮⋮あなたを殺めようと、この手で 刺し貫いたときの感触が⋮⋮一度死んでしまえば、この世界では、 それで終わりなのに⋮⋮それなのに、私は、あなたを⋮⋮あなたを、 殺そうとした⋮⋮っ!﹂ 敵に操られていたことは、彼女にとって、自分を許す理由にはな らない。 血を浴びせることで呪いをかける敵は、ゲーム時代にも存在した ︱︱そのこともきっと、彼女の自責の念に拍車をかけている。 しかし俺は思う、常に間違えず、全てに対策を打てる人間など居 1246 ない。 それが出来る完璧な人間は尊敬もされるが、俺はそこまでの完璧 を求めたりはしない。 もし自分が死んでたら、こんなことも考えられなかったわけだが ︱︱でも。 ﹁いいじゃないか、そんなこと﹂ ﹁っ⋮⋮そんな⋮⋮そんなことって⋮⋮﹂ ﹁俺はこうして生きてる。もし俺が後悔するとしたら、俺を刺した ことを悔やんで、ミコトさんが離れていくことだよ。忘れたとは言 わせない⋮⋮ミコトさんは、俺の右腕だ。右腕がなくなったら、そ れこそ生きていけないだろ?﹂ 詭弁に聞こえるかもしれないが、俺にとってはそれが揺るぎない 事実だ。仲間の中でも、彼女の存在が大きかったのは確かで︱︱こ の世界で会えたことを、心から喜んだ。 そんな相手が離れていったら、それこそ長いこと引きずることに なる。それこそ、リリムの思う壺でもある︱︱何より。 ﹁俺のパーティに入った人は、簡単には出してやれない。問題があ ったら、俺が解決する方法を考える。ウザいと言われようが何だろ うが、俺はそうする。欠けたメンバーが一人でも居たら、攻略でき ないダンジョンだってあるんだからな﹂ ﹁⋮⋮私が自分でリリムを攻撃して、血を浴びて⋮⋮すべて、私の 落ち度だったのに⋮⋮どうして⋮⋮﹂ ミコトさんの口調が少し幼くなっているように感じる。自分が大 きくなったから、そう思うのかもしれない。 ︱︱元々の俺たちの関係に近づいたから、という気もする。ミコ トさんは、俺より年下だったのだから。 1247 ﹁俺は仲間がしたミスは、だいたい許すよ。許さないとしたら、そ のミスを反省しない場合だけだ。そして大前提だけど、敵の状態異 常攻撃を受けるのはミスでもなんでもない。じゃあ、ミコトさんは 泣くことない。そう思わないか?﹂ 気がつけば俺はもう、ミコトさんに触れられる距離まで近づいて いた。 こうしてみて分かる、俺の方が背が高くなっている。ミコトさん はうさぎのように赤くなった目で、戸惑いながら俺を見つめていた。 ﹁⋮⋮そうやって丸め込んでしまうのも、交渉術ということですか ?﹂ ﹁そうかもしれないな。いや、今は自分で必死になってるだけなん だけど⋮⋮ミコトさんが抜けたら、正直痛手だからな﹂ 照れくさくなって頬をかくと、ミコトさんはつられるようにくす っと笑った。そして、微笑んだままで俺をじっと見つめる。 ﹁⋮⋮私は、怒られて、嫌われてしまうと思って、逃げていたんで す。子供っぽくて、自分がいやになってしまいますわ﹂ ﹁怒られる⋮⋮か。俺は仲間には怒ったりはしないな。唯一怒ると したら、自分を粗末にしようとしたりとか、そういうことに関して かな﹂ ミコトさんの頬に伝う涙を見ているうちに、俺は居ても立っても いられなくなる。誰が入れてくれたのか、服の胸ポケットにハンカ チが入っていた︱︱こうなる事態を想定していたとしたら、かなり の策士だ。 そんなことを思いながら、俺はミコトさんの涙をハンカチで拭い 1248 た。途中から彼女は自分で受け取って、恥ずかしそうに涙を拭く。 ﹁ああ⋮⋮簡単に説得されてしまって、何だか、ますます子供みた いですわね。私、ギルマスより年上で、お姉さん気分を味わってい ましたのよ。それはそれで、楽しかったのですけれど⋮⋮﹂ ミコトさんは手を伸ばして、俺の頭に触れた。そして長く伸びた 髪に手櫛を通し、今までにない目をする。 ︱︱これまでも、何度か見てきた。それは、女性が心を許してく れた時の瞳。ミコトさんはもちろん、これまで一度もそんな目をし たことはなかった。 つまり、今、この瞬間に。彼女の中で、決定的に何かが変わった ということだ。 ﹁⋮⋮ギルマスが眠っている間にも少しずつ大きくなっていくのを 見て、みんな驚いていましたわ。気付いていましたか? ギルマス がうわごとを言いながら震えているので、みんないても立ってもい られなくて、交代で添い寝をしていましたのよ﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、添い寝? そんなこと、みんな言ってなかったけど﹂ ﹁無理もありませんわ。だって、誰が言い出したのか忘れましたけ ど⋮⋮あ、あの、ここから先は、言うのが差し支えるというか、そ の⋮⋮何といえば良いのでしょう⋮⋮﹂ ミコトさんが目をそらして困っている。い、一体何が⋮⋮そんな 素振りを見せられたら、聞かずにいられない。 俺はミコトさんのタイミングを待つ。彼女が自分から言ってくれ る気分になるまで、ドキドキしながらじっと待ち続ける。するとよ うやく、ミコトさんがちら、と俺の方を見てくれた。 1249 ﹁⋮⋮は、肌を合わせると、きっと落ち着くということになって⋮ ⋮服を脱いで、寄り添っていたんですの﹂ ﹁ふっ⋮⋮服を⋮⋮全裸で⋮⋮!?﹂ ﹁そ、そうですわ⋮⋮服を脱がないと裸にはなれませんから、仕方 がありません。一時的に防御力は下がりますが、そんなことは言っ ていられませんし⋮⋮﹂ ミコトさん ︵この口ぶりだと⋮⋮ミコトさんも俺に、全裸添い寝を⋮⋮?︶ スキャナー 想像した瞬間、俺の視線という名の走査線が、眼前にいる人物の データを光速で読み取る。 ﹁⋮⋮エッチなことを考えている顔ですわね。八歳ならごまかせま すが、今の⋮⋮今の年齢は、いくつですの? おそらく、ステータ ス欄も変わっていますわよね﹂ 困ったような顔で俺を咎めようとしたミコトさんが、途中で思い 立ったように質問してくる。俺は左手の指を一本、もう片方の手の 指を四本立てた。 ﹁⋮⋮五歳ですの? こんなに大きい五歳もなかなかいないですわ ね﹂ ﹁いいボケだ、座布団をあげよう。まあ、14歳だけどな﹂ ﹁14歳⋮⋮何だか、大型ロボットを動かせそうな年齢ですわね。 少年と大人の中間は、何と言えばいいのでしょう﹂ ﹁それは俺にとっても難しい問題だな⋮⋮ミコトさんは、どう思う ? こんな、急に大きくなって、気味が悪いと思ったりしないか。 俺は正直、最初は自分でそう思ったんだけど⋮⋮﹂ もし気味が悪いと思っていても、ミコトさんが正直に言うことも 1250 ないだろう︱︱というのは、俺の心配しすぎだった。 ﹁あなたが大きくなってしまったのは、私の責任もありますもの⋮ ⋮それに、誰も気味が悪いなんて言ってませんでしたわ。無事に目 覚めてほしい、その一心でしたから﹂ ﹁⋮⋮そうか。いや、責任もなにもないけどな。リリムに取られた 若さを取り返したら、また六歳若返るのかな⋮⋮﹂ ﹁そうかもしれませんわね。ギルマスがそれを望むなら、私は命に 代えても⋮⋮﹂ ﹁いや、もしそうするとしたら、それは俺の仕事だ。それに⋮⋮父 さんや母さん、故郷の人たちに会うのは、ちょっと怖かったりする けど。大きくなったこと自体は、俺が望んでたことなんだ﹂ リリムが、俺の欲しいものをくれると言ったのは、あながち間違 いではなかったのかもしれない。 彼女に首をつかまれ、反撃もままならなかった俺は、身体が大き くなっていれば、もっと成長していればと渇望していたからだ。 俺を愛してるなんて言葉にほだされたわけじゃないし、リリムは 本当に俺を不死者に変えようとしただけだったかもしれない︱︱だ が、99%は悪人でも、1%はそうでもないのかもしれないと思う 自分がいる。 それはリリスを宿したリオナが現れたときの、リリムの人間味の ある反応を見てしまったからかもしれない。ただ残酷なだけでなく、 心に揺らぎがある存在なのだと分かってしまったから。 ﹁⋮⋮望んでいたというのは、色々な意味で、責任を取るためです か? 皆さんを待たせていたら、適齢期を過ぎてしまう方もいらっ しゃいますし﹂ ﹁ま、まあ、それはその⋮⋮大きくなったからすぐにってわけじゃ ないけどな。十四歳でもまだ、大人とは言えないわけで⋮⋮﹂ 1251 まごついてしまう俺を見て、ミコトさんはむっとする。そして、 俺の耳をつまんできた。 ﹁そんな優柔不断なことを言っていたら、私も言い出しにくくなり ますわ。もっと、腰を落ち着けてどっしりと構えてくださいませ﹂ ﹁⋮⋮言い出しにくいって⋮⋮あ﹂ ︱︱ええ。特に戦闘のスリルと⋮⋮今はもうひとつ。どんなタイ ミングで、ギルマスに授乳をしてさしあげることになるのか、とい う⋮⋮。 ︱︱そうですわ。この戦いで生き残ったら、というのはいかがで すか? ︵わ、忘れてたわけじゃないけど⋮⋮この身体になった今となって は、色々と問題が⋮⋮っ︶ ミコトさんは俺の内心の葛藤を知らず、じっと見つめてくる。そ んな潤んだ目をされると、俺は意志が弱いから、勘違いをしてしま う。 ﹁⋮⋮ギルマスを大事に思っている人は、数えきれないほど居ます わ。ですから、二人になれる時間は、とても貴重だと思いますの⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮み、ミコトさん。いいのか? 俺、もうこんなだけど⋮⋮﹂ ﹁こ、こんなというのは、男性的な⋮⋮い、いえ、そうではなくて ⋮⋮大きくなったので、紳士と淑女として良いことかどうかという 1252 ことですわね。それは私も、とても難しい問題だと思いますわ﹂ そうだ、今の俺の姿では、幼い子が甘えて授乳されているのです、 という言い訳が通じない。 十四歳と十七歳がそういうことをしたら、前世においてはまだそ んなことに興味を持っちゃいけません、と言われてしまうところだ。 エッチなのはいけないと思います、なんて可愛らしい注意だけじゃ すまないだろう。 ︱︱しかし、そういった方面に興味を持っていないわけではない。 世間的に駄目なので、みんなそういう気持ちは胸にしまっているの だ。そういうことは恥ずかしいので、表に出さないだけなのだ。 そして俺は、一つの言い訳︱︱もとい、結論に行き着いてしまう。 ﹁⋮⋮スキルを与える手段は他にありますが、私は効率を重視する ほうですわ。そして、分別のつく年齢でもあります。流されている わけでも、ただ若者としての勢いにまかせているわけでも⋮⋮﹂ ︵⋮⋮前向きな答え⋮⋮つまり全てを理解した上で、挑むというの か⋮⋮!︶ ミコトさんの言葉は途中から聞こえていなかった。なぜか今の俺 は、とても喉が乾いていたのである。 リリムに吸われたことで、吸われるつらさを知った俺は、簡単に 吸ってはいけないと分かっている。だが、吸うことは俺のアイデン ティティなのだ。吸わなくなったら俺が俺でなくなってしまう。吸 われっぱなしで黙っているわけにはいかないのである。じゃあリリ ムに仕返ししろ、という理屈には耳は貸さない。 1253 ﹁忍術スキルが、ギルマスに必ずしも必要かどうか分かりませんが。 スキルをコンプしたいという気持ちは、私にもとても良くわかりま す⋮⋮そうです、ギルマス。これはスキルコンプリートの一環なの ですわ﹂ 自分で言っているうちに勇気づけられてきたのか、ミコトさんは 誇らしげですらあった。しかし俺がすぐに返事を出来ないでいると、 胸元を押さえて目をそらす。 ﹁⋮⋮大きくなったギルマスとの初めてが、私と⋮⋮というのは、 本当にいいのでしょうか。何か、ギルマスをここに誘い込んでしま ったみたいで、少し⋮⋮あっ⋮⋮﹂ 子供の頃は、俺はひたすら受け身だった。今でもその精神自体が、 殻を破ったとは言いがたい。 しかし相手に迷いがあるなら、それを消してあげるのも、今は大 きくなった俺の責任じゃないだろうか。 ︱︱だからといって、いきなり鐘楼を囲う壁で、ミコトさんに壁 ドンするのもどうかと思うんだけど。やってしまったものは仕方な い、後にはひけない。 ﹁⋮⋮こんなことに憧れるなんて、日本の女性は平和ですわね⋮⋮ なんて、他人ごとのように思っていましたのに。実際にされてみる と⋮⋮意見が、変わってしまいそうですわ﹂ ﹁祝祭が終わった後に⋮⋮っていうのも、いいけどな。こういうこ とを後回しにするのは、俺の作法が許さないんだ﹂ ﹁⋮⋮分かりましたわ。はからずも、思い出の場所で⋮⋮というこ とになりましたわね﹂ 決定的なことは言っていない。しかしミコトさんもまた、それ以 1254 上の言葉を求めてはいなかった。 祝祭の始まりを待ち望む人々の喧騒は遠く、青空はどこまでも澄 み渡っている。 しゅる、しゅるっと衣擦れの音がする。俺に迫られたままで、ミ コトさんは服をはだけていく︱︱まず、真っ白な肩があらわになる。 シノビの修行を経てもなお、彼女の肌には傷がついていない。どれ だけ注意を払って研鑽してきたのか、それがよく分かる身体だった。 ﹁⋮⋮あまり見ないでくださいませ。鷹の目みたいになっています わよ﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮﹂ ﹁見ないわけにもいきませんものね⋮⋮控えめに、お願いしますわ﹂ やはり彼女の鎖帷子は、胸の部分まで覆ってはいなかった。鎖帷 子を固定するために、胸の谷間で十字に交差した紐が、その膨らみ の形を強調している。 フィリアネスさんの発育は飛び抜けているが、彼女にはるかに及 ばないわけでもない。今の俺の手のひらにちょうどおさまりそうな、 それでも少し足りなさそうな。紐に乗ってたっぷりと柔らかく変形 したその形を見ていると、俺は前世でもそれほど味わったことのな い、気が遠くなるような感覚を覚える。 ︱︱言葉にできない。 普通に考えて、こんなことが出来る相手じゃない。前世を知って いて、魅了にもかかっていなくて。 素のままで、こんなことが起こりうるのか。ミコトさんは恥じら い、頬を朱に染めながら、先端の部分を手で隠している。 鐘楼が光を遮って、薄暗い物陰で肌を見せている彼女を前にして、 俺は今更に、とてもいけないことをしているのではないかと思い始 める。 1255 そして俺はもう、準備が整ったことを悟る。ミコトさんは何も言 わず、俺をじっと見ている︱︱俺が動くのを、待ってくれているの だ。 ﹁⋮⋮隠さずに、見せてもらえるかな。恥ずかしかったら、少しず つでいい﹂ ﹁少しずつのほうが、恥ずかしいと思うのですが⋮⋮﹂ ミコトさんは咎めるように言いながら、手を片方ずつ下にずらす。 ひとつずつ露わになった豊かな膨らみを目にすると、俺はまばたき もできなくなっていた。 ﹁⋮⋮ログは、あとで確かめてくださいませ。スキルが上がったこ とだけ、確かめてください。そうすれば⋮⋮﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮本当にいいのか、ミコトさん﹂ ﹁⋮⋮約束しましたから。言ったはずですわ⋮⋮どのタイミングで、 あげることになるのか想像していると﹂ 話しているうちに、肌が桜色になるほど緊張していたミコトさん が、少しずつ落ち着いてくる。 そして俺は、他の雑念の全てを捨てて、スキルログだけを見ると 誓う。 ﹁でも⋮⋮きっと、どんな場所であっても、忘れることはありませ んわ。だって、私は⋮⋮﹂ 彼女の言葉がとぎれた。壁に手をつき、彼女に迫るような姿勢だ った俺は、ゆっくりと身をかがめる。 最後の意志を確かめるために見上げると、ミコトさんはこく、と 1256 頷く。 大きくなった手のひらで、初めて女性の胸に触れる。俺は邪念を 捨て、意識を手のひらに集中させる︱︱すると、ミコトさんの胸も 反応して、眩しい光を放ち始める。彼女らしく、静謐ながら研ぎ澄 まされたオーラだった。 手のひらを、下から支えるように添える。紐からはみだした部分 が親指に乗って、柔らかな弾力が伝わってくる。 ﹁⋮⋮思っていたよりも、落ち着いた気持ちでいられますわ。すご く緊張しているのに⋮⋮私の力を、こうするだけで、ヒロトさんに あげられるんですのね⋮⋮﹂ 彼女が許してくれる。きっと俺のしていることをユィシアも見て いるのに、静かに見守ってくれている。 俺は気が多いんだろうか、と思う。ミコトさんの様子を上目遣い に確かめると、彼女は微笑みを返してくれる。責めもせず、俺との 触れ合いを、ただ喜んでくれている。 ︵⋮⋮これ以上先に、いつか進めるんだろうか。今はただ、スキル をもらえるまで触れられれば十分だ⋮⋮だけど、いずれは⋮⋮︶ ﹁⋮⋮もっとすごい想像をしていましたけれど。こういった場所で はなく、落ち着いて向き合える場所で⋮⋮できれば、夜のヒロトさ んの部屋がいいですわ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それって⋮⋮﹂ ミコトさんははっきり返事をしない。そして何度目か、俺はミコ トさんの胸を通してエネルギーをもらい、ついにスキル上昇のログ が流れた。 1257 ◆ログ◆ ・あなたは﹁忍術﹂スキルを取得した! 長く険しい忍びの道が、 今開けた。 ﹁⋮⋮こんなに穏やかな行為なら、何もない日の昼下がりにでも、 お付き合いしてさしあげたいですわ﹂ ﹁ほ、ほんとに⋮⋮? それは助かるけど、ミコトさんもスキルを 上げたいよな﹂ ﹁いいえ、それだけが全てでもありませんわ。攻略が命だと言って いた頃の私からすると、信じられないかもしれませんけれど⋮⋮﹂ 胸に手をあてがうだけ。そこから先には進まないことを互いにル ールとして決めていれば、緊張したり、駆け引きをしたりというこ ともない。 しかし、今となっては、俺ばかりスキルをもらうだけではない。 そのために、女神から﹁授印﹂を与えられたのだから。 ﹁ミコトさんにも、お返しをあげるよ。強くなるために、どんなス キルが欲しい?﹂ まだ続きがあることを告げるようで、答えを先送りにしているよ うで。そのどちらともつかない俺の言葉を、ミコトさんは黙って聞 いていた︱︱そして。 ﹁⋮⋮強くなりたいですわ。あのとき、限界を超えたフィリアネス さんのように、私も⋮⋮﹂ 1258 答えはそれだけで十分だった。与えられたなら、同じだけ俺も与 え返す。まして彼女が強くなりたいと願っているのなら、なおさら それを躊躇う理由はない。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁授印﹂を発動した! ﹁っ⋮⋮これは⋮⋮ギルマス、こんなスキルを、どこで⋮⋮﹂ ミコトさんの身体のどこに着印点が出るのか︱︱光っている部分 は、彼女の身体の前面にはないようだった。 ︱︱いや、違う。鎖帷子に覆われたお腹の部分が光っているのだ。 それに気付いたミコトさんは、どういうことか、と俺に答えを求め てくる。 ﹁ミコトさん⋮⋮鎖帷子も、外してもらえるかな。そうしないと、 俺のスキルをあげられないんだ﹂ ﹁⋮⋮そ、そんなことをしたら⋮⋮本当に⋮⋮その⋮⋮でも⋮⋮﹂ 戸惑うのもわかる、そんなところまで見られると思っていなかっ ただろう。 しかし彼女は光っている部分を見つめると、顔を上げて微笑んだ。 分かりました、というように。 ﹁未知のスキルがどのように働くか⋮⋮ギルマスに、こうして実演 してもらえるのですから。恥ずかしがっている場合では、ありませ んわね﹂ 1259 ミコトさんが鎖帷子の装備を外し始める。その間も、ダイアログ に授印の準備が完了したという文字が、消えずに残り続けていた︱ ︱急がなければ消えてしまうとせかすように。 1260 第三十七話 天空の瞳/公王の意志︵前書き︶ ※今回は視点の変更があります。 ユィシア↓ヒロト↓フィリアネス視点の順になります。 1261 第三十七話 天空の瞳/公王の意志 ∽ 首都ジュヌーヴの上空にて ∽ イメージ マスターが探している人物のことは、私はあまり良く聞かされて いないので、マスターの中にある心象を元に探していたけれど、結 論をいうと、私より先にマスターが見つけてしまった。 ︵私の視界は首都の全域に及ぶ。そんな私より先に見つけ出すなん て︶ 人間は、時々理屈を超えた行動に出ることがある。不可能だと思 えることを、可能にしてしまう、そんな強さを秘めている。 私は弱くて壊れやすい人間に関心を持つことはないと思っていた。 でも、マスターは違っていた。 小さな身体で私に挑んできたときのあの目を、今でも覚えている。 もっと記憶を辿れば、最初に湖で会っていたことは思い出せる。 赤ん坊のようなマスターは、その頃からすでに一人前の戦士のよう に勇敢だった。蛮勇というのかもしれないが、私はマスターのそう いった部分こそが、私を使役するに足り得たのだと思っている。 ﹁はぅぅ⋮⋮た、高い。見てミルテちゃん、町があんなにちっちゃ くなっちゃったよ﹂ ﹁⋮⋮高いのは苦手じゃないけど、ぞくぞくする。落ちそう﹂ ︵落ちることはない。皇竜は、騎乗する人物に対して保護結界を張 ることができる。空気が薄くて窒息することも、寒いと感じること 1262 もない︶ ﹁ふぁ∼⋮⋮よくわからないけど、ユィシアさん、すごい⋮⋮﹂ ﹁今でもびっくりしてる。ヒロトが急に大きくなったり、ドラゴン の女の人と知り合いだったり⋮⋮﹂ ︵マスターを遠くに感じないで欲しい。マスターは、二人のことを いつも考えている。私には、それが分かる︶ リリスを宿している少女には、私は特別な感情を抱いていた。そ れは、私には似つかわしくない、実感として把握することの難しい、 おそらく友情に類するものだった。だから私は、一度上空に飛んで いったのに、リオナが呼んでいると感じて、彼女たちを迎えに戻っ てしまった。 なぜ私がリオナに甘いのかといえば、母の記憶の影響だと思う。 母は魔王リリスと盟約を結んでいた。 しかし最後には、母とリリスは戦わなければならなくなった。ど うしてそうなったのか、記憶は私に受け継がれることなく封印され て、ただ﹁悲しかった﹂という感情だけがある。 でもリオナは、まだ何も知らない。一度マスターを守るために覚 醒したことも、今では忘れてしまっている。 リリムが魔王の本性を現した時、その波動がリオナの中の魔王に 干渉した︱︱それは、私がリリムの波動に気づくより早かった。リ オナはヒロトが危ないと言い、私はそれを聞いて、リオナを連れて いった。一緒に居たミルテもついてくると聞かなかったので、私は リスクを飲み込み、自分の正体を二人に見せた。 魔王の力が、リリムの撃退に役に立つと考えてはいなかった。私 1263 はただ、﹁リリスを宿した少女の願い﹂を聞き届けずには居られな かった。 二人の少女は、私の竜の姿を見て初めはとても驚いていたが、今 となってはこうして私の背中に乗ることにも全く抵抗がなくなって いる。子供は順応が早いのかもしれない、と私は思う。私が幼生だ ったときはどうだっただろうか。もう今の私と変わらないくらいに 物心ついていて、恐怖や驚きといった感情を知らず、ただ宝を守り、 時々外に出て水場で身体を洗ったり、山脈の奥地に出向いて新しい 宝を集めたりしながら、日々を過ごしていた。 ︱︱そして考えているうちに、マスターから伝わってくる波動が、 明らかに変わった。 感じ取るだけでも、全身が熱くなって、その熱がリオナとミルテ に伝わってしまわないかと心配する。 それほど、マスターの心は優しい波動に満ちていた。私の心の奥 まで染み渡って、とろけさせてしまいそうなほど温かい。 遥か上空、町の人々から見えないように魔術で姿を隠蔽しながら、 私は古い塔の上に、二人の姿を見つけた。黒い髪の女性は髪をおろ していて、白い素肌を見せている。私とどちらがマスターの気に入 るような肌をしているだろうか、と考える。人間の姿に変わったと き、それをマスターが綺麗だと感じてくれていることは伝わってい たが、はっきり言葉にしてもらったことはない。 一人前の若者にまで成長したマスターが、ミコトという女性から、 魔力か、それに類する力を受け取っている。ふたりとも落ち着いて いて、何度か魔力の流れが起きたあとは、今度はマスターが魔力を 与える側に変わる。 1264 前に自分がそうされたときは、幼いマスターの求めに応じること を嬉しいと思い、マスターが男性であるということに関しては、そ れほど強く意識を持たなかった。もう少し大きくなったら、異性と して強く意識するのかもしれない。既に意識はしていたが、子供の マスターに無理を強いることは出来ないと思っていた。 それはもう待つ必要のないことなのだとひと目で分かる。マスタ ーの成長を待ち遠しく思っている人々がいることは、首都でマスタ ーの仲間たちと話していれば良くわかった。聖騎士も、その部下も、 マスターの近くにいる人物のほとんどが、私と同じことを望んでい るのだろうと思う。 ︱︱でも、これほど、こんな、初めて味わうような。 言葉にできない、というマスターの思考が伝わってきたとき、言 語化できない情動があるのだろうかと思った。しかし今は、それが 理解できる。 マスターに求められているミコトと、自分が入れ替わったら。自 分があれほどに想われたらと想像しただけで、私は他のことを何も 考えられなくなってしまう。背中に乗っているリオナとミルテのこ とさえ、意識の外に追い出してしまいそうになる。 ﹁ユィシアさん、ミコトさんは見つかった?﹂ ﹁⋮⋮たぶん、あそこにいるのが、ヒロト⋮⋮それと、ミコトさん﹂ ミルテは獣魔術を使うからなのか、とても目が良い。私が教えな くても、塔の上にいる二人の姿に気付いていた。物陰に隠れている ので、何をしているかまでは見えていないらしい。 1265 ﹁ヒロちゃん、ミコトさんに会えたんだ⋮⋮よかった。ユィシアさ ん、これで安心だから、宿屋さんに戻ろ?﹂ ﹁⋮⋮いいの? ヒロト、何か、えっと⋮⋮﹂ ミルテは気付きかけている。 私は特に、マスターとミコトの前に姿を現すことに遠慮などは感 じていない。 それでもどうしてか、今の二人に水を差すと、マスターが困るの ではないかという気がとてもする。 リオナとミルテに見せるのも良くない。人間の子供は、ああいう ことを知るには早い。私なら一歳の頃からつがいがどうやって子供 を産むのかなどは知っていたが、人間と皇竜では事情が違う。私も それくらいのことを意識できるくらいには、マスターとの関わりを 通して、社会通念のようなものを理解しようと︱︱ ︱︱ミコトさんにも、お返しをあげるよ。 ︵っ⋮⋮だ、だめ⋮⋮お返しは、まず、私の方が先に⋮⋮︶ ﹁ユィシアさん? おかえしってなに?﹂ ﹁⋮⋮ミコトさんに何かもらったから、ヒロトはおかえししてる?﹂ ︵⋮⋮等価交換を重んじるマスターは、とても律儀だと思う。でも、 これ以上は、人の子の踏み込んでいい領域ではない。私だけで行っ てくる︶ ﹁リオナもいきたい! ヒロちゃんがミコトさんと遊んでるなら、 1266 まぜてもらいたい!﹂ ﹁そ、それは⋮⋮それは、あの⋮⋮お胸に⋮⋮﹂ ミルテはマスターのしていることの意味がわかっているようだっ た。獣魔術師は普通の人間と比べて、本能的に理解しやすいのかも しれない。獣魔術で宿す獣のたぐいは、術者の人としての成長より 早く、成獣となるから。 もしくは、ミルテが見たことがあるか、経験しているか。 ︵ヒロトさまが、幼子に手を出すとは思いにくい。ということは⋮ ⋮他のところで⋮⋮︶ 今みたいなことを、何度も。それはもう十分に分かっているので、 人間のするような嫉妬はない。 けれど、落ち着かなくなる。ここから風を起こしてみたいとか、 天候を変える竜魔術を使って雨を降らせてみたいとか、そういうこ とばかりが次々と浮かんでくる。意味のない、無駄な行動のはずな のに、そわそわして仕方がない。 ﹁私も混ぜてほしいな⋮⋮いいな、ミコトさん。ヒロちゃんと仲良 くできて﹂ ﹁⋮⋮わたしも、混ぜてほしいけど、今はまだ小さいから、たぶん だめ。私たちには、大人の人と同じようなことはできない﹂ ﹁そうなの? ヒロちゃん、私たちと同い年のはずなのに⋮⋮やっ ぱり、おっきくなっちゃったんだ﹂ ︵⋮⋮おっきくなった、とは言わないほうが良いと思う。私の個人 的な見解では、そういう気がする︶ ﹁けんかい? ミルテちゃん、けんかいってなに?﹂ 1267 ﹁よくわからないけど、ヒロトにはおっきくなったって言わないほ うがいい﹂ ﹁じゃあ、おっきしちゃったって言えばいいの?﹂ ﹁あ、あんまり変わってないと思うけど、それもだめだと思う﹂ ﹁ヒロちゃんあんなにおっきくなったんだよ? なのにおっきくな ったって言っちゃいけないの?﹂ ﹁⋮⋮よ、よくわからない。大人の人たちに聞いてみたほうがいい と思う﹂ リオナは純真というか、まだ性別の違いだとか、そういうことを 意識させるには早いように思う。でも、マスターは幼いリオナをち ゃんと女性として扱っている。私にはそれが分かるので、少し不思 議に思う。 時々マスターはリオナを違う名前で呼ぶ。リリスでもない、もう 一つの名前。 マスターが持っている大きな秘密のことを、まだ私からマスター には言っていないけれど、私は彼の心を見たことで感じ取っている。 ヒロトさまの精神が外面よりもはるかに成熟しているからこそ、 私は恭順したのだと思う。何かの力で惹きつけられたのは確かだけ れど、それはきっかけにすぎない。 ︱︱ミコトさん、じっとしてて。大丈夫、怖くないよ。 ︱︱はい⋮⋮すべて、ギルマスにお任せします。怖くはありませ んわ。 ︱︱ちょっと、くすぐったいかもしれないけど⋮⋮。 ︱︱強くなるためなら、それくらいは耐えてみせますわ。どうぞ、 1268 ご遠慮なく。 ︱︱じゃあ、いくよ⋮⋮。 ︵⋮⋮聞いているだけで、鼓動がおさまらない。一分間に、四百回 は鼓動している⋮⋮頭がおかしくなりそう⋮⋮︶ 今のヒロト様とミコトのやりとりを聞いていると、独占したい、 石化させてずっと愛でていたいと思ったあの気持ちが蘇りそうにな る。 今はそれよりも、ヒロトさまとの間の仔を産むことが、私の確固 たる生存理由になっている。 だから、リリムに負けるわけにはいかなかった。 空中で戦うのは久しぶりだったけれど、皇竜の翼を持つ私が、魔 族の翼に遅れをとることはない。 私は速度で圧倒し、リリムの繰り出す暗黒魔術を回避して、霧に なっても逃れることのできない﹃炎の嵐の息﹄で焼きつくそうとし た。 しかしリリムは、結界で私の息を防いでいるうちに、霧になるの ではなく、全身を小さな蝙蝠に分割してばらばらに飛び去ることで、 追撃を逃れて退却してみせた。 ﹃あなたと戦う理由はないのだけど、獲物に紐がついていたのな ら仕方がないわね。次は、あなたを封じてからヒロトを狙わせても らうわ﹄ ﹃やれるものならやってみればいい。次にマスターに害意を成せ 1269 ば、地の果てまで追いつめて灰も残さず滅ぼす﹄ ﹃うふふっ⋮⋮怖いわね。でも、それでこそ最も気高く、最も美 しい種と言われるのでしょうね。私の黒く染まった翼なんかより、 ずっと綺麗だわ。その、銀色の翼は﹄ リリムは私に殺されかけたのに、そんなことを言っていた。まだ、 力を全て出しきったわけではない︱︱それゆえの余裕なのかもしれ ない。 それとも、心から私と戦う理由がないと感じているのか。母から 受け継いだ記憶の中に、リリムとの間の因縁は無いように思う。リ リスを見た時に感じた言いようのない衝動は、姿が少しだけ似てい るリリムを見ても、ひとかけらも感じはしなかった。 私が考えているうちに、ヒロトさまが何かの力を使って、ミコト の身体の一部︱︱腹部のあたりに、暖かな光が生じる。 ﹁⋮⋮ミコトさんのお腹が、光ってる﹂ ﹁おなか? ピカピカしたものでも食べたのかな?﹂ ︵その発想はなかった。ときどきリオナは興味深いことを言う︶ ﹁わっ⋮⋮ユィシアさんにほめられちゃった。私、何か変なこと言 ったかな?﹂ ﹁リオナはいつも変﹂ ﹁ひ、ひどーい! いつも変じゃないもん! ときどきだもん!﹂ そこまで変わっているということもない、と私は心の中で否定し ておく。念話で声を伝えるか伝えないかを制御することは、さほど 1270 難しくない。 ﹁⋮⋮私、目が良くないからよく見えないよ。ミルテちゃん、ヒロ ちゃんたちは何してるの?﹂ ﹁あっ⋮⋮な、なんでもない。なにもしてないっ⋮⋮﹂ ミルテは顔を真っ赤にして、私の背中に顔をうずめてしまう。リ オナはヒロトさまたちが何をしているか知りたくて仕方ないようだ った。 私の念話を応用すれば、私が見ている光景をふたりに伝えること は出来る。 でも、マスターが秘密でしていることを、二人に教えてはいけな い気がする。まだ早いという気もするし、何よりヒロトさまに怒ら れてしまいそう。 このまま見ていたら、どこまで二人の関係が深まるのか、怖いよ うで、見ていたいようで、心臓から送り出される血が灼熱のように 熱く感じる。やはり、背中にいる二人に熱が伝わりそうで、自重し なければと思うのに。熱病にでも罹患したかのように、ほてりが収 まらない。喉がからからに渇いて、今ならあの湖の水を全部飲み干 せそうな気さえする。 そしてマスターが動いて、ミコトの装備している鎖を編んだ防具 を外させる。腹部をあらわにすると、ちょうどへその下の部分が光 っているのだと、私からも見て取れた。 ﹁⋮⋮どきどきする﹂ ﹁うぅ∼⋮⋮私も見たい。ミルテちゃん、ヒロちゃんはなにしてる 1271 の? ねえねえ、ねえねえ﹂ ﹁だ、だめ⋮⋮リオナにはまだ早い⋮⋮﹂ ﹁ねえねえねえねえ。見たい見たい、ヒロちゃんが何してるか見ー たーいー!﹂ リオナが駄々っ子になりつつある。ヒロトさまも彼女の扱いには 困っていそうだけど、地上の生命の中で最も美しいと言われたリリ スの化身である彼女は、我がままを言っても私の母性をくすぐると いうか、愛らしいと思ってしまう部分がある。 そして私は、ヒロトさまが夢中になっていて私のことを忘れてい ることに、少しだけ、今までにないことを思っていた。 ︱︱ドラゴンミルクの方がずっと滋養がある。触り心地も、大き さも、ヒロトさまの好みからは外れていないはず。それどころか、 一番気に入ってくれているはず⋮⋮触れてくれているときの目を見 れば分かる。触れ合った回数だって、まだ会ったばかりのミコトよ り多い。 そんなことを延々と考えていたら、私はマスターに、少しだけ反 省してほしいと思ってしまった。 マスターへの忠誠をつらぬくのと、リオナに見せてあげるのは、 別のこと。私はそう思うことにした。 たぶんあとでマスターに知られても、マスターは私を怒ったりは しない。もし怒られたら、私は一定の期間だけ反乱をおこす。また 私の力を採りたいと言っても、採らせてあげない。 ︵リオナ、ミルテ、目を閉じて。私が見ているものを、二人に見せ る︶ 1272 ﹁ほ、ほんとに? 私も見ていいの? ありがとう、ユィシアさん !﹂ ﹁っ⋮⋮ユィシアが見せるなら、しかたない。リオナ、どきどきす るから、胸をおさえてて﹂ ﹁う、うん⋮⋮これでいい?﹂ リオナとミルテは小さな手を胸に当てる。既に見る前から、二人 の小さな心臓は、とくとくと小鳥のように早く動いていた。 ∽ 鐘つき塔屋上 鐘楼の陰にて∽ ミコトさんは自分で鎖帷子をめくり上げる。恥じらいのあまりに 長い睫毛を震わせながら。 引き締まりながらも女性らしい柔らかさを残した腹部。女性の臍 の部分を、こんなに近くで見るのは初めてだった。しかし、光って いる部分︱︱着印点は、まだ下にある。 ﹁⋮⋮この光っている部分に、何をするんですの?﹂ その質問に答えようとして、うまく声が出なかった︱︱緊張のあ まりに。 しかしそんなことは言っていられない。俺は冗談を言っているわ けじゃない、そのためには、少しでも落ち着いて言わなきゃならな い。 ﹁その⋮⋮これは、俺のスキルで﹃授印﹄っていうんだ。俺が持っ てる限界突破のスキルを、相手に印を与えることであげられる。こ 1273 の光ってる部分に、キスすることで﹂ ﹁そ、そうなんですのね⋮⋮光る場所はランダムですの? でした ら、仕方ありませんわね⋮⋮﹂ ミコトさんは戸惑いながら俺を見下ろす。下半身装備がそのまま では、着印点に触れることは難しい。 ﹁⋮⋮ギルマスが、あえてそこを選んだわけではないんですのね?﹂ ﹁い、いや、俺も狙ってるつもりはないんだけど、すごい位置に出 やすいというか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮分かりました。私もシノビの道を、一度は極めたという矜持 があります。それ以上の境地に達するために、ギルマスの力を分け てください﹂ 黒い帯をほどき、ミコトさんは片方の手で鎖帷子をめくり上げ、 もう一方の手で、ズボンのような下半身装備を下にずらしていく。 へその下から少しずつ、じりじりと降ろしていってもまだ授印点は あらわにならず、彼女が身につけている下着の上端が見えるぎりぎ り直前で、ようやく着印点が姿を現した。 ﹁あ、あまり⋮⋮そちらの方は、見ないでください。武士の情けで すわ﹂ ﹁そちらというと⋮⋮い、いや。分かった、絶対に見ない﹂ ﹁⋮⋮お願いします。終わるまで、じっとしていますから⋮⋮どう ぞ﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ミコト︾の肌に唇で触れた。 ・あなたは︽ミコト︾に刻印を与えた! 1274 ・刻印の力で、︽ミコト︾は﹁限界突破﹂スキルを取得した! さ らに上の世界への扉が開いた。 ログはミコトさんにも見えているはずだ。終わったことを告げよ うと顔を上げると、ミコトさんは目元を拭っていた。 ﹁す、すみません⋮⋮他ならぬギルマスが、私の限界を超えさせて くれたのだと思うと、嬉しくて⋮⋮ずっと、行き詰まっていました から﹂ ﹁そうか⋮⋮もう、悩むことない。これから限界を超えて強くなっ ていけるよ﹂ ﹁⋮⋮はい。限界突破をスキル上げする方法を探さないといけませ んけれど﹂ それこそドラゴンミルクだろうか、と思ってしまう。何か訓練で 上げられたら、それが一番良いような気はするけれど︱︱。 ﹁ヒロトちゃんっ、ミコトちゃん! 見つけたぁ!﹂ ﹁きゃっ⋮⋮!?﹂ ミコトさんがすごく女の子らしい悲鳴を上げる。しかしその直後 には、彼女はショーツの紐を戻さないままに、下半身装備を元に戻 していた。上の装備を元通り着直すのに手間取り、困ったあげく、 彼女が選んだ手段は︱︱。 ﹁︱︱えぇいっ!﹂ 1275 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾は﹁木の葉隠れ﹂を発動した! ︽ミコト︾の姿が見 えなくなった。 ︵なるほど⋮⋮それなら、服が乱れてても関係ないな︶ 俺たちを呼んだのは、マールさんだった。彼女からはミコトさん がどうなっているかまでは見えていなかったようで、いきなり消え たので驚きつつ、俺の方を見てくる。 ﹁⋮⋮ひ、ヒロトちゃんがおっきくなっちゃってる⋮⋮!﹂ ﹁すごい⋮⋮こんなに背が伸びて⋮⋮それに、たくましい⋮⋮﹂ ﹁ふ、二人とも⋮⋮探しに来てくれたのは嬉しいけど、ちょっと思 わせぶりすぎるよ。俺は元八歳なんだから、もう少し教育的な面を 重視してもらえると⋮⋮﹂ とても元八歳の発言をしているとは言えないが、マールさんもア イマジネーション レッタさんも、俺の未成熟な精神をくすぐりすぎる。﹁おっきくな った﹂とか言われるだけで想像を逞しくするのが、日本人の想像力 の素晴らしさだ。いや、素晴らしくはないか。 ﹁あれ? ヒロトちゃん、ミコトちゃんがいなかった? 誰かと一 緒にいるように見えたけど⋮⋮﹂ ﹁え、えーと⋮⋮ミコトさんは、急用が出来たって﹂ ﹁⋮⋮もしかして、仲良くされていた⋮⋮ということではないです か?﹂ ﹁うっ⋮⋮そ、それはあの、ミコトさんの気持ちもあるし⋮⋮﹂ 1276 ︵ふふっ⋮⋮実際に仲良くしていたのですから、そう答えても怒り ませんわよ。とりあえず、後のことはお任せします⋮⋮あっ⋮⋮と、 透明だと、元通りに服を着るのがこんなに面倒だなんて⋮⋮っ︶ 俺にだけ聞こえる声で囁いたあと、ミコトさんの気配が離れてい く。もっと早くことを進めていれば⋮⋮とも思うが、後の祭りだ。 祝祭はまだ始まっていないのに、後の祭りとはこれいかに。審議は 不要だ。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、私より身長がおっきくなりそう⋮⋮で、でも、 まだ抜かれてはないよね?﹂ ﹁いえ、かなり近いというか、もう追い抜いているような⋮⋮私な んて、見上げるくらいになっちゃってます﹂ ﹁はは⋮⋮こんなことになっちゃったけど、中身は大して成長して ないよ﹂ ﹁身体が成長することに、とても大きな意味があるというか、なん というか⋮⋮はぁ∼んっ! 雷神さまに順番を譲るなんてもったい ない! 今夜は祝祭の夜なのに!﹂ ﹁ま、マールさんっ、そんな、開けっぴろげな⋮⋮人が居ないから って、大声で言い過ぎです!﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、せっかくだから、大人になってから手ごたえ が変わってないかためしてみない? 私はね、久しぶりだから、け っこうすごいと思うよ∼﹂ ﹁そ、そんなっ⋮⋮そんなことをするなら、私だって⋮⋮ヒロトち ゃんとこうして話せるのを、ずっと楽しみにしていたんですからっ ⋮⋮!﹂ マールさんとアレッタさんは、祝祭を見物するためなのか、鎧は 着ていない。二人とも珍しくスカートを穿いていて、いつもよりす ごく女性らしさが強調されていた。髪もいつもと違って、よそゆき 1277 の髪型になっている︱︱マールさんはリボンでポニーテールにして いて、アレッタさんは髪に飾りのついたピンをつけていた。 ﹁二人とも、その服すごく似合ってるよ。髪も可愛いね﹂ ﹁かっ、かわっ⋮⋮かわわっ⋮⋮か、川いい? ヒロトちゃん、川 が好きだったんだ∼ってそんなわけないでしょ∼! アレッタちゃ んったら!﹂ ﹁ヒロトちゃん⋮⋮私、もうすぐ⋮⋮なんですけど、それでも可愛 いって言ってくれるんですか?﹂ ﹁うん。何歳になったって関係ないよ﹂ ﹁ほぁ⋮⋮ほぁぁぁぁ! なんですか! なんですかこれ! ちょ っと王国中にヒロトちゃんのかっこよさを伝える旅に出てくる! 私絶対伝説作ってくる!﹂ ﹁⋮⋮わかってはいましたけど、やっぱり⋮⋮大きくなると、まる で、羽化するみたいに⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いや、俺は思ったことを言っただけなんだけど⋮⋮﹂ 旅に出ようとするマールさんを引き止め、ずっと頬を赤らめてた め息ばかりついているアレッタさんと一緒に、俺は塔を降りること にした。 最後に忘れてはいけないものが一つある︱︱ミコトさんが外して 忘れていった、あの装備を拾っておかないと。 ◆ログ◆ かんざし ・あなたは﹁香木の簪﹂を手に入れた。 1278 ∽ 王宮にて ∽ ルシエは祝祭でお披露目に出る前に、父君である公王陛下への挨 拶を済ませた。 私もミコト殿を探したかったのだが、ルシエに付き添う役目も外 すことは出来ず、マールとアレッタに後のことを託した。ヒロトが 目覚めれば、ミコト殿をきっと引き止めてくれるだろうという思い もあった。 ︵ヒロト⋮⋮おまえなら、きっと大丈夫だな。しかし⋮⋮︶ 祝祭に出るために、王族のドレスを着て化粧をし、髪を結ってい るルシエ。私も今日ばかりは聖騎士の鎧を脱ぎ、貴族としての正装 で、ルシエに付き添うことになっていた。 ﹁フィル姉さま、申し訳ありません。ヒロト様が、大変なときに⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮峠はもう越えている。一時は、自分の命に代えても助けると 思ったものだが。やはりヒロトは、只者ではない﹂ ヒロトが持っていたエリクシールは、助からないほどの重傷だっ た小さな身体を癒すどころか、成長させた。 エリクシールは、その場に居合わせた私︱︱そして、リオナとミ ルテ、ユィシアによって、一口ずつヒロトに口移しで飲ませた。 その時のことを、ヒロトはおそらく覚えていない。しかし私は思 い出すだけで、そのときの感触を、つい先程のことのように思い出 さずにはいられなかった。 1279 王宮に仕える侍女たちによって髪を整えられたルシエは、同性の 私から見ても羨むほどに、神々しいような輝きをまとっていた。 なぜ、彼女がその幼さで、今のように落ち着いていられるのか︱ ︱それは、幼少から与えられた宿命が、彼女を早く大人に近づけた のだろう、と思う。 ︱︱まるで、ヒロトと同じように。 ﹁フィル姉さま⋮⋮先ほど陛下がお話されたことは、ヒロト様には まだ伏せておいてください﹂ ﹁⋮⋮いいのか?﹂ ﹁はい。彼には、まだ自由に羽ばたく鳥でいてほしい。私の我がま まで、しがらみを作りたくはないのです﹂ ルシエの言葉が本意ではないと、私には簡単に見抜くことができ た。 長い付き合いだからではない。ヒロトのことを想うということに ついては、私たちは同じ女なのだから、見ているだけで感じ取れる。 ルシエにとって、ヒロトがどんな存在になっているのか。 ﹁ヒロトは陛下の意志すら、受け入れてしまう器を持っている。ル シエ⋮⋮おまえは、ヒロトの大きさを甘く見ている﹂ ﹁⋮⋮フィル姉さま﹂ ルシエはドレスが乱れないように、静かに、けれどまっすぐに私 の胸に飛び込んできた。 幼い頃から知っている、可憐な少女。聖騎士として私が守るべき 存在、その中でも、正直に言ってしまうならば、公王陛下よりも尊 い存在。 1280 ︱︱そんな彼女の想いを、私は叶えてやりたいと思う。 ルシエが成人し女王となったあと、女王を支える副王の地位を、 ヒロト・ジークリッドに与える。 それこそが、公王陛下が、ヒロトがルシエを守り通したことを知 ったあとに下された結論だった。 1281 第三十八話 前編 未来の約束 鐘つき塔から降りるとき、何となく気配は感じていたのだが︱︱ まさか塔を出た途端にこんなことになろうとは。 ﹁⋮⋮ヒロトさま﹂ 塔を出たところで、外壁を少し回ったところにいたユィシアが、 すっと姿を現す。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 沈黙が意味するところはわかる。ユィシアに、俺が何をしていた か伝わってしまったのだろう。ユィシアに対して思考を隠蔽する方 法があるなら、ぜひ習得しておかないと、彼女の精神的な安寧が保 たれない。 ︵しまったという顔をしちゃいけないな。俺は何もやましいことは していない。いや、とてもやましいのかもしれないが、それでも俺 は⋮⋮!︶ ﹁ユィシア、ミコトさんを探してくれてありがとう。彼女はもう居 なくなったりしないから、大丈夫だ﹂ ﹁⋮⋮そう。ああいうことをしたら居なくならなくなるのなら、定 期的にしてあげるといい。私は嫉妬をしない。マスターの帰巣本能 を信頼している﹂ そう言いつつもユィシアの周りの空気がビリビリとしているのは 1282 なぜだ︱︱と疑問に思うまでもない。 俺は彼女に焼き餅を焼かせてしまったのだ。ユィシアが感情とい うものと無縁に見えたのはもう昔のことで、俺を見る目が何か切な そうというか、色々言いたいことはあるけど黙っておく、みたいな ニュアンスを感じる。 ﹁アレッタちゃん、これって修羅場的ななにか? ヒロトちゃん、 ああいうことって何したの?﹂ ﹁え、ええと⋮⋮女の子の大切なものを受け取ったり、男の子の大 切なものを捧げたりはしていないと思いたいんですけど⋮⋮ヒロト ちゃんはそういうことで嘘はつかないと信じてますし﹂ ﹁ま、まあアレッタさんの言うとおりだけど、俺もそういうことば かり考えてるわけじゃないから。大きくなったからといって、あま り身構えないでくれると嬉しいな﹂ スキルの授受に関しては、邪念を消してするものだ︱︱互いの信 頼関係を築く行為でもある。なので、ユィシアにはどうか怒らない でほしいのだが、まだ不穏なオーラが消えなくて、俺はちょっと泣 きそうだった。 ﹁まあ、ああいうことっていうと、私もいつでもしたい気持ちでい っぱいなんだけど⋮⋮ヒロトちゃん、また近いうちに仲良くしよう ね﹂ ﹁わ、私もそう思っていますけれど、小さい子の居る前では自重し てください。教育に悪いですよ﹂ ︱︱ちょっとお待ちいただきたい。考える時間が欲しい。 冷静に、冷静に。取り乱すな、慌てれば慌てるほど俺の立場は悪 くなる︱︱交渉はクールに、だ。 1283 ︵⋮⋮でも小さい子って、考えられるのは⋮⋮︶ 俺は恐る恐る周囲を見回す。すると、ユィシアの後ろから、顔を 真っ赤にしたリオナとミルテがぴょこっと顔を出した。 ︵ま、まさか⋮⋮いや落ち着け、そんなわけがない。ユィシアに連 れてこられたとしても、俺が何をしてたかは、さすがに見てないは ず⋮⋮!︶ 今となっては見下ろすくらいの身長差になった二人に対して、俺 は出来るだけ自然に微笑みかけた︱︱が、しかし。 ﹁⋮⋮ひ、ヒロちゃん、またさわってたの?﹂ ﹁⋮⋮な、何のことだ?﹂ ﹁えっ⋮⋮リオナちゃん、どこから見てたの?﹂ ﹁や、やっぱり、そういった意味で仲良くしていたんですね⋮⋮ヒ ロトちゃん、大きくなっても好きなんですね﹂ ︵好きなんだけど、改めて言われると恥ずかしすぎる⋮⋮くっ、マ ールさんたちはなんで俺たちがいるところに気づいたんだ。勘で探 し当てたとでもいうのか︶ ﹁私は気にしない。もし気づいても、見なかったふりをする﹂ ︵やっぱりユィシアの機嫌を損ねてる⋮⋮ど、どうすれば⋮⋮!︶ そしてユィシアだけでなく、ミルテも俺に何か言いたげにしてい る。 ﹁⋮⋮ヒロト、ずっと言ってなかったけど、わたし、おばば様とヒ 1284 ロトのことも見てた。窓の隙間から﹂ ︵や、やはりそうか⋮⋮しかしこのタイミングで言われると、俺は もうどうしていいのか⋮⋮︶ 確か四歳の頃だから、四年以上も、ミルテは俺とおばば様の交流 を見てきた可能性がある。見られてる可能性があると気付いていた のに、精霊魔術スキルをもらい続けていた俺も俺だが。 ﹁ヒロトちゃん⋮⋮そんなに守備範囲が広かったんだ。アレッタち ゃん、焦ることなくてよかったね∼﹂ ﹁や、やめてください。いえ、かなり年上でも良いと言ってもらえ れば、それは凄く嬉しいですけど⋮⋮みんなが居るところでそうい う話は、恥ずかしいです﹂ ﹁⋮⋮あとで、一人一人との面談の時間をとるべき。それが一番公 平な方法﹂ ﹁面談か⋮⋮わかった、みんなが時間をくれるなら、一人ひとりと 話したいな。俺の意識が戻る前に、色々心配かけたことも謝りたい し﹂ だんだんと外堀が埋められている感があるが、もう腹をくくるべ きなのだろう。 一人ひとりと話して、大きくなってから俺はこれまで通りでいい のか、それとも変わるべきなのか。そういうことをしっかり話して おかないといけない。 ﹁めんだん? めんだんってなに?﹂ ﹁例えばだけど、俺とリオナが二人で話すってことだよ。俺に、色 々言いたいこととかあったら、遠慮なく言ってくれ。基本的には、 何でも聞くからさ﹂ 1285 ﹁⋮⋮ヒロちゃん﹂ リオナは誰かに整えてもらったのか、髪の両サイドを結んでおさ げにしている。そのうち一つの房をいじりながら、彼女は潤んだ目 で俺を見上げながら︱︱って、こ、これじゃ、まるで⋮⋮。 ﹁⋮⋮ミコトさんのお胸にしたみたいに、リオナにもして?﹂ まるで、もっと年上の女の人みたいな仕草じゃないか。そう思っ た時には、決定的な言葉は、既にリオナの口から出てしまっていた。 まだ八歳の幼なじみが、というか俺にとっては物凄く遠い存在だ った彼女が、今の段階で既に、何というかそこまで心と身体をオー プンしてくれているとか、罪深いというか、懺悔したいというか、 でもちょっと嬉しいみたいな、とりあえず今すぐ俺の頭上に金ダラ イを落としてほしい。無性に罰せられたくて仕方がない。 ﹁り、りりリオナちゃん、そんなちっちゃいのに、ミコトちゃんと 張り合っちゃうなんて⋮⋮しゅ、しゅごい⋮⋮﹂ ﹁ままマールさん、なな何をうろたえてるんですか、わわ私たちは 大人として、小さな子をちゃんと教え諭してあげてですねっ、ああ っ、ヒロトちゃん、なに頭を抱えてるんですか! 小さい子が少し 間違えたことを言ったからといって、悶えないでください!﹂ ﹁⋮⋮間違えてないよ? 私、ヒロちゃんともっと仲良くしたい。 ミコトさんや、お母さんみたいにしたい﹂ ︵サラサさんのことを今言うのか⋮⋮俺をどこまで追い詰めるんだ ⋮⋮!︶ サラサさんからは、三人で寝たあの日からスキルをもらったりは 1286 していない。奴隷の首輪をつけていたサラサさんを身請けしたあと、 彼女は名目上は俺の奴隷ということになっている︱︱でも、そんな 扱いをする気は、初めからなかった。しかし、俺とサラサさんの関 係は、やはり今までとは変わってしまった。亀裂があるというわけ じゃないが、どうしても意識して、落ち着いて話すことができてい ない。 ﹃⋮⋮この首輪を外すのは⋮⋮ハインツではなくてはならないんで す。あの人は⋮⋮私を奴隷から解放するまでは、何も⋮⋮﹄ 俺が大きくなったら、サラサさんを怯えさせないだろうか。彼女 がいかに優しいといっても、子供の頃と同じ関係は続けられないだ ろう。サラサさんは、夫だとしているハインツさんと男女の関係が なくても、彼に操を立てているのだから。 ﹁ヒロトちゃん、リオナちゃんのお母さんとも⋮⋮もしかしてミゼ ールのお母さんたちは、みんなヒロトちゃん大好き仲間だったりし ない?﹂ ﹁み、みんなではないと思います。ほとんどかもしれませんが、ヒ ロトちゃんの交流関係にも限りがありますし⋮⋮﹂ ミゼールで俺と知り合った女性のほとんどは、スキルをくれる関 係だ︱︱とはとても言えない。いずれ露見するとしても、今はまだ 伏せておきたい。 今向き合うべきは、幼なじみ二人の気持ちだ。ふたりとも、俺が はぐらかし続けているので、涙目になってしまっている。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん、やっぱり私じゃいやなの? 大人の女の人じゃ なきゃだめなの⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮ヒロトの意地悪。もう、一緒に遊ばない﹂ 1287 ﹁うっ⋮⋮ふ、二人とも、そんなに怒らなくても⋮⋮﹂ 今となっては、二人と遊ぶといっても今までと同じことは出来な いだろうが、遊ばないなんて言われるとそれは寂しい。 身体の通りに八歳の考え方をする部分も俺にはあって、二人やス テラ、アッシュ、ディーンと遊ぶとき、俺は子供なりの楽しみを感 じられていた。 しかしこれからは、そうもいかないのか。成長したことを喜んで いた側面が大きかった俺だが、今更に、これで良かったのかという 思いが湧く。 そんな俺を見てユィシアはふっと笑うと、リオナとミルテの傍ら にやってきてしゃがみこんだ。 ﹁ヒロト様は⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうなの? ヒロちゃん、おっきくなったら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮どれくらい⋮⋮うん、わかった。それなら⋮⋮﹂ 何を話してるんだろう⋮⋮三人の会話が、断片的にしか聞こえて こない。 静かに見守っていると、リオナとミルテがちら、と俺の方を見る。 そして頬を染めて、ぷい、とまた視線を逸らしてしまった。 ﹁ど、どうしたんだ?﹂ ︵⋮⋮二人に、大きくなるまで待っていれば、ヒロト様はちゃんと してくれると言っておいた︶ ユィシアはこちらを見やり、リオナとミルテの頭を撫でながら、 1288 俺に念話で教えてくれる。あたかもそれが、何でもないことみたい に。 ︵そうか、それは⋮⋮いや、良くないだろ。そんな、予約してるみ たいな⋮⋮︶ ︵ヒロト様が予約したのではなく、二人の方からヒロト様にことづ けた。それなら、何も悪くはない︶ ︵わ、悪くないとかそういうことじゃなくて⋮⋮︶ リオナもミルテも、それでいいのか。大きくなったら、そんなこ とを言ったことを後悔したりしないのか。 ︱︱そんな俺の思いと裏腹に、リオナとミルテが二人一緒に微笑 む。やがて訪れる未来に、俺とすることを期待してくれているかの ように。 ﹁ヒロちゃん、私もう怒ってないよ。おっきくなるまで待っててね﹂ ﹁私はリオナより早く大きくなる。今でも少しだけ、身長が大きい﹂ ﹁そんなことないよ? リオナの方がちょっと大きいもん。マール さんもそう言ってたもん﹂ ﹁ほんのちょっとだけリオナちゃんがおっきいかな? 抱っこする と変わらないんだけどね﹂ ﹁⋮⋮すぐに追いこす。いっぱいご飯を食べて、いっぱい遊ぶ﹂ ﹁そうですね、それが一番大きくなるための近道です。二人の将来 が楽しみですね、ヒロトちゃん﹂ アレッタさんが上手くまとめてくれたけれど、二人が俺を見る目 が今までと何となく変わってしまった感じがして、何とも照れると いうか、何というかだ。 1289 陽菜もかなり発育が良くて、クラスの男子に騒がれることがあっ たくらいだから、転生後もそうなることは想像に難くない。ミルテ もネリスおばば様や、母親であるシスカさんのことを踏まえると、 今はぺたんこでもどこかの段階で発育が始まるのではないかと考え られる。 ︵⋮⋮って、期待しすぎだろ、俺。生涯通して授乳してもらうつも りか︶ 自分を律していると、リオナとミルテがこちらにやってくる。さ っきまで対抗意識を燃やしていたのに、今は仲良く手を繋いでいた。 ちょっとうらやましいくらいの仲の良さだ。 ﹁ヒロちゃん、おまつり楽しみだね。フィリアネスお姉ちゃんが言 ってたけど、すごく見やすいところで見せてもらえるんだよ﹂ ﹁⋮⋮ステラ姉とみんなで、一緒に見る。ヒロトが起きてくれてよ かった﹂ ﹁ああ、二人とも心配かけたな。その⋮⋮約束のことも、俺はちゃ んと覚えてるから。二人が大きくなっても嫌じゃなかったら、その ⋮⋮﹂ 結構本気で恥ずかしくて、うまく言葉が出てこない。そんな俺を 見て、リオナとミルテは嬉しそうに笑った。 ﹁ヒロちゃん、背はおっきくなったけど、元のヒロちゃんとおんな じだね﹂ ﹁うん。おっきくなったら大人になっちゃうかと思ったから、よか った﹂ ﹁そんなこと心配してたのか⋮⋮まあ、身体が大きくなったから、 1290 子供っぽいことは言ってられないけどな。遠慮せずに、今までみた く付き合ってくれ﹂ ﹁つ、付き合う⋮⋮ヒロトちゃん、それ私にも言ってみて?﹂ ﹁俺と付き合えよ、って一度は言ってもらいたいですよね⋮⋮ええ、 そういう意味ではないのは分かっていますけど﹂ そういう意味じゃないなんてこともなく。 俺はそろそろ本気で考え始めていることがあった。前世では、絶 対に出来なかったようなことが、この世界では可能なのだから。 ︱︱ひとりだけの相手を選んで、他の皆と離れていくんじゃない。 皆一緒に居られる、それが俺の描く理想形だから。 パーティ上限の百人が、全員奥さんで埋まるくらいの勢いで︱︱ とまでは言わないが。アッシュとディーンだっているし、これから も性別を問わず仲間は増やしていきたい。﹃天国への階段﹄がそう だったように。 ﹁マールさん、アレッタさん。俺、ちゃんと責任取るから。何も心 配しなくていい﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、それって⋮⋮あっ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃん⋮⋮﹂ 俺は二人にお礼の意味を込めて、順番に抱擁をした。マールさん はやっぱり女の人にしては大きいけど、俺ももう負けてはいない。 すっぽりと腕で包み込んであげられる。 小柄で華奢なアレッタさんとなれば、抱きしめると壊れてしまい そうなくらいで、俺は出来るだけ優しくすることを心がける。 ﹁⋮⋮ヒロト様、私も⋮⋮﹂ 1291 それを見ていたユィシアも進み出てくる。戦えば絶対的な力を発 揮する彼女も、抱きしめた感触は、一人の女の子であることに変わ りなかった。柔らかくて、ふわりといい匂いがする。 ﹁⋮⋮ヒロちゃん﹂ ﹁私たちも⋮⋮ちょっとだけ﹂ ﹁ああ。ユィシア、いいか?﹂ ﹁⋮⋮後でもう一度してほしい﹂ ユィシアがおねだりをするなら、俺も喜んでそれに応えたいと思 う。マールさんとアレッタさんも、まだ足りないって顔で俺を見て いる。リオナとミルテもそうだ。 俺は膝をついて身をかがめ、二人を一緒に抱きしめる。起き抜け の時もそうしたけど、二人の小さな身体は暖かく、抱いているとす ごく気分が落ち着く。 ﹁ヒロちゃん、あったかい⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ずっと、こうしてたい﹂ ミルテの気持ちも、リオナや皆に負けないくらい強いものだと感 じられる。どうしてそこまで俺を想ってくれるのか、﹃面談﹄をす るとしたら、聞いてみてもいいんだろうか。それとも、もっと違う 機会を待つべきだろうか。 考えているうちに、鐘つき塔に続く階段を上がってくる人の姿を 見つける。ウェンディ、名無しさん、そしてスーさんだ。 ﹁お師匠様ーっ、ミコトさんは見つかったでありますかーっ?﹂ 1292 ﹁ああ、ちゃんと見つかった! 今は外してるけど、もう大丈夫だ から!﹂ 返事をするだけで、ウェンディがものすごい反応をする。大きく なった俺を見て、感激してくれているんだろうか。 隣にいるスーさんと名無しさんの物腰は、いつものように静かだ った︱︱しかし。 俺にはどうしてか、名無しさんの様子に、少しだけ違和感を感じ た。 俺の前までやってきた彼女の、仮面から覗く口元は、優しく微笑 んでいる。けれどその仮面の下の顔が、本当に笑っているのかどう か、今だけは確証が持てなかった。 1293 第三十八話 前編 未来の約束︵後書き︶ ※ 次回は深夜2:00までに更新いたします、申し訳ありません。 1294 第三十八話 後編 仮面の向こう 俺たちは塔を離れて、首都の中央をつらぬく大通りに出た。 先ほどよりも行き来する人の数が増している。彼らの服装などは ばらばらで、ジュネガン公国の全土から人が集まってきているのだ と分かる。 俺ははぐれないように、リオナとミルテとは手を繋いで行くこと にした。小さい二人をかばうように、スルスルと雑踏をすり抜けて いく︱︱ゲーム時代も俺は人をかわすのが上手かったが、それを再 現することになるとは思わなかった。 ﹁すっごくいっぱい人がいる⋮⋮みんな、おまつりだから来たんだ ね﹂ ﹁うん。こういうときは、悪い人もいたりするから、気をつけなさ いっておばば様が言ってた﹂ ﹁二人とも、俺の手を離さないようにな﹂ ﹁﹁はーい﹂﹂ 何だか子守りでもしてる気分になる。さっきまで二人に迫られて タジタジになってしまったが、こういう関係性こそが自然だろう。 もう、二人が焼き餅を焼いて大胆なことを言い出すことはない︱︱ と思いたい。 名無しさんの様子がいつもと違うように感じて、気になってはい る。俺が急に大きくなって、警戒してるとか︱︱そんなことは無い と思いたいが、子供の俺は良くても、大きくなると男性的な感じが して嫌だとか、そういう可能性は否めない。 1295 名無しさんはウェンディと一緒に、俺たちより少し先を歩いてい る。彼女も、人混みをものともせず、まるで障害など無いかのよう にすり抜けていく。ウェンディの方が引っかかってしまったりして、 名無しさんに手を引いて助けてもらっていた。 ︵⋮⋮ヒロトさま、私は空から見守る。祝祭が終わったら、宿に戻 る︶ ︵ああ、よろしく頼む。無いとは思うが、またリリムが戻ってこな いとも限らないからな⋮⋮︶ ︵それは大丈夫だと思う。リリムは公爵の屋敷までは来られても、 王宮には直接近づけない理由があるようだった︶ 王宮に近づけない︱︱それはなぜだろう。魔王を寄せ付けないた めの結界でも張られてるっていうんだろうか。 そのために、グールドを手駒として攻めようとしていたというこ となのか。推論はいくらでもできるが、今はそれを確かめる手段が ないので、保留にしておくしかなさそうだ。 ◇◆◇ 今の時間は、大通りは人で埋め尽くされていたが、一時間後には ルシエの一行がお披露目のために通ることになるため、公王直属の 軍によって通行規制が敷かれるらしい。 首都の中心を貫く大通りを、王女と近衛兵、貴族たちによって構 成された一行が端から端まで往復し、そして王宮の前庭に戻ってき 1296 て、ルシエが王族として認められたこと、王位継承権を与えられた ことについて、集まった国民に対して挨拶をするとのことだった。 ジュネガン公国の百万の臣民に対して挨拶をする。それがどれほ ど勇気が必要なことかと思うと、挨拶に出る前のルシエに声をかけ てあげたいという思いが湧く。 王宮へと続く道を案内してくれているスーさんが、そんな俺の様 子に気付いて声をかけてきた。 ﹁坊っちゃん⋮⋮とお呼びして良いのか、今のお姿を見ると迷うと ころではありますが。やはり私にとって、坊っちゃんは坊っちゃん だという思いがございます﹂ ﹁ああ、スーさんが好きなようにして構わないよ。でも、驚いたよ な⋮⋮戻ってきたらこんなになってて﹂ ﹁はい⋮⋮少しだけ。ですが、無事に戻られたことが何よりの喜び でした。同時に、坊っちゃんについていながら、怪我をさせた聖騎 士殿に食ってかかってしまいましたが⋮⋮そのことは、今では私が 間違っていたと理解しております。申し訳ありません、坊っちゃん﹂ スーさんが立ち止まって頭を下げようとする。先を行くみんなも 気にしていたが、俺は大丈夫だというように笑って、スーさんの肩 に手を置き、そんな必要はないと伝えた。 ﹁俺のことを心配してくれたんだから、謝ることないよ。俺からも、 フィリアネスさんには謝っておくから﹂ ﹁⋮⋮はい。申し訳ございません、私の方が子供のようなことを言 って﹂ スーさんは俺と初めて会った当時は十六歳︱︱つまり、今は二十 1297 三歳だ。そんな彼女も、今の俺からすると、一人の弱いところのあ る女性だと思える。 フィリアネスさんに食ってかかってしまった彼女の気持ちを思う と、俺は申し訳ないと思うと同時に、胸に熱いものがこみ上げてく る。 本気で自分の命を心配されるような状況は何度も繰り返してはい けないと分かっているが︱︱そんな時だからこそ、確かめられる想 いがある。 ﹁パメラさんも坊っちゃんたちのことを心配していましたから、坊 っちゃんが宿に運び込まれたあと、私と一緒にお見舞いに来たので すが⋮⋮坊っちゃんのお知り合いが看病される姿を見て、帰ってい かれました。ここまでしたら、どんな大怪我してても元気になるだ ろうから、とおっしゃって﹂ ﹁一体どうやって看病されてたのか、まだちょっとしか聞いてない んだけど⋮⋮スーさんは見てたのか?﹂ スーさんは耳にかかる黒髪をかきあげ、メイドのトレードマーク であるホワイトブリムの位置を直してから、ほんのりと頬を赤らめ、 言いにくそうに教えてくれた。 ﹁⋮⋮見ていたというか、参加もさせていただきました。ごく短い 時間ではございますが、私も坊っちゃんにゆかりのある人間でござ いますから、居ても立ってもいられず⋮⋮﹂ ﹁さ、参加って⋮⋮え、えーと、その、服を脱いで云々っていうや つに⋮⋮?﹂ ﹁は、はい。僭越ながら⋮⋮三十分ほどでしょうか。寄り添って、 身体を温めさせていただきました。坊っちゃんはとても苦しそうで、 沢山汗をかいておられて、その次には身体が急速に冷えたり、熱く なったりを繰り返していたのです。私や他の皆さんは、とても黙っ 1298 て見ていることができず⋮⋮あの、銀色の髪の方は、﹃絶対に治る から﹄とおっしゃっていたのですが⋮⋮﹂ ユィシアからエリクシールの効果について説明を受けてなお、み んな身体を張って看病をしてくれたのか。 それは想像を絶する光景だったのかもしれないが、ひたすら感謝 しかない。邪念など感じてはいけない、みんな俺を助けるために必 死だったのだから。それにしても裸で添い寝って大胆すぎやしない か⋮⋮いや、感謝だ。今の俺には、感謝することしか許されていな いのだ。 ﹁それは、一人ひとりお礼を言わないとな⋮⋮スーさんは、どんな お礼がいい?﹂ ﹁お、お礼でございますか? いえ、私はそのような、見返りを求 めてしたのではありません。あくまでも、奥様と旦那様への恩義も ございますし、坊っちゃんとも、力比べをする約束をしておりまし たし⋮⋮そ、そうです、私は約束を果たしたかったのです。私の我 がままなのですから、何も気にされることはございません﹂ こうやって、人が饒舌になるのがどんな時か。色々な場合はある と思うけど⋮⋮どうやらスーさんは、恥ずかしがっているみたいだ。 こういう時に、彼女が言う通りに何もお礼をしなかったら、それ はそれで一つの答えなのだろう。しかし今の俺には、そうすること は正しくないと思える。 コミュ障のままだったら、﹁お礼なんてしなくていいならそれに 越したことないな、面倒だし﹂とか考えていたところだろう。だが 俺は、ゲームの中だけは、理想の自分を演じるように、みんなに﹁ そこまでしなくてもいいのに﹂と言われるほどマメにするように努 めていた。 1299 お礼をしなくていいと言われても、その人が喜ぶことを見つけて 必ずお礼をする。それこそ、見返りが欲しいわけじゃなく、喜んで もらえる顔が見たいからだ。もうそれはお礼ですらないのだが、そ れでいい。 ﹁分かったよ、スーさん。でも、本当にありがとう﹂ ﹁⋮⋮お礼を言われることではないのです、と申し上げているでは ないですか。坊っちゃんったら﹂ スーさんはそう言いながらも微笑んでくれた。彼女にしては珍し く、俺の肩を控えめに押すなんていうこともしながら。 ﹁⋮⋮あっ。も、申し訳ありません坊っちゃん。皆さんと一緒だと いうのに⋮⋮﹂ 気が付くと、先を歩いていたマールさんとアレッタさんが、俺た ちの様子をじーっと見ていた。俺と目が合うと、マールさんは長い おさげをいじりつつ、裏表のなさそうな笑顔を見せる。 ﹁なんでもなーい。ちょっと隙があるとヒロトちゃんってすぐ他の 女の子といちゃいちゃするよね、って思ってたの﹂ ﹁全然なんでもあるじゃないですか⋮⋮ヒロトちゃん、気にしなく ても大丈夫ですよ、私たちは見守っていようってことにして、心お だやかに見ていましたから﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮やっぱり、皆が居るときはしっかりけじめをつけ るべきだよな。気をつけるよ﹂ 本気で反省する俺だが、マールさんと一緒に歩いていたリオナと ミルテがとてて、と走ってくる。何を言うのかと思えば︱︱。 1300 ﹁ヒロちゃんとスーお姉ちゃんも仲良しだけど、私とミルテちゃん は、もっと仲良しだよね﹂ ﹁⋮⋮ヒロトにお薬を飲ませたのは、私と、リオナと、フィリアネ スさん。あと、ユィシア﹂ ﹁薬って⋮⋮そ、そうか。エリクシールを飲ませてくれたのか⋮⋮ 俺、ほとんど意識なかったと思うけど、どうやって飲ませたんだ?﹂ ﹁それはねえ⋮⋮え、えっとねえ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮秘密。フィリアネスさんも、そうするように言ってた﹂ リオナとミルテが顔を見合わせて、視線だけで相談してから言う。 聖騎士の人もって⋮⋮そんな、フィリアネスさんが内緒にしたくな るほどエキセントリックな方法で飲ませてくれたというのか。 ﹁き、気になるな⋮⋮どうしても秘密なのか?﹂ ﹁うん、あとでフィリアネスお姉ちゃんにきいて。ね、ミルテちゃ ん﹂ ﹁⋮⋮恥ずかしい﹂ いつも寡黙なミルテが、耳まで真っ赤になっている。そこまでの ことをしたのか⋮⋮いや、裸で添い寝をする以上のことなんて、早 々ない気がするけど。 そうだ、すぐ後ろをついてきているウェンディたちに聞いてみよ う︱︱と思って振り返ると、ウェンディと一緒に歩いていた名無し さんが、目に見えて反応した。 ﹁っ⋮⋮ど、どうしたんだい? ヒロト君﹂ ﹁お師匠様、すごく皆に慕われていて、弟子として誇らしいのであ ります! と思って見てたのでありますよ。あっ、私と名無しさん 1301 のかっこうはどうですか? 今日は冒険者の装備は置いてきて、町 で買った服に着替えたのであります!﹂ いつもポニーテールにしているウェンディだが、今日は髪をおろ して、ブラウスとスカートを身につけている。異世界の服なので仕 立てなどがファンタジー風味ではあるが。 名無しさんもそうで、いつもの制服みたいな装備と違って、今日 は私服を着ている。祝い事だからか、いつもの彼女のシックな感じ と違い、ゆったりとしたシルエットの服の上からショールを羽織っ ていて、そのままパーティにでも出られそうな格好をしている。日 差しの強さはどうやら、法術で緩和しているようだ。 しかし、それでも仮面は外さない。こうして太陽の下で見ると、 黒だと思っていた彼女の髪色は少し青みがかっていて、背中の辺り まで長く伸ばされている。 ﹁二人とも、そういう服は新鮮だな⋮⋮その服、町で買ったのか? すごく似合ってるよ﹂ ﹁本当でありますか? 嬉しいです、お師匠様っ⋮⋮あっ⋮⋮﹂ ウェンディは感激して俺の腕に抱きつこうとして、触れる前に何 かに気付いたように顔を赤らめた。 ﹁うう⋮⋮お師匠様がお小さいときは、遠慮なく抱き上げられたの でありますがっ、わ、私より大きくなってしまわれると、触れるな んて恐れ多くなってしまいますね⋮⋮っ﹂ ﹁い、いや⋮⋮まあ、抱きつくのはちょっと大胆だけどな。触るく らいは、遠慮しなくていいよ﹂ ﹁⋮⋮で、では⋮⋮っ、ぜひ触れさせてください、なのであります 1302 ⋮⋮え、えいっ!﹂ ウェンディはちょこん、と俺の肘をつつく。俺は全然気にしなく ていい、というように、彼女に微笑みかけた。 ﹁ほら、なんてことないだろ? 遠慮しないでくれ、これからも同 じパーティの仲間なんだから﹂ ﹁は、はい⋮⋮私、この手はしばらく洗いたくないのであります。 何だか、記念という感じがするのであります⋮⋮!﹂ そこまで感激してくれるなら、改めてよろしくという意味で握手 なんてしたらどうなってしまうのだろう。いや、あまり調子に乗っ てチャラい感じになってはいけないな。 ﹁⋮⋮ウェンディ、良かったじゃないか。ヒロト君が、今までと変 わりなくて﹂ ﹁はいっ! 名無しさんも、ご遠慮なくどうぞ!﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや。私は⋮⋮いや、小生は、特に理由もなく触れる のは、失礼だと思うからね。ヒロト君、そうだろう?﹂ ﹁あ、あの、名無しさん。もしかして、俺が急に大きくなったから、 何か気にしてるんじゃないか? それだったら俺、言ってもらった ほうが⋮⋮﹂ ︵あれ⋮⋮今、﹃私﹄って言ったよな。ものすごく久しぶりに聞く 気がする︶ なぜ、彼女が動揺していて、口調が乱れてしまったのか。俺はそ の理由を何とかして察しようとして︱︱そして、ひとつ、今まで失 念していたことを思い出す。﹁ささやきの貝殻﹂を介して、名無し さんが俺に教えてくれた内容だ。 1303 ﹁そういえば⋮⋮名無しさん、ささやきの貝殻で俺に伝えてくれた ことだけど。この国に最近入国してきて、強者を見つけると手当た りしだいに挑んでる人がいるって⋮⋮多分、それは⋮⋮﹂ ミコトさんのことだと思う。そう言う前に、名無しさんは手を上 げて制した。 ﹁⋮⋮分かっている。それは、小生も把握しているよ。だから、ま だ続きは言わないでほしい﹂ ﹁⋮⋮名無しさん﹂ ﹁もう少しすれば、話さずにいることは出来なくなる。だから⋮⋮ 小生がもしいつもと違って見えるとしたら。それはただ、緊張して いるだけなんだよ。だから、あまり心配しないで欲しい﹂ 名無しさんは努めて冷静に話そうとしているけれど、声が少しか すれている。その細い肩だって、何かを怖がっているかのように、 かすかに震えていた。 何に対して緊張しているのか。ミコトさんのことが、名無しさん にどう関係しているのか︱︱。 それを考えたとき、俺は、薄々と答えに辿り着かずには居られな かった。 名無しさんと出会ったばかりのとき、ありえない可能性だと打ち 消したこと。 それは俺が、前世でのギルドメンバーだった﹁麻呂眉﹂さんを男 だと思っていたから。 そんな俺を彼は一度も咎めはしなかったし、男として扱われても 否定しなかった︱︱けれど、その﹁彼﹂が、﹁彼﹂ではなかったの 1304 だとしたら。 ︵もし⋮⋮この言葉に、彼女が反応したら。それは⋮⋮いや、でも ⋮⋮︶ もう、うろ覚えになりつつある。けれど、転生して8年が過ぎて もなお、麻呂眉さんの言葉は俺の記憶に残っている。 そのうちのひとつ⋮⋮スーさんが装備している﹁ギルド娘装備﹂ に対して、麻呂眉さんが言ったこと。 声が震えそうになる。それでも俺は勇気を振り絞って、その言葉 を口にした。 ﹁⋮⋮ギルド娘装備は、ロマンだ。俺が尊敬してるある人が、そん なことを言ってた﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ もう、歩きながら話すことはできなかった。名無しさんも俺も、 立ち止まっていた。 ﹁⋮⋮? お師匠様、何のことでありますか?﹂ ウェンディが疑問に思うのも分かる。俺と、前世を知る人にしか 分からないことなのだから。 名無しさんの震えていた唇が、すっと一文字に引き結ばれる。怒 っているのかとも、一瞬思った︱︱だけど、違った。 彼女は、微笑んでくれた。その艶やかな唇が動いて、答えを紡ぐ。 1305 ﹁⋮⋮もう少し、心の準備をさせて欲しかったのに。ジークリッド ⋮⋮君って人は、本当にときどき、意地が悪い﹂ ︱︱やっぱり、そうなのか。 どうして、何も言ってくれなかったんだ。何も言わずに、俺の傍 にいてくれたんだ。 他のパーティに入って、あんな無茶をして。危ない目に遭って⋮ ⋮それでも、何も言わないで。 ﹁⋮⋮どうして、って聞くのは後にした方がいいのかな﹂ ﹁ああ⋮⋮そうしてもらえると助かる。一つ言っておくと、私は元 から男っぽい口調なんだよ。﹃小生﹄という自称だけは、素性を隠 すためのフェイクだったんだ。長い間、黙っていてすまなかった﹂ すまないなんてことはない。前世で俺とエターナル・マギアをや っていたとき、男だということにしていたのは、理由があってのこ とだろうから。 ﹁名無しさん⋮⋮お師匠様との間に、何かなみなみならぬご事情が ⋮⋮?﹂ ﹁うん。でも、それはウェンディは知らない方が良いことだ。悪い 意味で秘密にしたいわけじゃない、私とヒロト君のことについては、 大事な人にほど言えないことがあるんだ⋮⋮分かってもらえるだろ うか﹂ ウェンディはまだ驚いていて、俺と名無しさんの顔を交互に見や る。 しかし彼女はふるふると頭を振ると、ふぅー、と長く息をつき︱ ︱その後には、少しだけ落ち着きを取り戻していた。 1306 ﹁正直なところを言うと、びっくりしてるのであります⋮⋮でも、 人には歴史ありなのであります。全部を知らなくても、私にとって 名無しさんが大切な仲間だというのは、変わりないのであります!﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。ウェンディは、本当にいい子だね。さすが、ギ ルマスが見初めた子だ﹂ ︵おわっ⋮⋮な、何を言い出すんだ。とも言いづらいぞ、名無しさ んの雰囲気が柔らかすぎて︶ ウェンディは名無しさんの言葉に思い切り反応して、何やら意味 もなく周囲を見回している。落ち着きの無さが限界突破している⋮ ⋮そんなスキルは存在しないが。 ﹁み、みそめただなんて、そ、そんなっ、私の方こそ、お師匠様に 初めて会った時から、今みたいに立派な方になられるだろうなと、 将来性を感じていたのでありますっ⋮⋮あっ、現金でありますよね、 そんなっ﹂ ﹁そんなこと考えてたのか⋮⋮ははは。俺も、ウェンディは育てれ ば伸びると思ってたよ。色んな意味で﹂ ﹁はぁぁっ⋮⋮そ、そんな、色んな意味でだなんて、私、こちらの 方は最近成長が悪いというか、あまりお師匠様にかまってもらえて ないのでっ⋮⋮な、何言ってるんでしょう私、少し頭を冷やしてき まーすっ!﹂ 体育会系にもほどがあるウェンディは、よそゆきの格好にも関わ らず、スカートの裾を押さえて走っていった。 それでもそこそこ見えてしまう健康的な脚線美に感嘆していると、 つん、と名無しさん︱︱もとい、麻呂眉さんにつつかれる。 1307 ﹁みんな待っているから、これ以上は後にしよう。ステラちゃんと 男の子たちは、先に王宮に行って待っているよ。パドゥール商会の つてで、観覧席の招待券を持っているからね﹂ ﹁おっと⋮⋮そうだ、三人のことをすっかり⋮⋮俺、薄情だったな﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ギルマスのことだから、後で一人ひとりとまた話すん だろう? それならば薄情とは言わないよ。多くのメンバーと行動 するときは、やはり補佐するために片腕になる人物は必要だね。私 よりも、聖騎士殿やミコトが良いのかなとは思うけれど﹂ ミコトさんが俺の右腕なら、麻呂眉さんは左腕だ︱︱と考えて、 俺はふと気がつく。 ﹁そういえば⋮⋮ミコトさんは本名と同じだったけど、麻呂眉さん は⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮それは、仮面が取れた時に教えることにしよう。隠者の仮面 を外す方法は、すでに見つけられている。それについても、祝祭が 終わった後に話させて欲しい﹂ ﹁ああ、分かった。最後に一つ⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮?﹂ 大事なことを、まだ伝えられていない。名無しさんの正体が分か った時から、ずっと思っていたこと。 ﹁もう一度会えて嬉しいよ、麻呂眉さん。普通だったら、二度と会 えないもんな﹂ ﹁⋮⋮本当に、君は⋮⋮そんなことを、恥ずかしげもなく言えるな んて。大したものだよ﹂ そう答えた彼女は微笑んでいて︱︱けれど、仮面の下に、しずく が伝っていく。 1308 泣いている彼女に対して、俺がしてあげられることは⋮⋮でもそ れは、今はまだ、許されていないことだ。 ﹁その仮面を取るためなら、俺は何でも協力する。また、前みたい に一緒に冒険してもいいかな﹂ ﹁今さら尋ねるまでもない。私がどうしてこの世界を選んだのか、 分からないわけじゃないだろう⋮⋮? 君と、まだ夢を見ていたか ったからだよ﹂ ﹁ははは⋮⋮それは、麻呂眉さんが男だと思ってた頃に聞いたら、 ちょっと身の危険を感じるセリフだな﹂ ﹁違いない。だからこそ私は、君を驚かせたくて、あえて言ったか もしれない⋮⋮なんてね﹂ でも、麻呂眉さんは女性だ︱︱それを、俺はこれ以上なく確かめ ている。法術スキルを与えてもらうために、何度もしてきたことで。 かつて仲間だったミコトさんに続いて、麻呂眉さんにまで。二人 がこっちに来てること自体が、奇跡というか、普通に考えてありえ ないことなのに⋮⋮また、﹃天国の階段﹄のトップ3が揃ってしま った。 麻呂眉さんは最後に、俺の肩に手を置くと、耳元でこんな囁きを 残していった。 ﹁ギルドの副リーダーに、これで二人とも手を出してしまったわけ だね⋮⋮それって、リア充とか、肉食系って言うんじゃないのかな ?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮っ﹂ 皆の前では、まだ名無しさんと呼ばないといけない︱︱とか考え 1309 てるうちに、彼女は先に歩いていって、マールさんたちの隣を歩き 始めた。まるで、女子グループで仲良くするから、ギルマスは今は 一人で歩いているといい、と言わんばかりに。 ︵前世だったら、俺と麻呂眉さんは男子グループだったのにな⋮⋮ まさか、中の人が女性だったとは⋮⋮︶ 中の人の性別が違うことは往々にしてあることだが、麻呂眉さん の発言は完全に男性だと思っていたので、チャットの文章だけでは 分からないものだなと痛感する。 他のメンバーが知っていたのかどうかは分からないが、もし誰も 知らなかったら、俺はここに来て、みんなの中で初めて知ったとい うわけだ。転生し、八年が過ぎてようやく。 ︱︱いや、俺が初めてでは多分ない。ミコトさんに対する麻呂眉 さんの反応を見るに、おそらく⋮⋮。 ﹁ヒロトちゃん、走ってこっち来なさい! 置いてっちゃうよ! ぷんぷん!﹂ ﹁あっ⋮⋮ご、ごめんっ!﹂ マールさんが大きな身振り手振りで俺を呼ぶ。慌てて走り出す俺 を見て、みんなが笑っている︱︱なんて照れくささだろう。 そして、人に受け入れてもらうということがこんなにも嬉しいこ となのだと、不意に確かめさせられたりもする。 俺はこみあげてきてるものを皆に悟られないように、走りながら 乱暴に目元を拭った。名無しさんが麻呂眉さんだと分かったことが、 1310 それだけ嬉しかったのだということにしておこう。 1311 第三十八話 後編 仮面の向こう︵後書き︶ ※ 次回は来週水曜日、20:00に更新予定です。 1312 第三十九話 公国の守護騎士 王城の門をくぐるとき、俺たちは衛兵たちの敬礼を受けた。赤、 青、白、黒の四色の鎧を身につけた兵士たちが、全て勢揃いしてい る︱︱どうやらヴィクトリアは表立って離反したわけではなく、グ ールドに協力した黒騎士団員も咎めを受けなかったようだ。後で問 題になるのかもしれないが、俺としては今のところはどちらでもい い。ヴィクトリアは俺たちに協力すると約束してくれたので、特に 悪感情はないし、十分すぎるほどお仕置きもしたのだから。 ジュネガン公国の王城の前庭は、﹃回﹄の字を描くように石造り の回廊で囲まれている。その中央に、演説を行うために使われるの か、円形の舞台がある。あの上に立てば、集まった人々全ての視線 を集めることになる︱︱おそらく、二千人は軽く観覧できるだろう か。大人しく、少し引っ込み思案にも見えたルシエが、どんな演説 をするのか。今から自分のことのように緊張してしまう。 演説の観覧客には料理や酒が振る舞われるようで、城で働く人々 があくせくと動き回っていた。大勢の客に給仕を行うために、侍女 も数が多く、見目麗しい女性たちが額に汗して働いている。中には、 スーさんと同じようなメイド服を着ている女性もいる。城にもメイ ドさんは勤めているようだ。それを見て一番興味をそそられている 様子なのは麻呂眉さんだった。 ﹁ヴィクトリアン・メイドのクラシックなスタイルが、異世界でも 採用されている。ヒロト君、興味深いと思わないかい? メイドと いうものは、どのような文化形態においても、同じ進化を遂げるも のなのかもしれない。服装も含めてね﹂ 1313 ﹁それは確かにな。メイドの仕事の内容が一緒なら、似たような経 緯で発展するってこともあるんじゃないか﹂ 普通に受け答えをしたつもりだが、麻呂眉さんは何やら嬉しそう にしている。仮面から覗いた艶やかな唇︱︱その口角が、ほんの少 し上がっていた。 ﹁成長したことで、口調も子供っぽさが抜けたようだね。私は、そ れが君の自然な姿だと感じるよ﹂ ﹁ま、まあ⋮⋮身体が大きくなっても子供っぽい口調じゃ、その方 が違和感あるしな﹂ ﹁君の寿命が奪われてしまったかもしれない、という危惧はある。 しかし、それもこの世界でならば、解決できない問題ではないだろ う。今は成長したことのメリットを、前向きに捉えていきたいね﹂ ﹁ああ、そのとおりだな。ありがとう、心配してくれて﹂ 饒舌になった麻呂眉さんを見ていると、彼女も色々我慢していた んだなと思う。何だかはしゃいでいるみたいに見えて、こちらまで 嬉しくなってしまった。 ◇◆◇ 回廊の屋根は尖頭アーチ構造になっており、中世のゴシック建築 に近いものを感じさせる。回廊を抜けた先にある王宮の外見も同じ で、高い尖塔が幾つも立ち並んでいて、見るからに荘厳な姿をして いた。 王宮に入ると、赤い絨毯の敷かれた長い通路の脇に、何百人とい 1314 う兵士が並んでいた。マールさんとアレッタさんは慣れたもので落 ち着いているが、それはフィリアネスさんのお付きをしているから、 こうした出迎えには慣れているということだろう。フィリアネスさ んは功績を上げて、グールドの計略の一環として利用されてしまっ たとはいえ、領地を与えられるほどなのだから。 玉座の間に向かう階段を上がる前に、案内役のスーさんが立ち止 まる。そして、俺とマールさん、そしてアレッタさんだけを呼んだ。 ﹁私のお役目はここまでです。これより、観覧席に他の皆様をご案 内します。坊っちゃん⋮⋮いえ、ヒロト様と騎士団の方々のみ、公 女殿下の演説をご観覧になる前に、玉座の間に招聘されております。 公王陛下による直接の申し入れです﹂ 命令ではなく、申し入れ︱︱つまり、俺のしたことが、公王陛下 の耳に入っているということだ。 俺たちは南王家の人間で、公爵であるグールドを討った。おそら くフィリアネスさんが、グールドは以前からリリムによってアンデ ッドに変えられていたと説明してくれているだろう。 それを、公王陛下がどう思うのか︱︱どんな理由があっても、ア ンデッドになっていても、グールドと戦ったことを罪と見なすか、 それとも。 ﹁ヒロトちゃん⋮⋮あのね、一つ言ってなかったことがあるんだけ ど。今、雷神様の⋮⋮﹂ ガーディアン ﹁⋮⋮玉座の間には、フィリアネス様の母君がいらっしゃいます。 ガーディアン 公王陛下の守護騎士として﹂ ﹁守護騎士⋮⋮フィリアネスさんの、お母さんが⋮⋮?﹂ 1315 新しい職業︱︱ナイト系の上位職だろうか。パラディンとも違う 派生があるというのか⋮⋮この世界には。 そして聖騎士フィリアネスに母親がいるなんて話も聞いたことが ない。 しかし、考えてみれば、彼女の家族のことを俺はほとんど聞いて いないし、母親がいて公国の要職に就いていてもなんら不思議はな い。 ︵でも⋮⋮二人とも、どうして浮かない顔をしてるんだ?︶ ﹁⋮⋮ううん、ここで迷ってても仕方ないよね。ヒロトちゃんなら、 きっと⋮⋮﹂ ﹁はい。ヒロトちゃん、行きましょう。公王陛下によるじきじきの お招きです。公国の臣民にとって、これに勝る栄光はありません﹂ 臣民か⋮⋮そういう感覚は、あまり無かったが。このジュネガン 公国が、俺の祖国であることは間違いない事実だ。父さんと母さん の国︱︱ここに生まれたことを、俺は誇らしく思う。 ﹁褒めてもらうようなことをした覚えは、ないんだけどな﹂ ﹁そ、そんなわけないじゃない! ヒロトちゃん、自分のしたこと がどれだけ凄いかおわかりでない!?﹂ ﹁すごい⋮⋮でも、それくらい落ち着いていたほうが、公王陛下も 一目置かれると思います。そんなことになったら、ヒロトちゃんは ⋮⋮﹂ 公王に一目置かれると、どんなことになるのだろう⋮⋮まさか、 領土をもらえたりしてな。いや、それはさすがに話が上手く行きす ぎか。 1316 ︱︱どのみち、行ってみるしかない。正直なところ、俺は公王陛 下︱︱もとい、公王と話すことに、大して緊張などしていないのだ。 交渉スキル100に達すると、ゲーム時代は公王と普通に、他の NPCと同じように交渉をしたり、会話をすることが出来たのだか ら。﹁交換﹂で公王の装備を剥ぎ取ることだって出来たのである。 公王が欲しいものと交換しているのだから、チートと言われるほど の行為でもない。 ﹁とりあえず、陛下のお話を伺ってみないと、どう評価されてるか 分からないしな。行ってみようか﹂ ﹁この頼もしさだったら、私でもヒロトちゃんの腕にぶらさがれそ うな感じするよね。やってみていい?﹂ ﹁マールさん、こんなときに無邪気に遊ばないでください。ほら、 襟が曲がってますよ、ちゃんとしないと﹂ ﹁そうだ、おめかししてたんだった。いっけない、髪とかだいじょ うぶ? ぴょこって出てない?﹂ 実を言うとマールさんはよくアホ毛が出ているのだが、今日はし っかり整えられていた。こうして見れば彼女も、落ち着いたお嬢さ んに見えなくもない。そんな彼女がメイスを持たせれば鬼神という のも、本当に異世界の奥深いところだ。 ◇◆◇ ︱︱しかし、マールさんとアレッタさんが明るかったのは玉座の 間に入るまでのことだった。 1317 玉座に座っている人物を目にした瞬間、二人が目に見えて緊張す る。 ファーガス陛下ではない︱︱男性ですらない、玉座に座っている のは女性だった。 ︵どういうことだ⋮⋮ファーガス陛下は、どこに居るんだ?︶ 疑問に思いながら、俺は長い絨毯の上を歩く。途中で立ち止まる と、玉座に座る女性が手をこちらに伸ばし、しなやかな指を内側に 曲げる。 ﹁マールギット、アレッタ。お前たちは、そこで控えているがいい﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮かしこまりました﹂ マールさんとアレッタさんが完全に畏縮している。それほどの相 手っていうことか⋮⋮おそらく、彼女は⋮⋮。 考えているうちに、俺は彼女の視界に捉えられていた。この距離 でも分かる、興味と好奇心を隠さない視線が、俺の全身をすべって いく。 その無遠慮な視線を、傍らで見て表情を陰らせているのは︱︱フ ィリアネスさん。彼女はまるで貴族の令嬢のように白いドレスを着 て、金色の髪を編みあげて、輝くような美しさを俺に見せてくれて いた。豊かな胸から腰に至るまでの芸術的な曲線は、ふわりと身体 を包むような上品な風合いのドレスでもまるで隠しきれていない︱ ︱本当に、なんてスタイルなんだろう。 そんな彼女が辛そうな顔をしていることが、俺には耐え難い苦痛 に感じられてならない。 ﹁ヒロト・ジークリッド。そのまま前に出ろ﹂ 1318 フィリアネスさんに良く似ているが、聞く人間を常に挑発し続け るような声だった。しかし、耳に入ってくるときの艶やかな響きが、 同時に男としての本能までを誘惑する。 ︵この人が、フィリアネスさんの⋮⋮大変な不敬にあたることを、 なぜみんな許してるんだ⋮⋮?︶ 玉座の間にいる侍女と、騎士は全てが女性だった。出入口を槍を 持った女騎士が塞ぎ、外からは人が入って来られなくなる。 俺は久しぶりに﹁カリスマ﹂をアクティブにする。玉座に座る人 物のステータスを確かめるために。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁カリスマ﹂をアクティブにした。 ・﹁カリスマ﹂が発動! ︽ディアストラ︾があなたに注目した。 目的の人物以外にもカリスマが発動して、無数のログが流れてい く。総計17人にカリスマがかかったが、今はそれよりも、﹁彼女﹂ のステータスが気になる。 ◆ステータス◆ 名前 ディアストラ・シュレーゼ 人間 女性 38歳 レベル62 1319 ジョブ:ガーディアン ライフ:1060/1060 マナ :816/816 スキル: 剣マスタリー 84 盾マスタリー 72 鎧マスタリー 100 白魔術 55 守護 93 指揮 83 恵体 85 魔術素養 66 気品 88 母性 92 房中術 35 アクションスキル: 薙ぎ払い パリィ 連続斬り 烈風剣 切り返し 斬鉄剣 閃空破 壊音剣 大盾 シールドバッシュ キャストオフ 治癒魔術レベル5 かばう 肉盾 号令 布陣 鼓舞 突撃 演説 授乳 子守唄レベル2 搾乳 説得 童心 魅惑の指先 1320 パッシブスキル: 剣装備 剣攻撃力上昇 両手持ち 盾装備 盾効果上昇レベル4 鎧装備 重鎧装備 鎧効果上昇レベル5 回復上昇レベル2 防御強化レベル5 パーティ物理防御上昇 パーティ魔術防御上昇 指導 指揮レベル3 マナー 儀礼 風格 威風 育成レベル2 慈母 子宝 艷姿 芳香 ︵強い⋮⋮でも、フィリアネスさんの方が攻撃力は高い。守護騎士 は、守備に特化しているのか︶ 守護スキルは非常に魅力的だ⋮⋮味方を守り、ダメージを軽減す るスキルが充実している。どれくらい軽減出来るのか分からないが、 パーティの物理と魔法防御に対して常時支援効果があるとは⋮⋮。 ﹁聞こえなかったのか? 遠慮することはない、私の目の前まで来 たまえ﹂ 男性のような口調は、どこかヴィクトリアにも影響を与えたので はないかと思わせる。しかし、ヴィクトリアとは違う性質︱︱傲岸 不遜というのか。そんなふうに感じさせる話し方だった。 そう、言うなれば、公王ではないはずなのに玉座に座る彼女を、 俺は﹃暴君﹄のようだと思っていた。 1321 ﹁ふふっ⋮⋮なかなか精悍な顔つきをしている。しかし、身体は成 熟していても、まだ青さは残っているようだ﹂ ﹁っ⋮⋮母上、今はそのようなことはっ⋮⋮﹂ ﹁フィル、お前には話していない。黙ってそこで見ているがいい﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ フィリアネスさんの母親⋮⋮この人が。シュレーゼという名前を 見た時に感じていたが、まさか、公王の代わりに玉座に座っている とは思いもよらなかった。 フィリアネスさんと同じ、長くさらりとした金色の髪を持ち、頭 にはサークレットをつけている。傍らに二人の女騎士がいて、それ ぞれに盾と剣を持っている︱︱盾の方は、大人の全身を覆うほどの 大きさを持つカイト・シールドだった。表面には、ジュネガン公国 の紋章が刻み込まれている。 俺がある程度近づくと、ディアストラさんは席を立ち、俺の目の 前にやってきた。 薄く常に微笑んでいるが、眼の奥は全く笑っていない。身につけ た鎧は娘であるフィリアネスさんと同じように、胸の大きさゆえか、 胸回りが布で作られている。あまりに目につきすぎる︱︱しかしそ こを見ないようにする俺の反応を、彼女は楽しんでいるように見え た。 フィリアネスさんからは凛としていながらも、包み込むような優 しさを感じる。しかし母であるディアストラさんは、力のある瞳を しているのに、気を抜けば向こうのペースに引き込まれ、飲み込ま れてしまいそうな危険さを感じた。 ︵これが大人の余裕ってやつか⋮⋮どうやら、期せずして正念場み 1322 たいだな︶ ここで弱さを見せれば、食われる。それくらいの気持ちで臨まな くてはならないと、俺の勘が警告している。 何より、フィリアネスさんに辛辣な言葉を浴びせるのなら、例え 母親であっても、簡単に気を許してはやれない︱︱それどころか、 敵視してしまいそうになる。 ﹁ふふっ⋮⋮フィル、上手く手なづけているようだな。ジークリッ ドの目を見たか? お前のことをよほど気にかけていなければ、こ んな苛立たしい目はするまい﹂ ﹁も、申し訳ありません。失礼をお詫びします⋮⋮ディアストラ様﹂ 敬称をつけるべきか迷ったが、あえてつけることを選んだ。名乗 っていないのに名前を呼ばれた彼女は、かすかに目を見開いたが、 艶やかな唇に人差し指を運ぶ。それは見たことがある︱︱昔、爪を 噛む癖があった人が見せる仕草だ。 ﹁どうやら、一筋縄ではいかぬらしい。私の名は公にはしていない はずだ⋮⋮どこで聞いた? 娘が軽々しく話でもしたか。ならば、 後で罰してやらなければならん﹂ ﹁⋮⋮いや。簡単な推理ですよ。フィリアネスさんに聞いたわけじ ゃない、それは断言します﹂ ﹁ほう⋮⋮推理か。煙に巻くような言い方は気に入らんが、許そう。 私は骨のある男が嫌いではないからな﹂ 彼女のことをどう表現していいのか、適切な言葉が見つからなか ったが︱︱今、ようやく見つかった。 そう⋮⋮彼女のような人こそ、﹁女傑﹂と呼ぶにふさわしい。 1323 ﹁ジークリッド、お前の功績については娘から報告を受けている。 私の言うことに逆らってばかりの不用品だと思っていたが、今回の ことばかりは良くやったと褒めてやりたい。魔王リリムを撃退し、 不死者と化していたグールドを討った⋮⋮そのことについては、こ の国の誰もが賞賛以外の言葉を持たぬだろう。私も、ファーガスも 例外ではない﹂ ﹁不用品﹂という言葉を耳にしたとき、フィリアネスさんが見せ た反応を俺は見逃さなかった。怒りが炎のように揺らぐが、今はま だ、感情に身を任せてはいけない。 ﹁⋮⋮その玉座は、ファーガス陛下のものであるはずだ。なぜ、貴 女が座ってるんです?﹂ ずっと気になっていたことを尋ねると、玉座の間に緊張が走る。 控えている侍女の中には、何て恐ろしいことを、という顔をする人 もいた。 しかし当のディアストラさんは微笑んだままだった。腕組みをし て俺を見やると、フィリアネスさんよりも一回り大きな乳房が腕に 乗り、柔らかく形を変える。一つ一つの仕草に、彼女の女としての 自信が満ち溢れているようにも見えた。 ﹁ファーガスは公王を名乗ってはいるが、その実は、王家というも のの象徴でしかない。ジュネガン王族の頂点に立つ西王家、その中 では男が極端に生まれにくい。ファーガスはそれゆえに王位に就い た⋮⋮もちろん、王として何の力も持たぬわけではないがな﹂ ﹁⋮⋮実質は、あなたが王のようなものだということですか?﹂ 1324 そういうのを僭主と言うんじゃないのか︱︱なんて、攻撃的に切 り込んでいくばかりでも意味がない。 ジュネガン公国の統治のあり方は、俺が思っていた形とは違って いた。王は象徴であり、実権を握っているのは、俺の目の前にいる 人物︱︱フィリアネスさんの母親だったということになる。 ﹁この国の王座そのものに意味はない。私も、公国を守るための戦 力の一部であることに変わりはないのだからな。ファーガスも同じ 志を持つひとりとして、この国の意思を決定する円卓の一端を担っ ているのだ⋮⋮ファーガスがどこに居るかは話しておこう。今は、 娘であるルシエと面会している。今のファーガスは王であることよ りも、一人の娘の父親であることを選んだのだよ﹂ ﹁そうですか⋮⋮それは、良かった。ルシエのことを陛下がどうお 思いなのか、気にかかっていたんです﹂ なぜ、フィリアネスさんがルシエと親しかったのかが、今このと きに分かった。 ガーディアン フィリアネスさんは生まれながら、王族の一部と言ってもいい存 在だった︱︱母親が王家の守護騎士なのだから。 そして、フィリアネスさんが家族のことを口にしなかった理由も 分かった。母親との間に確執があることは、ここに来てからの短い やりとりを見るだけでも、十分に理解できた。 ﹁⋮⋮ここから先は、フィル⋮⋮お前に聞かせる話ではない。衛兵 を残し、侍女は賓客を迎える準備をせよ。この部屋には私と、ジー クリッドしか要らぬ﹂ ﹁っ⋮⋮母上、それはっ⋮⋮!﹂ ﹁お前の意見は聞いていない。これまでも、自分の好きなようにや ってきたのではないのか? ならば私がそうしたとして、お前に何 が言えるというのだ﹂ 1325 ﹁⋮⋮ヒロトは⋮⋮ヒロトは、私の⋮⋮っ﹂ ︱︱その時、信じがたいことが起こった。 ディアストラさんに食ってかかろうとしたフィリアネスさんが、 頬を張られ、乾いた音が響く。 ﹁雷神さまっ⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮ディアストラ様、なぜこのようなっ⋮⋮!﹂ フィリアネスさんは頬を押さえ、母親を見つめる。怒っているの に、同時に泣いているようにも見えた。 ﹁私に歯向かうなと言ったはずだ。これ以上、その不快な声を私に 聞かせるな﹂ ﹁⋮⋮母上⋮⋮﹂ ︱︱どうしてなんだ。 どうして、そこまで実の娘に憎しみを向けられる? 俺の大事な人を、この世に生まれさせてくれた人なのに、なぜ憤 りをぶつけなければならないんだ。 ﹁っ⋮⋮!﹂ フィリアネスさんは駆け出し、玉座の間を出ていってしまう。横 を通り過ぎたマールさんとアレッタさんも、彼女を止めることはで きなかった。 ﹁雷神さまっ⋮⋮ディアストラ様、ひどすぎますっ!﹂ ﹁マールギット、アレッタ、追うことは許さん﹂ 1326 ﹁っ⋮⋮なぜ、そこまでするんですか。フィリアネス様の、お母さ まなのに⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮血を分けてもいない人間に、私の気持ちなど分かってなるも のか。二人も退室せよ、すぐにだ﹂ 吐き捨てるようにディアストラさんが言う。俺はその言葉に、わ ずかな違和感を感じていた。 血を分けた人間。フィリアネスさんをそう呼ぶのは︱︱親子だと いうこと自体を、否定しているわけじゃない。 ならば、なぜフィリアネスさんの頬を打ったのか。それを怒る前 に、俺は真実を知りたいと思った。 ︱︱本当は、怒りで目の前が揺らぐくらいだったけれど。それで もこの人は、フィリアネスさんの母親なんだ。 フィリアネスさんがなぜ、やり返さずに出ていったのか。その気 持ちが、俺には分かる気がする。 お母さんに、簡単に手を上げることはできない。俺はフィリアネ スさんのそんな優しさを、ずっと見てきて知っていた。 俺と二人だけになったあと、ディアストラさんは玉座の間の奥に ある扉に近づく。 ﹁⋮⋮この先に、部屋がある。そこで、お前の質問に答えてやろう。 来るがいい﹂ その声は初めて聞いた時と同じように挑発的で︱︱同時に。 今なお衰えることのなく美しさを保ち続ける彼女の、﹁女﹂その ものを感じさせた。 1327 彼女が何を考えているのか想像がつかないほど、俺はすでに子供 ではなくなっていた︱︱しかし。 どんなことがあっても、心に決めていることがひとつある。 ディアストラさんに、フィリアネスさんにしたことを謝ってもら う。それだけは、絶対にしてもらわなければならない。 ◇◆◇ 玉座の間の奥の扉を抜け、通路を抜けた先は、おそらく外から見 た尖塔の一つに繋がっていた。 螺旋状の階段を登って行き、塔の上にある部屋に辿り着く︱︱そ こはおそらく、趣向を凝らしているが、ただひとつの用途に用いら れる部屋だった。 ﹁⋮⋮あの高い位置にある窓を開くと、この褥に月光が降り注ぐ。 王族のみが、その愉しみを知っている⋮⋮﹂ そう、そこは寝室だった。ディアストラさんの言葉通りなら、王 族が夜の褥として用いる場所だ。 ◆ログ◆ ・︽ディアストラ︾は防具の装備を解除した。 ディアストラさんは無言で鎧を外し始める。そして布鎧だけの姿 1328 になると、俺を見てにっこりと微笑んだ。 ︱︱悔しいほどにフィリアネスさんに似ている。ヴィクトリアも 少し似ていたが、ディアストラさんともまた姉妹のように似ていた。 この部屋に来た途端、彼女から惹きつけられるような香りがする のは⋮⋮異性を意識させるフェロモンでも出てるっていうんだろう か。その美貌もあいまって、恐ろしいくらいに理性を揺らしてくる。 ﹁⋮⋮俺を、誘惑するつもりですか? どうしてそんなことをしよ うと思うんですか﹂ ﹁戦士としてきわめて優秀な、お前の血統を残すためだ。それ以外 に、何の理由があるというのだ?﹂ ﹁お、俺の血統って⋮⋮全くわかりません、話が飛びすぎてます﹂ どうしても冷静で居られない俺を見て、ディアストラさんはここ が付け目だとでも思ったのか、俺に近づいてくる。早くもなく、遅 くもなく、けれど逃げられない、そんな歩き方で。 ﹁リカルド・ジークリッド⋮⋮お前の父親は、優秀な血の持ち主だ った。元々は、西王家の血を引く人間と結婚する予定があったのだ がな。あの男は王族になる権利を放棄して、クーゼルバーグ伯爵家 の娘を選んだ。なぜそれが許されたのか⋮⋮それは、リカルドが﹃ 護り手﹄になることを希望したからだ﹂ 俺の素性を、ディアストラさんがそこまで知っていたのか︱︱そ れは考えてみれば、当たり前のことだ。 父さんは昔、騎士団にいた。ならばディアストラさんが、父さん のことを知らないはずがない。まして、玉座に座ることを許される ほどの権力を握るに至る人物なら、父さんが騎士団に居たころも、 それなりの地位にいたことは想像に難くない。 1329 ﹁西王家って、一体何なんだ⋮⋮なぜ、王になる優先権を持ってる んだ⋮⋮?﹂ 思わず言葉に気を使うことを忘れても、ディアストラさんは気分 を害する様子はなく、俺の質問に応じる。 ﹁西王家は、かつて魔王を倒した勇者の血筋なのだ。女神の与えた 八つの武器で、それぞれに魔王を封じた者たち⋮⋮そのうち三人が、 西王家のファーガス一世による公国の統一に大きく貢献した。彼ら は魔剣カラミティ、魔穿クルーエル、魔杖カタストロフの三つを残 していったが、魔剣の行方についてはお前の知るとおりだ﹂ ︱︱魔剣のことも、知っている。それ以外の﹁魔﹂を冠する武器 も、この国に二つもあるというのか⋮⋮! ﹁⋮⋮残りの二つは、どこに行ったんだ﹂ ﹁それについては、今はまだ知る必要はない⋮⋮しかし、なぜ魔王 リリムがルシエを狙ったのかは教えてやろう。ルシエは魔杖カタス トロフの使い手であった勇者の血を引いている。彼女の血統のみが 使うことの出来る魔杖カタストロフだけが、リリムを封印する力を 持っているからだ﹂ ﹁⋮⋮そのために、ルシエを⋮⋮それを、彼女は知ってるのか?﹂ ルシエが自分に課せられた宿命を知っているのか。その問いにも、 ディアストラさんは事もなげに答えた。 ﹁ルシエは全てを知っている。この後に行われる演説で、グールド を討ったこと、なぜ討たなければならなかったのかを話すことにな っている⋮⋮ジュネガン公国は、今も魔王の脅威に晒されている。 1330 魔王と徹底的に抗っていくのだと宣言する。あのままグールドが操 られていれば、南王家は不死者の王国と化していただろう⋮⋮その 危機を知らず、のうのうと生きていくことは、もはや誰にも許され はしない﹂ ﹁っ⋮⋮そんなことをすれば、いたずらに恐怖を煽るだけだ!﹂ ﹁⋮⋮違うな。何も知らずに生きていくことの方が、よほど恐ろし いことだ。それを知った人間の方が、強く、したたかになる。私は 臣民の力になどさほど期待はしていない。だが、戦う意思だけは持 っておいてもらう。そうでなければ、突然に行われる魔王の侵略に 対し、ただ不幸だ、理不尽だと嘆くばかりだからだ﹂ ディアストラさんのいうことは分かる。しかし俺は、何も知らず 平和に暮らしている人に、魔王の脅威を知らせることが本当にいい ことか、すぐに答えを出すことが出来なかった。 ︱︱その迷いに付け入るかのように。ディアストラさんは俺の襟 に手を添えて、鼻先が触れ合うほどの距離にまで迫ってくる。 ﹁な、何を⋮⋮っ﹂ ﹁魔王は何度でも復活する。一人でも多く、強き者の血を後の代に 残さなくてはならない。斧を使い、攻撃に長けているお前と、守備 に秀でた私の血を掛けあわせれば、その子がどれほど強くなるか⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮そんなことのために生まれる子供が、可哀想じゃないか。本 当に強くなるかどうかだって、わからない﹂ ﹁いや⋮⋮おまえを見ればわかる。女とはそういうものなのだ。自 分に足りないものを補える男を、見極めるという本能を持っている ⋮⋮﹂ ディアストラさんは俺の手を取り、自分の胸に導く。しかし俺は 1331 重ねるだけで、決して手を動かすことはなかった。 誘惑に心を揺らされても、籠絡はされない。これは男と女の﹁交 渉﹂だ︱︱交渉と名のつくものにおいて、俺は決して負けられない。 ﹁俺が、ディアストラさんの足りないものを補える⋮⋮どうしてそ う思うんだ?﹂ ﹁⋮⋮分かっているのだろう? 私やフィリアネスより強い男など、 他にはいない﹂ そこでフィリアネスさんの名前を出すのは、娘の強さを認めてい るからだ。表に出てこず、陰で実権を握っているディアストラさん ではなく、聖騎士として名を馳せているフィリアネスさんが﹁公国 最強﹂と呼ばれているのを、母親の彼女も認めているということに なる。 ならば、なぜあれほど辛辣にするのか。その答えも、既に俺には 見えかけていた。 確かめる方法が一つある。ディアストラさんが、フィリアネスさ んのことを、本当はどう思っているのか。 俺は意識下のウインドウを開き、あるスキルを発動させる準備を する。そして、ディアストラさんに語りかけた。 ﹁⋮⋮強い男がいないっていうのは、嘘だ。フィリアネスさんのお 父さんがいる﹂ 唇を俺の鎖骨に触れさせていたディアストラさんが、ゆっくりと 顔を上げる。その瞳は今までにないほど真摯に、俺を真っ直ぐに捉 えていた。 1332 ﹁⋮⋮私の夫は、娘を産んだすぐあとに死んだ﹂ ﹁その人は、強かったんじゃないのか? 貴女よりも﹂ 核心に近いことを聞いたつもりだった。けれどディアストラさん は、冷めた笑顔で俺を見やる。 ﹁あの男は、ただの愚か者だ。私の言うことを聞かずに、いたずら に死を選んだ。あの男の血を継いでいるフィリアネスも同じだ。何 一つ利用価値のない、不用品でしかない﹂ ︱︱それは、本音じゃないはずだ。 本当の心を隠して、強がろうとして、娘を遠ざけようとする。そ んな彼女の心を、俺はどうしても理解したかった。 限界突破を経て、交渉術110にしてようやく手に入れた、あの スキルで。 1333 第四十話 母と娘/王女の誓い ディアストラさんがその鎧の下に隠した、守護騎士として鍛え上 げた身体は、俺を容易に冷静でなくさせるほど魅力的なものである ことは間違いなかった。 しかし俺は、母親とはいえ、フィリアネスさんの頬を打ったディ アストラさんに、簡単に流されるわけにはいかなかった。 ︵俺にとって彼女が特別な存在だってことは、今さら確かめるまで もない。あの時、フィリアネスさんを追いかけるべきじゃなかった のか?︶ 今更思っても遅い。けれど俺は、ディアストラさんが言葉通りに 娘を嫌っているとはどうしても思えなかった。 その違和感を確かめるために、俺はここに来た。男として求めら れていることに気付いていたが、もしそれを叶えるとしても、彼女 には絶対にしてもらわなければならないことがある。 ﹁あなたが夫を亡くして、自暴自棄になってる⋮⋮とは言わない。 魔王を倒さないと、この国が脅かされる。あなたは守護騎士として、 役目を果たそうとしてるんだ﹂ ﹁⋮⋮私の心を見透かしたつもりか?﹂ 静かに俺を見る彼女の双眸には、冷たい輝きが宿っている。俺の 言葉を否定せずに、ただ耳を傾けている。 1334 ﹁だからあなたは、俺が魔王と戦ったからって、こんなことを⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おまえの強さを認めるには、それだけでも十分だが。フィル からは、おまえが皇竜を御したという報告も受けている。それも、 今よりずっと幼い頃にな﹂ ﹁そこまで話してくれるのに、フィリアネスさんを不用品だなんて 言うのか⋮⋮?﹂ そのことに触れれば、きっと彼女を怒らせるだろうと思った。俺 も頬を打たれてもおかしくはない。 しかしディアストラさんは、何も言わずに俺から身体を離すと、 ベッドに腰掛ける。長い金色の髪がさらりと流れて、彼女はそれを 後ろに流しながら、どこか遠いところを見るように、視線を中空に 向ける。 ﹁⋮⋮そうだ。聖騎士といえど、私にとっては、駒のひとつに過ぎ ないのだからな。私の言うことに従わないのなら、あんな娘など⋮ ⋮﹂ ﹁その先は言わないでください。フィリアネスさんが居ない場所で も、絶対に言って欲しくない﹂ ﹁そんなことを決める権利が、おまえにあるとでもいうのか? つ まらぬことを言うな。ここまで来たのならば、おまえも望んでいる はずだ。子供だから何も分からぬと、そんな目をして言うつもりも あるまい﹂ 見ぬかれている︱︱俺が外見通りの十四歳相当ですらなく、それ 以上に人生経験を積んでいることを。 男女のことだってよくわかっている。しかしディアストラさんに とっては、俺なんてまだまだ、身体だけは大きい子供の扱いだろう。 1335 ﹁魔王に対抗するために、強い子供を残す。ディアストラさんはい わば、そのための道具として、俺を利用しようとしてるわけですか﹂ ﹁⋮⋮何も隠すつもりはない、そのとおりだ。おまえほど強ければ、 私を前にして畏縮することも、無条件に従属することもあるまい。 そのことは、想定の範囲内だ﹂ ︱︱駆け引きは、この部屋に入った時から始まっている。 女の武器を使うだけで俺を籠絡出来るとは思っていなかったとい うことなら、内心では安堵せざるを得ない。こんな綺麗な人に本気 で迫られて、その気になるなというのは酷な話だ︱︱定期的にフィ リアネスさんや仲間たちの顔を思い出さなければ、欲望を律するこ とが難しい。 ﹁⋮⋮ファーガスから改めて伝えられるだろうが、おまえに与えら れる褒賞は、おまえが思っているよりも遥かに大きなものだ。言っ てしまえば、おまえは領地を与えられる﹂ ﹁領地⋮⋮お、俺に? まだ、どこの馬の骨ともわからないのに⋮ ⋮?﹂ 良いものが貰えるのかもしれないとは思っていたし、領地をもら える可能性も考えてはいた。しかし現実にそうだと言われると、実 感が湧いてこない。 ﹁貴族の母の血を引き、父は公国にとって重要な任務を果たしてい る。血筋という意味では、おまえは領主を務めるには十分な器だ⋮ ⋮そして。領主を経て、ゆくゆくは、この国の統治の一翼を担って もらう﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ 領主というだけで真偽を疑うほどなのに、ディアストラさんはこ 1336 ともなげに、それ以上のことを口にする。 ﹁統治の一翼⋮⋮つまり、ルシエが女王となった暁に、おまえには 副王の座を用意する。そのことについて、円卓の誰もが疑義を持っ ていない。聖騎士であるフィルを従え、国を転覆しようとする魔王 を撃退した。そのようなことが出来る者は、おまえ以外には居ない のだよ﹂ ﹁お、俺は⋮⋮フィリアネスさんを、従えてるわけじゃ⋮⋮﹂ ﹁私の目は誤魔化せない。フィルはおまえに従い、魔王と戦った⋮ ⋮話を聞くだけで、そう断定できる﹂ グールドの屋敷に潜入するとき、俺はパーティのリーダーとして 振る舞った︱︱つまり、フィリアネスさんも俺のパーティの一員だ ったということだ。 ディアストラさんは長年の経験で、その事実を感じ取ることがで きるのだとしたら。彼女の言うとおり、フィリアネスさんが俺に従 っていたと見られても無理はない。 ﹁⋮⋮しかしおまえほどの男に、領地に縛り付け、公国を守る盾と なれと言っても、従わせることは難しいだろう。ならば私たちは、 おまえに伏して乞わなければならない。いかなる要求にも応じよう﹂ 俺に迫っておいて、今度は、何でもするから力を貸してくれなん て。 そして俺は、今になって気がつく︱︱彼女も、俺という存在が急 に頭角を現して、驚いているのだと。 ﹁いかなる要求でも⋮⋮本当に、いいんですか? 俺はわりと、強 欲ですよ﹂ ﹁⋮⋮フィルが欲しいとでも言うつもりか? それなら私に許可を 1337 得る必要はない﹂ ﹁い、いや⋮⋮まだ、そこまでは考えてませんでしたが。俺が欲し いのは、あなたのほうです﹂ ﹁っ⋮⋮な、何を言い出すのだ。先ほどまで、心ここにあらずとい う顔をしていたのに、急に⋮⋮﹂ もちろんディアストラさんを抱きたいって意味で言ったわけじゃ ない。けど動揺するところを見ると、やはり本来の彼女は、烈女な どではないと確信できた。 ﹁⋮⋮私を試しているのか? ならば、それ以上はやめておいたほ うがいいな。それ以上続ければ、私はおまえの強さなど必要ないと 切り捨てることもできる﹂ ﹁試してなんてないですよ。俺は、確かめたいだけなんです﹂ ﹁確かめる⋮⋮?﹂ ディアストラさんが怪訝な顔をする。俺はやはり、フィリアネス さんとよく似た彼女を憎むことはできない。 ︱︱そして、出来ることならば。フィリアネスさんのことを、安 心させてあげたい。 ディアストラさんが自分を憎んでいると思っているのなら、それ は間違いだと教えたい。俺の手で、その事実を確かめる⋮⋮! ﹁あなたは本当に、フィリアネスさんが嫌いなんですか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮嫌い、などという感情ではない。私の言うことを聞かないの なら、あのような娘など、初めから居なかったほうが⋮⋮﹂ 1338 ◆ログ◆ ディテクト ・あなたは﹁看破﹂を試みた! ・︽ディアストラ︾は嘘をついていると分かった。 ︵ああ⋮⋮やっぱり、そうだ。この違和感は⋮⋮︶ ディアストラさんの振る舞いの端々に、隠しきれずにいたもの。 ﹁⋮⋮俺は、フィリアネスさんは、あなたのことを憎んでないと思 いますよ。彼女は俺より強いのに、あなたの平手を避けなかった﹂ ﹁⋮⋮フィルが、おまえにそう言ったのか?﹂ ﹁いえ。でも、それが分かるくらいには、彼女の近くにいたつもり です﹂ 俺もフィリアネスさんの全てが分かるとはいえない。俺にもまだ、 彼女に言っていないことがある。 俺という存在が、どうやってこの異世界に転生したのか。 そして初めて彼女と会った時に、何を考えていたのか⋮⋮。 ﹁私がおまえのことを初めて報告されたのは、4年ほど前⋮⋮その 時はまだ、おまえは小さな子供だったはずだ。しかし娘は、おまえ に一目置いていた。年齢の報告が間違っていたのか⋮⋮それとも、 ﹃成長せざるを得ないような出来事があった﹄のか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それなんですけど、実は魔王を追い払ったのは、俺じゃない んです。俺の仲間ではあるんですが﹂ ﹁つまり⋮⋮魔王との戦いで、何かが起きたということか? リリ 1339 ムは人間の生気を奪う力を持つというが⋮⋮それを受けて生き長ら えるなど⋮⋮﹂ さすがは経験が豊富なだけはある。リリムの力についても、彼女 はある程度知っているようだ。 ディアストラさんはきっとそれ以外にも、俺の知らないことを多 く知っている。そんな人とは、簡単には上手くいかなくても、何と しても仲良くしておきたい。 それはもちろん俺だけじゃなくて、フィリアネスさんとも。 ﹁俺は確かに、急に今の姿まで成長しました。それについては、ま た機会があれば話します﹂ ﹁⋮⋮いいだろう。しかしフィルが私を憎んでいないというのは、 勘違いだ。私の娘に対する態度も、変えるつもりはない。そればか りは、おまえが何と言おうと⋮⋮﹂ ﹁俺があなたに求める見返りが、フィリアネスさんに優しくするこ とだって言ったら、どうします?﹂ ﹁なっ⋮⋮!?﹂ 常に落ち着いていた彼女が、似つかわしくない声を上げて立ち上 がる。その拍子に大きく胸が弾む⋮⋮こんな時になんだけど、本当 に常識はずれな大きさだ。 ﹁これはまた、俺の推測なんですが。あなたが魔王を倒すことにそ こまでこだわるのは、あなたの大事な人が、魔王との戦いで⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ディアストラさんは何も言わず、唇を噛み、自分の身体を抱くよ 1340 うにする。 やはり、彼女の夫︱︱フィリアネスさんのお父さんは、魔王との 戦いで命を落としている。 ﹁⋮⋮そして。フィリアネスさんは、その人の遺志を継いで、魔王 と戦おうとしている﹂ ﹁⋮⋮そうだとして、何が言いたい?﹂ ﹁止めたいんじゃないですか、彼女を﹂ 思わず、声に力が籠もった。彼女ほど聡明な女性なら、俺が言わ んとしていることを悟れないわけがないからだ。 しかしディアストラさんはくだらないことを、と言うように肩を すくめて笑った。 ﹁馬鹿なことを言うな。あの娘が勝手にしていることを、なぜ私が 止める必要がある?﹂ ﹁あなたが、フィリアネスさんのことを大事に思ってるからですよ﹂ ﹁⋮⋮分かったようなことを⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ディアストラ︾は平手打ちを放った! ・あなたには効果がなかった。 ﹁っ⋮⋮は、放せっ⋮⋮!﹂ ﹁あなたが見込んだだけあって、俺は強いですよ。って言い方も変 ですけどね﹂ 1341 俺の恵体は153ポイント︱︱306ポイントまでのダメージを 無効化できる。 そして今の俺には、ディアストラさんがいかに鍛えあげられた騎 士であろうと、華奢な女性としか映らない。 ﹁⋮⋮いつでもこうすることができるというのに、私を泳がせたの か⋮⋮悪趣味なっ⋮⋮!﹂ ﹁い、いや⋮⋮違います。別に、力の差を見せつけたいわけじゃあ りません﹂ ﹁くっ⋮⋮そ、そんな馬鹿力で握っておきながら、何をいうっ⋮⋮ !﹂ ﹁あっ⋮⋮す、すみません⋮⋮うわっ!﹂ ディアストラさんの手を離すと、彼女は顔を真っ赤にして、俺の 腹に当て身を打ち込もうとする︱︱しかし。 ◆ログ◆ ・︽ディアストラ︾の攻撃! ・あなたには効果がなかった。 ﹁くぅっ⋮⋮ど、どういう腹筋をして⋮⋮っ﹂ 今まで余裕だったディアストラさんが、顔を真っ赤にしてムキに なっている。 やっぱりフィリアネスさんのお母さんだな⋮⋮と、微笑ましい気 分になる。怒ったときの表情まで似ているのだから。 1342 ﹁⋮⋮徒手空拳でも、その辺りの男など相手にならぬほど訓練して きた。だのに、おまえは⋮⋮﹂ ﹁もしディアストラさんがまだ強くなりたいのなら、俺にできるこ とがあります。フィリアネスさんにも、してあげたんですが⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮まさか⋮⋮フィリアネスが、さらなる力を得て戻ってきた のは⋮⋮っ﹂ 俺はうなずきを返す。フィリアネスさんが﹃限界突破﹄を手に入 れたこと、それを武人であるディアストラさんは、肌で感じていた ︱︱つくづく超人的だが、彼女の強さを見れば納得もいく。 ﹁でも、それは⋮⋮フィリアネスさんに謝ってもらうまでは、あげ られません﹂ ﹁⋮⋮そんなことが出来るものか。娘は私の言うことなどまったく 聞かず⋮⋮﹂ これから、長い間の確執について聞かせてもらえるのか︱︱と思 いきや。 ﹁剣の練習は危ないからしてはいけないと言ったのに、あまりせが むから仕方なく騎士学校に入れてやった⋮⋮あの子は、誰もが目を 疑うような成績を残して⋮⋮私は、それを一度も褒めてやらなかっ た⋮⋮っ!﹂ おやこ ディアストラさんの言葉は、俺が想像した以上に、母が娘を想う 気持ちにあふれていた。 フィリアネスさんたち母娘は、ごくごく些細なすれ違いをしてい ただけなのだ。それを打ち明けられてしまえば、あとは、二人で歩 み寄るだけだ。まだ、少し時間がかかるとしても。 1343 ﹁⋮⋮夫の無謀なところばかりを引き継いで、私の言うことを聞か ない。あんな娘は要らない⋮⋮生まなければ、こんな思いをするこ とはなかったのに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮その気持ちを全部言わずに、傷つけるようなことだけを切り 取って言っても、二人とも、悲しいだけじゃないですか﹂ 触れていいものかどうなのか迷った。拒否されてもおかしくはな い、そう思った︱︱しかし。 俺がディアストラさんの肩に手を置いても、彼女は振りほどいた りはしなかった。 ﹁私は決して謝らない。謝れば、私は娘が仇討ちのために魔王と戦 うことを、肯定しなければならなくなる。戦うのは、あの子でなく ていい⋮⋮私や、それ以外の人間でかまわないはずだ﹂ ﹁⋮⋮そうかもしれない。俺も、彼女が危険な目に遭うのは嫌だ。 でも同じだけ、フィリアネスさんの強さを信頼してるし、尊敬して る。もし戦わなきゃならないなら、そうしなきゃ守れないものがあ るのなら、俺は彼女と一緒に戦いたい。彼女自身も含めて、大事な ものを守るために﹂ 気持ちをそのまま言葉にして、真正面からぶつかる。ここからは、 彼女に俺を信じてもらえるかどうかだ。 俺を見つめる碧眼は、フィリアネスさんと同じ色をしている。彼 女の手が、俺の胸元に縋りつくように服をつかむ。 ﹁⋮⋮まだ青いといったが、訂正しよう。おまえはもう、一人前の 男のようだ﹂ 気持ちが通じたのか︱︱そう戸惑う俺を見て、ディアストラさん 1344 は、驚くほどに柔らかい笑顔を見せた。 ﹁おまえの子が欲しいと言ったことは、忘れてほしい。おまえが私 の娘をどう思っているのかは分かった⋮⋮それでもおまえに迫れば、 私は年甲斐のない色情魔になってしまうからな﹂ ﹁⋮⋮ディアストラさん﹂ 顔を赤らめて言う彼女を見ていると、少し前までの態度が信じら れなくて戸惑ってしまう。フィリアネスさんの魅力的に感じる部分 のいくつかは、母親譲りなのだ︱︱そう確認させられて。 何より俺の意識をとらえてやまないのは、母性92なんていう、 最強クラスと言うしかない慈悲の象徴だ。 ﹁ふふっ⋮⋮おまえは分かりやすいな。そんなに気になるのなら、 触れさせたときにもう少し意識してほしいものだが﹂ ﹁っ⋮⋮す、すみません。どうしても、大きいなと思って⋮⋮あま り見られたら嫌ですよね﹂ ﹁何を言うか⋮⋮見られるのが嫌ならば、こんなところには連れて こない。何か勘違いしているかもしれないが、私は先程まで、本気 でおまえを抱こうとしていたのだからな﹂ ︵だ、抱く⋮⋮女の人の方から、そう言われる日が来るとは⋮⋮︶ 本当に、女傑もいいところだ。しかし彼女が良いと言ってくれる からといって、胸ばかり見ていてはいけない。 いけない⋮⋮んだけど。 いけないはずなのだが⋮⋮! 1345 ミルク ︵ガーディアン⋮⋮守護スキル⋮⋮ガーディアン⋮⋮みんなを守る 力が欲しい⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮あ、あの。怒らないで聞いてくれますか﹂ ﹁怒る? 私が何を怒るというのだ。もう、怒りなど通り越してし まった⋮⋮おまえの遠慮のなさは腹立たしくもあるが、それ以上に、 好ましく思うところでもあるからな﹂ ディアストラさんは清々しい顔をして、鎧を身につけ直そうとす る。いや、胸のところに装甲がないので、身につけてもらっても構 わないのだが⋮⋮だがしかし⋮⋮! ﹁お、俺は⋮⋮ディアストラさんも、その、今以上に強くなれた方 が良いと思うんです﹂ ﹁⋮⋮フィリアネスの得た力を、私にも与えてくれるというのか?﹂ ﹁は、はい。でも、何ていうかその、俺もそういう意味では、交換 に欲しいものがあるというか⋮⋮っ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮交換条件ということか。いいだろう、何が欲しい?﹂ ディアストラさんは微笑むと、立ち上がって俺のほうにやってき た。 ﹁何か迷っているのならば、こちらに来い。ずっと立っていて疲れ ただろう﹂ ︵な、なんかめちゃくちゃ優しい⋮⋮もしかして好感度が上がって たりするのか⋮⋮?︶ ◆情報◆ 1346 名称:ディアストラ・シュレーゼ 関係:あなたに運命を感じている ︵えぇぇぇぇ!?︶ 旦那さんが亡くなって、娘さんがその意志を継いでいるという真 剣極まりない話をしていたのに、その間にガンガン好感度が上昇し、 こんなことになっているとは⋮⋮。 必死で説得した甲斐があったのだろうか。この状態なら、だいた いのお願いは聞いてもらえてしまいそうだ。 そして、俺が見た情報ログが事実を示していることは、すぐに彼 女の行動で確認できた。彼女に手を引かれてベッドに座ると、隣に 座ったディアストラさんは、こともあろうに、俺の肩に頭を寄せて きたのだ。 ﹁⋮⋮少し、疲れてしまってな。こうして誰かの肩を借りるのは、 久しぶりだ﹂ ︵⋮⋮そうか。ディアストラさんほどの女傑でも、男性の肩を借り たいことはあるんだな︶ もうその気はないはずなのに、ディアストラさんは俺に寄りかか ったままで胸元を緩める。するとこの角度からは、谷間の始まりの カーブがばっちりと見えてしまう。 全体が見えるより、少しだけ見えた方が想像力をかき立てられる 1347 のは俺だけではないだろう。しかし、よこしまなことは考えてはい けない。この人は、俺が大切に思っている人の母親なのだから。 ﹁⋮⋮それで、私が怒るかもしれないこととは、なんだ?﹂ ﹁っ⋮⋮え、えっと⋮⋮その⋮⋮す、少しでいいので、胸に触らせ てもらいたいというか⋮⋮﹂ ぴくっ、とディアストラさんが身じろぎする。まずい、怒らせて しまった⋮⋮! ﹁⋮⋮ひとつ言っておくが、フィルのことが大事なのだろう。娘も、 おまえのことを憎からず思っているどころか、信頼しきっている様 子だ。それで私に、そのようなことを頼むというのは、あまり褒め られた行為ではないぞ?﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮すみません、出来心でした、フィリアネスさんに は言わないでください⋮⋮!﹂ いきなりとことん弱くなる俺。そうだ、こんなことお願いしちゃ いけないに決まっている。いくら触れるだけとはいっても、好感度 が高くても、お願いしてはいけない相手もいるのだ。 フィリアネスさんが大事だという気持ちを、ディアストラさんも 理解してくれたので、俺に好意を持ってくれているのに⋮⋮それを 裏切るようなことをしたら、怒られるに決まってる。 ﹁しかし⋮⋮私はフィルに対して優しくしてやることはまだできな いが、おまえになら任せられる。つまりそれは、私とおまえは、秘 密を共有する関係ということだ﹂ ﹁は、はい⋮⋮でも俺、フィリアネスさんには言いますよ。お母さ んが、本当はどう思ってるのか﹂ 1348 ﹁⋮⋮そうか。娘も言うことを聞かなければ、その相手も⋮⋮とい うことか。似たもの同士なのかもな、おまえたちは﹂ ディアストラさんは苦笑しつつも、絶対に俺の告げ口を止めると まではいかなかった。 言うのならば、言えばいい。そう開き直った彼女は︱︱今までで 一番、母親らしい顔をしていた。 ﹁どちらにせよ、私はおまえに力を与えてもらいたい。そんなこと が出来るのは、もはや神のみわざと言わざるを得ないが⋮⋮この身 体を鍛えあげても辿り着くことが出来ぬとあきらめた境地に行ける というのならば、私も武を志した者として、一も二もなくそれを求 める。どんな代償を払おうとも﹂ ︱︱それは、フィリアネスさんが考えていたことと同じだ。成長 に限界を感じれば、誰もが思う、この殻をどうしたら破れるのかと。 ﹁⋮⋮分かりました。俺も同じ理由で、自分にない力を求めてるん です﹂ ﹁それを、私からおまえに与えられるとでもいうのか?﹂ ﹁はい。あることをしてもらえば⋮⋮﹂ 躊躇すれば、逆に不信感を与えてしまう。俺は本当に久しぶりに、 交渉術スキルを一つずつ使っていく。 ◆ログ◆ ・あなたは︽ディアストラ︾に﹁依頼﹂をした。 ・︽ディアストラ︾は頬を赤らめた。 1349 ﹁⋮⋮それは、怒らせるかもしれないと思うわけだ。しかし、それ でおまえは、何かを得ることができるのだな﹂ ﹁す、すみません⋮⋮﹂ ﹁私がまだ母親として現役だと思っているわけではあるまいが⋮⋮ しかし、おまえができるというなら、できるのだろうな。私の母と しての力を、お前に与えることが﹂ 俺が根拠にしているのは、あくまで﹁母性﹂の数値だ。20を超 えた瞬間、世界が変わる︱︱俺にとって。 ﹁⋮⋮いいだろう。しっかりとした意味があるのならば、私もむげ に断りはしない﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、俺がスキルをあげるだけでもいいです。交換な んて、ほんとはおこがましいっていうか⋮⋮普通ダメだって分かっ てますから﹂ ﹁何を言うか、これはおまえにとって必要なことなのだろう? 遠 慮することはない。先ほどはああいったが、あれは私もいちおうフ ィルの母なのだから、諭しておくのが筋だと思っただけだ﹂ ︵一度気を許してもらうと、すごく優しい⋮⋮や、やばい。身体が 大きくなったのに、甘えたい気持ちが⋮⋮︶ 成長したフィリアネスさんというほどそっくりではないけれど、 想像はしてしまう。お母さんになったフィリアネスさんは、今のデ ィアストラさんと同じかそれ以上に、慈愛に満ちているのだろうと。 ﹁⋮⋮し、しかし、私も夫を亡くしてから、それなりに時間が経っ ているのでな⋮⋮こう、改めて頼まれると、それなりの心構えが必 1350 要になる⋮⋮触れるだけといっても、ふだんすることのない関わり なのでな﹂ ﹁す、すみません。じゃあ、日を改めても大丈夫です。俺、三顧の 礼は得意ですから﹂ ﹁い、いや。日を改めれば、それこそ次の機会がいつになるか分か らない。私も立場があるので、簡単におまえに会いに行くわけにも いかぬのでな⋮⋮決行するならば、今がいいだろう﹂ ﹁あっ⋮⋮い、今からで、ホントに⋮⋮っ﹂ 本当にいいんですかと言う前に、ディアストラさんは俺に背を向 け︱︱そして、最後の装備を外していった。 ◆ログ◆ ・︽ディアストラ︾は防具の装備を解除した。 布鎧を上から脱いでいくと、白い肩があらわになる。背中を向け ているから見えないだけで、振り返れば、上半身を覆うものは何も ない。 彼女が言っていた通り、この部屋の高い位置にある窓を開いたな らば、それは幻想的な光景になるのだろう。昼の光の下でも、その 金色の髪に見事に天使の輪ができて、髪の先までさらりと煌めきが 流れていく。 ゆっくりと胸を押さえたままで振り返った彼女を見て、俺は、迫 られていた時に感じなかった感情を覚えていた。 1351 ﹁⋮⋮本当なら、何もせずに行かせるべきなのだろうが。私は元か ら、できた母親ではないからな﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 手を外した途端に、金色の髪がさらりと流れて、白い坂を滑り落 ちていく。 金色の髪の間からわずかに顔を出したその部分は、桃のように色 づいている。俺は思わず喉を鳴らし、それを見たディアストラさん は、こともあろうに、最後の覆いとなっていた金色の髪を、自ら後 ろに流してしまった。 それを見た俺は、大きいということが正義なのだと悟った。小さ くてもいいところが確かにある、存在するだけで幸せな気持ちにな る、そんな理想論を圧倒的な質量が押しつぶす。 ﹁⋮⋮鍛えればふつう小さくなるものらしいのに、なぜか大きくな ってしまう。泣き言は言いたくないが、戦うにはあまりにも邪魔だ。 娘も私によく似てしまった⋮⋮さぞ、私のことを恨んだだろう﹂ ﹁フィリアネスさんは、一度もお母さんの話はしませんでしたよ。 好きだとも、嫌いだとも言ってませんでした﹂ ﹁そうか。そうだろうな⋮⋮あの子は、そういう子だ﹂ 優しく微笑みながら、ディアストラさんは視線で俺に触れること を許してくれる。俺は手に意識を集中し、光輝き始めたディアスト ラさんの胸にそっと触れた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽ディアストラ︾から﹁採乳﹂した。 ・﹁守護﹂スキルが獲得できそうな気がした。 1352 一度目ではスキルは上がらない。俺が少し物足りなさそうにして いるのを察したのか、ディアストラさんも少し申し訳なさそうにす る。 ﹁⋮⋮大きな子供をあやしているようで、少し照れるな⋮⋮そうい う趣味はないと思っていたのだが⋮⋮﹂ ディアストラさんは俺をベッドに連れていくと、俺を先に寝かせ て、彼女も向き合うように寝そべる。 ﹁しかし、おまえならば、息子と同じ⋮⋮いや、まだ娘に何も言っ ていないのに、そんなことを言う資格はないか⋮⋮しかし今は秘密 で、愛でてやろう﹂ ディアストラさんは自分から、胸に手を添える︱︱そして。 ◆ログ◆ ・︽ディアストラ︾は﹁搾乳﹂をした。 まさか、自分から搾りだしてくれるなんて︱︱俺はそれを手で受 けて、ありがたく飲ませてもらう。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁守護﹂スキルを獲得した! あなたは目に映る全てを 守ると誓った。 ︵やった⋮⋮!︶ 1353 ﹁ふぅ⋮⋮うまくいったようだな。わかっていると思うが、フィル の他には、おまえが初めてだ﹂ ﹁考えてみればそうですよね⋮⋮俺、やっぱり酷い奴かもしれませ ん﹂ ﹁そんなことはない。いくつになっても、気に入った男に求められ るというのは嬉しいものだ。私は少なくともそう思うがな﹂ ︵何を言っても、絶対に許してくれる気がしてきた⋮⋮こんな人が フィリアネスさんをぶったなんて、今にしてみると信じられないぞ︶ ﹁あ、あの。もしかしてフィリアネスさんを叩いたこと、後悔して たりしませんか﹂ ﹁⋮⋮それは、娘が私の気持ちを理解しようとしないからだ。魔王 を撃退したことも褒めてやりたくはあったが、同時に、なぜそんな 危険を冒すのかという気持ちもあった。娘に対しては⋮⋮私は、ど うしていいのか分からなくなる。私ではなく、今はもういない夫ば かりを思慕しているようで⋮⋮﹂ ﹁そんなことないですよ。ほんの少し歩み寄るだけでいいんです。 次は、考えてることを少しでも素直に言ってあげてください﹂ 遥かに年上の相手に教え諭すというのも、本来は遠慮すべきこと だが、言わずには居られなかった。 彼女はしばらく考えているようだったが、俺の胸に手を置くと、 撫でながらつぶやく。 ﹁⋮⋮いつの間にか、立場が逆転している。私が、おまえに説教を されるとは⋮⋮しかし、悪い気はしないな﹂ ﹁ありがとうございます。本当は、怒られないかビクビクしてます からね﹂ 1354 冗談めかせて言うと、彼女も楽しそうに笑う。もはや、完全に打 ち解けたと言っていいだろう。 一刻も早くフィリアネスさんの後を追いたい気持ちはあるが、ス キルをくれたディアストラさんには、俺からもお礼をしなければい けない。 ﹁今度は、俺の方ですね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いや。今は、まだいいだろう﹂ ﹁え⋮⋮でもさっきは⋮⋮﹂ 立場上、簡単に会うことはできないから⋮⋮と言っていたのに。 心境の変化があったんだろうか。 ﹁これ以上、引き止めるのも娘に悪い。ただでさえ、当て付けのよ うな形でおまえを連れてきてしまったからな。あまり趣味の悪いこ とをするものではないと、自分に言い聞かせておかねばな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮分かりました。やっぱり、あなたはフィリアネスさんのお母 さんだ﹂ ﹁⋮⋮性格が悪い母親、の間違いではないのか? 初めはそう思っ ただろう。自分でもそう思うのだから、無理もない﹂ 全部自覚していて、あんな振る舞いをしてたのか⋮⋮そこまでし て、演じる必要はないのに。 俺が﹃円卓﹄に加わることが出来れば、この国を守る役割の一端 を担えれば。ファーガス王と並んで、この国を背負ってきた彼女の 重責を、軽くすることができるだろうか。きっとそうすれば、ディ アストラさんとフィリアネスさんが和解する日も遠くはない。 1355 ︵俺が仲を取り持つことが出来ればな⋮⋮そう、簡単にもいかない か︶ ﹁俺がフィリアネスさんに本当のことを言っても、ディアストラさ んは、今まで通りでいるつもりですか?﹂ ﹁⋮⋮ここでおまえと話したことで、もう変わっている。おまえが 居なければ、私は今まで通り、魔王と戦おうとするフィルに怒りを ぶつけることしか出来なかった。しかし⋮⋮これからは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮一緒に、お父さんの遺志を継ごうと言ってあげてください﹂ ディアストラさんはベッドの上で身体を起こす。そして、頬に伝 った涙を拭った。 ﹁もう、行くといい。私も後から行く⋮⋮ルシエの一行が首都を周 り終えて、そろそろ王宮に戻ってくる。彼女の晴れ姿を、見てやっ てくれ﹂ ﹁はい。ありがとうございました、ディアストラさん﹂ ﹁⋮⋮そんな挨拶で別れることになるとは、ここに来るときは思っ てもみなかった。おまえは、不思議だな﹂ 布鎧を着直しながら、ディアストラさんが言う。全ては交渉術の 力だとサムズアップしたいところだが、今はただ一礼して部屋をあ とにした。 ◇◆◇ 中庭が見えるバルコニーに向かうと、皆が観覧席に座り、既にル シエが演壇に立ったところだった。 1356 観覧席にいるのは、ウェンディ、麻呂眉さん、モニカさん、リオ ナ、ミルテ、ステラ、アッシュとディーン、そしてミコトさんとフ ィリアネスさんの姿もあった。ユィシアは上空から見るとのことで、 遥か高高度の空から見下ろしている。 フィリアネスさんの頬の赤みはもう引いていた。マールさんとア レッタさんが傍にいるから、きっとアレッタさんが手当てしてくれ たんだろう。 式典に出るためのドレスを着て髪を結い上げた彼女は、その横顔 に見とれるほど綺麗だった。その視線に気付いても、彼女は少しさ びしそうに微笑むばかりで、俺のところに来てはくれない。 ﹁王女さま、きれい⋮⋮﹂ 隣に座ったリオナが、憧れるようにつぶやく。ルシエはリオナよ り2歳上だが、王家のティアラを身につけ、光沢のあるビロードの ドレスを身にまとったルシエは、歳よりも一回り大人びて見えた。 彼女は話し始める前に俺の方を見やると、微笑んでくれたように 見えた。その度胸には驚かされる⋮⋮中庭に集まった貴族、騎士団 の重鎮といった人々の視線を一身に浴びて、それでも落ち着いてい るのだから。 ﹁ルシエ殿下⋮⋮ああ⋮⋮﹂ 自分のことのように緊張しているイアンナさん。ルシエはひとつ 息をつくと、よく通る声で話し始めた。 ﹁このたびは、お集まりいただきありがとうございます。イシュア 1357 神殿において洗礼を受け、王族としての名を与えられました、ルシ エ・リシエンセス・ジュネガンと申します﹂ 俺たちとは違う、もう一つの観覧席︱︱王族が座る席に、ファー ガス王の姿がある。威厳を感じさせる風貌はさすがというところだ が、彼はルシエの姿を見て、その瞳を潤ませているようだった。 ﹁私は現在に続くジュネガン公国の祖である、西王家の出身です。 西王家の開祖、ファーガス一世に助力した勇者たちのうち、ひとり の血を引いております﹂ ただ、ルシエが王族として認められたことを祝う場である︱︱そ う思っていただけの人々が多いことは、見ればわかった。 何の話が始まるのか︱︱それを予測できているのはおそらく、フ ァーガス陛下やディアストラさんと一緒に円卓を囲んだ人間と、そ して俺⋮⋮あとは、フィリアネスさんだけだった。 ﹁⋮⋮皆さんに、悲しいお知らせをしなくてはなりません。公国南 部を統治されていたグールド公は、魔王リリムに操られ、私の身を 脅かそうとしました。彼は、リリムによって命を奪われ、その亡骸 を操られていたのです﹂ 集まった人々の誰もが驚愕を顔に出す。祝い事の場に似つかわし くない、人々にとって恐怖の意味しか持たない﹃魔王﹄という言葉、 そしてグールドが没していたという事実が、会場の空気を凍りつか せる。 ルシエにはまだ、こんなことを話させるのは重すぎるのではない か︱︱なぜ、ファーガス陛下はこんな話をさせるのか。 1358 そんな俺の考えは、ルシエ自身の言葉で杞憂に変えられた。 ﹁この国はこれまでも、これからも、魔王に決して屈することはあ りません。私は成人した暁には、ファーガス陛下のあとを継ぎ、王 の冠を戴きます。私の治世で、魔王との戦いが終わるのかは分かり ません。しかし、いつかそうなるよう、私を救ってくれた方々の力 をお借りして、戦ってゆきたいと思っています﹂ 大人しく、奥ゆかしくて、そんな大胆なことは言えない女の子だ と思っていた。 ︱︱それは、俺の思い込みだった。ルシエは女王になるにふさわ しい器の持ち主だった。 演壇の上から、集まっている人々と一人ひとり目を合わせ、怖気 づくことなく、決意を口にする︱︱それも、彼女が臣民を本気で案 じているからこそできることだ。 ディアストラさんは、そんな彼女を支える副王となれと言った。 ルシエ自身も、魔王と戦う力を持っている︱︱魔杖を持つことが 出来るのだから。三つの武器を使うことが出来れば、きっと、魔王 との戦いは終わらせられる。例え何度復活するとしても、一時の安 寧は得られるはずだ。 ︵⋮⋮リオナの魔王化は進んでない。それに、リオナは俺を守るた めに力を使った⋮⋮だから、大丈夫だ︶ ﹁ヒロちゃん⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮少しだけ、こうさせてくれ﹂ ﹁うん⋮⋮わかった。ヒロちゃんの手、あったかい⋮⋮﹂ 1359 俺は隣に座るリオナの手を握っていた。目に映る全てを守ると誓 う︱︱﹁守護﹂を手に入れたときの文言が、もう一度俺の脳裏によ ぎっていた。 1360 第四十一話 前編 救国の英雄/宴の始まり 王宮の中庭に集まった二千人近くの人々は、もはやルシエの言葉 の一言一句に、緊張しながら聞き入っている。咳払いすらも躊躇わ れるような静寂の中、ルシエの隣に控えた侍女たちは、照りつける 日差しを和らげるために魔術を唱え始めた。 ◆ログ◆ シェルスクリーン ・︽リアンナ︾、︽ミアンナ︾の合体詠唱! ﹁安らぎの天蓋!﹂ ・二人での詠唱に成功! 魔術の効果、効果時間が強化された。 ﹁お姉さま方⋮⋮ああ、私も魔術をもっと修練していれば、あの場 でお仕えできましたのに⋮⋮﹂ 名前からそうではないかと思ったが、侍女二人はイアンナさんの お姉さんたちらしい。合体詠唱を使うとは、どうやら二人は優秀な 術師のようだ。 ︵おっと⋮⋮つい見入ってしまった。今はルシエの話を聞くときだ︶ 安らぎの天蓋に包まれたルシエは、着ている衣装の壮麗さも相ま って、見る人を魅了する。赤い髪を結い上げ、洗礼の儀式でつけて いたものと同じ宝石を散りばめたティアラを身につけたその姿は、 十歳という幼さを忘れさせるほどに、紛うことなき貴人の気をまと っている。 1361 ﹁そして、私はこの場で申し上げておきたいのです。魔王リリムの 呪縛からグールド公を解き放ち、私に洗礼の儀式を受けさせ、ここ に導いてくれた方が、今この場で見てくれています﹂ ルシエの言葉が指しているのは、フィリアネスさんのことだろう と俺は思った。しかし彼女の方を見やっても、フィリアネスさんは 俺と目を合わせてはくれるものの、すぐにルシエの方に視線を戻す。 彼女がそうした意味は、すぐに分かった。ルシエは、後方にいる 俺たちの観覧席を振り返ると︱︱フィリアネスさんではなく、間違 いなく俺を見て、そして言った。 ﹁⋮⋮我が公国の誇りである、聖騎士フィリアネス様。そして、彼 女の従騎士であるマールギット様、アレッタ様⋮⋮彼女たちと、そ して他の仲間を率いて戦った、類まれなる勇気と、武勇を併せ持つ お方⋮⋮﹂ ここで、皆の前に存在を示すことになるとは思っていなかった。 しかし、別の観覧席に居るファーガス陛下も、その近くに姿を見 せたディアストラさんも、事前に知っていたようだった。距離があ ってはっきり見えなくても、二人が動揺していないことくらいはわ かる。 まだ、俺が特異な力を持っていることは皆には伏せておくべきだ ︱︱特にユィシアを味方につけていることは、知れば彼女にとって、 厄介事を招く可能性がある。人に従う雌皇竜という、ともすれば国 を牛耳ることが出来るほどの力を持つ存在を、出来るものなら利用 したいと思う者はいるだろう。 1362 ︱︱しかし俺は、領地を与えられることになっている。余りある 褒賞だという思いもあったが、絶対に固辞しようとも思っていない。 領主になることで、出来ることは飛躍的に増えるのだから。 それなら俺の素性の全てを明かすことはなくても、ヒロト・ジー クリッドの旗を上げるというなら、人々に名前を知ってもらうのは 早い方がいい。 ルシエは俺に、意志を問うように視線を向けてくる。俺はこの距 離からでも、彼女に﹁依頼﹂することができる︱︱俺の名前を、皆 に告げるようにと。 その名を口にすることすら、彼女は緊張しているように見えた。 震えるような呼吸をしてから、そして、どうしてもそうせずにはい られないというように、祈るように胸の前で両手を重ねる。 ︵まるで、崇められてでもいるみたいだ⋮⋮いや。俺に﹃授印﹄を 託した女神への祈りか︶ 俺に対する畏敬を感じさせるルシエの姿に、見ている人々も影響 されている。しかし、十四歳相当の俺を見ると、少なからず驚いて いる人が多かった。 ﹁あの少年が、聖騎士殿を率いて戦った⋮⋮? そ、そんなことが ありえるのか⋮⋮?﹂ ﹁王女様は、それを私たちに信じろとおっしゃるの⋮⋮?﹂ ずっと静まり返っていた貴族の男女が、驚きを口に出す。無理も ない、ある程度かしこまった格好をしているとはいえ、十分準備が 出来てなかったから、俺の服装は庶民の域を出ていない。 1363 準備して、鎧か礼服でも着てくるべきだったか。髪だって伸びき っているし、今の俺は、人々がイメージする﹃救国の英雄﹄とは程 遠い姿であることは間違いない。 しかしこんな時こそ、みんなを安心させるためにも、使えるスキ ルは使うべきだろう。方法は問わず、皆の信頼を得ることが、マイ ナスに働くことはまずないのだから。 ︵本来は、こういうときのために使うスキルなんだよな⋮⋮若いっ てことが、マイナスにならないために︶ ﹁彼の名は、ヒロト・ジークリッド︱︱﹂ ルシエが俺の名を口にした瞬間、俺はあのスキルを発動させる︱ ︱赤ん坊の頃から数えきれないほど世話になった﹁カリスマ﹂を。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁カリスマ﹂をアクティブにした。 ・周囲にいる人物の全てが、あなたに注目した! リストを確認し ますか? YES/NO 軽い気持ちで使ったわけではなかったが、その変化は凄まじかっ た。俺に対する半信半疑の視線は消えて、若造である俺を低く見る 人は一人も居なくなっていた。 その空気の変化にルシエも気がついているようだった︱︱いや、 1364 俺ならばそうなってもおかしくないと信じてくれているのか。どち らにしても、彼女は微笑み、安堵しているように見えた。 ﹁ヒロト様は、かつて騎士団で将来を嘱望された斧騎士・リカルド 殿のご子息であり、我がジュネガン公国を支える貴族家のひとつ、 クーゼルバーグ伯爵家の血を引く方でもあります﹂ まず父さんの名前が出たところで、警備に当たっている騎士たち 全員が俺を見る目も変化する。 そしてクーゼルバーグという単語は、決定的なものとなった。 ﹁クーゼルバーグ⋮⋮﹂ ﹁伯爵家の⋮⋮あの方が⋮⋮﹂ ﹁リカルド殿のご子息が、公国のために⋮⋮なんと勇敢な⋮⋮!﹂ 老若男女を問わず、この場にいる誰もが驚きを隠せないでいる。 俺の両親の素性を詳しく知らなかった仲間たちも、驚きの視線を向 けてくる。 そしてルシエがそこまで話したところで、ファーガス王が動いて いた。彼は俺たちと別の、王族のための特別な観覧席にいて、厳か に席を立つ。するとディアストラさんが横に控えて、注目するよう 皆に呼びかけた。 ﹁ルシエ殿下、ここからは陛下がお話を引き継がれます。皆も、陛 下のお言葉に耳を傾け、清聴するように﹂ ディアストラさんの言葉に頷き、ルシエがファーガス陛下の方を 向く。ファーガス陛下は眼下の中庭を埋め尽くした人々を睥睨し、 何度か頷いたあと、俺に視線を向ける。 1365 その目は鋭く、何かを俺に訴えかけているように見えた︱︱それ とも、覚悟を問うているのか。 俺はただ、その場で頭を下げる。それが、この国に生まれた人間 としての当然の礼儀だからだ。 ﹁皆の者、今日は我が娘ルシエの姿を見届けてもらい、まずは礼を 言わせてもらう。公国の未来を担う若き貴族よ、騎士たちよ。その 才と力を、どうか次代の女王のために振るってもらいたい﹂ ︱︱公王じきじきに、後継者が指名された。 ファーガス陛下は至極当然で、議論すべきことですらないかのよ うに、それを口にした。 ﹁ルシエは公国の祖である西王家の血を引いている。私は東王家の 出身で、ルシエが王族として認められるまで王座を守っていたに過 ぎない。魔王に対抗する力を持つ西王家こそが、ジュネガンの統治 者であるべきなのだ。我が娘には、必ずそれができると信じている﹂ 低く威厳のある声が響く。ファーガス陛下は壮年に差し掛かって いるが、その巨躯から放たれる気迫には、見る者を圧倒する力があ る︱︱ディアストラさんの話から受けたイメージと、実際に見る王 の姿は、必ずしも一致してはいなかった。 ︵こんな立派な王様が、王位を迷いなく娘に譲る気でいるっていう のか⋮⋮︶ 口の周りを覆う白い髭。ルシエがまだ十歳ということは、ファー ガス王にとっては、かなり遅くに生まれた子供ということになる。 1366 ﹁我が嫡子である王子には、もとより私の直轄領でもある公国東部 を与えることになる。これは王妃とも話し合い、決めたことだ﹂ ざわめきが一瞬広がりかけ、すぐに静まる。一部の貴族が王の言 葉に反応していたが、王の傍らにいる王妃の表情を見るだけで、王 の言葉に偽るところがないことを悟る。 正室との間に生まれた王子と、側室との間に生まれたルシエなら ば、王子の方が継承権は上だろう︱︱しかし、どうやら公国におい ては、そうでなくなる例外があるということだ。 ﹁公国を統治する者は、西王家の血を引いていなくてはならない。 それもまた、魔王に対抗するために必ず必要とされることなのだ。 ルシエが王族として認められた今、彼女を女王とする以外に、公国 にとっての正しき選択は存在しない。王子はまだルシエよりも幼く、 身体もさほど強くはない。そして魔王と戦うための、選ばれた力も 持ってはいない。魔王との戦いに求められるものは、資質と強さな のだ﹂ それは王子を突き放しているようにも聞こえるが、重要なのは﹁ 幼い﹂ということ、そして身体が強くないということだ。親として は、例え王族の果たすべき義務があるとしても、子供に無理を強い ることはしたくないだろう。 ディアストラさんも同じだ。フィリアネスさんを案じる余りに、 すれ違ってしまった。その溝を埋めるために、俺に何ができるだろ うかと、今もずっと考え続けている。 ﹁グールド公を闇の道へと引きずりこんだ魔王リリムの脅威は、公 国が百年の繁栄を得るためには、何としても根絶しなければならな 1367 い。リリムだけではない、他の魔王たちも、復活の時を今か今かと 待ち望んでいる。奴らの中には既に目覚めており、魔界からこちら の世界を窺っている者もいるという﹂ ︵魔界⋮⋮魔王は、そこから来た⋮⋮そうか。魔物は、魔界に通じ る﹃巣﹄を通じてこちらの世界にやってくる。俺は魔界が、行けな い場所だと思い込んでただけだ︶ 魔物の世界は存在している。ゲーム時代には実装すら仄めかされ ていなかった部分が、次々と開けていく。その感覚に鳥肌が立つ。 恐れているわけじゃない。知らないことを知ることが嬉しくもあ り、これから始まる戦いの壮絶さを思うと、武者震いがくるという だけだ。 ﹁公国は、魔王と戦う勇士に、最大限に報いていく。聖騎士フィリ アネスの功績に報いて領地を与えたように、私は王として、ヒロト・ ジークリッドに、相応の褒賞を持って報いたいと思っている。成人 となる前にこのような待遇を与えるのは前例に無いが、彼の功績自 体が前例を見ないほどに大きいのだから、それは問題にはなるまい。 既に領主である聖騎士を率いて戦ったことでも、彼に統治者の資質 があることは明らかだ﹂ ︱︱そこまで言うのか。 俺という存在を、ジュネガン全土に知らしめようという王の気持 ちには、恐らく裏などないだろう。俺が、魔王と戦わざるを得ない こと、それを望むだろうことを確信しているだけだ。 しかし俺は、魔王を全て倒さなければならないと考えることは出 来ない。リリムにしても、未だに交渉の余地はあると思っている︱ 1368 ︱リオナを前にして見せた人間らしい心の機微を見ただけで、対話 できると期待するのは、あまりに甘いのかもしれないが。 気づくと、俺の手に、リオナが小さな手を重ねていた。彼女は大 きな瞳に俺を捉えている。 そうやって勇気づけられた遠い記憶が蘇りかけて、薄れていく。 大切なのは今だ、という思いが湧く。今俺を案じてくれているの は、陽菜ではなく、目の前に居るリオナなのだから。 逆側から袖を引かれて、ミルテも傍に来ていることに気づく。彼 女の猫を思わせる瞳には、不安の色が隠せなかった。 ﹁ヒロちゃん、私知ってたよ。ヒロちゃんが、すごいんだっていう こと、王様よりずっとまえに、分かってたよ﹂ ﹁⋮⋮私も、分かってた。でも王様は、こわいことも言ってる。魔 王と戦うって⋮⋮﹂ リオナとミルテは王の話の内容を理解している。これから何が起 きて、俺の周囲がどう変化していくのかも。 彼女たちからは、俺についてきてくれるという強い気持ちを感じ る。しかし身体が大きくなって思うことは、ふたりを肉親から離れ させるには、まだ早いのではないかということだった。 ﹁⋮⋮大丈夫だ。何も、心配しなくていい﹂ 二人の肩に手を置き、俺は陛下の視線に応じる。そうすることで、 自分が果たすべき義務があると分かっていた︱︱前世の俺なら、き っとその重みから、尻尾を巻いて逃げ出しただろう。 でも、今は違う。ここにいる全ての人の迷いも、期待も、全て受 1369 け止める︱︱それでも俺は俺らしく、自分のしたいようにやってい く。重圧に潰されたりもしないし、責任から逃げることもない。 ﹁では⋮⋮ヒロト・ジークリッド殿。この国を救った英雄よ。その 声を、皆に聞かせてもらいたい﹂ ﹁はい。承りました、陛下﹂ 席を立ち、俺は前に出て、中庭に向けてせり出した半円状のバル コニーに進み出た。 そこから見える景色は、壮観としか言いようがなかった。会食の ために使われるだろう、中庭に出された無数の小さな円卓の周りに、 正装した貴族と騎士たちが立って、こちらを見上げている。 ︵落ち着け⋮⋮っていうこともないか。ゲームでは、むしろ目立つ ことが日常だったんだ︶ エターナル・マギアにおけるトップギルドのマスターとして、G VG世界大会の選手宣誓をしたときの方が、よほど緊張した。世界 中の数十万のプレイヤーが、俺の発言に注目していたのだ。 そう開き直ると、不思議と、言葉はすらすらと頭に浮かんできた。 もし失敗したらなんてことは、まったく考えなくなる︱︱プレッシ ャーが、俺の中から影も形もなく消えていく。 ◆ログ◆ ・あなたの交渉スキルレベルを元に、演説の成功判定が行われた。 ・あなたの演説は、﹃約束された成功﹄を手にした! 1370 ﹁皆様におきましては、初めてお目にかかります。私の名はヒロト・ ジークリッド、西部のミゼールという町の生まれでございます。此 度は友人の商隊の護衛のため、この首都に参じました﹂ 始まりは、アッシュの商隊を護衛するためだった。ルシエに出会 い、彼女を洗礼の神殿に送り届け、黒騎士団と戦い︱︱そして、魔 王と戦った。 長い旅ですらない、数日の出来事だ。しかし、ユィシアと戦って 以来の、凝縮された時間だった。 思えば遠くに来てしまった。そう言えば、きっと皆は笑うだろう。 何を大げさなことを言っているのかと。 俺は父さんと母さん、町の人達の顔を思い出していた。ただ、無 性に懐かしいと思った。 ﹁しかし首都に来る途中で縁あってルシエ殿下の一行と出会い、護 衛を務めさせていただくことになりました。聖騎士殿、ならびに彼 女の部下の方々の助力もあり、無事に殿下をお連れすることができ ました。それは公国の民として果たすべき当然の義務であり、陛下 のお言葉は、本来ならば身に余るものです﹂ 誰もが俺が何を言うのか、言葉のひとつひとつに意識を傾けてい る。聞いてもらえているだけで俺がどれだけ安堵しているかなんて、 誰も気づきはしないだろう︱︱仲間たちを除いては。 ﹁ですが、グールド公爵を影から操り、この国を脅かそうとした魔 王と対峙することで、魔王をこのままにしておくことは決してでき ないと感じました。それは父から戦士としての誇りを受け継いだ私 1371 が、生まれた時から与えられた義務なのだと思ってもいます﹂ それは勿論、後付けの理由でしかない。しかしただの村人の俺が 世界を救おうとしているのだと言うよりも、公国騎士の血を引く人 間だと言うほうが、人々は安心することが出来る。 誰も知らないままに魔王と戦い、世界を救うということも考えら れる。だが俺はこの世界に来て、領土を与えられると言われた時、 こう思わずにいられなかった。 ︵俺は自分にやれるだけのことをやりたい。良い領地を作るってい うことも、その一つだ。ミゼールのみんなが、もっと良い暮らしが 出来るように、領主になることで出来ることが多くあるはずだ︶ そう︱︱俺がまず欲しいと思う領地は、それは自分が生まれたあ の町を含む、公国西部だ。 そのためにするべきことはやる。全てはまず、公国が平和になっ てからだ。 ﹁魔王リリムは、グールド公爵を不死の呪縛から解き放ったあと、 姿を消しました。皆さんに不安を与えるようですが、リリムの脅威 は終わっていない。魔王の存在による憂いを完全に無くさねばなり ません。それまで私は、これまでと同じように動き続けるつもりで す。どうか、その我がままを、許していただきたいのです﹂ 俺はそこまで言って深く頭を下げた。仲間たちも、そうしてくれ ていることが感じ取れた。 観衆の囁く声が聞こえてくる。それは俺を非難するものではなく、 驚嘆を呆れ混じりに口にしたものばかりだった。 1372 ﹁魔王を撃退した功績だけで、もはや他に並ぶ者はないというのに ⋮⋮﹂ ﹁それでも戦い続けるというのか。それを、我がままとは⋮⋮﹂ ﹁信じられぬ。無謀⋮⋮いや。これこそを、勇敢と言うのか﹂ 地方を治めている領主だろう貴族たちが、口々に言う。信じられ ないのも無理は無いだろうと、顔を上げたあと、俺は思わず苦笑し てしまう。 最後までかしこまったままでは居られなかったが、仕方がない。 今日は何より、ルシエの晴れ舞台︱︱祝うべき時なのだから。 ﹁⋮⋮とまあ、格式張った言い方をしてきましたが、つまり、俺た ちはこれまで通りやりたいようにやります。本当は誰のためでもな い、自分たちの大事な場所を守るために、魔王のことを何とかしな きゃならない。皆さんには、魔王に対する心構えこそしていてもら いたいですが、戦うことを強いることはありません。でも、協力し てくれるなら、それはそれで助かります。公国は広く、俺たちがま だ知らないこともいっぱいある。もし、魔王に対する情報に心当た りがあったら、こっそり教えてください。俺が信用出来なければ、 フィリアネス殿に言ってもらっても構わない。彼女を信用できない なんて人は、この国にはいないはずです﹂ 出来る限り明るく、何でもないことのように俺は言った。しかし 誰も笑いも、呆れもしなかった。 フィリアネスさんを見やると、彼女は頷いて、俺の隣に来てくれ た。麗しい金色の髪が、陽光を浴びて煌めく。 1373 こんな時でも綺麗だと思わずにいられない。先ほどの涙が嘘のよ うに、彼女は凛として、まっすぐ目の前の人々を見つめていた。 ﹁私はヒロト殿と、これまで共に戦ってきた。彼の言うことは全て 真実だ︱︱ディアストラ卿、そして円卓会議の出席者にも、彼がル シエ殿下を守る上でどのような功績を挙げたのかは報告している﹂ フィリアネスさんはディアストラさんの方を見はしない。しかし、 ディアストラさんは、よく通る声を響かせる娘の姿を見ている。そ こにある感情は、容易に推し量ることの出来ないものだと思えた。 ﹁公国に捧げた剣に誓おう。私はヒロト殿と、そしてその仲間たち と共に、この国に平和をもたらすために尽力する。魔王の脅威は、 確かに存在する︱︱国を守る騎士、そして領主の方々には、備えは していてもらいたい。しかし、民が何も知らぬままに全てを終わら せることも理想だと考えている。くれぐれも、不安を民の間にいた ずらに広げることのないように。ここに集まった方々は、皆それが 出来る度量の持ち主だと思っている﹂ どこまでも軍人らしく、力強い言葉だった。式典のための衣装を 着た彼女は、貴族の女性と並んでも比肩しうるものがないほど可憐 だというのに、男性も女性も、その姿と言葉に鼓舞されていた。 聖騎士が、公国にとってどのような存在か。俺はそれを確認させ られ、どれだけ凄い人が、ミゼールという田舎町に足繁く通ってく れていたのかと、自分の幸運を自覚する。 父さんが魔剣の護り手にならなかったら、この運命は訪れなかっ た。ゲームとは違う本物の異世界の運命で、この立ち位置を与えら れたことに、俺は一時は感じていた怒りも忘れ、女神に感謝しても 1374 いいと思えた。 ︱︱どこかで、誰かが笑っているような気配がする。あの女神は いつでも、俺を見ているのだと思える。 ﹁しかし今は、魔王を撃退し、こうして無事に祝祭の日を迎えられ たことを喜びたい。ルシエ殿下に、改めて祝いの言葉を述べさせて いただく。これより始まる殿下の前途が輝かしいものであるよう、 常にお祈りしています﹂ フィリアネスさんはそう言って、ルシエに向けて頭を下げる。ル シエは涙を抑えきれずに、目元を拭っていた。 そしてルシエの様子を気遣ったファーガス王が、代わりに話し始 める。それだけで、彼が娘をどれだけ想っているのかは十分に伝わ ってきた。 ﹁皆にはふたりの言葉を胸に留めておいてもらいたい。そしてフィ リアネス殿が言うとおり、今日はどうか、ルシエの明るき日を祝っ てもらいたい﹂ 王が言い終えると、聴衆は誰とも言わず頭を下げる︱︱俺たちも、 それに倣う。 顔を上げたとき、ファーガス王、王妃、そしてディアストラさん たちは、観覧席から姿を消していた。人々の緊張が解け、侍女たち が忙しく動きまわり始める。宴が始まったのだ。 ﹁はぁ∼、緊張した∼⋮⋮でもヒロトちゃんも、フィリアネス様も、 かっこよすぎました! 私の中では百二十点満点です!﹂ ﹁さ、採点するとか、なぜ上から目線なんですか⋮⋮﹂ 1375 ﹁ふふっ⋮⋮二人とも、いつもの調子で何よりだ﹂ フィリアネスさんは笑っているが、少し元気がないように見えた。 俺は声をかけずには居られなくなる。 ﹁フィリアネスさん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ヒロト。陛下とルシエが、どんな話をするかは、母から聞い ていたのだろう?﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。でもそれは、今はいいんだ。俺は、フィリアネ スさんと話が⋮⋮﹂ 話がしたい。フィリアネスさんは、それを最後まで言わせてはく れなかった。 ﹁済まない。恥ずかしいことだが、人の前に立つことには慣れてい ないのでな⋮⋮少し疲れてしまったようだ。ヒロト、せっかくの宴 だ。おまえは、存分に楽しむといい﹂ ﹁あっ⋮⋮ら、雷神さまっ、どこ行くんですか∼っ! 美味しいお 酒も、食事も、いっぱい出てきてますよ!﹂ ﹁マール、アレッタ、今日は存分に羽根を伸ばしてくれ。祝祭の間 は、従騎士としての務めは休みとする﹂ ﹁フィリアネス様っ⋮⋮!﹂ マールさんとアレッタさんが止めるのも聞かず、彼女は観覧席か ら出ていってしまう。 本当は、この場に出てくることすらもしたくないほど、彼女は傷 ついていた。そしてまた、俺に後を追わせてはくれない。そっとし ておいてほしいという心境を悟れないほど、俺も子供ではなかった。 ﹁⋮⋮フィリアネスのお姉ちゃん、どうしたのかな?﹂ 1376 ﹁ヒロト⋮⋮行ってあげなくていいの?﹂ ﹁聖騎士様が、楽しむようにとおっしゃったのなら、そうした方が いいと思うのだけど⋮⋮﹂ リオナ、ミルテ、ステラ。それぞれに、いつもよりもお洒落をし た少女たちが言う。俺が気落ちして見えるってことなら、彼女たち に心配はかけられない。 ﹁ステラ姉の言うとおりだ。せっかくの祝いの席だ、楽しまないと な﹂ そう答えると、三人はすごく嬉しそうな顔をする。それを見ると、 俺も微笑まずにはいられなかった。 三人には、心配ばかりかけてる。ステラ姉だって、いつも俺のこ とを案じてくれている。今は俺の方が、ずっと背は高くなってしま ったけれど。 ﹁うぉぉっ、なんかすげえ肉! こんなの、うちで食べたことない ぜ!﹂ ﹁ディーン、慌てなくてもびっくりするくらいいっぱいあるから大 丈夫だよ。あ、間違えてお酒を飲まないようにね﹂ ﹁何言ってんだよアッシュ兄、間違えるわけないって。うげえ苦い ! なんじゃこりゃあ!﹂ 浮かれまくっている少年チーム。俺も目覚めてから何も食べてな かったので、料理の香りを嗅ぐと、思い出したように空腹を自覚す る。 ◆ログ◆ 1377 ・あなたは空腹で倒れそうだ⋮⋮これから1時間ごとに、ライフが 1減少します。 このログが出たのは、文字通り生まれて初めてだった。満腹度な んて、確認する必要もないほど、定期的に栄養を摂取することが出 来ていたから。 ﹁ヒロちゃん、お肉とってきたよ! お腹ぎゅーって鳴ってるから、 いっぱい食べて?﹂ ﹁⋮⋮わたしは、お魚を持ってきた。ヒロト、食べれる?﹂ ﹁のどに詰まらせないように、ゆっくり食べるのよ。飲み物なら、 いつでも持ってきてあげるから﹂ リオナとミルテは皿に料理を取ってきてくれて、ステラ姉は飲み 物を準備してくれる。このいたれりつくせりな状況を見て、他のメ ンバーは楽しそうに笑っていた。 1378 第四十一話 前編 救国の英雄/宴の始まり︵後書き︶ ※次回は明日0:00更新です。 1379 第四十一話 中編 ひとときの祝宴/魂の天秤 結論から言うと、宴で出た食事はとても美味しかった。しかし今 はどうにも、レミリア母さんの料理の味が懐かしい。 リオナたち年少組は、今は自分たちの食事に夢中になっている。 リオナとミルテのお行儀を、ステラ姉が見て指導していたりするが、 楽しそうなので良しとしよう。 そして俺は、パーティのメンバーと一緒に話していた。モニカさ んはお酒を口にしていて、ほんのり顔が赤らんでいる。 ﹁まあ、そんなに心配することないんじゃない? 聖騎士様でも、 気疲れすることくらいはあるわよ。ヒロトが心配するのもわかるけ どね﹂ ﹁それよりお師匠様、とってもとっても、とーっても、立派な挨拶 だったのでありますぅっ!﹂ ﹁ウェンディ、いつもより前のめりだね⋮⋮今のうちにヒロト君に アプローチしておいた方がいいと思ったのかな? 心配しなくても、 彼なら十分過ぎるほど甲斐性はあると思うよ﹂ ﹁うんうん⋮⋮って、何でそんな話になってるんだ。甲斐性って、 ウェンディもそこまでのつもりじゃ⋮⋮うぉっ!?﹂ 名無しさんの冗談に多少動揺しつつ答えると、顔を真っ赤にした ウェンディがうるうると目を潤ませていた。 ﹁はぅぅっ、うっ、ひぐっ⋮⋮ら、らめれすか⋮⋮? そういうつ もりで夢を見てちゃ、らめなんれすかぁ⋮⋮?﹂ 1380 ﹁おおっ⋮⋮ちょ、ちょっと待った! ウェンディ、お酒はまだ早 い⋮⋮わっ、ま、マールさんっ⋮⋮!?﹂ ウェンディのろれつがいきなり回らなくなったことにも驚いたが、 後ろからいきなり抱きつかれるみたいにされて、さらに驚く。この 弾力と、メロンみたいな大きさ⋮⋮って、胸で判別するのもどうか と思うが、マールさんで間違いない。 ﹁なーに言ってるの、ヒロトちゃん。ウェンディちゃんはもう20 歳なんだから、大丈夫に決まってるじゃない。公国法では15歳か ら大丈夫だけどね。ヒロトちゃんは年齢不詳になっちゃったから、 思い切って飲んじゃう?﹂ ﹁うっ⋮⋮ふ、不詳って言わないでくれ、マールさん。いちおう1 4歳って扱いで頼む﹂ ﹁14歳⋮⋮それなら、あと1歳で成人ですね。あの、私、成人同 士なら、大人のお付き合いも何ら問題ないって思っていてですね、 ヒロトちゃんとぜひ、夜通し語り合いたいというかですね⋮⋮?﹂ アレッタさんもお酒を飲んでいて頬が赤くなっているし、とても 必死に俺を誘ってくる。責任を取ると言ったのは嘘ではないので、 成人した後にお誘いを受けたら、俺は誠実に受けたいと思っている ︱︱が、ただ夜通し語り明かすだけでは済まないだろうともわかっ ている。 ﹁ギルマス、何を想像しているのか、お顔を見ればだいたい分かり ますわよ? 鼻の下をこんなに伸ばして、だらしないですわね﹂ ミコトさんがやってきて、俺の鼻の下に指を当てる。彼女は飲ん ではいないけど、雰囲気で酔っているというのか、いつもより上機 嫌だった。 1381 そして俺だけでなく、ミコトさんは、俺と同じテーブルを囲み、 椅子に座って飲んでいる名無しさんに目を向けた︱︱名無しさんは まだ名乗っていないし、顔も見せていないのに、ミコトさんはそれ でも気づいたようだった。 ﹁⋮⋮仮面で声がくぐもっているので、初めは分かりませんでした が。声で分かりましたわ⋮⋮あなたは⋮⋮﹂ ﹁おっと⋮⋮今は言わないで。小生の本当の名前は、まだヒロト君 にも言っていないからね﹂ ﹁え⋮⋮名無しさんの本当の名前を、ミコトさんは知ってるのであ りますか?﹂ 泣いていたと思いきや、けろっと落ち着いたウェンディがミコト さんに聞く。酔ってるので、ちょっと不安定になってるようだ⋮⋮ 大丈夫だろうか。適当な頃合で、部屋で休ませてやった方がよさそ うだ。 ﹁私は名無しさんとは、古い友人なのですわ﹂ ﹁彼女とは、相当に長い付き合いなんだ。意外に思うかもしれない けれどね﹂ ﹁そうなのでありますか⋮⋮人に歴史ありでありますねっ。また、 いつか詳しいお話をうかがってみたいのでありますっ﹂ ウェンディが笑顔で言う。そうだな⋮⋮しかし前世のことは、や はり基本的には言うべきじゃないだろう。 全てを明かさないことの不義理もあるが、ここではない世界があ るなんて言っても、いたずらに混乱させてしまうだけだ。 ﹁ヒロト君の判断に任せるよ。小生は、彼とも秘密を共有している 1382 からね﹂ ﹁⋮⋮やはり、パーティを長く組んでいるということは、それなり に回数も⋮⋮ということですわよね⋮⋮﹂ ﹁み、ミコトさん。めでたい場とはいえ、ちょっとそれは無礼講す ぎやしないか?﹂ ﹁無礼講なのはどちらですの? かなりの数値になっていましたわ よね、法術⋮⋮﹂ ﹁ま、待った。ミコト殿、そういったことについては、皆の前では 控えたほうが⋮⋮ね? 小生は、逃げも隠れもしないから﹂ 名無しさんはいつも通り﹃小生﹄と言っているけど、少し女性ら しい柔らかい口調に感じる。 ﹁あ、あれ? もしかして⋮⋮ミコトさんって、名無しさんのこと、 元から⋮⋮﹂ 元から女性だと知っていたのか。みなまで言わなくても、ミコト さんはふぅ、と息をつき、苦笑して頷く。 ﹁お察しのとおりですわ。私はマユさん⋮⋮いえ、名無しさんとは、 個人的に会ったことがありますもの﹂ ﹁マユ⋮⋮えっ、いや、それはハンドルだよな? 麻呂眉、ってい う﹂ ウェンディ、マールさん、アレッタさんが話を始めたので、俺は ミコトさん、名無しさんと声のトーンを落として話し始める。 ﹁いや⋮⋮もう、言ってしまった方がいいのかな。麻呂眉っていう まゆき のは、私の本名をもじって付けたんだよ﹂ ﹁本名は、栗田繭希さんですわ。栗はマロン、そしてマユで最初は 1383 マロン☆まゆと名乗っていらしたのですが⋮⋮﹂ ﹁若気の至りというやつだね。それで、何だか声をかけられること が多かったものだから、ハンドルは変えることにしたんだ。出会い を求めるというより、世界観に癒やしを求めていただけだったから ね﹂ そんな話を聞くのは初めてで、何か不思議な気分になる。ゲーム 時代はキャラクターと文字が俺にとっての麻呂眉さんのイメージだ ったので、今の彼女とは、口調以外は結びつかない。仮面もつけて いなかったし、ドット絵の男性キャラは、悪く言えばそこまで個性 が出ていない汎用的なデザインだった。 それが、中の人は女性で、キャラ立ちせざるを得ない姿で目の前 にいる。そして、この場は祝いの宴なわけで。高校生だった俺には 縁遠かった、飲みありのオフ会というか、それと等しいものなんじ ゃないだろうか。 ﹁ふふっ⋮⋮ぼーっとして、どうしたんですの? 雰囲気に酔って しまったというなら、私もそうですけれど﹂ ﹁あ⋮⋮いや、ちょっとな。俺が名無しさんに会ったときは、もう 新しいキャラに変わってたってことか﹂ ﹁そういうことになる。麻呂眉でアカウントを作り直して、男性キ ャラに変えることにしたんだ。ヒロト君と会ったのは、それからの ことだよ﹂ ︵なるほどな⋮⋮ギルドでも、中の人は男なのに、女性アバターで モテてるって人もいたしな︶ スター それにしても、マロン☆まゆとは、なかなか意外なネーミングだ。 何か名無しさんの年齢が、俺が思っていたより全然若そうな感じが ⋮⋮いや、名前だけじゃ判断できないよな。 1384 ﹁それにしても、その仮面⋮⋮無表情でちょっと怖いですわ。口元 で表情が分かるのが救いですけれど﹂ ﹁それはそうだね。こんな格好の私がこれまでやってこれたのも、 ヒロト君と早いうちに会えたという幸運があってこそだ。彼の名前 を聞いた時は、女神も悪戯好きなだけじゃないのかと、少しだけ感 謝したものだよ﹂ そう︱︱二人も、女神との邂逅を経て、ここに来ている。 俺の生前は、女神の独断といえる評価で﹃不幸﹄ということにな ったが、二人はどうだったんだろう。 ﹁⋮⋮ちなみに、女神と何を話したかは、他の方には明かせないこ とになっていますの。マユさんもそうなのではないですか?﹂ ﹁うん⋮⋮それはね。小生は他にも色々事情があって、全部は言え ないんだよ。秘密を小出しにしてるわけじゃなくて、これは本当に、 ずっと明かせないのかもしれない﹂ ﹁なるほどな⋮⋮﹂ 女神なら、会話に制限を掛けることも可能だろう。しかし俺は、 どうやらそういうことはされてないらしい。 特別扱いなのか、俺の前世なんて、特に隠すことでもないと思っ てるのか︱︱それよりも、一つ、これまでのことから想像できるこ とがある。 ︵自分から望んで転生した場合は、女神の査定は厳しくなる。多分 それは、間違いないことだ︶ 病気で若くして命を落としたミコトさん。トラックに轢かれた俺。 共通することは、向こうで命を落とした後に転生しているというこ 1385 とだ。 ﹁名無しさんは、向こうで何かあって⋮⋮いや、それは話せないん だな﹂ ﹁そういうことになるね。けれど、想像はつくと思う。ここに来る とき、どんな経緯を辿ったのか。私がここに来たきっかけは、きっ とミコト殿やヒロト君とは大きく違っていると思う﹂ やはり、そうだ。名無しさんは生きているままで、この世界に転 生することを選んだ。 その仮面は、生きているままで転生を望むことのペナルティだと も考えられる。しかし外すことができるだけ、まだ、破滅の子なん てものを背負わされたリオナよりは︱︱。 ︵⋮⋮いや、何を弱気になってるんだ。﹃隠者の仮面﹄を外す方法 はあるって、名無しさんは言った。それなら、一時しのぎじゃなく、 リオナと魔王を分離することだって⋮⋮︶ ﹁⋮⋮ギルマス。私から言うのはおせっかいかもしれませんけれど、 聖騎士さんをそのままにしておいて良いんですの?﹂ ﹁何か、様子が違って見えたね。王座の間で何かがあったというこ とかなと思っていたけど⋮⋮﹂ さかずき 二人がそう言ったところで、モニカさんがこちらにやってくる。 その手には果実酒の入った、木で作られた杯を持っていた。ガラス が貴重な異世界ならではの光景だ。 ﹁ヒロト、こういう席だから気を使ってるのかもしれないけど、小 さい子たちはちゃんと私達が様子を見てるから。フィリアネスさん の所に、行ってあげたら?﹂ 1386 ﹁い、いいのかな⋮⋮こんな時に席を外したら、逆に、フィリアネ スさんに怒られそうだ﹂ 本当は、彼女の所に行きたい。ディアストラさんが思っているこ との一端を教えて、安心させてあげたい。 しかし同時に、フィリアネスさんの背中を追うことで、拒絶され ることを恐れてもいた。ディアストラさんに彼女が頬を打たれたと き、俺は怒っていながらも、ディアストラさんの誘いを断らなかっ たのだから。 決して、フィリアネスさんは俺たちのことを勘違いしたりはしな いだろう。そう分かっているからこそ、安易に後を追いかけること が、彼女の心に土足で入り込むような行為に思えた。 ﹁⋮⋮あのね、一つ言っておくけど。マールさんとアレッタさんが、 どうしてここで飲んでるか分かる?﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、それは⋮⋮ルシエが国民のみんなに認められた、め でたい時だから⋮⋮﹂ 真面目に答えたつもりが、モニカさんだけでなく、ミコトさんと 名無しさんにも同時にため息をつかれた。け、結構傷つくな⋮⋮い や、なぜみんなが呆れてるのか、自分でも分かってはいるけど。 ﹁本当は、フィリアネスさんのことが心配だと思う。でも、自分た ちより行ってあげるべきだと思う人がいるから、あえて明るく飲ん でるんじゃない﹂ ﹁ギルマスは、もう十分宴会には顔を出しましたわ。下にいる貴族 や騎士の方々にも、先ほど挨拶は済ませてきたのですから、十分に 義理は果たしています﹂ 1387 ﹁義理というのも世知辛い言葉だけどね。じゃあ、最後に景気付け に、ジュースでも飲んでいくかい?﹂ 名無しさんが杯に飲み物を注いでくれる。するとウェンディがふ らふらとやってきて、俺の方に寄りかかってきた。 ﹁うわっ⋮⋮の、飲み過ぎだぞウェンディ。足にきてるじゃないか﹂ ﹁お師匠様にとっては、ジュースよりも、ずーっと美味しい飲み物 があるのであります⋮⋮それれしたらぁ、私が一番槍を務めさせて いただくのでありますぅ⋮⋮えいやっ!﹂ ﹁え、えいやって、待ってウェンディちゃん! 嫁入り前の娘が、 外でそんなことしちゃらめぇ!﹂ ﹁は、離してでありますぅ! お師匠様と他の女の人がいちゃいち ゃしてると、胸がずきずきするのでありますぅぅ!﹂ 大暴れのウェンディを、戦士として一枚上手のマールさんが見事 に押さえ込んでいる。ウェンディは一生懸命こっちに来ようとする が、最後にはマールさんに担ぎあげられてしまった。 ﹁よいしょっと⋮⋮おいたする子は、おねんねしましょうね∼。あ んまり暴れてると、お姉さんがしまっちゃうぞ∼﹂ ﹁は、離してであります! 私ももう大人なのであります、分別は つくのでありますぅぅ!﹂ ﹁酔いざましにいいポーションがありますから⋮⋮あ、小さい子た ちも、もう眠くなってきちゃったみたいですね﹂ アレッタさんが言うとおり、年少組の5人は寝入ってしまってい た。宿で寝かせてやった方が良さそうだな。 そんなことを考えていると、どこかから声が聞こえてくる︱︱ユ ィシアだ。 1388 ︵ご主人様、こんなこともあろうかと、迎えに行こうと思っていた。 子供たちのことは、任せてもらっていい︶ なんという思いやりといたわりだろう⋮⋮と思ったが、ユィシア の声が、何だか上機嫌に聞こえる。 ︵⋮⋮人間の姿で少しだけ宴に混じって、食事をした。お腹がすい ては戦ができない︶ ︵それは良かった。ユィシアにも、楽しんで欲しかったからな︶ ︵成長したご主人様に、酌をするというのも悪くないと思った。い つか二人で、ゆっくり夜を明かしたい︶ ︵ゆ、ゆっくりって⋮⋮ユィシア⋮⋮?︶ ユィシアはもう返事を返さなかった。俺はひとまずアッシュとデ ィーンを連れて行かないとな⋮⋮間違えて酒を飲んだからか、ディ ーンの方はよだれを垂らして寝入っていた。 ◇◆◇ 夜になっても祝祭の熱気は続き、町には煌々と明かりが灯って、 酒場や食事を出す店の多くが繁盛していた。 王宮を出るときにリオナたちをユィシアに任せたが、彼女は徒歩 の俺たちより先に宿に着いていた。俺はアッシュとディーンの二人 を担いで、男子部屋とされている部屋のベッドに寝かせた。 1389 ﹁⋮⋮もう食べられないよ⋮⋮むにゃむにゃ﹂ ﹁⋮⋮母ちゃん⋮⋮母ちゃんにも、こんな⋮⋮美味しい、食べ物⋮ ⋮﹂ アッシュ兄は平和な夢を見ているが、ディーンの方の寝言を聞い て、思わず胸に迫るものがあった。 ﹁お母さんも、喜んでると思うよ。ディーン兄ちゃんが、そんなこ と言ってるって知ったら﹂ ﹁⋮⋮すー⋮⋮すー⋮⋮﹂ たぶん、これがディーンを年上として呼ぶ最後だろう。変わって いくこともあるが、変わらないで居てほしいことの方が多い。 友達の少なかった俺が作ることが出来た、数少ない友人。もっと 子供のままで話したいことがあったとも思うが、彼らも大人になれ ば、互いに遠慮することは無くなるだろう。 俺が大きくなっても気にしないと言ってくれて、嬉しかった。そ のことを、これからもずっと覚えていようと思う。 ◇◆◇ 再び町に出て、大通りの喧騒を離れて、フィリアネスさんのもと に向かう。 この時間だ、彼女ももう休んでるかもしれない。けれど、引き返 す気にはなれなかった。 1390 そんな俺の前に姿を現したのは︱︱スーさんと、パメラだった。 ﹁坊っちゃん、お疲れ様でした⋮⋮と申し上げたいところですが。 また、お出かけになるのですね﹂ ﹁何か忘れ物でもしたのかい? 浮かない顔してるけど﹂ ﹁忘れ物⋮⋮っていう言い方も違うけど。行かなきゃいけないとこ ろがあるんだ﹂ 答えると、パメラは肩をすくめる。今日の彼女はラフな服装で、 襟を立てていたり、へそを出していたりと、盗賊らしさこそ消して いるが彼女らしいファッションだった。 スーさんは相変わらずのメイド服だ。青みがかった長い髪は、昔 よりは少し短めになっているが、ツーテールの髪型は変わっていな い。 ﹁まあ聞かれないだろうから勝手にしゃべるけどさ、あたしはお固 い席になんて出られないから、町を適当にぶらつこうと思ってたん だけど。スーが、一緒に飲んでくれるっていうからさ﹂ ﹁⋮⋮それなりに、功労はありましたので。あなたの手引きがなけ れば、私は坊っちゃんと再会することも出来ませんでしたし﹂ スーさんは淡々と言うが、パメラは何を思ったか、俺の肩に手を 回してくる。そして、耳元でささやいてきた。 ﹁赤ん坊の時は無愛想だと思ってたけど、今となっちゃ立派な男に なっちまったね。他の子らもそうだろうけど、 あんた大きくなった方が絶対いいよ。それくらいになってくれたら、 言うことを聞かされても、まあ情けないってこともないしね﹂ 1391 ﹁はは⋮⋮まだ、パメラより年上じゃないけどな﹂ ﹁あたしはそっちの方がいいよ。坊やが年上になっちまったら、や りにくいったらありゃしないしね﹂ パメラは少し頬を赤らめて、俺から離れる。こうして見下ろす身 長になると、カーリーヘアの分を差し引いたら、彼女は結構小柄だ った︱︱これも、こうなってみて分かる発見だ。 ﹁まあ、あたしはもう十分楽しんだし、アジトに帰って休むよ。ヒ ロトも夜更かしはほどほどにしなよ﹂ ﹁ああ。そっちも、足元気をつけてな﹂ ﹁あはは、こんなくらいの酒じゃ飲まれたりしないよ。あたしを誰 だと思ってんのさ﹂ パメラは気持ちの良い笑顔を見せると、少しふらつきながらも、 しっかり歩いていく。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、また日を改めて、改めてお話をさせていただけ ませんか。坊っちゃんがそのように、急に成長された件についても、 まだ驚いておりますので⋮⋮﹂ ﹁ああ。それにスーさんとは、手合わせをする約束をしてるしな﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ スーさんはかすかに目を見開く。そして、正面に立つ俺の頭の上 を見上げるようにする︱︱身長が伸びた、ということを言いたいの だろう。 ﹁⋮⋮昔の坊っちゃんでも、ただならぬ気を感じたというのに、今 の坊っちゃんは、その時とは比較にならない強者の気を発しておい でです。ご自分で、お分かりでないのですか?﹂ 1392 ﹁そ、それは困るな⋮⋮そういうのは隠せた方がいいんだけど﹂ ﹁い、いえ。武術の修練を積んだ者だけが感じ取れることだと思い ますので、問題は無いと思います﹂ スーさんが凄く恐縮してる⋮⋮彼女は間違いなく手練れだし、手 合わせはしてみたいんだけど、遠慮されてしまっているな。 ﹁昔、お手合わせをと申し上げたのは⋮⋮正直を言うと、自分も十 分に修行をして、強くなっているだろうという自負があったからで す。しかし、今の坊っちゃんを見ると、自分の修行の足りなさを恥 じ入ることしか出来ません⋮⋮わ、私は本当に、この七年間、何を していたのか⋮⋮﹂ ﹁手合わせっていっても、勝ち負けをはっきりするものばかりじゃ ないしな。昔はありえなかったことだけど、今の俺なら、スーさん と鍛錬してもおかしくないし⋮⋮ぜひ、相手をしてもらいたいな﹂ そう言いつつも俺は、決して忘れてはいなかったのである︱︱彼 女のスキル﹃執行者﹄を手に入れられていないことを。 かつての恩人であるスーさんに授乳してくれとは言えないが、﹃ 育成﹄スキルを持っているスーさんと訓練すれば、ごく低確率で﹃ 執行者﹄を取得できる可能性がある。 それを度外視しても、執行者という職業の戦闘力がどれくらいな のか見てみたい気持ちがある。未実装だった職業は、俺にとっては 夢のかたまりみたいなものなのだ。 ﹁坊っちゃんが、そこまでおっしゃるのなら。失望させないよう、 身体を仕上げて臨みます﹂ 1393 ︵十分すぎるほどに仕上がってると思うんだけど⋮⋮エプロンの下 のふくらみが、昔の1.5倍くらいに⋮⋮︶ ﹁⋮⋮坊っちゃん?﹂ ﹁あ、い、いや、何でもない。スーさん、じゃあ約束したからな。 首都にいるうちに、絶対手合わせしよう﹂ ﹁⋮⋮そのことなのですが。パメラのことを、勧誘されたと聞きま した﹂ ﹁ああ、パメラはもう行くとこないから、仲間になってもらったん だ。常に一緒に行動するわけじゃないけどな﹂ スーさんは瑠璃色の大きな瞳で、俺をじっと見つめてくる。な、 何だろう⋮⋮? ﹁⋮⋮もう一度、私を雇用していただくというわけには、まいりま せんか? 今度はジークリッド家ではなく、ヒロト坊っちゃんに⋮ ⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いいのか? スーさん、ギルドに所属してるんだよ な?﹂ ﹁はい。しかし、抜けられないものでもありませんので⋮⋮状況次 第では、執行者の任を外れることは難しくなるのですが、そうなら ないように立ち回ってきたので、問題はありません﹂ ︱︱つまり、それは。 スーさんはあらかじめ、俺と再会したときにギルドを抜けること を考えて、行動していたということだ。 ﹁⋮⋮まだ幼かった坊っちゃんですが、私は必ず、ご立派になられ ると感じておりました。先ほど、皆様の前でお話された姿を、リカ 1394 ルド様と奥様がご覧になったら、さぞ喜ばれたことでしょう﹂ ﹁そ、そう言われると照れるな⋮⋮いや、それ以前に、いきなり大 きくなったことを受け入れてもらうっていう、難関が待ってるんだ けど﹂ ﹁私に受け入れられたことを、両親であるお二方が理解されないこ となどありましょうか。旦那様と奥様の度量の大きさ、心優しさは、 短いお付き合いではございましたが、十分に見せていただいたつも りです﹂ いつも落ち着いているスーさんが、言葉に力を込めて熱弁する。 それだけ本気で、俺を励まそうとしてくれてる。それが嬉しくて、 俺は笑った。 ﹁⋮⋮何もご心配されることは、ございません。そのことは誰より、 坊っちゃんがよくお分かりのはずです﹂ ﹁ああ。そうだな⋮⋮ありがとう、スーさん﹂ スーさんは少しだけ目を見開く。そのわずかな変化で、俺は彼女 の感情が汲み取れるようになってきた。 ︱︱そして、彼女はふっと笑った。それは俺にとって、最も嬉し い答えだった。 ﹁⋮⋮大きくなられても、坊っちゃんは、坊っちゃんだと分かりま した﹂ ﹁はは⋮⋮根っこの部分は変わってないと思うよ。子供の頃から、 臆病なままだ﹂ ﹁臆病な方が、あんなに雄弁に語ることができましょうか。素晴ら しい覇気でございました﹂ ﹁そう言ってもらえると嬉しいよ。あれでも結構、必死だったんだ﹂ 1395 懐かしさもあって、どれだけでも話していられる。しかしスーさ んは、俺がどこかに向かう途中だということを忘れてはいなかった。 ﹁では⋮⋮積もる話もございますが、それはまたの機会といたしま しょう﹂ ﹁うん。連絡先とか、聞いておいていいかな?﹂ ﹁はい。ジュヌーヴには、3つ冒険者ギルドの窓口がございますが ⋮⋮﹂ スーさんが紙に書いて、場所を教えてくれる。近づいて教えてく れる彼女から、ふわりと甘い香りがする。 赤ん坊だった頃と同じ。俺はふと、彼女に抱っこしてもらった時 のことを思い出す。長い時を経て、こうしてもう一度会えたことに 対する感謝が、俺の胸を静かに満たしていった。 ◇◆◇ スーさんと別れたあと、俺は再び歩き始めた。 フィリアネスさんがどこに居るのかは分かる。パーティメンバー の現在地は、ログで確認することができるからだ。 ◆情報◆ 名前:フィリアネス・シュレーゼ 現在地:首都ジュヌーヴ シュレーゼ侯爵家別邸 1396 ︵侯爵家⋮⋮そうか。グールドの別邸と同じで、彼女の家が持って いる屋敷もあるんだ︶ 家ではディアストラさんと顔を合わせたのだろうか。今の時点で は状況を察することはできないし、もう時刻も遅い。こんな時間に 家を訪ねるのは⋮⋮。 ︱︱本当は、フィリアネスさんのことが心配だと思う。でも、自 分たちより行ってあげるべきだと思う人がいるから、あえて明るく 飲んでるんじゃない。 モニカさんの言葉を思い出す。 フィリアネスさんに会うことなく、そのまま今夜を通り過ぎるこ とを、俺は想像する。 彼女はきっと、何でもないと笑うだろう。そんな嘘をつかせたら、 俺は︱︱。 ︵会ってくれるかどうか⋮⋮そんなこと、考えていられない︶ 時折すれ違う警備の騎士は、貴族の邸宅の集まる区域を、夜通し で警備しているのだろう。俺のことを知ってるみたいで、誰も不審 に思って声をかけてきたりはしない。 長く伸びた髪が、急に気になってくる。俺は、今の彼女の前に出 ても、恥ずかしくないような姿をしているだろうか。 1397 しかし、引き返すことは考えられない。ユィシアも眠っているの か、気配を感じない︱︱今は本当に個人の行動だ。 1398 第四十一話 中編 ひとときの祝宴/魂の天秤︵後書き︶ ※次回は明日0:00更新です。 1399 第四十一話 後編・1 水面に映る月 ﹁⋮⋮あれが、フィリアネスさんの家か﹂ やがて見えてきたのは、グールドのいた屋敷と同じくらいの規模 の広い邸宅だった。 正面から行くと、こんな夜更けに男が訪ねてくるとは、と騒ぎに なってしまうかもしれない。奇しくもグールドの時と同じように、 俺は隠密スキルを使うことになった。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁忍び足﹂を使用した。あなたの気配が消えた。 屋敷の前に立つ門兵の横を通りすぎても、全く気づかれない。俺 はそのまま屋敷の裏手に回る。 シュレーゼ邸の裏には庭があって、立派な枝ぶりの木があり、小 さな池があって、石造りの橋が渡されている。こんな立派な庭園が あるとは⋮⋮。 ︱︱そのとき、雲に隠れていた満月が姿を現し、池に写り込む。 そして橋の上から池を覗きこんでいる彼女の姿に、俺は遅れて気 がついた。 1400 金色の髪を結い上げたまま。彼女の女性としての魅力を際立たせ る、清楚な白いドレスも、身につけたまま。 祝祭の宴から出て行ったあと、少しも時間が流れていないように すら思えた。実際は、もう半日も過ぎているのに。 彼女は物憂げな様子で、橋の欄干に手をかけて、水面を見つめて いた。 その唇がかすかに動き、ささやくような声が耳に届いたとき、俺 は、自分が今どこにいるのか、何をしようとしているのかさえも、 忘れてしまいそうになった。 ﹁⋮⋮ヒロト﹂ ︱︱聞き間違いじゃない。紛れもなく、俺の名前だった。 心臓が高鳴り始める。俺のことを待っていてくれたのなら、会い たいと思ってくれたなら。 ここに来たことが間違いじゃなかったんだと、直ぐにでも確かめ させてほしい。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁忍び足﹂を終えた。隠密状態が解除された。 ・︽フィリアネス︾があなたに気づいた。 フィリアネスさんは顔を上げて、こちらを見た。 1401 裏庭の木の影から姿を見せても、ただ、何も言わずに俺を見てい た。 一歩ずつ歩いていく。屋敷の明かりはついているが、誰かが出て くる気配はない。 俺とフィリアネスさんの、二人だけ。俺は橋のほとりに立って、 フィリアネスさんと向き合う。 ︱︱何から話せばいいのか。言葉が、出てこない。 ディアストラさんとは何もなかった。彼女はフィリアネスさんを 嫌ってなんていない。 それよりも先に伝えたいことがあるのに、喉が引き攣れるみたい で、声を出せない。 フィリアネスさんの瞳が、まるでずっと泣いていたように、赤く なっていたから。 ﹁⋮⋮なんて顔をしている。皆の前で立派に話してみせたおまえは、 どこに行ったのだ?﹂ そんな状態なのに。 強がっているって、誰にでも分かるくらいなのに。 何でもないとでも言うかのように、彼女は笑った。何でもないな んて、とても俺には思えなかった。 一瞬、俺は何も考えられなくなった。ただひとつの気持ちに突き 動かされ、身体はひとりでに動いて︱︱。 俺は、フィリアネスさんを抱きしめていた。そうする以外の選択 は、なかった。 1402 ﹁⋮⋮ヒロト﹂ ﹁俺はあの時、フィルを追いかけなかった⋮⋮一人で居させたくな かったのに、体裁ばかり気にして⋮⋮﹂ フィル 腕の中に彼女がいる。ヴェレニスの村で過ごした夜が、昨日のこ とのように脳裏を巡る。 ︱︱おまえがいれば、どんな困難も乗り越えられる。 ︱︱心から、そう思える⋮⋮ありがとう、私の可愛いヒロト。 ﹁俺は⋮⋮俺にとって大事なのは、フィルで⋮⋮フィルを傷つけた ディアストラさんを、許せないと思った。でも、違ったんだ⋮⋮彼 女はフィルの母親だった。紛れも無く、フィルを大事に思っていた んだ﹂ ﹁⋮⋮母が、そう言ったのか? 私のことを⋮⋮﹂ フィルは俺の胸に手を置いて、そっと身体を離す。その目は不安 げに俺を見つめている︱︱嘘をついていないかどうか、確かめるよ うに。 ﹁ああ⋮⋮でも、すぐに本当の気持ちは言えないとも言ってた。た だ、お母さんとして、フィルに危ない目に遭って欲しくないだけだ ったんだよ﹂ ﹁⋮⋮本当に⋮⋮? 本当に、母は、私を憎んでいないのか⋮⋮?﹂ 俺は頷く。フィルの瞳が潤んで、その頬に涙が伝う。 1403 ﹁俺は、どうして実の娘にひどいことが出来るのかって思った。で も、信じたくなかったんだ。フィルの母さんが、そんな酷い人のわ けがないって。意味もなくそんなことをするとは思えないって⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮わたしは⋮⋮母に、憎まれていると⋮⋮父の遺志を継ごうと する私を、そんな資格はないと疎んでいるとばかり思って⋮⋮っ、 もっと、強くなろうと⋮⋮決めてっ⋮⋮﹂ 聖騎士フィリアネス。彼女が何故、若くしてあれほどの強さを手 に入れたのか。 ︱︱天賦の才能だけでは、そこまで強くはなれない。彼女は、母 親に認められたかった。 俺がもし父さんと母さんに冷たくされたら、どうだっただろう。 子供の頃、笑えていたかどうかも分からない。 いつも、甘えてばかりだ。自分の周りが優しい世界だと信じられ たのは、周りにいてくれる人が優しいからだ。 フィルは最も欲しいと思う人の愛情を得られなかった。これまで どれだけ辛い思いをしてきたかと思うと、胸がつぶれそうになる。 ﹁⋮⋮違うんだ。娘が魔王と戦うことを止めたくて、でも、出来な かったんだよ。フィルの気持ちが、痛いほど分かっているから﹂ ﹁それなら⋮⋮それなら、どうして⋮⋮私と一緒に戦おうと、言っ て欲しかったのに⋮⋮っ!﹂ その言葉をディアストラさんが言える日は、すぐには訪れないの かもしれない。 けれど、少しずつ。春が訪れて雪が溶けるように、わだかまりは 消える。すれ違っても、ずっと歩く道が交差しないわけじゃない。 1404 フィルの目からは大粒の涙がとめどなくあふれる。初めて会った 時よりも幼い少女のように、袖を濡らして涙を拭いても、止まるこ とがない。 今までも泣いていたのに。俺がここに来るまでも、ずっと、一人 で。 ﹁ふぅっ⋮⋮ひっく⋮⋮ぐすっ⋮⋮ヒロト⋮⋮済まない、こんな⋮ ⋮情けない、姿を⋮⋮﹂ ﹁いいんだよ。母さんに冷たくされたら、それは悲しいよ。俺がレ ミリア母さんにあんなふうにぶたれたら、どうやって許してもらえ ばいいのかもわからなくなる﹂ ﹁ひぐっ⋮⋮うっ、うぅっ⋮⋮レミリア殿はそんなことはしない⋮ ⋮レミリア殿は優しくて、温かい方だ⋮⋮私の母とは⋮⋮﹂ ﹁そんなことない⋮⋮本当は、いつでも優しくしたいんだよ。今は 俺の言うことが信じられなくても、俺が魔王を倒しさえすれば、き っとディアストラさんも本当の気持ちを話してくれる。大丈夫だよ、 俺がついてるから﹂ ﹁⋮⋮わぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 思いつく限りの言葉で慰めようとしても、彼女の感情が溢れ出す ことは止められなかった。 俺はその背中に手を回して抱き寄せながら、胸に縋りついて泣く 彼女の髪を撫でて、その心の痛みを思った。 公国最強の聖騎士。父親の仇を取るために、魔王と戦う力を手に 入れようとした少女。 けれど、どれだけ強くなれても、傷つかない心を持っているわけ じゃない。 1405 今のフィリアネスさんは、俺の腕の中で泣く彼女こそが、ずっと 見せなかった本当の姿だった。 母親に突き放された時のまま、寂しさを抱えたままで、その辛さ を見せもしないで。 ﹁⋮⋮俺は、何を見てたんだろう。フィルの優しさに甘えて、色々 なものをもらったのに、少しも返せてない。今だって、こんなにフ ィルを泣かせてる﹂ 彼女はしばらく何も答えず、ただ肩を震わせて泣いていた。 しかし少しずつ落ち着いて、恐る恐るというように顔を上げる。 恥じらいと、戸惑いに瞳が揺れる。俺の前で泣いたことを恥じてい るのだろう。 ﹁⋮⋮ヒロトは悪くない。私が、ヒロトの前に居ると⋮⋮抑えるこ とが、出来なくなってしまう。感情的な女ほど、面倒なものはない と分かっているのに⋮⋮私は、聖騎士失格だ﹂ いくつかの言葉が頭のなかに浮かんで、そして消えていく。 そんなことはない、聖騎士だって泣くことはある。泣けないくら い強くならなくたっていい。 でも、そんなことは、今言うべきことだとは感じられなかった。 いつかの光景が、頭を過ぎた。それは俺が初めて、誰かに好意を 持った時の記憶だった。 記憶の中の陽菜は、無茶をして膝を擦りむいた俺に、絆創膏を差 し出してくれた。 1406 それを貼り付けたあと、﹁痛いの痛いの飛んでけ﹂と言って、泣 きながら笑った。 それを思い出しても、俺は立ち止まろうとは思わなかった。これ 以上先に進むことを、一秒も躊躇ってはいられなかった。 ︱︱こうしていると、満たされた気持ちになる。おまえがこの気 持ちを教えてくれた⋮⋮。 ︱︱私は神のため、公国のため⋮⋮そしてお前のために、この剣 を捧げよう。 ︱︱剣だけでなく⋮⋮すべてを⋮⋮ その言葉を聞いたとき、まだ俺は、自分の犯した罪を、罪だとも 思っていなかった。 これ以上先に進みたければ、それを避けるわけにはいかない。例 えそれが、彼女の信頼を無にすることであっても。 ﹁⋮⋮フィル⋮⋮いや、フィリアネスさん。面倒なんて、そんなこ とないよ。辛いことがあったらいつでも言ってほしいし、打ち明け てほしい。そうじゃなきゃ、傍にいる意味がないから﹂ ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮しかし、それでは、あまりにも、釣り合いがとれ ていない。私がおまえに寄りかかるばかりで、私は何も⋮⋮﹂ 心は静かだった。俺は、どんな結末をも覚悟していた。 それだけのことを重ねてきた。人の心を操るようなことを繰り返 して、力を手に入れた。 1407 ︱︱これはその報いだ。いつかは、言わなくてはならなかったん だ。 ﹁⋮⋮俺の方こそ。本当は、フィリアネスさんに、そこまで思って もらえるような人間じゃない﹂ ﹁⋮⋮それは⋮⋮なぜ、そんなことを⋮⋮﹂ フィリアネスさんは俺が何を言うのか分からず、戸惑いの表情を 浮かべ、鳶色の瞳で俺を見つめる。 ﹁俺は⋮⋮赤ん坊の頃、フィリアネスさんに振り向いてもらえるよ うに、力を使った。そういう力が、俺にはあるんだ。あなたが俺に 向けてくれた思いの始まりは⋮⋮俺が、力を使って得たものなんだ﹂ ﹁⋮⋮力⋮⋮私に、力を使って、干渉した⋮⋮そう言うのだな﹂ 驚きながらも、静かな表情で彼女は言った。その瞳は、俺を捉え て離さない︱︱逃してはくれない。 ︱︱その片手が、上がる。俺は頬を打たれることを覚悟して、目 を閉じた。 しかしいつまでも、頬に痛みは訪れなかった。 痛みの代わりに、ひんやりとした手のひらが、優しく頬を包み込 んだ。 目を開けると、フィリアネスさんは俺のことを、赤らんだ目で見 上げていた。 なぜ、打たなかったのか。そう目で問う俺を見て、彼女は朗らか に笑った。 ﹁おまえは、ひとつ勘違いをしている。お腹をすかせた赤ん坊がご 1408 飯を欲しがるのは、何も悪いことではない﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや。俺は、本当は、お腹なんて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮私の力をおまえに与える機会があったとしたら、考えられる のは、おっぱいをあげたことだけだ。それも、数えきれないほどな。 そう考えれば、おまえが求めていたのは、私の強さなのだろう。そ うではないのか?﹂ ﹁⋮⋮かなわないな、フィリアネスさんには。やっぱり、フィルな んて呼ぶのは、俺にはまだ早かったよ﹂ 俺は苦笑するしかない。彼女の笑顔を見て安心した途端に心臓が 早まり出して、顔が熱くて仕方なくなる。 本当のことを言っても、嫌われずに済んだ。何も、失わなかった ︱︱そのことと、彼女の優しさへの感謝で、もうどうしていいのか 分からなくなる。 ﹁ふふっ⋮⋮なんだ、顔を真っ赤にして。私が怒ると思ったのか? だとしたら、おまえはもうひとつ、大きな勘違いをしていること になるな﹂ ﹁えっ⋮⋮もう一つ⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮私はおまえと離れている間も、おまえのことを考えていた。 しかしそれは、おまえの目の光に、ただの赤ん坊とは違うものを感 じたからだ。初めは少し無愛想にされて、可愛くない赤ん坊だと思 ってしまったものだが、私は見ていたのだ。おまえがレミリア殿の 背中で、強い眼差しをごろつきに向けていたのを﹂ 赤ん坊なのに、母さんに絡んできた連中を睨んでいた︱︱それは 正直いって、俺がフィリアネスさんの立場だったら、驚いてしまい そうなものだが。 1409 ﹁私は⋮⋮母に対して、守るなどと決してできる立場にはない。し かし魔王と戦う理由に、私が戦えば、母を死地から遠ざけることに なるという思いもある。おまえがレミリア殿をどれだけ大切に思っ ているのかは、あの竜の巣でも確かめることができた⋮⋮おまえは、 私が求めてやまないものを持っている。憧れるほどの、輝きを﹂ ︱︱そんなこと、夢にも思っていなかった。 俺が彼女に憧れることがあっても、憧れられることがあるなんて 思わなかった。 ﹁私もおまえのように、母と過ごすことができていたら。ミゼール そそ に行くたび、そう思っていた。私はお前たちを見守ることで、母の 心を安らげられなかった自分の罪を、濯ごうとしていたのかもしれ ない⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮俺はただ、フィリアネスさんが来てくれるのを、喜んでただ けだ。あなたの神聖剣技が、どうしても欲しかった。俺は、強くな りたかったから﹂ ﹁守りたいもののために強くなる。それを否定するのならば、私は それこそ聖騎士失格だ。私はおまえの横に並べるよう、これからも 自分を磨いていく。おまえが憧れてくれた神聖剣技を、極めてみせ る。おまえがくれた印の力で、限界を越えて﹂ これからも、ずっと一緒に、横に並んでいる。 ︱︱それ以上、言葉を尽くす必要はなかった。フィリアネスさん は何も言わずに、瞳を潤ませて俺を見つめた。 水面に浮かぶ月の中で、俺と彼女の影が近づき︱︱そして、重な る。 1410 もっと、難しいものだと思っていた。距離がつかめなくて、歯が ぶつかり合ったりして、台無しになってしまうなんて話を見て、自 分も気をつけないとな、でも相手なんているわけない、そう思って いた。 しかし、唇を触れ合わせると、俺はただフィリアネスさんを求め ることしか考えられなくなっていた。 細い腰に片手を回し、もう片方の手を背中に回す。すると、彼女 の手もそれに応じるように、俺の背中に回される。 こうして身体が大きくなっていなければ、抱きしめることなんて 叶わなかった。まして、彼女を抱き寄せてキスをすることだってで きはしなかった。 ﹁⋮⋮す、すまない﹂ ﹁どうして謝るの?﹂ ﹁あまり、うまくできていないように思う⋮⋮私のほうが大人なの に⋮⋮﹂ 抱き合ったままの距離で、フィリアネスさんは顔を真っ赤にして 恥じらっている。息をすることさえためらう、彼女はそういう奥ゆ かしい人だ。キスよりも距離の近いことを何度もしてきたけど、そ れとは意味合いが全く違っている。 夢中になっていて、忘れてしまっていた。そういうことも、ちゃ んと気遣わないと。 ﹁遠慮しなくてもいいよ。苦しくなるくらい、我慢しなくてもいい から﹂ 1411 ﹁⋮⋮わ、わかった。ヒロトも、遠慮しなくていいのだぞ⋮⋮﹂ 逃げ出したいくらい恥ずかしくて、照れくさくて、それでも続け ていたい。きっとその思いは俺も彼女も同じで、年齢の差など関係 ない。 もう一度キスをして、そして離れる。今度は息継ぎがうまくいっ たので、一度目より長く触れていられた。 少し不安げに視線を伏せていた彼女が、俺と恐る恐る目を合わせ る。 ﹁あまり、顔を見ないでほしい⋮⋮とても、見せられるような顔は、 していないはずだ﹂ ﹁分かった。次の時は、俺も目を閉じるよ﹂ ﹁⋮⋮閉じたあとに開けるというのは、反則だぞ? 騎士道の精神 に、反している﹂ そんな冗談を言って、彼女がいたずらっぽく笑う。 その顔を知っているのは、きっと俺だけだ。他の誰にも見せたく ない︱︱渡したくない。だから、もう一度キスをする。 柔らかい服の下で息づく豊かな胸が、俺の胸板に惜しみなく押し 当てられて、その弾力が伝わってくる。生命の温かさを感じる鼓動 に、今までどこにもなかった狂おしいものが生まれて、俺はより強 く彼女を抱きしめる。 屋敷の方から、見ている人がいるかもしれない。そんなことも今 は気にすることをしないで、初めてのキスが少しでも長く続くよう に、俺たちは橋のほとりで、静かに抱き合い続けた。 1412 第四十一話 後編・2 雲間の月 フィリアネスさんは俺を屋敷の裏から招き入れてくれた。中には メイドさんたちが居たが、フィリアネスさんを見ると礼をするばか りで、一緒にいる俺を見とがめたりすることはなかった。 ﹁心配しなくとも、母はいない。聞いているかもしれないが、私の 父は早逝してしまったのでな⋮⋮﹂ ﹁ああ⋮⋮ディアストラさんが、そのことは教えてくれた。でも、 他の家族の人は?﹂ ﹁シュレーゼ家の本邸は、首都を囲む城壁より外側にある。私の祖 父⋮⋮母の父君は、公国北部の分割統治を担う侯爵なのだ。この別 邸は母のものということになっているが、母は王宮の詰め所を離れ ることは少ない。今日も、親衛隊たちを率いてファーガス陛下の護 衛に当たっている﹂ ﹁⋮⋮めでたい祭りの日でも、守護騎士の仕事は大変なんだな。い や、だからこそなのか﹂ ディアストラさんの多忙さを慮る俺を見て、フィリアネスさんは 足を止め、俺を見て微笑んだ。 ﹁おまえは、初対面の母の心まで気遣ってくれた。正直なところ、 私にはそれが嬉しい。不肖の娘であっても、私は母を尊敬している﹂ ﹁⋮⋮フィリアネスさん﹂ だから、頬を打たれても反抗しなかったのか。 俺はディアストラさんにこそ、反省して欲しいと思う。けれど母 1413 親である彼女が、俺よりも娘を案じていることも、今では分かって いて⋮⋮難しい板挟みだ。 ﹁おまえが母と向き合ってもたじろがず、真っ向から対峙している ところは、とても頼もしかった。今までずっと、私にはできなかっ たことだ﹂ ﹁⋮⋮俺は、何も知らなかっただけだよ。ディアストラさんが、ど れだけ凄い人なのか﹂ ﹁ふふっ⋮⋮凄いとはいうが、母の名をそのように気兼ねなく呼ぶ ことができる人間は、この国を探してもヒロト以外にはいないのだ ぞ。ファーガス陛下ですら、母の気が強すぎて頭が上がらないのだ からな﹂ フィリアネスさんだって、気が強い、だなんて気兼ねのない言い 方をしている。 彼女は俺が言ったこと︱︱ディアストラさんが、本当は娘を憎ん でなんていないっていうことを、信じてくれたっていうことだ。 ﹁⋮⋮もう遅いが、帰らなくても大丈夫か?﹂ ﹁ああ、みんなもう寝入っちゃってるから、遅くなっても問題ない よ﹂ 俺は当然のように答えるけれど、フィリアネスさんは何かを言い たそうに、俺の顔をじっと見てくる。 本当にいいのか、と言われているみたいなので、俺は笑った。す ると、彼女も照れ笑いをする。 ﹁問題がないかどうかは、宿にいる人たちが決めることではないの か?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ 1414 ﹁⋮⋮しかしおまえが問題ないと言うなら、本当に無いのだろうな。 私は、おまえに⋮⋮﹂ フィリアネスさんはとても大切なことを言った。最後はかすれて 消えてしまいそうな声だったけれど︱︱俺は、それに気づくことが できる。 ﹁⋮⋮その話は、どこか違うところでしてもいいかな?﹂ メイドさんたちの口が固いといっても、聞かせたいような話でも ない。 フィリアネスさんは、俺に何を望んでいるのか。 少なくとも彼女は、夜遅いからといって、絶対に帰るべきだと言 ってはいない。 ﹁⋮⋮最後にもう一度だけ、聞いておこう。本当に、帰らなくてい いのだな?﹂ ﹁ああ。帰らない﹂ 今日はまだ、フィリアネスさんと一緒にいたい。 今までも、何度も添い寝をしてもらったことはあるけど、それは 俺が小さかったから許されたことだ。 俺の意志は固くて、どれだけ見つめ合っていても変わらない。そ れを確かめると、彼女はまた、目に涙を浮かべる︱︱少し、涙もろ くなってしまっているみたいだ。 ﹁⋮⋮ありがとう﹂ フィリアネスさんはそれだけ言うと、先に歩いて行き、屋敷の二 1415 階に上がっていく。 階段を上がり、天上から下がった飾り照明を見ながら思う。ミゼ ールの俺の家より、内装がいくぶん華やかだ。侯爵と伯爵の間には、 明確に財産の差があるのだとわかる。 絨毯もいいものが敷かれており、前世で家族旅行をしたとき一度 だけ泊まった、高めの旅館の廊下を思い出す。家の内装が旅館に匹 敵するとは、今までは実感が足りなかったが、貴族はそれだけ裕福 な暮らしが出来るということだ。グールドの別邸も、戦っている間 はよく見ていなかったが、今にして思えば凄まじい豪邸だった。 フィリアネスさんの部屋には、金色のネームプレートがかかって いた。彼女は俺の方を恥ずかしそうに窺いつつ、鍵を外して扉を開 ける。 ﹁⋮⋮先に入るといい。客人を入れるのは、もう何年ぶりか分から ないが⋮⋮前に入ったのは、確かヴィクターだったと思う。その頃 はまだ騎士学校に入る前で、親戚として親しくしていたのでな﹂ ﹁そ、そうなのか⋮⋮別邸とはいえ、フィリアネスさんの部屋に入 るのって、その⋮⋮﹂ ﹁だ、男性では、ヒロトが初めてだ⋮⋮確かめるまでもないと思う のだが﹂ ﹁い、いや。それを気にしてるわけじゃなくて⋮⋮﹂ 思わず慌ててしまう。確かに気にはなるし、初めて彼女の部屋に 入る異性が自分だというのは、嬉しくもあるけど、何だか無性に恥 ずかしい。 ﹁⋮⋮私のほうは、ヒロトが部屋に他の女性を入れても、気にしな いようにしているが。ヒロトには、その⋮⋮気にしてもらっても、 1416 一向に構わないというか⋮⋮﹂ ﹁そ、そういうことなら、ぜひ俺以外は入れないでほしい。独占欲 丸出しで、恥ずかしいけど⋮⋮正直な気持ちだ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮だから、確かめるまでもない。実家でも、この別荘で も、私はお前以外の男は部屋に入れない。これまでも、これからも だ﹂ この世界に数ある男の中で、俺しか入ることができない部屋。ま るでそれは、聖域のようだと思った。 大げさと思われるかもしれないが、それだけ緊張していた。真っ ライティング 暗な部屋の中に入ると、フィリアネスさんが魔術の呪文をつぶやく ︱︱明かりだ。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾は﹁ライティング﹂を詠唱した! ・室内の魔術灯に明かりが灯った。 部屋の壁の何箇所かに取り付けられた魔術灯が、一つずつ順番に 暖色の明かりを灯す。 フィリアネスさんの部屋は、応接室とベッドルームの二つに分か れていた。応接室には大きめのテーブルが置いてあり、バルコニー に出ることができる。貴重なガラスもここでは惜しみなく使われて いて、格子で区切られた大きな窓の外には、先ほど俺が裏庭で見た 大樹が見えていた。 フィリアネスさんはテーブルの前に置かれた2つの椅子のうち、 ひとつを俺に勧める。 1417 ﹁ここに座って、待っているといい。部屋に気になるものがあれば、 見てもかまわないが⋮⋮寝室には、まだ入らないでほしい。私の着 替えなどもあるのでな﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや。初めて来たばかりなのに、いきなりタンスをあ さったりはしないよ﹂ ﹁⋮⋮それよりも、私はとても重要なことを言ったのだが⋮⋮も、 もう一度言わせるつもりか⋮⋮?﹂ ﹁重要なこと⋮⋮?﹂ ︱︱少しも考えなくても気がついた。﹃寝室にはまだ入らないで 欲しい﹄という言葉の意味に。 ﹁あっ⋮⋮ふぃ、フィリアネスさん。それって⋮⋮﹂ ﹁な、なにを嬉しそうな顔をしている。さっき、帰らないと言った のではなかったか。そうか、私の勘違いだというなら、今からでも ⋮⋮﹂ ﹁ち、違う、勘違いじゃないよ。俺は⋮⋮﹂ 全部言う必要はなかった。怒ってしまったかに見えたフィリアネ スさんは、顔を赤らめて苦笑する。 ﹁⋮⋮私は、舞い上がってしまっている。気持ちと裏腹のことばか り言いたくなる⋮⋮本当は私だって、嬉しくて仕方がないのに﹂ ﹁俺だってそうだよ。こんなに幸せでいいのかって⋮⋮地に足がつ いてない﹂ ﹁幸せだと、思ってくれているのか⋮⋮?﹂ 短い言葉が、今は気持ちの引き金になる。フィリアネスさんは俺 の答えを待たずに、今度は彼女から俺に近づいて、正面から抱きし 1418 めてくれた。 ﹁⋮⋮私には、ヒロトしか考えられない。こんなに人を大事だと思 うのは、親に対してもなかったことだ。親不孝だと言われるかもし れないが⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮俺も、フィリアネスさんが大事だよ。離れてる時も、いつも 考えてた。今ごろ、何をしてるだろうって﹂ ﹁私もそうだ⋮⋮ミゼールに住むことが出来たらと想像することさ えあった。聖騎士の務めを果たしているからこそ、私はヒロトに会 うことを許されているというのに﹂ 聖騎士の務めと言われて、思い出さずにはいられなかった。 彼女は二十九歳まで、結婚も、おそらく男性との交際も禁じられ ているはずだ。 ﹁⋮⋮フィリアネスさんは、聖騎士だから⋮⋮戒めが、あるんだよ な。俺が大人になるまで⋮⋮﹂ これ以上先に進むのは、待たなければならない。柔らかな身体を 抱きしめれば、それだけ、男としての欲求が生じてしまう。 成長するというのは、そういうことだ。俺はユィシアの求めに応 じられるようになった︱︱それは、男性として十分に成熟したとい うことでもある。 そんな今の俺にとって、フィリアネスさんは、憧れの遠い存在の ままではなくなっていた。 ︱︱キスよりも先に進みたい。そんな俺の気持ちを察したのか、 彼女は戸惑い、さらに顔を赤くする。 1419 ﹁⋮⋮そ、そのことなのだが⋮⋮笑わないで、聞いて欲しい﹂ ﹁えっ⋮⋮わ、笑うって、どういうことだ?﹂ セイントナイト パラディン ﹁私が聖騎士として功績を上げることに躍起になり、腕を磨いてい たのは⋮⋮﹃聖騎士﹄ではなく、さらに上位の﹃真聖騎士﹄になる ためだ﹂ つまり、フィリアネスさん自身が望んで職業を変化させたという ことになる。 しかしそれが、なぜ笑うようなことなのか、俺にはまだわからな い。 ﹁真聖騎士として叙勲を受ける条件は、領地を持つこと⋮⋮そして、 公国の認める武勲を上げることだ。そうすると、聖騎士としての制 限がなくなる。つ、つまり⋮⋮その⋮⋮﹂ その続きを、フィリアネスさんはとても言いづらそうにする。 ︱︱笑うなんて、そんなことはありえない。 フィリアネスさんは凄く努力して、功績を認められてパラディン になった。それは二十九歳まで結婚できないという﹃戒め﹄を、な くすためで⋮⋮つまり、それは。 ﹁俺のために⋮⋮お、俺、まだ八歳だけど⋮⋮いつか結婚できるよ うにって、頑張ってくれたのか⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮そ、そんな驚くような目をするな⋮⋮ばかもの﹂ 驚きを通り越して、もう何て言っていいのか分からない。 もちろん、俺との距離を近づけるためだけに彼女が戦っていたわ けではない。それは分かってる、だけど。 1420 ﹁⋮⋮フィリアネスさんを好きになって、良かった﹂ 本当は、一目惚れだったんだ。そんなことは、恥ずかしくて言え なかった。 初めの一瞬は、ゲームの中のキャラクターが現実化したことを喜 んで、次にはもう違っていた。 ゲームとは違う、確かにこの世界で生きている彼女に、惹かれて いた。 ◇◆◇ 泊まっていくということなら、お風呂に入らないといけない。俺 はフィリアネスさんより先に入らせてもらうことになった。 湯殿に案内してくれたメイドさんは、そのまま風呂の中での世話 までしてくれようとした。 貴族の中では、男性も女性も問わず、そういった世話役がいるの が慣習になっているらしい。それなら俺も甘えてしまっても良かっ たのかもしれないが、﹃貴族の感覚﹄にいきなり浸かってしまうの は危険だと思えた。 何より、メイドさんたちが、﹃主人のフィリアネスさんが連れて きた男性﹄ということで物凄く恐縮していて、下手をしたら行き過 ぎたことをしかねない感じがした。 貴族の暮らしは、ひとつ間違えば背徳と隣合わせだ。母さんが家 を出たのは、そういう慣習が合わなかったからなのかもしれない、 1421 と思ったりもする。 天井が高くて、何人も一緒に入れるくらい広い風呂場。石造りの 湯船に浸かって、獅子を象った彫像の口からお湯が吐き出されるさ まを見ながら、俺は緊張と静かに向き合っていた。 女の人の家でお風呂に入り、先に上がってきて、部屋で待つ。 一人になってそんな状況に置かれると、急に緊張して仕方がなく なる。 ︵お、落ち着かない⋮⋮︶ 俺はじっと座っていることなどできなくて、窓を開け、夜風に当 たる。空に浮かぶ月を見上げると、少しは気分が落ち着く気がした。 時間がかかるので、待たずに寝ていてもいいと言われた。先に寝 室に入ってもいいと許可ももらった。 しかしまだ、寝室に続く扉を開けられていない。最初は、着替え があるから入ってはいけないと言われたし⋮⋮意識しすぎて、足を 踏み入れられない。 だが、逆に考えてみたら、入っていいと言ったのに入ってないと いうのは、好感を持たれない行動ではないだろうか。こんな時の女 性の考えが全く分からない︱︱こればかりは交渉術でクリア出来な い、素の俺の問題だ。 意を決して、俺は寝室に続くドアを開けた。中にはひとつだけベ 1422 ッドが置いてあるが、一人だけで寝るためのもののはずなのに、も のすごく大きい︱︱そして、丸い。 ベッドばかり気にしてしまうのも何なので、俺は部屋の中をぐる りと見渡す。 そこにはフィリアネスさんが使っているらしい机があった。近づ くと、上に何か置かれている。 ﹁⋮⋮これは﹂ それは、絵を飾る小さな額縁だった。裏返して見て、俺は思わず 言葉を失う。 そこには、赤ん坊︱︱おそらくフィリアネスさんと、彼女を抱い ているディアストラさんらしい女性の姿が、繊細な筆使いで描かれ ていた。 俺はそのまま、額縁を元に戻した。これをフィリアネスさんが伏 せた理由が、わかる気がしたから。 ここは間違いなくフィリアネスさんの部屋だが、今の大人のフィ リアネスさんから想像する部屋とは違って、幾らか幼い頃に使って いたままの面影が残っていた。 俺の心は次第に落ち着いてくる。ここにいたフィリアネスさんの 子供の頃の姿を、想像する。 初めて会ったとき、彼女は十四歳だった。それ以前の彼女のこと を、ほんの少しだけ知ることができた。 過ぎた時間は戻らず、どれだけ願っても、相手の全てを知ること はできない。 1423 それなら、これから過ごす時間を大切にすればいい。今はもう、 そうすることを許されたのだから。 心が静かになったあとは、時間の流れが早く感じられた。 気が付くと、ドアがノックされていた。自分の部屋だというのに、 彼女は中にいる俺に気配りをしてくれた。 ドアを開けると、ネグリジェの上から、薄いガウンのようなもの をまとったフィリアネスさんが立っていた。まだ少ししっとりとし た髪が、何とも言えず色っぽい。 ﹁す、すまない⋮⋮やはり、時間がかかってしまった。待ちくたび れてしまったか?﹂ ﹁部屋の中を少しだけ見せてもらってたから、退屈じゃなかったよ﹂ ﹁そ、そうか⋮⋮それならば、よかった⋮⋮飲み物を持ってきたが、 どうする?﹂ ﹁少しだけもらうよ。ちょうど、喉が乾いてたんだ﹂ お互いにこれ以上ないほど意識しているのに、落ち着いているよ うに見せようとする。 他の人から見れば滑稽に見えるやりとりかもしれないけど、俺は 幸せで仕方がなかった。彼女の気遣いのひとつひとつが、俺を優し い気持ちにさせた。 やがて俺たちはどちらが言うでもなく、寝室に移動した。同じベ ッドに入って、隣合わせで眠りにつく。 ﹁⋮⋮ヒロト、手を握っていてもいいか?﹂ 1424 ﹁うん。もちろん⋮⋮抱き合ったまま眠るっていうのも、憧れるけ ど﹂ ﹁⋮⋮では、そうしよう。子供の頃から、そうしてきたように⋮⋮ おいで、ヒロト﹂ フィリアネスさんが、その時は憧れの女性であると同時に、お姉 さんなんだと強く感じた︱︱この人の胸に甘えて眠れるなんて、俺 はどれだけ恵まれているんだろう。 今はまだ触れ合うだけ。今夜はスキルを受け取ることもしないで、 俺達は同じベッドで笑い合い、恋人としてじゃれあった。 ︱︱そして初めて過ごす、フィリアネスさんの別邸での夜は、静 かに更けていった。 1425 第四十二話 二人の朝/六面楚歌 空が白み、朝の光が部屋を満たす中で、俺はフィリアネスさんの 横で、いつまでも飽きずに彼女の寝顔を見ていた。 初めて会った時のことを、昨日から何度も思い出している。俺と 母さんを助けてくれた彼女の凛とした姿、そして一緒に過ごしてき た時間と、彼女が輝くような笑顔を見せ、涙を流した瞬間の全てを、 俺は覚えている。 ﹁ん⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮起こしちゃったかな。まだ寝ててもいいよ﹂ 長い睫毛が震えて、フィリアネスさんの目が薄く開く。俺の姿を 認めると、その頬が赤く染まっていく。 ﹁⋮⋮夢ではなかったのだな。私は、ヒロトと一緒に休んで⋮⋮﹂ ﹁夢じゃないよ。夢だったら俺の方が立ち直れない﹂ 彼女の頬にかかる髪に触れると、白い手が重ねられる。その手は 温かくて、触れているうちに守りたいという気持ちが強くなる。 ﹁⋮⋮大切な相手と眠りにつくというのは、これほど深く眠れるも のなのだな。久しぶりに、夢も見なかった⋮⋮とても、心地よかっ た﹂ ﹁俺もよく寝られたよ。もともと起きるのは早いほうだから、フィ リアネスさんの寝顔を見てたんだ﹂ ﹁⋮⋮ばか。恥ずかしいから、あまりそういうところは観察するな﹂ 1426 こうして幸せを噛み締めていると、生きているということがどれ だけ恵まれたことなのかと実感する。 それは、俺がリリムに死の恐怖を実感させられたからということ でもある。 克服するには、リリムを超える︱︱倒すしかない。しかし、リリ スの妹である彼女を、何が何でも殺さなければならないとは、どう しても思うことができない。 ︵その甘さで死にかけたのは分かってるけど⋮⋮何か、自棄になっ ている気がしたんだよな︶ リオナを見たリリムの反応を見る限りでは、人間に害を成すこと はただの余興にすぎず、リリムが最も拘泥しているものは別にある ように思える。魔王同士の繋がり、もしくは︱︱いや、まだ推察す るにも、材料が足りなさすぎる。 気が付くと、フィリアネスさんが俺の頬に手を伸ばしていた。そ の目が少し潤んでいる。 ﹁⋮⋮何か、つらいことを思い出してしまったか?﹂ ﹁大丈夫。俺、絶対に死にたくないなって⋮⋮ごめん、こんなとき に、リリムのことなんて考えてて。でも、俺はあいつを倒さなきゃ ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮大きくなったおまえが、見違えるほど強くなったことは分か る。私が、誰よりも知っているつもりでいる⋮⋮しかし、おまえは 大きくなった代わりに、残りの生命を⋮⋮﹂ 1427 寿命を失ったのではないか。しかしそれも、リリムを倒すことで、 取り戻せる可能性はある。 ﹁俺は、それがどうしようもなく辛いことだとは思ってない。諦め てるわけでもないから、心配いらないよ﹂ ﹁⋮⋮私が耐えられない。私の生命を代わりに差し出すことができ たら、どれほど⋮⋮﹂ フィリアネスさんが本気で言ってくれてることはわかっている。 だから俺は答えの代わりに、腕を伸ばして、彼女の身体を抱き寄せ た。 ﹁失ったものがあるなら、俺はこの手で取り戻すよ。俺が成長した ことは、リリムの想定の範囲内かもしれないけど⋮⋮だからといっ て、二度負けていい理由は何もない﹂ ﹁⋮⋮おまえは、何故そうも強くいられる? 魔王リリムは、皇竜 の力がなければ退けられなかった。また、皇竜に任せるべきだとは 思わないのか⋮⋮?﹂ ﹁それで終わったら、俺はいつか前に進めなくなる気がする。俺は ユィシアに頼りきりじゃなくて、主人として認められるような存在 になりたいんだ﹂ 魔王リリムを圧倒したユィシア。もちろん次に戦うとき、彼女を 連れて行かないという選択はない。 巻き込みたくない、できるなら危険から遠ざけたい。パーティメ ンバーに対してそんなことを思う自体が、彼女たちからすれば冗談 ではないというところだろう。 一人では限界がある。俺は激増した﹃恵体﹄などの値を見て自分 の力を過信しかけていたが、それでは駄目だと思い直す。 1428 考えうる最強のメンバーで勝ちに行く。容姿は少女のようでも、 魔王はそれが当たり前の相手だ。 ﹁⋮⋮おまえは、いくら強い相手であっても、自分のルールを決め て戦うところがある。その信念を感じるからこそ、私は子供であっ ても関係なく、おまえを⋮⋮﹂ ﹁俺もどれだけ長く生きたかなんて関係なく、フィリアネスさんに 憧れてたんだよ。生まれた時なんて十四歳も差があったのに、その 時から惹かれてたんだ﹂ ﹁⋮⋮う、うむ。それは私も、何となく気づいてはいたのだが⋮⋮ 赤ん坊には好かれるほうではなかったし、元々そういう趣味があっ たわけではない。おまえだから、初めて興味を持ったのだ﹂ フィリアネスさんが何を真剣に伝えようとしているのか、こんな 言い方もなんだが、彼女はショタコンではない、と主張しているの だ。 ﹁俺はフィリアネスさんに好かれて、本当に幸せだよ﹂ ﹁⋮⋮私もそうだ。私は、おまえのことが誰よりも大切だ⋮⋮おま えを傷つける者は絶対許さないし、おまえを奪おうとした母には今 でも文句を言ってやりたい。他の娘たちにも、本当は渡したくはな いのだからな⋮⋮わかっているか?﹂ フィリアネスさんが手を伸ばして、俺の胸を指でなぞる。彼女は 指先で、俺がくすぐったがる部分を触れたそうにしていた︱︱けれ ど、触れない。そんな奥ゆかしさも、どうしようもなく愛おしい。 俺は何度目か、フィリアネスさんの肩に手を回して抱き寄せた。 間近で見る彼女のはにかんだ笑顔を、いつまでも見ていたい。こう 1429 やってずっと一緒にいられるように、出来る限りのことをする︱︱ もう、彼女に心配をかけないように。 ◆◇◆ しかし、いつまでも浸っていたい幸せな時間は、自分で終わりに しなければならない。そろそろ、宿に戻らなければ皆が心配するだ ろう。 ﹁⋮⋮もう、帰ってしまうのだな。皆には、どのように知らせるつ もりだ?﹂ ﹁できるだけ、驚かせないようにしたいんだけど⋮⋮知らせたら、 今まで通りでいられないのかな﹂ ﹁それは⋮⋮確かに、皆の気持ちを考えれば、どのように伝えれば 良いものだろうな。私にも、おまえを独り占めにしたいという気持 ちはある。昔から、マールとアレッタがおまえと仲良くしているの を見ていて、何も思うところがなかったといえば嘘になる﹂ 三人にお風呂に入れてもらったとき、俺は遠慮なく二人の厚意に 甘え、さんざんスキル上げをさせてもらった。夜、みんなが寝静ま ってから採乳させてくれていたフィリアネスさんは、いわば見せつ けられる側だった。そう考えると今更に、皆の優しさに甘え過ぎだ と痛感させられる。 ﹁⋮⋮お、俺って⋮⋮やっぱり、わりと男としてどうしようもない っていうか、節操がないというか⋮⋮﹂ ﹁これは、あまり女の方から言うべきではないのかもしれないが。 ゆくゆくは領主になるおまえが、何人の妻を持つかなどは、おまえ の心ひとつで決まることだ﹂ 1430 フィリアネスさんは真っ直ぐな瞳で俺を見ている。それで俺も、 浮ついた気持ちを捨てて、心を引き締めることができた。 ﹁⋮⋮私は、おまえが大きくなって嬉しかった。リリムに奪われた ものを取り戻したとき、おまえはもう一度若返るのかもしれない。 そうなったときは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮俺がもう一度大きくなるまで、待っててくれるかな。俺が十 五歳になったら、結婚しよう﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 結婚という言葉が自然に出てきた。一夜を共にしたのに、そうし ないという選択は俺にはなかった。 ﹁記録上は、俺はまだ八歳だけど。これだけ大きくなったら、手続 きさえすれば、大人として認められるのかな? それなら、あまり 待たせなくて済むと思う⋮⋮フィリアネスさん?﹂ 勝手に話を進めてしまって、怒らせてしまったんだろうか。フィ リアネスさんは顔を覆ったまま、そのまま小さく肩を震わせている。 ﹁ご、ごめん。俺、フィリアネスさんの気持ちも考えないで、自分 のことばかり⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ふぅっ⋮⋮んっ、く⋮⋮うぅっ⋮⋮﹂ どうして泣いてるんだろう。俺が結婚しようなんて言ったから、 泣かせてしまったのか。あまりに急すぎたのか、今の俺にそんな資 格なんてないのか。 考えに考えて、ぐるぐると自分を責める気持ちが生まれて。俺は 1431 やっぱり、人の気持ちが分からないんだと思いかけたところで︱︱。 ﹁⋮⋮ちがう⋮⋮ヒロトは悪くない⋮⋮私が、ただ⋮⋮ひぐっ⋮⋮ そんなこと、言ってもらえると、思わなっ⋮⋮私⋮⋮私は、年上で ⋮⋮十四歳も上で⋮⋮リオナとステラの方が、近くてっ⋮⋮わ、私 なんかで⋮⋮いいのか、わからなくてっ⋮⋮﹂ ︱︱そうか。 俺が不安である以上に、ずっと気丈に振舞っていたフィリアネス さんの方が、不安だったんだ。 俺が大きくなったら、離れていく。それをずっと恐れていて、ゆ うべを迎えても、結婚するなんて未来は考えていなかった。 やがて別の道を歩む時が来る。そんな考えを持ち続けて︱︱それ でも、全てを捧げてくれた。 ずっと本当のことを言わずにいた俺を許して、受け入れてくれた。 ﹁⋮⋮もう、泣かなくていい。俺はフィリアネスさんが好きだよ。 それは、ずっと一緒にいるってことなんだ﹂ 俺はシーツにくるまったフィリアネスさんを、その上から抱きし めた。そうせずにはいられなかった。 ﹁ヒロト⋮⋮本当に、私で⋮⋮﹂ ﹁俺はそんなに、演技が上手いように見えるかな? 俺はフィルの 前では、いつも正直だよ。欲しい時は欲しいって言うし、好きな時 は好きだって言う。愛してるって言葉は、似合わないかもしれない 1432 けど﹂ ﹁⋮⋮そんなことは⋮⋮私のほうだって⋮⋮﹂ 彼女が顔を上げて、俺を見やる。真っ赤になってしまった目を見 て、胸が痛む。 もうそんな顔はさせたくない。俺はもっと、自分が考えているこ とをはっきり言うべきなんだろう。 ﹁⋮⋮愛している。おまえが小さかった頃からずっと。それを不思 議に思うこともなかった﹂ ﹁俺はそれをわかってて、甘えてたんだと思う。そうじゃなかった ら、俺は強くはなれなかったよ。竜の洞窟を攻略することさえ、で きなかったかもしれない﹂ ﹁だとしたら⋮⋮私は、おまえが赤ん坊のころから、甘やかしてよ かったと思う﹂ 少しだけ冗談めかせて言う。そんなフィリアネスさんを見られる のも、俺だけの特権だ。 ﹁おまえが生きることこそが、私の生きる意味なのだから﹂ それは俺も同じだ。答えの代わりに、何度目かのキスをした。 フィリアネスさんの白い頬に、輝く雫が伝い落ちる。俺も目を閉 じて、時間の流れも忘れて、朝の光の中で、彼女をいつまでも抱き しめ続けた。 フィリアネスさんと一度別れて、俺はみんなの居る宿に戻った。 貴族が住む区画を離れ、一般の民の住む区画に戻り、市場通りを歩 1433 いて宿に向かう。まだ早朝だからか閑散としていたが、一部の食事 の屋台などは、おそらく近隣住民の食事を提供するためにもう営業 を始めていて、食欲をそそる香ばしい匂いがしていた。 フィリアネスさんも今ごろは朝食を取っているころだろう。かな り声が出てしまっていたので、メイドさんたちと顔を合わせるのが 恥ずかしいと言っていたが、従者が主人の生活に口を出すことはま ずないとも言っていた。しかしその気恥ずかしさは、想像するに余 りある。 ︵俺もみんなに聞かれるだろうな⋮⋮でも、まだ寝てるか。みんな が起きてからが正念場だな⋮⋮︶ そんなふうに問題を少し先送りにしようとした俺だが、その考え は全くもって甘かった。 宿の一階に入ったところで、年長組のみんなは既に起きて待って いた︱︱マールさんと、アレッタさんまで。マールさんは騎士団の 寮に、アレッタさんは首都にある実家に一度戻っていたはずなのに。 入ってきた俺に気づいて、席を立って歩いてきたのはモニカ姉ち ゃんだった。ちょっとその目が赤くなっている︱︱そして。 彼女の両手が伸びてきて、おもむろに頬をつままれた。 ﹁おはよう、ヒロト。お早いお帰りだったわね。ある意味では、す ごく遅かったともいうけど﹂ ︱︱これはもしや、世に言う修羅場というか、俺を弾劾する裁判 のために、みんなが待ち構えていたということなのか。 1434 モニカ姉ちゃんの他に、ウェンディ、ミコトさん、名無しさん、 マールさんにアレッタさん。彼女たちはどうやら、かなり前から同 じテーブルを囲んでいたようだった。 ︵ちょっ、待っ⋮⋮い、いや、そうなるかもしれないとは思ってい たものの、みんな勘が良すぎるっ⋮⋮!︶ フィリアネスさんの所に行った件については悟られてもおかしく ないし、行く途中で会ったスーさんはまだしも、パメラは口に戸を 立てられるタイプじゃないので、目撃したことをみんなに報告した 可能性はある。否、どっちにしても、みんな気づいてるに違いない。 つまり俺は、生きるか死ぬかという状態にある︱︱ここで捕まっ たということは、そういうことだ。 ﹁どうしたの? そんなにうろたえちゃって。私はなんとなく早起 きして、みんなと一緒にヒロトの帰りを待って、なんとなくほっぺ たを触ってるだけなんだけど?﹂ ﹁っ⋮⋮お、俺はあの、えーと⋮⋮﹂ 何も言い訳が思いつかない。俺には恋の修羅場においての経験が まったくない。交渉術に恋の一文字が含まれたスキルはひとつもな い。いや、この期に及んでスキルのせいにしてどうする。 俺の人間力が問われている。フィリアネスさんの部屋に泊まる関 係になってもなお、みんなを繋ぎ止められるかどうかは︱︱嘘はよ くない。彼女とは清い関係が続いているなんてことを言って一時し のぎをしても、何の解決にもならない。 ﹁も、モニカさんっ、お師匠様が固まってるのでありますっ、私は 1435 全然気にしていないどころか、聖騎士さまがうらやまもがっ⋮⋮む ーっ、むーっ!﹂ ﹁ウェンディちゃん、今はちょーっと大人しくしててね。わらひも ヒロトちゃんをいじめるつもりは全然ないけど、これっぽっちもな いんだけど、いろいろと一晩我慢した気持ちの行きどころがね? ひっく﹂ ﹁マールさん、いっぱい飲まれてましたしね⋮⋮今もお酒が抜けて ないんじゃないですか?﹂ ﹁わらひがしらふじゃないってのら∼! アレッタちゃんのばかぁ ∼!﹂ ゆうべ何が起きていたのか、俺はようやく察した。宿屋の一階の ラウンジで、みんなお酒を飲んでいたのだ。たぶん、年少組のリオ ナ、ミルテ、ステラ姉が寝入ったあとで。 ﹁⋮⋮それで、どうなの? ヒロト、私の聞いてることはわかるで しょ? 正直に答えて﹂ モニカ姉ちゃんが俺を見ている︱︱不安げで、けれど、ある種の 決意を感じさせる。 俺の答え方次第で、今後の運命が決まる。冗談なんて言おうもの なら、そこで終了だ。 ︵自分で選ぶことはできる。いや、そうするべきだ。でも、少しで もいい。誰かにアドバイスをもらいたい︶ 情けない考えだが、こんな時に父さんに相談できたら。父さんな ら笑い飛ばしてくれるか、それとも至極真面目に、一人の女性を選 べと言うかのどちらかか。いや、父さんならじゃない。俺が考えて、 俺が決めるべきだ。 1436 ︱︱しかし俺には、自分で選ぶ道を最良にする方法がある。俺は やはり、交渉術を信じる⋮⋮! ︵頼む⋮⋮教えてくれ。俺に、人生の修羅場を乗り切らせてくれ⋮ ⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹁選択肢﹂スキルを使用した。 ・選択肢の内容を﹁発言内容﹂に設定した。 ◆選択肢ダイアログ◆ 1:﹁ゆうべあったことは、みんなの想像通りだ﹂ 2:﹁十五歳になったら、みんなと結婚したい﹂ 3:﹁待っててくれてありがとう。ごめん、何も言わずに出かけて﹂ ◆◇◆ ︱︱全部俺が言いそうな言葉で、その先の展開が読めない。二番 目だけ現実離れしているようにも見えるが、そう感じるのは、俺が 前世においての常識にまだ縛られているからだ。 この異世界マギアハイムなら、二番目を選択できる。しかしそれ を今選ぶことはできない。 俺はリオナとステラ姉、ミルテもまた、ずっと一緒にいて欲しい と思っている。例え強欲と言われようが、その気持ちに嘘はつけな 1437 い。 成長した俺が、肉体の年齢である十四歳と正式に認められたとし ても、一年経って成人した時にはまだ、年の近かったみんなは幼い ままだ。 だがそもそも、俺がフィリアネスさんを選んでもなお、モニカ姉 ちゃんや、ここにいるみんなも離したくないという自体が、受け入 れられない可能性もあって。 ︱︱だったら俺は、まず謝るべきだろう。気持ちと、スキルと、 その両方が一致した選択があるのだから。 ﹁待っててくれてありがとう。ごめん、何も言わずに出かけて﹂ 俺はモニカ姉ちゃんの目を見て言った。昔なら目をそらしたくな るほど、真っ直ぐな澄んだ瞳だった。 そのまま見つめ合う。しばらくそうしていると、モニカ姉ちゃん の頬が赤らんで、彼女はつい、と目をそらした。 ﹁⋮⋮それは、言わないでいたい気持ちも分かるわよ。でも、今の ヒロトが、内緒で出かけて⋮⋮それがきっと、好きな人の所だって いう意味は、私たちだって気付かずにはいられないのよ﹂ ﹁うん⋮⋮反省してる。俺はフィリアネスさんのところに行く前に、 みんなにちゃんと言うべきだった﹂ ﹁⋮⋮そう思ってくれるの? 私たちは関係ないって、言ったりし ないの?﹂ ︵⋮⋮そうか。それがみんな心配だったのか︶ 1438 安心した、なんて簡単には言えない。俺が将来領主になって、何 人もの奥さんを迎えられる立場になっても、みんなはそれだけで未 来のことが決まったとは思わない人たちだ。だから、不安だったん だ。 ﹁正直に言ったら、呆れられるだろうけど⋮⋮俺はゆうべ、フィリ アネスさんが心配で、それ以外のことは全然考えてなかった。ごめ ん、いい加減で﹂ ﹁⋮⋮いい加減なんかじゃないわよ。好きな人を本気で心配したと き、行動を起こさない人だったら、あたしは初めからヒロトについ てきたりしてない。それに⋮⋮﹂ 怒ってるような顔をしたモニカ姉ちゃんが、そのまま距離を詰め てくる。俺の胸に、サラシでも押さえきれてない彼女の胸が当たっ ている︱︱こんな時なのに、すごく柔らかいと思ってしまう。 ﹁あの人のところで夜を明かしたってことは⋮⋮そういうことでし ょう? ヒロト、顔つきが変わってるわよ﹂ ﹁い、いやその⋮⋮何ていうか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮本当は、あたしもヒロトと一緒に朝を迎えたいわよ。でも、 けっこう順番が後になりそうだから、拗ねてただけ。ごめんね、ほ っぺた痛かった?﹂ 全然痛くなんてない。モニカ姉ちゃんはそれでも俺の頬を労るよ うに撫でて、今までも見せたことがないような、優しい微笑みを見 せてくれた。 ﹁私たちがこうして集まって待ってたのは⋮⋮おめでとう、って言 いたかったのよ。ヒロトは信じられないかもしれないけど、私たち 1439 はそうしようって決めてたの。マールさんだって、ゆうべはヒロト とフィリアネスさんが幸せになってくれたなら、自分のことみたい にうれしいって言ってたのよ﹂ ﹁はぅっ⋮⋮そ、それは言ったけど、複雑な乙女心がなんというか ⋮⋮かわいいヒロトちゃんが、私の知らないところで雷神さまとい ちゃいちゃしているかと思うと、いても立っても居られないそわそ わ感が⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そう言いますけど、ヒロトちゃんは私たちとも、同じくらい ⋮⋮い、いちゃいちゃしてくれるかもしれませんし⋮⋮た、試させ てもらってもいいですか⋮⋮?﹂ フィリアネスさんといちゃいちゃしただけでも幸せで仕方なかっ たのに、みんなとも︱︱と言われると、自分がだめになりそうな気 がすごくする。 俺は自分を律することができる男だ︱︱と思いながら、待ってい てくれたみんなを改めて見やる。 ﹁ど、どうしたの? ヒロト⋮⋮そんな、急に真顔になって﹂ ﹁ぎ、ギルマス⋮⋮私も待っていましたけれど、モニカさんの言う とおり、私も皆さんと同じ意見ですのよ。そんなに真剣になって、 ただ一人を選ぶようなことはなさらなくても⋮⋮﹂ ﹁え⋮⋮い、いや、ミコトさん、いいの? だって、ミコトさんは ⋮⋮﹂ 前世においては、ミコトさんは一夫一妻の国で過ごしていたわけ で。 マギアハイムは一夫多妻が許されるといっても、いいんだろうか と思ってしまう。 1440 ﹁そ、それは⋮⋮遠慮していたら、ギルマスが困ってしまいますし ⋮⋮私は、奥さんが多くて賑やかな暮らしというのも、良いのでは ないかと思いますわ⋮⋮な、名無しさんはどうなんですの?﹂ ﹁小生はモニカさんとウェンディに会ったときから、視野に入れて いたよ。ヒロト君が良ければ、みんなで一緒がいいとね﹂ ﹁そ、そうだったのでありますか⋮⋮!? 名無しさんの友情が、 胸にしみるのでありますっ⋮⋮これからも三人で、お師匠様と仲良 くするのであります!﹂ ﹁まあ、確かにそうしたいとは思ってたけど⋮⋮ヒロトも大きくな ったし、全部が今まで通りとはいかないわよね⋮⋮﹂ 思わせぶりなモニカ姉ちゃんの言葉に、いろいろと想像してしま う。今三人と一緒に一晩を明かしたら、健全な夜を過ごせるだろう か⋮⋮? ﹁ヒロト君の葛藤はよくわかるよ。やはり、慣れるまでは悩むとこ ろだろうね﹂ ﹁分かり合っているふうですけれど、マ⋮⋮いえ、名無しさんも、 ヒロトさんと聖騎士さんのことには思う所があるとおっしゃってい ましたわよね。ゆうべはお酒の量も多かったですし﹂ 麻呂眉さんの表情は仮面をつけてるから分からない。しかしルー ジュを引いた端正な口元を見るだけで、彼女が恥じらっていること が何となく分かる。 ﹁⋮⋮そんなことはないよ? 私がやけ酒をするなんて、そんなこ とはないよ﹂ 大事なことだから二回言いました、というフレーズをとても久し ぶりに思い浮かべた。彼女は慌てても、あまり声とかには出ないん 1441 だな。その分だけ、二回言ったことに重みを感じる。 ﹁え、えっと⋮⋮名無しさんも、みんなもごめん。俺、ちゃんと一 人ひとりに言ってから出かけた方が良かったな。反省してる﹂ ﹁⋮⋮言われたら言われたで、こうして会議を開いていたでしょう から、どちらにしても同じですわ。きれいに物事をおさめようとし て、変にまじめぶらないでくださいませ﹂ ︵ぐっ⋮⋮い、痛いところを⋮⋮ミコトさん、結構ツンだな⋮⋮︶ ﹁で、ですから、お師匠様をいじめないでくださいでありますっ! それ以上お師匠様をちくちくすると、私が相手になるであります よ!﹂ ﹁い、いじめているわけではありませんわよ⋮⋮これからも離れら れないと分かっているからこそ、少しは言ってあげたくもなるので すわ。それに⋮⋮後になったら、いじめられるのは私たちではあり ませんの?﹂ ﹁そ、その話は⋮⋮勝手にイメージを作っているけど、ヒロト君は 優しいと思うよ。小さな頃から、女性に対する気遣いを感じたから ね﹂ ソフトタッチを心がけているので、それはちゃんとみんなに伝わ っているようだ。エネルギーが流れ込む感覚は、それなりに激しか ったりするのだが。 ﹁マ⋮⋮ではなくて、名無しさん、今は宿の女将さんしかいません からいいですけれど、あまりそういったことは、オープンに話すこ とではありませんわよ﹂ ﹁ミコトは少し静かにしていた方がいいんじゃないかな? 冷静じ ゃなくなっているみたいだし﹂ 1442 ﹁なっ⋮⋮年長者だからといって、落ち着いて対応したら、ギルマ スからの評価を上げてもらえると思っているんですの?﹂ ﹁い、いや⋮⋮小生はそんなつもりはない。もし嫉妬をするとして も、それは胸の中にとどめておくべきだと思うだけだよ﹂ 嫉妬という言葉が出てきて、やっぱりそうだよな、と俺は思う。 そればかりは避けられることじゃない。 でも、みんなには仲良くして欲しい。無茶苦茶だと思うけど、俺 はそうできたらベストだと思っている。 そうしたいなら、何を言うべきか。俺に考えつくことは、一つし かなかった。 ﹁公王陛下も仰ってくれてたけど、俺、魔王と戦った功績で、領地 を賜ることになると思うんだ。それで、ミゼールを含めた、ジュネ ガン西部の領地をもらおうと思ってる﹂ 今、しっかり言うべきだと思った。俺がこれからどうしたいのか、 みんなとのこれからを、どのように考えているのかを。 みんな俺が何を話そうとしているのかまだ分からないという様子 で、ミコトさんも名無しさんも言い争うのをやめて、俺に注目して くれていた。 ﹁自分が生まれた町が好きだってこともある。もちろん領地をもら えば、俺には領民を幸せにする義務が生じる。でもそれも、俺は全 部上手く行くと思ってる。今の領主とも話すことになるだろうけど、 ミゼールは田舎で、油断すると周辺に魔物が増えやすい危険な土地 だ。そういう問題を解決することや、ミゼールっていう町をもっと 1443 発展させることも含めて、俺には色々やりたいことがあるんだ。小 さい頃から、ずっとあの町を見てきたからさ﹂ 一人の村人に過ぎなかった俺が、町の発展を考える。それは普通 なら滑稽だと言われそうな話だが、みんなは笑ったりはしないでい てくれた。 ﹁⋮⋮それに、俺は自分が貴族の血を引いてるとか、詳しく知らず に育ったけど。血筋がどうとかじゃなくて、貴族には、普通の人に はできないことが許されてる。そのために偉くなりたいわけじゃな いけど⋮⋮俺は、これからもずっとみんなと一緒にいたいと思って る。それを、誰からも認められるようになりたい﹂ 庶民でも、多くの奥さんを持っている人も探せばいるだろう。し かし妻を複数人持つことを制度として公認されているのは、爵位を 持つ貴族、そして王族だけだ。 ﹁こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、俺は、みんなの ことが好きなんだ。それぞれに違うところが好きで、比べられるも のじゃない。だから、みんなと一緒に⋮⋮﹂ 最後まで言葉にできなかった。 ︱︱それは俺の声が震えていたからじゃなくて。六人が全員、俺 の前にやってきたからだ。 誰ひとりとして怒ってはいない。けれど俺は、泣きたいような気 持ちになった。 俺が嫌われてもおかしくないと覚悟して言ったことを、みんなが 1444 ありのままに受け入れてくれたから。 ﹁ヒロトちゃん、私もその中に入れてもらってもいいの⋮⋮? 私、 こんなにがさつで、戦うことしかできなくて、女の人らしいことな んて、なんにもできないよ⋮⋮?﹂ マールさんはそう言うけど、俺は彼女がとても優しくて、すごく 器の大きい人だと知っている。昔から真面目なフィリアネスさんと アレッタさんが笑顔になるのは、いつもこの人がきっかけだった。 ﹁わ、私は⋮⋮皆さんと比べると、女性としての魅力には欠けてい ると思います。戦う力も強くありませんし⋮⋮こんなつまらない私 でも、傍にいていいんですか⋮⋮?﹂ つまらないなんて、そんなことは絶対にない。生真面目に見える アレッタさんだけど、いつもフィリアネスさんとマールさんのこと を考えて、二人が存分に戦えるように、元気でいられるように心を 配っている。 俺も彼女がいてくれて安堵したことが何度もあった。いつも遠慮 しながら、それでも俺を可愛がってくれる彼女に、紛れもなく好意 を抱いている。 ﹁お師匠様⋮⋮私は、まだ未熟で、女性としてもまだまだでありま す⋮⋮でも、いつかお師匠様に女の人として見てもらえるように、 頑張るのであります。ですから、これからもお傍にいさせてくださ い⋮⋮!﹂ ウェンディは初めて俺の仲間になってくれて、それからずっとパ ーティの一員で居てくれた。騎士団に入れなかったっていうけど、 1445 その才能は遅咲きなんだと思う。今も少しずつだけど成長を続けて いる彼女は、数年後には要となる戦力になっているはずだ。 ﹁⋮⋮こんなことしてたら、奥さんが増えすぎて大変なことになる ってわかってる? ヒロト、あたしなんかと一生一緒にいてくれる とか、簡単に決めちゃっていいの?﹂ 初めて会った頃はまだ赤ん坊で、狩人スキルを持っているのに、 魅了に抵抗力があって強敵だなんて思ってしまっていた。でもそれ は、俺が喋れなかったから、対等な関係を築けていなかったからだ。 一緒にパーティを組んで、長い時間を一緒に過ごすうちに、俺は 彼女の魅力をどんどん見つけていった。さっぱりとしていながらも、 時々見せるたおやかな一面に惹かれずにはいられなかった。 そして、前世から知っているふたり⋮⋮ミコトさんと、マユさん。 一人は男性だと思い込んでいたから、その言葉遣いで気づくべきだ ったのに、いつまでも別人だと思い込もうとしていた。 会ってみて分かったことは、言葉遣いなんて関係なく、名無しさ んが魅力的な女性だったということ。そして、ミコトさんが想像し ていたより情熱的で、徹底的に強さを求めるストイックな女の子だ ったということだ。 ﹁⋮⋮ギルマス⋮⋮いえ、ヒロトさん。私は当面の間は、あなたの 仲間として戦うこと、あなたの役に立つことを第一に考えています わ。けれどもし、もう一度、私のことを⋮⋮一人の女として見ると きが来たら⋮⋮﹂ その時は、俺は気持ちを抑えることなく、ミコトさんを求めたい と思う。時計塔の屋上で彼女との約束を果たしたときに、異性を意 1446 識するほど成長したことに気付かせてもらえた。 そんなことばかり考えていたら軽蔑されるだろうけど、貴重な機 会がもう一度訪れることがあったら、俺は逃すことはしない。スキ ルが欲しいと思う以上に、彼女の全てを手に入れたいと思っている から。 ﹁小生は法術士としてもまだ未熟だ。当面は自己を研鑽し、少しで も早く戦力になれるよう努力しよう。女として見てもらえなくても かまわない⋮⋮君と共に戦うことさえできれば、それでいい﹂ 仮面の下の口元を見るだけで、俺は彼女の感情が分かるようにな っていた。だから、本当は﹃それでいい﹄なんて思ってないことは 分かっている。 グランドクエスト 俺が彼女の本音を聞けるとしたら、それは仮面を外したときだ。 俺の人生の目的に、それも重要な一つとして含まれている。 六人は告白を終えて、言葉を待っている。そう、これは告白だ⋮ ⋮今さら気づく俺も、鈍感にも程がある。 だけど、その答えは間違えない。スキル無しでも、迷いなく正し い選択をする自信がある。 ﹁ありがとう。マールさん、アレッタさん、ウェンディ、モニカ姉 ちゃん、ミコトさん、名無しさん。俺で良かったら、これからもず っと一緒に⋮⋮﹂ そう言ったところでピクッ、とみんなが反応して、何やら不穏な 空気になる。 1447 ︵ま、間違えたのか? この期に及んで、俺というやつは⋮⋮!︶ 猛烈な後悔が襲いかかる。みんな顔を赤くして怒っている︱︱だ めだ、ここで俺の人生は終わってしまった。 ﹁俺で良かったら、じゃなーいっ! ヒロトちゃん﹃が﹄いいって 言ってるの! そこは間違えたら許しません! もう怒った、抱き しめてやる!﹂ ﹁マールさんの言うとおりですっ、これからいっぱい待つことにな るんですからっ! あんまり待たされると、フィリアネス様に苦情 を言いますからね!﹂ ﹁ちょっ、待っ⋮⋮!﹂ 待ってくれと言い切る前に、私服姿のマールさんにつかまり、胸 に思い切り顔を押し付けられる。そして自由になった腕を、ミコト さんとウェンディにとられてしまった。 ﹁マールさん、そのまま窒息させてあげてくださいませ。この人は 一度、痛い目にあったほうがいいのですわ﹂ ﹁だ、だめですっ、お師匠様は私の胸で窒息⋮⋮ではなくて、気持 ち良くさせてあげたいのでありますっ!﹂ 厳しいことを言いつつも、ミコトさんも胸を忍者装束越しに俺の 腕に押し当ててくる︱︱相変わらず、天使のほっぺたと表現したい ような、何ともいえない柔らかさだ。ウェンディの方はちょっと見 ないうちにまた成長したみたいで、ぽよんぽよんと心地よい弾力が 伝わってくる。気持ちいいといえば気持ちいいが、三方を胸に囲ま れたこの状況、後ろからも来られたら完全に四面楚歌だ。この場合 は四面、もとい六面が乳に囲まれている。アレッタさんの兵力が比 1448 較的薄いが、それはこの際問題にならない。 ﹁ふぅ⋮⋮これは協定を結んだ方がいいみたいね。こんなふうに取 り合いしてたら、ヒロトがもたないわ﹂ ﹁それは名案だね。他のみんなも異議はないだろう。まあヒロト君 なら、みんな一緒に相手をすることも不可能ではないのだろうけど ね﹂ モニカさんと名無しさんは騒ぎから距離を置いて話し合っている。 協定って、どんな内容なんだろう⋮⋮俺が言うのもなんだけど、す ごく知りたい。 ﹁な、名無しさんっ⋮⋮私はまだ、他の人たちと一緒はその、恥ず かしいのでありますっ⋮⋮!﹂ ﹁わ、私もですわっ! マユさん、勝手なことを言わないでくださ いませっ!﹂ ︵マユって言っちゃってるし⋮⋮ミコトさん、相当麻呂眉さんと親 しかったんだな︶ ﹁はぅぅ⋮⋮ヒロトちゃん、あったかい。こうしてると思い出すよ ね∼、いろんなこと。ヒロトちゃんとお風呂に入ったとき、まだち っちゃくて⋮⋮﹂ マールさんが感慨に耽っている。小さかった頃を思い出されると、 さすがに俺も恥ずかしさがマックスだ。 成長した姿を見せたら、マールさんは何というのだろう。想像す るだに恥ずかしいので、俺はもはやなるようにしかならないと、さ れるがままに身を任せていた。 1449 第四十二話 二人の朝/六面楚歌︵後書き︶ ◆ステータス成長◆ ヒロト:房中術 10↓12 聖剣マスタリー 1↓2 フィリアネス:房中術 1↓5 1450 第四十三話 再び王宮へ 宿に戻ってみんなの洗礼︵?︶を受けたあと、俺は一旦風呂に入 り、着替えて王宮に向かう準備をした。 ﹁今日は改めて、ファーガス陛下に謁見しないといけないのよね。 私たちは待っていればいい?﹂ ﹁ああ、一応、俺が代表者ってことで話を聞いてくるよ﹂ ﹁ヒロトちゃんパーティというか、ヒロトちゃんはそのうち領主に なるんだから、私たちはヒロトちゃん領の人たちっていうことにな るのかな? アレッタちゃん、どう思う?﹂ ﹁そうなると、騎士団を退団しないといけなくなるでしょうか。フ ィリアネス様なら、即断されると思いますが﹂ フィリアネスさんの領地ヴェレニス村のこともあるし、その辺り は色々と整理しないといけない。 彼女も王宮に来るはずだから、そこで話すことになるだろう。デ ィアストラさんと対面することになりそうで少し気になるが、二人 が距離を置きつづける理由は、もう無くなりつつある︱︱俺も二人 が和解できるように、働きかけていきたいと思う。 ﹁ヒロちゃん、しばらくしたらおうち⋮⋮じゃなくて、ここに帰っ てくるの?﹂ リオナ、ミルテ、ステラがやってくる。三人とも、聞きたいこと は同じようで、リオナがリーダーみたいになっていた。 しっかりしているステラ姉が前に出そうなのに、リオナはこうい う積極的な所があって、おとなしい二人を引っ張っている。魔王の 1451 転生体である彼女は戦闘力も異常に高いので、いざとなれば他の二 人を守ることもできるだろう︱︱よほどのことがなければ、リオナ には戦わせたくないとは思うが。 ﹁これからどうするか、王様と話してきて決めるよ。まあ、何か頼 まれるかもしれないけど、まずミゼールに帰ることになると思う。 サラサさんにもすぐ会えるよ﹂ ﹁ほんと!? よかった、お母さんのごはんが食べれる♪﹂ ﹁⋮⋮私も食べにいきたい。おばば様も一緒に﹂ ﹁私のお母さんは、ヒロトの家に行きたがりそう。ヒロトのお母さ んとお酒を飲むの、大好きだもの﹂ みんなの家族に会いたい気持ちはよくわかる。俺もホームシック とはいかないが、父さんと母さんの顔が見たい。 成長した俺の姿を見ていきなり勘当されるということはないと思 いたいが、両親の心情を思うと今から緊張してしまう。8歳の息子 が帰ってきたらいきなり14歳相当に成長してるって、どこの親で も冷静に受け止められることではないだろう︱︱けど。 リカルド父さん、そして俺のやんちゃを許してくれた母さんなら、 大目に見てくれるんじゃないかという期待はある。まず怒られるか もしれないが、それはやむなしだろう。子供が死ぬような無茶をし たら、二人は本気で怒ってくれると知っている。 ︵⋮⋮なんだ、俺、めちゃくちゃ二人に甘えてるんじゃないか︶ ﹁どうしたの? ヒロちゃん、顔が赤いよ?﹂ ﹁風邪を引いているかもしれないから、外に行くのはやめて、私た ちが看病をするわ。大丈夫よ、アレッタさんもついているから﹂ ﹁⋮⋮また気を失ったら⋮⋮あ⋮⋮﹂ 1452 ミルテが何かに気がついたように口を押さえて、目を見開く。そ して、顔を赤らめて俺を見てきた。 ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮おぼえてる? ヒロトがあぶなかったとき、私と、 リオナと、聖騎士さまと、竜のお姉ちゃんが⋮⋮﹂ ﹁だ、だめっ、ミルテちゃん言っちゃだめ! わたしたちはなにも してないの! そういうことにしたのっ!﹂ ﹁ひゃんっ⋮⋮り、リオナ、あぶないから⋮⋮っ﹂ ﹁だめぇー! だめなのー! ヒロちゃんには言っちゃだめ!﹂ リオナは何を慌てているのか、ミルテに抱きついて止めようとす る。ケンカというよりは、まるで子猫がじゃれあっているような微 笑ましい光景だった。 ﹁リオナとミルテが、ヒロトが起きる前からずっとこうなの。ヒロ トは何があったかわかる⋮⋮?﹂ ステラ姉はキャラメルブラウンの髪を撫で付けつつ言う。こうし てみると十歳というのは、結構大きいな⋮⋮と言ったら、ステラ姉 の気持ちとして複雑だろうか。 改めて見ると子供の頃と比べて髪を伸ばしていて、ふわふわとゆ るいウェーブがかかってきている。エレナさんは服屋の娘だから、 ステラ姉にもおしゃれをさせていて、清楚な洋服に髪を飾るカチュ ーシャがよく似合っていた。 ﹁ど、どうしたの? ヒロト、そんなにじっと見てはだめよ。大き くなったらそういうことをしてはいけないの﹂ ﹁い、いや⋮⋮違うよ。そういえばステラ姉のこと、こういうふう に落ち着いて見るの久しぶりだと思って﹂ 1453 ﹁ヒロちゃん、おっきくなってもステラお姉ちゃんのこと、そうや っていうの? ﹃ステラ姉﹄って﹂ ﹁⋮⋮でも、安心した。ヒロトが﹃ステラ﹄って呼び捨てにしたら、 びっくりするから﹂ リオナとミルテはぴたっとじゃれるのをやめてそんなことを言う。 こういうのを、おしゃまさんと言うのだろうか。おしゃまさんて。 ﹁⋮⋮わ、私は⋮⋮ヒロトが大きくなっても、今までと変わりない けど⋮⋮でも、やっぱり⋮⋮﹂ 俺が大きくなったので立ち位置を気にしているということなら、 その心配はなくしてあげておいた方がいいだろう。少し考えて、俺 はステラ姉にどう接していくべきかを考える。 ﹁⋮⋮そのうち、俺もステラ姉も大人になったら、そのときは呼び 捨てにするかもしれない。ってことでいいかな﹂ ﹁大人になったら⋮⋮わ、私は、ヒロトがそうしたいのなら、それ でもかまわないけれど⋮⋮﹂ ﹁ありがとう。俺も身体が大きくなっただけで、中身はそんなに変 わってないんだ。だから、急にいろいろ変わるよりは、ゆっくりの 方が嬉しいな﹂ ﹁⋮⋮わ、私も⋮⋮ごめんなさい、ヒロトが変わってしまったんじ ゃないかと思ったりして。これからも、今までみたいに仲良くして くれる⋮⋮?﹂ 俺の方から見下ろすくらいになってしまったけど、俺はステラ姉 の気持ちを大事にしたいと思った。 身体が大人になってできることが増えたのは確かだけど、それで 何もかもを変えてしまったら、それこそリリムの思う壺だ。俺は俺 1454 で、芯がぶれることがあってはいけない。 ﹁それにしても大きくなっちゃったね⋮⋮こうして見るとびっくり するよ﹂ ﹁なんか腕とかぶら下がれそうだよな。すげー! 今のヒロト、め ちゃ強そうだもんな!﹂ ﹁まあ確かに強くはなったけど、まだまだだよ﹂ アッシュ兄とディーンも俺に話しかけたくてしょうがなかったよ うだ。なぜか二人とも、キラキラした目で俺を見ている。 ﹁ど、どうかした? 二人とも﹂ ﹁昨日の話を聞いたら、母さんたちが驚くと思うけど、それだけの ことをしたんだよね、ヒロトは。凄いなぁ⋮⋮僕もディーンも、ず っとそのことを話してたんだよ﹂ ﹁アッシュ兄、なんか町に帰ったらすげーことになるって何度も言 ってさ。アッシュ兄の母ちゃんが大喜びするとか、これから色々や んなきゃいけないことがあるから、ヒロトの力になりたいってさ。 おれもなんにもできねーけど、ヒロトみたいにでっかくなる頃には、 なんかできるようにしとく! 絶対役に立つからな!﹂ ﹁うん、ありがとう。そうか⋮⋮そうだよな。二人とも、俺の演説 を聞いてたんだもんな⋮⋮﹂ アッシュ兄は12歳、ディーンは10歳。どちらも俺がどんな立 場にあるか、ちゃんと理解している。 この年齢で英雄なんてありえない、普通はそう思うところだが、 もう俺という存在に﹃普通﹄という概念が通用しないと、二人も分 かっているのだろう。 ﹁ヒロトの領地ができたら、ジークリッド領ということになるのか 1455 な?﹂ ﹁はー、ほんとすげーなー。領地とかってふつう貰えるもんじゃな いのに、ヒロト、俺より年下なのにもうもらっちゃってさ﹂ ﹁まだ正式に決まってないから、その辺りも話してくるよ。その後 で、みんなでミゼールに帰ろう﹂ 身長が逆転すると、少年二人の頭に手を置きたくなったが、それ はしなかった。二人にも男のプライドというものがあり、容易にし てはいけないことだ。 みんなとの話も一段落したのでそろそろ出ようかというところで、 ミコトさんが声をかけてきた。 ﹁ギルマス、途中まで私も同行しますわ﹂ ﹁小生も一緒に行こう。モニカ嬢とウェンディはどうする?﹂ ﹁あたしは遠慮しとくわ、王宮は肩が凝っちゃうから。この子たち を見てるから、じっくり話してきて﹂ ﹁私は、少し実家に戻ってくるのであります。近況を報告したら、 何とかまた冒険者を続けさせてもらうのであります!﹂ ﹁ウェンディ、首都の出身だったの? そんな素振り、全然なかっ たじゃない﹂ ﹁は、はい⋮⋮私、勘当同然なので。でも、私はもう将来のことも 決めてしまいましたから、両親に伝えておきたいのであります。感 謝を伝えることが、できていなかったでありますから﹂ ウェンディは今日は武装しておらず、ナップザックに鎧をしまっ ていつもと違う私服を着ていた。それは実家に挨拶するためだった のか、と納得する。 ﹁俺も行った方がいいよな、本当は﹂ 1456 ﹁はひゃぁっ⋮⋮と、突然核心を突かないでくださいでありますっ、 そそそんな、お師匠様に実家に挨拶に来ていただくなんて⋮⋮っ﹂ ﹁ヒロト、色々詰め込みすぎよ。それは、挨拶に行くのは大事なこ とだし、私のところにも来てくれると嬉しいかな、と思ってはいる けど⋮⋮﹂ ﹁モニカ嬢も本音がぽろりと出ているね。ヒロト君、身辺の整理の 準備はいいかな?﹂ ﹁な、名無しさん⋮⋮あまり脅さないでくれ。自分で言ってみて、 俺も後から気がついたよ﹂ 実家に挨拶するって相当なことだよな。ディアストラさんに会っ てフィリアネスさんとのことを話すのも、ある意味同じくらい大き な出来事だったわけで。 それで俺がディアストラさんにハニートラップを仕掛けられると は思ってもみなかったが。シュレーゼ家の事情が複雑すぎて、通常 の感覚を失いかけていた。そうだ、実家に挨拶は大事だ。そして非 常に緊張を強いられる。ウェンディを︵パーティに︶くださいと言 わなければいけないわけだし⋮⋮。 ﹁で、ではっ、お師匠様はおかまいなく、行ってきてくださいであ ります! 私は軽く挨拶を済ませて、何くわぬ顔で戻ってくるので ありまーすっ!﹂ ﹁あっ⋮⋮ウェンディ、そんなに遠慮しなくてもいいのに。前例が あると私も気が楽だから﹂ モニカ姉ちゃんのアプローチがさっきから激しい。ミゼールに行 ったら、モニカ姉ちゃんのお父さんには挨拶すべきだろうか。あな たの娘さんの矢でハートを撃ち抜かれました、と言っておこうか。 赤ん坊の頃からお世話になっていました、というのはずっと秘密で いいと思う。 1457 ◆◇◆ 朝食をとっていなかったので、宿で食事をしているマールさんと アレッタさんに挨拶して、外に出てきた。 祝祭はまだしばらく続くそうだが、各地から集まってきた人々は、 ルシエの挨拶が終わったことで一段落したと見ているのか、首都か らはかなり人が減っていた。といっても、祝祭の日の人口密度が異 常だっただけで、ミゼールと比べれば圧倒的に人が多い。市場は今 日も賑わっている。 ﹁あ、そうだ。アッシュ兄の運んでた荷物はどうなったか、二人は 知ってるか?﹂ ﹁ええ、無事に届けられたそうですわ。パドゥール商会はもともと、 首都を拠点にしているとうかがいました⋮⋮あのお店がそうです。 運んでいた荷物の中には、ヒロトさんのお母様が織られた布もある そうですわね﹂ ﹁おや⋮⋮ミコトはギルマスと呼ぶのをやめたのかい? まあ、確 かに今はギルドマスターではないけれど、小生は懐かしい響きだと 思っていたんだけどね。無くなると少し寂しいな﹂ ﹁ギルドどころか、一足飛びで領主になってしまいましたから⋮⋮ どう呼んでいいものか、といったところですわ。ヒロト様と呼んで もいいのですけれど﹂ ﹁い、いや⋮⋮ミコトさんにそう呼ばれるのは、ちょっとな。前世 を知ってる相手だと、なかなか気恥ずかしいものがあるし﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そんなことを律儀に気にしているんですのね。ヒロト さんは相変わらず、可愛いですわ﹂ 1458 ﹁っ⋮⋮だ、大胆だね。そんなこと、さらりと言えるなんて﹂ 名無しさんは仮面で隠れていても、耳まで赤くなっているのがわ かる。そんな彼女の反応を見て、ミコトさんはくすくすと笑ってい た。 ﹁可愛いですけれど、時々大胆で⋮⋮やはり、目が離せませんわ。 本当はもっと強くなるために、パーティを抜けようと思っていたの ですが、その必要もなくなってしまいました。これからもよろしく お願いしますわ、マユさんも﹂ ﹁⋮⋮ミコトはパラメータが完成されているようだから、小生にも 思うところはある。このままでは足を引っ張るだけだからね。強く なるには、やはり修行をするしかないのかな﹂ ﹁スキル上げだったら俺も手伝うよ。パーティなら、効率のいいや り方がたくさんあるしさ。二人とも、ボーナスは自分で振れるんだ よな? それなら、レベルを上げるって手もあるし⋮⋮あ、あれ? どうした?﹂ なぜかじっと見られている⋮⋮な、何故だろう。こんな往来の真 ん中で、ふたりの女性に見られていたら、ちょっと目立つというか 恥ずかしいというか、逃げ出したい気分だ。 ﹁⋮⋮その、ヒロトさんは、スキルを上げる効率的な方法を持って いらっしゃいますけれど⋮⋮﹂ ﹁ま、待って⋮⋮ミコト、人の居ないところまでその話題は保留に しておこう。小生もこんな仮面をつけているけど、恥ずかしいとい う感情はあるんだよ﹂ ﹁っ⋮⋮い、いえ、そこまで恥ずかしいことを口に出すつもりはな いのですが⋮⋮そうですわよね、やはり人前で話すことではありま せんわよね。そんなことを、ヒロトさんったら子供の頃から何度も 1459 ⋮⋮﹂ ︵今さら蒸し返されるとは⋮⋮確かに俺はいけない子供だったかも しれない。しかしそれはえーと、英雄になるためだったとしたらど うだろう。全ての採乳が、英雄になるためのスキル上げとして立ち 上がってくる⋮⋮!︶ ﹁ヒロト君、ミコトもなかなか危ういけど、君もうんうん頷きなが ら拳をぎゅっと握る姿がとても不審だよ。何をひとりで納得してい るのかな?﹂ ﹁うっ⋮⋮い、いやぁ⋮⋮何というか、俺の気持ちは二人とも分か ってくれると思うんだけど、どうだろう。赤ん坊の頃って他に何も できることがなくてさ、それでも自分を強化できるとわかったら、 普通は強化するだろ?﹂ ﹁むう⋮⋮それはそうですけれど。思わず﹃むう﹄なんて言ってし まいましたわ﹂ ﹁萌えキャラを演じようとしてもそうはいかないよ。君がそれなり に夢見がちな女子だったということは、小生の胸ひとつに留めてお いてあげるけれどね﹂ ﹁と、留めてないじゃありませんの! ちょっとギルマスと付き合 いが長いからって調子に乗って! マユさんの意地悪!﹂ ミコトさんは転生する前、闇影と名乗っていたころは12歳だっ たわけで。麻呂眉さんはたぶんお姉さんだったから、その頃の関係 はこんな感じだったのかもしれない。そう思うと何か感慨深いもの がある。 ﹁⋮⋮何をにこにこしているんですの? ヒロトさん、話はまだ終 わってませんわよ﹂ ﹁その話は後にしよう。ヒロト君が無限スキル上げループをしなか 1460 ったことと、ヒロト君が使ってきたあのスキルの、男性から女性に 向けて使用できるバージョンは無いのかということについてはね﹂ ﹁ぶっ⋮⋮ま、待ってくれ。そんなスキル、俺は八年超みっちりマ ギアハイムを生きてきたつもりだけど、マジで一度も見つけられな かったんだ。怠慢ってわけじゃないんだ、本当に﹂ 採乳でスキルをさんざんもらったなら、パーティメンバーにお返 しできるようにしてほしい、というのは分かる。とても分かるのだ が、﹃刻印﹄も女神しか持っていないと思われるレアスキルだから、 他にスキル経験値をあげられるようなアクションスキルはなかなか 見つかりそうにない。 ﹁⋮⋮み、見つけられないというか⋮⋮その⋮⋮男性から女性に対 して与えるものというか⋮⋮い、いえ、与えるというのか分かりま せんが、生命の営みと言いますか⋮⋮﹂ ﹁そ、そこまでにしておいてくれないと、小生も恥ずかしくて一緒 にいられないんだけど⋮⋮﹂ ﹁で、ですわよね。ああ、でも思ってしまいましたの。もしヒロト さんの協力を得てスキルを効率良く上げられたら、今よりずっと強 くなれそうですから﹂ ﹁スキル10まではなんとかなるんだけどな。20、30となると、 無限ループじゃ済まないくらいの回数が必要なんだ﹂ スキルという言葉自体、一般の人達に聞かせるべきじゃないので 俺たちはひそひそと話しながら歩く。距離感が縮まっているけど、 それを気にしている場合でもない。 ﹁そうでしたのね⋮⋮では、あの行為ではほとんど経験がつめない んですのね。分かりましたわ﹂ ﹁別の経験を積んでいる気はするけれど⋮⋮ああごめん、もうそっ 1461 ちの方面からは離れるよ。小生もミコトの影響を受けてしまってい るようだ﹂ ﹁⋮⋮そんなことを言って。ヒロトさんが法術スキルを持っている のは、誰のおかげなのか、気づかない私ではありませんわよ﹂ ﹁っ⋮⋮ま、まあ、それはね。ヒロト君は恩人だから、それくらい しても許されると思うよ。ヒロト君、そうだろう?﹂ ﹁え、えーと⋮⋮﹂ 許されるかどうかを心配するのは俺の方だと思っていたか、何だ か逆転してしまっている。 ﹁⋮⋮マユさんは着痩せするタイプのようですわね。でも、何か、 転生する前よりも⋮⋮﹂ ﹁その続きを言われたら、しかるべき措置をとらないといけない。 口は災いのもとだと覚えておくといい﹂ ﹁っ⋮⋮わ、分かりましたわ。そんなに怖い声を出さないでくださ いませ、心臓に悪いですわ﹂ ︵転生する前と、何か変わってる⋮⋮ってことかな?︶ 今の話の流れだと、名無しさんが変化した部分は︱︱いや、考え ないでおこう。まさかそんなことが理由で、名無しさんが女神にペ ナルティを受けたなんて、そんなことは。 ︱︱しかしこういう時に限って、あの悪戯好きな女神は、俺の心 に囁いてくるのだった。俺の予想は、あながち外れてはいないと。 ◆◇◆ 1462 そういえばミコトさんには限界突破をあげたけど、名無しさんに は﹃刻印﹄で何のスキルをあげたらいいだろう。 やはり汎用性のある限界突破か⋮⋮スキル200のメンバーが揃 えられれば、最終的には想像を絶する戦力になるけど、200に1 つ上げるだけでも、ボーナスを振らなければ年単位で時間がかかり そうだ。 ︵ボーナスポイントを取得する方法はあるけど、貴重すぎるからな ⋮⋮みんなが全てのスキルを200にするのは、ちょっと無理だな︶ そろそろ自分のスキルを見て、極めるものを選び、最終形を考え る時期かもしれない。 やはり、交渉スキルを200にするべきなのか。今の手持ちのス キルで行き詰まったとき、ボーナス割り振りを考えれば良いのか︱ ︱悩ましい。 しかし、瀕死になってから回復し、成長したときに恵体と魔術素 養が大きく上昇したりしたので、スキル上げの方法は単に時間をか けて訓練する以外に、いろいろあるとも考えられる。俺と同じ方法 でステータスを上げるのはまず無理なので、命に関わらず、スキル を大幅に上げる方法があれば︱︱と考えてしまう。 ﹁ヒロトさん、私たちは王宮の中を見せてもらっていますわね。名 無しさんと話したいこともありますし﹂ ﹁あ⋮⋮ご、ごめん、ちょっと考え事してて﹂ ﹁若いから悩みも多いだろうけど、あまり溜め込みすぎない方がい いよ。いつでも相談するといい﹂ ︵名無しさんもまだ全然若いんだけど⋮⋮というか、あの言い方は 1463 わざとだったりしないよな︶ 経験してしまうとデリカシーというステータスが減少するのだろ うか。即物的な考え方をしてしまう自分を戒めたくなる。ちょっと した言い回しで想像を膨らませていいのは中学生までだ︱︱と思っ たが、俺の現在の年齢は中学二年生相当だった。 二人と別れて階段を上がり、円卓の間のある階に上がる。玉座の 間の前を通って衛兵と挨拶し、目的の部屋のある廊下にたどり着く と、そこには待っていてくれた人の姿があった。 ﹁あ⋮⋮フィリアネスさん!﹂ ﹁ヒロト、待っていたぞ。円卓の間に入るように言われているが、 おまえと一緒がいいと思ったのでな﹂ 今日のフィリアネスさんは騎士鎧を身に着けている︱︱相変わら ず胸甲が完全に胸を覆っておらず、乳袋がとてつもないことになっ ている。直視できないほどの存在感だ。 ﹁あ、あの⋮⋮フィリアネスさん、他の男の人もいる前で、その鎧 はちょっと気になるな﹂ ﹁む⋮⋮そ、そうか。胸甲は交換できるのだが、置いてきてしまっ たのでな。では、外套を羽織っておくとしよう﹂ ﹁ご、ごめん。気にしすぎだって分かってるけど、俺⋮⋮﹂ 他の男の目に見せたくないという思いが、こんなに強くなってし まった。自分の狭量さに、自分で驚いてしまう。 しかしそんな俺を見て、フィリアネスさんは嬉しそうに微笑んで くれた。 1464 ﹁昔の私なら、鎧になど構っていなかった。動きやすく、防御力が ある程度確保できればそれでいいと思っていたが⋮⋮おまえの気持 ちが何より大切なのだから、これからは気をつけなくてはな﹂ ﹁あ⋮⋮い、いや。俺、こんなこと言ってるわりに、フィリアネス さんのいつもの鎧姿が好きなんだ。ごめん、子供みたいな我がまま 言って﹂ ﹁そ、そうなのか⋮⋮では、私の鎧姿も捨てたものではないのだな。 この鎧は特注品なのだが、自分ではかなり気に入っているから嬉し い。ありがとう、ヒロト﹂ ︵この人以上に、騎士姿が似合う人はいないのに⋮⋮捨てたものじ ゃないとか、本気で思ってたりする。ほんとにすごい人だ︶ 最強の聖騎士でありながら、未だに謙遜し続けている。だから彼 女はまだまだ強くなる⋮⋮油断したら、俺でも遅れをとってしまい そうだ。俺も負けるわけにはいかない、戦士としての矜持がある。 ﹁フィリアネスさん、これからもよろしく﹂ ﹁な、何を急にかしこまっているのだ⋮⋮そういう態度はよくない。 また危ないことをしそうで心配になる。私の遠くには行くな﹂ ﹁い、いや、そういうつもりじゃなくてその⋮⋮っ﹂ フィリアネスさんが俺の手を引いて連れて行こうとする。手を繋 いで円卓の間に入るなんて、物凄く注目を集めてしまいそうだ。恥 ずかしさで今から顔が熱くなってしまう。 そうこうしているうちに、後ろからガチャ、ガチャという硬質な ガーディアン 足音が聞こえてくる。振り返ると、昨日より重装の鎧︱︱おそらく 守護騎士としての正式な鎧を身につけたディアストラさんの姿があ った。 1465 ︵しかしそれでも乳袋なのか⋮⋮何という親子⋮⋮!︶ そんなところが共通点だと気がつく俺も俺だが、ディアストラさ んは隙のない鎧姿なのに、あえて胸甲だけはつけないのは何かの主 義か信条でもあるのか、後で円卓の間で議題に上げたくなってしま う。 ﹁ジークリッド。侍従から聞いたが、私の別邸に泊まったそうだな﹂ ディアストラさんは薄く笑みを浮かべている。眼の奥が笑ってい ないのはいつも同じだ︱︱しかし、いつまでも圧倒されている俺で はない。 ﹁はい。﹃お母さんの﹄ディアストラさんに断らずに泊まったこと は、すみませんでした﹂ ﹁⋮⋮フン。そんなことで目くじらを立てていたら、それこそ貴様 の思う壺だ。まったく、食えない男だ﹂ 俺とディアストラさんのやりとりを、フィリアネスさんは何も言 わずに見ていた。 しかし昨日のように、辛そうな顔はしていない。ディアストラさ んはそんな娘と目を合わせ、ただ何も言わずに見つめる。 無言の時間が過ぎる。先に口を開いたのは︱︱フィリアネスさん だった。 ﹁⋮⋮私は、ヒロトと共に生きていきます。そしてこの剣で、母上 ⋮⋮あなたのことも、守ってみせる﹂ ディアストラさんは何も言わない。答えないままに、俺達の横を 1466 通り過ぎ、円卓の間に入って行こうとする。 しかし彼女は立ち止まった。そして振り返ると、今度は俺の方を 見やった︱︱とても静かな瞳をしていた。 ﹁何を吹き込んだのか知らんが⋮⋮人の心に立ち入ったのなら、そ れだけの覚悟をすることだな﹂ ﹁最初から覚悟してます。ゆうべは、それを確かめただけですよ﹂ ﹁⋮⋮そうか。あまり身体に負担をかけないことだ、フィル、おま えは聖騎士なのだからな。我が国の戦力の要であるうちは、自覚を 持って行動しなくては﹂ ﹁母上⋮⋮っ﹂ ﹁私のことは、母と呼ぶな。円卓の間に入ったら、私情を捨てよ﹂ ほんの一瞬だけ、俺にはディアストラさんが微笑したように見え た。俺たち二人に向けて。 しかしそれは、見間違いではなかったのかと思うほど短い時間だ った。気がつけばディアストラさんは、円卓の間に入った後だった。 ﹁⋮⋮おまえは、母とどんな話をしたのだ? 昨日とは、母がまる で別人のように見えたぞ﹂ フィリアネスさんは笑っている。でもその目が潤んでいて、少し 赤くなっていた。 俺はそこで確かめる︱︱フィリアネスさんは、本当にお母さんが 大好きで、尊敬しているんだと。 ﹁大事な話をしたんだ。それだけのことだよ﹂ ﹁⋮⋮そうか。ありがとう、ヒロト﹂ フィリアネスさんは俺の肩に手を置き、額を胸元に触れさせてき 1467 た。俺は彼女の背中に手を回し、ぽんぽんと優しく叩く。ほんの短 い間のことで、彼女はすぐに気を取り直し、いつもの凛とした姿に 戻る。 円卓の間に二人で入るとき、俺はこんなことを考えていた。 ﹃そうか﹄という言い方が、ディアストラさんとフィリアネスさ んは同じだった。 人に心を許したときの言葉が同じ。それは、二人が姿だけでなく、 よく似ているからなんだと思った。 1468 第四十三話 再び王宮へ︵後書き︶ ※ 次回は水曜更新予定でしたが、繰り上げまして今日更新です。 1469 第四十四話 円卓会議/恭順/新たな武器︵前書き︶ ※ 昨日から続けて更新です。 1470 第四十四話 円卓会議/恭順/新たな武器 円卓の間に入ると、十人以上が一度に着座できる大きな円卓が置 かれていた。席の数を数えると十三個あり、ファーガス陛下の座っ ている椅子は、公王のものだけあって他の椅子とは形状から違い、 背もたれが異様に高く、5メートルはある天井にもう少しで届きそ うなほどだった。 ︵ファンタジーっぽいというか、何というか⋮⋮この部屋自体が、 見てて何かワクワクするな︶ 王の椅子以外の十二の席全てが埋まっているわけではないが、既 に何人か座って待っている。部屋の中には、ヴィクトリアの姿もあ った︱︱黒い鎧姿で、着座を許されていないのか、壁際に立って前 をにらんでいる。俺の視線に気づいたようだが、その顔が少し赤ら み、見るなと言っているように見えた。 席に着いているのは、向かって王座の左側に赤と青の鎧を身につ けた女性騎士が一人ずつ。右側には貴族らしい壮年の男性が一人と、 若い男性の魔術師、そしてこちらは、場に似つかわしくないような、 十代半ばくらいの少女が座っていた。彼女はフードで耳を隠してい る︱︱どうやら、エルフかハーフエルフのようだ。そうすると、見 た目より年齢を重ねているかもしれない。 いかにも儚げに見えて、常に目を閉じている。なぜ目を開けない のだろうと気になったが、じっと見ているのも良くない。 ︵さて⋮⋮とりあえず落ち着いて話せるように、発動しておくか︶ 1471 ◆ログ◆ ・あなたは﹁カリスマ﹂をアクティブにした。 ・﹁カリスマ﹂が発動! 周囲の人物があなたに注目した。リスト を確認しますか? YES/NO ターゲット ◆範囲内の対象リスト◆ ・︽ファーガス︾ 男性 ジョブ:ロード ・︽ディアストラ︾ 女性 ジョブ:ガーディアン ・︽ジェシカ︾ 女性 ジョブ:ジェネラル ・︽クリスティーナ︾ 女性 ジョブ:ドラグーン ・︽コーネリアス︾ 男性 ジョブ:ロード ・︽ゴドー︾ 男性 ジョブ:プロフェッサー ・︽メアリー︾ 女性 ジョブ:ストラテジスト ・︽ヴィクトリア︾ 女性 ジョブ:ダークナイト ◆◇◆ 脳裏に表示されたリストを見て、俺は思わずめまいを覚えた。 俺にとって未知の上位職を持つ人々が、惜しみなく一堂に介して いたのだから。 ノービス ︵ここに俺が村人として同席するのか⋮⋮なぜ俺はまだ村人なのか、 今さら不思議に思えてきたな︶ 転職条件は多く満たしているのだが、特に変える必要がなかった ︱︱というか、父さんと母さんの子供でいるうちにいきなり職業に 1472 付くとどういう反応があるか試すのはリスクがあったので、今まで は表面上、一応は普通の子供として生きてきた。一応という言葉に 甘え過ぎだが。 しかしそろそろ職業を選ぶべきでは、と思い始める。スキルを上 ロード げるという意味では、何か選んだ方がいいに決まっているわけだし ⋮⋮と考えて、俺は気がつく。﹃君主﹄がふたりいるのはなぜだろ う。 ︵公国の王は一人だけど、領地を持ってる人は、ロードと呼ばれる 資格がある⋮⋮ってことかな。そうなると、ロードの上位職になる 条件は、公王といえど簡単には満たせないのか︶ 統治者はロードになる資格を得て、セイントナイトを同時に極め ているとパラディンという選択肢も増えるのだと考えられる。フィ リアネスさんの職業選択は、騎士系職のほとんどを満たしてるんじ ゃないかという気もする︱︱ころころ変えないのは、職業を少しず つ経験してスキルを取るという考えがないからだろう。 ロードのコーネリアスという人︱︱ライオンのような髪型をした、 見るからに迫力のある壮年の男性だが、この人も公国のどこかの領 主なのだろう。それにしても、何か容姿に引っかかるものがあるよ うな⋮⋮見覚えがあるというわけでもないが、何かが気になる。 考えているうちにファーガス陛下が俺に向けて手を上げ、そして 言った。 ﹁よくぞ来た、ジークリッド君。君の椅子は新しく用意してある。 フィリアネス、君も座りたまえ﹂ ﹁はっ⋮⋮﹂ 1473 フィリアネスさんが席を教えてくれたので、椅子に座る。ちょう ど王と向かい合う位置の下座だ。フィリアネスさんは俺の隣に座り、 ディアストラさんは陛下の近くに立つ。 ﹁ディアストラ卿も着席せよ。円卓の間で、そのように私を護衛す る必要はあるまい﹂ ﹁恐れながら、私は陛下の危機感の無さにはほとほと呆れているの です。ヴィクトリアの行動については報告を受けているはずですが、 なぜこの場に身を置くことを許したのです?﹂ ︵黒騎士団、イシュアラル村を襲ったことがバレたのか⋮⋮反乱を 起こそうとしてたことまでは知られてないのか。黒騎士団を私的に 専有して単独行動しただけでも、相当にまずいことだしな︶ 状況は何となく察することができた。反逆を企てたことが露見し ていたら、それこそヴィクトリアはここに居られてないだろう。裁 判を経て牢獄に送られるか、奇跡的に赦免を受けるかだ。どちらに せよ、黒騎士団長のポストにそのまま居続けることは考えづらいが ︱︱今の彼女は正気に戻っているし、その処分は厳しすぎるという 気もする。 それより何より、事前に分かってはいたことだが、ディアストラ さんの公王に対する態度はほぼ対等のように見える。敬語を使って いるけど、本来はそれすら無い関係のように見えた。主君と重臣と いうよりは、戦友というような感じがする。 ファーガス陛下は口元の白い髭に触れながら苦笑いしている。父 さんと同じように、女性に圧倒されるタイプなのかもしれない。そ うすると王というより、苦労性の中間管理職というほうが適当な︱ 1474 ︱って、それは失礼すぎるな。 ﹁ヴィクトリアについては、申し開きは既に受けている。グールド と接触し、連携して行動した時期もあったが、祝祭に乗じてジュヌ ーヴを攻撃するという計画には参加しなかった。イシュアラル村の 攻撃についても未遂に終わっている。ルシエの身に何かあれば直ち に処罰していたが、言ってしまえば、ヴィクトリアの行動はどうに も拙い。だが、そんな人物であるからこそ、部下に慕われていると いう側面もあるようだ。私にもそれは分からんでもない﹂ ︵やめてあげてください陛下、ヴィクトリアのライフはもうゼロよ !︶ 聞いていて、俺の方が自分のことのようにいたたまれない。ヴィ クトリアは唇をプルプルさせ、顔を真っ赤にしながら、それでも直 立不動を命じられているのか、うつむきがちになりながらも立ち続 けていた。 そんなヴィクトリアを、青い鎧を着た女性騎士︱︱ジェシカさん が睨みつける。彼女はフィリアネスさんより一回り年上で、いかに も武人という空気をまとわせていた。 青みがかって見える黒髪を長く伸ばしていて、サークレットタイ プの兜をつけている。色の違いはあるが、どこか、フィリアネスさ んの若いころの出で立ちにも似ていた。 ﹁騎士団の誇りを汚した愚か者には、すぐにでも黒騎士団長の椅子 を降りてもらいたいというところだが、それは私どもの決めること ではない。クリスティーナ、貴公はどう考えている?﹂ おそらくジェシカさんは青騎士団長なのだろう。彼女は隣に座っ 1475 ている赤い鎧の騎士に視線を送る︱︱騎士の中では珍しいことに、 彼女は巨大なボウガンを使うようで、席の後ろに立てかけていた。 ハルバード 存在こそすれ、まだほとんどこの大陸で普及していない珍しい武器 だ。ジェシカさんのほうは、斧槍を装備している。 赤い鎧の騎士︱︱クリスティーナと呼ばれた女性は、ふんわりと した亜麻色の髪を肩の辺りで切り揃えていて、耳にピアスをつけて いた。 ジェシカさんに引けをとらない美人で、少し眠そうに見えるがな んとも色っぽい雰囲気だ。しかしステータスを軽く見た感じでは、 房中術スキルは取っていない。ということは、天然の色気というこ とだ。 ︵とりあえずステータスを見るのは後にして、話に集中しないとな︶ ﹁まあ、ヴィクター⋮⋮ヴィクトリアがそういう危なっかしい人だ ってことは分かっていましたしね。一度くらいはこういう事件もあ ると思ってましたよ。だから想定の範囲内ですし、黒騎士団の連中 みたいなアクの強いのを統率できるのも、彼女くらいですしね。個 人的な意見としては、このまま戻してあげてもいいと思いますよ。 私はめんどくさいのは嫌ですからね。団長が居なくなった後の黒騎 士団をどうするか、考える労力も惜しいですし﹂ ︵⋮⋮赤騎士団長、畏まった場なのに自然体で話してるな︶ 赤騎士団長は言わなくていいことも全部言ってる感じがするので ヒヤヒヤするが、みんな慣れている様子だった。フィリアネスさん は思うところがあるようで、眉を下げてため息をついているが。 ﹁それより公王陛下、私と青騎士団長はこの人の下に付けばいいん 1476 ですか? 私、面倒なのであまり首都を離れたくないんですけどね﹂ ﹁クリスティーナ、それくらいにしておけ。お前の優秀さは誰もが 認めているが、魔術研究所の人々が呆れているぞ。公王に対して何 たる態度かと﹂ ディアストラさんに言われて、ゴドーと名前が表示された男性が 声も出せず恐縮している。魔術研究所の人ということなら、プロフ ェッサーは魔術師系の上位職だろうか。 ︵クリスティーナさんの言う﹃この人﹄って俺のことだよな。俺の 下に、青騎士団と赤騎士団がつくってことか? いつの間に、そん な大きな話に⋮⋮︶ ﹁ヴィクトリアについては、しばらくディアストラ卿の下で矯正し てもらうので、必然的に黒騎士団は首都近辺の砦に駐留することに なる。白騎士団にも首都の守備に当たってもらわなければならない。 そうなると、自由に動けるのは青騎士団と赤騎士団だけだ。貴公ら も知っている通り、ジークリッド君たちが一度撃退したとはいえ、 魔王リリムの脅威は未だに続いている。そのため、公国は﹃魔杖﹄ の封印を解くことを決めたのだ﹂ ︵魔杖カタストロフ⋮⋮それを使って、リリムを倒すつもりなのか。 でも、その使い手は⋮⋮︶ 魔の名を冠する武器がついに実際の戦いに用いられる。そのこと に心を震わせながらも、同時に案じずにはいられない。ディアスト ラさんの話を聞く限り、魔杖はルシエにしか使えないもののはずだ。 ﹁魔杖を持つ者は、選ばれし者でなくてはならない。しかしそれ以 外でも、杖を扱うことのできない者が持てば、ただ運ぶことだけは 1477 できる。ジークリッド君、君に魔杖の入手を頼みたいのだが⋮⋮こ れについては、強制はできない。その理由は、君ならわかるだろう﹂ ︵⋮⋮父さんは魔剣を護っている。そして俺が魔杖を取りに行く⋮ ⋮簡単に頼めることじゃない、そう思うのは当然だ︶ ﹁⋮⋮陛下。その魔杖は、どこにあるんでしょうか﹂ まず、それを聞きたかった。取りに行くと先に答えなければ、教 えてはくれないだろうと思った︱︱しかし。 ﹁ミゼールの北部の山地に、﹃悠久の古城﹄と呼ばれる城がある。 魔杖は、そこに封印されている。前回魔王を倒したあと、古城には 魔杖の勇者が残り、終生魔杖を守り続けることを選んだ。勇者が作 った結界は、今も破られていない。それどころか、古城の姿を見る ことさえ誰もできていないだろう﹂ ﹁⋮⋮それを皆の前で話されたということは⋮⋮魔杖をめぐる戦い は、ヒロトや私たちだけが、密命として終えられるものではないと お考えなのですね﹂ フィリアネスさんが問いかけると、公王は静かに頷く。円卓の間 の空気がぴんと張り詰め、誰も次の言葉を発することができなくな る。 ︱︱この場の空気を握っているのは、俺だ。 そう気づいても、重圧に潰されるようなことはない。リリムとの 決着をつけたいというのは、元から俺の中にあった思いでもある。 ﹁古城に最も近い町、ミゼールには、魔王が目をつける危険性があ る。ジークリッド君、君の生まれ故郷は、そのまま君の弱点でもあ 1478 るのだ。青騎士団、赤騎士団には、協力してミゼールを守ってもら いたい。ジークリッド君が魔杖を手に入れるまで。魔術研究所から は、優秀な魔術師の派遣を頼みたい﹂ ﹁かしこまりました。戦える者をただちに選抜します﹂ ゴドーという男性はよどみなく返事をする。こういう時が来ると 事前にわかっていたということだろう。 この人からは真面目そのものという印象を受ける。けれど少し小 心なのか、周りのメンツに圧倒されているのか、どうも緊張してい るようだった。まあ、気持ちは分からなくもない。 ﹁⋮⋮不満そうだな、ジェシカ。クリスティーナも、ジークリッド を認めていないのか?﹂ ディアストラさんの言葉は、青騎士団長、赤騎士団長の心中を的 確に指摘していた。二人は俺ではなく、フィリアネスさんの方を見 やる。そして、先にジェシカさんが口を開いた。 ﹁我らは、聖騎士殿に追いつき、横に並んで戦うことを目標として 腕を磨いてきた。それを、この少年の実力をこの目で見ることもせ ず、一時的であっても配下につけというのは承服しかねます﹂ ﹁公王陛下、ここはひとつ、私たちに見極めさせてもらえませんか ? もちろん、フィリアネス殿が私たちを指揮し、彼女がジークリ ッド君を認めて付き従うというなら、それを止めることはできませ んけどね⋮⋮私たちにも誇りがあります。魔王より強いって言うな ら、﹃私たち二人﹄を同時に相手にすることもできますよね?﹂ ﹁っ⋮⋮く、クリス。騎士団長二人でなどと、それこそ、騎士の精 神に反して⋮⋮﹂ ジェシカさんの方は、赤騎士団長の発言を予想していなかったよ 1479 うだ。たぶん彼女の方は、俺と一対一で手合わせでもするつもりで いたのだろう︱︱青騎士団長は真面目、赤騎士団長は曲者、そんな イメージができてきた。 ﹁ああ、もう単刀直入に言わせてもらいます。私はフィリアネス殿 よりこの子が強いとは信じてないんですよ。何か、﹃うまくやった﹄ んじゃないですかね? それを明かしてもらわないと信用できませ ん。面倒には巻き込まれたくないですしね﹂ ︵ふーん⋮⋮何ていうか、この人は、悪者の演技が好きみたいだな。 面倒面倒って、そのわりに一番熱くなってるじゃないか︶ 俺に対して本気で悪意を持ってる人と、そうでない人が、俺には わかる。相手の心情を汲み取るのは交渉の基本だ。 強さを見せればいいというなら、相手のステータスを見つつ、見 せられる技の範囲で勝てばいい。武器マスタリー110ポイントの 技なんて使ったら、オーバーキルになってしまう。 しかし﹃うまくやった﹄と言われたことには、少しだけ腹が立っ た。事実を知らないのは仕方ないとしても、類推だけでそんなこと を言われると、一泡吹かせたい気分になる。 スペック ︵⋮⋮でも、これは逆に言えば貴重な機会だ。騎士団長クラスを二 人同時に相手にして、今の俺の能力を試せる。﹃手加減﹄はできる し、万が一の事故も起きない︶ 今の身体の動かし方には、もう慣れてきた。間合いが変化してい るので、戦い方を見直すのもいいかと思っている。まず、どんな武 器を使うかだが︱︱青騎士団長を見ていると、今まで通りの斧では 1480 ハルバード なく、斧槍系の武器を一度使ってみたくなってきた。使い心地が良 ければ、バルデス爺に武器を作ってもらうとき、斧槍にしてもらう のも良いかもしれない。 ﹁どうですか? 強いんですよね、ジークリッド君は。魔王と戦え るような力を見せてくださいよ﹂ ﹁分かりました。二人の相手をすればいいんですね? やりましょ う﹂ 円卓の間の空気が変わる。俺の力を知っている人以外は信じられ ないという顔に変わった。 ヴィクトリアは肩をすくめている。呆れているというか、どちら かといえば騎士団長二人を案じているようだった。無理もない、俺 の奥の手であり、ヴィクトリアを追い詰めたグレータースライムは 今も健在なのだから。 しかし、スライム攻めをすると勘違いをされてしまう可能性があ る。魔物使いが魔物を味方にすることは普通でも、村人が魔物を仲 間にするのは普通ないことなので、恐れられてしまうだろう。ジョ ゼフィーヌには悪いが、今回は俺の力だけを見せるべきだ。 ﹁ジークリッド殿、武器をお持ちでないようだが⋮⋮いかがなされ たのです?﹂ ジェシカさんの言うとおり、小型斧はインベントリーにしまって いるので、俺は丸腰だった。それに、あの小さい斧で戦うというの も、さすがに格好がつかない。 ﹁事情があって、今までの武器が使えなくなってしまったんです。 ジェシカさん、武器を貸してもらえますか。あなたと同じ系統の武 1481 器がいいんですが﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは、構いませんが⋮⋮名工が作ったもののように、 通常の武器より出来がいいものも、ストックはあります。公正を期 して、私の武器に近いものを用意させましょう﹂ ﹁さっきまでの勢いはどうしたんですか⋮⋮まったく。ジェシカさ ん、本気でこの少年を倒す気があるんですかねえ? やる気がない なら私一人でもいいですよ﹂ ﹁そんなことは決してない。クリスティーナ、私は一人ずつ手合わ せする方が良いと思っている。貴公こそ、私の後で順番を待っては どうだ? 回ってくるかはわからないがな﹂ この二人はライバルなんだろうか。視線がバチバチと火花を散ら しているような⋮⋮二人とも美人だから、絵になるといえばなるけ ど。 それを見ていて何か楽しそうにしているフィリアネスさん。彼女 は俺が間違いなく勝つと信じているから、心配なんてしてないみた いだ。 ﹁では、これよりヒロト・ジークリッドと騎士団長二人の御前試合 を執り行う。修練場にて行い、私とファーガス陛下、そして⋮⋮コ ーネリアス公、ご覧になられますか?﹂ ﹁是非とも。彼がフィリアネスと行動を共にしていると聞き、一度 その力を見せてもらいたいと思っていた﹂ ︵コーネリアス公⋮⋮って、もしかして⋮⋮︶ ディアストラさんに答えるコーネリアス公の視線は、どこか穏や かなものがある。 まさか、と思っていると、コーネリアス公は席を立ち、俺の方を 見た。 1482 ﹁私の名はコーネリアス・シュレーゼ。公王陛下に侯爵の地位を頂 き、ジュネガン北方領を治めている者だ﹂ ﹁あ⋮⋮は、初めまして。ヒロト・ジークリッドと申します﹂ ﹁昨日の演説は見事だった。これから公国を支える若き力の登場に、 我ら貴族も期待を寄せている。それが重荷にならないよう、自重し なくてはならないと思ってはいるのだが⋮⋮﹂ ﹁い、いえ。俺にできることはやろうと思ってます。魔王と戦うこ とも﹂ ディアストラさん、フィリアネスさんとの血の繋がりを示す金色 の髪。コーネリアス公はもう六十歳代に入っていて、髪は白く変わ りつつあるが、威厳を感じさせる姿をしている。年齢が上な分、フ ァーガス陛下よりも貫禄を感じるほどだった。かなりの長身で、老 人とは思えないほど屈強そうに見える。 ﹁西方領の北部にある古城ということは、北方領の国境に近い。陛 下、我らも万一に備え、守りを固めさせていただきます﹂ ﹁うむ。東西南北全てにおいて言えることだが、グールド公のよう に敵の手に落ち、命を落とす者が出ないよう、備えなければならな い。コーネリアス公においては、ジークリッド殿と行動を共にする フィリアネス殿の祖父でもある。それゆえに、一度は顔を合わせて おいてもらいたかった﹂ ﹁お心遣いに感謝いたします。このような場で申し上げることでは ありませんが、娘たちとは長く顔を合わせておりませんでしたゆえ﹂ やはり、コーネリアス公はディアストラさんの父親だった。フィ リアネスさんも神妙な表情で、祖父の話に耳を傾けている。 ﹁⋮⋮やはりジークリッド殿には期待せざるを得ない。その力を、 1483 ぜひ見せてもらいたい﹂ ﹁はい。二人の実力は誰もが認めるところですから、俺も胸を貸し てもらうつもりで戦います﹂ ◆ログ◆ ・︽ヴィクトリア︾はつぶやいた。﹁無邪気な顔でよく言う⋮⋮二 人が私のようにならなければ良いがな﹂ ◆◇◆ 彼女はスライムをけしかけることを期待しているようだが、あれ はヴィクトリア限定のお仕置きなのでもうやらない。騎士といえば 見境なくスライムで鎧を剥がすなんて、俺はそこまで鬼畜ではない。 ︵手加減して斧技を使う。今の恵体で技を繰り出すと、どうなるか ⋮⋮︶ 猛烈に楽しみになってきた。戦闘が好きというのはやはり間違い なく、自然に血がたぎってくる。 ﹁では、修練場に案内します。ジークリッド殿、こちらへどうぞ﹂ ジェシカさんは俺を信用出来ないと言いつつ、丁寧な言葉を使い、 しっかり案内してくれる。騎士道精神というやつか⋮⋮クリスティ ーナさんのほうは巨大なボウガンを片手で担いで歩いていく。 1484 円卓の間を出たところで、クリスティーナさんは俺の視線に気づ き、にやりと笑いつつ言った。 ﹁ああ、心配しなくても、矢は使いませんよ? 私のボウガンは特 別だからね。魔術を込めて放つことができる、術式弓というやつで すよ。まあ、放つ魔術弾によっては実弾より危ないですけどねえ。 くっくっく﹂ ﹁術式弓⋮⋮それって、どこで手に入るんですか?﹂ ﹁⋮⋮ん? 興味あるの? へー、そっかー、ふーん⋮⋮﹂ クリスティーナさんは俺のことをしげしげと見てくる。そんなに 興味を持たないでくれ、未だに見られるのは恥ずかしいんだ。 ﹁話してみないと分かんないよね、やっぱり。さっきはごめん、私、 挑発するみたいなこと言っちゃって。ムカムカしたでしょ?﹂ ﹁え⋮⋮あ、ああ、いや。気にしてないですよ﹂ ﹁ほんと? 良かったー、私、人を怒らせるのって大得意だからね。 こんな性格だから、あんまり友達いないんだよね。あ、私のことは クリスって呼んでいいよ。クリスティーナって長いでしょ?﹂ ﹁は、はい⋮⋮よろしくお願いします、クリスさん﹂ ︵しゃべりすぎて友達ができないタイプ⋮⋮俺とは逆の種類の、コ ミュ難ってことなのか?︶ 曲者だと思っていたが、今のクリスティーナさんの嬉しそうな顔 は邪気がなく、俺はすっかり毒気をそがれてしまった。 ﹁クリス、試合の前から手のひらを返すな。その武器に興味を持た れるのがそんなに嬉しいのか﹂ 1485 ﹁嬉しいよ? 私の武器を見て、ヒロト君ったら目が輝いてるんだ もん。ね、ね、術式弓についていろいろ教えてあげようか。あ、実 戦で見ることになるから、その後で説明した方がわかりやすいかな ?﹂ 詳しく教えてもらいたいけど、確かに実戦で見せてもらった方が 色々わかりそうだ。高威力の魔術系投射武器というのは、何となく 想像がつくけど。 クリスティーナさんはまだ興奮がさめやらぬ様子で、熱を帯びた 口調で話し続けた。 ﹁騎士団の子たちは、普通の武器しか興味ないとか、他の大陸の武 器は怖いとか言って使おうとしないんだよね。ジェシカさんもハル バード一筋だし。そんな重い武器ずっと振ってたら、脱いだ時に﹃ うわっ﹄って言っちゃうくらい筋肉ついちゃうよね﹂ ﹁そ、そんなことは⋮⋮騎士ならば当たり前だろう。クリスだけだ、 鍛えずとも強いのは。フィリアネス様だって、日夜修練を積まれて ねえ いるにちがいない﹂ ﹁えー? フィル姉さんすんごいおっぱい大きいし、鍛えなくても 強いんじゃないのかなあ。鍛えたら私でも、おっぱいから落ちてく し﹂ ﹁あ、あの⋮⋮姉さんって?﹂ 騎士団長ともあろう人がおっぱいと連呼し始めたことも気になる が、さらに気になったのは彼女とフィリアネスさんとの関係だった。 フィリアネスさんは俺達の先を歩いている。クリスティーナさん は彼女に聞こえないように声を落として言った。 ﹁私はフィル姉さんの二つ下で、騎士学校ですごくお世話になって たんだよね。フィル姉さんは卒業する前に聖騎士として功績を上げ 1486 て、飛び級で卒業しちゃったんだよ。すごいよあの人は、おっぱい も最強だし。ジーク君もそう思うっしょ?﹂ ﹁え、えーと⋮⋮とりあえず、呼び方を固定してもらえるとありが たいです﹂ ﹁じゃあヒロト君にしよう。ジーク君だと、お父さんと同じになっ ちゃうもんね。斧騎士リカルド、私たちももちろん知ってるよ。才 能を見込まれて出世したけど、いきなり騎士団やめちゃったんだよ ね﹂ ﹁あ、あの⋮⋮俺に対してあんまり良く思ってない感じがしました けど、そうでもなかったんですか?﹂ ﹁フィル姉さんを連れ歩いてるヒロト君には、ちょっとおもしろく ない気持ちもあったよ。でもさ、術式弓に興味を持ってくれる子っ て逸材なんだよね。だからいいかなって。試合はもちろん全力だけ どね﹂ ﹁⋮⋮ジークリッド殿の力を見てみたい。私もクリスも、そんな話 をしていました。我々騎士団は、言ってしまえば力こそが全てとい う部分もある。あなたという新しい武人の力を知りたいのです。先 程は不躾な申し出をして、申し訳ありません﹂ ジェシカさんとクリスさん、二人はそこまで俺を悪く思ってなか った。そう思うと胸に安堵が広がる。 ﹁あ、でもヒロト君に勝ったら、私たちを指揮下に置くのはあきら めてもらうよ。陛下だって、ヒロト君に私たちが勝ったときは強制 しないと思うしね﹂ ﹁それも、力こそ全てっていうことですか。分かりました﹂ ﹁私もクリスティーナも、男性に負けたことは一度もありません。 これからもそのつもりです﹂ ︵俺も負けるつもりはないよ。元来、負けず嫌いなんでね︶ 1487 俺が二人より強いと証明する。それ自体は不可能ではないとして、 もう一つやっておきたいことがある。強い人と戦える貴重な機会だ から、新しいスキルを試させてもらうことにしよう。 交渉術にポイントを振り、120ポイントにする。それで、新し いスキルが取れたら試してみたい。強烈な技能が手に入ると思うが、 交渉術系統なら、相手に大ダメージを与えるとかではないだろう。 ︵さて⋮⋮まず、120でスキルが取れるかどうかだけど。どうか 取れますように⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは交渉術スキルにポイントを10割り振った。 ・スキルが120になり、新たなパッシブ﹁恭順﹂を獲得した! ◆スキル詳細◆ 名称:恭順 習得条件:交渉術120 説明: 通常戦闘での効果 ・使用者が戦闘で勝利したとき、相手の友好度を戦闘内容に応じて 上昇させる。 国家間戦争での効果 1488 ・戦力差が三倍以上のとき、戦争を行わず、相手国を属国とするこ とができる。 制限: 通常戦闘での制限 ・相手を殺害してはならない。 ・相手との関係が悪化している場合、規定値まで改善しなければ友 好度が上昇しない。 国家間戦争での制限 ・相手国と一度でも戦争をしている場合、十年経過するまで発動し ない。 使用方法: ・﹃恭順﹄パッシブを発動状態にしたまま、戦闘に勝利する。 ・﹃恭順﹄パッシブを発動状態にしたまま、相手国との交渉に入る。 ◆◇◆ スキルの詳細に何度か意識をめぐらせたあと、じわじわとその凄 さが理解できて、感嘆せざるを得なくなる。 ︵思った以上にとんでもないスキルだ⋮⋮他のスキルも110以上 になると、こんなレベルなのか?︶ スキル100以上の世界は異常だとしか言えない。今取得した﹃ 1489 恭順﹄は、戦闘を行えばだいたい相手の評価が下がるのに、それど ころか評価が上がるという。 たとえば、倒した敵が起き上がって仲間になるようなイメージで ある。もしそれほどに友好度が上がるんだったら、全ての戦闘で﹃ 手加減﹄を発動すれば、仲間が増えまくることになってしまう。﹃ 調教﹄系のスキルがいらなくなってしまうわけだ。 さらに三倍の戦力があれば敵国が無条件降伏するというのは、条 件さえ満たせば、大国が小国をいくらでも吸収して領土を増やせる ことになる。この大陸に小国がどれくらいあるか把握してないが、 場合によっては⋮⋮いや、それは考えが飛躍しすぎだ。 ︵俺が領地をもらう段階で、このスキルが出てくるとは⋮⋮﹃恭順﹄ か⋮⋮︶ これから二人と戦って勝つことができれば、友好度がどれくらい 上がるか確かめられる。友好度だから、戦いを終えて友情が生まれ るというようなイメージだろうか。俺の指揮下に入ってもらうなら、 できるだけ友好的な方がいいに決まっている。 ︵あまり態度が変わりすぎるようなら、﹃魅了﹄同様、ふだんは封 印だけどな⋮⋮どうなんだろう︶ 考えながら皆と一緒に王宮を出て、修練場に向かう。上位の騎士 が訓練する場所だが、貴族も訓練に使うようで、豪奢な身なりの人 々も出入りしていた。 まず、更衣室に案内された。武器が壁一面に掛けてあり、その中 にはジェシカさんの使っているハルバードと近い形のものもある︱ ︱しかし、中でも俺の目を引いたのは、床に置いてある斧槍だった。 1490 ﹁そ、それは⋮⋮置いてはありますが、使いこなすのは無理です。 非常に重く、荷車を使わないと運べないほどのものですから﹂ ﹁そんなものが、なぜ修練場に?﹂ ﹁他に置く場所がないけど、捨てるわけにもいかなかったんじゃな い? それって、遺跡洞窟から出土した武器なんだよね。﹃巨人の バルディッシュ﹄っていうらしいんだけど、見た目はそんなでもな いのに、やたら重くて、でも発掘隊が必死で持って帰ってきちゃっ たから、ここに置いといたんじゃないかなあ﹂ 巨人のバルディッシュと呼ばれた武器は、よく見ると超重量のた めに石床にめり込んでいた。 武器にはサイズと重量が設定されているが、こんなに重い武器は 見たことがない。﹃巨人﹄という接頭語は伊達ではないようだ︱︱ となると、装備できれば攻撃力にかなり期待できる。 ﹁これ、持たせてもらってもいいですか?﹂ ﹁っ⋮⋮試しにと思っているのかもしれませんが、それは無理です。 肩が外れてしまいますから、他の武器を⋮⋮﹂ ﹁まあまあ、いいじゃん。彼だっていろいろ挑戦したい年頃なんだ よ﹂ クリスさんは人懐っこく笑っているが、その目からは﹃持てない だろうけど﹄というニュアンスを感じる。 こんな武器を装備したら、それこそ戦う前に決着がついているよ うなものだが︱︱試さずにはいられない。 ﹁よっ⋮⋮!﹂ 1491 柄を握って力を込めただけで、メキメキ、と床のヒビが広がる。 持ち手の感触は悪くない︱︱布を巻いた方がいいかもしれないが、 このままでも取り回しに不便はない。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁錆びた巨人のバルディッシュ﹂を手に入れた。 ◆◇◆ ﹁なかなか手応えがある重さだけど⋮⋮うん、いけそうだ﹂ 錆びているのが気になるが、バルデス爺に磨いてもらえばいい。 貴重な武器のようなので、強化に挑戦するのはちょっと怖いが⋮⋮ 錆を取るとプラスがついているかわかるので、3くらいついていた らそのままメイン武器にしてもいいだろう。 ﹁じゃあ、俺はこの武器を使わせて⋮⋮あ、ああ。ごめん、装備で きちゃって﹂ ﹁も、持ち上げ⋮⋮片手で⋮⋮か、片手⋮⋮?﹂ ﹁ま、待って? ちょっと待って⋮⋮ええ? めりこんでたよね? それ、引っこ抜いて、軽々と⋮⋮ええ?﹂ ジェシカさんとクリスさんは動揺しすぎて、何を言っているのか 要領を得ない。や、やりすぎたか⋮⋮確かにこんな馬鹿げた重さの 武器、装備できる方がおかしいからな。 ちなみに巨人のバルディッシュの武器情報は、以下のようになっ 1492 ている。 ◆アイテム◆ 名前:錆びた巨人のバルディッシュ 種類:斧槍 レアリティ:スーパーユニーク 攻撃力:19∼55×4D1 防御力:35 装備条件:恵体120 ・未鑑定。 ・錆びている。 ◆◇◆ ︵攻撃力が通常攻撃で、最大220+恵体分で459⋮⋮679か。 技を使ったら強烈なことになるな︶ ただ重量のある武器によくあることだが、直撃させづらいという 意味でダメージの下限が低い。ヘタをすると武器補正が19ダメー ジしかなかったりする。しかしクリティカルが出れば大きい、そう いうタイプの武器だ。 装備条件が恵体120ということは、ゲーム時代は存在しなかっ た武器ということになる。そんなものがあるのに、重すぎるという だけの理由で更衣室に放置されているなんて⋮⋮それこそ、宝の持 ち腐れだ。 1493 そして忘れてはならないのが、これでも最高レア武器ではないと いうことだ。やはり魔武器だけがレジェンドユニークとして存在し ているということだろうか。 ﹁じぇ、ジェシカさん⋮⋮大丈夫? 私、ジェシカさんが死んだら、 責任感じちゃうどころじゃすまないんだけど⋮⋮ていうか、私も死 ぬよねえ、これ﹂ ﹁⋮⋮こ、これも、魔王と戦ったという英雄を信じなかった私たち への、女神様の罰なのでしょう。もし命を落としても、それも運命 と甘んじて受け入れます﹂ ステータスを見る限りジェシカさんは28歳、クリスさんは20 歳︱︱その若い身空で死を覚悟させてしまったことに、ちょっと反 省する。いくら使いたいからって、武器を持つだけで怖がらせては いけない。 ﹁い、一撃⋮⋮一撃でも武器を交えられたら、本望です。私の命を 賭けて止めてみせる⋮⋮!﹂ ﹁だ、大丈夫。絶対死なせたりはしません、それじゃ試合の意味が ないですから﹂ ﹁ほんとにー? あ、フィル姉さんに教えてもらったとか? 瀕死 になるけど、絶対死なないさじ加減っていうのがすごく上手なんだ よね、姉さんは。嗜虐的っていうかね﹂ ﹁そんな言い方をするな、むしろお優しいと言うべきだ。騎士団の 修練で命を落とす若者がいる中で、フィリアネス様は指導した生徒 をひとりも脱落させていないのだから﹂ ﹃手加減﹄スキルの有用性を確認せずにはいられない。フィリア ネスさんのおかげで習得していなかったら、今までも苦労していた 1494 だろう。 しかし武器を選んだだけで、ほとんど試合の勝敗すら決してしま ったようなこの状況はどうしたものか⋮⋮なんとか戦意を取り戻し てもらって、全力でかかってきてもらわないとな。 1495 第四十四話 円卓会議/恭順/新たな武器︵後書き︶ ※ 次回は水曜更新です。 1496 第四十五話 御前試合/水浴び場にて 修練用のプレートメイルも用意されていたが、俺はあえて軽い革 の防具だけ身につけて、装備を整えた。 修練場の中には、王族が訓練を観覧するために使う、ひときわ大 きな部屋がある。外観は円筒状をしていて、上がドームのように丸 くなっている︱︱建築の歴史的に見てどうなのかわからないが、か なり高度な石工技術が用いられていることがわかる。ドームの屋根 の内側に一面、人が戦っている姿が彫られているからだ。 ルネサンス期の芸術家に匹敵するような人でもいるんだろうか。 床にも幾何学模様の絵が書かれていて、修練場というよりは神殿の 広間のようでもある。やはり、むやみにスキルを使って破壊するこ とはできない。 二階にあたる高さのところに観覧席が作られ、さっき円卓の間に 居た人たちが全員揃っている。さっきは最後まで話さなかった﹃ス トラテジスト﹄のメアリーという少女もいた。 ストラテジー ︵ストラテジスト⋮⋮戦略。戦略家⋮⋮エルフならあの見た目でも、 そういう知識があることはありえるか︶ 試合前なので考えを打ち切り、俺は背中に背負ったバルディッシ ュの柄を握って、手応えを確認する。 そして青騎士と赤騎士が、戦いの舞台に上がってくる。ハーフ・ プレートメイルを着ているのでどんな体格かまでは分からないが、 1497 ステータスで強さは確認できる︱︱こんな感じだ。 ◆ステータス◆ 名前 ジェシカ・クローバー 人間 女性 28歳 レベル61 ジョブ:ジェネラル ライフ:1036/1036 マナ :312/312 スキル: 斧マスタリー 24 槍マスタリー 81 鎧マスタリー 82 恵体 83 猛将 32 指揮 34 騎士道 70 魔術素養 24 母性 73 アクションスキル: 薪割り︵斧マスタリー10︶ 兜割り︵斧マスタリー20︶ 烈風突き︵槍マスタリー10︶ 薙ぎ払い︵槍マスタリー20︶ 連続突き︵槍マスタリー30︶ 壁貫き︵槍マスタリー40︶ 1498 ブラストチャージ︵槍マスタリー50︶ 飛翔三段︵槍マスタリー60︶ バスタードライブ︵槍マスタリー70︶ 四鳳閃︵槍マスタリー80︶ 一撃離脱︵猛将20︶ 号令︵指揮10︶ 布陣︵指揮30︶ 敬礼︵騎士道10︶ 気迫︵騎士道20︶ 峰打ち︵騎士道30︶ カリスマ︵騎士道50︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ 説得︵母性60︶ パッシブスキル: 斧装備︵斧マスタリー10︶ 槍装備︵槍マスタリー10︶ 槍攻撃力上昇︵槍マスタリー30︶ 鎧装備︵鎧マスタリー10︶ 重鎧装備︵鎧マスタリー30︶ 鎧効果上昇レベル3︵鎧マスタリー70︶ スーパーアーマー︵鎧マスタリー80︶ 威圧︵猛将10︶ 血風︵猛将30︶ 指導︵指揮20︶ 栄光︵騎士道70︶ 1499 育成︵母性10︶ 慈母︵母性50︶ 子宝︵母性70︶ オークに強い スライムにとても弱い 潔癖症 ◆ステータス◆ 名前 クリスティーナ・ハウルヴィッツ 人間 女性 20歳 レベル57 ジョブ:ドラグーン ライフ:916/916 マナ :804/804 スキル: 弓マスタリー 32 銃マスタリー 68 鎧マスタリー 58 竜騎兵 52 精霊魔術 54 恵体 73 魔術素養 65 騎士道 51 気品 20 母性 48 1500 アクション: 遠射︵弓マスタリー10︶ 曲射︵弓マスタリー20︶ 乱れ撃ち︵弓マスタリー30︶ 連射︵銃マスタリー30︶ 狙撃︵銃マスタリー60︶ 騎乗︵竜騎兵10︶ 斉射︵竜騎兵20︶ 魔術弾︵竜騎兵30︶ 魔術弾速射︵竜騎兵50︶ 精霊魔術レベル6︵精霊魔術60︶ 敬礼︵騎士道10︶ 気迫︵騎士道20︶ 峰打ち︵騎士道30︶ カリスマ︵騎士道50︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ パッシブ: 弓装備︵弓マスタリー10︶ 銃装備︵銃マスタリー10︶ 射撃命中上昇レベル2︵銃マスタリー50︶ 鎧装備︵鎧マスタリー10︶ 重鎧装備︵鎧マスタリー30︶ 鎧効果上昇レベル2︵鎧マスタリー50︶ 騎乗効果上昇︵竜騎兵40︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ マナー︵気品10︶ 育成︵母性10︶ 1501 オークに弱い スライムに弱い のぼせやすい ◆◇◆ ︵猛将⋮⋮竜騎兵。これが、二人の固有スキル⋮⋮どちらも上位職 だけに、まだ全容は見えてないけど、今の時点でも十分に強さの片 鱗を感じるな︶ 特に今の俺には、﹃竜騎兵﹄のスキルが気になる。竜騎兵とは、 銃を持った騎兵のことを指す言葉だが、このマギアハイムの世界な らば実際に﹃竜﹄がいるのだから、俺とユィシアが組んだときに強 さを発揮するスキルがあるかもしれない。すでに竜騎兵40でパッ シブ﹃騎乗効果上昇﹄があるので、ぜひ欲しい︱︱何としてでも。 二人とも騎士団長の名に恥じないステータスの高さだ。それぞれ に、俺の防御を貫通する手段は持っていると思っていいだろう。ジ ェシカさんの槍技﹃四鳳閃﹄、クリスさんの﹃魔術弾速射﹄あたり に注意しなければ︱︱と考えたところで、俺は遅れて気がつく。 クリスさんの名前の欄、﹃ハウルヴィッツ﹄という言葉に、俺は 聞き覚えがあった。あれは⋮⋮もううろ覚えになってしまっている けど。確か、フィリアネスさんが言っていた⋮⋮。 ﹃こちらがレミリア様の邸宅⋮⋮やはり、ハウルヴィッツの伝統 的な造りになっておりますね﹄ 1502 ︵ハウルヴィッツ⋮⋮あの時フィリアネスさんは、母さんの家名の ことを言ったはずだ。でも、母さんはクーゼルバーグ伯爵家の令嬢 って話だったよな⋮⋮どういうことだ?︶ おそらく赤ん坊の時に聞いただけなので記憶に自信がない。俺は 戦う前に、クリスさんに聞いてみることにした。 ﹁あ、あの⋮⋮クリスさん。戦う前に、あなたの名前を聞いてもい いですか﹂ ﹁⋮⋮ん? んふふ。クリスティーナ・ハウルヴィッツだけど?﹂ ﹁ハウルヴィッツ⋮⋮それは、俺の母さんにも関わりがある名前の はずなんです。クリスさんは、もしかして、俺の母さんと関係があ ったりしますか?﹂ ︱︱そう言って、俺はようやく気がついた。 亜麻色の、ふわふわとした髪。その色は、母さんの髪の色と同じ ⋮⋮! ﹁⋮⋮クリス、どういうことだ? ジークリッド殿の母君と、どの ような関係なのだ﹂ ﹁後で教えてあげようと思ってたけどね。まあ、お察しのとおりだ よ。ヒロト君のお母さんは、私の実のお姉ちゃんなんだよね﹂ ﹁っ⋮⋮な、なんで、今まで黙ってたんですか?﹂ 飄々としていて掴みどころがなく、俺を嫌っていると思いきやそ うでもない。特異なスキルを持っていて、赤騎士団長で⋮⋮極めつ けに、まさか俺の母さんの妹だなんて。 ﹁⋮⋮そういうことか。姉君のご子息が魔王と戦うことを、よく思 っていないと﹂ 1503 ﹁んふふ⋮⋮どうだろうね。リカルドさんと一緒に家出したお姉ち ゃんに、ハウルヴィッツのおじいちゃんはとっても良くしてくれた んだよ。それを知らずに生きてきた坊やには、ちょっと思うところ もあるっていうかね。今、八歳くらいのはずだよね? それが、ど うしてそんなに大きくなっちゃってるのかな?﹂ ﹁は、八歳⋮⋮? 何かの間違いではないのか。今の彼は、どう見 ても、まだ若いとはいえ一人前の青年に見えるが⋮⋮﹂ ﹁それについてはまた、必ず話します。俺と二人が、一緒に戦う仲 間になれるなら﹂ クリスさんは微笑んだままでいた。そして観覧席から見ているデ ィアストラさんが前に出て、試合開始の合図を下そうとする。 ﹁これより、騎士団長二人と、ヒロト・ジークリッドの御前試合を 行う。騎士の誇りを失わず、いたずらに相手を傷つけず、各々の力 を存分に発揮せよ。始めっ!﹂ ︵さて⋮⋮やるか⋮⋮!︶ 背中に背負ったバルディッシュの柄に手をかける。そして俺は、 それを使って戦いの前に﹃演舞﹄を始めた。 ただの儀礼や、見せるためだけの動きではない。フィリアネスさ んと幼い時にやってきた演舞には、間合いを確認し、自分の状態を 確かめるという意味も含まれているのだ。 ﹁⋮⋮何⋮⋮という⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮見せつけてくれるじゃない﹂ ジェシカさんは驚き、クリスさんは笑っている。彼女は悟ってい る︱︱俺の動きが、フィリアネスさんに教わったものだということ 1504 を。 巨人のバルディッシュを袈裟懸けに二度振ったあと、その勢いの ままに身体の上までバルディッシュを持っていき、回転させる︱︱ 轟音と共に斧槍が風を巻き起こし、まだ間合いの離れている騎士団 長二人の髪を揺らした。 ﹁︱︱おぉぉっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ウォークライ﹂を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! パーティの攻撃力が一時的に上昇 した! ◆◇◆ 最後に雄叫び︱︱﹃ウォークライ﹄と共に斧槍を突き出し、その まま正面に構える。 俺の声が響いたあとで、ビリビリと空気が震えている。ただ黙っ て見ていたジェシカさんとクリスさんは、それでようやく我に返っ た。 ﹁⋮⋮二人は、戦う準備はしなくていいのか?﹂ ﹁⋮⋮確かめたのですか、新しい武器を。それだけの動きで⋮⋮﹂ ﹁久しぶりに、鳥肌立っちゃってるよ。でもいくら強い武器でも、 当たらなければ意味は無いんだよね⋮⋮っ!﹂ 1505 演舞は二人の闘志を煽る意味もある︱︱俺の狙い通り、巨人のバ ルディッシュを前に萎縮していた二人の目に、闘志の炎が戻ってい る。 ﹁クリス、私が先に仕掛ける⋮⋮貴公は魔術弓で狙い撃てっ! は ぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジェシカ︾は﹁威圧﹂を発動させた! あなたには効果がなか った。 ジェネラル ︵猛将は自動で威圧を発動させるのか⋮⋮でも、ごめん。俺には通 じない⋮⋮!︶ ﹁私を前に怯むこともない⋮⋮そのような相手は久しぶりです⋮⋮ っ!﹂ 黒い髪をなびかせながら、ジェシカさんが踏み込む︱︱次の一瞬 後には彼女は俺を間合いの中にとらえ、斧槍の柄を引き、身体をひ ねって強烈な突きを繰りだそうとしていた。 ﹁御免っ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジェシカ︾は﹁峰打ち﹂を発動した! 1506 ・︽ジェシカ︾は﹁ブラストチャージ﹂を放った! 単体でも使える﹁峰打ち﹂を、槍の大技に組み合わせることで、 致命の一撃を避ける︱︱さすがは騎士団長だ。 ︵ブラストチャージ⋮⋮まともに受ければ俺の防御を貫通する。﹃ ダメージを受けてみたい﹄、なんてのはさすがに舐めすぎてるよな っ⋮⋮じゃあ⋮⋮!︶ ﹁︱︱甘いっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁パワースラッシュ﹂を放った! ・技と技がぶつかり合う! 攻撃が相殺された! ・︽ジェシカ︾の武器の耐久度が下がった! ﹁くぅっ⋮⋮!﹂ 範囲攻撃であり、複数人を攻撃することができるブラスト・チャ ージ。その威力を、俺が袈裟斬りで叩きつけた斧槍が封殺し、彼女 の俺のものと比べて細いハルバードでは受け止めきれず、大きく弾 き飛ばされる。何度も繰り返せば、彼女の武器は破壊されかねない、 それほどの手応えがあった。 パワースラッシュ︱︱俺が得意とする斧技は、斧槍でもそのまま 使うことができる。今日初めて斧槍を使った俺でも、ジェシカさん 1507 に遅れを取ることはないということだ。 ﹁︱︱クリスティーナッ!﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ ◆ログ◆ ・︽ジェシカ︾は﹁一撃離脱﹂を発動した! あなたとの間合いが 大きく離れた。 ◆◇◆ ジェシカさんが大きく後ろに飛ぶ︱︱それはスキルを使わなけれ ば不可能なほどの迅速な動きだった。 俺からジェシカさんが離れる。それが意味することに気づいたと き、俺はぞくりとする悪寒を覚える。 ﹁ごめんねヒロト君⋮⋮ちょっと熱いの行くよっ!﹂ ︱︱俺の視界から外れるように動いていたクリスティーナさんの 声。振り返ろうとしたとき、クリスティーナさんが構えた術式弓の 発射口に、巨大な火球が発生しているのが見えた。 ︵二人で連携してきた⋮⋮ライバルのわりに、息がぴったりじゃな いか⋮⋮!︶ ◆ログ◆ 1508 ・︽クリスティーナ︾は精霊魔術によって、火属性の魔術弾を生成 した! ・︽クリスティーナ︾の魔術弾速射! ﹁火炎爆裂弾﹂! フレイム・エクスプロード ﹁︱︱﹃火炎爆裂弾﹄ッ!﹂ 火球がキュィン、と音を立てて、瞬時に矢弾へと姿を変える。そ して次の瞬間には、俺に向けて矢が迫っていた︱︱魔術弾速射、発 生から着弾まで、まさかここまで速いとは⋮⋮! ︵やるな⋮⋮本当に強い⋮⋮!︶ フレイム・シールド ﹁︱︱﹃火精の盾﹄!﹂ 減殺しきれるか分からない。それでも着弾する寸前に、精霊魔術 による盾を展開する︱︱それは少なからず、俺が魔術弾の威力を脅 威に感じたからだった。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁火精の盾﹂を詠唱した! 火属性に対する耐性が一時 的に上昇した! ・﹁火炎爆裂弾﹂があなたに命中した! 盾を貫通、32のダメー ジ! ﹁っ⋮⋮!﹂ 1509 32というと、やけどにもならない程度のダメージだ。それでも ジェシカさんとクリスティーナさんは、俺にダメージを与えてきた ︱︱上から言うのもなんだけど、高い戦闘力を証明してくれた。 観覧席からも声が上がった。俺の身体が爆風に包まれたので、か なり派手に見えたのだろう。自然回復だけで勝手に全快するダメー ジでしかないが、傍から見ているとヒヤリとするはずだ︱︱フィリ アネスさんもディアストラさんも、俺の力を知っているので心配し ていなかったけれど。 ﹁よしっ⋮⋮!﹂ ﹁クリスティーナ、油断するな! まだ、彼はあまり打撃を受けて いないっ!﹂ ジェシカさんが冷静に判断する。その通りだと思いながら、距離 の離れた二人にどう攻撃するかを考え、動こうとしたところで、着 ていたものがぼろ、と崩れて取れてしまった。 ◆ログ◆ ・爆裂属性による追加効果! あなたの﹁レザーアーマー﹂が破壊 された。 ︵うわっ⋮⋮か、革の鎧が燃えた⋮⋮!︶ ここに入場する時につけてきた防具︱︱金属製にしなかったから、 火炎爆裂弾で燃やされて上半身が裸になってしまった。革製の弱点 1510 はこういうところで、適当な防具しか選ばなかったことをちょっと 後悔する。 まあ、もう小手調べは済んだので、次の攻撃を受ける前に勝負を つける。だから問題ないと思ったのだが⋮⋮。 ◆ログ◆ ・あなたの﹁艶姿﹂が発動! 範囲内にいる異性を惹きつけた。 ︵えぇぇぇぇ!?︶ 戦闘に関係ないスキルが、非常にどうでもいいタイミングで発動 してしまった。確かに、女性陣からの熱い視線を感じる⋮⋮そんな に見ないでくれ、俺も思春期だから恥ずかしいんだ。 ジェシカさんとクリスさんは戦闘中だから、俺の艶姿、セクシー な姿を見せたからといって、対して動揺していないはずだ︱︱と思 いきや。 ﹁⋮⋮く、クリス。鼻から赤いものが⋮⋮﹂ ﹁ふぁっ⋮⋮え、えっと、あの、これはそうじゃなくてね? 別に いい身体してるなとか、髪の毛降ろすとワイルドだなとか考えてる わけじゃなくてね?﹂ クリスさんは鼻を押さえつつ言う。そういえば、﹃のぼせやすい﹄ のマイナスパッシブがついていたな⋮⋮それって、興奮して鼻血が 出やすいってことでもあるのか。 1511 ジェシカさん、クリスさんだけでなく、俺の半裸に対して観覧席 からも熱いコメントが寄せられていた。 ◆ログ◆ ・︽フィリアネス︾はつぶやいた。﹁⋮⋮見惚れている場合ではな いのだが⋮⋮ヒロト⋮⋮﹂ ・︽ディアストラ︾はつぶやいた。﹁なんというものを見せるのだ ⋮⋮これでは眠りに差し支える⋮⋮﹂ ・︽ヴィクトリア︾はつぶやいた。﹁もっと違うところを燃やせ⋮ ⋮っ、煉獄の炎で⋮⋮!﹂ ・︽ファーガス︾はつぶやいた。﹁ルシエの婿ということは、私の 義理の息子か⋮⋮﹂ ・︽ゴドー︾はつぶやいた。﹁魔術も使いこなしますか。研究所に ぜひお招きしたいですね﹂ ・︽コーネリアス︾はつぶやいた。﹁若い頃を思い出す。この老い ぼれの血もたぎるというものだ﹂ ◆◇◆ ︵女性陣と男性陣で、見てるところがまったく違うな⋮⋮そしてフ ァーガス陛下は気が早いな︶ ヴィクトリアはどこを燃やしてほしいんだろう⋮⋮変なことを考 えてたらお仕置きだな。ジョゼフィーヌは出番に備えて、今も物陰 でプルプルしているに違いない。 ディアストラさんの安眠についても気になるが、やはりまだ話し 1512 てないあの少女︱︱メアリーさんは、何も言わないままなのだろう か。と思った矢先だった。 ◆ログ◆ ・︽メアリー︾はつぶやいた。﹁⋮⋮強いのに、無駄な筋肉がつい てない。きれいな裸⋮⋮﹂ ◆◇◆ ︵興味を示してくれた⋮⋮って、喜んでる場合じゃない。それはた だの露出狂だ︶ ﹁も、もう大丈夫⋮⋮お姉さんちょっとびっくりだわ。ヒロト君が こんなにイイ身体してるなんて﹂ ﹁な、何を言っているっ⋮⋮つつっ、続けるぞっ! はぁぁっ!﹂ ジェシカさんもクリスさんも辛うじて気を取り直し、再び向かっ てくる︱︱前と同じパターンだ。一度目が成功したから、二度まで はいけると思っているのだろう。 ︵一撃離脱ってスキルは、離れると同時に、俺に隙を作る。それは スキルの効果で、今の俺には防ぐ手立てはない⋮⋮となると⋮⋮︶ ﹃一撃離脱﹄をされると、0.3秒ほど俺の身体は言うことを聞 かなくなる。その隙を突いて、クリスさんは確実に魔術弾を打ち込 んでくるだろう︱︱小手調べの今よりも、もっと強力なものを。 1513 それなら、答えは一つだ。 俺は斧槍を引き、槍先をゆらりと下げる。そして全身全霊の力を 込めた一撃を放つべく、腰を落とした。 ﹁私の槍を前にして、溜めに入るとは⋮⋮分かりました。正面から お受けしましょうっ!﹂ ﹁ヒロト君、甘く見てもらっちゃ困るよっ! 私の魔術弾は、﹃い つでも﹄撃てるんだよねえっ!﹂ 俺の構えを挑発と受け取り、ジェシカさんは間合いを詰めて大技 を、クリスさんはジェシカさんの一撃離脱を待たず、彼女の攻撃に 重ねて魔術弾を放とうとする。 ︵二人の動きよりも早く牽制する手段がないと思ってるのか。あま り、甘く見ないでくれよ⋮⋮!︶ ﹁︱︱雷の精霊よ、大気を駆け抜け、敵を薙ぎ払えっ!﹂ ﹁っ⋮⋮その魔術は⋮⋮﹂ ﹁フィル姉さんのっ⋮⋮!?﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁マジックブースト﹂を発動させた! ・あなたは﹁ボルトストリーム﹂を詠唱した! ◆◇◆ 雷属性の魔術は全体的に発生が速く、敵への到達も速い。ジェシ 1514 カさんの大技は発生まで時間がかかり、クリスさんの魔術弾も、強 い魔術を使うほど発生が遅れる︱︱ならば、後からでも俺の魔術の 速度が上回る。 俺の手のひらから発生し、一瞬にして空間を貫いた雷光が、二人 の騎士の身体を走り抜ける。 ﹁くぅぅっ⋮⋮あぁ⋮⋮!﹂ ﹁はぁぅっ⋮⋮な、何の、これしきっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジェシカ︾に283ダメージ! ︽ジェシカ︾は麻痺状態にな った。 ・︽クリスティーナ︾に182ダメージ! ︽クリスティーナ︾は 麻痺に抵抗した。 ・︽クリスティーナ︾の攻撃がキャンセルされた! ◆◇◆ ︵っ⋮⋮そうか。魔術素養が上がった分だけ、魔術の威力が上がっ て⋮⋮ブーストはやりすぎたか⋮⋮っ︶ ﹁⋮⋮っ、く⋮⋮まだ⋮⋮魔術の一撃などでは、倒れられないっ⋮ ⋮!﹂ ジェシカさんは麻痺してもなお、斧槍を握りしめて立ち続ける。 何ていう⋮⋮これが騎士団長の﹃気迫﹄か。麻痺による行動制限を、 1515 気合だけで低減しているのだ。 ﹁なかなかやるね⋮⋮でも、もらったよっ!﹂ 魔術素養の高いクリスティーナさんは麻痺していない︱︱そして、 再び魔術弾速射の体勢に入る。 まだ戦いを続けたい気持ちはある。しかしさっきより高威力の魔 術弾を撃ちこまれたら、見ている人たちからは俺のダメージが多い ように見えるだろう。戦闘が派手になればなるほど、途中で止めら れる可能性も高まる。 ︵⋮⋮負けるわけにはいかない。誰が見ても認める形で勝つ⋮⋮!︶ ﹁︱︱うぉぉぉぉぉっ!﹂ 魔術弾速射の軌道は直線だ。正面から俺の技で受け止め、返しき る⋮⋮! ◆ログ◆ ・あなたは﹁ダブル魔法剣﹂を放った! ・あなたは﹁スパイラルサンダー﹂を武器にエンチャントした! ・あなたは﹁クリムゾンフレア﹂を武器にエンチャントした! ◆◇◆ ﹁なっ⋮⋮!?﹂ 1516 クリスティーナさんの目が見開かれる。この試合において、その 一瞬の動揺が命取りだった。 神聖剣技を使うことで、相手に隙ができるかもしれない︱︱それ をわかっていて発動したのは少し卑怯にも感じたが、俺は事前に可 能性を示唆していた。フィリアネスさんに学んだ演舞を見せること で。 ︵詠唱の速さでは上回った⋮⋮あとは威力だ⋮⋮!︶ ﹁︱︱はぁぁぁぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・﹃巨人のバルディッシュ﹄が光り輝く! 技の威力が上昇した! ◆◇◆ ︵武器が、反応して⋮⋮そうか⋮⋮!︶ 巨人のバルディッシュ︱︱その未鑑定の能力のうちひとつが、こ の瞬間に明らかになった。 ﹃ギガントスラッシュ﹄。巨人の振り回す戦斧にも等しいと呼ば れる一撃︱︱それは、巨人のバルディッシュと組み合わせることで、 本来の威力を発揮するのだ。 何も考えず、適切な威力の技を選んだつもりだった。その威力が、 1517 俺の想定以上に跳ね上がる︱︱そう予感させるだけの力が、俺の振 りぬかんとする斧槍に込められていた。 ﹁私だって、負けるわけにはいかないんだよ⋮⋮っ!﹂ クリスティーナさんは叫び、その瞳に射抜くような鋭さを取り戻 す。そして、巨大なクロスボウガンに、魔術で生成した矢︱︱俺に 対抗したのか、今度は雷属性の矢を装填し、俺に向けて放ってきた。 ◆ログ◆ ・︽クリスティーナ︾は精霊魔術によって、雷属性の魔術弾を生成 した! ・︽クリスティーナ︾の魔術弾速射! ﹁轟雷殲滅弾﹂! ◆◇◆ ストライク・ブレイカー ﹁﹃轟雷殲滅弾﹄!﹄ 殲滅弾︱︱おそらく、爆裂弾より上の威力を持つ弾。しかし、銃 マスタリーか、それとも竜騎兵スキルが上がりきっていないからか、 俺の予想と違い、前の魔術弾より大きく威力が跳ね上がることはな かった。 さっきと同じ弾を使えば詠唱が遅くなることもなく、俺に当てら れたかもしれない。しかし、もう後の祭りだ⋮⋮! ︵⋮⋮クリスさん、あなたはまだまだ強くなる。ジェシカさんも⋮ ⋮でも、今は⋮⋮!︶ 1518 ﹁いけぇぇぇっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ギガントスラッシュ﹂を放った! ﹁巨斧紅雷斬﹂! ◆◇◆ 振りぬいた斧が描く斬撃の軌跡は、俺の想像を遥かに上回ってい た。 斧槍の間合いのはるか外にいた二人の騎士を薙ぎ払い、それでも 足りず、修練場の壁全体に斬撃が届き、炎と雷を纏った軌跡が走り 抜ける。 ﹁あぁぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮きゃぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽ジェシカ︾に3238ダメージ! オーバーキル! ・﹁手加減﹂が発動! ︽ジェシカ︾は昏倒した。 ・︽クリスティーナ︾に2452ダメージ! オーバーキル! ・﹁手加減﹂が発動! ︽クリスティーナ︾は昏倒した。 ◆◇◆ 1519 唖然としたのは俺自身だった。 斧マスタリー110の必殺技﹁メテオクラッシュ﹂で1874ダ メージ、それが最高だったのに、ジェシカさんという強敵を相手に して最大ダメージを大きく更新してしまったのだから。 ﹁くぅっ⋮⋮うぅ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮まだ⋮⋮まだっ⋮⋮これからだよ⋮⋮っ﹂ ライフが1になり、到底起き上がれないはずの二人が、武器を支 えにして立ち上がってくる。 しかし、もはや見ている誰もが、試合を続けられるとは思ってい なかった。 ﹁そこまで! この試合、ジークリッドの勝利とする!﹂ ファーガス陛下が席を立って、力強く宣言する。それを聞いたジ ェシカさんとクリスさんは、がくっと膝をつき、その場にうなだれ た。 ◆ログ◆ ・あなたは戦闘に勝利した! ・あなたのレベルが上がった! スキルポイントを3手に入れた。 ・あなたの﹁斧マスタリー﹂が上昇した! ・︽ジェシカ︾の﹁槍マスタリー﹂が上昇した! ・︽クリスティーナ︾のレベルが上がった! ・︽クリスティーナ︾の﹁竜騎兵﹂が上昇した! 1520 ◆戦闘評価◆ ・2人をオーバーキルし、戦闘評価が上昇した。 ・2人に手加減して倒し、戦闘評価が上昇した。 ・︽ジェシカ︾の状態異常により、戦闘評価が上昇した。 ・︽クリスティーナ︾の状態異常により、戦闘評価が上昇した。 ・﹁恭順﹄の効果により、︽ジェシカ︾︽クリスティーナ︾の友好 度が上昇した。 ◆◇◆ 恭順の効果はこれで確認できた。レベルも上がったし、とても実 りの多い戦いだった。 ︵⋮⋮あれ? クリスさんは状態異常じゃなかったはずだけど⋮⋮︶ それも気になるが、今は二人を手当てしてあげなければ。とりあ えず応急処置として、インベントリーからポーションを出して二人 に使ってあげるのが良いだろう。 ﹁ジークリッド、見事なり! 私を倒したその力、見届けさせても らったぞ! はっはっはっ、痛快極まる! 私を馬鹿にしていたジ ェシカもクリスティーナも、こうなってしまえば無様なものもがっ﹂ ﹁ヴィクトリア、少しおしゃべりが過ぎるぞ。今日で貴様の自由は 終わりだ、みっちりと再教育してやろう﹂ ﹁ふぐっ、むぐっ⋮⋮んーっ、んーっ!﹂ 調子に乗ったヴィクトリアが、顔面をディアストラさんにアイア 1521 ンクローされ、そのまま連れていかれてしまった。凄まじい腕力⋮ ⋮そのパンチを受けて無事だった俺の腹筋も、なかなかのものだ。 ﹁ジークリッド君、見事だった! 魔王と戦った英雄の力、しかと 見届けさせてもらったぞ!﹂ ファーガス陛下が修練場に響き渡るほど大きな声で言う。他の人 達も皆席を立っていて、俺に向けて拍手をしてくれた。 フィリアネスさんは微笑み、コーネリアス公は興奮気味に顔を紅 潮させ、ゴドーさんは顔面蒼白で引きつった笑いを浮かべており、 メアリーさんはじっと俺を見て、無表情のままだが、手を叩いてく れている。 ﹁あ、ありがとうございます。それより、二人の手当てを⋮⋮﹂ 照れつつ答えようとした瞬間だった。恭順が発動したあとのウィ ンドウに、さらにログが流れてくる。 ◆ログ◆ ・︽ジェシカ︾の﹁ブルーライン・ハーフプレートメイル﹂の耐久 度がゼロになった。 ・︽クリスティーナ︾の﹁レッドライン・ハーフプレートメイル﹂ の耐久度がゼロになった。 ◆◇◆ 1522 ︵うわっ⋮⋮や、やばいっ⋮⋮!︶ オーバーキルが発生すると、装備の耐久度が大幅に削れる。それ にしても一発で破壊してしまうとは︱︱このままでは、二人は裸に なってしまう⋮⋮! ﹁す、すみませんっ! ちょっと眩しいですけど、何も害はないで すからっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ホーリーライト﹂を詠唱した! ◆◇◆ ﹁くっ、眩しい⋮⋮ど、どうしたのだ、ジークリッド君っ!﹂ ﹁陛下っ、問題はございません! ヒロトにも考えのことがあって のことかと⋮⋮っ!﹂ ︵フィリアネスさん、ナイス⋮⋮! 今のうちに、二人を⋮⋮!︶ 俺は目眩ましをしている間に、動けなくなっている騎士団長ふた りを担いで、修練場から足早に立ち去った。向かう先は、代わりの 装備があるだろう更衣室だ。 ◆◇◆ 1523 プレートメイルが破壊されたことを皮切りに、次々と二人の装備 の耐久度がゼロになって、最終的には︱︱いや、それは見なかった ことにしなければならない。 俺は更衣室で適当な布を探して二人に羽織らせ、ポーションを飲 んでもらった。 ﹁んっ⋮⋮んくっ⋮⋮﹂ ジェシカさんがポーションの瓶に口をつけて飲んでくれる。白い 喉が動いて、中身の半分くらいは飲んでくれた。 二人ともライフの最大値が多いので、自然回復も早い。もう少し すれば、意識もはっきりしてくるだろう。 ﹁すみません、俺、やりすぎて⋮⋮﹂ 次はクリスティーナさんにポーションを飲ませる。もちろんその 都度、新品のポーションを出している。アイテムのストックはかな りあるので、全く問題ない。 ﹁⋮⋮んっ、んっ⋮⋮あはは⋮⋮ヒロト君、ありがと⋮⋮恥ずかし いとこ、見られちゃうとこだったよ⋮⋮﹂ クリスティーナさんはこうして見ると、母さんを少し眠たそうに したような、そんな顔をしていた。どうして最初から気が付かなか ったのだろう、と不思議に思うくらい、姉妹らしい面影がある。 ﹁ほんとは衛生兵の人を呼んだりした方が良かったですね。今から でも⋮⋮﹂ 1524 ﹁⋮⋮いいえ。私も騎士団長ですから⋮⋮できるなら、部下に弱っ た姿は見せたくありません﹂ ﹁うん、私も⋮⋮騎士団長って、いつも強くないとダメなんだよ。 ヴィクターみたいに、場合によっては部下の子たちが支えてくれる 場合もあると思うけどね⋮⋮﹂ ︵うわっ⋮⋮!︶ クリスティーナさんが身体を起こそうとした拍子に、頼りなく胸 元を覆っていた布がずれて、豊かな膨らみが半分ほど見えてしまう。 こんなこと言うのもなんだけど、姉妹で胸の形が⋮⋮母さんより 一回り大きいけど、張りの具合だとか、大きくても形を保っている ところだとか、本当によく似てる。 ︵⋮⋮似てるけど、それだけじゃない。やっぱり、それぞれに違う んだよな︶ ﹁⋮⋮ヒロト殿も、クリスの魔術弾で、鎧が⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮そうだな。さすがに炎の魔術をまともに食らうと、ちょっ とすすけてるな﹂ ﹁⋮⋮大丈夫? やけどとか、してない⋮⋮?﹂ ﹁だ、大丈夫、俺は全然⋮⋮﹂ 自分の方がダメージが大きいのに、クリスさんは本気で心配して ︱︱俺の上半身を目にして、首から上がきゅーっと真っ赤に染まっ ていく。 ﹁ふぁっ⋮⋮ご、ごめん。変なこと考えてるわけじゃないんだよ、 ただ、はなぢ、出やすくて⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮だ、大丈夫ですか?﹂ 1525 ﹁だ、だめっ⋮⋮!﹂ 鼻血を止める方法といえば、冷やすとか、小鼻を圧迫して止める とかだっただろうか︱︱しかし、確かにそれを俺がクリスさんにや っていいというわけではない。 しかし︱︱今までずっと飄々としてたクリスさんが、急に恥ずか しがり始めて、正直を言うと驚いていた。それは、こんなあられも ない姿にされたら、俺を警戒しても仕方がないけど。 ﹁ご、ごめん。俺、とりあえずすすを落としてきたいんだけど⋮⋮﹂ ﹁は、はい⋮⋮そちらに、修練後の汗を流す水場があります﹂ ﹁⋮⋮ふぁ⋮⋮とまんない⋮⋮こ、こんな時に∼⋮⋮かっこ悪すぎ ⋮⋮﹂ クリスさんが泣きそうな声を出していたけど、ジェシカさんが宥 めていた。この二人を見ていると、マールさんとアレッタさんのや りとりを思い出す。 ︵みんな仲がいいんだな⋮⋮騎士団は。マールさんたちとは、ジェ シカさんたちはどういう関係なんだろう︶ そんなことを考えているのは、さっき見てしまったジェシカさん とクリスさんの艶めかしい姿を、必死に意識の外から追いやろうと しているからだった。 水でも浴びて頭を冷やした方がいい。異性に対する意識に目覚め てしまうと、こういう部分が大変なんだな、と今さらに実感してい たた。 1526 ◆◇◆ ﹁ふぅ⋮⋮﹂ 冷たい水を浴びると、身体の火照りが少しはおさまったが、どう にも落ち着かない。 きのう、あんなにフィリアネスさんと⋮⋮なのに俺は、別の女の 人をすぐ意識してしまっている。 ︵これから、俺の指揮で一緒に戦ってくれる仲間で⋮⋮ミゼールを 守備してくれる人たちだぞ。適切な距離感で接しないと⋮⋮︶ 俺が上がったら彼女たちと交代して、彼女たちが水浴びをしてい る間に、俺は着替えて外に出て、ミゼールに戻る支度をする。そう すれば、過剰に意識したりすることもない。 ︱︱無いんだけど。俺の頭の中では、﹃猛将﹄﹃竜騎兵﹄の二つ が、ぐるぐると回っているのだった。 ︵欲しい⋮⋮い、いや、会ったばかりだぞ。俺はもう大人と認めら れてるんだ、簡単にそんなことしていいわけがない。二人だって許 してくれるわけが⋮⋮そうだ、普通は、会ったばかりの人には⋮⋮︶ 考えが暴走していく前に、もう一度水を浴びて、ここを出よう。 そう心に決めて、桶で水をかぶろうとしたとき︱︱ぴちゃ、と音 が聞こえた。 濡れた石の上を歩いてくる、二つの裸足の足音。俺はこんなこと 1527 が、前にもあったと思い出す。そうだ、イシュアラル村での時と似 ている。 ︵に、似てるとかそういう問題じゃなくて⋮⋮な、なぜ来るっ⋮⋮ !?︶ さっきクリスさんはあんなに恥じらっていたし、ジェシカさんだ ってそうだ。 なのに、彼女たちは、布一枚を纏った姿で、俺のいる水場に入っ てきてしまった。 ﹁⋮⋮な、なんで⋮⋮二人とも、俺、まだ入って⋮⋮﹂ 至極当然のことを聞いたはずが、ジェシカさんもクリスさんも、 俺をじっと見つめて何も答えない。 原因として考えられることはある。しかし俺は、恐ろしくてなか なか確認する気になれなかった。 ︱︱俺が恐ろしいと感じたのは、自分の業だった。あまりにも深 い、強欲という名の罪︱︱。 ︵でも、確認しないと⋮⋮それで、答えは明らかになる⋮⋮︶ ◆情報◆ 名称:ジェシカ・クローバー 関係:あなたに身も心も捧げ尽くしている 名称:クリスティーナ・ハウルヴィッツ 1528 関係:あなたに愛情を抱いている ◆◇◆ ︵︱︱ぬぁぁぁぁ!︶ ﹃恭順﹄の判定でボーナスが加算されたとき、なぜ危機感を抱か なかったのか︱︱たった一回﹃恭順﹄が発動しただけでは、大して 変わらないと思っていたのが仇になった。 ︵友好度って、異性に対しては好感度と同じじゃないか。男女には 友情は存在しないとでもいうのか⋮⋮?︶ 動揺しきった俺の前に、二人の女性が歩いてくる。 見ないようにしていたが、ジェシカさんは引き締まった身体なの にどうしてそこまで大きくなるのか分からないほど胸が大きい。母 性73、俺が出会った中でも屈指の数値を誇る彼女は、胸元で布を 押さえているが、手が谷間に沈み込んで、球体に近い形がくっきり と浮かび上がっていた。 そしてクリスさんを見ると本当にだめだ。髪を降ろすと、母さん に似すぎている。別人だと分かっていても、なぜか父さんの顔が脳 裏を巡り、﹃ヒロト、自分に恥じない生き方をしろよ﹄と爽やかに 笑いかけてくる。俺もそうしたいよ父さん、でも⋮⋮! ﹁⋮⋮こんなにお強いとは思っていませんでした。あなたの技を受 けたとき、私の今まで生きてきた中で、命を賭けてきた戦いなどは、 遊びにしか過ぎないと思い知らされて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ほんとにすごかったよ、ヒロト君。私ね、最初の一発が当た 1529 ったとき、大したことないじゃんって思っちゃったんだ。でも、違 ってた⋮⋮キミはすごいよ。私が今まで見てきた男の人で⋮⋮うう ん、世界中探したって、キミみたいな人は見つからない⋮⋮﹂ ︵ま、待ってくれ⋮⋮ぬ、布はそのままにしてくれ。そうじゃない と俺は⋮⋮っ!︶ そうして見て気がついた。俺は、彼女たちがここに来た時から、 ずっと全裸なのだと。 二人の視線がどこを向いているか怖くて、目で追いたくない。だ ったら隠せというところだが、風呂から上がってすぐに拭けばいい と思っていたので、水浴びには布を持ってこなかった。 ︵インベントリーから装備を⋮⋮いや、それも置いてきてるし⋮⋮ つ、詰んだ⋮⋮俺の男としての目覚めが、二人に悟られてしまう⋮ ⋮!︶ ジェシカさんはちら、と視線を下に向けて、口に手を当てる。そ れは嫌悪からではなく、恥じらいと好奇心、そしてどこか嬉しさに 入り混じったような表情だった。乙女といえばそうかもしれない、 二十八歳だけど、彼女はたぶん初めてなのだ。何が初めてかは、階 段を上ることというかいろいろだと思う。 そしてのぼせやすいクリスさんは鼻血を出すこともなく、俺の身 体を見て、心なしか息を荒くしている。そこで俺は、彼女が戦闘中 に何の状態異常になっていたか理解した。気の利くログは、それを 敢えて表示しなかったのだ。ログに意志があるような言い方もどう かと思うが。 ︵⋮⋮間違いない、﹃発情﹄状態⋮⋮俺の﹃艶姿﹄が発動したとき 1530 に、かかってたんだ⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮ヒロト君ともっとちっちゃい頃に会えてたらって思ったけど、 あれだね。私もお姉ちゃんより六つも下だから、今のおっきくなっ たヒロト君となら、そんなに変わらないよね⋮⋮とか思ったりして﹂ ﹁か、変わらないというか⋮⋮﹂ 肉体年齢としては六歳しか変わらない。六歳差⋮⋮これはどうな のだろう。 ︵そうじゃない、母さんの妹さんなんだぞ! 竜騎兵なんてスキル は見なかったことにするんだ! 見なかったことに⋮⋮︶ ぱさっ、ふぁさっ。 ︵すごい布っぽい音がしたぞ⋮⋮というか俺の瞳には揺るぎない真 実が映っているけど⋮⋮肌色が増えた気がするけど、まだ致命的な ところは見えてないぞ⋮⋮逃げろ、逃げるんだ! 男のプライドも 何もかも捨てて、少年の恥じらいに身を任せるんだ!︶ 必死に抵抗する理性。だ、だめだ、俺はフィリアネスさんと一夜 を明かしたばかりなんだ。その次の日になんてだめだ、だめだ⋮⋮! ﹁⋮⋮こんな気持ちになったのは、初めてです。ヒロト様⋮⋮こう してあなたと剣を交え、こうして水浴びのお世話をさせて頂く機会 を得たのは⋮⋮女としての幸せをあきらめていた私への、女神様の ご褒美だと⋮⋮思いたいの、ですが⋮⋮こ、こんな、鍛えることし かしてこなかった身体では、お相手をしていただけませんよね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ジェシカさん、男嫌いで有名なんだよ? こんな人にここま でさせちゃったんだから⋮⋮ね、ヒロト君、わかるよね。何もして 1531 あげないで帰しちゃったら、ひどい人って思われちゃうよ⋮⋮?﹂ 熱っぽい瞳のクリスさんの方が、ジェシカさんよりずっと色っぽ い表情になっている。というかさっきから、その視線が、﹃いい身 体してる﹄なんて言葉じゃすまないくらい、俺に熱心に向けられて いる。 間合いを広げなくては︱︱と思ったが、女性から詰め寄られると、 バックステップなど封印状態となる。ついに俺はジェシカさんとク リスさんの二人に迫られ、とうの昔に彼女たちが身体を覆っていた 布は床にわだかまるのみとなり︱︱前に突き出した母性の曲線が、 俺の胸板のラインと交わる。曲線と曲線の接点の座標計算が始まる。 俺の思考回路はオーバーヒート寸前だ。 ︱︱そしてついに、胸と胸が接触する。ふたつの柔らかいものが、 俺の身体にぽよんぽよんと当たる。 ﹁す、すみません。こんな時、どうしていいのか分からなくて、当 てることしか⋮⋮男性に作法を教えてもらえると、とても嬉しいの ですが⋮⋮﹂ ﹁ヒロト君のほうに、教えてあげないとだめなんじゃない⋮⋮? まだ若いんだから、初めてだよね⋮⋮で、でも、私も良くわかんな いし⋮⋮﹂ 心配なのはクリスさんが鼻血を出さないかということだが、今は 踏みとどまっていた。 それどころかジェシカさんより先に、クリスさんが俺の頭を抱き 寄せて、胸元に惜しみなく当ててくる。 ﹁う、うわっ、柔らか⋮⋮く、クリスさんっ⋮⋮﹂ 1532 ﹁⋮⋮こんなに大きくなってから会っちゃうとね⋮⋮甥っ子ってい う感じ、しないよね。ヒロト君、髪長いから、ミゼールに行ったら お姉ちゃんに切ってもらいなよ⋮⋮﹂ 急成長してから伸びっぱなしの髪は、確かに切ってもらわねばな らない。し、しかし、今は、それより⋮⋮。 ﹁く、クリス⋮⋮私も勇気を出してやってきたのだから⋮⋮その⋮ ⋮ヒロト殿と⋮⋮﹂ ﹁あ、ごめんごめん⋮⋮でも私、もう言っちゃうけど、我慢できな いんだよね。ヒロト君、さっきはなぢ出たとき、私のはなぢ止めて くれようとしたっしょ?﹂ ﹁あ、あれは⋮⋮すみません、急に触ろうとしたりして。普通ダメ ですよね、そういうのは⋮⋮﹂ ちゃんと敬語を使って、何とか普通の距離感に戻ろうとする。そ れが俺の、なけなしの最後の理性だった。 ︱︱しかし﹁我慢できない﹂とまで言ったクリスさんは、俺のそ んな態度が気に入らなかったみたいで、すぅ、と目を細める。そし て⋮⋮。 ﹁⋮⋮ほら、分かるよね? ヒロト君⋮⋮私もこれは運命だと思う んだよね。男の人の裸を見てドキッてしたら、それは本能的なもの なんだよ。ヒロト君とは仲良くしたいな、っていうね﹂ もうジェシカさんもクリスさんも、身体は触れてしまっているの だから、できる範囲内でスキルをもらう︱︱そうすることに、何の 障害もない。 それより先については、まだ俺にはとても進めないというか、段 1533 階を踏みたい気持ちでいっぱいだ。恭順で好感度が上がったのがき っかけであっても、少しずつ信頼を積み上げ、そのうち指揮する側 とされる側の関係より深まりそうなら、俺も責任の所在について真 摯に検討しなければならない。 ﹁ふ、ふたりとも。その⋮⋮良かったらなんだけど、俺のお願いを 聞いてくれないかな。それをしたら二人ともっと仲良くなれると思 うんだ﹂ ﹁うん、もちろんいいよ⋮⋮? 何をしてほしいの?﹂ ﹁ま、まだ恥ずかしさはありますが⋮⋮ヒロト殿が望まれることな らば、私はどのようなことでも⋮⋮﹂ 俺は二人に耳を寄せてもらい、何をさせてほしいかを言葉にして 伝えた。 二人は顔を見合わせて驚いていたが、やがて微笑み合う。そして、 ずっと胸を覆っていた両手を、二人ともそろって上にずらした。 ﹁⋮⋮いいよ、ヒロト君。上手くいくかわかんないけど⋮⋮ヒロト 君がしたいなら⋮⋮﹂ ︵よし⋮⋮行くぞ⋮⋮!︶ 俺の手が輝き始める。クリスさんとジェシカさんは目を見開きつ つも、それが意味することを本能で理解しているようだった︱︱彼 女たち二人の胸もまた、煌々と輝きを増し始める。 ◆ログ◆ ・あなたは︽クリスティーナ︾から﹁採乳﹂した。 1534 ・あなたは﹁竜騎兵﹂スキルを獲得した! 竜の名で呼ばれる騎兵 の魂に触れた。 ﹁触れるだけなのに⋮⋮ヒロト君、こんなことできるんだ⋮⋮﹂ ﹁く、クリス⋮⋮どのような感覚なのか、教えてほしいのだが⋮⋮﹂ ﹁何ていうかね⋮⋮すごく優しい気持ちになる。ヒロト君が、可愛 くてしょうがなくなるっていうか、そんな感じ⋮⋮﹂ ジェシカさんは顔を赤らめ、俺とクリスさんのことをじっと見て いる。その喉がこくんと鳴るのを見て、俺はあまり待たせてはいけ ないと思った。 ジェシカさんは﹃潔癖症﹄だけあって、まだ水を浴びる前に始め ることを気にしているようだ。まずはリラックスさせてあげないと。 ﹁大丈夫だよ。俺に全部任せて﹂ すごく年上の女性なのに、俺はそう言うべきだと思った。ジェシ カさんの身体の震えが少し収まって、彼女は目を潤ませたままでこ くんと頷く。 ﹁⋮⋮お願い⋮⋮いたします。殿方に興味を持ってもらうような身 体ではありませんが⋮⋮﹂ そんなことがあるわけない。俺は勇ましい騎士である彼女と斧槍 を交えたときのことを思い返しながら、その豊かな膨らみに手を添 えた。 ◆ログ◆ 1535 ・あなたは︽ジェシカ︾から﹁採乳﹂した。 ・あなたは﹁猛将﹂スキルを獲得した! 戦場に勇名を馳せる将の 器を得た。 ﹁⋮⋮クリスの言うとおりですね。ヒロト殿の中に、私の力が⋮⋮ そして、満たされた気持ちになります⋮⋮﹂ ﹁二人とも、ありがとう。ごめん、こんなことお願いしちゃって⋮ ⋮﹂ ﹁んふふ⋮⋮いいよ。ヒロト君、もっとすごいことしてもいいのに、 優しく触るだけなんだもん⋮⋮お姉さん、ますます気に入っちゃっ た﹂ クリスさんが言うと、ジェシカさんも同じ意見みたいで、口元に 手を当てて上品に微笑む。このお姉さんたち二人とも、どうやら長 い付き合いになりそうだ。 こうして俺は、騎士団長二人を色々な意味で味方に加え、彼女た ちの上に立つことを認められた。 母さんに会ったときに、クリスさんとの関係をどう説明すればい いのかますます分からなくなっていくが︱︱いよいよ、ミゼールに 戻る時がやってきた。更衣室で上昇したスキルを確認しながら、俺 は故郷のことに思いを馳せていた。 1536 第四十六話 故郷へ/夕焼けの湖 御前試合を終えたあと、修練場を出る。空は雲一つない晴天で、 屋内から出てきたからか目が眩むように感じた。 ﹁あっ、マール! マールぅー!﹂ マールギットさんとアレッタさんがちょうど様子を見に来ていて、 彼女の姿を見たクリスさんが、はしゃいだ声を出して走っていく。 ﹁あ、クリスちゃん! 聞いたよー、ヒロトちゃんと試合してたっ て。どうだった?﹂ ﹁もー、強かった! フィル姉さん直伝の技とか見せつけられちゃ った! 一撃必殺で大変見苦しいところを見せちゃうとこだったよ ー﹂ ﹁だ、大丈夫だった? ヒロトちゃんはねえ、雷神様直伝の技を使 うから、私もどうやって戦えばいいのかなあ、って思ってるところ なんだよねー﹂ ﹁マールと私とジェシカさんが一緒になっても勝てないよね、あの 子には。そのくせ可愛いとかもう、もうっ﹂ ﹁えっ⋮⋮か、可愛い? クリスちゃん、私の知らないヒロトちゃ んの可愛いところを見たの? いつどこで?﹂ ﹁その話は今は置いといて⋮⋮ねえマール、おっぱい大きくなった ? フィル姉さん抜いた?﹂ ﹁あ、あとちょっとで勝てそうな気もしなくもないけど∼⋮⋮あっ、 ちょ、ちょっと待って、ヒロトちゃんも見てるから、こんなところ で⋮⋮﹂ 1537 ︵な、なんて大胆な⋮⋮鎧の中に手を入れるなんて、そんなことが 可能なのか︶ マールさんのブレストプレートの下に手を滑り込ませて、クリス さんが胸の大きさを測っている。恥じらうマールさんの姿が、こう 言ってはなんだけどとても新鮮に感じる。 ﹁も、もう⋮⋮ヒロトちゃん、見てないふりして見てるでしょ?﹂ ﹁そ、そんなことは⋮⋮なきにしもあらずというかだな⋮⋮ご、ご めんなさい﹂ ﹁いいんですよ、マールさんはいつも大胆なのに、ときどき恥ずか しがってみせてるだけなんですから﹂ ﹁アレッタちゃんが黒いオーラを⋮⋮クリスちゃんだめ、この話題 を続けたら世界が崩壊しちゃう!﹂ ﹁あ、そっか⋮⋮ごめんアレッタさん、私、無神経だったね﹂ ﹁本気で気を使われても困るんですが⋮⋮そ、それに、今からでも 成長しないわけでは⋮⋮﹂ ちら、とアレッタさんに見られる俺。彼女の成長は俺にかかって いるということか。物理的に大きくする方法は、民間伝承として聞 き及んでいるが︱︱って、揉んだら大きくなるとは限らないよな。 ﹁え、えーと⋮⋮クリスさん、そろそろマールさんを放してあげて ください﹂ ﹁マールと会ったら、これをやらないと始まらないんだよねえ。ヒ ロト君も測ってみる? あ、ヒロト君のことだから、日常的に測っ てあげてるよね∼。マメな性格って感じするもんねえ。んふふ﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、日常的には⋮⋮というか、測ったこと自体がな いですよ﹂ 1538 俺は至極まじめに答えたが、クリスさんは﹃本当に?﹄という顔 でマールさんを見る。マールさんの顔が、普段見ないくらいにかぁ ぁっと赤く染まった。 ﹁ま、まだ、ヒロトちゃんとはそういう⋮⋮背が伸びたりしたのは 最近だし、いろいろ約束したのも、ついさっきっていうか⋮⋮﹂ ﹁約束⋮⋮? そっかー、ふーん、ほーお。ヒロト君、やることは しっかりやってるんだね﹂ ﹁ま、まあ⋮⋮って、その言い方は誤解を招きますよ。やるとかや らないとか﹂ ﹁ふぁぁ⋮⋮ヒロトちゃんったら、そんな言い方したらクリスちゃ んが乙女の妄想力を全開にしちゃって、大変なことになっちゃうで しょ? いけません、めっ﹂ ﹁私ももういい年だから、そこまで乙女ってわけでもないけどねえ。 ヒロト君はどう思った?﹂ ︵とても乙女だったな⋮⋮いや、血の繋がった叔母さんも、紛れも 無く女性だというか⋮⋮いいのかそれで︶ いいのかも何もやることをやってしまっているので、どう答えて いいものか。 しかしクリスさんは秘密にすると言ったとおり、思わせぶりにし つつも、それ以上は踏み込まなかった。 ﹁アレッタちゃん、マールと一緒だと大変でしょ? 寝相悪いし﹂ ﹁い、いえ⋮⋮一緒に寝ているわけではありませんから。そうでし たね、お二人は騎士学校時代、同じ寮の部屋で暮らされていたんで したね﹂ ﹁二段ベッドだから、寝相とか関係ないのにー。私が勝手に落ちた りはしてたけどね。クリスちゃん、あの時は﹃敵襲だー!﹄て慌て 1539 てたよね﹂ ﹁まあ若気の至りっていうかね。マールも落ちたわりにそのまま寝 てるから、その方が恐ろしかったよね﹂ マールさんとクリスさんにそんな関係があったとは⋮⋮二人は騎 士学校の寮で、同室だったのか。寮で相部屋とか、何か青春という 感じがするな。 ﹁あ⋮⋮雷神さま! あの、私たちこれからどうすればいいんでし ょう?﹂ 観覧席にいた人たちに挨拶してから、フィリアネスさんが修練場 から遅れて出てきた。彼女は金色の髪をかきあげつつ、こちらに颯 爽と歩いてくる。 ﹁陛下からは、ミゼールに向かう許可を得た。軍師のメアリー殿も、 作戦顧問として同行することになった⋮⋮彼女は首都に残るべきか 考えていたようだが、ヒロトの戦いぶりを見て、思うところがあっ たようだ。首都周りの守備について指示を出したのち、共にミゼー ルに向かう﹂ ﹃ストラテジスト﹄というジョブは、軍師のことだったようだ。 俺の戦いぶりを見て⋮⋮か。もし俺が弱かったら、ミゼールに同行 することはなかったんだろうか。その辺りの判断理由は、後で聞い てみたい。 フィリアネスさんと一緒にやってきたジェシカさんは、少し残念 そうな顔をしていた。 ﹁ミゼールには、先発隊としてクリスと赤騎士団の選抜部隊が同行 1540 します。私は後からミゼールに向かわせていただきます。あまり急 に首都の守備を減らすのは、得策ではありませんから﹂ ﹁そうなのか⋮⋮それじゃジェシカさん、また後で会おう。俺たち はミゼールで待ってるから﹂ ﹁っ⋮⋮は、はい。かしこまりました、ヒロト様⋮⋮っ﹂ 黒い髪をかきあげ、耳に触れながら、ジェシカさんは端正な顔を 赤らめている。その姿を見てフィリアネスさんは腕を組み、ふう、 と息をついた。 ﹁﹃ホーリーライト﹄を使ったあと、何があったのか⋮⋮陛下や同 席した方々も心配していたというのに。更衣室から出てくるまでに、 これほど二人の態度が変わる出来事があったというのか?﹂ ﹁んぁっ⋮⋮ふぃ、フィル姉、それには海より深いわけがあってね ? 私は実は、この少年と、少なからず血が繋がっていて、急に見 えるかもしれないけど、仲良くなる下地ができていたというか何と いうかっ﹂ ﹁む⋮⋮そ、そうか。ハウルヴィッツ⋮⋮クリスティーナの家名は、 レミリア殿の旧姓と同じだったな。私も昔引っかかってはいたのだ が、クリスに尋ねる機会がないままここまで来てしまった。私とし たことが迂闊だったな﹂ フィリアネスさんが俺と騎士団長二人がしていたことではなく、 クリスさんの誘導に乗ってくれた。叔母さんと甥が初めて出会った ら、それは積もる話があったりするものだ。そんな話はまだ全くし ていないが。 ﹁ふむ⋮⋮そういうことか。しかし、ジェシカ殿がこれほど早く、 男性に対して警戒を解かれるとは。やはり、ヒロトの武人としての 力を認められたからですか?﹂ 1541 ﹁は、はい⋮⋮フィリアネス殿。ヒロト殿の力量には、まことに感 服いたしました。未だにこの胸に、ヒロト様の技巧を受けたときの うずきが残っております﹂ ﹁む⋮⋮そ、そうか。私もあれほどまでとは思っていなかった。や はり今のヒロトは、私よりも遥か高みに上っている⋮⋮そう言わざ るをえない。同席した皆も、魔王と戦う者の力量に心服していまし た﹂ ﹁はい、ヒロト様の手にかかれば、あっという間に高みに上らせて いただけるといいますか⋮⋮まだ腰がふわふわとして、夢見心地と いいますか⋮⋮﹂ ﹁え、えーと、その⋮⋮俺の技が意外に凄かったってことで、それ 以上の意味はないよ﹂ ジェシカさんとフィリアネスさんの会話が噛み合わないうちに、 なんとか致命傷を回避しようとする俺。フィリアネスさんは何も言 わずに俺を見やる。腕を組んだままだとちょっと怖い⋮⋮乳袋が腕 に乗っかっているけど、そんなことを気にしている場合ではない。 ﹁⋮⋮腰砕けになるほどの大技だったということか? 二人とも鎧 が変わっているのは、試合で破壊されてしまったからということか。 つまり、ホーリーライトを使って二人を更衣室に連れていったのは ⋮⋮﹂ ︵め、めちゃくちゃ鋭い⋮⋮今のフィリアネスさんは、名探偵並み の推理力だ⋮⋮!︶ 順序立てて考えれば分かることなのだが、もう真相にたどり着き そうで気が気ではない。﹃俺が勝ったら何でも言うこと聞くって言 ったよね?﹄﹃くっ、殺せ!﹄ みたいなやり取りがあったと思わ れたら⋮⋮! 1542 背中に冷たい汗が流れ落ちる。しかしフィリアネスさんは組んだ 腕をほどくと、ジェシカさんの肩に手を置き、親しげに微笑みかけ た。 ﹁正直を言うと、あなたとクリスが羨ましい。私の方が先に、あの ヒロトの技を受けてみたかった。彼が大きく力量を伸ばしてからは、 手合わせをしていなかったのでな⋮⋮﹂ ﹁はっ⋮⋮も、申し訳ありません、我らの勝手で、大切なヒロト殿 に勝負など挑んでしまい⋮⋮自分の力量の未熟さを思い知らされま した。ミゼールに発つまで、寝食を惜しんで鍛錬いたします!﹂ ジェシカさんはフィリアネスさんより年上だけど、すごく畏まっ ている。フィリアネスさんは若い頃から、騎士としてジェシカさん の常に先を歩いていたからだろう。 なんて感心しながら見ていると、後ろから首に腕をかけられる。 ﹁ヒロト君、あぶなかったね。これからも秘密にしておこうね﹂ ﹁っ⋮⋮は、はい⋮⋮と言っていいのか⋮⋮﹂ ﹁んふふ⋮⋮まあねえ、ヒロト君中途半端に真面目そうだもんねえ。 でも遊びで終わったりしたら、それこそ私の立つ瀬がないっていう かねえ⋮⋮放っておいたら病んじゃうかもよ? 欲求不満で﹂ ﹁よっ⋮⋮く、クリスさん⋮⋮っ﹂ 分かってはいたけどはっきり言われると、責任を感じてしまう。 しかしレミリア母さんにそっくりな彼女に、これ以上何をしてあげ られるというのか。俺にはスキルを上げることしかできない。 ︵とりあえず、母さんと再会した時には問題が山積みだからな⋮⋮ 1543 叔母さんと会って、試合をして、意気投合しました、でとどめてお くべきだ︶ ﹁⋮⋮クリス、それは少し距離感を誤っているのではないか? ヒ ロトが嫌がっているだろう﹂ ﹁そんなこと言ってー、姉さんったら。あ、ほんとの意味で姉さん だよね、今のところは。んふふふ﹂ ﹁ん⋮⋮? 何を言っているのだ。クリスティーナの姉君は、ミゼ ールにいるレミリア殿だろう﹂ 女の勘が働いたり働かなかったりすると、俺としてはとてもハラ ハラする。良かった⋮⋮これ以上話がこじれたら、フィリアネスさ んが拗ねてしまう。というか、怒られてしまう。 ﹁とにかく、これから忙しくなるのだからな。ヒロトは大切な身体 なのだから、気遣ってもらいたいものだ﹂ ﹁ほんとにね。ヒロト君、私は赤騎士団のみんなに話をしてから行 くから、先に出発してて。それじゃーねー﹂ ﹁クリスちゃん、前見て走って! あとヒロトちゃんとの距離感を もう少し広げて!﹂ ﹁ん、善処しとくー﹂ 絶対善処する気などなさそうなので、俺が適切な距離感を保たな ければ。 しかしクリスさんの胸の感触が今も手に残って⋮⋮い、いや、気 のせいだ。そんなものは幻想だ。 ﹁ヒロトちゃん、少し放っておいたらこうなんですから⋮⋮ほどほ どにしておいてくださいね。私もマールさんも、順番待ちをしてる んですから﹂ 1544 ﹁⋮⋮善処します﹂ アレッタさんが疲れた顔をしているので、俺は非常に申し訳ない 気持ちになった。彼女にも後で心のケアが必要だ。というか全体的 に必要な気もする。順番待ち、そんな言葉を女の人に言わせてはい けない。 ◆◇◆ 昨夜フィリアネスさんの別邸で過ごし、そして御前試合をしてい た時も、俺はずっと気にしていることがあった。ユィシアに呼びか けてみても、返事が返ってこない。しかし神経を研ぎ澄ますと、気 配は感じる。俺に念話が届く範囲にいるが、返事ができない状態の ようだ。 俺はユィシアのことを案じつつ、実家へ挨拶に行ったウェンディ を迎えに行ったあと、ルシエとイアンナさん、ジェシカさんとクリ スさんたちに首都の門で見送ってもらい、ミゼールへの帰途につい た。 俺は公王陛下から、新しい馬を賜った。なんでもコーネリアス公 の治める北方領は馬の産地であり、首都に来るときに百匹の馬を陛 下に納めに来たそうだった。そのうちの一頭、フィリアネスさんの 愛馬の直系にあたる、若い馬を選んでもらった。名前はメアといい、 つぶらな瞳をした雌馬だが、魔物を見かけても動じない落ち着きの ある馬だということだ。 ︵馬まで牡より牝の方が強いってことは⋮⋮まあ、偶然か︶ 1545 白いたてがみに銀色の毛が混じっている、すごくきれいな馬だ。 俺が鐙を装着してまたがっても、すぐに言うことを聞いてくれた。 どうやら竜騎兵スキルを取ったので、騎乗技術にも多少なりと好影 響があるらしい。 アッシュの商隊から馬車を借りて、馬に乗ったことのないパーテ ィメンバーは馬車に乗っている。フィリアネスさん、マールさん、 アレッタさん、意外なことにスーさんも騎乗経験があって、彼女も 馬に跨っていた。メイド服姿で乗っていると、何か不思議な風格が ある。 そんな俺の視線に気づいて、スーさんは手綱を引き、俺と轡を並 べて馬を歩かせ、話しかけてきた。 ﹁坊っちゃん、乗馬の訓練をされたのですか? 馬が手足のように 言うことを聞いておりますね﹂ ﹁ああ、いや。専門の人にはかなわないけど、乗ることはできるよ。 この馬がいい馬なんだ﹂ ﹁本当に良い馬ですね。先ほどの武器は、騎乗したままでもお使い になれると思うのですが⋮⋮﹂ ﹁そのままでは使えないな、重いから。もし騎馬戦なんてことにな ったら、もっと軽い斧槍を使うよ﹂ 巨人のバルディッシュの利点でもあり、弱点でもあるのは重いこ とだ。馬の耐荷重がいかに大きいとはいえ、あまり負担はかけたく ない。 そう考えると、竜騎兵スキルを取ったのだから、銃系の武器を手 に入れるのも良いかもしれないと思う。色々手を出しすぎてもいけ ないが、新スキルを取ると夢が広がるものだ。敵陣に騎乗して突っ 1546 込み、﹃猛将﹄スキルで敵兵を威圧し、そのまま無双するなんてこ とも考えられる。 ︵人間同士の大規模戦闘か⋮⋮ギルドバトルを思い出すな︶ ﹁坊っちゃん⋮⋮首都に滞在しているときは、機会がありませんで したが。やはり、私は⋮⋮﹂ ﹁俺も手合わせしたいと思ってたよ。ミゼールに居るうちに、機会 を作ろうか﹂ ﹁っ⋮⋮は、はい。騎士団長二人を破られた坊っちゃんに相手をし ていただくなど、本来は恐れ多いのですが⋮⋮﹂ ﹁俺と戦うために、腕を磨いててくれたんだもんな。それに、スー さんは騎士団長二人とくらべて、力が及ばないとは言い切れない。 そんな気がしてるよ﹂ お世辞のつもりはない。六年前、その当時の俺が目を見張るほど の強さを持っていた彼女が、あれからたゆまない修練を積み、今に 至ったのなら︱︱そのステータスは、おそらく騎士団長二人どころ か、ミコトさんにも手が届くだろう。 ﹁⋮⋮本当を言えば、自信がないと言えば嘘になります。私は個人 戦闘に特化しておりますから﹂ ﹁そんな気はしてたよ。俺の仲間のミコトさんも、同じ方向性の高 い実力を持ってるんだけど⋮⋮会ってみて、どうだった?﹂ ﹁肌がざわめくような、とはこのことです。とても淑やかな女性な のに、首筋に刃を突きつけられるような気配を感じ取りました。敵 ビジョン 意を向けられたわけではありませんが、強者を前にしたときに見え てしまうのです。そのような幻影が﹂ ﹁そうか。彼女は戦うこと、強さを追求することに、突き抜けたこ だわりを持ってる。俺とスーさんが手合わせするって言ったら、彼 1547 女もそうしたがるかもしれないな﹂ ミコトさんは馬に乗れるそうだが、今は馬車に乗り込んでいる。 まだ皆と親睦を深めきれていないので、大勢で同乗して話がしたい ということだった。ミゼールに着くころには、打ち解けられている といいのだが。 ﹁⋮⋮坊っちゃんのパーティに入れていただくには、関門を突破し なければならないということですね﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いや、そういうわけじゃなくて⋮⋮スーさん、そう いえばギルドの方は⋮⋮﹂ ﹁退職しました。十年勤めたあとは、あるクエストを受けることで いつでも退職が可能なのです。ですので⋮⋮できるならば、これか らは坊っちゃん個人のメイドとしてお仕えさせていただければと⋮ ⋮﹂ ﹁ま、待って⋮⋮いや嫌なわけじゃなくて、俺、スーさんと別れた ときすごく小さかったんだけど、いいの? いくら将来性があるか もしれなくても、わりとろくでなしに成長してる可能性だって⋮⋮﹂ ﹁そのような可能性は、初めから存在しません。思い込みが激しい と言われても、私は自分の目を信じます。そして現実に、坊っちゃ んは英雄となって私の前に現れた⋮⋮どれほど感激したか、お分か りになりますか?﹂ ︱︱それは。 そこまで期待し続けていたのなら、それこそ、嬉しいなんて言葉 じゃ表せないだろう。今のスーさんの顔を見れば、それがわかる。 いつも冷静な彼女の目がうるんで、頬がかすかに赤くなっている。 その表情が意味するものに気づかないほど、俺は鈍くはない。 1548 ﹁⋮⋮これはますます、スーさんに負けるわけにはいかなくなった な。俺、勝ったら欲しいものがあるんだ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮坊っちゃんが勝った時には、なんなりとお申し付けく ださい。どのようなご要望にもお答えいたします。入手が困難な秘 宝でも、行方の知れない賢人でも、見つけ出してご覧にいれます﹂ スーさんは俺が欲しいものが何か、全く想像がつかないようだっ た。そういう人に対して、いざ勝負を終えたとき、俺が何を求める かを考えたら、申し訳ないという気持ちが先に立つ。 子供の頃に見て、ずっと忘れることのなかったあのスキル︱︱﹃ 執行者﹄。 俺はスーさんにその極意を戦いの中で見せられるだろう。それを 受けきり、勝たなければ、手に入れられない。 ﹁坊っちゃん⋮⋮どうなされたのですか? も、申し訳ありません、 つい気分が高まってしまって、私、何か余計なことを⋮⋮﹂ ﹁ははは⋮⋮いや、俺が黙ってても、特に怒ってたりすることない よ。そんな仏頂面に見えるかな﹂ ﹁ぶっちょう⋮⋮?﹂ ﹁あ⋮⋮え、えーと。機嫌が悪い感じに見えるなら、もっと愛想よ くしないとな。こんな感じだと、自然に笑えてるかな?﹂ 俺はガラにも無いと思いつつ、スーさんに笑いかけた。出来るだ け自然にと心がけるが、正直自信はない。 ﹁⋮⋮坊っちゃんは昔から可愛らしかったですよ。時折私をじっと 見て、何か考えていらしたお顔が、今も忘れられません﹂ ︵それはおそらく、スキルのことを考えてた時の顔だな⋮⋮くっ、 1549 カルマ また業が⋮⋮︶ あの頃は本当に手当たり次第で、珍しいスキルを見るたびになん とか授乳してほしいとそればかり考えていた。手に入らないスキル も多かったが、それで良かったと思っている。コンプリート欲を満 たそうとし始めたら、それこそ俺は授乳のために生きているような 人生を送らねばならない。 ﹁あっ⋮⋮そ、そうです、そのお顔です。やはり坊っちゃんは大き くなっても、面影が残っておられますね﹂ ﹁い、いやあの⋮⋮ご、ごめん。今後は気をつけるよ﹂ ﹁⋮⋮? いえ、気をつけられるようなことはないのですが⋮⋮い かがなされましたか?﹂ どうやら採乳について考えている時の俺の顔は、さほど軽蔑され るような顔ではないようだ⋮⋮良かった。 ◆◇◆ 首都からミゼールに辿り着くまでは三日かかる。俺たちは夜にな るとキャンプを張って休みつつ進んだ。 冒険者スキルの﹃野営﹄がこんなときに役に立つ。俺はみんなに いつの間に覚えたのかと感心されつつ、野営の準備を仕切って喜ば れた。 ︱︱そして、二日野営して、三日目の朝に出発し、昼ごろにミゼ ールの町の門が見えてきた。 1550 ﹁⋮⋮久しぶり、という顔をしているな。ヒロト﹂ ﹁うん、本当に⋮⋮何年も戻ってなかったような気がするよ﹂ 実際は十日も経っていない。けれど何もかもが変化しすぎて、目 まぐるしくて︱︱それ以上に充実していた。 門番の人と話して町に入る手続きをしたあと、まずアッシュをパ ドゥール商会に送っていった。エレナさんが出迎えて、アッシュと ステラを抱きしめる。 ﹁ああ、良かった⋮⋮二人とも、無事に帰ってきて。大丈夫だった ?﹂ ﹁うん、ヒロトと皆さんがいてくれたから、何も危ないことはなか ったよ。商隊のみんなも、そうだよね?﹂ アッシュに言われて、商隊の面々は一も二もなく頷く。こういう ところは、彼の人柄の成せる部分もあるだろう。まだ少年ながら、 その清廉な人柄は皆に慕われている。山賊が公女の馬車を襲ってい るところに出くわしたというのは、エレナさんを心配させないため に伏せておくということで、商隊の皆の意見が一致していた。 ﹁お母さん、泣かないで。私もお兄ちゃんも、ヒロトのおかげで、 お祭りを見てこられたわ﹂ ﹁良かったねえ、二人とも。それでヒロト坊は⋮⋮?﹂ ついにこの瞬間が来てしまった。俺は長い髪をどうにかしたいと 思いつつ、エレナさんの前に出る。 こうして見ると、エレナさんまで俺と身長が逆転してしまった。 気恥ずかしさを感じつつ、俺は驚かれることを覚悟して、改めて名 乗る。 1551 ﹁え、エレナさん⋮⋮俺、ヒロトです。こんなになっちゃって、わ からないかもしれないけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮え、ええっ⋮⋮? 一体何がどうしたら、そんなに⋮⋮ひ、 ヒロト坊、何か魔術でもかけられたのかい?﹂ ︵そうか、その説明の仕方があったか⋮⋮!︶ 正確には魔術ではないが、リリムにエナジードレインを食らった というのは、魔術的な攻撃をされたと言えなくもない。生命力を吸 われ、超回復したら年を取ったというより、心配をかけずに済むの ではないだろうか。 ﹁⋮⋮事情は、概ねエレナさんが想像した通りです。俺がこの姿に なったことは、改めてみんなに説明します﹂ ﹁そうかい⋮⋮大変だったね。おいで、ヒロト﹂ ﹁え⋮⋮エレナさん⋮⋮はぶっ⋮⋮!﹂ エレナさんはあれよという間に俺を抱きしめる。大きく開いた胸 元から、褐色の豊かな谷間が覗いている︱︱そこに顔を押し付けら れて、鼻が谷間に挟まって⋮⋮な、なんていう大胆な⋮⋮。 ﹁うちの子たちを守ってくれてありがとう。もう、坊やなんて言え なくなっちゃったわね。ヒロト、って呼んだ方がいいのかしらね﹂ ﹁⋮⋮エレナさん﹂ ﹁ふふっ⋮⋮何だかねえ。あんた、リカルドさんやレミリアに似る のかと思ったら、思った以上に⋮⋮﹂ 胸に埋まった顔を上げると、エレナさんと目が合う。彼女はじっ と俺を見つめたあと、何も言わずに離してくれた。 1552 ﹁またお礼をしに行くわね。まだ、家には戻ってないんでしょ? こってり怒られといで﹂ ﹁ははは⋮⋮ですよね﹂ ﹁子供がそんなになったら、親は当然心配するからね。まあ、愛情 だと思って受け取っときな。それじゃあね、ヒロト坊﹂ やっぱり﹃坊﹄は取れなかったが、そのうち無くなるのかもしれ ないと思う。しかし今のエレナさんの目を見ると、何度も会ってい ると、何かが起きてしまいそうな⋮⋮。 ﹁ヒロト⋮⋮これから大変になるかもしれないけど、また、勉強を 教えてあげてもいい?﹂ ﹁ああ、もちろんだよ。ステラ姉もゆっくり休んで﹂ ﹁うん⋮⋮ありがとう。またね、ヒロト﹂ ﹁本当にありがとう、ヒロト。あ、ディーンも帰るのかい?﹂ ﹁俺んちすぐそこだから! ヒロトー、またなー! 父ちゃんにヒ ロトがすごかったって言っとくからな!﹂ ディーンは止める間もなく走っていってしまった。親子で仲がい いから、お父さんに会いたくてしょうがなくなったのだろう。 食料品店のメルオーネさん、工房のバルデス爺にも会いたいけど、 まずは皆を家に送っていかないといけない。考えていると、フィリ アネスさんが声をかけてきた。 ﹁ヒロト、私たちは宿の手配をしておこうと思う。陛下からミゼー ル領主への書状を預かっているから、それを見せれば滞在する場所 は確保できるだろう。今日は町で宿を取り、明日領主の館を訪問し て会談の時間を持とうと思うが、どうだろうか﹂ ﹁うん、俺もできるだけ早い方がいいと思う。今日は着いたばかり 1553 だから、明日にしよう﹂ 領主か⋮⋮見たことがないが、どんな人なんだろう。 会談を行う際は、交渉術が交渉術として、大いに役に立つかもし れない。いや、俺にミゼールをくれと今の段階で言うつもりはない けれど。 ︵何事も過程を踏むのは大事だな。今の領主と話すことは、俺の今 後に大きく関わりそうだ︶ ◆◇◆ フィリアネスさんたちは気を遣って宿を取りに行ってしまったが、 考えてみればうちには幾らでも部屋があるので、全員が宿泊するこ とも可能だ。しかし入浴などを考えると、分散した方が気が楽だっ たりするだろうか。 ゆくゆくはみんなで一つの家に住めないだろうか、と考える。そ うなると、先立つものが必要なわけだが︱︱お金でどうこうするの ではなく、領主との交渉で、拠点を提供してもらうことはできるだ ろう。赤騎士団とメアリーさんが遅れて来るので、彼女たちの駐留 する場所も必要だ。 町外れの森に少し入ったところに、ネリスおばばの庵がある。そ こに向かう途中でモニカさんは自分の家に帰っていった。リオナは まだついてくると言うので、俺とリオナ、ミルテの三人となった。 久しぶりの森に入ると、ミルテは深呼吸をして、懐かしい空気を 1554 吸い込んでいた。俺もそれに倣うと、帰ってきたという思いが強く なる。 リオナも俺も、自分の家の近くを通ってここに来ている。ミルテ はそんな俺達の心情を悟ってか、少し遠慮がちにしていた。 ﹁⋮⋮送ってもらっても、いいの?﹂ ﹁ああ、もちろん。おばば様のところまで一緒に行こう﹂ ﹁おばばさま、ヒロちゃんのこと見たらびっくりしないかな⋮⋮? だいじょうぶかな? おばばさまも、おばあちゃんだったり、お 姉さんだったりするもんね﹂ ︵まだまだおばば様は若いからな⋮⋮27歳に若返って、今は31 歳まで戻ってるはずだけど︶ ミゼール最強の精霊魔術師は、若くなって町で男性に声をかけら れることが増えたそうだが、実年齢を口にするだけで男避けができ ると笑っていた。 ︱︱そして。庵が近づいてくると、とんがり帽子をかぶり、栗色 の髪を後ろで結んだ女性︱︱いや、少女が、庵の近くを箒で掃いて いる姿が見えた。 ﹁あ、あれ⋮⋮? あれは、おばば様か?﹂ ﹁⋮⋮おばば様が、また若くなってる﹂ ﹁ふぁぁ⋮⋮おばばさまがミルテちゃんのおばあちゃんじゃなくて、 お姉ちゃんになっちゃった⋮⋮!﹂ 若返りの薬の味を知ったミゼールの賢者は、その甘露が癖になっ てしまった︱︱なんていう筋書きを想像する。そして、どうやらそ の通りのようだった。 1555 ﹁む⋮⋮おお、ミルテ! よくぞ帰った、帰りを待ちわびておった ぞ⋮⋮おお、おお⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮おばば様、またおくすり飲んだの?﹂ ﹁ひ、人聞きの悪い言い方をせんどくれ。と言いたいところじゃが ⋮⋮うむ、どうにも誘惑に勝つことができなんだ。もう飲むつもり はないがのう、これが限界のようじゃからな﹂ ︵お、おばば様⋮⋮限界っていっても、まさか16歳まで若くなる とは⋮⋮︶ 今のおばば様は、明晰そうな少女魔法使い︱︱もとい、少女魔術 師にしか見えない。常に不敵な微笑みを浮かべていて、ローブから のぞく肌は水を弾きそうなほどに若々しい。若返ったのだから当然 だが。 ﹁お、おばば様⋮⋮ただいま帰りました。俺、ヒロトです﹂ ﹁⋮⋮むう⋮⋮わしが若返ったことを先読みして、お主は年を取っ ておったか⋮⋮ふふ、丁度良い年頃じゃな﹂ 何がちょうど良いのか聞くまでもないあたり、俺も何と言ってい いのか⋮⋮フラグの関係ない訪問先はないのか、俺には。 ﹁おばばさま、ヒロちゃんってわかるの? こんなにおっきくなっ たのに﹂ ﹁な、何を言っておるのじゃ、おっきくなったなどと。ヒロトの前 で言ってはならぬぞ﹂ ﹁お、おばば様⋮⋮って呼んでいいのかわからないけど。子供の前 で言うことじゃないですよ﹂ ﹁⋮⋮むぅー﹂ 1556 ﹁⋮⋮ヒロトも子供。おっきくなったけど、おっきくなっただけ﹂ リオナとミルテが訴えてくる。二人の前では八歳のままでいろと、 そういうことか⋮⋮難度が高いな。 ﹁二人にはまだ早い話じゃからのう。じきに教えてもらえるから、 待っておいで﹂ ﹁はーい⋮⋮ヒロちゃん、何をおしえてくれるの? 今おしえて?﹂ ﹁私もおしえてほしい⋮⋮おしえてくれなかったら⋮⋮﹂ ﹁うわっ、じゅ、獣人化はちょっと⋮⋮うぁぁ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽ミルテ︾は呪文を詠唱している⋮⋮。 ・︽ミルテ︾の獣魔術が発動! ︽ミルテ︾は一時的に山猫の力を 宿した! ﹁や、やめっ、耳はちょっと⋮⋮お、教える! 絶対教えるからっ !﹂ ﹁ぺろぺろ⋮⋮ちゅっ。ヒロトの耳、美味しい⋮⋮ぺろっ、ぺろっ﹂ ﹁⋮⋮リオナもなめたい。おばばさま、なめてもいい?﹂ ﹁ああ、存分になめておあげ。わしは後でいいからのう。ヒロト、 逃げたら承知せぬぞ﹂ ﹁ちょっ、そこは止める役になってもらわないと⋮⋮っ、あぁ∼⋮ ⋮﹂ なぜ俺は二人に耳を舐められているのだろう⋮⋮耳って美味しそ うに見えるんだろうか。 1557 ﹁れろれろ⋮⋮はむっ。ヒロちゃんのお耳、とってもおいひい⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮リオナのほうが美味しそうにしてる﹂ ﹁らっておいひいんらもん⋮⋮あ、ヒロちゃん逃げちゃだめ⋮⋮じ っとしてて﹂ ﹁た、助けてくれ⋮⋮おばば様、助けてください。この状況はいか んとも⋮⋮っ﹂ おばば様はにやにやと微笑んで俺を見ている。こ、これは⋮⋮何 か交換条件を出される予感が⋮⋮! ﹁⋮⋮ヒロトが、わしのことを﹃おばば様﹄ではなく、今後を通し て﹃ネリスさん﹄と呼んでくれたら助けてやろう。どうじゃ?﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ それくらいなら、と言いかけたが、呼び方は重要な意味を持って いるのだとすぐ気づいた。 俺が初めて彼女をネリスさんと呼んだとき、何をしたか︱︱ミル テに見られつつ、スキルの授受を行ってしまった。薄暗い庵の中で のことを、今でも鮮明に覚えている。間接照明の中で浮かび上がっ た、当時27歳まで若返ったネリスさんの姿態。ローブの上からで はわからない、母性63という数値を表すような、大きくて豊かな 恵みの象徴。重力への抵抗をやめるにはまだ数年ほどあると感じさ せる張り。どれだけ鮮明に覚えているのか。 だがそれを思い出して、俺は普通踏みとどまるべきなのだろうが ︱︱むしろ前に進んでしまう。 ﹁ね、ネリスさん⋮⋮俺ももう、くすぐったくて⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮少し思い切りが足りぬが、良いじゃろう。ミルテ、リ 1558 オナ、おいたはそこまでにしておきなさい﹂ ﹁んっ⋮⋮はーい。ヒロちゃんありがとう、おいしかったよ﹂ リオナの顔がつやつやしている⋮⋮夢魔だけに、耳を舐めて俺の 精気とかを吸ってないだろうか。そんなことはないと思いたい。 ﹁⋮⋮私も、おばば様じゃなくて、ちがう方がいい?﹂ ﹁ヒロトだけは特別なのじゃよ。なにせ、わしの一番弟子じゃから な。ミルテもリオナも特別じゃが、それはまた別の﹃特別﹄なのじ ゃ。わかるかのう﹂ ﹁うん、わかった! おばばさま、リオナちょっとかしこくなった ?﹂ ﹁⋮⋮私も、かしこくなった気がする﹂ ﹁うむうむ、そうじゃそうじゃ。いろんなことがあって、人は大き くなるものじゃからな﹂ ︵うわー、適当だー︶ でも、さすがはおばば様︱︱いや、ネリスさんだ。二人に寂しい 思いをさせずに場をおさめてしまった。 ﹁ふふ⋮⋮わしより背が高くなってしまったのう。リカルドにも、 もう少しで追いつくのではないか?﹂ ﹁まだ父さんの方が、かなり大きいんじゃないかな?﹂ ﹁会ってみればわかることじゃな。実を言うと、後でお主の家に呼 ばれておる。今朝レミリアが来て、何か感じるものがあったのか、 ﹃ヒロトが戻ってくる﹄と言っておった。その通りになったのう﹂ ︵母さん⋮⋮俺が帰ってきたときのために、みんなを集めて⋮⋮︶ 1559 普通ならありえないことだ。でも、母さんは俺が帰ってくること を感じ取った。 ︱︱何か理由があるんだろうかということよりも、俺は純粋に、 そのことを嬉しいと思った。 ◆◇◆ ミルテと一旦別れ、最後に残ったリオナを、サラサさんの家まで 連れていく。もう、俺の家が見えている︱︱だけど、まだ帰れない。 途中で母さんや知り合いと会わないかと思ったが、誰にも会わず に、サラサさんの家まで来た。 ﹁⋮⋮あれ? お母さん、いないみたい。お買い物に行ってるのか な?﹂ ﹁ん⋮⋮そうか。ハインツさんもいないのか?﹂ ﹁お父さん、いつもこの時間はお仕事してるから、今日もそうみた い。ちょっと見てくるねっ﹂ リオナは言って走っていく。扉の鍵は持たされていたようで、ド アを開けて中に入っていく︱︱そして。 しばらく待っていると、リオナが紙を持って外に出てきた。羊皮 紙ではなく、植物性の繊維を使って作った、荒いつくりの紙だ。ち ょっとしたメモ書きには、こちらの紙が使われることが多い。 ﹁少し、教会に行ってきますって。私も行ってこようかな? セー ラさんにあいさつしなきゃ﹂ ﹁そうか。じゃあ、俺も⋮⋮﹂ 1560 ﹁ううん、ひとりでだいじょうぶ。ヒロちゃん、ありがとう! そ れじゃ、またね!﹂ リオナは手を振って走っていく。俺は過保護になってたんだと気 がつく︱︱少し離れるだけで、心配でしょうがない。魔王の転生体 で戦闘力が高いとか、そんなことを考えてたのに。 ︵⋮⋮何か、胸騒ぎがする⋮⋮サラサさん、早めに会えるといいん だけど⋮⋮︶ リオナがサラサさんに会うことができれば、夜に俺の家に連れて きてくれるだろう。そう期待して、俺はついに自分の家に足を向け た。 家の扉を前にして、自分でも思った以上の感慨が湧いた。 それだけでなく、同時に緊張し始める。誰か一緒にいてくれたら 良かったが︱︱と思って、そんな情けないことを考えてはだめだと 思い直す。 ﹁⋮⋮っ﹂ 決意してドアをノックしようとする。その時、内側から扉が開き ︱︱出てきたのは、母さんだった。 ただいま、と言わなければならない。なのに俺は言葉がすぐ出て こない。 誰ですか、と言われることが怖かった。そう言われたら、俺はう まく説明できる自信がなかった。 父さんと母さんの前では、俺はまだ子供だった。身体だけ大きく 1561 なっただけで、精神は何も︱︱、 ﹁なんだ、ヒロトじゃない。おかえりなさい、どうしたの、そんな 顔して﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ 母さんは俺の顔を見るなり、ひと目で分かってくれた。 ︵ああ、そうだ⋮⋮俺は、何を心配してたんだろう。エレナさんも、 ネリスさんも気づいてくれた。それなら、母さんがわからないわけ ない︶ そう思いながらも、本当は死ぬほど不安だった。家に帰れなかっ たら、そんな可能性を何度も考えた。 ﹁⋮⋮っ、母さん、俺⋮⋮俺⋮⋮いろいろあって⋮⋮﹂ ﹁きゃっ⋮⋮ど、どうしたの? 母さん、何か変なこと言った? ヒロト、どうして大きくなったのって初めに聞いたほうがよかった ?﹂ ﹁ご、ごめん。こんな大きくなったのに⋮⋮ああ、だめだ。俺は全 然だめだ⋮⋮﹂ 自分でもこんなになるとは思わなかった。母さんが気づいてくれ た瞬間、感情の堰が切れた。 戦いを身を投じたことも、ルシエを助けたいと思ったことも、全 部自分で決めた。だから何も後悔しない、そう決めた。 成長したメリットを確認し、強くなって、大人として認められた ことを喜びながら、不安は消せなかった。 ︱︱なのに、母さんは。問いただすこともなく、ただ俺のことを、 俺だと理解して。 1562 いつものように、家に迎え入れようとしてくれた。それが、嬉し くてならなかった。 ﹁ああ⋮⋮もう、しょうがないわね。お父さんが焼き餅焼くから、 ちょっとだけ⋮⋮おいで、ヒロト﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ 母さんは両腕を広げて、俺を正面から抱きしめてくれた。背中に 回った手が、ぽんぽんと優しく叩いてくれる。 まだ遠い昔でもない、自分が赤ん坊だった頃のことを思い出した。 もう俺は、母さんより大きくなってしまった。なのに母さんの中 では、俺は小さな子供のままだった。 ﹁何があったのかは、あとで教えてくれたらいいわ⋮⋮でもね、一 つ言っておくけど。母さんはヒロトがどんな姿になっても、ヒロト だって分かるから。親って、そういうものなのよ﹂ ﹁⋮⋮ごめん⋮⋮俺、色々無茶して⋮⋮母さんに内緒のことも、い っぱいあって⋮⋮﹂ ﹁それも全部、いいのよ。だってヒロトは小さな頃から、元気に自 分のしたいことをしてたもの。母さんのことを助けてくれて、ソニ アのことも助けてくれた。お父さんだっていつも、ヒロトはうちの 誇りだって言ってるわ。あなたが戻ってきてくれただけで、この家 は明るくなるの。もちろん、いないうちも頑張って明るくしてたけ どね。そうよね、ソニア﹂ ﹁おにいたん、そにあもだっこして!﹂ 母さんが玄関にいるのを見て、ソニアもやってきていた。ドアの 隙間から出てくると、ソニアは俺の膝にしがみついてくる。 ﹁あれ⋮⋮おにいたん、おっきい! どうしておっきくなったの? 1563 ねえどうして?﹂ ﹁ふふっ⋮⋮ソニアも分かるのね、ヒロトのこと。そうよね、妹だ ものね﹂ レミリア母さんが楽しそうに微笑む。俺は彼女の腕から離れて、 目をこすりつつ、ソニアを抱き上げた。 ﹁きゃー! たかーい! おにいたん、もっとぎゅーんってして!﹂ ﹁ははは⋮⋮よし、こんな感じでどうだ。ぎゅーん﹂ ﹁きゃははは! わーい、ぎゅーんぎゅーん!﹂ 八歳の身体では、こんなふうにはできなかった。父さんがソニア を抱き上げ、遊んであげてるのを見ていたが⋮⋮こんなふうだった んだな。 俺はしばらく遊んであげてから、ソニアを下に降ろす。しかしす ぐによじ登ってきて、俺の腕に収まった。片腕で支えられるので、 抱っこしたままにする。 ﹁ヒロト、ありがとう。ヒロトがいないうちは、この子も退屈そう でね⋮⋮私も機織りをしながら遊んであげてたんだけど、お兄ちゃ んと遊びたいっていつも言ってたのよ﹂ ﹁ごめんな、ソニア。お兄ちゃんと、これからはもっと一緒に遊ぼ うな﹂ ﹁んーん、だいじょうぶ。そにあ、いい子にしてるから﹂ ﹁おおっ⋮⋮そ、そうか。ソニアは普段、何をして遊んでるんだ?﹂ ﹁ひみつ! えへへ⋮⋮うそ。おにいたんにも後で教えてあげる!﹂ 天真爛漫だけど、我が妹ながらソニアの笑顔はとても愛らしい。 いつかお嫁に行く日が来るのか⋮⋮父さんと一緒になって悩む日が 1564 来そうだな。 ﹁おにいたん、おにいたん﹂ ﹁ん? どうした、ソニア﹂ ﹁おかえりなさい。ちぅー﹂ ﹁っ⋮⋮そ、ソニア⋮⋮﹂ 抱っこしたままでいたら、ソニアが俺の頬にキスをしてきた。く すぐったいような、照れくさいような、何とも言えない感じだ。 ﹁ふふっ⋮⋮ヒロトったら照れちゃって。ソニア、良かったわね。 お兄ちゃん、とっても嬉しいって﹂ ﹁ほんとー!? おにいたんすきー! だいすきー! ちうー♪﹂ ﹁か、母さん⋮⋮ソニアをたきつけるのは、ほどほどに⋮⋮く、く すぐったい。ソニア、お兄ちゃん嬉しいけど、あんまりしてるとほ っぺたふやけちゃうからな﹂ ﹁お父さんよりお兄ちゃんの方がなつかれてるわね。ねえ、リカル ド﹂ ︱︱父さん。まさかすでに後ろに立っているとは、誰が思うだろ うか。 ﹁そ、ソニア⋮⋮そうなのか? 父さん今日も早く帰ってきたのに、 お兄ちゃんに夢中なのか⋮⋮?﹂ ﹁ソニア、おとーさんすき! おにいたんはもっとすきー♪﹂ ﹃お父さん﹄は言えるのに、﹃お兄たん﹄なのはこれいかに。い や、単にくせになってるんだろうけど。 ﹁ん、んん⋮⋮!? ヒロト、そんなに背が高かったか!? いつ 1565 の間にか、父さんに良く似てきてないか!?﹂ ﹁あら、私の方もちゃんと入ってるわよ。ねえヒロト、目元なんて 私にそっくりよね﹂ ﹁い、いや⋮⋮あの父さん、本当にそれだけでいいの? 普通こん なに大きくなったら、同一人物と疑ったりとかしないかな﹂ 父さんは手を顎に当てつつ、俺の姿を眺める。そして目を細めた り、唸ったりしたあと、ニカッと笑った。 ﹁どこからどう見てもヒロトじゃないか。まあ、その長い髪は若い 頃の父さんみたいでいただけないがな﹂ ﹁あなた、あの頃はやんちゃだったものね。騎士団長さまにも、よ く切れって言われていて﹂ ﹁そ、その頃の話はなかったことにしてくれ。あれは若気の至りだ。 父さんも色々あったんだぞ、ヒロト﹂ ﹁う、うん⋮⋮いや、驚かないでくれたら、すごく嬉しいんだけど ⋮⋮﹂ 父さんの順応力が想像以上に高すぎる。今日も木を切って︱︱い や、今日は魔物を討伐してたようだ。少しだけど、浅いケガをして る。 ミゼールの危険度が最近上がってきてるということか。父さんに ダメージを与える魔物が出るなんて⋮⋮。 ﹁父さん、これ⋮⋮﹂ ﹁おお、傷薬か? いや、ちょうど切らしててな。悪いなヒロト﹂ 父さんは俺がポーションを持ってたりすることにも疑問を持たず、 ぐいっと飲み干してしまった。ライフが完全に回復して、傷が急速 に消えていく。 1566 ﹁ふう⋮⋮それで、どうして成長したのかは、聞かせてもらえるの か?﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。後で話すよ。父さんさえよければ﹂ ﹁よければじゃない、良いに決まってる。息子の武勇伝を聞くのも、 父親の楽しみだからな。なあソニア﹂ ﹁そにあもききたい! おにいたん、そにあもいれて!﹂ ﹁ソニアはだめよ、これからお母さんとお風呂に入るんだから﹂ ﹁おにーたんも一緒にはいらないの?﹂ ﹁むっ⋮⋮ということは、お父さんも一緒に入っていいということ か?﹂ 父さんのノリがいいのは、俺が帰ってきてテンションが上がって いるからだろうか。だとしたら嬉しいけど、俺がいきなり成長して、 変なテンションになっている気がしなくもない。 ﹁おとーさんはだめー! おとーさんとははずかしいの! はいっ ちゃやー!﹂ ﹁そ、そうかぁ⋮⋮お父さんはだめか。ヒロト、じゃあ父さんと一 緒に入ろうな﹂ ﹁う、うん⋮⋮まあ、たまにはいいかな﹂ ﹁いろいろ積もる話もあるからな。ヒロトが父さんと、男同士の話 ができるようになったかどうかも見たいし﹂ ﹁あなた⋮⋮あまり過干渉にしてると、ヒロトに呆れられるわよ﹂ ﹁いいや違うぞレミリア。男親はな、ちゃんと教えなきゃならない んだ。大人とはなんたるものかをな⋮⋮﹂ 父さんは語りたくて仕方ないようだ。まあ、昔から母さんと入る 方が多くて、父さんは寂しそうにしていたからな。 1567 ﹁じゃあおにいたん、またこんどそにあと、おかあたんとはいろ?﹂ ﹁え、えーと⋮⋮じゃあ母さん、ソニアを俺が風呂に入れてあげて もいいかな? 二人で入るからさ﹂ さすがに今の俺と一緒に風呂なんて、母さんも普通入りたがらな いだろう。俺とソニアが入るなら普通というか、どこのご家庭でも ありそうな光景だ。 ﹁あら、お母さんも一緒に入ってあげるわよ。ヒロト、何遠慮して るの? まだ八歳なんだからいいじゃない﹂ ︵は、母上⋮⋮!︶ もはや言葉が出てこない。母さんの中では俺はまだ八歳⋮⋮今度 は別の意味で泣きそうになる。 ﹁ヒロト、久しぶりなんだから母さんにうーんと甘えてきていいん だぞ。まあ、卒業の時も近いというか、もう迎えている気はするけ れどもな﹂ ﹁う、うん⋮⋮いや、まだ入ると決まったわけじゃないから﹂ ﹁父さんは何も言わないぞ。父さんもソニアが絶対に入ってくれな くなるまでは、諦めてないからな。父さんのパンツと一緒に洗濯す るのが嫌だと言われ始めてる件には、多少傷ついているけどな﹂ ﹁と、父さん⋮⋮いろいろ、大変なんだね⋮⋮﹂ 心中をお察ししますとしか言えない。父さん⋮⋮まだ若いのに。 ソニアの思春期を迎える速さも恐ろしいな。 クリスさんの話をいつしようかと思ったけど、彼女がミゼールに 来るまでならいつでもいいか。とりあえず母さんたちは風呂に入る 1568 みたいなので、俺はいったん自分の部屋に行かせてもらうことにし た。 ◆◇◆ ベッドは元から大きかったので、俺が寝るには支障はない。お手 伝いさんがベッドメイクを毎日してくれていて、寝心地はふかふか だった。 ﹁⋮⋮と、寝てる場合じゃない﹂ ずっと気になっていたことがある。夕食まで時間があるので、俺 はなんとかユィシアに会おうと考えた。 助けてもらったお礼も、まだしっかりできていない。俺はしばら くの間、ユィシアに向けて念じ続ける。 ︵ユィシア⋮⋮近くにいてくれてるか? ミゼールまで、一緒に戻 ってきてくれたか⋮⋮?︶ 気配は感じている、だが応答がない。もしかしてリリムとの戦い で傷を負っていて、それを俺に隠していたのか︱︱そう考えた瞬間 だった。 ︵⋮⋮ご主人様⋮⋮いまは⋮⋮あ、熱い⋮⋮身体が、熱くて⋮⋮︶ ﹁っ⋮⋮ユィシア、大丈夫か!? ユィシアッ!﹂ 念話で伝わった声は苦しそうで、一気に脈が跳ね上がる。俺は立 1569 ち上がって、ユィシアに強く呼びかけた。 ︵⋮⋮だい⋮⋮じょうぶ⋮⋮森の⋮⋮湖⋮⋮昔、会った⋮⋮ご主人 様と⋮⋮くぅっ⋮⋮!︶ 途切れ途切れの声が俺の不安を煽る。最後の声は悲鳴のようで、 けれど艶めかしくもある。 ︱︱何を考えてるんだ、と自分を律する。ユィシアは呼んでる⋮ ⋮ちゃんと、場所を教えてくれてる。 ﹁ユィシア、今行くからな! 待っててくれ⋮⋮!﹂ もう、ユィシアの声は聞こえない。部屋を出て、一階に降りたと ころで、父さんとすれ違う。 ﹁おっ⋮⋮ヒロト、どこか出かけるのか!?﹂ ﹁ごめん、みんなが来るまでには戻るから!﹂ ﹁おう、気をつけて行ってこいよ!﹂ 父さんに断っておけば、家を空けたことは説明してくれるだろう。 俺は外に飛び出し、森に向かって走っていった。 幼い頃の記憶を辿って、湖に向かう。夕闇の気配が近づいた薄暗 い森には何体かの魔物がいたが、今の俺にとっては相手にならない ︱︱魅了したあと、森の奥に退散してもらう。危険度を上げそうな 凶悪な魔物は、魔術を使って倒しながら進む。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ 1570 一度も止まらずに走って、俺はそこに辿り着いた。沈みゆく夕日 に、湖が煌々ときらめいている。 澄んだ水面に、今まで誰かがいたことを示すように、波紋が残っ ていた。 その波紋をたどって、俺は﹃それ﹄を見つけ、目を見開く。そし て、全身の血が凍りつくような感覚を覚えた。 そこには、透明な、ユィシアの姿を象った彫像のようなものがあ った。 ﹁︱︱ユィシアッ⋮⋮!﹂ オブジェクト そうではないと思いたかった。何の関係もない彫像だと信じたか った。 しかしそれは、あまりにも、ユィシアそのままの姿をしていた。 近づいて見てみても、彼女をそのままガラス細工に変えたようにし か見えなかった。 ﹁ユィ⋮⋮シア⋮⋮嘘だろ⋮⋮?﹂ その彫像は、湖の浅瀬にあった。触れてみるととても重く、簡単 に動かせるようなものではない。 その角も、なめらかに伸びる長い尾も、涼やかな瞳も。全てがユ ィシアそのものだった。 彼女がなぜこんな姿になったのか。絶望が心を蝕み、なぜ彼女が 苦しんでいるとすぐに気付けなかったのかという後悔で、全身から 力が抜ける。 1571 身体が濡れることなどどうでも良かった。目に映る全てのものが、 意味をなくしたように思えた。 ﹁ユィシア⋮⋮っ、うぁぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 耐えられなくなって叫んだ、その時だった。 ちゃぷん、と音が聞こえた。後ろに誰かがいる、そう気がついて、 俺はゆっくりと振り返った。 ︱︱そこには、一糸まとわぬ姿で、雌皇竜の少女が立っていた。 無事だったのか。その安堵が胸に広がり始めたとき、少女は恥じ らうように頬を染め、目を伏せて唇を動かした。 ﹁⋮⋮待っているつもりだった。ご主人様が、私を受け入れてくれ るときまで﹂ ﹁⋮⋮ユィシア⋮⋮無事なのか? 生きてる⋮⋮生きてるんだよな ⋮⋮?﹂ こくん、とユィシアは頷く。前に見た時よりもずっと可憐で、無 機質だった表情に、今までよりも感情の機微が表れている。 ひたすらに、愛らしい。その姿を見て、そう思わずにはいられな かった。 いつでも服装を魔力で作れるはずのユィシアが、肌を隠そうとし ない。いつもよりも髪が長く伸び、身長がわずかに伸びて︱︱髪で 隠された乳房の膨らみが、前よりも大きくなっているように見える。 1572 ただでさえ成長していると言っていたのに、今の変化は見てすぐに 分かるほどだった。 ﹁そ、そこにある、透明なユィシアは⋮⋮いったい⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮恥ずかしい⋮⋮あまり、見ないでほしい﹂ ﹁っ⋮⋮ご、ごめん。って、恥ずかしいって、その透明なやつのこ とか⋮⋮?﹂ ユィシアは両手で顔を隠しながらこくりと頷く。隠すべき場所が 他にあるのに、彼女にとっては、裸を見せるよりずっと、﹃それ﹄ を見られるのが恥ずかしいようだった。 ﹁⋮⋮触ってみればわかる。﹃それ﹄の背中は、割れてる⋮⋮さっ き私が、脱いだから⋮⋮﹂ ﹁脱いだ⋮⋮って⋮⋮も、もしかして⋮⋮﹂ ︵脱皮⋮⋮そ、そうか。ドラゴンって、脱皮する生き物なのか⋮⋮ !︶ そうわかれば話は早かった。俺は透明なユイシアの彫像のような それに、﹃鑑定﹄を試みる。 ◆アイテム◆ 名前:雌皇竜の水晶殻 種類:素材 レアリティ:レジェンドユニーク ・雌皇竜が脱皮したときに生成されるアイテム。 1573 ・高度な鍛冶技術で溶融させると、さまざまな金属との合金を作る ことができる。 ・武器を研磨するために使うことができる。 ︵雌皇竜の素材⋮⋮こ、これって、物凄く良い素材なんじゃないか ⋮⋮?︶ ﹁ゆ、ユィシア⋮⋮ごめん、恥ずかしがってるところ、本当に申し 訳ないんだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮その殻なら、持って帰っていい。武具を作るのに有用という ことは、知ってる﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮こんな貴重なものを⋮⋮﹂ 俺はインベントリーに入るかどうか試してみたが、意外に簡単に しまえた。雌皇竜の水晶殻︱︱これを使えば、巨人のバルディッシ ュの錆を取れるだろうし、さらに強化できる。 ﹁⋮⋮ご主人様に貰ってもらえるなら、一番いい。貰ってもらえな かったら、宝物庫に入れておくしかなくなる⋮⋮でも恥ずかしいか ら、あまり置いておきたくない﹂ ﹁ありがたく貰っておくよ。でも、本当に良かった⋮⋮ユィシアが、 ﹂ 無事でと言いかけたところで、ばしゃ、と水が跳ねて、水面を銀 色の少女の影が流れた。 俺は、ユィシアに抱きしめられていた。 正面から俺に抱きついて、ユィシアは背中に手を回している。胸 1574 に顔をうずめて、彼女はこすりつけるように顔を動かし、そして俺 を見上げた。 ﹁⋮⋮ご主人様が成長してから、ずっと、胸が痛かった。こんな気 持ちになるなら、ご主人様のところを、離れようかとも思った﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮俺が、他のみんなと仲良くしてたからか?﹂ ユィシアは赤い顔のままで、こくりと頷く。そして、言葉を続け た。 ﹁私は⋮⋮竜だから。ご主人様は、私の力を借りずに魔王を倒せた ほうが良かった。そう思っているんじゃないかと思ったら、怖くな った⋮⋮私は、人間じゃないから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんなこと、気にしないって顔してたじゃないか。ユィシア ⋮⋮そんなに俺が信用できないか?﹂ ﹁っ⋮⋮ご主人様は悪くない⋮⋮私が、竜だから⋮⋮フィリアネス とは、違うから⋮⋮だから⋮⋮﹂ ユィシアの気配が薄れたのは、俺とフィリアネスさんが一夜を過 ごしたあとからだった。 ︱︱あの時のことを、ユィシアが見ていたら。俺は彼女の気配が ないことを理由にして、見られていないと安心しようとしていた。 念話が届く距離にいれば、俺がフィリアネスさんをどう思ってい るか、伝わらないわけがなかったのに。 ﹁⋮⋮ごめん。ユィシア⋮⋮俺、無神経で⋮⋮何も、ユィシアのこ とを考えてなかった﹂ ﹁⋮⋮ご主人様は悪くない。悪いのは私⋮⋮竜なのに、あなたとず 1575 っと一緒にいることを夢見た私が⋮⋮﹂ どうしてここまで、ユィシアの情緒が急に成長したのか。 それも、俺とフィリアネスさんのことを見ていたからなら⋮⋮俺 は、なんて残酷なことをしていたんだろう。 ﹁俺と一緒にいることは、夢なんかじゃない。もう、現実になって るじゃないか。これからもずっと変わらないよ﹂ ﹁⋮⋮でも、私は竜で⋮⋮ご主人様は⋮⋮﹂ そんなこと、俺は初めから気にしていなかったんだ。 そう言葉にする代わりに、俺はユィシアの頬に触れた。彼女は俺 が何をするのか分からず、見つめている。 そんな無垢な少女に、子供を作ることの意味を教える。そこに少 なからず背徳を覚えながら、俺はユィシアの唇を奪った。 唇を触れ合わせると、かすかにユィシアの身体が震えた。俺は彼 女を抱き寄せて、そのまま唇を重ね続ける。 ﹁⋮⋮ご主人様⋮⋮﹂ ユィシアは恍惚として、けれど本当にいいのか、と不安そうに俺 を見る。 ﹁⋮⋮魔王から助けてくれて、ありがとう。ユィシアがいなかった ら、俺たちは⋮⋮﹂ もっと早く伝えるべきだった。なのに俺はつまらない意地で、素 1576 直に言えなかった。 ユィシアの瞳から涙がこぼれた。それは涙石に変わり、彼女の頬 を拭おうとした俺の手の中にこぼれ落ちる。 キスしたばかりの唇にそっと触れて、ユィシアが微笑む。俺の胸 にまで、幸せが広がるような笑顔で。 ﹁⋮⋮ご主人様に、みんなで口移しをして薬を飲ませた。だから、 今のは、二度目﹂ ﹁そうだったのか⋮⋮俺はてっきり、ユィシアとするのは初めてだ と思ったよ﹂ ﹁⋮⋮二度目のほうが、鼓動が早くなった﹂ ︱︱やはり俺は、ユィシアのことが大切だ。そのはにかんだ笑顔 を見て、心から思った。 ユィシアの涙を見た時には、心に決めていた。 ずっと答えを出さずに、苦しめてきた。俺はユィシアがいなくな ったらと思うと、本当に怖かった。 そう思うくらいなら、もう、待たせることをするべきじゃない。 ﹁ユィシアは竜で、俺は人間だ。それでも、俺は構わない⋮⋮後悔 したりもしないよ﹂ ﹁⋮⋮はい、ヒロト様⋮⋮信じます。私は、ヒロト様のもの⋮⋮竜 と人間でも、一緒にいられる﹂ ユィシアはときどき、俺に対してすごく丁寧な言葉を使う。いつ も訥々と話す彼女がそうするのは、本心から俺のことを想ってくれ ているからだ。 俺は湖の中で、もう一度ユィシアを抱きしめる。これからも一緒 にいたい、絶対に裏切らないという気持ちを、言葉以上に伝えたか 1577 った。 ◆◇◆ 俺とユィシアが湖を離れたのは、日が沈みかけた頃だった。 今は、ユィシアはいつもの薄衣をまとっている。心なしか胸や、 下半身を覆う部分の生地が透けにくくなっている︱︱前より彼女が 淑女になった証拠だ。 ﹁⋮⋮少し、ご主人様に見られるのが、前よりも恥ずかしくなった﹂ ﹁やっぱりそうか⋮⋮ユィシアも大人になったってことかな﹂ ユィシアとの関係が変化したことを、みんなにも伝えなければと 思う。彼女だって、俺の奥さんになる人の一人になったのだから。 ﹁⋮⋮大丈夫。私は人間じゃないから、まだ何も言わなくていい。 ご主人様に従属する竜というだけ﹂ ﹁い、いや⋮⋮それはしっかりしないと。竜だからっていうのは、 さっき無しにしようって言っただろ?﹂ ﹁⋮⋮はじめて、ご主人様以外の人間で一目置いたのが、聖騎士だ から。反応が、少し怖い﹂ ユィシアは冗談を言っているようには見えない。本気で雌皇竜を 恐れさせるなんて⋮⋮フィリアネスさん⋮⋮いや、確かに物凄く強 いからな。 ﹁⋮⋮できれば、敵対せずにおきたい。難しいと思うけど⋮⋮友好 的な関係にしたい﹂ ﹁そうだな⋮⋮それは間違いないな。俺もしっかり話すから、大丈 夫だ。いつまでも、なあなあにしておくことはないからな﹂ 1578 ﹁⋮⋮一緒にいることさえできれば、私は別に、妻でなくてもいい﹂ ユィシアは楽しそうに︱︱そう、俺をからかうことを楽しんでい るとわかる、悪戯な笑顔で言った。 ﹁そういうと、人間の男性は喜ぶらしい﹂ ﹁そ、その中に俺も含まれてるわけか⋮⋮これはしてやられたな。 でも俺はユィシアが本当に大事だから、正式に奥さんにしたいんだ﹂ そう言うと、ユィシアは宝石のような目を潤ませる。彼女は嬉し いという感情が、素直にその表情に表せるようになってきていた。 ﹁⋮⋮私の抜け殻を見つけて、大きな声を出してた。ご主人様はあ のとき、泣いてた⋮⋮?﹂ ﹁そ、それは⋮⋮恥ずかしいから、ほどほどにしておいてくれ﹂ 初めは無感情で、人間のことなど感心のない、そんな姿を遠く、 そして美しいものだと思った。 けれど今は違う。こうして触れられる距離にいて、人の心を知っ て変わっていくユィシアを、これからも大切にしたいと思っていた。 1579 第四十七話 賑やかな会食/解放、そして/ナイト・レベリング ユィシアは森を出て、町の見える場所まで来ると、俺の手をきゅ っと握ってきた。 ﹁ん? どうした、ユィシア﹂ ﹁⋮⋮私は、巣の様子を見に行く。眷属に任せておいてあるけど、 少し心配﹂ ﹁そうか。まだ、賑やかなとこは慣れないか? これから、うちに みんなが来てくれると思うんだけど⋮⋮﹂ もしかしたらユィシアが遠慮しているのかもしれない。そう思っ たが、ユィシアは微笑んで首を振った。 ﹁ご主人様が人に慣れたのと同じように、私も慣れたい。時間がか かっても﹂ ﹁⋮⋮そうか。わかってたのか、俺がどういう⋮⋮﹂ 心が伝わるというのは、そういうことだ。ユィシアはもう、俺が どんな魂を持ち、この世界にどんな方法でやってきたのかも知って いて︱︱何もかもを知り尽くしたとは言わず、俺を見ていた。 そんなことより何より、俺が意識を傾けるべき問題は、ユィシア に唇を重ねられている事実だった。 ﹁んっ⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ゆ、ユィシア⋮⋮大胆だな﹂ 1580 急にキスをされるなんて、思ってもみなかった。しかしユィシア は、何を驚いているのかという顔をする。 ﹁唇を触れ合わせるのは、挨拶。さっきまでしていたことよりも、 ずっと表面的で、優しいつながり﹂ ﹁⋮⋮あ、荒々しかったかな、俺。ごめん、もっと優しくしないと な﹂ 情緒が目覚めるとは、ロマンチストになることと同意義なのだろ うか。ユィシアを見ているとそう思う。 ユィシアは銀色の髪に触れながら、もう一度俺の頬にキスをして、 それだけでは足りなかったのか、首元に顔を埋めてもう一度キスを する。まるでじゃれついているかのように。 ﹁⋮⋮刻印をつけた。これが、私と一緒にいたしるし﹂ ﹁わっ⋮⋮こ、これはちょっと⋮⋮ユィシアッ!﹂ ﹁大事な時にはちゃんと呼んで。でも、呼ばなくても傍にいる﹂ ユィシアはそう言い置いて、呼び止めるのも聞かずに後ろに飛ぶ ︱︱そして、凄まじいスピードで飛翔していく。 あんなふうに飛べたら、どんな気持ちになるだろう。俺はまた近 いうちに、ユィシアに空を飛ぶ感覚を教えてもらおうと思った。も ちろん、魔術が使えたところで、皇竜のように飛ぶことはできそう にないけど。 空中で風の精霊魔術を使って、姿勢制御するとか、転移の魔術を 使うとか。将来的には、今より高度な移動法を習得しないといけな い。リリムも空を飛んでいたし、リオナにも翼があった︱︱魔王が 基本的に翼を持つ者なら、俺も飛べないと話にならない。 1581 そんなことを考えていると、まだユィシアに思考が届くみたいで、 しばらくして返事が伝わってきた。 ︵私がご主人様の翼になる。ご主人様は、練習すれば竜にもっとう まく乗れる︶ ︵ああ、努力してみるよ。じゃあまた後でな、ユィシア︶ ユィシアは微笑むような気配を残して、おそらく竜の洞窟に入っ ていった︱︱洞窟の中までは、念話は届かないようだ。 ◆◇◆ そして家に帰ってくる頃には日が暮れていたが、燭台の明かりに 照らされた我が家の居間では、盛大な夕食会が催されていた︱︱俺 が帰ってきたことを祝うために。 ﹁えー、ここにいるのが間違いなくうちのヒロトです。俺に似てき ていることからも、そこは疑う余地がないと思って欲しいところだ。 いや、信じてもらわないととても困る﹂ ﹁あなた、説明が難しいのは分かるけど、変な口調になってるとま すます怪しまれるわよ。みんなが少し見ないうちに大きくなっちゃ ったけど、うちのヒロトよ﹂ ﹁え、えーと⋮⋮姿は変わりましたけど、それは事情あってのこと で⋮⋮﹂ ﹁ほ、本当に⋮⋮? 本当にヒロトくん? まだ八歳くらいじゃな 1582 かった?﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、こんなに大きくなって⋮⋮ど、どうしてそん なことになったの?﹂ ターニャさんとフィローネさん、久しぶりに会ったな⋮⋮すっか り大人の女性になった。俺がゼロ歳のとき、若い娘さんたちだと認 識していたが、今はお姉さんたちという感覚だ。 二人と一緒にモニカさんもいる。彼女たち三人も久しぶりに話す ようで、先ほどから和気あいあいとしていた。 ﹁まあ、リカルドさんが言うほどお父さん似でもないけどね。レミ リアそっくりってわけでもないけど、どっちの面影も入ってるわね﹂ モニカさんが言うと、ターニャさん、フィローネさんも揃ってう なずく。 ﹁確かにそうね。赤ちゃんの時から何か、雰囲気が少しレミリアに 似てるのよね﹂ ﹁ええ。でもヒロトちゃんはヒロトちゃんよ。大人になるっていう のは、一人の個人として確立するってことでもあって⋮⋮あ、せっ かく会えたのにごめんなさい、何か硬い感じになっちゃって﹂ ﹁いえ、俺は会えただけで嬉しいんで⋮⋮俺がヒロトだって認めて もらえるだけでも、感激してますよ﹂ 父さんが﹁ほう、一人前に格好つけてるじゃないか﹂とつぶやい ているが、まあそれは良しとしておこう。 ターニャさんとフィローネさんとは長いこと会ってなかったから、 雰囲気の変化が新鮮に見える。ターニャさんのお洒落は大人びた方 向に変遷して、フィローネさんは⋮⋮その、何というか、どこがと は言いづらいが確実に成長していらっしゃる。以前より全体的にほ 1583 っそりとしたのに、栄養が母性的な部分に集中してしまったかのよ うだ。 ︵そんなことばかり気にしてちゃいけないな。いかんせん、大きく なってから浮つきすぎだ︶ 三人揃った姿を見てつい考えこんでしまったが、モニカさんの言 葉で、改めて確認できたことがあった。 転生者であるところの俺だが、やはり前世の姿を引き継ぐなんて ことはなく、れっきとしたリカルド父さんとレミリア母さんの息子 ということだ。 リオナが転生前の面影を残しているのは、彼女の境遇からくるも のなのかもしれない。魔王に親がいるものなのか、詳しいところは 良くわからない︱︱命を落として転生するのでなければ、元々の姿 を保っているとか。いや、陽菜は黒髪で、リオナは成長するにつれ て明るい色に変わりつつあるが、栗色の髪をしているので、そのま までは決してないのだが。 ﹁ヒロト、ぼんやりしてないで、食事が一段落したらみんなのテー ブルを回って挨拶するのよ﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。そのつもりだよ﹂ ﹁ははは、まだたまに頼りないところもあるな。まあそういうやつ ほど、何故かモテたりするもんだが﹂ ﹁あら、何故かじゃないわよ。ヒロトみたいな子だったら、私がみ んなの立場だったら⋮⋮んー⋮⋮﹂ レミリア母さんは話の途中で俺を見て、目を細める。そして席を 立つと、俺の横に立って頭に手を置いてきた。 1584 ﹁そんなに変でもないけど、やっぱりヒロトは短いほうが似合いそ うね。あとで髪を切りましょうか﹂ ﹁そ、それは助かるけど⋮⋮みんなの前で言われると、ちょっと恥 ずかしいな﹂ 親に髪を切りなさい、なんてみんなの前で言われると、気恥ずか しいことこの上ない。レミリア母さんはそんなことには構わず、に こ、と楽しそうに笑った。 ﹁そうか、俺の出番か。断髪式といえば男の行事⋮⋮!﹂ ﹁せっかく集まってくれたから、食事のあとで、みんなではさみを 入れてあげるのはどうかと思って﹂ ﹁み、みんなで⋮⋮そうだな、俺は不器用だからな⋮⋮﹂ 父さんがヒートアップしたところで、母さんがクーリングダウン する。立ち上がりかけた父さんはおとなしく席に座った。夫婦の力 関係がとてもよくわかる。 ﹁一人で切ってもらわないと、ざんばら髪にならないかな?﹂ ﹁そういうことなら、最後に私が整えてあげる。町の調髪店で仕事 をしてるから、任せてくれて大丈夫よ﹂ ターニャさん⋮⋮その異世界にあるまじきスタイリングは、本当 にプロの理容師として鍛えたものなのか。いや、異世界においては ﹁調髪﹂というので、調髪師ということになるだろうか。彼女の容 姿と持っていそうな技術からすると、美容師で良い気がするが。ま あ俺にもそれらの違いは厳密にはわからなかったりする。 ﹁ターニャは調髪店で、フィローネは診療所でお仕事してるのよね。 1585 最近はどう?﹂ ﹁毎日忙しいわよ。家にいるとお見合いしろって親がうるさいから、 今は仕事に生きるって言ってるわ﹂ ﹁私は⋮⋮レミリアが大変だったとき、何もできなかったから。診 療所の仕事を元から手伝ってはいたんだけど、正式に医術師の資格 を取ったのよ﹂ ︵調髪師、医術師⋮⋮それはジョブなのか、とても気になるところ だな︶ 実装されていなかった職業の名前が出ると、どうしても内容を確 認したくなってしまう。できればスキルリストに加えたいというの は、俺の行動原理の半分くらいを占めている。 しかし赤ん坊の頃にお世話になったとはいえ、再会した途端にス キルを頂こうなんて、そうは問屋が卸さないのではないだろうか。 今の俺には特別な関係を結んだ女性が二人もいるというのに。 ﹁ヒロト、そういうわけだから、安心してみんなに切ってもらいな さい。せっかくみんな集まってくれたんだから⋮⋮サラサさんとリ オナちゃんは、今日はちょっと来られないみたいだけど﹂ 俺もそのことは気にしていた。リオナはサラサさんを、教会にい るかもと言って探しに行ったが、そのあとサラサさんを家に連れて きてくれてはいない。 パーティメンバーの位置を確認することができるので、俺は念の ためにリオナの位置を確認する︱︱すると。 1586 ◆情報◆ ・︽リオナ︾ 現在位置:ローネイア家 ︵リオナは家にいるな⋮⋮何か用があって、うちには来られないの かな︶ そういうこともあるだろうから、過剰に心配することじゃないの かもしれない。 しかしどうしても引っかかる。後で、夜遅くなるかもしれないが、 一度様子を見に行った方がよさそうだ。 ﹁では⋮⋮ヒロト、乾杯の音頭でも取ってみるか?﹂ ﹁おにーたん、そにあもやるー!﹂ ﹁ははは⋮⋮じゃあ、俺が持ち上げてやるから、﹃乾杯﹄って言う んだぞ﹂ 母さんがソニアに子供用のジュースの入ったコップを持たせ、こ ぼさないように俺がソニアを持ち上げる。 ﹁えーと、それじゃ⋮⋮妹と一緒に失礼します。乾杯!﹂ ﹁かんぱーい!﹂ ﹃かんぱーい!﹄ 町から来てくれていたフィリアネスさんたちも、マールさん、ア レッタさんとテーブルを囲んで盃を掲げている。ネリスさん、ミル テ、教会のセーラさんも来てくれていた。 名無しさんとウェンディは拠点にしていた宿にしばらくぶりに戻 1587 ったので、まだ荷物の整理をしているそうだった。ミコトさんも同 じ宿を使うそうで、手伝いをしている︱︱明日の朝には合流できそ うだ。 ◆◇◆ 母さんの料理スキルは、しばらく食べないうちに3ほど上昇して いた。なぜそんなに上がったのかというと、母さんは織物を作るだ けじゃなく、町の料理店の手伝いもしていたらしい。 ﹁リカルドが、町の料理店が美味しかったって言うものだから。ど んなものかって、料理人見習いとして教えてもらってきたの。ソニ アも最近は、ひとりで平気なくらい元気に駆けまわってるから、手 がかからなくて時間ができちゃって﹂ ﹁うん、そにあひとりで大丈夫!﹂ ﹁本当に元気だな⋮⋮森には行かないように気をつけろよ?﹂ ﹁⋮⋮いってないよ?﹂ ︵こ、この反応⋮⋮さすが俺の妹というべきか。まさかもう、冒険 したりしてないか⋮⋮?︶ 転生者でスキルを所持しており、この世界の攻略情報をある程度 知っている俺ならまだしも、ソニアがどうやら森に行っているらし いというのは、ちょっと心配になってしまう。 ﹁まあお兄ちゃんほどじゃないが、ソニアもわんぱくだからな。父 さん、森で会ったときはびっくりして、抱っこして奇妙な踊りを踊 ってしまったぞ﹂ 1588 ﹁父さん⋮⋮威厳が崩壊していくから、もう少し落ち着いた発言を 心がけてくれるかな﹂ ﹁ヒロトが俺に苦言を呈するようになるとはな⋮⋮大きくなったの は、見かけだけじゃないようだな。どうだ、酒の味はわかるように なったか?﹂ ﹁あなた、まだヒロトは成人してないんですから、飲ませちゃだめ ですよ﹂ ﹁おとーさん、そにあものみたい! ちょーだい!﹂ ﹁そ、ソニアは⋮⋮こんな苦みばしったジュースを飲んだら、喉が やけどしちゃうからな。だめだぞ?﹂ ﹁おとーさんのばかー! きらい!﹂ ﹁ぬぁぁぁぁ! 嫌わないでくれ、お父さんはソニアのために、心 をオーガにしてるだけなんだ!﹂ 無邪気に父さんを責め立てるソニア。父さんはショックを受け、 やけ酒を呷り始めた。エール酒の薄いやつなので、身体を壊したり はしないだろうが。 そういえばオーガってまだ遭遇したことないな⋮⋮ジュネガン公 国における生息域はどうなっていただろうか。けっこう知能が高く て良質な装備を持ってたりして、ゲーム時代はドロップ品で稼いだ ものだ。 ﹁ところでヒロト、他のテーブルを回って酌でもしてきたらどうだ ?﹂ ﹁おにーたん、行っちゃやだ⋮⋮﹂ ﹁ソニアは今ははしゃいでるけど、すぐ眠くなっちゃうから。ほら、 もうお目々が閉じてきてる﹂ ソニアは眠そうに目をこすり、ふぁぁ、とあくびをすると、母さ 1589 んの膝の上に乗って、抱きつきながら眠ってしまった。父さんはそ れを見て笑っている。 ﹁利発な子だが、まだ四歳にもなってないからな。夜更かしはもう 少し大きくなってからだ﹂ ﹁そうね⋮⋮手がかからない子だから、こうやって甘えてくれると 嬉しいわね﹂ ﹁いったい、ソニアが何して遊んでるかは気になるけど。まあ、危 険がないならいいのかな﹂ 俺が辿った道をソニアがもし辿ってるとしたら、止める資格が俺 にあるだろうかとも思う。それにこの子なら、たぶん危険を感じた らすぐに引き返すくらいの勘も持ちあわせているだろう︱︱と思い たい。 ︵あとでステータスを見せてもらうか⋮⋮何か腰を抜かしそうで怖 いんだけどな︶ ﹁すー⋮⋮すー⋮⋮おにーたん⋮⋮﹂ ﹁おやすみ、ソニア。父さん、母さん、みんなのところに行ってく るよ﹂ 俺は席を立ち、まずフィリアネスさんたちのテーブルに向かった。 フィリアネスさんもお酒を飲んでいて、マールさんは顔が真っ赤に なって機嫌良く笑っており、アレッタさんも楽しそうにしている。 ﹁ヒロトの髪を切る⋮⋮か。私たちも、手伝わせてもらっていいの だろうか?﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮もちろん。恥ずかしいけど、こうなったらしょうが ないな﹂ 1590 フィリアネスさんだけじゃなく、マールさんとアレッタさんもや る気満々のようだ。そこまで大事に思われてると思うと、顔が熱く なってしまう。 ﹁リオナちゃん、そういうのすっごくやりたそう⋮⋮どうしたのか な? 夜に外に出ると、おばけが出るから怖くて来られないとか?﹂ ﹁お母さまが、家でお食事を作ってしまったとか⋮⋮そうでなくて も何か、急な用事ができたのかもしれませんね﹂ 普通はそう考えるところだが、リオナの家はすぐ近くなのだから、 顔を見て安心したいという気持ちはある。特にサラサさんは、俺に とっては恩人と言える存在だ。俺が今に至るまで生き残れたのは、 スキルの取り方に気づかせてくれた彼女なのだから。 そんなことを考えていると、フィリアネスさんに飲み物を注がれ た。杯に口をつけると、彼女は機嫌良さそうに微笑む。 ﹁この場に集まっている皆だけではなく、他にもヒロトの帰りを喜 んでいる人は多いだろう。明日からも、順に顔を出していくのが良 いだろうな﹂ ﹁うん。新しい斧槍を磨いてもらったり⋮⋮他にも、世話になった 人はまだいるから。でも、先に領主に会いに行った方がいいのかな﹂ ﹁ヒロトちゃん、そういえば領地のことって言わなくていいの?﹂ ﹁モニカさんは、まだお友達にはお伝えしていないみたいなので、 機会を改めた方がよさそうですね⋮⋮あっ、お二方がいらっしゃい ましたね﹂ アレッタさんの言うとおり、振り返るとターニャさんとフィロー ネさんが、いかにもほろ酔いという様子で立っていた。彼女たちが 1591 はにかみつつ杯を差し出してくるので、何度目かの乾杯をする。 ﹁んっ、んっ⋮⋮はぁ⋮⋮ヒロトくん、少し会わないうちに、何だ か遠くに行っちゃったみたいね﹂ ﹁私たち、モニカと違ってヒロトちゃんとの接点がなかったから、 あまり会いに来られなかったの。いい大人なのに、いつまでも家事 手伝いってわけにもいかないしね﹂ ﹁そうだったんですか⋮⋮良かった。二人が来なくなったのは俺の せいかと思ってたこともありましたから﹂ 赤ん坊のときにしたことを、時が経つにつれて気まずく思ってい たりして、家に来る頻度が減ったのかもしれない︱︱そう思ったこ ともあった。母さんとケンカをしたわけでも、町を離れたわけでも ないなら、二人が母さんとお茶会をしなくなった理由はそれくらい しか想像がつかなかった。 でも、それは全部杞憂だった。ターニャさんはウエーブがかかっ た髪を撫で付けつつ、フィローネさんは小さめの杯を両手で包み込 むように持って、照れ笑いしている。 ﹁ヒロトくんは小さいのにすごい子だっていうのを聞いて、私たち も頑張ろうと思ってね。まあ私は、ヒロトくんが髪を切りに来てく れたら、そこで話くらいはできるかなと思ってて⋮⋮﹂ ﹁私もヒロトちゃんが風邪で熱を出したりしたら、診てあげようと 思って。診療所の先生からはもう、ある程度は患者さんを診るのも 任せてもらってるのよ⋮⋮こんなふうにね﹂ フィローネさんが手を伸ばしてきて、俺の額に触れる。それは熱 を測っているのだと遅れて気がついた。 ︵し、しかし⋮⋮せ、成長めされた今となっては、前にかかるベク 1592 トルが激しく増大して⋮⋮っ︶ ベクトルって言葉は異世界では通じないな、と考えつつ、俺は胸 板に当たっている彼女の戦闘力を図っていた。戦う力ではなく、む しろ平和を導く力なのだが。 ◆ステータス◆ 名前 フィローネ・ベルモット 人間 女性 26歳 レベル17 ジョブ:医術師 ライフ:136/136 マナ :312/312 スキル: 小剣マスタリー 13 軽装備マスタリー 10 医術 57 白魔術 32 魔術素養 24 恵体 12 母性 77 料理 22 アクション: 投げナイフ︵ナイフマスタリー10︶ 応急手当︵医術10︶ 診断︵医術20︶ 1593 看護︵医術30︶ 執刀︵医術50︶ 治癒魔術レベル3︵白魔術30︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ 説得︵母性60︶ パッシブ: ナイフ装備︵ナイフマスタリー10︶ 軽装備︵軽装備マスタリー10︶ 回復上昇︵白魔術20︶ 育成︵母性10︶ 慈母︵母性50︶ 子宝︵母性70︶ ︵予想以上に成長してる⋮⋮全体的に⋮⋮!︶ 出会った当時18歳だったフィローネさんだが、どうやら発育は 当時で止まっていなかったようだ。そして医術師スキルも予想以上 に高く、彼女は自分で手術ができるというのがわかる。 スキルがあれば、医学を学ばずとも医術を施すことができるわけ だ。この世界においては医術を学ぶところはあっても、医者の免許 などはないので、経験と実績さえあれば診療所を開くことができる わけである。 いわゆるヤブ医者はスキルが低いのですぐ判別できるわけだ。フ ィローネさんはおそらく手術用のメスを使うので、ナイフマスタリ 1594 ーが少し上がっていたりもするのだろう。 ﹁あ⋮⋮ご、ごめんなさい、ヒロトちゃん。もう大きくなったから、 子供扱いしちゃだめよね﹂ ﹁だ、大丈夫だよ。大きくなっただけで、俺なんてまだ子供だから さ﹂ フィローネさんが顔を赤らめて恥ずかしがるので、俺も照れてし まう。胸板に押し付けられた柔らかい感触が、到底忘れることなど できずに残り続けて、冷静を保てない。 ︵な、なんだこの身体の熱さは⋮⋮俺というやつは、そんなことば かり⋮⋮!︶ ﹁おっ、ヒロトのやつ、俺の酒を間違えて飲んでたみたいだぞ。あ いつ、いける口だったか﹂ ﹁ちょっと、あなたったら⋮⋮間違えたのならしょうがないけど、 今度から気をつけてくださいね﹂ ︵オヤジぃ⋮⋮!︶ 心のなかで、父さんを初めての呼び方で呼んでしまった。どうも 身体が熱いと思ったら、間違えて酒を飲んでしまっていたようだ。 いや、それは俺のミスだが⋮⋮ま、まずい⋮⋮。 ﹁ヒロト、ふらふらとして顔色が優れぬな。部屋で一度休んできた ほうが良いのではないか?﹂ ﹁わっ⋮⋮ね、ネリスさん⋮⋮っ﹂ いきなりおもむろに腕を取られて、柔らかいものに押し当てられ 1595 る。誰かと思ったら、二度目の若返りを経て女子高生なみの年齢と なったネリスさんだった。 ﹁わしがついていてやろうか⋮⋮? 酔いざましの薬くらいなら、 簡単に処方できるぞ。なにせ、サラサに薬師の心得を諭したのはわ しじゃからな﹂ ﹁わ、私だって、酩酊時の処置には慣れてます。ヒロトちゃん、向 こうでお手当てしましょうね﹂ フィローネさんにもう片腕を取られる。む、胸が⋮⋮二種類の弾 力を比較して、どちらかに軍配を上げろというのか。勝敗など関係 ない、二人ともとても素晴らしい。 ︵それにしても、お手当てって⋮⋮なんだかとても、ナースさんっ ぽいぞ⋮⋮!︶ ﹁私も衛生兵として、応急手当の心得があります。ヒロトちゃんの ことは私に任せていただけますか?﹂ ﹁むう⋮⋮治療系の職能を持つ者がこうも揃うとはな。ならばどう じゃ、三人でというのは﹂ ﹁ね、ネリス殿⋮⋮いかなミゼールの賢者といえど、そのようなこ とは看過できかねます。ヒロトならば、少し休めば回復します。私 が膝を貸すので、半刻ほどヒロトの部屋で時間を⋮⋮﹂ ﹁雷神さまはお手が早いですから、半刻もあったらじゅうぶん⋮⋮ う∼ん、もう食べれない⋮⋮﹂ ︵マールさん⋮⋮地雷を思いきり爆破したあとに、ベタな寝言とか ⋮⋮!︶ まず俺が確認すべきは父さんと母さんに聞かれてないかどうかだ。 1596 いざとなれば腹をくくるものの、まだできれば段階を踏んで俺が大 人になったことを伝えていきたい⋮⋮! ﹁あなた、こんなところで寝ないでください。ああもう、よだれた らしちゃって﹂ ﹁⋮⋮よく帰ってきたなぁ⋮⋮父さんは嬉しいぞ⋮⋮ちょっと見な いうちに大きくなったなあ⋮⋮﹂ ﹁本当にね⋮⋮でも、あの子が元気なら私はそれでいいと思ってる の。もともと大人みたいなことをしてた子だから﹂ 思わずしんみりしてしまう両親のやりとり。みんなもハンカチで 目元を押さえたりしているし、フィリアネスさんは顔をそらして肩 を震わせている。 ︱︱もう一度、自分で言っておくべきだろう。ここに集まってく れたみんなに感謝を伝えるために。 ﹁俺はいろいろ無茶もして、みんなに心配かけるかもしれないけど、 何があっても絶対にこの町に帰ってくるよ。俺は、この町と、みん なのことが大切だから﹂ 言ってみてから気づくが、さらにしんみりさせてしまった。やは り俺は空気が読めていない、今のは最善の選択じゃなかったか︱︱ と思ったところで。 席に座っていたミルテと、セーラさんが連れ立って俺のところに やってきた。まずミルテが話しかけてくる。 ﹁⋮⋮ヒロトがみんなを大事に思ってること、ちゃんと伝わってる。 おばば様も、他のみんなもわかってる﹂ 1597 ﹁ミルテの言うとおり、わしらはいつも待っておるよ。ここに来ら れなかった者も、ヒロトを知っておれば気持ちは同じじゃろう。何 も案ずることはない、自分の思う道を進むがよい。あまり放ってお かれると、こちらから探しに出るかもしれぬがの﹂ ネリスさんはミルテの話を補足して言うと、酒の杯を傾ける。ほ んのり朱に染まった頬が、少女の姿にあるまじき妖艶さを感じさせ る。 妖艶といえば︱︱セーラさんもまた、只者でない雰囲気は、昔か ら変わっていない。 セーラさんは15歳になっているが、人魚の彼女は不老のようで、 まったく姿が変わらない。しかし、なんと彼女は、聖職者からラン クアップして﹃司祭﹄にジョブが変わっていた︱︱つまり、ミゼー ルの教会で一番偉い人になったということだ。 ﹁ヒロトさん、お久しぶりです⋮⋮ご立派になられましたね。これ も女神様の加護の賜物でしょう﹂ ﹁久しぶり、セーラさん。あの、リオナは教会に来たかな?﹂ ﹁はい、おいでになりました。お母さまがお祈りをされていらした ので、一緒に帰って行かれましたよ﹂ そういうことなら、心配はないか⋮⋮ひとまずは良かった。 ﹁ありがとう、教えてくれて。セーラさん、他にも話したいことが あるんだけど⋮⋮日をあらためて、教会に行っていいかな?﹂ セーラさんがイシュア神殿の歌姫だったという話を聞いたので、 その辺りを詳しく聞いてみたくはある。今の彼女はやはり、﹃歌う 1598 ことができない﹄のネガティブパッシブがついたままだ。 しかしセーラさんは何を思ったのか、くすっと口元を隠して微笑 む。そのとろんとした目で見られると、昔何度もお説教をされなが ら授乳を受けた日々を思い出してしまう。説教といっても、どれだ け女神が素晴らしいか、敬うべき存在かを聞かされ続けただけなの だが。 ﹁神の教えに、ふたたび耳を傾けられるのですね⋮⋮嬉しいです。 いつでもいらしてください、今は前代の司祭様は隠棲されています ので、私とシスターがふたりほど、常に教会におります﹂ ﹁うん、ありがとう。ぜひ行かせてもらうよ﹂ ﹁お待ちしております。恵みの施しについては⋮⋮いえ、それはそ の時お話いたしましょう﹂ ﹁え⋮⋮い、いやあの、俺も大きくなったし、それは⋮⋮﹂ ﹁いいえ、人は誰でも、女神の赤子であることに変わりはないので すから。ご遠慮なさる必要はありません⋮⋮いかがなさいましたか ? ネリス様﹂ ﹁興味深い話をしておると思ってのう。確かにわしにとっても、ヒ ロトは可愛い幼子のままじゃな。身体が大きくなろうとその感覚は 変わらぬ﹂ ︵セーラさんに、ネリスさんまで⋮⋮ま、まずい。この町が好きだ と言ったものの、このままだと滞在期間が大変なことに⋮⋮!︶ 滞在というか、遠くに冒険に出る必要があるとき以外は、ミゼー ルに居るつもりではある。 ここを領地としてもらえた暁には、ミゼールは名実ともに俺の活 動拠点となる。そうなると、セーラさんやネリスさん、ターニャさ んとフィローネさんとも、交流が復活するわけだ。 1599 そしてみんな、俺と昔と変わらない交流を望んでくれている。し かし今の俺の場合、フィリアネスさんとユィシアとの間にあったこ とを考えると、昔と全く同じというわけにはいかないのである。 ﹁⋮⋮ヒロト、どうしたの?﹂ ﹁あ⋮⋮ご、ごめんミルテ、どうかした?﹂ ミルテはかすかに﹁むっ﹂としたけど、何やら俺の顔を見ている うちに頬を赤らめ、ネリスさんを見やった。 ﹁おばば様みたいに、私もできたら⋮⋮ヒロトと、もっと仲良くな れる?﹂ ﹁ミルテや、それはまだ少しばかり早い。しっかりご飯を食べて、 身体を動かして、学ぶべきことを学ぶ。全てはそのあとじゃな。そ うすれば、自然にヒロトがミルテを認めてくれるからのう﹂ ﹁ほんと⋮⋮? じゃあ、がんばる。ヒロト、待っててね﹂ ミルテは嬉しそうに言って、と自分の席に戻っていった。まだ大 人の椅子では足が届かない、そんな子にすら、俺はアプローチをさ れているのである。下は八歳、上は︱︱とか、守備範囲を確認して いる場合ではない。 そういえば、スーさんは厨房にいるけど、なかなかこっちに出て こないな。挨拶も一段落したし、様子を見に行くことにしよう。リ オナの家に行くのはその後だ。 ◆◇◆ 台所にいたスーさんは、片付けの時まで控えているつもりだった 1600 ようだ。 ﹁旦那様と奥様に、ヒロト様にお仕えする許しを得たとはいえ、私 はメイドでございますから。給仕と片付けをさせていただければと 思います﹂ ﹁スーさんは本当に真面目だな⋮⋮侍従っていっても、俺のパーテ ィの一員なんだから。そこまで遠慮することないよ﹂ そう言うとスーさんは瞳を細めて笑った。こちらの気持ちも穏や かになる、優しい表情だ。 ﹁奥様もそうおっしゃっておられました。あの方はやはり、変わら ずお優しくておいでになる。私の素性について、問いただすことも なさらないのですから﹂ ﹁ほかのメイドさんも日頃は勤めてるけど、素性を根掘り葉掘り聞 いたりはしてないよ。話したいときには聞く、っていうのが母さん の主義みたいだ﹂ ﹁私の身の上話は、もしするとしてもとても長くなりそうですから。 坊っちゃんの寝物語には、丁度良いやも⋮⋮﹂ そう言いかけて、スーさんははっと目を見開き、ほんのり頬を赤 く染めた。 ﹁も、申し訳ありません。寝物語もなにも、坊っちゃんはもうその ようなお年ではございませんでしたね⋮⋮大変失礼いたしました﹂ ﹁い、いや、分かってるよ。スーさんもあれかな、俺が大きくなっ ても、小さい頃を覚えててくれるわけか﹂ ﹁⋮⋮忘れることなど決してございません。あの夜、あなた様の示 された勇気に、この胸を震わされたことは、ついゆうべのことのよ うに覚えております﹂ 1601 スーさんは水仕事をしているのに、すごく手がきれいだ。その手 を胸に当てて言うものだから、つい視線を向けてしまって、何をし てるんだと自分を戒める。 ﹁⋮⋮髪を皆様でお切りになる、とうかがいました。主人がどのよ うな姿にお変わりになるか、私もできれば見せていただきたいので すが⋮⋮﹂ ﹁スーさんも切ってくれると嬉しいな。俺の仲間の人たちは、みん なハサミを入れてくれそうだからさ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そのような⋮⋮よろしいのですか?﹂ スーさんはだんだん俺に気を許してくれてきていて、徹底的に辞 退したりはしなかった。その変化に、つい嬉しくなってしまう。 ﹁⋮⋮大きくなられると、そのようにお笑いになるのですね。女性 を泣かせる笑顔でございます﹂ ﹁え⋮⋮そ、そうかな。いやらしい笑い方してないか?﹂ ﹁ええ、全くございません⋮⋮それどころか⋮⋮私の方が一回りも 年上でございますのに、もう、追いつかれてしまったような気持ち になります﹂ ﹁頼れるようになった、ってことかな。そうだと嬉しいんだけど﹂ ﹁昔からそうでございましたが⋮⋮それ以上、でございますね﹂ スーさんは思っていることを全部は言ってないみたいだが、その 奥ゆかしさに、ますます好感が増してしまう。 しかし真面目なスーさんだから、俺が軽い振る舞いをしたら、き っと厳しい態度に変わるだろう。気を抜いてはいけない、彼女が優 しいからといって。 1602 ︱︱優しいといえば、サラサさんもそうだった。まだ顔を合わせ てないことが、胸に不安と言う名のざらつきを生む。 ﹁スーさん、俺はちょっと外に出てくるよ。リオナが来なかったか ら、少し様子を見てくる﹂ ﹁もうお夕食をとられているとは思いますが、リオナ様のご家族の 分も用意しておりましたので⋮⋮こちらに取り分けておきましたの で、よろしければお持ちください﹂ スーさんは鍋に入ったスープと、夕食のために焼いたパンを、一 緒に竹カゴに入れて準備しておいてくれた。何かの理由で夕食を取 れてなかったら、差し入れをすれば喜ばれるかもしれない。スーさ んの気配りには、さすがと言うほかなかった。 ﹁ヒロト様⋮⋮いえ、これからは旦那様とお呼びいたしましょうか。 昔はリカルド様をそうお呼びしていましたが、今ではヒロト様が私 の唯一の主人ですので﹂ ﹁だ、旦那様か⋮⋮﹂ どうも別の意味を連想してしまって困る。既婚の女性が、夫のこ とを﹃旦那﹄って言ったりするもんな。 ﹁⋮⋮あっ⋮⋮いえ、そういった意味では⋮⋮その、申し訳ありま せん。ヒロト様に、こちらに来ていただけるとは思っていなかった もので⋮⋮少し、気分が高揚してしまいました﹂ ﹁スーさん、あんまり顔に出ないからな。でも、そんなふうに思っ ててくれたなら嬉しいよ﹂ どうもいい雰囲気を作るつもりはないのに、そんなことばかり言 ってしまう。交渉術のせいにしたくなるが、俺の中にそういう、女 1603 性に甘いところがあるのは確かだ。 ﹁⋮⋮もっとお小さいヒロト様とお会いするつもりでいましたから ⋮⋮未だに、落ち着かないようです。私は顔に出ず、鉄面皮でござ いますから、時折は心情を言葉でお伝えできればと思います﹂ ﹁鉄面皮ってこともないよ。スーさん、今は笑ってるしさ﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ 言われてみれば、という反応。それを見て、思わずまた笑ってし まった。 ﹁⋮⋮ヒロト様⋮⋮いえ、私は旦那様に翻弄されてしまっておりま すね⋮⋮このように緊張感がなくては、お手合わせの際に、赤子の ようにひねられてしまいそうです﹂ ﹁俺がそうならないように気を引き締めておくよ。じゃあまた後で ⋮⋮俺が帰ってきたときはもう寝てるかな?﹂ ﹁いいえ、旦那様のお帰りをお待ちするのは当然のつとめでござい ますから。私は起きてお待ちしておりますが、気になさらずごゆる りとなさってください﹂ そう言ってスーさんは俺を後ろに向かせると、服を整えてから送 り出してくれた。お言葉に甘えたいところだけど、場合によっては リオナとサラサさんが普通に過ごしていて、早く帰ってくることも あるだろう。 ◆◇◆ 屋敷を出て、どこからか聞こえる鈴のような虫の音を聞きつつ、 1604 俺は丸い石を埋め込まれて舗装された道を歩き、サラサさんの家に 向かった。 家には明かりがついていない。もう休んでしまったということも ありうるが︱︱と考えたところで。 サラサさんが、家から出てきた。彼女はふらふらと歩いて行こう とする。 ﹁サラサさんっ⋮⋮﹂ 驚かせないように、俺は声を張りすぎず、けれどしっかりと通る ように呼びかけた。 ﹁⋮⋮あなたは⋮⋮﹂ ひと目では分からない、それも無理はない。こんなに姿が変わっ てしまえば︱︱けれど、俺にはそれだけが理由ではないように思え た。 今のサラサさんは、夜の闇の中でもわかるほど、痩せてしまって いるように見えた。とても弱々しくて、今にも消えてしまいそうな ほどに儚く見えた。 俺が近づくと、サラサさんは自分の身体を抱くようにして、後ろ に一歩後ずさる。怖がられている︱︱だとしたら、それはなぜなの か。胸に痛みを覚えながら、俺は昔あったことを思い出す。 自分の首輪を取るのは、サラサさんの夫︱︱ハインツさんでなく てはならない。 そう言われてもなお俺は、リオナのジョブを変え、魔王化を止め るために、サラサさんの首輪を外した。 1605 ﹁俺⋮⋮ヒロトです。サラサさんにお世話になった、リオナの友達 の⋮⋮﹂ 一から説明しなければならないと思った。声がうまく出せなくて、 喉が痛む。 誰にでもすぐに受け入れられるわけじゃない。そう覚悟していた のに、実際にそうなってみると、俺は揺らがずにはいられなかった。 気軽に訪ねてくるべきじゃなかった。でも、放っておけない。と ても今のサラサさんを置いて、見なかったふりをして帰ることはで きない。 ﹁何か、あったんですね⋮⋮?﹂ 何もないとはとても思えなかった。﹁あったんですか﹂と疑問形 を向けるような、曖昧な状態ですらない。 サラサさんは、自分をかばっていたわけじゃなかった。 かばっていたのは、その手首だった。両方の手首に、爪のように 赤いあとが残されている︱︱だから片方を隠しても、もう片方を隠 せていなかった。 ﹁⋮⋮誰かと、争った⋮⋮そうなんですね、サラサさん﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ 知られてしまった。隠せるわけもないのに、彼女はそんな、顔を した。 俺はそれ以上近づかなかった。今サラサさんが俺に許している距 離の中に、まだ入ることはできない。 1606 ここで俺が選択を間違えば、おそらくサラサさんは、俺の前から 姿を消すだろう︱︱そんな兆しがあった。 ︵馬鹿げてる⋮⋮そんなこと。サラサさんがどこかに行くなんて⋮ ⋮でも⋮⋮︶ 今、自分の手首を隠して震えている彼女を見ていると、悪い方向 への想像が広がる︱︱でも。 俺はまず、信じようと思った。ここにサラサさんがいること、そ して、彼女がまだ俺の知っているままの彼女であることを。 ﹁⋮⋮俺、魔王と戦ったんです。それで命を吸われて⋮⋮レミリア 母さんの命を救った薬で、死なずに済んで。起きたときには、こう なってました﹂ ﹁魔王⋮⋮そんなことが⋮⋮どうして、ヒロトちゃんが⋮⋮?﹂ ﹁小さい頃からしてきた冒険の、延長みたいなものです。ミゼール から首都に向かうまで、色々なことがありました⋮⋮俺の人生が、 変わるくらいのことが﹂ ﹁⋮⋮リオナも、変わっていたわ。私がいなくても、あの子は⋮⋮﹂ やはり何をしようとしていたのか、隠しきれていない。サラサさ んは、間違いなく家を出て行くつもりだ。 ﹁⋮⋮リオナは、今、どうしてますか?﹂ ﹁リオナは、家にいます。旅で疲れたようで、今はゆっくり休んで いるわ⋮⋮ヒロトちゃんの話をいっぱいしてくれようとしていたけ れど⋮⋮私の様子を見て⋮⋮﹂ ﹁リオナは優しいから⋮⋮今のサラサさんを見れば、サラサさんに こそ、休んで欲しいと思うでしょう。リオナは、食事は取りました か?﹂ 1607 ﹁はい。でも、ヒロトちゃんのおうちに招かれていましたから⋮⋮ そちらにお世話になった方が、美味しいものが食べられると言った のに⋮⋮娘は⋮⋮っ﹂ サラサさんの瞳から涙がこぼれる。俺は彼女の話に、ただ耳を傾 けて⋮⋮そして、また一歩だけ彼女に近づいた。 サラサさんはもう後ろに下がることはなかった。フードの下のそ の美しい相貌を、俺は久しぶりに目にして、その赤らんだ目の痛々 しさに、胸を締め付ける痛みを覚える。 俺は持ってきたバスケットを掲げる。それを見たサラサさんは、 どういうことかというように俺を見た。いつもの落ち着いている彼 女なら、すぐに分かるはずなのに。 ﹁⋮⋮差し入れを持ってきたので、良かったら、食べませんか。香 りにつられて、リオナを起こしてしまうかもしれませんが﹂ ﹁⋮⋮分かりました﹂ 家に入る前に、聞くべきことがある。しかしそれを俺が尋ねる前 に、サラサさんは玄関の扉に手をかけて、俺のほうを振り返った。 ﹁彼は⋮⋮ハインツは、もう三日前から、この家には戻っていませ ん﹂ その言葉が意味するものの重さに、簡単に何かを言うことはでき なかった。 サラサさんはそんな俺を静かに見つめてから、家の中に入ってい く。扉は開いたままにしておいてくれていた。 1608 サラサさんの家のダイニング・ルームに入ったのは久しぶりだっ た。家の中には争った様子はない。 彼女の手首の傷が、いつついたのか。それを考えると、俺は否が 応にも憤りを覚える︱︱誰がやったのか。 ﹁⋮⋮まだ、あたたかい。今の季節のお野菜のスープと、粗挽き麦 の黒パン⋮⋮﹂ サラサさんはいつも家でそうしているのだろう、食器にスープと パンを盛り付け、テーブルに並べる。俺は食べるつもりはなかった が、スーさんがハインツさんの分を考えてか、三人分入っていたの で、ご相伴にあずかることになった。 一人で食べるよりも、二人の方がいい。できればリオナもと思っ たが、確かに八歳の女の子には、馬車に乗っての長旅はこたえただ ろう。 ﹁少しでも食べたほうがいい。サラサさん、痩せたように見えます﹂ ﹁⋮⋮正直を言うと、あまり喉を通らないのよ。それでも、ヒロト ちゃんは食べたほうがいいと思う?﹂ ﹁俺よりずっと、サラサさんの方が、そうしたほうがいいってわか ってるはずですよ﹂ どうしてもお説教みたいな言い方になってしまう。こんな若造が、 サラサさんに偉そうに言えることなんて何もない。 けれどサラサさんは久しぶりに微笑んで、黒パンをちぎって、口 に運んだ。咀嚼して飲み込み、スープをひとさじ口に運ぶ。それだ けで、いくらか彼女の顔に血の気が戻ってきたように見えた。 1609 ﹁⋮⋮美味しい。ありがとう、ヒロトちゃん﹂ ﹁メイドのスーさんに伝えておきます。彼女が作ったんですよ﹂ ﹁レミリアさんの味と少し違うから、何かと思ったのだけど⋮⋮そ ういうことだったのね﹂ それからサラサさんは全部は食べられなかったけれど、ちゃんと 食事をしてくれた。 残った分を保存し、サラサさんは葡萄酒の瓶を持ってきて、杯に 注ごうとする。しかし俺の顔を見て、彼女はお酒を飲むのをやめて、 果実のジュースを二人分用意した。 ﹁⋮⋮お酒は、いつも飲んでるんですか?﹂ セージ ﹁⋮⋮情けないでしょう。お酒の力を借りないと、眠れないのよ。 私は薬師だから、お酒の効果が身体にどんな影響を及ぼすかも、わ かっているのにね⋮⋮﹂ ﹁たしなむ程度なら、身体にいいって聞きますよ。情けないなんて ことないです、うちではみんな、お酒を飲んで酔っ払ってましたよ﹂ 俺が帰ってきたことを祝う席。その明るさを今伝えていいものか 迷ったが、俺は遠慮ばかりしていても、サラサさんを追い詰めてし まうと思った。 普段のサラサさんに戻って欲しい。しかしそのためには、何が起 きたかを話してもらわなければ⋮⋮。 ﹁⋮⋮その傷は、どうしたんですか? 引っかき傷みたいですけど ⋮⋮治療した方がいい﹂ ポーションを塗れば、引っ掻いたくらいの創傷は消える。けれど 1610 サラサさんがあえてそのままにしている理由も、俺にはもう、薄々 と想像がついていた。 ﹁ハインツさんと、何があったんですか⋮⋮? その怪我は、ハイ ンツさんに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮違うわ。私は、そうされても仕方がないことをしたのだから。 この傷は、私が自分でつけたのよ﹂ サラサさんの目は静かだった。狂気も何もなく、ただ本当のこと を言っているだけ、そんな目をしていた。 ﹁⋮⋮リオナを連れて家を空けて⋮⋮こんな姿になって帰ってきた 俺が、何もかも話してほしいなんて、都合がいいことを言ってるの は分かってます。それでも、俺は何があったのか知りたい﹂ ﹁⋮⋮このまま家に帰って、何も聞かずにいることは⋮⋮﹂ ﹁できません。サラサさんを今一人にしたら、どこかに行ってしま う⋮⋮そうでしょう?﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃんは⋮⋮私のことに、気づいているはずよ。私が、 昔どういう存在だったのか⋮⋮﹂ ﹁奴隷でもいい、そんなことは関係ない。俺にとってサラサさんは 恩人なんだ。俺の母さんの友達で、リオナのお母さんってことだけ が理由じゃない。俺は⋮⋮っ﹂ 言葉を尽くしても、的を射ていない。届いている気がしない⋮⋮ それでも言わずにはいられない。 ︱︱けれどサラサさんはそんな俺を見て、笑ってくれた。 ﹁⋮⋮やっぱり、あなたは優しい子。私が知っているヒロトちゃん のまま⋮⋮変わっていないのね﹂ 1611 ﹁身体だけは大きくなって、中身は子供のままです。恥ずかしいく らいに﹂ ﹁いいえ⋮⋮そんなことはないわ。ヒロトちゃん⋮⋮リオナはあな たみたいな人と傍にいられて、幸せね﹂ ﹁⋮⋮それは⋮⋮そ、そうだといいとは思ってますが⋮⋮まだ、リ オナは小さいですから﹂ ひと 自分でも何を言っているんだろうと思う。やっぱり百歳を超えた 人生の先輩は、俺の熱意だけでほだされてくれるほど、甘い女性じ ゃなかった。人というかエルフだ︱︱なんてことはいい。 ﹁⋮⋮サラサさん?﹂ カンテラの明かりの中で、サラサさんの瞳が揺れる。肌がぞくり とするほどの美貌を改めて見て、俺は言葉を失ってしまう。 ︱︱初めに会った時から今まで、彼女をこれほど強く、一人の女 性だと意識したことはなかった。リオナの母であり、俺に無条件に 優しくしてくれる人。そこに、今俺が彼女に抱いているような感情 は、形を成してはいなかった。 ﹁⋮⋮私は⋮⋮昔、﹃死霊の女王﹄の配下に捕まり、奴隷にされて いたの﹂ ﹁っ⋮⋮死霊の女王⋮⋮その、名前は⋮⋮?﹂ ﹁メディア・メイザースと名乗っていたわ。きっと、仮の名前でし ょうけれど⋮⋮私は人間とエルフの間に生まれたハーフエルフで、 彼女にとっては﹃憐れむべき﹄存在だった。そして私を捕まえて、 自由を奪い、さらに貶めることで、彼女は一時の享楽を得ていたの﹂ ずっと、聞けなかった。今も教えてもらえないかもしれないと思 った。 1612 しかしサラサさんは、俺にその身の上の全てを明かそうとしてく れていた。生まれてすぐに目にした﹃奴隷﹄というネガティブスキ ル、そして彼女の高いステータス︱︱その意味を。 ﹁享楽⋮⋮メディアは、そう言ってたんですか?﹂ ﹁⋮⋮ヒロトちゃん、その言い方は⋮⋮知っているの? 彼女のこ とを﹂ リッチ・クィーン ﹁⋮⋮俺が戦った、魔王リリム⋮⋮彼女のかりそめの姿が、メディ ア。死霊の女王だったんだ﹂ ﹁魔王⋮⋮そう⋮⋮メディアが⋮⋮﹂ サラサさんはその事実を、俺が思っていたよりも早く受け入れた。 ︱︱しかし俺にはそれよりも、リリムとサラサさんの間につなが りがあった事実を、未だに信じられずにいた。 ミルテの父と母も、リリムに奴隷にされていた。リリムの悪意は この国中に広がっているのではないかと、そんな想像が脳裏をめぐ る。 ﹁メディアの持っていた力と、その常軌を逸した魔力を見て、私は ⋮⋮こんな存在が多くこの世界に居て、邪悪な意志を持っているの ならば、いずれ世界は滅びてしまうと思った。でも、魔王だったと いうのなら⋮⋮一握りしか存在しない、最も強力な魔族の一人だっ たなら。その方がまだ、希望が持てるのかもしれない⋮⋮﹂ リオナが魔王リリスの転生体であることを、まだサラサさんは知 らない。リリムが、リリスの妹であることも︱︱まだ、話すことは できない。 いずれ知ることになるとしても、その時真実を話さなかった俺を 責めてもいい。 1613 リオナは何も悪くはない。彼女が不幸になるとわかっていて、魔 王の転生体にしたのは女神なのだから。 ﹁⋮⋮確かに、メディアみたいなのがゴロゴロしてたらと思うと目 眩がしますね。でも、そんなことは言ってられない。俺は魔王と戦 わなきゃならない⋮⋮魔王リリムをこのままにしておけば、きっと 苦しむ人を増やすことになる﹂ ﹁彼女と戦うことができるなんて⋮⋮ヒロトちゃん、あなたはどう やってそれほどの力を⋮⋮﹂ そう言われて、俺は少しだけためらう。 俺が強くなれたのは、全ての始まりは、サラサさんだ。 ︱︱今言わなければいつ言うのかと思った。生まれてから今まで、 ずっと抱いている感謝を。 ﹁⋮⋮サラサさんのおかげだよ﹂ ﹁⋮⋮私は、ヒロトちゃんに、何もしてあげられていないのに⋮⋮ そんなこと⋮⋮﹂ ﹁してくれたよ。サラサさんがお腹をすかせてた俺に優しくしてく れたから⋮⋮それが始まりだったんだ﹂ 年を重ねても、俺とサラサさんの関係は変わらなかった。けれど 大きくなるほど、彼女との距離は開いていくような、そんな気がし ていた。 でも、いつまでも遠いままでいたら、俺はサラサさんに会うこと さえできなくなってしまう。この家を出ようとしていたサラサさん を見て、そのことがとても怖いと感じた。 ﹁⋮⋮それで⋮⋮サラサさんは、奴隷にさせられて、それから⋮⋮﹂ 1614 ﹁⋮⋮奴隷には男性も女性も混じっていたの。私は⋮⋮その中でも、 男性の奴隷から、女として目をつけられてしまうことが多かった。 メディアはそんな状況すらも楽しんでいたの⋮⋮人間を、エルフを、 いえ⋮⋮全ての生き物を、彼女は手慰みの玩具のようにしか見てい なかったから﹂ リリムは姉であるリリスのことに関してだけは、人間の心の機微 に近い動揺を見せた。けれどそれも、気まぐれでしかなかったのか ︱︱リリスに対してだけが特別なだけで、やはり残酷な魔王にすぎ ないのか。 ﹁けれど、私には母から受け継いだ魔術の力があって、自分の身を 守ることができた。でも⋮⋮メディアの配下にいた、ダークエルフ の男性には、私の力が通じなかった⋮⋮でも⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮サラサさんは無事だった。誰かに助けられて⋮⋮そういうこ とですね﹂ ﹁⋮⋮ええ。それが、ハインツだった⋮⋮ハインツは、メディアが 壊滅させた盗賊団の一員だったの。彼はメディアに生かされて、私 たち奴隷の見張り役をしていた⋮⋮彼はただ、放っておけなかった と言ったの。自分の目の前で、気分が悪い出来事が起こったからだ と、怒りながら言っていた⋮⋮﹂ ︱︱俺はハインツさんという人物を、未だに良く知らない。名前 だけは聞いていて、遠くから姿を見かけたりすることはあっても、 話したことはまだなかった。 けれど、彼がいなければサラサさんは⋮⋮そう思うと、彼の存在 がサラサさんにとってどれほど大切か、分からずにはいられない。 ﹁そのうち⋮⋮私たちが監禁されていた場所で、火事が起きたの。 騒ぎに紛れて奴隷たちは逃げ出した。リリムは興味をなくしたよう 1615 に追いかけなかったわ。所詮は、彼女にとっては一時の退屈を飽か すための遊びでしかなかった⋮⋮ハインツはそのとき、私を連れて、 逃げ出したの。奴隷の首輪の鎖を、金鋏で断ち切って﹂ そして、ハインツさんはサラサさんを連れてミゼールにやってき た。 ハインツさんの母親が暮らしていた家︱︱この家は、母親が出奔 して戻らず、空き家となっていた。そこで、ハインツさんとサラサ さんは暮らし始めた。 息を潜めて暮らし、ようやく町に溶け込んだころ、サラサさんは 教会に向かう途中で、ぼろにくるまれて泣いている赤ん坊を見つけ た。 ︱︱それが、リオナだった。その頭に夢魔の角のふくらみを見つ けたサラサさんは、それを隠し通して、自分の娘として育てるとハ インツさんに告げた。 ﹁彼は自分の子供でなくても、育てていいと言ってくれた。でも⋮ ⋮あの奴隷の首輪が、私の首についているうちは⋮⋮彼は、私に触 れようとはしなかった。私の中から奴隷の記憶が消えたとき、その 首輪をこの手で外して、私のことを妻にしたいと言ってくれた⋮⋮ でも⋮⋮﹂ ハインツさんは、待っていたのか。解放されたサラサさんの﹃奴 隷﹄の値が、ゼロになるまで︱︱真の意味で、サラサさんがリリム から解放されるまで。 けれどその彼は出て行った。今も戻らないまま、何をしているの か。 ︱︱そして、遅れて気がつく。サラサさんの首輪を、俺がすでに 外していたことに。 1616 ハインツさんが外さなければならないと、サラサさんが言った首 輪を︱︱俺の手で。 ﹁⋮⋮私の首輪がなくなっていることに、彼は気がついていて⋮⋮ ずっと、私を⋮⋮私のことを⋮⋮﹂ サラサさんの瞳が揺れる。その輝きが失われる︱︱これ以上話せ ば、サラサさんは壊れてしまいそうだった。 ﹁サラサさん、今は無理に話さなくてもいい。そんなに辛いことだ ったのなら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いいえ⋮⋮彼に許されない裏切りをしたのは、私⋮⋮私は⋮ ⋮﹂ もう、彼女の心は、とうに限界だった。 その目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。サラサさんは顔を覆っ て、肩を震わせて泣き崩れる。 ﹁私は⋮⋮彼を、受け入れられなかった。そうしないといけないと 思っていたのに⋮⋮ハインツのことを、最後まで愛せなかった⋮⋮ っ﹂ 俺が子供の頃から、サラサさんの家に対して感じていた違和感。 その答えを目の当たりにして、俺は言葉が出てこなかった。 きっとハインツさんはサラサさんを、命がけで助けた。彼女の忌 まわしい記憶が消えるまで待ちもした。 ︱︱でも。 それはサラサさんが、ハインツさんを愛するようになるという結 末には、行き着かなかった。 1617 ﹁彼がどんな思いで待っていたのかも知っていたのに⋮⋮お酒に溺 れていったのも、私のせいなのに。リオナがいない間に、求めてき てくれた彼を、私は⋮⋮拒絶して⋮⋮突き飛ばそうとして⋮⋮っ﹂ その腕をハインツさんに取られ︱︱強く、握りしめられて。サラ サさんの手首には、傷が残った。 なぜ、傷を治さなかったのか。包帯を巻くこともしないで、その ままにしておいたのか。 その理由を思うと、胸が引き裂かれるようだった。 誰も、悪くはないのに。ただ、すれ違ってしまっただけなのに。 俺たちがいれば、こうはならなかったのかもしれない。 ハインツさんとサラサさんは、﹃夫婦﹄でいられたのかもしれな い︱︱でも。 サラサさんの心が変わらないのなら、この結末は避けられなかっ た。 ﹁⋮⋮サラサさん。首輪のあとは⋮⋮もう、消えたんですね﹂ 泣きじゃくっていた彼女は、俺の問いかけにしばらく反応しなか った。 しかし、涙に濡れた目を虚ろに開いたままで、そのフードを、そ して首の周りを覆うショールを外していく。 白い首筋には、首輪のあとは残っていない。そして⋮⋮。 人間より長く、エルフより短い尖った耳。それを俺に見せてくれ ながら、サラサさんは涙を拭いもせずに、ただ俺を見ていた。 ︱︱その姿はとてもきれいで、ガラスのように繊細だった。 そんな彼女に触れようとしたハインツさんが、どれほどの勇気を 1618 振り絞ったのか︱︱。 そして思いが叶わなかったとき、彼が何を選んだのか。 俺にはその気持ちがわかるとはいえない。けれど同じ男として、 慮ることはできる。 できることなら、サラサさんと本当の夫婦になりたかった。ハイ ンツさんは、そう思っていたはずだ。 しかしハインツさんが彼女を見初めても、サラサさんは⋮⋮。 ﹁⋮⋮私は⋮⋮ハインツが、どんなふうに生きてきたのかを知って いた。盗賊団だった彼は人を殺して金品を奪い、残酷な罪をいくつ も重ねていたの。それを誇らしく話していたこと⋮⋮私がそれを忘 れることができれば、彼を苦しませずに⋮⋮リオナも、お父さんを 失わずに済んだのに⋮⋮﹂ そそ その罪を濯ぐために、ハインツさんが費やした年月。でも、それ は⋮⋮奪った生命が戻るということではない。 けれど、サラサさんは自分さえ許すことができたらと、悔やんで いる。 ﹁だから⋮⋮教会で、祈っていたんですね。ハインツさんが殺して しまった人たちのために﹂ ﹁⋮⋮私の命を差し出しても、けっして償うことはできない。そう 分かっているわ⋮⋮でも、死ぬことに意味がないのなら、せめて幸 福を捨てなければならない﹂ サラサさんは席を立つ。そして、用意していたものだろう手紙を 取り出して、俺の前に置いた。 1619 ﹁⋮⋮私は、この町を出ていきます。どこかで、ハインツと、彼が 殺した人々のために祈って⋮⋮いつか許されたと感じたとき、命を 女神様に返します。ヒロトちゃん⋮⋮リオナのことを⋮⋮﹂ ︱︱だめだ。 言葉だけでは通じない、引き止められない。 そんなふうに笑わないでくれ。全部終わりみたいな顔をして、俺 を見ないでくれ。 そんな顔をされたら⋮⋮俺は⋮⋮。 どんなことをしてでも、止めることしか考えられなくなる。 ﹁⋮⋮そんなこと、俺には頼まれてあげられない⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮ちゃん⋮⋮﹂ 俺は席を立って、サラサさんを抱きしめていた。そうするしか、 他に方法が思いつかなかった。 もしハインツさんと同じように拒絶されたら。そう思うのが自然 なのに、こうすることしか考えられなかった。 ﹁⋮⋮人が人を好きになる気持ちは、義務じゃない。自然に生まれ てくるものなんです﹂ 偉そうなことなんて言えた身分じゃない、そう思ったのに。 浅はかな考えを口にしていると分かっているのに︱︱他に言うべ きことが、思いつかない。 1620 ﹁ハインツさんはサラサさんを守った⋮⋮そして今日まで、一緒に 暮らしていた。でもそれは⋮⋮サラサさんが、彼を愛さなければな らないわけじゃなかった。寂しいですけど、それは⋮⋮偽りのない、 サラサさんの心です。そこにウソをついたら、きっともっと後にな って、傷つくことになる。俺はそんなのは見てられない⋮⋮サラサ さんに、思うままに生きてほしいんです﹂ ﹁⋮⋮そんなこと⋮⋮私は、ハインツの好意を知っていて、ずっと 利用してきたのに⋮⋮卑怯で、醜いのに⋮⋮っ﹂ 優しさが、そのまま優しさとして誰の目にも同じに映るならば、 人の間に誤解が生まれることもない。 ︱︱でも、サラサさんにとって、彼女がいつか自分を認めてくれ ると願い、待ち続けるハインツさんは⋮⋮きっと、サラサさんの生 き方を、意志を、期待という型にはめてしまうものでしかなかった。 欲しいと思っても手に入らないものがある。それが人の心で⋮⋮。 サラサさんが彼を愛せなかったことは、許されない罪なんかじゃ ない。 ﹁どれだけ自分が卑怯だと感じても、許されないと思っても、俺が 許します。サラサさんが全部を捨てて、ハインツさんに償いたいん だとしても⋮⋮それで、リオナの傍を離れるくらいなら、俺があな たの罪を背負う。俺なんかに背負えないと言われても背負ってやる。 だから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮だめ⋮⋮っ、私は⋮⋮私は⋮⋮奴隷で⋮⋮首輪をつけられて ⋮⋮家畜のように飼われて、人でもエルフでもないと罵られて⋮⋮ この国に、本当は居場所もない、帰る場所もない、そんなものにす ぎないの⋮⋮私は行かなきゃ⋮⋮もう、ここにはいられない⋮⋮い ちゃいけないのよ⋮⋮!﹂ 俺の腕の中で、サラサさんは無茶苦茶に言葉をぶつけて、逃れよ 1621 うとする。いつも穏やかな彼女が見せる、激しい彼女の表情を見て も、俺の心は揺らがなかった。 本当は、ずっと一人で辛さを抱え込んで、誰にも言わずにいて⋮ ⋮そして、俺に優しくしてくれた。 ︱︱こんなのは、逆ギレもいいところだ。それでも俺は、どこま でも自分勝手に、彼女に要求を押し付ける。 ﹁⋮⋮だめだよ、サラサさん。絶対、どこにも行かせない。俺がい る限りは﹂ ﹁ひ、ヒロトちゃん⋮⋮だめっ⋮⋮私は、汚れて⋮⋮﹂ ﹁汚れてなんてない。ハインツさんも、きっとそう思ってなかった ⋮⋮純粋にサラサさんを、綺麗だと思ってたんだよ﹂ もう、遠い昔に思える、赤ん坊だった頃のこと。 サラサさんがログでしか確認できないほど小さな声で、夫に申し 訳ない、と言っていたこと。 ︱︱そのときは、俺もそう思っていた。ハインツさんに悪いこと をしていると思った。 これからは、俺は、それを後ろめたいと思うことさえもしなくな る。 ハインツさんよりも、サラサさんのことを大切にする。手に入れ たいと思ってしまったから。 俺の腕の中のサラサさんの抵抗が、次第に弱まっていく。 こうやって抱きしめられるくらいに身体は大きくなった。本当に、 そうでなかったら、俺は⋮⋮こんなふうに、サラサさんを引き止め られていただろうか。 大人にならなければ、大人としては見てもらえない。例え﹃カリ スマ﹄があっても、男としては見られない。けれど、今は違う。 1622 ﹁⋮⋮こんなこと言ったら、笑うかもしれないけど。俺がいたから、 サラサさんは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それは⋮⋮私から、言わなくては、いけないんですか⋮⋮?﹂ 小さなころの俺に話しかけるとき、サラサさんは丁寧な言葉を使 っていた。それは、レミリア母さんの手前もあったのかもしれない けど⋮⋮懐かしい響きで、胸が温かくなる。 ﹁⋮⋮こんなに年を重ねている私が、あなたみたいな若い人を意識 しているなんて。本当は、あってはいけないことです﹂ 彼女がそう思ってくれていることを、俺は心のどこかで期待して いた。 彼女が見せる優しい仕草が、家を訪ねてきて、俺のところにやっ てくる彼女の嬉しそうな顔が、それを意味していると思ってしまっ た。 俺に︱︱子供に優しいのは、彼女の性格だろうと思いながら。 ﹁サラサさんは初めて会った時から、何も変わってないよ。ハーフ エルフも、長命な種族だからかな﹂ ﹁⋮⋮い、いえ⋮⋮やっぱり、だめ⋮⋮ヒロトちゃん、私は貴方に 求められるほどのものは、何も持っていないの。リオナのお母さん として、これからも⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それだけでいいと思えなくなってる。こんなこと言ったら、 ハインツさんに悪いけど⋮⋮どこにも行かせたくないっていうのは、 そういうことだよ﹂ サラサさんがこの町を離れてしまったら。そんなふうに想像する だけで、耐えられないほどだ。 1623 奴隷の首輪を外してから、サラサさんと接する機会が減って、そ の間も俺はずっと、彼女に会いたいと思っていた。授乳なんてしな くてもいい、元気でいてくれたら、それだけで。 でも、こうして抱きしめてみて、これ以上ないほどに理解してし まった。 サラサさんが一人の女性として、どれだけ魅力的なのか。ハイン ツさんが罪を償ってでも彼女の愛を手に入れようとした理由が、今 なら分かる。それこそ、どうしようもないほどに。 胸板に押し当てられた2つのロケットのような弾頭が、柔らかく 変形している。触れ合っている部分を見やると、サラサさんは耳ま で赤くなる︱︱尖った耳の先まで。 ﹁⋮⋮こんなおばさんでも、いいんですか? 私⋮⋮今年で、13 1歳になります﹂ ﹁おばさんって感じが全然しないんだけど⋮⋮それって、人間に換 算したらどれくらいになるのかな?﹂ ﹁それは⋮⋮エルフは成人してから、ずっと同じ姿なんです。です から、二十歳くらいですね⋮⋮﹂ やはり思ったとおり、サラサさんは俺が会った当時から、全く姿 が変わっていないっていうことだ。 ﹁⋮⋮今の俺が、14歳くらいにあたるみたいだから。サラサさん との歳の差が、すごく少なくなっちゃったな﹂ ﹁い、いえ⋮⋮それでも、117歳も離れているのは事実です。若 い人にはかないません⋮⋮ウェンディさんや、モニカさん、聖騎士 1624 様のほうが、本当の意味でヒロトちゃんに近いですから⋮⋮﹂ 自分自身の年齢の感覚としては、サラサさんは本気でおばさんだ と思ってるのかもしれない。というよりは、俺から見て﹃友達のお 母さん﹄であるという感覚が強いんだろう。 ﹁⋮⋮でもサラサさん、俺の腕からは、もう逃げる気はないみたい だね﹂ ﹁あっ⋮⋮﹂ 俺に抱きしめられたままで話をしていたサラサさんは、はっと目 を見開いてから、困ったような顔をする。 こんなに可愛い女性だったのか、と改めて思う。大人の魅力ばか りを感じていた赤ん坊の頃とは違って、そのすらりとしていながら も小柄で華奢な身体は、腕にすっぽり収まってすごく抱き心地がい い。 ﹁⋮⋮ヒロトちゃん。こんなに大きくなってしまったんですね⋮⋮ もう、立派な男の人です﹂ その優しい目を見て、俺はとても懐かしいと思った。 俺が赤ん坊のとき、サラサさんに甘えるのをためらっているとき に、サラサさんがすごく頑張って俺を説得していたことを思い出す。 ﹁今は⋮⋮リオナも寝てるから。昔みたいに、少しだけ甘えさせて もらってもいいかな。サラサさんが、良かったらだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮はい。いっぱい甘えてください、昔のように⋮⋮﹂ もう、やつれてどこかに姿を消そうとしていたサラサさんはどこ にもいなかった。 1625 俺に初めて出会った頃、そして幼い頃にいつも優しい笑顔を向け てくれたサラサさんがそこにいた。 ︱︱そして、俺は彼女の腕に抱かれて、昔を思い出して甘えた。 すると、サラサさんのスキルの変化を現すログが流れてくる。 ◆ログ◆ ・︽サラサ︾の﹃母性﹄が1上昇した! マスタースキル﹃抱擁﹄ を獲得した。 ・︽サラサ︾の﹃奴隷﹄スキルが1下がった。﹃奴隷﹄スキルが消 失した! 俺を抱きしめ、安心させるという行為自体が、﹃母性﹄の経験値 を上げる。 マスタースキル︱︱スキルが100ポイントになった時に覚える それは、他のスキルを獲得したときとは違う表示をされる。 時々使ってきた﹃選択肢﹄も、本来は個人の運命を決める強烈な マスター スキルで、マスタースキルに該当する。スキル200で覚えるスキ ルは、何と呼ばれるのだろう⋮⋮達人の上を、この異世界ではどう 称するのか。それこそ、魔王、そして女神に届く力を得られる日が 来るのだろうか。 サラサさんの好感度は高く、﹃カリスマ﹄も効いているので、俺 は彼女のスキルを見せてもらうことができる。﹃抱擁﹄というスキ ル︱︱それがどのようなものなのか、俺はこの目で確かめた。 ◆スキル詳細◆ 1626 名称:抱擁 習得条件:母性100 説明: 最大マナの3割を消費して、使用した対象の神経系状態異常を全 て回復する。 使用者と対象の友好度が最大であるとき、または育成行為を行っ た経験があるとき、一定時間の間、以下の付加効果が生じる。 ・スキル経験値の獲得量が増える。 ・全ての状態異常から保護する効果を得る。 また、敵意のある相手に使用した場合、敵意を軽減、あるいは消 失させる。 制限: ・一日に、子供がいる数だけ使用できる。 ・使用できる対象は、使用者に子供がいる数だけ指定できる。 子供を持たない場合は2名までとなり、それを下限とする。 対象者は友好度が高い順に決定される。 使用方法: ・条件を満たした対象に接触し、抱きしめることで発動する。 ・一定時間の間抱きしめ続ける。 ・抱きしめた時間によって、付加効果の発動時間が決定される。 ︵⋮⋮このスキル内容は⋮⋮抱擁って、シンプルだけど、確かに母 性を象徴する行為の一つかもしれないな。そこに、こんな効果が付 1627 随するなんて⋮⋮︶ 母性が100の人との友好度が最大だったら。そして、育成行為 ⋮⋮つまり﹃採乳﹄などを行った経験があれば、﹃抱擁﹄を受ける ことで、スキルが上がりやすくなり、厄介な状態異常を持つ敵との 戦闘でも有利になる。 照明の油が切れてきて徐々に炎が小さくなり、部屋が薄暗くなる。 魔術で明るくすることもできるが、今はこの暗さがちょうどいいよ うに思えた。 ﹁⋮⋮サラサさん。え、えっと⋮⋮何を甘えてるんだ、って思うか もしれないけど⋮⋮﹂ ﹁はい⋮⋮どうしましたか?﹂ ﹁⋮⋮あ、あの⋮⋮俺のことを、もう一度抱きしめてくれないかな。 少しの間でいいんだ﹂ ﹃抱擁﹄の効果をどうしても見てみたい。終わったあとはマナポ ーションを飲んでもらったほうが良さそうだが、消費マナが3割な らそこまで疲労はしないだろう。 ﹁⋮⋮少しの間では、私の方が、離してあげられないかもしれませ ん。それでも、してもいいんですか⋮⋮?﹂ ﹁っ⋮⋮う、うん⋮⋮サラサさんが、いいなら⋮⋮ふもっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽サラサ︾の﹃抱擁﹄を受けた。 ・友好度ボーナス! 友好度が最大値のため、効果が上昇補正され 1628 た。 ・特定経験ボーナス! ﹃授乳﹄の経験によって、効果が上昇補正 された。 服を着直してから抱きしめてもらえたら︱︱そう思っていたのに。 サラサさんは服をはだけたまま、頭を抱えるようにして抱きしめ てくれた。 ︵⋮⋮抱擁⋮⋮顔が柔らかい⋮⋮じゃなくて、何か、何もかもが許 されて⋮⋮受け入れてもらえた気分になるな⋮⋮︶ ﹁こうしていると私も心地良いです⋮⋮ずっと、ヒロトちゃんにこ うしてあげたいと思っていたんですね、私は⋮⋮﹂ 抱擁が終わると、サラサさんはすごく満ち足りた顔をしている。 上半身が裸のままなんだけど⋮⋮直視するにはあまりにも目に毒だ。 ﹁サラサさん、本当にありがとう。風邪を引いてしまうから、服を 着てください﹂ ﹁⋮⋮丁寧なことばは、使わないでください。大きくなっても、私 にとってヒロトちゃんは、可愛いヒロトちゃんです﹂ ﹁ありがとう。もう、出て行っちゃだめだよ。俺たちと、一緒にい てくれ﹂ ﹁⋮⋮はい⋮⋮っ﹂ サラサさんはもう一度泣いて、そしてしっかりと返事をした。 彼女をもう一度抱きしめて、俺は彼女が泣き止むまで待った︱︱ はだけた服を着直させて、その背中を撫でながら。 1629 ◆◇◆ サラサさんが落ち着いたあと、リオナがもぞもぞと起きてきて、 久しぶりにお母さんとお風呂に入ると言い出した。 そんなわけで、俺は久しぶりにサラサさんの家の風呂を沸かし︱ ︱リオナが帰らせてくれなかったので、一緒に風呂に入ってしまっ ていた。ソニアと入る約束をしていたが、彼女はもう寝ているので 明日以降に延期して大丈夫だろう。母さんが二人で入ろうと待って いることは、さすがにないだろうし。 しかし今の身体でリオナと一緒に風呂に入るのは、何か遠慮しな くてはならない感じが果てしない。 ﹁ヒロちゃん、からだがおっきくなってる⋮⋮お母さん、ヒロちゃ んすごいよね、かっこいいよね﹂ ﹁⋮⋮ええ。見ていると、どきどきしてしまいますね﹂ ﹁リオナもどきどきする⋮⋮なんでだろう。ねえヒロちゃん、教え て?﹂ ﹁待っ⋮⋮か、隠さずに出てくるなっ、ほんとそれはっ⋮⋮﹂ リオナも恥じらいを知らないわけではないのに、こういう時に大 胆なのは心臓にとても悪い。 ﹁⋮⋮私にも教えてください、ヒロトちゃん﹂ ﹁さ、サラサさんっ⋮⋮リオナと一緒にならないでください⋮⋮う わっ!﹂ 1630 ﹁きゃっ⋮⋮!﹂ 身体に布を巻いていたサラサさんだが、その胸を完璧に抑制する ことなどできず、ばるるん、と解放されてしまった。残像がすごい ことになって、乳房はこんな動きをするのかと感動してしまう。 ﹁さ、サラサさん、今は隠してください。お願いします⋮⋮!﹂ エルフ耳を隠さなくなったサラサさんは、緑がかった金色の髪を 耳にはさむようにかきあげながら、床にわだかまった布を持ち上げ る。そして濡れてしまったのを見せてから、こちらを見てくすっと 笑った。 ﹁これで隠してしまうと、透けてしまいますからね。そうですよね、 リオナ﹂ ﹁うん! ⋮⋮あれ? ヒロちゃん、首のところ、赤くなってる⋮ ⋮﹂ ︵しまっ⋮⋮ゆ、ユィシアのつけた痕が残ってるのか⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮いけませんね、ヒロトちゃん﹂ ﹁ふえ? ヒロちゃん、いけないことしたの?﹂ ﹁い、いや、その⋮⋮リオナも知ってる友達と、何というか⋮⋮﹂ ユィシアはリオナを乗せたこともあるわけで、友達と言えなくは ない。しかしいずれ、取り繕ってもすべてが白日のもとに晒されて しまいそうだ。 ﹁ふーん⋮⋮まあいっか。お母さん、ヒロちゃんも三人でおふろ入 れるかな?﹂ 1631 ﹁ええ、入れますよ。ヒロトちゃん、リオナをひざの上に載せてあ げてくれますか?﹂ ︵さ、サラサさん⋮⋮俺にどんな試練を与えるつもりなんだ⋮⋮!︶ ﹁ヒロトちゃんは、からだは大人ですから。リオナを抱えてあげて くれますよね﹂ ﹁⋮⋮ヒロちゃんのおひざに? 乗ってもいいの?﹂ ︵不思議そうな顔をしないでくれ⋮⋮サラサさん、やっぱり怒って るのか⋮⋮?︶ ユィシアのキスマークを見てから、サラサさんは微笑んでいるが、 何か不穏なオーラが揺らめいて見える⋮⋮彼女と他の仲間たちとの 関係は、俺が時間をかけて取り持つ必要がありそうだ。たぶんサラ サさんは、嫉妬を顔に出したりはしないのだろうけど。 ︱︱そしてこの日の夜、リオナは俺の膝の上に乗って入浴したこ とで、女の子としての意識がレベルアップすることになる。 何か思春期に入るのを後押ししてしまったみたいで、さらにサラ サさんが入浴後にノーブラでゆったりした服を着たりして、もうど うしていいのか分からない。 ﹁⋮⋮お母さん、ヒロちゃんを見るとどきどきするの。しんぞうが、 痛い感じなの⋮⋮私、死んじゃうのかな?﹂ ﹁大丈夫ですよ、深呼吸をすれば治ります。すぅ⋮⋮はぁ⋮⋮どう ですか?﹂ ﹁うん、ちょっとだけ⋮⋮あ、ヒロちゃん、ばいばい﹂ 1632 ﹁ああ、おやすみ。サラサさんも、今日はゆっくり休んでください﹂ 朗らかに挨拶はしたものの、ハインツさんのことを考えると、俺 は彼に憎まれても仕方ないんじゃないかとは思う。 それでも、サラサさんが笑ってくれるようになったと思う気持ち に、迷いはない。 自分が人から、大切なものを奪う時が来るとは思っていなかった。 それだけに、覚悟はしなくてはならないと思う。 ︱︱もしハインツさんと会う日が来たとき。俺は⋮⋮彼と、戦う ことになるんだろうか。 家に向かって歩きながら、俺は空を仰いだ。 俺はハインツさんが相手でも、容赦などできないだろう。サラサ さんが心を許してくれたのは、俺が彼女の事情も何もかも含めて、 彼女を欲しいと思ったからだと思うから。 ﹁人妻にまで手を出してしまうなんて⋮⋮ギルマス、どこまで行っ てしまうんですの?﹂ ﹁わっ⋮⋮み、ミコトさん。もしかして、見てたのか⋮⋮?﹂ 普段着姿のミコトさんと名無しさんがいる。ウェンディの姿はな い。 ﹁ウェンディさんはもう休んでいますわ。お師匠様のところに行き たいと言われていましたけれど、寝る子はよく育つということです わね﹂ ﹁ミコトもよく寝るべき年頃だけどね。すぐヒロト君のことを見に 行こうとするんだから﹂ 1633 ﹁⋮⋮仕方ありませんわ。ギルマスの近くにいないと、その⋮⋮ふ たりになるチャンスがありませんもの⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ミコトさん﹂ 彼女は黒く長い髪を今は降ろしている。見るからに着物が似合い そうな姿だ︱︱和風美人というのかな。 二人ともお風呂あがりに来てくれたみたいで、石鹸の匂いがした。 名無しさんはフードを被っていないので、肩の辺りで長さをそろえ た髪型が見える状態で、いつもと違った印象を受ける。 ﹁ウェンディやモニカと、どんなふうに過ごしたか⋮⋮それをミコ トに話してしまったんだけど。ヒロト君は、あの頃みたいにするつ もりはあるのかな?﹂ ﹁っ⋮⋮え、えーと⋮⋮その⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮待っていると、ギルマスといられる時間がいつになるか分か りませんもの。ですから、私は名無しさんと二人一緒でいいですわ﹂ 二人は仲がいいとはいえ、一緒に俺と仲良くしたいとは⋮⋮嬉し いけど、さっきまでサラサさんとリオナと風呂に入って、次はこの 二人が待っててくれるなんて、これはハーレムって言わないだろう か。 ﹁そんなわけで⋮⋮久しぶりに、いいかな。モニカさんの家に行く ことも考えたけれど、急に行くのも悪いからね﹂ ﹁そんなことを言って、人数が増えると時間が減ってしまうと思っ ていますわよね?﹂ ﹁⋮⋮それは否めない。触れてもらう時間が短いと、逆に物足りな くなってしまいそうだからね⋮⋮﹂ ︵そうだよな⋮⋮中途半端が一番良くない。じっくり二人と向き合 1634 わないと︶ 家の裏に連行される俺。たぶん俺が行こうとしてるのは、文字通 りの﹃天国の階段﹄だろう。 二人が満足するまで、俺はスキルエネルギーの授受を行う。忍術 も法術士も、順調なペースで成長を続けていた。 1635 第四十八話 母と妹/領主の館/氷の乙女 マナの値が大きい名無しさん、ミコトさんが相手の場合、スキル 上げも必然的に長くなる。俺の流儀としては、マナの半分までが目 安である。それくらいだと疲労もさほど響いてこないし、そこまで 行き過ぎた空気にもならず、落ち着いたままで終えることができる。 ﹁ありがとう、二人とも。忍術は元からかなり上がりにくいみたい だけど、法術スキルはまだ上がりやすいみたいだ﹂ ﹁シノビはクラスチェンジの難易度が高いですし、元からスキル経 験値の必要量も多いからですわね、きっと﹂ ﹁法術士はマスターして、早く上位職になりたいところだけど⋮⋮ まだ法術スキルは70にもなっていない。ミコトと比べると、マギ アハイムに来てからの稼ぎが甘くて申し訳ないね⋮⋮﹂ パワーレベリング 名無しさんは仮面のこともあるが、元からログイン時間が俺とミ コトさんと比べれば少なかったので、PLしてレベル上げを支援し、 カンストまで持って行った。 ﹁ミコトさんは、どうやってスキルを上げたの?﹂ ﹁基本的にはMOB狩りですわね。単調作業は得意ですの⋮⋮とい っても、実際に身体を動かして魔物を倒すのは、やはり骨が折れま したわね。スキル50で魔物を千体倒してもスキルが上がらなくな ったので、各地のボスを狩ってレベルとスキルを上げましたわ。こ の世界の人たちは、ボスの一部が定期的に復活すると知らない人が 多いんですの﹂ ︵そうか⋮⋮今のところ、俺はボスが湧くダンジョンの周回はして 1636 ないな。採乳の効率が良すぎて、必要がなかったわけだけど︶ ソロでボスを倒すのは不可能ではないが、基本はパーティで倒す 仕様になっていた。ボスでレベル上げをしようなんて考えて実行で きるのは、ミコトさんくらいだろう。しかし名無しさんも、そこま で極端なレベル上げに慣れていないだけで、プレイヤーとしてのス キルが俺たちに比べて大きく落ちるわけではない。彼女はどちらか というと、集団戦を得意とするタイプだ。 名無しさんはゲーム時代のレベルカンスト時期はギルドで三番目 だったし、サーバー全体でも上位にいた。今の彼女は効率のいいレ ベル上げができてないだけで、ゲーム時代の法術士ランキングでは 日本で十位に入っていた。﹃麻呂眉﹄って字面を見ると気が抜ける と言われていたが、ギルド同士の対戦では強烈な範囲魔法でキル数 を稼ぎ、紙装甲のソーサラーなのにほとんど倒されることがなかっ た。彼女は戦況を読み、接近されない立ち振舞いに長けていたとい うことだ。 ダメージディーラー ミコトさんは前線と裏周りの両方をこなし、絶大な貢献をし続け たDDで、ギルドバトルのMVPを数多く獲得している。俺がその 純粋な強さに嫉妬した唯一のプレイヤー、それが彼女だ。 ふたりは今でも、俺にとっては憧れの人物だ。フィリアネスさん とは違う意味だが、どちらをより尊敬しているとも言い切れない。 何よりも、コミュ難の俺の悪い部分を引き出すことなく、ゲーム の楽しさを教えてくれたことに感謝している。ギルドを作る前、三 人で冒険していた時のことは、今でも忘れられない思い出だ。 ﹁⋮⋮でも、こうしてスキル上げを終えて別れるのも寂しいですわ ね。ギルマス、ご迷惑でなければ、近いうちにお家に泊まらせてい 1637 ただけませんか?﹂ ﹁う、うん。いいよ。母さんには俺から話しておくから﹂ ﹁そういうことなら小生も⋮⋮と言いたいけれど、ウェンディとモ ニカさんも泊まりたいと言い出しそうだね。これは、賑やかなこと になりそうだ﹂ 名無しさんは楽しそうに言う。口元だけでも感情は読み取れる︱ ︱しかし、その仮面の下にある素顔への興味は尽きない。 ﹁ああ、そうだ。マナが減ってると思うから、ポーションを渡して おくよ﹂ ﹁私は大量に持っているので、大丈夫ですわ。名無しさんはもらっ ておいた方がいいですわね、術士ですし﹂ ﹁小生も在庫はあるけれど、補充させてもらえるとありがたいな。 代わりに、小生からもプレゼントをあげよう﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽名無し︾に﹁交換﹂を申し出た。 ・あなたは︽名無し︾に﹁マナポーション﹂10個を渡した。 ・あなたは︽名無し︾から﹁うさ耳バンド﹂を受け取った。 ﹁っ⋮⋮な、名無しさん。消費アイテムに装備品は見合ってないん じゃないか? しかもレアそうだし﹂ ﹁こういうものもあるよ、と教えておこうと思ってね。萌え装備の 一部は、希少流通品として、一点もので店に置いてあったりするみ たいだ。私も見た時は目を疑ったけど、ゲームと違ってプレミアが ついてないから、すごく安くてね。思わず買ってしまったよ﹂ ﹁なるほど⋮⋮自分で素材を集めて作る必要があると思ってたけど、 そうでもないのか﹂ 1638 ﹁マユさんは、ヒロトさんにうさ耳装備の残りを集めてもらって、 仮面を外したあとで一式装備したいと。そういうことですのね?﹂ ﹁そ、そんなことは別に考えていないよ。ヒロト君がどうしてもと いうなら、考えるけれどね。我らがギルマスは、その前にうさ耳バ ンドの利用法を見つけてくれるだろう。好きに使っていいんだよ﹂ コスプレにしか使えない気がするが⋮⋮うさ耳か。みんな似合い そうだけどな。敢えてミコトさんにつけてもらうというのも、黒髪 のきれいな女の子にうさ耳はしっくりきそうでとてもいいと思う。 ふと気づくと、名無しさんとミコトさんが、少し切なそうな目を して俺を見ていた。スキル上げを終えて別れるのが寂しいと言って いたけど、そういうことみたいだ。 ﹁⋮⋮マナが回復してくると、いけないね。もう少し一緒にいたい と思ってしまうから﹂ ﹁ギルマス⋮⋮マナポーション一本分だけ、延長しませんこと?﹂ ミコトさんは俺の前に胸を差し出すように、腕を上に半分外す。 そうすると、むにゅっと柔らかそうに下側がはみ出す︱︱こういう 見せ方が一番魅惑的だと思うのだが、それはミコトさんも分かって しているようだ。 俺は両手の人差し指で、胸の下側から持ち上げるように触れる。 手のひらを触れさせなくても、それだけでエネルギーをもらうには 十分だった。 ◆◇◆ 家に帰って自室に戻ると、ソニアが俺のベッドで寝ていた。寝息 1639 が静かで、まるで自分の定位置とでも思っているかのようだ。 俺が帰ってきたことに気づいた母さんが部屋にやってきて、ソニ アを見て笑う。 ﹁この子、いつもこうなのよ。おにいたん、おにいたんっていつも 言っててね。お父さんのことも好きみたいだけど、あんまりかまっ てもらえないって嘆いてるわ﹂ ﹁父さんも苦労するなあ⋮⋮いや、十分すぎるほど仲良しには見え たけど。ソニアも父さんになついてるから、甘えてるんだと思うよ﹂ ﹁ふふっ、それはそうだけど。ヒロト、ソニアのことだけど⋮⋮ヒ ロトがいないうちにね、この子﹃おにいたんを私が守る﹄って言っ てたのよ。何か心当たりはある?﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ 俺はソニアに、自分が8歳にしてどんな立場にあるか、どんな経 験をしたかなんて教えてはいない。母さんと妹を助けるためにユィ シアの涙石を取りに行ったことも、話してはいない。 ﹁⋮⋮たぶんこの子は、本気で言っているんだと思うのよ。まだ小 さいけど、私は母親だからわかるの﹂ 妹のステータスは、俺から見ることができない︱︱そこに隠され た情報が、ソニアが一人で森に行くことを可能にしている。 もう、見られないから仕方ないと放置してはいられない。﹁鑑定﹂ の上位スキルを何とかして手に入れ、ソニアのステータスを確認し なければ⋮⋮。 ﹁⋮⋮母さん、本当は父さんとも一緒に話すつもりだったけど。ア ッシュ兄ちゃんの商隊を公国まで送っていく途中に、色んなことが 1640 あったんだ﹂ ﹁⋮⋮しばらく、秘密にしてるのかと思った。今、話してくれるの ね⋮⋮それは、ヒロトが大きくなったことにも関係があるの?﹂ 母さんは少し緊張している様子だけど、微笑んで俺を見ている。 息子の俺が何かを秘密にしても、明かしてもいいけど、話してく れるなら嬉しい。そういう顔だ。 ﹁お父さんは、ヒロトが帰ってきてくれただけで嬉しいって言って たけれどね。お父さんには、ミゼールを離れることができない理由 があるの⋮⋮そのことを、ヒロトは知っていてもおかしくないって 言っていたわ。あなたに、大切なものを見せたことがあるからって﹂ ︱︱俺がまだ0歳だったとき、フィリアネスさんに抱えられ、家 の地下道から、魔剣の安置されている教会の地下へと向かった。そ して、父さんは自分が守っている魔剣を見せてくれた。 そのときのことを、父さんは母さんに話していた。隠すことでも ないのならば、父さんが魔剣の護り手であることも全て知って結婚 し、ここで暮らしてきたということだ。 ﹁ヒロトは赤ちゃんだったけど、私もきっと、その頃のことを全部 覚えてるんじゃないかって思うわ。ヒロトはびっくりするほど大人 しくていい子だったもの。夜泣きもしなかったし。うちの子は天才 じゃないかってお父さんは言ってたけど、お母さんも本当はそう思 ってたのよ﹂ ﹁⋮⋮母さん﹂ スキルのことを、自分の素性を、打ち明けるなら今しかないので はないかと思った。 1641 ︱︱だけど、俺は母さんの中では、純粋に母さんの息子だという だけでいたかった。真実を伏せることが、嘘をつくことと同じだと しても。 ﹁⋮⋮くー⋮⋮くー⋮⋮おにいたん⋮⋮そにあがまもる⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ほ、本当に言ってる⋮⋮﹂ 寝言だけど、確かにソニアは俺を守ると言った︱︱そしてその頬 に、涙が伝っていく。 それを見た母さんはソニアに近づき、頬をそっと拭って、柔らか い髪を撫でた。 ﹁起こしちゃうといけないから、母さんの縫い物部屋に行きましょ うか。いらっしゃい、ヒロト﹂ ﹁うん、わかった﹂ ﹁⋮⋮大きくなっても素直に返事してくれるのね。やっぱりあなた は、お母さんのヒロトよ。もう少しだけ、お母さんの前では可愛い 坊やでいてね﹂ ︱︱やっぱり母さんは、寂しかったんだ。俺が、急に大きくなっ てしまったことが。 大きくなった俺を変わらず受け入れても、一緒にいるはずだった 時間を失ったことに変わりはない。 ﹁⋮⋮と言ってはみたものの、お母さんより大きいんだから、もう 子離れしないとだめかしらね﹂ ﹁ははは⋮⋮母さん、切り替えが早いね﹂ ﹁声はまだそんなに変わってないけど、少し低くなったかしらね。 のども出てきちゃって﹂ 1642 母さんは俺の喉に触って、喉仏を確かめる。確かに俺は、成長し た姿に相応の声に変わっていた。 ︵⋮⋮うーむ。母さん、改めて見ると結構クリスティーナさんに似 てるな⋮⋮︶ ﹁あ、あの、母さん。俺、母さんの妹さんに会ったんだ。クリステ ィーナさんって⋮⋮﹂ ﹁えっ⋮⋮く、クリス? あの子に会ったの!?﹂ 言いかけたところで、母さんは驚いて目を丸くする。 ﹁んゅ∼⋮⋮むにゅにゅ⋮⋮﹂ ﹁あっ⋮⋮ごめんねソニア、騒がしくして。お母さんたち、ちょっ とお話してくるわね﹂ 母さんはソニアの毛布をかけ直す。そして少し慌てた様子で、部 屋に俺を連れて行った。 父さんと母さんは一緒の寝室で寝ているが、父さんは書斎を別に 持っていて、母さんも趣味の部屋があり、そこで俺たちの子供服を 縫ったりしている。俺が連れて行かれたのはその縫い物部屋だった。 ︵ここ、入ったことなかったからな⋮⋮機織り部屋は見たことある けど。こんなふうになってたのか︶ ﹁ヒロト、それで、クリスとどこで会ったの?﹂ ﹁あ⋮⋮え、ええと。母さん、怒らないで聞いて欲しいんだけど⋮ ⋮﹂ ﹁怒らないから言ってちょうだい。クリスは赤騎士団の団長になっ 1643 たって手紙が来ていたけど、ヒロト、もしかして騎士団に入ろうと したの?﹂ ずっと隠してきたことを、どれくらい話せばいいだろうか。 俺がミゼールを領地としてもらおうと考えていること。それは魔 王を撃退したことによる、公王陛下からの褒章であること⋮⋮そし て、魔王リリムがミゼールを狙うかもしれないこと。 ︵⋮⋮ひとつも、伏せることはできないか。これ以上秘密にしたら、 母さんを裏切ることになる︶ ﹁そんなに緊張しなくていいのよ。母さんはヒロトが何をしてたっ て、今さら驚かないわ。やんちゃしたことを怒るかどうかも、話を 聞いてから考えてあげる﹂ ﹁⋮⋮ありがとう、母さん。俺は⋮⋮﹂ 何から話せばいいのか。長い長い話になるだろうと思った︱︱ど うしても話せない部分以外、全てを母さんに伝えなければならない のだから。 ◆◇◆ 俺が子供の頃から戦う力を持っていたこと、ユィシアを味方につ け、公女ルシエを護衛し、魔王リリムと戦ったこと︱︱その全てを 俺は話した。俺と一緒に戦ってくれた、仲間たちのことも。 ﹁⋮⋮クリスと戦って、実力を認められるなんて。あの子も天才と 言われた騎士なのに⋮⋮ヒロト、あなた本当に強いのね。お父さん の若い頃よりも強いんじゃないかしら﹂ 1644 ﹁そうかもしれない。でもそれは関係なく、俺は父さんを尊敬して るよ。それはずっと変わらない﹂ ﹁ふふっ⋮⋮お父さんが聞いたら、きっと身体を鍛え始めると思う わ。もともとヒロトが強いっていうこと、あの人は気づいてたのよ﹂ ﹁そ、それはそうだよね⋮⋮父さんが気づいてもおかしくないこと は、いっぱいあったし﹂ ﹁それは私もね。あなたが助けてくれたんだと知った時から、うす うす分かってはいたのよ。数年前はまだ赤ちゃんで、私のおっぱい を吸ってたヒロトが、そんなふうになるなんてね⋮⋮つい、昨日の ことみたいに覚えてるわ。あなたは私を呼んで泣くんだけど、おっ ぱいを吸おうとすると恥ずかしそうにするの﹂ ﹁そ、そうだったっけ? 母さんにはかなわないな⋮⋮﹂ ﹁これからもことあるごとに言い続けるわよ。ヒロト、気がついた ら私の知り合いのほとんどからおっぱいをもらってるんだもの。あ なたが目当てで来てる人も多いから、お母さん心配だったのよ。こ のまま大きくなったら、悪い女の人にだまされたりしないかって﹂ ︵俺を疑ってる感もあったけど、そういう気持ちもあったのか⋮⋮ ごめん母さん、好き放題して︶ ﹁今のところ、そういう心配はないよ。こんなタイミングで言うの もなんだけど⋮⋮俺、結婚したいと思ってる人がいるんだ﹂ ﹁け、結婚⋮⋮? だめよ、そんなのまだ早いわ。あなたはまだ八 歳なんだから﹂ 今まで落ち着いて話していた母さんが、顔を赤くして動揺する。 今までの感じだと賛成してくれそうな感じだったのに、この反応は ちょっと意外だった。 ﹁リオナちゃんだって、まだ結婚は早いって言うと思うわよ。ご両 1645 親の了解も得ないといけないし﹂ ﹁い、いや、今言ってるのは、リオナのことじゃないんだけど⋮⋮﹂ ﹁だめよ、リオナちゃんはヒロトしか見てないんだから。あの子を もらってあげなかったら、ずっと一人でいると思うわよ。お母さん はそういう無責任なことは許しません﹂ ︵お、俺しか見てないって⋮⋮やっぱりそうなのか⋮⋮な、なんか 猛烈に恥ずかしくなってきた⋮⋮︶ ﹁ほら、リオナはそこまで思ってないって顔してる。ヒロトはリオ ナちゃんに素直にしなさすぎよ。遊びに誘ってくれたときも逃げま わって、見つかったときは﹃やれやれ﹄みたいな顔しちゃって。あ んなに可愛くて、ヒロトのことを一番に考えてくれる子はいないわ よ。母さんずっとそう思ってたわ﹂ ﹁か、母さん⋮⋮今日はずいぶん、いっぱい話してくれるんだね﹂ ﹁だってヒロト、母さんと沢山おしゃべりなんてしてくれなかった もの。お母さんはヒロトと話したかったのに。ときどき仕事が休み のときは、外で遊ぶんだって出かけちゃって⋮⋮﹂ 母さんは滔々と話し続ける。俺は気が付かなかったけど、母さん は俺が帰ってくるまで、少しお酒を飲んでたみたいだ。 俺のことを一番に理解してくれて、何でも受け入れてくれる。そ れは母さんが大人で、思ってること全てを言わずに居てくれただけ なんだ。 ︵俺は母さんの話をもっと聞かなきゃいけないな⋮⋮これからでも、 取り返せるかな︶ ﹁いい人を見つけて結婚するにしても、陛下から領地を賜った後に しなさい。そのときは、あなたと花嫁さんの衣装は私に作らせてね。 1646 結婚式の衣装を作ったことはあるから、任せてくれて大丈夫よ﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮そうか、結婚するとなったら、式を挙げない といけないよな。フィリアネスさんは、侯爵家の人だし﹂ ﹁待ってヒロト、今なんて言ったの? フィリアネス様⋮⋮あのフ ィリアネス様が、ヒロトの恋人⋮⋮?﹂ 母さんは全く信じられないという顔をする。それはそうか⋮⋮い かに気に入られてると言っても、俺が赤ん坊の時に助けてくれた人 と結婚するなんて、普通なら考え難いところだろう。まして、フィ リアネスさんは公国最強の聖騎士なのだから。 だけど、普通は信じられないことでも現実だ。だから俺は、もう 一度念を押す。 ﹁⋮⋮子供の頃から憧れてたんだ。フィリアネスさんも、俺のこと を男として認めてくれたんだよ﹂ ﹁男として⋮⋮確かに今のヒロトなら分からないでもないけど⋮⋮ お父さんも言ってたけど、すごく男らしくなったものね⋮⋮お母さ ん、ちょっとドキドキしちゃったもの。かっこよくなってほしいな と思ってはいたけど、ここまでになるなんて思ってなかったから﹂ ﹁そ、それは言い過ぎだけど⋮⋮そう言ってもらえるのは嬉しいよ﹂ 母さんはいったん黙って、じっと俺の顔を見る。な、なんだろう ⋮⋮改めて見られると落ち着かない。 ﹁⋮⋮お母さんはフィリアネス様の気持ち、ちょっと分かるわ。変 な意味じゃなくて、私が今のヒロトと独身のころに会ってたら、ち ょっといいなって思いそうだから。もちろん、私の息子なんだから、 たとえ話ね﹂ ﹁ははは⋮⋮それ、父さんが聞いたら何とも言えない顔をしそうだ 1647 な﹂ 冗談っぽいノリなんだけど、何というか、何というかだ。 母さんの態度が息子に対するというより、話してるうちに、友達 みたいな感じになりつつある。そういう関係の親子も結構いるらし いけど、うちがそうなるとは、我ながら思ってもみなかった。 ﹁祝祭から帰ってきたと思ったら、そこまで話が進んじゃうなんて。 男の子ってどこもこうなのかしら﹂ ﹁自分で言うのもなんだけど、ここまで話が早いのは俺だけじゃな いかな﹂ ﹁本当にねえ⋮⋮アッシュ君とディーン君は、変わってないのよね。 大きくなっても仲良くできてる? 他の子たちも驚いたでしょう﹂ ﹁大丈夫だよ。みんな、俺の中身が変わってないってことは、分か ってくれたから﹂ ﹁良かったわね、ヒロト。友達は大切にしなさい、お母さんも今日、 ターニャたちと話せて嬉しかったわ。モニカからは、いろいろ聞か されちゃったけど。やっぱりおっぱいもらってたのね、昔から﹂ ﹁ぶっ⋮⋮げほっ、げほっ。か、母さん、モニカさんからはどこま で⋮⋮?﹂ 怖いけど聞いてみるしかない。そんな俺を見て母さんはすぐに答 えず、うつむくようにする。 何をしてるのか︱︱と思ったら、母さんは自分の胸に手を当てて、 ぼいんぼいん、と揺らし始めた。 ﹁かっ⋮⋮母さん、それは一体⋮⋮?﹂ ﹁なにって、モニカが今でも出るのなら、私も出そうだと思って。 ヒロト、出たら吸ってみる?﹂ ﹁す、すすっ、吸うわけないよそんな、俺、もうそんな歳じゃ⋮⋮﹂ 1648 ﹁そう? モニカが言ってたけど、ヒロトは女の人の胸が好きで、 触ってると落ち着くんだっていう話じゃない﹂ ﹁い、いや、その⋮⋮そ、それは理由があって⋮⋮いやらしいこと をしてるわけじゃないんだ、本当に﹂ 触れてるだけといえど、普通に考えたらやましいことなので、つ い焦ってしまう。しかし母さんは怒ってはおらず、さっぱりとした 顔で話を続ける。 ﹁ネリスさんもヒロトのことばかり話してたし、もう大変よね。フ ィリアネス様の部下のお二人もそうなんじゃない?﹂ ﹁そ、それはその⋮⋮お、俺も、節操がなさすぎるかなと反省して て⋮⋮母さん、ごめんなさい!﹂ ﹁ううん、いいのよ。ヒロトが赤ちゃんの時に私があまりかまって あげられなかったから、寂しかったのよね。お母さん、ソニアのこ とは沢山かまってあげられてたでしょう。お兄ちゃんもそうしてあ げられたら良かったって思ってたのよ﹂ だから、その分を取り戻すように、今から母さんが俺を甘やかし てくれる⋮⋮いやそれはさすがにアウトだ。 どうしてもそうせざるを得ない、やむにやまれぬ絶対的な事情が ないかぎり、俺は母さんに甘えるのは卒業したのだ。 しかし︱︱俺は、あることに気がついてしまった。 ソニアは正体不明のスキルを持っている。それの出処がどこなの か︱︱母さんから授乳してもらって手に入れた可能性があるのでは ないか。母さんのステータスを詳細鑑定すると、隠れたスキルが眠 ってたりしないだろうか。 1649 ﹁はふ⋮⋮お母さん、少し眠くなってきちゃった。ヒロトもそろそ ろ休む? ソニアが寝てるから、そっとベッドに入ってあげてね﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん﹂ ﹁まだ話したいことはいっぱいあるけど、今日はもう遅いから。ヒ ロトも夜更かししないで、早めに寝るのよ﹂ ﹁分かった。母さんもありがとう、夜中まで話してくれて﹂ ﹁親子でありがとうなんて言わなくていいのよ、お母さんが話した かっただけなんだから﹂ 母さんは苦笑して言う。確かにそのとおりだ、遠慮なんてしちゃ いけない。 自分の部屋に戻ると、ソニアはベッドから転げ落ちそうになって いた。真ん中の方に戻してやって、俺は端っこで寝させてもらう︱ ︱すると。 ﹁⋮⋮おにいたん、そにあといっしょにおやすみするの、いや?﹂ 眠ったとばかり思っていたソニアに声をかけられる。ソニアはこ っちを見て不安そうにしていた。 ﹁⋮⋮い、いやじゃないよ。お兄ちゃんそんな意地悪しないから﹂ ﹁うん⋮⋮よかった⋮⋮おにいたん、くっついて寝てい?﹂ ﹁ああ、いいよ。ソニアは甘えん坊だな﹂ ﹁⋮⋮おにいたん、すき﹂ ︵妹にこんな好かれるようなことしたかな⋮⋮しかし俺の妹ながら ⋮⋮︶ ソニアは横向きになって、俺の胸に無造作に手を置き、うれしそ うに笑う。そして、そのまま目が閉じられ、すうすうと寝息を立て 1650 始める。 そして、守りたいという気持ちが強くなる。魔王がミゼールに目 をつけても、俺は絶対に家族を守りぬく。 ﹁おやすみ、ソニア﹂ ﹁うん⋮⋮おやすみ、おにいたん⋮⋮﹂ 子供の体温は高いというが、今日の夜は涼しいので、ソニアがく っついているとちょうど良かった。 俺はそのまま目を閉じて眠りに落ちた。明日は領主の館に行かな ければ、と考えながら。 ◆◇◆ 西方領はルシエの母親の兄であるラムザス公爵という人物によっ て統治されており、ミゼールの領主はその下に位置する。 ネリスおばばの庵やユィシアの竜の巣はミゼールから西にあるが、 領主の館は北側にある。ミゼールの町の北門の外側に、領主の館が 建てられているのだ。 俺はフィリアネスさん、そして今朝到着したクリスティーナさん、 軍師のメアリーさんと一緒に、領主の館にやってきた。馬に乗るほ どの距離でもないので、徒歩で来ている。 ﹁髪を切るタイミングがなかなかつかめないな⋮⋮今日帰ってから にするか﹂ 1651 ﹁長いのも似合ってるから、身だしなみは問題ないと思うよ。ねえ、 フィル姉さん﹂ ﹁う、うむ⋮⋮似合っていると思うぞ。短くしても、それは凛々し いのだろうがな﹂ 顔を赤らめながら言うフィリアネスさん。クリスさんはいたずら っぽく笑っている︱︱二人とも騎士としての装備をしているのに、 空気はリラックスしていることこの上ない。メアリーさんは静かで、 フードを深く被ったまま、何も言わずについてきている。 俺はここに来るまでに服屋のエレナさんのところに寄って、領主 の館を訪問するための服を用立ててもらってきた。仕立てのいい服 を選んでもらい、コートを羽織っている。 ◆装備品一覧◆ 両手剣:錆びた巨人のバルディッシュ 頭装備:なし 肩装備:なし 上半身:コットンクロース 腕装備:なし 下半身:コットントラウザー 足装備:レザーグリーブ 補助装備:ロイヤルコート コットン装備はゲームでは最弱の部類だが、デザインは悪くない ので、高レベルでも戦いに出ない時は身に着けている人がいたりし た。そこにロイヤルコートの組み合わせは、例えるなら文官っぽい 1652 感じだ。 実はインベントリーに今までの冒険を通して集めた装備が入って いたりはするが、重武装する場面でもないので自重していた。 ﹁ヒロト君、ヒロト君。ねえ、私たちと違ってそれだけしか装備し てないと、心もとない感じしない?﹂ ﹁話し合いをするだけなら、これでいいんじゃないかと思うけど⋮ ⋮クリスさん、何してるんだ?﹂ ﹁なにって、それはナニですよ。んふふ、一回言ってみたかったん だよね∼。はい、君にこれをあげよう!﹂ クリスさんはつけていた腕甲を突然外し始めると、それをそのま ま俺に渡してきた。 ◆ログ◆ ・︽クリスティーナ︾が﹁ルーンヴァンブレイス+2﹂を渡そうと しています。受け取りますか? YES/NO ﹁これって⋮⋮結構いい装備じゃないか? 敵の魔術の威力を軽減 して、自分の魔術の効果を高めるっていう⋮⋮﹂ ﹁見ただけでわかるとはさすがだね。私、これより少しだけいい装 備を持ってるから、ヒロト君にあげるよ。サイズ関係ないようにで きてるから、着けられると思うよ﹂ ﹁あ、ありがとう。じゃあ、早速⋮⋮﹂ ◆ログ◆ 1653 ・あなたは﹁ルーンヴァンブレイス+2﹂を装備した。 ・魔術の効果が上昇した。 ・魔術耐性が上昇した。 ヴァンブレイスとは腕甲、つまり腕まで覆う小手のことだ。この 服で小手を着けると似合わないのではないかと思ったが、コートを 着て小手をつけるとわりと違和感がなかった。 ﹁私のにおいがする装備をつけるヒロト君⋮⋮これでもう、私のこ と忘れられないよねえ。んふふふ﹂ ﹁⋮⋮ひ、ヒロト。後で私の小手も身につけてもらおう﹂ ﹁い、いや、落ち着いてフィリアネスさん。クリスさんは冗談で言 ってるだけだから﹂ ﹁む、むう⋮⋮そうなのか?﹂ ﹁冗談なんて言ってないよ、って言いたいとこだけど、そろそろ騎 士モードにならないとね﹂ 領主の館の門兵が、俺たちを見つけて近づいてくる。いかにも怪 訝そうな顔だ。 ﹁お前ら、さっきから一体何を⋮⋮っ、うぇっ!?﹂ しかしフィリアネスさんとクリスさんを見るなり、いきなりすご い声を出して最敬礼した。 ﹁し、失礼しました! 聖騎士様、この館にどのようなご用向きで しょうか!﹂ ﹁ミゼールの領主にお目通り願いたい。公王陛下から、領主への書 1654 状も預かっている﹂ ﹁か、かしこまりました! 少々お待ちを!﹂ 門兵は館に走っていき、領主に確認が取れてから、俺たちを館の 中に案内してくれた。 まず入ったところにホールがあって、左手と右手に二階に上がる 階段がある。ふたつも必要なのかと思うが、豪奢な洋風の屋敷には よくある様式だ。 床には絨毯が敷かれているが、手入れは完璧とは言いがたかった。 メイドが何人か忙しく動きまわっていたが、どうやら人手が足りな いらしい。彼女たちは来客を告げられると、掃除の手を止めてその 場で俺達の方を向き、頭を下げた。この屋敷ではそういう決まりに なっているようだ。 俺たちは執事に案内され、領主の部屋まで連れて行かれた。まず 執事が扉をノックすると、中から返事が帰って来る。 ﹁今は執務中だから、後にしてくれないかな﹂ ︵⋮⋮思ったより高い声だな⋮⋮っていうか、女性⋮⋮?︶ ﹁公国騎士団のフィリアネス様、クリスティーナ様、そしてジーク リッド様という方がいらっしゃいました﹂ ﹁⋮⋮会いたくないけど、いいよ。どうやら逃げられないようだし ね﹂ しぶしぶという返事が聞こえて、執事はしきりに恐縮しながらド アを開けてくれる。 部屋に入ってまず目についたのは、紙束が積まれた机。そこで、 1655 羽ペンをカリカリと走らせている人物がいた。 ﹁書類を途中にしておけないので、少々お待ちください﹂ ﹁ああ、分かった。こちらも急に来たので、気にすることはない﹂ 敬語を使わないのかと思ったが、そうでもない。ちゃんと執事の 話は聞こえていたということか。フィリアネスさんは部屋を見回し たりはせず静かに待ち、クリスさんもそれに倣っている。騎士団モ ードと言っていたから、いつものノリは自重しているのだろう。 ◆ログ◆ ・﹃カリスマ﹄が発動! ︽セディ︾はあなたに注目した。 ︵セディ⋮⋮男性? いや、女性か? 声からすると、女性なんだ けどな⋮⋮︶ 俺も文官のような格好をしているが、領主らしき人物︱︱セディ も男性の文官のような格好だった。線が細い男性もいるし、まだ男 か女かは判別しがたい。 そのうち、セディは書きものを終えた紙を、積んである紙束の上 に重ねた。そして立ち上がると、大きな机を回りこんで、こちらに 歩いてくる。 ﹁大変失礼しました。初めまして、ボクがミゼール領主のロドリゲ ス・ブロンコビッチです﹂ ﹁ロド⋮⋮?﹂ ﹁ロドリゲス⋮⋮?﹂ 1656 その整いすぎた面立ちからは、とても想像できない名前︱︱とい うか、しれっとウソをついている。 俺が落ち着いていることに気づき、セディは興味深そうに見てき た。 ﹁キミだけは、ウソだって顔をしてるね。なかなか手ごわそうだ﹂ ﹁そいつはどうも⋮⋮それで、本当の名前は?﹂ ﹁見抜かれちゃしょうがない。ボクはセディ。セディ・ローレンス さ﹂ ﹁セディ⋮⋮男性か。すまない、女性なのかと思ってしまった﹂ ﹁ボクって言ってるし、男性⋮⋮と見せかけて女の子? うーん、 ヒロト君はどう思う?﹂ ︵顔は完全に女の子だな⋮⋮というか、領主なのに若すぎないか? 二十歳はいってないよな︶ セディは髪を短くしているが、そのままでも女性で通用するよう な容姿をしている。﹃ボク﹄といえば赤ん坊の頃に会った冒険者の アンナマリーさんと同じ一人称だし、女性でボクっ娘もいないわけ ではない。 しかし一見すると、胸が膨らんでいない︱︱微乳という可能性も あるが、どうなのか。発育が奥ゆかしいのか、サラシに胸を収納す る技術が、俺の想像を超えているのか。 そんなことはいい。俺は今直感を問われているのだ︱︱セディは 男か、女か。 ﹁俺は、女性だと思う﹂ ﹁⋮⋮正解。そう、ボクは女だよ。胸はさらしで潰してるのさ﹂ 1657 あっけらかんと答える。やはり﹃彼女﹄でいいのか。それにして もさらしで潰すって、そんなにうまくいくものなのか⋮⋮演劇の男 役の女性も同じことをするというけど、見た目じゃ分からないもの だな。 ﹁な、なぜそのような⋮⋮苦しいのではないか?﹂ 胸を締め付けから解放するために胸甲を外しているフィリアネス さんが言うと重みがある。セディもそう思ったようで苦笑していた。 ﹁ボクの話はいいから⋮⋮と、これ以上の軽口は慎みます。このミ ゼールに、何か御用があって来られたのですか? それとも、ミゼ ールの状況を察知して、騎士団の方が来られたのでしょうか﹂ ﹁公王陛下より、書状を預かっている。まず、目を通してもらいた い﹂ フィリアネスさんが書状を渡すと、セディは封筒を開けるための ものだろう小刀を取り出し、赤い蝋の封印を削り切って開けた。 その文面を見て、セディの表情が陰っていく。そして全て読み終 えたあと、俺たち三人を見る。 ﹁⋮⋮やっと、ミゼールの周囲の魔物も減ってきたと思っていたの に⋮⋮魔王が現れるかもしれないなんて、どうしてそんな⋮⋮﹂ ﹁領主殿、あなたが言うとおり、以前よりもこの町は安全になって いる。しかしそれとこれとは、別の問題だ。魔王リリムにとって脅 威になるものが、このミゼールの近くにある。それを狙って、リリ ムはミゼールの近辺に高い可能性で姿を現す。その時何が起こるか、 1658 楽観的に考えることはできない﹂ ﹁魔王に手出しをしなければ、ミゼールに害は及ばないのでは⋮⋮﹂ ﹁魔王リリムは自ら悪意を持って行動している。すでに南王家は深 刻な被害を出した⋮⋮リリムを倒さなければ、この国はいつか崩さ れてしまう﹂ フィリアネスさんは毅然と言い切る。セディは初めの余裕が嘘の ように、可愛そうなほど青ざめていた。こんな内容を知らされるな んて、思いもしなかったのだろう。 ﹁そんなわけだから、私たち赤騎士団と、ジェシカ団長の青騎士団 がミゼールの近くに駐留して守ります。騎士団の砦はこの近くにも あるんだけど、できれば拡張するために協力してもらえませんか?﹂ ﹁⋮⋮はい、分かりました。しかしミゼールの財政は、それほど芳 しくありません。ボクは本当を言うと、父の代理で領主をしている んですが⋮⋮代理をしてみて分かりましたが、ひどい状態なんです。 今も、債務の返済期限を延長してくれないかという書類を書いてい たところです﹂ ﹁ミゼールは、そんなに財政難だったのか⋮⋮﹂ ﹁町並みを見てもらえば分かると思いますが、公共設備の老朽化が 進んでも修繕する予算すらないんです。首都は物価が高いので、ミ ゼールの人口は漸増傾向にあるんですが。出稼ぎで流入した住民か ら、税がしっかり取れていないんです﹂ この町で税金が高くなったなんて話は父さんと母さんからは聞い てないから、セディは税率を上げない方向で、何とか財政難を解消 しようとしていたことになる。しかしそれが一概に善政とも言い切 れないというのは、彼女が疲弊している様子と、債務の書類らしき 紙束を見ればよく分かった。 1659 セディの話を黙って聞いていたクリスさんは、部屋を見回すよう にしてから言った。 ﹁なるほどね⋮⋮この家を建てたのは先代か、先々代かっていうと ころだろうけど。このお屋敷を初めとして、町並みを見てても、ち ょっとお金の使い方に問題があるとは思ってたんだよね﹂ ﹁返す言葉もありません。ボクも子供だったとはいえ、贅沢を享受 していましたから⋮⋮今はメイドにも事情を説明して少しずつ職場 を変えてもらいましたが、元々は倍の数が勤めていたんです﹂ セディはすっかりしおらしくなっている。最初の威勢がいいとい うか、人を食った態度とは変わりすぎて、可哀想なくらいだ。 ﹁⋮⋮申し訳ありません。騎士団の方が来たと聞いたとき、ボクは 領地を没収されることも考えていました。この体たらくでは、陛下 に対して向ける顔もございません﹂ ﹁没収というわけではないが⋮⋮どうやら、財政再建も考えつつ動 く必要はありそうだな。課題が増えてしまったが、どうということ はない。頼もしい人物を連れてきたからな﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁こちら、軍師のメアリーちゃん。メアリーちゃんは軍師だけど、 砦を作ったりするのに人やお金が必要ってなると、それを用立てる ための策も考えちゃうから⋮⋮あ、もうできてるみたい﹂ ︵もうできてるって⋮⋮ん?︶ 俺は気が付くと、メアリーさんにちょいちょい、と袖を引かれて いた。そして、紙を渡される。 ﹁これを読めばいいのか?﹂ 1660 メアリーさんはこくりと頷く。まさか筆談しかしないとか⋮⋮い や、﹁きれいな裸﹂って俺のことを見てつぶやいてたし、場合によ るのかな。 ﹁ええと⋮⋮﹃ミゼールの西方に山脈がありますが、魔物が出るの で皆さん近寄られなかったのではないかと思います。しかしその山 脈にある魔石を採掘して、それを南の西方都ラムリエルとか、首都 に輸送して売ることで、半年もすれば財政は立て直せるでしょう。 ちなみにミゼールの財政悪化については、この町の冒険者ギルド支 部に調査指令を出していたので、完全に把握しています。セディさ んは財政緊縮と、冒険者に提供する宿を領主自ら運営することで利 益を上げられていますが、それでは全然足りていません。昔採掘さ れていた魔石鉱がまだ手付かずで必ず残っていますから、それを見 つけてください。こちらからは以上です﹄⋮⋮な、長いな﹂ ﹁魔石鉱⋮⋮確かに、先々代までは、それを掘って特産品としてい たんですが、あの一帯に竜が現れたことで、近づけなくなってしま ったんです﹂ ︵まさかそれは、ユィシアのことか⋮⋮いや、先々代ってことは、 ユィシアはまだ生まれてないからな。どっちにしても、今は脅威は ないはずだ︶ 宝が好きなユィシアが魔石鉱に魅力を感じる可能性はあるが、彼 女は巣に入ってこない限り、人を自分から襲うことはない。もしま だ他に竜がいたとしても、ユィシアより強いことはまずないので、 脅威にはならないだろう。 ﹁でも⋮⋮どうしてそこまで、ミゼールのことをご存知なんですか 1661 ? その、メアリーさんは﹂ メアリーさんはやはり言葉では答えない︱︱と思いきや、俺の袖 を引いてきた。彼女の身長が低いのでかがんであげると、耳元にさ さやいてくる。 ﹁⋮⋮軍師だからです。こちらからは以上です﹂ びっくりするほど可愛い声だった。しゃべれるのならしゃべれば いいのに、と思ってはいけないところなんだろうか。 ﹁え、えーと⋮⋮軍師だからだそうだよ﹂ ﹁軍師様には何でもお見通しなんですね⋮⋮すごい⋮⋮﹂ セディは素直に感心する。それほど、メアリーさんの発言が的を 射ていたようだ。 ﹁さすがは我が国の軍師殿だな。情報収集にも長けているというこ とか﹂ ﹁ほんとすごいよね、一回見たものは忘れないから、全部つなげて 策の材料にしちゃってさ。私も欲しいなー、その記憶力﹂ ストラテジスト ︵俺も欲しいな⋮⋮軍師のスキル、めちゃくちゃ便利そうだ。メア リーさんが元から切れ者なのは間違いないけど︶ ギルドに頼んで情報収集できるってことは、スーさんがメアリー さんの依頼で動いたことも普通にありそうだ。彼女はエージェント で、首都の冒険者ギルドに属していたわけだから。 ﹁領主サマ、その魔石鉱を採掘しに行くのに、うちの団員に協力さ 1662 せようか? 最初はまとまった量を運んだ方がいいでしょ、道中に 他の魔物が出ないとも限らないし﹂ ﹁は、はい⋮⋮そうしていただければ助かります。今はボクの部下 も少なくて、すぐに動けないのが悩みどころでしたから﹂ ﹁じゃあ、それで話は決まりね。砦を作るのはすぐに始めたいから、 最初は騎士団が何とかしよう。それは陛下も許可してくれると思う しね﹂ ミゼールの周辺の駐留地を増やす。そうしてもらえれば、ミゼー ル全域を守備することができる。 これで﹃悠久の古城﹄に魔杖を取りに行っている間の、後顧の憂 いはなくなった。 もちろん、魔杖を手に入れた後、それを使ってリリムを倒すまで、 気を抜く暇などないのだが。 ﹁セディ殿、今は赤騎士団の一部だけがミゼールに来ているが、後 から兵力はさらに増える。具体的にどれほどの砦が必要か、詰めて おいた方がいいな﹂ ﹁はい。あ、あの。さっきから気になっていたんですが、そちらの 男性は⋮⋮﹂ ﹁俺? 俺はヒロト・ジークリッド。そういえば名乗ってなかった な﹂ ﹁ジークリッド⋮⋮あの有名な!? 屈強な木こりのお父さんと、 ミゼール屈指の織り手のお母さんがいらっしゃって、鍛冶師バルデ スの唯一の弟子でもあり、町で会う女性すべてが挨拶をするという、 伝説の少年じゃないですか!﹂ ぶふぉっ、とすごい勢いでクリスさんが噴き出し、フィリアネス さんはぱちぱちと目を瞬き、メアリーさんは微動だにしない。何よ り一番驚いたのは俺だった。 1663 ﹁げほっ、ごほっ⋮⋮あははっ、あははははっ、で、伝説の少年⋮ ⋮ヒロト君、いったい何したの⋮⋮っ、あははははっ、お腹痛い⋮ ⋮で、伝説って⋮⋮あはははははっ!﹂ ﹁く、クリス⋮⋮笑いすぎだ。そこまで笑うことでもないと思うの だが⋮⋮ヒロトは確かに伝説に残ってもおかしくないことを⋮⋮だ、 だから笑うなと言っている! いい加減にしろ!﹂ ﹁ご、ごめんフィル姉さん⋮⋮はぁっ、はぁっ。あーびっくりした、 お姉さん笑いすぎて涙出てきちゃった﹂ ﹁幼くして冒険者ギルドに出入りしていたと聞いて、ボクも興味を 持っていたんです。ボクも同じように、子供のころに冒険者に憧れ て、ギルドに行ったことがありましたから。もちろん、追い返され てしまいましたよ﹂ ﹁そ、そうだったのか⋮⋮﹂ いきなりセディが俺を見る目が変わって、正直言って戸惑ってし まう。まあ、得体の知れない人物かと思ったら、知ってる人物だっ たとなったら、これくらいの変化はなくはないか。 ﹁⋮⋮あ⋮⋮せ、セディ。どうしたんだ? 涙が出てるぞ﹂ ﹁す、すみませんっ⋮⋮ちょっと、気が緩んでしまって⋮⋮情けな いな、こんなときに⋮⋮﹂ ︵そうか⋮⋮やっぱり、そうだよな。この若さで領主の重責を背負 うのは、重いよな⋮⋮︶ 若くしてお父さんの代わりに領主だなんて、重圧があるに決まっ てる。それに財政のこともあるから、王家直属の騎士団の人間が来 たとなれば、心穏やかではいられなかっただろう。 1664 ﹁⋮⋮ヒロトさんはまだ幼いと聞いていましたけど、ボクと変わら ない歳に見えるから、ちょっとまだ驚いています﹂ ﹁その辺りの事情も、そのうち町の人から伝わってくるかもしれな いけど⋮⋮魔王と戦っていると、そういうこともあるんだ﹂ 決して説明が面倒になったのではない。今のセディなら分かって くれるだろうと思ってのことだ。 ﹁⋮⋮分かりました、ボクの想像が及ばないこともあるっていうこ とですね。ヒロトさん、初めの非礼を、改めてお詫びします。皆様 がた、ミゼールのために、ご尽力を賜りたく存じます。今後とも、 よろしくお願いいたします﹂ ﹁ああ、いや⋮⋮そんなにかしこまることないよ。俺も領主との会 談っていうんで緊張して来たけど、本当は堅苦しいのは嫌いだから さ﹂ ﹁うんうん、まあ他の人が一緒だったら形式ばるのも必要だけど、 この密室ではすべてがヒロト君を中心に動いてるからね。私たちみ んな、おっぱいを出せといわれたら出すのがルールだから﹂ ﹁く、クリスっ! おまえのいたずらでセディ殿とメアリー殿を巻 き込むな!﹂ ︵フィリアネスさんはいいんだな⋮⋮何だこの幸せな感じは⋮⋮そ うか、俺は今許されているんだ︶ しかしフィリアネスさんとクリスさんに許されているからといっ て、セディとメアリーさんには、破廉恥だと言われてしまうのでは ないだろうか。 ﹁⋮⋮あっ、す、すみません。そういうルールなら、ボクも従わな 1665 くてはいけないのかな、と考えてました﹂ ◆ログ◆ ・︽メアリー︾はつぶやいた。﹁⋮⋮ヒロト様の裸を見たことにつ いての責任を、いつ取るべきかと考えていましたので、こちらも異 存はありません。粗末なものですが、ご希望であればお見せします﹂ ︵ふ、二人共物分かりが良すぎだ⋮⋮聡明なはずのメアリーさんま で⋮⋮︶ 御前試合でクリスさんの攻撃を喰らい、上半身が裸になってしま ったことを思い出す。それを見たメアリーさんは、俺の裸身を高く 評価してくれていた︱︱いや、それもどうかと思うが。 ﹁あはは、もちろん冗談だから、気にしないでね領主サマ。ってい うか、セディ君でいい?﹂ ﹁は、はい⋮⋮良かった、サラシで締め付けたあとの胸って、しば らくあとが残ってますからね。少しすると元に戻るんですけど﹂ ﹁確かにマールも胸を締め付けているから、外すと楽そうにしてい るな。私から言うのは何だが、領主殿も、楽な格好をされるといい。 それとも、何かの事情が?﹂ ﹁ええ、まあそういうことです。代々男の人が領主だから、ボクも 男装をしろって言われてしまって⋮⋮そんな理由で男装なんてと思 うかもしれませんけど、意外にいいですよ。ボクには合ってたみた いです﹂ セディが好意的になってきたところで、俺はここで言うべきかど うかを考えていた。 1666 将来的に、俺はミゼールを自分の領地にしたい。セディにそう言 っておかないと、陛下の許可を得ていざ領地を与えられるとなった ときに良くないと思う。 ︵このタイミングで言うべきかどうか⋮⋮こういう時は、あれに限 るな。来い、選択肢⋮⋮!︶ 交渉スキルが100を超えてから、スキルが1上がるごとに﹃選 択肢﹄のマナの消費量が1%ずつ減って、使ったら即気絶というこ とはなくなった。スキル200で選択肢がノーコストで使えるよう になる︱︱頼りすぎる気はないが、頼れるスキルだからありがたい。 ◆ログ◆ ・あなたは﹃選択肢﹄を呼び出した。 ◆選択肢ダイアログ◆ 1:ミゼールを領地にしたいと言う 2:︽セディ︾を﹃魅了﹄する 3:︽メアリー︾を﹃魅了﹄する ︵げ、外道な選択肢が二つ⋮⋮確かに有効かもしれないけど、極悪 すぎるぞ︶ セディを魅了すれば、領地は事実上俺のものになる。そしてメア リーさんを魅了し、軍師の固有スキルをもらうことも確かに魅力的 だ︱︱選択肢に表示されるということは、実行すれば成功するとい 1667 うことでもある。 しかし俺はまだ悪魔に魂を売ってないので、無難に1を選ぶ。そ れしかない、最初から分かりきって︱︱、 ﹁くしゅんっ﹂ ﹁わっ⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮ごめんねヒロト君、びっくりした?﹂ ︱︱クリスさんがくしゃみをした。その瞬間俺の思考は乱れ、選 択肢ダイアログが消えてしまった。 ︵い、1を選んだよな⋮⋮? そうだよな、びっくりしたからって ⋮⋮︶ 考えているうちに、ログが流れてくる。俺は嫌な汗を背中に感じ ながら、恐る恐るログを確認した。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁魅了﹂をアクティブにした。 ・﹁魅了﹂が発動! ︽セディ︾︽メアリー︾は抵抗に失敗、魅了 状態になった。 ︵や、やらかした⋮⋮典型的なミスを⋮⋮!︶ ﹁んっ⋮⋮あ、あれ⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 1668 ◆ログ◆ ・︽メアリー︾はつぶやいた。﹁⋮⋮何か、むずむずして⋮⋮落ち 着きません⋮⋮﹂ スキル セディとメアリーさんの反応がてきめんに現れる。ど、どうする ⋮⋮このままじゃ、フィリアネスさんとクリスさんに、俺の能力が 知られてしまう⋮⋮! ﹁あ⋮⋮ごめん、話の途中だけどフィル姉さん、ちょっとお花を摘 みに行って来ていい?﹂ ﹁花⋮⋮? ああ、そういうことか。分かった、私も一緒に行かせ てもらおう。領主殿、一旦失礼する﹂ あれよという間に、フィリアネスさんとクリスさんが出ていって しまった。﹃お花を摘む﹄というのは、たぶんお手洗いに行くって ことだろう。 ドアが閉められたあと、三人きりの密室が完成する︱︱頭の中に スキルという文字がやってきて、俺はそれを右から左に受け流した。 ﹁さ、さて⋮⋮話も一段落したし、俺もちょっと休憩してきていい かな﹂ ﹁⋮⋮さっきの話だけど⋮⋮ボクはキミのことがもっと小さいと思 ってたから、どちらかというと⋮⋮ヒロトさんじゃなくて、ヒロト くんって呼びたいんだけど、どうだろう。それとも、ヒロト様がい いかな?﹂ ﹁うぁっ⋮⋮ご、ごめん、俺のせいで⋮⋮﹂ 1669 久しぶりに魅了の効果を目の当たりにすると、罪悪感が凄まじい。 俺は攻略のためとはいえ、スキルのために、何人こうやって⋮⋮。 ﹁ひ、ヒロト様じゃなくていい。話し方も今みたいなふうがいいな、 敬語は堅苦しいから﹂ ﹁⋮⋮じゃあ、ヒロトくん。ふふっ⋮⋮何だかこそばゆいね。ボク、 男の子のこと、こんなふうに呼ぶことってないから。新鮮な感じが するよ﹂ ︵このとろんとした目⋮⋮ま、まずい。この流れだと絶対に⋮⋮!︶ セディは俺に一定の距離から近づかなかったのに、あれよという 間にこちらに歩み寄ってくる。 近くで見ると思っていた以上に、彼女は女性らしさを、男装で押 さえ込んでいたんだと思い知らされる。その熱を帯びた瞳は、俺を 明らかに異性として意識していた。 ﹁お、俺は⋮⋮そうじゃなくて、しっかり話しておきたかったんだ。 魔王と戦った恩賞として賜る領地は、このミゼールにしようと思っ てて⋮⋮それを、言っておかなきゃって﹂ ﹁魔王と戦った人がこの小さな町を欲しいなんて⋮⋮勿体ないくら いだけど。キミがそう言ってくれるなら、ボクは従うよ⋮⋮お父様 には、ちゃんと言っておくから。借金だって、返すためにこれから も力を尽くすよ﹂ ﹁そ、そんな権限もあるんだな⋮⋮いやいや領主をしてるわけじゃ なくて⋮⋮うわっ⋮⋮!﹂ セディにじりじりと接近されて後ろに下がっていたら、ぱふっ、 と受け止められた。 1670 後ろからメアリーさんが抱きついてきている。無言でこの積極性 ⋮⋮魅了、なんて恐ろしい⋮⋮! 今まで封印していたのも当然だと思う。このスキルは危険すぎる、 いろいろと人を駄目にする力だ。 赤ん坊の頃より、明らかに成功率が悪化︱︱ではなく、高くなっ ている。俺が強くなりすぎたから、そういうことだとしか思えない。 メアリーさんはしばらく何も言わなかったが、俺の背中に頬を寄 せて、そして小さな声で熱っぽくささやき始めた。 ﹁⋮⋮最初は、ヒロト様が魔王と戦ったことを私は信用していませ んでした。御前試合を見て、百八十度認識を変えさせられました⋮ ⋮男性の裸をきれいだと思ったのは、あの時が初めてでした。男の 人に触ってみたいと思ったことも、初めてです﹂ ﹁だ、だからといって⋮⋮抱きついたりする必要は⋮⋮くっ⋮⋮﹂ 強く振りほどくことなどできないので、抱きつかれたままになる。 この感触⋮⋮あまりないと思ってたけど、しっかりある。体型が見 えないコートをすっぽり被っているので分からなかったが⋮⋮こ、 これは、もしかしたら、小柄なだけでかなりの逸材なのでは⋮⋮? ﹁これから軍師としてご同行させていただく上で⋮⋮交流を深めて おくことは、無駄ではありません。ヒロト様は私の上官です⋮⋮上 官の裸を見た部下は、罰を受けるべきです。懲罰の内容を設定して ください﹂ ﹁け、けっこうしゃべれるじゃないか、やっぱり⋮⋮それはいいこ とだけど、ば、罰は受けなくてもっ⋮⋮うわっ⋮⋮!?﹂ 後方からの攻撃に対処していて、前方を失念していた︱︱久しぶ りに前を見た時には、すでにセディが服のボタンを外して、きつく 1671 締められたサラシがあらわになっていた。 ﹁ふ、二人が帰って来るから、それはちょっと⋮⋮りょ、領主の威 厳とかそういうのはっ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮ボクのことを女だって言い切ってくれて、嬉しかったんだ。 本当は、男装してるうちに分からなくなってきてたんだ⋮⋮女の自 分は、誰にも求められてないんじゃないかって﹂ ︵俺は⋮⋮選択肢に正解していたというのか。あの時には、すでに ⋮⋮︶ 女の子だと言い切ったが、外れる可能性もあると思っていた。し かし俺の眼力も捨てたものではなかった︱︱が、この展開は明らか に魅了によるもので、勘違いしてはいけない。 ﹁せ、セディ、それ以上はいけない。俺たちはまだうわぁぁぁぁ!﹂ 全然セディは俺の話を聞いていなかった。もうこの密室に三人で いる以上は、彼女たちには踏みとどまる要素がないのだ。 ﹁⋮⋮クリスティーナ様があんなことをいうから⋮⋮密室なんて。 急に意識しちゃって⋮⋮﹂ ﹁ま、待てっ⋮⋮待つんだ! だめだ、それ以上は! もっと自分 を大切に⋮⋮!﹂ ◆ステータス◆ 名前 セディ・ローレンス 人間 女性 16歳 レベル18 1672 ジョブ:領主 ライフ:124/124 マナ :24/24 スキル: 統治 48 政務 31 護身術 32 恵体 7 気品 16 母性 32 天文学 18 アクション: 演説︵統治20︶ 恩賞︵統治40︶ 縄抜け︵護身術30︶ 事務︵政務10︶ 算術︵政務20︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 星占い︵天文学10︶ パッシブ: カリスマ︵統治10︶ 徴税︵統治30︶ ︻事務︼処理速度上昇︵政務30︶ 反撃︵護身術10︶ 逃走成功率上昇︵護身術20︶ 1673 マナー︵気品10︶ 育成︵母性10︶ ︵そうか⋮⋮王でも、貴族でも、騎士でもない。セディの立場だと、 ﹃領主﹄がジョブになるんだ︶ ステータスを開いて確認したことに決して他意はない。何かに期 待していることなど決してない。 そんなことより、セディが護身術を身につけてる以外は、ほぼ普 通の女の子だと言えるステータスをしていることに着目するべきだ ろう。星占いなんて、乙女にふさわしいアクションだ。 領主という職業は特殊だけど、それ以外の点において、彼女は等 身大の16歳の少女だ。そんな彼女が、俺の魅了にかかり、しよう としていることと言ったら⋮⋮。 ◆ログ◆ ・あなたの﹁艶姿﹂が発動した! あなたの振る舞いに、︽セディ ︾︽メアリー︾は釘付けになった。 ︵ダメ押しのスキルが⋮⋮勝手にコンボするんじゃない、俺のスキ ル⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮ヒロトくんを見ていると、どうしてだろう⋮⋮ボクはどうか しちゃったのかな⋮⋮?﹂ セディは上のシャツを脱いでしまって、脇の下のところにある、 1674 見るからに固く結ばれたサラシの結び目に手をかけ︱︱少しためら ってから、解いてしまう。 すぐに巻き方が崩れない、マールさんとモニカさんよりも固い巻 き方。それを緩めていくうちに、俺は信じられないものを見る思い だった︱︱明らかに大きい。こんなものがどこにしまってあったの だという、白い大きな球体がふたつ、拘束から解放されて真の姿を 見せる。 ︵大きい⋮⋮こんなのをなぜ締め付けてしまうんだ。痛々しいくら いに赤いあとがついて⋮⋮でも、男装の方が過ごしやすいっていう し、俺は一体どうすれば⋮⋮!︶ 葛藤する俺の前に、手であらわになった胸を覆い隠して、セディ が立っている。 ︱︱俺の潜在意識が、あの行為を彼女に命じているとでも? 馬 鹿な、そんなことがあるわけがない。 ﹁⋮⋮ボク、何をしようとしてるんだろう。どうしていいのか分か らないのに⋮⋮おかしいよね、こんな⋮⋮﹂ 魅了状態になって、俺に対して女性であるこれ以上のない証拠を 示して、それでもその先はまだ知らない。 俺はそんな女の子に対して、本来ならどうするべきなのか。 ︵⋮⋮統治系のスキルはたぶん、これからも代替できるものが手に 入る。でも、王統と統治では種類が違うし、取得できるスキルもた ぶん違う。統治を持ってるのは、俺が会った中ではセディが初めて だ⋮⋮これを逃したら、もう手に入る機会が⋮⋮︶ 1675 ﹁ヒロトくんに、ボクができることって、何かあるのかな⋮⋮頭の 中が、そんなことでいっぱいなんだ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽セディ︾はあなたの命令を待っている。命令しますか? YE S/NO 腕で隠しきれないくらいの、抑圧から解放されて自由を得たばか りの、白い丘陵。俺は平和的交渉を持って、その丘陵の頂点にて、 友好の証を授受したいというか、つまりそれはどういうことかとい うと、 ◆ログ◆ ・︽メアリー︾があなたに﹁採乳﹂を許可しています。実行します か? YES/NO ﹁わっ⋮⋮め、メアリーさん、なんで⋮⋮っ!﹂ 長い耳を隠すことなく、メアリーさんはコートを脱いで、その下 の軍師というよりは貴族の令嬢のようなワンピースの服をはだけ、 小柄な身体に見合わない大きさの部分を露わにする。ぷるん、とい う形容がふさわしい、手のすっぽりおさまりそうな、けれど十分な 肉感のある、見事なバストだった。 メアリーさんの耳はサラサさんより長く、尖っている。ハーフで 1676 はなく、純血のエルフであることを示唆している︱︱エルフが公国 の要職についているというのは、彼女の能力がよほど特別視されて いることを意味していた。 それよりも︱︱俺は完全に彼我戦力を見誤っていた。まさかこの 二人が、こんなにも母性に満ち満ちているとは⋮⋮世界は広く、俺 の想像を超えてばかりだ。 ﹁⋮⋮クリスさんとジェシカさんとの行為を、失礼ながら見させて いただきました。私の情報収集を可能にする力⋮⋮﹃千里眼﹄を用 いれば、試合が終わったあとのヒロト様の行動は、すべて感知でき ましたから。英雄、色を好むと言いますが⋮⋮打ち負かした女性に 触れることに、何か意味があるのでしょうか﹂ ﹁そ、それには海よりも深いわけが⋮⋮ただ触ってるわけじゃない んだ、ちゃんと意味があるんだ!﹂ ついに俺の採乳の秘密に近づく人物が現れてしまった。千里眼⋮ ⋮その力はスキルなのか、それとも彼女の持つ特殊な能力なのか。 エルフならそういう力があってもおかしくないが、スキルによるも のだったら俺は⋮⋮! ◆ステータス◆ 名前 メアリー・ワイズメル エルフ 女性 112歳 レベル59 ジョブ:ストラテジスト ライフ:112/112 マナ :1020/1020 1677 スキル: 戦略 100 風水術 58 精霊魔術 44 恵体 6 魔術素養 83 母性 21 アクション: 布陣︵戦略10︶ 遊撃︵戦略20︶ 攻撃計︵戦略30︶ 洞察︵戦略40︶ 埋伏︵戦略50︶ 流言︵戦略60︶ 離間︵戦略70︶ 軍規︵戦略90︶ 千里眼︵戦略100︶ 風水術レベル5︵風水術50︶ 精霊魔術レベル4︵精霊魔術40︶ 授乳︵母性20︶ パッシブ: ︻策略︼成功率上昇︵戦略80︶ 山歩き︵風水術30︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ 育成︵母性10︶ 1678 ストラテジー ︵戦略100⋮⋮! というかこの人、ステータスが⋮⋮体力はな いけど、魔術のスキルは中くらい以上だし、風水術なんて珍しいも のを⋮⋮︶ 千里眼の効果がメアリーさんの言うとおりなら、敵がどんな策を 使ってきてもすべてお見通しということになる。こちらの伏兵は効 果的だが、敵の伏兵は無意味にできる︱︱ギルドバトルでこんなこ とができたら、無敵もいいところだった。軍師というジョブが実装 されてなかったこともうなずける。 ︵⋮⋮なんて美味しそうな⋮⋮いや、有用なスキルを持ってるんだ。 魅了を防ぐ装備は、今後は徹底してもらわないとな⋮⋮︶ 自分のことを棚に上げつつ、俺は協力を得た女性を、魅了耐性装 備で保護する方針を固めた。もし俺以外の男に魅了されてしまうと、 同じような展開になってしまうかもしれない。今までは気づかなか ったが、状態異常耐性をなるべく穴がないように装備を整えること は、ゲーム時代もみんな四苦八苦していたポイントだった。 ︱︱と、賢者モードでゲーム時代を回顧している場合ではない。 ︵選択肢が消える⋮⋮YESかNOか⋮⋮欲しいに決まってる⋮⋮ でもメアリーさんがいれば、それでいいような気もする⋮⋮あぁぁ ぁ⋮⋮!︶ 残されているのは十秒ほど。葛藤しているうちに、メアリーさん はセディから紙とペンを借りて、かりかりと何かを書き、そして俺 にぴらっ、と見せた。 ﹃軍師の欲求に応えるのは、指揮官のつとめです。我が軍の新し 1679 い軍規として制定します﹄ ﹁⋮⋮えっ?﹂ ◆ログ◆ ・︽メアリー︾は﹃軍規﹄を発動した! ・﹃ジークリッド隊﹄において、新たな軍規が施行された。 ︵ジークリッド隊⋮⋮俺が指揮官って、そういうことになってたの か。だ、だが、部下の欲求って⋮⋮それは超絶にヤバイのでは⋮⋮ っ!?︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽メアリー︾の欲求を自動的に受諾しなければならない。 ・︽メアリー︾はあなたに﹃採乳﹄を指示した。 ︵この行動力⋮⋮俺はすごい軍師と巡り合ってしまったのか⋮⋮と いうか、ちゃんとコントロールしないと、俺が操られてしまいそう だ⋮⋮っ︶ もはやどっちが魅了してるのか分からない、俺はメアリーさんの 言うことに逆らえず、手が勝手に動いてしまう。 成長した俺の手でも、少し余るようなふくらみ。触れると輝きが 1680 増して、エネルギーが俺の身体に流れ込んでくる。 メアリーさんは顔を赤らめつつ、何やらさっきの紙の裏に、かり かりと何かを書き記している︱︱しゃ、しゃべればいいのに⋮⋮。 ﹃触れられると、温かい気持ちになります。こちらからは以上です﹄ ﹁そうか⋮⋮俺も落ち着くよ。メアリーさんは、思ったよりも大胆 なんだな﹂ ﹃恐縮です。しかしそれは、指揮官殿がいけないのだと思います﹄ メアリーさんは引き続き感想を書こうと待ち構えているが、俺は そんな彼女の顔を見上げながら、スキルが上がるまで触れさせても らうことにした。 マナ1020、つごう102回もスキル上げが可能だ︱︱半分の 51回にとどめておくのが、俺の中でのルールだが。 ◆ログ◆ ・あなたは︽メアリー︾から﹃採乳﹄した。﹃戦略﹄スキルが獲得 できそうな気がした。 ・あなたは︽メアリー︾から﹃採乳﹄した。﹃魔術素養﹄スキルが 上昇した! ・あなたは︽メアリー︾から﹃採乳﹄した。﹃戦略﹄スキルを獲得 した! 戦における知の一端に触れた。 ︵よし、いい感じだ⋮⋮何だか頭が冴えてくる感じがするな⋮⋮︶ ﹃さきほどから左右交互に触れている理由を、述べてください﹄ 1681 ﹁え、ええと⋮⋮左と右をバランス良くした方がいいんじゃないか と思って﹂ ﹃でしたら、右の回数が一度少ないと思われますが、いかがですか﹄ さらさら、と書いて返事をするスピードが非常に早いので、会話 が成立している。ふと見やると、セディは指をくわえて、うらやま しそうに俺たちを見ていた。 しかし俺はメアリーさんには逆らえないので、もう一回右の方か ら採乳してバランスを取る。なんとか軍規を変えてもらわなければ と思いつつ、自分の胸が触られるさまをじっと見つめているメアリ ーさんを見返すと、彼女は少し不満そうな顔をした。 ﹃恥ずかしいので、顔はあまり見ないでください﹄ ︵どうしろと⋮⋮いや、俺が悪いんだけどな︶ 俺はスキル上げを終えたあと、メアリーさんのコートをかぶせ直 してあげた。少し汗をかいたので、自分の胸のボタンを一つ外す。 それを見てセディが息を飲む気配がする。か、勘違いさせたか⋮ ⋮俺がこのまま脱ぐと思わせてしまったかな。 ﹁え、ええと⋮⋮その。単刀直入に言って、セディは今してたみた いなこと、絶対嫌だったりするか?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮初めて会ったばかりだから⋮⋮﹂ ︱︱そのとき俺は、領主会談で役に立つかもしれないと思ってい た数ある交渉スキルの中から、よりにもよってというものを選択し 1682 ていた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽セディ︾に﹃口説く﹄を使用した。 ﹁人と人との出会いっていうのは、一期一会だから。その時の感情 に素直になることが、一番大切なことだよ﹂ ︵歯が浮くセリフがさらりと⋮⋮そして勝手に爽やかな微笑みが。 こんなので落ちる女性がいるのか⋮⋮?︶ ﹁⋮⋮ヒロトくんがそう言ってくれるなら、ボクは⋮⋮今の気持ち に素直になりたい﹂ ︵落ちた⋮⋮のか⋮⋮?︶ 魅了をかけて口説いたら成功率が高いに決まっている。もはや俺 には、そんな当たり前のことすら判断する理性が残っていなかった。 メアリーさんは何かを書こうとするのをやめて、俺と領主の交流 を観察している。締め付けたサラシのあとは、柔らかな丘陵の魅力 をまったく損なうことはない。 恥じらいの限界を迎えながらも、セディが胸を覆っていた手をそ ろそろと外す。この瞬間の感動は、何人目でも色あせない。 俺はクリスさんのくしゃみに感謝しそうになり、それは彼女に責 1683 任を押し付けてるだけのような気がして、結局堂々めぐりして自分 が悪いという結論に落ちつく。 ﹁メアリーさんは落ち着いていたけど、ボクは大丈夫かな⋮⋮ヒロ トくん、任せてもいいよね⋮⋮?﹂ ﹁ああ、じっとしてるだけでいいんだ。ほんの少し、触れるだけで ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽セディ︾から﹃採乳﹄した。 ・あなたは﹃統治﹄を獲得した! 為政者としての意識が芽生えた。 メアリーさんといい勝負というか、成長を考えるともっと大きく なるんじゃないかという、可能性に満ち満ちた胸。そこからエネル ギーを採り入れた俺は、一度でスキルを獲得することができた。 ﹁あ⋮⋮ご、ごめん、ヒロトくん、ひとりでに⋮⋮﹂ 触るとこういう反応が起こることはままある。自然にあふれてき て伝っていきそうになる乳のしずくを、俺は手で受けて集め、残さ ず飲んだ。 ﹁ん⋮⋮あっさりしてるけど、美味しいな﹂ ﹁す、すごいね⋮⋮出るっていうのもすごいけど、飲んじゃうなん て⋮⋮﹂ ﹁い、いや⋮⋮もったいないなと思って。捨てるなんてとんでもな いよ﹂ 1684 セディは恥じらいつつも微笑んでくれる。メアリーさんの方を見 やると、今度は彼女がうらやましそうに俺たちを見ていた︱︱見る ことに意識が向いていたのか、感想を書くための紙には、まだ何も 書かれていなかった。 ◆◇◆ フィリアネスさんとクリスさんが戻ってきたあと、セディと魔鉱 石の採掘、そして砦の建築についての打ち合わせをして、俺たちは 領主の館を後にした。 メアリーさんには﹃魅了﹄が切れたあとに﹃軍規﹄を解除しても らうようお願いしてみたが、今のところ返事は芳しくない。俺に対 して怒っているわけでもないようだけど、どうしたものか。 ︵凄まじいスキルだな⋮⋮ボーナスを振ることを考えるか。スキル ポイントを増やすアイテムが、切実に欲しくてしょうがないな︶ ﹁ヒロト、私たちは駐留している騎士団に今後の方針を伝えてくる が、おまえはどうする?﹂ ﹁俺も一緒に行きたいけど、他にもすることが沢山あるからな⋮⋮ あとでどんな話をしたか教えてくれるかな﹂ ﹁うんうん、ヒロト君の補佐は私たちがするから、頼ってくれてい いよ。ヒロト君は、ミゼール駐留軍の総大将なんだから﹂ 俺とクリスさんのやりとりを見て、メアリーさんが、領主の館で 書いておいた紙を渡してくる。そこには﹃ミゼール騎士団規律﹄と 書かれていた。どうやら読んでおけということらしい。 1685 軍規を自由にいじれるメアリーさんだが、基礎の部分は変えない ということだろう。俺もそれは賛成だ。というか、メアリーさんの 欲求を俺が満たすという軍規は、今後どこまで続くのだろう⋮⋮ス キル上げができるのは嬉しいが、とんでもないことを頼まれないか と少々不安だった。 フィリアネスさんたちと別れ、俺は町に向かった。バルデス爺の ところに行って、装備について相談したい。 ︱︱しかしその途中で、スーさんが向こうから歩いてきた。俺を 見ると、遠くからでも会釈をしてくれる。 ﹁坊っちゃん、聖騎士様方はどうされたのですか?﹂ ﹁ミゼールの砦に騎士団が来てるから、今後の指示を出しに行った よ。スーさんは⋮⋮﹂ 尋ねるまでもなかった。スーさんが俺の答えを聞き終える前に、 明らかに空気を変えたからだ。 ﹁⋮⋮そうか。これから、手合わせをしてくれるんだな﹂ ﹁はい⋮⋮お時間がありましたら、訓練場にて、約束を果たしたく 思っております﹂ ﹁分かった。俺も血が騒ぐよ⋮⋮スーさんは、昔の時点でものすご く強かったからな。もしあの時手合わせしてもらったら、俺は何も させてもらえなかったよ﹂ ﹁⋮⋮あの頃の愛らしい坊っちゃんに手をあげるなど、私にはでき ません。腕を封鎖し、足だけですべて回避するなどの方法でお相手 することになったでしょう。しかし、今は⋮⋮﹂ 1686 スーさんは俺を強者だと断じている。瑠璃色の瞳にかすかに宿る のは、俺に対するかすかな恐れ︱︱そして、早く戦いたいという、 こちらまで奮い立たせられるほどの戦意。 ﹁今は全身全霊を尽くしても、あなたを喰らい尽くせる気がしない﹂ ぞわ、と肌が粟立つ感覚があった。これから始まるのは殺し合い ではない、なのにスーさんは、命のやりとりをする者に特有の、全 身を鋼に変えたような硬質な気を放っている。 ︵スーさんは俺が英雄になるかもしれないと言った。その期待に答 えれば、彼女の本当の心を、もう少し見せてもらえるかもしれない︶ ギルドから派遣されたメイド。その実体は、陽の目を見ない任務 を行う執行者。 まるで氷の花のようだ。スーさんは震えがくるほどの美貌を持っ ているのに、その心の奥には冷たく研ぎ澄まされた刃がある。 ﹁喰らい尽くすか⋮⋮それくらいの気持ちで戦うってことだな。分 かったよ、スーさん﹂ ﹁はい。この時を、どれほど待ち望んだことか⋮⋮参りましょう、 坊っちゃん﹂ 柔らかい呼び方︱︱しかし、もう甘えは許されない。これから戦 っている間は、俺とスーさんは主従関係ではなく、二人の武人だ。 彼女がどれほどの研鑽を積み、俺を待っていてくれたのか。その 答えが彼女のステータスに示されていた。 1687 ◆ステータス◆ 名前 スザンヌ・スー・アーデルハイド 人間 女 22歳 レベル56 ジョブ:ゴッドハンド ライフ:1012/1012 マナ :436/436 スキル: ナイフマスタリー 63 格闘 93 気功術 48 軽装備マスタリー 52 執行者 100 恵体 81 魔術素養 36 母性 44 料理 53 メイド 22 アクションスキル: 投げナイフ︵ナイフマスタリー10︶ 牽制攻撃︵ナイフマスタリー30︶ ブレイドストーム︵ナイフマスタリー50︶ パンチ︵格闘10︶ キック︵格闘20︶ 投げる︵格闘30︶ サブミッション︵格闘40︶ 1688 踵落とし︵格闘50︶ 正拳突き︵格闘60︶ 烈風脚︵格闘80︶ 堅体功︵気功術20︶ 回復功︵気功術30︶ 発勁︵気功術40︶ 暗殺術レベル10︵執行者100︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ 簡易料理︵料理10︶ 料理︵料理20︶ 野営︵料理50︶ パッシブスキル: ナイフ装備︵ナイフマスタリー10︶ 毒ナイフ︵ナイフマスタリー20︶ 睡眠ナイフ︵ナイフマスタリー30︶ 麻痺ナイフ︵ナイフマスタリー40︶ クリティカル確率上昇︵ナイフマスタリー60︶ 回避上昇︵格闘術30︶ カウンター︵格闘術70︶ 回し受け︵格闘術90︶ 練気︵気功術10︶ 軽装備︵軽装備マスタリー10︶ 軽装備効果上昇︵軽装備マスタリー50︶ 氷の心︵執行者10︶ ブラッドラスト︵執行者80︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ 育成︵母性10︶ 1689 料理効果上昇︵料理30︶ マナー︵メイド10︶ ベビーシッター︵メイド20︶ 料理効果上昇︵料理30︶ 毒味︵料理40︶ 1690 第四十九話 決闘/ブラッドラスト/雪解け エターナル・マギアにおいて、訓練場とは金を払ってキャラクタ ーを預けることで、ログインしていない時にキャラクター経験値を 溜めることができる施設だった。各町によってトレーナーのレベル が違い、料金も異なっていたのだが、この世界においてはトレーナ ーをつけることは必須ではない。 訓練場の受付で空きを確かめると、ちょうど誰も利用していない とのことだった。普段はトレーナーをしているという妙齢の女性が、 事前に利用料の精算をする。 ﹁料金は一時間で銀貨5枚になります。訓練用の装備は更衣室にあ りますので、必要であれば使用してください。装備や施設を破損し た場合、料金は別途精算させていただきますね﹂ ﹁承知しました。坊っちゃん、こちらにどうぞ﹂ ﹁更衣室が一つしかありませんから、もし不都合があったら順番に 利用してください。それではごゆっくり﹂ ﹁あ⋮⋮そ、そうか。じゃあ、俺は外で待って⋮⋮﹂ 俺との着替えを恥ずかしがらない女性も周りには多いが、それが 当たり前と思ってはいけない︱︱と思ったのだが。 スーさんは俺の手首をきゅっと握って、静かに俺を一瞥すると、 黙って引っ張っていく。 ﹁あっ、ちょっ⋮⋮す、スーさん、どうしたんだ急に⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮申し訳ありません。少しでも早く戦いたいというこの想い、 ご理解いただけますでしょうか﹂ 1691 ﹁あ⋮⋮で、でも、いいのか? 俺、こんなに成長したのに、一緒 に着替えは⋮⋮﹂ ﹁私は坊っちゃんのお着替えをお手伝いしたこともあるのですから、 今さらではありませんか。聞きわけのないことを言うのではありま せん﹂ メイドというより乳母のようだ、と思ってしまう。今のスーさん は何というか、気がはやっている︱︱それだけ俺と試合がしたくて うずうずしてるってことだ。 ﹁分かったよ、スーさん。そうやって握らなくても、ちゃんとつい ていくから大丈夫だ﹂ ﹁⋮⋮はっ⋮⋮も、申し訳ありません。主人の手を握るなどと⋮⋮ 幾ら気持ちが急いでいるからといって、許されることではありませ ん⋮⋮﹂ ﹁そこまで反省しなくてもいいよ。それこそお世話になった間柄な んだしさ﹂ ﹁⋮⋮しかし、坊っちゃんは利発でいらっしゃいましたから、ご幼 少のみぎりも粗相をなさいませんでしたし⋮⋮私はただ、いたいけ な幼児を着替えさせて、自己の職務を果たしたつもりになっていた だけなのでは⋮⋮ああっ、申し訳ありません坊っちゃん⋮⋮っ﹂ ︵感情の起伏が激しくなってるのは、戦いの前だからかな⋮⋮?︶ いつも冷静なスーさんらしからぬ動揺ぶりを見て、ついそんなこ とを考える。 ︱︱だが、彼女が顔を赤らめつつ俺を見ているのを見て、すぐに 事情は理解できた。 適切な言い方かは分からないが、彼女は高揚しているんだと思う。 俺がそうであるのと同じように。 1692 ﹁⋮⋮着替えについては、私の方が後にいたしますので、更衣室の 外でお待ちしております﹂ ﹁今さらそんなことは言いっこなしだよ、スーさん﹂ ﹁ぼ、坊っちゃん⋮⋮私を翻弄していらっしゃるのですか⋮⋮?﹂ 年が離れていたときは、抱っこしてもらっても距離を感じる相手 だった。 そんな彼女は、今は一人の、年齢相応の女性にしか見えない。俺 にとってはそれが何よりも喜ばしい。 ﹁俺も男だから、女の人の着替えに興味がないわけないよ⋮⋮って 言ったら、怒るかな﹂ ﹁⋮⋮教育上はよろしくありませんが⋮⋮坊っちゃんに興味を持っ ていただけるなら、私は⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、冗談だよ。スーさん、変な気持ちで見たりしな いから﹂ 思い詰めたようなというか、胸の高鳴りを抑えているというか。 そんなふうに胸に手を当てていたスーさんは、もう何を言っていい のか分からないというように、しばらく俺を見つめていた。 どちらも興奮しすぎている気がする。これから決闘をするのに、 まるで別のことを望んでるみたいだ。 そしてそれが、全くおかしなことだとは感じない。 子供の頃から、彼女との間には不思議な信頼関係があった。大人 になれば、その関係がどう変わるか⋮⋮。 ﹁お客様、いかがなさいましたか? 利用時間が少なくなりますの で、早めの訓練開始をおすすめいたします﹂ 1693 ﹁あ⋮⋮す、すみません。行こう、スーさん﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ 今度は俺がスーさんの手を引いて、更衣室に入る。握られた時に も気づいていたけど、彼女の手は俺の手よりも小さくなっていた。 ◆◇◆ 更衣室にはいくつかアイテムボックスが置かれていた。ロッカー なんてものはないので、これを代わりに使えということだ。 一緒に更衣室に入ったといっても、まじまじと直視していいわけ ではないので、俺は部屋の中にあるアイテムボックスのうち、スー さんが使うものと逆側のものを開けた。 訓練場装備を使うべきかとも考えたが、ロイヤルコートだけを脱 いで、後はそのままにしておくことにした。スーさんはというと、 しばらく考えてから、メイド服を脱ぎ始める︱︱と、見ていてはい けない。 ﹁んっ⋮⋮申し訳ありません、この服の換えが、今は残り少ないも のですから﹂ ﹁いっぱい同じ服を持ってるのか。スーさんはメイドの鑑だな﹂ ﹁⋮⋮ギルドに所属していれば簡単に手に入るのですが。受付嬢の 制服も、メイド服ですので﹂ そういえば、ミゼールギルドのギルド長・リックさんと、その妹 の受付嬢のシャーリーさんは元気だろうか。最近顔を出してなかっ たから、パーティのみんなを連れて顔を出さないとな。 ﹁ん⋮⋮ど、どうしたの? スーさん﹂ 1694 ﹁⋮⋮今、別の方のことを想像していらっしゃる目をしていました。 メイド服のお知り合いが、他にいらっしゃるのですか?﹂ ﹁あ、いや⋮⋮その、俺がギルドに行くようになってから、世話に なってる人たちのことを考えてたんだよ﹂ ﹁ギルドの方でしたら、私もある程度は存じておりますが⋮⋮﹂ 誰のことを考えてたか、ものすごく知りたそうな聞き方だ⋮⋮俺 もそういうのが感じ取れるようになったか。 そしてこういう時にウソをつくのが得策でないことも肌で分かる。 会話における些細な要素もまた、交渉術に直接関係している部分だ ︱︱スキル120の影響は伊達ではない。 ﹁この町のギルドにシャーリーさんって言う人がいて、その人がい つもクエストの受理をしてくれてたんだ﹂ ﹁⋮⋮なるほど﹂ 納得してくれたのか微妙なのか、わかりにくい返事だった。彼女 にしては、かしこまっている度合いが低いような気もする。 ﹁承知いたしました。同じような服装であるから連想したのであれ ば、やはり着替えるのは良い選択です﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮いや、俺はスーさんのメイド服、すごく似合って ると思うよ﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そうですか⋮⋮似合うということであれば、あえて装 備を変更する必要も⋮⋮﹂ 試合の前なのに服装にこだわる、それがスーさんの乙女な一面と いうことか。 ﹁⋮⋮やはり、元の服装で戦うことにいたします。ギルドで購入す 1695 れば、メイド服の補充はできますので﹂ ﹁もし破れちゃったら俺が新しいのを買うよ⋮⋮って﹂ スキャナー ナチュラルに話していたが、一回服を脱いだスーさんは下着姿に なっていた。それに気づいた俺の視線が、上から下まで超高速で往 復する。 ﹁っ⋮⋮ぼ、坊っちゃん、申し訳ありません、お見苦しい物を⋮⋮ っ﹂ ﹁ぜ、全然見苦しくないよ⋮⋮見ちゃってこう言うのもなんだけど、 きれいだったし⋮⋮って何言ってんだ俺っ﹂ なんだこのラブコメ空間は、と自分で突っ込みたくなる。スーさ んは誘い受けなのか、それとも俺の気配りが緩すぎるのか。 俺は後ろを向いたままで、スーさんが服を着直す衣擦れの音を聞 きながら、さっき目に焼き付いたものを検証せずにはいられなかっ た。 ︵執行者というか⋮⋮上位職の﹃ゴッドハンド﹄のスキル、﹃気功 術﹄。これを貰わないことには、俺は一歩も進むことができなくな る。いや、それとスーさんの成長の度合いに、因果関係を見いだし てはいけないわけだが⋮⋮︶ ﹁坊っちゃん、お待たせいたしました﹂ 振り返るとスーさんは白い手袋を外していて、指抜きグローブに 付け替えているところだった。 手袋を嵌める女性の仕草︱︱そんな趣味はなかったはずだが、俺 は思わず見とれてしまう。白い手袋から抜き取られたすらりとした 手指が、彼女が身につけるには無骨にも見えるグローブに収まる。 1696 きゅっ、きゅっとグローブの具合を確かめたあと、スーさんはこ ちらを向いた。 もう、完全に戦闘モードに切り替わっている。切れ長の瞳の温度 が下がる︱︱ゾクリとするほど冷たく、魅入られるほどに澄んでい る。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、装備が破壊されることなど気になさらず、思い 切りなさってください﹂ ﹁その言い方はまた⋮⋮いや。もう茶化すのはやめにしようか。や ろう、スーさん﹂ 俺は巨人のバルディッシュを使うことは選ばなかった。手加減し ているのではなく、錆びて真価を発揮できない武器よりは、訓練用 でもスペックを引き出せる武器の方がまだいい。 ◆ログ◆ ・あなたは﹁訓練場のハルバード﹂を装備した。 ﹁訓練場武器﹂というものが存在するのか⋮⋮スペックは店売り の武器と大差ない。しかし、軽すぎて取り回しが逆に難しい。巨人 のバルディッシュの超重量に慣れるのも考えものだ。 ﹁⋮⋮そのような生ぬるい武器では、私は本気を出す気になれませ ん。坊っちゃんの本来の武器をご使用ください﹂ ﹁そう言われるような気はしてたよ。スーさんは本当に妥協しない な﹂ ﹁そうでないと火がつかないのです。生来、血が冷たいものですか 1697 ら﹂ ︵十分に熱いことを言ってるけどな。確かに彼女の目に宿るのは、 冷たいように見えるけど熱い、青い炎だ︶ 巨人のバルディッシュに持ち替え、俺はスーさんと共に戦闘訓練 用の大部屋に入っていく。 ここでフィリアネスさんたちと訓練をしたことを懐かしく思い出 す。スライムのことでだいたい記憶が占められてしまっているが、 俺はここで、聖騎士直伝の﹃演舞﹄を教えられた。 ﹁お怪我をされる可能性もあるかと思いますが、どうか今だけはご 容赦ください。戦いが終わったあとは、どんな罰もお受けする覚悟 です﹂ スーさんの攻撃もそうだが、石造りの訓練場は、床や柱に叩きつ けられれば当たり前にダメージを受ける。 訓練とはいえ実戦と変わりない︱︱﹃手加減﹄を持たないスーさ んの攻撃をまともに受ければ、俺も無事では済まないだろう。だが、 それを怖いと思うわけもない。 ﹁⋮⋮私はまだ、今の坊っちゃんが戦われる姿を見ておりません。 ですので、初撃から仕留めにかからせていただきます。未知の攻撃 ほど恐ろしいものはありませんから﹂ ﹁俺もそう思ってるよ。スーさんの立ち振舞いだけで、もう危険信 号が出まくってるからな﹂ ﹁⋮⋮? ⋮⋮信号とは、暗号か何かのことでございますか?﹂ ﹁うん、まあだいたいあってるよ。俺の頭の中を、スーさんに対し ての警戒が駆け巡ってるんだ。この人は強い、それもものすごくっ ていうね﹂ 1698 雷魔法があっても、﹃電気﹄の存在が知られていないこの世界に おいては、信号などというものもない。何かのきっかけがあれば、 文明が一気に発達しそうな、そんな過渡期ではあると思うが。 ﹁⋮⋮では。私が磨き上げてきた技、その一端だけは、僭越ながら お見せいたしましょう。その後に私が何を繰り出すかは、戦いの中 で知ってください﹂ ﹁ああ。俺はスーさんのことが知りたい⋮⋮そしてスーさんも、俺 のことを知ってくれ﹂ 今までは何も知らないも同然だった。だがこうして戦えば、言葉 以上に通じるものが必ずある。 スーさんは俺の言葉にうなずきを返すと、そのまま俺が魔法剣を 使わない場合の間合いから、ギリギリ一歩外で構えた。彼女が魔法 剣を見たことがある可能性はあるが、俺が使えるとは思っていない ことを示している。 ︵ダブル魔法剣からギガント・スラッシュで一撃で終わらせられる か⋮⋮いや、甘くないな⋮⋮!︶ スーさんの構えは、左の足と拳を前方下方向に突き出し、右拳を 引いて右足を軸とする構えだった。腰を落としてそのまま正拳で突 くことも、前蹴り、回し蹴りを放つこともできる、オールラウンド な構えだ。 魔術で牽制することも考えたが、それよりも好奇心が勝った。ゴ ッドハンドの立ち回りを見てみたい、そう思うと俺は飛び道具に頼 らず、初撃を受け切る方に戦術をシフトさせる。 1699 ﹁︱︱受け手に回りますか。後悔なさらないのですね⋮⋮?﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃練気﹄を発動した! スーの身体を光り輝く気が覆 った。 ・︽スー︾の身体能力が一時的に上昇した! ︵これが﹃練気﹄⋮⋮ゴッドハンドの、おそらく基礎となる技。こ れをどう使ってくるんだ⋮⋮?︶ マナ スーさんの身体を、魔力とは似て非なるエネルギーが覆っている。 練り方の違いで魔術を発動するか、体術を強化するかの二択ができ る︱︱気功術とはおそらくそういうものなのだ。 ﹁⋮⋮一撃を繰り出すための呼吸。私はそれを、﹃静心﹄と呼んで います﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃氷の心﹄が発動した! 次の行動の成功率が上がっ た! すぅ、とスーさんが音の聞こえるような呼吸をする。 ︱︱次の瞬間には、パン、と地面が震えるような踏み込みと共に、 スーさんが眼前まで迫っていた。 1700 と ﹁︱︱殺らせていただきますっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃暗殺術レベル10﹄が発動! ﹃格闘術﹄の攻撃力 が120%上昇した! ︵何っ⋮⋮!?︶ 気功術、暗殺術が流れるように連続して発動し、必殺の一撃が繰 り出される。 練気でスピードアップしたことで、そのまま正拳の威力が上昇す る。さらに暗殺術の効果も発動すれば︱︱もはや、武器を持ってい るかいないかなど関係がない⋮⋮! ︵﹃無敵﹄を使うか⋮⋮いや、マナの消費が大きすぎる。ここは⋮ ⋮﹃防御﹄する!︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹁加護の祈り﹂を使った! 祈りが届き、あなたの防 御力が上昇した! ﹁そんなものでっ⋮⋮!﹂ 俺はルーンヴァンブレイスを付けた片腕で、正面からスーさんの 1701 一撃を受け止めようとする。 ︵俺の恵体は153⋮⋮ルーンヴァンブレイスの防御力を含めて、 防げるダメージは400ってとこだ。貫通されても致命傷にはなら ない⋮⋮!︶ ﹁来いっ⋮⋮スーさんっ!﹂ ﹁︱︱やぁぁぁっ!﹂ 彼女は迅雷の如き速さで、全身の肉食獣のように強靭な筋肉を絞 り、弾丸よりも凶暴な拳を突き出してくる。 その打撃を受け止めた金属の小手は悲鳴を上げるように軋み、地 面に足がめり込む感覚を覚える。石床が砕け散り、削られるように して後ろに押された。 ﹁おぉぉぉっ⋮⋮ぉぉぉっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃正拳突き﹄を放った! ・あなたに56のダメージ! ︵56ダメージ⋮⋮二桁とはいえ、今の俺にダメージを通した⋮⋮ やっぱり、彼女は⋮⋮!︶ 喜びにも似た感情が生まれる。ここで0ダメージと出ていたら、 戦いにも成り得ない︱︱そうなったときに、どうやって戦いを戦い として成立させるかなんてことを考えていた。 1702 技を放った後にできる絶対の隙。そこに俺の技を入れることは、 何も卑怯なことじゃない。 ︱︱しかし。 それが致命的な俺の驕りだった。一撃を放ったあとも、スーさん の身体を覆う﹃気﹄が消えていない⋮⋮! ︵練気で練った気は、正拳突きの攻撃力を上げるためのものじゃな かったのか︱︱!?︶ ︱︱執行者の初撃は、一撃で終わることはありません。 俺の耳に、聞こえないはずのスーさんの声が届く。氷のように冷 たく、神経を直接撫でるような声。 その声が、俺は恐ろしいと思った。 魔王リリムを倒し、敗北の記憶を消すことばかりを考えていた。 ゴッ スーさんに負けるということを考えもしなかった。彼女もまた、 スキル100の境地に辿り着いた者であるにも関わらず。 ドハンド ︱︱これが暗殺の極意を知り、その次の頂きを目指す者︱︱﹃神 殺手﹄です。 ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃暗殺術レベル10﹄が発動! 攻撃後の隙がキャン セルされた! 1703 ︵キャンセルだと⋮⋮!?︶ ハ ﹁︱︱破ッ!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃発勁﹄を使った! ・あなたの防御力を無視して打撃ダメージが貫通した! 2 8 −ジ! ﹁ぐぁっ⋮⋮あぁぁっ⋮⋮!!﹂ ダメージ表記が乱れて読み取れない。衝撃が俺の防御に関係なく 貫通し、身体の内側にダメージが響く。 ﹃暗殺術レベル10﹄が、いかに強力なものか︱︱これは、近接 戦闘におけるアクションに寄与する技能の集合体だったということ だ。 発勁で送り込まれた気は俺の神経系を一時的に麻痺させる。ぼや けた視界の中で、防御が解けた俺に、さらにスーさんは追い打ちを かけようとする。 ﹁アーデルハイド流格闘術、奥義⋮⋮﹃烈風脚﹄⋮⋮!﹂ ふわり、と彼女のスカートが翻る。それが技を放つ前の準備動作 1704 で、発動を許せば俺は負ける。 ︱︱だけどスーさんは、勝利を眼前にしているのに、笑ってなど いない。﹃受ける﹄という判断をした俺が、やはり誤りだったのだ と、この勝負に勝っても得るものはないのだという顔をしている。 ︵ごめん、スーさん⋮⋮俺は勘違いしてたみたいだ。﹃こんなに綺 麗な人を傷つけたくない﹄なんて、とんだ思い上がりだった⋮⋮!︶ ブランク 烈風脚の溜めの時間。大技を使うためには避けられないその絶対 の空隙。 それを突くことができるのは︱︱最速の精霊魔術。 フィリアネスさんが最も得意とする、雷の魔術⋮⋮! ﹁︱︱雷よっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃ライトニング﹄を詠唱した! ・︽スー︾に32のダメージ! ・︽スー︾の技が中断された。 ﹁くぅっ⋮⋮やはり、魔術を⋮⋮っ!﹂ 子供の頃に魔術を覚えてから、俺は魔法剣で繰り出す技を強化す る目的で、魔術の訓練をたゆまなく続けてきた。 1705 魔術を最速、あるいは一瞬で発動させるには﹃無音詠唱﹄の領域 に辿り着く必要がある。思念が魔術を発現する、文字通り脳の神経 回路の伝達速度がそのまま発動の速さになる、詠唱の究極系だ。 ライトニング しかし精霊魔術レベル7で、レベル2の﹃雷撃﹄を使うならば、 発動時間は極限まで短縮される。魔術素養の値にも発動速度は依存 するため、ほぼ詠唱と同時に雷が発生する︱︱烈風脚の前の一瞬の 隙に割り込めるかどうかは、さすがに賭けでしかなかったが。 ﹁︱︱うぉぉぉりゃぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃魔法剣﹄を放った! ・あなたは﹃パラライズ﹄を武器にエンチャントした! ・あなたは﹃パワースラッシュ﹄を放った! ﹃麻痺強撃﹄! ﹁くぅっ⋮⋮!﹂ スーさんは完全に態勢が崩れているにも関わらず、それでも鋭い 眼光で俺の攻撃を捉える。そして振り下ろされる巨人のバルディッ シュを、女豹のような反応速度で飛びのいて避けきったかに見えた。 ◆ログ◆ ・︽スー︾はあなたの攻撃を回避しきれなかった! ・︽スー︾に127のダメージ! 1706 ・﹃麻痺﹄の追加効果が発生した! ︽スー︾は抵抗に成功した。 スーさんの身体は避けても、舞ったスカートを俺の斧槍が切り裂 く。端にしか当たらなかったはずが、彼女のスカートは腰の当たり まで一気に裂け、舞い上がるフリルのむこうに、白い三角の︱︱ ︵ぱ、パンツが⋮⋮あれは白のスキャンティなのでは⋮⋮って、そ んな場合じゃないっ︶ ﹁⋮⋮何という威力なのですか⋮⋮服の端にかすめただけで、こん な⋮⋮っ﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹁メイドスカート﹂の耐久度が下がった。 装備が破 損した! ・︽スー︾の﹁メイドブラウス﹂の耐久度が下がった。 装備が破 損した! ・︽スー︾の﹁メイドコルセット﹂の耐久度が下がった。 装備が 破損した! ・︽スー︾の﹁レザーブーツ﹂の耐久度が下がった。 装備が破損 した! ずらずらと列挙される装備破損のログ。耐久値が10%になると、 壊れる前の警告段階として破損状態になるのだが︱︱それがメイド 服だと、びりびりに破れてしまって、期せずして扇情的な姿になっ てしまう。 1707 ﹁っ⋮⋮ご、ごめん、スーさん!﹂ つ ﹁⋮⋮完全に回避したはずが⋮⋮身体に目立った痛みも⋮⋮痛っ⋮ ⋮!﹂ 俺の斧槍の攻撃はスーさんの身体の前面に袈裟懸けに浅く入って いる︱︱まるで風圧がそのまま刃となって、彼女の身体を薙いだか のようだった。 ︱︱そして、そのあらわになった胸の谷間に、ほんのり赤いあと が残っている。つまり、俺の攻撃は彼女の肌にまで届いてしまって いたということだ。 ﹁⋮⋮肌が赤くなっているだけ⋮⋮それでも、ヒロト坊っちゃんの 攻撃は私に届いた⋮⋮﹂ スーさんは無言で胸元を見下ろしている。その視線の先で、彼女 の胸から腰を覆っているコルセットの、ちょうど胸を覆う部分が、 こともあろうに片方だけぺろっとめくれてしまった。 ﹁あっ⋮⋮ぼ、坊っちゃんっ⋮⋮﹂ ﹁み、見てない! スーさん、俺は何も見てないから!﹂ 服が破れるということはこういうことだ。このまま戦うと、もっ と恥ずかしいことになりかねない。 しかし、俺の攻撃はなぜこうも装備の耐久値を削ってしまうのだ ろう︱︱考えられるとしたら、未鑑定の巨人のバルディッシュに、 装備破壊効果が付与されている可能性が⋮⋮まだ分からないが、そ うだとしたら仲間内での訓練には使いづらくなる。 1708 ◆ログ◆ ・︽スー︾はつぶやいた。﹁⋮⋮今、お見せするつもりではなかっ たのに⋮⋮うかつでした﹂ ︵今っていうことは、いずれ見せてくれるつもりだったのかな⋮⋮ ? い、いや、一緒に風呂に入れてもらったから、もう見せてもら ってるんだけど⋮⋮︶ しかし今の恥じらい方を見ていると、やはり子供に見られるのと、 成長した俺に見られるのとでは全然違うらしい。胸を押さえたまま、 片手で俺の猛攻をしのぎきれるのか、スーさん⋮⋮って、そんな鬼 畜なことをするつもりはないけど。 ﹁え、えーと⋮⋮そうだ、俺のシャツを着るってのはどうかな。俺 なら脱いだって問題ないしさ﹂ ﹁っ⋮⋮い、いけません、坊っちゃん。戦いの最中に、相手に情け をかけるなどと⋮⋮っ、あっ⋮⋮!﹂ セディも俺が脱ぐ時に反応してたし、気をつけなければ︱︱そう 思いはするが、一回席を外すなんてまどろっこしいことはしてられ ない。本当はすぐにでも戦いを再開したいんだから。 俺は手早くシャツのボタンを外す。そして装備を解除したあと、 スーさんに渡した。 スーさんはシャツの両肩のところを持って、何やら戸惑いながら 見ている。や、やっぱり男物じゃ嫌かな⋮⋮というかおっぱいが見 えてしまうところを、シャツで視界が遮られて、それも何かドキド キする。 1709 ﹁⋮⋮坊っちゃんの服を、私が⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮い、いや。あくまで応急措置だから、もし嫌だったら訓練 場の装備を借りて、﹂ 代替案を提案しようとした、その時だった。 スーさんは俺のシャツをこともあろうに、胸に抱き寄せた。そう してから、顔にぱふっと押し付ける。 ﹁⋮⋮すぅ⋮⋮﹂ スーさんだけに、俺のシャツをすーはーしてくれているのか。で きるなら俺だって、スーさんの脱ぎたてのメイド服とか、フィリア ネスさんの布鎧をハスハスしたい。ハスハスってどうやるんだろう。 ﹁っ⋮⋮ってそうじゃなくて、スーさん、一体何を⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮はっ⋮⋮い、いえ、何でもありません。坊っちゃんの服の匂 いを嗅ぐのは、メイドの義務です﹂ ﹁ははは⋮⋮スーさん、めちゃくちゃ言ってるぞ? 後で恥ずかし くなっても知らないからな﹂ ﹁⋮⋮もう十分恥ずかしい思いをしております⋮⋮坊っちゃんも、 良いお体に成長されましたね⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・あなたの﹃艶姿﹄が発動した! スーはあなたの姿に見とれた。 ・︽スー︾の好感度が﹃運命を感じている﹄になった! 1710 ︵俺の身体はどれだけ発情を誘う魅惑のボディなんだ⋮⋮って、ス キルのせいだけどな︶ こんなスキルがあって、人の集まる海辺とかに泳ぎに行ったりし たら、どうなってしまうのだろう。日差しの当たるビーチで女性の 視線を釘づけにするなんて、憎むべきリア充行為でしかなかったは ずなのに。そういう光景が存在しないゲームの世界だからこそ、俺 はストレスなく没入することができたのだ。 ︱︱と、詮ないことを考えていて気づくのが遅れたが、スーさん が顔を赤くして、息を荒げている。 ﹁⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ ﹁す、スーさん⋮⋮大丈夫か? 苦しそうだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮もはや、服のことなど気にしている場合ではありません⋮⋮ 私は⋮⋮あなたの⋮⋮を、求めて⋮⋮﹂ ﹁とにかく再開ってことか⋮⋮分かった。じゃあ、今度は俺から行 かせてもらうぞっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃アイスストーム﹄を詠唱した! ・あなたの﹃マジックブースト﹄! 魔術の威力が倍加した。 武器を持っている手と逆、左手をスーさんにかざして、俺は凍て つく嵐を発生させる︱︱ネリスさんも得意としている、範囲の広い 氷属性の精霊魔術。マジックブーストをかければ、﹃凍結﹄効果の 発生率がかなり高くなる。 1711 ﹁氷の精霊魔術⋮⋮私の足を止めようと言うのですね⋮⋮しかし⋮ ⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃練気﹄を発動した! ︽スー︾の身体を光り輝く気 が覆った。 ・︽スー︾の身体能力が一時的に上昇した! ・︽スー︾の﹃暗殺術レベル10﹄が発動! ﹃シャドウステップ﹄ の効果が発生した! ︵なにっ⋮⋮!?︶ 暗殺術には回避性能のある技まで含まれているのか︱︱魔術が使 えなくても、彼女にとっては不利ではない。 影を残してスーさんは俺の魔術の範囲の外まで出て、そこからす かさず反撃の兆しを見せる。そして彼女の身体を覆った﹃気﹄は、 まだ消えていない︱︱! ﹁あなたはまだ本気を出していない⋮⋮ならば、本気になっていた だかなければ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ れっぷうげつじんきゃく ・︽スー︾の﹃練気﹄が、﹃烈風脚﹄の威力を強化した! ・︽スー︾は﹃烈風月刃脚﹄を放った! 1712 ﹁はぁぁぁっ⋮⋮!﹂ 地面が震えるほどの軸足の踏み込みと共に、気に包まれた蹴り足 が俺に向けて三日月の軌跡を描く。次の瞬間、ふわりと髪を揺らす 風を感じた直後︱︱まさに猛り狂うような風のエネルギーが身体を 貫いていく。 ﹁うぉぉっ⋮⋮!﹂ 俺の髪が暴れるようにはためき、結んでいた紐が千切れる。それ はスーさんの蹴りの起こした風によるものだった︱︱元は真空の刃 を生み出す蹴りという設定だが、それが﹃練気﹄で強化されて、驚 異的な射程を得て俺に届いたのだ。 胸に一文字の細い傷がつけられる。そして薄くにじんだ血を、俺 は指で拭って舐めとった。 ﹁⋮⋮強いな、スーさん。本当に⋮⋮ん⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮坊っちゃん⋮⋮申し訳ありません⋮⋮大 切なお身体に、傷を⋮⋮﹂ ﹁謝ることないよ。俺はスーさんの言うとおり⋮⋮スーさんの全力 を受け止めてみたくて、こんな立ち回りをしてるんだから。怒られ ても⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮違います⋮⋮私は⋮⋮坊っちゃんに、わざと血を流させるよ うな技を⋮⋮使ったのです⋮⋮﹂ 何か様子が変だと気がついてはいた。戦いの中で気持ちが昂ぶっ ているだけ、そう思っていたが︱︱どうやら、そんな理由じゃなさ 1713 そうだ。 俺はスーさんのステータスを見た時、ひとつ引っかかっていたパ ブラッド ッシブの存在を思い出す。 ﹃ブラッドラスト﹄。血の文字が入ったそのスキルが、今の彼女 の状態に関係しているとしたら⋮⋮? ﹁俺の血がどうしたんだ? これだけ本気で戦えば、血くらいは出 るよ﹂ ﹁⋮⋮そうではありません。私は⋮⋮血を見ると⋮⋮身体が⋮⋮﹂ ﹁身体⋮⋮? スーさん、どこか⋮⋮﹂ 痛いのか、と聞きかけて、俺は自分がいかに鈍かったかを思い知 った。 ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃ブラッドラスト﹄が発動! ︽スー︾は血の匂いに 凶手の本能を目覚めさせた。 ・︽スー︾の攻撃力が大きく上昇し、防御力が下がった。 ・︽スー︾は興奮状態になった。 ﹁⋮⋮血の匂い⋮⋮坊っちゃんの⋮⋮私の、大切な⋮⋮尊い方の血 ⋮⋮﹂ ラスト ︵こ、これは⋮⋮ブラッドラストのラストって⋮⋮色欲のことか⋮ ⋮!?︶ 執行者のスキル80で得られるパッシブが、相手に血を流させる 1714 ことで性的な興奮を覚える︱︱いや、防御を犠牲にして、攻撃に特 化するための技能とは。 もしスーさんがパッシブをオフにする方法を知らなかったら、こ のスキルはとてもまずい⋮⋮非常に良くない⋮⋮! ﹁⋮⋮スーさんは他の人の血の匂いを嗅いでも、そうなっちゃうの か?﹂ ﹁⋮⋮はい⋮⋮いつからこうなったのか⋮⋮抑えることが、困難で ⋮⋮ですから⋮⋮ギルドは、辞めなければ⋮⋮私は、坊っちゃんに 会うまで⋮⋮全ての男性を、退けなければ⋮⋮﹂ ギルドを辞めたのはそういう理由もあったのか⋮⋮もし執行者の 任務で男性と戦うことになり、﹃ブラッドラスト﹄が発動したら。 戦闘にプラスになっても、要らないバッドステータスがついてきて しまう。 今日ここで戦うことができてよかった。少しでも早く戦いたいと 言っていたのは、彼女のSOSだったんだ。 ﹁大丈夫だよ、スーさん。俺が必ずなんとかしてやる。助けてあげ るから﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃん⋮⋮今は⋮⋮それよりも、血を⋮⋮あなたの貴い 血で、私の卑しい血を⋮⋮洗い流して欲しい⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃練気﹄を発動した! ︽スー︾の身体を光り輝く気 が覆った。 ・︽スー︾は﹃堅体功﹄を発動した! ︽スー︾の防御力が上昇し 1715 た! ・︽スー︾の﹃暗殺術レベル10﹄が発動! ︽スー︾の移動速度 が上昇した! シナジー ︵この気功術と暗殺術の組み合わせ⋮⋮当然だが、執行者から上位 職のゴッドハンドに至るスキルの連携は、まさに完璧だ︶ ﹁はぁぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃牽制攻撃﹄! ログに表示されたことで先読みができてしまう。牽制だと分かっ ていれば、引っかからなければスーさんの方に隙ができる。そこに 入れられる反撃を、俺は自分のアクションの中から選別する︱︱! ﹁︱︱おおおおおぁぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃ウォークライ﹄を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! パーティの攻撃力が一時的に上昇 した! ・あなたは﹃ブレードスピン﹄を放った! ﹁くっ⋮⋮!?﹂ 1716 斧を振り回して回転し、周囲の敵をなぎ倒す技︱︱ブレードスピ ン。本来なら敵に囲まれたときに、まとめて敵を吹き飛ばして仕切 りなおすためのスキルだ。ダメージも低くはないが、上位の単体攻 撃技よりは弱い。 しかし今の俺のステータスなら、間合いを広げるためのブレード スピンすら、必殺の威力に変わる。 ◆ログ◆ ・︽スー︾に374ダメージ! ︽スー︾は吹き飛ばされた! ﹁っ⋮⋮!﹂ スーさんの服がさらに破れ、耐久度が限界まで下がる︱︱ほとん ど、布がからみついているだけの状態だ。しかしほぼ裸身になって しまっても、スーさんは吹き飛ばされながら空中で回転し、受け身 を取る。 ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮坊っちゃんは、それほどの高みにまで⋮⋮私 は⋮⋮私は、なんて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮弱くないよ。スーさんはすごく強い。でも俺も、負けるわけ にはいかない﹂ ﹁⋮⋮喰らい尽くせるなどと⋮⋮私は、牙をたてることすら⋮⋮っ !﹂ 俺が斧をいつでも振り抜けるように引いたことで、スーさんが反 応して突きかかってくる。﹃練気﹄を使わない彼女の身体能力でも、 1717 間合いを詰める速さは目を見張るものがあった。 ﹁︱︱はぁっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃パンチ﹄を放った! ・あなたは53のダメージを受けた。 ・あなたの攻撃! ・︽スー︾に127ダメージ! ︽スー︾は吹き飛ばされた! ﹁きゃぁっ⋮⋮!﹂ 小手をつけた手でスーさんの拳を受けたあと、反撃の突きを繰り 出す。斧槍の先端が触れる前にスーさんは後ろに飛んだが、威力を 殺しきれていない。 胸から出血していた俺は、今の攻撃でスーさんの身体に血しぶき を散らせる。大した出血ではないと思っていたが、烈風脚でつけら れた傷は鋭かったようだ。 ﹁⋮⋮っ⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃ブラッドラスト﹄が進行した! ・︽スー︾の攻撃力がさらに上昇した! 防御力がさらに低下した。 ・︽スー︾は発情状態になった。 1718 ﹁くぅっ⋮⋮うぅ⋮⋮あぁぁっ⋮⋮だめ⋮⋮こんな⋮⋮姿をっ⋮⋮﹂ ほとんど裸身を晒しているスーさんは、自分の胸に片手を、そし てもう一つの手を腿のあたりに触れさせる。しかしそれ以上しては ならないと自分を律して、抗っているように見えた。 ﹁⋮⋮私は、この血の味を求めて⋮⋮違う⋮⋮私は、坊っちゃんと ⋮⋮﹂ ﹁分かってるよ、スーさん。俺たちは⋮⋮こんな形じゃなくて、も っと、ちゃんと戦わなくちゃいけない⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾は﹃練気﹄を発動した! ︽スー︾の身体を光り輝く気 が覆った。 ・︽スー︾は﹃正拳突き﹄を放った! ︵そんなに真っ直ぐ突きかかってきても、何度も当たってはやれな い⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは︽スー︾の攻撃を回避した。 ・︽スー︾の派生攻撃! ﹃サブミッション﹄を繰り出した! 1719 ﹁ぐっ⋮⋮!﹂ 正拳を避けたあと、そのままスーさんは俺の懐に入ってくる。そ して斧槍を持つ手と逆の腕に、腕を絡ませて極めようとする︱︱! ﹁坊っちゃん⋮⋮油断しましたね⋮⋮っ!﹂ いつも感情の起伏が少なかったスーさんの目に、俺の裏をかいた ことを喜ぶ感情、そして戦いのさなかの熱情が確かに宿っている。 このまま腕を極められれば、一対一の戦いでは致命的と言ってい い︱︱だが、それは。 スーさんが俺の腕を、完全に極められていたらの話だった。 ﹁︱︱おぉぉぉおっ!﹂ 俺の腕にスーさんの手が絡み、極められる前に、俺は彼女の身体 を﹃持ち上げ﹄、空中に投げ飛ばした。 ﹁っ⋮⋮!?﹂ これくらいなら、恵体が100でもできる芸当だろう。まして1 53ならば、片手でそれぞれ人間を一人ずつ持ち上げることすら造 作もない。 そして空中では、どうしようもない隙ができる。訓練場の宙空で、 スーさんはそれでも身体を反転し、俺の追撃に備えようとする。 ﹁坊っちゃん⋮⋮いらしてください⋮⋮手加減など、私への慰めに はなりませんっ!﹂ 1720 ﹁ああ、そうだな⋮⋮全力で行かせてもらう⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃ダブル魔法剣﹄を放った! ・あなたは﹃アイスストーム﹄を武器にエンチャントした! アイス・ライオット・トルネード ・あなたは﹃ライオットヴォルト﹄を武器にエンチャントした! ・あなたは﹃トルネードブレイク﹄を放った! ﹁氷雷嵐壊破!﹂ 巨人のバルディッシュの力を引き出すには、﹃ギガントスラッシ ュ﹄が適している。しかし俺は、それよりも空中の敵に対して特攻 のある﹃トルネードブレイク﹄を選択した。 凍気と雷を纏ったバルディッシュ。俺はその柄を両手で握り、腕 を交差させて身を守ろうとするスーさんに向けて、彼女が言ってい たとおりの全身全霊を込めて一撃を繰り出した。 ﹁︱︱いけぇぇぇっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽スー︾に3474ダメージ! オーバーキル! ・﹃手加減﹄が発動! ・︽スー︾の﹃暗殺術レベル10﹄が発動! ﹃昏倒﹄状態を回避 した。 1721 ︱︱凄まじい執念だ。今まで全ての相手が、オーバーキルからの 手加減で昏倒してきたというのに。 執行者は気絶すらしない。もはやライフは1しか残されておらず、 俺のシャツもメイド装備も、破れたショーツとヘッドドレス、そし てグローブとレザーブーツを除いて、ほぼ全てが耐久度ゼロになっ て、辺りに散らばっているのに、彼女は意識を保って、床に膝を突 きながらもこちらを見ている。 ﹁⋮⋮これが⋮⋮公国の、生と死を司る者⋮⋮執行者を超えて、魔 王と戦う勇者の力⋮⋮なのですね⋮⋮﹂ スーさんのおさげの先に結ばれていた紐も解ける。俺の技による 凍気は、スーさんの背後の壁を氷壁のように凍てつかせ、袈裟懸け に巨大な亀裂が走っている︱︱これは、なかなか弁償に骨が折れそ うだ。俺の資産からすると大した負担ではないが。 ﹁⋮⋮俺は勇者じゃないけど、魔王を放ってはおけない。だから、 もっと強くならないとな﹂ 俺は斧槍を置く。今は武器も何も持たずに、スーさんの近くに行 きたかった。 素手で歩いてくる俺を、スーさんは辛うじて顔を上げて見つめる。 俺の血に対する誘惑は続いているけど、彼女はそれを律しているよ うに見えた。 ﹁⋮⋮私は⋮⋮やはり、あなたの⋮⋮お傍にいる資格は⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それを、確かめようとしてたのか? 俺と試合がしたいって いうのは⋮⋮﹂ そう尋ねたところで、スーさんの目が潤んだ。初めて、俺は彼女 1722 が泣いているところを見た。 氷の花だなんて思っていたのは、俺が彼女のことを何も知らなか ったからだ。 強くなろうとして﹃執行者﹄のスキルが上がり、習得した﹃ブラ ッドラスト﹄を制御できない苦しみ。 俺のパーティのメンバーが強いことを分かっているから、そこに 加われるか分からないという不安。 ︱︱何も分かってやれなかった。初めてステータスを見た時、ス ーさんは俺より遥かに強かった︱︱だから俺は、今でも彼女が俺よ り強いのかもしれないと思っていた。 サブミッション 人間の限界をスキル100だとしたら、それを遥かに超えてしま った俺は、彼女の技を力でねじ伏せることさえできてしまったのに。 チート こんなのは卑怯だ。だから俺は、烈風脚で傷をつけられたとき、 その切れ味を恐ろしいと思うと同時に、心から嬉しいと思った。 俺の驕りをスーさんが吹き飛ばしてくれた。毎回強い相手と戦う たび、新しいことを教えられてばかりだ。 ﹁⋮⋮ふぅっ⋮⋮うっ⋮⋮くぅっ⋮⋮﹂ ﹁スーさんっ⋮⋮!﹂ 一瞬、泣いているのかと思った︱︱しかし、違っていた。 ◆ログ◆ ・︽スー︾の﹃ブラッドラスト﹄が進行した。最終段階に達した! ・︽スー︾の攻撃力が上昇し、防御力がゼロになった。 1723 ・︽スー︾は﹃渇望﹄状態になった。 ︵渇望⋮⋮もしかして、血が欲しいのか⋮⋮?︶ ﹁ふぅぅっ⋮⋮うぅっ⋮⋮ぼ、坊っちゃん⋮⋮それ以上近付かない でください⋮⋮私は卑しい人間です⋮⋮あなたに仕えるだけの力も 持たず⋮⋮それでも、傍にいたいと不相応な夢を見て⋮⋮そんな希 望は、初めから抱くべきではなかったのに⋮⋮っ﹂ 執行者として生きてきたことを﹃卑しい﹄というなら、俺はそれ を否定しなければならない。 彼女がギルドに属して、俺の家に来てくれなければ、俺はスーさ んに出会えなかった。 ﹁⋮⋮言ったはずだよ、スーさん。俺が助けてやるって。俺の血を なめたら、少し気持ちが落ちつくかな﹂ ﹁そ、そんな⋮⋮いけません坊っちゃん、私などに⋮⋮っ﹂ ﹁子供の頃、スーさんが俺と一緒に戦ってくれて、すごく嬉しかっ たんだ。スーさんが困ってるなら、俺は何をしてでも助けたい。ス ーさんが助けてくれたときに、そう決めたんだよ﹂ 俺はスーさんの前に膝をついて、衛生兵スキルで取得できる﹃応 急手当﹄を発動し、スーさんのライフを少し回復させようと試みる。 文字通り手を当てないといけないので、スーさんの肩に触れさせて もらった。 ﹁あ⋮⋮﹂ 1724 ◆ログ◆ ・あなたは﹃応急手当﹄を行った。︽スー︾のライフが30ポイン トリジェネ状態になった。 リジェネ 一瞬で30ポイント回復するわけじゃなく、スーさんが再生状態 になって、じわじわ回復する。スーさんは俺の手が触れるのに任せ て、時折恥じらって身をよじらせた。 ﹁⋮⋮あたたかい。坊っちゃんは⋮⋮人を癒やす術も、覚えられた のですね⋮⋮﹂ ﹁治癒の魔術も覚えておけば良かったかな⋮⋮あとでサラサさんに 診てもらうか、診療所へ行こう﹂ ﹁いえ⋮⋮坊っちゃんに敗れたことを、私はこの身に刻みつけてお きたいのです。ですから⋮⋮﹂ 時間をかけて回復したいっていうのか。 ︱︱本当に、この人は自分を甘やかさない。彼女にとって、世界 は優しくはなかったのかもしれない。 それなら俺は、世界を変えたいと思う。スーさんの目に映る世界 が、もっと明るく輝くように。 ◆ログ◆ ・あなたは戦闘に勝利した! ・あなたの﹃精霊魔術﹄が上昇した! ・あなたの﹃魔術素養﹄が上昇した! ・︽スー︾のレベルが上がった! スキルポイントを3手に入れた。 1725 ・︽スー︾の﹃格闘術﹄が上昇した! ・︽スー︾の﹃気功術﹄が上昇した! ◆戦闘評価◆ ・︽スー︾をオーバーキルし、戦闘評価が上昇した。 ・︽スー︾に手加減して倒し、戦闘評価が上昇した。 ・︽スー︾の状態異常により、戦闘評価が上昇した。 ・﹃恭順﹄の効果により、︽スー︾の友好度が上昇した。 ︵スーさんにいっぱい技を出してもらったからな⋮⋮俺と訓練する と、成長は早そうだ︶ そして﹃恭順﹄が効果を示す︱︱それで、俺は宣言通り、彼女を 助けてあげることができそうだった。 しかしその前に、﹃渇望﹄に対しての措置が必要だ。 ﹁俺の血で良かったら⋮⋮いいよ、スーさん﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃん⋮⋮﹂ リリムに吸血されたのとは違う。俺は自分の血を、スーさんの渇 きを癒すために使う。 スーさんが俺の胸に顔を埋める。そして、恥じらいながら舌を出 して、ぺろ、と血を舐めとった。 ◆ログ◆ ・︽スー︾はあなたの血を舐めた。 1726 ・︽スー︾の﹃ブラッドラスト﹄が解除された。 ・︽スー︾の﹃渇望﹄状態が回復した。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、申し訳ありません⋮⋮もう少し⋮⋮もう少しだ け⋮⋮﹂ スーさんは俺の傷を舐めて癒やすように、ぺろぺろと舐め続ける。 まるで至上の甘露でも口にしているかのように、彼女は恍惚として いる。状態異常は、もう治っているのに。 ︵⋮⋮もう状態異常がどうとかじゃなくて、傷が治るようになめて くれてるんだな︶ 胸についた傷は、もうふさがり始めていた。恵体が高いと、ライ フの自然回復も早いからだ。 傷が直った俺の胸板を見ると、スーさんははっとしたように口元 に手を当てる。 ﹁⋮⋮ぼ、坊っちゃん⋮⋮すみません、私、夢中で⋮⋮﹂ ﹁くすぐったいけど、嫌じゃないよ。スーさん、もっと舐めたい?﹂ ﹁い、いえ⋮⋮舐めると傷が治りやすいとは言いますが、消毒や、 治癒魔術のほうが良いかと⋮⋮﹂ しきりに恥じらうスーさん。俺は彼女の友好度が最大になったこ とをログで確かめる︱︱そして、﹃ブラッドラスト﹄は場合によっ て有用であるけど、封印してもらうことにする。 ◆ログ◆ 1727 ・あなたは︽スー︾に﹃命令﹄した。 ・︽スー︾の﹃ブラッドラスト﹄がオフになった。 アタックバフ ︵よし⋮⋮これで、血を見ても興奮はしなくなる。攻撃力強化とし ては使えるけど、防御がゼロになるのは気になるしな⋮⋮︶ ゲームなら防御を捨てて攻撃力が2倍と言われたら、効率重視で 腕に覚えがある人ならまず食いつくだろう。しかし異世界において は、命あっての物種だ。 ﹁⋮⋮もう、血を見ても落ち着いてられると思うけど⋮⋮どうかな ?﹂ ﹁っ⋮⋮ぼ、坊っちゃん⋮⋮どうやって⋮⋮自分ではどうにもなら なかったのに⋮⋮先生には、修行が足りないと言われてしまいまし たし⋮⋮﹂ ﹁﹃先生﹄って人がいるんだな。その人がスーさんに戦闘を教えて くれたのか?﹂ ﹁⋮⋮私のように、ギルドの特別な任務を請け負う人々に、戦闘法 を指導する方がいるのです。彼女は自分で、血への欲求を克服した と言っていました。私はそれがどうしても思い通りにならず⋮⋮﹂ ︵たぶん、執行者を極める過程でクエストを受けないといけないん だ。﹃ブラッドラスト﹄を自分で制御できるようになるための︶ その克服した過程を教えてくれない先生か⋮⋮おそらく、女性で 高レベルのゴッドハンド。 しかし気功術48のスーさんがこれほど強いのだから、やはり上 位職のスキルは魅力的すぎる。 1728 ﹁⋮⋮もう、お気づきかもしれませんが⋮⋮私は、坊っちゃんと行 動を共にするために、力量を見せたかったのです。坊っちゃんのパ ーティには、ミコトさんという、私より個人戦闘に特化した方がい らっしゃいますから﹂ ﹁スーさんは、俺のパーティにもう入ってるみたいなものだけど⋮ ⋮﹂ ﹁場面によっては、少数でパーティを組む必要もあると思います。 そのとき⋮⋮坊っちゃんのお傍にいられず、留守を守るということ になっては⋮⋮そ、その。寂しい⋮⋮ですから⋮⋮﹂ パーティに入れられず、拠点に置いて行かれる仲間の気持ちは、 察するに余りある。特に、俺と一緒に戦うために腕を磨いてきたス ーさんにとっては⋮⋮。 ﹁⋮⋮しかし、やはり力を出し尽くしても、届きませんでした。私 は坊っちゃんに、ご指導を受けていたのです。初めからわかってお りました﹂ ﹁そんなことないよ。最初の連続攻撃は、すごく効いたから。スー さんはさすがだなって思ったよ﹂ ﹁そ、そんな⋮⋮さすがなどと⋮⋮坊っちゃんは魔法剣をお使いに なるのに、最初から使われなかったではないですか。私を完全に封 殺することもできたはずです﹂ ﹁スーさんが接近戦をするって分かったから、間合いの外から攻撃 するのもどうかと思ってさ。でも、烈風脚の範囲はすごく広かった な。あの距離で届くと思わなかったよ﹂ スーさんはふさがり始めた傷を見やる。そして、おずおずと手を 伸ばしてきた。触れはしないで、ただ目を潤ませて見つめている。 ﹁⋮⋮私は⋮⋮坊っちゃんに傷をつけてしまったことを、どうお詫 1729 びすれば⋮⋮﹂ ﹁お詫びじゃなくて、俺は⋮⋮その、何ていうか。昔甘えさせても らえなかった分だけ、スーさんに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そんなことを、思っていらしたのですか? 私は、坊っちゃ んに好かれるようなことは、何も⋮⋮﹂ ﹁何もないって思ってるなら、スーさんは優しすぎると思うよ。俺 が子供のとき、スーさんが何をしてくれたか⋮⋮俺は、全部覚えて るよ﹂ 仕事とはいえ、母さんがいないときに俺の面倒を見てくれた。 外に出たいという我がままを、聞いてくれた。 そして、俺と一緒に、夜中に名無しさんたちを助けに行ってくれ た。 もう一度会うまでに、俺が強くなっていると信じて、腕を磨いて いてくれた。 ﹁これからは、俺と⋮⋮みんなと一緒に強くなろう。置いていった りしないから﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃん⋮⋮﹂ スーさんは涙を拭く。そのとき、破れた服からこぼれた胸を押さ えていた手がずれて、ふるん、と下に収まっていた部分が、束縛を 逃れて前に飛び出すようにあらわになる。 ﹁あっ⋮⋮す、すみません、お見苦しいものをお見せしてしまい⋮ ⋮﹂ ﹁見苦しいなんてそんなことないよ。すごくきれいだと思う﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃん﹂ スーさんはじっと俺を見ている。綺麗だ、と褒めても、あまり見 1730 るものではないと怒られてしまうだろうか⋮⋮と思っていると。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、というのは、終わりにしなければいけないでし ょうか?﹂ それはもう問いかけではなく、ただの確認だった。俺がしようと してることを、彼女は許してくれている。 ﹁スーさんの好きなように呼んでいいよ﹂ ﹁⋮⋮では⋮⋮もう少しだけ、﹃坊っちゃん﹄のままで⋮⋮﹂ ﹁いつか、ヒロトって呼んでくれるってことかな? じゃあ、俺は それを心待ちにしてるよ﹂ ﹁⋮⋮どうしてそんなに、私の身に余る言葉ばかりをくださるので すか? 坊っちゃん、あなたという人は⋮⋮﹂ 困ったようで、けれど嬉しいようで。後者の感情の方が強いのは、 スーさんの顔を見ればわかる。 ︱︱寡黙なメイドさんで、どうやってコミュニケーションを取れ ばいいのか分からない。幼い頃はそう思って、緊張して話しかけら れなかったりもした。 でも、戦うことでようやく分かり合えた。彼女が抱えているもの も、彼女が戦うとき、どれだけ美しく、生命を躍動させているのか も、知ることができた。 ﹁⋮⋮俺にスーさんの力を、分けて欲しい。許してくれるかな﹂ ﹁は、はい⋮⋮そう⋮⋮そのようなことが、できるものなのですね ⋮⋮﹂ 1731 ﹃授乳﹄をお願いすると、代替スキルとして﹃採乳﹄が選択でき る。そのとき、対象となった女性は、採乳という行為が何をもたら すかをおぼろげに理解する。スキルという概念はわからなくても、 俺に力を与えることができる、その実感が湧いてくるようだ。 ︱︱だから俺は、こうやって、子供の頃からスキルを手に入れ続 けることができた。破れた服の布地を引っ張って、よく見えるよう にしたあと、そっと下から双子の丘の全体を包み込むように手を添 える。 そして、何度か手を輝かせたところで、待っていたログが流れて きた。 ◆ログ◆ ・あなたは︽スー︾から﹃採乳﹄した。 ・﹃気功術﹄スキルを獲得した! 受け継がれる拳聖の意志が、そ の手に宿った。 スーさんの身体から、鋭く研ぎ澄まされた達人の力が流れ込んで くる。スキルの種類によって、獲得したときの感覚は大きく異なる ︱︱だからこそ、新規スキルを手に入れたときの満ち足りた感覚は、 常に最高のものであり続ける。 ﹁スーさん、ありがとう⋮⋮俺も、スーさんの力を少しわけてもら ったよ﹂ ﹁⋮⋮﹃気﹄の力でしょうか。暗殺術は、坊っちゃんにお教えする には、影の技術でございますから⋮⋮﹂ ﹁いや、俺はスーさんの持つ力を全部受け入れるよ。そこまで鍛え あげたこと、改めてすごいと思う﹂ ﹁⋮⋮ありがとうございます。そう言っていただけると、これまで 1732 のことが、全て報われる思いです﹂ そして俺は、スーさんに、頑張ってくれたご褒美をあげることに する︱︱限界突破の刻印だ。 スーさんの着印点は首筋に生じた。今回つけた刻印は、スーさん のイメージ︱︱雪の結晶の模様にした。氷の花だなんて思ったけど、 彼女の中には熱い炎があると確かめている︱︱けれどその精神は雪 のように白く、純粋でもある。 ﹁坊っちゃんがどうやってそのようなお力を手に入れられたのか⋮ ⋮冒険譚など、長い夜のなぐさみにお聞かせいただければと思いま す﹂ 刻印の意味を深くは問わず、スーさんは遠慮がちにおねだりして きた。俺は二つ返事でOKする︱︱そのときは俺も、スーさんの昔 のことを聞こうと思いながら。 ◆◇◆ 汗を流すために訓練場の水浴び場を借りたあと、スーさんはスト ックが少なくなってしまったというメイド服を身につける。今まで と全く同じ型だが、耐久度は万全だ。 水浴びの後ですぐ髪をおさげにするわけにいかず、今はおろして いる。彼女は髪をおろすのは、メイドとしてだらしないと言って、 しきりに恐縮していた。 1733 ﹁スーさん、あの髪を留める飾り、訓練場に落としてきちゃったか な?﹂ ﹁飾りの玉だけは拾っておきました。紐につけて、髪を結ぶのです が⋮⋮その紐は切れてしまったので、買ってこなくてはいけません﹂ ﹁じゃあ、その紐を俺が買ってあげてもいいかな?﹂ ﹁よろしいのですか⋮⋮?﹂ 初めから辞退するのではなく、そういう聞き方をしてくれるよう になったのも、嬉しい変化だと思った。 ﹁⋮⋮実は、たくさんスペアがございますが⋮⋮﹂ ﹁うわっ、ほんとだ。スーさんはリボンにこだわる派だったんだな﹂ ﹁リボン⋮⋮でございますか?﹂ ﹁あ、そうか⋮⋮えーと、そういう髪を縛る紐を、俺はリボンって 言うことがあるんだ﹂ ﹁なるほど⋮⋮かしこまりました。これからこれを、私もリボンと 呼ぶことにいたします﹂ 考えてみれば俺は﹃リボン﹄と認識してても、スーさんはずっと ﹃紐﹄と言っていた。前世の感覚で横文字を使うと、こういうこと が多々ある。 ﹁⋮⋮坊っちゃんに頂いたリボンは、特別にいたします。優先して 身につけて⋮⋮そうすると、すぐすりきれてしまうでしょうか⋮⋮﹂ ﹁そうしたらまたプレゼン⋮⋮じゃなくて、贈るから大丈夫だよ。 リボンだけじゃなくて、他のものでもいいけど﹂ ﹁他のもの⋮⋮でございますか。少々お待ちください﹂ スーさんは何か、欲しいものを考えてくれているようだった。 1734 ﹁っ⋮⋮い、いえ、何でもありません﹂ ﹁遠慮無く言ってくれると嬉しいんだけど。これからもお世話にな るんだし﹂ ﹁⋮⋮すぐには、難しいと思うのですが⋮⋮可能性としては、それ ほど先ではないやもしれません﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ スーさんは微笑むばかりで、はっきりと答えてはくれなかった。 いや、男として察することはできるのだが、どうにも照れてしまっ て、はっきりとは聞けなかった。 ◆◇◆ スーさんはミゼールにいるうちは、俺の実家でメイドをしてくれ るようだ。 俺もそろそろ、家を手に入れるべきだと思い立つ。新しく建てる か、もともとある家で売りに出されているものを探すか。ゲームで は100時間プレイしても買えないと言われる超高額だったが、俺 はギルドハウスとして最高級の家を持っていた。それでも収容人数 は200人で、千人のギルドメンバー全員が集まれる場所は、フィ ールド上しかなかったのだが。 千人と言わずとも、パーティの上限人数の百人が拠点にできるよ うな場所が欲しい。大きな家か、それとも小さな家の集まりにする か︱︱どちらにしても、領地を貰えばそこに家を持つことになるわ けだから、その時に考えればいいことだろう。 ﹁⋮⋮坊っちゃん、少しよろしいですか?﹂ ﹁ん?﹂ 1735 スーさんは外に出る前に、俺に近づいてきて、少し背伸びをして 頬にキスをしてくれた。 ﹁⋮⋮ありがとうございます、坊っちゃん。やはり私は、あなたに 会えたことが、運命だったのだと思います﹂ ﹁お、俺の方こそ⋮⋮ありがとう、スーさん。これからもよろしく﹂ キスされて動揺する俺を見て、スーさんは楽しそうに笑った。そ してスカートを翻し、先に更衣室を出て行く。 一人になってから、俺は大活躍してくれたアイテムボックスから、 入れておいたアイテムを取り出す。換えのシャツに袖を通し、ふた たび文官スタイルに戻った。ロイヤルコートは目立つので今はしま っておく。 これからするべきことは︱︱装備を整えること。いよいよバルデ ス爺の工房に行き、錆びたバルディッシュを磨いてもらう。そして、 防具についても相談したい。 代金を払って受付の人に礼を言う。損壊した訓練場を見て彼女は 茫然としていたが、俺が即金で修理費を払うと、逆に感謝されてし まった。直してもらえると思っていなかったらしいが、俺もそこま で無責任ではない。 受付の人に見送られ、俺は工房に向かった。懐かしい裏路地に入 ると、鍛冶屋の看板の下に、何か別の名前を書いた札が付けられて いる。 ︵ん⋮⋮なんだ? エイミ・ソリューダス⋮⋮?︶ 1736 名前からすると、バルデス爺の家族だろうか。鍛冶屋の仕事に親 族は関わらせていないと言ってたけど、やはり老齢で、跡継ぎが必 要になったとか⋮⋮そんなこと言ったら、じっちゃんに怒られるだ ろうか。 とりあえず、行ってみればわかることだ。俺は扉にかけられた札 に﹃作業中 依頼者は中へ﹄と書かれているのを確認して、扉を開 け、地下にある工房へ続く階段を下っていった。 1737 第五十話 ドワーフの孫娘/皇竜素材の価値 薄暗い工房の中は、ほの赤い炉の光と、カンテラの明かりで照ら ユィシア されていて、部屋の中はかなりの熱気がこもっていた。換気口に相 当するものはちゃんとあるようだが、それでも竜の巣の溶岩地帯を 彷彿とさせる暑さだ。 バルデス爺がいるのかと思ったが、中にいるのは小柄な少女︱︱ いや、ドワーフの若い女性だった。頭に布を巻き、ゴーグルのよう なものをつけて、木綿のシャツの肩の部分をまくりあげてタンクト ップのようにして、膝丈のキュロットのようなものを穿いている。 どうやら、何か鍛造している途中のようで、鉄床に赤熱した金属を 置き、ハンマーで手際よく叩いていた。 ﹁あ、あの⋮⋮すみません、ちょっといいですか﹂ どう声をかけていいのか迷ったが、ハンマーで叩く作業が中断し たときに呼びかけてみた。すると彼女はゴーグルを外し、俺の方を 見てにこやかに答えてくれた。﹃カリスマ﹄はもちろん発動してい る。 ﹁あ、お客さん? おじいなら、今はいないよ。ちょっと用事があ るって出かけちゃってて﹂ ﹁そうですか。じゃあ、また出直します﹂ ﹁⋮⋮ちょっと待って? お兄さん、どこかで見たことあるような ⋮⋮私とどこかで会ったことある?﹂ ﹁え⋮⋮? え、えーと、看板に書いてあったエイミさんが、あな たですか?﹂ 1738 ﹁うん、そうそう、私はエイミ。バルデスおじいの孫で、つい最近 ここで働かせてもらうことにしたの。うーん、でもこんな髪の長い 男の人、やっぱり見たことないような⋮⋮お兄さん、なんて名前?﹂ ドワーフの女性は身長が120センチくらいしかなく、見た目は 本当に少女のようだ。ドワーフ女性の身長の平均がこれくらいで、 男性の方はけっこう幅広く、2メートルの巨体のドワーフもいたり する。男性は見るからに屈強な肉体をしているが、女性はそうでも なく、腕が丸太のように太いわけでもない。 ドワーフの男性は小さい女性が好きと言われていたが、それはあ くまで種族の特性なので、あまり偏見の目で見てはいけない。しか し、リオナたちと変わらない身長なのだが︱︱明らかに違うのは、 胸が大きいことだ。全体的にロリ巨乳が揃っている種族というのも、 大地の神か何かの巡り合わせだろうか。 ﹁お兄さん?﹂ ﹁あ⋮⋮お、俺は、ヒロト・ジークリッドって言います﹂ ﹁え⋮⋮えぇーっ!? おじいの一番弟子のヒロト坊や!?﹂ よほどエイミさんはびっくりしたのか、目を真ん丸にして大声を 出す。そしてわたわたと小さな身体をひとしきり動かして慌ててか ら、テーブルの上にあった水差しから水を注いで、喉をうるおした。 ﹁んくっ、こくっ⋮⋮はぁ、びっくりした⋮⋮きのうの夜、おじい が家に帰ってきたとき、ヒロト坊やが大きくなったって言ってたけ ど、そういう意味だったんだ。ああびっくりした、ちょっと前まで、 私と同じくらいの身長だったのに、そんなおっきくなってると思わ なくって。人間ってたまに急成長とかするの?﹂ ﹁あ⋮⋮そ、そうか。エイミさん、何度か、ここに来たときにお茶 1739 を持ってきてくれてたよね。俺、じっちゃんの仕事を集中して見て たから、あんまり顔を見てなくて⋮⋮﹂ ﹁あはは、まあそれは仕方ないね。もう結構昔だもんね、5、6年 前だっけ。ヒロト坊やがうちに来て、おじいに何か作ってもらって たのって﹂ 俺の最初の武器となった玩具斧を作ってもらったとき、エイミさ んはじっちゃんと俺にお茶を持ってきてくれたことがあった。でも その時は、彼女と顔を合わせることはなかったはずだが︱︱。 ﹁エイミさんとちゃんと話すのって初めてだね。じっちゃんは、家 族には鍛冶の仕事に関わらせないって言ってたけど⋮⋮何か、考え が変わったとか?﹂ ﹁うん、実は私、5年くらい修行に行ってたんだ。おじいの生まれ 故郷って、ずっと東にあるラバブ火山帯っていうところなんだけど、 そこでおじいが鍛冶を勉強した工房に行って、技法をいろいろ教え てもらってきたの。ほら、おじいももう、ずっと炉の火を見てたか ら目が弱っちゃって。完全に目が見えなくなる前に、うちの家族の 言うこと聞いて、半引退することにしたの﹂ ﹁そうだったのか⋮⋮これからは、エイミさんがこの工房をやって いくんですか?﹂ ﹁うん、まだおじいが請け負ってる仕事は残ってるから、おじいと 二人でやっていく感じだけどね。ほら、このゴーグルって魔道具っ てやつで、これがあれば目への負担も少なくできるからさ。まあ、 おじいはもう片目がほとんど失明しちゃってるんだけどね﹂ 鍛冶屋にはそういうリスクもあると知ってはいたが、まさかバル デスじっちゃんがそこまで身体に負担をかけていたなんて⋮⋮いつ も元気だから、これからも変わらず、工房の親方であり続けるのだ と思っていた。 1740 ﹁あ、そんなに心配しなくてもいいよ。町外れのネリスおばばが、 ヒロト坊やがお世話になったからって、おじいに目の薬を作ってく れたんだって。ヒロト坊やってどうしてそんなに顔が広いの? う ちの近所の人たち、ほとんどヒロト坊のこと知ってるよ﹂ ﹁子供の頃から、いろいろお世話になってるからな⋮⋮﹂ ﹁ふーん⋮⋮なんかメルちゃん、あ、雑貨屋の店主のメルオーネの ことなんだけど、あの子私と昔から友達なのね。最近来てくれなく てさみしいって言ってたよ﹂ ﹁早めに行こうと思ってたんだ。昔、メルオーネさんにもお世話に なったから﹂ 特にそれだけなら隠すこともないと思って言うと、エイミさんは すぐに答えず、俺の顔をじっと見る。 ︵っ⋮⋮ま、まさか、メルオーネさんが俺に授乳したことを話した んじゃ⋮⋮!?︶ エイミさんはゴーグルを額に上げたままで、少し汗をかいており、 赤い髪が頬に張り付いている。 鍛冶師の仕事はこの過酷な環境で、改めて大変だな⋮⋮と思い、 つい、と視線を下に向けて、俺は気づいた。暑いから薄着というの はわかるが、シャツを大きく盛り上げた部分に、ぽっちりとした突 起が視認できてしまう。 ﹁わっ⋮⋮え、エイミさん、す、透けてるから、何とかしたほうが ⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮あっ。ご、ごめんなさい、私、こういうのほんと無頓着で ⋮⋮おじいがいるときは、長袖の上着を絶対脱ぐなって言われてる のにね。やけどしちゃうと大変だし。私はもうそんな素人じゃない 1741 から、手袋だけで大丈夫って言ってるんだけどね﹂ 薄着の理由を説明してくれるのはわかったが、その間もまったく 隠そうとしない⋮⋮ドワーフの女性というか、エイミさんはけっこ うさっぱりした性格なのだろうか。 ﹁まあそれはいいとして、ヒロト坊やがもし良かったら、依頼があ ったら私が請け負うよ。こう見えても、おじいには今日から仕事を 受注していいってお墨付きをもらってるからね。武器や防具の修理、 製作、開発、なんでもござれだよ。宝石細工も簡単なものなら作れ るしね﹂ ﹁そうなのか。じゃあ、ぜひお願いしたいな﹂ ﹁うん、何にする? あ、今作ってたのは、ターニャから頼まれた はさみだよ。髪を切る時に使うはさみね﹂ 調髪師のターニャさんにとって、はさみは必須のアイテムだろう。 母さんも布切りばさみはこの工房で作ってもらっていた。父さんが 木こりの仕事に使う斧もそうだ。 ミゼールにはここ以外にも工房はあるものの、金属加工の仕事は ほぼここに回ってくる。そんな職人気質のじっちゃんが認めたんだ から、エイミさんの技量はかなりのものだろう。 ◆ステータス◆ 名前 エイミ・ソリューダス ハーフドワーフ 女性 20歳 レベル32 ジョブ:ブラックスミス ライフ:508/508 1742 マナ :120/120 スキル: 鍛冶師 69 宝石商 42 格闘 24 恵体 39 魔術素養 8 母性 45 アクション: メンテナンス︵鍛冶師20︶ 研磨︵鍛冶師40︶ 鍛冶レベル6︵鍛冶師60︶ 宝石鑑定︵宝石商20︶ 宝石細工︵宝石商30︶ 魔晶生成︵宝石商40︶ パンチ︵格闘10︶ キック︵格闘20︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ パッシブ: 育成︵母性10︶ 宝石拾い︵宝石商10︶ 熱に少し強い まず﹃ハーフドワーフ﹄という種族を見て、彼女が人間の少女に 1743 近い容姿をしている理由を悟る。どうやら、お父さんとお母さんの どちらかが人間のようだ。 ︵スキル構成はドワーフらしい感じだな⋮⋮じっちゃん譲りで、格 闘の心得もあるのか。おおっ、﹃魔晶生成﹄のアクションがある!︶ セディと話したときに﹃魔石鉱﹄という名前が出てきたが、鉱山 から採取された魔石の原石は、そのままでは利用できない。魔石に は魔力を貯めこむ性質があるのだが、石の種類によっては、魔術を 封じ込めることができるものがある。例えば精霊魔術の﹃ファイア・ ボール﹄を封じると、精霊魔術のない人でも、魔石が割れてしまう までは自分のマナを消費してファイア・ボールを発動することがで きたりする。そうやって魔術などの効果を発揮できるように加工し た石を﹃魔晶﹄と呼ぶ。﹃魔晶生成﹄は原石を魔晶に加工する際に 必要になる技能だ。 ただ自分が扱えない魔術を封じてある魔晶ならまだしも、店など で簡単に買える魔晶は明かりを灯したり、弱い回復魔術を発動する ものだったりで、今まであまり興味がなかった。しかし高レベルの 魔術を封じた魔晶は、装備品の強化にも用いられるので、いずれは 収集する必要があると思っていた。 ﹁ターニャもヒロト坊やと知り合いだよね。ってことは、あのはさ みはヒロト坊やの髪を切るために使うのかな? そんなに長いと、 ちょっと女の子みたいに見えちゃうしね﹂ ﹁お、女の子ってことはないと思うけど⋮⋮俺だって一応斧が使え るから、戦士みたいなものだし﹂ ﹁これからもっと男らしくなっていくんじゃない? 大きくなって もまだ線が細いから、そんなに男っぽいっていう感じはしないって いうか⋮⋮あ、でも結構すごいかも。見た目より力はありそうね﹂ 1744 エイミさんは俺の二の腕に触れて、筋肉の付き具合を確かめて言 う。特に筋肉質というわけでもないが、恵体の数値からすると、俺 の腕には見た目から想像できない力が宿っているわけで、エイミさ んもそれを少し感じ取ってくれたのかもしれない。 ﹁⋮⋮あっ、ごめんなさい。私、朝から工房にいるから汗くさいよ ね。私、昔から汗っかきで⋮⋮おじいが帰ってきたら、今日はもう あがろうかなと思ってたんだけど﹂ ﹁いや、全然気にならないよ。工房で働くってことは、汗をかくっ てことだもんな﹂ ﹁おじいは涼しい顔してるんだけどね。体質で、熱にすごく強いん だって。私も他の家族よりは強いんだけど、おじいにはかなわない なぁ。一日中工房にいても平気なんだよ、すごいよね﹂ 全身が毛深く、純然たるドワーフのイメージそのままのバルデス 爺と、ハーフドワーフのエイミさんでは、確かに耐性に差があるの もうなずける。 ﹁あ、あの⋮⋮エイミさんは、お父さんとお母さんの、どちらかが ドワーフなんだよね﹂ ﹁え? あ、そっか、私ってあまりドワーフっていう見た目はして ないから、それで分かったんだね。うん、お父さんがドワーフなの。 本当はおじいの跡をつぐのはお父さんだったんだけど、私が小さい 頃にけんかしちゃって、お父さんが家を出て行っちゃってね﹂ ﹁それで長い間、跡継ぎを他に作ろうとしなかったのか。俺、じっ ちゃんのこと、まだ全然知らなかったんだな⋮⋮﹂ じっちゃんは息子さんが家を出たことなど俺には一言も言わず、 鍛冶の仕事を見せてくれた。ときどきじっちゃんが寂しそうな目を 1745 することに気づいていたが、それは、息子さんに鍛冶を教えていた 頃のことを思い出していたからだったんだろうか。 ﹁ふふっ⋮⋮ヒロト坊や、お父さんのこと考えてくれてるの? 優 しいね﹂ ﹁あ⋮⋮う、うん。俺の家は、父さんも母さんも家にいてくれるけ ど、それを当たり前に思っちゃいけないと思って。そんな言い方し たら、失礼かな﹂ ﹁ううん、うちのお父さんも手紙だけは送ってくるからね。自分の 目指す武器を作るためには、ミゼールでくすぶってはいられないと か言って出て行っちゃった、困ったお父さんだけど⋮⋮鍛冶の修行 をしてみて分かったの。お父さんの気持ちも何となくわかるなって﹂ 鍛冶スキル69のエイミさんより、お父さんはさらにスキルが高 いと考えられる。その名工とも呼べる人物が、家族と離れてまで作 ろうとしている武器⋮⋮想像するだに、強力なものだというのはう かがい知れる。 ﹁でも私も、おじいの跡継ぎに認めてもらうために頑張ったからね。 まだ全部の技法を覚えたわけじゃないけど、だいたいのことはでき るから、任せてみて。おじいちゃんにも見てもらうけどね﹂ ﹁うん。えっと⋮⋮この武器なんだけど、錆びちゃってるんだ。こ れって磨けるかな?﹂ ﹁あ、斧槍? ヒロト坊や、斧を使ってるって話だったもんね⋮⋮ えーと、錆びにもいろいろあって、金属が腐食されちゃってると、 直すっていうよりほぼ作りなおすことになっちゃうんだけど⋮⋮こ れは、表面が風化してるだけみたいだね。遺跡か何かから掘り出し たままで、石がくっついてるの﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、そうか。金属質の石がくっついて、鞘みたいになっ ちゃってるのか⋮⋮﹂ 1746 俺は床に置くわけにもいかず持ったままでエイミさんに見せてい たが、その重量がどれほどか、彼女は見ただけで悟ったようだった。 ﹁こっちの床は、重いものを乗っけても大丈夫なように金属の板を 敷いてあるから。ここに置いてみて﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁巨人のバルディッシュ﹂を置いた。 彼女の指示に従ってバルディッシュを置く。エイミさんは、尖っ た彫刻刀のようなものとハンマー︱︱あれは、ノミと玄翁ってやつ だろうか。それを持ってきて、巨人のバルディッシュの表面を削ろ うとする。 ﹁ちょっと心配かもしれないけど、私も鍛冶屋の端くれだからね。 柄を持てば、余計な金属質を取り去ったときの形は分かるから⋮⋮ っていうか、私の持ってる器具だと、くっついた石は削れても、こ の武器本体の金属は削れないと思う。だから大丈夫だよ﹂ しっかり解説してくれてから、エイミさんは集中して、バルディ ッシュの表面の石を削った︱︱すると。 ﹁あ⋮⋮な、中に、確かに違う金属が⋮⋮これが、巨人のバルディ ッシュの本体なんだな﹂ ﹁中身をきれいに削り出しても、相当重い武器だね⋮⋮こんなのを 使いこなすなんて、ヒロト坊や、見た目よりすごく力があるんだね﹂ ﹁錆びてる状態でも、なんとか使えてるけどね。錆びを取ったら、 今よりかなり使えるんじゃないかと思うんだ﹂ 1747 ﹁うん⋮⋮それは間違いないよ。周りについてる石の年代から見て も、この武器は古代の武器って言ってもいいと思う。何千年も形を 保ってるなんて、普通の武器じゃ無理だからね。﹃魔剣﹄とまでは いかなくても、この武器は相当強いよ﹂ そんなものが、修練場で放置されていた︱︱もしかしたら、扱え ない武器や防具ってやつは、この世界では打ち捨てられたり、死蔵 されてるケースが多いのかもしれない。 ﹁これはけっこう時間かかりそうだね。しばらくうちの工房で預か るけど、いい?﹂ ﹁うん、お願いするよ。代金はどれくらいになるかな﹂ ﹁ふふっ⋮⋮おじいの一番弟子のヒロト坊やからは、お金なんてと らないよ。私は二番弟子だからね﹂ ﹁えっ⋮⋮お、俺、バルデス爺に弟子って言われたことないけど、 そういう気持ちでいてくれたのかな⋮⋮﹂ セディにもそう言われたし、町の人たちからすると公然の事実ら しい。俺の鍛冶師スキルはまだ30で、エイミさんの半分にもなっ ていないのに。 ﹁ヒロト坊やがおじいの仕事に興味を持ってくれたから、おじいは 嬉しかったんだよ。それで、私が修行に出るって言っても許してく れたの。ドワーフの里の工房に、紹介状も書いてくれたしね﹂ ﹁⋮⋮俺、何も考えてなかったな。じっちゃんに、武器を直しても らって⋮⋮それで、面白そうだから見てただけで⋮⋮﹂ ﹁自分が一生をかけた仕事を面白そうって思ってもらえたら、嬉し いに決まってるじゃない。私もそうだよ﹂ エイミさんはそう言いつつ、いったん頭に巻いていた布を外した。 1748 肩くらいの長さの髪はかなりのくせっ毛で、先のほうがくるくると 巻いている。しかしその無造作な感じが、さっぱりとした性格の彼 女によく似合っていた。 ﹁うーん、やっぱり暑い。ネリスおばばに、氷の魔術の魔晶を早く 作ってもらわなきゃ﹂ ﹁あ⋮⋮それって、精霊魔術が使えればいいんだよな? それなら、 俺もできるよ。アイスストームでいいかな﹂ ﹁えっ⋮⋮ほ、本当に? じゃあ、協力してもらってもいい? 私 の左手を握って魔術を唱えてくれたら、私がそれを石に籠めるから﹂ ﹁へえ⋮⋮そんなふうにするのか。魔術が暴発したりしないかな?﹂ ﹁それが大丈夫なんだよね。空の魔石に、発動する前の魔術を封じ 込める技術。それ自体は、鍛冶師の技術じゃなくて、魔石加工をし てる人から教えてもらったの﹂ 魔晶があれば、武具に組み込むことで魔術を付与することができ る。鍛冶師として必要な技術を一人で備えている彼女には、これか らもお世話になるだろう。 ︵全てのスキルを一人で揃えたい⋮⋮という気もするけどな。宝石 商の勉強は、また今度だ︶ から エイミさんは﹃空の魔石﹄を持ってきた。透明で、手のひらに乗 る程度の水晶のような見た目をしている。色は薄い紫色だ。 手袋を外すと、彼女は右手に魔石を握りしめ、俺に左手を差し出 す。その手を握ると、やはり少女のように小さいが︱︱これは紛れ もない、職人の手だ。 ﹁私が合図したら、三秒以内に魔術を唱えて。そうじゃないと、普 1749 通に発動しちゃうから⋮⋮いくよ。3、2、1⋮⋮はい!﹂ ﹁吹き荒れろ、氷の嵐よ︱︱アイスストーム!﹂ ◆ログ◆ ・︽エイミ︾は﹃魔晶生成﹄を発動した! ﹃アイスストーム﹄を 空の紫水晶に封じ込めた! ・︽エイミ︾は﹃氷嵐石﹄を手に入れた。 ﹁よーし、できた⋮⋮あ、もう空気がひんやりしてきてる! すご いねヒロト坊や、こんな難しい魔術が使えるなんて。これからもお 願いしちゃいたいくらい﹂ ﹁俺にできることなら協力するよ。仲間には、色んな魔術を使える 人がいるし﹂ 魔石と魔術には相性があり、魔石の種類によっては法術や治癒魔 術を封じ込めることはできないので、その都度違う石を集めないと いけない。 ﹁この水晶って、西の鉱山で取れるってやつかな?﹂ ﹁そうそう、今は取れなくなってるんだけど、何とかまた採掘して もらえるように、領主様に要望を出すってっておじいが言ってたよ。 魔晶があったほうが、冒険者の人が怪我をすることも減るだろうし﹂ ﹁実は、さっき領主のセディと話してきて、採掘を再開することに なったんだ﹂ ﹁りょ、領主様と⋮⋮? ヒロト坊やって、そんな偉い人とまで知 り合いなの? おじいったら、そういうこと全然教えてくれないん だから﹂ 1750 エイミさんが驚く間も、俺の魔術を封じ込めた石はひんやりとし た冷気を放ち続けて、部屋が少し涼しくなった。 ﹁作業の内容によっては温度を下げるわけにいかないから、魔晶は しまっておくことになりそうだけど。でも、大事にするね。魔術を 発動しなかったら、一年くらいは冷気を保ってそうだし﹂ ﹁あ、あの⋮⋮エイミさんは、魔晶を武器に組み込んだりもできる よね?﹂ ﹁それは武器次第かな。武器には魔晶が組み込めるものと、そうで ないものがあるの。材質とか、作った人の腕とかいろいろ影響する んだけど、私たちはそれを﹃穴が空いてる﹄っていうのね。穴の数 だけ魔晶をはめこめるって感じだけど、私は二つ穴が空いてるのを、 一ヶ月に一個作れるかどうかかな。一つなら沢山作れるんだけどね﹂ ︵一つでも、魔晶装備とそうでないものでは全然違うからな⋮⋮パ ーティのみんなの装備を増強してもらおう。そのためには魔晶の原 料集めもしなきゃな︶ やることがまた増えたが、どのみちミゼールの周囲の砦を増やす まで、魔杖のある悠久の古城に向かうことはできない。ゲームと違 うのは、町の状況まで考えて動かなければならないということだ。 スーさんがパーティを少数精鋭にする機会があるかもしれないと 言っていたが、確かにその通りだ。今のメンバーを、古城に向かう 班と、町を守る班に分ける必要がある。 ﹁エイミさん、魔晶の原料がいっぱい手に入るようになったら、た くさん作ってもらっていいかな? 俺のパーティのみんなの装備を、 1ランク強くしたいんだ﹂ 1751 ﹁うん、それは全然大丈夫。私も今は経験を積みたいから、仕事は どんどん頼んでくれた方が嬉しいな。あ、でも炉の維持とか、工具 の買い替えとかもあるから、えっと⋮⋮ヒロト坊や、出資ってわか る?﹂ ﹁この工房の設備を整えるために、投資をしてくれってことだよね。 これくらいでいいかな?﹂ 俺はインベントリーから金貨の袋をひとつ取り出すと、それをエ イミさんに渡した。 ◆ログ◆ ・あなたは100000ジュナに相当する金貨を︽エイミ︾に渡し た。 ﹃ジュナ﹄は公国における貨幣単位である。金貨1枚で1000 ジュナの価値があるので、袋には100枚入っていることになる。 ﹁こ、こんなに⋮⋮? かかった分だけ、後で請求する形でもいい のに⋮⋮﹂ ﹁おじいにはお世話になってるから。それに、エイミさんにもこれ からお世話になると思うしね﹂ ﹁⋮⋮お、お金は大事にしないとだめだよ? 私の仕事なんて、ま だこんなに出してもらうほどじゃないし﹂ ドワーフはお金に目がない、というのはエイミさんも同じようだ。 がめついとかじゃなく、彼女たちの種族も本能的に宝が好きなので ある。 ﹁⋮⋮じゃ、じゃあ、遠慮無く設備を新しくさせてもらうけど、い 1752 いの? 返さないよ?﹂ ﹁うん、大丈夫。武具の強化にこれくらい払うのは、普通なら当た り前だしさ。むしろ安いと思うよ﹂ エターナル・マギアは武具の強化が進むほど、異常に金がかかる ようになるゲームだった。オンラインゲームにはよくあることだが、 武器の強化の難易度を上げることで、プレイヤーの時間と根気を費 やした分だけ強さに差をつける部分があった。 最終強化装備を作るためには十万どころか千万単位で金がかかっ たものだから、俺もそういう時に備えてお金を貯めていたので、資 産が七千万ジュナくらいあったりする。銅貨銀貨を金貨に換えて袋 に詰め、インベントリーに放り込んでいるので、さっきの袋が数百 個溜まっているわけだ。金貨の10倍の価値がある白金貨に交換し たいが、公国に流通している数が少ないので、まだ整理ができてな い。 金を稼ぐのに一番便利だったのはポーション生成と売却だったが、 これもやりすぎると需要と供給のバランスが崩れるので、ポーショ ンの種類を変えたりしていろいろしていた。この町、ひいてはジュ ネガン西部に出回っているポーションの中には、俺が作って流通さ せたものも残っているだろう。 ﹁⋮⋮ヒロト坊やのこと、おじいの弟子としての好敵手だと思って たのに。うちの工房の出資者になっちゃったから、もうそれどころ じゃないね﹂ ﹁俺も鍛冶の修行をしたい気持ちはあるけど、それは色々落ち着い てからの楽しみにしようかな。そのときは、エイミさんに教えても らいたいな﹂ ﹁う、うん⋮⋮私にできることなら、教えてあげる﹂ 1753 鍛冶場の炉の光の加減かとも思うが、エイミさんの頬が赤らんで 見える。あらためて、身長低めなのに母性が高いということがどう いうことかを確認しつつ、俺は今日一日の流れを思い返して、さす がに既に持っているスキルを上げさせてもらうことから考えを遠ざ けた。 エイミさんの小柄さも、俺に自重させる理由となった。鍛冶師ス キルの経験値は、実践を以って上げるべきだ。じっちゃんもきっと そう思っている。 ﹁あ⋮⋮そうだ。これ、バルディッシュの周りの石を取ったあと、 刃を磨くのに使えるかな?﹂ ﹁何か素材を持ってるの? 見せてみて﹂ ﹁うん、ちょっと待っててもらえるかな﹂ ユィシアが脱皮したあとの、クリスタルの彫像のような水晶殻。 あれを、俺は物陰でインベントリーから引っ張り出し、エイミさん のところに運んできた。 ﹁ちょ、ちょっと⋮⋮なにこれ? 彫像⋮⋮ちがう⋮⋮こ、これっ て、まさか⋮⋮!﹂ ﹁う、うん。雌皇竜の水晶殻っていう素材だと思うんだけど、使え そうかな?﹂ ﹁⋮⋮! ⋮⋮!?﹂ エイミさんは驚きのあまり声も出なくなっている。この反応は、 どうやら凄い素材ってことだろうか。 ﹁つ、使えるもなにも⋮⋮こんなにきれいなもの、武器の素材にな 1754 んて使わない方がいいわよ。もちろん、物凄い装備はできるけど、 美術品としての価値の方が⋮⋮こ、これ、小さい国なら一つ丸ごと 買えるんじゃない?﹂ ◆ログ◆ ・︽エイミ︾は﹃宝石鑑定﹄を行った。 ・﹃雌皇竜の水晶殻﹄の価値が判明した! 2535906667 21ジュナに相当している。 ﹁げぇっ!?﹂ ﹁わ、私だってそれくらい言いたいくらいの気持ちで⋮⋮こ、こん なのどこで見つけたの?﹂ ︵け、ケタが一瞬わからなくなった⋮⋮2535億ジュナ⋮⋮今の 俺の資産なんて目じゃないぞこれ⋮⋮!︶ ちなみにゲーム時代は1億ジュナがRMTにおいて千円だったの で、253万円に相当する。これを高いと見るか安いと見るか⋮⋮ 異世界においては、ちょっと額が大きすぎて実感がわかない。 ゲーム時代の俺の資産は一兆に達していたので、だいたい一千万 円の価値があった。そこまで稼ぐにはもっと時間がかかると思って いたが、ユィシアは脱皮するだけで、俺がエターナル・マギアをプ レイし続けて溜めた額の4分の1の価値を作り出してしまったので ある。お金が全てではないが、もはやユィシアが神獣か何かに思え てくる。いや、雌皇竜という存在が、それほど希少で尊い存在だと いうのは、わかっていたつもりなのだが。 1755 武器を研ぐとかそういうレベルではない。ユィシア像は、いずれ 自分の家を持ったときに守護神として飾るしかない、そういうアイ テムだ。武具の素材にしたら物凄く強いのだろうが、背に腹は変え られない。 ﹁ああ、驚きすぎてまだドキドキする⋮⋮これ、俺の知り合いの皇 竜の女の子が脱皮してできたものなんだ﹂ ﹁⋮⋮っ﹂ ﹁あっ⋮⋮え、エイミさん! ごめん、貧血起こすくらい驚くと思 わなくて!﹂ ﹁し、知り合いに竜の女の子がいて⋮⋮だ、脱皮⋮⋮脱皮⋮⋮?﹂ 完全に目を回してしまったエイミさん。ユィシアの存在がやはり 規格外であるということを、もっと俺は自覚しなくてはならないよ うだ︱︱反省しなくては。 1756 第五十一話 奈落の剣戟/聖槍の使い手 しばらくして目を覚ましたエイミさんは、俺に皇竜の知り合いが いるというのは内緒にしておく、と勝手に約束してくれた。人に知 られるとまずいと思ったのだろうが、確かにそう思うのもわからな くもない。あの皇竜素材の価値を見てしまうと、ユィシアの正体が あまり広まりすぎるのも良くないからだ。 そして、バルディッシュを磨いている間、代わりになる武器を貸 マスターピース してくれた。エイミさんは何種類かの武器をすぐ売りに出せるよう ストックしていたが、その中に良作の斧槍が一本あった。 ◆アイテム◆ 名前:ドヴェルグの斧槍+3 種類:斧槍 レアリティ:レア 攻撃力:13∼45︵+10︶ スロット:空き1 装備条件:恵体30 ・ドワーフが装備すると攻撃力+10% ◆ログ◆ ・あなたは﹃ドヴェルグの斧槍+3﹄を装備した。 ドワーフに対する付与効果を活かすことはできないが、十分に強 1757 い装備だ。錆びた巨人のバルディッシュと比べて最大ダメージは4 分の1にとどまるが、これでも町で手に入る装備としては破格と言 える︱︱エイミさんの鍛冶の腕は本物だ。 スロットに魔晶を入れようかとも言われたが、武器はなるべく無 属性がいいと思っているので、今回はナシにしておいた。法術の中 には﹃シャープネス﹄などの、攻撃力を増加するものがある。それ を封じた魔晶を武器に入れれば、属性がつかずに攻撃力が上がる。 俺はまだ使えないが、名無しさんなら習得しているはずだ。 今はといえば、俺は少しバルデスじっちゃんのことが気になって、 会いに行こうとしていた。 じっちゃんは、西の森に行くと言っていたらしい。そちらに足を 運んだら、ネリスさんのところに行って、久しぶりにミルテと二人 で話すのもいいかもしれない︱︱そんなことを考えながら、俺は足 を早めた。もうすぐ夕方だ、悠長にしてはいられない。 草原を抜け、森に入る。 すぐに俺は違和感に気づく︱︱森にいつも住み着いている無害な モンスターの姿が全く見られない。 こんなとき、森には必ず異変が起きている。俺の背中に冷たい汗 が流れ、進む足が鈍ろうとする。 だが、止まるわけにいくわけもない。じっちゃんが、今この森に いるのなら。 戦うことを恐れる相手なんて、今の俺に早々いるわけもない。そ れなのになぜ、俺の本能が、進むことをためらうのか︱︱理由は一 つしかないのに、まだ信じることができない。 ︱︱そして、さらにしばらく歩いたところで、前方の空間から、 1758 覚えのある邪悪な気配が生じる。 血が凍りつくような感覚。しかし俺は、恐れていた最悪の事態と は違うとも肌で察した。 ︵リリム⋮⋮じゃない。でも、リリムのまとっていた空気に似たも のを感じる⋮⋮この先に、邪悪な何かがいる⋮⋮!︶ ﹁︱︱じっちゃんっ!﹂ 心臓が跳ね、俺は弾かれるように駆けだしていた。この森にじっ ちゃんが来ていたら︱︱この邪悪な気配に、今まさに遭遇してしま っているのだとしたら。 ミゼールの森には、父さんに軽傷を負わせるような魔物も出現す る。セディはようやく魔物が減ってきたと言っていたが、ミゼール の周囲の危険度が上がりやすい状態なら、依然として危険であるこ とに違いはない。 進む先の視界が開け始める。ユィシアと会った湖から、南に位置 する場所︱︱そこには魔石鉱の採掘に使っていた道が広がっていた。 今は通る人がおらず、草や石がそのままになり、荒れ地となった場 所。 そこに、鎧を着た男が立っていた。 男の手には、血のように赤い剣が握られている。その前に、倒れ 伏しているのは︱︱。 俺がその姿を探していた、ドワーフの老人。バルデス爺だった。 ﹁⋮⋮うぁぁぁぁぁぁっ!﹂ 1759 ウォークライでも何でもない。怒りが声に変わり、俺は斧槍の柄 を握りしめ、じっちゃんの前に立つ男に突きかかっていく。 じっちゃんを傷つけた奴に、手加減など必要ない。最初から最大 のスキルを使う︱︱! ◆ログ◆ ・あなたは﹃ダブル魔法剣﹄を放った! ・あなたは﹃フリージングコフィン﹄を武器にエンチャントした! フリージング・サンダー・クラッシュ ・あなたは﹃サンダーストライク﹄を武器にエンチャントした! ・あなたは﹃メテオクラッシュ﹄を放った! ﹁氷棺雷星撃!﹂ 二つともにレベル7の精霊魔術を武器に付与し、斧マスタリー1 10の奥義﹃メテオクラッシュ﹄を繰り出す。この技で仕留め切れ ないものなど居ない︱︱仕留め損なってはいけない。 ︱︱しかし、暗紫色の鎧を身につけ、顔全体を覆う兜を被ったそ の男は、受け止めることもかなわないはずの俺の一撃を前にして、 かすかに口元を歪めて笑った。 ﹁ようやく会えたな⋮⋮リカルドの息子。忌まわしき英雄、ヒロト・ ジークリッド⋮⋮!﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ 1760 アビス・ディフレクト ・︽???︾は﹃奈落の剣戟﹄を発動! ・あなたの魔術のダメージを軽減した! 137ダメージ! ・︽???︾の防具によって凍結効果を防いだ! ︵俺の技のダメージを、軽減した⋮⋮武器が弱いといっても、俺の 技は4桁ダメージには届くはずだ。なんだ、この防御技は⋮⋮!?︶ ﹁⋮⋮こんな怪物が、ただの子供のふりをして暮らしていたのか。 そしてリリム様をおびやかそうと言う⋮⋮公王と手を組んでしまっ た今、君にはできるだけ早く消えてもらわなければならない﹂ ﹁何を言ってる⋮⋮なんで俺の名前を⋮⋮父さんのことを知ってる んだっ!﹂ ﹁﹃劇﹄は終わったんだよ、ヒロト君。僕はもう演じることを終え た。リリム様の許しを得て、君を殺す許可も得ている。この鎧も武 器も、全てそのためだけに与えられたものだ﹂ その声を、俺はどこかで聞いたことがあるような気がした。 最悪の想像が、脳裏をめぐる。 俺と父さんのことを知っていて、バルデスじっちゃんを呼び出す ことができる人物。 ︱︱そして、リリムに敬称をつけて呼び、その支配下に置かれて いる。 兜の中からのぞいているのは、灰色の髪。俺はその色をいつだっ たか、遠くから見たことがあった。 ︱︱ええ。それが、ハインツだった⋮⋮ハインツは、メディアが 壊滅させた盗賊団の一員だったの。彼はメディアに生かされて、私 1761 たち奴隷の見張り役をしていた⋮⋮。 ﹁⋮⋮どうしてなんだ、ハインツさん⋮⋮!﹂ 目の前の男は俺の言葉を否定せず、その口元を歪めて笑うだけだ った。 メディアに生かされ、配下となったハインツ・ローネイア︱︱彼 がまだ、リリムの支配下に置かれて、バルデス爺に剣を振るい、傷 つけた。 それを目の前で見せられても、まだ理解できない。理解したくな い⋮⋮そんな俺を見て、暗紫の鎧を着た男は、心底愉快そうに笑っ ていた。 ﹁だから言っただろう? 僕は演じていたんだよ⋮⋮エルフの奴隷 を連れ出し、血の繋がらない娘と一緒に暮らし⋮⋮恋した女性の奴 隷の記憶が薄れるまで、待ち続ける男をね﹂ その言葉が裏付けている。彼が、ハインツであることを。 その装備の効果なのか、名称を隠蔽しているからなのか︱︱ログ の名前は隠されている。それを可能にするいくつかのジョブの名前 が浮かぶが、今はまだ断定はしきれない。﹃カリスマ﹄が効かず、 ステータスを見ることができないからだ。 倒れているじっちゃんは、全身をなます切りにされたように、お びただしい血を流している。しかし助けようにも、ハインツさんは 持っている赤い剣を俺に向け、笑いながら壮絶な殺気を絶えず放ち 続けている。 俺がヘタに動けば、ハインツさんは⋮⋮じっちゃんを、殺してし 1762 まう。 ﹁しかし⋮⋮僕は元々、平穏な暮らしなんてできる性質じゃなくて ね。君が僕に会わずに済んでいたのは、僕にとっては家にいること が苦痛でならなかったというだけの理由だ。君がリリム様と戦うま では、僕は本当に知らなかったんだよ。ただの不幸な捨て子だと思 っていたリオナが、まさかリリム様の姉君の生まれ変わりだなんて ⋮⋮とてもとても、思いもよらない﹂ 演じるのは終わった、そう言いながらも、ハインツさんの口調は 芝居がかっている。そうすることで、最も俺の怒りを誘うことがで きると思っているのか︱︱やはり俺は、憎まれているのか。 もうろく ﹁⋮⋮話は後で聞かせてもらう。じっちゃんを死なせるわけにはい かない﹂ ﹁バルデスは最後の最後で、僕の正体を見抜いてしまった。耄碌し ている老人かと思いきや、とんだ食わせ物だ。言うことを聞いてい れば、死なずに済んだものを﹂ じっちゃんに、ハインツさんが⋮⋮いや。 この男が何をしようとしたのか、なぜ争ったのかは分からない。 本当なら問いただしてから戦うべきだろう︱︱サラサさんとリオナ のことを考えるなら。 ﹁⋮⋮ごめん⋮⋮でも⋮⋮﹂ 俺が謝ったのは、サラサさんとリオナに対してだ。しかしハイン ツさんは、それを自分への謝罪として受け取ったようだった。 ﹁謝っても仕方がない。僕はね、サラサの心が別のところにあるこ 1763 とは気づいていたんだよ。そのこと自体は責めるべくもない。なぜ なら僕も初めから、サラサを愛してなどいなかったからだ﹂ ﹁︱︱そうだとしても、あの人は自分を責めてたんだ。全部捨てて 遠くに行こうとするくらいに⋮⋮!﹂ 俺が止めなければ、今頃サラサさんは︱︱そんなこと、想像もし たくない。 初めから、終わっていた。 俺が想像していたサラサさんとリオナの温かい家庭なんて、どこ にも存在してはいなかった。 仮面を被った、家族の形をした三人がそこにいただけだ。 そしてハインツさんは、サラサさんに愛されずに家を出たことす ら、﹃演技﹄だと言った。 ﹁全部⋮⋮リリムの言うとおりにしてたのか。サラサさんを助けて、 この町に来て、父さんと友達になって⋮⋮それも全部、演じてただ けだったっていうのか⋮⋮!﹂ エルフ ﹁⋮⋮なぜ、君がそうも怒ることができるのか。理解に苦しむ⋮⋮ 例え演じていただけだとしても、僕はあの女を手に入れることがで きると思っていた。暮らす場所を提供したのは僕だ。どこにも行く 場所がないハーフエルフに存在意義を与えてあげたのは僕だ。奴隷 だった彼女に何があったかは聞いているかい? 他の奴隷たちの見 ている前で、ダークエルフの男たちに犯されるところだったんだよ。 僕がそいつらを殺してやらなければ、彼女は生きてすらいなかった。 僕がサラサに命を与えたようなものだ⋮⋮そうだろう?﹂ それが優しさであったのか、哀れみであったのか。 それとも、彼は彼なりに、サラサさんを愛していたのか。 ︱︱だけど、サラサさんに出会った時には⋮⋮この人はもう、超 えてはならない一線を超えていた。 1764 人を殺すことを罪だと思わない心を、手に入れてしまっていた。 その凶刃をバルデス爺に向けてなお笑っていられるのは︱︱彼が、 殺すことに慣れてしまっているからだ。 ﹁彼女は当然僕のものになるべきだった。しかし、何かを勘違いし てしまったようだ⋮⋮その原因は君だろう。リオナが居ない間に、 僕はそろそろ頃合いだと思ってサラサを求めた。そのとき、サラサ はなんて言ったと思う?﹂ ﹁それ以上⋮⋮﹂ ﹁︱︱彼女は君の名前を呼んだんだよ。あの女が﹃助けて﹄と怯え た目をして言いながら呼んだのは、年端もいかない少年の名前だっ たんだ。とんだお笑い種だろう﹂ ︱︱全てがウソではなかったと思いたかった。 サラサさんは俺にとって、この異世界の攻略を始めさせてくれた 恩人だ。 なじ その彼女の心まで手に入れてしまった俺は、ハインツさんにどれ だけ詰られようと、全て受け止めなければならない⋮⋮謝っても許 されるようなものじゃない、そう思っていた。 しかし、ハインツさんがサラサさんを本当は愛していないこと、 彼女の身体を手に入れるためだけに、リリムの命じた演技を続けて いたことに、他ならぬサラサさんが気づいていたのなら⋮⋮。 ﹁⋮⋮俺はあんたに、許してもらえるとは思ってない。子供の頃で も、俺は⋮⋮あんたと結婚してると思ってたサラサさんに、求めち ゃいけないものを求めた﹂ ﹁僕とサラサには何の関係もない、赤の他人だ。哀れな奴隷を、リ リム様の命に従って助けてやっただけだ。しかし僕も、献身的な男 1765 を演じているだけでは気が狂いそうだったのでね。奴隷女に操を立 てる必要もなかった⋮⋮子供じゃないなら、言っている意味は分か るだろう?﹂ とても、とても昔のことに思える。 サラサさんの家で風呂に入らせてもらうとき、沸かしに来てくれ た父さんが言っていた︱︱ハインツさんに、あまり飲み歩かないよ うに言っておくと。 家に戻らず、ハインツさんが何をしていたのか。 彼の今の口ぶりが示すことを、そのまま受け取るなら︱︱よその 女性と、関係を結んでいた。 サラサさんとリオナを他人だと思っていたのなら、そのことに、 彼は全く罪悪感を感じる必要がなかった。 だとしても、やりきれない。何も知らずにそんな状況を許して、 サラサさんとリオナが穏やかな暮らしを送っていると思っていた自 分が、とても許せそうにない。 ﹁どうして⋮⋮それなら、サラサさんを求めたりしたんだ⋮⋮?﹂ ﹁僕にはその権利がある。あの女が﹃リリム様の奴隷﹄でなくなっ たあと、僕はもう一度奴隷の首輪を付け直そうと思っていたのさ﹂ ドクン、と心臓が跳ねた。その俺を見て、さらにハインツさんは ︱︱いや。ハインツは、歪んだ笑みを浮かべた。もっと俺に怒れと 言わんばかりに。 ﹁ようやく奴隷から解放された瞬間に、再び僕の手で奴隷として支 配される絶望⋮⋮それを知った時の、あの女の顔を見てみたいとリ リム様が仰ったのでね。僕もそれは、素晴らしい余興だと︱︱﹂ 1766 ﹁︱︱そこにあんた自身の考えが、どこにあるんだっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹁ウォークライ﹂を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! パーティの攻撃力が一時的に上昇 した! ◆◇◆ もうこれ以上話すことはない。 俺が居なかったら、ハインツはサラサさんの人生を玩具にして、 リリムの退屈を飽かすことしか考えていなかった。 リリムの言うことにすべて追従し、忠実に実行しようとする理由 は、魅入られているからなのか。 分からなくても、戦うしかない。これ以上は、じっちゃんの身体 が持たない︱︱! ハインツ ﹁⋮⋮ヒロト⋮⋮坊⋮⋮逃げるんじゃ⋮⋮この男は、もう⋮⋮﹂ ﹁爺さん、あんたはもう用済みだ。最後に餌として働いてくれたこ とには礼を言うよ﹂ ハインツが赤い剣を振り上げる。俺は既に動いていた︱︱魔術を 繰り出し、奴の動きを止めるために。 ﹁雷よっ!﹂ 1767 ライトニング 雷撃による牽制︱︱走り抜ける雷は、知覚できない速度で目標に 到達する。 ︵なんで⋮⋮笑って⋮⋮まさか、あの鎧は⋮⋮!︶ ﹁︱︱魔術を使うことは知っている。自分の手の内が知られていな いと思ったのか?﹂ ◆ログ◆ ・︽ハインツ︾の﹃吸魔の鎧﹄の能力が発動! 魔術が吸収された。 ・︽ハインツ︾はダメージを吸収した!! ︱︱ヴィクトリアが装備していた、魔術を無効化する鎧。 その出処が、リリムのところだと予想をつけていたのに。俺は見 た目が違うというだけで、魔術を放つまで気づくことができなかっ た。 駆け出して突きを繰り出しても、届かない。長くなった間合いを 最大に使っても︱︱もう、ハインツが振り上げた剣を止められない。 ﹁やめろぉぉぉぉぉっ⋮⋮!﹂ 叫ぶことしかできない。 目に映る全てを守りたいと思っていたのに、俺はじっちゃん一人、 守ることすら︱︱。 1768 時間の流れが止まったようだった。 俺はじっちゃんを助けられない。これ以上時間を進めることを、 頭が拒否している。 そんなことをしても何もならないのに。 しかし、止まったような時間の中で。 ︱︱懐かしい誰かの声が、聞こえたような気がした。 ﹁︱︱させないっ!﹂ ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾の﹃聖槍リライヴ﹄の効果が発動! 周囲の時 間が停滞した! そのログを見たとき、俺は三重の驚きで何も考えられなくなった。 アンナマリーさん︱︱俺に冒険者スキルをくれて、それ以来会っ ていなかった彼女が、今ここに現れた。 そして、﹃聖槍リライヴ﹄。 名前も聞いたことのない武器︱︱魔を冠する武器と対になった、 その名前。 極めつけは、時間の停滞。使いこなすことができるなら、それは ﹃最強﹄という言葉を容易に連想する力だった。 ﹁はぁぁぁぁっ!﹂ 1769 ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾は﹃絶影﹄を発動した! ・︽アンナマリー︾は﹃瞬光閃﹄を放った! ミルテの母親︱︱グールドの屋敷で戦ったシスカが用いた、超速 の移動術・絶影。それを発動して間合いを詰め、その後に更に加速 する突きを放つ。槍マスタリースキル90で取得する、青騎士団長 のジェシカさんすら身につけていない奥義﹃瞬光閃﹄を、アンナマ リーさんが繰り出したのだ。文字通り、瞬く光の閃きに等しい速さ で敵に届く突き︱︱裂帛の中段突きが、ハインツに襲いかかる。 金属のぶつかり合う音とは思えない、轟音が鳴り響いた。ハイン ツの赤い剣が弾き返されている︱︱アンナマリーさんの槍が、俺の 斧槍より早く、ハインツの剣を弾いてみせたのだ。 ﹁ぐっ⋮⋮だが、その程度の攻撃など⋮⋮っ!﹂ ◆ログ◆ アビス・ディフレクト ・︽???︾は﹃奈落の剣戟﹄を発動! ・︽アンナマリー︾の攻撃のダメージを軽減した! 122ダメー ジ! ﹁やっぱり、まだ槍の力を引き出しきれてない⋮⋮ヒロトくんっ、 一緒にやるよ! 2対1なら押しきれる!﹂ ﹁っ⋮⋮ああ、分かった! いくよ、アンナマリーさんっ!﹂ 1770 彼女の装備は冒険者として俺の家を訪れたときの装備とは大きく 変わっている︱︱高ランクの装備を身につけた姿は、クラスチェン ジ後であることを想像させるが、髪型は変わっていない。しかしア ンナマリーさんは、片目に眼帯をつけていた。それはこれまでの彼 女の冒険が、容易なものでなかったことを示していた。 そしてよく見れば︱︱アンナマリーさんが使っている槍は、彼女 が昔背負っていたものだった。彼女は8年前から、すでに聖槍リラ イヴを所持していたのだ。 ハインツは俺たち二人を前にしてもなお、余裕の笑みを崩さない。 聖槍リライヴの停滞効果が解けると、剣を振りかざしてアンナマリ ーさんに斬りかかろうとする。 ﹁ははははっ⋮⋮聖槍までもが僕の目の前に⋮⋮この町には何があ るんだ!? なぜ、最強の力がこの町に集う? 教えてくれ、ヒロ ト君!﹂ ﹁そんな攻撃⋮⋮っ、くっ⋮⋮!?﹂ ﹁︱︱アンナマリーさんっ!﹂ ハインツの剣を見切り、アンナマリーさんはバックステップで避 けたはずだった︱︱しかし。 赤い刀身から別の刃が現れ、まるで魔獣の爪のように鋭く伸び、 アンナマリーさんの身体に届いてしまう︱︱! ◆ログ◆ ヴェノムスラッシュ ・︽???︾は﹃毒蛇斬﹄を繰り出した! ・︽アンナマリー︾に82ダメージ! ・﹃猛毒﹄の追加効果が発動! ︽アンナマリー︾は猛毒状態にな 1771 った。 ・︽アンナマリー︾は出血した! ﹃ヴァンピールブレイド﹄の効 果により、︽???︾のライフが回復した。 ﹁くぅっ⋮⋮なんて剣なの⋮⋮毒なんて、たちの悪いっ⋮⋮!﹂ ﹁さあ、どうする⋮⋮この毒はどれだけの時間で君の命を奪うか、 試してみるか﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ ﹁はははっ⋮⋮その顔だ⋮⋮僕はその顔がとても好きだ。もっと恐 れろ⋮⋮命乞いをしてみせろっ!﹂ ︱︱じっちゃんだけじゃなく、アンナマリーさんまでが、命を脅 かされている。 ハインツは殺戮を楽しんでいることを隠しもしない。その赤い剣 が、多くの血を吸ってきたことを示すように。 ﹁命乞いなんてするもんか⋮⋮ボクは絶対、あんたみたいな男に屈 しないっ!﹂ ﹁既に足元もおぼつかないじゃないか⋮⋮毒が回ってきているんじ ゃないのかい?﹂ ﹁くっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾は﹃猛毒﹄に犯されている。継続ダメージが発 生し、108のダメージ! 1772 ダメージが大きすぎる︱︱もう、一刻の猶予もならない。 一秒でも早く、ハインツを倒さなければならない。 アビス・ディフレクト ︵奈落の剣戟と、吸魔の鎧⋮⋮どちらも﹃魔術﹄を吸収していた。 それなら︱︱!︶ 魔術の吸収によるライフ回復が、ハインツへのダメージを相殺し ているなら、答えは単純だ。 ︱︱持てる限りの力で、物理で殴ればいい。 ﹁ヒロトくんっ、一緒に仕掛けるよ! ボクはまだ戦えるからっ!﹂ ﹁︱︱いや。アンナマリーさん、じっちゃんを助けてやってくれ⋮ ⋮ハインツは、俺が止める⋮⋮!﹂ アンナマリーさんにはこれ以上ダメージを受けるリスクは負わせ られない。俺は断固として言い切る︱︱裏付けのある自信などなく ても、俺にも意地というものがある。 ︵これ以上、ハインツの好きにはさせない。俺の大事な人を傷つけ た代償は払ってもらう⋮⋮!︶ ﹁っ⋮⋮分かった⋮⋮毒だけは受けないようにね、すぐに解毒でき るかわからないからっ!﹂ ﹁大丈夫だ⋮⋮俺は絶対に死なない。必ず、ハインツを倒す⋮⋮!﹂ 毒を受けて一番不安なのは彼女のはずだ。それでも俺を心配して くれる彼女を、絶対に死なせられない。 ﹁英雄気取りで仲間を逃がすか⋮⋮ヒロト君、僕は君のような人間 1773 が、地上で最も嫌いな人種なんだよっ!﹂ ﹁︱︱ああ⋮⋮それでいい。俺もあんたを許すつもりはない⋮⋮許 される必要も、無くなった⋮⋮!﹂ サラサさんを奪ったことへの罪悪感が、少しも無かったといえば 嘘になる。 しかし彼女が俺を選んでくれたことを喜ぶ気持ちは、それよりも 大きかった。 俺とハインツは、こうして戦わなければならなかった。 狩人だと思っていた人物が剣を使い、あまつさえ強力な装備で、 俺を圧倒した。一度はその邪気に飲まれそうにもなった︱︱しかし。 ﹁⋮⋮でも、それも終わりだ。これで終わらせる⋮⋮!﹂ 斧槍を担ぐようにして構え、俺は技に集中する。アンナマリーさ んがバルデス爺を連れてこの場所を離れた今、手加減をする要素は 何一つなかった。 ﹁終わるのはどちらだ⋮⋮通じない技を何度繰り出してもっ⋮⋮!﹂ ハインツが剣を振りかざし、正面から斬り込んでくる。俺の攻撃 が通じない、そう決めつけてのことだろう。 巨人のバルディッシュがあれば、もっと完膚なきまでに、叩きの めしてやれた。 しかし今は、エイミさんの作ったこの斧槍を手にして、俺はただ ひたすらに思う︱︱。 ︵ハインツさん⋮⋮あんたの守りを、貫き通す⋮⋮!︶ 1774 ﹁︱︱うぉぉぉぉぉぉっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃ウォークライ﹄を発動した! ・すでに攻撃力が上昇している! ﹃限界突破﹄スキルによって、 上昇制限が一段階解除された! ・﹃限界突破﹄スキルが50を超えている! ・﹃気功術﹄スキルを習得している! ・あなたはアクション﹃神威﹄を習得した! かむい ︵神威⋮⋮このアクションは⋮⋮!︶ 俺の身体が成長したとき、限界突破スキルの数値は跳ね上がり、 60に達していた︱︱しかし、アクションもパッシブも何も覚えず、 限界突破はただ、他のスキルの限界値を引き上げるためだけのもの だとばかり思っていた。 アタックバフ だが、それは技能の解放条件を満たしていなかったからだ。 ウォークライ︱︱つまり攻撃上昇を重ねがけして、攻撃の上昇限 界を超えることで、新たなアクションの習得条件を満たした。﹃神 威﹄︱︱気功術を所持した状態で、限界突破スキル50で覚えられ る技能⋮⋮そんな条件じゃ、今まで覚えられるわけもなかったはず だ。 だが習得条件が難解であるほど、﹃神威﹄の威力は凄まじいもの になる。そんな、確固たる予感があった。 1775 ﹁君の攻撃は僕には通じない⋮⋮さあ、毒で死ぬか、それともバル デスのように、全身の血を流し尽くして死ぬか⋮⋮あるいは、その 両方か⋮⋮っ!﹂ 奴は楽しんでいる︱︱勝利を疑うこともなく、俺の変化に気づく こともなく。 ﹃神威﹄を発動する。そう心のなかで念じたとき、俺の頭のなか に、呪文のような一節が浮かび上がった。 ﹁︱︱我が手に宿る力は、神にも届く。﹃神威﹄!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃神威﹄を発動した! ・武器に﹃滅属性﹄が付与された! 攻撃力が120%上昇した! やはり本来は、ゴッドハンドが、限界突破を習得することで得ら れるスキル︱︱その習得条件に、気功術の高い数値が要求されない のは何故なのか。 しかしそのシステムの綻びが、俺に力を与えてくれた。やはりこ こまで歩いてきた道に、無駄など何一つとしてなかったのだ。 斧槍が纏う無色のオーラ︱︱それは、スーさんが纏っていた気と は違い、文字通りに触れるだけで全てを滅ぼす凶兆をはらんでいた。 そのことに気がついたハインツの口元から、ついに笑みが消える。 1776 ﹁なんだその技は⋮⋮っ、聞いてない⋮⋮そんなことは、リリム様 に、何もっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ダクネスエッジ ・︽???︾は﹃闇襲刃﹄を放った! ﹃ヴァンピールブレイド﹄ によって威力が強化された! その技を見た時、俺は全て思い出した︱︱ハインツのジョブにつ カルマ いての全ての情報を。 業が高い人間のみが選択できる戦士系ジョブ﹃イビルソルジャー﹄ のアクション︱︱冷静になれば、全て見切って避けることができる。 だが俺はあえてその軌道を完全に読み、切り返すことを選ぶ。 ﹁なっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽???︾の攻撃を弾いた! 斧槍の矛先に弾かれ、赤い剣が翻る。隙だらけになった彼はそれ でもまだ戦意を失わない。 斧マスタリー110の﹃メテオクラッシュ﹄は一度見せている。 それだけじゃ足りない⋮⋮もっと圧倒的な技で、確実にハインツの 1777 守りを貫く︱︱! ︵ならば次は︱︱120だ⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・あなたは﹃斧マスタリー﹄スキルにポイントを8割り振った。ス キルが120になり、﹃山崩し﹄を習得した! ﹁僕の鎧が壊れるはずがない⋮⋮っ、ヒロト、お前の攻撃はっ⋮⋮ !﹂ 通じない。そう言いかけた直後には。 ハインツは俺が放った渾身の一撃で、遙か森の奥まで吹き飛んで いた。 ﹁︱︱うぐぁぁぁぁぁっ⋮⋮あぁっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃山崩し﹄を放った! ・滅属性の追加ダメージが発生! ダメージが限界を突破した! アビス・ディフレクト ︽???︾に10083のダメージ! ・︽???︾は﹃奈落の剣戟﹄を発動! ・滅属性攻撃は闇属性防御によって軽減されない! ダメージが貫 通した! 1778 ︵︱︱5ケタ⋮⋮ゲーム時代はありえなかったダメージが⋮⋮つい に出せた⋮⋮!︶ 振りぬいた斧は、ハインツを吹き飛ばすだけでは飽きたらず、そ の凶暴な斬撃は前方の森全てを薙ぎ払う︱︱山崩しの名の通り、一 撃で地形が変わってしまった。森を切り開いた先に、ハインツが倒 れているのが見える。 ◆ログ◆ ・︽???︾はつぶやいた。﹁嫌だ⋮⋮まだ、死ぬわけには⋮⋮﹂ ・︽???︾は転移した。 ﹁っ⋮⋮ハインツ⋮⋮!﹂ 逃げたのか、それとも。しかしあのダメージでは⋮⋮。 俺は文字通り﹃手加減﹄をしなかった。殺すつもりで技を放った。 そうしなければじっちゃんだけでなく、他の皆の命まで危ぶまれる ことになる。それだけは絶対に避けなければならなかった。 斧槍を覆っていた﹃滅属性﹄の気は、もう消えている。おそらく この状態で技を放つことで、ダメージ限界の9999を超えること ができるのだろう。 リリムにまともなダメージを与えられなかった俺が、ついに希望 を見いだすことができた。 1779 それでも俺は、勝ったことを喜ぶことも、ハインツを逃がしたこ とを悔やむこともできなかった。 ただ、胸に穴が空いたようだった。 戦わなければならない相手だった。それでも、彼は父さんの友達 で、俺の幼なじみの父親だった︱︱本当のことを知るまではずっと そう思ってきた。 俺はローネイア家がどんなふうに過ごしていたのかを知らない。 ハインツはリオナに対して、全く父親らしく振る舞わなかったの だろうか? それを確かめる前に、俺は全力でハインツを倒しにかかった。そ の生命を奪うことも、厭わずに。 ﹁⋮⋮やっぱり、そんなふうになると思った。ヒロトくん、つらそ うだったもん﹂ ﹁っ⋮⋮あ⋮⋮﹂ 気が付くと、後ろから抱きしめられていた。すぐ近くから聞こえ るのは、アンナマリーさんの声。 彼女は俺を抱きしめたままで、語りかけてくる。まるで子供をあ やしているかのような、優しい響きだった。 ﹁おじいちゃんは大丈夫だよ。血はいっぱい出てるけど、もう傷が ふさがってきてる。今はポーションを飲んで眠ってるけど、治癒術 をかけてもらえば、すぐよくなるよ﹂ ﹁⋮⋮良かった。でも、じっちゃんを、早く診療所に連れていって あげないと⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮うん。ごめんね⋮⋮私も、さっきの毒⋮⋮毒消し、ちゃんと 1780 持っておけばよかったなぁ⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮アンナマリーさんっ⋮⋮!﹂ 俺を抱きしめてくれたのは、最後の力を振り絞ってのことだった んだろう。彼女の身体から力が抜け、地面に倒れこんでしまう。 ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾は﹃猛毒﹄に犯されている。継続ダメージが発 生し、108のダメージ! ﹁くぅっ⋮⋮うぅ⋮⋮あぁ⋮⋮﹂ 熱病にうかされたように、アンナマリーさんの全身は汗に濡れ、 その表情は苦悶にゆがんでいる。 ︵すぐに何とかしないと、3桁ものダメージを受け続けたら、彼女 のライフが尽きる⋮⋮!︶ ﹁アンナマリーさん、しっかり! 毒消しなら俺が持ってるからっ !﹂ ﹁⋮⋮うん⋮⋮ごめんね、ヒロトくん⋮⋮迷惑、かけて⋮⋮﹂ ﹁迷惑なんかじゃない⋮⋮アンナマリーさんは、じっちゃんを助け てくれたじゃないか⋮⋮!﹂ インベントリーから毒消しを取り出し、アンナマリーさんの上半 身を抱え起こして、飲ませてあげようとする︱︱しかし。 1781 ◆ログ◆ ・あなたは︽アンナマリー︾に﹃毒消し﹄を飲ませようとした。 ・﹃毒抜き﹄をしなければ効果がない。 ﹁んっ⋮⋮ごほっ、ごほっ!﹂ ︵毒抜きをしないと、ポーションを身体が受け付けない⋮⋮毒抜き って、どうすれば⋮⋮いや、アレッタさんにもらった﹃衛生兵﹄ス キルで、﹃毒抜き﹄なら覚えてる⋮⋮!︶ ﹁はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂ 次のダメージが発生する前に、﹃毒抜き﹄をしなければいけない。 アンナマリーさんが傷を受けた場所を探すと︱︱太ももの辺りに、 細い切り傷が走り、毒の影響で赤く腫れてしまっている。 彼女の足を切ろうと狙うなんて⋮⋮ハインツの嗜虐的な性格が伺 える。俺がもっと早くあいつを倒せていたら⋮⋮いや、後悔してい る時間はない。 ︵俺の﹃毒抜き﹄でうまくいくかは分からない⋮⋮でも、やるしか ない⋮⋮!︶ 俺はアンナマリーさんの身体を横たえたあと、彼女の傍らに寄り 添い、祈りながらアクションを発動した。 ︵頼む⋮⋮!︶ 1782 ◆ログ◆ ・あなたは︽アンナマリー︾に﹃毒抜き﹄をした。 ︱︱﹃毒抜き﹄を発動した直後、俺は何かに操られるように、ア ンナマリーさんの身体を診察し始める。 ﹁んっ⋮⋮んん⋮⋮ヒロト⋮⋮くん⋮⋮?﹂ 前世ならポイズンリムーバーを使って毒を抜く場合もあるが、感 染症を防ぐために、そもそも毒を医者に見せる前に抜くのは推奨さ れない。 しかし衛生兵スキルの﹃毒抜き﹄は、魔術のような力で、傷の周 りの毒を抜くことを可能にする。解毒の魔術なら完全に毒が消える ものもあるが、毒抜きでは完全に抜けないので、あわせてポーショ ンを使う必要がある。 ﹁痛いかもしれないけど⋮⋮少し我慢だよ、アンナマリーさん﹂ ﹁う、うん⋮⋮くっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・﹃毒抜き﹄が成功した! 毒消しが使用可能になった。 ・︽アンナマリー︾は﹃毒消しのポーション﹄を飲んだ。︽アンナ マリー︾の﹃猛毒﹄状態が解除された。 ﹁⋮⋮良かった⋮⋮アンナマリーさん、もう大丈夫だよ﹂ 1783 俺は衛生兵スキルを駆使して、自分の服の袖を割いて包帯を作り、 アンナマリーさんの太ももに巻く。それで﹃応急手当﹄スキルを発 動させると、出血もかなり抑えられた。もうすぐ完全に止まるだろ う。 ﹁⋮⋮もう、一人前どころか⋮⋮百戦錬磨な冒険者って感じだね。 ボクがおっぱいあげたのも、少しは足しになったのかな⋮⋮?﹂ ﹁う、うん⋮⋮あのときは、本当にありがとう。今だって、アンナ マリーさんが来てくれなかったら、取り返しのつかないことになる ところだったよ﹂ ﹁⋮⋮今、ミゼールに何が起きてるのか。ヒロトくんが、何をしよ うとしてるのか。それを考えたら⋮⋮ボクがここに来るのは、当然 のことなんだよ﹂ アンナマリーさんが﹃聖槍﹄を持っている理由。それが、一体ど んな意味を持つ武器なのか⋮⋮そして、他の冒険者と比較にならな いほどに強いのはなぜか。 ﹁⋮⋮赤ん坊の時には聞けなかったけど、今なら教えてくれるかな。 アンナマリーさんが、何者なのか﹂ アンナマリーさんは、その紅い瞳に俺を映して、しばらく黙って 見つめた。そして、ふっと目を細める。 ﹁今のヒロトくんには、半分くらい⋮⋮ううん、もっと教えてあげ てもいいかな。どうして赤ちゃんだったキミのところに、ボクが来 たのか⋮⋮ボクが、今どうしてここにいるのか﹂ 彼女は俺の腕を借りて、自分で立ち上がろうとする。そして、聖 槍を杖のように突いて何とか立ち上がった。 1784 ﹁はー⋮⋮この槍も、こんなふうに使われるなんて思ってもみない よね。いくら仕掛け武器を使われたからって、あれで毒を受けてた ら、この先生き残れないよね﹂ ﹁あの剣士⋮⋮ハインツも、俺が思ってる以上に強かったから﹂ ﹁⋮⋮あれだけの攻撃を受けて生きてるとは、ちょっと思えないけ ど。でも、転移したみたいだったね﹂ 生きていると思えない。しかし、それを確定させるログは表示さ れなかった。 今はそれよりも、じっちゃんの治療が先だ。俺は待たせてしまっ たことを詫びながら、傷だらけのじっちゃんを抱えて町に急いだ。 1785 第五十二話 サラサの決意/魔剣と聖剣/選定者の素養 ナース 診療所にはフィローネさんだけがいた。彼女は医術師として、診 療を任されるほどになっていたのだ︱︱何だか看護師っぽい格好を しているが、それはゲーム時代もそうだった。メイド服、ナース服、 他にも幾つか中世ファンタジー世界に似つかわしくない装備があっ たものだ。 じっちゃんの治療を終えて、処置室からフィローネさんが出てく る。彼女は手袋を外すと、俺に向けて微笑みかけた。 ﹁おじいちゃん、見た目の出血は多かったけど、幸い傷はそれほど 深くなかったわ。数日で退院できると思うから、ひとまずは大丈夫 よ﹂ ﹁ありがとう、フィローネさん⋮⋮それにしても、こんな時になん だけど。すごく似合うね、その格好﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、そう? 患者さんにも良く言われるんだけど、ヒロ トちゃんにほめてもらえるなんて⋮⋮﹂ 少女のように恥じらうフィローネさん。昔からおっとりしていて、 癒される雰囲気だなと思っていたから、看護師姿があまりに似合い すぎる︱︱白衣の天使とはこのことか。 ﹁それで⋮⋮気になってたんだけど、ヒロトちゃん、その女の人も 怪我をしてない? 治療しましょうか﹂ ﹁あ⋮⋮ボクはアンナマリーって言います。ヒロトくんが手当てし てくれたから、治療はしなくても⋮⋮﹂ ﹁自然治癒よりも、仕上げに治癒術を使ったほうが傷が残りにくい 1786 のよ。私にまかせてみて﹂ ﹁う、うん⋮⋮じゃあ、お願いします﹂ フィローネさんはアンナマリーさんを椅子に座らせ、包帯を外す と、傷を見ながら呪文を唱え始めた。 リカバー ﹁大いなる女神よ、我が手にひととき癒やしの恵みを貸し与えたま え⋮⋮﹃快癒﹄﹂ ◆ログ◆ ・︽フィローネ︾は﹃リカバー﹄を詠唱した。 ・︽アンナマリー︾のライフが320回復した! 創傷が消えた。 ﹁っ⋮⋮あたたかい⋮⋮こんなに治癒術が使える人が、この町にい たなんて⋮⋮﹂ ﹁この町には、治癒術を使える人が少ないから。私のところにけが をした人が集まって、それで経験を積むことができたのよ。使えば 使うほど上手になるものみたい﹂ 誰でも技能を使うことで経験値が溜まり、スキルが上昇する。フ ィローネさんは、それを図らずも実践していたというわけだ。 快癒は治癒魔術スキル50で覚えるので、フィローネさんは治癒 魔術だけなら、フィリアネスさんのお母さんにも匹敵するというこ とに⋮⋮例え専門職でもここまでスキルが上がることは珍しいので、 フィローネさんがいかに町の人に慕われ、普通の医術師より診療回 数が多いかということだ。 1787 ﹁フィローネさん、バルデスさんのお薬の処方ですけど⋮⋮あっ、 ヒロトちゃん⋮⋮っ!﹂ ﹁えっ⋮⋮さ、サラサさん⋮⋮!﹂ お互いに名前を呼び合ってしまう。診療所の薬の調合室から出て きたのは、これまたコスプレ装備と言われていた、白衣を身につけ たサラサさんだった。 ま、まずい⋮⋮白衣の前が全然閉じてない。こんな薬剤師さんが 居たら、俺を今すぐ調合してくれとか、わけのわからないことを口 走ってしまいそうだ。 ﹁サラサさんは薬の調合の知識があるから、ときどき手伝ってもら ってるの。ごめんなさい、今日は上がりの時間だったのに﹂ ﹁い、いえ。ヒロトちゃん、バルデスさんに一体何があったんです か?﹂ そう聞かれて、俺は現実に引き戻される。 バルデスじっちゃんを傷つけたのは⋮⋮それを言うべきなのか、 すぐに答えが見つからない。 ﹁⋮⋮ハインツって人が、おじいさんに危害を加えたの。ヒロトく んは、それを守ろうとして⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮!﹂ サラサさんは目を見開く。いつも優しそうな彼女が悲しむ姿を見 ると、俺も胸が締め付けられる思いだった。 しかし彼女は、俺とアンナマリーさんに頭を下げ、そして言った。 ﹁⋮⋮バルデスさんを助けてくれて、ありがとうございます。ハイ 1788 ンツのしたことは、私にも責任が⋮⋮﹂ ﹁ううん、そんなことないと思う。人の考えは縛れないし、もし悪 に染まるとしても、それはその人の自由だから。私たちはそれを許 すわけにはいかないから、戦わないといけないけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それでも、私は⋮⋮あの人に、居場所を与えられたのに⋮⋮ 何も、返してあげられなかった﹂ ﹁返すとか返さないとか、そういうことを考えたら、人は一緒には いられないんだよ。ボクは、自分がそうだったからわかる⋮⋮ボク も﹃おとうさん﹄にいっぱい良くしてもらったのに、何も返せなか った。恩返しなんてしなくてもいいって言われたのに、ずっと囚わ れてた。それじゃ、周りの人が悲しむだけだよ﹂ ︵アンナマリーさん⋮⋮﹃おとうさん﹄って、誰のことなんだ? 彼女は、何を背負ってるんだ⋮⋮?︶ アンナマリーさんの言葉を、サラサさんも、フィローネさんも、 ただ黙って聞いていた。 そして先に動いたのは、フィローネさんだった。彼女はサラサさ んの肩に手を置いて、ぽんぽんと撫でる。 ﹁あのね、サラサさんも知ってるかもしれないけど、ハインツさん は私やターニャにも声をかけてきたことがあったのよ。私もまだお 酒を覚えたての頃に、興味があって酒場に出入りしてたんだけど⋮ ⋮ハインツさん、家にいてもつまらないからって、毎日女の人をと っかえひっかえしてるって噂があったの﹂ ︵確かに自分でそんなこと言ってたけど⋮⋮まさかターニャさんと フィローネさんにまで声をかけてたとは︶ フィローネさんはそのとき、どんな対応をしたのだろう⋮⋮き、 1789 気になる。ずっとフィローネさんと交流のなかった俺には彼女の行 動を縛ることはできない、だが、しかし。 ﹁⋮⋮それは⋮⋮あの人が私に言わないのなら、私には、疑う権利 なんて⋮⋮﹂ ﹁はい、それが間違いだっていうの。ハインツさんはサラサさんが 優しいから、浮気してもばれないって思って好きにやってたんじゃ ない。それで、バルデスのおじいさんまで傷つけて⋮⋮ヒロトちゃ んが適切な手当てをしてくれてなかったら、死んじゃってたかもし れないんだから﹂ ﹃バルデス爺が死んでいたかもしれない﹄と言われて、サラサさ んの表情が曇る。彼女は胸に当てた手をぎゅっと握りしめている︱ ︱それは怒っているようにも、悔いているようにも見えた。 ﹁⋮⋮あの人は⋮⋮やはり、まだ⋮⋮﹂ メディアの支配下に置かれているのか。そうはっきり口にできな いでいるサラサさんに、俺は頷く。もう、先送りにできる問題でも ない。 ﹁俺はハインツさんと命をかけて戦った。最後に、ハインツさんは どこかに転移した⋮⋮きっと、裏で糸を引いてる誰かにそうさせら れたんだと思う﹂ ﹁⋮⋮﹃彼女﹄なら、それも造作もないことでしょう。ヒロトちゃ ん、本当にごめんなさい⋮⋮私が、ハインツを止められていれば⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮俺がハインツと戦ったのは、サラサさんを、あの人から自由 にするためなんだ。もし、許してくれるのなら⋮⋮あの人のために 悔いるのは、もうやめてほしい。お願いだ、サラサさん﹂ 1790 彼女がこれからもずっと、ハインツさんの罪を自分のものとして 悔いることだけはあってほしくない。優しい彼女にそれを強いるこ とが、どれだけ難しいか分かっていても。 ︱︱しかし今度は、フィローネさんとアンナマリーさんが、両側 から俺の腕を取ってきた。 ﹁ふ、ふたりとも⋮⋮?﹂ ﹁サラサさんがヒロトちゃんを独占したいと思ってたこと、私たち はみんな知ってたのよ。だって赤ん坊の頃から、ヒロトちゃんは私 たちの中心にいたんだから﹂ ﹁ヒロトくん、サラサさんはハインツさんのことで責任を感じては いるけど⋮⋮そのことと、ヒロトくんが大事だっていうことは別だ よ。ヒロトくんの顔を見た時、サラサさんがどんな顔したか、思い 出してみて﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ サラサさんは俺を見た時、とても嬉しそうな顔をした。 俺をどう思ってくれているのかが確かなら、何も不安に思うこと はない。 ︱︱みんなが傍にいてくれるのに、俺は一人失うことすら、心の 底から恐れてしまう。手が届かない存在だったサラサさんのことも、 もう自分のものだと思ってしまっている。 ﹁⋮⋮私は⋮⋮あの人ともう一度ヒロトちゃんが戦うとしても。ヒ ロトちゃんに、勝ってほしい﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。ごめん、そんなこと言わせて﹂ ﹁はぁ、ドキドキしちゃった⋮⋮こういうのって、見てる側もハラ ハラするわよね﹂ 1791 ﹁あ、あの⋮⋮フィローネさん、ハインツさんに声をかけられたっ て言ってたけど⋮⋮ど、どんな話をしたのか、聞いてもいいかな﹂ そこまで干渉するのは小さい男だろうか。いや、いかに小さかろ うと、気になるものは気になる。気になることを聞かずに悶々とす るよりは、おちょこの裏のような器の小ささでいい。 ﹁ふふっ⋮⋮そんなの決まってるじゃない。私もターニャも、お酒 を飲みながら話すのはヒロトちゃんのことだったんだから。他の男 の人たちをあしらうのは、かなりうまくなったわよ﹂ ﹁⋮⋮あ、ありがとう⋮⋮!﹂ ﹁ヒロトくんったら、ほんとに安心した顔してる⋮⋮やっぱり色ん な女の人にもらってたんだ。大人になっても離さないなんて、なか なかできることじゃないよ。これからも頑張っていってね﹂ ﹁あ、そんな私たちが重荷みたいに言って。そうならないように、 私たちも頑張ってきたんだから⋮⋮﹂ フィローネさんはそう言うと、俺を見つめて︱︱次第に顔を赤ら めていく。 その目を見るだけで、女の人が何を期待しているか分かってしま うようになったのは、いいことか、悪いことなのか︱︱勝手に身体 が反応して、男としての本能にスイッチが入ってしまう。 ︵だ、だから⋮⋮シリアスな話をしてた直後に、すぐにそっちに切 り替えられるのはどうなんだ、俺⋮⋮!︶ ﹁⋮⋮でもね、私たちも、もうそろそろ⋮⋮ヒロトちゃんが振り向 いてくれなかったら、色々考えなきゃいけなくなってきたから⋮⋮ 一度、二人でゆっくり話したいっていうか⋮⋮ターニャと、三人で もいいんだけど⋮⋮﹂ 1792 ﹁フィローネさんもそんなにまでヒロトちゃんを⋮⋮ヒロトちゃん、 私からもお願いします。フィローネさんはいつも忙しくしているの で、心も身体も休養が必要なんです﹂ ﹁あ、あの⋮⋮ボクには休養っていう言葉が大人の意味合いにしか 聞こえないんだけど、気のせい? ヒロトくん、まだこんなにちっ ちゃい⋮⋮あ、おっきくなってたんだった﹂ アンナマリーさんの一言で、フィローネさんもサラサさんも顔を 赤らめて恥ずかしそうにする。そして当のアンナマリーさん本人も、 俺が成長したことにたった今気がついたとでも言わんばかりに見る 目が変わる︱︱これだけ時間が経ってそうなるとは、まさかこの人 は天然なのか。 ﹁お、俺、バルデスじっちゃんの容体を見てくるよ。この話はまた 後で、必ず聞くから﹂ ﹁⋮⋮私のお休みのときに、ヒロトちゃんが、ゆっくり二人でお話 してくれるっていうこと?﹂ ﹁う、うん。逃げたりしないから大丈夫だよ﹂ 悠久の古城の攻略を始める前に、町の守りを固めて、パーティの 装備を整え、万全に訓練しておきたい。一ヶ月鍛錬しても既にレベ ルが高い人はなかなかスキルが上がらないだろうが、まだ上がりき ってない人は、高レベルのメンバーと特訓することで早いペースで 強くなるはずだ。 その間に、フィローネさんと話す時間はつくれるだろう。その時 に、改めて彼女の話を聞きたい。 ﹁じゃあ、ターニャも誘っておくわね。仲間はずれにしたら、寂し がると思うし⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮う、うん。俺、髪も切ってもらないといけないしね﹂ 1793 ﹁ヒロトくん、すっごく髪が伸びちゃってるもんね。いっそのこと、 断髪式でもしちゃったらいいんじゃない?﹂ ﹁あ、それはいいかも。明日の朝、さっそくターニャを連れてヒロ トちゃんのうちに行くわね﹂ ようやく髪を切ってすっきりできる。それはいいのだが︱︱何か、 すごい行事になってきてしまった。 ◆◇◆ バルデスじっちゃんはまだ意識が戻らなかったけれど、寝息は落 ち着いていた。もうかなりの高齢で、あんな怪我をしたら命に関わ ると思った︱︱でも、赤ん坊の俺を助けてくれたじっちゃんの恵体 は、まだあの頃とそれほどと変わらない数値を保っていた。 生命力と恵体はイコールではないけど、恵体が高いほどダメージ も抑えられ、回復は早くなる。明日には退院できるというから、知 らせを受けて駆けつけたエイミさんも安心した顔をしていた。 エイミさんが跡を継ぐといっても、じっちゃんもまだまだ現役だ。 これから忙しくなるし、長く元気でいてくれるように何かがしたい。 ポーションのレシピはまだ暗記してるままだから、活力が出る薬な どをプレゼントしても良いかもしれない。じっちゃんが飲んでくれ るかは分からないが。 診療所を出て家に帰る頃には、すっかり日が暮れていた。月の照 らす帰路を、アンナマリーさんは俺と一緒に歩いている。 ﹁ヒロトくん、おじいさんが無事でよかったね。すごく心配してた でしょ﹂ 1794 ﹁ずっとお世話になってる人なんだ。すごく優しくて、鍛冶の腕も 抜群で⋮⋮俺が小さい頃から、俺のことを分かってくれてた﹂ ﹁そっか⋮⋮やっぱり。ちっちゃい頃もやんちゃだったんだね、キ ミは。それは、ボクのせいもあるかな?﹂ ﹁い、いや⋮⋮俺は根っから、ちょっと変わってるっていうか。少 しでも早く強くなりたいとか、そういうことばかり考えてたから﹂ ﹁おっぱいをあげると、冒険者の資格が得られるんだよね﹂ ﹁っ⋮⋮!?﹂ 世界のシステムに関わることを、転生者以外が口にしたのは初め てだった︱︱俺はそれをどう捉えるべきか、判断に迷った。 しかし俺が答える前に、アンナマリーさんは微笑んで言葉を続け る。 ﹁不思議な世界だよね⋮⋮でも、魔術みたいな力があるんだから、 どんなことが起きてもおかしくないんだよね。私はそういうことを、 ﹃おとうさん﹄に教えてもらったの。できれば、ヒロトくんにも会 わせてあげたかった。﹂ ﹁⋮⋮アンナマリーさんのお父さんは、色んなことを知ってたの? 今みたいなこととか⋮⋮﹂ ﹁ううん、さすがにおっぱいを飲むと力がもらえるなんてことは知 らなかったよ。それは私の、女の勘っていうのかな⋮⋮それはいい として。キミの家に着くまでに、いろいろ話そうか。それとも、帰 ってからの方がいい?﹂ すぐにでも聞きたいことがいっぱいある。俺はその中でも、最も 気になることを尋ねた。 ﹁アンナマリーさんは、一体⋮⋮何者、っていう言い方は失礼だけ ど。何のために、冒険者をしてるんだ?﹂ 1795 ﹁ボクは、キミの家に魔剣があることを知っている。だから、魔剣 を装備できる﹃選定者﹄を探してたんだよ﹂ あまりにもあっさりと、彼女は核心を口にした。 まだ少女のような面影を残したまま︱︱しかしその片目は眼帯に 覆われ、もう片方の瞳は、昔のように無邪気な光を宿してはいない。 今なら、俺にすべてを話すことができる。それは彼女が、ある種 の覚悟を終えているということでもあった。 ﹁⋮⋮魔剣が欲しいわけじゃなくて⋮⋮装備できる人物を、探して るのか﹂ ﹁うん。正確には、剣を装備できて、さらに選定者である人を探し てたんだよ。昔この町に来たときは見つけられなかった。初めは、 ヒロトくんが選定者じゃないかと思ってたんだけど⋮⋮それは、少 し違ったみたい﹂ ﹁す、少しって⋮⋮﹂ ﹁ボクの持ってる魔槍は、選定者が近くにいると教えてくれるの。 それで、キミの家に来たんだけど⋮⋮﹂ ﹁っ⋮⋮ま、待ってくれ。今、アンナマリーさんは﹃魔槍﹄って言 ったのか?﹂ ログに表示された名前とは食い違う︱︱しかしアンナマリーさん は、彼女の持つ槍が﹃聖槍リライヴ﹄ではなく﹃魔槍﹄であるとい う。 魔槍ディザスター︱︱俺がゲームで見たことのある禍々しい姿と は違う。聖槍の名を冠するにふさわしい印象を受ける、飾り気が少 ないながらも厳かなたたずまいの槍だった。 ﹁これは⋮⋮﹃聖槍リライヴ﹄じゃないのか?﹂ 1796 その名前を口にするのは賭けだった。しかしアンナマリーさんは、 得心がいった顔で自分の槍を見つめた。 ﹁悪しき心を持たない選定者が持てば、魔槍はこうやって聖なる武 器に変わる。けれど魔王が持てば、魔界の扉を開く鍵にもなり、多 くの人の命を一振りで奪う武器に変わる。魔槍はもともと、誰が所 有しているものでもなかったんだよ。使う人によってその姿を変え る、この世界において最強の武器。それが﹃魔武器﹄⋮⋮ううん。 ﹃神器﹄と言った方がいいのかもしれない﹂ その時俺は、魔剣についてのこれまでのすべての記憶を思い返し た。 ︱︱これが⋮⋮災厄の魔剣、カラミティなのか⋮⋮? ︱︱魔神が、世界を滅ぼすために魔王たちに与えた武器。魔王を討 った勇者によって持ち去られ⋮⋮公国領内の、勇者が暮らしていた とされる場所に、この剣だけが残されていた。全く勇者とやらも、 何を思って捨てていったんでしょうな。 まだ赤ん坊だった時に聞いた、フィリアネスさんと父さんの会話。 父さんは魔剣について﹃魔神が魔王に与えたもの﹄だと思っていた。 しかしステラ姉の読んでくれた絵本には、こう書かれていた︱︱。 ︱︱それでもくじけそうなときには、あなたたちのもとに、つよき 1797 ものをつかわせます。 女神が人間を救うために遣わせた、﹃強き者﹄。それはおそらく、 魔王を討つ﹃勇者﹄だ。 絵本に描かれた、8つの武器に手を伸ばす人間の手。それが、﹃ 勇者﹄のものであったとして、アンナマリーさんの言うことが本当 ならば⋮⋮。 ﹃魔槍﹄と﹃聖槍﹄は同一の存在で、それを使う者の性質によっ て姿を変えるということになる。 ﹁なぜ⋮⋮勇者は、魔剣を、﹃魔剣﹄のまま、捨てなければならな かったんだ⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮それは、その勇者が﹃剣の選定者﹄ではなかったから。魔剣 を手に入れても、魔王を滅ぼしたわけではなかった。魔剣によって 開かれた魔界の扉の向こうに、魔王を送り返しただけ。でも、それ でも良かったんだよ。魔剣がこちらの世界にあれば、魔王はこちら に出て来られないから﹂ 魔界の扉という言葉もまた、聞き流すことのできないものだった。 魔王が、魔物と共に住まう世界︱︱魔物が湧くポイントである魔物 の巣は、﹃異界の門﹄だと言われていた。その門が繋がる先もまた、 魔界であったのだとしたら⋮⋮。 アンナマリーさんの言い方では、魔王は﹃魔界の扉﹄を介してし か、この世界と魔界を行き来できないということになる。魔物の巣 は魔物が一定数湧けば消えるし、そこに入っても魔界に行くことは できなかった。 1798 ﹁その⋮⋮魔王の名前は⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮魔王イグニス。炎を司る煉獄の王。そして、私の槍は⋮⋮﹃ 時空を凍らせる槍﹄。私の槍でないと、イグニスを倒すことはでき ない﹂ イグニス︱︱リリスではない。考えてみれば、それは当たり前の ことだった。魔界に追い返された魔王と、リオナに転生した魔王が、 同一であるわけはない。 しかし同時に疑問が生じる。今まで辿りつけなかった謎の答えが、 次々に明らかになっていく︱︱その情報量と、確かめなければなら ないことの多さに、思考回路が焼き切れてしまいそうだった。 ﹁魔剣は、魔王イグニスが持っていたものなのか?﹂ ﹁そう⋮⋮人間が神器を手にしないように、魔王の何体かは、自分 の弱点の武器以外の神器を手に入れて保持していたの。この国にい た勇者は、神器なしでイグニスを追い詰めたんだよ。そして魔剣を 奪った。とても強い人だった⋮⋮﹂ だが、イグニスを魔界に追い返すのみで終わった。それは、聖槍 の使い手でなければイグニスを倒せないから。 ﹁⋮⋮その人は、一体⋮⋮何者だったんだ⋮⋮?﹂ ﹁ヒューリッド・クルーエル。私の、﹃おとうさん﹄になってくれ た人⋮⋮私は、勇者に拾われた孤児だったの。槍の選定者の私を、 父さんはイグニスから奪った魔剣の力で見つけ出した⋮⋮そして、 私を育ててくれた。いずれ、魔王イグニスを滅ぼす勇者になれるよ うに﹂ 1799 ︱︱ヒューリッド・クルーエル。 それが、魔剣を置いて消えた勇者の名前。俺の父さんが、魔剣の 護り手となる理由を作った人間⋮⋮。 彼に対して俺は、偉大な勇者であるという以上に、複雑な感情を 抱かずにはいられなかった。 そしてそのクルーエルという言葉に、俺は以前聞き覚えがあった。 ﹁クルーエル⋮⋮﹃魔穿クルーエル﹄と名前が同じなのは⋮⋮﹂ ﹁父さんは元々、﹃魔穿﹄⋮⋮魔の名前を冠する細剣を守る家系の 人だったの。でも、﹃魔穿﹄の適性はなかった。それでも父さんは、 勇者になることを諦めなかった。普通の人なら死んじゃうような訓 練をして、魔物を倒して腕を磨いて⋮⋮誰にも負けない強さを手に 入れて、勇者になろうとしたの﹂ ︱︱誰にも負けない、負けたくない。その気持ちは、俺にも心か ら共感できるものだった。 負けて仕方がないと思い、それを受け入れて強くなるというのは、 生きていく中で誰もが経験する試練だろう。だが俺は、ゲームの中 だけは、誰にも負けられないと思っていた。 だけど、今でも俺はその思いを持ち続けている。ヒューリッドと いう人がどれだけ強かったとしても、魔王を圧倒するほどの実力者 でも、必ず凌いでみせる。そんな闘志を抱かずにはいられない。 ﹁父さんは剣と細剣を使えたけど、どちらの選定者でもなかった。 だから、﹃魔剣﹄がいらなくなっちゃったんだと思う。ボクは選定 者を探す魔剣の力で見つけてもらえたけど、﹃剣﹄の選定者じゃな かった⋮⋮そのことに、父さんはすごく失望してた⋮⋮﹂ 1800 ﹁⋮⋮ヒューリッドさんは、どうしてイグニスを倒すことにこだわ ったんだ? それとも、どの魔王でも倒すつもりだったのか⋮?﹂ ﹁どの魔王でも、倒すつもりだったと思う。魔王を見つけること自 体が簡単じゃなかったから⋮⋮人間の国を攻めようとしてたイグニ スと違って、他の魔王は人間に関心が無い場合もある。でも、一度 気まぐれを起こして人間を滅ぼそうとすれば、それはもう人間にと っては災厄でしかない。魔王は、そういう存在なんだよ﹂ アンナマリーさんが言うとおり、リリムの行動はこの国の人々に とって災厄そのものだ。 しかし、俺はどれだけリリムが悪事を重ねても、やはりリオナ︱ ︱自分の姉の転生体を見た時の反応が忘れられない。 彼女は姉に会えて嬉しいと言っていた。皮肉めいた言い方をして も、本当に喜んでいるように見えた。 魔王でも、実の姉に対しては情があるのだろうか。ならばリリム は、リオナをリリスとして覚醒させたいと願っているのか︱︱今は 推し量るしかないが、そうである可能性は高い。 ﹁⋮⋮ヒロトくんが魔王リリムと戦ったことは聞いたよ。何か、フ ァーガス陛下から密命を受けてミゼールに来たってことも。あの演 説を聞く限りだと、ヒロトくんはリリムと戦うつもりなんだよね?﹂ ﹁アンナマリーさんもあそこにいたのか⋮⋮? 声をかけてくれた ら良かったのに﹂ ﹁ううん、ボクはAランクの冒険者だから、ギルドの情報網を利用 できるの。公国の中なら、ギルドの所在地で起きためぼしい出来事 は、全部把握することができる﹂ ﹁Aランク⋮⋮アンナマリーさんは、そこまで一人で上がったのか ? 俺たちはまだBランクだよ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮いちおう、ヒロトくんの先輩だもん。追い抜かれない ように意識はしてたよ。キミなら、その気になればSランクにでも 1801 上がれると思うけどね﹂ Sランクが最高ではなく、SSランクまでが存在する。だが実装 予定だっただけで、ゲームで存在したのはSまでだった。 Sランクに上がる条件としてネックになるのは、﹃3つの国のギ ルドで最高難度のクエストをクリアする﹄である。ジュネガン公国 の外に出ないといけないとなると、今の俺にはまだ無理だ。そのう ち船を使ってミコトさんの祖国にも行ってみたいし、未実装だった マップ︱︱もとい、国を見て回りたいのだが。 ﹁それと⋮⋮ヒロトくんはどうやったのか分からないけど、﹃選定 者﹄になれる素養が身についてるよ﹂ ﹁えっ⋮⋮お、俺が⋮⋮?﹂ ﹁うん。私の魔槍⋮⋮ううん、聖槍が反応してるから。ヒロトくん はまだ、素養があるだけで、実際に使うことはできないと思う。も しかしたら、場合によってはずっと選定者として目覚めないかもし れない﹂ ︵どういう意味だ⋮⋮素養⋮⋮俺が取得したスキルの中に、何か含 まれて⋮⋮あっ⋮⋮!︶ ︱︱フィリアネスさんがパラディンになったとき、彼女から貰っ たスキル﹃聖剣マスタリー﹄。 その数値はまだ低く、何の技能も取得できてない。育て方も分か っていないが、おそらくフィリアネスさんと訓練するか、スキル経 験値を供給してもらうことで上昇する。婉曲な言い方をしたが、つ まり授乳だ。 ﹃聖剣マスタリー﹄は、神器を人間が装備するための条件となる 1802 スキルだとしたら︱︱アンナマリーさんも、それを所持しているこ とになる。 ﹁え、えっと⋮⋮アンナマリーさん、一つお願いがあるんだ﹂ ﹁ん? いいよ、ヒロトくんには命を助けてもらったから。十倍に して返してあげたいから、十回くらいはお願いを聞いてあげるつも りだよ。お姉さんに言ってみて?﹂ ボクっ娘なのにお姉さんとして振る舞おうとするアンナマリーさ ん。彼女の﹃ボク﹄は本当に自分に対する呼称であって、男性らし く振る舞おうとしているわけではないようだ。 しかし、十回か⋮⋮一回は別のことに使うとして、九回でどれだ けスキルを上げられるか。 だがいくつになっても、この交渉ばかりは精神力を要求される。 胸に触るなんてダメ、と怒られてしまうリスクは常にあるのだ。好 感度が高いといっても、魅了していなければ無条件に受け入れられ るものではない︱︱と、俺は思っている。実際は好感度次第なのか もしれないが。 ﹁ヒロトくん、そんなに言いにくいことを言おうとしてるんだ⋮⋮ あ⋮⋮も、もしかして、私のこと⋮⋮女の人として見てくれてると か?﹂ ﹁お、女の人として見てるのは、そうだよ。それ以外にはありえな いし⋮⋮﹂ 恩人を異性として意識してるなんて、褒められたことではない。 しかし、事情を説明すれば、アンナマリーさんは聞いてくれるの ではないだろうか。 1803 ﹁え、ええと⋮⋮俺、女の人の胸にさわると、力をもらえる体質で ⋮⋮で、できれば、アンナマリーさんからも、欲しいなって⋮⋮い、 いや、俺が採っても、アンナマリーさんの力はなくならないんだ﹂ ﹁⋮⋮む、胸⋮⋮私の⋮⋮?﹂ 自分の胸を見下ろしたあと、俺を見て、アンナマリーさんの顔が かあっと赤くなっていく。 ﹁そ、それは⋮⋮胸じゃないとだめなの? 身体のどこかに触れば いいっていうわけじゃなくて⋮⋮?﹂ ﹁ご、ごめん、それも理由があって⋮⋮女の人がおっぱいをくれる かわりに、胸から力を吸えるっていうか⋮⋮ま、ますます分からな いよね⋮⋮﹂ アンナマリーさんはしばらく何を言っていいのか迷っているよう だったが、考えた末に、ふぅ、と小さく息をついた。 ﹁⋮⋮ヒロトくんが、そんな嘘言うわけないもんね。それにヒロト くんは、私の力を手に入れれば、もっと強くなれる。そういうこと だよね?﹂ ﹁う、うん⋮⋮ごめん、他力本願で。でも俺、もっと強くなりたい んだ﹂ ﹁⋮⋮わかった。いいよ、ヒロトくん﹂ ﹁えっ⋮⋮い、いいの!?﹂ ﹁そ、そんなに喜ばなくても⋮⋮ヒロトくんも男の子なんだね﹂ 苦笑しつつ、アンナマリーさんは胸をかばうようにする。許可し てくれたとはいえ、やはり緊張するといえば緊張してしまうようだ。 では、お言葉に甘える︱︱その前に、彼女のステータスを確認し 1804 ないと。 ﹃聖剣マスタリー﹄が、俺の考えるようなものだとしたら︱︱そ れを持つフィリアネスさんもまた、神器を使えるということになる。 細剣を使える彼女が、神器の細剣を装備できたら、対応する魔王と の戦いにおいて彼女の力が必須となるだろう。 ︵それもこれも、俺の推論が当たっていたらの話だ︶ ﹁そ、その⋮⋮アンナマリーさん、俺のパーティに入ってくれない かな? 一時的でも構わないんだけど⋮⋮﹂ ﹁初めからそのつもりだよ。それともヒロトくんは、ボクとパーテ ィを組まないで連携して、魔王を何とかするつもりでいたっていう こと?﹂ ﹁あ⋮⋮そ、そうだよな。別々で行動するより、一緒の方が⋮⋮﹂ アンナマリーさんはくすっと笑う。昔、少女だった彼女よりすっ かり大人びていて、何ともいえない艶がある。 ﹁赤ちゃんのときの、ちょっとおどおどしてたキミのこと、思い出 しちゃった。可愛かったなぁ⋮⋮ボクも赤ちゃん欲しいなって思っ ちゃったくらい。ボクのあげたペンダント、今も持ってくれてる?﹂ ﹁あ⋮⋮あ、あれは、友達に、力を制御できない子がいたから、そ の子につけてもらってるんだ﹂ ﹁じゃあ、役に立ったんだね。良かった⋮⋮ボクも思いつきでした ことだけど、ヒロトくんがうまく使ってくれたなら、やっぱりあげ てよかったんだ﹂ 彼女にもらったものをリオナにあげてしまったと明かしても、彼 女は怒らなかった。それどころか、俺の判断を無条件で肯定してく れる。 1805 リオナの正体を知ったら、魔王と戦うために旅をしている彼女が どう思うか︱︱それも、俺は心配する必要はないと思った。彼女な ら、順を追って話せばきっとわかってくれるだろう。 ﹁⋮⋮パーティ、入ってもいいよね? ボク、相当長いこと入って ると思うけど、いい?﹂ ﹁う、うん。目的が同じなら、長いことじゃなくて⋮⋮ず、ずっと 入ってて欲しいっていうか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ヒロトくん、それはどういう意味かわかってる? ﹃長いこ と﹄と﹃ずっと﹄は違うんだよ⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮分かってるよ、俺は強欲なんだって。でも、せっかくもう一 回会えたのに、またどこかに行っちゃったら寂しいと思ったんだ﹂ 一度離れたら、次はいつ会えるか分からない。彼女がここに居る ことすら、奇跡のようなものだ︱︱例え、彼女がここにいることを 必然だと言っても。 ﹁⋮⋮八歳くらいだと思ってたのに、おっきくなっちゃって。ボク より背が高いとか、反則じゃない?﹂ アンナマリーさんはブーツを履いていても、俺より少し身長が低 かった︱︱素足なら、もっと小柄だろう。 彼女は背伸びをして俺の頭をぽんぽんと叩き、むぅ、と口を尖ら せた。 ﹁キミもいろいろ大変なことがあったんだね。キミの冒険のことも、 また聞かせてもらってもいい?﹂ ﹁うん。アンナマリーさんの冒険のことも、教えてほしい﹂ ﹁⋮⋮ボク、宿をとってないんだけど⋮⋮ヒロトくんのおうちに行 1806 っても大丈夫?﹂ ﹁もちろん。そっか、それなら夜の間も話ができるな﹂ 俄然楽しみになってきた︱︱いや、彼女の旅の話が聞けるからと いって、はしゃいでる場合じゃないのだが。 ﹁じゃあ⋮⋮あらためて。ボクを、ヒロトくんのパーティに入れて ください﹂ ﹁ああ。これからよろしく、アンナマリーさん﹂ ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾がパーティに加入した! 一も二もなく受諾し、パーティ加入ログが流れたところで︱︱俺 はついに、八年越しでアンナマリーさんのステータスを見せてもら った。 ◆ステータス◆ 名前 アンナマリー・クルーエル 人間 女性 23歳 レベル63 ジョブ:バウンサー ライフ:1096/1096 マナ :888/888 1807 スキル: 槍マスタリー 100 聖剣マスタリー 12 軽装備マスタリー 82 恵体 88 冒険者 84 用心棒 32 魔術素養 72 母性 55 料理 48 不幸 8 アクションスキル: 烈風突き︵槍マスタリー10︶ 薙ぎ払い︵槍マスタリー20︶ 連続突き︵槍マスタリー30︶ 壁貫き︵槍マスタリー40︶ ブラストチャージ︵槍マスタリー50︶ 飛翔三段︵槍マスタリー60︶ バスタードライブ︵槍マスタリー70︶ 四鳳閃︵槍マスタリー80︶ 瞬光閃︵槍マスタリー90︶ 七界槍︵槍マスタリー100︶ 野営︵冒険者20︶ 一時招集︵冒険者40︶ 経路探索︵冒険者50︶ クライミング︵冒険者60︶ ロープアクション︵冒険者80︶ 眼光︵用心棒10︶ 絶影︵用心棒30︶ 1808 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ パッシブスキル: 槍装備︵槍マスタリー10︶ 槍攻撃力上昇︵槍マスタリー30︶ 神器所持︵聖剣マスタリー10︶ 貫通︵槍マスタリー100︶ 軽装備︵軽装備マスタリー10︶ 軽装備効果上昇︵軽装備マスタリー50︶ 回避率上昇︵軽装備マスタリー80︶ 気配察知︵冒険者30︶ 罠察知︵冒険者70︶ 瀕死時攻撃力上昇︵用心棒20︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ 育成︵母性10︶ 慈母︵母性50︶ 未開放魔眼を所持している ︵俺の予想はやっぱり当たっていた⋮⋮聖剣マスタリーのパッシブ に﹃神器所持﹄がある⋮⋮!︶ バウンサー アンナマリーさんはどうやって取得したのか、﹃聖剣マスタリー﹄ を持っている。用心棒のスキルは別にあるから、彼女には﹃素養﹄ があったということになる。 フィリアネスさんのジョブ﹃パラディン﹄は、条件を考えても公 1809 国に一人しかいない職業だ。フィリアネスさんは後天的に、クラス チェンジによって﹃素養﹄に目覚めた︱︱そういうケースもあるの だということになる。しかし、他の人間がクラスチェンジで聖剣マ スタリーを得る確率は、少なくともジュネガン公国においてはゼロ だと言えるだろう。 そして俺は、フィリアネスさんから聖剣マスタリー︱︱神器を扱 う素養をもらった。つまり俺も、スキルを10にすれば神器が所持 できることになる⋮⋮が、﹃装備﹄とは表記されていないから、ア ンナマリーさんが言っていたとおり、まだ彼女は聖槍を所持してい るだけで、力を引き出せていないのだ。 ︱︱気になることは他にもある。彼女の眼帯で覆われている目は、 ﹃未開放魔眼﹄⋮⋮何らかの理由で彼女の片目は魔眼に変わってい る。 開放することでプラスになるのか、それともマイナスなのかは分 からない。彼女に魔眼のことをいきなり聞くわけにもいかない︱︱ しかし、悠久の古城に行く前には聞いておくべきだろう。 俺はさらに、彼女の所持するアイテムの情報︱︱﹃聖槍﹄がどん な性能を持つのか、見せてもらおうと試みた。 ◆アイテム◆ 名前:聖槍リライヴ 種類:槍 レアリティ:ゴッズ 攻撃力:︵8∼32︶×1D6 防御力:50 1810 スロット:空き8 装備条件:槍マスタリー100 聖剣マスタリー10 適正条件:槍マスタリー120 聖剣マスタリー100 ・未鑑定。 ・周囲の時を停滞させる力を持つ。魔術扱いとなり、一度発動する ごとにマナを10%消費する。 ・︽魔王イグニス︾に止めを刺すことができる。 ・﹃魔剣マスタリー﹄スキルを持つ者が装備すると、﹃魔槍ディザ スター﹄に変化する。 ︵やはり⋮⋮錆びた巨人のバルディッシュよりもダメージが低い。 完全に使いこなせてないからだ。それに、まだ隠れた性能が残され てる⋮⋮︶ 現状では、聖槍の名に見合わない数値に見えるが、それは適正条 件を満たしていないからだ。 スロットの空きが8つあるというのも、それだけで破格だ︱︱こ の武器に理想の組み合わせの魔晶を8つセットした状態で、適正条 件を整えて装備すれば、他の武器とは次元が違う威力を発揮するだ ろう。 だが、そのための道はあまりに遠い。上位職の固有スキルの聖剣 マスタリーは、100まで上げるにはどれだけ頑張っても年単位で 時間がかかる。ボーナスを振ることも考えられるが、アンナマリー さんのボーナスポイントは残っていなかった。レベルを上げる過程 で、必要なスキルに自動的に振られてしまったのだろう。 バウンサー ︵アンナマリーさんの固有スキルは、用心棒⋮⋮今まで取得する方 1811 法がわからなかったスキル﹃絶影﹄が取れる⋮⋮!︶ 30まで上げるのは容易ではない。しかしリリムの不可視の移動 に、﹃絶影﹄があればついていけるかもしれない。 ﹁さてと⋮⋮ヒロトくんのパーティにも入れてもらったし、おうち に案内してもらってもいい?﹂ ﹁あ⋮⋮そうだな、ずっと立ち話もなんだし。母さんとスーさんに 事情を説明して、部屋を用意してもらうよ﹂ ﹁スーさん⋮⋮その人も、ヒロトくんの家に住んでるの? 親戚か なにか?﹂ ﹁え、えーと⋮⋮俺の専属のメイドさんというか、彼女もパーティ の一員だよ﹂ ﹁ふーん⋮⋮ヒロトくん、やっぱりすみにおけないね﹂ 悪戯っぽく笑うアンナマリーさん。俺が彼女を家に案内する間、 ずっとそんなふうに笑っているものだから、俺はそわそわと落ち着 かなかった︱︱やはりこの人は昔から、一筋縄ではいかない女性だ。 1812 第五十三話 浴室にて/夜間飛行 家に戻ると母さんはアンナマリーさんを快く迎えてくれて、スー さんも最初は少し驚いていたが、すぐに俺の仲間ということで、友 好的に接してくれた。 夕食を終え、母さんに頼まれてソニアを風呂に入れる。三歳と少 しのソニアはけっこう自分でも洗えるのだが、背中や頭を洗うのが 苦手なので、兄として責任をもって綺麗にする。 ﹁おにーたん、ありがとー。あわあわ、あわあわ∼♪﹂ ソニアは石鹸の泡がお気に入りのようで、手で集めて息を吹きか けて飛ばしている。 無邪気だな⋮⋮ちょっとおませなところもあるけど、まだまだ可 愛くて、放っておけない妹だ。 ﹁ソニア、流すから目を閉じてるんだぞ﹂ ﹁あい! きゃーっ、ざばーん!﹂ 頭からぬるめのお湯をかけてあげると、ソニアは手足をバタバタ させて喜ぶ。 この子が今のリオナみたいになり、そしてゆくゆくは大人の女性 に⋮⋮全然想像がつかないな。 ﹁お疲れ様です、坊っちゃん﹂ ﹁ヒロトくん、ボクもソニアちゃんと一緒に遊んでいい?﹂ ﹁あ、おねーたんたち! お兄たん、おねーたんたちもはいるって 1813 !﹂ ﹁っ⋮⋮い、いやあの、スーさんは分からないでもないけど、アン ナマリーさんはなんで⋮⋮っ﹂ 布をしっかり身体に巻いているとはいえ、扇情的な姿であること に変わりはない。やっぱり胸が昔より健やかに成長されており、谷 間が見えるような布の巻き方をされると、その危うさに俺の本能が 危険信号を出し始める。 ︵スーさんも一緒に同じような巻き方を⋮⋮バストはもっとちゃん と隠しなさい!︶ とても口に出せないので、心の声だけは厳格になる俺。そんな俺 の葛藤などつゆ知らず、アンナマリーさんはソニアを抱っこして、 湯船に入れてくれた。 ﹁わーい! ありがとー、アンナおねえちゃん!﹂ ﹁どういたしまして。ソニアちゃん、いっぱい遊んで大きくなりな よ。お兄ちゃんもそうしたら喜ぶから﹂ ﹁うん! そにあ、早くおっきくなって、おにいたんのお嫁さんに なりたい!﹂ ﹁そ、ソニア⋮⋮お兄ちゃんのお嫁さんはちょっと難易度が高いぞ﹂ ﹁公国法では、貴族にあたる方の場合、血統維持の名目で妹との結 婚は禁じられておりませんが⋮⋮坊っちゃん、ご存知なかったので すか?﹂ ﹁な、なんだって⋮⋮!?﹂ ソニアがお嫁さんになりたいというのが、法で禁じられていない ︱︱なんて国だ。いや、基本的にはナシなのだろうが、法規制がな い。俺は妹と結婚する気などない普通のお兄ちゃんなので、法律が 1814 どうなっていようとまるで問題がない。 ノブレス・オブリージュ そして俺は貴族にあたるというが、まだ貴族の義務の自覚がない というか、気持ちは村人のままだ。ジョブも村人だし。 ﹁⋮⋮おにいたん、そにあとけっこんするの、いや?﹂ ︵うぁぁぁぁぁ! そんな目で見ないでくれ、お兄ちゃんはわりと 真剣に、普通の兄でいたいんだ!︶ ﹁そにあはおにいたんとけっこんしたい⋮⋮そしたらおにいたんと、 もっといっしょにいれるもん﹂ ﹁うっ⋮⋮さ、寂しい思いをさせてごめんな。お兄ちゃん、できる だけ家にいるようにするからな﹂ ﹁ほんと!? まいにちそにあと遊んでくれる!? おうちでかく れんぼできる!?﹂ ﹁か、隠れんぼか。お兄ちゃんから逃げきれるかな?﹂ ﹁にげれるもん! そにあ、おとーさんにもつかまらないもん!﹂ 元気なのはいいことだが、そうか⋮⋮今、町に同年代の小さい子 が少ないから、ソニアは遊び足りないんだな。 ﹁あはは⋮⋮ソニアちゃんには、ヒロトくんもたじたじって感じだ ね﹂ ﹁あ、あの⋮⋮二人とも、タオルつけたままだと身体が洗えないし、 俺は上がった方がいいかな?﹂ ︱︱そこで俺は、スーさんとアンナマリーさんが、何のためにこ こにやってきたのかを悟った。 ﹁⋮⋮ヒロトくんには十回お礼しなきゃいけないから⋮⋮一回目、 1815 背中を流してあげようと思って﹂ ﹁私は⋮⋮坊っちゃんのお世話をするのが、メイドの勤めでござい ますから⋮⋮﹂ ﹁そにあもおにいたんのことあらってもいい?﹂ 23歳、22歳、3歳。しかしいずれも同じような目をして俺を 見ている︱︱なぜか3歳のソニアが一番切なそうにしているが、彼 女はもしかしなくてもブラコンなのか。3歳で兄に対する禁断の感 情に︱︱というのは言いすぎだが、ちょっと俺になつきすぎていな いだろうか。嬉しいけどお兄ちゃんはとても複雑だ。 ﹁あ、洗ってもいいけど⋮⋮スーさんとアンナマリーさんは、やっ た分だけやり返すからな﹂ ﹁⋮⋮坊っちゃんに洗っていただくなど⋮⋮光栄の極みに存じます﹂ ﹁ま、まあ⋮⋮そうしたらおあいこだもんね。いいよ、ボクなんて、 スーさんと比べたらたいしたことないし﹂ ︵全然大したことある⋮⋮あるんですよお姉さん⋮⋮!︶ アンナマリーさんが好む革系の鎧を脱ぐと、鎧越しには目立たな かった胸の大きさがよく分かる。昔秘密の交流を持ったときの大き さと比べて、1.5倍ほどに成長している︱︱こんな胸を抱えて、 あのスピードで移動していたなんて。毎回戦闘力の高い女性と知り 合うたび、驚かされる部分だ。 そんなことを考えているうちに、俺はスーさんとアンナマリーさ んに促されて風呂場の椅子に座らされ、あれよと言う間に身体を洗 われ始めていた︱︱アンナマリーさんは後ろにいるからいいが、ス ーさんは横にいて腕を洗ってくれているので、とても正面から視線 を向けられない。 1816 ﹁⋮⋮坊っちゃんは変わらず純粋でいらっしゃいますね⋮⋮こちら まで意識してしまいます﹂ 俺との関係の変化について、スーさんはまだ黙っていてくれるよ うだ。いや、隠すつもりもないのだが、この状況で言うのも問題が あるということだろうか。どのみち、今のところは伏せておきたい。 ﹁ヒロトくんの背中、すごく広いね⋮⋮でも、まだ少年っていう感 じも残ってるっていうか。微妙なお年ごろだね﹂ ﹁おにいたんのおなか、かちかちになってる。さわってもいーい?﹂ ﹁お、お腹ならいいけど⋮⋮ソニア、正面は危険だから、アンナお 姉ちゃんと一緒に背中の方をだな⋮⋮﹂ ソニアは俺の正面から身を乗り出し、俺の腰を覆ったタオルがず れようと気にせずに身を乗り出してくる。子供だからしょうがない が、大人になってもこのことを覚えていたら、兄妹の間に気まずい 空気が流れてしまいそうだ。 ﹁そにあもおおきくなったら、かたくなる?﹂ ﹁ど、どうだろうな⋮⋮女の人でも腹筋は割れるけどな﹂ ぺたぺたと俺の腹筋に触れてくるソニア。つぶらな瞳できらきら と憧れるような視線を送ってきているが、この幼さでそこまで腹筋 に興味を持つのもどうかと思う。お兄ちゃんは妹が筋肉フェチにな らないか心配だ。 ﹁私も、それなりに鍛えておりますが⋮⋮はっきりと割れているほ うが、坊っちゃんはお好みですか?﹂ ﹁い、いや、適度な方がいいんじゃないかな。マールさんでも、腹 1817 筋は割れてないんだよ。それでもあれだけ力があるからな﹂ ﹁いろんな人のお腹をチェックしてるんだ⋮⋮ヒロトくんったら、 普通の冒険じゃなくて、女の人の方を冒険しちゃってるんじゃない ?﹂ ﹁ちょっ、アンナマリーさん、ソニアの前でその言い方はどうかと ⋮⋮っ﹂ ﹁そにあもおにいたんとぼうけんしたい⋮⋮ねえおにいたん、つれ てって?﹂ ソニアが大きくなったら本気でついてきそうだ。一人で森に行け るんだから、成長は俺と比べても遅くはないだろう︱︱と考えて、 俺はソニアのステータスを確認しなければ、ということを思い出す。 一部が???となって伏せられていたソニアのステータスは、や はり対応する鑑定技能がなければ、全て見ることはできない。 ︵鑑定技能⋮⋮どのジョブが持ってるかは分かってるけど。この町 に、持ってる人がいるのか⋮⋮探してみるか︶ ﹁⋮⋮ソニアちゃん、お兄ちゃんのこと好きすぎない? ねえ、お 兄ちゃんって優しい?﹂ ﹁うん、やさしい! そにあがおふとんにはいってもおこらないし、 ソニアのきらいなものたべてくれるし、だっこしてくれるし、おに いたん大すき!﹂ ︵その好意が純粋なものでありつづけるよう、お兄ちゃんはお前を 守り続けるよ⋮⋮︶ ﹁いいお兄ちゃんだね。布団に入っても怒らないし、抱っこしてく れるの?﹂ ﹁うん、おとーさんよりじょうず!﹂ 1818 ﹁ぶっ⋮⋮そ、ソニア。そろそろ父さんがかわいそうだから、少し くらいお兄ちゃんより好きなところをあげてやってくれ﹂ ﹁⋮⋮おとーさんは、木をきるのがじょうず。あと、へんなかおを するとおもしろい﹂ ﹁旦那様も、ソニア様から十分に敬愛されていらっしゃるのですね。 それは何よりです﹂ ﹁ふふふっ⋮⋮あはははっ。なんかいいね、ヒロトくんの家族って 仲良しで﹂ アンナマリーさんはそう言って笑うけれど、そのあとで、他の二 人に聞こえないくらいの声で言った。 ◆ログ◆ ・︽アンナマリー︾はつぶやいた。﹁ボクもそんな家族が欲しかっ たな⋮⋮﹂ アンナマリーさんの過去を知った今、彼女がどんな気持ちで俺た ち家族を見ているのかと思うと、胸を締めつけられるものがある。 ﹁⋮⋮あの。アンナマリーさんは、眼帯を外されないのですか?﹂ ﹁うん、気にしないで大丈夫。今はヒロトくんの背中を流しにきた だけだから﹂ ﹁あとで一人でゆっくり入るってことか?﹂ ﹁そうそう、そういうこと。じゃあ泡を流すからね﹂ アンナマリーさんは桶で汲んだお湯を、俺の肩からかけて流して くれる。ソニアも泡まみれになっていたので、アンナマリーさんは 1819 ソニアの耳をふさいでお湯が入らないようにしつつ、頭からお湯を かぶせた。 ﹁はぅー! きゃはははっ!﹂ ﹁ソニアちゃん、そろそろおねえちゃんと一緒にあがろっか。のぼ せちゃうと、お母さん心配するからね﹂ ﹁おにいたんとスーおねえちゃんは、まだいっしょなの?﹂ ﹁うん。お兄ちゃんはスーお姉ちゃんの身体を洗ってあげたいんだ って。ほら、お姉ちゃんはお胸が大きいからひとりだと大変でしょ ?﹂ ﹁ぶっ⋮⋮あ、アンナマリーさん、変なことを妹に教えないでくれ﹂ そんな話をしていたところで、風呂場の引き戸がからからと開い た。 ﹁ヒロトったら⋮⋮そんな格好で、いつまで若い娘さんたちと話し てるの? お父さんに怒られるわよ﹂ ﹁か、母さんっ⋮⋮!?﹂ ソニアを俺に任せると言ってくれていたのに、母さんはあまり遅 いので様子を見に来てしまったようだ。 しかし今の話、どこまで聞かれていたことか⋮⋮き、気まずい。 ﹁スー、アンナマリーさん、私もご一緒していいかしら? 入って きてから言うのもなんだけど﹂ ﹁もちろんです、奥様。そちらにお座りになってください、お背中 をお流しいたします﹂ ﹁ありがとう、スー。アンナマリーさん、お風呂のついでに冒険の 話を聞かせてもらってもいい?﹂ ﹁あっ、は、はいっ! え、えーと、ヒロトくん、じゃあまた後で 1820 ね。ここからは女三人水入らずってことですよね、お母さん﹂ ﹁っ⋮⋮お、お母さんって、よその娘さんに言われるとどきっとす るわね。アンナマリーさんも、ヒロトとの将来を考えていたりする の? この子ったら手が早いんだから﹂ ︵ここにいると、針のむしろにされそうだ⋮⋮しかし母さん⋮⋮︶ 風呂場で見るのは久しぶりだが⋮⋮昔サラサさんたちにコンプレ ピーク ックスを感じていた母さんはもういない。二人の子供を育てた結果、 二十六歳にして、母さんは円熟を迎えていた。何がというのは息子 として、はっきり口にすべきではないだろう。 ﹁そ、ソニア、一緒にあがろうな。湯冷めしちゃいけないから﹂ ﹁うん! おかーたん、おねーちゃんたち、またあとでね!﹂ ソニアは脱衣所に駆け出していく。その後についていく途中で、 後ろから三人のやりとりが聞こえてきた。 ﹁奥様⋮⋮長らくお目にかからないあいだに、美しさに磨きをかけ られましたね﹂ ﹁やあね、こんなおばさんに向かって。スーもそうだけど、アンナ マリーさん、ずいぶんしっかり布を巻いてるのね。そんなに恥ずか しがらなくてもいいのに﹂ ﹁いえ、ボクはちょっと事情があって⋮⋮あとで一人で入らせても らえますか?﹂ ﹁照れ屋さんっていうこと? でも息子の前では随分大胆だったみ たいね。あの子、何か粗相をしなかった?﹂ ﹁そんなことは全くございません。アンナマリーさん、そうですね ?﹂ ﹁う、うん。何もなかったよ﹂ 1821 脱衣所でソニアの身体を拭いてやりながら、俺は風呂場から聞こ えてくるやり取りに身悶えしていた。 ◆◇◆ 部屋に戻って休む前に、一日を振り返る。あまりにも密度が濃い 一日だった︱︱しかし疲労をほとんど感じない。空腹や睡眠不足が 限界を超えるとライフが減るが、まだ減る気配がないので、元気が 有り余っている。 まず朝にフィリアネスさんとクリスさんと一緒に領主の館に行き、 セディと会談をした。明日になったら、フィリアネスさんに魔石鉱 の採掘の件がどうなったか、新しい砦はどれくらいで建つのかを聞 き、メアリーさんと今後の方針を相談したい。 ﹃軍規﹄によって軍師の欲求を上官が満たすことになっているか ら、メアリーさんに助言を仰ぐたびに、何か見返りを求められても おかしくない︱︱こんなチートスキルを、身長小さめながら発育の いいエルフ少女に与えたのは一体誰だ。彼女を魅了した俺が悪い、 それは認めよう。だがもっと悪いのは、あの時クリスさんにくしゃ みをさせた環境だ。そうだ、俺は清廉潔白だ。自分で言っても空々 しいので、自己弁護はほどほどにしよう。 ︱︱そんなことを考えていると、不意に頭の中に慣れ親しんだ声 が響いてくる。 ︵⋮⋮マスター︶ 1822 ︵ユィシア?︶ もう迷宮の奥から出てきて、念話ができる範囲にいたのか。いつ から見守られていたんだろう。 ︵領主の館から出てきたあとはずっと見てた。スーと戦うところも、 鍛冶屋に入るところも⋮⋮森でハインツと戦っているときは、危な くなったら出ていこうと思ってた。でも、ご主人様なら大丈夫だと 思った︶ ︵⋮⋮俺とアンナマリーさんだけでやれると信じて、見ててくれた のか。ありがとう、俺も何としてでも、自分の力でハインツに勝ち たかったから︶ ︵ハインツが転移したあとの気配を追いかけることもできたけど、 距離が遠くて、すぐ魔力の波動が消えた。あれは魔王の力⋮⋮魔王 はこの近くに来ていたけど、気配を完全に断った。完全に魔力を隠 蔽すると、解放するにも手間がかかるはず。それでも隠しているの は、何か目的があるからだと思う︶ 今の魔力を隠蔽しているリリムを見つければ、簡単に倒せるので は︱︱そう思ったが、ユィシアが気配を辿れないということは、簡 単に見つけることは難しいということでもある。 ︵私は魔王の気配が生じたらすぐに対応できるように、町全体を見 てる。マスターは、自由に行動していい。町の住人も、マスターの 周りの人たちも、私が守る︶ ︵⋮⋮そうか。騎士団も来てくれてるんだけどな⋮⋮ユィシアも見 ててくれたら百人力だ︶ 1823 ︵⋮⋮千人力と言ってもいい。人の子では何人集まっても、私に傷 はつけられない⋮⋮マスター以外は︶ ︵ははは、まあそうだな。ユィシアがそんな冗談言うなんて、珍し いな︶ ベッドに座ったまま、俺はユィシアに語りかける。彼女が人間の 心の機微を理解し始めていると感じるたび、俺は何とも言えず嬉し くなる。 元の無機質な目をしたユィシアも例えようもなく綺麗だと思った が、その目が感情の光を宿すようになっても、魅力は全く損なわれ てない。むしろ表情が出てきた最近の方が、愛らしく見えて仕方が ない。 ︵⋮⋮皮を脱いだからかもしれない。大人になるほど、皇竜は魂に 色がついて、個体としての自我が芽生える。私の中に刻まれた祖竜 の記憶が、そう言っている︶ ︵祖竜⋮⋮? ユィシアの祖先のことか?︶ ︵そう。全ての皇竜のはじまり、始皇竜レティシア︶ 今まで聞かなかったから、といえばそうかもしれない︱︱しかし、 俺にとっては驚嘆に値する情報だった。 ︵始皇竜⋮⋮レティシア⋮⋮それは、マザードラゴンとは違うのか ?︶ ︵それは⋮⋮わからない。私の母は、私が仔竜のうちにいなくなっ 1824 てしまったから⋮⋮︶ ︵⋮⋮そうか。ユィシアも、ずっと一人だったんだな⋮⋮︶ テイム 俺は彼女を仲間にするとき、調教をした。自分より強い彼女を仲 間にしたい、そして限界突破の恩恵を手に入れたい︱︱そんな思い で。 その時はまだ想像できていなかった。彼女を隷属させるというこ とは、家族になるのと同じだということを。 ︵⋮⋮私の家族は、ご主人様だけ︶ ︵⋮⋮もしかして、それで仔竜が欲しかったっていうのもあるのか ?︶ ユィシアの答えは、しばらく帰ってこなかった。意識は念話で繋 がったままで、彼女が深く思慮していることが伝わってくる。 ︵⋮⋮そうかもしれない。マスターが今言ってくれたから、気がつ いた。マスターは私の心を、私よりよく理解している︶ ︵人の心を読む力は持ってないよ。俺ができるのは、本当か嘘かを 見抜くことくらいだ︶ ︵⋮⋮⋮⋮︶ かすかに、ユィシアが笑ったような気配が伝わってくる。声を出 さずに、本当にわずかに笑ったような気がするだけで、けれど確か に嬉しそうで。 1825 ︵⋮⋮私は人じゃないから、マスターは心が読める。マスターの言 うことが、私の意志︶ ︵俺の言うことが、ユィシアの意志か⋮⋮じゃあ、一つ教えてくれ ないか。今夜のうちに何かしたいことはあるか?︶ 俺は立ち上がり、窓の近くに近づいた︱︱すると。 夜空に浮かんだ、いくらか欠けた月。 その淡い光を浴びた、銀色の人の姿が見える。 銀糸のような髪を翻しながら、まるで妖精のように、人影は俺の 部屋の窓の外︱︱フィリアネスさんの屋敷よりはいくらか狭いバル コニーに降りたつ。 窓の鍵を外して、中に迎え入れる間に、まとった月光が軌跡を残 すように見えた。その艶髪に見とれる俺の前に立ち、ユィシアは俺 をいつものように静かに見返す。 夕焼けの湖で会ったときは髪がおろされていたが、今は編み込み をしている。俺が呼ぶとは思っていなかったと言いながら、彼女は 身だしなみに気を遣っていた。それは、俺が呼んでくれるようにと 期待していたからに他ならないと思った。 魔力で編んだ薄衣も、相変わらずよく似合っている︱︱大人にな ったからか、一回り大きくなった胸を覆う部分は、見ていて少し頼 りない。人目につく場所に出るには、気をつけないといけない部分 だろう。彼女も俺の奥さんになる女性の一人なのだから、他の男に 肌をあらわにした姿は見せられない。 1826 ﹁⋮⋮マスターは、もう休むと思ったから。私も竜の姿に戻って、 森のなかで寝ようと思ってた﹂ ﹁じゃあ、起きてて良かったな⋮⋮巣の方はどうだった?﹂ ﹁眷属が守ったから、宝は大丈夫⋮⋮全部そのまま。もしマスター が必要になったら、いつでも使える﹂ ﹁ユィシアは宝が好きなんだよな? じゃあ、それは使わない方が いい。大事にとっておこう﹂ 金の稼ぎ方は他に幾らでもある。しかしユィシアはいたく感激し たみたいで、顔を赤らめ、目を潤ませている。 ﹁⋮⋮町を見ていたら、貨幣のことで目の色の変わる人間が沢山い た。マスターは違う﹂ ﹁俺もお金を集めること自体は好きだよ。でも必要な分は貯まって るし、足りなくなっても稼げばいいと思ってるから。ユィシアの宝 石には、金に変えられない価値があると思う。ユィシア自身にもな﹂ ﹁価値⋮⋮私に⋮⋮﹂ ユィシアはよくわからない、という顔をしている。信じがたいが、 彼女はあれほど強いのに、﹃自分の価値﹄ということには無関心だ ったようだ。 ﹁ユィシアが脱いだ皮には、ものすごい価値があったんだ。でもあ んな綺麗なもの、絶対金には変えられない。将来、家に飾っておこ うと思うんだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮恥ずかしい。マスターの部屋に飾るだけならいい﹂ ﹁やっぱりそうだよな。分かった、そうさせてもらうよ﹂ ﹁⋮⋮マスターは、変わったものが好き。皮なんて、必要がないか ら脱いだものなのに﹂ 1827 竜の甲殻には宝石が含まれていることがあり、雌皇竜でなくても 高値で取り引きされるのだが、ユィシアは別格だ。脱いだ皮がすべ て宝石に変化するのだから。 ﹁⋮⋮人間の雌は、皮を脱がない。マスターは、竜の皮が好き。私 の方が、人間の雌より好き﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮どちらでも構わない﹂ ユィシアは言ってみただけ、というように微笑んでみせる。でも、 彼女のことだ︱︱思ったままを口にしたのだろう。 やはり竜である彼女は、人間に近づいたとはいえ、価値観は竜の ものなのだ。それを今確認して、感慨を覚える︱︱俺は、竜と気持 ちを通じ合わせられている。 ﹁⋮⋮マスターに見せたいものがある。空を飛んでいたら、きれい なものが見えた﹂ ﹁きれいなもの⋮⋮?﹂ ﹁宝石みたいに、きらきらしたもの。夜のうちだけしか、見られな いと思う。一緒に飛びたい⋮⋮来てほしい﹂ ﹁っ⋮⋮ゆ、ユィシアッ⋮⋮!?﹂ ユィシアは俺の手を引くと、後ろを向かせて抱きしめる。突然で、 けれど自然な動きで、俺は身構えることもできなかった。 そしてそのまま、彼女は後ろに飛ぶ︱︱次の瞬間、浮遊感が訪れ たかと思うと、俺は人の姿のユィシアに抱きしめられたまま、窓か ら夜空へと飛び出していた。 1828 ﹁うぉぉっ⋮⋮!?﹂ ﹁大丈夫。私に触れていれば落ちない。マスターは、竜に乗るのが 上手になったから⋮⋮こんなふうにしても、たぶん平気﹂ ﹁っ⋮⋮す、凄いな⋮⋮これは⋮⋮っ﹂ 星空へと向かって回転しながら上昇し、急に背中から落下して︱ ︱宙返りするように浮き上がる。 人の姿の竜が可能にする、物理法則を超えた飛行。けれど俺は、 全く三半規管をやられることなく、落ち着いていられた︱︱きっと それは、まだ5しか取っていなくても、存在感を発揮している﹃竜 騎兵﹄スキルのおかげだ。それを示すように、脳裏にログが流れる。 ◆ログ◆ ・あなたの﹃竜騎兵﹄スキルが上昇した! ﹁うぉぉぉっ⋮⋮凄い⋮⋮凄いよ、ユィシア⋮⋮っ!﹂ ﹁⋮⋮喜んでくれてよかった。でも、それだけじゃない⋮⋮下を見 て﹂ ﹁下⋮⋮?﹂ 星空と、目まぐるしく移り変わる空中の景色ばかりを見ていた俺 は、眼下に広がる世界に目を向けていなかった。ユィシアは町の周 りを静かにゆっくりと旋回しながら、俺に見せてくれる。 まるで、イルミネーションのようだった。 夜になると真っ暗になるはずのミゼールの町に、今日は明かりが 1829 残ったままだ。祝祭の日の、夜まで熱気を残した首都のように。 ﹁これは⋮⋮なんで、夜まで明かりが⋮⋮?﹂ ﹁⋮⋮ミゼールの町は、今収穫の祝いをしてる。狩人と、農民のた めの祝い。町の明かりを夜遅くまでつけて、次の実りを祈って、働 いた人々をねぎらう﹂ ﹁そういうものなのか⋮⋮俺、こんなに長く暮らしてきたのに、そ んな催しがあるって知らなかったよ﹂ ﹁大人にならないと、意味を教えてもらえない⋮⋮そう町の人間が 言っているのを聞いた。明かりを夜遅くまでつけておくと、豊穣を 司る地の精霊が喜ぶらしい﹂ ユィシアはそのことを知って、この景色を俺に見せたかったのだ ろう。 翼を持つ者︱︱そして、雌皇竜を従えている俺だけが見られる、 煌々と夜の底にきらめく町の明かりを。 ﹁なんか、クリスマスみたいだ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮クリスマス?﹂ ﹁俺が知ってる、人間の祭りだよ。神聖なものなのに、なぜだか、 恋人同士が一番盛り上がるというか⋮⋮俺には、縁がなかったんだ けどな﹂ クリスマスを祝ったのは、前世でも子供だった頃までだ。 ゲームの中にも年中の行事はあったし、この世界にも、サンタク ロースのコスチュームくらいはあるのかもしれない。コスチューム 集めが趣味の麻呂眉さんのために、みんなでイベントクエストをこ なしたことを思い出す。 浮かんだ月を背中に浴び、その青白い光を浸食するように、ユィ 1830 シアはほとんど停止しているくらいの速度で、少しずつ上昇してい く︱︱そして。 ﹁⋮⋮マスターの考えてる、赤と白の衣装⋮⋮私は、魔力で衣装を 編める⋮⋮﹂ ﹁ゆ、ユィシア⋮⋮っ、何を⋮⋮﹂ ユィシアが俺を抱きしめている手が、彼女の発した魔力に覆われ る︱︱そして、その手首から先が、白い綿毛に縁取られた、赤い手 袋に変化する。 ︱︱俺が想像した、サンタ装備。ユィシアは、それを再現してく れていた︱︱後ろを振り返ることができない今、彼女の姿をすぐに 確かめられないことがもどかしい。 ◆ログ◆ サンタ・クロース ・︽ユィシア︾は﹃擬装﹄︵イミテーション︶を発動した! ・︽ユィシア︾の﹃ドラゴンケープ﹄が﹃聖夜の仮装﹄に一時的に 変化した。 ﹁⋮⋮何とか、つくれたと思う。完璧じゃないかもしれないけど⋮ ⋮﹂ ﹁すぐにでも見たい⋮⋮そこまでしてくれるなんて。俺、めちゃく ちゃ感激してるんだけど⋮⋮﹂ 抱きしめられたままで言う。ユィシアの胸の鼓動が、とくんとく んと早まっていく︱︱毛皮のようなサンタ装備らしい感触ごしに、 柔らかいふたつの弾力を改めて意識する。 1831 ﹁⋮⋮手を離しても、落ちない。マスターは、﹃私に乗ってる﹄か ら⋮⋮﹃降りなければ﹄大丈夫﹂ ﹁⋮⋮そういうことか。よし⋮⋮!﹂ ユィシアが人の姿で飛行を可能にしているのと同じ原理だ。彼女 に乗っていることになっている俺も、飛行の恩恵を得られる︱︱離 れさえしなければ。 俺はユィシアの腕を、慎重に外してもらう。もう支えがなくなっ ても、俺の身体は落下しない。 後ろを振り向き、ユィシアと両手を結び合わせる。すると静かな 表情で見ていた彼女が、目を細めて微笑んだ。 ﹁⋮⋮よくできた。マスターは、勇気がある﹂ ﹁ああ⋮⋮本当は、心臓がバクバクしてるけどな﹂ ユィシアはサンタ帽子をかぶり、肩があらわになった赤と白の衣 装に身を包んでいた。完璧もいいところだ︱︱銀色の髪の、サンタ クロースの姿をした少女がそこにいる。 俺たちは空中で手を結び合わせたまま、互いに見つめ合う。そし て、二人で広がる眼下の世界を眺める。 ﹁⋮⋮人間が綺麗だというものが、宝石以外私には分からなかった。 ただの風景に価値はないと思ってた。でも、今は違う⋮⋮マスター と一緒に、色んな世界を見たい。そのこと自体に、﹃価値﹄を感じ る﹂ ﹁俺もそうだよ。俺も⋮⋮﹂ 引きこもっていた前世のことを思い出さずにいられなかった。リ 1832 アルでは何の出来事もなく、ゲームのイベントに時間を費やして過 ぎ去ろうとしていたクリスマスの夜に、俺はドアの向こうまで来た 母親に、どうしても窓の外を見て欲しいと言われ、カーテンの隙間 から外を見た。 ︱︱そこには、明かりの付く、クリスマスツリーの形をしたカー ドを掲げている陽菜の姿があった。 一秒か、二秒か。俺の姿が見えた時、陽菜が確かに笑ってくれた ことを覚えている。 けれど俺はすぐに背を向けて、ゲームのイベントに戻って、みん なと談笑していた。今見たものを、脳裏から消し去ろうとするかの ように。 陽菜の恋人になったはずの相手と過ごすのは、中学三年生には早 かったのかもしれない。あいつがそこに立っていたのは、ただ時間 があったからかもしれない。そう考える事自体が、ただ逃げている だけだと分かっていた。 陽菜が恭介よりも俺を選んだのだと思うこと自体が、何かを裏切 っているように思えた。 それすらも逃げでしか無かった。俺は言い訳をひたすら重ねて、 自分は悪くないと思い込もうとした︱︱。 ﹁⋮⋮今のマスターは、昔とは違う。私は、リオナには何も言わな い。マスターはいつか、リオナに自分で言えると思う。昔のことを、 悔やんでいるのなら﹂ ﹁⋮⋮ユィシアは⋮⋮焼き餅妬いたりしないのか?﹂ 1833 こんなときに、他の女の子のことを考えてる俺を、責めないのか。 ユィシアは少し考えてから、そっと手を伸ばしてきて、俺の鼻を つまんだ。 ﹁ふがっ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮嫉妬という気持ちを、ご主人様に教えられた。でも、私のこ とを忘れないでいてくれるならそれでいい﹂ 無粋なことを聞いてしまった。それを詫びる前に、ユィシアは俺 の鼻からそっと手を放して︱︱何かを待つように目を閉じた。 ﹁んっ⋮⋮﹂ 空に浮かんだまま、俺たちは口づけを交わす。 忘れることなど、あるわけがない。それを言葉にする代わりに、 誓いに変えるためのキスだった。 1834 第五十四話 断髪式/来訪者 朝方、俺が先に目を覚ますと、ユィシアは俺の隣で身体を丸める ようにして眠っていた。 彼女はふだん、完全に意識が眠ることは無いそうで、いつでも外 敵が来たら覚醒する習性があるそうなのだが︱︱今はどう見ても深 く眠っていた。俺が動いてもまつ毛が動くくらいで、すぅすぅと安 らかに寝息を立てている。 ︵俺が隣にいるから、安心してるのか⋮⋮だとしたら、良かったな︶ 白い頬に触れてみたくなるが、起こしてしまってはいけないので、 俺はしばらく片腕を突いて頭を支え、ユィシアの寝顔を見ていた。 ﹁⋮⋮おはよう、ヒロトくん。って、挨拶していいのかな﹂ ︵なにっ⋮⋮!?︶ いきなり後ろから声をかけられ、思わずビクッとしてしまいそう になる。ゆっくり振り返ると、そこには顔を赤くしつつ、俺をジト 目で見ているアンナマリーさんがいた。 ﹁な、なんで⋮⋮アンナマリーさん、起こしに来てくれたとか?﹂ ﹁う、うーん、まあそうだけど⋮⋮﹂ ﹁ちょ、ちょっと待った。えーと、他の場所で⋮⋮﹂ 1835 ◆ログ◆ ・あなたは﹃忍び足﹄を使用した。あなたの気配が消えた。 俺はそろそろとベッドを抜け出す。ユィシアは俺がいなくなった 気配だけは察したのか、俺の枕をたぐり寄せると、ぎゅっと抱きし めるようにする︱︱俺の匂いがするから、無意識に抱きまくらにし てるんだろうか。 とりあえず部屋の外に出る。まだ早いので、誰も起き出していな いようだ。窓からは朝の光が差し込んでいる。 ﹁⋮⋮ヒロトくん、あの子はふつうの人間じゃないみたいだけど⋮ ⋮あの角って、ドラゴンの角だよね?﹂ テイム ﹁あ、ああ。あの子はユィシアって言って、この町の西の竜の巣に いたんだ﹂ ﹁ドラゴンって、そう簡単に調教できたり、人間と仲良くする存在 じゃないって言われてるのに⋮⋮ボクが想像もつかないくらい、す ごい冒険をしてきたんだね⋮⋮﹂ 寝間着姿で、いつもしている鉢巻も外していると、アンナマリー さんの印象がかなり違って見える。眼帯はやはり外せないようで、 そこだけはリラックスした格好の中で異彩を放っていた。 ﹁ヒロトくんは、女の人を惹きつける力を持ってるよね? ボクに も一回かけたでしょ﹂ ﹁っ⋮⋮い、いや、今は濫用はしてない⋮⋮って、そういう問題じ ゃないよな⋮⋮﹂ ﹁ふふっ⋮⋮やっぱり気にしながら使ってたんだ。いけないことだ と思ってても、ボクにはそれだけのことをする価値があったってこ 1836 となのかな?﹂ ﹁う、うん⋮⋮本当にごめん。赤ん坊だからって、調子に乗りすぎ てたよな⋮⋮﹂ アンナマリーさんは楽しそうに俺を見ている。何も言葉にしない ので、無性に恥ずかしくなってくる⋮⋮何か、俺という人間の本質 を見透かされているようだ。 思えば初めて出会った時もそうだった。アンナマリーさんは、赤 ん坊の俺の我がままを許して、大目に見てくれていた。 そして、一日だけで俺の前からいなくなった。今回もそうなるん じゃないかという不安が、不意に胸をよぎる。 ﹁ヒロトくん、どうしたの?﹂ ﹁い、いや⋮⋮その。アンナマリーさんに、もう少し⋮⋮いや、ず っと、俺のパーティに残って欲しいと思って。また、居なくなった りしないでほしい﹂ 何を言っているんだ、と思う。冒険者である彼女を、無理に引き 留めてはいけない︱︱そう思うのに、気持ちが抑えられなかった。 ﹁ずっとって、簡単に言っちゃっていいの? ヒロトくんは、もう いっぱいお相手がいるんじゃないのかな?﹂ ﹁⋮⋮それでも遠くに行って欲しくないんだ。何かの理由がなけれ ば、俺と一緒に冒険して欲しい﹂ 俺は彼女がふらりと家に立ち寄り、そして旅立っていった時から、 その生き方に憧れていた。 エターナル・マギアはもともと、各国に存在するダンジョンやク 1837 エストのレベルにばらつきがあったので、常に色んな国を周り続け る必要があるゲームだった。 だから俺は、一つの場所に留まるより、他の場所を見てみたい気 持ちがあった。領土を得たとしても、そこが安定すれば、拠点の一 つと考えて旅に出たい。 ﹃冒険者﹄とはジョブの名前でもあり、エターナル・マギアの全 てのプレイヤーに対する呼称でもあった。常に冒険をし続けること が課せられた宿命であり、何よりも俺がそうしていて楽しかった。 新しい土地で、新しい人に出会い、新しい迷宮に潜る。その繰り返 しでも、十分にのめりこむことができたのだ。 ﹁⋮⋮キミのパーティをいつか抜ける理由があるとしたら、この片 目かな。キミも気にしてくれてたと思うけど、これは﹃魔眼﹄って いうの。ボクは聖槍の力を完全に引き出すために、普通の人と違う 眼を手に入れる必要があった。でも、まだ宿してもらったばかりで、 うまく見えない⋮⋮封印を解くには、私が魔眼の主として認められ ないといけないんだって﹂ 魔眼のことをなかなか聞けずにいたが、期せずして彼女のほうか ら話してもらえた。聖槍を使うために必要な眼⋮⋮ということは、 聖剣を使う際にも、何らかの身体条件が必要ということになるのか。 魔剣カラミティを聖剣に変えられる選定者は、一体どこにいるの か︱︱それを見つけることさえできれば、父さんを魔剣の護り手の 役目から開放できる。 俺は斧マスタリーが上がりにくくなったために、別の武器を使っ てみたくなって剣を握り、ウェンディと剣の訓練をしたことがある ︱︱それゆえに、﹃剣装備﹄と﹃薙ぎ払い﹄は会得している。しか し、聖剣マスタリーと剣マスタリーを持っていても、﹃魔剣の選定 者である﹄ということにはなるかどうかはわからない。なぜなら、 1838 聖剣マスタリー自体は、武器の数より多く保有者がいる可能性があ るからだ。﹃選定者が一人ではない﹄という推論もできるが、確信 に足る材料はない。 ﹁それにしても⋮⋮聖槍なのに、﹃魔眼﹄なんだな﹂ ﹁魔眼の力を私が引き出せれば、﹃聖眼﹄ってことになるのかもし れない。ヒロトくんは、魔眼に興味はある? 手に入れたいなら、 宿してくれる人の居場所は教えてあげられるよ﹂ ﹁そうだな⋮⋮もし俺が持てる聖なる武器があるなら、その時は⋮ ⋮﹂ 本当は﹃もし﹄なんて思ってはいなかった。 魔王を討つ力を持つ武器。それを俺が自分で振るうことができた ら、そう思わずにはいられない。 ﹁⋮⋮﹃聖斧﹄が、キミを選んでくれるといいね。ボクのお父さん は、得意な武器と、手に入った武器が噛み合わなかったけど⋮⋮ボ クを置いて一人で旅に出てから、見つけられたのかな⋮⋮﹂ もしそうなら、ヒューリッドは本当の意味で勇者になったのだと 言える︱︱だが、彼は表舞台から姿を消した。 俺は、そうはならない。大切な人たちを残して居なくなるような ことは、絶対にしたくない。 そうしたら、前世と同じになってしまう。何の恩返しもできない ままで、 ﹁ヒロトくん⋮⋮どうしたの? つらそうな顔してるよ?﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ このところ、前世のことを良く思い出させられる。全く忘れてい 1839 たはずなのに、やはり消えることはない。 心配させてはいけない、早く笑わなければ。 けれどそう思うあいだに、俺はアンナマリーさんに抱きしめられ ていた。 ﹁⋮⋮大きくなったのに、そういう寂しそうな顔しちゃだめだよ? こうしたくなっちゃうでしょ﹂ ﹁ご、ごめん⋮⋮そんなつもりじゃなかったんだ﹂ 慰めてもらいたかったわけじゃない。不意に思い出してしまった だけだ。 そして辛くなるとしても、それは全て俺のせいだ。俺が、正しい 道を選べなかったから︱︱やり直すために、この異世界を生きてい るから。 ﹁⋮⋮ううん、こっちこそごめんね。本当はボクもずっと一緒に冒 険したい。でも、キミはボクが思うよりもはるかに強かった。ボク はきっと、キミには追いつけない﹂ ﹁追いつけなくたっていい。今だって十分、アンナマリーさんは強 いんだから。みんなだって⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それでもみんな、ヒロトくんの横を歩きたいんだよ。それが できてるのは、ユィシアちゃんだけじゃないかな。見ただけでわか るよ、どれだけ彼女が強いのか⋮⋮﹂ これだけの人たちが、俺の近くにいたいと望んでくれる。 それがあまりにも、恵まれすぎているように感じていた。 みんなを育成して、強くしたい。そうしたら俺はもっと安心でき るし、攻略で詰まることもない。 ︱︱そう思いながらも、俺は、自分が強ければ全てを守れると思 1840 っていた。 そんな俺の心を、アンナマリーさんはやはり肌で感じ取っていた。 彼女には、何も隠し事ができない。 ﹁そのうちみんなは、誰が一番強いのかを確かめたくなると思う。 ヒロトくんと戦って、ついていく資格があるのか確かめたいってい う人もいるかもしれない﹂ スーさんがそうだった。ミコトさんだって、本当はそう思ってい るだろう。対人戦で無敵だった彼女が、単純なスキルの値で俺に差 をつけられたとしても、戦わずに負けを認めるなんてことはない。 ﹁守ってもらうだけじゃなくて、ボクもヒロトくんを守りたい。そ れが、一緒に冒険するってことだと思う﹂ ﹁⋮⋮そうだな。本当にそうだ⋮⋮﹂ ゲームではパーティの誰が欠けても、最難関ダンジョンの雑魚す ら倒すことができなかった。 俺はもっと本気で、皆を育てることを考えるべきだ。真にこの世 界を踏破し、女神の所に辿り着こうと願うのなら。 ﹁⋮⋮なんて。本当は、必要としてもらえたらそれだけでいいのに ね。ごめんね、面倒で﹂ ﹁それは⋮⋮面倒って言わないよ﹂ 必要としてもらえるだけでいい、そんな気持ちでいてくれるのな ら︱︱すぐにでも。 ﹁ヒロトくんには、いくら強がっても全部受け止められちゃう。ほ んとはまだ八歳なのにね⋮⋮﹂ 1841 アンナマリーさんは俺の頬に触れて、すりすりと撫でる。そして 彼女は俺にもっと近づいて︱︱、 そのときお約束だと言わんばかりに、ガチャ、とどこかのドアが 開いた。 ﹁あら、ヒロトとアンナマリーさん。こんな早くにどうしたの? もう少し寝てていいのよ﹂ 姿を見せたのはレミリア母さんだった。アンナマリーさんは咄嗟 に離れるが、まだ顔は赤いままだった。 ﹁な、何か手伝うことないかと思って⋮⋮そうだよね、アンナマリ ーさん﹂ ﹁え? う、うん⋮⋮居候してるだけもいけないから、後でお手伝 いさせてください﹂ ﹁そう? そこまで言ってくれるなら、お言葉に甘えようかしら。 スーと一緒に下にいるから、もし良かったら来てね。ヒロト、ソニ アが私の部屋で寝てるから、着替えてから起こしてあげて﹂ ﹁う、うん⋮⋮分かったよ、母さん﹂ ユィシアは人間の食事を取る必要が無いのだが、どうしようか。 と思ったら、母さんの声で起きてしまったらしく、念話が届いた。 ︵⋮⋮起きたらご主人様がいなくて不安になった︶ ︵ご、ごめん。ちょっと抜け出す用事があってさ。また埋め合わせ するよ︶ 1842 ︵⋮⋮約束した。ご主人様のスライムが部屋に入ってきたから、護 衛獣同士で交流を試みてみる︶ ︵最近かまってなかったからな。そのうち呼ぶから、って伝えてお いてくれ︶ ユィシアはスライムとも念話できるのだろうか、とふと思った。 もしそうなら、ジョゼフィーヌ︵スライム︶が何を考えているか聞 いてみたい。 ジョゼフィーヌはもうすぐスライムスキルが100に達する。レ ベルも50になっていて、実は十分すぎるほど戦力になったりする。 スライムが苦手な人も多いので、なかなか人前に出せないのだが。 スペック いつでも呼び出せる護衛獣は、ここぞという時に助けになる可能 性がある。近いうちに呼び出して、今の状態を確かめておこう。 ユィシアの気配が離れたところで、アンナマリーさんは身だしな みを整えてこちらを振り向いた。母さんが起きてきて相当驚いたら しく、胸を押さえている。 ﹁はぁ⋮⋮びっくりした。さすがにお母さんに見られたら気まずい もんね﹂ それなら廊下じゃなく、アンナマリーさんが使っている客室に予 め移動すべきだったのではありませぬか、と俺の中の軍師が囁く。 そこまで用意周到に行動して、どんだけ吸いたいんだと思われたら 困るじゃないか、と俺の青少年的な部分が言う。 ﹁じゃ、じゃあ⋮⋮ボクは着替えてからレミリアさんを手伝いに行 くね﹂ 1843 ﹁あ、ああ⋮⋮俺もそうするよ。ソニアも起こさないとな﹂ その後、着替えた後で母さんの部屋に行き、ソニアを起こした。 ソニアは寝起きはものすごく大人しかったが、やがて意識がはっき りしてくると、﹁抱っこして﹂と言ってきたり、おはようのキスを したりと懐きまくっていた。だが俺はといえば、アンナマリーさん からいつ﹃用心棒﹄スキルをもらえるのかばかり考えてしまう。不 甲斐ない兄を許してほしい。 ◆◇◆ 朝食のあと、俺は家の庭先で、汚れてもいい布を敷いた上に椅子 を置き、切った髪を除けるための布を羽織って座っていた。 何が始まるかといえば、断髪だ。俺はついに、急成長して伸びて しまった髪をさっぱりと切ることになった。 集まった人々を見回し、クリスさんが司会か何かのように、俺の 肩に手を置いて言う。 ﹁えー、ではこれより、ヒロト君の髪を切りたいと思います﹂ ﹁どうしてあなたが仕切ってるのか分からないけど⋮⋮クリス、こ の子のお母さんは私なのよ?﹂ ﹁ご、ごめん姉さん、怒らないで。ちゃんと姉さんに譲るから﹂ ﹁姉さんじゃなくて、﹃お姉ちゃん﹄でしょ? 何大人ぶってるの﹂ ﹁うぅっ⋮⋮わ、私も騎士団長になったんだし、ちょっとくらい大 人ぶりたいというか、もう大人だし⋮⋮﹂ グリーヴ クリスさんは母さんに圧倒されている。こうして見ると、具足の 1844 底が厚い分だけクリスさんの方が背が高いが、裸足になれば同じく らいの身長だ。双子とはいかないが、すごく似ている。 そのクリスさんと母さんに内緒で親密になってしまった事実⋮⋮ 背徳的だ。クリスさんは秘密にしてくれると言ったけど、もし気が 変わったらと思うと落ち着かない。母さんに似てる叔母さんから秘 密で授乳を受けましたなどと、字面だけ見るとスキャンダラスにも ほどがある。 ﹁じゃあ、リオナちゃんたちに先に切ってもらいましょうか。髪が 短くなってくると、切るのが大変だしね﹂ ﹁ありがとう、レミリアお母さん! ヒロちゃん、私が切ってあげ るね!﹂ ﹁⋮⋮私も切っていいの?﹂ ﹁ミルテ、はさみは気をつけて使うのよ。私が先にして、お手本を 見せてあげる﹂ ステラ姉はお嬢様然としたワンピース姿で、今日もカチューシャ がよく似合っている。しかし大人っぽく振舞っているように見えて も、俺の髪を切るとなると緊張しているみたいだった。 ﹁⋮⋮ヒロト、切らせてもらってもいい?﹂ ﹁いいよ。みんな、わざわざそのために集まってくれたんだし﹂ うちの庭は狭くはないが、あまりに人数が多すぎて、ほぼ女性で 埋まっている状態だ。仕事に出る父さんは庭の光景を見てしばらく 真顔になったあと、﹃上手くやるんだぞ﹄と俺の肩を叩いていった。 いろいろと深い意味が込められている言葉に、俺の父さんへの尊敬 度が10くらい上がった。 1845 ﹁ヒロト、髪は貰って帰ってもいいのじゃな? 強い人物の髪には いろいろと用途があるのでな﹂ ﹁ヒロトちゃんの髪で筆を作るとか、確かにいろいろありますよね ∼﹂ ﹁マールさん、それは赤ちゃんの髪ですることですよ﹂ ネリスさん、マールさん、アレッタさんという珍しい取り合わせ。 それも、今日という日ならではだろう。 赤ん坊の髪で筆を作る習慣が、この異世界にもあるのか。しかし 切った髪にまで用途を見いだされるとは、俺はどれだけみんなに大 事にされているのだろう。感謝しかない。 ﹁リオナ、少しだけ切ってあげてね。いっぱい切ると、他の方たち の切る分がなくなってしまうから﹂ ﹁うん、分かった! ヒロちゃん、じっとしててね⋮⋮﹂ ターニャさんがエイミさんに頼んで作ってもらったハサミで、リ オナが最初に俺の髪を切る。そして巻き起こる拍手⋮⋮なぜ拍手な んだろう。無性に照れくさい。 ﹁私も⋮⋮ヒロトの髪、つやつやしてる⋮⋮﹂ ﹁ミルテがそこを切るなら、私もその隣の房を⋮⋮あっ。ごめんな さい、少し切りすぎちゃった﹂ ﹁大丈夫だよステラ姉、相当長いから﹂ 年少組の三人がはさみを入れたあと、次にウェンディと名無しさ ん、モニカさんが切ってくれた。 ﹁お師匠様の髪を、弟子の私が切る⋮⋮な、なんだか感動でありま 1846 す⋮⋮っ、き、切れましたっ⋮⋮!﹂ ﹁ふふっ⋮⋮感慨深いものがあるね。また、髪の短いヒロト君を見 ノーン られると思うと⋮⋮小生はどちらも好きだけれどね⋮⋮﹂ ﹁名無しも結構ちゃっかりしてるわよね、そういうことサラリと言 っちゃって⋮⋮あたしもヒロトの髪、袋に入れて枕の下にでも入れ とこうかな。そうしたらよく眠れそうだし﹂ モニカさんはパーティ三人の分の袋を用意していて、俺の髪でお 守りが三つ作られる。い、いいのか⋮⋮髪なんて、すぐ伸びてくる と思うんだけど。 そして次はミコトさんだ。彼女は自分で専用の短刀を持ってきて おり、それで切ってくれた。そして離れるとき、耳元でそっとささ やいてくる。 ﹁ギルマスの髪を切るのが恒例行事になったら、楽しいですわね。 皆さんで集まる機会ができて⋮⋮いえ、そのうち全員で一緒に暮ら すことになるのでしょうけど﹂ ﹁み、ミコトさん、それは⋮⋮﹂ どこまで本気で言っているのか、完全に本気なのか。ミコトさん は転生者なのに、感覚がこっちの世界寄りになっている気がする。 一夫一妻に、それほどこだわっていないような感じがしてならない。 髪がかなり短くなって軽くなってきたところで、順番をみんなに 譲っていたフィリアネスさんが、ようやくハサミを受け取った。 ﹁ヒロトは、みんなに愛されているな⋮⋮私も自分のことのように 誇らしく思う﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮ちょっと照れるな、みんなの前で言われると﹂ 1847 俺の髪を手に取り、フィリアネスさんは次の人を待たせないよう にすぐはさみを入れる。そして切った髪の束を、持っていた布で大 事そうに包んだ。 ﹁肌身離さず持っていよう。ヒロトの身体の一部だからな⋮⋮捨て るなど、勿体無くてできない﹂ ﹁フィル姐さんは、このまま結婚式でもしちゃいたそうだよね∼﹂ ﹁雷神さま、このままヒロトちゃんをさらっていっちゃいます?﹂ ﹁なっ⋮⋮く、クリス、マール! お、お母様もいらっしゃる手前 で、何をおっしゃって⋮⋮ではない、何を言っているのだ!﹂ フィリアネスさんは胸元にお守りを入れる。それがあまりに自然 な動きだったので、乳袋に収納されたのだと最初はわからなかった。 彼女は赤い顔をして母さんを見やる。母さんは微笑みを返す︱︱ それを見て俺も顔が熱くなった。 母さんは、俺とフィリアネスさんのことを知っている。それでい て微笑むということは、答は一つだ。 ﹁ふふっ⋮⋮あせらなくても大丈夫ですよ、フィリアネス様。息子 から、お話は聞いていますから﹂ ﹁はぅっ⋮⋮! お、お話とは⋮⋮申し訳ない、私は大事なご子息 に、大変なことを⋮⋮っ﹂ ﹁男の子だから、少しくらいのことでは大丈夫ですよ。ねえ、ヒロ ト。ヒロトは強いのよね、すごく。フィリアネス様も、一人前って 認めるくらいに﹂ ﹁お、俺なんてまだまだだよ。ははは⋮⋮﹂ ︵この流れでは、みんなが違う意味の強さにとりかねないんだけど ⋮⋮や、やっぱり⋮⋮!︶ 1848 みんなの空気が一気に浮ついた感じになる。俺だけが変な想像を していたということは全く無かった。 年少組の三人ですら空気の変化を悟って、不思議そうな顔をして いる。ステラ姉はもう少しで、﹃大変なこと﹄の内容にも気づいて しまいそうだ。そうなったら彼女の俺に対する態度は、どう変化す るだろう︱︱怒られそうな気がすごくする。 そんな空気の中でやってきたのは、クリスさんとメアリーさんだ った。メアリーさんは俺に近づくなり、予め書いておいたらしい手 紙をさりげなく、膝の上に置いた俺の手の下に差し込む。 みんながソワソワしているうちにさりげなく手紙を開いてみると、 ﹃まさか着任二日目で髪を切らせてもらえるとは思いませんでした。 ここまで同行した判断は正しかったです。こちらからの報告は以上 です﹄とある。エルフの彼女はフードをかぶっているが、その下の 涼やかな美貌を覗いてみると、かすかに頬が紅潮している。 ﹁メアリーちゃん、昨日からヒロト君になついちゃってるよね? まあ、事情は聞かないでおくけどねえ⋮⋮んふふ。お姉ちゃんに言 えないこと、どんどん増えていっちゃうね。それとも全部言っちゃ おうか。私とジェシカと、ヒロトくんがどんな関係になっちゃった か⋮⋮﹂ ﹁クリスさん⋮⋮実を言うと、母さんは俺のやんちゃには慣れちゃ ってるから、あまり驚かれないと思うよ﹂ ﹁えっ⋮⋮そ、そっか⋮⋮お姉ちゃん、ヒロト君のこと、まだちっ ちゃい頃と同じ感覚で見てるんだ⋮⋮﹂ クリスさんは母さんに聞こえないくらい小さな声で言う。メアリ ーさんには聞こえていたので、彼女はどこからか紙を取り出すと、 またさらさらと文言を書き記して見せてきた。 1849 ﹃お母様はヒロト様のことを、深く愛していらっしゃるのですね。 軍師と総指揮官であるヒロト様の間の信頼関係も、それくらいに緊 密に構築したいものです。私が要請したときに、自由時間を共有す ることを規定します﹄ ﹁うぁっ⋮⋮ぐ、軍規はやめてくれっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・︽メアリー︾は﹃軍規﹄を発動した! ・﹃ジークリッド隊﹄において、新たな軍規が施行された。 ・﹃軍規﹄スキルによって制定された、ひとつ前の規則は破棄され た。 ︵な、なるほど⋮⋮スキルで規定できる軍規は、1つずつなんだな ⋮⋮しかし前より悪化⋮⋮いや、エスカレートしたような⋮⋮︶ ﹁⋮⋮そういうことなら。メアリーちゃんと一緒に、私もヒロト君 のとこに行けばいいよね。そうだ、マールも誘っちゃおう。マール、 ヒロト君のこと大好きだもんね﹂ ﹁なっ⋮⋮く、クリスちゃん、何言ってるの! 私のいないところ で、そんな本当のこと言って!﹂ ﹁本当のことならいいじゃん。ヒロト君は忙しいんだから、チャン スを逃したら致命的だよ? 私はヒロト君と一緒になる機会がある からいいけどね。赤騎士団は、私も含めてヒロト君の指揮下だから﹂ ﹁ぐぬぬ⋮⋮わ、私だってヒロトちゃんのパーティの一員だもん! 指揮下よりパーティの方が偉いんだから!﹂ ﹃それは聞き捨てなりません。指揮官の頭脳となる軍師は、いわば ヒロト様と一体のようなものです。パーティより一心同体の方が偉 1850 いです﹄ ﹁め、メアリーさん⋮⋮あまり挑発しないで、仲良くしてくれ。指 揮官として頼む、このとおりだ⋮⋮!﹂ ﹃⋮⋮そこまでおっしゃるなら仕方がありません。軍規は守ってく ださい。こちらからは以上です﹄ マールさんが涙目になっているので、俺は彼女の味方をしたくな ってしまう。メアリーさんはちょっぴり拗ねているようだったが、 軍規さえ守れば文句はないようだ︱︱くっ、また軍師スキルが上が ってしまうのか。中途半端に上げるのも勿体ないので、いっそ10 まで上げてしまおうか。だが調子に乗り過ぎると、悠久の古城に行 く前の準備期間で、一線を超えてしまいかねない、そんな積極性を メアリーさんからひしひしと感じる。 ﹁んふふ⋮⋮周りが積極的だと遠慮しなくていいからイイよねぇ⋮ ⋮ヒロト君、可愛い耳の形してる⋮⋮﹂ ﹁クリス、次はソニアの番なんだから、可愛い姪っ子に順番を譲っ てあげてね﹂ ﹁おにいたん、ソニアがちょきちょきしてあげる。ちょきちょき⋮ ⋮﹂ ソニアはレミリア母さんに抱えられてやってくると、俺の髪に何 回かハサミを入れた。子どもなりに気を使っているようで、あまり 沢山は切られなかった。思いやりのある妹に、あとでプレゼントを あげたい気分だ。 ﹁私たちが終わっても、まだ何人も待ってるのよねぇ⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮お姉ちゃん、私と口調が似てる。やっぱり離れてても姉妹 なんだよねえ。うぅ、ちょっと泣きそう﹂ ﹁またそうやって嘘泣きして。クリス、後でゆっくり話しましょう 1851 ね﹂ ﹁う、嘘じゃないんだけどなー。ヒロト君、お母さんにもっと妹を 信じろって言ってあげてよ﹂ クリスさんがほろりとしたのは本当のようで、少し目が赤くなっ ていた。彼女の様子を見ていれば、姉であるレミリア母さんを慕っ てることはよくわかる。 ﹁ようやく順番が回ってきたのう。この切った髪は、無駄にならぬ ようにしたいものじゃが⋮⋮責め苦に使うための筆を作るか、育毛 剤くらいしか作れんのう﹂ ﹁前者がサラリと出てくるのはどうかと思うんだけど⋮⋮それにし ても若くなったね、おばば様。いや、もう若すぎて俺より若いんじ ゃないかって感じなんだけど、どうなのかな﹂ ネリスさんに髪を切られながら話す。彼女はいつもと同じとんが り帽子にローブを身に着けているが、若返る前と変わっていなけれ ば、ローブの下は下着姿だったりするので、何だか見ていてドキド キする。 ﹁ふふっ⋮⋮やはり若返って良かったのう。年増のままでは、お主 もそれなりの見方しかせぬからな。これで、修行がますます楽しく なりそうじゃ⋮⋮﹂ ﹁ヒロトさん、教会に通う時間も取っていただければ、女神さまの 教えを説いてさしあげますよ。久しぶりに、いかがですか⋮⋮?﹂ ﹁うちの店でも、掘り出し物の商品が入ったらヒロトくんのために 取っておいてるのよ。来てくれたら、色々積もる話も⋮⋮と言いた いところだけど、私ももう行き遅れだしね⋮⋮はぁ﹂ ネリスさんと一緒にセーラさんとメルオーネさんが髪を切ってく 1852 れる。既に長さは半分ほどになって、肩の辺りまで短くなっていた。 もっと切ってもらって、短髪といえる長さにしたいところだ。あま り切りすぎてもアレなので、仕上げを担当するターニャさんの美容 師︱︱もとい調髪師としてのスキルに期待がかかる。 ﹁掘り出し物は見てみたいけど、それだけじゃなくて、メルオーネ さんとはまた改めて話したいな。もちろんネリスさんのところで修 行もするし、礼拝にも行くよ﹂ ﹁忙しすぎて身体を壊さないようにね⋮⋮と言いたいけど。近くに 来たら、あたしのところにも寄っていきなさい。ステラとアッシュ も会いたがってるしね﹂ そう言いつつもエレナさんは、昔から俺が遊びに来ると、様子を 見て授乳してくれるのが常だった。友達のお母さんから秘密で授乳 してもらうというのは、何というかスニーキングミッションをして いる気分だったが、今にして思うと良い思い出だ。 ﹁ヒロト坊やのところに来れば、普段会えない人にも会えていいね。 メルちゃん、誘ってくれてありがとう﹂ ﹁ヒロトちゃんは人を惹きつける力がありますから。私は、最初に 惹かれたと言っていいんでしょうか⋮⋮﹂ ﹁坊っちゃん、失礼いたします⋮⋮昔からお変わりなく、さらさら とした髪でいらっしゃいますね⋮⋮﹂ エイミさんとサラサさん、スーさんがやってきて、俺の髪にハサ ミを入れる。エイミさんは小柄なので背伸び気味に、サラサさんは 優しい手つきで切ってくれた。彼女とは赤ん坊の頃から触れ合って きたからか、その手が肌にかすかに触れるだけでも﹃懐かしい﹄と 感じてしまう。俺にとっての母親は間違いなく母さんだが、﹃母性﹄ の偉大さを教えられたのは彼女だ︱︱それは今でも変わらない。 1853 ︵限界突破を、母性を上げるためにサラサさんに授与する⋮⋮する と胸の大きさはどうなってしまうんだろう。今でもはち切れそうだ から、さすがにこれ以上は⋮⋮︶ 座っている俺の髪を切るために普通に近づいただけで、肩に乳房 ニューワールド が乗っている。もはや爆乳ではない、彼女の場合は覇乳であるとい えよう。乳世界に覇権を唱える女王、それがサラサさんである。も う自分でも何を言っているのかわからない。 ﹁お母さん、ヒロちゃんの肩に胸がのってるよ?﹂ ﹁あっ⋮⋮り、リオナ、そういうことはみんなの前では言ってはだ めよ。お母さん、わざとしているわけじゃないんだから﹂ ◆ログ◆ ・︽レミリア︾はつぶやいた。﹁サラサさんったら⋮⋮でも今とな っては私も負けないわよ﹂ ・︽フィリアネス︾はつぶやいた。﹁の、載せるというのはどうな のだろうか⋮⋮サラサ殿の大きさからすると、いたしかたないこと なのか⋮⋮私もしていいのだろうか⋮⋮い、いやしかし⋮⋮﹂ ・︽メアリー︾はつぶやいた。﹁⋮⋮なぜ半分は同族なのに、これ ほどの戦力差が⋮⋮いえ、まだ負けたと限ったわけではありません﹂ メアリーさんはサラサさんがハーフエルフだと察していて、意識 しているようだ。二人きりにしたら、親しくなれるかもしれない。 そして次に順番が回ってきたのは、アンナマリーさんだ。彼女は 俺に近づくなり、苦笑して言う。 1854 ﹁みんなヒロトくんにお熱だから、ボクはあっさりめにしておくね。 髪はもらっておこうかな﹂ ︵二、三ヶ月したら結構伸びると思うんだけどな。俺の髪のご利益 は果たしてあるのか⋮⋮?︶ そうこうしているうちに、ようやく断髪式も終わりが近づく。フ ィローネさんがハサミを入れてくれたあと、ついに仕上げのターニ ャさんにバトンタッチした。 ﹁髪を切るだけで一大行事になるなんて⋮⋮これは、絶対失敗でき ないわね﹂ ﹁ふふっ、そんなこと言ってるけど、ターニャの腕は確かだから。 他の町からも、髪を切って欲しいってお客さんが来るくらいだし﹂ ﹁そうなのか、それは楽しみだな。ターニャさんが思う通りにして くれていいよ﹂ ﹁ええ、ヒロトくんの魅力を最大限に引き出してあげる⋮⋮行くわ よ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ばさみ ・︽ターニャ︾は﹃ドヴェルグの髪切り鋏+2﹄を二刀流で装備し た。 ・︽ターニャ︾は﹃シザーハンズ﹄を発動した! ・あなたの髪が見る間に整えられていく! ︵うぉぉ⋮⋮な、なんか凄いぞ⋮⋮これ、本当にハサミで切ってる 1855 のか⋮⋮!?︶ ハサミの動く速さが尋常ではない。二つのハサミが縦横無尽に動 いて、髪を切っていく︱︱こんなスキルを持っていたら、それは調 髪師の仕事も繁盛するわけだ。 これはもはやショーのようなものだ。俺の髪が整えられていくの を、みんなは驚嘆して眺めている。 ◆ログ◆ ・︽ターニャ︾の﹃シザーハンズ﹄が完了した。 ・あなたは生まれ変わったような気分になった。周囲の視線がいつ もより好意的に感じる。 ・﹃交渉術﹄スキルが1上昇した! ︵めったに上がらなくなってたのに、ボーナスを振らなくても上が った⋮⋮!︶ 容姿を整えることも、交渉術に寄与するということか。髪の長い 姿も悪くないとみんなは言ってくれたが、やはり短い方が合ってい るのか。さして容姿に自信のあるわけではない俺だが、ターニャさ んに髪を切ってもらうと、それだけで何か自信が湧いてきている︱ ︱これも﹃シザーハンズ﹄の効果なのだろう。 ﹁自分で切っておいてなんだけど、こんなにうまくいくなんて⋮⋮ フィローネ、鏡を見せてあげて﹂ ﹁え、ええ。ヒロトちゃん、はい﹂ 1856 ぽーっと見とれていたフィローネさんが、あわてて手鏡を見せて くれる。そこに写っている俺は、髪をさっぱりと切られ、自分で言 うのもなんだがかなり爽やかな見た目になっていた。やはり髪型は 大事だ。 ターニャさんとフィローネさんが切った髪を払い、布を外してく れる。俺は立ち上がって、改めてみんなを見回した。誰も何も言わ ないが、それは似合ってないからではないと思いたい。 ﹁ありがとう、ターニャさん。みんなも、忙しいのに集まってくれ て嬉しかったよ。俺の髪をお守りにしたりするのは、ちょっと恥ず かしいけどさ﹂ 冗談めかせて言うが、みんな固まっていて動かない。な、なぜだ ⋮⋮手鏡を見て確認したが、切りすぎてもいないし、我ながら今ま でで一番しっくりくる感じで整えてもらったのに。 ﹁⋮⋮ねえミルテちゃん、ヒロちゃんってこんなにかっこよかった ?﹂ ﹁⋮⋮新しい髪型だと、前よりすてきに見える﹂ ﹁ヒロト⋮⋮王子様みたい⋮⋮﹂ ステラ姉が俺に見とれている︱︱魅了してるわけでもなんでもな いのに。そこまで褒めてもらえると、逆に照れくさくて仕方なくな ってくる。 だが、年少組の受けは良くても、他のみんなはどうだろう︱︱と 思っていると。 ﹁あぁーーーーん! やっぱり髪切った方がいい! すんごくいい よ、ヒロト君! ﹂ 1857 ﹁ぶぁっ⋮⋮く、クリスさん、大げさすぎ⋮⋮ふもっ⋮⋮!﹂ ﹁クリスったら、変な声出さないの。ヒロトにはどんな髪型だって 似合うから、驚くことじゃないわ﹂ レミリア母さんにたしなめられても、クリスさんはぐりぐりと俺 を胸に押し付ける。今日は胸甲のないタイプの鎧を身に着けていた が、それはこのためだったのでは⋮⋮と思ってしまった。 ◆◇◆ 髪を切り、その後の一時間近くの出来事によって俺は腑抜けにさ せられるところだったが、ギリギリのところで生還した。決して時 間を無駄にしてはならないので、俺はすぐに次の行動を起こした。 セディが魔石鉱を採掘する経路について相談したいことがあると いうので、俺は彼女の屋敷に向かった。 ︱︱しかし、その途中で。 ミゼールの町の北門を出たところで、セディの屋敷の前に、見覚 えのある馬車が停まっているのを見た。公国の紋章︱︱ルシエが乗 っていた馬車と同じ。その傍らには、青い鎧を身につけた女性騎士 の姿がある。 そして、馬車の中から、見覚えのある侍女に手を引かれて降りて きたのは︱︱。 ﹁ルシエ⋮⋮!?﹂ 首都にいるはずのルシエと、侍女のイアンナさん。そして、護衛 を務めているのだろう、青騎士団長のジェシカさんがそこにいた。 1858 ルシエは俺の声に気づいて、こちらを見やる。その次の瞬間、彼 女は俺の方に向かって駆け出していた。 ﹁ヒロト様っ⋮⋮ヒロトさまぁぁっ⋮⋮!﹂ スカートの裾を引き、公女としての貞淑な振る舞いもなにもかも かなぐり捨てて、ルシエはひたむきに俺を見つめて走ってくる。 ﹁っ⋮⋮ルシエ⋮⋮まさか、ここに来るなんて思わなかったよ﹂ 抱きとめると、ルシエは肩を震わせながら、俺の胸で泣きじゃく る。ストロベリーブロンドの髪⋮⋮やはり間違いない、公女ルシエ がここにいる。 ﹁今、この町に来ることが危険であることは分かっています⋮⋮で も、ヒロト様にひと目お会いしたくて⋮⋮あぁ⋮⋮ヒロト様⋮⋮っ﹂ ﹁⋮⋮そうか。大丈夫だよ、俺が⋮⋮俺たちが、守るからさ。それ にルシエの力も、いずれ絶対に必要になるから﹂ 魔杖カタストロフを﹃聖杖﹄に変え、魔王リリムを倒すことがで きるのはルシエだけだ。 できるならば、彼女にも少しでもいい、身を守る力と、杖を使い こなす技術を身につけてもらわなくてはならない。ルシエがミゼー ルに来たことには確かにリスクもあるが、間違いというわけじゃな い。 ﹁ルシエ殿下は、ヒロト様のお力になりたいとおっしゃっておいで です。このイアンナも、副王となられるヒロト様を主と思って尽く しましょう。何なりとお申し付けください﹂ ﹁イアンナさんも久しぶりだな。来てくれて嬉しいよ﹂ 1859 ﹁くぅっ⋮⋮あ、あまり役に立たないと思っておいでではないので すか? その優しいお言葉⋮⋮このイアンナを懐柔して、どうなさ るおつもりなのですか⋮⋮っ﹂ 二人とも変わっていないな、と微笑ましく思う。俺の胸で泣きじ ゃくっていたルシエも、俺につられるようにして笑っていた。 ジェシカさんは馬を降りて、俺に同行していたクリスさん、フィ リアネスさん、メアリーさんと握手を交わしていた。 ﹁ジェシカさん、お疲れ様。また一緒に戦えるね﹂ ﹁ああ。互いに背中を預けるとはいかない立場だが、公女殿下を護 り、ミゼールを守るために力を尽くそう﹂ ﹁そのことなのだが⋮⋮もしミゼールが戦場になるならば、検討す べき策がある。メアリー殿、そうなのだな?﹂ フィリアネスさんの問いかけに、メアリーさんはこくりと頷く。 次第に、盤面は整い始めている。俺は魔王の気配がそう遠くない ように思いながら、セディの屋敷に入る途中で、自分の力が今どれ ほどのものなのかを省みていた。 あとどれだけ強くなれば、再戦が叶うのか︱︱それとも、今十分 に条件を満たしているのか。それはまだ見極められないとしても、 これから始まる育成期間で、何を鍛えるべきなのかを把握しておき たかった。 ◆ステータス◆ 名前 ヒロト・ジークリッド 人間 男性 14歳 レベル59 1860 ジョブ:村人 ライフ:1840/1840 マナ:1548/1548 スキル: 斧マスタリー 120 剣マスタリー 10 聖剣マスタリー 1 ︻神聖︼剣技 53 ︻暗黒︼剣技 2 精霊魔術 78 法術士 32 薬師 35 商人 36 盗賊 33 狩人 30 戦士 32 忍術 5 守護 1 猛将 3 竜騎兵 6 戦略 1 気功術 2 衛生兵 31 騎士道 30 聖職者 30 布教 1 冒険者 30 鍛冶師 30 歌唱 10 舞踏 1 統治 1 恵体 153 魔術素養 127 気品 32 限界突破 61 房中術 16 刻印 10 交渉術 121 幸運 110 アクションスキル: 薪割り︵斧マスタリー10︶ 兜割り︵斧マスタリー20︶ 大切断︵斧マスタリー30︶ パワースラッシュ︵斧マスタリー40︶ 1861 スマッシュ︵斧マスタリー50︶ ブレードスピン︵斧マスタリー60︶ ブーメラントマホーク︵斧マスタリー70︶ ギガントスラッシュ︵斧マスタリー80︶ トルネードブレイク︵斧マスタリー90︶ ドラゴンデストロイ︵斧マスタリー100︶ メテオクラッシュ︵斧マスタリー110︶ 山崩し︵斧マスタリー120︶ 薙ぎ払い︵剣マスタリー10︶ 神威︵限界突破50、気功術︶ 加護の祈り︵︻神聖︼剣技10︶ 魔法剣︵︻神聖︼剣技30︶ ダブル魔法剣︵︻神聖︼剣技50︶ 精霊魔術レベル7︵精霊魔術70︶ 法術レベル3︵法術士30︶ ポーション作成︵薬師20︶ 値踏み︵商人10︶ 目利き︵商人20︶ 忍び足︵盗賊10︶ 鍵開け︵盗賊20︶ 隠形︵盗賊30︶ 狩猟︵狩人10︶ 狙う︵狩人20︶ 罠作成︵狩人30︶ 1862 ウォークライ︵戦士20︶ 応急手当︵衛生兵10︶ 包帯作成︵衛生兵20︶ 毒抜き︵衛生兵30︶ 野営︵冒険者20︶ メンテナンス︵鍛冶師20︶ 鍛冶レベル3︵鍛冶師30︶ 祈る︵聖職者10︶ 浄化︵聖職者30︶ 無敵︵恵体100︶ マジックブースト︵魔術素養30︶ 多重詠唱︵魔術素養100︶ 艶姿︵房中術10︶ 値切る︵交渉術10︶ 口説く︵交渉術30︶ 依頼︵交渉術40︶ 交換︵交渉術60︶ 隷属化︵交渉術95︶ 看破︵交渉術110︶ 恭順︵交渉術120︶ ︻口づけ︼授印︵刻印10︶ ×ラッキーアタック︵幸運50︶ ×神頼み︵幸運70︶ パッシブスキル: 斧装備︵斧マスタリー10︶ 剣装備︵剣マスタリー10︶ 1863 弓装備︵狩人10︶ 杖装備︵聖職者10︶ 聖職者装備︵聖職者10︶ 軽装備︵冒険者10︶ 薬草学︵薬師10︶ 回復薬効果上昇︵薬師30︶ 手加減︵︻神聖︼剣技30︶ 商才︵商人30︶ マナー︵気品10︶ 儀礼︵気品30︶ 勇敢︵戦士10︶ 攻撃力上昇︵戦士20︶ 気配察知︵冒険者30︶ カリスマ︵交渉術50︶ ︻対異性︼魅了︵交渉術80︶ ︻対同性︼魅了︵交渉術85︶ ︻対魔物︼魅了︵交渉術90︶ 選択肢︵交渉術100︶ ×ピックゴールド︵幸運10︶×ピックアイテム︵幸運20︶ ×豪運︵幸運30︶ ×クリティカル確率上昇︵幸運80︶ ×天運︵幸運100︶恩恵︵幸運110︶ 備考欄: ・冒険者ギルドでBランクに認定されている。 ・12人のパーティのリーダーである。 リオナ ・2体の護衛獣を使役している。 ・﹃恩恵﹄を奴隷に対して使用し、﹃幸運﹄スキルを分配している。 ・ジュネガン公国赤騎士団を支配下に置いている。 メアリー ・ジュネガン公国青騎士団を支配下に置いている。 ・軍師の規定した﹃軍規﹄の影響下にある。 1864 ・ジュネガン公国の副王となる資格を持っている。 ・ジュネガン公国の貴族の血統を持つ。 ・パラディン︽フィリアネス︾と婚約している。 ・プリンセス︽ルシエ︾の婚約者として認められている。 ・﹃雌皇竜の水晶殻﹄を所持している。 ・人魚から﹃授乳﹄を受けた。 ・雌皇竜から﹃授乳﹄を受けた。 ・︽名称不明︾から﹃刻印﹄スキルを授与された。 リリム ・︽ルシエ︾︽フィリアネス︾︽ミコト︾︽スー︾に刻印を与えた。 ・魔王に生気を吸われた。 残りスキルポイント:83 1865 第五十四話 断髪式/来訪者︵後書き︶ ※あけましておめでとうございます! 本年もよろしくお願いいたしますm︵︳ ︳︶m 1866 第五十五話 集う三騎士/若き公女の悩み ルシエとイアンナさんは客室に通され、俺、フィリアネスさん、 クリスさん、ジェシカさん、メアリーさんの五人で、セディと魔石 鉱採掘の件について話すことになった。 セディは俺の髪が短くなっていて驚いていたが、しばらく見つめ た後で﹁似合ってると思います﹂と言ってくれた。男装していても 関係なくなるような、俺を殺しにきているようなはにかんだ表情だ ったが、今は真面目な場なので浮ついてばかりもいられない。 ﹁今日の朝、魔石鉱の採掘経路を確認するために調査に出していた 者が帰ってきたのですが⋮⋮何か、森に異変が起きていたそうで、 行きと帰りで地形が変わっていたそうです﹂ ﹁探索に慣れている者なら、場所を勘違いしたということも無さそ うだな⋮⋮どういうことなのだろうか﹂ ﹁んー、なんかごくたまにだけど、空から隕石っていうのが落ちて 地形が変わることはあるらしいよ﹂ ﹁そ、それは恐ろしいな⋮⋮そんなものが人里に落ちたら、被害は 計り知れない﹂ フィリアネスさん、クリスさん、ジェシカさんの話を聞きつつ、 俺はすぐにどういうことか気がついたので、やっぱりやりすぎたか と反省していた。ハインツと戦ったときに﹃山崩し﹄を使って、森 を切り開いてしまった︱︱つまり隕石ではなく、俺のせいで地形が 変わったのだ。 ﹁あ、あのさ。それって、まっすぐに森が切り開かれてたとか、そ ういうことか?﹂ 1867 ﹁ええ、その通りです。巨大な爪を持つ魔物でも現れたのか、それ ともやはり竜がいるのか⋮⋮このままでは、魔石鉱採掘を始めるの は難しいかもしれません﹂ ﹁い、いや⋮⋮大丈夫だ。俺が保証するから、地形が変わったこと は気にしないでくれ﹂ ﹁む⋮⋮? ヒロト、何か心当たりがあるのか? そんな顔をして いるが﹂ ﹁まさか、隕石じゃなくてヒロト君だったりして。あっははー、さ すがにそんなこと⋮⋮﹂ ﹁ヒロト殿であれば、確かに⋮⋮修練場で見せた技だけでも、森を ある程度切り開くことは可能だ。あの時からさらに腕を上げている のであれば⋮⋮ヒロト殿、いかがですか?﹂ ジェシカさんは俺の実力なら無理じゃない、と本気で信じている。 こうなると、嘘をついても仕方ないか。 ﹁ちょっと森でいろいろあって、大技を使ったんだ。ごめん、環境 破壊みたいなことして⋮⋮﹂ ﹁い、色々だと⋮⋮何か危険なことがあったのではないのか? く っ、昨日私たちと別れたあとに、そんなことが起きていたとは⋮⋮﹂ ﹁まあヒロト君が無事だったからいいじゃない。その辺りの事情は、 後でゆっくり聞かせてもらうとして⋮⋮それで、セディ君、そうい う事情なら心配はいらないんじゃない? さっそく、うちの騎士団 の穴掘りが上手い子たちを採掘に出すよ﹂ 採掘もスキルの一つだが、たぶん専門のジョブがあるだろう。ツ ルハシなどの掘る道具を装備すれば、騎士団の人々でも問題なく掘 れそうだ。 しかしセディ﹃君﹄と言われても、セディは気にしてない様子だ。 領主として男装しているときは、男として扱ってもらう方がいいん 1868 だろうか⋮⋮俺は彼女の女性としての姿を見ているので、そういう ふうにしか見られないんだけど。 ﹁じゃあ、ソリューダス工房に武具をお願いしてたけど、その前に 採掘道具を作ってもらおう﹂ ﹁それは良い考えですね。ヒロトさん、ソリューダス工房の方とは お知り合いなんですか?﹂ ﹁あのドワーフの老人は、今も健在でおられるだろうか。ヒロト、 どうなのだ?﹂ ﹁⋮⋮そのことだけど、話しておかないといけないな﹂ 俺はハインツがリリムの配下であったこと、何かの理由でじっち ゃんを呼び出し、重傷を負わせたことをみんなに話す。血なまぐさ い話を普段聞くことのないセディに聞かせるのもどうかと思ったが、 彼女は全て事情を聞いても落ち着いていた。 ﹁そんなことが⋮⋮ハインツ氏は、最近町から姿を消していたと聞 いています。そういった事情があったんですね⋮⋮町の住人を傷つ けたことは、許すわけにはいきません﹂ セディが言うと、メアリーさんは話を聞きながら紙をふところか ら取り出し、サラサラと書きつけていたが、書き終えるとテーブル に置いて見せた。 ﹃魔王の手の者が、魔石鉱の採掘を妨害してくる可能性もあります。 青騎士団も到着しましたので、両騎士団に連携していただき、採掘 と砦の建設を並行して進めたいと思います。それとセディ殿には、 一つ相談しておきたいことがあります。町の住人全体に関わること です﹄ 1869 ﹁町の住人全体⋮⋮そうですか。その可能性はあると思っていまし たが、やはり⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうか。もしミゼールが戦場になったときのために、町の人 たちに⋮⋮﹂ 避難をしておいてもらうということか。そう言いかけたが、クリ スさんが俺の肩を指先でトントンとつつく。 ﹁ずっと住んできた町を離れるなんて、人生に関わりかねない一大 事だからね。住民みんなを説得するのも大変だし、離れたがらない 人だっていると思う。パニックを起こさないように、少しずつ周知 していくしかないね。場合によっては、避難の必要はないかもしれ ないし﹂ ﹁ヒロト殿たちが魔王を弱らせ、ルシエ殿下が﹃魔杖﹄を使って魔 王を討つ⋮⋮それしかないと分かってはいますが、魔王もさるもの です、戦いは激しいものになるでしょう。私の方からも部下に命じ て町の人々の説得を行います﹂ ﹁そうしてくれると助かる。俺もできるだけ早く魔杖の回収に向か うよ﹂ ジェシカさんも居てくれると、やはり頼りになる。彼女の部下な ら、説得を任せても大丈夫だろう︱︱もし難しい場合は、それこそ 俺の出番だ。 住人に避難してもらうということは、俺の家族や知人もミゼール を離れてもらうということになる。リリムがどう動くかによるが、 最悪の手段を使ってこないとも限らない︱︱俺の大事な人を人質に 取るなんてことも、可能性は否定できない。 ハインツがまだ生きているなら、もう一度リリムの命を受けて来 るかもしれない。それも警戒しておく必要はあるだろう⋮⋮リカル 1870 ド父さんには、ハインツのことを伝えておかなければ。 ﹁魔石の採掘については、ミゼールの財政建て直しのことも考える と急を要する。クリス、ジェシカ、できるならば砦の建設と魔石鉱 の採掘については、お前たちに指揮を取ってもらいたい﹂ ﹁了解、フィル姐さん。魔杖を取りに行くときは、ヒロト君のこと を頼んだよ⋮⋮っていっても、私が言うことじゃないけどね。ヒロ ト君とフィル姐さんの方がめちゃ強いんだし﹂ ﹁そんなことないよ。心配してくれてありがとう。ジェシカさんも 来てくれてありがとう、本当に助かるよ﹂ ﹁っ⋮⋮に、任務ではありますが⋮⋮そう言っていただけるのなら ば、何よりの励みになります。できるならヒロト殿と共に戦いたい ですが、今は自分の役割を果たしましょう﹂ ジェシカさんは黒髪を撫でつけてしきりに恐縮していたが、最後 には騎士の顔になり、力強く言い切る。フィリアネスさんとクリス さんも頷きを返す︱︱騎士団のトップを担う三人は、元々こういっ た空気の中で任務を遂行してきたのだろう。 ﹁んふふ⋮⋮ヒロト君って仕事をする女性に弱いのかな? やっぱ りフィル姐さんの影響かな﹂ ﹁そ、そうなのか⋮⋮? 改めてそう言ってもらったことはないと 思うが⋮⋮﹂ ﹁ま、まあそれは確かにあるけど。やっぱり、みんな立派だと思っ てさ。俺も見習わないと﹂ 思わず感心して見入っていたので、クリスさんに茶化されてしま った。確かに俺は、フィリアネスさんの女騎士としての凛とした姿 に惹かれたことは確かなのだが、改めて言われると照れてしまう。 1871 黙って座っていたメアリーさんが、す、とセディに何か書いた紙 を見せる。それを手にとったセディは、口元に手を当てて苦笑した。 ﹁メアリーさん、大丈夫です。ボクも同じことを思ってますから⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ ◆ログ◆ ・︽セディ︾はつぶやいた。﹁ヒロトくん、何人の女の人と親密な 関係なんだろう⋮⋮﹂ ・︽メアリー︾はつぶやいた。﹁何よりも遵守すべきは軍規です。 それを忘れずにいただきたいです﹂ ︵や、やっぱり⋮⋮癖になっちゃったのか、セディも。メアリーさ んもやっぱり積極的だな⋮⋮︶ メアリーさんはフードで顔を隠していたが、ぷぅ、と頬をふくら ませているように見えた。公国の誇る軍師の見せる子供っぽい仕草 を見られるのも、彼女の上官である俺の特権といえるだろうか。 ◆◇◆ 元々ミゼールから魔石鉱のある鉱山に向かうとき、森を南に迂回 しなくてはならなかったそうで、俺が森を切り開いたことで距離の ロスが少なくなったとのことだった。 1872 しかし、森を切り開いたことで何か影響があったりはしないかと 気になったので、俺は森の外れにあるネリスさんの庵を訪ねた。も う一つ重要な理由として、ルシエに杖マスタリーを指導してもらう には、ミゼールで一番の杖使いでもあるネリスさんに頼みたかった ということもある。 ルシエを連れてネリスさんの庵を訪ねると、ミルテは留守にして いた。ステラ姉のところで勉強しているというので、終わるまでに 間に合うかわからないが、俺も後で久しぶりに訪問したいところだ。 ﹁失礼いたします⋮⋮ここが、ミゼールの賢者様のおうちなのです ね﹂ ﹁な、なかなか風格を感じさせますわね⋮⋮あの妖しいお面からし て、妖術師⋮⋮いえ、ただものではないという空気がとてもします﹂ ルシエは素直に感心していて、イアンナさんは言葉を選ぶのに苦 労している様子だ。それを見ていたネリスさんは腕を組んで苦笑し ていた。 ﹁なんじゃ、公女は礼儀ができておるのに、侍女は慇懃無礼じゃな。 そんなことで役目が務まるのか?﹂ ﹁はっ⋮⋮い、いえ、わたくしは何も失礼なことは考えておりませ ん。賢者様も大変お若く⋮⋮あら? こんなにお若い方だったので すか? 偏屈な老婆というイメージがあったのですが﹂ ﹁ほっほっほっ⋮⋮お主にはあとでしかるべき仕置きをくれてやろ う。わしの特製﹃苦茶﹄を飲めば、お主の性格も少しは正されるじ ゃろう﹂ ﹁ひぃっ⋮⋮そ、そうですわ、わたくし、ヒロト様のご家族にご挨 拶をしませんと⋮⋮姫様のこと、どうかよろしくお願いいたします。 1873 そ、それではっ⋮⋮!﹂ ﹁あっ、イアンナ⋮⋮っ﹂ イアンナさんは慌てて逃げていってしまった。あの困った性格を 正してくれるなら、﹃苦茶﹄、ありだと思います。俺は飲みたくな いけど。 ﹁も、申し訳ありません⋮⋮イアンナは悪気があって言ったわけで はないんです。彼女は元から、その⋮⋮何というか、言葉が誤解さ れやすいというか⋮⋮﹂ ﹁誤解というか、本心がぽろりと出るのは悪いくせじゃな。まあ、 わしはああいった失礼な奴も嫌いではないがのう。いじめがいがあ って良い﹂ それについてはおおむねネリスさんに同意だ。俺も昔、イアンナ さんにお仕置きをしたことを思い出す︱︱あの時もらった房中術は 意外と人生のクオリティを向上させてくれている気がする。まあ、 確かに言動は失礼だが悪い人ではないので、もういじめたいと思っ てはいない。いじめ、カッコ悪いという名言もある。 ﹁ルシエ殿下は、見るからに清らかであらせられる。あのイアンナ という娘も、殿下のことは本気で慕っているのじゃろうな。わしも へんぴ 長く生きてはおるが、自然に敬愛する気持ちが湧いてくる。このよ うな辺鄙な庵を訪ねていただき、まことに感謝いたします﹂ ﹁い、いえ⋮⋮私こそ、急に訪問してしまって申し訳ありません。 ヒロト様が、ぜひ賢者様に引きあわせたいとおっしゃって⋮⋮教え を乞わせていただければと思い、ここに参りました﹂ 彼女はジェシカさんの護衛を受けていたとはいえ、ミゼールには 公式に訪問しているという形ではないので、プリンセスであると一 1874 目で分かるような服装はしていない。しかし上品な白いワンピース を身につけ、大きく開いた首元にはネックレスをつけている。スト ロベリーブロンドの髪に、宝石こそついていないが白銀の輝きを放 つティアラをつけて、今日は髪を降ろしていた。背中に届くくらい の長さで、どうやってこんな髪質にしたのかと思うほどサラサラと している。初めて会った頃と比べると、祝祭での演説を経て容姿が 垢抜けたように感じた。 ﹁ヒロトはこの国における重要な地位を約束されたそうじゃな。ル シエ殿下は、ヒロトのことを既に見初められておいでになる⋮⋮そ うお見受けしたが、どうじゃな?﹂ ﹁み、見初めただなんて⋮⋮私は、ヒロト様を、一方的にお慕いし ているだけで⋮⋮あっ⋮⋮!﹂ ネリスさんに急にふられて驚いたのか、ルシエは決定的なことを 言ってしまう。そうしてから口を塞いでも、もう遅かった︱︱俺に も、しっかり聞こえてしまった。 ﹁ち、違うんですっ⋮⋮わ、私は、ヒロト様がすぐに首都からいな くなってしまったので、もう会えなくなるのではないかと思って⋮ ⋮どうしてもお礼がしたくて、わがままを言ってミゼールに来たん です。父上⋮⋮陛下も、私が行くことには意味があるからと、許可 をくださって⋮⋮で、ですから⋮⋮っ﹂ ﹁大丈夫だよルシエ、慌てなくていい。ちゃんと、気持ちは伝わっ てるから﹂ ﹁っ⋮⋮は、はい⋮⋮ヒロト様⋮⋮﹂ 違うんです、とルシエは言うが、何も違わなかった。どれだけ俺 を慕っているか、言葉を尽くして語ってくれたようなもので、胸が 熱くなってしまう。 1875 ルシエは耳まで真っ赤になってうつむいてしまった。まだ十歳の 彼女に、こんな恥ずかしい思いをさせるのはしのびない。 ネリスさんは穏やかに笑っていた。イアンナさんへの態度と違っ て、ネリスさんのルシエへの接し方は、まるで親のように優しく、 柔らかいものだった。 ﹁何も焦ることはない、ヒロトはすべて受け入れてくれる。なにせ 歩き始めたばかりの頃から、この子は周囲を幸福にする甲斐性を持 っておったからな。殿下も公女の務めに縛られることはあろうが、 ヒロトがここまで公に認められる存在になっているのじゃから、問 題はないじゃろう。といっても、ミゼールまではヒロトの演説につ いては、まだ大っぴらには伝わっておらぬがな﹂ ネリスさんはそう言ってから、俺の方を見やる。その目はルシエ に対してのものと違い、彼女が昔から時折見せる憂いを帯びた瞳だ った。 ﹁⋮⋮ヒロト。ミゼールを離れていた間の出来事については、ミル テに聞いた。後でそのことについて、二人で話させてくれぬか﹂ ﹁うん⋮⋮俺も、ちゃんと話しておきたかった。その前に、ルシエ に杖の使い方を教えてあげてほしいって頼みに来たんだ。ネリスさ ん、お願いしていいかな?﹂ ﹁私が杖を使えるようにならなければ、﹃魔杖﹄を手に入れること ができても、力を発揮することができません。賢者様にお教えを賜 りたく存じます﹂ ﹃魔杖﹄という単語を耳にして、ネリスさんは少女の姿ながら、 並々ならぬ緊張を感じさせる面持ちに変わる。そして全てを理解し たというように、艶のある緑みを帯びた黒髪を撫でつけながら言っ た。 1876 ﹁わしも杖を極めたと言えるほどではないが、教えられることは多 かろう。短い間で使いこなすには、相応に厳しい鍛錬を積む必要が ある。それでもよろしいか?﹂ ﹁はい、どのようなことでもお申し付けください﹂ ネリスさんは頷くと、壁にかけてある木の杖の一つを持ってきて、 ルシエに渡す︱︱杖といっても、まだ小柄なルシエには、軽くて小 さいものを選んでもずっしりとした重みがあった。簡単に手に入る 杖ではないように感じたので、情報を確認する。 ◆アイテム◆ 名前:枯れた世界樹の枝 種類:杖 レアリティ:ユニーク 攻撃力:︵3∼10︶×︵0∼1︶D1 防御力:10 魔術倍率:105% 装備条件:杖マスタリー10 ・世界樹の折れた枝の一片を切り出して作った杖。世界樹に通じる 力は失われている。 ・攻撃時に与えたダメージの1%、ライフを吸収する。 ・1分でマナが5ポイント回復する。 ◆◇◆ 1877 ︵世界樹の枝⋮⋮枯れてても杖としてここまで機能するのか。練習 用としては十分だな︶ ﹃杖装備﹄がないうちは装備しても使いこなせないが、それでも 持ち続けていれば﹃杖マスタリー﹄を取得できる。ネリスさんの﹃ 育成﹄スキルもあるので、取得までそこまで時間はかからないだろ う。 魔術倍率105%とは、元の威力を100%として5%だけ増加 するという意味だ。中には100%以下のものもあって、魔術が弱 くなるかわりに特殊な効果を持っている杖というのも存在する。基 本的には倍率が高い方が優秀だ。 杖の長さはほとんどルシエの身長と同じくらいだが、なんとか持 つことはできた。しかしまだ危なっかしく、バランスがとれるまで ネリスさんが支える。 ﹁少し重いがの、練習用にはこの杖が良い。ふらつかぬように持て れば、だいたいの杖は使うことができるようになる﹂ ﹁ありがとうございます⋮⋮きゃっ!﹂ ネリスさんがそっと手を離すが、ルシエはふらついてしまう。そ うなる可能性を見越していた俺は、杖をキャッチし、ルシエの身体 も受け止めた。 ﹁広いところで練習した方がいいな﹂ ﹁うむ、そうさの﹂ ﹁す、すみません⋮⋮私、頑張ります。ちゃんと使えるようになっ て、ヒロト様のお役に立ちたいです⋮⋮﹂ 俺の腕の中で、ルシエは顔を赤らめつつ言う。その真っ直ぐな好 1878 意が眩しいが、杖の練習は魔王と戦うためのものでもある。そのこ とを分かっていても﹃俺の役に立ちたい﹄と言ってくれるルシエを、 なんとしても守り抜かなければと思った。 ◆◇◆ ルシエは慣れない杖の扱いを頑張って練習したが、見ているうち に疲労が動きに出てきたので、休ませることにした。考えてみれば 首都から普通なら三日かかるところを、ルシエは出来る限り早く俺 の所に来たいという一心で、二日で到着したというのだから、元か ら疲れていても無理はない。 ﹁んぅ⋮⋮すぅ⋮⋮すぅ⋮⋮﹂ ルシエはネリスさんのベッドを借りて休んでいる。俺はしばらく 寝顔を見たあとで、寝室を出てきた。居間ではネリスさんがお茶を 淹れてくれていて、いい香りがする。 ﹁頑張って杖に慣れようとしておったし、元々疲れておったのじゃ ろうな。少し休ませてあげなさい﹂ ﹁うん。ありがとう、ネリスさん﹂ ﹁わしの布団に姫君を寝かせるなど、恐れ多いのじゃがな⋮⋮そう いえば、姫はどこに宿泊されるのか決まっておるのか?﹂ ﹁起きたあとに聞いてみるけど⋮⋮俺の家ってこともあるかな? 最初にセディの家に行ってたから、領主の館でもてなすのが筋って 気もするけど、それも含めてルシエに聞いてみないとな﹂ ﹁⋮⋮お主をあれだけ慕っておるのじゃからといって、お主の家に 泊まると、必ず何か起こりそうじゃからな⋮⋮いや、お主ならもう 止めはせぬがのう。かといって、わしもただ見ておるつもりはない が⋮⋮﹂ 1879 こうして改めて見ると、若返りの薬を二度も飲んだから当然だが、 ネリスさんはあどけなさまで出てきてしまっている。十六歳のネリ スさんはけっこう小柄で、俺より小さいこともあいまって、感覚が おかしくなってきてしまっている︱︱尊敬していることに変わりな いが、何か落ち着かない気分だ。 ︵この人に精霊魔術を教えてもらって⋮⋮その過程で色々してもら ったと思うと、今さら恥ずかしくなるな⋮⋮︶ ﹁む⋮⋮? ふふっ⋮⋮ヒロト、そのお茶は苦くはないのじゃから、 冷めぬうちに飲んだ方がよいぞ。それとも、わしが冷ましてやろう か。どれ⋮⋮ふー、ふー。これでどうじゃ?﹂ ﹁あ、ありがとう⋮⋮いや、そこまで猫舌でもないんだけど﹂ ﹁猫舌⋮⋮? ああ、猫は熱いものが苦手じゃというからのう。ミ ルテも風呂はぬるい方が良いと言っておる﹂ ミルテは猫獣人に化身する獣魔術師だからな⋮⋮久しく猫耳姿を 見てないが、ちゃんと修行は続けてるそうで、また見てみたくはあ る。昔は獣化したミルテの身体能力の高さに驚かされたが、今なら マウントポジションを取られることもないだろう。 そして俺は思い出す︱︱ミルテの母も獣魔術を使い、俺たちの前 に立ちはだかったこと。ミルテの両親は、リリムに支配されていた こと⋮⋮。 ﹁ネリスさん。俺、ミルテの両親に会ったんだ﹂ ﹁っ⋮⋮そうか。その顔を見ると⋮⋮どうやら、敵として出会って しまったようじゃな﹂ ﹁ああ⋮⋮ミルテから聞いてると思うけど、グールド公爵は魔王リ 1880 リムの傀儡にされて、国家への反逆を企ててた。俺はグールドが兵 を起こす前に、仲間と一緒に、首都にあるグールドの別邸に潜入し たんだ。そこで、グールドの部屋を守っていたシスカという女性、 ナヴァロという男性と戦った⋮⋮﹂ ネリスさんは目を閉じて、俺の話を聞いていた。そして薄く目を 開くと、俺を見やって言う。 ﹁⋮⋮ヒロトよ、お主はどう思った? 我が娘⋮⋮シスカと、その 夫ナヴァロを、救い出すことはできると思うか⋮⋮?﹂ ﹁必ずできるよ。俺がもっとしっかりしてれば、二人をここに連れ て帰れたかもしれない⋮⋮でも、同じミスは繰り返さない。次に会 ったときは、絶対に何とかする。俺は何としてでも、二人をリリム から取り戻すよ﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。ヒロト⋮⋮そうか。シスカとナヴァロを操って いるのは、リリムじゃったのか。わしはリリムの傀儡の一人と戦っ ただけじゃったのか⋮⋮口惜しいことじゃ。賢者などと、わしにふ さわしい呼び名ではない⋮⋮魔王からすれば、歯牙にもかけぬ存在 でしかないのじゃからな﹂ ネリスさんは怒りのあまりか、唇を噛む。彼女は、自分を責めて いる⋮⋮。 俺は席を立ち、ネリスさんの肩に手を置いた。 ネリスさんは俺の手に自分の手を重ねて、ぎゅっと痛いほどに握 る。彼女の身体は震えていた︱︱それは怒りだけではなく、別の感 情も含まれているように思えた。 ﹁わしはお主と出会うまでは、いつか命に代えても娘夫婦を取り返 そうと思っておった。しかし幼いミルテを見ていると、どうしても 心が決められなんだ。情けない⋮⋮老いさばらえた身体でなくなっ 1881 たのは、何のためじゃ。自分のためではなく、わしの命を継ぐミル テのために、尽くさねばならぬのに⋮⋮だのに、わしは⋮⋮﹂ ネリスさんはぽろぽろと涙をこぼす。そして帽子のつばを引っ張 って、顔を隠してしまう。 若返る薬を使ったら、俺がネリスさんを見る目が変わるかもしれ ない。そう思う気持ちと、若返って全盛期の力を取り戻したなら、 娘たちをすぐにでも助けなければという気持ち、その両方があった んだと思う。 でも、一人では助けられない。彼女はそう分かっていても、自分 を責めずにはいられなかった。 そして、罪悪感にさいなまれると分かっていても、二度も若返り の薬を使った。それが、なぜなのか⋮⋮。 ﹁⋮⋮俺はミルテをネリスさんが育ててくれたこと、ミルテはすご く嬉しく思ってると思うよ。俺が言うまでもないことだと思うけど、 ミルテはネリスさんのことが大好きだから﹂ ﹁⋮⋮そうじゃな⋮⋮分かっておる。あの子は娘に似て、優しい子 じゃからな⋮⋮うっ⋮⋮く⋮⋮﹂ ネリスさんは声を殺して泣きだしてしまう。もう隠し切れないと 思ったのか、彼女は俺に背を向けた。 ﹁す、すまぬ⋮⋮こんなつもりではなかったのじゃがな。若返った ことで、感情も娘のようになってしまって⋮⋮大丈夫じゃ、少しす れば落ち着く。悪いが、外で時間を潰してきて⋮⋮っ﹂ 大人になるというのは、誰かが泣いている時に、してあげられる ことが増えるということだと思った。 1882 本当ならおこがましいと思うようなこと。それでも俺は、座って いるネリスさんを後ろから抱きしめた。 ﹁ヒロト⋮⋮な、何をしておるのじゃ。わしはこう見えても、八十 を超えたばばなのじゃから、ちょっと泣いたからといって、なぐさ める必要はないのじゃぞ﹂ ﹁それでも、こうしたいと思ったんだ。ずっと、ネリスさんが震え てるから﹂ ﹁っ⋮⋮﹂ 怒り、悲しみ、そしてリリムへの恐れ。そんなものを味わえば、 生きた年月なんて関係なく、心が悲鳴を上げる。 ネリスさんは俺の言うことを否定しなかった。ローブから覗く部 分を見るだけでもわかっていたが、その身体はとても華奢で、十六 歳としても小柄な少女のものに他ならなかった。 ﹁⋮⋮不思議なものじゃな。サラサが言っていた赤ん坊のことを、 わしは変わった子どももおるものじゃ、というくらいにしか思って おらなんだ。それが⋮⋮なぜ、お主の言葉はいつも、わしの心を動 かすのかのう⋮⋮﹂ ネリスさんは俺の手に触れ、そしてしばらく何も言わずにいた。 彼女は泣いているようだった︱︱俺はせめて彼女が落ち着くまで、 傍にいてあげたいと思った。 ◆◇◆ ルシエが起きたあと、俺は彼女を宿泊先に送っていくことになっ た。 1883 ﹁あ、あの⋮⋮ヒロト様に、お願いしたいことがあるんです﹂ ﹁お願いしたいことって?﹂ 何気なく聞き返すと、ルシエは俺を見上げて、顔を真っ赤にする ︱︱そして彼女は胸に手を当て、勇気を振り絞るようにして言った。 ﹁⋮⋮お兄さまとお呼びして、いいですか?﹂ ﹁⋮⋮えっ? お、お兄さまって、俺のことをか⋮⋮?﹂ ﹁は、はい⋮⋮大きくなったヒロト様を見ていたら、そうお呼びし たいなと思って⋮⋮﹂ 親しくさせてもらっているというか、婚約してるも同然の状態の お姫様に、﹃お兄さま﹄と呼ばれる。 正式な妹はソニアがいるが、それとは別なのだ。ルシエはフィリ アネスさんもお姉さまと呼んでるし、親しくしてる相手にそういう 呼び方をしたいほうなのだ⋮⋮だ、だが⋮⋮。 ﹁⋮⋮だめ、でしょうか⋮⋮?﹂ ︵ソニアの﹃お兄ちゃん﹄とはまた違う、破壊的な何かを感じる⋮ ⋮﹃お兄さま﹄って、ほんとに呼び続けるつもりなのか⋮⋮!?︶ ﹁⋮⋮だ、だめじゃないけど⋮⋮みんなにたぶんつっこまれるけど、 そこは大丈夫か?﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ それは驚きの声ではなく、喜びをあらわす声だった。不安そうだ ったルシエが、とても嬉しそうに笑う。 1884 ﹁だ、大丈夫です⋮⋮っ、お兄さま⋮⋮お兄さまをお兄さまとお呼 びできるなら⋮⋮あぁ、良かった⋮⋮変なことをいう子だって、嫌 われてしまうかと思いました﹂ ﹁ルシエみたいな子にそう言われるのを、嫌がる男なんて居ないと 思うけどな﹂ ﹁⋮⋮お兄さま﹂ 確か、ルシエには母親の違う弟がいるんだったな。普段は姉とい う立場だから、年上のきょうだいに憧れてるのかもしれない。 彼女は嬉しそうに微笑み、俺の隣に並んだ。どうやら、同行した いということらしい。 ﹁⋮⋮お兄さまは、これからどちらにいらっしゃるのですか? ご 一緒してもよろしいでしょうか﹂ ﹁俺は今から、パドゥール家に行こうと思ってるんだ。ネリスさん の孫のミルテが、そこに行ってるって話だからさ。俺の幼なじみな んだ﹂ ﹁そうだったのですね。では、私と同じくらいの年ごろの方たちで しょうか﹂ ﹁うん、そうそう。ルシエが来たら驚くと思うけど、仲良くできる と思うよ﹂ ﹁わぁ⋮⋮嬉しいです。ぜひ、ご一緒させてください﹂ 俺はルシエに手を差し出す。彼女ははにかみながら俺の手を取り、 歩くうちに、少しずつ手に力をこめて、最後には恋人つなぎのよう に指をからめてきた。 ︵い、意外に積極的だな⋮⋮このアピールは、十歳といえど⋮⋮︶ 1885 ﹁⋮⋮お兄様の手、あたたかいです。こんな手で触れられたら、き っと、心の中まであたためていただけそうです﹂ おしとやかな口調ながら、この子は末恐ろしい︱︱そう思いつつ、 俺はたじたじになりながら、ルシエと共にパドゥール家へと歩いて いった。 1886 第五十六話 リオナの変化/夢か現か ルシエを連れて町に戻り、大通りにあるパドゥール商会の店にや ってきた。店の奥と二階が居住スペースになっていて、表から入る こともできるが、家の人は裏口から出入りしてるらしい。 表から入ると、広い店内では客が数人いて服を見ており、俺とル シエが入ってきたことには気付かなかった。俺たちは店のカウンタ ーに行き、そこで店番をしているアッシュを見つける。 ﹁こんにちは、アッシュ兄﹂ ﹁やあ、こんにちは⋮⋮あ、あれ? 隣にいるのはもしかして、こ、 公女殿下⋮⋮!?﹂ ﹁ルシエ・ジュネガンです。本日はヒロト様に同行をお願いして、 訪問させていただきました﹂ いつも大人しいアッシュが驚きを声に出す。ルシエは会釈をして、 改めて自分の名前を名乗った。 ﹁母さんが見たらびっくりしちゃうな⋮⋮僕らが公女殿下の演説を 見させていただいたと教えたら、、うらやましがっていましたから﹂ ﹁では、また後でご挨拶をさせていただければと思います。ヒロト 様とアッシュ様は、どのようなご関係なのですか?﹂ ﹁ぼ、僕はヒロトの友達で⋮⋮ヒロトとは違って、僕はルシエ様に そのようにお呼びいただくような身分ではありません。お名前を呼 んでいただくことさえ、身に余る光栄にございます﹂ アッシュ兄はものすごく恐縮している。普通なら、自分の国の公 1887 女に対しては、こういう態度を取るのが普通なんだとわかっている が、俺はもう、一国民に戻ることはできなさそうだ⋮⋮偉ぶりたい わけじゃないのだが。 ﹁アッシュ兄、ミルテが来てるんだよな。みんなにルシエを紹介し てもいいかな﹂ ﹁う、うん。ルシエ様、当家のメイドに案内させますので、少々お 待ち下さい﹂ ﹁はい、ありがとうございます﹂ ルシエは終始優雅に振る舞う。演説を経て、﹃王統﹄や﹃気品﹄ といったスキルが、またひときわ上昇したんじゃないだろうか。 ﹁あ、ヒロト。ヒロトにちょっと、話しておきたいことがあるんだ﹂ ﹁うん、分かった。ルシエ、先に行っててくれないか。すぐに行く から﹂ ﹁かしこまりました。それでは、また後ほど﹂ ルシエは俺に対しては、スカートをつまんで会釈をする。そして、 案内に出てきてくれたメイドさんに連れられ、奥に入っていった。 ﹁アッシュ兄、それで話って?﹂ ﹁え、えーと。ヒロトなら気づいてるかもしれないんだけど⋮⋮今、 ミルテと一緒にリオナも来てるんだ﹂ ﹁リオナが? ああ、みんな仲いいもんな。それで?﹂ ﹁その⋮⋮リオナが町を歩いてると、男の人がみんな、ぽーっとし ちゃうみたいなんだ。ステラが、どうしてだろうって心配してて⋮ ⋮﹂ ︵っ⋮⋮ついにこの問題と向かい合う時がきたか⋮⋮夢魔スキルが 1888 上がってるんだな︶ リオナには魅了を防ぐペンダントをあげたが、アンナマリーさん にもらったあのアイテムが、いつまでもリオナの力を押さえ込める とは思っていなかった。どうやら、新たな対策を打つ時が来たよう だ。 ﹁あ⋮⋮ぼ、僕とディーンは、リオナがそういう感じになってると きは、近づかないようにしてるんだ。そうじゃないと、ヒロトに怒 られるからね﹂ ﹁そ、それはまた、気を遣わせたな⋮⋮ありがとう、アッシュ兄﹂ 少年ふたりにそんな気を使われるというのも、恥ずかしいものが ある。しかし二人がリオナに魅了された、という話じゃなくて良か った⋮⋮アッシュ兄の理性には頭が下がる。といっても、まだ12 歳だから、そこまで異性に対する関心がないということもあるだろ う。 ﹁ディーンなんて、しばらく町に近づかないようにするって言って、 毎日お父さんの手伝いをしてるよ。リオナに変な気持ちになったら、 ヒロトに悪いからって﹂ ︵俺の知らないところで、二人は葛藤していたのか⋮⋮陽菜のやつ、 前世からモテすぎだな⋮⋮︶ 恭介も俺に嘘をついてまで、陽菜を手に入れようとしたわけだが ︱︱正直な気持ちを言えば、恭介に怒っていないということはもち ろんない。だがそれは、陽菜を好きだったと言ってるようなものだ。 ︵⋮⋮この期に及んで、俺は何をかっこつけてるんだ︶ 1889 ﹁⋮⋮ヒロト?﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮いや、何でもないよ。ごめん、考え事してて﹂ なんにせよ、アッシュ兄が今教えてくれてよかった。俺が今まで 気付かなかったということは、リオナの能力が発現する周期があっ たりするのかもしれない。それとも、ミゼールに帰ってきてからま た能力が成長したか。 ﹁僕とディーンは、リオナの気持ちを知ってるからね﹂ ﹁そ、そうか⋮⋮いや、まだあいつも、よく分かってないんじゃな いかな﹂ ﹁そんなことないよ。妹を見てると分かるけど、そういうのってす ごく小さい時からあるみたいだから。僕は、まだ早いと思ってるけ どね﹂ このアッシュの鋼鉄の理性も、このままリオナを放置したら⋮⋮ と思うと、とても複雑な気分になる。魅了系の能力が勝手に働いて しまうのは、やはり危険極まりない。 ﹁じゃあ、行っておいでよ。ステラも喜ぶと思う﹂ ﹁ははは⋮⋮そうだといいな﹂ 俺とリオナのことを気遣いつつ、妹のことも考えている。しかし それでいいのか、と思いもする︱︱アッシュには俺がどんなふうに 女性陣との関係を築いているのか、彼が大人になるまで是が非でも 内緒にしなければなるまい。 ◆◇◆ 1890 表面を白く塗られた壁に、廊下に敷き詰められた絨毯。扉の造り といい、パドゥール家の資産家ぶりはミゼールの中でも突出してい る。 俺も家を手に入れたら、内装についてはエレナさんに相談したい Pa ものだ。実家の雰囲気も好きなので、良いとこどりをすると、居心 地が最高な家ができるんじゃないだろうか。 ﹁ヒロト様、ステラお嬢様のお部屋はこちらです﹂ ﹁あ、うん。ありがとう﹂ 扉には金属のプレートがかけられていて、︻Stelar dool︼とエルギア語の筆記体で書かれていた。この筆跡の風合 いは、女性が書いた文字を元にして作られているようだ。 ﹁あ、あの⋮⋮私の名前は、メイヴと申します。よろしければ、お 見知りおきを﹂ ︵⋮⋮ん? こ、この人、よく見るとめちゃくちゃ美人じゃないか ⋮⋮?︶ こんなメイドさんが居たなんて話は聞いていない。最近勤めるよ うになったとか⋮⋮? 栗色の髪をツインテールにして、ヘッドドレスをつけた小柄な女 性。スーさんはクラシックタイプのメイド服という感じだが、どち たたず らかというと、ゴシックドレスにエプロンを付けているような、そ んな佇まいだ。 目を見ているだけで魅入られそうだ。しかし俺は何とか、彼女に 1891 見とれる自分を律する。 ﹁ご、ごめん。メイヴさんか、覚えておくよ﹂ ﹁は、はい⋮⋮申し訳ありません、メイドの身で名乗るなどと、不 相応でした﹂ ﹁俺の方こそごめん、じっと見たりして。失礼だったよな﹂ ﹁⋮⋮いいえ。私も、ずっとヒロト様の横顔を見ていましたから⋮ ⋮そ、それでは⋮⋮﹂ 彼女は顔を赤らめて言うと、頭を下げて慌てて走っていってしま った。 美人を見るとすぐこれだ︱︱と、自分に対して呆れてしまう。だ が、どうしても見ずにはいられなかった。 ︵何か引きつけられるものがあったんだよな⋮⋮ただ、美人ってだ けじゃなくて。いや、今はそのことはいいか︶ 気を取り直して、俺はステラの部屋のドアを開けようとする。 ︱︱そしてドアノブに手をかけて、俺はここを開けてはならない ような、そんな感覚に襲われた。 中にいるのは、ステラ、ミルテ、リオナ、そしてルシエの四人だ とわかっている。 分かっているが︱︱なぜか、入っていけないと本能が警告してい る。 ︱︱リオナが町を歩いてると、男の人がみんな、ぽーっとしちゃ うみたいなんだ。 1892 アッシュ兄の言葉が脳裏をよぎる。その﹃男﹄の中に、俺も含ま れているのではないか⋮⋮? ︵俺には特に魅了耐性はない⋮⋮今までクエストを受けて集めた装 備品の中にも、精神攻撃に対応するものはなかった。だが、魔術素 養が高いだけで少しは抵抗力が身につく⋮⋮そ、そうだ。今までだ って大丈夫だったじゃないか︶ 何を恐れているのか。リオナにしてもみんなにしても、今まで通 りに接すればいいんだ。 俺はドアをノックする。すると、中から返事が聞こえてきた。 ﹁あ、ヒロちゃん? ステラお姉ちゃん、ヒロちゃんきた!﹂ ﹁ヒロト? ヒロトがきたの?﹂ ﹁はーい、少し待っててね、すぐ開けるわ﹂ ガチャ、と扉が開く︱︱その瞬間、ログが流れてきて、俺は思わ ずビクッと扉から離れてしまった。 ◆ログ◆ ・あなたは︽リオナ︾の﹃︻対異性︼魅了﹄の範囲に入った! あ なたは抵抗に成功した。 ︵や、やばい⋮⋮マジで無差別魅了状態になってる⋮⋮!︶ 1893 しかし抵抗に成功したのなら、判定がもう一度来るまで時間はあ る。一度出なおして、魅了耐性装備を作ってから出直すか︱︱いや、 そんな時間はない。 ︵ええい、こんなところで怯えてられるか!︶ 俺は意を決して前を見る。すると、ステラ姉が不思議そうな顔を して見上げていた。 ﹁⋮⋮ヒロト、私の部屋の前で、難しい顔をしてどうしたの?﹂ ﹁な、何でもないよ。ごめん、いいドアだなと思って﹂ ﹁ふふっ、ありがとう。そのネームプレートはね、私が書いた字を もとにして、鍛冶屋さんで作ってもらったの﹂ ネームプレートを褒められたと思ったのか、ステラ姉は嬉しそう にする。良かった⋮⋮怪しまれずに済んだ。 ステラ姉の部屋は、勉強や友達と遊んだりする居室と、寝室がつ ながっている。居室はかなり広く、本棚と勉強に使う机と、みんな でお茶を飲むときに使うテーブルがある。その周りに子供サイズの 椅子が4つ置かれて、リオナ、ミルテ、ルシエが座っていたが、み んなこっちを向いて出迎えてくれた。 ﹁ヒロちゃん、今ね、お勉強が終わったから、ルシエお姉ちゃんと お話してたの﹂ ルシエはどうやら、リオナには﹃様﹄をつけないようにとお願い したようだ。まあ、子供だけで一緒にいる分には、咎められること もないしな。 1894 ﹁そうか。ミルテ、勉強ははかどったか?﹂ ﹁うん。ステラお姉ちゃんに教えてもらうと、よくわかる﹂ ﹁どれどれ⋮⋮お、読み書きの練習か。ミルテもリオナも、綺麗な 字を書くんだな﹂ ミルテとリオナの前にあるノートを見ると、丸っこい字ではある が、丁寧に文章が書かれている。 ﹁ちょっと見てもいいか。なになに⋮⋮﹂ ﹁あっ⋮⋮ひ、ヒロトだめっ、読んじゃだめ⋮⋮っ﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃羊皮紙のノート﹄を読んだ。 ﹃きのう、ヒロトの夢を見たから、おばあちゃんに相だんしたら、 おばあちゃんがにこにこしてた。おばあちゃんは、わたしがヒロト の夢を見るとうれしいみたいです﹄ ︵⋮⋮これは日記じゃないか? 確かに基本的な作文だが⋮⋮な、 なんか照れるな⋮⋮︶ ﹃いままではお母さんやお父さんの夢をよくみたから、これからは、 ﹄ ﹁だ、だめっ。恥ずかしいから⋮⋮﹂ ﹁ご、ごめん。つい、どんなこと勉強してるか気になってさ﹂ ﹁ヒロちゃん、だめだよ? これは、女の子同士だけで見せたいこ 1895 とを書いたんだから﹂ リオナはしっかり後ろ手に自分のノートを隠している。そうされ ると見せてもらいたくなるが︱︱。 ﹁⋮⋮私も見られたから、リオナも見せないとだめ﹂ ﹁ええっ⋮⋮だ、だめだよ、ヒロちゃんに見られたら私、はずかし くて死んじゃう⋮⋮!﹂ ﹁私は、とてもほほえましい内容だと思ったのですが⋮⋮ヒロト様 も、喜ばれると思います﹂ ﹁はぅっ⋮⋮公女さまがそういうのなら⋮⋮うぅ⋮⋮﹂ ﹁い、いや、無理に見せなくてもいいぞ。ミルテ、ごめんな、ミル テのだけ見ちゃって﹂ ﹁⋮⋮わかった。リオナ、ごめんね﹂ ﹁う、ううん⋮⋮私こそごめんね﹂ 謝り合い、そして笑い合う二人。どうやら、この場は丸く収まっ たようだ。 ﹁ミルテ、ヒロトはだめって言ったのに読んじゃったから、かわり にお願いを聞いてもらったら?﹂ ﹁えっ⋮⋮そういうことになるのか?﹂ ステラ姉が俺の椅子の背もたれに手を置いて、楽しそうに言う。 するとミルテだけでなく、ルシエとリオナも目を見開いて俺を見た。 ﹁⋮⋮ヒロト、お願い、聞いてくれるの?﹂ こうなると﹃ダメ﹄と言うわけにもいかない。内容を知らなかっ たとはいえ、ミルテの秘密を知ってしまったからな⋮⋮俺の夢を見 1896 てるなんて。こそばゆいというか、何というか。 ﹁ああ、いいよ。俺にできることだったら⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮わがからだは、やまねこのすがたとなる⋮⋮﹂ ビーストリング ︵い、いきなり詠唱か⋮⋮前と何か違ってる。獣魔術のレベルが上 がったのか⋮⋮!︶ ﹁ふぁぁ⋮⋮み、ミルテちゃんが⋮⋮﹂ ﹁これは⋮⋮公国東部の一部の部族に伝わる、獣魔術師の秘儀⋮⋮ ?﹂ ミルテの身体が淡い光に包まれる。前はにゅっと耳が生え、しっ ぽが生えて猫耳娘になったのだが︱︱今回はなんと、質量保存の法 則など無視して、可愛らしいトラ猫になってしまった。 トラ猫はみゃーん、と鳴くと、テーブルの上に乗り、俺に両手で 掴まってくる。どうやら、抱っこしてくれということらしい⋮⋮や ばい、毛並みが超モフモフしてる。 ﹁ミルテちゃん、ネコさんになれちゃうんだ⋮⋮ヒロちゃんの抱っ こ、気持ちよさそう⋮⋮﹂ ﹁猫を抱くのってこういう感じでいいのか⋮⋮?﹂ 片手でお尻を支えるとそれだけで安定しているが、いいんだろう か。人間状態でお尻を支えていたら、それはミルテが八歳とはいえ、 お年ごろの彼女は意識してしまうんじゃないだろうか︱︱と心配す るが。 ﹁⋮⋮にゃーん﹂ 1897 ﹁ん? あ、ああ⋮⋮これでいいのか?﹂ 完全に猫と化したミルテが何か期待するように見てくるので、あ ごの下を撫でてやる。ミルテは気持ちよさそうに喉を鳴らし、俺の 頬をぺろぺろと舐めてきた。 ﹁み、ミルテさん⋮⋮大胆ですね、お兄さまの頬に、そんな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ミルテ、猫さんになったからって、少しヒロトに甘えすぎじ ゃないかしら?﹂ ﹁⋮⋮ヒロちゃん⋮⋮私も、ヒロちゃんと⋮⋮﹂ 俺は前世では犬派だったのだが、猫にも触れてみたいと思ってい た︱︱その願いが、幼なじみが猫化するという形で叶えられるとは。 ﹁⋮⋮ごろごろ⋮⋮﹂ ﹁ミルテ、もしかして眠いのか?﹂ ﹁それなら、私のベッドで寝かせてあげましょう。ヒロト、ミルテ を連れてきて﹂ ﹁うん。ミルテ、寝床に連れてくからな﹂ ミルテは俺の腕の中で丸まったままだ。勉強して疲れてたのかな ⋮⋮というか、ソニアもだいたい昼下がりのこの時間は、よく昼寝 してるからな。いくつになっても、午睡の誘惑には勝てないものか もしれない。 俺も眠くなってきたので、みんなと一緒に昼寝⋮⋮というには、 俺は大きくなりすぎたが、今回ばかりは大目に見てもらいたい。 ◆◇◆ 1898 何か、甘い匂いがする。意識は半分起きているが、まだ起き上が ることまではできない。 少女たちの声が聞こえてくる︱︱何か、とても恥ずかしい夢を見 ていた気がする。 赤ん坊に戻って、成長した四人に甘やかされる夢。そんな夢を見 ていたなんて、絶対に言えない。 そう、あれは俺だけが見た夢のはずだ︱︱しかし。 ﹁⋮⋮ミルテちゃんもそうだったの? ヒロちゃんのおうちで⋮⋮﹂ ﹁う、うん⋮⋮私、大きくなってて、リオナも、ステラ姉もすごか った⋮⋮ルシエも一緒でよかった﹂ ﹁皆さんが同じ夢を⋮⋮そんなこともあるのですね⋮⋮で、では、 夢の中でしたことも、覚えているのですか?﹂ ﹁⋮⋮わ、私は⋮⋮まだヒロトに何も言ってないのに⋮⋮夢のなか では⋮⋮うぅ⋮⋮﹂ ﹁ステラお姉ちゃん、大丈夫だよ? 私もミルテちゃんも知ってた から﹂ ﹁そ、そういう問題じゃ⋮⋮う⋮⋮ミルテ、そんなふうに見ないで。 私が素直じゃないって言いたいんでしょう﹂ ﹁ううん。私も、まだヒロトに言ってないから⋮⋮ちゃんと、すき って言わなきゃ﹂ 俺はベッドに毛布をかけられて寝ており、四人は同じベッドに座 って話しているので、小声で話していても全部聞こえてしまう。 ︵み、みんな一緒の夢を見てたってことか⋮⋮? でも、悪い意味 でショックを受けてるわけじゃないみたいだな︶ 1899 初めはかなり驚いたが、みんなが恥じらいつつ話しているのを聞 いていると、動揺よりも、微笑ましいという気持ちになってくる。 まずチェックするべきは、みんなが同じ夢を見るような事態が、 どんなスキルによるものだったかということだろう。 ログは途中までしか辿れなかったが、しっかり確認することがで きた。リオナの実に夢魔らしいスキルが発動していたことを。 ◆ログ◆ ・︽リオナ︾の発動した﹃幻界の霧﹄の効果が切れた。 ・︽リオナ︾たちの﹃????﹄状態が回復した。 ・︽リオナ︾の﹃嫉妬﹄状態が解除された。 ・︽リオナ︾のレベルが上がった! ・あなたの﹃魅了﹄状態は、何者かによって解除された。 1900 第五十七話 現か夢か/世界の枢軸/彼女の策略 リオナとミルテ、ルシエはパドゥール家でまだ遊んでいくという ので、俺は先に出させてもらうことにした。みんなと一緒に居るの が照れくさいというか、リオナの﹃幻界の霧﹄というスキルを使っ ている間に何が起こったのか、あいまいにしておいた方がいいと思 ったからだ。 もう一回使ってくれても一向に構わないのだが︱︱実際、夢を見 ているときの俺たちはどんな行動を取っているんだろう。大人しく 寝ているのに、夢の中がすごいことになっているだけなんだろうか。 確かめたいような、怖いような、二律背反の葛藤に苛まれてしまう。 次の行き先は、ミゼールに元からある騎士団駐留地だ。そこに行 く前にふと思い立って、久しぶりにギルドに立ち寄った。ずっと保 留していたが、アッシュの商隊の護衛依頼を達成したので、報酬を 受け取らなければいけない。 久しぶりにギルドの建物に入る。一階の半分を占める冒険者の酒 場には、名無しさんとウェンディ、それにモニカさんの姿があった。 ﹁ヒロト、今日はどうする? 私たちはいつでも出られるように準 備してるわよ﹂ ﹁騎士団の駐留地に行って、団員に模擬戦を見せることになってる んだ。たぶん、マールさんたちと戦うことになるんだけど⋮⋮﹂ ﹁み、見たいであります! お師匠様が大きくなってから、まだ戦 いを見られてないのであります﹂ ﹁小生もぜひ見たいな。騎士団の駐留地を見てみたいというのもあ 1901 るけれどね⋮⋮普段はなかなか足を踏み入れられない場所だ﹂ ﹁うん、分かった。じゃあ、俺は依頼の報酬を受け取ってくるよ⋮ ⋮名無しさん、ミコトさんはどうしてる?﹂ ﹁彼女なら、アンナマリーさんという女性に呼ばれていたけど⋮⋮ 彼女もヒロト君の家に泊まっているそうだね。ミコトが羨ましがっ ていたよ。今日にでも宿を引き払ってしまおうか、と小生に持ちか けてきたりしてね﹂ ︵そ、そうか⋮⋮まあそうなっても無理はないけど、今のミコトさ んと名無しさんと、ひとつ屋根の下で一緒にとなると⋮⋮︶ 二人とも積極的に俺との触れ合いの時間を作ろうとしてくれるの で、必然的に⋮⋮ということになる。そうなると夜が楽しみになっ て⋮⋮くっ、だんだん考えが安易になりつつある。女性はムードを 大事にするものなんだ。泊まりに来たからって、関係が確実に進展 すると思ってはいけない。 ﹁そうなると、私もヒロトの家にお邪魔してもいいかなって思うん だけど⋮⋮ふふっ、ヒロトったらひどいわね、そんな困った顔して﹂ ﹁い、いや、全然困ってないよ。じゃあ、母さんにも言っておかな いとな﹂ ﹁本当? レミリアには私から言ってもいいけどね。ヒロトがもて ても、あまり焼き餅とか焼いてないみたいだし﹂ ﹁むしろ、レミリアお母様は、うれしそうだったのであります。い、 いえ、私はお師匠様の弟子ですから、女性としては数に数えられて ないでありますけど⋮⋮﹂ ﹁そんなことはないよ。小生のように仮面をつけていても、母君は ヒロト君をよろしく、と言ってくれたからね﹂ ﹁母さん、いつの間に⋮⋮い、いや、ありがたいけど、後から聞か されると照れるな⋮⋮﹂ 1902 名無しさんは二人と顔を見合わせて笑う。相変わらず俺達のパー ティは仲が盤石だが、その結束がさらに上の段階に入りつつある。 ﹁今思ったんだけど、旦那さんが一人に奥さんが三人のパーティっ て、他にあると思う?﹂ ﹁も、モニカ姉ちゃん⋮⋮俺もそれを考えてたけど、なんか俺、恵 まれすぎてて申し訳ないよ﹂ ﹁⋮⋮そこで恵まれている、と言ってくれるだけでも、喜んでしま うのが女の性だね﹂ ﹁本当ならもっと焼きもちを焼くかもしれないでありますが、モニ カさんと名無しさんなら、私はずーっと仲良くできると思うのであ ります!﹂ ﹁ええ、本当にね。誰かがヒロトを独占しようとしたら、その時は 私もヒロトを狩りに行くけどね﹂ ﹁その時は俺はあっさり狩られるよ。モニカ姉ちゃんには、今も昔 も頭が上がらないし﹂ 冗談っぽく言いはしたが、モニカ姉ちゃんはすごく嬉しそうだ。 これは近々、本気で狩猟されるかもしれない。 そしてウェンディと名無しさんも泊まりにくるという話が出てか らずっと笑顔だ。その期待を裏切らないために、俺に何ができるか ︱︱人生のパラメータを、甲斐性にも全振りしていかなくては。 ギルドの受付カウンターには、シャーリーさんの姿があった。最 近はアッシュブロンドの髪を、左右のサイドで髪をおさげにしてい る︱︱それもまたよく似合っている。 彼女は俺を見るなり、小さく手を上げてくれる。俺も手を上げ返 すと、笑顔で答えてくれた。 1903 ︵接したことは少ないけど、かなりよくしてくれてるよな⋮⋮︶ 俺はシャーリーさんが風邪を引いて受付嬢の仕事を休んでいたと き、モニカ姉ちゃんたちと一緒に見舞いに行ったことがある。その ときの出来事が縁で、俺は彼女と二人のときは、﹃お姉ちゃん﹄と 呼ぶようにとお願いされていた。 ︱︱今となっては、俺の姿が大きく変わってしまったが。それで もシャーリーさんは、モニカ姉ちゃんたちから聞いていたのか、俺 だと分かってくれた。 ﹁こんにちは、ヒロトさん⋮⋮本当に大きくなられましたね。もう、 立派な大人です。私の方が、年下なんじゃないかと思ってしまいま す﹂ ﹁いや、シャーリーさんは俺にとってはお姉さん⋮⋮﹂ と言いかけたところで、シャーリーさんは微笑んでいながらも、 ぴくっと反応する。 そう︱︱彼女は俺と二人で話しているときは、﹃お姉ちゃん﹄と 呼ばないと拗ねてしまうのである。モニカ姉ちゃんたちも一緒のと きは、そんなこともないのだが。 ﹁え、えーと⋮⋮﹃お姉ちゃん﹄だよ﹂ ﹁はい、ヒロトさん。ああ⋮⋮やっぱりいいですね。ヒロトさんに 一週間に一度はそう呼んでもらわないと、体調が優れないんです﹂ いつも元気に見えるシャーリーさんだが、実は身体が弱くて、よ く風邪を引いている。兄であり、ギルド長のリックさんはいつも妹 を気遣っていて、とても仲の良い兄妹だ。あの無骨な兄と可憐な妹 で、似ても似つかなかったりはするのだが。 1904 ﹁シャーリーお姉ちゃん、報酬をお願いできるかな。すぐに必要っ てわけでもないんだけど、貰っておかないと忘れそうだから﹂ ﹁ヒロトさんはさすがですね、山賊を倒した上に、首領を仲間に引 き入れてしまうなんて。ポイズンローズは公女を誘拐しようとした という偽情報が流れていましたが、真相を聞いて驚きました。グー ルド公爵が、謀反を企てていたなんて⋮⋮﹂ ﹁何とか、その企ては止められたよ。それで、俺の立場も色々変わ ったんだけど⋮⋮根本的な部分は変わってないからさ。これからも、 ギルドにはお世話になるよ﹂ ﹁おう、お前らが抜けたらうちのギルドの屋台骨が折れちまうから な。シャーリーだって、ヒロトが居ねえときは毎日ヒロトヒロトっ て⋮⋮うぉっ、おめえ、よく見たら何かでかくなってねえか!? 最近の子供の成長期ってすげえな!﹂ ﹁もう⋮⋮兄さんは恥ずかしいので出てこないでください。事情が あるに決まっているじゃないですか﹂ ﹁む、むぅ⋮⋮つれなくするなよ。俺だってヒロトたちが帰ってき て喜んでんだぜ? 今からでも飲みてえ気持ちだよ。まあ、ヒロト のパーティの奴らには奢らせてもらったがよ﹂ モニカ姉ちゃんたちを見やると、杯を上げて﹃ごちそうさま﹄と 言わんばかりだ。ちゃっかりしてるな⋮⋮まあ、リックさんが冒険 者におごるのは良くあることなんだけど。 ﹁騎士団が砦を増やそうとしてるってのも聞いたよ。こいつは軍事 特需ってやつだな⋮⋮砦の建設要員も、ギルドで募ることになった。 割がいいから、人は結構集まるだろうな﹂ ﹁それはありがたいです。少しでも早く砦を作れた方がいいと思う ので﹂ 1905 俺が答えると、リックさんは不意に真面目な顔になり、カウンタ ーから出てきて俺の首に手を回してきた。そして、周りに聞こえな いような小さい声で話しかけてくる。 ﹁魔王の話は聞いてる。おめえは何かやると思ってたが、まさか副 王候補とはな⋮⋮つまりは、ルシエ殿下が女王になられた暁には、 おまえは﹃王﹄の称号を得るっていうことだ。そいつの意味がわか ってるか?﹂ ﹁え⋮⋮ま、まだ、副王の話は確実に決まってはないけど。女王を 補佐する役割ってことだよね?﹂ 聞いてみると、リックさんは目を閉じて小さく首を振る。 ﹁この国は、ジュネガン公国っていうだろ。それは、この国で王と 呼ばれてるファーガス陛下もまた、﹃真王国﹄の王様の配下︱︱つ まり、﹃ジュネガン公﹄の地位を与えられてるってことなんだよ﹂ ︱︱真王国。この大陸の中心、ジュネガン公国北東に位置する国。 そのまるごとがゲーム時代は未実装であり、実態が見えない世界 の中枢として存在していた。このマギアハイムでもその存在につい て聞くことはなかったが︱︱考えてみれば、そうだ。この世界には ﹃実装されていない﹄領域は存在しない。 ﹁そして真王からすると、ジュネガン公国の女王と副王は、同じだ けの権力を与えた存在なのさ。分かるか? ﹃副王﹄は、実質上こ の国の王様ってことなんだよ﹂ ﹁っ⋮⋮お、俺が⋮⋮この国の、王に⋮⋮?﹂ ﹁ファーガス陛下はそこまでは説明してなかったのか。副王になれ ば、年に一度、真王国に参じる機会を与えられる。この世とは思え ないほど、美しい場所らしいぜ⋮⋮真王国の中心には、﹃世界の枢 1906 軸﹄と呼ばれる、世界が始まった時から存在していた高い塔がある らしい。Sランクの冒険者でも一部しか知らない、冒険者の究極の 到達点と呼ばれる場所さ﹂ ︱︱冒険者の、究極の到達点。 ゲーム時代は片鱗すら見つけることができなかった情報を、リッ クさんから得られるなんて思ってもみなかった︱︱しかし考えてみ ればそうだ。ステータスに載った﹃戦歴﹄の部分に、﹃ジュネガン 公国の副王となる資格を得る﹄という、入手法すら知らなかった戦 歴を得られた。それがフラグになったというか、ギルド長のリック さんに、俺に秘密を明かしてもいいという気持ちにさせたのだろう。 ぞくぞくと鳥肌が立つような感覚があった。﹃世界の枢軸﹄、そ の名称から想像するのは、この世界を創造した存在が関わっている ということ。 そこが、女神のもとにたどり着くための鍵になるかもしれない。 いずれ真王国に行くこと、そして世界の謎を解き明かすこと。ずっ と見えなかった手がかりが形のあるものとして示された、そんな感 覚があった。 ﹁目の色が変わりやがったな⋮⋮まったく、大したやつだ。本当は 八歳なのに、心に見合う分だけ身体がでかくなったって感じだな。 んなこと、普通は起こらねえと思うところだが、おめえは実際にや っちまってるからな⋮⋮いや、それがいいことなのかどうかは、俺 も微妙に引っかかるがよ﹂ リックさんは寿命のことを気にしてるんだろう。すごい察しのよ さだ⋮⋮俺はスキルをくれないからといって、男性の能力を調べな さすぎた。最強と呼べる存在は全て女性だと断言されても、それは 1907 強い男性がいないということではないのだ。 ﹁兄さん⋮⋮ヒロトさんを独り占めにしないでください。ほんとう は、みなさんも話したがっているんですよ?﹂ ﹁え⋮⋮お、俺と?﹂ ﹁そりゃそうだ、おめえらはこのギルドの出世頭だからな。そのリ ーダーともなれば、おめえに憧れてこのギルドに所属したってやつ もいるし、おめえと一度はパーティを組みたいってやつもいるんだ ぜ。まあレベルが違いすぎるから、俺のほうで止めてるがよ﹂ ︱︱やはり俺は、交渉術があるといっても、根底の人見知りが抜 けていなかったようだ。いつもギルドに来ると、パーティのみんな と合流したところで安心して、他の人をよく見られていなかった。 酒場を改めて見てみれば、みんなが俺に注目している。男性も女 性も、老いも若きも、気にせずにはいられないという目で俺を見て いる。 もうずっと昔に思えるけど、ゲームの時もそうだった。ギルメン の居るフィールドに入って挨拶すると、俺が行くところに同行した いと言ったり、何でもいいから一日に一度は会っておきたいと言っ てくれる人もいた。彼らの一部は、このエターナル・マギアのどこ かに居るのだろうか︱︱それとも、元の世界を選んだだろうか。お そらくは、後者なのだろうと思う。これだけ冒険を続けても、見つ けられたのは三人だけだ。 それとも、この世界に馴染んでしまっているのか。俺の容姿も変 わっているし、そうすると一生気づかないということもありうる。 俺の記憶力の中で唯一自慢できるのは、ギルメンの名前と職業、 レベルと、ビルドのタイプを全て覚えていること。だから言い切れ る、俺はギルメン二人にしか会えていないと。 1908 ﹁おめえくらい人望があれば、自分でギルドを作っちまってもいい んだがな。副王も、ギルドマスターも、どっちも多くの人間を束ね るってことに変わりはねえ。いや、最初におめえを見た時、こんな 子供がって思ってたことを謝罪するよ。まあおめえだけが例外で、 これから二歳の子供がギルドに入りたいって言っても、そりゃ断る がな。がっはっはっ﹂ リックさんは笑って俺の肩を叩くと、酒場に向かい、気分がいい からともう一度客全員に酒をおごる︱︱俺は無茶しすぎないように な、と思いつつ、酒代の半分を報酬から払っておくことにした。 ﹁シャーリーさん、また依頼を受けに来るよ。その前に、少し大変 になるかもしれないけど⋮⋮ミゼールは、俺が守るから﹂ ﹁はい。その前に⋮⋮できれば、少しだけの時間でいいですから、 また二人でお話できたら⋮⋮﹂ ﹁うん、分かったよ。シャーリーお姉ちゃん﹂ ﹁⋮⋮無理はなさらなくてもいいんですよ。でも、できたら⋮⋮お 願いしますね﹂ シャーリーさんは遠慮しているが、その期待は本物だ。仕事で話 すときはほとんど感じさせないが、二人で話すときは、他のみんな には見せない顔を見せてくれる。 ︵子供の時と違って、その仕草を深読みしてしまうのは、良くない 癖だけどな︶ こんなことをしているから、一日中女の人と会ってスキル上げを するなんて生活になってしまっているのだと思う︱︱やはり、気を 引き締め直さなくては。 1909 シャーリーさんはリックさんと同じ職業﹃ギルド職員﹄で、固有 スキルを持っているのだが、もし俺がギルドを作るなら、シャーリ ーさんを引き抜ければ⋮⋮と思ってしまう。リックさんに怒られそ うなので、それこそ慎重に交渉していきたい場面ではある。 ミゼールに戻ってきて色んな役割を持っている人が集合してきた ということもあるし、ギルドという形で、みんなが所属する先を作 ってはどうだろうとも思う。パーティを作るだけではなく、正式に ギルドを作った方が、受けられる恩恵も大きいからだ。 ︵そうか。家が欲しいと思ってたけど、ギルドハウスを作ればいい んだな⋮⋮それも、かなりでかいやつを︶ 資産的には問題ないが、全てはリリムを倒してからだろう。町に 残って守備につくメンバーと、古城探索に向かうメンバーを分け、 魔杖を取りに行く。 ダンジョン攻略に最適な人数は六人とされている。ダンジョンの 通路はそれほど広くないことが多く、前衛、中衛、後衛二人ずつが 戦闘を行う上で最適とされているからだ。 今のところ考えている候補のメンバーは、このようになっている。 俺は前衛から後衛までどこでもこなせるが、基本的には前衛に入る べきだろう。 前衛の候補はミコトさん、スーさん、マールさん、ウェンディ。 中衛がフィリアネスさん、アンナマリーさん。 後衛の候補は特に多く、ネリスさん、名無しさん、モニカさん。 回復を考えるとサラサさんとアレッタさんのどちらかにも来て欲し いところだが︱︱。 1910 ダンジョン攻略という観点では、実は罠を外せる盗賊も重要だが、 パメラのレベルで連れていくのはあまりに危険すぎる。今から育成 して連れていくよりは、俺が盗賊スキルを上げた方が得策だろう︱ ︱パメラとは後で、スキル上げに協力してもらえるかどうか、交渉 の席につく必要がありそうだ。 クリスさんとジェシカさんも頼めば来てくれるだろうが、彼女た ちには騎士団の指揮を頼むべきなので、今回は考えないものとする。 二人とも非常に頼りになるが、戦力の配分を重視しなくてはならな い。 護衛獣は別枠だが、ユィシアを守備の要とするか、それともつい てきてもらうかが悩ましい。 ︵全員でダンジョンに行くことも考えられるが⋮⋮魔剣の近くに、 俺のパーティの仲間についてて欲しい。そのための戦力も、惜しん ではいられない⋮⋮俺がいないうちにリリムが来ても耐えられる編 成は、やはり⋮⋮︶ ユィシアに残ってもらい、マールさん、クリスさん、ジェシカさ んには守りの要になってもらう。前衛は俺とミコトさんで確定し、 後衛は︱︱いや。 今全て俺が決めてしまうのは尚早だ。みんなの意見も聞き、取り 入れた方が迷いがなくていいだろう。 報酬の残額はパーティのメンバーに分配してもらった。俺は金貨 一枚だけ貰っておくことにする。取り分がゼロだと、モニカ姉ちゃ んたちが気にするからだ。みんなに酒をおごるのに使った、という 1911 ことにしておいたが。 そして俺たちは、ミゼール南西にある騎士団駐留地にやってきた。 二階建ての石で築かれた砦があり、すぐそばには騎馬の訓練をする ための施設、兵士たちが腕を磨くための施設が併設されている。 ここにはエターナル・マギアのプレイヤーにとって、避けて通れ ない道である﹃藁人形﹄が置いてある。ゲームを始めたばかりのプ レイヤーは、最初だけ騎士団の訓練場を利用できるのだが、そこで 置いてある藁人形を延々と叩き続けて、レベル2まで上げないと外 に出られないのである。さすがにそのシステムは、この異世界には 存在しないが。 ︵チュートリアル、懐かしいな⋮⋮藁人形を叩くのと、水が入った 樽を押して運ぶやつがあるんだよな︶ 水が入った樽を押すほうの訓練は、ただ決まった場所を往復させ るだけで、何の意味もないので﹃ある意味拷問﹄と言われていた。 俺は三回キャラを作ったので両方の訓練をやったが、藁人形はボタ ン固定で放置すればいいだけなので、水樽を押す方も嫌いではなか ったりする︱︱と、懐かしんでいる場合ではない。 砦の中に入ると、青と赤の騎士団の兵士たちが整列し、俺を待っ ていた。 ﹁﹁ジークリッド総指揮官殿に、敬礼!﹂﹂ 青騎士と赤騎士の士官の人だろうかが号令をかけ、全員が剣を垂 直に掲げて立つ。これが騎士団の儀礼ということか︱︱というか、 全員の武器が違うはずなのに、わざわざ剣を装備してきてくれたん 1912 だな。 ﹁こ、このたびは、騎士団駐屯地にご訪問いただき、まことに⋮⋮﹂ ﹁お、来たねヒロト君﹂ 領主の館から出た後、こっちに移動してきていたのだろう、クリ スさん、ジェシカさん、そしてフィリアネスさんたちの姿もある。 ︱︱何か、マールさんの様子がいつもと違うような⋮⋮朗らかに 笑っているけど、そうか。 今日、騎士団のみんなに俺との戦いを披露するのはマールさんだ からだ。 ﹁みんな、ヒロト君が来るって言ったらすんごく緊張しちゃってさ﹂ ﹁英雄の戦いを見られるとなれば、若い騎士団員にも良き手本とな りましょう。彼女たちは、私たちの副官です﹂ 号令をかけた女性騎士ふたりが恐縮している。騎士団員は7割が 女性、3割は男性だった。ここにも女性が強くなりやすいという法 則が適用されている。 だが男女を問わず、俺に対してもそうだが、クリスさんたちを見 る目には尊敬と畏怖が込められている。ステータスを見る限り高く てもレベル25の彼らにとっては、騎士団長たちは憧れ以外の何物 でもないのだろう。 ﹁マールったら、ヒロト君が来たのにおすまししちゃって。らしく なくない?﹂ ﹁ヒロトちゃんと戦える機会って、そんなに無いと思うから⋮⋮と いうか、今日が初めてだから、さすがの私も緊張しちゃうっていう か⋮⋮うぅ、これって騎士震い?﹂ ﹁東方の国では武者震いというそうですね、そういうのは﹂ 1913 アレッタさんのツッコミを聞いて、騎士と武者は、国が違うだけ で似た職業ではないかと思ったりする。そういえば﹃サムライ﹄の ジョブもあるのに、まだ会ってないな⋮⋮東方からこの国に来た人 は、ミコトさんしか見たことがないしな。 ﹁マールもヒロトと戦ってみれば、一段階殻を破ることができるだ ろう﹂ ﹁ら、雷神さま⋮⋮私の悩んでることについては、ヒロトちゃんに 言っちゃだめですよ∼。恥ずかしいですから﹂ ﹁俺で良かったら、悩んでることがあったら相談に乗るけど⋮⋮そ れとも、俺じゃ頼りないかな?﹂ ﹁はぅっ⋮⋮はぅ、とかもう言っちゃいけないお年ごろなのに。ヒ ロトちゃんは本当に、欲しい言葉をくれるよね∼。クリスちゃんが めろめろになっちゃうのも納得っていうか⋮⋮﹂ ﹁まあめろめろだけどね。団員がいるところでは、私も威厳を保ち たいっていうかね?﹂ この二人は気心が知れているというのが良く伝わってくる。そし てジェシカさんが困惑した様子で咳払いをする︱︱昔から、こうい った関係性なのかもしれない。 ﹁まったく⋮⋮マールは本来、私の代わりに青騎士団長になってい たかもしれないのに。相変わらずというか、何というか⋮⋮﹂ ﹁まあ前代の団長に、間違えて﹃お母さん﹄って言わなければね。 謹慎を食らうこともなかったのにね﹂ ﹁そ、それはもう言わないで∼! あんなに気にしてるなんて思っ てなかったんだもん!﹂ 女性の年齢の問題はデリケートだが、マールさんがフィリアネス 1914 さんに拾われた理由がそういうことだったとは⋮⋮学校の先生に﹁ お母さん﹂とつい言ってしまう事故に似ているが、騎士団において はリストラの理由になってしまうわけだ。今は人事の若返りをして るわけだから問題ないが。 ﹁マールは私の可愛い部下だ。しかし、青騎士になっていた方が強 くなっていたのではないか⋮⋮と言われても、それは責任を感じる ところだな﹂ ﹁大丈夫ですよ、雷神さま。私、ジェシカちゃんと戦っても負けま せんから﹂ ﹁くっ⋮⋮き、決めつけるのは良くないな。私はヒロト様には遅れ をとったが、マール、おまえとはいい勝負ができると思っている﹂ ﹁んふふ、じゃあ二人の手合わせはまた近いうちにね。よし、そろ そろ外に出よう。中だと全員が試合を見られないからね﹂ クリスさんが言うと、団員たちが見張りを残して、ぞろぞろと砦 の外に出て行く。しかし見張りの人も俺とマールさんの試合を見た いようで、少し残念そうにしていた。 晴天の空の下、柵に囲まれたグラウンド︱︱もとい、野外の訓練 場で俺とマールさんは向き合う。 俺が選んだ武器は、ジェシカさんの持つ訓練用の武器から借りた、 ﹃騎士のハルバード+3﹄だ。 しかしマールさんの持つ武器は、決して重量が軽いわけではなく、 長さもある俺の武器が、細い棒に見えるほど巨大な鉄塊のようなメ イスだった。マギアハイムでなければ、こんなので一発殴られたら 即死である。 ︱︱しかし見た目以上に、マールさんの持つメイスは、凶悪以外 1915 の何物でもない性能を持っていた。 ◆アイテム◆ 名前:︽磨り潰すもの︾ 種類:棍棒 レアリティ:レジェンドユニーク 攻撃力:84∼252 空きスロット:4 装備条件:恵体80 ・ターゲットの周囲に範囲ダメージが発生する。 ・クリティカルヒット時にダメージ3倍。 ・命中率マイナス20%。恵体スキルが100の場合は補正されな い。 ・回避率マイナス50%。恵体スキルが100の場合は20%に軽 減。 ︵一撃必殺、本当にそんな武器じゃないか⋮⋮防御を捨てて、攻撃 に全振りか⋮⋮!︶ 近接職の戦闘スタイルには手数を稼ぐタイプ、一撃を重視するタ イプがあるが、マールさんのメイスは、アクションなしでは一人し か攻撃できず隙が大きいという弱点を、範囲ダメージで克服してい る。通常攻撃だけで複数の敵を蹴散らせるわけだ︱︱当たりさえす れば。 しかし、俺は予感していた。マールさんは、この武器の性能を引 1916 き出せるからこそ、リスクのある部分を鑑みながらも敢えて装備し ているのだということに。 ◆ステータス◆ 名前 マールギット・クレイトン 人間 女性 24歳 レベル52 ジョブ:ナイト ライフ:1240/1240 マナ:204/24︵+180︶ スキル: 棍棒マスタリー 92 鎧マスタリー 83 騎士道 56 恵体 100 母性 78 不幸 10 アクションスキル: インパクト︵棍棒マスタリー20︶ フルスイング︵棍棒マスタリー30︶ 骨砕き︵棍棒マスタリー40︶ ダブルインパクト︵棍棒マスタリー50︶ スタンヒット︵棍棒マスタリー60︶ ブルータルレイジ︵棍棒マスタリー70︶ グラウンドデス︵棍棒マスタリー80︶ 1917 トリプルスター︵棍棒マスタリー90︶ 敬礼︵騎士道10︶ 授乳︵母性20︶ 子守唄︵母性30︶ 搾乳︵母性40︶ 説得︵母性60︶ パッシブスキル: 棍棒装備︵棍棒マスタリー10︶ 両手持ち︵棍棒マスタリー80︶ 気迫︵騎士道20︶ 峰打ち︵騎士道30︶ カリスマ︵騎士道50︶ 鎧装備︵鎧マスタリー10︶ 重鎧装備︵鎧マスタリー30︶ 鎧効果上昇レベル3︵鎧マスタリー70︶ スーパーアーマー︵鎧マスタリー80︶ 育成︵母性10︶ 慈母︵母性50︶ 子宝︵母性70︶ ハプニング︵不幸10︶ オークに倍撃 残りスキルポイント:142 ︵この人は⋮⋮ボーナスがほとんど自動的に振られてない。ほぼ訓 練だけで、これほど強くなれるなんて⋮⋮︶ 1918 個人の強さでは、ミコトさんより強い仲間はいない。そう思って いた俺の認識は、まるで誤りだった。 元々恵体に恵まれていたマールさんだが、見た目はおっとりとし て優しそうですらあるのに、その身体は普通の人間の限界まで鍛え 上げられている。マナが少ないという弱点はあるが、それも装備品 で補っているようだ︱︱彼女がつけているプレートメイルか、アク セサリーか。どちらにせよ、自分の長短をよく理解している。 そんな彼女が、何を悩むことがあるのか︱︱いや、ステータスを 見れば明白だろう。 彼女は、上位職に上がる条件を満たしているのに、まだクラスチ ェンジしていない。この世界ではどうやら、ある程度強くなると、 条件を満たしていればおのずと転職するのが普通なのにだ。 ﹁ヒロトちゃん、すっごく重い斧槍でクリスちゃんたちと戦ったん だってね。わたし、それを聞いた時、すごくわくわくしたよ。私よ り力のある人がいるんだ⋮⋮それが、ヒロトちゃんなんだって思っ たら、嬉しくてしょうがなくって﹂ 従騎士マールギット。彼女をフィリアネスさんが引き抜いた理由 がよくわかった︱︱彼女は地位こそ得ていないが、紛れも無く、公 国最強を争う騎士のひとりだ。彼女を側に置いたのは、最強と呼ば れるフィリアネスさんが慢心しないためか、それとも、純粋にマー ルギットさんの強さを評価したのか。 きっと、正解はどれでもない。フィリアネスさんは、マールさん のことが気に入った。ただそれだけだ。 ﹁⋮⋮マールさんは、俺と一緒にいない間も、頑張って腕を磨いて たんだな﹂ ﹁ちょっと前までは、そうでもなかったよ。何度も大事な戦いのと 1919 きに、一緒にいられなかったから⋮⋮わたし、強くならなきゃって 思って。ヒロトちゃんが、一緒に戦いたいと思ってくれるように﹂ スーさんと同じ︱︱俺と一緒に戦いたい。そのために、俺と手合 わせをするのは、力を示すための良い機会だということだ。 マールさんのことを、気を抜けば負けるような相手だと思ってい なかったことは確かだ。 ︱︱だが、その認識を一瞬で変えられた。ここで神威は使えなく ても、見せられるだけの全力で、マールさんとぶつかりたい。 騎士団員が見守る中、フィリアネスさんが試合の開始の合図を告 げるために、俺とマールさんの間に立った。 ﹁二人とも、良い顔をしているな⋮⋮ヒロト、マールは強いぞ。ジ ェシカと共に、青騎士団の若き天才と言われたものだ﹂ ﹁て、天才っていうことは全然ないですよ∼、私、魔術はからっき しですし⋮⋮﹂ ﹁それでも、マールさんは魔力を使う技を使いこなせる。マールさ んの力があれば、2発、3発で十分だ⋮⋮魔力を回復する方法があ れば、継戦能力にも問題ない﹂ ﹁⋮⋮やはりヒロトは、悠久の古城に入る際のことを考えていたか。 魔力量が多い者のほうが、迷宮のたぐいに潜入するには向いている からな﹂ フィリアネスさんが不動のレギュラーとなっているのは、そこに も理由がある。彼女ほどマナが高ければ、戦闘中にマナ切れを心配 することもない。 ﹁やっぱりわたし、お留守番してたほうが向いてるのかな⋮⋮って 1920 思っちゃうけど。それでもいいから、ヒロトちゃんと戦ってみたい。 きっと、すごく楽しいと思うから﹂ ﹁ああ⋮⋮俺も。ごめん、勝手に連れていく人を決めようとして⋮ ⋮後で、みんなでしっかり話そう﹂ ﹁ううん、ヒロトちゃんは私たちのリーダーだから。ほんとは素直 に言うこと聞く子になりたいよ。でもね、私はヒロトちゃんの、お 姉さんのつもりでもいるから。ふふっ、知ってた?﹂ ﹁⋮⋮実を言うと、マールさんは大きい妹みたいだなって思ってた よ﹂ ﹁何それ、ひどーい! もー、ヒロトちゃん、そうやって意地悪い う子は、お姉さんからのお仕置きです!﹂ ◆ログ◆ ・︽マールギット︾の﹃ブルータルレイジ﹄! 攻撃力と速度が上 昇した! ・︽マールギット︾は好戦的になった。 ︵これが棍棒マスタリーの強み⋮⋮ブルータルレイジ。俺のウォー クライの上位互換だが⋮⋮!︶ ﹁︱︱うぉぉぉぉっ!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃ウォークライ﹄を発動させた! ・パーティの闘志が昂揚する! あなたの攻撃力が一時的に上昇し 1921 た! ﹁二人とも、まだ始める合図をしていないのだが⋮⋮凄まじい闘気 だな。では、これより模擬試合を始める!﹂ ﹁はいっ! いくよ、ヒロトちゃんっ!﹂ ﹁おおっ!﹂ 自分の背丈に近いくらいの巨大なメイスを担いでも、マールさん はまるで苦にしていない。 ︱︱そして戦いが始まった途端、いつもの笑顔は消え、戦士の顔 に変わる。射抜かれるような眼差しに、本当に同一人物なのかと疑 ってしまう。 ﹁︱︱小手調べなんてしないよ⋮⋮! はぁぁぁぁっ!﹂ グラウンドデス ︵︱︱やはり⋮⋮地烈断⋮⋮!︶ 棍棒を極めたプレイヤーが、特に好んだコンボ。大地に棍棒を叩 きつけ、地割れを発生させるグラウンドデス︱︱それを交わすには、 決まった方向に飛ぶしかない。地割れに足をとられると、そこから フルスイングなどの強力な打撃技で仕留められてしまう。 ︱︱だが、決まった方向への回避を誘えば、自ずとして追撃の機 会が生まれる。この場合、叩き込んでくるのは⋮⋮﹃トリプルスタ ー﹄。もしそのうち一撃でもクリティカルすれば、おそらく俺の防 御を貫通する。三つ全てが︱︱それは考えたくはない。 ﹁とんでけぇぇぇっ!﹂ 1922 俺が飛んだあと、技の硬直時間が終わった後に、最短でマールさ んが追撃してくる。一つの棍棒の振り下ろした、三つに分裂して見 える︱︱その全てが実際の打撃となる、棍棒の奥義。 しかし俺の精霊魔術は、ネリスさんのおかげで80まで上げられ た。そして習得できた、レベル8精霊魔術。その中に、攻撃回避に 使う魔術の中でも、特に優秀なものがある︱︱! ミラージュボディ ﹁︱︱我が身体は揺らめく陽炎となる⋮⋮︽陽炎身︾!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは︽ミラージュボディ︾を発動した! ・︽マールギット︾の﹃トリプルスター﹄! しかしあなたの実体 を捉えられなかった。 ﹁︱︱当たらない⋮⋮どうやって⋮⋮っ!﹂ 陽光に透ける俺の映し身が生まれ、マールさんの技が空を切る。 決まった回数だけ物理攻撃を無効化する、精霊魔術師の打たれ弱さ を克服するためのスキルだ。 しかし、トリプルスターの三連撃でどうやらギリギリだ。消費マ ナも非常に大きく、全身に疲労感を覚える︱︱強力なだけで、リス クのないスキルは存在しない。 地割れが塞がった地面に着地し、俺はマールさんに肉薄する。選 択する技は︱︱マールさんと同じく、今の俺が放つことができる、 最高の技のひとつ⋮⋮! 1923 ﹁おぉぉぉぉっ⋮⋮!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃ダブル魔法剣﹄を放った! ・あなたは﹃サンダースコール﹄を武器にエンチャントした! ・あなたは﹃スプラッシュフラッド﹄を武器にエンチャントした! ・あなたは﹃トルネードブレイク﹄を放った! 豪雷驟雨撃﹁︵サ ンダー・スプラッシュ・ブレイク︶!﹂ ﹁⋮⋮きゃぁぁっ⋮⋮!﹂ 竜巻を起こす一撃と言われるトルネードブレイク。そこに、天候 を一時的に変えるとまで言われるレベル8の精霊魔術を二つ重ねる ︱︱竜巻の中に捉えられたマールさんに、水が滝のように降り注ぎ ながら、さらに数十発の雷を落とす。雷と水系の魔術は相性が良く、 相乗的に効果を増す︱︱! 残念だが、これには耐えられない。﹃手加減﹄が発動し、雷の雨 が収まったあと、マールさんは倒れる︱︱。 しかし俺は斧槍を下げることはなかった。 マールさんは立っていた︱︱そしてそのメイスを振りかぶり、俺 に向かって突進してくる。 ﹁⋮⋮なんのこれしきっ⋮⋮!﹂ 1924 ◆ログ◆ ・︽マールギット︾に1084のダメージ! ・︽マールギット︾の﹃スーパーアーマー﹄が発動! 怯みをキャ ンセルした! ︱︱こんな凄まじいダメージを受けているのに。それでもマール さんは、笑っていた。 俺がこれほどに強くて嬉しいとでも言うかのように。そんな彼女 が選択した、最強の技でもなんでもない、﹃フルスイング﹄。 大技を出した後の隙は終わっている。それでも俺は、マールさん と正面から撃ち合いたいと思った。 俺の方が強い、そう確認したから何だというのだろう。 彼女と少しでも長く戦っていたい。ここからは、勝敗なんて関係 なく︱︱マールさんと、楽しみたい。 ◆ログ◆ ・︽マールギット︾は﹃フルスイング﹄を放った! ・あなたは﹃スマッシュ﹄を放った! ・技と技がぶつかり合う! あなたは攻撃を相殺しきれず、120 のダメージを受けた! ︵やっぱりそうだ⋮⋮もし、マールさんが魔法を使えたら⋮⋮︶ この人はもっと強くなれる。純粋な力技では、俺を凌ぐ可能性を 持っているから。 1925 ︱︱しかし、今はまだ俺が先を行く。 ﹁ヒロトちゃん、もう一回いくよっ! でやぁぁぁぁぁっ!﹂ ﹁来い、マールさんっ!﹂ 彼女が次に繰り出す技は何か。それに応えるべき俺の技は何か。 彼女のメイスの起こす衝撃と爆風で装備の一部を破壊されながら も、俺は彼女と撃ち合いつづける。純粋な力で押し負ける感覚、そ の中で、俺もまだ強くなれるという可能性を見出す︱︱。 ◆ログ◆ ・あなたの﹃恵体﹄スキルが1上昇した! ・あなたの﹃斧マスタリー﹄スキルが1上昇した! ・︽マールギット︾の﹃棍棒マスタリー﹄スキルが1上昇した! ﹁︱︱そこまで!﹂ 撃ち合う中でスキルが上がり、成長していく。気が付くと俺もマ ールさんもボロボロになり、訓練場の地面は凹凸だらけになってい た。 ︱︱それでも、見ていた騎士団員から拍手が送られる。その中に はクリスさん、ジェシカさんも含まれている。 ﹁ヒロト君とひとりで撃ち合うとか⋮⋮ヒロト君が付き合ってくれ てたのもあるけど、やっぱりマールって、頑張り屋さんだよね。私、 そういうのって好きだな﹂ ﹁彼に相手をしてもらえるだけで、見ていて羨ましい⋮⋮訓練が終 1926 われば、その後は⋮⋮い、いや、そんな目で見るな。クリスも同罪 だろう﹂ ﹁んふふ、まあね。でも私、ミゼールに来てからはご無沙汰なんだ よねぇ⋮⋮そろそろ夜這いしちゃいたくなってきちゃった﹂ ﹁よ、よばっ⋮⋮ひ、ヒロト様のご寝所に、お前のような破廉恥な 女を入れるわけにはいかん! 私も入らせてもらう!﹂ 二人のやりとりが聞こえているのか、マールさんはぽりぽりと頬 をかきつつ苦笑する。 ﹁あのー、私、もう倒れそうなんだけど⋮⋮もうちょっと友達に優 しくしてくれたっていいじゃないよ∼⋮⋮あっ、ふらふら⋮⋮﹂ ﹁おっと⋮⋮マールさん、ごめん、俺、本気で⋮⋮﹂ マールさんの身体を支えると、彼女は俺を顧みて、頬を赤らめつ つ微笑んだ。 ﹁やっぱり⋮⋮おっきくなったヒロトちゃん、反則だよ。強くて、 からだも大きくて⋮⋮細く見えるのに、わたしより力があるんだも ん﹂ 俺はマールさんに肩を貸す。その姿を見て、ますます騎士団員が 熱狂している︱︱俺たちの戦いが、それだけ彼らを感激させたって ことらしい。 レベル8の精霊魔術がいかに強力か。そして、マールさんが近接 戦闘職としてどれだけ優秀かが良く分かった。しかし、まだ強くな る余地が残されている。 魔術か、魔術素養を上昇させるジョブに転職すること。つまり、 マールさんが就くべき上位職は︱︱。 1927 ルーンナイト ﹁⋮⋮マールさん、魔術を使ってみたいって思わなかった?﹂ ﹁えっ⋮⋮﹂ ﹁マールさんは、﹃魔術騎士﹄になれるんじゃないかな﹂ ﹁ど、どうしてわかったの? 私も、そのために勉強しようと思っ てて⋮⋮﹂ ﹁そうしたらもっと強くなれるよ。俺もフィリアネスさんに魔法剣 を習わなかったら、ほとんど普通の斧使いだしね﹂ ﹁そ、そんなこと⋮⋮ヒロトちゃんは普通に斧を使うだけでも、私 より強いよ。何となく分かったもん、一番強い技は使わなかったで しょ?﹂ 山崩しなんてここで使ったら地形が変わってしまう。しかし、マ ールさんもいずれはその領域に達する︱︱このまま、俺が彼女を育 成すれば。 考えているうちに、フィリアネスさんがアレッタさんを連れて来 ていた。マールさんの治療のためだろう。 ﹁マールさん⋮⋮貴女は本当に、無茶するんですから。ヒロトちゃ んが手加減をしてくれていなかったら、怪我で済んでいませんよ﹂ ﹁あはは⋮⋮ほんとにね。最初の雷が落ちてくるのを受けたときは、 どうしようかと⋮⋮雷神様のお株を奪っちゃってましたよ﹂ ﹁私ももうすぐで、あの魔術を使えそうなのだが⋮⋮ヒロトは、や はり私の先を行ってしまったか。私もマールのように、知られぬと ころで修行しなくてはな﹂ ﹁マールさん、時折いなくなると思ったら、こんなに修行していた なんて⋮⋮ヒロトちゃんのそばにいるためには、確かに必要なこと だと思いますが⋮⋮私の立場も考えてください﹂ アレッタさんもそう言いつつ、十分スキルが上がっている。回復 専門としてはサラサさんの方が優秀だが、アレッタさんは衛生兵な 1928 ので、探索には向いている。 ﹁アレッタさんにも、魔杖を取りに行くとき、一緒に来てもらうか もしれない。その時はよろしくな﹂ ﹁えっ⋮⋮わ、私でいいんですか? 私はヒロトちゃんのパーティ に入るには、力不足では⋮⋮﹂ ﹁そんなことはない。マールがいないうちに、アレッタも遊んでい たわけではないというのは見ればわかる。やはりできるなら、私た ち三人を連れて行って欲しいが⋮⋮町の守りも大切なのでな。ヒロ トのご家族、町の人々のこともある。役割は分担しなければならな い﹂ ﹁大丈夫、町のことは騎士団に任せなよ。ヒロト君が心配っていう なら、戦力を残してもらうのは助かるけどね﹂ ﹁我らも簡単に敵に遅れを取るつもりはありません。砦の増築も、 騎士たちの訓練になります。常に腕を磨き、ヒロト様の剣として戦 いましょう﹂ 俺は本当に恵まれている、と思う。だからこそ、誰一人失いたく ない。 ︱︱やはり、ユィシアには頼んでおこう。魔王と戦い、そして退 けた、俺を倒せる可能性のある唯一の少女。彼女なら、きっとみん なを守ってくれるだろう。 1929 第五十八話 砦での交流/誘惑の瞳/海を想う その後、俺はメアリーさんから、魔石鉱が採掘ができた後のこと について相談された。 西方領の都であるラムリエルの商人と交渉し、魔石の原石を売る わけだが、その時騎士団の代表として交渉の卓について欲しいとい うことだ。 俺としては、いよいよ交渉術を利用することができるということ で、全く異存はなかった。本来交渉術とは、こういう場面で使うも のなのだ。転生してからというもの、想定外の用途でばかりお世話 になってしまった。 そして三人と別れて部屋の外に出ると、ちょうど様子を見に来た のか、フィリアネスさん、クリスティーナさん、ジェシカさんが揃 ってこちらに歩いてきた。 ﹁ヒロト、メアリーとの話は終わったのか?﹂ ﹁んふふ、マールとの試合の後なのに、ヒロト君もスケジュールが いっぱいだね﹂ ﹁私はヒロト様たちの試合を見た興奮が、今も冷めておりません⋮ ⋮やはりマールギットは、性格さえ騎士らしければ、騎士団長の器 に値する武人。それを再確認させられました﹂ ジェシカさんは﹃猛将﹄らしく、血が猛っていることを隠しもし ない。試合を見ていて高揚していたのは彼女だけではなく、フィリ アネスさんとクリスさんも同じようだった。 1930 ﹁騎士団長クラスを全員集めても、ヒロト君には勝てそうにないけ どね。私とジェシカさんは、フィル姐さん一人でも勝てないくらい だし⋮⋮この格差、どうやったら埋められるのかなぁ﹂ ﹁相性というものもあるからな。私はおまえたちの癖を、修行時代 から見ているということもある﹂ ﹁フィリアネス様の戦い方を吸収して自分のものとしているヒロト 様は、やはりその若さにして歴戦の勇将。団員たちは皆、ヒロト様 の下について戦えることを誇りに思っております﹂ ﹁士気が向上したのなら良かった。これからは、命を賭けた戦いが 待ってるんだ⋮⋮俺は皆を護り、鼓舞できるような存在でありたい と思ってる﹂ ︱︱と言ってみてから思うが、格好をつけた言い方をしすぎた。 もうちょっとこう、自然体で振る舞いたいところなのだが、歴戦の 勇将と言われるとその気になってしまう。自分で言うのもなんだが 単純な性格だ。 ﹁⋮⋮ヒロト君なら、うちの家族も認めてくれそう。レミリア姉さ んが出て行っちゃってから、意固地になっちゃっててね。でも、そ の息子さんがこんな立派になってるって知ったら⋮⋮﹂ ﹁レミリア様はクーゼルバーグ伯爵家の分家、ハウルヴィッツ家の 出身だったな﹂ ﹁しかしリカルド殿と出会い、彼の伴侶となるために、クーゼルバ ーグ本家から命じられていた婚姻を破棄され、出奔された⋮⋮そう 伺っております﹂ ︵そんなことがあったのか⋮⋮だから、クリスティーナさんは母さ んに対して、少し複雑そうだったんだ︶ 1931 会ってみれば、クリスさんは母さんを慕っていることがよく分か った。だからもう心配はないが、クーゼルバーグ伯爵家の人々とも し会うことがあれば、できればわだかまりを解いておきたいと思う。 ﹁その、クーゼルバーグ伯爵家は、どこに領地を持ってるんだ?﹂ ﹁東方領の地方領主をされています。リカルド殿は、そちらの魔物 討伐に派遣されたときに、レミリア様と知り合われたとか⋮⋮﹂ ﹁ジェシカさんはそういう話、結構興味あるもんね。将来を嘱望さ れた騎士と、地方貴族の令嬢のロマンス⋮⋮んふふ、私が言うのも なんだけど、絵になる話だよねえ﹂ ﹁そのリカルド殿だが、今訓練場に来られているようだぞ﹂ ﹁え⋮⋮と、父さんが?﹂ 砦の二階の廊下の窓から、訓練場の様子を見ることができる。俺 はフィリアネスさんに案内され、父さんがどこにいるのかを教えて もらった。 すると父さんは、若い騎士たちと一緒に、木製の武器を使って練 習試合をしていた。 練習であっても、父さんがこうして戦っているところは初めて見 る。俺たち家族の前で見せる姿とは全く違う、戦士の顔をした父さ んがそこにいた。 ﹁リカルド殿は騎士の道を途中で離れたため、今はまだ腕がなまっ ているとおっしゃっておられましたが⋮⋮斧騎士リカルドの往年の 力を、取り戻されたいと思ったとのことで、私の部下と修練をされ ています﹂ ﹁豪快だよねえ⋮⋮ヒロト君にも通じるところがあるっていうか。 ﹃息子の強さに触発されて、身体を動かしてみたくなった﹄って言 ってたよ。リカルドさんが騎士団に顔を出したこと、姉さんも喜ぶ 1932 んじゃないかな﹂ 魔剣の護り手となったあとは、父さんは一度も騎士団に顔を出さ なかったのだろう。ミゼール近くにあるこの駐屯地に来たことがあ ったかは分からないが、クリスさんの話を聞く分には、初めて訪れ たのだと思えた。それも、俺に触発されて。 ﹁⋮⋮父さん、昔はあんなふうに戦ってたのか﹂ 木こりとして過ごした間の能力の低下が、訓練によって戻りつつ ある。俺が知っている父さんの能力は、木こりとしては強くても、 騎士団長クラスの人たちには全く及ばないというくらいだった︱︱ しかし、今父さんが繰り出している技は、斧マスタリー40の﹃パ ワースラッシュ﹄だ。 俺に斧技を伝授してくれたのは、紛れもなく父さんだ。たとえ俺 の方が斧マスタリースキルが上でも、父さんの繰り出す技は、俺の 目にはとても美しく、完璧なものだと思えた。 ﹁リカルド殿も、ミゼールを防衛するために戦われるおつもりでし ょう﹂ ジェシカさん、クリスティーナさんは﹃魔剣﹄のことを知らない のだと、その時理解する。騎士団でもごく一部、おそらくディアス トラさんとフィリアネスさんだけが、その事実を把握している。 父さんは、魔剣の護り手として戦うためにも、長らく遠ざかって いた騎士団に顔を出してまで鍛錬をしているのだ。 ﹁︱︱どうしたぁっ! 木こりの親父にいいようにやられて、悔し くないのかお前ら! さあ立て!﹂ 1933 若い騎士たちの腕も決して低くはないのに、父さんはいつの間に か指導役になっている。しかし、さすがに現役の騎士たちを相手に して、父さんも少し疲労が出ていた︱︱だが、それでも極限まで身 体を酷使し、苛め抜き、全盛期の力を取り戻そうとしている。 ︵父さん、頑張れ︶ あんな父さんの姿を見たら、きっとソニアも俺なんかより、父さ んは凄いんだと気がつくだろう。 俺は自分のことのように誇らしく感じながら、訓練場の見える窓 から離れる。フィリアネスさんたちも俺の気持ちを分かってくれて いて、微笑ましそうに俺を見ていた。 ◆◇◆ 砦でいったんフィリアネスさんたちと別れ、俺は一人で町に戻っ てきた。 騎士団のみんなはうちに泊まりに来ると言っていたが、一斉に訪 問しては迷惑がかかるので、数人ずつにするとのことだった。それ を決めるために、俺との試合後のマールさんを含めて練習試合を行 うというのだから、俺のために争わないでくれと言っておいた。み んな呆れるどころか、絶対に優勝すると闘志を燃やしていた︱︱そ うなると、やはりフィリアネスさんが勝つことになりそうだ。 俺はソリューダス鍛冶工房に向かう。すると、身体のあちこちに 包帯を巻きつつも、元気に鍛冶仕事をしているバルデスじっちゃん の姿があった。 1934 ﹁おお、おお! ヒロト坊、よく来たのう!﹂ ﹁じっちゃん! 良かった、元気になったんだね!﹂ じっちゃんは俺を出迎えると、ごつい手を差し出してくる。その 手を握り返すと、じっちゃんはいかにも好々爺という優しい笑顔を 見せてくれた。 ﹁一度はもうお迎えが来たかと思ったがの、ドワーフはなかなかど うして面の皮が厚い。ほっほっほっ⋮⋮それに、手当の仕方も良か ったようじゃ。ヒロトが手当てをしてくれたのかの?﹂ ﹁いや、あの時もう一人いたんだ。アンナマリーさんって言うんだ けど、その人がじっちゃんを安全なところに運んで、手当てしてく れたんだよ﹂ ﹁ほう⋮⋮ヒロト坊は仲間に恵まれておるのう。わしもそのおかげ で、こうして生きておられるわけじゃな﹂ ﹁ヒロト坊や、本当にありがとう、おじいちゃんを助けてくれて﹂ ﹁心配かけたのう、エイミ。わしがいなくとも、お主ならもう一人 でやっていけると思っておったが⋮⋮わしはまだ鍛冶の技術を何も お主に教えてはおらん。そう思うと、やはりまだ死ぬことはできん と思った。わしはこれから、お主にすべての技術を授けよう。そし て、ヒロト坊のことを支えてやっておくれ﹂ ﹁っ⋮⋮おじいちゃん⋮⋮﹂ じっちゃんがいきなりそんなことを言うので、俺も驚いてしまう。 エイミさんも急に言われると思っていなかったようで、声を詰まら せていた。 ﹁さて⋮⋮この遺跡から発掘された巨人の武器じゃが、これを削り 出し、本来の性能を取り戻すことが、わしができるヒロト坊への最 後の報いになるじゃろう。残念じゃが、わしも年には勝てぬようじ 1935 ゃ。この武器をお主に渡したあと、わしはエイミに技を教えるため に残りの命を使おうと思っておる﹂ ﹁⋮⋮じっちゃん。じっちゃんなら、まだ⋮⋮﹂ ﹁いや、後ろ向きな気持ちではない。わしにも鍛冶以外に、余生で 楽しみたいことはあるのじゃよ。理想を言うなれば、ひ孫の顔を見 られればと思ってはおるがの﹂ ﹁お、おじいちゃん⋮⋮私、まだそんな相手なんて、全然⋮⋮﹂ ﹁そこはヒロト坊の甲斐性に期待させてもらうとするかのう﹂ ﹁な、何言ってるのおじいちゃん! 私、そんなつもりでヒロト坊 やを見てたわけじゃ⋮⋮﹂ ﹁最近耳が遠くなっていかん。そういうわけじゃ、ヒロト坊。わし は数日のうちに、この斧槍を元の形に磨き出す。それをわしからの 餞別じゃと思ってくれい﹂ バルデス爺は言って、エイミさんと一緒に石を削るための器具を 使い、巨人のバルディッシュについた地層の石を削り始めた。 二人は作業を始めると、周りの音すら聞こえていないかのように 作業に集中し始める。バルデス爺もそうだが、小柄で愛らしい容姿 をしているエイミさんまでが、話しかけることが躊躇われるほど、 一回一回集中してハンマーを打ち込み、斧槍は気が遠くなるほどわ ずかずつ、けれど確実に本来の姿へと戻っていく。 俺は二人の邪魔をしないように、出来るだけ物音を立てずに工房 を後にする。カキン、カキンと聞こえてくる槌の音は、俺が階段を 上がって外に出るまで絶えることなく続いていた。 ◆◇◆ 1936 まだ日が高いし、残った時間を有効に使いたい。次はどこに行こ うかと考えて、俺はモニカさんたちに聞いたことを思い出した。ア ンナマリーさんが、名無しさんとウェンディを呼び出していたらし いが、一体どんな話をしていたんだろう。 パーティメンバーの位置は確認できるので、会いに行ってみよう か。それとも、干渉しすぎるのも良くないか。 ︱︱どうするか決める前に、鍛冶工房のある裏路地に、物々しい 音が響き渡った。何か積み上がっていた物を荒々しく崩したような、 そんな音だ。 ︵ミゼールの治安も、昔から良いとは言えないな⋮⋮︶ 男たちが恫喝するような声が聞こえてくる。揉め事だと断じた俺 は、声が聞こえてくる方角︱︱裏路地の奥へと進んでいく。 すると、ほとんど人の通らない暗い通りで、男たちが誰かを取り 囲んでいるさまを目にする。 ◆ログ◆ ・あなたは﹃忍び足﹄を使用した。あなたの気配が消えた。 町のごろつきを相手にそこまで警戒する必要もないが、一応気配 を消しておく。気づかれて、相手が予想外の行動に出ないようにと いう意味もある。 1937 男たちは一体、誰を脅しているのか︱︱それが見える角度まで移 動して、俺は思わず目を見開いた。 ︵︱︱アッシュの家に勤めてたメイドの、メイヴさんじゃないか⋮ ⋮!︶ ﹁姉ちゃん、パドゥール商会で働いてんだろう? あの店、しこた ま財産を貯めこんでるって話だよな﹂ ﹁金はどこに隠してあんだ? 教えてくれりゃ、あんたにも分前を やるぜ﹂ ﹁んなことする必要ねえよ。言うことを聞かせる方法なんて幾らで もあるだろ?﹂ 長身の男、太った男、中肉中背の男。彼らの言葉を一言ずつ聞い ただけで、俺がすべきことは決まった。 ︵よりによって、パドゥール商会を狙うとか⋮⋮ここで見つけられ て良かったな︶ この程度の相手なら、﹃手加減﹄して通常攻撃するだけでオーバ ーキルだろう。俺はエイミさんに貰った斧槍に手を掛け、男たちが 何も気づかないうちに倒してしまおうとする。 ︱︱だが、俺が動く前に、追い詰められていたメイヴさんが口を 開いた。 ﹁言うことを聞かせる方法とは、どのようなものですか⋮⋮?﹂ ﹁そんなこと決まってるじゃねえか。あんたもガキじゃねえんだか ら、言わなくても分かるだろ?﹂ ﹁おい、今は騎士団が来てんだろ? そいつらが聞きつけちゃまず 1938 い。さっさと済ませちまおうぜ﹂ ﹁パドゥール商会のことは二の次だ。この女をさらって、後で考え りゃいい﹂ メイヴさんにパドゥール商会で会った時、俺は清楚でおとなしい 女性だという印象を持った。 しかしその瞳には、一度見られると視線を外すことができなくな るような、そんな力がある。 ︱︱その力ある瞳が、今は、三人のごろつきに向けられていた。 ﹁あなたたちは、私を自由にしたいんですね。そうしたら、パドゥ ール商会への手出しはやめてもらえますか?﹂ ︵っ⋮⋮まさか、自分を犠牲にするつもりなのか⋮⋮!?︶ メイヴさんの言葉に、男たちは完全に飲まれていた。欲望に歪ん でいた顔が、にわかに我に返る。 ﹁物分かりがいいじゃねえか。ただ、一度で済むとは言ってねえぞ﹂ ﹁⋮⋮幾らでも、お気の済むまでどうぞ。私は、自分の身体に執着 というものがないんです﹂ 冷めた声で言うと、メイヴさんは自分でエプロンを外し、服をこ の場ではだけようとする。男たちの視線を浴びても意に介すること なく、肌を晒そうとする︱︱それ以上、ただ見ているわけにはいか なかった。 ﹁︱︱ぐぁっ!﹂ ﹁がっ⋮⋮﹂ ﹁な、何だっ、何がっ⋮⋮ぐえっ!﹂ 1939 ログを確認するまでもない。三人を瞬時に昏倒させ、俺は自らス キルを解いて、メイヴさんの前に姿を見せた。 ﹁⋮⋮こんな奴らに、そんなことをする必要はない。パドゥール商 会は、俺が守るから﹂ ◆ログ◆ ・︽ロッゾ︾たちは昏倒している。 ・﹃恭順﹄の効果により、︽ロッゾ︾たちの友好度が上昇した。 ・あなたは︽ロッゾ︾たちに﹃命令﹄した。 恭順の効果で、倒した敵には﹃命令﹄がしやすくなる。俺は﹃パ ドゥール商会に近づかず、町で揉め事を起こすな﹄と命令した。こ れで、彼らが悪さをすることはないだろう。 しかしメイヴさんは、外したエプロンを元に戻すこともせず、服 をはだけたままで俺を見やる。 ◆ログ◆ ・﹃カリスマ﹄が発動! ︽メイヴ︾があなたに注目した。 ﹁⋮⋮なぜ、彼らを倒したんですか? あなたには、そんなことを する必要はないはずなのに﹂ 1940 ﹁必要がないって⋮⋮今、メイヴさんはこいつらに何かされそうに なってたんじゃないのか?﹂ ﹁そうだったとしても、私は彼らに力では勝てませんから、要求に 答えてやり過ごせば良かったんです。ヒロト様のお手をわずらわせ る必要はありません﹂ 彼女がそんなことを言うとは想像もしていなかった。まさか、助 けたことを余計だと言われるとは⋮⋮。 ︱︱しかし俺は、確かにメイヴさんに助けてくれとは言われてい ない。 だが、見過ごすことはできなかった。百度同じ場面に出くわして も、俺は手出しをする。そうしないという選択は初めからない。 ﹁ヒロト様は、とてもお強い方です。ですが、私は弱い者です。弱 い者を助ける義務が、強い者にあるわけではありません。これから は、見捨てることをお勧めします。そんなことは、無駄な労力です﹂ ﹁⋮⋮そこまで言われるとは思わなかったな。でも、俺は謝らない。 間違ったことをしたとは思ってないからな﹂ ﹁正しさに意味はありません。あなたは強い者であるのだから、弱 い者を見捨てるべきです。そうでなければ⋮⋮﹂ ︱︱人目につかない路地裏とはいえ、目を疑わざるを得なかった。 メイヴさんはさらに服をはだけて、上半身を露わにする。その白 い肌と、均整の取れた二つの乳房が、俺の眼前に惜しみなくさらけ 出される。 ︵この人は⋮⋮予想以上に、何かがずれてる。だが⋮⋮︶ ﹁⋮⋮どうしてそこまで極端なんだ? 俺はそんなことをして欲し いって、一言も言ってないぞ﹂ 1941 ﹁私と目を合わせているとき、考えているじゃないですか。女性は 男性のそういう視線に、男性が思うよりずっと敏感ですよ﹂ ﹁そ、それは⋮⋮綺麗な目だとは思ったけど。それ以上のことは考 えてないよ。いいから、服を着てくれ﹂ 裸なんて見せられたら、どうしても冷静ではいられない。それを 気取られないようにするには、彼女を見ないようにするしかなかっ た。 目を反らす俺を見て、メイヴさんはしばらく黙っている。意気地 のない男とでも思われただろうか︱︱どんな状況でも欲求に従う男 だと思われるよりは、そのほうがまだマシだ。 ︵しかし⋮⋮物凄くきれいな裸だったな。胸もかなり大きいし⋮⋮︶ ﹁ふふっ⋮⋮﹂ ﹁わ、笑わないでくれ。自分でも分かりやすいとは思ってるんだ。 だから、もっと警戒してくれ﹂ ﹁警戒なんてしていません。ヒロト様を初めて見た時から、あなた を信頼してもいいと思っていましたよ﹂ ﹁一度会っただけで、他人のことが全部分かるなんてことはないだ ろ﹂ ﹁分かりますよ。分からなかったら、こんなことはしていません﹂ 自分の身体を呈して、パドゥール商会を守ろうとした。それと同 じで、俺に助けられたから、そのお礼を身体でしようとした︱︱そ んな、見かけによらず過激な考えを持つ人だと思った。 しかし、やけになっているわけではない。彼女なりに考えがあっ てしていることなのだと、はだけた服を元に着直し、エプロンをつ け直す姿を見ていて思った。 1942 ﹁⋮⋮ここで見たことは忘れてください。その方が、お互いにとっ ていいと思います﹂ ﹁そう⋮⋮だな。でも、一つ言っておきたい。エレナさんたち一家 は、俺にとって大切な人たちだ。でも、彼らはそんなふうにして守 られても、きっと喜ばないよ。こんなこと言う権利は俺にはないん だろうが⋮⋮﹂ ﹁いいえ、権利はあります。あなたは私のために、力を振るってく れましたから﹂ どうやらメイヴさんは、少しだけ俺の考えを汲んでくれたようだ。 価値観は人それぞれで、彼女にとっては、男性を籠絡することに そこまでの躊躇はないのかもしれない。 ︵でも俺は、やっぱりそれは嫌なんだ。それが青臭い考えだと言わ れても︶ ﹁⋮⋮これは言っておきますが、私は彼らを誘いはしましたが、好 きにさせるつもりはありませんでした。そういった身の守り方もあ るのだと、あなたなら分かるはずです﹂ ﹁⋮⋮それって、どういう⋮⋮﹂ どういう意味か。俺がそう最後まで言う前に、彼女は首を振る。 それ以上は、自分で考えろということだ。 そして俺は、遅れて思い当たる︱︱彼女は、何かの特殊な方法で、 自分の身を守ろうとした。それは、そのための力を備えているとい うことだ。 ﹁人は見かけによらないんですよ。でも私、あなたみたいに素直な 人は嫌いじゃないです﹂ 1943 ﹁⋮⋮初めに会ったときは、すごく緊張してるように見えたけどな。 実は、肝が据わってるじゃないか﹂ ﹁ええ、猫をかぶっていたのよ。どちらの私が好みだった? 後学 のために教えてもらいたいわね﹂ ︱︱俺は、ここで彼女を行かせるべきではないのかもしれない。 彼女の口調の変化を目の当たりにして、そんな直感が生じる。今 動かなければ後悔する、そんな焦燥さえも。 しかし俺は動けなかった。﹃カリスマ﹄で見られる彼女のステー タスを見れば、彼女がどうやって男たちを退けようとしたか、それ を確かめることができてしまったから。 ◆ステータス◆ 名前 メイヴ・ナイトシェード 人間 女 17歳 レベル24 ジョブ:メイド ライフ:76/76 マナ :48/48 スキル: 恵体 3 魔術素養 2 母性 22 房中術 94 1944 アクション 魅惑の指先︵房中術30︶ 流し目︵房中術40︶ 密会︵房中術60︶ 籠絡︵房中術90︶ 授乳︵母性20︶ パッシブ 艶姿︵房中術10︶ 芳香︵房中術30︶ 房中術効果上昇レベル2︵房中術70︶ ︻対異性︼魅了︵房中術80︶ 育成︵母性10︶ 彼女のステータスには、幾つかの異質な点がある。 メイドであるはずなのに、メイドのスキルを持っていない。つま り彼女は、元来メイドではない︱︱あるいは、アッシュの家に来る まで、メイドの仕事などしていなかったということになる。 房中術のスキルも高すぎる。それは彼女がそういった人生を送っ てきたからだというにも、あまりにも高い数値のように思えた。そ れこそ、不自然なほどに。 ︵俺が、彼女がそういう人じゃないと思いたいだけだ⋮⋮それは甘 い考えだってわかってる。でも⋮⋮︶ ﹁⋮⋮メイヴさん。あなたは、一体どこから来たんだ?﹂ その質問に対する答えで、俺は確かめられる。彼女が、一体何者 1945 なのかを。 答えを待つ俺を、メイヴさんは男たちを誘ったときよりも、ずっ と甘く、どんな男でもかどわかしそうな愛らしい顔をして見つめた。 ﹁⋮⋮本当はあなたに会いに来た、と言ったらどうするの? 今か らでも、私に興味を示してくれる?﹂ ﹁っ⋮⋮そ、そんなことを言ってるわけじゃない。どこから来たの かを⋮⋮﹂ ﹁それは教えられないわ﹂ そんな答えでは、﹃看破﹄で嘘をついているか確かめても大した 情報は得られない。他に、この場で有効なスキルがあるとしたら⋮ ⋮。 ◆ログ◆ ・あなたは︻対異性︼魅了をオンにした。 ・あなたの魅了が発動! ︽メイヴ︾は同一のスキルを持っている。 魅了状態にならなかった。 ・あなたは︽メイヴ︾を口説いた。 ・︽メイヴ︾はあなたの話に耳を傾けるつもりになった。 ﹁どうしても教えてはくれないのか? 俺は⋮⋮どこか、あなたを 放っておけないと思ってる﹂ ﹁私のような女を放っておいたら、何か起こるかもしれないと? ふふっ⋮⋮エレナ会長のお父さん、パドゥール商会の大旦那は、若 い頃から多くの女性に手を出しているって話よね。私が誘惑したら、 商会はどうなると思う?﹂ 1946 ﹁⋮⋮そういうことはしないでくれ。あなたはそうやって、世を渡 ってきたのかもしれないけど⋮⋮パドゥールの人たちに迷惑をかけ るようなら、やはり放ってはおけない﹂ ﹁優しいのね。私と初めて会った時も、あなたは優しかった。疑う 余地もないくらいにね﹂ ﹁俺だって、無条件にそうしてるわけじゃない。色々なことを考え てるよ⋮⋮だから、疑う余地もないなんて、簡単に言わないでくれ﹂ 何か、煙に巻かれているような気分だった。彼女は俺との意見の 相違を突きつけたり、俺の敵のように振る舞ったりしながら、けれ ど俺を褒めそやす︱︱俺を翻弄したいというかのように。 ﹁メイヴさんがこれからもアッシュの家に勤めるなら、何もしない でやってくれ。そうしてくれたら、俺もあなたのことを詮索はしな い﹂ ﹁⋮⋮いいわ。力で抑えつけるということじゃないなら、私もあな たに敬意を払ってあげる﹂ メイヴさんは微笑み、歩き出す︱︱ここから立ち去ろうというの だ。 ﹁っ⋮⋮待ってくれ、まだ話は⋮⋮っ!﹂ ﹁本当を言うと、あなたとはあまり二人きりにはなりたくないの﹂ ︱︱どうしようもなく、惹かれてしまうと分かったから。 彼女は俺の横を通り過ぎるとき、そう囁きを残していった。 振り返ると、メイヴさんが角を曲がって姿を消すところだった。 すぐに追いかけても、どう身を隠したのか、その後ろ姿を見つける ことはできなかった。 1947 夕闇の時間が近づいていた。俺は立ち尽くしたままで、彼女の最 後の言葉を思い出していた。 ◆◇◆ 先ほど起きたことは、何だったのか。パドゥール商会で見かけた 新人のメイドが、町のごろつきに絡まれていた︱︱それを俺は助け たのか、どうなのかさえ分からない。 女性が身体を使って男を籠絡することを躊躇わない。俺はそうい う人に会ったことがなかっただけで、この異世界において全体を俯 瞰すれば、少なからずそういった人はいて、接する機会が無かった だけだ。 そう分かっていても、納得はできない。俺は彼女の行動に、未だ に納得がいかずにいる。 しかしそれは、傲慢なのかもしれない。人それぞれの生き方があ って、否定する権利は俺にはない。 ︵⋮⋮俺は、人を支配したいんだろうか? 人を、ルールで縛って、 その上に立ちたいんだろうか︶ 自分のギルドを作り、領地を得て、副王となる。 俺はそれらのことを、特に疑問を持たず、果たすべき目標、ある いは目標に至るまでの過程として見てきた。 だがそこに、支配者になりたいという欲求があることは否定でき ない。 女性は貞淑であれというルールを強いて、メイヴさんの生き方を 1948 間違っていると示したい、なんて。 ︱︱それは理想の世界を作りたいということだ。俺の価値観がす べてという世界を。 ︵まあ、そこまで自分を追い込むこともないと思うんだけどな⋮⋮ 領地を手に入れても、すべての人たちに干渉したいなんて思っちゃ いない︶ 俺はメイヴさんに出会ってしまった。だが、これ以上干渉するこ ともないだろう。それでこの話は終わりだ。 それでもまだ気になり続けているのは、何かが引っかかっている からだ。 メイヴ・ナイトシェード。その姿に俺は見覚えなどないのに、何 かが引っかかり続けている。 ﹁ヒロトさん⋮⋮いかがなさいました? 先ほどから、心ここにあ らずといったご様子ですが⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮せ、セーラさん。俺、こんなとこまで来てたのか⋮⋮﹂ 家の前の、教会のある小山に続いている坂道。そこに差し掛かっ たところで、セーラさんに声をかけられた。司祭となった彼女だが、 シスター時代と変わったのは、頭巾の柄くらいだろうか。 容姿は出会った当初と変わっていないが、彼女ももう15歳だ。 考えてみると、俺の肉体年齢とは一歳しか違わない。 ﹁⋮⋮何か、お悩み事ですか? お時間がありましたら、教会に来 られませんか。女神様はいつでも、迷える子羊に対して扉を開いて おいでになります﹂ ﹁いや、何でもないよ。ありがとう、心配してくれて⋮⋮え?﹂ 1949 このまま家に帰ろうとしたのだが、セーラさんはゆっくり近づい てくると、きゅ、と俺の服の袖をつかんだ。 ﹁私でも、お話を聞くくらいでしたらお力になれます。どうか邪険 になさらず、昔のように、女神の慈悲に身をあずけてください﹂ ﹁む、昔のようにって⋮⋮﹂ セーラさんは昔から笑顔が太陽のように明るい、理想の聖職者然 とした女性なのだが、その笑顔がときどき、底の知れなさを感じさ せる。一つ間違えば狂信の域に達している、女神の崇拝者なのだ。 ︵そうだ、セーラさんと話したいことがあったんだ。これはいい機 会だな︶ イシュアラル神殿の歌姫だったことについて聞いてみたい。俺の 悩みを聞くという、セーラさんの目的からはずれてしまうが。 教会の礼拝堂は、二十人ほどが一度に礼拝できる小さいものだ。 女神に敬虔な信仰を捧げている人は、このミゼールにおいてごく一 部しかいない。祝祭などの行事でしか、女神の存在を意識しない人 の方が多い。 女神以外の神の存在について聞いたことはないので、もっと広く 信仰されていてもおかしくないと思うのだが、治癒魔術の礎となる ﹃白魔術﹄を取るときにしか、人々は教えに触れる機会がほとんど ないのだ。 サラサさんとネリスさんは、昔から教会によく通っている。彼女 たちは白魔術を取っているので、女神の信徒といえるわけだ。フィ ローネさんも取っていたので、最近はよく通っているのかもしれな い。 1950 ﹁では⋮⋮お話の前に、懺悔の報告があります﹂ ﹁懺悔? あ、ああ⋮⋮えーと、俺がいないうちに、町の人たちが 何か言ってたってこと?﹂ セーラさんはステンドグラスを通して注ぐ光の中で、楽しそうに 微笑む。 ﹁はい。ヒロトさんが不在のうちに、ヒロトさんのことを考えてし まうので、女神様に代わりに思いの丈を告白したい⋮⋮とおっしゃ る方が、何人かいらっしゃいました﹂ ﹁っ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ ﹁はい、ターニャさんとフィローネさんや、町の方々です。それ以 外の方々も多く来られていましたよ﹂ ︵町の人たちに頼んで恵体を上げたことが、今でも尾を引いている からな⋮⋮好感度をあえて下げるのも気が引けるし、致し方ないの か︶ ﹁花屋のクリオラさんは、ヒロトさんとの交流で癒やされていた面 が大きいとのことで⋮⋮﹂ クリオラさんとは、町の花屋に務めている女性である。若い身空 で旦那さんを亡くされてしまい、それからは夫の残した店をひとり で切り盛りしている。 母さんが家に飾るための花を買いに行ったときにお世話になって しまったのだが︱︱俺の恵体を構成する1ポイントは、彼女のおか げで上がったものだ。今でも感謝しているし、忘れてなどいない。 ﹁一度はお花を買いに行ってさしあげたら、とても喜ばれると思い 1951 ます。そのほかにも、最近ご結婚されたナターシャさんは、レミリ アさんを介してですが、ヒロトさんにお祝いの品をいただいたこと にお礼を言われていました﹂ 婚約者がいる女性からもスキルを採ってしまった過去が思い出さ れる。俺の中では﹃村人﹄は﹃恵体をくれる人﹄だったのである。 ナターシャさんと会ったときには俺の恵体はかなり上がっていたの で、一度では上がらなかったりしたが︱︱一度とはいえ、触れ合い があったことに違いはない。 ﹁エレナさんは明るく話されていましたが、最近ヒロトさんに相手 をしてもらえなくて残念だと⋮⋮﹂ ﹁わ、わかった。それについては俺は、みんなの悩みを解決するこ と自体は、とても前向きだと言っておいてくれ﹂ ﹁ふふっ⋮⋮そんな言い方をされて。今あげた方々は一部なのです が、全ての方々のお悩みについて、前向きに対応されるのですか?﹂ ﹁⋮⋮俺、悔い改めさせてもらってもいいかな?﹂ ﹁女神様は、ヒロトさんのしてきたことをあやまちだとはおっしゃ っておられませんが、どうしてもとおっしゃるのならば⋮⋮この私 が代行者として、女神様にあなたの懺悔を届けさせていただきまし ょう⋮⋮﹂ ︵そういって脱ぎ始めるあたり、この人も懺悔と称して、俺との触 れ合いを求めてるんだよな⋮⋮︶ 一度俺以外の村の男性に対してはどんな感じで対応しているのか を見たことがあるが、彼女はそのときは理想の聖職者として振る舞 っているので、俺に対してだけ違う面を見せてくれている。 しかし礼拝堂ですることではないので、背徳感が⋮⋮セーラさん は俺と二人のときに胸を出しやすくするためだけに、すっぽり被る 1952 タイプなので大きくめくり上げる必要があった修道女の服を、前が 開くように改良してしまった。その改良を行ったのがうちの母さん だったりする。 こんな用途に使われているとは母さんも思うまい。そんなことを 考えつつ、俺は久しぶりにセーラさんの胸を見せてもらった。他は 変わっていないのに胸だけ一回り大きくなっているのは、確実に俺 のせいだろう。 その胸を見られることに恥じらいを感じつつも喜んでいる、彼女 の表情が何とも言えず妖艶だった。ヤンデレという言葉があるが、 彼女はたぶんそれに類する性格だ︱︱俺が遠慮しようものなら、﹁ それはヒロトさんの本心ではありません。女神様の前では、自分に 嘘をつく必要などないのです﹂と説き伏せてきて、なんだかんだで 自分が満足するまで俺を解放してくれない。 ︵それもこれも、俺が魅了してしまったからだからな⋮⋮未だに罪 悪感はあるが⋮⋮︶ ﹁セーラさん、司祭になってからは初めてだね﹂ ﹁⋮⋮はい。先代の司祭様から引き継ぐ間は、私も多忙でしたので ⋮⋮それに今となっては、ヒロトさんはミゼールだけでなく公国に とって必要な存在⋮⋮この機会が、女神の慈悲をお伝えする最後の 機会になるやもしれません﹂ ﹁そんなことないよ。セーラさんは、どこか遠くに行ったりするわ けじゃないんだろ?﹂ ﹁⋮⋮布教のために、弟子たちに教えを伝えたあとは、ミゼールを 離れることも考えています。行き先が決まっているわけではありま せんが﹂ ﹁そうか⋮⋮俺は、できればセーラさんにはここに居てほしいな﹂ 1953 ﹁⋮⋮今の大きくなられたヒロトさんに、そうおっしゃっていただ くと⋮⋮少し、ずるいとも感じます﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁幼いあなたに引き止められても、私はあなたを教え諭す自信があ りました⋮⋮でも、今は⋮⋮﹂ 最後まで言わせる前に、俺はセーラさんの頭巾に手をかけ、そっ と外した。ふわりと広がる、白に近い銀色の髪。ユィシアは完全な 銀色だが、人ではない種族は、こういった髪色の人が多いのかもし れない。 人魚という種族は、まだ俺の知りえない神秘に包まれている。そ れについて知らないまま、彼女を布教の旅に出すわけにはいかない。 ﹁⋮⋮やっぱり俺は、気に入った人を束縛しようとしてるな。それ は、いけないことだよな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それは、相手によります。私はヒロトさんに束縛されるのな らば、自分の目的よりも、ヒロトさんを優先したいと思っています ⋮⋮こんなことでは、敬虔な信仰者とは言えませんね﹂ 女神は自分への信仰より俺を優先する彼女を、どう思うだろう。 未だに女神が何を考えているか分からない俺には、それを推し量 ることさえできない。 イシュアラル神殿のことを聞く前に、俺はセーラさんの胸に触れ て、久しぶりの採乳をさせてもらった。触れる前から彼女の胸は強 い光を放つ︱︱触れられることを待ち望むかのように。 ◆ログ◆ ・あなたは︽セーラ︾から採乳した。 ・﹃布教﹄スキルが上がった! 1954 ︵そういえば、人魚から授乳を受けると、特別なログが残ってたな ⋮⋮︶ 胸に触れる俺の手を微笑んで見つめるセーラさん。彼女の頬が赤 らんでいくのを見て少なからず心を動かしながら、俺は思い切って 尋ねてみた。 ﹁セーラさん⋮⋮セーラさんは、何か特別な力を持ってる⋮⋮よね ?﹂ ﹁⋮⋮いつから、お気づきだったのですか?﹂ ﹁ほ、本当は、初めから⋮⋮でも、セーラさんが隠しておきたいな ら、言うべきじゃないと思って﹂ セーラさんは胸に触れる俺の手に自分の手を重ねる。しかし引き 離したりはせず、優しく握ってくるだけだった。 ﹁⋮⋮私が本当は人ではないと言ったら、ヒロトさんは信じられま すか?﹂ ついに彼女から、彼女の持つ秘密について聞くことができる。人 魚である彼女が、なぜ人の姿となって、女神の教えを伝えているの か︱︱。 ﹁信じるよ。でも、セーラさんは、セーラさんだから。俺があなた を見る目は、今までと変わらない﹂ ﹁⋮⋮あなたは、私が最も案じていたことを、簡単に言ってしまう のですね。私などより、よほど司祭に向いています⋮⋮人々の悩み など、あなたはひと目で理解し、解決してしまうのでしょうね﹂ ﹁そんなことはないよ。ついさっきだって、人の心は簡単に分から 1955 ないんだって思い知ったばかりだ﹂ ﹁そうですか⋮⋮それで、迷っていらしたのですね﹂ セーラさんは少し考えるように目を伏せる。その後で、彼女は自 分の過去を語り始めた。 ﹁初めは漁師の方に見つかり、見世物小屋に売られてしまいました ⋮⋮その頃の私は、まだ足を人間と同じ形に変えることができなか ったので、水の中以外では満足に動けませんでした。そんな日々が 何年か続き、もう故郷の海に帰ることはできないのだと、私は絶望 し⋮⋮食事を取るのをやめ、死のうとしました﹂ セーラさんは淡々と言うが、語られる内容はあまりにも凄惨だっ た。捕らえられ、逃げることもかなわず、見世物として好奇の視線 を浴び続ける。その苦痛は想像するに余りある。 ﹁人魚は絶食しても、半年は死ぬことがありません。しかし衰えた 私は、見世物にすることができなくなり、それならばと、人魚の肉 を不老長寿の秘薬と信じて求めている人間に売られることになりま した。どのような形であれ、ようやく死ぬことができる。私はそう 思いました⋮⋮しかし、私は売られる前に、女神様の声を聞いたの です。﹃あなたは歩くことができるのに、なぜここで死ぬのか﹄と﹂ その声を聞いたあと、セーラさんは自分が人化の能力を得ている ことを初めて自覚した。捕らえられていた彼女は、自分が成長する ことで起きた変化に気づかずにいたのだ。 ﹁私は人の姿となり、売られる日までに少しでも力を蓄え、隙をつ いて逃げ出しました。もともと見世物にできなくなった私には、ほ とんど見張りがつけられていなかったのです。そして私は山に向か 1956 って歩き続けました。人魚である私が、水の近くを離れると思う人 は少ないと思い、追手の目を欺こうとしました。そして辿り着いた のが、イシュアラル神殿のあるお山のふもとでした﹂ 女神の声で救われたセーラさんは、この国における女神の教えの 総本山であるイシュアラル神殿に辿り着き、それを運命として、信 仰にすべてを捧げることにした。 ﹁私は素性を隠し、人間として修道女となりました。人魚としての ﹃歌の力﹄は残っており、私は聖歌を女神様に捧げる歌姫の役目を 仰せつかりました。その役目を、二年ほど務めさせていただいた頃 でしょうか⋮⋮ずっと人間の姿のままでいた私は、人魚の力を使う ことができなくなりました。まったく、歌うことができなくなった のです。それでも女神様の教えを伝えることはできると考え、私は 旅に出ました﹂ ﹁それで、ミゼールに辿り着いたんだな⋮⋮﹂ ﹁はい。私がこちらの教会にお世話になるようになってから、一年 ほどしてヒロトさんがお生まれになったのです。無事に生まれるよ うにと、ご夫婦がこの教会にいらしたときのことを、昨日のことの ように覚えています﹂ セーラさんは七歳にして、その人生は波乱に満ちていた。人間と 比べて遥かに成長が早いのは間違いないが、容姿が変わらないとい う意味では、不老でもあるのかもしれない。 ﹁セーラさんは、また歌を歌いたいと思ったりは⋮⋮﹂ ﹁今のところは、考えてはいませんが⋮⋮海の水でないと人魚の姿 にはなれないのです。もし海をもう一度見ることがあれば、その時 は、人魚の姿に戻り、楽園の海に女神様の教えを伝えようと思って います﹂ 1957 ﹁そうか⋮⋮俺もセーラさんの歌を聞いてみたいな﹂ ﹁⋮⋮では、海に行くときに、ご一緒させていただければ。楽園の 海にその時に帰るかは別として、ヒロトさんが望まれるなら、歌を 聞かせてさしあげたいです。本来は、あまりお勧めはできないので すが⋮⋮﹂ ﹁え⋮⋮どうして?﹂ ﹁人魚の歌は、船乗りを惑わせると聞いたことはありませんか? もし私の声を聞いたら、ヒロトさんは虜になってしまわれるかもし れません⋮⋮そうなると、異性は私しか見えなくなってしまいます﹂ ﹁じゃあ、セーラさんの本気の歌に耐えても誘惑されずにいられた ら、もう怖いものはないって感じだな﹂ 俺も魅了系の技には一家言あるので、耐えられるかどうか試して みたい。もし魅了されたとしても、セーラさんなら、一生俺を従わ せるなんてこともないだろう。 ︵⋮⋮いや、わからないな。女性の心は海より深いからな⋮⋮︶ ﹁では、その時を楽しみにしています。ヒロトさんについていって 旅ができたら、今までのどのような旅よりも、幸多きものになるで しょう﹂ ﹁そこまで楽しみにしてもらうと、俺も責任重大だな﹂ リリムを倒したあと、行きたい場所がもうひとつ増えた︱︱それ は、海だ。 セーラさんが元の姿を取り戻して歌うところを見たい。イシュア ラルの歌姫として歌っていた頃の彼女の姿を、そのとき俺はうかが い知ることができるのだろう。 と、真面目な約束をした直後に聞くのもなんだが、貴重な機会な のでぜひ聞いておきたいことがある。 1958 ﹁セーラさん、その⋮⋮人魚のミルクって、俺の身体には何か影響 があるのかな?﹂ ﹁人魚のミルクには、水中呼吸の能力を与える力があります。もし 水の中に潜るようなことがありましたら、私にお申し付けいただけ れば、いつでも⋮⋮﹂ ﹁そ、そうだったのか⋮⋮教えてくれてありがとう。もし必要にな ったらお願いするよ﹂ 当面は必要はないと思うが、水中呼吸か⋮⋮なかなかロマンのあ る能力だ。ダイビングをするにも、器具が一切必要ないということ かもしれない。水圧への対応がどうなっているかは不明だが。 ﹁⋮⋮泳ぐことについては考えないようにしていましたが、ヒロト さんと一緒に、自由に泳ぎまわりたくなりました。やはり、人魚は 海を忘れることはできないのですね⋮⋮﹂ セーラさんは俯いて顔を隠す。その頬に涙が伝って、降り注ぐ光 の中で軌跡を残す。 初めて出会ったときは、彼女と旅をすることになるとは思ってい なかったが︱︱彼女を海に、できるならば﹃楽園の海﹄に連れて行 く。その約束は、必ず果たしたいと思った。 ◆◇◆ 必要な準備は終わり、次の段階に進む時が近づいている。巨人の バルディッシュの修復が終わったら、ミゼールのはるか北の山中に ある﹃悠久の古城﹄に向けて出発する。 1959 夜になって家に集まってくれたフィリアネスさんたちに、俺はそ う考えていることを伝えた。 ﹁⋮⋮必ず魔杖を持ち帰らなければならない。リリムも私たちの動 きを捕捉し、魔杖を狙ってくるだろう﹂ ﹁古城で戦うことになるかもしれないな。もしくは、リリムの配下 か⋮⋮﹂ ハインツと、また戦うことになるのか︱︱シスカ・ナヴァロも差 し向けられるのか。その時に相手がさらに強くなっていることはあ りうる。 しかし俺も遅れを取るつもりはない。残りの日数は、皆での訓練 に使うつもりだ。それでパーティ全体のステータスを少しでも底上 げしておきたい。 そして今回パーティに同行するユィシアのことを、みんなに改め て紹介しておくことにした。会ったことのある人が全員ではないか らだ。 ﹁⋮⋮皇竜、ユィシア。ご主人様のペット⋮⋮私が言うべきことは、 それだけ﹂ ﹁わ、私もヒロちゃんのペットだもん!﹂ ﹁ソニアもおにいたんの⋮⋮きゃぅぅっ!﹂ 対抗しようとする妹を抱えあげる。ソニアがペットなんて言った ら、父さんと母さんに怒られてしまうところだ。 ﹁⋮⋮おにいたん、このまま高い高い、ってして?﹂ ﹁んふふ、ソニアちゃんってお兄ちゃん子なんだね。それはそうだ 1960 よねえ、こんなかっこいいお兄ちゃんがいたら、同い年の男の子な んて目に入らないよね﹂ ﹁ヒロト殿が、妹君を高い高いとしているところを見ると⋮⋮な、 何か、想像してしまうな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮分からないでもないが、ジェシカは気が早すぎるのではない か? まだ、ヒロトとの接点をそれほど重ねているわけではあるま い﹂ ﹁は、はっ⋮⋮申し訳ございません、ヒロト殿の正室であらせられ るフィリアネス様の前で、このような⋮⋮﹂ ﹁じぇ、ジェシカさん。正室っていうのは⋮⋮わっ!﹂ 正室という表現は間違ってはいないといえばそうだが、まだ結婚 してないので恥ずかしい︱︱そんな意味のことを言いかけると、フ ィリアネスさんがジト目でこちらを見てきた。 ﹁ヒロト⋮⋮今、何を言いかけたのだ?﹂ ﹁ち、違うよフィリアネスさん。嫌なわけじゃなくて、まだ正式に 結婚したわけじゃないから⋮⋮﹂ ﹁雷神さま、やっぱり今から正室として扱って欲しいんですね∼。 雷神さま、真ん中が好きですからね﹂ ﹁そ、そんな理由で言っているのではなく⋮⋮わ、私は、ヒロトが 最も居心地が良いと思う場所に置いてくれれば、それだけで⋮⋮﹂ ﹁じゃあ正室って言い方じゃなくて、みんな同じ立場っていうこと にしたら? 私はねえ、時々ヒロト君が通ってきてくれたら別にい いかなって⋮⋮あっ、ね、姉さんっ⋮⋮!﹂ ﹁え? それはいるわよ、夕食の支度を始めるところだけど。みん な、良かったら手伝ってもらえないかしら。やっぱり、量が多くな ると、手分けした方が早くできるしね﹂ ﹁か、かしこまりました⋮⋮レミリア様のご命令とあらば、どのよ うな食材も微塵に切り裂いてみせます!﹂ 1961 フィリアネスさんが料理をするというのは想像がつかない︵スキ ルがない︶が、スキルがすべてでもないので手伝うこと自体は出来 るだろう︱︱だがちょっぴり心配だ。 ﹁じゃあ⋮⋮台所がいっぱいになっちゃうから、私たちはお風呂で も行ってくる?﹂ ﹁さ、賛成であります! パーティの親睦を深めるには、やはり裸 のつきあいが一番であります♪﹂ ﹁パーティということなら、私も参加していいのですわよね⋮⋮マ ユさん、いえ、名無しさんもご一緒しますの?﹂ ﹁仮面をつけたままだから、ちょっと恥ずかしいけどね。少し変態 的なビジュアルであることは否めない﹂ ﹁ふふっ⋮⋮それはそうですわね。早くわたくしも、名無しさんの 素顔を見てみたいですわ﹂ ﹁はぅぅ⋮⋮ヒロちゃん、みんなと一緒におふろに入っちゃう⋮⋮ お母さん、どうしよう﹂ ﹁ヒロトちゃん、リオナもご一緒させていただいて良いですか?﹂ ﹁あっ⋮⋮ち、違うの、入るのは恥ずかしいけど、できたら、でき たらね、いっしょがいいなって⋮⋮﹂ リオナも思春期の恥じらいが出てきて、複雑な心境のようだ。し かしこの流れだと、みんながリオナを仲間はずれにするわけもない。 ﹁じゃあ、ボクはリオナちゃんと洗いっこしようかな。ボク、アン ナマリーっていうの。よろしくね﹂ ﹁は、はいっ、よろしくおねがいします、リオナ・ローネイアです﹂ 今日泊まりに来たのは今話した人たちで全部だ。メアリーさんも 1962 来ているが、彼女は書物に目がなく、俺の部屋の書棚を見てからず っと部屋にこもっている︱︱その勉強熱心さが、智謀の礎になって いるのだろう。 ◆ログ◆ ・︽リオナ︾はつぶやいた。﹁きょう、ヒロちゃんと寝れるかな⋮ ⋮?﹂ リオナはお姉さんたちに対抗できるかどうかと緊張しているよう だ。みんな優しいので、そこまで身構えることはないと思うのだが、 歳の差がある人たちと一緒では、やはりまだ慣れていないことは否 めない。 サラサさんは娘の心情を悟って、リオナの髪を整えたり、細い三 つ編みを結び直したりしていた。母として、娘の戦闘態勢を整えて いるのだ︱︱というのは、少々大げさだろうか。 誰かが俺と一緒に寝たいと言ってくれるならそれは嬉しいし、来 るものは拒まないつもりだ。 俺は椅子に座り、ソニアを膝に乗せて平和に考えていたのだが︱ ︱その考えが甘かったことを、夜になって身体で味わうことになっ た。 1963 第五十九話 新たな装備/空へ メイヴさんはアッシュの家からはいなくなっており、足跡を絶っ ていた。 俺が勘付くことを予想していたのか︱︱彼女がリリムだというの は、考えすぎなのか。ユィシアの監視にもリリムの魔力は引っかか らず、リリムの手下が現れることもなかった。 俺は毎日をムダにしないように努めて、自分とパーティの強さの 補強をはかった。昼は訓練をしてから騎士団の駐屯地や領主の館に 出向き、夜はローテーションでみんなとスキルを上げる。毎日の密 度が大変なことになっていたが、装備が仕上がるまでと期限を設定 すると、時間はむしろ矢のように早く過ぎた。 特に重点的に上げたのは﹃鎧マスタリー﹄だった。鎧を装備して みんなに殴ってもらうことで効率良く上がるのだが、ダメージがゼ ロといっても最初はみんな遠慮していた。ウェンディにこれも修行 だと言って、プレートメイルを着て剣で叩きまくってもらった結果、 鎧マスタリーはたいていの鎧を装備できる50まで何とか上げられ た。 ミコトさんも参加したそうだったが、彼女は攻撃力が高すぎるの で、スーさんたちと組み手をしたりしていた。実力はやはりミコト さんのほうが一回りほど上だが、勝負という形にはならなかった︱ ︱しかし彼女たちは、この戦いが終わって一段落したら、手合わせ をすることを約束していた。 1964 そして、今日はじっちゃんの工房に久しぶりにやってきた。約束 通りスーさんも一緒だ。 工房の扉を開け、カンテラに照らされた暗い階段を降りていく︱ ︱すると。 ﹁︱︱じっちゃんっ!﹂ 工房の床に、じっちゃんが倒れている。仰向けになり、口の端か らよだれを垂らして︱︱というところで、俺はまるで地響きのよう な音を聞いた。じっちゃんのいびきだ。 ﹁びっくりした⋮⋮なんだ、寝てたのか﹂ ﹁ふぁぁ⋮⋮あっ、ご、ごめんなさい。ヒロト坊や、今日装備がで きるって言っておいたんだっけ﹂ ﹁うん、急いでもらってごめん。じっちゃんは、疲れて寝てるだけ みたいだね﹂ 俺はじっちゃんを担ぎ、工房の端にある休憩用の寝床に寝かせ、 毛布をかぶせた。じっちゃんは全く起きる気配がないが、寝苦しく はなくなったのか、いびきは静かになった。 そして俺は、戻ってくる前に気づいた︱︱いつも何も置かれてい ないスペースに、黒を基調とした色の金属で作られた、男性用の鎧 が鎮座していることに。 鎧は暗い工房の中で、ごくわずかに光っているように見える。そ れは魔力の光︱︱つまり、普通の金属で作られたものではないこと を示していた。 1965 ﹁エイミさん、これ⋮⋮﹂ ﹁おじいちゃんが趣味で作ってた防具の中から、ヒロト坊やが使え そうなものを選んだの。グロウストーンっていう特殊な魔石鉱が含 まれた鋼鉄を使った、合金鎧⋮⋮重たそうに見えると思うけど、す ごく軽くて丈夫なの﹂ ︵もともとレアで、店売りが存在しない合金の防具⋮⋮それも、ゴ シック・プレートだ⋮⋮!︶ エターナル・マギアにおいては、通常のプレートメイルよりも、 ゴシックプレートのほうが上位の防具で、装備するためには高ステ ータスが必要だが、それゆえに憧れの装備品だった。店売りで買え るものには合金素材のものはなく、だいたいが鋼鉄製だった。そし て合金にも種類があったりするが、グロウストーンと鋼鉄の合金は 入手難度がまだ常識的な中では、十分に強力な素材だった。 ユニークアイテム そしてゴシックプレートの中でも、これは汎用のドロップ品では なく、稀少品だ。スーパーユニークなので最上レアではないが、想 像の遥か上を行く防具を手に入れられた。 ﹁ハインツさんは、おじいちゃんがこの鎧を持ってることを知って た。その中でも、この小手に価値があったみたいなの。グロウスト ーンを含んだ鋼鉄を使って装備を作ると、ときどき特殊な効果が宿 ることがあるんだけど⋮⋮ヒロト坊やにはわかる? この小手が、 どんな力を持ってるか﹂ ユニークアイテムといっても、世界に一つしか存在しないわけで はなく、レアリティを示す記号のようなものだ。そしてものによっ ては、ユニークアイテムの付与効果は、同等品がドロップしてもそ 1966 の度に異なっている場合がある。その付与効果が良いものを狙うの が、エターナル・マギアにおけるレアドロップ厳選というやつだ。 ︵この小手は⋮⋮なんだ⋮⋮?︶ ◆アイテム◆ カオス・グラスパー 名前:混沌を握りし手 種類:小手 レアリティ:スーパーユニーク 防御力:32 装備条件:恵体50 ・魔術によるダメージを10%軽減する。 ・炎ブレスによるダメージを10%軽減する。 ・攻撃回数が1回増える。アクションによる攻撃を含む。 ・石化を防ぐ。 鍛冶などのクラフトで作成されるユニークアイテムに、レアリテ ィに見合わない異常な性能を持つものがある。この装備もその一種 に間違いない︱︱付与効果があまりに強力すぎる。今の俺の強さで 攻撃回数が増えたら、もう手のつけようがないと自分でもわかる。 ﹃神威﹄で攻撃力を倍加させた斧技が、クールタイムなしに二連発 できるのだ。 だが、ハインツがこの小手を求めた理由は、何だったのか。強く なるために、攻撃回数を増加させたい︱︱本当にそれだけなのか。 ︵石化を防ぐ⋮⋮ハインツは、石化攻撃を持つ相手と戦うつもりだ 1967 ったのか?︶ 竜言語魔術で石化を引き起こせるユィシア︱︱いや、ハインツで も皇竜に挑むなんて愚は犯さないだろう。 攻撃回数の増加にしても、セットで装備しないと効果の無い吸魔 の鎧の装備を崩してまで手に入れるものではないと思える。一時的 にでも、石化防御が必要だったということか。 しかしどのみち、この小手が俺にとって有用なことは確かだ。ル ーンヴァンブレイスはしまっておいて、使える相手に譲ることにし よう。 ﹁さて⋮⋮まず、鎧を装備させてもらったほうがいいのかな。バル ディッシュは、その後で見せてもらうよ﹂ ﹁私、あんな装備を磨くことができて、本当に良かったと思ってる。 私たちが知らない古代の技術で作られてるし、材質だって分からな い⋮⋮でもたぶん、そういう武器を作れなきゃ、ヒロト坊やたちの 力にはなれないんだよね⋮⋮﹂ ﹁そんなことないよ。俺は強い装備が必要だけど、いろんな人が、 自分の冒険や仕事のために武器を必要としてる。強いだけが全てじ ゃないよ﹂ ﹁⋮⋮うん。でもね、見ればわかると思う。あんな武器を見ちゃっ たら⋮⋮もう、それを超えることしか考えられなくなる。鍛冶師っ て、そういう生き物なんだよ﹂ エイミさんの言葉に、否が応にも期待が高まる。スーさんはエイ ミさんと協力して、まず俺にゴシック・プレートを着せてくれた。 ◆アイテム◆ 1968 名前:ヴァリアント・プレート 種類:全身鎧 レアリティ:スーパーユニーク 防御力:248︵+317︶ 装備条件:恵体80 鎧マスタリー50 ・鎧のベース防御力が+128%補正される。 ・敵の魔術を10%の確率で反射する。 ・炎ブレスによるダメージを10%軽減する。 ・氷ブレスによるダメージを10%軽減する。 ・行動速度が10%上昇する。 ・ライフの回復速度が20%上昇する。 ・マナの回復速度が15%上昇する。 ・ダメージを80ポイント減らす。 ヴァリアント・プレートの防御力が高いのは、胴・腰・脚をカバ ーしているからだ。それを考慮しても、防御力が補正込みで565 ︱︱やはり大人の武具が装備できるようになると、﹃恵体﹄スキル のダメージ軽減よりも防具の力のほうが大きくなる。 そこに先ほどの小手を装備し、頭装備は視界を遮るものしかなか ったので着けず、その上からマントを羽織った。ゴシックプレート にしては洒落たデザインだったが、物々しい姿であることに変わり はないので、町の外に出るまでのことを考慮した。 装備を身につけたら、町の北門から出て、魔杖探索に出発するこ とになっている︱︱みんな集合しているだろうから、あまり遅れる わけにはいかない。 1969 ﹁こんな装備が手に入るなんて⋮⋮ありがとう、エイミさん。じっ ちゃんにも、お礼を⋮⋮ど、どうしたんだ、二人とも。そんなじっ と見られると照れるんだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ヒロト坊や、ふだんの服装も似合ってたけど⋮⋮やっぱり、 戦うときの格好が、一番⋮⋮﹂ ﹁ええ⋮⋮勇ましいお姿です。お父上も、皆様方も、感服されるこ とでしょう﹂ ﹁スーさんも、戦うときは着替えたりしないのか? そのメイド姿 でも、十分強いと思うけど﹂ ﹁はい、装備は準備しております。しかるべき時には、身に着けて 任務に望みます﹂ 俺はスーさんとエイミさんに見送られて工房を後にした。そして、 町の北門から外に出る。 そこには事前に決めていた通りのパーティメンバーが待っていた。 リリムが狙ってくるのは、魔杖を聖杖に変えることができると言わ れているルシエ︱︱それならば、俺たちと共に行動していれば守る ことができるし、聖杖を手に入れてルシエが装備した時点で、リリ ムを倒すチャンスも生まれる。 ︵それにもし、魔杖の使用者だけが通過できるギミックなんかがあ ったら、ルシエがいないと何もできないからな⋮⋮︶ ﹁⋮⋮ヒロト様⋮⋮その、お姿は⋮⋮?﹂ ﹁ああ、今日は武装してきた。生半可な装備で迷宮に行ったりはで きないからな﹂ ﹁簡単に言うが⋮⋮あのバルデスという老人は、そこまでの腕を持 っていたのだな⋮⋮﹂ ﹁その武器⋮⋮見ているだけで、生きた心地がしませんわよ。そん 1970 な化物のような武器を、運良く引き当てるだなんて⋮⋮うらやまし い限りですわ﹂ 首都の修練場に放置されていた武器。重すぎて無用の長物と化し ていたそれが、よもや、スーパーユニークの武器の中でも最上位の 能力を持っていようとは、俺も思いもよらなかった。 ◆アイテム◆ タイタンズラース 名前:巨人の憤怒 種類:斧槍 レアリティ:スーパーユニーク 攻撃力:252∼644 防御力:52 装備条件:恵体120 斧マスタリー100 ・オーバーキル時に相手の装備を破壊することがある。 ・クリティカルヒット時にダメージが上昇する。 ・攻撃時に精霊魔術レベル4﹃アースジャベリン﹄が30%の確率 で発動する。 ・巨人に関係するアクションの効果を増幅させる。 ・攻撃するごとにマナが3回復する。 あの岩石の塊のようだった錆びたバルディッシュが、じっちゃん とエイミさんの手によって磨かれ、今は琥珀色の斧槍に姿を変えて いた。 錆びた状態でもいくつかの特殊効果は発動していたが、磨かれた ことでさらに追加されている。マナが回復する効果はおまけのよう 1971 なものだが、あって損をするものではない。 スロットがないので属性のカスタムはできないが、確率で﹃アー スジャベリン﹄が発動するので、何度か攻撃するだけで土属性の追 加攻撃が可能ということになる。 ﹁こんなに美しい武器があったのか⋮⋮やはり、この世界は小生が 思っていたよりも、ずっと奥深い⋮⋮﹂ 名無しさんも驚嘆している。法術士の装備はなかなか手に入らな いので、彼女の装備はスロットを利用して強化していた。しかしレ ア装備を見ると目の色が変わってしまうのは、元プレイヤーとして は避けられないところだ。ミコトさんも感心しつつ、しっかり自分 の武器性能と比べている。 ﹁ヒロトさん、私も連れていってくださって、ありがとうございま す⋮⋮ですが、良かったのですか? 私は、子供のころに何度かご 一緒しただけで、そこまでの治癒術師では⋮⋮﹂ ﹁こっちこそ、久しぶりに誘ったのに来てくれてありがとう。どう してもセーラさんの力が必要なんだ﹂ セーラさんよりアレッタさんのほうが治癒には長けているし、冒 険にも慣れている。しかしそんなアレッタさんだからこそ、もしも の時はマールさんや騎士団の人たちの治療にあたってほしい。 町の住人のほとんどは既に一時避難している︱︱公国は既に魔王 リリムとの全面戦争に入ったことを表明しており、その脅威がミゼ ールに届くかもしれないと知ると、町に残ろうという人はいなかっ た。話を信じてくれない場合に限り、俺は交渉術を使って説得に臨 んだ。こんな時に使わなくてどうするのか、と思ったからだ。 1972 そうすると医術師のフィローネさんも家族と共に避難することに なり、サラサさんもうちの家族と共に避難してもらったため、残る 白魔術の使い手はセーラさんしかいない。治癒術が必要な状況にな ってはいけないのだが、そこは念のためだ。 そして彼女は謙遜しているが、白魔術は出会った当初よりかなり 伸びていて、50に届いていた。俺の出会った治癒術師の中では、 種族もステータスの伸びに影響しているのかもしれないが、彼女は 屈指の治癒術師なのだ。 ﹁⋮⋮皆さんが避難されたあと、私は町に一人でも残ろうと思って いました。しかしミゼールを守るために何かできることがあるのな らば、とてもうれしく思います。どうか共にお連れください﹂ セーラさんが決意を表明する。彼女の足元はいつもの靴ではなく、 冒険に出るための革の脚絆だった︱︱長く歩くことを想定している のだ。それはルシエも同じだった。 ﹁じゃあ、早速出発しよう。ユィシア、来てくれるか?﹂ ︵︱︱わかった︶ ユィシアがどこにいたのか︱︱彼女は既に空で待機しており、俺 たちから少し離れたところに降り立つ。彼女は魔力で服装を編むの と同じ要領で、姿を景色に同化させることができる。その状態を解 除すると、銀色の鱗を持つ飛竜の姿で、俺たちを待ってくれていた。 ﹁ユィシアに六人で乗って、古城を探す。そうすれば、きっとすぐ に見つかるはずだ﹂ 1973 ﹁竜に乗る⋮⋮こんな経験をすることになるなんて⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮感動している場合ではないよ。小生は高所恐怖症ではないけ ど、さすがに生きた心地がしなさそうだ﹂ ﹁ルシエは落ちないように俺に捕まっててくれ⋮⋮というか、みん なユィシアと紐で結んでもらったほうがいいな。俺がいれば、大丈 夫だとは思うけど﹂ ﹁は、はいっ⋮⋮ヒロト様がおっしゃるなら、ど、どこへでも、参 ります⋮⋮っ﹂ ルシエは言うものの、杖を持つ手が震えていた。ユィシアに騎乗 することに俺はメリットしか感じていなかったが、そうか︱︱もっ と早く慣れておくべきだった。 ︵⋮⋮ご主人様以外を乗せるのは、特別なときだけ。練習で乗って いいのも、ご主人様だけ︶ ︵そ、そうか⋮⋮その気持ちは尊重するけど、みんなにとっては試 練だな︶ ︵だいじょうぶ。前にふたりで飛んだ時にも言ったとおり、私に乗 っていれば絶対落ちない︶ そういえばそうだったが、安心感という意味では、命綱の存在は 非常に大事だろう。名無しさんの顔が目に見えて青白くなっていた りするし︱︱フィリアネスさんはどうだろう。 ﹁⋮⋮私はヒロトと一緒ならば怖くはないが、早めに到着できれば という思いは確かにある﹂ ﹁う、うん⋮⋮やっぱり高いのはみんな、本能的に苦手なんだね﹂ ﹁高いところは好きなのですけれど⋮⋮﹂ 1974 ミコトさんはそう言って空を見上げる。そして、ログにしか表示 されないくらいの小さな声でつぶやいた。 ◆ログ◆ ・︽ミコト︾はつぶやいた。﹁ジェットコースターに乗ったら、同 じ気持ちがしそうですわね⋮⋮きっと﹂ ︵⋮⋮そうか。ミコトさんは⋮⋮︶ 前世では、ジェットコースターなんて乗られる状態じゃなかった。 彼女は若くして命を落とすほどの、重い病に侵されていたのだから。 ︱︱だから彼女は笑っていた。黒いおさげを微風になびかせ、怖 がっているみんなを見て、さらに楽しそうにする。 ﹁さて、みなさん⋮⋮ギルマス、いえ、ヒロトさんの隣に乗る人を、 どうやって決めるんですの?﹂ ﹁わ、私は、無理にとは言わないが⋮⋮傍にいてくれれば安心でき ることは、その、確かというか⋮⋮﹂ ﹁とりあえずルシエ様は、ヒロト君に責任を持って保護してもらお う。あとは⋮⋮セーラさんかな﹂ ﹁私でしたら、大きな鳥にさらわれそうになったことがありますか ら、高いところは平気です﹂ なるほど、魔物のいる世界では、人魚にはそんな危険もあるのか ︱︱と思いつつ。 1975 結局俺がユィシアの背中の中央に乗り、みんなが俺に寄り添って つかまるということで落ち着き、大空へと飛び立つ。 ユィシアが多少考慮してくれたのか、いつもの急速上昇ではなく、 ゆっくりと空へと浮き上がり︱︱そして、俺たちはミゼール北方の 空へと飛び出していった。 1976 第六十話 空の試練/水上戦準備 ミゼール上空に飛び立った頃は、みんな俺につかまるだけで精一 杯だった︱︱しかし飛行が安定すると、みんな周囲の景色を見るだ けの余裕が出てきた。 ルシエから魔杖の在り処を示す場所の地図を受け取り、ユィシア と念話で情報を共有する。すると彼女から返事が帰ってきた。 ︵この地域を昔飛んだ時には、何もなかった。ただ、森が広がって いただけのはず︶ ︵⋮⋮何か条件を満たさないと、入れないのかもな︶ ︵条件⋮⋮それは、ご主人様に任せる。私の眼では、何も気になる ものは見えていない︶ ユィシアの視力は人間の十倍ほど遠くまで見えるというが、視力 が特別に優れた種族というわけでもない。それこそメアリーさんの 千里眼があれば便利だったが、全員で移動するわけにいかないのが 悩ましいところだ。 ﹁これでもジュネガンの一部しか見渡していないのに、世界が果て しなく広くなったように感じる⋮⋮﹂ ﹁私もそう思っていましたわ。こんなふうに自由に飛び回れたら、 世界の隅々まで周りたくなりますわね﹂ ﹁⋮⋮違いない。今までどうやって行くのかわからなかった場所で も、どこにでも行ける⋮⋮これなら⋮⋮﹂ 1977 フィリアネスさん、ミコトさん、名無しさんは、空からの景色を 見て、それぞれ思うところを口にする。 名無しさんは、隠者の仮面を外す方法は見つけていると言ってい た。どこかに行く必要があるなら、ユィシアの力を借りられれば難 しくはない。 本当は俺しか乗せたくないというが、そこはなんとか上手く交渉 したいところだ。 ︵⋮⋮ご主人様がそうしてほしいなら、断らない。そこまで、頑な ではない︶ ︵そうか⋮⋮ありがとう。俺、ユィシアに我がままばかり言ってる な⋮⋮︶ ︵頼られるのは、嫌いじゃない︶ 短く答えたところで、気流の乱れを感じ取ったのか、ユィシアは ゆっくり旋回すると、回りこむようにして進んだ。 ︵⋮⋮落ちなくても、揺れると不安になると思うから︶ ︵いや⋮⋮本当に頼りになるな。ユィシア、頼もしいよ︶ ユィシアは何も答えないが、首の後ろを撫でてやると、くるる、 と珍しくドラゴンとしての鳴き声を上げた。咆哮しか聞いたことが 無かったので、その意外な声の高さに驚かされる。 ﹁ドラゴンさまがきれいなお声で鳴いています⋮⋮お兄さまのお気 1978 持ちに応えていらっしゃるのですね⋮⋮﹂ ﹁はい、そのようです。今の鳴き声は、少し照れている気持ちが込 められていますね。ルシエ殿下、翻訳いたしましょうか﹂ ﹁そ、そんなこともできるのか⋮⋮? セーラさん、竜言語がしゃ べれるのか?﹂ ﹁いえ、音に込められた感情を読み取ることができるのです。皆様 には隠さず、お伝えしておきますが⋮⋮私は人魚ですので、歌うこ と以外の種族の特性を持っているとお思いください﹂ セーラさんは修道女の頭巾を抑えながら、柔和な微笑みを浮かべ て言う。みんな最初は彼女が人魚ということに驚いたようだが、次 に関心を俺に向けた。 ﹁ギルマス⋮⋮知り合いが幅広いのはいいですけれど、どうしてそ う稀少な出会いを立て続けに経験できますの? うらやましいくら いですわ﹂ ﹁彼は﹃持っている﹄というやつなんだろうね、きっと﹂ ﹁ま、まあ⋮⋮どちらかといえば、セーラさんがミゼールに来たの は、本当に偶然だと思うけどな。他の町の教会に行く可能性もあっ たんだよな?﹂ ﹁はい。しかし私が選んだのはミゼールでしたから、やはりヒロト さんに引き寄せられてしまったのでしょうね⋮⋮ふふっ﹂ ﹁⋮⋮ヒロトにはそういうところがある。しかしどちらかといえば、 ヒロトはこれはという人物を見つけると、絶対に親交を深められる、 いわば徳のようなものがあるのだ。赤ん坊の頃からそうだったな﹂ フィリアネスさんは昔のことを思い出すたび、俺の姉さんか何か なんじゃないかという優しい顔をするので、かなり照れてしまう。 俺は今でも、隙あらば彼女に甘えたくて仕方ない︱︱と、気を緩め るのは全てが無事に終わったあとだ。 1979 ◆◇◆ ユィシアはみんなのことを考慮して飛行速度を上げなかったが、 それでも時間にして、ミゼールを離れて十分も経たずに目的の場所 の近くに着く。 遠くには山々が見えているが、辺り一面、見渡すかぎりの森︱︱ いや、森が途切れた。 途切れた森の向こうに広がっているのは、ミゼール近くの湖とは のどか 比較にならないほど大きい湖だった。しかし、肝心の悠久の古城の 姿は全く見えてこない。 仰いだ蒼穹から降り注ぐ陽射しの中、どこまでも長閑な風景が広 がる。このどこに、魔杖を隠している場所があるというのだろう。 ︵ルシエの地図が間違ってる⋮⋮いや、まずその可能性は否定して おこう。こういう重要なダンジョンは、条件を満たさないと出てこ なかったりするんだ︶ そこで俺は、ファーガス陛下が円卓会議で言っていたことを思い 出した。 ︱︱ミゼールの北部の山地に、﹃悠久の古城﹄と呼ばれる城がある。 魔杖は、そこに封印されている。前回魔王を倒したあと、古城には 魔杖の勇者が残り、終生魔杖を守り続けることを選んだ。勇者が作 った結界は、今も破られていない。それどころか、古城の姿を見る ことさえ誰もできていないだろう。 1980 魔杖の勇者は、今も魔杖を守り続けている︱︱それならば。 ﹃結界﹄が、外界からの侵入を拒む防壁となっている可能性があ る。それで、俺たちの目に、悠久の古城がまだ姿を現していないの ではないか。 ﹁ルシエ、悠久の古城に行くにあたって、何か聞いてないか? 古 城の周りに結界があるなら、それを通る方法が何かあるはずなんだ﹂ ﹁い、いえ⋮⋮私がご一緒すれば、自ずと道は開かれると、父上は ⋮⋮あっ⋮⋮!﹂ ︱︱ルシエが声を上げ、全員に緊張が走る。 遥か前方、何も存在しなかったはずの空に、三つの姿が生じる︱ ︱ひとつは獣のようで、もうふたつは白い翼を持つ何か︱︱上半身 は人型だが、下半身は違うように見える。 ◆ログ◆ ルシエ ・あなたのパーティには選定者がいる。設置された召喚陣の発動条 件を満たした! ・ネームドモンスター︽嵐を呼ぶ者︾が出現した! ・︽ウィングトルーパー︾が2体出現した! ・あなたのパーティはこの空域から離脱できなくなった。 ︵選定者の力試しをするつもりか⋮⋮どうやら、ルシエを連れてく れば素通りってわけにはいかなさそうだな︶ ﹁あれを撃破しなければ、道は示されないということか⋮⋮ヒロト、 どう思う?﹂ ﹁ああ、おそらくその通りだ。あの魔物はどうやら、魔杖の選定者 1981 に反応して出てくるみたいだから﹂ ﹁空中戦を想定していたわけではありませんが⋮⋮どうやら、これ を使う時が来たようですわね﹂ クナイ ミコトさんは苦無の装備を外すと、手裏剣に持ち替えた。シノビ が使うと異常に射程が長く、命中率も高い必殺の投擲武器だ。苦無 も投げられるが、手裏剣の方がクリティカルヒットを発生させやす い。 地上で戦うことも考えたが、飛行する敵を相手に地上でセーラさ んとルシエを守るのは、逆にリスクが大きくなる。それならば、ユ ィシアの飛行性能で敵の攻撃を回避し、空中で倒す︱︱! ﹁どうやら、この空から逃げることはできないらしい⋮⋮地上に降 りて空中の相手と戦うのも難しい。名無しさん、フィリアネスさん、 フォースシールド 後衛の二人を守ってあげてくれ。俺とミコトさんは、攻撃を担当す る!﹂ ﹁了解っ⋮⋮魔力の盾!﹂ ◆ログ◆ ・︽名無し︾は﹃魔力の盾﹄を詠唱した! パーティを魔力の障壁 が覆った! 法術士スキルを50まで上げることで習得できる、法術レベル5 の﹃フォースシールド﹄。空中でもその効果は遺憾なく発揮される ︱︱だが、もちろんそこまで絶対的な防御術ではない。俺は敵の属 性を風と見て、防御術を重ねがけすることにした。 1982 ウィンドシールド ﹁風の精霊よ、その力を持って盾となせ⋮⋮﹃風精の盾!﹄﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃風精の盾﹄を詠唱した! 風属性に対する耐性が一時 的に上昇した! ︵これで風属性ダメージはかなり減らせるし、物理攻撃は簡単には 通らない。貫通される可能性はほぼゼロだが⋮⋮︶ 正直を言うと、俺は空中戦とはいえ、特に緊張などしていなかっ た。 倒すだけならば、それこそ山崩しを使えば、三体ともこの距離か ら落とすことができる︱︱だが、そんな倒し方では、得られるもの が少ない。 ﹁この距離でも届くはずだ⋮⋮雷の精霊よ、大気を駆け抜け、敵を 薙ぎ払え! ボルトストリーム!﹂ ◆ログ◆ ・あなたは﹃マジックブースト﹄を発動させた! ・あなたは﹃ボルトストリーム﹄を詠唱した! 敵がある程度まで接近してきたところで、俺は前方に手をかざし、 1983 魔術を放った。地上での戦いと同じように、空中を雷が駆け抜け、 三体の魔物に命中する︱︱しかし。 ﹁︱︱クワァァァァッ!﹂ ︵あの魔物⋮⋮鷲と獅子のキメラみたいな⋮⋮グリフォンってやつ か⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・︽嵐を呼ぶ者︾は﹃大気の壁﹄を発動した! ・﹃ボルトストリーム﹄は大気の壁に阻まれた! 鳥のような鳴き声と共に、ネームドモンスターが特殊能力を発動 する︱︱そして、雷は魔力を張り巡らせた大気によって阻まれ、エ ネルギーが散らされてしまう。 ︵なるほどな⋮⋮嵐を呼ぶものだけはある。雷に撃たれるなんて、 マヌケなことはないわけだ︶ ﹁︱︱ミコトさん、頼むっ!﹂ ﹁承知しましたわっ⋮⋮神無月流、手裏剣術︱︱桜花乱舞!﹂ ◆ログ◆ ・︽ミコト︾は五行遁術﹃風遁﹄を発動した! ・︽ミコト︾の投擲! 桜花手裏剣を3つ同時に投げた! 風遁の 1984 力が手裏剣の威力を強化した! ︵忍術スキル100で﹃風遁﹄を使うと、手裏剣が敵を追尾するよ うになる⋮⋮これも一種の魔法剣だな︶ ミコトさんはどこからか取り出した手裏剣を、両手を十字に交差 するようにして三つ同時に投げ放つ。十字手裏剣ではなく、桜の花 のように5つの刃を持つ桜花手裏剣を、風遁と共に投げ放つ﹃桜花 乱舞﹄。それはシノビを極めたプレイヤーしか使えない、奥義中の 奥義だった。 ﹁︱︱!?﹂ ﹁クワァァァァッ!﹂ ﹁ッ!!﹂ ◆ログ◆ ・︽嵐を呼ぶ者︾に手裏剣が命中した! 284ダメージ! ・︽ウィングトルーパーA︾に手裏剣が命中した! 351ダメー ジ! ・魔物2体の行動がキャンセルされた。 ・︽ウィングトルーパーB︾は手裏剣を叩き落とした! ﹁私の手裏剣を逃れるとは。どうやら、個体で能力差があるようで すわね⋮⋮あのウィング︱︱いえ、グリフォンのお供の姿を見まし たか? ヒロトさん﹂ 1985 ︱︱俺の心臓が、早まり始めていた。ミコトさんの言葉は頭に入 ってきているが、いつもなら即答するところを、俺は手裏剣を受け たウィングトルーパーを、もう一体が治療しようとしているところ を見たのだ。 その姿は、まるで、天馬︱︱ペガサスのケンタウロスとでも表現 すればいいのか。半人半馬の姿をしていて、その人の部分に、鋼鉄 の鎧を身にまとい、円錐状の槍を持っている。 その鎧の形状が、俺にはどうにも、女性向けに作られたもののよ うに見えるのだった。 ︵あのウィングトルーパーって⋮⋮もしかして、性別があるのか⋮ ⋮?︶ 羽飾りのついた鉄仮面をつけているために顔が見えないが、後ろ を向いたときに、長い髪が見えた。 顔がすごく怖かったりとか、ゴブリンみたいな顔だったりという こともあるが︱︱もし、何か特殊なスキルを持っていたら。もし、 あのウィングトルーパーが女性だったら。 ︵⋮⋮飛翔系のスキルを、採れるかもしれない⋮⋮!︶ 魔物すら、姿によってはスキルをもらう対象に見える︱︱そんな 俺をみんながどう思うか。 ︵⋮⋮よかった︶ ︵⋮⋮え?︶ 1986 ユィシアがつぶやいたので、俺は思考で返事をしてみた。 ︵空中の敵なら、一瞬だけ全力を出して飛ぶだけで倒せる︶ どうやら俺が考えていたこととは、全く関係ないことで﹃よかっ た﹄ということらしい。安心しつつも、今度は別のことが心配にな ってくる。 ︵ま、まさか⋮⋮ユィシア、それは凄いスピードで体当たりすると か⋮⋮?︶ ︵体当たりではなく、全速で通り過ぎる。すると、不可視の力が発 生して、私の周りのものが砕け散る︶ ︵うぉぉ⋮⋮そ、それって⋮⋮︶ ユィシア、音速超えられるってよ。そんな言葉が頭をよぎるが、 実際にやっていたら、あのウィングトルーパーもボスも、おそらく 一撃で落ちていただろう。ユィシアに手加減の二文字はないのだ。 もはや無敵空中母艦に乗り込んでいるようなものだし、メンバー がメンバーなので、もうセーラさんもルシエも頭を下げることなく 戦況を見ていられた。しかしウィングトルーパーの一体がどうやら 魔術を使えるらしく、敵三体が光に包まれ、ライフが半分ほど回復 する。 ︱︱そして、︽嵐を呼ぶ者︾が本領を発揮する︱︱どうやら俺た ちを、本気を出すべき相手と認識したようだ。 1987 ◆ログ◆ ・︽嵐を呼ぶ者︾は﹃ストームコール﹄を発動した! 天候が嵐に 変化していく! ・︽ウィングトルーパー︾2体は﹃ウィンドショット﹄を放った! ・︽嵐を呼ぶ者︾は風の魔力を吸収した! 嵐を呼ぶ者に、ウィングトルーパーが風の魔術を打ち込む︱︱そ のエネルギーを吸収して、大技を繰り出すつもりのようだ。 ︵ご主人様、竜巻が来る⋮⋮! あれをまともに受けると、少しだ け痛いかもしれない︶ 降り注ぐ雨は、俺と名無しさんの防御術が保護壁となって防がれ る。水が弾かれるさまは、ガラス窓に雨が叩きつける光景にも似て いた。 ﹁とりあえずここは俺に任せてくれ。ちょっとヒヤッとするかもし れないが、絶対大丈夫だ﹂ ﹁ヒロト、何か策があるのだな⋮⋮? 何か、とても楽しそうな顔 をしているようだが﹂ ﹁倒してしまうよりも、いい方法があるということですわ。ギルマ スだけにできる、とっておきが﹂ ﹁また大所帯になってしまいそうな気がするね⋮⋮だが、とても興 味深い⋮⋮!﹂ ミコトさんと名無しさんは、俺が何を考えているのかもう分かっ ている。俺はユィシアの頭の上にまで移動すると、彼女の角を握ら せてもらい、背中に背負った斧槍を抜くと、前方にかざした。 1988 ︵斧を振ってスキルを発動すれば、斧のダメージが乗る⋮⋮そこま では必要ない⋮⋮!︶ ◆ログ◆ ・︽ウィングトルーパー︾2体は﹃エアロブースト﹄を発動した! 風の魔術を受けてエネルギーを溜めたグリフォンから、ウィング トルーパー