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アメリカからみたアジア通貨危機 ――グローバリゼーションとアメリカの

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アメリカからみたアジア通貨危機 ――グローバリゼーションとアメリカの
アメリカからみたアジア通貨危機
アメリカからみたアジア通貨危機
――グローバリゼーションとアメリカのリーダーシップ――
内藤 仁美
序章
第1章
アジア通貨危機とは
第1節
アジアにとっての通貨危機
第2節
アメリカから見たアジア通貨危機
第2章
クリントン政権とルービン財務長官
第1節
クリントン政権下のアメリカ経済
第2節
ルービン財務長官の対アジア政策
第3章
終章
アジア通貨危機が世界に与えた影響
第1節
アジアのアメリカに対する不信
第2節
アメリカのアジアに対する失望
――――― グローバリゼーションとリーダーシップ
序章
1997 年、アジア太平洋地域は深刻な通貨危機に陥った。同年 7 月のタイ・バーツの通貨切り下げに端
を発して、その後 1 年半の内に、中国元と香港ドルをのぞく東アジア、東南アジアの通貨が軒並み下落、各
国で深刻な経済危機へと発展した。インドネシアでは30 年続いたスハルト大統領体制が崩壊した。さらに、
アジアに端を発した通貨不安は、ロシア、ブラジルを巻き込む世界的な新興市場の通貨危機の導火線に
なった。そしてアジア通貨危機は、国際金融危機のあり方、それに対する各国の対応の違いなど、さまざま
な問題を浮き彫りにした1。
私がアジア通貨危機を題材に論文を書こうと思った理由は、アジア通貨危機が他の金融危機とは異なり、
経済学にとどまらず、政治学的にも非常に重要な意味をもっていると考えたからである。アジア通貨危機
は、
1) 危機がグローバルに波及した
2) アジア各国の政治体制を浮かび上がらせた
3) アメリカの相当な介入があった
この 3 つの点で、アジア通貨危機はそれ以前の通貨危機とは異質のものであった。そして 3 つの特徴か
らこの問題は政治学として研究できると私は考えた。経済学としてではなく、政治学として。これがこの論文
の 1 つのオリジナリティーとなろう。
また、この論文では、アジア通貨危機を当事国であるアジア諸国ではなく、アメリカから見ていく。これが
2 つめのオリジナリティーである。アジアを発端に世界中に影響を及ぼした問題に対して、アメリカがどのよう
な対応をしたかを見ることで、客観的に見たアジア通貨危機、さらに対外政策を通じたアメリカ政治を浮き
彫りにすることができるだろう。
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
『アメリカから見たアジア通貨危機』としたこの論文の中で、その中核となるのは第 2 章である。また、通貨
危機に対するアメリカの対応というと IMF の政策をその中核とする論文が多い中で、本論文ではその政治
的駆け引きを見るためにも、クリントン政権におけるルービン財務長官の行動を追うことで、通貨危機への
アメリカの対応をみていく。ルービン長官へのフォーカスが 3 つめのオリジナリティーになる。さらに、アメリカ
がアジアの代表国としての日本に、通貨危機に際してどのようなことを期待し、何を要求したのか、日米関
係にも触れたいと思う。アジア諸国すべてではなく、日本に特化していくのも 4 つめのオリジナリティーであ
る。
以上のようなオリジナリティーをもって、この論文で明らかにしたいのは、アメリカがアジア通貨危機を通じ
て世界のリーダーとしての存在感を示すことができたのかについてである。論文を通じて、アメリカからの視
点をもつので、アメリカがアジアにおいてどのような存在感をあらわそうとしていたか、またアジアの代表とし
ての日本をどうとらえていたのか、クリントン政権、ルービン財務長官の姿勢を踏まえて述べたい。
アジア通貨危機は「アジアの危機」というよりは、「グローバルな危機」であった。国際的な困難な経済問
題に対して、アメリカがどのような政治的グローバルリーダーシップをとろうとしたのか、そしてそれはアメリカ
の思惑通りになったのか、終章に至るまでに自分なりの見解を示す。
第1章
アジア通貨危機とは
アジア通貨危機について、第 1 節ではアジアから、第 2 節ではアメリカから見ていく。本論文では、アメリ
カから見た通貨危機を重点的に見ていきたいので、第 2 節がより重要となるが、第 1 節で当事者であるアジ
アからみた通貨危機を描き、その全体像をつかむことにする。
第1節
アジアにとっての通貨危機
1997 年 7 月 2 日、タイ政府はバーツの為替レート決定システムを、それまでの実質的な米ドルへの固定
相場制から管理変動相場制へ変更した。年初来いく度かにわたり強い切り下げ圧力にさらされていたタイ・
バーツはこれ受け、同日直ちに対米ドルで約 15%の暴落となった。これがアジア通貨危機の発端である。
この日以降 97 年いっぱい、通貨危機は月を追って深刻化し、他のアジア諸国に次々と波及していった。タ
イ、そして韓国における政権交代を経て年末年始にかけ通貨暴落は底を打つが、その後もインドネシア情
勢は安定を見ることなく、98 年 5 月には実質 30 年以上の長期政権の座にあったスハルト大統領の退陣に
いたった。こうして通貨危機はこれら 3 カ国における政変とからみつつ地域を大きく揺るがしていった2。
本節では、アジアにとっての通貨危機を検証するのに際し、通貨危機の 1 年の流れ、危機の発生原因、
近隣諸国への波及原因、危機に見舞われたアジア諸国の類似点・相違点、など順を追って見ていく。
まずは、アジア通貨危機の約 1 年間について 5 つの時期にわけてその推移をとだってみることにする。
分化することで、危機の広がりと深化がよりよく分かるはずである。
<第 1 期>
97 年 7 月から 10 月初めまで
―事態はまだ東南アジア通貨変動―
まず第 1 期は 97 年 7 月から 10 月初めまでである。この時期、通貨下落圧力はおおむね東南アジア、
しかも ASEAN4 諸国に限定されている。すなわち、タイ・バーツに続き、7 月半ば以降、フィリピン・ペソ、マ
レーシア・リンギ、インドネシア・ルピアが時に急落を繰り返しつつ急速な減価を開始し、10 月初めまでの間
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アメリカからみたアジア通貨危機
にこれら 4 カ国の通貨は 25∼35%下落することとなる。
他方、他のアジア諸国の通貨は下落圧力におされたとはいえ、韓国ウォン(2.8%)、台湾ドル(2.7%)、
シンガポール・ドル(6.8%)と実際の下落は小幅にとどまった。
<第 2 期>
97 年 10 月下旬から 11 月まで
―台湾、香港に波及、世界を揺るがす「同時株安」、そして韓国債務不履行の危機へ―
第 2 期は 10 月下旬から 11 月にかけてである。まず、10 月半ば、それまで 7 月末の急落以降、比較的
安定的に推移してきた台湾ドルが中央銀行の通貨安容認姿勢への転換を機に急落することとなった。これ
が引き金となって、中英間の変換交渉中の 1983 年以来ドルへの固定相場を維持してきた香港ドルの固定
相場維持可能性に対する疑いが市場に生まれ、大規模な香港ドル売り投機が発生した。これへの対抗措
置としての懲罰的高金利(10 月 23 日には銀行間の翌日もの金利は年率 300%台に高騰した)により、株
価は香港史上最大の下げ幅を記録した。
株価不安はニューヨーク、東京の両市場にも波及し、ニューヨーク市場も過去最大の下げ幅を記録し、
新聞紙上には「世界同時株安」の見出しが躍り、通貨危機がアジアだけの危機でないことを世界に知らしめ
ることとなった。
さらに、東南アジアにおける通貨危機の波は、10 月下旬には前年の 1996 年 12 月に OECD に加盟し
たばかりの韓国を襲うに至る。韓国ウォンは 95 年以降、減価傾向にあったが、97 年 10 月下旬から韓国株
価の暴落と軌を一にして急落する。以後ウォンは台湾、シンガポール等の他のアジア NIES 諸国とは異なり、
むしろ ASEAN4 諸国に似た大幅減価を示していく。この時期には、地球の裏側のブラジル・レアルとアル
ゼンチン・ペソも通貨投機に暴されることとなる。
<第 3 期>
97 年 12 月初旬から、12 月下旬より 98 年 1 月までの底打ち期まで
―韓国は債務不履行の危機を乗り切り、通貨下落は年末をはさみようやく底打ち―
第 3 期は 12 月初旬以降これらの通貨がいったん底を打つまでの約 1 ケ月である。韓国は 11 月下旬に
IMF に金融支援要請を行ったが、12 月初め韓国と IMFとのプログラム合意に伴い、韓国の使用可能な外
貨準備が年末までに満期の到来する短期対外債務が国比し、著しく少額であることが明らかとなった。
これにより、韓国の銀行への銀行間貸付のロールオーバー(更新)率が急激に低下、それに伴い、韓国
ウォンのみならずインドネシア・ルピアを含むほかの通貨への下落圧力がいっそう激化することとなった。そ
の後、韓国については IMFとの合意内容の見直し・強化と金融支援の前倒し実施などが合意され。これを
受けて韓国の銀行への短期貸付のロールオーバーが進み、ようやく事態のそれ以上の悪化は回避される。
こうしら混乱を経て 12 月下旬から 1 月にかけてこれらの通貨はいったん底を打つが、97 年 6 月末から底
打ちまでの間にインドネシア・ルピアは 81.2%、タイ・バーツは 55.5%、マレーシア・リンギは 46.44%、フィ
リピン・ペソは 41.5%、韓国ウォンは 54.9%と劇的な通貨価格の下落が記録された。
<第 4 期>
97 年 12 月より 98 年 1 月までの底打ち期から 98 年 4 月頃まで
―全面的に回復傾向、その一方インドネシア情勢が急速に悪化―
第 4 期は、97 年 12 月下旬から 1 月にかけて始まり、4 月頃まで続く回復期である。前記のように、12 月
下旬以降ほとんどの対韓国債権者銀行が短期貸付の貸付期限延長に合意したことが安定化に大きく貢献
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
した。韓国ウォンは 12 月中に底を打ち、タイ・バーツ、マレーシア・リンギ、フィリピン・ペソ、シンガポール・ド
ル、台湾ドルも 1 月前半には上昇気味に転じた。しかし、そうした中で、インドネシア・ルピアのみは独自の
道をたどることとなる。
インドネシアは97 年 10 月に IMF に支援要請を行い、10 月末には IMF などからの支援がまとまってい
たが、98 年 1 月のインドネシア政府の 98 年度予算案の発表を契機に、市場にインドネシア政府の危機へ
の取り組み姿勢に対する失望感が生じ、ルピアは大暴落となる。これに対し、インドネシア政府は IMF と協
議を行い 1 月半ばには IMF との間で実施すべき政策の内容について再合意を行った。しかしルピアはそ
の後も暴落を続け、1 月 26 日に最安値をつけ、いったん反転するものの、2 月半ばに大幅下落するなどそ
の後も大幅変動を繰り返すこととなる。
<第 5 期>
98 年 5 月から 6 月下旬まで
―再度不安定化、スハルト大統領退陣―
第 5 期は日本円の対ドル安進行を背景としていくつかのアジア諸国通貨が再び下落傾向を示し始めた
5 月中旬から一定の安定をみせる 6 月下旬までの期間である。インドネシア・ルピアはこの間ジャカルタ等
での暴動、スハルト大統領の退陣という激動の中またも簿イラク氏、6 月には 1 ドル 16000 ルピアを突破、
最安値を更新したが、その後回復傾向に入ることとなる3。
以上、通貨危機の 1 年の流れをたどった。それまでの 10 年間の東アジア経済が、「世界の成長センタ
ー」と呼ばれるほど、良好なパフォーマンスを示していただけに、アジア通貨危機の衝撃は大きかった。
では、次にアジア通貨危機の発生要因について見ていこう。これに関しては既存の研究においても多く
の議論がある。それを整理すると、以下の 7 つがあげられる。
1) ドル・リンクの問題
2) 短期資本への過度な依存
3) 対外的な借り入れとその資金を利用した国内投資との間の二重ミスマッチ(通貨および期間の
ミスマッチ)
4) 経常赤字の持続的拡大傾向
5) 国内金融システムに対する適切な健全化既成の不備
6) 不動産投機バブルを発生させたマクロ政策
7) 金融システムを維持するためのセーフティー・ネットの未成熟(モラル・ハザード)
また、近隣諸国への波及要因に関しても、
1) アジア域内の相互依存の高まり
2) 危機に陥ったタイ経済と周辺諸国の共通項
3) グローバル資本の弊害
が指摘できる。危機の示唆についても 4 つの論点があげられる。第 1 に、危機の要因をアジアの構造問
題に見て、不透明で不健全な経済システムに市場の審判が必然的に下った、という考え方がある。ここで
は、構造改革なくしてアジアの再生なしとまで言われた。第 2 に、投機資金の野放図な活動を非難する見
方がある。この立場からは、ヘッジ・ファンドなどに対する適切な規制のあり方が問われた。第 3 に、ブレトン
ウッズ崩壊以降の国際通貨システムの動揺とドル依存を問題とする視点がある。ここでは、アジア通貨基金
(AMF)構想を含めた国際通貨システムの抜本的改革と、アジアの脱ドル化の必要性が説かれた。第 4 に、
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アメリカからみたアジア通貨危機
アジアに求められた緊急政策が危機を一掃悪化させたという視点がある。ここからは国際機関としての
IMF 改革の必要性がテーマとなった4。
アジア通貨危機におけるアジア諸国の類似点と相違点についても言及しておこう。これについては、スタ
ンフォード大学のダニエル・オキモト氏の意見をもとにした5。
まず、類似点から見てみよう。アジア諸国の経験を「アジア危機」という 1 つのレッテルにまとめることは誤
解を招くが、いくつかの共通する特徴が、このような包括的なレッテルを使用する一定の根拠となっている。
危機は日本、韓国、タイ、マレーシア、インドネシアの全てが、アジアという地理的な境界の中に収まるという
意味で、「アジアの」危機なのである。さらに、こうした国々の経済は相互依存の深い絆で結ばれているので、
金融危機の嵐がアジア全域に吹き荒れたことも当然のことと言えよう。この危機は重要な経済指標を崩壊さ
せた。株式市場は暴落、通貨は下落、金利は急騰、それまでの高い成長率はストップした。銀行は利払い
不履行のローンの重圧に押しつぶされ、破産し、消費者信用組合、保険会社、証券会社などの関連の金
融機関の健全性にも悪影響を及ぼした。韓国からインドネシアに至る金融部門は完全に混乱状態での営
業を余儀なくされた。記録的な高さまでに上昇した住宅や不動産などの固定資産の価格もまた急落した6。
危機において、企業は労働者を大量にレイオフするしか選択の余地がなく、失業率は急上昇した。景気停
滞は過剰な設備能力、低い工場稼動率、大量の在庫などをもたらした。高いインフレ率、高い金利、生活
水準の低下、資産価値の低下、失業率の上昇、不十分なセーフティー・ネットへの依存、景気回復までの
長い道のりを阻む主な不確定要素などである。こうした悪条件を考えると、アジアの平均的な世帯が将来に
ついて大きな不安をもつことも当然である。消費者の信頼が欠如していることが、消費需要の低迷による悪
循環をさらに深刻化させ、長引かせている。
アジア危機のもう1つ共通する特徴は、旧式の制度と慣習が残っていて、市場メカニズムの自由な働きを
阻害してきたことである。それはクローニー・キャピタリズムや、不完全な金融ディスクロージャー、甘い銀行
監査、お粗末な説明責任、過度な市場集中、政府による民間への不用な介入などの形でしっかりと根付い
ている。
さらに最後にもう 1 つ、共通する問題触れておこう。それは金融破綻に対する政府の保証があることによ
って引き起こされるリスクや利益の著しいひずみである。暗黙の保証によって、「モラル・ハザード」の問題が
引き起こす、周知の危険をもたされている。このように、経済危機にあるアジア諸国は多くの共通する特徴
をもっていた。
次に相違点を見ていこう。実は類似点よりも相違点の方が大きい。アジア通貨危機の原因に関して、以
下のように 3 つの異なるタイプに分類できる。
1) 金融破綻型:韓国、タイ、マレーシア
2) 複合危機型:インドネシア
3) 長期的停滞型:日本
この 3 つのケースはその原因や回復の道筋が異なる。
1)最初のタイプの韓国、タイ、マレーシアの原因は、金融機関や企業が借入、貸出、投資で用心を怠っ
たことにたどり着くことができる。銀行、投資家、企業は、低利子で短期外国資本を大量に借り入れ、高い利
子で長期社債を発行したり、リスクの大きい投機的な長期投資を行った。こうした行動は、投機的なバブル
を膨らませただけでなく、金融機関は外国資本の流入を遮断される危険にさらされる可能性が高くなった。
これらの国の通貨、すなわちウォン、バーツ、リンギットはドルにペッグしていた。ドル・ペッグ制は、円ドルの
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為替レートが乱下高することがなく、円高が続く限り、機能した。しかし、円ドル為替レートが変動し、1996
年に円安に転じ、それが 2 年続くと 2 年越しの円安となり、ウォン、バーツ、リンギットへの圧力が高まり、通
貨が突如として下落した。各国の中央銀行は通貨下落に直面しても、ドル準備金が不足しているために、
有効な防衛手段をとることができなかった。各国の総準備金に対する短期負債の割合は驚くべき水準に達
し、タイとインドネシアでじゃ 150%を超え、韓国では 200%をはるかに超えた。外国資本の栓が閉じられ、
極めて無防備な韓国、タイ、マレーシア国民の生活は非常に不安定な状態に陥った。
2)インドネシアもまた同じような体験をした。インドネシアも資金不足に見舞われ、通貨のルピアは非常に
低い水準に引き上げられた。インドネシアが第 1 のタイプの諸国と違うところは、長年にわたる大統領後継
問題や深刻な経済崩壊と華人の商業利権に対してくすぶっている怒りが引き金となった社会危機を原因と
する政治危機が絡んでいることである。韓国、タイ、マレーシアと違って、インドネシアは、金融、経済、政治、
社会的変動が同時に起こるという、「複合危機」に対処しようと戦っている。このためにインドネシアの危機は、
他のどのアジア諸国よりもはるかに深刻で複雑なものになった。回復には他の国よりも時間がかかる。
3)最後に日本の危機について。これは上の 2 つのタイプとは異なる。日本の危機は他のアジア諸国のよ
うに、外国資本の巨大な流入に過剰に依存したことに伴うリスクで発生したわけではなかった。他の 2 つの
ケースのように、日本は国の破産という危機に立たされたことはなかった。日本は IMF に緊急の救済措置
を求めたこともなかった。日本は支払能力があるばかりか、やはり豊かな経済大国である。日本の平均的な
世帯は、韓国、タイ、マレーシア、とりわけインドネシアの中流階級の世帯と違って、まだ生活水準の急激な
低下と言うような危機の痛みを感じることはない。日本の危機の最も驚くべき特徴は、その深刻さではなくて、
ほぼ 10 年間という長期にわたって続いていることと、日本政府の不良債権問題解決への対応が遅いという
ことなのである。
以上、要約するなら、アジア危機は、その特有の原因によって、3 つの異なるケースに分ける必要がある。
1)金融破綻(タイ、韓国、マレーシア)、2)複合危機(インドネシア)、3)遅い負債処理(日本)である。アジア
危機を 3 分類することによって、問題の性格と、こうした問題を克服するに必要な時間と、特に日本とアメリ
カにとっての影響を理解しやすくなる7。
第2節
アメリカから見たアジア通貨危機
本節では、アジア通貨危機に対してアメリカがどのような衝撃を受けたのかについて述べる。ここでは、ア
メリカ経済界が受けた通貨危機に対する印象を中心に書いていこうと思う。そして、危機に対するアメリカ政
界の反応については 2 章につなげていきたい。
アジア通貨危機にアメリカの経済界は驚きを隠せなかった。多くの人が、「アジアの奇跡」は次の 4 半世
紀まで続くものだと考えていたからである。この危機はアジアの将来についての彼らの考えを変えさせた。
「アジア=不確実」という大きな要素が彼らの思考に入ってきた。アジア通貨危機が発生した当初、アメリカ
の一部では、アジアのデフレ圧力は、むしろアメリカのインフレ圧力を緩和するという意味でプラス材料だと
いう意見すら聞かれた。しかし、その後、不動産や株の暴落、IMF の救済という事態に至って、欧米でもか
なり真剣に事態を受け止め、世界経済あるいは欧米経済に対する影響を懸念しはじめた8。実際のアメリカ
の動きを見てみると、97 年 7 月のタイ・バーツ暴落の時点では、アメリカは登場していない。97年末に急激
にインドネシア情勢が悪化した頃から、存在感をあらわす様になった。ここでようやく、アメリカ内部で通貨危
機の深刻さが認識されたのだろう。
370
アメリカからみたアジア通貨危機
ではなぜアメリカではここまで通貨危機に対する対応が遅れたのであろうか。
それは貿易に関してマクロで見ていくと分かる。アメリカの、中国を含めた対アジア輸出シェアは全体の
17%くらいに達しており、かなり高い。しかし、アメリカの GDP6∼7 兆ドルの中で、輸出は 5900 億ドルであ
るので、GDP の約 9%。その中の 17%が対アジア 9 カ国向けとなっている。つまり、アジア向けの輸出は
GDP 比にしてわずか 1.5%にすぎない。アジアの経済が悪化し、アジアの需要が減り、アメリカからの輸出
がマイナスになろうともそれほどのマイナスはないとうことになる。一方で、アメリカは輸入依存度が高いため、
通貨下落したアジア地域から輸入品が増えることはインフレ鎮静化の効果がある。アメリカにとっては、物価、
インフレ圧力を下げる鎮熱剤としての効果が大きく、輸出減との差し引きを考えてみても、アジア通貨危機
は直接的にアメリカに大きなマイナスを与えることにはならないと考えられたのである。
アメリカにとって真に深刻だと捉えられたのは、通貨危機の日本への大きな打撃がアメリカに波及するこ
とであった。日本の対アジア 9 カ国輸出は、全輸出の約 37%を占めており、日本の輸出は GDP の 10.5%
を占めている。よって、日本の GDP の約 4%がアジア依存である。さらに日本はデフレに直面しているため
に、輸入によるインフレ沈静化も意味をなさない。日本の景気悪化が最大の貿易相手国であるアメリカに影
響を与えること、さらには日本の金融機関の破綻がアメリカの株価を下落させること、それこそが、アメリカが
もっともおそれたことであった9。このように、アメリカは、アジア通貨危機によるアジア全体の経済悪化を懸
念するというよりは、日本経済の停滞がアメリカに与える悪影響を懸念していたと言える。
よって、ここでアメリカの日本観についても言及したい。アメリカでは、通貨危機発生当初、危機を日本の
責任だとする声は多くはなかった。しかし、日本の不況の底から経済を浮揚させて、アジアの成長の力強い
原動力として引っ張っていくことが出来なかったという事実に深い失望感を表している人は多い。日本が長
期的な停滞にはまりこんでいるので、アメリカはアジアの不景気な諸国からの大量の輸入品を吸収しなけれ
ばならなかった。アメリカ人は日本の窮地を理解しているけれども、多くのものが幻滅や怒りの気持ちをもっ
ている。一部の皮肉的な観測筋の目には、日本がアジアから最も必要とされている時に、難局に対処しな
かったことは、日本がリーダーの役割を果たす能力がないことの証拠であると映る。絶対的な大きさだけを
見るなら、日本は権力となり得るものをもっているが、リーダーシップに必要な要素、すなわちビジョン、政治
的意志、率先力、信用性に欠けているようだと彼らは見たのだ。
その一方で、アジアにおける中国の力と役割は高まっている。日本人は、中国が自信を深め、アジアに
長期的な大きな権力を握る野心をもっていることを懸念している。アメリカが米中関係に高い優先順位をお
くかもしれないという考えは動揺をもたらす。日本人はメディアがいうところの「ジャパン・パッシング」にいら
だっている。日本人は、アメリカが日本を素通りして、中国と直接交渉することを恐れている。アメリカ人は、
中国がアジアの大国になり、日本は二流国としてアジアの周辺国に成り下がるだろうと思っているからであ
る。クリントン大統領が1998 年の北京訪問で日本を素通りし、中国で日本を批判し、3 原則をすぐに受け入
れたことは、日本の妄想を和らげるのに役立ちはしなかった。
アジア危機によって、いわゆる「日本型モデル」や「雁行形態」の開発パターンの栄光もかすんでしまった。
日本がアジアの先頭を飛んでいる雁として高く飛行している限り、またアジア諸国が成長している限りは、
「日本型モデル」は工業開発の魅力的なパラダイムとなり、アメリカが体現しているような純粋な市場モデル
の代価モデルとなった。しかし、日本がつまずき、金融危機が韓国を襲ったことで、「日本型モデル」はその
魅力のほとんどを失った。それどころか、市場の機能不全説が指摘しているように、「日本型モデル」の、市
場と無関係の制度や慣習こそが、日本を経済混乱に陥れたのであった。多くの日本人はまだ「日本型モデ
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
ル」に執着しているが、その栄光のほとんどは失われた。IMF はアジア諸国に対し、過剰な政府干渉のよう
な「日本型モデル」の機能障害を引き起こす要素を放棄するように要求している。
アジア危機は日本の威信と「日本型モデル」の魅力を打ち砕いたが、日本が行った建設的な貢献を、ア
メリカは十分に評価することはなかった。危機が1997 年7 月にタイを最初に襲ったとき、日本は真っ先に手
を差し伸べ、包括的な救済措置を提供した。タイ人は、金融の津波がタイを襲おうとしているときにアメリカ
が傍観していたことをすぐには忘れないだろう。多額の政府開発援助(ODA)パッケージを、危機に耐えら
れなくなっていたタイやインドネシア、その他の国に差し出したのは日本であった。他の多国籍企業の多く
は海外の工場の操業を続け、現地の労働者を雇い続けた。「何もしない」と批判は、日本が「アジア通貨基
金(AMF)」を創立するという提案をしたことを無視している。米国財務省の高官がこの提案を拒否したのは、
AMF や IMF の権威や影響力を損なうことを恐れたからである。従って、冷淡な「何もしない」国で、アジア
の指導者としての最初の試練にしくじったという日本のイメージは正確だとは言えないだろう。
第2章
クリントン政権とルービン財務長官
本章では、通貨危機時のアメリカの対アジア、特に対日政策について言及したい。クリントン政権下のア
メリカ経済の好調さに通貨危機はどう影響を与えたのか、また、時の財務長官ルービン氏の対アジア戦略と
はどのようなものであったのか。それらについて、政治的な観点から述べたい。
第1節
クリントン政権下のアメリカ経済
アジア危機に対して、国際社会のリーダーとして存在感を示そうとしたのはアメリカだった。アメリカは 20
世紀最後の 10 年間、市場経済を最も謳歌した国だった。アジア通貨危機の起こった時、アメリカ経済はど
うなっていたのだろうか。そして、アジア通貨危機はアメリカにどのような影響を与え、アメリカはどう対処した
のだろうか。ここでは、第 1 期、第 2 期クリントン政権を見ていく中で、通貨危機以前の政策と、その後の政
策との微妙な違いを浮き彫りにしたい。アメリカ政治と議会との関係、日本とアメリカの関係について言及し
たい。
1992 年からの第 1 期クリントン政権期のアメリカ国民の政治潮流は国内指向型となっていた。国内経済
再建こそが最重要課題であり、外交分野においても経済通商問題の比重が否応なしに高まり、その結果、
日本がたえず注視される状態になっていたといえる。第 1 期クリントン政権は、最重要課題を内政重視、特
に、投資と成長、雇用と競争力強化分野においた。したがって、通商あるいは「日本」が政権発足早々から
議論の中心になることはないと考えられた。すなわち、一貫した総合的対日政策の策定は、1993 年 4 月の
宮沢首相訪米から 7 月の東京サミットが射程距離に入る時期に策定されるだろうと。クリントン大統領は、一
方的な日本たたきでは日米関係が解決しないと認識していた。
しかし、対日通商政策が米国内の問題が山積みされる中では、一種パフォーマンス的に日本を責めるこ
とが考えられた。具体的には、財政赤字による制約で経済再建の実績が芳しくない場合など、対日要求が
厳しくなりうる。加えて、クリントン政権とは別に、もう一方のパワー・ポリティックスのプレーヤーである米国議
会の一部には、以前から対日強硬論が醸成されていた。また、民主党の選挙支援母体である UAW(自動
車労連)などの労働組合、シリコンバレーなどのハイテク中小企業群をはじめ、圧力団体には対日ライバ
ル・グループが多く、陰に陽に影響力を行使してくる。国内産業擁護傾斜は容易に想像できる。マサチュー
セッツ工科大学(MIT)のレスター・サロー教授は「400 億ドルの貿易赤字で 100 万人の失業が米国内に作
372
アメリカからみたアジア通貨危機
られる」と指摘し、「このまま大幅な対日赤字が続くと、米国の景気が相当好転しない限り、対日強硬論が再
び貿易不均衡問題を突破口に表面化してくる」と警告をしていた。クリントン大統領がこうした圧力と一線を
画し、柔軟な経済外交手腕を発揮できれば申し分ないわけだが、1996 年に再選を狙う政治的立場を考え
ると、その日本観は決して楽観視はできないとされていた10。
その後のクリントン政権の経済政策の変化をみていこう。まずは、実体経済について見ていく。96 年にク
リントン大統領が再選された第一の理由として好調なアメリカ経済が挙げられるほど、当時のアメリカ経済は
強かった。96 年の実質国内総生産の伸び率は 2.8%、失業率は 5.4%、消費者物価上昇率は 2.9%であり、
企業利潤と株価の上昇が顕著であった。経済の好調を背景に、クリントン政権では外交の位置づけを、国
内経済強化のための手段としていた。すなわち、国内政治的視座からの外交への接近というアプローチが
とられていたのである。また、市場としてのアジアに注目し、アジア・太平洋会議(APEC)を首脳会談に格
上げし、積極的にアジアに介入する姿勢を示していた。
96 年のアメリカ経済の好調さにより、翌 97 年、アメリカはニューエコノミー論に湧き上がっていた。このニ
ューエコノミー論が明示的な形で示されたのは、カリフォルニア大学バークレー校のスティーブン・ウェーバ
ー準教授が『フォーリン・アフェアーズ』誌に発表した「景気循環は消滅したか?」と題する論文だった。ウェ
ーバー準教授は、次の 6 つの要因によってアメリカは景気循環の波から解放され、長期の経済成長が可能
になったと論じた。
1) グローバル競争を通じて経済や企業経営が効率化した。
2) 技術革新とグローバル化によって金融市場が効率化した。
3) 製造業からサービス業への雇用シフトによって景気変動の影響が緩和され、正社員の減少と臨
時社員の増加によって労働市場の柔軟性が高まった。
4) アジアなど新興市場の台頭が世界経済の成長力を高め、安価な製品の供給拡大を通じてイン
フレ圧力を弱めた。
5) 政府が自由貿易を促進することによって、経済のグローバル化が促進された。
6) IT革新によって企業の意思決定が早まり在庫管理が効率化し、生産性が向上した。
このように、ウェーバー準教授は、「技術革新を背景とする生産性上昇や在庫管理技術の発達、グロー
バル経済化に伴う一段の効率化、労働市場の柔軟化といった構造変化によって、アメリカ経済はインフレな
き長期拡大という『ニューエコノミー』の時代に入った。」と主張した11。
次に、より深くアメリカ経済と議会政治の関連について見ていくことにする。
クリントン政権の経済政策(いわゆるクリントノミックス)は市場原理への回帰、財政再建、外需主導型経済
へ転換するための環境整備が柱とされていた。第 1 期のクリントン政権では、その政策は順調に進んだ。だ
が、いくら好調なアメリカ経済とはいえ、第 2 期目の経済政策の実行には困難が予想される。何よりも議会
で共和党が多数を占めていることが非常に重たくのしかかるのである。96 年 11 月の大統領選挙と同時に
行われた連邦議会選挙で、上院下院ともに民主党は敗北を期した。選挙前、上院では民主党 47 議席、共
和党 53 議席だったが、選挙の結果、民主党 45 議席、共和党 55 議席となった。また、下院では、435 議席
のうち、共和党が 227 議席なのに対し、民主党が 207 議席となったのである(独立系が 1 議席)。民主党は
この選挙で過半数を確保することができなかった。20 世紀において、民主党大統領が当選しながら下院で
敗北したのは初のことであった。米国の下院は経済政策立案に大変重要な役割を果たす機関である。そう
考えれば、下院で過半数の議席を獲得できなかったことはクリントノミックスの敗北を意味するとの見方もあ
373
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
る。
また、クリントン大統領は選挙戦中に減税公約を掲げていた。ドール候補が減税を掲げたために、対抗し
てクリントン陣営も 6 年間で 1000 ドルの減税を行うと公約したのである。選挙の得票率では、ドール候補
41%、クリントン大統領49%と、決して圧勝とは言いがたい。このように、第 2 次クリントン政権は、議会の喪
失、公約の重さが、経済政策にのしかかることとなったのである12。
このように第2 期クリントン政権は、ただニューエコノミーにわきあがっていたわけではなかったといえよう。
第 1 期ほどの好調さは考えられなかったのである。このような中で、1997 年にアジア通貨危機は起きた。そ
れが、クリントン政権の対日政策を変えたことは容易に想像できるだろう。実際のクリントン政権のアジア政
策について見ていこう。その骨格は、次の 3 項目に凝縮できる。
1) アジア域内のアメリカ抜きのリージョナリズムを排除する
2) 日本にアジア地域安定のためのバードン・シェアリング(財務分担)増強の重責と防衛分担の見
直しを行わせて、米国覇権を維持する
3) 日本ならびにアジア中進国(NIES)の市場開放促進に全力投球する
クリントン政権時代の日米関係を象徴するような言葉がある。コロンビア大学ヒュー・パトリック教授の「米
国内にはびこるリビジョ二ストの『対日パラノイアによる日本封じ込め策』などに対する嫌米感情が日本に起
きている」という発言である13。
また、リチャード・クローニン議会調査局スタッフは、「日本は世界との協調関係強化から、アジア地域で
の指導的地位確立の方向へ傾いている。最悪のシナリオは、同地域に『力の空白』が生じ、日本の経済的
支配が強化され、米国を排除して『新大亜共栄圏』が誕生するケースである」と証言した。当の日本国内より
もかなり深刻に、日本の対米戦略転換の方向性をとらえているのが特徴である。米国公聴会を紹介するま
でもなく、日本に『リ・アジアニゼーション(再アジア化、再入亜論)』が静かに台頭していることをアメリカがキ
ャッチしたのは確かである。米国の政策グループは、この『米国離れ』、アジア急接近の新潮流に国益上、
想像以上に神経を尖らせている。彼らはアジアでの覇権を模索し始めた中国のアジア主義、アジア全方位
外交に対しても、同様な焦燥感を募らせている14。
第2節
ルービン財務長官の対アジア政策
アメリカでウォール街と一体となってクリントン政権下で市場経済のグローバル化を強力に押し進めた人
物がいた。ロバート・ルービン財務長官である。
ルービン氏はそもそも、ウォール街でならした敏腕トレーダーだった。彼の経歴は以下の通り。1938 年ニ
ューヨーク州生まれ。ハーバード大学を最優等で卒業後、ロンドンに留学。さらにエール大学で法学博士
号を取得し弁護士資格を持つ。66 年、米投資銀行最大手、ゴールドマン・サックスに入社。株式投資で手
腕を発揮し、自らも巨万の富を得る。80 年には同社経営委員会委員、そして 90 年には、会長職にまで上り
詰めた。政治的スタンスとしては、生粋の民主党員だった同氏は、93 年、クリントン政権発足と同時に政権
に招かれ、新設された国家経済会議担当の大統領補佐官に就任。95 年から財務長官を務めている。ウォ
ール街での実績と人をうまく操る才能をもつルービン氏の政権入りは、ウォール街から政界へという新たな
サクセス・ストーリーとして語り継がれることになった。しかし一方で、米政権内部には、ルービン氏を「ウォー
ル街の利益代弁者」とする声があることも事実だ15。
さて、ルービン氏の政界での活躍を見ていこう。1993 年にクリントン政権が発足した当初、その最重要政
374
アメリカからみたアジア通貨危機
策課題は『アメリカ経済の再生』ということだった。そのため大統領のもとに国家経済会議が設置され、ルー
ビン氏がその議長に就任した。数少ない経済界の民主党支持者として、クリントン大統領からの信頼は厚か
った。
「ウォール街を活性化させ、金融の力でアメリカ経済を再生させる」これがルービン氏のシナリオだった。
そのためには、「円高ドル安」を望む産業界と「ドル高」を望むウォール街の戦いに決着をつける必要があっ
た。1995 年、ドルは一時80 円を割込む事態になった。ドル安で為替損を発生させた海外投資家は、アメリ
カの債券購入に消極的になっていた。財務長官に就任したルービン氏は大統領に迫る。「大統領が多くの
ことをなし遂げたいなら、金融市場の信任が必要だ。財政資金を有利な条件で市場から調達する他ないか
ら。」そして「ドル高は国益だ。強いドルこそ国益だ。」と市場が受入れるまで唱え続けた。更に先進国に対
しても円高ドル安の協調介入を求めた。円高に苦しむ日本は積極的にこれに応じた。産業より金融。モノよ
りマネーの政策を明確にしたのだ。そして産業界との戦いでウォール街が勝利をおさめた。ウォール街にマ
ネーの奔流が押し寄せた。海外投資家たちがアメリカの株や債権に積極的に投資をし始めた。ウォール街
はハイテクを駆使して流入したマネーを増殖させた。そのふくれあがったマネーが向かったのは、アジア、
ロシア、中南米などの新興市場の国々だった。グローバル市場を舞台にウォール街を中心としたマネーの
大動脈が築かれた。1994 年タイを訪問したベンツェン・アメリカ財務長官は金融自由化を要求した。アジア
の側も経済成長のための資金を必要としていた。各国は競い合うように自由化に踏み切った。過剰な短期
資金が流入し、それらのマネーは不動産や株式購入に向かい、タイにバブル経済を引起こした。当局の金
融引締め政策は市場開放のもとで、もはやその効力を十分発揮できなくなっていた。
一方、市場経済のグローバル化の進行に伴いウォール街はますます潤っていった。株式は大幅に上昇
し、株価の上昇が消費を膨らませ、企業業績を上向かせた。財政赤字も大幅に削減された。アメリカは金融
の力で戦後最高の好景気を実現させたのだ。ウォール街はルービンをツァー(皇帝)と呼んだ。そして 1997
年 1 月、クリントンは二期目の大統領選挙を圧勝し、アメリカ経済の再生を高らかに宣言した。
ルービン氏の主張は、「ドル高政策」で一貫している。彼は財務長官に就任する以前から、一貫して強い
ドルは国益であるとの持論を唱えてきた。だが、為替市場(通貨当局者も含む)は、長官の就任によって、ア
メリカの為替政策が大きく転換するとは夢にも思っていなかった。その理由は 2 つある。1 つは、ルービン氏
が財務長官職を引き受けることを躊躇していたことが、一部市場参加者に伝わっていたことだ。彼が財務長
官としてどのくらいの期間在籍するか、そしてアメリカ政権の通貨政策にそれほどの影響を及ぼし得るかは、
まったくの未知数であった。彼はあくまでもウォール街で大成功をおさめたビジネスマンでしかなく、ワシント
ンで成功するかと言うところに、多くのマスコミも非常に懐疑的であった。市場がアメリカの政策転換に半信
半疑であった 2 つめの理由は、前任者ロイド・ベッツェン財務長官が、明確な
「ドル安政策」をとっていたこと
である。ロイド氏の在任中2 年間に、ドルは 125 円から 100 円を下回る水準まで下落しており、市場は財務
長官がルービン氏に代わっても、アメリカ政権の通貨政策の基本路線は変わらないと思い込んでいた。アメ
リカは引き続き、ドル安円高という武器を利用して日本を威嚇し、市場開放や規制緩和、財政・金融政策を
日本から引き出すものと信じて疑わなかった。
実際、アメリカ政権およびアメリカ議会内でもドル高論者は少数派であった。アメリカ議員を資金面で支え
る白人富裕層(エスタブリッシュメント)、特にエスタブリッシュメントの代表格といえる老舗製造業の多くは輸
出業者であり、ドル安による交易条件の改善、自社製品の国際競争力の向上は、彼らにとって都合がよか
った。前長官のベンツェン氏は、市場に関する知識に乏しかったが、議会と強いコネを持ち、常に議会と産
375
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
業界の利益を代弁していた。ベンツェン長官は、長官就任以来、テキサス州選出の民主党議員として、下
院で 6 年間、上院で 22 年間務め、議会での最後の 6 年間は、金融委員会の議長を兼任するなど政治家と
しての経験が豊かで、議会のムードを敏感に察知するなどの能力を身につけていた。
一方、ウォール街出身のルービン長官は、議会と強いコネを持たなかった。その証拠に、在任中には議
会の反対で、国連、IMF に対するアメリカの拠出金の払い込みは、常に大幅に遅れていた。また、1994 年
末からのメキシコ通貨危機の際には、議会の猛反対でアメリカからの金融支援パッケージ 400 億ドルを、半
額に減額させた。
1997 年のアジア通貨危機の際には、財務省為替安定化基金から、アジア諸国向けの予備的緊急融資
枠を確保しようとしたところ、また議会の反対にあった。ルービン財務長官のドル高政策は、エスタブリッシュ
メントの主翼である自動車産業の強い反発を買い、在任中に通貨政策について議会証言を求められたこと
もあった。ドル高政策は市場関係者のみならず、米国議会・産業界にとっても馴染みの薄いものであった。
しかし、少数派で議会操作の経験も乏しかったルービン長官は、クリントン政権および議会の誰よりも金融・
証券・通貨市場に精通していた。当初は不人気だった高ドル政策は、その数年間に着々とその経済的成
果を上げ、アメリカは長期的な好況を謳歌することになる。この過程で金融市場はすっかりルービン長官の
とりこになった。彼の経済・通貨政策運営の手腕は、金融市場以外の多くの人々にも次第に認知されるよう
になり、彼は「歴史上最も偉大な財務長官の1人」とまで称えられるようになったのである。
ルービン氏が財務長官に就任してから 1997 年 7 月に長官職を辞するまでの約 4 年半の間、為替市場
は長官から「強いドルは国益である」という決まり文句を何百回となく聞かされてきた。簡単で誤解の余地が
ないメッセージである。ルービン長官は通常為替に関しては、このお決まりのフレーズ以外は多くを語らな
かった。ドル高のピッチが早すぎるとか、ドルがあまり安くなっては困るなど、その時々のドル相場について
の私的な感想は一切口にしなかった。通貨以外の金融市場についても相場の水準に言及することはなか
った。
言葉による市場とのコミュニケーションを最小限に抑えたルービン長官のスタンスは、一見放任主義にも
見え、事実、彼の通貨政策は、多くのマスコミから「放任主義」と形容された。しかし、現実には、彼の市場
操縦アプローチは、放任主義からもっともかけ離れたところにあった。
長官は、「アメリカにとって強いドルは国益である」を繰り返し述べているが,この決まり文句が発せられた
のは、常にその瞬間をおいて他にないというような最高のタイミングであった。市場は通貨を売り買いするた
めの材料をいつも探している。材料には各国の経済指標、世界の政治健在ニュース、金融政策、通貨当局
者の発言などがある。他の国であれば、大蔵大臣、中央銀行総裁、その他の経済官僚など、通貨当局者
はバライティーに富み、為替について発言することを好む政治家も多く存在する。円については通貨当局
者のみならず、政治家、元官僚なども含め発言者の数が圧倒的に多い。
他方、世界でもっとも流通量の多いドルの場合は、通貨政策のメッセンジャーが長官ただ 1 人であり、他
の雑音はすべて遮断されている。そこで市場の注目は、いやおうなしに長官 1 人に集中する。ドルは基軸
通貨であり、世界中の人々が保有していることから、アメリカの通貨政策に関する情報の需要は常に存在す
る。しかしながら、長官本人は無駄なことは一切語らない。市場は恒常的に情報不足の状態に置かれ、な
かなか需要が満たされない。こうして情報の需給のバランスが、完璧に送手優位になったところで、長官は
最高のタイミングをとらえ、最短のメッセージ「強いドルは国益である」を発した。
タイミングのよさを説明することは困難であるが、例えば市場参加者がドルを買いたいが、これ以上買うこ
376
アメリカからみたアジア通貨危機
とを躊躇しているとき、「強いドルは国益である」という長官の一言が聞こえてくる。この聞きなれた言葉は、ド
ル化イに対する迷いを打ち消したドルを買う人に安心感を与え、ドルを売ろうとする人を踏みとどまらせた。
市場参加者は「強いドルは国益である」という決まり文句を、ドル買いのシグナルとして受け取るようになった。
彼らはそのシグナルに沿って行動して、利益を手中に収めるという体験を重ねた。合図に忠実に従いドル
買いをすればプレゼントがもらえることを会得した市場は、自らが気づかぬうちに、長官との主従関係を形
成した。
長官は通常、多くを語らなかった。過剰な情報を不用意に与えれば、市場がそれを自由に解釈して、ド
ルを売り買いする余地を与えてしまうからである。「希少価値」という言葉があるが、いつもお決まりのフレー
ズしか言わないルービン長官が、たまに少々別の言葉を付け加えたり、「強いドル」を「より強いドル」と言い
換えたりした場合には、市場はそのわずかな違いに神経を集中させ、長官の意をくんで「正しく」反応させよ
うとした。市場は彼がシグナルを送る頻度にも注目した。「強いドルは国益である」を発する頻度が落ちた場
合には、市場はその一言を心待ちにする反面、なにか別のことを言い出すのではないかと気が気ではなか
った16。
この節の最後に、ルービン長官のアジア観・日本観に触れておく必要があるだろう。
ルービン長官は 1998 年 1 月 21 日、アジア経済危機についての講演で「日本の弱さはアジア地域の弱
さの源だ」と述べ、日本に金融安定と成長に向けた「強力な行動」を要請した。これは、アジア経済の安定
に果たす日本の役割を強調し、金融・景気対策の追加の必要性を訴えた発言と取れる。中国に関しては人
民元切り下げ見送りを歓迎、その継続を暗に求めた。さらに危機収拾に向けて関係国蔵相会議を今春招
集する考えも示した。同財務長官はこの日の講演で、アジア金融危機に対する米政府の包括的な政策方
針を示した。最初に米政府が危機収拾を主導する背景として、米国の輸出の 30%がアジア向けであるとい
う経済的理由、アジア地域に 10 万人の軍隊を駐留させているという安全保障上の理由などを例示した。ル
ービン長官は危機収拾に果たす各国の課題を示すなかで、日本に言及した。「米国は世界の成長を一国
では支えきれない」と述べ、日本が金融システム問題に取り組み、内需主導の成長を確実にし、市場を開
放することが極めて重大であると強調した17。
また、ルービン長官は金融危機がロシアや中南米まで波及した背景には「いっこうに経済低迷から脱し
ない日本の責任が極めて重い」として「日本主犯論」をも展開した。危機を克服するためには「日本の一層
の行動の必要が高まった」と、景気回復策の追加を大変強く求めた。
このようなルービン財務長官の厳しいアジア批判・日本批判に対して次のような反論もある。 「今回のア
ジアで起こった通貨危機・経済危機は、自由化と規制緩和によって起こるべくして起こったものだ。外国か
ら融資を受けられるよう経済を開放せよとIMFがアジア諸国の金融機関に迫り、それによって規制緩和が
行われた。外国の、特にアメリカの国際投機資本はアジアに危険な融資を行って、バブルを誘発させた。し
かも、『前途有望なアジア市場』と持ち上げるだけ持ち上げておいて、一転して資金を引き上げるようなこと
まで行った。つまり、国際資本取引の自由化こそ、アジアに金融危機をもたらした元凶なのである」。これは、
ビル・トッテン氏が著書『必ず日本はよみがえる!』の中で述べた意見である。
経済学者の中には、「IMFとアジアの IMF 従属論者が仕組んだアジア諸国の窮地に救済者として登場
したのが、これまた、IMF だった。IMF は、韓国・タイ・インドネシアにいくらかの金を融資することと引き換
えに、韓国・タイ・インドネシアの経済運営権を握った。韓国・タイ・インドネシアは、IMF の監視を受けること
になったのである。これは、IMF による経済占領に他ならない。」という見解を持つものも多い。
377
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
マレーシアのフー・フォン・リエン大蔵省広報官はこう述べている。「IMF は、「International Money
Fund」(国際通貨基金)の略であるが、その実態は、「国際」的ではなく、明らかに、アメリカ寄りである。徹底
した市場開放と極端な緊縮財政を強いるIMFの経済再建策に対し、マレーシアは一貫して反対の立場を
とってきた。」フー氏は続けて「米国は自国企業の進出を助け、アジアを経済植民地にするために IMF を
利用している。」とも言う。この言葉に代表されるように、アジア諸国では、アメリカ寄りの IMF に不信感を募
らせ、独自再建路線を強めている国もあるのだ18。
その IMF を統轄しているのがアメリカ財務省であり、アメリカ財務省を支配しているのはアメリカの富裕層
である。今回のアジア危機の元凶は、IMF とアメリカ財務省なのである、とする意見がある。アメリカ財務省
のトップであるルービン氏と、ナンバー2 のサマーズ氏が、危機の責任を日本に押し付けている、という見解
もあるが、それはやや行き過ぎの感がある。しかし、アメリカの通貨危機対策に対するアジア諸国の不満の
根深さはまぎれもない真実である。
第3章
アジア通貨危機が世界に与えた影響
本章では、通貨危機後のアジア・アメリカはどのように変化したのか、また双方に不信感や失望感が残っ
たのかについて検証する。
第1節
アジアのアメリカに対する不信
アジアは通貨危機後どうなったのだろうか。グローバル化の進展とともに、日米の明暗が分かれた。世界
最大の債権国・日本。個人の金融資産は 1200 兆円にのぼる。このマネーを活かせば日本はグローバル経
済市場の中で存在感を示せるはずだった。ところが日本の金融機関はバブル崩壊後の巨額の不良債権が
重荷になってグローバル化への対応に大きく遅れをとった。景気回復をはかるため日銀は公定歩合を
0.5%にまで引下げ、日本はかつてない超低金利時代に入った。超低金利、地価下落、株安。日本の機関
投資家は国内に有利な投資先を失った。日本のマネーが向かったのはドル高のアメリカだった。日本に低
金利政策を見直す動きが出た時、ルービン氏はすかさず日本の金利引上げの動きを牽制した。日本の低
金利政策は継続された。
その後、日本は大幅な金融ビッグバンを押し進めた。日本の金融機関を激しい国際競争に耐えさせる体
質に変えようという狙いである。しかし欧米の金融機関が次々に上陸。様々な魅力的な金融商品で預金者
や企業の関心を集めている。ビッグバンの主役は外資系に取って代わられた。超低金利政策と遅すぎたビ
ッグバン。日本は結果的にアメリカにマネーを吸い取られ、その繁栄を支える仕組みに組み込まれた。そし
てヨーロッパもまたアメリカを中心としたマネーの流れに組み込まれたのだった。盤石かにみえたマネーの
大動脈の流れに突然異変が生じた。アジア、ロシア、中南米の世界金融危機である。1998 年 9 月中旬、ワ
シントンに緊張が走った。ロングターム社が経営危機に陥った。すみやかに救済しなければ世界の金融市
場は大混乱に陥る。グローバル市場経済の足元が揺らいだ。アメリカが押し進めてきた市場経済のグロー
バル化の是非を問う声が内外に出始めた。12 月、ルービン財務長官は表明した。「アメリカにとってグロー
バル経済化以外に選択肢はない」と。政策を変更する意志のないことを改めて強調した。
アジアを代表する日本がどのように通貨危機をとらえたのか、そしてその後についてみる。ここでは、
1998 年 12 月に宮沢大蔵大臣が日本外国特派員協会において行ったスピーチをみてみよう。このスピー
378
アメリカからみたアジア通貨危機
チで宮沢氏は「アジア危機の最も顕著な側面は、基本的に、民間セクターの借り手が海外の民間債権者か
ら巨額の投資を行っていたことや、そのような借入にとって過剰かつ非効率な投資が可能になったことに原
因があった。通貨危機によって、アジア諸国における金融セクターの脆弱性や金融セクターの適切な監督
の欠如が明らかになった。」とした。この点では、IMF やアメリカと共通の認識を示している。
しかし、その一方で、「政府と産業の間に不透明で不適切な関係があるように見えることなど、アジア危機
の原因をアジア諸国の経済運営における固有の欠陥と結びつける見方が一部にあったが、アジアが経験
したような危機はより一般的な現象であり、今日の世界経済システムに内在する一般的な問題にも起因し
た。」というように、IMF・アメリカ側とは異なる見解を示した。
かかる「一般的な問題」の中で最も根本的なものとして、同スピーチは、短期資本の国際的な移動がもた
らすリスク、為替相場の不安定性、そして危機国への流動性供給不足の 3 点をあげている。すなわち、この
大蔵大臣によるスピーチは、アジア危機の原因をこれらの国の構造上の問題のみに求めることをいましめ、
98 年後半にロシア、ブラジルでの混乱が生じたことを踏まえ、国際金融システムに内在する問題にも起因
したことを強く主張していると言える19。
通貨危機が一通りの終焉を迎える前に、日本側は「どこの国が、というより、投機的な資金が野放しにな
っている現在のシステムが問題」(大蔵省)と主張、国際金融制度そのものの問題点を指摘。宮沢蔵相も
「日本はやるべきことはすべてやっている」と反論した20。
このことからも、日本がアジア通貨危機の責任を全てなすりつけられるのは、ごめんだという意識が伺える。
また、新宮澤構想の公表に踏み切った日本のリーダーシップに一定の評価がなされるべきだという不満も
残ったことは否めない。これは、98 年 10 月の G7 において発表された「アジア通貨危機支援に関する新構
想」のことで、アジア諸国の実体経済回復のための中長期の資金需要への支援として 150 億ドル、これらの
国が経済改革を推進していく過程で生じる貿易金融円滑化等の短期の資金需要への支援として 150 億ド
ル、計 300 億ドルの巨額の支援を行おうというものである。
また、通貨危機の後日本以外のアジア諸国にはアメリカをはじめとする先進国に対する不信感が残った。
危機が勃発した時、アジア諸国はその助けを IMF や世界銀行に求めた。それなのに、IMF や世界銀行を
動かすのに実質的力をもつアメリカは議会内の問題(第 2 章 2 節)があるためか、IMFへの関わりに非常に
消極的であった。さらに、アジアを代表する日本も国内的な経済問題から、積極的に動く姿勢は見られなか
った。その様にほうっておかれているうちに、タイからはじまった通貨危機は次々と伝染し、インドネシアの
失業者は 1000 万人を越えた21。
国際的な危機を目の前に、世界の巨大な資本主義国は何をしていたのか。強い国の強い投資家のせい
ではじまったともいえる通貨危機であるのに、なぜ対処してくれなかったのか。その不信感はアメリカにとど
まらず、日本にも向けられている。そのことで、アジアの連体感も生まれず、日本はリーダーシップをとること
ができかった。そして、日本をアジアの代表国として交渉したかったアメリカも、日本を頼りすぎては、アジア
においてアメリカのリーダーシップは実現できないと失望したのである。
第2節
アメリカのアジアに対する失望
アメリカがアジア通貨危機の原因をどう見たかということをさぐれば、アメリカのアジアに対する姿勢も見え
てくる。
米国財務省が 99 年 1 月に公表した「国際経済と為替政策についての議会提出報告書」がその見解を
379
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
次のように記している。まず、報告書は、危機の深さと深刻さは一部は危機国の金融システムの弱さによる
ものであり、この弱さは政府、銀行、企業との間の密接な関係によって一層悪化させられ不健全な投資を生
んだとし、金融システム及び政府・民間セクター間の関係に問題があったとの IMF と同様の認識を示して
いる。さらに金融システムについては、この地域の多くで近代金融システムに必須の基盤が弱かったかある
いは存在しなかったことは明らかであり、金融の規制監視は不十分で、金融システムは透明さを欠き、リスク
を分析し管理する適切なメカニズムをもっていなかったとしている。さらに、いくつかの国では巨額の経常赤
字、固定為替レート、整合性を欠く金融政策が持続し難く組み合わせられ、その結果として巨額の資本がこ
うした欠陥のある金融システムに流れ込んだとしている。
近隣諸国への波及については、この地域の問題が次第に明らかになるに従い、バーツの切り下げは地
域の他の通貨に圧力を及ぼし、危機が展開するにつれ、銀行や外国投資家は資本を引き揚げ、地元企業
は外貨債務負担のヘッジを求め、輸出業者はその売り上げを自国通貨に転換することを止め、市民はその
貯蓄を外資にシフトしたとしている。
アジア通貨危機がひととおりの収まりを見せた98 年 10 月、サマーズ米財務副長官はワシントンで講演を
行った。「アジアに端を発した国際金融市場の危機の原因を、非効率な金融システムの問題、資本を吸収
しながら適切なマクロ政策が行われなかった為替システムの問題、インドネシア等に見られる政府の基本的
な機能遂行(税の徴収や銀行規制)の問題、信認の著しい低下、日本の経済困難によるアジアをはじめと
する世界経済の悪化が重要な要素であるということについて次第にコンセンサスが生まれてきているとして
いる。日本の経済困難が加わった以外は、基本的認識は同じである。
このように米国財務省の見方は、基本的に先に見たIMF の認識と同一であり、危機の根源に金融セクタ
ーの脆弱性と政府・民間セクター間の不透明な関係の問題、さらに政策ミスの組み合わせがあるという考え
がとられている22。
「クリントン米大統領が 1999 年 2 月 4 日、議会に提出した大統領経済報告は『日本経済と金融危機』と
いう一節を設け、日本の政策に言及している。『日本はアジア通貨・経済危機の発生と波及に不覚にも不
幸な役割を演じてしまった』と、通貨危機前後の日本の経済政策運営を批判。そのうえで『世界経済の成長
を維持するうえで、世界第 2 の経済大国の日本の役割がカギとなる』と日本経済の早期回復を促している。
報告ではマクロ政策面では 97 年の消費税率引き上げがようやく回復に向かい始めた景気を再び後退させ
たと問題視している。また、アジア経済への影響としては日本の内需低迷による輸入減、邦銀の経営悪化
によるアジア向け融資回収をあげている。報告は 95 年のメキシコの通貨危機の際に隣国の米国の経済成
長が事態の悪化回避を助けたのに対し、『日本経済と金融機関の弱さがアジアにより痛みをもたらした』と
指摘している23。
アジア通貨危機は、世界の日本に対する失望感を生み出した。1997 年 12 月、クアラルンプールで開か
れた ASEAN(東南アジア諸国連合)首脳会談の際、シンガポールのゴー・チョクトン首相は橋本首相にこう
言った。「日本はこれまでアジアの経済を牽引する雁行飛行の先頭を飛んできた。しかし通貨危機以降、先
頭の雁が瞑想しているとの印象を受ける。日本がしっかり飛んでくれないと、後に続くものは戸惑ってしま
う」。
この発言には 2 つの含意がある。1 つは、日本が国内経済の失速と通貨危機のダブルパンチで苦しんで
いるとはいえ、なかなかその状態を脱せずに、アジアからの輸出を吸収できないことへの苛立ち。2 つめは、
台頭する中国経済に対する脅威である。北京からは「李鵬は自分が首相のあいだは絶対、香港ドルも人民
380
アメリカからみたアジア通貨危機
元も切り下げさせないだろう」という声が聞かれた。ここに中国経済の強さ、それに裏付けられた国家と党の
プライドを感じずにいられない。こうして「傷だらけの日本」と「無償の中国」とが否応なしに対比される。日本
と中国をバランス・アウト(中和)させることがアジアの安定だとここ折れてきた東南アジアの政治家たちは、
アジア通貨危機後のその日中のバランスの危機に不安感を覚えている24。
そして、このようなアジアにおける日本の衰退は、日米関係へも影響を及ぼした。経済危機から急速かつ
完全に回復することは、日本にとって絶対的に必要である。このことは日米関係の健全性にとっても、また
アジアにおけるバランス・オブ・パワーを好ましい状態で維持するためにも重要である。アメリカのアナリスト
は何が危険にさらされているかを鋭く察知している。日本が相対的な権力を強めたことが過去において摩
擦をもたらしたように、日本の下落もまた将来、違った性格のものであるが、問題や緊張をもたらすであろう。
恐らく、将来の緊張は過去のものよりももっと混乱をまねくであろう。恐らく、その緊張は日米同盟を維持さ
せるため、複雑な調整を必要とするであろう。日本は、アメリカの相対的な力や一方的な影響力が現在の水
準を大きく超えるようなら、安穏な気持ちではいられない。権力の不均衡は大きく、米国が国益や目標を日
本に押し付ける傾向は既に目立っている。それどころか、米国の一方的な態度は深く根付いているので、
まだその形や程度はわかっていないが、国家主義的な反発を呼び覚ますかもしれない。
日本とアジアの危機はすでにワシントンでも東京でも不満の種となって表面化している。中でも、ロバー
ト・ルービンとローレンス・サマーズは、日本の不良債権問題と金融危機の取り扱いの不手際について、アメ
リカ側の失望感を伝えた。彼らは橋本内閣と小渕内閣に落ち込んだ経済を浮揚させるのに必要な大胆な
対策をどんなものでもとるように彼らを動かしているのは、日本の経済的な混乱は日本のみならずアジアや
世界の他の地域も大不況に追い込むことを懸念しているからである。
米国の外圧を受けている側の日本人は、自分たちの経済病を米国人ほど終末論的には見ていなかった。
多くの日本人は、米国の「ひとりよがり」と受け止めた。日本人は、あふれるほど与えられる余計な政策アド
バイスには、共感をもって耳を傾けようとしない。日本では、米国の意見は国内問題に外国が干渉している
と受け止められる。それが日本の国家主権異議を逆なでした。
一部の日本人は、米国政府が意図的であれ、組織的な共謀の結果であれ、アジアのあらゆる都市で日
本批判を誘発しているように感じた。日本人は米国政府の高官がアジアを刺激することで、米国自信の外
圧を増幅させ、日本に景気浮遊のためのもっと大胆な政策をとらせようとしていると考えた。ここでもまた、米
国の行動は、一方的な外部からの干渉として受け止められた。しかし、米国の立場から、日本の大失敗を
静観するわけにはいかない。なぜなら非常に多くのものが危険にさらされており、どの国も世界的な不況の
波及効果を受ける危険にさらされているからである。日本がどうなるかということに非常に多くのものがかか
っているので、米国の高官は手をこまねいて、悲劇が起こるのを傍観することは無責任だと思った。したが
って、どちらの国も不満であり、憤慨していた。
米国の批判はエスカレートし、製品や部門特有の問題だけでなく、不良債権問題、金融制度改革、財政
出勤、恒久減税、保護分野の規制緩和と国際化、そして市場をひずませている生涯の除去などに取り組も
うとしないことを批判しているが、こうした非難は、米国政府が日本市場の構造的な障害の問題を提起して
いた 1980 年代末の米国の論戦を彷彿とさせる。しかし、違いがある。今日では、信頼感、相互の信用、協
力しようという意欲は、過去最低といってもよいような水準に下がっている。
ほぼ 10 年にわたる日本の景気停滞の累積的な代償は非常に大きく、それは 3%という最適成長率がも
たらしている経済規模の差が示すとおりである。日本が被った巨額の機会費用は 5000 億ドル以上であり、
381
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
これはたとえ日本がいつの日か経済的な勢いを取り戻したとしても、決して回復することはできないほどの
額である。日本がいつ回復するかは不透明だ。さらに 10 年間もつまずき続けるなら、そのコストは極めて重
大なものになる。このことはアジアにおけるバランス・オブ・パワーの再編成につながる。日本のアジアにお
ける権力、威信、影響力は大きく損なわれる。日本の凋落は日米同盟に摩擦をもたらすであろう。さらに現
実的な視点から、このことは日本と中国との関係も複雑にするであろうが、それは相対的な力が日本にはマ
イナスに、中国には有利にシフトするからである。
経済危機が起こったときに、危機は国民国家に大胆かつ必要な改革プログラムを実施するための大義
名分を与えることがあるからである。あるいは危機は大混乱を引き起こして、重大な被害を与え、政治経済を
無力にし、回復するまでに長期間かかることもある。韓国、タイ、恐らくマレーシアは最初の方向、すなわち
改革と回復の道筋に向かっている。危機は建設的な改革の触媒となっている。インドネシアはもうひとつの
方向、すなわち混乱と長期的な回復の道筋に向かっているようである。危機は古い秩序を倒した。健全な
状態を回復するには長い時間がかかるであろう。日本はこれらの 2 つの方向性のちょうど真ん中辺りにいる
ようである。日本にとっては、この危機は平均世帯にとってはそれほど深刻にも、痛くも感じていない。恐らく
その理由で、改革は長引き、あまり徹底した改革とはならないだろう。日本がいつ、どのようにして危機を脱
出するのか、またどの時点で回復するかは、日本のみならず、JASAにとっても、日中関係にとっても、アジ
ア全体の長期的な安定にとっても非常に重要であろう25。
終章
グローバリゼーションとリーダーシップ
ここまで、アジア通貨危機に関して主にアメリカの立場から検証し、アジアを代表する日本との関わりにフ
ォーカスした。アメリカは自国の政策に絶対的な自信をもっている。アメリカのスタンダードが世界のスタンダ
ードだという意識が強い。では、実際にアメリカはグローバル化が進む世界でリーダーシップをとることがで
きたのであろうか。最後にその問題提起に対する答えを出したい。
アジアでの通貨危機とそれに対する IMF 路線の限界、ロシアでの市場経済への移行の行き詰まり、また
LTCM の経営破綻などの一連の動きを受けて、98 年秋以降グローバルな国際通貨制度の改革が、それま
では改革に冷淡な態度をとっていた欧米諸国によっても活発に議論され始めた。98 年 9 月、マレーシアは
IMF の教義に反して資本規制を導入して経済の安定化を図ると、欧米のメディアはさんざんに揶揄したが、
この頃には国際的な資本移動の安定化のために何らかの規制が採られるべきであり、またIMF が何らかの
形で改革されねばならないとする意見が、経済サミットを含む国際通貨関連の主要な会議で続出した。国
際通貨における課題がアジアの後進性の克服というよりも、グローバル金融市場の安定化であるとする認
識が高まるにつれて、グローバルな国際通貨制度そのものについての関心が急速に広がったのである。金
融危機が金融制度の発展を生んできたのは、過去の歴史も示すところである。
ヨーロッパがユーロの導入という一大成果をあげていたまさにその時期、アジアがグローバル化に翻弄さ
れたことは、アメリカ主導のグローバリズムに対して、地域経済の安定化のために地域協力を強化しようとす
る機運をアジアでも強める効果をもった。もちろんヨーロッパと比較して国際金融や通貨の分野でのアジア
の地域協力はあまりにも違いすぎ、困難が大きいことは明らかである。アジアはヨーロッパに比較すると、文
化的にも、政治体制も経済発展の水準もあまりに多様でまとまりを欠くし、アメリカへの依存という意味でもそ
の度合いは大きい。そして、アジアには依然として国家間の深刻な対立の可能性が尽きないし、主権の一
部放棄を意味する「統合」に合意できるほどの「共同体」意識はアジアでは明らかに不足している。そして、
382
アメリカからみたアジア通貨危機
ドイツとフランスに相当する地域の共同リーダーシップは存在せず、潜在的リーダーである日本と中国は独
仏に相当するような高度の協力が実現できるほども基本的な価値や利害を共有してはいないし、ともに地
域諸国に猜疑をもって見られている。そのため経済安全保障面でのアメリカのプレゼンスの重要性は、依
然として決定的である。
それでもアジアにおける通貨危機の引き金となったのが、為替レートが不安定なドルにアジア諸国が自
国通貨をリンクさせたために生じたアンバランスであり、いわばドルへの過剰な依存に問題があったという認
識が地域では強まった。一般にドルの対外価値の安定に対してアメリカは無関心な態度を取ってきたが、
アメリカだけが自国通貨の対外価値を心配しなくてもいいのは、ドルが基軸通貨であり、世界最大の債務国
アメリカがその輸入をドルで支払い、その対外借入をドル建てで行えるからである。このような国際通貨シス
テムの非対称性によって、アメリカは自国通貨の不安定性による痛みを外国に負担させ、ドルの信認が維
持される限りは、巨額の経常収支の赤字を苦もなくファイナンスできたのである。このようなシステムが存在
する限り、アメリカが自国通貨を、他国同様規律を持って管理しようとする誘因はない。もちろんこれはアメリ
カの陰謀の産物だというわけではない。アメリカが 90 年代半ば以降長期にわたって世界の資本を吸い寄
せ、安価な輸入品の消費を享受し、途方もない繁栄を享受してきたのは、第一義的にアメリカの金融市場
の深さと広さという「構造的な力」の産物である。言い換えれば、ドルの国際金融市場での地位を支えてい
るのは、アメリカの政治的な押し付けではない。ドルを持てば整備された決済サービスや豊富な金融商品を
利用することができるし、その背後には紛争が起こってもそれを処理できる法的サービスが存在し、でたら
めな金融機関を淘汰する会計制度や監視システムなど膨大なインフラがあるためである。加えて通貨は言
語やコンピューターの OS と同様、多くの人が使えば使うほど便利になる性質があり、いわば規模の経済が
働くことによって、ドルの一極支配が不均衡に進行したのかもしれない。
ところが冷戦における勝利と、グローバル経済における勝利という二重の勝利に酔いしれるアメリカが推
進してきたグローバリゼーションにとって、アジア通貨危機は、1 つの転換点として歴史に記憶されるかもし
れない。アジアでは、通貨危機の経験から、ドルへの過剰な依存に対する反省が生まれ、地域での協力が
模索され始め、その動きはヨーロッパ通貨統合によって一掃刺激されている。通貨における地域主義の萌
芽がアジアでも生まれたことは、一本調子で進展してきた金融のグローバリゼーションに対する反作用とし
て注目に値する現象であろう26。
さて、この論文の終着点でもある「グローバリゼーション」にもう少し深く言及したい。グローバリゼーション
とは何なのだろうか。90 年代に一気に進んだ、金融のグローバル化は私たちに何を残し、何を奪ったのだ
ろうか。J.E.スティグリッツはこう述べている。「グローバリゼーションが非難されるのは、1 つにはそれが伝統
的な価値観をゆるがすように思われるからである。そうした衝突は事実であり、ある程度はやむをえない。経
済成長は(グローバリゼーションによるものも含めて)都市化を招き、伝統的な社会をゆるがすだろう。残念
なことに、グローバリゼーション推進の責任を負った者たちはこれまで、好ましい点を賞賛する一方で、文化
的独自性と価値観にとっての脅威という不利な面については、不十分な認識しか示してこなかった。」この
発言からもわかるように、やみくもにアメリカ主導のグローバリゼーションが今後もこれまでと同じやりかたで
進められるとするならば、世界は経済だけでなく、政治も文化も、アメリカのスタンダードをグローバルなスタ
ンダードとして受け入れなくてはならない事態になってしまうだろう27。
ベーカー国務長官は「1997 年と 1998 年は市場経済のグローバル化が完成段階を迎えた年だった。」と
述べた上で、「20 世紀に様々な経済システムが試されたが結局、市場経済(=資本主義)だけが生き残っ
383
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
た。その中で、アジア各国は、急速で力強い発展を遂げた。しかしこれらの国はグローバルな市場経済に
参加したばかりで経験不足だった。それらの国はやみくもな投資が行われたがそれは自ら招きいれた投資
だった。自ら招き入れたことを棚に上げて投資家を非難することはできない」と、アジア諸国にも通貨危機の
責任があることを明言した。一方、マハティール・マレーシア首相は「アメリカ式資本主義の抱える問題が露
呈したのがアジア通貨危機だ。彼らはどこででもやりたい放題だ。邪魔になる国境や障壁はあってはならな
いと考えている。このままグローバリゼーションが進めば、資本主義そのものが崩壊する可能性がある。そう
なればアメリカ自身も破滅することになる」と警鐘を鳴らしている。
結論を言えば、アジア・アメリカ双方に主張はあるが、アメリカ主導のグローバル資本主義も、進んでしま
った今では誰も制御できる力を持っていないところまできてしまった、ということだと思う。理論的にはグロー
バル化した経済はグローバルな政府に任せるべきだが、残念ながら世界政府といったものはない。それこ
そがこの問題の難しさである。
アメリカはアジアにおいての覇権を強化したい。ところが、頼りにしていた日本がアジアでのリーダーシッ
プを取れず、アジアの窓口としては不足したように感じた。通貨危機後、中国の台頭が顕著になり、中国と
の関係強化が加速するかと思いきや、安全保障上の問題、民主党政権から共和党政権への交代による政
治的スタンスの違い、などにより、その態度は変化し続け、安定はしない。そのことで、アジアはアメリカに全
面的信頼を置くことはできない。経済的大国であることは認めても、政治的リーダーとは認められない事情
はそこになるのではないだろうか。アメリカが世界一の経済大国であることは、当分変わらないだろうし、そ
れに依存してアジア経済が成り立っていることも確かなことである。しかし、アジア諸国にはアメリカに翻弄さ
れたくないというプライドがある。にも関わらず、アジアは欧米ほどの「共同体意識」に欠けているのである。
私が提案したいのは、経済のグローバリゼーションは止められずとも、政治のグローバリゼーションは必
ずしも一義的なものではないということである。アジアにはアジアの政治があり、危機においてもアメリカのス
タンダードがすべてよかったわけではない。アジアにおいてアメリカは政治的リーダーシップを取れたとはい
えないのである。
この問題を乗り越えるには、世界中の国が各国の、そして各地域の政治・経済・文化を見据えて、新しい
グローバリゼーションへの共通解釈をもつことが大切となるだろう。それらを考えるきっかけとなったのが、ま
さしくアジア通貨危機であった。その危機に際して巻き起こった政治的対立はまさにグローバリゼーションの
抱える問題である。しかし、その問題も教訓として活かすことで、将来的に大きな遺産となりうる可能性を秘
めている。
『国際問題』1999 年 2 月号、p.21
荒巻健二『アジア通貨危機と IMF―グローバリゼーションの光と影―』日本経済評論社、2001 年、p.38
3 荒巻、前掲書、p.37
4 中尾茂夫編『金融グローバリズム』大阪市立大学経済研究所、大阪市立大学経済研究所所報第49 集、東大出版会、
p.71
5 日本貿易振興会「グローバリゼーションの功罪とアジアの将来」p.66
6 日本貿易振興会、前掲書、p.7
1
2
384
アメリカからみたアジア通貨危機
7
日本貿易振興会、前掲書、p.67
「通貨危機で問われる日本の姿勢」『外交フォーラム』98 年 2 月号、p.24
9 前掲書『外交フォーラム』p.35
10 小尾敏夫、今村勝正『クリントンの対日戦略―日本を標的としたアメリカの反撃―』ダイヤモンド社、1993 年、p.170
11 杉浦哲郎『アメリカ経済は沈まない』日本経済新聞社、2003 年、p.46
12 『日本経済研究センター会報』1997 年 2 月 1 日号
13 小尾、今村、前掲書、p.206
14 小尾、今村、前掲書、p.223
15 『週間ポスト』1998 年 10 月 16 日
16 森佳子『米国通貨戦略の破綻―強いドルはいつまで続くのか』東洋経済新報社、2001 年、p.55
17日本経済新聞、1998 年 1 月 22 日夕刊
18中日新聞、1999 年 1 月 6 日
19 荒巻、前掲書、p.86
20 日本経済新聞、1999 年 2 月 5 日
21 『外交フォーラム』1998 年 2 月、p.37
22 荒巻、前掲書、p.84
23 日本経済新聞、1999 年 2 月 5 日
24 『Foresight』1998 年 1 月号
25 日本貿易振興会、前掲書、p.85
26 田所昌幸『アメリカを超えたドル―金融グローバリゼーションと通貨外交―』中公厳書、pp.310-311
27 Joseph・E・Stiglitz 『Globalization and its discontents』p.112
8
【参考文献】
<一次資料>
*
1998 年 1 月、ルービン財務長官の演説
*
1998 年 9 月、グリーンスパン FRB 委員長の米上院予算委員会での公聴会での演説
*
1998 年 9 月、グリーンスパン FRB 委員長の下院銀行委員会での質疑応答
*
1997 年 9 月、米国下院金融・財政委員会でのルービン財務長官の発言
*
榊原英資『日本と世界が震えた日―サイバー資本主義の成立』中央公論新社、2000 年
*
経済企画庁総合計画局編『通過金融危機の克服と 21 世紀の経済安定化に向けて』「国際マクロ経済問題研究
会」報告、1999 年
*
榊原英資『国際金融の現場―市場資本主義の危機を超えて―』PHP 新書、1998 年
<二次資料>
*
Joseph・E・Stiglitz 『Globalization and its discontents』
*
Stephan Haggard 『The Political Economy of the Asia Financial Crisis』(2000、Insititute For
International Economics)
*
Jagdish Bhagwati 「The Capital Myth」(1998、Foreign Affairs)
*
ロバート・ギルピン『グローバル資本主義―危機か繁栄か―』東洋経済新報社、2001 年
*
ジョン・L・イートウェル ランス・J・テイラー『金融グローバル化の危機―国際金融規制の経済学―』日本比較政治
学会編、2001 年
*
荒巻健二『アジア通貨危機と IMF―グローバリゼーションの光と影―』日本経済評論社、1999 年
*
森佳子『米国通貨戦略の破綻―強いドルはいつまで続くのか』東洋経済新報社、2001 年
*
青木健、馬場啓一『ポスト通貨危機の経済学―アジアの新しい経済秩序―』頸草書房、2000 年
*
田所昌幸『アメリカを超えたドル―金融グローバリゼーションと通貨外交―』中央公論新社、2001 年
*
益田安良『グローバルマネー―だれがどう制御するのか―』日本評論社、2000 年
*
福島清彦『「暴走する市場原理主義―アメリカのタテマエの罪と限界―」ダイヤモンド社、2000 年
*
白川早由里『検証 IMF 経済政策―東アジア危機を超えて―』東洋経済新報社、1999 年
*
吉川元忠『経済覇権―ドル一極体制との訣別―』PHP 研究所、1999 年
385
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内藤仁美
たかが卒論、されど卒論。どう考えてみても、私にとっては「されど」卒論であった。
久保先生の方針で、1 年ほど前から卒論について考え始め、中間報告をし、先生のアドバイスをいただき、とりあえず
書いてみて、さらに先生に指摘をいただいて書き直す。何て手の込んだことをしてくれる先生なのだろう。いたれりつく
せりの久保大先生である。(このことを何かにつけて、他のゼミの友人に自慢している私である。)
先生のご指導の下で、アメリカ政治を学び、私が卒論のテーマにしたいと考えたのは、外交問題であった。アメリカが
世界に対して何を発信しているか、そのことに関心があったからである。とはいえ、このテーマ選びも非常に悩む。難し
すぎるのも、資料が極端に少なそうなのも嫌だなあ、とナマケモノの私は考えた。そして、就職活動中に卒論のことを聞
かれると先輩に伺ったので、人事相手に「どーだ!これが私の卒論のテーマだ!!」と胸を張っていえるようなテーマ
にしようとセコイことも考えていた。
そんなわけで、私が最終的に選んだテーマは「アジア通貨危機に対するアメリカの政策」であった。先に告白しておく
と、狙い通りに企業側は「へえ、君すごい卒論書いてるね。」と言ってくれた。そして私は自分がいかに壮大で斬新な論
文を書こうとしているかをとうとうと述べたのだが、ウソをついているという罪悪感は拭い去れなかった。
そして、やはり「されど」卒論なのだと気づく。書き始めてみて、唖然としたのだ。
どこからどう書いたらいいのやら、はたと悩んでしまったのだ。アジアとアメリカの関係を書くにしても、どの切り口から
どう展開させていったらいいのやら、さっぱりいいアイデアが浮かばなかったのである。
そこで、久保大先生の登場である。秋合宿で私がイマイチな中間報告をすると、私が悩んでいた「切り口」とやらをビ
ール片手に伝授して下さった。薄々気づいてはいたが、やはり先生は神だった。先生は本当に素晴らしい研究者だと
私は感動したものだ。
それから、きちんと書くという作業に取り掛かったわけだが、これまた紆余曲折があった。これだけ長い論文を書くの
はもちろん初めてで、何よりも苦労したのは序章から終章まで一貫性を持たせるということであった。3 万字書いているう
ちに、私の中で軸がぶれてしまうのだ。これは本当に苦しかった。どうしたらいいのだろうと悩みながら、12 期の先輩の
卒論集を読ませていただいた。でも、苦しさのあまりプロフィール表やランキングばかり読んでしまった。
そんなこんなで、まあ何とか卒論を書き終えた私である。自分なりに頑張ってみたものの、作品に自信はない。もっと
深い論文にしたかったが、そこまでたどり着けなかった。時間がなかったのでなく、才能が足りないと自分で思う。
しかし、最後に少しだけ自己弁護したい。卒論を書いたことで自分の足りなさに気づいたこと、先生と仲間を心から尊
敬できたこと、これだけでも得られたことは貴重だと思っている。そして、今ほんの少しだけ成長した自分がここにいるの
だと信じたい。
内藤仁美君の論文を読んで
【佐藤尚慶】
昨年、自分も卒論で同様のテーマについて扱ったこともあり、本論文は非常に興味深かった。特に、この論文ではク
リントン政権、その中でも通貨危機当時に財務長官であったルービンに焦点を当てているところは、非常に良いと思っ
た。なぜかと言うと、この論文の第 2 章でも述べられているよう、米政権の経済政策は財務長官が誰かによって、違いが
見えるからだ。これは、日本のように大臣が変わったからといって大きく政策が変わらないことを考慮すると、目の付け所
が良いと思った。さらに、単に通貨危機への対応にとどまらず、通貨外交などの方向性や、ルービン自身の政権内での
立場などまで明らかにしているところよいと思った。
しかし、それだけに残念だったところは、米国の捉えていた危機の原因と、クリントン政権やルービンの対アジア政策
が本論文の中でリンクしていないように思えるところである。そもそも、この論文で明らかにしたいことは、「米国主導のグ
ローバルスタンダードから見た、アジア通貨危機の原因とその後」であるはずだ(少なくとも自分にはそう解釈できた)。
だから、例えば 2 章でいえば、クリントン政権の対アジア政策が通貨危機の原因を捉えるときに、どういう色めがねの役
割を与えているかを示さないと、何がいいたいのかがわからなくなってしまう。
同様に、3 章では、米国の対日政策について述べられている。だから、このような対日政策をとることが、危機の原因
への解釈やその後の対応にどういった影響を与えているかを書いたほうが、論理関係が一貫すると思う。また、3 章に
関しては、題名が「世界に与えた影響」となっているが、「日本に与えた影響」しか書いていないような気がしたので、題
名を変えるべきだと思った。
それと構成についてだが、1 章で述べられているアジアとアメリカの通貨危機の原因の解釈の仕方の温度差は、2 章、
3 章の後に持ってきたほうが良いと思った。というのは、アメリカや日本が危機をどう考えているかは、2 章、3 章を読まな
いと分からないため、1 章で突然アジアとアメリカの危機認識の違いを述べられてもよく分からない感じがしたからだ。
論文を通して読んで、全体的にこの論文におけるテーマと結論が一貫していないような印象を受けた。まず、この論
文のテーマは何なのかをしっかり確認し、結論を書いたほうが良いと思う。せっかく目の付け所がよいだけに、結論がテ
ーマと一貫していない印象を受けたのは残念でした。
386
アメリカからみたアジア通貨危機
【髙木理絵】
「グローバルスタンダードの限界」の題名は大変インパクトあり、副題を読んだ上でも論文は何を明らかにするのかが
明確ではなく、どのようなことなのかが楽しみになる面白い題名だと思えた。世界の超大国であるアメリカ、アメリカが中
心であると考えるアメリカに対し、世界の認識はアメリカの認識と異なるとアジア通貨危機が証明した転換期と結論付け
る本論文は面白い点に付いている。アメリカが冷戦に勝利し、グローバル経済の勝利となったが、アメリカに依存しすぎ
ていたアジアの各国たちが依存し過ぎていたことからも通貨危機に陥ってしまった。アメリカのスタンダードはグローバ
ルスタンダードにはならないことを世界に伝えたことが上手く結論付けられていた。アジア危機については知識がなか
ったため、金融へ進む私にとっては大変有意義で為になった。
全体的な章立て、流れは大変良かったと思う。序章に関しては、やや短すぎたのではないだろうか。この論文で言う
グローバルスタンダードとは何を指すのかなどを終章のみで述べるのではなく、序章でも軽く触れておくのも良いかと思
う。そして、本論文のテーマ、流れに関して最初により詳しく説明を行い、論文のオリジナリティーを述べると良い。論文
を通して明らかにしたい点が明確に書かれていない印象も受けた。第 1 章はアジア通貨危機そのものが説明あれ、五
つの時期に分けて説明するのは分かりやすく大変理解しやすかった。第 2 章に書かれているクリントン政権の体制、特
にルービン財務長官のドル高政策の方針がアメリカの政策体制を象徴しており、世界の経済大国らしさが感じ取ること
が出来、グローバルスタンダードを説明する上で大変重要な章ともなり、上手く書かれていたと思う。第 3 章アジア通貨
危機が世界に与えた影響は本論文において最も重要な章であると感じた。アジア通貨危機によってアジアがアメリカに
不信感を抱いたこと、そして逆にアメリカがアジアに不信感を抱いたと両側を見ることによって、全体図を捉えることが出
来た。両側から見ているのが良い。終章において、全体がまとまっている。アメリカのスタンダードは世界のスタンダード
ではないこと。アジアでは通貨危機からドルへの過剰な依存に対する反省が生まれ、地域での協力が模索され始めた
と書かれていたが、どの様な変化をもたらしたかを少し説明することによって、より論文が説得力あるものになると思う。
全体的に大変面白い論文であり、勉強になった。
【緒方隆】
現在でも長々不況が続いている中でこのテーマを取り上げたことは意義のあるものだと思います。長期停滞型の日
本の特徴は現在のものと一致すると思います。この論文の焦点となるのは、ルービン財務長官の存在だと勝手に判断
しました。クリントンが財務長官にルービンを起用したことは、小泉首相が竹中平蔵を起用したことと似ています。アメリ
カ国内がルービンに(内藤さんが日本酒を飲むように)酔いしれていく過程が良く理解できました。
また、序章で言明しているように論文を進めていけたことは大きな成功ではないでしょうか。アメリカの視点、アジアの
視点と各章で書かれているためとても読みやすい論文でした。そして、グローバリゼーションを進めるアメリカの過程もし
っかり述べられているため、終章は抵抗なく読めました。
改善点はやはり序章でしょう。酔っ払いながら書いているためか、論文で自分の述べたいことしか書かれていない気
がします。アジアとアメリカの結びつきが、いつごろからどれだけ強いものだったのかなど背景をしっかり調べる必要があ
ると思います。また、既存の先行研究と比較して、この論文の存在意義がどこにあるのかをいま一度しっかり書くべきで
す。そして、通貨危機以前のアジア各国の経済の状態、どの国がアジアの中心でどのような経済システムであったかな
どの記述が必要でしょう。危機以前のアメリカの状態は書かれていました。これらのことを序章でまとめることで、読み手
の頭の中にある程度のイメージが作れると思います。酔っ払ってたらそれもできませんが・・・。
次に第 2 章第 2 節のルービンの経歴とそれまでのアメリカ国内の状態、また、ルービンによる国内改革が書かれてい
ますが、これは分けたほうがわかりやすいでしょう。
そして、第 3 章第 1 節ですが、日本の考えが大半を占めすぎていると思います。危機の発端になったタイ、それに自
力で回復傾向を見出した韓国などのアメリカに対する考えも調べるべきです。不信感が無いなら無いで、この説の題名
を変えてでも他のアジアの国の考えを書いたほうが良いと思います。アジア全体を襲った問題なのですから。
他に、第 1 章第 2 節と第 3 章第 2 節はだいたい同じようなことを述べている気がしました。序章で書かれていた「イデ
オロギーの政治によって世界を揺るがすような製作の決定が下されるアメリカ政治」とは、この場合ルービンの存在のこ
とを言っていたのでしょうか。
最後に、アジアの代表とも言える日本とアメリカの当時の経済関係も調べておくと、よりすばらしいものになると思いま
す。
最終稿を提出したら、「いつ何時どんな」お誘いでも乗りますよ。経済が苦手な私ですが、結構分かりやすく読めまし
た。最終稿ができたらもう一度読んでみたいと思える論文です。
あら・・・酔っちゃったかな?がんばってください!!
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