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同・
上
考
之
プ l シキンの詩劇﹃石の客人﹄は、モーツァルトの歌劇﹃ド
名を見ればすぐにモーツァルトのオペラを、その有名なアリ
ン・ジョヴァンニ﹄ヘロ。誌の
地で上演され、今日ではモーツァルトの歌劇の中でも最良の
もたらさなかったと言われるが、その後も広くヨーロッパ各
大成功を収めた。翌年のウィーン初演ははかばかしい成功を
﹃ドン・ジョヴァンニ﹄は一七八七年にプラハで初演され、
像を打ちたてる乙とだったに違いない。そこで、まずエピグ
死の意味に関して独自の解釈を提出し、新たなドン・ファン
の﹃ドン・ジョヴァンニ﹄を前提としつつ、ドン・ファンの
れば、プ l シキンが乙の題辞を置いた意図は、モーツァルト
ろしいラスト・シ I ンを頭に浮かべた乙とであろう。だとす
をエピグラフとして始まる。
もののひとつと見なされている。ロシアでもこのオペラは早
ン・ジョヴァンニが石像の客によって地獄に落とされる、恐
アや名場面を思い出し、さらに、乙のエピグラフを読めばド
だったのである。したがって、﹃石の客人﹄の読者はこの題
聴衆にとっても、﹃ドン・ジョヴァンニ﹄はおなじみのもの
年四月二八日にはロシア人による上演が行われた。ロシアの
よるモスクワでの上演は大きな反響を巻き起乙し、一八二八
一座が数回にわたって上演した。一八二五年のイタリア人に
台にかけている。一八二0年代にはオデッサでイタリア人の
くから紹介され、一八O六年にドイツの劇団がモスクワの舞
ナ
キ
おおとの末尾近くのこの台詞
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﹃
/:::あ¥ご主人様! ) I
( レ ポ レ ル ロ 。 お ¥ 高 貴 な 大 騎 士 / 団 長 の 石 像 様 li---
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i シキンの一 石の客人﹄
改心した騎士
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ラフに予告されているドン・ファンの非業の死の場面につい
て、﹃石の客人﹄と﹃ドン・ジョヴァンニ﹄を比較してみよ
う。最初はプ 1シキンのものである。
お招きにあずかつて参上した。
︹騎士団長の石像登場。ド I ニャ・アンナ気絶する
石像
ドン・ファン
すておけ、
な ん て 乙 と だ ! ド l ニャ・アンナ!
ドン・ファン
もうだめだ 1 1おしまいだ l お ¥ ド lニャ・アンナ!
放してくれ。おれの││おれの手を放してくれ:::
の握手は!
そら:::ぉ、てきつい。乙の石の右手
手を出せ、握手を。
石像
嬉しいさ。
お れ が ? いいや。招待したのは乙っちだ、来てくれて
ドン・ファン
万事おしまいだ。震えているな、ドン・ファン。
石
像
︹奈落に落ちる︺
(
弓
・ 5NJHNφ)
次に、少し長いが、ロレンツォ・ダ・ポンテが書いた﹃ド
ン・ジョヴァンニ﹄の台本から同じ場面を見てみる。
騎士団長
ド ン ・ ジ ョ ヴ ァ ン ニ ! 晩餐をご一緒にと、
お前はわしを招いてくれた、そ乙で、乙うして参上した!
ドン・ジョヴァンこ
こんなことが起ころうとは、
しかし、できるだけのことはしよう。
レポレルロ、夕食をもう一人前、すぐに持って乙させろ!
レポレルロ
あ ¥ ご 主 人 様 li---わ たしら は もうおし まいで す!
ドン・ジョヴァンニ
ちょっと待て!
行けと言うのに・
騎士団長
天の糧をとるものは
それよりもっと重大な別の関心事と、
地の糧をとりはしない。
別な望みでわしは地上にやってきたのだ!
'EA
qJ
ドン・ジョヴァンニ
その望みというのを言ってみろ。何が欲しい? 何が望
騎士団長
みだ?
言うから、よく聞け。もう時間がない。
ドン・ジョヴァンニ
言ってみろ。さあ、一マ一口え。さっきから聞いているぞ。
騎士団長
お前はわしを晩餐へと招待した、
ならば今度はどうせねばならぬか、分かっておろう。
答えよ。お前はわしのところに
レポレルロ
食事に来るか?
ひゃあ!
ご主人様は忙しくて時間がないんで:::勘弁してやって
下さい。
騎士団長
レポレルロ
来るのか?
とっくに決めている!
いやだとおっしゃいなさい。
ドン・ジョヴァンニ
おれの腹は決まっている。
怖い乙となどない、行乙う!
騎士団長
約束のしるしに手を出せ!
ドン・ジョヴァンニ
そ ら ! ぎゃっ!
騎士団長
どうした?
ドン・ジョヴァン二
乙の手はまた何と冷たいんだ!
騎士団長
悔い改めよ、生活を変えよ、
ドン・ジョヴァンニ
卑怯者という答は
乙れが最後だぞ!
おれから離れろ。あっちへ行け!
いやだ、いやだ、おれは悔い改めなどしない、
ドン・ジョヴァンニ
決して受けぬ!
騎士団長
どうするか決めるのだ!
ドン・ジョヴァンニ
よ
噌S
Aq
騎士団長
ドン・ジョヴァンニ
悔い改めるのだ、悪党め!
7ン
いやだ。
いやだ、乙の間抜けのおいぼれめ!
騎士団長
ドン・ジョヴ
悔い改めよ。
いやだ。
そうしろ。
騎士面長、 レポレルロ
ドン・ジョヴァンニ
騎士団長
あ¥もう時間がない!
ドン・ジョヴァンニ
ドン・ジョヴァンニ
おれの魂を引き裂くのは誰だ!・.
おれのはらわたを掻きむしるのは誰だ1・
..
何 と い う 責 苦 、 あ ¥ 何 と い う 不 安i:
何という劫苦、何という恐怖 li---
︹火が激しくなり、ドン・ジョヴァンニは奈落に落ちる︺
比較してみると、長さは全く違うものの、基本的な要件は
両者に共通していることがわかる。すなわち、晩餐への招待
に応じて現れた石像、騎士団長の方からの招待とその証とし
ての握手、石像の冷たい手、そして地獄落ちという要素であ
る。﹁招きに応じて参上した﹂・という石像の文句や、﹁手を
出せ/そら﹂のやりとりなどは語句が共通していて、プ lシ
キンがモーツァルトの﹃ドン・ジョヴァンニ﹄を下敷きにし
ていたことがこの部分からだけでも感じられる。
シキンの作品では石像の持つ宗教的な意味が削り落とされて
しかし、同時にいくつかの違いが自につく。捌えば、ブー
おれの魂を:::襲ってくるようなのだ:
いる。モーツァルトにおける石像はドン・ジョヴァンニに
何とただならぬ震えが・
乙の何とも恐ろしい火の渦は
﹁悔い改めよ﹂としきりに迫る。石像は遊蕩児の性の罪、肉
割は、ドン・ファンという形象を生み出した、スペインの聖
﹁天の糧をとる者は、地の糧をとりはしない己石像の乙の役
の罪を罰する神の裁きの代理人としての役割を持つのである。
ど乙から出てきたのだ!・・:
合唱
どれも乙れもお前の罪に比べれば大したことはない。
来い、もっとひどい苦しみがお前を待っている!
1
5
いてはより明白で、騎士団長とドン・ファンは教会の中で食
職者テイルソ・デ・モリ iナの﹃セヴィリアの色事師﹄にお
ファンの地獄落ちは乙の伝説にとって不可欠な部分なのであ
の行いが罪深いものであったことが明白になるわけで、ドン・
事をし、地獄の毒蛇が食卓にのぼる。火に焼かれるドン・フ
ァンが最後に告解を求めると、﹁乙れが神のお裁きなのじゃ﹂
と拒絶される(大島正﹃ドン・ホアン原型の研究﹄白水社、
ところが、プ lシキンにおいては、石像は正義の担い手ど
ころかネガティヴな存在でさえある。ド l ニャ・アンナは﹁い
その唯一の合法的な形態として結婚を承認した。﹁男子は婦
キリスト教は性関係を本来的に悪なるものとして否定し、
裕ではあるものの、恐らくは愛に欠けていたであろう騎士団
は金持ちでしたから。﹂(宍EJE) と言うが、こ乙では富
いったのです。/わたしたちは貧之で、ドン・アルヴァ l ル
いえ、母が/わたしにドン・アルヴァ l ルの許に嫁ぐように
人にふれないがよい。しかし、不品行に陥る乙とのないため
長のネガティヴな人物像が暗示されている。第三場ではドン・
)0
に、男子はそれぞれ自分の夫を持ち、婦人もそれぞれ自分の
ファンは騎士団長の像を見上げて、﹁何て大男の像になって
一九六六年による
夫を持つがよい。﹂﹁未婚者たちとやもめたちとに言うが、
いるんだ li---死んだ当人は小男でひよわな奴だったが。﹂
想で頂点に達する。﹁エスコリアル宮殿の裏手で決闘した時
(園
-ELO) と、その卑小さを強調する。この口調は次の追
わたしのようにひとりでおれば、それがいちばんよい。しか
の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。﹂(コリ
には/乙の男はおれの剣に突き通されて/ピンに刺されたと
し、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情
ント人への第一の手紙、第七章、日本聖書協会訳、一九七九
︽曲。
﹄
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出富市'﹃同
乙の言葉は、相手にも少しは讃
(MHWNN)
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続く台詞もそのまま受け取るわけにはいかなくなっている。
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ドン・ファンの乙の噺笑的な発言を追っていくと、これに
o﹂
(51出)
んぼみたいに死んでしまった
lジ
る者は神によって罰を受けなければならないのである。こう
年)。したがって、この結婚という枠を侵犯し、性愛にふけ
した裁きの構造は、﹃セヴィリアの色事師﹄以後のヴァ
ョンでは重要性を薄めたものの、払拭される乙とはなく、モ
EE--・
:
・
︾
えるべきところがあった乙とを思い出したという乙となのか
門 司 ℃C 田
も神がドン・ファンの肉欲を罰するという結構は変わってい
も知れない。栗原成郎訳では﹁誇り高く、豪胆な男で、剛毅
リエ i ルにおいても、ダ・ポンテ(モーツァルト)において
ない。最後に罰が待っているから乙そ、前半のドン・ファン
1
6~
る
たして剛毅な精神の持ち主であり得るだろうか。第一、﹁豪
で刺されたとんぼみたいに死んでしまった﹂ような男が、果
集﹄第三巻河出書房新社一九七二年)。しかし、﹁ピン
な精神の持主だったなあ。﹂となっている(﹃プ iシキン全
は死ぬべくして死んだのであり、ドン・ファンに復讐する理
長を殺したドン・ジョヴァンニではない。ここでは騎士団長
ている。プ lシキンのドン・ファンは、闇討ち同然に騎士団
ない。﹂(宍
たが、そのことを残念には思っていない l 悔恨の気持ちも
由を持たず、彼を裁く立場にもないのである。
a
i ゴ)というドン・ファンの言葉を裏書きし
胆﹂、﹁剛毅﹂という評言は、すぐ前の﹁ひよわな﹂という
こうして﹃石の客人﹄は正義を貫徹するために地上にやっ
酔という単語が少し
CEE
前に第一場の終わりでも使われていたことに気が付くであろ
て来た神の代理執行人ではなく、不当な復讐を行う干渉者の
形容と釣り合いが悪ョい。読者はミ℃
う。そこでドン・ファンは、もう一人の愛人イネ Iザの夫を
ャ・アンナにとっては。このことは、﹃ドン・ジョヴァンニ﹄
姿を取るようになる l 少なくとも、ドン・ファンとド i ニ
と﹃石の客人﹄の最後の場面の、もう一つの違いに注意を向
︽ Z巾﹁。﹄出島内否。目立出︾と呼んでいた。すなわち、愛する女
もしイネ lザの夫が︽国巾﹁。 h出平泳守吉田 EE︾であるならば、
けさせる。すなわち、﹃ドン・ジョヴァンニ﹄では主人公は
乙の死を前にした叫びは、ドン・ファンのド!ニャ・アン
一 1
7
の夫に対しては、同じ修飾語が冠せられているのである 11
騎士団長の︽﹄三︾も︽ Z巾﹃O
E
B︾のそれであることが想像
石像に対して一人敢然と抵抗しているのに対し、﹃石の客人﹄
んでいくことである。ドン・ジョヴァンニは﹁悔い改めよ﹂
という言葉に対して拒絶を繰り返すが、その際にもあくまで
U
ではドン・ファンがド l ニャ・アンナの名前を呼びながら死
される。プ lシキン語実辞典では、どちらも同じ意味で取り
扱われており、︽"辺国Emzzz酔
酔玄国﹃問。円、 ,
H
y
h
﹃E巾国 2 0
。
円
、
同
, ﹃口町内白河︾とい
円
寸
℃
。
﹃SF 浜市内↓再三世。。℃白 EmZEE- 口
う定義が与えられている。決して肯定的な言葉ではない。乙
自己完結的で、人の助けなど必要としていない。しかし、も
ンの追想は、﹁無謀でかたくなな男﹂という含みを持ってい
が成就したのに死んでいかなければならない乙とを悔やむか
う一人のドン・ファンは、せっかくド l ニャ・アンナとの愛
しいと乙ろもなく(﹄町25) 殺した﹂(同・ 2wωN) と主張
ナに対する感情が真実のものであった乙とを疑いもなく示し
のように彼女の名を呼ぶのである。
するが、乙の台詞は第四場の﹁あなたの夫を/わたしは殺し
人ラウラは、ドン・ファンが騎士団長を﹁正当な決闘でやま
たように聞こえる。また、第二場でドン・ファンの以前の恋
3
の定義か りすれば、騎士団長に対して向けられたドン・ファ
国
いるとすれば、ドン・ファンは彼女をだまし、口説き落とす
可能なら、また、ド I ニャ・アンナがすでに失神して倒れて
ている。死を目前にしてもはや現世の快楽を求める乙とが不
変化は読者に軽い衝撃を与えずにはいない。ところがそ乙に
たわ。﹂
彼と二人きりになると、突然、﹁わたし、あなたが気にいっ
激しい言葉を投げつける。ところが、その後で客たちが帰り、
野郎だ﹂ (
NS と侮辱したのに腹を立て、ドン・カルロスに
に読み解いている。﹁ドン・ファンの最後の叫びは、もはや
ン・ファンに抱きつき、カルロスに対してはたちまち田宮で
ドン・ファンが入ってくると、ドン・カルロスを無視してド
23と臆面もないコケットリーを示す。乙の態度の
アフマ Iトヴァは、ドン・ファンの死に際の言葉を次のよう
ために虚言を弄し、演技をする必要はないのである。アンナ・
偽りをする必要がないのだから、次のように考えざるをえな
乙の気紛れな恋は、当然のように肉体的な関係を伴うもの
話始める。たった今まで﹁二人の男性を同時に愛せないの/
である。第二場の最後の﹁おれの留守のあいだに、/何回お
今はあなたを愛しているわ。﹂(巴)と優しい言葉をささやい
し、彼の歩んできた足跡からは破滅が追ってきたのである。
れを裏切ったんだ?﹂﹁じゃあ、あなたはどうなの、浮気屋
い。すなわち、彼はド l ニャ・アンナと会って本当に生まれ
さらにもう一つの細かい点にも注目しよう。石像は﹁すてお
変り、正に、乙の瞬間に彼が愛し、幸福であったのだと。そ
け﹂と言う。という乙とは、ドン・ファンはド 1 ニャ・アン
さん?﹂﹁言えよ:::いや、その話はあとにしようU(501
ていたのにである。
ナに駆け寄っているはずである。だとすれば、この恐ろしい
おとという遣り取りは、もちろん'ぞれを暗示している。
して、そのことが、乙の悲劇作品のテ l マなのである。しか
瞬間に彼は彼女の乙とだけを見ていた乙とになる。﹂
コ浮気屋﹂(司。田町円白)である彼が初めて感じた真剣な愛なの
ない/けれども愛そのものもメロディーだから o﹂
(
困
・
コ15)
の客人は、﹁人生の楽しみの中で/音楽は愛にだけはかなわ
邪悪で許し難いものであるようには描かれていない。ラウラ
プ lシキンにおいては、乙の場面ぜ表現される恋愛観は、
だとすれば、ラウラの登場する第二場の意味はおのずから明
と言って、彼らの世界で享受されている愛の性質が、音楽と
もし、ド
らかである。すなわち、ラウラは、ド l ニャ・アンナが体現
同列に論じられるような、感覚の享楽である乙とを語るが、
l ニャ・アンナに対するドン・ファンの感情が
である。彼女は﹁わたしの親友で、浮気な恋人﹂︿同記)と
必ずしも否定的な響きを持つてはいない。しかし、乙の価値
する真撃な理想的愛に対置される浮気な恋を表現しているの
呼ぶドン・ファンを、ドン・カルロスが﹁神を畏れぬ破廉恥
1
8
もきかないド l ニャ・アンナが体現する価値観とは、全く異
の体系が、死んだ夫の墓に参り続け、僧侶以外の男性とは口
の肯定、胃潰がその原理である。第三場ではド l ニャ・アン
な愛に対置される。うつろいゆく感情、意識的な虚偽、肉欲
乙の価値観は、ド l ニャ・アンナによって表現される永続的
ンは、モリエールやモーツァルトなどにおけるドン・ファン
ナに愛を打ち明けることによって、ドン・ファンが神聖な愛
たちと違って、自分が貫徹しようとしている虚偽を、女性を
アンナとの愛に目覚める前の、ドン・ファンの浮気で好色な
質のものである乙とも明白である。ラウラの場は、ド l ニャ・
イギリスの研究者ブリッグスは﹃石の客人﹄(を含め﹁小
の領域へと移行しつつある乙とを示す。乙乙でのドン・ファ
悲劇﹂全殻)が、﹁あまりに多くの乙とを詰め込んだ﹂﹁最
擬す手管を誇らしげに説明しようとはしない。しかし、石像
恋愛観を示しているのである。
帆
号
U∞
ユm羽田二主SQR
も力のない傑作﹂だとしている(﹀・ 0・ M・
密に語られているのである。第一場でまず手際よく人物関係
た乙とは、せっかく取り戻した愛の理想の崩壊を予想させる。
ようにも見える。そして、石像がドン・ファンの招待に応じ
典型的な﹁ドン・ファン﹂の倣慢さを依然として示している
に対して﹁騎士団長、あんたを招待しますよ。/あんたの後
と状況を説明した後、究極の対象であるド l ニャ・アンナを
最後に、第四場で愛の成就と破局が同時に語られる。石像は、
E∞ω) 。確かに乙の短
円
38hrc邸周忌叩E
SFMWSHYコ∞∞9
、
登場させる。彼はまだ、ド l ニャ・アンナが体現する愛の世
﹁生まれかわった﹂(宅・2
) ドン・ファンが希求する愛の理
家さんのところへね。そ乙には明日おれが行くんだが。/入
界を理解できず、それとの接触にとまどう。そのため、騎士
想を無残にも砕く不当な存在である。モーツァルトのドン・
い劇詩の中には、他のヴァ lジョンでは数千行を費やして表
団長の墓に毎日通い続けている彼女のことを、﹁何て変な後
ジョヴァンニが神の作り給うた秩序に反抗して、愛欲の目白険
口のところで番をしていてくれ。﹂(国・ 5kH153と不遜な
家さんなんだ!﹂(詰)と思わずにはいられない。そして、す
を続ける反道徳的な存在であるとすれば、プ lシキンのドン・
招待の言葉を投げかけるドン・ファンは、秩序の破壊者│
ぐその後で﹁いい女なんでしょうね?﹂ 3 3と神父に尋ねる
られている。しかし、それは極めて巧みな構成で無駄なく緊
彼は、もちろん、いわゆる﹁ドン・ファン﹂的原理に基づく
ファンは理想の女性を追い求める者、改心した愛の騎士なの
現されていたような内容が、わずか五百数十の詩行の中に盛
興味を示しているのである。第二場ではそれとは全く異質な
である。
ドン・ファン
以前のドン・ファンの世界が、ラウラを通じて展開される。
'A
唱
nwd
波書店一九五九年)﹃愛について﹄は影響力は非常に強か
なアンチ・テーゼであった。﹂(一一二二頁鈴木健郎訳岩
騎士道精神の二つの特性、純潔と擾雅に対する、まさに完全
的な二つの性格をきざみつけたのは十八世紀である。乙れは
に風貌を与えて、乙の人物に放持と悪練という、当時の典型
OR紅白おこの中で、ドン・ファンという形象についてこう
、
目
言っている。﹁モリ lナのテノ lリオ(セヴィリアの色事師)
のドン・ファンがドン・カルロスを赤子の手をひねるように
ドン・ジョヴァンニが騎士団長を殺した手並み、プ lシキン
ファンたちは剣を交えては、やすやすと相手を倒してしまう。
を受ける場面は、乙の論考の冒頭に引用した。また、ドン・
﹁卑怯者という答は/決して受けぬ!﹂と言って石像の招待
ような大胆な振舞いに及ぶのである。ドン・ジョヴァンニが
からこそ、代々のドン・ファンたちは石像を招待するという
は決してなく、その武勇は人並み優れたものなのである。だ
のでございますね?﹂という台調から知れる。さらに言えば、
ったものの、学問的には誤りが多いとされている著作だが、
お尽くしになるという乙とやお心づくしなど/みんな本当な
少なくとも乙の部分の指摘は的確であると思える。ドン・フ
屠ってしまう素早さを思い起こせばよいだろう。だとすれば、
ところで、騎士道恋愛のプロパガンディストであるドニ・
ァン的人物像は、崇高で真撃な騎士道恋愛の対極に現れてく
ドン・ファンは基本的には騎士の要件を満たしており、﹁ア
ド・ルージュモンはその主著﹃愛について﹄ヘ に b30R可 句 作
る、冒漬的で浮気な愛欲の発現なのである。このことは、ド
ンチ・テ lゼ﹂とは言っても、宮延風恋愛の価値観の中にあ
れこそわが信証であり誓いなのですぞ﹂(大島正前掲書)
それがしに命を与えられる限り/そなたの奴隷になろう/乙
ン・ファン・テノリオの口説き文句を引いてみよう。﹁神が
体を明かしており、彼がいかなる文化的制度の中にあって、
ない。両者ともに剣を持つという乙と乙そドン・ファンの正
しか認められない。﹂というルージュモンの評言は適切では
に共通な姿といえば、両者とも剣を手にしているということ
ではなく、異端なのだ。﹁彼ら(トリスタンとドン・ファン)
ドン・ファンは遊蕩児であっても、騎士の名誉を忘れる乙と
ン・ファンが宮延風恋愛のデコールムの枠組みを借りて出現
って、しかもそれに対置されるものなのである。彼は異教徒
これは漁村の娘-アイスペアに向けられた言葉だが、貴婦人で
したということに表れている。テイルソ・デ・モリ
lナのド
あるイサベラをも同じような献身の誓いで誘惑している乙と
それに反逆しているかを示しているのである。
今、乙の乙とを考えにいれて、プ lシキンによるドン・フ
は、イサベラの﹁わたくしの喜びは本当なのでしょうか?/
あなたのお約束、求婚それから贈物とか/わたくしのために
-2
0一
アン伝説の﹁解釈﹂を検討する時、その意味はおのずから明
らかになってくる。改心したドン・ファンとは、宮延風恋愛
の愛の価値観に立ち戻ろうとしている騎士に他ならないだろ
とを参照してみよう。その中の﹁恋愛の法規﹂から何条か
アンドレアヌス・カペラヌスの﹃恋愛術﹄へ守ERasQ3HOB
う。今、試みに円S30芯芯の理念を語る代表的な著作である、
ι
を引いてみる。
貴婦人たちの命令にはどんな場合でも忠実に、愛の奉仕
に身を捧げねばならない。
愛の慰めを得つつも、汝の愛する女性の望みを乙えでは
ならない。
真に愛する男性はその愛する女性の抱擁以外の抱擁を望
まない。
容易に獲得された愛は価値少なきものであり、愛の成就
愛すァr
'
h性は、愛する女性を喜ばすもの以外、何も良い
の困難は、その愛を価値高きものとする。
と思わない。
乙の﹁法規﹂のこだまを、フ lシキンのドン・ファンの
次の台詞の中に見出す乙とは難しくない。
わたしが
先にあなたと知りあっていたならば、どんなに喜んで
位も富も、何もかも投げ捨てた乙とでしょうか、
ただ一度だけ優しいまなざしを投げていただけるなら。
わたしはあなたの神聖な意志の奴隷となっていたでし
ょ
'
つ
。
あなたのきまぐれは全て習い覚えて、言われないうち
あなたの思い通りなるように努め、あなたの人生が、
から
絶え間なく
魔法のような魅惑に満ちたものになるよう心を砕いた
1NG)
乙とでしょう。(司・ 5
ドン・ファンの乙の表白は、まさに貴婦人の前で膝を屈す
る騎士の愛の形である。ド l ニャ・アンナに対する﹁わたし
と言い、﹁あなたの奴隷がおみ足のもとに畏まっています己
S)
はあなたを遠くから恭しく/見つめるだけです﹂(国・8 ・
) ﹁あなたがお命じなら死にもしましょうし、あなた
(
弓
・8
愛する男性はその愛する女性に何も拒む乙とができない。
{
8
-
真に愛する男性は、いつも常に愛する女性への思いに心
を奪われている。
のためだけに/患をしもしましょう己(宍∞∞・∞3 と言っ
2
1
を﹁あやうく/退屈で死にそうだつたわ。住んでる奴らとい
いないことにあるのは、数行後の台調から明らかである。﹁あ
た言葉も、同じ精神から語られているに違いない。そして、
このように、﹃石の客人﹄は騎士道精神の異端児であった
の女どもには生命がない。いつもいつも騒人形みたいだ。﹂
い、/土地といい!﹂(?ghgと表現する。﹁住んでる奴
ドン・ファンを、元来の、愛に殉ずる騎士の姿に戻し、失わ
ごしかし、生の衝動をもたらすような愛欲の冒険にふける
ω
(
乙とはもはやできず、同時に清冷な愛の理想も破壊される運
ドン・ファンは常にこうした語棄を使って女性を騎してきた
れた宮延風恋愛の理想を追求する試みであったと見なすこと
命にあった乙とは既に見た。﹁退屈﹂は再びドン・ファンの
らといい、土地といい﹂と言うが、その真の理由は、ドン・
ができよう。しかし、その理想は石像の不当な介入によって
心に蘇るに違いない。愛の冒険に対する退屈、この事態は﹁石
のだが、プ l シキンのドン・ファンはこれを心から語ってい
破壊される。一九世紀のドン・ファンが一二世紀の騎士の世
ファンの気持ちをかきたて征服欲を起こさせるような女性が
界へと戻れるはずはもはやないのである。理想に絶望した彼
の客人﹄のわずか十年後に書かれた﹃現代の英雄﹄にはっき
るのである。
はシニズムに走り、全てのものに﹁退屈﹂を見出すようにな
り表現されていたことが想起される。ペチョ 1リンは公爵令
嬢メリ lの反応を冷静に観察しつつ寵絡するが、そんなこと
る
。
をしながら次のような感想しか持てない。﹁こんな乙とはも
理想的な崇高の愛に身を捧げる乙とを拒絶して、肉欲の探
求に走ったドン・ファンの形象は、今やその探求にも飽き、
うおれは全部そらでわかっている。そ乙が退屈なところさ!﹂
日びに恋愛などをする人がいるでしょうか?敢えて恋をす
﹁恋愛の中に全ての神秘があります。﹂と言いながら、﹁今
何に熱中することもできない。近代のドン・ファンには﹁退
一八四四﹂の主人公はかくして、彼をつけねらう
屈﹂がつきまとっている。レナウの劇詩﹃ドン・ファン﹄
るような人が?﹂と疑わずにはいられないル iジンはその血
NhnH3
ドン・ペドロをほとんど倒そうとしながら乙う告げるのであ
脈を引いているのだろうか。また、理想の女性像をヴェ
へ
り
。
お
向
、
る。﹁こうしておれの不倶戴天の敵の命運もおれの胸先三寸
に求めながら、生命の燃焼を自らのうちに感じることのでき
愛を成就することもできず、肉の遊びに熱中する乙ともでき
lラ
になったわけだが、/乙れにしたって世の中の他の全てのこ
ない、﹃断崖﹄のライスキーもその末喬であろうか。理想の
同じように、プ lシキンのドン・ファンは追放先での生活
とといっしょで、おれを退屈させる。﹂
2
2-
ない一連の群像が、﹁余計者﹂の形象とも重なりあいつつ、
なっている部分のレポレルロの歌詞などは適宜、割愛
4
理やり嫁がされ、決して愛さなかったがさつな(ミ℃'
。由ZE)老人﹂(∞・﹁・切222門E 出︽の。♀起き巾
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円。﹄SZ巾ZZB︾・ア∞・円、﹃℃・品∞♂×Hho災-h24・
3・岡山口。 i E∞N )と描写している。
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3
れか、という形にすれば、ドン・ファンを最も自然に
愛していないか、真撃に愛したが故に滅びるかのいず
情愛を抱く、そしてこの女性はドン・ファンを真剣に
ベリンスキーは﹁ドン・ファンが一人の女性に真実の
理由からそのままで承認することはできない。なお、
(ミ宮ZZB)な魂を賞賛する﹂という条りは、前述の
の少し前にある、﹁彼は自分が殺した騎士団長の剛毅
。、﹀=のの(のリ勺同=由印∞.ただし、引用部分
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5︺ ベ リ ン ス キ ー は 騎 士 団 長 を ﹁ ド l ニャ・アンナが無
されている。
国巴出)﹂に改められたとアカデミー版の全集には説明
が、韻律の制約を破って﹁夫(三可浜市町。rzn否。,
2 H Z 。zh円三}C目立罫)ほと書かれていたの
( O↓
草稿には、もともと﹁父親は粗野な人間だった
した。
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漠然と、しかし一本の筋となって浮かび上がっている。だが、
この系譜をたどる乙とは、もはや次の論考に委ねなければな
らない。はっきりしている乙とは、プ Iシキンの﹃石の客人﹄
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円
自 15S による。以下、引用
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﹀・の・コ可ERSZ︽コ。hzcm 円。。唱曲=s巾
思酢︾﹀ヱののの勺
したテキスト、論文は、特に断らない限り村上による
訳文である。﹃石の客人﹄からの引用は上記全集によ
って何場の何行目であるかを示した。なお、ぬ同一廷に九 l
S吋∞など)ではhさ。巾
白
印
刷39の語は、ソビエトのいくつかの作品集(﹁。2・
2↓sωh曲、ア玄・岡市山吋品 I
MZ巾酢ESBの訳語が与えられているが、﹁家柄のよい﹂
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ト書き、反復、重唱に
ロ宮司3 S 3
笠宮可足
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α によって訳出。ただし
﹁2 8 N O S F
富可ωZ買をさ20巾Emw﹄白、﹃・玄・同@問。・
hrz白出宍︺﹃hr、﹃︺﹃唱曲︾門4℃
と読むべき語であると考える。
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2
3-
一
が乙の失われた理想への呼び声であったということである。
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3
2
1註
罰する乙とができていただろう。プ lシキン自身乙の
ファンが石像に連れ去られる時の、魂の底からねじり
ようにしようと思っていたらしい。少なくとも、ドン・
出されたような最後の叫び﹃お¥ド l ニャ・アンナ﹄
からは、そのように考えさせられる。﹂と書いて、同
じような解釈を加えている(前掲書四八八1四八九頁)
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俊一訳筑摩書房一九七二年)。特に﹁トゥルパド
ゥl ルとカタ l ル派﹂の章。
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7︺アンリ・ダヴァンソン﹃トゥルパドゥ l ル﹄(新倉
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己・岡田町一凶・
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によって訳出。
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