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カントの「実在的対立」の思想 : 弁証法的矛盾との関連
で
嶋崎, 隆
一橋論叢, 91(2): 205-222
1984-02-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/11363
Right
Hitotsubashi University Repository
(55) カントの「実在的対立」の思想
カントの﹁実在的対立﹂の思想
−弁証法的矛眉との関連で1
る︵無︶矛盾律−以下たんに矛層律と記すーといか
弁証法的矛盾とはいかなる概念なのか、それはいわゆ
嶋 崎
︵初版一七八一年︶の﹁弁証論﹂で展開された︺一律
デイアレクテイーク
であったといえる︵カントが二偉背反の問題にとりくみ
身が告白したように、二偉背反現象は彼の最大の関心事
背反︵>目ま昌昌一〇︶Lの思想であろう。たしかにカント自
^1︶
題の一つである。本稿では、これらの間題への一つの接
始めたのは一七六〇年代のおわり頃とされる︶。従来の
なる関係に立つのかなどの問題は、論理学における大問
近の試みとして、近代で弁証法を復興した圭言われるカ
独断論的形而上学︵合理論︶の基礎にあった矛盾偉的恩
陥る矛盾﹂として二律背反現象を捉えようとしたのであ
^4︺
事態を直視し、﹁理性がおのずから、しかも不可避的に
の戦場﹂を出現させるに至ったのである。カントはこの
^3︶
ながら、他方箸観的には、それ自身﹁昏迷と矛盾︵∪自目−
^2︶
ぎ宇①岸昌α峯δΦ︷昌90︶﹂に陥り、﹁はてしない闘争
、 、 、 、 、
惟は、矛盾を何か偶然的・一時的に生ずるものとみなし
ントの﹁実在的対立﹂について、前批判期論文﹁負量の
概念を哲学に導入する試み﹂︵一七六三年︶−以下、
負量論文と略すーに即して検討したい。
弁証法的立場からの問題提起
弁証法的論理の形成という立場からカントを有名にし
たのは、へーゲルが強調したように、﹃純粋理性批判﹄
20j
隆
第2号(56)
第91巻
一橋論叢
^三 ー
がやはり現実の対立・葛藤の場面は看過されることなく、
^6︶
﹁実在的対立︵昌①馬巴oO電畠曇冒︶﹂などの概念のも
律背反はいまだ必然的なものとして洞察されてはいない。
さて他方、負量論文の時期では、人間理性における二
効になづた状態であり、その点で現実に内在する矛盾に
現象とは形式論理がまったく被綻し、矛盾偉が完全に無
味で形式論理的世界を十分には脱していない。二偉背反
立﹂は対象の分裂的構造を深刻に把握していず、.その意
は後者よりも進んでいる。後述するように、﹁実在的対
のように位置づけられるのか。結論だけを言えぱ、前者
とに詳論されており、まさにこれは弁証法的矛盾概念の
より接近している。だがそれにもかかわらず、カントは
る。
先駆形態として注目されてきたものである。﹃純粋理性
二偉背反論をさらに推進して︵へーゲル的な意味での︶
極的思想をうち出しており、ここにそのメリヅトがある。
っていないが、これに対し、﹁実在的対立﹂は一つの積
ば非論理の状態であり、対象について積極的には何も語
、 、 、
弁証法的矛盾概念に到達していない。二偉背反とはいわ
批判﹄では、﹁実在的抗争︵まHH審一①老己①易茸票︶﹂、
﹁相互破壊の抗争︵老巨Φ冨旨票まω 薫8冨①−置庄o目實
>σ一U昌昌ω︶﹂などのもとで﹁実在的対立﹂に該当するも
エヅシェ編集の﹃論理学﹄でも﹁実在的対立﹂について
前批判期における﹁実在的対立﹂の概念は、カントが
のが簡単に言及されているにすぎない。またG.B.イ
^フ︺
は論じられていないし、K・ぺーリッツ編集の﹁ぺーリ
^8︶
界および人間にかんする問題を新しい経験論的.︵自然︶
哲学︵老o岸毒邑一葦︶ではほとんど知られていない概念
き﹂において、﹁私はいま数学ではよく知られているが、
試みのなかで形成された。カントは負量論文の﹁ま上疋が
^u︶
科学的な要素を導入することによって解決しようとする
神学的側面を残しながらも、伝統的形而上学が扱った世
ヅツによる序論、序説および存在論﹂においても﹁実在
^9︺
的対立﹂については要約的に述べられているだけである。
それゆえ、﹁実在的対立﹂にかんしては負量論文を中心
カント哲学における弁証法的なものはもちろん以上に
︹負量の概念︺を哲学に関係づけてみようと思う﹂︵ω.
に 考察する必要があ る 。
述べたものに限られないが、さしあたりこの両者︵二偉
^10︶
背反論と﹁実在的対立﹂論︶は彼の思想発展のなかでど
206
(57) カントの「実在的対立」の恩想
ろん直接には、カントは数挙的自然科学としてのニュー
まさにここに﹁実在的対立﹂が成立したのである。もち
﹁負の引カ﹂と解釈している。次章で詳論するように、
Hs︶と述べ、力学の引カと斥カの関係において斥カを
うしてG・クラウスは、K・フィヅシャー、新カント学
﹃純粋理性批判﹄にはこのことは継承されていない。こ
なかで弁証法的世界観に接近したのであるが、たしかに
うに、カントはライプニヅツーーヴォルフ哲学と対決する
の価値をみない。﹁カントnラプラス説﹂にみられるよ
1 ●
トンカ学をいかに哲学的に摂取するかを間題にしていた
派︵W・ヴィンデルバント、E・カヅシーラー︶、F・
史の発展のなかで前批判期を位置づけようとするのでな
デカルトからへーゲル、フォイエルバヅハヘという哲学
った意図をもってそうしたのである。というのは彼は、
H・ハイムぜートのみが前批判期に注目したが、彼は誤
ユーバーヴェーク、Bニフヅセルらを批判する。ただ
のである。﹁実在的対立﹂形成の直接的なきっかけは、
科学史上有名な﹁カントHラプラス説﹂でないかと思わ
れる。カントはニュートン理論を批判的に継承するなか
ズムによって宇宙の生成を説明しようとした。G・クラ
引カと斥カの対立的なカの相互作用という機械的メカニ
く、中世の神学的・観念的な哲学に即して捉えなおした
で﹁天界の一般自然史と理論﹂︵一七五五年︶を著わし、
ウスは﹁カントー−ラプラス説﹂を検討するなかで、﹁こ
にすぎないからである。
ト研究者や一般の哲学史家は負量論文などにはほとんど
の︹太陽系や銀河系の︺発展の原因を彼︹カント︺は対
た﹂と指摘している。
注目していない。
以上のG・クラウスの批判から知られるように、カン
前批判期の負量論文、さらに﹁実在的対立﹂はカント
﹁実在的対立﹂の考察を含む負量論文に何らかの積極
立するカの闘争のなかに、引カと斥カの闘争のなかにみ
研究においてどのような扱いをうけてきただろうか。こ
的言明をする立場として、筆者のみる限り以下のものが
^12︺
の点についてG・クラウスはさらに興味深いことを述べ
ある。
^叫︶
ている。彼によれぱ、従来の研究は前批判期の著作をた
ω 唯物論的立場から自然弁証法や矛盾概念の形成と
^皿︺
んに﹁﹃純粋理性批判﹄への序章﹂とみなし、その固有
207
一橋論叢 第91巻 第2号 (58)
^”−
いう視点で考察する︵A・デボーリン、G・シュティー
^16︺ ^〃︺ ^1畠︶
ラー 、 G ・ S ・ バ チ シ チ ェ フ 、 松 村 一 人 氏 ら ︶ 。
させ、弁証法を否定することになろう。
や﹁転倒﹂の規定をもつへーゲル・マルクス的な弁証法
二種類に区別した。一方は﹁論理的対立︵民〇一£ぎぎ
カントは負量論文において相互に対立している状態を
の意義と限界
的矛盾とをまったく異質なものとみなし、前者を批判す
○電oωま昌︶﹂であり、他方は﹁実在的対立﹂である。
一一 ﹁実在的対立﹂
る︵L・コレヅティ︶。
このさい注意すべきは、前者のみが﹁矛盾︵名巨竃・
② カントの﹁実在的対立﹂と、﹁観念的相亙包舎﹂
㈹ カントは形式論理学の眼界にぷつかり﹁実在的対
^19︶
立﹂をたてたのであるが、彼の問題は数学的論理学とそ
べる。
まずカントは﹁論理的対立﹂について以下のように述
H冒︶。
︷昌g︶﹂と言われるべきだとされていることである︵ω・
れにもとづく力学的・機械的方法によって現代では解決
可能である︵山下正男氏︶。
^2 0 ︶
今までの叙述から明らかなように、筆者の立場は⋮に
られるので︵G・S・バチシチェフを除く︶、第五章で
過大評価とへーゲルの矛眉概念への過小評価があるとみ
肯定され、かつ否定されることに存する。この論理的
的対立とはまさに、同一物についてあることが同時に
これまでただ唯一、注目されてきたものである。論理
﹁第一の対立︵o電畠圧昌︶、すなわち論理的対立は、
松村氏に即してこの点を検討する。ωはまさにωの立場
連 言の結果はまったくの無︵否定的で表現できな
一番近い。ただし⋮には全体として﹁実在的対立﹂への
のもつ問題点を鋭くついているけれども、カントからへ
い無目姜−冨Oqき⋮冒ぎ︷・與鶉竃邑邑㊦︶であり、これ
フェ了ク’’ユ]﹂フフソグ 、 、 、 、 、 、
ーゲル・マルクスヘの発展をまったく否定する点で逆に
明らかに、﹁論理的対立﹂とは矛盾律の禁止する﹁論
は矛盾律の示すとおりである。L︵︷一U芦︶
はさらに第五章を参照︶。倒は分析哲学的であり、サイ
理的矛盾﹂のことである。これに対し、カントの導入し
一面的になってしまっている︵L・コレッティについて
バネティヅクス、システム論などを背景に機械論を復活
208
(59) カントの「実在的対立」の恩想
●・
た﹁実在的対立﹂とは次のようなものーである。
は﹁まったくの無﹂とは区別される何らかの現実的状態
、 、 、 、 、
以下、﹁実在的対立﹂のもつ弁証法的側面を三点にわ
である。
あるものの二つの述語が対立的︵昌晶晶竃oq鶉g斗︶であ
たり指摘する。
﹁第二の対立︵○電畠ま昌︶、すなわち実在的対立とは、
る場合であり、矛盾律による対立ではない。ここでもま
ω ﹁互いに抗争する規定は同一主語においてみ
から明らかであろう。両規定・両傾向は互いに対立し合
い.だされるべきである。﹂︵ω・Hぎ︶これは今までの考察
ヴイー.貞−ンユーライテソ6
た、一方によって措定されるものを他方が廃 棄する。
ゼノソェソ 7ウフヘー,ヘン
しかしその縞果はあるもの︵考えられうるもの8oq一−
、 、 、 、
$巨①︶である。一つの物体を一方の方向へひく力と、
状態めことであって、我々はここに弁証法的矛盾概念の
否定し合い、その意味で能動的に作用し合う二つの力の
このようにして、﹁実在的対立﹂とは、現実に対立し
して同時に可能である。﹂︵董O、︶
相互に矛盾せず、両方のカは一つの物体における述語と
とするものである。ここには、否定的なものを﹁まった
基盤をもち、他の基盤から生まれた﹁善﹂を廃棄しよう
たとえば、カントによれぱ、﹁悪﹂はそれ自身、穣極的
定的︵横極的、。蜆まく︶であらねばならない㌧⋮。﹂︵夢巨︶
的︵き;9篶邑︶たりえない。⋮−すべて両述語とも肯
② ﹁規定が互いに対立している隈り、両方とも否定
いながら、一つのものに属している。
、 、 、 、 、
先駆形態をみることができる。カントは﹁実在的対立﹂
その同じ物体を対立した方向へ同じ強さでひく力とは、
の例として、数学、自然科学を中心として多くのものを
の闘争と統一の恩想︶がある。
みる弁証法︵積極的なものとしての﹁悪﹂、﹁善﹂と﹁悪﹂
と↓、東へ進んだ距離と西へ進んだ距離、正の極と負の
㈹ 両規定は密接不可分の関係にあり、一方は他方の
くの無﹂、たんなる欠如とみず、一つの積極的なものと
極、財産と負債、愛情と憎悪、快と不快、生成と消滅、
固有の他者である。カントによれぱ、借金とは負の財産
あげている。たとえぱ、引カと斥力、作用と反作用、壮
などである。これらの例は、相互に排斥し合う両傾向の
︵否定的財産畠o・きく⑦9耳誉昌︶であり、醜は負の
、 、 、
、 、 、 、 、 、 、
対から成るものであり、現実に相殺し含うが、その結果
209
第2号 (60)
第91巻
一橋論叢
、 、 、 、
対立関係にはいるという意味あいが強いということであ
第一に、両傾向・両側面はたんなる外的結合によって
にも対立物が関連していて、相互に転化し合うという弁
る。上述のように、﹁実在的対立﹂は、﹁一つの物体を一
美︵否定的美色篶篶o目ききωoま夢9け︶である。ここ
証法がある。
方の方向へひくカと、その同じ物体を対立した方向へ同
じ強さでひくカ﹂とが均衡した状態にあるという、カ学
以上の限りで﹁実在的対立﹂は弁証法的側面をもつ。
学的関係以上に出ていないのである。これにくらべて、
まり、カントは当時の科学水準のうえで考えていて、力
すような実在的対立を考察しなかったところにある。つ
み考察し、質的転化、新しいものの発生、発展をもたら
にいえぱ、その結果がゼ回であるような実在的対立をの
として、ぜ口として理解したところにある。もっと正確
﹁カントの制隈は、実在的対立の結果をたんなる相殺
に指摘される。
されている松村一人氏は、この点にかんして以下のよう
いて検討する。対立・矛盾概念について哲学史的に考察
にいかにして新しい事物が生成するのかについては積極
ら、そこからいずれの傾向が優勢になるのか、またさら
は対立する両側面の相対的な静止・均衡の状態であるか
第二に、松村氏が指摘されたように、﹁実在的対立﹂
して捉えようとした。
して生命的有機体、社会、人間などを自己矛盾的存在と
盾的関係ではない。周知のように、へーゲルはこれに対
の関係であり、一つの事物に内在する対立関係、自己矛
するとはいえ、あくまでも二つのものの外的対立・闘争
したがって﹁実在的対立﹂の二側面は、一つのものに属
挙に導入するというカントの意図に直接的に由来する。
的カ関係をモデルにしていた。これは、数学の負量を哲
、 、
へーゲルの意義は、なんといっても対立や矛盾を質的変
^21︶
化、発展の動カとして理解したところにある。﹂
的に示しえない。つまり、﹁実在的対立﹂は事物の生成・
次に﹁実在的対立﹂の不十分性︵非弁証法的側面︶につ
氏のカントおよぴへーゲルの評価に後述の留保つきで
発展・消滅の内在的論理を示してはいないのである。
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、
、 、 、 、 、 、
賛成したい。以下、﹁実在的対立﹂の非弁証法的特徴を
ただし正確さを期するために言っておきたいことは、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
より具体的に三点にわたって述べてみる。
210
〈61) カントの「実在的対立」の恩想
﹁実在的対立﹂は事物の変化や生成を一般的には否定し
態はさしひきして3aになるというのである︵ただしカン
えぱ、快を4a、不快を↓としたとき、そのときの心理状
遣徳的なものにおいても試みている︵ω.畠ε一︶。たと
、 、 、 、
ラスの星雲説﹂においてこのことは明らかであり、また
^”︶
ま︶がすべての変化を可能にする﹂と聖言されている。
なる性質のものである。﹁実在的対立﹂では、カントの
し、他方の傾向をマイナスとした場合、さしひきぜ口に
トは異種の感構同士ではこの計算は不可能と考える︶。
しかしカントの変化や生成の説明の仕方は、﹁世界のす
表現する畠O目きメき昌&篶邑は、﹁負の、マイナスの﹂
﹁べーリヅツによる序論、序説およぴ存在論﹂でも、﹁諸
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
けっきょく﹁実在的対立﹂とは、一方の傾向をプラスと
べての自然的変化において、一致した︵対立的でない︶
という意味を中心にしており、弁証法的な意味での﹁否
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、
項目は加え合わせ、実在的に対立した項目は相殺するこ
してまた、負量論文において﹁カントーーラプラス説﹂が
存の法則に関連するものであるが︶に依拠している。そ
より明らかにするために、まずそれを﹁実在的対立﹂と
カントが﹁論理的対立﹂のもとで理解していることを
ける矛盾律と﹁実在的対立﹂の関係について検討する。
上述の﹁実在的対立﹂の概念を踏まえて、カントにお
﹁実在的対立﹂
定性﹂に十分に到達してはいない。
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
総計は増しもしないし減りもしない﹂︵ω・H章︶という、
﹁実在的対立﹂によってさらに展開されているわけでも
憂︶
ない。前批判期の発展観は﹁独特な機械的弁証法﹂︵A.
比較しながら整理しておきたい。﹁実在的対立﹂とは、
一種の力学的均衡論の命題︵物質およぴエネルギーの恒
デボ ー リ ン ︶ と も 言 う べ き も の に も と づ い て い る 。
、 、 、 、
﹁相対的な無﹂︵ωLS︶・均衡関係が生ずるものであっ
対立する両側面・両傾向が相互に相殺し合って、そこに
た。とにかく﹁実在的対立﹂は、一つの客観的現実の反
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
第三に、対立する両傾向が数量的に表現されていると
三 カントの矛盾律認識と
とによって積極的なものの総計がたてられる隈り、その
々の実在的根拠の対立︵魯①O電o閉ま9α胃肉窒−.9旨.
ないということである。前章で言及した﹁カントーーラプ
●
いうことである。カントはこのことを財産と負償といっ
た計量可能なものに対してだけでなく、心理的なもの、
21j
●
第2号 (62)
第91巻
一橋論叢
映である。そしてたとえぱ、﹁善﹂と﹁悪﹂との﹁実在
あり、かつ暗黒でないということ︵ぎω註﹃自邑邑o罧
の主語においては矛盾である。第一の述語は論理的には
旨卑胃巨&畠ユ9くo易叶竃忌昌oq蚕gm9目︶は、同一
否定的なものであろう。他方、﹁論理的対立﹂も両述語
肯定的であり、第二の述語は論理的には否定的である。
的対立﹂のなかで、前者が肯定的なものであり、後者が
が相互に相殺し合うものであるが、そこに生ずるのは
ただし形而上学的意味においては、前者のみが否定
実をもっていず、したがって考えられもしないと恩った
無﹂といったのは、﹁論理的対立﹂がそれに対応する現
と主張しえたとすれぱ、彼が﹁論理的対立﹂を﹁全くの
こそ、それが﹁考えられうるもの﹂、﹁矛盾﹂でないもの
事情のもとで、同じものに属しかつ属さないということ
知の矛盾偉の定式︵同じものが同時に、そしてまた同じ
という表現は、アリストテレス﹃形而上学﹄における周
ないということは、同一の主語においては矛盾である﹂
﹁同一の意味において同時に暗黒であり、かつ暗黒で
︵9篶乞而σq顯庄O目︶であるが。L︵ω.−S︶
から で は な い か 、 と 推 測 す る こ と が 許 さ れ る と 思 う 。
は不可能である︶に由来するとみられる。カントの言い
の物の二つの述語が矛盾oδ彗︷昌oεによって相互
﹁論理的対抗︵豊①一〇〇口げgo射︷奏畠冒︶では、一つ
な注目すべき指摘をしている。
のであり、﹁明るい﹂は肯定的なものである︵ここでは
而上学的意味においては﹂﹁暗黒である﹂は否定的なも
る﹂と﹁物体Aは明るい﹂という命題においては、﹁形
たいことは、以下のことであろう。﹁物体Aは・暗黒であ
否定的︵否定畠o口きo︶かは、このさいまったく間魑に
であると言えよう。形式論理学的には、前者は肯定判断
は、﹁論理的には﹂前者が肯定的であり、後者が否定的
﹁物体Aは暗黒である﹂と﹁物体Aは暗黒でない﹂とで、
、 、 、 、 、 、
、 、 、 、
に廃棄し合い、そして矛盾によウてその結果をも廃棄す
明と暗の﹁実在的対立﹂が考えられている︶。ところで、
されない。たとえぱ、同一の意味において同時に暗黒で
ずれが本当に肯定的で︵実在﹃$睾鶉︶いずれが本当に
る、といった関係のみが間題にされる。;つのうちのい
、 、 、 、
さてカントは、﹁論理的対立﹂にかんして以下のよう
カントが﹁実在的対立﹂を現実のなかに洞察しえたから
﹁まったくの無﹂、﹁否定的で表現できない無﹂であった。
、 、
、
212
(63) カントの「実在的対立」の思想
は真の否定︹愛に対する﹁論理的対立﹂だということ︺
対立︵︷艘、8算轟皇奉oユωoぎΩ①σq昌註eである。弁愛
である。したがって、﹁論理的対立﹂の肯定︵判断︶お
であるが、しかし愛すべきだという義務を意識している
︵SはPなり︶であり、後者は否定判断︵SはPならず︶
よぴ否定︵判断︶は、﹁実在的対立﹂の肯定︵明るい︶
およぴ否定︵暗い︶とは異種の事態にかかわっている。
によってのみ可能であり、それゆえ、剥奪︵く①目彗−
ときは、この否定は実在的対立︵・審宥向鼻oqooq竃器旨冒oq︶
げ昌o筥︶︹たんなる欠如としての否定でなく、一つの積極
以上のように解釈したうえでカントの主張を矛盾律と
の関係で整理すれぱ、以下のようになる。﹁物体Aは暗
性をもった否定︺としてのみ可能である。そしてこの場
人間を考えてみた場合、この人間のなかにも隣人愛を行
他人の窮乏を救うカをもちながら、それを救済しない
トは以下のように述べている。
が述べていることを要約しておこう。大体においてカン
かり易くするために、以上の引用文より少し前でカント
愛と非愛の関係について説明する前に、事態をよりわ
んに度合の差である。L︵ω.HO。ご.︶
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
合、愛していないということと憎むということとは、た
黒である﹂と一方で主張し、他方で何の脈絡もなく、
﹁物体Aは暗黒でない﹂と主張するとき、﹁物体Aは暗黒
である﹂という一度措定された認識がまったく否定され
破壊されてしまい、そこにはいかなる認識の成果も、論
理的首尾一貫性も存在しなくなるであろう。以上の意味
の﹁諭理的対立﹂を禁止するのが矛盾偉である。これに
対し﹁実在的対立﹂は、客観的現実を反映しているとい
う意味で、矛盾律に抵触しない合理的なものである。
以上の限りのカントの主張はきわめて正当であると言
宣言 し な が ら も 、 次 の よ う な 興 味 深 い 指 摘 を す る 。
的衝動を感じながらも、それを実行しないということを
よぴ闘争の結果である。しかし、心のなかで善への積極
、 、 、 、 、
されているのである。したがって、この人間が他人を救
なう基盤があると考えられる以上、この隣人愛が枠い紛
て首尾﹃貫性をもつ隈り、究極的には矛盾律を守ると考
済しないということは、徳と悪徳との﹁実在的対立﹂お
えるのではないか。どんな認識もそれが一個の論理とし
えられるからである。さらにカントは、矛盾偉の遵守を
﹁愛と非愛︵=Φg昌o峯o葦−−$①︶は相互に矛盾的
213
■
一橋論叢 第91巻 第2号 (64)
くり返していると、ついには心が麻痒して痛みを感じな
くなるものである。このように考えると、積極的行為と
、 、
しての齢衡と、消極的行為としての怠慢との間には絶対
的区別があるわけでなく、たんに度合いの差があるのみ
である︵ω’Ho0N︷.︶。
、 、 、
ここには、隣人愛と悪徳との﹁実在的対立﹂の直接的
結果として生ずる無関心︵剥奪︶と、心の葛藤なしのま
ったくの無関心︵欠如︶との区別が絶対的なものでなく、
前者から後者へと斡俗することが語られている。上述の
愛と非愛の関係もこれと関連づけて考えられる。人間は
本質的に隣人愛をもっていると考える場合、他人を愛し
、 、 、 、
ているか愛していないかという単純な二分法的認識の根
底には、人間関係を愛と憎の対立.葛藤とみる、より深
﹁実在的対立﹂に注目しえたカントの鋭い人間洞察があ
い認識があるというのである。このようなところに、
る。隣人愛という抽象的なものを人間性の基盤におく以
上のカントの議論は、人間を歴史的.社会的存在として
より現実的に捉えていない点で不十分であるにしても、
一応首肯できるものである。実際、他人への愛情の欠如
をより深く分析してみると、そこにその他人への憎悪.
軽蔑をみいだすということはよくあることである。
さて、以上のカントの主張を諭理学的に反省してみよ
う。周知のように、形式論理学では、愛と非愛の関係は、
一般にAと非Aの関係として﹁形式上の矛盾概念﹂に該
当し、一方を肯定すれぱ必ず他方を否定するという関係
にあり、両立不可能である。この意味で、﹁Aを愛する﹂
と﹁Aを愛さない﹂とを同時に同一の観点のもとで主張
する人は、思惟法則としての矛盾律を侵しているのであ
った。しかし、この﹁論理的対立﹂を直接に現実認識の
、 、 、
一つのレベルとみなすと、今までに明らかなように、そ
できわめて硬直した認識だと言えよう︵この意味できわ
れは﹁あれかこれか︵向目碁&胃−Oo宵︶﹂の二者択一的
^刎︺
めて秒前昨かものの見方である︶。他方、﹁実在的対立﹂
は少くとも﹁あれもこれも︵OOO峯O苧≧叩︶﹂という対立
物の統一の認識を、この意味でより柔軟で深い認識を含
んでいる。
四 弁証法的認識と矛盾律
前章までのことから、﹁論理的対立﹂を禁止する矛層
律にかんして、ωいかなる思惟であれ、最低隈守るべき
214
(65) カントの「実在的対立」の恩想
規則としての矛盾律と、②﹁あれかこれか﹂の二分法的
に対して﹁矛盾している﹂あるいは﹁矛盾していない﹂
のへーゲルの例によくみられるように、同一の認識表現
、 、
認識に直結させられている矛盾偉とに区分されると言っ
することになる。このように考えると、矛盾偉と弁証法
と断定される根拠は、矛盾律を運用する認識主体の方に、
具体的には、論理矛盾か否かを判断する主体の認識のあ
、 、 、 、
てよいと思う。このさい、カントに即せば、﹁実在的対
、
立﹂は何らかの意味で超形式論理的であるが、それは矛
り方︵ものの見方.考え方、つまり世界観の問題︶に存
^妬︺
盾偉を侵していないのであるから、ωを守りωを越えて
いることになる。
問題に関連しているが、このことをもう少しわ・かり易く
深く認識していくという観点から認識主体が矛盾偉を柔
現に適用する方向で解決されるのでなくて、現実をより
の関係の間題は、矛盾律を無批判的にさまざまの認識表
、 、 、 、 、
考えよう。たとえば、へーゲルの﹃大論理学﹄を読んで、
軟に使いこなすという面が重要になるのではないだろう
以上の問題はまさに弁証法的認識と矛盾偉との関係の
ある人はそこに深い真理を感じ、その意味で矛盾律はと
具体的内容からさしあたり独立に、すべての認識レベル
はどこから生じたのか。既述のように、矛盾律を対象の
証法とは論理の名に価しない、と考える。一体この違い
偉的に書かれているから理解しがたいのだ、そもそも弁
た︶と考え、さらに別の人は、へーゲルの文章は反矛盾
たんに消極的なものとの関連においてでなく、愛と憎の
立的に考える抽象的な認識レベルから、愛を非愛という
という事態を洞察しえたということは、愛と非愛を非両
、 、 、
件を形成するという観点から、前にあげたカントの例を
現実認識の深浅のレベルが矛盾律適用の基盤・基本条
か。
に妥当する恩惟規則として理解した場合、いかなる論理
︵両立を合む︶対立・葛藤の場面で、その意味で愛をよ
にかく守られている︵それゆえにこそ理解可能であっ
も何らかの意味で矛盾偉を守っていることには異論がな
り具体的な認識レベルにおいて捉えることを意味する。
、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、
ふり返りたい。彼が非愛が憎へと連続的に転化していく
いであろう。恩惟規則としての矛盾律それ自身の理解に
認識レベルの発展が愛をその本質的な様相において顕わ
^%︶
差がないとすれぱ、問題は別な所にあるはずである。先
215
■
第2号 (66)
第91巻
一橘論鐙
にすることを可能にしたのである。こうしてカントは
に言われていることがあげられよう。
触しないことを主張した。この面での正当性は以前にみ
可能である。これはたとえ真なる定義と言えないまでも、
事塞巨ag邑σ黒乏ま﹃ω雫og竃ρ季︶は、内都的に不
﹁自己自身のなかで矛盾しているすべてのもの︵警撃
たとおりである。しかし、﹁実在的対立﹂が非弁証法的
真なる命題ではある。この矛盾のもとでは、しかし、あ
﹁実在的対立﹂の論理を洞察し、なおこれが矛盾律に低
側面を残存させていることを想起した場合、弁証法と矛
るものが他のものと論理的抗争︵まH一〇⑪q一mo訂峯巨彗−
のについて同時に肯定しかつ否定しなけれぱならない、
等等︶の関係に立たねばならない、すなわち、同じも
盾律の関係の問題はまだ金貌を現わしてはいない。とい
うのは、﹁突在的対立﹂が非弁証法的側面を残存させて
いたからこそ、それが矛盾偉にいかなる意味においても
ということが明らかである。﹂
^27︶
以上の主張には二面性がある。既述のように、﹁論理
、 、 、
地があるからである。
的対立﹂は許されないということが一つであり、これは
抵触しないと比較的安易に考えられた、と推定できる余
以上のことをへーゲルの場合と比較すると次のように
一般的に正しい主張であった。もう一つは、いかなる意
、 、 、 、 、
味でも自己矛盾的存在は認められないというカントの現
なろう。カントの﹁実在的対立﹂がたんに外的諸傾向の
対立・葛藤にとどまったからこそ、﹁実在的対立﹂と
実認識であり、問題なのはこの側面である。まさにへー
において矛盾的である︵≧一①]U巨o口o巴己竃まブ邑σ黒
ゲルは、カントと対蹴的に、﹁すべてのものは自己自身
﹁論理的対立﹂はまったく別物であり、前者はいかなる
意味においても矛盾偉に抵触しえない。以上がカントの
論理を形成した。このようにして、カントの﹁弁証法的
皇宗鶉屑8孟巨■︶﹂と断言することによって、弁証法的
^28︺
的・自己矛盾的構造を洞察しえたからこそ、弁証法的矛
矛盾﹂論が﹁実在的対立﹂という過渡的なものにとどま
考えである。これに対し、へーゲルは、事物の自己否定
して、負量論文の前年︵一七六二年一二月︶に書かれた
うたからこそ、矛盾律が自己矛盾を絶対的に禁止すると
盾が矛眉律を侵すと考えた。以上の推定の有力な根拠と
論文﹁神の存在証明の唯一可能な証明根拠﹂で次のよう
216
(67) カントの「実在的対立」の思想
考え、彼が矛盾偉と弁証法とのより深刻な関係に気づか
なかったと推定することは、十分な根拠をもっているの
ではないだろうか。
五 松村一人氏の矛盾論について
最後に、前章までで獲得されたカントの﹁実在的対
立﹂の意義と限界を踏まえて、松村氏の矛盾論について
若干の検討を加えたい。周知のように、氏は矛盾概念、
さらに矛盾律と弁証法の関係について詳細に展開されて
きている。
まず、氏の矛盾偉理解をみよう。氏はアリストテレス
の矛盾律を解釈して以下のように指摘される。
﹁無矛盾偉が否定するのは、たとえぱ、地球と月との
関係についていえぱ両者の間に引カが働いていると同時
に引カが働いていないということである。引力が働いて
、 ^29︺
いるほかに、この引カと反対の方向に働く斥カが働いて
しることを認めるのは、すこしも矛盾律に反しない。﹂
この矛盾律理解は、我々がカントから得たものとまっ
たく同一圭言えよう。カントによれぱ、引力と斥カの
﹁実在的対立﹂は﹁矛盾﹂ではなく、﹁Aである﹂と同時
ことなしには実現されないという関係が存在する。﹂
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ^㎝︺
現の方向に作用し、一方の要求は他方の要求にうちかつ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
方がその同じ或ることの非実現、それと反対のものの実
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
一方が或ることの実現の方向に作用するのに対して、伽
、 、 、 、 、 、 ^ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
的抗争である。−−すなわち、現実的矛盾においては、
、 、 、 、 、 、 、 、
的非両立性ではなくて、現実的な非両立性であり、現実
﹁現実的矛盾とは、もっともかんたんにいえぱ、論理
的矛盾﹂を次のように規定される。
盾﹂を通じての氏の現実認識の深さである。氏は﹁現実
問題がないとすれぱ、次に検討さるべきは、﹁現実的矛
前章で指摘したように、以上の意味での矛盾律理解に
るのも正しいと言えよう。
の矛盾偉を弁証法的矛盾が舟樹昨p侵さないと考えられ
にこのように呼ぱれる︶とを区別され、思惟法則として
理的矛盾﹂と﹁現実的矛盾﹂︵氏は弁証法的矛盾を一般
るが、この点には言及しない︶。同様にまた、氏が﹁論
^30︺
︵氏は矛盾偉の存在反映の側面についても述べておられ
あった。この隈りで、氏の矛盾律理解はまったく正しい
に﹁Aでない﹂、﹁非Aである﹂と言うことが﹁矛盾﹂で
○
氏はまた﹁現実的矛盾﹂を、相反する方向に働く諸条
217
‘
第2.号(68)
第91巻
一橋論叢
^ 羽 ︺
件の、﹁カ関係の所産﹂として説明される。氏は、マルク
スの﹃資本論﹄、毛沢東の﹁矛盾論﹂に依拠して、﹁現実
的矛盾﹂の例として、おもに社会の矛盾、それもとくに
階級的矛盾を列挙される。たとえぱ、資本主義社会の基
本的矛盾としての生産の社会的性質と所有の私的性質と
の矛盾、社会主義と帝国主義との矛盾、戦争勢カと平和
勢カとの矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、独占資本と
人民との矛盾、さらに中国において明確に提出された人
^33︶
民内部の諸矛盾などである。
筆者は第二章で引周した松村氏のカントに対する評価
に基本的に賛成したが、氏の﹁現実的矛盾﹂の性椿を明
らかにするために、それをカントの﹁実在的対立﹂との
現Lに作用すること、両者の﹁カ関係の所産﹂などとさ
れている点で、カントの﹁実在的対立﹂のもとで展開さ
れていたこととそれほど変わりがないと言えるのではな
いだろうか。たしかに、現実の社会が食うか食われるか
の力関係で動いていることは一定の事実であるが、現実
認識をそういった外的対立・外的カ関係という現象論的
、 、 、 、
レベルにとどめておくことは、正しくないであろう。氏
の言う﹁現実的矛盾﹂では、たしかに両傾向の反発的関
係は捉えられているが、両者の相互依存︵統.一性︶の面
はなお希薄である。しかし対立しているものが統一して
いるからこそ、矛盾と言われるのである。
、 、
第二点は、﹁実在的対立﹂が両傾向のたんなる相対的
静止の、均衡的な関係であるために、そこから新しいも
のの発生・発展が内在的に導出されえない、ということ
対比で論じてみたい。
第二章では、﹁実在的対立﹂の非弁証法的側面が三点
であった。松村氏がカントとへーゲルの区別をこの点に
はないだろうか。というのは、事物が本来的に自己矛眉
ものが生成する客観的必然性を十分には示しえないので
産﹂としてのみ理解するならば、そこではやはり新しい
ば、氏のように、弁証法的矛盾を外的た﹁カ関係の所
みていることには基本的に賛成する。しかしさらに言え
にわたり総括されていた。第一点は、﹁実在的対立﹂が
たんなる外的対立にすぎず、そこでは事物自身の白己矛
盾的関係が述べられていないということであった。とこ
ろで松村氏の﹁現実的矛盾﹂を検討してみると、それが
﹁現実的な非両立性﹂、﹁一方が或ることの実現の方向に
作用するのに対して、他方がその同じ或ることの非実
218
(69) カントの「実在的対立」の恩想
生成の客観的必然性をやはり示しえないからである。
するというのであれぱ、古い裏物の滅亡、新しい事物の
というのでなく、たんにカ関係を優勢にして相手を打倒
的なものであるがゆえにその矛盾を表面化して滅亡する
盾概念とマルクス圭義のそれとの違いは述べることはで
場の不十分性が明らかになった︵ここではへーゲルの矛
概念と同一視し、へーゲルの矛盾概念を軽視する氏の立
ントの﹁実在的対立﹂をほとんどマルクス主義的な矛盾
以上で松村氏の矛盾論の検討をおわる。こうして、カ
﹁実在的対立﹂←人間理性における二律背反論←へ−ゲ
、 、 、
的に表現されていて、そこにさしひき勘定が行なわれて
第三点は、﹁実在的対立﹂では、対立的両傾向が数量
きない︶ぴけっきよく、︿伝統的論理学の矛盾律的思惟←
ル的矛盾概念←マルクス・エンゲルス的矛盾概念﹀と展
いるということであったが、松村氏の﹁現実的矛盾﹂に
はこのような理解はない。
して外的対立へ転化していくのかという視点が不十分で
としてみる観点、さらに事物の内的矛盾・対立がいかに
このことはたんに松村氏一人の間題ではなく、東独の
平板なものにしてしまっているように思われる。しかし
さらにマルクス.エンゲルスの矛盾概念も何か機械的で
開される矛盾概念形成史1いまはたんに構想の提示に
ある。簡単に言えぱ、氏の﹁現実的矛盾﹂とは、カント
W・ハーリッヒ、P・リンケ、ポーランドのK・アジュ
以上のようにして、松村氏の﹁現実的矛盾﹂は、﹁実
の﹁実在的対立﹂に外部から、矛盾による生成・発展・
ケヴィチ、A・シャフらもへーゲルの観念論を批判する
在的対立﹂の非弁証法的側面の第一点と第二点を十分に
消滅というへーゲル的見地を付加したものにすぎない。
ントからへーゲルヘの発展に無理解であることによって、
そしてまた、矛盾律との関係で言えぱ、氏が以上のよう
あまり、カントの﹁実在的対立﹂を実質的にマルクス主
^糾︺
義的矛盾概念の位置にすえてしまっているのである。だ
のみとどめたい1の全体を視野に入れた場合、氏はカ
な弁証法的矛盾論を唱えられたからこそ、力。ントと同様
が、﹁実在的対立﹂が金体的にどのような性椿のもので
克服していないと考えられる。氏には、事物を自己矛盾
に、弁証法的矛層がいかなる意味においても矛盾偉に低
あるかは本稿が示したとおりである。
、 、 、 、
触しないと考える結果になった、と推測されるのである。
219
−
一橘論叢第91巻第2号(70)
ついて;冒したい。ソ連・東独型の﹁ディアマート﹂お
最後に、イタリアのマルクス主義者L.コレヅティに
れたとおりである。
半弁証法的と圭言えるものであったことは、本稿で示さ
よぴイタリアのD・ヴォルペに対して、L・コレッティ
が彼らはカントの﹁実在的対立﹂とへーゲル.マルクス
テキストは穴ρ自“.血oqo超昌昌9冨ωo−ユ津opす胃寧自品o困o.
σ書く8宍α邑oq=g弔冨邑−呂す彗>片邑o昌庁急﹃ミ家昌.
8臣津竃を使用し、負量論文︵Up目所収︶については、
用する。
<o冒冒津にっいては勺⋮易毛巨ωo5団〇一︺旨o昏艮版を使
引用文の頁数を本文中に記す。なお肉ま寿ま﹃篶ぎ旨
と同一視していると批判するのは、根拠のあることであ
^筆 ザイーダーツラルーフ
を通じての﹂対立であり、﹁Aかつ非A﹂と定式化される。
対立する両項は各々、他項のなかに自らの本質をもち、
それゆえそれ自身として非自立的であり否定的である。
ヴイーダーツユプルーフ
これに対し、﹁実在的対立﹂とは﹁矛 盾なしの﹂
対立であり、﹁AかつB﹂と定式化される。そこでは両項
は各々たんに肯定的であり実在的であり、それ以上の密
接な関係を形成しない。﹁実在的対立﹂では矛盾偉も危
くされない。弁証法的矛盾と﹁実在的対立﹂を明確に区
別する限り、以上の特徴づけは妥当する。しかしL.コ
レッティは彼の言う﹁ディアマート﹂に反発するあまり、
くて、純粋理性の二律背反です。すなわち、﹃世界は始元
をもつ1世界は始元をもたない、などから、第四の二偉
背反︵人間には自由がある−これに対して、自由は存在
せヅ、人間におけるすぺてのものは自然必然性をもつ︶﹄
に至るものです。この二律背反は、私をはじめて独断的仮
睡から呼ぴさまし、理性そのものの批判へ向かわせたもの
であり、こうして一見、理性の矛盾のようにみえる陥穿を
■雷σ冒oqoI冒段gω毛.HN凄二三︸o・×■一ω・豊㎞・︶さ
とり除くことができたのです。﹂︵>目O∼柔ぎ目O彗く9内α.
らに書胃o冨=o冨あての書簡︵くoq一.民p戸㎝.N呂申︶
および言冨⋮団而昌昌冒あての書簡︵くo司一.唱、睾二uo・
をみうしなってしまった。しかしカントの﹁実在的対
︵4︶肉弩けoやoぎ︸壮室・
︵3︶冒P
︵2︶ 穴葭目ご内H岸津o0H冨巨o目くo﹃■自目津・>−胃・
富oo声︶を参照されたい。
立﹂が弁証法的矛層概念の先駆形態であり、その意味で
−
両概念をまったく分断し﹁実在的対立﹂の弁証法的性楕
︵1︶ ﹁−私の出発点は神の存在や不死などの考察ではな
る。彼によれば、弁証法的矛盾とはまさに﹁矛 盾
的矛盾概念とを区別せず、﹁実在的対立﹂を弁証法的矛盾
、
220
︵勤草書房、一九七六年︶ 筆者はこの著作に多くを負
︵14︶ たとえぱ、浜田義文氏は﹃若きカントの思想形成﹄
︵13︶ くσ〇一−o〇一9一二ω一H×−×H一
学﹄の﹁予備概念﹂の項において、形式論理的︵悟性的︶
︵5︶ へーゲルはこの事態を鋭く洞察した。彼は﹃小論理
あることを示した。く阻一昌晶阜向目N︸匡O勺脾邑O’ω巨巨−
段階から二律背反的︵弁証法的︶段階への移行が必然的で
、 、
九四頁︶を与えておられるのみである。さらにまた、﹁弁
うているけれども−において、負量論文に半頁少し︵二
、
︵6︶ カントは負量論文において、﹁実在的対立︵晶巴oO勺−
岸酉冒ラ吻s−ooH一
ルトマンの﹃カントにおける人間・共同体・世界﹄︵三島・
証法の歴史の研究﹂︵傍点筆者︶という副題をもつL・ゴ
伊藤訳、木鐸社、一九七七年︶においても、負量論文には
○畠旨O目︶﹂と同意味で射窒−O■盾晶O冨黒N一冒O司一勾㊦巴;筥﹄O盲−
量冒などを使用している。以下において代表的に﹁実在
の論理学﹄という煙の著作においてさえも、﹁実在的対立﹂
一頁弱がさかれているのみである。そしてまた、﹃カント
は論じられていない︵宛。ω巨巨目與昌−■器尿ド宍顯鼻叩■o−
︵7︶く胴一.肉彗戸o勺−oぎ︸So︷二ωS︷.二畠仁署1
的対立﹂と呼んでおく。
︵8︶<。q一.宍彗15。・戸塞−買1
oq寿一■曾=自・オo≦くo﹃ぎ岩ぎ︶。
︵10︶ カントの社会思想における弁証法的要素については、
宇宙生成論がたてられている︶がドイツ哲学における弁証
対立的諸カの闘争の原理︵それら諸原理のうえにカントの
︵∬︶ ﹁しかし実在的対立の原理、発展の観念の原理および
︵9︶ <o胃−一穴印目戸向ぎ−乱旨目o目一勺Ho−ooqo昌o目串自目oO目“o−ooローo
芝囲進午﹃実践的唯物論の根本間題﹄︵青木書店、一九七
い。﹂︵>1O&冒貝皇O冒巴県け寿げ9宍彗け二三峯胃苧
法の発展の最初の段階を示しているということは、凝いな
墨9勺警葺田P×××HHH一目1−ω.︸8い
いただきたい。
田oユぎH8>ω.ミーooω。福田訳﹃弁証法と矛層﹄音木書
︵16︶ <oq−.ρ ω茅巨員 U胃昌顯−昆まo−嵩峯匡o易肩9巨一
同目唱一m>﹃o巨‘司﹃竃罵自﹃斤芭−旨.一■彗ρ−ω.・o企−︶
九年︶の第一部皿﹁カントと社会科挙の間魑﹂を参照して
︵11︶前批判期の諭理思想の形成︵それは﹁根拠・理由
については、拙稿﹁カントの論理恩想における形式論理か
︵〃︶ G・S・バチシチェフ﹃矛盾と弁証法﹄合同出版、一
店、一九七二年、七五−八三貫。
︵Ω昌邑︶﹂をどのように解釈するかを大きな問題とする︶
ら﹃弁証法的﹄論理への発展﹂︵﹃一橋研究﹄第三七号、一
とり扱いはきわめて示唆的であり、﹁実在的対立﹂的発想
九六九年の第;早第八節を参照。本書における矛盾問題の
九七七年所収︶の第二章を参照していただきたい。
︵12︶ ρ匿書yヨ自−o雪冒o目豊一内彗冨向﹃書餉oζ津oPbP
ピ田曾=Pら9一ω一■−×一
221
カントの「実在的対立」の思想
(71)
一橋諭叢 第91巻 第2号 (72)
︵18︶ 松村氏の矛眉諭は第五軍で検討される。氏の矛盾概念
を﹁﹃弁証論的﹄区別立圭義﹂として鋭く批判する。
認識がある。ということを付音目しておきたい。
礎にして後者の相対的独自性をみるという、筆者の矛盾偉
︵26︶ 本稿ではへーゲルの矛盾概念については具体的に展開
造﹂︵岩崎尤胤編﹃へーゲルの思想と現代﹄汐文社、一九
されない。この点にかんしては、拙稿﹁矛層概念の基本構
形成史論については出・粟田編﹃岩波講座・哲学﹄w︵哲
〇頁が詳しい。
︵31︶
前掲論文、八二頁。
松村一人﹁現実的矛盾について﹂、八三員。
○やo−“二
ω一
︵一橋大学助教授︶
㎞1oo.
U昌冨goNo豪o−旨岸h旨、巨−o蜆毛︸9=o亭︵Hゆ3一ω.
<oq一.N.ω.一≦−匡胃⋮o戸巾oξ晶N胃■oo目寿−oo訂昇9
前掲論文、八○1八一頁を参照。
︵32︶
照していただきたいo
︵﹃恩想﹄三八五号、岩波書店、一九五六牢七月所収︶を参
︵30︶ この点については同右﹁。﹃矛眉律﹄と弁証法的矛盾﹂
︵29︶ 松村一人、前掲論文、八一頁。
N干
︵28︶ 匡oo司♀名一窒o冨o巨津o萬■oo日寿戸ω旨Hぎ目?oo.
UO昌O冨け量己Oコ創鶉U鶉Oぎ餉ΩO津鶉−田ユーH−ω’ミー
︵27︶ 穴彗1U害&冨何昌αo口=o=o籟署o尿oq⋮己昌9篶﹃
八二年所収︶を参照していただきたい。
学の概念と方法︶、岩波書店、一九七一年、二〇九−二三
︵19︶ <o.F ■−Oo=黒耳峯胃辻蜆昌嘉昌o冒巴昆匡ぎぎ一
6ミ一
冒害邑蜆目冨;o冒巴o匡汗一睾昌窯冒︵峯・ω巴ぎ・ミポp
︵20︶ なお、山下氏はドイツ観念論を﹁反機械論的ロマン主
義恩想﹂と特徴づけ、へーゲルについては﹁理解に薔しむ
二巻、理想社、一九七三年所収の﹁解説﹂二九二、二九三
あの不合理な体系﹂と金面否定される︵﹃カント全集﹄第
︵21︶ 松村一人﹁現実的矛盾について﹂、﹃弁証法と過渡期の
頁を参照︶。
︵22︶ 内顯自戸目−己o津自自o筥一弔Ho−価oqo昌昴冒臼自﹃巨lO目叶o−o阻血1。目凹oす
問題﹄法政大学出版局、一九六七年、八七頁。
弔α章ぎω.㎞㎞o−
百一
︵34︶
︵33︶
︵23︶ >.U&oユξoo.9庁−一ωIHド
︵お︶<。・一. ■一〇〇自①暮一
N0㎞︷−
︵脾︶ このレペルでの対象認識を行なう思惟は、周知のよう
のである。
に、エンゲルスによって﹁形而上学的思惟﹂と言われたも
︵妬︶ このような理解に対しては、矛眉律について対象反映
の側面と思惟規則の側面とを区別しつつ・しかも前者を基
222
Fly UP