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東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史

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東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史
―― 成瀬巳喜男の『浮雲』とゴジラの歩いた戦後の東京 ――
猪 俣 賢 司
プロローグ ― 母国の首都,失われぬ東京 ―
「内地も変わったわねえ。こんなに変わってるとは思わなかったわ。」,「敗戦
(1
)
成瀬巳喜男の映画『浮雲』
(1
だもの,変わらないのがどうかしてるさ。
」
955
年,東宝,林芙美子原作)で,仏印(佛領印度支那)のダラットから東京に引
き揚げてきた幸田ゆき子(高峰秀子)と富岡兼吾(森雅之)の二人はこう語る。
敗戦後の「東京」と憧憬の「南洋」
,この両者の現実と過去を往き交う『浮雲』
の戦後日本の姿は,
『ゴジラ』
(1
954年,東宝)の,言うなれば,陰画でもある。
『ゴジラ』を撮った撮影の玉井正夫は,その翌年,
『浮雲』を撮った。『浮雲』と
『ゴジラ』は,同じ撮影の玉井正夫を始め,実は,
「成瀬組」によって製作され
た映画であり(2),「帰る」べき東京であると同時に,「帰る」ことができなかっ
た東京を描いている。ゆき子は,屋久島で死んだ。ゴジラは,
(東京湾,或い
は,太平洋,房総沖と推測される)海で殺された。ゴジラは,フィクションで
あって,フィクションではない。
「敗戦」を引き摺りながらも,そして,
「南洋」
の思い出を紡ぎながらも,立ち直ろうとする戦後東京の現実を刻んでいるので
ある。
『浮雲』と並べて見てみると,
「南洋」と「東京」を往復する怪獣ゴジラ
の記憶は,帝国日本の歴史の痕跡であると同時に,夢幻能の中で,南洋と東京
を去来する「浮雲」のようでもあることが分かる。
『ゴジラ』と『浮雲』は,片
や怪獣映画,片やラブ・ロマンスとも称せられるが,同一の歴史を描いたもの
であり,表裏一体の関係にある。
小津安二郎『東京物語』
(1
953年,松竹)の「はとバス」のシーンは,前年の
成瀬巳喜男『稲妻』(1
952年,大映)冒頭の「はとバス」をなぞったものであ
系113
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
る。1
954年のゴジラが,何故,この中央通り(銀座通り)を歩くのか,1950年
代のこれらの映画の中に置いてみた時,その意味が透けて見える。「大東京」の
「名所見物」でもあったのだ。ゴジラの「東京遊覧」は,「帰る」ことを望んだ
故国日本の復興する姿が,しかし,未だに暗い東京の姿が,そこにはあった。
「銀ブラ」するゴジラを阻もうとする戦車隊など,そこにはない。明かりの消え
た夜の銀座を,ゴジラはゆっくりと歩く。そして,
『ゴジラ』の「逃げ惑う人々」
が駈け込む「路地」も,成瀬の撮った戦後東京の「路地」に他ならない。映像
史的に見れば,しばしば戦争の影を隠蔽した小津よりも,成瀬やゴジラの方が,
「敗戦」を意識させているとも言える。
『ゴジラ』は,東京を舞台に,その敗戦
国日本の戦後文化史を描いているのである。
東京は,常に変わり続けている。明治の近代化によって変わり,関東大震災
によって変わり,敗戦によって変わり,高速道路の建設によって変わり,そし
て,今も変わり続けている。
『ゴジラ』の時代の景観を復原し,その中にゴジラ
を置いてみることは,今となっては相当の困難をも伴うものだが,抽象論とし
ての都市破壊などではなく,東京のどこを歩いたのか,東京の何を壊したのか,
固有の都市である東京との関係を問うためには,必要なことでもある。
ゴジラの「東京遊覧」は,戦後,人口が集中する東京にあって,当時の東京
見物・東京案内の流行や需要をなぞっているのは言うに及ばず,歌川広重の浮
世絵『名所江戸百景』
(1
85658年)にも溯ることのできる,江戸東京の「場所」
という都市空間の固有性とも深く係わっている。また,ゴジラによって顕在化
した,近現代の東京の「名所」もある。母なる首都東京は,敗戦後,幸田ゆき
子が言う「こんなに変わってる」姿を晒した。が,同時に,その姿を変えるこ
とによって,失われるどころか,逆に,何時までも追い続ける「郷愁の空間」
として,今も生きている。品川は品川だし,新橋は新橋だし,銀座は,東京都
中央区の銀座しかあり得ない。全国に銀座の「見立て」はあっても,
「想う」の
は,今昔を問わず,そして,たとえ「帰る」ことが叶わずとも,この東京の銀
座である。だから,昔を返す衣手に,跡懐かしき景色を再現する意味も,そこ
にある。
有楽橋架道
ゴジラが上陸した品川と,ゴジラが破壊した有楽町高架線(第1
系114
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
橋)については,既に述べた(3)。本稿では,芝浦に再上陸したゴジラの歩いた,
第一京浜(国道1
5号)から,芝,新橋,銀座にかけて,そのルートを追跡する
ことによって,何が「名所」
(ゴジラの「歌枕」
)であったのか,何が失われぬ
東京であったのか,ということを考えてみたい。
「都鳥」を歌う『伊勢物語』に
始まる東海道の想像力(4) は,時を経て,広重,小津,成瀬らによって,東の
都・江戸東京の構図が描かれた。その東京に上陸したゴジラにとって,「郷愁の
空間」とは一体何であったのか,ということを問うものである。『浮雲』と『ゴ
ジラ』の描く,
「南洋」と「東京」とは何であったのか,そして,東京大空襲を
経て猶,失われぬ帝国の首府たる面影が,ゴジラの歩くこの暗い東京の中に見
出せるのか,ということでもある。
Ⅰ. 戦後東京の風景とゴジラ映画 ― 帰りたかった祖国の姿 ―
新橋のゴジラと描かれなかった高架線
『浮雲』
(1
955年)に登場する昭和21年(1946年)の東京は,闇市(ヤミ市)
のごった返す池袋を主な舞台としている。映画では,小津の作品のように,東
京のランドマークが実景として映っている訳でもなく,原作の小説や映画の台
詞からしか,そこが池袋であるとは判断できない。仏印から帰国した幸田ゆき
子(高峰秀子)の泊まった「ホテイ・ホテル」があった場所だ。小津安二郎の
『早春』
(1
956年,松竹)では,池袋の東横デパート(1950年開店,1964年,現・
東武百貨店の別館として併合,豊島区西池袋一丁目)が一瞬出てくるが,池袋
駅西口の闇市(戦災復興マーケット)が取り壊されたのは,1
961年になってか
らのことである(5)。小津が決して撮らなかったものを,成瀬巳喜男(1
9051969)
は,セットで再現してまで撮っている,敗戦後の東京の姿である。そして,池
袋と並んで東京最大の闇市が形成されたのが,新橋である。1
946年には,既に
闇市の取り壊しは始まったが,新橋駅西口は,1
954年当時,場外馬券売場のあ
る盛り場としてごった返していた(6)。烏森口は,1
971年,闇市の跡地に,ニュー
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新橋ビルが竣工した今でも,ごちゃごちゃしている。
『ゴジラ』
(1
954年)で,芝浦に再上陸したゴジラは,札の辻(第一京浜)附
近で暴れた後,新橋にその姿を現わした。そこが新橋だと分かるのは,脚本に
(7
)
とあるからで,映像から判別することは多分無理だろうし,合成
「新橋附近」
で映っている二棟のビルを特定するのは(現在,探索中ではあるが)尋常では
ないからだ。しかし,ゴジラが現われるようなビルのある場所で,新橋だとし
たら,それは,新橋一丁目だろうという感覚がある。有数のビル街が形成され
たのが,丸の内,有楽町から,内幸町,新橋一丁目附近にかけて(8),つまり,
京浜線の走る鉄道高架線の山側(西側)で,且つ,二葉橋架道橋の架かる外堀
通りより北側に広がる一帯であるからだ。実は,絵コンテでは,左に煉瓦の鉄
道高架橋,右に二棟のビルが描かれている(9)。高架線沿いだということが分か
るのである。そのビル越しに,ゴジラの顔が現われるのだが,この様な場所は,
新橋駅より南の高架橋附近にはなく(しかも,浜松町駅手前からは高架でなく
なる)
,北寄りの高架橋に沿った西側に該当する。また,鉄道高架線の海側(東
側)には,1
954年当時,まだ,文字通りの外濠(外濠川)があった(数寄屋橋
を経て,土橋まで続いていた)ので,西側でなくては,絵コンテのようにはな
らないだろう。
この有楽町駅・新橋駅間の西側の光景を,戦前,撮っていたのが,小津の
『青春の夢いまいづこ』(1
932年,松竹)であった。両駅間を走行する車輛から
見える帝国ホテルなど,流れる車窓の風景のみならず,新幸橋の高架線越しに
(「眼下の高架線」と脚本で言われるもの)
,当時の仁壽生命保険株式会社の本社
建物(1
940年,野村生命保険に合併され,1954年当時は,東京生命保険相互会
社,現・千代田区内幸町一丁目5
2)を見ているのである。日比谷通りの旧・芝
田村町一丁目附近(都電の田村町交叉点,現・西新橋),及び,高架線に沿った
場所としては,現在の新橋一丁目から内幸町一丁目にかけて,東京電力本社ビ
ル(1
951年発足,現・東電東新ビル,港区新橋一丁目113,旧・芝田村町一丁
目,現在の東電本社ビルは,千代田区内幸町一丁目1
3),新橋第一ホテル(1938
年,東洋最大のホテルとして開業,現・第一ホテル東京,港区新橋一丁目2
6)
などの建物が,戦後,建ち並んでいて,この界隈が,新橋駅附近のビル街を形
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東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
成していたのである。
『ゴジラ』のシーンは,合成で作られたものであるが,こ
の界隈の雰囲気を再現しており,パトカーがゴジラの熱線(初代ゴジラでは「白
熱光」
)で炎上したのは,新幸橋から外堀通りの何れかの交叉点であろう。ゴジ
ラの現われた「新橋附近」とは,嘗て闇市でごった返し,そして,1
954年当時
も,場外馬券売場としてごちゃごちゃしていた,新橋駅前(西口広場,烏森口)
附近やその南寄りの一帯ではなく(東側はまだ汐留駅),新橋駅北西側のビル街
であったということである。
新橋駅は,烏森町橋高架橋に載っかる駅である。そこから,有楽町駅に向
))
,二葉町橋高架
かって,順に,二葉橋架道橋(二葉橋ガード,東海道線(9
)
)
,内幸町橋高架橋,内幸橋架道橋
橋,幸橋架道橋(幸橋ガード,東海道線(8
)
)
,内山下町橋高架橋と連なっている(10)。新橋に
(内幸橋ガード,東海道線(7
続いて,後で述べるように,銀座七丁目に姿を現わしたゴジラは,恐らく,そ
の二葉橋架道橋を壊して,外堀通りに沿って新橋駅の東側に回り,中央通り(銀
座通り)に入ったはずである。二葉橋架道橋のシーンは,映画にはない。『ゴジ
ラ』に表現された鉄道橋は,京急本線の八ツ山跨線線路橋の他には,浅草の松
屋を背景として隅田川に架かる東武伊勢崎線の鉄橋と,前稿で述べたように,
有楽橋架道橋である。しかし,ゴジラの移動経路から考
晴海通りに架かる第1
えると,八ツ山,田町,新橋,有楽町,上野,1
954年の『ゴジラ』では,少な
箇所に上る京浜線(現・京浜東北線)の線路が,ゴジラによって破壊さ
くとも5
れているはずである。
都市の中央部を南北に縦貫する鉄道高架線の存在と,それに沿ったビル街の
形成は,帝都東京の近代化遺産でもある。京橋からの遠景として捉えられたゴ
ジラの足下では,その新橋の高架線沿いが,炎に燃えていたのである。
歌川広重の江戸とゴジラの東京
ところで,歌川広重(1
7971858)の時代に京浜線(東海道線)が通っていた
としたら,その鉄道高架線が描かれていたであろう絵が,広重の浮世絵『名所
江戸百景』(1
85658年)には何枚かある。その一つが,「山下町日比谷さくら
系117
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(1
1
)
田」
である。山下町とは,現在の銀座六丁目の西端附近にあった旧町名だが,
広重の絵は,有楽町駅・新橋駅間の内山下町橋高架橋から,現在の東京宝塚劇
場と帝国ホテルの間の道路を垣間見て,日比谷公園を望む構図に相当する。数
寄屋橋御門,山下御門,幸橋御門が,江戸城の外濠に沿って,つまり,今の京
浜東北線に沿う形で並んでいたのだが,ゴジラも,広重も,小津も,それぞれ
嘗ての御門を通る東西の通り一本違いで,東から西へ,この南北に走る鉄道高
架線と直交し,交差する視線を持っていたということになる。晴海通りを西進
有楽橋架道橋を壊すゴジラ,山下町から肥前佐賀藩(鍋島氏)松平肥前
し,第1
守の上屋敷(現・日比谷公園)を望む広重,そして,幸橋架道橋(新幸橋)か
ら仁壽生命を眼下に見る小津,この三者の視線は,分かり易く言うなら,それ
ぞれ北から順に,ザ・ペニンシュラ東京,帝国ホテル,第一ホテルアネックス
脇の通りを,何れも,海側から皇居側を望む方向で,京浜東北線を横断してい
るのである。
この偶然の一致は,示し合わせて為されたはずはなく,しかし,単なる偶然
と言うよりは,江戸東京という都市の空間感覚が,その様な一致を生じさせて
いるのである。鉄道高架線の東側は,町人地の下町(銀座),西側は,大名屋敷
(ビル街)である。この視線の方向は,
『名所江戸百景』の「日本橋雪晴」,「八
ツ見のはし」
,
「市中繁栄七夕祭」などに見られるように,下町から江戸城を挟
『早春』(1
んで富士山を望む方向に相当する(12)。
956年)などの小津の映画で言
うなら,東京駅を挟んで丸ビルと新丸ビルを見る感覚である。旧・新橋駅(後
の汐留駅)から銀座の中心部を経由せず,わざわざ烏森駅(現・新橋駅)を作
り,有楽町に迂回して,東京駅(東海道線開通当初は呉服橋駅)まで通したこ
の東京高架鉄道を,有楽町高架線と呼ぶならば,このラインの東側の銀座は,
自然と足が向く方向性を持ち,逆に,銀座から有楽町高架線を挟んで西側の方
向は,
「見る」ものとして目が向けられる方向性を有しているとも言える。しか
し,東西の方向性はここで措くとして,この有楽町高架線は,前稿で述べたこ
とではあるが,最も東京らしい近代風景の一つであり,よく描かれるトポスと
なっていると同時に,江戸東京の風景を生成する基準線の一つとなっているこ
とが,ここでも分かるのである。東海道であるから,当然と言えば当然でもあ
系118
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
ろうか。尚,基準線のもう一つは,隅田川である。
都市を縦断する鉄道高架線の存在が,現在に至るまで,日本の首都東京の特
異性を表していることは,奇しくも,東京ディズニーシー(TDS)のアトラク
ション「ディズニーシー・エレクトリックレールウェイ」の存在にも現われて
いる。この様な高架鉄道のアトラクションは,アナハイムやオーランドの米国
ディズニー・リゾートなど,世界のディズニーランドにはなく,日本にのみ存
在する独自のものである。
現在の新橋駅-有楽町駅-東京駅に架かる巨大と言ってもよい鉄道高架線
線)は,煉瓦造り連続アーチ式高架橋として,戦前から帝都東京の
(四複線,8
都市の景観を構成しているものであり,欧米には,現在では,殆ど例がない。
有楽町高架線は,東京に固有とも言える都市鉄道の景観を形作っているのであ
る。嘗て,ニューヨークのマンハッタン島にあった高架鉄道は,現在はもう存
在せず,東京ディズニーシーのアメリカン・ウォーターフロント発着の「ディ
ズニーシー・エレクトリックレールウェイ」が,唯一それを現在に具現してい
ると言ってもよい。永井荷風は,ニューヨーク(紐育)で,
「ブロードウエーか
シキツスアベニユー
(1
3
)
(
『あめりか物語』,1
など,マンハッ
ら,高架鉄道の走ている第六大通」
908年)
タンからブルックリンの高架鉄道についても記しているが,1
900年代の初頭
に,交通渋滞を解消するために高架化された鉄道路線も,逆に,都市の景観を
損ねるものとして地下鉄化されてしまい,現在では,ハドソン川に沿った Hi
g
h
Li
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(1
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hAv
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)にその痕跡を僅かに留めるばかりとなっている。高架鉄道
として有名な,マサチューセッツのボストン高架鉄道(Bo
s
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o
nEl
e
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a
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e
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)
も,多くの区間が地下鉄化されている。米国鉄道史が嘗て実現していた都市の
鉄道高架線の景観は,東京ディズニーシーと荷風の『あめりか物語』が,その
記憶を刻んでいる。また,パリのバスティーユ附近(Ru
ed
eLy
o
n
,Av
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)に も,高 架 橋(v
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)の 跡 だ け が 見 ら れ る(Ba
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l
a
n
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é
e
)
。ゴジラが壊した有楽町高架線には,この様な比較文化史も
隠れていたのである。欧米では,高架線の美しさが理解されなかったが(14),日
本では,都市の近代風景として,忌避されることなく,現在に至っているので
ある。この有楽町高架線を,私は美しいと思うし,江戸東京の都市の伝統的内
系119
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部構造を,寧ろ活かしているのではないだろうか。
『ゴジラ』に描かれた東京と『名所江戸百景』に描かれた江戸は,共通してい
るものが,後で述べるように実は意外ではないのだが,多いことに気付く。「芝
うらの風景」は,隅田川河口から,右手に浜離宮,左手に港の澪筋を示す御留
杭を配し,芝浦の海から袖ヶ浦(高輪の海)
,品川沖方面を見た絵だが,『ゴジ
ラ』の丁度百年前,1
854年に急造されたお台場も描かれている。見えているの
は,第一台場,第二台場,第五台場であろうか。これは,前稿で述べたよう
に(15),ゴジラが初めて東京に上陸する品川沖のシーンと,殆ど同じアングルの
絵である。百年前にもこの第二台場にゴジラが現われていたとしたら,広重の
『名所江戸百景』と『ゴジラ』は,同一の「ゴジラ浮世絵」ということになる。
ゴジラの品川上陸の際,山根博士らが上った御殿山は,長谷川時雨『東京開
港』(1
940年刊行,1941年加筆)が描くように,桜の名所であった。これが,
『名所江戸百景』の「品川御殿やま」である。広重も,お台場築造のために土を
削り取られた御殿山に咲く江戸の桜を,ここで描いている。また,
「高輪うしま
ち」や「月の岬」
,
「品川すさき」などの絵も,ゴジラの現われた品川沖が描か
れているし,
「金杉橋芝浦」は,後で述べるように,ゴジラが再上陸した芝浦附
近を描いている。更に言うなら,隅田川を挟んで築地本願寺を描く「鉄砲洲築
地門跡」の絵は,ゴジラの時代ならば,その左手に,ゴジラの壊した勝鬨橋と,
その波に洗われた東京都中央卸売市場築地市場が配置されたであろう。
これらのことは,何を意味しているのであろうか。時を超えて重なる『名所
江戸百景』と『ゴジラ』は,ゴジラが,実は,江戸東京の「名所」を巡ってい
たということである。これは,意図されたと言うよりは,都市の記憶の為せる
技と言うべきであろう。ゴジラは,
「東京見物」であり,「東京案内」をしてい
たということである(16)。そして,欧米の場合とは異なり,高輪線(東海道線の
海上築堤)の錦絵などに見られるように,鉄道というものが,都市美を感ずる
日本人の心の琴線に触れ,その絵心をも動かすものとなり,
『ゴジラ』にも,ゴ
ジラが鉄道高架線を壊している絵がある,ということなのである。
しかし,広重の時代と大きく異なるものがある。それは,ゴジラに襲われ,
炎で燃え盛る浅草の隅田川に架かる東武伊勢崎線鉄橋(言問橋の一つ下流)の
系120
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
一瞬の映像に最後の余韻を残していることのみならず(17),芝浦,芝,田町,新
橋,銀座,有楽町,そして,築地の勝鬨橋など,暗く沈む夜空に燃える東京の
光景が次々と描かれることによって,ゴジラが,東京大空襲を経験した東京を
眼前に描いたということである。祖国は,帰ってみれば,敗戦後の姿を晒して
いたのである。ここに,
『浮雲』の描く東京との深い接点がある。
Ⅱ. 第一京浜国道とゴジラ ― 江戸東京への入口 ―
「札の辻」の都電通り
『ゴジラ』で,品川に続き,芝浦に再上陸したゴジラは,芝浦一丁目から,田
町駅近辺の芝五丁目,三田三丁目附近にかけて,第一京浜沿いで暴れることに
なる。しかし,この一連の映像は,場所の特定が極めて難いこと,そして,ゴ
ジラの進行ルートが不思議なことに蛇行しているらしいことなどから,論ずる
のも厄介なことであることを始めにお断りしておきたい。とは言うものの,嘗
ての旧街道「東海道」であった第一京浜国道(国道第1
5号,旧第1号)にゴジラ
が出現したことは,戦後の三田の都電通りを含め,極めて重要な意味を持って
いることは言を俟たないであろう。
ゴジラは,恐らく,現在の芝浦埠頭を掠める形で上陸する。上陸附近につい
(1
8
)
ともあるが,1
て,
「東京湾汽船発着所」
889年に設立された東京湾汽船は,
1942年に現在の東海汽船と社名変更されているから,1954年当時,既に古い言
い方なのだが,この発着所は,現在と同じように,通常は竹芝桟橋が使われて
いた。
『ALWAYS続・三丁目の夕日』
(2
007年,東宝)の冒頭に登場するゴジラ
は,竹芝桟橋から上陸している。しかし,芝浦から再上陸したものとされてい
ることや,後に続くシーンとの連続性を考えるなら,竹芝桟橋ではなく,芝浦
桟橋の南側にあった東海汽船の発着所(現在は貨物専用)を指している可能性
がある(19)。そこから上陸すると,最初に破壊されるのが,当時,都電車輛工場
のあった辺り(港区芝浦三丁目,現・芝浦四丁目)ということになる。しかし,
系121
胸人文科学研究 第 1
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7輯
場所がはっきりと分かるのは,東京ガス芝供給所(港区芝浦一丁目1
6番,現在
は更地となっている)のガスタンクをゴジラが壊すシーンである。これで,大
体,辻褄が合う。そして,ゴジラは,田町駅前を国電と平行して走る第一京浜
(都電通り)沿いで暴れるのである。
芝浦上陸の一連のシーンで,注目すべきなのは,新橋のビル街とは異なり,
低層の住居が建ち並ぶ界隈を,ゴジラが襲っているということである。ゴジラ
映画にお馴染みの「逃げ惑う人々」も,ここにその原型があり,その後のゴジ
ラ映画にも登場する,無名の「路地」に駈け込むシーンが描かれているのであ
る。撮影の玉井正夫(1
9081997)は,成瀬巳喜男の『めし』(1951年),『山の
音』(1
954年),『晩菊』(1954年),『浮雲』(1955年),『驟雨』(1956年),『流れ
『鰯雲』
(1
『女が階段を上る時』
(1
る』
(1
956年),
958年),
960年,以上東宝)な
どを撮っている。
『浮雲』に描かれた池袋の闇市などの「路地」や,
『濹東綺譚』
(1
960年,東宝,豊田四郎監督)にも描かれた私娼街,寺島町玉の井の「路地」
など,玉井正夫は,戦前・戦後の市井の光景を精密に捉えており,『ゴジラ』に
描かれた戦後の姿とも,無縁ではあるまい。
芝浦に上陸し,第一京浜に現われたゴジラと,札の辻で防衛する戦車隊との
交戦シーンは,見所の一つであろう。道路の空中に張り巡らされた架空電車線
(架線)は,そこが都電通りであることを示しており(第一京浜,日比谷通り,三
田通りが,田町駅界隈の都電通りである)
,現在では失われた昭和の東京が,そ
こにはある(20)。また,その後のゴジラ映画に登場するメーサー殺獣光線車など
によって繰り広げられる地上戦と較べてみた時,
『ゴジラ』では,地上戦の描写
が思ったより少ないことにも逆に気付くであろう。だから,迎え撃つ地上戦力
も登場せず,フリーパスで銀座の中央通りを闊歩するゴジラは,
「銀ブラ」以外
の何ものでもないとも見えるのだが,それは後で述べるとして,この「第4
9戦
(2
1
)
で展開された
車隊」との交戦シーンは,台詞や脚本から,
「札の辻警戒陣地」
ものであることが分かるのである。
札の辻交叉点は,第一京浜と三田通り(慶應通り)が交差する交通の要所で
ある。第一京浜は,新橋に至り,中央通り,昭和通り,外堀通りに接続し,三
田通りは,桜田通りに合流して,赤羽橋を経て,桜田門にまで至る通りであり,
系122
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
江戸期には,大名行列が,東海道(第一京浜)を江戸に向かい,この札の辻で,
江戸城の桜田門方面へと進路を変えた地点でもある(22)。高札が立てられたこと
から,
「札の辻」と言われ,江戸の入口でもあった。ゴジラの時代には,品川か
系統(品川線)と飯田橋に向かう都電3
系統(札の辻線)
ら上野に向かう都電1
との分岐点でもあり,映画のシーンでも,都電の架空電車線(架線)と線路の
線)が見えることに注目すべきである。現在でも,芝浦から,東海道線
軌道(2
を跨ぐ札の辻橋を通り,三田通りへと入る道路と第一京浜が交差する,非常に
交通量の多い地点であり,ゴジラの時代にはなかった東京タワーが正面に見通
せる有数の交叉点である。新橋,銀座へと東京の中心部に向かって進入して来
るゴジラと対戦する地上部隊が展開される地点として,札の辻は,上手く選択
された場所だと言うこともできる。
第一京浜のゴジラ
しかし,ここで一つの問題にぶつかる。東京ガス芝供給所(港区芝浦一丁目)
から新橋,銀座方面に向かうゴジラが,何故,札の辻に寄り道するのであろう
か。京浜線を越えて,第一京浜に出て,三菱自動車工業本社(港区芝五丁目3
3-
8),電停の三田(現・芝五丁目)の三叉路から,そのまま第一京浜,或いは,
日比谷通りを北上すれば済む話なのだが,何故か,芝三田台町,三田南寺町,
芝伊皿子町までが,ゴジラの炎に巻き込まれているのである(23)。慶應義塾大学
から高松宮邸,泉岳寺にかけて,伊皿子坂,魚籃坂などがあり,この静かな界
隈が,何故,ゴジラの被害に遭ったのか,その理由は,残念ながら,本稿では
説明することができない。ゴジラの進行ルートが蛇行している,と最初にお断
りしたのは,このことを指して述べたものである(24)。
しかし,戦車隊と交戦したのは,札の辻ではなく,三田の三叉路(電停三田,
現・芝五丁目信号機地点)であったのかも知れない,という感覚も捨て切れな
系統(品川線)のみならず,2
系統(神田橋線,三
いのである。ここも,都電1
田線)
,3
7系統(三田線)が走り,日比谷通りと第一京浜が分岐する有数の電車
通りである。札の辻に並び,田町駅前附近の交通の要所となっているのが,都
系123
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
電三田営業所と都電車庫もあった,この三田である。ここなら,東京ガス芝供
給所を襲った後,第一京浜であれ,日比谷通りであれ,ここから北上して,新
(2
5
)
に出現したゴジラが,銀座を
橋一丁目(或いは,電停のある田村町一丁目)
目指して進行したルートとして,自然に理解し得るものである(怪獣の行動な
ど抑も不可解なものであろうが,移動経路の可能性を推測したものである)。
東京ガス芝供給所の貯蔵タンクの左側に見えていたのは,微妙ではあるが,
恐らく,三菱のスリーダイヤモンドの広告塔であろう(26)。これは,現在の三菱
自動車工業本社のある第一田町ビル(港区芝五丁目3
38)にあったものである。
1934年(昭和9年),三菱造船株式会社が三菱重工業株式会社に社名変更し,戦
後,1
950年に,三社に分割される。その前年に設立されたふそう自動車販売株
式会社が,1
952年に三菱ふそう自動車株式会社と社名変更し,1964年の三菱自
動車販売株式会社を経て,1
970年に,現在の三菱自動車工業株式会社が設立さ
れる(27)。ゴジラが見ていたのは,三菱ふそう自動車株式会社(旧・本芝四丁目
(2
8
)
からも確認できる。田
15番地)であることは,火災保険特殊地図(火保図)
町駅東寄りの線路と第一京浜の芝五丁目三叉路附近を,ゴジラが徘徊していた
ということである。この界隈は,田町駅のある場所も含め,薩摩藩蔵屋敷(田
町藩邸)があった所で,三菱自動車工業の前には,1
868年(慶応4年)3月14日
に交渉が行なわれた「江戸開城 西郷南洲 勝海舟會見之地 西郷吉之助書」
の石碑が,1
954年4月に建てられているから,ゴジラも目にしたはずである。日
比谷通りを少し北に入った左手には,日本電気(NEC)本社ビル(港区芝五丁
目7
1)があり,セレスティンホテル(セレスティン芝三井ビルディング,港区
芝三丁目2
31)を含め,この一帯は,篤姫が最初に住んだ薩摩藩中屋敷(芝屋
敷)があった所でもある(29)。
ところで,
「第4
9戦車隊」が展開する都電通りの背後に見える大きな建物(尖
塔を持つ)が,実は,特定できないでいる(現在,探索中の)謎の建物である。
都電通りの背後に位置する建物として,三田通りならば,赤煉瓦の慶應義塾大
学図書館旧館(重要文化財,屋根の形から見て該当しない),赤羽橋の東京都済
生会中央病院(旧・芝赤羽町,現・港区三田一丁目4
17,恩賜財団済生会芝病
院から1
950年改称,1953年,東京都立民生病院の受託経営)など,日比谷通り
系124
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
ならば,日本電気の工場(現・本社ビルのある旧・芝三田四国町),池貝鉄工所
の工場(旧・本芝下町)など,また,芝浦方面ならば,沖電気芝浦工場(旧・
西芝浦四丁目,現・港区芝浦四丁目,現存せず)などが位置的には該当しそう
なのだが,特定できない。が,その都電通りに沿った「不二商事 不動産部」
の建物は,戦車の砲火に照らされて文字が読むことができる。この不二商事と
は,三菱商事の前身の一つであった不二商事(本社は,旧・千代田区丸ノ内二
丁目三番地)である可能性がある。三菱合資会社の営業部が,1
918年(大正7年)
に(旧)三菱商事となり,敗戦後,1
947年に,連合国総司令部(GHQ)の指令
により解体した。その後,第二会社として設立された光和実業が三菱商事と改
称し,三菱系として分離・発展していた不二商事,東西交易,東西貿易と合併
し,三菱商事の「大合同」を実現したのが,『ゴジラ』と同じ1
954年(3月9日,
(3
0
)
であった。その初代社長が,不二商事の高垣勝次郎氏で
臨時株主総会決議)
ある。
『ゴジラ』の描く第一京浜には,この様な財閥系商社の戦後の歴史も垣間
見られるのかも知れない。しかし,札の辻,及び,電停三田附近の火保図(31) で
は,
「不二商事」なるものが見当たらない。映画に映った「不二商事」が何であ
るのか,依然として不明のままだが,1
954年という年に,ゴジラと共に,三菱
商事が復活した,という事実は分かった。
Ⅲ. 「銀ブラ」するゴジラ ― 復興する東京の記憶 ―
成瀬巳喜男『稲妻』の銀座
『ゴジラ』
(1
954年)の時代は,有楽町や銀座が多く描かれた時代でもあるこ
とは随所で指摘されていることでもある。1
954年前後を見てみると,占領下の
東京では,小津安二郎『晩春』
(1
949年9月13日,松竹),成瀬巳喜男『銀座化
粧』(1
951年4月14日,新東宝),サンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月
(1
28日)した独立後では,小津安二郎『お茶漬の味』
952年10月1日,松竹),成
瀬巳喜男『稲妻』(1
952年10月9日,大映),小津安二郎『東京物語』(1953年11
系125
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
月3
日,松竹)
,そして,
『ゴジラ』を挟んで,川島雄三『銀座二十四帖』(1
955
年9
月1
(1
6日,日活),杉江敏男『歌え!青春 はりきり娘』
955年12月28日,東
宝)などである。川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』(1
956年7月31日,日
活)では,築地から月島の晴海通り,蔵原惟繕の『銀座の恋の物語』(1
962年3
月4
日,日活)では,山手線にカナリヤ・イエローの1
01系が走行する1960年代
に入った銀座の光景も見られる。
取り分け,
『銀座化粧』
,
『稲妻』
,
『東京物語』は,映画の中で,田中絹代,高
峰秀子,原節子が案内役となって,地方から上京した登場人物たちの「東京見
物」,
「東京案内」が描かれていることに特徴があり,
『稲妻』の「はとバス」と
『東京物語』の「はとバス」も,同じ中央通り(銀座通り)を銀座から京橋方面
に向かっている。
『東京物語』では,銀座六丁目から五丁目を走行し,銀座四丁
目交叉点の信号で止まる。次のシーンは,前稿でも述べたように(32),改築後(接
収解除後)の銀座松屋のファサードが映し出される。「はとバス」からの降車
シーンなどは作品には描かれず,何時の間にか,
「はとバス」は,映画の埒外に
消えている。日本が独立し,植民地色の薄まった銀座を描いたのが小津なら,
占領下の光景がまだ漂う銀座を描いたのが,成瀬である。
『稲妻』の冒頭シーンは,
「はとバス」の中央通り走行シーンで始まる。『東京
物語』のシーンは,『稲妻』の二番煎じのようなものだが,改築前の(1
952年8
月1
7日に接収解除されたが,東京 PXの表示がまだ残っている)銀座松屋を右
手に見る『稲妻』のシーンは,銀座四丁目の三和銀行銀座支店前から,松屋を
通過し,明治屋本社京橋ビル(1
933年竣工,中央区京橋二丁目28)に至る,
(英語の道路標識など)
占領下の気配が依然として残っている中央通りを捉えて
いる。銀座側から京橋方向には,中央通りが京橋でくの字に曲がる通りのた
め,第一生命相互館(第一相互館,中央区京橋三丁目7
1,1921年竣工,1938年
まで本社があったが,その後,有楽町一丁目の第一生命館が接収中,本社が置
かれた(33)。1
969年解体。2010年3月現在,二代目も解体,建替中)も見えている。
『稲妻』でも銀座松屋に眼が向けられるが,
『東京物語』で初めて見られる,
植民地から解放された晴々としたガラス窓のファサードではなく,敗戦後,東
京 PXとして使われていた戦前の重厚な外壁が映っているのである。銀座松
系126
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
屋,第一生命相互館,明治屋本社京橋ビルなど,戦前・戦後の昭和の連続性を
維持しつつ,戦後復興期の東京が,『稲妻』には表現されている。『稲妻』の
「はとバス」は,東京中央郵便局(1
933年竣工,現在解体,建替中)向かいの東
京駅丸の内南口のりばで,客を降ろすシーンで終わるが,
『東京物語』は,東京
駅丸の内南口のりばから出発し,銀座四丁目交叉点までのシーンを描き,『稲
妻』は,その続きのルートとして,銀座三丁目から東京駅丸の内南口のりばに
帰着するまでのシーンを描いていた。ここには,銀座松屋に象徴されるよう
に,戦後日本の「占領下」と「独立後」の銀座の姿が対比されていたのである。
フランスのデパートと提携したプランタンが1
984年に開店したのを始めとし
て,1
990年代以降,外国ブランドがこれ見よがしに銀座に建ち並んだが,舶来
品が逸早く齎され,西洋の文物を取り入れたのが近代の銀座だとしても,今の
銀座も,まるで「占領下」のようである。
「はとバス」は,戦後,1
948年(昭和23年)8月に誕生したものだが,集団就
職による労働人口の集中や,サラリーマンの増大など,『早春』(1
956年)にも
描かれた,丸ビルに代表される東京丸の内のオフィス街への憧れは,東京とい
う大都市そのものへの関心でもあり,
「東京見物」
,
「東京案内」の最良の手段の
一つとして,この「大東京遊覧バス」が活躍し,現在にまで至っている。参勤
交代で江戸に上った武士や,東海道を旅する庶民たちは,
「江戸見物」,
「名所案
内」の手立てや土産として,
『江戸名所図会』や広重の『名所江戸百景』といっ
『稲妻』も,その様な「東京遊覧」の系譜にあると同時
たものを求めたが(34),
に,歴史の記録として,敗戦後の銀座が描かれていたのである。
ところで,成瀬は,『めし』
(1
951年,東宝)でも,大阪市内の遊覧バスを撮
り,『乱れる』
(1
964年,東宝)では,東海道線を東京に上り,東京から東北本
線で下って,ひたすら疾走する鉄道走行シーンを描いているが,緩急の差に富
んだ素晴らしい表現で,乗り物による様々な移動シーンを捉えている。それに
較べて,『稲妻』の「はとバス」は,その移動速度が極めて遅いと感ずるのだ
が,銀座と京橋に後ろ髪を引かれるようなこの感覚も,敗戦後の東京に対する
「懐かしさ」を醸し出しているとも言える。
系127
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
「銀ブラ」するゴジラ
(3
5
)
進攻している。漠然と東京を歩
ゴジラは,明らかに,
「銀座方面に向って」
いている訳でも,結果として銀座に来てしまった訳でもない。不思議なこと
に,否,1
950年代の戦後日本映画なら当然の如く,この怪獣は,銀座に赴くの
である。
新橋附近を襲った後,ゴジラは,中央通り(銀座通り)に入ってゆくことに
なる。中央通りを京橋から新橋方面に見た遠景シーンでは,燃える炎をバック
にゴジラの影が浮かぶ。右手前に見えているのは,築地警察署銀座一丁目交番
(中央区銀座一丁目2
4)と三菱銀行京橋支店の建物である(36)。ゴジラが中央通
りに入り,手始めに,ニッポンビール本社ビル(大日本麦酒株式会社本社ビル,
1934年竣工,1949年分割,日本麦酒,1951年接収解除,現・銀座ライオンビル,
サッポロビール直営ビヤホールライオン銀座七丁目店,中央区銀座七丁目9
(3
7
)
を壊すのだが,ゴジラ進入前の一瞬の静けさが,銀座界隈の光景として,
20)
次々に映し出されてゆく。
中央通りを銀座一丁目から京橋方面を見たシーンでは,右手前に,天ぷらの
銀座天國(中央区銀座八丁目9
10)が見える。1984年に銀座天國ビルになる前
の,1
952年に改装された瓦屋根の和風建築である(38)。次に映されるのは,昭和
通りの恐らく銀座七丁目附近のくの字に曲がった所,そして,銀座六丁目の並
木通り(当時のキャバレー・レディ・タウンの前,中央区銀座六丁目7
13)か
ら,不二越ビル屋上にある有名な森永の地球儀型広告塔を見たシーンが続
「銀座鈴らん通り」と映るから分かり易いが,右手前に
く(39)。その次の場面は,
見える「Lu
n
a
」は,当時,
「ジュリアン・ソレル」などと共に有名な洋品店で
あり,みゆき通りと交叉する角にあった(40)。
その次に映る,ごちゃごちゃした飲食店街は,何処だろうか。これは,有楽
町駅の東側(銀座口)に,東京交通会館から日劇の裏附近にかけて,高架線沿
いに建ち並んでいた,有楽町二丁目の「有楽街」である。新橋の闇市などと並
び,戦後の姿を晒していた場所である。
「三鈴」
,
「新長」などの看板を,当時の
火災保険特殊地図(火保図)から探すことができる(41)。その後も,長らく戦後
系128
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
の光景を残していたが,1
964年の新幹線開通(高架線の拡張)や,1984年の有
楽町マリオンの建設によって徐々に縮小し,近年では,有楽町イトシアなどの
有楽町駅東側の整備によって,風景は完全に変わった。次に映るシーンは,場
所が分からない(地下室バー・ニュースターや中華料理珍来亭が並ぶ通りが確
認できない。ニュースターだけならば,鈴らん通りにある)。
また,小鳥の囀る鳥かごとゴジラとの対照的な構図は,大きなものと小さな
ものとの対比(後のゴジラとハム太郎の併映のようなもの)だが,これは,松
坂屋屋上の動物売場であろう(42)。1
950年代のデパートが,どの様なものであっ
たのか,
『ゴジラ』には反映されている。
ところで,その松坂屋を壊す前,ゴジラが中央通りに入る直前のシーンに当
たるのだが,ある火の見櫓が破壊される。これは,京橋消防署銀座出張所(中
央区銀座七丁目1
117)ではあるまいか(43)。ニッポンビール本社ビルと,この京
橋消防署銀座出張所は,中央通りに直交した交詢社通りに同一線上に並ぶ銀座
七丁目の建物で,現在の銀座ライオンビルの脇から見通すことができる,目と
鼻の先にある。その後のゴジラ映画と較べてみると分かるのだが,
『ゴジラ』で
は,軍用車輛ではなく,消防車が街を駈け抜けるシーンが眼に付く。9
0式戦車
やメーサー殺獣光線車など,派手な対ゴジラ兵器の描写と較べて,極めて地味
な描写であり,ゴジラを前にしては,火災が起きているのだから当然だろうと
いうリアリティーも色褪せてしまうかのようである。この火の見櫓の倒壊シー
ンも,高層ビルの破壊シーンなどに較べるまでもなく,現在から見ると,地味
な映像である。しかし,消防車と火の見櫓の両者のシーンは,
「火事と喧嘩は江
戸の花」という言葉を持ち出さずとも,江戸東京の光景を想起させるものがあ
るのであろう。
『名所江戸百景』の「増上寺塔赤羽根」では,赤羽橋の久留米城
主有馬中務大輔の屋敷にあった火の見櫓,
「びくにはし雪中」では,京橋川に架
かる比丘尼橋から見える火の見櫓,
「馬喰町初音の馬場」では,馬喰町の火の見
櫓などが描かれ,組織化された町火消しと火の見櫓が,江戸の風景であったこ
とが分かるのである。
ゴジラは,夜の帷が降りた暗い銀座を徘徊する。照明も消え,戦時下の灯火
管制を思わせる,暗い戦後の東京である。しかし,ここには,ニッポンビール
系129
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
(1
964年,サッポロビールに社名変更)や,銀座和光など,復興する東京の象徴
(4
4
)
するゴジラには,札の辻に登場した戦車隊も既になく,
があった。
「銀ブラ」
地上戦など無用だったのである。と言うか,抑も,銀座で地上戦は似合わない
し,戦車隊も出動していないから,
「銀ブラ」
しているように見えるのであろう。
ゴジラに対する集中砲火などもなく,ここには,戦後の明るい銀座があったは
ずなのである。しかし,やはり,暗い。ゴジラは,ゆっくりと,静かに,晴海
通りへと入ってゆき,数寄屋橋に向かう。
ところで,復活版『ゴジラ』
(1
984年,東宝,ゴジラ身長80m,初代ゴジラは
身長5
0m)で,有楽町センタービル(1984年竣工,通称有楽町マリオン)のハー
フミラーガラスに映る復活版ゴジラの影は,嘗て日劇があり,1
954年に同じ場
所を通った初代ゴジラの影でもある。1
984年のこの映像の特徴は,有楽町マリ
オンの窓ガラスに,ゴジラの影が,まるで姿見の鏡のように,映し出されるこ
とにある。有楽町マリオンは,抑も,この同じ年に,竹中工務店によって施工
された,地上1
4階建てのビル(高さ85m)で,ハーフミラーガラスとアルミの
ファサードは,周囲の情景を映し出すスクリーンとして意図されたものであ
り,このガラス窓に映ったゴジラは,オキシジェンデストロイヤーによって死
んだ,1
954年の初代ゴジラの魄霊なのかも知れない,という感覚を生じさせる。
復活版ゴジラの単なる投影ではなく,復活版ゴジラと,初代ゴジラの二体が,
重なる像として映っていたのではないか,という純粋な意味での想像である。
(4
5
)
とあるが,二体のゴジ
謡曲『松風』には,
「月はひとつ 影はふたつ,……」
ラの影が,ある瞬間,二重に実在していたのかも知れない。ここ数寄屋橋は,
1954年に,当に初代ゴジラが通った場所であり,その亡き跡とえば,まことな
るかな,いにしえの,跡懐かしき景色かな,という感覚が研ぎ澄まされる,そ
ういう場所なのである。ゴジラは,だからこそ,夜が似合う。情念の化身とし
て,夜中に現われ,夜明けに帰って行く,複式夢幻能のシテのようである。鏡
に映された怪獣の姿を見ると,ゴジラは,抑も,心象であり,人の心の影であ
り,当に,
「映画」
(幻影,s
i
mu
l
a
c
r
u
m)そのものなのかも知れない,と言えな
くもない。しかし,ゴジラの歩いた戦後の東京と,敗戦の情念は,フィクショ
ンではない。
系130
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
Ⅳ. 東京と南洋 ― 引き裂かれた郷愁の空間 ―
暗い東京と成瀬巳喜男『浮雲』
『ゴジラ』
(1
954年)は,成瀬組によって作られた映画である。本多猪四郎と
円谷英二の二人の大きな名前に隠れてはいるが,撮影の玉井正夫,美術の中古
智,照明の石井長四郎,録音の下永尚ら,東宝の成瀬組が撮ったものであり,
『浮雲』
(1
955年)の映像と似ていて,同じ感覚を呼び起こしたとしても不思議
ではない。
『ゴジラ』と『浮雲』は,表裏一体の関係にあり,同じ戦後日本の歴
史と歴史観を描いている,という感覚に襲われる。片や怪獣が主人公,片や女
優高峰秀子が主人公という差はあれ,敗戦国日本の現実を映し出しているとい
う点で,陽画と陰画の差でしかない。
『浮雲』と『ゴジラ』は,何処が似ていると感じさせるのであろうか。成瀬巳
喜男(成瀨巳喜男)の名作『浮雲』は,林芙美子(1
9031951)の小説『浮雲』
(1
949年11月-1951年4月,執筆,1951年,六興出版社,映画は,新潮社版に拠
る)を原作とし,当然のことながら論考も数多いが,海で始まり,海で終わる,
ということが強い印象として脳裡に残る映画でもある。南方から海を渡って日
本へ帰り,そして,海の向こうへと日本を去ってゆく。『ゴジラ』では,「母を
想い,故郷をしのんで,元気に話合っていた,多くの人をのせて」(46) 沖縄から
横浜に向かう南海汽船の貨物船栄光丸(ゴジラにより途中の北緯2
4度,東経141
度2
分で沈没)とゴジラ,そして,『浮雲』では,幸田ゆき子(高峰秀子)が,
南方と東京の「海」を「往復」する存在であり,戦前の「南方進出」と戦後の
「引揚者」を表していることは言うまでもない。しかし,南方と東京を結んでい
る海は,隔てる海でもあり,そう簡単に,自由に,往復できる海ではないのだ。
ゴジラは,太平洋の水爆実験によって静かな眠りを覚まされ,南海の安住の地
を奪われた怪獣でもあり,また,一方では,大東亜戦争で南の海に沈む日本人
の戦死者の魂の化身でもあり,抑も,ゴジラの帰属する「祖国」については,
両義性を持っている存在ではあるのだが,外地仏印での甘い思い出と,祖国東
系131
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
京での厳しい現実との狭間に漂い,国境の島・屋久島で絶命する『浮雲』の高
峰秀子と同じように,南洋と東京のどちらにも,結局のところ「帰国」できず,
狭間の海に沈むしかなかったのである。房総沖(東経1
40度33分15秒,北緯35度
18分05秒)から深度3,850mの日本海溝の最深部へと消えてゆかねばならなかっ
(2
た『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京 SOS』
003年,東宝)のゴジラには,
涙を禁じ得ず,誠に気の毒なことであるし(遺骨の回収もできず,供養もまま
ならない)
,『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』
(1
966年,東宝)や,
『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1
967年,東宝)で,南の海で元気でいてくれ
たゴジラを見た時には,本当にほっとした,と言うのは,冗談で言っているの
ではない。
『ゴジラ』と『浮雲』には,憧憬もし,進出もした南洋と,祖国日本
との間で引き裂かれた,敗戦国の国民がそこにいるのである。
幸田ゆき子が,本人にとって掛け替えのない,その時「確かに生きた」証し
でもある,夢のような昭和1
8年(1943年)当時の仏印(佛領印度支那)は,言
うまでもなく,コーチシナ(Co
c
h
i
n
c
h
i
n
e
,交趾支那)を直轄地として,1
887年
に組織されたフランス領インドシナ連邦(総督府ハノイ)のことであり,植民
地フランスの香り漂う南洋であった。安南語と佛蘭西語が飛び交い,ゆき子
が,農林省のタイピストとして赴任した,殊にダラット(DaLa
t
)は,標高
1,500mの高原に広がる,フランス植民地時代に開かれた避暑地であり(47),グラ
スでフランス産リキュール「コアントロウ」
(Co
i
n
t
r
e
a
u
)を飲み,戦時下の内地
では想像も出来ぬ,泡沫の優雅な戦時下を過ごしたことは,南国の微風に揺ら
(4
8
)
と,富
めく高峰秀子の淡いワンピース(「白絹のワンピース」,『浮雲』,七)
岡兼吾(森雅之)との甘い抱擁が,そのことを象徴している。
ヴェトナムは,1
802年,最後の王朝である越南(阮朝,グエン朝)が建国し
たが,1
858年,フランス第二帝政下,ナポレオン3世のインドシナ出兵によって
仏越戦争が起こされ,1
862年,サイゴン条約により,サイゴン占領,コーチシ
ナ割譲,1
884年,ユエ条約により,阮朝越南が保護国化された。清仏戦争
(1
88485年)を経て,1885年,天津条約で,フランスによる保護国化が承認さ
れたが,1
92030年代には,反仏運動も起こっている。この様な,帝国主義によ
る列国の東南アジア支配に対して,日本は,1
940年9月,南進を基本方針とした
系132
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
第2
次近衛内閣により,北部仏印進駐,援蔣ルートを遮断すべく,南進の第一歩
を進めた。1
941年7月には,第3次近衛内閣が,南方作戦として南部仏印進駐(7
(4
9
)
月3
を行ない,対日経済封鎖(ABCD包囲陣)
0日,日仏印軍事協定に基づく)
を誘発し,日米交渉の事実上の決裂となった。『ハワイ・マレー沖海戦』(1
942
年,東宝)で,九六陸攻が,英国東洋艦隊主力艦,プリンス・オブ・ウェール
ズを撃沈すべく飛び立ったのが,マレー沖海戦の仏印基地であった。『浮雲』の
幸田ゆき子が,敗戦後を生きるために,敗戦後も抱き続けた,夢のような,し
かし,夢ではない「確かに生きた」過去の現実は,この様な時代の痕跡でもあ
る。ジ ャ ン ヌ・モ ロ ー(J
e
a
n
n
eMo
r
e
a
u
)が 語 る マ ル グ リ ッ ト・デ ュ ラ ス
(Ma
r
g
u
e
r
i
t
eDu
r
a
s
)の映画『愛人』
(L'
Ama
n
t
,1
992年,原作は1984年)も,苛酷
な生活を余儀なくされたフランス人少女が,裕福な華僑の男に身を委ねた,日
本の仏印進駐前のサイゴン(Sa
i
g
o
n
,西貢)を舞台とした映画であった。
仏印は,日本の戦後,1
94654年,対仏戦であるインドシナ戦争を余儀なくさ
れ,ディエンビエンフーの戦い(1
954年5月)を経て,ジュネーヴ休戦協定(1954
年7
月)が結ばれたが,北緯1
7度線を境に南北分割された。『ゴジラ』の年であ
る。その後,1
96075年,ヴェトナム戦争となり,1965年2月,米軍による北爆
開始,1
975年4月,漸く「サイゴン陥落」の新聞記事を目にしたのは,当時,中
学生であった私の記憶にもまだ新しく,昨日のことのようでもある。
映画
『浮雲』
は,タイトルと共に,何処か南方を思わせる旋律を持った音楽(齋
藤一郎)で始まる。
『サンダカン八番娼館 望郷』
(1
974年,東宝,伊福部昭)
と似た所がある。冒頭のシーンは,ゆき子が,
「昭和二十一年 初冬」,敦賀で
引揚船から降り立つ場面である。敗戦国日本は,寒く,そして,荒廃した東京
は,暗い。仏印の美しい回想と,この東京の現実が,物悲しく交差する映画だ
が,仏印の描写が多い小説に較べて,映画では,ごちゃごちゃした敗戦後の東
京の姿が強調されているのは,成瀬の特徴と言うべきであろうか。敦賀に数日
滞在した後,ゆき子は,敦賀から汽車で東京に向かった。林芙美子の小説『浮
雲』を交えて見てみたい。
(……)―― 夜更けの汽車で,ゆき子は敦賀を發つた。(……)驚くほどの
系133
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
混雜で,ホームの人達はみんな窓から列車に乘り込んでゐる。ゆき子も,
やつとの思ひで窓から乘車する事が出來た。何も彼もが,俊寛のやうに氣
後れする氣持ちだつた。南方から引揚げらしい,冬支度でないゆき子を見
あ た り
て,四圍の人達がじろじろゆき子を盗見してゐる。如何にも敗戰の形相だ
と,ゆき子もまた立つて揉まれながら,四圍を眺めてゐた。夜のせゐか,
どの顔にも氣力がなく,どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狹い列車
のなかに,重なりあつてゐる。奴隷列車のやうな氣もした。ゆき子はま
た,少しづゝこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になつてし
まつたのだろう……。旗の波に送られた,かつての兵士の顔も,いまは何
處にもない。暗い車窓の山河にも,疲勞の跡のすさまじい形相だけが,る
ゐるゐと連らなつてゐた。
(5
0
)
(『浮雲』,二,1
0頁)
敦賀に到着し,
「故國の貧しい空」
(
『浮雲』
,一,5
頁)を見ながら,「なつか
しい思ひ出の數々を瞑想して,今日からは,どうにもならない,息のつまるや
頁)ゆき子
うな生活が續くのだと,觀念しないではなかつた」(『浮雲』,一,6
は,「敗戰の形相」で「奴隷列車」に乗り込むのである。そして,「五月の船で
ゆき子より一足さきに内地へ引揚げて行つた」
(
『浮雲』,十三,7
4頁)富岡を,戦
災で焼け残った東京を歩きながら,品川区上大崎(映画では,渋谷区代々木上
原)の家に訪ね,帰国後,初めて二人だけになった一連のシーンは,小説には
こうある。
(……)
「何處へ行くかね?」ゆき子に聞いてみたが,ゆき子は何處も知る
筈がない。このごろ,池袋に小さい旅館が出來てゐると誰かに聞いてゐた
のを思ひ出して,富岡は池袋へ行つた。煎餅のやうな生木の薄いバラック
旅 館 が,い く つも建ちかけてゐた。気儘放題 に 家 が 建 ち 竝 ん で ゐ る。
マアケツト
市 場 あり小料理屋あり。ひしめきあつてゐる急速の混雜状態が,かへつ
て女を連れてかくれるには,かつかうの市街であつた。看板だけはホテル
と名のついてゐる,木造の小さい旅館に,富岡は硝子戸を開けて這入つて
系134
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
行つた。
(……)ゆき子は寒々とした氣になつてゐる。―― 二人が案内さ
れた部屋は,市場が眞下に見える二階の四疊半だつた。疊は汚れ,點々と
煙草の燒け跡があつた。床の間も何もない。緑色の壁には幾つも引つかい
た筋がついてゐた。部屋の隅に汚れた赤い無地の蒲團が,二枚積み重ねて
あつた。
(……)
(『浮雲』,十三,7
879頁)
成瀬が撮った「急速の混雜状態」を呈している池袋のバラックは,
『ゴジラ』の
「有楽街」と同じ戦後東京の姿である。映画では,
「東京ブギウギ」の流れる中,
「ホテイ・ホテル」と看板のあった,この汚い部屋で交わされた会話が,冒頭で
引いた二人の言葉である。
「世の中つて,こんなに變つてるとは思はなかつたわ」
「敗戰だもの,變らないのがどうかしてるさ……」
「さうね……。あゝ,でも,私,とつても,あなたに逢ひたかつたのよ。あ
なた,いやに冷いのね。引揚げて來たものなンか,もう同情しないンでせ
う?」
「馬鹿云つちやアいけない。俺だつて引揚げだよ。君ばかりぢやない。澤
山俺達のやうなのはゐる」
(『浮雲』,十三,8
0頁)
この二人は,映画の終盤,再び,南へ,しかし,
「南の果て」と言うより,地
の果てとも言わんばかりの「国境の島」屋久島へ向けて,謂わば逃避行のよう
(5
1
)
,東京を去る。屋久島は,小説の書かれた
に(刑罰を受けた流人のように)
1951年当時,南の国境であった(北緯30度で分離,奄美群島の日本復帰は1953
年1
2月)。「二人が,東京を發つたのは,二月の中旬であつた。夜汽車に乘つ
(1
た。」
(
『浮雲』
,五十六,3
97頁) 南へ南へと,列車が疾走する。『乱れる』
964
年,東宝)の,森田礼子(高峰秀子)と義弟幸司(加山雄三)のようでもある。
系135
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
(……)冬枯れの錆びついた田畑や煙突だけになつた,瓦礫の工場地帶や,
山や川や海が,轟々と汽車の車輪に刻まれて後へ走り去つて行く。
(……)
眼が覺めるたび,雨の中を走る夜汽車の現實が,ゆき子には,心細くな
つて來るのだ。案外,日本も廣いものだと思へた。(……)
(『浮雲』,五十七,3
99頁)
桜島の見える鹿児島の宿屋に着いて,ゆき子は,発病した。映画では,農村
小唄の音楽が鳴っているが,こんな遠い所に来て,病に臥せる高峰秀子には,
「安里屋ユンタ」の聞こえる珍々軒に佇む『東京暮色』(1
957年,松竹)の有馬
稲子と同じ悲哀を感じさせる。六日程延ばして,
「島流しみたい」に,二人は,
照国丸(第一照国丸)で,種子島を経由して屋久島に渡った。出航の「蛍の光」
の流れる中,比嘉医師(大川平八郎)の振った手は,今生の別れでもある。映
画の描写と同様,小説の照国丸の記述は,極めて印象的である。
(……)照國丸は,まるで佛印通ひの船のやうだつた。さうした,錯覺で,
富岡は,今朝,このまゝゆき子と此の船へ乘れたなら,どんなにか愉しい
船旅だつたらうと思へた。だが,この快適な船は,屋久島までの航路で,
それ以上は,今度の戰爭で境界をきめられてしまつてゐるのだ。此の船
は,屋久島から向うへは,一歩も出て行けない。南國の,あの黄ろい海へ
向つて,この船は航路を持つてはゐないのだ。
(……)
(『浮雲』,五十八,4
09頁)
宿屋の仲居が「今朝“照国丸”ちゅう船が1
0時に出っちもんど。」と言う,照
)
国丸(第一照国丸)は,1
947年(昭和22年)に建造された貨物客船(1,000t
であり,中川海運株式会社(昭和1
9年設立,現・中川運輸株式会社)の種子島・
「佛印通ひの船」のようではあったが,
屋久島定期航路として就航していた(52)。
「南國の,あの黄ろい海
敗戦により北緯3
0度で「境界」が決められてしまって,
へ向つて,この船は航路を持つてはゐない」のである。1
953年(昭和28年)に
系136
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
は,奄美大島復帰に伴い,第一照国丸は,奄美大島航路にまで定期就航した。
1954年10月28日にクランクインした『浮雲』では,少し南に拡がっていたこと
になる。
しかし,ゆき子の命は,消えようとしている。
「船は,宮の浦の沖へ着いた。
海岸は波が荒く,港もないので,沖あひに碇泊して,小船が,船客を運んだ。」
(『浮雲』
,六十,4
23頁)とあり,照国丸から屋久島に向かう,映画に映った艀
の上の二人は,道行きのようでもあり,とても寒そうで,決して,あの「南国」
に辿り着けた訳ではないのだ。種子島で,ゆき子が,
「佛印に似てるの?」
(『浮
雲』,六十,4
21頁)と聞くのも,哀れである。
夢のなかで,ゆき子は,微笑しながら,その夢を追つかけてゐる。もう,
二度と,あの青春は戻つては來ないのだ……。あの當時のまゝのものはも
う歸らない。富岡も,ゆき子も,いまは,かうして,南の果ての,屋久島
まで來てゐるのだけれども,二人は,あの時から,幾年か年を取つてゐ
た。―― ゆき子は,耳もとにざはつく,雨の音を,樹海のそよぎのやうに,
聞いてゐたが,それが,窓硝子に,霧をしぶいてゐる雨の音だと判ると,
ゆき子は,がつかりして,奈落へ落ちこむ氣がした。
(『浮雲』,六十五,4
52頁)
「その夢」とは,
「あの時が私とあなたの……」と語る,チャンボウでの二人
の初めての情交のみならず,仏印の高原,美しいビエンホア(Bi
e
nHo
a
)のホ
テルでの一夜の思い出である。
「あの青春」を生き,「東京」と「南洋」を結ん
でいた「郷愁の空間」は,敗戦によって,引き裂かれたのだ。
(……)いまゝでの生活のなかで,ゆき子は,未練に思ふやうな心殘りなも
のは一つもなかつたし,いま,自分のそばに,富岡がゐてくれたにしても,
もうすでに,冥府へ,自分だけの乘つた汽車は,走り去らうとしてゐる。
(……)苦しくあへいだ。水が飮みたかつた。無鐵砲なほど,健康だつた頃
の,あの長い旅行の數々が,虹のやうに,とりとめなく瞼に浮んで來る。
系137
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
(……)
(『浮雲』,六十五,4
55頁)
ゆき子は,死んだ。
「汽車」の比喩は,小説だけに見られる。一方,部屋に掛
けてあった「還自然」の意味ありげな額縁は,映画にだけ見られる。在りし日
の仏印での面影が去来し,口紅を引いてやった死者の枕許に佇む富岡の後ろ姿
で,映画は終わる。
『アナタハン』
(THESAGAOFANATAHAN,1
953年,東和,
日米合作)で,根岸明美が瞼に浮かべるアナタハン島での思い出と追悼のよう
でもある。が,小説では,更に一章分だけ,話が続いている。
屋久島へ歸る氣力もない。だが,ゆき子の土葬にした亡骸をあの島へ,
たつた一人置いて去るにも忍びないのだ。それかと云つて,いまさら,東
京に戻つて何があるだらうか……。
富岡は,まるで,浮雲のやうな,己れの姿を考へてゐた。それは,何時,
何處かで,消えるともなく消えてゆく,浮雲である。
(『浮雲』,六十七,4
68頁)
一ヵ月経って,富岡は,鹿児島に出てみた。富岡にとって,
「東京」も,懐か
しい場所であったことは,次の一節が,それを示している。しかし,帝都「東
京」も,安南人の女中ニウとの情交も重なる,夢のような「南洋」も,戦争に
負けた今となっては,
「世界の果て」のように遠く,「浮雲」のように,浮遊す
る魂(と言うか,
「どうにもならない魂のない人間」)が,そこに残されただけ
だったのである。それもまた,
「南洋」と「東京」の狭間を彷徨うゴジラのよう
でもあり,北緯3
0度43分,東経128度04分,水深345mに沈む,戦艦大和のよう
でもある。海に始まり,海に終わる,
『ゴジラ』と『浮雲』は,海が結び,海が
隔てる,
「東京」と「南洋」の歴史を辿り,戦前と戦後の日本を繋いでいるので
ある。
(……)ふつと,自分の隣で若い女が,電報用紙にトウキョウと書いてゐる
系138
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
のを眼にとめて,なつかしくなつた。この女も東京へ電報を打つてゐると
いふ,
「東京」といふ大都會が,富岡には,世界の果てのやうに遠く思へた。
富岡にとつて,東京はなつかしい土地である。(……)
(
『浮雲』,五十八,4
10411頁)
夢のようなダラットで,東京の出身を疑い,千葉だと思った幸田ゆき子に,
「あれば葛飾,四ツ木辺りかな?」と,小馬鹿にした余裕も,既にここにはない。
仏印にも,東京の僻地にすら,最早,帰る所はないのである。銀座の往時を偲
『浮雲』
(1
ぶ『銀座化粧』
(1
951年)と並べて見ると,
955年)は,実に対照的な
作品である。
「郷愁」の南洋と鉄道の旅
ゆき子は,日本に帰る引揚船の中から,懐かしい仏印の景色を,眼に焼き付
けている。小説では,仏印の思い出が,繰り返し現われる。
―― ドウソン灣の紅黄ろい海の色が,なつかしく瞼に浮ぶ。ドウソンの
岬の,白い燈臺や,ホンドウ島のこんもりした緑も,生涯見る事はないだ
らうと,ゆき子は,船から燒きつくやうに,この景色に眼をとめてはゐた
が,そんな,異郷の景色もすつかり色あせてきて,思ひ出すのも億くうで
あつた。
(……)
(『浮雲』,一,8
頁)
ドウソン灣(DoSo
n
)や,ホンドウ島(Ho
nDa
u
)は,トンキン湾からハイ
フォンを望む光景である。小説『浮雲』では,ゆき子が,仏印のダラットに向
かう様子も,詳細に描かれている。
ゆき子は,病院船で海防(ハイフォン,Ha
iPh
o
n
g
)に到着した。河内(ハノ
イ,Ha
n
o
i
)に入り,そこから,南部印度支那のビン(Vi
n
h
,河内から自動車で
350km,北部安南)に向かい,グランド・ホテルで一泊する。更に,南部仏印
系139
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
の古都ユエ(現フエ,Hu
e
)へと南下し,ユエのグランド・ホテルで第二泊目
を迎える。海辺のツウラン駅(To
u
r
a
n
e
,現ダナン,DaNa
n
g
)からサイゴン行
きの汽車(仏印縦貫鉄道)に乗り,夜,サイゴン着。サイゴンで,五日滞在し
た後,愈,トラックでダラットへ向かう。ダラットにあと十六キロという,ブ
レンという部落から,ランビァン高原(La
n
gBi
a
n
)への九十九折のドライブウェ
イを登る。現在では,ハノイからホーチミンまで,鉄道で約2
9時間,ホーチミ
時間の行程である。
ンからダラットまで,バスで約6
ダラットは,戦時下を,そして,戦後を生きるゆき子にとって,どの様な街
だったのであろうか。それは,
「蜃氣樓」であり,
「極樂」であり,
「華やかな思
ひ出」であった。
高原のダラットの街は,ゆき子の眼には空に寫る蜃氣樓のやうにも見え
た。ランビァン山を背景にして,湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき
子の不安や空想を根こそぎくつがへしてくれた。(……)
(『浮雲』,六,3
0頁)
(……)極樂にしても,ゆき子はかつてこんな生活にめぐまれた事がないだ
けに,極樂以上のものを感じてかへつて不安であつた。富豪の邸宅の留守
中に上がり込んでゐるやうな不安で空虚なものが心にかげつて來る。
(『浮雲』,七,3
7頁)
(……)佛印での華やかな思ひ出が,走馬燈のやうに頭のなかに浮きつ沈み
つしてゐる。
(……)
(『浮雲』,十三,7
3頁)
敗戦後を生きる日本人にとって,最早,二度と手の届かぬ,戦前の束の間の
夢であった。この泡沫の地,ダラットの思い出は,小説では何度も何度も語ら
れる。映画でも,回想記『南の島に雪が降る』
(1
961年)の作者,加東大介の演
じる伊香保の料理屋(バー)
「ボルネオ」の亭主向井清吉と,「自分もね,海軍
系140
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
でボルネオのバンジャルマシンて所に行ってたんですよ。
」,
「へえ,僕は仏印
だ。南ボルネオじゃ大変だったでしょうね。
」と,戦時中の南方の思い出話に花
が咲くのも(
『早春』の加東大介と池部良と同様)印象的だが,ダラットのシー
ンは,小説よりはずっと少ないものの,高峰秀子の美しい体に纏う,南方の微
風と陽の光の一瞬の陰影と,
(仏印の僅かなシーンを補うかのように)繰り返し
奏でられる音楽の旋律が,戦後の暗い東京の光景との強烈な対照を映し出して
いる。
「ねえ,もう,私達,二度と,あんな佛印の山奥なンて,行ける時ないでせ
うね。
(……)
」
(『浮雲』,十四,8
4頁)
あゝ,もう,あの景色のすべては,暗い過去へ消えて行つてしまつたの
だ……。もう一度,呼び戻す事の出來ない,過去の冥府の底へかき消えて
しまつたのだ。貧弱な生活しか知らない日本人の自分にとつては,あの背
景の豪華さは,何とも素晴しいものであつたのだ。ゆき子は,さうした背
景の前で演じられた,富岡と,自分との戀のトラブルをなつかしくしびれ
るやうな思ひで夢見てゐる。悠々とした景色のなかに,戰爭と云ふ大芝居
も含まれてゐた。その風景のなかにレースのやうな淡さで,佛蘭西人はひ
そかにのんびりと暮してゐたし,安南人は,夜になると,坂の街を,ボン
ソアと呼びあつてゐたものだ。ボンソアの聲が耳底から離れない。自然と
ひかんざくら
人間がたはむれない筈はないのだ。湖水,教會堂,凄艶な緋寒桜,爆竹の
音,むせるやうな高原の匂ひ,ゆき子は瞼に佛印の景觀を浮べ,郷愁にか
られてゆくと,くつくつとせぐりあげるやうに涙を流してゐた。もう一
度,あの場所が戀しいのだ。こんな貧しい生き方は息苦しい。ダラットの
生活は,もう再びやつては來ないと思ふにつけ,富岡の皮膚の感觸がたま
らなく戀しかつた。
(……)
サイゴンから二百五十キロのランビァンの高原
は,さながら油繪のやうに美しかつたものだ。
(……)
(
『浮雲』,三十六,2
61262頁)
系141
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
「暗い過去」
,
「過去の冥府の底」とは,林芙美子の戦争に対する批判的省察の
反映でもあるが,大和の沈んだ海底とも繋がるものであろう。或いは,過去の
贖罪を意識したものであろうか。しかし,
「佛印の景觀を浮べ,郷愁にかられて
ゆく」のは,ゆき子一人の感慨ではない。沖縄へ向かった大和も,南洋群島の
トラックは,
「保養地」であったし,
「大和ホテル」とまで言われた,懐かしい
『浮雲』は,戦争映画以外で,東京と南洋を
南洋での束の間の一時があった(53)。
結んでいる稀有な映画の一つであり,南洋憧憬や,屋久島の描写は,
『アナタハ
(1
ン』
(1
953年)とも通底している。『稲妻』
952年)に「南方ボケ」が描かれて
いるのも,楽園への郷愁と,戦争の傷痕を引き摺ってしか生きては行けない,
「戦後」の事実を確かに見ていた,成瀬の眼差しでもある。『モスラ』
(1
961年,東
宝)に至っても猶,繰り返し現われる,
「南洋」の歴史的記憶である。
ところで,小説『浮雲』では,ユエからサイゴンまでの,仏印縦貫鉄道の記
述がある。
ユヱで一泊して,海邊のツウフン驛から,一行はサイゴン行きの汽車へ
乘つた。狹い可愛い車體だつたが,二等車は案外,贅澤な設備がしてあつ
た。ソフアや,小卓があり,小さい扇風機も始終氣忙はしく車室をかきま
はしてゐる。部屋の隣りには,シャワーの設備もあつて,自動車の旅より
はずつと快よかつた。コオヒイを注文すると,まるで花壺のやうな,深い
茶碗に,安南人のボーイが持つて來てくれる。こゝで,初めて,ゆき子は
篠井春子と二人きりの部屋におさまる事が出來たのだ。汽車は動搖が激し
機
機
機
く,コオヒイ茶碗の花壺のやうなしかけも,この動搖の爲なのだと判つた。
自動車の旅と少しも變らない程,砂塵が何處からか吹き込んで來るのに
は,二人とも閉口だつた。どんな贅澤な設備も,黄ろい砂塵の吹きこむ列
車は不潔である。
(……)
(『浮雲』,四,2
4頁)
この鉄道の思い出も,繰り返し現われる(
「ツウフン」は「ツウラン」の誤記
か?)
。船の旅,鉄道の旅,戦前の大東亜共栄圏は,「旅行」や「観光」を拡大
系142
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
した。屋久島へ向かう戦後の苦しい旅にも,華やかだった戦前の旅が重なる。
或いは,
「言論報国」のため,陸軍報道班員として,南方の仏印や蘭印の戦線に
も赴き(54),戦後,屋久島にも行った林芙美子自身の経験とも重なるものであろ
う。脚色の水木洋子も,林芙美子と一緒に,報道班員として,南方に滞在した。
ツウランの驛から,縱貫鐵道で,サイゴンへ向ふ車中での,一つの運命
が,ゆき子を,富岡へめぐりあはせたのであらうか。時速四二キロの直通
列車で,ゆき子は,自分一人だけ皆と別れてしまふ淋しさを考へてゐた。
篠原春子は陽氣に歌つたりしてゐた。その汽車に,やがて,ゆき子は富岡
と乘る事があらうなぞとは考へもしなかつたのだ。あれはいつだつたかし
ら,春だつたか,夏だつたか,季節の變化のないところなので,思ひ出の
なかに月日の念が薄れてしまつてゐる。
(……)
(『浮雲』,三十六,2
60頁)
「ツウラン」
(To
u
r
a
n
e
)とは,現在のダナン(DaNa
n
g
)で,嘗て朱印船の航
路に当たり,日本町もあった,中部仏印の港都である。この仏印縦貫鉄道は,
戦前の新聞記事にも,次の様に記されている。
インド支那縱貫鐵道はハノイを基點としてサイゴンに至る一,七四〇キ
ロ,急行列車は約四十二時間でこの間を走破する,この鐵道はハノイの
デューメル橋で有名なデューメル總督の發案で一九三六年完成までに實に
四十年の歳月を費してゐる,この結果南北の連絡を海路の三分の一に短縮
した經濟的價値はもとより援蔣ルートとして有名な北部雲南鐵道とともに
佛印を經由してシャム灣と支那とを結びつける一大國際交通路としての軍
事的および政治的重要性を見逃すわけにはゆかない,この一本の鐵道によ
つてもかつてフランスが夢みた東洋における野心を窺ふことが出來るので
ある,ゲージ一メートルの狹軌であるが 高速度の割 に振動も少く思つ
たよりは快適な旅をさせてくれる,
(……)
(5
5
)
(大阪毎日新聞,1
940年12月9日,南部佛印の經濟 座談會,上)
系143
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
仏印南北縦貫鉄道(Tr
a
n
s
i
n
d
o
c
h
i
n
o
i
s
)は,現在では,ハノイ・ホーチミン間
を約2
9時間で結ぶヴェトナム鉄道だが(56),1936年,フランスによって完成され
たものである。これは,植民地仏印の大動脈でもあり,
「佛印總督中の巨人ポー
ル・ドウーメル(一八九七-一九〇二)の計畫によつて汽車が走り,自動車が
トンキン
走り,東京,安南,交趾,カンボジヤを結び佛印を統一する大動脈ルート・コ
ロニヤルNO・1
(國道第一號)となつたのである。」
(大阪朝日新聞,1
940年11
月1
u
lDo
u
me
r
,
9日,佛印縱走記,上)とも言われ(ポール・ドウーメルは,Pa
「昭南島から東京にいたる
18571932),南部仏印進駐を果たした我が帝国では,
大東亞縱貫鐵道幹線」(大阪毎日新聞,1
942年3月12日,世紀の計畫・東亞共榮
圏鐵道 東京から昭南島へ!)を成すものとして考えられていた。
ゆき子が経験した南部仏印の走行区間は,
「
(……)しかし安南に入つてから
その首都ユエ邊りまでの窓外の景色は打見たところ内地と殆ど變らない,ユエ
から少し南下するとツーランの商港がある,灣の一角が全面に島のやうに橫は
つて風光明媚であるが(……)中部佛印における唯一の港都で沿岸貿易の要衝
をなしてゐるツーランから南走する沿線一帶が有名な硅砂地帶で一面淡雪が積
つたやうに地表に浮上つて見える,(……)
」
(大阪毎日新聞,1
940年12月9日,
南部佛印の經濟 座談會,上)ともあり,
『浮雲』の「黄ろい砂塵」も,「佛印
の有名なテール・ルーヂユ(紅土帶)」
(大阪朝日新聞,1
940年11月19日,佛印
縱走記,中)に因るものであろう。
(……)佛印縱貫鉄道に乘れば,鉄路一千七百五十キロ,時速四十キロの急
行で四十二時間ぶつ通しに走て翌日は終日走り續け,翌々日の午前十一時
にサイゴン驛に着く。る。
(ママ)一日一回,ハノイを晩の六時半に出る列
車が,東海岸線に沿つ佛印特有の暑さに加へて,煤煙に惱まされるこの汽
車旅行は決して快適とはいへない。しかし途中で安南の首都順化,また要
衝ツーランに降りたり,あるひは避暑地ダラツトを訪れたり,名所旧跡を
見物がてらの旅行はどうしてもこの鉄道によらなければならない。
(大阪朝日新聞,1
941年8月2日,佛印飛びある記,上)
系144
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
帝都東京から遠く,安南の古都順化
(ユエ)
,ツーラン,そして,避暑地ダラッ
トまで,船や鉄道が,そして,高峰秀子とゴジラが,
「帝国」の夢とその儚さを
繋いでいたのである。
エピローグ ―『ゴジラ』と『浮雲』,故国日本の戦後文化史 ―
『ゴジラ』の東京は,暗い。しかし,海は,明るい。
『浮雲』は,海も東京も,
暗いが,仏印は,明るい。確かに,
「南洋」は,明るく描かれている。しかし,ゴ
ジラは,いつも「東京」を襲い,成瀬は,東京下町の路地裏の巷間を撮る。敗
戦国日本の「敗北を抱き締めさせられた」国民が,そこにはいる。「帝国」の栄
光と悲惨の記憶を引き摺りつつ,そして,
「南洋」への郷愁と憧憬を抱きつつ,
帰りたかった故国が,そこには描かれていたのである。それは,欧米列国が東
亜に楔を打ち付けた,仏印や蘭印の狭間を縫って,戦前の日本が夢を描いた「南
洋」の比較文化史でもあり,その戦後文化史でもある。
『ゴジラ』が,撮影の玉井正夫ら,
「成瀬組」によって撮られたものであるこ
とに着目し,そして,ゴジラが,南洋と東京を「往復」する怪獣であることを
重視して,本稿では,
『ゴジラ』と『浮雲』を同一の水平線上に置き,同じ歴史
を描いたものとして論じた。現在の日本映画史研究の実情とは大きく異なる視
点やも知れぬが,戦後文化史というノンフィクションの立場から,日本の映像
史を紡ぎ出そうとしたまでである。映画は,表象というフィクションではな
く,歴史的事実をも映し出している。その限りに於いて,
『ゴジラ』も『浮雲』も,
戦後の日本人に共有される作品ともなり得たのではないだろうか。一言で言う
ならば,
『ゴジラ』が描く「海」は,
「真実の海」であり,虚構ではない,とい
うことである。
私は,父母や,祖父母と,繋がっている。一人で生きているのではない。だ
から,戦前と戦後は,決して断絶したものではない。戦前と戦後を,連続した
ものとして捉えようというのは,思想でも何でもなく,自然な感情の発露とし
てあるもので,私のゴジラ映画史論の意図も,一重にその一点にあることを付
け加えておきたい。
系145
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
注
茨 原作では,「世の中つて,こんなに變つてるとは思はなかつたわ」,
「敗戰だも
の,變らないのがどうかしてるさ……」とある。林芙美子『浮雲』,新潮文庫,
年(1953
年,初版),十三,80
頁。但し,本稿での引用は,基本的に,
改版,2003
正 漢 字 を 用 い て い る,J
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)
,に拠る。
,筑摩書房(リュ
芋 中古智・蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計 ― 美術監督は回想する』
年,114
頁,及び,219
「
『ゴジラ』から『大番』
ミエール叢書)
,1990
221頁,XI
シリーズのころ」,参照。
鰯 猪俣賢司「有楽町高架線と南下する隅田川 ― ゴジラ映画と小津安二郎の描く
年代 ―」,『人文科学研究』,第12
「郷愁の東京」1950
5輯,2009年9月,81115頁。
年,第一部「旅の時代」
,第一章
允 山本光正『東海道の創造力』,臨川書店,2008
「東海道イメージの形成」,他随所。「歌枕」,「名所」については,同書の他,川
本皓嗣・松村昌家編『阪神文化論』
,思文閣出版,20
08年,343頁,川本皓嗣「歌
枕の詩学―津の国・難波・芦屋」,鈴木健一『江戸詩歌史の構想』
,岩波書店,2
004
年,第四章「歌枕から名所へ」
,ジャクリーヌ・ピジョー『物尽し―日本的レト
リックの伝統』
,寺田澄江・福井澄訳,平凡社,19
97年,特に1854頁(原著は,
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,Que
,PUF,1997),ハ ル オ・シ ラ ネ
『芭蕉の風景 文化の記憶』,衣笠正晃訳,角川書店,2
001年,などを参照。
年代の東京 ― 路面電車が走る水の都の記憶』
,毎日新聞社,2
印 池田信『1960
008
年,166
167頁,「池袋駅西口のヤミ市跡の取り壊し」(1962年11月),「昭和毎日」
写真データベース「毎日フォトバンク」(ht
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),毎日新聞社,「池田写真文庫 東京・豊島区編 池袋駅西口のヤミ市
年11
月25
日),「池田写真文庫 東京・豊島区編 池袋駅西口
跡の取り壊し」(1962
年11
月25
日),
「復興マーケットと東横デパート 池袋で」
東横百貨店(右)」
(1962
年6
月),及 び,「よ み う り 報 知 写 真 館」(h
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(1959
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n/
),読売新聞社,
「池袋駅西口。駅前の白いビルは東武ではなく東横デ
年2
月5
日),などを参照。
パート,後ろに復興マーケット」(1957
年代の東京 ― 路面電車が走る水の都の記憶』
,前掲書,4
「新橋駅
咽 『1960
849頁,
年1
月),及び,「毎日フォトバンク」
,前掲,
「新橋
西口広場の競馬ファン」(1965
系146
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
闇市の取壊し」(1946
年8
月10
日),「終戦・混雑する新橋駅前広場のヤミ市」
(1
945
年),などを参照。
,
員 『ゴジラ/ゴジラの逆襲/大怪獣バラン』
,東宝 SF特撮映画シリーズ VOL.3
年,シナリオ,88
頁,151
「新橋附近」,及び,香山滋『ゴジラ』
,筑摩
東宝,1985
年(「ゴジラ 東京編」,1
書房(ちくま文庫),2004
955年),123頁。
,ランダム
因 岡本哲志『
「丸の内」の歴史 ― 丸の内スタイルの誕生とその変遷』
年,などを参照。
ハウス講談社,2009
「S#1
姻 『ゴジラ/ゴジラの逆襲/大怪獣バラン』,前掲書,6
7頁,
51A新橋附近」。
月6
月20
日,新橋,田町での現地調査(ロケ地調査)を実施。
引 2010
,人文社(古地図ラ
飲 堀晃明『広重の大江戸名所百景散歩 ― 江戸切絵図で歩く』
),1996
年,10
頁。以下,『名所江戸百景』は,同書を参照。広重に
イブラリー 3
ついては,萩島哲・坂井猛・鵤心治『広重の浮世絵風景画と景観デザイン―東海
道五十三次と木曾街道六十九次の景観』,九州大学出版会,2
004年,などを参照。
「日
淫 大久保純一『広重と浮世絵風景画』,東京大学出版会,2
007年,128136頁,
本橋図に見る「定型」の形成」,参照。
胤 永井荷風『あめりか物語』,岩波文庫,改版,200
2年,189頁。
蔭 ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史 ― 1
9世紀における空間と
時間の工業化』
,加藤二郎訳,法政大学出版局,198
2年,12「都市の中の鉄道線
路」では,
「鉄道路線が都市で生み出す交通量の増加により,その影響はより広
範囲なものとなり,ついには都市の伝統的内部構造をぶちこわすに至る。この効
果は,都市が鉄道路線と結びつくやいなや現われる。
」
(2
24頁)とある。
院 猪俣賢司「品川埠頭のドラマトゥルギー ― 東京湾岸を繞るゴジラ映画史と小津
『人文科学研究』,第1
安二郎の東京トワイライト ―」,
26輯,2010年2月,101133
頁。
陰 『東京案内』
,「復刻版 岩波写真文庫 川本三郎セレクション 5
0年代東京再
,岩波書店,2007
年(初版1952
年),参照。
発見」68
隠 浅草松屋と隅田川を背景とした東武伊勢崎線鉄橋の構図は,根本圭助編『小松
年,4
頁,
「枕橋より浅草松屋
崎茂 昭和の東京』,筑摩書房(ちくま文庫),2005
を望む」
(昭和十一年,隅田公園,まくら橋)
,及び,DVD『東京の風景 1
956「浅草
1961』,新しき庶民のパノラマワールド,NHKエンタープライズ,2009年,
年7
月),にも見られる。
付近」(1956
頁。香山滋著・竹内博編『香山滋全集・第7
巻・
韻 香山滋『ゴジラ』,前掲書,119
系147
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
怪獣ゴジラ』,三一書房,1994
年,407
頁,では,
「芝浦岸壁を避けて,西側より上っ
て来ました……」とある。何れにしても,現在のレインボーブリッジの西詰め附
近に当たる。
年,演劇出版社刊,
『新編 東京繁昌記』
,岩波文
吋 木村荘八『東京繁昌記』
(1958
年,所収),121
頁,略図。「芝海岸通」の南側に「東海汽船」と見える。
庫,1993
右 都電については,三好好三(編著)
『よみがえる東京 ― 都電が走った昭和の街
年,石堂秀夫『懐かしの都電 ― 4
角』,学研パブリッシング,2010
1路線を歩く』,
年,林順信『都電が走った街 今昔 ― 激変の
有楽出版社,実業之日本社,2004
年』,J
TBパブリッシング,1996
年,林順信『都電が走った街
東京 ― 定点対比30
世紀の東京景観 ― 定点対比30
年』,J
TB,1
今昔I
I― 20
998年,吉川文夫『東京都
年,
『東京都電 ― 懐かしい風景で振り返る』
,イカロ
電の時代』,大正出版,1997
年,などを参照。
ス出版,2005
「札の辻 京浜国
肝 『ゴジラ/ゴジラの逆襲/大怪獣バラン』,前掲書,8
8頁,149
頁。
道附近」,及び,香山滋『ゴジラ』,前掲書,123
艦 新人物往来社編『江戸切絵図 今昔散歩』
,新人物往来社,2
009年,70頁,及
び,白石つとむ編『江戸切絵図と東京名所絵』,小学館,普及版,2
002年,100-
103頁,などを参照。
莞 映画の台詞,及び,香山滋『ゴジラ』,前掲書,1
23頁。
年,1
観 野村宏平編『ゴジラ大辞典』,笠倉出版社,2004
35頁,では,「(……)芝
丁目へ侵攻。都電通りを北進しながら放射熱線を吐きまくり,東京ガスのガ
浦2
R)
スタンクを爆破。そこから進路を西に取り,田町駅の南側を通って国鉄(現 J
線路を越え,札の辻交差点へ向かった。」とあるが,
「進路を西に取り,田町駅の
南側を通って」,「札の辻交差点へ向かった」という部分が,映画からは,どうし
ても読み取れない。
巻・怪獣ゴジラ』,前掲書,409
頁,では,「芝公園から田村
諌 『香山滋全集・第7
町,新橋を通り,ゴジラは,北に向って,遂に銀座の繁華街に一歩を踏み入れた。
」
とあるが,映画では,芝公園,田村町は,不明。
貫 『よみがえる東京 ― 都電が走った昭和の街角』,前掲書,8
3頁,「札ノ辻」(昭
年2
月9
日),参照。
和33
年,三菱ふそうトラック・バス株式会
還 三菱ふそう「会社案内」,PDF版,2009
社(ht
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),及び,三菱自動車「沿革」,三菱
自動車工業株式会社(ht
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)
,などを参照。
系148
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
鑑 火災保険特殊地図(戦後),港区[6
]芝金杉方面・三田四国町方面[1
9481953],
」,1
都市整図社,東京都立中央図書館,
「芝金杉方面15
950年12月作図,1955年8月
修正。
間 吉崎雅規「薩摩藩の江戸屋敷について」,『資料館だより』,第6
2号,2008年9月
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,及 び,
30日,港 区 立 港 郷 土 資 料 館(ht
NATOあらかると」
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),などを参照。
号,昭和29
年3
月10
日,合併公告,官報情報検索サービス
閑 官報,本紙,第8153
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),及 び,「三 菱 の 歴 史」,mi
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www.
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hi
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c
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j
/
),などを参照。
]芝金杉方面・三田四国町方面 [1
関 火災保険特殊地図(戦後),港区[6
9481953],
都市整図社,東京都立中央図書館,
「芝金杉方面11
15」,「三田四国町方面13,6,
12」,1950年12月作図,1955年8月修正。
陥 猪俣賢司「東京の地理学と小津安二郎の映画技法 ― 鉄道路線とゴジラ映画の視
輯,2009
年3
月,4
覚から ―」,『人文科学研究』,第124
573頁。
韓 「第一生命の歩み」,年表,第一生命保険株式会社(h
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)
,
などを参照。
館 『広重と浮世絵風景画』,前掲書,110
125頁,などを参照。但し,同書,第四章
「この揃物がそれ
「
《名所江戸百景》考 ― 大都市江戸の伝統へのまなざし」では,
までの多くの江戸名所絵シリーズのように,もっぱら江戸土産として他邦の出身
者のみを購買層としているのではなく,江戸の町に長く住み,この町の伝統性に
強い関心を寄せる人々をも視野に入れて制作されたのではないか」(2
04頁)とあ
り,『名所江戸百景』は,「描かれた「新しい名所」」
(1
95頁)を含む,「都市の伝
頁)であり,「江戸の自画像」(2
統性の視覚化」(204
09頁)でもあるとしている。
頁,及び,123
頁。
舘 香山滋『ゴジラ』,前掲書,122
年頃,書誌番号0
丸 地域資料,
「日本一の銀座通り」,昭和37
01987945,中央区立図
書館(ht
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),参照。
含 サッポロビール「歴史・沿革」,サッポロビール株式会社(h
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年の歩み」
,銀座ライオン(h
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),及び,サッポロライオン「110
gi
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j
p/
),などを参照。銀座については,岡本哲志『銀座を歩く ― 江戸とモ
年,岡本哲志『銀座四百年 ―都市空間の歴
ダンの歴史体験』
,学芸出版社,2009
年,岡本哲志『銀座 ― 土地と建物が語
史』,講談社(講談社選書メチエ),2006
系149
胸人文科学研究 第 1
2
7輯
る街の歴史』
,法政大学出版局,2003
年,三枝進ほか『銀座 ― 街の物語』,河出
年,などを参照。
書房新社,2006
,昭 和5
岸 地 域 資 料,前 掲,「銀 座 通 り ― 銀 座 天 国 ―」
4年12月,書 誌 番 号
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001701010,中 央 区 立 図 書 館,及 び,「天 國 の 歴 史」,銀 座 天 國(ht
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nkuni
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),などを参照。
巌 佐藤洋一・武揚堂編集部『あの日の銀座 ― 昭和2
5年から30年代の思い出と出
年,附録,火災保険特殊地図(昭和二十五年,改版)
,及び,
会う』,武揚堂,2007
地域資料,前掲,「銀座西六丁目 並木通り ― 資生堂本社から写す ―」,昭和3
2
年,書誌番号001700977
,中央区立図書館,参照。
年から30
年代の思い出と出会う』,前掲書,4
玩 『あの日の銀座 ― 昭和25
445頁,
参照。
癌 同書,火災保険特殊地図,及び,
「毎日フォトバンク」
,前掲,「池田写真文庫
東京・千代田区編 国鉄・有楽町駅北口(駅東側)付近の有楽街」
(1
961年12月29
日),参照。
眼 DVD『東京の風景 1965
1970』,熱狂の東京パビリオン,NHKエンタープライ
年,「デパート屋上で動物の大バーゲン」(1
ズ,2009
966年4月),などを参照。
年,書誌番号0
岩 地域資料,前掲,
「京橋消防署」,昭和32
01701649,及び,書誌番
,中央区立図書館,参照。
号001701650
年,5
「
「銀ブラ」と
翫 永井永光『荷風と私の銀座百年』,白水社,2008
3頁,には,
いう言葉の語源は,「銀座をぶらぶらする」の略ではなく,この「銀座のパウリ
スタでブラジルコーヒーを飲む」の略だと,昔銀座の古老に聞いたことがありま
す。」とあるが,本稿では,銀座をぶらぶらするの謂である。
),1
贋 『謡曲集・上』,岩波書店(日本古典文學大系40
960年,61頁。
頁。
雁 香山滋『ゴジラ』,前掲書,18
頑 外邦図デジタルアーカイブ,仏領インドシナ,佛領印度支那2
03号,DALAT,
:
縮尺1
100,000,印度支那總督府地理局,19241925年測量,陸地測量部・参謀本
年,東北大学附属図書館,理学部地理学教室(h
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部製版・印刷,昭和15
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php),などを参照。
頁。
顔 林芙美子『浮雲』,前掲書,34
年7
月29
日,
「佛印進駐一周年を語る」
,神戸大学附属図書館
願 中外商業新報,1942
デ ジ タ ル ア ー カ イ ブ「新 聞 記 事 文 庫」(ht
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ml
),などを参照。
系150
東京遊覧と南洋の反照としてのゴジラ映画史胸
企 『浮雲』の引用は,以下,林芙美子『浮雲』
,前掲書,の頁数を示し,基本的に,
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,前掲,所収の本文に拠る。注記無き場合は,映画の台詞で
ある。
年,十九「
『浮雲』おおう「暗さ」
」
伎 川本三郎『林芙美子の昭和』,新書館,2003
では,この点が強調されている。その他,川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』
,
年,
「戦後を生ききれなかった男と女 ― 成瀬巳喜男監督『浮
岩波現代文庫,2007
雲』」,参照。
危 中川運輸,会社概要,中川運輸株式会社(ht
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)
,参照。
喜 栗原俊雄『戦艦大和 ― 生還者たちの証言から』,岩波新書,2
007年,2227頁,参
照。
年,などを参照。
器 林芙美子『戦線』,中公文庫,2006
基 戦前の新聞記事は,神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」
,
前掲,に拠る。
奇 「ASEANへの旅」,ベトナム,日本アセアンセンター(h
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)
,など
及び,DuongSa
を参照。
系151
Fly UP